片輪の虎


1 :川流海出 :2008/03/25(火) 21:45:49 ID:xmoJtLYc

 1

 埃が舞っている飯屋。四人の男が、それぞれに距離を置いて席についている。
 障子から洩れる光が埃を照らして、通常の何倍もの埃臭さを視界で感じ取ることができる。また、屋内に充満す
る木の腐った臭いが、嗅覚を刺激する。
 だがいつの時代でも、貧乏人はこのような些細な事を気にするほど心に余裕はない。あるのは目前に置かれた冷
飯と漬物を貪る事だけである。
 黒く光る刀を机の上に堂々と置き、ただ飯を喰らう男が居た。歳は二十代半ばほどで、まだ子供っぽさがなんと
なく頬に残る顔をしていた。目は大きくも小さくもないが特徴的で、鼻筋はしっかりとし、唇がへの字に歪んでい
る。若者が持つ己の力に対する自信を身体全体から発散させていた。その姿を見れば、博奕打ちか、それに近い厄
介者である事は分かった。やくざ者としての威厳こそ無いが、チンピラ特有のややこしい雰囲気を漂わせていた。
その男は、時折、わざとらしい大きなあくびをし、まるで周囲の人間を挑発するかのようであった。そして上衣を
少しばかり捲り上げ、腹をぼりぼりと音を鳴らして掻いて見せた。そうかと思えば、急に大声で唄を唄いだした。
 (音痴のくせに喧しい野郎だ)
 そう心の中で呟いたのは、なにも男に一番近い客だけではない。
 男は立ち上がり、刀を片手に握りながら飯屋の玄関口を開けた。
 「お客さん、百文頂きます」
 男は店主をジロリと睨んだ。
 「俺に言ってるのか、おい爺」
 開けた扉を後手に勢い良く閉め、店主に近寄った。脅えた店主は目を逸らした。
 「音痴だからって舐めるなよこの野郎」
 店主は遂に何も言えずにいた。今まで店の奥で、無法者と店主の会話を聞いていた、店主の女房と思わしき女が
飛び出して来、
 「銭は要りませんから、早く去んで下さい。もう二度と来ないで」
 男は女房に爽やかな笑顔を返した。
 その時、
 「おい小僧、テメェどこの者だ!
  こんな無礼見過ごす訳にはいかんぞ!」
 と怒鳴り、立ち上がった者がいた。その者の腰には立派な刀が差し込まれていた。侍である。
 「面白ぇじゃねぇかよ、斬り合おうってのか」
 「この野郎、ふざけやがって」
 「聞いた事には返事しろ!
  おい、俺と斬り合うのかよ。おぉ!」
 その時、また別の者が立ち上がった。この者の腰は寂しかった。腰の低い、商人である。
 「吉兵衛さん、まぁ落ち着いて。ね。物騒な事は言わんでくれ。相手はやくざ者だ。下手に手出しすりゃ、あん
たの身だって危ねぇぜ」
 「私があの馬鹿に斬られるというのか」
 「そうは言わねぇけどよ、斬り合いなんて滅多に無ぇ平和な町なんだ。あんたがあの男を斬りゃあ、明日には数
十人のやくざ者がこの町に押し寄せる。あんたは腕が立つから構わねぇだろうが、俺たちには大迷惑なんだよ。だ
から堪えてやってくれ。な」
 無法者は、けらけらと笑い出した。
 「だらしねぇなぁ。町人の言うことに頭下げるのか。テメェが腰にブラ下げてんのが何だか分かってねぇようだ
が、そいつの使い方を教えてやろうか。股間にモノがブラ下がってりゃの話だけどな」
 この挑発に、浪人は乗らなかった。もはや無法者を見下し、頭の悪いキチガイとして冷ややかな目で見ていたの
である。
 挑発に乗らない姿勢を感じ取った無法者は、玄関口を開け、帰り際にさらに浪人を苛つかせようと、一言、言い
残した。
 「時勢なんて格好つけてるがよぉ、お侍さん。こんなケチな町に収まってる理由は、人の斬り方も知らねぇ偽侍
だからじぇねぇの、はははは」
 ピシャン!
 扉が勢いよく閉められた。
 浪人の怒りも遂にここまでであった。
 浪人はそっと刀を手に取り、構えた。
 扉を開ければ、いきなり斬りつけられるかも知れない。この時の殺気立った浪人を見て、先程の商人ももはや口
は出せなかった。皆が、扉を開けた瞬間に何かが起こると確信していた。
 そして、どちらかの血が障子を染めることも・・・
 浪人は扉が外れんばかりの力を込めて開けた。そして、流石である。無駄の無い、す早い足取りで外に飛び出
し、周囲を瞬時に見渡し、己の立ち位置を確保した。その見事な動作に、飯屋の中からそっと覗いていた商人や店
主は、これは浪人に勝算があるな、と思った。この二秒間は、浪人よりも飯屋の連中のほうが緊張していた。浪人
が初めて緊張したのは、立ち位置を確保し、刀を抜いた時だった。
 浪人は改めて辺りを見渡した。誰も居ない。
 強い風が浪人を吹きつけるだけである。 
 (一体、どこに隠れているのだ)
 油汗を浮かべた。浪人にとって、このような状況は初めてだったのだ。隠れる所と言えば、井戸の裏側ぐらいし
か無い。道の反対側には宿屋がある。この飯屋は、町の端にあるため、右手は地平線の桑畑だ。左手の町道もまっ
すぐに伸びているため、もし歩いていれば確認できる筈だ。という事は、手前の宿屋に入ったのか。
 (畜生、どこへ行きやがった)
 浪人がいま一度辺りを見渡し、桑畑の方を見た時だ。
 地平線に向かって驀進する一つの人影。
 無法者は逃げたのであった。
 浪人の報復を恐れてである。
 この無法者の名は大城八郎。
 似非やくざ者である。 
 彼の正体は農民である。
 二年前、渡世人になり旅を続けるも、草鞋を脱いだ先で起きた抗争に怖じ気づき、まさに二大勢力の大チャンバ
ラ劇が起きている最中、ドサクサ紛れに逃げ出したのであった。それ以後、彼は博奕打ち、無法者を装っては各地
で無銭飲食、無銭宿泊、窃盗を繰り返して日本中を旅していたのであった。 
 なんという男であろうか。
 なんという卑怯漢であろうか。
 当然、彼は剣の達人でも無ければ、喧嘩の腕っ節が強い訳でもない。実際、彼が後生大事に持ち歩く刀は、一度
鞘から抜けばまるで役に立たない。なぜなら刃が折れてしまっているのである。
 彼がこの二年間、斬り殺されずに旅を続けてられるのはもはや奇跡に等しい。八郎は、得意の演技力だけで人々
を脅かし、時にはある有名な仁侠集団の名を出してまで、斬り合いの危機を免れてきたのだ。
 八郎が持つ強運は、底知れない。
 八郎は行く当も無く、放浪していた。
 (もし機会があれば、堅気になってもいい)
 八郎は、夜空を眺めながら時にそう考えた。いつまでもこのようなチンピラ稼業が続くとは思えない。いや、チ
ンピラ以下のろくでなしだ。
 八郎は浪人をおちょくった飯屋から、そう遠くない民家に立ち寄った。あの浪人が、ここまで追いかけて来ると
は思えない。
 八郎は扉を叩いた。
 「おい、誰か居るか。居るなら返事しろ」
 どんどんどんどん、さらに強く扉を叩く。
 「はーい」
 と中から爺の声が聞こえた。
 爺は扉を開いた瞬間、後悔した。このようなやくざ者とは一切関わりたくない。
 八郎は殺陣も喧嘩も弱く、度胸も無い。いや、度胸はあると言える。ハッタリだけで旅しているのだから。常人
には成せない業だとも言える。
 爺は八郎を、極悪非道なやくざ者として見た。当然だろう。濃紫の着物を着て、いやらしく胸元の肌をさらけ出
して、腕や胸に刺青を入れているような者を見て、一体誰が正義漢だと思うのか。
 「喉が渇いたんだ。水を貰うぞ」
 「あぁ」
 八郎は振り返り、井戸の水を飲んだ。
 「ひゃー、うめぇ、へっへっへ」
 八郎はわざと極悪に笑って見せた。そしてこの笑いには、水を飲んだだけで気色の悪い笑い声を零すほどの狂
人、という意味が込められていた。だがこの少し行き過ぎた笑い声を聞いた爺は、
 (大した事ねぇ野郎だな)
 と思った。
 その通り。八郎は大した者ではない。 
 「あー、おやじ、ちょっと2両ほど包んでくれ」
 「え、2両?」
 「うん。これから遠くまで旅をしなきゃならん。あいにく金が無くなっちまってね。駕籠にも乗れねぇ始末なん
だよ。だからよぉ」
 「そんな事言ったって、おめぇ・・・」
 金を出し渋る爺の姿を見て、八郎の眼が光った。
 この時ばかりは爺も戦慄した。
 「おめぇだと?誰に口利いてんだ、この野郎。あんまりごちゃごちゃぬかしやがったら、叩っ斬るぞコラ。お
う!」
 その時である。何処からともなく現れた、一人の男。腰には刀が下げられている。顔はとんでもない程に荒み果
て、男がこれまで背負ってきた人生が表れているようだ。
 八郎は、この男が本当の無法者であると感じた。
 これまで数々の博奕打ちやチンピラ、浪人を見てきた八郎は、人間の顔というものは行いによって変化すると信
じていた。悪い奴はやはり悪い顔をしている。善い人間は、やはり心優しそうな顔をしている。八郎は、この持論
を実証すべく、水たまりや池を見つける度に、わざわざ駆け寄っては自分の顔を確認していた。
 八郎は、本物の無法者との一悶着を危惧した。
 此奴なら、有無を言わさず人を斬る。銭は惜しいが、こんな局面は去るに限る。
 「すまん、水を貰えるかね」 
 八郎は緊張に脂汗を滲ませた。
 しかし八郎よりも緊張したのは爺である。
 見知らぬやくざ者に金をたかられて困惑している中、さらにややこしい奴が水をくれとやって来た。顔の整った
お侍さんなら助けを求める手もあるが、こんなに悪に染まった顔つきの男だ。先客を追い払った後で、法外な報酬
を強請ってくるに違いない。何か逃げ道はないか。畜生、ツイてねぇなぁ。
 爺は思わず溜め息を洩らした。
 「そこに井戸があるから」
 「うむ」
 八郎はなおも緊張していた。
 爺がこの無法者に泣きつけば、俺は斬られる。どうせその後で爺は金をたかられるのだろうが、そんな事はどう
でもいい。とにかく、逃げ道を探さなければ。やばいぞ八郎。クソ、ツイてねぇぜ。
 無法者は井戸水を飲み終えると、空を見上げ、急に砕けた調子でこう言った。
 「いやぁ、良い天気ですなぁ」
 すると八郎と爺が同時に言った。
 「そうですねぇ」
 「そうだねぇ」
 極度の緊張で、思わず語尾にねぇとつけてしまった事を、八郎は後悔した。 
 駄目だ、もっと威厳のある言い方をしなければ。舐められたら負けだ。舐められたら負けだ。
 八郎は少し声を低めて言った。
 「ところで御主、見たところ旅の道中のようだが、行き先は?」
 無法者は、首を動かし肩を解しながら言った。
 「いや、行き先はこれと言って無いんですがね。先程立ち寄った飯屋でね、浪人風情の男が鼻息荒く話し掛けて
来ましてね。その男が言うにはですね、少し前に飯屋に来たやくざ者がね、喧嘩をふっかけるだけふっかけて、い
ざ斬り合いだって時になって逃げて行ったらしいんですな。その浪人はもう完全に怒り狂ってましてね。あっしに
言うんですね。紫の着物に、胸元をさらけ出したやくざ者を見つけたら、右腕を叩っ斬って欲しいってね」
 「ほほぉ。それはまた、物騒な話だねぇ」
 と爺があからさまに舞い上がった声で言った。
 「確かに、物騒な話だ。近頃は物騒で困る。おちおち寝てられやしねぇ。それじゃあ、俺は先を急ぐので、ご免
なすって」
 八郎は去りながら言った。
 「ちょっと待てい!」
 無法者の突然の怒鳴り声に、烏さえ驚き青空に飛んで行った。八郎は、あぁ、鳥は良いなぁ、と頭の中で呟い
た。これは八郎がこの局面を余裕に捉えているからではない。半ば諦めているのである。
 先は無い。
 八郎は脳味噌を回転させた。全身の能力を頭脳に集めた。得策を、考えるのだ。だがちっとも浮かばない。 
 「返事をせぬのか?・・・斬るぞ?」
 無法者が呟いた。
 八郎はますます焦って、しかし数々の修羅場を潜り抜けてきた八郎のこと、その不安の表情を表に出すことは無
く、事実、爺も無法者も、この期に及んでなんて澄んだ瞳をしているのだ、と思っていた。
 「いや、ね」
 八郎は小石を蹴りながら言った。
 「御主は俺の事を、そのやくざ者だと勘違いしておられる。けどね、俺は幸左衛門山戸組に雇われている用心
棒。で、その俺が此処で何をしているのか、というと、命を受けて天里まで書を届けなければいけない訳だ。だか
ら、こんな所で油売ってる暇ぁねぇんだよ馬鹿野郎。あんまりごちゃごちゃぬかしやがると、テメェ、叩っ斬る
ぞ!」
 幸左衛門山戸組とは、一月ほど前に八郎が立ち寄った宿場に巣くう仁侠集団である。
 命を受けて天里まで書を届ける。
 これはもちろん八郎の大嘘である。
 「ほほぉ」
 無法者が不気味な笑みを浮かべて言った。 
 「するとあんたは山戸組の用心棒で、という事はなかなかの剣の使い手だという事か?」
 八郎は澄み切った瞳を輝かせて言った。
 「どう思うかは御主に任せる」
 「なるほど。しかし俺も山戸組の使われ者だぜ?あんた、この間、取り立てた金を持ち逃げした奴じゃねぇの
か?それなら話は早いぜ。あんたの腕を飯屋に持って行って、首を山戸組に持って行けば、結構な額になる。死ん
でもらうぜ」
 八郎は尚も動じぬ顔をしていた。しかし、眉一つ動かさずも、どこか逃げ場所はないかと必死に探しているので
ある。
 無法者が爺に向き直って言った。
 「幾らたかられた?」
 「へぇ」
 「幾らだ?」
 「二両」
 「此奴をぶった斬ったら、ふっふっふ、一両よころしな。半分だぜ。安いもんだろ?」
 爺は困った。
 これだから厄介なんだ。でも、もし断って、勝負の後にさらにふっかけられたら堪ったもんじゃない。くそ、ツ
イてねぇや。
 思いつつ、爺は、
 「分かった。一両、払う」
 と言ってしまった。
 無法者は首を動かして、肩を解しながら、
 「よし」
 と気合いを入れたかと思うと、八郎の傍に寄って行った。その軽快な歩みは、百戦錬磨の侍の風格が漂ってい
た。無法者は八郎の真横まで来ると、
 「斬られたら、死んだフリをしろ」
 と囁いた。 
 すると無法者はさらに進み、一定の距離を作った。八郎は、何が何だか分からない。
 斬られたらって、斬られたら死んじまうじゃねぇか。どういう事だ。  八郎が思いを巡らせていると、無法者
が相づちを打ちながらニヤっと笑った。
 (そういう事か) 
 八郎も微笑みを返した。
 次の瞬間、無法者は刀を抜き、す早く、八郎の腹元へ振りかざした。振りかざしたが、実際は寸での所で当たっ
ていなかった。だが、爺の視界からでは、奇麗に腹を斬ったように見えた。
 八郎は、
 「うっ、くそ、テメェの様な、野郎に」
 と渾身の演技をし、そのまま地面に倒れ込んだ。
 無法者はさっと刀を鞘に戻すと、爺の元へ駆け寄った。
 「俺は今から此奴の腕と首を斬る。オヤジ、そんな所ぁ見たくねぇだろ」
 「そりゃあ、そうだ」
 「一両、持って来い。それから悪い事は言わねぇ。奥に引っ込んでな。死骸は、俺が棄てて来てやるからよ」
 爺は家の中に入ると、たったったと小走りに音を立て、また無法者の元へと戻ってきた。
 「あのぉ、お侍さん」
 「なんでぇ?」
 「五百文に、負けて貰ぇねぇでしょうか」
 「あン?」
 「いや、その、見ての通りの貧乏人でありまして、一両すらも厳しい状態で。無理を承知で言ってるんですが。
無理、ですよね?」
 「ふざけるな!おいコラ。お前も斬られてぇのか。おう。ふざけやがって」
 「す、すいません。分かりました。払います」
 無法者は一両受け取ると、
 「始めの半分で済んだんだ。有り難く思えよ馬鹿野郎。じゃあ、お前、首を斬る所ぉ見てぇのか。見たくねぇな
ら引っ込んでやがれ」
 「は、はい」
 爺は家の中に、文字通り、引っ込んだ。
 無法者は爺が家の奥まで行ったのを音で確認してから、すたすたと八郎に寄って、
 「今だ。早く、去ぬぞ」
 八郎は物分かりが良い。
 「よし」
 と立ち上がり、急いで桑畑の道を突っ切った。
 走りながら八郎は、
 「テメェ、どういう事だよ、え?」
 「うるせぇな」
 「説明しろ」
 「うるせぇんだよ」
 暫く走り、もう爺の家も見えない所まで来ると、
 「はぁ、疲れたぁ」
 と言って無法者は座り込んだ。八郎も座った。
 「俺はな、あんまし人斬るの好きじゃねぇんだ。お前を叩っ斬るぐれぇ簡単だよ。でもよ、別に俺はお前に怨み
なんか無ぇからよ、殺しはできねぇよ。しかし、もう少しあのオヤジが銭持ってりゃあよぉ。あのしみったれた顔
を見りゃ、金が無ぇことは直ぐに分かったよ。ツイてねぇぜ」
 八郎は、口をぽかんと開けて聞いていた。
 こんな男は見た事がなかった。とんでもない、極悪なキチガイだ。
 ところで、先程の爺であるが、無法者と八郎がこうして座り込んで居る頃、先程まで斬り合いが行われていた家
の庭で踊り狂っていた。恐怖のあまり気がおかしくなった訳ではない。喜び果てていたのである。
 なぜか。
 爺は三日前、家の前を歩く侍四人に、八郎や無法者と同じく水をくれと頼まれた。爺は、これもまた八郎や無法
者への対応と同じく、
 「そこに井戸があるから」
 と言ったっきり家の奥へ引っ込んだ。
 侍四人は井戸の水を飲み終えると、あろうことか庭に座り込み、何やら話し合いを始めた。爺は障子に穴を開
け、じっとその様子を窺っていた。さっさと帰ってくれ、と願いながら。話し声は聞こえないが、侍たちが言い争
いを始めている事は分かった。すると、侍の一人が風呂敷から箱を取り出した。
 「独り占めか!」
 という怒鳴り声が響き渡った。四人の侍は立ち上がり、刀に手をやった。この様子を爺は、固唾を呑んで見入っ
ていた。
 瞬間、四人の侍たちは眼で追う事も不可能なほど早く、斬り合った。そして、四人の侍たちは同時に倒れたので
ある。剣豪同士が集った故の惨事であるが、爺は侍たちが倒れ込んでからも、暫く様子を窺っていた。爺はそっと
家を出て、倒れた侍たちの顔を見回った。
 「うぐぐ」
 と、脇腹から血を流しながら蠢いた侍が居た。他の侍は、どうやら皆死んでいるようだ。爺は生き残りの侍に駆
け寄った。
 「助けて、くれ」
 侍は苦しみに耐えながらどうにか言葉にした。爺は何も言わず、人さし指を口にやり、喋るな、と侍に伝えた。
 これは面倒な事になった。この生き残りだってそう長くは持たない。とにかく、倉光さんの所へ行って事情を説
明しよう。その後で、四つの死骸を連中に始末して貰えば良い。
 倉光とは、天成奉行所の同心である。
 爺は、今後の事を考えながら侍の死骸を今一度見回った。
 (そういえば、この箱は一体)
 と、一人の侍の傍らに転がっていた箱に寄った。錠も掛けられておらず、開けて見ると、大量の小判が収められ
ていた。
 爺は思わず大唾を呑んだ。どうしてくれよう、この小判を!
 「うぐぐ、あぁ、痛ぇ、痛ぇ」
 興奮し切っている爺の傍で、生き残りの侍は嘆いていた。
 人間とは恐ろしいものである。
 爺は漬物石を運んで来、生き残りの侍を殺害した。 
 念には念をと、ぴくりとも動かない侍たちの頭をも、幾度も漬物石で殴りつけた。辺りは血の海となった。そし
て爺は半狂乱で侍の死骸を畑に運び、その晩のうちに埋めてしまった。死骸の首はもはや誰が誰だか識別できない
ほどに叩きつけられて、生前の面影は微塵も感じられない状態となっていた。爺は小判を箱から全て取り出し、壺
に入れ、押し入れの奥に隠した。箱も埋めた。血が滴る庭を桑で掘り返し、朝日が昇る頃には、昨夜の事件の痕跡
は無くなっていた。
 そして三日後の今日、爺は八郎に銭をたかられたのである。
 八郎がやくざの芝居をしていた裏で、爺もまた、幸の薄い貧乏人を装っていたのである。
 爺が踊り疲れて茶を呑んでいた頃、八郎と無法者はまだ桑畑の道で座り込んでいた。
 「ところで、おめぇ、名前は?」
 「大城八郎」
 「八郎ね」
 「テメェも名乗れコノ野郎」
 「俺は高沼十兵衛」
 「変な名だ。そんな事より、分け前をよこせよ」
 「やりてぇのは山々だよ。だけどね、たったの一両ぽっちじゃねぇ。分けたら雀の泪ほどじゃねぇか。ね。だか
らね。まぁ、諦めな」
 「舐めるなよこの野郎」
 「俺に喧嘩売るのか」
 「上等じゃねぇか」
 十兵衛は八郎を冷ややかな眼で見た。
 「少しでも動くと、首が飛ぶぜ」
 この言葉に、八郎は震えた。幾ら人斬りを好まないと言っても、先程のが演技だとしても、剣の腕は本物であ
る。八郎はぐっと堪えた。
 「じゃあ、分け前、貰えねぇのか」
 「そういう事だね。また別のカモを見つけな」
 十兵衛はそう言い放つと、勢い良く立ち上がった。
 八郎は十兵衛を見上げた。背に浮かぶ太陽の光で、十兵衛が酷く輝いて見えた。逆光で顔は黒く、そのやくざ顔
を一層悪の顔にしていた。
 「まぁ俺の腕には勝てねぇだろうが、さっきの調子じゃ、おめぇもかなりの腕前らしいね。俺の脅しで、あそこ
まで動じなかった野郎は居ねぇからな。大概は睨んだだけで脅えちまう」
 八郎は聞きながら、そりゃそうだろうと思った。やくざ者でも怯むほどの顔だ。堅気なら睨まれただけで寿命が
縮む。
 「じゃあ俺は行くぜ」
 十兵衛は言うと、首を動かし肩を解した。 
 「俺の首を斬らねぇのか、稼げるんだろ」
 「おめぇの首を斬っても、その首をまた山戸の所まで持って行かなきゃならねぇんだ。大した銭にも成らねぇし
ね」
 「幾らだ」
 「詳しくは聞いてない」
 「でも、おめぇ、山戸の者だって」
 「馬鹿、嘘も見分けらんねぇのか?救いようのない馬鹿だね。山戸ん処には一日寄っただけだ」
 「飯屋の浪人は?」
 「あぁ、畜生叩っ斬ってやるって凄い剣幕で怒鳴ってたよ。あの町には戻らねぇほうが身の為だぜ。それにして
も、なんで逃げたんだ?」
 「逃げた訳じゃねぇよ」
 「まぁいいさ。俺は先を急ぐ。憑いてくるなよ」
 「憑いてくるなって、テメェ頭がおかしいんじゃねぇか。テメェと逆方に行きゃあ、さっきのオヤジの家だろう
が。その先は、俺を殺すって憤った浪人がいる町だ。嫌でもテメェに憑いて行かなきゃ、先は無ぇんだよ」
 八郎は立ち上がり、十兵衛を挑発するに言った。
 「じゃあ日が暮れるまで此処でじっとしとく事だな。せいぜい野犬に喰われねぇように気をつけろ」
 十兵衛は遂に歩き出した。
 「おい、待てよ」
 「なんだよ、気持ち悪いな。憑いてくるなよ」 
 「待てよコノ野郎」
 「おめぇそれ以上ふざけると、本当にブチ殺すぞ。俺は怨みのない人間は殺せねぇがな、頭に来ると手前の親で
も殺しちまうかも知れねぇってくらい抑えが利かねぇんだ。おめぇの為に言ってやってやる。ここで日が暮れるま
で座ってろ!」
 八郎は立ち尽くした。
 段々と小さくなる十兵衛の背。 
 「何が十兵衛だ」
 八郎は呟いた。そして、 
 「馬鹿たれ!」
 と叫んだ。八郎の声は響いた。
 「ふざけやがって。何が十兵衛だよ粋がった名前しやがって。何が凄腕だ。人も斬れねぇ腰抜けじゃねぇかよ」 
 八郎は誰に言うわけでもなく、ぶつぶつと文句を垂れながら、十兵衛の姿が完全に見えなくなるまで待った。
 冷たくも暖かくもない風が吹いた。
 八郎の音痴な唄が桑畑に響いた。
 

 2
  
 日が暮れた頃、高沼十兵衛は天成より北、尼埼に来ていた。
 少し寂しい町だが、十兵衛には遊廓と宿場さえあれば事足りる。
 とにかく、今晩身を置く宿を探さなければ。
 十兵衛は、眼についた飯屋に入った。ここで町の事を聞けば良い。
 「開いてるか?」
 十兵衛は暖簾を潜りながら鋭い調子で言うと、箒で屋内を掃除していた老いぼれの主人らしき男が、
 「もう閉めるとこですが」 
 と疲れた声で言ったが、その発音はわざとらしく、十兵衛はこの男がちっとも疲れていない事を悟った。そし
て、自分が今日初めての客だという事も、なんとなく感じ取っていた。十兵衛は、こういう微妙な空気が苦手で
あった。どうせ他所者を疎外するのなら、もっと露骨な方が良い。十兵衛は、屋内でも屋外でもない処から、主人
に話しかけた。
 「まだ日が暮れて間もねぇのに、やけに早く閉めるんだな」 
 「日が暮れると物騒ですからねぇ」
 「ほう、この町は物騒か?」
 「えぇ、近頃は。あんさんも、こんな町に長居はよくないですよ」
 「まぁそれはそうと、この辺に宿は無ぇかな」
 「ここから少し歩けば、紅蝶って遊廓がありますから、その辺まで行きゃあ、分かるでしょう」
 「うむ、すまんな。じゃあ」
 十兵衛は言われた通り先に進んだ。
 すると確かに紅蝶という看板が掲げられた遊廓があった。その手前に、宿屋らしいものが一軒あった。
 十兵衛は宿屋の扉を開けた。六十代程の男が座って蜜柑を食っていて、十兵衛をじろりと睨んだ。十兵衛は、老
人の眼から溢れ出る狂気に少し戦慄いた。そして驚くような湿気を肌で感じた。
 (雨も降っていねぇのに、気持ち悪いな)
 十兵衛は困った時にする癖があった。一瞬、歯を喰い縛って口を尖らせるのである。傍から見ると、まるで接吻
を望んでいるように見えて気持ち悪い。それも十兵衛のような悪顔の男の事である。子供の頃からの癖であるが、
本人は自覚していない。傍の人間は、気持ち悪いので直して欲しいのだが、そんな事を言うと十兵衛はきっと怒り
狂うので、誰も言えないでいた。魂の抜けたような宿屋の老人も、この十兵衛の変顔には少し戸惑いを感じた。 
 「他所者ですな」
 老人はかっと目を見開き言った。
 「あぁ、他所者だぜ。他所者が居るから商売が成り立つんじゃねぇのか。だったらもっと歓迎してくれても良い
と思うがな」
 十兵衛は口を尖らせたまま言った。
 「はは、あんた、面白いね。歓迎してねぇ訳じゃねぇんですよ。むしろ大歓迎でさ。さ、んな所に突っ立てねぇ
で、上がってくだせぇ」
 十兵衛の口が漸く元通りになった。
 十兵衛は鼻で笑いながら、草鞋を脱いだ。
 「おかしな野郎だな」 
 「へ、何がおかしいんで?」
 十兵衛は、急に面倒臭くなった。社交的な気分なら、老人のおかしい所を幾つも指摘し、二人で笑って話す所で
あるが、この時の十兵衛は心身ともに疲れていた。話すのも面倒なくらいに。
 「いや、なんでもねぇ」
 「では、ご案内致しやす」
 老人は十兵衛をさっと部屋に案内した。
 「こちらになりやす」
 「うむ」
 十兵衛が障子を開けると、なかなか薄汚い部屋であった。襖は所々に穴が空いているし、天井は妙なシミだらけ
で、部屋の中央に卓袱台が置かれているのだけれど、これすらも小汚い。石のように硬くなった米粒が隅々に付着
している。しかし腐っているのは外見だけではなく、それは部屋に充満している黴臭さで分かる。
 「おい、もうちょっとマシな部屋は無いのか?」
 「はぁ、しかし」
 老人は言葉を詰まらせた。実際に喉に異物が詰まったのか、それとも息を呑んだだけか。十兵衛はこのふざけた
老いぼれを見て、どうせロクな返事は返ってこないだろうと思った。この老人の頭の腐りようからも推測できる通
り、この宿全体が腐敗しているのである。それは黴や埃、食べ残しなどの物質的な汚れだけが原因ではない。心が
荒み切った流れ者の手垢が積りに積もった結果がこれである。つまり、墓地には良い空気が流れぬのと同じく、こ
の宿屋には気色の悪い空気が漂っているのだ。そしてその空気を毎日吸い続けていると思われるこの老人は、段々
と脳味噌が負の空気に侵食されて行ったのだ。だからこのような酷い顔をしているのだ。十兵衛はまた口を尖らせ
ながらそう思った。
 老人は唾を尋常ではない程に音を立て飲み込んだ。そして、まるで酒を一気呑みした後のように、腹の底から空
気を吐き出した。老人の息をまともに吸い込んだ十兵衛は、なんという異臭を放つのだこの老いぼれは、と戦慄し
た。口の中で茶と魚が交じりあって腐っているのか、と思うほどの激臭だったのである。
 「此処は全室、この程度で御座いますが、それでももし、お侍さんが嫌な思いをなさられるのであればですね、
えー、ごほっごほっ」 
 老人は咳き込んだ。酷く痰を絡めているようで、今にも口から内蔵が溢れ出そうな音を出していた。十兵衛は軽
蔑の眼差しで老人を見た。
 「大丈夫か、おい」
 十兵衛が声を掛けると、老人は何か答えた。が、衣服の袖で口を抑えたまま、もごもごと答えたものだから、何
を言っているのかはてんで聞こえない。
 老人は再び大きな唾を呑み込み、また腹の底から空気を吐き出した。
 十兵衛は先程の激臭を危惧して、一瞬、顔を上げて天井のシミを見たが、臭いを顔の角度だけで避ける事はでき
ない。
 「はー、大丈夫です。心配なさらんで下さい。いつもの事ですから。あ、えーっと、それで、部屋ですが、もし
お気に召さないのでしたら、えー、あー、もしそうでしたら・・・」
 十兵衛が遮った。
 「もうよい。この部屋で我慢しておく」
 すると老人は見え透いた喜びに満ち溢れた声で、
 「そうですか。そうですか。それは助かりますです。はい。えー、じゃあ、布団は押し入れに入っておりますの
で。何かお申し付けが御座いましたら、いつでも私にお申し付け下さい。では、ごゆっくり」
 老人は障子を閉めると、すたすたと音を立て帰って行った。
 十兵衛が部屋の臭さに慣れ始めた、丁度その頃。
 紫の着物に、胸元を見せびらかしたいやらしい格好の、一目でやくざ者だと分かる男が尼崎にやって来た。胸元
に彫られた刺青は、奇麗な桜であった。
 大城八郎である。
 八郎は憤りながら、静まり返った町を歩いた。
 (なんて白けた町だ。まったく。まぁ夜に賑わい返っているのも面倒臭いが、しかしこう静かではなぁ。そんな
事よりもさっさと宿を見つけなければ。こんな町はさっさと出ちまおう。しかし、あの阿呆はこの町に居るのか。
それとも先を急いだか)
 あの阿呆、とは高沼十兵衛の事である。
 八郎は遊廓、紅蝶の前に立っていた不細工な遊女に声を掛けた。
 「何?お侍さん」
 「この辺に宿はあるかい」
 「宿ならあるわよ。それよりさぁお侍さん、遊んで行きなよ、ね」
 「俺も遊びてぇんだけどよ、もう歩き疲れちゃってね」
 「私が疲れを取ってあげるよ」
 八郎は、こんな不細工と一晩明かせば、疲れが取れるどころか更に疲れてしまうわ、と心の中で呟き、そして心
の中で笑った。
 「また来るからよ。とりあえず宿を教えてくれよ」
 「うふふ、きっとよ。宿なら彼処にあるよ」
 そう言って遊女は一軒の宿屋を指さした。
 「助かったぜ」
 「またね」
 八郎は教えられた宿屋の扉を開けた。
 蜜柑を喰らう放心状態の老人が八郎を迎えた。
 (なんて気持ち悪い野郎だ。死にかけじゃねぇか)
 八郎は若干顔を引き攣らせた。
 「部屋、あるかな」
 「他所者ですな」
 「あぁ、他所者だよ」
 「尼崎に何の用です?」
 「旅の途中だ」
 「旅人ですかい。そりゃあ結構、結構」 
 「で、部屋はあるんだな?」
 「ありますとも。ご案内致しやすです」 
 一つ屋根の下に二人の無法者。
 大城八郎と高沼十兵衛は、しかしその事を知らない。
 丑の刻、十兵衛は窓から零れる月明りに照らされ、熟睡していた。
 八郎は、宿主の老人に持って来させた酒を呑みながら考え事をしていた。八郎は酒を呑みながら考えに耽るのが
好きであった。
 旨い酒だな。しかしこれほどしけた町だとは。遊女すらもあの有り様だ。どうせ町の者も貧乏人ばかりだろう。
遅くても明後日の朝にはこの町を出よう。あの奇妙な老人を脅迫すれば幾らかにはなるだろうし、明日中に銭にな
るような物を探しておこう。それにしても眠れん。これほど旨い酒を呑んでいるというのに。
 八郎の部屋は、十兵衛の部屋よりは幾らか汚れはマシだった。しかし黴臭さは変わらない。だが、八郎はそのよ
うな些細な事は気にしない性格であった。黴臭さなど、慣れたものだ。
 やがて朝日が昇り、尼崎の町は、隅から隅まで陽に明かされた。
 八郎は潰れていた。その姿は廃人そのものであった。
 十兵衛は、黴臭さにも完璧に慣れ、清々しい朝を迎えていた。
 (よし、町の様子を探ってみるか)
 十兵衛は布団を仕舞い、玄関口に出た。老人が居ない。
 まだ寝ているのだろうか。もうとっくに陽は上がっているというのに、とことんふざけた老いぼれだ。いや、老
いぼれだからこそ朝に弱いのか。いやいやそんな事はない。年寄りの朝は早いもんだ。
 十兵衛は考えながら、表に出た。
 昨夜とは違い、往来が賑わしい。
 十兵衛は尼崎の町を歩いて回った。
 特に注目するような物は無く、普通の町であった。
 小腹が空いたな、何しろ朝飯を喰っていない。
 十兵衛は丁度そう感じた時、目の前にあった鈴碗という飯屋に入った。なんとも言えない貧乏臭い雰囲気が醸し
出されているのには少し抵抗があったが、この町そのものが貧乏臭い、と十兵衛は心で呟き、頭の中で大笑いし
た。だが、十兵衛はその感情を表に出す事はなく、相変わらずの極道面であった。
 「いらっしゃいませ」
 と奥から現れたのは奇麗な娘であった。
 「あの、飯、あるかね」
 「はい、飯屋ですから。どうぞ座って下さい」
 「じゃあ、あの、てきとーに頼むよ」
 なかなか可愛らしい娘だな、と十兵衛はほくそ笑んだ。十兵衛は頭の中でのみ、ほくそ笑んだつもりであった
が、そのほくそ笑みは完全に露呈してしまっていた。近付くのも難儀な極道面の男が、満面のほくそ笑みを披露し
ていた。気色の悪い光景である。十兵衛のほくそ笑みを間近で見てしまった娘の心は、まさにどん引きであった。
 「では、あ、あの、少しお待ち下さいませ」 
 娘は一刻も早くこの男から離れたいと願っていた。
 (きちがいかしら。気持ち悪い)
 娘はそう思考を巡らせながら、飯の支度にとりかかった。
 良い娘だ。上品で、可愛らしい。俺好みだ。しかし、この飯屋はあの娘だけでやっている訳でも無かろう。旦那
か、或いは親父が何処かに潜んでいるだろうな。あんな女子が独り身の訳がない。いや、そんな事よりも銭儲けを
考えなくては。
 その時である。飯屋の扉が勢いよく開けられた。
 「うっ、客か」
 呟いた男の名は犬居恭次郎。
 「おい、ここの親父か娘は知らねぇか、え?」
 十兵衛は頭に来た。なんと無礼な。
 「知らんな。自分で探せ」
 恭次郎も頭に来た。他所者だな。
 その時、娘が膳を抱えて現れた。
 「恭次郎さん!」
 「おう、鈴代ちゃん、銭は用意できたかい」
 「いえ、あの、いまはお客さんが居ますから」
 「んな事ぁ関係ねぇだろう。へへへ。そうやって目を眩ませようったって行かねぇぜ。さぁ、約束の銭を払って
もらおうか」
 「いまは帰って下さい」
 「おう、その態度は、おう、都合ついてねぇんだな。となると、まずいな鈴代ちゃん。てめぇの身で都合つけな
きゃいけねぇからな。俺ぁそんな事はしたくねぇよ。したくねぇけどな、銭がねぇんなら仕方ないな。よし、そん
な阿呆は放っておいて、こんな臭ぇ飯屋は閉めてよ、屋敷について来い。とにかく話はそれからだ」
 十兵衛は恭次郎の目を見張った。
 「なんだよ、文句でもあっか?」
 恭次郎は挑発した。挑発したのがいけなかった。
 「あんまり調子に乗るなよ」
 「なんだてめぇ!やる気か!」 
 十兵衛はまたほくそ笑んだ。その理由はもはや説明するまでもないだろう。
 (ふふ、ここでこの暴君の腕を斬り落とせば、この娘は俺に惚れるに違いない。ふふ)
 「おい、何がおかしいんだ、え?」
 奇妙にほくそ笑む十兵衛を見て、恭次郎は馬鹿にされてる気がした。
 娘はやはりこの男はきちがいだと確信を持った。
 「おかしいのはおめぇの顔だぜ」
 「なんだと!」
 その時。
 しゅ、と風を切るような音。
 だん、と物が接触した音。
 すすす、と何かが動いた音。
 再び風を切るような音。
 そして男の悲鳴。
 「あ、ああ、あああ、俺、俺の腕がぁ、俺の腕がぁ」
 恭次郎は避ける間もなく、片輪にされてしまったのである。
 恭次郎の悲鳴を聞きつけ群がるやじ馬。
 「口には気をつけろ」
 悲鳴をあげる恭次郎に吐き捨てた十兵衛は、娘に向き返り、
 「どういう事情かは知らぬ。だが床を汚してしまった事は謝る」
 十兵衛は暫く、娘から発しられるであろう感謝の言葉を待っていた。だが娘はやはり放心状態であった。
 恭次郎はやはり悲鳴を上げている。
 血が右腕から溢れ出している。 
 「俺の腕が、俺の腕が」
 恭次郎の腕は今や石や草と同様に、単なる物体となり果てていた。
 恭次郎は左手で右腕を掴み取ると、何を思ったか右腕の付け根に押し付けた。そんな事をするものだから当然激
痛が身体を伝わる。恭次郎はさらに大声を上げて泣き叫んだ。
 「おめぇ、みっともねぇぜ。この汚ねぇ腕を持ってさっさと帰れ」
 「テメェぶっ殺してやる、この野郎」
 「あン?もう一度言ってみろ」
 十兵衛は恭次郎に寄った。
 「ぶっ殺してやるって言ったんだよ馬鹿野郎」
 恭次郎は鼻をぐずぐずにして泣きながら、怨念たっぷりに言った。
 だが十兵衛は平然としている。
 「おい」
 と言って十兵衛は恭次郎の髪を掴み上げた。 
 「俺は何に気をつけろって言ったんだよ、え?」
 やじ馬たちは息を呑んだ。
 「何を気をつけろって言ったんだ?言ってみろ」
 「うるせぇ馬鹿野郎!」
 「どうやら左手も叩っ斬って貰いたいらしいな」
 「おう、斬ってみろよ畜生めが、畜生、チクショウ、ちくしょう」
 「ふん、格好つけるのもいい加減にしておけよ。俺は今日は気分が良いんだ。だからお前を殺しはしない。どう
だ? 許してやるんだぞ」 
 十兵衛は心の中で、なんと器の大きい漢なんだと、呟いた。その慢心は、話し口調にまで滲み出ていた。十兵衛
はもう一つの思惑があった。心の広い、器の大きい漢だと、娘に知らせたかったのである。だから時折、ほんの一
瞬だけ、娘の眼を盗み見た。
 この男、自分を心の広い人間だと皆に知ってもらいたいのかしら。僅かな口論で人間の腕を斬り落としておい
て、何を今更、己を作ってるんだろう。やっぱり気が違っているのかな。
 娘は放心状態のように見えて、実際は冷静に思考を巡らせていた。
 だが、十兵衛はと言うと、己の剣の腕に泥酔していた。
 「俺は紅蝶の前の宿屋に居る。報復したければいつでも来い」
 なかなか格好の良い台詞を言えた、と十兵衛はまたしても慢心していた。左腕を亡くした恭次郎は地面に頭を擦
りつけていた。


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甘辛流小説家ギルドGAIA
produced by COLUN.