喫茶店


1 :蒼幻 :2011/01/08(土) 12:41:09 ID:tcz3skkH

     1


 その店はいつも繁盛していた。
 マスターの淹れる珈琲は一級品との噂が立っていた。喫茶店の珈琲の味が抜群であるというのはそれだけで大きな武器になる。私は客としてはじめてこの店を訪れて以来、一週間と空けずに通いつめている。
 マスターの目の前に陣取る。カウンター席は五つと少なく、ほとんどの場合この店を訪れるとカウンターは埋まっていて、テーブル席に案内されるのが通例であった。カウンター席に通されること自体珍しいことである。
「マスター、ブレンドね。あとフレンチトーストひとつ」
 私はマスターの表情を窺いながらおそるおそる注文する。
 マスターは僅かに視線をあげて「はい」と短く答えた。この場合、「かしこまりました」くらい云っても罰は当らないだろうと思ったが、マスターはそんなことなどまったく意識に上らないらしく、フレンチトーストを準備しつつ先に注文の入っていた珈琲を淹れるのに従事した。
 マスターは百六十五センチくらいと小柄である。昔なにか体育会系の部活でならしたとでもいうようなしっかりとした筋肉を持った人物で、口の上に生やした髭が外見的特徴を代表していた。小柄な野生児といった感じであるが、きっと女性から見ればその特徴はまた違ったものになるだろうとの予感がある。というのも、その口髭の雰囲気が女性の心にロマンチックな影響を与えるらしく、そのせいで平日の昼間ともなれば店内はランチを食べにくる女性客で溢れかえるような具合だったのである。
 私は仕事の休みに一日この店で粘ることにしていた。
 珈琲一杯で五時間とかは平気なもので、流石に六時間を越えればもう一杯追加で注文するものの、店のほうでもそういう客を邪険にあつかうことはなく、もし店が満席になっても新規の客は店の外で待ってもらうことを常にしていたので、そのことで気を悪くしたことは一度もなかった。
 カウンターの向かい側からブレンドコーヒーとフレンチトーストを出された。
 私は「ありがとう」と短く返事をする。
 マスターは引き結んだ口元を一瞬緩めるかに見えたが、すぐに次の注文に取り掛かり顔をそむけてしまった。私はいつも通り注文が来てから珈琲を一口飲んだ後、持参した書類鞄からまっさらの原稿用紙を取り出した。
 ウェイトレスの女の子がこちらを観ているのに気づいた。ちょっと前からこの店で働きだした女の子である。大人っぽい雰囲気のある子だけれど、まだ二十歳前後でおそらく学生アルバイトだろう。華やかにもあでやかにも見える外見をしていて、彼女くらい魅力があればきっと男性も放っておかないだろうと思われる。私は彼女から視線をそらそうとしたがその瞬間彼女の魅力的な雰囲気に気持ちを取り込まれた。彼女は私の方を見てほほ笑んでいたのである。そしてそのとき私にとってとても印象的なことが出来したのである。彼女はこちらに向かってきて私の目の前で足を止めた。
「物書きをなさってる方ですか?」とウェイトレスの女の子が訊ねた。
 私は唐突な質問にどぎまぎしてしまう――。
「うん? 私は、その、なんだ……」当を得ない答えをしてしまいへどもどする私の様子に女の子は落ち着いてくださいとでもいう風な視線を送ってくる。私は一度息をついてふたたび答えた。「趣味でやってるんだ……」私は期待に添えなくてすまないという風に肩をすくめて女の子にほほ笑みかけた。
 女の子は「マスターも気にしてましたよ」と告げた。
「マスターが?」
「はい」女の子はそう云うとくすっと笑った。
 そのときである。
「おい、ナオ、話はそこらでやめておけ」
 カウンターから声が飛んだ。
「わかったわよ、父さん――」
 ナオと呼ばれたウェイトレスの女の子と、カウンターの前できつい顔をしているマスターの二人の顔を交互に見る。私はどう反応していいかわからなかった。学生アルバイトと思っていた女の子は実はマスターの娘で、ずっと独り者で妻を持たずに営業しているのだと思っていたマスターが実は娘の父親で――私は言葉もなくただじっと両者の顔を見比べることしかできなかった。
「お客さん、娘が失礼なことを申しましてすみませんでした。ご容赦ください」
 マスターはこれまでに見せたことのないような恐縮した表情で私を見た。私が気にしていないからというとマスターはほっとした表情を見せてやんわりとほほ笑んだ。いい笑顔を浮かべる人物だと私は同性ながら惚れ惚れする。父と娘とを見比べると、その表情に浮かぶ笑みが同質であるように思えて晴れやかな気持ちになった。
「でも実は私も気になってましてね……」マスターはそう云うと興味深そうな視線をして私を見た。
「えっ?」私は戸惑った。
 いつもまったく気にしないような様子を見せていたマスターが私のことを気にかけていた!? その事実は私をとても驚かせた。
「ポーカーフェイスだから、そんな風に思われてたことが意外なんですよね?」女の子が助け舟を出してくれる。
「ああ、うん、そうだねえ」私はそう告げてことのなりゆきを見守った。
「でもいつもありがとうございます」女の子はそう云うとまたふっと笑んだ。「私、ナオと云います」
「マスターの娘さん?」
 ナオはマスターの顔色を窺ってから答えた。
「そうですね、そうなります」
「そうか――」私は自分が三十代前半であることを思い、また結婚していないどころかその相手もいないことを思いつつ、またマスターとナオとを交互に見比べた。ナオはそのまますいーっと他の客の方へ向かい、空になった皿を下げたりと職務に励みだした。私は白紙の原稿用紙を前にして、マスターと会話を続けるべきかそれとも執筆に向かうべきかで迷いもするのだった。
「お客さんの名前を伺ってもいいですか?」と迷う私にマスターが訊ねてきた。
「ああ、私は斎藤一馬と云います」
「斎藤さん……ですか」
「はい」
「私は結城望と云います。なんだかんだでこの喫茶店にしがみついて、今の生活を続けている状況ですわ」
「そうなんですか……」
 私はマスターが思ったより饒舌なので戸惑ってしまった。気難しくて言葉少なく勘気まで持っていそうなイメージだったので、それが誤りであったことに驚きを覚えていた。
 考えてみれば、この店に通いつめた半年間ずっと誤解してきたのである。そこでマスターの気安い口調に励まされて訊ねてみた。
「マスター、娘さんは最近働きはじめたんだよね? これまでの人はどうしたの?」
 そう訊ねるとマスターは苦笑した。
「私が原因してるんですよ」
「えっ?」私は思わず問いかけた。「どうして?」
「嫁と喧嘩しましてね。お恥ずかしい話なんですが、いま家には私と娘の二人しかいないんですよ。それでときどき手伝ってくれていた嫁が来なくなって、変わりに娘が大学の講義の合間を縫ってこうして手伝ってくれてるわけでして……」
「なるほど――」私は取り敢えず納得した。
「ナオが手伝ってくれてほんと助かってるんですよ」
「彼女働き者みたいだし、親子で店をやってるってなんかいいですね」
「まだサラダ一つ作らせてないんですけどね。まあこれからです」
「なるほど」
 私はそう云ってくすっと笑った。
 ――そうか、いつもこの店で見かけていた給仕の女性はマスターの奥さんだったのか。
 私は奥さんの顔を思い出し、そして確かにナオの顔に彼女の面影があるのを見て嬉しくなった。
「うん、いいね」と私は宜った。
「どうなさいました?」マスターは怪訝そうな表情をする。
「この店がますます気に入ったよ」
「そうですか」マスターは肩をすくめて笑顔を見せた。それから彼はカップを洗いながら私に問いかけてきた。「ところで――」
「はい?」と私。
「いつもこの店に来られると執筆一辺倒ですけど、いったい何を書かれてるんですか?」
「うん?」私は書いているものの内容をそんな風に他人に気にされたことはなかったから新鮮な喜びを覚えた。
「どう云えばいいのか……」
「長くても訊きますよ。なにしろずっと気になってましたので」
 そう云いながらマスターはまた注文の入った珈琲を淹れはじめた。
 それをウェイトレスのナオに云いつけて客席に持って行ってもらい、今度はサラダの盛り付けに入る。
「まあぼちぼち話しますか――」
 私はそう云って珈琲を一口飲み、気持ちを落ち着けた。




     2


 深呼吸をしてから話す内容を吟味する。
 聞き手の興味を引いているのを手ごたえとして感じていた。「実はね――私小説を書いてるんです」
 二人はその言葉に溜息を洩らした。
 ややあって「私小説ですか……」と反応に困るそぶりを見せるマスターの表情が視界の隅に見えた。
「これまでの人生で見てきた印象的な人々の印象的な行動を写し取って、それに対して自分が何を考えてきたかを形にして残したい。そう云う気持ちが自分の中で大きくなってきたんです」
「そうなんですか」マスターは鬚のあたりそこないがないか確かめるかのように口元に手を当ててそこをさすった。「そう云うのも生きていく上で必要になることがありますね」マスターはやんわりと云った。
「必要か必要でないかを考えれば、いましていることは確かに私にとって必要なことと云えますね」私はそう結論付けた。
「でも私小説ですか……なんだか本格的ですね。そう云った方面の勉強をされてたんですか?」マスターは当然沸き起こるであろう質問を私にしてきた。
 それに対する私の答えはおそらくマスターにとってそれほど魅力的に映らなかったであろうし、またきっとそう云う答えには関心を抱くことはないであろうことが予想された。
 私は答える。
「大学は経済学部でした。文学とは平行線の道をたどっていたんですが、ここ最近小説に対する思いがふつふつと沸くようになってきて、それで門外漢ながらやってみようという気持ちになりましてね」
「勝手が違うということもあるんでしょうか?」怪訝そうに表情を曇らせてマスターは訊ねてきた。
「どうなんでしょう。下手の横好きというやつでやっているだけなのかもしれない。確かにそう思いもするんですけどね。でも、好きこそものの上手なれ、とも云いますし。書く上での苦労はすべて飲みこんで受け入れるという気持ちでいますね」
「そうですか……」
 マスターはそう云うとまた新しい珈琲を淹れはじめた。新来の客が注文したためである。ゆっくりとその黒く濃い液体を抽出していく。マスターの手際の良さを見ながら私は次に話すことを考えはじめた。
「重要なのは気づきだと思います」
 私は宣言した。
「気づき――?」マスターは怪訝そうな顔つきをした。
「はい、気づきです」
「それはどう云う意味ですか?」
 そのときカウンターの隣に座っている男性客が身じろぎした。
 私はこのままマスターと話していて大丈夫だろうかと云う気がしていた。
 店内には静かな上にボリュームを絞ったクラシック音楽が流れている。気にしなければ何が流れているかほとんど注意を喚起することのない音であるが、これはなんだろうと関心を持って聴いてみると面白いものでこの大きさしかないと云う絶妙な音量になっているのである。
 いま流れているのはバロック音楽に近かった。そのジャンルに詳しいわけではないので精確なことは云えないけれど、文筆で云うところの精確な筆致とでもいうべき調和がそこに体現されているように思えた。バロック音楽っぽく聴こえるものの、まったく専門外である私のようなものの耳を以てしては、これは現代の音楽家の手になるものと云われても疑問に思うことはないように感じられた。
 耳を澄ますと微かな物音が随所にたっていた。
 コーヒーカップとソーサーのこすれる音、フォークがケーキの皿に当たる音、話し声、溜息、しわぶき、それぞれはそんなに気にならないほどの音量であるものの、それがひとつの空間の中で幾層にもわたって積み重ねられていくと、それは確かな質量をもって私に迫ってくる。それは強迫観念に近いものだった。
「気づきということですが――」私は言葉を継いだ。
「はい」マスターは私のその言葉が気になるようだった。
「それまでは気づかなかったことが言葉にしてみることで分かってくるという事実にぶち当たったんです」
「それはどういう?」
「たとえば夕日が赤いということを書くときに、どんなふうに赤いんだろうと考えて、そして過去に見た夕日を思い出すと、それは単に赤いとしか形容できないうすっぺらの言葉があるだけなんです。でも、それをただ『赤い夕日』と書いただけでは画一的にしかならない。そうではなくて、たとえば、『熟れた鬼灯[ほおずき]のように赤く染まった夕日』と書いてみると、それでとりあえず、夕日の赤さを経験した自分の感性を表現できたような気持ちになるし、また自分が見た夕日をしっかりと書き表すことができたと感じられるんです。文章を書くまでは物事の本質が見えていなかったというのはそういう意味なんです」
「なるほど……」マスターはさっきよりも私の話に興味をそそられたらしい。見ると新しい発見をしたときのように目が輝いている。
「でもね、それでも物足りないんです」
「物足りない――?」マスターは言葉を繰り返す。
「鬼灯のように赤いと書いても、やはり本当のオリジナルにはなっていないんじゃないかと思うわけです。それがオリジナルとなるためには、その場面に立ったときに得た実感というか、存在感とでも云うのかな、何か自分でなければ発見できなかった事象を組みこんでこそと思うんですね。でもいまの自分の伎倆ではそれは難しい。だからここ最近はこの店で書かせてもらっていても良いものが書けたと云う実感がないんですよ」
 私はそこまで話して一旦言葉を止めた。
「それは難儀なことですね」マスターは落ち着いて答えた。
 なにか冷静に自分を見てくる視線を覚えて逆に落ち着かなくなってしまった。
 時計の針が一時を指した。
 私は冷めかけたフレンチトーストをフォークで切って口へ運ぶ。まろやかな卵の風味と砂糖の甘さが際立っている。私はさざなみだった気持ちを落ち着けるようにフレンチトーストを食べていく。
「いまは壁に当たってる感じですか?」マスターは訊ねてきた。
「そうですね。なにか良い手法はないものかと苦しんでいるところです」
「なるほど」
 そのときウェイトレスのナオが口を挟んできた。
「文豪の作品を参考にするとかどうですか?」
 それは何度も考えたことであった。が、それを実行に移すには、自尊心が強すぎた。過去に発表されたものを目にしてそれでアウトラインを定めてしまったならオリジナリティは追及できないのではないか、そう強く思うのだ。私はナオにそのことを説明した。
 話をするうちにナオの顔が曇っていった。自分の剛情がそんなところで人を悲しませる原因になるのを見て私はやるせない気持ちになった。
「せっかくしてくれた助言を無下にするようで本当にごめん」私は謝る。
「いえ、良いんですよ。それも良いかなと思って口にしたことなので、強い信念があって文学作品を読まれないというのならそれもまたひとつのやり方だと思います」
「ごめんなさい」私はそう云ってまた珈琲を一口飲んだ。
「しかしあれですね。齋藤さんはまだ三十ちょっとでしょう?」
 マスターが云った。
「そうですね」と私。
「まだまだ若いですね」
「そうですか?」
「ええ、若いですよ」
 マスターは遠い目をした。視線は私の方に向いているのに焦点はずっと後の方にあるような具合に見える。それは一瞬のことであったので、私が疑問を覚えて不安になるまえにマスターは次の言葉を発した。
「それでさっきの話に戻りますけど、書くことで何に気づかれたんですか?」
 マスターの言葉がしっかりと心に沁みとおる。――何に気づいたのか、それが話の本筋だったなと改めて感じる。私は勇猛心を鼓舞してマスターの質問に解答を試みる。
「何に気づいたか――それは非常に微妙な問題ですけど、とにかく経験を形にすることでこれまでに見えなかった自分の姿、周りの状況、そして立ち位置、それらをしっかりと見据えることができたと考えています」
「ほう……それは重要だし、有益とも云えることでしょうね」
 私は言葉を切ってマスターの発言の意味を考えた。
「そうですね、有益であったと思います」
「しかしどうして執筆だったんですか? 他のことであってもよかったように思うのですが――」
「さあ、どうしてだったのか……」私は所在無げにあちこちへ視線をさまよわせつつも、その質問に対する答えを真剣に探そうとしていた。「うまいこと云ってやろうという山気があったわけでもないし、人に見せて自尊心を逞しくしようというわけでもないし、文学に対する憧れ――そういうものだったのかな……でも、既往の文学は拒否している自分であるし、んー、正確な答えが見つかりませんね……」
 私はそう云って苦笑した。
「無理に訊こうとは思いませんよ。答えられる範囲で構いません。そうだ、そろそろ珈琲が冷めてしまったでしょう。新しいの淹れましょうか?」マスターが気配りをしてくれた。
「そうですね、もう一杯貰います」私が云う。
 マスターは珈琲豆をミルで挽き始めた。
 香ばしい香りが漂っている。それを専用の器具に入れて湯を注ぐ。あくまで抽出はゆっくりと。ここで焦ってしまうと安っぽい味になるのでマスターも慎重に淹れる。やがて珈琲はカップに注がれ、ソーサーを下にして私の前に置かれた。
 淹れたての珈琲を一口飲む。芳醇な香りが口腔を刺激する。「うん、やっぱり美味いね」私はマスターに告げる。
「そうですか?」マスターは嬉しそうに顔をほころばせた。
「みんな云ってるよ、ここの珈琲は近隣一だってね。場合によっては最高の腕であるかもしれない」私はおだてるつもりで云ったのではなく、本心からその言葉を口にしたのである。
「やめてくださいよ」マスターは苦笑しながら、肩をすくめた。
 と、そのとき隣の男性客が席を立ってレジに向かった。
「一〇五〇円になります」とナオは云って代金を受け取る。「ありがとうございました」彼女はそう告げてレシートと釣りを客に渡した。
「ナオちゃん、やっぱり笑顔がいいね、マスター」
「そうですか?」
 マスターは莞爾とした笑みを見せた。




     3


 マスターと私、どちらからともなく会話を打ち切った。
 原稿用紙を前にして私はいつもどおりの執筆環境を整えた。
 冷めかけた珈琲を口に含み、無い頭を絞って原稿用紙に文字を落としていく。その作業は孤独な一人旅にも似て道連れなどは求めるべくもなかったが、しかし今日はいつもと異なる雰囲気で執筆に当たることができていた。自分のやっていることを肯定してくれるような存在であるマスターとその娘、彼らの存在が私に無限の勇気を与えてくれる気がした。
 かけがえのない時間を過ごす。
 多忙をきわめる仕事から解放されている休日の一時をこうして自分のやりたいことに費やせるという幸せ。それが自分にとって生きる意味そのものと等価であるような気がする。そこまで云ってしまうとそれはそれで義務のようになってしまう印象もある。
 私は落ち着いて喫茶店の独特の時間の流れに身も心も涵[ひた]していく。
 マスターは忙しく立ち働いている。ウェイトレスのナオもカウンターとテーブル席を行き来して様々な仕事を要領よくこなしている。私は愛用の万年筆で少しずつ言葉を綴る。
 時間はまるでプールに貯められているものであるような印象を受ける。プールと云うよりもダムに近いかもしれない。それを任意に自分の好きな分だけ下流に流していけるような自由が存在している。自由という言葉が浮き上がって感じられる。子供の頃に読んだとある小説でも時間貯金という概念が提出されたが、それとは異なり、間で搾取する存在はまったくない。真の意味で自由である。
 私はその時間の流れにうまく身体を沿わせて、少しでも気持ちよく自分の時間を過ごせるようにと心掛ける。
 そんなことを思っているときに、店に訪問客があった。
 カウンターの向こうでマスターが「あっ」と声を上げたのが聞こえて私は入り口の方を見た。そこには一人の壮年の女性の姿があった。見憶えのある顔だった。この店でずっと給仕をしていた女性。つまり、マスターの奥さんであるのだった。
 マスターはカウンターの奥で凍り付いていた。
 食器を下げて来たナオも彼女に気づいたらしい。
「か、母さん……」ナオは驚きの声を上げた。
 私はこの場に血の雨が降りそうな予感を、この夫婦と親子のやり取りに瞬間的に見たのだったが、それは杞憂に過ぎなかったことがやがてわかった。マスターもナオもその母親もお互いを責めることは不得手であるようだった。
「母さん、これまでどうしてたの?」ナオが尋ねる。
 喫茶店は周りの雰囲気からしてどう対処していいかわからないという様子になって、明らかに客のほうも動揺しているようであった。
 客の大半がこのマスターの家族の動向に関心を払っているようであったが、そのときカウンター席に座っていた男性客が帰るそぶりを見せた。ナオがレジに向かってそこで会計を済ませる。
 マスターはぼそりとつぶやいた。
「座れよ」奥さんにそう告げる。
 彼女はまなじりを決したが、しかしその言葉を受け入れてカウンター席に座った。私は内心びくびくしていた。夫婦喧嘩は犬も食わないと云うけれど、いったいどんな会話がこれから展開されるのか――。その気持ちには野次馬根性も混じっていた。
「どう?」まず奥さんがマスターに声を掛けた。
 マスターは困惑の表情を浮かべる。「どう、って云われてもな」
「私が居なくてもやっていけてるみたいね。私はもう要らないわね」
 彼女はつんけんとした態度を取った。
「要るとか要らないとか、そういう云い方はやめろよ」
 マスターはしっかりとした語調で云った。
「だってそうじゃない。貴方はいつもカウンターの奥で珈琲を淹れて食べるもの作ってふんぞり返ってたらいいんだから、気楽なものよね。私はこの数年、ずっとお客様に頭を下げながらあれこれ雑務をこなしてきたのよ、もうそんな生活は真っ平だって思ってるの。もともと私は学校で勉強にも打ち込んできたし、商社にだって就職してバリバリ仕事してた。貴方と恋愛して結婚さえしなければきっと今頃順風満帆に暮らしていたはずよ。私は道を誤ったのよ。そう、一時の選択ミスが私の人生を大きく変えてしまったのよ」
 奥さんは訴えかけるような調子でそんなことを述べた。
 私はいけないとは思いながらも、その言葉に大きな興味を覚えた。
「美和……それはいいすぎじゃないか? そんなこと云われたら、もう俺は何も云えなくなってしまうよ」
「何か云いたいの? そう、私に何か云いたいことがあるのね。なら、云って。云ってみてよ。ほら、早く。ほら!」
 私は彼女の名前が美和と云うのだと初めて知った。
 そしてこの美和がマスターである望よりも優位な立場にあることが二人のやり取りでわかってきた。
 私はただ単に好悪的な意味合いでマスターの味方をしたくなった。それで自分は門外漢であるのに思わず口を挟んでしまう。
「マスター、奥さん」私が呼びかけると、二人は揃って私の方を向いた。『夫婦喧嘩は犬も食わない』という言葉が再び心に深く思い起こされる。「私はこう思うんです。食べ物屋の調理人と給仕人ってどちらが欠けても店として成り立たなくなってしまうんじゃないかと思ってね。私はこの数ヶ月、客としてこの店に訪問させてもらってました。マスターの淹れる珈琲が美味しいと云うのもあるし、奥さんがにこやかな笑みを見せて客である私たちの心をほぐしてくれていたことなどを思うと、やっぱりいまのこの店の雰囲気は少し物足りなく感じるんです。もちろん、娘のナオさんの力不足と云う意味ではないですよ。ではなくて、やっぱり夫婦の間がしっくり行っていないと、店の雰囲気もよくならないと思うんですね。どうするのが解決として最良なのかはわかりませんが、でもこれだけは云えます。この店にとっては、奥さんも必要な人間であったということですよ。確かに過去にいい企業に勤めていらしったかもしれない。でもこの店だって素晴らしい職場だと思いますよ。いえ、年長の方にこんな生意気を云ってしまって申し訳ありません。でも、この店を愛するが故に放っておけないと感じたわけです。お許しください」
 マスターは思いの籠もった眼差しをこちらに向けてきた。
 奥さんは何を考えているのかわからなかったが、またマスターと向き合って何かを目で訴えている。私は差し出がましいことをしてしまったかと後悔してそのまま目の前の原稿用紙に視線を戻した。とはいえ意識は常に二人の方へ向けている。次にどんなことが起こるのかまったく予測がつかず、私ははらはらしながらその後の展開に意識を向けていた。
「美和……」マスターは声を漏らした。
「母さん、もう戻ってきてくれないの?」ナオが悲しそうな声を漏らした。
 ひっそりとクラシック音楽が流れている。まるで劇場の一幕のようで、また周りの人たちはその観客であるように私には思えてくる。店内の客に会話はめっきり減っていた。マスターの家族に牽制されているような雰囲気の店内に不穏な空気が立罩めていた。とはいえ席を立つ客はなく、じっと息を潜めて成り行きを見守っているような具合であった。
「母さんがいないと歯車が狂ったみたいで私嫌だよ」ナオが云い募った。
 美和は肩をすくめた。それ以上言葉を継ぐのも甲斐ないような気がしているのか、表情を歪めてぽろぽろと涙を流しはじめた。
「美和……」マスターが声を漏らす。
「意地を張ってるのかな……」美和はそう云うと涙顔を上げて無理にほほ笑もうとした。
「美和……」マスターは繰り返し妻の名を呼ぶ。
 ややあって「私がわがままを云ってるだけね」と美和が云った。その表情には重いものが消え、マスターはカウンター越しに妻の肩に手を置きナオは背中に手を掛けた。家族融和か……と私は思う。
 事情がわからないはずの観客もパチパチと手を叩いてその様子を歓迎した。
 マスターは「すみません」と云って困惑の表情を浮かべた。
「私も店に入らせてもらっていいかしら?」美和はそう云うと、いつも通りの晴れやかな笑みを見せた。
 マスターもナオもその言葉に喜悦の表情を見せる。
「うん……母さんがはいってくれるなら、店のこともっと教えてもらえるわ」とナオ。
 美和は柔らかな笑みを見せてほっと息をついた。
 私は一応の決着を見た一連のやり取りを見守った後、自分のことに集中することにした。
 私は言葉を綴っていく。
 白紙の原稿用紙に自分の文字が落ちていく。
 一気に書き上げるというものではなく、目の前にあるものを少しずつ手探りしながら辿っていって、それで全体の形を見極めると云う手法でやっている。
 一度に大きな歩幅で進むことはできない。しかし一度踏み固めた地面は堅固なものとなり、振りかえって見ると自分の辿ってきた道程が明らかになると云う具合であった。
「進んでますか?」とマスターが声をかけてくる。これまでにない親密さだった。それは私とマスターとの間の垣根が取り払われたということであるのだろう。
 私はマスターにほほ笑みかける。「ええ、いい感じです」
「そうですか……」とマスター。
「もう一杯どうぞ、これは私からの奢りです」
 マスターはそう云うと、すでに淹れていた珈琲を前のものと差し替えてくれた。
 私は恐縮してしまう。「良いんですか?」
「さっき良いことを云ってくださったことに対するお礼です。それくらいしかできなくて申し訳ないという気持ちの方が大きいのです。どうか遠慮なくお召し上がりください」
 私はこのマスターのことがこれまで以上に好きになっていた。
 気分をよくして執筆に戻る。
 今日はいいものが書けそうだと思っていると、そこへ奥さんの美和が姿を見せた。
 ナオと一緒に並んで立っている。
 毅然としたその態度は見ていて清々しく、これだな、と私は強く念じた。
 午後の時間はゆっくりと過ぎていく。



【喫茶店・了】


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