冥加


1 :蒼幻 :2009/01/27(火) 08:19:59 ID:tcz3sknm

 仏教思想である十王信仰をモチーフにした作品です。
 興味を持っていただけると幸いです。


2 :蒼幻 :2009/01/27(火) 08:21:04 ID:tcz3sknm



 室内は澱んだ空気に覆われている。
 凪いで久しい風に期待はできず、そうするうち、再び沈鬱な思念が被さってくる。
 立て続けに、吾は番人である、と宣する四人の王に目通りさせられ、次は最後の審判だと、動物の頭を持つ強靭そうな怪物どもに告げられる。私はまだ自分の立場がわかっていない。立場どころか、なぜここにいるのか、という素朴な疑問が解消できず、いったいあの鎮守の森からここへ来るまでの間、どこでなにをしていたのか、そんなことがすっぺりと剥落しているのである。それに怖ろしさを覚えていたが、いや、なに、そんなことはすぐに解決するさ、と楽観的に考える自分もいた。
 殺風景な室内を眺める。
 床はすべらかな石畳で、冷たく硬質な印象である。しっとりした艶を持ち、壁に空いた飾窓から洩れる光によって、その表面はてらてらと光って見える。繊細な作業で作られたと見え、継ぎ目があるかどうかすら判らぬ見事な仕事は、これまでに見たことがないほどだ。
 気がつけばここにいた。この殺風景な室内に。
 それより前の印象としては、鎮守の森を歩いていた光景が心に浮ぶ。そよぐ風に葉々を顫わせる木々や野草たち。てんでばらばらに飛び交う蝶や虻の群れ。梢と梢の合間から覗く、透きとおる青空。開放感に満ちており、何もかもが自由を標榜していたあの光景は、いったい何処へ消えてしまったのか? ここにあるのは、停滞した空気と、冷たく光る石畳と、何か良く分からない大きな汚点のある天井くらいのものだ。
 ここへ押し込められて、一つ不思議なことがある。
 まったく腹が減らぬのだ。
 もう一箇月が経つと云うのに、その間、一度も食事をしていないのである。実際におかしいと気づいたのは、二週間前のことで、それまでの間、まったく食事への関心を抱かなかったというのは異常なことであろう。しかし、その理由を考えてみてもピンとこない。私の身体はいったいどうなってしまったのか? 何度考えても、次に気付いた時には、食べ物とは異なることで頭を悩ませている。いつの間に意識が別の方面へ向ったのか判らぬのだ。気がつけば他のことを考えている。
 多分、あと一回眠れば、最後の審判とやらが行われるだろう。
 なぜ判るのか? それは、これまでの四回はすべて一週間置きに行われたからだ。
 王と宣する者たちはみな、金絲の刺繍のある黒い袍を着ていた。自身に威厳を与えるための方策ととれないこともないが、やはり王というだけあって、あの怪物たちをしっかりと束ねて支配しているように見えた。
 その時、怪物のひとりが鉄格子になっている扉の前にやってきて、こちらを眺めた。
「元気か?」
 そいつは、馬面の表情を緩めてそう訊ねる。
 自分のことを心配して掛けてくれた優しさの籠った言葉なのか、半ば儀礼的に掛けられた冷たい言葉なのか、判別がつかない。ただ、その、恐怖すべき馬面の化け物は、自分とは異なる存在なのだと意識させられ、どうして普通に生活していられるのだろうと不思議で仕方がない。
 もし、日常生活でこんな化け物に出くわしたなら、きっとただでは済まないだろうと思うのに、いまの自分は、それが、さも普通のことであるかのように受け入れている。それは異常なことだと思う以上に、どうしてここまで落ち着いていられるのか、その原因が知りたいと感じ始めていた。もう何年もここに居続けているような、そんな感覚すら身に帯びはじめている。新しい環境に順応しているということか? それにしても、この馬面と仲良くなっても何の利点もないとも感じており、しばらく、返事をせず、ただそいつの姿を凝っと眺めるのみであった。
「元気か、と訊いている」
 馬面は、やや激昂して声を張り上げた。
 これで気付かなかったら、故意に無視していることがこいつにも判るだろう。
 私は、仕方がない、と思いなおす。
「ここは何処なんだ?」
 私はずっと訊けなくて心の中で燻っていた疑問を口にする。
 しばらく互いに顔を見合わせ、表情になにか変化がないか、待ち受けていた。それは馬面の方でもそうであるらしく、なかなか真実を語ろうとしなかった。
「ここは何処か、と訊いている」
 私は馬面の言葉の真似をして、答えを催促する。
 馬面はその目を光らせて、ゆっくりと口を開く。
「ここは天と地の境目にある冥府だ。これまで四人の王に会ったであろう? あれは冥府の支配者たちだ。そのくらい、とっくに知っていると思っていたが」
 ――冥府!
 私は後頭部を金槌で殴られたような衝撃を受けた。
 ――とすると、これまでに会った王は十王ということか!
 存在の確かさと云う面で云えば、十王などというものは、宗教が作り上げた仮初の存在であると思いつづけてきた。ここが冥府ということは、私はすでに命が絶えてしまったということか。あまりの衝撃の知らせに、私の思考回路は一瞬停止してしまった。
 しばらく、考え込む。
 私はもともと宗教に深入りするたちではなかった。十王がそれぞれどのような名を持っているのか。そのようなことは、長い間、興味の対象外だった。
 そんな私でも〈最後の審判〉を執り行うのが誰であるかは、知っていた。
 そう、あの閻羅――つまり閻魔王であるのだ。
 嘘をつけば舌を抜かれる、という言葉はずっと暮らしていた地域でも噂になるほどだった。それはあくまで作り話であると断じていたのに、実際に明日、その閻魔王に面会するのだと思うと、頬がひくひくと微弱な痙攣を起こし、緊張が身を押し包んでいることがわかった。冷静に考えてみると、私ひとりにこんなに手を掛けて審議を行うとは、どれだけ死人が少ないのだ、との思いも心に生じる。
「閻羅は苛烈か?」
 私は馬面に訊ねる。
 ――そうだ。私をここから審議の広間まで連れて行く牛、馬、猪、狗といった顔の生き物たちはきっと、あの牛頭馬頭というやつに相違あるまい。どこまで冥府は私たちの期待を裏切らぬのだ?
 私は自分の置かれている状況をそっちのけで、口元が緩み、笑みが零れるのを防げなかった。
「なにが可笑しいんだ?」
 馬頭は目つきを鋭くする。
「いや、なんでもない」
と、取り繕う私。
「まあ、いい。で、質問の答えだが、閻魔王閣下はその威風堂々たる姿もさることながら、この冥府の十王のなかでもその長たる資質の持ち主で、文武に長け、閣下に比肩しうる者はここにはおらぬ程だ。あとは推して知るべし、だな」
 私はその説明に興を擽られた。
 武芸については私も昔から鍛えてきたこの身体を以ってすれば、その閻魔に比肩することができるだろう。そして文に於ても、幼い頃から。師について高い学問を習得したと思っている。冥府の番人何するものぞ、との思いが強まり、早くその閻魔の面を拝んでみたいものだとわくわくさせられた。その思いが顔色に表れていたのだろう。馬頭が怪訝そうに私の表情を眺めている。
「どうした?」
と訊ねてくる馬頭。
「明日が楽しみでね」
 私は答える。
「楽しみ、だと?」
 馬頭は信じられないという眼差しでこちらを眺める。
「閻魔王様に楯つこうものならどんな責め苦が待っているか、お前はそれを知らぬな?」
 心に重い桎梏を嵌めようとするかの、この馬頭の言葉を、本来なら警句でも聴くように身に浸透させるべきだったかも知れぬが、いまの私には、来るべき明日への興味によって、その気味が、かなり減退していたと云えよう。あくまで、見物でもするかのような気楽さで物事を捉えていたのである。
「ところで、ここは牢屋か何かか?」
 私は疑問を口にする。
「ここが牢屋ということは、俺は牢番というわけか?」
 馬頭はくつくつと笑んだ。
 しばらく馬頭は笑いつづけていたが、それもやがて収まって喋れるようになると、次のように答えた。
「ここは所謂、留置場のようなものだよ。彷徨える魂を外から隔離しておく施設でもある。私は牢番でも獄吏でもない。ただの使用人と思ってくれればいい。使用人といっても、もちろん、俺は人ではないがな。お前に解かりよいようにそう云ったまでだ」
 私はここでひとつの疑問をぶつけることにした。
「いったい、私はどうやって此処まで来たのだ?」
「どうやって――。それは難しい質問だな」
 馬頭はそう云うと、自身の頭に手を遣って毛並みを揃える仕種をする。
 私は凝っと馬頭を瞶め、再び口が開かれるのを待った。
「人は死せば、皆、天国か地獄へ行く。それは生前の行いによって決定される事項であるが、実際のところ、この冥府には、死者の魂の総てが集まってくるわけではない。生前の行いが善と悪の両側面を持ち、お互いが分ちがたく拮抗している人物だけが、この冥府へと呼び寄せられることとなる。この冥府にやって来たというだけでそなたの魂は他の凡百の者とは異なると云い換えられよう。これは誇ってもいいことだぞ」
 私は馬頭の滔々たる言葉を聞き流しつつ、いつになったら、疑問の答えが出るのか心待ちにしていた。
「どうやって此処へ来たか、だな」
 馬頭は思案げに表情を曇らせて言葉を継いだ。
「死した魂は、その衝撃で、なかなか自分の死した事を受け入れられぬ。常とは異なる感覚、依るべき肉体をなくした喪失感、他に影響されやすいあやふやな存在であるという虚無感、そのようなものに押し包まれているのが、死者の共通した感覚と云えよう。魂は肉体が死すると同時に其処から離れ、再び戻ることはない。例外もあるが、大抵は天国か地獄、或いは冥府へといざなわれる。先導するものは何もないが、これはもう何万年と繰り返されてきた営みなのだ。閻魔職は、世襲によって連綿と続く苞一族が司っておられるのだ。この冥府に来た魂は、先の四王に目通りし、意識を覚醒させられ、閻魔王様の前に引き据えられる。審議の単純なものはそこで行き先を選別されるが、難しい者は次の審議へと持ち越される。そして五人目である閻魔王様に目通りする頃には、自分の置かれている立場を悟り、謙虚な気持ちで審判を仰ぐようになる。まあ、そう云う訳だ。明日はくれぐれも粗相のないようにな」
 馬頭はそれだけ告げると、扉から離れた。
 腰に着けている鍵の二、三が立てる美しい金属音が遠ざかって行く。
 眠ったかどうか定かでない不安定な睡眠をとった後、目覚めてみるとまたいつものように、朝となっても飾窓からあの懐かしい太陽の光が零れてくるということもなく、昨晩と変わらぬ青白い光が床に反射するばかりである。
 ――これは何の光なのか?
 私は疑問を抱きながらも、それは確かめられえぬことだ、と心を沈みこませた。
 ここが冥府だと教えられた昨夜。
 それまで私は、ここはきっと生き倒れの人間のための救済施設で、私はそこに所属できるかどうかを長々と審議されているものと思ってきた。それが誤りだと気付かされ、ここで精一杯足搔いてみることも良いかも知れぬと思いはじめていた。
 向うから繊細な鍵の音色が近づいてきた。
 昨晩の馬頭が赤い目をして立ち現れる。
「さすがに起きていたか」
 馬頭は不機嫌そうにつぶやく。
 私は推量する。こいつはきっと昨晩からずっと睡っていなかったのだろう。いったい何人の魂がここに幽閉されているのか分らぬが、おそらく彼らの世話をするのに忙しくて一睡もできなかったのだろう。冥界の住人はかなりの激務を負わされているのかも知れぬ。ふと、目をやると、鍵を持っていない方の手に何かを持っている。それがあまりに意外なものだったので、私は思わず訊ねてしまった。
「その手に持っているのはなんだい?」
 馬頭はぴくりと背筋を張って反応を示す。
「これか。これは薬だ。魂の安定に必要なものといってもいい。これをそなたにやろう。おそらく必要になるだろうとの閻魔王様のお慈悲だ」
「薬。死して魂になった存在に薬など無用ではないのか?」
「いや、閻魔王様の予知は優れたものだ。閣下が必要と云われれば、それは必ず必要になる。いまは信じられんかも知れん。しかし、騙されたと思って持っておくが良い。別に、持っていると何かに不自由するという訳でもあるまい?」
 馬頭はそう云うと、鉄格子の錠前を開けて、私に外へ出るように促した。
 格子をくぐると、先の〈薬〉を手渡される。
 持ってみると、ずしりと重く、見れば紙のように薄っぺらい金属で表面が覆われている。金属といっても鉄や銅という訳ではなく、これまでに見たことのない材質のものであった。私はそれを懐に仕舞う。
 長い廊下を何度も折れて広い宮殿の中を十分ほど進む。
 やがて馬頭が立ち止ったのは、これまでに見たことのないような豪壮な扉を持った部屋である。扉はすでに開かれており、そこには京師の衛士もかくやと思えるような見事な隊列で、武官・文官が打ち揃っていた。武官と文官を隔てるものは、体格の良さもさることながら、その服装から、態度から、武官は槍や大刀、文官は筆と紙といったものをそれぞれ手にしている。唯一、京師と異なるのは、彼らが皆、動物(主に十二支)の頭を持っていることであった。私はその威風に背筋がぞくぞくした。まるで天皇に対面するかのような荘重な雰囲気が場にはあった。
「よく来た」
 室の奥より声が掛かる。
 見れば、細面の青白い青年が豪華な椅子に腰かけている。金絲と紫絲で龍を刺繍した袍を身にまとっている。中国の皇帝が着るような龍袍という衣装に似ているだろうか? とはいえ、実際に中国の皇帝の姿を拝した事もなく、極めて自信のない決め付けではあったけれども。
「吾が冥界第五の王、閻魔である。引き据えられし冥加よ。そなたに恨みはないが、近世でのそなたの行いは色々と調べさせてもらった。何か申し述べることはあるか?」
 その声は美しくなごやかに、人の心にすーっと沁みこむ具合の心地よい音色を持っていたが、その反面、他を動かすための芯のある印象を持つに足る、落ち着きと、荘重さと、安定感を備えていた。先の人生に於て、このような話し方をする人物に出くわしたことはなかった。これならば、他を支配する職務に就いていても、部下から不満の声は出ないだろう。
 私は緊張しながらも、自分の思いを打ち明けるべく、口を開いた。
「閻羅殿よ、私は齢三十を数え、未だ、命数は尽きておらぬと信ずる者です。また、如何にして此処へやってきたかも判らぬ未分明の者。その私の命を玩んで、楽しいですか? いったい私にどうしろと云うのです? 世に悪華栄え、弱き者は蹂躪されるばかりです。力のないものが一個の人間として独立するには、まず力がなくてはならぬ。そして、知恵がなければならぬ。狡智に生きろというわけではない。しかし、生きるには、そう、生き抜くには、時に狡賢く立ち回らねばならぬこともある。それを否定する権利が貴方にあるのですか?」
 一声でこの閻魔王は信頼に足ると感じ取った私は、自分の思いをしっかりと彼に伝えていた。それは、いままで誰にも話したことのない概念だった。
 しかし、閻羅は鋭い声で答える。
「それがそなたの限界かも知れぬ。悪を為しながらの善行、混沌に巻き込まれつつの秩序。そのようなものは所謂、偽善、保身、停滞でしかない。真に弱きものの中にこそ強さは宿るものだ。臆病な者ほど武器を持ちたがる。自身の、傷つきやすい、やわな心を守るため。生き抜くに当って、他よりも立派で鋭利な武器を手に取る。真に大切なことを信ずるは、例外なく、そなたがいまいった弱き者たちだ。高みに咲く可憐な花よりも、大地に根を張ってはびこる雑草の方が、どれほど厄災に強かろう。見た目は地味でも、真に大地に根ざしている存在は、どちらであるのか。それは吾がここで挙げるまでもなかろうよ」
 私はひとつの哲理をこの冥府の番人から受け取った気がした。
 しかし、受け入れられぬ気持ちも生ずる。
「私は納得できぬ。所詮、人の世は弱肉強食、強さ以上に重要な徳目があろうか? 己を専一に高めることこそ、生きることの本義ではないのか? 師はこう云われたものだ。己の死期を悟れるものはほんの僅かしかおらぬ。余は皆、様々な罪障により、道半ばにして命を落とす。この荒れた世だからこそ、我は命を保ち、畳の上で生を畢えると決意すべきである、と。その意識が間違っているというのか? 我が師を否定するというのか? それならば、私が貴方を否定しよう。私はいまの生き方を変えるわけにはいかぬ」
 私は心がさざなみ立つのを抑えきれなかった。
 その返答があまりにも礼を欠く物だったとしても、私はこの閻羅王に一太刀浴びせたかった。
「そなたのことは調べさせて貰っている。そのような答え方をするのも、見通していた。だから、吾は馬頭の隗に薬を持たせた。薬は受け取ったか?」
 私は懐に手をやって、先に渡された金属に包まれた球状の薬を閻魔に見せた。
「うむ、それはいずれ、そなたに必要になるものだ。それまで大切に持っておくといい。いまは吾の話など聞く耳持たぬと思っているかも知れぬが、いずれ、わかる時も来よう。吾はそなたに期待しておるのだ。なにしろ、過去百年、吾が審問を受けた者のなかで、最も気概にとんだ人物だと思っておるのだしな。いまは天国や地獄へ往かせる訳にはいかぬが、三年の時を経て、なお、吾に不満があるなら、聴いて進ぜよう。それまではこの冥府を好きに行き来するが良い。これは通門証だ。失くさぬように大切にな」
 閻魔の前に峙立していた狗頭が閻魔の手から、金属製の手形を受け取ると、私の方へ歩みを進め、それを手渡した。
 ずしりと重い確かな感覚。
 私はその通門証を凝っと見つめた。
『遊行百万里 再死而展望』
 隷書体でそう刻まれている。
〈死〉という言葉が不吉であるが、もはや既に死んでいる身に、これ以上何を恐れることがあろうとの思いも強く、逡巡はそれきりにして、私は閻羅王の姿をきっと瞶める。
「閻羅よ! 私はそなたの意見を受け入れるわけにはいかぬ。しかし、三年という月日を与えてくれたことには感謝したい。この命、ありがたく頂戴する」
 閻魔はそこでふっと口辺に笑みを浮べる。
 その日は審議の執り行われた部屋を退いてから、馬頭にこっぴどく叱られた。
 もっと閻魔王様を尊重しろとか、今日の立ち居振る舞いは不敬罪にあたるとか、その他もろもろの叱言。
 やれやれと首を振って、その日は捕囚を繋ぐ牢たる室内で惰眠を貪った。

(閻羅との対話・了)


3 :蒼幻 :2009/02/01(日) 15:13:15 ID:tcz3sknm



 馬頭の説明により、先に審議を執り行った十王のうち、四王の名が明らかになった。
 つまり、秦広王・初江王・宋帝王・五官王。どれも閻魔と対面した今となっては、陰の薄い存在でしかなかった。最初の秦広王に至っては、もう顔すら思い出せない。五人の見知らぬ者を並べられて秦広王を当てよと命ぜられても、正しく答えられる自信はない。あくまでこの四王は閻魔に引き合わせられるまでのつなぎとしてしか観ることができなかった。しかし、馬頭にそのことを問い合わせてみると、彼はこう答えた。
「最初の四回の審議で天国行きか、地獄行きかが決まらないというのは本当に珍しいことだ。一月に一人あればいいくらいで、あとは皆、それまでに行き先が決まるものだからな。そなたは閻魔王様に楯つくような発言をしていたが、おそらくそれは素のそなたなのだろう。意識が十全でなかった時に受けた他の四王の審議でも、おそらくそなたは反抗的な態度を見せていたのだろう。それは云われずとも分る」
 馬頭はいつになく慎重な態度でそれらの言葉を述べ終る。
「そなたはこの冥府の宮殿の外へ出る許可を得た。今日からは何処へ行こうと自由だ。しかし、これだけは覚えておけ。この冥府で出会う者は皆、不思議な機縁で結ばれる同志である、と」
「今日はやけに心配してくれるんだな」
 私は意外そうに表情を緩めて訊ねると、馬頭はこう答えた。
「閻魔王様の審議を受けた者には敬意を表すことにしている。それまでは確かに獄卒のように厳しい態度で接していたが、閻魔王様の審議は謂わば、この冥府に一人の魂として存在を認められるということに相違ないのだ。だから、その過程を経た魂には敬意を表したいとの思いがある」
「なるほど。それは面白い考えだ」
「面白い?」
 馬頭は怪訝そうに言葉尻を捉えて鸚鵡返しをする。
 私はこの場合、どう云えばもっともよく伝わるだろうか、と考える。
「私も実際に閻魔王と会ってみて、彼という人物を見なおしたよ。でも、どうしても腑に落ちぬのだ。どうして私はこの冥府遍歴の旅を認められたのだ? 閻羅王といえば、魂を六道のうちのどこへ遣るのか決めねばならぬ重要な職務を持っているのだろう? それを覆すような意見に、私は胡散臭いものを感じているのだ」
 その言葉を聞いた馬頭は口辺を緩めて微笑んだ。
「それはきっと閻魔王様の深甚なる思慮によるものだろう」
 私はこの言葉がどれほどの意味を持つのか、はなはだ疑問だったが、とにかくこの牢屋めいた部屋を出ることにした。
 部屋の外へ出た私は馬頭に案内され、広大なこの建物の外へ出られる通用門へ向った。
「くれぐれも気をつけられよ。この宮の外は雑多で、条理に欠け、あまりに混淆した地域だ。あらぬ災難に巻き込まれぬよう、注意するのだぞ」
 馬頭はいつになく慎重な口ぶりで、私に警戒心を喚起させると、ひとり、元の場所へと戻っていった。
 私はそこの猪頭の門衛に閻魔から貰った通行証を見せて、通してもらう。
 門は黒塗りの大きな柱の並ぶ豪壮なもので、この冥府第一の建物の顔としての風格を帯びていた。猪頭の門衛が持つ得物は鋼矛だった。あの蜀漢の英雄張益徳が身に帯びていた蛇矛もかくやと思えるほどの見事な得物である。きらりと輝く尖端は切れ味抜群の性能を示していたし、なにより、それを持つ猪頭の者の立派な体格が見るものを圧倒する。この門衛たちに護られている門ならば、どのような敵が現れようと即座に追い返すことができよう。
 私は特に当てもなく歩きはじめたが、町や村といった集落があるわけでもなく、門の外はひたすら荒野が続いていた。そのうち、ひとつの川に行き当たる。その流れは緩やかではあったが、澄んだものではなく、淀みと云ってもいいような穢れたものであり、そこを徒歩で越えるのはとても難しいと思われた。近世でも努めて泳ぎを修したこともなく、おそらく底は足が着かぬであろう、溺れることは必至と見えた。
 上流に向かうか下流に向かうか、どちらにすべきか。
 私は下流へと向うことにした。下流になるほどに流れもますます緩やかに、底も浅くなって、そのうち向う側に渡れるかも知れぬとの期待を抱いたためである。
 東西南北のいずれとも分らず、ただ流れのままに下って行く。先に希望を求める旅ではあったが、やがて、誰が建てたのか、丹塗りの橋が見えてきた。長さ百間もあろうかという立派な橋である。私はそれが見えはじめたとき、天は我を見捨ててはいなかったのだと、柄にもないことを考えていた。或いは、自分以外の誰にも会えず、気が弱くなっていたのかも知れない。
 しかし、私にとってさらに幸運なことは、いま冥王府を出て四日が過ぎようとしていたが、その橋の欄干に一人の香具師めいた鼠頭の男が佇んでいるのが目に映ったのだ。
 さらに近づいて行くと、その男の服はところどころ破け、もう何週間も同じものを着ているのだろう、ところどころによくわからないシミなどもついており、この男と関わると碌な事にはならぬと本能が告げていた。
 私は無言で橋を通り過ぎようとする。
「あいや、またれい!」
 鼠頭のその男の前には、売りものなのだろうか、よくわからないガラクタの小物が置かれている。
 見れば、顔は薄汚れ、服装はみすぼらしく、一目で尋常でない生活を繰り返していることが知れた。
 その鼠頭が口を開く。
「六道の輪廻を外れるためには様々な係累を取り除かねばならぬ。色、欲、情、囿。みな、この身を束縛する悪因縁だ。これを取り除かねば来世の安穏はないだろう。そなたは見たところ、それに毒されておる。いまも知らずに毒を皿ごと食らっておるような具合だ。そのようなことでは成佛には程遠いでござろう」
 私はこの男の話に尤もだと思いあたると同時に、こんな冥府の孤独な橋の欄干にいまもひとり佇んでいるこの男自体、自分の命の行き先も決められぬ不具の魂なのではないかとの思いも抱く。
「色即是空、空即是色。一切は寂静のなかに存している。それをお忘れめさるな!」
 人に警句を垂れる暇があるなら、自身の身の振り方を考えるべきだと云いたくなったが、このような弁ばかりが立つ小者に意見したとしても、必ず曲解されて自身の身に不幸事が被さってくるだろうと思われ、私はただ、
「ふむ」
とのみ、相槌を打って流す。
 そして足早にその場を立ち去ろうとする。
「あいや、またれい!」
 鼠男は亦も声を掛けて呼びとどめようとする。
 私は関わりあいにならないでおこうと、歩みを止めない。
 すると、男は早口でこう云った。
「見たところ、そなたは心に思いを抱く有望の人物のようだ。この道の先に、私の師が庵を構えておられる。そこへ行ってみると良いかも知れぬぞ。儂など及びもつかぬ考えを持った賢人だ。莫の知り合いだと云えば中に入れてくれるだろう。ぜひ、お寄りなされい」
 私はそれを聞き流すと、辞去の言葉もそこそこに歩いて行く。
 道を往くこと二日。
 確かに、前方にあの男の云う庵が見えてきた。
 庵の佇まいは静閑という様子だった。周りには山も川もないのに、塀は木で出来ているし、庭には溜池まであった。悠久という時間の長さを感じさせる変遷から最も遠い所にあるもののように感じられた。
 私は先のあの橋の欄干にいた男から想像するに、この庵に住むという彼の師も亦、詰まらぬ人物ではないだろうかと疑う気持ちが生じていた。
「ごめんください」
 不意に、この冥府で出会う人物は誰も皆、不思議な機縁で結ばれる同志である、と云った馬頭のことが思い出された。もともと急ぐ旅でも無いゆえ、穏やかな気持ちでどんなものか覘いてやろうと思い定めていた。
 私の言葉に庵の奥で人の気配がして戸が開かれた。
「珍しい。このようなところに客人とは」
「莫という男の紹介で此処に参りました」
 私は丁寧に告げる。
「ほうほう、それはそれは」
 主人は嬉しそうに眉間の皺を緩める。
 その庵の主人は年の頃五十を超えてなお壮健といった感じの人物で、確かに髪や顎鬚に白いものが混じりはじめていたが、それが老いを感じさせるというよりも、むしろ、年季の入った美しい年の取り方をした人物という印象を見るものに与える様子。
 ――ほう……
と、私は感心する。先の橋の欄干の男の様子から察するに、その師匠であるだけに、詰まらぬ人物ではないかと疑っていたが、そんな心配はまったくなかった。生きていたときにでも、なかなか出会えぬ好人物との印象を持ち、早くこの老人の話を聴いてみたいと思う自分がいた。
 庵の奥に通されて、私はいささか緊張しつつも、向い側に座った老人の端正な姿に背筋をぴんと伸ばさざるを得なかった。
「莫の紹介で来なさったとのこと。何か莫から云われましたかの?」
 老人はそう云うと、片眉をぴくりと上げた。
「いえ、何も。ただ有徳の人物であるから、是非会うようにと勧められました」
「有徳……莫はそんな言葉を使う人物ではない。それは貴方の言葉でしょう」
「たしかに。有徳とは云いませんでしたが、確かに賢人だとは云って居りました」
「ほう。莫がそんなことを」
 私は莫という人物が此処でも評価が低いことを知って、納得する。
「言葉というものは人生に於て、常に大切な部位を占めていると思っております」
 私は老人の雰囲気が先程よりも、幾分凄みを増していることに気付かされた。思わず、背筋に緊張が走る。
「頭で物を考えるときは人は必ず言葉で用を為すわけですし、人に自分の意思を伝えるときにも言葉がなくては意思の疎通は図れない。より多くの人に物事を広めるためには紙に文字を書いて、それを広めるということもするだろう。つまり、言葉とは、人生の要諦であると思うのです」
「確かにそうかも知れませんね」
 私は話が何処へ向おうとしているのかまったく解らなかったが、老人の言葉には真実の影が見えていると思い、それに真剣に聞き入っていた。
「儂としたことが――」
 突然、老人が頓狂な声を上げた。
「如何致しました?」
と訊ねる私。
 何かの不備でもあったのかと一瞬心配したのだが、すぐにその疑問は解消された。
「申し遅れました。儂は鄭文と申します。冥王府から許しを得て、ここに居を構えておるものです」
 鄭と名乗る老人は、ここで自己紹介を行った。そのついでに、訊きたかったことを訊いてみる。
「この冥府にはどれくらいの人間がいるのですか?」
「人間とは限らぬが、万はいないだろう。遠くには市もあり、それなりに賑っておるよ」
 老人はそう云うと目を細めた。
「天国へも地獄へも逝かぬ魂。冥府にやって来たばかりのさまよえる魂を訓導するために必要な人材として、儂らはここに存在しておる。その役目に忠実になろうと、逆らおうと、すべては他と繋がりあう、惹かれあう、大いなる運命の所作から逃れることはできぬのだ」
「なかなか難しい意見ですね」
 私は老人の話に聞き入りながら、そこから、何か教訓めいたものを抽きだすことはできぬだろうかと考えはじめていた。
「生まれ変りの説についてはどうお考えかな?」
 鄭老人はそのように話頭を転じた。
「生まれ変りの説ですか。世に数多の宗教蔓延る中、最も隆盛を極めているのが佛教だと信じております。その教えのなかで、特に、重要視されているのが、この生まれ変りの説、つまり六道輪廻の法則だと思います。私は寡聞にして、あまり詳しいことを知らぬのですが、その要点は、前世に於て悪行を為せば、地獄・餓鬼・畜生の悪三道に堕ち、善行を積めば、修羅・人間・天上の善三道に向かうことになるということですね。善には善の報いがあり、悪には悪の報いがある。これは因果応報の説とも密接に関わっていて、ある意味、数学的な美しさを持つ理念だと思っております。私はこの自分のひとつの生しか知らぬ者です。だから、身に於て、生まれ変りの説を実証することは叶いませぬ。それゆえ、生まれ変りの説とは云われても、それを信ずるほどの心もなく、ただそれを信ずる者が他に居ることを知るのみです」
「数多いる信者の存在を知りつつも、己は己の意思で物事を考えていくという立場なのだな?」
 老人は心地よさげに私の言葉を受け入れている様子だった。
「そうかも知れません。実際に自分が体験したことのみを整理して思想にしていくこと。これが大切だと思っているのです。世にさまざまな人間が住まわっていた近世ですが、そのさまざまな趣味趣向を持つ人間があまりに画一的に見えるのは、いわば、その信念・理念による部分があまりに他と同一であることが挙げられると思います。それによって、人生はひどく退屈になっているかのように思います」
「退屈であると? しかし、こうも云えるだろう。思想というものは自分で一から生み出すには多大なる労苦を伴う。そういうものは他の者に任せて、自分は自分の人生を生きるために、為すべきことのみに打ち込むという立場。そう云った思いが、世間一般ではないのかな?」
 老人の言葉にはひとつの真実が籠められている気がした。
 なかなか難しいことではあるが、それはきっとその世界で生きるために必要な、ひとつの諦観であったのだ。
「しかし、世に美しいことが行われる裏には、さまざまな闇や影といったものが行き交うものだと思うがね。そなたにはそういう思いはあるかな?」
 私は鄭老人の言葉に、ひとつの思い出を喚起させられた。そして、この老人になら、真実を述べてもいいだろうとの思いから、その話を切り出したのだった。
「私は近世に於て、国の要人を暗殺する役目を持つ軍団に所属していたことがありました。それまでは専一に自分の武芸の腕を磨いていた私でしたが、そこに所属することとなったのには訳がありました。その国ではさまざまな内紛が起きていました。それは悪政を敷く君主に原因があることは明らかで、その国の大半の民草はその君主の死を願うほどでありました。なにしろ、税の取り立てが厳しく、公が八に私が二というとても高い税。それが民草の生活を圧迫していることは明らかでした。もし、年貢を払えなければ、即刻、刑罰を科せられて、その土地ではもう住めなくなってしまうほどでした。それによって泣く泣く土地を追われた人々もおりました。そのような具合でしたので、国に属しているわけではない、私たち職能集団に君主暗殺の依頼が舞い込んできたのも無理からぬ話でした。私たちも以前から、この大名には不穏な噂が付きまとい、怒りとまではいかないにせよ、かなり不満を抱いていたので、その話を快諾致しました。先に結果を申しておきますと、暗殺は成功いたしました。しかし、私はそのときの作戦には参加していましたが、誰ひとりとして殺すことなく、作戦を終えることとなりました。これはいったいどういう訳なのか――。それは私にとって人を斬るとは、その対象となる人物の全人生を請け負うということに他ならぬことであり、剣を交えた相手にしても、どうしてもとどめを差すに至りませんでした。いま思えば、それは良かったことだという念もありますが、やはり剣に生きるものとしては人を一人でも殺めねば格好がつかぬという思いもあったりします。ですが、自分の行為は正当化しようと思っておりませぬが、とにかく、世の悪というものは、さまざまな善行の裏で進行するものであって、私ひとりが気負ってみたって、とても廃滅しつくせるものではないとの思いもあります。この悪意というものはどこから来るのか? あの中国の孟子には、井戸の中に落ちかけている赤子を見れば、すぐさま助けようとするのが人の本来であると記していますが、それを無駄にしようとする人間の多いことも、近世の特徴と云うことができそうです。私はそんな世の中をどうすればよりよいものにできるか、そのことについて、もっと考えていきたいと考えています。それは徒労に終わるかも知れません。また、もう命を失った身で、こんな事を考えても詮無いことかもしれません。しかし、考えずにはいられぬのです」
 老人は私の言葉にしっかりと耳を傾けていた。頷くべきところでは頷き、受け入れられぬと思うところでは、眉間に皺を寄せて、いろいろと考え込む様子。
「生まれ変りの説からは少し離れたが、私としては、そなたはもう一度人間として生を享けるのが適当だと思うよ。もう一度、人生を歩みなおして、正道を見つめ直すのがいいと思う。私にそのような知識はないけれども、閻魔王様がそなたを冥府の諸所を訪れるようにと通行証を渡した意味がわかるような気がするよ。これからどんなことが起こるか分からないが、きっとそれらの経験はそなたに良い影響を及ぼすと信じている。だから、くれぐれも無茶はせず、自分の必要と思ったことを経験して、この冥府の旅を終えられることだ。いまはまだ何もわからぬかも知れぬ。しかし、こうして私と会話した事も、きっとどんな意味が籠められているのか、それを分るときも出てくるだろう。私も未来での成佛を願って日々、修行をする者。そなただけが歩んでいるのではなく、私もともに、同じ道を歩んでいるということを忘れめさるな」
 老人の言葉に、私は心が洗われる心地がした。いったい、老人は何を訴えたかったのか。いろいろと考えるまでもなく、私は胸がいっぱいになる心地がした。
「こうしてそなたとは機縁を持つことができた。それは喜ばしいことであると、思っている。そなたの思いを知ることはできぬが、そなたも私とのこの話し合いを貴重なものであると思ってくれれば、私も嬉しいよ」
「それは勿論です」
 私は恐縮しながら、そう告げる。
「これから何処へ向われるのかな?」
と、老人はその聡明なる光を宿す瞳を細めて、じっとこちらを見定める。
「いえ、それがまだ、何も決まっていない状態でして」
 私が恐縮しながらそう告げると、老人はひとつの助言をしてくれた。
「このまま気儘に旅をしていてもそなたの人徳でそれなりの人物に遭うことはできるだろう。しかし、もっとも良き実りを求めるなら、私はある一人の人物をそなたに推挙したい。ここより、南に徒歩二百里あまりのところにある、切り立った山に三方を囲まれた僻地に住まう人物を訪うが良い。儂も常々彼は素晴らしい端厳な人物だと思っておる。ぜひ、一度、会ってみなされ」
 老人の言葉をありがたく頂戴して、私は一夜の宿を借りてから、明朝、出発した。

(十王との対話(其之一)・了)


4 :蒼幻 :2009/04/21(火) 10:45:44 ID:tcz3sknm



 日が昇るという感覚は冥府にはない。常に薄暗くて、人が活動するのにぎりぎりの光量があるという程度だった。ここ数日はなかった涼風が身体の正面に向って吹いており、私はその気候にとても過ごしやすい気安い思いを抱いていた。
 鄭老人のいう二百里と云う数字を、私は六日間で踏破しようとしている。正確に二百理を計ったわけではない。ただ、それなりの速度で歩いて行くと、景色はつれづれに移り変り、目を楽しませる光景にも色々と出くわした。
 一度ならず、紺色の空を飛ぶ鳥にも会った。
 凶鳥といっても語弊が生まれないほどに不吉な象徴のごとき生き物。
 冥府の鳥ですら、こんな風であれば、いったい、地獄の鳥と云うものはどこまで怖ろしい生き物なのか。
 それはこんな姿をしていた。
 孔雀のように、見る角度を変えれば様々な色合いに変化する羽根の色は、それだけで明るい雰囲気を齎すように見える。しかし、その配色は灰色が基調となって、朱や黄土や苔といった少し霞んだ色合いが、羽根先の方に集中していて、それらが弱い光を照り返して毒々しく並んでいるのである。これはどのような名称の鳥であるのかまったく見当がつかなかったが、最も目立つ特徴として、その大きさが挙げられた。
 豚か猪くらいの大きさで、その嘴は金柑のようにつやつやした明るい色をしていたが、体色が先に述べたように暗い色合いなのに対して、嘴だけが輝くような色合いを見せていると、それが何か吉であれ、凶であれ、なかなか普通には納得できぬ面があり、そこだけが際立った印象を残す。そのような生き物が草食であるとはとても思えず、おそらく、地を這う小動物をその嘴にかけるのだろうと思われたが、もしかすると、この鳥は、人を襲うのかも知れぬと考えなおし、若干の恐怖も芽生える。
 きっと迦陵頻伽と対極にある存在なのだろう。
 所謂、地上に於ける鴉のごとき不吉を告げる鳥と云う位置づけなのかも知れぬ。
 そのような鳥が空中を舞っている中、目的の場所に向って突き進んでいく。
 南行すること七日。
 眼前に庵が見えてくる。
 その間、誰とも会うことがなかった。
「ごめんください」
 私は大声でそう告げるが、中からはまったく返答がない。
「いらっしゃいませんか」
 と訊ねても、相変らず返答はない。
 困ったな……と目的の果たせぬ思いをどうすることもできず、途方にくれかけたとき、不意に耳元に声がした。
〈ようこそ、いらっしゃられた〉
 その声は実際に口から発された声ではない気がした。直接脳に思念のみで語りかけられたような印象。
 しかし、その声の主がどこにいるのか、まったく見当がつかない。
〈中じゃ。中にお入りなされい〉
 中……。
 私は逡巡しつつも戸を開けて中へと入る。
 中に入ると、急になにか暖かなものに包まれて、その幸せな印象は私の心をとても落ち着かせてくれた。不思議なことだった。
 中に鞜を脱ぐ場所はなく、私はそのままで庵の奥へと進む。
 そしてそこに端厳な面相の、髭を豊かに蓄えた老人の姿があった。
「ようこそ」
 老人は年齢を感じさせない張りのある声でそう告げた。しかし、声量はそれほど大きくなく、恐らく、私が玄関で呼ばわった時も、返事はしてくれていたけれども、私の耳に届くほどの声量は出せなかったものと見えた。
 すると、あの頭に直接響くように聞こえた声は何だったのか?
「私の〈声〉に対して疑問を持っておられますな」
 老人はすっかり私の心を見透かしているかのような言葉を掛けてくる。
「はい」
 と、私は答える。
「いったい、どういう仕組みになっているのですか?」
 老人は決して面倒という雰囲気ではなく、半ば癖となっているかのように表情も変えず、ただ眉間にしっかりとした皺を寄せる。
「口での説明は難しいのです。私はこのように大きな声を出すことはできませぬ。しかし、人に何かを伝えたいという気持ちは強く持っている。それゆえ、炯眼した能力と云うことができましょう。私は何も特殊な人間ではありません。心を強くするということを専一に考え、その本領を発揮しただけに過ぎません。これは人が持っている潜在的な能力のうちのひとつです。あなたにもそのような力を得ることは不可能ではないとのみ云っておきましょう」
「それは特別な力ではないと?」
「そういうことになりますな」
 私はこの老人の話を俄に信じるわけにはいかないと思った。
「しかし、そのような能力は瑣末なことです。もちろん、この力に炯眼すれば、様々な利点もあるでしょうが、いまは気になさらぬことです。なにしろ、この能力のおかげで、聞かなくていいものが聞こえてきて、いつも憂鬱に苛まれるのですから」
 私はその言葉に少し、興味を惹かれる。
「憂鬱ですか? あのしっかりとした思いを持っている鄭文氏が推挙されたあなたでさえ、心を悩ます種を持っていると? 信じられませんね」
 私はそう告げ、その後の老人の反応を待った。
「まぁ、そう思われるのは仕方ありませんね。しかし、あなたはひとつ心得違いをなさっている」
「どういうことです?」
「つまりです、道の先を行っている者には心に憂悶の影などないと、そういう訳でしょう? しかしね、考えてみてほしいのです。たとえ、人間界よりもさらに上位に位置する天上界でさえ、まだ六道の内なのですよ。佛縁を得て声聞・縁覚となって初めて、輪廻の輻輳から避れることができるのです。それを間違ってはいけませんよ。だから、いくら道を極めたように見える者でも、その心には様々な悩みの種というものが存しているのです。本当に悩みから解放されるのは、悟りを開いたものだけでしょう」
「なるほど、そうですね」
 落ち着いて考えてみると、老人の話は納得できることばかりであった。
「あなたは世界をどのように捉えていましたか?」
 その質問にしばらく考え込んでみるが、適当な答えが浮ばず、ゆっくりと言葉を押し出すように続ける。
「世界と云えるほどの思想の広がりを持つことは難しかった。ただ、ひたすら眼前の仕事に集中して、長の指示に従う日々だった。確かに、人を殺めることが仕事であったのに、まったくその成果を上げることのできなかった私は、役に立たないやつだったかも知れぬ。しかし、長はそんな私でも可愛がってくれていて、絶対この仕事を辞めるなよ、と云われたくらいだった。その一言が嬉しくて、私はこの人についていくことこそ、自分の本分だと思っていた。小さいけれどもその集団こそ私の家族であり、世界であったと云えるかも知れない」
 私はいまではもうはっきりと生前のことを思い返すほどに、記憶力が甦っていた。
「それではあまりに小さすぎはせぬか?」
 老人は怪訝そうな眼差しでこちらを瞶める。
「というと?」
 私は老人の次の言葉を待つ。
「つまりこういうわけだ。世界とは自分の視界に入ってくるすべてではないかな? そなたの今の弁では、他人の存在によって限定されたものしか世界ではないと云っているように聞こえる。そうではないのだ。世界とは自身の経験したことの総和を指すのだ。そのあたりを混同しては、今後の自分の行動を狭めてしまうことになりかねぬぞ」
 老人のその言葉に私は雷に打たれたようになった。
 世界ががらがらっと音を立てて崩れるような心地がした。
 そして背筋がぞくりとする。
「見知らぬ物を恐怖する心は解からないでもない。でも、その恐怖を克服して自分を立て直し、しっかり考えることこそ、自分の成長を齎す機縁となる。その辺りをゆめゆめ忘れめさるな」
 老人は私の心を見透かしたようにそう告げると、口に拳を当てて、咳払いをひとつした。
「今日はゆるりと滞在なさるがいい。何もなくて、持成すことはできぬが、話相手にならいくらでもなろうぞ。もしよかったら、これまでの人生について語ってくれてもよいぞ。そういう話を聞くのは私の趣味でもあるのでな」
 老人は好々爺然としていて、ここまで話してくると、人懐っこい笑みを見せ、私も心のわだかまりが融けて、自然と顔に笑みが浮びはじめた。
 外が暗くなったから夜だという意識は冥府では役に立たず、また、腹がすくということもないため、自分の体調から夜を類推するということもできなかった。しかし、老人と休み休み話しているうちに時間は過ぎていき、老人の、
「そろそろ日が替わるの」
 という言葉によって、だいたいの時間が想像できた。
 身体にはなぜか疲労感がどっと積もっていて、珍しく自分の意思で眠りたいと感じていた。これまでの道中はさほど眠りたいとの欲求を感じることもなく、そろそろ夜かなと思う時間に空を舞うあの凶鳥の襲撃を受ける危険を冒しながら野宿をしたくらいで、眠気が襲ってくるのは珍しかった。
 もちろん、地上にいる間は、定期的にきっちりと眠くなっていたが、きっとこの冥府では、なにもかもが異なるのだろう。もしかすると、慣れない土地での単独行に意識が覚醒させられ続け、ここまでに積りに積った疲労を身体の方が感じなかったのかも知れぬ。そういえば、この庵についたとき、不思議な安堵感があって、まるで熱い湯にでも浸っているような幸せな心地に包まれた。なにか梵音とでもいうのだろうか、妙音とでもいうのだろうか、俗世からはかけ離れた場所にある清まった場所にいるような、そんな恩寵のような功徳を受けている気がしてならなかった。
 老人は私の顔を見て、そこに疲れの色を感じ取ったのか、そろそろ休むか? と云って床を用意してくれた。こんな一人住まいの住居に客人用の寝具があること自体、不思議でならなかった。しかし、通された次の間には、真新しい布団が敷かれてあった。
「何から何まで、ありがとうございます」
 私は老人に礼を云う。
「いやいや、客人を持成すのは、何よりの趣味と云ったのは飾りの言葉ではありませぬのでな。ぜひ、ゆっくりとお休みを。身体の疲れ、心の疲れ、そのようなものを取り除くには最適な睡眠が得られましょう。では、また」
 そう云うと、老人は元の部屋へ引っ込んだ。
 床に入ると睡魔はすぐに襲ってきた。
 目の奥がきゅーっと縮まるような印象を受け、もう瞳を開くことが億劫に感じはじめ、私は眠りにつくのはもうすぐだろうとの印象を持った。
 しかし、身体に浮遊感はあるのに、なかなか意識の方が微睡んでいかない。
 おかしいと思いはじめたのは、その状態が十分も続いた頃だった。
 耳には何か空鳴りに似たブーンと音がして、それは微妙な空気の密度の差によるものと思われたが、目が塞がっているので、余計にその音が気にかかる。それまで気にならなかった音がよくよく集中して聴いてみると、大きくなったり小さくなったりを周期的に繰り返していることがわかった。そしてその最高潮の部分を正確に聴きとろうとすると、それはなにか、鐘を鳴らした後に残る余韻のようなものに似ていることに気づく。どうしてそんな音が――と思ううちに、音の質が変ってくる。なにかくぐもった人の声のような印象だ。
 私は老人の一人住まいの家で誰がそんな声を上げているのだと思ったが、よくよく聞いてみると、あの老人の声に非常に似ている。もしかすると、あの老人が誰もいない部屋で一人で喋っているのかもしれない。しかし、それにしてはこの声の調子は、喋っているというよりも何かを読みあげているという雰囲気だ。
 これは――と思うと同時に、何の声なのか、はっきりと理解する。
 なるほど、ここは冥府。謂わば佛縁に包まれた微妙端厳なる世界といえるものだ。そこでこのように声を上げているのは、勿論、読経の為であろう。
 謎が一つ解決して、私はさっぱりした気分になった。
 孤独に一人、空に向って声を上げる老人というのは、絵的に恐ろしいものがある。できれば関わりあいになりたくない人物である。しかし、読経となると話は別である。あのように齢を重ねた老人ならば、心に一つや二つの信心の火種は持っていてもおかしくあるまい。そしてその道をしっかりと突き進む姿には神佛に似た神々しさがあると思われた。
 その老人の読誦の声は小一時間も続いただろうか。
 その間、私の意識は常に覚醒していて、いっかな眠気がやってこなかった。
 しかし、目を開いて辺りを確かめるということさえ、煩瑣に感じられて、ただ床に入って凝っとしていた。
 気が付くと、老人の声は止んでいた。
 いったいいつ終わったものか、まったく分らない。
 不意に一陣の風が頬に感じられた。
 おかしい。
 部屋には窓はなかったし、老人のいる部屋との間の戸も開いた気配はない。
 私は何か予感めいたものに突き動かされて、起きあがろうとした。
 しかし、身体はまったく動かない。
 いや、動いた感覚はあったのに、なぜか、私の身体は床の中にあり続けた。
 気が付くと、私の魂は宙に浮いていた。
「冥加よ」
 声がした。
 どこからかは判らない。
 しかし、呼ばれていることだけは確かだ。
「冥加、そなたは気付いていないかも知れぬ。閻羅王との対話から二週間。そなたはさらに二人の十王と対面を果たした。それについてはどう思う?」
 その声はしっかりとした意識を持って私に突きつけられていた。私は意味が解らない。十王だと? この二週間で会った人物と云えば、あの莫という鼠頭と、賢者の鄭文、そしてこの庵の白髪の老人のみである。十王の二人とは、期間から察するに鄭文と老人の二人のことか? しかし二人とも先の五王ほどの威厳もなかったし、第一、あの冥府の番人然とした黒の袍衣もつけていない。いったいどういうことだ。
「そなたは疑問に思っておるな? しかし、そなたは外見だけで人を判断する者か? いかにみすぼらしい格好をしたものでも、その裡にしっかりとした輝きを持つ珠のごとき者もいる。また逆に、いかに立派に着飾っていようと、何の役にも立たぬ愚劣なる念しか持たぬ瓦のごとき者もおる。ここは冥府と云っても、常識は常に人界と同質であるのだ。そのあたりを間違えぬように」
 私は何処から声がしているのか見定めようとした。しかし、四方を見回しても壁があるだけで誰もいない。そして下を見ると相変わらず、私が身じろぎもせずに眠っている。いったいどうなっている?
 これは幽体離脱だという意識が、ぼんやりした頭のなかではっきりと形をとった。
 近世で聞いたことがある。
 幽体離脱をすると、肉体と精神を結ぶ糸のようなものがだんだん細くなっていく。それが完全に無くなってしまうと、もう、決して元には戻られぬということだ。私は存在が滅してしまうかもしれぬとの危機感を抱いて、直ぐに元に戻ろうと思った。
 しかし、戻り方がわからない。
 そのとき、最前の声がした。
「床に入って自分の身体と合わせて眼を閉じなさい。そうして眠りにつけば、元に戻っているはずです」
 その親切な助言に私はこの存在が自分を傷めつけようとする悪い存在ではないことに気付く。そうしてその言葉に従うように、私は床へ入って身体を合わせる。しかし、元は一つの存在だというのに、まったく感覚がない。欺されたかとの思いを一瞬抱くが、その思いを固めるより前に、意識の方がふっと軽くなって、まどろんだ。
 目覚めるとまた老人の読誦の声が聞えて来た。
 しかし夜が過ぎなかったのではあるまい。
 身体に疲労感はまったく残っておらず、今日も一日活動するだけの気合の充溢を感じる。
 良い兆候だ。
 私はそう思い做し、布団から抜け出ると、綺麗に床を畳み、老人の声のする部屋へと向った。
 私が部屋に入ると、老人が合掌しながら、とても澄んだ眼を前方に向けて経文を唱えている。経文はすべて空で誦せるのだろう。そしてそのとき、私は昨晩の不思議な出来事の内容を思い出す。この老人が十王の一人――?
 私はあまり凝っと瞶めるのも悪いと思いながらも、何度か老人の端正な姿に見入った。確かにその声は美しくて聴く物の心を澄ませるだけの力があるように思う。しかし、先の五王のような威厳めいたものがまったく感じられない。そんなことを考えながら、老人の読経が終るのを今か今かと待ち望んだ。
 真言をいくつか唱えて老人の読誦は終る。
 老人は一つ息を吐くと気を落ち着かせて次の言葉を発した。
「おはようございます、冥加殿。昨夜はよく休めましたかな? そして私の正体に気づかれたようですね」
 私は言葉が出なかった。まるで昨夜のことをすべて知っているかのような口ぶりだ。しかしこの老人の正体が確かに十王であるのならば、それも頷ける話である。
「あなたは十王なのですか?」
 私は無礼を承知でそのように訊ねかける。
「それを訊いて、どうしようというのです?」
「いえ、私はただ純粋にあなたの正体を知りたいのです」
 私がそう云うと、老人は表情を曇らせた。
「云いにくいことですか?」
 私は更に云い募る。
「まぁ、いいでしょう。あなたのご察し通り、私は十王の一人泰山王。ここに宿るは仮の貌。そなたはここに於て、吾の試練を終えたことを宣言しよう。次なるは百日目の平等王との対面を目標にせよ。これは強制ではないが、そなたならばきっと、この旅の執着地点に赴くことができると信じている。吾からはこれ以上、述べることはない。今より、次の期限までは好きなところへ向うが良い。期限が来れば、嫌でもそなたは平等王と出くわすことになる。得られる者はすべて習得して、今後の生活に生かすのだ。それこそ、この冥府での試練の第一であるのだからの」
 老人の姿がぼやけたと思うと、庵自体が消滅していき、老人も庵も数瞬のうちに無くなってしまった。あとには老人の声を聞いていた時の通り、立ちつくす自分がいるだけだった。
 老人の存在は夢だったか、幻だったか。
 しかし、確かに老人は十王の一人であると宣言した。それを信じていこう。
 あと五十日近くある時間。
 何処へ行こうかと、久々にわくわくした思いを心に抱いていた。

(十王との対話(其之二)・了)


5 :蒼幻 :2009/06/26(金) 06:56:25 ID:tcz3sknm



 老人の住まわっていた山間の地域を迂回し、西行すること二十日余り。
 その途の半ばあたりから、見たことのない植物がぽつりぽつりと道端にちらつきはじめ、やがてそれが叢生して、群れ、草原となって、いまでは大きな樹木まで散見されるようになった。またそれらの樹木が芭蕉のような葉を持ち、それが油を塗ったみたいにてらてらと光っている様は、ここが異国、あるいは異界であるという雰囲気を醸すに一役買っていた。
 あの不気味な鳥の姿はもう何処にもなかった。
 きっとあの南行した道にのみ棲んでいるものだったのだろう。
 さらに一日進むと、建物の密集した地域が目に入ってきた。全体的に瀟洒な建物が多く、周りは高い塀に囲まれているわけでもなく、平和な一地域として存しているように見受けられる。町へと続く道には衛士の姿もなく、そこを歩く者も皆、それぞれに晴れやかな顔をしているように見えた。町の中へと入る。
 適当に、そこを歩く少年に訊ねる。
 少年は落ち着いた色合いの着物を着て、何か目的があるかのようにすたすたと歩いていたが、声を掛けると立ち止まって、親切に教えてくれた。
「ここは神威さ。神威町――別名妙光府。神佛に祝福された町と云っても過言ではないよ」
「なるほど」
 私はよく判らないまま、相槌を打つ。
「お兄さんはこの町は初めてみたいだね。ひとつ云っておくけど、ここでは目に見えるものだけを信用してちゃいけないよ。なにしろ神佛の加護っていうのは目に見えない最たるものだからね。それを感じ取るには心の目を開眼しなけりゃならない。でも、きっとそのうち判ってくるはずだよ。何が必要で、何が必要でないか。何が重要で、何が重要でないか。じゃ、僕は用事があるので」
 少年はまだ十五歳くらいにしか見えなかった。
 彼は必要なことだけ告げると、さっさと歩きだしてもう後ろを振り返らなかった。
 しかし、改めて考えてみると不思議な事であるように思う。
 馬頭はこの冥府で出会うものはすべて機縁で繋がっていると云っていた。だが、冥府にいる者の中にあのような少年の姿を持つ者もいて、彼はここで普通に暮らしている。この冥府の特にあの宮殿以外の地域に住まう者たちの存在意義とは、一体なんであるのか。無駄に命を保っているという訳でもあるまい。やはり、何らかの役割を持ってここにこうして住しているのだろう。ここに住まう魂たちは天国へも地獄へも行かず、ただ悠久の時の流れの中に漂う藻草のような生を生きることを莞爾として受け入れているというのか?
 それは解からぬが、明らかに自分の魂の行き方とは異なる生活だ、と私は痛感する。
 気を取り直して町へと入っていく。そこには近世の活気ある町並みとそう変らぬ印象の光景が広がっている。生活の役に立ちそうな品物を並べてそれらを商っている商人。さらさらと紙に絵を描いて客の目を楽しませる大道芸的手法で人を集める絵師。刀剣や鎧兜を並べ、一心に古品の金物を乾いた砂で磨いている鍛冶師。そういう人物を見ていると、ここが地獄と隣り合わせの畏怖すべき冥府であるとの思いを、忘れさせてくれる。
 そのような人々の中には、さまざまな動物の頭を持つ者の姿も散見された。
 しかし、住民たちは平然としている。
 それがここで暮らすための常識なのだろう。いちいち気にしていては此処では生活していけないのかも知れぬ。
「西向きゃ東から押され、振り返れば反対から突かれてしまう。重要なのは、何より友を持つことだ!」
 前方の辻の方から聞え良い声で誰かが喋っているのが聞えて来た。
 ――ははぁ、辻説法だな。
 私は近世でも散々聞いたことのあるこの話法の主を一目見てやろうと野次馬的な興味で声のする方へと向った。
 果して、其処にいたのは、見栄えのする綺麗な衣装を身にまとった好青年だった。
 顔だちはすっきりとしていて嫌味がなく、肩幅は頑強とは程遠い優男的な小ささ、武よりは文に生きるという雰囲気であるが、決して文弱というほどにひ弱にも見えず、背は高くはないが、存在感はあると云った感じで、それだけならば近世でも好人物と呼ぶに相応しかったが、しかし、ただ一つ、それにそぐわぬ点があった。
 目つきである。
 その目の色は明らかに過度の情熱を持って熱く輝いており、狂信者めいた気味を感じさせた。目の前を通る沢山の人を目の当たりにしながら、その目は何も見ておらず、ただ自身の心中のみに於て、自己に陶酔しているような、そんな印象が漂っている。そのような人物は近世にもいくらもあった。しかし、常と異なるのは、そのような状態であるにも関わらず、その青年の声は私の心に何の抵抗もなくつらつらと入ってくる点だった。
「齢重ね、病に倒れ伏した時、真に後事を託せる人物はそなたらにあるか! 我は人を求める! 昏き世に光明を齎す存在。それは叡智の光の如く、万象を隈なく照らす慈悲の波。友よ、ここに存する友よ。どうか私の声に耳を傾けてほしい。世界は如何様にも変えることができる。独りではできぬことでも、複数があつまれば可能になる。多の力こそ個々人では出せぬ威力を誇るものとなろう。我が命、有事にこそ使いたい。この康安は友を求めている!」
 青年の主張したいことはこの言葉だけではさほど伝わらなかったが、しかし、強い信念を持っていることは明らかだった。この声の張り。それは自分の持つ意思の拠って来たる所を、一点の曇りもなく信じ切っているのだろう。だが、こうも考える。人は往々にして、何かに情熱を持ちすぎることで細かな瑕疵には気付けなくなってしまうものである、と。この青年もその障碍に目を蔽われている気がするのだった。
 単独行の慰みにと、私はこの青年の言葉をもう少し聴いてみようと思い、彼から少し離れたところで言葉を拝聴することにした。
「前世の功徳をここで消費することは避けねばならぬことである。ただひたすら成佛を求めて身を修すること。それこそ真実の道かも知れぬ。しかし、世は荒れ、いついかなるときでも人々は生命損失の危機に晒されている。私は残念ながら武に生きる勇猛の士ではない。だが、この命を燃やしつくして文に生きようとの志を持っている。この文こそ深甚奥妙のものであり、人の心に直接訴えかける文明の利器と思っている。私は自身の言葉で世を救いたい。それは細く険しい径かも知れぬ。だが、やるだけの価値はあると信じている。この考えに賛同してくれる者はおらぬか!」
 私は青年の言葉がだんだん鬼神にも似た気味を帯びていくのを危ういと感じながら、それを聴いていた。そして何を思ったか、私はその青年の言葉に応えてしまったのだ。
 一言、
「文に生きるとは何ぞや」
 と。
 青年の目が私を捉える。
 その目は瞬時にカッと瞠かれ、数瞬、互いの視線が相手の表情の上にとどまった。
 私は青年の表情の真摯さに少しく動揺を覚える。
 青年の方でも、私の反応に意表を突かれたように、暫く言葉を出せぬ様子。
「貴方はどなたですか?」
 青年は憑き物が落ちたように、最前の熱を帯びた表情とは打って変り、冷静な理知の漂う雰囲気で、まるで数年来の友に対するような様子で訊ねかけてきた。
 どちらが本当の青年なのか、との疑問も心に生じたが、いまは青年のその言葉にどう答えたものか、と考えに集中した。
「私は冥加。どうやら一月半前に地上にて命を落としたらしい。いまは十王に会うための旅をしている途上ということになるらしい」
 なるらしい、というのは、偶然、先に二王(変成王と泰山王)に会ったことで、どうやら十王すべてに対面するのがこの旅の重要事であるという気がしはじめていたのだった。しかし、先の五王はあの宮殿の中にいたのに、残りの五王はすべて宮殿の外に存しているというのはいったいどういう訳か。平等王に会うにはあと数週間の猶予がある。それまでに私に何が出来るか。旅の経験を今後の生活に生かすために、出来るだけ多くのことを経験したいとの思いが胸にある。しかし、天国に行くにせよ、地獄に行くにせよ、このいまの記憶を持っていくことはできぬのだから、結局ここでの苦心は徒労に終わるのではないかとも感じる。しかし、冷静になって考えてみると、納得のいくことである。というのは、ここで功徳を積んだならば、必ず来世に恩寵となって戻ってくるのだ。私は佛教徒ではないが、因果応報の哲理は地上で生活していれば、厭でも耳にする言葉であり、またこれまでの人生に於て、自身の経験を元にいろいろと思惟してみたところからも、この佛教の因果応報に非常に似通った哲学を有するに至っていたのである。やはり、多が信じる者には一抹の真実が溶けていることを感じぬわけにはいかぬ。
 青年はそんな私の思いなど気付くはずもなく、私の言葉を受けて、彼の方でも自己紹介を始める。
「私は康安と申すもの。この冥府に来て五年が経とうとしている。十王にここに住することを認められ、なんとか今日まで精を保っている。貴方は一ヵ月半ということは十王の審問の真っ最中なのですね」
 青年は、今ではもう、最前まで激昂にも似た情熱を発揮していたと同じ人物とは思えなかった。
「康安か……佳い名だな」
 私はそう告げると、この日本とも中国とも云い切ることのできぬ両文化の混淆した雰囲気の町並みに目を遣って、不意に浮んだ疑問を口にする。
「あの十王というのは中国の傾向を多分に含んでいる気がするんだが、この冥府は日本のうちか、それとも中国のうちか?」
 私はその疑問を口にしてから、それが愚問であったことに気づく。
 ここは地上とは異なる土地。
 日本か、中国かという質問はその前提からして間違っていることに思い当る。
「済まぬ、気にしないでくれ」
 私は返答に困っている青年に向けて、そう告げる。
 青年は眉間に寄せた皺を解いて、ふっと微笑んだ。適度に緊張のとれた良い笑みだと感じるとともに、この青年の考えていることをもっと知りたいと思いはじめていた。
「康安よ、そなたの意見をもっと聴きたい」
 私は言葉少なにそう告げた。
 康安はその言葉に嬉しそうに微笑んで、
「ならば」
 と云い、私に付いてくるように促した。
 青年は慣れた足取りで喧騒を窮める街路をすいすいと縫って歩く。
 私はそれについて行くのに精いっぱいで、周りに構っている暇がなかった。青年の話に興味をそそられていた幾人かの人々が、私に奇異の視線を送ってくるのが気配で察された。しかし、振り返る余裕もなく、青年の歩みに付いて行くのに集中する。
「景色と茶とどちらがいいですか?」
 前を歩く青年はそう告げながら、歩む速度を緩めない。
 私は考える暇もなく、即座に答える、
「茶だな」
と。
「茶ですか。それなら行きつけの良い肆があるのでそちらへ向いましょう」
 青年はこの町の道という道に精通しているのだろう。悩むそぶりも見せず、自信を備えた確かな足取りで進んでいく。私も暫くすると、人の波を避けながら進んでいく歩み方に慣れてきて、ここにて、ようやく周りを見回す余裕も生まれた。
 町に入ったすぐのところでは、平屋の質素な建物が目立っており、そこから染み出るように様々な露店が混雑していたのであったが、この町の中腹辺りの建物は二階や三階建てといったものが目立ち、中にはまるで春を鬻ぐ店のように、通りに面した柱と云う柱を朱で塗っているものまであった。しかし、それは淫を思わせるものではなく、あくまで意匠を凝らした装飾と云う面で美しいと感じられるもので、この町の繁栄を実際に体現しているもののようにも見えるのだった。
 青年はそのうちの一つの楼閣に入った。
 私もそれに付いて慣れない建物へと入っていく。
 店の入り口には茶店とも酒家とも書いていなかったが、中へ入ってみるとしっかりとした造りの四人掛けの卓子が全部で八脚、椅子が必要分置かれてある。私たちは既に店の中にいた客の顔を盗むように見つつ、空いている卓子に席を占める。
 私はここに於て、金銭を全く持っていないことに気づく。
 そのことを申し出るには、あまりに青年のことを知らなさすぎた。
 気兼ねしてもじもじしている私の様子を見て、青年が云い添える。
「御代は気になさらず。もともと腹の減らぬ冥界人が茶を嗜むのはそれなりの理由があってのこと。それを知らぬお上ではありませぬ。ここでは金銭は無用の長物なのです。全て無料というわけです。理解できますか?」
「いや、よく解からぬのだが」
 と、私は言葉を濁す。
 無料で飲食させてくれる店があるなど、近世では考えられぬことだ。しかし、ここは冥府。そういうこともあるのかも知れぬと、青年の今の言葉を吟味する。
「私もここに来たばかりの頃は全く判らぬことばかりでした。私にはこの様にここでの生活の仕方を教えてくれる者もおらず、一人で経験的に物事を習得していくしかありませんでした。食事のこともそうですが、近世に於て詩文を良くしていたこともあり、その力で自分の思いを他人に伝えるということをその生活の根本にしようとの意識が芽生えたのは、ここに来て四年もした頃でした。実際、あなたも今日、観てくれたように、私の言葉を聞いてくれる者は非常に少ない。しかり全くいないわけではない。毎日、辻に立って自分の意見を吐きだしていると、確かに幾人かは立ち止まって、それに耳を傾けてくれる。聴いてくれる者がいるというのは大変な励みになるのですよ。孤独ではないんだという充足感。それが欲しくて、私は言葉を発しつづけているのかも知れない。しかし、心を許して語り合える人物にはなかなか出会わない。何を隠そう、そういう相手は貴方が初めてです。あるいは、貴方も信を抱くに足らぬ人物かも知れない。それは未知数でありますが、私は本当に、心から、信頼できる友を欲しているのです。あなたはそれに適う人物であると云い切れますか?」
 青年は席に着くなりそういう話をして、真摯な眼差しを私の顔に注いでいる。
 私はどう答えたものか、暫く悩んだ。
 その懊悩が否定の態度と見てとれたのか、次第に青年の表情に蔭りが生じてきた。
 心が表情にあらわれやすい性質なのかも知れぬと、ぼんやり思う。
 注文をとったわけでもないのに、私たちの前に椀が置かれて、そこへ暖かい茶が注がれた。緑色の何処にでもあるような茶にしか見えなかったが、私たちに急須から茶を注いだ人物は何も言わずに、その場を立ち去った。
 ――無愛想な給仕だ……
と、私は思うが、口には出さない。それよりもいまは青年の言葉に返答をしないと、と思い定める。
「私は己を量れるほど自身を理解していない。それはいい加減な気持ちで云っているのではない。貴方の言葉はとても真剣なもので、それにはしっかり答えないといけないと分っています。しかし、私は、この冥府に来てからというもの、状況が変転して、それに翻弄されています。正直云って、価値観が右を向いたり左を向いたり、始終、定まらぬのですよ。そんな状況下で、自身の意思を確言したとしても、そんな基礎のあやふやな建築はすぐに倒壊してしまうでしょう。だから、貴方の言葉にしっかりとした返答を行うことは、私には出来かねるのです。それを分って頂けませぬか?」
 私がその言葉を告げると、青年の表情は悲しみに満ちてしまった。
「そうですか」
 青年は落胆した様子を見せる。
「勿論、貴方のことをすっかり忘れきってしまうなどと云う薄情なことはしませんよ。ただ、明日は地獄へ赴くことになるかも知れぬこの身に、同志など求められるものではないと思うのです」
 私はそう云いながらも、またあの閻羅の宮殿の馬頭の言葉を思い出す。
 その言葉はこの旅の途上で、何度思いだしたか知れぬ。
 この旅で出会う者たちはみな、機縁に結ばれた同志である、と。
 本当にそうなのだろうか、と私は心に疑問を生じさせる。それは素直な疑問だった。
 そう考えてみると、馬頭のこの言葉は近世にも当てはまる言葉だと気づく。
『袖振り合うも多生の縁』
 そんな俚諺が胸中に浮ぶ。
 地上だから、冥府だから、とことさら区別する必要はないと助言する者もいた。
 確かにそうなのだろう。
 区別は物事を限定的にしか捉えられなくする不具の思想。
 それを打破しなければ、何時まで経っても前に進むことはできぬのではないか。
 そう思い定め、先の言葉を撤回して、青年に告げる。
「ここで逢ったも何かの縁だ。私は貴方の友となろう。たった一日で何がわかるという者もいるかも知れぬ。しかし、ここでこうして話が出来るという運命を必然と思い定め、貴方と打ち解けあいたいと思う」
 私はそう云って自身の心がすーっと軽くなる思いを抱いた。
 心のわだかまりがすっかりとれたような具合だ。何が心を押し塞いでいたのか判らぬが、それが綺麗さっぱり無くなった気がする。気分がいい、と私は安堵する。そして目の前の青年の表情を見とめる。
 青年の顔に憂悶の影は消え、澄んだ心が表情にあらわれでるかのように見えた。
「どうやらひとつの諦観を得られたようですね」
 青年は唐突にそう云った。
 私はその言葉の意味が分らず、問い返す。
「いったい、何のことです?」
 青年は美しく微笑むだけだった。
 私は困惑する。
「必要なことは必要な時に立ち現れ、正しき心の持ち主は、その機会を利用して何丈もの高さを飛び越える。それは飛躍というものです」
 ますます解からない。
 青年はなおも言葉を続ける。
「貴方を待っていたのですよ、冥加」
 青年の声は妙音を伴い、心地よい旋律と共に耳に入ってきた。
 何の妖術かと一瞬思ったものの、魑魅の類がこのような心地よさを漂わせることなど出来ぬと思い到り、それならばどうして、との疑問が心に生じる。
「この後、貴方は平等王と対面するでしょう。そこで新たな自分の使命を見つけるのです。いまは私の口から告げるわけには参りませぬ。その時ではないのですから。冥加よ、精進なさい。あなたなら出来ます。思いさえあれば、不可能事など無いのです。善に尽くすか、悪に堕するか、それは心の加減の両極端に過ぎぬのです。私は貴方を見込んでいます。三年の遍歴ののちの、貴方の成長した姿を楽しみにしています。機会があれば逢うこともあるでしょう。それまでは貴方の安全を祈って時を過ごすと致しましょう」
 何者かが青年の口を藉りて告げた。
 唖然とする私は目の前の奇異に驚きつつも、何か神々しいものに触れたかのような敬虔な気持ちを呼び起こされるのだった。

(冥府の街路にて・了)


6 :蒼幻 :2009/07/28(火) 09:29:21 ID:tcz3sknm



 青年の住まいするという町の東端の家屋に世話になることにした。
 というのも、平等王はこの町のちょうど真ん中にある恩徳殿に住していると聞いたからである。これまでは流されるように、半ば受身的に十王の審議を受けるばかりだったが、青年の説明によると、平等王は死後百日目に死者に会うと云う事を教えてもらい、ならばと、それまでの時をこの康安と共に過ごすことに決めたのだった。
 康安は私がこの冥府に来て一番にできた友人と云うことができそうだ。確かに最初はこちらからはあまり仲良くなるに気の乗らない雰囲気を醸していた康安だったが、その内に秘めた苛烈さは普段表に見えることもなく、なりをひそめて、それ以上に、いつも接する相手のことを考えた思いやりのある言葉や態度をとってくれる。私はこの青年の心の美しさに感じ入っていた。
「この町に他に知り合いはいるのかい?」
 私が訊ねると、康安は顔をしかめて少し考える素振りを見せた。
 その態度からこの青年がどのように答えるかは、類推できそうにも思えたが、私は我慢強く青年の返答を待った。
 青年の家には調度品と云っては殊更に述べるほどのものは無かったが、つやつやした金盥の輝きの美妙さや、余計な装飾を省いた柱や壁の端正な雰囲気などがなかなか余人の家では叶わぬ洗練された様子ととれ、その面に於て、私はこの家に来た当初からここを気に入っていた。
「知り合いと云っては何人かおりますが、友とまで呼べるまでのものはおりませんね」
 青年はようやくそれだけ返答すると、気鬱そうに溜息をつくのだった。
 私と青年とは道から聴こえてくる喧噪に耳を澄ませながら、互いの動向に意識を配りつつ、何を話したものかと互いに探る雰囲気を醸していた。
「国はどこなんだ?」
 私は心に萌した疑問を口にした。
 青年は力みの抜けた穏やかな視線を私の顔に向けるとこう答えた。
「清州の双郷という鄙びた村さ」
「そうか」
「冥加は?」
 青年もそれに刺激されて私の出生地を訊ねる。
 私はしばらく思案して答える。
「毘州だ。州の北部。それなりに京にも近くてひらけた町だった」
「そうか」
 私は更に続ける。
「生まれは毘州だが、成長してのちは京に住んだり東国へ出たりもした。傭兵稼業といってもいいもので、国で大名を暗殺してからは、その土地に居づらくなって軍団と共に様々な地を彷徨ったのだ。生活が懸かっていたために風光明媚な地に心を和ませると云った経験は皆無だったが、それでも各地の優れた景色は私にひとつの諦観を与えてくた。つまり、生地は人なり、と。そこに住まう人々の心の裡にはその土地の風土が色濃く反映されている。私は新たな土地へ赴けば、そこに住まう人士の心の中に潜む郷土愛のようなものを見つけたくて、人と語りあった。暗殺稼業に身を置いている自身の心の不毛さをそれによって慰めようとしていたのかも知れぬ。いまから思えばな」
 青年は私の言葉に耳を傾けている。
 私は自身が普段語らぬ自らの心の内を語ろうとしていることに思い当り、それはこの青年を肩肘張らずに何でも話せる人物と見込んでのことだと感じ、苦笑したくなった。
「私は暗殺稼業に身を置きながら、不殺の立場をとってきた。――いや、立場と云うと語弊がありそうだ。努めて人を殺さぬように自身を追いつめていたと云った方が適当かも知れぬ」
「人を殺さぬ傭兵稼業?」
 私の言葉に青年は怪訝そうな表情をして見せる。
 私は青年の素直な疑問にしっかりと答えないといけないと感じ入り、何から話したものかと思案する。やがて、思いついたことをつらつらと述べていく。
「確かに仕事は集団で行い、職務の遂行には刀剣の威を借りねばならぬことばかりだった。しかし、私は、確かに刀を振り回して敵に対した。ここで断っておくが、既に亡くなっていた父母は息子の私から見ても有徳の人物だった。その父母が子供の頃から殺生だけはやめよと厳しく教えていたから、その頃から木刀を握って鍛錬していた私は不殺の剣とでもいうものを極めようと苦心することとなった。命を奪うことは飽くまでも最終手段であって、それを目的として剣を振うことはやり過ぎだ、とずっと思っていた。傭兵仲間は皆、人を屠るになんら抵抗を持たぬものばかりだったが、私だけはそれに染まらぬようにしようとずっと思っていた」
「優しいんだな」
 青年は穏やかな表情で私を見ている。
 しかし、私はその言葉に若干の抵抗を試みたい気持ちを促される。
「優しいわけではないよ。ただ剣士として必要な非情さを持てぬだけだ」
「殺人鬼になりたかったというわけか?」
 青年はずばり訊ねてくる。
「いや、そうではない。ただ、父母の仁愛の言葉を隠れ蓑にして修羅道に堕ちそうな自身を安全な所に保っておきたかっただけかも知れぬ」
「そうか……」
 青年は言下に意を残すような溜めを作った。
「とにかく、平等王の審議まで受ける立場となったのは、そのお陰ということもあったんだろう」
 康安はそう云うと、私に微笑みかける。
 私はその言葉に何か得体の知れないものを感じ取って、背筋をぞくりとさせる。
 天国へも地獄へも行けず、ただ三年という月日を限って、この冥府を回らされる旅。回らされると云う受身的な言い方は悪いかも知れぬが、閻羅はあのとき確かに、自分の行きたいところへ行けばいいという雰囲気を漂わせていた。だから、私も自分の意思で、この冥府遍歴の旅を素直に受け入れたのだ。しかし、蓋を開けてみると、旅というのは名ばかりで、これまでに変成王・泰山王と二王に知遇を得ることとなった。これは深甚なる縁の力と云うものかも知れぬが、あらかじめ、決められた、閻羅の策略といっても言い過ぎではない気がした。そしていままた、平等王に対面しようとしている。それを取りやめて永遠に遍歴の旅を続けることは可能だろうか? あるいは、この青年康安のように十王すべてと対面した後、ここで過ごすことを許されて、自身の信じるところを生活の信条として日々を過ごすことも可能なのだろうか?
「平等王とはどういう人物なのだ?」
 私は青年に訊ねる。
「どういう人物か……それは答えられぬ質問です」
「というと?」
 青年はその瞳に聡明な光を宿していた。その冴えかえる眼差しは、私に真実を伝えようと心根をしっかり持っているためと見える。
 青年は続ける。
「十王の姿と云うのは彼らに対面する人の心根でどのようにも変化するものなのです」
「それはつまり?」
 私は薄々、その質問の返答を予想できたが、念のため訊いてみる。
「つまり、観る者の心によって十王はそれに相応しい姿に変わるのです」
 私は予想通りの言葉を青年の口から聞いて、なぜかほっとする。
「これまでに幾人かに十王のことを聞いてきました。初めは十王のそれぞれの姿が人によってまちまちなのに怪訝な想いを抱きました。しかし、あるとき気付いたのです。人によって見る姿が異なっているのではないか、と。ですから、私が見た閻魔王は黒々とした髭を持った立派な体格の壮年人士でした。その雰囲気は職務に忠実と云うか、心に一抹の不安も持たぬ完成された酷吏といった印象でした。貴方が見た閻魔王はどうでした? 私とは印象が異なるでしょう?」
 青年は興を擽られたように声に抑揚を持たせてその質問をした。
 私はその問いにただ頷くのみで、閻羅が青年の姿で文武両方に長けている印象だったとは告げなかった。
 青年は私に返答がないのを察して、それ以上、語らなかった。
 私と青年とは近世での生活やその中で育んだ人生哲学のようなものを語り合ったり、ここでの青年の生活について色々と訊ねてそれに興味を覚えて笑いあったり、そのようなことをしつつ、日々を過ごした。
 二週間はあっという間に過ぎてしまう。
 宮殿で馬頭に訊いていた閻羅との面会の日が朔の日だったという情報を康安に与えると、彼は平等王との面会はこれこれの日だと云い、それに従ってそれまでの日数を経る。
 そして青年から様々な知識を得て過ごす日々の後、その日がやって来る。これまでは選択の余地なく時が来れば自然と十王との対面ということになっていたが、今回こうして自分の方から相手へと赴く形に悪戯心を刺激されて、このまま平等王と会わずに逃げてしまえばどうなるだろうかと考えもしたが、心の裡でそれは自身も望んでいないことと思われる。心うきうきするような期待感は無縁だが、自分の方からこの面会に背を向けると云う事も気が進まなかった。呼吸をすることのように、この平等王との面会は自然なことであり、そうするのが正道であるとの印象が強く心を覆っていた。
 青年の案内により、平等王の住まい、恩徳殿へと赴く。
 ずっと青年の家に籠っていて二週間ぶりとなった路地はやはり喧噪を窮めていて、盛んに商人たちの声が飛び交っていた。
 恩徳殿は瀟洒な佇まいの家屋の並ぶ区画とはきっぱりと袂を分って、豪壮といって差し支えない、人を威圧するような三階建て、四階建ての建物の並ぶ区画に燦然と建っていた。他の建物が木材を基調とするのに比べ、その建物は白亜の壁がその美しさを誇っていて、見るものを敬虔な気持ちにさせた。
「さあ、後は貴方の才覚次第だ」
 恩徳殿の入り口に立った康安は、その横に立つ私に笑んで見せ、一度肩をぽんと叩いた。
 私は怪訝そうな眼差しを見せる恩徳殿の門衛に、閻羅から貰った通門証を見せる。
 それで納得したのか、二人の門衛は手にした三つ又の矛を私から外して、右が、
「では中へ」
 と告げる。
 私は緊張したが、思い切って中へと入っていく。
 玄関は開け放たれており、建物に入ると、勝手知ったる角を持つ鹿頭の男が案内を申し出た。それを受け入れると、鹿頭はゆっくりと歩みを進めて、複雑な造りになっている建物の中を自信のある歩調で進んでいく。私はそれに付き添いながら、その過程で目に映る様々なものに目を据えて、一々感心する。
 そこはこの冥府に来てから初めて出会った芸術の宝庫であるように見えた。
 このようなものは近世でもなかなか出会えない。
 つまり、書、画、陶、磁、彫。
 脇を滑っていく室の入口のひとつからは華麗なる音曲まで届いてくる。
 ここは洗練された者の住まいだとの印象を強くする。
 壁に掛けられた書画や、小棚の上の陶磁器に目を奪われる。
 元来、芸術にはとんと興味を示さない私だが、そんな私でもここに置かれているものが一流の名を冠するに足るものであることは、なんとなくではあるが、推測することができた。
 この建物の主、平等王とは、これまでに出会ってきた十王とはかなり異なる存在ではないかとの思いを強くした。
 召使然とした鹿頭の男が、ようやくにして立ち止まり、一つの部屋の扉を開けた。
「お入りください」
 と告げる。
 それから、
「よく来られた」
 と声が掛かり、そちらを見ると、粋狂そうな壮年風の男が椅子に腰かけている。
「吾は平等王。六道の軛を離れた清談を求める存在だ」
 私は何か清々しいものに心を洗われたような思いを抱き、この声の主をまじまじと見た。
 平等王は薄紫の袍を着ている。それには龍ではなく、日月が象徴的に刺繍されている。
 日烏や月兎といった寓話めいた意匠はなかったが、しかし、日月の雄姿だけで十分、その袍は存在感を醸していると見てとれた。
「冥加よ。そなたは美しきものを目にする喜びを知っているか? そして、またそれによって、心を澄んだものにする効用を得たことがあるか?」
 私は平等王のいきなりの問い掛けに、何か得体の知れない物に出くわした時のような戸惑いを覚えた。
 私が何も答えられずに凝っと待っているのを受けて、平等王は自分の言を加える。
「芸術は人の心を豊かにするというが、そなたにそのような体験はあるか?」
 私はどう答えたものか見当がつかず、ただ押し黙っていた。
「解らぬか。それも無理はないかも知れぬな。しかし、せっかくの数十年と云う人生。その中で心を遊ばせて余裕のある日々を送るのもまた貴重なことである。それが出来ぬ人生と云うのは、案外味気ないものであると思うのだがな」
 私より十五は余計に年をとっているような外貌のその王はそれだけ告げると、何事かを凝っと考える様子で、しばらくこちらを眺めて私を見定めた。
 私は思案を続けていたが、やがて、口を開く。
「この建物には様々な芸術品がありましたが、すべてこの冥府で創られたものですか?」
 そんなことを訊いてどうするのだ、との思いも心に生じたが、そのまま押し黙っているのも心象的に悪いと感じ、そのような問いを発した。
 平等王は興を擽られたように気持ちの乗った抑揚で返答する。
「ここにある物品はすべて冥府に住まう者たちの寄贈品だ。元来、なんらかの必要に迫られて作ったものでなく、ただ純粋な敬慕の心から作成してくれたものだ。そなたにはとるに足らぬものと見えるかも知れぬが、吾にはとても大切なものたちだ。惑溺することは危険であるが、そこへのめり込むというのでなしに、自身の所有物にしっかりとした興味を持つことは地上に於ても重要ではないかな?」
 私は平等王のその言葉に落ち着いて頷き返す。
「芸術は人の心を深化させるということについて、私はそれほど主張したい言葉を持つものではありませんが、それでも伺ってみたい。芸術に淫することは百害あって一利なしとの俚諺を地で行くもののように思われるのですが、それについては如何?」
 平等王は何を詰まらぬことを訊くのかと云う風に、ふっと笑って表情を緩める。愛嬌があるという雰囲気ではないが、どこか親しみやすいものを滲ませている。
「芸術とは、という大きな括りで考えることは危険なことかも知れぬ。しかし、そなたのその大ぶりの質問に敢て返答してみよう」
 そう云うと、平等王はしばらく思案げに眉根を寄せていた。他の十王にはなかなか見られなかった表情である。そうしてこの町で出会った青年康安の言葉が思い出される。十王の姿は見るものによって異なる、と。それはつまり、自分の心の反映、あるいは合わせ鏡で見る残像のごときものかも知れぬと考える。
 やがて、平等王が口を開く。
「芸術とは人生に於ける様々な修練の道のなかでも特に優れたものだと思うのだ。確かに剣の道などもその深奥を究めようとするときには様々な修練を加えねば立ちいかなくなることもあるだろう。しかし、そこで思いあたってほしい。どのような道もその洗練された彼方には、これまでの自分では見えなかった世界が広がっているということに。吾はそなたが芸術をよくするものでないことを知っている。それでも、それに向ける理解の力は十分及第点に達している。如何にして自身の澄明なる心を表現するか。それこそ芸術の要諦ではないだろうか。それに専一に打ち込む者は、ときに狂っているのかと思うほどの妄執を抱くものだが、それは一つの優れた側面だと思う。神か、鬼か、それは紙一重であり、芸術に打ち込む者にもその似て非なる両極面があると思うのだが、どうか」
 私は平等王の話に感心した。ここまでしっかりと芸術に携わる者のことを知っているとは。ひとかたならぬ理解の仕方に、私は尊敬の念を覚え始めていた。
 そのとき、私はある思いがひらめき、それを述べてみることにした。
「近世に於て私は所謂芸術家と云うものに接する機会を得ることはありませんでした。しかし、この冥府に於て、そのような芸術家と直に会う機会は得られぬ物でしょうか?」
 平等王は表情を曇らせる。
「それは止めた方がいいかも知れぬ。元来、芸術とは天界に属する類のもの。先ほど、吾はこの冥府にいる芸術家たちが作品を寄贈してくれたと述べた。しかし、それにはある理由が関係しているのだ。それをいまそなたに明かしておこう。つまりだ。冥府に居てまで芸術を志す者のなかには確かに優れた者もいるかも知れぬ。しかし、作品の制作に於て、その精神はより高みへと向っていくのが本来であるが、それが叶わぬものもいるのだ。心性羸弱というと語弊があるかも知れぬが、何らかの要因によって成長を阻害されている者が沢山いる。そう云う者がこの冥府には多いため、彼らに会うのはやめた方がいいと云わせて頂こう。それは納得できるかな?」
 平等王はそう云うと、私の表情を確かめるように鋭い視線を私の顔に向けた。
 私はやや納得のいかぬ思いをしながらも、包み隠さず話してくれた平等王に感謝の思いを抱いた。
「吾の審議はこれまでだ。審議と云うにはやや遠いものだったが、何も努めて地獄へ落そうとするほど悪辣な人物でないことは分かっていたから、他の話をしたのだ。芸術に対する思いを改めてくれるきっかけとなれば、それ以上に嬉しいことはない。あとは二王だ。落ち着いてことにあたれば、そなたも新たな生を得ることになるだろう。まぁ、それはいまは語るまい。そなたが保持できるのは、経験ではなく、神与の功徳のみだからな」
 平等王はそう云うと、よく通る声で、先ほどの鹿頭の男を呼びよせて私を玄関口まで送るように申しつけた。
 私は辞去の挨拶を済ませて恩徳殿を後にする。
 鹿頭の男の見送りを受けて通りへ出ると、そこには康安が待っていた。
「康安……」
 私は驚いて、思わず呟く。
「話が訊きたくてね。他にすることもないから、対面が終るのを待っていたんだ」
 と彼は告げた。
「で、どうだった?」
 康安は自分の家の方へ歩きながら、そのように話を切り出した。
「芸術に関する話が主体だったよ」
「芸術だって?」
 康安は頓狂な声を上げて、それに応じる。
 私は帰り道、平等王の話を康安にしながら、自分でもひとつの疑問を胸に抱いていた。
 どうして平等王は私の近世の生活に立ち入らず、このような話をしてみせたのだろう、と。

(十王との対話(其之三)・了)


7 :蒼幻 :2009/09/01(火) 03:12:52 ID:tcz3sknm



 平等王の後の、都市王との対面はどこで行えば良いのかという質問に、康安は穏やかな笑みを浮べる。その気取りのない雰囲気に、親しみを覚えていた。康安が云うには、都市王はこの神威町こと妙光府の東端の建物に住まいしているとのことだった。ならば、いつ訪れればいいのだとの質問に、彼は、ただ一言、まだまだ先だ、と答えるのみだった。
 次の目的の王がこの町にいるということはそれまでこの町に居続けるべきなのか、との思いに駆られ、私は康安にさらに訊ねる。
「冥府に来て、十王すべてに面会する者は、みな、この町で時を過ごしていくのか?」
 私の疑問に康安は微苦笑して見せる。
 平等王との対面から数時間が経っていた。いまは康安の家のなかで二人、向いあわせで茣蓙の上に座っている。
「まぁ、あと二百日はゆうにあるから、ここで過ごせばいいよ」
 康安は嬉しそうに告げた。
 私はそれに、
「しかし……」
 と言葉を濁す。
 閻羅に云われた言葉が頭に浮ぶ。
 この冥府を旅して、様々な経験をするがよい、と。
 この広いとは云いがたい家の中に閉じこもって毎日、歓談する生活の中に貴重な体験などあるのだろうか。
 しかし、私は人と話すことは嫌いではない。
 この康安は私がこの冥府に来て、初めて出来た友人なのだ。
 ないがしろにしてはいけないとの思いも心に抱く。
 出来ればもう一人、二人、心を許して話せる人物がいるといいとの言葉に、康安は難色を示した。私が、どうしてか、と訊ねると、康安は次のように答えた。
 つまり、一対一で話すときは素直に自分の思いを口にすることができるけれど、それが同時に二人、三人に語りかけようと思うと、どうしても、力関係というか、心の結び付きの強弱によって、遠慮や牽制などの心が働いてしまって、よくない。全員が全員に対して仲の良い友人となれれば別かも知れぬが、そんな状況は極めてまれではないか、と。
 私は康安のその言葉に、確かにそうかも知れぬ、との思いを抱く。
 結局、一箇月、二箇月と時を過ごすうちに、他に語り合える友人をとの思いも失せていき、康安は康安で、辻に立って説法を行うよりも、こうして私と語り合う方が楽しいらしく、私たちは、いつも顔を合わせては様々な議題で語り合った。
 平等王との対面を終えてから三箇月が経とうとした頃、私はこの町の西端にあるという物見やぐらに登ってみたくなり、その旨を康安に伝えた。
 康安も物見やぐらに行くのは久々のことであるから、ぜひ、行ってみようと乗り気だった。私はそれほど期待していなかったのだが、なぜか、康安がこの町にある建物の話をしていたときに出してきた、物見やぐらという言葉に無性に惹かれたのだった。
 何か良く分からないものが私の心に影響を及ぼしていたのかも知れぬ。
 私はさっそく、次の日に、物見やぐらのあるという西端に、案内役の康安を伴って、向った。
 物見やぐらと云うくらいだから、それほど大きなものではなく、せいぜい、二、三間四方のものと思っていた。しかし、実際に見てみると、それは二十間ほどの大きさで、人が数十人乗っても大丈夫そうなほど頑丈に組まれた建物だった。やぐらという言葉を裏切るような豪壮なものである。
 私はそこに着くなり、即、梯子を登りはじめた。後から、康安も付いてきているのが察された。
 周囲に見張りの者はいなかった。
 ただ天辺に登ってみると、そこには艶やかな毛並みの鼬のような顔をした衛士がはるか彼方を瞶めていた。私は彼に近寄って声を掛けてみる。
「何か敵でもいるのですか?」
 と。
 鼬頭の衛士はそれに応えて云う。
「時に羅刹がこの周辺をうろつくんだ」
 私は羅刹という言葉の響きに恐ろしさを覚えた。
「羅刹はこの冥府では昼夜を問わず、徘徊しておる。この近傍でも時々、人が襲われていてな。尤も、そういう存在に襲われる者は、前世の行いが祟って報いを受けていると云えるわけではあるが、まぁ、襲われるよりも襲われない方がいいに決まっている。俺たちはそういう存在に対して防壁の役目を果たすことで、この畜生の身から、真実不壊の金剛身へと生まれ変わりたいとの願望があるわけだがな」
 私はその言葉に、どこか、この冥府の世界の本質を見たような思いがした。
 何気なく生活しているように見えるこの冥府の人々も、すべての危難から人々を救うために立ち続ける衛士たちも、その最終目的は、功徳を積んで、来世に成佛を遂げるということなのだ。何か、生きものの壮大な営みを目の当たりにしたように、敬虔な思いを胸に抱き、私は深甚なるこの世の理の偉大さに畏怖の念を覚えていた。
「羅刹ですか」
 私は衛士に返答する。
「羅刹に襲われるとどうなるのですか?」
 私は心に萌した疑問を口にする。
「羅刹は人の命を喰らう。精気を吸い取って自身の糧にしてしまうのだ。恐ろしいことに、その吸い取られた精気は元の肉体に戻ることはない。襲われたものは著しく魂の力を失って、生死の境をうろつくこととなる。しかし、命が完全に無くなってしまうことはない。完全に精気を吸われた者も、時間を経るにしたがって、身裡に気力が蓄えられていき、やがて息を吹き返す。羅刹は精気を得て、人は精気を入れ替える。人の心にある膿まで取り去ってくれるため、羅刹を一概に悪鬼と云って蔑むわけにもいかぬのだ。この冥府に住まうものは、それぞれ意味を与えられて生活している。そなたもなんらかの大きな歯車の一部分であることを早々に自覚して毎日を送れば、そのうちにきっと成道することができるであろうよ」
 私はその衛士の言葉に胸を打たれた。
 こんな末端の兵士でさえ、この世の理をここまで深く理解している。
 私の近世での行いの不毛さを振り返るにつれ、今までの自分の愚かさに頭の下がる思いがする。もちろん、そんなことはいま横にいる康安にも話したことはないけれど、確かにこの冥府に来てからというもの、自分の中の常識というものが何度も覆されて、自身の不明を吹き飛ばしてくれる智慧の息吹を感じることが多い。
 美しきものだけが真実を示しているとは限らない。
 この鼬頭の衛士はお世辞にも見栄えのする武人と云う感じはしないけれど、そのような外貌を持っているものであろうと、この冥府にあっては、深甚なる智慧を持つ存在として尊重しなければいけないと思わされる。
 私は鼬頭との会話をここで切り上げて、物見やぐらの欄干へと歩みよる。
 衛士と会話しているときにもその背後に景色が見えていて、かなりの高揚感を味わえたが、こうして欄干に寄って景色を眺めてみると、その景色の美妙さに胸を打たれた。
 曇り空のように薄暗いのはいつものことだが、そんな中でも視界は十分開けていて、地平線を黒く区切る、なだらかな山並みがどことなく牧歌的な雰囲気を漂わせており、見事としか云えない景観を為している。心を澄ませるに一役買うそれらの景色に私は軽やかな思いを味わって、気分を良くする。
 隣に歩み寄った康安もその表情を晴れやかにしたが、私ほどにはその景色に胸躍らせる様子はなかった。おそらく、初めてこの景色を眺めるものと、すでに数回この景色を味わったものとの差であろう。そうして、私は、再び景観に目を遣る。
 すぐ下には小さな芥子粒のような人々の歩く姿が見え、建物はまるで潰すのが容易そうな子供の玩具のごとき様相を呈している。あるとき、師匠が私に告げた言葉が脳裡をよぎる。
『人は高みに昇り過ぎると、碌なことを考えなくなる。心せよ、冥加。常に他人の思いを心の傍に置いて思念せよ。自身のみで考えを究めて行けば、いずれ足元をすくわれることとなろうぞ』
 私は他人の思いをしっかりと受け入れて、心の平穏を求めながら、日々を過ごすという生活には程遠い思索の旅を経てきた気がする。こうしていま、このとき、師匠の言葉を思い出すということは、きっと、その師匠の考え方こそ、いま真実必要な思想なのかも知れない、と考えさせられる。
 私たちは暫く、やぐらの欄干に侍って、何も語らず、ただ彼方の光景に視線を据えている。
「そろそろ行こうか?」
 康安が告げる。
 その声に。
「そうだな」
 と返事をし、私たちは鼬頭に頭を下げて帰路に就く。
「昔、師匠がな――」
 私はなぜか康安に昔のことを告げたくて、このように切り出した。
 通りを歩いている途中で、お互いに周りに気遣いしながら帰途についているときだった。
「師匠がどうしたんだい?」
 康安は私の切り口上に興をそそられたらしく、訊ね返してくる。
「『世界は観る者の態度によって、如何様にも変容する。世界を劃るのも己だし、世界を拡げるのも己だ』と常日頃云っておられた。私はついいま、あのやぐらでの景色を眺めていたが、あのときの鼬頭の衛士の言葉が頭に残っているんだ。世界とはいったいなんだろうな? そのことをずっと考えてみても、いいんじゃないかと思えてくる。世界は己の意識によって変容する。上等だ。私はその世界を直に観てみたい」
 康安は私の言葉に暫く考え込む様子だった。
 路にいる人々は、その両脇の露店を冷やかしながら歩いている。その波に巻き込まれつつ、私たちはゆっくりと帰路についていた。
 賑やかな町の風景は、どことなく京や地方の城下町を彷彿させて、心の浮き浮きするものだった。
 康安の家に着いた私たちは屋内へと入り、居間に腰を下す。
 第一声は私でなく、康安が上げた。
「羅刹に出会ったことはこれまでに一度もないんだ」
 私はその言葉が何か特別な意味を持っているのだろうかと、心の裡で吟味してみたが、しかし、何も催さない。結局、その意味については問いただすことなく、次の話題へと移っていく。
「都市王に面会するまでの間、どうしようか」
 私は心の内にわだかまる思いを口にして、無聊を慰めようとする。
「ただひたすらこれまでの自分の行いを反省し、来るべき有事の折、自身はどうすべきか心深く思念していけばいいんじゃないかな」
 康安は決して冷たく突き放すような云い方ではない、思いやりの籠った言葉でこのように述べた。
「それは難しくないか?」
 私は思わず、訊ねる。
「落ち着いて考えれば、自然と道は展けていくものさ」
 康安のその言葉に落ち着きを取り戻した私は、凝っと虚空を見つめて思案し続ける。
 その間、康安は待ち続けている。
 まるで私の思いをすでに知っていて、それを反芻しているかの印象だ。
「まぁ、ここでゆっくりと時間を過ごすか、東の平原の奥にある寺院を詣でるか、それくらいしかやることはないかも知れないね」
 青年は平然とした口調で、そう云ってのける。
 私はその青年の言葉に一部分に過敏に反応する。
「寺院? 寺院だって?」
 青年は私のいきなりの言葉に驚いた様子だった。
「いきなりどうしたんだい」
 と、青年は顔をしかめながらそう告げる。
「ここでずっと過ごすより、断然いい考えじゃないか! 行ってみよう、その寺院に!」
 私は熱に浮かされたように半ば興奮気味に、青年に告げる。
「いいけど、そこへ行くには軽く二時間はかかる、往復で四時間だよ。今から行けば、確実に真夜中に街道を通らなくてはいけないことになる。そんなことはまっぴらごめんさ。いくなら、しっかりと計画を立てて、安全にことを進めたい。あの衛士も云ってた通り、この近辺には羅刹の集団が出ることもあるんだ。自分だけは大丈夫、安心だ、危難に巻き込まれるわけがない、そんな慢心が命取りというわけさ。危険な事を回避するために思案することも大切な徳目であるんだよ」
 康安はそういうと、厳しい視線でそのように告げた。
「わかったよ、明日にしよう。明日、その寺院へ行く。それでいいだろう?」
 私が訊ねると、康安はそれに答える。
「明日なら賛成だ。落ち着いて計画を練って、安全に行動しよう。しかも、あそこの和尚は有徳の人物で、きっと話を聞くだけでも功徳があるだろうさ」
 青年はうれしそうにそう告げる。
 その青年の態度からして、すでに、その和尚とは懇意にしているのだろうとの印象も受けた。
「しかし、ここでこうしているのも芸がないな」
 私は無聊を慰めるように、そう呟く。
「なら、詩でも創作してみるか?」
 青年は嬉しそうに表情を緩めて笑う。
「詩だって?」
 戸惑いの声を漏らす私を置いて、青年が紙と筆を用意し、墨をする。
「さあ、なんでも自由に思い描こう」
 青年ははしゃいだようになって声を上げる。
 私は戸惑うばかりだ。
 これまでに詩はおろか、芸術と名の付く物を修したことなど一度もないのだ。そんな自分に詩など作れるわけがない、そう主張しようとしたが、青年の真摯な眼差しを受けて、そんな言葉は喉から前へ出ることがない。青年の思いを踏みにじらないように、仕方なく、私は机の前に行き、筆を持って紙に向う。
 しかし、当然のことながら、全く言葉が浮んでこない。
 ――だめだ、
 と放擲したくなる。
 それでも、傍らで頭をひねって筆を動かしている青年の姿を見るにつけ、自分の根性のなさが恥ずかしく思われてくる。初心者なら初心者らしく、自分の思うままをしっかりと紙に残せばいいではないか、初めから、気負ってすごいものを書こうとするから、筆が動かないのだ、と自分に云い聞かせる。
 そして、どのようなものを表現しようかと思いはじめ、やがて一つの信念に基づく考えを言葉にしようと思いつく。それは幼い頃より修してきた武芸の口訣にも似た短歌だった。雪花、飛燕、草薙、そんな言葉を散りばめた短歌であり、それこそがいまの自分に最適の文章であるように思われた。師匠から授かった様々な武芸の口訣を自分なりに解釈して後に生まれる雑感。そういうものを表現しようと試みた。冷静になって考えてみると、それらは自分の中に於ては無限の意味を持つものであるが、ひとたび、他人の身に立って考えてみると、まるで役に立たない滓のようなものでしかない気がする。
 しかし、横合いから青年が、その文章の出来を眺めて評する。
 決して無批判の褒め言葉ではないにせよ、かなり好意的な内容の言辞で、私は気分を良くする。初めは、文章を書くことについて全く初心者である私に対する遠慮からくる言葉かと思っていたが、しかし、しっかり聞いてみると、私の詩を正当に評価したものであると察されて、更なるやる気が出てくるのだった。
 私は無我夢中になって大小三十篇の短歌や短文や、よく判らない文章を羅列したものを作り上げた。
 創作と云うものが、これほど心をうきうきさせるものだとは知らなかった、と私は感じた。そして、その喜びを教えてくれたこの青年、康安に感謝の念を覚える。
「康安は何を書いているんだ?」
 と訊ねると、彼はこう答えた。
「いまのこの冥府の情勢を鑑みるに、古代から連綿と受け継がれてきた奇蹟的な人々の営為を視野に置いた跋文です」
「跋文?」
 私は聞き慣れない言葉に訊ねかえす。
「まとめみたいな意味で使われる言葉でね。本来、跋文というのは文章を書いたあとがきのようにして附されるものであるけれど、この文章に跋という文字を冠するのは、ある一つの思いがあってのことなんです」
 青年は一度、ここで言葉を切ってから先を続ける。
「つまり、この人生における総まとめのようなものを書いてみたくて、そこにこの跋という文字を附したという訳です。そこまではいいですか?」
「わからないわけでもない」
 私はよくわからない返答をする。
「つまり、小説を書くように人生を生きていて、その終りにさしあたって、総まとめ的に後書きを書いてみたくなったというわけです。勿論、この短時間にその思いを結実させた文章を書くことなどできません。それには短くても一週間、長ければ数年を要してもいいほどだと思っています。今回書いたのは、その練習のようなもの。もっとしっかりと描き上げるための様子見です」
 私は青年の真摯な心に胸打たれる心地がした。
「真剣なんだね」
 私は微笑みを浮べながら、声をかける。
「いつでも真剣さは大切です」
 青年は澄明な瞳の色を更に輝かせて、そのように述べる。
 私はその思いの純粋さに心を洗われるような印象を覚える。
 その後、康安と話し合って、郊外の寺院を訪れるのは今日から二週間後にしようということに決まった。どうやら、今週と来週は日のめぐりが悪いらしく、外出には最適でないとのことだ。青年はそういう面にも詳しくて、吉日は二週間後の今日だと割り出した。人は意外な所に特技を持っている物だと思われ、私は改めて、青年を見直す。
 それまでの間、私たちは数か月ぶりの風呂に入ったり、以前に入った肆で茶や食事をとったりして時間を過ごした。そんな小さな外出もその不幸に逢うかも知れない占いの対象ではないかとの思いも抱いたが、青年がいうには、この町を出ない小さな外出は、占いのいう外出にあたらないというのだった。そうなのか、とその時は納得したが、やはり、その夜、眠るときになって、その疑問が頭の左右を往復してゆく。
 どうしてだ? どうしてなんだ?
 そんな詰まらぬことに頭を悩ませながら、私はその夜もいつの間にか混迷の淵を飛び越え、夢の世界へと旅立ったのだった。

(神威町での小休憩・了)


8 :蒼幻 :2009/09/11(金) 12:57:57 ID:tcz3sknm



「こうして歩いてみると、なかなか距離のあるものだね」
 片道二時間と云う割に、いっかな終着点の見えぬ様子に私は唖然としつつも、横の康安に話し掛ける。
「あの山の中腹にあるんですよ」
 康安は告げて、寺院がある方向を指さす。
 あと四十分ほどで着くのだろうかと、不安になってくる。
 山は見事に赤や黄や茶に葉を染めていて、この冥府にも四季があるのかと興味を抱いたが、青年は冷たく、こう云い放った。
「冥府に四季の循環なんてありませんよ。もともとこの曇天のような空の蔭りがいつまでたっても解消されることなく、私たちの上に覆いかぶさっているのですから。これらの山々は年中、色とりどりに染まっているのです。しかも、一年前も二年前も、葉っぱの数すら全く一緒なのです」
「死んだ風景というわけか。生物の大いなる循環から切り離され、孤高を保っている森たち。これはちょっとした浪漫だね」
 私がそう云うと、青年は苦笑しながら同意を示した。
「まぁ、落ち葉を集めて焼かないといけないとか、そういう煩瑣な手間から解放されているのは、ありがたいことかも知れませんね」
 かれこれ二時間歩いていると、途中から山道になり、それを道なりに進んでいく。すると、向うに寺院らしき建物が見えてくる。
〈妙清寺〉と書かれた扁額が山門に掛かっている。
 そこをくぐって中へ入ろうとした時、何か瑞々しい息吹のようなものを感じた。
 澱んだ心の底を浄化してくれる聖風とでもいうべきか。
 なにか人智を超えた存在が私たちの周りを取り巻いているような気がする。
 そんな一種敬虔な気持ちを保持しながら、私たちは寺院の中へと進んでいく。
 寺の境内に入ると、ひとりの僧服の男が脇の大樹の陰に凝っと立っていた。私たちはその僧に声を掛ける。
「ここの和尚に会いたいのだが」
 康安がそう告げると、その青年僧は口が不自由なのか、身ぶりで、分ったと示し、奥の建物へ向った。
 私たちもその僧のあとにつづいて、その建物の入口までついて行く。
 青年僧は私たちがついてきているのを察知し、ここからは入らないようにと押し留める身振りをしてから、建物の中へと消えていった。
 ややあって、扉の向うに人の気配がする。
 暫く待っていると、扉が開かれて、荘重な雰囲気を湛えた僧が出迎えてくれた。
「客人様、私どもの寺を訪ねてくださり、ありがとうございます」
 それは丁寧な言葉であり、また、態度であった。
 私たちはいわば、修行する上で障りにもなりかねない邪魔ものでしかないのに、こうして暖かく迎え入れてくれる僧の度量の深さと云うものが感じられ、とてもありがたいと素直に喜んだ。
「この寺に来てくださる方は一月に一組もあれば、多い方だというのに、今日はまたいったいどうしたことか」
 和尚と思しき僧はそう告げると、私たちの顔を確かめるように凝っとこちらを瞶める。
「私は妙光府から参りました康安と申す者です。そしてこちらは十王との対面を控えておられる冥加殿」
 康安は失礼のないように丁重な言葉を選んで、このように云った。
「申し遅れました。私はこの寺の和尚をしております、鴈円と申します」
「鴈円」
 私は呟くように云う。
「なかなか大きな志を持っているかのような名前ですね」
 私はそんなことをついつい口にしてから、あとで、しまった、と感じる。
 しかし、有徳の和尚はそんな言葉に気を悪くもせずに答えてくれる。
「今は亡き、私の師匠が付けてくれた名前なのです。鴈是という僧でした。もう四十年も前のことになるでしょうか」
「四十年!」
 私はあまりの時間の長さに、頓狂な声を上げてしまう。
「さあ、さあ、ここにいるより、中で話す方がいいでしょう。歓迎いたしますから、こちらへどうぞ」
 そう云われて、建物の中へと案内されて行く。
 さすが、仏門に入った者たちの住まいだと云える、しっかりと手入れの生き届いた建物に、感嘆の声を上げたくなる。しかし、この建物はどこか荘重で厳かな雰囲気も湛えているので、そういう声は不向きであると感じ、仕方がなく、声を上げるのは遠慮する。
 廊下を進み、いくつかの角を曲がって通された部屋は、巨大な立像や坐像の並ぶ講堂だった。
 先の、連絡をつけてくれた僧の仕業だろうか、講堂のなかには既に、三枚の座布団がひかれてあった。
「さあさあ、席にお着きなされい」
 和尚が私たちに座るように促す。
 座布団の上に座ると、私と康安とは、改めて、講堂のなかをぐるりと見渡す。
 広さは三十間四方くらい。一方に仏像が置かれていて、その姿は忿怒を表していた。近世にいるときにはそれほど意識して見た事もなかったが、名前くらいは知っている。それは不動明王の立像だった。邪気を振り払うために、怒りの形相を示す明王。明王は仏の三相のうちの一である。
 その対面の壁付近には金属製の釣鐘が置かれてある。
 朝昼夕の一日三度、決められた時間に鳴らすのだと、和尚が教えてくれる。
 いまは鳴らすわけにはいかないが、この鐘の音色は聴く者の心を穏やかにし、煩悩を払い去ってくれる役目を担っているのだと持ち上げた。
 私はその和尚の言葉に興を擽られた。
 そして、凝っとその鐘に目を据える。
「さて、今日は何用でのご訪問かな?」
 和尚は笑みを浮べてそう訊ねる。
 康安は臆すことなく、その質問に答える。
「高徳の和尚である鴈円様の御明知を仰ぎたいと思いまして」
 その言葉に、鴈円和尚は眥をきっと結んだ。
「聞こえのよい言葉ばかりを使っていると、そのうち、真実を告げる口がなくなるぞ」
 和尚はその人の好い笑みを浮べた顔を一瞬で曇らせ、そのように告げる。康安はハッとした表情をして、頭を下げる。
「和尚に対して、世間で使うような詰まらぬ世辞を申し述べましたこと、まことに申し訳ありません」
 康安は恐れ畏まっている。
 私は何か場の和むようなことを話すべきかと考えたが、しかし、いまの和尚の見幕では、そういった言葉は恐らく助けにならないだろうと思わせられ、仕方なく、私は成り行きを見守ることにする。
「しかし、和尚の話を聞きたいというのは本心からのものです」
 と、康安は尚も告げて、和尚の顔を窺い見る。
「確かに何が真実で何が真実でないかは、その声を聞けば判ろうというもの。そなたの言葉の真摯な所を信じようではないか。で、拙僧に訊きたいこととは何か?」
 康安は顔をぱっと晴れやかにして、その和尚の言葉を聞いた。
「実は、この冥加殿のことです」
「うん?」
 私はいきなり引き合いに出されて、困惑を覚える。
「私がどうしたんだ?」
 と声を上げる私を置いて、康安は話を続ける。
「平等王との対面のとき、どうも、その近世での行いの責めではなく、芸術に関する歓談などを行ったというのです。これはいったいどういうことなのでしょう?」
 私は唖然とする。平等王との対面での言葉が、康安と云うこの若者の頭のなかで、これほど大きな事実として存在していたのだと改めて知らされたのだった。私はいったい、この康安が私を責めようとしているのか、それとも、この和尚に真実を問いただして、解法を求めたいと心底思っているのか、そのような狭間で心が揺れ動いていた。
 しばらく和尚は凝っと考え込む様子だった。
 見極め難い問いであるのか、それとも、告げ難いことを告げねばならぬ重荷からくる不安感の表れなのか? しかし、この康安の鴈円に向ける信心の深さを思えば、恐らく、後者である可能性は低い。たぶん、前者であろう。つまり、なにか答え難い深甚な意味合いがそこには含まれていると考えるべきだと。
 暫く待っていたが、和尚は最前から顔を歪めたままで一言も発さない。
 そろそろ焦れて来たのか、康安も、私と和尚を交互に見かわしながら、場が動くのを待っている様子であった。
「いったいどういうことでございますか?」
 康安は更に追い打ちを掛ける。
 その康安の勢いに押されたのか、和尚は漸くにして語りはじめた。
「おそらく、それはこの冥加殿の資質に負うところが大きいのでしょう」
 和尚は謎めいた言葉を残す。
 それに納得のいかぬ康安は更に訊ねる。
「資質に負うところが大きいとは、いったいどういう意味でしょうか?」
 和尚は澄明に輝く瞳をしっかり康安の顔に据えて、このように云う。
「つまり、平等王の告げる言葉の奥には、この冥加殿の秘められた力に基づく確信があって、このような問答をなされたのだと愚僧は思うのですよ」
 康安は信じられないと云うような表情で、私の顔を見た。
 その顔には戸惑い、焦り、そしてなにか神与のものを見るかのごとき輝きが感じられた。
「やはり冥加殿は只者ではないということですね」
 康安はまるで畏怖の雷霆に撃たれたかのように衝撃的な表情をしていた。
「そうかと思って、私も冥加殿に紙に字を書くように勧めてみたのです。荒削りですが、いい字を書かれる方だとの印象を持ちました。つまりは芸術に関することとは、このようなことを指しているのでしょうか?」
 康安はやや熱を帯びた声でそのように告げた。
 私は康安がそこまで考えて、紙と筆を用意していたのか、とあの時のことを思い返していた。
「私に何の力があると云うのです。そのようなものはみな、人を誑かそうとする奸言です」
 それを聞いた和尚の表情は、すっと熱が引くように冷たくなった。
「冥加殿、それは云い過ぎですぞ」
 私はその言葉に抵抗したい気分を促された。
「しかし、いきなりそのように私には芸術に関する素養があると云われては、反抗したくなる気持ちもありますよ。というのも、これまで、私は文武両道を目指して修行してまいりましたが、それは身を修するための修行といった感じのものです。自分から、何かを生み出そうとしたことはこれまでに一度もありません。そのようなものを捕まえて、お前には芸術の道が開けていると云われても、何の信憑性もありませんよ。その人の間違いということもありますし、それで実際、間違っていたら、私としてはただの損ではありませんか。そのような言葉に乗るのははなはだ危険であると思うのですが、如何です?」
 私は出来るだけ落ち着いて、それらの言葉を和尚に向けて投げかけた。
 和尚はふふと微笑み、そしてやわらかな語調で諭すように云った。
「やはりまだまだ若い。これから何が待ち受けているか、それを覚悟しているものと覚悟しておらぬものの差であろうか。愚僧が見る限り、そなたはおそらくすべての十王との対面を終えた後で、ひとつの選択を迫られるだろう。留まるか旅立つかは自由だと思う。その自由な所が芸術家の本分であろうからの。しかし、心せよ、冥加。そなたは心の奥に狼を飼っているようなものだ。この康安は気付いていなかったようだが、そなたが文に生きるときに、この心の狼は触りとなるであろう。くれぐれも気をつけられよ。それがいつ訪れるかは判らぬ。いくら私でもな。しかし、心には二つあると心得られよ。つまり、外見と中身。この両方を使い分けることは、誰かに阿り、誰かを傷つけよという意味ではない。そうではなくて、心の外とは、自分以外の人間や物と接する時の心根、そして、心の中とは、自分が夜眠る前に目を瞑ってじっと思想を凝らす時の心根。このどちらもが自分であり、両方がしっかりとした整ったものであることを意識して初めて、人は完成される。私もまだまだだと思うのは、こういった二つの心を統べる精神がまだ未熟であると思う故だ。修行によって少しずつ、その意識も凝るようになってきたが、やはりまだまだ駄目だ。そなたは近世で修業した訳でもないため、まだまだ未熟者の域にすら達していない。たとえれば、漸くにして四つん這いで歩きはじめた幼児のようなものだ。これからだぞ、冥加。これからを大切にしなされい!」
 和尚はそういうと、その白い眉をぴくりと動かしてから、顔に笑みを浮べた。それは冥加たちがこの寺を訪れて、初めて姿を見せた時の和尚の顔に浮んでいたのと同じ表情だった。しかし、いま改めて見るその表情には、どこか私と康安の二人の心の奥底を見透かした余裕のようなものが感じられた。おそらく煩悩の捉われを一心に振り切ったものだけがもてる涅槃の境地とでもいうものだろうと、推測された。
「さあ、茶でも用意させましょうぞ」
 和尚は手を叩いて小僧を呼び寄せた。
「茶と菓子を」
 と和尚は告げ、小僧は引っ込む。
 和尚は最前とは変わって、打ち解けたような様子で、とても聴きやすい、諧謔味に満ちた話をしてくれた。
 私たちは和尚の話に互いに笑いあったり、ときどき肩すかしを食らわす和尚の顔をきょとんと眺めたり、また微笑んだりして時間を過ごした。
「ずいぶん話し込んでしまいましたな」
 と和尚は告げると、康安も、
「そうですね、そろそろ帰らないと、帰り道は二時間かかりますから、日も暮れてしまう。では、取り急ぎ、お暇させていただきます」
 そう告げると、康安はいそいそと帰る準備をして、私を急かして玄関へ向った。
 帰り道はつるベおとしのように途中で暗くなってしまった。
 あと十分くらいだろうか。
「これくらいなら平気さ」
 という、康安の言葉にたしかにそうかもしれないとは思ったが、しかし、不吉な予感も感じる。
 自分だけは特別だと云う考えは、危険なことだとは、近世でも腐るほど経験してきた。落ち着いて周りを見回してみる。
 どこからか一陣の生暖かい風が吹いてきていることに思い当った。
 瘴気というにはどこか厳かな印象も覚える風の流れ。
 しかし、それは私たちの右側面から流れてくる。
「いやな風だな」
 といった康安の言葉をうけて、それが気のせいではないことがはっきりとする。
「この風の元には、羅刹がいるといわれている」
 康安は穏やかならぬ言葉を告げて、私を恐怖させる。しかし、それを楽しんでいるわけではなさそうだ。康安はこんな時に冗談を云って人を怖がらせるようなやつではない。
 そういう面では私はこの男を信頼しているのだ。
 私たちは嫌な予感を覚えながら、早足で道を急いだ。
 やがて町が見えてきて、門にたどり着く。
 その時にはもう憂鬱な風は背中に僅かに感じるだけで、何事もなかったという安堵感に張りつめた心を和らげるのだった。
 門を閉めようとしかけていた門衛たちに謝りながら、私たちは康安の家へ急ぐべく、街路を歩いて行く。
 家に着いたのはもう夕刻をとっくに過ぎ、夜の帳が完全に覆いかぶさっている頃だった。とはいえ、町中にはあの閻羅の建物の牢屋めいた部屋から差していたようなうすぼんやりした照明――相変わらず、どんな原理で輝いているものなのか、わからなかったが――が町中に等間隔に据えられてあり、完全な真っ暗闇になることは防いでいた。
「きつかったな」
 康安は肩をすくめて、そのように云った。
「ああ、もしかしたら羅刹と一戦交えねばならぬかと思ったよ」
「とはいえ、武器も何も持っていないのに、互角に渡り合えるわけもないんだがな」
 康安は肩をすくめて、おどけるような笑みを見せる。
「武具さえあれば、太刀打ちは出来ると思う」
 私は確信を持っていると云う風に、康安に告げる。
「武術の心得があるのか?」
 と、康安は意外そうに私の顔を瞶めた。
「ああ、国では、暗殺集団の一員だった。ただし、人を斬ったことはこれまでに一度もないがな」
「それは」
「いや、武術の研鑽だけは積んである。そこらの者には負けんよ」
「そうなのか……」
 康安は言外に何かを残すもののように、語尾を緩く引き伸ばすと、私に自分の意思を伝えようと気合いを入れる。
「羅刹はもともと人間だったのかも知れぬという説がある。人を襲うことは報告されているが、存在自体をむなしくするような壊滅的な被害にはならないことが通例だ。しかし、人を斬ったことのないそなたが、はたして、羅刹たちにとどめの一撃を加えることができるのか?」
 康安の疑問は確かなものだった。
 そうかもしれない。
 私は人一人斬ったことのない、えせ剣士なのだ。そんなやつが、魔物と云っても差支えない、異形の戦士を切ることなどかなうのだろうか? そんなことを考えてみると、自分の身体が細かな震えを生じるのを覚える。私は弱いのかもしれない。しかし、その弱さは、閻羅の云った、真に強き心を持った弱い人々の一因ではないのだ。ただ自分に勇気が備わっていると思い盲信しつつ、最後の最後で自身の弱い心根を悟って、失意のままに敗れて行く、中途半端な弱さを持った人間なのだ。そんな風に考えてみると、いったい私にいいところなどあるのだろうかと疑問ばかりが心に生まれる。
 悔しい。あまりにも悔しい。
 そんなことを考えなくてはいけない、そんなことでいちいち立ち止まらなくてはいけない、本当に世話の掛かる人間なのだと改めて感じるとともに、自分の中にとてつもない大きさの劣等感を感じてしまって嫌になる。
 私はどうしてこんなに臆病なのだ。
 数ヵ月後に都市王との対面を控えて、私の心は切なく敗れてしまいそうなほど、その護っていた皮膜が薄くなってしまっている気がした。
 私はこんな自分が嫌いだ。

(和尚との対談・了)


9 :蒼幻 :2009/10/10(土) 19:13:57 ID:tcz3sknm



 黒光りする木材で組まれたこの建物の中に都市王がいるとのことだった。
 半年以上の時間をこの妙光府で過ごしたことになる。
 康安とたわいのない話をしながら毎日を過ごしたこともあった。たまの外出で見目好い異性を見つけて、二人で盛り上がることもあった。そして、康安から文章の書き方を習って、自分でも詩やら散文を書いてみたりもした。実りがあったのかなかったのかよくわからない時間の使い方だったが、自分が満足している以上、それこそが偽りない、自分の心の欲するところだったと信じて疑わない。
 美しい文言、綺羅のごとき佳賦、繚乱たる思想の充溢。
 いまでは自分の中に美とは何かという意識が芽生えており、それを裏切るような行為は到底できないと、思わされるのである。
「この数箇月で、冥加は様々な事を習得したと思うよ」
 と、康安は満足そうに頷きながら、私の修道を評してくれる。この都市王との対面の日にまでそのことを言い募り、私に限りない自信を与えてくれた。私にとり、この康安はもはや、かけがえのない親友といってもいいほどに、存在感を逞しくしている。
「お前の世界とはこのせせこましい現世でしかないのか?」
 ついに対面した都市王にそのように告げられて、私は困惑する。
「そなたの狼狽ぶりが、まるで手に取るようにわかるわ」
 と、都市王は、若干肉のたるんだ頬を固くこわばらせながら、そう告げる。
 私はそれに何の返答を加えることもできず、ただ、次の言葉はできるだけ親身に充ちたものであってほしいと願うばかりだった。
「まぁ、いい印象のないそなただが、幾分、内面的成長は積んだようだな」
 都市王はそういうと、最善の威圧して来るような雰囲気からは一転して、うち解けるような印象を持ちながら接してきた。
「小説を書くという事の素晴らしさをこの数箇月で学んだつもりです」
 と、私はこの冥府の王に告げる。
「何を習得できた?」
 都市王のその問いに私は冷や水を浴びせられたように、頭が真っ白になった。
 ――何を習得できた? ――何を? ――何をだって?
 思考回路がぷっつりと切れたようになった私は、どう返答したものか考える術すら残されていないような絶望感に苛まれた。
「そういうことを考えずに、ただ物事に取り組んでいるだけでは、何にもならないぞ」
 都市王はそういうと大きな声を上げて笑いだす。
 そこまで豪快に笑われてしまうと、逆に笑われたほうとしても気持ちいい。
「私は自分の心が作品によって磨かれていくのを知りました」
 私はもっともらしい、はきはきした言葉でそう告げた。
「ほほう」
 都市王は興味深げに眼を細めると、その細部を問いただそうとするのか、私の方を眺めて、しばらく凝っと見つめていた。やがて、それをやめて、落ち着いた声音でこのように告げる。
「作品を作ることによって精神が醇化されるということは確かにありうるだろう。しかし、そなたが、それこそが芸術の本義と思っているとしたら、それは間違いだ。芸術とは人の心を豊かにするものかも知れない。しかし、作品という媒体によって、様々な生の可能性を実現することこそ、作品の真の存在意義ではないかな?」
「生の可能性……」
 と、私は鸚鵡返しする。
「というと?」
「つまり、小説をやるなら、自分の人生をもうひとつ新たに創出するくらいの気概が必要だといことだ」
 都市王は真剣な眼差しでそう告げた。
「気概ですか」
 私は唖然とする。あまりにも途方もない話な気がして、意気が挫けてしまったのだ。
 都市王の話は途轍もなく大きなことを示している気がして、襟を正す思いがした。
 しかし、その言葉をしっかりと思惟してみると、自分の小説――あるいは芸術一般に対して――に打ちこむ思いというものには若干の甘えがあるように感じられた。
 そんな中、気になることが一点ある。どうしてこの十王たちは、私に芸術の本質を訊ねたり、芸術に関する持論を聞かせたりするのか……。それがわからない。もっと他にも、近世での行状の毀誉褒貶やらがあってもいいはずなのに、それがまったくない。皆の尋問もこのように行われてきたのだろうか、とも感じたが、どうも、康安の話を訊いてみると、そうではないらしい。私だけのことである気がして仕方ない。私と芸術……それがいったいどういうことであるのか、それが分からないのは非常に落ち着かない。しかし、どうすることもできない。きっとこの十王たちには、私には考えの及ばないところまで、さまざまな者の生きざまというものが見えているのだろう。その視野に立っての言葉であるからこそ、何か自身には関係のない、他の世界のことを説明されているような印象を抱いてしまうのだろうと感じられた。
「広大無辺な世界というものを想像することは簡単かも知れない。しかし、世界にも限りがあるのだ。しかし、その限りある世界というものと、矮小な自身の姿を対比させるときに、あまりの無力感から、生命の光輝というものを酷く損なうことがあるかも知れない。そのことが生あるもののジレンマというやつで心を悩ます第一のものとなることが多い。それに考えが及ぶかどうか。それが大切だと、私は常々思ってきている」
 私はその言葉を、何か哲仙の言のような、道士風の言葉のように捉えていた。
「そなたが何を考えているかはわかる」
 と都市王はその澄んだ眼差しを私に向けて告げた。
「しかし、考えてみてほしい。これまでの長い人の世の中で、芸術は様々な人の手によっていろいろと形をかえて存在してきた。過去から、現在に至るまで、その営みは途切れることなく、延々と続けられてきているのだ。その芸術をだぞ。たった数度作品を作ったことがあるというだけで、すべてを制覇したと思いこむことなぞは、井のなかの蛙、あるいは、大海の盲亀というものではないのかな?」
「そ……それは」
 と、私は云い澱む。
「答えにくかろう。そなたにはその芸術に向ける熱意というものが不足しているのだからな。もう一度、よく考えてみることだ。作品と自分のあいだにある絆。それこそが、そなたがいま返り見るべき最も重要なことだと」
 都市王はそう云うと、鷹揚に表情を緩めると、落ち着いた調子で私の方を眺め、そして、眉をぴくりと動かすと、一転して、私に慈悲の表情を見せた。
 こんな恐ろしい人物でもそういう表情が出来るのだなと、私は人の心に棲む二面性というものを目の当たりにした気がする。
「私から云えることはこれくらいだ。さあ、あとは五道転輪王のみだ。この二年を有効に使うのだ。それが済めば、あとはどうなるか、私はそなたの運命をある程度見通しているが、いまはどうなるかを云う時ではないだろう。まぁ、日々精進することだ」
 そう告げた都市王は私に出て行くようにと促した。
 牛頭馬頭ではないにせよ、いかつい姿をした屈強な男たちに両脇を護られて、私は玄関を抜け、外へと出る。
「大事にな」
 と、男の一人が告げてくる。
 私は、
「ありがとう」
 とだけ述べ、康安の家へと向って歩いて行く。
 康安は私の報告を待っているだろうか? いま私が気軽にいろいろなことを喋れる相手は、康安を置いて他にはいない。
 家に着くと、康安はいなかった。
 何処へ行ったのだろうと、気になったが、いや、なに、待っていれば戻って来るだろうと思い、暇つぶしに何か面白い題材はないものかと、頭の中で小説の原案を練り込むことにする。
 どれくらいの時が経っただろう? 気がつくと、もう夜になっていた。とはいえ、外が暗くなるよりも、寺の方から聞えてくる暮れ告げの鐘の音でそうとわかったのである。
 康安が戻ってきたのは、夜も大分更けてからのことだった。
「どこへいっていたんだい?」
 と訊ねると、康安は、
「ああ、ちょっと平等王のところへね」
 と告げる。
「平等王のところへ? なんでまた」
 と、私は疑問を口にする。平等王といえば、もう数箇月前に面会した後は、無沙汰していた人物である。その平等王のところへ、なぜ康安が? という疑問が浮ぶのは、当然のことだった。
「いや、人生のことで、少し聞きたいことがあったものでね」
「というと?」
「いや、話しにくいんだけど、人生のことというのは、実は、自分と冥加の関係性についての考察なんだよ」
 康安は照れ隠しにこめかみの辺りに指をもっていき、そこを何度か引っ掻いた。
「自分のことが預かり知らないところで他の人に話されているって云うのは、ちょっと嬉しくない出来事だな」
 と私が言うと、康安は、
「いや、決して悪口造言とかを云ってたわけじゃないから」
 と、補足する。
 康安の話はまとめるとこんなものだった。
 まず第一に、いま都市王と面会している冥加に、最適な日々の過ごし方とは何かということを考えたときに、いまの文筆の修行ということでいいのかどうか? 第二に、自分と冥加の間にある友情は本物であるのかどうか? 第三に、美しい心というものは無償の愛や友情から出てくるものであるのかどうかという抽象的な話についての考察。
 それらを確かめるための、今回の平等王への訪問であった、というのである。
 平等王はそれに一言こう答えただけである。
「自分に自信を持ちなさい」
 と。
 自分に自信を持つ。それは自分の信念を事あるごとに見直し、これで大丈夫と納得できるまで吟味を繰り返し、本当に万全と思えるようになってから、実行に移す。それができるかできないかが、運命の分かれ目であると、平等王は補足したらしい。
「こんな話は聞かせるものじゃなかったかも知れないけど、まぁ、知らないより、知っている方がいいかと思って、話させてもらったよ」
 康安の顔に浮ぶ薄い笑みに余裕があるのを感じて、私も気楽な気持ちを助長される。
「今日は休もう……」
 と、康安が云いだす。
 私もそれに同意する。
「明日はまた執筆に打ち込もう」
 康安がそう云い、私はそれに同意する。
 ときに、康安が、私の都市王との面会で話した内容について、深く切り込もうとしないことに気付いた。どうしてだろうと思ったが、疑問は解消しない。多分、平等王のときの問答を参考にすれば、都市王との対話もそれに類するものだろうと、推測することができるためと思われた。しかし、私はそれに一抹の寂しさを覚えてしまう。できえば、もう少し踏み込んで訊いて欲しかったとの感情を胸に抱くのである。
 その夜は少し寝つきが悪くて、しばらく布団の中でさまざまなことを考え、悩み、思案していた。

 康安は床に紙と敷物を置いて、いろいろな詩を作っている。
 私はというと、部屋にひとつしかない卓子を使って、細かな文字で小説らしきものを書いている。
 時間はゆっくりと過ぎて行く。
 もう都市王との対面から、五箇月が経っていた。
 五道転輪王の住まいは北にあると聞いた私はそこへ行こうと思い、その旨を康安に告げたのだったが、都市王も云っていた通り、次の面会までには二年の歳月が必要になるとの説明を受け、その年月の膨大さに打ちのめされるように、私はそこへ行くことを踏みとどまった。
 そこまでには、だいたい旅程にして一週間もあれば着くとのことであったので、いまは気安くなった康安の家に、しばらく――といっても、今の段階で、もう既に大分、厄介になっていたわけだけど――置いてもらうことにした。というわけで、いましばらく、小説の修行などというものをやっている次第。
「しかし、冥加の話を訊いてみると、つくづく恵まれているんだな、と思うよ」
 康安は思い出したかのようにそう告げる。
「えっ?」
 私は訊ね返す。
「だって、考えてもみたまえよ。冥加がいま受けている尋問、それはここでいうところの追加尋問とでもいうべきもので、普通は、閻魔王あたりで今後の生活はどこで行うか、つまり、六道のいずれへ行くかということが決定されるものなのに、冥加と来たら、この先、いったいどこへ行くのかまったく決まっておらず、しかも、尋問の内容と来たら、芸術に関する議論ばかり。気楽と言えば、気楽。特異といえば、特異だよ」
「そうなのか?」
 自分のことしか知らない私にとって康安の云い方は、とても奇異に思えた。
「まぁ、なるようにしかならないよ」
 と、私はそんなことを云って、自分を慰める。
 いまは小説に専念することについて、いろいろと考える時である。
 それがいったい何の役に立つのかという疑問はあまりに無駄な考えである。それよりは、小説を書くということについて、もっと実践的なことを学ぶ方が何倍も有益であることは確かである。私は康安に訊ねたかった。
 ――いったい、小説とは何なのか?
 その大ぶりな質問に答えられるものではないと、私は思っていたが、それでも、この康安の知識の深さを頼んで訊ねてみずにはいられなかった。
「言葉という壁を打ち破るための武器だよ」
 と、康安は事もなげに悩むことなく、そう告げる。
「言葉の壁?」
「ああ、そうだ」
 と、康安。
「これだけでは分かりにくいかな……。つまりだよ、言葉を言葉として書き連ねることは誰でも出来る。でも、人の心の複雑な機構は、言葉だけでは説明しきれないということは、経験的に私たちが知っていることだ。でも、それを言葉を使って表現していくということこそ、小説、ひいては文学の最重要事項だと思うんだ。それに関してはいいかな?」
 私はそれに同意の頷きを行う。
「つまり言葉の限界を超えるということ。それが大切なんだよ。そして、それこそが小説が存在するほとんど唯一といっていい存在価値の出現箇所なんだ」
「なかなか難しいね」
と、私は告げる。
「いや、こうして表だって話すときは難しく感じるかもしれないけど、実際、小説を書いてみたら、そう云うことかと気づく点が多々あると思うよ。ただ自分がそこに居ずまいを正してみる事で、文字というものは無限に溢れてくるものだと思うしね」
「そういうものかな?」
「ああ」
 私と康安はゆっくりと言葉を選んで会話をしていく。
 何気ない遣り取りのなかにも、ひときわ大切な事柄が含まれていたりして、ないまぜにできない雰囲気が紛々である。
「都市王との対話はどうだった?」
 と、康安はようやくにしてその質問を投げかけて来た。
 それに、私が、
「ああ、また芸術論だったよ」
 と告げると、康安は、
「やっぱりな」
 と苦笑した。
「いったい、十王たちは何を考えているんだろうな……」
 康安は嘆くようにそう告げると、私に微笑みを返した。
 十王のうち九王までの対面を済ませたことになる。あとは五道転輪王のみ。
 私は最後にいったい何が待ち受けているのか、それを想像することを避けていた。
 怖ろしいというよりも、それが済んだあと、私はいったいどこへ行くのだろうか、との思いでいっぱいになる。
 世界の果てなんてものがあったとして、そこに一人で住めと云われたら、私は孤独のうちに死んでしまいそうだよ、と、私はあるとき康安に告げた。
「大丈夫、地獄にも天国にも他人はたくさんいる。でも、考えてみたらそうかも知れないな。ある種の人間にとっては、孤独こそ、もっとも恐ろしい責め苦なのかも知れない。自分の気を休める為の他人もいないこの孤独感。自分しかいないという状態が、永遠に続けば、人は発狂してしまうのかも知れない。そうなると、もうどうしようもないのかも知れない」
 康安はそう云うと、うんうんと頭を縦に振って答えた。
 孤独の裡に居る私たち極微の人間。
 いったい、何が待ち受けているのか?
 永遠の無にとりつくされて、自身の心まで空洞になってしまうのか。
 しかし、私も康安もそんな心配をしなくてはいけないほど辛い経験を目の当たりにはしないだろう。美しい言葉を操るために、時に人と離れて生活することが必要になるかも知れない。そんな状況下であっても、まったく他人と切り離されてしまうなどという事態は起こらない気がする。あるのは、ひたすら、来世への希求である。
 ひたすら心の深化を願う時、人は孤独への道を推し進めるものと知る。
 そこには他人の助け船はまったく期待できない。
 悟りを開いてしまえば、娘の持ってきた粥を啜るのも拒まなかった釈迦の事績のように、悟得していない物にとっても、小説はその心の深化を成し遂げるための貴重な媒介として存しているように思われる。
 いったい、そこには何が待っているのか。
 それはなかなか難しい問題である。
 私はまた今日も筆をとって続きを推し進める。
 それがいったい何を助長しているのか、まったくわからないままに。

(十王との対話(其之四)・了)


10 :蒼幻 :2009/10/29(木) 09:28:26 ID:tcz3sknm



 碧空に鳥が飛び、雄渾なる日差しが大地に降り注ぐ、
 そんな光景が懐かしく思い返される冥府暮らし。
 いったいどうすればそこへ戻ることができるのだろうか? 私はそのようなことを夢に見ながら、暗いままの朝を迎え、布団を畳んで起きだす。
 いつもは康安の方が先に起きている。しかし、今朝は違った。きっと刺激の強い夢を見たせいだろう。いつもよりも早い時間に起きてみると、隣の康安はまだ寝息を立ててぐっすりと眠っていた。私は少し顔を寄せて、康安の寝顔を眺め見る。寝顔も美しいな、と私は素直に感じたが、彼をそっとしておいて、私は居間の方へ向うことにする。
 朝餉はもう何箇月も口にしていなかった。というか食事自体、ここ一箇月、まったく摂っていなかった。自分が冥府に来たと聞かされるまでは、あれほど奇異に思っていた食欲のなさも、こうして納得して見ると、そういうものかという気持ちが大きい。
 私はしばらく寝起きの頭をぼーっとさせたまま、机に向い、そこへ肘を立てて顎を手で支える。そのまま何か面白いことは思いつかないだろうかと思案しつつ、康安はいつ起きてくるだろうとの思いも、また心に萌すのだった。
 侠者の武という言葉が頭に浮かぶ。
 侠者とは、いわゆる任侠の人のことであるが、品が悪いとごろつきであるが、優れた人格者で侠者というと、蜀漢の英雄劉備・関羽・張飛などの名が浮かぶように、古来より優れた人物を指していることも多い。そのなかでも関羽などは後に神格化されてまつられている地域もあったりする。いわゆる関帝廟である。子供の頃はこの関羽に憧れていたな、と私は思い返す。何も知らない無垢な子供であった私の幼少期は、月に一、二度、村を訪れる紙芝居屋のくれる飴やらなんやらのお菓子の印象と共に懐かしく思い返される。
 あの頃の紙芝居屋の聴衆を惹きつける巧みな言葉遣いこそ、いま自分の書いている物語の語り口のお手本として必要なものではないかと考えもするのである。
 気がつくと文章を作らず、子供のころ紙芝居で見た印象のままの関羽の姿を紙に描いていた。初めは不細工であまり似ていないと思っていたが、髭を描いてみると、それなりに関羽らしく見える。これは大きな発見だった。確かに人の姿というものはその他に類を見ない特徴さえ描いておけば、それなりに人物に見えてくるものである。そのことを知って、私はなんだか嬉しくなる。これをみれば、康安がそこに描かれているのが誰であるのか、わかるだろうかと推測して楽しむ。しかし、文章を書くために墨を磨ったのに、こんなものしか描いていない自分の無駄さ加減があまりに馬鹿らしく思えて、後悔する気持ちまで芽生えてしまう。
 一時間ほど、机の前で作業に没頭していると、そこへ、康安が起きだしてきて、一言告げた。
「冥加、早いな」
 康安は寝ぼけ眼を振り払うために、汲み置いていた水で顔を洗いだした。冥加は顔を拭く物を康安に手渡すために、机を離れて、箪笥の中から厚手の布を出す。
「ありがとう」
 と告げると、康安は渡された布で顔を拭き、さっぱりした顔になる。
「最近は、いつも机の前ということになっているな」
 康安は嬉しそうに告げると、思い出したようにこう告げた。
「冥加、ちょっと茶でも飲みにいかないか?」
「茶だって?」
 私は康安の言葉に異を唱えようとしたが、しばらく考えて、それもいいかもしれないと思い直し、彼の言葉に従うことにした。
「この前の酒家かい?」
 と私が訊ねると、康安は、云いしぶり、身支度を整えだした。
 私はすでに外出の準備ができていたので、康安の支度を待つのみだった。

 外へ出て、康安の足が向ったのは、小さな川べりの店だった。
 私は疑問に思って店の暖簾をくぐって席に着くまでのあいだに、康安にこう訊ねた。
「いったい、冥府のものはほとんど食事をしないはずなのに、こうして茶店やら酒家やらがあるのはどういうわけなんだい? 彼等は生活できているのか?」
「前にも説明したじゃないか」
 康安はどうしてこの前の説明で理解できなかったんだろうと、不思議そうな表情をしている。自分ではそれほど理解力に乏しいとは思っていないが、以前の説明ではそれほど納得できなかったため、この前と同じ質問をしてしまったわけである。
「嗜好品の扱いなんだよ、食料品はね」
 私は返事のかわりに、後ろを振り返っている康安に向って頷きを返す。
「とりあえず、こういう客に食事を提供する店は、庁から金銭が渡されるんでね。それで結局、仕入れから人件費から、すべて賄えるから、事実上、収入がなくても最低限の生活はしていけるってわけさ。もしそれがなかったら、この冥府で商売をしようなんてやつはいないだろうよ」
「そういうものか」
 と私は納得する。
「さあ、それはさておき、何か飲もう」
 そういうと、康安は、
「美味い茶を出してくれ。それと適当につまみを」
 と告げる。
「酒はいまいち好きになれなくてね。飲みたいなら、飲んでくれてもいいけど」
 と康安は云って寄こしたが、私は遠慮した。
「康安と同じものを」
 と私が云うと、給仕はかしこまりました、と云って引き下がった。
 暫く待っていると、茶と菓子が用意された。
 つまみといったのに、菓子が出てきたところがなんとも愛嬌がある。
 店で菓子をつまみながら茶を飲むという行為が愉快に思われる。菓子はこれまでに食べた事のないものばかりで、異国のものと思われるほどに、自分の見知っているものとは全く姿が異なっていた。
「五道転輪王との対面はずいぶん先だし、ゆっくりと毎日を過ごせばいいよ」
 康安は茶を啜って菓子を食べながら、そう云った。
「で、何か最近は精進したことがあったか?」
 私はその問い掛けにどう答えたものかと思案した。
 やがて、適当な言葉を見つける。
「難しいけど、遣り甲斐はあるね。ただ、新たな進展として思うのは、文章を作るということが、極めて自然な欲求から出てきはじめてるってことかな。初めは、文章を作るということは緊張の連続で難しい難しいと思っていたんだけど、いまは自然に、自分の心の奥底から素直に言葉を選んで作品を生みだすということについて、まるで嗜好品に手を出して病みつきになったかのような蟲惑性まで持っている印象でね」
「蟲惑的なもの……か」
「そうなるね」
 私は康安にそう云う。
 結局、小一時間ばかり歓談しながら、私たちは時間を過ごした。

 ひたすら北へと進路をとる。
 都市王との面会から二年。
 私は康安との別れを済ませて、五道転輪王の待つ宮へと向かうことにした。
 康安は
「寂しくなるな」
 と云ったきり、言葉を発さなかった。
 そして、
「もしよかったら、また来てくれ」
 と告げ、見送りもそこそこに家へと引っ込んだ。
 それに私は少し寂しさを助長されたが、康安の落胆ぶりは、私が遠くへ行ってしまうことに起因しているのだと思い、申し訳ない気がしていた。
 私は未練を残しながらも、康安の家を後にし、仕方なく立ち去る。
 これからは孤独な旅路だ、と私は思い做し、そして、世話になった康安のことで心が温かくなる心地がした。

 それは夜中のことだった。
 不穏な空気を感じ取った私は、警戒しながら、辺りの様子を探ってみる。
 旅人を襲う集団のことは聞いていた。
 果して、側面から、異形の集団が姿を現した。
 身に付けているものと云って目に明らかなのは腰に巻いた布切れくらいで、上半身はまったく隠していない。体型は女性のもので、胸のふくらみすら隠すことなく、半裸身である。
 ――これが羅刹か。
 と、私は覚悟を決める。
 勝てるとは思っていない。しかし、負ければ、生命力を取られてしまうということをあらかじめ聞いていたから、そんなことにならないようにしたいとの気持ちはしっかりと持っていた。
「お前らの好きにはさせない」
 と、私は勇気を鼓舞するように、そう云った。
 羅刹女は男顔負けの筋力をもっているらしく、頑丈な棍棒をもっていた。
 私は危ういな、と自分の身を案じた。
 果して、羅刹たちは私目蒐けて向かってきた。
 私は最初に飛び出してきた羅刹に向けて、手を出して、降りかぶられた棍棒を身体で受け止めてそれをしっかりと掴んだ。そして力比べが始まったのだが、そこへ第二第三の羅刹が飛び込んできて、私の身体をしたたか打った。
 私は苦痛に顔を歪めた。自分の顔を見ることはできないが、苦痛で顔が歪んでいるのを察知するだけの余裕はあった。
 私は裂帛の勢いをこめて、最初の羅刹の持っていた棍棒を奪って、反対に羅刹の身体を思いっきり打ち返した。羅刹は声にならない声――あるいは悲鳴――を上げて、苦痛におののいた。
 私は呼吸を整えると、第二、第三の羅刹に相対する。
 羅刹は全部で六体いた。
 私は負けてなるものかと気を奮い立たせる。
 棍棒を構えた私は先手必勝とばかりに羅刹目蒐けて、突っかかっていく。
 羅刹たちははじめ、その勢いに戸惑っていたが、私が一体二体と打ちすえて行くのを見て、危険だと感知したのか、仲間同士で顔を見合すと、三体同時に私に打ちかかってきた。それは息の合った攻撃だった。私はそれに戸惑い、どうすればいいか混乱をきたした。
 一体に攻撃を加えようとすると、他の二体が勢いづく。他の二体に集中すると、もう一体がしこたま私の身体を打ちすえる。私ははじめ、精神力がやられた。そのあと、肉体的に限界がきて、やがて、その三体以外の残り三体も攻撃に参加しはじめ、私は防戦一方になり、それから、打ちすえられるに身を任せることとなった。
 やがて精神がくじけて、気がつくと、私は身体が芯の底から寒くなっていくのに気付いた。
 見れば、羅刹が私の身体に手を向けて、何か力を籠めている。
 気を抜かれているのだと気づくが、時、すでに遅かった。
 私はしばらく、自分の身体が冷えるに任せたが、やがて、意識を失い、そのあとは、もう冷たく硬い大地の印象も失せてしまって、泥のように眠りこんでしまっていた。生命力が希薄になっていたのだろう。精神の安定を保つことができず、また、夢か現かの判断もできなくなり、ただひたすら、混迷の時を過ごすのみであった。
 意識を取り戻したのが、それから幾日後のことであるのか、私にはわからなかった。
 しかし、次の出来事に出くわしたことで、私が予想以上に力を失って、地面に寝ていたことがわかったのだった。
 それは先の十王たちの姿と非常に似通った、中背の体格のいい、いまではもう十王であるとはっきり判る格好をした偉丈夫であった。
「冥加よ」
 と、その男は澄んだ声で私の名を呼ぶ。
「そなたはいま、非常に生命力を失った状態でいることだろう」
 私は起き上がる力もなく、目を開いているのか瞑っているのかの区別もつけられないまま、ゆっくりと意識を覚醒していく。
 しかし、何か蛤蟆の卵のような半透明のどろっとした膜に覆われているかのように、私は現実感の希薄な印象を胸に抱きつつ、五道転輪王に対する。
「冥加よ、そなたはもう一度、地上に帰るがいい」
「えっ?」
 私は驚きに目を瞠る。
「この冥府での三年間は、地上での一日ですらないということをそなたは知るまい。そなたの地上での身体は、いま、樹の根方に転がっている。そこへそなたの存在を結びつけよう。それからあとの行動は、もうそなたの自由だ。この冥府での経験を活かして何をするのもいいと思う。まだ、そなたには下界で生活するという道から積める研鑽があると踏んでいる。それを心に残して、いずれ大きなことを為すことになるであろうから、私も楽しみにしている。今度、冥府に来るときは、もう完全に下界へと戻れない状態になっていることだろう」
 私は唖然とする。もう戻ることはないと思っていた下界へ、また戻ることができるのだ。しかし、私はそれに、喜びの感情を芽生えさせることが難しかった。できれば、小説を書くことを生業にしたいとの思いはあったが、はたして、それが叶うや否や。
「心配するな、そなたならできる。他の十王も申して居った。お前には不撓の勇猛心があると。それを忘れなければ、日々を怠惰に過ごすことなく、いつか、一家を保つくらいの実力は持てるだろうと」
「買いかぶり過ぎです」
 と、私は声に出して反論する。
 しかし、
「いまは分からないかもしれない。しかし、いつかきっと、私の云っていることの意味がわかる時が来よう」
「そういうものですか?」
「ああ」
 五道転輪王はそういうと存在自体が霧のようにかき消えた。
 いったいどういう仕組みなのだろうと私は怪訝な表情をしていたと思うが、しかし、とても力を持った十王のこと、自分には想像できない、様々な力を有しているのだろうと考えて、それ以上、推察することをやめた。
 しかし、私も自分の身体がままならないのを感じて、再び、眠りの中へと落ちてしまった。

 気がつくと、そこは森の中だった。
 小鳥の啼き声と、やかましい蝉の鳴き声が耳に届く。
 目を開くと、暴力的なほどの日差しが地面に落ちているのがわかった。
 気温はかなり高い。湿気もあって、少し前に、夕立ちがあったか、雨天であったことが想像された。私は痺れるような感覚と共に、自分の五体が、生まれ直したかのように新たな感覚に満ちていることに気付いた。
 私は起き上がると、そこは樹のうろであったことに気づく。
 夏だ。
 私は長い夢を見ていたのか?
 しかし、ここが鎮守の森であることに気付くと、閻魔堂が確か、もう少し先にあったことを思い出す。
 閻魔王――。
 長い夢の中で、あの冥府の王、閻羅に会ったことを、現実にあったことのように新鮮に思い出した。こんなに鮮明に思い出せるということは、やはり、あの対面は実際にあったことではないかとの思いが、錯綜した。
 私は記憶を頼りに、閻魔堂へ向かう。閻魔堂を見るのは、初めてのこととて、迷うかもしれない、と思いはじめる。しかし、よほどの機縁があるのか、それとも偶然の産物なのか、閻魔堂がしっかりと目前に見据えられるようになると、喜びの感情が胸に満ちた。
〈閻魔堂〉という扁額が鳥居の上にかかっている。鎮守の森にはこの閻魔堂が設置されている。閻魔信仰がなせることであるが、普段、近隣の住民はこの鎮守の森に立ち入ることは控えている。入るのは年に二度の、春と秋の大祭の時期だけで、その他は、神主が供え物を持ってくるくらいの、控え目な信仰に抑えられている。
 私は閻魔堂に向かうと、そこの閻魔像の安置されている蔵を、桟の隙間から眺め見る。
 はたして、そこには黒衣の、長い整った棒を持った閻魔王の姿があった。私はその閻魔王の像の表情が、あの冥府で見た閻魔王の姿にそれほど似ていないことに落胆の思いを抱いていた。そして、あの閻魔王が対談のときに云っていた言葉を思いだす。
『三年の時を経て、なお、吾に不満があるなら、聴いて進ぜよう』。
 閻羅とはあれから会っていないが、三年後の邂逅というのは実はこのことではなかったかと思い知らされた。
 声を聞くことはなくても、その姿を見て、心打たれるということは可能である。
 ふと、身体に疲労感を感じ始めていた。私は懐に何かが入っていることに気づく。
 それを取り出してみると、薄い金属に包まれた、いわゆる〈薬〉である。閻魔王から貰ったものだった。必要になるだろうから、と言われたその〈薬〉を、私は袋から取り出すと、あの羅刹の奪魂の技で消耗した精神力を補うために、それを食すことにした。いったい材料は何なのだろうと、不思議だったが、香りを嗅いでみると、薬というよりも、何か食材のような佳い香りだった。
 それを食すると、私の身裡には何か、途轍もない力が湧いてきていることに気づいた。
 私は閻魔堂を後にすると、来た道へ足を向ける。
 住まいはこの近くではない。
 とりあえず、旅をして家へ帰ることにしよう。
 家についたら、墨と硯と紙と筆と文鎮を買うとしよう。
 冥府で習い覚えた、そう、康安に教えてもらった様々な技術を駆使して、面白いものを作るとしよう。そんなことを考えながら歩く道程は孤独ではあったけれども、楽しいものだった。
 相変わらず、蝉がうるさかった。
 あまりにもうるさいので、一喝したい気分になったが、そんなことをしても、きっと徒労に終わるだけだろう。それなら、耳をふさいで森を過ぎた方がいい。
 それにしても明るい。木々の葉の緑が目に眩しい。まるで緑柱石のようだと感じる。
 喉が渇きそうなものだが、まったくそんな気配はなかった。
 おそらくさっきの〈薬〉のせいだろう。
 私はいずれ気がつくことになる。
 あの〈薬〉のおかげで、もう、食料を必要としない身体になってしまっていることに。
 そして、その恩恵を受けて、その後数十年、執筆を生業として身を立てて行くこととなるのであった。

(十王との対話(其之五)・了)

【冥加・了】


novel plaza system
甘辛流小説家ギルドGAIA
produced by COLUN.