罪と罰


1 :蒼幻 :2010/05/16(日) 12:12:12 ID:tcz3skke

 いつもお世話になっています。蒼幻です。
 今回は時代ものっぽい感じでやっていることは純文っぽいニュアンス、とでもいうべきもので、わかりにくいんですけど、つまり、タイトルにある「罪と罰」というのがテーマになっています。全体的に暗い色調ですけど、何か感じ取っていただけたなら幸いです。でははじまりはじまり。


2 :蒼幻 :2010/05/16(日) 12:12:50 ID:tcz3skkeVm

罪と罰

   ☆

 松の根を枕にして野宿を決め込んだが、神経が張り詰めて眠れない。瘤の形が身体に合わないせいではない。固い地面がいけないわけでもない。あの男が私の命を狙って暗がりからいまにも襲ってくるのではないかとの恐怖心が胸を焦がすためである。
 夜は静かなものであろうに今宵は勝手が違った。重苦しい空気の振動が感じられ、それは私の鼓膜の悪いためかと疑われたが、どうやらそうではないらしい。野犬か狼のたぐいであろう。高潔な血族に特有の、ある種の気高さを持った獣の鳴き声が、風に乗って聞こえてくる。それは獲物を威嚇するためとか、仲間内で争うためと云うよりも、意識される不安の気配から自分の身を守る、いわば魔除けのような役目を果たすもののようである。もちろん、間近で見たわけでないため、その考えは間違っているかもしれない。しかしそれは幾分かの真実を内包しているように思えた。
 南から吹く風は湿り気を帯びている。
 まだ大丈夫だろうが、いずれ降りだすと判る天候であった。
 何某[なにがし]かの視線を受けているという意識が先に立つ。ときどき松の根方から身体を起こして四方に目を遣る。もちろん、妖しい動きを見せる物はない。丈の高い草むらの遠近[おちこち]、小川の近傍の木陰、少し離れた処に位置する往復路、どこにも妖しい影は見えない。
 それは私の意識が生みだした惑いなのか。
 しかし因のないところに果はあらわれぬ。
 仏教で教える応報の哲理を引くまでもなく、自身が過去に為した罪深き行いを胸に浮かべる。
 私は伊勢の地にて殺生を行った。相手は侍ではない。まだ小娘といってもいいような年齢の、見目好い女性であった。物取り、強迫、強姦などが目的ではない。それは不運だったというほかない。行きがかりで手を汚してしまった事件である。娘を殺してから気がついた。女は子を孕んでいたのである。その相手は少し遅れて道をやってきた一人の商人であることは確実だった。
 その場所は伊勢の海岸通りで、昼間というのに、人通りはその二人だけだった。私の刃にかかったとき、女は、叫びもしなかったし、もがきもしなかった。私は背後から人が近付いてきていることを察知しながら、それが尾張で刃傷沙汰を起こしたために私を捕縛しにきた役人のひとりと思いこんで振り向きざま斬り殺した。なぜ男と女を間違えたのか、今から思えば不思議なことだが、どうやら初めての殺人を起こした尾張での事件からこっち、私は心を平静に保てなくなっており、暗中に鬼を見出す具合に、その女の近付くのを追手の追跡と思いこみ、区別がつかなくなったのだろう。図らずもそれが我が人生に於ける第二の殺人となってしまった。
 私はその日から人生の意味がまったく変わってしまったことに気付かされた。それまでの人生はいわば前に向かって一歩ずつ着実に進んで行く堅実な人生であった。それがこの日を境に、常にびくびくしながら後を何度も振り返り、誰も追いかけてくる者がいないことを確認してから、ほっと息をついて重い足を前に出すというような受け身の人生に変わったのである。もちろん、遠山壱岐守を弑した第一の殺人によって縄目の屈辱を受けねばならぬであろう恐怖は、女を殺す前から存在していた。しかしそれを自分の心の深い部分で意識することはついになかったのである。自分の心に大きく作用した殺生の罪に対する恐怖心は、この第二の殺人、商人の妻である孕み娘を殺したことから発したのである。
 私は生きながらえていて良い人間であるのか、その価値もない人間なのか、迷った時期もあった。娘を殺したときに後から歩いて来た商人の見せた悲痛な表情に、私は大きな衝撃を受けた。男と女は精神で強く結び付いていたのだと意識させられた。そして私はそのうちの一方をまったく一言も発させないうちに手に掛けてしまったのである。男は私に非難の眼を向けて当然であった。しかし男の口から洩れたのは女に向ける慟哭の嘆きだけであった。私は何も掛ける言葉を持てずに足早にその場を後にした。いまから思えば、なぜあのとき、その場にとどまって、自分の過ちを男に詫びなかったのだろうか。それがいまでも夢の中にひとつの情景として立ち現れ、私の非情さをちくちくと責めさいなむ要因となっているのである。
 爾来、夜もおちおち眠っていられなくなった。あの商人が妻の菩提を弔い、そのあと復讐のために私を追ってきているのではないか、と思って恐怖に身を竦めるのである。形は武士であるが、結局のところ、私は腕に自信がなく、また経験も浅いために、これまでに二人を殺したことに対して素直な恐怖心を抱いていた。もちろん、武士なら誰でもそういう感情は持つだろう。が、その心に受ける衝撃の度合いが、私は、常人より大きい気がしてならない。
 私は松の根方から半身を起こして、脇を流れる小川に目を遣った。
 段差になっているところに水が流れ込み、こぽこぽと音を立てている。軽妙な調子であり、その様は、聴いていて若干の諧味が混じっているように思える。私は緊張で張り詰めた神経をほぐすために、小川に手をつけて水を掬い、ひとくち飲む。まるで鈍い痛みが医師の処方した薬によって跡形もなく引いていくように、頭に残っていたほてりがすーっと身体の下へおりて解消されるような心地を得た。『これで眠れるだろうか』と私はまだわずかな不安の残る感情を抑えながら、根方に戻った。
「ほーほー」と夜の鳥が啼いている。季節はずれの梟だろうか? だが、梟にしては調子が軽い。きっと別の種類の鳥なのだろう。気持ち、辺りが冷えてきた。忍びよる恐怖とあいまって、吐き気のような身体の不調を覚える。常識で考えれば、商人が一介の武士に対して仇討ちをしようなどとは思わぬだろう。しかしあらゆる可能性を考えてしまう私にとって、それはどうしても棄却できない想像であった。
 梟もどきが高い声で「ほーほー」と啼いている。
 夜が恐怖を重くした。




   ☆

 このまま徒[いたずら]に時を過ごしても何も建設的なことは生まれないと感じ入り、私はもう一度あの地に戻ることにした。伊勢の街道である。事件からはすでに五箇月が経過していた。
「あの出来事なら海棠の町の蝋職人の夫婦だったはずだあね」
 伊勢に着いて、あの刃傷沙汰のあった近くで畑を耕していた農夫に聞き込みをした。
 告げられた町に向かい、そこで商人の家を探すことにする。
 何度かの聞き込みの末、その家は見つかったが、家の前で声を上げても中からはまったく応答がない。しかも怪訝なことに、店をやっているはずの家は、看板も暖簾も人の気配もまったく無いのである。私は「御免」と云って、玄関の戸を開けてみた。中は整頓されていたが、調度は埃にまみれていて、長い間、掃除がなされていない様子だった。そこで隣の家に行って、店の主人はどこにいるのか確かめることにした。
「ああ、宗右衛門さんなら嫁さんが亡くなってから、僧籍に入りなさったよ」
 それは驚きの知らせだった。
「僧籍?」私はさらに訊ねた。「どこで修業なさってるかわかるかい?」
 町人は忘れていたことを思い出そうとするように、その眼[まなこ]を何度かぐるっと回し、それから私に焦点を合わせて「ああ」と答えた。「確か、大和の不忍寺だったよな?」男は妻に訊ねた。
「ああ、そうですよ、宗右衛門さんは不忍寺でございます」
 男の嫁は小太りな女性で、年の頃は四十ほどであった。
 その夫婦はどちらも麻の簡素な着物を着ていたが、それは汚れているところの無い真新しいもので、人に不快感を与えるようなものではなかった。人当たりも優しく、どちらかというと接しやすく、話しやすく、気兼ねのいらない感じの好人物と云うことができそうだった。二人はなぜ私がそんなことを訊ねるのか、怪訝にも思わなかったようで、自分達からは何も問い掛けようとしなかった。
 私は「かたじけない」と告げ、そこを後にした。
 決心しなければならなかった。これからどうするべきであるのか?
 路銀は十分に持っている。侍として尾張の豪族に仕えていたときに稼いだ金子がたくさん残っていた。二十両はある。それだけあれば、贅沢さえしなければ数年は暮らしていける。私は心に決める。あの商人宗右衛門のところへ行き、赦しを乞うてから、自分の進むべき道を図ろうと。とにかく、まずは大和の、男が入山したという不忍寺に向かおうと決意した。




   ☆

 伊勢を出、国境を抜けて大和に入る。大和と云ってもそれはとにかく一国であるので広大なものである。道々、寺の所在を地元の者に訊ねながら、吉野のあたりまで進んで行く。不忍寺は曹洞宗の一寺であるらしく、古来よりある天台宗や真言宗のような派手さはないものの、禅寺としては有力な宗派のひとつであることを聞きこみをしながら、知識として習得して行った。秋になり、もうすぐ紅葉が始まるのであろう辺りの山々を見ながら、ようやくにして不忍寺の門の前に辿り着いた。
 闔じられた門を叩くと、中から「どちら様ですか?」と訊ねられる。
「伊勢の宗右衛門という男がこの寺に修行に入っていると聞きまして、会いに参りました」
 私はそう告げて、自分の名前と素性を明らかにした。
「お武家さまがいったい宗久に何の御用です?」門の向こうの声には厳しさが加わっていた。宗久というのが、どうやら法号であるらしい。
「実は、宗久殿とは因縁浅からぬ関係でありまして、ぜひ、ここで会っておかねば私の人生が困ったことになりかねぬというものでして」
 門の向こうからは深い沈思の雰囲気が漂った。
 ややあって告げられた。
「畏まりました。いま門を開けますので、お待ち下され」
 堅い門が開かれる。中には童子が二名、それなりの地位にあると思える坊主が一名の計三名が立っていた。「宗久は確かにこの寺にて修行をしております。案内いたしますので、ついて来て下され」
 寺から本堂までの石畳は丁寧に清められ、木の葉一枚落ちていない。手入れされた松や楓、桜に橘といった樹木がすっきりした枝ぶりで、その腕を天に向って差しのばしていた。こんな樹木なら一日縁側から眺めていても飽きないだろうと思えたが、もちろん、そんなことをしている僧侶はいない。本堂に向って歩いていると思われた坊主は、そこへ近づくと右へ折れた。正面から入るのでなく、裏口から案内されるのかと思った。と、奥の方に古びた建物があるのが視認された。
「宗久はあちらにおりますので」と坊主が告げた。
 坊主は三十後半くらい。僧籍にあるものとしての柔和さはあるけれど、芯のところは頑迷といってもいいような融通の利かなさが支配しているようで、それがまた、この坊主に、ある種の人間的魅力と云うか、好意的欠点と云うか、そんなものを与えていた。市井にあってはこの性格・性情は不利にしか働かぬであろう。しかしこの坊主にとって幸運なのは、出家して、世間の垢にまみれることなく、毎日の修行に心身を鍛えることのできるその特徴が、個性を際立った物にしていることだった。
「さあ、お入りください」と云うと、坊主は中へ上がりこんで宗久の居るのであろう、奥の部屋へ進んで行った。
「藤堂と云われるお侍さまがそなたに面会を希望されておるぞ」
 坊主の声が廊下の向こうから聞こえてくる。
「藤堂様? そんな方は私の知り合いにはなかったと思いますが、商売人だったときのお客様でしょうかな?」宗久のものらしい声がする。
 私は草鞋を脱いで足の埃を払ってから、正面の大部屋に入った。
 ほどなくして、怪訝そうな表情で宗久が部屋に入ってきた。
 と、宗久は私の顔を見ながら、向かいに正座した。
「初めまして……でしょうか」と宗久は訊ねた。
 心に緊張が走った。




   ☆

「ああ、あなたはあのときのお侍さまでしたか」宗久はふっと息をはいた。
 その意外な反応に私は戸惑ってしまう。「宗久さん、あなたは私に何も仰らないんですか?」
 宗久は困った表情で、眼光だけきらめかせてこちらを見ている。「あなたが憎いとかそういう気持はありません。いまは、ということですけど」
「前はあった?」私は訊ねる。
「そうですね、前はありました」
 宗久はきっぱり云った。そう云う所では妥協しない性格なのであろう。しかし、ということは、いったい、宗久の胸の内でどのように考えが変性していったのか?
 疑問が胸に生じる。
「藤堂様は私の変化が解せない様子ですね」宗久は苦笑する。
「詳しくお聞かせ願えぬか?」
「いいですとも。長くなりますがお楽にして聞いて下さりませ」宗久は云った。そして語り始める。「確かに私はあなたに愛妻を殺されました。それは私にとってとてつもない痛恨事でありました。あのとき死んでしまった妻の表情を見て私は苦しみました。胸をかきむしられるような痛みと、どうして私たちがという混濁した想いと、目の前が真っ暗になってしまったような盲目的感覚が私を支配していました。私は、あなたに対する怒りを、そのときまったく心に生じさせていなかった。ただ、嫁が戻って来てくれることだけを心に求めていたのです。その心が変化していったのは妻の遺体を家に運びこんで、葬儀を催しているときでした。私は最初はまったく気配もなかったのに、徐々に自分の心が怒りの炎で焼き焦がされていく感覚を得るようになりました。それはとても抗いがたい感情で、私はあなたに対して完全なる殺意を覚えたと云っても過言ではありませんでした」
「完全なる殺意――」私は宗久の言葉の強さに、自分が夜、眠っているときに感じていた恐怖心を再び揺り動かされて不安になった。話がどこへ向かおうとしているのかわからないということも手伝って。
「文字通り、完全なる殺意でした。それはどうすることもできず、私の心の中を強く激しく焼き焦がして燃え広がっていくようでした」
「あなたはそれを避けようとした?」と私。
 宗久は続けた。「そうですね、私はなんとかその感情を隅に押しやって、理性の力で吹き消そうと試みました。しかしそれは不可能だった。私一人の力ではどうすることもできないほど強い感情の靡きでした。そんなとき、忌明けで家に来てくれた住職が仏教の話をしてくれまして、それに強い興味を覚えた私は、藁にもすがる思いで住職に訊ねました。すると、住職はこの寺のことを紹介してくれたんです。私は自分の心に怒りの炎がくすぶっている今の状況はとても危険だと感じていました。しかし出家して修行すればこの感情はやり過ごすことができるのではないか、そう思ったのです」
「なるほど」私は深く頷いた。
 ふと眼を上げると、その部屋の隅に金属の鐘がつるされているのが見えた。
 鐘は美しい曲線でかたどられていて、撞いたならきっといい音が出るだろうとそんなことを思いつく。
「修行の日々は、私の予想どおり、いい影響を及ぼしてくれました。もちろん、たった二箇月で何が変わるんだと思われるかも知れません。しかし、私は確かに、仏法に出会って、この寺に入って、修行漬けの毎日を送って、心に平安を取り戻したのです」
「そうですか」私はこの宗久という男を眩しいと感じ始めていた。一途で素直な心をもった若者であると率直に感じていた。そんな男の嫁を殺したのだと思うと、私は胃がきりりと痛む思いがした。
「いまはもうあなたに対する怒りはまったく持ってません。妻が殺されたことは痛恨事でありますが、しかしそれがあったからこそ、私はいまここでこうして修行することになった。確かに妻のお腹には子供があって、その子の誕生を楽しみにしていた私がいました。しかし、すべては過去のこと。藤堂様も悪気があったわけではないのでしょう。妻を斬ったあとにお見せになった表情からすべてはわかりました。これはすべて偶然が為したことであって、藤堂様の責任ではないということが。安心して下さい。私はもうあなたに対して怒りは抱いておりません」
 私は救われたような心地になった。そして、ここへ来てよかったという気持になる。
「本当に申し訳ないことをした」と私は宗久に謝った。「私は狭い了見で、いまもそなたが私を怨みに思って、命を狙っているのではないか、とそんなことを考えていた。それはせせこましい、極めて狭窄な、匹夫の感情であった。私は自分を愧じている。忸怩たる思いとでも云おうか。いまあなたの話を聞いて、私も仏法に帰依したいという思いがむくむくと大きくなってきた。どうだろう、宗久殿。私も出家させてもらうことはできませぬか?」
 宗久が自分よりも格上であると見るような思いに駆られて、私はいつの間にか彼に対して敬服するような心境になり始めていた。妻を殺した男を寛恕の思いで遇する。これは普通の人間にはなかなか出来ぬことと思う。
 そのときちらりと宗久の表情を窺った。丁度、宗久は曰く云い難い、何か喉の奥に魚の小骨が刺さったときに見せるような戸惑い、うろたえ、あるいは動揺の表情を見せていた。そのとき私は、それがどういった意味を持つ態度であるのか判りかねたのだった。
「藤堂様が仏僧になられるのですか?」宗久は平静な表情を取り戻していた。
「これこそわが生きる道であるという気がしてきた」私は宗久に告げる。
「うむ……おやめになられた方がいいと思いますよ」宗久は納得しかねる様子である。
「また、それはどうしてでござる?」
「出家するということは、現世の楽しみをすべて放棄するということですよ。あなたにそれができますか?」
 ――酒。
 ――女。
 ――金。
 そんな現世の楽しみを想起する。
 そんなものはなくても別に構わない。そう宗久に云いたかったが、何かが私にその壮語をとどまらせていた。
「出来ぬでしょう?」と宗久は問いかける。
「そうだな、出来ぬかも知れぬ」と私は答えた。
 左手の開け放しの窓の向こうを見ると、辺りは昏くなりはじめていた。
 夜の気配が忍び入ろうとしている。
 宗久は告げた。「今日はここにお泊まり下さい。私は管主に客人を泊める許可を貰ってきますので」
「そうですか、ありがとうございます」私はそう告げると、この厚遇に気分をよくした。
 宗久は立ち上がって、室を後にした。
 一人残された広間で、宗久という男の素直さに感じ入り、そしてその心地よさに胸の閊[つか]えがふっと落ちていく心地を得た。


3 :蒼幻 :2010/05/16(日) 12:13:17 ID:tcz3skkeVm

   ☆

 宗久は半時間ほどしたころ、戻ってきた。
「管主に話してきました。今夜はここにお泊まり下さいとのことでした。もちろん、藤堂様がいいなら、ということですけど」
 私はもう秋本番になったこの辺りの気候で野宿もないだろうと思い、その言葉に甘えることにした。「よろしくお願いいたします」私は丁寧に告げた。
「それで、管主が藤堂様にお会いしたいということでした。こちらから出向くゆえ、待っていてほしいとのことでございます」
「ほう」私は感嘆の声を上げた。
「実は、藤堂様に出家に対する関心がおありであるということを告げたのです。それで管主が関心を持たれまして、こうして私に先に、話をつけておくようにと申されたのです」
「左様なるか」私は云いきった。
 ほどなく、玄関に人の気配がして、それが管主であると気づくまでにはそれほどの時間は掛からなかった。
「不忍寺の管主を務めておる禎玄[ていげん]にございます」
 管主と云うは六十になんなんとする老体で、この歳まで壮健に生きていられる人物は珍しかったため、私はそのことにまず驚かされた。顔に刻まれた皺はまるで大樹の幹の表皮のようでもあり、自分の張りのある肌とは似ても似つかぬ、この老人に若い頃があったことを想像できないような思いを抱くのだった。しかし目は澄みきり、口元は犀利な印象を与え、尋常一様でない雰囲気も漂っている。眉は白く、一寺の管主としての風格は十分にあった。
「訊けば、お侍さまは出家をご希望とか?」
 管主の表情には無理しているところがなく、柔和そうな笑みも浮かんでいたが、しかし、その言葉は本質を突くようにあまりに怜悧で、私は気押されてしまいそうな印象を受けて内心たじろいだ。
「いえ、それはただの気の迷いであったかも知れません」と私は答える。
「そうですか……」管主禎玄は白い眉をぴくっと動かした。「何はともあれ、ゆっくりして行って下され」
 そう云うと、管主は傍らの宗久の方を見られた。
「宗久、そなたの初めての客人じゃ。せいぜい、世話するのだぞ」
「はっ」と宗久は告げて頭を下げる。
 管主の表情には何か凝り固まったものがある気がしたが、気のせいだったかもしれない。私は顔に穏やかな笑みを浮かべて、立ち去ろうとする管主に視線を据えていた。




   ☆

 食事をとる場所は、この寺にいる者と同じ、案内されるときに見えていた本堂の中でと云うことになった。私は宗久と連れだって本堂に向かった。そのときにはもう太陽は西の地平に沈んでいて、夜陰が入り込んでいた。坊主は管主と宗久を含めて七人いた。侍童らが忙しく働いて、人数分の食事を運んでくる。
「精進料理ですから口に合わぬものもありましょうが、御容赦くだされ」と管主は云った。
「お気になさらず」と私は告げる。
 しかしその心遣いが嬉しかった。私を賓客として遇してくれている寺の温かさがしっかりと伝わってくる。本堂には仏像が安置されていた。本尊は不動明王で、その脇に薬師如来や毘沙門天やがあった。木彫りであったけれど、丁寧に彩色されており、まるで実際に命を持つ者のように生き生きとしていた。
 料理は質素と云う言葉が似合うような素朴なものではあったが、丁寧に作られたことの分かる品ばかりである。山菜のおひたしも、豆腐の真蒸も、野菜の煮付けも、玄米もすべてに満足することができた。
「旨いですな」と告げると、管主は声を出さずに頷いた。どうやら、食事中は言葉を発してはならぬらしい。見ると、ほかの坊主も黙々と料理を口に運んでいる。
 食事を終えると、それからは風呂に入った。
 風呂はひとりずつ順番に入る。私が割り振られたのは二番目で、それはもっともいい順番であると宗久に耳打ちされる。
「一番では湯が熱すぎるし、かといって、後になるほど湯が濁っていく。二番目がもっともいい順番でございます」そう云って笑う宗久は、この寺の中では下っぱということで、最後の方になるようであった。「藤堂様はご家族はいらっしゃらないんですか?」と宗久が訊ねてくる。
「家族か――家族と云っては国許に母が一人おるだけだ」
「国許?」
「ああ、尾張の清洲というところに住んでおる。私が任務中に不義理を致したため、もうどうなっておるか確かめに行くことすらできぬがな」
「寂しいですね」
「ああ、寂しいな。しかし今生の別れになっても仕方ないと思うておる」
「そうですか」宗久は悲しげに眼を伏せる。
「なにしろ、そなたの妻すら手に掛けてしまったのだ。そなたのその苦しみに比べれば、肉親に会えぬことくらいなんのことがあろう。私はなんとかして、これからの自分の身の立て方を考えて行かねばならぬのう」
「そうですか」
「しかし、追手がその魔手を伸ばしてくる夢をよく見るのだ」
「ほう」宗久は関心を持ったのか、身を乗り出して声をあげる。
「そこにはそなたの姿も混じっていた」私はそのことも白状する。
「わ……私がですか?」宗久は意外そうに云う。その声は若干かすれていて、何か落ち着きの悪い性情を示しているように思えて、不審とまではいかないものの、どこか尋常でないものを感じさせた。
「先程、そなたにそう云う気持はないと訊いて、ほっと胸をなでおろしたのは、そういう幻を見ていたせいも手伝ってのことであるのだ」
「なるほど」
 私はそこからどうやって話を発展させていけばいいだろうと考える。しかしいい案は浮かばない。肯定されても、否定されても私には実際、それほど大きなことではないような気がしていたからである。勿論、否定された方が気が楽になるということはある。しかし楽になったところで、自分の罪が減じるわけではない。罪はそのままで、罰だけが軽くなるというのは、どうしても不公平であるような気がしてならない。私自身、もっと罰を受けなければならないのではないかと思い始めている節があった。誰に指示されてということではない。ただ自分の中で、相応の罰がなければならぬという気がしてならないのである。
「あなたはまったく私を罰しようとしない。それは私にとってとても悪いことであるのかもしれない。自分が為した罪を十分に償ってこそ、正しく生きられるようになるのかもしれぬ。あなたのその慈悲の心が私にはとても痛いもののように感じられてならないのだ」
 私はそんな風に告げたが、もちろん、私の心の葛藤を知らない宗久は不思議そうな顔付きをした。
「あまり考えつめぬことです。私が許しますといっているのですから、あなたは気になさらぬがよいのです」
 そう告げると、宗久は就寝前のお勤めがありますから、と告げて、私に先に寝ているように云って、本堂へ向かった。
 やがて遠くから木魚の音がしてくる。
 経文を唱える声までは聞こえないが、きっとその中には宗久の祈りの声も含まれているのだろう。宗久とは不思議な男だと思いながら、私は眠りについた。
 布団は柔らかくて気持いい。外は温かくない気温だったけれど、蒲団がしっかり熱を保ってくれるので、心地よい眠りを得られた。
 いつ宗久がここへ帰ってきたかもわからなかった。
 起きるとすでに宗久はおらず、朝の準備をし、寝巻から着物に着替えて端座していると、彼が呼びにきた。
「朝餉でございます。向かいましょう」
 宗久は迷いのないすっきりした表情をしていたが、しかしそこには底抜けの明るさとでもいいたい、どこかわざとのような作り物めいた明るさが感じられた。




   ☆

 私と一緒に本堂に入った宗久はいったん昨日の夕餉のときと同じ席に座ってから、そわそわしてすぐに立ち上がり、そのままどこかへ行ってしまった。憚りかと思ったが、どうもそうではないらしい。仲間内でひそひそ声がしていたが、理由の分かる者はないらしかった。私は気にしないことにした。この食事を終えたらこの寺を出ることにしているのだ。それまでに、管主と話せればいいのだが、と私は思って、その機会をうかがう。しかし、管主は食事が運ばれてくるまで、じっと瞑想していた。
 と、宗久が気ぜわしく戻ってきた。
「どこへ行ってたんだ?」という坊主たちの追及に、困った表情を見せながら、「ちょっと」と告げる。そのとき管主がちらっと宗久の方を見て、それから真言のような祈りの言葉を口にされた。
 料理が運ばれてくる。私はその質素な朝餉に目をやった。魚もなければ肉もない。野菜だけの食事である。やがて人数分の御膳が運ばれてきて、祈りの文句が挙げられる。昨日の調子なら、その祈りの言葉が終わったら、管主の声で食事の開始の号令が告げられるはずだったが、しばらく待っても声は掛からなかった。
 皆が管主の方に視線を向ける。
 と、管主が力強い声で告げる。
「宗久」
 場は静まった。ざわざわし始めていたのがぴたっと止んだのである。まるで生き物が一斉に呼吸を止めたかのようである。
「宗久、そなた仏門にあるまじきことをしたな?」
 管主は追及する。
「な、なんのことでございます?」と宗久は焦った声を出す。
「この食事のことだ。何か、白状しなければならないことがあるのではないか?」
 管主は白い眉をぴくっと動かしていった。私はわけがわからなかった。宗久がなにか悪いことでもしたのだろうか? そんな疑問が心に浮かぶ。
「藤堂様、申し訳ないが、その御膳を改めさせてもらってよろしいかな?」
 管主はそう云うと、宗久のところへその膳を持っていき、代わりに宗久の前の膳を私の前に置いた。
「宗久、わかっておるな?」と管主は訊ねる。
 宗久は膝に手を置いていたが、その手はぶるぶると震えていた。
「ではいただこう」管主はそう云って、皆に食事を食べるように云った。
 見れば坊主たちも膳を入れ替えたことの意味がつかめぬらしい。この場でその事情を分かっているのは管主と宗久だけのようであった。
 宗久は皆が食べ始めたのを横目で見ながら、自分の膳の箸を取ろうとはしなかった。また、その様子は、何か解決策を求めているような具合だった。
「管主様、私が悪うございました」宗久は折れた。
「ほう、やはり何かしておったな?」と管主禎玄。
「藤堂様、申し訳ありません、私はあなたさまの食事に毒を盛りました」
「な!」私は驚いた。
「ど、毒?」坊主たちもことの重大さに気づいたのか、箸の動きを止めて宗久と私をかわるがわる見た。
 禎玄は複雑な表情をしていた。「わしがわかったのはな――」と禎玄は告げる。
「はい」宗久は悄れた声を出す。
「妻を殺されたそなたの怒りは修業をしに来た当初から強く感じていたのだ。しかしいずればそれも解消されるだろうと踏んで、修行を指導してきていた。しかし、昨日そなたが藤堂様を見たときに、その気に乱れが生じていたのを私が見逃すと思ったか? きっと何か悪いことが起きるだろうと思っておった。そなたが食事の前に席を立った時、これだと感じたのだ。人を殺せばそなたも同罪ぞ。同じ道にすすんで降りていくことはない。と、藤堂様には悪い言い方になってしまいますが、人を殺すことは、仏法の五戒の中でも一番最初に挙げられるものである。それを犯してまで本懐を遂げるというのも醜きことであるとわしは思うぞ」
「す、すみませんでした」宗久は管主の凄まじい気迫に押されていた。
 格が違うと私は感じた。
「藤堂様、食事を終えたら、すぐにここを去っていただけますか? あとのことは私どもに任せて」
「わかりました。そのようにさせて頂きます」
 それからは火の消えたように静かになって食事が進んで行った。
 そして別棟に向かい支度を整えると、昨日案内してくれた坊主と、管主禎玄に見送られて、門をくぐった。
「ありがとうございました」と私が告げると、二人の僧は揃って頭を下げた。
「申しわけありませんでした」という禎玄の声が聞こえた。
「修行に打ち込んで下され、私はもうここへは来ませんから」と私は告げる。

 門を出て、あてもなくぶらりと歩く。宗久の顔が脳裡に浮かぶ。殺されかけた怒りはまったく無かった。
 やがて、京へ行ってみようとの気持ちがふつふつと湧いてきた。
 京には何が待ち受けているのか? みやこなら、私のこの二つの罪を洗い流すような強い使命が自分に下されるのではないか、という気がしてならない。どこかに侍として雇ってもらうべきだな、と思う。これから寒い冬がやってくる。いつまでも浪人でいるわけにはいかない。そう思って、歩く速度を速めた。



【罪と罰 : 了】


novel plaza system
甘辛流小説家ギルドGAIA
produced by COLUN.