手の鳴る方へ


1 :菊之助 :2006/11/07(火) 00:22:09 ID:nmz3mGxA

○冬の章『ゆき』

〜スノードロップ〜


 スノードロップという花がある。
 花言葉は、
「希望」
「慰め」
「楽しい予感」


 そして、
「まさかの時の友」
 それはまるで。
 雪のような存在の、そんな、花。






「妊娠しているかもしれないの」
 突如友人に呼び出された私は、相手の第一声に、含みかけていたカフェラテを噴出しそうになった。
「本当よ。父親は誰か知らないけれど」
 淡々とした口調が余計に私の頭を混乱させる中、それでも友人はそういった私の反応は予想済みだったのか、気にせず話し続ける。
 アレがこないのよ。
 変わらぬ無機質な声で呟く友人は、いつも紅茶を頼むくせに今日に限ってホットミルクを注文していた。
「だって、もしお腹に子供がいたとしたら、紅茶よりもミルクのほうがいいと思うから」
 長い髪に指を絡ませた友人は、ぼんやりと喫茶店のテーブルに肘をつきつつ、大きな窓の向こう、街道を忙しなく行き交う人々の姿を目で追いかける。
 寒気に伴い一日雪になるでしょう。皆さん、どうぞホワイトクリスマスをお楽しみください。
 朝、テレビの中で若い女性の天気予報士が微笑みながら言ったのを思い出した。めったに雪の降らないこの地域では、少し積もっただけで電車のダイヤが乱れ、雪道を歩きなれない人々は凍結した地面に足をとられ強かに体を打ちつけている。事実、私もこの喫茶店に来る途中、雪道を転んで購入したばかりのブーツに傷をつけた。
 いったい何がホワイトクリスマスなのか。そんなのセンチメンタルな恋人同士が喜ぶだけで、そうでない人間にはただ迷惑なだけである。
「産婦人科に行こうと思うのよ」
 窓の方に顔を向けたまま、ポツリと友人が呟いた。確認しないといけないもの。
「付いてきて、くれる?」
 ガラス玉のような瞳でこちらを振り返った友人の言葉に、私は少し悩んだ末、ゆっくりと首を縦に振った。

 
 身を切るような寒さに、吐いた息はすぐ凍りつく。
 白い雲の端がぼろぼろと崩れていく錯覚を覚えたのは、冷たく重い、大粒の雪のせいだろう。喫茶店から出た私達は、そのまま駅五つ分離れた町の産婦人科に向かった。何故そこにしたのか、理由は特にない。ただ、自分達の生活空間から少しでも離れた場所へ。そう思う心が、自然と足を遠くにあるその場所へと向けたのだろう。でも、本当だろうか?
 鈍行列車しか止まらないその駅は人もまばらで、白くけぶる世界をより寒々とした空間に見せていた。産婦人科へ向かう道も同じ。開いているのか閉まっているのか今ひとつ分からない店がポツポツと立ち並ぶ車道を、私達は縦に並んで歩いた。途中道を確認する時以外、私達は無言でただ互いの足音だけを聞きながら、雪道をただ進んでいく。
 もし今日が晴れていたら。
 前を行く友人の背中をぼんやりと見詰めながら、私は白い息を吐き出す。
 もし今日という日が晴れていたら、こんなことにはならなかったのかもしれない。
「見えたわ」
 友人の声に私は顔を上げた。
「あれよ」
 白の中にポツリと浮かぶ淡い茶。女性院長の名前が明記された看板に年代は感じるものの、ちゃんと磨かれているのか古ぼけた印象は受けなかった。
 ほぅ、と溜息が聞こえた気がした。前を行く友人のものかと思ったが、迷い無い足取りで入口へと進む友人の後姿に、私はそれ以上深く考えず後を追った。
 まるで私達を急かすかのように、私達の後ろを、冷たい雪風が通り過ぎていく。


 聖夜だからか、それとも大雪のためなのか。理由は定かではないが、待合室に私達以外の人影はなかった。
 窓の外では愈々吹雪いてきたらしく、ときおりゴーッという突風の音が、ガラス越しに耳まで届いた。
 長いすに並んで座った私達は、待合室中央に置かれたストーブの赤い炎が時折チロチロと揺れるのを黙って見詰めていた。扉の僅かな隙間から入り込む冷気が足をかすめて、私は少し身震いをする。しかし横に座る友人は、そんな寒さにも、そしてストーブの温かさにもきっと気付いていないのだろう、身じろぎもせずストーブの炎に見入っている。
 私はそっと横目で友人を盗み見た。
 長い栗色の髪に、伸びた手足。綺麗な人だ、と思う。
 確かに、綺麗な人だ、と。
 気がつけば、私は黙り込む友人に向かって口を開いていた。
「……ねえ」
「なに?」
 感情のこもらない声が返ってくる。機械的な返答。だから私も出来る限り淡々と尋ねた。
「もし子供がいたら、どうするの?」
「どうするって?」
「……産むの?」
 言ってからすぐに、私は自分の無神経な発言に後悔した。もっと相応しい言葉が、探せばいくらでも見つかっただろうに。しかし、私の問い掛けに友人は黙ったまま、揺らめく炎を見詰め、少し俯き、天を見上げて、また炎に視線を戻してから、ゆっくりと瞬きをした。長い睫毛が二度ばかり、その黒目がちな瞳を隠してから、友人は強く唇を引き結び、そして開いた。
「……それは」
 しかし、友人が何か言おうとした時、診察室の扉が唐突に開いた。中から出てきた三十歳前後の女性が一人、私達から少し離れた席に腰掛ける。
「高橋さん、どうぞ」
 看護士が、診察室の中から友人の名を呼んだ。誰もいない待合室で、次に呼ばれるのは間違いなく友人のはずだ。が、その呼び声に、確かに友人の体が一瞬震えた。見ると友人は、目を大きく見開き、苦しげに眉を寄せている。その表情は、まるで叱られることが知っている子供のそれによく似ていた。
 だからなのか。その瞬間、それまでざわついていた私の心が、シンと静まり返った。
「さあ」
 そう呟いて、私は友人の強ばる肩にそっと手を置いた。
「いってらっしゃい。大丈夫、ここで待ってるから」
 自分でも意外なほど落ち着いた声が出た、と思う。無意識的に出た声と言葉に、友人は困惑したようにこちらを振り返ったが、小さく頷くと席を立った。
 長い足が頼りなげに診察室へと向かう。やがて友人の姿は、白い扉の向こうへ消えた。

 
 雪は止む気配を見せない。それどころか、どんどん降りが強くなっていく。
 これではホワイトクリスマスどころか、ブリザードクリスマスだ。きっと交通機関にも大きな乱れが生じている事だろう。駅五つ分、ちゃんと帰れるだろうか。
 先程診察室から出てきた女性は、支払いを済ませてそそくさと雪の乱れ舞う外へと出て行った。待合室に一人、私は座っている。窓から見える世界は、日が翳ってきた事で次第に薄暗くなっていった。友人はまだ出てこない。一瞬、待合室に置いてあった女性誌に目を通そうかと思ったが、やめた。それよりも今は、暮れ行く景色の中を吹き荒ぶ雪風を見ていたかった。
 突風の音、凄まじい音だ。それなのに、何故だかとても静かに感じられる。
 どうして。
 どうして私の心はこんなに静かなのだろうか。
 クリスマスを一緒に過ごす人がいないわけではない。仲間を集めて、馬鹿騒ぎをするのが嫌いなわけでもない。
 だけど、今日はそういったことはどれもしたくない気分だった。
(あ、そうか)
 そのとき、一段と強い雪風が窓ガラスを叩きつけて、私は気付く。
(雪が降っていたからだわ)
「ありがとうございました」
 ガチャリと診察室の扉が開く音と、ついで聞こえた友人の声に、私はそちらの方向を振り返った。診察を終えた友人と、瞬間、視線が重なった。
 その目は見えているはずなのに、何も見えていないように、私には思えた。
 

 帰り道。
 あれほど強く吹いていた風は、いまやすっかり止まってしまい、くすんだ夜空からは白い羽のような雪がフワリフワリと落ちてくる。
 診察室から出てきた友人は精算を済ませると、私の方を振り向きもせずに病院から出て行ってしまった。だけど走るわけでも、逃げるわけでもなく、ただ静かに駅へ続く道を歩いている。だから私も何も言わず、その数歩後ろをついていった。雪の積もった道の上に、前を行く友人の足跡が残っている。それを見て、友人がいつもより小さな歩幅で歩いていることがわかった。私に合わせてくれているわけではないだろう。きっと今の友人には、その歩幅でしか歩けない。
 そんな風に無言で歩いていると、いつの間にか駅に辿り着いていた。切符を購入し、改札を通ってホームへ上がる。しかし、時刻表に書かれている時間を過ぎても、電車は一向にその姿を現さない。雪の影響で、ダイヤが大幅に乱れているのだろう。仕方がない。
 私達は、黙ったまま駅のホームに並んで立った。ベンチはあったのだけど、どれも雪が積もっていて座れる状況でもなかったし、少しでも動いていないと体が芯から凍りつきそうだったから。
 申し訳無さそうについている駅の白熱灯の下には、やはり私達意外の人影は見当たらなかった。そうだろうな、と思う。だってこんな雪の日の夜、しかもクリスマスなのだから。
 深々と雪が、電車を待つ私達に降り積もる。私は時折、寒さを紛らわすためその場で足踏みをしたりしたが、友人は相変わらず無言でその場に立ち尽くしていた。栗色の髪の天辺に、白い雪がかぶっている。まるで、タンポポの綿毛のよう。静か過ぎる空間の中、私がそう思っていると、唐突に友人が口を開いた。
「今朝、天使の夢を見たの」
 空気に混じりそうな小さな声だったが、私の耳には友人の言葉ははっきりと届いた。
「綺麗な顔をして、真っ白な衣装をつけた天使よ。羽が生えていて。私に微笑みかけたわ。優しい笑顔だった」
 その光景を思い出したのか、友人の口元がかすかに笑んだ。
「彼か彼女かわからないけれど、とにかくその天使は私にね、花を渡したの。白い花よ」
 向かいのホームに、中年の駅員が現れたのを私は眺めていた。制服の前をあわせ、寒そうに手を擦り合わせている。彼はまだ見えない電車を探すかのように、線路の両方へ視線をやった。
「百合ではなかったけれど、白い花だった。私はそれをこう、両手で受け取ったの」
 話しながら、友人は自らの両手を空中に差し伸べる。その動作は、まるで赤子を受け取る母親のように、慎重で優しげな手つきだった。
「そこで目が覚めた。窓を開けたら、雪が降っているじゃない? ここいらは積もるような地域でもないのに」
 そう呟いて、友人はその日初めて私の方を「見た」。目が合って、私は黙ってその目を、瞳を見詰め返す。と、友人が微笑んだ。
「奇跡だと思ったのよ。自分に奇跡が舞い降りたと、そう思ったの。だって、天使の夢に、白い花に、それから目覚めたら雪が降っていたのよ? ね、奇跡が起きてもおかしくないと思わない?」
 立て続けにそう言って、友人は私を見つめ続ける。私は、私は何も答えない。ただ黙って、友人の顔を見詰めた。
 天使に、百合。
 キリストの母親である聖母マリアは、大天使ガブリエルから受胎告知をされた。
 その際に渡されたのが、白い百合の花。
 百合は「純潔」や「無垢」を表す。
 そしてその花言葉の通り、マリアは処女でありながらもイエスを身ごもったのだ。
 不可能な妊娠。
 だが、神の力があったから、純潔のまま、聖母は「聖母」となれた。
 そのとき、友人の瞳から透明な液体が一滴、ふいに零れ落ちた。
 本人自身、最初それがなんなのか分からないと言いたげに驚いた顔をしたものだが、その液体は――涙は、とまることなくパタパタッと友人の瞳から零れ落ちる。
 ごくり、と友人の喉が大きく動いた。
「……えへ……」
 細かに体を震わせて、一瞬微笑んだ友人の眉が、苦しげに歪められる。その双眸からは、留まることなく涙が流れていた。
「……妊娠だって」
 震える声に、友人はその大きな手を拳の形にして、苦笑した。
「そんなこと……あるわけないのに、ね……?」
 その言葉が合図だったかのように。
 友人は俯くと肩を大きく震わせた。引き結んだ口から漏れる嗚咽は低く、向かいのホームに立っていた駅員が驚いたようにこちらを振り返る。
 だけど私は、そんな視線を気にしない。
 長い栗毛に隠された友人の顔を覗き見ることなどせず、私はそっと友人の手をとった。
 握ったその手はしっとりと冷たい。そして大きく、無骨で、逞しい。
 だけどそれは、彼が、いいえ、「彼女」が望んだ手ではない。
 彼女が望んだのは、欲しかったのは、小さく、華奢な「女の子の手」だった。
 でも、彼女はその手を持って生まれてこれなかった。
 以前も二人で話した事がある。そのとき彼女は、自分自身の逞しい体を抱きしめて、今みたいに苦笑しつつ涙を流した。
――どうして私はこんな手で、こんな体で生まれてきたのかな
 それに答える人など、まして神などいるわけもない。そして、その苦しみを取り去ってくれる人も、恐らく。
「……ごめんね? 変な事につきあわせて……呼び出して……」
 とがった喉仏を上下させながら、彼女は搾り出すように呟いた。
「ほ、本当は……説明しよ、うと思ったんだけど……」

 親に勘当されてまで、本当の自分を貫こうとした彼女の人生が、決して平坦でなかったことを、私は知っている。綺麗な人だから、髪を伸ばして、可愛らしい服を着れば、それで十分に女性に見える。だけど、それで悲しみが取り除けるか。答えは、「ノー」だ。
「ゆ、雪が……」
 溢れ出しそうになる嗚咽をどうにか飲み込みながら、彼女は呟いた。
「雪が……綺麗で……それで……それで、ね……」
「……うん」

 大きな彼女の手を、その手よりも小さな手でしっかりと握りながら、私は頷いた。

「いいのよ」

 見上げると、夜空から白い白い雪が舞い落ちてくる。冷たく、軽く、静かで。

「雪がきれいじゃない。それだけで」

 私がそう答えると、彼女は再び顔を伏せた。
 やがて電車が近付いてくるアナウンスが流れ、白い世界に人工の明かりが差し込む。

 そのとき、握っていた手が強い力で握り返された。
 その力はとても強かったけど。
 彼女の涙が止まるまで、痛いのなんていくらでも我慢できる。
 そう思った。

 世界は未だに白く、そして静かだった。
 空か舞い落ちる雪の結晶は、きっと奇跡を運ぶ事はないだろう。
 どれだけ願っても、私の横にいるこの美しい人はマリアのようにはなれないのだ。
 だけど、苦しみを背負って生まれてきた友人と。
 その手を握る私。
 二人がであったのは偶然で、そして二人がここにいるのも偶然だ。
 そんな偶然のことを奇跡と呼ぶのならば、今この瞬間は当に奇跡なのだろう。
 
 ホームに電車が入ってきても、私達は手を繋いだままその場に立ち尽くしていた。
 白い雪の結晶が、降りかかる。
 だけどそれは冷たいはずなのに。

 何故か少し、温かく感じた。


9 :菊之助 :2012/11/10(土) 18:17:25 ID:sGsFVFuiLL

こがらしより

○秋の章「こがらしより」

 最近ではラジオもインターネットから流れるそうねとアグリさんに言われて、私は「へぇ、そうなんですか?」と答えてしまいました。
 おかしいわね、あなたの方が私よりも年齢は若いのに、どうしてあなたの方が初めて知る風な口調で返してくるのかしら?
 アグリさんは少し楽しそうにほほ笑んでくれたのですが、私の方はというといつものように、小さな自尊心を傷つけられた気がして「でも、ラジオはラジオで聞くのが一番ですよ」とぶっきらぼうに言い放つのでした。そうするとアグリさんは、これもまたいつものように、かわいらしいわねぇ、と呟いて瞳だけでにっこりと笑うのでした。

 空が次第に高くなり、昼の時間はどんどんと短くなっていきます。
 冬至がくれば、再び夜よりも昼の時間が長くなってくるのは分かっているのですが、そこに行きつくまでの今の期間、私はどうしようもなく切なくなるのです。夜には夜の良さがあるのは分かっているのに、どうしても薄暗く暮れゆく世界に、胸の奥が締め付けられるのでした。

 それは私も同じだわ。
 
 以前、そんな私の気持ちを打ち明けた時、アグリさんは深く頷いてくれました。
 夜の時間は勿論すてきなのだけど、静かになりすぎると自分の内側がたくさん見えてしまうからじゃないかしら。沢山みえて良いものなんて、なかなか世の中には無いものだもの。
 なるほどなぁと思いながらも、少しさびしげな彼女の口調に私が困っていると、アグリさんはふとこちらを振り返り、いつものようにニッコリほほ笑んでこう続けました。
 でも、私はあなたの嬉しそうな顔や、楽しそうな姿なら沢山、沢山見ていたいと思うわよ。
 その言葉は、私の「今の時期が何だか苦しい」という悩みの答えにはなりませんでしたが、一瞬にして私を幸せな気分にしてくれたものです。

 アグリさんが、自分のカーディガンの前をきゅっと握るのを見て、私は椅子から立ち上がり窓を閉めようとしました。
 ああ、待って。
 窓枠に手をかけた私に、アグリさんは優しく声をかけます。
 確かにちょっと寒いけれど、こんなのこがらしよりも寒くないわ。今の時間、少し元気のない太陽の光の中で吹く風を、もう少し私は感じていたいのよ。
 なので、私はまた、アグリさんの横に置かれた椅子に腰かけなおしました。
 
 ありがとう。

 ほほ笑むアグリさんに、私も同じように微笑みかけます。
 日に何度もアグリさんは私を見て微笑み、そしてありがとうと言ってくれるのです。
 それは私の心に、温かなお湯を満たしてくれるようで、冷たい手先をお湯に浸した時のむずむずしたこそばゆさ、それから幸福感と同じような感覚を私に与えてくれました。

 でも、もう少ししたら日が暮れてしまうのを私も、アグリさんも知っています。

 その前に、私はここから家に帰らなければならないのです。
 本当は帰りたくないのだけど、そういうとアグリさんは悲しそうな顔をしてしまうことでしょう。
 だから私はちょっとしてから「じゃあ今日は帰ります」と席を立たなければなりません。その時は、先ほど閉めかけた窓を今度こそちゃんと閉めないといけなくなるのです。

 夜になると、アグリさんの体の中にはこがらしが吹き荒びます。
 「木枯らし」は木を枯れさせるような秋にふく強い風ですが、アグリさんに吹くのは「こがらし」です。
 暗闇の中で、アグリさんの中に吹き荒ぶこがらしは、アグリさんの心も、記憶も、思い出も、全て枯れさせていくのです。そうしてこがらしが吹き荒ぶ間のアグリさんは、私の知るアグリさんではないと、私の父親が教えてくれました。

「だからお前は、暗くなるよりも早く、帰ってこないといけないのだよ」

 白目も黒眼も涙でうるませてそう私に言い聞かせた父の姿を、私はもし私が大人になって父やアグリさんと同じくらいの年齢になっても忘れることはないでしょう。

 ああ、でももう少しすると木枯らしが吹く頃ね。そうなると本当に寒くなってしまうわね。

 父を思い出していた私は、アグリさんの優しげな口調にはっとしました。振り返ると、アグリさんがジッとこちらを見ています。
 その悲しげなまなざしに、その優しげな口元に、一瞬私はアグリさんが全てを思い出したのではないかと思いました。なので、もう呼んではいけないよと父に言われていた呼び方でアグリさんを呼びかけました。

「あのね……あのね、お母さ」

 暗くなる前にね。

 私の言葉をさえぎるように、アグリさんの声が、クリーム色の壁紙をした部屋に響きました。

 もうお帰りなさい。誰か分からないけれども、今日は来てくれてありがとう。お話しできて嬉しかったわ。

 今度は顔全体でにっこりとほほ笑まれて、私は出かけた言葉を飲み込みました。
 飲み込んで、そのまま無言で席をたって、ぺこりと頭を下げて、それから窓を閉めました。もう一度頭を下げてから、私は病室の扉を開けて、そうして一目散に駆け出しました。

 病院の長い廊下を駆け抜けていると、額がひりひりとして、のどの奥がグリグリとなって、視界が涙で曇ってきました。病院の玄関から外に飛び出した私は、本当はワンワンその場で泣いてしまいたかったのだけど、もしかしたらアグリさんが窓からこちらを見ているかもしれないので、そのまま道の向こうへと走り続けました。

 アグリさんの体の中には、いつからかこがらしが吹き荒ぶようになってしまい、その原因が若年性なんたらという病気だと分かりはしたものの、解決することはできなくなりました。
 アグリさんはきっとすでに、先ほど病室の中にいた私のことを忘れてしまっていると思います。忘れてしまっているのに、以前のように私が「お母さん」と呼ぶと、アグリさんの体の中でこがらしが荒れ狂うから、だから名前で呼んであげてと父が私に言ったのでした。

 他人のようなアグリさんは、それでも以前のように優しいままで、私を毎日病室に迎えてくれます。
 そのぬくもりが、吹き荒ぶこがらしをより辛くかんじさせるのだと私はわかっていたのですが、それでも毎日アグリさんを訪ねることをやめませんでした。
 そしてこれからも止めることはないと思います。

 だってこがらしはとても辛くて寒いけれど、温かい時間と明るい世界を知っているからこそ、こがらしを「辛い」と感じられるのだもの。
 それは確かに私たちに、温かな時間が続いていたことを感じさせるのだもの。

 こがらしよりも、その寒さよりも、私は温かな幸せを知っているのだもの。

 だから、私は明日もまたアグリさんに会いに行くのです。


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