ルナティック


1 :蒼幻 :2010/04/23(金) 12:44:48 ID:tcz3skke

 世間にこれほど不幸な女はいないだろうと思えるほど、気持ちが追い詰められ、どうにもできない事情にさらされている現時点の私。あくまで自分の視野から見てのことであるけれど、こんな状況はなかなかない気がする。第一に失恋である。信じていた男に裏切られたという気持ち、これがまず大きい。一緒に暮らす事を夢見ていたのに、ぜんぜん、私の方を振り向いてくれない彼。そんな彼のことをずいぶん前から思いつづけていたのに、彼の方はそっけない態度しかとってくれなくて、悲しむのはいつも私の役目だった。そんな彼はこの部屋を出て行ったきり、連絡もよこしてくれない。携帯電話はいつだって、時計の役目しか果たさない。そして第二に妊娠。何度も関係を結んだとは云え、しっかりと避妊していればこんな事態には陥らなかっただろう。後悔しても仕方がない、いま自分はどうするべきか、もし子供が出来ていたのだとしたら、どうすればいまの自分が納得のいく方法で、よい道を見つけられるかを模索して行くべきである。まず、そのようなことを思いながら、私は自分の立場を認識する。
 頭に靄がかかっているような印象を受けている今の自分。外からは頻繁に車のクラクションの音が響いてきている。私のアパートのある地域は住宅地というわけでもなく、大きな通りに面した立地だった。夜眠るときでも、たいてい車の音のために眠りが浅いのである。さびれた商店街が隣接している。買い物はそこへ出掛けることが多いが、近くにスーパーが出来たこともあって、客足が少ないとぼやく商店主もあった。東に長く伸びる商店街であるので、北側の商店には、夕方ともなるととても明るい光が入ってくる。飴色とも蠟燭色とも云うような赤い光が差し込むのである。〈夕光商店街〉というのがその商店街の名前だった。
「あの人は、商店街に行くと云って出て行ったきり、二度と姿を見せなくなった」と私は声に出して呟いた。もう二週間も前のことである。初めは何か、事故に巻き込まれたんじゃないか、と心配して、近くの交番に訊きにいったりもした。しかし、何もない。この付近では事件らしいものは何一つ起っていないと知るにつけ、私は捨てられたんだと云う意識が強くなった。自分は生きていても仕方のない人間だとまで思うようになった。そんな自分では駄目だという意識と、こんなことに巻き込まれて、命を抛つのが自分のせいぜいの性分なんだと思う気持ちとがせめぎあった。
 今日も夕食を作る気力がわかない。生活に張り合いをなくしたのは、彼氏がいなくなってからだ。それまで自分はどんな生活をしていたのか、それをまったく思いだすことができなかった。考えて見れば、不思議なことである。そこで私はまた、思考の糸をたぐる動作をやめてしまうのだ。彼氏がいたのは何カ月前からのことだったろう。短い期間しかいなかった気もすれば、もう随分と長いような気もする。曖昧で、靄がかかっているようで、ふわふわした気持ちの中に、芯と云うものが失せてしまっている気がする。そんな自分はいわゆる腑抜けと云われる状態にあることを意識する。休日も今日で終わりで、また明日から役場での仕事が始まる。いちおう公務員ではあった。公務員ではあるが、国家公務員ではなく地方公務員だ。大学を出てからしばらく塾講師をしていたが、その仕事には安定感がなく、すぐに失職してしまいそうな予感がして不安になったため、急遽、公務員試験を受けて生活の安定を求めた。いまは市の職員として糊口をしのいでいる。
 私は台所に行って、使われなかった箸と皿を眺めた。
 ――洗うか……と私は心を決めて、スポンジに洗剤を垂らした。何度かそれを揉んで泡を出し、自分と彼氏の分の食器を洗いはじめた。もうそろそろ思いきらないといけないのかも知れない。彼氏は戻ってこない。わざわざ料理を作って準備する時にも、いない人間の食器を用意して、それも一緒に洗うというのは非効率極まりない行為である。未練と云うのは人の感情の中でも、一、二を争うほど根強いものであり、いい加減諦めなくてはならない気がする。方針の転換である。私は食器を水きりに載せ、タオルを手に取り、ひとつずつ水気を拭いていく。そして食器棚に食器を置いていき、またしばらく考える。
 ――私は何か間違っていたのかな? いまはいない彼氏に向かって、そんな問いかけをする。その問いかけの様子がまた寂しさを助長し、いじらしさを喚起して、自分がかわいい人間であることをアピールしているようで、なんだか定まらない、あやふやな、自分を恥じるような心持ちがしてきてくすぐったかった。
 棚の前面に置いてあるペアのマグカップが儚い思い出を助長する。
 箸筒に入れてある四本の箸が閑散として淋しげである――これはいずれ、子供ができたときには、六本、八本と増えて行くのかな、という希望的予感が胸を打っていた名残りのようにも思えた。
 夫婦茶碗を並べて置いてあるが、いまでも頻繁に使っている。使わないと空しさだけが押し寄せてくるから、彼氏がいなくても、両方の茶碗にごはんをよそうようにしていたためだ。虚しさが心を圧迫する。いったい私はこの生活のどこに救いを求めているのだろう。救われなければならないという気持ちはすでにあった。しかし、どうすれば救われるのか、その手法がまったく思い浮かばない。
 日が暮れて、夜になっている。
 私はシャワーを浴びて、ベッドに腰かける。
 一人で眠るベッドはまるで棺桶のような気がしてくる。自分一人だけが入っている、予約済みの棺桶。そのまま眠ってしまうのが癪な気もしたが、そうするしかないと思いきって、ベッドに横になる。
 せめて携帯電話でも持っていてくれれば彼に掛けることができるのに。彼氏はそんな日の来ることを予感していたのかも知れない。だからこそ、多少不便でも、携帯電話を持つことなく、毎日を過ごしていたのだろう。いま彼はどうしているのか。しっかりと御飯を食べているだろうか? 暖かい布団で眠っているだろうか? もしかすると、新しい女のもとでのうのうと暮らしているのかも知れない。かつて私のもとで暮らしていたように。お腹の赤ちゃんはどうしようか? おろした方がいいだろうか? でも、一個の命を無下に扱うことはやめなくてはならないという考えが胸をおしふさいで来る。自分の意思だけで決めてはならない、第三の命であるのだ。これが母性と云うやつなんだろうか、と私は思う。妊娠している女なら、誰でも持つであろう、自然な感情、母性。しかし、私はまだ自分が妊娠しているという実感がない。
 ささやかな刺戟に目を開くと、窓の外が青白く光っていた。車のライトとは根本的にことなるさやけき光であった。ベッドから起き上がって、カーテンを開いてみる。そこには丸い月がぽっかりと浮かんでいる。満月だ。南の空に満月が浮かんでいるということは、いまはちょうど、日付の変わるころなんだろうか、と思い、暗い部屋の中で目を凝らして、置き時計の表示板を眺めた。23時55分。……
 昔聴いていたFM番組の〈クロスオーバー・イレブン〉という言葉を思い出す。
 ――今日も一日が終わってしまったんだ、と私は思う。
 建設的なことを何もしないまま、明日になってしまうんだ。そんなことを続けているうちに、だんだんお腹が大きくなっていって、周りに隠すことができなくなって、軽蔑の視線を受けながら、羞恥に心を灼かねばならなくなるんだ、と私は恐怖する。いったい、どうすればこの精神的苦痛から逃れられるだろう。そんな悩みを押し流すように、月はしっかりと光を放ち続けている。月を見ていると、気分が昂揚してくる。不思議な気分だ。いったい私はどうしたいのかとか、どう行動すべきであるかとか、そんな悩みがあまりにちっぽけである気がして、笑いたくなった。生まれてくる新しい命を思えば、母親の苦しみなんて、知れたものであるという気がしてくる。しかし、そのとき、私の予想を裏切る事態が現出した。慣れた痛みが身体を襲ったのである。私はその違和感によって、これまでの自分の予想がまったく的外れであり、幻視さえ観ていたような思いに駆られて、目の前が真っ暗になった。月の光が急に見えなくなってしまったのだ。もちろん、実際的には月の光は雲に隠れることもなく、皓々と光りつづけていたにちがいない。そうではなくて、感覚的に眼の前が真っ暗になったのだ。
 私はトイレへ駆け込んだ。そして、用意してあるもので適切な処置を施して出てきたときにはすべてがはっきりしていて、私は絶望に駆られていた。
 どこでどう間違ったのか?
 生理が来た。私は妊娠などまったくしていなかったのだ。そして、生理の痛みによって、正しく現実を把握する意識がよみがえった。食器棚の夫婦茶碗、二つのコップ、四本の箸、そんなものは私が塞いだ気持ちを落ち着けるためにデパートで購入したまがいものでしかなかったのだ。彼氏がいたなんていうのはそのまがいものの思想の最たるもので、私は妊娠どころか、性交ひとつまともに男性と済ませたことはなかったのだ。私は現実を受け入れることができなかった。いったい、どうすればこんな勘違いが、自分の意識に取って代わって大きな顔をしていたのであるか?
 私は絶望に駆られながら、一方では、すっきりした気持ちが胸に萌していた。私は落ち着いた気持ちでペアのワイングラスを手に取り、柄の所を力任せにへし折った。そして、上のフラワーの部分を床に投げ落した。グラスの砕ける明確な音がして破片が床にちらばった。私はそのうちの一つを手に取って、自分の手首に押し当てた。
 もう私は生きていても仕方ないとの気持ちが胸に込み上げてきた。
 グラスの破片を持った指に力を入れて、思いっきり引く。
 熱い痛みと共に血が床に滴った。
 私はその様を見ているうちに、すべてが空しくなって、血の流れている手首をそのままにして、ベッドに倒れこむようにしてすべてを擲った。
 ――もういい、明日になってから、考えよう。
 月は開いたカーテンの隙間から、ベッドに向けて、光を送りこんでいた。
 私は狂気に駆られながら、血のしたたる手首をシーツに押しつけたまま、眠りに入るのだった。
 夜はまだ当分続く。


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