生者よ


1 :蒼幻 :2009/09/12(土) 04:39:35 ID:tcz3sknm



 現段階で何ページになるか、まったく想像のつかない長編小説です。
 2009年09月12日現在で210枚まで書いています。
 第一部だけで500枚は書こうと思っているのですが、第何部まで続けるかは現在のところ見通しが立っていません。作品中における時間軸ですが、2000年の時点で真が8歳ということになっています。高校生になった時点で現代(2009年)に追いつく計算です。
 もちろんそれ以降も描いていくつもりでおそらくそれは未来の描写が必要になってくると思います。予言的な意味合いを持たせることは私の力量では不可能ですので、ごまかしごまかしになると思いますが、精一杯やっていこうと思いますのでよろしくお願いいたします。
 あと、感想、アドバイス等、頂けると、とても嬉しいです。
 では始まり、始まり!


2 :蒼幻 :2009/09/12(土) 04:40:01 ID:tcz3sknm

第1部 幼年期 第1章

 


3 :蒼幻 :2009/09/12(土) 04:40:53 ID:tcz3sknm

★ (1/5)



 嬰児を冷やさないように、雪美は石油ストーブに火を入れた。
 まだ十一月初旬だが、この時期でも寒い日は寒い。それになんといっても赤子がいるのである、用心してもしすぎることはない。初子ということもあってわからないことだらけだが、たくさんの情報誌を読みあさり、いまどきの子育てがどんなものであるのか、だいたいのところは把握していた。
 部屋が温まってくる。雪美はうーんと伸びをして体の隅々にまで血液をいきわたらす。腕や足がしびれたようになって、なんとも心地いい。
 扉の開く音がして、雪美はそちらを向く。
 赤子の祖父の源一が姿を現した。祖父というには四十七歳とまだ若いが、息子の康治[こうじ]が生まれたのが二十歳のときなので、そんな年齢ですでに孫持ちとなってしまったのだ。
「雪美さん、真[まこと]の様子はどうだ?」
「お乳もたくさん飲んでくれるし、順調みたいです」
「そうか」
 源一は大股に部屋を横切って来ると、揺り籠に睡る赤ん坊の顔を見ようと顔を近づけた。
「よう、睡っとるな……」源一は頬を弛めた。
 雪美は舅[しゅうと]の顔を横目で窺う。
 義父の身長は一七〇センチとそれほど高くない。夫の康治の背の高いのは母に似たのであり、義母は義父と同じくらいの身長を誇っていた。義父はすらりとした体型をしていて、いまは白いシャツに灰色のスラックス、そして紺のうわっぱりを着けていた。色合いは落ち着いたもので、義父が着るとなんでもおしゃれに見えてしまうから不思議である。夫が同じような服装をしても嫌味にしか見えない。その差がどこにあるのか雪美は不思議でならなかった。
「康治はいつものやつか」源一はそう云うと、答えを聞くのも待たずに断定した。「いや、絶対そうだろう、間違いない。まったく、子が出来たというのに改心することのない阿呆ものや」
 源一が云うのは、康治の賭博癖のことだった。
 独身のころはそんな素振りなどまったくなかったのに、結婚生活が一年ほど続いたころから、休日になるとどこへともなく繰りだすようになり、良人[おっと]に問いただしてみると、最近はギャンブルに手を出しているとのことである。愛人関係も疑っていただけに、その線はまったく心配がいらないとわかったことで安心し、あまり賭け事にのめり込みすぎないように、と軽く注意するだけでことを済ませていた。すると、それからは休日というと常に、競馬場やパチンコ店に入り浸りで、一向にやめる気配がないのである。
「痛い目を見んとわからんのやな。まったく……」
 義父もこのままではいけないと思っているようであるが、いずれは養ってもらうつもりらしく、強く言うわけにもいかないようだった。それには雪美も、物事の箍が緩んでしまっている印象を受け、不安を助長されていた。
 柱時計は四時を示し、金属的な音を響かせて、正確に時を刻んでいる。美しく透き通る時間の流れは十一月に特有のものか? 刻一刻と厳しい季節に変わっていく過渡期にある時期。枯れ野のような無味乾燥な時間を思うと、雪美は打ちのめされそうになった。
「康治と結婚したこと、後悔してないか?」源一が訊ねてくる。
 雪美は源一がどうしていまさらそんなことを訊くのかわからなかった。確かに夫婦仲は良好というわけではなかった。それでも、相手のことを嫌ってしまうほどに真摯に向き合って接しているわけでもなく、例えるなら、空気のような存在として、本気になるのも面倒なくらいに、無感覚の状態を長く続けているのであった。
 それで雪美は、「後悔はしてませんよ」と答える。
「そうか」源一は言外に意を残すようなそぶりを見せる。
「何かあるんですか?」と雪美は義父に訊ねる。
「いや、最近の不義理が許せんと思ってな」
「まあ」
「だってそうだろう、折角、こうして子供が生まれたのに、まったく子育てに関与せず、自分のことに時間を費やしとる。しかも、定職にも就かないで!」
 そうなのだ。夫の康治は四ヶ月前に仕事を辞めてから、定職を持とうとしなくなってしまった。いまは会社員時代の貯蓄を崩して生活している状況である。康治に危機感があるのかないのか、それがはっきりしない。表だってがみがみ云うといらぬ争いを引き起こしそうで怖いため、雪美は云いだすことができなかった。
「お義父さんは康治さんのこと、どう思ってらっしゃるんですか?」
 雪美は思い切って訊ねてみた。
「わしがあいつなら、雪美さんと子供を置いて、他の享楽に打ち込むなんて不行状はしないだろうよ」
 源一は表情を一瞬緩め、それから厳しい顔つきになった。
「あいつは父親としての自覚が足りんのだ」
 それは言い得て妙というものだった。確かにそうだ。子の父となったのなら、それなりの思慮分別がついてもよさそうなのに、彼はますます自分の楽しみにふけるようになっている。そしてそれを辞めさせる手立てはいまのところ雪美にはないのだ。
「でも悪いことばかりじゃありません。話せば聞いてくれるし、願えば叶えてくれるようなところがありますから、物事を悪い方へ考えずに済んでます」
「雪美さんの人徳なんだろうね」と源一は肩をすくめて云った。義父の細い肩は女のように華奢で、それがまた愛嬌のあるようにも見える。
「後悔してないのなら、わしから云うことは何もないんだがの」
「はい、大丈夫です」
 そう云った雪美の声は明るく元気なものだったけれど、その表情はと云うと、今の窓外の天候のように陰りが見えていた。源一は雪美と話しながらも、あまり彼女の表情に注意を止めていない様子である。おそらく、雪美の表情の陰りには気づいていないだろう。
「落ち着いて考えてみると、こうなるのは運命だった気がします。私が妊娠したと康治さんに告げた時、彼はあまり嬉しそうじゃなかったんですよ。確かに子が生まれることについてはかなりの関心を抱いてくれましたが、自分が子の親になるんだという自覚の方はついに目覚めなかったようです。私が産婦人科に入院したときでも、見舞いは必要最小限しか来てくれなかったし、いまも夜中、私に対してどう接すればいいか決めかねているようなところが見受けられます。普段通り接してくれれば私も対処のしようがあるんですが、いまは会話すら互いに気を遣ったものになってしまって、どうにもぎごちないんです。これはちょっと堪えますね。私はこの家にいながら常に孤独なんじゃないかって思えて来て……」
「それには祖母さんのことも絡んどるんだろうなあ」源一は声を落として云った。
「そんなことないですよ!」
 雪美は驚いたように背筋をぴんと伸ばして云った。
 祖母さんというのはこの源一の妻で、雪美の義母である。名を千津という。
 先に書いたように夫の身長が高いのは、この義母からの遺伝であり、また温厚な源一に対して、千津は日本の母と云った感じの肝っ玉母さんで、大らかなところと締めるときにはしっかりと締める性格がその特徴として挙げられる。雪美も初めて顔を合わせたときにはこの人を姑[しゅうとめ]と仰いでうまくやっていけるだろうか、と不安になったものである。案の定、結婚生活を始めてから、いろいろな叱言[こごと]を言われるようになったのであった。雪美がこの家に孤独を感じていると言った時、源一が嫁姑の関係を思い描いたのも無理からぬことである。
 両親は二人とも堅実な人なのに、どうして夫の康治はあんな風に無責任でちゃらんぽらんなのか。それにはきっと嫁には云えぬ複雑な事情がからんでいるのだろう、と雪美には思われるのだった。


 そのとき、真がむずかりだした。
 お乳はさっき与えたばかりだったから、きっとおしめの方だろうと思い、雪美は紙おむつを取り替えることにする。案の定、おしっこをして不快になったために泣いていたことがわかる。日に何度も繰り返す作業であるだけに、母である雪美はこの行為をあと何回繰り返せば、子供は大きくなっておむつが外れるのだろう、と考えた。まだ生まれてから一箇月しかたっていないのに、いまからそんなことを考えていては、来年のことを云うと笑う鬼のように誰かに笑われてしまいそうで、ひとりほほ笑んだ。
 源一は彼女の、赤子のおむつを替えるさまを見ながら、「時代は変わったもんだなあ」と呟くように云うのだった。
「どうしました?」と雪美は尋ねる。
「いや、いまはみんな紙おむつだろう? わしらが若い頃はみな、布のおしめだったからなあ」
「ああ、洗濯が大変だったって、母から聞いたことがあります」
「そうそう。祖母さんも康治が生まれてからしばらく、洗濯ばかりしとった印象があってなあ」
「昔の人には頭があがりませんよ」
「まあ、便利な世の中になったんだから、その利器を用いない手はないわけだ」
 源一はそういうと、まだ若い顔をくしゃくしゃにして微笑んだ。
「育児サークルとかは考えてないんだったかな?」
「そうですね、しばらくは自宅でゆっくりしようと思ってます。出席すれば、いろいろと有益なことを教えていただけるかとは思うんですが、この前話したら、お義母さんがいい顔をなさってなかったので、いまは辞めておこうと思ってます。こんなことでお義母さんとの関係がぎくしゃくしてしまったら困るのは私だし、やっぱり育児の先輩として、余所の専門家よりも、お義母さんを頼ってという方が筋のような気もしますしね。康治さんや志乃さんを育てていらしたお義母さんですから、積み重ねてこられた知恵や経験はかなりのものと思ってます。いまはあまり喋れてませんが、今回の出産をきっかけに、お義母さんとは、もっと仲良くしていきたいんです」雪美はそう云うと、おむつを替えて快適になったのか、すやすやと睡っている我が子の顔をじっと見つめた。そしてこんなことを呟く。「この子が大きくなったとき、この国はどんな風になっているんでしょうね……」
「それはわしも思ったな」源一はしみじみと目を細めて窓の向こうの景色を見つめた。「康治や志乃がまだ幼かったころ、夢を抱いていたわしは思ったもんだ。いまはまだ誰にも認めてもらえていない建築現場の一作業員にすぎないけれど、いつか自分の会社を持って、一家が安楽に暮せれば……と。もちろん、現状を知っている今となっては、笑い話でしかないが、あの当時は真剣に思ってたんだ。あのころの夢とは違うけど、いまは建築のコンサルタントとして一家を支える仕事につけているんだから、半分は願いが叶ったわけだけどね。それでわしからの提案なんだけれども、雪美さんも、いまから十年後、二十年後、子供たちが大きくなったときに自分は何をしているだろうか――いや、それは実現不可能に思える夢でもかまわないんだ、目標を持つことが大切なんだからね――、自分が何をしていたいか、そう云うことをしっかり頭の中にビジョンとして持っているか持っていないかで、未来はがらりと違ったものになると云うことを分かっておいてほしい。子供を育てることに一生懸命になるあまり、夢が打ち破られ、希望が食い潰されて後には残骸しかなかったという人を何人も見てきた。そういう人たちに共通して欠けていたのが、未来を見通すビジョンだったとわしは思っとる。雪美さん、未来に対する希望を持ち、明確な展望を持つことだ、それが人生の肝要事なんだ」
 源一はしっかりとした語調で云うと、最後ににっと笑って、雪美の顔を眺めた。そこには年長者が下位のものに諭すような調子よりも、むしろ一人の同胞を気にかけて対等に扱うような思いやりが見えていたので、その一点からも雪美は源一の言葉をしっかりと胸に刻み込んだのだった。周りにそう云うことを気遣ってくれる人の少ない雪美だったから、源一の言葉はありがたかった。そして、やはり年長者だけあって、自分のことを心底心配してそのようなためになることを告げてくれたのだと思うと、義理の関係とはいえ、親の愛情を感じ、やはりこの家に嫁いできて良かったと思うのだった。
「さて、話しこんでしまったな……」と源一は苦笑した。「祖母さんも待っとるだろうし、戻るとするわ」
「はい」
「くれぐれも、将来のことを忘れんようにな。それだけで違うんだから」
 源一は繰り返す。
「はい」雪美は素直に返事する。
 源一が部屋から出ていってしまうと、雪美は真と二人きりになった。
 ――さて、そろそろ夕食の準備をしないと……。
 夕食は義母と雪美とが交互に作るようになっていた。十一月は奇数日が義母で、偶数日が雪美の当番だった。温かいものがほしいという源一の意見を受けて、雪美は今日の夕食は湯豆腐にすることにした。料理が決まると、作業もスムーズになる。家庭料理であるので本格的な凝ったものにする必要はない。大きな土鍋に水を張り昆布をいれる、それを火にかけて豆腐を適度な大きさに切って投入する。葱や生姜などの薬味をいくつかきざみ、酒・醤油・味醂・塩などでタレをつくって、他にふだんの味噌汁に用いている味噌をダシでといて柔らかくしたものも用意する。ゴマだれは市販のものを準備し、下準備は終わる。ごはんの残量を確認し、それから、朝に炊いておいた練り物とジャガイモの煮物などを冷蔵庫から出す。六時までに準備は整い、あとは家族の集まるのを待つだけだった。夫の康治はたぶん帰ってこないだろう。いつもどおり、九時や十時になるに違いない。雪美はいまは起きて揺り籠の中で手足を動かしている我が子に注意を向け、そろそろだなと思いなして胸に抱きかかえると、母乳を与えはじめた。真はよほどお腹がすいていたのか、勢いよく口を動かして乳首に吸いついてくる。じゅっじゅっと音がして、赤ん坊の体内にお乳が入っていくのがわかった。雪美は、最初こそこそばゆいくてあまり芳しく思っていなかった授乳も、慣れてくると、これはもっとも母親らしい、子供に対する献身なのだと思うようになっていた。自分が食べるのはごはんやみそ汁や総菜といったものなのに、こうして乳房から出てくるのは母乳と云う白い液体なのである。妊娠がわかったときにも得た着想だったけれど、こうして子供に母乳を与える段階に至っても、自分が生命としての本分を果たしていること、自然や真理といったものに属する母性と云う堅固な仕組みの中に自分が取りこまれていること、子の母として自分が為すべきこと、そう云うことを十全に理解しないままに、大きな潮流に身を任せているような感覚を得て、それがまたこれまで生命に連綿と受け継がれてきた物事の蘊奥なのだという気がしていた。
 子の母になること。それは自分がそれまでに見向きもしてこなかった運命の子供としてそこに連なっていくことなのだと思う。再び運命の胎内から生まれでるのだ、イヴの子として生を生き直すのだ。それは自分にはとても畏れ多いことだと思いながらも、心の一部では、誰もが経ねばならぬ通過儀礼である気がしていた。
 勇気を出して踏み越える。
 自分の視野は狭いのに、世界は宏大無辺に広がっている。
 友人と呼べる人物は数人しかいなくても、世界には六十億以上の人々が住まわっているのである。それはあまりにも高遠で豁然たる世界観である。
 雪美はそのことを思うと、めまいを覚えた。
 ――ふたたび世界は胸襟を広げて私を迎え入れる。
 世界を思うとき、自分は極微の存在にすぎないことに気づく。世界を手中に収めるとか、そういう感覚を得ることはたやすい。思うことは自由である。しかし雪美はそんな僭越を為すほど、自分を高く見ていなかったし、またそんなことを考えられるほど純粋でもなかった[・・・・・・・・]。
 雪美が溜息をもらすと、その態度が嬰児にうつったのか、真は乳を飲むのをやめてしまった。また欲しくなったら泣くだろうと思い、雪美は赤子を揺り籠に戻すことにする。
 外を見ると、静かに夕闇が押し迫りつつあった。


4 :蒼幻 :2009/09/15(火) 07:20:43 ID:tcz3sknm

★ (2/5)



 雨が降りそうで降らないどっちつかずの天候に雪美はやきもきさせられていた。
 いくら自分の享楽のために外出している良人でも、冷たい晩秋の雨に降られれば、風邪をひいて体調を崩してしまうかもしれない。そんなことを心配する自分は、つくづく夫の妻なんだな、と認識する雪美だった。
 湯豆腐は好評だった。タレを数種類用意することで、味に飽きが来ないという利点がある。源一は自身が温かいものを食べたいといったこともあり、御飯をほとんど食べず、湯の中に沈んでいる豆腐をつぎつぎにすくって口の中へ抛りこんだ。
 姑の千津はもっと精のつくものを食べたいといったが、それには源一が、明日そういうメニューを作れば済む話じゃないか、と告げ、食卓には一瞬冷たい空気が走った。それでも、快適なストーブの温かさと食べているものの熱気とで身体はほかほかと温まり、こわばりかけた口も軽くなって、食べ終わるころにはいつになく会話が弾んでいた。
「雪美さん、真は私たちにとっても初孫なんだから、しっかり育ててやって頂戴ね」千津がそんなことを云ってよこす。「一家五人この家で何不自由なく暮らせるように、と思ってます。いまはほとんどをお祖父さんの収入で賄ってるんだから、あなたたち夫婦にとってはそれほど負担になっていないでしょう。康治はああですけど、雪美さんからもしっかりと云ってやって、仕事を見つけるように説得してくださいね。あとには真のような子供が続くんですから……」
 千津はそう云うと、口をつぐみ、雪美が入れた温かい番茶を一口すすった。
 雪美が覗きこむと、土鍋の中には三切れほどしか湯豆腐が残っていなかった。これは夫が帰って来たときのために、もう半丁ほど用意しておいたほうがいいな、と思う雪美だったが、それはあとにして、いまはお義母さんとの話を優先すべきだと考えた。
 この村崎家では、食事中にテレビを見る習慣はなかった。
 いつも静かな環境で食事を済ませ、家人がすることをし終わった後、本当にやることがなくなってから一時間程度電源を入れるというのが通例になっている。テレビをつけてしまうと、それに集中するあまり、ほかのことが疎かになってしまうという弊害を思ってのことだった。
 そんな村崎家では自然と家族との会話が時間を過ごすことのメインになる。
「雪美さん、康治があんなことになったのには、あなたにも責任があるということを忘れないでくださいね」
「はい」雪美は力なく返事する。
「なんといっても、働き盛りの康治が前の仕事を辞めた原因は、家族に向ける愛情が希薄になったからだと思うんです。妊娠がわかってこれからというときに、あなたは子宮から出血して長期入院。その間、あの子はなにも不平を云わずに朝出勤して夜遅くに帰って来る生活を続けてましたけど、やっぱりハードな仕事ですからね。妻がいない家に帰って来る事は、相当な負担だったと思います。奥さん一人のことで仕事までやめてしまうなんて、とはこのお祖父さんの言葉ですけどね、でも、やっぱり気心の知れた妻が傍にいないことには、男だって仕事を頑張っていけないのは十分想像の範疇じゃないですか! あなたを責めても詮無いことはわかってますが、でもやっぱり責任だけはしっかりと持って過ごして頂きたい。あの康治を変えられるのは母親の叱言じゃない、妻の深い愛だと思うんです」
 千津の云うことは理屈が通っていて否やはない。しかし妊娠中の入院なんて云う不可抗力の事態を責められても、それはお門違いではないかと云う気がしないでもない。そう云う面で、姑の独善的な意見は横暴だとも思えてくる雪美だったが、それでも、義母の云うことは一理どころか、しっかりとした理屈の通じたものであると感じられるので、その言葉はしっかりと受け止めることにした。
「私もこのままではいけないと思ってます。少しずつでも康治さんと話し合って、今後のことを決めたいと思います」
 雪美はしっかりとした語調で云うと、千津の顔を見て真摯な態度をしてみせた。
「雪美さん、私もこう云うことはあまり云いたくないんです。嫁だから、姑だから、と云うのではいがみあうだけの喧嘩になってしまうのはわかります。私はお祖父さんが次男だったから、姑をもたず、家庭は一人で切り盛りしてきました。だから、姑という存在がどんなものであるのか、その正確なところは把握できてないし、一生かかってもわからないのではないかと思います。でも、雪美さんは長男の嫁として嫁いできたんです。だから、そのことは重く受け止めて、この家でどう云う風に生活していくかはあなた自身が決めていかなければならないことだと思います。私もあなたが憎くてこんなことを云ってるのではないですよ……。ただ、しっかりとした視野を持って行動しないと、すぐに荒が見えてしまうと思うんです。私から見たら、あなたはまだまだ青い。若輩者と云われても仕方ないほどです。でも、良くなる素質は持ってます。そこを伸ばしていってほしい。私もそれを願ってるんです」
 雪美は突然そんなことを云われて戸惑った。
 やはり見るところはしっかり見てくださっているんだと、これまで他人行儀のように思われていた姑の態度に親しみを覚えはじめていた。
「お義母さん……」雪美は目をうっすらとうるませた。
 孤独だと思っていたこの家の中で、実はしっかりと家族の愛情に包まれていたんだと思える瞬間だった。
「頑張っていきましょう」と千津は雪美の心中を察したのか、励ますように声をかけた。「それにしても、やっぱり康治は遅いねえ。銀玉を目で追うのがそんなに楽しいのかねえ……。私にはわからんことだわ」
「わしにもわからん」それまで傍観を決め込んでいた源一が口をはさむ。
「収支はとんとんらしいです。大勝ちもしないし、大負けもしない。なら、競馬場やパチンコ店で費やす時間が無駄だという考えにならないのがよくわからないんですよね」
「ギャンブルをする人間としない人間の考え方の相違ってやつだな。そんなところで時間を費やすくらいなら、本の一冊でも読んでた方がどれほど有益かしれんのに」源一は苦笑した。それからこんなことを云いはじめる。「康治は子供の頃は秀才と云う誉れもあったんだがなあ」
「秀才の誉れですか……」と雪美は声をあげる。「そういえば、大学でもかなり優秀だったって同級生が話してるのを聞いてました。私は同じ学科ではあったけど、在学中は康治さんと話したことはなかったので詳しいことは知らないんですが、どうも成績優秀で、評価は優や良ばかりだったとか」
「勉強だけは抜群にできる子だった」
「そうみたいです。勉強だけかどうかはわかりませんけど……」
「真にもその風が伝わっていればいいんだがのう」
「きっと大丈夫ですよ」雪美は請けあった。
 源一はふっと頬を緩めると、柔らかい笑みを見せた。
「でも、学校の勉強だけ出来ても社会性が欠如しているととんでもないことになるという典型が、いま目の前に現れているんじゃないかねえ」千津は辛辣な言葉をかけた。
 雪美はそろそろと時計を見た。
 七時半、お風呂に入るには早い時間で、こうして家族で食卓を囲んで団欒中だが、やはり夫がいないのはどことなく落ち着かない。この家庭自体が不完全な物であるような気がするのである。良人も、もっと家族との会話を心がけてくれれば孤独感を覚えなくて済むのに……。
 雪美は席を立つと、食事をした皿をかたしにかかった。
 義母は頬杖をついて義父と何事か語り合っている。年金はどのくらい貰えそうだとか、市民税が値上がりしたとか、お金に関することのようだった。雪美も車のローンなどの支払いのことに意識をやった。いまのままでは、車は下取りに出した方がいいんじゃないか、とかそのようなことを。


 夫が帰ってきたのは十時を過ぎてからである。
 玄関に夫を迎えに出て戻って来た雪美は、夫のために冷えきった土鍋を温めようとした。
「ああ、雪美」と夫の康治は慌てて声をかける。
「どうしました?」
 雪美が怪訝そうに訊ねると康治は、「駅前のラーメン屋で食事済ませてきたからもういいよ」と告げ、ソファに深く腰掛けた。
「そうですか……」と雪美は云い、折角夫のために豆腐を追加しておいたのに、それがすべて無駄になってしまったことを思い、憂鬱な気分になった。
 雪美は夫を観察するように眺めた。
 白いセーターに紺のチノパン、中にはシャツを着ているけれど、どことなく寒そうな格好ではあった。身長は一八〇センチを超え、ひょろりとした体型、もともと髭は薄い方なので三日に一回くらいしか剃刀を当てない。しかし帰ってきた夫の口元や顎にはうっすらと産毛のように髭が目立ちつつあった。
「そんな、人のことじろじろ見て、どうした?」と夫は訊ねて来る。
「ううん、ちょっと髭が目立ってるなーと思ってね」
「そうか……」康治は関心がなさそうである。
「今日は勝ったんですか?」雪美は突っ込んで訊ねる。
「いや、ちょっと負けたかなっていうくらい……」
 雪美は道楽をしてきたこの夫のことを責める気持ちはこれっぽっちもなかったが、それでも、少しは家庭のことを振り返ってほしいと思い、こんなことを口にした。
「やっぱり、家族もいるんだし、ギャンブルはもう少し控えてもらわないと困ります」
 康治はいつになくきつい妻の言葉に身をすくませる。
「困るって、実際、何に困るんだよ?」彼はむきになって云う。
「何か頼りたいって思うときでも、傍に居てくれないから、いつも不便を感じてるんですよ」
 妻が遠まわしに云っているのは、賭け事をもう少し控えてくれることを願っていると云うことだと、康治は気づかない。もともと自分のことに時間を費やし、お金を費やすことを考えている人間なのだ。そんな人間を言葉一つで改心させようとしても、それは無駄と云うものである。
「まあ、風呂入って来るわ」
 夫は逃げだすようにそそくさとその場を離れた。
 雪美は一人、部屋に残される。
 彼女は部屋で眠っているであろう真のことを考える。
 真はいったいどんな人生を歩むのだろう。未来へ繋がる希望として、我が子の将来を思い描く。子の幸せを願わない親なんていない。でもどうなのか。康治にはそう云う感情はあるんだろうか? 普段の態度を見ていても、あまりそう云うことに関心がなさそうな夫である。ああ……と雪美は嘆息する。考えても仕方のないことはあまりにも多すぎる。一言夫に訊けばそれで済む話だったが、それでも、雪美にはその一言がどうにも切り出せない。大きな審判へのきっかけのような気がしてくるのだ。
 雪美はリビングに置いてある本棚から一冊をとり出した。
 それは義父の収集している本の一冊だった。
 義父はかなりの読書好きであるため、家には様々な本を取りそろえていた。読むよりも集める方が主体で、家にある本の六割方しかまだ読めていないとのことだった。死ぬまでに何冊の本を読むことができるか楽しみだ、という源一は、息子の嫁である雪美にも、暇があれば、ここにある本は自由に読んでいいと云ってくれていた。
 雪美が手にした本は近代文学の一冊だった。
『焔』という厳めしいタイトルがついている。
 作者名は聞いたことがなかった。
 雪美は最前夫が座っていたソファに座り、最初のページからじっくりと読んでいく。真新しい紙とインクの匂いがする。彼女はこう云う時間の過ごし方が好きだった。子育てに追われて自分の時間がなかなかとれない日中と対照的に、この我が子が寝静まって夫もいないと云う時間は無上のときであるように思えてくる。
 すると突然リビングの扉が開き、「雪美さん……」と千津が声をかけてきた。
「どうしたんですか?」と驚いて声をあげる雪美。
「明日、朝の七時から壮年会の奉仕作業で地域の清掃の当番が当たってるから、もし起きてこなかったら、起こして頂戴な」
 雪美は千津がそう云うのを聞き、怪訝に思った。
 それでも、「わかりました」と答えた雪美は明日の朝、そのことを忘れないようにと、頭の片隅にインプットした。
「頼むわね」と千津が云う。
「はい」
 扉は閉められ、もとのように静寂が部屋を押し包んだ。
 雪美は膝の上の本に意識を戻したが、先のように集中して読めなくなっていた。とても微妙な心の差異である。人の目には見えないほんの些細なことが、こう云う微妙なことを左右しているものである。雪美はあの恍惚とした時間がもう戻ってこないことを予感した。あれほど心地よかった時間はほんの一時のもので、それを逃してしまっては、人の身である自分には任意の時間にああ云う心根を持つことはできないのである、と意識させられた。
 雪美は外の物音に意識を集中してみる。
 密閉性の高い空間であるこの部屋からは、外の音と云っては、遠くの方で時折鳴らされる車のクラクションとか、近くの踏切の音とか、そう云うものが、冷たい風に乗ってかろうじて聞えてくる程度であった。
「雪美……」と背後から声がかかる。
 部屋の開けられる音が静かだったのか、聞こえるはずの音に鈍感になっていたのか、雪美は背後に康治がいたことに気づかなくて驚いた。
「どうしたんですか?」と雪美はなんとか体裁を保って訊ねる。
 康治は風呂上がりなのにひどく青ざめた表情をしていて、普通ではなかった。
 雪美は不安になった。
「あのな……」と夫は云いかけたが、すぐに口を閉ざして、その続きを告げるのをためらう様子だった。
「まあ、こっちに来て座ってください」と雪美は夫の手をとって、彼を向いのソファに腰かけさせた。
「どうしたの?」と改めて雪美は訊ねる。
「実はな……」と康治は言いにくそうである。
「どうしたの?」と雪美は再び訊ねる。
「何も言わずに、二十万貸してほしい」
「二十万!?」と雪美はその金額に驚いた。「いったいどうして?」
「明日、競馬の大穴で確実なのがあるんだ。それに全額賭けたい」
 雪美は驚きよりも呆れが先行し、夫の非現実的な思考回路に落胆の思いを隠せなかった。
「何言ってるの……二十万なんて大金、用意出来るわけないでしょう。それに、競馬なんて時の運が左右するものに賭けるなんて、本当にどうかしてるわ」
「そう云われるのは覚悟してたんだ。でも、今回は確実なんだ。だから、何も云わずにお金を貸してほしい……」
「そう云うのは自分の責任でやるべきよ。まだ車のローンも残ってるんだし、いずれはこの家を私たちの収入で賄っていかないといけないんですよ。それを分かってて、そんなことを云ってるんですか?」
「だから、今回お金を賭けて配当金が得られれば、相当な金額を作ることができるんだよ」
「そんな投機みたいなことできません……しかも負ければ全額没収でしょう? 悔やんでも悔やみきれないじゃない」雪美は夫の言葉をまったく受け入れなかった。反対するときはがつんといかないと癖になる。そう思う雪美だった。


5 :蒼幻 :2009/09/17(木) 07:19:42 ID:tcz3sknm

★ (3/5)



 肌を刺すように空気が冷たく凍えている。もう冬に近い十一月の雨。
 夫の康治は日曜日の落胆から立ち直れないまま、駅前をうろついてくると云って、朝から外に出ていた。
 日曜日は康治が朝からまるで駄々っ子のようにごねていた。雪美は今日が「菊花賞」の当日に当たっていることを朝のニュースで知った。一緒に見ていた夫に、今日賭けたいのはこのレースなのか、と尋ねたが、夫は、そうではなくて、その二つ前の、五歳以上の馬の走る一五〇〇万下のダートのレースだと白状した。雪美は菊花賞なら大きなレースだし、夢もあることでお金を捻出してもいいと云う気持ちに傾いていたが、格下のレースだと聞かされて気持ちが萎えてしまった。夫はそれから火が付いたように、自分の情報の確実性を主張して、妻に迫った。しかし、雪美は、甘い顔をするとなし崩し的に堕落していきそうな夫の姿をそこに見て、強く反対したのだった。
 雪美は時間になると、テレビの中継で夫の云ったレースを見た。
 夫は11と16と17の三つ巴を主張していた。
 複勝で買っても一〇倍にはなると云ってはばからなかった。
 もしお金ができれば、連勝のそれぞれに六万三千円を賭けて勝負に出るつもりだと云っていたが、レースは一番人気の五番の馬が力走し、配当は手堅く一番人気の5‐8という結果に終わった。夫はそのレースの結果を見て顔面蒼白になって云った。
「まさか、こんなことになるなんて……。雪美、すまん」
 雪美は金を出さなくて良かったという気持ちだけで、夫を責める気持ちは微塵も持ち合わせていなかった。だいたいが話がうますぎるのである。もしかすると、夫は競馬場からの帰り道、路上で台を拵えて自論を力説する的屋の意見をそのまま受け入れて、こんなことを言い出したのではないか? 雪美はそう思った。
「判らんもんだな……俺はこれしかないと思いこんでたのに、実際に勝負が始まってみると、自分の思惑なんてまったく価値のないもので、自分を置き去りにしたところで勝負が決してる。俺は決して中心じゃないんだ。賭け事をしてると、自分を錯覚するよ……。俺が渦中にいて、すべてを取り仕切ってるような気分になる」
 雪美は夫が今回のことに強い衝撃を受けていることを知った。
 云うなら今を置いて他にない、と雪美は考えた。
「康治さん……私、思うんですけど、賭け事ってそんなに魅力的なんですか?」
「やってみると、無限の面白さがある……」
「でも、賭け事に纏いつく黒い靄のような悪弊が、人の心までどす黒いものに変えてしまうことってあると思いませんか?」
「なんか、話が抽象的だな……」
「確かに抽象的かも知れません。でも、ギャンブルは一時の繁栄しかもたらさない気がします。だって、ギャンブルにはテラ銭ってものがありますよね。で、賭ければ賭けるほど、テラ銭を主催者に持っていかれるんだから、試行を繰り返せば繰り返すほど、そのテラ銭の分だけ損する計算になるじゃないですか。結局、損をする計画しか立たないんですよ」
「それは賭け事をする人間なら、みんな承知してることさ」康治はわかりきったことを告げるように、苦り切った表情をして云った。「そのテラ銭をとられる以上にボロ勝ちして、勝ち逃げすることを夢見てるんだ」
「失敗する確率の方が高いじゃないですか」雪美は取りすがるように云う。
「成功する確率もゼロではないよ。夢を追いかけないでどうするんだ……」
 康治が夢と云う言葉を口にした時、その〈夢〉は、昨日、義父が口にした〈ビジョン〉というものと対極にある言葉だと思わされた。それは雪美の頭の中に雷光のように閃いた思いだった。どうにかしないと夫が駄目になってしまう、そんな気がした。
 刹那的とでもいうのだろうか。一時開いては、ぱっと散っていく花火のように、あるいは、その時だけ楽しければいいとするような、そんな心根だと雪美には思われた。
 ギャンブルは身を滅ぼすということを意識せずに、ただ表層、上っ面だけの魅力にひかれて、悪弊に侵食されていく堕落者。自分から動いていると錯覚させられ、その実、人に踊らされ続けることになるのだということに気づかない、視野の狭さ。雪美は良人があまりにも愚かで、どうして学生時代秀才と云われていた人物がこんな単純な人生の陥穽を見破れないのだろう、と不思議に思った。しかし、なまじ優秀であるだけに、自分は他人とは違うという意識に突き動かされて、一発当てようとしているのかもしれない、と雪美は判断した。
「私、賭け事は次第に身を滅ぼしていく悪魔の業だと思います」雪美は思っていることを口にする。
「女にはわからんよ」
 康治は半ば蔑むような顔つきを一瞬見せると、そう云い放った。
「私のことをどう思ってくれようと、構いません。でも、あなたのことを心配している者がここにいることを忘れないでください。このままの生活を続けていれば、いずれ後悔する日がやって来ますよ」
「ふん」鼻を鳴らすと、彼は「出てくる」と云って、外へ行ってしまった。
 また今日も夫婦の揃わない三人だけの夕食になるのか、と雪美は考えた。
 良人ももう少し、自分のことを考えてくれれば……と思う雪美だった。
「康治はまたいつものやつかな?」
 リビングに入ってきた源一は、真にお乳をあげて一段落ついていた雪美に声をかけた。
「そうですね、たぶん、そうでしょう」雪美は力なく答える。
「いったい、誰に似たのか……」
「なかなか難しいですね」雪美は夫の強情な態度に弱らされていたが、そのことを義父に告げたものかどうか考えあぐねていた。
「まあ、なかなか思うようにはいかんよ」と源一は雪美を励ます。
 雪美が何も云わずに黙っているのを見て源一は気を遣ったのか、「またあとで」と云って部屋を後にした。
 雪美はこのまま考えていても何も良い案は浮んで来ない気がしたので、音楽をかけることにした。オーディオは夫婦の寝室にしかなかったので、DVDレコーダーにCDをセットして、テレビで音楽を聴くことにした。タイトルはモーツアルトのピアノ協奏曲。そして昨日から読みはじめていた『焔』を本棚から取り出すと、ソファに腰掛けて、ゆっくりと活字を追って行った。それは抒情的で感応的な文体の小説だった。近代ということで、いまではほとんど用いられない複雑な言い回しや、凝った表現などで全体が彩られてあった。その時代にあっては前衛的なつくりだったのだろう、いま読んでも新鮮な発見があるし、時代を経たことによる古びた印象も少なかった。奥付を見ると、初版発行年は一九四七年で、戦後間もなくだったことがわかる。その頃から、こんなにきれいな日本語を扱う作家がいたのかと思うと、雪美は大きな感動を覚えた。
 雪美はしばらく本から顔を上げ、ゆっくりとしたメロディーに気持ちが揺られて、昔の、学生時代のことを思い返し、あの頃は、独特の時間の流れがあったなと振り返った。夫の康治とはいまでこそ夫婦だったが、大学のころは、一言も話したことがなかった。雪美も康治も文化系サークルだったが――康治は演劇サークル、雪美は文芸サークルだった――、互いに交流はなく、ただクラスでときどき顔を見合わせる程度で、挨拶すらしたことがなかったのである。それが卒業して、一年ほど経った頃に、同窓会がもよおされて、二人の共通の友達が二次会を主催した時に互いに言葉を交わしたのだった。話してみると、康治は明るくて、ウィットに富んでいて、他の異性にはない魅力が感じられた。交際は雪美の方から云いだそうとしていたのだが、奇しくも、康治も同じことを考えていたらしく、ほぼ同時に互いの気持ちを打ち明け、無事、付き合うことになった。いまの雪美にはそのことを後悔する気持ちはなかった、とにかく、その一連の流れに関しては。ただ、いまのこの状況を予感できなかった自分を恨んでいたことは確かである。どうして夫は自分の云うことを分かってくれないんだろう。後悔は身を苛む悪虫である。


 高校・大学と文芸サークルだった。
 そのおかげで自分の視野は広がり、未知のものを習得する喜びを青春の時期に体験できたことは、現在二十七歳の雪美にはたいへん貴重なことだった。サークルでは自分でもさまざまな文章を作り、会報や同人誌紛いのものを作って校外のフリーマーケットで販売することまでやってのけた。もちろん、自分一人の名義でそんなことをする勇気はなく、販売したのは総勢十人によるオムニバスの短編集ということであったのだが。
 高校のサークル内で仲が良かったのは、同性だけではなかった。
 雪美は高校生のころ、はじめて異性と付き合った。
 初体験もその男性とである。
「雪美さん、僕と付き合いませんか?」
 放課後、そんな言葉を唐突にかけてきたサークルの男の子は、クラスでは学級委員をしているという一つ年下の男の子で、名を志田勝洋[しだかつひろ]と云った。
 雪美はそれまで色恋沙汰は自分とはまったく関係のないことと高をくくっていたところがあったから、その告白に面喰ってしまった。「ちょっと待って」と告げると、それから三日間、返事を先延ばしした。それでも、サークルでは常に彼と顔を合わせていたのだから、勝洋にしてみれば、針のむしろに座らされているような感覚だったんだろうな、と現在の雪美は想像した。
 四日目、雪美は意を決して、勝洋に返事をした。
 ひとこと。「よろしくお願いします」、と。
 何度かデートを繰り返し、男女の関係も結び、一年が過ぎた進学期。
 一歳年上の雪美は地元の静岡から、東京の大学に進学を決めた。
 一般の受験を経ない推薦入試だった。
 雪美は成績は優秀だったし、授業態度もよかったので、教師の間でも評判が良かった。当然のように推薦枠を取得し、トントン拍子に合格を決めたのだった。しかし、携帯電話がようやく一般向けに販売され始めた時期で、雪美が大学に進学してから、互いに連絡を取り合うことが費用の面でも難しくなってしまい、やがて、気持ちが離れて行った。勝洋の方は新しい彼女の存在を匂わせたし、雪美の方は学業に専念したいという気持ちが強くなっていた。二人が別れたのは当然の帰結だった。
 もしあのとき別れずにしぶとく関係を保とうとしていたら、いまとは違う人生が開けていたのかな? と雪美はしみじみ思う。でも、そんなことを考えても仕方ない。いまは目の前にあるひとつひとつをクリアしていくことに気を払うべきだ。ふと、来月の記念日のことが彼女の頭に思い浮かんだ。
 結婚記念日である12月24日。クリスマス・イヴ。
 年末の忙しい時期に結婚式を執り行った三年前を思い出す。
 大学を出てから二年。郷里の母からは早すぎると云われたが、気持ちの乗った勢いは誰にも止めることができなかった。結婚生活に向ける明確なシミュレートはしていなかったが、嫁と姑の関係も少ししこりがあったが、それでもいま、自分は幸せだという思いでいっぱいだった。いまでは真と云う子供も出来たし、男の子ということで姑も満足してくれている。女は男子を産まなくては話にならない、と云う昔堅気の強い想いを持っていた姑だったから、真を生んだ時は、よくやった、とまるで我がことのように喜んでくれた。
 そのときの姑の顔がいまでも忘れられない。
 結婚生活も来月でもう四年目になるのか、と雪美は過去を思い返す。
 初めてこの家に泊まったときは、枕が合わなくて、なかなか寝付けなかった――。
 初めて夕食を作ったときは、味付けが濃くなってしまって、家族に不快な思いをさせてしまった――。
 初めて一家団欒で話した話題は、姑の趣味である生け花の魅力についてだった――。
 そんなことどもが、雪美の頭の中で何度も思い返された。
 初めて、初めて、初めて――。
 そんなことを考えていると、CDが二周目に入った。
 雪美は止めるか、別のCDにするか、迷ったが、これという意思を固めることができずに、二周目になったCDを聴き始めていた。
 去年の結婚記念日はネクタイだったけど、もう仕事についていない夫にカフスボタンとか、ブランド物のハンカチとか贈るのは、嫌味に思われそうだし……と雪美は考えた。こう云うことはいったんドツボにはまりだすと、なかなか決めかねるもので、雪美はふだんはさっぱりと物事に明確な答えを出す方であるが、ほんの僅かであれ、優柔不断な性格もあるので、こういうときにかたまってしまうと、何時間も、何日も悩んでしまうことになる。
 雪美は自分がまたいつもの陥穽にはまってしまったことに気づく。
 こう云うときは気分転換だ、と思いなし、雪美は膝の上に載せていた本を再び開いて、悩んでいたことをきっぱり忘れ、それに集中し出した。
 しばらくして真が目を覚まして呱々の声をあげた。
 火のついたような泣き方に雪美は面喰ってしまう。
 おむつを替え、しばらくすると、赤子は泣き歇んだ。
 ちょっとしたことが不快に感じられて、赤子はむずかる。
 雪美は前から二時間が経ったことを思い、いつもどおりの姿勢で真に母乳を飲ませる。
 生れたときよりも若干重くなった我が子の成長を思って、雪美は幸せな気持ちに包まれる。しかし、まだまだこれから大きくなっていくのであって、まだお食い初めも始めていない赤子なのだ、と意識する。こんな小さな赤子が、やがてはいはいを覚えて、つかまり立ちを覚えて、ひとりで歩くようになり、自分と変わらない一人前の人間になるのだと思うと、とてもそこまで想像が及ばない気がして、不思議な気分になった。
「雪美さん」と背後から声がかかった。
 声で分かる。
 義母の千津だ。
「朝はありがとうね」彼女は感謝の声をかけた。
「ああ、いえいえ、お気になさらず」と雪美は遠慮する。
 千津の感謝の言葉は、昨日、眠る前に雪美に頼んでいた、朝、起こしてほしいと云ったことについてだった。姑は今日の朝、時間が来ても起きてこなかった。どうやら、昨日の夜、用事があって、遅くまで起きていたかららしい。義父母の部屋に姑を起こしに行った時、机の上にさまざまな紙が置かれてあったから、手紙を書かれていたか、何か趣味の書き物をされていたんだな、とわかった。
 結局、雪美が起こしたことで、千津は時間ぎりぎりながらも、地元の清掃作業に間に合ったらしく、そのことで礼の言葉を述べたのだった。
「これ買ってきたから、よかったら食べて……」と千津は告げ、長細い紙袋を雪美に手渡した。
 そこには上等のカステラが一本入っていた。
 どうやら、抹茶カステラのようである。
「こんな上等なものを……悪いですよ」と雪美は腰が引けた。
「いやいや、感謝の気持ちだから……」
 雪美は少し考えてから、こう提案した。
「なら、みんなで食べましょうよ。お義父さん、お義母さん、康治さん、私。夕食が終ってお夜食代わりに食べるのもいいですね」
「そうね……あったかいお茶を啜りながらって云うのがいいわね」と姑も賛成する。「私は部屋に戻るけど、何かあるかしら? よかったら聞くけど……」
「来月、一度、家族で食事に出かけませんか?」
 雪美は唐突に云った。唐突と云うよりも、もともとそう云う気持ちはあったのだが、それを誰にも話さず、計画として練っていたのであった。
「いいわね」と千津。「でも、真はどうするの? 乳幼児なんてお店に連れてけないでしょう」
「大丈夫です。頼りにできる人がご近所にいらっしゃいますから」雪美は自信満々だった。
 日曜日の夕刻。
 緩慢な時間の過ぎていく時刻のことである。


6 :蒼幻 :2009/09/19(土) 13:34:11 ID:tcz3sknm

★ (4/5)



 単に冬の一日と云うにはあまりにも有名な日。
 康治は朝から外出して家にいなかったが、雪美は、まさか今日まで帰りが遅くなることはあるまい、と考えた。夫へのプレゼントはすでに選んであった。もともとクリスマスシーズンということで、プレゼントするための品物は百貨店に行けばいくらでも見つかった。しかし、この時期は子供にとってとても大切な時期であるので、自分の傍から離すことは避けたかった。それでも、やはり赤ん坊を連れての外出は何かと不便だろうと云うことで、義母の千津が子守り役を買って出てくれたのだった。
「雪美さん、プレゼントは決まりましたか?」と留守番をしていた千津は帰ってきた雪美に尋ねたものだった。
「ええ、いいものがありました……」雪美は満足げな笑みを顔に浮かべる。
 それから一週間、今日はクリスマス・イヴだった。
 夫はこう云う日だからこそ、よく出るんだと云って出て行ったから、間違いなくパチンコだろう。相変わらず、仕事を探している様子もなく、雪美は不安に駆られていた。
「雪美さん、今日はゆっくりしてもらっていいわ」千津はリビングに入って来ると唐突に云った。
「いえ、私やりますよ。当番に当たってますし、それにクリスマス用の料理なら、私が作った方がいいかと思いますし」
「いえいえ、作るんじゃなくって、実は、雪美さんに内緒で、洋食の仕出し屋さんにクリスマスメニューを頼んであるんですよ」
 それは意外な言葉だった。
 もともとそんなに裕福でないこの家でそんなことをするのは例外中の例外で、雪美が嫁に来てから初めてのことだった。
「お義母さん……いったいどういうことなんですか?」
 千津は口元を緩めて笑みをこぼし、次のように云った。「私たち夫婦があなたたちにしてやれるクリスマスプレゼントですよ。こういうことでもしないと、日頃の感謝の気持ちを表すことはできそうにないってお祖父さんが云ったんで、用意させてもらったって云うわけ」
「楽しみです」と雪美は目を見開いて感動の気持ちを表す。
「雪美さんに喜んでもらいたくてね。それに、康治にも……」
「あの人もきっと喜んでくださいますわ。でも――」
 雪美は語尾を引き伸ばして、懸念していることを告げた。
「でも、康治さん、今日、ちゃんと夕食に間に合うように帰って来てくれるかしら?」
「大丈夫でしょう。あの子もそこまで馬鹿じゃないと信じてます。可愛い奥さんがいて、愛すべき息子がいて、温かい家庭があって、今日みたいにクリスマスなんて云う一年に一度しかないイベントをすっぽかすなんて、そんな不義理をするような子じゃないと信じてますよ」
「――そうですか、そうですよね」雪美は無理から義母の言葉を信じ込むように、心の中で繰り返した。
「雪美さんは不満がたまることはないですか?」千津は唐突に質問の内容を変えてきた。
「不満ですか……」
 雪美は自分のことを振り返ってみる。しかし、これといって不満はないことに気づき、このように答える。
「不満なんて考えてないです。真剣に考えれば、そう云うことを思いはじめるきっかけが見つかるかもしれませんけど、いまは真のこともありますし、休日と云えば毎日ギャンブル三昧の夫のことを恨みたい気持ちとか、そう云うの、不思議とないんですよね。でも、この生活が何年も続くようだったら、不満がたまって爆発することもあるかも知れません。でも、今のところは、大丈夫です」
 雪美は落ち着いた調子でそのように告げた。
 千津は安堵するようにひとつ息をはくと、目に涙をうるませながら、次のように答えた。
「やっぱりお祖父さんの云うとおり、雪美さんは出来た人だねえ。私もあんたみたいな人が嫁に来てくれて、よかったと思ってるよ」
 雪美は千津のその言葉に胸がいっぱいになった。
「そんなこと云っていただけるなんて、私は果報者です」
「いえいえ、人徳ですよ、雪美さんのね」
 雪美は義父の源一にも同じことを云われたことを思い出した。
 それから夕食の時間までに仕出し屋から連絡があって、食事が届いた。全部で五ケースにもなる豪勢なものだった。大皿二枚、中皿三枚、それから取り皿や調味料などのケースである。
 雪美は六時になる少し前にいつも食事をしているテーブルにそれらのメニューを載せ始めた。大人四人ということで、それなりのボリュームを持っていた。
「美味そうだなあ」と様子を見にきた源一は云った。
 雪美は顔をほころばせた。「いまから楽しみですね」
「康治は帰ってくるかな?」
「帰ってくるでしょう」雪美の隣にいた千津が口をはさむ。
「帰ってこなかったら、どうしましょうか?」雪美はくすくす笑う。
「ごはん抜き」千津はばっさりと切り捨てる。
「さすが、お義母さん」雪美はまた笑った。

 しかし、八時になっても康治は帰って来なかった。時間だけが刻々と過ぎ、雪美はこれ以上待つのも悪いし、先に食べてください、と義父母夫婦に告げた。
 源一と千津もそう云われて食べないのは気まずいと感じたのか、「それなら、頂きます」と云い、料理に箸をつけはじめた。雪美は今日のメニューで楽しみだったのはカニクリームコロッケだったので、千津がそれを皿にとり、小さく割って口に運ぶのを見ると、ぐぐーっと腹がなりそうな予感を覚えた。しかし、なりはしなかった。
「家族みんな揃って食べたかったのになあ」源一は残念そうに雪美に告げた。
「そうですね。でも、思い通りにいかないのが人生ですから」雪美はわかったようなことを云う。
「いや、これも康治に分別があってしっかりしてさえいれば、なんの問題もないはずのことさ」
「いっそ、私もパチンコが出来たら、よかったんですけどねー」
 雪美は悲しげに睫毛を伏せながら、そんなことを云った。
「いやいや、雪美さんはいまのままの方がいいと思う。悪いことに染まるのは一瞬なんだから、決して気を抜いてはいけないよ」
「そうですね」
 雪美は席を立って、揺り籠に睡っている真の顔を眺めに近くに寄った。
 真はぎゅっと目をつむって、ときどき鼻孔を広げたり狭めたりして呼吸をしている。こんな小さな子にも自分と同じ、心臓が一つ、肺が二つあるのだ。常に子供のことを気遣うことはできなくても、すくすくと育ってくれるだろうことが予感として雪美の胸の裡に生じていた。
「雪美さんももう食べ始めたらどう? どうせ康治は遅いだろうし」姑の千津が声をかけてくれる。
「いえ、もう少し待ってみます。今日は三回目の結婚記念日ですし、特別だって気がしてるので」
「そう……」千津は声の調子を落とし気味に返事する。雪美のことを気遣う態度だったが、雪美は自分たちだけ食べているのも気兼ねしてしまうのだろうな、と義父母夫婦のことを思うのだった。それでも、自分の信念として、今日だけは、夫と一緒の食卓を囲みたいという気持ちがあった。どれだけ時間がかかっても、それは夫婦として、必要最低限しなければならないことだと思っていた。


 結局、夫の康治は十一時になって酔っ払って帰ってきた。
 雪美はそれまで夕食を我慢していたこともあり、さすがに、この夫に対して幾分かの怒りを覚えたのも確かだった。
「パチンコで遅くなるだけならまだしも、どうして飲んできてるんですか?」
 雪美は落ち着いた語調で夫に詰め寄る。
「いや、ちょっとパチンコ店で意気投合して、そのまま酒場に直行したんだ。いいだろう、たまにはこういうのも」
 雪美は呆れていた。
「どうして、こんな……」
 康治は酒臭い息をはきながら、リビングにあるソファに座った。
「そうそう……今日は大勝ちしたんだ。これ渡しとく」
 そう云うと、康治は財布を取り出し、雪美に五万円渡した。
「これは?」と雪美は訊ねる。
「今日、トータルで十万くらい勝ったんだ。それは自由に使ってくれていいよ」
「クリスマスプレゼントってわけね」
 雪美は幾分、気分をやわらげた。
「そうだな」と康治はほほ笑む。
「私からもクリスマスプレゼントがあるのよ」
「ほう」
 雪美はキッチンの戸棚のひとつを開いて、その中から、文庫本くらいのサイズのほぼ正方形の紙の包みを持ち出した。
 手渡された康治は、「これは?」と戸惑っている。
「結婚三周年ですよね。あまり高いものではないですけど、収めてくださいな」
 康治は包装紙を解いて、その中にあるものを見つめた。
「CDか!」康治は嬉しそうである。
 康治はもともと音楽を聴くことを趣味にしていた。しかも聴くのはクラシックからロックまで幅広かった。とはいえ、さすがに演歌や浪曲には手を出していない。
「おっ、『フィガロの結婚』じゃないか! これ欲しかったんだ」
「だろうと思いました。前にそう云うこと話されてたなぁ、と思って。すでに持ってるわけじゃなくって助かりました。想像の範疇でしたが、まだお持ちになられてないんじゃないかと思って買って来たんです。時間のある時に聴いて下さい」
「ありがとう」
 康治は素直にお礼の言葉を述べる。
 しかし、康治は飲んで来たということはもちろん、食事も済ませて来たということなのだろう。雪美はいまでは冷え切った仕出しの総菜をひとりで食べることにした。CDを手にして気を良くした康治は、「少しくらいならまだ入るから」と云って、雪美に同席した。
 康治が帰ってきたのが気配でわかったのか、義父母がリビングに姿を現した。
「康治、あんた、こんな時間まで何してたの?」
 義母の千津が声を荒らげた。
「本当にこの不良息子が! 雪美さんがずっと待ってたっていうのに」
「だって、相手が誘うもんだから、仕方ないじゃないか」
 夫の視線はそのとき、不自然にうろうろと動き廻った。
「酒飲んできたんか?」義母の追及はしつこい。
「ああ」と答える康治。
「もう立派な大人のお前にそんなことを云うのはどうかと思うけど、でも、そろそろ自重したほうがいいんじゃないか? もし調子に乗っていろんなことに手を出してると、そのうち、手痛いしっぺ返しを受けることになりかねない気がするしね」
「気にしすぎだ」
 康治には悪びれた風もない。
「まったく性のないやつだ」義父の源一も声をあげた。
「二人して俺を責めるのか? それは横暴ってやつだと思うよ」
「二人してって、誰でもお前の不行状を見れば、注意の一つもしたくなるってものさ。雪美さん、こう云うときにこそ、しっかりと締めないといけないんですよ」
 千津はしっかりとした語調で云った。
「雪美を焚きつけないでくれ。これ以上、がみがみ云うようだったら、俺はさっさと寝ちまうよ」
「そうかい、そうかい」
 千津はもう一度、息子の方を見ると、やれやれと云う風に肩をすくめ、そして雪美に「私たちは戻りますから」と云いおいて、部屋をあとにした。
「康治さん、なんなら、お風呂入ってきたらどうですか?」
 康治はその言葉を受けて、「なら、そうさせてもらうよ」と云い、着替えを取りに席を立った。
 雪美は一人きりの遅い夕食をとった。
 本当に、どうして自分はこんなに落ち着いているんだろう、と思う。
 夫が好き勝手していて家庭をかえりみないというのに……。
 雪美はゆっくりと思念を凝らす。
 そして、あり得ない想像をしては、考えを振り切るために、何度か頭を振る。
 もっと家族のためにと、傍にいるだけでもいいから、そう云うことをしてくれれば、頼もしいと思えるのに、どうしてギャンブルに時間を費やすのか。なんだか、前時代的な不幸を背負っているような印象を抱く。家庭で内職をする妻と、その僅かばかりの収益を酒とギャンブルに費やす夫、という類型的なものを地で行っているような印象を持つ。
 ――駄目だ、駄目だ、駄目だ、そんなことを考えていると、気を病んでしまいそう、そんな風に思い、雪美は穏やかな気持ちですべてを受け入れようと試みた。
 雪美がお腹いっぱいになったころ、夫の康治が風呂から上がってきた。
「いい湯だった」と康治は云い、雪美は満足げに笑みを浮かべた。
「あなた……私と真のこと、本当に思ってくれてる?」
 その言葉は不意に、意識のフィルターにかけるまえに、すっと口をついて出てしまった。
「藪から棒に何を?」
「いいじゃない、答えてよ」と雪美。「愛してる? 愛してない?」
 ややあって、康治は目をまたきょろきょろと動かして挙動不審な動きをする。しかし、妻に見られていることに気づき、すぐに目を正面に向ける。「愛してるよ。愛してる」
 その言葉はうそ寒い印象があって、雪美は好きになれなかった。確かに言葉尻は甘い響きを持っていたが、その底の方に澱んでいる黒い堆積の存在をまともに見てしまったかのように、雪美はその言葉のうちに秘められた、夫の意思の別の潮流の存在を敏く感じ取った。
 ――夫はなにか隠し事をしている。
 妻の直観と云うやつだった。
 そんな状況に抛りこまれたことなど皆無なのに、瞬間瞬間、そうに違いないと確信できるものは確かにあるのだ。それは女性に備わった、種としての精緻な防衛本能だろう。康治は妻が何かを思い迷っている風なのに気づかない。こう云うとき、男は楽観的すぎるのである。その点、女は感覚的で、自分の本能に従って意思を決定することの愚直さに於いて、及ぶものはない。
 雪美は落ち着いて考える。
 ――いったい、どういうことなのか?
 そんなことを思いつつも、表には出さず、自分の裡に深く蔵する覚悟である。
 夜、久しぶりに寝床で夫と語りあったが、肉体の喜びを得ることはなかった。


7 :蒼幻 :2009/09/21(月) 14:05:28 ID:tcz3sknm

★ (5/5)



 夕方には大掃除が一段落ついた。
 夫は珍しく家にいて、家庭内のことを手伝ってくれていた。
「あなた、ありがとう」と雪美は夫に礼を述べる。
「いつも世話になってる家の中のことだ。こう云うこともたまにはしないと罰が当たるってもんだよ」夫は軽口でそう云うと、ふっと顔をほころばせる。そしてこんなことを続ける。「二人目作らないとな……」
「こんなときに何云ってるんですか……」雪美は顔を上気させる。
 源一と千津も朝から大掃除を手伝ってくれていた。
 あらかた掃除が終わったのか、義父母夫婦も掃除用具をかたしに戻ってきた。
「これで最後ですね」と云い、雪美は外に面しているリビングの窓ガラスを指さした。
「俺がやるよ」と夫は率先して云ってくれた。
「助かります」と雪美は告げる。
「じゃ、お茶の準備させてもらいますね。今日は休憩なしで働いたから、きっとお茶が美味しいですよ」
 雪美はまず茶菓子として、義妹からお歳暮に貰った羊羹を出してきて、それを均等に切った。羊羹は確か、どこかの誰かの作品で、情感豊かに描かれていたなぁ、とそんなことを思い返す。あれはなんという作品だったか――。
「お義父さん」と雪美は多少唐突ではあったが、質問を試みる。
「羊羹のことを詳しく描写した作品があったと思うんですが、何だったか、ご存じないですか?」
 源一が数多くの本を読んでいることを知っていた雪美は、その義父の知識を当てこんで、質問をしてみたのだった。源一はしばらく考えていたが、やがて口を開いた。「それはたぶん、漱石の『草枕』じゃなかったかな……」
「ああ、『草枕』!」
 雪美はその作品を読んだことがあった。
 この家でではなく、学生時代に何度か、読んだタイトルであった。
「羊羹を、漢語をふんだんに用いて飾るように描写するという狙いがあったようだね」
 源一は自身が納得するように、そう云った。
 やがて、康治も窓ふきの作業を終え、道具をかたしにかかった。
「何の話をしてたんだ?」リビングに戻ってきた康治は、一同にそんなことを尋ねる。
「おまえには解るはずもない話だよ」
 源一は冷たくあしらう。
「馬鹿にしてるな?」と康治はむきになった。
 雪美は夫がこんな話をしてもまったく興味を惹かれないであろうことは判っていた。が、少しでもぎくしゃくした二人の間に潤滑油をさすようにあいの手を入れないといけない気がして、雪美は康治に成り行きを説明した。
「なるほど、羊羹の文学的表現について……か」康治は感心する。「で、羊羹って、普通、あんまり漢字で書けないよな。薔薇とか憂鬱とか林檎とかと同じで……」
「そうですね、難しいですもの」雪美は夫の言葉に同調する。
「で、おまえも読んだことあるのか、『草枕』?」康治が訊ねる。
「学生時代にちょっとね」と雪美。
「俺は演劇部だったけど、そう云うのは読まなかったな。近くにあっても読まなかったと思うし……」
「おまえは、子供のころから小説の類はあんまり読まんかったなー」源一は康治の方を見やりながら、そんなことを告げた。
「親父が本好きだから、子供も本好きになるとは限らないってわけさ」と康治は肩をすくめながら雪美に云った。
「自慢することですか」雪美は笑い顔でそう告げる。
 雪美は笑みつつも、お茶を淹れる作業を続ける。
 夫が作業を終えたのを確認してから、急須に茶葉を入れて湯を注ぐ。盆に湯呑を人数分載せて、テーブルに運んでくる。そしてキッチンに戻って、今度は切り分けた羊羹を載せた皿を持って来て、自分も着席する。
 茶を十分蒸らし、適度なところで湯呑に注いでいく。
 黄金いろの美しい緑茶である。
 雪美はそれをそれぞれの目の前に置くと、「頂きましょうか」と云って声をかける。
「そうね、頂きましょう」と千津が率先して云い、羊羹と茶を口にする四人。
「すきっぱらにこの羊羹の甘味は格別だな」と源一が云う。
「すきっぱらって、昼食、あんなに沢山、食されてたじゃありませんか」
 千津は苦笑する。
「いいんだよ、こういうのは雰囲気なんだ」と義父はやり返す。
 お茶の時間は楽しく過ぎていき、やがて、外が暗くなりはじめる。
 云っても、今日は大晦日。
 いつになく気持ちがそわそわして、来たるべき新しい年に期待を寄せる気持ちは、いやがおうにも高まってくる。今年は紅白歌合戦を観るんだろうか、と最近、テレビをほとんど観ていなかった雪美はぼんやりとそんなことを考える。例年は大晦日とはいえ、気持ちを高揚させることもなく、大掃除を終えれば、年越しそばをすすって、外の冷たい空気の中、響いてくる除夜の鐘に耳を澄ませ、〇時になった瞬間に皆で、「あけましておめでとう」を云うくらいのものになっている。今年はどうなるんだろう、と気にする雪美であった。

 元旦はいつもの朝と変わらず、やってきた。
 昨日のうちに門松や注連縄、鏡餅は準備していたので、遺漏なく新年を迎えることができた。
 あけましておめでとうございます、は朝起きてから皆に告げた。
 昨日の夜は、もう皆、早く寝てしまおうということになって、義父母夫婦は早めに眠ってしまったのだった。しかし、旦那である康治はこういうことは子供めいたところもあって、最後まで楽しみを享受したいらしく、寝室に引っ込んでからも、しきりに雪美に話題を振って、寝かせようとしてくれなかったのである。結局、二人でベッドに横になりながら、除夜の鐘を聴き、来年はどんな年になるだろうとそんなことを話したりするのだった。
「今年は仕事を見つけよう」とか「生活に張り合いをだそう」とか、そう云う願いを出す夫でないことはわかっていた。あくまで、自分の楽しみの方を助長させようとする方向にのみ意識を集中させる夫は、精神の奥底まで害毒に侵食されているのではないかと思われるほどであった。
 雪美は正月早々、暗い気分に引きずられることになってしまった。
 このまま夫が改心しなければ、家庭はどうなってしまうのか。
 貯蓄はないより、あったほうがいい。今はまだ余裕があっても、次第に目減りしていく預金残高を見ていると、憂鬱な気分はどんどん深まっていく。
 何も思わない夫と、常に思い悩む妻。
 よくある社会の構図のようで、雪美には心労ばかりが祟って来るのだった。
「去年は真が生まれましたし、これから真のためにもいろいろとしてあげないといけませんね」雪美はそうこぼす。
「そうだな……」
「来年の正月にはもう歩けるようになっているかな」
「そうですね……」
「何はともあれ、楽しみだ」康治はぼそりとつぶやいた。


 夫の康治は家でゆっくりしていたいらしく、外に出ることを極端に嫌がった。
 いつもは家の中にいることを苦にしているような印象なのに、どう云う風の吹き回しだろうと家族三人はいぶかった。
「雪美、お祖父さんと行ってきたらいいだろう?」
 それは初詣のことだった。
 雪美が近くの神明神社に参ろうといったのだが、康治はすげなく断った。気が乗らない、人混みが厭、そこに行くまでが億劫という三拍子が揃っている、と云ってはばからない。雪美は溜息をつくと、「わかったわ。お祖父さんと一緒に行ってきます」と云い、あとはもう当てにしなかった。
 康治は妻に見限られたとわかったあとも、マイペースで三人掛けのソファに横になり、テレビの正月番組をころころとチャンネルを変えながら、鑑賞している。
 神明神社に向かった雪美と源一は会話がそれほど弾まなかったが、それでも、源一が何か思いつめた表情をしているのを見て、もうすぐ、何か云ってくれるのではないか、と雪美は期待した。
 人混みの神社でお賽銭をあげて、正面の大きな鈴を鳴らす。じゃらじゃらと軽い音が響き、気を良くする。それからしばらく屋台の出ている門前町の通りを眺めて、あれこれ物色する。雪美はこうして神社の縁日の雰囲気を味わうのは何箇月ぶりだろう、と思った。それでも、そう云う経験は去年の夏もあったな、と思いかえす。
 あのときは身重で思うままに行かなかったけれど、一万以上の灯籠が吊られた万燈祭はいつ見ても素晴らしく、雪美にとって、この神明神社の万燈祭こそ一番愛してやまない祭りであった。その同じ境内が、今日は初詣の参拝客でいっぱいになっている。
 源一は久しぶりの雪美との外出に気を良くしていたのか、気を遣ったのか、何か買ってあげようと言い、財布のひもを緩めた。
「ありがとうございます」と告げる雪美は、源一に、たこ焼きを二パックとフランクフルトを四本購入してもらった。真を除く四人で分けて食べようと思ったのである。
 通りは人の波に押し寄せられていた。雪美が源一を先頭にして、ひたすら、そのあとをついて行った。人通りが少なくなって石の鳥居をくぐるころになって、源一は話しかけてきた。
「雪美さん……」
「はい」
「息子はあの通り、駄目なやつだけど、どうか、見限らないでやってほしい」
「大丈夫ですよ」と雪美は云う。
「しかし、わしは心配なんですよ。もし、このまま雪美さんに愛想をつかされるようなことにでもなったら、康治はますます堕落の方へ身を沈めることになってしまうんじゃないかとね。いまでも妻と子がいるから、なんとか分別を保っているという感じで、もしその緊張の糸が切れてしまったら――そう、凧は糸が切れたらどこへ飛んでいくかわからないものだし――、その後に待ち受けるのは、到底浮かぶ上がることのできない暗い淵へと沈みこむことくらいです。雪美さん、お願いするよ。なんとか頑張ってほしい」
「大丈夫ですよ」と雪美は再び、源一に云う。「ここを出て、どこへ行くって云うんですか? 私の帰るべきところはあの家しかないんですよ」雪美は苦笑する。
「祖母さんが云ってるんだけどね――」
「はい」
「『この家に嫁に来たというのはひとつの縁なんです。縁は縁でもそれが良縁か悪縁かは当人にはなかなかわからないもの。もし悪因縁がもとでこの家に入ったとしても、神仏は克服できない困難を与えるような無慈悲なことはなされないはず。きっとどこかに解法や改善策があることを知るべきです』というわけさ」
「お義母さんは信心深い方ですから、そういう言葉も口をついて出るんでしょうね」
 源一は雪美のその言葉を聞いて、深く思念する様子だった。
「私、この前帰省したときに親と話したんですが、『嫁に行った以上は、そこに骨をうずめる覚悟で毎日のことをこなすんですよ』と云われました。確かにその通りだと思います。昔の侍じゃないけど、粉骨砕身がんばらせて頂きます」
「嬉しいねえ」と源一は涙を流さずに感動しているような表情をした。
 雪美はまだ温かいフランクフルトの包みを持つ手を右から左に移し、源一と並んで家までの道のりを歩いて行く。
 この辺りは住宅街だったが、都内ということもあって郷里に帰っている人たちが多いのか、普段に比べると車の数も減って、どことなく閑散とした印象すら漂っていた。源一に「お義父さんはずっとこっちなんですよね?」と訊ねると、義父は「ああ」とだけ告げた。
 生粋の江戸っ子ということを鼻にかけず、源一は穏やかな笑みを浮かべつつ、雪美の話を聞いていた。
「この辺りもだいぶ様変わりしたんじゃないですか?」
「そうだねえ。でも基本的な線はわしが子供のころからほとんど何も変ってない印象があるなあ。そりゃ、幼いころは、こんなに住宅が増えるとは思わなかったし、駅前に高級マンションがごろごろ立つなんて、そんな予測をしていた者はわしの身の回りでは皆無だったしな」
「なるほど……」雪美は相槌を打つ。
 源一の話は重要なものだとは思ったが、それ以上、何か関心のあることを聞き出せそうにもなかったので、話題を変えることにした。
「あの……」
「うん?」
「お義父さんは真のこと、どう思われますか? どんな大人になるのか」
「んー、難しいなー。まだ生まれてから二箇月だろう。でも、きっと聡明な子だとは思うよ。誰からも愛される子供になるかは、神のみぞ知ることだろうけど、それよりも、誰かをあったかい気持ちにしてくれる心根の優しい子に育ってくれれば、満足かなあ。頭の良い悪いよりも、そっちのほうが重要な気がするね。若いころは頭の良し悪しで判断しがちだけど、人生の本質はそんなものでは計れないところにあるからね。〈それに柔軟に対応できる者は、それを意識せずに味方につけられるものだけ〉って気がする。雪美さん、真をどうかしっかりと育ててやってほしい。それがわしからの願いだ」
「お義父さん……」
 雪美は目頭をじーんとさせた。
 やがて家に着く。
 玄関を開けると、真の泣き声が耳についた。
 雪美は急いでリビングに行き、千津のあやしていた真を腕[かいな]に抱いてしばらく揺らしながら気を落ち着けてやった。
「お義母さん、大変でしたでしょう。すみません」と雪美は千津に謝る。
「どうすればいいか悩んでたところだったから、帰ってきてくれて助かったわ」
「子供は機嫌を取るのが難しいですよね」
「そうね」千津は苦笑する。
「そういえば、康治さんは?」雪美は一瞬、いやな予感がしたが、思い切って訊ねてみる。
「ああ、二階の部屋でCDを聴くって云ってましたよ。まったく、子供が泣いてるって云うのに、自分は部屋で悠々自適って、どう云う神経をしてるんだか……。雪美さん、ごめんなさいね」
「いえ、お義母さんが謝られることではないですよ」雪美は遠慮する。
 雪美が夫婦の部屋に向かうと、そこではこの前のクリスマスにプレゼントした『フィガロの結婚』を聴いている夫の姿があった。
「やっぱりモーツアルトはいいね」と妻の姿を見つけた康治は嬉しそうに告げる。その表情だけ見ていると、無垢な子供のようにも見えるが、それは裏返してみると、表情の裏に秘める人生経験の深みと云うものがまったく欠如しているということに他ならない。
 雪美はふっとほほ笑み、「下でフランクフルト食べませんか?」と夫に告げた。


8 :蒼幻 :2009/09/23(水) 12:54:29 ID:tcz3sknm

第1部 幼年期 第2章

 


9 :蒼幻 :2009/09/23(水) 12:55:46 ID:tcz3sknm

★ (1/5)



 小さかった子供も時が経てば大きくなる。雪美は子供の成長の早さにはついていけない、と衝撃を受けている。ちょっと前まで乳呑児だったのに、もう一人で歩いて、跳ね回ったりしている真。愛嬌のある眼差しは源一譲りか? それとも雪美の? そんなことを思える幸せというものがあるんだと実感する。いま真は形にならない言葉を口にしながら、自分の世界に入りつつ、歩けることの喜びをかみしめているかに見える。何事かつぶやきながら積み木の置いてある一角に向かい、腰を下ろすと、自分にしかわからない構造物をつくりつつ、喜びの声を上げている。
「おかあさん」真は後ろを振り向くと明るい声で雪美を呼んだ。
「あらあら、どうしたの?」
「たかいのつくって……」真はどこで覚えたのか、甘えたような声を出す。
「自分の身の丈にあったのを作ればいいんだけど、そんなこと云っても、まだわかんないよね」雪美はそう云うと、真のいる前まで行って、作りかけの塔[・]を更に高く積み上げた。
「こんなもんでいい?」と雪美は訊ねる。
「おかあさん、ありがとう」真は嬉しそうに母親の顔を見て喜んでいる。
 素直ないい子に育ってくれてるのかな? と雪美は思う。真は本当に小さなころから、手のかからない子だった。確かに夜中、急に湯の沸騰しているような激烈な夜泣きをしたこともあったけど、そんなことは数箇月に一度のことで、子育てをしている同世代のお母さんたちに訊いても、その頻度は他の子供たちに比べ、格段に少なかったのである。
「雪美さん」とリビングに入ってきた義母が声をかけてくる。
「はい?」
「真に買ってきたんだけど、食べさせていいわよね?」
 それはおおぶりのアメリカンドッグだった。
 義母の千津は外出すると、いつも真に真にと云っては何か買ってこようとする。おかげで真は、祖母は、血縁者と云う意識ではなくて、いつも食べ物をくれる人と云う認識を芽生えさせているようである。
「真、いらっしゃい」千津はそう云うと、包みから食べ物を出して、真に与える。雪美はどことなく落ち着かなかった。子供の頃から、こう云う脂っこいものを食べさせて大丈夫だろうか、と云う心配である。義母はそんなことはまったく考えていないようだったが、康治さんのときもこんな風にいつも何かを与えていたんだろうかと考えはじめ、そうすると、心の中に靄がかぶさって来るような印象すら覚えるのだった。
「雪美さん」と千津が云う。「雪美さんの分もあるんですよ。食べませんか?」
 雪美はここで断ると角が立ちそうに思われたので、ありがたく頂戴することにした。
 真は雪美が浮かない顔をしつつも、自分と一緒のアメリカンドッグを口にしているのが嬉しいらしく、大人の思惑などまるで気づかずに、きゃっきゃと喜んで頑張って咀嚼している。
「やっぱり孫が美味しそうにものを食べてるのを見るって云うのは至福の一時ね」
 千津はしみじみと云った。
「お義母さんが康治さんや志乃さんを育てられたときは、こんな風じゃなかったんですか?」
「こんな風というと?」
「だから、何か買ってきて与えるというような」雪美はなんとか事を荒立てないようにしながら、自分の気持ちを伝えようと試みた。
「なかなか難しかったね。子育て自体初めての経験だから、何をしていいかわからない。他所で売ってるものを食べさせるより、自分で作ったものを食べさせる方が健康的にもいいんじゃないか、という気がしてね。でも、いまとなっては、そんな意地を張らずに、いろんなものを買い与える方が良いと云う考え方に傾いたんですよ」
「でも、私もその当時のお義母さんみたいな気持ちもあるんですよ」
「それは困ったわね……」千津は声の調子を落とす。
 真はまだあと半分くらい残っているアメリカンドッグを美味しそうに口に運んでいる最中である。
「身体に悪そうなものを与えるのは、子供の発育に悪影響を及ぼしそうですし」
「そういう心配は祖母よりも母親の方が、顕著だわね」千津はそう云うと、表情を曇らせた。「でもあれね……真って落ち着いているようでいて、むきになると根気強く粘るわよね。そう云うところ、父親の康治じゃなくて母親のあなたの血を引いてるのがわかるわ」
「私にそんな雰囲気がありますか?」
「いえ、あなたにではなく、あなたのご両親のどちらかの血じゃないかな、っていつも考えさせられるんですよ」
「なるほど」
 雪美は姑の言葉に納得した。確かに、雪美の父の正孝[まさたか]は温厚な人物で、また高等学校の教師ということもあって、わがまま放題の子供たちを教え導くには、根気強さが求められていた。お腹を痛めて生んだ子である真に自分の血が半分流れていることを思うと、雪美はじーんと胸が痺れたようになるのを感じた。
 外は八月の暑い大気に覆われて、日差しもきつく、めまいを起こしそうなほどだろう。雪美は今日は一度も外出していなかった。朝からクーラーのきいた涼しい部屋でくつろいでいる。いまが五月や六月だと云われても無批判に受け入れてしまいそうなほど、心地いい環境が整っている。
 月曜日の昼間。平日といえばふらふらしていた三年前の康治も、いまでは新しい勤め口でサラリーマンとして働いている。朝は早めに起きて、晩も早めに帰って来る。前の仕事のように残業を繰り返さなければならないような、そんな立場ではないようだった。
 ローンを払い終わった車は、駅前にオフィスのある今の夫の仕事では利用する機会もなく、それなら、もう売り払ってしまってもいいんじゃないの? と雪美は考えて、夫に提案したが、もし売ってしまえば、遠出はできなくなるし、もしものときに困ったことになる。それなら、場所はとっても一台は確保しておいた方がいいんじゃないかという気持ちに傾く。雪美はそれもそうだと思い納得していたのであるが、遠出なんてここ最近一度もない。夫の休日のギャンブル癖はまだ完全には治っていないのだ。休日になると、いつも家を出て夜遅くならないと帰ってこない。雪美はもう諦めていた。
 そんな折、神奈川の大磯に住んでいる義妹夫婦が顔を見せた。悠菜というこの年に生まれた赤ん坊を連れている。
 義妹とは、康治の妹の志乃である。志乃は学生時代に付き合っていた波多野俊[はたのしゅん]と結婚したのだった。なかなか顔を見せにこない義妹夫婦であるため、義父母はその来訪を心から喜んだ。歓迎の言葉がかけられ、普段見せないような愛嬌たっぷりの笑顔で迎えている。
「真くん、大きくなったねー」と志乃は明るい茶色の目をきらきらさせながら云った。
 志乃はブルー系の水玉模様のワンピースを着ていた。髪型は肩につくかつかないかのボブカット。結婚していなければ、上品なお嬢さんという印象がぴったりくるファッションである。
 娘の悠菜を抱えながら、志乃はダイニングの椅子に腰かけた。
 千津はもともと志乃に対して、友人の一人ででもあるかのようにとても親密な感情を抱いているので、会話もいろいろな方向に向かい、志乃はやはりお義母さんの娘なんだなぁ、と云うことを今更ながら実感した。
「お姉ちゃん、あそぼー」
 積み木で遊ぶのに飽きた真は、椅子に腰かけている志乃の服をつかんでそう云った。
「真……いまお姉ちゃんはお話ししてるところだから、一人で遊んでなさい」
 雪美はやさしく諭すように云う。
「いいんですよ、雪美さん……」志乃はくすっと笑う。「それじゃ俊さん、悠菜をちょっと見ててください」そう云うと、彼女は赤子を夫に渡した。俊は落ち着かなげに子供を抱くと、よしよしと面白い顔を見せながら、あやしはじめた。


「いいんですよ、雪美さん……」志乃はくすっと笑う。「それじゃ俊さん、悠菜をちょっと見ててください」そう云うと、彼女は赤子を夫に渡した。俊は落ち着かなげに子供を抱くと、よしよしと面白い顔を見せながら、あやしはじめた。志乃は真の傍に腰を下ろす。
 そのとき、雪美は気づいた。
 志乃が何か云いたそうにこちらを見つめているのである。何かまずいことでもしてしまったんだろうかと後ろめたい気持ちになったけれど、雪美はそんなことはないだろうと高をくくり、しかし、頻繁にこちらを振り返っている志乃の行動には頭の中が疑問符だらけになった。
 そこで雪美は真の近くにいく素振りを見せて、志乃の行動の謎を明かそうとした。案の定、雪美が志乃と真のところへ行くと、志乃は雪美に耳打ちしてきた。それは、にわかには信じがたい情報だった。
 それはこういう話である――。
 この前の日曜日、この家に来る前にお供え物を、と思って寄ったデパートで、兄の康治を見かけたというのである。いま仏壇にそなえてあるおかきがそうだけど……と話をいったん脇へやってから本筋に戻った。それで、兄の横には見たことのない若い女がいたというのである。声をかけようと思ったけれど、その二人があまりに親密そうなので声をかけるわけにもいかず、ただ二人が通路の向こうへ消えて行くのを見守るしかなかった。あれは絶対に兄だ、と云う。背丈も服装も髪型も頭を掻く仕草にしても、あれは兄以外の誰でもない、と志乃は力説した。
 雪美はその話の唐突さに面喰ってしまった。
 夫はその時間はパチンコにいっているはずだった。日曜の昼間、いつもパチンコに通い詰めていて女の影なんてこれっぽっちも疑ったことはなかったのに、それが裏切られたのだ。しかし、雪美はそのことを受け入れるのは時期尚早だという気がしていた。良人に問いただしてから判断すればいい……雪美は落ち着いていた。
 志乃は続ける。
 兄は女性関係に結構ずさんなところがあるから、今回のことにしても、雪美さんにはとても不快な思いをさせてしまったかもしれない。でも、仕方がないと思える程度のものである。もしこのことで夫婦間に溝ができて修復不可能になりそうだったら、そのときは思いきって家を出ればいいわ。なんといっても雪美さんにはまだ春は去っていない印象が強いもの。子持ちでもきっと好きになってくれる人がいるはずよ。
 雪美はいま聞いたことを頭の中で整理しようとした。
 ――もし良人に女がいたとしたら、いつの時点からだろう?
 ――最近? それともずっと前から?
 不思議と嫉妬心は湧いて来なかった。そう云うことがあってもおかしくないと事態を軽く受け止める自分が居たからである。
「何をこそこそ話してるんです?」
 後ろから義母の声がかかる。
「ううん、なんでもないわ」と志乃は云う。
「うん、なんでもないんです」雪美も同調する。
「まあまあ、女二人、たまに顔を合わせたから、積もる話もあるんでしょう」俊はそう云って、ふっとほほ笑む。
 雪美はおもちゃで遊んでいる真を見た。
 ――この子だけは不幸にしちゃいけない……。
 雪美はそう考えながら、今後の処方について考えていた。
「お義姉さん」志乃が呼びかける。
「はい?」
「康治兄さんとうまく話しあってくださいね。私、二人が別れるなんてことになったら、とても悔やむと思います……。実際、兄が女の人と歩いていたこと、これ、義姉さんに話すかどうか迷ってたんですよ。でも、本当のことを知る権利が人にはあると思ったから、話したんです。騙されたままじゃ、あまりに不公平ですし」
「うん、そう云うこと隠さないでいてくれたこと、とても嬉しく思うわ」
「私は兄よりも義姉さんの味方をしますわ。どちらが正しいかなんて、火を見るより明らかなんですから!」
 雪美は百万の兵を味方につけたような頼もしさを志乃に感じていた。
「おかあさん、できたよ」
 そのとき、真が声をあげた。
 見ればその積み木は、真の肩の高さにまで伸びていた。
「真、よく作れたね」と雪美は子供を褒める。
「うん、うまいうまい」と志乃も同調する。
「真君のこともあるし、雪美さん、なんとか丸く収めてくださいね。もし二人の関係がこじれてしまったら、一番不幸になるのは真君のような気がします。きっと解決法はあると思いますから、一時の感情で行動しないように気を付けてください」
 志乃の言葉はしっかりとしたものだったが、雪美はそんな言葉を受け入れられないほど憤怒もしていなければ、逆上もしていなかった。あくまで自然体の自分を前面に押し出している。
「それにしても、私はてっきりパチンコに行ってたんだと思ってたのに……」
「パチンコってもう何年目なんですか?」
「んー、かれこれ五年になるわね」と雪美。「そういえば……」
「うん?」
「実は結婚三周年のクリスマス・イヴの日、ひどく酔っ払って帰ってきたことがあったのよ。あのときたしか、誰かと意気投合して飲んできたって云ってたけど、あのときから、あの人の傍には女の影があったのかもしれないわね」
 雪美はそんなことを思いつくと、急にさびしい気持ちが胸に萌しはじめた。
 夫は自分に嘘をついていた。
 でも、一抹の希望もある。まだ本人にしっかりと確かめていないのだ。もしかすると、他人の空似ということもあるし、仕事の同僚かもしれないのだ。不倫をしていると考えるのはまだ早い。
「雪美さん、まだ大丈夫とか思ってますね」志乃の洞察力には目をみはるものがある。
「ちょっとね……」と雪美は答える。
「でも、男の人って、不倫をすることにまったく罪悪感とか感じないのかな?」志乃はしみじみと云う。「だって私たち女は子供が生まれると、やっぱり自分の中の母性が磨かれて他の恋愛なんて考えられなくなるのが普通なのに、男の人って子供ができると家庭に縛られるような思いがして、余所に女を作ることが多いって云うし……。うちの旦那もいつそんなことをしでかすか、気が気でなかったりするんだけどね」
 雪美は志乃の話になるほどと納得する面と、それは違うんじゃないかと反対したくなる面の両方があることに気づいていた。
「しかし、どう切り出したらいいのか……」雪美は志乃の顔を見つめて云った。
 志乃は表情を曇らせながら、思案する様子だった。なにかとても移ろいやすい蜉蝣[かげろう]の翅のようなはかないものが志乃の表情に浮んでいるように雪美には見えた。志乃は返答に迷うようなそぶりを見せた。志乃の視線の先には窓があった。窓の外の風景に目を遣っている。庭木の上に慈心の現れであるかのような暖かい太陽の日差しが降り注いでいる。と、それは、真夏の陽光であった。この涼しい部屋にありながら外を見ていると良い風景に見えるけれど、一たび外へ出たならそこは灼熱地獄であろうことは確かな事実だ。雪美はその風景に気持ちを揺さぶられて、今日の晩、寝ぐるしい夜を迎えることになることは必至だ、と思わずにはいられなかった。
 ――今日は修羅場になるかもしれない、雪美はそんな予感を覚えて背筋をぞくっとさせた。
「お義姉さん、がんばってね」
 雪美は「ええ」と声を詰まらせ気味に返答した。
 どんな顔をして夫を迎えればいいのか、それが分からなかったのである。


10 :蒼幻 :2009/09/25(金) 16:14:44 ID:tcz3sknm

★ (2/5)



 まだ大丈夫と云う気持ちがあったことは確かである。
 雪美にとって、夫の浮気と云うのは、まだ遠いところにある異国の話のように思われていた。なにしろ、この数年、夫の休日は常にギャンブルに費やされてきたと信じていたのだから。
 その夜、夫はいつもと同じように六時過ぎに帰ってきた。
「今日の夕食は何だい?」康治は部屋でスーツを脱ぎながら雪美に訊ねた。
「お義母さんのカレーよ」と雪美が答えると、康治は、
「んー、カレーなら雪美の作ったのを食べたかったなあ」と殊勝なことを告げてくる。
 雪美はその言葉に、これから自分が訊こうとしていることがまったくの荒唐無稽であるような気がして挫けそうになった。雪美は箪笥から夫の部屋着であるジャージを取り出しながら、どのタイミングで話を切り出したものかと考えていた。しかし、いざ訊ねるとなると気持ちの上でどきどきしてしまい、もしその疑問が肯われてしまったなら、自分の居場所はここには永久になくなってしまう気がして心細かった。どうせなら、何も訊ねず、このまま見てみぬふりを決め込んだ方がいいような気さえしてくる。自分が我慢すれば済むことだ。
「今日ね、志乃さんたちが家に来られてたのよ」
「へえ……」と康治は感心するような声を上げる。「あの夫婦は自営だからいいよな……」
 夫はそんなことをぼやく。
 自営と云うのにはわけがあった。義妹である志乃の夫は、若い頃、板前として都内の有名店で修業し、志乃と結婚してから神奈川に自分の店をオープンさせたのだった。いまでは弟子を二人抱える店の主人である。今日は月曜日ということもあり、店が休日だったから家に来ていたのであって、その職種のハードさは噂できく以上のものがあり、皆が休んでいるときに働かないといけない大変な職業であった。志乃が俊と結婚したのは雪美たちの結婚から半年しか経っていない時期であり、今年生まれた悠菜が初子で、義父母にとっては二人目の孫に当たっていた。
「悠菜だっけ……大きくなってたか?」
 康治と雪美は志乃が悠菜を産んだとき、産婦人科まで出向いて祝ったことがあった。康治にとっては悠菜の顔を見たのはそのときが最初で最後であり、それからいままで、まったく姿を見ていなかったために、一番にこんな質問が口を衝いて出たのだろう。しかし、雪美はその言葉を素直に受け取ることができなかった。というのも、姪の成長は素直に気にしているのに、自分の子である真の成長に関しては、ここ数年、あまり関心を抱いていないようであったからだ。その差はどこにあるのだろう? 確かに男の人には自分の血を分けた子供という意識が希薄で、それは自分の身体から生まれて来たと実感できる女と違う点であり、もしかすると自分の子供ではないかもしれない、と思う傾向にあると云う。しかし、雪美は思う。そう思う傾向にある男性ほど女性関係にずさんで、貞操意識が欠如していて安易に不倫に走るのだ、と。雪美は思う。良人もそういう気味があるから、真を自分の息子として愛することができずにいるのではないか? やはり、夫が不倫をしているのかしていないのか確かめないといけない!
 しかし、康治はすでに着替えを終え、寝室を出ようとしていた。
 雪美は話を切り出すチャンスを逃してしまった。
 再びチャンスが訪れたのは、カレーを食べて入浴を終え、寝室に戻ってきたときだった。
 早めにベッドに横になった夫に、雪美は「もう寝た?」と鏡台の前に坐って尋ねた。
「いや、まだ起きてるけど」と豆電球になっている薄暗い部屋で夫は答えた。
「実はね……」雪美は真相を訊ねる決心を固めていた。
 話しはじめたら後には引けない。雪美は今日、志乃から聞いた話を脚色してかまをかけてみる。
「康治さん、昨日のことだけど」
「うん?」彼は億劫そうに返事をする。
「神奈川県の××デパートであなたが女の人と歩いてたっていう情報を得たんだけど……いったいどういうことかしら?」
 扇風機の音以外に何も聞こえない部屋で、夫の息を呑む音だけが大きく聞こえた。
 時間がまるで蠟燭の灯心のようにじりじりと音を立てて燃えて行くかに思える。ひりひりするような皮膚感覚との戦いだった。雪美は自分の身が薄い刃で削がれているようなそんな苦痛を身に覚えていた。夫に願う。そんな事実はないとはっきり否定してほしい。しかし、時は刻々と流れ、その沈黙の期間が延びれば延びるほど、夫の不利は明白になっていく。そしてそれはことを事実と受け入れ、首肯すると同義であった。
「返事がないってことは、どうやら、本当だったみたいですね……」
 雪美はまず溜息が漏れた。そして何か重たいものが背中にのしかかって来るような印象を覚えた。頭がこれ以上考えることを拒否したがっていて、自分が倦怠に飲みこまれてしまったことに気づく。
 そのとき、横のベッドで真が寝返りを打った。
 雪美は真の方をちらっと見る。
「私は妻だから、最後まで、あなたの潔白を信じてきたけど、本当にショックだわ」
「…………」
「何か云ってよ」雪美は夫の顔を見るのも怖かった。
「志乃が告げたのか?」康治は声を震わせた。
「誰が告げたっていいじゃないですか、それより、不倫していたのか、していないのか、そっちのほうが大事でしょ?」
 雪美の心の中は、怒りよりも呆れの感情が優勢だった。
「志乃なんだな!」夫はなおも云い募る。「だから、俺は嫌だったんだ。わざわざ妹のいる土地に出かけようなんて……」
「そんなこと今云ったってどうしようもないでしょ! それより、これからどうするつもり? その女[ひと]と別れるの、別れないの?」
 夫は何を考えているのか分からなかったが、そのまま押し黙っていた。
「あなたがどういう考えで他の女とつきあっていたのか、それは問いません。ただ早めに返事してください。私と真をどうしたいのか? そして、不倫相手とどうしたいのか? 返答次第では、今後のあなたとの関係を考えさせていただきます」
 その時点では雪美は夫と別れようという意思は微塵もなかった。きついお灸を据えれば、良人も改心するだろうとの淡い期待があったからだ。二週間も実家に帰っていれば、そのうち、夫の方から折れて来るに違いない。そう思っていた。
 結局、翌日に夫が出した答えは、不倫相手とはきっぱり縁を切るということだった。雪美は勝利を確信したが、しかし、夫に不倫相手の連絡先を教えるように迫っても、彼は受けいれない。連絡先が分からないと、本当に別れたかどうかわからないじゃない? と云っても、夫は、それは教えられない、の一点張りだった。これはまた夫の悪い虫が出たんだな、と雪美は推測した。口では別れる別れると云っておきながら、実際はこのままずるずると関係を続けるつもりなのだ。聞かなくても分かっていた。それは三年前の菊花賞の日のレース結果と同じなのだ。どれだけ痛い目にあっても、どれだけ自分の不足を目の当たりにしても、それをひとつも改善することなく、同じ迷盲に陥って足を引っ張られ続けるのだ。そんな男と心中するのは馬鹿らしい、と雪美は考えるようになった。確かに昨夜までは夫の良心を信じて、その性質を発揮させることで事態を丸く収めようと思っていた。しかし、そんな生っちょろいことでは埒があかないことがわかってきたのだ。雪美は爆発こそしなかったが、その日夫が出勤したあとで、十時頃、義父母にちょっと出てきますと云って真と外出したまま、電車を使って、静岡の田舎に帰ることにしたのだった。
 結婚生活六年目にして初めての離婚の危機だった。
 しかし、そこに追い打ちを掛けるように、雪美にはさらなる足枷がはめられることになる。


 雪美の実家の広瀬邸は古くからその土地に住み着いていたことが分かる、歴史と風格の漂う古民家であった。皆が集まる一階中央の居間にはいまだに囲炉裏が切ってあったし、ガス台は屋外に大きなプロパンガスのボンベを置いて使用するもので、ガス管も通っていない結構な田舎であった。いまは父母と弟の三人が暮らしている。
 雪美はそんな家の前に立ち、深呼吸すると、呼び鈴を鳴らした。
 玄関に出た母の賀子は「まあ、雪ちゃん」とまるで旧知の友に会ったような親密な表情をして出迎えてくれた。「どうしたの? こんな時間に」お昼を二時間ほど過ぎていた。新幹線と電車を乗り継いで、ここまでやって来たのだ。真には苦行だったようで、疲労で眠そうな眼をごしごしと手でこすっている。
「家を出て来た……」囲炉裏のある居間で雪美は母に宣言した。
「いま、なんて?」
「だから、家を出て来たの」雪美はむきになる。
「ちょっと、どういうこと? 話が見えないわ」
「康治さんに女がいたのよ」
 雪美は身内の恥をさらすようで気が進まなかったが、実母とは何でも話し合える関係を目指していたから、素直に告げた。
「不倫か……」と賀子は溜息をつく。
「やっぱり、東京って云う土地柄が、そのようなことを許してしまうのかしらねえ」
 母は東京に偏見を持っている。
 もともと、母は富山の田舎からこっちに来たこともあって、これまでずっと都会で生活したことがないのである。それに結婚してからは遠出もしないし、そう云うことが、東京に対する偏見を芽生えさせる原因になっていた。しかし、こうも考えられる。母の云うことは、幾分かは正しいのである。雪美は落胆のため息を漏らす。
「しばらく、こっちで世話になるから、よろしく」
 雪美は頼みこんだ。
「まあ、いいけど、ちょっと待って……。向こうのお義父さん、お義母さんには話したの? 黙って出て来たんじゃないわよね?」
「黙って出て来たわ。もし出て行くなんていったら、引きとめようと必死になられるだろうから」
「でも、黙ってって云うのはよくないわ。電話でいいからいますぐ連絡なさい」
 雪美はしぶしぶその言葉に従った。
 電話してみると、義母の千津が出た。
 手短に良人が浮気していたことを告げ、そっちの家を出たことを告げる。
 電話口では義母があまりのことに啞然としたのがよくわかった。
「では、そう云うことですので」雪美は早めに電話を切り上げたかった。
 義母はなおも何か云いたそうに一言二言云い掛けてはやめた。
 雪美は自分がとてつもなく嫌な人間になってしまったようで、気が滅入ってきた。
 受話器を置くと、雪美はふっとため息をつく。
「ちゃんと云えた?」と賀子は訊ねて来る。
「うん」と雪美。
「まあ、いいわ。で、御飯まだ食べてないわよね?」
「ええ」
「冷蔵庫にアナゴ寿司があるから、それ出したげるわ。真と分けて食べなさい」
 賀子はそう云うと台所に向かい、冷蔵庫から寿司のパックをとり出した。
 雪美は改めて部屋の中を眺め見る。東京の家とは空気すら違っているように感じられる。囲炉裏の周辺に置かれた座布団はうすっぺらいものだったが、普段、椅子に座りなれた足には若干の負担が痛くて心地いい。もともと、この家で暮らした子供時代は常に正座がスタンダードだった。そう云うこともあって、居間で正座しているこのときでも、懐かしさが込みあげて来て、自然、心がとても落着いてくる。
 雪美はしばらくそうして感慨にふけっていたが、母が寿司を皿に盛って台所から出て来たとき、雪美はなにか憶えのあるひとつのわだかまりというか、咽喉に込みあげてくる体調の不良を覚えた。
 雪美はその違和感が何であるのか、その時点では気付かなかった。
 ただ皿に盛られたアナゴ寿司にべっとりついたツメの光沢をみたときに、その込みあげるものは最高潮に達した。すぐに席を立ち、洗面所に走った。水を流し、吐く物もないのに、嘔気だけが胃の奥から逆流してくるような状態。雪美はそれが何なのか、あわだつ頭で考えた。これはひとつの事実を示している。恐ろしい事実。つまり、懐妊の疑い有り――。
 夫との関係がこじれて家を出たのに、その夫の子供をまたも孕んでしまった……。まだ検査薬で確かめたわけではないが、女の直感でそれは確かに信じられた。雪美は水道水で口の中をすすぎ、手洗い場から出て来た。
 母が「どうしたんだい?」と怪訝そうに訊ねて来る。
「どうも、妊娠したみたいなの」
 雪美は素直に白状した。
 賀子は苦笑した。そして浮かない顔をしている雪美に告げる。
「産みなさい。産めばいい。そう云うのは天からの授かりものなんだから、絶対におろそかにしてはいけないことよ。人一人が生まれてくるって云うのは大切なことなんだから。あなたの子供だからって云うんじゃない。この年まで生きてるとね、どんな生命も無駄にされてはいけないんだ、って悟るようになるものでね。私はあなたと喬[たかし]の二人を産んだけど、その前にひとり流産していてね。そう云う経験もあって、最近、思うのよ。もし初めの子供が生まれてたら、今頃、どんな大人に成長していたかな、ってね。水子は一人だって出さない方がいい。出来ることは精いっぱいやるべきよ。わかった?」
 雪美は母の言葉がとても温かい物に感じられた。
「ほんとにごめんなさい。私、貯金も少ないから入院費用だって出せない。そんな私でも産んでいいの?」
「ええ、産みなさい。応援したげるから……」
 雪美は母の愛情を深く感じた。
「じゃあ、真もお兄さんになるのね」
 賀子は嬉しそうである。
「でも、そうね。私もついいま、自分の妊娠を思ったとき、この子はなんとかして生まないといけない、って云う義務感みたいなものを感じさせられた。流産とか堕胎とか、そういう人為的な因縁を残す行為っていうのは、人の心を荒ませる原因だと思う。お母さんの云った通り、私もこの二人目の子をしっかりと産んで育てたい。負担ばかりかけるけど、ごめんね」
「いいんだよ」賀子は笑みを浮かべ、それから、皿に盛った寿司をすすめた。「もう食べられるでしょう?」
 そのとき、真は二つ目の寿司も食べ終わり、もうないの? というような表情をして、雪美の前の分に目を据えていた。
「真、もっと欲しいの?」と雪美は訊ねる。
「うん、たべたい」と真は云う。
「じゃあ、あと一個だけね」四つあるうちの一つを真の皿に置いてやる。雪美はもう嘔気のしない胃に寿司を入れていく。
「じゃあ、お父さんと喬にも云わないとね。これからお姉ちゃんがこの家に住むことになるからって……」
「緊張するよ」雪美は肩をすくめる。「お父さん、悲しむかな……」
「いえ、他家に嫁に行った娘が帰ってきたんですもの。きっと喜んでくれるわよ」
「そうだといいけど」
 雪美はそう云い、次の一切れを半分口にした。


11 :蒼幻 :2009/10/10(土) 19:15:12 ID:tcz3sknm

★ (3/5)



 桜の花びらが光っている。はかない数日の命の光芒をさかんに振りまくように、桜の花びらは陽光を反射させて白く光っている。
「真、いよいよ入学式ね。お利口にしてるんですよ」
 雪美は入学式に出席するため、六歳になった真を連れて、小学校へと続く桜の坂道を登って行った。真にはこの坂はかなりきついらしい。登りおえたときにははあはあと息を切らしていた。
「これから毎日、ここを通らないといけないんだから、慣れないといけませんよ」と雪美は声をかける。
 真は「うん、わかった」と云い、恥ずかしそうに頬を染める。
 同じように今日の入学式に出席するのであろう子供たちが、真と雪美のように、親子連れで坂を登ってきている。雪美は夫である康治が出席できないのを悲しく思っていた。あの不倫事件から、夫とはほとんど顔を合わさず――夫は実家に帰った雪美の顔を見に、何度か広瀬家を訪れていたものの関係が修復されることはなかった――、今日まで真の面倒を一人で見て来たのだった。もちろん、それには実家のサポートもあったし、康治が捻出する養育費の存在も見込む必要があった。
 康治とは未だに離婚していなかった。別居はしているものの、お互いにきつく云いだすこともなく、それはことを起こしていながらことなかれ主義である夫と、面倒なことは考えるのも厭だと考える妻の両方に原因があった。とはいえ、夫の様子を義母に聞いてみると、いまだにギャンブルは続けているらしく、その報せが夫を悪く思う根本原因になっていて、いま村崎家に戻ったとしても、また同じことの繰り返しになるだろうと思われた。結局、真は、雪美の出た小学校に入れることにした。田舎ではあったけれど、それもまた情操教育の一環としていい効果を生んでくれるだろうと思っていた。
 いま、二歳の娘の美都[みと]は実母に預けている。
 美都もすくすくと成長し、今ではつかまり立ちを卒業して、自分で自由に歩き回れるようになっている。それでもおっちょこちょいな面があるらしく、ときどき、何もないところで転んだりするので、スカートのためにむき出しになっている膝小僧に生傷の絶えることはなかった。
「真、先生の云うこと、よく聞くんですよ」
 雪美は息子に諭す。
「うん」真は元気よく返事する。
「返事はいつもいいんだけどね……」
 真はしっかりしている面と、すこしぼーっとしている面とが仲良く同居している子供だった。あるときは聡いと感じられるのに、それからしばらくも経たないうちに、ドンくさいと感じる行動をとることもあり、なかなか計り知れない子供であるというのが実家の評価だった。今年大学を卒業した喬にしても、ぶつぶつ云いつつもよく子供たちの面倒を見てくれるし、その点では感謝していた。喬も「もう少し注意深い子供だったら、いいんだけどね」と真を評する。親の欲目で子供は誰でもよく出来ると思いたいものであるが、雪美は弟のそう云う言葉に出会うたびに、その言葉を否定したくなる気持ちに傾くのであった。とはいえ、喬が云うことには一理も二理もあって、なかなか反論しづらかった。
 喬もいずれは結婚して所帯を持つことになるんだし、そうなれば、実家に雪美の居場所はなくなる。とすると、遅かれ早かれ、実家を出なければならなくなるわけだが、雪美はどうしたものかと悩む気持ちが大きかった。確かにこの三年、村崎家には一度も戻らなかった。義父母の顔も見ていない。もちろん、真や美都とも会わせていないし、美都に至っては、出産してから一度も顔を見せに行っていないのだ。夫の康治にしても、美都が産まれる一ヶ月ほど前に妊娠の事実を知らせたほどで、あらゆる面で村崎家との交流を断[た]ってきたのである。
 真の横を歩きながら雪美は思う。
 ――そろそろ村崎家へ戻った方がいいんだろうか?
 でも、夫は未だに不倫を続けているかもしれない、いや、きっと続けているだろう。そうすれば、冷たい隙間風が吹きつける障子みたいなもので、そのうち穴も空き、そこから互いの心の奥底を凍えさせるような寒風が猛威をふるうに違いない。
 雪美はそんなことを想像して、いったい自分はどうするのが一番いいんだろうと、しばし考えた。が、明確な答えは得られない。想いはいつも灰色である。寒い冬が終わり、暖かな日差しに桜も美しくきらめいていると云うのに、どうして自分の心はこんなにも暗く、じめじめと、落ちこんでいなければならないのだろう。
 夫と仲直りするには、越えなくてはならない壁がたくさん存在している。そう思う雪美だった。
「ねえ、おかあさん、おとうさんはさみしくないのかな?」
 真はふと、そんなことを口にする。
「さみしい?」雪美は訊ね返す。
「だって、ぼく、さみしいんだよ。おとうさんだって、さみしいっておもってるよね? どうしてうちはおとうさんとおかあさんがいっしょにくらしてないの?」
 雪美は返答に困った。子供に理屈を説明して分かってもらえるほどしっかりした意見を述べることは出来ないだろう。普段はそんな質問をしてこない真も、きっと、同じ坂を登ってきている、父母の揃っている子供たちの姿を見て、単純に羨ましいと思ったのに違いない。雪美は胸が痛みにさいなまれるような印象を受けた。
「真……お父さんはいまお仕事が忙しくってね……。なかなか一緒に暮らすことができないのよ」
 雪美は苦し紛れに嘘をつく。
「そうなの?」真は悲しそうだ。
「今度、お父さんと会ってみる? なかなかそう云う機会なかったもんね」
「いいの?」真はおずおずと云う。
「うん」
 雪美もずっと思ってきたことである。母親だけでは子供たちに与えられる示唆は半分しかないのだと。自分が父親代わりもしているという自負心だけはしっかり持っていたけれど、やはり父親がいるのといないのとでは、いた方がいいに決まっている。余所に女を作っている不良な夫ではあるけれど、でも、存在しているだけですでに子供たちには相当の感化を与えることになるのである。雪美もときどきは夫に頼りたい気持ちがあった。そんなことは心の弱さのなすわざだと思い、雪美は落ち着いて対処してきた。しかし、意地を張るのもそろそろお終いにして、子供たちのことを優先して考えないといけない時期に差し掛かっているのではないか、と雪美は思う。
 夫が不倫をしていることを志乃に聞かされた時、志乃はこう云っていた。絶対別れないように、と、そんなことになったら悔やんでも悔やみきれない、と。そのことを頭の片隅に置いておくつもりであったのに、気がつけば、家を飛び出していた。事実上の破局であったのだが、その後、実家に帰ってきてから考えていた。やはり志乃の言葉を踏みにじってしまった自分の行為を思って、後悔する気持ちが強烈に胸に込みあげたのだ。志乃に向ける懺悔の気持ちの表れとして、そのときの後悔を解消する方向で物事を進めていくことこそ本当だという気がする。雪美は決心した。
 脇を歩く真も、母の表情が、きっ[・・]と凛々しくなったのを感じていたようだ。
 ――帰ったら、連絡してみよう。それが子供たちにとっても一番いい選択だ。
 雪美はそう考え、空を見上げた。
 天の広がりを思わせる高い青空に、いくつものちぎれ雲が浮かんでいる。
 少し前に読んだ詩の中の〈蒼穹〉と云う言葉が心に浮かぶ。
 蒼穹にかかる柔らかな白雲。
 それだけで一幅の絵画になりそうだ。
 雪美は心をうきうきさせて、真と一緒に校舎に入っていった。


 入学式を終え、学校に関する簡単な説明を受けた子供たちは、ひとりひとり教科書を受け取って教室を後にした。「みなさんの明日からの登校を楽しみにしています」とまだ二十代後半と思える女の担任が教壇で云った。その言葉は子供たちにしっかりと伝わったらしく、彼等はそのきれいなつやつやした肌を喜色に染めていた。
「真、きれいな先生に見てもらえることになってよかったね」と雪美は楽しげな声をあげた。
「うん、ぼく、あのせんせいのこと、すきになりそうだよ」
 真は嬉しそうに雪美に告げた。
 二十分ほどかけて徒歩で実家に戻って来ると、雪美は真の制服を脱がせた。
 部屋着に着替えた真がお腹が空いたと云いはじめる。雪美は実母の姿を探して、家のあちこちに向かって呼びかけてみた。
「お母さーん! 美都ー!」
 しかし返答はない。
 おかしいと感じながらも、それ以上真を待たせるのも酷だと思い、雪美は昼御飯の準備をした。雪美は冷蔵庫の野菜室を眺めて、玉ねぎも人参もピーマンもネギも中途半端に残っていることを確認する。雪美はそれらを細かく切って、チャーハンに仕立てることにした。味付けは醤油と塩胡椒に、鶏ガラスープの素を少量、オイスターソースは見当たらなかったのでそれ抜きで味を調えることにした。
 本格的に鍋を振って御飯の一粒一粒をパラパラにすることはできなかったものの、小まめにフライ返しを使って固まった御飯をほぐしていく。それによって、なかなかいい出来栄えのチャーハンが出来上がった。
「さあ、食べようか」と雪美は真に声をかける。
 そのころには真も、妹と祖母がいないことに気づいていた。
「ねえ、ばあちゃんと美都はどこいったの?」
 真は怪訝そうな顔つきをしている。真のような年齢でも、怪訝そうな顔つきが出来るんだ、と雪美はそんなことを考えた。真の顔にしばらく吸い寄せられるように視線を釘づけにしていた雪美だったが、しばらくすれば帰って来るだろうと高をくくり食事することを真に勧めた。
 真は湯気を立てるチャーハンをふーふー息を吹きかけて冷ましながら食べる。
「うん、おいしいよ、おかあさん」と真は云う。
「ありがとう。お代わりもあるからよかったら食べてね」
 時計は一時半を回った。
 二人の皿が空になったころ、外で人の話し声が聞えて来て、耳を澄ましていると、それは母たちの声だった。ときどき、美都の笑う声が疳高く聴こえてくる。
「あっ、かえってきた!」
 真は過敏に反応する。
「うん、帰って来たね」雪美はほほ笑んだ。やはりどんなときでも子供の姿が確認できないと安心できないのが母親である。まだ手がかかって、一人で置いておいては何をしでかすかわからない年齢の子供ならなおさらである。
 そのとき、家の電話の着信音が鳴った。
 どこからだろう、と思いながら受話器を取ると、相手は義母だった。
「お義母さん」と雪美が驚くと、玄関から居間に戻ってきた実母がどきっとした表情を見せた。
 雪美は眉をひそめて、賀子に苦笑して見せる。
「あ……ごはん、いいなあ」美都はまだままならない言葉をたどたどしく使って、そんなことを云う。
「まだ余ってるから、祖母ちゃん、美都によそってあげてちょうだい」
 雪美は一瞬、受話器に手をあてがって、賀子に云う。
「うん、わかった。美都、ちょっと待っててね」
「もしもし、すみません」と雪美は受話器に意識を戻す。
「実はね、今度の万燈祭、うちの町内も神輿を出すことになって、康治も担ぐことになったのよ。よかったら、来てみない?」
 千津は遠慮がちにそう云うと、声を低めてこんなことも告げる。
「お祖父さんも、真と美都の顔を見たいっていってるし、ね、ぜひ、来てちょうだい」
「でも……それは……ちょっと困ります」
 雪美はその話を断ろうとする。
「あなたがこの家に立ち寄りたくない気持ちはわからないでもない。でも、康治はあれでも子供たちの父親なんですよ。もし片親が永久にいない家庭があったら、と想像してみなさい。あまりにも辛い現実に打ちのめされそうになることでしょう。それと一緒なのよ。雪美さん、依怙地になってはいけませんよ」
「依怙地ですか……」雪美は電話口で苦笑する。「でも、万燈祭でと云うわけではないんですけど、近いうちに康治さんと親子四人でどこか行けないか、とは思ってるんですよ。今日も真に云われました。『お父さんとお母さんはどうして、一緒に暮らしてないの?』って。私もこのままではいけないという気持ちがあるんです。なんとか、現状を打破したい。それには夫婦二人の力を合わせないといけない。その力量があの人にあるのかどうか、私はそれに賭けてみたいと思う気持ちが大きくなって来たんですよ」
「それはいい考えかも知れないわね」千津は溜息まじりに息を吐き、それから、凛とした声で云った。「あなたたち夫婦の今後の発展を祈ってます」
「ありがとうございます」
「そうそう……この家で会えないのなら、今度の日曜日、そちらへお祖父さんと二人で寄せてもらいますから。それくらいいいでしょう?」千津はそんなことを申し出た。
 雪美が「はい」と云うと、義母は安心したのか電話を切った。
「あなたも大変ね」と云うのは、実母の賀子である。
「他人行儀なこと云わないでよ。ああ、でも、お義父さん、お義母さんが来られるなら、子供たちにもしっかりさせないとね」雪美はチャーハンを食べている真と美都を眺め見た。
 子供たちは何の不満もないのか、にこにこ笑いながら食べ続けている。

 その次の日曜日、源一の運転で、約束通り、義父母が広瀬家にやってきた。
「いらっしゃいませ」と賀子が玄関であいさつする。今日、二人が来ると云うことを聞いていた正孝は家の中で二人の到着をじっと待っていた。高校の教師である正孝はふだん、生徒である子供たちの相手ばかりしているので、対等な立場の者と話すのは緊張する様子だった。
「雪美」と正孝は娘に云う。「今日、お父さんはあまり強く物を云えないだろう。だから、いまのうちに云っておくけど、もし向こうのお父さん、お母さんが折れて来るようだったら、素直に向こうの家に戻ることにするんだよ。そうするのが夫婦の唯一正当な道だと思う。雪美、もし本当に駄目だと思うなら、今度は離婚して戻ってくればいい。今のうちに出来ることは試してみるべきだと私は思うんだ」
「雪美さん、お久しぶり」
 義母は三年ぶりに息子の嫁との対面を果たした安堵で、緊張の走る顔を幾分やわらげた。
「真も大きくなったね。それに、美都もこんなに!」源一と千津は驚きに目をみはっている。
 しばらく当たり障りのない話をしていたが、一時間ほどしたころ、思い定めていたらしいことを義母が口にした。「雪美さん、戻ってきてくれないかしら?」
 実父の云い置きもあってその言葉によろめきそうになる。
 しかし、雪美はその言葉に漂うどことなく不穏な気配に拒否反応を示してしまう。
「今はちょっと考えられません」
 それを聞いた実父正孝が顔をしかめるのがわかった。
 場は決裂した。「またうちに来てね」とだけ云い、義父母は帰って行った。
「どうしてあんなことを云ったんだ?」と正孝は雪美に訊ねて来る。
「それは……」雪美は、ただなんとなく受け入れがたかったとしか云えなかった。


12 :蒼幻 :2009/10/19(月) 04:41:55 ID:tcz3sknm

★ (4/5)



 義父母との関係の決裂による気まずさから、夫康治と親子四人で出掛ける計画も頓挫してしまった。そして、一九九九年も終りを告げ、ミレニアムという言葉だけが独り歩きしている年、真は八歳になった。
「お母さん、澪ちゃんがね、将来、僕のお嫁さんになりたいって云ってくれてるんだよ」
 真はその言葉の重みをまったく感じることなく、まるで自分の興味のあることについて語る時のように、素直に、気楽に、緊張することもなく告げてくる。
「へえ、澪ちゃんがねえ。なかなかませたこと考えるわねえ」
 雪美は余裕の笑みを見せる。
「今度、うちに遊びに来たいって云ってるんだけど、連れて来てもいい?」
「いいわよ、連れてらっしゃい。よかったら、前もって日にちを教えておいてくれると助かるわ。時間が合えば、ケーキ焼いたげるからね!」
 雪美がそう告げると、真はにっこりと笑った。
「お母さん、ありがとう」
 それは、五月初旬の夕刻のことだった。
 佐竹澪というのは、この春、真のクラスに転入してきた女の子で、家はここから少し離れたところにあるらしい。見た目は大人しそうな子であるが、活発な面をうちに秘めている。真も彼女のことが気になるらしく、新学期早々、真の方から澪に話しかけたらしい。すると、友達を作るきっかけを失っていた澪は真を救世主のように思ったらしく、それからは休み時間や下校時間に一緒につるむようになったと云う。
 もちろん、そのころの男の子と女の子にありがちの照れによる互いを避けようとする斥力の存在はあっただろう。しかし、何の因果か、二人は、そんな不可抗力的なものにもめげず、しっかりとした、思いやりに満ちた、愛情豊かな関係をとり結ぶに至ったのだ。
 母親の雪美もそのことには驚きの目をみはった。
 自分が真ぐらいの歳だったときは、同級生の男の子とは、なにかクラスのイベント事でとか、授業の一環でとか、そういう理由がない限り、話しかけることはなかったのである。最近の子は進んでるのね、と思わずにはいられない。が、二人の関係が危険な男女の愛になることは、いまの年齢ではまず考えられないため、そういう点では雪美も安心していた。
 ゴールデンウィークを過ぎた次の日曜日、真は澪を家に招いた。
「ゆっくりしていってね」と玄関口で真の声が聴こえる。
 台所に立っていた雪美はふっとほほ笑んだ。
 洗った手をタオルで拭いて玄関に出てくると、雪美は云った。
「いらっしゃい。澪ちゃん。いつも真と仲良くしてくれてありがとうね」
「いえ、こちらこそ、いつもありがとうって云いたいです」
 澪は柔らかな語調でそう述べた。
 雪美はその歳でしっかりと落ち着いた調子で、しかも柔和な面まで兼ね備えているこの驚異の子供に驚かされた。
「真、上がってもらいなさい」と雪美は息子に告げる。
 実母と美都は朝から外出していた。美都がいると、たぶん、真にべったりになるだろうし、そうすると、澪も落着いて、真と遊べないだろうと云う配慮からだった。雪美はいつも行っているスーパーのレジ打ちのパートを、今日は特別に休みをもらって家でケーキを焼いていたのだった。いまは生クリームやフルーツのデコレーションも終って、冷蔵庫で眠らせている。
「澪ちゃん、紅茶は飲める? それとも緑茶の方がいい?」
「おかまいなく」と澪は丁寧に告げるが、雪美は云った。
「子供は遠慮しないの」
「なら、紅茶をください。最近、はまってて、家でも飲んでるんです」
「わかったわ、ちょっと待ってね」
 雪美はトワイニングスのアールグレイのティーバッグを使って、紅茶を淹れる。
「いつもは紅茶なんていれないのに、こういうときだけ形をとりつくろうんだから」
 真は厳しいことを告げる。
「真、そういうこと云わない」雪美はぴしりと云う。「澪ちゃん、学校には慣れた?」
 雪美は真から聴いている情報をもとに、当たり障りのない話題を口にする。
「ええ、真君のおかげで、一人ぼっちってこともないですし、いつも楽しく過ごせてます」
「それで澪ちゃん、将来、真と結婚したいんだって?」
「母さん、何云うのさ?」と真はむきになる。
 雪美はちょっと話を飛躍させすぎたかなと思ったが、顔を赤らめた澪の様子を見ると、そのういういしさが眩しく感じられた。
「真と仲良くしてやってね」雪美は優しく云う。
「ええ、こちらこそ」
 やがて紅茶が入り、冷蔵庫から出したケーキを切って、一緒に二人の前のテーブルに載せた。と、澪が眼を輝かせる。「これ、手造りなんですね!」
「ええ」と雪美は遠慮がちに云う。
「嬉しいです。ありがとうございます。あたし、家ではなかなかこう云うの作ってもらえなくって、というのも、お母さんは一日中仕事してるから、手作りケーキを焼く時間なんてまったくないんです。日曜日も仕事仕事で……。こう云うのテレビでしか見たことないんですけど、とっても憧れてました。ありがとうございます」
 澪は八歳とは思えない丁寧な口調でそのように告げた。たぶん、それまでの転校生活で自然と身に付いたものと、両親の薫陶のおかげなんだろう。
 その日は日暮れ時まで澪がいた。真とは雪美のいない座敷の部屋などでこそこそ話したり、なにかふざけあっているような嬌声も聞こえていたが、雪美はふっと顔をほころばせるだけで、ちょっかいを出そうとは思わなかった。
「お母さん、今日はありがとう」
 真は澪を家まで送ってきてから母に告げた。
「澪ちゃん、すっごい喜んでたよ。『ああいうお母さんの子供だったらよかったのに』なんて云ってたし」真は嬉しそうだった。
「よかったら、また連れて来るといいわ」雪美はにっと笑う。
 その夜、広瀬家では話題の主題は真の女友達のことになった。
 いまでは地元の広告会社に勤めている弟の喬が場を盛り上げた。
「兄ちゃんに彼女が出来ないのに、まだ十にもならない真が彼女を家に連れてくるなんて、いったいどうなってるんだよ」
 喬は苦笑する。
「はは、だいたい喬はがつがつしすぎだから、女の子が寄ってこないのよ」
 雪美はくすくす笑いながら告げる。
「ひどいなー」喬は肩をすくめてショックだと云う風に見せかける。
「でも、そう考えると、子供が成長するのはあっという間だね。雪美がこの家に戻ってきたのは五年前だったけど、もう五年も経つのか、と思うとびっくりさせられる。わしらもうかうかしてられないよ、ほんとに」実父の正孝はしみじみと云う。
「そうですね。初めはどうなることかと思いましたけど、こうして、雪美も実家になじんでくれて、真と美都もいい子だし、生きる張り合いがあるとでも云うべきでしょうか」実母の賀子がそんなことを云う。
「雪美、子供たちのことも大切だけど、お前はこれからどうしたいんだ?」
「これから?」
「ああ、このまま康治君とずるずる関係を引き延ばすのか、きっぱりと関係を断って新しい人生を送るのか」正孝は真剣な表情で訊ねる。
 喬は弟の立場では何も云うことができないと悟り、居心地悪そうにしていた。
「私は出来れば、いまのままでいたいと思ってるけど」雪美は不満そうに口を尖らせて云う。


「もっと、自分の将来のことを考えないといけないよ」と正孝は諭す。
〈自分の将来のこと〉と云う言葉に、雪美は何か懐かしいような、過去に、誰かにそのようなことを云われたことがあるように感じた。
 ――いったい何だったろう?
 かなり昔のことだ。そう思いだした。向こうのお義父さんの言葉だ。確かお義父さんは〈ビジョン〉という言葉を用いて云われていた。雪美は御飯の時間が終わって皿洗いの手伝いをしているときにも、その言葉を頭のなかで何度も繰り返していた。
 あのときは源一の話を聞いて、確かにそうだと思っていたのに、いざ時が経って思い返してみると、自分は〈ビジョン〉なんてまったく考えていなくて、義父が云っていた、〈ビジョン〉をもたない、〈子供を育てることに一生懸命になるあまり〉、〈後には残骸しかなかったという人〉と同じことになってしまっていることを思った。雪美は顔から火が出そうなほど恥ずかしかった。もう一度、あのときと同じことを義父に面と向かって言われたなら、そのとき、自分はどう答えればいいのだろう。将来のビジョン。それはいまの自分にはまったく考えられない、とても距離がある物事だと感じられる。
 ――いま、それを持つとすれば、どんな展望があるだろうか?
 雪美は考える。
 真と美都の人生。実父母の人生。喬の人生。夫の人生。義父母の人生。義妹夫婦の人生。
 自分の人生を考えても、明確なものはまったく浮かんで来ない。まったくの白紙状態、否、白紙ではなく、灰色の人生である気がしてくる。
「ねえ、お母さん」雪美は隣でぬか床の手入れをしている実母に訊ねた。「お母さんは自分が将来どういう人生を送っているか、私くらいのときに考えたことある?」
「あらあら、さっきのお父さんの話が気になった?」
 母の賀子はふっとほほ笑む。
「そういうのはね――」賀子が言葉を続ける。「そういうのは、ああしたいこうしたいっていう子供の夢みたいなものじゃなくてね、そう、こんな人間になりたいっていう漠然としたものでいいと私は思うのよ。そうじゃないと、ことが大きすぎるでしょ? 将来どういうことをしたいかなんて。そういう点で行くと、私がやりたかったことは、この家を家族全員が住み心地がいいと感じられる場所にすることかしらね。それはいまでも続いてる目標だけど、どう、雪ちゃん、この家はそういう場所になってるかしら?」
「んー、喬はどう思ってるか分かんないけど、少なくとも私にとってはこの家は気の休まる場所になってるかな」
「それを聞いて安心したわ」賀子はほっと安堵の溜息をつく。
「でもね、雪ちゃん、今のうちに康治さんとの関係をどうするかしっかり考えていかないといけないわよ。この家だって、喬が結婚することになったら、雪ちゃんの居場所はなくなってしまうわけで、その時にどうすればいいかわからない、では困ったことになりかねない。それに、私たち両親だって、なんどきぽっくり行くかしれないんだから、そう云う面でもしっかりと覚悟しておかないといけないのよ、わかってる?」
「そうね。たしかにそうだわ」
 雪美は母の言葉に相槌を打つ。
「まあ、まだ時間はあるんだから、ゆっくり考えるといいわ。それに、真もなかなかいい子を見つけたみたいで、祖母としてはうれしいわ。もちろん、その子が真のお嫁さんになるなんて云うメルヘンチックな思いこみはしないけど、そうしてあの子も大人になっていくのよね。まぁ、まだ小学校三年生ではそこまで考えるのは早計でしょうけど」
「確かに早すぎるわ」雪美は母に笑いかける。

 その夜、雪美は真と美都を寝かしつけ、同じ部屋で遅くまで本を読んでいた。部屋の明かりをつけると、子供が目を覚ましてしまう恐れがあるから、雪美は小さな卓上ランプをつけて、その明りで読書をしていた。ふと何が自分にできるのか、母はあんなことをいったけれど、やはり、子供の将来の目標のように明確な、しっかりとした自分の目標を立てるべきだとの思いが強まったのである。雪美は机の抽斗[ひきだし]から白い紙を一枚取り出すと、机の上に置いて黒ペンを握り、そこへ思いつくままに言葉を並べていった。

 将来の夢――ビジョン――
   ――子供の頃になりたかったもの――翻訳家。
   ――大学(仏文科)。同期の沙織は現在編集者。
  自分の能力を信じて、生かせるもの――何がある?

 そこまで書きつけて、筆が止まる。仏文の授業で習った文学者の名前をつらつらと思いだして口に呟く。文学、詩、戯曲、評論、哲学、論文、いろいろな分野のいろいろな偉人の名前が泉のように湧きだしてくる。これまでに忘れていた、青春の幾分かをそれに捧げて来た事実を今更ながら思い返す。
 ――自分ができることはなにか? その観点で考えては、何も出てこない。
 ――自分はなにをしたいのか? この線で考えなくてはならない。
 できることを探すのではなく、やりたいことを探すこと、それが重要。
 雪美は今更ながら、そのことに思い至った。
 いま雪美は強く、大学で学んだことを活かせる職を探そうと、三十を越えた今になって強く希[ねが]った。そして、同期の沙織に連絡を取って、どんなものでもいいから、仕事をもらえないか、頼んでみることを決意した。
 連絡は年に二、三度しか取っていなかったが、それでも疎遠になっているわけでもないので、電話することにためらいはなかった。
 夜の十時を過ぎていたけれど、雪美は相手が編集者であることを思って、この時間でも大丈夫だろうとの予測を立てていた。雪美は子供たちの寝ている部屋を出て玄関を抜け、家の前で話すことにする。
「あ、沙織? 私、雪美よ! 広瀬雪美」
 雪美は分かりやすいように旧姓で名乗った。
「ああ、雪美か! いったいこんな時間にどうしたの? そもそもあんたが電話してくるなんて相当珍しいんだけど!?」
「いろいろあってね。いま時間ある?」
「うん、大丈夫よ」
「実は、いま仕事探してて、よかったら、沙織いま編集の仕事してるから、そういう関連の仕事もらえないかと思ってね」
 雪美は当たって砕けろという思いで元同級生に頼み込んだ。
 電話口では明らかに返答に困っている雰囲気の沈黙が流れる。
「ああ、やっぱり、無理かな?」
 伊能沙織は云いにくそうに告げる。「雪美、この仕事はね、かなりハードなんだよ。部外者がぱっと入ってきて、すぐに物になるようなものじゃないんだ。それくらい、学生時代、頭の良かったあんたなら、すぐに想像つくと思うんだけどね」
「どんな仕事でもいいから、一度、やらせてくれないかしら?」
 沙織は電話口でしばらく「んー」とうなる。
「それなら、『夢の痕』っていう題材でエッセイを六枚、期限は一週間で書いてみてくれる? いまはそれくらいしか見てあげられない。それも一つの枠に寄稿者四人、採用は一人だけってことだから狭き門なんだけど、それでもやるんだったら話は通しとく。なんたって、他ならぬ雪美の頼みだもん。聞かないわけにはいかないし!」
「ありがとう」雪美は感謝の言葉を述べ、温かい気持ちで携帯の電源を切った。
 高い空にはたくさんの星がまたたいていた。


13 :蒼幻 :2009/10/29(木) 09:29:57 ID:tcz3sknm

★ (5/5)



 雪美の仕事は喬がプライベートで使っていたパソコンを廉価で譲り受けることから始まった。パソコン自体は学生時代に使ったことがあったから、基本的な操作でつまづくことはない。機種は国産のノートブックでサイズも普通の十四型ではなく、幾分小型の十二型の持ち運びに便利なタイプである。喬はそれまでに使っていたデータやアプリケーションソフトを消去せずに譲ってくれたので、雪美にとってはありがたかった。そのパソコンでゲームや動画、CGに音楽といったものを楽しむ気はまったくなく、実質、テキストエディタやらワープロソフトと云ったものがあればそれでよかった。印刷は一枚あたり十円を払って喬の部屋にあるものを使わせてもらうことで話がつく。
 雪美は何年かぶりに自分の文章を書くことになった。
 題材は沙織から貰った『夢の痕』。〈アト〉というのは〈痕〉の意味で、〈後〉でもなければ、〈跡〉でもなく、どちらかといえば、〈キズ〉に近いものだと云う説明を受けていた。それさえ間違わなければ、あとはどんな風に解釈してくれても構わないとのことである。
 まず雪美が思ったのは痕という言葉が傷、すなわちなんらかの外傷を受けたもののように思われて、すぐに、ひどく屈折して、精神的に正常でいられないような歪んだ心が見せる悪夢のようなものを髣髴した。そして、その夢の体験者が眠りから覚めた直後に捕えられる心的ストレスについて考えた。まず、雑誌のコラムに書く物としては、そう云う非日常的な、どこか病気を思わせるような記述は、確かに目新しくて、興味をひくものではあるものの、一度読めばそれで終わりと云うような、明らかに使い捨ての文章になってしまうことが多いだろうと予測した。それならば、読むことで少しでもいい気分を味える、読んだ人がその文章に憧れて何度も読み返したくなるようなものの方がいいのではないかという考えに傾いた。

  夏草や兵どもが夢の跡

 松尾芭蕉のこの句は沙織の指定してきた〈痕〉ではなく、〈跡〉を用いているから、そのままでは使えない。しかし、この佳句の味わいを利用して文章を書くことはできそうな気がする。もともと、エッセイと俳句の相性はいい。『一夜の夢が残した過去の思い出を起居後に振り返る』と云う筋が最適ではないかと考えた。しばらく、その線で文章を考えてみる。儚く消え去りやすい夢の性格を捉えなおし、あくまで自分のなかでこれまでに体験した、起きてからその世界観に焦がれるような夢がいくつかあったことに気づく。そして、理想、真実、希望、そういった明るい言葉が連想させる、いわば未来に向かう気持ちを醸す夢こそ、今回の題材に適しているのではないかとの結論を導いた。
 雪美はルーズリーフに今回のエッセイで書いてみたいことをいくつか箇条書きしてポイントをまとめた。書いてみると、項目はかなりの数にのぼる。これを取捨選択していかないといけないわけだけど……と雪美は考える。無駄なものを消し、入れ替えるべきところは入れ替え、ときどき加筆して体裁を整える。ずいぶん、スリムになったと感じられるところまでその作業を続ける。ルーズリーフはすでに十枚目に突入していた。
 雪美はそのプロットが仕上がれば夕食の買い出しに出掛けようと思っていた。
 時刻は十五時半。もう少しゆっくりできる。
 沙織の提示した期限まであと六日。こつこつやれば間に合うだろうとの思いがあった。沙織はそのあと携帯メールでパソコンのアドレスを教えてくれていた。原稿はそこにテキストデータで入稿してくれればいい、と告げられていた。そうすれば、数日内に社内で審査して合否の通知をするから、と云うのである。雪美は曲がりなりにも自分が社会の一員になっているような疑似感覚を得た。あくまで第一歩を踏み出しただけであるが、すでに、そこの一員になって久しいものであるかのような印象まで持ちはじめていた。
 雪美はエッセイの冒頭を考えはじめた。最初に読む者の心をガツンと捉えるような印象的なエピソードを書くのもいいけれど、それよりは、上質なクラシック音楽のように聴く者の心を自然でのびやかにするような心地よい旋律を持って来て、その魅力を、読者の読み進める動機にしてみたいと思っていた。それにはどんな書き出しが最適なのか。思案のしどころである。
 雪美はそれから一時間ほど知恵を絞ってみたが、なかなかいいものが浮かばない。これは予想以上に難航するかも知れない、との思いを得た。が、最初の波を乗り越えれば、第二派、第三波は越えられないものでもないだろう。雪美は落ち着いて考えていた。そして、気分を変えるために時間を前倒しして、夕食の買い出しに出掛けることにした。
「お母さん、買い物に行ってきます」と雪美は母と美都に告げる。
「おかあさん、美都もいきたい!」祖母の賀子の元を離れて美都が玄関に出てくる。
「困ったわね」と雪美はつぶやいた。もともとさっと行ってさっと帰ってこようと思っていたのである。しかし、今日はずっと自分の部屋にいて書きものに集中していたから、美都と遊べていないのも事実だった。雪美は思いなおして賀子に云った、「美都も買い物に連れて行っていいかな?」と。
「やっぱり美都もお母さんと一緒の方がいいんだろうね」賀子は悲しそうな眼差しをする。
「母さん、そんな顔しないでよ」雪美は戸惑うような声をあげる。
「まあ、行ってらっしゃい。気をつけてね」
 雪美は玄関の棚の上に置いてある車の鍵を手にし、美都を連れだって家を出た。
 まだ四歳の美都には助手席のシートベルトは鬱陶しいらしく、雪美は二本通すベルトのうちの下部の一本だけを美都の身体に廻し、あと一本は座席の頭を置く部分に廻してやった。あまり勧められたことではないけれど、厭がって、シートベルトをつけるのを拒否されるよりは、一本でもいいから、しっかりと装着することを選ぶ方がいいだろうとの配慮だった。
 雪美は車のエンジンを掛けて、発進する。
 実家に帰って来てからは、車の運転をする頻度も高くなっていた。もともとここらはかなりの田舎であるので、車がないと、ちょっとした用事にも対応できないと云う欠点がある。雪美は大学時代に免許をとったけれど、それからはしばらく運転をしていなかった。村崎家にも車はあったが、遠出のほとんどは夫の康治の運転だったし、なかなか雪美が運転する機会は回ってこなかったのである。それで、村崎家を出て実家に戻ってきた当初は公道を走るのは怖いと感じていた雪美だったが、しばらく家の近くの道を走らせて感覚を摑んでから国道に出てみると、それまでに自分が感じていた恐怖はなんだったんだろうと思えるほど、運転の感覚は蘇っていた。それからは買い物も自分で出掛けるようになり、賀子には留守番をしていてもらうようになったのだった。

 家に帰って来ると五時半を過ぎていた。
 賀子はテレビの情報系番組をつけながら、裁縫をしている。
 雪美は夕食のハンバーグの材料を残してあとのものをすべて冷蔵庫に収めた。この季節にキャベツは高かったけれど、それも塩茹でして簡単に食べられるようにしようと思っていたのだった。夕食の準備はそつなく進んでいく。あとは焼くだけと云うところまで作業を終え、雪美は実父と弟が帰ってくるまでの時間を美都の相手をしてつぶすことにした。
「美都、ひらがなの書き方憶えてるか見たげよう。こっち来て」
 美都は「うん」と素直に返事して雪美の脇に座る。
 雪美は新しい紙を一枚持ってくるとペンと一緒に美都に渡した。
「じゃ、美都の〈み〉と〈と〉書いてみよっか?」
 祖母の賀子はその微笑ましい様子に顔を晴れやかにしていた。
 そうするうち、真が家に帰ってくる。
 学校からの帰り道、いつも一緒にいる澪が寄っていかない、と云って真を家に誘ったらしい。それでこんな時間にまでなってしまったことを真は雪美に謝った。
「今はいいけど、冬は日が落ちるのが早いから気を付けるのよ」と雪美は云う。
 真は怒られるのを覚悟していたようだったが、その言葉を聞いて安堵していた。


 雪美は夕食の準備を終え、家族全員がそろって御飯を食べ終えた後、部屋にひっこんで、またも文章を書くのに集中した。文章を書いていると、不思議と頭の中は鮮明になっていく。ふだん、ぼーっとして頭の中を通り過ぎて行くさまざまな着想は、実は無駄にすることはとてももったいないことで、そう云う一瞬のひらめきが大きな珠となるきっかけであることに気づかされる。夢もそう云う物ではあるまいか? 実は、偉大なるものの端緒であるのに、人はそれを軽視し過ぎているのではあるまいか? 雪美はそんな着想が頭の中で育っていくのを心地よく感じていた。
『雪ちゃんは空想家ね』と幼い頃母に云われた。
『想像することって楽しいから』雪美は学校の図書室の本を漁っていたことを印象深く思い返す。昼休みは図書室で過ごすことが多かった。借りた本の数も、クラスの中でダントツだったことが卒業する直前にわかった。大人になってからはあまりそういう気はなかったけれど、情緒豊かな若い頃は、それでも文学少女というある意味死語的な言葉を夢のように信奉していて、自分のような人材はとても貴重であるかのような錯覚も起こしていたのだった。
 いまこうして文章を書いているのも、そう云う面での繋がり、仏教的にいえば因縁のようなもので繋がっているのじゃないか、と思えてくる。
 しかし、なかなか書き出しが決まらない。最初が決まらないと次を書くわけにもいかず、雪美は躊躇した。日が替わる頃までうんうん唸って考える。それでもいい言葉は浮かんでこない。これは自分の中で書きたいことがまだ成熟していないのではないか、と考えられてくる。
 雪美に焦りはなかった、まだ六日あるのである。
 しかし、一日経ち、二日経ちするうちに、もしかすると、自分はこのまま何も書くことなく期日が過ぎてしまうんじゃないかと思うようになってきた。それは心が弱っている証拠だった。希望を胸に抱いているときには自分はどんなことだって出来そうに錯覚するけれど、それが失われた時には自分の能力は最低ランクであるような気がして、本来の力を十分に発揮できなくなる。雪美の場合もそれだった。
 彼女は自分の部屋から外の景色を覗く。
 外は晴れ渡っていて、開けた窓からは匂やかな春の微風が漂ってくる。そろそろ夏に差し掛かろうかと云う時期だったが、まだまだ暑くなるのはこれからである。揚羽蝶がふわりと飛んでいるのが見受けられる。その後ろから、二、三の小さな紋白蝶が飛んでいる。家の前の小さな花に蜜を求めて集まっているようだ。庭を眺めるために窓辺に寄ると、そこには賀子と美都の姿があった。美都はすくすく成長している。そして賀子との相性はとても良いらしく、いつも一緒にいる。観ていると、美都は蝶々が宙を舞うのが不思議らしく、それに指を向けながら、祖母にあれこれ訊ねていた。
「そうだね。蝶は貴重だから、いじめちゃいけないよ」と賀子が云うと、
「うん、わかった」と美都が告げる。
「いい子ね」と賀子が褒める。
 美都の表情を見ると、とてもうれしそうだ。
 雪美は書きものに戻ることにする。
 何か身の周りにヒントはないものか、と藁にもすがりたい気持ちが雪美の心に押し寄せていた。しかし、何も思い浮かばない。
 ――ああ、駄目だ。雪美は何度目になるか分からない溜息をついた。
 このままでは埒が明かないと雪美は考えた。どうして書けないのかを考えてみる。
 それで浮かんだ注意点――。

 (一)自分の思っていること以上を書こうとしている。
 (二)PCに向かえば、つらつらと文章が生み出せるとの勘違い。
 (三)自分は長年書いてきた人間とは違う。
    彼等と自分を同一視していること自体烏滸がましいことである。
 (四)書くことで何か自分が特別な人間になったような疑似感覚を得ようとしている。
    人も運命も欺く僭越な感情――いますぐ取り去るべき。

 そのようなことが思い浮かぶ。ポイントはいろいろあるけれど、要するに自分を過大評価し過ぎているわけだと雪美は思う。自分の立ち位置をしっかりと見据えて、そこから生み出せるものだけを相手にしていれば、書けないという事態はとりあえず乗り越えられるだろうとの思いを胸に抱く。
 そして、謙虚な気持ちを持って、再度、PCに向かうことにする。
『起きた後もすっかりとは消え去らず、残像のように意識に痕を残す夢がある。』
 雪美は自然に冒頭の文章をひねり出す。書ける、書けるじゃない! と雪美は思う。それまでうんうん唸って、まったく一文も浮んで来なかった自分が冒頭の一文を書けた。それは大きな進歩だった。その文章が良いのか悪いのかはまだわからないけれど、とりあえず、第一歩は踏み出せたのである。大きな進歩だ。
 雪美は続きを書くことに専念する。
 もともと書く内容はプロットとして決めてあったから、何を書いたものかと云う戸惑いは避けることができた。
 雪美は時間をかけて言葉を紡いでいく。それは不思議な時間感覚だった。もちろん、大学で卒業論文を作成するときも同じように一から文章を作っていったけれど、今回はそのときとは雰囲気と云うか、自分の心持ちがまったく違っていることに気づかされた。頭で考えるのではなく、心で思っていることを形にしていく感覚。それがとても強いのだ。論文のようながちがちの文章を考えることは、雪美には本来合わない文章の作り方だったのだろう。こうして書くエッセイの文章は、心がやけにのびのびして、曇り一つない快晴の青空であるように思えてくる。雪美は真の入学式のときにみたあのどこまでも高く透き通る蒼穹と云う言葉を髣髴する空を思い出した。
 遮るものはなにもない、心は自由に羽撃いている。
 無垢な心、路傍に転がるつまづきの石を避けて渡る身の軽さ。
 雪美は期限を二日残して文章の推敲まで済ませて体裁を整えた。
 これでもう大丈夫と思えるところまで直しを重ねた文章。プロの目から見ると、この文章はどれくらいの出来なのか。雪美はもう一度、学生時代に戻って定期テストを受け終わった後のあのドキドキ感がぶりかえしてきたような印象を持った。採点が済んで答案が返されてきたときに、予想点数よりも上なのか下なのか、それは雪美の臆病な心にはいつも悩みとして黒い斑点を残す悪い癖だったのであるが――。
「メールで送っといたから、よろしく」
 雪美は指定のメールアドレスにテキストデータを送り、沙織に電話した。
 沙織は「早かったねー。大丈夫? しっかり書けてる? だめだったら、容赦なくはじくからね!」と声を上げる。
 雪美はぴしっと身のひきしまる思いがした。もちろん、自信なんてない。でも、出来るだけのことはしたのだ。結果はどうあれ、これで自分の設定したハードルを一つ飛び越えたのだ、という気がした。これで成功すれば、将来の〈ビジョン〉が見えてくる。無理だと思っていたことを現実の夢として捉え直せそうな気がしていた。
「じゃ、あとはよろしく。採用の合否はいつ頃分かるかな?」
「んー、まだ原稿は全部揃ってないから、来週末くらいになるかな」
「そう、わかったわ、ありがとう」雪美は礼を述べる。
「実際、私も楽しみよ。あの成績優秀だった雪美がどんな文章を書いてきたのか」
「やめてよ、照れるじゃない」雪美は苦笑を漏らす。
 そんな雪美の反応を電話口の沙織がくすっと笑う。「それじゃあ、またね!」
「うん、また!」雪美は携帯の電源を切ってから、ほっと溜息をついた。
 これで一仕事完了。あとは結果を待つだけ。
 雪美は一週間後に連絡をもらう。沙織が云うには雪美の書いた文章は上に受けがよくて、こんな風に書けるんだったら、これから定期的に仕事を回してあげなさい、と云われたそうである。雪美は一歩を踏み出したのだった。


14 :蒼幻 :2009/11/24(火) 00:48:33 ID:tcz3sknmPA

第1部 幼年期 第3章

 


15 :蒼幻 :2009/11/24(火) 00:49:40 ID:tcz3sknmPA

★ (1/5)



 執拗に繰り返される陰湿な行為はクラスの雰囲気を重苦しい物にしていた。
 ことなかれ主義で見て見ぬふりを決め込む奴ら、同意はしないけれどその行為を間接的に了承しているような、数の暴力に近い形で無言の圧力を加えている連中、反対すれば自分も同じ目にあわされるのではないかとの恐怖からその行為に自ら加わっている者。クラスの中に真っ正面から異を唱えてその行為をやめさせようとする者はなかった。
 ――きっかけは何だったのか? 確かいじめている人間もいじめられている人間ももとは一緒につるんでいた仲間だったと真は思い返す。しかし、そのいじめられっ子仙波充[せんばみつる]は五月に病気で高熱を出したとかで一週間ほど学校を休んだことがあった。そのときにどうやら話がこじれて、グループからひとり除け者にされ、いまこうして数の暴力に屈しようとしているのであった。クラスの女子は充といじめっ子グループの首領である甲本一郎の方をちらちら見ている。
「何見てんだ、こら!」
 まるでやくざの物云いのように、関係のない生徒にも当たり散らす一郎。
 真は傍観を決め込もうと思っていたが、曲った事は嫌いと云う生来の気性に加えて、今日は朝からむしゃくしゃしていたので、さらに一撃充を殴ろうとしている一郎の腕を抑えて、「もうやめといたら?」と口を挟んだ。
「なんじゃ、おまえは!」一郎は怒りの矛先を真に向けようとしたが、そのとき、前のドアが開いて担任の連城栄[れんじょうさかえ]が姿を現し、事態の進行は中断された。「おぼえとけよ」と一郎は捨て台詞をはく。真は安堵の溜息を漏らす。もし殴りかかられていたら、自分もただではすまなかっただろうから。もともと真は穏健派で、争い事に加わるようなタイプではなかった。勉強もそこそこでき――それは家で根つめて勉強しなくてもある程度の点数を叩きだすことが出来るという意味だが――、運動神経も悪い方ではない。とはいえ、一郎との体格差は歴然で、向こうがクマなら、真はキツネかイタチのようなものでしかなかった。
「村崎君、席について!」教壇から栄先生の注意が飛ぶ。
「はい」真は素直に返事をして席につく。
 それを待って、起立、気をつけ、礼、着席の号令が学級委員からかけられる。
「はい、おつかれさま」
 栄先生は柔和そうな笑みを顔全体に押し出して挨拶をした。真は見馴れた先生の姿を初めて見るもののように改めて目に写した。
 薄いフレームの眼鏡をかけていて、そこから覗く眼は茶色がかっている。真はそれを磨かれた珠のようだといつもうっとりした気持ちで眺めるのだ。顔はそれほど肉が付いておらず、頬骨が若干出っ張っているのが分かる。身長は百七十五センチくらいで高すぎると云うのでもない。身体の線は細くて、年齢は三十歳ジャスト。その先生が満面に喜色を浮かべながら、話を切り出す。
「あのなあ、今度の夏休みにオリエンテーリングとして、県から科学の分野でミーティングが開かれることになってるんだ。もし参加したいものがあったら、先生のところに云いに来てくれるかな? これには大人も結構力を入れていて、貴重な体験ができるように工夫を凝らす予定だから、貴重な体験ができるし、夏休みの思い出作りにも最適だと思う。予定は一泊で、高尾山での活動になる。行けそうなものはまわりの友達を誘って、ぜひ、来てくれ、これは蛇足だけど、先生も参加予定をしてるんだ」
 生徒達はそれぞれに声を洩らしながら、隣や前後の席のものと視線を交わしあい、場はざわつきを見せた。「甲本! おまえこう云うの得意じゃないか、活動とか好きだろう?」
 栄先生は男子生徒の中で一番元気が有り余っている、最前のいじめっ子を名指しした。
「確かに好きだけど、勉強が絡むのはいやだよ」
「そう、云うな。美味しい物も食べられるぞ!」先生はにっこりほほ笑む。
「ああ、それなら行ってもいいかな」
「現金な奴だ」
 そのやり取りにクラスの何人かが浮足立って周りのものと話しだす。
「先生、僕、参加したい!」
「私も」
 口々に声がかかる。
 しかし、「でもな」と先生は重たそうに口を開いた。「泊まりと云うこともあるし、家の人に許可を取ってから話をしにくるように。君らの意思だけで決めるわけにはいかないしね」
 盛りあがりかけていたクラスのムードは小康状態になった。
「じゃ、今日の帰りの会は終わりだ。みんな、気をつけて帰ってな!」
 そう云うと先生は早々にクラスをあとにした。まだ雑務が残っているのだろう。教師の職も忙しいんだな、と真は思う。そして机の中のものを全部鞄に入れて外へ出ようとしたとき、横からぐいと腕を摑まれた。その腕は万力のように真の腕をねじあげる。
「さっきはよくもすかした真似してくれたな、覚悟はできてるんだろうな?」
 その下品な物言いは、三流映画の見過ぎだろうと真はクールに考える。しかしそんなことを思ってもいま置かれている事態が好転するとは思えない。真は強い眼差しでそのいじめっ子甲本一郎をぐいと睨みかえした。
「その目がむかつくんだ」
 一郎はもう一方の手で真の顎をぐいと摑み、腕に力を入れてくる。
 真は頭がくらくらした。
 これまでに誰かに危害を加えられたことはなかった。家でも長男と云うことで大事に扱われていたし、それまでの学校生活でも皆からはみ出すような行動は一切とらなかったから、今回が初めての経験である。もともとこの甲本一郎というのは無理に理由を作ってでも誰かにつっかからないと我慢できないたちで、どのクラスにも一人はいるタイプの暴漢であった。しかし真にはそんなことを意識する経験的な積み重ねもなかったから、ただ目の前に起っている受け入れ難い現実に身を任せるしかなかった。
 真が抵抗するそぶりを見せなかったのが幸いしたのか、一郎はそれ以上、何かしようとする気持ちも萎えたらしく、両腕を同時に離した。真は喉を摑まれて息ができなかった苦しさから、ごほごほとむせた。
「また何かしてくるようだったら、その時は容赦しないからな」そう云って、一郎は数人の取り巻きたちと一緒にクラスを出て行った。
 真はなおもむせている。
 大丈夫? とは訊ねないまでも、下校時刻になったクラスの雰囲気は真に同情的であった。真がまるで英雄であるかのように、クラスの面々の顔には真に寄せる同情の念が色濃く漂っていた。真は苦しいのは自分だけで、クラスの皆はただ、いまの出来事を傍観していただけなんだ、何もできない無力な人間たちなんだ、という思いで胸を満たした。苦しみとか、痛みとか、そう云う物に人は弱い。誰だってそんなことは嫌だろう。でも悪いことを悪いことだとしっかり主張して匡[ただ]していかないと、周りの環境は悪くなっていく一方だ。真は強い意識を持って、いじめという陰湿な行為に否定的意見をぶっつけた。それはひとつの抵抗であった。流れやすい、移ろいやすい、感化されやすい人の心の善の部分をつなぎとめる、貴重なる橋頭堡を確保したと同義だった。もちろん、真の頭には橋頭堡などと云う難解な語句はなかったが、物事をより正確に描写しようとするならその例えが最適であろう。
「広瀬君、ありがとう」見ると後から追って来たらしく、いじめられていた当人、仙波充が廊下の途中で声をかけてきた。
「ああ、気にしないで、誰かが辞めさせないといけなかったんだから」
 真はこわばっていた表情を、ふっと弛める。
「でも、僕、村崎君の行動には感謝すべきだと思うんだ」


「真でいいよ」
「ああ、うん」充は真と一緒に廊下を並んで歩く。
 ややあって充が口を開いた。
「真君、よかったら、友達になってくれないかな?」
 充の言葉には功利的な気配――虎の威を借ろうとするような気配は微塵も漂っていなかった。
「うん、友達になろう」真は請け合った。
 とたんに充の顔が明るくなる。そうして笑っていればいじめなんて受けるような人間には見えないが、口数も少なくうつむき加減でいると、充の姿は影を背負っているかのようなある種の淀みを纏ってしまう欠点があった。そこが自分の楽しみしか追及できない甲本一郎のような奴らに目の敵にされてしまうわけか、と真は思う。しかし、そんなことをいきなり云い立てても仕方ないと真は考える。
「一度先生に相談してみようか?」と真は充に訊ねた。
 しかし充は浮かない顔をして答える。「あの先生は一郎君に好意的だから力にはなってくれないよ」
「でも、こういうとき一番頼りになるのは先生なんだから、一度話をするだけでも」
 真は云い募る。
「そう云うのなら、気は進まないけど、行くだけ行ってみようか」
 担任の話は屈折したものだった。真たちが真摯に先生に話を持って行ったのであるが、栄先生は、いったいどうしていじめが発生したのかという原因を追究することなく、生徒同士の問題はできるだけ生徒間で解決すべきだ、そうしないと社会に出てから同じ悩みで身を滅ぼすことになる、と尤もらしいことを並べ立てた。真はこの先生では埒が明かないとの思いを抱きつつあった。真には、大人は子供が困難や壁にぶち当たったとき、必ず障碍を打破してくれるものと、どんな不可能に見えることでも解決に導いてくれるスーパーマンである、と思っていた節があった。それが無惨に打ち破られた。頼りない、当てにできない教師。真は自分がしっかりするしかないと、職員室を出て靴を履き、充と並んで下校しているときに決心した。
 クラスではそれからたびたび、甲本一郎が仙波充をなじることがあった。
 真はその都度、充に助け船を出そうと試みたが、一郎は真のでしゃばりに心を乱されていて、そのうち、真に対する当てつけのように、充をいじめながら真の方を不敵に眺め見ると云うようなことがあった。真は怒りこそしなかったが、なぜ周りの生徒はひとりもこの横暴に声を上げないのかと、そちらに憤りを覚えていた。一郎を孤立無援にすれば反省を促すこともできるというのに。所詮、その他大勢は大勢でしかないのだ、無個性なんだ、事なかれ主義なんだ。真はときどき母の雪美が口にする言葉を心の中に思った。無個性の事なかれ主義という雪美の言葉は、いまは近くにいない夫康治に向けられた言葉だった。
「村崎! おまえ、父さんがいないんだってな?」
 一番突かれたくないことをずけずけと云ってくる一郎に真はめまいを覚えた。
「それがどうしたんだよ」真は真面目な顔つきで一郎に云い寄る。
「父さんがいないから、そんなに軟弱なんだよ。俺と正面切ってやりあえるか? できないだろう。おまえはへたれなんだよ。糞の役にも立たねえクズなんだよ」
 一郎は真を挑発してくる。
 真はこれまでにそんな暴言を浴びせられたことはなかった。相手の吐く言葉で我を忘れるようなそんな短絡的な思考回路はしていないものの、やはりそんなことを云われて面白いはずがない。真は火に油を注ぐきっかけになりかねないため、反論はよしておいた。
「父さんがいなくても、成長はできるんだよ」
 真はあくまで冷静に告げる。
「ふん、モヤシ野郎が!」
 一郎の攻撃目標は真にシフトしたらしい。
 真はそれには取り合わず、四時間目の授業の準備をしに、席につく。
 一郎はまた「ふん」と鼻を鳴らして席につく。
 次の授業の算数は真の好きな教科だった。図形の面積を求めたり、分数の計算をしたり、組み合わせの数を調べたりする算数と云う科目には、他の教科にはない美しい秩序があって、その整った結晶体を頭の中に作り上げ、無駄を廃絶し、理論が絶対的権利を保持していることに憧れを抱いていた。
 家では母の雪美の薫陶によっていまでは難しい文学作品も少しずつ読むようになってきている。雪美の教育は主に人文の分野のものだった。国語への理解の深さが人生の深さを演出するとでも見ているかのようで、その徹底は真を真[しん]の文学人間としたいようだ。教科としての国語はさほど好きではないが、趣味で読む小説の色彩にはめまいを覚えるほど、めくるめく貴重な体験を味わっていた。それまでに母が教えてくれなかったこと。算数などの理系科目を習うことが、真にまだ見ぬ世界を見せてくれ、それが勉強に打ち込むきっかけになっていたのだった。さきに真は家で復習しなくてもそこそこの点数は取れている、と記した。それは本当であった。学校の授業は本腰入れて打ち込むものの、いったん家に帰れば、そのことはきれいさっぱり忘れて、自分のやりたいことに取り組む。それは読書であり、作画であり、遊戯であった。
 あれから充とは毎日下校を共にしていた。
「ねえ、真君、今日、うちに寄ってかない? 母さんも家にいないし、一人なんだよ」
 その言葉に導かれて、真は自分の通学路から少し離れたところにある充の家にお邪魔することにした。
「あれ、靴が……」玄関の扉を開けた充が声をあげた。「ごめん、お姉ちゃんが帰ってるみたい」
 見ると、真より一回り小さな赤い靴が玄関にちんまりと置かれてあった。それなりに履き古されてあったが、見すぼらしいほどではなく、丁寧に履かれてきたものであることがわかる。「まあ、上がって!」と充は明るい声を出す。
 玄関を抜け、リビングに向かうと、そこに充のお姉さんがいた。
 長い黒髪がすべすべの白い肌を取り巻いていて、目はぱっと見ただけで印象に残るような魅惑の輪郭を持っている。ぱっちりと開いた瞳の裾に自己主張の激しい睫毛がピンと立っているのがわかる。真は顔がぽっと上気するのを感じた。いけない、こんなに注視するのは失礼だ……。真は咄嗟に目をそむけ、その動作が露骨でなかったかと心配した。
「こんにちは」とこれも整った声でお姉さんが挨拶してくる。
「こ、こんにちは」と真は若干どもった。
「充が友達連れてくるなんて、珍しいね」
「あ、真君、こっちが姉さんの楓[かえで]。僕たちより一こ上なんだ」充が紹介する。「そして、姉ちゃん、こちらがクラスメイトの真君」
「ああ、よろしくね。それにしても――」と楓は語尾を伸ばす。「いつもの陰気な充はどこいったんだろうねえ。しゅんとして、元気がなくって、虚ろで、生きてるかどうかの心配をしないといけないほどなのに、今日の充は元気があって、張り合いがあって、まったく別人みたいだよ。やっぱり友達がいるから違うのかな?」楓は魅力的な笑みを真に向ける。
「あ、お茶かジュースどっちにする?」充は二人の様子を交互に見てから訊ねる。
「あたし、お茶でいいわ」と楓。
「なら、僕もお茶で」真が告げる。
「ちょっと待っててね」充は二人を残して席を立つ。
 真は若干の気づまりを感じた。
「ねえ、君、結構かわいいね」楓が真の顔を覗き込むように云う。
「えっ!?」と真は戸惑う。
「それはまたにしておこっか」真の戸惑いをよそに楓は一人で話を進める。「とにかく、弟のことよろしくね。あんなでもたった一人の弟だからさ、心配してるのよ。学校でいじめられてるんじゃないかとかね」楓は鋭い。
 しばらくして充が三つのコップにお茶を汲んで戻ってきた。


16 :蒼幻 :2009/12/13(日) 03:50:18 ID:tcz3sknmPA

★ (2/5)



 澪は一年前の春の新学期、またも父親の仕事の都合で今度は青森に引っ越した。
 真はそれから今まで、別れるときに澪から聞いた住所へ頻繁に手紙を書き送っていた。小学生の恋心なんてあまりにも弱いものでしかないけれど、二人の意思は堅固だった。確かに三年生のころは同級生たちにからかわれたものだ。女と一緒に歩いてるなんて不潔だと云われて。でも、どうして不潔なんだと云いよると、要は上級生たちの受け売りで生理のことを云っていたのであるが、同級生たちがそのことをしっかりと理解しているはずもなく、しどろもどろになるしかなかったのである。
 そんなことは二人にとって、何の障碍にもならなかった。
 あるときは咲き匂う草花に溢れた春先の公園で、あるときは涼しげなせせらぎのある夏の川辺で、そしてまたあるときは冷たい風の吹く秋冬のすすきの原でかじかんだ手を擦り合わせながら、昨日感動したことや思い描いている将来の夢について語り合って時間を過ごした。澪は大きくなったらお菓子をつくる仕事に就きたいといった。
「父さんから聞いたけど、お菓子を作る人のことをフランス語で〈パティシエ〉って云うんだって」と澪はうっとりした表情で告げた。
 真はその〈パティシエ〉という響きに、一種の憧れを覚えた。これまでに習い覚えた日本語にはない独特のやわらかな語感。それはまだ知らないことの多い子供の心に、きっと素晴らしい仕事なんだろうなと云う思いを抱かせた。いつか真君の誕生日に大きなケーキを焼いてあげるから、と川に掛かった橋脚の下で澪は約束したものだった。
「真君はどんな仕事をしようと思ってるの?」と澪は目を輝かせて云った。
 小学三年の真はただ漠然とこう答えた。
「学校の先生になりたいんだ」
「立派な目標ね」と澪は云う。しかしその云い様にさほどの感動は見られない。
 真は本当に教師になりたいと思っていたわけではなかった。しかし、一緒に暮らしている母方の祖父正孝が高校の教師をしているのである。祖父を見ていると、いつもしっかりと前を見据えて、いかに生きるべきかと云うことをわきまえているようで、子供である真の目からでも、その生き方はとても素晴らしいものであるように見えていたのである。もちろん生徒を訓導するとか薫陶するとか、そういう教師職の本質について考えることは、まだ幼い真には無理だった。ただその祖父の姿が格好良い。そう思えるのだった。
 そんな互いの将来の夢を語り合った澪とも別れの時が訪れた。
 出発の前の日、真は澪のマンションに遊びに行った。
 そして連絡先を教えてもらって、きっと毎週手紙を書くから、と約束した。涙も流した。
 それから一年、真は律儀に澪に手紙を送りつづけた。子供の純真である。一度決めたら、余念を挟むことなく継続できることは子供の素晴らしい特質である。澪からも頻繁に手紙が届いた。母の雪美はその関係に心打たれているらしく、ときどき、「健気ね」とこぼすのだったが、真には〈健気〉と云う言葉の意味がまだはっきりとはわかっていなかった。
「ねえ、お母さん」真はある時、母に訊ねた。「澪ちゃんのお父さんやお母さんは仕事が忙しくてなかなか一緒にいられないのはわかるけど、どうしてうちはお父さんとお母さんが一緒に暮らさないの?」
 真はこの前、甲本一郎に云われた〈おまえ、父さんがいないんだってな〉と云う言葉を気にしていたのである。考えてみれば子供は残酷だ。大人なら憚って絶対口にしないようなことでも考えなしに口に上す。真に対する一郎の言葉がそうであるし、雪美に対するこの真の言葉もそうである。
 雪美は困惑の表情を見せる。
「どうして一緒に暮らせないか、か。原因はあるんだけど、まだ真には早いわ。大人になったら説明してあげるから、いまはただ、父さんとは暮らせない、とだけ、わかってほしいの」
「でも、どうしてかくらい理由を教えてよ」真は悄[しお]れたような声を出す。
 雪美は口をうっすら開けて、そこから吐息を漏らした。
 沈黙は真の心に暗い蔭を落とす。
「説明できないんなら、我慢するよ」真は云う。
「ごめんね」雪美は泣きそうな表情で真を見つめる。
「母さんにもいろいろあるんだよね。そして、父さんにも」真はしっかりとした語調で云う。「でもね、クラスの男の子に云われたんだよ。『おまえの家には父さんがいないんだってな』、って。『父さんがいないからもモヤシみたいなんだよ』とまで云われて、僕、悔しかった。でも事実を変えることはできないから、どうすることもできない。ただ疑問だったんだよ。どうしてうちは父さんも母さんもいるのに、一緒に住まないんだろう、って」
「ごめんね」と雪美は繰り返す。
「でもいいんだ。喬兄ちゃんが僕と遊んでくれるしね。それに美都もいる」
 真の気丈な言葉に雪美は涙をこぼした。
「ごめんね、ごめんね」
 それから真は今日届いた澪からの手紙を雪美から受け取った。
 真は雪美を後に残して、美都と共同で使っている勉強部屋に引っ込んだ。
 美都が教科書を開いているその部屋で、さっそく手紙を開封する。
 読んでみると、そこには真の心を浮足立たせる報せが書かれてあった。
『今度の夏休みにそっちへ行けることになりました。お父さんが一日だけしずおか[・・・・]で仕事をすることになったんです。そしたら、真君といっしょに遊べると思うので、よかったら会いましょう。楽しみにしています。OKなら電話でれんらくしてください。電話番号は0×××‐5×‐2×××です』
 澪の手紙はそれからも他の話題が書かれてあった。しかし真は、また澪と遊べると思うだけでうきうきする気持ちをどうにも止めがたかった。
 真は階下に降りると雪美に許可を取り、指定の電話番号に掛けることにした。
 七回のコール音を数えたところで受話器が取られた。
「もしもし佐竹ですけど」電話口の声はすぐに澪のものとわかった。
「あ、澪ちゃん、僕、真だけど」
「ああ、真君!」澪は嬉しそうな声を出した。
 真は自分も嬉しいと云う気持ちを出したかったけれど、どう伝えていいかわからず、ただ要件を述べはじめた。「手紙読ませてもらったよ。今度、こっちに来られるんだって?」
「そうなの。パパの仕事でね」
「うん、どこで待ち合わせする?」真の声には張りがあった。
「そうね。大田公園がいいかなって思ってるんだけど」
「大田公園か。うん、わかった」
「時間は七月二十八日の朝十時がいいかな」
「十時か。ちょっと散歩して、それからごはんは……うちに食べにくる?」
 真は澪に訊ねる。
「んー、あたし、お弁当作って来ようって思ってるんだ。もちろん、真君の分もね。でもあの素敵なお母さんにも会いたいし、どうせなら、二つとも実行したいかな。お弁当外で食べてから真君の家に行くってのでどうかしら?」
 澪は嬉しそうに提案する。
「いいね、それにしよう」と真。「それで、何時頃までこっちにいられるの?」
「パパに聞いたんだけど、夕方までは大丈夫だって。だから、五時くらいかな」
「そうかあ、うん、わかった。なら七月二十八日の朝十時、公園でね」
「楽しみにしてるから」と澪が云うと、真も、
「うん、僕も楽しみだよ」と云った。
 真は名残惜しかったが受話器を置いた。雪美は遠方だから電話代がどうとか云うような親ではないけれど、少しでも澪の心象を良くしておくにはそういうことにも気を配っておくべきである。真はそう思い、積もる話もあったけれど、早々に話を切り上げたのだった。


 待ち焦がれる日があると、時間の経つのは早いもので、あっという間に澪との約束の期日が訪れる。夏休みに入る直前、クラスメイトはみんな陽気に、開放的に、夏休みの予定を話し合っていた。クラスの中で除け者にされていた充は自分の席に座ったまま身動き一つせず、何を考えているのかよくわからない難しい表情をしている。真はその日ももう二十八日のことで頭がいっぱいになっていて、知らず識らず顔がにやけていたのだが、そのような充の姿に出会うと、彼の力になってやれない自分の無力さを思って、卑下感が強まる。あの充のお姉さんである楓にも、充と仲良くしてやってね、と依頼されたのだ。たまに一郎が充を摑まえて難癖をつけているところに出会えば、真はすすんで一郎に喰ってかかり、争いの矛先を自分へ向けて助けてやった。最近では、一郎は真が強情なのをよくよく承知しているので、真がトイレに立ったときや図書室へ本を借りに行っているときを選んで、充に突っかかるのだった。そんなことが繰り返されていたから、充は終業式の日もひとり椅子に座って暗くうち沈んでいたのだった。
 真はその日も充と一緒に下校した。
「夏休み中、充君家[ち]に何回か遊びにいくからね」真がそう云うと、充は蔭りのある表情を少しやわらげて云った。
「うん、いつでも待ってるよ」
 それから充は腹の中に収めていたものを吐き出すように言葉を継いだ。
「真くんはオリエンテーリングには行くの?」
「ううん、いかないよ。充君は?」
「うん、僕もいかない」
「どうして?」と真は訊ねる。
「だって、一郎君参加しそうだったじゃない。僕、いつもあんなだから、もしそこで鉢合わせしたら、酷い目に遭わされると思って」充は泣きそうな表情でそう云う。
「そうだよな。一郎君、どうしてあんなに充君のことを目の敵のように扱うんだろう?」
「わかんない」充は声を落とした。
 真はその彼の様子に言葉を失った。
 やがて、互いの通学路の別れる場所に差し掛かった。
 二人は「また」と云いあい、それぞれの帰路についた。
 真は一抹の淋しさを覚えながらも、もうすぐ澪に逢える喜びを想起してほほ笑んだ。

 二十八日の朝、真はいつもよりも早く目が覚めた。
 遠足の前の日のような高揚感がここ一週間続いていた。それは恋愛の初期症状だったが、もちろん、真は世の中にこんな感情があるなんてことは知らなかった。ただ気持ちが綿菓子のようにふわふわして、とりとめなく、空想の羽で大空を飛んでいるかのような、そんな印象である。朝食を急いで食べて母に叱られたが、落ち着かない真にその言葉は意味をなさない。顔を洗ったり歯を磨いたりと、朝の準備をしてそわそわしだす。雪美には今日が大切な日であることを知らせていた。三時のおやつに手製のデザートをふるまってくれるらしい。いま母は真が小さい頃にやっていたレジ打ちのパートをやめて、知りあいのつてでフリーライターとして身を立てていた。もともと大学でそういう方面の勉強をしていたらしく、世間の評判もなかなかいいらしいということを叔父である喬兄さん[・・・]から聞いていた。
 あまりに落ち着かない真の様子を見て思うところがあったのか、雪美は自分のCDの一枚をプレーヤーに入れて部屋に流した。
「これでも聞いて落ち着きなさい」
 それはサティの『ジムノペディ』だった。
 真はときどきこの音楽を母がかけるのを横で聴いていて、確かに落ち着く曲だ、と感じていた。そんなことを母に一言も云った覚えはないのにどうしてわかったんだろう、と真は怪訝に思ったが、それも母親だからこそかな、と無理から納得した。
 囲炉裏の前に座って曲を聴く真に雪美は砂糖の少なめのアイスコーヒーを作ってくれた。
 真はそれを飲みながら、一年ぶりの澪の姿を想像して心をどきどきさせた。
 ――澪ちゃんはどんな女の子になってるだろう? 手紙のやり取りからも真に寄せる気持ちは純粋なままであることに変わりないのはわかっている。しかし、真は、それ以上に実際に逢ってその人を感じると云うのはまったく別物であるような気がした。それは期待と恐れの入りまじった複雑な感情だった。
 音楽が一周半したところで約束の時間が近づいてくる。
 真はコーヒーのグラスを流しに持って行き、「いってくるね」と母に告げる。
 真は靴を履くのももどかしいと云う様子で慌ただしく玄関を出た。
 途中、何度も早足になり過ぎて、何もない平坦な道で転びそうになった。その様子を人に見られていないかと気にする余裕は真にはなかった。予想以上に心臓がばくばくする。待ち合わせ時間の十分前に公園に到着したけれど、澪は先に来て待っていた。
 澪の姿はあの一年前の澪を縦に引き伸ばしたままで、あの魅力的な優しげな顔立ちは若干大人びてそこにあった。真はその様子を見て、安堵の吐息を漏らす。
「澪ちゃん……」と真は呟くように云う。
 白のワンピースが風に揺れる。一年前より伸びた肩甲骨までの髪をすべらかな手でかきあげる。ふっとほほ笑む。そして声を発する。
「……真君」澪は魅力の増した声で真の名を呼んだ。
「おひさしぶり」と真。
「おひさしぶり」澪はにっとほほ笑む。そしてしばらく真をじっと見て、言葉を紡ぐ。「なんかあんまり変ってないけど、ちょっと男らしくなったみたい」澪は顔を赤くしながら云った。
「そう?」と真。「この一年いろいろあったけど、でも、澪ちゃんの姿を見ると、それまでの逢えなかった時間があっという間に過ぎ去った気がするよ」
「そうだね」
 真と澪はしばらく無言で互いの顔を見かわしあった。
「お弁当持ってきたから、あとで食べよ」澪は手にしたバスケットを胸元に引きあげた。
「ありがとう、お弁当、結構、楽しみにしてたんだ」
「いろいろ作ったんだよ。でも、これまでにあまり作ったことなかったから、失敗してたらごめんね」
「ううん、作ってくれただけで嬉しいんだから」真は肩の力を抜いて澪に告げた。「じゃ、しばらく歩く?」
 澪はそれに同意の頷きを加えた。
 二人は公園の周囲を大きくぐるりと廻ることにする。
 斜面になっている坂をずんずん登って行くと、遠くまで景色を見渡せる高台に出る。からっと晴れた夏空から適度な風が降りて来る。土産物屋の暖簾がはたはたと揺れ、澪の髪も細かくふるえながらもてあそばれた。白いワンピースの裾がふわりと膨らんで、澪はそれを手で押さえる。
「いたずら好きな風ね」と澪は頬を膨らませる。
 真は澪との再会を心から喜んでいた。
 高台を降りると、小さな田畑の続く農地に出る。そこの脇をかすめて建物のある方に一キロほど歩いて行くと、洋品店や雑貨屋、本屋などの並んでいる商店街になる。そこをまた曲ってしばらく歩くと公園に戻って来る。
 真は澪に「どこに行きたい?」と尋ねたが、澪は、
「断然、真君のおうち」と声を張る。
 真はふっとほほ笑んだ。
 ――澪ちゃんは変わってない。――それに僕も変わってない。
 ――僕たちはいつまでもこの関係を続けていられるんだ。


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