春の風


1 :蒼幻 :2010/04/27(火) 03:32:33 ID:tcz3skke

賞に出すために書いたものだけど、
たぶん、送らないのでアップします(汗)
全7章100枚構成でございます。


2 :蒼幻 :2010/04/27(火) 03:33:15 ID:tcz3skkeVm


 あの朝、起きてすぐ異変に気づいた。
 いつもなら先に起きているはずの妻がまだベッドに居たのだ。
「おい、朝だぞ」
 呼んでも返事がない。
「仕方のないやつだ」彼はぼやきながら横になったままの妻の身体を揺すろうとして気づく。妻の顔が紙のように白いのだ。身体に手を掛けて見ると、ひんやりと冷たい。妻は普段から冷え性の気味もなかったから、これは変だと思った。
 何度か妻の身体を揺すってみたが、ぴくりとも反応しない。ここまでしてもまったく反応がみられないのはあまりにもおかしい。そして妻の表情に生気が見られないどころか呼吸の有無もわからないほどであるので、彼は妻のおでこに手をやった。まるで氷に触れたときみたいにその冷たさは夫である彼の心を鈍麻させたのだった。
「おい、聡子、おい!」
 彼はいよいよ異変に気づいて、妻の名を呼んだ。
 しかし妻は寝ている間に事切れていて、もうこの世に戻ってくる気配はなかった。
 彼――斎藤聖一は五十の半ばという歳にあって妻と死に別れたのである。
 葬儀は親族だけを集めて行った。
「元気を出して下さいね」
「聡子さんはきっと、天国で聖一さんを見てくれてますよ」
 と、励ましの声を掛けてくれる者もあった。
「聖さん。聡子がこんなに早く亡くなるとは思ってもみませんでした。兄である私がまだぴんぴんしているというのに、まだ五十ちょっとの聡子が先に逝くなんて……」
 そう云ったのは聡子の実兄の祐介だった。榊祐介。帝都大学の物理学教授で親戚の中では一番の出世頭だった。収入にむらのあるいわゆる自由業に近い画家の聖一にとっては対極にある存在と云ってよかった。妻と結婚した二十年前、その結婚にもっとも反対したのがこの祐介だった。榊家の最後の理性とまで呼ばれた彼は、画家などと云う正体のわからない、明日どう転ぶか知れぬ、新進気鋭とは名ばかりの香具師のような男に大事な妹をやるわけにはいかんと、ものすごい剣幕でがなり立てたことがあった。しかしあのときの反対こそがいまの二人の強固な関係のきっかけになったのであり、聖一は、義兄の怒りは妹である聡子を思う一念から出たものであることをしっかりと諒解していたのである。
「その歳で一人になるのは辛いでしょうが、なんとか毎日を過ごしていって下さい。妹に操を立てる必要はないんですよ。もし機会があれば、新しい奥さんを貰われるといい。いえ、なにも仏前で話すことではないですね。でも、考えてみてもいいと思いますよ」
 祐介はそう云うと、もう六十近くの、皺の目立ち始めた顔をほほ笑みで奇妙に歪めるのだった。
「お言葉は嬉しいですが、私はまだそんなことを考える余裕はありません」
 聖一は声をくぐもらせながら云った。
「おやじが亡くなって五年、おふくろが寝たきりになって三年。榊家は落ち目だが、斎藤家はこれからだ。武くんが残っているんだから、彼を立派に育てることも妹の冥福を祈るのと同じくらい大切なことだと思う。聖さん、これからですよ。これからが大切です」
 祐介はそう念を押して思案の表情をした。
 聖一はその言葉の意味を知っていた。子である武は今年十三、中学一年生だった。こんな年で片親が亡くなってしまう不幸を得てしまった子供は、非行に走る率も格段に上がるだろう。しっかりとした生き方とは無縁の聖一では、子育てに向かないどころか、悪い影響を与える可能性の方が高い。これは祐介の云う通り、早めに再婚したほうがいいかもしれない。しかし、どこにそんな奇特な相手があるのか? 確かに絵の方はそれなりに売れるようになってきた。若いころはからっきしだったが、いまは昔から丹念に積み上げてきたデッサン力が功を奏して、構図の美しさに魅力のある中堅の画家として画壇でも名が通っていたのである。
「武……母さんのことは突然だったが、もうお前も十二なんだし、身内の死を受け入れるだけの素地はできていると思う。これからは親子二人の生活になるけど、どうだ、寂しくないか?」
 武はむすっとした様子だったが、それでも自分の置かれている立場が分かっているのか、ぽつりぽつりとながら口を開いた。
「やっぱり、母さんがいないっていうのは辛いけど、でも、まだ実感がわかないんだ。俺、そんなにしっかりしてないからね。父さんは母さんがいなくなって寂しくないの?」
 武の言葉に聖一はどう返答したものか迷った。
 寂しくないと云えば無理をしているのは明らかだし、寂しいと云うのは、男二人で亡くなった者のことをめそめそと気にし合っているようで気が進まない。結局、どう答えることもできず、うなだれるばかりだった。
 次の土曜日、武が友人の家へ遊びに行ってしまって聖一は家に一人になり、内に籠るのもあまり良くないと考えて家を空けた。近くの河原まで遊びに行こうとしたのである。久しぶりに出た外は春の気配に色めき立っていた。道端のアスファルトとアスファルトの切れ目にたんぽぽの花が咲いている。風に揺れて、黄色く目立つよそおいのたんぽぽは目に鮮やかである。こんなところにも生命の気配があることを知って、一人鬱々としているのは性に合わないと考え始めた。しばらく立ち止ってたんぽぽに目をやっていたが、髪の毛をさらおうする突風が吹いて、それがいい潮時と、腰を上げてまた歩き出す。この辺りは新興住宅地ということでそれなりに開発の進んでいる地区だった。近くに曽谷川という河が流れていて、その河川敷は公園の少ないこの地区に住む者の憩いの場になっている。
 風は緩く吹き、強く吹き、気まぐれである。
 陽光が南向きの窓に当たって眼を射てくる。
 肌寒さの残る四月の空気はとても澄んでいて、それを呼吸する自分の肺が清新の気で満たされるかのようだ。
 河川敷に出るまで、いまが桜の季節であることをすっかり忘れていた。現前に展ける景色は桃源郷のようで、陽光に照らされて白く映えた桜の花は一抹の儚さを湛えて柔らかく咲き誇っていた。散る前のひとときの盛りである。梢のひとつひとつにこれ以上載らないと思えるほど沢山の花びらがついている。
 ――これはいい時期に外へ出られたな、と聖一は思った。
 土曜日と云うこともあって、花見をする家族の姿も目立っていた。
 顔見知りはいなかったが――そもそも顔見知りなんて、出不精の聖一にはまったくいなかったのだが――皆、人懐っこい笑顔を見せて、この春の爛漫たる空気を謳歌している。
 そんな中、河川敷に置かれたベンチに座っている一人の女の子に目がいった。聖一はその子が何か思いつめた表情をしているのに気がつき、そして気になった。
 ――いったい一人で何をしてるんだろう……。
 聖一は純粋なる興味を惹かれて、その女の子の方へ歩みを進めた。
 が、すぐに立ち止まる。
 このまま女の子に話しかければ、何か下心があるように思われはしないだろうか? 自分が五十を超えた初老の男であり、相手はまだ高校生くらいの女の子である。花見客もいるし、もし女の子が怯えて周りに助けを求めたりしたら、私はどう弁解すればいいのだろう――。聖一はそう考えて、それ以上、歩みを進めることが出来なくなった。
 二人の間の時間だけが止まってしまったように思える。
 聖一は河の方へ身体を向けて、しばらく呆然としていた。
「おじさん」
 ベンチの方から声が飛ぶ。
 聖一は振り返った。と、女の子がこちらを見ている。
「どうしたんだ?」と聖一は訊ねた。
「座れば?」女の子は告げてくる。「そんなところに立たれてるとうざいんだけど」
 女の子は攻撃的なことを告げてくる。
「うざい……」聖一はその言葉の意味がうまくつかめなかった。つまり、鬱陶しいということか。聖一はそう頭の中で彼女の言葉を変換した。「すまない」聖一はそう云って、女の子の横に腰をおろした。
「ねえ」女の子は自分から話しかけてくる。「おじさん、どうして一人でこんなところにいるの?」
「うん?」と聖一。
「だから、せっかくの休日なのに、どうして年のいった男性がこんなところで一人でいるのかって訊いてるの。普通、おじさんくらいの歳の人で今日みたいに陽気な日なら、家族サービスとかしてるもんじゃないの?」
 女の子はそのままずばり訊ねてくる。
「私はね――」と聖一は声を漏らす。
「うん?」女の子は怪訝そうな顔つきをして聖一の話を聞いた。
「この前、妻を亡くしたばかりなんだ……」聖一の言葉に女の子は驚いた様子だった。申し訳ないような表情をしなかったことがせめてもの救いだった。
「そう、悪いこと訊いちゃったね」女の子は云った。
「いや、いいんだ、気にしないでくれ、こっちのほうが恐縮してしまうから」
「あたし――あたしは水崎優衣。高校二年生よ。おじさんはいくつ?」
「斎藤聖一、五十六だ。ていうことは三倍くらいの歳ということになるな」聖一は力なく笑んだ。
「そうか、三倍か……すごいねー」優衣は感嘆するように云った。「何してる人か教えてもらってもいい?」優衣は落ち着いた眼差しで聖一を見た。
「私か。うん、私は絵描きをやってる」
「絵描き!」優衣はまともに驚いた様子だった。「絵を描いてる人なんて初めて見たわ。なに、そういう絵描きさんって一日中絵を描いてるものなの?」優衣は興味を持ったらしかった。
「私のやってるのは精神論みたいなもので、何を描くかと云うより、どう表現するかというスタイルで考えることが多いから、実際に絵筆を握っている時間は専業画家のなかでも短い方じゃないかな……。一枚書くのに一ヶ月かけることだってあるからね」
「へえ、それはなんか凄い世界のような気がする」
「凄い?」
「うん、あたしなんかには想像することもできないような世界。きっとこれからもそう云う世界とは無縁のところで生きていくんだろうなあって思う」
「そうか」聖一は優衣の憂いに満ちた表情を見て、素直にいい子だと感じた。
 髪の毛は短めのボブでぱっと見では活発な印象に見えるけれど、こうして話してみると思いのほか聡明さの方が際立っているようだ。少し切れ長の目は精緻なつくりの鼻、唇と相まって、ちょっときつそうな性格に見えるが、優しげな雰囲気も持っている。それがどこから漂い出しているのか分からないところが彼女の魅力と云ってもいい気がした。高校二年生と云うことでまだ発達しきっていない身体は成長の途上にあるという感じだし、聖一自身、彼女の身体にはまったく興味はなかったので、そういうものかというくらいの意識でしか捉えていなかったが、胸は他の学生に比べても十分にある方に見えた。
 今日の服装は春らしく、薄緑のワンピースだった。
「寒くないか?」と聖一は訊ねる。
「うん?」優衣は首をかしげた。「ああ、この服ね。ううん、平気。風はあるけど日差しも暖かいし、この服装はちょうどいいわよ。でも男の人って面白くないでしょうね。どんな天気でもシャツとズボンしか着られないんだもの。あたし女の子に生まれてきて良かったことって、いろんなものが身につけられることだと思うのよね」
「なるほど」
「ねえ、おじさんは、子供はいるの?」優衣が訊ねてくる。
「ああ、男の子が一人だけな」
「その子のこと訊いていい?」
「ああ」聖一はそう返答した。「いま中学一年で毎日元気に学校に通ってる。成績はそれほど良くないけど、でも学校に行くのが楽しいらしい。家に帰って来て夜テレビを視ているときより、朝早起きしてこれから学校に行くために玄関で靴を履いているときの方が生き生きした表情をしていてな。そう云うとき、私はいい傾向だと思うんだ」
「いい傾向?」
「そう、いい傾向。学校が好きだっていうのは社会に溶け込むための第一歩であって、大人になってからでも重要なことのひとつだと私は思ってる。もちろん、私のような仕事をしているものにとっては、それはマイナスに働くこともあるだろう。でも世間一般の人間にとってはこの傾向はとても好ましい物になると思う。残念ながら、息子は私のような自由業的な職業には興味を示していない。それなら将来、現代社会でどのように身を立てていくかを考えなければならない。そんなとき、みんなとの共同生活の場である学校に行くことが楽しいと云う思いは、きっとプラスに働いてくれると思うんだ。そう考えたことはない?」
 優衣は聖一の話を聞いているうちに顔を曇らせていった。
「あたし、そういうのわからないの。だって、あたし新学期になってから、あんまり学校行ってないから……」
「えっ?」
 聖一は唖然とした。どう答えたらいいかわからなかった。
 二人の間にしばらく会話が途絶えた。


3 :蒼幻 :2010/04/27(火) 03:33:57 ID:tcz3skkeVm



「学校に行ってないって不登校ってことか?」
「うん」優衣は声をくぐもらせて答えた。
「そうか。ここで私が自分のことを棚にあげて、それはいけないことだっていうのは簡単だ。でも、それは根本的な解決にならないだろう。自分で考えることだ。将来、どうしたいのか。それを定めれば、少々の苦しみは乗り越えられる」
「それは、暗に、あたしに我慢して学校へ行けって云ってる? そんなの横暴だわ。斎藤さんも、云うことは普通の人と変わらないね。絵描きだからちょっとは独自の意見を持ってるかと思ったのに。期待して損した」
 優衣はぼそりと云って、春の暖かい空気の中で自分だけがまったく楽しんでいないような表情をして見せる。憂いに沈んだ顔が桜の花びらで美しく彩られた河川敷に悲しみの色を振りまいているように思える。
 聖一は彼女に掛ける言葉を持たなかった。いったい彼女の中にどんな思いが渦巻いているのか、それを聞かないことには問題の解決にならない気がした。
「なあ」と聖一はそっと声をかけた。
 優衣は僅かに肩を揺らして顫えていた。
「なあ」聖一は同じ言葉を繰り返した。
 優衣はそれに応えない。しかしややあって、口を開く。「なに?」
「いったい、何があったんだ?」聖一は思いを込めて質問する。
「面白くないの」
「面白くない?」
「うん、学校ってそれは小中学校のときは面白かった。友達はみんな魅力的だったし、新しいことをいつも教えてくれる先生が神様みたいに思えてた。でも、それも中学までだった。高校になると勉強の意味が変わって来たのよ。新しいことを知るために努力する勉強じゃなくて、少しでもいい点をとっていい大学にはいるための勉強に変わったの。そう云うのっていまよく教育の現場でとりざたされてるんでしょ? ちょっとまえのゆとり教育とかなんとか。でも、そんなものは大人の建前でしかなくって、現場である学校はいつもいい点をとるためのテクニックを教えることに終始してる。そんな勉強はあたしには全然、魅力的じゃないの。で、まわりの生徒はみんなその風潮に染まってぎすぎすしてる。その延長で、友達づきあいは表面上のものになったし、いつも他人を貶めるためにいろいろと画策することが普通になってる。そんな学校でいったいどうやって張り合いを見つければいいかそれがわからないの」
 聖一には考えられない思考法だった。思考法というより、それがいまの高校の実態であるのかも知れなかった。しかし、高校の教育について一家言を持っているわけでもない聖一にとっては、その優衣の話はまったく未知の物事であるように聴こえた。自分も昔は高校生であったというのにである。
「私には難しいことはわからないけど、でも、そういう校風の中で、自分の独自色を発揮していけばいいんじゃないかな。周りは確かにそう云う追い落としの世界に棲んでるかもしれない。でも自分はそれには染まらず、人間として成長できる世界を見つけて羽を伸ばしていくということでいいんじゃないか?」
 優衣は眼を丸くして、聖一の方を見た。「やっぱり、おじさんってすごいね」彼女は感嘆の声を上げる。「なんか励まされるなあ」
「そうか?」聖一は持ち上げられて悪い気はしなかった。「でも、確かに自分の子供が不登校になったら、親としては気が気でないだろうな」
「うん?」優衣が怪訝そうに尋ねる。
「俺も一人の子供の親だから思うけど、どうして世の中はそんなに急ぎ過ぎてるんだろうな?」
「云ってることが分かんない」優衣は口を尖らせる。
「分からんか――そうか」聖一はさらに説明を加えようと頭の中で云いたいことを整理する。「つまりな、もっとゆっくりと長い目で見ながら子供の成長をはぐくめる体制を作ることこそ、重要じゃないかな。いまの子供は促成栽培みたいになんでも詰め込んで詰め込んで頭だけ大きくしているようなもんじゃないかと思うんだ。私はいまの教育が続いていけば、いずれ日本は危機に見舞われるんじゃないかと思う。勉強さえできれば、何をしてもいいと云うような風潮が蔓延するんじゃないかとね。最近の、若年者の犯罪も、そう云う危機感を覚える出来事として私の心に深く刻まれてるよ。そう云うことに関して、何か思っていることはないか?」
「あたしはそんなに難しいことは考えたことないな」優衣は云った。
 そのとき一陣の風が吹いて来て、二人の顔をかすめた。
「おおっ。凄い風だ」聖一は嬉しい驚きに声をあげた。
「そうね」優衣も髪の毛をかき上げて肩をすくめる。「春の風はいたずら好きってやつね」
「なんだそれは?」
「死んだお祖母ちゃんがいつも云ってた言葉なの」
「ほう……。嬢ちゃんは、家族は何人で暮らしてるんだ?」
「ちょっと嬢ちゃんなんて云わないで。優衣でいいよ」
「なら優衣ちゃん」
「そうそう、それでいいわ」優衣はふっと笑んだ。「それで、家族ね。んー、父さん、母さん、兄貴と私の四人よ」
「へえ、兄さんがいるのか」
「うん」
「一応、帝都大学に行ってる」
「おお、それはすごい」聖一は素直に感嘆した。「学部はどこだ?」
「経済学部だったかな」優衣は考えて答えた。
「そうか」
「学部が何かあるの?」
「いや、実は私の親戚が帝都大学の教授をしていてね。それが物理学部なんだ」
「それはすごいじゃない。教授だなんて、生徒として入っている兄貴以上にすごいわ」
「そうかな」聖一は自分のことのように嬉しくなった。「でも、それなら、大学に入るためにお兄さんは一生懸命勉強したんだろうな……」
「そうね、実は一浪してるんだけど、そのときの兄貴の集中力はすごかったわ。御飯とお風呂の時間以外、全部つぎ込んで、一年間勉強だけをやってた感じ。家族で出かける時も兄貴だけは家で留守番してて、ずっと机の前だった。そんなことでは身体を悪くするんじゃないかって両親は心配してたけど、でも、そこまでやらないとだめなんだろうと云う思いもあったみたいで、あまり強く云わなかった。その反動で、あたしにはあまり勉強しろって云わなくなっちゃったのよね。それで結局、不登校になってるあたしって親不孝者だけどね」
「いや、そんなことはないと思うよ」聖一は気休めにもならないような言葉を吐く。
「そう? 違うかしら?」優衣は眼を細めて遠くを見た。
 いま河川敷は桜が咲き誇っている。この風景が一年中、この姿を保っていたらどうだろうか。聖一はそんなことを考える。もしそんなことがあれば、こんな風に休日の合間を縫って花見をする人の姿もなかったに違いない。桜の花を賞でられる時期は一年のうちでもほんのわずかな期間であるからこそ、こうして人々は桜の樹の下で宴会をするのに違いない。
「ねえ、何考えてるの?」と優衣が訊ねてくる。
「ああ、世のはかなさを惜しんでね」
「なにそれ、分かんない」
 また〈分かんない〉だと聖一は苦笑した。
「おじさんの絵ってどこに行ったら、見られるの?」優衣はその切れ長の眼を見開いて訊ねた。
「んー、いまは個展の予定もないし、ちょっと難しいかな」聖一は声を落とし気味に云った。
「そうなの。残念だわ」優衣は肩をすくめる。
「家に来たらいろいろ見せてあげられるとは思うけど、女の子を家に呼ぶと云うのも世間体があるしな」
「そう」優衣は気落ちしたような表情をして見せる。「でも、世間体とか気にするんだね。なんか俗物って感じがしてやだな」
「うん?」聖一は意外な言葉に困った。「俗物?」
「うん、俗物臭。なんかくだらないことばっかり気にして、建設的になれない人のことをそう呼ぶことに決めてるの」優衣はこともなげに云ってのける。
「なんか引っかかるけど、でもそう云うのはあるかも知れない」
「おじさんにってこと?」
「ああ」聖一は肩をすくめる。「俺も俗物のひとりに過ぎないからな」
「ちょっと。そこで認めないでよね。私はおじさんは俗物じゃないって思ってるんだから」
「そうか」
「そうよ」
「なら、違うのかな」
「うん」優衣はほほ笑んだ。
 そのとき、聖一は、花見客の幾人かがこちらに奇特な表情を向けていることに気づいた。花見客はもちろん、二人の会話が聞こえるほどに近い所に場を占めていなかったので、二人がまだ出会ったばかりであることに気付いていなかった。きっと父娘だろうと思っているのだ。好奇の眼差しは聖一の背筋をぞくりとさせた。もし、ここで、血が繋がっていない同士だと云うことがばれたら、どんな反応が返ってくるだろう? そんなことを考えている自分は優衣の云う通り、俗物根性丸出しの世間によくあるタイプの人間であるように思える。
「良い天気だな」聖一は空を振り仰いで云う。
「うん、もう少ししたら、夏が来るね」
「今年の夏は暑いかな?」
「きっと蝉の声がうるわいわよ」
「あの音はやかましくて好きだ」
「やかましくて好き? そんなこと云う人初めて見た」
「蝉は男のロマンだよ」聖一は謎かけのような言葉を吐く。
「うん?」優衣は怪訝そうな眼差しで聖一を見る。「ロマンって?」
「ああ、分かんないか。つまりね、あの蝉ってやつは数年間を土の中ですごして、僅か一、二週間外へ出ただけであっけなく死んでしまうんだ。あの鳴き声には生命のすべてが詰まってる気がしてね。案外、世の男連中ってのもそういう気味があるんじゃないかって思うんだ。だから、男のロマン。そう私は呼ぶことにしてる」
「そんなんだったら、世の中は暑苦しい男でいっぱいになるわ」
「ははっ、そうか」聖一は苦笑する。「ところで、優衣ちゃんは学校に行かない間は何をしてるんだ?」
「うん?」優衣が訊ねる。
「親御さんには内緒にしてるんだろう? 学校に行ってない間は何をしてるのかと思ってね」
「何もしてないわ」優衣は肩をすくめる。
「何も?」
「ええ、何も。まあ、ウインドウショッピングみたいにデパートの店を冷やかしたり、公園で家からもってきたお弁当を食べたり、そんなとこかな」
「それはちょっと退屈な毎日だなあ」
「そうかもしれない」優衣は声をくぐもらせる。
 聖一はじっと優衣を見た。大人しそうな印象の漂う彼女を見ていると、こんな女の子が子供にあってもよかったな、と思えてくる。もちろん、息子の武も大事に思っているが、男の子と女の子とではやっぱり勝手も違ってくるだろう。聖一は肩をすくめる。
「どうしたの?」と優衣が怪訝そうに訊ねる。
「うん? あっ」聖一は戸惑った。「なんでもない、ちょっと考えごとしてたんだ」
「そう」優衣はふっと肩の力を抜く。
 そのとき、曽谷川の流れに沿って一隻の小舟が滑るように進んできた。十人くらいの客が乗っていて、後に船頭が立ち、物干し竿みたいに長い棒を持って、それを舵代わりにしている。
「気持よさそうね」優衣もそれに気づいて顔をほころばせている。
「ああ、気持ちいいだろうな。両脇を桜に挟まれて、その間をすーっと滑っていく。優雅でいいねえ」聖一は憧憬をそこに籠めているような云い方をした。
「なんかおじさん、急に老けたみたい」優衣はくすくす笑う。
「老けたか? そりゃいい。老けたら、雑味の無い枯淡の境地が描けるかもしれん」
「枯淡?」
「わびとかさびみたいなもんだと思ったらいい」聖一は説明を加える。
「わび、さび? そう云う言葉があるのは知ってるけど、具体的にどういうことなのか、よくわかんないんだよね」優衣は顔をしかめる。
「松尾芭蕉の有名な句があるだろう。『古池や 蛙飛び込む 水の音』。この中に描かれる諧味のようなものがわび・さびの理解を深めてくれると思うんだ」
「なんか一気に国語の授業みたいになった」
 優衣は肩をすくめて、やれやれと首を振る。
「はは、ここには怖い先生はいないから、自分のペースで理解を深めていけばいい」
「そう云ってもらえると、助かるわ」優衣はくすっと笑んだ。「でも、いまのやり取りで、斎藤さんがどんな絵を描いているのか、なんとなくわかった気がするわ。西洋画みたいな油絵じゃなくって、伝統の日本画みたいなものでしょ?」
「よくわかったな」と聖一。
「そりゃ、わかるわよ」優衣の顔には得意げな表情が浮かんでいた。


4 :蒼幻 :2010/04/27(火) 03:34:28 ID:tcz3skkeVm



 心地よい温かさの塊がぐぐっと盛りあがるように対流している。
 その温かさに包まれて、聖一はこのまま午睡ができれば、どれだけ気持ちいいだろうと思いながらも、多分、自分はこのまま眠ることなんてできないだろうと思う。眼の前には爛漫と咲き誇る桜の姿。横には見知ったばかりの一人の少女。風は心地よく吹きすぎて、太陽は煌びやかな光を万物の上に注いでいる。
「ああ、ほんとにいい天気」優衣は明るい声を上げる。
 聖一はこの少女の顔を見て、ふっと笑む。
「この時期は一年のうちで、もっとも好きな時期よ」
 優衣は思い出したように云った。
「そうなのか?」と聖一は受け答える。
「うん」
 優衣は思案する表情を見せてから告げた。
「人って自分が生まれた季節が一番好きになるっていうよね」
「ほう」
「私は五月生まれなの。だから、春が好きなのよ」
 優衣の話に聖一は引き込まれそうになる。
「なるほど、確かに私も生まれ月は十月で、秋が好きだ。その説とぴたり符合する」
「でしょ」優衣は嬉しそうだ。
「なんでだろうな?」聖一は純粋にそのことを疑問に思った。
「何でかまではわかんない。でも、中学のときに理科の先生がそう云ってたの」
「へえ」
 優衣はふっと息を吐いて、また周りの景色に目を据える。二人の間に時間が流れる。それは水の流れみたいに澄明で、何のわだかまりもない自然な流れだった。速すぎもせず遅すぎもせず、丁度好い速度で流れている。
 聖一は亡くなった聡子のことを思い出していた。聡子とはこうした時間をあまり過ごすことが出来なかったなと思う。自分の画業に囚われるあまり、夫婦の時間を犠牲にしてしまったという後悔。それが妻の死期を早めたのかも知れないと思い做す。
 それから、そんなことはないと何度か頭を振って、その考えを追いだそうとした。
「どうしたの?」
 傍らの優衣が声を掛ける。
「ああ、ちょっとな」
「うん?」優衣の物問いたげな視線に聖一は白状する。
「妻のことを考えてな」
「亡くなった奥さん……」
「ああ」聖一はこくりと頷く。
「もしかしたら、妻を殺したのは私かもしれないと思ってね」
「えっ?」優衣は驚きの声をあげた。「殺したって、どういうこと?」
「いや、生前に夫婦の時間が沢山あったのに、あまり構ってやることができなかったし、それは孤独になると死んでしまう飼いウサギのようなものだったんじゃないかと思ってね」聖一は妻をウサギに例えることはあまり褒められたことではないと思いながらも、わかりやすさを優先してそう告げた。
「孤独になって死んでしまう――」優衣は言葉を繰り返す。
「ああ」と聖一は眼を細めて云う。
「そんなことないと思うよ」優衣は聖一の考えを否定した。
「どうしてそう思うんだ?」と聖一。
「聖一さんは私ともしっかり向き合って話してくれる温かい人だもの。それを奥さんが知らないはずがないと思うんだ。きっと奥さんが亡くなったのには別の理由があるのよ。ねえ、奥さんが亡くなったのは自分のせいだって思うのやめない? そんなこと考えてたら、残された人はみんな不幸になっちゃう気がするもの。もっと前向きに考えるべきだとあたしは思う」
 優衣は聖一を励まそうとしているように彼には捉えられた。
 その思いやりに、聖一は胸を打たれる。
「ありがとう」聖一の声には優しさがこもっている。
「うん」優衣は返事する。
「さあ、夕飯の支度をしないといけないから、そろそろ帰るよ」
 聖一はそう切り出した。
「うん」
「今日は楽しかったよ、ありがとう」聖一はそう云うと、ふっと笑んだ。
「また会えるかな?」と優衣は訊ねた。
「機会があれば」と聖一は答える。
「そうね、機会があれば、ね」優衣は肩をすくめる。
 二人はそれ以上何も訊ねなかった。
 今度いつ会おうとか、待ちあわせの時間とか、そういうことについて。
 聖一は思っていた。そういうことをまったく話さなかったのは、これで二人の関係はおしまいになるんだろうし、彼女もそれを望んでいるのだろうと。もう老境に差し掛かっている人間は、これからの未来ある女性に対して束縛するようなことをするのはおこがましいと考えてしまう、臆病な心。それは真実を歪曲するような考えかたに相違なかったが、もちろん、そんなこととはそのとき聖一は思ってもみなかった。
「じゃあね」と云い、優衣は声を掛けてベンチから腰を上げた。
 聖一は「ああ」と答えて、またしばらく曽谷川の流れに目を据えた。目の隅で捉えられる花見客はすでに相当出来上がっていて、中にはカラオケのようにして唱歌を歌っているものもあった。
 そしていまさっきのことを考える。
 じゃあね、といった優衣はどこか寂しげだった。
 優衣の立ち去った方を見てみるが、もう彼女の姿はどこにもない。
 最前までのことが、まるで春の雪のように実体を失ってしまったかのようだ。この陽気ではいくら身を凍えさせるような雪でも一分と持たず消えてしまうだろう事は自然の摂理に思える。優衣自体、儚い春の妖精であったようにすら感じられてくる。さっきまで自分と話していた女の子は果して実在の人物だったのかどうか。
 あの少女は自分に確かな温かみをもたらしてくれた気がする。そして、もしよければもっと彼女と話していたかったと思う気持ちも心にあった。優衣か――、と聖一は思う。うん、機会があれば、と云ったんだ、もしきっかけがあれば、また話すこともあるだろう。そう思い定めて、聖一はベンチから腰を上げた。南の空から高圧的に射し込んで来るきつい陽光の余韻は消えさり、いまは西に傾いて、どんどん赤みを増している夕日に、聖一はまた春の儚さを思うのだった。花見客も陽気が沈静してきて、そろそろ帰り支度を始めようとしているように見えた。ぐでんぐでんに酔っている者は、まだコップに残った日本酒をくびくびと飲んでいる。「もうやめなさいよ」と云う声が周りから飛んで来る。そこでむきになって云っているのはその酔客の奥さんだろうか――。奥さん――妻――嫁――。聖一は早くに亡くなった聡子のことを思い出した。聖一が酒を飲むことはあまりなかったが、それでもときどき飲んでいたときには、彼女に迷惑をかけていたのかなと思う。夫婦の会話自体、少なかった。そんな中、飲めば飲んだでむすっとして考えこむたちの聖一は、妻にとってどんな存在だったのだろう。聖一は後悔にも似た感情にうたれて気弱になる。
 飲んで考えこむたちの聖一は妻にとって多大な負担になっていたのではあるまいか。彼女は不満を口にする性格ではないので、ずっと心にため込んでいた不満がストレスになってあのような死に方を引き起こしたのではないか。
 ――考えすぎだ。
 聖一はそれ以上考えないようにしようと思った。あまり悩み過ぎて、あることないことを負担にしてしまっては、妻の二の舞になるのがオチだ。そう思い做す。
 と、聖一は考えながら家までの道程を歩いて行く。
 夕暮時と云うこともあって、普段、この時間に外を歩く機会の少ない聖一には周りの情景は刺戟に溢れたものであった。
 ランニングをしている高校生、犬の散歩をしている中年夫婦、脇の露地で遊んでいる子供たち、幸せそうな家庭から立ちのぼる夕食の炊煙、誰かと誰かが掛け合っている息の合った声と声、北の山にある巣に帰ろうとしている鳥たちの飛影、遠くから冷えて来た風に乗って漂ってくるJRの踏切の音、いろいろな気配が雑多に入り混じって、夕暮れの情景を演出している。聖一はふだん自分が相手にしているわびさびの世界からは遠く隔たった、生活の実感とも云えるようなそれらの物事に、新鮮な驚愕を得た心地になって、その発見をどう表現していいかわからなかった。
 それらの世界は自分の相手にしている世界からはまったく意識の及ばない未知の事物である気がする。まるで物語の中の精緻に描かれたファンタジックな事物のように、ここにはまったく存在しない、架空の世界だけに存在する物事であるような気がする。
 自分にはそこに参加する権限が与えられておらず、まるで出し物のサーカスのように永久に観客としてしかそこに存在できないような印象を持つ。
 聖一は疎外感を覚えていた。
 自分だけが埒外にあるような思い。
「弱気になり過ぎてるな」聖一は言葉を漏らした。
 家の玄関を開けると、中から話し声がした。武が帰っていて、どうやらリビングで誰かと話しているようである。玄関を見ると、確かに武の物ではない靴が置かれてあった。それは男物のがっしりとした感じの黒い革靴だった。
 ――ほう、武の友達にしては結構しっかりした靴を履いてるんだな、と聖一は感心した。
「ただいま」と声を掛けて靴を脱いでリビングに入っていく。
 と、武は友達とソファに腰かけてテレビゲームをやっていた。
「おかえりなさい」と武は呟くようにぼそっと云った。
 心なしか元気がなさそうである。
「やあ、こんにちは。はじめまして、かな?」と聖一は精悍な顔つきの武の知り合いに挨拶した。
「あ、はじめまして」と彼は答えた。
「彼は柊真人君。同じクラスなんだ」武はその顔に緊張の色を浮かべながら云った。
「同級生か……武に至らないところは多いかとは思うが、仲良くしてやってくれな」
 聖一は無骨な感じに云った。
 武は同級生の真人と顔を見合せてふっと笑んだ。
 結局、日が暮れる頃まで真人は斎藤家に居た。
 夕食を食べていくかという聖一の声に、真人は「いえ、家族が待ってますから」と律儀に云って辞退した。
「そうか」と聖一は押し出すように云って、武に送っていってあげるように云いつけた。
「いえ、ひとりで帰れますからご心配なく」という真人の言葉を聞いて、それならということで、武に家の前まで見送りに出るように指示した。
「テレビゲームをするなんて、珍しいな」と聖一は見送りから戻ってきた武に訊ねた。
「うん。真人くんがどうしてもやってみたいって云ったからね」
「そうなのか」聖一は云った。
 購入したきっかけと云っては、いま巷で人気が出ていて、武も一台くらい最新のゲーム機を持っていた方が友達との関係も円滑になるのではないかという思いから出たことであった。もちろん、聖一は画業があるので、そんなゲームに自分の時間を吸い上げられるようなことはなかったし、肝心の武も、自分からすすんで新作タイトルを遊ぶほど、ゲームにはまるということもなかった。小遣いはどちらかというと、ゲームに費やすより学校帰りに友達と何か買って帰ることの方を好んでいるようであった。
「父さんが散歩するなんて珍しいね」と武は訊ねて来た。
「うん、そうか?」と聖一。
「うん、珍しいよ」
「そうかもしれないな」
 聖一は思う。
 ――散歩に出たのはいつぶりだったかな。もしかしたら、去年の秋以来だったかもしれない。ということは、半年ぶり――隠棲するにも程があるってやつだな、と聖一は苦笑する。
 もちろん、食事の材料を買うためにスーパーへ出ることはある。毎週二回のことであって、そのおかげで、まったく外に出ないという引き籠り的な生活からは隔たっているが、気持ちを落ち着けて、自分が歩いていることを楽しみながら散歩に打ち込むということが滅多にないのである。それに今日のように女の子と知り合って、長い間話しこむなんてことは、これまでになかったことであり、新鮮な刺戟となっていた。
 聖一は料理の支度をしながら、また優衣のことを考えていた。
 まるで頭の中が偶像に支配されてしまったような印象を覚える。
「父さん、今日、なんか嬉しいことでもあった?」と武が訊ねてくる。
「うん? どうしてだ」と聖一は訊ねる。
「なんかそんな気がする」
「そうか」
 確かに浮足立っている印象はあった。包丁で野菜を切っているときにも自分の手の動きがいつものように鈍重なものでなく、いささか軽妙な趣きを備えているように感じられた。
 その日はチャーハンと中華スープにした。まずくはなかった。


5 :蒼幻 :2010/04/27(火) 03:35:00 ID:tcz3skkeVm



 あれから二ヶ月が経った。
 季節は梅雨で、じめっとした日が続く。
 庭の紫陽花は青紫に染まっていて、そのごつい葉の上をいくつものカタツムリが白いすじをひいて進んでいた。聖一は雨が霽ったのを見越して庭に出、それらのカタツムリの姿に視線をすえた。薄くて硬い、まるで貝殻のような乳白よりもやや茶色味がかった殻を見て、指ではじいてみる。カタツムリの粘着力は相当なもので、葉っぱも一緒につられてゆさゆさと揺れた。聖一はもう一度、紫陽花に眼差しを向ける。
 ――そういえば、聡子は紫陽花が好きだったなと聖一は思い返す。そして同時に、梅雨と云う時期も好きだったと想起した。
 こうして妻がいない梅雨を過ごすことになるとは思いもよらなかった。車輪の片方が無くなったようなもので、もう前へ一歩も進むことができないような気がした。いや、それは怠慢だ。車がまったく進まなくなったのなら、それを降りて自分の足で歩めばいい。そうすれば、着実に前には進めるのだから。聖一はそんな風に考えて、前に進むことを考えた。
 優衣とはあれから一度も会っていなかった。
 時間が合わなくて休日に河川敷へ行く機会がなかったし、彼女がまた前みたいにベンチに腰かけているかどうか、聖一にはまったくわからないのだった。もしかすると、ずっと待っていてくれるかも知れないし、あるいは待っていてくれないかもしれない。まったく忘れていたという訳ではない。優衣と会うよりも優先させなければならない事項が多すぎると云う理由からである。
 聖一はたまに優衣のことを思い返した。
 二人でいろいろ話し合ったあの日のことを憧憬の心地をもって懐かしむ瞬間、聖一は、無上法悦とでもいうような想いに胸を打たれて、感動すら覚えるのだった。
 ――次の休みに時間をとって河川敷へ行ってみよう。
 聖一はそう考えて週末の予定を前に繰り越してなんとか時間を都合しようとした。
 そして週末、聖一は午前中いっぱいを仕事の追い込みに費やして午後からの時間を前のように散歩の時間と云うことにして家を空けることにした。折よく、武もあの真人のところに遊びに行くということだったので、状況は前と同じであった。
 ――うむ、その心根だけ見れば、まるでデートにいそいそと出かける青春真っ盛りの青年みたいだな。
 聖一はそんなことを考えて苦笑する。
 ――まあ、デートと云うのも悪くないけど、この不器用な壮年男は会う約束もなしに、ただもしかしたらという願いだけを頼りにその場所へ行くというわけだ。
 聖一はそんな状況に自分をあてはめて苦笑する。
 彼は雨が降りそうなので、傘を持って行くことにした。
 家を出てしばらく行くと、家々の庭から蛙の鳴き声がしている。
「蛙も鳴く鳴く、梅雨の候」
 そんなことを口にのぼしてふっと笑む。
 蛙の大合唱に包まれたこの街を思って、聖一はなにか明るい希望のようなものを思った。通りを歩く人たちも、梅雨時の薄暗さから解放されたように、その蛙の鳴き声に明るい気持ちを鼓舞されているかに見える。
 いまは自然を身近に感じられる大切な時期であるように思われた。普段、人工物に囲まれている都会の人間にとって、季節の運行に準じることこそ本然であると内省させる自然の勢力は、個人個人の力を弁えさせ、そんな自己の存在などあまりにちっぽけなもので、もっと大きなものが世の中にはあるのだと思わせるだけの度量を持っている。
 聖一はまるで自分が哲学者にでもなったような思いを抱きながら、曽谷川へとたどり着いた。あの満開だった桜は当然のことながら、すべての花が散って、いまは若緑よりもやや濃い色合いの葉桜が河川敷を緑に染めていた。
 と、近所の子供たちがユニフォームを着て、野球の練習をしている。
 その掛け声がやや疳高い印象で耳に迫ってくる。
 きっと子供のクラブチームだろう。この平成の世の中に、練習できるだけの人数を集めてチームを作るなんてことができるというのが、奇蹟のように思えた。と、聖一は今日、ここに来た目的である優衣の姿を探して、いくつか並んでいるベンチをひとつひとつ見廻した。
 が、彼女の姿はなかった。
 聖一は落胆した。
 ――そりゃそうか、あれから二ヶ月が経ってるんだものな。さすがに、最初の一、二週は待っていてくれたかも知れないけど、こんなに待ちぼうけを食らわせては、もう流石に待っていてはくれないだろう。
 聖一はそう思いながらも、そのまま立ち去ることができず、仕方なしに子供たちの野球の練習の光景を見ていようと思ってベンチに腰かけた。
 風が穏やかに流れている。その湿っぽい空気は梅雨特有の瑞々しさを豊富に含んでいるようである。曽谷川の流れは茶色かった。雨で水量が増して大量の土砂を含んで流れているのだ。いつもなら、川の中を泳ぐ魚の姿が見えるほどであるのに、この茶色の水ではまったく見透かすことができない。そのとき、キーンとバッターが球を打つ音がした。
 試合形式で行われていた練習の中で、ピッチャーの投げた球はストライクゾーンを通ったが、絶妙のバランスで振られたバットが白球をとらえたのである。球はぐんぐん飛距離を伸ばして、ライトの頭上を越え、曽谷川の中へと飛び込んだ。
 監督と思しき唯一の大人が、仕方がないという風に首を振る。
 練習を続けよう、と声を上げ、そのボールを打ったバッターがダイヤモンドを廻るのをじっと待った。
 紅白戦はいま攻めているチームのリードで最終回を迎えようとしているようである。
 と、そのとき、背後から声を掛けられた。
「こんにちは」
 聴きなれた声。
 後を振り返ると、薄いブルー系のノースリーブ姿の優衣がいた。
「ああ」と声を正すこともできず、気の抜けた返事になる。
「今日は居てくれたね」と優衣はくすくす笑った。
 そして、左足を爪先で立てて、サンダルをはいた足を強調させた。
「そこ座っていい?」と優衣は声を掛ける。
「ああ」聖一はまた返事をする。
「あれから季節が変わっちゃったね」と優衣。遠い眼をして、あの桜の日を懐かしむ様子である。聖一も同じ気持ちになっていたので、優衣の考えていることが分からないではなかった。
 春の一日と梅雨の一日で、こうも印象が異なるのは面白い。
 気の早い蝉がぽつりぽつりと鳴いている。
「あれから絵の方は進んでる?」と優衣は訊ねてくる。
 聖一は優衣の本心が分からなかったが、その問いに真面目に答える。
「ああ、あれからいくつか作品を完成させたよ」
「そう」
「優衣ちゃんはあれから学校には行ってるか?」
「うん?」と優衣は怪訝そうに返事をする。
 やや間を置いて答える。
「ああ、あれからね、なんとか学校へ行くようにしてみたの」
「それはよかった」聖一は本心から安堵した。
 優衣のすっきりした表情にはそう云う面も影響しているのかな、と聖一は思う。確かに春のあの日の優衣には暗い憂いのようなものが見えていて、どう考えても明るい少女の表情と云うには無理があったのだ。その暗い影がすっかり消えて、優衣はいい方向へと成長・変化したように感じられた。
「なんかおじさんもすっきりした表情してる」
 優衣に指摘されて、聖一は〈えっ?〉と内心戸惑った。
「すっきりしてる? それはどういう意味で?」
「んー、分かんないけど、前は奥さんのことで悩んでた感じがしてたけど、いまはそれに対する悩みと云うか不安と云うか後悔みたいなものがすっかり消えて、自然体でいるような気がするんだけど……そういうのは気のせいかな?」
 聖一は指摘されてから気づいた。確かにそう云うことはあるかもしれない。聡子のことは確かに痛恨事ではあったけれど、あの日、優衣に気にしない方がいいと指摘されてその言葉が頭から離れなくなり、気がついたら、その言葉の周囲で、自分の自然な気持ちを取り戻した気がするのだ。その点では優衣の言葉は天上の声のようにすら思っていた聖一だった。
「聖一さん」と優衣は声をかけてくる。
「うん?」聖一は問い返す。
「あのさ。おじさんの絵、どうしても観たいんだ。観せてくれないかな?」
 その言葉に聖一は戸惑いを覚えた。
 個展を開く話は当分ないし、観せるとなると、家に招待するしかない。しかし自分のような年のいったものが高校生の女の子を部屋に上げるなんて、どう考えても不自然すぎる。これは断ったほうが良いだろうと思い、口を開こうとしたときだった。優衣がこう説明を加えて来たのである。
「あのね」優衣はそう声を出してから続けた。「あたしがおじさんの絵を観たいという気持ちにはいくつかの思いがあってね。そのうちの一つを云うと、おじさんの話を聴いているうちに、この人はいったいどんなことを考えていて、どういう思いを持って、どんなものを作っているんだろうって思ったの。おじさんに対する興味とでもいうのかな? そりゃ、興味本位って言葉は悪い風にも取られることがあるけど、物事に関心を持つ〈はじめ〉っていうのは、やっぱり興味だと思うのよ。だから、あたしはおじさんの描く絵に興味があるの。実は、前のときにお願いしたかったんだけど、流石にその日に出会ってその日のうちにお願いするのはちょっと無理があるって思ってたんだ。いまは二回目だし、ちょっとはおじさんとの関係も進展したんじゃないかなって思ってこの話を出してみたの。ねえ、駄目かな?」
 聖一はここまで熱心に自分の描いた絵を見てみたいと云ってくれる人物に出会うのは珍しかったので、ちょっと無理をしてでも自分の絵を見せてみたいと思うようになった。それで世間体などは無視して、この少女に自分の絵を見せることを決心した。
「わかったよ、じゃあ、家に来るかい?」
「ええ」と優衣は返事する。そして「ありがとう」と付け加える。
「部屋はあまり綺麗じゃないけど、我慢してくれな」と聖一は云う。
「うん」
 優衣は嬉しそうだった。
 野球は最終回を終えて、結果が決まったようだった。脇を見ると、すでに選手は集まって試合終了の礼をしている。どっちが勝ったのか気になったが、おそらく紅組の逃げ切りだろう。聖一は橋を渡りながら曽谷川の茶色い流れに目をやった。と、畑に添え木として打ちつけるような太さの木の枝が流れていた。
「まるで藁屑みたいだな」と聖一は隣を歩く優衣に云った。
「そうね」と優衣も川を覗き込む。
「おじさんみたいな者の家に上がりこむことに抵抗とかはないの?」
 と聖一は訊ねてみる。
「うん?」と優衣は訊き返す。
「だから――」
「二回も云わなくてもいいよ、わかってるから」と優衣は云う。「おじさんは俗物じゃない。でしょ?」
「うん? そうかな」聖一は前回の優衣とのやりとりを思い返した。
「俗物じゃないんだから、そういう心配はまったくなし」優衣は自信ありげに云う。「そもそも何か危険があるように感じてたら、おじさんに家に上げて欲しいなんて提案することもなかったし」
「そうか」聖一はふっと笑んだ。
 二人はゆっくりと歩いて行く。
「おじさんの家ってこの近所なんだ?」と優衣は云う。
「うん?」と聖一はその質問をした優衣に怪訝そうな表情を向ける。
「優衣ちゃんはこの近所じゃないのか?」
「うん、違うよ」と優衣は云う。
「そうなのか」
「だって、近所だったら、学校サボってるときに近所の人に見られて元も子もなくなるでしょ」
「なるほど」聖一は納得した。
 つまり、学校をさぼってた頃も自宅から離れたあの河川敷にいて、時間を過ごしていたということなのだろう。家から離れたところであれば、近所の見知った人間に見とがめられる可能性も低くなるというわけだ。
 ――よく考えてる、と聖一は感心する。
「こんにちは」と聖一は優衣と連れだって歩いているときに、近所の人に挨拶された。
「こんにちは」と聖一も返す。
 声をかけた小母さんはすすっと通り過ぎて行く。優衣は気になるのか、何度か小母さんの方を振り返った。
「どうしたんだ?」と聖一は訊ねる。
「ご近所さんなんでしょ? 変に思われたりしないかな?」
「大丈夫だろう。姪だとかそう思ってくれるに違いない」
「そうなの?」
「だって、近所との付き合いはほとんどないからな。見られたって、気がねする必要はない」
「そうか」
 優衣は苦笑した。
 そうして二人は家に辿りつく。


6 :蒼幻 :2010/04/27(火) 03:35:27 ID:tcz3skkeVm

 玄関を開けると人の気配はなかった。流石にいまの時間帯に武が帰ってきていることはなかった。帰ってくるとしたら、夕方だろう。それまでにはまだ二時間はある。
 玄関で靴を脱ぎ、聖一は一階の自分の部屋に優衣を招待した。
「うわ、アトリエってこんなのなんだ」
 優衣は感動したようだ。
「壁にもいろんなデザインが塗ってあって雰囲気あるね」
 優衣は一面の壁に寄ってそこに手を触れた。それも聖一がこの家を建てるときにデザインした絵画のひとつだった。一年中、ずっとその絵を前にして過ごさなければならないから、その図柄の選択にはとても気を配ったのである。聖一はしみじみと眼を細めて往時のことを思い返した。
「これはなんなの?」と優衣は絵の一点を指さして訊ねた。
 それは一匹の昆虫の絵だった。
「ああ、それか、それは蜂の一種だよ」と聖一は答える。
「蜂? こんな蜂みたことないなあ」
「そりゃないだろうな。長野あたりの高山に棲む固有種なんだ。前に図鑑で見たときに、そのフォルムに惹かれて描いたんだ」
「描いた!?」優衣は驚いた様子だった。「描いたってことは、これもおじさんの絵なの?」
「ああ、そうだよ」聖一は表情を和らげた。「私の絵には見えないか?」
「ううん、反対。こんな綺麗な絵を描くんだって感動してるの」
「感動か、それは嬉しいな」
「実はね――」優衣は言葉を切ってから続けた。「おじさんが絵を描いてるって聞いたとき、どれくらいの腕なんだろうって、ちょっと疑う気持ちがあったのよ。でも、これを見たら、わかるわ。おじさんは絵に対して真剣なんだね。一切の妥協がないような気がする。そしてためらいがない」
「そんなことがわかるのか?」聖一はプロの批評家のような口ぶりの優衣に驚かされながら、そう尋ねた。
「ううん、詳しいことはなんにもわかんない。でも、部外者だから分かるみたいな、素人だからこそ感じるようなものがあって、その思いが、この絵は非凡なものだって訴えてるのよ」
「そうか」聖一は素直に喜んだ。「――でもね」聖一は声をくぐもらせた。
「うん?」優衣は怪訝そうに訊ねる。「どうしたの?」
「優衣ちゃんは私の絵を見て妥協がないって云ってくれて、それはとても嬉しいんだけど、その絵、勢いはあるだろう?」
 優衣は改めて壁画を見る。「そうね」
「でもね、いまこうして何十年と絵描きをしていて、当時のことを思うとね。妥協しなかったわけじゃないんだ。それしかなくって、他を見る余裕がなかったから、狭い所で満足して、自分の腕に自信を持って画業に当たっていたんだよな」
 聖一は自分がこんなことを話すことになるとは思っていなかった。
「うん?」優衣はきょとんとした眼差しを聖一に向ける。
「だから、この絵は自分の未熟さが露呈していて、実は、あんまり好きじゃないんだ」
「そうなの?」優衣はまじまじと絵の細部を見た。「良く描けてると思うんだけど」
「それを描いた私としては、過去の自分の未熟さを反省できる格好の材料だと思って、いまでも大切にしてるんだよ」
「そうか」優衣は云った。「おじさんみたいに年配の人でも、過去の自分が未熟だったって思うなんて、あたしなら、もっとそう思っても不思議じゃないね」
「はは、振り返らないことが若さなんだと思うよ」聖一は格言めいたことを云う。
「そうか」優衣はふっと笑んだ。「そうかもしれないな」
「さあ、ほかの絵も見てもらおうか。ここにあるのはほとんどが最近描いたものなんだ」聖一は嬉しそうに埃除けに掛けてある布をとって並べてある絵――それはひとつひとつしっかりと額に入っていた――を確認した。
「これがいいかな」と云った聖一は優衣の目の前に立ち、それまで自分の方に向けていた絵をくるっと廻してその反応を見守った。
「あっ、凄い綺麗……」優衣は眼を見開いて、ぱっと顔を輝かせた。
 その一瞬のきらめきに聖一は自分の絵のことより彼女のその表情に最も惹かれた。
「紫陽花にこれは何?」
 聖一は自分の描いた絵をちらっと見て、「何だと思う?」と訊ねた。
「んー、スズメ?」優衣は怪訝そうに尋ねた。
 聖一はやや間を置いて答えた。
「残念、これは百舌鳥だよ」
「モズ?」
「ああ、いまはあまりに目にする機会はないかな」聖一は苦笑した。「これはね、速水御舟という日本画家の描いた絵を参考にさせてもらってるんだ。雨の日に、花の近くでまるで雨宿りでもするみたいに身を寄せ合っている仲のいい夫婦鳥なんだ」
「へえ」優衣は感心した様子だった。
「なかなかいいだろう?」
「そうね、こう云う絵ってなんか心が温まるなあ」
「うん」聖一は優衣の反応に満足した。
「ちなみに、雨を線であらわすのは日本に固有だという説があってね」
「線?」
「ああ、ほら良く見てごらん、雨は細く白っぽい線でしっかりと描いてあるだろう?」
 優衣はじっと覗きこむ。「あ、ほんとだ」
「日本人は漫画に慣れきってるから、あんまりそういうこと気にしないだろう?」
「そうかもしれない」優衣は云う。
「でもね、海外の絵っていうのは、雨の絵って極端に少ないんだ」
「そういえばそうね。風景画はからっと晴れてるものが多いし、室内を描くものが多い気がする」
「うん」聖一は返事をした。「つまりね、これはひとえにお国柄なんだろうね」
「そういうものなのね」優衣は肩をすくめた。
 聖一は次の絵を取り出した。「これは桜だよ」
 それを見た優衣の目はぱっと輝く。
「わ、すごい」優衣は口元を手で押さえて感動した様子である。
 さっきの紫陽花に百舌鳥の絵の倍ほどの画布に、しっかりと咲き誇る万朶の桜である。薄桃色の花びらの一枚一枚が丁寧に描かれ、風によっていくつかの花びらが柔らかい地面に落ちようとしている図柄であった。
「凄い綺麗」と優衣は声を漏らす。
 聖一は思った通りの反応をしてくれる優衣に目を細めて笑った。
「これは十日くらいで描いたかな……」
「十日……それでも私には凄い気がする」
「そうかな?」
「うん」優衣は嬉しそうに返事する。
 桜は日本人の心だなんて軽く云われる昨今であるけれど、そう云う絵を実際に描いてみると、その言葉に偽りがないことがしっかりと察知される。聖一はその絵を描きながら、印象としてはあの二ヶ月前の曽谷川沿いの桜の樹の印象を思い浮かべていた。この絵を描いたのは優衣と出会ってからだった。印象的な美しい風景を、優衣のイメージと共にずっと持っていたかったからこそ描いたモチーフだった。そこに人物はまったく描いていないが、優衣と出会って、実際に話してみて感じた印象を物云わぬ桜に籠めたと云っても過言ではなかった。
「なんだか艶っぽい感じもするね」と優衣は評価する。
「艶っぽい?」聖一は意外な感想に思わず訊ね返す。
「うん、なんか寂しげにたたずむ女の人を描くみたいに丁寧に描かれてる。なんとなくそんな気がするの。根拠はないんだけどね」
「そうか」聖一はそう云う感想もまた真だという思いを抱く。
 優衣は声を漏らす。
「ああ、ほんとに絵描きさんなんだねー」
「なんだと思ってたんだ?」聖一は苦笑する。
「初めてあったときは私を誑かしてるんじゃないかって思ったのも事実なのよ」
「うん?」聖一は苦笑する。「誑かすって……」
「云い方は悪いけど、ほんとにそうなんじゃないかって思ってたのよ」
「まあ、世の中には年下の女性を騙すような者もいないことはないけどな」
「でしょ?」優衣は力説する。「聖一さんもそうじゃないかって思ったのよ。実際」
「はは」聖一は苦笑した。想像力はそう云う思いを助長するということを聖一は弁えていた。
「仕方ないな」と聖一は云う。
 そして、その二枚の絵を見せながら、優衣の反応を待った。
「でも、日本画ってこれまであまり見たことがなかったけど、実際に目にして見ると、やっぱり凄いんだね」
「うん?」
「本当に芸術だな、って思う。点ひとつにしたってしっかりと考え抜かれて、絶妙のバランスでつけられてる。こういうのって、描く時に迷ったりしないの?」
 優衣は怪訝そうに尋ねる。
 聖一はその質問の答えを用意した。
「前に話したことがあったよね?」と聖一は前置きする。「私がやってるのは精神論みたいなもので、どう描くかということを突き詰めて考えてるって云う……」
「ああ、前に云ってたね」優衣は思いだしたようだ。
「あれなんだよ、すべてはね」
「考えに考えての上でのこと?」優衣はそう訊ねる。
「ああ」聖一は聡い優衣にほほ笑みかける。「一刷毛一刷毛に思いを込めて、狙い通りの効果と、全体に対する部分の緊張とをしっかりと取り持って存在できるように手助けする、そう云う風に持って行くんだよ。俺たち絵描きは、作品を作る担い手であるけれど、それ以上にこう云う気持ちを持たなくてはいかん。つまり、作品が作品としての形をとるための補助をするという意識だ。それがなければ、作品は個人のエゴの中に埋没してしまって、決して、優れた作品を物することはできないと思うんだ」
「作品の出来上がる手助けをするってこと?」優衣は怪訝そうに訊ねる。
「そうなるな。そしてそれこそが数十年絵描きをやってきて辿りついた一種の諦念と云えるかな」
「そうかあ」優衣は声をあげた。「それにしても、この桜の絵は見栄えがするね」
「ああ、明るさを前面に押し出したんだ」聖一は言葉を選んで告げた。「でもな、この作品は、明るさだけじゃない。一種の儚さ、そう、あの曽谷川の河川敷でみたときの桜の光景に、ひとつの印象を重ね合わせたんだ」
「ひとつの印象?」優衣は訊ねた。
「ああ」聖一は優衣の疑問に応えた。
「それはいったいどんなものなの?」
「憂鬱とか儚さとか云ったものだね」
「どうして桜の花にそう云う印象を加えようとしたの?」
 優衣のその疑問は当然と云えば当然のことであったが、聖一には、それは彼女の聡さを実感させるものとして認識された。
 その憂鬱とか儚さはあの春の日、爛漫たる桜の樹と共にあった優衣と云うひとりの女性から受ける感覚を十分に加味しての上での表現であったのだが、そのことを面と向って彼女に告げることは恥ずかしさが立って、憚られるのだった。
「なんかいろいろと難しいのね」優衣は肩をすくめた。
「はは、そんなのは気にしないがいい」聖一は言葉を漏らす。「そういうのは書き手のエゴみたいなもので、実際、作品を観る側には必要のない知識だよ。観る者に必要なのは、感じる心だけ、描き手はその作品と観衆の間に築かれる関係をより良いものにするために、作品の姿をより洗練されたものにするという使命があるけれど、それは描き手側の問題だ」
「なんか分かんないなあ」優衣は首を振る。
 また〈分かんない〉か、と聖一はほほ笑んだ。
 聖一は考える。まだ高校生の優衣には早すぎる話だったかもしれない。
「ちょっと難しすぎたかな」
「うん、ちょっとね」
 聖一は苦笑した。確かにこう云う話は絵描き同士ですればきっと充実した話になっただろう。しかし横のつながりの希薄な絵師斎藤聖一には、そういった話をする相手がなかった。自然、頭の中でそういう考えを繰り返して、普段思っていることを優衣にしてみたのであった。
「分からないことを素直に分からないと云えるのは一つの才能である気がするよ」
「うん?」優衣が問い返した。「それって遠まわしにあたしを馬鹿にしてる?」
「いやそういうわけじゃないよ」聖一は諭すように云った。
「そうか」優衣は聖一の困惑した表情を見て苦笑した。
 二人は顔を見合せてしばらくほほ笑みあった。


7 :蒼幻 :2010/04/27(火) 03:36:04 ID:tcz3skkeVm



「何か飲むか?」聖一は優衣に訊ねる。
「ああ、お構いなく」と優衣は返事をしたが、
 聖一は「遠慮しなくていいんだ」と云って、「珈琲でいいか?」と告げた。
 優衣は考えるそぶりを見せたが、すぐに「うん」と答えた。
 聖一は好きにしていいと優衣に告げてから、珈琲を淹れに台所へ向った。
 聖一が自分と優衣の分の珈琲を淹れて戻って来ると、優衣は聖一の持っているコレクションの一冊を棚から引き出して眺めていた。
「画集を見てるのか」と聖一は云いながら、部屋にひとつだけある机に珈琲のカップを載せた盆を置いて、優衣の近くに歩み寄った。
 優衣が見ていたのはレンブラントの画集だった。
「西洋の絵も見たりするのね」優衣は嬉々として訊ねた。
「ああ、海外のものもいいものはいいからね。多大なる示唆を受けてるよ」
「そうなんだ」優衣はほほ笑んだ。
「さあ、冷めないうちに飲もう。砂糖とミルクは好みで入れてくれ」
 聖一は優衣を促して椅子に座らせた。
 椅子はちょうど二脚あり、それは聡子が存命中、ときどき、聖一の部屋で過ごす時に座った椅子であった。とはいえ、存命中でも、聖一の部屋に聡子が入るのは一月に一回もなかったのであるが、そう云うときには、いろんなことについて語り合ったりもしたので、強い印象として残っていた。パトロンである大企業の社長などがこのアトリエを訪れることはまれであり、そういう点では、今回の優衣を招待したことは、聖一にとって、とても大きな出来事であった。
「いい椅子ね」と優衣は云う。
「ああ、リラックスしたいから椅子は結構値が張ってるよ」と聖一は告げる。
「うん、座ってるだけで、良いものだってわかるわ」
「うん」聖一は返事した。
 優衣は珈琲に砂糖とミルクを入れて、スプーンでかきまわした。スチール製の白銀のスプーンは優衣の白い手からすーっと伸び、硬いカップの底にこすりあわされて、心地よい音を醸していた。
 聖一はブラックで一口飲んだ。
 優衣は口をつけると、目蓋をぴくっと震わせた。
「お、おいしい」と彼女は感動したように告げる。
「はは」聖一は笑った。
「あたし、いつも珈琲はインスタントなんだけど、これインスタントじゃないよね? 香りも味も喫茶店で飲んでるような感じだし」
 聖一は喜んだ。それでこそ豆を挽いた甲斐があったと。
「コーヒーショップで豆を買って、自分の家でその都度挽いてるんだ。インスタントより手間がかかるけど、その分、美味しいものを飲むことができる」
 優衣は嬉しそうだった。
「そんなところにもこだわりがあるって、なんか羨ましいな」
「そうか?」
「うん」
 二人は雑談をしながら、珈琲を楽しんだ。
「もう一杯飲む?」と聖一は訊ねたが、
 優衣は「ううん、もういいよ」と答えて、満足そうな表情をした。
 聖一はそれからもいろいろな絵を優衣に見せた。
 その都度、優衣の反応は様々でその印象を例えれば、気まぐれな表情を見せる猫のようなものと思われた。敏捷で、明朗で、愛嬌をたたえた姿。聖一は様々な印象を見せる優衣の反応に心を動かされつつあった。
 そのとき玄関の開く音がした。
 しばらくがさがさと音がして、やがて小さな声で「ただいま」と武の声がした。今日は真人はいないらしい。一人分の気配だけして、聖一はびくっとしたものの、部屋からかなりの声量で「おかえり」と告げた。その声に優衣がびくっとした。
「ああ、おじさんの子供ね」と優衣は肩をすくめた。
「誰か来てるの?」と部屋がノックされた。
「ああ、知り合いの子が来ててね」
「そうなんだ」武は意外そうな声をあげた。
 武はその相手が誰なのか気になる様子だったが、扉を開けて、中に入ってこようとまではしなかった。武はリビングへ行ったようだ。
「名前聞いてなかったね。何て名前なの?」優衣はふっと笑んで訊ねた。
「ああ、武っていうんだ」と聖一は答える。
「武君か……挨拶してこようかな」
 聖一はどうしようかと迷った。
 中学生の息子に父親が高校生の女の子を部屋にあげていると知れたら、体裁が悪くないだろうか、と。しかし何もやましいことをしているわけではないので、そんなことで憚る必要はないではないか、という気もする。そこで優衣に「会ってみるか?」と訊ねる。
 優衣は「うん」と答えた。
 それで二人で部屋を出て、武のいるだろうリビングへと向かった。

「それで優衣さんはお父さんと仲がいいんだね」
 武は戸惑う様子を見せながらもそう云って肩をすくめた。
「ええ、そうね」と優衣も肩をすくめる。
「お父さんの交友関係についてなにか云う気持ちはないけど、やっぱりちょっとどぎまぎするよね。女の人を部屋に上げるというのは……」
「ああ、うん……そうだな」聖一はこの年になって息子に叱られることがあるとは思っていなかったので、戸惑った。
「ちょっと、聖一さん」優衣は聖一の反応にじらされる気持ちを助長されたようだ。
「うん?」と聖一は訊ねる。
 優衣が答える。「おじさんは俗物じゃないんでしょ? だったら、もっとしっかりとその意思を伝えるべきじゃないかしら? そうじゃないと聖一さんの立場が悪くなっちゃう気がするよ」
「そうかな」聖一は肩をすくめた。
 優衣はむきになって云う。「聖一さんは心にやましい所はまったくないし、いつも真剣に私に向き合ってくれてるのよ」
「どうだか」と武は無遠慮に答えた。
「否定的な態度は好きじゃないよ」と優衣は答える。優衣がそんな反応をすれば、当然、若い武は自分に反感を持って何か云い返してくるだろうと思っていたが、武は何も云わず、むすっと黙っていた。それが優衣には新鮮に思えたらしく、彼女はふっと笑んだ。「武くんはなかなか見所のある少年みたいね」優衣はそんなことを云う。
「自分の非は素直に認めるし、思慮深いし、言うべきことを弁えてる気がする。さすが聖一さんの息子だわ」
 優衣はお世辞を云う意識はなかっただろうけれど、結果的に世辞を云うのと同じ効果をこの父子にもたらしたのだった。
「ありがたいことを云ってくれる」と聖一は安堵した。
 武のことで優衣が気分を害するのではないかと思っていたから、その喜びはひとしおだった。
「武、何かしたいことはあるか?」と聖一は唐突に訊ねる。
 聖一の心の中では、優衣と武とが仲良くしてくれればという気持ちに傾いていた。どちらもが我が子に思えて、その者同士が仲良くしてくれればそれ以上に嬉しいことはないと思いもして……。
「優衣さんは今日はどんな用事でこの家に?」武は丁寧な口調でそう訊ねた。
「ああ、聖一さん――お父さんの描かれている絵を見せてもらいに来たの」
「そうなんだ」武は形式的に相槌を打つ。「父さんが絵を見せるために人を家に上げるなんて、滅多にないことだから、どういう風の吹きまわしなんだろうって、そっちの方が気になるけどね。父さん、何か下心があるんじゃないよね?」
 それは息子から云われる言葉としては、いささか辛辣な側に入る、と聖一は意識した。
「そんなわけがあるか」と聖一は答えたが、優衣の反応が怖くて、そちらを見ることができなかった。自分はつくづく臆病な奴だ、と聖一は思う。
 と、見れば武はふっと笑んでいる。優衣の顔に視線を据えて、笑んでいるのである。二人が仲良くしてくれればこれ以上に嬉しいことはないと思いながら、聖一もほほ笑んだ。
 そんな中、優衣が口を開いた。
「そろそろお暇させてもらおうかしら」と。
「ああ、ゆっくりして行ってくれればいいのに」と云ったものの、聖一はそろそろ帰る方がいいだろうと感じていた。いくら治安がいいとはいえ、暗くなると物騒であるし。
 優衣は的確に辞去の言葉を告げて、玄関に向かう。
 聖一が玄関を出て外の通りまで彼女を見送った。
「ここでいいわ」と優衣は云う。
 外は日が高く、暖かかった。気の早い蝉が鳴いていて、蛙の声もしている。
「じゃあ、また」と優衣は云って、通りを帰っていった。
 聖一はしばらく彼女を見守り、角を曲がって見えなくなると、自分も家へと引っ込んだ。それからは優衣のことに関して、根掘り葉掘り武から質問攻めされることになった。聖一はそれも仕方のないことと思い、自分の知っている彼女の情報をこれでもかというくらいに披露した。武がどうしてそんなに熱心なのかわからなかったが、それも思春期の男の子に特有の好奇心なのだろうと軽く捉えていた。
「でも、父さんにそんな趣味があるとは思わなかったよ」
「趣味?」聖一は息子の言葉に耳を疑った。
「女の子を部屋に上げるなんて、ちょっとおかしいよ」
「そうか?」聖一は悲しかった。
 しかしそんなことを面と向っていうわけにもいかないので、押し黙っていた。と、武はさらに告げた。「かわいい人だったよね? なに、まさか気があるの?」
「そんなわけあるか。ただ絵を観たいってことだったから連れて来ただけだ」
「そう」武は疑るような口ぶりだった。
 聖一は無念な気持ちを抱いて答えた。「彼女は何も下心は持ってないよ。会ったのは今日が二度目だけど、彼女の、絵を観たいという気持ちは本気だった。いろいろ有益な話を聞かせてもらって、画業にもっと打ち込もうという気持ちを強くしてくれた。そんな示唆をあんな若い子から得られるとは思ってもみなかった。本当に部屋に呼んでよかったと思うよ」
「ふーん」武は納得しづらい様子だ。
 聖一は釈然としなかった。どことなく息子に疑われているような気持ちになったからである。そこで聖一は何か言い訳をしようとしたが、それが言い訳であるなら、自分がやましいことをしていることを認めることであるような気がして、云いたい気持ちをぐっとこらえた。
「何か云うかと思ったけど、何も云わないんだね」武は非難するような口ぶりだったが、聖一はなおも、何も云わずじっとしていた。黙っていれば自分が不利になることは百も承知していたが、説明しないと分かってもらえないようなことをくだくだと説明するのも馬鹿らしくなったということもある。
 柱時計が五時を打った。
 かーん、かーんと音が鳴り、二人の時間が凝固した。
「今日は何が食べたい?」と聖一は沈黙を破るように声を掛けた。
「うん?」と武は訊ねた。「昨日、買い物に行ったからたいていの物は作れるぞ」
「じゃあ、ステーキ」と武は普段云わないようなメニューを提示した。
「ステーキか、さすがにステーキはできないな」聖一は苦笑する。
「じゃ、餃子」
「おう、それなら出来るかな、ニラ抜きでもいいか?」
「それもできないんだね」武は顔をしかめた。「素直にできるメニューを挙げてみてよ。何でもって云うから期待したのにさ」
「そうか、すまないな。んー出来るものと云っては――チンジャオロースーだろ、ハンバーグだろ、ロールキャベツだろ、それからエビフライに――」
「ああ、ハンバーグがいいな」
「そうか、じゃ、そうしよう」
 聖一はミンチ肉を冷蔵庫から取り出してハンバーグの準備をする。もともと学生のとき独り暮らしの経験があった聖一は、たいていのメニューなら何も見なくても作ることができた。
 聡子は料理の出来る夫のことを誇りに思っていて、自分ではそれほど料理は得手ではなかったものの、聖一はそれを苦に思わず、時々は夫婦でキッチンに立つこともあり、そんな風景を武は好ましく思っていた。とはいえ、それは聖一にはわからないことだった。いまは何か、父である聖一が料理を作るというのが当たり前になっていて、武はその様子をテレビを見ながらときどき見るという状態になっている。
「ハンバーグに卵は入れるか?」と聖一は訊ねる。
「うん」武は返事する。
 聖一は卵をゆでる準備をした。
 生地に合挽き肉と調味料と野菜のみじんとパン粉を混ぜる。
 しっかりと混ぜて、生地を仕上げる。
 ゆで卵の殻を剥いて、それを生地で包む。
 二人分なので、手早く済ませる。フライパンにバターと油をいれ、加熱する。しばらく待ってバターが溶け始めた頃合いを見計らって生地を焼いていく。
 しっかり時間を掛けて火を通していき、ひっくり返してからは何度もスプーンで油を表面にかける。焼き色は食欲をそそる色だったし、肉の焼ける音も香りも心地よかった。
 聖一はそれを皿に盛り、生野菜を載せて食卓に出した。幸せな家庭の一光景であった。


8 :蒼幻 :2010/04/27(火) 03:36:34 ID:tcz3skkeVm



 次の週、散歩に出た聖一が帰って来ると、玄関に女の子の靴があった。聖一は訝りながらリビングへ向った。しかし、そこには誰もいない。武の友達だろうかと思って階段を昇っていくと、なにかひそひそ声がする。聖一は武の部屋をノックした。
「入るよ」と聖一は告げ、返事を待たずに部屋を開けた。
 と、そこには服をすべて脱いで絡み合っている武と優衣の姿があった。
「あ」と聖一は声を漏らし、すべてを悟った。
 いつのまに二人はそう云う関係になっていたのだ? というか、武もそう云うことをするような歳になったということを喜ぶべきなのか?
 聖一は居たたまれなくなって声をあげた。
「おまえら、いったい何してるんだ?」
「何って、することは決まってるじゃないか」と武は反抗的な態度を取る。
 普段より大人びて見えるが、基本は息子である武のものであった。
 ――いったい何がどうなってこの二人がこんな関係に――?
「父さんは云ったよね。優衣さんとは何の関係でもないって」
「そんなこと云ったか?」
 聖一は自分の心が嫉妬の炎に焼かれるのを感じていた。
 しかし身体を動かすことができなかった。
「私はそんなつもりで云ったんじゃない」
「じゃあ、どんなつもりだったのさ?」
「そ、それは」聖一は認めるのが恐ろしかった。自分も優衣のことを懸想していたのだ。確かにその気持ちがあることを否むことはできなかった。
「云えない? 云えないよね。それは云えない。自分ととんでもなく年の離れた女の子のことを思ってしまってるんだもの。そんなことは、父さんの顔を見ればすぐにわかることだよ。でも、いまどんな気持ち? 息子に好きな子をとられてしまった気分は? 目覚めが悪いかな? それとも、そういう気持ちがまた被虐感に満ちて、快感だったりする?」
 普段、大人しい息子がそんなことを言うなんて信じられないと思いながら、急に武が〈被虐感〉なんていう難しい言葉を使い始めたところで、何かがおかしいと思うようになった。これはなんだ。現実なのか? それとも、もしや――。とその情景のおかしさに気づいたとたん、聖一は笑いだしたくなった。そして顔の緊張を緩めようとしたところで夢は覚めた。
 ――夢――夢か。そうだ、武と優衣がそんな関係になるわけがないじゃないか。一度でもその関係を疑った自分がいたことに、聖一は優衣に対して申し訳ない気がした。ベッドから身体を起こす。愛妻はもういない。一人寝の寂しさは日を追うごとに厳しくなってくる。もう少しすれば収まるだろうと思っていたのに、この心の空虚感はどうにも止めようがないほど強く、激しく吹きつけてくる。そして聖一は自分が優衣のことを思っていることに気付く。しかし、夢の中の武がそんな聖一を笑っているように思えて、その思考を逞しくすることができない。
 その日の朝食はスクランブルエッグとボイルドウインナー、それから青野菜のサラダを作った。武は聖一の夢のことなどまったく知らないという感じで、朝から元気だった。
「今日は何をするんだ?」と聖一は訊ねる。
「ああ、家で勉強しようと思ってる」
「そうか……」聖一はふっと笑んだ。
「父さんは何を?」
「画きかけの作品があるから、それを進めていこうと思ってる」
「そう」
 武は聖一の画業にはあまり関心がないらしく、聖一がそう云うことを話してもそれ以上、つっこんでなにも質問しようとはしなかった。その態度が聖一にはいつもさびしく思われ、もっと、たとえば、優衣のように、いろいろなことに関心を持ってくれれば、自分も意欲的に作品に取り組めるのに、と思うのだった。とはいえ、息子にそんなことを望むなんて、それに、息子の助けがないと描けないというのは甘えだろうと、そんな風にも思えるのだった。しかし、やはり心の片隅では息子が父親のやっていることにもっと関心を持ってくれればという気持ちは常に心の中にあった。
 聖一は食後、外の空気を吸いに外へ出ることにした。
 と、通りの向こうから薄青色のTシャツを着た女の子がやってくるのが見えた。それは見間違えるはずもなく優衣だった。ショートボブで目が心持細くて、シャープな輪郭の顎が特徴的な優衣だ。
 聖一は驚かされた。
「どうしたの?」と聖一は二人の間の距離が十分縮まってから訊ねた。
「いまから聖一さんのお宅に伺おうと思ってたの。迷惑だったかしら?」
「いや、迷惑ってわけじゃないけど、突然で驚いた」
 聖一は朝の夢のことを思い出していた。
 夢では散歩から帰って来た時には、二人はそう云う関係になっていたけれど、今のこの現実では、散歩中に優衣と出会うことができて、それだけでも夢とは異なる展開になっていると、心の中でふと安堵している自分がいることに気づき、その反動から、今日の夢が現実に起こることもありえたかもしれない、という気持ちになって、自分という存在が持つ意識のあやふやさにもどかしさすら覚えるのだった。そんなことに心配の根をはびこらせるなんて、芸術家としてあり得ざることではないか? いや、芸術家だからこそ、そんなことを思っては心を病める者のようにしているのではないか? と、そもそも自分が芸術家であるなどと宣言することは、まるで烏滸の沙汰ではあるまいか。そうも思うのだった。
「家に来ても何も面白くないだろう?」と聖一は優衣に訊ねる。
「ううん、面白いよ」
「そうか?」
「うん」
「また絵でも見るか?」聖一は水を向ける。
 優衣は「んー」と云ってしばらく考えている様子だった。
 聖一はじっと優衣の反応を待った。その間も二人は着々と聖一の家の方へ歩いているのだった。「そうね、武君がいるなら、武君とも遊びたいかな……」
 聖一は驚かされた。まさか優衣の方から、そんなことを云い出すなんて。そして夢の中での出来事――武と優衣が裸で絡み合っていたこと――を思い出す。悪夢が現実になったような気がして、聖一は声をどもらせた。
「そ、それはちょっとやめておいた方がいいんじゃないか?」
「あら、どうして?」優衣は肩をすくめる。
「武もいろいろと忙しいだろうから、やめておくのがいいと思うよ」
 聖一は声を震わせた。
 優衣は彼の様子をじっと見つめ、そして口を開いた。
「聖一さん、妬いてるのかしら? 自分の子供に私をとられた、みたいな意識に促されて……」
「そんなわけがあるか」聖一はふっと肩の力を抜く。
「ふふ、冗談よ」
 優衣はまた肩をすくめた。
「さあ、着いたな」聖一は小さな門を開けて、玄関へと向かう。
「ねえ、またあの珈琲貰えるかしら?」
「うん?」
「挽きたて淹れたてのやつ」優衣はじっと聖一を見る。
「ああ、いいよ、淹れたげよう。喫茶店で飲んでるみたいって云ってくれたんだ。その嬉しさだけで、むこう一年はただで飲ませてあげるよ」
「一年後は?」優衣は期待に目を輝かせている。
「一年後のことは一年後に決めよう」
 聖一はそう云ったものの、優衣との関係が一年も続くだろうかと疑問だった。一年すれば、優衣はもう高校三年生。勉強はあまり好きじゃないようなので、進学はしないかもしれない。でも、就職が決まれば、自分のことなどもう振り返ってはくれないだろう、そう思いもするのだった。
「さあ、中に入って」と聖一は優衣に告げる。
 優衣は玄関に入り、靴を脱ぐ。
 聖一は優衣のすらりとした白い足に見入った。
「アトリエってなんか秘密基地みたいな感じがする」と優衣は告げる。
「そうか?」と聖一。
 聖一と優衣はアトリエに入った。優衣がコレクションの画集を見たいと云ったので、聖一はそれを許可した。聖一は「じゃあ、ちょっと待っててくれ」と云い、珈琲を淹れに席を立った。
 リビングに武の姿はなかった。たぶん、上の部屋で勉強しているんだろう。邪魔しないようにと思いながら、聖一は二人分の珈琲を淹れる。
 カップに入れて持って来ると、優衣は聖一の方を見た
「なんかこれまでに見たことのない絵が多くってすっごい勉強になるよ」
 優衣は嬉しそうに云う。
「そうか?」聖一はそう答える。
「あたしも何かやってみようかな」
「そうか。それもいいかも知れんな」
「なんかやってみたくなってきた。頑張るよ」優衣はそう云うと、ころころと笑うのだった。
 二人は互いに示唆を受けながら、お昼までじっくりと語り合うのだった。
 濃密な時間が流れていく。夏はこれからだ。


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甘辛流小説家ギルドGAIA
produced by COLUN.