自滅型斬傷恋愛種発現区域 雪鳴音


1 :wx3 :2007/02/15(木) 21:55:38 ID:rcoJs4om







ドクトル=マグゼー  

「我々と住んでいる世界とそっくりだが、どこかしら異なる世界が、この世界と平行しているというのだ。パラレルワールドとでもいうのか。その平行世界では、龍や魔法が実在するかもしれんのだ。あるいは、科学のかわりに錬金術が発達している世界なのか。またフリッツランドは同じ映画監督ではなく、同じ顔をした犯罪者かもしれない。それどころか女かもしれん。そう想像すると愉快だな」



エドワード=エルリック

「ただの夢にすぎない。そんなもの」






ドクトル=マグゼー

「夢か。だが、どちらが夢で、どちらが現実かな」






エドワード=エルリック

「あんたには分からないさ。一生な。夢の中で生きる人間のことなど……」






“シャンバラを征く者”より


2 :wx3 :2007/02/15(木) 22:00:07 ID:rcoJs4om

自滅型高機動重力波斬傷装置の呟き

一瞬だった。
痛みは感じなかった。
温かい何かが胸いっぱいに広がっていくような感覚。
ひどくぼやけていて、ただ温かいものとしか知覚できなかった。
けれども、彼女はそれを直感的に理解していた。
わずかな時間。
それは1秒とも2秒ともつかない。
しかし、彼女にはそれがずいぶんとゆっくりとした時間のように感じられた。
世界が傾く。
こんなにもゆっくりと。
やがて世界が完全に倒れた時。
それは自らの終わりの時であると悟ってはいても、彼女は何を思うわけでもなかった。
そこに死があるというのなら、ああ、そうか、としか思わない。
とっくに死の恐れなどは忘れた。
死と隣あわせに生きてきて、何時の間にかなくしてしまった感覚。
彼女はそれとともに失った何かを再び取り戻そうともがきながら、その身をいつも戦場の血と戦火の灯火に投げ出していた。
気がつけば、こんなにも死は身近に迫っていたのだ。

――だから、他人の血をすすって生きてきたのか?

ぼやけた感覚。
深夜、突然その身を襲う不安と胸をしめつける痛み。
けれど、頭の奥は何も感じていない。
いいようもない焦りと不安が彼女を遅い、その胸はいつも痛みに震えていた。
彼女は何を恐れたのか?

――肉体はただ、その感覚を自我に伝えるための導管でしかない。

それを失った自分の身は、ただの肉の人形でしかない。
人を殺し、肉を裂き、血を浴びた。
時には男に身を委ね、快楽の坩堝に沈み込もうとしたこともある。
けれど、冷めた心。
ぼやけた感覚。
にも関わらず、身体は相変わらず敏感だった。
胸を刻むあの痛みと同じくらいに、はっきりと感じる快楽。
溶けいるほどに、熱いうねりとなって全身になだれこんでくる美酒のように甘く切ないその感覚の中で、冷めた意識は、やがて厭きはじめる。
気付いたとき、自分の裸体は男の血で熱く火照り、男は凍ったかのように冷たく彼女の身体に覆い被さり、その身を冷やそうとしていた。
彼女は人形となった男をみやり、その身に自分を重ね、絶望を感じる。
やがて夜は明け、紅く煌くその身を見たとき、またいつもの苛立ちに苛まれる。
毎日のように繰り返される殺戮と狂った饗宴。
救いようのないほどに、狂った自分。
目を覆いたくなるほどに汚らわしく、溺れるように欲望のまま淫れる自分。
絶望を繰り返し、孤独に胸を貫かれる自分。
しかし、それでも……彼女は死ねなかった。

――ここまで醜いわたしを、なぜ、生かし続ける? ただ殺し、喰らい、淫乱なおぞま しいわたしを、なぜ、生かし続けるのだ。


3 :wx3 :2007/02/15(木) 22:02:31 ID:rcoJs4om

自滅型高機動重力波斬傷装置の呟き

ぽたり……。
何滴目かの汗が、冷たいコンクリートの床に流れ落ちた。
 明かりなど一切灯されていない、窓すらないコンクリートが剥き出しになった室内だったが、それでも獲物の美しい肢体をみることが出来た。
それもこれも、一見目にしない非常口を示す表示灯のおかげでもあるのだということに、わたしは気付いていなかった。
 いや、気付いていたかもしれない。
この薄闇の中で、ぼうっと浮かび上がる獲物の白い肉体。
その洗練された艶やかな肉体に伝う水滴。非常灯の蒼い光を反射して、なんとも幻想的にわたしの目に映る。
 美しい……。
溜息とともに、身体がとろけてしまうような錯覚を覚えた。
 わたしの頬が、身体全体が熱にうなされる。
ぞくぞくと背筋を伝うのは、わたしの中に遥か悠久の彼方より受け継がれてきた本能の疼き。
欲の疼きであった。
 うっとりと快楽の坩堝に溺れ、恍惚感に酔うわたしだったが、鞭を持つその手に熱い力がこもるのを感じていた。
 白いその肌が、瞬く間に赤い筋を作り、それはまた新たな筋と重なりあり、ぷっくりと膨れた血球を作っていく。
それは、紅い裂傷から溢れ出し、やがてその白い肌を伝う。
水滴と合さり、蒼と赤のコントラストが描かれていく。
そしてコンクリートの室内に木霊する心地いい絶叫。
 わたしは夢中になってその獲物を傷つけた。
いつ終わるとも知れない獲物とわたしの二人っきりの饗宴は、やがて、獲物が完全に動かなくなってしまった瞬間に醒める。
 わたしは、そっと獲物に近寄る。
「ユキオネ」
わたしはその獲物の名をそっと呼んだ。
「……」
獲物からの返事はない。
 あまりに強く打ち過ぎて、気絶してしまったのだろうか。
わたしは小さく舌打ちする。
 どうやらまたやりすぎてしまったようだ。
きっと後で、獲物本人からまた小言を聞かされることになるだろう。
しかし、それはさておきだ。
「ユキオネ……? 眠っているのか?」
眠っているのではない。気絶しているのだ。
 自分自身、間抜けな質問に呆れる。
そして、それは眠っていない当人からも言われることになる。
「そんなわけないじゃん!! あんなに痛めつけられてる眠れる神経ってなに!?」
突如、勢いよく起き上がりながら、当の獲物本人は半分泣きそうな顔で訴える。
「そ、そうか……」
蒼みがかった銀の髪。それは、決して蒼い非常灯の明かりのせいではない。
もともとの地毛である。しっとりとしていて、繊細でクセのない直毛。
真っ白い顔は、ややほっそりとしていて、年齢16歳という若さではあるが、実際にはそれ以上に幼いような印象がある。
 快活な内面を示す。だけど、内面の柔らかさをも示すかのような大きく丸い瞳は、紅く染まっていた。
 その名の示すとおり、雪のように純白で儚い、けれど内に芯の強さを思わせる少年の姿……いや、少女のようにも見える。
 実を言うと、わたし自身、ユキオネが男なのか女なのかよく知らない。
そんなことはどうでもよかった。
ただ、ユキオネが人間であるということだけは知っている。
 それはわたしの本能が告げていた。
銀髪であれ、瞳が紅くそまっていようとも、ユキオネは間違いなく人間である。
 それは本能的に悟ってはいたが、それ以前に、わたしは身をもってそれを知ってもいるのだ。
「もう! なんで、キミはもっと普通に『食事』してくれないかなー」
これには深い訳があるのだが、ユキオネはいつもそれを完全には理解してくれていない。それは仕方ないことだった。
わたしがユキオネを『喰らう』とき、ユキオネはただ『食料』であって、わたしはユキオネをそのように扱う。
己の欲を満たそうとユキオネに迫り、最大限それを愉しもうとわたしの本能は、わたしを駆り立てるのだ。
その結果が、先ほどの行為となる。
獲物を追い詰め、痛ぶり、そして最後にトドメを与えて、ゆっくりとその味に酔う。
自然界にはごく普通にある狩りの手法であった。
もっとも、わたしはわたしなりの美学や拘りをもってはいるのだが、喰らわれる方は、たまったものではないだろう。
 わたしもそれなりにユキオネの心情を察してはいるのだが……。
本能には勝てないわたしだったのだ。
「……あ……まだ話は終わって……うっ!」
ユキオネの主張はもっともだったが、わたしの内なる疼きは、ユキオネの話を最後まで聞こうとはしなかった。
 獲物を追い詰め、そして痛ぶり、完全に抵抗できなくなったら――。
「話は後で聞く」
わたしは、自分が『女』であることをその時、愉しんでいた。
 ぼろぼろに傷ついたその細い肩を寄せる。
自分でしておいてこんなことを思うのは、勝手だとは思うが、とても痛々しい。
この繊細で柔らかな肌が引き裂かれ、血を噴出させたのは他ならぬわたしであったは
ずなのに。
けれど、そんなユキオネの痛々しさが、わたしの胸の奥に欲望の火を灯らせた。
 止め処ない想いに、わたしは突き動かされる。
「今ここで、キミには話す必要がある! だから……痛っ!」
そっと、けれど有無を言わさずにその身を引寄せようとするわたしだったが、傷に触れ
たのだろうか。ユキオネが一瞬、身を捻ったのを見て、わたしはその手を離してしまっ
た。しかし、すぐにまた、今度は傷に触れないように気をつけながら、優しくユキオネ
をその胸に招く。
 そして、傷つくことを逃れたというよりは、わたしが意図的にその場所だけは責めるのを避けた部位を見つめる。
それは首筋。
 白く細く頼りないその首筋には、うっすらと鎖骨が見えていた。
いつ見てもわたしを興奮させるその曲線美。
この白く柔らかできめ細かい肌の下には、わたしのこの獰猛なまでに激しい情動、欲望
を満たしてくれる紅い液体が満たされている。
 それは、まるで千年に一度、神によって醸造される御神酒でもあるかのように、わたしには神秘的に思えた。
わたしは、そっとその首筋を撫でる。
 一瞬、ユキオネのその身が震えるのをわたしは手を通して感じた。
「ユキオネ……」
わたしは、今にも恍惚感と自分の欲に溺れてしまいそうな中で、その愛しい存在の名を
呼んだ。
 その時点、ユキオネはもう諦めたかのように、瞳を閉じていた。
それはいつもわたしに喰らわれる瞬間、覚悟を決めたときに見せる表情だった。
それを確認したわたしは、やがて、そっとユキオネの首筋に、自分の牙を当てた。
「あ……」
それを感じた瞬間、まるで溜息をつくかのように漏れるユキオネの声に、わたしの中の
わたしの意識は消え去っていた。
 強くわたしの身を抱くユキオネの体温と口の中いっぱいに広がる甘い血の味。
わたしは酔いしれていた。


4 :wx3 :2007/02/15(木) 22:06:36 ID:rcoJs4om

その女は今夜、『彼』に抱かれて宇宙を産み……

ざわざわした風は、いつも『彼』の耳元を通り過ぎようとはせずいつまでも『彼』の耳の奥を響かせていた。
わたしの声が『彼』に聞こえることは滅多にない。
 それでもわたしは『彼』の耳元に呟く。
やはり、『彼』には何も聞こえていない。
『彼』は苦しいという。
風はいつまでも『彼』からすべての音を断ち続けた。
そのことが『彼』は哀しく、寂しいという。
『彼』の不幸は、まだ目が見えるということだろうか。
見えてしまう。
だから、自分と世界の断裂をはっきりと知ってしまう。
残された感覚のすべてが、『彼』を世界から孤立させられた事実を突きつけ、責めてたて、心を蝕んでいく。
 世界から取り残され、切り離されていくことに孤独を覚え、苛立ち、目の前のわたしにそれをぶつけた。
わたしは、何度となく『彼』に傷つけられたが、わたしは『彼』のそばからは決して離れなかった。
 わたしは、何度となく『彼』に冷たく罵られたが、わたしは『彼』のそばからは決して離れなかった。
『彼』の耳は今、風が邪魔をしていて何も聞こえない。
だから、わたしは何も語らなかった。
ただ、そばに居続けた。
しかし、『彼』はわたしを憎みつづけた。
 そして、傷つけ続けた。
『彼』にあったのは、まずは触覚。
憎しみの業火に焼『彼』たその手は熱くわたしを勢いよく大地に叩きつけると、そのまま馬乗りになってわたしの肌を焼きつくし、引き裂いた。
わたしの胸の奥から、さらに熱い飛沫が宙を舞い、『彼』の頬を染めた。
 震える心臓は、激しく鼓動し、この瞬間に歓喜しているようだった。
絶えずわたしの心を軋ませる激痛は、その時になって初めて『彼』の痛みを教えてくれているようで、わたしは泣いた。
『彼』にあったのは、まずは味覚。
溢れかえったその血は、何よりも赤く、『彼』を染め上げていく一方で、わたし自身もまたその血溜まりに溺れさせようとしていた。わたしは、だんだんと視界が赤くなっていく中で、夢中になってわたしを傷つける『彼』を泣きながら見上げていた。
赤に侵蝕されていくその直前まで、『彼』を見つめていたかった。
やがて、完全に視界が赤く染まりきってしまうかと思われる直前、『彼』はゆっくりとわたしの上体を引き起こした。
 ボロボロになったわたしの身体は、妙に軽かった、とその時、わたしは無意識に実感した。
それだけ、わたしの血も肉もさらけ出されたのだろう。
『彼』は、そんなわたしのうなだれた首筋にゆっくりと唇を触れさせた。
こそばゆい感触を感じる。
まだ神経は死んでいない。
激痛は今もわたしの神経を痛めつける中で、そのこそばゆい感触のなんと甘いことだろう。
それは恍惚感に満ち溢れた瞬間だった。
 そして次の瞬間、『彼』の鋭い牙がわたしの首筋に立てられた。
不思議と痛みは感じなかったが、絶えがたいまでの虚脱感を覚えた。すでに大半の血と肉を失ったにも関わらず、なぜか決して意識が消えることのなかったわたしだったが、それはまさに安らかな眠りに続く些細なまどろみのようだった。
 そのことに、いよいよ近づく絶対の死をわたしは予感し始めていた。
なぜだろう。
その瞬間を待ちわびていたはずなのに。
今はただ、哀しかった。
死ぬのが怖いわけではない。
『彼』がまた独りになることが、わたしには哀しかった。
 そしてそんな自分のなんと傲慢なことかと絶望する。
わたしは『彼』にとって、ただ一時の慰めでしかない。
いや、たったそれだけでも歓び、そうなること渇望してきたはずなのに、今はただ哀しく、そして寂しかった。
しかし、そんなわたしの解決することない苦悩も自我の崩壊とともに消滅しようとしていた。
わたしという人形が壊れきってしまったとき、また『彼』の孤独が始まる。
そして、わたしの後悔の始まりなのだろう。
そう思いかけた時。
わたしはまだ、死ねないことを悟った。
まだ言うべきことを、伝えるべきことを伝え切れていない。
わたしは……。
何かを話すことなどできない。
 身体の何処も動かす力は残されていないはずだった。
しかし、わたしはそれでも必死になって、自分の腕を動かそうと懸命に消えかけた意識を奮い立たせた。
動くはずのない手がぴくりと動き、持ち上がるはずのない腕が弱々しく揺れた。
 獰猛にわたしの身体を貪りつづけている『彼』に、それは果たして伝わっただろうか。『彼』の胸元をわたしの手が滑った。
 この瞬間の無力さに、それでも流れる涙は虚しく虚空に散る。
『彼』はわたしを許してくれるだろうか。
そんなことを思う間に、とうとう視界は完全に紅く染まり、やがて暗い闇にすべてが溶け込んでいった。
しかし、消えかけたわたしの意識は、最後に『彼』が何かを呟いたのを聞いた気がした。
『彼』が何を呟いたのか、わたしには分からない。
本当にそれをその時、『彼』の口から呟かれたのか、それも定かではない。
 ただ、『彼』を温め、『彼』を包み込むためにすべての血を失い、冷え切ったわたしの身体に、『彼』の温かさだけがはっきりと感じられた。


5 :wx3 :2007/02/15(木) 22:12:49 ID:rcoJs4om

ドレスを着た死体の貴婦人と防腐剤

チクタクチクタクチクタク……。
 時計の音が静かな部屋に響き続けていた。
壁も天上もコンクリートが剥き出しで、窓もなければドアもない。
 奇妙な部屋である。
まるでチェス盤のように白と黒のチェック状の床には、ほぼ何一つ家具らしい家具が置かれてはいなかった。
 ただ、黒い革製のソファが一つに、大きな柱時計が一つ。
部屋の隅には、黒い丸テーブルが一つあって、その上には古い奇妙な形をしたラッパのようなものを備え付けた小型の木箱があった。
 それは大事そうにテーブルの中央に磨き上げられた様子で置かれていた。
何かの機械のようだが、一見したところでは、それが何であるかを知っている者はそういないだろう。さらにその隣には大きな本棚が立っており、そこには今時アナログな記録装置が置かれている。
 『本』だ。
紙でできた本など、博物館にでもいかない限り、そう見れるものではないだろうが、ここではごく自然に、いや、むしろ乱雑に整理されたような形で、隙間なく詰められていた。紙で出来た『本』だけではない。
 やはり博物館に添えられていてもいいような、今時、原始的な発火式の古式銃があったりする。リボルバーと呼ばれるもののようだが、詳しくは知らない。
 他にもわたしには、使用用途不明な不思議な物がたくさん、ほぼ乱雑言っていいカタチで直されている。過去に一度、わたしは持ち主の代わりに整理してやろうとしたことがあったのだが、それをしようとすると本人がひどく怒りだしてしまったので、それ以降、あの見るも無残な整頓状態を見ても何も気にしないことにした。
 わたしは黒い革製のソファに同じように黒い服に身を包み、うずくまりながら、その音を苛立たしい気持ちで聞きつづけていた。
 いったい、どれほどの時間何をするでもこうしていたことだろう。
苛立つ理由などもない。
 特に不快な存在がこの部屋にいるわけでもなく、憂鬱な悩み事もないといえば嘘になるが、今さら気にしだしてもしかたないことなのでしない。
では、わたしが何を気にしているというのか。
 わたしは、ずっとわたしの代わりにこの部屋でずっと喋り続けている大きな柱時計を見やった。
 それはちょうど、時計の針は夕刻の6時を指し示した瞬間だった。
カチリと時を示す歯車が合さった瞬間、同じようにカチリという運命をあわせる音が響き渡り、何かが巡り始める。
 苛立たしいわたしの神経に、それはやんわりと触れ始めた。
蓄音機である。
 蓄音機。
そんなものを見たことも聞いたこともある者など、今はもうほとんどいないことであろう。
 わたしですら、実物を見るのは初めてだ。
もっとも、こんなもの、博物館に行ったところで早々見れるものではない。
 蓄音機は、少し鍍金がはげたり、やや凹凸が見られるパイプで出来たトーンアームを通り、ホーンを通してややノイズまじりの音を響かせ始めた。
 そのノイズはまるで、悠久の時の流れをそのまま感じさせる。
セピア色の写真を眺めるときのように、心の奥底を反響しては消えていくなにかの感傷めいた感情を呼び起こすものだった。
 さて、わたしはここに来て、どういうわけか心を鎮めるこれら奇妙で懐かしく、そして不思議な物品たちに囲まれながら、その持ち主の帰りを待ちつづけているのだ。
 しかし、なぜだろうか
蓄音機が奏でる古代の音楽を聞いているうちに、なぜか、深い深い睡魔がわたしを襲い始める。
 蓄音機は音を、時計は時を奏でる。

チクタクチクタク……。

そしてわたしは、まどろみの奥へと沈み込んでいった。
 不気味で奇妙な、そして少し哀しい夢の門をくぐる。






チクタクチクタクチクタク……。
 時計の音が静かな部屋に響き続けていた。
どうやら、まだ客たちは来ないらしい。
 宴の準備ももうすでに終えている。
どことなく甘い香の香りが漂い、彼女はその嗅ぎなれた感のする香が、いったい何を原料にした匂いなのかを考え始めていた。
 そして彼女は虚ろなその瞳を部屋の中央にある巨大な柱時計に向ける。
時間はちょうど6時である。
 ただし、夕刻なのか早朝なのか彼女には分らなかった。
その瞬間、どこからともなくカチリという音が響き渡り、ゆるやかな音楽がフロア全体に響き渡り始めた。
 その時である。
ボキリ……。
不意に何かが折れる音とともに肉の腐る臭いがした。
 そろそろ右腕の肉がただれ落ちようとしているらしい。
ドレッセルに言って、早く薬を用意させねば……。
 それに、もう慣れてしまったこの臭いを消すための甘い香水も用意する必要があった。
彼女の憂鬱の込められた溜息が、広々としたダンスホールに解き放たれる。
 奥にクモの巣のかかった古いグランドピアノがあり、彼女は一瞬、それに瞳を向けた。やがてそれから目をそらすと、再び溜息をついた。
 彼女は黒い優雅な宮廷ドレスを着ている。
様々な宝石をちりばめたネックレスを首から下げ、シンプルではあるが、艶やかで優雅なティアラを頭に頂く。
 しかし、そんな彼女の身なりの良さとはアンバランスに、逆に彼女自信の身はずいぶんひどいもののように見えた。
 顔は病的なまでというよりは、まるで死体のように蒼白であり、髪は完全に壊死しているように見えた。
 顔は実に整って見えたのだろう。
ただし、今はもう見る影もないほどに痩せ細り、以前、どのような顔をした女性だったのか、分かりそうもない。
 今の彼女は、まさに骨と皮だけの死体のように見える。
しかし、瞳は紅く染まっているようにみえるほど充血しており、その長細い顔の輪郭にはアンバランスなほどに大きく丸く見えた。
 そんな彼女の死体のような顔。
すでにこれ以上ないほどに蒼白であるというのに、さらに化粧によって白く見せている。そんな彼女の唇は、まるで血の色のように赤かった。
 まさにドレスを着た貴婦人の死体であるという感は否めない。
しかし、そんなひどい様子のように見える彼女であっても、特に苦しそうにしている様子もなければ、病に苛まれている様子も見れない。
 彼女はいたって自然な様子で高価な椅子に腰掛けていた。
それにしても、あまりに薬の効果が切れる期間が短くなってきてはいないだろうか。
 彼女は、不意に小首を傾げてみた。
すると張詰めていた彼女の白い首筋が、まるでビニールを破くかのように裂けた。
 うなじから右側を回って喉に至るまでのほぼ半分ほどが、びりっと裂けたると、どす黒いどろりとした液体が、のろのろと溢れかえり、咽返るような薬液の匂いと腐臭があたり一帯に広がり始めた。
 彼女はそれをドレスに落ちる前に絹製のハンカチで拭うが、どろりとした液体はいくらでも溢れ出し、ハンカチをすぐさま使い物にならなくなるまで染め上げていった。
 黒い血が酒瓶一杯ほど流れ出し、いよいよハンカチ程度では治まりきらなくなろうとする頃、やはり彼女は無表情に、しかし、やってしまったという妙にのんきな困った表情で、手近なクロステーブルにある真鍮の鈴を手にとった。
 ちりりん、という涼しげな音が、少し控えめに、しかしダンスホール一杯に響く。
「ドレッセル……ドレッセルはおりませんか」
彼女は右手で破れた首筋に当てたハンカチを抑え、さらに片手で鈴を鳴らしながら、その名を静かに呼んだ。
 そして、優雅に鈴をテーブルに戻すと、彼女は柱時計に目をやった。
時計は6時4分のあたりを刺していた。
 ほんの少し、彼女は呼び出した者が現れるまで瞳を閉じる。
その間も柱時計のチクタクチクタクという音は、彼女の耳に響き続けていた。
 むろん、ダンスホールに流れる音楽は、今も穏やかに流れる。その曲にあわせ、彼女の表情は、どことなく笑みが浮かんでいるように見えた。
 心の奥で、何かを思い起こそうとしているのかもしれない。
そんな時だった。
 彼女の反対側の壁の方にある両開きの扉が、ゆっくりと開き、一人の身なりのいいほっそりとした初老の男が現れ、ゆっくりと丁寧に一礼して入ってきた。
 なにかデジャヴにも似た奇妙な感覚を彼女は覚えたが、特に気にしなかった。
その男の手には、古い小型の、やや精巧な彫刻の施された木箱が握られている。
 彼は貴婦人が名を呼んだだけで、どのような用事であるかを理解しているようだった。
貴婦人もまたそんな初老の男の態度を当たり前のように眺めている。
 男は何を言うこともなく、ごく当たり前のように彼女の傍まで歩み寄ると、もう一度だけ丁寧に礼をしてクロステーブルの上に木箱を置いた。そして、開ける。
 中にあったのは、やや黒ずんだ針や真新しい糸の入った裁縫道具だった。
男は慣れた手つきで針に糸を通すと、貴婦人の抑えているハンカチをゆっくりと受け取る。さらにそのハンカチで裂けた部分を抑えながら、器用に端から縫い付けていく。
 わずかに漏れる血を軽く拭き取りながら、かなり無感情で事務的なその作業は、静かに続くのだった。
「そういえばドレッセル。あのコはどうしたのでしょう?」
「……」
男は黙々と作業を続けている。
 その作業はかなり手馴れており、どこか事務的でさえあったが、決して貴婦人の血を自分やドレスにつくことのないよう、細心の注意を払っているのが分かる。
 くわえて、傷がこれ以上開かないようにすることも忘れない。
男は寡黙だが、貴婦人に対しての礼節は徹底していた。
「名前はなんと言ったでしょうね……」
ドレスを着た死体の貴婦人は、声だけはどこか楽しげに、自分と初老の男だけしかいない、少し寒々とした空気の満たされたダンスホールに向けて声を発する。
 不意に、彼女は思い出したかのように首をあげ、手を打ち鳴らした。
その突然の彼女の動作に、ついドレッセルの手元が狂い、せっかく縫い合わせた部分が開いてしまったが、彼はそれをまた縫いつけ始める。
 彼女もそのことに一瞬気付いたように、自分の首元を動く彼の手を見たが、すぐにそんなことは忘れたかのように言った。
「雪鳴音……確か、そんな名前だったはず……。あのコは今、どこにおるのです?」
「……」
男は何も答えなかった。
 そんな男の顔をしばらく眺めていた死体の貴婦人は、そのうち、そんなことを忘れたかのように再び口を開いた。
「そうそう。ドレッセル。【薬】の効果が切れたようなのです。後で、薬を持ってこさせてください」
「……」
初老の男はやはり何も答えなかった。
そして、死体の貴婦人も、そのことには何も反応しなかった。
やがてドレスを着た死体の貴婦人は、時計の音と蓄音機の音だけが響き渡るダンスホール内にて、初老の男に身を任せたまま、少しだけ目を閉じた。
 少しだけ長い間、目を閉じていた彼女。
5分ほどだっただろうか。
その間も時計の音と蓄音機の音楽だけはずっと聞こえていた。
 そして、それほど時が流れたと実感する前に、彼女は目を開けた。
目を開けた彼女が最初に目にしたのは、柱時計。
 時間は6時33分のあたりを指していた。
意外に長い間、瞳を閉ざしていたらしい。
 気付かないうちに眠ってしまっていたのだろうか。
しかし、それにしては頭がすっきりとしていて、眠っていたような感覚は残っていなかった。
それから、彼女は自分の周りには、すでに初老の男の姿がなくなっていることに気付く。
 首元に触れてみた。
「……」
ざらりとした縫い痕の感触がした。
 もう何度となくこの部分は縫い合わせてきたので、かなり幾重にも縫い痕が重なり合っている。
 しかし、しっかりと縫い合わせてくれたようだ。
彼女は満足して、再び、このまどろみの時間を過ごし始めた。
 柱時計の音と蓄音機の音しかしないダンスホール。
彼女はやや退屈であった。
 いったい、どれほどこうして椅子に座りつづけているのだろう。
もう高級衣装も髪の手入れも化粧も、十分用意しているというのに、いつまで経っても客は来ない。
 彼女は退屈し始めていた。
そんな時である。
 今度は呼び鈴を鳴らしたわけでもないのに、両開きの扉が突然ゆっくりと開いた。
見ると、数十分前と同じ姿勢で立つ身なりのいい初老の男の姿があった。
「……」
男は丁寧に頭を下げると、数十分前と同じ一連の動作をして、彼女の方に歩み寄った。
 まるでデジャヴを見るような感覚があったが、一つだけ数十分前と違うところがあった。
 初老の男の手には、先ほどの裁縫道具の入った精巧な木箱ではなく、銀の盆に載せられたガラスの小瓶があった。
 中に満たされているのは、限りなく透明に近い蒼色の液体。
男はそっと彼女の傍らに立ち、彼女はゆっくりとした動作でその瓶を手にする。
 きゅっという音を響かせてコルクを抜き取ると、そのまま一気に口飲みする彼女だっ
た。
そのままその液体を味わうかのように瞳を閉ざし、胸を膨らませてそのうちに広がる液体を感じていた。
 そして、目を閉じたまま彼女は小瓶を初老の男の持つ盆に戻した。
「ご苦労でした。ドレッセル」
そう囁く彼女の口からは、何かの甘い果実のようで、それでいて薬液のような鼻を刺す香りがした。ドレッセルと呼ばれた初老の男は、深く丁寧に一礼すると、その盆を手にしたまま、彼女の前から去って行った。
 再び、静寂と時計の音と蓄音機の音楽が部屋を満たし始めた。
彼女は時計が気になった。
 先ほどからそれほど経ってはいないはずだ。
せいぜい1、2分経ったくらいではないだろうか。
 6時35分頃を刺しているはずだ。
彼女は瞳だけを時計の方に向けた。
 すると、どういうことだろう。
時計の針は、なぜか6時14分と戻っているではないか。
ドレスを着た死体の彼女は、おもわず立ち上がりそうになる自分を抑留め、呼び鈴を鳴らす。
 その瞬間から、蓄音機から流れる音楽が、何かの佳境に登りはじめたのだろうか。
それまで緩やかだった曲調が、少しずつ何かの予感を込めた緩やかというよりは、音を抑えたものへと変わり始めた。
 まるで、何かの前兆であるかのように。
「ドレッセル。ドレッセルはおりませんか」
鈴の音が少しだけ、強く鳴り響く。
 しかし、しばらくの間、両開きの扉は開く様子を見せなかった。
彼女の表情が一瞬、張詰めたものへと変わったようだったが、それはあまりにも分かりづらいものだった。彼女は再び呼び鈴を鳴らす。
「ドレッセル。ドレッセルはおりませんか」
しかし、それでも扉はしばらく開かなかった。
 彼女の表情は今度こそはっきりと曇ったと認知できるものへと変わった。
再度、呼び鈴を鳴らそうと手を伸ばそうとしたとき、ようやく扉は開いた。
 数分前と何一つ変わらない様子の初老の男が経っている。
やはりデジャヴを思い起こさせるように、初老の男は同じ動作で彼女のもとへと歩み寄った。
 今度の彼の手には何も握られていない。
ドレスを着た死体の貴婦人は、初老の男に告げた。
「時計が壊れています。これではパーティーの始まりも終わりも分りません」
「……」
初老の男は、丁寧に一礼するだけだった。
「すぐに時計を直させなさい」
それは、何か懇願めいた響きが、どことなく感じられた。
 時が狂い始めた柱時計は、その間もチクタクチクタクと規則正しく音を刻み続けている。
 蓄音機から流れる旋律が、その瞬間、わずかに狂ったことを彼女は気付いていなかった。
「……」
 初老の男の視線が、一瞬、その蓄音機のほうに向けられたが、やがてドレスを着た死体の貴婦人に戻すと静かに一礼してその場を去って行った。
 そんな初老の男の後姿を眺めていた彼女は、やがて男の姿が扉の向こうに消えたのを見てから、大きく息を吐いた。
「まったく、今日はとても大切な日だというのに……」
客はなかなか来ない。
 時計は壊れてしまう。
身体は妙に崩れやすい。
 まったく、散々な話だと思いながら彼女は憂鬱そうな視線をダンスホールに向ける。
そしてふうっと溜息をついた時、彼女は初めて気が付いた。
 何時の間にか時計がチクタクと響く音しか聴こえなくなっていることに。
彼女は蓄音機に目をやる。
 蓄音機は動いていた。
まだSPは回っているようだった。
 蓄音機の針とSPの溝が擦れ合う音が、ホーンを通して聞こえてくる。
その静寂の中で、ドレスを着た死体の貴婦人は、遠い過去へと意識を向ける。
「1861年……サムター要塞。あの忌まわしい南北戦争がはじまった砲撃の瞬間より今日まで……。とても長かった」
彼女は静かに過去を思い返し始めた。
「けれどそれも今日まで。やっと戦が終わったのです。あの方が帰って来てくださる。わたしのことを『愛しい君』と呼んでくださる……」
蓄音機は静寂を破り、また新たな旋律を奏ではじめた。
 それは緩やかに掠れゆく。
まるで泡沫の夢をなぞるかのように。
 しかし、彼女の夢は、そこで終わる。
突如、蓄音機が奇妙な音を響かせ始めたからだ。

――ギギギギギィイィイイイイイ……。

何かが軋み上げるようなその音は、まるで誰かの哀しみに満ちた叫び声であるかのようだった。
 しかし、それでも時折、何かの弾みで旋律が聞こえてこなくもない。
しかし、ちょうど何か激しいシーンの楽章なのだろうか。
 ほとんど軋み音と変わらないような聴こえの激しい曲調が聴こえてくる。
その激しい曲調と軋み音が合さった狂気の旋律は不気味にダンスホールに響いた。
 彼女はいっきに想いから覚め、異変を前に驚きの余り呼び鈴を鳴らすよりも先に、椅子から立ち上がっていた。
「何事?」
そう思った彼女の耳に今度は、別の音が響き渡った。

――ボーン、ボーン、ボーン……。

それは柱時計から鳴り響く鐘の音であった。
 見れば、先ほどまで6時14分を指していたはずの時計が、今は6時ちょうどをさしている。
それはまるで、何かが終わったことを示しているかのようだった。
 時間は来てしまった。
そんな想いが彼女の胸の中で、わけもわからず反芻する。
 意味不明な不安が胸を引き裂こうとしているかのように、激痛を迸らせた。
延々と鳴り響く狂った旋律の蓄音機と柱時計の鐘の音が織り成す不協和音は、まるで彼女の心をねじり上げようとしているかのように、音がなるごとに彼女の心を軋ませた。
 何かに全身の肉をえぐられるような痛み。
これはいったいなんなのだ?
「ドレッセル! ドレッセルはいないのですか!? 早くこの音をとめなさい!」
彼女はクロステーブルの鈴を鳴らすが、すべて鐘の音と蓄音機のノイズによってかき消されていく。
「ドレッセル!!」
半ば彼女は狂ったように鈴を鳴らしながら、執事の名を呼びつづけた。
 しかし、扉を開けて誰かがやってくるような気配はない。
その間も、何か得体の知れない不安は、彼女の心を蝕みつづけていた。
 自分は何をこんなにも恐れているのか。
「早く! 誰かいないのですか!! ドレッセル!! この音を消しなさい!!」
理由も分からない彼女はとにかく、一刻も早くこの音を止めたかった。
 力の限り、両手で両耳を抑えようとも、耳の奥に入り込んでくる音。
だんだんと自分が発狂しかねない苦しみを覚え始めていることを本能的に悟った彼女は、それまで自分が座っていた椅子の背もたれに手をかけた。
 いっきにそれを持ち上げようとする彼女。
両手に力を込めたとたん、突如、左手が肘の間接部分から無残に千切れる音が響いた。
 普通なら一気に血が噴出すところであるが、彼女の左上の肘のちぎれ落ちた部分からは、どす黒いどろりとした粘着質の液体が、ぼたりと零れ落ちるだけで、肉は完全に壊死しているかのようにボロボロだった。
 それまで甘い香水に身を包んでいた彼女から、腐臭が漂い始めた。
しかし、彼女はそれどころではない。
 普段なら、それでも腕を拾ってまた縫い合わせなければと思うところであるが、そんなこともお構いなしに今度は右腕で椅子を手にすると、今度は持ち上げずにずるずると引きずり始めた。
 その椅子が引きずったあとを、黒いどろどろとした液体が、ところどころに零れ落ちていく。
「はぁ、はぁ、ドレッセル……ドレッセル……この音を消しなさい」
まるでうわごとのように呟きながら、椅子を引きずる彼女の左腕の肩口は、いつの間にかぱっくりと破け、その下にある赤黒い腐りかけた肉を覗かせた。
 今にも彼女の左腕は肩口から千切れてしまいそうな中で、彼女はそれでも椅子を引きずり続けた。
 何が原因なのか、まったく分からない。
とにかくこの蓄音機のノイズと鐘の音は、自分の心を壊し尽くす。
 朦朧とする意識の中で、前にも同じことがあったかのようなデジャヴを思いながら、その椅子によって蓄音機の前に椅子を一気に持ち上げた。
 椅子の重量に耐え切れず、腐った肉はちぎれ落ちるかと思えたが、なんとかその重量を支えきると、彼女はそれを重力に任せて一気に蓄音機の上に叩き落す。
 蓄音機のホーンの部分が無残にひしゃげ、木箱の部分は、砕け散る。
絶叫にも似た奇妙なノイズが、サウンドボックスの奥からその瞬間大きく泣き叫び、SPごと破壊された。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
これだけではいけない。
まだいけない。
柱時計は、蓄音機を破壊した彼女を責め立てるかのように、その鐘をいつまでも鳴り響かせる。
 千切れかけた左腕は、もはや力がこもることもなく、ちょっとした弾みで簡単に胴体から切断されてしまいそうだった。
 右腕からは、今もどろりとした黒い液体が流れ落ちていた。
呼吸が乱れている。
 彼女は無意識に自分の胸を見た。
「……」
ここまで呼吸が乱れているにも関わらず、胸はまるで息を止めているかのように一切の起伏がない。
 そう。
別に自分は呼吸などしていないし、する必要もない。
 忘れていたわけではないのだ。
ただ、気付かないフリをしていただけ。
 ちぎれた腕も何度も繋ぎ合わせている。
今更、驚くこともない。
ただ、ドレスが台無しになってしまったり、ダンスホールが血で汚れてしまっただけ。
すぐに処置させればいい。
 肉体など、どうにでもなるのだ。
ただ少しそろそろボロボロになりすぎてきた感がするだけ。
 どうにもならないのは、自分の心だ。

――ボーン……ボーン……ボーン……

「ひっ!?」
チクタクチクタクと鳴り響かせながら鐘はなる。
 時計は狂ったかのように、見る度に指す時間を変えていた。
得体の知れない恐怖の理由など、自分は本当は知っていた。
 見る度に変わる時計の針。
狂った不協和音を響かせる蓄音機。
 腐り落ちる自分の身。
どれ一つ正常なものはない。
 すべて狂ったこの世界の理は、ある瞬間より壊れ、今現在も続いている。
まるで壊れたテープレコーダーのように、それは何度も何度も同じところで途切れ、また最初に戻る。
 永遠に繰り返されるこの現象は、決してその先に進むことはない。
彼女が待ちつづけた瞬間は決して廻ることはなく、こうして壊れた世界の軋む音と共に、それまであった美しい旋律は脆く崩れ去る。
 世界が、悲鳴をあげる。

「ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああ」


狂ったように時計は鳴り、彼女は喚き散らしながら、そこら中でのた打ち回るかのように暴れ回った。
 そのうち、皮膚が破れ、腐った肉が曝け出される。
すかすかの骨が折れ、皮膚を突き破って現れる。
 どろどろに溶けた内臓が破れた腹部から、どす黒い血とともに流れ落ちた。
彼女の着ている黒い宮廷ドレスよりも、やや赤黒いそれは、大きな染みを作りながら彼女のドレスに広がっていく。
「がああああああああああああ」
それでも彼女は構わずに叫びながら暴れ回った。
 やがて、片方の足が骨折する音と共にぷっつりと肉がちぎれ、彼女はその場に倒れこんだ。
すでに彼女の周りの床一面が、腐敗した肉と血が溶け込んだどろどろの液体に、溺れており、転んだ彼女の身をいっきに汚した。
 しかし、それでも彼女は暴れ回りつづけていた。
「ドレッセルゥゥゥゥゥー!! ドレッセルゥゥゥゥゥゥ!! ぐァギャぁぁァァァァ」
現れない誰かを呼ぶ声が、途中、何かが潰れた音ともに歪んだ。
 恐らく、声帯が潰れたのだろう。
それでも彼女は呼びつづけた。
呼んだところで、ここまで砕け散った『物体』をどのように補修したものだろう。
 いや、それよりもここまで腐敗が進んだ身で彼女はどうして今もこうして生きていられるのだろう。
それはまさに断末魔の叫びをダンスホールいっぱいに響かせていた。
 このおぞましい物体の絶叫は、絶えることなく延々と続いた。
その瞬間までは。

――カチリ。

それは唐突に終わった。
 柱時計の分針が6時1分を指した瞬間、鳴りつづけていた鐘が止んだ。
その途端に、分解しながら喚き散らし、暴れ回っていった物体の動きが止まった。
あたり一面を反響していたそれまでの絶叫が、まるで嘘のように不気味な静寂が、降り立ち。
 代わりにチクタクチクタクという時計の音だけが聞こえる。
それだけのようだった。
 いや、それだけではなかった。
そう思われたとき、突然、扉の開く音が響いた。
かちゃり。
それまでドレスを着た死体の貴婦人がどれほど叫ぼうとも現れなかった人物が、数分前、貴婦人が鈴を鳴らして呼んだときと同じような姿勢で立っていた。
 そしてやはりゆっくりと丁寧な礼をしてから、静かにバラバラになった貴婦人の傍
まで歩み寄った。
 周囲から漂う鼻を突く死臭などで表情を変えることもない。
初老の男はただ平然とそこに立った。
「……」
ばらばらに血や内臓を撒き散らしながら砕けたその物体を男は静かに見下ろす。
 そんな彼の耳に、時計の音とは違った音が聴こえてくる。
彼はその音がする方に目をやった。
 そこにあったのは、砕け散った椅子の欠片とともに、ひしゃげた蓄音機の無残な姿であった。
 完全に破壊されたかのようだったそれは、どういうわけか割れることを免れたSPを、どうにか回転させていた。
 そして、曲がりくねってしまった針がその溝を走らせていた。
サウンドボックスである木箱の部分は完全に潰れてしまっていたし、ホーンは大きく凹み、ねじれてしまっていた。
 とても満足に音が出るはずがなかったが、それは、どうにか弱々しく儚く、途中、途切れながらもなんとか旋律と思えないわけでもないノイズを響かせていた。
 それは曲の終わりの部分であり、始まりの部分であった。
まもなく曲は終わり、また曲は流れ出すだろう。
 そして初老の男は呟いた。
「愛しい君……」



チクタクチクタクチクタク……。
 時計の音が静かな部屋に響き続けていた。
時間は5時59分を指していた。
 彼女は相変わらず黒い宮廷ドレスを身につけていた。
ただし、少しだけ先ほどよりもさらに濃い黒色のように見えた。
 広々としたダンスホールには、相変わらず甘い香が焚かれており、決して血や腐った肉の臭いなどはしない。ただし、やや匂いがきつくはないだろうか。
 彼女はそう思った。
そして次の瞬間、時計がちょうど6時ぴったりを指した時である。
突如、どこからともなくカチリという音が響き渡り、ダンスホール全体に穏やかな音楽が響き渡った。
 どこか古めかしいやや凹凸があるように見えるが、それは使い続けられてきたこの蓄音機の年月の証明ではないだろうか。
 彼女は手近にあったクロステーブルから鈴を鳴り響かせた。
間もなく、両開きの扉が開かれ、そこにはまた初老の男が立っていた。
 奇妙なデジャヴを感じた彼女は、男に向けて言った。
「そういえばドレッセル。あのコはどうしたのでしょう?」
「……」
「雪鳴音……確か、そんな名前だったはず……。あのコは今、どこにおるのです?」
「……」
「そうそう。ドレッセル。【薬】の効果が切れたようなのです。後で、薬を持ってこさせてください」
「……」






「ただいまー!」
その元気なような疲れているような、よく分からないトーンの声は、まどろみの中にあったわたしの意識を呼び覚ました。
「ん……んん……雪鳴音か」
そこにいたのは、紅い瞳に蒼銀髪をした、まるで雪のような白い肌をした一人の少女、いや少年のように見えなくもない人間だった。
 年齢はまだ16歳であるが、実際にはそれ以上に幼いように見えた。
どうしたことだろう。
 まさか眠っていたのか?
このわたしが?
 いや、そういえば何か奇妙な夢を見ていた気がする。
違和感のあるこの感覚に、少々わたしは眉を寄せながら、そこに立つ存在に目を向けた。
「眠ってたの? キミが? 珍しいこともあるものだね」
雪鳴音はそう言いながら、蒼銀髪の前髪をやや撫でながら、手にしていた大き目の黒い箱を手近なクロステーブルに置いた。
 わたしは、そんな雪鳴音の動作をぼうっと眺めていた。
かなりぐっすり眠っていたのだろうか。
 脳の一部はまだ休眠しているように、反応が遅い。
「それにしても、ずいぶん長い買い物だったな」
わたしはそれまでずっと思っていた不満を口に出した。
 もっとも、眠りから覚めたばかりのわたしには、もうそれほどの不愉快さは残っていなかったが、あまり遅くまで外に出ていた雪鳴音に対して、言っておかなければならないことではあるだろう。
 人間はとても貴重だ。
見れば奪おうとする者など吐いて捨てるほどいる。
 雪鳴音が買い物に行くと言ったときに、いっそ付いていこうとしたが、簡単に拒否されてしまった。
「いい食材が見つからなくてね。あっちこっち歩いたけど、そんなに時間かかったかな?」
 きょとん、とした顔でわたしを見る。
そういう表情が、わたしには悩ましげで、一瞬、喉の奥が鳴った気がしたが、それを表情に出しはしなかった。
「何を言っている。あれから何時間かかって……」
そう言いかけたわたしは、奥に飾ってある柱時計を見て、一瞬、言葉を失った。
「眠りにつく前、6時ぴったりだった……」
見れば柱時計は、6時1分ほどを指していた。
 わたしは雪鳴音を見返した。
雪鳴音は、何かを悟ったかのように、一瞬、表情を止めたが、すぐにまたいつもの無邪気な柔らかい笑みをわたしに向けた。
「わたしは眠っていなかったのか?」
「キミは眠っていたよ。ボクが戻ったときには」
「……」
おかしい。
 ではあれから、1分ほどしか経っていないというのか?
かなりの長い間、眠っていた気がするが……。
そんなわたしの不思議な疑念をくすくすと笑う雪鳴音は、やがて柱時計のところまで歩み寄ると、わたしに囁いた。
「この柱時計はね。世界で一番正しい時間を刻む時計なんだよ。時々、ありえない時間を示すこともあるけれど、それはただの悪戯だから」
「悪戯?」
わたしは雪鳴音の意味不明な言葉に聞き返すが、ゆきおねはもう聴こえていない様子だった。
無邪気に微笑みながら、買ってきた食材をもって何処かへと去っていく。
 わたしは、そんな雪鳴音を見送ってから、改めてこの不思議な感のする柱時計とそれに反応して動き出す蓄音機の両方を見つめた。
 蓄音機はいつの間にか、その動きを止めていたらしい。
見るからに古めかしいそれは、今は物言わぬただのガラクタのように見えた。
 しかし、わたしの興味はやがてそれらから離れ、去っていった雪鳴音の方に向けられる。
「【自滅型高機動重力波斬傷装置】さんは、何が好物かな?」
わたしの好物。
その問の答えを誰よりも知っているのは、他ならぬ雪鳴音であった。
そして、そんなわたしたちのやり取りの間も、絶えず柱時計は時を刻み続けていた。
 数千年もの遥かな過去より現在を越えて未来へ。



――チクタクチクタク……。


6 :wx3 :2007/02/15(木) 22:57:22 ID:rcoJs4om

I am GOD'S CHILD ―前編―

――神? ははは、ああ、そう呼ぶのか。

笑っているのは誰だ。

――いいさ。なんだってね。それにしても貧相な発想だ。

別に意味などどう捉えようと構わないさ。呼び方も。

――その通り。呼び方なんてどうでもいいんだよ。

殺し方が分ればそれでいい。でも、なんだっけな。殺す方法。あんた知らないだろ?

――ああ、いや……噂だけは知っているよ。そういう【システム】はある。

【自滅型高機動重力波斬傷装置】。ホントにこの宇宙にそんなものが存在するのか? あったとして、あんなもの、いったい、誰が創ったんだ? 

――そりゃ、キミ……。決まってるだろ。



――神だよ。






「リュージくんさぁ、この間、ミツネと歩いてたよね〜。明治通りで見たもん」
「ウソ! あたしも見たって! じゃあ、あれやっぱリュージくんだったんじゃん!」
「おいおい、やめれって〜! オレ、ゆきおね一筋よ?」
「きゃははは、バッカじゃん?」
「ゆきおね、それにしてもこの店来なくなったね〜」
「もうあたしらに付き合うのバカバカしくなったんじゃない? ゆきおね、おじょーっぽいしー」
「げっ! マジィ!?」
「ヤバイってそれ、リュージじゃないけど、俺、ゆきおね好きだったし」
「ロリ系好きなあんたは、死活問題よね」
「そんなんじゃねーよ! このクソ女!」
「んだとぉ!? やるかてめー?」
「やめなよ、二人とも〜。すぐそれだし」  
「そういえば、キヨミ、あんた、なんか知らないの? あんた、割りとあたしらより、ゆきおねと付き合いあんじゃん?」
「ん〜、最近、いつも行くクラブにこないし……どうしたんだろ……」
「そういえば、最近、ヒロに聞いたんだけどさ! キヨミんちって教会なんでしょ? キリスト教の!」
「ウソ! ホント!? キヨミ!?」
「……ん……まぁ……」
「すっげぇ! マジだよ! ひょっとしてあれ? 賛美歌とか歌ったりするわけ?」
「きゃははは! 似合わねぇ〜! キヨミ、ちょー神様ににケンカ売ってる
生き方してんのに! 笑える!」
「あははは! ホントー! マジ笑える〜!」
「……」

1999年。






そう。神様なんか大ッキライ。
だって、あたしの好きなもの全部ダメだっていうんだもん。






「今日、帰るの?」
「うっせー、弟のくせに口うるせーこと言ってんじゃねーよ! タコ!」
あたしは叩きつけるように思いっきりドアを閉めて、家を飛び出した。
遠くで主婦連がこちらを見てなにやら話し込んでいる。
 どうせ、あたしの噂でもしてるんだろう。
あの牧師様であの息子さん、でも、娘はヒドいあばずれ。
 あたしは、思いっきり睨みつけてやる。
すると、クモのコを散らしたみたいにそれぞれの家の庭に引っ込んでいく。
 ふん、と鼻を鳴らして、あたしの朝は始まった。
一応、制服着てるけど、ぜんぜん学校なんか行こうって気分じゃない。
 バッくれようかな。
そんなことを思いながら、あたしは、いつもの林道を歩いていく。
 冬の風が、頬や耳を裂いていくかのように冷たい。
それだけではなく、まるで服もカラダも通り越して、心さえ斬り裂いていくかのよう。
夕べ飲みすぎたせいか、気分も悪いし、もう本当に最低。
「……ったく、気分ワル……」
弟は嫌いだった。
 神様を信じている。神様を拠り所にしている。
神様は嫌い。
だから十字架も嫌い。
 十字のスクランブル交差点も嫌い。
まるで十字架に、神様に群がる人間のようで、そこを歩く人間も嫌い。
 あたしは交差点前の道の脇に座り込み、通り過ぎていく人間達をみていた。
とおりゃんせのメロディーと共に、まるで気持ち悪いアリの大群みたいに
 人間があっちからこっちから歩き出した。
ちょっと見てよ。
この人間の数。
ぜったいキモイ……。
アリの大群が群れてる様子を見てもキモイけど、人間だと余計にキモイ。
 さっさとアメリカでもどこでもいいからさ。
ミサイルかなにか撃ち落してくれないかな。
 一発くらいいいじゃん。
たくさん持ってるんでしょ?
 ケチくさいこと言うようなら、あたしが出してあげるよ。
ちょっとウリでもなんでもすれば、多少のお金くらいなら稼げるし。
 それでもムリなら、信号壊して事故引き起こしてやろうかな。
なんかさ。
 それくらいに人間がキモかった。
ぜったい1999年にキョーフの大王がこなかったことをがっかりしている人
間は、あたし以外にもいるはずだ。
 でも、そんな危ないヤツらと一緒にされるのはもっと嫌!
ああ、この世界なにもかもが嫌。大ッキライ。
 そんなことを思いながら、あたしはやっぱり繁華街の中央通りをいつも通りバカが声かけてくるのを待っていた。
 携帯がそのうち鳴ったら鳴ったで、そっちの方いくし、まあ、要するに何をするでもなく、お呼びがかかるのを待つ。
需要と供給が一応、このカラダだと成立するのが、あたしのまず幸運なところだった。
「ねぇ〜、ちょっとイイとこいかない? 面白いトコしってるんだけどさぁ。クラブとかってキョーミない?」
 バカはバカでもカネ持ってないのはパス。
かといって、足の臭い、脂ぎったオヤヂもパス。
 カネ持ってて、カオのいい男ってなかなかいない。
いても性格サイテーだったりしたら、もっと最悪。
 そういうカネもカオもいいやつってさ、けっこう、遊びすぎてて普通じゃ楽しめないもんだから、ちょっと異常で刺激のある遊びしたがるんだよね。
 カラダ、提供するこっちの身にもなれっての。
まあ、とりあえず、それでも妥協して付き合ってやれば、それなりのカネ稼げたりする。
でもさ。
 一つタブーというか、手を出してはいけないモノもある。
それは……。



始まりはきっと、その出会いからだっただろう。
あたしは、16歳で、とにかく自分を壊したくて壊したくて仕方がなかった時だ。
それだけではない。
 神様を殺してやりたくてしかたなかった時でもある。
「……」
このクラブに来るのは、これで何回目だろう。年齢偽って、あたしにしてはけっこうな回数だと思う。神様の禁忌だ。何時、ウソつくなかれ……だっけ?
いつもあっちこっちフラフラ歩きながら、気が向いたら入るだけだったし。
 特に行き付けの店ってなかったんだよね。
でも、あたしはこの店を最近気に入っている。
挑発的な匂いに、耳を叩き壊すようなサウンド。
DJは笑いつづけていた。
みんな、とにかくリズムなんて関係なくて、ただ、狂ったようにそこで踊っていた。
薄暗いそこで、まるで催眠術にでもかけようとしているかのように、時折、眩しい閃光が迸る。
 少しだけ頭がフラフラした。ジントニックを飲みすぎただろうか。
でも関係ない。
ここでは、すべてを壊してしまうのだ。
 あたしも、あたしを取り巻く世界も。
全部ぐるぐる回って、最後には消えてしまえばいい。
完全に立っていられないくらいまでになったとき、あたしは中央から離れてカウンターに腰掛けた。
 そして、やっぱりまたジントニを注文する。
「また、キヨミ。ムチャやってるね」
突然、声がした。
 それは、このうるさい音の洪水の中で、なぜかそれほど大きな声でもないのに、はっきりと聴こえた。
 そう。
彼女だ。
いや? 彼だろうか。
よく知らない。
「ゆきおねー」
あたしは、隣に座って肩肘つき、くすくすと笑う一人のシルエットを見つけた。
 少しだけ蒼い感じの銀髪。
瞳はカラコンでも入れてるんだろうか。
 いつも紅く見えた。
でもそれは、このクラブの照明のかげんよってそう見えるのかもしれない。
 あたしは、ここ以外でゆきおねにあったことがないのだ。
ブルーのネックホルダーに黒皮のショートパンツ、手には黒い皮製の手袋をつけている。
少し痩せすぎという感はあるけれど、なかなかスタイルのいいゆきおねに、よく似合っている。
どうしてだろう。
あどけない幼さの残る、ゆきおねであると感じていたはずなのに、そういうファッションが妙に映えて、艶っぽささえ感じる。
不思議なコだ。カラダはすごく女の子っぽいのに、なのに、少年のように見えることもある。会うたびにとにかく変わるコなのだ。
今日は女の子に見えるけれど、次に会うときには男の子に見えるかもしれない。
ゆきおねは、そんなあたしや周囲の驚きを楽しんでいるかのように、いつもくすくすと笑っていた。
 不思議なコだった。
「久しぶり。相変わらず下手な飲み方するんだね」
やっぱりくすくすと笑うゆきおね。
 16歳くらいだろうか。
とりあえずあたしと同じくらいの年頃らしいけど、一見してあたしよりも幼いように見えるほどに顔はあどけなさが目立つ。
 それなのに時折、あたしよりも大人びた表情や仕種を見せることがある。
その瞬間、なんて美しい生き物なのだろうと思ってしまう。
それまでのあたしは、『美しい』なんて言葉。クサいだけじゃん、なんて思っていたけれど、そうではなく、本当にそういうものは存在すると思い知らされた。女のあたしでさえ、その綺麗さにどきりとする一瞬がある。
 本当に、少女なのか、それとも少年なのか。
よく分からない不思議なコ。
「久しぶりだねー。最近、見なかったじゃん」
 あたしはそう言いながら、出されたジントニを一口飲んだ。
「うん。ちょっといろいろね」
 そう言いながら、ゆきおねは手元のグラスを見つめながら、グラスの中に浮かぶチェリーを弄んでいた。
「そっか」
あたしもなんだか、虚ろな瞳で酒を眺めながら、そっけなく返す。
 何時だろうって時計を眺めて、家のことを考え、家族のことを考え、友達や自分や他の様々なことを考えて、結局、また自分を壊したい衝動にかられる。
 そんな時、周囲に知っている人間がいるとなんとも煩わしいと感じるけど、不思議とゆきおねはそうならなかった。
あたしがこの店を気に入っているのは、そんなゆきおねが、時折、顔を出す店だったからだろう。
名前はゆきおね。それしか知らないコ。
 年齢も何処に住んでいるのかも、何をしているのかも、それどころか男か女かも分からないのに、それなのにあたしは、ゆきおねをけっこう気に入っていた。
ゆきおねだけは、あたしの世界に触れてこず、かといってあたしを否定せずにいてくれていたから。
「リュージがねぇ、ゆきおねのケータイの番号聞きたいって」
「あははは、リュージくん、相変わらずだね」
「うん。でも教えないほうがいいよ。あいつ、見境ない上にすぐ他の女に走るし」
「うん」
「でね、キョーコがさぁ……」
「うん」
「だから、あたし、あいつに言ったんだよ……」
「うん」
 吸えないタバコの火をつけて、苦いだけのまずい酒を煽ってトイレで吐く。気分が悪くなって、ダルいカラダをムリに振るわせ、咽返るような香水を振りまく。
 どうでもいい下らないバカなことを吐き連ねる。
まるであたしはゴミなんじゃないかって思えるほどに、あたしはくだらない存在だった。
無価値、そんな言葉があたしには似合う。
 いや、あたしはむしろ有害なのではないだろうか。
ならば神様。
 有害なあたしを創り出したあなたに、あたしの有害さを思い知らせてあげましょう……なんて気取るあたしは、自分に対して嘲笑する。
 そんな矢先だった。
「ゆきおね」
不意に、あたし以外の人間が、ゆきおねの名を呼んだ気がした。
 見ると、長身の黒いスーツ姿の女がゆきおねの座るカウンターの傍らに立っていた。一見して20代後半頃の大人の女性。
 まるでモデルなのではないかと思うほどにどれ一つといって非の打ち所のないその美貌。黒くまっすぐに、まるでシルクのように流れる黒髪。
病的なまでに白いその肌は、冷徹さを感じさせる。
 細く長く優雅に弧を描く眉の下には、やや切れ長の意思の強そうな瞳が、ゆきおねを捉えていた。薄く形のいい唇は、固く閉ざされ、何者も触れられない。
 ほっそりとした輪郭は、まるで計算されつくされたかのように、すべてに置いて完璧なバランスをもっている。
 とても人間とは思えない。
そう。それはまるで精密に計算されつくされて創り上げられた神の創造物のように見えた。
「早かったね。もう終わったんだ」
「……いいかげん、ここの人間にも飽きたな」
 独特の話し方をする。
あたしは何気なく女性の一挙一動を観察していた。
「『マズいこの味も、何か新鮮といえる』。そう言っていたクセに」
ゆきおねは、くすりと笑った。
「単にマズいだけだった。口直しがしたい」
「ミもフタもないなぁ」
 苦笑しながらそう言ったゆきおねは、それでも仕方ないなぁ、なんてことを口にしながら、カウンターにお金を置いて立つ。
 そして、あたしの方に向き直るなり、また無邪気に微笑んだ。
「それじゃね」
「ん? もう行っちゃうんだ」
「ちょっとね」
「戻ってくるの?」
「ん〜、どうだろ。たぶんね。まだ飲み足りないし」
「そっか」
それだけの会話を済ませると、黒皮の手袋をはめた手をひらひらと振りながら、女性と一緒にその場を去っていった。
 あたしは、ふぅっと溜息をつきながら、なんだか少し淋しい気持ちになる。
コツン、とグラスを指ではじき、カウンターにうずくまった。
誰か声かけてこないかな……。
 今ならきっと……。

――今ならきっと簡単に処女を捨てられる……。

そんなことを思いながら、いつまでもいつまでも、そこにそうしているあたし
だった。
 ムカつくことに、そういう時に限って男は声をかけてこない。
(酔いつぶれて、へろへろになった女一人口説く度胸ないわけ!?)
そんなこんななことを思いながら、半ば逆ギレじみた怒りに任せて、一気にグラスの酒を呷ると、また新しいグラスを注文した。
「最低……」
 そしてまった一気に飲み干し、そしてまた飲み干す。
(なんだ、あたしってけっこう酒強いじゃん。おとなじゃん)
何杯カクテルを飲んで、いくつボトルを空にしただろう。
ここまで無茶苦茶な飲み方してる女は、カウンターを見回すかぎり、あたし以外にはいない。
カウンターにいる人間は、みんな、たいていグラスを手に楽しそうに話したり恋人同士らしい二人が抱き合ってる姿を見かける程度で、ただひたすら飲んでるのはあたしだけだった。
 そんな事実にまた言い知れぬ怒りを覚え、また飲む。
いいかげん、ただ飲むだけで飽き足らなくなったあたしは、席を立ち、朦朧となった意識のまま、それでも自分はけっこう酒に強いな、と見当外れなことを思いながら踊りに向かおうとした。
しかし次の瞬間。
「!?」
足がふわりとした感覚とともに、なくなってしまったかのような気がした。
 そのとき、いっきに胸の奥に込上げ来る吐き気。
胃がぐるぐると揺さぶられるような気持ち悪さがあたしを襲った。
踊るどころではない。
 足腰に力の入らないあたしは、吐きたい衝動を抑えながら、なんとか壁伝いに化粧室へと向かう。
乱暴にドアを開け、いっきにボックスへ駈け寄ると、便器のフタをあげるのも億劫に、一気に込上げてきた衝動を吐き出した。
「かはっ! がはぁ!! う……あぁ…くぅぅ」
 ぽちゃぽちゃという水音が響き、胃の内容物が喉を通り抜けていくおぞましい感覚。
それをあたしは数十分の間、もがき苦しみながら味わい続けた。
苦しさのあまり、涙が溢れてくる。
吐きつづけて、また吐きつづけ、やがて、吐くものがなくなったとき、あたしは胃液さえも吐き続けた。
 そうやって吐き出したいだけ吐き出したあと、あたしは自分に対する情けなさや、自己嫌悪や、まだ残る気分の悪さからほんの少し泣いた。
(ったく……最低……これだから……)

――ああ、もうなんでもいいから殺しちゃってよ……。

全部水で流し切れればいいのに、あたしごと、捨てて!
そう何度も叫びたくなったその時だった。
あたしの耳に誰かの声が届いてきたのは。
 激しい嗚咽を響かせたにも関わらず、その声の主は、あたしの存在に気付いていないかのようだった。
なんだろう。
どこかで聞いたことのある声。
これって……誰?
全身がひどい虚脱感を覚えていた。
とても動きたいなんて気分じゃなかったあたしは、それでもどうしてか立ち上がっていた。ゆっくりとボックスのドアを開けて外に出る。
小奇麗に掃除し尽くされたその化粧室の鏡の前で立ち、自分を見ようとしてから、あたしは反射的に目をそらした。
今の自分なんてきっと最悪に醜いだろう。
そう思ったそのとき、また声がした。
「……ぅ……くぅ……」
何かに耐えるようなその声は、この化粧室のどこかから聞こえる。
 いったい、何の声なのだろう。
あたしはそっと耳を清ました。
「……ったいなぁ……。もう少し優しく……」
その時、あたしは確信した。
 ぜったいにそれは知っている人間の声だった。
そしてそれは……。
一歩一歩、あたしは喉の奥を鳴らして歩み寄る。
 見てはいけないものを、それでも見たいと渇望していたものを、そしてそんなもの、ぜったいに見たくなんかないものをあたしは見ようとしていた。
ゆっくりと奥のボックスの扉を押す。
それは簡単に、まるであたしが開けるのを待っていたかのように、呆気なく開いた。
あたしがそこで見たものは……。
「!?」
「……い、痛いってば……ったく…いつも……こういうとき乱暴すぎるんだよね……キミは」
それは、首筋にキスの荒らしを受けながら、悶えるゆきおねの姿だった。
相手が誰なのか知らない。
でも、恐らくさっきの長身の女性だろう。
二人ともあたしの存在なんて気付かないまま、お互いに求め合っていた。
あんなにあどけなさの残る、ひょっとしたらあたしよりも年下なんじゃないかって思えていたゆきおねが、その時はまるで知らない人のようだった。
あんな表情をするなんて……。
あんな……あんなイヤな表情……気持ち悪い!!
疲弊しきっていたはずの身体が、反射的に動き、あたしはいっきにその場から走り去った。
まるで、思い出したくもない過去から逃げ出すように。
吐いて、涙で濡れた、メイクがおもいっきり崩れまくった自分の顔なんて気にもとめずに、とにかくその場から去りたかった。
 酔って気分が悪くなっても吐けばだいじょうぶなんて、絶対にウソだ!
あたしはとにかく、今の自分の気分の悪さを落ち着けるために、再び香水臭い人間の渦を通り抜けてカウンターに辿りつくと、またジントニックを注文した。
(最低……最低! なにもかも、この世界、なにもかも最低!! 壊れてしまえばいい!!)
こんな気分の悪さを感じてしまう自分ごと……。
 やがて出されたグラス。
あたしは乱暴にひっつかみ、そして、一気に口に含もうとした。
そのときである。
「そこまで……」
グラスを持つ手を、何時の間にか隣に座っていたゆきおねが、掴んでいた。
「ゆきおね!?」
反射的に先ほどのゆきおねの姿を思い浮かべると、あたしは思わずゆきおねの手を払いのけていた。
グラスの酒がいっきに零れ散る。
ころん、と転がったグラスは割れはしなかったけれど、中身を完全に溢しながら、ゆきおねの足元を転がった。
ゆきおねは、それを拾うと、カウンターに戻しながら、さっきここで話した時と変わらぬ無邪気な表情を見せて言った。
「驚かせた?」
「……」
それはどっちの意味なのだろう。
さっきの化粧室でのこと? それとも今こうして突然現れたことだろうか。
あたしは数秒間押し黙ってしまった。
そして、思わず微笑むゆきおねの顔に、先ほどのあの妖艶な表情を重ねかけ、あたしは反射的にゆきおねから目をそらしてしまった。
「やっぱり、驚かせちゃったんだね」
それは何かのんきな響きを伴っているようにも、どこか寂しそうな響きを伴っているようにも聞こえた。
「ど、どうして……あんなこと……」
なんてバカな質問だろう。
あたしには関係ないことなのに……。
「ああ、それはね……」
あまりにも無防備に話し始めるゆきおね。
あたしは慌ててゆきおねの言葉を遮った。
「いいの。あたしには関係ないし、でも、ゆきおねって本当は男だったんだ? ちょっと驚き。だって見た感じこんなにカワイイのに」
わざとらしいような笑いが出てしまっても、それがその時のあたしの限界だった。
「男? ボクは男じゃないよ」
くすくすと笑うゆきおね。
その笑いはいつものゆきおねの笑いであったはずなのに、まるで悪魔が微笑んでいるかのように見えた。
「……そっか。ごめんね。女の子だよね。あははは……酔ってんのかな」
では、あの女性とは女同士の関係ということになるのか。
そう思いかけたあたしをさらに、ゆきおねは混乱させる発言をする。
「ん〜、女でもないかな」
「え?」
驚いて見返すあたしを、ゆきおねはまた面白そうに無邪気に微笑んでいた。
なんだかからかわれているような気がしたけれど、不思議と怒りがわいてこない。
「じゃあ……」
「男か女か。そんな神様が勝手に創った境に拘らなくてもいいじゃない?」
それは、聞いてはいけない言葉だったのかもしれない。
まるで、呪いみたいに、あたしの耳から胸の奥へと入り込み、奇妙な熱を持ってあたしを酔わせた。
 酒のせいだろうか?
それともこのキツすぎる香水のせい?
 あるいは踊りすぎて頭を振りすぎてしまったせいなのかもしれない。
ひょっとしたら、先ほどのショックがまだ残っているのかも。
どちらなのかよく分からない。
 でも、ゆきおねのその紅い瞳と言葉は、なぜかあたしの背筋をぞくぞくと震わせた。
それはとても恍惚とした甘い瞬間だったのだ。
そのなんとも言い難い酔いは、あたしに抗うことを許さず、気付いたときには、あたしからすべての枷を解き放っていた。
 それからのことは、よく憶えていない。
酔い潰れて眠ってしまったのか。
それとも夢遊病のように歩き出してしまったのか。
単に記憶がないだけなのか。
とにかく、あたしはずっとずっと、ゆきおねと一緒にそこにそうしていた気がする。



目が覚めたとき、不思議なことに気分は悪くなかった。
なぜなのだろう。
あたしは真剣に考え込んでしまった。
 寝覚めはいつも最低の気分だったし、それでなくても常日頃からあたしの気分は悪いのが当たり前だったのだ。
なのに、どうしてか今はとても晴れ晴れとした気分だった。
そして、次に考え出す。
ここは、何処だろう……と。
白い壁。白い天井。
見慣れた机やベッド。
あたしが数秒かけてそれを思い出そうとしている頃、やがて記憶が鮮明に甦り始めた瞬間、がちゃり、という音とともに、ドアノブが動いた。
「キヨミ姉……目、覚めたんだ?」
そこには、今日は日曜だというのに学校のブレザーに袖を通しながら、カバンを引きずった様子のあたしの弟であるトモヤの姿があった。
ただし、カバンは普段の通学用ではなくスポーツバッグ。
 たぶん、今日は学校でバスケ部の練習があるんだろう。
バスケなんてやってるだけあって身長はすごく高い。
 中三で178あるのってちょっと異様だ。
その上、普段鍛えているから体格もいい。
まったく筋肉バカにしか見えないようなやつだった。
「うっさいなー! あたしの部屋、勝手に入んないでよ!」
上体だけをベッドから起こし、そう言いながら、あたしは手近にあった枕を投げつけるが、トモヤはそれを軽く受け止めた。
「心配して見にきただけだろ?」
 トモヤは、困ったような怒ったような表情をして言う。
あたしとしては、せっかく晴れ晴れとした気分の時に、コイツの顔を見てしまった嫌悪感から、とにかくこいつを部屋から、そしてあたしの意識から追い出そうと奮闘した。
「ほっとけよ! バカ!」
今度は、ベッド脇の棚からファッション雑誌を取り出し、それを振りかぶるとトモヤは、
「分かったよ! 出てけばいいんだろ!?」
「ドア閉めてってよ!」
あたしが言い終わらないうちに、トモヤは、ばんっと響き渡るような勢いでドアを閉め、一階へと降りていった。
 その足音を最後まで聞きながら、やがて本当に一階に下りて降りていったのだと判断してから、あたしは手にしていた雑誌を元に戻した。
それから大きく息を吐き出し、もう一度ベッドに倒れこむようにして上体を戻すと天井を見上げながら、ふと思う。
(あたし、どうやって家に帰ったんだろ……)
あのクラブに一人、行ったことは憶えてる。
誰かと一緒にいて……それから……。
それからどうしたんだろ。
 酒を飲みすぎてしまったんだろうか。
誰と一緒にいたかも憶えてない。
 あたしの記憶はひどくぼやけていて、その時のあたしはそこから先をどうしても思い出すことができなかった。
まあ、思い出せないのならそれもいい。
何かよく分らなかったけど、とにかく気分はよかった。
そんなことはどうでもいいと思えるほどに。
 とにかく、この気分なら一気にやれてしまいそう。
今なら、なんでもできそうな気がする。
 なにもかも、何を感じる間もなく、すべて……。
解き放たれて、あの天のいくその先まで。
「ふ、ふふふふふ。あはははは! あはははははは!」
あたしはばっと布団を蹴り上げて、勢いよく起き上がると、すぐにそのアタリを見回して探し回る。
 どこにいっただろう。
スカートのポケットには入っていない。
カバンは? カバンはどこだろう。
そう思う間もなく、それはあたしの目に入った。
 黒いトートバッグ。
机の端のフックにかかったそれを、あたしは引寄せた。
思ったとおり、中にはまだ昨日入れておいたままのMDプレイヤーや、コンパクト。一応、気に入っているということになっている銘柄のタバコが入っており、さらにその奥に入っているはずのものを探す。
 それほどの時間をかけるまでもなく、カバンの奥ホルスターに入ったケータイをすぐさま見つけた。

――ああ、歳ぃ? 高1〜…うん……三万円かな。だって処女だし……制服?
  いいよ。うん。じゃぁ……いいよ。そこで待ち合わせ。

今ならなんでも出来てしまいそうな自分。
 胸の奥が逸った。ほんの少し怖かったけれど、それ以上に心が逸っていた。
さっさと捨ててしまいたいものを捨てる。
イヤな自分ごと。
神様は嫌いだったし、自分はもっと嫌い。
 女である自分も、子供である自分も。
何もかも嫌いだったから、それを捨ててしまう。
あんな女みたいには、絶対になりたくない!
だからみんな捨ててしまおう。
「簡単じゃん」
ケータイが切れたあと、あたしはそう呟いた。
 そのあと、あたしはいったい何を思いつづけていただろう。
今となっては、それはすごく懐かしいことのように思える。
 じっと、虚しい笑いを浮かべたまま、ベッドに座りつづけ、ずっと自分の膝ばかり見ていたような気がする。
 しかし、それもわずか数分の間だけ。
すぐにシャワーを浴びに一階に降りることにした。
 ゆっくりとベッドから足を下ろす。
お酒を飲みすぎたことは覚えてる。
でも、気分はそう悪くないし、身体もそれほどダルくない。
だいじょうぶだろうと、それでもゆっくりと立ち上がってみたが、やはりどういうわけか身体は、しっかりと起き上がってくれた。
 そして、わざと軽快な足取りであたしは階段を下りていった。
一階におりてすぐ、玄関とダイニングとを繋ぐドアの前に、顔を洗い終わりタオル肩からさげたトモヤと顔を合わせる。
「……」
「……」
あたしはすぐに不快な表情を浮かべながら、ほとんど無視してバスルームへ向かう。
 そんなあたしの背にトモヤの声が届いた。
「キヨミ姉、最近、ちゃんとクスリ飲んでんの?」
クスリ……。
「うっさいわね。あんたに関係あんの?」
「あるに決まってるだろ! ちゃんと飲まないとよくならないよ!」
効かないクスリになんの意味があるっていうんだ。
 あれを飲んだあとの気分の悪さをあんたは知ってるの!?
「……」
何度なく同じように叫んだセリフを、あたしはもう言わなかった。
「キヨミ姉!」
トモヤの声がもう一度あたしの背を叩いたが、あたしはもう何も応えなかった。
 応える代わり、あたしはバスルームのドアを閉じた。
そして、しっかりとカギをかける。
 あいつに聞こえるくらいの音を響かせて。
そのあと、ドアの方からはもうトモヤの声は聞こえなかった。
あたしはドアに背を預けてもたれかかりながら、呆然と床を眺めていた。

――ほっといてよ!

そう心の中で叫んでから、ゆっくりと背中をドアに滑らせながら、その場に座り込んでいった。
 ドアは開かない。
開けられない。
 開けられないのなら、もう声をかけないで。
やがて聞こえてきたのは、玄関のドアを開けて、そして自然と閉じていく音。
 トモヤは学校に行ったようだ。
「ふ、ふふふ……あははははは!」
空虚な笑いがその場に響き渡った。
 床は冷たかったけれど、なんだか、それも心地いい。

――女の子はカラダを冷やしてはダメよ……。

「シャワー……浴びなきゃ……」
幼いとき、雨が降った日。
 傘を忘れて学校の昇降口でずっとうずくまっていたあたしに、誰かがカサを渡してくれた。その時の言葉を思い返し、あたしは何かわけの分からない笑いが込上げてきた。
そして服を着たまま、あたしは浴室へと入っていき、ろくに温度設定もしないままシャワーの蛇口をひねった。
 冷たい水が服を着たままのあたしに降り注ぐ。
そしてあたしは笑いつづけていた。
 水を吸い込んだ服が、身体に張り付いて気持ち悪いなんて思いもせず、そのままタイルに膝を抱えて座りこみ、水に打たれつづけていた。
 笑いつづけるあたしの顔を何度も何度も水滴が流れ落ちていき、いつしか、笑うこともやめて、あたしはそこにそうしていた。
「……」
なんでだろう。
 何も感じない。
水って不思議だ。
 ただ打たれているだけなのに、すべて洗い流してしまいそうな気がする。
そうだ。
あたしはけっこう、雨が好きだった。
晴れの日よりも……。
「……ねぇ、あたし、これから汚れちゃうんだよ?」
誰に呟いた台詞だったんだろう。
 まあいいや……。
それからのあたしは、驚くほどに無感情で、ただ黙々と身体を洗いつづけた。何度も何度も洗って、何度も何度も磨いた。
 こんなにも入念に身体を洗ったのって初めてなんじゃないかって思うほどに。
ひょっとしてあたし、緊張してる?
 笑うよね……。こんなあたしが?
あたしは、今、口元だけで笑っていることに気付いていなかった。
 それから数十分後。
あたしは浴室から出ると、髪を乾かし、何度も何度もブラシを通した。
 そして、指定された目印に会う服に着替える。
少しきわどいまでに長いスリットの入った大人っぽい黒のロングスカートに、白いブラウスを着た。
 さらに入念にメイクする。
可笑しい。
 どうかしてる。
顔も知らないただの発情したオヤヂに会うのに、これまでここまで慎重に顔を整えようとしたことなどあっただろうか。
香水だってこれまで一度も使ったことのない一番高いのを選び、耳元や手首にほんの少しだけ振っている自分がいる。
なぜ?
 そんな問いかけを心の中で軽く投げかけてみたけれど、鎮んだ心は何も返してはこなかった。
やがて、すべての準備を整えたあたしは、最後にもう一度自分の部屋に戻る。
 そして、あれから一度も開けなかったクローゼットの奥にある引出しに手
かけた。
そこにあったのは、最後に母が母らしいことをした痕跡である。
 クリーニングに出されたあと、母が自らアイロンがけなどをしてくれた制服。その夏服だった。
オヤヂの趣味らしい。
 あたしはそれを無造作に引っ掴み、手近にあった紙袋に入れる。
さて、これで準備は整った。
 待ち合わせの時間を見ても、そろそろ家を出ていい頃だろう。
意外なほどに、すべては順調だった。



「お嬢さん、ずいぶんキメてるけど、これから彼氏とデート?」
「……」
「だったらさ、これ買って行かない? すっげえ綺麗だろ?」
「……」
「逆十字の首飾りさ」
「……」
「逆十字は、"教会に対しての抗議"って意味があるらしいぜ。どう? カ
ッコいいだろ!?」
「……いくら?」



ようするにさ。
 ハチコーってなんなわけ?
これがあると、人間いっぱい集まって来ててすごく不快なんだよね。
 自分もその一人だってことを考えると、ホンキでクビつりたくなる。
ああ、もうなんでもいいから早く着ちゃってよ。
そう思いかけてきた。
 好きな男とのデートでだって、こんなに早く着たことないあたし。
いや、むしろ、毎回遅刻してなかったっけ。
 なのに、待ち合わせ時間の30分も前に来ているあたし。
ひたすら笑える。
 なんてバカなあたしなんだろう。
街の喧騒や、時折ひどい異臭なんかが漂ってくる車が走りゆく騒音にもあたしは目を細めながら見つめていた。
「いっそ車に飛び込んじゃおうか……」
 そうこう呟いているうちに、駅の方からそわそわした様子のくたびれたスーツ姿の男がこちらに向かってきょろきょろ首を回しながら歩いてくるのが見えた。
 いかにも気弱そうな男。
電話での声の様子とぜんぜん正反対であることに、あたしはほんの少しの驚きを覚えた。
年齢は、30代前半? ひょろっとしたガリガリに痩せてはいるけれど、身長はどちらかといえば低い。
長すぎるうざったい髪でごまかそうとしているけれど、かなり前髪なんかは後退してて若ハゲはどうにも隠し切れていない。
顔はなんだか細長くて、目は脅えたようにいつもきょろきょろとあたりを見回している。
 その上、異様に両の目が離れているし、顎元はかなり突き出している。顔中ニキビで脂っぽい。
 一見して、馬面って表現がよく合う男だった。
しきりにハンカチで口と鼻の間を抑えているけれど、あのハンカチってどれほど水分を吸収しているんだろう。
 考えただけでもおぞましい。
「あっ!?」
やがて、男の目があたしと合うと、すぐにまた脅えた様子を見せたが、あたしの着ている服が指定通りであることに気付くと、一歩一歩、あたしと目をあわせ、何かを確認しながらのようにゆっくりとこちらに向かってきた。
「……」
二メートルほどすぐ目の前まで着たとき、男は、おどおどとした様子で、あたしの足のつま先から頭のてっぺんまでを舐めるように見つめた。
「ど、どうも……」
 なんだか気味悪い男だ。男はいつまでも何も言わないので、あたしの方から声をかける。
すると、男はまたびくりとしながら、震える口で言った。
「き、君がキヨミちゃん?」
 どもりながら話す男の言葉は、時折、聞き取りづらい。
「はい。Sさんですよね?」
あたしだってこんなことは初めてなのに、男はあたしよりも緊張している。
 いや、むしろ脅えているというべきだろうか。
そのせいか、緊張しているはずのあたしの声は、男よりも幾分落ち着いているように響いた。
「これからどうしましょう? どこか遊んでから、そのあとってことでした
けど……」
そう。
 あたしが今回こういうことをするのが始めてだといったとき、男は、それなら何処かで遊んでから気分を和らげてからにしようと言ってきたのだ。
 男の声はすごく落ち着いていて、とても優しく聞こえた。
もっとも、それが下心あっての表面だけの優しさであろうということは、あたしにだって分かった。
しかし、それでも男の声はあたしを気づかおうという意思をそれなりに表現していた。
だが、ここにきて男の言った台詞は、
「す……すぐにホテル行こ。こ、これから仕事あってあまり、時間、ないん
だ」
「え、でも……」
「お金、お、お金、欲しいんでしょ? だったら、ぼ、僕の言うとおりにし
てよ」
「……」
 なんかヤなやつっぽい。
男はその時、あたしの持つ紙袋をちらりと見る。
「頼んでた、もの……電話で頼んだもの、持って来てくれた? ね?」
「は、はい」
「じゃ、じゃあ、すぐ行こう……な、なるべく早く終わらせるから。ね? 
いいでしょ?」
 なんだろう。
男の目を見ているうちに、何か背を伝うこの冷たい感じ。
 くるりと背を向けて歩き出す男。
あたしはすぐにはそのあとを追えなかった。
 そんなあたしに、男は振り返った。
その時の目は、何かの病気にでもなっているかのように、ひどく赤く充血しているように見えた。
その赤い瞳が大きく見開き、突然、あたしに迫る。
 そして、信じられないほどに激しくあたしに怒鳴りつけた。
「じ、時間、ないって言ってるだろ!? どうして分かってくれないんだよ!!」
その怒声は、あたり一面に響き渡り、その場に集まっていた全員があたしと男に向けて、何事かという視線を向ける。
「え? あ、あの……」
あたしはどうしたらいいか分からず、その場でおろおろとしていると、男は強い力であたしの腕を掴みかかった。
「い、行くよ……!!」
「ち、ちょっと……い、嫌……」
なんなの!?
いったい……。
 その頼りないくたびれた感のあるひょろひょろの男の姿からは信じられないほどの強い力があたしの手首を掴む。
それはまるで男のどろどろとした欲望があたしの手首から全身に侵蝕していくるようで、ぞわぞわとした悪寒があたしを襲った。
 そして手首に食い込むその手が痛くて思わず声がもれる。
「い、痛……は、離して……」
それはとても、か細い声だった。
こちらを見ることなくただひたすら無理矢理引っ張りながら、どんどん突き進んでいく男にはまったく聞こえないものだっただろう。
「イヤ……」

――怖い。助けて!!

何も感じていないはずだった。
 相手がこんな男であることも、最初から想像してはいた。
それでもいいとさえ思っていたのに、今は怖くてしかたなかった。
 後悔の荒波があたしを襲う。
これから起こることも、何もかも、怖くてしかたなかった。
 あたしはその恐怖と、そして自分の浅はかさと愚かさに涙することしかできず、ただ自分の愚かさの代償として、抗うこともかなわずこのまま引きづられていこうとしていた。
周囲の人間も、ただ好奇の目でこちらを見るだけで、ほとんど関わろうとはしない様子だった。


7 :wx3 :2007/02/15(木) 22:57:45 ID:rcoJs4om

男は構わず突き進んでいく。
 やがて大通りを抜けて、気のせいか湿気た路地裏へと突き進んでいく。
人気のない場所。汚らしい異臭ばかりが漂う。
 これが報い?
バカなあたしに対しての神様の報いだというの?
 あれほど入念にした化粧は涙のせいで崩れきってしまっていた。
髪ももうぼさぼさだ。
 惨めなあたしにはぴったりの結果だ。
表だけ飾った自分が、今はこんなにも汚らしい格好をしている。
 この薄汚れた男に犯されるのか。なんとも皮肉な話だ。
そう思ったその時だった。

――ばきっ!

突然、痛いほど強くあたしの手首に握られていた手に力が失われたのを悟った。そうかと思うと、もう片方の腕が、今度は同じように痛いほど強い力で握られ、ぐいっと引寄せられた。
何が起こったのか、涙で視界が曇りきったあたしには、はっきりと理解する間もなかった。
ただ、一つ。
あたしには、顔を地面にうずめながら無様にのたうち回る男の姿だけはしっかりと見て取れた。
そんな視界もさらに、黒い影に阻まれる。
 その時、あたしはその黒い影が誰なのかを悟る。
この背中、知っている。
知っているつもりだったのに、こいつの背はこんなにも広かったのか、と初めて知ったような新鮮さを覚えた。
「トモヤ……」
「……」
無言であたしを庇うかのように背を向けるそいつに向けて、あたしは思わず呟いた。
「ひぃやぁぁぁぁぁぁぁぁ! ぐぅぅぅぅ! な、何するんだよぅぅ!」
のたうち回っていた男が立ち上がり、片方の頬を抑えながら、涙に濡れた真っ赤な顔をトモヤに向けていた。
しかし、その表情には完全に脅えが浮かんでいる。
 トモヤはそれを平然と受け止め、地面に落ちている何かを拾った。
それはトモヤが男を殴りつけたとき、男のポケットから落ちた財布だった。 
 トモヤはその財布を開けて、中身を確認し出す。
「や、やめろ!! 見るな!!」
「……」
男は慌てて、トモヤを止めようとするが、トモヤが一睨みした瞬間に、びくりと震えて押し黙る。
「ひぃっ!!」
「あんた、誰? うちの姉に何してんの?」
本気で殺意を覚えている。
それは、それまであたしが聞いたことがないほどに冷めきったトモヤの声だった。家にいる時のトモヤがこんな声で話しているのを今まで聞いたことがない。
「ぼ、僕は……ただ……彼女と電話で話して……それで、それで……」
 男が言い分けじみた台詞を震えながら搾り出している間に、トモヤは男の財布の中から運転免許証を取り出した。
 そのことに気がついた男の顔はいよいよ蒼白になる。
「田中ヨシユキ。34歳。へぇ〜、良い行いと書いてヨシユキか……」
そう呟きながらトモヤは男を再度睨みつけた。
「……うぅ」
「名前も住所も顔も覚えた。警察に言えば、あんたの職場にまで連絡がいくよ」
「や、やめてくれ! もうそのコにはて、手は出さないから!! ゆ、許してくれ!!」
痛そうに抑えていた頬は、そのうち、腫れ上がり始めていた。
 男はその頬を抑えながら泣き叫びながら、先ほどまであたしを怒鳴りつけて、
無理矢理ひっぱっていた強行さからは信じられないほどに、弱々しく土下座して謝り始めた。
そんな男にトモヤはふん、と鼻を鳴らして財布を放り投げた。
「あ、あぁ……」
男はその財布を急いで拾うと、よろめきながらも立ち上がり、すぐさま背を向けて逃げ出した。
そんな男の無様に逃げる姿が、そのうち、通りの角で見えなくなるまで、トモヤは睨みつけていたように、あたしには思えた。
そのうち、トモヤはこちらに振り向いた。
「……」
 あたしは、こんな自分をトモヤに見られてしまったという事実に対しての動揺と、先ほどまでの恐ろしさがまだ残っていて、今だに肩を震わせて泣いていた。
情けなくて、愚かで、惨めったらしく、汚らしい自分。
 こんな自分をまさか弟のトモヤにまで見せることになるとは……。

――もういやだ!! あたしを殺してよ! 神様!

「……」
無言のままのトモヤ。
 今だけはいつもよりずっと高い位置からあたしを見下ろしているような気がした。あたしは、そんなトモヤの軽蔑に満ちた溢れた目を見るのが怖くて、ずっと下を向きつづけながら、ただ泣くことしかできないでいた。
 トモヤはどんな顔をして、今、あたしを見ているのだろう。
いやだ。想像もしたくない。
「う、うぅ、ひっく……」
何が、今ならなんでもできそうな気がする……だ。
最低だ。
なんでこんなあたしがいるんだろう。
 なんでこんなあたしを生かしつづけるの、神様。
痛いほどに感じるトモヤの視線。
 いつまでも泣きつづけるあたしを見下ろしていたトモヤは、不意に動いたように見えた。
あたしは反射的に身構えようとしたが、その前にトモヤの手が早かった。
「……?」
「……」
何が起こったのか、その時のあたしにはよく分からなかった。
 トモヤの大きな手。
普段はバスケットボールを持つその大きくてごつごつとした手が、あたしの顎元にかけられ、泣いているあたしの顔を上向かせた。
 そして、自分の目と合わせる。
そこには、あたしが恐れていた目はなかった。
軽蔑にまみれた。まるで汚物を見るかのようなその目はそこにはなかったのだ。
 代わりに、とても悔しそうな目がそこにはあった。
いや、少し違う。
 哀しさと悔しさ、怒りに後悔、そういった感情が入り混じった複雑な表情。
あたしには理解できない表情がそこにはあった。
「なんで……なんでこんなことしたの?」
「わからない」
あたしは答える。
「なんでずっと黙ってたの?」
「わかんないよ!」
あたしは答える。
 やがて、トモヤの瞳が震え出した。
「なんでいつもそうやって何も言ってくんないの!?」
「わかんないってば!」
あたしの頬に落ちたその涙の意味を、その時のあたしは理解できなかった。
「いつもそうやって突き放して! 自分ばっかで! オレや周囲のことなんか
なんも考えてなくて! なんで、そんな勝手なんだよ!」
「わかんないって言ってるでしょ!」
「そんなに汚して欲しいならオレがしてやるよ!」
そうトモヤが叫んだ。
そして、思いっきりあたしの手首を掴む。
それはあの男と同じ痛い強さがあった。
でも、そこにあったのは、どろどろした感情なんかじゃない。
 それは……。
手首を通して感じるその感情は、哀しみだった。
 乱暴に無理矢理あたしを引寄せると、いっきに後ろのコンクリートの壁に叩きつけた。
「うっ!」
強く背を打ちつけたあたしは、思わず声を発する。
 そんなあたしに、すかさずトモヤは覆い被さってきた。
両手の手は力強く大きなトモヤの手に掴みかかれ、壁に押し付けられていた。
 そして半ば馬乗り状態のこの状況では蹴り上げてやることもできない。
「……」
それでもあたしは、負けじとトモヤを睨みつけた。
「やってみなさいよ! あたしを汚しみれば? あんたの信じている神様の禁忌を破れるならね!! あたしたちは姉弟なんだから! あたしを汚せば、あんたは一生消えない罪を負うことになる! 地獄に堕ちて永遠に苦しむ! それでもいいなら、あたしを汚しなさいよ! この……!?」
あたしの言葉は最後まで発することを許されなかった。
「……」
「……」
それはすべての始まりで、あたしたちの罪の始まりでもあった。
 あたしは無価値。
有害なゴミだ。
 毒を撒き散らし、この街を汚す。
この世界を穢す。
 そんなあたしの毒をまっこうから受け止めたのは、こいつが初めてだった。
こいつもまた、有害なゴミだったのかもしれない。
 神を信じる偽善者で、あたしと同じようにこの世界に向けて毒を撒き散らす有害なゴミだったのかもしれない。
そんなこいつの唇は、今、あたしの毒で濡れている。
そしてあたしの唇も、今はこいつの毒で濡れていた。
 お互いの毒によって犯されながら、いずれはもがき苦しみながら死ぬだろう。
禁忌破ったあたしたちを神は怒り、もがき苦しみながら死んだあたしたちを地獄へと送ることになるのかもしれない。
それでも……。
 その罪は、甘く溶けいるほどに熱く、そして優しかった。






−How do I live on such a field?−












I am GOD’S CHILD 後編へ続


8 :wx3 :2007/02/15(木) 23:04:06 ID:rcoJs4om

I am GOD' CHILD ―後編―

すべての事象には意味がある。
あらゆる出来事は、かならず原因があり、そして結果がある。
それらには必ず意味がある。
それらは絶え間なく未来へと続いていくのだ。
わたしのこの長い生において辿り付いた結論は、そんな遥か昔より多くの人間に語られてきた因果応報という言葉の意味程度のことに過ぎない。
だからこそ、驚くべきなのだ。
人の身でそれを理解した先人たちの知恵のなんと偉大なることか。
そして、それを途方もない時を費やして知ることにまで辿り付いても、今、この瞬間に動いている時の意味を悟るには、さらに気が遠くなるほどの時間を必要とする。
だから友よ、風を感じよ。
そして、この地に漲るマグマの動きを感じよ。
大海を廻る海流の流れを知れ。
星の動きを見つめつづけよ。
そうすれば友よ、君にも見えるはずだ。



それはあまりにも突然すぎた。
理解などできるはずがない。
あたしの空っぽの頭の中には、いつの間にか失われたいつかが思い描かれていた。それが何を意味しようとしていたのか。
あたしには解らない。
幼かったあたしとトモヤに、いつもベッドで絵本を読んでくれた母。
そう。いつも母は、こんな夜に語ってくれた。
王子様とお姫様の恋の物語。
「……」
「……」
いつの間にかあたりは暗くなり始めていた。
月が昇ろうとしている。
その月がかろうじて、この路地裏にまで届き、一瞬、あいつの顔を照らした。
「ん……んん……」
「う……はぁ……」
お互いの息遣い。
震える肌。火照る体温。
言葉はなんと虚しいものなんだろう。
思えばいろんな感情をそこから学んだあたしたちだったが、シンデレラにせよ、白雪姫にせよ、そこに表現されている恋という感情をつい最近まで、あたしはまったく理解していなかった。
単に好きという想いを、母や父を好きで、甘いケーキも好きだという想いと同列上に見ることしかできないでいた。
好きという言葉は、ただそれだけしか意味していないのだから。
だが、言葉で表される以上にこの実感というのは、恐ろしいまでにあたしの心臓を鷲掴みにする勢いで、『改めて』知らしめた。
「……」
「……」

――この唇の感触が、すべて……。

「な、なんのつもりなのよ! なんでこんなことができるのよ!」
あたしは反射的に叫んでいた。
「う……」
その叫び声に、トモヤがびくりと反応する。
そうだ。
お互いに唇を合わせ、そして離した時、まるで魔法が解けるかのように、あたしたちに残ったのは、罪の意識だった。
それは、トモヤの表情にこそ露骨に表現されていた。
あるいは、トモヤにしてれみば、あたしの表情にそれを見たのかもしれない。
あたしの目に映ったのは、トモヤの首から下げられた小さな銀の十字架の首飾り。
そして、トモヤの目に映ったのは……。
互いの持つ十字架が、互いの罪を責め立てる。
おまえたちの犯した罪は、すべて見ていた、とそれは告げているかのように、月の光を反射して互いの十字架が煌いた。
すべてを射抜く銀の波動で。
トモヤはその光によって、自分の心の中の罪にまみれた汚らわしい心を射抜かれたかのように、一瞬、たじろいだが、それでもあたしをまっすぐに見つめ返すと叫んだ。
「好きなんだよ! キヨミ姉が!」
その瞬間、あたしの頭の中は真っ白になった。
何も考えられず、何も理解できなかった。
トモヤの言っている言葉の意味が、まったく分からなかった。

――スキ? アタシガ?

「バカ!? 何いってんの!?」
「……」
トモヤはそれ以上の言葉をあたしに言わなかった。
いや、言えなかったのかもしれない。
ただ、じっとあたしを見返してくる。
あたしと目を合わせても決してそらさずに、まっすぐに見つめ返した。
その目の奥には、哀しみや寂しさや、そして何より切なさが浮かんでは消えた。
「キモい! キモいんだよ! あんた!」
どうしてなのか分からない。
とにかく、その時のあたしには、その目が怖かった。
なんで、そんな目で見てくるのよ!
あたしたち、姉弟なのに!
「……」
「消えてよ!」
あたしは精一杯トモヤの手を振る払うと、力の限りトモヤの胸を突き飛ばした。
あたしよりも長身で、体重もあるトモヤの身体が、こんな壁にその身を預けた状態のあたしの力で揺らぐことはないと思ったが、それでも思いっきり押し離した。
すると、トモヤの身体は意外なまでにあっけなく、まるで重力がなくなったかのように軽々と押し出され、そのまま地面に腰を落とした。
そのあっけなさに一瞬、驚くあたしだったが、倒れこんだトモヤが再び顔を上げて悲壮な表情をあたしに向けようとした。
そんな表情を見るのが嫌で、怖くて、あたしはすかさず走り出していた。
ただひたすら、振り返ることもなく、一心に駆け出していたのだ。
その夜、この宇宙の何処かこの星の何処かで、二人の姉弟が唇を交わした。
その瞬間。
カチリ、という音が世界の何処かで鳴り響いたのを、果たしてどれほどの人間が聞いただろう。
それは何かが起こる前兆であり、狂った蓄音機が奏でる曲の始まりなのだ。
世界の何処かで、あるいは宇宙の何処かで、途方もなく巨大で精巧な機械の歯車が動いたことを意味する音。
それによって確実に何かが目覚めようとしていた。
それは例えば、こんな何気ないところから始まる。
「なぜだ……ナオコ……」
暗い聖堂。誰もいない祭壇に立ち、男はしきりに何かを祈るかのように、十字架にイエスが張り付けにされた像に向かって跪き、呟きつづけていた。
白い法衣を身に付けた比較的長身で、やや痩せた感のある男。
それは蹲って苦しみに耐えている様子にも見える。
男はしぼり出すかのような声で、いつまでも声を発し続けていた。
その場が暗いせいか、男の顔ははっきりとは見えなかったが、恐らく苦渋の表情を浮かべていたことだろう。
「なぜなのだ……」
その答えをイエスに求めているのか。
男の震える手に握られているのは、今となっては数少ないはずの一人の女性の写真である。
そこには、二人の幼い姉弟と共にこちらに微笑む女性ともう一人。
顔はどういわけかカッターか何かで顔の部分がくり抜かれているが、女性と共に寄り添うように立っているそれは、恐らく男性だろう。
男は、溢れそうな涙をぬぐうと、手にしていた銀色のイエスの像が刃に刻まれたナイフでその男の顔から下の部分を思い切り斬りつけた。
特に胸の部分。
心臓のある部分を何度もえぐるように傷つけるが、決してその刃先が女性に向かうことのないよう男は、それだけを気づかっている様子だった。
しかし、それ以外はもはや感情の赴くままにただひたすら狂ったように写真にナイフを這わせ続けていた。
「……」
一瞬、力の余ったナイフが、写真を抑えていた自分の指を掠めた。
つうっと赤い線が走り、血が溢れ出すが男は気付く様子もなく一心に写真を切り刻み続けていた。
いつ果てるとも知れない男の奇行は、男にとって何よりも尊い主であるはずのイエスの御前で延々と続けられていた。
まるでそれは、主の前での処刑であるかのように。
「ふ、ふふふ、ふふふふふ……」
やがて響き渡る不気味な笑み。
男は半狂乱になってナイフを振りかぶり始めた。
それまで女性だけは傷つけないようにとの慎重で細心の動きは、今は大雑把で大胆なまでに振りかぶっての行為に変わりつつあった。
写真に写る女性に、何本もの線が走っていく。
それは、そこに映る幼い姉弟にも同様である。
男はここに映るすべてを憎み始めていた。
「男を誘う不浄な肉体を持つ魔女め! 穢れたその身をその男に捧げたのか!」
ナイフは何度も何度も写真を斬りつけた。
やがて自分の手からかなりの血が溢れてきても、男は構わなかった。
「神の裁きを受けるがいい!」
そう叫んだ時だ。
突然、聖堂の明かりが何者かによって灯された。
「父さん?」
その声に、すぐさま男は反応した。
ボロボロになった写真とナイフをすぐに法衣の中に隠す。
背後から扉を開けて入ってきたのは、今学校から帰ったばかりの様子の少年であった。
彼は制服姿であることはおろか、まだカバンさえ部屋に置いてきてもおらず、スポーツバッグを提げたままずっと男を捜していたようだ。
男は先ほどまでの狂った様など微塵も感じさせない落ち着いた様子でゆっくりと立ち上がると、穏やかな微笑みを浮かべて少年に向き直った。
「トモヤ、帰ったのか。どうしたのかな?」
まるで二重人格の人間が、一瞬で人格を入れ替えるように、男には狂気と呼べるすべてが表情から消え去り、代わりにあったのは寛容さと慈愛に満ち溢れた神父の微笑であった。
「父さんこそ、明かりもつけないで何してたんだよ?」
「ああ、気付かなかった。もうこんなに暗くなっていたんだな。聖堂の掃除をしていたら、夢中になってしまってね。気付いたらこんなに遅くまでしていた。
おまえこそ、どうしたのだね?」
トモヤに父と呼ばれその男は、明かりの下では、丸淵眼鏡をかけた、一見、穏和で優しそうだが、少しおっとりしすぎて、どこか頼りなさげに思えるような男であった。まだ若い。年齢は30代後半から40代前半くらいだろうか。
髪は短めに刈り上げられ、長身で、ゆったりとした法衣を着ているというのに痩せ細ってみえる。
とても、誰かを憎めるような男には見えない。
今も終始、にこやかに笑顔を浮かべている。
「まったく……明かりくらいつけないと父さん、ドジなんだからすぐ何処かで転んで頭打つよ」
トモヤは呆れた様子だが、心底呆れているわけでもないような口ぶりでいう。
「ははは、まったくだ」
男は苦笑を浮かべて頷いた。
長身でバスケ部に所属し、常に鍛えているているトモヤは、父と呼ぶ男と並ぶと、どうしても父の方が、トモヤと同じくらいの身長であるはずにもかかわらず貧相に見える。
加えて、自分のドジを指摘されて苦笑いを浮かべている様子も、男の頼りなさげな外観と合わさって、どちらが父でどちらが子なのか分からなくなりそうだった。
「それで、何か用でもあったのかな?」
そう言われたとき、トモヤは何か言葉に詰まった様子だった。
「いや……」
いつになく歯切れの悪い物言いに、男の優しい瞳はトモヤをまっすぐに見据える。
「ん? どうしたんですか? トモヤ。何か悩み事でもあるのかな?」
トモヤの口が、少しだけ動いた。
けれどそこから言葉が発せられることはなく、男はその様子をただじっと穏和な笑みを浮かべて見つめていた。
やがて、トモヤの堰を切ったような声が発せられる。
「そ、そんなんじゃねーよ。ただ、もうすぐ晩メシの時間だから、そう言いに来ただけだ」
「そうですか。では、ここの掃除が終わったらすぐに行くとしましょう」
あっさりとそう言う父に向けて、トモヤはまたも歯切れの悪い様子を見せた。
そして、
「オ、オレも手伝おうか?」
すると男は、ゆっくりと首を振りながら言った。
「いやいや、これはわたしの仕事です。おまえは先に食事をしていなさい」
ほんの一瞬、トモヤは何か残念そうな表情をして俯いた。
それを男も見て取っていたが、敢えて気付かないように男はそのことに対して何も言わなかった。
しかし、次の瞬間。
男に絶えずあったはずの穏和な微笑みが消えた。
ぞっとするほどに感情のこもらない声と表情が、トモヤを見下ろしたが、当のトモヤは俯いた様子だったので、父のそんな表情を目にすることはなかった。
そんな父は、押し殺したように、あるいは何かの感情を込めた声で言った。
「キヨミはもう戻ったのかな?」
トモヤはこの時、父の声色が変わったことに気付かなかった。
彼は別のことで今、頭の中がいっぱいになりつつあったからだ。
彼はとにかく、父の問に答える。
「戻ってるよ……。今、部屋にいる」
先ほどの狂気が、男の瞳の奥で蠢いていた。
その瞳は、まっすぐにトモヤに向けられている。
まるで不気味な別の何かが父の皮をかぶってそこに立っているかのように、別人ともいえる表情をしていることに、この時のトモヤが気付いていれば、その後の運命は果たして回避することができたのだろうか。
「……そうですか」
男はただ、そう答えるのみだった。



「……」
雪鳴音は沈黙していた。
「気が進まない」
そう言ったのは、わたしの方だった。
たいてい、それはわたしが言う言葉である。
今回もむろん、わたしが言った。
「なぜ?」
雪鳴音は、のんきにチョコレートパフェを食べながら、ひたすらこちらには関心など向ける様子もない。
最近の雪鳴音は、この好物の食べ物にのみ興味がいっているようで、わたしは、はなはだ心配だったのだが、ここにきてその心配は、よりリアリティを持ち始めている。
「なぜ? 彼女の中には恐らく【カレ】はいないだろうからだ」
それはもはや確信に近かった。
雪鳴音が、それを分かっていないはずはない。
わたしには、一連の雪鳴音の行動が理解できなかった。
「いるよ。絶対に。ボクやキミが『見える』んだから」
のんきにパフェを食べながらも、雪鳴音の目はまっすぐにわたしに向けられる。その目には迷いがなかった。
しかし、それでもわたしは雪鳴音に言うべき言葉を知っていた。
「そうだ。彼女には、なぜかわたしたちが『見える』。しかし一時的に、何がしか影響を受けて『見える』人間はいくらでもいる」
「……」
雪鳴音は、再び沈黙して、パフェを食べ始めた。
「確かに、これまで何度となくあの子には確かめてきた。その都度、彼女にはわたしたちが『見えた』。しかし、これほどコンタクトをとっても、【カレ】の側からなんの反応も見られなかった」
別段、わたしにしてみれば、あの連中がどうなろうとも知ったことではないが、やるべきことを果たせないのでは困る。
それは雪鳴音とて同じではないのか……。
わたしは、雪鳴音を見つめつづけていた。
やがて、雪鳴音はその視線に気付くと、少し困ったような表情で微笑んだ。
それから、窓の外を眺める。
この世界の何処かにいるはずの誰かを想っているのだろうか。
その瞳は遠い何処かへと向けられていた。
「……【カレ】はあの子の中にはいない」
わたしは、もう一度だけ外を見つめつづける雪鳴音に、念を押した。



あれから数日が経った。
キヨミ姉は、何事もなかったかのように振舞っている。
いたって普通だ。
普段と何も変わらない。
オレにはそれが理解できなくて、かといって、あの時のことを憶えているのかと聞く勇気さえ持てず、ただ毎日が過ぎていくのを呆然と眺めていることしかできなかった。
情けない。
そして、取り返しのつかないことをしてしまったということを日々、思い知る毎日だった。

『そんなに汚して欲しいならオレがしてやるよ!』
『やってみなさいよ!! あたしを汚しみれば!? あんたの信じている神様の禁忌を破れるならね!! あたしたちは姉弟なんだから! あたしを汚せば、あんたは一生消えない罪を負うことになるんだ! 地獄に堕ちて永遠に苦しむ!
それでもいいなら、あたしを汚しなさいよ!』

あの一瞬の中で、オレの中に迷いはなかった。
いや、あれこれ悩んでいる間もなかった。
気付いたときには……。
しかし、これは大変な罪なのだ。
オレは……。
そう。これまで何度も否定して否定して否定し尽くしてきたこの想いを、とうとう認めざるをえなくなってしまった。
こんなことは許されるはずがない。
オレとキヨミ姉は間違いなく血縁関係にあるんだ!
なのに……実の姉に恋しているなんて。
自分の胸にぶらさがっているのは、十字架の形をした首飾り。
それは神の洗礼を受けた自分の拠り所であったはずなのに……。
今のオレにはもうそれを首に提げる資格はないのだろう。
「キヨミ姉……」
十字架を見つめながら、オレはその名を呟く。



あの時、いったい何が起こったのか、あたしは日々思いつめる毎日だった。
あたしの中で、何もかもが整理をつけることができずにいる。そのため、どうあいつと接していいかもわからず、あたしはとにかく普段と変わらぬ態度であいつに接することしかできなかった。
考えてみれば当然だ。
あたしたちは姉弟なんだ。
血が繋がってる。
それなのにキスした。
子供の頃に何度もした頬にキスするのとはワケが違う。
あれは、神が忌むべき行為。
そんなことをしてしまった後、あたしたちはどう接し合えばいいのか。
ドラマでもマンガでも、小説でも、そういうあたしたちのことを書いたものなんて、あたしは見たことがなかった。
考えたこともないことだったのだから。
これは神への叛逆。
許されない罪……ということなのだろうか。
「トモヤ……」
あたしは首に提げた逆十字を見つめながら、そっと呟いた。



雪鳴音と【自滅型高機動重力波斬傷装置】は、その時間、その地点を歩いていた。
いわゆる繁華街からは、ほんの少し外れた高層ビルの建ち並ぶビジネス街だ。
普段であれば、夕刻を過ぎたこの時間は、車以外に道を行く人間の姿などはあまり見かけない。
夜、そこを歩けば巨大な墓標の立つゴーストタウンのように見えるときがあった。
それでも、無人いうほど人間に出会わないわけではない。
ただ、繁華街の人通りを思えば幾分ここは落ち着いている様子だった。
しかし、その時間のその地点は、ほんの少しだけ普段とは違った異様さをかもしだしていた。
いかに人通りが少ないとはいえ、まったく人間を見かけないというのはおかしい。
それだけではない。
通り過ぎていく車も、つい数分前に一度見たのを境に全く見かけなくなった。
建ち並ぶビルの明かりは相変わらずだったし、街灯や自動販売機の明かりも、とにかく街の機能は、そのまま残したまま、人間だけが消えてしまったかのようにまったく人間を見かけなくなってしまったのだ。
「……」
雪鳴音は、静かに歩き続ける。
【自滅型高機動重力波斬傷装置】。すなわち、【彼女】もまた、その異様さに気付いているのだろうか。ゆっくりと黒いコートの内側に手をやっていた。
「雪鳴音」
「分かってる」
【彼女】の何かを示す気配を込めた言動に、雪鳴音は短く答えた。
その一瞬、時計の針がぴったりとある瞬間に交わったことを示すかちり、という音を聞いたような気がした。その空間、そこに起こる事象。
そして、『それ』はまるで、雪鳴音の言葉に反応するかのように起こった。
突如、目の前の空間がぐにゃりと歪む。
それと同時に、舞い怒る突風。
それはその歪みに向けてすべてを吸い込もうとしているかのように、あたり一帯の物質を飲み込み始めた。
それは徐々に強さを増していく。
最初は小さな塵やゴミ、空き缶を集めていたその突風は、やがて激しさを増し、路上駐車された車やバイクまでも吸い込みはじめた。
にも関わらず、雪鳴音も【自滅型高機動重力波斬傷装置】の周囲だけは、何事もないかのように平静を保っている。
まるで、そこだけは突風の影響を一切受けていないかのように。
すべてを吸い込んでいく突風の中心にある歪みは、やがて車やバイクや塵など、あらゆる物体を信じられないまでの強大な力によって、いとも容易く拉げさせてしまった。
そのまま、猛烈な圧力によって物体を一気に収縮させていく。
本当にそこに車やバイクや雑多なゴミが集められていたのかと疑いたくなるまでに、それは今や半分以下の体積にまで収縮させられ、今や黒く丸い球体が歪んだ空間の中心にあるだけだった。
それはやがて、粘土をこねるかのように、ぐにゃりと様々な意味不明の形へと変貌しては、また変貌し、少しずつ何かの形を成そうとしているかのようだった。
それは、何かの形に向けて、まるで試行錯誤するかのように、じっくりと繰り返された。
「……」
【自滅型高機動重力波斬傷装置】は、それをただ静かに、しかし、隙のない鋭い視線を向けていた。
そして、ゆっくりと雪鳴音を庇うように前に出る。
そんな『彼女』を雪鳴音は、そっと制した。
「違うよ。戦う意思はない。アレにまだボクたちを『見る』力はない」
雪鳴音もまた、そこに起こる現象からは目を離さずに言う。
やがて、物体は、様々な形態を経て、人の形を模し始めた。
それが誰を形作ろうとしているのか、先に気付いたのは、雪鳴音だった。
「……!」
雪鳴音は言葉にしなかったが、代わりに『彼女』が口にした。
「希柳キヨミだ」
そこには、何か確信めいたものが含まれていた。そして何かの覚悟もそこにはあった。雪鳴音は、一瞬、眉を寄せ、瞳を細めた。
それは刹那の間のことに過ぎないが、そこにあったのは確かに哀しみ、あるいは憂いに満ちた表情だった。
「……」
やがて、物体の変貌は完全に終了した。
そこにあったのは、黒い何かの金属で形成された一人の少女のように見えた。
その少女の姿形は、実に克明に表現されており、雪鳴音でなくとも分かるほどだった。
いや、まさに彼女がそこにいるように見えたと言っても過言ではないだろう。
ただ、異様に全身が黒く見えるだけだった。
しかし、それはわずか数秒の間のことに過ぎない。
「待って……」
雪鳴音は呟いた。
次の瞬間。
「なに!?」
『彼女』の表情に、一瞬の動揺が走った。
「……」
雪鳴音の鋭い視線が物体に向けられる。
次の瞬間、変貌を遂げ、確実にキヨミと思われる像の表面からは、突如、ぼこぼこと何か泡のようなものが溢れ出した。
やがて、物体全体の表面が生物の鼓動のように、どくん、どくん、と脈打つかと思うと、一気にキヨミの形を崩し、またも粘土が練られるかのように、奇妙にぐねぐねとした物体へと変わる。
「別の何かを見つけたんだ……」
雪鳴音は呟いた。
「ありえない。キヨミを一度選んだのに」
『彼女』は言う。
「最初はキヨミだったんだよ。でも、何かの拍子で状況が変わったんだ」
「何かの拍子?」
「分からないけど、何かきっかけがあったはず。それによって【カレ】にはもっと都合のいい宿主を見つけた……」
そうこう二人が話している間に、黒い物体は、再び人の形を成し始めた。
先ほどよりもずっと変化する速度が速い。
それは、先ほどよりも少し背の高い人物のように思えた。
筋肉質とは言えないが、キヨミのそれに比べれば、まだしも筋肉がついているようにも見える。
男だろうか。
やがて、それは着実にある人物の特徴を捉えていった。
「……」
雪鳴音は、まだ物体が変化し終えない段階で、すでにそれが誰であるかを悟り始めていた。
「他に都合のいい存在を見つけた」
【自滅型高機動重力波斬傷装置】である『彼女』は、そのことを強調した。
そして雪鳴音は、それに静かに頷きながら言う。
「……うん。でも違う。今回は宿主じゃない。キヨミと比べてこんなにも変化が早い。じっくり味を楽しむつもりはないんだよ」
「すると……」
「うん。……『喰う』んじゃない。依り代にするつもりだ」
そして、そう言いきった時。
雪鳴音と『彼女』の前で変化し続けていた物体は、完全に何者かの姿を模していた。



部屋の明かりは消していた。
明かりがある中で、考え込むと頭痛がする。
でも、明かりがなくても結局は頭痛がしなくなるわけでもないことを本当は知っていた。
あたしはずっと、ベッドの上で苦悩し続けていた。
馬鹿馬鹿しい……。
何を悩む必要があるだろう。
あいつがどういうつもりであろうと、あたしにその気なんてあるはずがない。
姉弟なんだ。
あいつだって、別にそういうつもりなんかじゃなくて……。

――だったら、どうしてキスなんかしたのよ!

そしてまた思考の渦へと沈み込んでいく。
この繰り返しだった。
しかし、この無駄な思考の終着点はやがて一つの方向へと収束しはじめる。
もし、本当にトモヤがわたしのことを好きだったら……。
そう考えただけでも震えがとまらなかった。
一瞬、母親の顔があたしの脳裏を過ぎる。
はっとなったあたしは、ガマンできずに手近にあった雑誌を思いっきり壁に叩きつけた。
そして、ガタガタと震えてくる両腕を抱きしめ、精一杯それを抑えこもうとしていた。
けれど、その一切が結局無駄なのをあたしは知っている。
「はぁ……ぁぁ……どうして……なんでまだ消えないのよ……」
消えないのは母の残像。そしてこの震えもまた消えない。
恐らく一生治らない。
ベッドに備え付けの棚には、いつも精神安定剤の類や眠剤が並んでいたけれど、あたしはどれも手にすることはなくなっていた。
どうせ効かないクスリだった。
頭痛薬も鎮痛剤も熱冷ましも、何もかも。
生まれながらにこの汚らわしいカラダを持ったあたしには効きはしない。
あたしはこの不快感に一生苛まれ続けるのだろう。
それはもうあの日から知っていたことだった。
その日のことを思い出そうとすると、決まって熱にうなされる。
それも眠っている間。
起きたとき、はっとなるほどの寝汗があたしの服や布団を濡らしていた。
それから立ち上がれないほどの眩暈が襲う。
二日か、あるいは三日か。
あたしはそれを風邪だと言いながら学校を休まなければならなくなる。
でも今はもうそれもしない。
立ち上がれないほどの眩暈が治まるのを待つと、あたしはすぐにクラブなり、行き着けの店へと足を運び、カラダが限界に近づくまで酒を呷る。
そうしてひと時でも忘れるのだ。
あの女のことを。
けれど、忘れようとすれば忘れようとするほど……あの女の、あの日のことが夢になって出てくる。



その男のことは、もう顔も覚えていない。
いや、意識的に忘れようとしているだけなのかもしれない。
本当はまだ憶えていて、それがまたあたしを苦しめているのかもしれない。
忘れようとしても忘れられない砕かれた記憶の欠片たちが、今もあたしの心を突き刺し、切り裂きつづけているのだろう。
その男の記憶も、あたしを切り裂く記憶の欠片の一つだ。
当時のあたしの年齢は、10歳。
確かそんな年齢だったと思う。
あたしはその男を好きだった。
まだ恋愛なんて言葉も知らなければ、その意味も知らない。
初恋って言葉を知るには、まだあたしは幼すぎた。
その日は曇っていた。
昨日まで、強い日差しがいつもくらくらとした感覚をあたしに覚えさせるほどの快晴であったはずなのに、その日はどんよりとした灰色の雲が、重々しく空を覆っていた。
その時はまだ、あたしと弟のトモヤは仲のよい姉弟で、同じ部屋に住んでい
て、ベッドも二段ベッドだった。
当然、あたしは上の方で眠っていたけれどね。
父さんは、相変わらず母さんに暴力を振るっていたけれど、まだ生きてた。
「……ですから、キヨミちゃんは恐らくそのことで……」
「ええ、分かっているんです。きっとあの子は……」
その男と母さんは、そうしていつも話していた。
泣きそうな母さんをその男は慰めていた。
あたしにできないことだった。
そう。あたしにはできないことが、その男にはできた。
あたしはその男を、ひどく憎んでいたのかもしれない。
子供らしいただの嫉妬。
でも、感謝していた。
母さんは、その日、その一日だけ少しだけ元気になって家に戻ってくるからだ。
だからあたしは、何度となく学校で問題を起こしては母さんが呼び出されるようにしていたんだと思う。
その時もそうして母さんとその男は、話していた。
あたしはもう帰っていいと言われたけれど、ずっと戸の端から覗きこんでいた。
一番前の席。
中央の一番前の席に母さんは座っていた。
確かその席は、霧原とかっていうあたしをしょっちゅうイジメてた男の子の座っていた席だと思う。
母さんは、そいつの席に座り、その男はそんな母さんの横に立ち、そっと母さんの肩に手をおいていた。
泣きじゃくる母さんは、その手の上に自分の右手を重ねながら、泣きつづけ
ていた。
やがて、男の手が泣きじゃくる母さんの髪に触れた。
びくり、と母さんの肩がそのとたんに震えた。
でも、母さんはそのままなんの反応も示さなかった。
そのうち、男の手は母さんの髪を撫で、首筋に至ると、両手で撫で始めた。
母さんは少しだけ驚いたような表情して、それから目を閉じた。
あたしはその様子をじっと見つめ続けた。
二人に気付かれてはいけない、とわけも分からずその時はそう思い、息を殺してただじっと見つづけた。
それから起こるすべてを、あたしはただじっと……。
それから一時間か二時間か、気付いたとき、あたしは弟と自分の部屋に戻っていた。
そして、自分のベッドで膝を抱きかかえてじっとしていた。
あまりにも長い時間、そうしていたせいだろうか。
とっくに学校から戻り、遊びにでかけていた弟が帰ってきて、じっと座り込んだままのあたしを不思議そうに見ていた。
「おなか、痛いの?」
「ううん」
「ケガしたの?」
「ううん」
「どこか悪いの?」
「ううん」
「じゃあ……」
「ほっといてよ、バカ」
その日から、あたしは少しだけトモヤを嫌うようになった。
理由なんて知らない。
考えもしなかった。
けれど、弟が少し嫌いになった。
そして母さんも少しだけ嫌いになった。
父さんは最初から嫌いだったけど、もっと嫌いになり、あたしをイジメる『霧原』も、もっと嫌いになった。
それだけじゃない。
男という男すべてが嫌いになった。

――キモチワルイ……。

それから、ほどなくして、母さんは昼間家にいることが少なくなり、夕方、父さんが帰ってくる前になって戻ってくるようになった。
父さんは何も知らずに夕方、仕事から帰ってくる。
母さんが以前とは少し変わってしまったことなど気付きもせず、父さんは相変わらずちょっとしたことで激しく怒り、母さんやあたしや、そして弟を殴っていた。
それでも、母さんは何処か以前より笑顔が増えた。
あたしは母さんが憎かったけれど、同時に嬉しくもあり、何か複雑な思いだった。
けれど、あたしはまだ母さんを本気で憎んではいなかった。
母さんの笑顔が増えたことは嬉しかった。
なのに、母さんを嫌いになりそうな自分に戸惑いを覚えていたのだ。
だが、あたしは確実に母さんを憎むことになる。
10歳の夏。夏休みが始まった最初の日。
その日、母さんはその男と一緒に何処か遠いところへ行ってしまったのだ。
あたしやトモヤには、なんの言葉も残さず、ある日、忽然と母さんは姿を消してしまったのだ。
あたしたちは、あっけにとられる間もなかった。
母さんが夕方になっても帰ってこなくて、お腹が空いたあたしとトモヤは、仕方なくヘタながらも母さんに教わったカレーを作っていた。
背が低かったので、イスをキッチンにまで持ってきて。
包丁は危なかったので、トモヤに持たせたりしない。
あたしが切って、トモヤが鍋にもっていく。
だんだん、そんな作業が楽しくて、あたしたちはカレーが出来上がっていく様を二人、にこやかに眺めていた。
そのうち、誰かが帰って来て、あたしたち二人で作ったカレーを見て、驚き、誉めてくれることを期待していた。



そんな時、父が帰って来た。


9 :wx3 :2007/02/15(木) 23:06:05 ID:rcoJs4om

家の前から匂ってくるカレーの匂いに、にこやかな笑いを浮かべてはいなかった。
怒りに満ち満ちた表情で帰ってきたのだ。
走って帰ってきたのだろうか。
息を切らし、肩を上下に揺らしていた。
「誰とだ! 誰と出て行ったんだ!?」
父さんは、その時になってあたしからその男のことを聞くなり激怒し、あたしになぜ、もっと早く言わなかったと迫った。
そして、料理をしている最中のキッチンの床にあたしを叩きつけ、馬乗りになるなり、顔がぱんぱんに膨れ上がるまで殴りつけられた。
あたしはなぜ、父が怒っているのか、なぜ、母さんはあたしやトモヤを残して出て行ってしまったのか、なぜ、ここまで殴られなければならないのかも分らず、ただひたすら、父の気がすむまで殴りつけられ続けた。
「なぜだ! 知ってたのか? おまえは、俺のことがそんなに嫌いだったのか!? え? 誰のおかげでそうして生きていられると思ってる!?」
父さんが、いったい何を言っているのか分からない。
いや、もう何を考える力もなかった。
痛くて痛くてしかたなかった。
恐くて何も考えられない。
「ゴメンナサイ! ゴメンナサイ! 殴ラナイデ! オネガイ! オネガイ!」
何度も何度も謝った。
そして、何度も願った。
何に願ったのか。
それは神様だったとでもいうのだろうか。
今以上に幼く、そして愚かだったあたしは、一心に祈り、そして信じていた。
母さんが戻ってきて、助けてくれるのを。
けれど、母さんがその場に現れることはなかった。
「このクソが! こんな『有害なゴミ』だけ置いて行って、自分は他の男と勝手に出て行きやがって!」
父はその後も何度もあたしの顔を殴り続けた。
視界はぼやけていた。
自分の涙のせいか、それとも瞼までもが腫れて視界を塞いでたのか。
耳は殴られたショックの耳鳴りと、父さんの怒鳴り散らす声ばかりで何も聞こえなかった。
けれど、遠くのテーブルの向こうに隠れ、震えながらこちらを見ている存在に、あたしは気付くと、必死になって手を伸ばした。

――イタイ! イタイ! タスケテ!

声にならない絶叫。
殴られつづける間も、それでもあたしは必死で手を伸ばした。
タスケテ、と。
その存在は、そんなあたしの手に気づくと震えながら泣きじゃくり、顔を横に激しく振るだけだった。
やがて痛みが、麻痺していき、ただ肉の震えるような感覚だけしかなくなっていこうとする頃、あたしの意識も遠のいていった。



「……」
目を覚ました時、明かりもろくに付けられていないキッチンに、あたしは放り出されたままだった。
誰もいない。
陽は沈み、今が何時なのか分らなかったけれど、部屋中がかなり暗いことから、深夜近い時間であることは分った。
鍋にはとっくに焦げてしまったカレー。
放り出されたままの調理器具。
床には食器が散乱していて、中には割れてしまったものまであった。
その欠片が一部、父さんに殴られている間か、それとも気を失っている間なのか、あたしの皮膚に赤い筋を走らせていた。
あたしは、身体中が軋む中、少しずつ身体を動かして起き上がると、ただ無心にそれらを拾い集めた。
「……」
顔中が痛い。
でも、麻痺していてそれほど痛いと感じるわけでもない。
鈍い痛みだった。
何か粘土のようなものが顔中にへばりついているような感覚がしていた。
でも、あたしはただ静かに欠片を集め続けていた。
やがてすべてを集めきり、手近にあったスーパーの買い物袋にそれらを入れると、きつく口を結んで閉じた。
そして、その時になって、ようやくあたしは空腹感を覚えた。
本当なら夕刻には、父さんと弟で食卓を囲むはずだった。
あたしは、覚えたてのカレーの味を弟と一緒に父さんに褒めてもらって、それで……。
それからどうなるはずだったんだろう。
「おなか……すいたな……」
あたしは、ゆっくりと立ち上がり、鍋に歩み寄ろうとした。
その時だった。
「っ……!」
父に重いきり踏みつけられた足の膝小僧の部分が、突如、ごきり、という響きを聞かせ、激しい激痛をあたしに浴びせた。
とても立っていられなくあったあたしだったが、なんとか壁に手をついて体重を支え、それでもコンロに歩み寄った。
そこには、やはり焦げてしまったカレーが、今は冷たくなったまま、表面に膜を作っていた。
ゴハンは炊けていない。
炊く前に殴られ、気を失った。
あたしは、そばにあった皿とおたまをとると、その焦げてしまったカレーをゆっくりとよそった。
「……」
そして、今度は痛めた足に負担をかけないように気をつけながら、カレーのルーだけが入った皿を両手で持ち、ゆっくりとダイニングの方に歩いていった。
やはり誰もいないダイニング。
明かりもついていない。
あたしはテーブルの上に吊るされた蛍光燈の明かりをつけると、そのルーだけのカレーを一人で食べ始めた。
「……っ」
口の中が切れていたのだろうか。
ルーを口に運んだとたんに、鋭い痛みが口の中で暴れまわった。
けれど、あたしは静かにそのままルーだけのカレーを食べつづけた。
その日から、あたしは少しだけ嫌いだった母さんを憎むようになった。
母さんと逃げたその男とともに。
しかし、二ヵ月後、男と母さんが交通事故で死んだという話を聞いた。
その時の虚脱感といったら、なんと表現したものだろうか。
後に込み上げてくる怒りは、マグマのようにあたしの中を滾り、迸り、抑えようのない衝動から、あたしは学校中の窓ガラスを割った。
そしてさらに数ヶ月が経ち、父さんもまた会社から帰宅途中に車にはねられ、死亡した。
両親を失った幼いあたしと弟は、その後、母さんの兄で神父である希柳義邦(キリュウ=ヨシクニ)に引き取られていったのだ。
父親代わりとして、希柳義邦はあたしたち姉弟によくしてくれた。
本当の父親よりも父親らしかったといえるだろう。
現に、トモヤは今では彼を父さんと呼んでいる。
でも、あたしにはどうしても彼が神父であるということを受け入れられなかった。
ろくに会話もないまま、あたしは数年間、彼とトモヤとともにこの家で暮らすことになる。



希柳キヨミが深い眠りの果て。
過去を思い返している頃。
時間は午前2時を回るほんの少し前。
雪鳴音と【自滅型高機動重力波斬傷装置】は、今だ現象と向かい合っていた。
あたり一帯の物体を吸い込み、新たに再構成された黒い物体は、ある人物へと変貌を遂げようとしていた。
それが誰であるのか。
【自滅型高機動重力波斬傷装置】は認知するまでに、わずかな時間を要した。
「行こう」
現象は今も起こりつづけている中で、ゆきおねは、くるりと背を向けた。
「雪鳴音」
『彼女』がそんな雪鳴音の背に向けて声をかける。
雪鳴音は、その声に振り向くこともないまま、すでに歩き出していた。
「時間稼ぎだよ。あるいは、【カレ】がキヨミからその人物に干渉しようとしている残像か。ひょっとしたらその両方か。いずれにせよ、時間がない」
「……」
雪鳴音のそのセリフとともに、『彼女』も動き出す。
その途端、それまで起こっていたすべがまるでウソであったかのようにすべての現象は、消滅した。
『彼女』の目の前にあった空間の歪みも、人の形を模した奇妙な物体も何もかも、その場から忽然と姿を消した。
やがて、完全に無人であったはずの街に、人間の数がちらほらと見えるようになった。
少し歩いていくうちに、車が通り過ぎるようにもなり、この時空は完全に正常な機能を取り戻していった。
しかし、雪鳴音と『彼女』は急がなければならなかった。



その時は、確実に近づきつつあった。
希柳キヨミは、それを感じていたのだろうか。
目が覚めた時、自分の身体がひどいくらいに濡れていることに気がついた。頭痛もひどい。
またあの夢を見てしまったのだ。
この最悪の気分を回復するべく最大限の努力をするなら、彼女はこの家からまず出る必要があった。
ろくに身体も動かないというのに……。
時間は夜の26時ちょうど。
彼女はベッドから起き上がった。
さすがに義理の父である希柳義邦もトモヤも眠ってしまっている。
キヨミは寝汗でベタついた身体を洗い流すべく、なるべく静かに一階へと降り、シャワーを浴びた。
そして手早く着替え、また部屋に戻った。
キヨミが簡単に準備を整え、ドアノブに手をかけたその時である。
「何処行くんだよ」
ドアを開けたその目の前に、トモヤが立っていた。
暗くてお互いの顔がよく見えなかった。
しかし、キヨミの方はトモヤの顔をすでに見ようとさえしていなかった。
「関係ない」
できる限り伯父を起こさないように声を抑え、キヨミはトモヤを押しのけて、階段を降りていく。
しかし、そのあとをトモヤが追いかけた。
「関係なくなんかないって言ったろ!」
そして、玄関に出て靴をはこうとするキヨミの腕を痛いほどに強く握り締めた。その痛みに、彼女は一瞬、顔を歪ませたが、悲鳴一つ漏らさなかった。
その時、キヨミは初めてトモヤの顔を見た。
そして、その瞬間、トモヤはキヨミの表情の中に冷め切った軽蔑の表情が浮かんでいることに気付き、一瞬、胸をえぐられるような思いに苛まれる。
しかし、彼はそれでも彼女の腕を離さなかった。
そんなトモヤとキヨミは、しばらく無言に見つめあった。
トモヤの瞳が揺れる。
そこにあったのは、必死で恐れを隠す少年の姿だった。
そんなトモヤに向けて、キヨミは、ぽつり、と言った。
「今まで、男は気持ち悪いって思ってた。でも、あんたはその中でも一番気持ち悪い。手、離して」
「……」
トモヤは手を離さなかった。
いや、違う。
正確には、手を離すことさえできなかったのだ。
呆然と立ちすくむトモヤ。
そんな彼のことなど気にせず、キヨミはトモヤの手を振り払った。
あっけないほど簡単に、まるでもげるかのように彼の手から逃れた。
彼女は構わずそのまま玄関のドアを開けて、出て行った。
残された彼は、その後、しばらくそこから動くことはできなかった。
そのシルエットは、いつまでも闇の中で寂しく、薄っぺらく浮かびつづける。
家を飛び出した彼女。
すっと胸一杯に入り込んでくる冷たい空気が、熱く火照り、痛み出した胸を癒した。
人工的な明かりは、冷たくぼやけた感覚とともに自分の痛々しい心に触れる。夜の街灯ほど、彼女の心を和らげるものはなかった。
だからだろうか。
この誰もいない闇の中、古い街灯から街灯の下を歩いていく。
ただそれだけでもよかった。
それだけで、自分の心は何かほんの少し救われたような気がする。
しかし、その時の彼女はいつもと違っていた。
闇から闇へ、街灯の下を歩くごとに、何か醜い自分の姿を曝け出されているようで、とてつもない恐怖を感じる。
月明かりに出ることさえ、恐ろしいと思った。
それだけではない。
この胸の奥から込上げてくる感情はなんだろう。
しきりに後ろを振り返るのはなぜだろう。
「……」
そんなことはありえないと思いながらも、彼女は少し歩いては後ろを振り返った。
しかし、そこにその姿はなかった。
彼女の足は、まっすぐにある場所へ向けて進んでいた。
こんな時、なぜか、あの人物がそこにいないだろうかと期待してしまう。
こんな時、なぜか、あの人物に会いたいと思ってしまう。
名前は苗字なのか名前なのか、どちらかよく分からないが一つしか知らない。それどころか、それが本名なのかどうかすら疑わしい。
男か女かも分からない。
同年代のようで、時折、年上のようでもあり、年下のようでもある不思議な人物。
なぜか、その人物に会った後は、いつも晴れ晴れとしていて一時だけにせよ、心が安らぐ。
しかし、どういうわけかあまり何を話したのか、一緒に何をしていたのかよく憶えていないことが多い。
そんな謎の多いその人物ではあっても、希柳キヨミにとっては、恐らくただ一人の……。
「あいつ……いるかな」
頭が重い。
吐き気もする。
全身がダルくて、なんだか胸の奥が、ときおり痛む。
そんな時に行くべき場所ではないと分かっていても、彼女は、早くそこにたどり着きたくて仕方なかった。
しかし、そんな彼女の思いとは裏腹に、確実に『その時』は近づきつつあった。
「あぁ、ケータイの番号聞いとけばよかった……」
そう呟きながら、高架下をくぐりぬけようとしたその瞬間だった。
高架下の向かい側の電柱のそばに、一人の男のシルエットが、月明かりに照らされて、キヨミの目に映った。
「……!?」
キヨミはそれに気付くなり、一瞬、足を止めた。
こんな時間。
こんな場所でじっと立って、いったい何をしているのだろうか。
ただ、じっとそこに立っているだけのその人物を見て、何か言い知れぬ不気味さを覚える彼女だった。
一瞬、道を回りこんで行こうかとも思ったが、彼女は早くいつも行くクラブに行ってしまいたかった。
「……」
かまわず、意を決した表情で、彼女は少し小走りに高架下を通り抜け、電柱のそばに立つ人物の前を過ぎ去ろうとした。
なるべく、その人物と目を合わさず、ただ前だけを見て進もうと、特にその人物の前ではそう思った。
その瞬間である。
「やあ、キヨミ……どこに行くのですか?」
「え!?」
それはキヨミがよく知っている人物の声だった。
彼女は駆け抜けようとした電柱のそばの人物に向き直る。
すると、電柱と高架下の影に隠れるようにして立っていたその人物は、ゆっくりと月明かりの下にその姿をあらわした。
そこに立っていたのは……。
「伯父……さん?」
彼女は、相手が誰なのか確かめるようにして言った。
すると、その人物はゆっくりと顔を上げて、その顔をキヨミに見せた。
いつもの優しい笑顔を浮かべた神父であり、自分の親代わりだった人物の姿がそこにあった。
ただ、少しおかしいのは、普段は厳粛な教会の席でしか着ないはずの法衣を今の彼は着ているということだろうか。
教会に行っていたのだろうか。
その帰り?
しかし、方向がまったく逆だった。それに、なぜ、こんな時間に?
様々な疑問が生まれていく中で、彼女は何か言い知れぬ不安を覚えた。
それは彼女の中のすべての体細胞が鳴り響かせる警報であった。
『その時』が来てしまった、と。
しかし、彼女の伯父である希柳義邦は、相変わらずの柔らかい笑顔を浮かべたまま、彼女の内心など気付かぬ様子で、突然話し出した。
「凍りつくほど冷たい空気だ。まるで空気すべてが殺気を帯びて、過ぎ行く生き物すべてに斬りかかろうとしているみたいじゃないですか」
「……」
何か異様な雰囲気を感じはじめたキヨミは、伯父から一歩退く。
「あの日を思い出しますよ……」
希柳義邦は、月を見上げた。
そこには、相変わらずの笑顔。
しかし、その目は遠く過去を映し出していた。
「伯父さん……あたし、これから出かけるから……」
何かよく分からなかった。
とにかく、彼女はこの場から去りたかった。
何か尋常ではない気配を感じる。
この時、伯父の身から何か本当に生き物すべてを切り裂く冷たい空気が発せられているようだった。
それだけではない。
伯父の周囲が、何かとても歪んだ悪意の塊のような波動を感じる。
疲れているせいだろうか。
しかし、それでも伯父から離れたくてしかたなかった。
彼女は重い身体でありながら、それでも駆け出そうとした。
だがその時、背後から伯父の声が響いた。
「待ちなさい」
「!?」
駆け出そうとしたその身が、まるで魔法にでもかかったかのように凍りついた。
見ると、伯父は何か感慨深い表情をしていた。
過去を懐かしむような微笑が、そこにはあった。
「そう。あの時もこうして呼び止めた」
意味不明の伯父の言葉。
しかし、伯父の言葉はそんなキヨミの思いなど無視してさらに続いた。
「あの日、私は同じようにして君の母親、私の妹であるナオコを呼び止めた」
「!?」
はっとなるキヨミ。
聞きたくない人物の名に思わず顔を背ける。
そんなキヨミの顔を見据え、希柳義邦は微笑んだ。
しかし、次の瞬間、何か忌々しい過去を思い返すように、希柳義邦は、眉を寄せた。
「ナオコは苦しんでた。毎日毎日……あの男に暴力を振るわれて、抵抗もできず、毎日……。ナオコは私には何も言わなかった。私はナオコが苦しんでいることなど、全く知らなかった。いや、気付くことができなかっただけなのかもしれない。私もまた日々苦しんでいたからだ。己の中の邪悪な欲望。それと闘い続けていた。私は神父だ。神父なのだ。神に仕える徒でありながら、己の中に巣くう悪魔に、日々蝕まれていく。
ナオコの笑顔を見るたび、ナオコが私の名を呼ぶたび、私の胸の奥に溶けいるほどに甘い感覚が、生まれては広がっていく。その後に生まれるのは、熱く汚らわしい欲望だった……」
そこまで告げてから、希柳義邦は月から目をそらし、肩を震わせた。
泣いているわけではなかった。
けれど、その当時の苦しみが希柳義邦の胸の奥で何かの感情を滾らせていた。
「ある日、私は見てしまった。ナオコがあの男に殴りつけられる様を」
希柳義邦は、思い出すのもつらく、そして込上げてくる感情をその時初めて表情に表した。
それは、キヨミがそれまで見たこともなかった、常に穏和で優しい神父である希柳義邦には、まったくありえない表情。
それは憎悪そのものだった。
彼の中の憎悪に満ち満ちた黒い感情が、彼の顔を借りて姿を現したかのように、そこには生々しい負の存在があった。
しかし、再びキヨミの顔を見据えた瞬間の希柳義邦の表情には、まるで嘘のように慈愛に満ちた寛容な聖職者の微笑みがあった。
「君とトモヤに教会で頂いた御菓子をあげようと思ってね。そのときに偶然見てしまったのですよ」
「……!?」
その時、キヨミは悟った。

――この男は、壊れている……。

希柳義邦は、その微笑みのままに語る。
「私は、その後、ナオコに言った。『あんな男の下にはいてはいけない。
すぐに離婚しなさい』と。けれど、彼女は首を振った。君やトモヤのこともある。離婚なんて簡単にはできないとね。その時、私は思ったよ。じゃあ、君たちがいなくなればナオコは解放されるのか……とね」
相変わらずの微笑でそう語る希柳義邦だったが、決してそれは嘘ではなく、当時の彼は本気でそう思ったのだろう。
キヨミはそれを悟る。
あの当時、怒ってばかりですぐ殴る父親よりも、いつも笑っていて優しかったこの伯父に、自分達は懐いていた。
しかし、内心でそんなことを彼は当時、考えていたのかと思うと背筋が凍る思いだった。
「私は君たちを消す方法を考えていた。毎日毎日。やがて、事故に見せかけて君とトモヤを殺すことを考え始めた頃だった。ずっと苦しんでいたナオコが、少し元気を取り戻すようになった。相変わらずあの男の暴力は続いていたが、ナオコはなぜか、ほんの少し幸せそうだった。ナオコのあとを追ってすぐ分かったよ」
そう言ったとき、希柳義邦の顔から笑みが消えた。
魂の抜け落ちた、意外なほどに感情のないその顔は、まるで作り物のようで、キヨミに不安を感じさせた。
それは何処か呆けたような表情で、キヨミに向ける。
「ナオコは当時、君の学校の担任と不倫関係にあった。君も憶えているね? なにせ、それを知っていたことがあの男に知られ、君は顔中、ぱんぱんに膨れ上がるまで殴られた」
それを言われたとき、キヨミの中で、幼い日のあの悪夢のような出来事を反芻させる。
それとともに、彼女自身にも分からない震えが彼女を襲った。
「その時の私の気持ちが分かるかい? 私はね。愛していたんだよ。実の妹であるナオコを……」
悲痛な叫びを抑えに抑え、そのとき、初めて涙に濡れた希柳義邦の顔が月明かりに照らし出された。
そこにあったのは、聖職者でもなければ、彼女の優しい伯父でもない。
一人の哀れな男の姿だった。
「もう止められなかった……。自分が神に仕える身であることすら忘れた。苦しかったんだ……。どうしようもなく、耐え難い。なぜ私が、どうして私だけが……この想いを殺すためにどれだけ神に祈ったことか。
罪に侵蝕されゆくこの身を切り裂き、えぐり、罪の証である焼き鏝を押し付けもした。痛みによって胸に溢れてくる想いを覚まそうとした。この汚らわしい『有害』な欲望……」
そう言ったとき、彼は法衣を脱ぎ捨てた。
その下には、幾重にも重なる斬傷痕。
そして、罪人の証を示す蒼い薔薇の焼き鏝が、ちょうど左胸、心臓の真上の部分に押されていた。
「……」
キヨミは目をそらした。そのあまりに残酷な傷跡を見るに耐えなかった。
「やがて、そんなことを繰り返していくうち、それさえも無駄になり始めていた。私の中の悪魔は、それでもナオコを欲しがり、この私の心を侵蝕した」
希柳義邦の中で、今、何かが生み出されようとしていた。
彼の中にいる悪魔は、それを獰猛に食い漁る。
あの日と同じように、それは今、目覚めようとしていた。
そして、彼は語る。
「ある日、とうとう私は悪魔に敗れた。不倫相手のもとに行こうとするナオコを呼び止め、私は想いのままに告げた。『妹としてではない。お前を愛している……』と」
そこまで言った時、彼は一呼吸いれた。
重い沈黙が、キヨミと希柳義邦の間に流れ出す。
キヨミは目の前の男を、ただ見据えることしかできなかった。
身体中を捕縛するこの恐怖。
逃れるすべを彼女は知らなかった。
彼女は悟り始めていた。
伯父の歪んだ狂気が、今、正常な世界との間に断裂を作り、今、自分をこの場へと捕らえているのだ、と。
希柳義邦は、突如笑い始めた。
「く、くくく……ははは、穢れた私の欲望など、ナオコが受け入れるはずもなかった。私は気付いたのだよ。悪魔は私の中にいたんじゃない。
ナオコの中にいたんだ!!」
ゆっくりと首をもたげ、闇の深淵より浮かび上がってくるもの。
希柳義邦が、長い長い年月をかけて、心の奥深い部分に巣食わせてきた病魔は、やがて彼自身さえも喰らいはじめていた。
彼の清浄なる部分と歪んだ欲望とが、交錯し、その狭間でもがき苦しんだ彼の、最後に行きつく部分とは、彼自身、自覚することなく生み出された狂気。
そして、希柳義邦は笑った。
しかし、それはキヨミの知っている笑みではなかった。
そこにあったのは、神の微笑みではない。
人間という悪魔の微笑みだった。
「そう。私は気付いた。いや、気付かされた。延々と神に祈りつづけた私に、神は御応えくださったのだ。この神の徒たる私に。私の中に悪魔がいたのではない。ナオコの中にこそ、悪魔はいたのだ。あの男を誘う不浄の身。汚らわしきその身で私やあの男や、そして不倫相手の教師さえも惑わそうとした。ナオコの中にこそ、悪魔は潜んでいたんです!」
希柳義邦の声は、徐々に声を荒げていく。
それはもはや叫びに近いまでの激しさで彼は言う。
しかし、その声に反応する人間は、周囲にはいない。
まさに断裂された世界。
キヨミはその時、確かに自分の耳の奥で、時計の針が、かちり、と何かの瞬間に合さったような音を聞いた。 
その刹那。
希柳義邦は、その狂気に満ちた瞳を初めてキヨミに向けた。
「ひっ……!?」
冷たい恐怖。
こんなにも冷え冷えとした恐ろしさを覚えたことが、かつてあっただろうか。あの父親に殴られる瞬間でさえ、こんな恐怖を覚えたことはなかった。まるで、魔界にでも足を踏み入れたかのように、そこには正常なものは何一つなかった。
希柳義邦は、再び法衣を身に纏った。
そして、次の瞬間。
ゆっくりと法衣の中から、月に照らされて鈍く輝く硬質の何かを取り出した。それは、張り付けにされたイエス=キリストの像が刻まれた、何かの儀式用のような短剣、あるいはナイフだった。
「あの時、ナオコとあの不倫相手の男を事故に見せかけて、私は洗礼の儀を行った。ナオコの魂は、悪魔の手より逃れ神の御元へと帰った。ナオコを苦しめた男も、もちろん、洗礼の儀によって魂を清めた。それですべてが終わったはずだった……。以来、君達だけは間違いのないよう、見守ってきたつもりだった……」
鈍く光るその長細いナイフを、希柳義邦は右手に持ち、さらにそれを逆手に持ち直す。
「キヨミ。とても残念ですよ。やはりあの女の子供は、悪魔の子だった……」
「……ど、どうして……」
足が震える。
なのに、動かなかった。
凍りついたかのように。
その間に、ナイフを持った希柳義邦が、一歩一歩ゆっくりと踏みしめるかのように近づく。
その手のナイフを少しずつ振り上げていきながら。
「見守っていたと言ったでしょう? 私は見ていたのですよ。君とトモヤが、汚れた口付けを交わすところを。……この魔女が! あの女と同じように血の繋がっているはずの弟に魔手を伸ばすか!!」
希柳義邦は、憎悪に満ち満ちた表情というよりは、彼こそが悪魔と呼ぶほどの鬼気迫る形相で、キヨミを睨みつけ怒鳴る。
人間にこれほどまでの表情ができるのだろうか。
いや、彼はもはや人間ではないのかもしれない。
それは闇の中から月の輝きを受け、不気味に蠢く。
「汚れきった売女めが!!」
「た、助けて……」
恐ろしさのあまり涙が溢れる。
なのに泣き喚くこともできない。
空気はそれほど冷たくもないはずなのに、とてつもない悪寒が彼女の身体を襲う。
奥歯が、がちがちと音をたて始めていた。
にも関わらず、一歩も動けない。
目の前に迫る怪物は、まさにその凶刃を振り落とそうとしながら近づいてい来る。
最後の一歩。
もう闇の奥から忍び寄り、もう最後の一歩でナイフが届くところにまで来た時、希柳義邦は、悲壮な表情をしていた。
心の底から溢れる哀しみをそこに映し出して。
「すぐにトモヤも洗礼してあげます。君は何も心配しなくていいのですよ」
その一瞬だけが、狂いきった彼の最後の優しさに満ちた声だった。
真冬でもないはずなのに、口から漏れる息が、凍えるほどに寒いその一瞬の中で、白く散った。
次の瞬間。
「だから、死になさい!」
「いやああああああああああああああああ!」
ひゅん、という空気を軽く切るような音が響いたかと思った時、強烈な衝撃がキヨミの腹部を襲った。
それは、彼女の軽いその身など、二メートルは弾き飛ばすような勢いがあった。
無防備な内臓を痛めつけられた鈍い痛みと、肺に受けた衝撃のために呼吸が苦しくなりながら、彼女は地面を転がった。
次の瞬間に、彼女が見たものは、
「トモヤ……」
意外なその人物が現れたことで、一瞬、虚をつかれた表情をしながら、その名を呟いたのは、希柳義邦だった。
「と、父さん……」
困惑しているその表情は、今も迷いに満ちながらも希柳義邦に向けて呟いた。
彼は、地面に倒れたキヨミを庇うようにして立つ。
「どきなさい。トモヤ。これはキヨミのためなのです」
そこには、少し前に教会で語った希柳義邦のものとは思えないほどに冷め冷めとした響きがあった。
「母さんを殺したのか……。父さんも!」
トモヤの顔に、信じられないといった呆けた部分と、哀しみ、そして怒りに満ちた部分が入り混じり、複雑な表情が浮かんでいた。
それを希柳義邦は冷たく見下ろす。
「……」
「なんでだ! なんでだよ!? 母さんのこと好きだったんだろ!? なんで、そんなことできるんだよ!」
「愛していたからですよ。それに、私の中にあったナオコへの感情は、悪魔に産み付けられた汚らわしい感情。近親相姦など、人の道にはずれた悪魔の所業なのですよ。その報いは受けねばなりません。私の報いとは、あの時、ナオコを清め、主の御元へ送ることでした。そして、ナオコを苦しめたあの男も、惑わしたあの男も……すべて」
希柳義邦は、再びナイフを構えなおした。
「だからって殺したのかよ! それが主の意志だってのかよ! オレたちの母さんなのに……」
母は事故ではなく殺された。それだけでもショックであったのに、その上その殺した本人というのが、希柳義邦であったこと。
トモヤにとって、希柳義邦は、例え実の父でなくとも、この数年間、父として本当に慕ってきた人物だった。
神の教えを伝える神父という意味では、それ以上に敬ってさえいたのだ。
この事実を、彼はどうしても受け入れがたかった。
混乱が彼を襲う。
そんなトモヤの肩にそっと手を置く希柳義邦の表情には、まさに神父である彼の父の微笑みがあった。
その微笑が、彼の思考を一瞬、麻痺させる。
「だいじょうぶですよ。死はすべての終わりではなく、始まりでもある。
あなた達も悔い改め、魂を清められれば、天でナオコに会えます」
そう告げた一瞬、ざくり、という肉を裂くような音が、トモヤの耳に響いた。
「!?」
腹部に何か温かいものが溢れていくような感覚を憶えた。
それと共に、全身の力が抜けて膝が落ちる。
「トモヤぁぁぁぁぁぁ!」
キヨミが叫ぶのを、彼は聞いたような気がした。
しかし、その前に彼の身体は前のめりに倒れこむ。
キヨミがトモヤに駆け寄る。
うつ伏せに倒れたトモヤの周囲から、何か黒い液体が染み出してくるのを見て、背筋が凍った。
それは恐らくこの闇の中では、黒く見えるが、恐らくは赤い液体。
希柳義邦は、自分の足元に倒れたトモヤと、そんなトモヤに何度も呼びかけながら、必死に抱き起こそうとするキヨミを、ただ静かに見下ろしていた。手には赤いぬるっとした感触と、血にまみれて、その輝きをさらに鈍くした銀のナイフ。
「トモヤ! トモヤ! しっかりして!」
「……に、逃げて……」
どんどん血に溺れていく中で、トモヤの血で汚れるのも気にせずに抱き起こすキヨミを、トモヤは力を振り絞って突き放そうとするが、キヨミはそれでも彼から離れずに、なんとか引っ張りあげようとしていた。
そのキヨミの後ろに立つ希柳義邦が、いつ彼女の背にナイフを突き立てないとも限らないというのに。
「……」
しかし、希柳義邦は、ただ静かに見下ろしているだけだった。
まるで何かを待つかのように。
「すぐに救急車呼ぶから、動かないで!」
そう言いながら、キヨミはカバンから携帯電話を取り出した。
しかし、それを希柳義邦は素早く取り上げる。
「な!? 返して!!」
声の限り叫ぶキヨミだったが、希柳義邦は構わずそれを力の限り地面に叩きつけた。
耳を裂くかのような破裂音とともに、携帯電話の破片がその場に散る。
「……儀式の邪魔はさせません」
「……っ!」
キヨミは希柳義邦を睨みつけるが、それを彼は平然と受け止めるだけだった。
やがて、トモヤは、ただ自分を冷たい目で見下ろしているだけの希柳義邦を見て気付く。
彼は自分が死ぬのを待ち、自分が死んだと判断した瞬間に、キヨミを殺すつもりなのだ、と。
それは恐らく、希柳義邦なりの"清めの儀"のルールなのだろう。
ならば、今がチャンスだった。
彼が自分が死ぬのを待っている間にキヨミが逃げられればいい。
「ね、姉さ……キヨミ姉……逃げて……今、なら」
「いやよ!! すぐに病院に連れて行くから!!」
泣き叫びながら、血が吹き出すトモヤの傷口を抑えるキヨミ。
彼はなんとか突き放そうとするが、キヨミは、まったく力の入らないトモヤの身をなんとか持ち上げて、必死に引きずり始めた。
まったく力の入っていない人間。それもキヨミよりもずっと身長も高く、がっしりした体格の彼の身は、キヨミの細い腕では到底引きずれそうもないはずだった。しかし、それでも彼女はトモヤを起こし、何とか立ち上がらせると、彼の脇に肩を入れて体重を支えながら、のろのろと歩き出した。
「トモヤ! 聞こえてる!?」
トモヤの身から、熱い液体がしたたり、彼女の身ももはや血まみれなのかもしれない。しかし、彼女はそんなこと気にもせずに声を張り上げる。
「う、うぅ……」
大量の血が、今も彼の腹部から垂れ流されている。
頭の奥が朦朧としはじめ、もはや意識を保ちつづけることにも限界を覚え始めていた。
「傷口をおさえて! 出血を抑えるの!!」
「……はぁ、はぁ……」
荒い息遣い。
聞こえているのかどうかさえ分からない中で、キヨミは叫ぶが、やはりトモヤの方から反応はない。
キヨミはトモヤを支えているのとは逆の腕を回して、トモヤの傷口を手で抑えた。ぬるり、とした生暖かくおぞましい感触がキヨミを襲った。
「う、ぐああああ!!」
痛みにトモヤが悶えた。
「がんばって! もうすぐだから!!」
そう言うキヨミの心の中は、今にも破裂しそうな不安でいっぱいだった。
肉が裂けて血が噴出しているその傷は、驚愕するほどに大きい。
内臓を傷つけていないか。
血管を切り裂いてはいないか。
考えただけでも不安が彼女を襲う。
いや、彼女の不安はそれだけではない。
彼女は一瞬だけちらり、背後を振り返った。
遠くに希柳義邦のものと思われるシルエットが見える。
それは、ただ静かにこちらを見ているだけだった。
彼女はそれを確認すると、とにかく彼の方から隠れながら、どこか電話を探すべく、混乱と動揺、そして不安でショート寸前の頭を働かせた。
時間がない。
出血は抑えるどころか、その勢いを弱めることさえできない。
歩けば歩くほど、トモヤの出血量は増えるばかり、体力も減る。
時間がなかった。
とにかく彼女は歩き出した。
高架下から先は、一般の民家はなく、誰もいない商店街や廃工場ばかりが連なる。さらに先へ進めば駅があり、その近辺のロータリーには、まだ明かりの灯った店がいくつかあるはずだった。
そこまでの何処か、一番近い場所に、公衆電話があっただろうか。
いや、なくてもいい。
誰かに会えれば……。
彼女は涙と血にまみれながら、重いトモヤの身を支え、必死で歩く。
そんな彼女の耳元に、トモヤの荒い息の中で、囁くような声がした。
「ご、ごめん……キヨミ姉……」
それはまるで死に逝く者の別れ際の言葉のように聞こえた。
トモヤが死ぬ……。
キヨミの中で、胸が張り裂けそうな鋭利な痛みが駆け抜ける。
「なんでアンタが謝るのよ!!」
怖かった。
考えないように考えないようにしながら、そしてその可能性が一秒ごとに迫りながらも、それでもどこか信じられない思いがあった。
信じたくなかった。
絶対に……絶対に、そんなことがあるはずがない。
彼女はその怖さを跳ね除けるかのように、思い切りトモヤに怒鳴りつけた。
「あの時……守れなかった。だから……」
『あの時』。
それはいつのことなのか、キヨミには分からなかった。
いや、考える余裕すらなかった。
「でも……うっ! ……結局…こんなんじゃ、なんにも……なりはしないか……」
どこか自嘲するような笑いのこもったトモヤの声は、痛みに耐えながら、彼女の耳に響いた。
「喋らないで!! バカ!!」
刻一刻と込上げてくる不安。
それはトモヤの声からも感じる彼の死の予感。
喋れば喋るほどに、体力は失われ、血は失われ、彼は死に近づく。
それを少しでも留めたくて、彼女は泣きながら、半ば懇願するかのように叫ぶのだった。
やがて見え始めた廃工場街。
この先に商店街はあるはずだったが、その前にここで公衆電話を見つけたかった。
その時である。
遠めに見える巨大な何かのプラントのような工場の隣に、倉庫と思われる建物が見えた。少し広めのマンションほどありそうな大きさだった。
その敷地の入り口の端に白いぼやけた街灯に照らされた電話ボックスが目に入った。
彼女の胸の中に、束の間の歓喜が沸き立つ。
「がんばって! あそこまで行ければ救急車を呼べる!」
「ぜぇ、はぁ、ぜぇ、はぁ……」
そういったときのトモヤには、もはや意識と呼べるものはなかったのかもしれない。
キヨミの言葉に何の反応も示さなかった。
「……」
キヨミは何度かトモヤに語りかけながら、彼の意識を呼び覚まそうとしたが、やはりトモヤからは応答がなかった。
そうしているうちに電話ボックスに行き着いた彼女。
そっとトモヤをボックスに持たれかけさえるようにして、座らせる。
その時、街灯の白い光にトモヤの顔が照らされた。
「……!」
闇の中では気付かなかったが、その顔は、まるで死体のように真っ白でげっそりと痩せこけて見えた。
「トモ……」
彼女は恐ろしさのあまり、トモヤを呼び起こそうとしたが、先に救急車を呼ぶことにした。
電話ボックスに駆け込み、急いで受話器をとって赤いボタンを押した。
相手からの応答が出るまでの数秒間は、それはまるで永遠であるかのように彼女を苛立たせた。
やがて、受話器の奥からノイズとともに声がした。
『こちら、119番……』
相手からの応答を受けるより先に、彼女は叫んでいた。
「弟が刺されて死にそうなんです! 助けてください!」
『落ち着いて。まずそちらの居場所を……』
その時だった。
「!?」
背筋の凍るような悪寒が、再び彼女を襲った。
背後に何かがいるような気がして振り返る。
「……」
しかし、そこには何もいない。
果てしなく続く闇が広がっており、少し先の方はもうまったく何も見えなかった。
『聞こえていますか? あなたが今いる場所を教えてください』
電話の向こうから聞こえてくる声は、至って冷静に彼女に向けて呼びかける。
しかし、彼女の中の不安は、徐々に高まろうとしていた。
「……」

――何かが近づいてくる。

彼女の全細胞が再び湧き立ち始めた。
「……」
彼女は受話器を戻すことなく、そのまま吊るし、ゆっくりとボックスから出る。そして、ゆっくりと周囲を見渡しながらトモヤの傍に立ち、再び彼の脇に肩を入れて起こした。
ボックスの中からは、今も吊るされた受話器から、自分を呼びかける声が聞こえる。
だいじょうぶだろう。
そうしていれば、すぐに逆探知してここまで救急車を呼んでくれるはずだ。
だが、それまで逃げなくては……。
彼女は、耳元に聞こえるトモヤの荒い息遣いを聞き、まだ彼が生きているものと感じながら、倉庫の敷地内に入っていく。



希柳義邦は、その道を歩いていた。
不思議だ。
廃工場街は入り組んでいた。
碁盤目状に並ぶ建物の隙間に出来た道は、少し歩けば分かれ道に出会う。
にもかかわらず、彼は迷うことなく確実に姉弟たちに迫っていた。
まるで何かに導かれるかのように、姉弟たちが歩いていった先が分かる。
それは姉弟たちが、残していった汗や血の匂い。
乱れきった息遣い、恐怖に脅える鼓動までも聞こえる。
およそ常人に知覚できようはずもないすべてを、彼は感じ取っていた。
それだけではない。
この倉庫街にきた時点で、いくら深夜遅くとはいえ、人一人出会わないことの異様さ。しかし、彼はそのことに気付かない。
気付いたとしても、それを単に、主の導きと捉えただろう。

――どうして? あたしたち……兄妹なのに……。

主の導きによって……。
そう。それしか彼には残されていなかった。
自分をこの世界に繋ぎとめるもはすべて、あの瞬間に崩壊してしまった。
彼は笑う。
いっそ、死ぬことも考えなかったわけではない。
実の妹を手にかけたあの時、自らの生に拘りはなかった。
主を憎もうともした。
これほどまでの信仰をもつ自分に、神は何一つ救いを与えず、結果として妹を殺させた。
では、死の淵で彼を拾い上げたのはいったいなんだったのか。
それこそ、彼は神だと信じている。
しかし、それが本当になんであるのか。
彼は深く考えたことがなかった。
考える必要がなかったのだ。
それがなんであれ、結局、自分に残されたものは、信仰しかなかったからだ。彼自身も気付かないうちに歪んでしまったその信仰しか、彼にはなかったのだ。
やがて、目の前にある倉庫の敷地の入り口近くに公衆電話のボックスが見えてきた。
彼はそこに来て、街灯によって照らし出された地面を見つめる。
まだ乾ききっていない血の痕が、いくつもいくつも続いていた。
そして、電話ボックスの地面に近い壁面には、べったりと血がこびりついている。
ボックス内には、受話器が吊るされていて、今も誰かが呼びかけ続けている音声が小さいながらも彼の耳に届いた。
「……」
希柳義邦は、それを無視して敷地内の奥へと入っていった。


10 :wx3 :2007/02/15(木) 23:06:38 ID:rcoJs4om




広い敷地内。
フォークリフトが走るアスファルトの道路が倉庫を囲むようにして廻っている。その端や隅のほんの少し開いた空間に荷物を積み込んだコンテナが、半ば錆びついた様相で放置されていた。
道路を見ても、ある場所には何台かのフォークリフトがビニールシートをかぶせられたまま放置されており、何か鉄の匂いや油の匂い、何かの化学薬品の匂いがそこかしこから匂ってくる。
あたしはその裏側から、鍵のかかっているドアを見つけ出した。
けれど、ドアにはガラス張りの窓がついており、その窓を手近に転がっていたブロックで叩き割り、腕を突っ込んで鍵を開けた。
そして中へと入り込んでいく。
天井が高く、学校の校舎一棟は入りそうな広さでありながら、倉庫は一階建てで、中には何段にも積み重ねられたコンテナが、様々な番号やカテゴリに分けられて並んでいた。
その周りには、ハシゴやフォークリフト、小型の軽トラックなども入り込んでいた。
天井には、コンテナを移動させるための簡単なクレーンやフックまで吊り下げられていた。
奥には、事務所へと通じるドアがあり、その傍には軍手や安全メットを吊り下げるフックなどが、幾つも連なっていた。
事務所に入るドアには鍵がかかっており、今入ることはできなかった。
仕方ないので、あたしとトモヤは、コンテナとコンテナの間に隠れるしかなかった。
あたしは、そっとトモヤを降ろす。
そして周囲を見渡した。
なんとかここに来るまで、地面に血を落とさないように気をつけてきたつもりだが、暗闇の中では、あまり自信がない。
トモヤは相変わらず、荒い息をつきながら、時折苦しそうにうめいていた。
ここにこうしていれば、いずれ、救急車か誰かが来てくれるはずだ。
しかし、時間はあまりない。
「トモヤ……」
あたしは囁いた。
すると、トモヤは苦しそうに片目をつむったまま、なんとか口にした。
「うっ……キヨミ…姉……」
「喋らないで。いい? すぐに助けがくるから、もう少しだけがんばるのよ」
「姉さん……オレのことはいいから、早く逃げて。父さん……あいつは、オレが死ぬまで何もしない。……死んでから姉さんを襲いに来るはずだから……」
そこまでトモヤがなんとか話す。
「……」
けれど、あたしは静かに首を振った。
「!?」
トモヤが言おうとしていることは、なんとなくあたしにも分かっていた。
あいつは、希柳義邦は、どういうわけかあたしがトモヤを助け起こそうとそばによっても、トモヤを担ぎ上げて逃げていこうにも、まったく襲ってこなかった。
まさに隙だらけだというのに。
あの男は、まるで狩りでも楽しむかのように、あたしたち二人を一人ずつ確実に殺していくつもりなのだ。
ならば、トモヤを置いていくわけにはいかない。
あたしは、手近になんとか武器になりそうなものを探してみる。
その間も、心の奥では怖くて怖くてしかたなかった。
いつ、ドアを開ける音が響き渡ってくるのか。
いつ、闇を裂いてあの男が踊りかかってくるのか。
あるいは、いつ、トモヤの呼吸が止まってしまうのか。
何一つ考えても怖いことばかりだった。
頼れるものは何もない。
不意に、トモヤを見る。
「……」
血まみれのトモヤの手が、その胸にさげた十字架を握り締めている。
あたしは、苦笑した。
一瞬でも考えてしまったのだ。
逆十字をさげている身でありながら、『自分はどうなってもいい。トモヤだけは助けてください』と。
なんとも、都合のいい自分に呆れる。
そして、あたしはまた周囲を見渡した。
相手は、ナイフを持っている。
力も恐らく相手の方が上だろう。
何よりも相手に有利なのは、完全なる殺意と言ったところだろうか。
自分には人を殺すなんてことは考えられない。
考えるのも嫌だ。
しかし、相手は常に本気で自分とトモヤの命を奪いにくるだろう。
「……」
いや、まだ相手は自分を殺す気はない。
トモヤの死を確認するまでは、相手は自分を本気で殺しにはかかってこない。その妙な相手のルールを利用し、不意をついて後ろから後頭部を強打してやれば、あたしの非力さでも、殺せないまでも気を失わせる程度のことはできるだろうか。
この時の思考を後のあたしが思い返すことがあるなら、それはひどく物騒なものだと思うことだろう。
あたしの中でも、徐々に迷いは消えて、完全に相手を叩きのめし、再起不能にすべく考えをめぐらせていたのだから。
あたしは、ようやくコンテナとコンテナの狭間に何かの金属の丸い筒状の棒があることを発見した。
資材か何かと思われる。
何に使われていたのかは分からないが、直径ニセンチほどの筒状金属資材。
一言で言えば、鉄パイプだ。
恐らく一メートル半はあったかと思う。
あたしはその端を両手で持ち上げてみた。
重くはない。
軽いとも言えなかったが、この長さならば、コンテナが並んでいる列の狭間でも十分振り回せるだろう。
そんなあたしの様子を見つけたトモヤは、苦しそうに言った。
「ね、姉さん、何するつもりだよ……!?」
「あんたは、気にせずそこでじっとしているの! それと喋るな! バカ!」
「ったく……。なんのためにオレ刺されたのよ……」
苦しそうな笑い。
血がかなり失われたのだろう。目はうつろで、顔もかなり痩せこけて見える。もう……トモヤは助からないのだろうか。
そんな考えが、一瞬、あたしを不安にさせた。
しかし、すぐに激しく首を振ってそんな考えを振り払った。
あたしは、戦うのだ。
トモヤとあたしのために。
あたしはまだ死にたくない。
死ぬのが怖い。
トモヤが死ぬのも怖い。
ならば、戦うしかないのだ。
生きるために。
あたしはトモヤの前に立ち、そっとトモヤと同じ視線の高さまで膝を落とした。そして、鼻と鼻がぶつかり合うまで顔を寄せる。
このくらい近づけば、さすがにトモヤの顔がどれほど血の気が失せて、真っ白な顔になっているかが分かる。
ほんの少しだけ、あたしは、怖くなった「キヨミ姉?」
トモヤが不思議そうにあたしを見つめる。
こんなにも血の気のない顔をしていても、一瞬、頬が赤くなったように見えて、あたしは思わず、くすりと笑ってしまった。
「な、なんだよ!? ……人が死にかけてるってのに……」
「喋んなっつっただろーが、バカ」
「!?」
その時、あたしの唇がトモヤの唇を塞いだ。
あの時とはまったく逆の立場で。
垂れ下がってくる前髪を払い、あたしはトモヤと繋がった。
血まみれの唇。
血の味にまみれたその味は、けれど不快ではなかった。
いや、それどころかとても甘く、朦朧とするほどに激しい快楽の波があたしを襲った。
いったい、どれほどそうしていたのか分からない。
お互いにお互いを求めて、あたしたちはそうしていた。
目前に迫る死の恐怖も、この瞬間、何もかもが消えうせた。
あたしの中にあるのは血まみれでぼろぼろに傷つき、そして、本当に使えるのかどうかも怪しい勇気という名の武器だった。
「……キ、キヨミ姉……」
「終わったら、あとで続きさせてあげるから。ちゃんと生きてろよ」
数分か、それとも数秒に過ぎない間だったのか、互いの唇を離した時、あたしはそう呟いた。
そして、ゆっくりと立ち上がる。
そんなあたしの脳裏に、かつて希柳義邦があたしに言った言葉がよぎった。
『左の頬を殴られたら右の頬を差し出しなさい』
ふざけるな。
殴られたならば……。
大事なものを傷つけられたなら……。



『お前は知っていたのか!? 母さんがあの男と会っていたのを! あの男と出て行ったのを! なぜだ!? なぜ、言わなかった! オレが苦しむ姿がそんなに見たかったのか!? ええ、トモヤ!』

『ゴメンナサイ! ゴメンナサイ!』

『謝って済むか!!』

――やめて!! トモヤは何も知らなかったの!! あたしが知ってた!!
  あたしが全部知ってたの!! でも、全部隠してた!! お母さんが、
  お父さんには言わないでって言ったから!! だから…だから……あた
  しが全部悪いの!! トモヤは悪くないの!!



そう。あたしが頼れるのは、血まみれでぼろぼろに傷つき、そして、本当に使えるのかどうかも怪しい勇気という名の武器だけだった。
神などではなく……。



ドアノブの近くには、散乱したガラスの欠片が落ちている。
希柳義邦は、ドアノブに手をかけた。
その瞬間、絡みつくような、ぬるっとした感触が手を伝って感じた。
「……」
彼はその手に触れたものを見据える。
それは何かの温かみのある液体。
闇の中でははっきりと識別できるものではなかった。
彼はその手を口元に寄せ、ほんの少し舐めてみる。
生暖かい血の味がした。
「神の祝福を受けし者よ……」
がちゃり、と音を響かせながら、彼は倉庫の中へと入り込んでいった。
しん、と静まり返った倉庫内。
明かりもロクに灯されていなかったが、まったく見えないわけではない。
そこかしこに設置された非常口を示す表示灯などが、なんとかぼやけながらも周囲を見渡せるくらいにはしてくれていた。
かなりの広さと高い天井。
積み上げられたコンテナが、まるで迷路のように入り組んだ通路を形成させていた。
「聞こえますか! キヨミ。そしてトモヤ!」
希柳義邦は声を張り上げる。
広々とした空間内に、それは反響しながら響き渡っていった。
しかし、なんの反応も返っては来ない。
相変わらずの静寂が、その闇を支配していた。
彼はゆっくりと周囲を見回しながら一歩一歩と歩いていく。
ナイフを構えながら。
「神はすべての罪を許され、そして清めてくださる! 恐れずに出てきなさい!」
そこまで言ったとき、かなり入り口から遠ざかり、だいたい奥に通じる通路の半分まで来ていた。
「いつまで、かくれんぼするつもりですか?」
希柳義邦は、慈愛に満ちた微笑を浮かべながらそう呟いた。
次の瞬間。
「神様なんかクソくらえなんだよー!!」
「!?」
キヨミの声が、何処からともなく倉庫中に響き渡った。
その声は反響し、倉庫の至る所から響き渡ってくる。
はっきりとそれが何処から発せられたものかは分からなかった。
希柳義邦は、瞬間、周囲を見渡す。
その時である。
彼の耳に、がくん、という音が聞こえた。
それは彼のすぐ近く。
いや、上空から発せられた何かの機械音。
「……!?」
彼が上を見上げたとき、その目に恐ろしい光景が飛び込んできた。
天井に吊るされていた巨大な何かが、闇を貫き、落下してきたのだ。
それは彼の頭頂部を確実に砕く重量と勢いを持ち、襲い掛かってくる。
彼は反射的に頭をそらしつつ後方に下がるが、避けきれずに右側の額から頬にかけて掠る。
それでも、ぱっくりと皮膚が裂かれ、血が噴出した。
「ぐぅぁぁぁぁ!!」
彼は額を抱え込んで、膝をつく。
その隙をついて、キヨミが闇の奥、彼の後方より飛び込んできた。
「あんたなんか消えちゃえばいいんだ!」
「キ、キヨ……!?」
彼が彼女の気配に気付いたときにはすでに遅く、キヨミは手にしていた鉄パイプで希柳義邦の背中を強打した。
「がはぁっ!」
容赦のない打撃が彼を襲う。
抑えこんでいた両手が、その衝撃で前のめりになった身体を支えた。
その間もキヨミは、鉄パイプを振りかぶって思い切り叩き落す。
「があああああああああああ!」
希柳義邦の断末魔が倉庫内に響き渡った。
しかし、彼はそのままではいなかった。
突如、鉄パイプ打撃を物ともせずに起き上がった。
激しい怒りに猛り狂った咆哮を上げ、血まみれのその顔には、もはや人の顔はなかった。
彼の勢いに、一瞬、怯むキヨミだったが、それでも攻撃の手を休めはしなかった。
再び、鉄パイプを浴びせようと、今度は彼の頭部を狙う。
「このぉぉぉ!」
しかし、それは彼の頭上数センチで止められた。
見ると彼の左腕が、鉄パイプを受け止めていたのだ。
腕の中央部。
鉄パイプを受け止めたその部分は、曲がるはずのない部分でありながら、拉げたように奇妙に折れ曲がっていた。
骨折したのだろう。
しかし、希柳義邦の鬼人のようなその形相には、もはや痛みさえも感じぬ赤い血にまみれた悪魔しかいない。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
受け止められてしまった鉄パイプ。しかし、キヨミはまっすぐに希柳義邦を睨みつける。一瞬、ほの暗い闇の中で、赤い目をした到底、人間とは思えぬ顔をした化け物の姿が見えた。
希柳義邦は、もう人ではなくなったのか。
「神の徒を傷つける不心得者がぁぁぁぁぁぁ!」
怒声を浴びせる彼。一瞬、怯んだ彼女から鉄パイプを一気に奪い去り、放り投げた。
「あっ!」
唯一の武器を奪われたキヨミの表情に、この時初めて戦慄が走った。
一瞬の動揺によって無防備になったキヨミに、希柳義邦は容赦なく右手に持ったナイフで斬りかかる。
「悔い改めなさい!!」
その怒声とともに、煌く冷たい感じのするそれは、キヨミの喉を掠めようとしていた。
しかし、ほんの数センチ直前で、そのナイフは虚空を過ぎ去ることになる。
「なっ!?」
希柳義邦を側面から強烈な衝撃が襲ったのだ。
「トモヤ!」
キヨミが叫んだその先には、顔面蒼白になりながらも、荒い息でなんとか立つ弟の姿だった。
彼は、今度こそ迷いのない鋭い瞳で希柳義邦の前に立つ。
「はぁ、はぁ、はぁ、やらせるかっての……。今度はオレがいいとこ見せなきゃいけないってのに……!」
傷口からは、今も血が滴り落ちている。
しかし、もはやそれも先ほどまでの勢いを残してはいない。
「トモヤ! あんた、動くなって言ったのに!」
キヨミが悲壮な顔で自分を庇うようにして立つトモヤの背に叫んだ。
なんとなく、デジャヴを覚える彼女。
瀕死の重傷を負っているにも関わらず、トモヤの背中は力強く大きい。
「キヨミ!」
そして、彼はちらり、と背後に立つキヨミに叫んだ。
いつものトモヤではない。キヨミ姉ではなく、キヨミと叫んだトモヤに、キヨミ自身は何の違和感を抱く暇もなく、その力強い響きに、思わずびくりとするのだった。
「キヨミ、オレがこいつ引きつけとくから、早く逃げろ!」
「でも…」
「うるさい!」
「トモヤ……」
彼の手には、先ほど希柳義邦に奪われ、放り投げられたはずの鉄パイプが握られていた。
「頼む。行ってくれ……。今度こそ」
懇願するように、トモヤのその言葉には強い想いが込められていた。
それは、かつて守れなかった者を守ろうとする彼の意地があった。
それをキヨミは気付いていたのだろうか。
たとえ、気付いていなかったにせよ、その時の彼のただならぬ物言いは、彼女を動かした。
「警察呼んですぐ戻るから!」
その時のその判断は、あるいは他の者にしてみれば間違った判断と言われたかもしれない。
しかし、誰になんと言われようとも、この瞬間、トモヤはひどく満足していたのだ。
そして、感謝もしていた。
神に、そして愛する者に。
「美しい姉弟愛だと言いたいところですが……」
トモヤに強烈なタックルを受けて、倒れこんでいた希柳義邦がゆっくりと起き上がる。
「……」
「汚らわしい人の道に外れた愛ですよ、トモヤ」
「あんたに、何が分かるっていうんだ」
絶えずあふれ出る血とともに、力が抜けていくような眩暈がトモヤを襲う。
視界もぼやけ、口の中はすでに苦い血の味でいっぱいだった。
呼吸もままならない。
この状態で、立っていることがすでに彼の限界であったにも関わらず、彼はなぜか不安を感じなかった。
今、こうしていることが、すでに彼にとっては満足のいくものだったからだ。
「……」
希柳義邦は瞳を細めた。
トモヤのその言葉に、不快感を覚えたというふうに、ありありと表情に浮かべる。
「……いや、あんたが先にオレを殺したかったのは、あんたにも分かるからか……」
トモヤは笑った。
彼にしてみれば、可笑しくて笑ったのかもしれないが、その笑いはひどく寂しいものだった。それが彼の顔色の悪さからくるものなのか。
誰にも分からない。
「自分を見ているようで、イラツクからだろう!? 父さん! は、ははは!」
「黙りなさい。私に君のような汚らわしい感情はない」
笑うトモヤに対して、希柳義邦の顔に笑みはない。
切り裂くような響きを持って、トモヤの笑いを制しようとする。
けれど、トモヤは笑いをとめなかった。
笑うトモヤだったが、その表情には、哀れみさえ浮かんでいた。
「黙れ……」
「はははは! あはははは! あんただって同じだ! オレもあんたも地獄の業火で焼かれるんだよ!! オレやキヨミを殺したってなんの意味もない! あんたはもう地獄の中にいるんだ! その顔とその手を見てみろよ。その血にまみれた手を! それがあんたの罪の証だ!」
「黙れ……黙れ! 黙れぇぇぇぇぇぇぇ!」
この時、希柳義邦の苦悶に満ちた叫びが倉庫にこだました。
それはまるで、彼の中に渦巻く強大な怨念が咆哮を上げたかのように、強烈な衝撃に襲われたような錯覚をトモヤは覚えた。
「オレはあんたの罪を神に訴える!」
そう言って、トモヤは自分の胸にさげられた十字架を手にした。
一瞬、倉庫に備え付けられた表示灯の明かりによって煌いたそれを、希柳義邦は眩しそうに瞳を細めた。
「何を言うのです。君が神に訴えられ、そして今裁きを受けている身なのですよ。私は神の御意志に従い、行動している」
「……その意思をこれから確かめさせてやるよ」
そう言いながら、トモヤは、力がなくなってきている身体の限界を感じ始めていた。もう時間がない。
「いいえ、トモヤ。裁かれるのはあなたです!」
そう叫んだ希柳義邦。
次の瞬間、トモヤに向かって踊りかかる。
瀕死で鈍い動きしかできないであろうトモヤに対して、彼は容赦がなかった。
しかし、トモヤはなんとかそれをギリギリのところで避ける。
続く希柳義邦の攻撃を、彼は動かないはずの身体でなんとか防いでいた。
あるいは、希柳義邦はわざとトモヤに致命傷を与えないようにしているのかしれない。
苦しめるだけ苦しめて殺そうとしているのか。
しかし、それも長くは続かなかった。
勢いよく浴びせられたナイフを受け止めようとした鉄パイプが、ナイフの衝撃を受け止めきれずに弾き飛ばされた。
無防備になったトモヤが後方に下がったが、どん、とすぐに背後に固く冷たい壁の感触が当たる。
「もう後がありませんよ、トモヤ」
「……」
「君のことを、私は本当に息子のように愛していたのですよ。だから、私が
この手で君を神の御元へ送ってあげましょう」
微笑む彼。
その手に握られたナイフが高く振り上げられた。
隙だらけのその状態にも関わらず、彼は目を瞑り微笑みながら祝福の言葉を述べる。もはや、鉄パイプも投げ出されたトモヤには抵抗する力など残されていないと思っているのだろう。
両手に握られ、高々とかかげられたナイフの凶刃が、今にも振り下ろされよ
とする瞬間。
「うわああああああ!」
トモヤが吼えた。
そして残された力すべてを振り絞って希柳義邦の無防備な懐に飛び込んでいく。
「!?」
何事かと希柳義邦が目を見開かせたときにはすでに遅かった。
いつの間にかトモヤの手に握られていた大きなガラスの破片の尖った刃先が、無防備だった希柳義邦の腹部に深々と突き立っていたのだ。
「……あ、あ……あぁ……がはっ!」
口いっぱいに込上げてくる血を吐き出す希柳義邦の顔には、何か信じられないといったような唖然とした表情が浮かんでいた。
そのまま、バランスを崩す希柳義邦とトモヤは、二人重なるようにして地面に倒れこんだ。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
トモヤは、倒れこんだ希柳義邦に覆い被さったままの腹部に刺さったガラスを今も強く握り締めていた。
その強さに、掴んでいる彼の手からもまた、血が滲み出していた。
「……ああ……あ」
やがて、力が抜けたかのようになんの抵抗も示さない彼を見て、トモヤは、ゆっくりとガラスの破片から手を離し、立ち上がった。
いや、立ち上がろうとした。
すぐさま身体から、ふっと力が抜けてその場にへたり込んでしまった。
「ド……ドアの近くに落ちていたガラスの破片ですか……。気付きませんでしたよ……」
希柳義邦は、あふれ出る血を吐き出しながら、喋りにくそうに言う。
「はぁ、はぁ、はぁ……。腹に受けたおかえしはしないとな……」
「あはははは」
トモヤは皮肉を込めて言う。
それを、希柳義邦は本当に可笑しそうに笑っていた。
いつまでも。
もう互いに動くことはできない。
致命傷は確実に二人に最後の時間を刻みはじめていた。
永遠とも思える時の中、二人の罪深き男はそこにそうしていた。
闇と静寂。
これから二人が迎えるのは、まさに永遠の闇の牢獄なのだろうか。
男は笑い続けていた。
それを、トモヤは静かに聞きつづけていた。
終わる世界。
そんなことを思いながら、深い眠りの淵へと誘われつつある。
視界は狭まり、まさに闇へと沈み込もうとしていた。
そんな中で、彼の視界は、起き上がろうとする一人のシルエットを捉えていた。恐らく希柳義邦だろう。
彼はゆっくりとトモヤに近づこうとしていた。
その手に握られたナイフが再び、彼に迫ろうとする。
しかし、もはやトモヤには動く力もなかった。
トモヤは目を閉じる。
痛みはすでに感じないほどに全身は麻痺していた。
それでも、ナイフが自分の身に突き刺さるところなど見たくはなかった。
しかし次の瞬間。
「トモヤっ!」
聞こえるはずのない声が彼の耳に響き渡った。
その瞬間、トモヤの目が大きく見開かれる。
閉じていた世界がいっきに広がった。
そこに映ったものは、
「キヨミ!」
痛むはずのない麻痺しきった自分の身に、引き裂かれるような激痛が走った。
キヨミが、自分を庇おうとして前に立ち、その胸に希柳義邦の凶刃が突き立っていたのだ。
「キヨミぃぃぃぃ!」
「ト、トモヤ……」

――ウソだ! ウソだ! 今度こそ守るって決めたのに!

「ふ……ふふふ……あははは! やはり私が正しい!」
彼がナイフを引き抜いた瞬間、天高く噴出される血とともに、キヨミは倒れこんだ。
そのキヨミを、トモヤは受け止める。希柳義邦は、満足した顔で、そのまま姉弟に背を向けて歩き出した。
そんな希柳義邦など、もう眼中になく、トモヤは叫ぶ。
「キヨミ! キヨミ!」
「ト、トモヤ……ご、ごめん……ね。守り……きれなくて……」
彼女の血で真っ赤に染まった手が、弱々しくトモヤの頬に触れた。
トモヤの血とキヨミの血が混ざり合い、その場は瞬く間に血に溺れていく。
二人の姉弟の涙がまたそれに合さり、濡れた二人が互いを強く抱きしめ合っていた。
薄れていく意識。
熱く溶け合う二人。
トモヤに残された力はもうない。
けれど、それでも強くキヨミを抱こうとその手に力を込める。
「キヨミ……どうして」
涙が零れ落ちる。それがキヨミの頬に落ちた。
「うるさい……それより……キス……してよ……痛くってさぁ……あんたの気分悪いキスでごまかさないと……毒をもって毒を制すってやつ?」
苦し紛れに笑う彼女の表情は、時折、本当に激痛に歪む。
トモヤはそんな彼女の顔にそっと自分の顔を寄せた。
互いに血まみれの顔。
涙が溢れてきている自分の顔などは、彼女に見えているのだろうか。
しょうがないな、と彼女は笑う。
いつだったか、よく見たような姉の笑顔がそこにはあった。
何年ぶりだろう。
そんな彼女の顔を見るのは。
「……」
懐かしさと哀しさと、そして切なさが、彼の瞳の奥を熱くさせた。
そして、そんな自分の顔を見られたくなくて、彼は彼女の濡れた唇に自分の唇を重ねた。
血の味がする。
苦くて、熱くて、そして優しい。
「愛してる……キヨミ」
「……うん」
二人はそのまま重なり合っていった。
血の海の中。例え、神の怒りに触れ、地獄へと堕とされる運命にあろうとも。
それでも彼と彼女は幸せだった。
そして、とても幸せそうに笑っていた。



腹部に刺さったガラス片を、彼は一気に抜き取った。
勢いよく飛び散る血を目にする。
自分ももはや命つきようとしているのかもしれない。
彼はそんな気さえしたが、それでも死の恐怖を覚えることはなかった。
満足していたのだ。
成すべきことを成した。
神の徒として。
「悪魔にその身を堕とした者よ……」
やがて、出口のドアノブへと手をかけた時、突如、彼の耳元に、ふぅっと息を吹きかけられるような感覚と共に声が響いた。
「呼んだ?」
すぐ後ろに何者かの気配がした。
「!?」
彼はすぐさま振り返る。
するとそこには、年齢16歳くらいの一人の少女が立っていた。
いや、16歳くらいかと思ったが、恐ろしいまでに整った顔立ちに浮かぶ微笑は、妖しい艶っぽさがあり、本当に少女なのかどうか彼を迷わせた。
闇の中だというのに、不思議と蒼銀色の髪と紅く煌く瞳は煌いて見えた。
黒皮のショートパンツに蒼いネックホルダー。手には黒皮の手袋をつけている。
美しい……彼の心に瞬間浮かんだ言葉。
それはまさに、魔性の美しさと呼べた。
見るものを惹きつけてやまない。
危険であると感じさえしたが、そんなシグナルなど聞こえなくなってしまいそうなほどに、綺麗だった。
しかし、希柳義邦はなんとか平静を取り戻す。
そして、いつもの慈愛に満ちた神父の微笑みを浮かべた。
「おやおや、お嬢さん、こんな時間に何をしていらっしゃるのかな?」
ナイフを手にしている彼は、ゆっくりと彼女に近づいた。
見られてしまった以上は、彼女を殺すしかない。
とても優しく微笑む彼に、少女はまた妖艶な微笑を浮かべる。
「キミが呼んだんだよ。悪魔……とね」
「?」
その時、初めて希柳義邦は、少女から感じる奇妙な波動を感じた。
いや、それは少女からではない。
少女を目にした瞬間より感じるこのシグナルは、彼の中より発せられている。
それは彼自身ではなく、彼とともにある何か……であることを希柳義邦は知らない。
「ふぅん、そんなカタチになったのか」
少女は、希柳義邦の手に握られたナイフを見据える。
そのナイフの存在を見ても、何も動揺していない節を見ても、少女が何か普通でないことは分かる。
「おまえは……」
希柳義邦の表情から笑みが消えた。
そこには、全くの無表情さがあったが、その奥にある冷たい殺意は瞳に映っていた。
「キミは確かに神の徒ではあるね。【カレ】を呼び寄せるに至った。けれど、【カレ】を呼び寄せれば、また悪魔も呼び寄せることになることをキミは知っていたのかな?」
少女がそれを言い切る前に、希柳義邦は動いていた。ナイフの鋭く煌く軌跡が緩やかな弧を描いて少女に迫る。
しかし、それを少女はなんでもない顔をしたまま、左手の甲で彼のナイフを持つ手首に素早く当てて押し流す。
さらに無防備な彼の懐に飛び込んで、彼の勢いをそのまま利用し、一気に投げた。柔道でいうところの一本背負いにも似た体裁きで、希柳義邦の身体は、軽々と宙を舞ったのだ。
「うあっ!!」
軽い呻き声とともに、地面に落ちた希柳義邦は顔を歪ませた。
腹部の傷が軋み上げられたのだろう。
「おのれ! 悪魔がぁぁ!」
しかし、すぐさま痛みに耐えながらも起き上がった希柳義邦の首を、今度はどこからともなく伸ばされた手が掴んだ。
「なっ!?」
彼がその手の主を目にする間もなく、信じられないほどの力が彼の身を持ち上げたかと思うと、次の瞬間には、天高く放り投げられていた。
彼は何が起こったかも理解する間もなく、最後まで少女の魔性の微笑みを目にしたまま、次の瞬間には背中から感じる鋭い激痛に顔を歪ませることになる。
どすり、という鈍い音が響いた。
「……っ!!」
何か巨大な針のようなもの、いや、針どころではない。
それは彼の背中をえぐり、はたまた体内を貫通して彼の腹部から血まみれの先を覗かせていた。
天井に吊るされていた資材搬入用のフックだろう。
その太い針先が彼の身体を、サッカーボール一つ分の穴を開けるほど抉って、今や彼自身を吊るしていたのだ。
ぼちゃぼちゃと、紅い血がバケツから垂れ流されるかのように、落ちていく。
それだけではない。
巨大なフックが貫き通った腹部からは、腸のようなものが、だらしなく垂れ下がっていた。
ぴくぴくと震えた様子の彼の目は、両目ともあらぬ方向に向いたまま、絶命していた。
そんな彼の手から、やがて銀色のイエスの像が刻まれたナイフが抜け落ちた。
そして、垂れ流されてできた彼の血溜まりの上に乾いた音を響かせる。
「……神様によろしく」
そのまま、彼には興味なさげに少女は歩き出した。
姉弟の元に。



「やぁ、災難だったね」
少女は、ひどくこの場にそぐわないのんきさで笑いながら、その凄惨な場に歩み寄った。
紅い血黙り。
そんな血黙りの中央に、二人の少女と少年が重なるようにして倒れていた。
その上をちょうど天井の吹き抜けの部分から、月の光が降りていた。
なんとも幻想的な情景であると少女は感じた。
そして、少女は、まるでその血黙りと月明かりの場が、二人の姉弟だけの聖域であるかのように、それ以上前には進まなかった。
「ゆ……雪鳴音かぁ」
かろうじて生きているキヨミは、その人物を見て、薄く笑った。
いつもクラブで笑っているキヨミからは、想像できないほどに儚く、そして優しい。
なぜ、雪鳴音がそこにいるのかなど、キヨミにはもはやどうでもよかったのかもしれない。
「ったく、いつも雪鳴音って……誰にも会いたくない時に限って……現れるよね」
キヨミはそれでも笑っていた。
月の明かりのせいなのか、その顔はひどく真っ白で、綺麗だとさえ思えた。
そんなキヨミに、雪鳴音は少し困ったような顔で苦笑を浮かべる。
「ごめん」
そんな雪鳴音に、キヨミは笑いかけた。
「ウソ……ホントはね。雪鳴音に会いたくて……でも、こんなザマじゃん……」
自分に覆い被さるようにして倒れている少年を見据えながら、キヨミは言った。
少年の方は、すでに絶命しているのだろう。
もはや、全く動く様子もなかった。
キヨミの方も、もう長くはないようだった。
その目には、すでに雪鳴音の姿が見えていないらしい。
あらぬ方を見ては、笑いかける。
「ああ、あたしってなんでこんななんだろう……ホントに……サイテー……」
少女はなおも話す。
それを、雪鳴音は静かに聞いていた。
「……無価値どころか……『有害』……ついに人、鉄パイプで半殺しにしちゃっ
た! コレ、マジ!」
無邪気に笑うキヨミ。
時折、苦しそうに咳き込むが、それでも構わずにキヨミは笑った。
いつまでも……。
そして、少年を抱くその手に、ほんの少しだけ力を込めた。
やがて、キヨミの笑いも薄く月明かりの中に溶け込んでいき、そして消えた。
「雪鳴音……」
その声には、いよいよ命が消えようとしているかのような、それでいて安らぎに満ちてもいるようだった。
「なに?」
「これを……」
キヨミは何かを示そうと、少年を抱く片方の手を上げた。
しかし、すぐにそれは力なく落ちていく。
雪鳴音は、その時になって初めて姉弟の聖域へと足を進める決意をした。
そっと、ゆっくりとその血黙りの中を進み、中央に横たわるキヨミの元へと歩み寄った。
そして、その血に膝や服が汚れるのも構わず、そっと膝を落とした。
「これ……」
そばに雪鳴音が歩み寄ったことを感じたキヨミは、自分の首元を示そうと腕を動かした。
「うん」
雪鳴音は首元を示そうとする彼女の腕を、そっと少年を抱く手の元に添わせる。
「ありがとう……」
雪鳴音の心遣いに、彼女は薄く微笑みながら言った。
雪鳴音は小さく頷き、彼女の首元に吊り下げられた逆十字の首飾りを取った。
「これは?」
「……雪鳴音にあげるよ」
「……」
「あんまり……話したこともなかったし……クラブでしか会わない仲だったけどさ……不思議とあんたのこと……あたし好きだったよ……」
「……」
「あたしの……ただ一人の……本当の友達……だったかもしれない……」
「……」
「だから……もらって……」
「……ありがとう」
雪鳴音は、そっと彼女に囁いた。
するとキヨミは嬉しそうに笑った。
そして、彼女は、ぽつりと呟いた。
「ねぇ……雪鳴音……どうしてなのかな……」
笑った表情のまま、彼女はそのまま動かなくなった。
永遠に。
雪鳴音は、何を思うような表情も見せずにただじっと、そこにそうしていた。
月明かりの中、二人の姉弟が幸せそうに血黙りの中で重なる様を、ただじっと……。
やがて、風が吹くはずもないそこで、雪鳴音の前髪が、ほんの少し揺れたような気がした。



冬の寒空の中。
もはや夜が明け、朝日が照らし始めていた。
そんな中、サイレンを鳴り響かせた車両が何台もその場に集まっていた。
救急車が一台。
そして何台かのパトカー。
忙しなく捜査員が現場一帯を封鎖し、現場保存に勤めながらも証拠写真を取ったり一帯の捜査活動が行われていた。
そんな中、二人の刑事が白い手袋をつけて、話している。
「はぁ、ったく! わけわかんない事件ですね。これ……この二人の姉弟の父親は、近くの資材を移動させるためのフックに貫かれたまま吊るされていたようです!」
「いったい、何があったんだか……。現場だけ見るに一家で殺しあったように見えるが……」
「付近の住民によると、殺された希柳義邦は、近所でも穏和な人柄で有名な神父だったそうで……あ、そうそう! 姉弟の死んだ傍には、血の足跡が一つ。
恐らく、姉弟の最期の場にいたものと思われる者の足跡が発見されました! 神父を殺したのもきっとそいつなんじゃないですかね?」
「神父があんな殺され方するようじゃ、世も末だ。それにしても……」
そう呟きながら、刑事は、互いに抱き合いながら倒れている二人の少年と少女を見据えた。
その死に顔は、とても凄惨な死に方を迎えたとは思えないほどに、安らかさと幸せそうな微笑みに満ちていた。
真っ白で、そして真っ赤な二人。
それはまるで、純白の結婚式の中、紅い花束を投げられた幸せそうな二人のように見えなくもなかった。






――それにしても、まるで天使みたいだな。この姉弟……






―FIN―

I am GOD' CHILD ―後編―


11 :wx3 :2007/02/15(木) 23:07:31 ID:rcoJs4om

innocent boys 第一部

そこは、別に天国ではなかった。
誰かがその場所にやってきて、大地に書いていったわけではない。
これまで見たこともないほどに美しいといえる場所。
天国と呼んでも、恐らくたいていの人間が間違いということもないだろうと、彼は思う。
見たこともないこの場所をどうしてか彼は見たことのある場所、知っている場所のように、そこを天国ではないかと思うことに、奇妙な感慨を覚えるのだった。
不思議なものだ。
ずっと霧と石壁に覆われ、周りは霞がかった草原に囲まれた古びた街並みしか見たことのなかった自分が、この場所を懐かしんでいるかのように、感慨を覚える。
澄み切った空、天高く登る雲の隙間より、まるで天啓のごとく光のカーテンが優しく降り注ぐ。
妖精が、その羽より白銀の粉を振り撒きながら、金の陽光を反射しているかのように、眩しくはじける水。
青々としげる山間の森より舞い上がる風が、彼の心と身体ごと天高く舞い上げようとするかのように吹く。
ここは何処だったのだろう。
山も川も木も水も、すべてが強く高く声を発していて、それぞれに共鳴し合い、ちっぽけな人間である彼などは、その雄大さにただただ、己の小ささを感じ、また大きさを感じるのだった。
そして、知らないはずのその場所の匂いが、どうしてか切ないほどに懐かしかった。
彼はその世界すべてを一望できる丘の上にて、岩に腰掛けて何かを待っているようだった。
そんな彼の背後に、突如浮かび上がるようにして一人の少女が、ぼうっと立つ。
蒼みがかった銀の髪は、まっすぐ流れるような直毛。
紅い瞳が印象的だった。
16歳くらいの少女のようにも見えるが、ふとした瞬間には、なぜか妖艶な大人の女性のような色気を感じることもある。
純朴のようでもあり妖艶でもある。
混沌としていて純粋でもある。
少女のようで少年にも見える。
天使のような悪魔か、はたまた悪魔のような天使か。
聖なる魔。
その存在を人々は【反存在】と呼ぶこともあった。
この世界より断裂したシステムとも呼べる。
その聖なる魔は、美しいその顔に不敵な笑みを浮かべ、丘に腰掛ける一人の男に声をかけた。
「やあ、久しぶりだね」
男は振り返らない。
最初からその存在に気付いていたかのように、何を語ることもなく、ただじっと景色を見つめるだけだった。
男とその存在の間に、しばしの沈黙が降り立つ。
しかし、男はある時、口を開いた。
「もう何日もこうしている」
白い鳩が、直後、彼の前を飛び立った。
それは光の舞い落ちる雲の狭間へ、神の御許へと帰っていく。
男を残して。
「キミのいた世界では、まだそれほど時間は流れていないよ」
少女は静かに呟いた。
「……美しいな。美しい。しかし、これがお前がオレに見せたかった【真実】か?」
男の低い声が、穏やかというよりは空虚にその場に伝わる。
「あるいは、キミが望んでいた世界……」
少女の囁きは、男には少し意外だったのだろうか。
ほんの一瞬、瞳が見開いた。
しかし、それはやがて自嘲するような笑みに変わる。
「あの時、あの鏡を見た時、オレは真実を見た。あの霧に覆われた何一つ確かなもののない世界。哀しみも怒りも喜びも、すべてをあやふやにしてくあの場所で、オレは必死に戦っていた。次の瞬間にはライフルの弾が仲間の身を貫くあの場所で、オレはいつか忘れた何かを取り戻そうと必死だった」
男の言葉は、そこで途切れる。
そして、ほんの少し前の過去を思い返すように、男は顎を引き、地面を見据えた。
「……」
ただ静かに聴き入る少女。
「あの場所では、痛みこそが唯一感じられる自分と世界だったのさ。例えそれが欺瞞や慰めでしかない自傷行為でしかないものであっても。痛みの中で、霧に覆われていない晴れ渡った空。泥や血にまみれた川ではなく、澄み切った川の水。血と硝煙と火薬の匂いではなく、大地や木々や草の匂いを求めていた。
そして何より……何より、人間のいない世界を」
男はそう言って、再び丘の上に立ち、そこから一望できる世界すべての支配者のごとく見つめる。
美しいその風景には、かつて彼が見た虚無に満ちたあの霧の街と同じく、どこにも人の姿はなかった。
「オレにとって戦いは、そんなつまらない目的のために繰り返される終わりのない狂宴だったのさ……」
「キミは絶望していたの?」
少女は呟く。
「……」
「オレ自身、なぜなのか分からん。ひょっとしたら、あいつがオレの存在を証明してくれるんじゃないかと思ったのかもしれないな。情けない話さ」
「キミは最初からこうなることを知っていたの?」
男は答えなかった。
代わりに不敵な笑みを浮かべる。
「……」
そして、その笑みから少女は男の意思を悟る。
この時、初めて少女は男に対して何かの感情を表現した。
それまであった少女とは思えぬ平静さと、すべてを射抜くほどに深く澄み切った瞳は、この時初めて不快そうに細められる。
まるで、男に出し抜かれたと言わんばかりの悔しそうな顔。
そんな少女の顔を男もまた初めて振り返り、その皮肉に満ちた微笑を返す。
そして、男は告げる。
「一つだけ教えておこう。我が親愛なる宿敵よ……」
男はまた景色を眺めながら、今度は遥か遠い過去へと思いをはせる。
終わりなく続くこの虚構の天国と実像の地獄の境を眺めながら。


novel plaza system
甘辛流小説家ギルドGAIA
produced by COLUN.