ケマンソウ -貴方のために-


1 :小豆 :2008/10/26(日) 20:18:34 ID:ncPiWAVi


 息が切れるほどに走っていた。こんなにも必死に走ったのは、いつぶりだろうか。そんなことをじっくり思案する暇さえも、追っ手は与えてくれない。
 十……いや、二十か。先程よりも増えたな。
 生まれながらにして追われる身。こんなことは慣れているはず。だが、今日は相手が悪すぎた。普段なら真正面から相手をしてやるのだが、どうも無傷では帰してくれそうにもない。
 さて、どうしたものか。
 物思いに耽りすぎたか、気付けば森から出てしまっていた。先程までの薄暗さは消え去り、月明かりに照らされた背の低い草原の中を駆け抜ける。こんな時ばかりは、長く伸ばした髪が鬱陶しくて仕方ない。高い位置で纏めたそれは、自分が歩を進めるたびに激しく上下に揺れた。
 チャキ……と、左手に掴む愛刀が啼く。まるで戦わせてくれと、乞うように。
 今は待て。お前を抜けば後戻りはできない。奴らは死ぬが、俺も手傷を負うことになる。
 心の中で語りかける。それきり刃は、黙り込んだ。
 ザッ、と強く踏み込み、焦燥感と供に足を止めた。前を見れば、敵の仲間が十人ほど待ち待ち構えている。背後からの足音の数が減っていた。どうやら、回り込まれたらしい。
 既に抜刀し、今にも襲いかからんとする気配。周囲に満ちるは月の冷気と、それよりも冷たい殺気。
「やれやれ……。囲まれてしまったか」
 困った顔をして呟いた。どうやら敵は、一度に襲いかかってくるつもりらしい。頭の合図を待ち、身動きひとつ取らない。
 ……むしろ、好都合というものだろう。さぁ、早く俺を殺しに来い。
 そう思った時だった。すべての敵が突然に走り出し、一気に間合いを詰めてきたのは。迫り来る二十の足音。重苦しい圧迫感を覚えた。
 あと五、六歩のところまで敵が迫ったそのとき、漸く俺は呼んだ。
「……右京(うきょう)
 刹那、爆風が来た。自分を中心に、敵が四方八方に吹き飛ばされる。……いや、爆風ではない。敵は皆、鞘に収まったままの刀に殴り飛ばされたのだ。
 二十もの打撃を与えた鞘が、扱いが不本意だと言わんばかりに、みしりと嫌な音を立てるのが聞こえた。ふと前を見れば、自分のすぐ近くに人影がある。つい数秒前までは存在しなかったそれは、自分と同じような袴姿の男だった。
 右手で刀を握り締め、敵を殴り終わったままの姿勢で片膝を地面についている。こちらからは顔が見えないが、短い漆黒の髪といい、濃紺の刀といい、それは紛れもなく、今し方名を呼んだ自分の部下であった。
 彼は一度立ち上がり、こちらを振り向いたかと思うと、実に自然な動作で跪いた。
「……お呼びですか、章澄(あきずみ)様」
 相変わらず従順な奴だ。状況を見れば、何故呼び寄せたかなど一目瞭然。しかし、俺の命が下るまでは決して動かないのだ。そういう男だからこそ、信頼できる。
「薙ぎ払え、右京」
 感情を微塵も混ぜず、淡々と言う。すると右京は頭を垂れたままで。
「御意」
 そのよく通る声で、たった一言だけ応えた。寡黙なのはいいことだ。
「気を付けろ。先程は不意打ちだからよかったものの、相手は相当の手練れだ。次は簡単にはいかないぞ」
「はい。御助言、ありがたく承ります」
 更に深く頭を下げた後、右京はすっと立ち上がり敵に対峙した。
 初め、何が起こったのか把握できないでいた敵も、今は闘志を剥き出しにしてこちらを睨み付けている。奴らにしてみれば、片付けるべき獲物がひとり増えたに過ぎないのだろう。
 右京は静かに刃を抜くと、美しい装飾の施された鞘を、何のためらいもなく放り捨てた。現れたのは白銀の片刃。右京の最も愛する名刀、秋霖白風(しゅうりんのしらかぜ)だ。
 秋雨のように冷たく、風のように迅く。まるで奴そのものだと、いつも俺は思う。
 星の数ほど存在する人間の中で、あれほど刃に愛された者はいない。奴には秋霖白風が、よく似合う。
 そうこう考えているうちに、両者は動き出していた。右京は自分に一番近い敵から、……否、俺に一番近い敵から順に、相手をしていく。流石は、己を華鬘草(ケマンソウ)だと言うだけのことはある。
 どうやら敵も、右京の腕がかなりのものであると気付いたようだ。狙いを俺から右京に変え、確実に仕留めようと試みる。
 三本の刃が同時に振りかぶり、右京を襲った。しかし奴は、それらをすべて秋霖白風だけで受け止めてしまう。三人もの人間の力に一人で堪え、むしろ押し返さんとする勢いだ。だが、敵も甘くない。身動きの取れない右京を、背後から襲う者がいた。
「右京……ッ!」
 俺が名を呼ぶのと同時、右京の左肩が斬り裂かれる。奴は敵の攻撃を避けようと身を捩りはしたものの、やはりそれには無理があった。
「くっ……」
 右京は渾身の力で敵の刃共を弾き飛ばし、跳躍して間合いを取る。傷口からは血が滲み出していた。荒くなった息を整えようと、一度深く空気を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。ただそれだけで、右京は冬の湖面のような冷静さを取り戻した。
 肩の怪我など僅かばかりも気になりはしないとでも言うかのように、右京は平然とした顔立ちで敵を睨み付ける。それが俺に心配をかけたくないという、奴の強がりでしかないということは十二分に承知していた。だから俺は何も言わず、ただ奴が戦う姿を見守ことにする。
 残る敵は十四人。そのうち数人は既に右京によって怪我を負わされていたが、ほとんどがまだ無傷といった状態だ。元より多勢に無勢。流石の右京でも不利ではあったのだ。
 ……さぁ、これからどう戦うつもりだ? 右京よ。
 ふっと、自然に笑みがこぼれる。右京の闘いは、いつ見てもおもしろい。
 右京は軽く息を吐くと、一気に駆け出した。怪我を負った左肩を庇う様子もなく、真正面から。敵は突っ込んでくる右京を、真横に薙ごうする。だが、右京はしゃがみ込んでそれを回避。両の手を地面につくと、右足で敵の顎を蹴り上げた。走り込んできた勢いをそのまま乗せた蹴りは、敵のあごを砕かんとする威力だ。
 ……残念だったな。右京の強さは、剣術だけではないぞ。
 そう、それだからこそ、自分の右腕として常に傍に置いているのだから。
 右京はすぐに立ち上がると、蹴られた衝撃からまだ抜け切れていないそいつを、肩から腰にかけて一閃。一瞬にして絶命させた。
 不意に、俺に近づく敵がいた。長々と右京の相手をするより、さっさと俺を殺してしまった方がよいと考えたのだろう。だが、そう易々と上手くいくはずはない。
 俺の危機をいち早く察知した右京が、身を翻してその敵へと向かう。
 キンッという、硬質なもの同士がぶつかり合う音が、俺の左側、あまり離れていないところから聞こえた。そちらにちらりと視線を送れば、視界に入ったのは右京の背中。そして奴と刃を交える、ひとりの敵だった。二人はそのまま戦い始める。相手が地面に倒れ伏すのも、時間の問題だろう。
 右京が現れてから俺は、一歩たりとも動いていない。それが奴の凄さなのだと、俺はつくづく感心させられる。周囲には七つの死体。こいつらも俺の命を狙ったりなどしなければ、こんな目に遭わずに済んだだろうに。
 瞬刻、背後に鋭く研ぎ澄まされた殺気を感じた。右京は先程の敵の相手をしていて動けない。振り向き様に刀を抜いた。そして。
「章澄様ッ!!」
 ――――ガキンッ。
 赫の刃と、白の刃がぶつかり合う音が、右京の悲鳴に重なった。
「やれやれ……。結局は抜くことになったか」
 漆黒の鞘から姿を晒したのは、緋色の片刃をもつ俺の愛刀、狂炎舞斬(きょうえんのまいぎり)だった。
 狂った炎のように赤い刃をもって、舞い踊るように斬り殺す。これほどまでに兇悪な名をもつ刀は、天下のうちで他にないだろう。
 俺は自分に斬りかかり、今は刃を交えている相手に嘲笑を送った。
「ほう……。舞斬の殺意にあてられて尚、立っていられるのか。貴様が頭だな」
 蔑む俺の眼を、そいつは睨み返してくる。なかなか凶悪な眼をした男だ。そうでなくてはつまらない。
「やはり、ただ者ではなかったようだな。……だが、他の仲間は何人立っていられるだろうか?」
 俺の言葉が終わるや否や、周囲に散っていた敵が四人倒れた。虚ろな眼で、怯えたように震えている。
「……成る程、十三人中四人か。なかなかのものだな」
 抜いた瞬間からずっと、狂炎舞斬はやっと戦えることを狂喜するかのように震えていた。こいつは自ら、殺気を発する。よほど鍛えられた人間でなければ、その禍々しい殺気にあてられただけで倒れてしまうのだ。
 狂炎舞斬は無差別に殺気を飛ばす。もちろん、右京にもだ。まぁ、奴はこれくらいの殺気など何ともないのだが、周囲に与える影響が大きすぎるため、迂闊に鞘から抜くわけにはいかない。
 ……だが、狂炎舞斬がこの世で唯一、殺気を向けない相手がいる。それが俺、古轟(こごう)章澄なのだ。どうやら俺は、この醜悪な刀に見込まれてしまったらしい。故にこの刀を扱える人間は、他には存在しえない。
「……さぁ、撰べ。舞斬と白風。貴様はどちらの餌食になりたいのだ?」
 俺が嗤ってそう言うと、相手の目に一瞬だけ怯えが見えた。
 くだらない。その程度の人間か。
 僅かに侮蔑の念を抱いた時、背後からドサリという音が聞こえた。そして俺は、溜息を吐く。
「どうやら、貴様に選択する権利はないようだ。……やれやれ、困ったものだ。貴様が俺に刃を向けた所為で、いつもは穏やかな右京が……」
 白銀の軌跡が閃く。俺の目の前にいた男は、血を吹き出しながら倒れていった。
「切れてしまったではないか」
 目の前の屍に呟いた。前を見れば、すぐ近くに右京の姿がある。珍しいことに、返り血を浴びていた。よほど深く斬り込んだのだろう。
「申し訳ありません、章澄様。お手を煩わせました」
 そう詫びた右京の眼が、恐ろしいほどに据わっていた。声音も一切の抑揚が無い。更に言えば、普段の冷静な右京とはまったく違う、突き刺すように刺々しく、氷のように冷たい殺気を纏っていた。
「構わん。後は任せたぞ」
「御意」
 そしてその悪鬼は、動き出した。秋霖白風が、主の憤りに共鳴するかのように、チリチリと掠れるように啼く。
 敵は右京の様子が豹変したことに戸惑い、そしてその一瞬の気後れが命取りとなった。ひとり、またひとりと、右京は次々に殺めていく。その姿はまさに、夜叉そのもの。
 ああ、美しいな。
 素直に、そう思った。白銀の刃、漆黒の髪、凍えるように冷たい無表情。そして、闇色の瞳に湛えられた、怒りと殺意。すべてがすべて、俺を魅了する。だからこそだ、俺が右京だけを部下として認めているのは。
 不意に、右手に握る狂炎舞斬が大きく震えた。
 戦わせろ、と。
 悪いが、今日もお前の出番はないようだ。諦めろ。
 俺は苦笑を浮かべながら、赫い刃を鞘に収めた。目を細め、前を見る。そこには二十もの骸の中心に立つ、右京の後ろ姿があった。本来白いはずの、秋霖白風の刃は赤く染まっている。それを、右京は軽く振り払ってから鞘に収めた。
 ゆっくりと振り返り、少しふらつきながらこちらに近づいてくる。左肩以外に、右のこめかみに傷が増えていた。そこから止めどなく流れるものを気にも留めず、ただ、俺に前に片膝をつく。
「お怪我はありませんか、章澄様」
 それはいつもの、右京の声音だった。どうやら、皆殺しにしたことで怒りは収まったらしい。
「自分の心配をしろ。そのままでは死ぬぞ」
 言われ、初めて右京はこめかみの傷に気付いたようだ。ぐっと、右手で傷口を押さえ、止血を試みる。意外にも、すぐに血は止まった。あまり深い傷ではなかったようだ。
「あまり無謀なことはするな、右京。死なれては困るのだ」
 見下ろして言うと、右京は少しだけ嬉しそうな顔をした。もう一度頭を垂れ、まるで何かを誓うように、幾度と無く右京から贈られた、その言葉を言う。
「章澄様。死ぬまで貴方に従います。私は私の持てるすべてで、貴方を御護り致しましょう」
 それは、嘘偽りなどひとつもない言葉。だから俺は、ゆっくりと微笑んで。
「ああ、それでいい。お前だけは、常に俺に忠実でいろ」
「御意」
 月下。血の匂いが充満する草原の中で、右京の声だけが凛として響いた。





 - ケマンソウ -

 花言葉は、「従順」そして「あなたに従います」
 
 
 
 
 


2 :小豆 :2008/12/20(土) 23:49:54 ID:ncPiWAVi

※注意※

どうも、作者の小豆です。
なんだかんだ言って、続きを書くことにしました。
とは言っても、短編集っぽくなると思います。

最初にひとつ、注意を申し上げますが、この小説、段落ごとで視点が違います。
第三者であったり、右京であったり、章澄であったり。
読者の皆様が混乱されてはいけませんので、今ここで言っておきます。
なお、いちいち誰の視点かは明記しません。

ではでは、駄文ですが続きをどうぞ。


3 :小豆 :2008/12/21(日) 00:01:00 ID:ncPiWAVi

第一章 『雪上にて』



 ふと足をとめる。それは、自分の数歩前を歩いていた貴方が、急に立ち止まったから。
 冬物の分厚い羽織を着込み、更に衣を首に巻いた貴方の背中は、何も語らず静かだった。どうやら敵が現れたわけでもないらしい。
「……章澄様、いかがなさいました?」
 そう問えば、貴方は振り返り、言葉はないままに顎で天をしゃくった。つられて見上げた空は、曇天。その濃灰色に混じり、何か白いものがひとつ落ちてくる。小さく儚いそれは、私の掌に着地し、そしてすぐに消えていった。
 もう一度空を仰げば、今度は灰の地に白の斑模様が出来上がっている。いつの間にか、自分の吐く息が白かった。
「……雪だな。道理で寒いはずだ」
 そう呟いた貴方に視線を戻す。
 私はあまりのことに、息を呑んだ。
 薄く、白く、透き通るように弱々しい光の中で、貴方の姿は何よりも鮮明に浮かび上がる。深い緋色の羽織に、長い黒髪がよく映えていた。雪を背景に、わずかに傾いだ横顔には翳りが落ちる。その視線は確かに雪に向けられていたが、実際は別のもの……何か、遠いものを見つめているようでもあった。

 貴方には、四季折々の風景がよく似合う。降りしきる雪もまた然り。

 その美しさに囚われて、私は動けなくなってしまった。
 ……そう。どうしたって、貴方という人には敵わない。だから私は、貴方だけに従うのです。
 指先ひとつさえ動かせないままで、ただ、それだけを考えた。
 不意に貴方はこちらを振り向き、緩やかに微笑む。どこか淋しげに見えたのは、私の気のせいであればいいと心から願った。
「右京」
「……はい」
 何を言われるのかと思い、少し身構える。そんな私をよそに、貴方は顔色ひとつ変えずにこう言った。
「鍋が食いたい」
「………………え?」
 今までの真剣な空気からは想像もつかないその台詞に、私は思わず拍子抜けする。けれどすぐに思い出した。貴方は、そういう人なのだと。
「……わかりました。夕食にご用意致します」
 淡々と応えると、貴方は満足そうに頷いた。
「そうと決まれば急ぐぞ。屋敷までもうすぐだ」
「御意」
 短く返し、再び歩き始めた貴方の背中を追う。翳りは完璧に、消えていた。


4 :小豆 :2008/12/26(金) 22:30:53 ID:ncPiWAVi

 目が覚めた直後。いつもより外が明るいことに違和感を覚えた彼は、音を立てずに布団から抜け出し、縁側に面する障子を開けた。
 眼前に広がったのは、一面の銀世界。壮大な屋敷の、これまた壮大な庭は、すべてが雪に覆われていた。彼は肌寒さを感じながらも、そのまま縁側に立つ。見慣れぬ風景に、暫くの間見とれていた。
「…………ほう。昨日の雪が積もったか」
 不意に聞こえてきた声に、彼は少し驚きながら自分の右側に目を向ける。すぐ隣の部屋の障子が、自分の部屋と同じように開いており、そしてその前に立っていたのは。
「……章澄様」
 自分の主、古轟章澄であった。起きてまだ間もないのだろう、いつもは高い位置で括られる長い髪が、今はおろされたままだった。
「右京」
 前を向いたまま、章澄が彼の名を呼ぶ。
「はい」
 右京と呼ばれた彼はそう返事をしながら、今度は何を言われるのかと、懲りずにまた身構えてしまった。
「雪の上で戦ったことはあるか?」
 思いがけず、返ってきた言葉は真面目なもの。やはりこちらを向かず、前を見据えたままではあったけれど。だから右京も視線を庭へと戻し、問いの答えを口にする。
「いえ、ありません。そもそも雪が降ること自体、この土地では珍し――――」
 彼の言葉を遮ったのは、突然生じた何者かの殺気。直後、キンッという甲高い音が、明け方の冬空に響いた。
 右京は秋霖白風を鞘から抜ききらず、僅かに現れた刃だけで相手の刀を受け止めていた。白銀の刀身に交わるのは、名もない三流の刀。しかし、それに宿る殺気は尋常でないほどの濃度と、鋭さを有していた。
 自分の刃と、相手の刃の向こう側。手を伸ばせば容易に触れられるほどの距離に見えたのは、己の主の、至極愉しそうな笑み。突き刺すように鋭い両眼は、右京にとっては強力すぎる光を湛えていた。
「……成る程。それならば、丁度良い機会ではないか。……右京よ」
 至近距離で言われ、右京は僅かに畏怖の念を抱き、更には魅了されてしまう。言葉少なではあったが、主の言わんとしていることは十二分に理解できた。
「御意」
 彼が一言応えるのと同時、もう一度硬質なもの同士のぶつかり合う音がしたかと思うと、二本の刃は一度離れた。両者はそのまま、雪の上に飛び降りる。その際右京の方は、秋霖白風を完全に抜刀した。
 章澄がその手に握るのは、雑魚の相手をする時や右京との修行の時などに用いる白刃の刀。狂炎舞斬の方も帯刀してはいるのだが、それを抜いて、屋敷の者に徒に殺気を浴びせるわけにもいかない。周囲への無用な影響を嫌う章澄自身、狂炎舞斬の抜刀は極力避けているのだ。
 そんな彼は、自らを真っ直ぐに見据えてくる右京に向け、低い声音で言った。
「右京。先に言っておくが、俺を殺すつもりで来い。さもなければ、俺がつまらぬ」
 それに応えるかのように、右京は言葉もないままに走り出した。静かなる殺気を纏った彼は、一息に章澄との間合いを詰める。強く踏み込み、斜めに斬り込もうとした。
「……っ!」
 章澄はたった一歩、軽く身を捩りながら後退しただけで、いとも簡単にそれを避けてしまう。対する右京はというと、若干戸惑ったような顔で背後に跳躍していた。
 思った以上に足下が安定しない……。
 もう一度雪の上に降り立ち、前を見据える。踏み込んだ際に足を滑らせた後が、ありありと残っていた。ふっ、と軽く息を吐き、心を落ち着かせる。そして再び、右京は前へと歩を進めた。
 迫り来る右京を目の前に、章澄はただ、無言のままに待ち構える。先程と同じように右京が踏み込んできたのを見て、表情には出さずに少し驚いていた。
 奴らしくもない。同じ過ちを、二度も繰り返すというのか?
 そう思考した時だった。先程と同じように右京がよろめいたのを見たかと思うと、一瞬にして目の前が真っ白な壁に覆われたのは。
 どうやら右京は斜めになった体勢から、秋霖白風で雪を舞い上げたらしい。
 右京の姿を見失ってしまった章澄は、それでも尚楽しそうに嗤い。
「目隠しか。なかなか良い手だな。……だが」
 言いながら、目を閉じた。
「よいか右京。雪というのは土の地面と違い……」
 ――――サク。
 刹那。章澄は振り向きながら両目を開き、己の刀をある一点へと向けた。途端、両者の動きが止まる。章澄の刃の切っ先は、寸分違わず右京の喉元へと突きつけられていた。
 右京の額を、嫌な汗が一筋流れ落ちる。章澄はにやりと嗤って。
「足音を消しにくい」
 台詞の続きを、口にした。
 自分の喉からすっと刀が引かれ、右京は軽く溜息を落とす。安堵の入り交じったそれを聞きながら、章澄はくつくつと笑った。
「流石のお前でも、不慣れな状況は戦い辛いか」
「……はい」
 少し悔しそうに応えながら、右京は秋霖白風を鞘に収める。鍔と鞘のぶつかる、カチンという小さな音がした後で。
「……戯言はよせ」
 聞こえてきたのは予想だにしなかった言葉で、右京は怪訝そうに章澄を見た。
 視界に飛び込んできたのは、真剣な表情をした自分の主。先程までの楽しそうな笑みは、完全に消え失せていた。
「戯言とは、どういう……」
 あまりにも鋭いその視線に、右京は少し言い淀む。そんな彼の疑問に答えてやるのは、やはり章澄自身。
「お前はまだ、本気を出していないだろう? いくら雪の上だからと言っても、そう易々と負けてしまうほどお前は弱く無いはずだ。……初めに言ったではないか。それでは俺がつまらぬと」
 言われ、右京は少し辛そうに目を伏せた。
「……申し訳ございません。しかし私には、貴方に本気で刃を向けることなど……っ」
 右京が顔をあげるのと、章澄が寂しげに笑うのが同時だった。右京は驚きのあまり、言葉を失う。
「…………そうか」
 ぼそっと呟き、章澄はそのまま右京の横を通り過ぎて縁側へと帰っていった。
 後に残された右京は、困惑してしまって動くことができない。何とかして振り返ると、もうそこには章澄の姿は無かった。


5 :小豆 :2009/01/01(木) 00:25:25 ID:ncPiWAVi

第二章 『謹賀新年』



 それは、ある日の夕暮れ時のことだった。
 遠出した帰り道、貴方と私は寒空の下、屋敷を目指して歩いていた。山の斜面に面したその道は細く、緩やかに曲がる。左手にはそびえ立つ木々の壁、そして右手には、まばらにしか木の生えていない急斜面があった。ほとんど崖と呼んでもいいほどの勾配をもつそれは、およそ二十メートルほどの高さがあり、その下にはなだらかな森が広がっている。森林の遥か遠く、地平線には、ちょうど太陽がその身を沈めようとしていた。
 不意に、前を歩いていた貴方が立ち止まる。自然と自分も足を止めることとなった。怪訝に思いながらも、貴方の背中に声をかける。そういえば前にもこんなことがあったなと、思い返しながら。
「章澄様?」
 言葉と供に吐き出された息は白い靄となり、僅かに流れる風にかき消されていく。声は確かに伝わっているはずだが、貴方が振り返ることはない。そればかりか、今度は突然に走り出した。そして、いきなり軌道を変えたかと思うと、斜面の下へと降りていく。
「…………章澄様!?」
 あまりのことに一瞬思考が止まってしまったが、慌ててその後を追った。
 それは、あまりにも不意打ちのことだった。だから私は、貴方を追うことにしか注意を向けられなかった。……だから、気付けなかった。
 木々に飛び移るようにしながら、どんどん崖を下っていく。下りながら斜面を観察し、一度下りたら登るのは無理そうだなと思考した。
 最後の方は割と傾斜がなだらかだったので、一気に滑り降りる。ザザザザッ、という音と供に、土埃が舞った。
 下りきった平地、そこには…………誰もいなかった。
 辺りを見渡しても、長い髪を揺らす貴方の姿はなくて、代わりにあるのは僅かに拓けた土地と、すぐ先に広がる木々の群れだけだった。
「右京!」
 困惑しきっていた自分の耳に届いたのは、貴方の声。しかしそれはすぐ近くからではなく、頭上からのものだった。
「な……っ!」
 見上げれば、斜面の遥か上の方、先程まで自分たちの歩いていた道のすぐ下に、貴方はいた。貴方は斜面に突き出すようにして生えている松の木の上に立ち、私を見下ろしている。どうやら斜面を下ったふりをして、あの木のもとに留まっていたらしい。
 貴方は至極楽しそうに、不敵な笑みを浮かべると。
「命令だ、右京。日付が変わるまでに、無傷で屋敷に戻ってこい」
 それだけを言い放ち、松の枝に手を掛ける。どうやら自分を残して道に戻るつもりだとわかった直後には、貴方は軽い身のこなしで崖の上へと姿を消してしまっていた。呼び止める隙さえも、与えぬままに。
「……日付が変わるまでに……無傷で?」
 訳がわからず、小声で貴方の言葉を反芻する。途端、左手に握る秋霖白風が、僅かにその身を震わせた。そうして初めて、私はあることに気付く。
 …………はめられた。
 大きく溜息をつき、改めて辺りを見回す。林立する木々の間から、無数の視線を感じた。……いや、視線ではない。幾重にも折り重なるようにして自分に注がれるそれは、殺気。何故、今の今まで気付かなかったのだろうかと、思うほどに。
 ……ああ、そうか。
 思わず、苦笑を浮かべる。

 例えばそれが貴方の姿ならば、どんなに小さくとも見落とすことはない。例えばそれが貴方の声ならば、どんなに離れていても聞き逃すことはない。例えばそれが貴方という、私にとって唯一無二の存在ならば。何度はぐれようとも、何度見失いかけても、違えることなく見つけ出せる。
 他人の殺気に気付かない? それは当然と言えば当然のこと。私には、貴方以外のものは何もかも、鮮明に感じられないのだから。

 斜面を登ることは不可能、もはや退路は断たれた。どうやら、貴方は最初からこのことに気付いていたらしい。そう考えればすべてつじつまが合う。私だけを崖の下に下らせたことも、先程の命令の意味も。ならば私が為すべきことは唯ひとつ。
 静かなる殺気を纏い、秋霖白風を抜刀した。いつの間にか、相手はわらわらと森から姿を晒してきている。ざっと見たところでも、三十人以上はいるようだ。ただ、殺気の鋭さから察するに、それほど強いわけでもないらしい。
 そのうちの一人、明らかに血の気の多そうな男が、こちらに突っ込んできた。
 ザッ――――。
 隙だらけの相手に、容赦なく刀を振り下ろす。視界の端には、自分に走り込んでくる次の敵が見えていた。他の敵が動く様子はない。どうやら長期戦に持ち込み、こちらの体力を徐々に削っていくつもりらしい。確かに人数の多い相手側からすれば、よい手法ではある。
 二人目の男が倒れていくのを横目に見ながら、そんなことを考えていた。
 ふと、沢山ある敵の気配のうち、数人が異様な動きをしていることに気付く。仲間たちから離れ、どこかに向かおうとしていた。その先は……。
 思うより先に、言葉が口から出ていた。
「……忠告しておきますが、あのお方を追っても無駄です。舞斬は今、私が預からせて戴いておりますので」
 澄まし顔で言うと、相手の動きが止まった。もちろんそれは虚言なのだが、どうやらうまく騙されてくれたらしい。踵を返し、こちらに引き返してくるのがわかる。更に敵たちの目の色までもが、変わった。それはまるで、獲物を狙う獰猛な獣の様。
 やはり、目的は狂炎舞斬か……。
 先程よりも相手の殺気が鋭くなるのを感じながら、左側からの攻撃を秋霖白風で受け流す。思い切り腹を蹴り上げれば、そいつは倒れて動かなくなった。そしてまた、次の敵がくる――――。
 手は休めず、ちらりと空に目を走らせた。つい先程までは茜色に輝いていたのに、今はもう藍色に染め上げられている。冬は、日が沈むのが、早い。今日は快晴だった。藍色から黒色へ、そしてその上に小さな白色がちりばめられるのは、時間の問題だろう。
 悠長にやっていては間に合わないか……。
 ちょうど四人目を倒し終えたところで、敵の群れに向けて秋霖白風をまっすぐ突きつけた。ヒュンという、風を斬る音。一気に殺気を強めれば、白銀の刀身が僅かな光を反射し、闇夜の中に浮かび上がる。
 私は相手に、穏やかな笑顔を向けながら言った。もちろん、心は笑ってなどいなかったけれど。
「……あのお方の御言葉を聞いていたのなら、ご存じでしょう? 私には時間がありません。できることならば、一度にかかってきて下さいませんか?」
 一瞬の間。そのすぐ後に。
「うらぁぁぁぁ!!」
 地を振るわすような怒号と供に、敵が一気に襲いかかってきた。



「……やはり、冬はこれに限るな」
 炬燵にみかん。この至高の組み合わせを考えついた偉大なる先人達に感謝しつつ、橙色の小さな塊を口に放り込む。わずかに酸味の利いた、心地よい甘さが舌の上に広がる。この嫌みのない甘さは、甘味とはまた違う趣があって素晴らしい。
 そんなことを考えていた時だった。障子に、よく見慣れた者の影が映し出される。その気配だけで誰だか分かった。
「遅かったではないか、右京」
 すっと、音もなく障子戸が横に引かれ、現れたのは自分の従者、右京だった。顔を見るのは夕方ごろ、崖下に置き去りにして以来である。
「……まだ日付は変わっていませんが」
 炬燵でくつろぐ俺を見て、奴は困り顔をしながらそう返してきた。確かにぎりぎりではあるが、まだ明日にはなっていない。
「それに、何もあんなことをなさらなくとも、一言仰っていただければ片付けていましたのに」
 不服そうにしながら、部屋に入ってくる。溜息が聞こえてきそうな顔をしていた。
「それでは面白味がないではないか」
 言いながら、にやりと笑ってやる。今度こそ、右京は盛大に溜息をついた。そんな右京に、ぽんぽんと炬燵布団をたたいて座るよう促せば、素直に従う。四角形のうちの一辺、俺から見て右側に腰を落ち着ける。
「よし、これでやっと蕎麦が食えるな」
「……はい?」
 訳が分からないという視線を向けてくる右京。今度は俺が、溜息を落とす番だった。
「今日は大晦日だぞ?」
 呆れたように言う俺に対し、奴は少し目を見開く。どうやら、すっかり忘れていたらしい。
「だから、日付が変わるまでにと……」
 合点がいったように独り言を漏らす右京は放っておき、使用人を呼び寄せて蕎麦を持ってくるように言いつけた。



 遠くから、除夜の鐘が聞こえてくる。今年ももうすぐ、終わってしまうらしい。となりに目をやれば、年越しを待たずして眠りに落ちてしまった男がひとり。
 夢でもみているのだろうか、寝苦しそうに身じろぎする。すると、それまでは着物に隠されていた左腕が露わとなった。そこに巻かれた真新しい包帯は、嫌でも目に付く。
「……右京。俺は“無傷で”と言ったはずだが?」
 呟くが、その言葉が奴に聞かれることはない。少しだけ、後悔していた。またもや傷を負わせてしまったな、と。
 一〇八つめの鐘が鳴る。それは、年が明けたことの証だった。
「……謹賀新年、右京。今年も……いや、これから先もずっと、頼むぞ」
 語りかけながら、起きる気配のない右京にそっと羽織をかけた。


6 :小豆 :2009/05/05(火) 19:21:04 ID:ncPiWHtn

第三章 『花ハ散ル』


 誰も彼も、とうの昔に散ってしまった
 その儚さが美しいのだと、人は言うけれど

 散って、遺された枝は、何を想うのか

 従順なる花よ、誓いの花よ
 どうか君だけは、散ってくれるな





 彼がその異変に気付いたのは、まだ夜が明けて間もない頃のことだった。
 瞼を開ければ、視界を埋めるのは見慣れた天井。もう何千回と、目覚める度に見上げた自室の天井だ。
 横になったままの状態で、視線を周囲へと走らせれば、彼の五感は顕著なまでにその異変を感じ取った。
 平常、彼の部屋は隣の部屋と襖で仕切られている。しかし、今はその襖が完全に取り払われ、ひとつの大きな部屋となっていた。
 だが、そんなことは異変と呼ぶほどのことではない。問題なのは、そのひと続きになった大部屋の畳がすべて、白一色になっているということだ。
 状況を理解できぬままに、彼が慌てて起き上がれば、至極愉しそうな声が飛んでくる。
「漸く目が覚めたか、右京」
 声のした方を振り返った。こちら側よりも一回り大きく、造りも凝った向こう側の部屋。その中心に、その人はいた。
 安物の寝間着の上に、見事な刺繍のほどこされた朱色の羽織を引っかけるという、少々不釣り合いな着こなし。おろされたままの長い髪は、開け放した縁側から吹き込む、かすかな春風にあそんでいた。
 とりあえず我が主が飄々としている姿を見て、この異変について危険は無いと判断。右京と呼ばれた彼は一度冷静になってみて、改めて辺りを見回した。
 初め、白一色だと思っていたそれは、よくよく見れば所々に薄い紅が混ざっている。

 千もの万もの、桜の花。

 尋常ではない量の桜が、部屋一面を覆い尽くしていたのだ。
「……章澄様、これは何の冗談ですか?」
 ごくごく単調な声音で問う。すると章澄は、軽やかな口調で返してきた。
「案ずるな。ここにあるのは、既に散った花ばかりだ。枝から手折るような真似はしておらぬ」
 この言葉に、一瞬右京は面食らう。その直後には、脱力感におそわれていた。
「私が申し上げているのは、そういうことではなく……」
 頭を抱え、盛大に溜め息をつく。朝一番から頭痛がしそうだった。
 そんな右京にはお構いなしに、章澄は一面に広がる白と薄紅に見とれ、穏やかに語る。
「美しかろう? 黄昏時になる頃には、色がくすんでしまう……。まるで蜻蛉の命のようだとは思わぬか」
 言われ、右京は部屋を埋め尽くす花々に目を向ける。素直に、美しいと感じることができた。
 ふと、嫌な予感がした右京は、章澄の方は向かずにぽつりと言う。
「……その、色のあせた花を掃除するのは」
「無論、お前だが」
 間髪入れずに返ってきた主の言葉に、最早溜め息をおとす元気も湧いてこなかった。いや、溜め息をおとすには、慣れ過ぎてしまったと言った方が妥当だろうか。
 そう、いつものことなのだ。自分を驚かせて楽しむ為に、事の準備は密かに行うが後始末は決まって人任せ。自由気ままに人のことを振り回し、それでもなお、お側を離れたいとは微塵も思わせない。それほどまでに貴方は、魅力的だ。
 無言のまま、そんなことを考えていた右京に、章澄から声がかけられた。
「それよりも右京、髪を結うてはくれぬか。……手が離せぬのだ」
 この言葉に主を振り返れば、その両手に握られたとっくりと杯が目に入る。
 朝っぱらから……とは思ったが、何しろ酒にはめっぽう強い我が主である。朝から飲んだとしても、悪酔いをする心配などないだろう。そもそも、せっかく楽しんでいる所に、水を差すような真似はしたくなかった。だから右京は、
「承知しました」
 ただ、従順に頷いた。
 幾千の花を、主の大好きな花を、踏んでしまわぬよう気をつけながらそばまで移る。ゆっくりとした動作で、章澄の背後に膝を立てた。
 決して器用とは言えない右京だが、流石に幾度もやってきたことなので、取りこぼすこともなく綺麗に髪をまとめ上げていく。
 いつ見ても、まるで女のもののように綺麗な髪だなと思っていた所に、章澄の声が割って入った。
「……右京。儚きものと永きもの。お前は、どちらが真に美しいと思う?」
 右京には章澄の顔が見えなかったが、なんとなく、淋しそうな表情をしている気がした。その理由はわからない。だが、問いの答えなら、考えずともわかっていた。
「私は、貴方にお仕えしてもう十年以上になります。しかし、かつて私を魅了し尽くした貴方はくすむことなく、……いえ、そればかりか、よりいっそう輝いておいでです。……儚きか、永きか。それは私にとって、考えるまでもないことでしょう」
 そう、貴方の美しさは、永遠なのだから。
 その時、丁度髪が結い終わった。頭を固定しておく必要の無くなった章澄は、右京を振り返り、
「……そうか。ならばお前は、」
 そこで一度言葉を切ったかと思うと、そばにいる右京にしか聞こえないほど声を低くおとし、続きを囁いた。
「永きを美しとするならば、お前は……、お前だけは、散ってくれるな」
 そして章澄は、嗤う。その、闇を溜めたような深い瞳に、右京は吸い込まれてしまいそうな気さえした。
 主の眼孔から目が離せぬままに、右京は緩慢な動きで口を開く。
「──御意」
 それ以上の言葉を、口にすることはできそうにもなかった。


7 :小豆 :2009/06/27(土) 23:07:37 ID:ncPiWHtn

第四章 『闇に蝶』



 闇夜を舞う蝶々は
 身を灼くような想いを羽に乗せ
 一途に羽ばたき続けるのでした

 誰が彼女を愚かだと言えようか

 それは自分自身
 自ら望んだ宿命に
 傷付き、苦しみ抜く物語





「何やら、表の方が騒がしいですね」
 右京が隣りに座る主を振り向けば、彼は目を閉じて、何の音なのか聞き分けている様子だった。邪魔をしてはいけないと思い、右京は黙って事の運びを見守る。
 不意にその両眼が、開けられた。そして、
「右京。お前に客のようだ」
 言い終わらないうちに、章澄はにやりと嗤う。その不敵な笑みに若干の不安を感じつつも、右京は章澄の言葉を反芻する。
「私に、客…………」
 刹那、点と点とが繋がった。はっとしたような表情をしたかと思うと、右京は突然に立ち上がろうとした。しかし、章澄に腕を掴まれ、右京の逃亡は阻止される。
「章澄様!?」
 慌てて振り返った右京の顔は、真っ青だった。対する章澄は、この上なく楽しそうな顔をしている。右京の不安は、いよいよ確信のものとなってきた。
「命令だ、右京。ここにいろ」
 その言葉に、右京の表情が絶望のものへと変わる。
 完全に楽しんでいる……ッ。
 右京としては、主の愉快そうな表情が憎くてたまらなかったが、“命令”と言われてはもうどうしようもない。腹を括るのと同時に、改めて思い知らされた。
 最初から、自分に勝ち目などなかったのだ、と。
「……わかりました」
 観念したように右京が呟いた時、物凄い勢いで廊下を走る足音が聞こえてきた。足音は2人がいる部屋へと近づいてくる。それと並行して、右京の面もちもどんどん険悪なものになっていった。
 ──バタンッ!!
 けたたましい音を立てて、襖が勢いよく開く。現れたのは、ひとりの女性。
「右京!」
 彼女はすごい剣幕で叫び、右京はその声にびくんと体を揺らした。そして彼女は、にかっと歯を見せて笑ったかと思うと、
「会いたかったぁー!!」
 いきなり右京に飛びついてくる。反射的に右京は跳びすさってそれを避けた。
 標的を捕らえ損ねた彼女は、それでも身軽な動きでふわりと畳に着地し、口を尖らせる。
「なんだよ、もう。照れんなよっ。同じ“京”同士だろー」
 口ではそう言いつつも、表情はご機嫌のようだった。それに対し右京は、至極低い声音で応える。
「……お久しぶりです。左京(さきょう)殿」
「うん、会いたかったよ、右京!」
 この女性、男のような口調ではあるが、その目鼻立ちは整っており、かなりの美貌の持ち主である。
 しかし、男物の着物と袴、そして腰に挿された長短一対の刀など、勇ましい印象が先立ってしまい、女性らしさはあまり見受けられない。ただし、その黒髪だけは章澄以上に長く伸ばされ、頭の後ろ、高い位置でひとつにまとめられていた。
 そんな彼女の名は、“左京”。まさに右京とは対になる名前なのだが、それもあってか彼女、見てわかるように右京に思いを寄せている。そしてその左京を右京が苦手としていることも、見ての通りだ。
 ふと、それまで成り行きを見守っていた、……もとい、成り行きを楽しんでいた章澄が、口を挟んだ。
「それで、左京。今日は何用だ? まさか右京の顔を見るためだけに、わざわざ来たのではないだろう」
 その言葉に、左京は困ったように頭をかきながら応えた。
「まぁ、それもあるけど……。章澄、あんたに忠告しとこうと思って」
「忠告?」
 章澄が怪訝そうな顔をする。そんな彼をよそに、左京は章澄に向かい合って腰を落ち着けると、至極真剣な顔付きに変わった。自然とその場の空気が張り詰める。そんな中、口火を切ったのは左京であった。
「ここ最近、あんたを亡きものにしようとしてる連中の動きが活発になってる。……近々、本気で首を取りに来るよ。あたしのとこにも、依頼が来たぐらいだしね」
「成る程……」
 章澄は顎に手を当て、何やら考え始める。その横で右京は、ひとつの疑問を抱えていた。
 彼の疑問、それは左京の言った“依頼”という言葉である。そもそも右京は、左京の素性をあまり知らない。ただひとつ、骨身に染みてわかっていることは、彼女がかなりの剣術の使い手であるということだ。以前、手合わせしたことがあるのだが、右京でさえ苦戦するほどで強者であるのだ。
 思考にふけっていた章澄は、不意に何かを思いついたように顔を上げ、左京に問いを投げかける。
「左京、聞くまでもないとは思うが、その依頼はどうした?」
「断った」
 間髪入れずに返ってきた答えに、章澄は頷きながらも嘆息。
「そうか……。ならば依頼主の顔も見てはいまいな」
 ほとんど独り言のような章澄の呟きにも、左京は律儀に返答してやる。
「ああ。何なら依頼を受けるふりして、探りでも入れた方がよかったか?」
 言いながら、にやりと笑う左京。その笑みには、章澄に退け劣らぬほどの妖艶さが滲んでいた。
「……いや、それには及ばぬ。無闇に巻き込むつもりはない。この話を知らせてくれただけで十分だ」
 きっぱりと言い切る章澄に、少しも恐れというものが見受けられないのは、やはり幼い頃から命を狙われ続けてきた結果なのだろうか。慣れとは恐ろしいものである。
「さて! それじゃ用事も済んだことだし、あたしは帰──」
 突如、左京の動きが止まった。それとほぼ同時に、章澄や右京の眼が真剣な色に染まる。ピンと張り詰めた空気の中で、徐々に3人の殺気が強くなっていった。それをひしひしと感じながら、左京は口を開く。
「……不躾な客を招いちまったようだな」
 その時、庭木の奥から、刃を抜き払う音が聞こえた。


8 :小豆 :2009/08/08(土) 19:20:23 ID:tcz3unte

 古轟の屋敷では、壮大な敷地に多種多様な木々が生い茂っている。どれも手入れが行き届いており、季節ごとに美しい花や紅葉で目を楽しませてくれるのだ。
 しかしその木々は時に、よからぬ輩の隠れ蓑となってしまう。
「……庭を掃除して来い、右京」
 凛として響く低音。右京はそんな彼に対し、神にでもかしづくかのように恭しく頭を下げて、
「御意」
 唯一言、簡潔に述べると、窓から飛び出して行ってしまった。勿論、その左手には己の愛刀である秋霖白風をしっかりと握りしめて。
 風が流れる。章澄の長い髪が、静かに揺れた。
「まったく、血の気の多い……」
 嘆息と共に呟いた言葉を聞く者は、いない。章澄は今し方、左京が右京を追って抜けていった窓を眺めながら、口の端をつり上げて嗤った。見る者すべてを魅了し、そして恐怖さえ感じさせる、笑み。
 傍らに置かれた狂炎舞斬にゆっくりと手を伸ばすと、刀は狂喜するかのように僅かに震えた。
 戦場に、連れて行ってもらえるのか、と。
 しかしそれさえも、章澄は笑みひとつで制止させてしまう。その長い指で、漆黒の鞘をずり、と撫でた。
「……まぁ、お前に勝る者はおらぬがな」
 嘲るように言い捨てる。それに対し狂炎舞斬は、抗議するかのようにチャキ……と啼いた。
 血が欲しい。
 叫び声が聞こえてきそうなほどの、強い欲望。だが、その刀の主たる章澄は、そうそうその願いを叶えてはくれなかった。



「……どうやら、気付かれてしまったようですね。退却しますか?」
 男は傍らにいる自分の主に、視線を送りながら問う。男が深い茶の着物と黒の袴を着込んでいるのに対し、主の方は、すみれ色の着流しの上から、裾に山吹の染め物が施された白の羽織を引っかけるという、あまり身を隠すには適さない格好だったが、見事なまでに着こなしているため違和感が全く感じられない。
 そんな彼は異質な白い髪を揺らし、見る者すべてが震え上がりそうな冷笑を浮かべた。
「いや、地の利は向こうにあるんだ。逃げたところですぐに追いつかれるだろう。……どうせ章澄は出てきやしない。従者を仕留めた後に退くぞ」
 そんな彼の言葉に、先ほど質問を投げかけた男は首を傾げる。
「何故、従者だけが出てくると?」
 問われながら、彼は腰に差した刀に手を掛けた。
「奴は屋敷の人間に、狂炎舞斬の殺気を浴びせるのが恐いのさ」
 臆病者が、とでも言いたげな冷たい嘲笑を、白い髪がより一層引き立てる。
「さぁ、奴の庭に血の紋を刻んでやろう」
 そうして彼は鞘を払い、自身の髪と同じような白銀の刃を、傾き始めた陽の元に晒したのだった。


9 :小豆 :2009/08/21(金) 21:08:11 ID:xmoJmmnc

 歩き慣れた庭の中を、木々を縫うように駆け抜けていく。普段より少し、遅めに走っていた。それは背後から彼女の気配を感じ取っていたから。敵に出くわす前に追いついてもらい、できることなら帰してしまうつもりだった。
「……左京殿。何故ここにいらっしゃるのですか?」
 声が届く範囲にまで左京が追いつくのを見計らい、右京は言葉を発した。常日頃の穏やかな口調とはかけ離れた、突き放すような冷たい響き。それに対し返されるのは、くすりという笑い声だった。
「……つれないわね。古轟の庭は他に比類無きほどの壮大さ……。独りで掃き清めるのは、大変でしょう?」
 ああ、これはもう、手遅れか。
 右京は諦めるような溜め息を落とした。左京は戦うとき、まるで別人のように口調が変わる。その理由は右京の量り知れるところではないが、こうなってしまった以上、何を言っても左京は聞く耳をもたないだろう。
 走る速度を上げる。最早、何も躊躇う必要はなかった。彼の疾走に、彼女は後れを取らず付いてくる。やがて視界が開け、小さな広場のような場所に出たところで、二人は立ち止まった。ここだけ木の数が少なく、乾いた地面にはぽつりぽつりと、申し訳なさそうに雑草が生えている。
 男達は、その広場の中心に立っていた。
「……唯の二人で乗り込んでくるとは……いい度胸ですね」
 一分の隙もなく、右京は秋霖白風に手をかけ相手を睨み付ける。一歩退いた場所で、左京も刀の鍔に親指を添えていた。
 対する二人の男達だが、一人は短い黒髪と黒の目――出会う場所が他だったなら、きっと優しげな印象を受けただろうその黒い瞳は、鋭くこちらを睨み付けており、両手に握る刀を真っ直ぐに構えている。
 そしてその数歩後ろに、無造作に立つ男……こちらは、何とも不思議な雰囲気をもつ人間だった。闇のような漆黒の瞳に対照を成すかのような、純白の短髪。生まれつき茶に近い色の髪を有する者はしばしばいるが、これほどまでに色素の無い、むしろ透き通るような白の髪など、見たことも聞いたこともなかった。しかしこの男を奇怪に魅せているのは、何もその髪のせいだけではない。右手に握る白銀の刀は下ろされ、殺気という殺気がまったく感じ取れない。そればかりか、まるで親しい友人と待ち合わせでもしているかのように、僅かな微笑すら浮かべて彼はそこに立っているのだ。
 言い知れぬ恐怖感を抱きながら、左京はその男に問うた。隙も表情も、一切崩さずに。
「……あなた、お名前は?」
 すると彼はすっとその目を細め、更に笑みを濃くした。それはもう、ぞっとするほどの、殺気を込めて。
「白き夢幻の獣……白麟(はくりん)、とでも呼んでもらおうか」
 水に濡れた冷たい手で、背筋を撫でられるかのような感覚が右京と左京を襲う。低く響く優しい口調に乗せられた、鋭く研ぎ澄まされた殺意。凡人ならばそれだけで気が狂ってしまいそうだった。
 ――そう、凡人ならば。
「……いい名前ね。あなたには勿体ないくらい」
 麗しい微笑みを浮かべ、左京は応えた。右京は無言のままではあるが、変わらず真っ直ぐに白麟を睨み続けている。
 恐怖はある、が、怯えはない。何故なら二人とも、これ以上の殺気を知っているからだ。他でもない、古轟章澄の、それを。
「辛辣な物言いだな、左京。こちらの誘いを断っておいて、章澄方についていたのか?」
 くつくつと、喉の奥を震わせて笑う白麟。その一挙一動は、とても美しかった。
「あら、心外だわ。私は元から、こちら側の人間よ」
 左京の言葉に、白麟から笑みが途絶える。奈落の闇を思わせる瞳を、妖しく光らせて。
「それは……残念」
 途端、両者が動いた。白麟の前で刀を構えていた男が、こちらに走り込んでくる。それに相対したのは、右京であった。
 キンッという甲高い音を響かせ、二本の刃が交わる。力はほぼ互角。ギリギリと耳障りな音を立てる刀に力を込め、右京は相手の刃を弾いた。男はそのまま後ろへ跳躍。しかし右京の方は、俊敏な動きでその場に身を伏せた。その頭上を、左京がふわりと飛び越えていく。男は驚愕の表情を隠せぬまま、また、空中で身動きが取れぬまま、彼女が両手で握りしめた長刀を視界に捉えていた。
 ――ガキン!
 すんでの所で、男は左京の刀を受け止めた。しかし、
「間に合った、とでも思った?」
 視界の端で、左京の左手が動くのが見えた。本能的に、男はその場にしゃがみ込む。一瞬間前まで男の喉があったその場所を、銀色の軌跡が通り過ぎた。
 男は低い姿勢から、左京と距離を取るように瞬時に飛び退く。それは本当に、目にも止まらぬ迅さだった。もしあと一瞬でも遅ければ、間違いなく左京に刀を振り下ろされていただろう。
 獲物を捕らえ損ねたことを悟ると、左京は一端、背後に跳躍して男との間合いを図った。そうして、改めて刀を構え直しながら、残念そうに呟く。
「……なかなかやるのね。この技をまともに避けたのは、あなたで二人目よ、名無しさん。……尤も、右京は髪の毛一本さえ切り落とさせてくれなかったけど」
 そうして、ふわりと微笑む。その言葉に呼応するかのように、離れた位置からこちらを睨みつける男の頬に、一本の赤い筋が浮かんだ。
 左京がその手に握るのは、長短一対の両刀。右半身と共に少し引かれた右手には長刀を、顔の前に構えられた左手には、切っ先が僅かに赤く濡れた脇差しを逆手に握る。そしてその二本の刀の柄は、幅一寸ばかりの朱い帯で繋がれていた。
 左京の愛刀、橙朧踊子(とうろうのおどりこ)である。まさに踊子という名に相応しい、華奢ながらも華やかな姿。朱色の帯には、舞い踊るように羽ばたく金糸の蝶と、白い花が銀糸で刺繍されていた。
 隙を見せぬまま、左京はちらりと白麟に視線を送る。彼が動く気配は全くない。どうやら高みの見物を決め込んだらしい。


10 :小豆 :2009/08/28(金) 20:28:26 ID:xmoJmmnc

「…………暮鴫(くれしぎ)だ」
 不意に聞こえてきたのは、先ほど自分が斬りつけた相手の声。ありありと不機嫌さが滲み出たその声音に、左京はくすりとした笑みをこぼす。
「あら、ごめんなさい。“名無し”と呼ばれたのが、そんなに腹立たしかった?」
 男……暮鴫は言葉を返そうとしない。ただ、一切の隙を与えずに左京を注視している。それに構わず、左京は続けた。
「でも、あなたが悪いのよ? あなたには、私に名前を問わせるだけの…………魅力がない」
 その言葉に、これまでずっと冷静沈着だった暮鴫が激昂した。だが、それは至極当然の成り行きと言えよう。
 名を訊くにすら及ばぬ雑魚。
 そう言われたも、同然なのだから。
 暮鴫の表情自体には何ら変わりはない。だが、纏う空気が、先程までとは明らかに違っていた。それを肌でひしひしと感じながら、自身に走り込んでくる暮鴫を左京はじっと待ち構える。
 中段からの一閃。それを彼女は刀で受けず、背後に倒れるようにして避けた。傾いでいく体をそのままに、左京は何の躊躇いもなく左手の脇差しを手放す。と同時に、右腕を思いきり右から左へと薙いだ。その動きに準じ、帯によって繋がれた脇差しが弧を描きながらに暮鴫に飛んでいく。暮鴫は予想外の攻撃に驚愕しながらも、姿勢を低くすることでそれを回避。彼の頭上を橙朧踊子が通り過ぎた時、すでに左京は刀を持たぬ左手を軸に後方回転しており、そんな彼女の手中へと、吸い込まれるように刃は戻ってきた。
 暮鴫は刀を避けた低い姿勢から手首を返し、刃を上へ向けると下から斬り込もうとする。その軌道を確実に読み、左京は左足で強く踏み込んで暮鴫の攻撃を脇差しで受け止めた。そして、踏み込んだ流れに乗り、そのまま右回りにくるりと回る。その動きに合わせ、左京の長く美しい髪がひらりと舞った。
 回転の勢いに任せ、左京は右手の長刀で真横から斬りつける。が、それすらも刀で防がれてしまった。すると左京はつまらなそうな表情を浮かべ、両手を柄からぱっと放したかと思うと、軽い身のこなしで背後へと飛び退いた。
「な……っ!」
 闘いの最中に刀を棄てるなど……と暮鴫が思ったのは単なる早合点で、左京の手には橙朧踊子の朱帯がしっかりと握られていた。飛び退きながらもぐいと手前に引き、両刀を引き寄せる。そしてまたもや、手中に収めた。
 彼女の動きには一切の無駄が無く、すべてがすべて、流れるように美しい。ともすれば、それはまるで、舞を舞っているかのようにも見えた。
 そんな左京の様子に、暮鴫は半ば呆気に取られるが、すぐに我に返ると彼女を追うべく地を蹴った。一息に間合いを詰めてくる暮鴫を見据えながら、彼女はにやりと不敵な笑みを浮かべる。
「……後ろ、気をつけた方がいいんじゃない?」
 刹那、背後から殺気が来た。咄嗟の判断で、暮鴫は振り向き様に刃を翳す。そこに容赦なく振り下ろされたのは、秋霖白風だった。
 ガキン――ッ。
 刀が折れてしまうのではないかと思わせるほどの、すさまじい音が鳴る。見れば、先程までは思考の範囲外だった右京が、殺意をその瞳にみなぎらせてそこにいた。
 あまりのことに、暮鴫は狼狽する。決して右京を忘れていたわけではないが、何故かその存在が自分の意識に浮上してくることはなかった。それは、単に暮鴫が左京に集中していたということもあるがそれ以上に、右京が一切の気配を消していたためであろう。普通、気配を消すにも限度がある。この至近距離でそれが成せるなど、よほどのことではない。恐らくそれも、常に章澄の影となり、彼を護り続けてきた右京だからこそ成せる技なのだろう。
 そんなことを一瞬のうちに思考し、暮鴫は改めて右京を見据える。刀は相変わらずおぞましい勢いで圧され、少しでも気を抜けば簡単に腕を持って行かれそうだった。
 身動きの取れない暮鴫に、左京が背後から迫る。それをいち早く察知し、暮鴫は二人から逃げるように真横に飛び退った。左京と右京は、容赦なくそれを追っていく。
 暮鴫を攻め立てるは、左京独特の舞い踊るような動きから次々と繰り出される、両刀の軌跡。そしてその合間を縫うように振り下ろされる、右京の強烈な斬撃。そんな彼らの動きは、“喋らずとも意思を伝え合える”とでも言うかのように、ぴたりと合っていた。
 幾度か刃を交えたことがあるのだ。互いの手の内は知れている。だが、それだけではなかった。唯のそれだけで、ここまで息が合うはずなど無い。
 阿吽が如く、天性の相性。
 章澄は以前に、二人のことをそう称した。何の因果か、同じ“京”の字をその名に冠する、この二人を。
 そんな右京と左京に、暮鴫は畏怖を感じずにはいられない。それでも唯ひたすらにかわし、受け止め、致命傷を避け続ける。しかし、容赦なく狙われ続ける急所を外すのが精一杯で、反撃はおろか、体には徐々に傷が増えていく。言い知れない焦燥感に襲われた。
 ……このままでは、何の役にも立てない。あの方への恩義に、報えない……。
 そう思ったとき、暮鴫の刀を握る手に、力がこもった。右京と左京はそれを肌で感じ取り、僅かに警戒を強める。が、暮鴫の覚悟は惨めにも、無駄に終わってしまうこととなる。
 刹那。右京と左京は、再びあの感覚に襲われた。左京は咄嗟に、左手の脇差しを手放し、両手を長刀の方だけに添える。
「左京殿!!」
 ガンッ――という、重々しい響きが右京の叫びに重なった。あまりの衝撃に、橙朧踊子が苦しそうに身を震わす。そしてそれを握る左京自身も、苦痛に顔を歪めていた。
 重い……ッ!
 辛うじて受け止めた刃は、とてつもない力を掛けてくる。冷や汗が、たらりと首筋を流れて堕ちた。
 しかし、狼狽したのは、何も右京と左京だけではなかったのだ。
「――白麟様!?」
 驚愕の表情を浮かべた暮鴫が、未だ左京と刃を交えている自分の主の名を呼んだ。それと同時に、今まで完璧だった彼の刀に、僅かな隙が生まれる。それは本当に僅かなものではあったが、右京が彼を仕留めるには、十分すぎるものだった。
 季節外れの桜が舞う。それはぱたぱたと地に紅い染みを作り、そして男は倒れていった。
 間髪入れず、直ぐさま右京は身を翻して白麟に斬りかかる。すると白麟はあっさり左京から離れ、右京の刀は空しく宙を掻いた。
 両者の距離は三丈ほど。右京は左京を庇うようにして立ち、血で赤く濡れた秋霖白風を白麟へと向ける。そんな彼らに対し、白麟は余裕の笑みすら浮かべていた。そして彼は、不意に刀をすっと下ろす。
「埒が明かないと思って来てみれば……、いい反応だな、左京。益々欲しくなる……」
 妖艶な笑みを浮かべ、くつくつと喉を震わせて言う白麟に、最早左京は言葉を返す余裕もなかった。
 ……両手でなければ、確実に斬られていた……。
 未だに痺れの残る両腕。彼女は無言のまま、足元に突き刺さっている脇差しを引き抜き、鞘に収めた。これはもう、片手で受けられる相手ではないと判断してのことだ。長刀一本に絞り、改めて両の手で握りしめる。
「それに比べて――」
 そんな彼女をよそに、白麟は言葉を繋げていく。今までの愉しそうなものとは違う、酷く冷徹な口調。
「――暮鴫。その有様は何だ? そんなに私を失望させたいのか」
 見下すようなその瞳には、侮蔑の色が浮かぶ。
「申し……訳、ごさいま……せ…………」
 暮鴫は俯せに倒れ伏したまま顔を白麟へと向け、息も絶え絶えに謝罪の意を示した。袈裟懸けに斬られたその身からは、夥しい量の血が溢れ出ている。彼が動かなくなるのも、時間の問題だろう。しかし、そんな暮鴫に掛けられたのは、あまりにも残酷な言葉だった。
「まぁいいさ……。私は弱い奴には興味がない。精々そこで寝ていろ」
 自分の部下に対するその物言いに、右京は顔をしかめる。それでいて彼は、常に白麟の隙をうかがっていた。下ろされたままの刃、しかし何故か、何処にも隙が見当たらない。
 暮鴫が目を俯けさせて押し黙ると、白麟は漸く自分の敵へと視線を戻した。二人に、緊張が走る。
「……さて、時間もなくなってきた。そろそろ宴は……お開きといこう」
 ゆらり、とその影が揺れたかと思うと、彼は一気に間合いを詰めてきた。ほんの僅かに遅れて、右京も彼へと走り込んでいく。
 赤く染まり始めた天空に、激しい金属音が幾度も鳴り響く。そして、一際強靱な一撃が繰り出されたとき、両者の刀が交えられたままに硬直した。火花が散るのではないかと思わせるほどに、ギリギリと嫌な音を立てて擦れ合う二つの刀身。
 ふと右京が見れば、白麟がその手に握っていたのは、あまり彼には似つかわしくない三流の刀だった。恐らく彼ほどの者であれば、使用するのもかなりの名刀に違いないと思い込んでいただけに、少し怪訝に感じる。
 押し合いが続く最中、自分と、そして相手の刃の向こう側に見える白麟の嫌な笑顔に、右京は強気にも嘲笑を送った。
「傲慢な言い草がお好きなようですが……そんな名もない刀で、我ら二人が倒せるとでも?」
 その言葉に、白麟の笑顔が唐突に消えた。
「…………名のないことの、何が悪いと言うんだ?」
 地を震わすような、魂の底まで揺さぶられるような、恐ろしく低い声。ぞくりと、右京に悪寒が走る。目の前にいる白麟は、先程までとはまるで別人。纏う殺気は、壮絶なものだった。
 ――斬られる。
 右京は直感的に、そう感じた。渾身の力で白麟の刃を弾き、距離を取ろうとする。が、それすらも遅すぎた。


11 :小豆 :2009/09/08(火) 21:06:42 ID:xmoJmmnc

「くっ……」
 右京は右手で自身の左肩を押さえ、少し間を開けた場所に立つ白麟をその鋭い双眼で睨み付けた。熱が左肩に集中していくのがわかる。じわり、と着物に赤い染みが広がった。
 その様子を、白麟は至極愉しそうな、それでいて、敵愾心に燃えた瞳で見据える。
「名ばかりでは、私は斬れない。わかるだろう? その傷みが、何よりの証拠さ」
 言いながら白麟は兇悪に嗤う。刀を握り直し、地を蹴った。その白く清らかな羽織を翻し、右京に更なる追い打ちをかけようとしたとき、
「……少し、頭に血を上らせ過ぎでは?」
 右京は痛みに顔を歪めながらも、薄笑いを浮かべた。それとほぼ時を同じくして、白麟が動きを止める。……否、動きを、止められた。
「――捕まえた」
 左京の妖しげな声が、至近距離から白麟の耳へと届く。彼の背後からは橙朧踊子の朱帯がピンと張りつめられた状態で伸びており、彼の刀に二重にも三重にも巻き付けられていた。耐摩耗性のそれは、表面が傷つけられることもなくがっちりと白麟の刃を固めている。それは例え白麟の腕力をもってしても、そう容易く解けそうなものではなかった。
 元来、気配を殺すことに関しては、右京よりも左京の方が長けている。暮鴫の時にあえてその役目を右京が担ったのは、白麟を油断させるための伏線だったのだ。右京が白麟を引きつけている間に左京は背後へと回り込み、後は彼女お得意の繊細かつ俊敏な動きで、ほとんど刹那的に白麟の刀に帯を巻き付けた――というわけである。
 自分の刀に絡みつく枷を一瞥し、白麟は僅かに眉をひそめる。しかし、吐いた台詞はまだまだ余裕を感じさせるものだった。
「私が背後を許すとは……流石、闇の蝶と呼ばれるだけのことはあるな」
 そうは言いつつも、流石にこれでは隙を作らずにはいられない。空かさずそこに、右京は走り込んでいった。
 迫り来る刃。しかし白麟は、やはり慌てた様子を見せない。そればかりか、彼は口の端をつり上げて――嗤った。
 秋霖白風が、心の臓を射抜く。鮮血が刃を伝って流れ、右京の手を赤く濡らした。
 右京と左京が、驚愕のあまり目を見開く。誰もが言葉を発せずにいると、くぐもった声が聞こえてきた。
「……白……り、さ……ま…………」
 ごぼ、と音を立てて、大量に血を吐き出しながらの言葉。
 右京は常に、自分の主に害なす者に対しては、極めて無慈悲だ。それ故、彼の傷は間違いなく致命傷だった。それなのに――。
「……よくやった、暮鴫」
 白麟は、感情の見えない微笑を浮かべ、眼前にある背中にそれだけを告げた。その背中からは、秋霖白風の切っ先が覗く。暮鴫は背後から聞こえてきた声に、静かに微笑むと、もう動くはずのない手で自らの体を貫く刃をぐっと握りしめた。
 その手が切れることなど、もう厭わない。意識が朦朧とする。しかし、それでも彼は、嬉しかった。最期の時に、少しでも役に立てたのだから。
「暮鴫……殿…………」
 呆然と、右京が呟く。そんな彼の目の前で、暮鴫は崩れ落ちていった。秋霖白風の刃を、握りしめたままに。
「右京ッ!!」
 悲痛な叫びが、右京に突き刺さる。はっと気付いたときには、白麟の匕首(あいくち)が寸前の所まで迫ってきていた。慌てて防ごうとするが、未だ暮鴫に掴まれたままの刀は中々言うことを聞かない。漸く彼の手を振り払えた、その時――。
 冷たい感触が、体の中へと進入してきた。
「ぐ、あ……ッ」
 抉るような動きで刃物が引き抜かれる瞬間、とてつもない激痛が臓腑を襲う。久しく忘れていた苛烈な痛みに、右京はその場に膝をついた。
 このままではまずいと、左京は匕首が自分に向けられる前に白麟の刃を解放した。そのまま、目にも止まらぬ速さで右京の着物を引っつかみ、白麟から飛び退くようにして離れる。
 そんな左京を、白麟は非情に追いつめようとする。が、その動きが、俄に止まった。右手に匕首、左手に刀を握ったままで、天を仰ぐ。あまりに突然のことに、右京と左京は身動きを取るどころか、声すらも出せなかった。
 何かに耳を研ぎ澄ませているかのような、そんな静寂が暫く続く。そして。
「……厄介なのが出てきたな。殺気を飛ばし過ぎたか……」
 白麟は独り言を漏らすように呟くと、付着した血を払い、匕首と刀をそれぞれ鞘に収めた。何事もなかったかのように殺気を消し去り、二人に背を向けて歩き出す。ただ、赤く濡れた純白の羽織だけは、今までの惨劇を雄弁に物語っていた。
「逃げるのか」
 左京は息を呑んだ。それは、いつの間にか自分の傍らで立ち上がっていた右京が、並々ならぬ殺意を込めた口調でそう言ったから。恐る恐る振り返り、視界に彼の姿を入れた瞬間、背筋がぞくりとあわだつのを感じた。
 血にまみれ、同じく赤く染まった秋霖白風を白麟に向けるその姿は、まさに修羅そのもの。最早白麟を殺すことしか考えていないその瞳は、恐ろしいまでに据わっていた。
「右京、と言ったか……」
 恐れや驚きや、その他様々な感情に支配され、身動きの取れなくなった左京をよそに、足を止めた白麟が背中越しにそう呟いた。その身に向けられる、殺意の塊のような視線を物ともせず、彼はゆっくりと顔だけをこちらに向ける。
「何をそんなに、死に急ぐ必要がある。その怪我で倒せる相手だと見紛うほど、莫迦ではないだろう?」
 そうして白麟は、ふっと笑った。微笑とも、冷笑とも、取れる笑みで。
「また逢おう、左右の京……」
 それだけ言い残すと、彼は走り去ってしまった。
 右京はそれを、殆ど反射的に追おうとする。だが、突然感じた着物の重みに、右京の追跡は阻まれてしまった。見れば、左京が右京の袖を掴んでいる。
 怒りに任せ、彼は声を荒げた。
「離してください、左京殿!!」
「馬鹿を言うなっ! 死ぬ気か!?」
 いつの間にか普段の口調に戻っている左京も、大声で怒鳴り返す。それから暫く、「離してください!」「断る!」という、終わりの見えない二人の押し問答が続いた。
 そんな時、不意にガサ――と物音がする。瞬時に口をつぐみ、音がした方向に二人は刃を向けた。「新手か……?」と、息を潜めていると、茂みから姿を現したのは意外な人物で、二人は意表を突かれてしまった。
「…………章澄様?」
 きょとんとした様子で、呆けたように右京が言う。
 そう、珍しく息を切らしてそこに立っていたのは、他でもないこの庭の主、古轟章澄であった。
 何故貴方が――と思うが早いか、右京は地面がぐらりと揺らぐのを感じる。遠くで、左京が自分の名を叫ぶのを聞いたような気がした。しかし、それに対して返事をするには、あまりにも意識が朦朧としすぎていて……右京はそこまでで、考えることを止めた。
 頭に上っていた血が一気に冷めたのだろう。それまでは怒りと気力だけで立っていた右京は、ついに倒れてしまった。
「右京……? おいっ、右京!!」
 左京が顔を蒼白にして駆け寄り、彼の名を呼ぶが反応がない。その様子に、左京は益々慌てた。がしかし、それを見かねた章澄が彼女の肩に手を置き、諭すように言い聞かせる。
「案ずるな。気を失っているだけだ」
 言われ、改めて見てみると、出血も大方止まっており、確かに気絶しているだけのようであった。ほっと胸を撫で下ろす。と同時に、僅かに恥ずかしさが込み上げてきた。
 どうしてこうも、自分は右京のこととなると冷静でいられなくなるのだろうか……。
 そんな考えを払拭するかのように、左京はわざと厳しい表情を作ると、章澄に鋭い視線を送った。
「……章澄、あんたは何でここに?」
 すると章澄は、おどけるように肩をすぼめて見せる。しかし、すぐにその瞳は真剣味を帯びた。
「並々ならぬ殺気が、屋敷まで届いてきたのでな。……どうやら、唯の鼠ではなかったらしいな?」
 辺りの悲惨な情景を見渡し、左京へ問い返した。左京は首を縦に振ることで、肯定の意を示す。
「ああ、鼠どころか……。とんだ野獣だったよ」
 顔を青ざめさせて、殆ど呟くようにそう言う左京。
 彼女にここまで言わせるとは――と章澄は思ったが、それはあえて口には出さないでおいた。そしてまた、これから起こるであろう“何か”に、言い知れぬ胸騒ぎを覚えていたことも。





 広い広い、古轟の庭の中
 そこには、一羽の鴫が死に絶えておりました

 彼は皮肉にも、その体から流れ出るもので……
 固く乾いた地面に、血の紋を刻み込んでおりました


12 :小豆 :2009/09/19(土) 22:31:21 ID:xmoJmmnc

第五章 『一蓮托生』



 できることならば、運命を倶にしたかった。
 貴女が光を求めるなら、その手を引いて、その細い躯を抱き上げて、陽だまりの元へ。
 貴女が堕ちてゆきたいと願うなら、何処までも、何処までも深い処へ。

 叶わなかった。
 届いたけれど、届かなかった。

 遅かれ早かれ俺は、地獄に堕ちる。
 貴女と同じ、蓮華の上に生まれ変わることなど望めない。

 一蓮托生。

 そう信じた出会いさえも、儚く消えていくというのなら。
 この命、斬って棄てても厭わないだろうか?





「右京。俺は出かける」
 貴方が唐突にそう仰ったのは、まだ夜が明けて間もない刻のことでした。
「では、私もすぐに――」
「いや、必要ない」
 当然の如くついて行くつもりだった私の言葉を、貴方の言葉が遮る。意外なことできょとんとしていると、更に言葉が続けられた。
「お前は屋敷にいろ」
 そう言われ、不意に思い出したことがある。去年も、一昨年も、その前の年も……いや、私がこの屋敷に来てからずっと、貴方はこの時期に必ずひとりで何処かに出かける。今まではわからなかったが、何故だか今年は、確信めいたものが心の中に生じていた。
 伝えることだけ伝え、さっさと部屋から立ち去ろうとしていた貴方の背中に、私は言葉を投げかける。
「……どなたかの、命日ですか?」
 主の体が硬直した。どうやら、予期せぬことだったらしい。目に焼き付くような朱の羽織を翻し、貴方はこちらを振り向く。表情は一切、無かった。
「よくわかったな、右京」
 私の考えは的外れではなかったらしい。高い位置で括った、艶やかな黒髪を揺らして首を傾げ、貴方は何故わかったのかと問う。未だに夏の名残を見せる、煌々とした朝日に照らされたその姿に、私は息を呑む。やはり貴方は、どの季節の、どの風景もよく似合う。
 このまま暫く見とれていたかったが、質問をそのままにしておくわけにもいかず、私は考えをまとめながらゆっくりと言葉を紡ぎ出した。
「……直感のようなものです。毎年、貴方は秋が近づくと、私を置いてひとりでお出かけになる。そしてその日が近づく度…………貴方はいつも、どこか寂しげで、沈んでいらっしゃったようでしたから……」
 それは些細な変化に過ぎなかったが、もう十年以上もお側に仕えているのだ。それくらいのことは気付いて然るべきであろう。
 はぁ、と、軽い溜め息が聞こえてきて、私は貴方の長身を見上げた。何年経とうと、この身長差が埋まることはない。
「お前もなかなか鋭くなったな……。右京、出かけるぞ。付いて来い」
 そうしてもう一度、貴方は踵を返して歩き出す。私は驚きを隠すこともできず、多少慌てながら問いを口にしていた。
「章澄様、よろしいのですか?」
 すると貴方は歩みを止め、首だけでこちらを振り返る。その表情は、貴方が滅多に浮かべることのない、優しげな笑みだった。
「……いずれ、お前には話そうと思っていたことだ」
 その声には、いつもの自信に満ち溢れたものとは違う、哀しげな想いが含まれているような気がした。


13 :小豆 :2009/09/27(日) 21:03:10 ID:xmoJmmnc


 長く、濡れたような黒髪。あどけない印象を与える黒の瞳。日の光を知らない、病的な白い肌。風が吹けば簡単に折れてしまうのではないかと心配にさせる、細い細い体躯。それらすべてが、荒野に咲く一輪の花を思わせる、儚い美しさ……。
 彼女は名を、鳴夙(めいしゅく)想姫(そうひ)と言った。名前に姫などと……と思われるかも知れないが、事実、彼女はひとつの村を取り仕切る、旧家鳴夙家の姫君であった。
 そんな想姫が、同じく旧家の出身である古轟章澄と出会ったのは、まさに偶然のことであった。
 当時、まだ髪も短く、青年と呼ぶに相応しい齢だった章澄は、屋敷に戻ることもあまりせず、ふらふらと旅をしていた。無論、愛刀の狂炎舞斬とともに、である。そんな章澄が偶々立ち寄ったのが、想姫の住む啼水村(なきみずむら)であった。その頃から彼の命を狙う者は数多あったのだが、啼水村はあまり人々に知られていない辺境の地にあった。身を隠すには格好の場所。故に章澄は、暫く鳴夙家の厄介になることになった。
 鳴夙家には数多くの使用人たちが住み込みで働いていたが、純粋に鳴夙家の血を引く者は想姫だけであった。彼女の父である柳円(りゅうえん)は婿養子であるため、もともと鳴夙家の人間ではないのだ。
 鳴夙家での滞在中、生まれつき体があまり丈夫でなく、外に出歩くことも少ない想姫のところに、章澄は足繁く通った。それは柳円からの頼みでもあったし、章澄自身、彼女に会うのがここ最近では唯一の楽しみとなっていた。
「章澄様、今日も来てくださったのですね」
 障子戸を開けた途端に、顔を輝かせてくれる想姫。章澄も嬉しくなり、顔を綻ばせる。
「今日はいくらか顔色が良いな、想姫」
「最近は調子がいいんですよ」
 こうして、章澄様が会いに来てくださるからかも知れませんね。
 言いながら、くすくす笑う想姫。子供っぽい戯言のようでもあったが、章澄の頬を赤く染めるには充分であった。



 ある時、想姫が熱を出して寝込んだ。章澄は心配して見舞いに行こうとしたが、想姫付きの女中にそれを阻まれる。
「想姫様のお体に障ります! 熱が引きましたらお知らせしますので、今日の所はお引き取りください」
 そう言われては、章澄としても反論の余地がなく、すごすごとあてがわれた部屋に戻るしかなかった。
 女中が章澄の部屋に顔を見せたのは、それから二日後のことだった。
「先日は失礼いたしました。想姫様はもう、起き上がれるほどに快復されましたので、約束通りお知らせにあがりました」
 女中は丁寧に、謝罪と報告をした後、少々のためらいを含んだ声音で、こう続けた。
「……想姫様が、寂しがっておいでです。熱にうなされている間も、ずっと、古轟様のお名前を譫言のように……。すぐに、会って差し上げてください」
 言われるまでもなかった。
 章澄は跳ねるように立ち上がると、急ぎ想姫の部屋へと向かった。彼女の部屋は母屋と渡り廊下で繋がれた、離れに位置していた。
 いつのものように、障子戸を静かに引く。起き上がれるとは言っても、まだ休養が必要なのだろう。彼女は布団にくるまり、横になっていた。向こうを向いているので、こちらから表情は伺えない。
「……(しのぶ)?」
 熱を孕んだ声が投げかけられる。偲というのは、先ほど章澄の部屋にやってきていた女中の名前だ。主に想姫の身の回りの世話を任せられており、彼女の母親代わりのような存在でもある。
 無言のまま、章澄は彼女の枕元まで歩いていく。すっと、静かな動きで膝を折った。寝ぼけているのだろうか、彼女はこちらを振り向こうともせず、その細い肩を規則正しく上下させる以外には、身動き一つ取ろうとしない。
 そんな想姫にそっと手を伸ばし、章澄は彼女の頭を優しく撫でてやった。そうして初めて、彼女は僅かに瞼を開いた。
「……章澄様?」
 潤んだ瞳を、こちらに向ける。章澄は応えるように優しく笑った。章澄の長い指が、想姫の細い髪を梳いていく。
「……夢、でしょうか?」
 至極嬉しそうに微笑んで、彼女は自分の手を章澄のそれへと重ねた。
「夢ではない、想姫。俺は、ここにいる」
 深く、響きのある声で囁かれ、漸く想姫は意識が覚醒したようだ。その大きな瞳を更に大きく押し広げ、慌てて重ねた手を引っ込めた。耳まで真っ赤になったその姿が何とも可愛らしく、章澄はくすくすと笑ってしまう。
 そんな彼をよそに、想姫は大急ぎで着物の襟を直して上半身を起こした。まだあまり顔色が良くなく、章澄は起き上がって平気なのかと心配したが、大丈夫ですと笑う彼女に、強いてまた横になるようには言えなかった。せめて彼女が少しでも楽なようにと、その細い背中に腕を添えてやる。少しの躊躇を見せたものの、想姫はその鍛え抜かれた力強い腕に、そっと身を預けた。
 気恥ずかしいのか、想姫は顔を上げることができずにむつむいている。そんな彼女に、章澄は静かな声で囁いた。
「想姫……随分と心配した」
 至近距離から聞こえてくる声に、想姫はますます顔を赤らめる。それでも、嬉しそうに言葉を返した。
「……私も、逢えなくて、寂しく思っていました……」
 想姫を支える章澄の腕に、ぐっと力がこもる。想姫はうつむいていたために気付かなかったが、そのときの章澄は、彼女ほどではないにしろそれでも赤くなっていた。
 わざとらしく咳払いをし、気を取り直して章澄は問をぶつける。
「……病か?」
 その言葉に、ようやく彼女は顔を上げた。
「これは……罪なのです」
 どこか諦めを含んだような、想姫の表情と口調。章澄が無言でいると、彼女は勝手に言葉を続けた。
「私の遠い遠い先祖は、赦されない罪を犯しました。彼女は、結ばれなかった愛する人と、その子供を……手にかけたのです。やがて彼女も婿をとり、女の子をもうけましたが、その子は生まれつき呪われていました。殺された子供が、女の子だったからかも知れませんね……。以来、鳴夙家の女性は、皆同じ呪いをその身に宿し、生まれ落ちてくるようになったのです……」
 震えることもなく、臆することもなく、想姫は淡々と喋る。それは彼女にもかかっている呪いだというのに、まるで人事であるかのようだ。或いは、その数奇な運命を、すでに彼女は受け入れてしまったのかも知れない。
「……その、呪いとは?」
 章澄が重ねて質問する。弱々しく、それでも笑みを形作る口が、ゆっくりと開かれた。
「……薄命の、呪い。私の母上も、早くに死んでしまいました」
 その言葉が、章澄にどれほどの衝撃を与えたのか。それは章澄自身さえも、把握できないほどだった。
 永く生きる未来は望めず、代わりに突きつけられるのは、短い生涯。ただ、偶然にもこの家に生を受けたというだけなのに。
「……私は生まれつき、罪深い人です。ご覧ください」
 言いながら、想姫はつい先ほど整えたばかりの着物をはだけさせ、その細い肩を露わにした。思わず、章澄は息を呑む。その、透き通るように白い彼女の首筋から左肩にかけて、一輪の花が咲いていた。
「これは、朝顔……?」
 無意識に口にした言葉。だが、すぐにそれは間違いだと彼は気付く。
「いや、違う……。これは、夕顔の花か……」
 想姫の左肩には、黒い大きな痣があった。いや、痣と呼ぶには少々誤りがあるかも知れない。その痣が形作る夕顔の花は、まるで本物がそこに咲いているかのように精巧であり、ともすればそれは入れ墨のようにも見えた。
「我が古の先祖が犯した、罪。……これはその、証なのです」
「ああ、そうか……」
 夕顔の花言葉は、罪深き人。
 章澄の呟きに、想姫は首肯を返す。
「お詳しいのですね」
「花には、何かと縁があってな」
 章澄の苦笑混じりの言葉を聞きながら、想姫は着物を直した。長い髪と布地に覆われて、夕顔の花は見えなくなる。
 想姫は緩慢な動きで章澄を振り返ると、その目を真正面から見据えた。口にするのは、あまりにも悲しすぎる現実。
「この痣は、日に日にその濃さを増します。そしていずれは、私を殺すでしょう」
 章澄は狼狽した。それは、想姫の言葉にではない。彼女の、迷いも恐れも嘆きもない、すべての運命を覚悟したような、その瞳にである。
 夕顔の痣を見せられたときから、嫌な予感はしていた。何故だろうか。良い予感というものは中々当たるものではないのに、悪い予感に限っては、いつも現実のものとなってしまう。
 そんなことを考えながら、章澄はほぼ無意識のうちに口走っていた。
「……貴女と俺は、どうやら似たもの同士らしい」
 想姫が怪訝そうな目を向ける。それに応えるように、章澄は自分の袖をまくり上げ、左腕を露わにした。想姫の息を呑む音が、章澄にはっきりと聞こえてくる。
「……私と、同じ……?」
 先ほどまでの気丈な態度は、もう欠片も残っていなかった。震える声で、想姫は章澄に問う。章澄は彼女を安心させるように微笑むと、ひとつ頷いてから言葉を続けた。
「これは呪いという名の契約だ。……狂炎舞斬との、な」
 自嘲の笑みを浮かべる章澄。その左腕には、想姫と同じような痣があった。想姫よりは幾分か色の薄いその痣が形成するは、黒百合。その花が有する意味は、まさに“呪い”であった。


14 :小豆 :2009/10/14(水) 23:33:26 ID:xmoJmmnc


 章澄が鳴夙家を去る日が近づいていた。日を追う毎に、想姫は目に見えて落ち込んでいく。章澄の前では隠しているつもりらしかったが、無論、彼にそんな誤魔化しなど通用していなかった。
 そんな、ある日のことであった。常の如く想姫の部屋を訪れていた章澄が、何でもないことのように、唐突にそれを口にしたのは。
「想姫……。俺の、妻になってくれないか」
 未だに幼さの残る、想姫の黒い瞳が大きく揺れた。その様を眺めながら、章澄は向かい合って座る想姫の手を取る。恐ろしいほどに細く白い手が、僅かに震えているのがわかった。
「章澄様……。突然何を、おっしゃるのですか」
 揺れる瞳は迷いや戸惑いを映していたが、それと同時に、押さえきれない喜悦も滲んでいた。章澄はそれを見逃したりなどしない。
「名乗る姓を変えたなら、或いはその呪い、解けるかも知れないだろう? …………いや、詭弁はよそう」
 ふっと、自然に笑みがこぼれる。苦笑とも取れるような笑みであったが、すぐにそれはいつも彼が想姫に向ける、優しい笑みへと変わった。
「好きだ、想姫。理由など、それだけで充分だろう」
 ついに嬉しさが、堪えきれずに想姫の頬の上を流れ落ちた。それでも彼女は、苦しそうに唇を噛み、首を横に振った。
「…………私で、終わりにしようと思うのです」
 涙で掠れた声に、思わず章澄は想姫を握る手に力を込める。すると想姫はすがるように、章澄の大きな手を握りかえしてきた。
「……鳴夙家は、この啼水村を治める旧家。決して絶やしてはならないと、代々この家に生を受けた女性は早くに身を固め、子を産み、その短い生涯を閉じてきました。……だからこそ、父上は貴方を私に引き合わせたのです」
「ならば丁度いい。それが例え柳円殿の描いた戯曲だとしても、ここにある気持ちは作り物ではない。予め、許しは得ているようなものだろう?」
 懇願するような響きさえもった章澄の言葉でも、想姫の覚悟は変えられなかった。揺れ動く心。それを振り払おうとするかのように、想姫は改めて頭を振る。
「このような悲しいことは、もう、終わりにしなくてはなりません。……私の子や、孫、そのずっと先の子孫が、私と同じ呪いで死んでいくなど、私には耐えられません。…………だから、私で、最後にしようと思います」
 なんと悲しい、覚悟なのだろう。なんと固い、決心なのだろう。
 章澄には、どうすることもできなかった。だからせめて、想姫がもうこれ以上独りで泣かなくて済むようにと、その細い細い体を掻き抱いた。


15 :小豆 :2009/11/02(月) 22:16:55 ID:xmoJmmnc



 この身一つさえ儘ならないのに。
 貴女を救いたいと思うには、ただの傲りだろうか。



 古轟の屋敷に戻ってからも、しばしば、彼女を訪ねて鳴夙家を訪れた。
 いつも彼女は、嬉しそうに俺を迎えてくれた。
 会う度に、どんどん彼女は美しくなった。
 会う度に、どんどん彼女は……弱っていった。



 秋の近づいたある日、章澄の元に一通の文が届いた。差出人は啼水村の治者たる、鳴夙柳円。達筆な文字列は、想姫の危篤を知らせていた。
 章澄がそこへ辿り着いたとき、彼女は高熱を出して床に伏していた。もう起き上がれないのだと、偲に聞かされる。
 いつもと同じように、静かに障子戸を引いて室内に入った章澄は、想姫の枕元に座り込んだ。その気配に気付いたのか、想姫はうっすらと目を開く。
「…………章澄様」
 熱に侵され、混濁した意識の中で、それでも想姫ははっきりとその名を呼んだ。
「想姫……逢いたかったぞ」
 泣き出したくなるのを必死で堪えながら、章澄は笑顔を浮かべる。初め、視点が定まらず宙を彷徨っていた想姫の視線は、章澄の元でその焦点を合わせた。視覚でしっかりとその姿を認め、弱々しく、それでも嬉しそうに微笑む。
「……逢いにきて、くださったのですね。夢では、ないのですね……?」
 布団から出した小さな手は、章澄を求めるように伸ばされるが、力が入らないのかうまく動かせないようだった。章澄はすぐに自分の方から両手を伸ばし、彼女の手を包み込む。唯でさえ細かったその腕は、今や骨と皮だけになってしまっていた。
「夢ではない、想姫。俺はここにいて、お前の手を握っている」
 いつかと同じような台詞。だけど今日は、前と同じように手が引っ込められることはなかった。代わりに、もう残り少ない僅かな力で、握りかえしてくる。想姫は一生懸命に、言葉を発そうとしていた。
「……初めて、でした」
 静かに、音もなく、彼女の哀しみが零れ落ちる。声は限りなく弱々しく、かき消えてしまいそうだ。章澄は一言たりとも聞き逃すまいと、彼女の言葉に必死で耳を傾ける。
「……生まれてきて、よかったと思えたのは」
 息が荒い。喋るのさえ、今の想姫にとっては苦痛以外の何物でもないのだろう。それでも想姫は、やめようとしなかった。命を削ってでも、伝えたいことがあった。彼女はゆっくりと、笑顔を浮かべる。
「…………愛しております、章澄様」
 安らかで、幸せそうな笑顔だった。その頬は、やはり涙で濡れていたけれど。
 我知らず、章澄は泣いていた。
「……俺もだ、想姫。愛している……」
 想姫の力の無い手を持ち上げ、章澄はそっと口づけた。それが彼女の記憶した、最後の章澄の姿であった。


16 :小豆 :2009/11/14(土) 21:44:35 ID:xmoJmmnc

 ここまでの道中、私は一言も喋らなかった。ただ、貴方の語る昔話を、静かに聞いていた。
 そして今は、墓前に桔梗の花を手向ける貴方の後ろ姿を、ただ見つめている。
「……想姫、一年ぶりだな。元気にしていたか?」
 普段とは全く違う、優しげな声と口調で語りかける貴方。その姿に、想姫様に対する我が主の愛は、少しも色褪せてなどいないのだということが容易に見て取れた。
 暫くの間、貴方はその場を動きそうにもなかったので、私は改めて周りの景色を見回してみる。
 きっとここに彼女を葬ると決めたのは、貴方に違いないのでしょう。もう秋が近いというのに、広がる大地に咲き誇るは色とりどりの花々。そしてそれらを揺らす、どこまでも優しく吹く風。いつまでもこの場に立っていたいと思わせるほどに、美しい場所だった。
 帰り道。貴方は私の数歩前を歩きながら、話を続けた。こちらからは表情が見えなかったものの、その顔はきっと穏やかなものであったのだろうと思う。
「……幾度か、想姫の後を追おうかとも考えた。だが、その度に思い留まってきたのは、想姫の覚悟がそうさせたのだ」
 そこで貴方は一度言葉を切り、空を仰いだ。日射しは未だに強く、蝉の鳴き声が五月蠅かったが、今日の空はどこまでも高く澄んでいて、秋空を思わせた。貴方の声が、再び聞こえてくる。
「想姫は、呪われるのは自分で最後にすると言った。……俺も、自分で最後にしたいと思う。だから、それが叶うまでは、どうあっても想姫の元へ逝ってはならぬのだと」
「……でしたら、私は想姫様に感謝しなければなりませんね。貴方が生きておいでなのは、想姫様のおかげなのですから」
 私がそう言うと、貴方は歩みを止めて振り返り、緩やかに微笑んだ。やはり今日の貴方は、いつもと違う。平生の、世のすべてを見透かしたような嫌な笑みは、一体何処へ行ってしまったというのだろうか。
 一筋の風が通り抜けてゆく。それは貴方の長い長い髪を揺らし、名残惜しむかのように消えていった。
「……だから貴方は、どなたも娶られないのですね」
 自然と口をついて出た言葉。それさえも、貴方の笑顔を崩すことは叶わない。
 貴方が手向けた花を見て、私は気付いていた。
 深い、青紫色の桔梗。その花のもつ意味は、“変わらぬ心”だから。





 運命を同じくすることができたならば
 もう一度何処かで、出逢えるだろうか

 一蓮托生

 この想いを貴女に誓う
 愛する心は、永遠に


novel plaza system
甘辛流小説家ギルドGAIA
produced by COLUN.