冥加


1 :蒼幻 :2009/01/27(火) 08:19:59 ID:tcz3sknm

 仏教思想である十王信仰をモチーフにした作品です。
 興味を持っていただけると幸いです。


10 :蒼幻 :2009/10/29(木) 09:28:26 ID:tcz3sknm



 碧空に鳥が飛び、雄渾なる日差しが大地に降り注ぐ、
 そんな光景が懐かしく思い返される冥府暮らし。
 いったいどうすればそこへ戻ることができるのだろうか? 私はそのようなことを夢に見ながら、暗いままの朝を迎え、布団を畳んで起きだす。
 いつもは康安の方が先に起きている。しかし、今朝は違った。きっと刺激の強い夢を見たせいだろう。いつもよりも早い時間に起きてみると、隣の康安はまだ寝息を立ててぐっすりと眠っていた。私は少し顔を寄せて、康安の寝顔を眺め見る。寝顔も美しいな、と私は素直に感じたが、彼をそっとしておいて、私は居間の方へ向うことにする。
 朝餉はもう何箇月も口にしていなかった。というか食事自体、ここ一箇月、まったく摂っていなかった。自分が冥府に来たと聞かされるまでは、あれほど奇異に思っていた食欲のなさも、こうして納得して見ると、そういうものかという気持ちが大きい。
 私はしばらく寝起きの頭をぼーっとさせたまま、机に向い、そこへ肘を立てて顎を手で支える。そのまま何か面白いことは思いつかないだろうかと思案しつつ、康安はいつ起きてくるだろうとの思いも、また心に萌すのだった。
 侠者の武という言葉が頭に浮かぶ。
 侠者とは、いわゆる任侠の人のことであるが、品が悪いとごろつきであるが、優れた人格者で侠者というと、蜀漢の英雄劉備・関羽・張飛などの名が浮かぶように、古来より優れた人物を指していることも多い。そのなかでも関羽などは後に神格化されてまつられている地域もあったりする。いわゆる関帝廟である。子供の頃はこの関羽に憧れていたな、と私は思い返す。何も知らない無垢な子供であった私の幼少期は、月に一、二度、村を訪れる紙芝居屋のくれる飴やらなんやらのお菓子の印象と共に懐かしく思い返される。
 あの頃の紙芝居屋の聴衆を惹きつける巧みな言葉遣いこそ、いま自分の書いている物語の語り口のお手本として必要なものではないかと考えもするのである。
 気がつくと文章を作らず、子供のころ紙芝居で見た印象のままの関羽の姿を紙に描いていた。初めは不細工であまり似ていないと思っていたが、髭を描いてみると、それなりに関羽らしく見える。これは大きな発見だった。確かに人の姿というものはその他に類を見ない特徴さえ描いておけば、それなりに人物に見えてくるものである。そのことを知って、私はなんだか嬉しくなる。これをみれば、康安がそこに描かれているのが誰であるのか、わかるだろうかと推測して楽しむ。しかし、文章を書くために墨を磨ったのに、こんなものしか描いていない自分の無駄さ加減があまりに馬鹿らしく思えて、後悔する気持ちまで芽生えてしまう。
 一時間ほど、机の前で作業に没頭していると、そこへ、康安が起きだしてきて、一言告げた。
「冥加、早いな」
 康安は寝ぼけ眼を振り払うために、汲み置いていた水で顔を洗いだした。冥加は顔を拭く物を康安に手渡すために、机を離れて、箪笥の中から厚手の布を出す。
「ありがとう」
 と告げると、康安は渡された布で顔を拭き、さっぱりした顔になる。
「最近は、いつも机の前ということになっているな」
 康安は嬉しそうに告げると、思い出したようにこう告げた。
「冥加、ちょっと茶でも飲みにいかないか?」
「茶だって?」
 私は康安の言葉に異を唱えようとしたが、しばらく考えて、それもいいかもしれないと思い直し、彼の言葉に従うことにした。
「この前の酒家かい?」
 と私が訊ねると、康安は、云いしぶり、身支度を整えだした。
 私はすでに外出の準備ができていたので、康安の支度を待つのみだった。

 外へ出て、康安の足が向ったのは、小さな川べりの店だった。
 私は疑問に思って店の暖簾をくぐって席に着くまでのあいだに、康安にこう訊ねた。
「いったい、冥府のものはほとんど食事をしないはずなのに、こうして茶店やら酒家やらがあるのはどういうわけなんだい? 彼等は生活できているのか?」
「前にも説明したじゃないか」
 康安はどうしてこの前の説明で理解できなかったんだろうと、不思議そうな表情をしている。自分ではそれほど理解力に乏しいとは思っていないが、以前の説明ではそれほど納得できなかったため、この前と同じ質問をしてしまったわけである。
「嗜好品の扱いなんだよ、食料品はね」
 私は返事のかわりに、後ろを振り返っている康安に向って頷きを返す。
「とりあえず、こういう客に食事を提供する店は、庁から金銭が渡されるんでね。それで結局、仕入れから人件費から、すべて賄えるから、事実上、収入がなくても最低限の生活はしていけるってわけさ。もしそれがなかったら、この冥府で商売をしようなんてやつはいないだろうよ」
「そういうものか」
 と私は納得する。
「さあ、それはさておき、何か飲もう」
 そういうと、康安は、
「美味い茶を出してくれ。それと適当につまみを」
 と告げる。
「酒はいまいち好きになれなくてね。飲みたいなら、飲んでくれてもいいけど」
 と康安は云って寄こしたが、私は遠慮した。
「康安と同じものを」
 と私が云うと、給仕はかしこまりました、と云って引き下がった。
 暫く待っていると、茶と菓子が用意された。
 つまみといったのに、菓子が出てきたところがなんとも愛嬌がある。
 店で菓子をつまみながら茶を飲むという行為が愉快に思われる。菓子はこれまでに食べた事のないものばかりで、異国のものと思われるほどに、自分の見知っているものとは全く姿が異なっていた。
「五道転輪王との対面はずいぶん先だし、ゆっくりと毎日を過ごせばいいよ」
 康安は茶を啜って菓子を食べながら、そう云った。
「で、何か最近は精進したことがあったか?」
 私はその問い掛けにどう答えたものかと思案した。
 やがて、適当な言葉を見つける。
「難しいけど、遣り甲斐はあるね。ただ、新たな進展として思うのは、文章を作るということが、極めて自然な欲求から出てきはじめてるってことかな。初めは、文章を作るということは緊張の連続で難しい難しいと思っていたんだけど、いまは自然に、自分の心の奥底から素直に言葉を選んで作品を生みだすということについて、まるで嗜好品に手を出して病みつきになったかのような蟲惑性まで持っている印象でね」
「蟲惑的なもの……か」
「そうなるね」
 私は康安にそう云う。
 結局、小一時間ばかり歓談しながら、私たちは時間を過ごした。

 ひたすら北へと進路をとる。
 都市王との面会から二年。
 私は康安との別れを済ませて、五道転輪王の待つ宮へと向かうことにした。
 康安は
「寂しくなるな」
 と云ったきり、言葉を発さなかった。
 そして、
「もしよかったら、また来てくれ」
 と告げ、見送りもそこそこに家へと引っ込んだ。
 それに私は少し寂しさを助長されたが、康安の落胆ぶりは、私が遠くへ行ってしまうことに起因しているのだと思い、申し訳ない気がしていた。
 私は未練を残しながらも、康安の家を後にし、仕方なく立ち去る。
 これからは孤独な旅路だ、と私は思い做し、そして、世話になった康安のことで心が温かくなる心地がした。

 それは夜中のことだった。
 不穏な空気を感じ取った私は、警戒しながら、辺りの様子を探ってみる。
 旅人を襲う集団のことは聞いていた。
 果して、側面から、異形の集団が姿を現した。
 身に付けているものと云って目に明らかなのは腰に巻いた布切れくらいで、上半身はまったく隠していない。体型は女性のもので、胸のふくらみすら隠すことなく、半裸身である。
 ――これが羅刹か。
 と、私は覚悟を決める。
 勝てるとは思っていない。しかし、負ければ、生命力を取られてしまうということをあらかじめ聞いていたから、そんなことにならないようにしたいとの気持ちはしっかりと持っていた。
「お前らの好きにはさせない」
 と、私は勇気を鼓舞するように、そう云った。
 羅刹女は男顔負けの筋力をもっているらしく、頑丈な棍棒をもっていた。
 私は危ういな、と自分の身を案じた。
 果して、羅刹たちは私目蒐けて向かってきた。
 私は最初に飛び出してきた羅刹に向けて、手を出して、降りかぶられた棍棒を身体で受け止めてそれをしっかりと掴んだ。そして力比べが始まったのだが、そこへ第二第三の羅刹が飛び込んできて、私の身体をしたたか打った。
 私は苦痛に顔を歪めた。自分の顔を見ることはできないが、苦痛で顔が歪んでいるのを察知するだけの余裕はあった。
 私は裂帛の勢いをこめて、最初の羅刹の持っていた棍棒を奪って、反対に羅刹の身体を思いっきり打ち返した。羅刹は声にならない声――あるいは悲鳴――を上げて、苦痛におののいた。
 私は呼吸を整えると、第二、第三の羅刹に相対する。
 羅刹は全部で六体いた。
 私は負けてなるものかと気を奮い立たせる。
 棍棒を構えた私は先手必勝とばかりに羅刹目蒐けて、突っかかっていく。
 羅刹たちははじめ、その勢いに戸惑っていたが、私が一体二体と打ちすえて行くのを見て、危険だと感知したのか、仲間同士で顔を見合すと、三体同時に私に打ちかかってきた。それは息の合った攻撃だった。私はそれに戸惑い、どうすればいいか混乱をきたした。
 一体に攻撃を加えようとすると、他の二体が勢いづく。他の二体に集中すると、もう一体がしこたま私の身体を打ちすえる。私ははじめ、精神力がやられた。そのあと、肉体的に限界がきて、やがて、その三体以外の残り三体も攻撃に参加しはじめ、私は防戦一方になり、それから、打ちすえられるに身を任せることとなった。
 やがて精神がくじけて、気がつくと、私は身体が芯の底から寒くなっていくのに気付いた。
 見れば、羅刹が私の身体に手を向けて、何か力を籠めている。
 気を抜かれているのだと気づくが、時、すでに遅かった。
 私はしばらく、自分の身体が冷えるに任せたが、やがて、意識を失い、そのあとは、もう冷たく硬い大地の印象も失せてしまって、泥のように眠りこんでしまっていた。生命力が希薄になっていたのだろう。精神の安定を保つことができず、また、夢か現かの判断もできなくなり、ただひたすら、混迷の時を過ごすのみであった。
 意識を取り戻したのが、それから幾日後のことであるのか、私にはわからなかった。
 しかし、次の出来事に出くわしたことで、私が予想以上に力を失って、地面に寝ていたことがわかったのだった。
 それは先の十王たちの姿と非常に似通った、中背の体格のいい、いまではもう十王であるとはっきり判る格好をした偉丈夫であった。
「冥加よ」
 と、その男は澄んだ声で私の名を呼ぶ。
「そなたはいま、非常に生命力を失った状態でいることだろう」
 私は起き上がる力もなく、目を開いているのか瞑っているのかの区別もつけられないまま、ゆっくりと意識を覚醒していく。
 しかし、何か蛤蟆の卵のような半透明のどろっとした膜に覆われているかのように、私は現実感の希薄な印象を胸に抱きつつ、五道転輪王に対する。
「冥加よ、そなたはもう一度、地上に帰るがいい」
「えっ?」
 私は驚きに目を瞠る。
「この冥府での三年間は、地上での一日ですらないということをそなたは知るまい。そなたの地上での身体は、いま、樹の根方に転がっている。そこへそなたの存在を結びつけよう。それからあとの行動は、もうそなたの自由だ。この冥府での経験を活かして何をするのもいいと思う。まだ、そなたには下界で生活するという道から積める研鑽があると踏んでいる。それを心に残して、いずれ大きなことを為すことになるであろうから、私も楽しみにしている。今度、冥府に来るときは、もう完全に下界へと戻れない状態になっていることだろう」
 私は唖然とする。もう戻ることはないと思っていた下界へ、また戻ることができるのだ。しかし、私はそれに、喜びの感情を芽生えさせることが難しかった。できれば、小説を書くことを生業にしたいとの思いはあったが、はたして、それが叶うや否や。
「心配するな、そなたならできる。他の十王も申して居った。お前には不撓の勇猛心があると。それを忘れなければ、日々を怠惰に過ごすことなく、いつか、一家を保つくらいの実力は持てるだろうと」
「買いかぶり過ぎです」
 と、私は声に出して反論する。
 しかし、
「いまは分からないかもしれない。しかし、いつかきっと、私の云っていることの意味がわかる時が来よう」
「そういうものですか?」
「ああ」
 五道転輪王はそういうと存在自体が霧のようにかき消えた。
 いったいどういう仕組みなのだろうと私は怪訝な表情をしていたと思うが、しかし、とても力を持った十王のこと、自分には想像できない、様々な力を有しているのだろうと考えて、それ以上、推察することをやめた。
 しかし、私も自分の身体がままならないのを感じて、再び、眠りの中へと落ちてしまった。

 気がつくと、そこは森の中だった。
 小鳥の啼き声と、やかましい蝉の鳴き声が耳に届く。
 目を開くと、暴力的なほどの日差しが地面に落ちているのがわかった。
 気温はかなり高い。湿気もあって、少し前に、夕立ちがあったか、雨天であったことが想像された。私は痺れるような感覚と共に、自分の五体が、生まれ直したかのように新たな感覚に満ちていることに気付いた。
 私は起き上がると、そこは樹のうろであったことに気づく。
 夏だ。
 私は長い夢を見ていたのか?
 しかし、ここが鎮守の森であることに気付くと、閻魔堂が確か、もう少し先にあったことを思い出す。
 閻魔王――。
 長い夢の中で、あの冥府の王、閻羅に会ったことを、現実にあったことのように新鮮に思い出した。こんなに鮮明に思い出せるということは、やはり、あの対面は実際にあったことではないかとの思いが、錯綜した。
 私は記憶を頼りに、閻魔堂へ向かう。閻魔堂を見るのは、初めてのこととて、迷うかもしれない、と思いはじめる。しかし、よほどの機縁があるのか、それとも偶然の産物なのか、閻魔堂がしっかりと目前に見据えられるようになると、喜びの感情が胸に満ちた。
〈閻魔堂〉という扁額が鳥居の上にかかっている。鎮守の森にはこの閻魔堂が設置されている。閻魔信仰がなせることであるが、普段、近隣の住民はこの鎮守の森に立ち入ることは控えている。入るのは年に二度の、春と秋の大祭の時期だけで、その他は、神主が供え物を持ってくるくらいの、控え目な信仰に抑えられている。
 私は閻魔堂に向かうと、そこの閻魔像の安置されている蔵を、桟の隙間から眺め見る。
 はたして、そこには黒衣の、長い整った棒を持った閻魔王の姿があった。私はその閻魔王の像の表情が、あの冥府で見た閻魔王の姿にそれほど似ていないことに落胆の思いを抱いていた。そして、あの閻魔王が対談のときに云っていた言葉を思いだす。
『三年の時を経て、なお、吾に不満があるなら、聴いて進ぜよう』。
 閻羅とはあれから会っていないが、三年後の邂逅というのは実はこのことではなかったかと思い知らされた。
 声を聞くことはなくても、その姿を見て、心打たれるということは可能である。
 ふと、身体に疲労感を感じ始めていた。私は懐に何かが入っていることに気づく。
 それを取り出してみると、薄い金属に包まれた、いわゆる〈薬〉である。閻魔王から貰ったものだった。必要になるだろうから、と言われたその〈薬〉を、私は袋から取り出すと、あの羅刹の奪魂の技で消耗した精神力を補うために、それを食すことにした。いったい材料は何なのだろうと、不思議だったが、香りを嗅いでみると、薬というよりも、何か食材のような佳い香りだった。
 それを食すると、私の身裡には何か、途轍もない力が湧いてきていることに気づいた。
 私は閻魔堂を後にすると、来た道へ足を向ける。
 住まいはこの近くではない。
 とりあえず、旅をして家へ帰ることにしよう。
 家についたら、墨と硯と紙と筆と文鎮を買うとしよう。
 冥府で習い覚えた、そう、康安に教えてもらった様々な技術を駆使して、面白いものを作るとしよう。そんなことを考えながら歩く道程は孤独ではあったけれども、楽しいものだった。
 相変わらず、蝉がうるさかった。
 あまりにもうるさいので、一喝したい気分になったが、そんなことをしても、きっと徒労に終わるだけだろう。それなら、耳をふさいで森を過ぎた方がいい。
 それにしても明るい。木々の葉の緑が目に眩しい。まるで緑柱石のようだと感じる。
 喉が渇きそうなものだが、まったくそんな気配はなかった。
 おそらくさっきの〈薬〉のせいだろう。
 私はいずれ気がつくことになる。
 あの〈薬〉のおかげで、もう、食料を必要としない身体になってしまっていることに。
 そして、その恩恵を受けて、その後数十年、執筆を生業として身を立てて行くこととなるのであった。

(十王との対話(其之五)・了)

【冥加・了】


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