手の鳴る方へ


1 :菊之助 :2006/11/07(火) 00:22:09 ID:nmz3mGxA

○冬の章『ゆき』

〜スノードロップ〜


 スノードロップという花がある。
 花言葉は、
「希望」
「慰め」
「楽しい予感」


 そして、
「まさかの時の友」
 それはまるで。
 雪のような存在の、そんな、花。






「妊娠しているかもしれないの」
 突如友人に呼び出された私は、相手の第一声に、含みかけていたカフェラテを噴出しそうになった。
「本当よ。父親は誰か知らないけれど」
 淡々とした口調が余計に私の頭を混乱させる中、それでも友人はそういった私の反応は予想済みだったのか、気にせず話し続ける。
 アレがこないのよ。
 変わらぬ無機質な声で呟く友人は、いつも紅茶を頼むくせに今日に限ってホットミルクを注文していた。
「だって、もしお腹に子供がいたとしたら、紅茶よりもミルクのほうがいいと思うから」
 長い髪に指を絡ませた友人は、ぼんやりと喫茶店のテーブルに肘をつきつつ、大きな窓の向こう、街道を忙しなく行き交う人々の姿を目で追いかける。
 寒気に伴い一日雪になるでしょう。皆さん、どうぞホワイトクリスマスをお楽しみください。
 朝、テレビの中で若い女性の天気予報士が微笑みながら言ったのを思い出した。めったに雪の降らないこの地域では、少し積もっただけで電車のダイヤが乱れ、雪道を歩きなれない人々は凍結した地面に足をとられ強かに体を打ちつけている。事実、私もこの喫茶店に来る途中、雪道を転んで購入したばかりのブーツに傷をつけた。
 いったい何がホワイトクリスマスなのか。そんなのセンチメンタルな恋人同士が喜ぶだけで、そうでない人間にはただ迷惑なだけである。
「産婦人科に行こうと思うのよ」
 窓の方に顔を向けたまま、ポツリと友人が呟いた。確認しないといけないもの。
「付いてきて、くれる?」
 ガラス玉のような瞳でこちらを振り返った友人の言葉に、私は少し悩んだ末、ゆっくりと首を縦に振った。

 
 身を切るような寒さに、吐いた息はすぐ凍りつく。
 白い雲の端がぼろぼろと崩れていく錯覚を覚えたのは、冷たく重い、大粒の雪のせいだろう。喫茶店から出た私達は、そのまま駅五つ分離れた町の産婦人科に向かった。何故そこにしたのか、理由は特にない。ただ、自分達の生活空間から少しでも離れた場所へ。そう思う心が、自然と足を遠くにあるその場所へと向けたのだろう。でも、本当だろうか?
 鈍行列車しか止まらないその駅は人もまばらで、白くけぶる世界をより寒々とした空間に見せていた。産婦人科へ向かう道も同じ。開いているのか閉まっているのか今ひとつ分からない店がポツポツと立ち並ぶ車道を、私達は縦に並んで歩いた。途中道を確認する時以外、私達は無言でただ互いの足音だけを聞きながら、雪道をただ進んでいく。
 もし今日が晴れていたら。
 前を行く友人の背中をぼんやりと見詰めながら、私は白い息を吐き出す。
 もし今日という日が晴れていたら、こんなことにはならなかったのかもしれない。
「見えたわ」
 友人の声に私は顔を上げた。
「あれよ」
 白の中にポツリと浮かぶ淡い茶。女性院長の名前が明記された看板に年代は感じるものの、ちゃんと磨かれているのか古ぼけた印象は受けなかった。
 ほぅ、と溜息が聞こえた気がした。前を行く友人のものかと思ったが、迷い無い足取りで入口へと進む友人の後姿に、私はそれ以上深く考えず後を追った。
 まるで私達を急かすかのように、私達の後ろを、冷たい雪風が通り過ぎていく。


 聖夜だからか、それとも大雪のためなのか。理由は定かではないが、待合室に私達以外の人影はなかった。
 窓の外では愈々吹雪いてきたらしく、ときおりゴーッという突風の音が、ガラス越しに耳まで届いた。
 長いすに並んで座った私達は、待合室中央に置かれたストーブの赤い炎が時折チロチロと揺れるのを黙って見詰めていた。扉の僅かな隙間から入り込む冷気が足をかすめて、私は少し身震いをする。しかし横に座る友人は、そんな寒さにも、そしてストーブの温かさにもきっと気付いていないのだろう、身じろぎもせずストーブの炎に見入っている。
 私はそっと横目で友人を盗み見た。
 長い栗色の髪に、伸びた手足。綺麗な人だ、と思う。
 確かに、綺麗な人だ、と。
 気がつけば、私は黙り込む友人に向かって口を開いていた。
「……ねえ」
「なに?」
 感情のこもらない声が返ってくる。機械的な返答。だから私も出来る限り淡々と尋ねた。
「もし子供がいたら、どうするの?」
「どうするって?」
「……産むの?」
 言ってからすぐに、私は自分の無神経な発言に後悔した。もっと相応しい言葉が、探せばいくらでも見つかっただろうに。しかし、私の問い掛けに友人は黙ったまま、揺らめく炎を見詰め、少し俯き、天を見上げて、また炎に視線を戻してから、ゆっくりと瞬きをした。長い睫毛が二度ばかり、その黒目がちな瞳を隠してから、友人は強く唇を引き結び、そして開いた。
「……それは」
 しかし、友人が何か言おうとした時、診察室の扉が唐突に開いた。中から出てきた三十歳前後の女性が一人、私達から少し離れた席に腰掛ける。
「高橋さん、どうぞ」
 看護士が、診察室の中から友人の名を呼んだ。誰もいない待合室で、次に呼ばれるのは間違いなく友人のはずだ。が、その呼び声に、確かに友人の体が一瞬震えた。見ると友人は、目を大きく見開き、苦しげに眉を寄せている。その表情は、まるで叱られることが知っている子供のそれによく似ていた。
 だからなのか。その瞬間、それまでざわついていた私の心が、シンと静まり返った。
「さあ」
 そう呟いて、私は友人の強ばる肩にそっと手を置いた。
「いってらっしゃい。大丈夫、ここで待ってるから」
 自分でも意外なほど落ち着いた声が出た、と思う。無意識的に出た声と言葉に、友人は困惑したようにこちらを振り返ったが、小さく頷くと席を立った。
 長い足が頼りなげに診察室へと向かう。やがて友人の姿は、白い扉の向こうへ消えた。

 
 雪は止む気配を見せない。それどころか、どんどん降りが強くなっていく。
 これではホワイトクリスマスどころか、ブリザードクリスマスだ。きっと交通機関にも大きな乱れが生じている事だろう。駅五つ分、ちゃんと帰れるだろうか。
 先程診察室から出てきた女性は、支払いを済ませてそそくさと雪の乱れ舞う外へと出て行った。待合室に一人、私は座っている。窓から見える世界は、日が翳ってきた事で次第に薄暗くなっていった。友人はまだ出てこない。一瞬、待合室に置いてあった女性誌に目を通そうかと思ったが、やめた。それよりも今は、暮れ行く景色の中を吹き荒ぶ雪風を見ていたかった。
 突風の音、凄まじい音だ。それなのに、何故だかとても静かに感じられる。
 どうして。
 どうして私の心はこんなに静かなのだろうか。
 クリスマスを一緒に過ごす人がいないわけではない。仲間を集めて、馬鹿騒ぎをするのが嫌いなわけでもない。
 だけど、今日はそういったことはどれもしたくない気分だった。
(あ、そうか)
 そのとき、一段と強い雪風が窓ガラスを叩きつけて、私は気付く。
(雪が降っていたからだわ)
「ありがとうございました」
 ガチャリと診察室の扉が開く音と、ついで聞こえた友人の声に、私はそちらの方向を振り返った。診察を終えた友人と、瞬間、視線が重なった。
 その目は見えているはずなのに、何も見えていないように、私には思えた。
 

 帰り道。
 あれほど強く吹いていた風は、いまやすっかり止まってしまい、くすんだ夜空からは白い羽のような雪がフワリフワリと落ちてくる。
 診察室から出てきた友人は精算を済ませると、私の方を振り向きもせずに病院から出て行ってしまった。だけど走るわけでも、逃げるわけでもなく、ただ静かに駅へ続く道を歩いている。だから私も何も言わず、その数歩後ろをついていった。雪の積もった道の上に、前を行く友人の足跡が残っている。それを見て、友人がいつもより小さな歩幅で歩いていることがわかった。私に合わせてくれているわけではないだろう。きっと今の友人には、その歩幅でしか歩けない。
 そんな風に無言で歩いていると、いつの間にか駅に辿り着いていた。切符を購入し、改札を通ってホームへ上がる。しかし、時刻表に書かれている時間を過ぎても、電車は一向にその姿を現さない。雪の影響で、ダイヤが大幅に乱れているのだろう。仕方がない。
 私達は、黙ったまま駅のホームに並んで立った。ベンチはあったのだけど、どれも雪が積もっていて座れる状況でもなかったし、少しでも動いていないと体が芯から凍りつきそうだったから。
 申し訳無さそうについている駅の白熱灯の下には、やはり私達意外の人影は見当たらなかった。そうだろうな、と思う。だってこんな雪の日の夜、しかもクリスマスなのだから。
 深々と雪が、電車を待つ私達に降り積もる。私は時折、寒さを紛らわすためその場で足踏みをしたりしたが、友人は相変わらず無言でその場に立ち尽くしていた。栗色の髪の天辺に、白い雪がかぶっている。まるで、タンポポの綿毛のよう。静か過ぎる空間の中、私がそう思っていると、唐突に友人が口を開いた。
「今朝、天使の夢を見たの」
 空気に混じりそうな小さな声だったが、私の耳には友人の言葉ははっきりと届いた。
「綺麗な顔をして、真っ白な衣装をつけた天使よ。羽が生えていて。私に微笑みかけたわ。優しい笑顔だった」
 その光景を思い出したのか、友人の口元がかすかに笑んだ。
「彼か彼女かわからないけれど、とにかくその天使は私にね、花を渡したの。白い花よ」
 向かいのホームに、中年の駅員が現れたのを私は眺めていた。制服の前をあわせ、寒そうに手を擦り合わせている。彼はまだ見えない電車を探すかのように、線路の両方へ視線をやった。
「百合ではなかったけれど、白い花だった。私はそれをこう、両手で受け取ったの」
 話しながら、友人は自らの両手を空中に差し伸べる。その動作は、まるで赤子を受け取る母親のように、慎重で優しげな手つきだった。
「そこで目が覚めた。窓を開けたら、雪が降っているじゃない? ここいらは積もるような地域でもないのに」
 そう呟いて、友人はその日初めて私の方を「見た」。目が合って、私は黙ってその目を、瞳を見詰め返す。と、友人が微笑んだ。
「奇跡だと思ったのよ。自分に奇跡が舞い降りたと、そう思ったの。だって、天使の夢に、白い花に、それから目覚めたら雪が降っていたのよ? ね、奇跡が起きてもおかしくないと思わない?」
 立て続けにそう言って、友人は私を見つめ続ける。私は、私は何も答えない。ただ黙って、友人の顔を見詰めた。
 天使に、百合。
 キリストの母親である聖母マリアは、大天使ガブリエルから受胎告知をされた。
 その際に渡されたのが、白い百合の花。
 百合は「純潔」や「無垢」を表す。
 そしてその花言葉の通り、マリアは処女でありながらもイエスを身ごもったのだ。
 不可能な妊娠。
 だが、神の力があったから、純潔のまま、聖母は「聖母」となれた。
 そのとき、友人の瞳から透明な液体が一滴、ふいに零れ落ちた。
 本人自身、最初それがなんなのか分からないと言いたげに驚いた顔をしたものだが、その液体は――涙は、とまることなくパタパタッと友人の瞳から零れ落ちる。
 ごくり、と友人の喉が大きく動いた。
「……えへ……」
 細かに体を震わせて、一瞬微笑んだ友人の眉が、苦しげに歪められる。その双眸からは、留まることなく涙が流れていた。
「……妊娠だって」
 震える声に、友人はその大きな手を拳の形にして、苦笑した。
「そんなこと……あるわけないのに、ね……?」
 その言葉が合図だったかのように。
 友人は俯くと肩を大きく震わせた。引き結んだ口から漏れる嗚咽は低く、向かいのホームに立っていた駅員が驚いたようにこちらを振り返る。
 だけど私は、そんな視線を気にしない。
 長い栗毛に隠された友人の顔を覗き見ることなどせず、私はそっと友人の手をとった。
 握ったその手はしっとりと冷たい。そして大きく、無骨で、逞しい。
 だけどそれは、彼が、いいえ、「彼女」が望んだ手ではない。
 彼女が望んだのは、欲しかったのは、小さく、華奢な「女の子の手」だった。
 でも、彼女はその手を持って生まれてこれなかった。
 以前も二人で話した事がある。そのとき彼女は、自分自身の逞しい体を抱きしめて、今みたいに苦笑しつつ涙を流した。
――どうして私はこんな手で、こんな体で生まれてきたのかな
 それに答える人など、まして神などいるわけもない。そして、その苦しみを取り去ってくれる人も、恐らく。
「……ごめんね? 変な事につきあわせて……呼び出して……」
 とがった喉仏を上下させながら、彼女は搾り出すように呟いた。
「ほ、本当は……説明しよ、うと思ったんだけど……」

 親に勘当されてまで、本当の自分を貫こうとした彼女の人生が、決して平坦でなかったことを、私は知っている。綺麗な人だから、髪を伸ばして、可愛らしい服を着れば、それで十分に女性に見える。だけど、それで悲しみが取り除けるか。答えは、「ノー」だ。
「ゆ、雪が……」
 溢れ出しそうになる嗚咽をどうにか飲み込みながら、彼女は呟いた。
「雪が……綺麗で……それで……それで、ね……」
「……うん」

 大きな彼女の手を、その手よりも小さな手でしっかりと握りながら、私は頷いた。

「いいのよ」

 見上げると、夜空から白い白い雪が舞い落ちてくる。冷たく、軽く、静かで。

「雪がきれいじゃない。それだけで」

 私がそう答えると、彼女は再び顔を伏せた。
 やがて電車が近付いてくるアナウンスが流れ、白い世界に人工の明かりが差し込む。

 そのとき、握っていた手が強い力で握り返された。
 その力はとても強かったけど。
 彼女の涙が止まるまで、痛いのなんていくらでも我慢できる。
 そう思った。

 世界は未だに白く、そして静かだった。
 空か舞い落ちる雪の結晶は、きっと奇跡を運ぶ事はないだろう。
 どれだけ願っても、私の横にいるこの美しい人はマリアのようにはなれないのだ。
 だけど、苦しみを背負って生まれてきた友人と。
 その手を握る私。
 二人がであったのは偶然で、そして二人がここにいるのも偶然だ。
 そんな偶然のことを奇跡と呼ぶのならば、今この瞬間は当に奇跡なのだろう。
 
 ホームに電車が入ってきても、私達は手を繋いだままその場に立ち尽くしていた。
 白い雪の結晶が、降りかかる。
 だけどそれは冷たいはずなのに。

 何故か少し、温かく感じた。


2 :菊之助 :2006/11/23(木) 00:50:04 ID:nmz3mGxA

月の章  『天が下、君はその空』

 永遠なんてものは存在しないし、信じる力も持続はしない。
 それでも確かにその時、その瞬間。
 僕らは「永遠」に触れて。
 確かにそれを信じる事が出来た。




 高校三年生の秋は絶望の季節だ。たった数点の差で人生が左右される、大きすぎる試練。それまでどれだけ真面目でも、最終的にものを言うのは偏差値。努力が実績に伴わないのだと知らしめる、恐ろしく現実的な世界。
 だから僕はそれこそ寝る間も惜しんで勉強した。それなのに模試の結果は散々で、担任からも「志望校は難しい」と言われ、心境は当に奈落の底だ。
 そんな心身状況だったからだろう。
 普段ならば適当な言い訳で断るところを、小学校時代の友人から突如送られてきた葉書の文面に、僕は惹かれたのだ。


『来る十五夜に、○○天文台に泊り込んで月の兎を見ませんか? 陽子も来るから、豊もおいで。それでは詳しい時間はまたメールで、チャオ。安部 望』


 何がチャオだ。この大変な時期に? しかも月の兎?
 馬鹿馬鹿しい。人を馬鹿にするのも程があるというものだ。自分にどれだけ余裕があるのか知らないが、最低限の常識を持ち合わせていればそのような誘いをするわけがないだろう。
 だが。
 僕の目は中の一文に釘付けになっていた。
 

 『陽子も来るから』
 

 いつも太陽のように微笑んで、僕と友人を照らしていた陽子。先の見えない不安に押しつぶされかけたその時の僕にとって、まるで生き物が太陽の光を求めるかのように、その時の僕は陽子の笑顔を求めた。
 この誘いはひどく魅力的だ。
 くだらない企画だと重々承知していたが、何も不安のなかった幼いあの日の情景を求め、気づけば僕は望へとメールを打っていた。




 僕と望と陽子。出会いは小学三年生のクラス替えだから、何も特別ではない。そんな僕らが未だに交友を持っている大きな理由は、兎だ。
 人気の高かった生き物係をじゃんけんで勝ち取った三人の小学生は、その秋飼育小屋の中で図らずも死んだ兎を発見する。
 何か悪かった? 世話はちゃんとしていたはずだと言い訳ばかり考える僕の横で、いつも快活な陽子が涙し、そして当時クラスでも目立つことのなかった少年が、冷静にその兎を裏庭の樫の根元に埋葬した。
「埋めたら可哀想よ」
「仕方ねーよ、死んじゃったんだから」
 悲しげに言った陽子に、その少年はおよそ少年らしくない淡々とした動作と口調で答えた。それが望だ。
 兎の死をきっかけに、僕らはよく三人で集まった。
 それまで目立たなかった望は、兎の死を境に別人のように調子づき、新しい遊びを考案しては僕らを驚かせ笑わせ、そして僕に嫉妬させた。口下手で面白みの無い生真面目な人間でしかない僕にとって、陽子を笑わすことのできる望は憎しみの対象でしかなかった。それでも望と一緒にいる間は陽子が笑っているからという理由で、己の憎しみを押し隠し、風変わりな望と「仲良し三人組」の態度を僕はとり続けてきた。
 ある日の授業、教師の話に陽子が目を輝かせた。内容は兎が火の中に身を投じて仙人に布施し、仙人がその兎を月に送ったというやつだ。教師は献身の精神を説こうとしたわけだが、授業後に陽子は目を輝かせて
「私、月の兎にあってみたい」
と呟いた。
 それは以前飼育小屋で死んだ兎を見たショックを紛らわすための、陽子なりの言葉だったのだろう。死んだ兎の件は随分前のことだったが、幼い彼女には一羽で冷たくなっていた兎と、月に昇った兎をどこかで混同していたのかもしれない。そうすることによって、死んでしまった飼育小屋の兎は月の世界で幸せなに暮らしていると思い込もうとしたのだろう。頭のよい陽子にしては随分子供じみた(実際僕らは子供だった)発言だったが、

「月の兎を見つけたほうと、私、結婚してもいいな」

という言葉に、僕は喉元まで出掛かった「あれはただの影」という言葉を飲み込んだ。僕の横で望が「だーれーがー陽子なんかと結婚したがるかよ」と笑うのに対し、ウェデングドレスに身を包んでこちらに微笑む陽子を想像して、幼い僕は顔を赤くしたのだった。
 とにかく、その「月の兎」によって、僕らは小学校を卒業し、それぞれ別の中学、高校へ通うことになっても交流を続けてこれたわけだ。
 しかし、その交流もこの一年ぱったりと無くなっていた。いつも連絡をよこすのは望で、僕と陽子はそれに誘われるように集まっていたからだ。望からの連絡が途絶えた一年間、三人とも誰がどのように暮らしているのかさえ知らなかった。

 おってメールで知らされた集合場所に向かうバスの中、僕は今更ながら望の無神経さに苛々していた。
 何故こんな時期に。
 自分でも勝手な言い分だとは思っている。結局参加している自分に一番腹立たしいときが気づきながらも、僕は心の中で何度も何度も望を罵倒した。
 自由気ままで何事にも縛られないように飄々とした望のことが、飼育小屋でのあの日から僕は大嫌いだったのだ。それなのに、ずっと仲のよいふりを続けている僕。
 呼ばれて、誘いに乗っている僕。
 僕は卑怯だ。



 客のいなくなった夕刻の天文台は静まり返り、日が暮れるにしたがって秋の虫の音が耳に届いた。そんな時間に天文台が開いているわけがない。どうやったのか、望が責任者に無理を言って僕らのためだけに開けてもらったらしい。丘の上に立つ天文台から見る夕日は美しく、その光景にぼんやりしていた僕の後ろから明るい声が話しかけてくる。
「久しぶり豊君、元気だった?」
 見なくてもその声の主が誰か僕には分かった。だから振り返り、少しだけ笑んで僕は答えた。
「まあね。陽子は? どこに受験するつもりなんだ?」
「私は国立の理工系に行こうと思ってる。宇宙飛行士になるには自然科学系の大学を出なきゃ駄目だから」
「……ふーん、うまくいきそう?」
「おかげさまで。日ごろの努力の賜物で、推薦もらえそうなの」
 天文台の中で久しぶりに出会った陽子は、一年前と変わらない様子で、そして一年前より確実に美しくなっていた。次第に暮れ行く夕日を浴びながらも、彼女の笑顔だけは昼間の太陽の如く輝いている。その笑顔のまぶしさに、僕は思わず目をそらした
 陽子の中では「月の兎を見つける」ことは決して世迷いごとではない。彼女は宇宙飛行士になろうとしている。
 夢を持って実行しようとする彼女と、特に夢があるわけでもなく、ただ高い位置を目指すだけで空っぽな僕。彼女の笑顔のまぶしさは、単に僕が彼女を好いているからという理由だけではないと、僕は気がついた。
 気がついたから、あわてて会話を別へ移す。
「……望は?」
「先に天体望遠鏡で待ってるって。一年振りなのに変わりなくって、なんか私、おかしくなっちゃった」
 そういって、彼女は微笑する。
「そういえば、豊君の志望校は?」
「……○大」
「そっか。豊君、勉強できるもんね。絶対大丈夫。望君と豊君と私、三人で宇宙飛行士になろうね」
「ああ」
 思わず有名大学の名を答え、僕は更に俯いた。先日担任から「この成績で理系は無理」と言われた事実を思い出し、唇をかむ。宇宙飛行士なんて、途方も無い夢だ。そもそも僕は宇宙飛行士になりたいわけではない。陽子の気をひくために、なろうとしているだけんだ。僕は卑怯だ。そうやって自己嫌悪に陥っていると、展望室につながる階段の上から僕らを呼ぶ声がした。
「二人とも遅い」
 一年ぶりに会った「友人」の望は、相変わらず調子よさそうな笑みを浮かべ、僕らを待っていた。

「天気が良くてよかったね」
 天体望遠鏡を覗き込みながらはしゃぐ陽子を挟んで、僕らは互いに挨拶を交わした。
「ひっさしぶりだな豊。元気してた?」
「……望は相変わらず元気そうだな」
「そうなのそうなの、俺ってば元気よすぎて、今日もほらこーんなぶっといウンチッチが」
「すまん、聞きたくない」
 指で物の大きさを示してくる望を制して、僕は改めて友人を見た。その無邪気な様子が、望には多くの味方が出来るのだ。僕とは違い。
「いないかな月の兎。こんな天気がいい日だったら、耳くらい見えそうなのに」
「裏側隠れてんだよきっと。お金くれなきゃ見せないわよウフン、とか言って」
「え、月の兎って女の子なの?!」
「そりゃあバニーガールなんてあるくらいだし、ムチムチプリンなお姉さんだろうよ、なあ豊?」
「え?」
 突然話を振られて、ぼんやりしていた僕は我に返る。
「何? 聞いてなかった」
「んだよー豊、ノリわりーなぁ。勉強のし過ぎで疲れちっちか?」
「勉強といえば、望君は大学どこ受けるの?」
 望の言葉に一瞬怒りを覚えた僕だったが、陽子がそう聞いたので何とか我慢した。
 訊かれた望はというと、天体望遠鏡のグラスを覗いたままでケロッと
「うんにゃ。俺、どこも受けないよ」
「え?」
 予想外の答えに、僕と陽子は声をそろえて聞き返す。だが当の本人は、輝く月を見上げたままでサラサラと言葉を続けた。
「だって俺、もともと勉強得意じゃねーし。やりたいこといっぱいあるし。四年間通うより、その時間を別な事に使いたいもん」
「でも約束したじゃない。宇宙飛行士になるって」
「宇宙飛行士にならなくても月の兎は探せるじゃん」
「でも……」
 なおも引きとめようとする陽子のほうをクルリと向いて、望はにっと笑った。
「俺の代わりに宇宙に行って、そこから俺に話しかけてよん、ね?」
「……」
「それよりほら。折角だし今日はしっかり月みてさ、兎探そうぜ。な?」
 言いたいことは山程あって、尋ねたいことも山程あった。
 だけどはしゃぐ望の姿に、僕らはそれ以上その話題をするのはやめにした。


 天体観測を始めて既に数時間。僕らはまだ展望室で月を眺めていた。ここから見る月は、驚くほど白くて大きい。それは綺麗というよりも空恐ろしい程に。
 日ごろの勉強のためか夜半を過ぎると眠気を覚える僕の頭の中に、ふと『月は死者の世界』という言葉が甦った。
 東洋では死んだ者は月に招かれるという話が幾つかある。だとすれば、月を恐ろしく感じるのも納得できる話だ。
 目に見える死の世界。そう考えると、月の兎なんてものは決して可愛くない。
 やはり、僕はここに来るべきではなかったんだ。
 望遠鏡を挟み笑いあう望と陽子を後ろから眺めつつ、僕は後悔した。どれだけ努力しようとしても、あの二人の間に僕が何も思わないで入り込むことは出来ないのだ。
 と、望遠鏡を覗き始めた陽子を残し、望がこちらに歩いてきて、僕の横に座る。僕の顔を覗き込むようにして望が聞いた。
「楽しんでる?」
 複雑な気分のまま黙り込む僕の横で、望は少し指先を揉んでから口を開いた。
「豊は、宇宙飛行士になるんだよな?」
「……ああ、そうだよ」
「そっか、頑張れよな」
「……ああ」
 脳裏に浮かぶ「文型転向」という担任の言葉をかき消すように、僕は頭を振った。駄目だ駄目だ。ともすれば気弱げな表情になりそうな自分を叱咤しようと、僕は奥歯をかみ締める。こいつの前で、そんな顔は出来ない。いや、したくない。
 そんな僕の様子に気付かないのか、望は少し黙ってから呟くように聞いてきた。
「豊は月の兎をいつまで信じてた?」
 空気に混じるような、そんな声。
 だが、その問いかけに僕はギクッとする。月の兎なんて影でしかない。端から信じるわけもない。
 でも、言った。
「小六くらいまでかな」
「ふーん」
 僕らの前では陽子が望遠鏡を覗いている。美しく、宇宙飛行士になることを夢見る陽子。月の兎を信じる陽子。
「陽子はきっと今でも信じてるよな、兎」
 僕の心情に関係なく、望はさらっとそういった。その言い方が気に障るんだ。何もかもわかっているような口調が。だから僕も訊く。
「じゃあ望はさ、いつまで信じてたんだよ月の兎?」
「俺?」
 逆に尋ねられるなんて想像もしていなかったのか、少し意外そうな顔をして、望が首をかしげる。
 お気楽な望のことだ。きっと今でも信じていると答えるだろう。
 そう答えた瞬間に、僕はあらゆる学術的な視点でそれを否定してやろう。馬鹿め。幼稚な。まだそんなモノを信じているのか、と。
 いつまでも無邪気で子供っぽくて、陽子を微笑ませるコイツの困った悲しげな顔を、僕は無性に見たくなったのだ。
 しかし。
 望は微笑んだ。
「俺は一回も月の兎がいるなんて思ったことないよ」
 あっけらかんとした口調で、言う。
 瞬間、僕は自分でも瞳孔が狭まるのを感じた。
「最近まではさ、信じてなかったんだけどな」
 相変わらず自分の指を揉みながら、望は正面を見つめて言った。その瞳の中に白い月が写りこむ。だが、今の僕にはそんなの関係ない。
 じゃあ。
 じゃあ何だったんだ今までのことは……。
 俺は、いったい何で。何を。どうしてナにガなンでなんデナんデ。
 
(なんでっ……)

「あのさ、俺、お前に頼みたいことがあったんだよ。だから、受験前なのに呼び出した、ごめんな?」
 頭の中が白くなる。陽子は月を見ている。月の兎を探している。
「陽子さ、昔っからそんな強くねーのな。しっかりしているようで、すげぇ感じやすいから。だからほら、飼育小屋の兎が死んだときも泣いたじゃん。男子と喧嘩して殴られても泣かないようなやつだったのにさ」
 望が語る。
 僕に語る。
 語りかけて、それで、だから、なんだというんだ?
「だから俺がいなくなったら多分まいると思うんだ。だから今日はお前に陽子のこと頼もうと思って」
 何を言ってるんだ、こいつ。
 何を言いたいんだこいつは?
「陽子が笑っていられるように」
 そういって、望はこちらを振り返り。
 笑った。
「豊、よろしくな」
 

 その瞬間


 拳が空を裂く音が聞こえた。
 望は地面に倒れ、
 陽子が叫び、
 右手に鈍い痛みがあることに僕は気がついた。
 でも、とまらない。
「ふっ、ざけんなよ! 俺がどんな気持ちでどんなっ!」
 再び殴りかかろうとした僕の手を、陽子が必死になって抑える。それでも僕は望に殴りかかろうと拳を握り締めた。
 何が頼むだ。
 何が、何がなにが!
 自分の卑怯さも、嫌悪感も、望への嫉妬も羨望も何もかもが一度に噴きあがる。これは八つ当たりだ。僕よりもはるかに器の大きな望への。僕は卑怯で醜い。だからその捌け口を求める。理由をつけて。自分を守るために。強いものでも傷つける。隙を見て、隙をうかがって、自分を守るために、はけ口を探し出す。僕は卑怯だ。僕は卑怯で、醜い。卑怯だからもう後には引けない。こぶしを固めた。
 だが、混乱する僕を冷静に戻したのは、陽子だった。パッと離れた彼女の手は、倒れた望の頬を叩きだす。
「……望君? 望君!」
 倒れた望を見て、僕の背筋がすっと凍りつく。
 目を閉じた望の顔を月光が照らしている。眠っているかのように見えた。望は、動かない。望が、動かない。
 気がつけば僕は望の肩を抱き上げて必死に名前を呼んでいた。
「望、おい!」
 頬をたたく陽子。呼びかける僕。月だけが騒ぐ僕らのことを冷たく見下ろしている。月の兎が僕らを、僕を、「それ見たことか」と蔑んでいる。
 そんなおかしな考えに捉われながら、僕の中をそれ以上の恐怖が駆け巡っていた。
 駄目だ、駄目だ。望の体を揺すりながら僕は泣きそうになった。
 違う、俺はお前が嫌いなんかじゃないんだ。お前が羨ましくて、だからあんなことを思って。
 俺は卑怯で、弱くて、駄目なやつだから、お前のことが羨ましくて、でもお前が嫌いじゃないんだ、お前が大好きなんだよ、望。
 お前のようになりたくて、お前にあこがれて、でもお前は、お前で。なあ、おきて。
 起きてくれ頼むから、なあ? 俺はまだ、お前や陽子と一緒にいたいんだ。
 一緒に。
 いっしょに。
 いっしょに。
 その時。
 僕の腕の中で望が身じろぎをした。陽子の泣き声が弱々しい溜息に変わる。ぼんやりとした視線をさ迷わせ、望は「まいったな……」と苦笑した。
「望……」
 友人を呼ぶ僕の声は、自分でも驚くほど震えていた。その声に望はまた微苦笑する。
「あんまり呼ぶから……もう少し待ってくれって、言っちゃった……」
 ハハハと笑った望に、僕は黙り込んだ。
 待ってくれって。
(誰に言ったんだよ?)
 でも、僕はその質問を口に出せなかった。
 その時初めて気がついたんだ。
 掴んだ望の体は、ぎょっとするほど細かった。

 少ししても、僕らに挟まれて座ったまま陽子は膝を抱えて泣いていた。その頭を望が丁寧に撫でている。僕はその姿に嫉妬しなかった。きっと、今の陽子の気持ちも、そして望の気持ちも僕と一緒だと分かっていたからだ。白い光が僕らを包む。
 兎がいるかいないかなんて、本当はきっと関係なかったんだ。
 ただ、僕らには「兎」とかそういう何かが、言葉には出来ない何かが必要だったのだ。
「怖かったの……二人がどこか行っちゃうような気がして」
 震える声で、陽子がどうにかそう呟いた。聡明で快活でそして感受性の強い陽子。彼女もまた僕と同じように気がついていたのかもしれない。
 強く見える人が、本当に強いわけではない。
 笑っている人が、本当に楽しくて笑っているわけではない。
 陽子には、それがよく分かっていたのかもしれない。
 何もいえない僕に代わり、その時望がふっと微笑んだ。
「どこにも行かないさ。俺達三人、ずっと一緒だろ?」
 陽子の頭をなでながら、望が僕を見た。その目は無邪気というよりも、とても澄んでいて、まるで月のようだ。
「さっき豊とも言ったんだ。陽子が笑ってられるようにしようって、な?」
 言われて、僕は無言でうなずいた。その言葉に満足したのか、望がニッと笑う。
「だって陽子は俺達の太陽だもん」
「……うん」
 友人の言葉に、今度こそ僕は声に出して答える。その声に陽子が漸く顔を上げて微笑した。涙でぬれた頬をそのままに、陽子が呟く。
「……私たち、これからも一緒だよね?」
「当たり前ジャン」
 笑って望が言ったので、僕もようやく微笑んだ。きっと僕の顔は、笑顔には程遠いような「笑顔」だったのだろう。でも、泣き笑いの顔で陽子もまた頷いた。
 わかっている。
 僕らが成長する限り、それは不可能なことなのだ。
 でも、月が美しく、兎が見えるこの瞬間。
 それこそが僕らの永遠で、それが僕らの世界だった。
 僕らはその日、その月光の元、『永遠』をここに置いていく。





 それから数ヵ月後。僕の家に阿部家から葉書が届いた。
 葉書には、黒い縁取りがあった。




 葬式会場でもある望の家に向かうと、そこにはやはり喪服姿の陽子が待っていた。制服姿の僕を見つけて、悲しむ人々の間から少し微笑んだ陽子は。こちらに向かって小さく手を振った。
「推薦、受かったんだって? おめでとう」
「ありがと。春からこれで理工学生。夢の宇宙飛行士に一歩近づきます」
 おどけた口調で言った陽子に、僕は何も言えずに口元だけで微笑んだ。
「豊君は?」
「明日、経済学部の試験を受けに行くよ。私立の。オレ、やっぱり理工系向いてないみたいだから」
「そっか……」
 出来るだけ無感情に言った僕に、陽子は一瞬俯いた。自分でも納得した進路のはずだったのに、俯く陽子を見て僕の心がチクリと痛む。
「明日、頑張ってね。望君も、きっと応援してると思う」
「……ああ」
 言って、僕はその後少し陽子と他愛も無いことを話してから、会場を後にした。
 今夜の電車に乗らないと、早朝からの試験には間に合わない。
 だから、だ。
 いや、しかし。
 本当にそうなのだろうか?
 
 喪服を着た陽子は美しかった。
 望の母親を慰めながら、涙一つ流さない彼女は既に大人の女性で、いつまでも大人になりきれない僕が触れてはならない存在だ。
 でも、本当にそれだけなのか?




 もう少し


(待ってくれって言っちゃった)

 月の兎とも話すことのできた望。
 だけど俺はそんな人間ではなくて。
 だから、陽子には触れてはならないと、そう思ったのだ。
 僕は、弱い。





 豊のいなくなった会場で、陽子は一人だった。
 弔問客への食事の準備の手伝いをし、息子をなくした悲しみで倒れそうな望の母のそばにつき励ましているその姿は落ち着いていて、白黒の幕に遠慮していた郵便局員が彼女が親戚か何かだと勘違いして近寄る。大勢の中で、たった一人、陽子は手渡された封筒を受け取った。
 厚くて重い。
 ぼんやりとした意識のまま、彼女は封を開け、目を通し、停止した。


 試験結果通知。安部望殿。貴殿は……大学理工学部に合格されたことをここに通知します。
 なお、入学手続きに関しては……。

(俺の代わりに)
 
 耳の奥に、その彼の声がよみがえる。

(俺の代わりに宇宙に行って、そこから俺に話しかけてよん、ね?)
 

 彼は。
 宇宙に行こうとしていたのか。

 その事実を見て、感じて、理解したとき。
 陽子は力なく、その場へ座り込んでいた。




 遠い試験会場へと向かう電車を待つために、僕は駅にいた。深々とした冷気が体の奥へとにじんでくる。
 きっと僕は明日経済学部の試験をクリアするだろう。春からは経済学部生だ。これで多くの物から解放される。しがらみも。約束も。恋も。願いも。そして『永遠』も。
 考えると、頬に皮肉な笑みが浮かんだ。
 それでいい。
 それがいいんだ。
 いつまでも一緒なんて、ありえないんだから。
 暗いホームに電車が入り込む。これに乗って僕は試験を受けに行こう。明日には違う道が開いていることだろう。思い出に浸ってなんていられないんだ。
 扉が開いて、僕は多くのことを思いながら、それでも何か吹っ切れたような気分で乗り口に足をかけた。
 その時だった。
 突如、白い光が僕を照らしたのだ。

 思わず頭上を見た僕の目に、白い、大きな円の中、一羽の兎が見えた。
 跳ねるようなその姿が、僕のことを見つめている。

 それは影でしかないはず。
 兎であるわけではない、はず、だ。



 でも。




 電車のドアが閉まる音で僕はハッとした。気づけば僕が乗るべき電車ははるか向こう。
 だけど僕はもうそんな事を気にしていなかった。
 陽子が、泣いている。
 なぜかそう思ったのだ。
 気がつけば僕は来た道を全力で走り出していた。
 

 暗い暗いその道を、兎と少年を浮かべた月の白い光が、やさしく、照らし出していた。
  
 
 


3 :菊之助 :2007/02/28(水) 00:28:43 ID:nmz3mikH

日の昇るは、沈むその世界で

右指先の皮がめくれていることに気がついて、軽く舌打ちする。思ったよりも鋭い音が乾いた空間に響いたことで、自ら驚き、その事実に今度は心のうちで舌打ちをした。
 空は茜。
 土は白。
 人の目で捉えることの出来る色彩は限られていると何処かの学者が語っていたようだが、確かにそれはそうなのかもしれないと思った。そうでなければ、これほど単色のコントラストが世の中に存在するとは思えないからだ。
 溜息が白く濁るのを見て、すぐさまもう一つ息が漏れた。
 ああ、なんてことだ。
 憂鬱な色ばかりが増えていく。
 途方に暮れる暇も無く、どこか遠くから砂混じりのきつい風が吹いてきた。目を閉じて砂をかわそうとしても、僅かな隙間を見つけて細かな粒子は眼球を痛めつける。
 そんな痛みを覚えながらも、まるで水中めがねをつけて水の中を除くかのように、なぜか茜の空と白い土だけがくっきり、視界に入っていた。
 それは確かに美しい光景である。
 何者も侵し難い確かな、歴とした茜と白。
 何故こんな美しいものがあるのだろうかと思ったところで、何故と思えるようなものを、理解しがたいものを人は美しいと呼ぶのだと初めて気がついた。
 空に海。
 何処までも続くその世界の断片は、時間と共に無限の美しさを見せ付ける。
 だから私は土を掘る。
 何故掘るのか?
 それはそこに理解しがたいものがあるからだ。
 白い土を掘り起こす。
 茜の空を見上げる暇も無い。
 掘り起こした先を見て、私はきっと理解できないだろう。そこにある、いや、そこに居る貴方を。
 ガリリと爪の先が何かを掻き当てて、削れるのが分かった。
 そこからは掌で土をはぐ。次第に見える黒い桶。
 黒から白の土を払い落としてから、その蓋を開いた。
 ああ、やはり貴方はそこにいた。
 既に眠る姿とも認識できない、腐食した組織の塊。
 ああ、やはり私は理解できない。
 貴方がそのような姿になったことを。
 貴方がそんな土の中で朽ちてしまったことを。
 貴方が死んでしまったことを。
 
 そして、そんな貴方が美しいと思う自分自身の精神を。
 
 見上げた空は茜。
 少し離れた場所で業火が燃え盛る、その色を映した空の色。
 土は栄養をなくし、腐敗した星の亡骸。
 理解しがたいほど美しいその色の全てを目に焼き付けながら、私は気がついた。


 ああ。
 私の世界は既に果てていたのかと。
 果てているからこそ。


 世界はこれほど、美しい、と。


4 :菊之助 :2007/02/28(水) 00:30:28 ID:nmz3mikH

閑話その二 『無い、ない、内』

微笑む人が本当に微笑んでいるわけではない

泣いている人が本当に泣いているわけではない

優しい人が本当に優しいわけではない

冷たい言葉を吐く人が本当に冷たいわけではない

温かな言葉を吐く人が本当に温かな人であるわけもない

それは即ち



泣けない人が優しくないわけではなく

笑う人が本当に強いわけではなく

出来る人が本当に元から出来るわけではない というわけで


そして同時に


幸せだという人が幸せなわけでもなく

楽しいという人が楽しいわけでもなく

美しく見えたものが本当に美しいかというと決してそんなこともないわけだが



綺麗に見えたものが本当は汚いかというとそうではないし

一瞬の輝きが虚像でであるかというとそんなわけでもない



だから静かに考えてみると



「嫌いだ」という言葉は本当に人を嫌いになったわけではなく
 
「消えてしまえ」と思う心は、決してその人の真実ではない


嫌いと思う気持ち

消えてしまえと心

だけどそれはきっと


その人が誰よりも「みんなを愛したい」という気持ちの

その内のアラワレなのだと

思わ無い人は きっと ない のだ


5 :菊之助 :2007/02/28(水) 00:31:18 ID:nmz3mikH

閑話その三 『夢、なるは、夢』

一つ密かな道しるべ
二つ不幸な分かれ道
三つ水面に映りしは
四つ黄泉へと続く道
五ついつしか闇の中
六つ骸の波を越え
七つ涙も枯れ果てて
八つやがては霧の中
九つここは違う場所
十で遠くへ行きましょか

ひとふみぃよ いつむゆななや ここのたり

数え数えて行くその道は
数え数えど夢の中
現と夢は交わることなく
されどこの世は既に夢

逢えぬ御身を思いし眠れば
夢の中にて逢い見え

されど嘆きは消えることなく
それを消せるは


ただ 現の夢ばかり


6 :菊之助 :2007/09/19(水) 21:30:33 ID:kmnkzJoJ

あきねこ

あきねこ


 帰宅すると、たまに叔父が庭先でサンマを焼いていることがある。
「お帰り、広大」
「おじさん」
 いまどき珍しい七輪の上、炭でおこした炎を浴びて、サンマはジリジリと脂を滴らせてよい音を立てていた。
 叔父は、いつあっても変わらない黒のハイネックシャツの袖をまくり、朗らかに微笑んでいる。
「どうだ、学校は?」
「うーん、まあまあかな」
「そうか、まあまあか」
 眼鏡の奥の目が優しげに細められた。
「それくらいがちょうどいいのかもな」
「そうかもね」
 冷たい秋風が僕の頬をなでた。見上げると、茜色の空が頭上に広がっている。中腰になっていて少し疲れたのか、叔父は立ち上がって少し体を反らせた。
「この季節が一番好きだな。暑すぎず寒すぎず」
「そうだね」
 叔父の言葉に僕も静かにうなずいた。トンボがスッと横切る姿に、穏やかな表情を叔父は浮かべる。
 ふと、足もとに丸いぬくもりを感じて、僕は目線を下にやった。
 三毛猫のナナは、僕の足元に体をすりつけつつも、視線はずっと叔父の方向からはずそうとしない。猫に凝視されて、叔父は再び七輪脇に座り込んだ。
「こらこら、だめだぞナナ。これは人間様の食いもんなんだから」
 やさしい声で叔父が言うなり、ナナの三毛が逆立った。カーッと威嚇の声を出すナナに、叔父は変わらぬ笑顔のままで眼鏡をずりあげた。
「はは。意地悪いったから嫌われちゃったかな?」
「……ごめんね、おじさん」
「別にいいって。それに広大が謝ることじゃないだろ?」
「……うん」
 黙った僕の代わりとばかりに、サンマの脂が炭に落ちてジュッといい音をたてた。
「お、焼けた焼けた」
 サンマが焦げすぎないように箸で位置を調節しながら、叔父は笑う。
「広大、ビール持ってきてくれ。のもうのもう」
「うん、待って」
 言って僕は縁側から家の中に入って台所に向かう。そのあとをナナが付いてきた。ナーッと不満げな鳴き声を出したナナに、僕は「馬鹿ナナ」と軽く頭を撫でてやる。
 台所では妻が夕食の準備をしていた。手が離せないのだろう。彼女は振り返らずに「あら、帰ってたの、おかえり」と言っただけで、僕は軽く「ん」と答えると冷蔵庫から冷えたビールを一本取り出す。
 ナナはそんな僕の行動をじっと見つめていた。

「おじさん」
 ビールを片手に庭に戻ると、待っていましたとばかりに叔父が立ち上がった。
「おお、広大。危うかった。もうちょっと遅かったら、サンマが焦げておじゃんだぞ」
 言ってほほ笑む叔父の手に、僕は缶ビールを渡した。
 が。

 ガランッ


「……あ」
 どちらの言葉かはわからない。ただ確かなのは、渡したはずのビールは、叔父の手をすり抜けて庭の芝生の上に落ちたということだけだ。
 しばらくその様子を呆けてみていた叔父だったが、やがてその視線が何かに気がついたかのような光をともす。眼鏡の奥の目が、僕の姿と、彼の背後とを交互に見返した。
 焼けていたサンマも七輪も、すでにその時には足もとから消え去っている。
「ああ、そうか」
 背広を着た若手サラリーマン姿な僕を見つめて、叔父は口元だけで笑みを作った。
「おれ、またやっちゃったんだな」
「いいんだよ、おじさん」
 僕がそういっても、叔父は困ったような笑顔を浮かべたままだ。その様子をナナが僕の足元で見つめる。
 叔父のからだは次第に薄れていく。彼のからだの向こうに庭の塀が透けて見えた。
「ごめんな広大。いつも迷惑かけて」
「本当に、いいんだってばおじさん。謝んなくっても」
 だが、僕が言い終わるよりも先に、叔父は笑顔を浮かべたまま次第に薄れ、そして消えた。
 いつも謝る叔父。
 そのたびに、謝らなくていいと僕が言うのだが、彼は僕が最後まで言う前に消えてしまう。

 そう。
 叔父は、秋が好きで、サンマが好きで、ビールが好き、だった(・・・)

 足元でナナが甘えた声を出す。
 僕は地面に落ちたビールを拾い上げながら、軽くナナを小突いた。
「ばかナナ。いい加減慣れないとだめだろ?」
 小突かれたナナは、少し不満げな眼をしてから、ニュウと一鳴き。




 猫には、幽霊が見えるという。そんな秋の話だ。


7 :菊之助 :2010/01/20(水) 23:40:20 ID:PmQHscoiz3

 冬です。
 いかがお過ごしですか?
 私の住む場所には、昨日霜が降りました。
 あなたの住んでいる場所には、雪は降りましたか?


8 :菊之助 :2012/11/10(土) 17:36:15 ID:sGsFVFuiLL

こがらしより

こがらしより


9 :菊之助 :2012/11/10(土) 18:17:25 ID:sGsFVFuiLL

こがらしより

○秋の章「こがらしより」

 最近ではラジオもインターネットから流れるそうねとアグリさんに言われて、私は「へぇ、そうなんですか?」と答えてしまいました。
 おかしいわね、あなたの方が私よりも年齢は若いのに、どうしてあなたの方が初めて知る風な口調で返してくるのかしら?
 アグリさんは少し楽しそうにほほ笑んでくれたのですが、私の方はというといつものように、小さな自尊心を傷つけられた気がして「でも、ラジオはラジオで聞くのが一番ですよ」とぶっきらぼうに言い放つのでした。そうするとアグリさんは、これもまたいつものように、かわいらしいわねぇ、と呟いて瞳だけでにっこりと笑うのでした。

 空が次第に高くなり、昼の時間はどんどんと短くなっていきます。
 冬至がくれば、再び夜よりも昼の時間が長くなってくるのは分かっているのですが、そこに行きつくまでの今の期間、私はどうしようもなく切なくなるのです。夜には夜の良さがあるのは分かっているのに、どうしても薄暗く暮れゆく世界に、胸の奥が締め付けられるのでした。

 それは私も同じだわ。
 
 以前、そんな私の気持ちを打ち明けた時、アグリさんは深く頷いてくれました。
 夜の時間は勿論すてきなのだけど、静かになりすぎると自分の内側がたくさん見えてしまうからじゃないかしら。沢山みえて良いものなんて、なかなか世の中には無いものだもの。
 なるほどなぁと思いながらも、少しさびしげな彼女の口調に私が困っていると、アグリさんはふとこちらを振り返り、いつものようにニッコリほほ笑んでこう続けました。
 でも、私はあなたの嬉しそうな顔や、楽しそうな姿なら沢山、沢山見ていたいと思うわよ。
 その言葉は、私の「今の時期が何だか苦しい」という悩みの答えにはなりませんでしたが、一瞬にして私を幸せな気分にしてくれたものです。

 アグリさんが、自分のカーディガンの前をきゅっと握るのを見て、私は椅子から立ち上がり窓を閉めようとしました。
 ああ、待って。
 窓枠に手をかけた私に、アグリさんは優しく声をかけます。
 確かにちょっと寒いけれど、こんなのこがらしよりも寒くないわ。今の時間、少し元気のない太陽の光の中で吹く風を、もう少し私は感じていたいのよ。
 なので、私はまた、アグリさんの横に置かれた椅子に腰かけなおしました。
 
 ありがとう。

 ほほ笑むアグリさんに、私も同じように微笑みかけます。
 日に何度もアグリさんは私を見て微笑み、そしてありがとうと言ってくれるのです。
 それは私の心に、温かなお湯を満たしてくれるようで、冷たい手先をお湯に浸した時のむずむずしたこそばゆさ、それから幸福感と同じような感覚を私に与えてくれました。

 でも、もう少ししたら日が暮れてしまうのを私も、アグリさんも知っています。

 その前に、私はここから家に帰らなければならないのです。
 本当は帰りたくないのだけど、そういうとアグリさんは悲しそうな顔をしてしまうことでしょう。
 だから私はちょっとしてから「じゃあ今日は帰ります」と席を立たなければなりません。その時は、先ほど閉めかけた窓を今度こそちゃんと閉めないといけなくなるのです。

 夜になると、アグリさんの体の中にはこがらしが吹き荒びます。
 「木枯らし」は木を枯れさせるような秋にふく強い風ですが、アグリさんに吹くのは「こがらし」です。
 暗闇の中で、アグリさんの中に吹き荒ぶこがらしは、アグリさんの心も、記憶も、思い出も、全て枯れさせていくのです。そうしてこがらしが吹き荒ぶ間のアグリさんは、私の知るアグリさんではないと、私の父親が教えてくれました。

「だからお前は、暗くなるよりも早く、帰ってこないといけないのだよ」

 白目も黒眼も涙でうるませてそう私に言い聞かせた父の姿を、私はもし私が大人になって父やアグリさんと同じくらいの年齢になっても忘れることはないでしょう。

 ああ、でももう少しすると木枯らしが吹く頃ね。そうなると本当に寒くなってしまうわね。

 父を思い出していた私は、アグリさんの優しげな口調にはっとしました。振り返ると、アグリさんがジッとこちらを見ています。
 その悲しげなまなざしに、その優しげな口元に、一瞬私はアグリさんが全てを思い出したのではないかと思いました。なので、もう呼んではいけないよと父に言われていた呼び方でアグリさんを呼びかけました。

「あのね……あのね、お母さ」

 暗くなる前にね。

 私の言葉をさえぎるように、アグリさんの声が、クリーム色の壁紙をした部屋に響きました。

 もうお帰りなさい。誰か分からないけれども、今日は来てくれてありがとう。お話しできて嬉しかったわ。

 今度は顔全体でにっこりとほほ笑まれて、私は出かけた言葉を飲み込みました。
 飲み込んで、そのまま無言で席をたって、ぺこりと頭を下げて、それから窓を閉めました。もう一度頭を下げてから、私は病室の扉を開けて、そうして一目散に駆け出しました。

 病院の長い廊下を駆け抜けていると、額がひりひりとして、のどの奥がグリグリとなって、視界が涙で曇ってきました。病院の玄関から外に飛び出した私は、本当はワンワンその場で泣いてしまいたかったのだけど、もしかしたらアグリさんが窓からこちらを見ているかもしれないので、そのまま道の向こうへと走り続けました。

 アグリさんの体の中には、いつからかこがらしが吹き荒ぶようになってしまい、その原因が若年性なんたらという病気だと分かりはしたものの、解決することはできなくなりました。
 アグリさんはきっとすでに、先ほど病室の中にいた私のことを忘れてしまっていると思います。忘れてしまっているのに、以前のように私が「お母さん」と呼ぶと、アグリさんの体の中でこがらしが荒れ狂うから、だから名前で呼んであげてと父が私に言ったのでした。

 他人のようなアグリさんは、それでも以前のように優しいままで、私を毎日病室に迎えてくれます。
 そのぬくもりが、吹き荒ぶこがらしをより辛くかんじさせるのだと私はわかっていたのですが、それでも毎日アグリさんを訪ねることをやめませんでした。
 そしてこれからも止めることはないと思います。

 だってこがらしはとても辛くて寒いけれど、温かい時間と明るい世界を知っているからこそ、こがらしを「辛い」と感じられるのだもの。
 それは確かに私たちに、温かな時間が続いていたことを感じさせるのだもの。

 こがらしよりも、その寒さよりも、私は温かな幸せを知っているのだもの。

 だから、私は明日もまたアグリさんに会いに行くのです。


novel plaza system
甘辛流小説家ギルドGAIA
produced by COLUN.