浅井長政


1 :蒼幻 :2010/04/27(火) 03:22:54 ID:tcz3skke

全20章、計1000枚予定の長編歴史小説です。
2010年4月下旬現在、10章、500枚まで書きあがっています。
主人公は浅井長政。来年の大河ドラマの主人公江の父親です。
来年の放送が始まる前に、完成させたいなぁと思っているんですけどね。
それでは、はじめていきたいと思います。よろしくお願いします。


2 :蒼幻 :2010/04/27(火) 03:25:06 ID:tcz3skkeVm

第一章 野良田の戦い

  

 信長は桶狭間にて今川義元を破り果たした。
 義元討たるるの報は即刻世間に喧伝され、諸大名は畏怖が大半を占める評価をこの織田の御曹司に与え、世論は怒濤の繁吹を上げて巷を覆い尽くした。

     *

 美濃を挟んで尾張と向き合う国に近江がある。
 琵琶湖を擁し、土地は豊かで米の産出でも隣国に秀でた国である。いま近江は江南観音寺城に六角氏が蟠踞し、対する江北小谷城に浅井氏が領土を占めていた。一国に二名の主君があるは当然諍いの元である。

     *

 初秋であった。樹々の葉々もそろそろ色を変えはじめている。楓の赤さが目に鮮かで松や桧がそのままの色合いで矗と立っているのも見ようによっては風情である。冷えはじめた大気に影響されて紅葉せぬ樹木でさえどこか近づく冬を予感するかのごとく慄きを加えているようだ。
 紅顔の青年浅井賢政は屋敷の縁に腰を降ろして登代姫のことを思い返していた。登代は六角家家臣平井定武の娘という出自である。ひとり焦がれる賢政はやはり彼女のことを思っている自分がいたことに気付いて暫時目を閉じる。泪は流れない。流す泪が勿体ないと思っている。いくら一時一緒になったとはいえ、元は対立する敵国の家臣の娘である。ある種の諦念を抱いてしか姫を愛せぬ口惜しさがあった。
「賢政様、ここに御出ででござったか――」
 聴きなれた声を発したのは、赤尾美作守清綱である。
 浅井家家老として重役に当たっている浅井家の功労の将である。「美作守、今日はいったいどうしたのだ?」と賢政は訊ねる。
 赤尾美作守は平時であるというのに刀を佩いていた。もうなかなかの年であるが、それでも武張ったところが消えないのは彼の個性の湧出がその方面に秀でていることの証である。
 賢政は庭先に出て左手を向いた。東に伊吹山が見える。山裾は白くない。風は日増しに冷たくなっている。いま吹いている風は夏の暑さのほとぼりを冷ますように穏やかで心地いいと感じられるがこの北国の冬の寒さは極め付きである。いくら六角の諸将が勇に優れていようとも、雪のある季節に小谷に攻め込んで来ようとする者はまず居ないであろう。それほどにこの小谷の立地は厳しいものであるのだ。
 ――登代のことはこれ以上考えても解決は導けないであろう。父久政はあれこれ画策して平井家へ婿として挨拶をして来いと告げたのである。それ以前から諸将を統率する能力の不足を露呈していた久政は、自身が主君では長く国を保つことが難しいということに気付いていなかった。もともと登代との婚儀は六角氏との戦いに於いて父久政が不利を蒙って一方的に六角方のいいなりになった結果のことであった。講和条約締結は苦渋の決断だった。確かに幼いころ、父に、「お前に婚約者ができた」と聞いた時には甘酸っぱい想いが胸に込み上げたことを覚えている。それからは夢に現にまだ見ぬ姫のことを思っていたといっても過言ではない。

     *

「父上、登代姫はどのような姫御なのですか?」
 猿夜叉――後の賢政はそんな風に父に尋ねたものだった。
「その時が来れば紹介する故、暫し待っていよ」
 久政はそう云って逸る気持ちの猿夜叉を制していた。
 一月、猿夜叉の元服式が行われ、名を六角との取り決めのとおり六角義賢の〈賢〉の一字をとって賢政と名乗ることになった。その敵方からの偏諱の取り決めは晴れの日であるべき元服式を重く鬱屈したものに変えてしまった。その横暴が賢政には許せないと思われるのだった。
 父は頼りにならぬ。ここは何とかして父を抑えてこの見えぬ圧迫を取り防がねば……。賢政はそう強く願った。
 そして、その月のうちに婚儀も執り行われた。
 四月、「平井の娘を実家に送り届けて仕舞われなさいませ」家臣の遠藤直経が賢政の住まう清水谷の屋敷の庭先にてそう告げた。
「登代を?」と賢政はその遠藤の声を繰り返した。
 遠藤というはこれも赤尾と同じく浅井の家臣のなかでも特に頼りにされている将で彼は戦闘に於いて特に秀でた力を発揮していた。
 簡単な甲冑を身につけて腰に刀を佩いている。
「清綱も同意しておりますぞ。これは浅井家諸将の総意ではないものの、ある一定の理解は得らるるものと思っております」遠藤直経はそう告げて、気合いを入れ直した。

     *

「私のことを好いて居てはくれなかったのですか?」とほんの三月愛し合った姫に最後を告げたとき、賢政は胸に込み上げてくる切ない気持ちをどうすることもできず、目頭を熱くした。「そなたが江南六角の者でなければ、このような気持ちに打たれることも無かったというに……」賢政は無念という気持ちをそこに籠めた。
「最後にひとつお聞かせ下さいませ。賢政様は私と結ばれたことを後悔しておいでですか?」登代は夫から言葉を引き出そうとまっすぐな眼を向けた。賢政は登代を見る。改めて彼女は不思議な魅力を持った女子であったと意識する。賢政は元妻であった女の顔をじっと見た。そこには怒りの色はまったく見えない。こうなることも仕方のないことであると諦めきった表情とでも云うべきか。賢政は落ち着いて自分の言葉を纏めた。
「わしはそなたとはいまでも一緒になって良かったと思っておる。ただ時代が悪かったのだ。わしはできることならそなたと仲睦まじく毎日を過ごしていたかった。しかし江南の六角氏は長年わが浅井家と戦争を繰り返してきた一派である。いずれこういうときが来るのではないかということはそなたも分かっていたであろう? だからいまこのようなときでも、そのように乙に澄ました表情ができるのであろう?」
 賢政は鬱々とした調子を出さないように努めて明るく話した。
「貴方の言葉を聞いて安心致しました。私自身の所為ではないのですね。私は来世でも貴方との御縁を望みます」
 それは悲愴とでも呼ぶべき口調であり態度であった。
 登代を載せた籠が家来たちの手によって運ばれていくのを賢政はいつまでもいつまでも見送るのだった。

     *

 それから数日が経って、六角方に反応が見られた。
 浅井の家臣、多賀の久徳左近を寝返らせたのである。しかし、六角氏は往時の威勢を駆れるほどには国力が恢復していなかったため、すぐに行動を起こすことが出来なかった。その間に、浅井方は今井定清と高野瀬秀澄を味方に引き入れている。
 結局六角が初めに大きな軍を動かしたのは六月半ばの高宮城攻めであった。そこでは結局、救援に駆け付けるべき久政が、何のためであるか出兵をずるずると引き延ばしたために、それが影響して磯野丹波守員昌の活躍も空しく敗走を余儀なくされた。
「このほどの高宮城での敗戦は一重に久政様の主君としての力量不足が原因したのではあるまいか」表だってそんなことを述べる磯野員昌は先の戦いでしっかりとした働きを見せていたこともあり、諸将の中でも発言力は群を抜いていた。
「われらがこれからの戦は久政様のために不成功に終わるかも知れぬ」遠藤もそれに和す。
「ううむ」と赤尾は云い渋った。「しかしいま主君をどうこう云っても仕方なかろう。浅井家は亮政様の子である久政様が当主を務めるというのは正当なことである。それについて非難するは君臣の則を超えることに外ならぬ」
「賢政様がいるではないか」磯野が主張する。
「賢政様か」赤尾は納得するように声を押し出した。「いや、駄目だ。賢政様はまだ初陣も済ませておられぬ。そのような方に軍の指揮をゆだねるというのは危険すぎる。いずれとは思うがいまは駄目だ」
「そうか」一同は納得する。
「ならばこれまで通り、だましだましやっていくしかあるまいな」
「そうだな」遠藤は同意した。
「それにしても、六角義賢もいい跡取りを持ったようだな」と磯野が敵将を褒めると、
「そうだな」と赤尾が声をあげた。
「あの高宮での一戦で、我らが前に打って出たときに、横っぱらから突いて来た一軍の突破力は相当なものがあった」
 磯野が云うのは六角義賢の子義弼のことであった。憎き相手平井定武の軍を突破し、これからだと思っていた矢先に「義弼!」と大音声がして何かと思っているうちに横っ面を叩かれたのであった。相当に鍛えていた軍であると見えて、突破力は凄まじかった。深傷を恐れた磯野たち浅井軍は匆々に軍を引いたのであった。
 勿論それまでに主君久政が臆病風に吹かれたのか、実質抗戦の場に駆けつけるのが数日遅れたという事実も諸将のやる気をそぐ結果になっていたのであった。六月の暑い時期でもあり、戦場[いくさば]の塵に塗れるのが億劫だったのかもしれない。あるいは一方的に登代姫を離縁して講和条約を破棄したことに対する引け目があったのかもしれない。賢政は後からそのようなことを聞かされて自身の全く関与していなかったそれらの敗戦のことが全て自分の責任であるような気さえしたのだった。
 賢政はそのような気持ちが胸に萌すのがなんとも辛く、そしてまた気持ちを揺さぶられる思いすら抱いていた。まだ見ぬ戦場に立ち、武人を指揮して敵を屠っていく。それは賢政の果てない願いであった。
 父には元服した故、早く初陣を致したいと申し述べていた。しかし久政はまだその時ではないとしてその訴えを斥けていた。賢政は煮え切らない父久政の態度に軽い反発心を抱いていた。とはいえ、父の自分に向ける愛情にも幾分かの理解は示していた。子供の頃、父と領内を回って木之本で柿をもらって共に食したこと。普段武張ったことの嫌いな父には似つかわしくなく、木刀を手にして剣の基礎を教えてくれたこと。舞踊や琴瑟などの芸術に深い興味を抱いていた父らしく幼い頃から読み書きに合わせて、『方丈記』や『平家物語』などを読み聞かせてくれたこと。そんな思い出がいま自分の血肉となっていることを意識して父に対する不満や欝憤というものの殆どは綺麗に氷解するのだった。

     *

 賢政は落ち着いて考えてみる。
 自分にも惰弱なところが伝っているのかと。
 強い発言ができない。優柔不断である。理想に心を焦がすことがあり、無意識に行われた偽善であってもそれを許すことができない。そんな面が自分には確かにあると賢政は思っていた。
 自分が生まれるより前に亡くなってしまった祖父亮政のことを思う。赤尾美作守あたりに云わせると、自分は祖父亮政の再来かと思えるほどに風貌・性格が似ているとのことである。一代で浅井家を大名の一家臣から国人級の家格に引き上げて今の家の基礎を築いた人物である。自分に似ていると云われても、己は何をしたかと問いたくなる。何もしていないではないか。現状はどうだ、元服から一年経ってもまだ初陣も果たしていないではないか。その引け目は浅井の諸将の顔を見ていても、自分の不利な条件になっている気がしてならない。父久政はそのことをどう思っているのか? 自分の息子が初陣を果たすことを喜ばしいことであると思えないほどに世間ずれした人物なのか? しかし、気を使っているのか、諸将はそのことについてまったく口を挟もうとしない。
 鎧を着た赤尾美作守が清水谷の屋敷に姿を見せたとき、賢政は思い切って尋ねて見た。
「父上はいつになったらわしを初陣の場に立たせてくれるのだろう」
 赤尾は「ううむ」と唸って、いきなりの質問に戸惑った。「しかるべき時が来ればとしか云いようがありませぬな」
「それでは困るのだ」
「そうは申されましても」
「わしのほうはもう気力も充実していていつでも先陣に立てるくらいの気合でいるというに、いつも肩すかしを喰らってもう体中の毛穴からやる気が漏失してしまいそうじゃ」
「しかし――こればかりは殿がお決めになることでございますからな」
「ならば父上に引きあわせてくれ。直々に掛け合ってみる故」
「弱りましたな」赤尾は苦った表情をして見せる。
「父上は最近何かと理由をつけてわしを避けておられるのだ」賢政はきっと視線を赤尾美作守に据えて、そんなことを口にした。食事をしているときにはむすっとしている久政であったから、そう云うことを懇願する機会は持っていない賢政だったのである。「譜代のお主が口をきいてくれれば、よもや会わぬなどとは仰らぬであろうしの」
「そこまで云われるなら、一緒に参りましょう。わしから申さずとも、一緒に席に就いて話を切り出されればよろしかろう」
「そうか、ならば参ろう」賢政はそう云うと喜悦の笑みを見せながら、赤尾の後について父のいる部屋に向かった。
 そこにはすでに錚々たる面々が顔を揃えていた。久政は上座に居り、諸将は左右に分かれて一段下に座を占めている。
「赤尾、入ります」と告げ、美作守は敷居を越えた。
「おお、若君も一緒でござったか」
 遠藤直経が髭面を見せて豪快に笑った。
「縁側に出て庭を御覧になっておられたから、お連れ申した」そう説明してから、赤尾は久政と正対する位置に座を占め、賢政も遠慮がちにその横に腰をおろして胡坐をかいた。「久政様、若君が話があるそうにございます」
 そのとき久政は考え事をしていたらしく上の空だった。
「……話?」久政はそう云うと、首の後ろを大儀そうに指で何度も掻きはじめた。明らかに息子の話を聴こうとする親の態度ではなかった。「賢政、いまは軍議である故、席を外せ」
 久政はそう云って、横柄に手を振って去るように示した。
「わしもいずれこの軍議に連なる者と思っております。去るわけには参りません」
「強情な奴よ。まあいい、ならば話が終わるまで待っておれ、その後にそなたの話を訊くとしよう」
 賢政は分かったという風に一度首を縦に振った。
「いま何に就いて話をしておったのだ?」席をはずしていた赤尾美作守が訊ねる。
「四月の肥田城の戦についてじゃ」と遠藤が云った。
「ほう、水攻めをしたはいいが自業自得で墓穴を掘った六角のへたれっぷりが露呈したあの戦な」
「まぁ、そうですな」遠藤の顔に笑みが浮かぶ。
 阿閉淡路守も口を開く。
「去年の高宮の戦では勝利したものの肥田で敗走。六角も落ち目だな」
「あの水攻めを蒙った折――」と遠藤は話を進めた。「わが軍は六角の堤が決壊して雨のあがった中を火縄で狙い撃ちしたことにより多数の敵を弑することができた。これからは鉄砲の時代であると思うが赤尾様はどう思われるか?」
「確かに鉄砲は強力な武器であろうな。そう云う面では国友で早くから鉄砲鍛冶を操業させたことは大きいと思う。その利はいずれ何倍にもなってわが軍に返ってくるに違いない」赤尾は目を光らせて宣言した。
「しかし六角方に放った細作の話では奴等が再び北へ攻め寄せて来る徴候が見られるとか……」中島惣左衛門が木村日向守と目を合わせながら、そう云う。
「それは確かか?」赤尾美作守が声を張る。「それなら今度こそやつらを返り討ちにしてやりたいものよ」
 そのとき黙って話を聞いていた賢政が口を開いた。「父上、今度の戦ではわしに初陣を命じてくださいませぬか?」
「初陣か――」と久政は感情の読めぬ表情で冷たく告げた。その言葉の調子だけでもそれは望みが薄いことを示していた。
「父上、お願いいたします」賢政は深々と頭を下げる。
「御舘様、わしからもよろしくお願いいたします」
 赤尾が賢政に合わせて口添えした。
「ううむ」と久政は返事を渋る。
「駄目ですか、父上?」と賢政は訊ねる。
 場には緊張が張り詰めていた。重臣たちがざわつき始める。
「鎮まれ」と久政は告げた。「わしはそなたが戦闘で傷つかぬかそれを心配して居るのだ。もう少し待ってもいいではないか。そなたはわが浅井家の唯一人の跡取りなるぞ。慎重になる親心も察してはくれぬか?」
 久政は親心を見せたが、賢政にはそれが年来の久政の甘さであることを察知していた。戦乱の世を勝ち抜くには、仔を育てるためには千仭の谷に投げ落すことも厭わないという獅子の俚諺のように、困難にぶちあたらせてこそ大きな成長が見込めるのが子供というものである。その観念の欠如は戦乱の世に於ける一国の主君の性質としてはあってはならぬもののように賢政には思えた。きっとそれこそが、他の者が父を暗愚であると噂する根本原因であるのだろう。
「初陣を果してこそ立派な大人であるとわしは思う」
 賢政はむっとした表情で告げた。
 確かに父の云うことも分からないではない。しかしそんな甘さは屹度捨てるべきなのだ。そしてそれこそが望みうる最高の状況であると賢政は思っていた。
「父上、子にとって親離れは大切ですが、親も子離れすることが必要だとわしは思うのです」
「子離れだと?」久政は賢政の言葉を繰り返した。
「わしを初陣に立たせて下され。お頼み申します」
「そこまで云われたならこれは承知せぬわけには参りませぬぞ、御舘様!」
 遠藤直経が援護射撃をする。
「ううむ……」と久政はなおも躊躇う。
 しかしやがて観念したのか久政は折れた。
「わかった、次の戦はそなたに初陣を命じよう。だが、決して功を焦るでないぞ。ときには一歩引いて状況を見極めることも大切なのだからな」
 それが久政の云えるたったひとつの言葉であった。
「それでそなたの話というのはいったい何なのだ?」久政はようやく興味を抱いたらしく賢政に訊ねた。
 賢政は肩の力を抜いてほほ笑んだ。「もう話は終わりました」
「うん?」久政は納得がいかぬ様子だった。「どういうことだ?」
「わしの話というは、初陣のことでございました故、もうお済み申しました」
「なるほど」久政は納得がいったのか、気落ちした様子で薄くほほ笑んだ。

     *

 八月の中旬、そよ風にも寒さが混じりはじめている。
 賢政は出陣の準備を進めていた。予想していた通り、今月に入って六角方の動きが活発になり、いまにも観音寺城を発しようとしているとのことであった。
 賢政は今日のために装備を一式揃えていた。その中でも、浅井家代々の見事な意匠の竜頭の兜が目を惹いた。気合い負けしないように重々頑張らねばなるまいと賢政は決意する。鎧は赤色縅に錦の直垂、縅には蝶の据金物が打ってある。身に帯びるはこの戦に新調した白銀作りの太刀であり、切斑の矢と重藤の弓である。
 見事な装備に身を包み、気合は弥が上にも高まってゆく。
「馬子にも衣装だな」久政が部屋の中に入って来てそう述べた。
「父上は此度、参加されぬとか……残念でございます」
「そなたがおればわしはいらぬ」久政はそんなことを述べる。
「しかしわしはまだ初陣でございますゆえ、それほど期待されても活躍は出来ぬかと」
「活躍をする、せぬ、ではない。そんなことは二の次だ。幸いわしらの軍には磯野・遠藤・赤尾・百々などの将が揃っておる。わしがいてもいなくても、だいたいの戦況に影響を及ぼすことはないであろう。頭領がいることによって力強く思う気持ちは、そなたが引き取ってくれるだろうと踏んでおる」
「買いかぶり過ぎですよ」賢政はそう云って、兜をかぶったままふっとほほ笑んだ。

     *

 賢政は不思議と気持ちの澄んでいることに驚いていた。
 初陣とはもっと切羽詰った、重々しい、思い通りにいかぬ困難なものであろうと思いつづけていたからである。ゆえに久政に初陣を希望した時から興奮のために眠れぬ夜を過ごしたことも一度や二度ではなかったのである。
 小谷を発って坂田を抜けて行く。六角軍とは野良田の辺りにて衝突した。賢政は六角軍の威容に凝然たる思いを呼び起こされた。自軍が一万余、対する六角軍は二万余とほぼ倍である。多数の人が一所に集まれば、これほどの気合が充溢するものかと賢政は意識させられた。
 状況の細部を把握する前に鬨の声が上がり、近くの赤尾美作守が賢政に告げた。「しばらくはわしの指揮をご覧になっていてくだされ。賢政様は初陣である故、無理は禁物でござる」
 賢政は赤尾に従う。
「頼むぞ」と賢政は云う。
「先陣百々軍、進め!、一番槍はそなたの軍ぞ!」
 赤尾のその言葉を伝令が運び、軍が動く。互いの軍は黒を基調とした甲冑が多いため、まるで鴉か鵺の大群のような印象が賢政の胸に萌す。戦に於いて軍が動く様を見るのは初めてだったが、訓練のときとは全く様相を異にしている。訓練でならば、練兵の様子は何度も見たことがあった。しかし、戦争はここまで緊迫した印象を持つものかと意識を新たにさせられる。
 浅井軍と六角軍の間には宇曽川が横たわっていた。水は冷たくなりはじめている八月中旬であったが両軍はそんなことなど頓着せず水の中に入って攻防を繰り返す。賢政は最初こそいろいろと思い迷っていたが、一時間が過ぎ二時間が過ぎるとだんだん戦時の雰囲気にも慣れてきた。
「六角の先陣は蒲生賢秀のようですな。たしか二十五、六の青年であったはず。膂力は大したことはございませぬ。百々ならば討ち破ってくれましょう」赤尾美作守はそう云うと呵々と笑った。「それはそうと若君、磯野は良い武将でございますぞ」
「うん?」と賢政は赤尾の言葉に戸惑う。
「磯野員昌でございますよ」
「磯野がどうしたか?」
「あれは今後きっと伸びるでしょうな」
「ほう」
「戦場で華々しく活躍するは武将の端くれでも可能なことではありますが、彼はそれだけではございませんぞ。彼が率いれば軍は新生したように律動的に動きまする」
「そうか」賢政は感心するように声を漏らした。
「わしは磯野こそこの浅井軍を導いてくれる守護神となるであろう予感が致しております。いまから眼を掛けておけばいずれ心強き味方となってくれましょう。それに――」
「うん?」
「いま浅井軍は一つにまとまっているように見えてその実、内心はばらばらでございます。それは一重に御舘様に原因があることでございますがなるほどげに難しきは人の心でありましょう。古来これを見誤ったが為に国を失い命を落とした者は枚挙に暇がありませぬ。勿論そんな例を挙げて説明することは聡明なる若君には噴飯ものでありましょうからここでは控えさせて頂きます。しかし磯野はいいですぞ。若君も御覧になられませ」
 そう云うと、赤尾美作守は閉じた鉄扇を前方の一隅に据えて磯野が戦っているであろう方面を示した。
 もちろん平地のことであるのでそれほどの視界は得られない。起伏に富んだ地形というわけでもなく、川が流れている近くであるのでどちらかといえば平地であった。確かに賢政が見てみると磯野のいる方面の戦端は良好なようである。
 戦の火ぶたが落とされて三時間余りが過ぎた。両軍に疲れが見え始めていたがまだどちらが優勢とも見えてこない。横にずらりと長く並ぶような戦線を張る指揮官はいないため交戦状態にある範囲は限られており、両軍とも後陣の兵はまだまったくの無傷であった。
 肥田城の戦いで活躍した火縄銃部隊は地道に敵を屠っていたが、それほどの成果は得られていない。味方に当たる恐れもあるから使用には慎重を期していたのである。
「やはり雷が樹を穿つように一瞬では決まらぬのだな」
 賢政は本心を吐露する。
 幼少のみぎりより身につけて来た武芸を披露することこそ初陣の役目と思い定めていたものの、実際に戦場にあってみると血腥い殺し合いが全てであり、そこに自身も身を投じるということはつまり、波羅葦僧の境地から修羅の域にまで一気に堕ちることであり、それがつまり戦争というものなのだとの意識が胸に萌した。


3 :蒼幻 :2010/04/27(火) 03:25:22 ID:tcz3skkeVm

     *

 戦闘がさらに一時間を超え、両軍の先陣が疲弊の色を見せ始めたころ、六角の第二陣が浅井の先陣に襲いかかった。
 後陣の赤尾が撤退の命令を出す。
 先陣はすべて退くかと見えて、一部の軍がその場に踏みとどまって戦い続けていた。
「あれはどの部隊だ!?」と赤尾が誰何するとほぼ時を同じくして前線にどよめきが走った。
「一体、何が?」賢政も前方に目を凝らす。しかし判別することはできない。
 それからすぐに伝令が後陣に駆け込んできた。
「先陣百々内蔵助様が討たれました!」
「何! 百々が討たれたと!?」
「はっ、相手は結解十郎兵衛の手の者とか」
「なんと……」赤尾は苦悶に満ちた表情をする。
 賢政はその伝令の報せに頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。勿論、人の死に軽重をつけてはならぬとの教えがあることは知ってはいるものの、名将と云える部将を失うのは手痛い損失である。実務的な意味だけでなく、百々家は長く浅井家に仕えてきた。内蔵助は大柄な体格で、力だけであれば、そこらの凡夫が百人掛かったとて一蹴してしまうほどの実力の持ち主であった。賢政は精神的な支柱を失ったような印象すら抱いて気落ちしそうになったが、また同時に怒りがふつふつと湧いてきた。その怒りと云うのも先が見えなくてただかっかするというようなものではなく冷たいひりつくような怒りとでも云うのだろうか、冷静さの中に、燠のように熱く燃える芯が潜んでいるとでも云うような、そんな類いの怒りが賢政の心に存在し始めたのである。仲間を殺された怒り、その怒りを力に変えて六角に一矢報いる。そう賢政は思い定めて心の手綱を解いた。
 賢政は眼を熱く光らせながら連銭葦毛の騎乗馬を操った。
「か、賢政様、どちらへ!?」
 赤尾美作守は崩れ始めた先陣を引こうとしている最中に動きを見せた賢政に驚いた様子だった。
「美作守、傍観はこれまでぞ。これより後陣を動かし、弔い合戦じゃ!」
「な……なんと」赤尾は声をくぐもらせた。
「大野木・安養寺・上坂! そなたらは崩れ始めた百々軍の救援を最優先し、六角の先陣を攻略せよ! 美作守はわしと残りの兵を率いて後衛を急襲するぞ。突撃だ!」
 賢政は若い力の湧出を止めることが難しいのか、血気盛んなさまを見せてそう叫んだ。
「若君の初陣、とくと拝見させて頂きましょう」赤尾美作守はそう云うと口辺を緩めた。笑みにはならなかったが、それはきっと美作守自身も百々を討たれた無念さを胸に抱いていたからであろう。
 安養寺軍は弦を離れた矢のごとく、敵に一直線に向かって行った。それを脇に見ながら、賢政は交戦箇所をやや迂回する形で自軍を動かし、軍の前方に出てまで自軍を鼓舞した。
 浅井の後陣と六角の後陣がぐっと噛みあう。金属と金属のぶつかり合う生々しい音がして、鉄錆のような味が舌に感じられた。賢政自身も刀を振るって敵を討とうとする。馬上に刀と云うは徒歩の兵士を斬るには間合いの面ではやや不利であったが、賢政は馬から身を乗り出すようにして掛かり、緩急をつけて敵兵を一人、また一人と弑していった。
 人を殺すことは罪であるか、そんなことを座学として学んでいた時期もあった。しかし実際にことに当たってみるとそんな折に学んだことなどすっかり置いてきぼりになって、餌を前にした禽獣のようにひたすら前に進むだけしか道がないように思えて、またその単純さが或る種の快味を呼び起こす印象さえ覚えていた。
 初陣の賢政、しかも武具は煌びやかで純然たる働きをする若武者を見て軍は勇気を得、訓練のときよりも数段優れた動きを見せて戦況を有利に動かしていった。
 華々しい活躍をする初陣の賢政と腰をどっかと据えて馬回り衆に守られている六角義賢。
 それは戦意の差となって如実に顕れる。
 六角軍は数こそ浅井の倍を誇っていたものの、それはほぼ見かけ倒しだった。ちょっと突いてやると蜘蛛の子を散らすように集団は散逸瓦解する。赤尾美作守は主君である久政の手前、賢政にもし何かあったなら申し訳が立たないと冷や冷やしていたようであったが、ある程度戦闘が収束してくると、賢政にも、心配そうな赤尾の顔を伺う余裕が出てきた。
 賢政も美作守も膂力は一兵卒に劣るものではない。それはお互いに分っていることであったが、互いに心配していたのは百々を討たれたことを契機に突撃を掛けたはいいがその中に私怨が混じって周りが見えなくなり、そのために自分の能力を十分に発揮できずに不測の事態に陥ることがあるのではないかと云うことであった。
 勿論、歴戦の部将赤尾美作守清綱にそんな油断が見えるわけがないことはわかりきっていた。心配なのは賢政の方であったが、美作守はそんな心配が杞憂であったことに安堵したらしく、彼の顔を見たときに賢政はそれと知ったのであった。
「賢政様、義賢の奴に冷や汗をかかせてやりましょうか」
 赤尾はにっと笑んでそう云い放った。
「それはいい考えだ」と賢政は同意する。
「わが赤尾軍はこれより、六角本陣に攻め入る! 戦端を開け!」
「おおーっ!」
 兵士たちは鬨の声を上げる。
 今や勢いは完全に浅井軍にあった。赤尾軍が突進を試みると六角の馬回り衆はさすが武で鳴る勇士らしく堅い防御力を誇って防いだ。
「退け! 退くぞ!」
 賢政は声のした方を見た。
 そこには馬上の大柄な壮年の男の姿があった。遠目にしか見えなかったが、すぐにそれが六角義賢であることがわかった。その義賢の言葉を聞くと同時に六角軍は凄まじい勢いで引きはじめた。
「おう、さすが六角、逃げ足だけは一人前と見えるわ」赤尾はそう云うと、くつくつと笑った。「追われまするか?」赤尾は訊ねる。
「いや、捨ておこう。われらはやるべきことを為した」
「ならば戦勝を祝いましょうぞ」
 どこからともなく声が上がる。
 掛け声は波となり、波は大きな潮となった。戦場をどよもす大きな潮波。場には浅井方よりも六角方の死体の方が目立っていた。
「大勝とまでは行きませんでしたが、此度はいい働きが出来申した」
「うむ」賢政は浮かない表情をしながら、そう返事した。

     *

 帰巣するのか空に低く鴉が飛んでいた。
 黒い羽を見ると不吉なものを髣髴してしまっていけない。彼等は世の中にいったいどんな利益をもたらしているのだろうと考える。人に忌まれることの多い鳥である。
 賢政は、自分もそれらの鴉と一緒であるような思いを抱いていた。
 どういう意味であるのか――?
 武人とは戦争に於いて人を殺すを生業とする者であるが、そんな人間は、いくら戦争で人を殺そうとも、それで充足するということがなく、もっと多く、もっと強く、もっと徹底的にという思いで任務にあたるのではないか。己は今日、多数の兵士を殺したが、それは果して正しいことであったのか? そして戦争というものは儚いものではないかとも思えてくるのだ。そんな修羅の世界にある者は人に忌まれ続けてその一生を闔じるのではあるまいか。
 しかしそのような考えは僧侶に任せておけばいいのかも知れない。いまの世は人を殺す事こそ人生という時代である。そこに疑問を抱くことは〈狂〉の一字を胸に抱くと同義であろう。そんなことではこの世を渡っていくことはできないのではないか。賢政はそう思い定めて意識を新たにした。
「賢政様、初陣は如何でございましたか?」
 美作守が訊ねてくる。
「うん?」
「思っていたようには行かなかったですかな?」
「いや、そんなこともない」
 賢政は事も無げに云ってのけた。
「しかし、若君がいきなり軍を指揮され出したのには冷や汗が出ましたぞ」
「はは」
「しかし見事な采配でございました。これならば軍を預けても安心でしょうな。いや実はわしは危惧しておったのです。いくら膂力に優れていて訓練では実力を発揮できていても、実戦となると臆してしまって自分の力の半分も出せぬというような者もおりますからな。そうではなかったという点に於いて、わしは一つ心の重荷を下ろすことが出来申した。いや、良かった」
「ふふ、わしを信頼していなかったということだな」
 賢政は笑む。
「け、決してそのようなことは」
 賢政の言葉を聞いて赤尾美作守は戸惑った。
「久政様もほっと胸を撫で下ろされるでしょうな」
「父上が?」と賢政。
「御舘様は随分心配なさっておりましたゆえ」
「そうか」
「御舘様の心情は確かに感心できることではないかも知れませぬ。しかしそう云う親があってもいいのではないかとわしは思うのです。修羅多き世にそう云う心情は得難いものではないかと思う訳です。まぁ、そのために他の心労が胸を塞ぐということは多々ございますがな」
 浅井の兵たちは北に向かって帰って行く。
 賢政と美作守は和やかに談笑して馬を進めた。
「それにしても馬上に刀はなかなか難しいものがあるな」賢政はそう述べる。
「そうでございますな。槍を手になさるのも一つでしょうかな」
「槍か……」
「槍は刀とは異なりますが、距離をとって戦うには最適の武器でございます」
「そうだな」
「次の戦では良いものを準備しておきましょう」
「まぁ、それを使わねばならぬほど切羽詰まった戦いはあまりしたくないが、しかしいまはもっと自分の力を発揮して敵を屠りたいという気持ちはあるな」
「心強いお言葉でございます」赤尾はふっとほほ笑んだ。

     *

「そうか、百々がな……」久政は苦痛を得たような表情をして評定の場でそう告げた。「しかしそなたら、よう六角を撃退してくれた。礼を申す」
「はっ」諸将が声を上げて服する。
「賢政、そなたも見事な働きであったとか。美作守から聴いたぞ。わしもほっと安堵しておるところだ。しかしくれぐれも油断は禁物であるぞ。これからまた六角と刃を交えること多岐に亘るであろう、その一々に今回のようにある意味無茶をしていてはいずれ命を落としかねん、重々承知いたせ」
「はっ」と賢政は元気に返事をしたが、しかし胸の内ではどうして父上は今回のことを素直に御認めになって喜んでくださらぬのだとの思いも胸に萌すのだった。〈父上!〉と賢政はその場で自分の気持ちを云い募りたかった。しかしこの父にそう云う真似は通用しないことをこれまでのやり取りでわかっていたから、自分の気持ちを強く押し出すようなことはしなかった。
「しかしあの百々が討たれたとは、いったい何があった?」久政は怪訝そうに尋ねた。
「それは近くに居ったものから仔細に伺っておりまする」
 百々と同じく先陣にあった磯野員昌が声を上げた。
「ほう、聴かせよ」と久政は云った。
 磯野はほっとひとつ息を吐いてから述べ始めた。
「百々殿は二刻ばかり六角先陣と戦い合っておりました。そして、両軍に疲労が見え始めた時に、六角の第二陣が動いたのでございます。先陣同士、ぶつかりあっていた所へ横合いから第二陣が切りこんできまして、それによって、われら先陣は総崩れとなり申した。それで赤尾殿から撤退の命が下されて、われらは引いたのでございますが、百々殿だけはそこに踏みとどまり、戦い続けられたのです」
「ほう、なかなかあっぱれなことであるな」久政は感心したように言葉を押し出した。
「そして六角の中に結解という者がおりまして、名乗ったそうでございます。いざ尋常に勝負致せと。百々殿は血気にはやっておりましたから、もちろんそれをお受けになり、二人は馬に乗ったまま、切り合われたのでございます。そして互いの正面に馬があったときにどちらともなく相手に掴みかかり、馬から落ちたそうにございます」
「ほう」久政はその結末を聞くのが気がかりであるような表情をして見せた。
 磯野はなおも話を続ける。「百々殿は結解に掴みかかって上をとり、小刀を腰の鞘から抜き取っていまにもとどめを刺さんとされていたそうにございます。それなのに、尋常にと云っていた結解の部下がそこへ襲いかかって百々殿を血祭りに上げたそうにございます」磯野は手をわなわなと震わせていた。「わしが聞いた話はこれが全てにございます」
「そうか……」久政の瞳には悲しみの色が宿っていた。
 その瞳の色は確かに親しいものの落魄を悲しむものであったけれども、それよりもまず、怒りと諦観という概念に於いて、それほどしっかりとした芯の強い物が無いような印象を賢政は感じていた。その不備は他の諸将にも雰囲気として伝わっているようである。
「久政様、吉凶禍福は時の運とは云いますれども、卑怯な六角許すまじと云った気焔を上げることは必要であるように思いまする。もう六角と条約など、二度と締結なさいますな」赤尾美作守も場の雰囲気に圧されたのか、そう云って怒りに肩を震わせていた。
「うむ」久政は煮え切らない様子を見せる。
 度量の狭い久政はこの赤尾の言葉がこれまでの六角との条約の締結の非難を意味していると受け取ったらしく、心の奥底に静かな怒りを潜ませているように賢政には思えた。それは考えすぎかもしれない。しかし長年父として見てきた一人の男が何を考えているのか、それは諸将よりもまず自分の方が詳しく判るものであろうとの自負だけはしっかり持っていたのである。
「御舘様は悔しゅうないのであろうか?」
 磯野員昌は久政が退去したあとの部屋でそう諸将に述べた。
「確かに、どこか冷たい雰囲気はあるな」木村日向守が声を上げる。
「まぁ、それほど熱くなられるな」赤尾美作守がなだめ役に回る。
 賢政は皆が父に少なからず不満を持っているのだなと意識させられた。何故かはわからないが自分も父に対して何らかのもやもやしたものを感じることはあったが、しかしそれによって父を叱責したいと思うようなことはなかった。賢政は、自分はやはり身内であるからそう思うのかも知れないと考えた。しかし、甲斐の例もある。武田信玄が父信虎になしたこと。その不孝は広く国々に喧伝されていた。信玄の父とわが父、どちらが人の父親としてふさわしくないのか? 賢政はこの問題を心の秤にかけて何度も軽重をはかろうとした。答えがでるはずもないその問題を。

     *

 夜中冷たい臥床に横になって考える。
 眠れぬ夜であった。初陣直前の自分も今日のように眠れなかったが、事をなして十分な成果を得たというにこのように眠れぬ己はいかに身体を鍛え、精神を鍛えしているとはいえ、ただ一人の弱い人間であることに気づかされる。戦いの場面が瞼の裏に透いて見えるようである。
 わが刃を顔にまともにうけて亡くなっていった六角兵の狂気の形相、勇猛果敢に切りかかりながら攻撃を受け止められ、瞬時に自身の死を悟った戦慄の表情、他の浅井の兵士との斬り合いに夢中だった六角兵に横合いから叩きこんだ凶刃の冴えかえり具合、そんなものが心を押しふさぐように感じられてまるで真綿で鼻と口を押さえつけられているような呼吸の辛さ、重苦しさを感じていた。
 兵は詭道なりと云ったは孫子であるが、戦を為す人間というものは常にこういう苦しみを身に受け、日々苛まれるものであるのだろうかとの思いが胸に萌す。過去に幾人の武人があったか知れないが、この苦しみを抜けて明鏡止水とでも呼ぶべき境地に落ち着いた人間は幾人あったのだろうとある種の憧れを胸に抱きながら思い詰める。
 ――美作守か丹波守に訊いてみるのもいいかも知れぬ。
 賢政はそう思い做して、寝苦しい夜を少しでも過ごし良いものにしようと考えた。眼を閉じる。寝苦しい。眼を開ける。障子から月の光が透いて見え、ほんのりと室内を照らしている。虫の音が聞こえる。さやけき音に賢政は心を落ち着かせる。修羅の道に入りかけている己の行く末を恐怖しているのか? 自分は脱出不可能な陥穽に嵌りかけていることに恐怖する惰弱な男なのか? この世の武人足らんとする者なら、こんな恐怖などまったく無い物としてはねのけるくらいの覚悟がなくてどうするのか? 自分を追い込んで行くも、どこか普段の自分とは異なる無理している姿というものが透いて見えてきてしまう。天井を見て、そこの木目に人の顔が映っているような想念を抱く。誰もいないけれどそこに人の気配を感じて落ち着かない。
 ――このままでは眠れぬな。
 賢政は身体を起こすと布団を出、夜着をしっかりとかいあわせて立ちあがった。眠れぬ夜のために酒が部屋に置いてあったがそれには手をつけず、戸を開けた。即座に耳に届く虫の音が数段高まる。かなりの種類の虫が鳴いている。その音のひとつひとつに出所があって、それは人間である己と比してもとんでもないほど小さな虫の一匹一匹から発される音なのだと賢政は思い定める。虫の音ひとつでもそれほどに感情を揺り動かされるというのに、外の闇のそれぞれにくっきりと被せられる月の光は何であるのか。月と虫の音、これほど調和するものはない気がする。秋は夕暮れと書いた清少納言にも、この月と虫を愛でる気持ちはあったのではないかと考える。そして、今日の夕暮れのことを思い返す。あのときは血気にはやっていて、十分に夕暮れを楽しむことが出来なかった。初陣ということもあり、気が亢ぶっていたのだ。いまこうして落ち着いた気持ちで秋の夜の風物を愛でている自分がいる。死の恐怖はなかったか? あの六角兵を蹴散らしていたときにまったく死を意識していなかった自分に驚く。云っても殺しあいである。殺しあいとは命のやりとりである。自分には恐怖がなかった。そのためにいまこうして眠れぬ夜を過ごしているのかも知れない。恐怖がじわじわと胸の底の底の方から込みあげてきて、心の正常だった部分を侵食している最中なのかもしれない。
 ――人を殺めることは忌むべきことなのか?
 この問題はこれからの自分の行く末を決める大切な事項になる気がしてならなかった。そしてその問題にけりをつけるために、自分はこれから今日とは比べ物にならないくらい多くの命を奪うことになるだろうと予感してある種の戦慄を身裡に覚えるのだった。
 夜気に身体を当てて心の芯がぴんと筋を通したように思えるまで外の風物に目を遣り、それから寝床に戻った。
 ――明日からはまた訓練の日々に戻ることになるか。そして参列を許された軍議に出ることも頭の片隅に置いておかなければ……。
 賢政はそれからひとり寝の寂しさを身裡に感じていた。
 平井の登代姫のことである。起きるとそこに姫がいるような思いがして、目ざめて直ぐにいつも周囲を見回す癖がついている。
 しかしそれも最近は週に一、二度のことになっていた。
 人はそうして段々物事を忘れて行くものなのだと賢政は思うのだった。


4 :蒼幻 :2010/04/27(火) 03:26:32 ID:tcz3skkeVm

第二章 美濃攻め



 賢政が初陣を果たした永禄三年も無事大晦日を乗り越え、新たな年が幕をあけた。賢政は好物の餅を正月の雑煮として食し、その昼も七輪で焼いて味噌をつけ食した。
「やはり餅は旨いのう」と心地よさげに云う。
「賢政、食べすぎには注意なされよ」阿古はきっと睨む。
 賢政の母は気が強く、心に臆病なところのある久政とは対照的な女性だ。息子である賢政に対してもしっかりしたことを告げるし、駄目なことは駄目と云えるだけの強い信念を持っていた。
「いずれは貴方がこの国を背負って立つのですから、身体は労らねばなりませんよ」
 忠告とも取れる物云いだった。
「わかっておりますとも」賢政はうるさげに手を振った。
「またかと思うかも知れませんけど、貴方には登代に代わる正室を持って頂きたいと云うのが母の願いです。父上も口には出されませぬが、そのことをひどく気に病んでおられます。考えておくれましね」
「そのようなことを仰せられても、わしはどうすればいいか分りませぬ。まだ心の整理もついておらぬに、いったいどうしろと。訊けば越後の虎と呼ばれる武将長尾景虎は嫁も取らず、毘沙門天に深く帰依しているとか。そう云うのも一つの行き方ではないかとわしは思うておるのです」
「そんなものは極端な例ですよ」
 阿古は口を尖らせた。
「とにかく、いい姫御がいらしたら世話させて頂きますからな」
「弱りましたな」賢政は苦笑する。
 そんな賢政自身は新たに嫁を迎えることに抵抗があったわけではなかった。ただ初めて知った女が登代であったからこそ、あのように不思議な魅力を湛えている女子にはもう滅多に出会えぬのではないかと思っていたのである。
「まぁ、考えてみようか。期待はせんでくれよ」そう云うと、賢政はまた餅を口に入れて、長くのばして噛みきった。
 一月は順調に過ぎたが、諸国の情勢が不穏なときの安息ほど不確かなものもない。軍議に出ていた賢政ら諸将のもとに伝令が馳せ参じた。
 伝令は急いで来たらしく息を切らしていた。
「ご報告申し上げます! 上平寺の刈安尾城が美濃の軍に占拠されました!」
 諸将の間にざわめきが起こった。
「美濃が!?」
「何故にまた?」
「美濃と云えば、斎藤義龍か。いったいどうして?」
 浅井の諸将は訳が分からぬという思いでことの重大さを感じ取っていた。
「これは即刻城の奪還を図るべきにございます」遠藤が口を開いた。
「左様」赤尾美作守もそれに和す。
「久政様、如何なされます?」
 こう云う局面ではいつも惰弱なところを見せる久政であったが、これまでにまったく相手にしてこなかった美濃斎藤軍の侵攻に怒りの色を見せ、即断で奪還作戦を指示して諸将の配備を重臣たちと協議した。

 先陣、磯野丹波守員昌、
 二〜四番隊、三田村左衛門、野村肥後守、野村兵庫守、
       堀遠江守、大野木土佐守、
 本陣、浅井賢政、
 後陣、阿閉淡路守、西野壱岐守。

 と決まり、本陣に野良田のときと同じく赤尾美作守が加わることになった。久政はいつも通り城で留守を請けおうことになる。それによる諸将の動揺や不満はすでになかった。久政という主君は戦の激しい部分にはまったく顔を出さず、城でゆっくりと戦勝の報告を待っているのが性に合っているという理解を共通観念として武将達が有していたからである。賢政もそのことを意識していた。意識してはいたがその分自分がという意識はさほど強くもなく、与えられた仕事をこなすのみという思いでいたのも事実である。
「此度の戦も無事勝利の報を発せるよう、粉骨砕身頑張らせていただきます」
 賢政はそう口上を述べた。七千の軍はその日のうちに刈安尾の城に向けて進発した。

     *

 坂田まで降りて東進する。途中、磯野隊と合流した。
 賢政は脇に侍る美作守を見た。馬に騎乗しているために会話をすることはできない。賢政は暫くの沈黙の後、斎藤というこれまでに考えたことの無かった相手のことを考えていた。
 美濃は近江と同じく海がない。しかし山に囲まれた土地には川が幾本も流れ、国土は滋味豊かな食べ物が多く産出するらしい。らしいというのは勿論争乱の世であるからなかなか余所の土地を見聞することは難しいが、それでも難を冒して諸国を行商する者もあった。浅井の家も美濃の特産物をそれらの行商人から買い求めることも多々あったし、そう云う関連から土地の者に聞いた話もいくつかあった。その中には先代斎藤道三の逸話も多く含まれていた。
 斎藤義龍の父道三はもともと幼少のころ僧侶となり、それから還俗して油商人の婿となったそうである。そして縁あって大名の家臣となり、そこから国主の座を狙ったということだ。
 賢政はその話を物売りに来ていた老翁から聞いたことがあり、なかなかないことであると感じいっていたのであるが、それからの後にも違う物売りから美濃の情勢を聞くことがあり、その知らせに驚かされたことは一度や二度ではなかった。
 道三は子の義龍に家督を譲って自身は隠居したらしい。しかし義龍の不孝の数々に業を煮やした道三は他の子供に家督を譲らせようとした。それが義龍の怒りを買って道三と義龍とは父子でありながら激しく激突したとのことである。道三は皆に助力を求めたが、美濃の旧守護であった土岐の家臣たちはほぼ全員義龍に味方し、道三軍は二千五百ほどの軍勢で七倍にも上る義龍軍と激突して敗れたそうである。
 その話を聞いたとき壮絶な一生であると思ったが、同じ時代に生きている者同士であり、このようなことが自身にも起こらぬとも限らないものであるとの意識を強くして、それから父久政を見る目も変わったという今日であった。しかし自分はあの父と争うという状況が想定できなかった。もしわれら親子の間で紛争が起こったとしても、きっと大事にはならず終熄するであろうとの思いが強くなる。父は子である己に刃を向けるほど苛烈にはなれぬであろうし、子である己は父に刃を向けるほどの冷血漢にはなれぬであろう。やはり隣国とはいえ父子の争いと云うは人ならぬ者が為すことであり、しっかり孝を積み、親の愛を受けたものには当てはまらぬものであると思い做すのであった。

     *

 折しも季節は春。
 陽気が地に宙に籠ってぽかぽかと暖かい。気持ちがなごむ季節である。
 しかしそのようなことを胸に思うのもそぐわないほどに浅井の軍からは静かなる気合いが立ち上っていた。賢政は本陣ということで美作守とともに軍の中段よりもやや後ろに備えていた。先頭を行くは腕の立つ磯野丹波守員昌である。丹波守は戦が好きで好きで仕方がないような武人である。もともと近江の守護であった京極家に仕えた武将であり、今は亡き百々の代わりに佐和山の城主として任に就いている。今回も久政が刈安尾城を奪還するという計画を立てた時に、まっさきに先鋒として名が挙がり、磯野は途中の坂田にて本隊と合流したのであった。磯野も数千の軍を率いたが、勿論、六角警戒のためにある程度の軍を割いていた。
 賢政が軍を率いるのは今回が初めてであったが気負いすることもなく順調に刈安尾に向かう。野では蝶々や羽虫の類がなんの悩みも無さそうに飛び交っていた。

     *

 刈安尾城を占領していた斎藤軍には戦意がなかった。
 軍を前面に押し出し城を囲もうとすると、即座に城門を開いて軍が逃げて行く。
「なんだ、あのざまは」と浅井の兵卒たちは笑った。
「美作守、幸い刈安尾は難なく奪還することが出来た。ならば今度は逃げる奴らを追って美濃に攻め込もうぞ」
 賢政の言葉に美作守は顔を曇らせながら「仰せの通りに」と云い、伝令を一人選んで美濃進攻を小谷の城に知らせるように命令した。
「美濃を守る兵士があのような奴らばかりなら、一国を落とすのも夢ではなかろう」
 賢政は胸を張って、そう述べた。
 軍は関ヶ原、垂井、赤坂と進み、民家を見付けては火を放っていった。そして大垣に到達して攻城戦を行った。浅井方は城を取り囲み数で押そうとしたところ、城門が開いて多数の美濃兵が繰り出してくる。
「数で威圧しながら各個撃破していけば恐ろしいことはなにもない」磯野は適格な指示を与えながら敵兵を屠っていく。賢政はここまで難なく軍を進められたことに満足していた。斎藤軍は敵わぬとみて戦をしていた兵士たちに撤退を命じ、城に立てこもってしまった。
「城を落とすためにこのまま攻め続けるか、それとも逃げた美濃兵を追い掛けるか、如何なさいます?」美作守は賢政に訊ねた。
「両方を同時に致そう」賢政は即断した。「一部の軍で大垣を攻め、残りの兵士は敵を追いかける、これでよかろう」
「御意」赤尾美作守は言葉短く返答した。

     *

 浅井軍は美濃軍を追って、一本の川に差し掛かった。
「ここは何と云う川だ?」賢政は美作守に尋ねた。
「おそらく、美江寺[みえじ]川かと」
「ほう」
 そのとき川向こうに軍勢の姿が見えた。
「いよいよ本隊のお出ましか!」川の為に立ちどまったことによって後陣との間が詰まり、軍を率いている阿閉と西野が賢政の近くにまで馬を進めてきた。
「それにしても美濃は本当に川が多いのう」
 賢政はそう告げてからすぐに気合いを入れる。
 ――このようなところで敵と出会えたのも何かの僥倖だ。ここで痛めつけて美濃取りを実現しようぞ。
 賢政はそう考えて、先陣を動かした。
 磯野隊は斎藤軍に突撃を掛け、斎藤軍も川を突っ切る勢いで向ってきたため、両軍は美江寺川の真ん中で激突した。
「それ、美濃の軍を蹴散らしてしまえ!」
 馬上にて磯野は黒柄の槍を手にして敵を屠っていく。
 戦いの趨勢は明らかに浅井方に有利だった。
「美濃の軍勢といってもその内情はこのようなものであったか」赤尾美作守は美江寺川の中ほどで激突している両軍を見ながらそう漏らした。「美濃は長く国が荒れておりましたからな。そして他国への侵略などは経験がないために、戦下手でもある。常に六角軍と戦ってきたわれら浅井の兵士に比べれば差があるのも当然と云えば当然のこと……」
「そうだな」と賢政は答えた。
 戦闘は一時間ほどで片がつき、斎藤軍は美江寺から撤退しながら、少しずつ稲葉山城の方へ引き上げて行った。
 浅井軍は深追いはしないものの、それを追い掛けながらだんだん美濃の奥へと進み入る。
「ここまで簡単にことが進みましたな」と赤尾が大将の賢政に告げる。
「うむ、上首尾である」
「しかし何か解せぬ」
「うん?」
 賢政は怪訝な表情で美作守を見た。思えば、美作守はこの美濃攻めの最中、ずっと浮かない顔をしている。いったい何があったのかと、その心配事の原因を聞いてみたい気がした。
 それは美濃に攻め込んでから数日が経った日のことであった。
「わからぬのは、あの刈安尾の城に美濃軍が攻め入ったことでございます」赤尾美作守は賢政の疑問に答える形で思いを吐露した。「刈安尾に攻め入るということはわれら浅井軍を敵に回すということでございまする」
「そうだな」と賢政。
「敵対することが目的で攻め込んだなら、どうしてあんな寡勢であったのか?」
「ふむ」
「一国を攻めようとするならもっと大軍勢で、そう今われらが戦っておるような稲葉山城の軍勢を繰り出していなければおかしな道理ではござらんか?」
「それは確かに面妖なるな」
 賢政は眼の前にそびえる稲葉山城の天守閣を眺めた。
 一国を保つ城としては立派すぎる装いである。江北の小谷城は天然の要害として戦闘に於いてその機能をしっかりと果たすことは説明するまでもないが、この稲葉山城も攻めにくく守りやすいしっかりと作りこまれた城である。しかし稲葉山城はここ数日の間に必ず落ちるであろう。そう確信する賢政であった。
「斎藤軍の動きはどう考えても理屈に合わぬことだらけにござる」
 赤尾は疑問を呈する。
 それから一日が過ぎ、稲葉山城の士気も下がりに下がっている折であった。
「城中に放った忍びの報告によりますと、どうやら稲葉山城ではわれらに降伏するための準備が着々と進んでおるとのことにござる」
 赤尾は胸中に生じた疑念を払拭するような笑みを浮かべて賢政に告げた。
「美濃がわれらの手に入るか……父上も喜んで下されよう」賢政はそう云ってほほ笑んだ。
 主従がそんな会話を交わしている矢先のことであった。
 伝令が本陣に駆け込んできたのである。
 賢政は伝令の報告を受けた。
『江南の六角軍が北上して犬上を刧[おびや]かしてござる!』
 その言葉に赤尾美作守の表情ががらりと変わった。暗く落ち込むような不安と若干の怒りの入り混じっていると思える複雑な表情であった。
「やはり、そんなことでござったか!」
 赤尾は顔に血を上らせて真赭になった。
「やはり美濃と江南は繋がっておったということでござる。われらを美濃の奥へと誘い込み、防備が手薄になった江北を六角が攻める。陽動作戦にまんまと乗せられましたぞ」
「なるほど、そういうことか」賢政は美作守の説明に納得した。
「われらはここを引き、即刻領地の救援に向かわねばなりませぬ」
「うむ。だが、引けば斎藤軍は勢いを盛り返してわれらを追撃しに出て参るであろう。この殿[しんがり]は責任重大ぞ。ここに至るまでに越えてきた美江寺川は難所である。川を渡るのに手間取れば、敵の追撃をまともに受けることになる。誰を殿にするのがよいか?」
「ここは私が引き受けましょう」
 赤尾は気合いの籠った声をあげて、請け合った。
「やってくれるか」と賢政。
「この美作、決して美濃兵を本陣には近寄らせませぬ。お約束いたす」
「心強き限りぞ。無事でいてくれ」
 賢政はそう云うと、全軍に撤退を下知した。

     *

 引き始めた浅井軍に斎藤軍は案の定、追撃の軍勢を繰り出してきた。江北軍の撤退の理由が六角の侵攻にあることを知っているのであろう。もう自分達に危害が加わらないと知って、美濃軍は折れかけた士気がもとに戻っている。
 美濃の追撃の先陣は牧村牛之助であった。
 美江寺川で最初に対陣したときの先鋒もこの牛之助である。
 対する浅井軍の殿最後尾は三田村隊であった。
 三田村左衛門は美濃攻めの二番隊の長であり、同じく二番隊の野村肥後守とともに殿の役目を任されていた。殿の長は赤尾であったが、実際に最後尾は二番隊が受け持っていた。
 最初に三田村隊と牧村隊が激突する。
 逃げる浅井に追う斎藤。
 しかし三田村隊も逃げるばかりでなく、追いすがる牧村隊を何度か押し防いで両隊に僅かながらの犠牲者が出た。
 牧村隊はちくちくと蜂がさすような攻撃では埒が明かないと見たか、いったん引いた後に、一千ほどの槍をもった軍勢を陣頭にあげ、槍衾を作って猛攻を加えた。
 三田村隊はしばらくそれを防いでいたが、その作戦の巧妙さに押されて、撤退を余儀なくされた。
 槍衾は浅井軍を追いたて、三田村隊が引いて身を寄せた大野木の隊はもとより、遊軍として機能していた堀の隊までその攻撃のために総崩れになりかけていた。
 それではいかんと思った赤尾美作守は自分の隊を率いて野村肥後守の軍勢に加わる。
 肥後守は美作守の姿を見ると、ここが正念場と思い定めたらしい。
「肥後殿、浅井家中にわしらのような将のあることを見せてやろうぞ」赤尾がしっかりとした口調で告げると、肥後守はそれに頷きを加えた。
 それは責任と自負の伴った言葉として機能した。
 赤尾と野村は馬の速度を緩めて最後尾へと下っていく。
「おうおう、われは浅井が家臣、赤尾美作守である。牧村殿、いざ勝負ぞ!」
 美作守の言葉に崩れかけていた浅井の軍は統制を取り戻し、再び撤退の任についた。
「赤尾殿か。勇名は聞き及んでござる。だがいくら赤尾殿とてわが軍の力で押し切ってみせようぞ」
 牧村牛之助はそう云うと、追撃の手を伸ばした。
 赤尾隊がこの美濃攻めで初めての戦であるのに対し、牧村隊は朝から戦い詰めであった。疲労の点で差があり、赤尾隊は戦を有利に進めた。
 その勢いに水を差すように斎藤軍から名乗りが上がった。
「赤尾美作守! われは蜂屋新八郎なり。勝負致せ!」
 赤尾は手にした大太刀を馬上でぶんと振って蜂屋を威圧する。
 馬上の蜂屋は赤尾と異なりどっしりした体格である。
「われを赤尾と知ってのことであれば、勝負を受けよう。死しても恨むでないぞ」
 赤尾はそう口上を述べると、蜂屋に向けて突進した。
 二人は一合、二合と刃を交えたが、赤尾が僅かの隙をついて鎧の上から蜂屋を叩き斬る。蜂屋は落馬して地面にどっと倒れ込み、虫の息になる。それを見て、赤尾の兵士が首級をとって勝ちを得た。
「斎藤軍に更なる勇士はあるか!」
 赤尾は馬上にて声をあげた。
 それに掛かって来る将が一人。
 稲葉助七と名乗る。
「赤尾殿、今度はわしが出ますぞ」野村肥後守が主張して前に進み出た。
 野村肥後守も稲葉助七も共に馬に騎乗し、槍を帯びていた。
 殿として撤退の折であったため、長い口上は無用であった。
 共に相手を見定め、気合いを込めて突進する。
 槍と槍ががっきと噛みあいその音が戦場に響き渡る。共に金属の槍であるため、それは錚々たる音である。
 力はほぼ互角、勝負は時の運と見えたが、赤尾が戦況を見極めようとしっかりと眼差しを送っていたところ、一瞬の隙を突かれて肥後守が稲葉の槍に右肩を負傷させられた。
「ふっ、浅井も大したことはない」と稲葉は良い気になって増長の様子を見せたが、肥後守はその隙を見逃さなかった。損傷によって戦意を失ったように見せかけておきながら、自分の槍で稲葉の身体を勢い任せに縦に斬り、横に斬り、十文字の傷を負わせて彼を討ち取った。
「大言壮語はとどめを刺してから吐くものぞ!」
 野村肥後守は高々と槍をあげて武勇を誇った。
「肥後守殿、見事でござる」と赤尾美作守は告げた。「浅井の本陣はわれらの手で守ろうぞ」
「左様」と肥後守はだらだらと血が流れている右肩も厭わず、撤退の手をさらに強めた。
 立て続けに二人の部将を失った美濃軍は勢いをそがれた形になったが、すぐにまた他の者が野村に掛かって来た。
「われは犬塚二郎四郎、野村、勝負致せ!」
 その声の主は小柄であり、機敏そうな様子を見せている男であった。年齢不詳の顔は戦場で見ると不気味で何を考えているのか分かりにくい表情をしている。しかし一軍を率いる将と云うほどの格には見えず、部隊長と云うくらいの立場にありそうな人物であった。
 犬塚は槍を手にして野村に打ちかかった。
「お主はわしが相手を致す! わしは赤尾美作守が長男新兵衛なるぞ!」
 そう声を上げたは美作守の息子赤尾新兵衛である。
 二人は互いに好敵手と見たか何度か槍を前に構えて互いの出方を見た。
 やや慎重に過ぎるきらいはあったものの、やがて電光のように二人は素早く動いた。
 馬を動かし、互いの胸元目蒐けて槍を繰り出す。赤尾美作守は息子の晴れの舞台を冷や冷やしながら見守った。しかし親の心配など杞憂にすぎず、新兵衛は突き出される槍を躱けつつ、敵犬塚の喉元に槍の刃をぐさりと捻じ込む。敵は鮮血を迸らせて落馬した。
「やあやあ、この赤尾、犬塚を討ち取ったり! 続けて槍の錆にされたい者はおるか!」
 そう云いつつ斎藤軍が誰も反応しないのを見て、新兵衛は馬首を返して殿の軍に合流した。
 それからもちくちくと攻めてくる斎藤軍であったが、小競り合いにすぎなかった。そうするうち、美江寺川に辿り着く。美江寺川を渡っているときにも背後から斎藤軍が追撃してきたが犠牲は十数名に過ぎなかった。
 殿軍は美江寺川を渡り終えると同じく川を渡り始めた斎藤軍をまく絶好の機会と見て足を早め、戦線を脱して浅井の本体と合流した。


5 :蒼幻 :2010/04/27(火) 03:27:17 ID:tcz3skkeVm

     *

 佐和山の留守を任せられていたは百々隠岐守らであった。
 城主磯野丹波守員昌は美濃に攻め入っており、援助は望めない。
 そこへ六角襲来の知らせが舞い込み、隠岐守は即刻小谷城へ伝令を送った。
「百々殿、御舘様は軍を率いて駈けつけて下さるかのう?」
 同じく留守を任されている醒井が声を低めて云った。
「どうでござろうか……われらの窮地と知っても、御舘様は動かれぬ気がしてならぬ。とことん戦の嫌いな殿様であらせられるからの」
「左様でございますな」醒井の口ぶりから見て、そんなことを云った真意はそれを全く信じていない気持ちから出たものと百々は察せられた。

     *

 浅井本城小谷は六角の進軍に慄いていた。
 留守を任されていた井口越前守や千田采女正などと向き合って久政は悩んでいた。越前の朝倉にはすでに救援の手を差し伸べて貰えるように使者を出していた。使いの任に当てたは浅井福寿庵である。本名は浅井惟安と云い、小谷の福寿丸に居を構えていることから、その名がついている。長く久政の近侍を務めた人物であり、久政とはしっかりとした主従の関係が成立していた。
 しかし朝倉が動いてくれるかどうかは時の運かも知れぬと久政は思っていた。亮政の頃から常に救援の手を差し伸べてくれていた朝倉教景は数年前に亡くなっている。親浅井派と呼べるものはすでに朝倉家中になかったのである。代わって越前国主の地位にある朝倉義景は慎重派であり、こう云った火急の事態には対応できぬのではないかと思われもして、しかし越前以外に頼る所もなく久政は福寿庵を派遣したのであった。
 福寿庵は馬を飛ばしたらしくほんの数日で戻って来て久政に告げた。
「久政様、朝倉の義景殿は、『われら朝倉が浅井と堅い絆で結ばれて居ったのは過去のこと。いまは昔とは異なり、天下の情勢も変化致して居る。これはわれらの家中の命運を変えるものであるかもしれぬ故、慎重に協議致したい。しばらくお待ち下され』と申されましてございます」
「しばらく、とな?」と久政は言葉じりをとらえる。
「はっ、確かに左様、申されておりました」
「しばらくとは何か! このようなことでは佐和山が落ちてしまうではないか。うむ――」久政は苦虫を噛み潰したような表情をして歯ぎしりをした。「ええい、ならば美濃に遠征に出た賢政らを呼び戻すしかあるまい! 美濃では善戦しておるらしいが、背に腹は代えられぬ。即刻、使者を遣わせ!」
 久政はそう云って、伝令に六角侵攻の報せを持たせて派遣したのであった。

     *

 賢政は美濃攻めの最中に受けた国許よりの報せによって撤退を決め、赤尾らを殿にしつつ、美濃路を進み、近江へと急いだ。
 賢政は戦は速さと見て殿の成果に左右されるよりも前に先鋒の磯野員昌の軍勢をまっすぐ佐和山へと向かわせた。

     *

「小谷からの使者の報せによれば御舘様こそ軍を率いて救援には来られぬとのことであったが、美濃に攻め入っている賢政様の軍勢が引き返して下さるそうじゃ。もう少し、なんとか持ちこたえて見せようぞ!」
 佐和山の留守を預かる将、百々隠岐守はそう云って、気勢をあげた。
 向かいには醒井の姿があった。
「この佐和山は山も低く、小谷ほどの防御力はございませぬ。この城を取り囲んでおる六角兵は一万にもなんなんとする勢い。気合いだけではどうにもしようのない事態でございますぞ」
 醒井はそう云うと憔悴しきった表情で百々を見た。
「ええい、気合いの面で負けてどうする! 武人たらんと欲するならば、戦の最後まで希望は捨ぬものぞ!」
 百々は気合いの底上げを図るように、そう告げた。
 しかし百々の心中にも醒井と同じ気の病が萌していたのも事実である。絶望的な戦力差、宙を漂ってくる城外の敵軍の充満する気合い、遠い地にまだ戦っているであろう浅井軍の馳駆の遅延、そんなものが百々の胸中に蟠って気を塞がせているのである。
 城の外から競り合いの音が聞こえてくる。両軍ともに気合いは籠っている。しかし数で優勢な六角の兵こそ士気に秀でていた。士気は兵の一人一人の動きにも影響してくる。精兵が凡兵に当たればその差は歴然である。士気とは魔力にも似たものであり、士気さえ高ければ二や三の力しか持たぬものでも十の働きが出来るというようなこともある。武将の優れたところは、どのような劣勢にあろうとも常に士気は高く保持し、最高の能力を発揮して敵に当たることができるという点である。もちろん肉体の基礎能力も必要になってくるであろうが、それ自体凡百の兵士とは歴然たる差がある上に、士気の上でもそれらの兵士に勝っているというのであれば結果は火を見るより明らかである。
 六角の軍勢はいつにない士気の高さを誇っていた。
 百々と醒井も城を出て戦いに参じたが、戦力差はどうしようもない。
 結局、数人を殺したところで城門が破られ、六角兵が一気に城の中へなだれ込んできた。
 ――これではもう太刀打ちできぬ。
 覚悟した百々は醒井、小足らを伴って城中へ向かった。
 外ではまだ兵士たちのせめぎあう声が盛んにしている。
 剣と剣の克ちあう音、悶絶する兵士の悲鳴、鉄砲の炸裂音、なにか大きな物を動かす時に出る音、そんなものが周りを取り巻いている。春の陽気の一日にはそぐわぬ平和を壊す物音である。
 部屋の中央に正座した百々は腰から小刀を取りだすとそれを前に置き、一度深呼吸した。
「醒井、小足。そなたらと共に戦えて本当に良かったぞ」
 百々はそう云いおいて小刀の鞘をとって刃を首にあてた。
「御先にごめん」そう云うと、百々はすっと自分の小刀を首に押し当て引いた。
 ばっと鮮血が飛ぶ。
 薄れゆく意識の中で六角兵のものと思える無粋な足音が聞えて来た。
 百々はがくりと首を落とす。床にはどくどくと血が流れて行く。
 醒井、小足も百々の後を追うようにして、自刃して果てた。

     *

 磯野隊はそれよりしばらく遅れて磨針峠に到着した。
 その旗印を見て、六角兵はどよめいた。
「われらの動きを察して美濃より引き上げて来たにしてはあまりに早すぎる。いったいどういうことだ!?」
 六角義賢は歯噛みしながら家臣に告げた。
 諸将を前にして義賢は宣言する。
「この佐和山で浅井の兵の攻撃を受けるは不利が過ぎる。折角取った城ではあるが、全軍、撤退するぞ!」
 義賢の命令が全員に周知されるにはしばらく掛かった。
 その隙に磯野隊は馬を掛けさせ、逃げ遅れた数名の六角兵を血祭りにあげた。

     *

「此度の戦はいろいろと疲れましたな」赤尾美作守は小谷に戻って美濃攻めの首尾を久政らに報告していた。
「美濃の軍勢はそれほど恐怖でもありませなんだぞ」
 野村肥後守がそう告げる。
「しかし美濃が領地に攻め込んできたときに六角の意図を察知できなんだは不覚でございました」赤尾は主張した。「もし分っておれば、深追いなどしませなんだものを」
「そうであるな、また百々の家から犠牲者を出してしまった。よく安堵してやることにしよう」久政はそう云って顔を曇らせる。
 百々は磯野と同じく昔は京極家の家臣であった。浅井家が江北に於いて実権を握るようになってから浅井家に仕え始めたのである。亮政の代からのことであるので、もう相当な年月が経っている。
「あとは朝倉だな」久政は言葉を濁した。
「朝倉ですか――」と美作守。
「亮政様の代からの縁は偽物であったのか」野村肥後守はいきり立って云った。
「朝倉は警戒せねばなりませぬな。よもやわが国に刃を向けることはないでございましょうが、そんなことになればこの江北は損亡の危機でございます」
「いやいや、朝倉にそんな意図はないであろう。そこは言葉の裏を疑わずまっすぐ見るべきだ」久政は穏健派らしくそう告げて一同の気持ちを慰撫した。「それはさて置き、六角侵攻である。」久政は述べた。「佐和山は奪還できたものの、まだ太尾山が六角に占領されたままである。これを奪還せねば、落ち着いて眠れぬというものぞ」
「確かに、確かに」野村肥後守は同意の頷きを加えた。「しかし、如何にすれば六角を出し抜いて太尾山を奪還できますものか。難しいですな」
 肥後守の云うのも一理あった。
 太尾山城は六角の土地から近いこともあり、もし軍勢で囲んで落とそうとすれば、すぐに国許から救援の手が差し伸べられて作戦遂行は困難になってしまう。そこで浅井方はしばらく太尾山を六角に渡しておくことに決めたのだった。

     *

「磯野、此度の不始末説明してみせよ」
 七月、軍議の席で磯野員昌が責められていた。
「何から話せばよいものやら……」員昌は戸惑った。
 太尾山を攻めろと命じられた箕浦城城主今井定清が助力を乞うた磯野員昌に殺されたのである。もちろん、いがみあいや憎しみのためではない。それは家臣たちも薄々知っていた。作戦の上での不備がこのような事態をもたらしたのである。
「このようなことになるとは思いもよりませなんだ」
 磯野は額に汗を浮かべる。
「まあ、いいから話してみよ」と赤尾。
「はっ」磯野が返事をした。「われらは去ること今月の一日、夜のうちに今井殿、島秀安殿らと共に太尾山を囲んでおり申した。そして伊賀者を多数使って火計にて敵を混乱させて突撃を試みる予定だったのですが、なんの手違いか、約束の刻限が過ぎても火の手が上がりませなんだ。それで今井殿は作戦の失敗を思って先に箕浦城に戻ろうとされたのですが、それからすぐに火の手が上がったのです。それを見た今井殿は太尾山に急いで引きかえしてこられたのですが、そのとき、われらの兵は今井殿の兵を敵と見て、今井殿の兵はわれらの兵を敵と見られて、互いに斬り合ってしまったのです。まさか仲間同士だとも思わず、あの暗闇でございましたから、どうしても一度ずれてしまったものは修復することができないというやつで、とことんまで殺し合ってしまったのでござる。あい、すまぬことである」
「なるほど。丹波守の過失というわけでもなさそうだな」美作守は表情を曇らせながらそう云った。
「ならば、員昌、今井の残された家族に十分に詫びておくのだ。今井は大切な臣である。これからも良好な関係を保って置きたいしな」
 磯野丹波守は美作守にそう云われて、
「御意」
 とのみ告げて、その話は終わった。
 七月七日、磯野は今井の一族に起請文を送ったとのことである。

     *


 話し遡って三月の中旬。
 賢政は供も連れずに領内を回っていた。
 田園には水が張られ、百姓は稲を植え始めている。
 武人は人を殺して百姓は作物を実らせる。
 これほど対照的なことに打ち込んでいる者もない気がすると賢政は思う。この農村は家の数は少なくしかも一所に固まらずにあちらに二軒そちらに一軒という感じで散らばっている。寒村というわけではない。僻地にあるわけでもないし、土地が瘠せているとか交通の便が悪いわけでもない。ただどう云うわけか昔からここには人があまり集まらないという立地であった。
 この近くには多賀大社という大きな神社がある。賢政は時折そこを訪れもしていたのであるが、最近は六角との絡みもあってあまり南に向かうことはなかった。多賀と云うと随分六角の土地に近く危険も多かったので供を多く連れてしか普段は近寄らないという状況だったのである。が、賢政は曽我を抜けて久徳を超え、多賀の門前町に向かって馬を進めた。
 馬を置ける肆を見つけて金を払い、鳥居をくぐって多賀大社に向かう。大きな社が見えている。この神社は『古事記』などで有名な日本神話の伊邪那岐尊と伊邪那美尊の兄妹の神を祀っているのである。賢政は戦時ではないので甲冑ではなく簡単な寛衣を身につけていたのであるが、その容貌の魁偉なさまはぱっと見ただけでも只人ならずとわかるもので、参拝して手を合わせていると大社の宮司がやってきて声を掛けた。
「貴方様の御芳名を聞かせていただけませぬか?」もう四十半ばと思える浅黄色の袍に白の袴を着た宮司が目を光らせて尋ねた。
「これはこれは宮寺殿。わしは小谷が城主浅井久政が嫡子賢政である。近くまで来た故、参拝させて頂いておる」
「おう、これはまたなんと。賢政様であらせられましたか。お噂はかねがね」宮司は喜悦の笑みを見せる。
「ならば上の者を呼んで参りますから暫しお待ちを」
「いやいやお気づかいなく。何か善き話を持っておるわけでもないのでな。それより少し話さぬか?」賢政はこの人懐っこそうな宮司に向けて声をかけた。
「でしたら社殿に部屋がございますからそこで」
「いや、ここで良い。そんなに堅苦しくてはこちらが困る故の」
「左様でございますか」
 宮司は茶の一杯も出せぬことを残念に思っている風であった。神社の中での地位は端役なのであろうか? どこかこの宮司には暇を持て余しているという雰囲気があって、それが賢政にとって気安く話しかけられる相手であるとの認識を与えているのであった。
「この多賀大社というは、いつの時代からここにあるのかの?」
 賢政はそう尋ねた。
 宮司はその質問に嬉しそうに受け答える。
「遥か昔、『古事記』の編纂がなされたときにはすでにあったという説が有力でございます。古事記にも〈伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐すなり〉という記述があるほどで、それより以前の時代にもこの地域を支配していた犬上氏という一族が神社を守っていたということも伝わっております」
「古事記は昔に一度読んだきりでそれほどの素養もなく、その箇所も読み飛ばしていたが、そんな記述があったとはな。それにしても伊邪那岐・伊邪那美の神と云うはいったいどのようなものであったのだろうな?」
「天照大神や月読尊、須佐之男尊などの母でございます伊邪那美尊、そしてその兄である伊邪那岐尊。伊勢には天照大神を祀る神社もございますゆえ、そう云うものの関連を調べるもまた面白きことかもしれませぬ」
「伊勢か……遠いのう」賢政は慨歎するような溜息を漏らす。「わしはこのほど美濃へ攻め込んだが、伊勢へはその美濃から尾張、尾張から伊勢へ抜けるしかないからのう。直接に江南から向かう手もないこともないが、江南には六角がおるし伊勢へは山越えということになる。それはとても難所であると聞くしの」
「左様でございますな」宮司は声を落とした。
「しかし、この多賀という土地はまた独特であるのう」
「何でございますか?」
「時代に取り残されて居るようでいてそれを悲観することもなく昔からの教えを実直に守ることに矜恃をもっておるような気がしてならぬ。それもこれも近江の土地に稀有なる神々を祀った多賀大社がある故であろうな」
「そう云っていただけると多賀の人間としてはとても嬉しゅうございますな」
「はは、本心であるぞ。二心はない故、素直に受け取ってくれ」
 賢政はとても寛いだ表情で笑う。
「さてずいぶん長話をしてしまったな。引きとめて悪かった」
「いえいえこちらこそ賢政様と話せてとても嬉しゅうございました」
「ふむ……またよろしく頼む」
「はい」
 賢政はもう一度大社の社殿を見て手を合わせた。
 そして宮司に別れの言葉を述べると、賢政は馬を停めた肆に行き、礼を云って、土産物の根付をひとつ買って腰紐につるした。それは忍者の持つ武器である手裏剣をかたどったもので、実際に堅い真鉄でできているのであった。

     *

 一日の軍議を終えて夕刻、部屋で書を読む。
 心静かに落ち着いて書を読んでいると、何か自分が全智識を統べる神にでもなったような印象を抱く時がある。
 勿論それは錯覚でしかなく、唯の妄念に過ぎないのであったが、賢政はそんなことを考える時間も愛おしいと思えるのであった。
 母の阿古は早く次の嫁を迎えよとせっつく。日に日にその気配は強くなってきている。父も口には出さないが、それを気にしているようであった。勿論、父には息子に敵国の女子を嫁に迎えさせてしまった引け目があるために、もうこれ以上、嫁取りに口出しすまいと心を定めているようである。その懊悩がときどき聡い賢政には察せられるためにそれが余計に心労となって胸に圧し掛かって来るのである。
 しかし家臣の娘を正室に迎えるは家が荒れる原因になるであろうし、それならどこか家格の同じ大名から姫を迎えるのが適当であると思えるが、いまなら朝倉がいい相手か? しかし越前朝倉は六角の佐和山侵攻のときに兵を出してくれず関係はくすぶっている最中である。一体己の正室となってくれる女子などどこにいるというのか……。
 賢政はそんな思いも胸に抱きつつその悩みを散らすようにして書に打ち込んだ。いま読んでいるのは孟軻の書である。

『道は近きにあり、然るにこれを遠きに求む』

 いま読んでいたその文章を深く考えてみる。
 近いことにこそ未来を見ればよく、あまりに遠いものは見るだけ無駄である。まるでいまの自分を書の神がどこからか見ていて、それを見越したうえでこの文章を己に読ませているようだと賢政は考えた。
 浅井の家のことを考えるに遠い慮りばかりして近くが見えなくなるというような弊は忌むべきである。それは強く思う。
「若君、茶をお持ちいたしました」
 その時、襖の向こうから声が掛けられた。
 侍女の妙[たえ]である。
「妙、お前は遠い未来のことを思って悩み患うことはあるか?」
 その質問は賢政が人に一番に訊いてみたい質問であった。
 妙はきょとんとした表情で賢政を見る。
 賢政は思う。
 ――この女はあの登代に比べれば器量の点でも遠く及ばぬ。
 そんなことを思いながら、賢政は苦笑する。
 ――わしはどれだけ登代のことを思っておるのだ。もうあれから一年以上経つというにまだ心の整理が出来ておらぬ。これでは家臣たちに笑われよう。やはり母上の仰せの通り、新しい室を迎えることを考えるべきか?
 そんなことを思ってまたどこの姫なら自分の嫁になってくれるだろうと考え、そんなことを思いつつ先の孟軻の書の言葉を思い返す。
 ――これでは堂々巡りじゃ! いかんいかん!
 賢政は妙の持って来た茶を飲み、一息ついた。
 そのまま何をどう考えればいいのか分からなくなって結局室内で何も引かずごろんと横になった。衣の裾が折れてしまうのも厭わなかった。
 ――江南――美濃――越前――尾張――伊勢――京――。
 各国が流動的に関係を変化させているのが今の世である。
 付いたり離れたり。これは人の心も同じであると賢政は考える。
 いったいどうすればこの江北を危難なく動かしていけるのか? 敵は随所にいる。あまりに巨大な危難であれば、それを攻略して行かねばならぬであろう。誰と組み、誰を討つか。それは将棋や囲碁のようなものとは異なり、生々しい人間同士の血の通った真剣な遊戯である。この遊戯はしくじれば血が流れ、命を落とす。それゆえ参加する者も見物する者も命がけなのである。
 ――今日の軍議の終わりに諸将がこちらを見て何か云いたそうにしていた。いったい何であるのかと疑問であったがわしが出ていこうとすると引きとめようとしたあの赤尾美作守の表情。何かあるとは思ったが、しかし何も云ってこなかった。気にはなる。
 ――明日問い詰めてみよう。
 賢政はそう思い直し、また身体を起こして書に没頭し始めた。
 論語に詩経に孟子に老子。
 支那は本当に懐が深い。
 さまざまな思想が入り乱れている。
 支那とはどのような場所であるのだろう?
 賢政はそんなことを思いながら書に当たっていった。
 その夜はいつもよりも眠りが深く、無意識下で、何か明日への予感に備えていたようでもあった。


6 :蒼幻 :2010/05/05(水) 07:41:54 ID:tcz3skkeVm

第三章 観音寺騒動


 翌日の朝のことである。
 賢政らが住まう清水谷の屋敷に赤尾美作守、井口越前守らがやって来て話があると賢政に切りだしたのである。外ではそろそろ蝉の鳴き声がかしましくなってきている季節のこととて室内は蒸すように暑い。それでも重臣たちは余所でするには憚られる話であるからと云いおき、自分達の話を始めるのであった。
 話の内容は賢政にとって甚だ急で驚かされるものであった。
 井口越前守が述べる。
「野良田の戦いでの勇志、そして美濃での采配の妙、賢政様の能力の高さを示す好例であったと思いまする。これからの浅井家は賢政様を中心にして考えたいというのがわれら浅井家家臣の意思にございます。久政様には御隠居頂き、我らは賢政様を主君として仰いでいきたいと思うておりまする」
 賢政は余りのことに言葉を失った。
 ――わしが主君になるだと? 早すぎる。これは早すぎる。
「賢政様!」
「若君!」
 家臣たちは賢政に決断を迫るように、声を揃えて名を呼んで来る。
「しかし父上を差し置いてわしが当主になるというのは些か非人情に過ぎるのではないか?」
 賢政はやんわりと辞退するような言葉を述べた。
 家臣たちはそれでも諦めない。
「賢政様」
 その時、赤尾美作守が言葉を択んで云った。
「賢政様、現在の当主であらせられる久政様は、昼は能楽、夜は酒に女、荒淫がたたって家が傾くは必定に思えます。久政様ではこの浅井家自体が危ううござる。賢政様、是非賢明なる御配慮を賜りとう存じまする」
「しかし――本当にそれでいいのか……」賢政に優柔不断な面が立ち現れる。
「是非、善きご判断を!」井口越前守がそう云うと、重臣たちは皆打ち揃って、語気を強めて賢政にこの話を受けるように主張した。
 賢政は目をつむって、そのことを考えた。
 蝉の声がじっとりと耳に纏いつく。
 室内に入って来る風はなく、背筋に汗が浮かんでつーっと垂れてくる。ひだるい感じがして自分がどうして今この場にいて重臣達にせっつかれているのか意味が分からなくなってくる。
「賢政様!」
「賢政殿!」
 声がひっきりなしに飛んで来る。
 これ以上ないというほどに場の雰囲気は張り詰めている。
 ――これは決断せねばならぬな、と賢政は思った。
 昨日、室で書を読んでいたときに重臣達が何か画策していることは察知していたものの、それがまさかこのような話であったとは想像もつかなかった。勿論、浅井家の当主になるということをあからさまに拒否したい理由は無かった。しかし父久政の心情を思うとそれはまた道理だけで考えていい問題ではない気もするのだ。
 ――父を退けて自分がその立場に就いてしまっていいものか。
 賢政の頭には〈孝〉の一字が重くのしかかっていた。
 いまこの考えを主張している面々にはこの古来よりの徳目は胸中に萌しているのであろうか? そんな風に賢政は考える。確かに父は出鱈目過ぎる面もあるだろう。しかし云っても自分はその子供であるのだ。父が駄目なら子にとかける家臣たちの意気込みは分からないでもない。が、やはりそれではいけない気がする。
「美作守……やはり、わしは――」
 と云い掛けた時だった。
 出掛けていたと思っていた久政が襖を開けて部屋に入って来たのである。
「ち、父上」と賢政は唖然とした調子で告げる。
「御舘様……」と重臣達も戸惑いを隠せない様子である。
 久政は普段の余り悩みのなさそうな表情ではなく、やや思いつめた表情を見せながらその場にいる一同に目を合わせた。
「赤尾! 井口! 遠藤! 阿閉! ……」
「はっ」名を呼ばれた部将はしっかりとした語調で返事をする。
「そなたらの話、襖の向こうで聞いておった」
 諸将の顔がさっと青ざめる。
「御舘様!」
 一同は動揺する様子を見せたが、赤尾美作守だけは表情を変えなかった。賢政はその様子をはっきりと見ていた。
「確かにわしは当主としては不適任かもしれぬ。だが、どうして賢政に告げる前にわしに相談せぬのだ? わしはそこまで軽視されておったのか?」
「そ、それは」家臣の間に動揺が走る。
「それはまあいい。しかし賢政、わしは感服したぞ」
 久政は感心するように賢政に告げた。
「家臣たちにこの話を持ちかけられて、『そうか、あいわかった』と簡単に返事をするようなら、もはや親子の縁を切って対立するしかなかったものであるに、お前は考えなしに即決せず、しっかりと悩んでいた。それこそ、子のあるべき姿であると、わしは思う」
 賢政は久政が何を言い出すのかとひやひやしたが、しかし道理のわかることであったので安心した。そして自分が褒められていることに気づき、照れくさい気持ちも心に浮かんだが、久政の言葉はやはりこの騒乱の世には不適切な甘さがあると思われ、それが心中にしこりとなって違和感を覚えた。
「賢政、そなたは見どころがある。わしが云わずともそれは明らかであろう」久政は続けた。「わしはお主らがいうように隠居することにしよう。だがわしをないがしろにする事は許さぬからな。それだけは申しつけておく」
「父上……」賢政はそう告げるとほーっと息を吐いた。
 久政はそれだけ云うとその場に腰をおろして話の成り行きを見守る様子である。
 赤尾美作守が状況を見極めて話を進めた。
「ならば賢政様、この話を受けてくださいますな?」
 賢政はまだ若干のためらいがあったが、しかし話を受けることにした。
「うむ」
 その賢政の返答に、諸将はほっと胸を撫で下ろした様子だった。
「それでひとつ提案にございますが――」と赤尾が続ける。
「なんだ?」と賢政。
「この若君の名前の〈賢政〉でございますが」
「うん?」
「若君の名前はもともと六角との忌むべき約定によって受けた偏諱がもととなって付けられた名でございまする。これがあってはいつまでも六角の呪縛を抜け出せぬような印象が漂いまして、あまりに不適格でございましょう。そこで若君には名を変えていただくのも良いのではないかと思うのですが、如何ですかな――」
 賢政は美作守の言葉をその通りに受け取り、さもあらんと考えた。
「いきなり変名と云われても佳いものが浮かばぬな」
 賢政はそう云って思案する表情を一同に向けた。
「それならば、よい方法がございまする」
「うん?」
「賢政様、諸国に武将数多居るなかで一番関心のある武将はどなたでございますかな? その武将の名を頂くというのも方法の一つに御座いますぞ」
 赤尾はそう主張した。
「それはいい考えじゃ」井口越前守が口添えした。
「うーむ」
 賢政は暫く考える。
「勘案するに、わしがいま一番惹かれておるは、尾張の織田信長じゃな」
「ほう」と赤尾は感心したように言葉じりを伸ばした。「織田殿でござるか……去年の五月に桶狭間にて今川義元を討ち破り、その勢い盛んなる織田殿。これはいいかも知れませぬ。ならば織田殿の名前信長の一字を頂いて名を改められませ」
「うむ、信政、長政……。長政か……なかなかいい名だ」賢政はそう述べると、嬉しそうにほほ笑んだ。
「長政……様」諸将らが口をそろえて新当主の新しい名を口にした。
「ならばさっそく偏諱の申し出を書状にして尾州に届けましょう。よもや信長殿は拒否なさるまい」赤尾はそう云って場を取り仕切った。

     *

 磯野伯耆守は美濃を超え、尾張に急いでいた。
 懐には浅井賢政の親書が入っている。
 美濃領内に入ることはたやすかった。別に門があってそこで引きとめられるわけでもない。一応の警戒はしているものの、一人で馬を駆けさせる者もそう珍しくはないため、目立つこともなかった。
 小谷は山中にあるものの、そこからは遙けき眺めの琵琶湖を見はるかすことができる。しかしこの美濃と云う土地はどこもかしこも山と云う印象で、山に囲まれた比較的平らな場所にて農作を営んでいるという様子であった。磯野伯耆守は目立たぬように、しかしすばやく斎藤家の領内を進んで行く。
 大垣を超え、南に進路をとる。
 ここを北東に上がればあの美江寺があり稲葉山があるのだなと意識する。
 美濃の激戦は戦に参加していた者たちからも聞いていた。自分は武に於いて活躍する侍ではないため、一生そのような大戦[おおいくさ]に駆り出されることはあるまい。そう思う伯耆守であった。
 美濃領内を超え、尾張の土地に差し掛かる。
 宿で一夜を過ごし、あくる朝、尾張へと入る。
 尾張領内に入ると、地勢ががらりと変わった。
 平地が主体になっていて田畑の実りも豊饒である。
 近江とさほど変わらぬ印象であるが、こちらの方が数段暖かい。暖かいというよりも、いまの季節であれば暑いと形容するが適当であろう。
 未刻、清洲の城に到着する。
 清洲では織田家家臣不破河内守を頼るようにと沙汰されていたので、自分の身分を名乗って面会を求めた。
「江北は浅井の家臣磯野伯耆守でござる。不破河内守殿にお目通り願いたい!」
 清洲の門衛はその名乗りを聞いて「何用でござるか?」と尋ねてくる。
 慎重になるのも無理はない。これまでまったく関係を持って来なかったのであるから。
 しかし伯耆守が主君賢政の親書を携えて参ったと申し出ると、門衛は先の非礼を詫びて伝令を飛ばし、中へと通してくれた。伯耆守はどこをどう通されたものか、ある屋敷の前まで案内されてそこへ入るように指示された。途中の道は立派なもので庭木も豊富に植わっていたが、それに手を掛けるあまり他のものがおろそかになるというわけでもなく、かといって手入れされていないというわけでもなく、一口に云って瀟洒と云えそうな佇まいの屋敷であった。
 伯耆守は周りの様子を窺いながら進んで行き、そして一室に案内される。
「しばしお待ちを……」と告げると案内は部屋を出て伯耆守一人が取り残された。
「さて、この親書素直に受けていただけるものか……」
 伯耆守は戸惑いつつもここまで来たならしっかりと任務を果たすしかあるまいと覚悟を決める。
 待たされているうちに部屋の調度に油断のない視線を送る。
 ――うむ、さすが立派な家格だけあって調度も一流だわい。
 伯耆守はそう思って品の見事な花瓶や壺、掛け軸、襖絵などに目を遣る。
 調度にはその土地の影響が色濃く出るもので、尾張のそれはまさしく洗練されている。花瓶は白磁、壺は青磁、掛け軸は宋代かと思われ、襖絵は枯淡の域を表している山水画である。
「お待たせいたしましたな。安養寺殿からの御指名とか?」
「はっ」伯耆守は返事をする。
 話の流れから云って、この男こそが不破河内守なのであろう。武張ったところは感じられず理性的なまなざしをしているが、文弱の徒と云うわけでもなさそうだ。どことなく飄逸な印象があって、底の知れない不気味さも持っている。
 伯耆守は告げた。
「此度、浅井家中は代替えを致しましてな」
「ほう」
「久政様に変わり、若君が後を継ぐことになり申した」
「なるほど……」不破はそう云うと、「ならば、此度は何用で?」
「実は若君はこれまで敵であった江南の六角義賢の賢の一字をとって賢政という名を使われて参ったのであるが、此度、信長様の長の一字を拝領して長政と名乗りたいと申されて居るのだ。これが親書である。ぜひ、信長さまに取り次いで頂きたい」
「左様なるか、あい分かった」不破はそう云うと伯耆守を連れて信長のいる天守に向かうことにした。
 天主閣はとても豪華だった。金箔もところどころに使われており、観る者を威圧するようでもある。織田信長は伯耆守が姿を見せたとき上座に座しており、何か良きことを考えていたのか機嫌がよさそうだった。
 どこか野性的な魅力をたたえながら、しかし芯は油断のならぬ聡い男でありそうだと磯野伯耆守は見た。
「殿、江北の浅井が家臣磯野伯耆守殿でござる」不破が云う。
「うん?」信長はじっと伯耆守を見る。「して、何用じゃ?」
 信長の態度には不遜な雰囲気が見えたが、それは普段温厚な人物が機嫌を悪くしてそのような態度に出ているのではなく、普段から人に弱みを見せないように心掛けている人物が、慣れぬ客人にどう接していいか態度を決めかねるという様子であったから、伯耆守は気分を害することなく、自分の要件を伝えた。
「ほう……江北の浅井殿がわしの名を使いたいとか」
「はっ」
「それはいい。ぜひ、使われよ。ならばしばし待たれい。わしも書状を書く故」
「ありがたきことにございます」伯耆守は恐縮してしまった。
 この織田信長と云う男はとても変わり者であると聞き及んでいたから、これほどすんなり偏諱の許可を貰えるとは思ってもみなかったのである。これも尾張一国を統べているという自信から来るものであるのか?
 信長は賢政の書状を見ながら、勢いのある筆致で文言を書きつけて行く。
 墨が乾くのを待って、信長は書状を畳んで封をし、伯耆守に預けた。
 それから「不破!」と信長は告げた。「確か、そなたには近江の国に知り合いがおったの」
「はっ」
「ならば彼の者とも良しなに致せよ」
 不破は信長の言葉の真意が掴みかねるというような様子であったが、表だって、それを態度に出していない。若干口元が疑問に歪んだ風に見えただけである。
 ――気のせいか? と伯耆守は戸惑う。
「伯耆守よ」と信長は告げる。
「はっ」と伯耆守。
「長政殿にしかと伝えてくれ。この話、信長は満悦であると」
「確かにお伝えいたします」伯耆守はそう云って、信長の前を辞去した。
 その夜は不破邸で酒宴を張り、明朝、伯耆守は近江に向けて邸を発った。

     *

 伯耆守が持ち帰った書状は賢政をたいへん喜ばせた。
 ――信長殿か。噂にたがわず、秀れた人物であるようだ。
 賢政はそう思い、信長の書状を一度ならず、二度、三度と読んだものだった。
 それから日が経ち、いま木之本地蔵尊には浅井家の諸将が詰めかけていた。適度に広いがそれには限りがあるため、厳選された人物しか選ばれていない。
「今日は賢政様のめでたい席でござるな」
 一人の出席者がそう云うと、
「そうじゃのう」と何人もが声を和す。
「しっ、いよいよ祈祷会が始まるぞ」
 出席者のそのような言葉はやがて聴かれなくなり、皆が、堂に入って来た賢政の姿に目を奪われた。
 さほど派手ではないが正装している姿は見事な一丈夫。
 皆が息を飲むのも当然であった。
 賢政が仏前に座ると、地蔵尊の住職である浄阿が祈祷をはじめた。
 木之本地蔵尊の本尊は龍樹菩薩の御作であるとされているが、正確なところは分らない。昔金光を放っていたといわれる本尊はいまでは静かに寂びた風情を醸している。賢政は数ヶ月振りに見るこの本尊を、今日ほどめでたくありがたいものであると感じたことはなかった。
 祈祷は一時間ほどで終わり、脇に侍っていた美作守が賢政の改名のことを告げ、同時に賢政が浅井家の三代目に就任するということを正式に下知した。
 堂内は興奮した家臣たちの大きな歓声で埋め尽くされ、その声はしばらく鳴りやまなかった。
「皆の者よ」
 声が終息し始めたころ、賢政が告げた。
「わしは今日から浅井長政となった。これよりは浅井家発展のために尽力いたす所存じゃ。皆にはよろしゅう頼むぞ」
 その見事な宣言に、また場内は熱気に包まれた。
「皆が一堂に会すことも珍しいからの。これより連歌会でもと思うのだがどうだろう?」
 赤尾美作守は「それは良い考えですのう。皆はどうじゃ?」と訊ねた。
 一同は賛意を示し、長政は地蔵尊の住職浄阿も含めて皆で連歌会を催すことに決めた。
 初めに浄阿が発句を読み、それに長政が続く。

 近き江は陰さえなびく柳かな  浄阿
 朝日長閑かに映る真砂地  長政

 そんな句が生まれ、諸将はその歌を褒めちぎった。
 長政の付け句には〈浅井長政〉の四字が詠みこまれている。そして重臣達もそれに続いて歌を詠んだ。連歌会は盛況のうちに終わり、賢政は正式に三代目当主浅井長政となったのであった。


7 :蒼幻 :2010/05/05(水) 07:42:49 ID:tcz3skkeVm

     *

 長政は領内に善政を敷き、その成果は順調に出ていた。
 長く江北に住む領民らは長政の祖父亮政の善政を知っている者が多かった。故にその若き指導者に期待を膨らませた。この領主ならばきっと良き政治を行ってくれるだろうと。
 長政と改名したその年も終わり、永禄六年は順調に過ぎゆくかと見えていたところ、九月下旬、江南にて事件が勃発した。
「聞かれましたか、長政様?」
 ややあわて気味に城内へ入って来た美作守の様子に長政は驚かされた。
「なんだ、なにがあった?」
 長政は怪訝そうに尋ねる。
「あの江南の六角家に於いて内乱が勃発したとのこと。六角の元家臣らが来てわれらに救援の手を差し伸べてほしいとのことでござる」
「うん? 話が見えぬが?」と長政。「救いを求めているのは正規軍か?」
「反乱軍、でござるな」赤尾は素直に答えた。
「反乱軍――していきさつなどは知っておるのか?」
「どうやら六角の家督を継いだ義弼が原因らしいのです」
「ほう」
「六角の代替わりのことはご存知でしたかな?」
「ああ、聴き及んでおる。で、その義弼が如何致した?」
「はっ、それでございますが――」
 美作守が答えようとしていたとき、普段はあまり目立たないが質実たる男、海北綱親が姿を見せた。
「おう、海北殿、珍しいですな」赤尾美作守が声を漏らす。
 海北はすらりとした細身の部将で才知に長け、政策の立案などを主に任されていたが、浅井家三代に仕え、赤尾美作守、遠藤直経らとともに現在の浅井家を担っている重鎮中の重鎮であった。
「聞かれましたか?」と海北は訊ねる。
「うん、何がだ?」と長政は云う。
「六角の内紛のことでござる」
「ああ、それなら、いま美作守から聞こうと思っていたところじゃ」
「そうでござったか。ならば、赤尾殿、わしにも聞かせてくれぬか。少し興味がござってな」
「そうか、ならお聞かせ申そう」と赤尾。「で、何から話すのでしたかな?」
「話しやすいところからでいい」長政が告げる。
 美作守は「ならば――」と云い置いて続けた。「此度の内乱は江南六角の当主の座についた義弼が父祖二代に仕えた家老後藤但馬守賢豊を暗殺したことから発したのでござる」
「あ、暗殺!」長政はその言葉の持つ狂気の側面を如実に感じとって言葉を失った。
 ――後藤と云う部将は名だけは知っている。優秀な人材であったと聞く。それにしても、仮にも家老職にあった者を軽々と暗殺とは……義弼とはいったい何者なのか……。
 長政はしばらく考え込んだ。自分なら、仕えてくれる部将を殺そうなどとそんな非情なことは絶対に思いつかないだろうと考える。それが出来てしまえる一国の当主とは決してうまくやっていくことはできないだろう。義弼というと長政の初陣であった野良田での戦いのときの一軍の精強さが際立っていたことを思い出す。兵士を率いる時はあれほど優れていたが、その非情さは、当主としてふさわしい物であるのかどうか。一方に父久政のような惰弱な当主があって、一方に義弼のような非情な当主がある。惰弱な当主も困りものだが、非情な当主に仕えなくてはならぬ部将も不憫であるなと長政は思う。
「家老の後藤は息子と共に殺されたとのことでござる」美作守は話を続けた。
「父子ともどもという奴か……」
「左様にて」
「あまり感心できることではないな」長政は顔をしかめた。
「ここよりは少し蛇足でござるが、聴き及んだことであるので、披露致そう」
「ああ、頼む」
「後藤父子は義弼に呼び出されて父子で家を出て、観音寺城に向かったのでござる」
「そうか」
「そしてその道すがら、〈老蘇の森〉と呼ばれる場所にて待ち伏せされて命を落としました」
「誰がやったかはわかっておるのか?」
「はっ。義弼の信任厚かった種村三河守と建部日向守とのことです」
「聞いたことのない名だ」
「左様でございますか。わしも寡聞にして知らぬのでございますがな……」
「うむ」長政は美作守の言葉に同意した。「で、話の筋はどうなったかな?」
「ああ、すみませぬ。それで、でござるが――、後藤父子は殺されました。後藤は前当主六角義賢改め承禎の心腹厚うございましたが、殺害の報知が隠居先の箕作城に届いても、承禎は何もすることができなかったそうにございます。そんな折、義弼は家臣全員に観音寺城に参じるように命令を出したのですが、勿論忠臣後藤を殺したことは皆の耳に入っており、日頃から二人の中の険悪なることを知っていただけでなく、皆後藤のことを思っておったので、誰ひとりとして観音寺城に出向いた者はおりませなんだ。そしてそれのみならず六角家臣の殆どは反旗を翻して義弼を斥けようという動きに傾いてきているのでございます」
「なかなか由々しき事態になっておるのう」長政は感嘆するように述べた。
 他山の石という警句をここで引くまでもなく、長政の心中にはこのような事態に直面して、自身も気をつけねばなるまいと心を改めるのであったが、美作守の話はこれで終わりではない。
「それで、ここからが重要なのでございますが――」と美作守。
「なんじゃ?」
「実は、六角が家臣永田、三上、池田、平井、進藤の連判で、この江北浅井家に救援を頼みに参ったのでござる」
 長政はそこに懐かしい名前があがったことに驚いた。
 ――この中に平井の名があるとは……。
 それは長政にとって意外な驚きであった。
 平井とは登代を離縁してからずっと疎遠であったのだ。その平井がまた浅井家に援助を申し出てくるとは……。長政はもう遠い過去になってしまっている過去の女のことを懐かしさと共に思い出したが、しかし今は赤尾の話の方が肝要である。長政は気を引き締めて雑念を追い払おうとした。
 そのときじっと黙っていた海北綱親が意見を述べた。
「六角は仇敵と云ってもいいくらいの私怨の相手でございますが、ここはひとつ六角家中に梃入れをしてやるのもいいかも知れませぬぞ」
「それは何故だ?」
「話せば難しい話になろうかと思いますが、敢えて簡潔に述べるならば、肉を切らせて骨を断つとでも申しましょうか」
「ふむ……骨とは六角家中であろうが、手助けすることが最終的にこの浅井の得になると云うことか」
「左様でございます」海北は聡い長政に満悦の笑みを見せた。
「わしが思うておることと一緒のことを先に云われてしもうたわ。ここまで云うたわしの苦労を完全に水の泡にしてしもうたの、綱親殿よ」美作守が嘆息する。
「まあ、いいではないか」
「ならば、長政様、われら浅井家は反乱軍に味方しようと云う意思を彼らに告げまするぞ」と美作守。
「ああ、よろしく頼む」長政は笑んだ。
「勿論、殿は出撃なさるのですな?」海北が告げる。
「ああ、腕が鳴るのう」
「こんな勇猛な殿様も珍しい」海北は褒め言葉ともなんとも云えない語調で告げる。「あわよくば、観音寺城を攻めてそのまま占領なさるのも良いかも知れませぬ」
 海北綱親の欠点はこの科白によく現れていた。赤尾や遠藤に比べると、人情に対する理解、義理と云うものに対する理解が常人のそれとは若干ずれているのである。
「それはわしには出来ぬ」
 長政は案の定反発した。
「どうしてですかな?」と海北。
「そんなことをすれば、寝首を掻いた卑怯者として諸国の大名に罵られよう。そんな真似をするなど武士の風上にも置けんわ」
「殿のそう云うところが甘いと申すのです」
「それは甘さとは違うだろう。〈義〉と云うものであるとわしは思う」
「時には非情になることも重要でございます」海北は自論を枉げない。
「そなたは冷酷に過ぎるところがある。それは直すべきと思うぞ」
「いや、例えば、殿が偏諱を受けられた尾州の信長殿なら如何でござろう? そういうことを当然のように行える非情さを持ち合わせておられるのではございませんかな?」
「それは……」長政はしばらく考える。思案の表情をしつつ考えをまとめて長政は告げた。「侍に義は必要であるとわしは思う。他の者がやっておるからといって、それを、同じ真似をすることの云いわけにしては畜生や禽獣と同じではないか。どうせなら正々堂々と、力と力でぶつかりあって事の黒白をつけるべきとわしは思うぞ」
「それが城中の家臣らの気持ちを掴んでいらっしゃる長政様の器量というものかも知れませぬな」海北は最後にしっかりとまとめた。
「ならば、早速書状を書き送りまする。失礼」美作守はそれだけ告げて、室を後にした。
 海北も顔を見合せて問題も解消したと互いに見、辞去の挨拶の後、退室した。
 廊下を進みながら、海北は思う。
 ――しかし殿のあの甘さが命取りにならねばよいのだが……。

     *

 六角主従の結束はすでに綻裂していた。
 名だたる六角の家臣たちは義弼が城に登ることを命じた際に、それぞれ自分達の観音寺城下にある屋敷に火を放って反旗を翻して去ったのである。
 その家臣たちが、平井らによって浅井と約定を交わして共同戦線を張ることになったと知った時の気分の高揚感と云ったら凄まじいものがあった。これまで敵と思ってきた浅井が自分達に味方をしてくれる。これほど心強いことはなかった。勿論、浅井に何か下心がないとも限らぬという意見は元六角諸将の中にあった。しかし敵国とはいえ、新しく当主の座についた長政の方正さはすでに江南にも喧伝されていた。故に、反乱軍は正規軍と戦う気を弥増しにしていたと云っても過言ではなかったのである。

     *

 十月八日、巳刻には長政はじめ浅井軍は高宮まで軍を進めた。
 観音寺城を攻める六角反乱軍を後押しする形でである。
「この戦は常のものとは異なるが、重要な戦である。皆、大いに励めよ!」赤尾美作守はそう全軍に下知し、小谷を進発したのであった。途中、高宮に近い佐和山城からも磯野の援軍が出て、行軍に従った。
「いつもは敵の六角に、反乱軍ながら味方をするというのはげに不思議な気持でございますな」磯野丹波守はそう云うと馬上にてふっと笑んだ。
 長政は今回、磯野隊を後方に置くことに決めていた。軍をひきつけることが重要であるので、攻め滅ぼすことに価値基準を置く磯野とは相性が悪いとの考えからである。先鋒は高宮を越え、中山道を南へ下って行った。
「長政様、六角に味方するとはいったいどういうことですかな?」
 長政の意見を聞く機会に恵まれなかった磯野丹波守が問いただす。
「海北にはずいぶんせっつかれたが、侵略するつもりは毛頭ない」
「そうですか、しかしこの戦が終結すればどちらにせよ、六角の戦力は激減することでございますな」
「そうだな」
「そこを一気に攻め取ろうという腹積りではないのですか?」
「難しいところだな」
 長政は苦笑する。
「しかしそこはしっかりと考えておかねばならぬところでございますぞ」
「そうだな」
「いや、殿はそのことをまったく考えておられぬわけではあるまい」赤尾が補足する。
「そうなのですか?」磯野員昌は訊ねる。
「そうだな……わしにはまだどうしたいか決めかねている部分がある」
 長政はそう云うと南の空を見て、遠い場所に心を運んでいるような表情をして見せた。犬上川近辺ということもあって水辺の鳥も飛ぶ。いまは微かな声で野鴨の鳴く声がしている。決して洗練された音ではない、野鳥の鳴き声。ぐわぐわと不器用な音で鳴くその存在は長政の心に確かな印象を加えた。
 数日前に降った雨の影響で水嵩は増しているようだ。
 水面が茶色く濁っている。濁流と云ってもいいかもしれない。鴨は水辺にいるといってもまさかこの中には入っていないだろう。もし入っていたなら今頃は琵琶湖まで流されているに違いない。濁流と鴨の声という不釣り合いなものがまた違和感を超えて不思議な調和を醸している。
「ほう、鴨ですな」赤尾が目を細めて訊ねる。
「ああ、なかなか風流ではあるな」
「風流な中でわしらは最も無粋なことをしてまわるわけでござる」
「左様、左様」長政は云う。
「ならば彼[か]の敵を相手に一戦交えましょうぞ」
「そうだな」長政はそう告げると、白銀作りの太刀は腰に佩いたまま、馬上にて声を張った。
「四十九院まで進むぞ! 敵を引きつけ、反乱軍に有利になるように心掛けよ!」
 浅井軍はそのまま一気に四十九院まで軍を進めた。
 後に下がっていた磯野隊は前に出て戦いたがっているようだったが長政はそれを許さなかった。
『今日は大人しく見ていよ』という意思を長政はその雰囲気に滲ませた。
 特に磯野を温存する理由はなかった。ただいつも先鋒を任せていては浅井の将の中には人材が少ないのかと思われてしまうかも知れぬという意識が働いているのであった。そんなことはないが、確かに浅井軍の戦の要は磯野にあったと云っても過言ではない。しかし、今回は石田、寺田、野村といった部将を用いて六角攻略を試みることにした。
 戦は終始有利に進み、浅井軍は大勝して六角軍を敗走させた。

     *

「六角義弼は逃亡したそうにございます」早馬が浅井軍中に駆け込んできた。
「報告御苦労である、大儀であった」と長政は告げた。
 その早馬は浅井家のものではなかった。六角反乱軍のものである。
 それゆえ伝令とは云え、立場を勘案して長政は礼を尽くした返礼をしたのであった。
 伝令の報告を受けて、ひとまず、第一段階は終了したと長政たち浅井の諸将は見ていた。
 ほっと息を吐き、長政は美作守に尋ねた。
「美作守、いまのこの世は父子の関係ほど難しい物はないというものであるのかの?」
「いきなり如何なされました?」
「いや、いまふと思ったんだがの、斎藤家にしても道三・義龍間がぎくしゃくしてそれが結局、子による父親の殺害ということになったのだし、甲斐の武田家も殺しはしなかったものの、父を他国へ追放するというような状態になったわけであろう。わしも素直に父から領地を受け継いだわけではのうて、どちらかというと家臣たちによる数の圧力で権力を手にしたようなものではないか」
「それは考え過ぎでございますぞ」美作守は主君を宥めるように告げた。
「うむ、しかし思うのだ。わしよりも一歳だけ年下の江南の義弼が父の忠臣であった男を暗殺した。これも親に対する一種の反逆ではないかと思うのだ」
「なるほど」美作守は同意する。
「しかし、父と子とはここまでいがみ合わねばならぬ存在なのか?」
 長政は美作守に告げているようで、実は自分の中に疑問の種をまいて、そこから起って来る新しい芽を待ち望んでいるような気持ちになっていた。
「父と子。難しい問題ですな」
「ああ」
「そうそう、六角の承禎・義弼父子には他にちょっとした因縁があったそうにございますぞ」承禎というのは六角義賢の法号である。
「うん?」長政は赤尾の話を待った。
「実はちょっと前、六角承禎にはひとつの腹案があったようでござる」
「それはなんだ?」長政は訊ねる。
「子義弼に越前朝倉家との縁組を考えていたそうにござる」
「ああ、そんな話もあったな」
「しかし六角家臣の中には越前朝倉家でなく、美濃斎藤家との縁組を考えている者があったそうで、そう云うこともあって、家中がばたばたして居ったのも、今回のことに関係して居るかも知れませぬな」
「そうか」
 長政は美濃攻めを行ったときに彼等が六角と組んでいたと知り、何か盟約のようなものが両家の間で交わされたのに相違あるまいと踏んでいたのであった。大名家同士の婚姻というのは同盟関係のなかでもその最たるものであり、両家の絆を強くするのみならず、家の興亡もそれで変わって来ると云えるような重要事である。結局、義弼はまだ嫁を迎えていなかったが、いずれ強国と結ぶことがあるようなら注意せねばなるまいと長政は考えていた。
 それにしても朝倉氏とも縁戚関係を結ぶ計画があったことは長政も少し聴いたことがあったが、もしそんなことが実際に成立していれば、浅井家は窮地に立たされていたに違いない。しかし、その計画があったのはまだ浅井家が六角家と同盟を結んでいた時期であったので、承禎は素直に三国同盟を思っていたのであろう。とはいえ、三国は同格ではなく、浅井家は六角家の属国に近かったので、きっとその三国同盟成就の暁にも浅井家は手ひどい待遇を受けていたに違いない。
「しかし承禎・義弼父子はわかりませぬな」美作守が告げる。
「うん?」
「今回のように父子の関係を揺るがすようなことが起こっても、義弼は自分が危ないときには父の許へ駆け込む卑怯な心がござる。これは筋を通すことを一番に考える武士の心にはなかなか似ない性質であると、わしは思いますな」
 赤尾美作守は厳しく追及する。
「いいではないか、それは所詮他国のこと。他山の石とさせて頂こう」
「そうですな。あまり人を悪う云い過ぎるのもよくありませぬな」
「そういうことじゃ」
 長政はそう云って、爽やかな笑みを浮かべた。
 戦闘の後だというのに気負ったところもなく、長政は実に気持ちがすっきりしていた。軍を整え、そこで六角反乱軍に伝令を飛ばして自軍も南進する。
 途中、安土に入った辺りで伝令が戻って来た。
 その知らせで、反乱軍は観音寺城を占拠して、浅井軍の到着を待ってから軍を箕作城に向かわせるという腹積もりでいることが分かった。
 長政はここまで南下したことは初めてであったので、少し心を動揺させていた。それでも前に観音寺城の威容が見え始めると、そんな気持ちもどこかへ吹き飛んでしまった。

     *

 浅井は軍を三隊に分けることにして、反乱軍もそれに従った。

 一番隊 石田孫九郎、寺田善右衛門、
 二番隊 野村十内左衛門、野村兵庫介
 三番隊 磯野丹波守、三田村左衛門、大野木土佐守、阿閉淡路守。

 磯野丹波守はまたも自分が後陣であることに不満を持っていたようであったが、長政は不平を受け付けなかった。
 ずっと浮かない顔をしていたが磯野はしかし自分が考え違いをしていたことに気づいたらしい。軍を三つに分けたは、六角の三つの軍勢に当たるためであった。つまり閑職ではなくて、三番隊とはいえ、しっかりと戦闘の御鉢が回って来るのである。そうと知ってからの磯野の様子は機敏であった。顔に緩やかな笑みを浮かべ、槍をぶんぶんふり廻して気勢をあげる。
「磯野、油断は禁物ぞ」という赤尾の言葉も聞こえたかどうかわからない。

     *

 義弼軍は大手口、南坂口、津田口にそれぞれ二千あるいは数百の軍勢を敷いた。しかしすべての隊が数千の軍勢を誇っている反乱軍・浅井軍の前に、多勢に寡勢、まったく勝負にならなかった。
 戦闘はほんの半刻でかたがつき、義弼は中野城へと逃亡した。
 中野城には蒲生定秀がいたが、蒲生は殺された後藤とは縁戚関係にあった。
 反乱軍と浅井軍は中野城にも侵攻した。
「これはなかなか堅い城でござるの」赤尾美作守は感心したように云う。
「いや、これは決して攻めにくい城ではない。守り方が練りこまれていてわれらがそれに巻き込まれる形で弱い部分を攻められているように思えるな」
「戦巧者と云うわけですな」
「平井殿! この城を守るは蒲生と申したな?」長政が云う。
「左様にござる」と反乱軍の一人、平井定武は云う。
「蒲生というと、蒲生賢秀と類縁関係にあるのか?」
「はっ、賢秀は定秀の子にございます」
「ほう。なるほど」長政は興味深そうにうなずいた。
 やはり戦巧者なのは血筋であるか。長政は考える。
「殿」と赤尾美作守は告げた。「平井殿に申して置かれるべきこともあるのではないですかな?」
「ああ、わかっている」と長政は云う。
「なんでござる?」と平井は怪訝そうに尋ねた。
「登代のことにござるが――」長政は申し訳なさそうに云った。「あれにはつらいことを申してしまったと思っております」
 いきなりの長政の言葉に平井の表情には緊張が走った。
「そうですな。娘は江北から帰って来てから、ずっとふさぎ込んでおりました。長政殿、あなたを思わぬ日はなかったように見受けられましたぞ」
「そうか」長政は目を伏せた。
「しかし長政殿の心中も分かりますゆえ、多くは責めますまい」
「すまぬ。わしも国同士のしがらみさえなければずっとそばに置いておきたいと思うておったのだ。これは世辞ではなく本心だが、いまでも登代の夢を見ることがあるのだ。別れてからもう丸三年にもなるというのにだ」
「そうでござったか」平井は感嘆するように言葉を漏らした。
「たった三月しか一緒にいなかったが、国同士のしがらみなど忘れて、ずっとあの幸せに浸っていたかったという気がしないでもない」
 平井定武は長政の言葉に咽喉を震わせて云った。
「この言葉、登代にも聞かせてやりたいものでござる」
「わしも会いたいのう。だが心の隅で、会うてどうすると告げるものがおるの。会ったからとてもうどうすることもできぬ気がする。六角と再び関係を結ぶことはおそらく諸将に示しがつかなくなるであろう。そういう面も考えねばならぬゆえ、こういうことはとても難しいことであるな」
「左様ですな」同席している赤尾も言葉を添える。
「しかしここまで長政様が娘のことを深く思うてくださっていたというのは娘も喜びましょう。またそんな長政様のもとに嫁した娘は幸せ者であったと思えますぞ」
「忝[かたじけな]い」
 平井加賀守がその場を去った後で、主従は声をひそめて話しあった。
「殿、いまの話は本当でござるか?」
「うん?」
「いまも平井の娘のことを思うておるというそのことにございます」
「ああ、本心だ」長政はきっぱりと口にする。
 この時代、女のことを軽々しく話すことは浮薄であると思われても仕方なかった。しかし美作守はそうは考えない。これも先代久政のことがあったためである。久政は女にうつつを抜かすことしきりで、そのために国政が犠牲になることが多かった。それに比べれば、この長政の純情など健全たるもので、全く害を及ぼさないというだけで美作守には好ましく思えるのであった。
 しかし美作守は「殿」と声を掛ける。
「どうした?」と長政。
「殿のその思いは美しく澄んだもののように見えますが、しかし未練という言葉もございます。早々に断ち切られるが賢明な処置のようにわしは思いまする。いずれ、殿はまた新たに室を迎えられて子を為さねばならなくなるでしょう。そのときに平井の娘などをずっと思うておられては、これからお迎えするであろう御寮人様も気が気でないというものでございます」
「そうか――そうであるな――」長政は嘆息するように声を漏らした。
「美作守」
「はっ」
 美作守はなぜ名を呼ばれたかわからなかった。
「なんでございましょう?」
「そなたは妻以外の女を好きになったことはあるか?」
「え?」美作守は戸惑った。「そ、それはどう云う――」
「不義の関係――つまりそういうことだ」
「そのようなことは、わしはありませんぞ。そんな不埒なことは考えたこともござらん」
「ならば、そなたの妻は幸せものじゃな」
「と、殿……」
「しかし味方が戦こうておると云うに、わしらはこんな話をしてしまうとは。つくづく真面目ではないのう」長政は表情を翳らせる。
「まぁ、今日はそう云う日なのでございましょう」
「元義父とも話したし、少しは気も晴れた」
「それは重畳」
「うむ」そう云って長政は落ちる気配の全くない中野城に視線を据えた。
 中野城の中に義弼がいる。
 義弼とはまったく異なる自分の性格。
 ――戦場にて互いに名乗り合って一騎打ちをしたなら、わしと義弼と、どちらに軍配が上がるだろうか。長政はそんな想像をして、ひとりほほ笑むのだった。


8 :蒼幻 :2010/05/16(日) 12:08:11 ID:tcz3skkeVm

第四章 お市御寮人

 朝から気合いを入れて共に中野城を攻めようとしていた反乱軍と浅井軍であったが、今日は勝手が違っていた。反乱軍のもとに使者がやってきたのだ。その報せを受けた長政たちは戦装束のまま使者を迎えた。
「石山本願寺は顕如様からにございます」使者はそう述べて平井加賀守に書状を渡した。
 ――本願寺と云えば浄土真宗の大元――そこの主から直々の書状とはいったい?
 平井は一通り書状を読み終えるとそれを長政に渡した。長政はじっくり書状を吟味する。
「殿、顕如様はなんとお書きになられておるので?」
「どうやらわれらと義弼の間に仲裁に入りたいようだ」
「なんと」美作守は云う。「しかし仏門にあるものが武家にこのような書状をしたためると云うのは解せませぬな」
「おそらく六角の誰かが救いを求めて使者を出したのであろう」長政は語気を強めて云った。
 美作守は不満そうな表情をする。
「いや、それは違いますぞ」平井定武が口を挟んだ。「顕如様の嫁は六角定頼様の養女であった如春尼様にございます。その絡みから、積極的にこの闘争に加わろうとなされたのでありましょう」
「なんと」と長政は驚く。
「そういうことでござったか」美作守も言葉を漏らす。
「あの畿内でも大きな勢力を持っておる顕如上人の意に違[たご]うては、われらも浄土真宗門徒の抵抗に遭う恐れがあろう。この近江にも親鸞聖人の教えを深く信仰しておる者は少なくないからのう」
「そうでございますな」
「不本意ではあるがここは顕如様の顔を立てるとしようぞ」長政はそう云って場をまとめた。
 それから先の和議は情勢を見極め、六角家臣同士で行われた。
 長政たち浅井軍は小谷に引き返し、そこで反乱軍の使いの者から、じきじきに説明を受け、それと同時に感謝の意を記した感状を受け取った。それだけでは浅井家の取り分がないということで、浅井家は愛知川以北の土地の取得を主張して押しきった。これまで六角と戦うこと数度、それでは得られなかった土地を含め湖北四郡が浅井家の領土となり、それによって国人という評価であった浅井家は正式に大名家としての格を持つことになったのである。
 六角の説明によると義弼側に提示された顕如の条件は大きく分けて四つであったという。

一、今回の責をとって六角義弼は隠居し、その弟義定が家を継ぐこと。
一、殺された後藤但馬守の次男喜三郎を後藤家の跡取りとし、それまでに後藤家に与えられていた旧領は減じることなくそっくりそのまま安堵して、これからも六角家家臣の一員として扱うこと。
一、反乱を起こした六角家家臣の心情を汲み、その怒りを慰撫して適宜に措置を取ること。
一、義賢・義弼父子は互いの関係を尊重し、今後とも和合して行くこと。

 これにより、ひとまず六角家の内乱は収まった。

     *

「六角はそのうち潰れてしまうのではないか?」
 ある時、長政は軍議の席でそのように述べた。
「何故にそのようなことを?」遠藤直経が訊ねる。
「いや、ふと思うてな」と長政。
「殿には、殿なりの悩みがあるということだ」
 赤尾美作守がわかったような口をきく。
「堅い信頼関係で結ばれていた家臣たちが、あの一件でばらばらになったのだ。もうあの強い絆は再生しないだろう。つまり覆水盆に返らずというやつじゃ」
「そうでございますな。われらの敵であるとは云え、些か寂しいものがございます」遠藤はそう云って長政の気持ちを慰撫する。
 長政は息が白くなるのを寒々と感じていた。室内にあっては火鉢で暖を取っていたのであるが、炭の状態があまりよくなく、それほど温度は上がらない。
「今日は雪になりますかな」と美作守は訊ねる。
「さあ、どうであろう」長政は嘆息する。
 遠藤は「今日は一段と冷え込みまする」と云って肩をすくめる。「それにしても最近の久政様は何かこれまでと様子がお変わりになられたようで」
「うん? どういうことじゃ?」長政は訊ねる。
「どうも久政様は最近、能楽などの遊興に加えて、書画なども嗜むようになられたとか。そう云う方面に才能があるなら、それもまた良いのですが、それらの芸術の出来は、素人の趣味を一歩も出ないものであるとか……。こう云っては何ですが、ただ自分の楽しみのためだけにそう云うことをなすというのならまだ納得もいくのですが、自分の作ったものを人に見せ、そして評価を得ようとする厄介な道楽になってきているというわけなのです」
「そうか」長政は息を吐いた。「父上にも困ったものだ」
「とにかく、今は殿が浅井家の主君ですので、殿さえしっかりしていただければ、この家は安泰というわけでございます。しかし久政様があれでは殿の御威光もうまく下々の者に伝わっていかないということはあると思うのです」
「遠藤」と長政は云う。「もう少しその考えを凝らしてみよ。その言葉が矛盾していることに気づかないか?」
「と申されますと?」遠藤は問い返す。
「つまり、わしと父上は別の人間であって、わしさえしっかりしていればいいと云いながら、その一方で、父上の道楽が下々の者のわしに対する軽視につながるのではないかと云う意見を今述べたな? それは矛盾と云うのではないか?」
「ああ」遠藤直経はまいったと云う風に額を掻いた。
「もう少し言葉を吟味した方が良いかも知れぬぞ」
「確かにそのようで」
「やりこめられたの、遠藤殿」赤尾美作守がほほ笑む。
「しかしわしもちょっと心配じゃ。たまには父上と語らうとするか」
 そう云って長政は意を定め、軍議のあと久政の居室に向かった。
「父上!」長政は父の居室である南西の日当りのいい部屋の襖を開けた。
 しかしそこに父久政の姿はない。
 ――どこへ行かれたのだ?
 長政は室内の雑然とした様子に目を据えた。
 散らかっている部分と整理されている部分がきっちりわかれていた。
 それは父久政の性格を如実に現わしていた。勿論、整理されているのは妻の阿古が為したことであろう。そして、久政は自分の使いたい物をその整理された中から取り出して、使いたい放題使った後そのままに放置してどこかへ行ってしまった。つまりそういうことなのだろう。書画に目覚めたのなら、もっときっちりと身の回りのことを為せばいいのにとは母も思っているはずだ。しかし夫を立てるということを考えると、それは妻の立場からは云い出しにくいことであるのだろう。いやそうではない。母はもっと言葉に衣を着せぬかただ。きっとこのことも夫に苦言として呈しているに違いない。母の小言が勝つか、父の出鱈目が勝つか。この状況を見れば父の方が優勢に見えるが、実はこれでも父は整理しているのかもしれない。こればかりは本人に訊いてみないことにはわからぬことだ。そんな風にも長政は思えるのだった。
 ――それにしても父上はいったい……。
 そう思った長政は母の阿古の部屋に向かうことにした。
 と、襖の前まで来たときに話し声がした。長政はそれに注意を向ける。
「お前様、長政に何か云うてやってくださいませぬか」
 阿古の声がする。
 それに久政の声が答える。「いや、わしには云えん」とても動揺しているような心細げな声音である。
「お前様がそのようなことで如何なさいます。いくら当主とはいえお前様の子なのですよ」
「しかし……」
「やはり、お前様は駄目ですね」阿古はぴしっと云う。
「そなたが云えば良いではないか」久政の声は弱々しい。
「もう云うております」阿古の声に責めるような調子が滲む。
 長政は襖を開けて入るべきか入らざるべきか迷った。
 しかし入るにせよ、入らないにせよ、これ以上、ここでじっと二人の会話を黙って盗み聞きすることは卑怯であると考えた。そんな逡巡をしながら、さらに数語、二人の会話を聞くことになる。
「息子に新たな室をということを云うのに、母親では十分伝わらない面があるのですよ。そう云うとき、頼りになるのが男親ではありませぬか」
「しかしそのことはわしから云わずとも、長政も思うておることではないか?」
「聞けば、あの江南の六角の嫡子義弼の婚儀も、父親である承禎が世話をしようと裏で動いていたと云うではありませんか。婚儀とは家と家との繋がりなのですよ。結婚する当人が好いたはれたで決めることではありませぬ。そこには周りの人間の力添えこそが必要でありましょう」
 阿古の声は悲愴すら帯びているように聞こえる。
 とはいえ、本当に悲愴を滲ませているわけではないのだろう、概して、気の強い女が物事に真剣になったとき、このような声音で話すことが多いように思える。長政もそのことを知っていたので、二人の会話を邪魔するのも悪いと思い、今日は退くことにした。尤も嫁取りのことであれこれ云われるのを厭わしいと思う気持ちも手伝ってのことであった。

     *

 長政二十歳の永禄八年も順風に過ぎ、永禄九年も半ばが過ぎたが、その間、頻繁に六角方面に放っていた細作から報告が入っていた。「今年の正月からずっと叛旗を翻していた布施淡路守は布施城に閉じ籠っておりますが、これまでずっと六角は承禎・義弼父子がともに兵を出してことに当たったものの、戦死者多数――結局、今日まで落ちておりませんでした。が、どうやら布施側がわれらと連絡を取りたがっているようでございます」
「ほう」長政は声を漏らした。
「六角はあの味方合戦をして以来、覇気がございませぬからな。一被官の謀反も匡せぬとは、これは極まっておりますな……」
「確かに」長政は嘆息した。
「しかし落ち目になった大名家というのも無様なものでございましょう」赤尾はしみじみと声を漏らす。
「そうだな」長政は同意する。「わしらはそのようなことのないように気を引き締めて行かねばならぬ。それをわしはいま強く思うておる。浅井家の主従の絆はたとえ誰の手によっても断裂されることがないと外に誇れるようにありたいものじゃ」
「そうでございますな」赤尾は一礼した。
「幸い、わしにはそなたらのような臣下がついてくれておる。これほど心強いことはない。わしはそのことに感謝しておる。本当にありがたいことじゃ」

     *

 七月も終わりがけ、長政は南に進軍した。
 目的は布施城救援、場所は蒲生野である。
 六角は布施城を攻撃する。
 そして平井加賀守が上羽田の内堀屋敷に向かい、三上越後守が集落に火を放っていた。そこに住むものたちはいきなりのことに逃げまどい、それが六角の兵士であることを見て取って、悲しみの表情を浮かべ、また苦しみの表情を浮かべるのである。
 浅井軍はその上羽田に対して、鉄砲で応戦した。標的は内堀屋敷を占領しようとしている平井隊である。空気のよく乾いた天候は火縄銃を使うには持って来いの状況であった。鉄砲隊は十分に距離をとって次々に平井隊の兵士を射殺していく。それはまるで畑で蕪を引き抜くくらい容易なものであったが、そこへ三上越後守が横合いから殴りこみ、戦況は一変した。
 蒲生野の戦いは、それがもとで敗戦を喫した。

     *

 永禄十年春、織田信長は清洲城にて重臣達と会議を行っていた。
「誰かいい考えはないか?」
 信長は半ば持病とも云えるような癇気を露わにして諸将に告げた。
「うむ……」美濃墨俣城の築城に貢献した羽柴秀吉が声を漏らす。「われらは先年、美濃の斎藤を滅ぼしましたが、目標は京にあるとは殿の言葉を借りずとも家臣一同、意を一つにしているところでございます」
「うむ」信長はうなずく。
「これから京までの間には――」と羽柴秀吉の後を引き取って佐久間信盛が告げる。「江北の浅井、江南の六角が立ちはだかっておりますが、江北の浅井と云うと殿の偏諱を受けた縁もありますし、友好的な関係にあるとみてかまわぬでしょう」
「何が云いたい?」と信長。
「つまりでございます」と佐久間。「浅井と結んで六角を討つ! これが最良ではないかと思いまする」
「ほう」信長はぎろっと佐久間を睨む。
 信長には駿府の今川義元を討ち破ったという自負があった。それから美濃の斎藤を攻め滅ぼしたという自信もあった。今度は浅井か六角かと思っていたのであったが、六角こそ憎けれ、江北の浅井は偏諱のこともあり、半ば味方であると思いなしてきた信長である。この佐久間の考えには大いに同意したいところであった。
「これはいい考えかも知れぬな。浅井と結ぶか……ふむ。あの美濃を稲葉山まで攻め込んだ武勇は買ってもいい」
 もちろん戦乱の世のこととて諸国の有力な将の動向はしっかりと把握している信長である。複数の忍びを周辺各国に放ってある。そんな彼らから得られる情報の中でも浅井長政に関することには好感の持てる情報が多く、信長も長政に一目置いていた。
 ――ならば、話は簡単だ。
 信長はそう思い、切り札を出すことに決める。
 妹お市の縁組である。
 江北の浅井長政と妹お市の祝言を執り行い、両家の絆を堅い物にしようというのが信長の狙いであった。
「そ……それは」と口を挟んだのは羽柴秀吉であった。
 秀吉は先年、ねねという織田家家臣の娘を嫁に迎えていたが、この主君信長の妹お市に懸想していたのである。とはいえ主君の妹と家臣とが結婚できるはずもなく、秀吉は無念の気持ちを胸に抱き、その信長の決定を甘受した。そしてそのはがゆさを、まだ見ぬ将、浅井長政に対する恨みとして根強く持つことになったのであった。
「ならば早速、事を為すべく話を運びたいと思うが……」信長は目を細めて諸将を見回した。
 そのとき、一臣、不破河内守が名乗り出た。
 不破と云うと、長政の偏諱の申し出を受けたときに浅井家が頼りにした織田家の家臣であった。
「殿、この儀、わしにお任せ下さりませぬか? 浅井の家臣に安養寺という知り合いがおりますゆえ、恙無く話を運びましょうぞ」
「おお、確かそなたには浅井家に知り合いがおったな。よし、任せていいか?」
「はっ」
 新興とも云える勢力同士の同盟である。織田家は先年、三河の徳川家康と結んでいた。が、その関係は今回の浅井家の同盟とは趣を異にしていた。というのは、家康とは互いに不可侵を約束しあい、信長は東を、家康は西をそれぞれ犯さないという同盟であったわけで、共に同じ方向を向いて、六角を討つということ自体が、信長にとってこの浅井家との同盟が重要なものとなる予感を覚えていたのも事実である。
 それに到頭、あの、諸国にもその美しさが喧伝されて久しいお市を主君信長が手放す覚悟を決めたのである。これはどう見ても大変ことであった。場にいた諸将も一瞬固まってどう反応していいかわからなかったくらいである。それは諸将の中にも秀吉の他に、お市に懸想している人物があったことのなによりの証左である。
 不破は様々な思いを抱きつつ、近江に向けて進発した。


9 :蒼幻 :2010/05/16(日) 12:09:02 ID:tcz3skkeVm

     *

「市、そなたに嫁してもらいたい者がある」
 信長は普段は立ち寄らない妹の居室に向かい、美しい彼女に対峙した。
 勿論一般的な婚期からはやや歳を取り過ぎているが、そんなものは彼女の魅力を減ずるものではない。お市はその知らせに驚きを隠せなかった。自分はまだまだこの織田家にて楽しく毎日を過ごしていられるものと思ってきたからである。今回こうして兄が居室を訪れてくれたのも、何かとてもいい知らせがあるとか、兄妹の会話をしたくなったとか、そう云うことであろうと当たりをつけていたのである。しかし蓋を開けてみるとそれは他家に嫁に行けという話である。
「兄上!」
 お市はやや怒気をはらんだ声をあげる。しかしそれが妙に信長の心を擽るのでもあった。
「私に一体どこへ嫁に行けと云われるのです?」
 お市は心配そうな表情を見せた。
「江北は浅井長政殿の元へ」
 信長は冷酷そうな面持ちをしながら告げた。それは非情な宣告とも取れた。お市は胸が痛んだ。兄はいつもこんな調子である。自分に対して心を開いてくれることはない。しかし諸将に比べればましな方であるらしい。こんな態度に出ていても、お市がとても嫌っている秀吉などの云い分では、兄信長は妹お市に心を開いていると云うのである。それまで周りにちやほやされることに慣れきっていたお市には、今の兄信長の態度は冷たく、暗く、何物にも染まることのない鉛のような色合いを持っていると感じていたのである。
 それにしても江北に嫁に行けとはなんたること……とお市はそれに驚かされた。彼女も長政の活躍ぶりに対して無関心であったわけではない。むしろ最近の驍将ぶりについては好感をもって受け止めていたのである。しかし如何に優れた将であっても、その相手と祝言を上げるということはまったく別物である気がする。それまでに他家に嫁したことのないお市のこと、男女の仲についても知識では知っていても経験がない。乙女の性分として、男に理想を求める面がお市にはあった。しかし中には秀吉のような男もいる。もし長政がそんな男だったら、自分はどうすればいいのだろう? これまでのような生活は望めなくなるし、心を休めることができなくなるに違いない。それにしても兄上も兄上だ。自分も会ったことのない男の元へ嫁に行けなどと、よくそんなことを云えたものだ。お市はそう思い、心中にふつふつと静かな怒りが湧いてくるのを覚えた。
「市、確かに伝えたぞ」信長は厳とした態度で云い放つ。
「兄上……少し考えさせて下さい」
「不服か?」信長はまるで攻撃するような口調で訊ねる。
「心の整理がつきません。こんな状態で他家に嫁など行きとうはありませぬ」
 信長は目を忿らせて云った。「そんなことで大名家の姫が務まるか! もう決めたことであるからな」そう云うと、信長は室を立ち去った。
 お市にとって信長は頼りになる兄という印象ではなかった。常に唯我独尊と云った思いでいる信長にとって、妹は余人よりも操縦しやすいある種の奴隷のようなものであった。そんな自分に対して少しでも反抗的な態度をとられるのは、信長にとって、飼い犬に手を噛まれるようなものであったに違いない。つまり可愛さ余って憎さ百倍というやつである。お市の胸は悲しみで一杯になった。どうして兄上はこの気持ちをわかってくれないのだろう。お市は表だって兄に楯突いたことはない。兄が怖いと云う気持ちはなかった。確かに家臣たちは兄のあの癇気に脅えているようであったが、それとは異なる何か得体の知れない、同じ血が通っていると思えないような冷酷さが見え隠れし、兄と話していると自分までそういう色に染まってしまう気がして、それがお市の性格に和合しないのである。
 お市から見て信長は底の知れない畏怖する男というわけではなかった。むしろわかり過ぎるくらいわかっている積りである。わかっているからこそ、避けたくなる気持ちというものもあるのだ。兄の周りには優秀な人材が揃っている。それは兄の才能のひとつであるに違いない。しかし完璧主義である兄は臣下の失敗を許さない。それがまた織田家の家風を左右しているようで、家中は皆、兄を中心にしてぴりぴりしている。
 子供のころ、うつけのふりをしていた兄は自分にだけは優しかった。うつけのふりは周りの人間を欺くための方策であったが、それを最も早く見極めていたのはお市であった。その頃の信長は、お市に対しても冷たい態度を取り続けていたが、時折見せる兄の気遣いから兄はうつけのふりをしているだけだとしっかり見破っていたのである。あの頃の兄には今の兄とは違う、性根のところでの優しさがしっかりと見えていた。あのあけびや瓜や野苺といった食べ物を持って大笑しながらそれを頒け与えてくれた兄の姿は、いまは何処にも求められない。あの兄は幻だったのか? それとももともとあれも兄特有の偽物の表情だったのか? お市は不意に泪が出てきた。悲しい訳ではない。また嫁に行けと云われた言葉が胸に刺さったわけでもない。そうではなくて、あの自分にだけは優しかった兄がいまこうして非情ともいえる仕打ちをしなければならなくなった、周りの状況を勘案しての自己の意思の無情的な尖鋭化、それが兄信長の心に垣間見えて、お市の心に兄の置かれている立場を判然と悟らせたが為である。
 兄はこの性格を窮めてきっと何か大きなことを成すであろう。
 しかしそれを成す兄は幸せであるか?
 お市はそれがわかるだけにますます気持ちが塞いでしまった。
 江北に嫁げと云われたことは、いつの間にかどうでも良いことに思えてきた。小さなことで悩んでも仕方ない。女として生まれたのだから、いずれは男の元へ嫁ぐのが自然であろう。自分は子を成すかも知れない。それもまた女として当然の事であろう。しかしそれだけが女の道ではないという思いも胸に萌す。
 お市は心が乱れていたが、やがて落ち着いてきた。
 お市が婚儀の報知によって胸を痛めていたころ、江北に向かっていた使者不破河内守はそろそろ近江に入ろうとしている頃合いであった。

     *

 不破河内守は関ヶ原を越えて近江に入った。そこから北西へ進路を取り、これまでに何度か訪れたことのある小谷城下へ向かった。
 時は四月の上旬、温かい時期であった。
 江北の村々の田圃には青々とした稲が育っていた。
 馬を休ませるために軽く歩かせているときにそこを覗いてみると、水黽[あめんぼ]がすいすいと水面[みなも]を滑っている。蛤蟆が畦の端で鳴いており、気の早い糸蜻蛉も青緑色の身体を陽光に光らせて飛び交っている。
 数日前の雨が影響してのことであろう、道にはところどころ水溜りができていた。
 ――平野の風景とは牧歌的でいいものだ。
 不破はそう感じ取り、また田畑で農作業をしている民たちの表情に明るいものが混じっているのを見て、長政の善政を思うのだった。
 不破河内守は長政と直接会ったことはなかった。江北に来ても、会うのはいつも安養寺だけであったために。
 田圃の畦道に案山子が立っている。
 田圃一枚に三つから四つ立っているところもあったが、その案山子の影響がしっかり現れているものか不破は疑問に思った。農作物に対して鳥や獣というものは天敵でしかない。一方的にされるがままになるしかないのだ。だから百姓はなんとかその流れを断ち切るためにあれこれ画策する。ときにはそれが徒[あだ]となり、ときにはそれがうまく成功する。尾張にも田畑を荒らすものはたくさんあるが、不破は友の安養寺から、この辺りは野猿が多く住むとも聞いていた。きっとそう云う物を排斥するための橋頭保がこの案山子なのであろうと河内守は思った。
 さらに馬を走らせて不破は小谷城下に到達する。
「尾州、織田信長殿の使いで参った! 安養寺殿に取り次いで頂きたい!」
 清水谷の安養寺の屋敷でそう呼ばわった。
「これはこれは不破様……ご無沙汰いたしております」
 安養寺三郎左衛門の母が不破を迎えた。安養寺家にとって不破は一番の客であったから、この母にとっても気安い仲ではあった。
「さあさ、入ってくだされ。息子は中におりますので、案内いたしましょう」
「忝い」不破はそう告げて、先に玄関にて、水で足の泥を落としてから中へ入った。
 安養寺三郎左衛門は自室にて書を読んでいた。
 不破の来訪を告げた母の言葉を聞いて安養寺は「おう、入ってくれ」と声を掛けた。
 不破は久々の友との対面に心を昂揚させた。
「しばらくぶりだな」と安養寺は告げた。
「ああ、そうだな」と不破。
「殿の偏諱の件では助かった。感謝いたしておる」安養寺はくしゃっとした表情で笑顔を見せた。「して、今日は何用か?」
「少し込み入った話であるが大切な話である故、しっかりと聞いてほしい」
 そう云うと、不破河内守は慎重に言葉を選んで安養寺に説明を始めた。

     *

「殿、これは僥倖ではございませぬか?」遠藤直経は安養寺が連れて来た不破河内守のいる前で、臆することなく告げた。
「うん?」
「尾張と結べば、われらは優位に立つことができましょう。織田殿の軍の精強さには眼を瞠る物がございますからな」
「うむ」
「もともと長政様は織田殿に心服なされておいでであったはず。この話はありがたく受けるがいいかと存じます」遠藤が主張する。
 それに赤尾美作守も和した。「左様、左様、これはぜひ、受けるべきかと」
 その言葉を聞いて、不破河内守は口元に笑みを浮かべた。話がうまくまとまりそうだとの予感に裏打ちされた笑みである。
「いや、暫し待たれい」そのとき、長政の脇の久政が声をあげた。
 久政は主君の立場から身を退いたとはいえ、ときおり、こうして会議の場に座を占め、政治に口出ししてくることがあった。これもまた長政の人徳のなせることであったが、浅井家家臣たちはそれを甘受していたのである。
「どうなさいました、久政様?」
「いや、この織田殿との同盟にはひとつ不安があっての」
「と云われますと?」
「わしら江北の者は、昔より、六角に攻め立てられて窮地に追い込まれていたとき、いつも越前の朝倉に救援の手を求めて来た。越前もそれに応えて、何度も何度もわれらを助けてくれたのだ。その朝倉との同盟もわれら浅井にとっては大切なものである。であるから、われらと結んでも絶対に朝倉には手を出さぬという確約がほしい。それがない限り、織田家との同盟の話は認めるわけにはいかぬ」
「それは確かに道理。われらも浅井家と朝倉家との関係をぶちこわしにする気は毛頭ござらぬ。安心召されよ」
「左様なるか、ならばわしは何も云うまい」
「それで姫のことであるが……」長政は言葉を漏らす。
「はい」不破はうっすらと笑みを浮かべている。
「信長殿の妹君をわしに嫁して下さると云う話。わしは少し困惑しておる」
「と云われますと?」
「わしは先年、数ヶ月だけ連れ添った前妻がおるからのう。なかなかそのことが頭から離れんで難儀しておるのだ」
「なるほど」
 長政は深く溜息をついた。
「しかしお市様はその美しさ、この近隣では知らぬ者はないと云えるほどの縹緻でございますぞ。そのお市様を嫁に下さると云うのなら、それをお受けするのも殿のご器量というものではございませぬか?」赤尾美作守が当然のごとく提言する。
「うむ……そうであるな」長政は云った。
「ならば、この話、お受けくださるということでよろしいか?」
 不破は話を急いだ。
「ああ」と長政。
「では早速、国許へ帰り、このこと殿にお話しいたします」

     *

 不破は三人の浅井家家臣を伴って清洲に戻った。
 三人とは、安養寺三郎左衛門、河毛三河守、中島惣左衛門である。
「そなたが安養寺殿か……」清洲で彼らと面会した信長は興をそそられたようにそう述べた。浅井の三人の家臣はこれがあの織田信長かと、感銘を受けた。観れば家臣たちもなかなかの面構えで、才気渙発なところを見せている。
「此度、われら尾張は江北と結びたいと思うておる。受けて頂けるかな?」
 信長の家臣佐久間信盛が訊ねた。
「はっ、われらが殿もこの話に乗り気でございます」
「それは重畳」
 安養寺三郎左衛門はそこで長政よりの書状を懐から取り出し、信長に献上した。
「これが条約の締結文にございます」
「それはそれは」信長は機嫌よく笑う。
 信長は自分の方からも同じ形式で条約の文を書き、それを安養寺に渡した。
 安養寺は恐縮しながらそれを受け取り、そして信長の口から、「条約は成った」と聞かされてほっとした。
 安養寺は仲間たちと久しぶりに不破邸に招かれて、酒宴を張ってもらった後、満足して帰途についた。

     *

 若葉が萌える季節、大勢の行列が尾張から江北に向いて進んでいた。
 駕籠の中には、信長の妹お市が乗っていた。
 お市はそのころにはもう気持ちの整理もつき、これからの自分の生活に心配を抱きながらも、夫となる長政に対して謙譲の心を忘れないようにしながら尽くしていこうと決意していた。
 陽気が駕籠のなかに充満している。雨が降らなかったのは幸いだとお市は思った。そして自分はこれまでこんなに遠出をしたことがなかったことに思い当り、駕籠の裾をめくってちらちらと外の景色を眺め見た。
「いよいよ近江でございますぞ」と近習が告げてくる。
「そうですか」と小さく答えて、お市は嘆息した。
 身体をまったく動かせないこともあって、駕籠と云う乗り物は気分を塞がせるものであると思いなす。どうせなら駕籠を降りて自分の足で歩いてみたいものだと剛毅なことを考えるのもお市の性格を如実に表していた。
 もしそんなことが家臣の耳に入ったら、ここにいる一行は全員降格、あるいは首切りの処断を受けるに違いない。お市はそれが分かっているだけに無理は云わぬようにただ駕籠の中で鬱々とした気分を燻らせる。自分一人が我慢すれば済む話だ。事を波立てない方がいい。
 なおも我慢して牛の歩みの中を耐える。
『市、これを渡しておく』
 その言葉と共に兄信長に渡されたのは、一振りの匕首であった。
『長政があまりに不甲斐ない時はこれで命をとって辞せよ』
 それは非常な兄の言葉としてお市の心を刳った。
『どうしてそのようなことを……』
『わしは役に立たぬ人間は排除すると云う理念で動いておる。役立たずに用はないということよ。この婚儀は確かに政略的なところは多いが、わしはそれだけが婚儀の要訣とは思うておらぬ。お前はわしの妹だ。幸せになってもらいたいと思うておる。だからこそ、もし意にそぐわない暗愚な夫を持ってしまったと思うなら、それを恥じて耐え忍ぶのではなくひと思いにあの世へ送ることもまた礼儀ではないか? さあ、これを受け取れ』
 お市は信長の主張する言葉がうまく心に沁みとおって行かなかった。
 しかし気に入らなければ殺せという兄の主張だけはしっかりと意識された。
 お市は懐にかくした匕首のずしりと重い感触を、自分が科せられた懲罰の重さであるように感じていた。私が夫となる人物の命をとることなどどうしてできようか。しかし、その匕首を部屋に置いてくることもできたはずだ。それなのに自分はそうしなかった。必然的に兄に背中を後押しされた形になったけれど、自分でもそう云う思いを受け入れる土壌が心の中にあることを知り、お市はさらに胸をかきむしられるような思いを抱くのでもあった。

     *

「市にございます」
 壮麗豪華な婚儀の後に、長政と二人になった部屋でお市は夫に挨拶した。
「長政じゃ……そう固くならず、寛いでくれ」
 長政はそう云うと、じっとお市の顔を見た。
 あまり顔を見るのははしたないことであったが、それを厭わずに長政はじっとお市の顔に視線を据える。
 ――これは確かに傾城の美女と云うにふさわしい。
 信長からの婚儀の申し出をされたときには乗り気でなかったが、長政はこのお市の美貌をしっかりと捉えると、自分があの六角家臣平井の娘のことで長年重い患っていた懸想がいつの間にやら朝露のようにすーっと消えていくのを感じ取っていた。
 お市は透き通るような肌膚をして目は情熱的に燃え、しかもやさしく深い印象を漂わせている。鼻筋は通り、唇は石榴のように紅く燃えている。全体的に整った顔立ちは気品を漂わせてあまりに魅力的である。明眸。桃夭。嬋妍。そんな形容がぴたりとあてはまりそうな美人の相である。
「よろしくお願いいたします」お市は美しい声でそう述べた。
「こちらこそ、よろしく頼む」
 二人の間に会話はそれだけだった。
 長政はすぐにでもこの姫を抱きしめたいと思ったが、まだ日は高い。それでは倫理に悖ると感じ、この場は別の会話で茶を濁すことに決める。
「尾張はここと比べてどうじゃ?」
 長政はあたりさわりのないことを訊ねる。
「難しい問い掛けですね」お市の表情はまだ緊張に凍えている。
「難しいか……」
「ならば、どのような幼少期を過ごしていた?」
「それなら、少しは答えられます」
「うむ」
「私はあまり人と話そうとしない無口な娘だったように思います」
「ほう」
「でも、昔から兄はそんな私を気にかけてくれていました。いまでこそ、非情とかなんとか云われる兄ですけど、私は、それは仮の姿ではないかと思っています」
「ほう」長政は続きを聞きたい意思を見せる。
「兄はうつけと呼ばれていたころから、私には優しく接してくれました。いま兄は孤独なのだと、思います」
「孤独……」長政はお市の言葉を繰り返した。
「本心を吐露できる相手がいない。この戦乱の世に於いて、孤立無援で戦って行かねばならない虚しさを心底から憂えている気がしてならないのです」
「なるほど」長政はお市の云っていることの半分くらいは理解できそうだと感じていた。
「兄の孤独を紛らせるは、なかなか骨の折れることではないかと思うのですが、長政様、貴方はその一人になれそうですか?」
 お市は兄の幸福を願っているのだなと長政は思った。
「うむ……それは難しいことかも知れぬな」と長政は云う。
 自分も思っていることの半分も家臣たちに告げられぬもどかしさをいつも胸に抱いていた。このお市の話を聞く限り、織田信長と云う武将も自分と同じような悩みを持っているのかも知れない。もし信長殿と話す機会があれば、そのようなことも訊いてみたい気がすると長政は思った。
「信長殿とはいろいろと話してみたい気持ちが湧いてきたな」
 長政はそう告げた。
 途端にお市が目を輝かす。
「それは嬉しきことにございます」
「しかし――」長政は嘆息する。
「いかがなさいました?」とお市は訊ねる。
「いまのこの時期に同盟を結ぶとはどういうことかと思うのじゃ」
「と云われますと?」
「先年、織田殿は美濃斎藤氏を討ち滅ぼされたであろう?」
「そうですね」
「そして此度、我が浅井家との同盟じゃ。すでに三河の徳川家康殿との同盟を締結されている信長殿のこと。いったい、われらと結んで、何をなされようとしているのか、それがわからぬのじゃ」
「なるほど」お市は兄が六角を攻めようとしていることを全く知らされていなかったので、ここでは長政と同じ疑問に頭を悩ませた。
「しかし、わしは思うのじゃ。あの今川を破った信長殿のこと、きっと尋常ではないことを思い描いていられるのではないかとな」
「尋常ではないことですか?」
「わしは偏諱の申し出を信長殿に申し出た。その頃から信長殿は何か大きなことをなさる方ではないかと思い描いておったのだ。あの人は尾張一国で終わる方ではないとな。そして事実美濃を平定されたわけだが、あの信長殿の心にはまだその先の夢があるように思える」
 お市は言葉は発せず、ただこくりと頷いた。
「信長殿の覇業。それはやがてこの日の本の国を動かすのではないか?」長政の言葉に熱がこもる。
 そのようなことを口にしたのは、お市が的確な受け答えをする女性であり、思いのほか聡明であることに起因していた。
「おそらく、信長殿の胸中は京にこそあるのだろう。わしはそう思う」
「京、でございますか?」お市は戸惑いの色を隠せない。
「そう考えるが自然であると思う。信長殿は三河の徳川家康殿とすでに結んでいられるし、伊勢方面は一向衆が盛んに活動していて剣呑である。そして美濃を攻略して、いま出口があるは美濃の北と西だが、北に進むと長尾景虎のいる越後と接することになる。だからこそ、ここは西に伸びる一手しかない訳だが、それには我が浅井と六角が邪魔になる」
「邪魔などと……」お市は苦しそうに顔をしかめた。
「いやいや、邪魔とは思われぬにしても、確かに道の途中にいるわれらをなんとかせねばならぬとお思いになられたのは事実であろう。だからこそ、ここはわしらと結んで、京への道への障害をひとつなくされたというわけではないか。わしはそう踏んでおる」
「なかなか深くお考えになっているんですね」お市は感心したように告げた。
「そう云うことは肝要事であるゆえに、常に気を配っておかねばならぬというものでな。わしらはそう云うことに考えを及ぼすために、毎日軍議などを開いておるわけだ」
「心の休まる時がないのではありませぬか?」
 お市はこの新しい夫を心配そうに見た。
「いや、昔からこう云うことは常に考えて来たからな。それにいつも幼少のころは六角がこの江北に攻めて来ていたゆえ、いずれどちらかが滅ぶまでこの水かけ試合を続けねばならぬと思うておったのだ。わしの代でなんとかこの近江を統一したいと思うてはおるが、それは夢に終わるか、死を導く野望と消えるか……、どちらにせよ戦わぬことには終わりは見えぬというやつじゃな」
 長政はそう云って、ふっと笑った。
「嫁いですぐに未亡人などいやですよ」
 お市はそんな冗談を飛ばす。
 長政はこのお市という女性に惹かれはじめていた。これほどの美貌を備えていると云うのに高慢なところがなく、人の心にすーっと沁みとおってくる。まるで岩清水のような清冽さよと長政は思う。
 自分がこれまで平井の娘に掛けていた思いは、さっと氷解してしまったようだ。長政は早くこのお市という女を自分のものにしたいと思った。それは心の自然な流れであった。しかし、あまりに手が早いのも相手に自分を侮らせる原因になってしまう。
 それで、「市」と長政は呼びかけた。
「なんですか?」とお市は問う。
「茶を飲ませよう」
「茶、ですか?」
「近江の茶はまた尾張の茶とは異なるであろうしの」
「楽しみでございます」お市は楚々とした態度で告げる。
「妙、妙はおるか!」長政は大きな声で叫んだ。
 お市は突然の夫の声に身体をびくっとさせたが、すぐに侍女を呼んだのだとわかりほっと息をついた。
 やがて「入ります」と云って妙が部屋に入って来る。
「長政様。お市様、何用でございましょう?」
 妙は恐縮したように訊ねて来た。
「茶を淹れて欲しい」長政は優しい口調で伝えた。
「茶……でございますか?」
 妙は厄介なことを頼まれるとでも思っていたため、それが茶の所望であったことにほっとした様子だった。「すぐに淹れて参ります」といって妙は湯を沸かしに行った。

     *

「これは優しい味の茶ですね。瑞々しいと云ってもいいかもしれない」
 お市は一口飲んで感想を述べた。
「うむ……これはいい茶だ」と長政は褒める。「妙、これは父上の所蔵のものではないか?」
「わかりましたか?」妙はいたずらをした子供のようないきいきした声を上げる。
「これは見つかれば、叱られるぞ」長政はこそっとこの侍女を脅す。
「云いつけないで下さいましね」妙がびくりとすると、
 長政はこう云った。「云いつけるものか。わしらに気を使ってくれたのであろう? このお市に初めて出す茶に、なんとか良い物をと思ってくれたお前の心を踏みにじるようなことはせぬ」
「ありがとうございます」妙はほっと息をつき、それからお市の方を見た。
「御寮人様、何かありましたら、気軽にお呼びくださいませ。なんでも云いつけに従いますから」
「長政様とは仲がいいんですね」
 お市はそう云うと、この侍女をじっと見た。
「仲がいい……などと、私はただ一所懸命お仕え申し上げているだけです」
 妙は畏まって云った。
「妬けますね」お市はそんなことを云って、ますます侍女を焦らせる。
「妬くなどと、そんな感情は無用じゃ!」
 長政はむきになって云った。
「ほほほ」お市は先の妙のように、いたずらをした子供のような顔つきで笑った。
 それから三人は顔を見合せて笑い、長政とお市はまた茶を一口啜った。
「そうじゃ、尾張の茶はどんなものだ? 一度、飲ませてほしいのう」
「尾張の茶ですか。それはあいにく持って来ませんでしたが、家康様から織田家に賜れたものがありまして、それを少し持って来ましたのでお出し致しましょうか」
「ほう」
「茶は駿河のものがいいとは昔から云われております。日当たり、風あたり、土壌が茶の生育に最適であるとか。妙、ちょっと待って下さいね」
 そう云うと、お市は嫁入り道具の箱をざっと見まわして、茶の入っている箱を見つけると、ふたを開けて中から茶筒を取り出した。
「これを」と市は云い、妙に渡した。
「すぐに淹れて参ります」と云う妙に、
「あ、淹れるときは少しぬるめの湯に時間は先の茶よりやや長くお願いします」
「わかりました」妙はそう云って、厨場へ向かった。
 だんだん日が長くなる。長政は茶を待つまでの間、ゆっくりと時間を過ごそうと、庭に面した障子戸を開けて、外の空気を入れ換えた。草むらに小虫が飛び交っていた。


10 :蒼幻 :2010/06/16(水) 14:14:25 ID:tcz3skkeVm

第五章 天下布武



 尾張・美濃の二国を平定した織田信長の元に正親町天皇の綸旨が下ったのは永禄十年十一月のことであった。美濃の斎藤を滅ぼしたことから、「尤も武勇の長上、天道の感応、古今無双の名将」と云う褒め称えぶりである。もちろん皇族が一将を褒め称えるだけのためにこのような綸旨を発するわけもなく、それにはもう一つ大きな狙いがあった。綸旨に添えて、尾張と美濃の不知行地を記した皇室領目録を送ってきて、その回復を信長に命じたのである。
 また信長の幸運はそれだけではなかった。
 第十三代将軍足利義輝が三好三人衆と松永久秀に弑虐されて後、南都は一乗院にて修行していた将軍の弟覚慶が還俗して義昭と名乗り、越前朝倉のもとに身を寄せていたのであったが、義昭も、天皇と同じく信長の名将ぶりを買って幕府の威信回復を求めて来たのである。
 この天皇と義昭が頼って来た事実が、信長の気持ちを京へと駆り立てた。
 信長は義昭に書状を送り、今では本拠地を岐阜城としていたこともあって、美濃の立政寺に迎えて応対することにした。

     *

「市、嬉しい知らせがあるぞ」
 長政は喜悦に顔を輝かせながら妻に云った。
「なんでございます?」お市は落ち着いて訊ねる。
「何だと思う?」
「もったいぶらないで、お教え下さいまし」
 お市はふっと息を吐く。
「信長殿が近江へ参られることになった」長政の声には張りがある。
「えっ? 兄様が?」
 お市の顔にも笑みが浮かんだ。そして「でも、どうして?」とお市が云うのへ、長政は端的に答える。
「信長殿は上洛をお考えらしい」
「上洛!? というと、長政様のお考えが当たっていたのですね」
 お市は跳ねるような声で告げる。
「そうだな、でも当たったのは半分だ」
 長政は遠慮がちにほほ笑んだ。
「半分……と云われますと?」
「信長殿には壮大な考えがおありのようじゃ。それが何かはまだわからぬが、どうやら世の趨勢を大きく変えるようなことをお思いであるらしい。まあ、それは対面したときにでも話題になるであろうがの」
「そうですか、それはまた楽しみなことですね」
「ああ」と長政。「久々の兄妹の対面も成るかも知れぬな」
 今は七月下旬、お市がこの江北に嫁いでから一年と三月が経っていた。
 二人の関係は良好で、この一年というもの、大きな諍いはまったくなかった。長政は側女も合わせればもう何度も女との経験があったし、お市は落ち着いた性格でありながら、どんな状況にでも対応できる柔軟なところも持ち合わせていたからそれも当然であった。姑の阿古ともまずまずの関係を結んでいる。
 お市は剛柔取り合わせた性格とでもいうか、弱気な相手には大きな心で接し、強気な相手にはやんわりと接する、そういう器用なことのできる女性であった。また長政に対して阿古が強く云うときにも、自分も一緒になって強く云うのでなく、夫を立てながら姑の意見も聞きいれると云う、柔軟な姿勢を見せる。そのようであるから諍いの起ころうはずもないのである。お市にしてみれば、舅の久政との関係だけがぎくしゃくしていた。久政は力で押し切る性格でもなく、しっかりと情勢を見定めて思考を着実に積み重ねる性格でもなく、お市にとってみれば、とてもあやふやで取り留めのないように見え、どう接していいかわからないのだった。自然、会話は夫と義母、そして侍女のみということになるのである。
 お市はそれではいけないとは思っていた。しかしどうすることもできず、時々夫に相談するのだったが、長政もこの問題はそれほど大きなこととも思わず、ただ聞き役に回って、あまり父を悪く思わぬようにと告げるだけに留めていた。
 長政はそれから数日、家臣たちと、信長が佐和山を訪れた時の応対や段取りについてあれこれ協議した。久政はどことなくうわついているようで、時々長政たちの様子を見にも来るのだったが、しかし何も云わずに去っていくことが多い。
 それが何度も続いたころ、長政は父に訊ねた。
「父上、何かあるなら、申して下され」
「うん?」久政は語尾を伸ばすように云った。「何かとは何だ?」
「父上のこのところのご様子を見ると、何かわしらを見張ってでもいるかのようです。何かあるならわしらにお話し下され。いったい、何がご不満なのです?」
 長政は父が自分の気持ちを押し隠しているのは確実だからとて、そう尋ねた。
 久政はそれに答える。「もう決まったことゆえ何も云わずにおこうと思うたが、やはり気になって仕方ない。あの苛烈な噂の多き尾張守殿はそなたと上手くやっていくことが出来るかのう?」
「と云われますと?」
「そなたは最近では驍将といわれるほどの腕前だが、しかし普段は大人しくて、六角は別にしても、敵を作れぬ性格とでも云うか、どこか温厚な面があろう。反面、尾張守殿はどうだ? お前と尾張守殿を思うと、どうすればこの二人がうまくやっていけるのか想像しがたいと云うのがわしの意見での」
「ならば、父上はどうしろと云うのです?」長政は語気を強めて訊ねた。
「それはわからぬ、わからぬから、わしは何も云えぬのだ」
 二人の会話はしばらく途切れた。
 家臣たちは二人の遣り取りを脇で聴きながら、尾張方に引き渡す物品を取り決めている。
「此度の同盟はわれらとしても大いに気焔を上げるべきもので、宝物は特に秀でたものを用意するが最適かと思われます。今のうちに職工たちに手配して、良きものを集められるように致しましょう」
「そうじゃな。ならば、わしは駿馬の用意を担当しよう」
「わしは反物を」
「ならば、わしは――」
 会話は熱を帯び、活気に満ちている。
「長政」久政は云った。「織田とのことはそなたの代で決めたことだ。わしが口を出すのは、本来、誤っていることかも知れぬ。しかし、わしや先々代のことも忘れないでくれ。朝倉との縁は、そなたが思っておるほど、浅いものではないのだからの」
「善処いたします」長政はそう云って、実父に目礼した。

     *

 長政は朝から気が急いていた。
 何をするにしても落ち着かない。慣れぬ佐和山での朝餉となり、確かに琵琶湖が見えるのは嬉しいが、もうすぐ信長が来るのかと思うと、どう思いを定めればいいか分からない。
 信長の行列が近江に入ったとの知らせが飛び込む。長政は麻の大紋を身につける。三つ盛亀甲に花菱、浅井家の家紋が随所に散りばめられた礼装である。長めの袴は動きに多少の難があるが、その姿のまま馬に乗って磨針峠へ向かう。長政はそこでしばらく家臣たちと歓談して時を待ったが、半刻と経たぬうちに行列の先頭が見えてきた。馬廻衆二百五十余人。みな駿馬に乗って颯爽たる様子である。
 ――ほう、これは精強そうだ。
 長政は舌を巻いた。
 行列の先頭が長政たち浅井の家臣らを見て、礼をする。
 そしてその前で止まり、後方からひときわ華美な礼装の男が姿を見せた。
 ――これが信長殿か――。
 長政はそう思い、深く一礼してから述べた。
「織田殿、お待ち申しておりました。わしが浅井長政でござる。遠路はるばるありがたいことにございます」
 長政は晴れやかな顔をしていたが、まだ心の中にはしこりのように残るものがある。
「おう、備前守殿じきじきの出迎えとは、嬉しきことじゃ。わしが織田信長だ、お初にお目に掛かる」信長の声も長政に負けぬほど晴れやかで濁りがなかった。すでに打ち解けようとする様子であるし、やはりこれは、『信長殿を出迎えるときはこの峠で殿自ら応対なさるが宜しかろう』と告げてくれた家臣らの功績だと長政は思った。
「佐和山はここよりあと少し行ったところでござるゆえ、われらが先導致しましょう」長政はそう云うと、信長に目礼して自分の馬に乗った。
「なかなか油断のならぬお人のようにございますな」家臣の遠藤直経が長政の脇について話しかけてくる。
「あの今川義元を破られた御仁だ。いずれ尋常でないことは想像できよう」長政は事もなげに云う。
「まあ、そうかも知れませぬが……」遠藤は何か言葉を云いためらっていた。
「なんじゃ?」長政は訊ねる。
「な、なんでもありませぬ」遠藤は不思議な間をとってそう述べた。
 長政は解せぬという思いで顔をしかめたが、しかしそれを見た者はない。信長を先導しているのだと思うと、自分も同じ家格でありながら、身震いするような思いを抱く。長政は戦慄とまではいかないまでも、どこか落ち着かない感覚が常に身裡を取り巻いている気がして、感覚が麻痺したように思えた。
 佐和山に着くと早速、長政は信長を手配しておいた部屋に案内しようとした。しかし信長は、そのようなことは馬廻たちにさせておいてすぐにでも会談と行きたいと云う旨を伝えてきた。長政はならばとそれを受けることにする。多少の段取りの違いは家臣たちがどうとでもしてくれるだろう。そこで佐和山の天守にて、会談を行うことにした。
 信長は紺の大紋を身につけている。
 場には長政、久政、赤尾美作守、海北綱親、遠藤直経、磯野丹波守を始めとして数名がいた。織田方も同じ程の人数を入れて会談に臨もうとしていた。
「これはわれらから浅井家の皆にお渡ししたい引き出物じゃ。受け取ってくだされ」
 信長はそう云うと、部下たちに云って、用意したものを浅井家の者に引き渡す。長政には一文字宗吉の太刀ひと振り、槍、縮緬、具足に、馬を一頭。
 そして久政に黄金五十枚と太刀ひと振り、重臣達にもそれぞれに品物を贈る。武勇の誉れの高い磯野には、特に、銀三十枚、関兼光の太刀などが贈られた。
「われらは昨年の春に同盟を結ぶことに相成ったわけだが――」信長はここがまるで自分の居城であるように自分の意を素直にさらけ出す。「正直、浅井殿がここまで前途有望な若者であるとは思うておらなんだ」
 云い方次第では頭にかちんとくる科白だったが、信長のその物云いには正直な驚嘆ぶりとでも云うものが立ち現れていたので、長政はそうは受け取らなかった。
「恐悦至極にござる」と長政は短く答える。
「それでの、わしらは去年の秋に清洲から岐阜へ居城を移したのだが、お聞き及びか?」
「それは知っております。なんでも稲葉山城を毀ちて作られたとか。岐阜と云う名は『天下布武』の象徴として機能しているらしいですな」
「ほう、そこまでご存じか。それは説明する手間が省ける」信長は満足げに答える。「岐阜とは、ある和尚が、『周の文王、岐山より起り、天下を定む』」という故事を基にした言葉で、これはいいとて採用したのだ。井口城では様にならぬからな」
「なるほど」と長政。「そして最近は『天下布武』の朱印をお使いとか」
「左様。わしの目的は京に上り世の不正を糺すこと。それによりこの天下を良い物にできればと思うておる」信長の発言には静かな情熱が籠っていた。
「それは立派な目標にござる」長政は云う。「わしらはただこの江北に居座って、この一生の中で六角をあしらいながら、いつか近江を統一できればいいと思うだけで、実際それを実現するための行動と云うものをなかなかとらずに、ずるずる来ているのが現状であると云うに、織田殿のなんと実行力に富まれていることか。これは見習わねばならぬと身の引き締まる思いにございます」
 信長は長政の謙譲の言葉に満悦の様子を見せた。もともと人の下風に立つことが嫌いな性格である。こうして自分を立ててくれる相手にはとことん踏み込んで接すると云うのが信長の特徴でもあった。
「それでのう」と信長は云いさした。
「なんでござる?」と長政は訊ねる。
「江南の六角であるが――」
「はあ」
「わしらは六角承禎にも書状を送ったのじゃ。京までの道程を供せよとな」
「なんと」長政は驚いた。「して、六角方の反応は?」
「断ってきおったよ」信長は憎々しげに声を漏らした。その様子を見た馬廻の数名が顔に緊張を走らせた。信長の癇気が出るのではないかと身構えたためである。
「信長殿」と長政は云う。「どう対処なさるおつもりか?」
「それだがな――」信長は云った。「今日来たは、そのことについて深く話したいがためなのだ」
「ふむ」
「六角を討とうと思う」信長は押し出すように云った。
「やはり」と長政。
「わかっていられたか?」
「まあ、大体のことは」
「そこでだ……九月の頭ごろを考えているのだが、共同戦線を張ってくれぬか? すでに三河の徳川家康もこの作戦に賛同してくれておる」
「おう、これこそ同盟国の誼というもの。わしら江北からも精鋭を拠出させて頂きますぞ」
「それはありがたい!」信長の顔は喜悦に輝く。
 長政はこの新しい同盟国の主君、信長と云う人物が実直かつ剛健であると思った。瞬時に明晰なる計算をして、自分の有利なようにことを運ぶ才能。そんなことを思っていると、父久政の先日の言葉が心に浮かんでくる。
〈尾張守殿はそなたと上手くやっていくことが出来るかのう?〉
 ――苛烈な信長殿と温厚な自分。
 しかしお市の言葉もある。
〈本心を吐露できる相手がいない。この戦乱の世に於いて、孤立無援で戦って行かねばならない虚しさを心底から憂えている気がしてならないのです〉
 長政はこの皆がいる前でなく、二人きりの場を設けて、その話をしてみたいと思った。しかしいま、それは叶わぬことであろう。長政はその思いを押し隠して、さらに言葉を継いだ。
「われら浅井軍、信長殿のために獅子奮迅の勢いで戦場を駆けめぐりましょうぞ」
 長政の口上に信長はさらに機嫌をよくする。
 長政と信長は互いに身の上話などしながら、その日の会見を終えた。

     *

 翌日、信長からの要望で佐和山城にお市が呼ばれた。一年と三ヶ月ぶりの兄妹の対面である。
「元気であったか?」それが信長の第一声であった。
「はい」とお市は云う。
「昨日も長政殿と話しておったが、そなたとの関係も良好でまずまずの賢妻ぶりであるということだった。兄としてこれ以上、嬉しいことはない」
 お市は兄の打ち解けように驚いた。兄がこれほど自分のことを気遣ってくれるなんて、尾張にいた頃には、特に近年はこのようなことはなかった。あの冷たく、暗い、陰鬱な心根が見える兄の心を、これ以上見たくないと拒みそうになった自分の思いに対して、兄に申し訳ない気持ちも生まれた。
「お兄様」とお市は云う。「私はここに嫁してきて本当に良かったと思っています。もし尾張で婚儀のことを知らされたとき、きっぱり断っていたら、いまの幸福はなかったでしょうし、いまも尾張にいたであろう私は、兄上の、私に向ける蔑みの感情で心が塞ぎきっていたと思います。兄上、ありがとうございます」
 信長は妹お市がそこまでこの長政を気に入っていることを知り、満悦の表情をした。しかし心中にはなぜこれほど妹が心酔するのかと、義弟の長政をまじまじと見、そして、疑問を胸に抱くのでもあった。
「信長殿」長政は云った。「わしはしばらく散歩でもして参りますので、市と兄妹の語らいでもしていて下され。邪魔者は消えると云うやつです」
「ああ、気を遣わせてしまってすまぬ」と信長は云う。
 お市も「お気をつけて」と云って送り出してくれた。
 長政はしばらく秋の風に吹かれながら、供を連れて佐和山の周囲をぐるりと巡った。

     *

 翌日長政は、信長に浅井家重代の宝刀備前兼光を贈った。
 他に近江綿、近江布、月毛馬や藤原定家の『近江名所尽し』二冊も贈る。また信長がしたように、馬廻衆にも太刀を贈り、その感情を慰撫した。
 信長は佐和山にて、長政と、箕作城攻略についての算段や、いまの諸国を取り巻く情勢などについて語り合った。そして十日程が過ぎたころ、長政は信長と二人きりで語り合う機会を得た。
「市から訊いたのですが、信長殿はなかなか家臣に本心が伝わらず、孤独を覚えていらっしゃるとか?」長政は単刀直入に切り出した。他になんといっていいか言葉が浮かばなかったし、こう云う場合、臆することなく、思いきって言葉を口にした方がうまくいくと心得ていたのである。と、狙い通り、信長はこの話に食いついてきた。
「そうだな、わしにはそう云う面があるかもしれぬ」
 信長は内心、ひやりとしていた。お市が長政にそんなことまで話しているとは思いも寄らなかったからである。お市は自分をしっかりと見ていて、あまつさえ、他者に評を下すようなことまでするのかと驚かされた。これはなかなかしたたかなと信長は思う。
「実はわしもそう云う面がございましてな」
 長政が云うと、信長も、「ほう」と声を上げる。
「そうなのです」長政は十一歳年の違う義兄に云った。
 信長は表情を緩める。
 それで長政も緊張がほぐれて、視線を外へ彷徨わせる。
 いま二人は佐和山の天守にあった。
 質素な調度であったが、それがまた信長には珍しく思え、東海にはない洒脱なことよと喜んだ。それには理由があって、城主を任されている磯野丹波守が派手な装飾を嫌っており、その影響もあって、百々が城主だった頃からは大分、様変わりしていたのである。しかし、今回の信長の饗応にて、調度を見直そうと云う話も出たのだが、この無駄を廃した空間が思いのほか、諸将の心を打ったと云うこともあり、そのままで行くことになったのだった。
「長政殿」と信長は云う。
「はい」
「主君と云うものは孤独の中で戦わねばならぬものかも知れぬの」
 信長はふっと肩の力を抜いた。
 長政は琵琶湖に目を向ける。「そうかも知れませぬな」
「わしはの――」信長は真剣な表情で告げる。「これまでずっと肩肘を張って生きてきた気がする。周りを統率するには武力や智力が必要で、そう云うことを突き詰めていくと、わしは苛烈にならねばならなかった。それこそ武将のあるべき姿と褒めてくれる者もあるが、本心はどうか……。人の心ほどわからぬものもない。だからこそ、わしはそれを極力見なくてもいいように、今のような態度を取り続けて皆を怯えさせておる」
「意識して為すことと、意識せずして為してしまうこととは、似て非なるものでござる」
 長政は謎かけのような物云いをする。
「うん?」と信長は訊ねる。「どういうことだ?」
「つまりです――」長政は語気を緩めて説明する。「自分がこう云う風に行動しようと意識してとった行動であればほかに恥じる必要はなく、そのまま突っ走っていくべきです」
「家臣を置いてでもか?」
「いえ、家臣を巻き込んでです」
「ほう、それは面白い」
 信長はふっとほほ笑んだ。
「理解してくれる者がおらぬと嘆くより、理解しようと思ってくれる熱心な家臣を一人でも多く持つことです」
 長政は真剣な表情で告げる。
 信長は暫く思案顔をしてから云った。「そうだな」
「少々分を弁えぬ発言をしてしまったこと、申し訳ありませぬ」長政は謝る。
「いや、なかなか辛辣ではあったが、いい言葉をいただいた。長政殿の家臣は果報者であるな」
「えっ?」長政は信長の返答に驚く。
「しっかり家臣のことを見守る主君に恵まれておる」
「なにを仰るか。信長殿の家臣団の結束の硬さはつねづね見習いたいと思うておるのですぞ」
「ははは」信長は豪快に笑う。
「しかし、信長殿――」長政は声を漏らすように云った。「わしはこうも思うのです。主君とは家臣と強い絆で結ばれるものではあるけれど、自分一人のことを思えば、誰とも本心を語らい合えぬ孤独の塊のようなものを心に持ちつつ、活動して行かねばならぬということです」
 長政の言葉に信長は暫し考え込んだ。
「ふむ……市の云った通りだな」信長が云う。
「えっ?」
「わしと長政殿とは性根のところで似ているとあいつは云いおった。わしはそんなことがあるかと思ったが、この話を聞く限り、心に孤独を抱えていて、それを諦念の境地で見ている自分がいるところまでわしとそっくりじゃ。面白いのう。こういう人物に会うたのはそちが初めてじゃ!」
 信長はそう云うと、興をそそられたのか、満悦の態である。
 その日は外が暗くなるまで信長と語り合って時間を過ごす長政だった。


11 :蒼幻 :2010/06/16(水) 14:15:09 ID:tcz3skkeVm

     *

 結局、信長は二十日ほど佐和山に滞在し、帰途に就くとその日は柏原の成菩提院に泊った。饗応役は遠藤直経、浅井縫殿介、中島九郎次郎の三名である。信長は成菩提院の敷地が狭いこともあって、馬廻衆の大半を町屋に泊らせていた。それを知った遠藤は至急、小谷に馬を走らせ、長政に上告した。
「いま信長の周りには十数名の小姓がおるだけです。信長を討つ好機でございますぞ! ぜひ、信長討伐の許しを賜りたい!」
 しかし遠藤の意見は聞き入れられなかった。
 遠藤は帰り道に思う。
 ――いま命をとればこちらにどれほど有利になるか。このように柔弱では何も成せずにおわるのではないか。しかしそれも殿の優しさであろう。ああ、このことが後々、大きなこととなって尾を引かねばよいのだが。

     *

 美濃は岐阜城に帰還した信長は一万五千の兵を率いて江南に向けて進発した。九月七日のことである。この行軍には三河の徳川家康とその麾下千人の兵士が随行している。そして翌日、近江に入ると、浅井軍の三千がさらに加わった。
「長政殿! 直々に出陣してくれてうれしく思うぞ」
 信長は感動に声を震わせている。
 織田上洛軍はそれから二日、高宮で休息し、十一日、南へ向った。

     *

 六角が領地を守るにあたって的を絞ったのは次の三城である。

 観音寺城 千人
 和田山城 六千人
 箕作城 三千人

 この三城に多くの兵力を配置し、和田山に信長の主力をおびき寄せ、他の二城が背後と側面から攻撃を仕掛けるという作戦である。
 六角の守城に近づき、軍を止めたときに織田方から浅井の部隊に伝令が走った。
「浅井殿には観音寺城の南手を攻めて頂きたいとの殿の仰せにございます」
 長政はずっとそのことが気がかりであった。去る八月二十六日に祖母の蔵屋が亡くなっていたのである。いまだ忌明けも済んでいないのに血腥いことをしていいものかと悩む気持ちがあった。
 そこへ赤尾美作守が告げてくる。
「殿、この話は受けてはなりませぬぞ」
 伝令に聞こえぬ小さな声である。
 長政はこくりと頷くと、伝令に説明した。
『忌明けも済んでいないに人を殺すことは憚られる。われらは後詰めということにしておいてくだされ』
 伝令はすぐさま陣営に戻ってそのことを信長に伝えた。
「ぬうう」と信長は癇気を露わにする。
 ――長政め、作戦立案のときはあれほど積極的に申し出ておったと云うに、こうして実際に攻める段になると、そんな身内の忌中を口実に戦から抜けおるとは。その煮え切らなさこそが江北が江南と戦いながら、これまでずっと雌雄が決しなかった理由なのであろう。
 信長は口にしないものの、そう思いなし、浅井のことはこれ以上考えることなく、後詰めに回した。
 ――しかし、六角と云い、朝倉と云い、西はいけすかぬやつが多い。
 信長が朝倉云々と思うのにはわけがあった。
 朝倉も六角と同じく、今回の上洛への兵の拠出、行軍の随行を拒んできたのである。信長は脇にいる足利義昭を見た。
 並よりやや高い身長に公家かと思えるような落ち着いた顔つき。鎧甲はつけず、略装で陣にいる。今回は完全に物見遊山という感じで軍の中に入っていた。
 ――こんな人間でも血筋ひとつで将軍だなんだと高い地位を狙えるとは、なんと空しいことであるか……。
 信長はそう考えて舌打ちする。
 結局、織田軍は三城にそれぞれ兵を分けて攻め込むことにした。

 観音寺城 柴田勝家、池田信興、森可成、坂井政尚。
 和田山城 稲葉一鉄、氏家卜全、安藤伊賀守。
 箕作城 織田信長、佐久間信盛、滝川一益、丹羽長秀、羽柴秀吉。

 徳川・浅井は完全に随行のみとなったのである。

     *

 六角の狙いを見澄ました織田の軍勢は攻撃を箕作城に集中した。
 和田山城と観音寺城を牽制しつつ、箕作城を狙うが、箕作は想像していた通り、難攻不落と云ってもいいほどの強度を誇っている。
 主な攻め手は二つ。大手を丹羽長秀、搦手を羽柴秀吉が任されていた。
 六角軍は士気が高い。それにはわけがあった。
 秀吉の隊はどこかで拾って来た鎧や兜をつけている者の姿が目立ち、上と下とがちぐはぐであったり、兜をしていながら鎧をつけていなかったり、鎧をつけているのに兜をつけていなかったり、まちまちだったのである。一方、守り手の六角は伝統に裏打ちされた見事な装備で統一している。六角方には秀吉隊を侮る気持ちが強かったのである。
 そんな思いもありながら、城はますます守りを固め、秀吉隊は被害が増す一方であった。そこでこの箕作城の攻略法を探すため、軍議を開くことにする。
「なにか良い手はないものか?」
 秀吉は諸将に訊ねた。
「あの堅い城……攻めても攻めても落ちぬとはこのことですな」
「まったく。どうすれば落ちるのか」
 そう嘆く諸将もある。
 そんな中、蜂須賀正勝、通称小六が答えた。
「いくら堅いと云っても美濃の稲葉山ほどではござらぬでしょう。ここは砦や鹿垣に火をつけて回れば六角は動揺して守りも手薄になると思われます」
 秀吉は策がないと思っていたところにこの考えを出されて、すぐにその案を採用することにした。
 そしてその日の夜に作戦を実行すると、これが見事にはまって箕作城は一夜にして落ちたのである。
 秀吉はこの功績を鑑みて、これまで稲葉山の手柄で瓢箪ひとつの図柄を掲げてきたところに、今回の働きを加えて瓢箪二つを馬印にしたのだった。
 六角は箕作城が落ちたことを知り、その動揺から和田山城、観音寺城の二城の兵士が散り散りになって逃亡した。六角承禎と義治の親子も甲賀へと逃れ去り、残りの六角の城もすべて開城して信長に降服を申し出た。

     *

 信長は六角攻略で気持ちを安堵しているかと思いきや、いらいらがどうにも抑えられない様子だった。
 長政の不戦の申し出があまりに不甲斐なさ過ぎて、こんな男を一度でも信頼した自分が馬鹿だったという思いを抱く。しかしすぐに思いなおす。祖母が亡くなった事実を重く受け止め、戦場で血腥いことをしたくない、それは確かにわからないではない。まあ、それも、父の葬儀のときに焼香を掴んで投げた自分である。わかったような、わからないような気持ちであることは確かだ。
 ――菩提を弔うことができる男とできぬ男か。こんな二人が無二の朋友となることが果してあるものか?
 あの、佐和山で似た者同士であると思った自分が情けなくなる。
 ――しかし、と考える。
 ――今回のことは水に流しておくがいいだろう。長政はわしにはないものを持っておるし、なにより義弟なのだ。お市も長政を気に入っているのだし、すすんで波風を立てる必要もあるまい。大人しくつき従ってくれるなら、それだけでいいではないか。たった一度、戦わなかったと云うだけで対立するのは馬鹿らしい。人格的にもひとの耳目を惹くだけのものは持っている。まだまだこれからの関係であるのだから……。
 信長はそう思いなして、己の気持ちを宥めた。
 そのとき、脇に侍っている男のほうに視線が行った。
 おとなしそうな顔つきのその男は、第十三代将軍の弟足利義昭である。
「義昭殿」と信長は声を掛ける。
「うん?」義昭は目元を上げて軽く受ける。
「いよいよ京でござるな」
「ああ、そうだな」義昭はうっすらと笑む。
 正直なところ、信長はこの男が好きではなかった。確かに悪い人間ではないが、もし足利将軍家の血筋でなかったならば、絶対に一緒には行動しなかったであろう。
 義昭にはどこか陰があった。もちろん信長にもその性格に陰があることは認めるに吝かでないが、義昭の薄暗い性格は信長のそれとは根本的に違っている。それは仏門に入っていた時期があったからなのか、それとも生まれつきの性格であるのかはわからなかったが、じめじめした、陰険とも云えるような性格がその表情や態度にときどき現れ、それが信長の性格に合わないのだった。
 それでも足利将軍家との唯一の繋がりである。これを蹴るわけにはいかない。そう考えて、この男と付き合っているのだったが、
 ――それにしても、と思う。
 信長は京に入れば三好や松永などとも渡りあって行かねばならぬとの意識を強めていた。義昭を立てれば、第十四代征夷大将軍として即位した義栄と対立することになり、そこには三好や松永が立ちはだかるであろう。敵はあらゆる場所にいて、それらを撃破するには味方はいくらあっても良いくらいである。
 ゆえに信長は長政に対しての不満を爆発させることなく抑え込んでいた。
「信長殿」と義昭は云った。
「如何なされました?」と信長。
「わしは感謝しておるのだ」
「うん?」
「足利将軍家は自分の足で立つことも出来ぬと思われているようなこの時代で、信長殿、そなただけはわしを気遣い、兵を挙げてくれた。それは世話になった朝倉にも恩義は感じておる。しかし本当に感謝を覚えているのはそなたに対してなのだ、それを分かってほしい」
 義昭はそう云うと、はらはらと泪をこぼした。
 ――陰険と思ったが泪まで流すとは余程わしに入れ込んでいるな……。
 信長はそう思い做すと、ふっと息を吐いた。
「そう泣かれますな」信長は宥めるように声を掛ける。
「なにも出来ずに済まぬ……わしが将軍になったら、必ずそなたに報いるからの。それまで待っていて下され」
「見返りを期待して兵を挙げた訳ではありませぬぞ」
 信長はぴしりと云う。
「それはわかっておる」義昭ははっとして反応する。「信長殿、そなたの望みは何であるか?」
 義昭はことの本質に切り込むような質問をする。
 ――これは穏やかでない、と信長は思う。
 義昭は信長の返答を待った。
「そうですな……将軍を補佐する賢臣となることがわが望みでござるな」
 信長は言葉を吟味してそう述べた。
「そうか――」と義昭は答える。「いずれそうなってくれることをわしも望んでおる」
「はっ」信長はそう答えて、そして落城した観音寺城へと入ることにする。
 馬を進め、城に着いた時には夕暮れになっていた。
 暮れなずむ夕刻のあわいに信長はふと虚しさを覚える。
 観音寺城には立派な松が植えられていた。それでも何か病ででもあるのか、幹が少し痛んでいた。触るとぼろっと皮が剥げる。信長は顔をしかめた。
 ――他の樹はまったくこんなことはないのに、どうしてこの樹だけがぼろぼろになっているのか。信長は考える。
 その答えは、いまは見つからない。
 きっと今後も分からないだろう。しかし、この一樹をそのままにしておくと、他の樹にもこの病が伝染するのではないか? そんな風にも考えられる。
 松の一樹の病。人も松も同じである、と思えてくる。
 ひとつが腐れば、周りのものも腐ってくる。
 初めに腐ったのは何だったのか?
 それには根源があるのか? それともないのか?
 いま腐っているのは政治の中枢にあるべき将軍家の混乱を招いている三好・松永の勢力か? そして周りに林立している六角やら武田やら朝倉やら、そんなものが次第に天下の根元を腐らせて行って、腐臭さえ漂わせるいぎたなさ。
 ――とてもついて行けぬ……。
 信長はそう思い、建物の中へと入る。
 そして小谷には帰らず、随伴してくれている長政と語らうために、彼に割り振られた室へ向かうことにした。

     *

 長政が室で寛衣に着替えて赤尾美作守と語らっていると、そこへ信長が入って来た。
「信長殿!」赤尾は過敏に反応した。
「おう、赤尾殿も一緒であったか」信長は声を落として云った。
 美作守は状況を察知して、先に云った。「お二人で話されたいこともございましょう、私は席を外すことに致します」
「いや、お気づかい結構でござる」信長は云ったが、赤尾は承知しない。
「いえ、礼儀でござるゆえ」
 美作守はそう云うと、憚りながら室を後にした。
 信長はさっと室の様子を眺めた。
「周りには誰もおりませぬし、盗み聞きされる心配もありませぬ」と長政は云う。
「ははは、本心を見透かされたな」信長はふっと笑んだ。
「信長殿、此度は済まないことです」
「うん?」
「あれほど壮語しておったのに、祖母のことで全くいい働きができませなんだ」長政は申し訳なさそうに云ったが、信長はそれには何も云わず、次の長政の言葉を待っていた。長政は続ける。「信長殿の家臣の実行力には驚かされまする。あの箕作城を攻められた手腕はお見事と云う他ない」
「ああ、猿の奴の手柄だな」信長は事もなげに云う。
「猿?」長政は訊ねる。
「いやいや、顔が猿に似ておるから、そう諢名しておるだけで、本名は別にある」
「ほう……」
「羽柴秀吉というのがその名じゃ」信長は嬉しそうに云った。
「羽柴というと、あの美濃攻めのときにも活躍した部将でござるな。講談師が噂しております。確かもともと百姓の出であったとか? それがこうしてひとかどの部将として活躍するとは、なかなかわからんものですな」
「いや、あいつはなかなか面白い。百姓の倅[せがれ]であるからとて馬鹿にすることはできぬよ」
「そのようにございますな」
「しかし、織田殿の軍の精強さは見習いたい」
「そうか?」
「はい」長政は畏まったように答える。「それで信長殿」
「うん?」
「いったい、信長殿はこれからどうしようとお考えなのですか?」
 長政はそこに最大の関心を抱いていた。この信長がいったいどういう構想を描いて天下にあろうとしているのか、そこを知りたいと云う気持ちが大きい。もちろん、長政だけでなく、近隣の大名はみな、そこを知りたいと思っていたに違いない。そしてその意見をもっとも身近で訊けるのが長政であった。
「うむ……まあ、もうお分かりかと思うが、わが軍は足利義昭殿を擁している。このまま上洛して、三好らの勢力を滅ぼして義昭殿を正当な将軍にしたいと思うておる。それに先年、わしは正親町天皇から綸旨を頂いた。このことも今回のわしの思いの中に大きな影響を及ぼしておる。もしそれがなければこれほど早く上洛を実行に移そうとはしなかったであろうな」
「そうなのですか」長政は天皇のことまで話題にのぼったことに驚いた。
「しかしのう」信長は声を漏らした。
「はい?」長政は聞き役に徹する。
「ついさっき外で枯れかけた松を見たのだ」
「はい」
「一本だけだったがもしそれが腐るのを黙認していれば、いずれ他の樹も同じようにして腐ってしまうのではないかと思ったのだ」
 長政は取り留めのない話のようにも思えたが、信長自体無駄を忌む性格であるから、このような会話のなかにも何らかの示唆が含まれているのだろうと思案しながら聴いた。
「いったいこの日の本はどこが腐っていまのような状態になったのであろうかのう?」
 長政は「うーん」とうなるだけで何も答えなかった。
「神代にはヤマトタケルが統べており、近き頃にも藤原、平、源、などがそのときどきに於いて、この日の本の国を統べていた。それがこの足利の十何代の後になって、将軍の威光は地に落ち、諸国には蛮勇が割拠している。こんな情勢は支那の春秋や戦国の世のようなものではないか。わしは憂えておるのだ。このような状態で他の諸国と渡り合うことができるのかとな」
「他の諸国?」長政はいきなりの言葉に驚いた。
「ああ、ポルトガルやオランダといった国々だ」
「種子島を日本に伝えたのも外つ国のものでしたな」
「ああ」信長は頷く。「わしは宣教師の話もときどき聴くようにしていてな」
「ほう、そんな人がいらっしゃるんですね」
「ああ」信長は目を細める。「いったいどうすればこの日の本を統べて、列強と肩を並べられるか、その事ばかりを夢想していた時期もあった」
「そんな時代があったのですか?」長政は興味をそそられて訊ねる。
「まだ尾張一国を統べたばかりの時期のことよ」
「そう云えば、その頃でしたな。信長殿が駿府の今川義元を破られたのは」
「そうかな」信長は機嫌よさそうにほほ笑む。
「よかったらそのときのことをお聞かせ願えませぬか?」
「うん?」
「聞いてみたいと思うておったのです。本人の口から聞くのと、市井にあるものから聞くのとでは趣きも異なるというものですからな」
「そうか、なら、ひとつ話してみるか――」信長はそう云うと、今川義元を破ったくだりを話しはじめた。
「あの夜は雨が降っていた。暖かい時期だったから身体を冷やす心配もなく、雨の利点として、相当近くまで寄っても敵に気づかれる心配がないということがあった。それによって少ない手勢で今川義元の陣に近づき、その勢いで義元の首を狙ったというわけじゃ」
「雨が功を奏したのでございますな?」
「まあ、そう云うわけだな」
「で、何かその戦いで得たものはありますか?」
「教訓……ということか?」
「はい」長政は嬉しそうに笑む。
 信長も打ち解けた感じで笑い返した。「そうであるな……戦の目的の違いがはっきりしていたことが際立った戦闘だったように思うな」
「はい?」
「つまりじゃ、われらにとっては何よりも今川義元の首ひとつをあげれば勝利であって、それまでに何人の兵士が死んだとしてもひとつの首さえ上げればよいわけだろう?」
「なるほど」長政は納得する。
「しかし、今川方の勝利とは何だと思う? つまり、我らが織田軍の全滅であるわけだ」
「なるほど」
「そうであるから、味方の士気にも違いが出てくる。それにこちらは寡勢、あちらは多勢、普通考えれば多勢の方にこそ士気の高さがあると思うが、今川軍はそれまでに自分達の軍はわが軍に比べて兵士の数がまったく違っているということに対して慢心していたのだな。それによって、わしが活を入れ、稲妻が天を貫いて、雨がそれまでの旧弊を洗い流すように盛んであったことから、わしらの軍は天神が加勢したかと思えるほどの士気の高さを誇っていた。それも勝敗に大きく影響したと思うのだ」
「ふむ」長政はしっかりと信長の話を聴いた。
「江北の軍はそう云う士気の面ではどうかな?」信長はふいに訊ねた。
「われらでござるか」長政は考える。「織田殿の軍ほどではありませぬが、ひとりひとりが自分の力を出し切ろうとする実直な軍であると思うておりますな」
「ほう」信長は興味深げに長政を見た。
「我らには磯野や遠藤といった部将がおりますが、しかし、話を聞く限り、織田殿の部下にも腕自慢は多くあるようですな」
「うむ」
「織田殿とこうして同盟を結ぶことができて良かったと思うております」長政は云った。「もし織田殿の軍と干戈を交えることになっていましたら、きっとわれらは存亡の危機に見舞われていたことでございましょう」
「はっは、何を云われるか」信長は大きく口を開けて笑った。「苦戦するのはわれらの方かも知れぬ。長政殿は自身を過小評価しすぎじゃ!」
「はは、お互いさまと云うことで」長政はそう云ってまた笑んだ。
「しかし、六角はこれで終わったわけだ」
「そうですね」
「次は京であるぞ」
「はい」長政はこくりとうなずく。
 信長はそれを見て付け加える。「京は見事であろうのう。わしら田舎侍にはわからぬ世界であろうしの」
「はは」
「とにかく侮られぬように気をつけるばかりじゃ」
 長政と信長は顔を見合せて、また笑いこけた。


12 :蒼幻 :2010/07/02(金) 08:45:33 ID:tcz3skkeVm

第六章 金ヶ崎城の戦い




 永禄十一年九月二十六日、織田軍は京へと入った。
 足利義昭を奉じ、徳川家康、浅井長政らを従えて颯爽たるものである。
 他の町には無い、煌びやかな中に瀟洒な面の見える都の貌に、信長も長政も感嘆した。
 信長が上洛を果たしたという報せは早速、諸国に喧伝された。そして将軍を廃嫡し、新たに義昭を将軍位につけるであろうことを、聡い諸国の大名たちは密かに予測していたのである。
 ――尾張の若造が何を気取って上洛じゃ。
 と、蔑みの気持ちで見ているものもあれば、
 ――なかなか理にかなった運びで、末恐ろしいものよ。
 と、怯えの気持ちを持っているものもある。
 一番肝を冷やしているのは京の民衆で、尾張の兵士は皆鬼のような者らで、自分達を凌辱して憚らないのではないかとさえ思っているのだった。しかし乱暴狼藉は固く禁ずるという触れが信長から発され、都は大した混乱に陥ることもなく、織田軍を受け入れたのだった。
「長政殿、そなたは京の都をどう見る?」
 一日の仕事を終えた信長は長政を呼びつけて、歓談しようとの趣きである。
「京の都でござるか」
「ああ」信長は答えを待つ。
「そうですな――、諸国の人々の思いを意に介さず、雄渾なる時の流れに支配されて、御所を中心に、華やかかつ美しい街であると見ております」長政はそう云うと、ひとつ溜息を落とした。
「云っていることの正しさは分かるが、面白みに欠ける評だな」
 信長はずばりと云う。
「信長殿はいかがお考えですか?」
 今度は反対に長政が訊ねる。
「わしか。わしはな――」
 信長はそう云うと、少し考え、そして顎髭に手をやって暫くそれを撫でていた。やがて眉間に皺を寄せながら答えにくそうに声を上げた。
「わしにはわからぬのだ」
 長政は予想外の答えに驚かされた。
「わからない……ですか?」
「ああ、わからぬのだ」
「それはまたどうして?」
「この京に来るまでは、ずっと、憧れの気持ちも抱いておったし、何か自分がこれまでに見たことのない、驚天動地が現前するような期待を抱いておった。しかし、実際に来てみると、あるのは人と建物という始末。そんなものは、色合いは違うもののどこにでもあるものではないか。ただ規模が大きくなったというだけで、そこにある構成物はすべて本拠地で見て来たようなものばかり。わしは興ざめしてしまったよ」
 信長は声を低めて云う。
 長政は信長の言葉にうなずいた。
「確かに都にはなんでもあるという印象が強うございましたが、わしも来てみて、実はそれほど目新しいものはないように思うております。それなら、故郷でも見たことがあるではないか、ああ、これはあれとそれとを組み合わせたものだなとか、どれそれの亜流だなとか、そういう意識が強まって、わしは落ち着かない気持ちにもなりました。しかし、やはり都。そこに住まいしている人々の精神と云うか、気質と云うか、そう云うものは鄙びたわれらの城下の民とはまったく異なる印象がございます。そう云う所を見ていけば、信長殿も落胆の度合いが減るのではございませぬか?」
「長政殿の言葉は優しげだが、時に辛辣であるような気もするな」
 信長は感心するように告げた。
「確かに人の心が洗練されているとは思わないでもない。しかし武人の目から見れば、それは表層にすぎない気がする」
「表層……つまり上っ面ということですね」長政は云った。
「ああ、いったい本心はどこにあるのか? 都人の心は妖異も避けるところとは思えぬのだ。やはり、人の住まうところには魑魅も住むだろうし、狐狸だって住まいしておろう? 人と云うのは住む場所に左右されて縦横に変化するものでなく、本質的な意味に於いては誰も皆、同じではないかと思うのだ。つまり、都に新しい物なしという格言が作れるのではないかと思うわけでね」
「なるほど」長政は信長の云うことに強く頷いた。
 二人はそれから屋敷の外へ出ることにした。
「義昭殿を将軍にすることが第一歩であるな」
 庭を歩きながら、二人は歓談する。
「将軍ですか……江北で六角と争っているときには、まったく意に介したことのない概念でござる」
「はっは、わしもだ。今川を破った時には思いも寄らなかった」と信長は云い、続けてこう訊ねた。「やはりわしらは似ておるのかのう?」
「性格はまったく似ておらぬに、その本質的なところで似ておるのやも知れませぬな」
「左様、左様」
 長政は少し考えてから述べた。「わしらはよき友人となれますでしょうかな?」
「うん?」信長は問い返す。
「友人でござる。『朋あり遠方より来る』の朋でござる」
「友か」信長はくいっと口辺を上げた。
「わしには友と呼べるものはありませぬ。もっとも親しいのは家臣の赤尾美作守でござるが、これは父子ほどの年齢の差がございますからな。どちらかと云うと、頼りになる伯父というような印象が強うござる。他に思い当ると云っては、妻の市くらい。市も妻と云うことで厳密には友と呼ぶのは難しいという思いでおります。そう考えてみると、わしには友と呼べる存在はないのでござる」長政がそう云うのへ信長が答える。
「そうじゃな、わしも家臣と妻を除けば、他に友人と呼べるものはおらぬ気がする。ただ唯一の例外は家康だな」
「家康殿でござるか」
「ああ」と信長。
「家康殿とは結局ほとんどしゃべることがなかったですからな」
「ならば、今から行ってみるか? 家康はもうすぐ三河に帰るらしい。それまでに何度か喋って、それなりの関係を作るのもよかろうしの。うん、それがいい、参ろう」
「いや、わしは遠慮しておきまする」長政は信長の申し出を辞去した。
 長政にはその申し出を受け入れたくない理由があった。
 家康という武将について、それほどいい印象を抱いていなかったのである。この行軍で信長と家康との会話を耳にしたこともあり、どことなく腹に一物あるような印象の漂う家康に、これは自分とはまったくそりが合わぬのではないかと忌むような思いを持っていたのである。
「そうか、残念だな」信長はつぶやいた。
「申し訳ない」長政は謝る。
「ならばもう少し散歩を楽しむか」
 信長はそう云い、西の空へと向かう太陽を見て目を細めた。
「また冬が来るのう」
「そうですな」長政は答える。
「京の冬はどんなものであろうなあ」と信長が云うのへ長政が答える。
「どうでござろう? 近江の西隣である故、雪がそこそこ降るのが普通かも知れませぬな」
「雪か」信長は押し出すように云う。
「雪は苦手ですか?」
「そうだな。雪は尾張ではそれほど降らなかったが、去年の冬は難義致した。なにせ、慣れぬ美濃での冬越しであったゆえ、あれほど雪が降るのは初めての体験だった。いや、肝を潰しそうになったのも一度や二度ではないぞ」
「そうでございますか」長政も美濃がどれほどの雪が降るものか知らなかったが、江北もなかなかに凄まじいものがあるということを信長に示したかった。が、それはやめておいて、他の話題に切り換えることにした。
「信長殿、信長殿がいま最も恐れている武将はどなたでございますかな?」
 長政はふいに心に浮かんだ疑問を口にした。
「恐れている武将?」信長は長政の質問を繰り返した。
 二人の間に微妙な空気が流れる。
「そうであるな、まったく無いと答えるのも有りかと思うが――」信長は心地よさげに目を細めて、それから続けた。「甲斐の武田信玄。これじゃな」信長の顔には恐れはなかったが、その信玄の名を口にさせた長政の質問を快く思っていない風がありありと浮かんでいた。
 ――これはまずい質問であったか?
 と長政は考える。
「長政殿は誰が一番恐ろしい?」今度は信長が訊ねる。
 長政はほとんど悩まずに答えた。
「信長殿でござる」
 二人は呵々と笑いあう。そして場がなごんだ。

     *

 十月十八日、足利義昭は征夷大将軍に任ぜられた。
 予測された三好三人衆や松永久秀の抵抗もなく、この人事はすんなりと決まった。そして翌永禄十二年一月末頃から、将軍の御座所とするために、二条城の修築が始まった。責任者は信長と長政である。
 近隣諸国から二万人以上が集まって行う作業である。そこには国同士の意地の張り合いもあった。
 そんな不穏な情勢のなか、将兵は、京都のさまざまな寺院に乱入して、石仏や板碑や五輪塔や礎石などを奪い、それを石垣に用いたのである。
 その作事の荒い面に焦点を当てた、こんな落書が二条南門に建てられた。

 なき跡のしるしの石を取り集め
 はかなく見えし御所の体[てい]かな

 その落書を見つけたのは織田家の市中見回り役である。
 即刻、見回り役は信長に報告して、その信長は怒りをあらわにしながら、それを書いた者を探し出せと家臣に命令した。
 一日とあかず、その本人が見つかった。
 五条松原通りに住まう狂歌師、無一左衛門である。
 この男、世を風刺する歌を作っては洛中に札を立てる常習犯で、今回もそれと同じようにして札を立てたのである。
 信長は無一左衛門を目の前にして眼を忿らせて云った。
「このように無礼で分を弁えぬ奴は生きていても仕方ない。えい、忌々しい。四条河原で公開処刑にしてやるがいいわ。そうだな、釜煎りがよかろう。釜煎りにいたせ!」
 信長はそう云うとようやく人心地ついたか、ほっと息を吐いた。
「信長殿……」と脇に控えていた長政が声を掛ける。
「どうした、長政殿?」
「この者の歌には信長様を心底誹謗するような意味合いは籠っておりませぬ。ただ仏を崇め、寺社の荒廃を憂えておるだけでございます。どうかそこを勘案なされて、この男を許してやっては頂けないでしょうか?」
 長政は信長に許しを乞う。
「うむ」信長は長政に云われて、考えを改めた。「そうか、長政殿が云われるなら、許すと致すか」
 狂歌師の顔に安堵の色が見える。
「これからは歌を作るにも相手を選んだがよいぞ」
 長政はそう云ったが、狂歌師は何も返事をせずにじっと彼の方を見ていた。
「もうよい、去れ!」
 信長がそう云って、その場はお開きになった。
 そして数日後、普請場にてひとつの諍いが起きる。
 一人の尾張者がこんなことを近江者に告げた。
「ああ、ああ、浅井の仕事ぶりはなまっちょろいのう。ああ、とろいとろい。こんなことでは工事がいつ終わるか、まったくわからんわ。六角攻めでは後ろからのこのこついて来るだけだし、都に入ってはこののろのろ工事、まったく、いやはや、まったく、まったく」
 それを云ったは柴田勝家の家来であった。
 云われた三田村左衛門の家来はこう返した。
「ふん、われらの殿は慈悲深い方であるからの。信長殿のように剣を構えて、気に入らなければすぐに切り捨てるようなことはなさらぬ方よ。信長殿は鬼でござる! はっはっはっ」
「われらの主君を鬼と申されるか!」
「鬼に鬼と申して何が悪い」
「なんだと、もう一遍申してみよ」
 それを皮切りに、尾張衆と近江衆とは斬り合いの乱闘になってしまった。なにせ、血気盛んな若者ばかりである。そういう諍いは血で血を洗うものになるのは仕方のないことであった。
 長政はそのとき、与えられた室にいたのだったが、乱闘の騒ぎを聞いて、現場へ飛んで来た。
「皆のものやめよ!」と長政が云う。
「殿!」
「殿!」
 突然の長政の登場に皆、驚いている様子だった。
「何が原因なのだ?」長政は云う。
「いや、それが……」三田村左衛門の家来は言葉につまる。
「わからぬのか」
「はあ」と三田村の家来。
「わからぬのに斬り合いをするとは、そなたらは相当血に飢えているのだな」長政は顔をしかめた。「しかしやっていいことと悪いことがある。そなたら、この尾張の者らに謝るのだ。そして二度とこのようなことを起こすでないぞ」
 長政はそう諭して、念入りに謝らせた。
「申し訳ない」
「忝い」
 場は元の雰囲気を取り戻し、乱闘は完全に治まった。
 しかしそこにはいまも血を流している者もおれば、すでに骸となっている者もあった。内訳は織田方五百人余、浅井方三百五十人である。

     *

「……長政殿」信長は嘆息して声を漏らした。
「はっ」長政は応える。
「われら尾張の者とそちらの近江の者は相容れぬ関係であるのかのう?」
「えっ?」
「いや、この前の乱闘騒ぎであるが」信長はぴくぴくと顔に血管を浮き上がらせる。怒っているわけではなさそうだ。
「われらも侮られてはそのままにできぬという思いもありましたのでね。仕方ないといえば仕方ないですな」長政は諦念を持っているかのように平然と云った。
「そうか」信長は底の知れない深い眼差しを長政に向ける。
 長政は信長の真意が掴めなかった。そして何か大切なことを告げなくてはならないのに、その事を惑っている印象も確かに感じられる。いったい何であるのか? そんなに云いにくいことであるのか?
 信長はほーっと息を吐く。
 ――これはいよいよであるな、と長政は思う。
 しかし信長は何も語ろうとしない。そこで長政の方から水を向けることにする。
「信長殿」
「なんじゃ」と信長。
「なにか私に話があって、ここへ呼ばれたのでござろう? さあ、云って下され」
 信長は眼を見開いてそして口を動かそうとしたが、言葉にならなかった。「長政殿」信長はようやくその一言だけ述べた。「わしはどうすればいいかわからぬ」
「えっ?」
「わからぬのだ」
「と云いますと?」
「諸国の情勢はいまだ不穏。わしに呼応してくれる者はまだ微量である。そんななか、反抗的な態度をとる者も中にはおる。そう云う者をひとりひとり倒していくのがわが覇業というものであろうかのう?」
「話が見えませぬが」と長政は訊ねる。
 信長はしばらく考えていたが、それには答えようとしなかった。「わしは決断しようと思う。これから先のことはそなたには辛いかも知れぬがぜひ、御容赦くだされ」
 長政は何を云われているのかわからない。しかし信長が何かの決断をしたのであろうことはわかった。長政はそれ以上先を訊こうとはしなかった。
 二人は煮え切らない雰囲気を互いに漂わせながら、その日の歓談を終えた。
 信長の言葉の意味が分かったのはそれからしばらくしてからのことであった。

     *

 長政とお市の関係は良好で、永禄十二年、お市は第一子茶々を産んだ。
 茶々は目元や顔の様がお市に似ていたため、この子も長じれば美人になるだろうと思われた。長政はお市との間に女子とはいえ、子どもができたことを大変喜んだのである。
 長政はすでに万福丸という息子を永禄七年に作っていた。妾腹の子供であったが、特にそのことでお市との中がぎくしゃくするということもなかった。
「お市、よくやってくれた」と長政は何度も産褥を終えたお市に礼の言葉を述べた。
「お前様に似て、頑丈な子に育ってくれるといいのですが……」
 お市はそう云って、ふっと笑んだ。
 長政はまたその笑顔に心を震わせる。
「あとは療養して元気になってくれ」
 長政はかけられる精一杯の言葉を口にした。
「はい」
 お市はまたにこやかな笑みを浮かべて、ほほ笑んだ。

     *

 永禄十三年四月二十日、信長は数万の大軍を率いていた。
 近江坂本から琵琶湖西岸を北上し、安曇川から今津、そして若狭へと向かう道程である。そして二十三日、美浜は佐柿の国吉城を目指した。
 信長はそこで国吉城主粟屋勝久の出迎えを受けた。
 粟屋の守る国吉城を擁する若狭は、これまでに何度も朝倉の侵攻を受けていた。そのたびに攻防戦が行われたのであるが、永禄六年から昨年末まで続いた籠城戦でも朝倉勢を相手に善戦したことを信長は大変評価した。国吉城では信長を歓迎する雰囲気が作られていて、信長もそれに和して、機嫌よく過ごしていた。そう云うこともあり、この国吉城は朝倉攻めの拠点としての役割を果たすことになる。

     *

 四月二十五日、織田軍は越前に侵攻し、金ヶ崎城の手前に位置する天筒山城に軍を進めた。
「われら織田軍の精強なところを見せてやろうぞ」
 信長は馬上でそういきり立った。
 信長は白星の三枚鉄打出し兜に、紺地金襴の包み具足と云ういでたちで、腰には黄金作りの太刀を佩き、騎乗するは名馬〈利根黒〉であった。信長が陣頭に立って敵と直接奮戦することはないものの、その凛々しい姿には味方の士気も上がりに上がる。
「朝倉に目に物を見せてやれ!」
 信長はそう叫んで、目を細めた。
 天筒山城は要害の地である。しかし織田軍は攻め手を数回に分けて攻撃するために、常に精強な力で城を攻めることができた。これも軍の数が多いからこそできる戦法である。
 戦場は時が経つごとに、朝倉方の死体が累々と積み重なっていく。
 午が過ぎても、まだ織田軍は攻撃の手を休めない。
 と、そこへ金ヶ崎城から朝倉軍に救援の軍勢が届く。
「われは朝倉教景が孫、景恒である。皆の者、織田を攻め滅ぼすぞ!」
 気勢を上げる武将を見て、信長は顔の筋肉をぴくぴくとさせる。
「えい、忌々しいわ、朝倉の腑抜け侍めが! 朝倉の兵士は最後の一人まで、皆、撫で斬りにいたせ!」
 信長は常にないほどの鋭い声で一同に告げる。これには信長の積年の恨みが籠っていた。ことあるごとに朝倉は織田に楯突いてきたのである。六角を攻める時にもそうであったし、上洛の後、京へ挨拶伺いに来いと云ったときもまったく聞く耳を持たなかった。許せぬという気持ちがあった。そして義秋(義昭)を奉じながら、まったく上洛に意欲を見せなかった保守的な性格も信長の怒りを買う根本的な原因になっていた。
 そういう様々な要因が重なって、信長に、朝倉討伐の思いを強めさせているのだった。
 朝倉を攻めれば、とりあえず、目の上のたんこぶは取り除かれるのであって、そのあとは畿内平定という事業に着手すればいい。信長はそう考えていた。
 確かに浅井方に何も云わずに朝倉を攻めるは気兼ねがあった。しかし敵を欺くにはまず味方からという言葉があり、また神速こそ崇ぶべしということもある。ここは自分の独断で決めていくがいいだろうと思ってのことであった。浅井にはあとから報告すれば分かってくれるだろうとの思いもあった。
 ――これでうまくいくはずだ。信長はそう考えていた。
 戦場の空気。張り詰める気迫。無様に命を散らす敵兵。
 風のそよぎ、樹々のざわめき、草の蓬々たる様。
 戦場を広く見れば、何が見え、何が聞こえるか。
 信長はそんなことを思いながら眼前の敵朝倉を見る。
「猿、猿はおるか!」
 信長は秀吉を呼んだ。
「はっ、殿、ここでございます」並居る将兵の後ろに隠れるようにして侍っていた羽柴秀吉が声をあげた。
「おう、猿。そなた、この戦をどう見る?」
「どう見る、と仰いますと?」
「つまり、この戦に義はあるかということだ」
「義、でございますか?」
「左様」信長は短く云った。
「さあ、如何でございましょうかなあ。あるか、ないか」
「はっきり云え」信長はきつい言葉遣いで云う。
「そうですな、どちらかと云えばないかも知れませぬ」
「ほう」
 信長は怜悧な視線を秀吉に向けた。
 秀吉はそんな主君の態度に悸じることなく告げる。
「浅井との同盟のときの言葉をお忘れになったのかとそれが心配でございました」
「忘れてはおらぬ――朝倉は攻めぬと云う約定、確かに浅井方は提示してきたが、しかし、それとて過去のことであろう。いまはわれら織田と浅井とは盟友である。長政殿も話せばわかってくれるであろうしの」
「そうでしょうかなあ」秀吉は云った。「なにしろ、わが尾張と越前の朝倉とでは、浅井との関係も年季の面で大分違っておりますし」
「何が云いたい?」信長は口辺を歪めた。
「浅井には警戒すべきかと」
「気にしすぎじゃ!」
 秀吉はまだ、お市のことを引きずっていた。懸想しているものの、まったく何もすることができずにこの数年を過ごしてきたのである。訊けば去年には第一子が誕生したとか。秀吉にとってみれば、それは死刑の宣告にも似た衝撃であった。自分は何もできないのだ、という気持ちに突き動かされる。いったいどうすればいいのか。今回のことで浅井長政と主君である織田信長とを離間できれば少しは溜飲が下がると云うものだが、しかし、そんなことをすれば、織田家自体の力が減衰するということもあり、おいそれと、そういう考えを表明することは憚られたのである。それで、気休め程度にちくりちくりとやってみたわけであった。
 信長は秀吉のそんな劣情を知らないので、そういう意見もあるのかと、納得して受け入れた。
「猿!」
「はい」
「そなたの意見はいつも実直かつ明晰だが、しかし、いつものような切れがないな」
 信長は鋭い所を突いてくる。
 ――やはり、この人には嘘を申すことはできぬ。
「うぅ」秀吉はそう思って声を漏らした。
 信長は秀吉の態度に疑問を抱いた様子はなかった。
「この城もそろそろ落ちるな」信長は諸将を見た。
 と、柴田勝家に目がとまる。
「おう、柴田、何か意見はないか?」信長は訊ねた。
「先の羽柴殿の意見には同意しがたいものがございましてな……」
「というと?」と信長。
 勝家は続ける。「自分の嫁の実家と事を交えようとするような者があるでしょうかなあ? そんな者は畜生と一緒でございます。もしそんなことを浅井殿がなさるとしたら、それは大きな問題でございましょう。わしはそれはないと思うておりますわ」
「そうか」信長は眼を細めてこの柴田と云う男を見た。「しかし、面白いのう」
「はい?」と勝家。
「はい?」秀吉も問い返す。
「同じことを訊ねても、人によって意見がまったく正反対になる。これはどちらが正しいとかではないな。誰に訊くかが問題なわけだ」信長は呵々と笑って場をなごませる。
 そんな会話をしている間も攻城戦は着々と進行していた。
 やはり攻め手を何段階にも分けて、十分休息を与えてから戦闘に出すと云う作戦が功を奏したようである。朝倉軍は丸一日攻めかかってくる織田軍を防ぐのにも疲労の色が見え始めている。
「そろそろだな」と信長も予見する。
「はっ」と秀吉が答えた。
「よし、ここが終われば金ヶ崎じゃ!」
 ――朝倉のへたれ侍供、見ておれ。死ぬまで忘れられぬ悪夢を見せてやろうにの。
 信長はそう心に決めるともう一度天筒山の方角を見る。
 いまでも兵士たちの叫びがこだまして何か得体の知れないものが渦巻いている気がする。
 ――堕ちているな、と信長は思う。
 地獄への道が開けている気がする。


13 :蒼幻 :2010/07/02(金) 08:46:14 ID:tcz3skkeVm

     *

「次は金ヶ崎城じゃ!」
 信長は勢いに乗っていた。
 天筒山城を落としたことが機嫌の好くしたらしい。
 信長にとって朝倉は数多くある障害のうちの一つであり、それを突破することは半ば義務であり、半ば必然であると思っていた。
 しかし、金ヶ崎城を落とすのは至難の業であることが直に明らかになった。
 士気の不足である。
 織田軍の兵士は天筒山城を攻めたときの疲労で十全たる力を発揮できなくなっていたのである。信長は全軍にその雰囲気が蔓延しているのを知り、危機感を覚えていた。
 金ヶ崎城は高い山の上に位置していた。
 今は亡き朝倉教景が築いた堅塁である。
 いま城を守っているは、その教景の孫の朝倉景恒であった。
「えい、忌々しい」信長は自分のいらだちを表に出して諸将を困惑させる。
「殿、朗報でござる」
「なんだ、猿?」信長はその猿面の男羽柴秀吉の顔を見た。
「金ヶ崎の救援のために進発した義景の軍が途中で一乗谷に問題が発生したらしく引き返した模様にございます」
「ほう」信長は興をそそられたようである。
「つきましてはわしに考えがございますので作戦立案の許可を得たいのですが」と秀吉。
「お、なにかいい案があるのか?」信長は嬉しそうに訊ねる。
「はい、とっておきがございます」
「そうか、任せよう」そう云うと信長は眼を細めてほーっと息を吐いた。
 秀吉の案とは降伏勧告であった。
 金ヶ崎城の守将朝倉景恒に期限までに城を明け渡すなら、望み通りの恩賞を与えようと云うものであった。もともとこの景恒という人物はそれほど熱心に物事に当たる性格でないことを秀吉は知っていたのである。もっとも効果のあるところへ、もっともその機能を果たすであろうものごとを為すというのは戦術の基本である。秀吉はこの作戦の成功を信じて疑わなかった。だからこそ信長に大言壮語したのであって、事実また、それによって金ヶ崎を落とすことに成功したのであった。
 金ヶ崎では高間、富田、小河といった重臣が景恒に告げるのだった。
「ここは織田の勧めに従って降伏して城を出るがよろしかろう」
 みな口々に降伏を勧めてくるので、景恒はそちらの方へ意識が傾いていった。「しかし、わしはこの城を明け渡すのが残念でならぬ」
 景恒はそう述べて、諸将を困らせた。
 もちろん、愛着もあるのだろう。祖父教景が築いた城であり、ずっと住み慣れている城であることが大きい。
 織田軍が金ヶ崎城を取り巻いたその夜のこと、景恒は降伏勧告を飲んで城を明け渡した。
 秀吉は約束だからとて褒美をとらせ、そして、百騎程度の護衛をつけて景恒を府中まで送った。
「労せずして城が落ち、秀吉様の知恵はげに素晴らしいものでございますな」秀吉付きの小姓がそう告げて、機嫌をとる。
「まあ、こう云うのは慣れというものだな。飴のきくものにはとことんまで甘いものでつればいい。苛烈なものはやんわりと受け流しながら諭すのがいい。なんでも塩梅というものが必要になってくるのだ」
 小姓は「なるほど」と相槌を打ってわがことのように喜ぶ。
 秀吉はそんな彼の姿に機嫌を良くする。
 それから秀吉は作戦首尾の報告を行うために信長の前へ向った。
「殿――」秀吉は告げる。
「どうした?」と信長。
「朝倉景恒の守る金ヶ崎城を降伏させました。もう中へ入っていただけます」
「そうか」信長は満悦の態である。
「此度の朝倉攻めもああいう武将ばかりなら楽なのですがね」
「そうだな」
「しかし、景恒はどう弁解するつもりでしょうな」秀吉が卑屈な笑みを浮かべた。
「ん?」
「まったく戦わずして開城してしまったわけですし、他の部将らに面目が立たんでしょう。はは、これは辛いですな」
「わが陣中にはそんなものはおらぬと思いたいの」信長は告げた。
「左様、左様」秀吉は手を叩いて云った。
「殿、われらはたとえ一人になろうと、最期まで敵と戦い抜く所存でございますぞ」柴田勝家がむきになって告げた。
 秀吉はこの柴田勝家という部将の豪胆さに常日頃から、嫉妬に近い憧れを抱いていた。もともと百姓の木下家に生まれた秀吉は、立身出世してその姓を改めようとしたとき、丹羽長秀と柴田勝家の苗字からそれぞれ一字をもらって、〈羽柴〉と名づけたのである。そこまで心酔していたのだ。その柴田とは最近では意見の食い違いもときどきあって、武で立ち廻ろうとする勝家と、知で立ち廻ろうとする秀吉とが互いの意見に齟齬を見るのは仕方のないことであった。
「殿――」と秀吉は続ける。「次は一乗谷でございます。これまでにない大きな軍勢との戦いになることは必定です。殿に置かれましては重々、ご決断いただきとうございます」
「うん?」と信長。
「朝倉を打ち滅ぼすという覚悟で参るなら、これより先は軍の士気を高めるべきでござる。殿、全軍に下知致しましょう。わが軍こそ最強であり、余はみな、亜流に過ぎぬと」秀吉はそんなことを告げる。
 信長は顔をしかめた。そんなことをいちいち告げる必要がどこにあるのかと。しかし秀吉はそれもまた必要なことであると思っているらしく、まったく憚らなかった。
「精神論に傾くと、軍は危険になってくるのではないか?」信長は当然のことであるようにそう述べた。
「いや、褒めておくべきでございます。そうした物が、普段ぴりぴりし通しのわが軍には最高の働きができる潤滑油となるのでござる」
「そういうものか……」信長は感心する。
「ならば、全軍を集めよ。わしが直々に声を掛けよう」
 そう云うと、信長は兵士たちに何を述べるか思案するために、顎に手をやってしばらく考え込んでいた。

     *

 無血開城した金ヶ崎の景恒は府中にて父から叱責を受けた。
「まったく情けない。攻めてきた織田軍と一戦も交えることなく降伏して、挙句にその配下の軍勢に守られて退去してくるとは、それでも朝倉の人間か? 戦争とは苛烈なものであろう。その苛烈さに耐えきれぬ者はわが一門にはいらぬ。むしろ、恥じゃ! 仮にも一軍の将であるおのれがのこのこと信長に従うなど、まったくもって恥ずかしい。そなたとの縁もこれまでじゃ。なんなりと好きにしてここを去れい」
 景紀[かげとし]は子の景恒を叱りつけ、そして親子の縁まで切ると云いだした。それは流石にきついと部下が諌めようとしたが、景紀はまったく聞く耳を持たない。
 景恒はその日のうちに出家する算段を整えた。
 そして彼は永平寺にて仏門に入ることになる。

     *

 信長は落ち着かなかった。
 ことが簡単に運び過ぎで気持ち悪いのである。
 確かに秀吉の無血開城作戦は功を奏した。しかし信長特有の第六感がなにか気を張らせて怖気させるのである。
 ――なんだ、いったいなんであるのか?
 信長の問いかけに答えるものはない。
 傍らには諸将が詰めている。
 柴田勝家、佐々成政、丹羽長秀、羽柴秀吉。
 みなひとかどの部将である。
 しかしいまこうして悩んでいる信長の心情を解する者は皆無である。
 信長はいつも過たず、適格な判断を下すと思われている。しかし信長とて一人の人間である。誤りもすれば、見識不足を露呈することもあろう。が、それを諸将の前で曝すことは恥であり、また、弱い人間であることを露呈するものであるとて、信長は二重にも三重にも慎重になるのであった。もともと信長は電光石火の神がかり的な知識の冴えを持つものではない。常に物事に執着して、そのことを深く考えることによって物事を正しく把握して行く能力に恵まれているだけである。そのことが、信長の特性を決めていて、諸将はときどきその才覚の片鱗に触れて、主君信長は只者ではないとの尊敬を勝ち得ていたのである。
「朝倉の手の者は皆殺ししても飽き足らぬ」
 信長はそんなことを云って憚らない。
 相当に朝倉に対してはご立腹であるのだなと秀吉はじめ諸将は思った。
 織田軍は天筒山城・金ヶ崎城を立て続けに占領した。
 諸将は敦賀南方にある疋壇城を攻める。
 その隙に信長隊は木の芽峠を越えて一乗谷へと向かおうとしていた。
 一乗谷は朝倉の本城である。ここを落とせば朝倉は必ず瓦解するだろうと思われていた。

     *

 それより数日前の夕暮れ時、長政は小谷城下でじっと空を眺めていた。
 梅雨時である四月、雨は降っておらず、良い天気が続いている。夕焼けを見る限り、明日も晴れるのだろう。長政は浮かない表情をしている。
「殿、如何なされました?」
 赤尾美作守が訊ねてくる。
「いや、何か胸騒ぎがして落ち着かぬのだ」
「いったいどうして?」美作守は心配して訊ねる。
「何か、大きなことが起ころうとしているような得体の知れない虚無感が胸を塞ぐのだ」
「気のせいではなくて?」
「気のせいですむような単純なものではない」
 長政は顔をしかめる。
「信長殿の話が気になるのだ」
「と云われますと?」と美作守。
「信長殿はこう仰せであった」
 美作守は皺の目立ってきた顔を長政の方に向けて真剣な面持ちである。長政はその様子を見てから美作守に告げた。
「信長殿は決断せねばならぬと仰せであった」長政は思案するような表情でこのように説明した。美作守はいま長政が云ったことについて、何か考え込むようなそぶりを見せた。
「決断でござるか――」
 ――いったい信長殿は何をどうお考えなのか? 長政は疑問に思う。
 ――決断と云うからには、何か重要な決定であることは間違いない。しかし信長殿はそれを明かそうとはなさらなかった。きっとわが軍にも影響してくることであるに違いない。思えば、信長殿は、なんでも自分の中に答えがないと気が済まぬ御性分であり、またいったん決めたことは必ず実行する人であり、また自分の思いを人と共有することを嫌うような性格でもあるわけで、甚だ難しい御仁であると長政は思っていた。
 長政殿――と気軽に話しかけてくれる信長も、正味のところではまだ完全には打ち解けておらず、重要なことに対しては話してくれなかったりするのである。それが長政には不満であった。折角の同盟であるのに、機密は自分達だけで握ると云う独占状態。これは甚だ遺憾なことであった。
「いったい信長殿はどうしたいのかのう」
 長政は美作守に訊ねる。
 そこへもう一人、遠藤直経が現れた。
「おう、遠藤殿、よういらっしゃった」美作守は歓迎の意を示した。
「何をお話でござった?」と直経が訊ねてくる。
「信長殿のことに関してだがの」と美作守は気安く請け負う。
「信長殿ですか……」直経は顔をしかめた。「わしは、信長殿は気に入りませぬ」直経は長政に言上する。「あの苛烈な性格は自分に利があると思ったら、すぐに手のひら返したように豹変なさいますぞ」
「直経は本当に信長殿が嫌いであるな」美作守は苦笑する。
「わしはああ云う御仁は好かんのです」
「好く、好かぬで決めてしまうのは横暴である気がしないでもないな」美作守は苦笑する。
 それに直経は反論する。「わしは許せぬのです」
「うん?」
「確かにあの戦術の冴えは見らならうべきところ多いかもしれませぬ。しかし、実際に兵馬のことに当たっている家臣に対して、あまりに冷遇することの多い信長殿をわしは認めようとは思いませぬ」
「ほう」美作守は声を漏らす。
「信長殿は鬼でござる」
「鬼と……」
「左様。わしは無謀なことを云っているとお思いですか?」直経は長政に訊ねる。
「ううむ」長政は答えに窮した。
 確かに信長と長政は性格が異なり、ほとんど似通ったところがない。そんな二人ではあるが、数度の会話の中で、孤独を抱えている君主であると云う共通項を見いだしてもいたので、家臣たちがことさら信長の苛烈さに対して反感を覚えているのが、長政を落ち着かなくさせるのだった。自分だけは信長のよき理解者となろうと努めていたのであるし、また、その信長の苛烈さと云うのは、この世を生き抜くための信長独自の処世術であり、孤独を克服するためにとったひとつの指針であるとわかっていた。しかしそのことをこの家臣たちに理解させるのは難しいことであろうと長政は考えた。
「そう、信長殿を悪く云うでない」長政は遠藤直経を制した。
「しかし――」と直経はなおも食い下がる。
「この話はこれでしまいじゃ!」長政はそう云うと、話題を切り換えた。「わしはそろそろこれで失礼する」
「どこへ行かれます?」
「市と少し話そうと思う」と長政。
「左様ですか。それにしても御寮人様とは仲の良いおしどり夫婦でございますな」赤尾はふっとほほ笑む。
「そう冷やかさないでくれ」長政はそう云うと、家臣たちを残して夕暮れの日差しの残る座敷を退室した。

     *

「市、おるか?」
 長政は室に入るなり、そう発した。
「はい、如何なされました?」
 とお市も嬉しそうに尋ねる。
「少し話そうと思ってな」と長政。
「いつも話しているではありませんか」お市はそう云うと、ふっと笑んだ。
「ところで最近は何をしているんだ?」と長政は訊ねる。
「そうですね」とお市。「御飯や風呂、洗濯などはすべて他の者がやってくれますからね。私は裁縫などをやってます」
「裁縫か」長政もそれを知らぬわけではなかった。日中、部屋に入ると、一人で黙々と裁縫をしているお市の姿があったし、そんなとき、長政はお市に女性の最も美しい面を見るような思いも抱いていたのだった。
「何をお考えです?」とお市は訊ねてくる。
「いや、市は愛すべき者だと思ってな」
「まあ、お口のお上手なことですね」お市はふっと肩の力を抜く。
「と、茶々の姿が見えぬようだが――」
「ああ、妙に預けております」
「ほう、妙が……」長政は興を惹かれた。
「まだ一人で歩けないし、言葉も喋れませんが、どうも妙になついているようなのです。もちろん、母親の私に対してもほほ笑みを絶やすことがないですけど、妙に対しての方が自然な打ち解け方をするようであるのです。あの妙と云う女性は子供の心を掴むのが巧い気がしますね」
 長政はその言葉に意外さを感じ取っていた。
 妙とはそれほど優れた女性ではないと思っていた面があった。しかしそれは間違いで、根本を見れば思っていたより数段上の女性なのかもしれない。長政はそう思って嬉しい気持ちになった。
 長政はお市に告げる。
「わしはそなたと一緒になれて、とても果報者だと思っている」
「まあ」とお市。
「これからもわしと一緒に同じ夢を見てほしい」
「嬉しいことを云って下さいますね」とお市は嬉しそうな表情をする。「私も出来る限り長政様についていきますのでよろしくお願いします」
 二人がそんな言葉のやりとりをしていると、散歩から妙が帰って来た。
 と、そのときあわただしい足音が聞こえて、普段はまったく二人の室に入ってこない舅の久政が血相変えてやってきた。
「大変じゃ」
 久政はそう云って、すぐに小谷城へ向かうように長政に告げたのだった。


14 :蒼幻 :2010/08/17(火) 18:32:08 ID:tcz3skmcrm

第七章 織田か朝倉か




 血相変えて飛び込んできた久政のあまりの動揺ぶりに、長政は不吉な物を感じ取った。久政は具体的に何があったかを云わず、すぐに取って返す。長政は寛衣に着替えていたので、服装を整えてから城へと向った。
 会議に使っている中階の一室に浅井家の重臣たちが顔をそろえていた。浮かない顔あり、紅潮した顔あり、緊張する顔あり、怒りをあらわにする顔ありと、皆、様々な表情をしている。
「これは大問題ですぞ」と遠藤が声を大にして長政に云った。
「いったい、何があった?」と長政は問いただす。
「まだご存じないのですか?」諸将は落胆の声をあげる。
「ああ、父上は何も云うてはくれなんだし、ただ急いでここへ来るように云われただけなのでな。で、いったい何なのだ?」
「織田殿の侵攻でござる」海北綱親が厳しい視線を送りながら、長政を見た。
「侵攻? はて」
「越前の朝倉に向けて進発されたのです」
「なに!?」長政は凝然とした。
 寝耳に水の状態である。
 まったく予期しないところに知らせが入って、どう反応すれば良いか分からない。長政はその知らせを受け入れるのに時間がかかった。
「織田殿は何をお考えなのか」海北綱親は信じられないと云う風に首を何度も横に振った。
「なにもお考えでないのか、それとも熟慮の結果なのか」
「わしらをないがしろにする行動ではございませぬか?」
「ひとことわしらに相談があってもいいと思うのだが――」
 諸将はそんな言葉を口々に云った。
 長政はようやく言葉を発する。
「信長殿には信長殿の考えがあるのであろう。それもまた仕方のないことと思って、ここは情勢を見極めるが肝心であるとわしは思う」
 その言葉に反発したのは親朝倉派の久政であった。
「ちょっと待った、長政」と久政は声をあげる。
「父上、如何なさいました?」
 長政は久政に水を向ける。
「ここは織田との同盟より、朝倉との深い誼を思うべきではないか?」
 久政はいつにない真面目な表情で、そう述べた。
 幾人かの重臣もその久政の言葉にうなずいた。
「ここで織田殿の横暴を許しては、わしらの義はどうなりますか」
 阿閉淡路守が云った。
「わしらは果敢に戦うべきでございます。朝倉と組んで戦えば、きっとわれらに勝利がもたらされることでしょう」
「そう思うか?」長政は心を乱しながら、そう尋ねた。「いったい、どうすればいいのか――」
「悩む必要などない。どう考えても、悪いのは織田殿の方なのだからの」久政が追い打ちを掛ける。「日頃から云っておろう。われら浅井は、朝倉との関係こそ重視すべきであると。いまがそのときなるぞ、長政!」
「しかし――」
 長政はその考えの受け入れを拒否したかった。信長との縁は確かに日が浅く、朝倉との縁ほどには熟していない。しかし義兄である信長殿と対立することになれば、きっと、妻の市も悲しむだろう、長政はそう考えた。諸国との関係で、妻との間が不仲になるのは、個人的にも負担が大きい。それは登代のときもそうであったし、また今度、お市とそんなことになるのかと思うと背筋がぞっとする。女のことばかりでない。自分の心の整理がうまくつかない気がするのである。
 信長と自分とは共通の悩みを抱え、互いにその一部なりと分かり合えていると感じていた。そんな関係にあるいわば唯一の友と云っていい存在に対して刃を向けることは、仁という一字に於いて人道に悖るのではないかと考える。しかし義をないがしろにする信長の行動に怒りを覚えないわけではない。やはりそこには〈どうして?〉というような感情はあるのだ。いまこそ旧弊を破る時で、朝倉を捨て、織田との新しい世界を夢見ることこそ、江北の取るべき道ではないか? そう思いもするのである。
 日が沈みかけている。
 外は暗くなりはじめ、小間使いの灯した燈明が室内を照らしだす。
 涼気を入れるために開けた戸から数匹の羽虫が入ってきていた。
 やがて大きな蛾も入って来て、燈明のまわりを音もなく飛び回る。
「障子を閉めよ」と長政は小間使いに命令した。
 入って来たものは仕方がないものの、新しく入ってくることは許したくなかった。長政はその大きな火蛾に視線を向けた。
「長政殿、ご決断を!」
 と、せっついてくる家臣もいる。
「織田か、朝倉か――ここが運命の岐路でございますぞ」
「さあさあ」
 長政は落ち着かない気持ちになる。
 いったいどちらを選ぶべきか? 年季の入った朝倉との関係か、それとも、少しでも心を通わす事のできた織田との関係か。どちらを選んでも悲劇である気がした。長政はできることなら、すべての判断をなげうちたかった。こんなことで悩まなくてはならない自分はほとほと弱い人間だと思う。
 自分もこの火蛾のように、己を待ち受けている運命――つまりその業火に焼かれるまで同じ所をぐるぐると廻り続けて、最後に羽を、身を焦がして絶命するしかない運命を持つ儚い生き物である気がする。織田を選んでも、朝倉を選んでも、行きつく先は同じ気がする。長政はそんなある種の諦念を抱きながら、どちらとも判断をつけず、ただじっと事の成り行きを見守った。
「殿、如何なさいますか?」
「織田か、朝倉か、ここではっきり意思を示して下さらねば、そこから先の議論が凝りませんぞ」赤尾美作守もそう云って判断を待った。
「考えるまでもないであろう。われら浅井家が今日ここにあるは朝倉との厚誼ゆえなるぞ」久政はいつになくしっかりとした語調で告げてくる。「長政、そなた、浅井家代々の誼を無下にしようなどと考えているのではあるまいな?」
 長政はなおも決断を先送りしていた。
 優柔不断な面がこんなところでも立ち現れる。
「長政様!」
 声が飛んで来る。
「わしは織田とも朝倉とも仲良うしたいと思うておるだけだ。それなのに、状況はそれを許してくれぬ。わしは無念である」長政は無念だと告げた。そして自分の意見を諸将に示す時だと考えた。
 長政にとって織田との関係は浅からざるものとなりかけていたが、しかし、やはり父久政の云う通り、朝倉の、浅井家に対するこれまでの厚誼に対して報いずして何が武士よとの思いがあった。長政は云う。
「わしは朝倉を取ろうと思う。信長殿はこれを機に頭を冷やして考え直してくれないかという期待も少しはあるが、しかし、おそらく叶わぬであろうな」
 長政はそう云うと、久政の方をちらっと見た。
 久政は、よくぞ決心したという嬉しそうな表情をしている。
 長政に期待していることが雰囲気でわかる。
「長政様、本当にそれで宜しいのですか?」美作守が訊ねる。
「赤尾殿、何を聞かれたいのだ?」反信長の思いを胸に秘める遠藤直経がそう詰め寄る。
「いや、わしはただ興味があっての」
「そんな私情は軍議には必要ありませんぞ」遠藤はぴしりと云う。
「ならば、一足先に朝倉殿へ伝令を走らせましょうぞ」海北はそう云って、その任を浅井福寿庵に任せることにした。その供に木村喜内之助もつける。
 その日のうちに二人は北へ向けて出発したのだった。

     *

 長政は憂鬱だった。
 出るときは何も考えていなかったのに、こうして自分の室に戻ってきたときには精神的に困憊していた。お市にどう説明していいかわからない。兄信長と対立することになったと云えば、どれだけ悲しむか――。妻の実家が敵国となる経験を二度も経験することになった長政の運はとても悲惨なものに違いない。そんな長政にとって、妻にこの報知をしなければならないのは、あまりに辛いことであった。
「市」長政は意を決して云いだした。
 お市は燈明の明かりで縫物をしていた。
「いかがなさいました?」とお市は手を休めずに訊ねてくる。
「信長殿と戦うことになりそうだ」
「えっ?」お市はびくりと反応した。「そ、それは、いったい」
「信長殿が越前を攻められたのだ」
「えっ、兄上が?」
「ああ」と長政。
「なんてことを」お市は針を手に持ったまま、口に手をあてた。「それで長政様はいかがなさるおつもりですか?」
「朝倉と結んで、信長殿を攻めることにあいなった」
 お市はその報知を受けても、長政が思っていたような反応は見せなかった。
 確かに衝撃は受けているようであるけれど、取り乱すとか、青くなるとか、そういう様子ではなかった。
「それで私をどうされたいのです?」
 お市はそのことを強く案じているようであった。
「どうしたい――か。まだそこまで考えていなかったというのが正直なところだ。市、そなたはどうしたい?」
「長政様がお決めくださいませ。私はそれに従います」お市はそう云うと、思案する表情を浮かべて長政を見た。そして、「ただ――」とまた言葉を漏らす。「私の意見を申しますと、兄との関係がどのようにこじれようと、私はもうこの江北の人間であると思うております。長政様の傍に居て、これまでどおり過ごしたいというのが私の希望です」
「市」長政は声を震わせた。「それでいいのか?」
 お市は言葉ではなく、頷きで答えた。
「わしも正直なところを申せば、そなたとはずっと一緒にいたいと思うておる。たとえ、実家が敵国になろうと、そなたはそなたであるという思いを持って、いつもどおり接していければどんなに良いだろうと思うておった。市、本当にそれでいいのか? いいなら、ずっとここにおれ。わしはそなたを守りつづけるからの」
 お市はその瞳を潤ませながら長政を見た。
「ありがとうございます」お市ははっきりした声で告げた。「しかし、兄上はどうしてまた、浅井との関係があるのに朝倉を攻められたのでしょう。いえ、女の身で戦のことに口出しするのは悪いことだとわきまえております、しかし、それを聞かないと気が済まない思いがありまする」
「うむ。それだな」長政は声を漏らす。
「きっと信長殿はわしとの関係を見誤っておられたのであろう。いや、わしとの関係ではないな。わが江北浅井家という集まり自体を見誤っておられたと云うべきか」
「と云われますと?」お市は訊ねた。
「わしは織田殿との縁を重視し、今回のことも大目に見て甘受する方向で気持ちが流れようとしていたのだ。しかし家臣らは違った。確かに信長殿との関係を尊重して、それを認めようとする者も中にはあったが、しかし主流は朝倉擁護と云う意見を挙げていた。浅井と朝倉の関係がこれほどに根強いものであるとは、今日、初めて知ったと云うものでな。わしは駭かされたよ」
「なるほど」お市は深い思いを湛えた眼差しで長政を見た。
 二人はそれからも会話を続けた。
 信長と戦うことになれば、当然、現れてくるであろう戦争の日々のことを思う長政。それによって心労の度合いを増すであろうと予測するお市。長政にとって義兄、お市にとって実兄。そんな相手との戦いはきっと精神的に追い詰められるであろう。長政はその苦痛を思うと、胸が痛んだ。できることなら、この対立を回避したい。そう思わされるのである。

     *

 浅井福寿庵は朝倉と結んで織田を攻めようとする浅井の意思を伝えるべく、一乗谷に向かっていた。一乗谷は小京都とも呼ばれ、一端の華やかさがある。福寿庵が越前に向かうのは実に数年ぶりのことで、その前と云っては、六角が斎藤と結んで攻めて来た時の救援の要請のとき以来であった。あのときはすげなく断られたが、今回はこちらが救援を行うと云う申し出であるから、きっと相手もすんなり受け入れてくれるだろうとの予感があった。朝倉が浅井を助けることはあっても、浅井が朝倉を助けることはこれまでにほとんど無かったことである。これまでの厚恩をいちどきに返す絶好の機会であると福寿庵は思っていた。
 浅井福寿庵は木村喜内之助と馬を並べて駆けさせている。
 夜を徹して進み、日が開ける前に一乗谷に到着する。
 朝が白々と明けるころ、福寿庵と木村とは一乗谷の朝倉屋敷の前にいた。
「朝の早くに失礼いたします」と表で告げ、家臣に取り次いでもらう。
 朝倉義景はまだ眠っていたらしく、二人はしばらく待たされたが、やがて室に案内されて、そこで義景と対面する。
「義景殿」と福寿庵が挨拶する。
「いま我が家中は大変な時期を迎えている。信長が攻めてきおったしの。それで今日は何用か?」
「その信長のことでござる」
 福寿庵は道中携えて来た長政からの書状を義景に手渡した。
 義景はそれを受け取ると、早速中の文を確認する。
 読み終えたとき、義景はすべてを了解して、こう告げた。
「浅井殿のご判断の正しさはよう分っておる積りです。織田とは類縁となられたというのに、それを抜きにして我らとの誼を重視して下さるとはまことにもって嬉しきことでござる。浅井殿こそ、この戦乱の世の一縷の光。義の勇士でござる」
 義景は、長政が織田との縁を振り切って自分達に味方してくれようとしていることに深い感銘を受けたのである。
 福寿庵は義景の喜びを見ていると、彼自身も嬉しくなってきた。
「では、わしらは急いで戻り、家中にこのことを伝えて参ります。かならず、織田を討ちましょうぞ」
「ああ、必ずな」
 二人はそう云うと、屋敷を後にした。
 それと時を同じくして、浅井は越前に向けて軍を進発させていた。

     *

 長政は軍を率いて北国街道を通って北上し、越前へ向かった。
 信長が金ヶ崎城を落としたと云う報せを受けたたため、長政はそこへ向けて軍を進める。一乗谷は金ヶ崎の向こうにあるので、自軍と挟み撃ちにすれば必ず撃退できるとの思いがあった。
「昨日の友が今日の敵と云うわけですな」赤尾美作守は浮かない表情をしている。先日は、朝倉との縁を重視すべきであろうとの意見に傾いていたものの、一夜あけて考え直したのであろうか、その表情には鬱屈した感情が漂っているように見えた。
「わしより気落ちしているようであるの」と長政は美作守に水を向けた。
「はあ」と美作守は返事する。
「軍中にあるというのに、なんと気の抜けた返答――」長政は言葉では責めているが、口調は人を励まそうとしているかに聴こえる。
「実は、昨日妻に云われたのです」
「うん?」長政は訊ねた。
「『御寮人様の気持ちを考えれば、そんなに簡単に長政様に織田との縁を切って朝倉につけと云えるものではございませんよ』と」
「ああ」
「わしは浅はかなのですかな?」赤尾は心底落胆しているような声の落とし加減で告げる。
「それはどうであろうのう。わしが美作の立場であったなら、きっと同じように進言していたと思うしの」
「そう云っていただけると助かります」
「とはいえ、そなたがそんな問題で悩むとは珍しいな」
「歳のせいですかな……」美作守は苦笑する。
 二人は歩兵の速度に合わせて馬を進めていたので、話す余裕もあったのである。しかし朝倉の領土である越前に入ると、二人の会話はすっかり絶えていた。気合いが身裡に籠りはじめ、戦闘時のいつもの緊張感が喉の奥から麻痺れのように込み上げてくる。
 ――信長殿との戦いがいよいよ始まるのだな、と長政は思う。
 しかし、長政は自分の改名のときの、長の一字を拝領したことを、あの六角の偏諱のときほど忌わしくは思っていなかった。こんな状況になっても、長政にとって信長は尊敬すべき将であったし、自分には無い物を持っている魅力的な君主であると思っていた。だから、本気で楯つこうとしているのか、それとも、道義的な問題で立場上抵抗するのか、その辺りがまだ、しっかりと定まっていなかった。
 浅井の情報網では織田軍は金ヶ崎城を出て疋壇城に向かったとのことであった。そしてより大きな軍が一乗谷に向かっているという情報も入って来ていた。どちらを攻めるか悩んだが、浅井軍は本体を狙うことに決め、一乗谷に進路を変えようとしていた。
 とそこへ、織田本陣撤退、金ヶ崎に立てこもりという情報が入り、急遽、目標を金ヶ崎に移した浅井軍であった。
 浅井軍は金ヶ崎に向かう。
 いま戦端が切り開かれようとしていた。

     *

 信長は一乗谷を打ち滅ぼす思いで北上した。
 そこへ急報が入る。
 ――浅井が裏切り!
 その報知に信長は駭かされた。
 浅井は自分に楯突くことのない安全な札であると信長は思い定めていたのである。ゆえにその知らせを聞いたとき、彼はそれを受け入れるのに時間が掛かった。何を云われているのかさっぱりわからないという思いであった。
 信長はこめかみに青筋を立てながら、ぴくぴくと顔をひきつらせた。周りで見ている者にはそれは恐怖であった。いつとばっちりが自分のもとに飛んでくるか分からない。
 長政が裏切ったことは確かに信長に手痛い精神的衝撃を与えたものである。しかし信長はその思いに拘泥することなく、自分にいま必要な策を練っていた。このまま一乗谷に進攻すれば、前に朝倉、後に浅井と挟み撃ちにされて、万事が休すことになってしまうだろう。それはなんとしても避けねばならない。自分にいま何ができるか、これは、己にとっての正念場だと信長は思った。
「われらは早々に退却致そう。浅井は北国街道を北上しているらしいから、美濃に抜けることはできぬ。これは来た道を引き返して京に逃れるしかあるまい。誰かこの退却の殿[しんがり]を務めようと云う者はおらぬか!」
「恐れながら、わしにお命じ下さいませぬか?」
 そう申し出たのは羽柴秀吉である。
「おう、猿、おまえが殿を務めてくれるか……」
「お任せあれ」
 秀吉は何か心中に策があるのか、自ら進んで、この任務を受けようとしている。朝倉・浅井の両軍をいなさなければならず、この殿は命を賭したものになるであろうとの思いが強かったので、諸将は何も云わずに控えていた。
「ならば、殿は猿に任せることにする。頼んだぞ!」
「はっ、必ず成功させて見せます」
 大役を仰せつかった秀吉の行動は素早かった。織田軍の本隊を送り出して金ヶ崎に残る自軍を指揮し、ごっそり残っていた織田の旗や幟をこれでもかというくらい山のあちこちに打ち立てて、軍が残っているかに見せる作戦だった。
 やがて浅井軍がそこへ大挙してくる。
 秀吉隊は二百丁の火縄銃を用いてそれを撃ちまくった。
 殿に置かれた兵士の数は約千人。そのうち、金ヶ崎に置いた兵士の数は僅かに三百である。秀吉隊は懸命に戦ったので、その数は倍以上にも浅井軍には思えたのだろう。浅井勢は主力が金ヶ崎に残っていると勘違いしたのか、ずっとここにとどまって攻め立てていた。
 秀吉は中備えで、城中ではなく若狭街道に居る。
「われらの作戦は成功のようですな」
 先備えの蜂須賀小六はにんまりと笑った。
 木下秀長が答える。
「だが、われらもうかうかしていると、浅井の刃に掛かることになってしまうだろう。そろそろ戦端が開かれて二刻半になろうという頃合、ここらで退却を考えねばならぬ」
「左様でござるな。しかし、浅井の勢い凄まじいものがござる」
「まったく」と秀長。「それに便乗しての朝倉の兵士が鬱陶しいのう」
「左様、左様」
「このまま退却するは無念なれど、われらは十分に役目を果たしたと思いたい」
「そうですな」
 二人はそう話すと、すぐに撤退を全軍に下知した。
 金ヶ崎城に詰めていた先備え三百人は城をあけて退却した。それに追いすがる浅井・朝倉軍を押し防いで若狭道に布陣している中備え隊三百人に合流する。そして敵の攻撃を退けながら、秀吉隊は退却の途についた。


15 :蒼幻 :2010/08/17(火) 18:32:53 ID:tcz3skmcrm

     *

「それ、あの殿軍を駆逐してしまおうぞ」長政が告げる。
「あれは羽柴秀吉の軍勢ですな」と赤尾美作守が答える。
「そのようであるな、あのひょうたんの旗印はもはや有名であるからのう。それにしても、やはり知略で生きる者だ。わしらはまんまとしてやられたぞ。あの旗や幟の数でてっきり本隊がここにいると思わさたからな」
「そうですな」赤尾美作守が口惜しげに口元を歪めた。「しかしここで信長殿を討てなかったのは残念でなりませぬ」
「ああ」
「どうせなら、わしらの手で信長殿を打ち滅ぼせれば、それに越したことはなかったのですが」
「うむ」長政は喉の奥でうなるように返事した。「しかし、わしは信長殿を本気で攻めようと云う気はないのだ」
「まだ、そんなことを仰るのですか?」赤尾美作守は落胆するように云った。「しかしわしも人のことは云えませぬな。妻の言葉を受けて、それほど果断に思いきれない気持ちが大きくて。信長殿が改心して下さるのが最良なのでしょうけど、しかし、それを見込むのはあまりに無謀と云うものでしょうか」
「信長殿とは短い間に随分話したが、あの完璧を求められる性格は厄介であるな。一度傷ついた関係は二度と修復することはできぬ気がする。それを乗り越えて、新たな関係を作ると云うことも可能ではあろうが、しかし、芯が傷を負っていては、いくら快愈したとしても、以前の堅固さは二度と求められぬというやつでな。信長殿とはもう以前のようには話せぬであろう」
「悲しいことですな」美作守は告げた。
「しかし家臣らの云うこともわからないではない。父上も、朝倉との関係をこそ重視せよと仰せであったしの」
「殿自身はどうされたいのです?」
 美作守は本質をずばりと訊いてきた。
「わしか」長政は声を漏らす。「わしは正直なところ争うのは嫌いじゃ。しかも義兄という関係にある者と戦うことはそれにも増して嫌なことである。一度は心を通わせあった御仁だしな。市のことを思えば、尋常な心では対立することができぬというものじゃ」
「左様ですか」
 長政は赤尾美作守を見た。
 美作守はしばらく考えている様子だった。
「わしはこう思うのです」とやがて美作守が告げる。
「うん?」長政は訊ね返す。
「この戦乱の世にあって、人と人とは様々な結びつきで関係を結んで行くものです。しかしその中には裏切りあり、妬みあり、嫉みありで、なかなか治世では考えられぬ悲劇が起こりまする」
「確かにそうであるな」長政は声を漏らす。
「今回の信長殿との一連のことも同じでござる。もしいまが平時であるなら、こんなことにはならなかったと思うのです。せいぜい、互いに対立しあって喧嘩の真似事のようなもので済んでしまう。しかし、いまのこの世は戦乱だらけの修羅の世界でございます。互いの意識の対立は戦を生み、直接軍と軍とがせめぎあって、勝敗を決するわけです」
「うむ」
「軍は一度動かせば必ず死者が出るもので、それは普遍の真理です」
「なるほど」
「その軍を率いる者に理性がなければ、兵は無駄死に致します」
「たしかに」長政は相槌を打つ。
「無駄死にかそうでないかは主君の才覚ひとつで変わってきます。殿に世を変える気概があるのでしたら、ぜひこのことを心に留めて置いてもらいたいのです。暴に走ることが多い軍と軍との戦を律するは、その頭領の思い一つであると。ですから、殿にはこの戦を続けて必ず暴強を滅ぼし、世をあるべき姿に整えると云う使命を胸に抱かれるべきと存じます」
「なるほど――」長政は美作守の言葉を深く胸に蔵した。
「ならば、われらはこれから如何致しましょうか」
 長政は思案した。「とにかく、いまは羽柴軍を攻めることだな」
 美作守は同意の頷きを加えた。

     *

 先備えの木下秀長の軍勢は、羽柴秀吉が守っていた中備え隊に合流した。
 それを待って、先備えと中備えは撤退を試みる。
「それ、軍を三つに割って、分かれて撤退じゃ! 若狭の追分で合流しようぞ」
 秀吉は自軍の隊にそう下知して軍を三つに割った。
 それがうまく当たって、追いすがる浅井軍は混乱をきたした。
「よし、うまく行きそうだ」と秀吉は心中、満悦である。しかし自軍に危機が迫っていることは間違いないため、表情に余裕はない。
 梅雨時というのにまったく雨が降らない日が続いている。
 雨でも降れば足元を取られて撤退の足も緩慢になってしまうだろうから、ありがたいといえばありがたい。天が味方してくれているのだ、と秀吉は考える。
 戦の勝敗には三つの利が揃っていることが重要であると古の兵法書は説く。つまり、天の利、地の利、人の利である。秀吉はこう考える。わが軍にいまあるのは、この三つのうちの一つだけであると。つまり天の利だけである。その唯一存在している天の利を前面に打ち立てて、地と人の利で勝る敵兵をいなしていかねばならないわけである。これはなかなかに難しいことだと秀吉は考える。
 ここは敵の本拠地に近く、若狭まで行けば解消される問題ではあるが、差し当たっては、この越前からの撤退を考えなくてはならない。とにかくいまは少しでも敵の陣地から離れることが最適であろう。そして、人の利。浅井朝倉は余人には入り込めない堅固な関係を築いている。確かに朝倉義景はそれほど優れた人物ではないものの、浅井と結ぶだけの器量は持ち合わせている。浅井も朝倉もそれ単独であったなら、まったく恐怖は覚えない。しかし現実は、この二つの勢力がしっかりと手を結びあってわが軍に抵抗しているのである。これは人の利において、わが織田軍が劣っている証拠ではあるまいか。そんな風に考えた。
 堅固な関係を結ぶ両者のことを考えていると、秀吉はひとつのことに思い当る。
 ――そうだ、われらには家康殿がいらっしゃるではないか!
 秀吉は困惑の中で一筋の救いの光を見つけたような気がした。
 ――とにかく、いまは生き延びることだ。生き延びれば、挽回することもできるであろうから。長政に何かされたわけではない。しかしあのお市様を奪われた恨みはここ数年忘れたことがない。わしはそれを許すわけにはいかんと云うものでな。
 秀吉のそれは逆恨みというものでしかなかったが、しかし恋を胸に抱く者にとって、そんな訓戒はまったく意味を成さない。秀吉は自分の容姿もまったく気にすることなく、ただ一途にお市のことを思っていた。正室のねねとの間には子がまったく生まれなかったのも原因していた。それでもう二人目も娘を成した長政に対して羨望の念を抱くのも無理のないことであった。訊けば二人目は今年生まれたそうである。仲の睦まじい二人に対して嫉妬を覚える秀吉は自身が劣情に駆られているとは夢にも思わなかった。
「全軍、それ、もっと疾[はよ]うに、急げ、急げ!」
 秀吉は現前のことに集中することにした。
 考えるのはこの危難が去ってからだ。
 秀吉は追いすがる浅井に対して、二度、三度と抵抗して勢いを削ごうと試みる。浅井の軍も大したもので、なかなかしぶとく追ってくる。抗するより逃げるが一番とは分かっていたが、それでもやられ通しでは気がおさまらない。鬱々した気持ちを抱きながら、秀吉は若狭路へと進んで行く。
 若狭に入り合流地点の追分に辿り着くと、そこからさらに近江西部へと向かい、途中の山道で道が狭くなっているのを利用して、大軍を一度に攻め手に回せぬ浅井軍を前に、寡勢の秀吉隊が善戦する。最初のうちは最高の働きができたものの、しかし金ヶ崎にいるときからずっと戦ってきた兵士である。彼等は疲労の極みに達していて、思う存分の働きができなくなりつつあった。その様をみた秀吉は、これはいかんとて、また退却を全軍に下知した。
 と、しばらく撤退を指揮していた秀吉に朗報が飛び込んでくる。
 信長が撤退のときに佐々成政に途中に備えているようにと命令していたとのことである。秀吉は信長の慧眼に驚かされた。さすが殿よ、という気持ちに打たれた。佐々成政の軍は鉄砲隊である。秀吉は佐々の潜伏する場所を抜ける。それへ追いすがってくる浅井・朝倉軍目蒐けて佐々の火縄隊が弾を撃ち込んで行く。
「見たか浅井朝倉め。分をわきまえずにわが軍を追ってくるから、こういう目に遭うんだ。それ、撃て、撃て、撃ち殺してしまえ!」
 佐々成政はそう云うと、軍に勢いをつけて戦意を煽る。
 しかし朝倉軍にひるむ様子はなかった。後からついてきている浅井の軍にも励まされてのことである。その様を見てとった佐々は、これはたまらぬとて撤退を指示する。
「悔しいがこれ以上は無理だ」
 佐々は秀吉隊について撤退する。
 もともと佐々は信長の尾張時代からの家臣で、比良城主であり、黒母衣衆の一人でもあった。風を受けてたわむ母衣[ほろ]が颯爽たるもので、戦場で見れば、とても厳粛な雰囲気を醸し出す。いまでは鉄砲が普及したため、母衣はそれほど意味を成さなくなっているが、それでもこの母衣は権威を示すための道具としての役割を十分に果たしていた。
 そのまま秀吉・成政両隊は若狭路を進んで、近江との国境に差し掛かる。そこでまた秀吉はひとつの計略をもって望んだのだったが、それが彼自身の首を絞めることになるのである。しかしまだそのことに誰も気づいていなかった。

     *

 秀吉は火計を考えていた。
 梅雨時でも雨がまったく降っていなかったし、枯れ草の多い付近の地勢を鑑みて、ここなら火計が功を奏するだろうと考えたのである。その作戦はぴたりとはまった。秀吉の後備えの者らが手分けして山に火をつけ、浅井・朝倉の進攻を防いだのである。一時それで難をしのぐことができた秀吉隊であったが、火の勢いが落ちて来ると、先の状況にも増して追撃する浅井・朝倉軍に勢いが出てきた。
 朝倉軍はほぼ一日戦い続けた秀吉隊の疲労の度合いを知って、さらに士気を高める。
「ここは逃げても先の二の舞。」秀吉はそう叫ぶと、意を決して戦いを指揮し始める。「敵に勢いを持たせてはいかん。ここで必ず朝倉を防ぎきろうぞ」
 秀吉隊はまったく良いところが見せられず、死傷者が多く出た。
 ――くっ、ここは全滅の憂き目を見るわけにはいかん、撤退するか――。
 ――しかし、と秀吉は考える。
 日も暮れて来て、そろそろ誰が誰か分からぬほどの暗闇が忍びこんできている。このままではどうすることもできなくなるに違いない。いったいどうしたものか。
 秀吉は自分の運命を諦めかけていた。ここでおめおめと逃げ帰っては、朝倉が幅を利かせることになって甚だ不快である。それならば武士として潔く身を擲つことこそ最良である気がしてくる。
 そこへ新たな一軍が現れた。
 ――朝倉か! 浅井か! 秀吉は悲鳴に近いうめき声をあげた。
 その一軍はまだまったく戦っていないかのように新進の気鋭を誇っていた。
 ――これでわれらの運命は決したな。ここは潔く……。
 秀吉はそう考えて声を漏らす。
 せめて新たに現れた軍勢がどこの所属であるのか知りたいと、秀吉は薄暗がりの中で目を凝らした。と、そこには見慣れた馬印が風に揺れている。
 ――三つ葉葵の紋!
 それは織田の同盟国、三河は徳川家康の印であった。
 ――助かった、と秀吉は思った。
 つい数瞬前まで死を決意していた自分が信じられない。徳川軍に支えられて疲労していた秀吉隊は撤退の途につく。浅井朝倉勢も新手の徳川軍に阻まれて、それ以上攻めることは諦めた。

     *

 一方の信長は若狭の国吉城に入り、そこから京を目指すことにした。
 国吉城の粟屋親子は信長を殺してしまう算段をしたが、それは父の反対で実行をとどまった。信長は翌日、湖西街道に浅井軍や六角の残党が控えているために、その道を使うことは諦め、近江は保坂から朽木谷へ向かう若狭街道を使って進むことにした。
 朽木谷には六角の一族、朽木元綱があったが、今では信長と和解している松永久秀の説得によってすんなりと領地を通すことに同意した。
 そうして、数日後、信長はなんとか京へたどり着くことができたのだった。

     *

「此度の浅井の仕儀――必ず、倍にして返してやるからな」信長は殿から帰って来た秀吉に向かってそう云った。
「確かに挟み撃ちとはようやってくれましたな」秀吉も憎々しげに云う。
 織田軍の損失は兵士千三百人であった。また負傷者はそれ以上の人数に上る。
 ――そのまま朝倉を討てていれば今頃は盤石であったのに長政め、という思いが信長にはあった。
 ――物事は思い通りにいかぬものだな。
「浅井が裏切ったことによってわれらは本国との連絡を絶たれたようなものだ、どうすればいいか」
 信長は声を漏らした。
 諸将は軍議に意見を出し合い、ここは日野から杉峠へ向かい、千草を抜けて岐阜へ戻る道を進言した。

     *

「此度の働き、お疲れ様でした」
 お市は緊張の面持ちで長政を見た。
 傍らにはまだ幼い茶々の姿がある。そして、この年に生まれたお初は侍女の手であやされている。
「やはり、此度の戦は気が進まぬ」長政は妻に向けて縋るような視線をして見せた。
「それが普通でございましょう」お市はそう云って眉をひそめた。
「信長殿を討つことになっても恨まないでくれ」
 長政はそう云って、遠い眼をする。
「恨むものですか、道理は長政様にこそあると思いますし。兄上は横暴すぎます。頭を冷やす必要がありますよ」
「頭を冷やす――か。攻めているときも考えていたのだが、信長殿は冷静に物事を考えるとき、自分の得にならないことであるとはっきり見定めたなら、もう絶対に考えを変えることはないような御仁であると思えるのだ」
「それはあるかも知れませんね」お市は同意の頷きを加える。「兄上のことはなかなか難しいでしょうね」
「とにかく、市、そなたの言葉を信じつづける。わしは必ずそなたを守り続けよう」
「ありがたきお言葉にございます」お市はそう云うと顔をほころばせた。
 二人は互いに浮かない表情ではありながらこの一緒に過ごす時間を貴重なものと捉えて、互いを意識しながら時間を過ごした。
「長政様、お市様、夕餉の支度が出来ました」
 初を寝かしつけた侍女の妙が報告に来た。
「ああ、行こう」と長政は妙に告げた。
 室を出て広間に向かうと、そこには夕餉の美味しそうな匂いが立罩めていた。
 山菜のおこわがあり、鮎の甘露煮があり、蕗[ふき]の煮物があり、白味噌の汁物があった。決して豪華とは云えないものの、それなりに滋養のあるものが多く、長政は感謝の気持ちを抱きながら、食べ物を口に入れる。
 食事はやはり父の久政がむすっとして、いつもどおりの様子である。母の阿古がお市に向けて、今日の蕗は妙が採ったのだと嬉しそうに告げた。
「へえ、妙、なかなかいい働きをしているではないか」と長政は告げる。
 それに妙は頬をぽっと紅潮させて云った。
「ありがとうございます」
「この蕗はどこで採ったのだ?」長政は興味を惹かれて訊ねた。
「この近くに水の湧いている地域があって、そこに自生してるんです」
「ほう」
「そこへ入って採ってきたんですけど、地元の百姓なども知っている場所なんですよ」
「それはなかなか良いことだな」長政は相槌を打つ。「うん、旨い」長政はまたひとかけ、蕗の煮物を口に入れた。
 その夜はしんみりとした空気に包まれていた。
 長政は以前のように、また眠れない夜を過ごしていた。
 床に入るが、まったく寝つかれない。
 つまらぬことをぐるぐると何周も考え込むのである。考えている最中はそれが堂々巡りであることに気づかない。結論の出ない、終わりの無い道程を迷い歩くようなものである。長政は落ち着かなかった。いったい自分はどうすればいいのか。義兄との関係の修復はもはや不可能であろう。しかし一縷の希望も抱いている。義兄信長が考えを改めて折れてくれることをである。それには何が必要か――。しかし、考えても結論は出ない。何が必要なのか、それが分からないのである。
 ――わしは道を誤ったのか? 改悟と云う言葉が胸に渦巻く。とはいえ、悪いのは信長殿ではないのか? あの同盟を結んだ折、朝倉に手出しはしないと云った約定を交わしたではないか。それを反故にすることは、同盟をないがしろにする行為ではないのか。が、世間はそうは見ない。織田の行為はそれなりに由のあるもので、裏切った浅井の方が狡猾であると見られているのではないか。そんな強迫観念も長政の胸に重いくさびを打ち込んでいるのである。
「信長殿――」と長政は声を漏らす。
「如何なされました?」とお市が訊ねる。
「まだ寝てなかったのか」
「はい」
「お互い辛い立場であるな」長政は声をくぐもらせた。
「そうですね」とお市。
「われらはこれからどうすべきか」
 しかし結論は出なかった。
 しばらく思案を続けているうちに一時の安息のような眠りが二人の瞼を重く麻痺させていった。
 明朝は珍しく雨が降った。
 梅雨時と云うこともあって降って不思議はないのだが、それにしても、この雨は新たに出来た因縁を洗い流す恵みの雨になってくれればどれだけ気が休まるだろうと考える。晴れても雨でも、悩みごとは尽きない。いったいどうすればいいのだろう。
 長政はそう考えて、起きてから何度目になるかわからない溜息をまたついた。
「長政様、あまり根を詰めると、具合が悪くなりますよ」
 お市がそう告げてくる。
「そうだな」と長政は元気を失った様子で答える。
 長政はどうしてこんなにやる気が出ないのか、わからなかった。それでしばらくそのことについて思案してみることにした。
 ――信長殿との信頼関係はこれまでの誰とも交わしたことのないものであった。己はそれにこれまでの孤独感を押し流すように受け入れ、そしてその心地よさをとても好ましいものとして受け入れていた。それがまったく無駄になってしまったのである。そしてその信頼していた相手から裏切られて、今では敵対関係になってしまったという事情。長政は落ち着いて考えていられなくなった。そもそも何が悪かったのか? 自分に落ち度はなかったのか? 家臣らが如何に朝倉との誼を重視しようと、わしは断固、信長殿との関係を押し通すべきだったのではあるまいか? しかし如何に考えようとも、もう取り返しがつかない。父久政の主張はわからないでもない。赤尾美作守の言葉も胸に響く。しかしどこかそれらが空虚なものであるような気がするのである。
「長政様」お市はすーっと心に沁みとおって来るような声で長政に話しかける。
「うん?」と長政。
 お市の表情にはえもいわれぬ情緒があるようだった。それは何を考えているのかまったくわからない不可解さではなく、夫のことを心底心配している愛妻のそれであったため、長政もお市に心配をかけていることが申し訳ない気がした。
「このままではいかんな」と長政は声に出す。「鬱々として、考えがちっともまとまらない」
「ことがことだけに仕方ないですよ」お市はそう云って夫を励ます。
 外では蛤蟆の鳴き声が聞こえてきた。
 今日のこの雨をもっとも喜んでいるのは蛤蟆たちであろう。
 庭のどこにいるかわからない、のどを膨らませているであろう蛤蟆たちのことを思うと、肚の底から諧謔的な詩味が生まれて来て、愉快になる。ほんのひとときの休息であろうが、この時期を療養期間と考えて、気を落ち着けて毎日を過ごすのが一番だろうと長政は考えた。
 しかしそうは思ってもなかなか思い通りにはいかない。時間に余裕ができると、すぐに信長のことを考えてしまう。長政の今後の人生はもう信長次第で如何様にも翻弄されそうな気がしてならない。これは行きつくところまで行かねば決着のつかない問題なのだろうか? どちらかが死するまで永久に続けられる対立関係なのだろうか? 並の相手なら、そんな風に思い詰めることはないのである。しかしこの短い同盟期間の中で見知った信長と云う武将の個性を鑑みるにつけ、事は簡単には収まらぬだろうとの予感があった。
 ――義兄弟の殺し合い。
 因業の深いことだと思い做す。
 長政は昼までの時間を自室で過ごした。
 その間、お市も同じ部屋にいたが、一言も会話はなかった。
 夫には一人で考える時間が必要だと考えたのかも知れない。
 長政はそのお市の心遣いに感謝した。誰かと話すことが物事の解決を導くのと同じくらい、一人で考えることもまた、同じくらい重要であることを知っているのだ。
 午後からは重臣達との会議がある。議題は信長との関係についてであろう。いま信長は京にいる。流石に軍勢をもって京を攻めることは控えたい。ただでさえ正親町天皇と将軍義昭を擁する織田と京で対決するとなると、その背徳ぶりは諸国の大名の顔をしかめさせるに十分すぎるであろうから。戦争は単純に国と国とがぶつかり合うというものではない。そこには幾重にも重なる権謀術数に則った、仁や義という概念が重くのしかかって来て、それを押さえた者が勢いを増し、失ったものが勢いを減ずるのである。
 いま織田と浅井とは五分五分であった。この情勢にどのように立ちまわるか、それが重要である。


16 :蒼幻 :2010/08/17(火) 18:33:59 ID:tcz3skmcrm

第八章 杉谷善住坊




「まったく忌わしいことだ」
 信長は諸将らの揃っている軍議の場で気焔を吐いた。
「北に浅井、南に六角。浅井は仕方ないにしても、六角はあれほど懲らしめたと云うに、浅井・朝倉の勢いを見て増長しておる。あの不敵なる六角の鼻っ柱を折ってやろうと云う気概はお前たちにあるか!」
 いつになく厳しい信長の叱責に諸将らは言葉を失った。
「ああ、つまらぬことだ。猿、何か面白いことはないか?」
「面白いことと云ってはありませぬが――」秀吉は言葉尻を曖昧にぼかして告げる。
「うん、面白いことはないが、の先はなんだ?」
「はい、岐阜に戻られることが肝要かと思うのですが」
「それだな。何かいい案はあるか?」
「少々難所でございますが、杉峠から千草を越えられる道がいいかと存じます」
「山登りと云う訳か」
「はい、そうなります。杣道がありますので、険しいと云うほどでもありませぬ。中山道は浅井、東海道は六角がそれぞれ見張っておりますから、峠越えをするのが一番ではないかと……」
 信長はしばらく考えた。
 秀吉の意見をそのまま受け入れていいかどうかについてである。
 慣れない道を通ることは危険と隣り合わせであることを思わないわけにはいかない。しかし、さすがに六角もそんなところにまで気をまわしていることもないだろうという楽観的な気持ちも手伝って、信長は云った。
「うむ、その道を採用しようか」
「お取り上げ、ありがとうございます」
 秀吉は猿に似た顔をにっと緩めた。
「他にいい案を持つ者はおらぬか?」
「異存はございませぬ」佐々成政が告げた。
 諸将らもそれに和する。
 ――日差しのきつい日が続くからな、山越えは骨が折れよう、信長はそんなことを考える。
 とりあえず、岐阜に戻ったら、また浅井と一戦交えるしかない。信長はその辺りのことを算段した。
 ――わが軍が勝つにはどうするのが最適か……。三河の徳川家康との関係を恃んで戦端を開けば、きっと兵力数ではこちらが勝るだろう。数で押し切れば如何に精兵だとて敵うものではない。しかもわが織田の兵士は歴戦を勝ち抜いてきた兵士たち。のらりくらりの浅井の兵士とは鍛え方が違う所を見せてやろうぞ。待っていろ、長政め。信長はそう考えて独り冷酷に笑むのだった。
 ――浅井との縁が始まったのが、永禄四年の五月。これが偏諱の申し入れのあった時で、お市が嫁入りし実際に会見をしたのが十一年の八月。朝倉を攻めて決裂したのが十三年の四月。そしていまは改元して、元亀元年の五月――。こうして考えてみると、結構な関係であった気がする。しかしそれがいったいどういうことを引き起こしたか。信長はそれが悲劇であるとは思っていなかった。確かに浅井が裏切った[・・・・]ことは大きい。朝倉との関係より、織田を重く見ていたのなら、今回のような仕儀には出なかったはずだ。つまり、朝倉との関係を織田とのそれよりも重しと見たのであろう。それは信長にとって屈辱だった。屈辱を与えられた相手には報復しなければ気が済まぬ。いや、信長の性格ではそれで思う存分憂さを晴らしたとしても、永久に満足は得られないだろう。それは普段の信長を知る者なら、きっと首肯する事実である。
 信長は諸将らとの軍議を終えると一人になろうとて自室に籠った。
 ――わしはあの長政を無二の親友、その繋がりは管鮑の交わりに匹敵すると思うておった。いまそれをないがしろにされて、わしは剥き身のまま構えている敏感な一常人である気がする。自分はもっと強い人間であると思っていたが、しかし、それは幻想に過ぎなかったのか? わしはいったい何をなして、いまの現状にぶちあたっているのか。長政よ、そなたもわしを見限るのか。
 それは信長の生のままの感情であった。普段、決して弱みをさらけだすことのない、生のままの精神。長政――そなたはいったい何を思うてこの乱世を生きておる? 信長は気の迷いかと思って、首を何度も横に振る。悪因縁のように纏いついてくる感情の糸をほぐすために、信長は何度も何度も首を振るのである。
 自分以外、誰もいない一室。
 信長は久しぶりに一人になった気がした。常に起きている間は諸将らがいる環境で過ごしてきた。こうして一人になる時間をとても貴重なものであると思い做す。
 信長――長政――義景――家康――。
 天皇――将軍――大名――兵士――。
 統計立っているのかどうかわからぬ言葉が繰り返し頭の中で繰り返される。飽くまで信長はこの乱世の中で一人の武人として生きる道を模索する修道僧のような気味を保っていた。
 信長は立ち上がって障子戸をあけた。
 ばさばさっと鳥の飛び立つ音がした。庭に雉が降りていたのだ。それが信長の戸を開ける音に驚いて、飛び去ったのである。
 信長はその状況にちょっとした詩味を覚えていた。
 逃げる雉の姿に浅井・朝倉のことを思う。
 追えば追うほど遠くへ行ってしまう存在について。
 そんなことを考えている今の信長の心には、虚無感に似た云い得ぬ感情が芽生えている。
 東の方[かた]に雁の飛ぶ姿が見える。
 あの雁も帰るところがあるのだな、と納得する。
 ――わしの帰る所はどこなのか。信長は気弱にそう感じている。
 ――うん。わしはもう帰るところなどないのかもな。唯一の帰還の場所は岐阜であろうが、そこも戦乱で勝ち取った場所でしかない。壮麗ではあるが、やはりそこが天下の中心になるとはとても思えぬ。わしが住まうに値する場所はやはり京にできるだけ近い方がいいのかも知れぬ。信長はそんな風に感じている。
 ――まずは浅井をどうにかせねばならぬな。
 信長は思いを定める。
 ――とにかく今は岐阜へ帰ることを考えよう。
 信長は肩をすくめて、東の方へ視線をやった。屋敷の塀の向こうに比叡の山並みがくっきりと空の一部を切り取っている。盛り上がるような蝉の鳴き声が夏の気配を十分すぎるほど醸している。夏はこれからだと信長は思い做して眼を細めるのだった。

     *

 長政は表情も冷たく、ひたすら、情勢を見極めようと苦心していた。
「信長は必ず、われらへの報復を考えるでしょう」遠藤直経が声を荒げて云った。「信長を岐阜へ帰してはなりませんぞ。きっと大挙して押し寄せてくるでしょうからな」
「それはわかっているが、しかし、京から動かずとも、それもまた困ったことになるであろう?」長政が云う。
「ここは六角の言葉もありますゆえ、ひとまず、それを信じていくのがいいかと思われまする」と遠藤。
「六角の云うことを鵜呑みにして大丈夫であろうかな?」赤尾美作守が訊ねる。
「いや、上洛のときでもあれほど信長に排斥された恨みを持つ六角のこと。まさか今回のことでわれらを謀ろうなどとは、まったく思っておらぬでしょうよ」
「そうか、それならば、安心であるな」
「左様、左様」
 長政は会話の進行に耳を傾けながらも、自分の考えの中に籠るようにして問いの答えを求めていた。信長との関係。今後の対立。戦乱の世の具現化。諸国に与える影響。自分の立場。浅井家の行く末。そんな物事の中へ次々と不安要素が滑り込んでくる。自分の中に安住の地が与えられていないことに気づく。そしてどうしようもない虚無感に包まれて、気持ちが押し塞いでしまう。
「長政殿――」と声がする。
 それはまるで耳に膜でも被せたみたいに消え入りそうな、意識の深奥にまでなかなか届いて行かない声だった。
「うん?」と長政は訊ねる。
「殿は如何お考えか?」
「何をだ?」
「此度の信長殿の暴挙についてでござる」遠藤が声を大にして訊ねる。
「わしらはたしかに織田殿を越前に於いて討とうとしました。しかし殿はそれでも信長殿を慕い、極力戦闘は避けたいと思われているご様子。認識が甘いのではないですか?」海北綱親が怜悧な視線を送ってくる。
「そうだな、そうかも知れぬ。きっとわしは甘いのだろう」長政は綱親の云うことを素直に受け入れる。本来受け入れてはならぬ言葉であったが、いまの長政にはそう云った言葉を受け入れる気の弱さがあった。
「如何にしてわれらはこの江北を守るや!」
 普段は意見を述べない身分の低い家臣も告げてくる。
「わからぬ」と長政は短く答える。
「われらはここにとどまって、情勢を見極めるしかないのですかな」
 赤尾美作守も訊ねる。
 そのとき阿閉淡路守が告げた。
「信長がおらぬ間に美濃を攻めると云うのはどうですかな?」
「そ、それは」長政は声を漏らす。
「信長のおらぬ美濃は裸の巣のようなものです。簡単に乗っ取れるのではないかと思うのですが」
 阿閉は真剣にその考えを主張しているようだった。
 ――その考えが頭に浮かばない長政ではなかった。しかし、と長政は考える。
 もし美濃に攻め込んで三河の徳川と京の信長に挟み撃ちを喰らったら、きっと被害は甚大なものになるだろう。つまり、織田の朝倉攻めと同じ事態が沸き起こるのである。だから、その考えはやめておくが賢明であろうと思えた。
 長政は軍議を終えると赤尾美作守を呼んで込み入った話をした。
「わが浅井家の跡取りは誰になるであろうの」長政はそう話を切り出す。
「いきなりどうされました?」美作守は怪訝そうに訊ねる。
「うん、市との間に男子が生まれぬし、このまま行けば、庶子の万福丸が跡を継ぐことになるのかと思うてな」
「万福丸様ですか」美作守が云う。
「ああ」
 万福丸は確かに自分の子であり、溺愛とはいかないまでも愛しく思っていた。しかし跡を継がせるとなるとまったく別問題である。できることなら、正室のお市の子をこそ跡継ぎにしたいという気持ちが大きい。
 長政は溜息をつく。
「お市様との間に男子が生まれればその問題も解決するというものでしょうな」美作守は長政が言葉少なく話していても、その謂わんとするところをしっかりと捉えているのだった。そういう聡い面があることこそ、この浅井家中で、美作守が貴重な立場を保っている何よりの要因であった。
「お市様とは仲睦まじいようですから、きっといつかは男の子が生まれるでしょうとも」
 美作守は心配いらないと云う風に呵々と笑った。
「そうだな」と長政も肯う。「待たせて済まなかった。もう行ってもいいぞ」
 長政はそう命令する。
 長政の言葉に美作守はこくりと頷いた。
「ならば、わしは帰らせて頂きますぞ。殿もご無理をなさらず」
「ああ」長政は返事する。
 美作守が去った後もしばらく長政はその部屋で考え事をしていた。
 ――茶々も初もすくすく育っている。お市は嫁として申し分ないばかりか、母としても十分すぎるほど優れている。容姿端麗な者は情に欠けるところがあると云われるが、お市に限ってそんなことはない。どうしてこんな女性がずっと嫁に行かず、しかも自分の妻になったのかと思うことがある。それもまた運命なのかと長政は考える。
 ――運命。
 ――そうだ。それこそが重要だ。長政は運命について考える。
 ――自分の命を運ぶもの――運命。いったい誰が運命などと云う概念を発見したのだろう? わしはこれまでの人生でこれは運命だと感じることが何度もあった。美濃を攻めて途中で引き返すことになったせいで美濃は落ちず、結局、信長殿の領袖となったのである。また、偏諱の申し入れの時期も市との結婚が決まるきっかけになったわけだし、自分が浅井家を継ぐことになったのも、自然の流れであるように見えて、実は運命の気配が見えるのである。あれこれ考えることは多いけれど、それにしても信長殿と自分の関係ほど運命を感じさせるものもないと思う。
 ――もし信長殿がいなかったらわしはきっといまでも江北でくすぶっていただろう。あるいは六角に攻め立てられて、気息奄々であったかも知れない。いまぶち当たっている問題はきっと浅井が経なければならぬ試金石なのだろう。
 ――人と人との繋がりには人智を超えた力が影響している気がする。
「ああ、どうしてこんなことになったのか……」
 長政は嘆息する。
 日が暮れる前に、清水谷の屋敷に戻ることにした。

     *

 それより少し前、まだ日が高くやや赤みを増しつつあった時期、お市は思案の表情で考え事をしていた。
「御寮人様、浮かない顔をなさっておいでですけど、なにかありましたか?」
 侍女の妙が訊ねる。
 妙はお市に茶を淹れに来たのだったが、そのときにお市があまりに表情を曇らせているので、それを怪訝に思ったようである。
「ああ、なんでもないのよ」とお市は告げるが、明らかにその言葉の雰囲気には心配している気味がにじみ出ている。
「お話しされにくいことなんでしょうね」妙はお市の心中を察したかのように告げると、それ以上、何もいわず、急須から茶を入れた。「これは城下で買い求めた菓子です」と妙は云って懐紙と一緒に、和菓子を出した。
「ありがとう」とお市は云う。「妙が持って来てくれる和菓子はいつも楽しみなんですよ」
「そうですか?」妙は喜悦の表情を見せる。
「これは何ていう名前のお菓子なんですか?」
 それは抹茶の餡を糯粉の皮で包んだものだった。
 お市は楊枝で切り分けて口に運んだ。
「確か〈浮島〉という名前だったかと。茶菓子としてよく食されているものだそうにございます」
「そうなのですか。なかなかの美味ですね」
 二人は顔を見合せてくすくす笑った。
 お市はこの妙をとても気に入っていた。夫の長政はときどき、この妙は身分も教養も低くて、それほど尊敬に値しないと云っていたが、お市の目から見たこの妙はそんな欠点などまったく気にならないほど、よく気のつく魅力的な女性だった。それには男の視点と女の視点との違いが影響しているのだろう。
 同性に好かれる女性は内面的に優れていることが多いらしい。
 お市はまさしくそれだと感じていた。
「妙、ちょっと話を聞いてくれますか?」
 お市は縋るような視線を妙に向ける。
 ただ事ではないと思ったのか、妙は恐縮して何度も瞬きしてお市を見つめる。
「私はいったいどうすればいいのかと思うことがあるのです」
「えっ?」と妙。「ああ、信長様のことですね」
「ええ、そう」とお市。「私はもう江北の人間だと思っていますが、やはり血の繋がった兄ですからね。いろいろと思うことがあるのです」
「長政様にはそのことを伝えられているのですか?」
「云えるわけがありません」お市は眉をひそめた。
「御寮人様の優しさかもしれませんね」
「えっ?」お市は戸惑う。
「長政様を心配させないように、自身の思いを押し隠していらっしゃいます。それはきっと御寮人様の優しさだと私は思います」
「そうなのかしら……」
 お市はふっと笑んだ。
 妙はきっと表情を引き締めて云った。
「この時代、女の身で出来ることは限られていますが、信長様と長政様は御寮人様にとってどちらも大切な人。いつか和解して下さる時が訪れるのではないでしょうか。それには御寮人様の仲立ちも必要になってくるかもしれないですね」
 妙はそんな風に告げてほほ笑んだ。
「本当にそんな日が来るといいのですけど」
 お市は力なく笑む。
「さあ、夕餉の準備があるので、私はこれで失礼いたします。あまり力になれなくてすみませんでした」
「いえ、話を聞いてくれただけでも助かりましたよ」お市は優しく言葉をかける。
 妙が行ってしまうと、お市は冷めた茶を一口飲んでまた考えた。
 ――長政様とお兄様。本当に和解できる日が来るのかしら。お兄様の性格を知っている私は、それは万に一つの確率もないように思えるのだけど。とにかく今は何を云っても駄目でしょうね。あの佐和山でのお兄様との会見は本当に懐かしくて、嬉しかった。でも、いまは――。もしお兄様が長政様を討つことがあれば、私はどうすればいいのだろう……。自刃して果てる? そうね、あのお兄様から貰った小刀でひと思いに命を断つと云うのもいいかもしれない。でも、そうすると、子供たちが可哀相すぎる。ああ、私はどうすればいいんだろう。和解が一番の道であることは分かっているけれど、それはあまりに難しい気がする。
 お市は考えを凝らしてみる。
 夫と兄、その板挟みになっている今の自分は本当に不幸だと思っているのか? 心のどこかで、兄も懲しめられればいいと云う気持ちは抱いていないか? 自分の心を精査してみると、どことなくそういう感情のあることにも気づかされる。
 ――私はそんなことしか考えられない女なのかしら。
 お市は悄然とする。
「おう、市、いま戻ったぞ」
 長政が部屋に入ってくる。
 結婚した当初の精悍な体つきからはやや線が太くなったものの、逞しい身体つきは魅力的に映る。お市はこの夫をじっと見つめて思う。
 ――私は江北の人間になったのだから、もう迷わずこの人についていこう。それが一番いいのよ。
 お市はそう思いながら、揺り籠の中で眠っているお初に目をやった。


17 :蒼幻 :2010/08/17(火) 18:34:45 ID:tcz3skmcrm

     *

 信長は秀吉の進言どおり、千草越えの道で美濃への帰還を目指していた。
 信長の峠越えの情報は細作によって、この男、六角承禎の耳にも入っていた。
「これは絶好の機会ですぞ」と平井定武が進言すると、承禎は訊ねた。
「信長を殺すにいい方法はないか?」
「それに最適な男がおりまする」
「そうか」承禎は期待の眼差しをそこに籠める。
「いま、ここに呼んでおりますので、しばらくお待ち下され」
 男は僧形で、名を杉谷善住坊と云った。
 引き締まった肉体をしていて、平井の話によれば、鉄砲の名手であるらしい。
 平井は云う。
「先日、信長が千草越えの道を通ることを忍者共が嗅ぎつけました。それでこの善住坊を金貨二十枚の報酬を与えるからということで雇ったのです」
「なるほど」承禎は満足げに顔を笑ませた。
 この杉谷善住坊は天台宗の住僧で、甲賀でも随一の鉄砲の名手であるとのことであった。この男に任せれば、万事遺漏ないであろうと思われた。
「頼んだぞ」と承禎は云いつける。
「はっ、必ず信長に銃弾を撃ちこんで見せましょうぞ」
 善住坊はにっと口辺を歪めて笑った。
 彼は承禎のもとを辞すると、信長が動いたと云う報せを受けてから、国友製の二連銃を持ち、悪住坊という弟子を連れて、根平峠が真下に見える鞍部に待ち伏せした。
 そこを信長の軍勢が通り抜けようとする。
 善住坊は格好の獲物であると見て、信長が通るのをじっと待った。
 そこへひときわ華美な装束の男が姿を現した。
 金銀をちりばめた具足、銀の白星をうがった三枚兜に、黄金造りの太刀という装い。騎乗馬は黒光りする利根黒である。
 これが信長だなとあたりをつけた善住坊は鉄砲を構えて、狙いを定める。
 耳をつんざく轟音が鳴り響き、弾は信長に向けて発射された。
 一発は信長の鎧の左の袖を貫き、もう一発は着衣のすれすれのところをかすった。
 信長は驚いた利根黒を落ち着かせ、曲者を探し出せと供の者に命令した。
 善住坊は失敗したと悟って、すぐに悪住坊と共に逃げだした。
 ――撃ち殺したと思ったのに、なんと悪運の強い男よ。
 と、善住坊は舌打ちした。
 ――これもまた信長と云う男の常人離れした能力の一つであるのか?
 善住坊はそれからしばらく、信長の追撃の手を逃れていたが、三年後、潜伏しているところを見つかって、信長の手の者に捕らえられた。
 彼は鋸引きの刑に処されたのだった。

     *

 それまでに潜伏先の伊賀から近江に戻って来ていた六角承禎は、反信長軍を指揮していた。
 信長の上洛戦のときの敗残の浪人衆がその大半を占めている約五千の軍勢である。そこに本願寺門徒の一向一揆衆と浅井長政と三者で同盟を組んで、織田方に攻め寄せていたのである。
 元亀元年五月二十一日、五千で、織田方の将、柴田勝家の立てこもっている長光寺城を包囲した。
 柴田勢は八百人程度。六角軍と違って寡勢であったが、それでもさすが織田の軍勢といったところか、弓矢と鉄砲で果敢に六角勢を牽制して立て籠もる。とはいえ、その城を築いたのは六角であり、周りの地勢もその弱点もしっかりと見極めている。情勢は多分に勝家に不利であった。とはいえ、勝家はまったく悸じることなく、三百の兵士を率いて、城門から打って出るのだった。
「それ、六角などひねりつぶしてくれようぞ」
 馬上にて、勝家は大十文字の槍をぶんぶん振り回して全軍を指揮した。
 その武勇は敵にも味方にも大いに感銘を与えた。
 勝家はその大きな槍で敵を幾人も屠る。
 一薙ぎで三人、五人を殺すこともあり、まるでそれは武神が乗り移ったかのようである。六角の兵士も次第に、その様子を遠巻きに眺めるだけになりつつあったが、長光寺城には別の問題が浮上していた。
 折しも五月下旬、暑い日が続き、風も絶えて雨は一滴も降らない。城に蓄えてあった瓶の水も底を尽きはじめていた。また水の不足によって病にかかる者も少なくなかった。

 六角承禎はその様子を見て、好機到来と心をときめかせたものである。
「このまま行けば、城内の兵士はみな、渇して死に絶えるであろう。織田め、目にもの見せてくれようぞ。」

 勝家は城の者を集めて云った。
「敵は我らの水の手を断ち切って渇えさせようとしている。こんな卑劣なやり口をする奴らをわしは許すわけにはいかん。ここは窮鼠猫を噛むの喩えではないが、城門を開いて、一気に打って出ようと思う。われに続こうとせん者は、ここに残りの瓶が三つあるゆえ、此処に来て、われと末期の水を飲んで気合を高めてくれ!」勝家はそう云うと、瓶から水を汲んで盃を持ちあげた。
 それにわれもわれもと勝家の軍勢は競って水盃を交わした。
「六角など、われらの底力でなんとでも致しましょうぞ」
「やつらがいい気になっていられるのも今のうちでござる」
「江南の兵はぐずでのろま、われら尾張衆の兵の質の違いを見せつけてやりましょう」
 普段は表に立たない兵士たちも気焔をあげて、勝家に云いよる。
 勝家は好い兆候だと思った。
 ――これなら、打って出れば、いい働きができそうだ。
 勝家はほぼ全員が水盃を飲んだのを確認して云った。
「家族のある者や傷病者はみな、この城を脱して逃げてくれればいいと思っていたが、しかし、おまえたちはみな覚悟を決めてくれた。ありがたいと思う。われら全員無事生き延びて、これからも織田のために働こうぞ!」
「おう!」と熱い応[いら]えが兵士たちから返ってくる。
「ならば、いざ、行かん!」
 勝家はそう云うと、大きな槍を手にして三つの瓶をぶち割った。
 決死の覚悟で臨むからには、もうこの瓶から水を飲む事はあるまいという意思の表れであった。
 そうして勝家とその将兵は長光寺の城門を開いて、皆一丸となって周囲をとりまく六角兵に打ちかかっていった。
 水に飢えている兵士は悪鬼羅刹のごとき形相で六角に斬りかかる。その勢いはあまりに盛んで、六角兵は、あと少しで渇するだろうと思っていたその兵士に打ちかかられて意気阻喪してしまっていた。こうなるといくら多勢であろうと脆いものである。柴田勝家の兵士は実力以上の力を発揮して六角の兵士を散々に痛めつけた。
 六角はそれに懲りて兵を退く。
 勝家はその武勇・覚悟により、名声を高めたのだった。

     *

 勝家が六角と戦っていたのと同じ時期、信長は岐阜城へ帰還し、休む間もなく、江北への侵入を画策しはじめた。
 その戦略の矢面に立ったのが、中山道沿いの浅井方の諸城主に向けた味方引き入れ工作であった。
 具体的には長亭軒城と長比[たけくらべ]城である。
 ここに一人の男を紹介しておかねばなるまい。
 竹中半兵衛である。
 竹中半兵衛は〈その知謀、神のごとし〉と云われた人物で、いま長亭軒城で食客の身分として城のある松尾山の麓の山林の草庵に閑居していた。
 信長の家臣羽柴秀吉はその名声を高く評価していて、ぜひ、織田軍中にこの竹中半兵衛を味方として組み入れたいと考えていた。軍師として働いてもらえば、きっと素晴らしい軍略を編み出してくれるだろうと思ったのである。そして半兵衛を仲間にできれば、その伝手[つて]で、長亭軒城の城主樋口直房をも説得することができるだろうとの目論見もあった。
「秀吉様、竹中半兵衛殿への説得、どのようになさるお積りですか?」
 半兵衛の草庵に向かっているとき、秀吉の家来のうちの一人が声をかけた。
「わからん、まったく決めていないのだ」
「えっ?」家来は戸惑う。「それはどういう――」
「半兵衛殿ほどの人物を、わしなどの浅知恵でどうこうしようと思ったところで、本心を見透かされて、結局、徒労に終わるのは目に見えておる。ここは義にのっとり、まず人を見てから、何を話すかを決めようと思うのだ」秀吉は主張した。
「なるほど。人を見て決める、ですか」
 秀吉は足取り軽く、半兵衛の住まいと思われる草庵に辿り着いた。
 いい感じに古寂びた庵である。もちろん、周りに民家はない。
「半兵衛殿はこんな場所にお住まいか、ますます常人ならずといった印象であるな」秀吉は喜悦の言葉を家臣に向ける。
「なにか、支那の仙人か世捨て人の住まいのようでございますな」
「確かに」秀吉は云う。
 その草庵は葺かれている茅も新しく、丁寧に手入れされていることがわかる。
「ご免下され」と秀吉は戸を開けて、中の様子を窺う。簾の向こうに人影が見える。よく見ると、姿勢よく端座して、書見をしているようである。
 秀吉の声は届いているはずだが、男はまったく出てこようとしない。
 聞えていないのかと思って、秀吉はもう一度声をあげる。「ご免下され」
 男は本をそのままにすっと立ちあがると、表へとやってきた。
「どなたですかな?」と男は澄んだ声で誰何する。
「拙者、織田の家来、羽柴秀吉と申します」秀吉はあたりさわりのないところを説明する。
「そうですか、織田様の」男は神妙な顔つきをする。「まあ、表ではなんですから、上がって下され」
 秀吉はその言葉に甘えて草鞋を脱ぎ、中に案内される。
「少々、お待ち下され」と云うと、男は手を叩いた。「霊坊、お客様に茶を頼む」
 奥で小さな男の子の声で返事があった。
 男は秀吉に向き直って答えた。「申し遅れました、私がこの庵の住人で竹中半兵衛と申します」
「こちらこそ、よろしく頼みます」
 秀吉は下手に出る。
「こちらにも秀吉殿の勇名は轟いておりまする」
「そうですか」
 半兵衛はふっと笑む。
 秀吉も相好を崩す。
「いま『荘子』を読んでいたのですが、天籟とは何でしょうな」半兵衛はいきなり質問する。「天籟とは、人籟とも地籟とも異なる、形の無いものでありながら、すべての中に備わっているものであると説かれます。それはまるで香具師の口上のようにも見えますが、しかし人は無明のうちにその天上の音を聴いているのではないかと思うのです」
「天籟……」秀吉は勿論、『荘子』も読んだことがあった。
「われらは聴かずして聴き、思わずして思い、迷わずして迷い、争わずして争っている。その思想はどのような世の中であっても不朽の真理を持っているのではないかとわしは思うのです」
「なかなか深いですな」秀吉はこの半兵衛の話がどことなく人を啓蒙するような、自分の考えを述べながら、聴く者の心に一種の感銘を与えるような手法で話していることに気がついていた。
 いわば出鼻を挫かれたようなもので、秀吉は荘子の超然的な話から、いきなり召抱えたいという報知をすることが、あまりに俗に流れる行為であると思い、それを却下した。
 確かに半兵衛を仲間にしたい気持ちはある。しかし、半兵衛はその説得に乗ってくれるような気安い態度を見せていないのである。
「うむ……半兵衛殿は鬼謀の才があると伺っておりましたが、まさか荘子を読まれているとは思いもしませなんだ」秀吉は顔を赤くして云った。
 それからも二人は――主に半兵衛からであったが――、ひと通り、荘子の概念について語り合った。荘子と云う書物の性格であろう、秀吉の供のものもあまりに世間から超脱している話についていけないという表情をしていた。
「お前たちはこういう話は好かぬか?」と途中で秀吉が訊ねる。
「と、とんでもない。いろいろとためになる話であると思うております」
「しかし、その表情は何か解せぬと云う顔付きであるが?」秀吉は追及の手を止めない。
「そ、それは……」
 家来たちは半兵衛を仲間に入れに来たのに、こうして雑談で時間をつぶす秀吉の態度に疑いを持っていたのである。しかし、それを表だって主張できるほど、家来たちは自分の意見に確固たる意志を持っているわけではなかった。きっとこの主の頭の中にはなんらかの考えがあるのだろう、そう思っていた。
「そういえば、墨俣の話はわしもよく聴いておりまして、あれは素晴らしい策であったと感服致しておるのですよ」半兵衛は嬉しそうに云った。
 荘子の出世間の次は、軍略の評価。ころころと切り替わる話題、秀吉はどことなく心地よさを覚えていた。通常、人は話題を直線で切って進んで行くものだが、常人ならざる人物は同時にいくつものことを考えて、話題を飛び飛びに話すことの多いのを秀吉はわきまえていた。こうして話している間にも半兵衛の頭の中ではまだ見ぬさまざまな概念や思想、哲学を元にした計算が着々と進められているのだろう、秀吉はそう考えていた。
「墨俣はどうすれば素早く攻撃の拠点が作れるかと云うことに終始していた。あの木材を切って上流から流していくという策は、我ながら、よく出来たと思うておる。あのような策はわしのような訳のわからぬものがよくするからぴたりとはまるのであって、更に優れたものなら、もっと他の策で的確に城を攻略できたのではないかと思うておるのだ」
「左様ですか」半兵衛はふっと笑む。
 それから一刻ほどあたりさわりのない話をしていると、雨が降り出して来た。梅雨の天気である。
「雨道具はお持ちではないですね?」
 半兵衛はそう云うと、表の方を見た。
「玄関を出た所に蓑と菅笠がありますから、それをお使い下され」
 半兵衛はそう云うと、自分から先に席を立った。
 ――それはもう帰れと云うことであるな。
 聡い秀吉はそう考えて、今日のところは帰ることにした。
 ――今日は日が悪かったのであろう、また改めてここへ来よう、と秀吉は考えた。とはいえ、おそらく半兵衛もどうしてわしがここに来たのか、薄々察していたのではあるまいか? いま切り出したら、半兵衛は仲間になってくれるだろうか? いやいや、話の流れから云って、此度のことで仲間になってくれと云うはあまりにも不粋というもの。やはりここは日を改めて……。
 秀吉は渡された雨道具を身に帯びて草庵を後にした。
 しばらく行ったところで、家臣たちに「どうして召抱えの話をなさらなかったのですか?」と尋ねられたが、しかし秀吉はそれには何も答えず、ただ「日を改めて」とのみ告げて先を急いだ。
 結局、一度目の訪問は徒労に終わり、日を改めてもう一度、草庵を訪れたが、芳しい成果はあがらない。
 そして三度目の訪問。
 思うのは支那の三国時代の三顧の礼である。
 昔、後漢の末期に後に蜀国の皇帝となる劉備玄徳が、諸葛亮孔明を召抱えるために、三度、同じ庵を訪ねて礼を尽し、それに感服した孔明が軍師となることを受諾した、あの三顧の礼の逸話である。
 竹中半兵衛を召抱えるに、三顧の礼を行う秀吉は支那の劉備玄徳に当たる役回りということで、それを家臣たちに披露して苦笑するのだった。
「わしが劉備玄徳などと肩を並べては、支那を馬鹿にするようなもので、途方もなさすぎる。とにかく、礼だけは尽くして、遺漏のないように致そう」
 訪問も三度目と云うことで、今日こそ、本心をさらけだそうと決めていた秀吉だった。
 道中は晴れやかで、梅雨も霽って、辺りは暖かな夏の気配を見せている。
「半兵衛殿、おられるか!?」
「ああ、秀吉殿、また来て下さったか」
 その頃には半兵衛はこの客を話のわかる武将として尊敬していたようである。
「半兵衛殿」と秀吉は声を掛ける。
 着てすぐのことであったので、半兵衛も只事ではなさそうだと思い、身を入れてその話に聴き入ろうとする様子であった。
「わが主、信長は半兵衛殿を仲間にと所望されてござる。広く天下を見渡しても、この六十余州を束ねられる人物は信長殿をおいて他にあるまいというものでございましょう。半兵衛殿、われらの仲間になってはくださらぬか? きっと無下には扱わぬゆえ」
 その言葉に半兵衛は心を打たれたようであった。
 その様子がありありと分かった秀吉はさらに追い打ちを掛ける。
「殿のもとには天皇の綸旨もございます。天皇の御意志を具現化できる人物も殿を置いて、他にございませぬ。半兵衛殿、決断のときでござる」
 この何もない庵を三度も訪問して礼を尽くしてもらったこともある。
 半兵衛はそう云う礼の問題でも、もう、この秀吉に逆らうことは礼儀の上で失礼にあたるであろうことを覚悟していた。
「わかりました、秀吉殿。わしも微力ながら織田家にお仕え致しましょうぞ」
 秀吉は満面の笑みを顔に出す。
「左様か、左様か、それはありがたい」
 半兵衛は秀吉の喜び方があまりにも児戯めいて見えるので、この秀吉と云う男の無邪気さに親しみを覚えたようだった。
「半兵衛殿、仕えて下さる言葉を頂けたは幸甚でござる。ついては、長亭軒城の樋口直房殿を説得してはいただけぬか?」
「樋口様を?」
「そうです」
「わかりました、善処致しましょう」
 半兵衛はそう云うと、近いうちに樋口と面会して万事遺漏なく整えましょうと約束した。
 事実、半兵衛は数日後、長亭軒城に入り、樋口を説得して織田方に寝返らせたのであった。
 以来、半兵衛は織田の部将として仕えることになったのである。

     *

 長亭軒城と長比城が織田方についたという報知を受けた浅井家では、それからすぐに、樋口直房の人質であった娘妙江を串刺しの刑に処して溜飲を下げた。
 とはいえ女一人の命ですべてが解決するわけもなく、次は必ず織田方から浅井方に向けてなんらかの反応があるだろうと浅井家諸将は見ていた。
「いよいよ、窮まってきましたな」
 赤尾美作守は肩を落として長政に告げる。
 長政は答える。「いま攻めてこられてはわれらとしては抵抗するしかないからの。なんとか思いとどまってもらえぬかのう」
「そんな弱気でどうなされます?」遠藤直経が声を荒らげる。
「この城は亮政様の代より、浅井の居城として使命を果たしてきたのです。いかに織田の軍が精強だからとて、われらがひとりひとり強い意志を持って戦えば、必ずや撃退することができましょうぞ。それに今は六角や一向一揆衆の存在もござる。昔のような情勢ではなくなってきていることもわれらにうまく働く要因となるのではございませぬかな?」
 赤尾美作守はそう云うと、呵々と笑った。
「そなたのように豪快に笑えれば、申し分ないのだがの」
 長政はそう云うと、ふっと顔を笑ませた。
「それにしても竹中半兵衛が織田方についたと云うことであるが、あの男も油断なりませぬぞ」今度は海北が声をあげる。
「竹中半兵衛――名は聴いたことがあるが、それほど優れた人物なのか?」
 長政は訊ねる。
「その鬼謀、神のごとし、と云われるような人物でござる」
「なぜ、われら浅井方の城下にあったのに、その男の登用の話がでなかった?」
 長政は疑問を呈する。
「なんどか軍議に上げようとしたこともありましたが、その男、前は美濃斎藤家に仕えておりました。いまは蟄居というか、隠居と云うか、隠棲しておりまして、仕官には魅力を覚えていないとばかり思っておりまして、ずっとうやむやにしておったわけです」
「惜しいことをしたな」長政は落胆の表情を見せる。
「仕官を認めさせたは、あの秀吉とのことにございます」海北綱親が云う。
「あのひょうたん印な」長政はふっと力を抜く。
「まあ、一人の部将の差で戦に負けるということはございませぬから、今いる家臣でこの危難を乗り越えられるように頑張って参りましょうぞ」
 赤尾美作守がうまくまとめた。
「われら一人一人の働きが浅井の未来を決めるということであるな」
 長政は言葉を漏らす。
「はっ」と家臣たちは気合を入れ直す。
「長光寺城は柴田勝家の働きで六角の惨敗。竹中半兵衛は羽柴秀吉によって離脱、信長は岐阜に戻り、開戦の準備を着々と進めている。われらはそれに抗するために、これから一心に打ち込んで行かねばなるまい」長政は云う。
「まず、何が必要でござろうか?」赤尾美作守が訊ねる。
「先手必勝で美濃に攻め込むのはいかがでござろう?」遠藤が強気に出ると、
 赤尾美作守は、「それは不利に過ぎる。控えるべきであろう」と告げる。
「うぬ」遠藤は喉を鳴らした。「われらは事態が極まるのを待たねばならぬという訳か?」
「いや、攻めてきた織田を朝倉と連合して討てばいい。それだけの話だ」
「そうか」遠藤はなおも不服な様子である。
 煮え切らない軍議は夕刻まで続くのだった。

     *

 長政の母阿古はこのところ機嫌が良い。
 というのも、原因はお市であった。
 姑である自分を疎外することなく、一日に何度も孫の顔を見せに部屋に来てくれるのである。そんなとき阿古は自分がとても慈しまれているのだなと感じるのである。
 そもそも自分は性格的にきついところがあって、男勝りであることを知っている。お市はそれに気づいていながらも、その性格を受け入れ、どうすれば良好な関係が築けるかをしっかりと見定めたうえで、接してくれているように感じられ、それがまた心地よさとなっているのである。決して相手に気を遣わせない心配り、それはお市に備わった天与の才であるように阿古には思えた。
 あの世間に恐れられる織田信長の実妹とは思えぬ心の配慮である。
 いや、もしかすると、信長と云う男にもこのお市と同じように、人の心を打つ能力が備わっているのかも知れない。男であるから、その湧出が苛烈であるだけにすぎず、やはり尾張のみならず、美濃、京を動かす鬼才には、人心掌握の能力が備わっているのかも知れない。お市は嫌いだと云っていたが、あの信長には、羽柴秀吉のような智将もつき従っている。そして、おっとりした性格と評判の徳川家康とは堅固な同盟関係にある。一時期、我が子である長政とも同盟を結んで、こうしてお市を嫁したほどであったが、その関係は此度の朝倉攻めで水泡に帰した。家康と長政とでは性格に雲泥の差があるだろう。阿古はまだ長政と云う我が子の性格を判じかねていた。この数十年、一緒に暮らしてみてもまったく分からないというのが本音である。しかし、お市はその自分よりも経験も浅いのに、すでに長政の性格の根本をしっかりと捉えているようですらあるのだ。やはりこれは天与のものであると思うしかない。そう考える阿古だった。
 夫の久政はこのところ自室にこもって自適といった感じである。もちろんこの浅井家の行く末を左右するような、朝倉との誼を尊重し、織田との関係を棄却するという決断を下したのは長政であり久政である。
 久政には、自分が我が子と信長との関係をこじらせたという意識が薄いようである。無責任というやつかもしれない。しかし阿古はそんなことを云っても詮無いことを知っているために、何も云わない。自分も無責任なのかもしれない。もし織田との関係がこじれれば、きっとお市にも迷惑がかかるだろうし、もしかしたら、離縁の可能性だって生じてくる。阿古はお市のことを好いていた。もう我が子の妻となってくれるお市のように優れた才覚を持った女性はいないだろうと思う。そしてもちろん姑である自分を満足させる女性と云っては、滅多にないだろうと感じている。
「お母様、お初が笑ってますよ」
 脇に侍るお市が嬉しそうに阿古に告げる。いま阿古は生まれて数ヶ月の赤子であるお初を抱いていた。
「初もあなたに似て利発そうな顔をしてますね」
 阿古は嬉しそうに告げる。
「いつも同じことを仰ってくれますね」お市は微笑する。
「いつも思っていることですからね」と阿古。
「まあ」
 阿古とお市とはその日もかなり長い間話し込んだ。そして軍議から戻ってくる長政を待つために、お市は部屋に戻るのだった。


18 :蒼幻 :2010/10/23(土) 05:59:22 ID:tcz3skmcrm

第九章 姉川の戦い(前)

 美濃に対する防衛線であった二城を失った浅井方は戸惑いを隠せない。
 そんな中、六月二十一日、織田が江北へ侵入する。
「殿、織田が攻めて参りました。現在、雲雀山の辺りに八千ほどの先陣が布陣し始めております」
 雲雀山というのは、この小谷の南方にある山で、ここを戦略の拠点に選んだ信長勢には、しっかりとした軍略があるように見えた。
「先陣は誰かわかるか?」美作守が訊ねる。
「おそらく森可成かと」伝令が答える。
「そうか」
「それと同時に、尊勝寺の方面と木尾の方面から、かなりの軍勢が寄せて来ておるようです」
「数は?」美作守は訊ねる。
「いえ、判じかねます。そちらには織田軍の主力が集められている模様で、本陣と合わせて二万ほどかと……」
「なんと」
「信長自身はどこへ布陣いたした?」
「虎御前山でございます」
「左様か」
 攻め手は大きく分けて四方に分かれたらしい。
 長政は考えあぐねる。
 ――いったいどうすればいいか。
 この小谷に籠っていれば、とりあえず敵の攻撃は防げるだろう。しかし織田に領内を荒らされるのは不快である。
「信長軍が領内に火を放っております」との知らせが飛び込んできたのは、それから間もなくのことであった。
 長政は義憤に駆られて、激した。
 長政はそれにどう対処したものか、諸将らに訊ねる。
「城を出て戦うも一興かと」と遠藤が云うのへ、
「いやいや、われらはここで堅く門を閉ざして、防衛に努めるべきでござろう」と云う阿閉のような部将もあった。
「いったい、どちらの考えを採ったものであろうな」
 長政は困惑の表情を浮かべる。
「われらは織田の動きをもっと細密に知って、そのうえで計画を立てるべきかと存じます」赤尾美作守がそう云って長政を諭した。
「諜報活動の強化か」と長政。
「はっ」美作守はそう云って息をついた。
「しかし、織田はどう出ますかな」海北綱親がひげをこすりながら答えた。
「それだな」と美作守も返事をする。「このままずるずると時を過ごすほど悠長なことをする軍には思えぬ。おそらく何らかの反応を見せて動くだろう。そのときに備えて、われらは万全の体制を整えておく必要があるというもの。長政様、一時たりとも気は抜けませんぞ」
「そうだな」長政は傍らの美作守を見ながら答える。
 いま部屋には十人ほどの浅井家の重鎮が顔を揃えていた。
 大規模な戦闘はまだ始まっていないので、諸将らの表情には余裕があった。それもこの小谷が攻めにくく、守りに適している城であることに起因していた。だからと云って、領内に火を放つような織田軍に対して何もしかけられないことについては歯がゆい思いを抱いている。
 すべては織田軍次第であった。

     *

「浅井は城に籠ったまま出てくる気配はございませぬ」虎御前山に本陣を構える信長の前で、軍議中に佐久間信盛が云った。「城攻めは取り組みやすいですが、そうなると味方の被害もかなりのものになるでしょう。そうするうちに越前から朝倉の救援部隊も到着するでしょうし、そうなると厄介でございます」
 信長はじろっと佐久間を見た。
「ならば、どうするのがいい?」信長は声を漏らす。
「敵の矢面にたつ恐れのあるここを離れて、八相山のあたりまで引くのが上策かと思われます」
「そうか」信長は宜なった。
 その日のうちに虎御前山から八相山へと移ることに決めた信長軍はそこで、浅井の追撃を受けることになる。引きはじめた軍は脆く、浅井の恰好の餌食になるかと見えたが、浅井軍もそれなりの被害を出すことになる。しかしそれはこれから起こる戦の前哨戦でしかなかった。

     *

「織田が八相山の方へ引きましたぞ」
 伝令が持って来た知らせに浅井方は色めき立った。
「殿、これは好機にございます」
 海北綱親はその報告ににっと笑んだ。
「目に物を見せてやりましょう」
 長政の心にはわだかまりがあった。信長との縁はこれで絶望的に断裂するだろうとの虚無感があった。何もする気が起きない状態に似ている。しかし自分は人の上に立つ者として決断せねばなるまい。長政は伝令の報告を受けて半ば義務的に、諸将に促されながら織田軍を攻めることを決める。
 退く織田軍には精鋭部隊を当てることに決めた。
 精鋭部隊とは、「聞間敷組[きくまいぐみ]」の名で知られる部隊である。
 浅井がその決定を決める前に、先に動いた軍があった。
 それは遠藤直経である。
 遠藤は朝のうち、久政との口論でこの小谷を出されていた。遠藤が城から除外されたのは、久政の策に納得がいかず、それに楯突いたためであった。
 つまり、遠藤が野に出て戦うべきだと主張したのに対し、久政は越前朝倉の救援部隊が到着するまで待つべきであるという意見を持っていた。その両者が衝突して、業を煮やした久政が直経を城から追い出したという顚末であった。
 その直経が寡勢で敵に当たったという伝令が飛んで来る。長政はその報告を聞き、直経がこの戦いで命を落としては手痛い損失であると見て、聞間敷組を先陣にして織田軍の追撃を命じた。
 聞間敷組の〈きくまい〉というのは、〈道ならぬことは聞くまい〉という言葉からきていて、それを合言葉にしながら、互いに連帯感を深めていた部隊であった。いわゆる大名の馬廻り衆に似たもので、それよりもさらに武芸の道に際立っている人物の所属している部隊であった。
 道徳を守り、武芸の腕を磨いて、戦場では命を惜しまずに主君のために働くことのできる忠義の志士たちである。
 その組の長は浅井孫八で、その下に、伊部藤七、伊部半兵衛、戸田半之丞、大橋善太夫らがいる。総勢は六百人ほどである。
 その武に秀でたものらが、引く織田軍に追いすがって、攻め立てる。最初に標的にしたのは、殿、簗田左衛門の部隊二百である。
 浅井の軍は遠藤隊と聞間敷組とが二手に分かれて戦っていたが、遠藤の方は自軍も数百の屍を積み上げる事態となって、攻め手から後退していた。
「聞間敷組が攻めておるのに、われらがここで挫けては申し訳が立たん」とて、遠藤はなおも自軍が活躍できる機会を見計らっていた。
 と、聞間敷組は簗田の二百の軍を弓や銃で蹴散らそうとしていたのだったが、予想外の抵抗を受けて、たじたじになっていた。抵抗した最たるものは、織田方の将、島弥左衛門、太田孫左衛門などである。
 武芸に秀でた浅井の聞間敷組も、刀を受ければ死ぬは同じである。それらの織田の腕自慢によって手ひどく反抗され、信長方は悠揚と軍を八相山へ引こうとしていた。
 そして簗田隊は第二の殿として布陣していた佐々成政隊と合流する。佐々隊は虎御前山から少し離れた矢合神社の裏あたりで浅井方を迎撃する。簗田隊二百と同じように、佐々隊も伊部籐七たちの鉄砲攻撃に押され気味になったが、それでも踏みとどまって、信長の馬廻り衆である織田信元、生駒八左衛門、戸田勝成、平野甚右衛門らの加勢を受けて形勢を逆転させた。そして浅井方では、聞間敷組のうち浅井新五・新六・半兵衛、毛屋七之丞、大橋善太夫らが討ち死にしたのだった。
 浅井の勢いを止めることに成功した佐々隊は最後の殿、中条家忠にその役目を引き継ぐ。家忠は八相山の麓に布陣していた。
 そして、攻めてきた浅井方に対して、田川の馬橋まで後退して、そこで迎え撃った。中条隊の将、中条又兵衛は橋から転落しながらも、川底でその相手の首をとるという荒業まで見せるほど、優れた戦いぶりを見せた。
 しかしここまで織田方有利にことが運んだとはいえ、浅井、織田とも甚大な被害が出たことは確かである。
 殿部隊は草野川まで引いて、そこでようやく浅井軍の追撃が止んだ。

     *

 浅井と織田とは膠着状態に入っていた。
 どちらも相手を見て、自分から動くことができなくなっている。
 そんな状況下で動いたのは、攻め手の織田軍であった。
 浅井の支城である横山城を攻めたのである。
「織田の狙いはなんであろうか?」
 八相山での戦闘のあと城に戻って来た遠藤直経がそう訊ねると、美作守が答える。
「おそらくわれらをおびき出すための策略でござろうな」
「吻、いけすかない作戦を思いつくのう、あの信長という男は……」
 遠藤はこらえきれずに文句を云う。
「そういえば、そなたは織田信長という男をかなり嫌っておるようだな」
「ああ」遠藤は顔をしかめて、そして長政の方を見た。「長政様、やはりあのとき、信長の命を奪っておくべきでしたぞ」
 遠藤は、お市と結婚してから初めて信長を佐和山に招いたときに彼の命をとるべきだと進言した、あのことを云っていた。
「いや、それは止めておくべきだった」と長政は反論する。
「それが甘いのです」
「そうか」長政は悔しげに眼を細めた。「やはり男なら正々堂々と戦ってことの是非を決めるべきではないか? わしはそう思う」
「うむ」遠藤はふっと肩の力を抜いた。
「それこそ、殿の魅力というやつですな」美作守が間に入って取り成す。
「いろいろと難しいこともあろうが、わしはこの正々堂々というやつでこの世を渡っていきたいと思うておる。それをわかってくれぬか?」
「仕方ありませぬな」遠藤はなおも言葉の調子に不服の色を滲ませている。
「しかし、信長を殺す機会があれば、ためらいなくお討ちなされよ。その覚悟がないなら、われらは働き損というやつでございますからな」
「ああ、わかっている」
 と返事はしたものの、長政は戸惑っていた。というより、気持ちの整理がつかなかった。自分が信長を殺すことはできないのではないか? お市のことを思ってしまうと、その実兄を殺すことは不義の仕業であるように思えてならない。自分の中に入ってくるこの世の慣習的なものが、途轍もない悪のように思える瞬間がある。それは長政の非情になりきれない側面でもあったが、しかしその特質は、この乱世では甚だ歓迎されぬ性質であることは、諸将らの反応からも明らかである。
 遠藤はこう思っていたのかも知れない。
『殿には恐らく、信長を殺すことはできぬであろう、もし機会があれば、わしがその代わりに刀を振るう覚悟でいるべきだ』
 勿論、長政もその他の諸将も遠藤の考えていることが分かろうはずもなかった。
 長政は考える。
 信長との融和の策はないものであろうかと。
 そしてこの日も、横山城は熱い血潮となって打ち寄せる織田軍を防ぐために、守将たちが善戦するのだった。

     *

 攻める織田を防ぐ横山城の守将は、大野木秀俊、三田村国定、野村直元、野村直次らだった。いずれも浅井の忠実な臣下達であり、それぞれに持ち場を固めていた。
 大野木は三田村に声を掛ける。
「われらがここで持ちこたえれば、いずれ、越前から朝倉が駈けつけてくれよう。それまでの辛抱でござる。われらが持ちこたえれば持ちこたえるほど、戦況は有利になるであろう。決して、この城の中に織田の兵士を入れまいぞ!」
 それに三田村国定が答える。
「おう、必ずや防いで見せましょうぞ。小谷だけが浅井の城でないことを見せつけてやりますれば」
「うむ」大野木は三田村の覚悟を知って、気持ちを鼓舞された。
 織田軍はその後も絶え間なく城を攻め続ける。
 しかし浅井の守兵たちにくじける心はなかった。
 そして織田の攻撃が始まってから三日が経つ。
 その間、雨は一滴も降らなかった。
 日照りと云ってもいい気候で、中途半端に蒸し暑い。からっと晴れていればいいのだが、数日前の雨の余韻がのこっていて、むっとする熱気が辺りに籠っている。織田方にとっても攻めにくい気候であり、浅井方にとっても守りにくい気候であった。そんななか、六月二十七日、織田方に援軍が到着する。
「あの軍はどこの軍だ?」
 見慣れぬ旗印に大野木が目を凝らしてみると、そこには三つ葉葵の馬印が翻っている。
 徳川家康であった。
 ――ああ、徳川が先であったか……。
 大野木は落胆した。もし朝倉が先についたのであれば、城内から打って出、野戦にて織田方を挟み撃ちにして甚大なる被害をもたらしてやろうと思っていただけに、この計算違いは痛かった。
 ――朝倉殿はいったい何をしておいでなのか?
 大野木はそう考えて、また織田の攻撃に備える。
 ――早くおいで下さらぬか……。こうして援軍を頼みにするは恥ずかしいことであれど、実際、援軍がなければこの情勢はどうにもひっくり返すことができないのは明らかで、またこの前のようによからぬ返辞を下されたなら、われらは今度という今度は堪忍袋の緒が切れるというやつでござる。いや、しかし、金ヶ崎でのこともある。朝倉殿は必ず、来て下されよう。
 大野木はそう考えて無理から納得しようとした。

     *

 信長は横山城を南に見られる竜ヶ鼻に布陣していた。
 衣装は白の帷子に黒の革羽織、暑さよけに笠をかぶって、床几に腰かけている。信長の額にはうっすらと汗がにじんでいた。
「暑い」と信長はささやくように云った。
 と、そこへ援軍に駆け付けた家康が姿をあらわす。
 信長は笠を脱ぐと、家康の遠路はるばるの参陣に労をねぎらった。
「よう来てくれた。徳川殿の兵はつわもの揃いであるようだ。この暑い時期であるというに、まったく堪えておらぬ様子。期待しておるぞ」
 家康はふっと顔を笑ませる。
「信長様」とその時、伝令が走って来た。
「どうした?」と信長。
「浅井方にも朝倉の援軍が到着したようです」
「そうか」信長は不服そうに顔をしかめた。
 伝令はその様子に背筋を冷やした模様である。
「われらはこれより、明日の布陣のために会議を行う。少し出ていてくれ」
 信長はそう云うと伝令を追いやり、諸将らを集めて会議を始めた。
 そして決まったのは次のとおりである。

 第一隊、酒井政尚、三千人、
 第二隊、池田信輝、三千人、
 第三隊、羽柴秀吉、三千人、
 第四隊、柴田勝家、三千人、
 第五隊、森可成、三千人、
 第六隊、佐久間信盛、三千人、

 本隊、織田信長、五千人、
 後陣、徳川家康、五千人。

 総勢三万にも及ぼうかと云う大軍であった。しかしその布陣に異を唱えたのが家康である。
 家康は自分が遠路はるばるやってきたのは後陣などという役目を果たすためではなく、もっと表で戦いたいと主張した。
 信長はその様子に押されて、徳川軍の扱いを検討し直すことに決めたのだった。

     *

「朝倉も駆けつけてくれた。決断のときが迫っておりますぞ」
 遠藤は長政にはっぱを掛けた。
「うぬ」長政は声をくぐもらせる。
「殿!」と声を掛けて来る者がある。
「われらに栄光を!」そう告げる者もある。
 場は混乱していた。しかし長政は不思議に落ち着いていた。
 混乱しているのはこれまでにない大軍をちらつかせる信長に原因があるのでなく、自分の意見をまっすぐに出さずに逃げている己自身の心の弱さが兵士たちに伝播しているからだとの考えを頭に浮かばせる。
 長政はしばらく場を混乱させたまま、自分の思いに入った。
 庭の方を眺めて、炎天下に浮かんでいる陽炎の姿に視線を向ける。
 立ちのぼる陽炎は見る者に慈悲のかけらもないことを示しているかのようだ。日光の中に出ているすべての者の水分を蒸発させてやろうと画策するような、厳格な意思を持っているかに見える。
「この暑さでは野戦は苦しいでしょうな」赤尾美作守が告げてくる。
「そうだな、少しでも雨が降ればまた違うんだろうが」長政はそう受け答える。
 雨の気配はなかった。若干の風が吹いているだけだったが、それも生暖かい風であって少しも涼味を感じさせない。長政は何も云わずに小谷の一室を出て、欄干の端に向かった。東に伊吹山が見える。
 ――いつ見ても高いな……。長政はそう考えた。そして、伊吹山の数倍の高さを誇っている富士という山はいったいどんなものなのであろうかと想像してみる。しかし、見たことのないものであるだけに、うまく想像することが出来なかった。あの織田の救援にかけつけた徳川家康などはその富士の山を見あきるほど見て来たのであろう。この豊葦原の国は思う以上に広いのだ。自分はそのうちの一部を見ているにすぎず、我が領地は全体から見れば猫の額ほどの土地でしかないのだろう。
「信長のおびき出し作戦に乗るのも一興ではないですかな?」
 遠藤がそう意見した。
「そなたはまだそのようなことを主張するのか!?」
 久政は度し難いという風に困惑の表情を浮かべた。
「もう朝倉も到着いたした。全軍撃って出るという作戦もあながち見当外れというわけでもござらんでしょう」
 遠藤は慎重に述べる。
「う、うむ」久政は声をくぐもらせる。「そなたには織田との戦いに惹かれる気持ちが大きすぎるゆえ、一時、城から出したというに、そなたが為したは織田との小競り合い。こんなことでは軍の統制がとれぬというもの、少し考えてもらわねば困るぞよ」
「う」遠藤は悔しげに言葉を漏らす。
「まあ、そのおかげで織田にいい牽制ができたというのもありますけれどな」美作守が云う。
 遠藤はその言葉に勇気を鼓舞された。
 自分の働きがしっかりと認められたという思いである。
「織田に侮られてはこれからの戦に不利になるでしょうからな。苛烈なところも見せるべきと思ったわけでございます」
「そうか」久政は首を横に振った。
「浅井の根性を見せておかねば侮られますぞ」
 しかし生来穏健派の久政にその言葉はしっかりと伝わらない。もともと臆病なたちの久政には、その遠藤の言葉は強気に過ぎていて、浅井を思っての言葉であると受け入れるだけの想像力が欠如していた。久政は述べる。
「わしは朝倉と共に連合して攻めればいいだろうと云うておるのだ。朝倉が到着したのは、そなたが織田を攻めてからしばらくしてのことであろう。それはまったくわしのなかでは無駄骨であったとしか思えぬ。つまり、そなたの兵士が死んだのは働き損ということだ」
 久政の言葉に遠藤はいきり立った。
「そのような言い方はないのではありませんか?」
「うん?」久政はぞんざいに受け答えする。
「久政様、あなたには諸大名らの力関係を思い起こすだけの知恵はないのですか?」
 それは一時でもこの浅井の当主を務めていた久政に対して、鉄槌を下すほどの威力をもって迫った。
「う、うむ」久政は臣下の無礼に心象を悪くしたようである。「遠藤、そのようなことを云うて、ただで済むとは思うておらぬよな?」
「にべもございませぬ」
「左様か」久政は声を荒らげる。
「しかし織田との戦いでは活躍させて頂きますぞ。われを追放したいならされるがいい。しかし、江北の将としての誇りまでは捨てませぬぞ。捨て身の覚悟で織田に当たらせていただきますからな」
 そこまで気合の充実している直経に挟む言葉はなかった。
 久政は「むむ」と声をくぐもらせる。
 もともと、戦陣には出ない久政である。この長い年数に戦陣に立ったのは僅かに数えるほど、父の亮政や子の長政に比べれば、格段に少ない回数である。
 久政の戦嫌いはすでに諸将の周知のこととなっている。
 長政は久政と直経の遣り取りをみて、ことの落ち着く場所を見図ろうとしていた。
「父上、遠藤をいびるのはここらで辞めておきましょう」と長政が助け船をを出す。
「う」久政は声を漏らした。
 久政も直経も声を失った。
 長政はその言葉の効果を十分に見極めた上で二人に向きあった。
「われらがこの浅井家を守ろうとする気持ちには一点の曇りもないというわけだ。父上、直経、われらが持てる力を十二分に発揮して、織田と戦えばいいではないですか!」
「ふむ」直経が云う。
「そうだな」久政も同意する。
「浅井のため。これですな」直経は気を大きくしたようだ。
 久政はこう云った。「長政、そなたの言葉には大きな力があるように思える。わしと直経とは関係が悪化して、もしかすると何か亀裂が生じて悪い因縁が噴き出てきそうになっていたというに、それをたった一言でまるく収めてしまった。それは偉大なことだと思うぞ」
「偉大なこと?」長政が声を漏らした。
「ああ、なかなか人が持てぬ力だと思う」
「そうですか?」長政は怪訝そうに訊ねた。
 久政も直経も長政も暫く黙った。
 かまびすしい蝉の鳴き声が聞こえてくる。遠い漣のようであったが、それは越前での信長軍との戦いのときに聞えて来た海の音と似通った、一度聞くとなかなか忘れることのできない音であった。
 長政はあの越前救援に於いて、初めて海の波と云うものを見た。それまで琵琶湖の波しか見たことがなかったのである。海を見たことのある家臣らに常々云われていたが、海の印象は一度見たら忘れられなくなるだろうとのことであった。海の印象は確かに一度見たら忘れられなかった。織田を攻めなければならない気持ちと共に、海への思慕の念も募っていたのである。その海の印象がこの蝉の声の濃さとだぶって感じられたのである。
「海と云うのは偉大だな……」長政がふっと洩らす。
「どう致しました?」直経が訊ねる。
「いや、うん、ちょっとな」長政は好意的な受け答えをする。
「偉大と云う言葉が二度続きましたが、確かに長政様の思いはあの大きな包み込むような母の懐のごとき海の温かさを髣髴させますな」
「うん?」と長政。
「長政様の深いお心を思うにはいい事績でござる」美作守も答える。
「しかし、いったいどうすればいいのか」長政が云う。
「信長殿の心はもう元には戻らぬでしょう。われらはひたすら徹底抗戦するしかありませぬ」
「徹底抗戦……」
「とりあえず、朝倉殿を招いて、共に軍議を致しましょう。話はそれからでございます」
「そうだな」長政はそう返答して、声を落とした。
「では直ちに朝倉の将をここに呼びましょうぞ」
 浅井はその日、信長に対する抵抗策を朝倉と出しあったのだった。

     *

「われらは三河よりはるばる来たと云うに、後陣を預かるというのは納得が行き申さん。信長殿、ぜひ、われらを前面に出して、強敵と当たらせて下さらぬか。でないと、弓矢をとっているものの矜持がないように思われて大層不服でござる」
 徳川家康はそう云うと、信長の顔をじっと見た。
 普段冷静な家康がそんな風に本心を吐露することはあまりにも珍しい。それはなんらかの策略かとも思えたが、家康が信長に為す策略など意味がないことを思い、信長はそれを受諾した。
「そうか、もっと働きたいか。ならば、朝倉勢と戦っていただくことにしようか」
「ありがとうございます」家康は感謝の言葉を述べた。
「しかし、本当にいいのか?」
「何がでございますか」
「だから、この戦いで先陣に立つことは、そなたが真に望んでいることであるのか?」信長は怪訝そうに訊ねる。
「何を仰せになられるのです?」家康はむきになった。
「い、いや」信長は云いよどむ。
「われらは織田のために戦うのではございませぬ。われらの義のために戦うのです」
「義であると?」信長が訊ねる。
 徳川家康が云う義とは次のようなものであった。『信長殿には天皇の綸旨がある、朝倉を攻めたことで将軍義昭とは対立関係が芽生えたが、われらは天皇を奉ずる軍隊であるとの自負を持っていいのではないか。そのわれらが朝倉を攻めたは、天道を匡すためであると云うに、あの長政はそれを理解せず、われらに刃向い申した。これは許すべからざることであって、必ず、彼の首をとらねば許されぬ所業であると思うている。だから、わしは必ず、浅井・朝倉を打ち滅ぼして、神の国としてこの日本を信長殿に統治して頂きたいと思うておるのです』
 信長は家康の言葉に胸をうたれた。
「家康殿、そのように思うてくれておったか」
「われら三河の兵士は皆、義の志士でござる」
 家康はそう云って持ち上げた。
「嬉しいことを云うてくれるのう」信長はそう云いながらも、一抹の未練を心に持っていた。確かに徳川との同盟は、浅井のそれと比べて年季も質も異なるものである。しかし浅井の同盟が徳川のそれと違うのは、そこに寄せる信長自身の心情と云う点に於いてであった。
 家康は同盟と云ってもその質は兄弟のようなもので、一方的に命令しても何のわだかまりもないものであったが、長政とは気脈を通じあった友人同士と云う思いが強かったのである。だからこそ、信長は長政に裏切られたと分かった時、あれほど激昂したのであるし、また、そのような心配は家康との関係には全く必要がないということが、長政とのことで若干の傷心を負った信長の心に一時の安らぎを与えたのであった。
 いまではかわいさ余って憎さ百倍という感覚で長政を憎んでいた。それは先鋭的な心の持ち主にありがちの感情であり、一時自分の本心を吐露までした相手に裏切られ、手の届かぬ所へ行ってしまった人間に対する強い嫉妬心があった。それは根深いものである。
 朝倉攻めを看過してくれてさえいれば、いまそんな苦しい思いをしなくて済んだというに――。
 信長は口惜しげに顔をしかめた。
「ならばわしは朝倉に当たるということで宜しいですな?」家康はそう云うと、ふっと笑んだ。
「ああ、お頼み申す」信長はそう云うと、声を低めて云った。「期待いたしておりますぞ」
「お任せあれ」
「そうじゃ、渡すものがある」
 信長はそう云うと、家康にしばらく待つように云い、小姓に指示してある品を持ってくるように云いつけた。やがて立派な一本の槍が運ばれてくる。
「うん、これは?」と家康は訊ねる。
「うむ、これは鎮西八郎為朝の槍でござる。徳川殿は源氏の流れを汲んでいられる。この名槍を持つにふさわしい人物であろう。受け取られよ。これを陣頭に示して、明日の戦いの寿ぎと致すが良い」
「おお、忝い。きっと軍の士気が上がることでしょう」
 家康は満悦の笑みを見せる。
「それで家康殿、加勢に軍をお貸し致そう。誰を所望されるかな?」
「信長殿、われらは小国といえども、常に固い結束を有しておりまする、ここで加勢の兵士を借りたとしても十分に活かしきることはできぬでしょう。今回は辞退させて頂くということではいけませんかな?」
「そうか? しかしわれらも一方的に同盟を恃んで家康殿に兵士を拠出してもらうことは気がひけてしもうての。ついては少数でもいいから誰かを連れて行ってくれぬか? わしからの真心と思うて欲しい」
「信長殿……」家康はその心遣いに感動した様子だった。
「ならば、稲葉殿をお願いできまするか?」
「おう、受け入れてくれるか、ありがたい。しかし、稲葉を選ぶとはなかなか渋いのう。他にも勇将は多数いるわが家中であるというに」
「はは、それで軍はいかほど?」
「千人ほどで宜しいかな?」
「それで異存ござらぬ」
「うむ」と信長。
 徳川軍が江北に到着したのは二十七日で、その日のうちに稲葉の千を加えて計六千で姉川南岸の岡山という土地に陣を置いた。

 第一隊、酒井忠次、千人、
 第二隊、小笠原長忠、千人、
 第三隊、石川数正、千人、
 第四隊、徳川家康、二千、
 別隊(織田方)、稲葉一鉄、千人。

 家康は岡山に布陣したが、そこは小高い丘になっていて、姉川の北岸を一望のもとに見渡せる土地であった。うだるような暑さに包まれていたが、水際ということもあって、涼味は感じられる。その場にいるだけで気合が入りそうな、そんな土地柄であった。


19 :蒼幻 :2010/10/23(土) 06:00:50 ID:tcz3skmcrm

     *

 朝倉軍が救援に駆けつける二日前の二十五日、浅井長政は八千の軍を率いて大依山に寄せ、織田に牽制を掛けていた。横山城の城将大野木秀俊の救援要請の依頼があり、また長政自身もこのまま一方的にやられているだけでは甚だ不快であるという思いも作用していた。
 これといって競り合いはなかったものの、これにより、一足先に駆け付けた徳川軍をも見据えて情勢を操ることができたし、また、それからすぐに駆け付けた朝倉の援軍一万を率いる朝倉景健との軍議も万事遺漏なく行えたのである。
「景健殿、此度の織田との戦い、どのように攻めるがいいと思われますかな? ぜひ、その判断をお示しくだされ」
 朝倉景健はすべて浅井殿の意見に従いますから、是非、家中でお決め下され、と申し出た。景健に異議はなく、これは朝倉の戦いと云うよりも浅井と織田の戦いであるから、すべては浅井の思い通りにことを運んでくれればいいとの意思をみせたのであった。
「ならば、わしの意見を云わせて頂こう」
 長政はそう云うと、常に考えていた懸案を述べはじめた。
「われらの城、横山城はいま織田軍に攻められて、いまにも落ちんとしている。ここを防がねば、必ず、禍根を残すことになるであろう。それだけは避けたい。そこで、いま織田の本陣が備えている八相山へ向かおうと思うが、何しろいまの時間から向かえば、到着してすぐに戦となるであろう。それでは行軍するわが軍がとてつもない不利を得てしまうことになりかねぬ。だから、ここは今夜のうちに密かに陣を発って織田の喉元まで迫り、そして明朝、敵が油断している隙に戦端を開くと云うのでいかがであろうか?」
 長政はその作戦こそ、優れていると思っていた。しかし、そこへ思わぬ言葉が飛び出る。
「殿、それには少し考えなければならぬ事情がございますぞ」そう云ったは浅井半助であった。浅井半助は先年、当家に忠実ならずとて久政に勘当されて、数年を美濃で過ごしていた人物であり、浅井諸将の助言を得て、なんとかこの軍議に参加させてもらっていた人物であったが、その上で、ここは一家言申しておかねばなるまいとて口を開いた次第であった。
「いったいどうしたのだ?」と長政は訊ねる。
「はっ、それがしこれまで長く美濃におりましたが、その当時から、信長の噂をよく耳に致しておりました」
「ほう」と長政。
 浅井家の諸将はじっと半助の言葉の先を待った。
 半助は意を決して続ける。
「それがし、これまでに見聞きしたことに忠実になれば、この信長という男は状況に即して臨機応変に立ち回り、一度決心すれば、何のためらいもなく迅速果敢に機先を制するだけの素早さを持っておりまする。その相手に、夜、陣を動かし、朝、敵軍へ攻め込むという作戦がそのまま通用するとは思えませぬ。必ず作戦に綻びあって、それが裏目に出ることでございましょう」
 半助のその意見も一理あった。
 長政にはもう一つ懸念している事項があった。
 それは朝倉の援軍のことである。
 この織田との戦は大変重要なことであるのに、主君である義景が軍を率いず、その一族である景健が軍を率いてきたことである。つまりそれは、今回の浅井の窮地を重要なことと見ておらず、所詮、余所の敷地で起っている騒動としか捉えていないのである。流石に家臣らは不満を口にすることはないが、明らかに何かがおかしいことには気づいているだろう。
 長政は予想どおりにいかない戦の進展に業を煮やしはじめていた。
「半助、信長はそれほどに恐ろしい相手であるか?」長政は勇を鼓して答えた半助に訊ねた。
「はっ、侮れぬ相手とみてよかろうかと」
「そうか」長政は自分の意見を却下された形になって気分を悪くしたが、しかし、そのことで半助を恨む気持ちはなかった。むしろ、自軍の不利になりそうなことは先に指摘してもらって、不安点を解消してしまった方が余程いいと考えるたちである。
 そのとき遠藤直経が告げた。「半助殿、殿の意見を却下するのは早いのではありませぬか?」
 直経は、半助を浅井軍中に引き戻すために尽力した家臣のうちのひとりであった。
「といわれますと?」と半助は訊ねる。
「わしは殿の意見に賛成でござる。できるだけ早く敵と戦い、競り合いとなればわしは敵軍に紛れて本陣に向かい、秘かに信長の首を取ろうと思うておる。懸念することはございませぬぞ。きっとわしが信長を討ち果して見せましょう」
「そ、それは、ちと壮語が過ぎるのではありませぬか?」
「いや、わしは必ずやり遂げてみせる。この命果てようとも、必ずな」
 遠藤直経の目に一瞬妖しい光がほとばしったように長政には見えた。
 表情には無理しているようなところはなかったが、その声音はまるで何かに取り憑かれているような、聴く者に何らかの不安感を味わわせるような印象がある。
 ――はて。と長政は思う。
 何か良く分からないが、それも直経という部将のひとつの特質であろうとあまり深く考えなかった。
「われらは正々堂々信長と戦うことこそ重要ではございませぬかな?」
「いやいや、ここは殿の意見を取り入れるべきではないですか?」
「しかし、確かに半助殿の意見も一理あるとわしは思う」
「ならばどうすればいいとお思いか?」
「それは……んーむ」
 議論が紛糾する。
 意見はさまざま出されたが、これという決定打は出なかった。
 結局、主君である長政の意見を取り入れ、浅井軍の八千は野村へ、朝倉軍の一万は三田村へそれぞれ夜のうちに移動し終えて、空が明るむ頃にうってでることに決まった。
 長政は一抹の不安を覚えていた。
 ――自分はいったいこの戦で何を得るというのか?
 ――失うものの方が多いのではないか?
 今更ながらそんなところで逡巡している長政を尻目に、情勢は刻一刻と修羅の時へと向かっていた。

     *

 十年前の大戦。
 美江寺川での戦いがきっかけで仲違いした兄弟があった。
 兄弟とは、庶流の浅井雅楽助と浅井斎宮助である。
 二人はその戦いでそれぞれに武功を上げたのだったが、そのときのどちらが活躍したかという自慢話によって引っ込みがつかなくなり、以来、十年、ずっと顔を合わせれば互いに不機嫌になり、その仲が恢復することはなかったのである。
 しかし明日はあの美江寺の戦よりも大きな戦であるという日。兄の雅楽助が普段は立ち寄らない弟の陣屋を訊ねた。
「もう寝ていたか?」と兄は表に出てきた弟に訊ねた。
 その声音に普段のつんけんしたものを感じなかった弟斎宮助はただならぬことと思い、眠気もいっぺんにさめて兄を室内に招き入れた。
 兄は酒を持って来ていた。
「明日はこれまでに経験したことのないような大戦になるであろう。わしもそなたも精いっぱい働かねばならぬ。常の仲違いを反故にして、わしらはともに明日、存分働けるように、亡き父上のことを思いながら、酒を飲もうと思うて来てみた。受けてくれぬか?」
 弟は兄の言葉に感動した。「兄上!」
 弟は云う。「わしもずっと兄上と仲違いしておりましたが、実際、ここに来て明日の大戦を前に、思うことは兄上との対話の不足でございました。ぜひ、もう一度、昔のように隔てなく語り合いたいと思うておったのです。おい、おまえ、盃を持って来てくれぬか?」
 そう云うと、弟の斎宮助は部下に酒の準備をさせた。やがて盃が準備されて、部下は酒のあてになるようなものを作り始めた。
「では兄上、一献」と弟は瓶から酒を注ぎ入れる。
 兄は自分の盃に酒が注がれると、そのまま弟の持っている瓶を受け取って、同じように弟の盃に酒を入れる。
「互いの顔を亡き父の尊影と思って、今夜は飲み明かそうぞ」
 二人の兄弟は今宵限りかもしれぬという思いを抱きながら思う存分、酒を酌み交わした。

     *

 長政は野村の近くまで行き、そこで明け方を待った。
 こんな時期であるのに眠気があり、少し休むことにする。
 いくつかの断片的な夢を見ながら、浅い眠りでありながらも気持ち良く休めた。しかし起きると冷や汗をかいている。具足をつけたままなので、起きても気は張り詰めたままだった。
 いまは丑の刻くらいと思われた。
 長政はこの野村という土地を月明かりの少ないなかで、じっと目を凝らした。日中ならば、ここは小高い丘がいくつもあって、陣を敷くに適している場所であった。とはいえ、夜、ここを見ると、不気味に静まり返っていて、ときどき、鳥獣の鳴き声がして不気味である。ふだん、小谷の集落のなかにいるので、そういう自然が感じられる場所はあまり慣れていない。しかし、あの美濃攻めのときなどに体験したある種の昂揚感のようなものが今回もまた、身裡に込み上げていることに気づかされる。
 いい兆候だ、と長政は思う。
 自分は恐怖していない。織田・徳川の二万九千に対して、こちらは浅井八千、朝倉一万である。ひとりひとりが持てる力を出し切れば、覆せぬ数字ではない。今日こそ、わが軍の命運を分ける大勝負になるであろう。長政はそう考えながら、また屋敷を出てくるときのお市の複雑な表情を思い出して、憂いことよと思いなおした。
 お市は茶々とお初と共に出陣する長政を見送った。
 彼女は悲観的なことはなにも云わなかった。
「精々、お励みくださいませ」と云い、兄信長のことはまったく気にしなくていいからと云うような態度をとっていた。しかし、それは妻としての立場に立って無理から考えていたことであろう。実際は、兄と夫とが戦わねばならないこの戦の一番の被害者はお市であった。身も切り裂かれるような思いであったのだろう、と長政は想像する。もし自分がその立場だったら、と長政は思う。もしそうだったらどれほど悲痛な状況であろうかと嘆くに違いない。そんな無理をさせてしまっていることに長政は申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
 ――供も連れずに歩いていることがわかれば、きっと美作守あたりがぐじぐじ云うだろう。
 それにしてもあの遠藤の信長嫌いは相当だなと考える。どうしてでも信長殿の首を取ろうと必死になっている。確かに自分はその直経の気持ちを汲んで、自身もそう云う気持ちを心に持つべきなのかもしれないが、しかし、そういう気持ちが全く心に凝らないのである。
 ――何かの欠陥みたいなものだろうか?
 長政はそう考えてみる。自分に主君としての自覚が足りないのか? 信長に対する恨みの気持ちをもっと強く持つことこそ、上に立つ物の使命なのであろうか? そもそもわしはあの信長殿をどうしたいという根本的なところでの意思と云うものを何か持ち合わせているだろうか?
 しかし何もなかった。
 いくら精査しても、何も見つからない。
 ――反対に信長殿はどうお考えなのであろうか?
 わしを本気で滅ぼしたいとお考えであるのか、どうか?
 しかしその答えは絶対に見つからないであろう。
 実際に、もう一度対面して、その真意を聞かないことにはまったくわからない。しかし、おそらく会って話してみてもそれはわからないのに違いない。信長殿には前科がある。あれほど何度も話したというのに、朝倉攻めのことをまったく仄めかさなかった油断のなさが彼にはあったから。
 と、長政は不意に思った。
 ――信長殿がわれらにまったく朝倉攻めを相談されなかったのは、われらのことを慮ってのことではなかったであろうか?
 ――この浅井と朝倉の関係の深さを知らぬ信長殿ではない。両者の関係を知るがゆえにある種の遠慮をして、一方的に映るかも知れない朝倉攻めを当家に無断で決行されたのではあるまいか?
 そう考えると、すべての辻褄が合う。
 しかしそれがわかったところで、もうどうすることもできない。事態はここまで紛糾してしまったのだ。
 日が昇れば決戦である。長政は陣屋に戻って休むことにする。
 後で甲高いカケスの鳴き声がした。


20 :蒼幻 :2010/10/23(土) 06:01:52 ID:tcz3skmcrm

第十章 姉川の戦い(中)

 空が白み、闇が後退していく。
 長政が陣を構えている野村からも、姉川の対岸はしっかりと見極められた。と、織田軍はそこにいくつもの旗差物を打ち立てて悠然と構えている。その状況を見た長政は胴震いが起こるのを防げなかった。
 ――これは一筋縄ではいかんな。
 こちらから軍の姿が見えるということは、向こうからもわが軍が見えているということであろう。朝駆けというようなことはおそらく無理に違いない。そのまま当たるしかあるまい。そう覚悟を決める。
 朝の清新の気を吸っているところへ、早くに起きた赤尾美作守が姿を見せる。
「ここでございましたか」と美作守は平然と告げた。
「ああ。うむ」と長政は返事をする。
「信長軍は隙がございませぬな」
「そうだな」長政は美作守の話がどこへ向かうのか、想像がつかなかった。
「あの信長の陣は〈鶴翼の陣〉ですな」
「うむ」長政も兵法には詳しい。幼いころから、いろいろな兵法書を読んで来たのである。それは家臣である美作守と比べてもなんら遜色のないものである。「鶴翼は多勢を恃んで為す陣形。信長殿は余裕であると見える。どう対処したものか……」長政は美作守に救いを求める。
「ふ、対処法はすでに知っていらっしゃるでしょう?」美作守はそう云うとふっと笑んだ。
「わかっておったか」長政も美作守に釣られて苦笑した。
「鶴翼には魚鱗、これでござる」
「そうであるな。魚鱗の陣。中央突破で敵の本陣を衝くという戦法であるな」
「そうでござる」
 美作守はそう云うと「吻」と気合いを入れた。
 鶴翼の陣とは、鶴がその美しい翼を伸ばしたように左右両翼を長くのばして敵に当たり、その双方の翼をぐっと敵を回りこむようにして背後へと回して最終的に挟み撃ちにするという陣形である。
 一方の魚鱗の陣とは、自軍をひとつに小さくまとめて、何段にも構え、中央突破して本陣を衝くと云う一撃必殺の陣形である。どちらもはまれば敵に大打撃を与えられる陣形である。そこに必要とされるのは状況を見極める眼力と速度である。
「とにかく食事を済ませてから敵軍を相手致しましょうぞ」
 美作守はそう云うと、自分はさっさと陣屋に戻っていった。
 清々しい朝の空気に身もぴんと張り詰めて来るような印象を受ける。今日は六月の二十八日。雨の気配もなく、風は若干のほこりっぽさを混じえている。野戦を行うには何の忌憚もない天候である。長政は南をずっと見はるかした。織田軍はまったく弛緩もなく、じっとそこにとどまっている。おそらく正々堂々と戦うつもりなのであろう。長政も持てる力を十二分に発揮してことにあたろうと決意し、自身の陣屋に戻っていった。
 朝餉はこんな状況下でもしっかりと摂ることにする。
 玄米の握り飯に、香の物、白味噌の汁に、青菜のおひたしを食す。
 食後に茶を飲み、具足をつける。
「では参るか」と気合を入れて、一同に声をかける。
 軍は総勢八千である。
 今日がもっとも重要な、江北の存亡をかけた戦いであることを知っている兵士たちに不備はなかった。全員、決められた時間に集合し、出発の合図を今か今かと待っている。長政はいい傾向だと思った。軍に弛緩がないというのはそれだけ戦にほころびが少なくなるということである。
 前夜の軍議において、陣立ては次のように決められていた。

 第一隊、磯野丹波守員昌、千五百人、
 第二隊、浅井玄蕃允政澄、千人、
 第三隊、阿閉淡路守貞秀、千人、
 第四隊、新庄駿河守直頼、千人、
 第五隊、東野左馬助行信、千人、
 第六隊、浅見対馬守孝成、千人、
 本隊、浅井長政、千五百人。

 以上の陣立てである。
 浅井の陣形は魚鱗の構え。
 当然、もっとも重要なのはその戦闘の第一隊、磯野丹波守員昌の隊であった。
「浅井の軍の精強なところを見せてやろうぞ」
 磯野員昌は自身の隊に気合いを入れる。
 そして他の隊の様子を見ながら、軍を進めていき、姉川を渡る。
「それ、行け!」と云いながら、員昌も陣頭に立って、織田の雑兵を屠り始める。
 右に薙ぎ、左に払い、磯野は水を得た魚のように活躍する。
 その彼の活躍ぶりに味方の兵士も勇気を鼓舞されて、士気が高まり、普段の数倍の力を発揮する。勢いに乗った軍は強い。織田の兵士も優れたものであるが、いまの浅井の勢いを止めるられるほどの大きなきっかけはまったくなかった。
「いよいよ始まりましたな」と赤尾は本陣で緊張の面持ちの長政に告げる。
「ああ」長政は心中を鬱然とわだかまらせながら、そう受け答える。
「われらはいったいどこへ向かおうとしているのでございましょうな」
 赤尾は不意に云った。
「うん?」只事ではないと訊ね返す。
「わしも昨日考えておったのですが、この織田との戦いに勝利したところで、いったいわれらになにができるのかと云う話でございます」
「うむ」長政もそのことを考えないわけではなかった。
「長政様……」
「うん?」
「われらが織田を討った後、何ができるとお思いですか?」
「何ができるか、か」長政は声を押し出すようにして返答する。
 そして彼は美作守の次の言葉を待った。
 生暖かい風が頬を掠める。
「これまでに織田に討たれてきた諸氏はいろいろありましたが、もし織田が倒れることがあれば、その領土を継ぐのはわれらというわけにはまいらぬでしょう。わしらはきっとこの江北から一歩も出ず、あるいは、持てて江南の土地くらいのもので、ほかの地域はきっとその地域地域にはびこっている没落諸氏が息を吹き返すことでございましょう。ということは、でござる。われらに完全な勝利と云うものはなく、よくて近江一国の支配がかなうというだけで、何のうまみもこの戦には用意されておらぬというわけでございます」
「そうであるな」長政は納得する。
 確かにそうなのだ。浅井にとってこの戦は、飛ぶ鳥を落とす勢いの織田に対して専守をするにとどまる戦であり、領土を吸収するような、完全なる勝利と云う物はおそらくないであろう。
 そんなことを話しているうちに先鋒の磯野は物凄い勢いで織田の陣を討ち破っていく。このままいけば、勢いは完全にこちらに向き、もしかするともしかするかもしれないとの欲目も心に浮かんでくる。
 ――もし信長殿を討つことができたなら……。
 長政は考える。そして信長を討つことに執念を見せる遠藤のことを考えると、若干の心配が心によぎるのであった。遠藤は先鋒に紛れて、敵陣に入りこもうとしていると白状した。それは浅井のなかでも一部の者しか知らないことであったが、遠藤はうまく目的を遂行することができるだろうか? この戦いで一番危険なのは、間違いなく遠藤である。危険とは味方にとってそうであるし、また敵にとってもそうであるのだ。
 長政はできることなら、すべての将兵に無事に帰還してほしいと考えていた。しかしこれほどの大戦であれば、それは難しいであろう。いったいどれほどの被害が出るのか、それを思うと、長政は胸が張り裂けそうな思いがするのだった。

     *

 東の方に太陽が昇り、気温はじりじりと上昇の気配を見せる。風もときどきしか吹かず、吹いても、熱い空気を粥のようにこってりと混ぜるだけである。草のいきれがむんと鼻を衝つ。誰もがいまのこの気候を過ごしやすいとは思っていないだろう。樹木の少ない地形である。見晴らしが良く、両軍とも相手の姿がしっかりと見えているため、解放感はあるけれど、実際に戦っているものの気持ちにそぐおうと思うなら、いまのこのあけっぴろげな光景に群がる敵軍は、どう考えても、緊張感を醸し出すに十分すぎる圧迫感があった。
 両軍の鯨波の声が姉川河畔に響き渡る。
 それにしても磯野の軍の勢いは凄まじい。
 戦が始まって一刻もしないうちに、織田の十三段ある構えのうちの半数以上を破り、いまもなお、その勢いに衰えが見えないのである。それまでに打ち取った敵の首は千を超えている。
 磯野の軍は犬上地域の軍であったが、それが実に精強で、力強かった。磯野は佐和山城主であり、浅井家の大きな戦にはほぼすべて出陣している勇将である。長政の初陣である野良田の戦いのときにも、赤尾美作守が褒めたたえたとおり、いまこの浅井の危難にあって、磯野は守護神そのものという勢いで、軍を率いている。それは美作守の見立てが間違っていなかっただけでなく、浅井家にとって喜ばしい傾向であり、磯野が先陣にあるというだけで、他の味方の軍も勢いを得ているようであるのだ。すばらしい将であると長政は思う。磯野のような武将が力を貸してくれていることが、とても貴重であり、かつ幸福であるというような印象を逞しくする。
「磯野員昌は水を得た魚ですな」
 赤尾美作守が、あの長政の初陣であった野良田の戦いのときと同様に、そう告げて、好々然として答える。
「あの勢いは敵軍にはないものだ。それだけに戦に与える影響は格段に大きな物になっている気がする」
「そうですな」赤尾は返答する。「この戦にも光が見えてきましたな」
「ああ」長政は表情を緩めて笑う。
 しかしいまは戦の最中であり、その緩んだ表情はすぐに引き締まった。いまその場には十数人の家臣がいて、その周りを馬廻り衆が占めている。もちろん、先日功をあげた聞間敷組の姿もある。
「磯野殿の働きは凄まじいものがありますな」と家臣のうちの一人が長政と美作守を見て告げる。
「ああ、見事だ」と長政は返答する。
「しかし不安もまたございます」
「うん?」
「越前の軍でござる。率いているのが義景殿ではないことが尾を引かねばよいのですが」
「そうだな」長政はそれにはあまり力強い返事をしなかった。そのことには触れてほしくないという印象が常に胸中に渦巻いていたからである。浅井のことを小さく見ているというわけではないだろう。しかし、義景殿も父上と同じで、戦に対して嫌悪感を抱かれているような節が見え隠れするのである。それは定かではないものの、余所の土地にまで軍を率いて来て、そこで戦を行うということを億劫がっているような雰囲気が、朝倉の諸将を見るうちに感じられてきたのである。
 他にも不安要素がないわけではなかったが、とにかく、いまは朝倉軍のことが気になっている長政だった。

     *

 戦が始まったころ、織田軍もまた浅井軍と同じく緊張していた。
 これほどの規模の野戦を行うことがなかったからである。浅井の八千だけが相手ならば、斎藤との争いや、伊勢の一向一揆衆との戦いや、六角との戦いも経験した織田軍であったからさほどの緊張は無用であったものの、いまこの敵は朝倉の一万を合わせて、二万に達しようかと云う軍勢である。約三万(織田・徳川軍)対約二万(浅井・朝倉軍)という大戦である。それがこの姉川の両岸に陣を敷き、争いを始めているのである。
 緊張はもちろん、織田の家臣である羽柴秀吉も同じく味わっていた。
 秀吉にとってもこの規模の戦は初めてのもので、そのために、どう対処していいか分からないのだ。部下たちはその様子を見て、口々に自論を展開し始める。
「われらは全体の中の個として、つかず離れず、敵を屠ればいいのではないか?」
「いやいや、それでは全体に埋没して、いい働きはできぬのだろう。十分な活躍をしようと思えば、全体の中でうずもれていてはとてもかなわぬと思うのだが? そうであろう? 皆が自分の力をわきまえて、それぞれに自由な発想で戦うことこそ、自軍の勢いをもっとも発揮できる手法であるとわしは思う――」蜂須賀小六がそう主張する。
「蜂須賀殿の云い分もわかるが、しかし、それは小勢対小勢での戦の場合でござろう? それはいまの戦の規模とは似ても似つかぬものであることを思わねばなりませぬぞ」
「う……うむ」蜂須賀小六は言葉に詰まる。「ならばいったい、どうすればいいというのか?」
「む」秀吉の家臣たちはそのまま黙りこんでしまった。
「そうじゃ、こういうときこそ、軍師殿に意見を聞いてみたいのう」一人が声を上げる。
「おう、そうじゃ、そうじゃ」すぐに他の一人がその言葉に和す。
 竹中半兵衛は軍議の間中、じっと黙っていた。軍師とはいえ、新参者である自分が軍議に口を出しては諸将らの反感を買いかねないと思っていたのだろう。秀吉はその事を知っていたので、半兵衛に話を聞いてみたいという意見が出るまで、彼に水を向けなかったのである。いま諸将らの関心は、自分達が英邁ならず、思慮及ばないために賢策を出せぬことを不甲斐なく思っていたため、自分達よりも博学である軍師竹中半兵衛ならきっと素晴らしい意見を持っているだろうと、そう期待しているのであった。
「私のようなものが意見していいか分かりませぬが――」と半兵衛は前置いた。
「いや、そう卑下なさるな。貴方様の頴才はここにいるものすべてが弁えておりまする、ぜひ、愚臣らに策をお授けくだされ」秀吉の家臣である浅野長政がそう告げると、半兵衛は「ならば」と云い、自分の考えを述べはじめた。
「われらの此度の戦の陣立てを見ますに、これは両翼を伸ばした形で構えていますので、おそらく鶴翼の陣でございましょう。古より兵法書では、鶴翼の陣には魚鱗の陣で抗するが上策であると示されております。実際、浅井も優れたもので、わが軍にあたるにためらいなく、この魚鱗の陣を張って猛攻致しております。魚鱗の陣はひとつにかたまって中央突破を図る作戦。われらはそこに横に長く伸びていて、正面からぶつかって来る敵には甚だ弱いという訳です。しかも、おそらく浅井の先陣は戦巧者と名高い磯野丹波守でございましょう。彼の勢いをとどめることは、鶴翼の陣の一部と化している今のわれらでは到底かなわぬでしょう。そこで私から提案いたします。軍を横に長くしている現在の陣形を崩して、浅井軍が到達する前に、方と円の陣形によって固めましょう。それこそ、われらが神算を得る絶対条件となると思われまする」
「方と円……」浅野長政と同じく配下の山内一豊が声を漏らす。「方と円とは具体的にどのようなものでございますか?」
「詳しく申しましょう」半兵衛は言葉を切って、息を整えた。
 諸将らは軍師の説明にしっかりと聴き入る。
 羽柴軍は半兵衛の策にのっとり、陣形を組み替えた。
 まず前方に騎馬武者を配置し、それから同じくらいの人数を円形に布陣させる。そして四方に弓隊、槍隊を配置し、三重構えの陣に仕立て上げたのである。
 つまり、敵強しと見れば円弧を縮めて退り、弱しと見れば円陣を広げて進む、という作戦である。臨機応変に立ち廻れ、それは敵に当たるに陣形を容易に変えることのできる変幻自在の戦法であった。
 羽柴隊はその作戦で、攻め立ててくる磯野隊を待ち構えた。

     *

 半兵衛献策の三重方円の陣は有効に機能するかに見えた。
 しかし磯野軍の勢いは半兵衛の予測を超えるもので、思いどおりの結果を得ることができなかった。磯野隊は、信長の軍である坂井隊、池田隊を蹴散らして、羽柴隊に向かった。
 最初こそ、鶴翼の陣ではない羽柴隊の陣立てに戸惑いを覚えていたが、正面の騎馬武者の塊を中央突破し、そのまま突き抜けていったは、先陣磯野隊の中の赤田信濃守であった。
 赤田信濃守はその系図を遡れば、嵯峨天皇に繋がる由緒正しい家系であり、久徳郷は曽我城に居を構える部将であった。菖蒲の前立ちの付いた兜をかぶり、立派な装飾の鎧を着けている。一目で只人ならずという印象のある赤田を見、また、その勇猛果敢な戦いぶりを目にして、秀吉は一目で怖気を覚えてしまい、難を逃れるようにして陣を縮めて引いたのであった。そのために、半兵衛の作戦は十分に機能しなかった。
 赤田信濃守は秀吉の姿を見て、それが名のある部将であるなとすぐに察知したのだったが、優れた馬に乗っていた秀吉に追いすがることはできなかった。それでもすぐにあきらめることができず、赤田信濃守はしばらく秀吉を追い、敵陣へと隠れてしまった彼を見て、追うのを諦めた。

     *

 一方の朝倉軍も独自の戦端を開いていた。
 浅井軍と分かれて三田村に陣を構えた朝倉軍はすべての準備を整え、織田と徳川の動向を見据えていた。徳川は前日の夜に見た時には姉川の南岸に陣を構えていたのだが、それは物見の知らせによってようやくわかることであった。というのも、姉川の南岸、岡山は森が多く、その樹蔭に隠れていれば、容易に敵に見られることがないという立地である。
 家康はどのような武将であるのか、大将朝倉景健は判じかねていた。
 と、空が明るんで視界がはっきりしてきた頃、徳川軍のいたところを見てみるとその姿がまったく消えている。どこへ行ったかと迷う心もありながら、しばらく状況を見つめていると、そこへ異変が立ち現れる。不意に野鳩の群が空に向かって飛び立ったのである。この辺りは野鳩の群生地であった。野鳩が一斉に飛び立ったはそこに異変があると云うことである。つまり、徳川軍が地形を利用して隠密裏に行動しようとして、あの鬱蒼と茂る森の中に軍を進めているのであろうと予測できた。
 朝倉はそれによって徳川軍の狙いを十分に見極める余裕ができた。
「徳川軍は正々堂々と戦うことのできぬ臆病な軍なるぞ」
 朝倉家の部将前波新八郎が告げると、朝倉の兵士たちはどっと笑った。
「あまり辛辣なのは辞めておいてやらぬか」と朝倉景健が云う。
「では、われらも参るとするか」新八郎はそう云うと、第二隊を率いて徳川軍に向かって行った。
 朝倉景健が云う。「こういう軍は小勢である。打てば脆い。それ、蹴散らせ!」
 徳川軍はまだ樹々の間で前進していた。それを見て、朝倉軍は姉川を渡り、対岸へと向かう。姉川は深い所で大人の腰の高さあたりである。確かに渡河しているときに攻められれば弱い筈であったが、徳川軍は隠れての行動であったため、朝倉の行動に対応するには、時期が悪すぎた。結局、朝倉軍に対岸への上陸を許してしまい、徳川軍五千は、直接、朝倉軍一万と対さねばならなくなった。
「それ参るぞ!」と朝倉軍の主要たる部将、黒坂備中守、小林瑞周軒、魚住景固らが先頭に立って号令した。朝倉軍は槍ぶすまを作って徳川軍を攻め立てる。
 それは面白いほど敵兵を刈れる戦法であったが、徳川軍も、一番隊二番隊と、その将である酒井忠次、小笠原長忠らが正面からぶつかって抗した。とはいえ、朝倉の勢いに打ち克つことはできず、じりじりと後退していく。と、三番隊の石川数正が勢いよく斬りこみ、姉川の北岸まで朝倉勢を押したものの、それまでだった。
 徳川兵は散々打ち破られ、朝倉の総大将であった朝倉景健も姉川を渡って対岸に入った。
 と、ここに朝倉軍のひとつの計略があった。
 徳川家康を討ち取るための秘策である。
 それはこういう作戦であった。
 敵兵との戦いの隙を縫って敵陣に入りこみ、家康の近くにまでいって、直接大将首を狙うというものだ。それには裏切り組と称する特殊工作部隊がことに当たった。内訳は二名。どちらも血気盛んな若者であった。
 両軍が争っている中で、二人はうまく敵陣中へ紛れこむことができた。
「おう、行くぞ」と甲が云う。
「どちらが首をとるか競争じゃ」と乙も云う。
 二人は兵士に見とがめられることもなく、まんまと本陣へ向かうことができた。
「家康の首をとればわれらの名は後世に残るかも知れんぞ」甲がまた云った。
 もうひとりの乙はこんな風に告げる。「死せばそれまでの人生である。いまこのとき命が亡くなったとしても、悔いだけは残らぬようにしたいのう」
「何を不吉なことをいうておるか?」甲が叱咤する。
「でも、そうではないか。こんな作戦がうまくいくと、お前は本当に思っているのか?」乙は弱気な声を出す。
 と、本陣が少しずつ近づいてきた。ここまで小声で喋っていたのだが、そろそろ誰かに聞かれでもしたら万事休するため、途中でやめざるを得なかった。
 幕は張らず、直接野っぱらに陣を敷いている。
 無数の旗指物の紋は三つ葉葵。
 黄色に白にとその色合いは美しい。
 朝倉の二人が本陣に向かうと、兵士たちは二人に怪訝な表情を向けたが、とがめ立てはしなかった。味方であると勘違いしたらしい。
 本陣に入ると、緊張で手に汗が湧いてきた。
 甲も乙も息を荒くして事態に備えた。
 ――家康はどこだ! 心の中でそう叫ぶ。
 ――我らの勝利は家康の死。勝利のためなら何でもしようと思うておるのだ。迷わず、いけるか?
 もちろん、大将は陣を張っている中央後方に構えているのが常石だろう。二人はそれを踏まえて、足を進めていく。
 そのとき、
「どこへ行く?」と誰何される。
 相手は槍を持った兵士だった。
「ああ、我らは羽柴隊の軍師竹中半兵衛殿から遣わされた伝令でござる」
 甲はこともなげに嘘を並べ立てた。
「う、うむ、そうか」槍を持った兵士は得物をおろした。「殿に粗相のないようにな」
「はっ」甲と乙は声を揃えて云った。
 ――うまくいった、竹中半兵衛という名前を知っていたからこそ、助かったようなものだ。日ごろ、敵軍の情報を漏らしてくれている伝令たちに感謝せねばならぬなと甲は思った。
「まずは第一関門突破だな」と甲は小声で乙に知らせる。
「そのようで」乙がそれに和す。
 徳川の兵士は十分に訓練されているように見えた。朝倉の軍はこれまで大戦らしい大戦を経てこなかったため、若干の惰弱をその性に加えている。それに比べると、徳川は土地柄もあるのだろうか? 東や北に強敵を持っていることからも、戦に対する心構えが、まったく違っている風である。
 顔つきは精悍な者が多く、陣中はぴりぴりしている。これが織田軍であれば、さらにその度合いは増すであろうと思われ、それは、越前でのうのうとしている自分たちには決して持つことのできぬ性質であると思わざるを得なかった。
 二人は家康の姿を求めて、陣中深くに進んで行く。
「あれか?」と甲は乙に告げる。
「そうだな」と乙は答えた。
「いくぞ」
「ああ」
 二人は伝令を装って腰掛けている家康の方に向かう。
 と、そこに近侍が立ちはだかった。
「おまえらは何者だ?」
 その声は冷たく響いた。
「竹中半兵衛殿からの伝令でござる」
「ほう」近侍の一人が声をあげた。「伝令ならば殿ではなく、わしに告げるがいい。わしが取り次ぐゆえ、申してみよ」
「そ、それは……」
「云えぬか? 朝倉のくされ侍が。そなたらの言葉は三河のものでも尾張のものでもない。多分に、北の臭いがしておるわ。兵士たちは騙せても、この加藤正次の耳はごまかせんぞ」
 そう云うと、加藤は刀を抜き払って甲を一息に斬り伏せた。
「さあ、そなたも刀の錆にしてくれよう」
 乙はそれを聞いて、心に怖気を覚えたが、それでも武門の人間らしく最期に一花咲かせてやろうと、自身の刀を抜き払った。
 二人はしばらく睨み合い、相手の出方を窺っていた。
 と、その脇から声がかかる。
「このような敵陣で尋常な勝負のできるわけがなかろう」
 そんな言葉と共に、脇から刀を浴びせかけられる。
 乙はそれを刀で防ぎ、もはやこれまでと、自身の最期を悟ったまま、一心不乱に駆け出し、家康の元に走っていった。
「させるか!」と叫んだ近侍・天野康景は家康に斬りかかろうとする乙に追いすがり、その背中に向けて一太刀浴びせかける。
「うっ」と呻いて乙は地面に転がった。「む……無念」と云い、乙は苦痛に身をよじる。
「そなたの武運もこれまでよ」
 天野はそう告げると、止めに自身の刀を苦しんで悶えている乙の首元に振り下ろした。
 と、家康の方にその鮮血が飛び散る。
 家康はその陣羽織も刀も血で染まり、まるで自分で敵を斬り伏せたようにすら見える状況だった。
「ここまで来るとはなかなかの丈夫。見事である」
 家康は自身の命が危険に晒されたというのに、至って冷静に事の次第を褒めていた。


21 :蒼幻 :2010/10/23(土) 06:02:31 ID:tcz3skmcrm

     *

 家康は二人の朝倉兵が迫ってきたと知れたとき、自身も刀を一尺ほど抜いたところであった。しかし、家臣らが思いのほかうまく立ち回ってくれたので、自身の刀を抜き払わずに済んだ。そのことは褒めてもいいと感じるのだった。
 家康は敵の血で染まった陣羽織を見た。
 金絲の刺繍をほどこした見事な図柄のものであったが、せっかく拵えたものが一回の戦で無駄になってしまったことを悔やむ気持ちもあった。
 それもまた経なければならないことのひとつよ、と家康は考える。
 ――この戦で浅井・朝倉を滅ぼし、信長殿の天下を盤石のものにできるなら……。
 家康にはひとつの野望があった。しかし、その野望は信長が生きているかぎり、追わずに置こうと思う、条件付きの夢であった。それはつまり天下への野心である。自身はそれほど意識していないと思っているが、時を経るごとに、それが何か大きなことであるように、自身の心を圧迫してくる。もし、信長殿の身に何かあった時には、自分がその矢面にたって、すべてを受けようという思いが自身の中に生まれていることに気付くとき、家康はまた自分もこの世に生まれ出た、天下を狙う一匹の臥竜であると思うのだった。
 しかし織田家中にも優れた武将は多い。その中の一人が天下を担おうと立つのであれば、そのときは自分もそれに助力しようではないか。そう考えるのだった。とはいえ、いまは信長殿の天下が有力になっている。同盟者であるわしはそれを補佐する役目に徹するのが、そのあり方であろう。
 不吉なことは考えないでおこう。
 家康はそう考えて、この思いをそこまでと断ち切った。

     *

 血を浴びた家康はそれによって冷静になった。
 刻々と様相を変ずる戦場をしっかりと捉え、自軍が為すべきことは、この朝倉を完膚なきまでに痛めつけることと思い定め、そのためには何をすべきかということを考え悩む。そして部下に下知する。
「康政、敵の左側面から攻撃して貫け!」
 榊原康政はその命令をしっかりと受け入れ、忠実に職務を遂行しようと試みる。本多広高を従え、広がる水田を抜けて、脇から姉川を渡り、断崖を上り詰めてから、一気に、朝倉の左の脇を攻撃する。

     *

「徳川が大きく動きましたぞ」
 榊原の動きはすでに朝倉軍に知れていた。
 しかしそれを知ったからと云ってどうすることもできるものではない。東から敵がものすごい勢いで突っ込んでくる。大将である朝倉景健は対岸に渡っていて榊原の動きに対応できない。
 とはいえ、一万もいれば朝倉陣中にも名のある武将がいるもので――。
 優れた武勇を誇る部将真柄十郎左衛門直隆の得物は、越前の名工千代鶴の鍛えた業物で、長さは五尺三寸である。名を〈千代鶴の太郎〉と云い、その大きさに様々な伝説をつける者もあった。そのうちのひとつが、この刀はあまりに大きく、構えると向こうが見えなくなるために、刀に穴が開けてあったという話である。もちろん、そんなことはなく、ただ素晴らしく豪壮な一本鋼の太刀であった。
 その子である真柄十郎三郎隆基も、父の刀を造ったのと同じ刀匠の作品〈千代鶴の次郎〉という四尺三寸の剛刀を手にしていた。
 もちろん、そんな大きな刀を振りまわすということは、それに見合った筋力があるということであり、凡百の敵がいくら束になろうと、それは障害物ですらないのだった。
 真柄父子は二人で幾十もの敵兵を屠った。もちろん、他の朝倉兵も敵を攻撃していたが、その様は一進一退だった。ただ真柄父子のまわり四方だけが様相を異にして、敵の屍骸だらけになっていた。
 しかし徳川軍が東から攻撃してきたことにより、朝倉兵は押され気味になり、北岸へと押し戻されて、どうすることもできなくなってしまった。
 文字通りの総崩れである。
 しかし真柄父子は北岸へと追いやられていく自軍を脇に見ながらも、こここそ自分達の武勇の見せ場と心得ているのか、南岸に踏みとどまって、ひたすら刀を振り回して敵を倒していった。

     *

 徳川の中にも勇将があった。
 向坂式部、その弟五郎次郎、山田宗六らである。
 彼等はあと一名を含めて、四人でこの真柄直隆を取り囲んだ。
 気合を込めて斬りつけるが、真柄は予想通り、猛烈なる反撃を繰り出してくる。
 真柄直隆は獅子奮迅と云ってもいい働きを見せる。
 まず向坂式部の兜の一部を粉砕し、山田宗六を頭から脇まで一気に斬り倒し、向坂五郎次郎の太刀をその斬り結ぶ威力で鍔もとから切って落とした。
 三人の勢いを押しとどめ、気焔をあげようとしたところで、真柄にとって不運な出来事が出来[しゅったい]した。
 流れ矢が飛んで来たのである。その矢は真柄の顔に吸い込まれた――かに見えた。それはすっくと真柄の顔に突き立ち、詳しく見るなら、それは左目のあった場所に刺さっている。
 さすがに魏の夏侯惇のようにはいかなかった。
 夏侯惇は自身の目に刺さった矢じりを自力で抜いて、ついてきた自分の目玉をそのまま戦場にて食べてしまったという逸話が残っている。それに比べると真柄は乗っていた馬からどうと落ちて、そのまま向坂兄弟に抑えられてしまったというような状態であった。もちろん、普通の人間が矢で目を貫かれて平然としていられるわけがなく、その真柄の反応は極めて人間的というが正しいかも知れなかった。
 真柄はそのまま討たれかけていたが、そのとき、声を上げた。
「このわしを討とうとするものの武勇をここに讃えたい。わしから贈りたい物があるゆえ、しばし、待ってくれぬか」
 真柄直隆はそう云うと、抑えられていた状態を解いてもらい、そのまま懐に手をやった。「これを」と向坂式部に渡したは、見事な意匠のひと振りの短刀であった。志摩三郎兼氏の短刀である。
「これは見事だ」と向坂式部は唸る。
「ではわしはこれにて」と告げると、真柄直隆は首を差し出した。
「武士のなさけだ、一息に切ってやるがいい」式部はそう云って、部下に真柄を切らせた。
「父上が討たれた……」知らせを聞いた子の隆基はそのまま馬首を返して、父が斬られた所へ向かおうとしたが、その動揺によって思う存分の働きがで出来なくなり、遂に父の後を追うように、自身も敵兵に討たれてしまったのだった。
 討ったのは青木一重であると云われている。

     *

 小谷城下――清水谷浅井邸――。
 お市はそわそわしていた。
「御寮人様、これでも飲んで落ち着かれては?」
 侍女の妙が心配そうに見守っている。
「ああ、妙、私はきっと前だけを見て、他を見ぬようにしようと誓ったというのに、どうしても兄上のことを思うてしまいます。私はいけない妻ですね」
 妙はしばらく考え、云い惑う様子だったが、しかしそのまま告げた。「いえ、それこそ、人の心の自然な動きと云うものと私は思いますよ。でないと、兄弟姉妹というものがあまりに希薄な関係であるように思えるではありませんか。元気をお出し下さい。きっと、天こそが、長政様と信長様の進むべき道を決めて下さいます。私たち女はそれを従容として受け入れていけばいいではありませんか……」
 それは常の妙には見られない、しっかりとした意見であった。
 お市はそうかもしれないという気持ちを妙の言葉に覚えた。
「ありがとう、妙。元気が出てきそうです」お市はそう云うと、莞爾とほほ笑んだ。
「少し庭でも散歩されませんか?」
「そうですね」お市は茶々とお初を見た。茶々はまだ一歳で歩くに不慣れであるし、お初の方は乳飲み子である。妙に茶々を見てもらって、自分が初を抱けば外へ出るのもそう難しくはないだろうと考える。「ちょっと出ましょうか」とお市は告げた。
 玄関で草履を履いて外へ出る準備をする。義母である阿古に「ちょっと出てきます」と告げて、四人で外へ出る。外へ出るのは久しぶりだった。いつも家の中でじっとしているような生活だったので、外に出るのは何日ぶりだろうとそんなことを考えもする。
 阿古は「気をつけてね」と告げ、自分のことに戻っていた。
 茶々は手を握ってもらいながら、ゆっくりとではあるが、自分の足で庭に踏み出した。飛び石があって、そこを順番に踏んで歩いて行く。距離が離れすぎていて届かないところは、妙が腋を持って飛び越えさせる。
 その持ち上げられる感覚が楽しいのか、茶々はきゃっきゃと喜びの声を上げている。
「気をつけてやって頂戴ね」とお市が告げる。
「はい、もちろんです」と妙は云う。
 そんな気晴らしが、お市にとって、兄と夫の争いのことをしばし忘れさせてくれて、ありがたいなと感じもするのだった。
「それしても男の人は辛い立場に立っても、自分の意思をはっきり示して、世の中と向き合って行かねばならないのですよね。大変なことだと思います」
「そうですね」妙が同意する。
 と、お市が不意に思いだしたように告げた。「それはいいとして、妙、あなたは好いお相手はいないんですか?」お市はそんな話題を侍女に振る。
「わ、私ですか」妙は焦る様子である。
「誰か好い人がいるなら何もいいませんが、いないなら、ぜひ私にお世話させて下さいな」
「えっ?」妙は驚いた。「そ、それはあまりにも畏れ多いことにございます」妙は恐縮してしまう。
「いいではありませんか。一日の大半を私と顔を合わせているのですから、なかなか殿方との出会いもないでしょう。ならば、私が好い相手を見つけてあげますよ」
「それは――」と妙は云い渋る。
「何か不都合でも?」
 お市はぴしりと云ってのける。
「あの、やっぱり、困ります」妙は固守する。
「そうですか? ならば、この話は打ち切りにしますけど、もし、何かあったら云って下さいね。力を貸しますから」
「その気持ちだけで十分でございます」妙は嬉しそうに顔をほころばせて云った。
 お市はなぜこんなことを提案したのか、自分でもわからなかった。もしかすると、いま夫と兄が死線でせめぎ合っているという精神状態が独特の醗酵を示して、こんなことをお市に提案させたのかも知れない。自分でも分かっているのだ。いまが常の精神状態とはまったく異なってしまっていることを。
 妙にそのことが伝わっているかどうかは分からないものの、もしかしたらすべて見透かされているかもしれないという気持ちが心を領してくる。
 しかしそれがなんだという気もする。
 人に自分の気持ちやら性状やらが見透かされていてもいいじゃないか。事実、妙はお市の身の回りの世話をする者の中で、もっとも信頼を置くに値する人物であるのだ。侍女は全部で三人いるものの、あとの二人とはなかなか接点がない。妙は長政も気に入っている女性で、姑の阿古からは長政の側室にしてもいいのではないかと云う声も上がっていたほどであるが、長政はそうすると、君臣の則がおかしなものになってしまうからという意見を提示して、妙を室にという話は立ち消えになったのだった。
 とはいえ、その話には当の妙も一縷の望みとでも云おうか、そう云う気持ちもまんざらでない態度を示していたのである。しかし長政からきっぱりそういう関係を否定されて、落ち込むかにみえたが、そんな様子は微塵も見せずにいままでしっかりと侍女としての務めを果たしてくれている。そんな経緯もあるため、お市はこの妙と云う侍女を他人のように思うことができず、常に身の周りに侍らせていたのである。
「茶々も自分で歩けるようになって、そのうち、このお初も歩くようになるのですね」
 お市はきらめく陽光に眼を細めて云った。
 風は爽やかで緑の匂いを多分に含んでいる。とはいえ、しばらく外へ出ていると、あまりに暑くて、子供たちにも悪影響が出てきそうである。散歩は適度なところで切り上げて、室内へ戻るがいいだろうと思われた。
 お市は外の空気を十分に吸ったと意識できるまでは外にいたが、それからはすぐに室内の自分の部屋に戻ってきた。
 茶々が喋れないながらも、もっともっとと云う風に、外に居たがったのが印象的だったが、それからすぐに母であるお市と侍女の妙が屋敷の中に戻ろうとするのを見て、すぐに後を付いてきた。
 歩くしぐさのおぼつかない茶々を見て、妙が片方の手を握りながら、屋敷までを補佐する。
 お市はお初をあやしながら、屋敷の中へと戻っていった。
 夏の一日である。
 今日、すべてが決してしまうような気がして、また心配がぶり返してきた。こんな気持ちに苛まれるのはやはり辛い。身を灼かれるような苦痛がある。
 酷いことである、夫と兄が戦わねばならぬとは――。
 いったい自分の過去にどんな悪因縁があったのかと、そんなことが気になってしまう。修羅の道を選ばねばならぬこの戦の世の男たちの陰で翻弄される女の心。お市はそのことを強く意識し、また、出来ることなら、万時上手く云ってくれないだろうかと思いもするのであった。

     *

 初老の域に差し掛かっている二人である。
 久政と阿古の夫婦が向かい合って鎮座している。
 久政はむすっとした顔つきで何か考える様子であるが、それを見る阿古は、夫がそれほど深く物事を考えているわけでないことを明確に察知していた。ただ考え込む振りをしているだけというと聞こえは悪いが、夫がそれほど優れた人物ではないことは疾うに認識していた。
 もう数十年一緒にいるのである。互いの性格は親兄弟よりも分かっていると云えるかもしれない。
 阿古は思う。
 姑の蔵屋が亡くなってから、久政は特に老いはじめたと。
 実母である蔵屋の存在が、夫にとって、とても重要であったのだと思わざるを得ない。そんな中、自分は義母の代わりになることができるであろうか? いや、代わりになるというようなことを考えていてはいけないのだろう。自分の性格をしっかりと夫にぶつけて、そのせめぎ合いこそが夫婦生活の醍醐味と思えるほどになってこそ、本物なのだろう。そんなことを考えていると、久政が問いかけた。
「なあ、わしは間違っておったのかのう?」
「えっ」阿古は訊ね返した。「何についてです?」
「だから、織田と朝倉のことじゃ」久政の目に光はなかった。
「いきなり何をおっしゃるんですか? そういうことは私ども女には解らぬことでございます。お前様方が決められたことなのですから、今更どうすることもできぬでしょうに」
「いや、しかし、これは難解すぎる」
 阿古は久政が弱気になっていることを敏感に感じ取っていた。心が弱っているとき、人は周りに救いを求めようとする。意固地な性格であるため、久政はふだん、周りの人間に答えを求めようとすることは滅多にない。であるからこそ、こんな風に周りの意見を聴こうとすること自体、久政の心境に何らかの変化があったのだと容易に想像できるのである。
「いまは長政が戦ってくれている、その事実を深く受け止めておくべきではありませんか?」阿古はそんなことを口にする。
 実子が家を守るために戦ってくれている。それこそが今進行中の真実の行いと云うものであろう。もし敗れるようなことがあれば、この浅井家は織田家に蹂躙されて皆殺しの憂き目に遭うに違いない。そんなことになれば、我らはもうこの世には生きておれぬであろう。いま長政が戦ってくれている。その勝利を信じることこそ、最も大切な篤行である気がしてくる。
「長政には悪いことをしたかもしれん」久政は声の調子を落として云った。「長政にとって信長はきっと心を許しあえる友であったのだろう。わしの心は旧弊に支配されて何も見えなくなっていたのかもしれん。新しい世を作るのは新しい主君である長政の政治であるというに、わしは、余計な口出しをして、未来あるわが家の行く末を先細りにしてしまったのかも知れん。そう思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいになる」
「何を弱気なことを」阿古は気丈に云う。「織田家とのことがどちらに転ぼうと、天命があれば生きながらえるし、なければ没するだけのこと。すべては天の采配次第と思えば、罪の所在などつまらぬ懸念に過ぎぬというものですよ」
 天を語るというのはこの戦乱の世の女にとっては差し出がましさも漂うけれど、阿古はしっかりと夫に自分の意見を伝えた。
 久政は「そうだな」と納得する。
「わしは長政に感謝すべきだろう。自分の意見を枉げてまでもわしらの意見に耳を傾け、それを甘受してくれた。あいつなりの優しさと云うものかも知れん。なぜかいまは親子の関係が逆転しているような気がしてならんよ。まるで父の亮政に助力を願っているような心地すらしてくる」
「お父上ですか」阿古は意外そうに訊ねた。
「歳をとれば子に守ってもらうしかならなくなるが、わしはその度合いが特に激しいらしい。この年でもう子の庇護のもとに入ることになるとはな」
「まあ、お互いにいい年ですからね。それにお前様は戦場に立たれる機会も少ないわけですし、そう云うことは早めになってしまうのも仕方のないことでございますよ」
「そうだな」久政は眼を細めた。
 阿古は縁側から南の空を眺める。戦況はどうだろうと云う思いに耽るのだった。


22 :蒼幻 :2011/01/08(土) 12:35:56 ID:tcz3skkHkc

第十一章 姉川の戦い(後)

 敵味方入り乱れての混戦が続く姉川河畔にて、戦はどちらが有利と云うこともできないままに、屍ばかりが累々と増えていく。武者たちの生き死にをかけた攻防のなか、傷跡を乾かすような熱い風が南から吹いてくる。乾いた風は兵士たちの頬をなで、鼻先をかすめて過ぎていく。
 常にない大戦のために、近隣の者は肝を冷やしていた。
 鳴りやまぬ怒号や、いつ果てるとも知れぬ刀の克ち合う音、兵士たちの断末魔、叫び、呪い、そんなものがまるで怨念のようにまつわりついて外へ様子を見に出た村人たちの耳朶を襲う。もちろん、そんなに近くまでは寄らない。遠目に確認できる位置までいき、そこから様子を窺うだけである。
「織田の軍は恐ろしいのう」確認に外へ出てきた男が、自分の連れに同意を求める。
「ああ、ほんに恐ろしい」と他の一人が云う。
「あいつら鬼畜だという噂だけんども」また他の一人が云う。
「憂いことよなあ」
「ああ」
 村人たちは口々にそう云いながら、目は戦のある方向に向けている。
「わしらはどうしたら、いいんじゃろう」
 村人たちの年齢は四十代、五十代がほとんどだった。
 戦に出るには歳をとり過ぎている年代。
 そんな彼等の息子たちが、浅井軍の兵士として、この戦に出陣しているのである。
「伜のやつは存分に働いとるかのう」ある村人が声を上げる。
「大丈夫、仁兵衛ならうまく立ち働いとろうよ」
「そうかのう」
「ああ」一人が受け合う。
「そうだな、きっとそうに違いない」先の村人がそれに納得する。
「わしらは戦の犠牲になるしかないのかのう」ある男が告げる。
「藤兵衛よお」村人の一人が云う。「そんなことを云ってはこの世が成り立たぬというものではないかのう?」
「うん?」
「だって考えてもみろよ、藤兵衛。戦がなかったら、良い世になるってのは百姓的な考え方であって、どう見ても、今の世の中の成り立ちを無視しているとしか思えぬ。それは百姓の視野でしか物事を見てないってことなんだ。実際、世間の見方ってのは百姓の視野だけで語れるものではなかろうよ」男はそう云って、自分の言葉を吟味する風だった。「実際な、戦ってもんは俺たち百姓の意思を基にするんでなしに、お侍さまの考えで動いていくものであって、俺たちが主でないことを弁えてないと、いろいろおかしくなってくるってもんでさあ」
「なるほど……」藤兵衛は声を漏らす。「百姓の常識で世の仕組みが成り立っとるわけではない。そういうことやな」
「ああ」
「世の流れに応じて、柔軟に対応していく、そういうことが大切と云うわけやな」
「そういうことだ」
「なるほど」
 百姓達はそんなことを口々に云いながら、目の前の戦闘に目を遣っていた。いつ終わるともしれぬ戦闘。命の取り合いである戦闘。修羅と云う言葉が仏教的な意味合いから独り歩きして、人間[じんかん]に跋扈しているような印象さえ漂う戦闘を目の当たりにして、百姓達は、自分の身、ひいては人間の精神の儚さのようなものを目の当たりにして、嘆息するのだった。
 自分の思いが空回りしているような印象に打たれて、彼等は、百姓なりのひとつの諦念を拵えつつ、いま目の前に現出している戦に視線を据えるのだった。

     *

 遠藤直経は覚悟を決めていた。
 敵陣に乗りこみ、信長の首を取る!
 直経の心には信長の専制が許せぬという思いがわだかまっていた。
 生理的に受け付けないのである。
 自分がかなり専制的な人間である直経にとって、信長は自分の思想の上を軽く飛び越えていくような、自由を体得しているような人間であることを意識させられて、ある種の羨望を抱かせられるという点に於いて、いけすかないと感じる部分の多い武将であった。
 直経は直接信長と対峙して、能力の上で自分が勝っていることを証明し、その上で彼に勝ちたかった。
 直経はそのためとあらば、命を抛つ覚悟であった。
 戦場に於いてしばらく戦い、幾人かの兵士を屠りながら、遠藤は好機をうかがっていた。戦闘が長引き、両軍に疲れが見え始めたころ、一緒に闘っていた将・三田村庄右衛門が敵に討たれて、傷口から血を流しながら、斃れてしまうという事態が現出した。これは――と感じた直経は、味方である三田村の首を胴体から切り離し、それを提げたまま、敵陣へ向かった。
「御大将はどこにおわすか? わしが敵の将の首とって参りましたぞ」
 直経はこれまでに屠った織田方の兵士たちの返り血で、鎧はどっぷりと紅色に染まっていた。髪はばらばらになっていて、その形相は悪魔もかくやと思えるような状態である。織田方の兵士はこんな部将の存在を知らなかったが、直経がなおも云い募るので、彼等は折れた。
「信長さま、通しても宜しいですか?」
「うむ……」信長はそう云うと、幕舎から出てきた。
 ――うむ、あれは確かに信長だ。
 直経は昔佐和山で見かけた信長の姿を思い浮かべて、それと照合した。
 信長は直経の姿をまじまじと見る。
 直経は、左手に血の滴る三田村の首を矜らかに掲げ、左頬にはこの戦いで負ったのであろう刀傷が深くついていて、そこから血が流れている。そして、鎧を含む全身は、返り血を浴びて、阿修羅か鬼かといった様相である。
 信長は怪訝そうな表情をする。
「そなたは誰か?」
 信長は誰何した。
 直経は戸惑うことなくこう告げようとする。
「主君、わしのことをお忘れでござろうか? わしは――」
 そういいながら距離を詰めようとしてくる直経に、信長は警戒の色を見せる。
「寄るでない」信長はそう警[いまし]める。
「わしは――」直経はそう告げて、信長に走り寄った。
 そして腰から刀をひきぬき、振りかざす。
「ちっ、およそこんなこととは思うておったわ、曲者ぞ!」
 信長はそう云うと、従者の鶴千代が差し出す太刀を引き抜いた。
 直経の刀の軌跡をしっかりと見極めて、信長はその一太刀を自身の刀で受け止めた。
 信長に刀を渡した鶴千代は、そのまま、傍らに掛けてある槍を手にして、直経に向けて構えた。
「お前は何者ぞ!?」と信長は訊ねる。
「名乗りを聞いてどうする? そなたはここで刀の錆にしてくれるわ」
「ここまで来たのなら、およそ名のある武将であろう。それとも、名乗る名ももたぬほどの小物であるのか?」
「くっ」直経は舌打ちする。
「殿!」そのとき、竹中半兵衛の弟竹中久作が騒ぎを聞きつけて、近くにやってきた。「そやつは、浅井方の将の遠藤喜右衛門でございます。お気をつけくだされ!」
「ちっ。久作か」
 直経は竹中久作と面識があった。何度か膝を交えて話したことのある間柄である。自分の正体がばれてしまったのなら、もうこそこそする必要もあるまい。自分はここで討たれてしまうであろうが、ここまできたら、絶対に信長の首を奪る、そう決意するのだった。
 久作は直経をじっと見た。
「そなたに私怨はないが、うちの殿に危害を及ぼそうとなさるなら、それはもう敵でしかない。直経殿、ここは私がお相手致そう」
「そうか、仕方あるまい。ならば参るぞ」
 直経はそう云うと、自分の太刀をきらめかせて、久作に打ちかかっていく。
 直経は先に討たれた力自慢の真柄十郎左衛門と神社の境内で力石の上げ比べをしてそれに良い成績を収めたほどの力の持ち主である。大力無双とでも云うべき将で、その力の凄いことは、浅井陣営の中でも屈指のものである。順当にいけば負けるはずがなかった。案の定、組み合いとなった直経と久作は、直経の優勢で、彼が上に立ったのである。直経は下に組み敷いた久作にとどめを刺そうと、鎧通しを手にして切りつけようとした。しかしそのとき力が緩んだのか、咄嗟のところで久作が撥ねかえす。
 直経はそのまま久作に首を討たれてしまった。
「浅井の家臣遠藤喜右衛門が首、美濃の竹中久作重矩が討ちとったり!」
 久作はそう云うと、刀を鞘におさめた。
 信長はふっと息をつく。「見事であった」
「殿をお守りするのが我らの役目でございますからな」久作はそう云って、そのまま幕舎の前から離れていった。

     *

 遠藤討たれるの報は、供の知らせによって明らかになった。浅井諸将の間に動揺が走る。
「あの遠藤が討たれるとは」赤尾美作守は確かに動揺していた。「一人で敵陣に切り込むと云っていたので心配しておったが、まさか本当に命を失くしてしまうとは――。戦をしていて本当に辛くなるのは、有能な志士があっけなく命を失ってこの世を去ってしまうことにござる」
 長政は「そうだな」と短く答える。
 言葉こそ短かったものの、赤尾も長政の言葉の裏に隠れた悲しみを知っていたのだろう、「長政様」と小さく声をあげて、どう云う表情をしていいか迷う風であった。
 長政はその様を見て、みな考えていることは同じなのだと意識する。
 いまここで直経が討たれたことをどうこう思ってみても仕方ない、いまは戦に勝つことを考えなければならぬだろう。勝利への執念、それの勝[まさ]った方が勝つ。そう考える長政である。そして、直経以上の勇将、磯野員昌の活躍を耳にして、それだけが長政の希望の光となりつつあった。
「磯野殿、次々に敵陣を突破なさっています」と伝令が伝えに来る。
「磯野はまさしく浅井の守護神となりましたな」
 赤尾は感慨深げに云う。
「そうであるな」長政は淡々と答える。
 そこにはあまり嬉しそうな感情は籠っていない風に見える。しかしそんなことはなく、長政は磯野の活躍に気を良くしていた。そこにはまだ気持の上で、直経の討ち死にの報知が大きく影響していたのである。

     *

 長政の改名やお市の腰入れのときに活躍した、織田家と所縁のある安養寺三郎左衛門もまたこの合戦に参加していた。しかし成果は芳しくない。弟二人がこの戦で立て続けに討ち死にしたのである。そのために、自分も死に花を咲かせて美しく散ろうと思い、敵陣の深くに打ち入ったまではよかったが、敵の首を取ろうとしたときに、周りから、他の兵士に掛かられて、生け捕りにされてしまったのである。
 三郎左衛門経世は織田信長の前に引っ立てられた。
「久しぶりだのう、安養寺」と信長。
「斬るなら斬りなされ。さあ、早ように」経世はそう云うと、首をぐっと差し出した。
「待て、早まるでない」
「そなたに首実検に立ち会ってもらいたい。協力してくれ。さあ、こちらに首を持ってまいれ!」信長は小姓に云いつける。
 経世は次々に首を見て、名前を口にする。
 と、小姓の織田於名阿が持って来た首に大きく反応する。
「こ、これはわが弟の甚八郎の首でござる」経世は泪なしに泣いているような表情をする。
「こちらは、もう一人の弟彦六郎――」
「済まぬな、これも戦であるゆえ」信長は言葉を漏らした。
「うむ、戦であるゆえ仕方ない。確かにそうでござるな」
 経世は肩を小さくして頷いた。
 それから、竹中久作が最前討ち取った武将、遠藤直経の首を持ってくる。
「これは遠藤直経の首でございます」と経世は正直に答える。
 それからも、前田利家が浅井雅楽助の首を、佐々成政が細江左馬助の首を持って来る。そして中には浅井斎宮助や今井掃部頭国平、上坂刑部などの首もあった。
 総勢三十余名、すべての名を述べ終わった後、経世は告げた。
「さあ、そろそろ儂も兄弟のところに送って下さらぬか、これ以上待たされるのも、気が気でなりませぬからの」
「いや、そなたはこれからも長政のもとで忠義に尽くすがよい。儂はそなたが一度、浅井の用で儂の城に来たことを知っておる。そのときの潔さに感服しておるのだ。さあ、小谷城へ戻るがよい」
 そう云うと、信長は小姓に指示して、経世の縄を解かせた。
「そなたにひとつ質問がある」信長が云う。
「なんでござろうか?」
「浅井は今日の戦で大分、疲れておろう。このまま、小谷を攻めたなら、易々と城を落とすことができるであろうな?」
 信長は口元に余裕の笑みを浮かべながら云った。
 勿論、忠義の安養寺経世はその言葉を聞いて、冷静に考えてみる。確かに我が軍は疲弊している。織田が小谷に攻めてきたなら、きっと苦戦するだろうし、いずれ落ちるかもしれぬ。それは防ぎたいゆえ、なんとかそれ以外の要因を出して、織田の意思を防がねばなるまい。
 そう考えて、経世は告げる。
「小谷城にはまだ、戦に出ていなかった、久政様の手勢の千もござるし、井口越前守の五百、千田采女正、西野入道の軍が合わせて三百、全部で千八百の軍がおりまする。いくら織田軍が精強でも、これらの兵と戦えば、きっと苦戦致しますぞ」
「なるほど」
 信長はそう云うと、それ以上、口を開かなかった。
 城攻めを諦めた風である。
 そして安養寺経世は小谷に返された。

     *

 浅井・朝倉軍は総崩れとなった。
 軍はそのまま、小谷や大依山に引いた。
 全面的な敗走である。
 しかしその動きに、敵陣深く入っていた磯野員昌の軍は為すすべがなかった。
 磯野は決断を迫られた。みな味方は北に引いていったのである。自分もそれに倣おうとすれば、これまでに蹴散らしてきた敵にもう一度当たらなければならず、しかもそれは背後からの攻撃も恐れなければならないという状況であり、とんでもない死地であると云えた。
 磯野はここで、自分の隊に下知した。
「者ども、このまま突き進むぞ。そして、そのまま南進して、佐和山まで帰還すると致そう」
 それは勇将磯野らしい決断だった。
 味方が劣勢になったというのに、まだ自軍は敵を屠ってやろうと考えるのである。その勇猛な精神は、浅井軍にとって、ひとつの光であるに違いなかった。
 織田軍はなんとか周りを取り巻いて、磯野軍の動きを封じ込めようとするが、磯野軍は潰れることなく、織田の軍勢を蹴散らしながら、南進する。
 磯野は敵を屠りながら考える。
 ――ここで我らが引いて、いったい、信長はこれから先、どうするであろうか? 小谷を攻めるか、連絡路を断つか、それとも大人しく岐阜に帰還するか……。もしこのまま江北に留まろうというなら、もう一度、小谷と連携して戦を仕掛けるのもありだな。
 戦から戦を渡り歩く磯野らしい勇猛心であった。
 が、小谷の軍勢の中に、もう一度、今日のような戦をしようと思っていた将がいったい幾人あるだろうか。そんなことを思いもするのであった。

     *

 信長の次の標的は、小谷と佐和山に帰った浅井軍から孤立無援となった浅井方の城、横山城であった。横山城はいま完全に味方との連絡を絶たれて、周りを織田方の軍勢に取り巻かれていた。
 日差しはきつく、日向にいれば五分で音をあげたくなるような気候である。
 蝉の声がかまびすしい。
 城内の水の備蓄は完全に尽きていた。しかし、それを織田方に知られてはならぬとて、張り巡らされた筧に水が流れているように見せるために、白米を流して敵を欺こうとしたのだった。また馬を、白米を用いて、水で洗うように見せかけることすらしたのである。
 織田方にそのことに気づいた者はなかった。
 姉川の合戦は終わった。
 横山城のことは事後処理とでもいえるようなものであった。
 姉川の合戦の翌日である六月二十九日。
 信長は諸将を集めて、本陣にて相談をした。
「我らはこの横山城を手に入れるためになんとかしたいと思うておる。それをできるだけ損害の少ない方法で実現したいのだ。何かいい手はないかのう。それを考えてもらいたい」
 諸将はそれに呻吟したが、そのとき秀吉が先に立って云った。
「儂にお任せ下され。うちの軍師と話し合って、必ずいい作戦を立案いたしましょうに」
「そうか、やってくれるか」信長は嬉しそうに云う。
「では、さっそく戻って話し合ってまいります」秀吉はそう云うと、こくりとひとつ頷いた。
「羽柴殿はいつも優れた作戦を思いつかれる。儂らとはここの出来が違うのう」そう云って、ひとりの将が自分の頭を指差しながら云う。
「ほんに、違うておる」もう一人がそれに和す。
「ほれ、無駄口を叩く気があったら、もっと何かいい案はないか、考えてみるのだ」
 信長はやんわりと云う。
 諸将らはあれこれ考えながら、その日を過ごしたが、いい案はなかなか浮かばないのだった。

     *

 こちらは一方の秀吉の陣である。
「半兵衛、どうするのが良いかのう」
「これはなかなか難しゅうございますな」
「であろう」秀吉は困った表情をする。「殿の前では大言壮語してしまったが、実際、半兵衛にいい作戦が浮かばぬとあれば、儂が責められることになる。それでは困ったことになる故、ぜひ、良策を案出してくれぬか」
「そうはもうされても……」
 半兵衛は表情を曇らせた。
「んー、ここはやはり――」
「なにかいい案があるか?」と秀吉。
「ここは無理に攻めて味方の兵士の数を減らすより、無血開城を目指すが最良ではないですかなあ」
「ほう……無血開城か――」
「文句はこうにございます」半兵衛はそう云うと、秀吉に自分の考えを述べてみた。
「それはいいかもしれん。是非にやってみよう」
 秀吉はそう云うと、すぐにその考えを実行に移す。
 秀吉は数人の侍従に守られながら、横山城のすぐ近くまで来て、大声を張り上げる。
「横山城の勇士たちよ!」
 秀吉の声に城内の見張りの者が気付いて、その声に耳を傾ける。
「儂ら織田軍はもともとそちらの浅井とは類縁であった。お市様が嫁いでおられて、長政殿と我らの信長殿は義兄弟であったゆえにの。であるから、儂らはそなたらの命を無理に取ろうとは思うておらん。他の場所に妻子を残しておる者もござろう。儂らはそなたらを無理に攻める気はないゆえ、家に戻りたい者はぜひ、戻られるがよい。儂らは邪魔せぬゆえにの」
 その秀吉の言葉に城内は動揺し、そして、戦線離脱者が後を絶たなくなった。
 これはもう戦える状態ではあるまい、と城内のものは思ったのであろう。城将大木野秀俊は無念の気持を抱きながら、この城を開城することに決めた。
 開城する前に仲間の遺体を焼いて埋葬し、そして城内にあった金銀財宝をどこかに埋めたのである。その金銀財宝はそのまま遺失したということである。
 秀吉たち織田軍は無血開城を成功させたのであった。

     *

 小谷、清水谷。
 夕刻、長政は陣を引き払って、屋敷に戻ってきた。
 お市は心配そうに、玄関に出て来て、長政を出迎えた。
「殿、御無事でなによりでございます」お市はその声に喜びの色を交えながら、告げた。
 お市はすでに戦の結果を聞いていたようである。自分では、戦に勝ったか負けたか、兄信長の命は無事かということをすでに知っていたらしい。
「なんとか決着がついて良かったと思います」とお市は云う。
「それが良かったのか、どうか――」と長政は声をひそめた。
「儂らは負けたのだ。そして、なんとか幸運なことに、信長殿はこの小谷を攻めるつもりはないようである」
「そのようですね」お市は声を翳らせた。
 長政の心には、悔しさが込み上げていた。これまで本当に痛烈な負けいくさというものを経験してこなかったのである。確かに小さな戦では負けを重ねたこともあったが、ここ一番というときはいつも勝利を手にしていたため、ここで手痛い敗戦を得たことが、一層、長政に敗戦の悔しさを味わわせていたのだった。
「御無事で何よりです」と喜ぶお市の姿もそれはそれで嬉しいものであるが、しかし、負けは負け、やはり負けるよりは勝つ方が嬉しいというもので、そこにバツの悪さも存在しているというような状況であった。
「しかし、いい戦であったとか」お市は元気のない夫に向けて、言葉を掛ける。
「いい戦なものか。真柄も、遠藤も亡くなったのだぞ。それに、戦に良いも悪いもない。兵は詭道なりという言葉に等しく、戦というものは、どう転んでも、良きものとはならぬであろう」
 お市も聡さにかけては人後に落ちないものがある。長政の云いたいことをすぐに察知して切り返す。
「失礼いたしました。確かにそうですね。私の失言でした」
 その素直さがまたお市の長所でもあった。
 長政は機嫌を直して、お市に語りかける。
「そなたには心配をかけたな。あいすまぬ」
「いえ、心配などと。実際に戦ってこられた長政様に対して、感謝する気持ちばかりでございます」
「感謝と?」長政は訊ねる。
「はい、感謝でございます。私たち女子はまったく戦うことができず、ひとたび戦となれば、殿のご無事をお祈りする以外にまったく為す術がございませぬ。私たちが百人いようとも、武者一人と対すれば全滅するのは目に見えております。私たちは、殿方がいい成果を出して下さるのをただ祈るだけしか、そう、祈ることしか、手段が残されておりませぬ」
「なるほど」長政はお市の言葉に納得した。
「しかし女子というのは不憫なものであるな」
「不憫――ですか?」
「ああ」
「それはどう云う意味で?」
「今の世は戦こそすべてという状況にある。いかに財貨を貯めて裕福な暮らしをしようとも、ひとたび、圧倒的な武力に攻め立てられれば、一夜にして豪奢な暮らしは望めぬものになってしまう。武力を持たぬ者はこの世では暮らしにくいものであろう。それが女子ともなれば尚更であろう。財貨を奪われるとか、命を奪われるだけならまだしも、その身の廉潔なものまで奪われて、男の性欲の淫するところに引きずられて、何の因果か、奴隷のように支配されることを拒むこともできなくなる。それは悲劇としか云いようがないのではないか?」
「まあ、そんな禽獣のような行いを為す者がおるとは思いたくありませぬ」
 お市はむきになって云う。
「もちろん、一軍を率いるものにそのような畜生めいた者はおらぬであろう。いや、おらぬと思いたい。だが、ひとたび、民草の側に目を向ければ、そういうことを自身の性情と一致させておる者はかなりの数に及ぶと思うがな」
「そんな者と関係を持つくらいなら、私は潔く、舌をかんで死にまする」
 お市は苦痛に対するように、表情を歪めて、嫌悪の態度をとった。
「そう、むきになるでない」長政はくつくつと笑う。
「まあ、そうでしょうけれども」
「さあ、酒でも飲もうぞ。お市、そなたも付き合え」
「まだ、日も暮れておりませぬのに」お市は外の景色を見やった。
「いいではないか」長政はそう云って侍女に酒の用意をさせる。
「ならば、少しだけですよ」
「ああ」長政はそう云って、嬉しそうにお市の顔をまじまじと見た。
 ――やはりお市の姿は女菩薩のように美しい……。
 長政はその心に邪淫の情のあることをほのかに思いつつも、その感情を明らかにして、まだ日も高いに、行為に及ぼうとは思っていなかった。もちろん、今夜はお市を抱くだろう。戦のあとの交接はいつもに増して丹念で、強いものとなっていた。お市もそのことを思っていたのであろう。普段はたしなまない酒を飲むということはつまり、そういう意味も含んでいたのである。


23 :蒼幻 :2011/01/08(土) 12:36:57 ID:tcz3skkHkc

     *

「長政、信長と戦ってみての印象はどうであった?」
 夕餉のとき、普段は口を開かない久政が訊ねてきた。
「信長殿でござるか。そうですな。私は直接打って出て、一人の兵士を斬り殺したわけでもないのでなんとも云えませぬが、強いて云うなら、雄渾とでもいうべきでござろうかのう」
「ほう、雄渾と」久政は長政の言葉にはっきりとは答えず、その言葉を繰り返しただけだった。「市よ」久政は普段は口をほとんど聞かないお市にまで言葉を振った。
「は。はい」お市は突然名を出されて、戸惑う様子だった。
「そなたは長政が実兄と戦ったこと、どう思うておるか?」
「ちょ、ちょっと」阿古が心配そうに声を掛ける。
 お市は阿古をちらっと見てから、答えた。
「義父上様、私はもう、この小谷の人間です。浅井の嫁として、この戦は長政様の勝利であってほしいと願っておりました。兄上はいずれ目を覚まして下さるのではないか、そう信じてなりません。なにしろ、あの朝倉攻めはどう考えても、兄上の方に非がございます。もちろん、兄上に問いただしたなら、それなりの理由はあるのかもしれません。しかし、普通に考えるなら、今回の戦はこちら側にこそ、義があるものと思うております。女の身で戦ごとに口出しして、申し訳のうございます。しかし、私はもう浅井の人間です。そう思うておることを主張せずにはおれません」
 お市はしっかりと自分の思っていることを述べたように長政には思えた。そこには女のずるさというものはまったく見えず、常に思っていることをそのままに相手に伝えようとする真摯な意志だけが籠っているように長政には感じられたのだった。
「そ、そうか」久政はどもりながら返答した。
「父上は、不安はありませなんだか?」
 会話がひと段落したところで、長政が久政に訊ねた。
「うん?」と久政。「不安とな?」
「ええ、我らが敗れて、この小谷に信長が攻め寄せてくるのではないか、という不安でござる」
「それはわからぬな」久政は云う。
「わからぬ?」
「ああ、実際、攻めてこぬまでは、どう云う感情が自分の身裡を支配するのかわからぬというものでな」
「なるほど。しかし、敵に捕まった安養寺が申しておりました。我らが負けて、弱ったところを強襲すれば、小谷はたやすく落ちるのではないか、と信長殿は彼に問うたそうにござる」
「ほう……」久政は目をしばたたいた。
「安養寺は云ったそうです、小谷城にはまだ二千名近くの兵士がいて、彼等はまだ戦による疲弊のない、新参のものらであると。もし安易に攻めれば、きっと手痛いしっぺ返しをくらうでしょう、とね」
「なるほど」
「その言葉がいい抑止力になったということにござれば」
「そうか」久政は口元に笑みを浮かべた。「それでこれから、どうするつもりなのだ?」
「どうするとは?」
 長政は父の真意がつかめずに、訊ね返した。
 長政にとって、この父久政という男は、ある程度はわかりやすくて掴みどころがあるように見えて、その実、肝心なところが見えてこないという謎の男であった。争い事が嫌いで、酒や女が好きという刹那的な人間で、深い思いやりである仁恕の心をさほどもたぬ、云ってみれば、なかなか好い所を見出すことのできない人間であるのだが、この男を父に持っている長政にとっては、父の性格は、複雑怪奇で、縦の物も横になるような始末であり、混乱させられること甚だしいのであった。
 久政は長政の問いかけに答える。
「信長をどうするかということだ。今後の重要な問題であろう……。攻めるのかどうか、そこを儂は訊きたい」
 ――これだ、と長政は思う。
 自分ではよく攻めることなどできないのに、人にはそうして、戦をするのかしないのかと迫ることができる。これは自分の責任という物を持っていないがゆえにできる云い分ではないかと思わせられるのだ。
 長政は答える。
「しばらくは静観しようと思うております」
「静観すると?」
 久政は吐き出すようにその言葉を口にした。
「はい」
「なにゆえか?」
「今回の戦では磯野の働きもあって、信長の本隊に大打撃を与えることができました。もちろん、我らも相応の損害を被りましたが、それによって、しばらくは信長殿も我らを相手取って戦をしようとはなさらぬはずでございます。この間に、我らはいかにして信長殿と抗していくか、その手段を模索していこうと思うております」
「それはできるのか?」
「できるのか、と申されますと?」
「そんなことのできる見込みがあるのか、という意味だ」久政は冷然と言い放つ。
「それをやっていこうと思うておるところでござる」長政は内心苦い感情を覚えながら、久政の態度をとがめたい気持を抑え込んでいた。
「それはなかなかに難しいことであろうな」
「そうでございますな」と長政。「しかし、為さねばなりませぬ。それを為してこそ、我らはあの信長殿の勢いを止めることができるというもので」
「うむ」
 阿古とお市は二人のやりとりを聞きながら、食事をしていた。
「お前様、あまり長政を責めるのはやめておあげなされ」
 阿古はそう云うと、久政に食事を続けるように身振りで示した。
「う……うむ」久政はしぶしぶ妻の指示に従う。
 長政は向かいのお市を見た。
 お市は静かに食事を取りつつ、夫である長政の反応に意識を向けているように見えた。
「市」と長政は声をかける。
 お市は睫毛をまたたかせてから箸を置き、夫の呼びかけに応えた。「はい」
「そなたはこの作戦をどう思う?」
「作戦?」お市は戸惑った。
「信長殿を周囲から囲っていき、身動きをとれなくするという方法だ」
 お市は目を細めて訊ねかけた。
「それは本当に実現できるでしょうか?」
「うーん」長政はお市の反応に声を漏らす。
「実現できるかどうか……それは難しいかもしれぬのう」
 長政は深い溜息をついた。

     *

 食事を終えて自室でゆっくりしているとお市が戻ってきた。
 姑の阿古と話があったからと云っていたが、実際、何についての話であったのかまでは詳らかにしない。長政もあえて訊こうとはしなかった。
「父上が珍しく、そなたに質問をされたのう」
 長政は肩の力を抜いて、笑いながらそんな言葉をかけた。
「そうですね、驚きました」とお市は云う。
「父上のことは嫌いではないか?」
「そう云う感情はございません」
「そうか――」
「しかし、どう接していいか分からないというのはずっとございます」お市は顔を曇らせて云った。
「そうだな。父上は心の内を周りの者に示そうとなさらぬゆえ、付き合っていくのはなかなかに難しいものがあろう」
「長政様でもそう思われるのですか?」お市は真剣な表情で訊ねる。その表情には、一種の救いを求めるような色さえ滲んでいるようであった。
「ああ、儂もそう思うておる」
 長政は言葉を押し出すようにして云った。
 お市はふっと顔をほころばせた。
 いったいどう云う表情なんだろうかと長政はしばらく考えたが、答えは浮かんでこない。長政は燃えている脂燭の明かりをじっと見た。ちろちろと舐めるように炎が揺らいでいる。
「もう夜であるのう」と長政が云う。
「そうですね」お市は相槌を打った。
「いかにすれば信長殿に勝てるのか、それをこれから考えて行かねばならぬわけだ――」
 お市の表情が僅かに曇った。
 彼女のその表情の変化を長政は見過ごさなかった。
「市」長政は妻を呼ぶ。
「はい」とお市。
「やはり兄上と戦うのは辛いか?」
 お市はためらうようであったが、やがて云った。「お義父上様の前ではああ申しましたが、やはり辛くないというと嘘になりまする。周りからちやほやされて育った私でも、本当に私のことを思って、いろいろ細かく面倒をみてくれたのは、ほかならぬ兄上のみでございましたゆえ、どうしてもそのときの思い出が、兄上を敵として見ることを拒む原因になっているように、自分には思えるのです」お市は身裡を斬られるような辛い表情をして、夫に述懐した。
「そうか、辛い思いをさせてすまぬ」
 長政は溜息をついた。
「いえ、長政様が謝られることではありませぬ。尾張と戦うことになったときにここに残りますと申したは私でありますし、長政様は義の行いをなさっているといまでも確かに思うておりますゆえ」
「そうか」
「はい」
 二人は見つめあった。そこには戸惑いや、うろたえや、ためらいというものも確かに存していたが、それ以上に、深い愛情による互いの強い結びつきがあった。
 長政はもちろんお市のことを愛していたし、お市も長政のことを深く思っていたことは確かであろう。もし、近くで二人を見ている者があったとしたら、美しい夫婦愛の姿がそこにはあると思ったに違いない。
 長政はしばらく鎮座していたが、やがて立ち上がって、部屋を出た。
 お市はじっと長政の態度を眺めていたが、やがて、長政が外へ向かうのを見て、ふっと息をついた。
 長政は縁側に出て、空を眺めた。
 ――月が出ておらぬから、星が良う見える。
「市、市も来ぬか!」長政は上機嫌でお市に問いかける。
「そんな大声を出されては子供たちが起きてしまいますよ」
「そうだな、済まぬ」長政は声を低めて謝った。そして、続ける。「それ市、なかなかいい星空であろう」
 障子戸を閉めて、光はほとんど入ってこないようにした外から眺める星空は確かに絶景だった。お市ははっと息をのんで、その素晴らしさを感じ取ったようである。
 長政は落ち着いた調子で告げる。
「あの星も命があるゆえ、いま、こうして見ることができるわけだ」
 長政の言葉に悲愴な色合いが滲んでいるのを感じたのか、お市は顔を曇らせた。
「儂は今日のこの星空を見て、またひとつ命を削ったのだということが思われてならぬ」
「それはどう云う意味でございますか?」お市は告げた。
「いや、意味などはない。ただ、今日一日を生き抜くだけでも、大変な労力を費やすものである、と思ったまでだ」長政は言葉を詰まらせながら、それだけ云った。
「そうでございますか……」お市は、なにか大きな意味があるように思える長政の言葉を、そのままの流れで受け入れることにした。
 長政は今一度、星空を眺めた。
 輝く星の一つ一つを見て、そこに付された名前をほとんど知らぬことに思い至る。知っていても、知らなくても、見え方に差異はない。ただ、知っていた方が天文としての重みは変わってくるであろうな、と予感するだけである。幼い頃から覚えてきた兵法書には星のことはほとんど書かれていなかった。ただ、天狼星とか角宿とか、そういう用語を知っているだけで、実際にその星がどこにあるのかまでは把握していない。また、把握しようという気持ちも今のところ、持ち合わせていない。そんなことよりも、気にすべき問題は山積しているのである。
 もちろん、お市もそんなことは知らないだろう。
 長政はそう云うことにまで気を配れる人間は、およそ、現世の苦しみなどというものからは無縁になっている、世捨て人か、よほどの粋人か、それとも、公家か陰陽師か、そんな人間でないと、天文をやろうというものはない気がして仕方ないのだった。
「長政様」そのとき、お市の声でない女の声がした。
 長政とお市はほぼ同時に振り向く。
「どうした。妙?」と侍女を見る。
「あの、どうも、お初さまの様子が優れないのですが――」と妙が云う。
「えっ?」長政とお市は声を漏らした。
「来ていただけまするか?」
「ああ」長政はそう返答してから、お市の方を見た。
 お市も「すぐに向かいましょう」と告げて、妙の後を付いていく。
「初に病か……これは何かあるのか」長政はそんなことを思い、そして足を止める。
 ――父が戦をしたその日に、体調を崩す。何かないと思わない方がどうかしている気もするな――。
 長政はそんなことを考え、また妙とお市のあとについていく。

     *

 初は生まれて半年経つかどうかである。すぐに近くの医師が呼ばれた。
「心配いりませぬ。これはただの風邪でございます」
 医師の言葉に一同はほっとする。
「そうでしたか、かたじけのうござる」長政が云うと、医師は畏まった。
「いえいえ、またいつでも困ったことがあれば、お呼び下され。いつでも駆け付けますゆえ」
 医師が去ってからもしばらく初の苦しそうな寝顔を見て長政とお市と妙は心配する。医師の診立てではここ二、三日のうちに熱も下がり、容態も安定するだろうということであった。
 妙は「よかった……」と声をあげて、いまにも泣きそうである。
 お市も母らしく心配そうな表情をして、愛娘を見つめている。
「うん、良かった。本当に良かった」長政は言葉を繰り返すことくらいしかできない。
 長政は二人を置いて、外へ出た。自分に出来ることは何もないと思ったためである。長男の万福丸は二人の娘とはまた別で育てられている。側女との間にできた男子ということで、それほど厚遇されていないが、いまのところ、この浅井家を継ぐのは、この万福丸であろうという考えが有効であった。これから市との間に男子が生まれればその限りではないが、と長政は考え、そして、また深い考えに沈んだ。
 長政は自室に入り、また酒を嗜んだ。
 酔いがいい感じに回りはじめ、戦の緊張感とは正反対の、精神の弛緩を経験する。どうすればいまの自分と戦場での自分を同じものと考えられるのか、そんなことを考えて、ひとり悦に入る。どちらも自分であるのだ。どちらが本当ということではない。どちらの自分も真実。しかしもっとも自分らしいのは戦場での自分でもなければ、酩酊しているときの自分でもない。平常時の自分であろう。仲間の部将たちと近隣諸国の情勢や、内政に関して議論を重ねているときの自分、それこそ、飾らない、生のままの自分を出しているときだと考える。もちろん、娘たちを見ているときの自分こそ、本当の自分なのではないかという思いがある。しかし、どうしても、家族に向ける気持ちよりも、そういう議論をしているときの活気に後押しされてこれまでの自分の中にはなかった新たな発見を重ねていく時こそ、自分が本当に自分らしくあるのだという気がしてならない。
 ――娘の父として、愛情を注ぐ。
 そこには何かわざとらしい、演技めいたものが存在しているように長政には思えてならなかった。父親らしく、夫らしく、男らしく、そんならしくという感情はすべて紛い物ではないかと思う感情が長政にはあった。とはいえ、それは愛情の欠落というものではないとも堅く信じている。愛情とはひとたび、人と関われば、泉のように滾々と湧き出でてくるものであるように感じられる。その出所を見つけて、その湧出が強い弱いといってみたところで、それに意味はない。少ない愛情でも親らしくする者もあれば、多い愛情を持ちながら、非情に走るものもある。それは判断材料として、正確でない気がするのだ。
 長政がさらに盃を重ねていると、お市が戻ってきた。
「ああ、また飲まれてるのですね」お市は咎め立てするような調子で声をかけてくる。
「いいではないか、さあ、そなたも飲め」
 長政はお市にもう一つの盃を渡す。
「少しだけですよ」と云いつつ、お市はいつもより多めに酒を飲む。
 これから二人で睦ぶときのことを思ってのことだろう。
 長政はお市もそれを分かっているのだと思って、気をよくした。
 盃を重ねていく。
 長政の心の中には蒼い炎とでもいうのだろうか、何か普通では吹き消せないような情念の炎の存在があるように自分自身感じていた。いつもそれがあるわけではない。今日、戦った相手の妹と、床を共にするのだというある種のあり得ない状況が、決して熱くはないが、冷めてもいない特殊な情念の炎によって長政の心を焦がしはじめるのである。
 酒を飲み、常の意識から遊離した二人は次第に寄り添い、そして、妙が用意してくれた床の中へと入っていく。
 二人は満足いくまで存分に睦みあった。もちろん、戦をしてすぐのこと。その交接は常にない丹念なものであった。


24 :蒼幻 :2011/01/08(土) 12:37:55 ID:tcz3skkHkc

第十二章 叡山延暦寺

 月が替わって元亀元年秋七月。
 大戦となった姉川の合戦も終結し、世間は静穏さを取り戻したかに見えた。が、そうではなかった。場所は畿内周辺、信長・長政対立のあたりから、態度をあやふやにしていた、阿波の三好三人衆である三好長逸・兵庫・政康が兵を挙げたのである。翌八月には、浅井・朝倉、そして石山本願寺と呼応して、三好単体ではそれほどの打撃を与えられる見込みはなかったものの、諸勢力と連携することで、反乱の精度は格段にあがったのである。
 三好三人衆は摂津の野田・福島に陣取ったということである。その旨を知らせる書状が、同盟勢力である浅井の家中にも届いた。
「遠路はるばるご苦労なことである」と長政は使者に告げ、次に打つ一手を考えていた。
 まずは信長の出方を見てから、という気持はもちろんある。
 軽々しく動いては、こっぴどくやられることもあり得るだろうし、それは勘弁願いたかった。信長は岐阜に居るが、もしいま我が軍が摂津へ向かったなら、留守にしている小谷を敵勢力に強襲される危険もあり、そうなればひとたまりもない。帰るべき場所を失えば、きっと兵士たちの士気にも支障が出て、いい働きは出来なくなるに違いない。
「とりあえず、うちはしばらく静観して、頃合いを見計らって挙兵いたそう。二心なきことを三好殿にお伝え下され」
 長政はそう告げて、使者を送り返した。
「信長の嫌われようは一目瞭然ですな」
 軍議の席の赤尾美作守が長政に告げる。
 もうそろそろ還暦も視野に入り始めているような年齢にあって、美作守は涼しげな目元をして、まだまだ壮健という印象を逞しくしている。この小谷の軍議に、無くてはならぬ存在であり、また、諸将に及ぼす影響力も多大なものがあった。
「美作殿、儂は常々思うておるのですが、あなたが小谷にお仕えになられた頃、亮政様の政治はどのようなものであったのでござるかな?」
 群臣のうちの一人が訊ねた。
「うん?」美作守は問い返す。「亮政様の政治か……なんといえばいいのか――」
「率直なところをお聞かせ願いたい」
「それを聞いてどうなさる――」
「お願い申す」
 美作守は常の軍議では出されないような質問に興をそそられたのか、昔を思い返す風に一瞬、遠い所を眺めるような眼差しをしてから、話しはじめた。「亮政様は何もない所に零から政治を作っていくようなやり方を為されていたように思う。これまでに試したことのないもの、前代未聞のもの、そういうものを吟味熟考したうえで、様々な方策を試して行かれたように思う。それが時代にも合っていたのかも知れないが、近隣に稀な善政を敷くきっかけになったと儂は思うておるのだ」
「ほう、やはり亮政様は名君であったというわけですね」
「と云いたいところであるが、実は、この江北は戦がそれほど強いわけではなかった。六角に攻められて、いつも越前に救援の手を求めていたことからも分かる通り、小谷の軍備はそれほど優れたものではなかった。儂らは常に滅亡の危機にさらされながら、この数十年を生き延びてきたということでござろうかの」
「なるほど……」
「まあ、しかし、浅井三代目の長政様がこのような驍将であられるゆえ、我らは勢力を盛り返すことができたというもので、これからの小谷の発展も我らが盛り上げていければと思うておるわけでござる」
「確かにそうでござるな!」
 諸将らはそれぞれに頷いて、美作守の言葉に同意した。
「我らも同じ気持でござる」と云う者がいて、
「共に盛り上げて参りましょう」と云う者があり、
「いまは信長と戦って未来を切り開いていくことが先決でござる」と決意を新たにする者がある。
「諸将らの気持を一つにして、我らは立ちふさがる敵を討ち滅ぼしていかねばなるまい」美作守はそう云ってから、状況を黙って静観している長政の方を見る。「我らの意志は固いものでござる。長政様、ぜひに我らを導く主君として、末永くこの江北に君臨して下され」
「君臨などと、またいかめしい言葉を使うものだな」長政は内心恐縮しながら、そんなことを告げる。
 長政には一つの思いがあった。信長を滅ぼすことは無理なのではないか、という思いである。長政はたとえ、一対一の決闘となっても、決して、信長とは刃を交える気はないというような心の弱さを生じさせていた。どうしてかはわからない。ただ、戦で拮抗しながら対立することは良しとしても、その本丸である信長を打ち滅ぼすことは自分には出来そうにないと思っていたのである。市の兄であると思ってしまうからか。それとも共に身裡に巣くう孤独を語り合った仲であるゆえか――。
 好敵手というには情が移り過ぎていて、そんな中で、完全に滅ぼしてしまうことを心が拒否しているという今の状態は、自分の中で、決意を弱くしてしまう作用があるように思われた。諸将の思いは当然、信長の征討に向かっているであろう。しかし主君である自分がこんな気持を抱いていることを諸将に明らかにすることは、自分を侮らせるきっかけになるような気がして、気が進まない。
 ――難しいことである、と思う長政であった。
「それにしても、信長殿の対抗勢力になり得ると思っていた松永久秀が結局、織田方について、いま摂津の三好と戦おうとしておるとは、この松永とは何と云う奸物なのであろうかのう。前代将軍義栄様を弑虐したときは、三好と結んでおったというに、機を見るに敏であるというか、したたかというか、我らにはなんとも考えつかぬ下劣な性格であると思えてならぬ」
「確かにそうですな――」赤尾美作守は云った。「朝倉との旧誼を重んじて、織田との同盟を破棄した我らのような潔さがまったく感じられぬ。真逆といってもいいかも知れませぬな」
「世の中にはいろんな人間がいるということだな」長政はそう云うと、目を細めて遠くを見た。
 日差しはまだ強く、夏のものとそう変わらない。まばゆい陽光が日向に落ちている。外に出たままでいるにはきつい天候である。もう少し季節が深まって来ると、涼しくもなり、山々の樹々も黄色く色づいてくることだろう。小谷に生える樹々もそれに倣うことになるにちがいない。
 しかしいまは日が照りつけて、酷暑と云ってもいいほどの日よりである。
 これからの織田との対立を思うと、それほど安穏としていられないわけだったが――。

     *

 三好と浅井・朝倉、そして本願寺の勢力が呼応して信長に対立していた中、八月下旬、信長はようやく岐阜を発って、摂津の天王寺まで軍を進めて布陣した。その場所から石山本願寺を牽制して、同時に、摂津の野田・福島に居る三好と一戦交える姿勢である。
 野田・福島というと、淀川流域の湿地帯であり、野戦には不向きであった。織田方はそれを知って、敵の砦の近くに矢倉を組んで、その上から大鉄砲による攻撃を加えることを主戦法とした。そしてまた、通常の鉄砲を三千挺用意して、それを地上から砦に向けて撃ち放つ。また、三好側もこれまでにせっせと蓄えてきた鉄砲を惜しみなく出してきて、存分に撃ち合った。
 敵味方銃を主眼に据えた戦法で、戦は全くの新しい局面を持つもののように変化した。

     *

 そんな折、九月六日、本願寺の顕如が僧侶や寺侍らを集めて語った。
「我らが本願寺は宗祖親鸞上人によって開かれ、浄土真宗の宗寺として、三百五十年という長きにわたって、この世の人々を済度してきた。その連綿と受け継いできた法灯も、今や末世となりぬれば、いつ消えるやも知れぬ。その大被害を受ける原因として挙げられるは、最近の信長の暴挙である。我らを撃ち滅ぼそうとする巨悪、これを捨て置くわけにはとてもいかぬというのが、私の意思である。」
 顕如はそう宣言した。
 顕如はややがっしりした体格で、僧にしておくのはもったいないほどであったが、身体を鍛えているわけではないため、ややなまり気味にも見える。眼底の輝きは鋭く、心に志あるものとして十分の風格を持っている。唇は赤く、鼻は適度な大きさ、高さ、健康的な調和を保っている。この人物を外見だけで拒否する者はまずないだろうと思える様相である。
 顕如は続けた。
「巨魁信長は我らの敵であり、恩義あらたかな弥陀にとっても法敵であることは確実。我らはここに団結して、この信長の悪牙を防がねばならぬ。まず、この寺の境内に要塞を築き、それを広げて行って、大きなものとし、水の流れのあるところを抑え、そこにも砦を築いて門徒衆を置くことにする」
 顕如はそう告げると、一同の反応を待った。
 僧侶たちは普段は経文を唱えることを主とした慎ましい生活をしていた者が大半であるというのに、声を合わせて掛け声まで出し、そして、自分たちの勝利を堅く信じていた。もちろん、そこには自分たちこそ、阿弥陀仏に讃仰している者であり、その威力[いりき]によって、仏敵は滅除されて当然であるという考えが忍びこんでいたのであろう。もちろん、その考えの危うさを、顕如は分かっていた。しかし、この楽観的な勘違いもまた利用しうべき、我らの利点であると考えていた彼であった。
 そして一同の前から退いた後、間髪入れずに、書状をしたためる準備を整える。
『この度は、我らの一大事であるゆえ、片時も早く、石山へ馳せ来たり、仏恩を報じて我らを救い奉るべし』
 各在所の寺々へ触れ状を出したのである。
 それによって、五畿内のみでなく、近江、紀伊、尾張、伊勢といった末寺の僧侶、門徒、地侍らが先を競って石山本願寺に馳せ上ったのである。
「皆の者、よう来てくれた」と顕如は機嫌を良くする。「ここで我らの結束を新たにして、信長の暴挙を食い止めるための作戦を練りたい。我らには御仏様の御加護がある。それによって、必ずや、信長を食い止めようぞ」顕如は最初にそう述べた。「聴くところによると、信長は自分のことを第六天魔波旬になぞらえておるようであるが、それこそ、我らに対する挑戦でありつつも、彼奴自身の限界を示しておるように思えてならぬ。天魔など、とうの昔、お釈迦様が悟りを開かれたときに、その悪因縁を退けられた最たるものではないか、いかに彼奴がそのような戯れを申しておるとはいえ、また御仏様の成道のときのように、悪意を防いでやろうではないか、のう、皆の衆」
 顕如は力強く云った。
「左様左様」と声を出す者がある。
 顕如は気をよくした。
「さあ、堅塁を築こうぞ。我等が力を合わせれば、出来ぬことなぞないのであるからの」
 顕如はそう云うと、一同の心に仏への思いが満ちていると感じ、そして、その思いを無駄にしないように、いま打ち込むべきことに真剣に取り組んで行こうと思いを定めた。本願寺派の勢力は、総勢五万になんなんとする勢いであった。

     *

「いま本願寺の勢力は規模を膨らませ、三好は摂津にて信長に抗しております。いまが絶好の機会でございましょう」
 赤尾美作守が声をあげた。
「この機に信長の背後を襲い、甚大なる被害を与えれば、必ずや我らの手に勝利はもたらされますぞ」
 赤尾は半ば興奮したようになって告げる。
「果たしてそううまく事が運ぶかのう?」と弱気に告げてくる臣下もあったが、大抵は、美作守の言葉に賛成であるようだった。
 長政が見た限りでは、それは作戦の優れていることを示しているというより、何とかしてあの先の合戦の借りを返したいとする心が促している作用であると捉えられた。
「諸将らよ、真に、この作戦に不備はないと思うておるのか?」
 長政はそう訊ねてみる。諸将の間に動揺のざわめきが走った。
 本当にそれがはまるだろうかという恐れも諸将の中にはあったのだったが、しかし、一人の男が返答した。「戦は敵の弱点を突くのが最適であるとは兵法書の示す通りでございます。また一大勢力に立ち向かうなら、他の諸勢力と連携して作戦を為す方が、より成功の度合いが高まるというものでありませぬかな?」
「うぬ、確かに一理あるのう」美作守が納得する。
 長政は息を吐いた。
「うむ、我らはこれから、信長の背後を狙うことに決めようぞ。決戦なるぞ!」長政は諸将らの表情を見つめた。そこには先の大戦につきものであった弱気なところは微塵もなく、どの顔も立派に輝いていた。
「殿――我らに勝利がありますことを」
「我らに勝利を!」
 諸将らは口々に声を発する。
「そうであるな、我らはきっと勝てる。また勝ちを見込まぬ戦はしてはならぬ気がするというものだ」赤尾美作守はそう云って、元気を奮い立たせる。
 長政らは越前と組んで、連合し、九千の兵で摂津に乗り込むことに決めた。軍を二つに割って、主力は琵琶湖の西側から進み、残りは、今浜から船を用いて、坂本口に進む。
 九月ということでそろそろ冷え込みも厳しくなってきている。
 琵琶湖西岸の浜にはいくつもの松が植わっていて、その葉は青々としていたが、その反対の西側の山脈は色とりどりに、それこそ、赤に黄に橙にと樹々の葉が染まっていて、秋という季節を思う存分、主張している。そんな風景にも目をやりながら、浅井・朝倉軍はその日のうちに、比叡山までの道程を走破する。
 比叡山延暦寺の僧兵たちも、本願寺と同じ仏門であるという関係から、宿舎や糧食などの手配をしてくれて、兵士たちは十分な歓待を受け、それに満足した。
「比叡山に入るのは初めてであるからのう」
 長政は遠慮がちに述べた。
 赤尾が答える。「我らは武門であり、これでもかというくらい人を殺しておりますが、それでも受け入れてくれる仏法というものは深甚であると思えてなりませぬ」
「延暦寺は天台宗の寺ですな?」海北綱親が訊ねる。
「はい、左様でございます」食事中、話の相手をしている僧侶がそう答えた。
「天台宗は、真言宗とならんで、その開基は浄土真宗などよりもさらにさかのぼることができるというもので、そこに素晴らしい機縁を得られたと、私は強く思うております」
「そうですか」
「儂の家は浄土真宗でありますが、天台宗というものは、とても由緒正しい信仰であると思うております」
「それはそれは」僧侶は嬉しそうにほほ笑んだ。
 観ると、その僧侶はそれほど高い身分ではないものの、どことなく、思いやりを含んだ、柔和な態度の取れる人物で、長政は一目で好感を覚えたのだった。
「天台宗は最澄様が開かれたのでしたな」長政も自分の知識を披露する。
「左様で」と僧。
「天台宗は顕教、真言宗は密教と云われまするが、実際、顕密どちらの道が優れておるのですかな?」長政は物事の根本を問いただした。
「どちらが優れておるか――でございますか……。それは難しい質問にございますな。――万人に同じように教え諭すなら、経文という、目で見えるわかりやすいものがあってこそという気がしますが、より深いところまで意識を巡らせ、悟りを得ようと思うなら、密教的な問題をいくつも考えなくてはならなくなるでしょう。その昔、最澄様と空海様は同じ船で支那に渡られましたが、そのときからお二人は後に得るであろう宗派の違いを超えたところで理解しおうていらしたと思います」僧はそう告げて、また何か語ろうとした。
 そのとき海北がまた口を出した。
「しかし、伝教大師様、弘法大師様には因縁深き問題があったのではなかったですかな?」
「それでございます。それをいま語ろうと思うておったところにございます」
「左様か――」
 海北はほっと息を吐いた。
「最澄様はあるとき、空海様に経典を貸してほしいと仰ったそうにございます」
「ほう」長政はその話は初めて聴いたのだった。これからどんな展開になるのか、気になって、聴く意識もしっかりと保持して待ち構える。
「一度目は空海様も素直にお貸しなさったそうにございます」
「ふむ」長政はこの話がどこへ転がっていくのか気になった。
「そして、二度目に同じように、最澄様は空海様に仰ったそうです。『○○なる経典をお見せ頂きたい』と。しかし空海様はこう仰った。『それを貸すわけにはいきません』。最澄様は訊ねられました、『どうしてでございます?』。『修業は経典のみでなすものではないからです』と空海様は仰る」
「ほう」長政はその話にどんな含蓄があるのか、気になった。
「つまりです、そこに、顕なるものと、密なるものの違いが如実に表れていたのだと思うのです。これは後世の人間の弁ですが、最澄様は経典を読めばそれでしっかりとした叡智を得られると思われていたのでしょう。しかし空海様は、修行を伴わなければ、如何にありがたい教えを頂戴しても、その志が曲がっていってしまうことがあるということをよくよく承知なさっていたからこその、経文の貸出の拒絶であったということなのです」
「なるほど――」長政は溜息をつく。
「これには様々な憶測もございますが、やはり、顕と密は同じ事柄の裏表という気がしてなりません。どちらが上で、どちらが優れているというものではなく、どちらも重要であるということが、この数百年間をしっかりと亘ってきた天台宗と真言宗の二派の存在の確かさからもうかがえるのではないでしょうか」
「なるほど、そういうことか」長政は膝を叩いた。
「しかし、仏門にもいろいろあるのですな。我ら武門のものとはまた異なる人生がそこにはあるのだということが理解されるというもので――」海北綱親はそう云うと、顔をほころばせた。
「長々とこのような話をしてしまい申し訳ありませんでした」僧侶は謝る。
「いやいや、良い話を聞かせて頂いた。我らは嬉しゅうござる」長政はそう云って僧侶の心を慰撫した。
「ではそろそろ僧正が参りますので、私はこれにて失礼いたします」
「かたじけない」長政は声をかけた。
「なかなか気さくな感じの僧でございましたな」
 美作守は嬉しそうに云った。
「ほんに、左様であるな」
 長政はふっと笑んだ。
 それからしばらくして、立派な身なりの僧侶が姿を見せた。これが僧正なのだろう。僧正は長政に恭しく礼をして、近くに座して声をかけてくる。
 長政はその歓待を受けながら、酒を一献、二献と受けていく。
 話はいつまでも続くように思えて、きりがなかった。
 いつしか、料理もすべて食べ終え、酔いも強く回ってくる。
 風呂に入り、用意された部屋にて横になる。
 長政は室にひとりあって、考えを巡らせた。
 ――あの信長殿とのまたの戦。結局、我らは抗することしかできぬのであるな――。長政は深い憂愁の淵に立たされているような気がした。それは、いま鳴き交わしている、小波の沖を洗う音のような、虫たちの合唱がいざなう感情の迸りなのであろうか。長政はしみじみした気分になって、もうこれ以上、考えるのはやめておこうと心を律する。しかし感情はそんな決意など無残に流すかのように、気を抜けばすぐ、心の中に押し寄せ、領し、居座ってしまう。長政は唇を噛んだ。どうしてこんなに悩まなければならないのか。それが気になって、眠れぬ夜を、虫の声に耳を澄ませることで慰めようと試みる。やがて長政は眠りについて、長い秋の夜長を乗り越えていくのだった。


25 :蒼幻 :2011/01/08(土) 12:38:46 ID:tcz3skkHkc

     *

 比叡山を出て、九月十六日の昼、浅井長政、朝倉景健らは、日吉神社祠官樹下家の屋敷に本陣を置き、今後の作戦を検討した。
 京へ向かうにはここから進むと、宇佐山城に突き当たる。そこには、信長の弟信治と森可成がいるはずであった、小高い山の山頂という、なんとも嫌な場所に位置しているのである。
「どうするべきですかな」長政はまず、景健に訊ねた。
「うむ」朝倉景健は声をあげる。「いかに高みに城が位置しているとはいえ、物見の報告によれば、手勢は少ないとのこと。ここは普通に城攻めの要領で向かえば、特に危ういこともないのではありませぬかな」
「そうですな」長政も同意する。「美作、そちはどう思う?」
「はい。お二方の意見に従うばかりでござる」
 美作守も毅然とした態度でそう述べる。
「よし、では明日、城を攻めると致そう」
 明けて十七日、長政は手勢約千人と云われる宇佐山城に対して、足軽百余人を進発させて、様子を見た。と、城からは、森可成に率いられた二百が出てきた。そこでつばぜり合いがおこる。つばぜり合いといっても、立派な殺し合いではある。双方十余名の死者が出たのであったが、それ以上の被害は生まなかった。
 十九日、浅井と朝倉は全軍を持って、宇佐山城を攻めた。
「それ、敵は寡勢ぞ! ひるむな、行け、行けえい!」赤尾美作守はそう云って、味方を叱咤した。
「うむ……これはなかなかいい戦であるな」と長政は感心する。
「混戦にはなっておりますが、このまま行けば、まず、負けることはありますまい」美作守がそんなことを口にするほど、陣中には余裕があった。
 と、戦もたけなわとなってきたとき、戦の趨勢を決める決定的な出来事が出来[しゅったい]した。
 この日の戦にはこの前の通り、森可成が陣頭に立っていたのである。森可成にしてみれば、この寡勢で城に閉じこもって籠城作戦をとれば、全滅の憂き目をみるのは明らかと思えたのであろう。それがために、この日は三百人ほどを率いて、上坂本まで出て来ていたのである。
 その大将首を狙って、さまざまな有意の武士が、森可成に向かっていく。
 そして、朝倉の先鋒の石田十蔵が森可成を討ち取ったのである。
「我は朝倉が家臣、石田十蔵なるぞ。ここに宇佐山の森可成を討ち取ったり!」
 その声は味方の覇気を鼓舞し、敵方の士気を減衰させた。
「ようやった」赤尾美作守はその知らせを聞いて喜んだ。「これで勢いは完全に我らのものとなりましたぞ。あとはじわじわと攻めていくだけにござる」
 森可成というのは、森蘭丸の父である。四十八歳であった。
 森が討たれたと知って、しばらく城に籠って成り行きを見ていた城将の織田信治は、城を取り巻きはじめた浅井・朝倉軍を見て、打って出てきた。
「我は織田信治なり。浅井・朝倉のこわっぱが何をしようというか!」
 そう云いつつ、勢いよく出てきた信治は、青地茂綱や尾藤源内、尾藤又八、道家清十郎などといった部将と共に勢い盛んに浅井・朝倉に抗しようと張り切る。
 しかし、一度傾いた戦の趨勢を覆すことは難しく、彼等は次々と道塗にまみれていくのだった。朝倉方の斎藤与五郎や佐藤弥四郎などといった部将が手柄をあげていく。
 結局、城から出てきた織田勢はすべてねじ伏せることに成功した。
 が、肝心の宇佐山城は残った兵士が意外に奮闘し、攻め落とすことは難しいという判断から、そのまま捨て置き、近くの村などを放火したくらいでとどめて、長政は押さえの兵士を置き、大津、逢坂山へと進んで行った。

     *

「ここらで少し進軍を抑えるべきですな……」海北綱親がそう進言したのは、逢坂山に差し掛かったときだった。
「いったいどうしたのだ? 普通なら、このまま織田の背後に回って、進軍するの一手しかないであろうに……」赤尾が声を張って訊ねる。
「もちろん、それも一手です。しかし、あの信長を侮ってはならないというのが私の意見です」
「うん?」
「考えてもみてください、これまでの破竹の勢いの信長が我らのこの進撃をそのまま見過ごすわけがないではないですか」
 赤尾は考え込んだ。「そうかも知れぬな」
「ならば、我らはこの先、平地になる場所へ向って進軍するより、一旦、道を引き返して、そこで織田の軍勢を待ち構える方が有利であると思われるのですが――」
「なるほど」長政も綱親の言葉に納得する。
「ならば、綱親はいったん、比叡山まで引いた方がいいという考えなのだな」赤尾が訊ねる。
「左様でござる」と海北が云う。
 と、そこへ伝令がやってくる。
 伝令の伝える内容は、いまの綱親の言葉を裏付けるような内容であり、一同は綱親の慧眼に驚かされることとなった。
 つまり、織田軍が摂津での戦を切り上げて、こちらへ向かおうとしているということである。
 その知らせを受け、長政たちは決断した。
「いったん、比叡山まで軍を引いて、そこで迎え撃とうぞ」
 その命令は全軍に通達されて、朝倉方もその作戦の利に納得した。
 二十四日、信長は京の本能寺を発ったとの知らせが舞い込む。
 長政は思った。
 ――このまま進撃していたなら、何の用意もないまま、織田軍と戦う羽目になっておったな。さすが綱親。見事な作戦だ……。
 織田軍は逢坂山を越えて、坂本に進撃してくる状況である。
 浅井・朝倉軍は、比叡山の敷地内に入り、そこで、東塔の近くへ上らせてもらうことにした。そこから壺笠山、青山鉢ヶ峰という形で防衛陣地を作り上げ、織田軍を待ち構えた。
 織田軍は眼下に迫っていた。

     *

「浅井・朝倉は山の上に陣を敷いておりますな」
 羽柴秀吉はそう告げると、信長の反応を見た。
 信長は苦り切った表情で、山上の陣の方を見ている。
「ぬう、山猿どもが何を集まって作戦を練りおるか。生意気じゃ、生意気じゃのう」信長はそんなことを告げて、青筋をぴくぴくさせている。
「如何致しましょうか――」秀吉は叱られるのを覚悟でそう訊ねる。
 信長は意外に冷静だったことが次の言葉でわかる。
「書状じゃ、書状をしたためように」
「はっ。書状でございまするか」
「そうじゃ」
「浅井・朝倉に対してでございますか?」
「なにを戯[たわ]けたことを。そんなことをするはずがあるまい」
「すみませぬ」秀吉は頭を下げた。
「書状は比叡山に向けてじゃ」
 信長は冷たい視線を秀吉に向けた。
 書状には話があるゆえ、直接我が軍に来てもらいたいということを記したのである。
 即刻、その書状は比叡山側に渡された。
 それを見て、比叡山の僧侶約十名が姿を見せる。
 どれも年季の入った老僧で、それなりの地位にあるものと見える。
 信長は直接会わず、彼等に会ったのは佐久間信盛であったが、信盛は信長の云う通りを伝えた。
「よう来られた。御坊方。これより、主君信長の言葉を伝えるゆえ、お聞き下され」
「うむ」老僧のひとりが頷く。
「『もし、あの山上に籠っている浅井・朝倉に味方する気持ちを捨て、我らに味方してくれるなら、織田の領国の中の山門領はすべてお返しいたそう。もしどちらにも味方できないというのなら、中立の立場を貫いてもらいたい。もしこのどちらの申し出も受け入れられないと云われるなら、残念ながら、そなたらの修行の場である叡山を火攻めにして焼き払い、僧俗みなごろしにして、一人たりとも生きては返さぬであろうと覚悟されたい。』以上が主君信長の言葉でござる。さあ、いろいろと考えもござろう。寺へ帰られて、今後の身の振り方を考えられよ」
 佐久間信盛はそう告げると、さっと身をひるがえして、奥へと消えた。
 信長の陣中から出たとき、老僧たちは顔を上気させていた。
「あの尊大な物言いは何だ!」
「我らをなんと心得ておるのだ、まったく!」
「許せませぬな」
 老僧たちは考えることなく、その場で即答したいほどの気持ちを持っていた。
「なんでも思い通りになると思いあがっておるのだろう。ここはがつんと云ってやらねばなりませぬな」
 一同の中でも最も位の高い僧が何も云わずに押し黙っている。
 喋っているのは比較的年若の僧侶――といっても、寺内の他の僧侶に比べれば十分歳がいっているのであるが――であり、彼等の声は、どこで聴いているか分からぬ信長軍を恐れての低声であったわけだが――。
「うむ、我らの身の振り方は管主に訊いてからに致そう。ここでやいのやいの云っていても一向に話は進まぬであろうからの」
 年季の入った僧侶がそのように告げ、それ以上、他の僧侶に何も云わせなかった。
 僧侶たちは坂本から比叡山に向かって歩いて行く。
 時期は夕刻になろうかと云う頃合いにて、秋の虫が涼やかに鳴き交わしていた。野はまったく穏やかにこれは鈴虫、これは蟋蟀[こおろぎ]といろいろな音色がしている。仏教で云う寂静の境地を体現しているように思えて、一同は冷厳な雰囲気を胸に得たのであったが、そんななかにあっても、やはり気になるのは信長の余裕であった。
 自分たちの非を詫びるどころか、おごり高ぶって自分の増長慢を威猛高に告げてくる彼等の厚顔無恥な態度に心を乱されたのである。いったい仏を何だと心得ているのか。至大無碍の仏の精神をまったく無視した己が欲のみなぎり、それを露わに見せられた先の会見。それは己の欲を満たすためだけの自慰的な行為であったと見るしかなく、きっと仏罰が下るであろうと思えるものだったが、いったい、彼等はそのことに思い当っていたのかどうか。
「信長は我こそ正義と思うでおるのではありませぬかな……」一人の僧侶がそんなことを述べる。
「それは数国を統べる統領である大名のこと。自分のことを正義の側にあると思うておらねば、何も手につかぬというのは分かる気がするが、果して、それだけであろうかのう?」
「と、仰いますと?」
「つまりじゃ、信長は自分の思いの正しさを信じて、様々なこれまでの行為をなしてきたということであるのかということじゃ」
「うん?」
「わからぬか? つまり、自分の行為の善悪にこだわることなく、自分の欲望をこれでもかと湧出させるためだけに、いままでのこの行為を為してきたのだとしたら――それはもう十分、仏罰に値するのではないかのう?」
「仏罰――」僧侶はその言葉の響きに恐れ慄いた。
「性根正しからざる者は必ず、仏の罰が下る。これは因果応報の原理から少しも出ておらぬであろう。であるから、心配する必要はない。きっと我らに光明が見えるのは、この言葉のある故であろうからな」
「なるほど」
 そんな話をしながら、僧侶たちは比叡山に帰って行った。

     *

「我らは仏を讃仰するものとして、仏に危害を加えようとする信長に天誅を与えんと欲するものである」
 そんな意思を明らかにしたのは、僧侶たちが叡山に帰って翌日のことであった。
 信長の怒りを買うことは当然意識の片隅に上っていたが、しかし、そんなことを気にしているほど、叡山の僧兵は穏健ではなかった。すでに、信長との徹底抗戦は覚悟の上との考えであったため、その考えを表にさらされても、僧兵たちはまったく動じなかった。
「尾張の子侍どもが何を云うておるか! 我らは仏を信仰する神兵なるぞ、信長など蹴散らしてしまえ!」
 やや乱暴に過ぎる言葉を、叡山の高僧は告げた。
 信長との徹底抗戦が始まる予兆であったが、僧侶たちはまだその戦を軽く考えている風があった。
「信長は時勢に乗っておるだけに過ぎぬ。我らはあいつに仏の力を思い知らせるによって、正義の道を貫きましょうぞ!」
「そうじゃ、そうじゃ。我らは正義であるによっての」
 僧侶たちの声を聞いて、管主の尊朝は眉をひそめた。皇族出身者として、表だっての戦は求めていないということの証であったが、しかし、そんなことを気にしても、僧侶たちの気の昂りは、もはや、抑えきれないところまで進んでいた。
「管主様、これはもう寺の総意として受け入れるしかありませぬな」
 尊朝は弱気そうに眼を細めた。寺の者がこんなに熱くなるなど、これまで考えたことがなかったのである。確かに、いままでの訓練の身の入れようを見れば、そう云うこともあろうかと思えるほどではあったものの、表だって権力たるものに楯つこうとする意思を見せたのはこれが初めてであった。もっとも信長は尾張一国を領土としていたころから、伴天連の教えを受容する態度を見せ、この国にずっと浸透していた仏教的な物事を軽視する態度を見せていたため、そういうこともあって、僧侶たちの不満が爆発したと見ることができるのだった。
「信長よ、目にもの見せてくれるわ」そんな気焔を吐く僧侶もいる。
「我らがなぜ、この数百年間、この寺にて、権力の座にあったかを見せてやろうに」そう己を鼓舞する僧兵もいる。
「よし、我らは戦いを始めようぞ」
 叡山の僧兵は一丸となったかのように、掛け声を和した。
 その態度を見て、織田軍は坂本の近くの、例の宇佐山城に陣を敷いた。

     *

「本願寺顕如殿が動いてくれたようにございます」
 海北綱親は肩の力を抜いて、長政に告げた。
「うん?」
「江南の一揆衆が信長に対して叛旗をひるがえしてくれたおかげで、我らも作戦をやりやすうなったわけでござる」
「そうか」
「顕如様は、信長と徹底抗戦の構えのようにござる」
「そのようだな」長政は綱親の話を聞いて、納得する。
「やはり、浄土真宗の力は侮れぬものがありますな」
「うむ」
「で、長政様」
「なんだ?」
「六角承禎がまた戦線に復帰したようにございますぞ」
「そのようだな」
「御存じでしたか」
「ああ」
「で、承禎は江南の一向一揆衆とともに、信長と戦うことを決めたようで、いま宇佐山城を攻めている最中であるとのことにございます」
 海北が長政に話しているときに、余所へ行っていた赤尾美作守が戻ってきた。
「なんの話を致しておるのか?」美作守は訊ねる。
「六角のことだ」と長政。
「そう、六角にございます」海北綱親は嬉しそうに云った。
「六角でござるか――また我らと共に戦うことになるとは、因果なことにございますな」美作守は告げる。
「それを云ってはならぬだろう」と長政。
「左様左様」海北も云う。
 三人はこの比叡山延暦寺の裏という立地で身動きをせず、信長の動きを牽制する役目のみを持っている軍を持て余し気味に、今回のこの作戦に加わってくれた一向一揆衆や六角氏のことを話して気を紛らせていた。
 いまこの近江には信長の勢力が様々なところに場を占めていた。
 例えば、観音寺城に近い長光寺城の柴田勝家。
 例えば、先の戦いで信長の支配する所となった横山城の羽柴秀吉。
 彼等も視野に入れて戦わねばならぬ分、状況は逼塞していたが、しかし、そんな中で六角が味方に付いてくれたのはありがたかった。
 そんな話を長政達は交わして、気を紛らせていたのだったが、その状況をがらりと一変させるような出来事が起こってしまう。

 ――つまり、六角承禎・義治と信長との和睦である。
 十一月二十一日のことであった。
 六角が矛を収めたことを知った長政達は落胆の色を隠せなかった。
 確かに柴田勝家や羽柴秀吉は自城の近隣の地を放火したり、襲ったり、さまざまな被害をもたらしたが、しかし、この時期に六角が戦線離脱するとは、まさしく、寝耳に水であった。
 なんといっても、信長との抗戦は各地に飛び火し、伊勢長嶋で一向一揆が勃発、摂津、河内、山城などでも、三好三人衆や一向一揆が立ちあがり、信長を追い詰めようとしていたのであったから。
「えい、これだから、六角は駄目なのだ」赤尾美作守はそう嘆いてみせた。
 確かに六角の腰砕けはあまりにも不甲斐なさすぎる。一度抗戦を決めたなら、初志貫徹してこそ正義だというのに、それができない六角はこの戦の世にあって、領地を失っても仕方のない大名であったのだ、とやや過激に寄る批判を加えて、溜飲を下げた。
 十一月二十五日、信長は堅田城に入った。
 堅田城は猪飼正勝が守っていたが、六角の和睦を聞いて、城を開け放ち、信長軍を迎えたのだった。
 信長はこの堅田城に坂井政尚らの千余人を入れて、敵に抗する構えを見せる。
 浅井・朝倉軍はこの城を取り返すために信長と抗戦を開始した。
 一進一退の攻防が続き、両軍に夥しい数の被害が出る。
「堅田城はなんとか我らの手に取り戻したいところでござる」と赤尾美作守はしぶい顔をした。「ここを取らねば、比叡山とは目と鼻の先、これから我らが勝利を収めて引いたとしても、ここを取られたままでは、また、いつ比叡山に手出しされるか分かったものではないですからな。ここを、長光寺城や横山城のようにするわけには参りませぬ」
「そうだな」長政は短く答えた。
「それにしても、敵軍の士気の高さは異常でござる」もう一方の傍らにいる海北が告げる。「ここは城兵を誘い出すのがいいかもしれませぬな」
「というと?」赤尾美作守が期待する様子で訊ねる。
「城に収まらずに野戦に出ている兵士がかなりの数おります。それを逐一倒していけば、きっと城兵は我らを衝こうと、城を出てくるはずです。そこを狙えば、きっと作戦はうまくはまるでしょう」
「なるほど」長政は納得する。
「何も攻めにくい城を攻めるのではなく、おびき出せばいいということですな」美作守も納得する。
「よし、それで参ろう」
「では、戦っている将らにそのことを告げてきましょうぞ。おい、伝令係はおるか? ここへ」

     *

 浅井・朝倉軍が信長の部隊をちくちく攻めていくと、堅田の織田軍はたまらず城中から出て来て、抗戦を進めるのだった。
 しかし、浅井・朝倉軍は終始有利にことを進める。
「それ、目に見える敵を根こそぎ討ち滅ぼせい!」
 朝倉景健はそう告げて、自軍の兵士を鼓舞する。
 織田軍は数に於いて勝るものでもなかったため、甚大な被害を得る。
「増上慢の敵を討ち滅ぼすのだ。それ、いけ、いけい」
 景健はなおも続ける。
 増上慢という言葉は、比叡山兵が使っていたのを横聞きしての使用であった。まことに真実を得た言葉であると、彼は思っている風であった。
 戦いは長引き、その間に、坂井政尚、織田甲斐守、浦野源八などといった将を含む多数を討ち取り、織田方に甚大なる被害を及ぼした。結局、敵軍は堅田を去って、無事、反信長派の側に堅田城を取り戻すことができたのであった。城主猪飼正勝はなんとか逃げ延びたのであったが――。

     *

 堅田で敗れた信長はここでひとつの計略を用いることにした。
 信長だけに許された特権。
 つまり、天皇の綸旨の奏請である。
 信長はさっそく京に上り、将軍義昭を動かして、天皇の綸旨を手に入れさせた。その頃は、すでに信長と義昭の間には冷たいものが混じっていたのであるが、それでも、義昭には表だって楯つくだけの度胸もなく、信長のいいなりになったのであった。
 義昭は天皇に奏上して、無事、綸旨を手に入れてくる。
 信長はそれを受け取り、使者を出して、比叡山と浅井・朝倉軍に矛を収めさせた。
「天皇の権力を動かすなど、政治の私物化ではござらんか?」
 海北は特にむきになって反発した。
 しかし天皇と云う存在はあまりに大きい。凡愚の身には手を出せない神聖なる領域である。
「仕方ない、いま天皇を動かせるのは、信長くらいのものであるからの。ここは引くと致そう」赤尾美作守も弱気に云う。
「しかし、悔しゅうはないのですか?」
 海北はなおも云い募る。
「悔しいという気持ちはある。しかし、わが軍にとっても、この和睦はありがたいものであると思えるのだがな」
 美作守は含みを持たせるような云い方をした。
「というと?」
「信長自体を討つことはおそらくいまの我らには不可能であろう。そして戦が長引けば、兵が疲弊していく、近江の各地が襲われる、国土が弱体化していく、いいところのまったくない戦になってしまうと思えるのだ」
「うむ」海北は納得する。
「綱親ほどの知謀の士がそんなことも意識しておらぬとは少々意外であるが――」
 美作守はそう続けた。
「申し訳ない。いろいろと考えていたゆえ、なかなかそういう意識が向かなかった」
「なるほど」
「しかし、信長とはいずれ決着をつけねばなりませぬぞ。このまま野放しにしておけば、きっと信長はもう手のつけられない巨大な勢力となるであろうからの。であるからこそ、比叡山や本願寺や三好と手を組んで、協力して抗戦するという今回の作戦で信長に甚大なる被害を及ぼすことこそ、肝要であったというに、それができなんだは、とんだ失態というものでござる」
「う――うぬ」美作守は綱親の云うことがわかるだけに、言葉をくぐもらせて、呻いた。「これも仕方のないこと。次の機会には必ず、という思いだけ持って陣を引くと致そう」
 長政は二人の会話を黙って聞いていた。
 と、その会話の途切れた合間を縫って告げる。
「なに、機会は今回だけではない。しっかりと敵を見据えていけば、必ず、隙が見えてこようぞ。そこを狙うて行けば、世に磐石という文字は如何に用心してもないということを知らせてやろうに」
「左様でござるな」赤尾美作守が納得する。
「うむ」と海北綱親も答える。
 寒い冬の一日のことであった。


26 :蒼幻 :2011/02/03(木) 00:50:34 ID:tcz3skkHkc

第十三章 磯野、無念

 佐和山城主磯野丹波守員昌は正念場を迎えていた。
 いつ攻めてくるか分からない敵の威圧を感じながら、食料が乏しくなり、兵士の士気は下がりに下がって、当てにしていた小谷への援軍の要請の返事が待てども待てども来ないのである。長政様は我らを見限られたのか、と思えてならぬのであった。
 が、そこには横山城の羽柴秀吉の軍師竹中半兵衛の知謀があったのである。佐和山城は浅井の本城小谷城からは軽く数十里離れており、そんななかで連絡を断つことは秀吉方にしては簡単なことであった。それによって、琵琶湖沿いと街道沿いの連絡路を断ち、半兵衛は佐和山城を孤立させることに成功したのである。
「磯野殿、このままでは我らは餓えてしまいますぞ」
 磯野の下で働いている部将がそう告げてくる。
「わかっておる、わかっておるが、この状況、どうすることもできぬであろう」
 磯野は佐和山城の天守から琵琶湖の沿岸を眺めた。
 眼下には湖の景観が見えるが、その手前の平地には秀吉の軍が蟠っている。
「えい、あの兵士どもをひと思いに殺せれば、どれだけ気分がいいだろうなあ」磯野はそんなことを告げて、肩を落とした。
 姉川の戦いは磯野にとって大変な損害であった。あれほど心逞しくして敵軍に当たったというに、その甲斐もなく、全軍撤退と云う憂き目を見た。磯野隊は敵軍をまっすぐ突破して、守城である佐和山城まで一気に駆け抜けたのである。
 以来、佐和山は、織田軍の徘徊する土地に、孤島のように取り残されている状況であった。
「磯野殿、なにやら、織田軍中から使者が参ったようにございますぞ」
「使者とな?」
 磯野は怪訝そうに眉をひそめると、その使者に会うために、階下へ降りて行った。
「よう参られた。で、何用か?」
 使者は軍装ではなく、紺の寛衣に身を通していた。
「磯野殿、我らは貴殿の武勇に讃嘆の意を述べることを惜しむつもりはありません」
 使者はまず、そう述べて、磯野の心を甘い言葉で誘おうとするかに見えた。
「うぬ、それで?」
 と、磯野はじろっと使者を見る。
「はっ。それででござるが、我ら羽柴秀吉隊は総勢千名になろうかという軍隊。そちらの兵士は一方、数百という寡勢でございましょう。ですから、もし本格的な戦になれば、我らの方が有利ということになってしまいまする。そこまでは簡単に理解していただけると思うのですが――」
 使者は高圧的にならないように工夫して喋っているように、磯野には感じられた。
「確かにそうかもしれぬな」と磯野は納得する。「しかし、だからと申して、どうするというのだ? なにか提案があるということか?」
 磯野員昌は使者に視線を据える。
「はい、我らは磯野殿に降服を勧めに参りました」
「降服だと?」磯野は意外な言葉に驚いた様子である。
「我らの望みは磯野殿の命ではなく、この佐和山城の攻略でありますゆえ、そこさえ譲っていただければ、あとは何も望みませぬ。それにわが主、秀吉様は貴殿の武勇の才能を儚んでおられる。もしよろしければ我らの側について頂きたい。そうであるなら、たっぷり褒美をはずみますし、優遇いたそうとの仰せでありました」
「ほう……」磯野は興を得たようにほほ笑んだ。それから俄かに顔を変化させて、怒りを発した。「この磯野をお見くびりのようだ。儂が報酬や待遇くらいでほいほいと靡く武将であるとお思いか? 許せませぬな。そんな申し出をうけるわけにはいかぬ。しかし、儂とて、仲間の兵士が死んでいくのを見たいわけではない。織田方につくことは出来かねるが、佐和山の引き渡しには応じることにいたそう。そのこと、秀吉殿にしかと伝えるがよい。しかし、そなたらの仕える部将は恐ろしいのう。いや、軍師竹中半兵衛殿の策略というものでしょうな。うむ、儂は感服いたしておる。甘い言葉の利く相手にはなんの憚りもなく、遠慮もなく、すっと甘い言葉を投げかけてくる。ほんに恐ろしい……」

     *

 桜の季節である。美しく着飾った娘のように、花は艶やかで、妖しくて、人の心に魔のように取りついて離れないものがある。風が吹くと三枚、五枚と花弁が散っていく。
 そんな風流な景色の中で、この佐和山の近くにて、織田方との調停が結ばれようとしていた。磯野が提案したのである。城を明け渡すことを条件に、磯野と織田の間で互いに人質を出しあい、約定に違反することがないように心定めんとするものである。
 織田方からはお菊という信長の娘が、そして磯野側からは磯野員昌の娘が出された。磯野は必要な取り決めをすべてのみ、約定が成ったところで、佐和山を後にした。あとには何も残さず、一路、小谷へ向かったのであった。

     *

 小谷は紛糾していた。
 磯野が城を無条件で明け渡したとの噂でもちきりであった。
 また、佐和山側に送った伝令がまったく戻ってこないのも、一同に不信の念を抱かせる原因となっていた。
「磯野は何か我らに不満を持っておるのでしょうかな?」ある家臣が声を上げる。
「いやいや、磯野ほどの勇将があったからこそ、これまで浅井家は安泰であったのでござる。それを一度や二度、不備があったくらいで責めるというのは酷と云うものではござらんか?」
「しかし、佐和山を失えば、我らの力が弱まるとみるしかないのではあるまいか。何しろ、犬上の近隣はほとんど信長方に制圧されておるし、そうすると、信長はきっと我らの狭い土地を攻略することを容易と見て、さらに攻勢を強めて参るでござろうからな」
「しかし――」一同の中でひときわ大きな声で云った者がある。他ならぬ、赤尾美作守である。「織田方はなりふりかもうておりませぬな」
「うむ」長政が答える。
「天皇の綸旨によって停戦の要求をしたのは信長であるというに、その信長自身が、そのほとぼりもまだ冷めぬうちに、佐和山に攻め込んでくるなど、まるで道理の立たぬ話でございましょう。儂はあの男がだんだん許せんようになってまいりましたぞ」
「だんだん、ということは、以前はそうでもなかったということか?」
 長政は自分の意見を代弁してもらっているような気がして、美作守に話を振った。
「今は亡き遠藤が頻りに、信長許すまじと唱えておったことを思い出しまする」
「ふむ……遠藤は信長殿を嫌うておったからのう」
「左様でござる。しかし、いまは、遠藤の考えに賛成したい気持ちに傾いておりまする。数で勝っているのだから、正々堂々と戦えばいいものを、こうして将軍やら天皇やらを動かして、賢しげに動き回る。これは意地が悪いというしかありませぬ」
「なるほど」長政は美作守の話に納得する。
「で、磯野の処遇ですが――」
「ああ」と長政。
「いまこの小谷に向かっておるとのこと、いかがなさいますか?」
「そなたはどう思うておる?」
 美作守は顔を曇らせた。「うむ。これまでの戦に功労のあった部将である故、なんとか勲功に免じてお咎めなしといきたいところですが、そうはいきませぬよな?」
 赤尾美作守は主君長政の顔をじっと見た。それは何か言葉には出てこない面を図ろうとするような、一種の観察するような視線であったが、長政はそのことで心を変えようとするようなところはない、芯の強い面を見せている。長政は声に出す。
「儂は、磯野を許すわけにはいかぬ」
 長政は冷然と云い切った。美作守を始めとする親磯野派と読んでもいい将らは、顔を曇らせ、そして目を伏せた。
「殿、お願いいたしまする」と告げる部将、
「我らの希望として磯野は残すべきです」と告げる部将、
「ここで磯野を失うは、もったいないことにございます」と告げる部将、
 さまざまであった。
「磯野は人望もありまする。ここで無下に切り捨てることだけはおやめになったほうがいいと存じまする」赤尾美作守はむきになって云った。
「いや、許すわけにはいかぬ。佐和山がいかに重要な拠点であるか知らぬそなたではなかろう。佐和山を失うということは、郡をそっくりひとつ失うことと同義であると見ねばなるまい」
 長政の心中の怒りには凄まじいものがある。美作守はそれを如実に感じ取ったのか、それ以上、言葉を発することができなくなった。これよりさき、いかに諭そうとしてみても、議論は平行線をたどるあろうことが目に見えていた。
 そのとき、小谷に磯野の軍勢が戻ってきたという知らせが入った。
「磯野は小谷に入れるな。追い返せ。抵抗するようなら、脅しても構わん」
 それは穏健な雰囲気をいつも漂わせている長政には常に見ない感情の迸りだった。なにが長政をここまで駆り立てているのか? それはきっと長政自身にもわからなかったことである。遠藤を失い、磯野が意のままにならず、不満ばかりがつのる戦であった。もちろん、比叡山に立てこもったときの信長との戦いに於いて、磯野がまったく兵を拠出しなかったことが尾を引いていたといえばそれまでだろう。しかし、それも心では分かっているのである。磯野のあの姉川での合戦のときの働きぶりを見れば、軍に相当な被害をこうむっていたこともうなずける。しかし自分の軍に勇将がいれば、いつもその将を手元に置いて、駒として使っていたいという欲望は、人の上に立つものなら、誰でも平等に持つ感情ではないか? 長政はそんなことを考えながら、自分の思いがまったく不純なものであることに気づかずに、ただ磯野が出兵しなかったその一事をもって、いけすかない奴である、との思い込みをしてしまっているというのが実情であった。
 赤尾美作守もそこまではうっすら分かっていても、それを表だって指摘すれば、きっと自分と主君との仲がこじれると思っているのであろう、まったくそのことを口にする気はなさそうであった。
「本当に、それでよろしかったのですか?」
 美作守は訊ねる。
「ああ、こういうことはきっちりしておかねば、示しがつかぬからな」
 長政はぴしりと云う。
「そうですか。熟慮の末のことなら、もう何も申しますまい。しかし、これによって、我が浅井軍は着実に弱体化致しましたぞ」
 それこそが、美作守の云える、たったひとつの抵抗であり、また真実であった。
 ――皮肉と取られてもいい。美作守の言葉にはそういう感情が籠っていたのであろう。悲しげな眼差しをしつつ、美作守は一同の顔を眺めた。中にはあからさまに不服に思っている者もあるようである。
 人心掌握の面では、この磯野の罷免は、とてつもない欠点を露呈することになるに違いない。しかし、それを乗り越えて、一致団結してことに当たっていくようにしなければ、これからの浅井家はないと思うしかあるまい。
「長政様」美作守は訊ねる。
「どうした」と長政。
 長政には一抹の不安があった。磯野を一方的に切ったことに対して、罪悪感を覚えていたのである。やはり長政とて、これまでの磯野の功労をないがしろにしようという気持はなかったのである。
「辛い所でございますな」
 美作守は肩を落として云った。
「ああ」と告げる長政のもとに伝令がやってくる。
「磯野丹波守様に殿の言葉を伝えました」
「首尾はいかがであった?」と長政。
「磯野様はそのまま去られました。一言伝えてほしいと云われた言葉がございます」
「なんだ?」
「『磯野は忠義のためにやったのです。それは御理解下され。』それだけでした」
「そうか」
 長政は表情を曇らせ、そして、深い憂愁に打ち沈むような様子を見せた。
 元亀二年の春のことである。

     *

 その年の夏、五月のことであるが、本願寺の勢力が江北の地で策略を企てた。
 もちろん、策略を行うは、打倒信長のためである。
 顕如は子息である当年十四歳の教如を従えて江北にやってきた。
「なかなか自然の豊かな面白き土地であるな」と顕如は初めて見る江北の土地に目を奪われた。
「そうでござるな。しかし、私は石山の方が好きにござる」と教如が云う。
「うん?」
「人がある程度おる方が、落ち着くというものでして」教如は笑んで見せる。
「うむ……確かにそれはあるかもしれぬ」顕如もそれに同意する。
「さて、我らはここに一揆を指揮するために参ったのだぞ。住職たちを待たせるわけにはいかん。さあ、参ろう」
 場所は長沢の福田寺[ふくでんじ]である。
 福田寺は古来、朝廷と関わりの深かった豪族息長氏の菩提寺でもあり、開創当時は布施寺といい、三輪法相宗に属していたが、後に天台宗となり、鎌倉時代末期に浄土真宗に変わった。南北朝時代に長沢に移築し、それからはこの時代までずっと、浄土真宗としての地位を守ってきたのである。
 住職は覚芸。
 今回の寺社一揆の主たる僧侶であった。
 顕如は寺の門の前で出迎えを受けた。覚芸じきじきの出迎えである。
「遠い所を、よういらして下さいました」
「いや、我らの行く末を決める大切なことである故、辛い事はまったくあらぬ。お気遣いなく」
 顕如はやんわりと答える。これまでに顕如は覚芸とは何度か面識があった。確かに国は乱れていても、信仰の炎は根強いもので、これまでに覚芸自身、なんども、石山本願寺に詣でていたのである。
 顕如はこの僧侶を改めてまじまじと見た。
 覚芸は全体にがっしりした印象の漂う男で、その表情には芯の強そうなところが見えている。澄ました感じがあり、本人は意識していないであろうが、どことなく気品とでもいったものまで感じさせるのである。それは人の上に立つ者の性質としては好ましいものであった。覚芸は目もと涼やかで、荘重さを兼ね備え、顕如はひたすら、この男を頼もしいと感じるのだった。
「さあさ、住職様方がお待ちでござる。中へ入って下され」
 顕如と教如は手を合わせ、「南無阿弥陀仏」と唱えてから一礼して、中へ入った。寺はそれほど規模の大きなものではないものの、それは本願寺と比べればという意味合いであって、地方の一寺としてはなかなかに大きなものであった。顕如はまたも一礼してから、覚芸が開けた戸から本堂のなかへと入って行った。
「おお、顕如様、お久しゅうございます」口々にそこにいた僧侶たちが向き直って、顕如に挨拶する。
「おお、教如様も一緒でございますか」
 一同は色めき立つ。
 顕如はそれぞれの顔を順繰りに見た。
 誓願寺の超宗、福勝寺の覚乗、浄願寺の勝理、順慶寺の珍乗、金光寺の教通、誓願寺の了乗、称名寺の性慶、真宗寺の祐乗、中道場願心の猶宗、であったが、すべての顔を顕如が知っていたわけではない。
 十人の住職はそれぞれの地域において、民草に対して、多大なる影響力を持っている。それは勢力的に、大名に匹敵するような力を有しているのであった。もちろん、信仰のために戦う兵士は士気の上でも、通常の大名の持つ兵力とは違った強みがあり、それは宗教に向ける信仰心を、もう一つの戦の武器にするようなものであった。つまり、兵士には死のために被る恐怖が希薄であるということである。
「今宵、長政様と会う手筈になっておりますゆえ」
 この寺の住職覚芸が真っ先に述べた。
「そうか、楽しみにしておきましょうぞ」と顕如は云った。
「では我らはここで信長に抗するための団結を強めると致そうぞ」
「うむ」
「もう我らの顔はご存知ですかな?」
「いや、初めて見る顔もいらっしゃるようで」顕如は丁重に答えた。
「そうですか、ならば、自己紹介から始めるがよろしいですな」
「ではまず拙僧から……」
 それぞれに名前を云い合い、簡単な略歴を付す。顕如がすべての名を聞き終えた後で、覚芸は話を切り出した。
 つまり、――いかにして信長を翻弄するか、である。
 議論は次第に白熱していき、日が傾き始める頃まで、盛んに続いた。

     *

 湖面を流れる風が心地いい。夏の五月の風である。
 大気は十分に温かく、水は柔らかいようで、櫂によって掻きたてられる水の音は軽妙なものである。びちゃりぴちゃりと、飽くまで優しい音は耳に心地いい。五月闇の中を、蛍がふわりふわりと飛んでいる。幻想的な光景であった。普段、俳句をたしなむこともある顕如は何か一句詠みたい気もしたが、しかし、今日に限ってひとつも浮かばない。もう一句を捻ることもなく、ありのままに自然を見ようと思い定めて、その蛍の遊曳を楽しむことにした。
 船は南浜から姉川へ入り、そして、月ヶ瀬に差し掛かった。
「こちらになります」と云われ、岸に上陸して待っていると一群れの侍たちが姿を見せた。
「月ヶ瀬城主月ヶ瀬若狭守の家来衆にござる」
 福田寺の住職覚芸がしっかりした語調で告げた。
「それはそれは」と顕如は云い、そして、兵士たちに、自分たちについてくるようにと指示されて、その通りに行動した。
 ある程度歩くと、大村刑部の屋敷に到着した。
「ここにいらっしゃるのですな」顕如は緊張した。
「はっ」覚芸が告げる。
 顕如は大村邸の門をくぐった。大村邸は大きな樹木を多く周りに配した建物で、とてもがっちりした造りの家屋敷が自慢であるようだった。
「ほう、いかにも人物が住んでいそうな屋敷ですな」顕如はそんな風に訊ねる。
「はは」覚芸は笑った。「さあさ」
 顕如と教如は促されるままに中へ入って云った。案内された玄関から、広間までには相当な距離があり、この屋敷自体がかなり大きな規模のものであることがわかる。
「こちらでございます」屋敷の者がそう告げて、戸を開いた。
 そこには凛とした態度の二十代半ばの男と、さきほどもみていた二人の僧侶の姿があった。男はおそらく長政で、二人の僧というのは称名寺の性慶と、誓願寺の了乗であった。ここは奥座敷と云っていいような部屋である。
「よう参られた」と男が声を掛けてきた。「儂が浅井長政でござる。お初にお目にかかりまする」長政は自分の身分を抜きにして、丁重な態度をとった。
 それにびっくりした顕如は即座に下座について、頭を下げた。「これはこれはご丁寧にすみませぬ。私は長政様にそのように畏敬の念をとってもらうほどの人物ではありませぬ、恐縮致しますから、それはご勘弁願いたいものです」
「左様でござるか」長政は思案する様子だった。
 その間に、顕如は長政の挙措を眺める余裕があった。
 長政はややふっくらした体型であるが、鈍っているとかそういうことではなく、内側に豊富な量の筋肉を持っているのであろう。がっしりしたというのともまた違い、こう云う貌の武将を見ることは稀だな、と密かに感じた。聴けば、傾城の美女とも云えるお市を嫁にとり、仲睦まじく暮らしているという。二人の間には娘が二人いて、どちらも健康に育っているらしい。傾城の母から生まれた娘であれば、きっとその娘たちも、行く行くは傾城のものとなるであろうとの予測は立つ。また長政は悪相に対して善相と云ってもいいような顔立ちである。家では善き父であるのだろうと、そんなことすら思わせる顔立ち、居ずまい、挙措であった。
 顕如は長政の隣に席をしつらえてもらっているのを見て、恐縮した。
「さあさ、これへお座り下され」と長政は顕如に勧めてくる。
「私はそのような上座に座るわけには」
「何を申されます。一宗の主なのですから、本来、儂の方が下座に座らねばならぬところ、さあさ、これへ」
 長政はそう云って、頻りに顕如に席を勧める。
「そうですか。ならば、恐縮致しますが、座らせて頂きましょうか……」顕如はしぶしぶ座った。
 教如は他の僧侶たちと共に下座に座った。
「この間は、比叡山へ籠城中の我らに慰問の便りをお送り下さり、かたじけのうございまする」長政はまず感謝の言葉を口にした。「それから、鉄砲と火薬も役に立ちました。これも重ねて礼の言葉を申して置きたいと存じまする」
「いえいえ、それは当然のことでござる」
 顕如は謙遜する様子である。
「なにせ、あの仏敵信長と抗するのでござる、味方として働いてくれた方々に感謝の意を表すのは当然のことでござる。それに、我ら本願寺は祖父の蓮如上人の築かれた神聖な場である故、信長ごときの手に穢されるわけにはいきませぬ。我らには伊勢長島などを始め、各地に御仏の教えを基盤とした門徒衆の力がありまする、それらを総動員して、きっと戦を勝利に導く、その思いでおりまする」
「うむ……」長政は同意の頷きを加える。
 顕如はこのとき二十九である。長政より二歳年上であった。
 様子を見ていた教如も声をあげる。「私も打倒信長に向けて、本願寺のために命を賭して戦う所存にございます」
 長政はそのまだ幼い教如を見て、心を逞しくした。
「教如殿はおいくつであらせられるか?」
 教如は目をしばたたいた。そして、やや早口に答える。
「十四にございます」
「十四。それは若い――」長政は自分の息子のことを思った。「顕如殿」長政は隣の顕如に話しかけた。
「はい?」と顕如。
「儂には妾腹の子であるが、八つになる息子がおる。まだ若年であるゆえ、この教如殿のように、此度の戦に参画することはできぬが、顕如殿が羨ましゅうござる」
 顕如はまたも恐縮した。
 長政は続ける。「我が息子万福丸はこのように逞しゅう育ってくれるかのう。まだ武芸もそれほどの腕に達していないために、少々不安なところがございましてな。心性羸弱ではないかとか、意気の凝らない軟弱ものではないかとか、そういう心配をしないでもありませぬ。お恥ずかしい話でありますが、それが真実でござる。まあ、男子であるゆえ、放っておいても、そのうち大成するであろうとも思うておるのでございますがな。はは、親の欲目でござろうか。と、そんなことよりも、我らとともに戦って下さる教如殿の勇志はとてもありがたいものでござる。きっとこの戦の希望となってくださることでしょう」
「それはもち上げ過ぎというものでござる。のう、教如」
 顕如はこそばゆい思いをしているのか、照れ隠しをする風に無理から笑っているように見えた。
「精一杯、働かせて頂きます」
 教如はそう告げて、場を収めた。
 そのとき、大村刑部が声をあげた。
「顕如様、信長を滅ぼした暁には、この地に本願寺の寺を建ててくださいませぬか? この我が土地を寄進いたしますゆえ」
「おお、それはありがたい」と顕如は喜びの声をあげた。「必ずや、そのように取り計らいましょう」顕如は大村に約束する。
「そうすれば、この地での浄土真宗への信仰はますます盛んになるというものであろうな……」長政は満悦そうにほほ笑んだ。
「ありがたいことにございまする」顕如は返す返すもそう云って、感服する様子を見せた。


27 :蒼幻 :2011/02/03(木) 00:51:14 ID:tcz3skkHkc

     *

「長政様、何をお考えですか?」
 夜、蛙の鳴き声が生暖かい風に乗って聴こえてくるころ、蚊帳を張った寝室でお市は夫である長政に訊ねた。
 長政は何か思いつめた表情をしながら、しばらく無言で、静かにしていたのである。
 お市は心配でならなかった。近頃、自分の予想とは異なる情勢が立ち現れていて、それが何か不吉なことを齎すのではないかと不安で仕方ないのである。もちろん、夫に何かあるとは思いたくないものの、そう思いもしてしまうということもある。どうすれば、平然としていられるのだろうと、姑の阿古の態度が羨ましくなることがある。しかし、こうも思う。心配することが無くなれば、人生に張り合いもなくなり、それはそれで淋しいものではないか、と。とはいえ、夫に何かあったなら、自分はどうすればいいのだろう、そう思えてならない。
 長政はしばらく押し黙っていたが、やがて答えた。
「顕如殿のことだ。二十九にして十四の息子を持つとはどういう気分であろうかと思うてな」
 お市は目をしばたたいた。
「十五のときの息子ですか……」
 お市は感心した。
「ああ。儂には万福丸という息子があるが、これは妾腹の子であるし、まだ八歳でもある。教如殿とは雲泥の差があるというものであると思うてな」
「そうですか」お市は心の中で長政の言葉を繰り返した。「しかし、そんなことは考えに考えても詮無いことではございませんか?」
 お市の言葉も一理あった。
「まあ、そうではあるがな」
「ええ、そうですよ」
 お市はふっと肩の力を抜いた。この夫は自分たちのことを思い儚んでいたわけではなかったのだ。お市は自分たちのことについて夫が悩んでいるのではないかと、そんな心配もあるにはあったのである。そうではないと分かってほっと安心した。
 しかし、別の問題も孕んでいる。つまり、自分と長政の間に、息子が生れる気配がないということである。このまま生れなければ、万福丸が当主となるであろう。そのとき、正室としての自分の立場はどうなってしまうのであろう。事実上、当主の母こそが権力の実権を握るということがあり得るのである。お市はそのことがうまく想像できなかった。いったい、どうなってしまうのか。お市は傍らに眠る茶々とお初を見た。あどけない寝顔を見せている二人の娘。母の苦悩などまったく知らぬかのように美しい寝顔を見せている娘たち。お市は二人の寝顔をじっと見ていると、自分の悩みがあまりに個人的な、自分の身を心配するだけの、利己的なものにすぎないことに思い当って、罪悪感を覚えてしまう。
「長政様」お市は夫に声を掛けた。
「どうした?」長政は振り返らず、天井を見詰めたまま、返答した。
「私はいったいどうすればいいのでしょう?」
「どうすればいいとは?」
「やはり長政様は、私との間に息子を御所望ですか?」
 長政はしばらく押し黙った。お市は夫が何を考えているのか、このしばらくの沈黙に、一種の恐怖心というか怖気を覚えた。
 長政が声に出して述べる。「いや、そう云う訳でもない。そなたは二人もの娘を産んでくれているのだ。これ以上、望むことはないというものでな。当主は万福丸でもいいし、また、万福丸を養子にやって、茶々に婿を取り、それを当主としてもいいのだしな。その辺りは、まあ、まだ考えないでおこう。娘たちもまだこんな年若なのだしな」
 お市は夫の言葉に慰められる気分を得る。
「そうですね。いまから気にしていても、気が早すぎるというものですよね」
「そういうことだ」
「はい」お市ははきはきした声で告げた。
「何か、元気を取り戻したような声だな」長政は敏感に妻の心の変化を感じ取ったらしい。
 お市はくすっと笑った。
「さあ、そろそろ休もうではないか」
 お市は「はい」と答えて、蒲団を首のところまでかきあげた。
 茶々がそのとき「んー」と声をあげて目を覚ました。
「父上、母上、起きてる?」
 まだ言葉たらずの上の娘はそれだけ告げると、目をこすって、また枕に頭を載せた。
「さあ、夜は長いんだから、もっと寝なさい」お市は顔をほころばせた。
「そうね」茶々は目をつむって、しばらくそうしていたが、すぐにまた寝息を立てて寝てしまった。
 ――娘たちもこうして大きくなってきているのだし、母である私がもっとしっかりしなくては……。お市はそう考えて、身の引き締まる思いがした。
「お市」長政は細い声で云ったつもりのようだが、その大きな身体から発される声は十分に声量のあるものとなった。
「お前様、もう少し声を小さく」お市は寝たばかりの茶々の顔を見ながら、起きる様子の無いことにほっとして、それだけ告げた。
「まだ声が大きかったか、すまぬな」
「仕方ありませんよ」お市はくすっと笑う。
 相変わらず、蛙の鳴き声が闇を渡って響いてくる。
 月明かりがあるのか、障子には、庭の松の梢のくねくねした独特の陰が映っている。風もあるのか、揺れて見える。と、見ていると、一羽の鳥がその影絵の松の梢の上に降り立つのが見える。横になりながらこっそりその様を見ていると、どことなく、その状況の奇異さに胸をくすぐられるような諧謔の思いを抱かされる。
「お市、お市」長政はまたもや大きい声で告げる。
「なんですか?」お市は問い返す。
「あそこを見てみよ。障子に映っている影に鳥がおる」
「えっ?」
 お市はいきなり云われたことに唖然となって、それから、窓の外を眺める。
「ああ、ほんとにそうですね」お市はその姿を認めた。
 鳥は四十雀か、百舌鳥かと云った風情だったが、こんな夜に鳥が飛び交うこと自体珍しい。鳥目というくらいだから、夜は鳥は活動しないものと思っていたのに、そうではないのかという思いが、やはりお市の心に一種の興げた気持ちを抱かせる。
「面白いですね」とお市は告げる。
「しかし、夜に鳥とは、どこか風情でもあるな」
「そうですね」お市は嬉しそうに告げる。
 お市はこう云うことを長政が最も好んでいるということを知っていた。子供の頃から、あの久政と云う奇妙な男を父親に持ち、育ったことで、常と違うことに興味をそそられ、それを本当に純真な心で楽しむことのできる、良い意味で子供の心を持った男性であると認めていたのである。あるいは純朴な精神とでも云うのだろうか。お市はその長政の性格を軟弱と見ることなく、夫の数多くある長所のうちの一つとして捉えるようにしていた。
「鳥のように自由に羽搏けたらな……」長政はぼそっと告げた。
 それはまるで独り言のような雰囲気でもあったが、そのあとに続いた沈黙は明らかに、そのあとの反応をお市に求めているということのわかるものであった。
「鳥も自由ではないかも知れませんよ」お市は聡さを見せた。
「うん?」と長政。
「鳥の世界も苛酷で厳しいものではないかと私は思いまする」
「ほう」
「食べる物が常にあるわけではないでしょう。また大風が来たら巣ごと飛ばされることもある。そういう苦労は私たち人間と同じではないかと、そう私は思うのです」お市は淡々と自分の思いを口にした。それはある意味、子供たちに自分の考えを伝えるときの口調に似たものであった。
「そうだな、そういう考えもあるか……」
「はい」とお市。
「でもな、儂は遮るもののない、あの大空を自分の自由に飛べるのなら、その代わりに、いつ命を失ってもいいと思うことがあったりするのだ」
「えっ?」
「刹那的なものかもしれないが、儂は時々、そう云うことを考えたりする」長政はしみじみと語った。
「それは困ります」お市はむきになっていった。
 夫がそんな考えでいては、家族である自分たちの生活がどうなってしまうものであるか。もしいま夫の希望通り、やりたいことをやったあと、呆気なく命を失ったなら、遺された家族である自分たちはどういう運命をたどるものであるか……。運命に翻弄され、きっと、どうすることもできない不幸の内側にとり籠められて、毎日を、悔恨と慚愧の念でいっぱいにして生きていかなくてはならなくなるに違いない。そんなことはしたくないし、してはいけないとお市は思う。確かに新たな局面に人生が差しかかったなら、そこで今できる精一杯の努力をして、逞しく生きていく。それこそ重要なことであろう。しかし、果して、自分はそんなに逞しく生きられるだろうか? 分からない、そればかりは実際に自分がそういう立場になってみないことには解らないことだ。それまでは、そんな思いで、自分の心を灼くことはやめよう。実際にそうなってから、考えればいい。いまは夫もいるのだし、そこで出来る人生を忠実に歩めばいいのだから。
 お市はそう考えて、やる気を出した。
「さあ、もう遅い。本当に眠ろう……」長政はそう云うと、それ以上何も語らなかった。
 お市はそれからなおもしばらく考えていた。
 自分の行く末はどういうものであろうかと。
 そして兄信長と夫長政の関係は今後、どうなっていくのであろうかと。

     *

 浅井方であった箕浦城の堀秀村は、勢い織田軍にありとて、完全に敵方に寝返って、秀吉の横山城とともに、共同戦線を張る構えであった。
 五月五日の端午の節句の次の日、浅井軍は箕浦城奪還の兵を挙げた。
 十ヶ寺の一揆衆五千とともに合わせて一万の軍勢である。一揆衆を束ねるのは、浅井井規である。
 箕浦城に攻め寄せた浅井軍に対し、秀吉は竹中半兵衛を城中に守りとして残し、自ら、百五十を率いて、ぐるりと街道をまわって、東から箕浦城の救援に駆け付けた。
 東からというのが狙い目である。東とは、つまり美濃の方向であり、美濃には岐阜があり、岐阜には信長がいる。旗指物も瓢箪ではなく、信長軍の木瓜の家紋を配した物を用いるという徹底ぶりであった。
「あれはどこの軍だ?」
 一揆衆がいきり立って、訊ねる。
「織田の印じゃないか?」
「織田? 信長が来たのか!?」
「そのようだな」
「儂ら殺されるんじゃないか」
「ああ、そうじゃのう、恐ろしや」
 一揆軍は信仰のある軍隊とはいえ、所詮、訓練を積んでいない烏合の衆である。秀吉の援軍を見たものから徐々に弱気になっていき、そして、すごすごと撤退する。
「作戦は成功じゃ、我らを織田本隊と勘違いしておるわ。ふっ」
 秀吉はほくそ笑んだ。
 浅井軍はそんな彼等を尻目に、箕浦城を攻め立てることに余念がない。
 しかし、一揆軍はそうはいかず、今では撤退を始めている。
「ええい、情けない。敵軍を前に撤退とは、何事ぞ! 御仏様のために戦ってこそ、一揆軍であろうに!」一揆軍の実力者の一人、超宗が声をあげて、皆を鼓舞する。
 天野川を越えたところで止まって、その川を渡ってくる兵士たちを斬り伏せはじめる。作戦はしっかりとはまり、敵に打撃を与えることに成功する。
 超宗は自ら槍をとり、敵兵を次々になぎ倒していく。
 刃がきらめいたかと思うと、次の瞬間には敵兵の血によって赤く染められる。川の流れはかなりきついため、斬り伏せた敵の死骸は下流に向かって流れていく。「それ、できるだけ多くの敵兵を屠ろうぞ」超宗はそう云って、全軍を奮い立たせる。作戦は成功するかに見えた。そのとき、敵兵のなかから、名のある部将と知れる大柄の男が進み出た。
「いずれ、人物であると見る。儂は織田家中の将で多良右近と申す。そなたに勝負を挑みたい」
 脇から手を出そうとしている兵士たちをたしなめ、右近と名乗った男は、一騎討ちを所望する。
「右近さま、一騎討ちなどより、数で押せば、敵の一人や二人――」
 兵士はそんなことを口にする。
 超宗は苦虫を噛み潰したような表情をする。
「よかろう、相手にならせていただきますぞ」
 超宗はそれだけ云うと、血染めの槍を正面に構えて、右近に対峙した。
「右近様……」兵士はなおも心配そうに声をかける。
「黙って見ておれ」と右近。
 どちらが先に動いたというわけでもなかった。動きはほぼ同時で、超宗は瞬速で右近のいた場所目蒐けて槍を突き出す。しかし右近も流石のもので、その動きを見極めて、左に躱す。その躱した動きと同時に超宗の頭めがけて刀を振り下ろす。が、超宗はその刀の攻撃を槍の柄で、がっきと受け止める。
 緊迫した空気が流れた。
 敵兵も味方の兵も固唾を呑んで、この一騎討ちの決着を待った。
 手を出してはいけないということは、両軍の兵士たち、斉しく分かっていた。
 戦いは六合、七合と進んで行く。武器のかち合う音がして、それは不吉に響き渡るのだったが、ついに九合目、決着がついた。
 多良右近が超宗の首に自身の刀を深くめりこませたのである。
 超宗は血を迸らせて、その場にくず折れた。
「おおーっ!」と秀吉軍はいきり立った。
 一方の一揆軍は意気阻喪して軍を退きはじめる。
 一揆勢は下長沢まで退いた。
 しかし追いすがる秀吉軍。
 両軍はここで、激戦を繰り広げることになる。戦では箕浦城の堀方の部将も数人、ここで命を失った。一揆方も十数人の犠牲を出し、次第に防戦一方となって、下坂のさいかち浜という場所まで追いつめられてきた。
 秀吉は容赦がなかった。
 一方の一揆勢も残っているのは、戦をこれまでに経験したことのない、弱小なる人物ばかりであった。
 秀吉隊は百数十人という少数であったが、戦経験の上では雲泥の差がある。秀吉は義理も人情もなく、ただ命令を下す。皆殺せ。それだけである。
 さいかち浜は阿鼻叫喚の地獄と化した。
 湖岸に死体が累々と重なり、まるで小山のようになった。また湖に追い落とされた兵士は、鎧の重さで十分に泳ぐことができず、溺れ死んだ。湖岸は地獄絵図と化したのである。
 もちろん、殺されるときには兵士は抵抗もしたであろうが、経験の上で差がある両軍である。それはほぼ一方的な殺戮であったろう。敵兵をある程度殺せば士気は落ちるし、それ以上、殺戮する必要はなかったというのに、殺された一揆兵は数千に及ぶ。この非情さは戦乱の世にあっても、信長軍に特有のものであると云ってもいい。

     *

「此度の戦の犠牲は大きなものがありました」
 福田寺覚芸が長政に告げた。
「ああ、左様なるな」長政は声を低めて告げる。
「信長という男は恐ろしい。あれが信長に抵抗するということの意味なのでしょうな」
「恐ろしい、ですか?」長政は訊ねる。
「ああ、恐ろしいですとも。しかしこの男をのさばらしておいてはいけないという気持ちを強く抱かされました。儂はこれからも抵抗していきますぞ。そしていつの日か、信長を討ちとらねばならぬという使命感を覚えておる所存にございます」覚芸はそう告げると、ふんと気合を入れ直した。
「それは頼もしいことにござる」
 長政は嬉しそうに声をあげた。
 しかし信長軍の非情な戦略は長政にも、そして覚芸を始めとする一揆軍にしても、徹底抗戦をして、いずれはその首を取らなくては収まりがつかぬというところまで意識が進行していることを知らずにはいられない。
「殿」と脇で控える赤尾美作守が声をかけてくる。
「どうした?」と長政。
「我らは一丸となって、仏敵信長と抗して行かねばなりませぬ」
「そうであるな」
「つきましては、我らの団結を強める意味で、殿には全軍の前で兵士を鼓舞して頂きたいと思うのですが……」
「うむ」長政は同意の頷きを加える。
「兵士はいま戸惑っております。あの信長の非情な仕打ちに、自分達は本当に抵抗していて大丈夫なのであろうか、と。それでは信長の思うつぼであり、殿にあらせられましては、その信長の呪縛を取り払っていただかねば、これからの作戦にいろいろと支障が立ち現れてくることでしょう。お願いできますかな?」美作守は真剣な眼差しをして、長政に訊ねた。
「あい、わかった。左様に取り計らおう。期日はいつにするか?」
「今夕にでも――」
「承知いたした」
 長政は同意の頷きを加える。
「これで軍は新生致しまする」
 美作守は安堵の溜息をする。
「美作、いつもすまぬな」
 長政は赤尾美作守に安堵の声を掛ける。
「いえ、私はすべきことをなしているだけ、それだけにござる」
「それがとてもありがたいのだ」
「ありがたきことにございます」
「うむ……」長政は声を漏らした。
「と、時に、御寮人はいかがお過ごしで?」
 美作守は怪訝そうに尋ねた。
「うん? 市がどうしたと?」
 長政は意外そうに尋ねる。
「実兄である信長を内通する恐れはありませぬか?」赤尾は真剣な顔つきで訊ねる。
「なにを戯けたことを申すか? そんなことがあるわけがあるまい」
 長政は取り合わない。
「しかし、実の兄妹というものは、余人には察知できぬだけの深い結び付きがございますからな。そういうことがないとも限りませぬゆえ」
「そんなことがあったなら、儂は疾うに市を離縁しておるぞ。市はそんな女子[おなご]ではない。見縊るでない、美作」
「はっ。そうでございますか。殿に確言頂けるなら、心配はいりませぬ。申し訳ないことにございます」
 美作守は自らの非を認めた。
「ならば、我らは磐石でございますな」
「ああ」長政は同意する。
「では、あとは久政様でござるが――」
「父上がどうした?」
「なんだか気弱になっておられる様子でしてな?」
「うん?」
「今朝もお目通り願ったのですが、信長の攻勢にいたく心を痛めておられるご様子でして……」
「うむ」長政はどう反応していいか分からない。
「まあ、これは置いておきましょう。久政様のことは国政に直接関与しないこと。気にするのは気苦労が絶えぬことになるだけ。一時の気の迷いでございましょうし」美作はそう云うと、深い溜息をひとつついた。


28 :蒼幻 :2011/02/03(木) 00:51:57 ID:tcz3skkHkc

第十四章 比叡山炎上

 堀秀村の内通によって間接的に奪われた箕浦城を奪還するために兵を挙げた浅井軍だったが、さんざん戦った上で結局、取り戻すことはできず、兵士を疲弊させるだけに終わった。
 信長はその隙をつくことに余念がなかった。
 敵の弱い部分をつく、それこそ戦の常道である。
「浅井は気力体力とも失っている兵士が多いことだろう。ならば、我らこの美濃の軍団で城を攻めれば、必ず光明が見えるというものだと思うが、如何か?」
 信長はそう宣言すると、諸将らに同意を求めた。
 信長は茹でた栗を食していた。
 近くの山で採れたもので、いまは八月ということもあって、旬の食材でもある。諸将らにもそれをすすめ、それに戸惑う彼らを尻目に、また一個、殻をむいて、中身を口に放り込む。
 信長はすらりとした体躯で、眼光は鋭く、まるで狡猾な鼬[いたち]のような目つきをしている。朱色を交えた、柄物の羽織を着ていて、洒落好みであることのわかる外見である。
「いま小谷を攻めるは良いかもしれませぬな。心の弱っているときに、その弱っている部分をつく。妙案であると、儂は思いまする」
「であろうであろう」信長はその発言をした男、佐久間信盛を見た。
 佐久間は信長とは正反対で、地味な衣装に身を包み、また、顔もそれほど主張しない、目立たないもので、個性の迸りと云うようなものはなかった。性格は温厚であるが、戦場[いくさば]ではとても優れた働きをする人物で、織田軍中での評価も高かった。
「儂もそれがよいと思いまする」
「ああ、それがよろしいでしょう」
 居並ぶ群臣たちも佐久間の意見に同意する。
「ならば、浅井を攻めるということで話はまとまりそうだな」
 信長が総括する。
「そうですな」と佐久間。
「儂もそれで良いと思いまする」
 他の部将もそれに従う。
「では具体的にいつ攻めるかだが――」と信長。
「そうですな、八月中旬あたりでいかがでござろう?」丹羽長秀が進言する。
「うむ、それでよかろう。では近江におる部将らにも知らせねばな」
「はっ」
 その声を天井裏でこっそり聴いていたのが甲賀の忍びのものであった。
 細作は当時よく使われていて、特に、甲賀の忍びはその隠密行動において、優れた能力を発揮するとして、諸大名に重宝がられていた。その忍びは浅井方のものであり、信長が近いうちに攻めて来るという情報は、彼等を介して、即座に長政の知るところとなった。
「信長が攻めて来るということでございまするが」浅井の一の家老、赤尾美作守が今朝戻ってきた細作からこの知らせを聞いて、軍議の場で皆に披露した。
「うむ、ここは素直に、越前を頼るがよろしかろう」海北綱親が告げる。
「そうでござるな。それがようござる」赤尾は海北に同意する。
「織田の軍勢は云うても、大軍である。ここは我らだけでぶつかっては多勢に無勢、どうしても、しっかりとした働きをするは難しいというものでござろうからの」海北は解説する。
 諸将らもその言葉を受けて、口々に自分の考えを述べていく。
 大体の所では、みな、同じ意見を持っていた。浅井単体で当たることは自殺行為である、越前に救援の手を求めるは、順当な作戦である、と。
「よし、では、早いうちが良い。朝倉方に救援要請をしてくれるものを選出しよう」
 その日のうちに、手筈が整えられた。
 そして、八月十二日、信長に抵抗すべく、浅井は朝倉に救援を要請する。
 日は過ぎて十六日、朝倉義景は自ら大軍を率いて、江北に来援した。

     *

「敵は朝倉に救いの手を求めたか、小癪な」信長は軍を率いてきたが、浅井方の布陣を見て、頻りに舌打ちをする。
「浅井の頼みの綱ですからな」迎えに出てきた柴田勝家が口元を歪めて云った。
「ふん、浅井も朝倉も似たようなもの。まとめて捻りつぶしてくれるわ」
「いや、殿、油断は禁物でござる。いかに浅井が寡勢とはいえ、兵の実力は刮目するに値するものがございます。侮っていては、手痛いしっぺ返しを食らわぬともかぎりませぬからの」佐久間が進言する。
「うむ……そうだな。使い古された言葉だが、獅子は鼠を狩るのでも全力を以ってするという。それに習わねばならぬということもあるであろうからの」信長は不気味な笑みを見せて、浅井など一息に潰してくれると、これまでの怨念を籠めたようなそんな表情であった。その様をみた丹羽長秀は背筋をぞくりとさせたようであり、一度、ぶるっと身を震わせた。
「よし、ではこれより横山城に入る。秀吉と半兵衛の顔を見るのも、久しぶりな気がするのう」
「左様でございますな」丹羽長秀は信長の言葉に同意する。
 八月十八日のことである。

     *

 八月二十日、信長は横山城に入った。そしてそこを拠点として、小谷城を攻める決心をする。
「敵は小谷ぞ。ここで決着をつけるつもりで、みな、励めい」
 信長はそう告げると、戦闘の指揮を執るべく、横山城を発った。
「我らの勝利は目に見えておるが、油断するではないぞ」
 信長は精神論に傾きそうな指示を飛ばして、実務的な戦略については各将に任せていた。信長はもうこのころには陣頭にいるということだけで、兵士たちが勇気を得て、戦に打ち込めるというような精神的支柱として確かなものを持つようになっていた。

     *

 小谷の北西数里の場所にある山本山城にはいま、阿閉淡路守、安養寺経世、今井掃部などといった部将が立てこもっている。そしてその城と小谷の間の村々には朝倉が陣をひいて待ち構えていた。
 一直線に並ぶような形である。もし信長軍が一気に小谷を攻めるつもりなら、ぐるりと回りこんで裏手から敵にかかることができる有利をとる点で、この場所の地形をうまく利用した布陣と云える。
 しかし信長はその陣形の狙い目を察知して、小谷、山本山の両城に備えて丁度真ん中辺りに軍を進めようとしてきた。
「柴田勝家や佐久間信盛といった部将がどうやら、攪乱作戦を催しておる様子であるな」
 両城の間に陣を構えた朝倉義景がそう云ったのは、二十六日のことである。
 信長は気持ちの上ではすぐにでも浅井軍を打ち破りたかったようであるが、ここまで日数[ひかず]を使って慎重に軍を進めていることからも、十分に浅井・朝倉連合軍の恐ろしさを弁えていたのであろう。
 柴田と佐久間は信長の指示を受けて、村々に火を放った。
「焼き打ちは敵にされると衝撃が大きいが、自分達が為す分にはまったく痛くも痒くもないのう」
 柴田はそう云いながら、村々に火をつけたという。
 火を使って浅井軍に精神的な打撃を与えると、織田軍は補給のために一旦、横山城へ軍をひいた。
 信長が軍を退くのを見た長政は、ここが好機と、迅速な命令を下した。
「それ敵が退いていきおる。我らはここで横山城を攻め立ててやろうぞ。いかに織田軍とて、退いた所を攻め立てられれば、不利に傾くであろうというもの。それ、いけやいけ!」
 長政が派遣したのは、浅井井規と浅井玄蕃亮を侍大将とした二千の軍であった。

     *

 退きはじめた敵軍を追う形で、浅井軍、そして、山本山城の阿閉を中心とする軍勢、そして、先のさいかち浜での戦いで命を落とした同志たちの弔い合戦ぞ、と気焔をあげている一向一揆衆などが、一挙に、織田軍に攻め寄せた。
 織田方は精強な軍勢を殿に置いたようであるが、それがどうやら、柴田勝家の軍勢であることがわかり、その首を上げようとするものが次々に織田軍に掛かっていく。
 浅井軍は巧妙なもので、地の利を生かして、一軍を先回りさせ、行く手の川に架かる橋を落として、織田軍の退路を断つ作戦に出た。
 織田軍と浅井軍は衝突を繰り返す。
 猛将柴田勝家は何度も浅井の軍中に分け入って、浅井軍を蹴散らしていく。
「そんなへなへな侍が何人掛かってこようと、我が槍の錆にしてくれるわ」
 柴田勝家はそう云いながら、更に敵を屠っていく。
 右に左に槍を動かし、その動きのたびに確実に浅井の兵が数を減じる。
「ここが我が正念場よ。だが、命までは賭ける気はない。儂は戦場にて己の命を賭して戦っているという感覚はないからの」
 脇で供をする味方兵に勝家は声を掛ける。
 その供の兵も相当な手並みで、迫りくる浅井兵を蹴散らしながら、勝家の声に言葉を返す。「ならば、柴田様は何の故に戦われておるのですか?」
「もちろん、殿の義のために戦っておる」
「義のため?」
 二人とも何気なく会話をしながらも、意識は敵兵に向いている。
 勝家はどう説明していいものか、考え込んだ。
 ――儂は殿の義のために戦っておる。殿にこそ義があると思えばこそだ。力こそ正義。いま畿内をほぼ手中に収めようとされている殿こそ、戦の世の正義である。しかし、こうも思う。浅井に義はないのか? いや、おそらく浅井の信奉する義もまた真なりというものであろう。
 しかしあれだけ沢山の戦をしながら、領土はこの江北のみというのも、浅井の義の虚弱さを示しているというものであろう。我等の義の方が勝っている。それだけの話だ。しかし、問題はそれだけではない――。
 勝家はそう考えた。さらに敵の首を二、三刎ねながら、考えを凝らしていく。
 ――浅井に嫁いだお市様――。儂は道ならぬ恋と思いながらも、お市様に懸想しておった。あの長政が毎晩、お市様と同じ時を過ごしておると思うと、儂は胸の奥が焦がされる気持でいっぱいになるのだ。いまでもそれは畏れ多いことであると思いながらも、やはり、幼少のころから、お市様を見守ってきた自分としては、それを他人に取られたという気持は、信念をぐらつかせるというもので、動揺が大きい。お市様、一度でいいから、儂はあの姫様をこの胸に抱いて可愛がりたいと思うてしまうのだ。許せ――。
 柴田勝家はお市が幼少のころ、自分の姪のような年齢であることもあり、その膝に彼女を載せて時を過ごしたこともあった。そのような関係であったから、勝家はお市のことを他人とは思えないようになっていたのだった。
 ――うむ。このような戦場でこんなことを考えるのは不謹慎というものだろう。いまは浅井兵を一兵でも多く屠り、そして、退却を迅速になせるように顧慮することこそ肝要――。
「おい、平大夫、お前は右から回りこめ、儂は左から参る」
 勝家は供の兵士に声を掛ける。
「はっ」兵士はそう云って、指示に従い、敵の群を大きく回って右から斬り伏せていく。それに合わせて、勝家は馬で左手から回り込み、槍で敵兵を屠っていく。
 敵の集団をあらかた始末した勝家はいったん退いて、落された橋のために回り道を余儀なくされた味方本隊を横目に見ながら、またも迫りくる敵陣に攻め入っていく。殿の役目としては十分すぎるものであった。再三の勝家の猛攻に、浅井兵は意気をくじかれ、存分に戦うことができないようである。勝家はそんなことを三度まで繰り返し、相当戦った後で、完全に敵兵を振りきることができた。
 浅井兵は長政の指示で、それ以上、深追いすることなく、軍を退いたのであった。

     *

 織田信長はその後も近江に留まったが、九月になっても、浅井長政は対抗策を見出すこともできず、手を拱いて、観ていることしかできなかった。
「信長の真意は何でしょうか」赤尾美作守がある日、軍議の場で疑問を呈した。
「それがわからぬ。しかしこの近江の勢力の弱体化を図っていることは確実でありましょうな」海北綱親が怜悧な視線で物事を図るような意見を述べる。
「難しいのう」
「しかし、我らの戦場での清華は一時期に比べると、完全に弱体化してしまいましたな」普段はあまり語らない浅井井規が勇を鼓して云った。
「それを云うでない」長政は井規の言葉の真意が分かるために、そう云っていなした。
「しかし、もしここに遠藤殿と磯野殿がおられましたなら、きっともっと好戦的な気風が生まれておったことでしょうに。いまはうまく守ることに意識を注ぐ将ばかりになってしまいました」
「うむ」赤尾美作守は表情を曇らせた。
「まだ我等にはそなたのような勇士もおるではないか」海北は浅井井規に向けて、云った。
「儂はとてもとても……。私淑しておった磯野殿も去られて、儂は自分の行く末に不安を持っておるのです。どうして、磯野殿があのような目に遭わねばならなかったのか。考えても考えても本当の理解はできないのでございます」
「それは儂に対する非難か?」長政は憂いに沈んだ視線を井規に向けた。
 確かに磯野員昌を追放したのは、長政のほぼ独断であった。もし長政さえ拒否しなかったなら、磯野は今でも浅井軍中で、ともに信長と抗する作戦に参画していたはずである。いま磯野はどこで何をしているのか? 長政はふとその事に思いいたって、また顔を曇らせるのだった。
「それより今は信長だ。信長をどうするべきか」美作守は言葉を凝らして云った。
「うむ。眼の上のたんこぶにしては少々相手が大きすぎますな」
 海北綱親はそんなことを述べて、力なく笑む。
「儂等に何ができるか――」
 長政は口を開きかげんにして、そこから細く息を吐き出した。

     *

 九月十一日、織田軍は急に南下した。これまでの対小谷作戦とは真逆の方向である。
 南下した先の目的地は、坂本であった。
 坂本と云えば、狙いはただ一つ。
 比叡山延暦寺である。
 信長はあの対信長包囲作戦のときにも、岐阜に戻ってからも、浅井を攻めていたときにも、常に心の奥底に怒りの炎を燃やしていたのであろう。比叡山許すまじという意識は今では測り知れない大きさの赫怒にまで成長していたのである。
 信長の行動は迅速であった。
 その性急さ、唐突さには、織田軍中の名のある部将にしても戸惑いを隠せなかった。
「比叡山の僧侶は仏門の徒でありながら、その手に武器を持ち、殺生をすることをいとわぬような破戒僧よ。いかな門外漢の儂でも、仏教には不殺生戒があるということくらい弁えておる。その仏教第一の戒律を賛んで破る比叡の僧はもはや、聖人の皮を被った俗人よ、いや、己の性を正確に見極めず、自分が正しいと思うておるだけ罪の根はさらに深い。そのような者らをこれ以上、野放ししておくことは、憤怒に堪えん。堂宇に火を放ち、山に在るものを皆、殺してしまえい。遠慮はいらんぞ。憎き仇敵と思うて、皆、存分に戦えい!」
 信長のその言葉は、それぞれ個人差はあるものの、仏教を信奉している織田の部将たちにとってはあまりに恐ろしい所業への勧誘であるように思えた。
「と、殿、それはあまりに酷と云うものではありませぬか?」一番に声を上げたのは、明智光秀だった。
 明智光秀は、美濃国の守護土岐氏の一族で、美濃の斎藤道三や越前の朝倉氏に仕えていた武将だった。信長の正室濃姫の類縁者ということで、その縁を頼って信長に仕えることになったのである。
 どこか一風変わった様子で、居並ぶ部将とは少し異なった雰囲気を持っている。どこがどうと詳しく云うことはできないものの、なんというか、気むずかしくて、矜恃に溢れているようで、信長の癇癖とは異なる、或る種の苛立ちのようなものが外面ににじみ出るような人物であった。髭はあくまで薄く、目元は切れ長で涼やか、その違和感さえなければ、好人物と云ってもいい印象である。
「比叡山を攻めるのはおやめになったほうがよろしいかと……」
 光秀はなおも続けた。その声には悲痛とでもいうような感情が籠っているようだった。彼の眉はうっすらひそめられていた。
「なんだと、光秀! 儂の考えに口答えしおるか? だが、話だけは訊こう。何故、駄目であると申すのだ?」
「はっ、比叡山はこれまで民衆の尊崇を受けてきた大刹でございます。そこを焼き討ちするなどもっての他ではないかと」
 信長の表情は怒りに満ちたものとなり、顔に朱がさしたように赤くなりはじめていた。彼がここまで赤くなるのは珍しいことで、いつもはどんな命令でも眉間に皺を寄せることもなく、平然と無道なことを指揮するような男であった。
 ――いったい何が殿をここまで駆り立てているのか――?
 光秀はそんなことを思いながら、さらに言葉を加える。
「比叡山には、由緒のある仏像やら、有難い教えを説いた経典などが多数所蔵されています。それを灰塵にするなど、どれほどの仏罰が下るか、儂にはまったく想像がつきませぬ」
「想像がつかぬか……。そうであろう。そんなものはまやかしでしかない。気にする方が莫迦であろうよ」
 信長は口元を歪めて冷酷そうに笑った。
「と、殿。儂もそれには賛成できませぬ」
 羽柴秀吉が光秀の側について、進言する。
「猿、お前もか」
 信長は眼を細めて、ぎろっと秀吉の方を睨みつけた。
 秀吉も光秀も、仏教を信奉すること篤い部将であった。
「殿、どうかお考え直し下され……」
 秀吉の援護を得た光秀はなおも云い募るが。信長は容赦しなかった。
「えい、決めたことは決めたことだ。もうこれは決定なのだから、それに従え。従えぬ時は、この軍中を去れい。引きとめはせんぞ!」
 その言葉に秀吉も光秀ももう何も云う言葉を持たなかった。
 もちろん、織田の家中を出れば、何をしていいかわからぬ雇われ身分である。織田の天下を夢見るからこそ、これまでつき従ってきた両者であるため、そんなことを云われれば命令に従うしかないというもので。
「仕方ない。明智殿。儂らも命令に従うと致そう……」
 秀吉は渋々頷いて、その場を収めた。

     *

「明智殿――」
 作戦命令が下った直後、秀吉は光秀を呼びとめた。
 作戦が明らかになり、全軍が浮足立っている時間帯であったから、二人に気を留める者はなかった。
「如何なされました、羽柴殿?」
 光秀は意気消沈していた。それほどに今回の命令は自分の中でも許すことのできぬことであり、その実行は、自らの仏に対する信仰を捨て去ることと同義と云えるものであった。
「明智殿の信仰心を確かなものと思い、進言致す」秀吉はきっぱりとした口調で告げる。「今回の作戦、儂らは命令遂行するように見せかけて、独自に動けばいいのではありませぬかな?」
「うん?」光秀は秀吉の言葉に戸惑った。「独自に動く?」
「ええ、つまり、確かに焼き討ちの命令には従うが、しかし、僧侶たちをこっそり逃がし、堂宇の中の大切な宝物を運び出す機会を彼らに与えるのです。そうすれば、儂らは仏教に仇為すことなく、この窮地を乗り越えることができるというものではありませぬかな?」秀吉はにんまりと笑う。
「ああ、そういうことですか……」光秀はすぐに元気を取り戻した。「それなら、確かに心が痛まない……」
「殿の命令は苛烈であるが、しかしそのような命令を下されても、殿は殿。わしらの主君であることに変わりはない。これは反逆ではない。比叡山と殿と、どちらも立てる苦肉の策にござる」
「かたじけのうござる」光秀は秀吉に礼を云う。「これなら儂も自分に素直でいることができそうじゃ」
「ああ。あとはそのことがばれないように、こっそりと遂行するのみよ」
「はい」

     *

 作戦決行の日時は、翌十二日の卯の刻ころであった。
 暁の光が山端から差し始めた時刻で、これから無道なことを為す者がいるなど、信じられないような清々しさであった。
 織田軍は数派に分かれて、総攻撃の合図を待っていた。総勢三万の大軍である。
「それ、法螺を鳴らせい。作戦決行ぞ!」
 朝の空気を切り裂くように、不吉な法螺の音が鳴り渡った。その音に朝の勤行を始めていた延暦寺の僧侶らはただならぬ不穏な空気を察知したのか、外の方へ意識を向けながらも、読経に意識を集中しようと、織田軍の攻め手の発する殺気に気付く者はない。
 初めに気づいたのは、朝の掃除をしていた童子らだった。
 鎧のかちゃかちゃと鳴る音が聞こえたと思うと、あっという間に周りを兵士に取り囲まれる。まだ年端のいかない童子のこととて、抵抗しようにも知れている。彼らをはじめ、堂内で読経している僧侶や学僧、上人なども次々と捕まっていく。彼らは麓まで来ていた信長の前に引き据えられて、そこで直接この残虐な仕業を考えた〈魔王〉の姿を見ながら、首を刎ねられていく。彼等の瞳には、信長の、勝ち誇ったような表情のみが映って、修行の成果などまったく感じさせない、恨みの炎で身裡を灼かれながら死んでいくのであった。
 と、不思議なことがあった。
 女人禁制の山に、女が居たのである。
 誰かの愛妾になっていたものか、彼女たちはいずれも、美女であった。また修業とは無関係そうな美男の類もいた。それには信長は大いに気焔をあげて問い詰めた。
「そなたらは何故、このような寺の中におる? 誰かに囲われておったか?」
 男や女やは口々に助命の許しを口にする。「我らは何も悪いことをしておりませぬ。どうかお助けくだされ」
 信長は顔をしかめた。「儂はそなたらのように美しいものは好きだが、道を踏み外す行為をする者を助けるような真似はせん。それ、首を刎ねよ」
 信長は手をさっと前に出すと、首元を掻き切るしぐさをして見せる。
「ひ、ひぃ。お赦しを」男も女も息を乱して、助命を嘆願する。
「構わぬ、やれ!」冷たい表情で信長は命令する。
 部下は信長の命令を忠実に遂行する。
 美男美女たちは一堂に集められて、順番に首を刎ねられていく。
 その美しい顔を苦悶の表情に歪めるもの、まったく産を乱して我を失うもの、恐怖に悲痛の叫びを上げるもの、さまざまだったが、共通しているのは、自分達が何も悪いことをしていないのに、どうしてこんな目に遭わされるのだろうという、純粋なる疑問を胸に抱いている点であった。
 これまでに流された血の量は夥しく、この寒い空気の中でも辺りには、はっきりと血の臭いが立罩めていた。
「信長様、ここでこうして殿の御前で処刑することに何か意味はあるのですか?」
 兵士の一人が訊ねた。
 信長はその兵士をぎろりと睨む。その表情には何か得体のしれない、禍々しいものが現れているように周りの者には見えていた。殿は何かに憑かれておいでなのではあるまいか? そうだ、そうでもなければ、このような残虐非道なことを命令なさるはずがない。兵士たちはそのように思いつつも、表だって口答えすることは、死に値すると思い、押し黙っていた。
「それ次の者らを連れて来い!」
 信長はそう云って、口の端を歪めて笑んだ。

     *

 明智光秀は羽柴秀吉の助言もあり、比叡山の僧侶に対しては敬意を持って接していた。すべての僧侶を助けることはできないだろうが、それでも一人でも多くの僧侶を逃がしてやりたい、そう考えていた。
 信用の置ける腹心を数人選出して、この作戦の首尾を整えていた。見つけ次第僧侶を殺せという命令でなくてよかった、と光秀は思った。もしそうであったなら、僧たちに刃を向けていない兵士がいたら、そのために、この任務不遂行が判明してしまうというものであったろうから。
 光秀隊は僧侶たちを捕えるだけ捕えて、陣に連れて戻り、それから事情を説明して、僧侶たちに大切な経典や仏像を持たせ、それらも含めてこの惨状から逃してやろうという配慮を持っていた。
「このようなことをして、あとで見つかったなら、どう申し開きをすればいいのですか?」
 光秀の部下はそう云って反対を唱えた。
「そのときは素直に儂の名を述べればいい。儂が罪を被ってやるゆえ」
 光秀は〈罪〉という言葉を使ったが、本人は何も自分が罪を犯しているとは思っていなかった。むしろ今回のことで罪を作っているのは主君である信長の方であると、認めていた。
 日頃の光秀は、信長に譴責されることが度々あった。
 それは光秀の性格と信長の性格に似通った面があり、それが己の中の不備を垣間見せる作用を持つため、互いの顔を見ては、何か小言を言ったり、時には激怒であったりして、二人の間を不和の蔭りが取り巻いているのであった。
「儂らは何も間違ったことはしておらん。今回の命令をほいほいと遂行しておる兵士たちの方がどうかしておるのだ……」
 光秀は味方の兵士を誹謗することをなんとも思っていない様子だった。
 作戦も中盤に差し掛かって来ると、光秀は救った僧侶の幾人かに声をかけ、一度、堂宇に戻してから、仲間たちと一緒に仏典や仏像を運び出すことを命じた。秀吉と光秀は密に連絡を取り合って、自分たちの担当する場所の囲みを緩めて、そこから麓へと僧侶たちを逃がしたのである。
 そして特に重要なものを持っている者らには、船を手配しておいて、琵琶湖を北上し、江北へと彼らを逃れさせた。作戦は上手く行き、多数の宝物が難を逃れたのである。


29 :蒼幻 :2011/02/03(木) 00:52:42 ID:tcz3skkHkc

     *

「信長は比叡山を攻めましたぞ」
 小谷では今日も軍議が開かれ、主要な家臣らはそれに参列していた。
「比叡山の僧侶たちは大半が殺され、堂宇は火攻めにあい、相当な建物が被害にあったそうにございます」
「信長殿……」長政は悲痛に表情を曇らせる。
「あれはもう、鬼神というよりほかありませぬな。神仏を恐れぬ大闡提にございます。闡提は聖業に会うても、自ら悟ることなく、ますます迷いの深みに沈んでいくと申します。信長もきっとそういう類のものなのでしょう。長政様、我らはいずれかの者らと決着をつけねばならぬでしょう。それは辛い戦いになるものと思われます。覚悟することです。そして、絶対に我らに勝利を導きましょうぞ」海北綱親はしっかりとした眼差しをして長政を見た。
「そうだな」長政は短く答える。
 長政は憂いに沈んだ。
 ――いったい信長殿は何をお考えなのか?
 ――比叡の僧兵は自らどこかの土地を侵略しようという気はまったくなく、自分の方から手を出さなければ、まったくの人畜無害の徒ではないか。それを仇敵のように思い做しているのか、恨みだけで軍を動かし、そこをほぼ全滅の憂き目に遭わすなど、綱親でなくても鬼神と見たくなるような所業ではないか。いつか市が云っていた。兄上は己の目的遂行のためなら、どんなことでもやってのける人物である、と。それがたとえ、世間的に忌まれるようなことであろうと、兄上にとっては、それは何の障害にもならないのである。それが兄信長の強みでありましょう、と。
 長政はその言葉の意味を今回のことで深く感得した。
「まさか、こんなことになるとは……」それは慨嘆だった。
 長政は自分には決してできない、その信長の羅刹のごとき行いに、しかしまた、ひとつのまばゆい光のようなものも見出していたのである。こういう非情さこそ、この戦乱の世を統べていくに当たって、必要な資質のひとつなのではあるまいか。そう強く感じたのである。
 比叡山を攻めた後は、また我等のこの江北へと攻めてくるのは必定であろう。どうすればあの魔手から逃れることができるであろうか。いや、逃れるのでなく、完全に打ち破らねば、我らの危機は永久に去らないであろう。破るための方策とは――。
 長政はなおも続けられている軍議の話題に耳を傾けつつも、自分の思いのなかに集中して入っていき、どうすればいいか、今後の方針について、勘案するのであった。

     *

 元亀二年の暮れも押し迫ったころ、長政はお市と二人の子とともに、外へ出て、昨日降った雪を触って時間を過ごしていた。
「この年もまた無事に過ごすことができた。これも功徳というものか……」
 長政は仏の功徳という物を深く感じるようになっていた。
「長政様」お市が澄んだ声で名を呼ぶ。
「うん?」と長政。
「そう云う話をされていると、何かお前様が遠くへ行ってしまったような気になりまする」
「そうか?」長政は問い返した。
「そうですよ。なにか一人で悟りを開かれてしまったようで、私たち凡人はそれについていくことができないようなそんな気持に駆られてしまいまする」
「う……うむ」長政は云いよどむ。
「しかし、神仏に手を合わす心は忘れてはならぬことでございますね」お市はそう云うと、表情を緩めて、口元を開きかげんにほほ笑んだ。「それにしても、この年の兄上の所業は恐ろしきことにございます」お市はそう云うと表情を曇らせた。
「ああ、左様なるな」と長政は声を漏らす。
「最近の兄上の行動を見ると、何か焦っておられるような気がしてなりませぬ」
「焦る?」
「何か生き急いでいるような、そんな感じを受けまする」
「ほう……」長政は感嘆するように言葉を引き延ばした。「それは独自の意見であるの」
「やらなくてもいいことまでして、自分の身を縛っているというか、そのために自らが苦しむことを厭わない様子とでもいいましょうか」
「さすが兄妹、見るところはしっかり見ているということかな」
「そうですか――そうかもしれませんね」
 長政は余裕の笑みを浮かべた。しかし事情は緊迫している。年があけ、春になれば、きっとまた信長はここへ攻め込んでくるだろう。それまでに何か対応策を練らなければ、という思いに駆られる。
 そんなことを考えていると、茶々が声を掛けてきた。
「父上」
 長政はにっこりと笑むと、茶々の身体を抱き上げた。
「茶々はこのまま大きゅうなっていけばいいのだ。すくすく育てよ」
「はい」茶々の声は張りがあり、その声は場にいる皆を和ませる希望の光になったようであった。

     *

 元亀三年の正月、岐阜城にて盛大な儀式が開かれた。
 勘九郎信忠、三介信雄、三七郎信孝の三人の信長の息子の元服式である。
 これには織田家の諸将が呼ばれ、それは横山城の羽柴秀吉も同じであった。
 細作の働きにより、浅井方は、いま横山城には主将羽柴秀吉が不在であることを知ったのである。
「運が我らに向いてきましたな。いまこそ、横山城を取り戻す絶好の機会にございまする」
 赤尾美作守がそう宣言すると、浅井家中はほぼ一丸となって、その主張を繰り返した。
「そうであるな、早速、軍を派遣して、ことに当たろうぞ」
 長政はそう告げると、侍大将に浅井井規、赤尾清冬、宮部継潤らを任命して、軍を整えた。
「井規、そなたの働き、楽しみにしておるぞ」長政はそう発破をかける。
「はっ、良き報せを運べるように励みまする」井規はそう告げると、出陣の用意を整えるべく、場を後にした。
 赤尾美作守はその様子を見て、声を漏らす。
「井規殿は、意気はあっても、なかなか磯野の様にはいかぬ将でござる。どこまでやってくれるか、まずはお手並み拝見といったところですな」
 それは場に他の将が残っておらず、長政のみがまだ座に居るときに出た言葉であった。
「横山城の留守を預かるは竹中半兵衛。一体、どんな作戦を弄してくるか……」美作守は若干の不安を身裡に感じているのか、その言葉を口にしながら、憂いに沈む表情をして見せた。「竹中半兵衛……あの将を浅井家に召抱えられなんだは返す返すも痛いことであるの」
「いまは一介の敵将、打ち破るべきものとして、観じておこうぞ」
 長政は平然とした口調でそう告げた。
 しかし長政の心にも、竹中半兵衛のことはしっかりと印象が結ばれていた。まだ、戦場にて直接に見たことはなかったが、赤尾をはじめとする諸将らが、これはすぐれた智将であると噂するものであるから、いったいどんなものであろうかと期待する向きもあったのである。いまは敵味方に分かれているが、そのことをまったく憂慮させない、何かすがすがしいものをそこに感じてもいるのであった。しかし、それとこれとは話が別である。横山城の留守を預かる半兵衛をどうすれば破れるのか? もしかすると、案外すんなりと井規たちがやってのけるのではないかと期待してもいたのであった。
 しばらくして、伝令から、井規たちが出陣の準備を整えたとの知らせを受け取る。
 長政は小谷を出ると、軍が整列している場所へ向かった。
 激励を加えんがためである。

     *

 気焔は上乗。
 なかなかの意識の張りつめ具合であった。
 兵士たちは無駄口ひとつ叩かず、じっと、正面に立っている長政に目をやっている。「小谷の兵士らよ、横山城を取り戻すために、力を貸してはくれまいか。敵は増上慢にあぐらをかいている織田軍ぞ。我等はこの暴虐に抗していくしかないというもので、いまここでひとつ勝ちを収めて、調子をつけたいところである。頼むぞ、皆の者。ここは我らの正念場と見据えて、ことに当たってほしい。儂からは以上である」
 長政はそう述べると、浅井井規の方を見た。
 井規はそれを察知して、手を挙げると、声を発した。「では全軍、出陣ぞ! いざ!」
 浅井兵は気焔をみなぎらせながら、出陣していく。長政はその様を見送りながら、作戦の成功を願っていた。

     *

「ほう、隙をついて出てくるか」
 横山城の竹中半兵衛は早い段階で、浅井軍の出兵に気づいていた。
 浅井方が甲賀忍者を使うのと同じように、織田方も独自の細作を持っていた。特に半兵衛は小谷方に不穏なる動きがあると云うことをその聡さで感じていたことから、普段より強めに警戒していたのであった。
 ――ふむ……いまは秀吉様の留守中である。なんとかここは儂だけで守りきらねばなるまい。
 半兵衛はそう感じながら、頭の中で幾通りもの作戦を試行していく。もちろん、岐阜の秀吉にも伝令を飛ばすことを忘れない。
 半兵衛はやせぎすですらりとした体型のいかにもな軍師型の人物だった。外見こそがっちりしていないものの、膂力の方は人一倍持っていると云う根性のある人物だったし、いまでも隙あらば、兵法書などを読みまくり、頭の中でまだ見ぬ戦を戦っているような性格である。
「よし、あれで行こう」半兵衛は幾通りもあるうちのひとつの方法をとって、それを全軍に知らすべく、部下に命じて、兵士たちを一堂に集めることにした。浅井軍が小谷を発するよりもしばらく前のことである
 作戦を全軍に下知して、半兵衛は横山城の守りを固めた。
 すでに、敵の将は浅井井規たちであることを知っている。
 攻め手が長政本人や、赤尾美作守、海北綱親らでないことは、半兵衛にこの作戦の成功を信じさせる要因となっていた。
 半兵衛は浅井軍が現れるまでの時間帯を落ち着いて過ごしていた。
 小姓に命令して、茶を作らせる。
 それを飲みながら、作戦遂行までの時間を待った。
「そちも飲むか?」と半兵衛は他の将に訊ねる。
「いや、儂は結構でござる」と遠慮する者が大半であった。
 いくら優勢の織田軍とはいえ、いまは主将羽柴秀吉が留守なのである。半兵衛のその余裕が、諸将らには不思議でならなかった。しかし、半兵衛の神がかり的な心算は知っているので、そこから来る余裕であることは皆認めていた。ただ、自分までがそこに胡坐をかいて、平然としているということが、どことなく、虎の威を借るとでもいうような状態に似ているために、及び腰になってしまうのである。
「半兵衛殿」
 一人が声を掛けてくる。
「如何いたした?」半兵衛は訊ねる。
「この作戦、果してうまくいくでしょうか?」
「云うても千や二千の軍勢ぞ。こちらが攻撃しまくれば、敵は撤退するしかなくなるというものだ」
 半兵衛は涼やかな笑みを浮かべている。
「左様ですか」
「他に不安なものはおるか?」
 半兵衛はそう訊ねて周りを見回す。
「不安と云えば、不安ですが、しかし、半兵衛様の作戦の素晴らしさを信ずるものですから、恐怖はありませぬ」
 そう告げてくる者がある。
「そうか」半兵衛は言葉を途切れさせる。
「そろそろ敵が来るであろう。各自、配置についてくれ」
 半兵衛はそう云うと、椀の中の茶を飲み干し、それを小姓に渡して、自身も配置につく。
 場所を定めた半兵衛は、建物脇の梅を見た。白梅、紅梅、小さな花が咲き乱れている。もう梅の季節であるのだ、と半兵衛は考える。やわらかく美しい花々を見ていると、血腥いことを考える自分がとても不粋に思えるが、しかし、それもまた宿命よ、と半兵衛は考える。
 なおも見ていたい気持にも駆られたが、そんなことを思っていると、物見の兵士が声をあげた。
「敵軍が見えました!」と。
 半兵衛は愛刀の虎御前の太刀に手を添えた。
 この太刀は半兵衛が小谷に立ち寄ったときに手に入れたものであった。その来歴を思うと、奇しき縁だと思わせられる半兵衛だった。
 その小谷の兵が、自分の守城へ攻めて来ているのだ。
 浅井兵は勢い盛んであった。
 半兵衛はそこまでのものであるとは思っていなかった。
 浅井兵は横山城を視野に収めると、非常な気焔を発して、攻め寄せて来る。外郭を突破し、第二郭も突破し、そうしていまにも本丸に攻めてこようとしていた。中心的な働きをしているのは宮部継潤である。宮部の名は半兵衛も知っていた。勇猛な将であることはすでに知っている。
 しかし、半兵衛は自身の作戦の成功を信じていた。
 城内の兵士に城門を開かせる。
 そこへ浅井兵は奇異に思いつつも、攻め込んでくる。
 狭い門を突破してくる浅井兵に向けて、半兵衛は手にした攻め太鼓を打ち鳴らす。配備していた鉄砲隊が蜂の攻撃のように銃弾を発射して、浅井兵を仕留めていく。銃を撃ち尽くすと、半兵衛はまた太鼓を叩き、次は弓兵の出番である。それによって鉄砲隊が弾を籠める時間を稼ぎ、次の太鼓で入れ替わって、また、鉄砲隊が攻撃する。あらかた撃ち尽くしたところで、再び太鼓を鳴らし、次は馬に騎乗した兵士が刀や槍を手に突撃を試みる。
 その波状攻撃に浅井兵はがたがたになった。
 しかし、まだ兵の大半は残っていたため、浅井井規は全軍に戦線を整え、再び攻め込んでいくことを命令した。
 浅井軍と横山城兵は攻防を繰り返す。
 いつの間にか、最初の波状攻撃の衝撃は去り、また浅井軍に士気の高さが戻った。
「それ、その調子ぞ!」と井規は声に出す。
 いま主戦場は第二郭の辺りだった。
 半兵衛は適当な頃合いを見計らって、兵を引かせて城門を閉ざした。
 城門の中からと外からとにらみ合いが続き、弓や鉄砲で両軍、ちくちくと敵兵を攻撃する。
 日が暮れるまでにらみ合いが続いたが、決着はつかなかった。浅井軍は横山城を取り巻き、次の日の攻撃に備えていたが、払暁、東の方から、美濃の秀吉軍が戻って来たのを見て、兵を引いたのだった。

     *

「手痛いのう」赤尾美作守はそう告げて苦笑した。「横山城を攻める絶好の機会であったというにそれを生かせぬとは――」
「やはり半兵衛という軍師、只者ではない」
「はっ」浅井井規は声を発して、それに同意する。
「しかし、こう織田の軍勢に囲まれていては、窮屈で仕方がない。我らが落ち目になるのも時間も問題であるな」長政は慨嘆した。
「弱気になってはいけませぬ」海北が声を上げる。
「そうだのう」と美作守。
「軍議はこれまでにして、今日は解散としよう――」長政はそう告げると、席を立ち、自分の部屋へと戻った。
「市、市」長政は妻を呼んだ。
 襖を開けて入ってきたのは侍女の妙だった。
「いまお市様は茶々様やお初さまと外を散策なさっております」
「そうか」長政は落胆の表情をする。「それは残念だが、最近、そなたともあまり話しておらぬしの。時間はあるか?」
「はい、大丈夫でございます」と妙。
「ならば、餅でも焼きながら、少し話そう」
「はい。ならば私が焼いて差し上げましょう」妙はそう云うと、一旦、部屋を出て、網と切り餅と醤油と小皿を持って来た。
 火鉢の上に網を敷き、そこへ餅を並べる。
「やはり正月は餅に限るな」
 長政はそう告げて、ふっと笑む。
 軍議のときの張りつめた空気とはまったく異なる和やかな雰囲気がその場にはあった。
 妙は膨れてきた餅を見て、ほほ笑む。箸でひっくり返して、反対の面も焼いていく。そうして時間は過ぎていった。


30 :蒼幻 :2011/02/03(木) 00:53:28 ID:tcz3skkHkc

第十五章 宮部、内応

 羽柴秀吉は軍師竹中半兵衛の智恵に頼ることにした。
『宮部城を落とすことはできないものか』という懸案である。
 半兵衛はそれに答える。「血を流す戦を御所望ですか、それとも流さぬ戦ですか?」
 秀吉は自分の思いをこの軍師に伝えた。
「あの横山城攻めのときに見せた宮部継潤の武勇には目を瞠るものがある。できることなら、城を無血で開城させ、あの勇将をわが軍に引き入れたいものだ」
 秀吉は、半兵衛なら何か良い手を考えてくれるであろうと期待していた。
 半兵衛が告げる。
「秀吉殿、松尾山城、佐和山城の無血開城の手柄によって、織田家中では貴方のことを戦わぬ名将[・・・・・]と呼んでおるようにございますぞ」
「それは聞いておる。しかし今回もまた、同じように城を攻略したいと思うておるのだ。血を流さないで済むのなら、絶対、そっちのほうがいいに決まっておろうしの」
 秀吉にとっては、戦は至上のものではなかった。でき得ることなら戦は避けたいと云うのは、この戦乱の世では、歓迎されない質のものであるに違いない。しかし、秀吉はもともと百姓家の息子として育って来た経緯があるため、純粋な武将である信長や勝家などと比べると、どうしても精神の上で惰弱な面があることは否めないのだった。
「半兵衛、何かいい方法はないものか?」
 半兵衛はしばらく口を鎖して考え込んだ。
 秀吉は風の吹いている外の方に意識を向けた。一月はもう春ではあるものの、雪は降ったりやんだりを繰り返し、また積もった雪も弱い日光に薄くなったり、またその上に降り積もって厚くなったりしながら、季節の雰囲気を醸し出しているのであった。
 この部屋に入ってくるときには丁度雪はやんでいたが、この風では、また降り出したのかも知れない。
「とりあえず、秀吉様にはこういう方法はいかがかと思います」
 半兵衛はそう告げると、秀吉に自分の案を説明してみせた。
 秀吉はその案に乗っかる形で、その元亀三年一月、宮部城に対して、先制攻撃を開始した。
 ――この方法で果してうまくいくものか?
 秀吉のなかで半兵衛の作戦についての不信感はまったくなかった。きっとこれにも何かの訳があるのだろう、と秀吉は考えた。
 あらかじめ決めた通りに形のみ攻めるだけ攻めて、秀吉は宮部城へと潜入を開始する。
 この雨でも雪はまだ残り、木や草や石や建物はしっとりと濡れている。
 ――半兵衛はここで宮部と会って話をつけるのが上策と云っておったが、いったいどうしたものか? 秀吉は自分の身分を隠して、蓑笠姿になっていた。
「城主宮部継潤様にお取次ぎ願いたい」
 秀吉は城兵にそう告げて、連絡してもらえるように頼みこんだ。
 宮部城内で秀吉の正体に気づいたものはなかった。
「御芳名を頂けますか?」城兵は丁重に訊ねる。
「儂は浪人で、下木藤吉と申します」
「お待ちください」
 もともと厳重な警備を行っている城ではなかったものの、今は、織田軍に攻められている最中であったため、一応の警戒はなされていた。しかし秀吉の真剣な目つき、挙措、態度を見た城兵は、彼が只者ではないことを察知したのか、好意的に取り次ぎをしてくれた。
「許しを得られたので、こちらへ来て下され」
 伝令に走った城兵の一人が文人らしい人物をひとり連れて来て、その男が秀吉に説明した。
「殿は貴殿に興味をお持ちです。いまは来たる戦に向けて一人でも人材の欲しい所ですからな。貴殿が我が軍に加わって下さるなら、それこそ幸甚の至りである、と殿は仰せでございました」
 多少、説明しすぎの感はあったものの、それは話を進めやすくなるということで、秀吉は手ごたえを感じていた。
「宮部継潤様はいま何か悩まれていたりするのですか?」
「それはどうして?」文人は説明を求めるような怪訝な面持をしながら、秀吉に訊ねた。
「いえ、いまは織田に攻められ、この寡勢では心痛が烈しかろうと思うのです」
「ああ、それは確かにありますな。しかし、織田の軍勢何するものぞというところでしょう。なんとか撃退して見せましょうとも」文人はそう告げると、ふっと笑んだ。「こちらでござる」彼はそう告げると、広間へ続く襖を開けた。
 そこにはがっしりとした体躯のひとりの人物の姿があった。甲冑姿であり、ついさっきまで戦場にあったようなそんな気合の乗りを見せている武将であった。
 ――宮部継潤……。横山城攻めで武勇を誇ったあの姿そのままの気合の充実ぶり。敵将ながらあっぱれと云うしかあるまい。しかし、いま儂はそれに捉われるわけにはいかぬ。なんとかしてこの武将を射とめなくてはならぬわけだ、そのためには、半兵衛の云った通り、こうして自分がじかに敵の城に乗りこんで説得すると云う、いわゆる暴挙に出なくてはならなかったわけだ……。半兵衛の作戦を無下にするわけにはいかぬゆえ、ここはなんとしても宮部を説得しなければ――。秀吉はそう思い定め、室内へと入っていった。
 部屋は掛け軸と花瓶の他には何も置かれていない。
 十畳ほどの部屋である。
「拙者、宮部継潤と申す。お初にお目に掛かる。藤吉殿と仰るとか?」
「はっ、藤吉とは拙者でありまするが、いまは改名して、羽柴秀吉と名乗っております」
「な、なに!?」継潤は驚きに口を大きく開けて言葉を失っている。
「拙者のことはすでにお聞き及びのようですな」
「羽柴秀吉――横山城の羽柴秀吉か!」
 先に案内してくれていた文人が部屋の奥で畏まっていて、宮部継潤同様、驚きに目を瞠っている。
「儂がここに来たことの意味を察していただきたい」秀吉は言葉を抑え気味にしてそう告げる。
「儂も問答無用で切り捨てるようなそんな人間ではない。話だけは聞かせて頂こう。敵の城にこうして単騎で乗り込んでくるほどの度胸のある人物なのだ。儂もこの世の一介の武人。無下に命を奪うような非道なことは致さん」継潤がそう云うと、文人が声を漏らした。
「しかし、それでは部下に示しがつきませんぞ」
「それを言うな、刑部」
 文人は刑部という名前であるらしい。「しかし――」
「それで羽柴殿は何用でここに来られたのであるか?」
 秀吉はこの宮部継潤という男の気質に触れて、清々しいものを感じていた。「実は、宮部殿に我が軍に帰順して頂きたいと思うておるのです」
「――うん?」継潤はことの意外さに唖然とした。「儂に降服勧告をなさる御積りか?」
「そう思うております」
「ふむ」
「いや、待って頂きたい。儂にも云い分がありますゆえ、それを聞いてからご判断いただきたいのです」
 秀吉は半兵衛の決めた筋書き通りに話を進めていく。
 秀吉は続ける。「儂は継潤殿の勇志に心惹かれるものを感じております。その武勇の冴えわたる継潤殿には、時勢を見極める目を持って頂きたいと思うておるのです。もしこのまま我が軍がこの城へ攻めこめば、きっと無事ではおれますまい。たとえ生き延びられたとしても、浅井の家が滅んでは、もう行く所もなくなるでしょう。足利幕府に与する武将は高位高官にあぐらをかいて、することと云えば、収賄くらいのもの。そんなものに欲を出してあくせくしている幕府派の人間の命脈はもはや尽きようとしておるものでしょうに。浅井も朝倉も武田も本願寺も、いずれ滅びる運命にありますぞ。継潤様におかれては時代の趨勢を見極め、信長殿に仕えることこそ真の道であると分かっていただけるものと信じておりまする」
「なかなか云われますな」宮部継潤は秀吉の顔を見た。
 その秀吉は、感極まって泪を流してさえいるのだった。
 その様に宮部は心を打たれたようであった。
 仮にも名の知られた武将である男が泪を流している。
「わかりました。秀吉様の仰る通りに致しましょう」
「真でござるか?」秀吉は目を輝かせる。
「仰せの通りに」
「ありがたい。ならば、儂はひとまず先に城に戻りましょう。信長さまにも報告をせねばなりませぬしの」
「どうぞよしなに」継潤は厳しい表情を緩めた。
 秀吉は即座に横山城へ戻り、岐阜の信長に今回の首尾を報告した。
 宮部継潤はその間に、小谷城に居る家族に対して、常日頃から決めていた合図、『母が死んだ』という報告をして、その葬儀に参列するために、という名目で、その人質である家族を宮部城に呼び、安堵を図った。それは、平時に決めていた合図であった。『母が死んだ』というのは、つまり、『速やかに逃げ帰れ』という合言葉であったのだ。

     *

 宮部継潤は、織田方についたことを強調するために、姉川対岸の国友城に攻め入った。
 国友城は長い間、国友氏が城主を務めていたが、天文年間に国友与一右衛門が京極高広に叛いたために領地を失い、その子息である与左衛門が宮部継潤の部下となって宮部城にいたのだった。今回の所業は、国友城を奪回して、その与左衛門に国友城を支配させようとしたものであった。
 宮部城は他の国友城などに比べると、兵力の上で非常に優位にあった。国友城は宮部城に攻め立てられれば、ひとたまりもない。結局、宮部勢は国友の城主野村兵庫頭に対しては常に優勢の立場を保ち、野村勢はじりじりと姉川の方面へ撤退していく。
「そなた、恥ずかしいとは思わぬのか。敵将を前にして、撤退とは、どこの臆病者ぞ!」
「そんなことを申して、そなたが欲しいのは儂の首であろう、その手に乗るわけには参らぬぞ」兵庫頭はそう云うと、顔を歪めた。
「時勢を見極めることも重要ぞ、今の浅井にどんな希望があるというのだ!」
 宮部継潤はそう叫ぶが、もちろん、兵庫頭の耳にその言葉は入らない。
 その時、銃声が轟いた。
 大きな音で威圧して来るような重量感がある。
 ――いったいどうしたことだ? と宮部は考えたが、周りの兵士はその銃声がするたびにどんどん倒れていく。
「我等の思いを分からぬ頭の固い武将よ。そなたは滅んでいくしかあるまい」宮部継潤はそう声を洩らしたが、数度目の銃声のあと、彼は左の太腿に銃弾を受け、苦悶の叫びを漏らした。
「う……ううぬ」と宮部は呻く。
 それを見た藤太郎という男は、継潤の首級をなんとかして挙げようと試みた。
 藤太郎はこれならば討てると感じたのであろう、すっと宮部の方へ寄っていき、刀を閃かせたが、そのとき宮部の軍から、ひとりの将兵が姿を現した。
「そは誰ぞ?」と藤太郎は誰何する。
「友田左近右衛門!」と彼は声を漏らす。
「左近か、覚えておこう」
 藤太郎はそう述べてひとまず、槍を動かしたが、左近右衛門はそれを巧みによけて相手をひるませる。
 明らかに左近右衛門の方が伎倆は上である。
 左近右衛門は宮部継潤を肩にかついて戦線を離脱する。
「今回は戦法に敗れただけで、実際の戦に敗れたわけではない。命ながらえればそれだけ勝利の機会も広がるというものである。いまは雌伏しておくべきなりか」左近右衛門はそう考えて、声を漏らした。
「無念なり」と宮部は声を漏らす。
 いまは安全地帯にいて、それほどの負傷は考えさせない様子である。太腿に受けた傷は、完全に銃弾が貫通していた。それを体内から取り除くという苦行はしなくてすむというものである。
 しかし国友城を落とせなかったのは事実である。とはいえ、それが直接信長の癇に障るということはないだろう。国友城を攻めたというその事実だけで、信長には好印象を与えるに違いない。それは強く感じているのであった。

     *

 織田軍が攻めのぼってくるという情報を受けて、小谷方は慌てふためいていた。
「どうするがいいか」長政は諸将に意見を求めた。
「うむ……ここは徹底抗戦しかありませぬでしょう」と浅井井規が述べる。
「いや、それではどうしても兵力の点で、信長に軍配が上がるというものでござろう」美作守が慎重な意見を述べる・
「いや、しかしそれはもうどうしようもないこと。織田とは徹底抗戦しかありませぬでしょう」と浅井井規。
「う……うむ」美作守は声を漏らす。
「しかし、そんなことを述べているうちにも信長軍はこの江北に迫っておるのでございますぞ、何等、実務的な意見を述べられないのなら、いまのうちにできる手段のみでも打っておくべきというものではございませんかな?」
「そうかもしれぬの」と海北綱親が述べる。
 綱親は直接に戦場で軍を指揮するということは滅多にない。
 そのためというか、そのせいもあって、実際に信長軍に攻められて、あれこれ恐怖を感じるという点が少なく、どうしても実務的な面に於いて、綱親は頼りにならない面がある。どちらかというと、文人気質なのである。
 そのとき、場に伝令の兵士が姿を見せた。
「信長軍、横山城に着いたそうにございます」
「そうか」長政は声を漏らした。
「続いて、どうやら、虎御前山に砦を築こうとしておる模様にございまする」
「ふむ……」長政はまた声を漏らす。
 長政はいま信長軍を攻めても、きっと思うような戦果は得られぬと感じたのか、その報知を受けても、何等、軍を動かそうとはしなかった。
 それにより、信長軍は虎御前山への砦の建築に着手することができた。
 信長はそれから、すぐに小谷城を攻めようとはしなかった。信長は横山城を出ると、湖西に渡って、和邇に向かい、六角・浅井の残党を討ちに行った。
 そのうちの一城、伊黒城主新庄法泉坊は、信長の急襲に驚いて、自分から、人質を差し出すという暴挙に出た。それほどに信長という男を恐れていたということなのであろう。結局、法泉坊はそれによって、内応を認められ、信長のために働くことを約束したのである。
 信長はそのことに大変な喜びを覚え、伊黒城を元のままに安堵するという約束をして、法泉坊を喜ばせた。
 伊黒城の近くの海津城城主海津信濃守はいま小谷城に居た。伊黒城の城兵に近隣を荒らされて、その苦情を小谷の長政に伝えた。
「しかし我等はいま信長軍に威圧を受けていて、琵琶湖を挟んだ向こう側である湖西のことにまで手を伸ばすわけにはいかぬというものぞ。あいすまぬことであるが、今回は諦めて頂きたい。まことに申し訳のないことである」
 長政はそう述べて自身の窮境を説明した。
 しかし、海津信濃守はこう返す。
「法泉坊をのさばらせておけば、高島一帯を占領して、湖西を一丸として攻め込んで来るとも限らぬではないですか。いま信長の軍隊は湖西にあるため、湖北に対しては守りが手薄でございましょう。いまのうちに湖西に助力を願うことはできませぬでしょうか?」と。
 長政はその言葉を受けて、軍評定を開いた。
「ということであるが、我らはどうすべきとお思いか?」長政は諸将に考えを訊ねた。
「うーむ。信長の暴虐にはどこかで反抗を企てねば、その増上慢、止まるところを知らぬというものでしょう。いま信長に反旗を企てるは我らの他にありませぬぞ。ならば、我らは他の大名らに示しをつけるためにも、信長に対して徹底抗戦をしかけていくということしか選択肢はないのではありませぬかな?」美作守はいつにない好戦的な進言を試みる。
「うむ、そうかもしれぬな。美作殿の仰せには確かに一理あるという気がするのう」海北綱親が述べる。
「しかし、あの信長殿の勢いに抗するとは、いったいどういうものであろうかのう……」
 長政は若干の弱気を覚えていた。
「殿、信長を恐れてはいけませぬ。彼の者は仏敵でございますぞ、有無を云わせずそれを打ち破らねばならぬという相手でございまする。おわかりですか?」
「うん?」と長政。
「信長は滅ぼされるべき相手でございまする、あの比叡山の暴挙さへなければ、まだ存命の余地もあったでしょうが、あんなことを為した上では、おそらくどのようなこともまともには通って行かなくなるでござろう」
「うむ……」長政は落ち着いて答えた。
 海北綱親は、あの信長の比叡山での暴挙もすべて、裏切りと云う物に対する苛烈さ、信じていたものが自分を裏切ったというただその一点に於いてのみ機嫌を悪くしたうえでの結果であるという思いを強くしていたのであった。
 そのことを長政も強く思い始めていた。
「信長恐れるに足らず」綱親はそう云いきった。
 長政はしばらく考えた後に諸将らに告げた。「よし、我等は湖西を安堵するために救援に向かうとしよう」
 長政の好戦的な意見に、諸将らはいきり立った。
「よし、織田方に一矢報いてやりましょうぞ」
「必ず、作戦を成功に導いてみせます」
 諸将らは聞こえのいい言葉を云って、気持ちを盛り上げた。
 その日の軍評定は夜遅くまで続けられた。

     *

 四月十五日、浅井軍は、海津信濃守を総大将として、千三百の軍勢を湖西高島に派遣した。
「伊黒の兵士ども、よくも我等の土地を好き勝手に荒らしてくれたものだな」信濃守の怒りはなかなか治まらない。
 信濃守は伊黒城を取り囲み、人数の多勢なのを頼りに、力押しで城を攻め立てた。その当たりの激しさによって、攻める側にも守る側にも多大なる被害――つまり死傷者の数――が増えていく。
 戦闘の開始から一刻ほどがたったとき、伊黒城の城門を破ることができた。
 そこから浅井軍は城中へとなだれ込み、城の中の伊黒兵士たちはみな、退散して行った。最終的に被害は伊黒側が四百人弱、浅井側が二百人弱であった。

     *

「織田方はどうやら、虎御前山に付け城を致す作戦をひどく気に入ったようにございますな」赤尾美作守は憎々しげに顔を歪めて、そう述べた。
「織田の狙いはなんでありましょうかな?」海北綱親が訊ねる。
 いま場には諸将の中でも、特に身分の高いものだけが集まって、普段の軍評定よりも数段重要な話題について語り合っている最中であった。
 浅井長政、赤尾美作守、海北綱親、そして、浅井井規。その四人だけである。
 長政は若竹色の織絣の着物を着ている。この熱い七月と云う残暑の季節には最適の着物であった。
「織田は常に我等に警戒をさせて、精神的に疲弊させようとしておるのではあるまいか?」美作はそう意見する。
「いや、多分、狙いはそこではあるまい。おそらく織田は我等の勢力の中の結び付きの弱い部分を狙って、味方に引き入れて、我らを裸にしようとしておるのではないですかな?」
「うん?」
「あの羽柴秀吉の行った我ら浅井方の諸将の度重なる内応がそれを物語っておりまする」海北はそう述べると、またしばらく自身の考えにもぐりこんだ。
「うむ……」長政は声を漏らす。
「どちらにしても、これは由々しき問題であることに変わりはないというものであるな」
「左様ですな」美作守が返答する。
「しかし、どうすることもできぬ……」長政は口惜しげに歯噛みした。
「朝倉殿に救援の手を求めるのはいかがかな?」海北が進言する。
 一同はその意見にはっとなった。
「朝倉殿か!」美作守は嬉々とした様子で反応した。
「それはいいかもしれぬ」と長政も告げる。
 長政の心中では最近また、朝倉に頼りきりであることに若干の引け目を感じていたのだった。そして、自分から賛んで、越前に助けを求めようとはしなかったものの、本当のことを云えば、越前の朝倉がいなければ、どうすることもできない情勢であることは、深く悟っていたのでもあった。
「越前か……」長政は感慨深げにその言葉を口に出した。
「さっそく、福寿庵らに命じて、越前殿に伺いを立ててみましょうぞ」海北はそう告げると、すぐに小姓に命じて、浅井福寿庵を呼びにやった。
 福寿庵はただちに会議の場に姿を見せる。
 福寿庵はすでに自分がこの場に呼ばれた理由を察知していたようであったが、そんなことを感じさせないように、巧みに「どうなされましたか?」と訊ねてくる。
「そなたにまた越前へ行ってもらいたい」長政が告げる。
「越前ですか――承りました」福寿庵は莞爾とした笑みを見せる。
「ならば早速飛んでほしい。あと、木村喜内之介も連れて行ってくれ」
「はっ」
 福寿庵と喜内之介の二人は指示されたとおり、すぐに、北国街道を北上した。
 二人は朝倉の主城一乗谷に入った。
 福寿庵にとってはもう何度目の訪問になるか分からない城であった。
 それほど多くの回数、この道を通り、この門をくぐったのだと思うと、感慨深いものが胸に込み上げてくる。
「参りましょう」木村が述べる。
「ああ」と福寿庵。
 福寿庵は城兵に説明した。
 すぐに会見の準備が整えられ、二人は広間に通された。
 さすがに、江北よりも北に位置する越前ということもあり、暑さはそれほど強くない。過ごしやすい空気があたりに立罩めていて、清々しさを感じる。目の前には越前の国主、朝倉義景が端然と座っていた。
「どうされましたか?」と義景が訊ねてくる。
「はっ。今日もまた義景殿にお助け願いたき儀がありまして、まかり越しましてございます」
「うむ」
「実は、あの織田信長が、浅井の主城小谷城のすぐ近くである虎御前山に城を築きはじめ、どうやら、付け城を致す所存のようにございまして、それを打ち破るために、出来れば、我が軍に御加勢願いたいと思うておるのですが、いかがでございましょうか?」福寿庵は滔々と申し述べた。「これが書状にございます」福寿庵はいま話した内容と同じことが、この書状に認[したた]められていることを説明した。
「付け城か……」義景は書状の中身を確認すると、目を細めて、しばらく考え込んだ。「それは難義なことでござるな……。眼と鼻の先に城を造られては、夜もおちおち眠っておられぬというものでござろう。あいわかった。あの信長を破るために、加勢いたしましょうぞ」
「あ、ありがとうございます」福寿庵は笑みを浮かべた。
「しかし、いま信長の主力軍はどこにおるのかな?」
「はっ。それが去る七月中旬、我等が江北の平地に出兵してきておりまして、いまにも攻めてこようかとの勢いを持っておりまして……」
「ますます由々しきことにござるな」義景は憎々しげに口辺を歪めた。「しばし待たれよ」義景はそう述べると、部下に命じて、筆、硯、紙などを用意させた。そしてさらさらと書状に対する返事を書きはじめた。書いた文字が渇くのを待って、封をし、福寿庵に渡す。
 福寿庵は述べた。「ならば、我らは先に戻ってこのこと城中のものに知らせて参ります」
「あいわかった。我らも準備ができ次第、江北に向かうゆえ、お待ち願いたい。今日中には出発致すゆえ」
「ありがたきことにございます」福寿庵はそう云って、傍らの木村と共に連れだって、場を退いた。そして、まったく休むことなく、すぐに書状を小谷に届けるために、馬を走らせる。
 日は少しずつ、西へと向かい始める時間帯だった。

     *

 元亀三年七月十九日、朝倉景鏡が五千の兵士を率いて越前から来援した。
 江北の土地はそれから数日間、浅井・朝倉軍と、織田軍の間で衝突が起き、各地でその余波を受けた村々が焦土と化すようなことがたびたび起こった。
 七月二十四日、織田軍は前日に襲った木之本地蔵堂の焼け跡の煙も消えぬうちに、今度は、天吉寺山の名刹大吉寺の焼き討ちを敢行する。その指揮を執るのは、羽柴秀吉と丹羽長秀である。

     *

 秀吉は苛烈な命令を下した。
 同じ仏教を敵として作戦を遂行することをしぶしぶ承諾した比叡山のときと違って、今度は、自ら進んで、火をつけることに取り組んだのである。その変化は秀吉の中で、やはり、主君信長の揺らぎのない精神を感得したためというのが大きかった。
 ――信長殿はこの焼き討ち、この仏敵となる所業、残虐なる一方的な殺戮を施した上で、その混乱の中に自分に対する畏怖の感情を民衆に起こさせて、支配する、いわばひとつの恐怖政治というものを夢見ているところがあるのだということを、この短い期間に意識したことが、秀吉の中で、自分の行為を意味づけるきっかけになったということなのだ。
 秀吉は自分の中に天下の形を思い描いたことがあった。
 主君の意思を受けて、手となり足となって、動くという大名の家臣と云う身分であっても、やはり、そこには自分の天下と云うものがあったなら、実際、どのようにして、それを統治していくだろうということを考えないわけではなかった。
 ――それは天下万民が安らぎを得られる世でなくてはならない、と確かに思ってきたのである。それこそ、世のあるべき姿であると、秀吉は考えていた。そんな中で、主君信長の考えはそれとはまったく逆に位置するものであり、真に秀でた者が当主となり、他の劣った者を支配していくという考え方。それが秀吉にはなかなか受け入れられなかったのであるが、しかし、彼にとって、それは信長に対する反発心にまでは発展しなかった。どうすれば、信長の天下を実現することができるか、それを主題にして考えていくと、いま信長が為そうとしている恐怖による統治と云うものにも、一筋の光明が見えてくるように思えるのだった。
「大吉寺を焼き討ちせよ!」
 命令は無情にも秀吉のもとに下った。
 秀吉はそれを遂行することに懸念はあったものの、まったく反発心は抱かなかった。もちろん、それに表だって、反感を持っている部将は少なからずあった。たとえば、明智光秀。彼は器用な部将ではない。いずれ、その反発心が仇となって自分の首を絞めることにならなければよいのだが、と秀吉は考える。
 丹羽長秀は自分の部下に命令して、火をつけやすいように持って来た枯草の束を寺の建物の縁に重ねていく。そして、火をつけ、中にいるものをいぶりだそうと試みていた。
 大吉寺のある天吉寺山は小谷城の補給の要の場所であり、また、城の水源地でもあったので、そういうことからも、信長の軍勢に痛めつけられて、手ひどい目にあった民衆が多数、救いを求めて寺内に詰め掛けていたのである。
 秀吉は攻めにくさを感じていた。脇から浅井勢が攻め込んで来て、ひどく地勢が不安定なのである。
 秀吉は丹羽隊と謀って、浅井軍を挟み撃ちにすることにした。
 丹羽隊を麓におき、高みにある浅井軍と正対させる。
 そして、自身は軍を率いてぐるりと山を回って背後から攻め立てる。火攻めを巧みに織り込みながら、丹羽隊と羽柴隊とは、浅井軍を山頂に追い詰める。
 そこまでの戦略の冴えを見せると、羽柴隊は勢いづいて、浅井軍も、逃げていた民衆も、寺の僧侶も、動く者はなんでも討ち取るというような態度で鬼のように生者に迫っていく。
「それ、誰も生きて返すでないぞ」
 丹羽長秀はそう叫んで、自身も馬上で浅井兵を蹴散らしていく。
 秀吉は胸が痛んでいたものの、一度始めてしまったことは最後まで成し遂げなければ、遺恨を残すとて、道理をわきまえていた。
 大吉寺は比叡山と同じく、阿鼻叫喚の地獄と化したのだった。
 そして、それが、この頃の織田軍の苛烈さを示す好例となったのである。

     *

 長政は思い煩っていた。
 信長軍の、民衆に対する容赦のない非道の数々に対する怒りのためである。信長は民衆をなんだと思っているのか? 目立てばすぐに刈り取って、あとかたもなくしてしまえばいい、雑草のようなものである。そう思っているのだろうか? 自分と同じ人間だとは思いもしないのだろうか? 信長のその非情さに怒りを通り越して、呆れすら感じているのがいまの状況である。
 美作守も綱親もそのことに関しては遺憾を表明している。
 しかし、こうも思うのだ。
 もし自分が信長殿を裏切らず、越前を攻めることを選択していたなら、いったい、いまこの国はどういう情勢になっていただろうか、と。
 そんなことを思うのも、神経衰弱のせいかとも疑われたが、いまこの小谷の軍勢は、信長にとって、完全に目の上のたんこぶになってしまっている。倒したくて、倒したくて仕方のない甘い餌のように思えているのだろう。しかし自分もそう易々と命をくれてやるわけにはいかない。私はいっても、この江北の一領主であるのだ。弱い面を見せていてはそこをつけこまれる。それだけはなんとしても防がねばならぬだろう。
 長政はそう考えながら、しばらく自室で考えにふけっていたが、やがて、自分一人で考えるのも億劫になって、お市たちのいる広間に向かうことにした。
 と、広間に行ってみると、そこには誰もいない。
 侍女を呼び、彼女たちの行き先を聞いてみようかと思っていると、丁度そこへ、父、久政が姿を見せた。
「父上!」長政ははっきりとした声で父を呼んだ。
「おう、長政か……」久政はなんの感慨も持っていない風にただ儀礼的にそう述べた。元気がないのはいつものことだが、その声の表情には、どことなく憂愁の匂いがするように感じられた。
「少し話しませぬか?」話せば何か解決が導き出せる気がして、長政は父親に対して、そう告げる。
「あ、ああ、別に構わぬが――」久政はおどおどしたように告げた。そして、何か落ちつかなげに視線をきょろきょろとさまよわせながら、座に腰を据えた。
 長政はそこに正対する形で膝を折って座る。
「こうして父上と一緒に語らうのも久しぶりでございますな」長政は感慨深げに云う。
「そうなるか……あの信長の戦略に対応するのに追われて、なかなか余裕が見せられなかったということもあるしの」
 久政は長政と話ができなかった間も、自分のなかであれこれと意見を持っていたような様子であった。
「儂を怨んでおるだろう?」久政は挙動不審なくらいおろおろしながら、そう言葉を押し出した。
「恨む? どうして儂がそのようなことを?」長政は父の云うことの意味がはっきりとはわからなかった。
「だから、織田か朝倉かというときに、儂が朝倉との厚誼を重く見るべしと申したことが、いまのこの江北の事態をもたらしてしまったということであろう?」
「そんなことですか」
「そんなこと?」久政は驚きに目を瞠る。当然のことながら、自分に対して叱責の言葉が投げられると思っていたのであろう。長政のその反応に、いま自分が耳にした言葉がまったく幻であるかのように、きょとんとした表情で、息子を見ている。
「それなら、儂もいろいろと考えたことがあります。しかし、確かにあの場で朝倉との縁を重く見るべしと仰った父上の意見は大いに参考にしましたが、あくまで決めたのは、ほかの家臣も含めた我らでございます。なにも父上だけが悪いなどと責めるような卑怯なことはしようとは思いませぬ」長政は順序立てて説明する。
「そうか、そうであるか……」久政は安堵したのか、ほーっと息をひとつ吐いた。
「織田は確かに強力な敵でございます。あの総勢五万の軍勢に攻め立てられれば、我ら小谷など、ものの数日で陥ちてしまうでございましょう。しかし幸い、信長には各地に敵がいる。その敵と抗しなければならないゆえ、我らを攻めるのに大軍を割くことができずにいる。いまはチャンスだと思っております。それに、我らには朝倉や将軍家や本願寺の僧侶といった力強い味方がおりまする。彼らと共同戦線を張れば、きっと何らかの成果は実るというものでございましょう」
 長政はふっと表情を緩めた。そこには父親を攻めるような風は微塵も見えない。
「父上?」長政が訊ねる。「儂は感謝しておるのですよ」
「うん?」
「儂をここまで育ててくれて、そして、国主の座を奪った儂をまた支えてくれるようになって、遺恨なく毎日を過ごされていると思えることが、どれだけの励みになっているか……」
「それはな……これまで云わなんだが、美作守の言葉がぴりりと効いておるのよ」
「美作守がなんと?」長政は意外な名前に身を乗り出して訊ねた。
「美作守は儂にこう云いおった。『これからも小谷のことを思うなら、国主の座を追われたことを恨みに思うのでなく、戦闘でも華々しい活躍をすることが見込まれる若君の手足となって働くという第二の人生を送ることをよしとすることこそ、この江北発展の礎となるというものでございますぞ』とな」
「そんなことを美作守が――」長政は声を張った。
「儂は目から鱗が落ちた心地がしての。確かに、国主を諦めなければならなくなったとき、あの竹生島での隠居生活の張り合いのなさにどうすればこれからの人生を実りあるものにできるかということを考えておったが、答えはそんな近くにあったのかと、目を開かされたよ。美作守は国務の忙しい時期を縫って、竹生島にやってきて、儂に先のようなことを云いおったのよ。うむ、あいつはこの浅井の家になくてはならぬ優秀な部将よ」
「そうかもしれませぬな」長政は同意する。
 久政はそれだけ云ってしまうと、控え目に告げた。
「このこと、美作守には内緒にしておけ。儂がそんなことを云ったと分かると、美作との間がぎくしゃくして、これからあまり頼ってもらえんようになるからの。儂もまだ頼りにされたい時期であるし。それがなくなると、張り合いがでないというものでな」
「なるほど……」
 久政はそれだけ云うと、「では、この話はこれで終わっておくかの」と云って、一息ついた。
 長政は他にも積もる話があったが、久政はそれを聴こうとするほどの集中力を欠いているように見えたので、何も云うことなく、場を収めようとした。
「朝倉と連合して、信長を討つ! それに何の迷いもありませぬぞ」長政は父に対して、そう宣言した。
「そうか、期待しておるぞ」と久政は告げる。「慎重にな――」
「はい」
 長政はそう云うと、侍女のいる厨房の方へ向った。久政も後で立ち上がる気配がして、立ち去ったようである。
「市らはどこへ行ったかな?」と長政は妙に訊ねた。
「清水谷の周りを散策なさっておいででしょう。出られてから半刻ほど経ちますし、そろそろお帰りになる時間ではないかと思いまする」
「左様か」
 長政はそれだけ聞くと、場を去って、自室に引っ込んだ。
 お市たちが帰って来たのはそれからしばらくしてのことだった。


31 :蒼幻 :2011/02/03(木) 00:54:00 ID:tcz3skkHkc

     *

 元亀三年七月三十日、越前の朝倉義景は名のある諸将をはじめとして、一万五千の軍勢を率いて小谷城下に到着した。
 この一万超の軍勢を率いてきたということは、ここを正念場と決めたということであったが、その気鋭には綻びがあった。
 八月三日、小谷の長政は島秀安に、鞍掛峠を越えて伊勢長島の一向一揆と連絡をとり、江北と美濃との間の道を封鎖する作戦に就くように説明したのだが、島秀安は兵力が不足していたために、そこを封鎖することはできなかった。
 堀が手をこまねいていると八月七日、信長は一千の軍勢で小谷の近くまで急襲し、朝倉軍に対し、弓やら鉄砲やらでちくちくと攻め立ててきた。
 朝倉軍も一方的にやられるのは気が済まないため、軍をすすめて、白兵戦に打って出た。
 そのとき信長の本陣が視野に入る場所目蒐けて、朝倉方の一人の部将がつきすすんで行った。彼の名は長崎大乗坊。鉄砲を使わせればかなりの腕前の男である。彼はその場所に辿り着いたが、そこにある墓の陰から信長を狙い撃ちにしようとしているときに、不意に、敵兵に見つかってしまった。彼は撤退するしかなかった。
 その後も、信長と朝倉の対立は続いて行ったが、八月八日、前波吉継父子が信長の陣目蒐けて突き進んでいく。
 朝倉義景はそれを見て、抜け駆けで功を争おうとしているのだろうか、と感じたのだったが、観ていると、途中で、白い腹巻を降服の白旗代わりにはらはらと舞わせて、織田の陣へ向かっていくのだった。
 ここに来て、一致団結しているはずの味方の将が降伏などと云う手段をとるなど、義景はそこまで不甲斐ない者らだったかと後悔する気持が大きくなる。
 翌九日には、さらに、富田長秀、毛屋猪之助、戸田与次らも織田方へ降服した。加えて、池田隼人助もこっそり信長に、降服状を送る始末であった。
 義景はそのことを知って、池田とその子供を磔に処した。場所は郡上の松田でである。

     *

 魚住景固は簡単に信長に降伏できる諸将らを羨ましく思っていた。
 羨ましいということは、自分にも少なからず、その気味があるということである。朝倉の重鎮として兵士を率いている身分で、そう易々と敵将に下れば、天下にどういう悪名が轟くか分からぬという思いを抱いていたのである。極言すれば、それさえなければ、いつでも、朝倉の家を裏切って、織田方につくことも吝かではなかったのである。
 姉川の戦いのときにも、あの信長と渡り合わなければならないという重圧に押しつぶされそうになった経験もある。そのせいで、まったく軍を動かさず傍観していたために、家中では、ただの臆病者ではないかとせせら笑われていた場面に出くわしたことも一度や二度ではない。もうこれ以上、ここに踏みとどまっても、いいことはないかもしれない。魚住の頭の中ではそういう計算が着々と積み上がっていく。
 ――いま軍を率いている主君義景の首を土産にすれば、織田の軍は儂を快く迎えてくれるであろうか?
 そんなことすら頭の中に計算高く浮かび上がってくる。
「魚住、何を考えておる?」
 いつのまに近寄って来たか、見ると、朝倉景健の姿があった。
「おう、景健殿」魚住は何事もなかったかのように声を上げる。
「また織田との戦でございますな」と景健はきつい表情をして述べる。
「本当に。なかなか大変なことでございますな」
「しかし、あの織田と戦って勝ち残れるものか、はなはだ心配でなりませぬよ」
「うむ」魚住は景健に先に云われて、言葉を失った。
 やはり皆、考えることは一緒なのだ。
「まあ、この小谷に居れば、一気に片をつけられることだけはないでしょうがの。それくらい、この城は堅固にできておる……」
 景健はそう云うと、この小谷の堅固なことを褒めたたえた。
「また、今度の打って出る時に備えて、準備しておいて下されな」景健はそう云うと、踵を返した。
 魚住の右手は腰に佩いた刀に掛かっていた。
 ――こいつの首をとれば、あるいは――。
 しかし魚住はそれを実行には移さない。まだ時間はたっぷりある。最後まで自分の身の振り方を吟味して、たっぷり考えた後で結論を出せばいいだろう。そんなことを考えていたのである。

     *

 八月二十八日、台風が来て、暴風雨が小谷方にも織田方の陣屋にも猛威を揮った。
 その混乱の中で、ひときわ目立って活躍した者があった。
 それが、朝倉景盛の家来竹内三之助、上村内蔵助の二人である。
 二人は完成した信長方の虎御前山の北端に位置している柴田勝家の砦に忍び入って、火を放ったのである。折からの風によって、火はたちまち近くの建物に移って延焼し、七百余塁が焼けてしまった。織田軍はそれが敵兵によるものと堅く信じ、まさか、たった二人の為したこととは知らずに、混乱をきたし、同士討ちをはじめる者まで現れた。
 暗闇であるから、敵味方の区別をつけるのは容易ではない。場は大混乱に陥り、織田方は恐慌していた。
 しかし、二人の行動は小谷方にはまったく通じていなかったため、織田がここまでの混乱に陥ってるとは夢にも思っていなかったのである。結局、小谷方は、この機会を活かすことができず、戦をひっくり返す好機を無下にしてしまったのであった。

     *

 山は紅葉の季節を迎えていた。あと数か月もすれば雪の季節になってしまう。小谷の冬はなかなか底冷えのする寒さであるので、露営はきついものがある。織田方の兵士もそれを思うと、びくびくとするのだった。
 山村では一ヶ月も前に稲が収穫の時期を迎え、乾燥させた米を俵に入れる作業が待っていた。
 いくらどの軍が強いといっても、その強さを保つには兵士ひとりひとりの命を保つことが大切で、それを保つには食料である米は必需である。その米を作るのは百姓であり、百姓はもっとも大地を愛する者である。その百姓に対して、威圧を加えて食料を搾取するというのはあまり褒められたことではない。そんなことを考えていると、よく百姓は何も云わずに、我らに米を拠出してくれているな、と思ったりする。
 長政はときどき、不思議な気分に陥ることがある。
 もし、為政者も米作りに参画するような世の中であれば、また民の心根も変わってくるのではあるまいか? 民は国の宝であり、また、それ以外の士も国の宝であり、国の宝でない者など、この世に本当にあるのであろうか?
 そんなことを考えたりもするのである。
 この日本は広い。
 さまざまな武将がいる。
 それ以上に、民百姓の数は多い。
 いったい、そのうちの何人と儂はこの人生に於いて関わってこれたであろうか?
 取るに足りぬ数である。
 長政はそう考えて、唇を噛みしめるのだった。


32 :蒼幻 :2011/02/03(木) 00:54:41 ID:tcz3skkHkc

第十六章 信玄上洛の件

 いよいよ巨魁が動くことになった。
 甲斐の武田信玄である。
 これまで自領を安堵することに躍起になっていた信玄が上洛を企図するようになったのは何が原因であったか? ひとつには、浅井・朝倉軍の劣勢が挙げられよう。浅井・朝倉軍とは、信玄も、石山の本願寺や瀬戸内の毛利氏と同じく、長らく気脈を通じあわせていたのである。その浅井・朝倉が放っておけば滅亡の危機にさらされるのではないかという懸念が、信玄に機はここであると感じさせるきっかけになったのに違いない。信玄はここで、暴虐の限りをつくす信長を打ち破り、天下に号令をかけようとしたのであった。
「織田の若造にばかりいい恰好をさせておくわけにはいかんというものでな」
 信玄はそうつぶやくように声を漏らした。
 信玄の衣装は緋色を基調とした陣羽織で大変目立っていた。下には何を着ているのかわからないものの、年を重ねてからの甲冑は重くてたまらないのであろう。動きやすい恰好で統一しているようであった。
 軍師山本勘助は去る川中島の戦いで死没していた。いまでは武田家を長らく支えてきた名将・勇将というものが、自然の摂理である寿命に勝てず、その多くが鬼籍に入っていた。そんななか、山県昌景などの臣が活躍する素地もできていた。
 山県には五千を率いさせて別動隊として作戦に組み込んでいた。
 信玄は今回の作戦に乗り気であった。
 失敗することはまずないであろうという思い込みと、信長のこれまでの暴虐はまともに対すれば勝てる相手としか戦をしてこなかったことに対する驕りが大きな影響を与えていたのだと意識する。
 織田を破るのはたやすいことである。
 信玄はそう考えていた。
 その場に控えていた馬場信春が答える。「織田など一ひねりでございましょうぞ」
 信玄は呵々と笑う。
「うむ……そうありたいものだ」
 馬場信春は云う。「ここより西へ西へと向かっていけば、きっと信長は驚き慌ててこちらへ取って返すことでしょう。その隙に、浅井・朝倉をはじめ、ほかの勢力が盛り返さば、それでことはうまくいくというものでありましょうしな」
「そうだな」信玄は愉悦を覚えているようであった。
 九月ということもあって、風が冷たくなってきている。
 もう少しすれば、雪もふりはじめるだろう。盆地の気候になれている兵士にとっては、東海の冬などまったく堪えぬであろうと思える。そんな面からも、土地柄のおかげで兵の戦闘力には十分に差が出るだろう。
「織田は上杉ほどに手ごたえのある相手でございましょうかな」
 馬場はそんなことを告げて、ふっと笑む。
「あまり馬鹿にしていてはそこに油断が生まれ、敵につけこまれるというもの。そういう意識はできるだけなくさないといけぬぞ」信玄はそう云って、注意する。
「はっ」馬場はそう答えてから、また話題を振った。「あの浅井でございますが」
「うん?」
「浅井長政はどんな武将でございましょうかな?」
「それを儂に聴くか……」
「少し気になりましてな。特に、父親を追いだしたくだりなどが殿と一緒でございますゆえ」
「やはりそこを気にするか」
「そうですな」馬場は声を低めて答える。
「そうだな、父を追放しておきながら、また、その父と一緒に国政を見ているというでたらめさ加減が、またあの長政と云う人物を表している気がするのう」
「と云われますと?」
「一度決めたら、とことんまでやらねば寝首をかかれるという意識で、儂は父を追放した。もしあの江北と同じように、あとで父をこの国に入れていたなら、必ず、同じことを、父にされたであろうと思うのだ。それほど、わが家族の気性は激しいものがあるというものでな」
「まあ、それが普通の態度と云うものでございましょう」
「そうであるのだがな――」信玄は口辺を歪めた。「しかし、あの江北の長政の父は違った。いまの状況をあるがままに受け入れているような気がするというものでな」
「そうですな。まるで去勢された馬のような従順さで、考えてみると、不気味なものがございますな」
 馬場は熱を帯びた口調でそう告げたが、信玄はその言葉を受けずに、自分の言葉で次のように語った。
「近江という土地は京から近いこともあって、のんびりしておるのやもしれぬの。中央に琵琶湖が広がっていて、その琵琶湖をいつも眺めておるから、心が穏やかになるのかもしれん」
「そういうものでしょうか?」
「いや、それはよくわからんが、しかし、確かに我らのように周囲を山に囲まれたごつごつした土地であくせく生きる者には無いある種の優雅さがそこにはある気がするのう」
「優雅さですか?」
「人生を楽しむ秘訣がそこにあるとでもいうような」
「それは難しい意見ですね」馬場は苦笑した。
「難しい? 確かに難しいかもしれん。そんなことを云うものはこれまでに一人もおらなんだということであろうしの」
「はい」
「儂もそういう父であれば、またやり方も違ったかも知れんがな」
「後悔されておいでですか?」
「父に対してか? いやそんな感情はもとより無いのう。いや、もしかしたら、少しはあったかもしれん。意識してないというだけで、本当は、胸の裡にそういう意識も少しは持っていたのかもしれんな。ただ、いまは自分の信念を貫くために、不満もなにも考えず、ただ目の前のことだけに厳格に対処していかなければならない。そう思っていた気がするのう。父のことを思い振り返る時間と云うものがまったくなかったというもので――」
「そうですか」馬場は表情を暗くして答えた。
「いま、父君は京におるらしいのう」
「そのようですな」
「京で足利幕府と緊密に連絡を取り合ってくれておるようだが、それがまた我らの行動指針を決めることにもなっているというわけであって、そう考えてみると、父と云う存在は何も浅井だけでなく、我らもともに手を取り合えっておるような形になっているというものなのかのう――」
「さあ、どうでございましょうかな」
 馬場はふっと顔をほころばせて笑う。
「それでも父君を許そうという気はせぬな」
「どうしてでございます?」
「あの父の悪政の数々はいま思い出してみても、身体中に蕁麻疹が出そうだわい。領民の感情が破れる寸前まで行っておったではないか」
「まあ、そうですな……」
「父をこの国に戻し入れるというのは、儂はいまのいまでもまだ承服しかねるのう」
「無理もありませぬ」
「わかってくれるか」
「そうですな」馬場は顔の緊張を緩めて、ぱっと破顔した。

     *

「朝倉殿に御注進!」
 そう叫んで朝倉の本陣にかけ込んでいく織田兵がひとり。
「どのような用件か?」槍を手にした朝倉兵が訊ねる。
「わが主君信長殿から、大切な報告にござる。取り次いで頂きたい!」
 朝倉兵は仲間内で次々に他の者同士顔を見合せて、どうすべきか若干の混乱をきたした。一人で現れたということもあって、まさか、陣のなかで乱暴狼藉を働くとも思えない。甲冑こそ着ているものの、刀はまったく佩いていないのだ。
「ならばついてまいれ。殿の御前に案内しようぞ」
「かたじけない」織田兵はそう云うと、頭を下げた。
 朝倉兵は主君朝倉義景の前に織田兵を連れて行った。
「何用か?」と義景は訊ねる。
「はっ」織田兵は口を開く。「実は、わが主君信長が、休戦を申し出たいと思われていまして」
「休戦?」
 義景は諸国の情勢に疎いわけではなかった。
 甲斐の武田信玄が西進を始めたということもすでに知っている。
 ――ははあ、それだな、と義景は思った。義景はしばらく考えるふりをした。もちろん、心の中ではとうに覚悟は決まっていた。
「それを受け入れるわけには行きませぬな」彼はそう云って、伝令の男に伝えた。
「何があってもでございますか?」
「何があってもじゃ」義景は肅然と答える。
「そうですか、残念にございます」伝令は声を低めた。「では私はこれにて」
 家臣は伝令の首を切るかと云う目くばせをしてきたが、一度、首を横に振り、伝令が出ていくのを大人しく見守った。きっと我らが手を下さずとも、朝倉堕ちずという報せを持って帰れば、信長の機嫌を損ねることは必定であろう。そう考えれば、いまここで非道に伝令を切らずとも、同じ結果になることは目に見えている。
「殿、それでよかったのですか?」魚住が声を荒げて云った。
「よい、東から武田が攻めてきているのだ。それに追われて息を切らしているときに、こちらからも攻めなくて、どうして仲間と云えようか? 武田と結んでいる我らは、天下に大義を持っている兵士なるぞ。幕府の威信地に落ちたといえども、やはり大義はこちらにあるというものでな。あの信長に一泡ふかせてやらねば、気が済まぬというものよ」
「なるほど」魚住はそう云うと、また少し考えるそぶりを見せた。「儂は信長を甘く見ない方がいいと思うのですがね」
 義景ははっとした。魚住がそんなことを口にするのをはじめて聴いたからであった。「魚住!」義景は声を漏らした。「お前はなにか心に一物あるのではないか?」
「どうしてそのような――」魚住景固がどぎまぎしながら云った。
「考えてみると、どことなく信長に敬意を持っているような口のきき方をするし、そう云う面で、あの信長の人物に惹かれているのではないか?」
「そのようなことはありませぬ、気のせいでございますよ」
「はたしてそうかな?」
「もちろんです」魚住はふっと表情を緩める。しかしその表情の変化からは、何も察知することは出来なかった。
 朝倉軍は和議には応じなかった――。
 その知らせが織田軍に運ばれたとき、織田軍は、兵を分けて現状に当たることにした。
 つまり、羽柴秀吉に虎御前山城を、柴田勝家に八相山城を、宮部継潤に宮部城を守らせて、かなめの城、横山城も守りを深くして信長は岐阜城へ退却したのである。
 両軍のにらみ合いは無駄に長く続き、どちらの兵士も相手を挑発するような掛け合い踊りをしては、気を紛らわすのであった。

     *

「いよいよ天下を取るための軍が動くのでございますな」馬場信春が感慨深そうに声をあげる。「殿、天下に雄飛いたしましょうぞ」
「年甲斐もなく少しのぼせ過ぎておるようだな」武田信玄はそう告げると、皺の目立ち始めた顔をくしゃっと歪めた。しかし皮膚は経年の雰囲気を帯びているとはいえ、やはり彼は一角の武人、その眼光の鋭さたるや、飛んでいる鳥も落としてしまいそうな雰囲気を兼ね備えている。彼に慣れぬ者が近くに伺候したなら、きっとその覇気の強さにあてられて、緊張のあまり身体の震えを抑えられなくなるであろうことは確実であった。
「硯と筆を持て」と信玄は室で指示をした。
 小姓たちが持って来た筆記具を手にして信玄は切々と必要事項を書きつづった。
 それは江北の浅井に宛てた文である。

『この上は猶予なく行に及ぶべく候。八幡大菩薩、富士浅間大菩薩、氏神新羅大明神の照覧偽りにあらず候、朝倉義景と相談され、この時運を開かるべき行、尤もに候。恐々謹言』

 信玄はこの手紙を江北の小谷に届けるように指示をした。
 その当時、信玄の支配領国は甲斐・信濃・駿河・北遠江・東三河・西上野・北飛騨・南越中と八ヵ国。百二十二万石という勢力であり、兵力は四万強、天下にもっとも近い男として、信長とせめぎあっているのであった。
 その信玄は兵力差だけで相手の優位に立っていたわけではない。このころでは幕府と対立することが際立っていた信長方に比べ、信玄方は、この幕府との結びつきを緊密にし、その上で、本願寺、浅井・朝倉、また西の毛利元就とも結んでいたのである。石山本願寺を頼って、信長や上杉の領土に一向一揆の決起を促して牽制をかけ、その隙に自分の作戦を実行するということも可能にしていたのである。
 十月三日、信玄は甲府を出陣して、十日には遠江に侵攻。
 丁度、寒さが極まる時期の出陣であった。
 いかに盆地よりは寒さが和らいでいるとはいえ、気のめぐりと云うこともあるのだろう、そのころから、信玄は身体の不調を覚えるようになっていた。
 それでもやや急いた具合に軍を進めていく。
 あの徳川方との、三方ヶ原の合戦を近くに控えていた冬のことであった。

     *

 十一月三日、長政は宮部城を落とすための作戦を朝倉義景と相談していた。
出来ることなら、宮部城だけでなく、横山城、虎御前山城、八相山城も攻略したいところであった。
 総大将は朝倉義景、先方に浅井井規、その陣立てで、まずは宮部城の攻略を目指すことにする。
 宮部城は元浅井家家臣宮部継潤が守る城で、それほど堅固ではないだろうという思いでいたのだったが、攻めてみると、実際、とても固い。城兵もなかなか士気が高く、思うように攻略することができないのだった。
 と、そこへ虎御前山城の羽柴秀吉の軍勢が浅井朝倉軍の背後から襲いかかってきた。
「これはたまらぬ」と浅井井規は軍をひこうとしたが、その様を見てとって、宮部継潤は城門を開き、羽柴隊と共闘して挟み討ちの作戦に出た。
 その攻撃に浅井朝倉連合軍は惨敗を喫した。
 主力を欠いた織田軍にすら負けてしまうことは屈辱的だった。
 義景と井規はその引き上げる道中、無念の思いをひたすらに噛みしめていた。

     *

 十二月二十二日、西進する武田軍と、待ち受ける徳川軍の間で戦闘が起こった。
 かの有名な、三方ヶ原の合戦である。
 三方ヶ原で両軍はぶつかったが、そのとき、武田軍は精強で、その見事な騎馬隊の動きによって徳川軍を攪乱し、大勝をおさめたのであった。守将であった徳川家康は、そのとき死を覚悟したほどの恐怖に駆られたと、後に述懐している。それほどに激しい一方的な戦闘であった。

     *

 元亀四年一月七日に三河に入る。
 そして十一日に野田城を包囲し、二月十日、城を落とした。
 と、そこまでは順調であったのだが、進軍そのものではなく、信玄の体調の方が先に悪くなってしまった。
 信玄は輿に乗って故郷へと急いだ。しかし道の途上で病気の具合が悪くなり、動くことができなくなってしまった。
 子勝頼を枕元に寄せて、信玄は息も絶え絶えに言葉を伝える。
「三年間、儂の喪を伏せておいて、みだりに軍を動かすことなく、領国を守るのだ。それから、山県を頼む」
 山県昌景が枕元に姿を見せる。
「山県……近江の瀬田にその方の旗を立ててくれ、頼んだぞ」
 信玄は息も絶え絶えに云うと、そのまま具合を悪くして昏睡状態になった。それからはもはや早かった。信玄の意識は戻ることなく、そのまま逝ってしまったのである。
「殿――殿!」
 山県も馬場も勝頼も巨星の落魄に衝撃を受けた。
 馬場は無念の思いを最期まで持ち続けた信玄のことを思うと、この世の無常と云うものが胸に迫ってくる心地を覚えた。
 ――これから武田家はどうなってしまうのか。もちろん、信長は増長して、これまでに以上に横柄にふるまうことだろう。それはなんといっても我慢のならぬことであるが、殿を失った儂らにはもう何もすることができぬ。ここは素直に撤退して、殿の遺言通り、三年間喪を隠して隠棲するのがいいのだろう。真に無念である。一度はこの甲斐の軍に天下を見ていたというのに、雲泥の差。天と地ほどの差があるとはこのことよ。
「馬場殿、殿はなんと仰せであったか?」山県は訊ねた。
「うん、殿は何も仰せではなかったが――」馬場は云う。
「いや、常に殿のおそばに侍っていたそなただ。儂が知らぬことをそなたは多く聴いていたと思うのだが」
「そんなことはない。殿は、口数はそれほど多くなかったし、今回の作戦のこと以外ではなにも仰ってはいなかった」
「う……うぬ」
「しかし、こう仰せでしたな」
「うん?」
「浅井の先代は追放されてからも国許に戻って国政を見るようになったが、うちの先代はそのようなことのできる人物ではなかったということであった。殿はそのことをやはり生涯の痛恨事として胸に秘められていたようであった。そんなこととは知らず、我らは常に殿は正しいことのみをなしておられると思い続けていたということだな」
「なるほど、信虎様のことか、それは盲点であったな……」
「他に何かあったか?」
「まあ、道中、作戦について語り合うことが多かったし、また上洛すればどういう事態が起こるだろうかと云う予測についての言及なども多かった気がするのう」
「ほう……」
 馬場は一息ついて、この場で何を語って良くて、何を語ってはいけないかとしっかりと整理しながら、順番に話していった。信玄が自軍を最強と見なしていたことや、また鉄砲に対する恐怖についてもいろいろと云っていたことを山県に披露した。
 それが通夜の席代わりの話になった。
 それもそうそうに、武田軍は取って返すように自領へと帰っていく。軍の者にも信玄の訃報は伝えず、ただ撤退命令だけが出されたということだけで一同の意識を統一したのである。
 ――殿はいったい何をお考えなのか……。
 そんな懸念が兵士たちに生まれていた。
 まさか主君が倒れてしまったとは夢にも思わない。
 頭の中を疑問でいっぱいにしながら、彼らは帰途についた。


33 :蒼幻 :2011/02/03(木) 00:55:15 ID:tcz3skkHkc

     *

 信玄が亡くなったのは元亀四年四月二十二日のことである。
 信玄の遺骸を乗せた輿は人夫に担がれて、信濃路を甲斐方面へと辿っていく。
 信玄が亡くなったということは人夫には知らされていたが、その人夫自体も信頼のおける譜代の家臣の縁者であったりして、それなりに信頼のおける者に限られている。それほどに信玄の訃報が外へ漏れることを警戒していたのである。
 いったん出兵した兵士が戻ってきたという報せは、すぐに躑躅ヶ崎をはじめとする甲斐の城下町では、まるで醜聞でも広まるように、あっという間に巷間に喧伝された。

     *

 巧妙に隠したかに見えた信玄の死も、武田の領地に諜略にはいった西方の忍者の手により、織田軍にも明らかとなった。
 それでなくても優勢の武田方が急遽手を引いて、撤退したのであるから、何かあったのだろうということは予測がついていた。信長は岐阜城でその知らせを受け、ひとり北叟笑んでいた。
 ――あの甲斐の虎も寄る年波には勝てなんだということだ。
 信長はまた笑んだ。
 近くには誰も侍らせず、ひとり一室に籠っていた。
 南蛮渡来の地球儀や羅針盤などが置かれてある。他にも葡萄酒を飲むのに使う盃や、見事な織物の布などもあった。部屋に差し込んでくる日差しは、間接的なもので、それは薄い刺繍布を緞帳にしたものをかけ、やわらかな日差しのみが入るようにされている仕掛けであった。
 信長は南蛮渡来の葡萄酒を口にして、ひとり悦に入った。
「殿」
 部屋の外から声をかけたは佐久間信盛であった。
「どうした?」と信長は億劫そうに訊ねる。
「軍議の準備が整ってございます」
「そうか」信長はやや微醺を帯びた身体を大儀そうに椅子から起こしながら、杯を机の上に置き、席を立った。
「殿、酒を飲まれましたな」
 佐久間はそこに言及した。
「ああ」信長は短く答える。「駄目であったか?」
「駄目とは申さぬにせよ、やはり、少しは考えて頂きたいという気持ちもあるのですよ」
「すまぬ」信長は素直に謝った。
「しかし、殿がわけもなく、このようなことをなさるはずもないでしょうし、何かありましたか? もしや、信玄の死と何か関係がおありで?」
「わかるか?」信長は聡い意見を吐いた佐久間のことを一目置くように、持ち上げるごとく述べた。
「なんとなくではございますが、そんな気が致しまして――」
「実は、そのとおりでな。信玄が亡くなったという報せは我らにとっては好都合であることはわかっておるのだが、やはり好敵手を失ったという気がしてならなくてな。不思議なものよ。存命中はこんなやつなど憎くて憎くて仕方ない。早く死んでくれぬか、などと思っていたのに、いざ、亡くなったと聞いてみると、寂しさが感じられて、それに引きずられる気持でいっぱいになってしまうのだ。人の気持とはこれほどに面妖なものであるのかのう」
「さあ、どう答えましたらよいやら」
 佐久間信盛は困った顔をして、信長を見た。
 信長はその様子を見て、ふっと笑んだ。「なに、そんな顔をするでない。まるで、悩んでいるのはそなたであるような気がしてくるというものでな」
「そ、そうでございますか」
「まあ、いい、軍議だな。何を話したものか――」
 信長はそう云うと、またいつものように厳しい顔をして、最前までの酒を飲んで微醺を帯びているような状態からはまったく脱却していたのであった。

     *

 信玄が亡くなった二十二日よりも少し前の、四月上旬、京都でも反信長の動きが加速していた。
 首謀者は将軍足利義昭である。
 将軍が二条城を占拠して、反信長の兵をあげたという報せは、当然、岐阜の信長の耳にまで届いていた。
 信長は決意を籠めた面持ちでこの知らせを聞いたのだった。
「義昭は、以前は唯々諾々と我に従うておったというに、今はまったく違う。叛旗をひるがえすなど、自分の地位を勘違いしておるのではあるまいな? 儂がおったからこうして将軍にもなることができたというに、最近では儂を排斥する方向に意志を傾けつつあるようだ。ここらで鉄槌を下さねばなるまいのう」
 一同は同意の頷きを加えた。
「二条城か……少し遠いが、行くとするか」
 信長はそう云うと自軍を組織して京への出陣を決めた。
 信長は京に攻めよせ、二条城を取り囲む。
「将軍よ、足利よといっても、所詮敵は義昭ぞ。そんな男に何ができようか。踏み潰してくれるわ」
 信長は総大将として指揮を取りながら、周りのものにそう告げた。
 波状攻撃をかけて城を落とそうとしていたのだが、そのとき、天皇の勅書が届いたのである。
 そこにはこうあった。
 ――足利義昭との関係を修復し、元のように互いに助け合っていくように。
 信長は云いえぬ怒りを覚えていた。
 それは現人神である天皇に対しての怒りでもあった。
 どうして我らはこんな命令まで飲まねばならぬのか……。
 しかしどうすることもできない。
「殿、ここは引くしかありませぬな」
「う。うむ」信長は気をそがれて、意気消沈しそうになっていた。
「この怒りどこへ向ければよいのやら」
「それならばいい方法がございます」佐久間信盛がそう告げた。
「うん?」信長は声を低めて訊ねる。
「義昭と闘わなければいいのです」
「そんなわかりきったことをなぜ、今更云う?」信長は佐久間の云う意味が十分に理解できなかった。
「天皇の命令は、義昭との戦の取りやめだったのでしょう。ならば、ほかの反対勢力をつぶせばいいのです」
「うん? 浅井や朝倉をということか?」
「はあ、それもありますが、いまは六角など如何かと?」
「六角――」信長は意外な言葉に唖然となった。そして思い当る。「鯰江城か!」
「左様で――」信盛は嬉しそうに告げた。
「ああ、それはいいかもしれぬの。うん、よき考えじゃ」
 信長はそうそうに二条城から陣をひき、江南への道を進んで行った。
 京から守山、そして百済寺、そこから鯰江城へと向かったのである。
 鯰江城は難攻不落の要塞として知られていて、地勢的には、愛知川北岸の小高い丘の上に築かれていて、南側は急斜面ということもあり、力ずくで乗り込むこともできず、しかも高さは大人の身長の三人分はあろうかという高さである。東、西、北は深い空堀と土塁で固められていて、攻めるに難く、守るに堅い城であった。
 城主は代々鯰江氏で、いまこの城には六角義治を迎え入れ、反信長の勢力を募っている最中であった。信長にとっては小うるさい存在であり、いずれは滅ぼしたいと思っていた相手であったのだが、いささか少勢でもあるし、それまでずっと北方の浅井氏や朝倉氏を相手にしてきていたので、どうしても、ここまで手が回らなかったのである。せっかく義昭を討ちに来たのに、それを天皇に阻止されて、そのまま引き下がるわけにもいかないと思いながらの進軍であったのである。
 しかし、城攻めは困難を極めた。
 信長は思った以上にと云うか、予想通りと云うか、城のあまりに堅固なことを知って、周囲に城を築いて包囲することにした。長期戦の構えである。
 と、信長はそこである事実を知る。
 それは数日滞在した百済寺の偽らざる事実についてである。
 つまり、百済寺は、鯰江城の補給基地であり、城内の将兵の女や子供が多数匿われていたのである。
 百済寺の和尚たちはその事実をひた隠しにしていたのであったが、いま信長の知るところとなってみると、その報復の恐ろしさに背筋をぴんと張り詰めているような状況であった。
 それまでにも比叡山でのことや、江北での焼き討ちのことなどで、信長の、仏門にあるものに対する処遇の厳しさは群を抜いていることを承知している僧侶たちであったため、その報復は苛烈なものになるであろうと覚悟していた。
 事実、そうなったのである。
 信長は怒りを露わにした。
「おのれ、にっくき坊主ども! 儂をたばかりおったな。許せぬ、許せぬぞ。ここは焼き討ち以外にないというものだ。それ兵士ども、百済寺を粛清せよ。寺もろとも、焼き滅ぼしてしまえい!」
 信長は青筋をぴくぴくさせてそのように述べた。
 よほど、癇に障ったらしい。
 百済寺もよほどのことであったらしく、先に、信長のそういう行動を読んでいて、寺の中に収蔵されている重要な仏典や仏像に関しては、先に運び出す準備ができていた。
 しかし僧らは無念の言葉を引き合いに出す。
「あの焔の向こうでは、女や子供が無惨にも焼き殺されているのだ。こんな暴虐があっていいものか? もし私に力があるのなら、暴虐の主を天にかわって成敗できるだけの力を与えたまえ!」
 しかし、その願いの叶うことはついになかったのである。
 本尊の仏像や古文書を携えた千手坊仙忠らは、近くの大萩西ヶ峰へと避難した。そこでことの静まるのを待って、戻るつもりでいたのだった。
 流石に信長の兇刃はそこまで広がってくることはなかったので、仙忠らはそこで一息つくことができたのだった。

     *

「結局、我らは何も局面を開くことができておらぬではないか」
 信長はそんなことを部下に漏らした。
「確かに手痛い失敗でございますな」佐久間信盛が告げる。
 信長と信盛の云うのは、この江南での作戦の覇気のなさについてであった。
 たしかに二条城を攻めることをお上から制された後、この鯰江城の攻略に向かったわけであったが、鯰江城は思ったよりも堅固で、これまでにまったく落とせる気配のない様子で依然として目の前に屹立しているというような状況だったのである。
 それを見て、信長は癇癖を露わにして怒っているような状況だった。
「鯰江ひとつ落とせぬとは、我ら、軍にあるものの名折れぞ!」
 信長はそう云って、怒りを露わにする。
「しかし、そうは申されても――」と佐久間は口答えしたが、すぐに信長の鋭い眼光に射すくめられて、それ以上、何も言えなくなった。「と、殿」と佐久間は声を震わせた。
「やれぬ、できぬ、では初めから無理ぞ。いかに攻略するかを考えてこそ、歴戦の勇士というものであろう。最近、たるんでおるのではないか?」信長はそう口にする。
「う――うむ」佐久間は言葉を失った。
「とりあえず、いまはまだ期が熟しておらぬようだな。とりあえず、引き上げると致そう」
 信長はそう云うが早いか、あとはもう何のわだかまりもなく、退陣を指揮するように一同に述べた。

     *

 元亀四年四月、信長は佐和山城によって、城主丹羽長秀に云いつけた。
「足利義昭はまた再起を企てるに違いあるまい。そのとき瀬田の大橋を落とされてもいいように、大船を作っておけ。いずれ必要になる。必ずな――」
 信長にそう命じられた丹羽は松原に多賀の材木を運びこみ、そこで長さ三十間の大船を造らせた。
 大船の完成は七月上旬のことである。
 その折、京の将軍義昭が再び信長に反旗をひるがえした。
 七月六日、信長は完成したばかりの船で軍を率いて琵琶湖を渡り、京は二条城に攻めこんだ。
「ふん、今度こそ、一泡吹かせてやろうぞ。いや、一泡と云わず、再起不能なほどに痛めつけて、二度と儂に逆らえぬようにしてくれるわ」
 信長はそう告げて、自軍を指揮していく。
 義昭は二条城に四千人弱の兵士を置き、自身は宇治の槙島城に籠っていた。
 信長のまずの標的は二条城であった。
 二条城を攻め取れば、あとはなんとでもなるという深謀遠慮であったのだ。
「殿、二条城よりも槙島城を優先すべきではありませぬか?」
「いやいや、こちらも重要ぞ。義昭が拠点と出来る城をすべて潰してしまえば、それでもうかの者はなにもすることができなくなるであろう」
「確かにそうかもしれませぬな」佐久間は声を漏らした。
 季節は刻々と移ろい、いまは秋七月。
 田畑では稲穂が垂れ、蜻蛉の姿もちらほらしている。
 信長は二条城を攻め落とし、十六日には五ヶ荘、宇治に大軍を進めていった。
 宇治にも農村があり、百姓たちが収穫をしているところに出くわした。
 織田勢が大挙して、東に向かうのを見ると、百姓はその様に驚きながらも、やはり、刈り入れ作業を途中にして逃げようとはしなかった。
 信長はあっぱれなやつらよ、と感嘆の気持ちを覚えた。
「それ佐久間、ここの農民は気概のあるものばかりよのう」
「そうですな」佐久間はふっと笑んだ。
「しかし、我等のように戦から戦に駆りたてられるものと違って、百姓は土地にしばりつけられるものであるから、なかなか難しいものがあるのでございましょう」
「うん?」信長は佐久間の言葉に引っかかりを覚えたようであった。「土地に縛りつけられる――か。儂らには考えもできん人生のような気がするのう」
「ほんに。そうしておいて、作物の何割かは年貢として持って行かれるわけでありましょう? 彼等は弱き存在の最たるものかも知れませぬな」
「うむ……」信長はもう一度、稲刈りをしている百姓の姿に見入った。
 鎌を手に、若干傴僂気味の身体を大仰にゆすりながら作業を繰り返している。横にいるのはその妻だろう。若い頃はどうかわからないが、いまとなってはただの田舎の一農婦という面影しかない。彼らは自分とはまったく接点を持たないまま、年を経ていくのだろうと思うと、なにかしみじみしてくるような気がした。
 信長は先を急ごう、と告げた。
 佐久間もこの農作業をしている百姓たちの姿のどこに、信長の気持ちをひきつけるものがあったのだろうと、そんなことを勘繰りもするのだった。
 しかし、具体的にどの部分がどうということについては、彼らは何も知るすべを与えられていないのであったのだが――。

     *

 信長は十八日、槙島城に対して総攻撃を行った。
 勢いのある信長軍は終始優勢に事を運び、西側から城の構えを破って城下に火を放った。火を放たれて動揺しているところに、織田の軍勢がこれでもかというくらいの勢いで次々と攻め寄せて来る。戦の帰趨は明らかであった。織田軍はあっという間に城を制圧してしまった。
「無念である」城を明け渡した義昭は気落ちしてそう告げた。
「我に逆らうとは、そなたも豪うなられたものよの」信長は世辞にも上品とはいえぬ言葉遣いでそう述べた。
「ふん、なんとでもいうがよかろう」義昭はそう告げると、これからの自分に下る処分について、運命を儚むような表情をして、信長の言葉を待っていた。
「追放じゃ!」と信長は云った。
 ――追放、つまり、命はとらぬということか……。
 義昭はそう考えて、ほっとした。
 しかし油断はならない。追放ということはもうこの京にとどまることはできぬということだ。
 数年前、この京に入るために、朝倉を頼り、織田を頼りしてきたのである。その京を離れねばならぬことが義昭にとってはとてつもなく大きなことであるように思えた。
「河内へ行ってもらおう」信長は冷厳と述べた。
 義昭はこの信長と云う男をもう一度、しっかりと視界におさめた。
 いまは敵味方でも、六角を攻略して京への道筋をつけてもらうときに交わした言葉の数々はいまでも胸に残っている。あの頃は、まだ世間の悪に満ちているという気はしなかったものの、いまこうして冷静に考えてみると、そういう気配も信長の周囲には芬々と漂っていたのであるな、と考えさせられる。
「か、河内か……」義昭は落胆したように述べた。
「若江城じゃ」
「若江……」
「まあ、そこでもう大人しくしていよ」信長はきっぱりと云った。
 将軍が京を離れる。つまり、事実上の室町幕府の滅亡であった。
 義昭は若江城までの道中、そのやりきれなさに何度も瞳に泪を溜めたのだった。

     *

 七月二十七日、信長は京を出て、坂本にあった。
 軍を二手に分けて、湖西路を脅かす算段であった。
 陸からと湖からとの二手である。
 目的は浅井勢の討伐であるが、その前に湖西勢を打ち破っておけば、作戦も難なく進むだろうと考えてのことであった。軍の一方を陸路で木戸城、田中城を攻略させて、自身は大船で高島の打下まで移動する。
 打下城を拠点に付近の城を攻めていく。
 もともと湖西に強力な勢力はなかったため、終始、信長軍の優勢でことが進んでいく。朝倉の援軍である田子左近兵衛も戦うことなく信長に降伏した。そして陸路から攻め立てていた田中城もついに信長軍を押しとどめることができず、降服して城を明け渡したのだった。
「光秀、そなたに、この田中城と木戸城を任せたい」
 信長はそう云った。
 明智光秀は油断のない視線を配ってから、「はっ」と短く答えた。
「任せて平気か?」と信長は訊ねる。
「お任せあれ」と光秀。
「そうか。まあ、近江には多くの我が軍の有力な部将がおるゆえ、そうそう難しいことにはならぬと思う。せいぜい、励んでくれ」信長はそう云うと、かかかと笑った。
「はい」と光秀は答える。
 光秀は二城の城主となったのであった。

     *

「織田は幕府を滅ぼしたあと、湖西に攻め込んだようですな」
 赤尾美作守はそう告げると、無念そうに顔を歪めた。
「湖西もそうであるが、幕府を消滅させるなど、なんということであるか……」海北綱親はそう告げると、悔しげに口辺を歪めた。
「そうですな、ほんに恐ろしいことでござる」
「しかし、足利義昭殿にせよ、甲斐の武田信玄にせよ、我ら、反信長勢力にとってはあまりにも痛恨事が多すぎる――」
「確かにそうであるな……」長政は声を低めて答えた。
「一説には、武田信玄は身体を壊して甲斐に戻っていったとか。死亡説も流れておりますが、詳しいことはわかりませぬ。甲斐の武田の動きこそ、我らの好機でありましたのに、それがあてに出来なくなったということは、つまり、我らだけで信長に対抗しなければならなくなったということに相違ありませぬ」美作守が冷静に答える。
「そうなるな」と長政。
「しかし、武田がだめでは、もう他に頼れる国はありませぬ。毛利氏とは離れ過ぎているし、その他の地域は上洛どころではなくなってしまっている。いま京の近くで信長に反抗している勢力と云うと、我ら以外にはあとは本願寺の一派くらいのもので、あとはぽつりぽつりと一向一揆衆があるくらい。そんな状況ではどうすることもできないというものでござる」
「う……うむ」長政は声を漏らした。
 それ以上、話すこともなくなって、長政は席をたち、気分転換に庭の方を見やった。縁側に立って、外の景色を眺める。
 七月ということもあって、涼風が頬を掠めていく。
 ススキや彼岸花といったものも庭には生えている。
 立派な大樹以外にも自然の風物はいろいろと配されていて、観ていると、それだけで胸に込み上げてくる情感がある。
「嵐の前の静けさというものかも知れぬな――」
 長政はそう言葉に出して云ってみる。
「何か仰せに?」
 赤尾が訊ねてくる。
「いや、なんでも……」と長政は短く答える。
「そうですか」
「しかし、これからどう致しましょうかな」
「どうというと?」
「いや、つまり、我らの勢力で、あの大きな織田軍に立ち向かっていくというのは困難を極めることでしょう。いったいどうすればあの軍団を打ち破れるのか、我らはもう落城の憂き目を見るしかないのかも知れぬ、とそんなことすら思うてしまうのでございまする」
 赤尾美作守は弱気にそう告げる。
 しかし長政の心の中に諦めの気持ちはなかった。
「いや、我らにもきっと光明はある」
 長政の言葉に根拠はなかった。しかし、その言葉には頑迷なひとりよがりのものでなく、ひたすら、冷静に考えて何か自分達にできることはないかとしっかり考えているそんな誠実さが見え隠れしていた。
 それが美作守にもしっかりと伝わっているようで、長政は落胆することなく、にっとほほ笑んだ。
 長政には、この前、父久政と話したことも頭の片隅に浮かんでいた。
 信長に反抗することを潔しとしなかったのではないか? もし儂がいなければ、信長に抗することなどなかったのではないか。つまり、いま現出している事態は、儂(久政)が反対意見を述べたせいでそうなってしまったのではないだろうか? 儂を怨んでおるか、長政?
 父、久政はそう告げて、心配そうに顔を曇らせた。
 しかし、長政はしっかりとした口調で答えた。
 そんなことはありません、と。
「殿――」唐突に、海北が声をあげた。
「うん?」と長政は訊ねる。
「信長は近いうちに総攻撃をかけてくることでしょう。そのとき、我らがどう対処するのがよいか、しっかりいまから考えておいた方がいいのではございませぬか?」
「そうだな――」長政は憂鬱そうに顔を曇らせつつ云った。「信長殿との戦――これからの戦はもう我らのすべてを出しきって、その悪意の牙から身を守らねばならぬか――」
「悪意の牙――」美作守は長政の言葉を繰り返した。
「悪意の牙という云い方が気になるか?」長政は自身の言葉の選び方に問題があったかと、そんなことを思ってもみるのだった。
「いや、云い得て妙と云うものかもしれませぬな」
「そうか?」
「悪魔には爪と牙はつきもので、あの比叡山の焼き討ちを敢行した信長という悪魔には人一倍立派な爪と牙があるのでございましょう。それをそぎ落とさないことには我らの勝利はないというもので……」
「そうだな」
「つまり、我らはあの信長の牙を抜き去ってしまうためにこれから行動しなければならぬということでございます」海北は静かにそう告げた。


34 :蒼幻 :2011/02/17(木) 11:34:25 ID:tcz3skkHkc

第十七章 阿閉、内応

 その頃、改元あって、元亀四年は、天正元年と改まった。
「我らの劣勢、甚だしといったところでございましょうか」
 海北綱親はそう告げて、一同の意気を阻喪させてしまう。
「そのようなことを仰せとは、海北殿らしくない」
 西野壱岐守が告げた。
 西野は美濃攻めのときにも活躍した将であり、武勇は、かの磯野に及ぶほどではないものの、堅実に軍を率いることのできる部将として、上のおぼえもめでたかった。顔はきりっとした二枚目であり、薄いひげを整えて威厳を保っている。長政はこの西野壱岐守をこれまで重視してこなかったが、しかし、むざむざこの城の中で飼いつぶすのも惜しい人材と見て、今回の抜擢を試みたのであった。
 抜擢とは次のようなことである。
 つまり、いま敵の目前にある山本山城を守っているのは阿閉貞征、安養寺経世、今西忠兵衛の三将であったのだが、長政はこう考えていた。
 阿閉のみを山本山城に残し、あとの二人を元の守城に戻すというもの。
 要するに、安養寺経世を安養寺城へ、今西忠兵衛を今西城に戻し、代わりに、この西野壱岐守以下、今井十兵衛、今村掃部の三人を山本山城に入れるという考え方である。
 長政は一点集中よりもすべての城を守るという手法を考えていた。
 これ以上、信長に好き勝手に城を落されることは自負心が許さないというところまで来ていたのである。
「我が軍の劣勢をどこまではねのけることができるか、もうすでに戦は始まっておる」長政はそう云ったが、海北綱親は浮かない顔をして、長政の方をじっと見ていた。
「綱親、どうしたのだ?」長政が訊ねる。
「憚りながら申しますが、今回のこの戦、どう考えても我らが不利であることに変わりはありませぬ」
「そ、そうだな」長政は云いよどむ。
「おそらく信長は調略を駆使してくることでしょう」海北は自信のあるような口ぶりだった。
「調略?」長政は問い返す。
「はい」
「それはどのようなものであると推測されるか?」
「おそらく離間の計や、内応を誘うようなものではないかと」
「うむ」長政は思い当たる節があったので、その海北の言い分を素直に聞いた。
「劣勢にあるものには、最後に残されるのは上に対する忠義心のみですが、おそらく、そういう気骨のある士は少ないかと思われます。我が身が可愛いからとか、義理立てするほどの忠誠心を抱いているわけではないと考えて、敵方に投降するものも少なくないのではないか? またそういう話を聞いて、儂も、儂もと思う輩も出てくるのではないか? そう思うのです」
「なるほど」長政は海北の言い分を聞き入れた。
「我らはどうしていくべきか? いまは家臣団の結束を固めて、一丸となって巨大な信長にぶつかっていくしかないと存じまする」
「う、うむ」
 二人のやりとりを聞いていた美作守は何か云おうといったん口を開いたが、すぐに閉じてじっと押し黙っていた。
「美作殿、何か仰ってくださいませ」
「う、うむ」美作は言葉を渋る。
 長政は涼しげな顔をして、美作の方を見る。
 長政の見た感じでは、赤尾美作守はいつもの厳しい油断のない表情に変わりはないものの、若干の緊張と、そして神経の苛立ちのようなものはその雰囲気、気合のなかに充満しているように感じられる。
 ――機嫌が悪いのか、それともいまの海北の話で、臍を曲げてしまったか、そのどちらかであろうな。
 長政はなおも美作の方を見た。
「恐れながら申します」美作守はそう云って、自分の意見を表明しはじめた。
 場にいた八人ほどの重臣が彼の言葉を待った。
 場に緊張が走ったのが、長政にもはっきりとわかった。
「我らはもう抜き差しならぬところまで来てしまっておるのでござろう」
 長政はこれから語られることがのっぴきならないことであることを覚悟していた。それは美作守がずっとこの浅井家に仕えて来て、考えてきたことの総決算であり、また、こうして自分の意見を余さず表現することはめったにないということもあって、諸将らは、より一層、この家老の言葉をしっかりと受け止めなければならないと感じていたのに相違ない。
「我らはこれから天下に野心を抱く男と対さなければならない。甲斐の武田は凋落した、足利幕府は滅亡した。頼れるは、いまはもう本願寺と朝倉と云う微々たる勢力であるが、しかしそれを当てにして戦をしてはならぬと儂は思う。我ら浅井の兵士だけでも現状を打破するという気概を持っていなければ、この戦に勝つことなど、到底かなわぬというものであろうからの」
「そうですな――」西野壱岐守とともに山本山城に入ることになっている今村掃部が声を上げた。
「いまはなにより団結することでござる。人と人との結び付きが強固になれば、得難き力を発揮できるというものでござろうからの」
「うむ」海北綱親も自分の意見を無駄にすることなく、しっかりと受け入れたうえで答えてくれた美作守の意見に満足を覚えたようである。
 長政はほっと息をついた。
 そして答える。
「皆のもの、よく聴いてほしい」
 一同はみな真剣な表情で、まだ三十前の、この若い主君の言葉を待ち受けていた。
「確かに我らは風に翻弄される一本の葦でしかないかもしれない。しかし、この一本が集まって、多数になれば、どんな力も防げる盾になるとは思わぬか? どうだ?」
 長政はそんな問いかけを諸将にして見せた。
「うむ」と諸将の間に納得する頷きが見えた。
 葦など何本寄り集まろうが、鋼の刀一本に敵すれば容易に打ち破られようなどと揶揄するものはなかった。みな、言葉の正誤を見ているのでなく、その言葉の裡に秘められた精神を見ていたということなのであろう。長政はひとつこくりと頷き、そして、話をおさめた。
「儂からはそれだけだ。諸将らも、他の兵士たちに団結の必要なことをしっかりと説明してくれ。そして、これからの戦は団結がものをいうということをしかと諭しておいてほしい」
「はっ」皆はそう返事して、それ以上言葉はなかった。
「ならば、今日は解散と致す。ではそれぞれの職務に励んでくれ」
 長政はそう云って場をまとめ、皆が立ち去るのを見守った。
 あとに残ったのは、いつもの顔ぶれである。
 赤尾美作守と海北綱親。
 最近はこの三人で語り合うことが多かった。
 気心もしれた人物であるが、長政を除く他の二人の家臣は両方とも老齢である。しかし長政はこの二人と語りあう時間がなによりも楽しみであった。
「長政様」海北が声をかける。
「なんだ」と長政。
「この戦、本気で勝てるとお思いですか?」
「う、うむ」長政は云いよどむ。「勝てるかどうかと問われれば、一族の統領であるものとしては勝てる、と答えるしかあるまい。しかし、正直なところ、駄目ではないかという思いが強い」
「――やはり」海北は目をつむった。
 顔のしわが強調されて、ぐっと年取ったように見えるから不思議である。
「儂はこう思うのだ」
「はい?」
「つまりな、儂はあの信長殿の気性を思うと、確かに昔は、共に手を携えてひとつのことにあたるもいいかと思っていた。しかし、いまは違う。やはり、あの比叡山の焼き討ちは大きかった。あんなことをやってのける人物と儂はうまくやって行けるとは到底思えぬのだ。考えてみれば、儂も信長殿に対して誠実でなかった面もある。あの信長殿の初めての上洛のときに、六角と戦ったことがあったが、あのとき、儂は、祖母の葬儀のすぐあとであったゆえ、戦うことは遠慮したいと申し出たことがあったな」
「確かにありましたな」
 美作守が答える。
「儂はそれで戦をすることをまぬかれたのだったが、実際、本当に信長殿とうまくやっていきたいという気持ちがあるのなら、そんなことなど気にせず、戦うべきであったのかもしれぬ。それを儂らは、信長殿は敵の勢力の一番強い所に儂らを配置して、儂らの兵力を削ごうとしているのではないかと、変に勘ぐって、ひそかな怒りの炎を心中に燃えさからせていた。それは実際のところ、不実であったのではないかと、最近、儂の心に訴えかけるものがあるのだ」
「なるほど」今度は海北が頷いた。
「儂らはもとから、信長殿との同盟を拒否するところがあったのではないか、そして、それを察知されたからこそ、信長殿は、我らとの約束を反故にして、朝倉攻めという事態になったのではないかと思うのだ。あくまでも、今から思えば、ということであるのだがな」
「なるほど……」
「で、いまではもう浅井と織田というものは縁続きでありながら、憎しみ合って、互いに兵を出して戦っているというもので、もう我らのなかに歩み寄りなどというものはまったくないのだろうな」
「そうですな」赤尾はほっと息をついて、目をしぱしぱさせた。「我らはもう対抗する以外に手段がないというところまで来てしもうておりまするな」
「ああ」
「しかし、信長は殿の命をとりましょうや?」海北は怜悧な視線を長政に向けた。
「とらぬことがあろうや?」長政は、胆がしっかりすわっているように見えるような具合に落ち着いた表情をして、海北をじっと見た。海北は身じろぎしながら自分の発言の答えを待っている様子である。
「しかし、信長は我らを痛めつけることは求めていようとも、殿の命を取ろうとまでは思うておらぬように儂には見えるのですがな……」
「それは気のせいぞ。かりに信長殿がそのように、儂の助命を望まれたとしても、儂はそれを受け入れようとは思えぬ。やはり、儂だけがそのように優遇されて、これまでの戦の数々を無視するようなことは儂の自負心が許さぬというものでな」
「そうですか」海北綱親は肩を落として答えた。
「なにか不服でもあるのか?」長政は煮え切らない様子の綱親にそう問いかけた。
「確かに信長の専制は許せぬ部分も多いという気はしますが、しかし、信長に降ってそこで力を発揮するという行き方もまたひとつあるのではないかという気がするのです。もちろん、そこではまったく思いどおりのことができず、気がふさいでしまうこともあるかもしれませぬ。しかし、あの信長の勢いをとどめることは、もはや我らには無理なのではないかとそう思いもするのでござる。いかがでござろう? 信長に下るということはできませぬか?」
 長政は重鎮である海北がそのようなことを告げたという事実そのものに衝撃を受けた。それは徹底抗戦を考えている長政にとっては、まるで見当違いの助言であり、またそのことを知らない海北でもないため、これは浅井家中自体が、大いに意見を乱しているということにほかならない。
「海北――。そなたの気持ちはよう分かる。自分の信念を枉げてでも命を永らえることこそ大切であるということであるな」
「まさしくその通りにございます」海北は頭をさげた。
 長政は眼を細めて、頭をさげている海北をじっと見た。それは慈愛のこもった優しい眼差しだったが、またそこには一抹の寂しさも萌していたのである。「やはり、それは意見のくいちがいというものなのかもしれぬの」
 長政はそう、ぽつりと加えた。
 海北はさっと頭をあげて、ふたたび、その若い君主の顔を見た。
「意見のくいちがい?」海北の頭には疑問符がいっぱいに満ちたようである。「それはどういう……」
「儂は自らの望まぬ相手に膝を屈してまで、卑屈に生き残ろうとは思わぬ。そんなものは武士[もののふ]の恥であろう?」
「う……うう」海北はうなった。
「信長に降るくらいなら、はじめから朝倉へ攻め込んだ織田軍に対抗することなどせなんだというものでな」
「そ、そうですな」
 海北綱親はそう告げると、また沈黙のとばりがおりたように、じっと黙った。
「父上とも最近話したのだ。父上はこう仰せであった。越前を救援するとした儂の意見を受け入れる時にわだかまりはなかったか、と。つまり、父上に対してそのことで恨みに思っていることはないのか、と」
 そのとき脇で聴いていた赤尾美作守が黙っている海北綱親に代わって、訊ねてきた。
「それで、長政様はどう答えられたので?」
「恨んではおらぬと云っておいた」
「そうですか」美作守はほっとした表情をして見せた。
「父君はずっとそのことを心の奥の方で思い悩まれていたご様子だった」
「なるほど、好きに生きているようでいて、その本心はいろいろと悩みでいっぱいであったというわけですな」
 美作守が〈好きに生きている〉と云ったのは、最近の久政の道楽について述べたものだろうと、そんな予測は容易についた。
「久政様も時々は軍議に顔を出されますし、やはり、江北のことを思う気持ちは我らと同じなのかもしれませぬな」海北が云う。
「ほんに、ほんに」美作守も同意した。
 三人はこれで解散ということにした。
 長政は物事の方向性がひとつに集約されていくような気がして、来たるべき織田との戦に向けて、あれこれ考えもするのだった。

     *

 天正元年八月七日、山本山城の阿閉貞往に動きがあった。
 阿閉は家老の加藤介兵衛を呼び付けた。
「加藤、よう来てくれた」阿閉はそう告げると、自分の思っていることについて披瀝しはじめた。それは常日頃から、浅井家の窮状を快く思っていない加藤になら、話しても大丈夫だろうと目をつけていたからであったが、阿閉は言葉を選びながら、こんな風に話を切り出した。
「加藤――」
「はい」
「甲斐の武田はふがいなく、足利幕府も滅亡した。もうこの浅井についていてもこれからはいいことはまったく起こらんだろう。浅井、朝倉、本願寺。滅びゆくものについていては我らも破滅ぞ! そこでそなたには虎御前山に飛んで、そこの城主羽柴秀吉殿に話してきてもらいたい」
「羽柴――でございますか?」加藤は問い直した。
「ああ、羽柴秀吉じゃ。秀吉はこれまで我ら浅井の将を多数味方に引き入れた権謀の将よ。その羽柴殿に話せば、我らの降服も必ず受け入れて下さろう。羽柴殿に会って来てくれぬか?」阿閉貞往はそう告げると、加藤に頭を下げた。
「仕方ありませぬな。そこまで仰せなら、使者に立ちましょう。で、条件などはいかがなさいますか?」
「条件か、そうだな。我らの降服を受け入れて下さるつもりなら、これまでの所領をそのまま安堵し、さらに若干の御加増をお願いしたいとそう伝えてほしい」
「はっ。確かにそう伝えましょう。ならば、儂はこれにて失礼いたす」
「頼んだぞ」阿閉はそう云うと、作戦の成功を確信していた。
 羽柴秀吉は必ず、この降服を受け入れるだろうという打算があった。いまは少しでも浅井の勢力を削っておきたいところ。たとえ阿閉の軍勢が二桁しかいなかったとしても、秀吉はこの申し出を受け入れるだろうことはわかっていた。それくらい、信長軍は戦の勝利に対して貪欲であるのだ。

 阿閉に派遣された加藤はその夜のうちに虎御前山を訪問する。丁度月が雲にかかる晩のことであったので、闇夜に隠れて進むことができた。
 ――これは幸先のいいことよ。
 加藤はそう考えて、虎御前山に到着した。
 来意を告げると、城門は開かれ、中へと通された。一応、浅井の勢力と云うことで狼藉を働かぬように、腰の物を取り上げられ、また槍を手にした兵士に両脇を固められながら進んでいくことになった。
 やがて、中へと通されて、加藤は猿顔の男との対面と云うことになった。
 加藤はあまりのその顔の醜悪なのに笑いを催しそうになって、堪えるのが大変であった。
 ――これが世間に名を馳せている武将の姿か。
 加藤はそんなことを思いながら、秀吉に来意を告げる。
「お初にお目にかかりまする」
「うむ」秀吉は声を低めて答えた。
「我が主阿閉貞往が織田様に下りたいと申していまして――」
「ほう」秀吉は頭の中で少し整理する様子だった。「阿閉殿というと山本山城ですな」
「は、はい」加藤はどぎまぎした。こんなにすぐ自分達の来歴を知られるなど、織田方はどれだけ敵方の情報に通じているのか……。
「我らにもその投降を受け入れる下地はござる」
 秀吉が嬉しそうに云った。
「それで、降服には条件がありまして――」
「条件――とな?」
「はっ」加藤はここからが腕の見せどころだと感じていた。「阿閉はこう申してござる」
「うん、聴こう」
「この織田軍に降ってもいいが、それには条件があって、いままでの自分の所領を安堵してくれるとともに、若干の加増を賜りたいということでござる」
「ほう……なかなかの策者でございますな」秀吉はうっすらと笑みを浮かべて、感情の読めない表情をしてみせた。
 それは熟練の表情であり、相手に何も考えていないと見せかけて、鋭い事をぐさっと云ってのける、そんな特徴を持つ男の特異な表情であった。
「悪く受け止めてくださいますな」加藤はそう述べた。
「まあ、考えておくと致しましょう。、加増のことは殿に伺わねばならぬであろう。いまから殿のもとへ参るゆえ、少しお待ち願えるか?」
「わかりました」秀吉は信長のもとに向かい、そこで信長に阿閉の内応に関する申し出を伝えた。
「そ、そうか、それはでかした。ならば、阿閉の申し出を全面的に受け入れて、加増しようほどに。そうだな、教書をしたためよう。これで我らの誠実さも相手に伝わろう。うむ。それがいい」信長はそう云って、嬉しそうに笑んだ。
「殿は大喜びでござったぞ」秀吉は加藤のもとに戻ると、それからしたためられた教書を手渡した。
「ならば、これで我らは堅く誓ったことになりますな」加藤は云った。
「そうですな」
「では、これを帰って阿閉に伝えて参ります」
「楽しみにしておる」
「はっ」
 二人は気持ちを通じ合ったものどおしのようにじっと見あって、それから別れた。はじめは気になっていた秀吉の奇矯な顔も、見慣れてくると味わいのあるものだとそんなことを感じていた加藤だった。


35 :蒼幻 :2011/02/17(木) 11:35:09 ID:tcz3skkHkc

     *

 阿閉は、信長が降服の申し出を受け入れてくれたことに気分をよくしていた。そこで、西野、今井、今村の三人に使者を送った。
「儂に考えがある。長政様は、安養寺と今西の二将を我らに相談することなく勝手に退去させられた。そして城に不慣れなそなたら三人を配備した。これはわれらの玉砕を狙ったものではあるまいか? 儂はそう思うておるのだ。儂はそこで、羽柴秀吉に降伏することに致した。もうすぐ、城を受け取るために兵が派遣されてくるだろう。そなたらも儂と一緒に、織田方へ投降せぬか? いい申し出ではないかと思うのだがの」
 そんなことを述べた使者を見て、三人とも拒否の意を述べてきた。
「事情のわからぬ奴らよ。時勢をみれば、織田方につくことこそ本当であろうに、えい、目に物をみせてやろうぞ」
 阿閉はそう云うと、兵をあげて、三将の立てこもる三の丸を攻めることにした。彼は自分の意見が聞き入れられなかったため、そして、三将は裏切り者を粛清するために、という意思を持って、この戦いに臨んだ。
「えい、安養寺らが救援に駆けつける前に、決着をつけてしまおうぞ」阿閉はそう述べると、短期決戦を臨むようだった。
 しばらく戦っていると、さわぎを聞きつけた秀吉隊が山本山城に駆けつけた。三百ほどの軍勢である。正面から阿閉隊、背後から秀吉隊に攻められて、三将はもはやこれまで、と、白旗をあげて降伏した。阿閉に人質を出し、三の丸を明け渡し、小谷に落ちていったのである。

     *

 天正元年八月八日、山本山城城主阿閉貞往が織田方に寝返ったという報せは、浅井家中にも大きな報せとして諸将に衝撃を与えていた。
 山本山城が織田方に落ちたということは、この月ヶ瀬城は、敵の目前で、孤立しているような状況に陥ったということである。
「我らはこれから月ヶ瀬一族を率いて、最後の一兵まで戦い、城を枕に討ち死にしようと思いまする」月ヶ瀬城城主月ヶ瀬若狭守忠清は使者を送ってきて、その口上を伝えた。「阿閉のような者は、武士の風上にもおけぬ変節漢にござる。我らに御加増賜るならば、山本山城に向かい、裏切り者を討伐する所存にございまする」
 長政はその申し出にいたく感動したのだったが、しかし、使者にこう伝えるように指示した。
「月ヶ瀬一族の忠誠心はよう分かった。まこと、武士の鑑でござる。しかしいま我が軍は四面楚歌の状態にあって、新たに出兵して援軍致すということができそうにない。ここはいったん退いてくれ。この小谷で共に戦おうぞ」
 その使者の報せを受けて、月ヶ瀬一族は小谷に加わった。

     `*

 八月十日、織田軍は本陣を八島野にすすめ、柴田勝家、佐久間信盛、羽柴秀吉、前田利家らを大依山の西方に置き、丹羽長秀、滝川一益、織田一介らを雲雀山にさしむけた。
 雲雀山には、浅井方の砦があった。
 守っているのは浅見大学である。
 長政は、自ら軍を率いて、砦へ駆けつけた。
「それ、我らは二千と寡勢であるが、気合の面では負けておらぬぞ。ここで織田を食い止めて、征討の足がかりに致そうぞ」
 長政はそう云って、近づいてくる織田軍の足音をいまかいまかと待ち受けた。
 織田の軍は万を超しているだろう。その織田軍に二千の兵士であたるというのはあまりにも少なすぎたが、しかし、織田軍もここで戦力を無駄に失いたくないはずだ。そうであれば、ここは万の軍をすべて率いて、戦術を繰り出してくるとも思えない。そんな打算が長政にはあった。
 と、信長軍が攻めてくる。雲雀山の砦からは浅見隊も繰り出してくる。
「浅見殿、ここは共同戦線でござるぞ」赤尾美作守は見えぬ城主の姿を探しもしないで、軍に向かってそう告げた。兵士たちはなにかうつろな表情をしている。これから戦おうとする兵士のする表情ではない。
 長政は腑に落ちぬ気がした。
 ――なんだ、なんなのだ……。
 長政は混乱しそうになったが、次の瞬間、織田軍とその雲雀山の兵士の戦い合うのをみて、すとんと納得がいった。
 こやつらは戦う気がないのだ。
 ――戦っていると見せかけて、談合しておるな。
 そう察知してからの長政は素早かった。「赤尾、すでに雲雀山の軍勢は降伏をしておるようだ。我らひとりが敵であるという状況なのかも知れぬ」
 その知らせを聞いた浅井井規や浅井石見守らが激昂した。
 一千という軍勢である。
 彼等は浅見大学許さじという気持ちを持って、敵兵に当たっていた。しかし、多勢に無勢。戦いの行方は次第に織田軍に傾いていく。
 長政はまたもや四面楚歌の状況に陥ったことを知り、その劣勢を巻き返すために、退却して軍を立て直そうと、小谷城に向かって進んでいく。と、そこへ、柴田勝家、羽柴秀吉という軍勢が追撃してくる。
 逃げるところへ後ろから攻め立てられて一方的に殺された部将はかなりの数に上った。

     *

 八月十日、朝倉義景は小谷救援のために再び軍を起こして江北に突き進んできた。
「また朝倉が来おったか。この陣立ては最後の悪あがきとでもいったところでござろうかのう」秀吉はそんなことを云って、柴田勝家の方を見た。
「ふっ、朝倉なんぞ、敵ではないわ」
 勝家はそう云って、ふっと笑んだ。その笑みには余裕があったが、決して油断しているものではなかった。
「殿、ここは波状攻撃でいくのがいいかと思われます」勝家が云う。
 信長は鋭い視線をじろっと動かして、勝家を見た。信長は手にした扇子をぱちんぱちんと開いたり閉じたりしながら何か考える風であった。信長の頭には何かの権謀が萌しているのかも知れない、と勝家は主君の言葉をまったが、しかし信長は何も云わなかった。
「波状攻撃か」信長は口の先でそう告げた。「そなたが先鋒でいくか?」
「いえ、儂は今回は裏方に回ろうと思いまする」
 勝家はそう云って、稲葉通朝を名指しした。
「稲葉か。ふむ、最近、活躍の場が少ないと漏らしておったからのう。これはいいかも知れぬ」
 信長はそう云うと、切れ長の目をきっと見開いた。
「殿、そろそろ長政を討つ算段もつきはじめたころではありませぬか?」勝家はそう云って、水を向けた。
「長政か。う、うむ」信長は云いよどむ。
「儂は苛烈だ、苛烈だと常に云われておるが、確かに味方の裏切りには厳しく対処して来た。しかし、あの長政についてはなんとか助命をしたいと思うておるのだ。和解できぬものかのう」
「この期に及んで、まだそんな悠長なことを仰せになるのですか?」
「悠長か? いや、しかし、儂は心底、あやつを助けたいと思うておる。こんな気持になるのは初めてぞ。長政とは不思議な男よ。どうすればあやつと同じ天下を見ることができるのか? 儂は天下を睥睨したいと思いながら、常に、その脇に侍る男の存在を希求しておる」
「そうですか」勝家は不服そうな表情を見せた。それは自分こそ、この織田の第一の重鎮であるという自負心のあらわれであったのかも知れない。主君が他国の一領主ごときにのめり込んで、その男が、主君のなかで自分をおいて第一席に座っているような気がして、どうにも座りが悪いのである。
「殿――」
「なんだ?」
「長政はそこまで重視するほどの大切な男でありましょうや?」
 それは男の嫉妬と云うものであったかもしれない。自分のことこそ重視してほしいというそんな気持の現れでもある。
「儂に意見するか、勝家?」
「そ、そういうわけでは……」
「ならば大人しくしていよ」
 信長は苛烈な面を見せる。
 言葉で相手の意思を封じ込めることを得意としている男である。いかに勝家と云えど、その信長の性格を押し籠めることはできない。
「では、稲葉通朝に伝えて参りましょう」
 秀吉が声をあげた。
「ここへ呼んで来てくれ」と信長は告げた。
「はっ」秀吉は請け合った。
 しばらく場には沈黙が流れた。信長と勝家の間に流れる沈黙の質をしっかりと見極めたのはこれも織田家の重鎮、丹羽長秀であった。
 丹羽は告げる。
「殿、これからの戦は消化試合でございましょう。もし、長政を助けたいと思うのなら、どの段階でそれを実行に移されますか?」
「長政も自彊心というものがあるだろう。戦わずして、降服など、武将の名折れであろうからの。ある程度攻めて、圧倒的兵力差を見せつけたあとで、降服を誘い出してみようと思うておる」
「そうですか……」丹羽はそう告げると、じっと押し黙った。
「丹羽、何かあるのか?」
「いえ、本当にそれであの長政が折れてくるであろうかとそう思うのです」
「うん?」
「あの気骨のある武将が果して降服という選択を選ぶでしょうかな?」
「選んでくれると、信じておる」
「信じておる、ですか」
「何か、言外に意がありそうな口ぶりであるの?」
「はい、殿は少し甘過ぎるのではないかと、そう思うのです」
「甘い?」
「心底ほれ込んでおることはわかりますが、それによって、我ら家臣の結びつきを無下にするような意志の介在は、正直なところ、あまり賛成できませぬ」
「うぬ」信長は眼を伏せた。彼には珍しく弱気な様子である。
 丹羽はそんな信長の言葉をどう受け入れればいいか、悩んだ。
「殿――」
 丹羽が声を漏らす。
 信長は自分がかなり弱っていることに気づいたのか、普段の雰囲気を醸すために、また、毅然とした態度を取りはじめた。
「長政のことは一時、脇へ置いておかれませ。もちろん、敵であるために完全に脇へ置くことはできぬでしょう。しかし、いまそこに捉われていては作戦の遂行にも支障をきたすというものでございます」
「少し熱うなりすぎておったかな」
 信長はそう云うと、近くの盃を手にして、小姓に水を注がせた。
 それをまるで酒でも飲むかのようにくいっとあおる。
 そのとき、秀吉が稲葉通朝を連れて戻ってきた。
「よう来てくれたのう」信長は云った。
「はっ、今回の作戦に抜擢されたとか? 嬉しきことにございまする」
「そうか、それは頼もしい言葉である」信長は声に喜悦を交えて云った。「高月に向かい、一千で向い陣を張ってほしい。頼めるか?」
「はっ、喜んで」
「あとは、ほかの部将にも指示を出すので、とりあえず、軍を率いてくれ」
「かしこまりましてございます」
 そう告げられた稲葉は一千を率いて、指示通り、高月に陣を張った。後を固めるは、蜂屋頼隆、丹羽長秀、氏家直尚、伊賀定修、蒲生賢秀などである。
 それらの部将を数段に配備して、小谷城に逃げ込んだ浅井軍を挑発する。
 信長軍の狙いは小谷城の後衛陣地である大岳城であった。大岳城は小谷山の最高峰に存在している山城である。
 いまそこには朝倉の将兵が陣を構えていた。
 浅井兵はわずかに二の丸に少しある程度であった。
 八月十二日、焼尾丸に構えていた浅見対馬守は織田の軍の精強なるを見て、これは叶わぬと、内応を決めたのだった。風の強い夜、浅見は敵と内通して、織田兵を城へと引き込み、浅井にとって決定的な窮地を作りだした。
 そのとき、折りも折り、稲光がすさまじく、そのうちのひとつが、朝倉の陣屋に落ちたのである。雷は火災となり、朝倉軍は気が動顚してしまった。
「それ、今こそ、好機である。皆の者、いけ、いけい!」
 信長自身、軍を率いて焼尾丸から大岳城に攻めのぼり、織田兵は二の丸を落として、一の丸に迫った。
 一の丸が落ちるのも時間の問題となったとき、織田方は、以前朝倉方から降伏した前波吉継を使者に立てて、降服をすすめたのである。
 斎藤刑部、小林彦六左衛門といった一の丸を守っていた部将は、信長方に降伏した。
 そして、二の丸を守っていた浅井家の部将である井口経親、千田采女正らはなんとか小谷城の本丸へ逃げ込んだのである。

     *

 長政はその夜、三人の娘とお市を見ながら、家族の語らいをしていた。
「ちちうえ」と次女の初が舌ったらずな口ぶりで長政を父上と呼ぶ。
「おう、初、そなたも元気があるのう」
「はいっ」
「で、長政様――」お市が心配そうに告げる。「我らは大丈夫なのでしょうか?」
「うん?」と長政。
「この清水谷の屋敷にいましても、ときおり、外の兵士の声が聞こえてくるのですよ」
「まあ、そうであろうな」
「本当に大丈夫なのでしょうか?」
「大丈夫かどうかというと、それは少し判断を待たなければならないだろうな」
「えっ?」
「我らはいまこれまでにないほどの危機に見舞われている。この流れを変えることはおそらく、難しいだろう。お市、最後まで儂は諦めぬが、しかし、いざというときは子供たちを連れて、この山を降りてほしい。いかな信長殿とて、実の妹と姪を殺すことなどなさらぬであろうからの」
「そんな……」お市は悲しみに沈むような眼差しで長政を見た。「長政様、私は貴方なしで生きていくことは望んでおりません」
「子のことを考えるのだ」長政は強く云う。
「いやです」
「無理を云ってくれるな」長政は困惑の表情を向ける。
「ねえ、茶々、貴方も父上と一緒の方がいいですよね」お市は長女である茶々の方を見て、声をかけた。
「はい、私も父上と一緒にいたいです」茶々は四歳らしい溌剌とした声でそう告げた。
「茶々……」長政は声を漏らす。
「父上と別れるのは嫌ですよ」茶々は殊勝にもそう告げた。
「子供たちのことを思うなら、貴方様も一緒に落ちのびるほうがいいのではありませぬか?」
 長政は打ち沈んだような様子で、しばらく考え込んでいた。しかし、決心は揺るがないのか、長政はこんな風に妻に述べた。
「儂はひとつ意地を持っておきたい気がするのだ。確かにいま降服すれば、命は助かるかもしれない。しかし、この戦乱の世の、一時でも統治者となった自分が、とうてい受け入れられないことを信条としている男に膝を屈して従わなければならなくなるというのはどれだけの屈辱であるか。それは儂ひとりの屈辱ではないのだ。これまでに戦って散って行った将兵たち、いま儂に仕えてくれている家臣たち、そして、かの男に暴虐を働かれて、無念のままに命を落としていった者たち、いままさにその暴虐にさらされて気息奄々になっている者たち、そんな者たちの無念を思えば、いまここで安きについて生き延びることの冒瀆.性はいかなるものであるか、それを思うと、儂はどうすることもできないくらい魂が打ち震えてしまうのだ。わかってくれぬかのう?」
 長政がそう云うと、お市は生まれてまだ間のない江をよしよしとあやしながら、目は情熱的に潤み、そして、この融通の利かない夫のことをいじましいと感じてでもいるのか、熱い眼差しで長政を見るのだった。
「すまぬ、市。また迷惑をかけるのう」
 長政は畳のへりに視線を落とした。
「これも武将の妻にふりかかる常なる悩みと云うものなのでしょう」
 お市はそんな事を云って、肩を落とした。
「お江、早う大きくなるのですよ。そして、父上に、嫁に遣りとうないとおもわせるくらい美しくなるのですよ。父上はどこへも行きませぬからな」
 お市はそんなことを述べて、言外に長政を責めるかのようである。
 長政はじっと押し黙った。
「殿、貴方様御一人ではないことを思うて置いて下さいまし。私たちはずっとここにあって、共に栄えていくことをお思い下さいまし。兄の暴挙があってもなくても、私たちは一緒であることを覚えておいて下さいまし。たとえ、来世があっても、なくても、私たちは一緒でございます」
 お市はそんなことを切に訴えかけた。
 その様の必死なことを察知せぬ長政ではなかった。
「市――」長政は妻の言葉に感動を覚えた。「すまぬな」
「私は最後まで諦めませぬ」
「ああ、いざとなったら、と云うことだけ覚悟しておいてくれ」
「はい」
「ならば眠ると致そう。今日は疲れたゆえな」
 長政はそう云うと、隣の部屋に茶々と初を寝かせに向かった。
 お市も乳飲み子である江に再び授乳して、それから床に横にさせた。
 三人の娘はそれぞれに際立った表情をしていた。父と母両方の容貌が優れているので、その子も優れているという具合であった。
『いずれ、傾城の美女ともなろう』との城中の噂のまとになることもあったが、しかし、肝心の父である長政は、まだ長女ですら四歳、これからいろいろと顔も変わっていくであろうから、そんな噂などまったく気にしていないのであった。
 寝つかせに行って、茶々と初は間もなく、静かな寝息をたてはじめた。
「よく眠るのだぞ」
 と、長政は云い、そっとその部屋を離れた。いったん、さっきの部屋に戻って、それから、自分たちの寝室としている別の部屋に向かった。
 そこでは、お市が子守歌を唄っていた。
 聴きなれたものとは異なる尾張方面の子守歌である。
「面白いのう」と長政はそっと呟くように云った。
「何がでございます?」お市は訊ねた。
 長政はじっとお市の顔を見た。「その子守歌よ」
「はい?」
「初めて聴く節だ」
「前から唄っていましたよ? 茶々のときも、初のときも」
「ああ、そうであるが、この節を聞くのは市の歌が初めてなのだ」
「ああ、そういう意味ですか――ふふ、私も母から教わったのですよ。きっと子供のころに私もこの歌を聞かされて育ったのでしょうね」
「そうか――。つまり、信長殿もこの歌を聴いていたということであるな」
「そうなりますかね」市はふっとほほ笑んだ。
 やがて江は寝ついたのか、気持ち良さそうに顔に笑みを浮かべながら、規則正しく、すー、すーと寝息を立てている。
「寝たな」長政はそっとお市に耳打ちする。
「そうですね」お市も小声だ。「では私たちも眠りましょうか」
「そうだな」
 長政とお市は床に入ると、すっと寝入ってしまった。
 情勢が情勢で、神経の張り詰めることの多い両者でもあったから、無理もないことであった。

     *

 時はやや遡って十二日の暮方。
 もう何度目になるかわからぬ秋の紅葉が本番となり、野には秋の虫が鳴き暮らしている。椎の葉は茶色く色づき、楓は赤く染まっている。芒[すすき]がいたるところに穂を伸ばしている。
 信長は早めに決着をつけたほうがいいと焦りはじめてもいた。
 もう数ヶ月すれば、寒い冬の時期に入り、そうすれば、この辺りは雪に包まれて、戦には適さなくなってしまうだろう。それよりまえに、なんとか、長政の降服をとりつけて、この戦に決着をつけたいと感じているのであった。
 ――長政。どうして、そんなに依怙地になるのだ。
 信長はそんなことを思って、そして、妹お市のことを考えた。
 ――お市、お前はいったい何を思うて長政に付き従うておるのだ? 長政と共にいることを選んだこと自体、儂にはようわからん。しかし、それだけ長政と云う男が魅力的であるということなのだろう。儂もその魅力に誑かされておるのやも知れぬがな。
 信長は心の奥底の方がふっと温かくなるのを感じていた。
「おう、猿、猿はおるか?」
 信長は秀吉を呼んだ。
「お呼びですか?」と秀吉が訊ねる。
「大岳城を獲ったというのに、浅井方があまりにも静かではないか、いったいどうしたことなのだ?」
「さすがに夜まで戦をしようという気はないようにございますな」
「そうか――」
「明日は丁野城を攻める手はずですな」
「そうだな」
「こうして小谷の支城をひとつずつ落としていけば、やがて、城はたやすく手に入れることができるというものでございましょうな」
「そうなるといいのだが」
 信長は何か云いよどむようにそう告げた。心の奥ではやはり長政のことが引っかかっていた。
「長政でございますか」
 秀吉はそう訊ねる。
「ああ」信長も隠しごとをしない。
「そうですな、やはり最後は長政ですな」
 秀吉はそんなことを云ったが、信長は彼に別の思惑があることに気づいてはいなかった。
「そして、お市様を救うことこそ肝要でございましょうな」
 秀吉は〈そして〉とついでのように云ったが、本当はこちらのほうが何よりも優先する事項であったのだが、これも信長にはわからなかった。まさか、妹のお市を、他国に嫁ぎ、子が三人いるいまであろうと、この醜い秀吉が懸想を続けているなど、まったく想像のうちになかったことであった。
 信長はただ短く云った。「そうだな」
「まあ、後のことは各部将に任せませぬか?」
「それでは、やはり心配である。殺さなくていい者をみすみす殺してしまうこともあろう?」
「そ、それは――」秀吉は自分の部下をそれほど重視していない信長の言葉にびくりとしたようであった。
 信長はじっと秀吉を見る。
「猿、そなた、何かあるのか?」
 秀吉は目を瞠いた。この殿はなんでも見通しであるのだという気がしたのだろう。
 信長の心中は物を惜しむ気持でいっぱいだった。
 失わなくていいものを失うかもしれない、それが一種の恐怖心をもたらすのである。
「殿」と秀吉は告げる。
「何かあるのか、と訊いている」
 信長はそうきつく云いながら、秀吉の返答を待った。
「いえ、何もございません」
 秀吉は短く答えた。
「もういい、下がれ」信長はそう云った。
 秀吉はすっと退出する。
 そうして、大岳城のこの一室は信長一人のものとなった。
 ――長政の助命を快く思うておらぬ家臣がもしかすると想像以上に多いかもしれんな。
 信長はそんなことを考えた。
 そして、以前のあの佐和山での長政との初顔合わせのときのことを懐かしく思い返した。
 あの頃はまさか、今日、こんなことになるとはまったく思っていなかった。
 しかし、お市の婿としてはいまでも、長政以上の男はいなかったと、そんな風にも思えるのである。お市は勝家を私淑していたようだが、さすがに、家臣に妹を嫁がせるなど考えるだけでももったいない。
 長政はそれほど武張ってもいないし、風流人を気取るような男でもない。どこか泰然として大局を見据えるような眼を持っている気がする。
 そういうところに儂もお市も惹かれているのであろうな。


36 :蒼幻 :2011/02/17(木) 11:35:56 ID:tcz3skkHkc

第十八章 朝倉義景没

 天正元年八月十三日、信長は大岳城を落とした勢いのままに、今度は丁野城に向けて進軍した。
 浅井軍はこれ以上、信長に好き勝手にさせるわけにはいかないと、寡勢であるにもかかわらず、抵抗をはじめた。ここを防ぐためであれば、死んでも悔いはなしという兵士が多かったため、信長はここで力任せに攻めるわけにもいかなくなったのである。
「どうも浅井の兵士の気合のこもり方がこれまでとは違うようだ」
 先陣に近い所に居る信長がそう漏らすと、すかさず羽柴秀吉が前へ進み出た。
「これはまずいですぞ」
「うん?」と信長。「どういうことだ?」
「兵士ひとりひとりが死を覚悟してことに当たっております。ここで無理に攻めては被害が出るばかり。ここは少し考えたほうがいいかも知れません」
「具体的にどのような手段がとれるというのだ?」
「やはり、ここは降伏をちらつかせることが上策かと」
「降伏か……」信長はしばらく考える様子だった。「うむ、良いかも知れん」
 信長はそう云って、眉間によった皺を元に戻した。
 秀吉はさっそく、丁野城に降伏の勧告を行うために、使者の派遣を考えた。
 丁野城は大岳城の西に位置する虎御前山の北の丁野山にあった。
 城主は中島直親である。
 そしていまは、朝倉方の平泉寺の玉泉坊と玉光院らを含む六百人ほどで守っていた。
 その六百人が死をも恐れず立ち向かう兵士となっているのである。
 秀吉は陣僧らを派遣して、城内の玉光院に対して交渉を行うことにしたのである。
 使者は無事城内に辿り着き、玉光院とまみえる。
「これはあなた方にも有利な申し出であると思いますよ」
 使者はそう告げて、玉光院の言葉を導き出そうとする。
「ここはしばらくお待ち願いたい。我らも準備と云うものがありますのでな」玉光院はそう云うと、城主である中島直親に相談を持ち込んだ。
「いま、このような使者が参りました。私はこれを転機として、この降伏勧告をのもうと思っているのですが、如何でございましょうや? 我らもここから新しい未来を夢見ることも必要と思うのですが――」
 玉光院はそう云って、自分の気持が大分、傾いていることを明らかにした。
「弱りましたな」と中島は告げる。「しかし、これまでに死なば西方浄土と思うていた門徒たちのことをどう捉えられるか?」
 中島はそう告げて、玉光院の真意を見極めようとする。
「それを云われると、痛いですな」
「しかし、それも視野に入れて、考えるべきでしょう」
 中島はそう告げて、一瞬、視線を伏せた。
 玉光院は目を細めて、しばらく考え込む様子であった。
「しかし我らも考えているのです。そして、平泉寺は後世に残さなくてはならぬものであると、そう思うのです」
 玉光院と中島直親はその日、信長軍に降伏することを決めた。
 中島は信長軍に城を明け渡す。
 それを受けて、いまだ朝倉の兵士として戦っていた玉泉坊を含む越前衆は、田上山の朝倉義景の本陣に逃れた。
 丁野城に入った信長軍は際立ったものも特にない城中を見て、得るものなしと思ったか、すぐに火を放って、城を使い物にならないようにしてしまった。
 朝倉義景はこれ以上居ても自軍が疲弊するばかりとて、撤退を決めたのである。
 大岳城を落され、丁野城を焼かれ、黒煙がもうもうと舞いあがる様を見ていると、自分たちの運命を目の当たりにしているような気がして、臆したのであろう。義景はこれ以上の被害を出すわけにはいかぬと浅井軍を置いて、撤退の途につく。
 時は夕刻を過ぎ、暗くなりはじめたころである。
 速やかに逃げ支度をするようにとの命令がかかり、兵士たちは慌ただしく撤退準備に追われている。
「殿……」魚住景固が訊ねてくる。
「うん?」と義景は問う。「どうしたのだ?」
「また信長との戦いで逃げねばならなくなったのですね」
「仕方なかろう。いまや信長は飛ぶ鳥を落とす勢い。まともにやりおうては、命がどれだけあろうと、足りぬというものであろう。それをわからぬそなたでもあるまい?」
 魚住は眼を細めた。そして、ふーっと長く息を吐き出し、それ以上、何も云おうとしなかった。
 義景は何も問わず、ただ、魚住の視線を追って、じっと考え込んだ。
 魚住の視線は撤退の準備をしている兵士たちの姿に据えられていた。
「不服か?」と義景は訊ねた。
「いえ、そういうわけでは……」語尾を曖昧にして魚住は告げる。
 やがて、酉の刻限になって準備が整い、朝倉軍は陣を退くことにした。
 それまでに使っていた田上山の本営に火を放ち、使いものにならないようにすることを忘れない。織田が焼くなら、こちらも焼いてやろうという対抗心のあらわれである。
 朝倉の全軍は、北国街道を北に進みつつ、柳ヶ瀬にて軍勢を二手に分けた。
 一方を朽木峠から今庄に向かわせ、全軍が退いたかに見せる作戦である。そして、義景は本隊を率いて、刀禰越えをして、疋壇城に退くという作戦であった。
 義景はいまが夜陰であることを思い、この作戦の成功を信じていたのであったが、しかし、信長もそれほど馬鹿ではなかった。ひと眼でその作戦の趣を理解し、信長は朽木峠越えの軍勢には見向きもせず、疋壇城へ退く軍勢に追いすがる形を見せたのである。
「信長は狡猾ぞ」
「はい」魚住は憎らしそうに口辺を歪めた。
「しかし信長は守る浅井ではなく、退く我ら朝倉を標的にするということだな」
「腹の立つことでございます」
「しかし、文句を云っても始まらぬ。これから柳ヶ瀬を抜けて、刀禰坂に向かうことになる。そこで、なんとかして信長軍を押しとどめようぞ。山崎、詫美、頼んだぞ」
「はっ」山崎吉家が声をあげる。
「かしこまりました」同じく、詫美越後守も請け合った。
 二人の武将を殿にすることに決めた朝倉軍は、早速、刀禰坂を退いていく。
「ここでしっかりと防いで、殿の覚えめでたきを得んぞ」
 詫美はそう告げると、刀を払って、やってくる織田軍を待ち設けた。
「腕が鳴るのう」と山崎も告げる。
「思えば、我らは朝倉家に仕えて随分経つ。加賀の一揆衆と戦ったこともある。信長とのこれまでの激戦も我らは立派に役目を果たした。これを最後というわけでなく、これからも挙げるであろう戦功のひとつとなるように、気合を入れていきましょうぞ」詫美はそう云うと、ふっと笑んだ。
「そうであるな」山崎もつられてほほ笑む。
「そうじゃ」と詫美が云う。
「うん?」
「ちょっと思いついたことがある。誰でもいい、ひとり、足の速いものを連れて来てくれ」
 そう告げると、詫美はそろそろ戦闘が始まろうかと云うのに、墨と筆を準備させた。
「これからここに詩を書く。辞世の句と思ってくれていい」
「じ……辞世?」
「ああ、これも一つの余興じゃ、それほど深刻に捉えんでくれ」
「うむ……しかし死地であることは明らか。何があってもおかしくないからのう」
 山崎はそう告げると、詫美が句を書き写すのを黙って待ちうけていた。
「うむ、できたぞ」と詫美は云う。
「ほう、なんという文句なのだ?」
 山崎は興味津々で訊ねる。
 それはこのような言葉であった。

   万恨千悲驀然たり
   誰か図らん今夜黄泉に溺れんとは
   故郷さらに衆涙を成すなかれ
   屍を戦場にさらす、ただこれ天なり

「せつなくなる句だな」山崎は開口一番告げた。
「まあな」と詫美が云う。
「とにかくこれを国元に届けてもらいたい」詫美はそう告げると、足が速いということで連れてこられた一人の兵士に、自分の詩を託し、それをただちに届けるようにと指令を出した。
「かしこまりました」と兵士は受け答え、詫美は出ていく彼を見送った。
「それもまた余興ということか」と山崎。
「まあ、そういうことでござる」詫美は請け合った。
 しかし、詫美の本心はまたことなるところにあったようである。
 戦場――これから死地になるであろう戦場において、自分の部下を一人でも生き延びさせたいという思いが、彼をして、このような辞世の句を郷里に運ばしめたのであったのだ。
 もちろん、詫美の真意を、山崎が察知しようはずもなかった。
 山崎にとってはただそれは余興という言葉の周りをぐるぐる回るだけの価値しか見出せぬ物事だったのである。
「そろそろお出ましのようだな」
 山崎が告げる。
 時刻は日を跨ごうとしていた。
 いやな空気が流れていたが、織田軍はしかし、それ以上、深追いはしてこなかった。今日はこれで戦を収めようという気であるらしい。山崎と詫美は相談して、兵士を休めることに決めた。視界のかなたに敵兵がいる。そのような状況で、満足な休息をとることができないのは分かっていた。何しろ、自分達は追われる身なのである。目標は自分達以外にないという事実が、もしかすると、いまにも襲いかかってくるかも知れない、という恐怖を助長して、落ち着かないことになる。
「厄介なことだ」と詫美は告げる。
「まあ、今日はこれ以上、攻めては来ぬだろう」山崎はそう告げると、一息ついた。
「うむ……我らに何ができるか、明日こそ勝負と云うものでござろうよ」
 何があるかわからない戦の前の休息であるため、兵士たちは甲冑を脱ぐことなく休息に入っていた。武具を身につけての休息は予想以上に身体に負担が掛かる。兵士たちは不満を訴えることこそないものの、やはり、自分の命がかかっていることであるため、文句をいうことはできないと覚悟していた向きもあった。
 ――兵士たちには無理を掛けているな、と思わないではいられない詫美だった。

     *

 翌日、未明、織田軍は音もなく忍び寄ってきた。
 ただならぬ気配を感じて、詫美と山崎は身を起し、冷静に信長軍と遣り合うことになる。織田の兵士の気力は十分だった。そして、一人一殺の気合すら帯びているように見える。
 それほどに我が朝倉軍を恨みに思っているのか、と詫美は感じながら、迫ってくる敵兵を待ち受けた。
「詫美殿、思う存分、暴れましょうぞ」山崎が声を掛けてくる。
「ああ、大殿様が無事に退けるように、我らがここで持ちこたえねばなりませぬな」
「左様でござる。死地であるいまのこの立場を盛り返しましょうぞ」
「おう」
 二人はそう云い合うと、槍を手にして馬にまたがった。
「それ行け、返り討ちにしてやろうぞ」
 詫美はいつでも攻めかかれる態勢を整えたうえで、そう兵士たちに指示をする。
 詫美は思っていた。
 ――ここを生き延びる兵士は果して何人いるだろうか? もしかしたら、全滅の憂き目を見るかも知れない。いや、いま自分がこんなに弱気でどうする? 一厘の希望しかないとしても、味方の勝利を信じることこそ、将である自分の役目ではないか?
 風が出始めていた。
 涼しい風はもう完全に秋のもので、若干の寒気もある。その寒気が気候的なものであるのか、それとも自分の周りを取り巻いている恐怖の産物であるのか、どちらであるのかをはっきりと知ることはできなかった。
 近くの杉の梢が揺れている。樹々の間を渡ってくる風は緑の匂いがむんとしている。
 ――これはとうとう儂も終わりかな……。詫美はそんなことを考える。眼前のことでなく、そんな周りの環境やなんやかやに意識がいくということは、つまり、精神が自身の最期を覚悟しているということではあるまいか? 自分はその心の動きに引きずられるようにして、精神世界の焼き増しを見せられていくということではあるまいか?
 ――そうだ、そうなのだ。つまり、私はいま、黄泉の国に持って行く情景を感じていて、そのことに恐怖を覚えていながらも、それを意識しないように、外の物に救いを求めているということなのだ。
 詫美はそんなことを考えながら、迫りくる織田の軍勢の勢いを横目に見ていた。
「山崎殿、最期に突撃と云わず、私はもう今から参りますぞ」
 詫美はそう告げると、馬を駆って、戦況のもっとも激しい所を選んで進んで行った。
 山崎もそんな味方の気合の入った行動を見せられて、心動かさぬわけではなかった。「よし、儂も参ろうぞ」山崎はそう云うと、詫美と同じ場所に向かって馬を進めていく。
「山崎殿も来られたか!」
 詫美が脇を見て叫んだ。
 詫美は織田方の兵士の喉に、自身の槍を突き刺して引き抜いた。
 馬の手綱を持ちながらの槍の操縦は難しいものであったが、詫美はそれをうまく御していた。
 しかし織田軍の猛攻は凄まじいものがあった。
 数で押してくる織田軍にこちらはひとり、またひとりと殺されていく。
 ――これは窮まったな……、と詫美は感じた。
「詫美殿、先に参る」そう云った山崎の声は悲痛に満ちていた。
 若干の顫えのある声。詫美は声のした方を向いた。
 詫美が山崎の方を見ると、山崎は腹に何本もの敵兵の槍を受けて苦痛の呻きをもらしていた。
「山崎!」と声をあげる。
 詫美はその姿を見ると、自身も覚悟が決まった。
 ――ここで最期の花を咲かせるとしようぞ。
 詫美は迫りくる織田兵に囲まれ、彼等は詫美ではなく、馬を狙って槍を繰り出してきた。
 騎乗馬は悲鳴をあげて、苦痛に暴れた。
 さすがに、詫美はそれに耐えることができず、落馬する。
「お、おのれ……」詫美は憎らしそうに声を上げた。
 詫美はその衝撃で脇腹に痛みを覚えていた。
 これではもう進退は窮まったな、と詫美は思った。
 敵兵は兜のなかに狡猾そうな眼差しをきらめかせて、詫美の首級を挙げるために一斉に掛かってきた。詫美は攻撃を受けながらも、なんとか敵兵の一人二人を槍で刺し貫いた。脇腹に痛みが走る。そして、立ち上がろうとしたところに、首筋に刀を受けて、意識が飛んだ。
 山崎と詫美はこの殿の任務で揃って命を落としたのである。
 朝倉方にとっては手痛い損失であったが、それは二人に殿を任せた時に覚悟していたことでもあった。

     *

 この戦いで織田兵が屠った朝倉兵は三千を超えていた。
 と、そこへ、ひとりの武将が連れられてきた。
 朝倉方の将、印牧[かねまき]弥六左衛門である。印牧というと、今庄、鉢伏の城主である。連れてきたのは不破河内守の郎党の原加左衛門である。
「原、これは大きな獲物であるな」信長は嬉しそうに告げた。
「そうでございましょう」と原。
「それでどうしてそなたは捕まったのだ?」信長は声を低めて、縛られている印牧に訊ねた。
「それは……」
「うむ」
「前田利家などと戦って、膝を負傷したために捕まってしまったといういきさつにござる」
「ふむ」信長はその言葉を素直に受け入れた。「しかし、物言いがきっぱりしておって、気持ちがいい。なかなかこうはいかないものであろう。さすが、名にしおう武将である。どうだ? これから儂に仕えぬか? 悪いようにはせんぞ?」
「う……うぬ」印牧は声を低めた。「それは我が朝倉家にとって、不忠を行うことになりはせぬかと、それが心配でござる」
「しかし、勢いのある方について、自分の力を十分に発揮する方が、この戦乱の世の正義である気がするのだがのう」
「正義……正義と来ましたか」印牧はその言葉に出会って、しばらく自分の考えをまとめているようであった。
 そのとき、前波吉継が前に出てきた。
 前波は元朝倉家臣、印牧とも面識があった。
「おう、印牧、そなたが下れば戦況は大きく傾く、我らにとっても、そなたにとっても悪い話ではないように思うのだがのう」
「前波、そなたとこの印牧は懇意にしておったのか?」信長が疑問を口にする。
「いえ、少し面識がある程度にございます」
「そうか」
「そなたから説得をしてもらうことは難しいか? とりあえず、助命を条件に戦場での案内をさせるのが最適だとは思うのだがな」
 前波はふっと表情を崩してほほ笑んだ。「それ、そなたの覚えもそれほど悪いものではない。我らにつかぬか?」
 印牧はとても不満そうな表情で、前波を睨みつけた。
「前波殿、そなた、織田にやすやすと下ったあげく、今度は儂を味方に引き入れて、案内せよと仰せになるか。儂を愚陋するのもたいがいに致されよ」
「うぬ」前波は否定的な言辞が出てきたので、言葉を失った。
「私は不忠者になる気などないし、不忠者の云うことを聞いて不忠をなすようなことをしようとは思わぬ。儂は義景殿に忠義を尽くして死んでいこうと思う。そなたには一生かかっても分からぬことであろうよ。そんな風にやすやすと敵将についてしもうたそなたにはな――」
「よくもそのような口を――」前波はそれだけ云うので精一杯だった。
「信長殿、このように縄目の屈辱を受けているのも辛うなってまいりました。儂の首を討ってはいただけませぬか? 儂は貴方様に仕える気持ちは微塵もありませんからのう」
「そうか、残念である……。よし、望み通り、この男の首を刎ねよ。楽にしてやれ」信長はそう告げて、首をとるための準備を整えさせた。
「最期にひとつ願いがございます」印牧は云った。
「なんだ?」と信長。
「儂に切腹の機会をお与えください。儂が雑兵と同じく簡単に首をはねられるというのはどうも座りが悪くて行きませぬ。どうかよろしくお願い致す」
「そうだな、わかった。そのように取り計らおう」
 信長は印牧に取り上げた短刀を再び返した。
 印牧はそれ以上、この世に未練がないのか、あっさり腹を切って倒れた。
「その意気や潔し」と信長は褒めたたえたという。


37 :蒼幻 :2011/02/17(木) 11:36:37 ID:tcz3skkHkc

     *

「我ら郎党、最期まで殿について行きますぞ」
 精兵である新左衛門という男に告げられて、義景はほーっと息を吐いた。
 いま義景は殿を途中に残し、自身は越前に入って、主城一乗谷に向けて軍を退いていた。途中に防衛のための兵士を残し、いま周りにいるのは自分を含め六騎という状況であった。
「我らの運命、旦夕に迫っているということでありますかな……」
 弱気なことを呟く兵士もいる。
「いやいや、我ら朝倉の意地を見せるべきでござる。ここは幸い、我が土地であり、この地勢を利用して戦闘を行えば、必ず有利に立つことができるでしょう」
「しかし、あれほどの軍勢を信長は有しておるのですぞ」
「戦は数か?」
「う……うぬ」
「時の運もあろう」
 兵士たちの言葉を義景は匡すこともせず、ただ黙っていた。
「殿、何をお考えなのですか?」
「うん?」義景は告げる。「あの信長が初めて攻めて来た時のことを思うておったのよ」
「ああ、あの――」
「うむ。もし、浅井が織田方についていたなら、今頃我らの身代はなかったであろうな、とつい、そのようなことをな」
「そうですなあ」
「まあ、世の中はうまくできているもので、浅井の援助があったからこそ、こうして、いまでも命を永らえることができたというものであるしの。我らだけで織田の攻撃を防ぐことができぬのは、これで二度目と云うものであろう。果して、三度目はあるのか? この二度目ですべての決着がついて、我らは道塗の埃にまみれることになってしまうのか……」
「難しいですな」
「ああ」
「そろそろ一乗谷だな。景鏡はどんな顔をして我らを迎えるであろうな」
「そうですな。しかしかの景鏡様がまだ我らの懐にいらっしゃるというのはとても大きなことでございますな。勇気を得ることができるというか、とても心強くて、まるで父のような温かさを感じます」
「うむ。父のようというそなたの言葉分かる気がするぞ」義景はそう告げると、ふっと笑んだ。
 景鏡は朝倉家の筆頭家老であった。
 姉川の合戦では朝倉軍の総大将として軍を指揮し、その他にも加賀の一向一揆との戦いでも多くの戦功を挙げていた。朝倉にはなくてはならぬ存在であったが、今回の江北への出陣は、これまでの度重なる戦陣での激務に身体の不調を訴えて辞退したのであった。その景鏡は、いま僅かばかりの守兵とともに一乗谷の城を守っている。
「それ見えてきた、一乗谷じゃ」義景は谷になっている地形をざっと見まわし、そして、三方を山に囲まれた一乗谷城をまぶしいものでも見るかのように目を細めて視認した。
「城に入って守りを固めればきっと織田を防げましょう」
 郎党がそう述べる。
「そうありたいものよ」義景はそう告げると、力なくほほ笑んだ。
 松の並んでいる道を通り過ぎ、義景は一乗谷の城下に入る。一乗谷は山に囲まれた峻嶮な地域に城を構えており、その周囲をとりまく形で城下町が発展していた。一乗谷の奥には立派な庭園もあり、またその城下の雰囲気は、とても大人しくて風情があり、小京都と呼びならわされて久しいのでもあった。義景含む、朝倉歴代の主君の自慢のみやこでもあったのだ。
「ここを戦禍に巻き込むわけにはいかんな」義景は告げた。
「そうでございますな」郎党が告げる。
「我らは一致団結して巨悪に立ち向かわねばならぬ。そなたらも気合いをいれるのだぞ」義景はそう云って、城のある方へ馬を進めていった。

     *

 景鏡は乙にすましていた。
「景鏡、頼りにしておるぞ」義景はそう告げた。
 景鏡は朝倉家筆頭家老、その頭には、朝倉のことを思ってのことがしっかりと考え、練りこまれて、稠密な権謀が考えられていたのに違いない。義景はそう考えて、この男を頼もしく思った。
 ここは一乗谷城の下階であった。
 若干肌寒くはあるものの、それほど冷え込んでいるわけでもない気候。雨の気配はまったくなく、この前雨が降ったのはいつだろうと、そんなことを思ったりもする。
「この城には、時をおかずして信長軍が大挙して攻めてくるでしょう」景鏡が告げる。
「うむ、そうであろうな」
「この城は戦となれば、守りにくい地形上の難点がございます。それに守備に当たれる兵士数も少ない。戦う前から不利を露呈しているような状況でありますから、いまのうちに他の城へ移られるがよいかと存じます」
「うむ――」
「私がこの城で織田兵を食い止めますから、殿はどうぞ、大野の亥山城に移って下され」
 景鏡がそう云うと、義景はその景鏡の言い分も相当と感じ、それに従うことに決めた。亥山城は景鏡の守城である。なにか考えがあるのだろうと、そのときはそれほど深く考えず、義景は亥山城への撤退を決めた。
「どうして殿はこの一乗谷を捨てられたか?」とささやく家臣もあった。
「殿の意見に口をはさむわけにもいかぬだろう」と告げる者がある。
「それはそうでございますが――」
「そなたはまだ若い。人情の機微というものであろう。あの景鏡様の器の大きさを思えば、いかな大殿様とはいえ、それをおおっぴらに拒否することなどできぬというものであろうからの」
「そういうものでございますか――」
「ああ」少し年齢のいった方の兵士がそう告げた。「しかし、一乗谷の住民も不安であろうな。先に、大殿様が撤退されたなどと聞けば、その不安はとても大きなものになるに違いない」
「そうですね」
「と、殿!」
 そのとき、朝倉義景が兵士たちのいる宿舎に姿を見せた。
「い、いったい……」年配の兵士が恐れ畏まった。
「おう、皆のもの、楽にしてほしい。今日、ここへ参ったは、少し聴いてもらいたい話があるからなのだ」
 義景は部下を数名連れただけの完全に個人的なお忍びの様子である。
 兵士たちはじっと固まって緊張している。
「いったい、何事でございますか?」
「ああ、それなのだがな。どうやら、我らの運命は旦夕に迫ったようである。そこで、そなたらの家族がここ一乗谷にあることだろうと思う。いま我らは大野に退こうとしているのだが、家族たちを置き去りにしなくてはならぬものもあると思う。しかし、その苦しみを抜けてまで、儂について来てくれるものはどれくらいおるものだろうか、と思うてな」
「そんなことは問われるべくもありませぬ」
「うむ」
「我らは大殿様の進まれる場所へ行き、戦うばかりでございます。そんなところで、逡巡なさらないでくださいませ」
「逡巡か――」
「はい」
「そうであるな、訊くだけ愚問であるというものであるな」義景は納得した。「しかし、確かに家族を置いていくのは心配でございます」
「であろう、何しろ、相手があの信長であるからのう」
「ですな」
「だが、軍に随行させれば足手まといになるであろうし、大野でどうすればいいという問題もある。場合によっては家族を切り捨てねばならなくなるかもしれぬ。その障害を乗り越えてでも儂についてきてくれるというものはどれほどおるか、挙手してもらえぬか?」
 義景はその五十人ほどの人員のいる場所で、兵士の意向を訊くことにした。
 結果は皆が挙手するというものであった。
 流石、歴戦の兵士と云えそうな結果であったが、義景はその挙手の様子を別の意味に受け取っていた。
 ――危ういな。周りのものの反応を見て、自分の意志で決定できぬ者がつられるようにして、挙手している。それは数に入れては判断を誤ることになるであろう。正味、人数は二割といったところか。しかし、どうすることもできぬ。うむ、とりあえず、手を挙げたという結果は確かなものであるのだから、これを信じることにしようか――。
 義景はその結果に一応の満足を得た。
「よし、そなたらの気持はわかった。その覚悟、とてもありがたいものと受け止めたいと思う。かたじけない」
 義景はそう云うと、宿舎を後にした。
「いまの結果、どう思うた?」義景は家臣に告げた。
「はっ、兵士らの覚悟を見せられた気がいたします」
「それだけか?」
「えっ?」家臣は驚いたように主君の顔を見た。
「いま見ていたのはそれだけか、それなら、そなたの目は節穴というしかあるまい……」
「どういうことでございますか?」家臣は顔を奇妙に歪めている。
「あやつらは自分で覚悟しておるわけではないぞ」
「えっ?」
「周りの雰囲気に流されて、挙手した者の数がかなり多いのだ。そんなことでは、おそらく織田に攻め立てられれば、簡単に降伏してしまうことだろう。これはとても危うい状況にあるという他ないというものでな」
「そうでございましたか」
「しかし、我らにその兵士の習性を匡すことなどできようはずもなく、まあ、とりあえず、状況を見守ることしかできまい」
「辛い所でございますな」
「ああ」
 主従はそう云うと、すぐに亥山城に退く準備を進めた。
 一乗谷は完全に景鏡に任せることにしたのだった。
 しかし、義景は訝しんでいた。
 ――景鏡はどうして、ともに亥山城に籠ろうとしないのか?
 亥山で共に戦う方が理にかなっているのではないかと思えるのだ。というのも、一乗谷が戦に向かないというのなら、二人で亥山に籠り、そこで作戦を遂行した方が成功する確率が高まるというものではないか? 義景はそう思いつつも、やはり、景鏡にもなにかの算段があるのだろうと思いきり、それ以上、気にしないことにした。

     *

 一乗谷から東に五里の距離に亥山城は存在している。平地に館城として作られて、周りに堀を巡らせた城であった。
 義景は城に入り、そこでしばらくゆっくりした。
 信長は一乗谷にそろそろ乗り込んでくるころだろうと思われた。
 景鏡は無事だろうかとそんなことを気にしていると、家臣が茶を用意してくれた。長政から贈られた京の銘茶であった。
 抹茶ではなく、茶葉を湯で蒸らして淹れる茶である。
「うまい茶が飲めるのはありがたいな。持つべきものは盟友だな」
 義景はそう云って、満悦そうに笑みを浮かべたが、その表情はどことなく悲しみが漂っている。
「そなた」義景は近くに侍っている部下に声をかけた。
「はっ」部下が畏まる。
「一乗谷の様子を知りたいから、伝令をこまめに送れるように何名か選出してくれぬか」
「畏まりましてございます」
「ああ」
 義景はもう一度、茶を口に含んだ。
 ゆっくりとそれを嚥下する。義景は久しぶりに見る亥山城からの景色に目をやった。あの一乗谷を離れなければならなかったのは、義景にとって屈辱であった。小京都と呼ばれる美しい都。それがひとりの暴君によって踏みにじられようとしている。許しがたく、耐え難いことであった。もしかしたら、信長は一乗谷には興味を覚えず、そのままこちらに来るかもしれない。一乗谷の人口数万、その民草たちが織田兵に蹂躙されるところは見たくない。また、させてはならぬ暴虐であると思っていた。
 そんなことを考えている中、不測の事態が報告されたのはほんの少しあとのことだった。
「義景殿」と伝令が息せき切って、入ってきた。
「どうした?」と義景。
「景鏡様が織田に内応されました!」
「なにっ!?」
「内応でございます」
「なんと」義景は事情が呑み込めなかった。「いったいどういうことなのだ?」
「つい先ほど、信長の軍勢を一乗谷に引き入れたとのことです。すぐにこの亥山にも迫って来る勢いではないかと思われます」
「なんと……」義景は望みを絶たれた気がした。
 かくなる上は、信長とここで一戦交えるしかあるまい。勝ち目はほぼないに等しい。頼りにしていた景鏡が敵方に寝返ってしまったのだ。四面楚歌とまではいかないものの、部下が裏切ったという事実は、義景に衝撃をもたらした。
「うむ――」義景は喉を鳴らした。
「景鏡様はいつから内応をくわだてておられたのでしょうか?」伝令がそう告げて義景の様子を見た。
「思えば、この亥山城に儂を入れたことも策謀のうちというものであろう」義景は悔しげに口辺を歪めた。
「殿、お気を確かにお持ち下され」侍従がそう告げる。
「儂は大丈夫じゃ」と義景は答える。「とにかく、軍議を行おう。いまのうちに考えておかねば、信長は神速を持ってここへ攻めて参ろうからの」
「平泉寺の勢力が一乗谷に火をつけ、街を荒らしておる様子にございます」別の伝令が来てそう告げた。
「そうか」と義景は短く声を発する。
 義景は声を震わせた。「無念じゃ、無念過ぎる……」
「どうされますか?」と家来。
「亥山を捨て、近くの館に世話になろう」義景はそう云うと、亥山城を出る準備を整えた。
 亥山を後にした義景は賢松寺に世話になることにした。
 と、そこで、とりあえず、落ち着く予定ではあったのだが、敵に降ることを決めた景鏡の軍勢が、賢松寺を包囲したのであった。
「くっ、無念じゃ、まさか味方の手に掛かって死ぬることになるとは……」
 義景はそう告げると、それ以上、言葉を弄せず、自分の辞世の句を読んで、それから切腹をした。
 義景が残した句というのは次のようなものである。

 七転八倒 四十年中 無他無自 四大本空

 介錯は家臣高橋甚三郎の手によった。
 享年四十一歳の義景であった。

     *

 「これで後顧の憂いも絶ったことになりますな」猿こと、羽柴秀吉がそう告げた。
 主君信長は口辺を歪めてほほ笑んだ。
「そうだな、これで心おきなく長政と戦えよう――」信長は満足そうである。
「殿の気持は変わりませぬか?」と秀吉。
「変わらぬ、とは?」
「ですから、殿のなかでは、いまでも長政は友とでもいうべき存在なのですか?」
 信長はしばらく考えた。
 ――長政はいま小谷に籠って何を考えているのか? 儂はもう一度あの男と分け隔てなく語り合いたいのだ。だが――。
「儂はどうするがよいか――まだ決めかねておる」
「そうですか……」
 いま場には信長と秀吉の主従二人しかなかった。
 軍議をあとに控えての自由な時間である。
 信長はさらに考えた。
 ――儂はどうしたいのか? いまここで決めることではないにせよ、いずれ、決断せねばならぬことであろう。長政、どうすればそなたは儂との関係を鑑みて折れてくれるのだ? いまのままではもう滅ぼすしかないではないか。家臣らの意思など関係ない。自分のやりたいようにしてきたこれまでの人生なのだ。儂はそなたの命を救いたい。そう強く念じておるというに、そなたはつれない態度しか取ってくれぬ。なんともどかしいことか……。
「殿――殿?」見ると秀吉が不思議そうな視線でこちらを見ている。
「う、うん? どうしたのじゃ」信長は返答する。
 秀吉は告げた。
「此度の戦で決着をつけるがよろしいかと思います。もう浅井に手を貸す勢力はすべて押さえました。本願寺系の息のかかった一向衆もいまではなりをひそめておりますゆえ、此度の戦は、もう織田軍対浅井軍の単純なる武力の構図となりまする。ここで、一気に浅井を攻め滅ぼせば、もう我らに楯つく勢力は明日を知れぬ存在となるでございましょう。そうなれば、殿の天下は間近でございまする」
「果してそうか? 北陸には上杉がおるし、中国には毛利が勢力を伸ばしておる――。それらを逐一どうにかしていかねば、天下という言葉はまだまだ先のものであろうしのう」
「そうですな……」秀吉はもともと信長を持ち上げるためにこのような言葉を発したのであろう。苦り切った表情で、自分の言葉に乗ってくれなかった主君の顔をまじまじと見た。
「どうした? 儂の顔になにかあるのか?」信長は怪訝そうに眉間に皺を寄せる。
「いえ、そういうわけでは、決して――」
「そうか」
 二人はじっと押し黙って、一乗谷の焼けた後に目を遣った。
「燃えましたな、完全に」秀吉は信長の視線の先に焼け残った建物のあとを見て、そう告げた。
「ああ、もうどうすることもできぬ。しかし、そもそも儂に楯ついた朝倉が悪いのだ。」
「そうかもしれませぬな……」
「猿」信長は秀吉を呼んだ。
「はい」
「比叡山焼き討ちを経験した我ら織田軍のこと。このようなひとつの街の焼失などもはや、大したことではあるまい」信長はそう告げると、目を細めて興げた表情をした。
「それは――」秀吉は自分が比叡山の焼き討ちのときに、光秀と画策して、僧侶や経文や仏像を救いだしたことに思い当り、〈主君に対する不忠〉という言葉を頭によぎらせていた。
「それは?」と信長は訊ねた。
「いえ、なんでもございませぬ」と秀吉。
「そうか」
 主従二人はそのまま会話を切って、また外の風景に目を遣っていた。

     *

 長政は落ち着いて伝令の報告を聞いた。
『朝倉義景、自刃』。
 それは長政にとって、自分の行く末を暗示させるものであった。
 ――朝倉が歿したということは次の標的は間違いなく、この儂の首であろう。幸い、儂はもう死ぬ覚悟はできている。しかし表だって死ぬ覚悟などと云うては家中が危うくなることはわかっている。お市も心配するだろう。これは極力口にせぬように気をつけねばなるまい。
 長政はそう思いきり、昼からの軍議に出席した。
「さて、何をどうすればよいやら――」赤尾美作守は苦り切った表情をした。
「殿、織田の標的はもう我らのみとなっております」と海北綱親。
「うむ」長政が返事をする。
「降伏はやはり考えませぬか?」海北はそう訊ねる。
「ああ、それはない」
「そうですか」
「これは意地になって云うておるのではないぞ。己の正義の在り処を知るがゆえの決断とでもいうべきものでな」
「しかし、いかに立派な正義であろうと、滅んでしまっては意味がないではありませぬか」
「滅びると決まったわけではなかろう」長政は力強くそう云ってのける。
「織田からは降伏の勧告が頻繁に来ておりますよな?」
「ああ」
「織田も悪いようにはせぬと思いまする。ここは降伏を考えてはくださいませぬか……」
「この江北は祖父亮政の代から我らの領袖となったのだぞ。その由緒ある家を他の家のものに吸収されることは、儂は、許せぬのだ」
「いえ、まだ吸収されると決まったわけではないでしょう。徳川の例もございます。降伏したあかつきには、きっとこの江北の地に我らを置いて下さるでしょう。それはほぼ確実と思われます」
 海北はそう云うと、ふっと肩の力を抜いて、長政の返答を待った。
 軍議の場にある諸将らは二人のやりとりに耳を澄ませていた。
「殿」と美作守が横から口を挟む。「儂は綱親の気持もわかれば、殿の気持もわかる気が致しまする。どうでござろうか? いったい、どちらが正しいのであるか――。それを考えると、儂は困惑してしまいまする」
「う……うむ」
「難しいですな」赤尾はそう云うと、ふっと笑んで、長政を見た。
「時に余裕はございませぬぞ」と海北が告げる。
「う、うぬ」と長政。
 いったいどうすればいいのか、長政も悩むところだった。しかし、自分の本心、本音のところでは、さっき、部下たちに述べたことを一毫も出ないのである。
 つまり、先祖から受け継いだ土地を他の武将に蹂躙されるということが我慢ならぬという意識である。
 長政は唇を噛んだ。
「殿の決心は固いようですな」美作守が云う。
 海北はその美作の言葉にみじろぎした。
「綱親、ここは我ら全員、殿と心中する覚悟が必要ぞ!」
 美作守はそう云って、無理からにっと笑んだ。
 美作の笑みに出会って、海北は苦り切った表情をする。
「そうか、心中か、それも悪くないな」海北は云った。
「殿、儂はついていきますぞ」美作守はそう宣言する。
「儂もでござる」
「儂も」
「儂も」家臣たちが次々に声を上げる。
 いま江北の主従の結束は最大にまで高まっているようであった。
 長政はそれに手ごたえを感じながら、また、むざむざ織田にこの将らを討たせるわけにはいかない、とそんなことを考えもするのだった。
「儂はそなたらと共に一日でも多く、この江北を治めていたいものだ」
 長政はそう告げて、ほほ笑んだ。
 空元気と云うに近い状況であった。
 あと数日すれば、きっと織田はこの小谷を囲むであろう。
 そのとき、どのような反抗がこの浅井家に残されていることか――。
 長政に死に対する恐怖はなかった。
 きっと死ぬ間際までそれはまったく襲ってこないだろう。
 自分の運命は自分で切り開く。
 それがたとえ地獄行きであろうと、自分の信念に基づいて行動した結果であれば、それだけで自分は満足できるだろう。そう長政は思うのだった。
 天正元年八月中旬。
 秋風吹きすさぶ寂しき時候のことである。


38 :蒼幻 :2011/02/17(木) 11:37:32 ID:tcz3skkHkc

第十九章 お市脱出

 朝倉義景ともども越前勢を討った信長は、そのまま江北にとって返し、浅井の居城、小谷城を取り巻いた。蟻の這出る隙間もないほどの重厚な包囲網であった。八月二十五日のことである。命をとられる可能性の高まった長政はある行動をとった。それは戒名を得ることである。
 清水谷の徳勝寺の和尚に命じて、自分の戒名をつけることを命じたのである。
「我が浅井の命運も旦夕に迫りました。そこで拙者は戒名を得たいと思うております。雄山和尚、後世に恥じぬ戒名をぜひともお願いしたい」
 長政は使者にそう述べさせて、雄山和尚から戒名を得た。
 その名を、
  天英宗清大居士
 という。
 戒名をつけるためにあれこれ逡巡し、その名を告げたとき、和尚の目には泪が浮かんでいたと、その使者は小谷城に帰って長政に伝えた。
「うむ、立派な戒名もつけてもらえた。あとは儂の出来る限りのことを為すだけだ」長政はそう云うと、決然とした眼差しで一同を眺めた。
「殿、もう決心は変わらぬのですか?」木村日向守がそう告げて、無念そうな表情で主君を見ている。
「木村、もう前だけを見ようぞ。殿が覚悟なさったのなら、部下の自分はもう心を決めるだけだ。低徊は余分のことぞ!」
 赤尾美作守は自身も何か云いたげな表情をしつつも、家老と云う立場上、家臣をなだめる役目を果たしたのであった。
 海北綱親は赤尾の複雑な感情の機微を見て取ったのか、何もいわなかったものの、やはり、自分も無念の思いがあるのか、長政の顔を何度もみて、そこに込められた強固な意志と云うものの力に、打ちのめされそうであった。
「殿、儂も決死の覚悟で抵抗いたしますぞ」
「そうじゃ、儂もこの持てる力をすべて発揮いたしますからの」
 そう告げる武者がいる一方、冷静にことの成り行きを見守っている男たちもあった。赤尾美作守は覚悟していた。これだけの人数が、全員が全員、心を等しくして家のために命を抛とうということはあるまい。しかし、責めるつもりはない。そうして我が身の保身を考えることも、場合によっては必要なことであると思えるからである。そんなことを主君の長政に伝えれば、勘気を持ちこまれるということはないであろうけれど、やはり、気分のいいものではないに違いない。ここは黙っておくがいいであろう、と美作守は考えた。
「うむ、外で高まる織田の兵士の気合は十分すぎるほどで、充実しておろう。我ら浅井の将兵、力を合わせて、有終の美を飾ろうぞ」
「赤尾殿、その宣言は弱すぎる――。城を打って出て、信長の首級を挙げて見せるというくらいの心意気がなくて如何致す?」
「ほう、そなたがそんな武勇を見せるというのか、それは楽しみだ」
 普段目立たない将がそんなことを告げて、先に発言した者の上げ足をとる。
 場に緊張が走った――。
 強がる将と、あげつらう将、どっちもどっちであった。
「そのようなことを云っても、戦の大勢にはどうにも影響しないであろう。井規、そなたはどう思う?」
 美作守は脇にいる武勇一辺倒の男に訊ねた。
 浅井井規は言葉をくぐもらせる。
「う……うむ、儂は最後まで抵抗するべきだとは思いますが、しかし、そんなことをしてまで守る意地と云うものは必要であるかどうか、少し悩む所でござる」
「難しい事を云うのう」赤尾は声を漏らす。
「いくら浅井のためと云っても、儂も浅井の端くれ。しかしその思いは、殿とはまったく違うておりまする」
「というと?」美作守は訊ねた。
 美作守のなかで、浅井井規という男の評価が変わる瞬間でもあった。
「徹底抗戦よりも、敵に降って、その中で、自分の道を見つけるという方がより実情に即しておると思うのです」
 美作守は落胆した。浅井の規範となる将が、そんな風に弱気なことをいうとは……。美作守はそんなところからも、もう駄目なのではないか、諦めるしかないのではないか、そんな風に思えてくるのだった。
 美作守は軍議の場に不釣り合いな雰囲気が覆ってきているのを繊細に感じ取っていた。
「赤尾殿、とりあえず、ここは解散ということで――」
「そうだな……」美作守はそう返答して、皆に解散を告げた。
 諸将らが配置について、そのあと赤尾と海北は長政の前に進み出た。
「長政殿、この戦の結果がどうであれ、我らは主従として、強く結び付いていたと後世の者に云われるようにありたいものでございます」
 綱親がそう告げると、美作守は油断のない視線を彼のほうに向けた。
 長政はその様をじっと見ていた。
「海北殿」と美作守は返答した。「後世の目を気にするなど、末期という感じですな」
「末期――でござるか?」
「ああ」美作守は冷然と云ってのける。
「その真意を詳しくお聞かせ願いたいものですな」
 普段仲の良い二人であるのに、こうして意見を異にするのは珍しいことである、と長政は感じていた。
「後世の目を気にするということは、現在の自分が心のなかで鬱憤を溜めこんでいるとでもいいましょうか、そういうことではないかと思うのです」
「ほう――鬱憤……」
「はい」
「つまり、私の考え方ではいけないということですかな?」
「そう申してもいいかと思いまする」
 海北綱親は溜息をついた。それは重い溜息だった。
 赤尾美作守は海北をちらっと見た後で、長政の方に視線をやった。
「殿――此度の軍議を見ておりますと、弱気になっておる将兵が多いことに気付きまする」
「ああ、そのようだな」長政の言葉には覇気が感じられない。
 長政は普段よりも無口になっていた。戒名を得たことが、余計に自身の死を意識するものとなってしまい、それは囚人における手械足枷のようなものであろうと、考えられた。「それにしても――」と長政は声をあげる。
「はい」と美作守は返事した。
 綱親も返事をする。「なんでございましょう」
「そなたら二人はよう仕えてくれた。儂は感謝してもしきれないほどの恩義を感じておるのだ」
「ふっ、そのようなこと――私は仕えたいと思うている者に仕えることに喜びを覚えるという、処世の術を試していたにすぎませぬ」
 赤尾美作守はそう告げると、相好を崩した。
 海北綱親もその赤尾の言葉を受けて、答える。「私もそのようなものです」と。
「本当にこの感謝はしてもしつくせないほどであるのだ」
「左様ですか、それはとても嬉しいことにござる」美作守はふっと笑む。
 三人の主従はそれからしばらく黙りこくって、互いの顔を視合ったり、置き物の花瓶を眺めたりして時間をつぶした。
「織田の攻城が始まったら、こんなことをしている暇もなくなりましょう」
「そうだな……」
 長政は小谷の周りを取り巻いている信長の軍勢を思い返して気分を曇らせた。

     *

「いよいよ浅井との決着をつけるときになりましたな」
 柴田勝家が羽柴秀吉に告げた。
 秀吉にとって筆頭家老の勝家は大きな存在だった。自身の苗字に柴田の名の一部を用いたこともそれを多く示していた。
「殿はなんとか長政を救いたいと思うておる様子でございますな」秀吉はそう告げて、勝家の反応を待った。
「うむ……儂は直接に長政にあったことはないが、殿もお市様も、長政のことは大きく見ておるようであるな」
「はい、そのようで」秀吉は追従するように告げた。
「殿は長政に対して、純粋なる親愛の情を抱かれているようだ」
 勝家のその言葉は、秀吉の気持を大きく揺るがせるものであった。
 ――ああ、勝家殿までそのようなことを申されるか……。秀吉はそう思って顔をしかめた。
「それでは困るのです」秀吉はそう告げた。
「困る? それはどうして?」勝家が訊ねる。
 考えてみると不思議なことであったが、しかし、情というものを根幹において考えなおせば、それは何も不思議なことはない、ただの男女の仲の情と変わりはないのである。
 秀吉は主君信長の妹であり、長政の妻であるお市の方に懸想しているのである。ずっと耐え忍んできた劣情を慰めるために、ここはなんとしても憎き長政を討ちたい、そう願っていたのである。
 しかし、そんなこととは勝家は思ってもいない。
「いったいどういうことなのだ?」勝家は秀吉に返答を迫った。
「あの朝倉攻めのときに、裏切って背後から突いてきた長政ですぞ。生かしておいては、必ず後に殃[わざわい]となるに違いありません」
「う、うぬ」勝家はうなった。
「涼しい顔をして大胆なことをする男であると、儂は思うておりまする」
「なるほど……」勝家は不本意ながらも納得する。そして、また、それに反するように、今度は長政の側に立って弁護をした。「しかし、儂はこう思うのだ。長政と云う男は信義に厚いと聞く。そういう男はなかなかこの戦乱の世では得難いものであると思うのだがな。あの朝倉側についたことにせよ、もともとは儂ら織田が浅井との盟約を破って朝倉を攻めたことに非があるというものであろう。それならば、本当に正義に悖っていたのはどちらであるのか? それはわからぬであろう?」
「確かにそう云う意見は聞かれますが、もともと柴田殿は、浅井に対して否定的な立場にあったのではなかったですか?」
 秀吉は声を張り上げた。
「そうですな、確かにそんなこともありましたな」
「でございましょう」
「しかし、考えは年月と共に変わっていくもの。儂は思い直したのだ。あの我が殿のなされようを見てな」
「うん?」秀吉は戸惑った。筆頭家老である柴田勝家が表だって、主君の批判をするのを察知して、これは簡単な問題ではないと感じたためである。「なされようというと、あの叡山の焼き討ちなどでございますか?」
「そうじゃ、叡山じゃ!」今度は勝家が声を張った。「やはりあれはやりすぎであろう。儂もさすがに胆が冷えた心地であったのだ。そういえば、羽柴殿と明智殿は殿の作戦の裏をかいて、いろいろ叡山側に助力したとか……」
 秀吉はびくりとした。「そんなことをどこから聴かれたのです?」
「ふっ。いろいろと手段はあるものよ」勝家は油断ない視線を向けて、ほほ笑んだ。
「そうですか、ご存知でありましたか。それは参りましたな……」秀吉は苦笑いした。
「しかし、それは本当によくやってくれたと儂は感心しておるのよ」
「他にそのことを知っている者はおるのですか?」
「あとは丹羽くらいのものだ。もちろん、殿にはそのことは告げておらぬ」
「そうですか」秀吉はほっと胸をなでおろした。
 勝家はそう云うと、目を細めて秀吉をじっと見た。
「そなたも実にうまくやっているのう」勝家は感嘆するように云った。
「うまくやっている、でございますか?」秀吉は訊ねる。
 勝家はさらに目を細めた。「そうだな、わが織田家中は主君の命には絶対服従ということが決められているような雰囲気であるというに、そなたは、その中で実にやりたいようにふるまっておる。それはなかなか得難いことではないかと、儂は思うのだ」
「なるほど」秀吉は同意する。しかし、同じく疑問が胸に浮かぶ。
 ――勝家殿は、儂のやり方に賛意を表明してくれているのだろうか?
 主君信長の命令には絶対服従というのでは、力の圧迫に負ける百姓と同じではないか、と秀吉には思えるのだった。もともと百姓の出である秀吉のことである。他の凡百の者たちと同じように、力の圧迫に負けて、主君のいいなりになるというのは気持の上で許せぬことでもあった。
「儂はなんとか底意地を見せたいと思うておりまする」秀吉はきっぱりと云った。
「そうか」勝家は短く答えた。
 と、部屋の障子があいて、そこへ丹羽長秀が姿を見せた。
「丹羽殿」と秀吉が声をあげた。
「おう、そなたも来たか――」勝家はそういって、丹羽の来訪を心から喜ぶ様子だった。
 丹羽と勝家の仲は良好である。秀吉はこの両者の間に割って入りたいと思うほどに二人に尊崇の念を抱いていた。
「何を話されておったのです?」長秀はそう訊ねた。
「いや、それは……いやはや、困ったのう」勝家は弱った風に声をあげた。「殿のなされように対する疑義に関して少しのう……」
「ああ、最近の殿の気性の激しさにはついて行くのもやっとという感じですからな。殿の御気性をもっとも身近に感じるであろう、我らのような将にしても、あの御気性にはなかなか、逆らえぬというものであろうしのう」丹羽はわかったような口ぶりでそう告げた。
「しかし、殿のことを知れば知るほど、それこそ正義ではないかという気もするのでござる」秀吉は云った。
「うむ……何が正しくて何が間違っているのか、そのことをしっかりと教え諭してくれる存在があればいいのだけれども、そんな者はこの世におらぬからのう。あっても、力を持った者に追従する厚顔無恥の輩くらいというものでな――」勝家が云う。
「そうですな」丹羽が同意する。
「まあ、こんなところで、あれこれ云うていても始まらぬというものじゃ。さあ、そろそろ出陣の命が下るであろう。我らの正義は、それを忠実に遂行することにあろうぞ」勝家はそう云うと、秀吉にじっと視線を据えた。
「そうですな。与えられた職務を全うする。正義の示し方はそれしかありませぬな」丹羽が同意する。
 しかしこのとき秀吉の心には一つの思いが去来していた。
 つまり、いったい、正義とは何であるのか? ということである。
 正義を信じるからこそ、兵士は戦えるのであって、しかもその正義は相対的な、実に変化のしやすいものであるのだ。変化しやすい正義というものは、考えてみれば、実に単純で、わかりやすい構造をしていながら、それがなくては戦が成り立たぬというほどに奥深い、行動の根幹をなすものであると云わざるを得ない。実際、とても難しいことなのである。
 秀吉は自軍に正義があるかどうか考えてみたが、やはり、叡山を焼き打ちした自軍に正義の在り処など求めようもないことを信心深い秀吉は思うのだった。

     *

「殿、女子供は逃がすべきでござろう」赤尾はいきり立って答えた。
「ああ」と長政は返答する。「そうであるな」
「お市様たちを逃すことこそ肝要と思いまする」
「うむ」
「殿はここで討ち死になさるおつもりですか?」赤尾は苦しそうに顔をゆがめて云った。
「討ち死に……」長政はその言葉をかみしめるように云った。
「生きて姫様方と再会しようと云う気持はないのですか」それは赤尾の魂の叫びでもあったようだ。その言葉を発した美作守は表情を歪めて、何か大いなる意志の力によってその言葉を発したとでもいうような感じであったのだ。
「難しいことであるな」と長政は答えた。
「難しい――ですか?」美作守は訊ねた。「しかしお子様方はきっと殿のご無事を願っておるはずでありますぞ」
「それはずるいな……」長政は告げた。「この世に置き去りにしていく妻子のことを思うては、いかな武将とて、未練を持つというものであろう。それを引き合いに出して、儂に死を思いとどまらせようとは、美作にあっては想像もつかない反逆という気がしてならぬぞ」
 長政はそう告げると、目をきっと美作守に向けた。
「う、うぬ」美作守はうめいた。「そこまで考えが凝っていらっしゃるのなら、もう何も云うことはございませぬ。我ら浅井の将兵。一丸となって、敵への抵抗を強めようと思いまする」
「うむ」長政は力強く返答した。「期待しておるぞ」
「はっ」と美作守。「しかし、妻子のことはお忘れなく。お市様、姫様方の退路は確保しておくべきにございまする」
「ああ、そうだな」長政はそう告げると、美作守に下がっていいという命令を与え、自身はお市たちの待つ清水谷の屋敷に戻ることにした。

     *

 一年中緑を保っている松の木が幾本も植えられている。
 小谷は清水谷の浅井屋敷の一風景である。少し足をのばせば琵琶湖を望むこともできる立地である。いま清水谷は混乱して、皆があたふたしているような状況であった。
 長政の父久政は混乱しすぎて、どうすることもできないくらいに算を乱していた。久政だけではない。浅井家中がすべて正常な機能を失い、絲の切れた凧のような様相を呈していたのである。そんななか、お市は冷静に物事を見極めるだけの分別を残していた。
「市、そなたは子供たちをつれて逃げ延びてくれ。それだけが儂の望みである」
 長政は開口一番、そう云った。
「貴方様はどうなさるのです?」とお市は訊ねる。しかし、未練がましく聞こえるような風ではなく、ただ自分の夫の進退をしっかりと見極めるために訊いたのだという雰囲気を崩さぬように訊ねたのである。
「難しいのう」長政は答えた。「儂の命はここで尽きようとも、儂の血は、娘たちのなかに息づいて、これからの後も生きつづけるであろう。そう儂は思うておる……」
「悲しいことにございます」お市はそう云うと睫毛を震わせて、視線を下に向けた。
 いま二人は部屋の真ん中で向かい合って話をしていた。
 生まれたばかりの江は侍女の妙に見てもらっている。他の子供たち――茶々とお初も同じく妙が面倒を見ていて、大事な夫婦の話に水を差すような存在はなかった。
 妙の様子も尋常ではなかった、と長政は思っていた。
 自分が言葉にしがたい事を口にするという事実を受けて、妙の方でも覚悟が決まっていたということなのかもしれない。妙は本当によく働いてくれている、と思う長政だった。
 妙のことはこの際置いておくとして、いまはお市に自分の思いを打ち明けねばなるまい、と考えていた長政である。
「市……」長政は妻であるお市にそう呼びかけた。
「はい」とお市は答える。
「儂はいかにしても、そなたらの命を救いたいと思うておる。市、儂はそなたらと別れるのはつらいというのが本心である。しかし、ここは思いきらなくてはならぬというものであってな」
「はい」お市は粛々と長政の提案を受け入れる風であった。貞淑な嫁という印象の強い様子だった。
「そなたらには辛いことかも知れぬ。しかし、儂はそなたと過ごした年月を無下にしたくはない。その日々の積み重ねの結晶である、我が子らを守ってやってほしい。儂から云えることはそれ限りだ。なあ、市。そなたは儂に嫁いできて、幸せであると、胸を張っていうことができるか?」
 長政は最期の願いを込めたような雰囲気で、この美貌の妻に訊ねかけた。
「嫁いできたことが幸せか、ということですか」お市は少し考える風だった。
「長政様、貴方様の質問には、私に対する不信感とでもいうものが滲み出ているような気がして仕方がありませぬ」
「うん?」
「嫁いできて幸せであったか? などという質問は、私に対する冒瀆であるような気がしてなりませぬ」
「冒瀆……」長政は声を低めて答えた。
「私が幸せであったかどうかなんて、夫である貴方は私を最も身近で見ていたのですから、自然と分かろうというものでございましょう? それが分らぬというのでありましたなら、私たちの夫婦関係はまったくの無駄であったというしかありませぬ……」お市は悲痛なものを瞳の奥に秘めたような眼差しをして、長政を眺めていた。長政を眺めていたというよりも、自分が夫にした男の真意を確かめようとするような、そんな雰囲気に満ちあふれていたのである。
「長政様」お市はそう問いかけた。
「なんだ?」と長政。
「私はこのままこの城に居て、貴方様と運命をともにしたいと思う気持ちもあるのです――」
「そ、それは――」長政は云いどもった。「それでは子供たちはどうするのだ? まだ人情の機微もわからぬ子供たちのことを思えば、守ってやらねばという気持ちに傾くことこそ親と云うものではないか」
「親と云うのなら、長政様も親でございましょう」お市はしっかりとした語調でそう云った。
「それはそうであるが――しかし儂には家臣がおるのだ」長政は困惑の表情を浮かべた。
「難しいですね」お市はそう云うと、表情を曇らせた。
「さあ、そなたはこの城を抜けだす準備をするのだ。万が一、織田方に見つかっても、命までは取らぬであろう。なにしろ、主君信長殿の妹御であるのだからの……」
「そんな云い方はやめてください。私はもう織田の娘ではなく、浅井の嫁なのですから――」
「うむ、すまぬ」長政はほっと息をついた。
「ならば、準備を整えて参ります。その前に長政様――」
「うん?」
「最後にひとつ願いを申してもよろしいですか?」お市は顔をわずかに赭らめながら云った。
「ああ、云ってみると良い」長政は請け合った。
「ならば」とてお市はしばらく考え込んで、そして口を開いた。「くれぐれも命を粗末になさらないでくださいまし」
「そんなことか、あいわかった」長政は答える。
「そんなこと、ではありませぬ。しっかりとこの言葉の意味を思うてくださいね」
「わかっておる」長政は冷たい表情でお市を見た。
 お市は名残惜しそうに夫の顔を見て、それから思いきるように、顎をそびやかした。
「ならば、私は準備をしてまいります」
「ああ」
 お市はそう云うと、部屋を去った。三人の娘のいる部屋に向かったのである。長政はしばらく一人で考えていた。自分に何ができるのか。妻子を余所にやることで、自分がもうまったく係累のない、いつ死んでもいい人間になったのだという気持ちを強くする。これまでの戦では、自分が亡くなったら、妻と子供たちが路頭に迷うような気がして落ち着かなかったのだが、戒名を得たというある種の安心感もあったし、そして、いまこうして、妻子との関係も気にする必要がなくなった。いまなら、大きく羽搏けるような気がしていたのである。
 長政は周りを織田に囲まれながら、最期の自分の覚悟を見せるときと思い、それ以上、死と云うものを考えることはなかった。
 と、その時、父の久政が部屋に入ってきた。
「父上」と長政は声をかける。
「おう、長政。これが最期になるかも知れぬと思うと、そなたの顔を見ておきたくなってのう」
「そうですか」長政は冷静に答えた。
 ――この父はまったく戦乱の世に益することがなかった御仁だ――。長政はそう考えたものの、表だって非難するようなことはなかった。あくまでも当たりはやさしく、その接する人間の気持を逆なでするようなことは決してなかった。
「長政――」久政は云う。
「はい」と長政。「なんでございましょう?」
「そなたはいったい何を考えておる?」
「はい?」
「これが最期と思うておるのか?」
「と云われると?」
 長政は久政の云うことの意味がわからなかった。いったいこの父は何を云おうとしているのか?
 と、そのとき、久政は目頭を赤くして泪まで見せたのである。
 思いはすでにこの部屋に来たときに定まっていたようで、これまで必死に自分の泪をこらえていたようだった。しかし、子息の顔を見て、緊張がほどけたように顔の筋肉がゆるんで、それによってこらえていた泪が頬を伝ったというところであるらしかった。
「父上……」長政は突然のことに驚く。
「儂が織田との抗戦を指示したことで、今回のことが出来[しゅったい]した。儂はそのことを思うと、とても胸が締め付けられる思いがしての。前にも云うたと思うが、儂はそなたの運命を決定づける、どうしようもない選択を強要してしもうたのではないか、そう思うのだ」
 久政は悲痛な表情で長政を見た。父がこんな表情をするのを長政は初めて見る気がした。久政の普段は、政治にほとんど身を打ち込むことなく、気分転換でもするみたいに、取るに足りない様子でさまざまなことに容喙してくる始末で、家臣からはその煩雑さに、苦情こそ出ないものの、その様は奔放な未熟者に似て、不評を得ている様子だった。そんな父が、こんな風に息子のことを思い、それを気遣うような言葉を掛けてくるなど――。
 しかし、それもあるだろうと、長政は思った。
 父はもともと情に厚い人間であるのだろう。しかし、それを表だって明らかにするのは、羞しさが先に立って、どうしても表にあらわれてこないということだったのだろう。しかし、こうして家中が窮まってどうしようもない状況になったいま、自分の心の奥底に秘めていた思いを口にして、それによって、自分の不安や不満を解消しようとしているのだろう。
 人は死ぬ前に善人になろうとするものである。
 久政の言葉もそういうことを示しているのかもしれないと、長政は思う。
「これは儂も前に申したことですが、もう一度云いましょう」
「うん?」
「信長殿とのいまの関係は儂が選択した結果によるもので、父上に責はありませぬ。お気になさらぬように。父上の意見を入れて決めたと思われるは、また違ってくると思いまする。儂は祖父亮政公のことを思うて、その代に恩義を作ってくれた朝倉に敬意を示したのでござる。いまや、朝倉は滅んでしまいましたが、しかし、そんなおりでも、信長殿とともに天下を見る夢はすでに抱いておりませぬ。また二天を抱くつもりも毛頭ない。いずれかが滅ばねばならぬ運命なら儂はそれに殉じようという思いでおるのです」
「そうか……」久政は悲しみを湛えた眼差しで長政を見た。
 仮にも父である。息子が死を覚悟していると宣言することは、親にとって、最大の不孝であると思えるのだろう。そして、また、諸芸にうつつをぬかす父でありながら、その本意は家族を思うことの多かった人物であるために、いまこうして窮境にあるわが息子のことを思うて、不憫に感じられたのに違いない。父の思いが透けて見えるように思えて、長政はどうしようもなく暗澹たる気持を胸に抱くのだった。
 ――父はかくも儂のことをお思いなのか。長政はくすぐったいような気分になる。
「長政、死に急ぐでないぞ」
「はい」
 長政はそう云うと、じっと押し黙った。
 これ以上、父と話しても悲痛が増すだけだ、と思う。
「父上」しばらくして、また長政が声を掛けた。
「なんだ?」と久政。
「父上は覚悟が決まっておりますか?」
「なんとかな」
「そうですか」
 長政は自分でも何が訊きたいのか、はっきりとはわからなかった。ただ思うままを口にして質問しているだけなのだ。
「儂もそろそろ考えないといけませぬな」
 長政はそう云うと、ふっと笑んだ。
 久政は我が子のその言葉に何を思っていたのであるか――。


39 :蒼幻 :2011/02/17(木) 11:38:45 ID:tcz3skkHkc

     *

「市、達者でおれよ」長政は妻子を見送るために外に出ていた。
 百姓姿に身を窶[やつ]したお市の姿は、しかし仔細を見れば、そこには気品が漂っていて、そのまばゆい光を隠すことはできないというものであった。敵に見つからぬように、うまく逃げ延びてほしいという気持はあった。
「平塚の実宰院に向かうように」と云う長政の指令だった。
「長政様、どうかご無事で……」お市はそう云うと、ふっと笑んだ。それは肚からの笑いではなく、無理に気持を歪めての笑いであることが見て取れた。しかし長政は何も云わなかった。
「では、またな」長政はあっさり答えた。
「はい」お市は着物の袖を口元にやって、云いえぬ感情を押し殺しているようであった。
 お市は茶々と初の手を引いて長政の前を辞去した。
 長政は侍女の妙、そしてその手に抱かれた江の姿が消えるまで、ずっと見守った。
「どうか無事でいてくれ……」長政はそう言葉を漏らした。
 秋の風は物寂しさを感じさせるに十分だった。

     *

「浅井はどうやら覚悟を決めたようにございますな」
「うん?」秀吉の言葉に信長は表情に疑問を浮かべて訊ねた。「どういうことだ?」
「どうやら、お市様をよそへ逃がしたようにございます」
「そうか……」信長は晴れやかな顔をした。妹が小谷にもういないのだとすれば、こちらとしては思う存分、攻めることができるというものである、そういう算段があった。
 信長は秀吉に命じた。「さっそく、市がどこへ落ちのびたか調べさせよ。小谷落城の際には、賓客として遇する用意がある」
「は、はっ」秀吉は焦って返答した。「して、長男の処遇はいかがなさいますか?」
「長男……ああ、あの万福丸という子供か……」信長は顎髭に手をやって、何度かしごいたのち、答えた。「殺そう」
「はっ」秀吉はまったく反対することなくその言葉を受け入れた。戦乱の世の習いとして、男子を残せば、そのうち寝首をかかれることになる。それを防ぐためには、もちろん、斬首しかないということを信長は冷酷なほどに分かっているのである。ここで弱みを見せれば、敵の思う壺。そういう意識も働いている。
「それにしても長政と云う男は敵ながらあっぱれよ」信長は感嘆するように告げた。
 場にいる秀吉は信長の態度に尊崇の念もあることを思って、不審に感じていた。
「なにゆえ、それほどに長政を重く見られるのですか?」
 秀吉は嫉妬の心を隠すことなく、前面に押し出して訊ねた。
「うん? それは、まあ、情を交わした相手であるからのう」
 信長はこともなげにそう云ってのける。
「しかし、いまはあの男を討ち滅ぼしたいという気持に傾いておる」
「打ち滅ぼす……」
「ああ」
「それは殿の覇業に必要なものなのですね」
「そうとも云えよう」
「そうですか……」秀吉は、形はどうあれ信長が長政を討とうとする意思を固めたことを嬉しく思っていた。
「殿、儂は嬉しく思いまする」秀吉は述べた。
 信長は怪訝そうな表情をした。「嬉しい?」
「はい、嬉しゅうございます」
「それはどうしてじゃ?」
「これまで殿はずっと長政の助命を思うて来られました。しかし、いまの殿を見れば、それはまったくの杞憂にすぎなかったと儂は思うのです」
「長政が憎いか?」信長はそのままの言葉で秀吉に訊ねた。
「憎い――というのとは違うと思います」秀吉は答えた。しかし、その想いの中にはお市のことをめぐる大きな妬心が渦巻いていて、とてもその実兄である信長に告げるわけにはいかぬ、混濁した思念があるのだった。秀吉はそういう面をまったく感じさせないように、単に利得からそういうことを述べているのだという風を崩すことなく信長に進言するのだった。
「そなたはそなたでいろいろ考えておるのだな」
 信長は感心するように告げた。
「考えておる、のでしょうか。とりあえず、儂は織田の天下を夢見る一兵卒に過ぎませぬ」
「謙遜するでない」
「かようなことは……」
「いや、そなたの言葉は我が血肉となるであろう。横へ向きそうになる思いを常に前に向けてくれる作用が、そなたの言葉にはあるようだ……」
 それは秀吉にとって、最大の賛辞であるように思えた。
「諜略は進んでおるか?」
 信長は訊ねた。
「はい、なんとか内応者を募ることができておりまする」と秀吉。
「そうか、ならばそのまま進めていってくれ」
「はっ」
 秀吉は主君信長の顔をちらっと見た。その表情は、眉はひそめられているものの、普段の、青筋立てた、仁王のような形相はまったくなかった。秀吉はことのほか信長の勘気を受けることが多かった。生まれのいやしさによるものであるか、と他の家臣は思っているようだが、しかし、秀吉自身はそうは思っていなかった。つまり、心変わりを思うことなく、あるいは気軽に殴ったりできるのは、それだけ自分が信長にとって親密な位置にあるということではあるまいか? そう考えていた。
 それは自彊心をくすぐってくれる考えだった。
「殿」秀吉は声をあげる。
「なんだ?」信長は訊ねた。
「ここで浅井をひねれば、あるいは畿内平定も見えてきますな」
「ああ、それに幸運も続いた……」
「と云われますと?」秀吉は怪訝そうに信長を見た。
「武田は弱体化して、上杉は恭順の意を見せつつある」
「そうですな」
「しかし、考えてみると不思議なものだ――」
「と云われますと?」
 秀吉は信長の真意を聞こうと、身を乗り出した。
 信長はふっと笑んだ。「儂のような若輩者が上杉や武田というものらの風上に立っているという事実が不思議でな――」信長はしみじみと云って、目を細めた。
「殿の力はそれらの勢力を凌駕しております」秀吉は宥めるように云った。
「いや、そんなところで褒め言葉はいらぬ」
「は、はあ」秀吉は落胆した。
 ――主君はいったい何を考えているのか……。秀吉はそのことを思った。
「思えば桶狭間の今川義元を討ったときから、十数年、いまは尾張、美濃、江南、伊勢、京、大和、摂津、越前、その他の地域も領袖とすることができた。しかし、これは我が実力以上のものが関わっているような気がしてのう」
「なるほど」秀吉は信長の言葉に同意した。
「もし、初戦である桶狭間にて今川義元を打ち倒せていなかったなら、いまごろ、儂の骨はどこに行っていたやらわからぬであろうのう……」
「そんな弱気なことを」秀吉は珍しく信長に教え諭すように告げた。
「うん?」信長は秀吉のその態度に気分を害した風だった。「そなたも云うようになったのう」
「いえ。そのようなことは」
「うむ」
 主従はそれからもしばらく歓談した。小谷を視界に収めての僅かの間ではあったのだが――。

     *

「お市様も行かれましたな」赤尾美作守は主君長政に告げた。
「ああ……」長政は答える。
「平塚の実宰院とは云うたものの、おそらくそこを安住の地にすることはできまい」
「と云われると?」
「ああ、おそらく織田方の諜報者によって、事情は筒抜けになるだろう」
「そうでしょうかな……」
「儂らとて甲賀者を使うておるのだ。信長殿もあの上洛の途上にて甲賀者を手懐けられたと聴く。それならば、条件は我らと同じであろう」
「なるほど、どこに細作がおるかわからぬということですな……」
「左様」
「そうですか……」
「しかし、あの実宰院の見久尼はわが姉。きっと僅かの間でもしっかりと面倒を見てくれることだろう」長政は目を細めた。
 美作守は何度か肯いた。「きっとそうでありましょう」
「さあ、儂らは如何に散るかを考えると致そう」
「いま織田はこの小谷に近い場所で我らを討ち滅ぼそうと気鋭を強めておりまする」
「うむ」
「儂ら江北の士の意志の堅固さをしっかりと見せつけてやりましょうぞ」
「そうだな」長政はそう云って、あけ放った戸の向こうを眺めた。
 庭の楓が紅葉している。その赤い葉は、初陣前の、昔の一風景を思い出させた。長政は目を細めてしみじみと懐かしさに気持を添わせた。また、松の、枝を差しのばす姿は枯淡とでもいうべき境地を表しているようで、いまの長政の心にはぴったりである気がする。
「殿、殿」美作守が呼びかけてくる。
「なんだ?」と長政はいらえる。
「そろそろ具足を整えた方がよろしいかと」
「そうだな」
 長政はそう告げると、小姓を呼んで、鎧一式を身に纏うことにした。
 鎧を身につけ、小手を身につけしているときに長政はひとつの想念を心に浮かべていた。今日、ここで滅ぶことになったとしても、儂は絶対に恨みを持つことなく散っていこうぞ、と。信長殿にとって、自分はどんな存在であったのか――。倒すべき敵の一人として認識されている今となっては、もうそのことを確かめられはしまい。縄目の屈辱を受けることも考えていないため、会って信長に真意を問いただすこともできない。しかし、長政はあの佐和山での会見、京での二条城普請の折に話した様子、そう云った物を順に思い返して、そして、しみじみしたのだった。
「結局、儂は一度も、信長殿を恨みに思うことはなかったな……」と長政はひとりぼやいた。
 ――いまはもう考えることはやめておこう。
 長政は外の風景を再度眺めた。
 父の久政がそのとき、姿を見せた。
「たびたび済まぬな」久政は云った。「これで最期かもしれん。最期であるゆえに、儂はなんとか、そなたの顔を見て安堵したいという気持ちに駆られたのだ」
「ふむ」長政は頷いた。
「で、何か話があるのではないですか?」長政は訊ねた。
「ああ」と久政は肯う。「儂はのう」
「はい」
「朝倉義景殿とは誼を通じていて、なかなかいい仲間であったのだ」
 長政は分かるような気がした。
 生来、戦を好まぬ久政と他国を攻めることを良しとしない義景とはまるで刎頚の友のようなものであったのだろう。
「それでいかがなされました?」長政は訊ねる。
「うむ。それでのう」久政は云った。「かの朝倉も滅んでしまった。次はこの浅井であろう。しかし、最期まで希望を捨てぬつもりであろう?」
「まあ、そうですな」
 長政は力強く云った。しかしその返答をした瞬間になにか酷くそらぞらしいものが場に満ちたのを、長政は敏感に感じ取っていた。
「長政」
「うん?」
「そなたはやはりもっと羽搏ける人材であったのだろう」久政は目をしばたたかせながら告げた。
「またそれですか。もういいですよ」
 長政は云った。
「う、うむ」久政は云いしぶった。「難しいことであるのう」
「何も難しゅうはありませぬ。そんな風にあれこれ考えていると、安心することもできぬのではありませぬかな?」長政は辛辣に云った。
「そうだな、そうかもしれぬ。儂は無駄なことを思うておるのかもしれぬ。と、万福丸は越前に向かわせたとか?」
「はい。市たちより先に向かわせました」
「そうか」久政は視線を伏せた。「信長に見つからず、無事におってくれればいいのだがのう」
「そうですね」長政は声を震わせた。「しかし、まったく儂等はいったい何のために生きておるのだろう、と思うことがあります」
「うん?」今度は久政が訊ねる番だった。
「儂は自分の一生を振り返るに、何を為したかと気になっておるのです」
「何を為したか、か……平穏無事の人生を送るのもひとつと儂は思うておおるのだがのう」久政は気休めをいうようにそう告げた。「何も為さなかったとしても、自分が生きたという事実は、それまでの人生に於いて関係した他の人々によって受けつがれていくものではないかと、儂は思うのだがな」
「それは卓見かもしれませぬな」長政は目を細めて、実父を見た。
 久政は自信なさげなその視線の戸惑いが目立っていたが、しかし、暗愚と周りに云われつつもそんなことを感じさせない、精悍とでも云うような表情で長政の顔にじっと視線を据えていた。
 死がもうすぐ傍まで来ているという意識が、この久政という男をして、切羽詰まった、もう後がないという気持ちになさしめているのだろう。
 長政はふっと息を吐き、肩の力を抜いた。
 と、そのとき、外から、怒号が鳴り響いた。
 数万の軍勢の鯨波の声である。
 ――いよいよ始まるか。
 長政は意識を強く持った。
 ここで力を出し惜しみしてはならない。長政はそう思い、自身は本丸に向かうことにする。
 本丸では赤尾美作守が戦の作戦立案を担当して、あれこれ指示を発していた。
「織田勢はどうか?」長政は極めて曖昧な言葉で、美作守に訊ねた。
「うむ。織田にしてはなかなかの兵士の運用法。これは相当うまくやらねば、防ぐことは難しいでしょう」
「そうか、美作をして、そう云わしめるか」
 長政は言葉を切った。
 赤尾美作守はそのあと入ってきた海北綱親の方を見て告げた。
「海北殿、なにか作戦はありませぬか?」
「そうであるな……うむ」
 海北は言葉を途切れさせた。
「いや、無いなら結構。やれることをやっていきますからの」
 赤尾はそう云うと、ふっと笑んだ。こんなときでも笑みを見せられるのが、極まった武将の魅力でもあるな、とそんなことを長政は思った。
「儂もそろそろ兵士を率いて、作戦に加わりたいものであるな」
 長政はそんなことをこともなげに云ってのける。
「いけませぬ、殿は御身をおいたわりください」美作守はそう告げると、形だけ顔をしかめた。


40 :蒼幻 :2011/02/17(木) 11:39:28 ID:tcz3skkHkc

第二十章 長政堕つ

「そなたに先駆けを命ずる」
 信長は家臣羽柴秀吉に告げた。
「はっ」秀吉はその命令を請け負った。
「狙いは中の丸だ。長政の本丸と久政の京極丸を分断するのが目的である。その中間に位置する中の丸を攻め取れば、この難攻不落の小谷といえど、我が領袖に帰することになるであろうぞ」
「かしこまりました」秀吉は声を張って答えた。
 先駆けということは、つまり夜討ち朝駆けということである。
 秀吉は八月二十七日戌の下刻、総勢三千人を費やして、作戦行動に出た。
「それ者ども、掛かれい!」秀吉は大きく手を振って隊全体に指示を出した。

     *

「いよいよ織田が動きましたな」美作守は時刻が時刻だというのに、秀吉の軍勢が攻めてきているのを如実に感じ取って、気を張り詰めながら、いま長政の前にあった。
「まさか、こんな時間に攻めて来るとはな……」長政は困憊しているような様子で告げた。しかし、それは赤尾美作守の見誤りであった。長政をふっと見たときは疲れているように見えたものの、もう一度しっかりと見定めたときには、その表情には静かな気合いが籠っていたのである。
 ――殿は大丈夫だ。美作守はそう思って表情を緩めた。
「殿、ここはどう防がれますか?」海北綱親もその場にあって、三人で話をしていたのである。
「とりあえずは、この本丸に敵が攻めてくるまではじっと待っているしかあるまい」
「そうですか」
「まあ、張り巡らせた鳴子があるし、何かあれば兵士が結集して、しばらくは敵の攻撃を防いでくれよう」
「そうですな……」海北綱親が同意する。

     *

「半兵衛、そなたに指示を出したい」秀吉は浅井の籠城戦を見、思うことがあって、軍師竹中半兵衛を呼び寄せた。
「なんでございましょう」半兵衛は訊ねる。
「そなたのことであるから、なぜ呼ばれたか、わかっておるのではあるまいか?」
 遠くから風に乗って、兵士たちの気迫のこもった声が聞こえてくる。
 いま攻城戦の真っ最中である。
「なぜ呼ばれたか……そうですな、敵の諜略をなんとかせよといったところですかな? たとえば、あのときどき敵方の城の敷地のなかで鳴ってしまう鳴子の音とか――」半兵衛は油断のない視線を秀吉に向けた。
 秀吉はその視線に出会って、びくりとした。
 ――さすが半兵衛、そこまで簡単に見通すとは、末恐ろしい男よ。この男が浅井でなく、この織田についてくれたこと、これは天運というものかもしれぬな……。秀吉は半兵衛を孔明さながら、三顧の礼で迎えたことを懐かしく思い返した。
「うむ、そのとおりだ。あの鳴子のある位置を正確に測って欲しい」
「あの音が鳴ると、敵兵がそこへ集中してきますものな。あれの場所を得ることは、この戦を優勢に進めるためには不可欠でございましょう」
「うむ」秀吉は小さくうなずいた。
 半兵衛はことの重要性をしっかりと認識しているようである。秀吉はその調査のすべてを半兵衛に一任することにした。本来半兵衛は対人での諜略に向いているようであったが、こう云ったあくまで情報収集に徹するような仕事であっても、類まれな力を発揮した。
 半兵衛はものの数刻のうちに秀吉の指示の通りの成果を出す。
「見事である」秀吉は半兵衛の仕事の成果を褒めあげた。
「かたじけのうございます」半兵衛は謙遜する。
「ならば、さっそく次の作戦に移ろう。おい、蜂須賀と前野を呼んでくれ」
 秀吉は小姓に蜂須賀小六たちを呼ぶように云いつけた。
「はっ」小姓はすぐに二人を呼びに行った。
 二人はすぐに駆け付けた。
「秀吉殿、お呼びですか?」蜂須賀が訊ねた。
 脇に前野も控えている。
「ああ、呼んだのはほかでもない。そなたらにこの地図を見ながら、敵方の鳴子を取り除いてもらいたいのだ。できるか?」
「やってみましょう」蜂須賀小六は云った。
「ならば、任せる」秀吉はそう云うと、小六に歩み寄って、半兵衛の手になった鳴子の地図を渡した。
 蜂須賀小六と前野将右衛門はその場を去り、作戦遂行のため、夜陰にまぎれた。まだあたりの暗い時間帯である。
「これでとりあえず、初段は成功ということになるであろう」
「そうなると宜しいですな」半兵衛は嬉しそうに表情を緩めて笑んだ。「殿」半兵衛は呼びかける。
「うん、どうしたのだ?」
「長政という人物、儂は面識はないのですが、どのような男なのですか?」
「うむ。質実剛健という感じであるかな」
「それは――」
「ああ、そなたも敵として対峙しておる身であるから、そういうことは思いもしておるだろう、その期待を裏切ることのない、見事な偉丈夫であると云えよう」
「そうですか」
「で?」
「で、とは?」
「そなたがただ雑談するためだけに質問をするなどということはあるまい。何か儂に云いたいことがあるのではないか?」
「そこまでお見通しですか。恐れ入りましてございます」
「そのような世辞は無用だ」秀吉は好々然として笑った。
「ならば申しますが、主君信長様と比べたとき、将器の面で上であるのは殿か、長政か、どちらでございましょう?」
「それか」秀吉は云いにくそうに語気を弱めた。「それはのう――」
「それは?」半兵衛は秀吉の答えを待ち望んでいた。
「やはり我が殿に及ぶものはおらぬであろうよ」
 半兵衛は秀吉の戸惑いを如実に察知していた。
「殿――」半兵衛は秀吉に問いかけた。「それはこの戦の世のひとりの武人としての意見ですか、それとも、情に流される一臣下の劣情ですか?」半兵衛の追及は重かった。
 秀吉は咽喉の奥で「ううむ」とうなった。
「臣下の身にありながら、こんなことを云うのは烏滸がましいかも知れませんが、儂は、お舘様とちがった意味で、長政にはある種の将器が備わっていると思うのです」
「ほう……」今度は秀吉が聴き手になった。
「さきほど、儂は、長政とは面識がないと申しましたが、それでもここ数年の我が軍との戦いに於いて、長政は、近隣に並ぶもののない驍将という誉を受けるに値する活躍ぶりを見せてまいりました。あの将は、戦となれば、自ら軍を率いて、先頭に立ち、敵兵を屠ると云う。まさに絵に描いたような名将でございましょう」
「そうかも知れぬな」秀吉は大いに弱った。半兵衛がここまで長政信者であるとは思ってもみなかったのである。その相手に対し、軽はずみな発言をしてしまったと、秀吉は恥じ入るような気持を持ったのである。
「長政は侮りがたい。しかし、味方にすれば信頼に足る実直な主君であると認めていたからこそ、信長様も重く見ていらしたということでございましょう?」
「そうだな」秀吉はそれ以上、何も云えなかった。
「これまた臣下の身で僭越なことでございますが、秀吉殿、ここは女子のことは忘れて、自らの正義に悖らぬ後世に誇れる采配を儂は求めたいと思います」
「う……うぬ」秀吉がここまで追及されるのは珍しかった。
 しかし半兵衛の云うことは、婉曲な表現であり、核心をずばり衝くようなものではないものの、自分の、お市に対する気持をすっかり見透かされているということは理解できたので、若干頬を紅潮させて、それを拒否しようと材料を考えたが、最適な事項が出てこない。秀吉はまた咽喉の奥で「ううむ」とうなった。

     *

「蜂須賀と前野、敵の鳴子を取り除いて参りましたぞ」
 蜂須賀小六はそう述べると、自分の髭に手をやって、何度かしごいた。
「よくやってくれた。では次の作戦に移るとしよう――」
「はっ」
「そなたらは下がってくれていい」秀吉は指示した。しかし、「あ、いや、やはりそのままで」と秀吉は命令を変えた。
「ならば、樋口内蔵人を呼んでまいれ」
 小姓が呼びに行く。
「浅井の城はどう思う?」
 待つ間、秀吉は蜂須賀小六に訊ねた。
 蜂須賀はしばらく考えてから告げた。
「まさに難攻不落、その険峻な要害は我が岐阜城にも匹敵するようなものでございましょう。よくこのようなものを作ったと感心するばかりにございます」
「うむ……教本通りの答えとでも云うべきものだな」
「すみませぬ」小六は謝った。
「いや、責めているわけではないのだ」
「はっ」
 そのとき、秀吉は連れてこられた樋口を見た。
 小姓はまた脇に控え、樋口は服して命令を待った。
「樋口、そなたに道案内を頼みたい」
 樋口は小谷の地勢に明るかった。
「はっ」樋口は承った。
「頼んだぞ」

     *

 秀吉は攻撃を指示し、京極丸と中の丸を標的にした。
 地勢に明るい樋口の案内で。鳴子の恐怖も無いなか、秀吉の先手衆は京極丸の尾根口に忍び入り、そこで寅の刻、狼煙をあげて、秀吉本隊を導いた。
 秀吉の作戦は疾うに信長の耳に入っていた。そこで、小谷を取り巻く織田兵たちはこれまでにないほどの松明を焚いて、秀吉隊の支援を行った。
 小谷の中の丸の守将は迫りくる秀吉隊の恐怖に押されて、投降を申し出た。
 大野木土佐守、三田村左衛門、浅井井規というどれも浅井の要となっていた将たちばかりだった。
 これら三将は切腹用に胴に白い布を巻いていたのだが、それをとって白旗代わりにして投降したのである。それは浅井の主従の関係が見た目ほど強いものではないことを示した一例であった。赤尾や海北のような重鎮はさておき、その他の者らは圧力を掛ければ、案外脆いものであるかも知れない、と秀吉には思えてきた。
 羽柴隊は中の丸を無血占領し、その余勢を駆って、京極丸をも攻め落とした。京極丸の守将浅井久政は奥の小丸に移った。
 あとは左右に分断した久政、長政の二人を討つだけである。

     *

 秀吉が中の丸と京極丸を落としたことを知った信長は、その勢いを殺すことなく本腰を入れて小谷攻略の作戦を指揮し始めた。重鎮である柴田勝家を投入したのも、ここが要と思ってのことである。勝家は信長の指示を受け、久政の立てこもる奥の小丸を重点的に攻めることになった。
 京極丸から小丸へは若干の距離があった。そして、いまでは入口を堅く鎖しているので、中に入ることも難しい。そこで柴田隊は、小丸の石垣を昇って、塀を乗り越えようと試みた。柴田兵は勇で鳴らした値千金の兵ばかりである。また一方、守っている浅井の兵士たちも、それまでのただ褒賞のためだけに参加している兵士ではなく、非常に高い忠誠心を持った精兵であった。人数にして約八百人。八百という数字は信長の大軍から見れば、それほど怖い数字ではない。とはいえ、死を覚悟した兵士と云うのはときにとんでもない活躍をすることがあるため、熟練の将柴田勝家は、「それ者ども、たかが千ほどの兵士になにを恐れようぞ」と云いつつも、内心はひやひやしていたのである。
 柴田勝家も奥の小丸の前まで出向き、塀を昇って行く兵士たちを見極めた。城内からはしきりに矢が放たれる。しかし勝家には当たらない。
「それ、次々石垣にとりついて昇って行け!」
 勝家が指示を出す。
 そのとき脇を掠めた矢に勝家はかっと正面を見据えて刮目した。
 勝家は腰から刀を抜き払うと、飛んできた二三本を、こともなげに切って防いだ。
「それ、織田の力の見せ所ぞ、行け、行けい!」
 勝家は気合のこもった声を上げる。
 兵士たちは異様な昂揚感を持って、「うおおおおお」と声を発する。
 それが戦場に不思議な空気を生んで、勝家も己の心の調子が上向きになるのを感じていた。

     *

 奥の小丸に移った久政はしばらく考え込んで、じっと眼をつむっていた。
「井口、しばらくここに敵が立ち入らぬように防いでくれぬか」
 井口経親はその言葉を聞いて、すべて悟った。
 悟ったというほどのことではない。この乱世にあっていまの状況に陥った武将なら必ず取るであろう手段、それを久政も覚悟したのであろう、と。
 井口は「はっ」と命令を受けると、久政の方を今一度見て、しかしそれ以上、掛ける言葉を持たなかった。しかし、なんとか言葉を発しようとして、わずかにこれだけ云った。「これまでありがとうございました」と。
 久政は熱意のこもった眼差しで井口を見た。
 そして告げる。
「そなたのことは忘れぬぞ。それではな」
 井口は再度「はっ」と告げると、胡坐を解いて立ち上がり、門の方へ向った。
 久政は奥の間へ入っていく。

     *

 久政の前を辞去した井口経親は赤尾与四郎、東野左馬介、千田采女正、西山且右衛門らに攻め手の方へ向けて矢を放たせた。
「御隠居様が最期をまっとうなさるように、いまひととき、ここを防いでくれ」井口はそう云って味方の将たちを鼓舞した。
「ここで倒れても悔いはござらん。ござらんぞ!」
「儂等は死んでも浅井の兵士じゃ!」
 赤尾与四郎たちはそう告げて、仲間内で気持を盛り上げた。
 死に臨んで恐怖はないというわけではない。ではなくて、恐怖よりも大きな思いを抱いて、それによって、恐怖からくる身体のしびれを減衰させていたのである。その大きなものとは、まるで神仏に対するかのような敬虔で純粋な忠誠心であった。内応する者はすでに内応して、いま残っている浅井の兵士は、生粋の浅井兵とでも呼ぶべきもので、一毫の混じりもない浅井兵である。この世にあっては不器用で融通の利かぬただ面倒なだけの兵士ではあるものの、またそうでない者にとっては、憧れ、尊敬し、そして愚直なまでにまっすぐのその性質はない者には絶対に持てぬ信念でもあった。
 井口はそんな純粋兵士たちの覚悟に当てられて、この戦の世で、この家に仕えることができた喜びを誰よりもしっかりと感じていたのである。
 井口の家は長政の母阿古の生家であった。
 その関係から、久政にはとても重用されていたのである。
「御隠居様、どうか武人らしゅう、潔く――」
 井口はそう云うと、自分の運命は前方の攻め手との戦いにあると見極め、自分もまた弓を手に取ると、敵兵目蒐けて矢を射はじめた。

     *

「福寿庵、太夫。あとはそなたらだけだ」
 久政の入った奥の間には浅井福寿庵と鶴松太夫の二人がいた。
 福寿庵は僧籍を持っていて、太夫は武人でなく能楽者であった。
「太夫、そなたは武人ではない。ここで果てずとも、また別の場所で人生を送るがよかろう。信長も能楽をよくするものの命までは取ろうとすまい。儂はここで果てるゆえ、そなたは逃げ延びてくれ」
 久政はそう云って、目を細めて鶴松太夫を見た。
 太夫は声を震わせて云った。「殿、儂は殿によって見出され、おそば近くに仕えることができました。この恩は儂の宝でございます。どうか、儂も殿のお伴をさせてくださいませ。どうか、どうか」
 久政は人と人とのつながりの強さをこのとき感じていた。
「そうか、そなたも儂と共にと云うてくれるか」久政は泪を流した。「よし、それならばこの三人で、最期の盃を交わそうぞ」
 そう云うと、まだ残っていた小姓に云いつけて、久政は酒と盃の準備をさせた。
「これが別れではない。我らはあの世に行こうとも同じぞ」
 久政はそう云って、二人を慰めた。
「思えば、幼いころから御隠居様にお仕えいたし、ここまで参ることができました。人の縁とは不思議なものでございますな」
 福寿庵もしみじみとそう云って、盃の酒を干した。
「儂も御隠居様に見出され、おそば近くに仕えることができましたが、もしそれがなかったら、今頃何をしていましたことやら」鶴松太夫もそう云いながら盃の酒を飲む。
「それもう一杯じゃ!」久政はそう云って、自分の盃の酒を飲み干した。
 もう一杯注がれて、いよいよ覚悟が凝ってくる。
「うむ、我ら三人でこのときを迎えて見れば、儂の人生など、なんだったのであろうという意識が強うなってくるのう」久政は弱音とも取れるような発言をした。
「弱音ですかな」と福寿庵は臣下の身でありながら、そんなことを口にする。
「そなたも云うのう。しかし、これは弱音であるのか――うむ。とにかく、儂は戦が嫌いで、これまでそのことで武断派に強く云われておった。こんなことでは君主は務まりませぬぞ、とな。しかし、儂は自分の信念に基づき、領地を収めようと思っておった。結果は、追放、隠居ということになったが、それにしても、家臣らは儂のような生き方をついに認めようとはせなんだ。それが儂は悔しかった。悔しいけれど、何もいうことなく、この歳月を暮らしてきた。芸事によって気持を慰撫していたが、いま果つるときを迎えて見れば、儂はもっと強く自分の意思を持って政治に当たっていればよかったのかも知れぬ。長政はいい男だ。儂の息子とは思えぬほどに出来がいい。それを云うなら、父の亮政もまたいい男だった。家族で儂だけが愚昧に生まれてしもうた――」
「愚昧だなどと、そのような――」福寿庵は太夫と目を見交わしながら、声をあげた。
「そう云うてくれるのはそなたらくらいのものだ」久政は目を細めて、しばらく口を噤[つぐ]んだ。
「殿、そろそろ参りましょう」福寿庵が云った。
 福寿庵はそれから息を一度つよく吸い、そして吐き出すと、「まず僧籍の儂が浄土への露払いを致しましょうぞ」と云って、自分の短刀を目の前に置いた。
 久政は熱いまなざしで福寿庵を見た。
 福寿庵は法衣をぐっと広げて腹を出し、「それでは」と強く云ったと思うと、自分の短刀を腹に突き刺し、一文字に引いた。
「太夫。介錯を」と久政は指示する。
 すでに太刀を抜き払っていた鶴松太夫は声も発さず、ただ、ひとつ頷くと、痛みを必死にこらえながら、命絶えるのを待つ福寿庵に介錯の太刀を加えた。太夫の刀が一閃すると、福寿庵の首は胴体から離れた。福寿庵の首がごろりと転がり、胴体はそのままの形のまま、首の離れ目から鮮血をほとばしらせた。
「よし、次は儂だ」久政はそう云うと、福寿庵と向かい合う形で座り、そして、「では」と云ってから、自分の短刀を目の前に置いた。「太夫、先に失礼する。介錯を頼むぞ」久政はそう云って、ほほ笑んだ。
 久政は福寿庵の方をじっと見た。すでに首と胴体の別れた遺体。自分がこんな最期を迎えることになるとは思いも寄らなかった。攻め手の信長に対する恨みはこんな状況にあっても希薄である。
「いつでもようございますぞ」太夫はそう云うと久政の脇で刀を振りかぶって待っていた。
「ならば」と云い、久政は目の前の短刀に手をやり、それを腹の前に擬した。
 久政はそれ以上、何も云わず、その短刀を左脇腹にぐさりと突き刺し、右へ向けて真一文字に引いた。久政の腹から血があふれる。
 介錯を命ぜられた鶴松太夫はその刀をまっすぐに振り下ろした。首に当たる前にすっと引くと、首といえど不思議なくらい綺麗に落とすことができる。
 久政の首も胴体と離れた。首がごろりと畳に転がる。血はいまではもう畳の間の大半を赤く染めていた。
 鶴松太夫は一人になった。
 そして主君と同じ畳の上で死ぬのは気が引けるとて、縁側に出て、そこで短刀で自刃して果てることにした。
 天正元年八月二十八日。
 雨の気配のまったくない秋の風が心地よく吹きすさぶ日であった。
 信長は奥の小丸を落とすのに一日の大半を費やした。やはり思ったとおり、城兵の士気が高く、攻めるのに難航をきたしたのであった。
 浅井の将、脇坂久左衛門もできることなら、久政と一緒に命を終えたいと考えていたのだったが、織田の兵士の攻撃を防ぐために手間取り、結局、遅れてしまったのである。しかし、織田の兵士が奥の小丸への入り口である門を破るに至って、死を覚悟し、脇坂は自刃して果てた。


41 :蒼幻 :2011/02/17(木) 11:40:21 ID:tcz3skkHkc

     *

 天正元年八月二十九日、前日久政ともども奥の小丸を落とした織田兵は、この日、長政の立てこもる本丸へと攻め手を寄せた。
 長政は家臣、赤尾美作守、赤尾与四郎、浅井亮親、西野壱岐守の四将を部屋に呼び寄せた。
「美作、我らはもう水の手を絶たれて、汲々としておる。兵糧の白米を水に擬して樋から流すのももうそろそろ限界であろう。幸い、いまのところはそれで敵を騙せておるが、これが最後の決戦。最後の抵抗をしてみせようぞ。そなたらの忠心はとてもありがたく思うておる。よくこれまで一緒に戦ってくれた。礼を申す」
 長政はそう云うと、熱いまなざしで家臣らを見た。
「長政様、我らは天下の夢を見ることこそ叶いませなんだが、しかし、天下 の武人たる信長と堂々渡り合えたことは、とても誇りに思うております。我らの進む道は岐路に差し掛かり、進む道を誤ったという者もおりましょうが、当事者である我らからしてみれば、それは、すべて自分の信念に於いて、正しかった行いであると、云うことができまする。決して、誤っていたとは、儂は思いませぬ」
 美作守はそう云って、じっと正面に視線を据えた。
 西野壱岐守が云う。
「我らもここで果てることになろうと、恨みはありませぬ。ただひとつ、武人として、悔いることのない最期をと思うておりまする」
 長政は深く呼吸して息を整えた。
「皆の言葉、ありがたく思うておる」
 浅井家は代々、曹洞宗であった。
 翻って、家臣らのなかには一向宗を信仰しているものが多い。
 そんな中で、長政は云った。
「我らみな、ここで煩悩を捨て、共に一所を等しくし、真如に向けて気持を澄ませていこうぞ。我と共に戦うてくれるか?」
「もちろんでござる」赤尾与四郎が云う。浅井亮親が云う。西野壱岐守が云う。
 そして、赤尾美作守清綱が云う。「仰せのとおりに」
 長政は家臣らのその覚悟を耳にすると、小姓ら五百人を率いて黒金御門から打って出た。長政は黒糸縅の鎧に金襴の袈裟といういでたちである。得物は大振りの朱柄の長刀。
 長政は自分が主君であるということも意識しないのか、一介の武人であるように、隊の先頭に立って迫りくる敵方の雑兵らを相手に長刀を揮った。
 長政が表に出てきているということを知った織田方の兵士たちは、功が目の前にある、いわば、餌を前にした牛馬のように、長政めざして群がってくる。しかし長政はこれまでの戦でも、頻繁に、敵の矢面に立って自ら進んで攻撃をしてきたのである。その百戦錬磨の長政に対し、雑兵ごときが何をすることができようか。すぐに道塗の骸となる。
 長政の力戦により、織田の包囲網の一陣が崩れた。
 とはいえ、多勢に無勢、いくら斬って捨てても次から次へと織田兵は兵力を追加してくる。
 ――これでは切りがない。
 長政はそう感じたものの、自分の体力が続くまで、この作戦を遂行しようと試みる。
「美作。どうだ、無事か?」長政は脇で戦っているはずの赤尾美作守に声をかける。それは大音声の呼び声だった。
「無事でございますぞ!」美作守の塩辛声がする。
「そうか、それは重畳」
「はっ」雑兵を斬り伏せながら、二人は戦場にて声の応酬をする。
 その二人の声の大きさに、織田の兵士たちは度肝を抜かれて、刀を持つ手を震えさせる。
 攻めているのは織田の側であるはずなのに、この長政の作戦で、どちらが攻め手であるのか分からないような状況になった。
「殿、これはなかなか効いておりますぞ」
 赤尾の声が飛ぶ。
 長政は受け答える。
「うむ……しかしそれも付け焼刃でしかない。適当なところで引くと致そう」
 長政はそうは云ったものの、しかししばらくその攻め手を抑えることなく、謂わば奔放にとでもいうような様子で、無造作に織田の雑兵を長刀で薙いでいく。
「よし、そろそろ良いだろう。引くぞ」
 長政や浅井兵の見せた武によって敵兵は確かに士気が減衰していた。
 長政達は悠々と引いて、千畳敷大広間に入って門を閉じた。

     *

「おのれ、長政――」
 攻め手のひとり、柴田勝家が苦り切った表情で羽柴秀吉を見た。
「このようなことで如何する」
「それもまあ、あと少しでございましょう」
 秀吉は澄ました顔でそう告げる。
「何か作戦でもあるのか?」勝家はそう云ってゆっくりと頭を巡らせる。
「作戦と云うほどのものではないかもしれませんが、一応、対応策は考えてありまする」
「そうか、そなたがそう云うのなら、まず間違いはなさそうだ」
 勝家はそう云うと、ふっと肩の力を抜いた。
 秀吉は落ち着いている。
「竹中半兵衛殿の策か?」勝家が訊ねる。
「いや、そういうわけではないのですが――」
「そうか」

     *

 その日の攻防は夜にはおさまった。
 翌九月一日、長政は前日と同じく今度は二百の軍勢を率いて、黒金御門から出てきた。昨日と同じ戦法である。
 敵の兵は御門を取り巻いていたが、羽柴秀吉、柴田勝家、前田利家、佐々成政といった将の率いる軍勢が奇妙な動きをしたことに長政は気づかなかった。
 敵の将たちは長政に雑兵を当たらせ、自分たちはぐるりと回り込んで背後を取り、そのまま黒金御門の奥へと入って、本丸への道を閉ざしてしまったのである。それにより、長政は本丸に戻ることができなくなってしまった。
「やられましたな」赤尾美作守が告げる。
「これは参ったぞ」長政も嘆息する。
「ここは仕方がございません。我が屋敷へ一旦向かうことに致しましょう」
「うむ」
 長政は昨日と同じく長刀を揮いながら敵兵を牽制し、そして、赤尾屋敷に向かうことにした。
 長政を無事逃すために、赤尾美作守は殿の位置に居て、奮闘した。
 しかし、多くの敵兵を倒す中で疲労が募り、動きが鈍くなったところを、組み敷かれて捕虜となってしまった。同じく浅井頼親、赤尾新兵衛も捕まった。
 長政は待っても美作守が戻ってこないことに気をもみ、そして、覚悟を決めた。
 敵の声が屋敷のすぐ近くにしている。
 防衛の壁が破られるのもあとわずかであろう、と長政は思った。
 ――ここまで生きてきたことを無駄にするわけにはいかない。しかし、もう運命は旦夕に迫っているどころか、寸刻をも無駄にできぬ情勢であろう。無念であるが、ここで腹を切り、武人らしゅう最期を迎えると致そう。
 長政はそう考えると、介錯を頼むために、屋敷内に残っていた木村太郎二郎を呼んだ。
「介錯を頼む」長政が云ったとき、木村の目には悲しみの色が滲んだ。
「かしこまりました」木村は情熱的な眼差しで長政を見、そしてそれ以上、考えることをやめたように無表情になって、与えられた仕事を黙々とこなすようなものの眼差しをした。
「では、参る」
 長政は声を震わせた。
 すでに目の前に一本の短刀を出してあった。
 長政はそれを手に取ると、腹につけて一呼吸し、「では」と告げてから短刀を腹に突きたてた。痛みが麻痺したようにじんと広がってくる。長政はそのまま短刀を真一文字に動かした。左から右へ。
 薄れゆく意識の片隅で「では」という声がしたと思うと、一瞬で意識が飛んだ。
 木村の刀が介錯の太刀を加えたのである。
浅井備前守長政、享年二十九歳。

     *

 織田の軍に捕虜として捕えられた赤尾美作守や浅井頼親が信長の前に引き据えられる。
 信長は開口一番、告げた。
「そなたらはなぜに捕虜となってここに首を揃えておる?」
 浅井頼親が口を開く。
「我らは朝倉の恩義を忘れることなく、武士道に忠実になっておっただけのこと。その道を一切顧みることのない他国の暴君にしてやられたりというところでござる」
 浅井頼親の言葉は痛切な信長批判であった。
 このような水の向け方をされて放っておけるほど、信長は出来た人間ではない。
「ほう、云うではないか」信長は卑屈に嗤う。
「結局、どのような道を目指そうとも、敵兵に捕えられるような者に語られる道とはつまらぬものよ」信長はそう云うと、槍の石突きで頼親の顔を何度も打ち据えた。
「縄で縛られている者の身体を叩いて、気持ちを慰撫するなどとは、貴殿の度量の狭さには驚かされますぞ!」
 頼親はそう云ってふっと哂った。
「おのれ、云わせておけば」信長はそう云うと、手にしていた槍を放り投げ、腰につるした刀を鞘から抜き払って頼親の首元目蒐けて振り下ろした。
「ふん、つまらぬ男よ」信長はそう云うと、刀を手にしたまま、今度は脇で、じっと何も話さずにいた赤尾美作守清綱を見た。
「赤尾美作守か――そなたの武勇はよう聴こえておるぞ」
 美作守は目を細めた。
「そなたにも訊ねよう。そなたはなぜに捕虜となり、ここに引き据えられておる?」
 信長はあくまで、この質問をしたかったようだ。
「やはり、年のせいでございましょうか」美作守は嘆息した。
「そうか、年か。それでは仕方もなかろう……ところで、まだ若いそなたの伜、新兵衛は儂の部下と致すぞ」
 同じく引き据えられていた赤尾新兵衛の顔に驚きの色がうかがえた。
「な、なぜでございます。儂もここで命を終えとうございます」
 新兵衛は声を漏らした。
「新兵衛」美作守は息子に告げる。「そなたは儂の分まで生きてくれ。しかし、信長殿にそそのかされて、悪い道にはまらぬように気をつけよ。儂からはそれだけだ」美作守はそう云うと、さあ、と云う風に、首を信長の前にのばして見せた。
「うむ、見事な覚悟、清々しくもある」信長はそう云うと、「そなたほどの武人だ。人の手に掛かるより、自分で果てたいであろう? 特別に自刃することを許す。介錯は儂に任せよ」そう云うと信長は短刀を用意させ、美作守の前に置き、そして手を縛っていた縄をほどいた。信長がその脇に立ち、美作守の挙措を見ている。
「かたじけない」美作守は告げると、そのまま短刀を持って、自分の腹をかっさばいた。信長の白刃が一閃する。美作守もまた、他の浅井の将同様、こうして命を落とした。
「新兵衛、儂に仕えるか?」信長は刀に就いた血を紙でぬぐいながら訊ねた。
 新兵衛は告げる。「仰せのままに」

     *

 信長は先に佐和山まわりで降伏をした磯野丹波守員昌を大溝城主とし、高島の領地の一部を与えた。また江北に在番していた羽柴秀吉の活躍は特筆に値するというもので、陥落させた小谷城を任せた。また、落城直前に降伏した浅井井規や三田村左衛門は、本心からの降伏ではあるまいとて、斬首に付された。

     *

 九月六日、信長は江北の事後処理を終えて、岐阜に戻った。
 そして、妹のお市が平塚村の実宰院に隠れているのを見つけ出し、岐阜へ呼び寄せた。
「運命のいたずらによって、そなたの夫を殺さねばならなくなった。今回のことでの心労は儂の想像を遙かに超えておるのだろうな」
 信長はそう云うと、目を伏せた。しかし、一度息を深く吐き出すと、もう一度お市の方を見た。
「儂が憎いか?」
 長政のことを思っているのだろうか、お市は目を熱く輝かせ、そして、一瞬にしてその輝きをくすませた。
「我が身の不運でございます。いまはもう諦めておりまする」
「そうか……」信長は声を震わせた。「そういえば、そなたの子ではないが、長政殿には息子がおったよな?」
 お市はびくりとした。
 長政から云われていたことであるのだ。もし信長殿に見つかったなら、万福丸は殺されてしまうであろう、と。
 お市は口を噤んだ。
「警戒しておるのか、違うぞ、市」
 お市はふっと顔をあげて兄の顔を見た。
 そこには柔和な笑みが浮かんでいる。いまの兄になら、万福丸の居場所を話しても問題ないだろうと、思えたのであった。しかしお市は、警戒しながらおそるおそる訊ねた。
「兄上の本心はどこにあるのですか?」
「うん? そなた何を云うておる?」
「浅井と織田は敵同士。長政様を敵となさったのなら、その息子万福丸も敵でございましょう。そんな者の所在を告げれば、きっと兄上は追討の手を差し向けられるに違いありません――」
「そんなことはない。儂は長政殿のことを重く見ておる。そなたとも義理の息子の関係であるのだからこの城へ呼び寄せて、長政様がおられたころから変わらず、日々を過ごさせてやりたいと思うておるだけのこと。それがいけぬというのか?」
 信長はそう云うと、悲しそうな表情を見せた。
「そ……それは……」
 お市はなおも云い渋った。
「儂もなかなか信用がないのだな」
 信長は肩の力を抜いた。
「それはそうと――」と信長が云う。
「なんでございます?」とお市。
「市、これは我らの祖先である平家由来の笛での。檀の浦で源九郎義経に滅ぼされる前に平敦盛が須磨の浦で吹いたとされておる笛であるのよ」
「そうなのですか……」
「浅井の祖先を祭っている竹生島から借り受けてきたものだ」
「二本あるのですね」
 お市はその話に興味を持って訊ねた。
「ああ、大笛時雨丸は竜が青海に吟じる音、小笛高音丸は大鳥が陽に鳴く音と云われておって、何ともいえぬ妙なる調べを醸してくれるのよ。それ、慰めにわしが吹いてみせようぞ」
 信長は繊細な指使いを必要とする調べを吹きはじめた。
 お市は自分の楽しかったこれまでの江北での生活を重ね合わせて泪で頬を濡らした。
 信長はお市の様子を見て、笛を吹くのをやめてからもしばらく待った。
 ある程度待った後、「市……」と信長は声を掛けた。
「はい」そう返事したお市の様子は先程よりもうちとけた感じがあり、それはなにより、この笛の影響であろうと、信長には思えたのであった。
「市、万福丸の居場所を教えてくれぬか」
「敦賀でございます」
 お市はそう云うと、尚も怪訝そうに兄の表情を見た。

     *

 信長は万福丸の守り役であるという木村喜内之助にあてた書状をしたため、使者を遣わした。敦賀の一民家に匿われているとのことであった。
 木村は使者に手渡された信長の手紙を読んだ。
 そして、意味がつかめず、もう一度吟味しながら、読む。
 そこには万福丸を手厚く保護するという旨の文言がちりばめられている。
 それは本当に信長の本心なのであろうかと疑心を抱かざるを得ない木村だった。
「若君、信長が我らを保護すると云うておるのですがな」
 万福丸は目を瞬いた。
「信長が保護を? それは何かの間違いではないのか?」
「わかりませぬ」木村は落ちつかなさそうに背筋を曲げたり伸ばしたりする。
「これは難しいのう」
「左様でございますな」
 木村は落ち着いて考えてみることにした。
 常識的に考えれば、討伐した武将の息子であれば、見つけたなら、即殺すというのが常識である。この信長の申し出には明らかに不審なものが漂っている。しかしその判断を鈍らせる要素があった。同じく使者によって手渡されたお市からの手紙である。そこには兄信長が今回慈悲を垂れようとて、このようなことを仰せになられたのだと、端整な字で書かれてあったのである。
 それが木村の意思をひとつに固めるだけの余裕を欠かせていた。
「お市様からの手紙もここにありまする」木村は告げる。「ここは万福丸様にお決めいただきましょう。どうなさいますか?」
「うむ……」万福丸はなおも判断を先延ばしにしたいというような気持を胸に抱いていた。
「断られますか?」
「うむ……」
「ではそのように返事致し――」
「――ちょっと待った。やはり儂は義母上を信じようと思う。人の上に立つ武将であるのだ。よもや二言はあるまい。命を奪おうとするのなら、ここまで兵を派遣して討てばよい。それをせぬということは、儂らのことを本当に救いたいと思うてくれている感情の発露のある証拠であろう」
「そうですかな」木村は疑心暗鬼でいた。
 それまでに信長の数々の非道な仕打ちを目にしてきた者にとっては、常識の通用する相手と思ってはいけないとの警戒心も胸にある。
「若君――」
「ああ」
「では早速準備を整えましょうぞ」
「うむ、頼む」
 使者とともに越前から江北への道をたどっていく。関ヶ原で東に折れて岐阜へ向かおうとしたときに、一群の将兵に出迎えられた。その陣の中央にいたのは信長である。
 信長は万福丸にもっと近くへ来るようにと告げて、到着を待った。
「来たか――」見れば、少し幼い所も見えるが、利発そうな美しい表情をしていて、その中には若い情熱が燃えているように感じられる。
「そなたが万福丸か?」
「はっ」
「歳はいくつになる?」
「十でございます」
「そうか」
「はい」万福丸は堂々と答えた。
「しかし、万福丸よ。儂はひとつ決断せねばならん。それは身内を裏切ってでも為さねばならぬことであるのだ」
「それは何でございます?」
 信長は顎をしゃくって、家臣に命令した。「それ、こやつを捕えよ」
「の、信長さま、何を」守り役の木村喜内之助が驚きの声をあげたが、ほかの兵士の槍によって一突きにされて絶命した。
「き、木村!」万福丸は突然のことに驚き慌てた。「お、おのれ、信長、儂を謀[たばか]ったな」
「ふっ、裏切り、陰謀が物を云う世の中であるからな」
 信長は万福丸を十字に組んだ木にまだ若い万福丸の四肢を縄でくくりつけた。
「それ刑を執行せよ」
 それは関ヶ原の一隅で処断された。
 僅か十歳の万福丸は信長の命により、槍で串刺しにされた。
 串刺しとは槍を肛門から付き入れて、内臓、つまり身体のなかを通して、口から出すと云うとんでもなく残虐な刑であった。
 信長はその刑の執行を笑みすら浮かべながら見ていた。
 ――長政という男の居なくなった今、その息子と云えど、信頼するに足るものではない。もう儂は心から許しあえる友を持つことはあるまい。いまここで過去の罪を懺悔すべきか? 否。いまはもう動きだしてしまっている覇業に自分の身を打ち込むことだ。それが凝ったとき、天下は我が手中に収まるであろう。
 長政は天下の夢を見たことがあったか?
 穏やかな、春の日差しのようなあの長政の温かさは心地のいいものだった。もう浅井を思うまい。儂がこれで終止符を打ったのであるから。
 さあ、帰ったら、市にどう説明をしたものか。
 信長は秋の風を頬に受けながら、苦笑した。


【浅井長政・了】


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