魂と水


1 :蒼幻 :2009/10/29(木) 09:34:21 ID:tcz3sknm



 水をくれないか。
 そう云って、祖父は亡くなった。
 思えば水と云う言葉に翻弄されることの多い家系である。
 ――水。
 ――きれいな水。
 ――冷たくてきれいな水。
 透かしてみると水晶のようにまったく不純物のない水なんて自然界に存在するんだろうか。川の水、池の水、雨水。放っておけばぼうふらが湧く汚い水。その対極にあるきれいな水は古来、とても貴重なものであったに違いない。いまはもう水道水の普及できれいな水なんてそこら中に溢れている。しかし、俺が思うのは真にきれいな水。水道水くらいの純度の水はまだ汚れていると云っても差支えない。美しいとか醜いとか、きれいとか汚いとか、つめたいとかぬるいとか、人の判断基準なんてまったく底なしで、しかも絶対評価でないわけで、人をしばしば混乱させてしまう。
 祖母が亡くなった時、祖母もまた祖父と同じく水が欲しいといって亡くなっていった。祖父は咽喉から管をさしこんで栄養分を直接胃に入れていたため、欲しがる水を与えることが出来なかったのがやるせなくて気がめいったと、そのとき看病していた母が俺に告げた。父さんも同じようにして亡くなっていくのだろうか、とまだ当分は先になるであろう、来たるべきときのことを考えて暗澹たる気持ちになる。あの祖父母の息子なのだから、きっと父も水が欲しいと懇願しながら亡くなっていくに違いない。そのとき彼の世話をするのは母か俺か、どちらであろう。なんにせよ、水に翻弄される家族というのが本当にあるとしたら、我が家こそがそれだろう。
 祖父の葬儀は近所・親戚の人たちを集めて、しめやかに行われた。
 仏前に水でも供えたら、祖父は浮かばれるんじゃないか、とそんなことを考えたりもした。が、不謹慎だと云ってたしなめられそうな気がしたため、黙っておいた。蠟燭の炎が消えるように安らかに生を引き取られましたわ、と母は見栄を張る。水が欲しい、と飢えたような声を出し、苦しみながらの生涯の闔じ方であったことは家族だけの秘密とされた。俺はどうして両親がそんな嘘をつくのかわからなかった。苦しみながら亡くなったというのは、それだけの因縁がこの家に纏い付いているのだと後年教えてくれた慈正寺の和尚さんには感謝したい。それだけがどうしても疑念として残っていたのだ。
 慈正寺の和尚さんが読経を終え、場は静まっていた。
 こそとも物音がしない中、足を組みかえる清[せい]叔父さんの姿が目立った。
 場が猖蹶を窮めている気がした。どうしてかは分からない。ただなんとなく、この場に死の灰でも降りかかってきているような、そんな斜陽的は雰囲気を味わったのである。ひとりひとりはそれほど深刻そうに祖父の死を悼んでいないように見えるのだが、三十人ほどが蝟集するこの場で、ひとことも無駄口が発されず、皆がただじっと黙りこくっていることが、あまりに不自然に思えて居たたまれなくなってくる。
 妹の文[ふみ]が、亡くなった祖父のことを思い出してか、それとも二度と帰ってこない人の死というものの本質に触れて打ちのめされているのか知らないが、目に涙を溜めている。
 ――場が窮っている。
 そう強く思った俺は、和尚さんが帰っていく姿をじっと見つめてから立ち上がり、喪服のまま自分の部屋に籠った。
「龍二」と母が心配そうに俺の背中に声をかけたが、俺は返事をしなかった。
 怒りとか、諦めとか、そういう感情ではなかった。何かひとつの偉大なものが堕ちていく感覚とでもいうのだろうか。あっけらかんと晴れ渡った空から突然隕石が落ちてきて、水平線の向こうにひっそりと入水するとでもいうような、そんな地球的規模の落魄という気がした。大げさに聞こえるかもしれない。しかし、いまの俺にはそれが真実だった。
 部屋の中で考える。
 いったい一人[いちにん]の死というのは地球の存亡と同質量であるのか、どうか。
 それまで存在していた魂が死を境にして忽然と消えてしまうのである。別の次元へと移ってしまうのか、文字通り、すっぺりと消滅してしまうのか。俺は消えてしまうのだったなら、その魂はいったいどんな価値を有していたのだろうと考える。高校の理科の時間に質量保存の法則と云うものを習った憶えがある。質量を有する存在は根本的には減りもしないし、増えもしないというあの法則である。それは俺のこれまでの人生の中で確かに真であると信じられていたのに、ほかの人の、魂に関する考え方にはこの法則は当てはまらないのか、それとも根本的に無視しているのか、そもそも無知なのか、それはわからないけれど、まったくその法則の埒外に自分の精神を置いているようであるのだ。
 ある一時点で存在していた魂は、肉体が滅んだ後も、どこかの時空で存在しつづけている。もしくは、新しい生命となって、生を生きなおすのではないか。reincarnationという言葉がある。輪廻であるが、この考え方は仏教の根底にあるとても大切な概念であることを俺は知っている。死にのぞんで水を欲しがった祖父や祖母の魂は、次の生命を生きなおすとき、浴びるように、そして美味そうに水を飲むことだろう。そこにはなんの懸隔もないし、自由に行動をとることがかなうはずである。少なくとも俺はそう信じたい。水は生命になくてはならないものである。ひょっとすると、祖父や祖母は水を飲みたいと心から願っていたのではなく、水を飲むという行為を通して得られる充足感こそを得たいと考えていたのかもしれない。暑い夏の日に運動をしてからからに渇いた喉をうるおす一杯の水。その清涼感こそ、祖父や祖母が恋い焦がれていた感覚だったのかもしれない。
 水が得られることの幸せ。
 水道の蛇口をひねれば、いつでも飲める水。
 恵まれているのかもしれない。
 きれいな水という幻想を抱く。
 まったく雑なものを取り除いた水は人の身体にうまく浸みとおっていかないともきく。余計に咽喉が乾くともきく。人の身体には少し汚れている水の方が合うのかもしれない。生理食塩水のように、少し塩分の混[こん]じた水の方がしっくりくるのだろう。人の身体が純粋無垢でないことを表す好例だ。きれいな水と美味しい水、無垢な体と健康な体、それは同義ではないのだろう。そこに人生の悲劇が隠れ潜んでいる気もするのである。
 そんなことを考えているうちに、玄関の方でどやどやと人の声が聞こえて来た。
 部屋をノックされる音がして、母が声をかけてくる。
「ねえ、火葬場へ行く時間だから出てきてちょうだい」
 母の顔に浮かぶ困憊の色やこれまでの献身的な看護からくるやつれを想起した俺は、「わかったよ」と短く答えてベッドから腰を上げる。
 父にも母にも見せることのできない困惑した表情をしつつ、俺は部屋を出ていった。
 祖父の身体から水分が奪われる火葬という事実に、また俺は胸をかきむしられるほどのもどかしさを覚えていたのも事実だった。
 死と水の関連性について、しばらく頭から離れなくなりそうだとの予感を覚えていた。


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