(仮題)教養小説


1 :蒼幻 :2008/04/12(土) 00:07:49 ID:nmz3zmrc

ひとりの青年の人生をその生い立ちから語っていきます。
長大な物語になる予定です。
まずはその父親の人生観から語らせていただきます。

※第一章を推敲しなおしました。


2 :蒼幻 :2008/04/12(土) 00:09:09 ID:nmz3zmrc

第一部 黎明



第一章 天界の祝福


 ここ一週間、雨が降り続き、月が恋しくなる。
 赤子は乳を欲しがり、しきりにぐずつく。夜の雨は赤子に良い影響を与えない。執筆に疲れた頭を休めながら、加納弘隆は居間にいる妻と子を想った。子供は先週生まれたばかりだった。
 彼は自分の書斎をぐるりと見回す。いつも通りの変わらない調度品。作家として名をなしている彼は文壇では中堅の作家として広く認知されており、定期的に長篇をものしている最近の筆業を評価して、鉄の男≠ニの諢名までつけられるほどだった。
 彼の作風は一言で表せば、堅実。端整な言葉で積み上げられる理論は誰が読んでも真っ当に感じるもので、異論を唱える者はいないはずだ。よって万人に受け入れられるものであるには違いないが、反面、作家に独自の見解を求める読者には退屈な作家であるとの認識を植えつけてもいた。それはどちらかを採ればどちらかが引っ込む質のもので、およそ、ものづくりをしている者ならば、誰でも最初にぶち当たる壁であった。加納弘隆はこの仕事を始めたときからそのことについては明確な解答を出しており、それは生涯変えようのない、厳格な掟であると思っていた。
 売れない作家ならば、自分の考えを大幅に修正する必要に迫られるところかもしれないが、生活していくだけの収入を得られている彼は、長年のその考えを変更することなく、今日、この時まで至っている。
 しかし、作家加納弘隆は最近、自分の筆業に焦燥感を抱いてもいた。
 分かりやすい理論を駆使するのは小気味の良い作業であったが、売れない作家が捏ねくりまわす自我という化け物や、破天荒な論理、正常な精神なら忌避するであろうグロテスクな文章、そういったものに対する憧れが加納弘隆の心には存在しており、彼らの自由奔放な精神を羨む気持ちが少なからず存在していたのである。
 何気ない日常の一定点に立ち、そこで覚える自分の心の慄きといったものに忠実になり、それだけで中篇ひとつをものしてしまうような感覚的な精神。それは加納弘隆の書く小説とは対極に位置するものであり、彼自身が願っても求められない瑞々しい生命の衝動だった。
 あるとき、加納弘隆は自分の日記にこう記した事があった。
「美しいもの、素晴らしいもの、佳致を認めるもの、そういったものに出逢ったとき、人は創作意欲に駆られる。それは人の生命活動の根幹に位置する素晴らしい特質であり、誰にも阻害されることのない雄渾なる仕組みだが、私の創作動機にそういったものは含まれていない。それは悲しいことであるかもしれない。私は書くために書いている。何か美しさの元型のようなものがあって、それを現出せしめたいとの欲求を以て創作に勤しんでいるわけではない。だから、最近の若い人の創作にかける情熱というものを私は充分に理解しているとは言えないだろう。私小説というものは最近では批判的な言葉で語られる事が多くなったが、しかし、人の心の透明性を掬い上げるには最適の形式であろうと思われるのである。私が著すところのものは私小説とは決して交わらない。どちらかといえば、海外の文学作品に似通ったところがあろうと思われる。重厚な記述を積み重ねていって、どっしりした読み応えのある作品に仕上げる。その方が物語としての深みを出すことができるし、私の性格にも合っているのである。しかし、そこには一抹の寂しさもある。私の作品は書き上げた途端に自分の元から離れてしまって、ふたたび戻ってくる事がない。書き手の精神を色濃く残している私小説とは異なる性格を持っているのである。最近、私は自分の心の中にあるさまざまな印象を作品の中に封じ込めたいと希っている。それには自分の文体を大幅に改変する必要がある。それを私は怖れる。いったん、いまの文体を崩してしまえば、もう元には戻れないのではないか? いまの文体を手に入れるために、私はそれこそ、血の滲むような思いをした。いまはその恩恵に与っているが、文体を変えるということは、自分の生き方を変えることと同義といっても過言ではない。どうだろう。この思いに、そこまでする佳致はあるだろうか? 私はそこで迷いつつ、一歩を踏み出せずにいる」
 加納弘隆は窓の外を見遣った。
 ガラス窓には雨滴が垂れ、そこがきらりと光っている。
 夜だというのにカーテンをあけているのは、彼自身、夜の闇を好んでいるからだ。それに最も近い民家から五百メートルも離れていることも影響していた。
 それだけ離れていれば、近所づきあいをする必要もない。
 また、東京近郊という立地条件もあって、仕事の都合で出版社に行かねばならないときや作家や編集者の集まりに出かけるときにはその恩恵に与る事ができた。
 孤独に耐えて執筆するという印象の強い作家という職業だが、思いのほか、横とのつながりが強いのも、この職業の特徴だった。もともと人当たりのいい彼がこれらの集まりを蹴る事はほとんどなく、文壇の雰囲気を存分に味わいながら、自分の作品に良い影響を与えてくれる他の作家とのつながりを大事にしていたのも事実である。
 加納弘隆は机の抽斗を開け、そこから葉巻を取り出した。
 洋画に出てくるような太くて長い葉巻だった。
 彼は葉巻の先を歯で破ると、燐寸で火をつけた。口に持っていき、燻らす。
 部屋には紫煙が立ち昇り、穏やかな時間が過ぎていく。
 彼は葉巻を灰皿に載せると、椅子から立ち上がって書架に近寄り、一冊の本を取り出して戻ってきた。それは国内の近代作家の全集本の一冊で、まだ学生の頃に彼が神田の古本屋で見つけたものだった。彼の作風とはまるで異なる感覚的な文章が並ぶその本。彼は軽い気持ちで活字を追った。この作品を読むのはもう十年ぶりくらいだったが、当時の印象は色褪せることなく、心の中に残っており、それを思い出しながら、懐かしい気持ちと今の印象のさざなみを心地よさげに感じとった。
 しかし、心地良いだけでは文学にならないとも彼は考えていた。
 登場人物と共に考え、悩み、試行錯誤して人生とは何かという究極の問題について思念していく。その鬩ぎ合いのなかで文学は光を増していくとの考えが、彼の中にはあった。
 葉巻を一本喫い終わるまでの間、彼はその本に集中した。今日の分の執筆はもう終えていたから、寝るまでの時間は、彼の自由だった。葉巻を灰皿にこすりつけて火を消すと、彼は居間にいる妻と子の顔を見てこようと、椅子から立ち上がった。
 彼が居間にいくと、恰度、妻の咲子が赤子に自分の乳をやっているところだった。
 赤子はまだはっきりと見えていない目をぼんやりと開けながら、口を動かしている。赤子が口を吸いつけている胸の膨らみは咲子が呼吸をするたびに僅かながらも揺れている。
「気分はどうだ?」と加納弘隆は妻を気遣う声をかけた。
「随分良いわ」と妻の咲子が答える。
 赤子は乳房を咥えたまま眠ってしまった。心地よかったのだろうと弘隆は思った。そして、この子の人生はどんなものになるんだろうかと考えた。現代社会はめまぐるしく変化し、いまこの時であっても、世界は激動しており、ぼんやりしていると置いてきぼりを食ってしまいそうなほどだ。この子が成人する頃には世界はどうなっているのだろう。そして自分はその頃、何をしているだろう? まだ文壇の中で文章を弄くりまわす事ができているだろうか? この生業はとてもやくざなもので、今日安定感のあるどっしりした地位を築いたかと思うと明日にはそれが砂上の楼閣にすぎなくなっていることの多い世界なのだ。そうであるから、どうしても、将来に対する不安は拭えない。
 しかし彼は妻と子を順に眺め遣る。そしてこの守るべき家族のために、自分の身を削ってでも愛情を注いでやろうと決意するのだった。
 妻の咲子は小さな音量で音楽を流していた。モーツァルトの『交響曲第四十番』。胎教に良いからといって、妊娠している頃から聴きはじめ、もう耳馴染みになっている音楽だった。この子が生まれてからも頻繁に聴いていて、この日ももう何度目になるかわからないほどだった。
「あら、雨、已んだのね」と窓の外を見遣った咲子が嬉そうに声をあげた。
「明日は晴れるかな?」弘隆は陽気に妻に和した。
 そのとき、音楽が止まった。
 静かな室内に音を出す物はなくなり、外から虫の鳴き声が聴こえてきた。
「あっ、鈴虫」
 咲子は童心にかえったかのような表情で顔をほころばせる。
 赤子も心地よい夢を見ているのか、表情が穏やかになる。
 加納弘隆はいまここにある倖せをかけがえのないものと実感していた。そして、ここ数日考えていたことを妻に知らせた。
「この子の名前を考えたんだ」
 それを聞いた咲子の表情がぱっと晴れわたる。
「真治、真治はどうだろう? 可能性を信じるということで、加納真治」
「それはとても良い名だわ」と咲子は賛成する。
「さっそく、明日、役所に届けてくる」加納弘隆はしっかりとした口調でそう告げた。
 まだ目もはっきりと見えぬ赤子は加納真治と名付けられた。
 これからの彼の人生には何が待ち受けているのだろう?
 しかし、いついかなるときも可能性を信じて疑わない、信念の強い人間に育って欲しいとの親の願いを受けて、赤子はいま、少しずつ、成長の過程を経ていこうとするのだった。


3 :蒼幻 :2008/04/13(日) 12:05:16 ID:nmz3zmrc

第二章 寺田寅彦


 居間のほうから赤子のむずかる声が聞こえてくる。
 いま、加納弘隆はワープロに向かって小説を執筆している最中だった。先月から書き始めたその長篇小説の名は『黙した月』。ハードボイルド小説で、無駄をそぎ落とした地の文に鋭い現代風刺を混ぜこみ、洗練された都会のイメージを読者に彷彿させる手法をとっている。
 この小説を書いているときには、紅茶よりも珈琲が似合うだろうと思い、加納弘隆が朝から淹れた珈琲はすでに三杯目だった。珈琲は産地直送の卸売り店を通販で見つけて、そこに直接注文して取り寄せていた。一度飲んでみれば、その違いは歴然で、インスタントコーヒーには出せない香りとコクがあった。コーヒー豆をミルで挽いて湯を注ぐ。本格的な喫茶店には及ばないが、自分の淹れた珈琲もなかなかのものだとの自負もある。
 妻の咲子に飲ませて見ると、彼女は感動した熱っぽい視線を投げながらこういう。「私、こんなの飲むのはじめてよ。でも、喫茶店で飲む珈琲の味も悪くないわね。どちらも甲乙付け難い感じ。どちらにも良い面と悪い面があって、点数をつけるとしたら引き分けね。ごめんなさい、参考にならない意見で」
 咲子の反応は弘隆を喜ばせた。喫茶店と同列。それは褒め言葉と受け取っていいのではないか?
 加納弘隆はマグカップを持ち、珈琲を一口啜る。
 同業者は大概、原稿用紙で小説を執筆する人間と、弘隆のようにワープロでタイプする人間とに分かれる。弘隆も昔は原稿用紙に万年筆で執筆していたのだが、もともと字を書くスピードの遅かった弘隆は、頭で考える速度と、自分の手の動きが同調せず、どうしても自然な文章を書こうとしたときに、その執筆速度の遅さがネックとなり、作品に悪影響を与えていた。反面、キーボードで文章を書いてみると、その差は歴然だった。
 頭で考える速度と手の動きとが一致するのである。それは大変な発見だった。それまで多大な集中力を要していた手書きという作業から解放された加納弘隆は、キーボードという文明の利器に出会って生まれ変わったような気持ちになったのだった。加納弘隆は学生時代にアルバイトで貯めた金で買ったワープロを使い始めて以来、もうキーボード無しでの小説の執筆は考えられなかった。確かにキーボードでの入力は停電したら書いた文章が消えてしまうという危険と隣りあわせだったけれど、そんなことは滅多に起こることではなく、その欠点を差し引いてみても、キーボードでの執筆は魅力的なものに違いなかった。確かに一般に普及し始めたワープロはまだまだ高価なものではあったのだが……。
 加納弘隆は本日十枚目になる文章を書く手を休めて一息ついた。
 マグカップを手にすると、いつの間にか珈琲は空っぽになっていた。
 ふと窓を見ると、もう日が暮れかけている。陽射がオレンジ色に染まり、仄温かい光を放っている。秋の日はつるべ落とし=Bそんな言葉がふと脳裏に浮かぶ。
 いよいよ陽光が薄らぎ、宵闇が忍び寄ろうとしている中、窓の外は穏やかな風が流れているようだった。その隅っこの方に黄色いものがふるふると揺れているのが見受けられた。なんだろう? 弘隆はそれに興味をそそられて窓の方へ歩いていった。
 近づいてみると扇形をしている一枚の葉っぱだった。
 それは黄葉した銀杏の葉っぱで、家の裏手に生えている雌株のものと思われた。加納弘隆は今日はずっと家の中で執筆していたことに気づき、外のものとの接点が全くなかったことに思い当たった。その窓に引っかかった銀杏の葉っぱが外の世界と家の中とをつなぐ魔法の道具のような気がして、急にその銀杏の葉っぱを手に入れたくなった。
 弘隆は慎重に窓を開けると、手を伸ばしてその黄色く色づいた銀杏の葉っぱを掴んだ。弘隆はなんだかこの葉っぱが自由を告げる天使が自分に授けた道具のような印象を持ち、愛おしむ気持ちが心に芽生えた。
 作家加納弘隆は銀杏の葉っぱの軸を持ち、それをくるくると回して弄んだ。
 ――この黄色は何に比する事ができるだろう? 作家である弘隆は自分の持てる感性を総動員して考えてみたが、ぱっとする思いつきは出てこなかった。こういうものは私小説作家にこそ向く仕事だろう。あるいは詩人か……。弘隆は銀杏の葉があれば、銀杏の葉があると素直に記す作家だ。この色合いが懐かしさを滲ませるとか、陽光のもとに出せば金色に光り輝くとか、そんな描写は一切不要なのだ。それよりは人と人とのつながりの中に見出される真実だとか、永遠の真理だとかいうものについて言及する方が、文学として上質だと思っていた。芸術的な物は世の不浄を知らぬ若い作家に任せておけば良い。それは三十を過ぎた作家としての諦念でもあった。
 加納弘隆はワープロの電源をそのままにして、居間に行くことにした。居間ではまだ生まれてひと月にも満たない息子真治と妻咲子がいるはずだ。
 弘隆は有名な近代画家の絵画の架かった廊下を抜けて、居間のドアを開けた。
 耳なじみのあるノクターンが流れている。
 籐椅子に腰掛けた咲子は藤色のワンピースに紫色のカーディガンを着ていた。弘隆が部屋に入っても反応がない。ただ妻の腕の中で赤子だけがどんぐりまなこをきょろきょろと動かしている。
 籐椅子の横の卓子にミルクの入った哺乳瓶が置かれていることから、真治に授乳していた最中か、その直後に眠りに入ったのだと思われた。はじめ弘隆は、まったく反応を返さない咲子になにか災難が降りかかったのではないかと心配したのだったが、それが杞憂だとわかって、ほっと胸を撫で下ろした。
 そして咲子の腕の中に顔を寄せて、まだ見えているのか見えていないのははっきりとしない真治の顔の前でいろいろな表情を扮ってあやしてみる。真治が機嫌よく表情を緩めるのがわかってほっとした。
 そのとき、咲子が身体をぴくりと顫わせて目を覚ました。
「あら、あなた、いつの間にいらしたの?」咲子は驚いて口元に手を宛がいながら、自分の寝顔を夫に見られたことに気恥ずかしさを覚えたのか、少し頬を赫らめながら微笑んだ。
「ちょっと気になってね。お前も真治の世話で大変で、ここ最近、気の休まることがなかっただろう。こんなときでもないと眠れもしないんだろうと思って、ちょっとすまない気持ちもあるんだ……」加納弘隆は本当に申し訳無さそうに声を落として、妻の様子を窺うように何度か視線を向けて肩をすくめた。
「いいのよ、あなたは仕事に集中してください。あなたが書いている小説はこの社会が必要としているものです。その筆業に較べれば私の苦労なんて、ほんと微小なもの。家庭を守るのが妻の役割と思っているのですから、あなたは思う存分、今の仕事に打ち込んでください。そして、ここにもひとりあなたの熱烈なる読者がいることを忘れないでください。それだけで私は嬉しいんです」咲子は芯の強そうな眼差しで夫を見つめた。
 弘隆はそういった妻の気持ちに、これまで何度も支えられていた。
 自分の文学に対する情熱に疑いを持っていた時期、書く事が地獄の責め苦のように思われていたときも、妻はいまのように自分を励ます言葉をかけてくれ、自信を与えてくれ、果てしない道程を歩く覚悟をつけさせてくれた。咲子がいなければ、加納弘隆という作家は存在しえなかったかもしれない。
「なあ、咲子」弘隆は妻に言葉を投げかけた。「お前が素晴らしいと思う作家は誰かな?」
「随分、アバウトな訊きかたをされるんですね。あなたらしくもない」咲子は鈴のなるような声でつぶやくように答える。腕の中では真治がしきりに手を動かしている。「そうね……芥川龍之介よりは寺田寅彦。夏目漱石よりは志賀直哉かしら。現代作家なら、村上春樹とかね」
「『風の歌を聴け』は私も読んだ。あれは新人作家の作品としては驚異的なものだと思う。あの作家が今後もコンスタントに本を著すなら、今後の日本文学の一支流にはなるだろうな。それにしても寺田寅彦か……。私も随筆を数編読んだけど、確かに彼には文学に対する素養が充分に備わっていたんだと思う。帝国大学の教授であり、漱石の弟子であり、一俳人でもあった寺田寅彦。漱石をしてあなたのようになりたいと言わしめた寺田寅彦。でも、彼は小説を一篇も書いていないだろう?」
「確かにそうね。でも、あの随筆は芸術の名を冠するに値する立派な作品だと思うの。人間味豊かで、文章に人柄が溢れていて、無理のない明快な論旨で書き進められていく。芥川龍之介とは真逆の創作態度だと思うわ」咲子はもと編集者であるところを遺憾なく発揮して自分の意見を夫に述べた。そして付け加える。「彼の随筆はあなたの作品に似たところがあると思ってるの。確かにあなたは芸術的な文章を描く才能は持っていないけど、論を運ぶ精神に似たところがあるのよね。それは言葉では表現しにくいことだけど、薔薇はどんな色でも薔薇であるように、寺田寅彦と作家加納弘隆は色合いの異なる同じ花であるような気がするのよ。寺田寅彦がもし小説を書いていたら、きっと貴方と肩を並べる小説を書いていたでしょうよ」それは咲子の最高の賛辞に近かった。
「褒めてくれるのは嬉しいが、何も出んよ」弘隆は手にした銀杏の葉をまたくるりと回した。
「馬鹿ね、そんなこと誰も期待してないわよ。それに最高の贈り物を貰ったばかりだし。ねっ」咲子は腕の中の赤子の顔を眺めて、倖せな表情を浮かべるのだった。


4 :蒼幻 :2008/04/18(金) 23:00:44 ID:nmz3zmrc


第三章 家族への愛


 執筆という地道な作業の前では季節の変遷もいつの間にか完了していたというような印象しか及ぼさない。それでも、肌寒い日が続くようになってくると、嫌でもあの厳しい冬がやってくるのだとの予感を感じさせないわけにはいかない。
 弘隆は書き続けていたハードボイルド小説『黙した月』を今日のノルマ十二枚きっちり仕上げた後で、次の作品の構想を練っていた。いつもそうなのだが、今回はいままでとは異なる作品をという意識が頭の中を駆け巡る。しかし、プロット段階ではこれまでとはまったく方向性の異なる快作ができそうだと思っていたのに、いざ執筆の段になってみると、これまでの小説とそう変わりのないものが出来てしまう、ということを何度も経験していた。今回もそうなるのかもしれないとの予感を心に抱きながらも、子供が出来たというその一事――それはとても大きな一事であったが――だけで作品に対する意識が変わりそうな予感があった。
 家族への無償の愛。
 それはかけがえのない大切な感情だと父親である弘隆は思う。
 見せ掛けだけの、疚しさの残る、作り物の愛とはまるっきり正反対の、美しく、たおやかで、力強い愛。真治だけではない、妻の咲子にしたって、家族の一員としていなくてはならない存在として、弘隆の中では了解されていた。
 弘隆は一転、今度は愛をテーマにした家族の群像を描く小説を書いてみようと思い立った。最初は単なる思いつきにすぎなかったが、真治や咲子のことを考え、それに自分の感情を加味しながらプロットを練ってみると、なかなかいい塩梅のものができそうだと感じられた。
 その日、弘隆は日が暮れるまで、ずっとプロットを練っていた。
 夜の冷たい大気が家の中を冷やすようになったころ、弘隆は出来上がったプロットの見直しをしていたのだったが、その時に、部屋がノックされて、咲子が盆を持って入って来た。そして部屋の手前側にある小さな卓子に湯飲みと菓子の載った器を置く。
「仕事中でした? 邪魔しちゃったかしら?」咲子は申し訳無さそうに夫の顔を見つめてそういった。
「いや、邪魔なわけではないよ。次の小説の構想を考えてたんだ。家族愛をテーマにしたものを書いてみようと思ってね。どう思う?」弘隆は妻の表情をうかがいながら、そう訊ねてみた。
「家族愛――。あなたがこれまで見向きもしなかったようなテーマね」咲子は少し突き放したような物言いをしてみせたが、本当に突き放す意思があったわけではないということは、その温かな、夫を見守る柔和な表情からも明らかだった。「でも、いいかもしれないわね。〈日本文学の哲人鉄の男≠ェ生み出す家族の物語〉。それはどこか人の興味をそそるものを含んでいる気がするわ。それに私も一読者として、あなたのそのような家族愛の物語を読んでみたい気がするもの」
「私はいま、そういった作品を書かねばならないところに来ているんだと思う。それを書くことで、自分の中の家族に対する愛情が再認識され、より確実に、より能動的に、そしてより優しくおまえたちに接する事ができるようになると信じている。それにこう思うんだ。この作品は真治が大きくなって一通りの言葉が操れるようになったときに読ませて、そのときに、私が何を思い、何を感じ、何を意識していたのかということを伝えられるような、そんな言葉で彩っていきたいと。もしかしたら私は真治が成人するまでにこの世からいなくなってしまうかもしれない。しかし、作品は残る。その作品の中に、真治がこれからこの世で生きていくための指針を指し示せれば僥倖だと思っているのだ。そんな作品に付いて、おまえはどう思う? 作品に作品以上の物を求めるのは書き手の傲慢だろうか?」
 咲子は腕組みしながら、どんな言葉を継いだものかと思案している様子だった。そして
口を開く。「あなたのその意識はとても崇高なものだと思うの。でもね、作品を読んでどう感じるかは読み手の自由なのよ。誤読もまたひとつの理解の仕方。百人が読んで百人ともがその作品を理解し、書き手の世界観を感じとり、その文章に秘められた深奥なる秘密を解き明かすとは限らないのよ。確かに、真治はあなたの血を引いているから文才があるかもしれない。でも、百人が百通りの理解をするのが小説というものじゃなくって?」
 弘隆はまるで頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けていた。プロットを書いている段階ではまったく思いつかなかったこと。妻の咲子に指摘されるまで、自分の書いた文章は自分の想定したとおりの感情を読者に与えるものと思い込んでいた。前だけしか見ていなかった自分の非を認めて、弘隆は恥じ入る気持ちが大きくなった。
「いまおまえに指摘されて、自分の過ちに気づいたよ。でもこうも思うんだ。小説、ひいては文学は、人生に醇乎たる憧憬と純然たる希望を与えてくれるものだとね。それにやっぱり人に生きる意思を齎すことの出来るのもまた文学の作用であると思うんだ。書き手の思い通りにはならないだろうけど、しっかりと隅々まで点検された小説なら、どんな読み手であろうと、いくばくかの真理をそこから読み取ってくれるのではないかと期待する」
「そうね。そうなるといいわね」咲子は夫に寄り添うような声をかけた。
「あ、真治はどうしてる? 一人で大丈夫なのか?」
「いま、眠っています。お昼からずっと起きっぱなしだったから、夕食の時間まで起きないんじゃないかしら? じゃ、私は夕食の準備をしてきますね。あなたもあまり根詰めて仕事をなさらないようにね」咲子は夫を気遣うようにそういうと、「お茶、冷めないうちにどうぞ」とだけいって、部屋を出ていった。
 部屋に一人になった弘隆はしばらくワープロ画面を眺めていたが、もう意識の集中は望めないとわかって、休憩をとることにした。椅子から腰をあげると、菓子と茶の置かれた卓子の脇の、すわり心地の良いマホガニーの椅子に腰を落ち着けた。
 落雁を口に入れると、その甘さに舌が麻痺したようになる。ちょっと苦めに淹れられたお茶がその干菓子によく合う。
 弘隆はほーっと息を吐き出した。妻は根詰めないようにといったが、それは無理な話だった。執筆している最中は、どうしても専一に集中するため、いわゆる根詰めた状態になってしまうのだ。そしてその日のノルマを終えたとき、その苦労が報われるように穏やかな感情がやってくる。それは春の好日のようなもので、人の心のしこりを溶解させるような、とても暖かな慈悲深いものであった。
 弘隆はもう一度、これから自分が書こうとしている家族愛をテーマにした小説のことを考えてみた。それは構想ではなく、焦躁に近いものだった。
 ――これまでに何千、何万といった小説家があったことだろう。その中で、この家族愛をテーマにした作品がいったいいくつあっただろうか? 自分には思いもよらない数だろうが、今から自分がその作品を書かなくても、(自分が知らないだけで)これまでに書かれた小説の中に優れたものがあったのではないか? そう考えて見ると、自分の創作意欲がどんどんそがれていくような気がした。
 しかしこうも考える。この世に自分という存在はたった一人しかない。それは今に生まれても昔に生まれてもかわらない真理である。そのたったひとりのオリジナルである自分が生み出すものなら、他に類を見ない、オリジナルのものが出来上がるんじゃないだろうか? そう考えて見ることは自信の保持にも繋がった。
 弘隆は干菓子の残りを口に入れると、苦い緑茶でそれを流し込んだ。
 ――もうひと頑張りだ。
 気合いを入れなおした弘隆はもう一度ワープロの前に座った。
 それから夕食の準備が出来たことを知らせる咲子の声がするまでのあいだ、弘隆はもう一度、プロットを点検しなおし、直すべきところは直し、改めるべきところは改め、言葉を繋ぎ、付け足し、より確実なものへと変えていった。いわばプロットは物語の設計図のようなものであるから、きっちりと細部まで組み立ててから、執筆に当たりたいと、弘隆は常日頃思っていた。よくある私小説作家志望にあるような、思いつきや衝動に駈られて執筆するというような行き当たりばったりの執筆態度には、弘隆はどうしても迎合する事ができなかった。そのようにして書かれた作品は読んでみてムラがあるし、全体の流れがおかしくなっていて、とても正常な精神では読めた代物ではないと思っているのだった。しかし、それは彼らのほうでも一緒なのだろう。新鮮な驚き、突然の変転というもののない、細部までかっちりと整えられた小説には面白みが感じられない。実際、私小説を小説の最上のもののように思っている批評家連には、弘隆の小説はつまらないと評価されていた。論旨を難詰するものはいなかったが、その創作態度について文句を言う輩は少なからず、いたのである。しかし、いちいちそのような鳥のさえずりのようなものに耳を傾けていては、これまでに自分が気づいてきた作風というものが崩れてしまうと思い、弘隆は相手にしてこなかった。
 相手にはしなかったが、確実に、それらの批評は弘隆の心の内部に入り込んでいた。
 弘隆は自分の小説の批評の載っている文芸誌を書架から取り出すと、その記事のあるところを開いてみた。そこにはこうある。
「現行の中堅作家で素晴らしい働きをしている者を五名挙げよといわれたら、きっと読者諸氏はこの作家の名前を挙げることだろう。加納弘隆。彼の小説は質実剛健で、どっしりとした安定感は他の追随を許さない。間違いなく、日本文学の収穫であろうと思われる。しかし、こうも思えるのだ。この作家には、人生を経てきた深みが感じられない。まだ頭の中で小説を書いているようなのだ。彼が心で小説を書くまでは、この作家に正当な評価は下し得ないと思われるのである。(文芸批評家:猪瀬裕大)」
 ――心で小説を書く。それは私小説作家の得意とするところではないか。私に私小説作家になれということか? 弘隆は静かな怒りを心に秘めながら、雑誌をもとあった場所に戻し、ワープロの電源を落として、妻の待つ居間へと向かった。


5 :蒼幻 :2008/04/22(火) 21:40:08 ID:nmz3zmrc



第四章 寒い冬のはじまり


 寒い冬がやってきた。
 乳飲み子の真治は生後二箇月を越えようとしている。目はようやくぱっちりと開くようになったが、いまだに首はすわっていない。触れればすぐに力が抜けてしまいそうなほどまだ頼りない存在でしかない真治。母親の咲子は毎日この真治の世話をしながら、家事をこなしている。
 弘隆は妻に直接感謝の気持ちを伝えることはなかったが、その普段の接する態度から、妻のことを信頼し、尊敬していることは確かなようだった。訪れるものとてない我が家だったが、これまで真治が生まれるまでの、妻咲子との生活とはことなる、真治のいる生活。それはいままでに形作られてきた幾億通りの家族という輪の例に漏れず、深い愛情と、滲み出すような慈愛と、互いを気遣う温かい思いやりに溢れた生活だった。
 いま弘隆の部屋にはガスストーブが暖房器具として設えられていた。先月末にはだしていたのだが、ここまで気温が下がるとストーブをつけずにはいられなかった。
 ガスストーブをつけると数分で芯が赤くなり、部屋を温めはじめた。
 加納弘隆は椅子に座ると、ワープロの電源を入れて、立ち上がるのを待った。
 彼はそれまでの部屋の冷たい空気で頭が冷やされていて、その冷たさがどことなく神経を過敏にしてくれ、ちょっとした事が切欠だったのに、随分と思索の絲を辿ることができ、いつのまにか物思いにふけるようになってしまった。
 思索の蔓はあらゆるところに伸びていて、こちらと思えばあちら、あちらと思えばそちらというふうに、複次的に物事が関連づいていることに気がついた。だからどうというわけではなかったが、普段、一方的な見方しかしていなかった事物に付いても、他の事物との関連付けで、いつも以上に深遠なる思索への誘いというものが彼を待っているのだった。
 ワープロが立ち上がると、弘隆は小説『瞳の宇宙』という家族愛をテーマにした小説の続きにとりかかる。緻密に組んだプロットはすでにプリントアウトして机の上に置いてある。まずは前日書いた分を読み直して推敲する。それが済むと、今日書く部分のプロットをしっかりと読み、全体を把握した上でキーボードを打ちはじめる。それは登山の登攀作業に似ていた。とても高い山を一歩一歩着実に登り詰めていく根気の要る作業。もしハーケンを打つ力や角度が不充分なら、足を踏み外して危険に晒されることになる。そうならないためにも、一歩一歩を着実に確かなものにしていかねばならない。そうした地道な努力、根気といったものを総動員して、丁寧に仕事をしていけば、やがて頂上という到達点に立つ事が出来るのである。弘隆の文章もそれに似たところがあり、常に物語の全体を把握した上で、地道に一文一文を積み重ねていくのである。もしその一文があやふやなものであったり、不真面目なものであったりすれば、それはすでに自身の小説として世に通用することはなくなるだろう。その前に編集者に突っぱねられるかもしれないが、弘隆の自尊心はそういうことを許さなかった。あくまで自分ひとりの手で小説を完成させる。編集者に見せるときには一言一句、書きなおす必要のない完璧な原稿を用意したい。そう思っているのである。
 弘隆は午前中一杯、執筆に時間を費やした。
 真治もほとんど泣かないため、家は静かで、仕事が随分はかどった。
 机の上に置いてある文庫本を手にとってパラパラと眺めていると、見憶えのあるものが目にとまった。本の間に挟んでおいた葉っぱ。そう、秋の好日に手に入れた黄葉した銀杏の葉っぱだ。
 弘隆はしばらくそれに目を据えていたが、やがてひとつの興味を抱いて、本からそれを抜き取ると、前にしていたように軸を持ってくるくるとまわしながら、部屋を出た。
 居間に入ると、咲子が小さなボリュームで音楽を聴いていた。チャイコフスキーの『くるみ割り人形』、この曲は「こんぺいとうの踊り」だろうか?
 部屋に入ってきた弘隆を見て、咲子は優しげに微笑んだ。
「なにか御用? まだ昼食には早いわよ」
「いや、なに、これを真治に見せたくてね」弘隆はそういうと、またくるくる回す。
「あら、銀杏の葉っぱ……。どうしたの? もうそんな季節じゃないのに」
「ああ、本の栞にでもしようかと思って文庫本に挟んでおいたのを忘れてしまって、それで今日、ふとその文庫本を開けてみたら、改めて綺麗な色合いだと思ったんで、真治にでもみせてやろうと思ったわけさ。真治はこういうの見るの初めてだろう。ちょっと喜んでもらえるかなと思ってね」
「そうだったの? 恰度、いま真治は起きてますよ。あやしてあげてくださいな。その間に、私は昼食の準備をしようかしら……」そういうと、咲子は椅子から立ち上がって、一度、ゆりかごの中の真治の様子をちらっと窺って、異常がないことを確かめてから、キッチンへ向かった。
 部屋には弘隆と真治、そしてチャイコフスキーの音楽だけが残された。
 弘隆はゆりかごに近づくと、しゃがんで中の真治に顔を近づけ、いないいないばあをして見せた。声をあげて笑うほどではなかったが、真治は満面に笑みを浮かべたり、真顔にもどったりを繰り返し、そろそろ表情が作れるようになってきたんだなと、弘隆は思い始めた。
 そして弘隆は赤子の目の前で銀杏の葉っぱをくるくると回して見せてやった。真治のその黒い瞳はその銀杏の鮮やかな黄色に惹き付けられて、まばたきすらせずにじっと見つめている。
 弘隆は赤子の手に銀杏の葉を握らせてみようと思ったが、この時期の赤ちゃんは手に触ったものならなんでも口に入れると咲子に聞いていたから、それは差し控えることにした。
 ――それにしても、椛のような小さな手だ……。弘隆はまじまじと赤子の手を眺めた。そして、こんな小さな手が成長するごとに大きくなっていって、いまの自分の手の大きさにまで――あるいはそれ以上の大きさに――成長するのだと思うと、一種、不思議な思いに捉われるのだった。
 弘隆は銀杏の葉を近づけたり、遠ざけたりして、真治の反応を眺めた。真治はまるで思慮深い学童のような瞳で、いま目の前で起こっていることを把握しようとでもするかのような落ち着きで、瞳だけを銀杏の葉に据えていた。これではまるで自分の方が観察されているようだ、と弘隆は感じた。それくらい、この赤子は落ち着いていたということである。
 チャイコフスキーの音楽が終わって、しばらくの沈黙を経た上で、弘隆はFMの音楽番組をつけようと思った。立ち上がってコンポの前に立ち、チューナーに変える。
 騒がしい曲や元気な曲が流れたが、赤子の成育に悪影響を与えそうだと思った弘隆は、国営FMのクラシック番組にダイヤルを合わせた。これは誰の作だろうと思ったが、弘隆はそんな細かな事は気にせず、その落ち着いたメロディーに惹きつけられ、しばらくそれに聴き入った。
 やがて、昼食の仕度が調ったと咲子が声をかける。
 居間にある卓子に炒飯を盛った皿が置かれ、弘隆と咲子は向かい合わせに座る。
「最近、真治は良くミルクを飲むようになったのよ」と咲子は嬉そうに話す。「母乳の時はそうでもなかったんだけど、ミルクにかえてから、どうもその味かにおいか、そういったものが受け付けなかったらしくて、あまり飲んでくれなかったんだけど、最近は入れた量はしっかり飲んでしまって、そのうえ、お代わりまで欲しい様子なのよ。あまりあげすぎるのも体に悪いかと思ってあげないようにしてるんだけど、お医者さんはこの頃の子供には飲みたいだけ飲ませてあげたほうが良いともいわれるし、いったい、どうすればいいか、ちょっと悩んでるのよ……」咲子はちょっと困惑したような表情を浮かべたが、本当に困っていてどうすればいいかというような切羽詰った表情ではなく、あくまで夫とする会話の一部分といった雰囲気の穏やかな表情で話を進めた。
 しばらく考え込む弘隆だったが、やがて口を開く。「そういうことはきっとお医者さんのいうほうが正しいんだろう。咲子、もしそれに違和感を感じるのなら、自分の思うようにしたら良い。生んだのは咲子なんだ。勿論、私も父親だが、一番赤ちゃんのことをわかってあげられるのは母親である咲子だと思う。お前の思うとおりにやりなさい。子供のことを気遣ってする親切なら、誰も文句はない。そうだろう、咲子」弘隆はそういうと、にっと口辺をゆがめた。
「そうね……、ありがとう、なんだか自信が持てたわ」と咲子は嬉そうに夫に告げる。
 それから二人は炒飯を食べ、即席の中華スープを飲んだ。
 即席の中華スープは本物にはかなわないけれど、それなりに良い味が出ていた。
 満足できた弘隆は、妻の「いまはどんなものを書いているの?」という質問に、気軽に答えていた。
「ある幸せに飢えた男が自信を喪失して世間を彷徨っているときにひとりの女性と運命的な出会いをする。その切欠は些細なことだったんだけど、不思議な人の縁で、やがて互いを信頼するような関係にまで発展するんだ。そして、女性の父親の反対を振り切って、二人は結婚という人生の大イベントを経験する。向こうの両親には反対されるんだけど、まあまあ幸せな家庭を二人は築く。しかし、破局が訪れようとする。家に相手の父親が怒鳴り込んできて、娘を返してもらうというんだ。しかし、娘の体にはもうその男の子供が宿っている。それを知った父親は出鼻を挫かれて意気粗相する。それから男と父親とははじめてまともに話し合うことになり、そして男の、娘を思う気持ちが本物だと悟った父親は、娘と男の結婚を認める方向に気持ちが傾く。それが第一部の内容で、いまはその全十六章のなかの五章目を執筆しているところだよ」
「それが家族愛をテーマにした小説?」
「そう……。ちょっと難しいけど、家族愛の本質を語るには、その家庭の構築されるまでのあらましも伝えなくてはならないと思って、このような構成になってるんだ。でも、第一部は物語の導入部、伏線も多数用意して、できるだけ読者を飽きさせない趣向を凝らしているんだ。できあがったら読んでもらおうと思ってるから、いまから楽しみに待っていて欲しい」
「わかったわ、執筆頑張って頂戴」咲子は会話をそう結んだ。


6 :蒼幻 :2008/04/27(日) 23:12:56 ID:nmz3zmrc



第五章 反対運動

 雪が降る日だった。
 朝からちらほら降っていたのだが、それほど激しくもなく、気温も低いというほどではなかったため、積もる心配はなかった。とはいえ、家の中で執筆に勤しんでいる弘隆にとっては、外で雨が降ろうが雪が積もろうが、どうでもいいことだった。咲子によると、今週一杯分の食料は買い貯めてあるから、この雪の中、運転するという危険を犯す必要はないといった。
 弘隆はいま小説『瞳の宇宙』の第二部第三章を執筆していた。
 入り組んだ複雑な構成ではなく、経年的な、年輪を思わせる実直さで執筆するという手法をとっていたから、それほどややこしくはなかった。それ以上に、弘隆は文章の細部にまでこだわり、助詞や助動詞の妥協を許さず、形容詞などの修飾の言葉を過度につけないように気を配りながら執筆を続けた。
 弘隆は自作の中で、ひとつの真理を展開しようと試みていた。誰もが一度は考えた事があるような大きな問題。生と死。生とは死の始まりである。生と死は対極にあるものではなく、同根同義のものであるという論旨。それは屁理屈といわれてしまいそうなあやふやな意見であったが、弘隆の荘重な文章技術にかかると、それがあたかも正論であるかのような趣きを呈してくるのだから、文章とは奥が深いものである。
「生と死は対極にあるものではない。それはどういうことなの?」と咲子。
 午前中の執筆を終え、居間の椅子に身体を預けた弘隆は、妻に意見を求めようと、今回の自作の根幹たる部分を話して聞かせたのだった。
「死とは生の中に分かちがたく入り込んでいる灰色の薄被である。白と黒というきっぱりとした分け方をこそするべきだという人間は少なからずいるだろう。しかし、本当に生は白で、死は黒といえるのだろうか? その論に私は意見をはさみたい。我々を安息の彼方に誘ってくれる死という物は、嫌悪すべきものではなく、むしろ讃仰すべきものではあるまいか? 我々を虚無の中に住まわせるあの睡眠という周期的な活動。あの睡眠が誘う世界もまた死を彷彿させる、圧倒的虚無空間ではあるまいか? 人類が始まってからこれまで、まだ死の世界を克明に語れる人物が現れた事はない。あっても、みな推測で語る似而非論者でしかない。本当に観た者はいないのだから。そして、観てしまったが最後、決して戻ってくる事はできないのだから。私もまた数多の論者のように死を推測しよう。それは生の延長線上にあるものであって、生の中に死が、死の中に生が分かちがたく入り込んでいるのだろう。私はそう思う」
 弘隆が妻にそういうと、彼女は先程の言葉を返したのだ。
 弘隆はもう一歩踏み込んで説明することにした。
 弘隆が比喩を交えて妻に説明をしているうちに、昼の時間になり、温めなおしていた味噌汁が煮立ってしまったのに気づき、普段はしない失敗なのにといいながら咲子は慌てて食卓を立って、火を止めに走った。
 話はそれきりになってしまったが、弘隆の頭の中では、それから先の物語の筋が赫然と存在感を増していた。これを食べ終わったら、また執筆に戻るとしよう。妻に話すのは、作品をすべて書き終えてからでも遅くはない。これまでもそうしてきたんだから。弘隆は自身にそういいきかすと、沢庵を幾切れかとって茶碗によそわれた御飯を食べた。熱々に茹だった味噌汁は一気に飲み干す事はできなかったが、しかし、冷ましながら少しずつ飲み、すべてを平らげると、ごちそうさまをいって席を立った。
 自分の部屋に戻ってきた弘隆は朝に書いた部分を読み直し、いくつか修正を加えて、明日の推敲に備えることにした。弘隆の書き方はこうだった。はじめ、一日十二枚とノルマを決め、迷うことなく、その枚数の文章を書き上げる。次の日、いきなりその続きを書き始めるのではなく、前日に書いた文章を読み直して推敲するのである。その推敲は前日に自分が書いた文章の内容を頭にインプットしなおし、その日の執筆の助けにするという意味合いも含まれている。そしてその日も十二枚のノルマをこなし、その部分を次の日に推敲するといった具合。
 午前中には八枚しか書き上げていなかったから、あと四枚書こうと思い、弘隆はワープロのキーを叩き始めた。
 やがて時間は過ぎ、壁にかけてある音のしない柱時計は三時を回る。
 弘隆はノルマをこなし、いまは過去に自分が戯れに書いた数篇の詩を読み返していた。それはすでに過去となった昔のさまざまな印象を拙い言葉で掬い上げたもので、他人が読めばどうということのない雑詩だったが、弘隆には思い出深く、どの詩も宝石のように大切な代物だった。
 それは妻咲子と結婚する前、まだ学生時代だった頃に戯れに書いたものであった。
 ――そういえば、最近、詩なんてさっぱり書かなくなったな、と弘隆は思った。
 詩を書いていたのは、まだ小説を一篇もものしていない時期で、どんな言葉を使って文章を作ればいいのかということなど意識もしていなかった時期だった。それでも私小説については拒否反応を示していた弘隆の書く詩は、どうしても、哲学的な高遠な思想を裏書するようなものが多く、こうしていまの弘隆が眺めてみても、稚拙な論旨で書いていると思わずにはいられないものが多かった。

「美の中に潜む羞恥心には本質のきらめきがある。ただ美しいだけの存在は、本当の美とは異なる。爛熟したような、意識せずともあたりに自身の存在感をアピールするようなカリスマ的存在。異質の中にも美は存在する。しかし、ありきたりの美には人は見向きもしないものだ。やはりそこには背徳的な、禁忌の箱を開けるような、蟲惑的な魅力があってこそ、人びとの心を敲つのであろう」

「夜中、いてもたってもいられなくなって、目を醒ますことがある。自分はこんなところで安穏としていていいのだろうか? もっと切磋琢磨し、成長していかねば、とても世間とはかけ離れた実体を持たない幽霊のような存在になってしまうのではあるまいか? 私は身を焦がすような思いをぶちまける対象を持たない。ある人はこういうかもしれない。『それは思春期特有の病気のようなものさ』。しかし私は考える。これは私の本質ではあるまいかと」

 夕方、来客があった。
 普段はこの家に近寄りもしない地元住民たち数名。近所の男連中がこの家を訪れるのは本当に珍しいことだった。妻の咲子が玄関に出たのだったが、話が込み入っていて、旦那を出して欲しいといわれた咲子はその旨を夫に伝え、弘隆は少し怪訝そうに思いながら、玄関へ向かった。
 そこにはほんのときたま道などで見かける見知った顔が幾人かあった。残りは知らない顔だったが、どうやら寄り合いなどに参加している地元の若者たちであるらしく、よくいう地元を愛する者たちであろうということが推測された。
 弘隆は落ち着いて、彼らの話に耳を傾けた。彼らの話はこうだった。
「今度、この町で東証一部上場の大企業の工場を誘致しようという計画が持ち上がっている。私たちはそれに反対したく、いま垂れ幕やプラカードを用意しているところである。あなたは名の知れた文化人であるから、私たちの活動に参加してくれれば、これほど心強いものはない。どうだろう? 私たちと一緒にデモ行進をしてもらえないだろうか? そして声明文などを起草する手伝いをしてもらえまいか?」
 その話を聞いた弘隆は一気に不機嫌な顔になって、追従や盲従が得意そうな彼らの顔を順番に見回し、それから、ひとこと「断わる」といいきり、早く出て行けといわんばかりに一行を追い出しにかかった。弘隆の機嫌を損ねたことを知った一行は、ちょっと自分が名の知れた作家であるから、自分たちと肩をならべて活動する事が嫌なのだ、といい捨て、玄関から逃げるように去っていった。
 弘隆は塩でもまきたいというような苦りきった表情をして、しばらく玄関で握りこぶしを作りながら立っていた。
 その様子を察した咲子が夫を気遣う声をかける。
「あなた……どうしてそんなにはっきりと断わったの?」
「いいんだ、だいたい反対活動なんてものがまともであったためしなんてないんだ」
 弘隆は言外にいいしれぬ感情を籠めて、その言葉をいい切った。
 弘隆はつっかけを履くと玄関扉に鍵を締め、これ以上連中がなにかいってきても決してこの扉を開けないようにと咲子にいった。
 それから弘隆は渋い顔をしながら居間に戻ってきたのだったが、さきほどの連中の声で眠っていた真治が起きてしまったことを咲子からきくと、普段はそれほどしない抱っこをしてやり、顔を真治の瞳に近づけて、あやしてやった。
「やっぱり、子供はいいもんだな」と弘隆は夕食の準備をしている咲子に聴こえるように大きな声でいった。
 真治はその声の大きさにびっくりしたのか、目をきょとんとさせて、次の瞬間、針で刺されたかのように大きな声で泣きはじめ、弘隆は面食らってしまった。
 キッチンから咲子が飛んできて、弘隆の腕から真治を受けとると、母親らしい優しい声で真治をあやしながら、しばらくそのまま抱いてやり、落ち着いたところで揺り籠に戻してやった。
「お父さんは駄目ですねー」咲子は笑いながら、真治の頬っぺたを人差し指でつんつんと突っつく。
「あーあ、どうせ私は駄目な父親ですよ」弘隆は拗ねたような口調でそういうと、書斎に戻って作業の続きに取り掛かるのだった。


7 :蒼幻 :2008/05/01(木) 20:48:53 ID:nmz3zmrc



第六章 久々の帰郷


 弘隆の家でも門松を立てたり、注連縄を玄関の上部に飾ったりして、諸事万端整えた新年がやってきた。大晦日の夜の国民的恒例行事となっている紅白歌合戦の視聴はしなかったものの、世間の雰囲気が自然と新たな気配を醸すようになるのが新年の特徴であり、また、それが人間の営みにかかるひとつの波であるかのようにも思われるのだった。
 弘隆はあいも変わらず、小説に打ち込んでいた。大晦日であれ、元日であれ、一日のノルマをきっちりとこなし、お屠蘇を食べている時だって、今書いている箇所のプロットを頭の中で何度も反芻し、妻の会話も半分くらいしか聞かないでいた。
「ねえ、弘隆さん。実家に帰る件、どうするの?」
 何度か眼ばたきしたあとで、妻が問いかけの答えを求めていることに気づき、もう一度、その問いかけを繰り返してくれるように頼んだ。
「だから、お義父さまに去年の年末、家族全員で帰るっていってたでしょう。早ければ大晦日にっていう話だったけど、あなたが仕事をきっちりこなしたいから大晦日は無理っていって、それなら年が明けてからにしようっていう話だったじゃない……」
「ああ、そうだったな」弘隆は気のない返事を返す。「明日にでも帰るとするか。二日か三日くらい滞在して戻ってこよう。そういえば、真治の顔を観るのも初めてだしな。でも、初孫だから、きっと猫かわいがりするんだろうな」
 弘隆には兄が一人いて、既に結婚もしていたのだが、その相手との間に子供はなく、弘隆の両親にとっての初孫は、この真治だった。初孫は目にいれても痛くないというのが相場だったから、弘隆はきっと父母がとても喜んでくれるだろうという思いを抱いていた。
 それから夕方まではずっと帰郷のための荷物整理が続き、弘隆も午後の執筆を中断して、それを手伝った。なんとか荷物が纏まったのは、窓の外がとっぷりと暮れた夜七時だった。
 普段からテレビを観ない弘隆の家では、新年とはいえ、それを匂わせるのは昨日の晩にせっせと咲子が作ったおせち料理と、たっぷり十日分はあると思われる丸餅。その二つくらいだった。しかし、変化のない生活というのも、考えてみれば、ありきたりではあるけれど、とてもかけがえのない貴重なものだとの考え方も通用するのだった。
 そして、一ヶ月ほど前に弘隆の元を訪れた反対デモの住民たちだが、そのデモが不発に終わって――デモ行進自体は実際に行なったらしいのだが――町の工場誘致の計画が進められつつあるということを風の噂で聞いたのだった。弘隆はさもありなんという思いを強くした。もともと工場誘致のときに裏金が動いていたのだろう。そういう利権や企業との爛れた関係というのはどこにでも見受けられるものであり、今回の話もその例に漏れずそのような裏金が動いていたのだろうという想像は誤りではないと思われるのだった。
 弘隆は咲子と真治を実家のある滋賀に連れて行くのは久しぶりだと思い、咲子にしたって、去年のお盆にも帰らなかったから、もう一年半ぶりくらいだと弘隆は思い出すのだった。
 滋賀は辛うじて関西圏であり、地元では関西弁が喋られているのだが、学生時代からずっと東京に住んでいる弘隆は、もうほとんど関西弁を喋らなくなっていた。もともと関西弁に対していい印象を持っていなかったから、こちらに来てから標準語を喋るようになったのは、自然の成り行きというものだった。というのも、関西の人間は日本のどこへ行こうとも、その地元の言葉に順応しないことで有名だったから、弘隆の転身は関西人には珍しいものだった。
 一方の咲子の出身は新潟県。弘隆と出逢ったのは学生時代のときで、弘隆がすでに大学を卒業して社会人として働き始めた時期に遡る。弘隆と咲子は四歳の年の差があったが、弘隆がかなり柔軟な考え方をしているのと、咲子が年下にしては同年代の者たちよりも落ち着いていたことで、二人の相性は良かったのだった。
 付き合い始めた頃は本当に寸暇を惜しんで相手のことを思いやっていた二人だったが、弘隆にとってそれが煩わしいと感じられたことは一度もなく、二人は地道に互いの信頼を構築していき、互いの身が自分の身よりも大切と感じるまでになったのだった。
 弘隆は明日の実家への出発に向けて、荷物の整理を行なうことにした。実家にいる間は執筆は中断しようと思い、結局、ワープロは荷物に入れないことにした。しかし、職業病ともいえる執筆癖を止めることはできず、メモ帳としての使用に耐えうるように、バインダーに数十枚のルーズリーフをはさんでそれを荷物の中に詰め込んだ。
「もう荷物整理は出来たかしら?」居間に荷物を持って入って来た弘隆に向かって、咲子が尋ねる。
「そういうお前はもう出来たのか?」と弘隆。
「そうね、もう持っていく物はあらかた整理できてるのよ。二日か、長くても三日でしょ? そんなに荷物いらないものね。それより真治のミルクとかオムツとかが嵩張るのよね。どうしたらすっきりするかしら? 真治に我慢しろっていったって、無理な話だし……。んー、ほんとどうしようかしら?」
 咲子は腰に手を当てて、一度、ぴんと背筋を伸ばしてから、また話しかけた。
「あなたの地元へ帰るのは三度目ね。結婚式のときに顔を見せたのを除けば、その三回しか、お義父さんとお義母さんに会ってないことになるのよね。ちょっと薄情だったかしら? でも、関東と関西では距離がありすぎて、おいそれと会いにいくわけにもいかないわよね」咲子は肩をすくめて、続けた。「それにしても、郁子ちゃんに会えるのは楽しみだわ。郁子ちゃんは義理の妹になったけど、どうも、他人という気がしないのよね。明るくて優しくて聡明で……。私は妹がいなかったから、どうしても、年下の女の子と知り合うと、妹って感じで見ちゃうのよね。それはいけないことかしら?」
「いや、いけないことだとは思わないけど……。でも、それは相手次第なんじゃないかな?」弘隆は間延びしたような声でそう返答し、妻の反応を窺うように、彼女の瞳を数度見返し、次の言葉を待った。
 音楽の流れていない今の時間、部屋に物音は皆無だった。あまりに静かなので、もう少ししたら真治の寝息が聞こえそうなほどに思われるのだったが、弘隆は外の雪が屋根から落ちる音を聴いて、温かい部屋の中とは対照的な、凍えそうな外の空気を想像して、背筋をびくびくっと顫わせた。
 同じく、外の音に気を逸らされた咲子はまるで蹴つまづいたときのように、次の行動を忘れてしまったという表情をした後、思い出したように次の言葉をついだ。
「郁子ちゃんは今年受験生になるのよね?」
「そうそう、いま十七でね、高校二年生だよ」
「私とは十歳も違うのね……」
「干支がひと巡りしそうだな」
「ほんと、そんな感じね……。でも、私の意識の中では大学に行っていた二十一、二の頃からいままで、そう、真治がおなかの中にいるってわかった頃までは同じ感覚で毎日を過ごしてたような気がするわ。それって進歩がないってことなのかも知れないけど、概して人生って決まったことの繰り返しであるような気もするのよね。そんな感覚はわかってくれるかしら?」咲子は同意を求めるように、夫に向かって真摯な眼差しを向けた。
「うん、わかるような気がするよ。もう三十年も生きてたら、自然と世の中の仕組みってものに共通する概念がわかってくるよ。要するにね、人は自分の意思、信念という物をもって生きているけど、それって悪い意味で言えば、エゴってものだろうね。そのこだわりが人生を豊かにするのかもしれないけど、人の営みってものは、考えてみれば、壮大であるわけだけど、その壮大なものも、細部にわたって点検していけば、同じことの積み重ねであることが多いと思うんだ。だってそうだろう? 毎日八時間ほど会社に行き、御飯を食べて、幾許かの空き時間をプライベートなものとして享受する。そして眠って出勤。学生は仕事が勉強に換わるだけだし、あとは友人との遊興に時間を費やすくらいか? そういうものは、総じて最大公約数的な外観を呈している気がするよ。二十を過ぎれば、二十五になろうと、三十になろうと、その営みが急激に変化する事はあまりないんじゃないかな? 失業や転職や出産といったこともそれ自体は大きな出来事だけど、落ち着いて考えてみれば、かなりの人間が同じことを経験しているわけだから、それも、最大公約数の範疇に入っていると見ねばならないだろうし」
 咲子はその意見に同意するというように、弘隆の言葉にうんうんと何度も頷くのだった。
「でも、このまま、三十、四十、五十っていう風に、齢をとっていくのかしら?」
「大多数の人間はそうだね。多少、趣味の変更などはあるかもしれないけど……」
 弘隆は肩をすくめてみせ、それから一度深呼吸して気持ちを落ち着けると、また語りだした。
「私も作家としてもう何年も執筆を続けてきているけど、劇的な変化という物はいつの日か訪れるというものではなくて、こうだと思い切った日時に訪れるものだと思うようになってね。それから、熟練した腕で小説を書くということの難しさ、これに尽きるよ。執筆なんて、振り返ってみれば、自分の未熟さを思い知る地獄の業のようなものだと思うんだよ。そう、あの死後の童子たちが三途の河原で無意味に積む石ころのようなもので、できたと思ったら崩され、また作っても自分で崩し……そんなことを繰り返して、時間だけが無駄に過ぎていく。その石ころを崩す存在が魔というもので、書き手はこの魔と真っ向勝負をしないことには、一流の作品を書き上げることはできないというわけだ。私も自分の過去の作品を読み返すと、拙い筆で書いたと思われる箇所がいくらでも見つかる。読者はそれを見て怒らないんだろうかと、いつも不思議で仕方ないのだが、本として一度刊行されてしまえば、不備も作家の色と見做されて、それほどお咎めを受けることもないわけで……。その辺りがよく理解できない、受け入れ難い点だね。……っと話が逸れたな。で、劇的な変化は自分の心根次第で如何様にも変えられると思うんだ。普通の人にその意識が欠如しているだけでね」
「なるほどね……。でも、まあ、真治を生んだことによって、生活は変化しつつあるっていう実感は持ってるのよね。あとは趣味の問題かしら?」
 咲子と弘隆はその後もいろいろと話していたが、二人の表情には堅苦しいところがまるでなく、打ち解けた様子で眠るまでの時間を過ごすのだった。


8 :蒼幻 :2008/05/03(土) 17:20:55 ID:nmz3zmrc



第七章 悪友との再会


 普段喧騒というものから無関係な生活を送っていた弘隆の家族は、新大阪行きの新幹線のなかで、ゆったりとした座席に腰を落ち着けながら、外の風景を観るともなく眺め、ときどき、言葉を掛けあいながら、単調な時間の過ぎるのを待っていた。
 早めに起きて朝からそわそわしていた弘隆は新幹線にのってからも、その状態を維持し続け、しだいに手持ち無沙汰になったらしく、横浜を過ぎた辺りでカバンの中からバインダーを取り出し、普段あまり使うことのない万年筆を持って、思いつくことなどを走り書きしていくのだった。いつもとことなる環境の中で作る文章は不思議と周りの雰囲気に触発されて、孤独な書斎の中で作る文章とは自然と様相が異なってくる。
「たまにはこういう雰囲気にもまれるのもいいかもしれないな」弘隆はあっけらかんと口調で向かいに座る妻に告げる。
 咲子は新幹線の揺れる心地よさに熟睡している真治を抱きかかえながら、夫の言葉に耳を傾けていた。「そうね、普段、人の居ないところで生活しているもんだから、こんなに人がいるんだということを意識するいい機会かもしれないわね。どうしても、家の中だけだと、限られた人としか会えないものだから、視野が狭くなりがちだしね」
「でも、こうも考えられるだろう。つまり、いつも人と会わない孤独な生活をしているからこそ、沢山の人が乗り込んでいる新幹線の中で、今日のような感動が得られているんだと」
 弘隆は嬉そうにそういうと、窓の外に見えてきた富士の山を眺めるのだった。
「うーん、やっぱり富士山は凄いな。迫力があるし、堂々としている。ヒマラヤの辺りの高峰とは異なって、富士山はそれだけで山地を形成しているから、稜線が綺麗だしね。私は山の中では富士山が一番好きだよ。二番目は伊吹山かな」
「伊吹山?」と咲子。
「地元の山だよ。冬になるとスキーとかが出来る千メートルほどの山でね……なんでも、元禄期なんかの俳句の題材になったこともある山なんだ」
「へぇ〜」
 やがて弘隆と咲子は口数も少なくなり、米原までの残りの時間を睡眠に充てることにした。幸い真治が起き出すことはなく、そろそろ滋賀に入るというところで咲子が目を覚まし、「まもなく米原」というアナウンスが流れてきたところで、夫を起こしにかかった。それで起き出した弘隆は咲子の分の荷物まで持って米原に停車しようとする新幹線の扉の前まで歩いていった。
 米原駅で降りたのはごく僅かな人数だった。駅の構内はなかなか古く、観る物も少なくて、いかにも田舎の駅という趣きだったが、弘隆と咲子は新幹線の改札を出ると、在来線のホームに降りた。
 そこに止まっている網干行きの普通列車に乗り込む。座席は空いていて、難なく座ることができた。十分ほど待っているとアナウンスが流れて扉が閉まり、電車が動き出した。「彦根、南彦根、河瀬、能登川、近江八幡〜、に止まります」というアナウンスが流れる。目的地は彦根で、一駅だった。時間にして五、六分。新幹線に揺られていた時間に較べれば本当に微々たるものだった。見なれた景色が窓の外に眺められるのを感慨深そうに見つめる弘隆は、いよいよ地元に戻ってきたのだという気持ちを膨らませるのだった。
 彦根駅に着くと、弘隆は駅の階段を降りてすぐのところにあるタクシー乗り場でタクシーを拾い、運転手に行き先を告げる。
 運転手は咲子の腕に抱かれたまだ生まれてから三月ほどしか経っていない真治の姿を見て、嫌な顔をするどころか、穏やかな笑顔を見せて、「かわいいですね、そのお子さん」と夫婦に告げた。
「実は、私のところも一歳になる子供がいてね……そりゃ、生まれたときは珠でも扱うような可愛がりようだったんですよ、いや、なにね、妻が後から私にそういったんです。私は普段と変わらないように接しているつもりだったんですがね……」
「ふふ……我が子ってそういうものかもしれませんね」咲子が花のように微笑みながらそういった。
 タクシーの中で歓談しているうちに、弘隆は自分の実家のある町に入ったことに気付いた。ここまでくれば、もう実家は一息だ。
 滋賀県といえば、人口は少なくて、見るべきものといえば、琵琶湖くらいしかないと相場は決まっているのだが、細かに見ていけば、いろいろと古跡や建築物、風景などがあることに気付かされる。弘隆の実家もそのような場所に位置していて、都会や弘隆のいまの家があるような地区ではとても求められないようなものがここには存在している。
 タクシーは目的地に到着した。咲子が「正月だというのに大変ですね」というと、タクシーの運転手は「なに、家に居てもすることなんて無いんだから、働いて稼いだほうがなんぼか楽ってもんですよ」といい、弘隆がおつりを渡すと早々に去っていった。
 無駄に広い庭を抜けると、玄関が見えてきた。扉の脇にある呼び鈴を鳴らす。
 待っている間に弘隆は生まれてからの十数年を過ごした家をまじまじと眺めた。ところどころ壁などに雨で出来た汚点があって、屋根は少したゆんでいる。それでもがっしりとした昔造りの家だから、あと十年は平気で持ちこたえそうだ。二階の窓は網戸になっていて、この寒いのに開けっ放しになっている理由が思い浮かばなかった。
 弘隆は玄関扉をがらがらっと開ける。丁度、居間の方から来客を迎えにきた弘隆の母親の静香が出てくるのと同時だった。
「ああ、帰ってきたんやね、おかえり」静香は前に見たときよりも数本増えた目じりのしわをきゅっと結びながら、息子とその嫁に微笑みかける。「よう、帰ってきた帰ってきた、さあ、おあがり。寒かったやろう?」そして、咲子が抱いている真治に目を留めると、「あ、こっちが真治やね、会えるのを楽しみにしとったんよ」といって、また微笑んだ。「お父さんも郁子もいるから、仲良くね」静香は少し声のトーンを落としてそういった。
 それからはまるで雪崩れのようだった。
 居間に入ると、まず父の歓待があり、掛けつけ一杯といわれて、山田錦を振舞われた。飲めないほうではない弘隆は、それを一気に飲み干すと、父の琢磨はまたなみなみと酒をそそいだ。
「咲子さん、弘隆はどんな感じや?」もう六十になろうかという琢磨は、弘隆たちが到着する随分前から飲んでいたらしく、できあがった赤ら顔をさらに上気させながら、息子の嫁に問い掛けた。
 咲子は少し緊張しながらも、しっかりとした口調で告げた。「一家の長として、申し分ない働きをしてくれてますよ」
「そうか……それはよかった」琢磨はその思いをしみじみと思い返すふうにしながら、何度も首を振って、その咲子の言葉を頭の中で反芻しているように見えた。
 弘隆の父琢磨は、咲子に頼んで、真治を抱かせてもらうことにした。
 真治を抱いた琢磨は満悦の態で、初孫と言うのは本当に可愛いものだと自分でいいながら、何度も真治の顔を覗き込むのだった。
 弘隆はしばらくその様子を眺めていたが、やがて階段を降りる音がして、それが妹の郁子のものだということを悟り、心に軽やかな気持ちが舞い上がるのを感じていた。
 果たして、今年受験生になる郁子が居間に姿を現した。
「咲子さん、いらっしゃい、兄さんも久しぶり」そのいい方はまるで弘隆が余分で、咲子こそを楽しみにしていたかのごとくであったが、それが郁子と咲子という義理の姉妹の友情にも似た関係から来る者だと知っていた弘隆は、心にわだかまりを持つことはなかった。
「ちょっと出てくる」そういうと、弘隆は玄関に向かい、つっかけを履くと、家から出ていった。
 弘隆は勝手知ったる地元ということで、近くの川まで行ってみることにした。そこはかなり広い河川敷があって、子供の頃、学校帰りや、なにか嫌なことがあったときや、ジョギングで疲れたときなんかにボーっと据って時間を過ごした思い出の場所だった。しかし――。
「あっ」思わず、弘隆は声をあげてしまった。
 河川敷は手入れを怠ったらしく、何度かの洪水のために赤茶色い土砂に覆われていて、その上に雑草がこれでもかというくらいに繁茂している。その光景を見た弘隆は、心の奥底で、なにかガラスめいたものがぱりんと音を立てて壊れるような思いを受けたのだった。
 ――どうして……。弘隆がいいえぬ思いを心の中にわだかまらせていた恰度、そのとき、背後から声が掛かった。
「加納? あんた、加納とちゃうんか?」
 後ろを振り返ると、そこに居たのはかつての級友伊藤修司だった。


9 :蒼幻 :2008/05/10(土) 21:06:51 ID:nmz3zmrc

第八章 高校生


「まぁ、あれや……懐かしいな、この前会ったんは、もう十年以上前やもんな……」こなれた口調で伊藤修司は嬉しそうに話しかけてくる。
 しかし弘隆は、この伊藤修司という男に親しく話しかけられる覚えがなかった。確かに、高校生のときに同じクラスに伊藤修司という男がいたことは憶えているのだが。
 目の前の男は、屈託のない笑みを浮かべながら――いや、心のどこかに一物ありそうな表情と観ることもできたのだが――気安く話しかけてくる。
「うん? なんか俺に話しかけられるのが意外そうな顔つきだな?」
 弘隆はどう返答したものか、困ってしまった。
 意外といえば意外だったが、この十数年の空白が二人の間の壁を取り払ってくれたともいえるし、こうして予期せず出会えたことが、お互いの気分の高揚を齎しているのかもしれない。弘隆も心の片隅では火をともされたような不思議な気分の高揚を感じていたのだった。
「そうだな……久しぶりだな」弘隆はやっとそれだけいった。
「高校を卒業してから加納は東京の大学にいったんやったな」
 弘隆はそれを聞いて、どう返答したものかとしばし悩んだ。
「それで、いまは何しとるんや?」伊藤は興味津々といった感じで話しかけてくる。
 弘隆は迷ったが、素直に応えることにした。「一応、物書きをやってる」
 伊藤は思いがけない答えに一瞬唖然とし、それから気を取りなおして、自分の記憶の糸を手繰っているかのように見えた。
「加納弘隆――加納弘隆……」
 弘隆は何もいわず、相手の次の反応を待った。
「うん? なんかその名前知ってるな……けっこう、有名なんじゃないか?」伊藤は声を張り上げていった。
「ああ、それなりに本も出しているからな、名前だけは世間に糜爛しているよ」
 伊藤はとってつけたような笑みを口元に浮かべてなめるように弘隆を観た。それから無言の時間が少し続いたのだったが、弘隆にはそれがなにか不気味な、この伊藤がなにか良からぬことを自分に強いようとするのではないかという気持ちが大きくなってくることに気付いた。
「なあ、加納。萱野文彦って憶えてるか?」
 弘隆は突然出てきた名前に対して、記憶を手繰ってみた。そうして、高校のときの同級に、この伊藤と同じく、確かに、萱野文彦という名前があったことを思い出した。確かに、この伊藤にせよ、萱野にせよ、それほど親しいと言う間柄ではなかったのだが……。「ああ、憶えてるよ」
「そうか……」
「萱野文彦がどうしたんだ?」
 弘隆は怪訝そうに声を振るわせながら訊ねかけた。
「実は、半年ほど前に自殺したんだ」
「えっ?」
「飛び降りだったらしい。勤めていた会社のビルの屋上から飛び降りた。俺達同窓生の中で初めての死者かもしれんな」伊藤の口ぶりはその悲愴な内容に反して、多分に野次馬的興味に彩られているように弘隆には思われた。
 さらに、伊藤は話を続ける。その話の要旨はこうだった。
 萱野文彦は高校を卒業後、瀬戸内のほうの国立大学の理系学部にはいって、学生時代になかなか素晴らしい研究をし、それが教授連に評価されて大学に残らないかとの声もかけられていた。しかし、萱野文彦はその申し出を受け入れることなく、大手企業に研究員として就職の口を見つけた。だが、そこでは人間関係がうまく行かず、やめて実家のあるこの滋賀県に戻ってきたのだそうだ。
 そして、地元で働き出したのだが、どうも、思い通りの職に就くことができず、毎日、過去の探求心に満ち溢れていた学生時代を思い返していたらしい。そしてこの世に嫌気がさして、飛び降りたということだそうだ。
 話に寄れば、この萱野の状況は、伊藤が仲良くしている友人の中に、萱野と親友だという人間が居て、萱野が飛び降りた後にその仲の良い友人と話す機会があり、詳細を知ったのだという。弘隆は落ちついてその言葉に耳を傾けていた。
「まあ、あれだ。人間、死んじまえばそれでおしまいってこった。死なずにしぶとく生き残った人間だけが、この世の楽しみを享受できるってもんでね」弘隆にはこの伊藤の言葉が死者を冒涜するもののように思われ、少し心にわだかまりが生じるのを感じていた。
 伊藤はそれからも自分がいまどういう会社に勤めているのか、仕事はいかに順調にはかどっているか、そのようなことをとうとうとまくし立てた。
 話を聞いているうちに、弘隆はなぜ自分がこの男を高校生時代に倦厭していたのかを思い出していた。
 理由は複雑だったが、確かにこのように感じていた、と弘隆は思い出す。
 この伊藤はルックスもかなり良くて、異性からもかなり人気があった。性格も明るくて、忌憚がないように見えて爽やかだったから、同性からも人気があって、いつも輪の中心にいるような存在だった。高校の頃の弘隆はいつも心に未解決の問題を抱えていて、休み時間といえば、同級生との会話よりも、読書に費やすような、完全な根暗体質だったから、高校二年、三年と同級だったこの伊藤とも話す機会などまったく訪れなかった。世間を斜に見る青年になりつつあった弘隆は、この明るい太陽のような存在の伊藤を横目に観ながら、いつも目の前の本に熱中するのだった。そこには、伊藤はいけすかない人間だという非難の気持ちなどはまったくなかったが、それよりも酷い、まったく自分とは無関係の人間だから、鼻から相手にしないでおこうという気持ちが強く働いたのであった。
 伊藤に対しては倦厭というよりも、悪意なき無関心を決め込んでいた、というほうが正しいだろう。
 その弘隆が学生時代をへて、作家としてデビューする頃には、同じ作家連、編集者連との関係を良好に保てるだけの人物になったのだから、大学時代になにがあったのか、それが興味の対象となるには違いない。それはまた追って話すことになるだろう。
「確かに過去は甘美な匂いがする者かもしれないな。でも、俺達の学生時代って、なにかと社会情勢も不安定な時期で、いろいろと不安もあったよな。いまでもその気風は残っていて、完全に改善されたと言うわけではないけど、ある程度は解消されたんじゃないか、と思っている。なにせ、いまは高度経済成長時代ってやつなんだ。だれもが資本主義というものの恩恵を受けられるようになってきた。萱野だって、初めの会社に留まって研究していれば、今ごろは金も地位も名誉も得られただろうに……。ま、人生はなにが起こるか分からないということだな……。一寸先は闇。ま、だからこそ、人生は楽しいのかもしれんがね」
「でも、自殺するってことは、そうとう追い詰められていたってことじゃないか? 何もないのに自殺するってことはないよ」
「いや、人は簡単に死ねるもんさ。思いこんだら一直線ってやつでね。ほら、俺達の周りにも、死への深淵はいつも口を開いてまっているんだから」そういうと、伊藤は目の前の川の流れの中の急湍になっているところを指差しながらいった。「ああいうものをずっと眺めていると、自分はどうして生きているんだろうとか、死ねばいまよりももっと楽になれるんだろうか? とか思うようになってくるんだって。加納はそういう経験はないかい?」
 弘隆は何度か、その水面に渦巻く急湍に目をやったが、伊藤のいうような死の深淵を近くに感じることはなかった。
「そんな風には私は考えないな……」弘隆は言葉すくなに伊藤に告げる。
「ま、人それぞれさ。それにしても、加納が東京の大学にいくことになったとき、同級生達はみんな驚いてたんだぜ」
「うん?」弘隆は伊藤が何をいおうとしているのかわからなかった。
「加納って、いつも学校の休み時間に机に座って本を読んでいるイメージしかなかったけど、そのエリート的な趣味のおかげで、加納のことを気に掛けている女の子が何人かいたんだぜ」
 弘隆は少し驚いた。そんな物好きな人間が居たなんて……。
「ま、清水澪もその一人だったんだがな」
「清水澪!」弘隆は思わず叫んだ。
 清水澪といえば、弘隆が高校生の頃、密かに憧れていた女の子だった。男子から人気があったが、その人気が互いの抜け駆けを許さない空気にかわり、誰も清水澪に告白しようとはしなかったのである。清水澪のほうも、誰が好きなのか態度にほとんど表さなかったから、そういう男女の関係には無関心なのだという風評がたち、その風評がますます彼女を高嶺の花にしてしまったのであった。
 ――その清水澪が自分を好きだった? 弘隆は戸惑った。そしてややあって立ち直る。
「まあ、いまは妻も子もいる身だ。そんな昔のことはいい思い出だ」
 弘隆はそういうと、肩をすくめた。
 伊藤は続ける。
「ま、いまの一瞬の間に、何を考えたかは訊かないでおいてやろう。それで妻と子がおるんやって?」
「いま一緒に実家に戻ってきてるんだ。子供はまだ三箇月でね」
「へぇ……三箇月か、慣れないことばっかで大変やろ」
「いや、妻が万事、うまくやってくれてるんでね」
「そうか、でも、少しは家事も手伝ってやれや」
「そうだな」
「じゃ、俺はこれでいくわ、あ、これ住所と電話番号。なにかあったら、また電話でもしてや」
 そういって、懐から名刺を取り出すと、弘隆に渡した。
 そして、今更ながら、伊藤が正月にもかかわらず、スーツ姿だったことに思い当たった。


10 :蒼幻 :2008/05/10(土) 21:08:00 ID:nmz3zmrc

第九章 兄弟姉妹


 家に戻った弘隆が居間に入ると、咲子が真治を抱いて、ミルクを与えているところだった。
 父の琢磨と母の静香、そして妹の郁子はその様子を眺めながら、表情を和らげていた。
「ねえ、弘兄」郁子が口を開く。
 見れば、郁子は乳色のセーターにグレーのプリーツスカートを合わせている。スカートは女の子の特権だ、と思いながら弘隆は微笑んだ。
「どうしたんだ、郁子?」十以上も歳の離れた妹に弘隆は訊ねかける。
「あのさ、この前刊行された本のことなんやけど……」郁子はおそるおそる訊ねかける。
「うん? 『狂骨の翼』か? それとも、『春陽』か?」
「ちゃうちゃう。随筆集のほうよ」
「ああ、『道程』か……。それがどうかしたのか?」
「あの中で出てくる高校時代の憧れの人って、誰のことなん」郁子は興味津々といった面持ちで訊ねてくる。
 また清水澪のことを話さなければならないのかと思うと、ちょっとうんざりした気分になるのを否めなかった。
「私も聞きたいわ、興味あるのよ」横合いから咲子が口を出してくる。当然、咲子は『道程』も読んでいたのだったが、そのときにはいい出せなかったらしく、この機会に詳細を聞きたいと思っているのであった。
「過去の話だよ」弘隆はなんとかいい逃れようとするが、二人の視線にあてられて、どうすることもできない。
 弘隆はどうにもならず、高校の頃に遠目に見るだけだった高嶺の花の話を二人に聞かせた。
「へぇ〜、弘兄でもそんな話があったんやね?」郁子は嬉しそうに声を高めた。
「そういう郁子はどうなんだ?」弘隆は先ほどの応酬とばかりに、妹に訊ねかけた。
 郁子は困ったような表情をしながら、「まあ、ぼちぼちよ」といって言葉を濁した。
 しばらく郁子の高校生活のことが話題になり、それが一段落つくと、今度はもうひとりの兄――弘隆とは二歳離れている兼兄の話になった。本名、加納兼一、今年三十三で、結婚は随分と前にしているのだったが、その妻との間に子供はなく、実家で親と同居している。正月だというのに仕事に出ているのは、彼の職場がデパートの一店舗であり、正月とはいえ店を開けねばならず、従業員は休日を返上して出勤することが毎年の慣例となっているのだった。
 いまその兼一の妻はこの家の近くにある自分の実家に戻っていた。夕方には帰ってくるとのことだったから、もうあと一時間ほどだろうか?
 その一時間を郁子がつけて観はじめたテレビ鑑賞にあてた一同は、元旦というめでたい気分だけで盛り上がっている芸人たちの出る漫才番組を見ることで、自分たちもまたこの一九七七年の元旦に生を享けているのだとの意識を新たにするのだった。
「ねえ、弘兄」また郁子が訊ねてくる。
「なんだ?」と弘隆。
「いったい、なんで弘兄と兼兄はあんまり仲良う出来んの?」
 それは郁子がそう思っても仕方のない事情があった。弘隆と兼一とは、目を合わせればいつも反目しあうというのが常だったから。とはいっても、弘隆が高校生の頃はそうではなかったのだ。丁度、大学に行き始めてから、その傾向が顕著になったのだった。
 表だって口論するというわけではないのだが、どうしても兼一の方が弘隆に冷たく当たる事が多く、自然と弘隆も兼一と接することが少なくなり、二人の間は冷え切っていくばかりなのだった。
「まあ、いろいろあるんだろうよ」と弘隆はなかば投げ遣りにいった。
「いろいろあるんは、どっちのほうなん?」郁子は意地悪っぽい笑みを浮かべながらそういう。
「そうはいったって、私の方は仲良くしたいという気持ちがあるんだよ。原因があるとすれば、兼兄のほうじゃないのか?」弘隆は語尾を上げてそういった。
「はいはい、そういうことにしとこ」郁子はそういうと、立ちあがって。スカートの襞を直すと、台所に立つ静香のほうへ向かった。
 しばらくすると、玄関の方で人が入ってくる気配がして、「ただいまー」という声と共に、兄嫁の神奈が入ってきた。歳は二十八歳、兼一より五歳、弘隆より三歳年下だった。咲子と歳が近いこともあって、この神奈と咲子はなかなか良好な関係を保っていた。
 しかし、その神奈も、夫から何を吹きこまれているのか、弘隆には一歩距離を置いて接するのが常だったのだが……。
「なんだか不思議な感じなのよね……」開口一番、もう外見も所帯じみてきた神奈がいった。
「なんのこと?」と要領を得ないいい方に咲子が訊ねかける。
「この家のことよ。普通なら、実家に帰ったらリラックスできて落ち着くといいたいところなのに。実家に帰っても気を使いっぱなしで、気の休まるときがなくって。こういうと身内の恥を晒すようで羞ずかしいんだけど、どうも、うちは家族の中がぎすぎすしていて、思いやりに欠けるというか……まぁ、家族内が険悪なのよね。それに比べるとこの家は家庭円満で、文句のつけようがないくらい。まぁ、兼一さんが気分の優れないときはその限りじゃないけど、お義父さん、お義母さんがなかなか人情味豊かな方だから、こんな風に感じるのでしょうね」神奈は本当に感謝しているというふうに、日本酒から芋焼酎にかえて飲んでいる琢磨に向かってにっこりと微笑んだ。
 弘隆はこの神奈という見た目にはどこにも不備の見られない女性に苦手意識を持っていたために、その父に向かって微笑みかける表情一つとってみても、どこか裏があるんじゃないかと疑いたくなる気持ちを心のどこかにわだかまらせていた。もっとも、神奈自身がそんなに裏表のある人間のようには思えないのだが、この自分と接するときだけは心の裏面であざ笑っているかのような、兄と結託して自分を貶めようとしているような雰囲気を感じることが多々あるのだった。
 しかし、この帰省期間中だけはなんとか良好な関係を保てるようにしたいとも、弘隆は考えているのだった。
 静香が夕食の準備をしている音が台所の方からしているのだったが、咲子、郁子はテレビを観ながら自分の知っている芸能人の噂話を交換しあったり、琢磨と世間話をしながら日が暮れるまでの時間を過ごしていた。
 兄の兼一が帰ってきたのは、午後六時半頃、外はとっぷりと暮れてしまった後だった。
 その時には、弘隆は自分のバインダーを取りだして、思いつくままに万年筆でメモを取っている最中だった。
 玄関が開き、「ただいま」と聞き覚えのある兄の声がして、やがて、兄が居間に入ってきた。
「おう、来てたのか?」と兼一は戸を開けながらいう。彼は紺のスーツ姿でネクタイはもう緩めていた。
 兼一はストーブの入った暖かい部屋の熱気にメガネを曇らされてしまい、それを外して、内ポケットから出したハンカチで軽くぬぐって掛けなおした。
「何してるんだ、弘隆?」兼一はいくつかの言葉が走り書きされたルーズリーフを見つめていった。しかし兼一は冷たい血の通わない人間であるかのごとく、無表情を保ったままだ。
「ああ、ちょっと今書いている小説の構想を膨らませたくて、いろいろ思案していたところだよ」弘隆は無難にそうまとめた。
「ふん、いい身分だな」兼一は口元だけを歪めて、冷酷そうに嗤った。「文章をこねくり回すだけで金を得ているんだからな。もっと実務的な仕事に身を投じるべきだよ。いまではなかなか知名度も上がってきて、本もそこそこ売れているんだろう? でも、だからといって、お前の書いている小説が最上の物とはいえないだろうさ。俺はそれほどお前の小説を読んだわけじゃないけど、どうだ? お前にドストエフスキーと比肩できるほどの実力があるのか? 漱石は? 龍之介は? それくらいの作品を書けるようになってから、一人前面するんだな。お前はまだまだ未熟者だ。世間の荒波にもまれていない、温室育ちというやつだ」
 兼一の言葉は辛辣だった。しかし、兼一とは顔を合わせればいつもこのような言葉を投げ掛けられていたものだから、弘隆はもう慣れていた。
「兼一兄さん、仕事の方はどうだい?」弘隆は話頭を転じようと、兼一のしゃべりやすいふうに質問してやった。
「どうもこうもない、正月から仕事なんて、どうかしてるよ。新年はやっぱり家で過ごしたいじゃないか……。これでは一年の計も立てる前に来年になってしまいそうだ」兼一は不機嫌そうにそういった。
 弘隆はここからどう言葉を継いだものかと思案していたが、横から郁子が口を挟んだ。
「兼兄は口ではこういってるけど、実際、弘兄の小説とか随筆とか、結構、読んでるわよ」
 それは弘隆にとって意外な言葉だった。
 ――まるで自分を不倶戴天の敵とでもいうように言葉を投げてくる兄が、自分の小説を読んでくれている? それはどういう心境の変化だろう?
「郁子! 余計なことを」兼一は一瞬、怒りをあらわにした口調できびしくいった。
「へぇ、兼兄、読んでくれてるんだ? で、どうだった?」
 兼一は口元を引き結んで、じっと押し黙った。
 しばらくそうして時間が過ぎ去ったが、やがて口を開いた。
「まぁ、及第点だと思うよ、よく書かれているし、論旨もしっかりしている。正直、俺には考えられんね。まぁ、東京の大学までいったんだ。それくらい書けなくては、という気持ちもあるがね」兼一はそういうと、また押し黙った。
「お風呂が沸いたよ」という静香の声に、琢磨は、客人である弘隆に一番風呂を勧めた。
「風呂は命の洗濯ね」という咲子の言葉に弘隆は微笑を返し、それを見た咲子と郁子はゆっくり入ってくるようにと告げた。


11 :蒼幻 :2008/05/10(土) 21:08:39 ID:nmz3zmrc

第十章 天界の祝福U


 夕食は非常に手間のかかったもので、確かにテーブルには自家製のおせち料理が並んでいたのだが、別に居間に大き目のテーブルを出して、そこに料理を並べた。
「それにしても、子供って可愛いものだな……」兼一は咲子から受け取った真治をあやしながら、そういう。
「兼兄は子供はまだ作らないのかい?」
 弘隆は気軽な口調でそう告げたのだったが、兼一は妻の神奈のほうをしばらく眺めると、はっと息をはいて、落胆したような口調で告げた。
「俺達は子供はまだ作るつもりはなくってね……」
 その声は翳りを帯びていて、なにか問うてはいけないことであったかのような趣きがあった。
「それはそうと、いまはどんな作品を書いているんだ? またハードボイルドか?」
 兼一のまた≠ニいう言葉には、それまでの何作かを読んだという証拠が見て取れた。
「いや、いまは違う物を書こうと思っているんだ」
 弘隆は兄との長年の確執がほどけつつあるという印象を強く持った。
「真治か……」兼一はまだ赤子から一歩も出ていないこの弱き、愛すべき存在に慈しみの心を覚えながら、もう一度、しっかりとこの赤子の顔を眺めた。「こんな小さな存在が、やがて成長して俺達のような大人になるんだな……。感慨深いものがある。でも、これくらいの大きさのときってのは、どこか神の加護があるような感じがするものだな……」
「神の加護?」郁子が思わず、横から口を挟んだ。
「弱き存在をたすける守護霊のようなもの?」咲子が疑問を口にする。
「そうともいえるけど、それだけではなくて、どこか聖性を持っているんじゃないか、ということさ。だってそうだろう。子供には両親がいるものだけど、赤子が持っているのは先天的に手にいれた遺伝子情報のみ。純粋な存在なんだ。人の悪意とか、心の垢とか、そういったものがまったくない。神に愛でられた存在だということさ。この微笑を観てごらん。確かに、この頃の赤子の微笑みに美しさを感じることは無いけど、どんな悪人だろうと、この赤子の微笑みに出会えば、心に慈しみの感情が芽生えるのは、自然のことではないか?」兼一はそこまで滔々とまくしたてると、やがて、その悪人というのが、自分の今の姿と重ね合わせられることに気付いたのか、やや沈思し、そして弾けたように大声で笑った。
 これまでの帰省では夫と義弟の関係は悪化の一途を辿っていたのに、今回の帰省にかぎって良好な関係が築かれつつあることに気付き、神奈は心中、喜ばしく思っていた。神奈にしてみれば、子供の頃から兄弟がいなかったために、随分と寂しい思いをしていた。そこへ、兼一との結婚のお陰で弘隆という弟ができたのだった。年齢的には神奈の方が下だったが、それならそれで妹として接すれば良いだけの話で、彼女自身はなんとか弘隆とも仲良くしたかったのだが、結婚当初、弘隆と仲良く饒舌ったりした日にかぎって、その夜、兼一の態度が他人行儀なのに気付き、そこにこの兄弟の確執を知った神奈は、それからというもの、弘隆とはあまり打ち解けることができなくなっていたのだった。
 それは弘隆の妻の咲子に対してもそうで、咲子と同年代で話もよく合うことはわかっていたのに、その兼一の態度を思うと、いまいち会話に乗って行くことができず、心のどこかで自分を縛っている鎖の存在を意識するのだった。
 ――その鎖が断ちきられた!
 神奈は水を得た魚のように人懐っこい笑みを浮かべながら、食事の間、特に咲子と仲良く饒舌った。
 その様子に郁子は表情を曇らせることもなく、横に据っている弘隆に、作品執筆における構想の膨らませ方などを訊いて、自分のものとするのだった。郁子の話によると、学校で友人に自分の兄が作家をやっているという話をしたらしく、その話が友人のまたその友人、そのまた知人へと伝わっていって、やがて文芸部の部長の耳に入ることになり、小説なんて一編も書いたことのない郁子に十枚ほどの話を寄稿して欲しいという申し出を行なったのだった。それで弘隆になにかアドバイスをもらおうというのが話の要点だった。
 弘隆はその郁子の話に、初めは難色を示したものの、自分の数少ない経験を元にして、話をすることにした。
「この場合、十枚という枚数にこだわるしかないが、特にジャンルを指定されていないのなら、随筆を書いたって、小説を書いたっていいわけで、郁子としてはどちらを書きたいんだ?」
「んー、やっぱ小説やなぁ……」
「小説か……」弘隆はしばらく考え込んだ。小説の書き方を教えるのは、骨がおれることだろう。自分だって、これまでにやってきた文体修練の苦心を思えば、一朝一夕ではできないだろうことは判りきっている。とはいえ、私小説に傾倒するような作品を郁子に書かせるのは、作家としてのいまの自分の地位を思えば、無責任であるかもしれない、とも思う。しかし、初めて文章を書くなら、私小説の方がいいんじゃないか? 弘隆はそうも思った。
「郁子はどういう文章を書きたいんだ?」その質問は、まだ文章をそれほど作ったことのない素人に訊くには不親切な質問であったかもしれない。しかし弘隆はそれを訊かない事には、自分が見当違いのアドバイスをしてしまうかもしれないと感じていたので、どうしても訊かねばならないのだった。
 郁子は思案する風だったが、やがて思いが定まったのか、少しずつ自分の意見を話しだした。
「そうやね……、なんか華のある作品を書きたいかも。でも、心の隙間を埋めるような優しさに溢れたようなもの。華のある作品とはいえんかもしれんけど、梶井基次郎の『檸檬』とか『桜の樹の下には』とか、ああいうのでもええかな……。なんていうか、最近の女流作家の作品はあまり好きちゃうんよ。惹かれるとしたら、どこか病的な暗さに覆われていながらも、健気に生きるというような、そんな作品を書きたいんよ」
 弘隆は頭を押さえたくなった。
 ――訊くんじゃなかった、という後悔の念が押し寄せてくる。
「それなら、私小説でまとめるのが良いかもしれないな……。私小説は残念ながら、自分の作品の領域とは異にしているものだ。郁子が私小説に準ずるような作品を書きたいというのなら文句はないが、まぁ、私にできるアドバイスは基本的なものだけだということを分かっておいてほしい。私小説とは一線を引いているつもりなんでね」
 そういいながら、弘隆はどうアドバイスしたものかと、頭の中であれこれと考えていた。そして思い定めて、郁子に告げる。
「まず、書くもののテーマを決める。自分の平生思っているものでいい。そして、そのテーマを如何にして読者に伝えるかという苦心を惜しまず、この時点で思案する。大まかなことが考えられたなら、それを言葉で列記してみる。この時点ではどんな小説にしようかなんていう大局的なことは考えなくていい。それから、自分の文体を定める。どんな文体で小説を構成していくか? それを考えるんだ。郁子は私小説を書きたいといっているのだから、私に出来るアドバイスはここまでだ。あとは、自分の択んだ文体を駆使して、読者に伝えたいことを直接的にであれ、間接的にであれ、伝えられるように工夫するんだ。これには修練の成果が現れるから、初心者である郁子は、その瑞々しさを武器に変えれば、良い作品が出来ると思う」
 弘隆のこの諭しは郁子にどう伝わったのか?
 それは郁子にしかわからないことだったが、生まれつき聡明な郁子にはそれだけで物事の要諦はわかったことだろうと弘隆は信じる。
「んー、なんか難しいわ。でも、難しいほど腕がなるというもんかな……。弘兄、完成したら東京に送るから、添削よろしく」郁子は嬉しそうにそういった。
「期限はいつなんだ?」と弘隆は訊ねる。
「新年度の記念号に載るみたいやから、三月上旬ってことやけど……」郁子は肩くらいまである髪を何度か指で弄びながら、告げた。
「だいたい、二往復くらいできそうだな……」と弘隆。
「私も読ませてもらって良いかしら?」神奈と話に興じていた咲子が郁子に訊ねる。
「あ、お願いできる? お二人の意見を頂けるなら、これほど心強いことはないわ」郁子はそういうと、咲子に頭をさげた。
 夕食の時間はつつがなく過ぎていく。
 夕食の皿を下げおわるとテーブルは片付けられ、それから歓談の時間になった。
 そのなかでも、兼一の転身は明らかだった。それが何に起因するものなのか? ひとつにそれは確かに、真治の存在があった。真治を通して、弘隆との間の悪因縁を滅除しつくし、いまこうして二人の兄弟の中に、信頼関係が芽生えつつあるのだった。もうひとりの兄弟である郁子もその変化を喜んだ。
 郁子は随分と前から知っていた、どうして兼一がそんなに弘隆を倦厭するのか。
 それは就いている仕事の格差が問題なのだった。一方の兼一は一企業に勤める雇われ人、他方の弘隆はなんのしがらみもない――それは兼一の一方的な思い込みであったのだが――文筆稼業。兼一からしてみれば、いまの自分の仕事は上司の機嫌を窺いながら商売をしなければいけないわけで、いろいろと衝突もあった。それに比べて、この弟は自分のやりたいことで生活をしていて、その職業上の性質のあまりのギャップにひがんでいるといっても過言ではないような状況だったのだ。
 それを知っていたから、郁子は、この二人に兄は永久に和解することがないようにも思われていたのだった。しかし今日はその二人が仲良く、この新しく生まれた真治という命を中心に笑いあっている。
 それは感動的なことであるのかもしれなかった。
 そうして、郁子は、自分もまたいつか咲子のように相手を見つけて幸せな家庭を築き、やがて子供をもうけるのだろうか、と思った。


12 :蒼幻 :2008/05/17(土) 23:00:27 ID:nmz3zmrc


第十一章 夫婦の秘密

 人には探られたくない秘密というものがある。
 今回露呈したことも、その例に漏れるものではなく、夫婦にとってはどのような辱めを受けることよりも、羞ずかしいことのように感じられたのだった。
 ただし、それは遅かれ早かれ、このまま生活をつづけていたならばやがて明らかになることであったため、夫婦は互いに悲しみの色を瞳に浮かべながらも、力強い意思の力でもって、それを克服していくのだった。
 それはこんな風にして明らかになったのだった。
「ねえ、弘兄、この真治は将来なににしようとかいう希望はあるん?」郁子がくりくりと瞳を大きくして訊ねてくる。
 弘隆は仕方がないという風に一度大きく息を吐くと、語り始めた。
「まあ、なれるものになってくれればいいと思ってるよ」
「なれるもん……例えば?」
「そうだな……バリバリの商社マンでもいいし、学校の先生でもいい、でも、わたしの仕事をついで文筆業を志してくれるのも私の希望の中にはあるな。でも、観てみな。まだこんなに小さいんだぞ。こんな生まれて数ヶ月で、目もまともに見えているかどうかもわからない赤子に将来をどうこういってやるのは、どうかと思うのだが……」
「それもそうやね……」と郁子は息をはく。
「まあ、元敏腕編集者だった咲子にしても、私にしても、真治が成長したら教育には少し熱をいれるかもしれないし、そうすれば、なにかと文学に関して造詣の深い人物に成長してくれるかもしれないな……」
「ちょっと羨ましいわ」と郁子がつぶやくようにいう。
 弘隆は郁子が自分の仕事に対して少なからず憧れの気持ちを抱いていることを知っていたから、その次の言葉も大体予測がついた。
「あたしも弘兄に文章執筆の手ほどきを受けたいわ」
 弘隆はその郁子の希望にこたえてやる事はできないと瞬時に思ったのだったが、そう表立って告げるのも気が引けたので、自分がいる明日、明後日を利用して、文章を見てやろうと約束するのだった。もっとも、実家に帰ってきていても、することといえば、父母との会話か、正月のテレビ番組を鑑賞するか、真治の世話をしてやるかぐらいだったから、郁子を構うくらいの暇はいくらでもあるのだった。
 父の琢磨と一緒に飲んでいる兼一が郁子に告げる。
「やめとけ、やめとけ。郁子と弘隆が目指している文章は質が違うんだ。余計な癖がついてしまうだけだぞ」
 兼一は辛辣ともいえる言葉を吐いた。酔いも手伝っているのか、それまでの確執が影響してのことなのか、また二人の間に嫌な空気が流れるのではないかと焦慮する郁子だった。
 しかし、神奈がいいタイミングでフォローした。
「方向性は違っていても、文章作成の基本は同じじゃなくって? 郁子ちゃんのいいところを打ち消さないようにしながら、いろいろと教授するようにすれば、いい家庭教師になるんじゃないかしら?」
 神奈の助言が良い方向に働いた。
 兼一はふんと鼻でわらったが、それ以上なにもいわなかった。
 弘隆は明日からと思っていたのだが、郁子のたっての頼みで、いまから部屋にいき、教え始めることにしたのだった。
 それから風呂に入るまでの時間、郁子は弘隆に文章作成の手ほどきを受けて満悦の態である。
「小説にはさまざまな文体が存在するが、私がとっているのは次のようなものだ。まず、文章の無駄をそぎ落とす。無駄な形容詞や副詞の多用を避けること。でも、私小説を書くなら、この形容詞や副詞を効果的に使うという手法も考えられる。さっき郁子が例にあげた梶井基次郎にせよ、夏目漱石の初期の作品の『草枕』にせよ、非常に効果的にこの形容詞が用いられている。まるで一顆の清涼剤のようにね」
「へぇ〜、形容詞か……梶井基次郎の小説は好きで何度も読んでるけど、品詞に分類して考えた事が無かったから、こうやって説明されると、分かる気がするわ。他に、どんなことに気をつけたらいいん?」
 弘隆は何を話したものかと思案しつつ、次の言葉を告げた。
「私小説風の作品を書きたいのなら、自分の感情を整理して、その不安定な感情というものをいかにして直接的な性質を持つ言葉に載せるかということを考えていく。これは難しいことかもしれないけど、文章の要諦ともいえる部分だから、おろそかにはできないんだ。いいか、郁子、小説は人に読んでもらってナンボのもんだ、独りよがりの物を書いたって、誰も読んじゃくれない。でも、小説の内容自体はどんなものでも構わない、そこに幾分かでも読者を配慮したものがあれば、少なくとも読んではくれる」
「自分の感情をどう表現するか、そして読者のことを考えるということやね、参考にさせてもらうわ」
 郁子はそういうと、今度は自分で小説を書いてみたいといい出したので、今日のところはこれで終わっておくことにした。弘隆はいきなり小説を書き始めるより、なにかちょっとした着想を詩のようなもので著してみるのがいいと告げた。
 その意見を聞いた郁子はやってみるといって、授業で使っているルーズリーフを何枚かバインダーから抜き取って、ペンを手に考え始めた。
 弘隆が郁子の邪魔をしないように部屋を出ようとすると、郁子が引きとめた。
「ねえ、弘兄」郁子はこの部屋には他に誰もいないのに、急にひそひそ声で話し出した。
「急にどうしたんだ? なんか悩み事か?」弘隆は怪訝そうに訊ねる。
「そうじゃないんよ、あのね、兼兄と神奈さんのことなんだけど……」
「兄夫婦がどうしたんだ?」弘隆はなかなか郁子が話し出さないのをおかしいと感じ始め、それが非常に語りにくい種別の話なのだということに思いが至った。
「その……兼兄って、真治のことを本当に可愛がるように接しているでしょ? それには理由があってね……。兼兄って子供が結構好きなところがあるみたいなんだけど、実は、兼兄って子供を作る事ができないらしくって……その……生まれつき精子の数が少ないんだって……。それで定期的に病院にも通っているみたいなんだけど、子供は諦めて欲しいっていわれてるみたいなんだ。可哀想だとは思うんだけど、もう神奈さんも諦めてて、だから、甥である真治のことが余計に可愛く思えるみたいなんだ……」
 弘隆はその郁子の言葉に衝撃を受けた。
 自分は当たり前のように結婚して、子供を作って、こうやって帰省しているわけで――。
 当然、当たり前のように兄にはいつ子供を作るんだろうという興味しかなくって――。
 それなのに、兄は子供が作れない体だなんて――。
 弘隆は気を静めるために、目を瞑って、ひとつ深呼吸した。
 そして、何もいわず、郁子の部屋を出て、暗い気持ちになりながら居間へ向かうのだった。

 実家で過ごす三日間は本当に、あっという間に過ぎてしまった。
 その間も、兄の兼一は朝早くから、夜の六時頃までみっちりと仕事をこなし、弘隆は弘隆で、郁子の文章作成の訓練をしてやるのに手一杯だった。
 郁子の方は毎日、めきめきと上達する文章作成の腕に悦びを覚えていて、最終日である今日は、深夜四時までかかって作ったという十篇ほどの短文を弘隆に推敲してもらっているところだった。弘隆は推敲のヒントを与えるだけで、本当に推敲するのは郁子の仕事だったのだが……。
 弘隆は郁子から聞いた兄の病気のことをどうしても切り出せずにいた。切り出したところで、どう言葉をついでいいやらわからない。それなら、これまでどおり、真治に構ってくれる兄の態度を喜ばしいものと受け止めて、それで済ますだけでいいだろう。
「ねえ、弘兄ってラブレターって書いたことあるん?」突然、郁子が訊ねかけてきた。
 弘隆は面食らってしまった。
 ラブレターなんて書いたことも無かったし、またどんな文面を作ればいいのやら、まったく見当がつかない。弘隆は苦笑するしかなかった。
「私は書いたことないんだけど、弘兄って文章書くの得意だから、きっと凄いの書いたんでしょうね。ほら、咲子さんにも出したことあるんでしょ?」郁子は興味津々だった。
 弘隆は思い返してみて、そういえば、妻の咲子にすら、一通の手紙も宛てたことがないことに思い当たった。
 やや思案しながら、今度書いてみるかと決意する弘隆だった。


13 :蒼幻 :2008/05/24(土) 15:13:59 ID:nmz3zmrc

第十二章 帰館



 実家を出る前に弘隆は兼一、神奈夫婦と話す機会があったので、思い切って子供のことを訊ねてみた。初めのうち、言葉を濁していた二人だったが、やがて弘隆が自分たちの秘密をすでに知っているということを了解すると、ぽつりぽつりと自分たちの無念について語り始めてくれた。
 それは非常に語りにくい話に違いなかったのだが――確かに兄夫婦は羞しいことを語らねばならないという風で、羞恥心に打ち沈んでいるように見えたのだったが――弘隆は話を訊いていくうちに二人に同情する気持ちが大きくなってくるのに気づいた。
 ――しかし、この自分にはどうしてやることもできない……。弘隆はそう感じていた。
 弘隆は帰りの新幹線の中で、もうすっかり暗くなって闇に覆われて月明かりに反射している太平洋の景観を眺めながら、兄夫婦のことを考えていた。
「どうしたの?」と咲子が真治を抱きかかえながら訊ねてくる。
「ううん、なんでもないんだ」弘隆は書きかけのルーズリーフを閉じながら、咲子に返答した。
「でもあれね……。郁子ちゃん、この前見たときよりも身体も心も大きくなってて、いよいよ女の子らしくなってきたわね。郁子ちゃんから訊いたんだけど、彼女、ボーイフレンドがいるんだって」
「へぇ」弘隆は三日間、郁子の部屋で小説のことを勉強していたとき、ずっと二人きりだったのに、そのことを全く話してくれなかった郁子を他人行儀だなと考えながら、やはり女性同士というのは話しやすいものなのだろうかとも考えるのだった。
 東京駅には午後一〇時二五分に到着した。
 真治は気持ち良さそうにすやすや眠っていたが、ときおり、座席の近くのうるさい喋り声やアナウンスが入ると、「ん〜」といいながらいつでも起きそうな気配を漂わせるのだった。
 東京駅から私鉄に乗り換え、乗り継ぎに乗り継ぎを重ねて一時間。
 弘隆たちは最寄の駅に到着した。そこからは駐車場に停めていたセダンに乗って、自宅を目指す。
 自宅につくと、すでに時刻は日を替えようとしていた。
 そこから真治をベビーベッドに寝かしつけ、風呂に入り、簡単に夜食を摂ったりしていると、すぐに二時になってしまった。
「随分、遅くなってしまったわね」と咲子が苦笑まじりにいってよこす。
「仕方ないさ、毎年のことだろう」弘隆は肩をすくめる。
 弘隆はまた明日から執筆の生活が始まるのだと思うと、うんざりする気持ちはまったくなく、自分の人生がもっとも輝いているのは執筆をしているときだとの意識を強くし、そして、そのためには規則正しい生活が不可欠だということを強く感じるのだった。
 弘隆は缶ビールを一本飲んでから、床に就くことにした。

 明くる朝、弘隆は爽快な気分で目を覚ました。
 目覚まし時計の力を借りることなく起きた時刻は、午前六時半。窓の外は夜が明け、朝の一番の暁光が薄れ始めて、数多の生き物が命を吹き返すかのような再生の刻だった。数日前に降った雪がところどころに銀色の斑点を残し、だだっ広い野原は寒さに凍えているように見えたが、弘隆はこの冬の空気を胸一杯に吸い込むと、この一日の始まりの時刻に気持ちを入れ直し、今日一日、頑張ろうという気持ちが身裡から湧き上がってくるのを感じるのだった。
 昨日遅かったにもかかわらず、咲子は既に台所に立って家事をつつがなくこなしている。
 弘隆はまもなく準備が出来るという朝食を待つ間に、玄関を出てすぐのところにある郵便受けから新聞を取り出すと、少し寒さに顫えながら、居間に戻ってきた。
 そうして新聞を広げて、記事を拾ってゆく。
 弘隆の新聞の読み方は独特であった。
 確かに一面を飾る記事などは派手で、人の心に多くの感情を呼び起こすものが多かったが、しかし、弘隆にとってそのような記事は客寄せの撒き餌以上の価値は見出せないのだった。それよりは書き手の意思の見受けられる社説やコラム、また新聞小説といったものにこそ興味を惹かれるのであった。
 社説は『政治とカネ』問題、『原子力発電所』の建設についての二本立てであった。
 政治とカネは、政治問題に表立って異を唱える論客ではない弘隆にとっては他山の火事でしかなかったが、一応、このような記事も時代の流れを受けての意見であろうから、その積りで読んでいくのだった。もう一方の原子力発電所の建設についてはどこか、この前、年末にこの家に押しかけてきた抗議デモの一行の、工場建設反対の陳情を思い出させるものがあり、後味の悪い印象を受けもするのだった。しかし、弘隆は自分の意識を変えるわけにはいかないと考えていた。抗議デモというのはいったい、何人の人間がその問題を真剣に把握し、運動を起こしているのだろうか? 大多数の人間は信頼できる幾人かのリーダー的存在を除いて、皆が、大衆的心理に毒されており、自分ではとても物を考えることのできない人間が、集まって集団を形成しているのみである。それを知っているからこそ、弘隆は抗議デモというものに嫌悪感を抱くのだった。その嫌悪感は、自身の大学時代の経験から来るものだった。苦手意識はその頃から今日まで続いている。
 ごはんと味噌汁と漬物とおひたしという簡単な朝食を済ませると、弘隆は自分の書斎に入り込んで、ストーブに火を入れ、三日振りにワープロの電源を入れた。
 起動音がしてタイトルが現れ、やがてメニュー画面に切り替わる。弘隆は保存しておいた書きかけのファイルをロードした。
『瞳の宇宙』。弘隆は落ち着いて、その小説のタイトルを読んでみた。
 なにが瞳の宇宙なのか? それは赤子である真治の、弘隆自身を見つめる視線の清冽さを比喩として現した言葉だった。赤子の瞳に映る宇宙。自分にもそのような時期があったということは確かなのだが、こうして成長しきってしまった今となっては、どうにも当時の印象を思い出すことはかなわない。だからこそ、弘隆はこの自分の子供である真治の瞳を見つめるたびに、自分はこの世の混濁した流れの中に染められてしまった不幸な人間の一人なのだとの意識を高めるのだった。
 赤子がその無垢の瞳で何を見つめているのか? そして、その赤子が成長する過程の、いったいどの時点で、その純真無垢な性質を失ってしまうのか? それがこの第二部の根本議題だった。確かに、赤子の父や母は物語に色を添える。しかし、この物語の主軸は、まだ事の黒白も知らぬ赤子なのである。赤子の声を代弁するのは、精霊とでも呼ぶべき、守護霊である。第一部のいかにも人間的なストーリー展開に較べて、この第二部以降のファンタジックな展開はなんとも読者に泡を食らわすような手法だったが、しかし、それがあまり不自然でなく、うまく物語として成立しているのは、弘隆の力量というものだった。
 弘隆は帰省前に書いた部分を読み直して推敲をしていた。
 すると、読み直すごとに、自身がいかにしてこの小説を一人前のものとして送り出そうとしているのかということが思い出されてきて、推敲する自身の目にも情熱の光が宿るのだった。
 休みを数日間入れたために、弘隆は念のため、三日分遡って推敲をすることにした。だから推敲をおえて、新たに執筆を開始したのは十一時を過ぎていて、四枚を書いたところでもうお昼の時間になってしまった。気分的には久々の執筆でもっと筆を動かしたいと思うところだったのだが、あまり初日から無理をしすぎるのもなんだと考え直し、ここらで一服することにした。
 居間に向かうと、昼はぜんざいだった。
 正月を迎えるということで餅つきこそしなかったものの、弘隆の家でも、市販の餅をいくつか購入していたのだった。
 弘隆は咲子が席に着くのを待って、ぜんざいに箸をつけた。
 餅はこれでもかというくらい、しっかりと切れずに伸びていく。
「うまい」と弘隆は口に出していた。
「ふふ」と咲子が微笑む。
 咲子はこの餅の来歴を語った。
 咲子の話に寄ればこういうことだった。
 この餅は、お屠蘇に使った餅ではなくて、正月に、近くの弁財天を祭っている神社で餅撒きとして撒かれた餅で、しっかりと臼と杵を用いて作られた正真正銘の正月の餅で、普段、あまり付き合いのない近所の人が、今朝その好意で渡してくれたものなのだと。
 弘隆はそのぜんざいを平らげると、ぜんざいというのは、どこか女性的な食べ物だなという話をしはじめた。女性的な食べ物。それはどういうことなのか? それは話しはじめた当の本人である弘隆にすらわかっていなかったのかもしれない。ただ、ぜんざい、お汁粉というものは、その甘さから、女子供の好むものという意識が働いた物と見受けられた。
 食後、弘隆は、すやすやと眠っている真治の寝顔を眺めた。
 赤子はいつまでも眠り続けるかのように、まったく外界の変化に影響されることもなく、熟睡している。
 弘隆はこのような赤子の時代が自分にもあったのだと思うと、本当に不思議な気持ちに包まれるのだった。


14 :蒼幻 :2008/05/26(月) 20:54:20 ID:nmz3zmrc

第十三章 河原への散歩



 桜の花が風に吹かれて一枚、また一枚と風に飛ばされていく様を眺めつつ、弘隆は頬をなでる風の出所はきっと天空の遥かなる高みにこそあるのだろうと思いながら、家を出て、久々に散歩という物をする気になったのだった。目的地はこの町のちょうど真ん中を西から東に流れている天野川の河川敷だった。
 河原には今日が休日ということもあり――考えてみれば春休みで小学生から高校生まで暇を持て余している子供たちがいるのだったが――さまざまな人々が憩いの時間を過ごしているのだった。
 ――はぁ……やっぱり過ごしやすい気候になってきたから、猫も杓子も河原というわけか……。弘隆は苦笑を禁じえない。
 見れば河原には、水辺に近寄って魚などの川に棲むさまざまな生き物を見て愉しんでいる親子連れの姿があり、バドミントンのラケットを持ってきゃあきゃあいいながら羽根を打ち合っている女子高生と思しき三人組がいたり、多少季節外れかもしれないが、奴凧を空に揚げて愉しんでいる小学生の集団がいたりと、そんな人達が河原には集まっていた。
 他にもジョギングをしている青年、犬を散歩させている初老の男性などもいた。
 弘隆はこの町に住んでいる人の姿を普段見る事が無かったから、こんなふうにひとつの場所に集まって、大勢の人間がそれぞれのことに打ち興じているのを不思議に思いながら眺めていた。
 考えてみれば、いつもひとつの部屋に閉じこもってワープロに向かう日々。それは時を無駄に過ごしているのかもしれないという反省を強いるものであったが、いまの仕事に多少なりと誇りも持ち合わせていたため、一概に、反省ばかりが押し寄せてくるわけでもなかった。しようと思えば、毎日昼三時頃までに執筆を終えてこのように夕方から散歩に出ることも不可能ではなかった。
 しかし、弘隆はそれを良しとしなかった。現状で満足していない書き手である弘隆は、さらなる高みを目指すためにも、出来る限り、生じた暇は、文章修練の時間に充てたいと思っているのだった。今日のように散歩にでるのは本当に稀な事。「今日は日曜日でもあるから、きっと河原にもたくさんの人が集まっているわよ」といったのは妻の咲子で、夫がいつも書斎に閉じこもっているのを悪いことだと思い、こうして外に出るように勧めたのだった。
 ――ま、たまにはこういうのもいいな。弘隆は妻の申し出に感謝する気持ちを強くした。
 弘隆はゆっくりと河川敷の周囲を眺めてみた。美しい風景とまではいかないにせよ、ごちゃごちゃした都会というイメージの大きい東京にあって、この自然の多さは貴重なものと思われた。なんといっても、川に魚が泳いでいるというそのことひとつとってみても、都心部では考えられないことなのだ。勿論、ここは都心部などではなかったが、電車で新宿まで三十分圏内でこの自然の多さは特筆に価する、と弘隆は思った。
「おひとりですか?」ふと、見ると、手を繋いだ若い男女がこちらに視線を投げている。声をかけてきたのは男性のほうだった。
「ああ」と弘隆は答える。
「ここには良く来られるんですか?」
 その質問には「ああ、いや……その……いいえ」と言葉を濁したが、それきり、男女は手を繋いで向こうへいってしまった。この弘隆の受け答えで、彼をとっつきにくい人間だと思ったのに違いなかった。弘隆はまともに話せなかったその無念さを、自身の高校生時代の内気だった頃を思い出す切欠にしていた。
 ――確かにあの頃、私は本ばかり読んで、周りの人間と話す事がなかった……。級友は私のことなど歯牙にもかけず、ただひたすら孤の中に閉じこもる私を見下していたのではなかったか?
 しかし、正月に地元であの伊藤修司に出会ってわかったことがあった。級友は私を無視していた訳ではないのだ……。伊藤修司の告げた言葉は私を気遣ってのことであったに違いないが、確かに、弘隆は級友たちに意識され続けた存在であり、それは弘隆の東京への大学進学を知った彼らの憧れとも羨みともとれる注目度の高さが物語っていた。
 家に帰ったら伊藤に電話でもしてみるかな……、弘隆はそう考えて、それがいい思い付きだと思うのだった。
 それから弘隆は一時間ほどをその河川敷で過ごした。
 メモ帳を持ってきていなかったので、小説の構想を紙に落とすことはできなかったが、それなりにいいアイデアが弘隆の頭の中に巡り始めていた。
 個人的にはいま書いている『瞳の宇宙』第五部で青年となった主人公に魂の遍歴をさせようとしていたのだが、その遍歴をどのような表現で形作っていくかというところで悩んでいたのだった。そこへ、西から東に向かって延々と流れゆく水の大いさに惹かれてなにか執筆の核とでもいうようなものを、繊いものではあるが、なにか頼りにできそうな核心めいたもの、そのようなものを得た思いがするのだった。
 弘隆はいてもたっても居られず、河川敷から離れると、わき目もふらず、まっすぐに家に帰ってきた。
 挨拶もそこそこに書斎へと入っていった弘隆に、咲子は、また悪い癖が出たみたいね、と思いながら、生まれたときよりもずっと大きくなった真治を抱きかかえつつ、ミルクを与えていたのだった。

『瞳の宇宙』は完成間近だった。
 あの河原でのインスピレーションの到来から一箇月、弘隆は旺盛な執筆意欲にかられながら、一日十二枚のペースを守りつつ、執筆を続けていた。父と母は健在だったが、どうしても主人公である青年との折り合いが悪くて、口論や喧嘩になることもしょっちゅうだったけど、青年が挫折を覚えたときにもっとも支えてくれたのは両親だったということに思い当たる。そして、青年は不器用ながらも少しずつ両親との確執を乗り越えていくのだった。
『私の不幸は両親に愛されなかったことよりも、むしろ、適度に愛されていたことを知らずに育ったことだ』
 作中、主人公はそう独白する。
 弘隆はときどき、主人公になりきって物事を考えながらも、大局的には物語全体を統べる支配者としての役割を果しつつ、物語を進行していった。
「『瞳の宇宙』はどれくらい進んでいるの?」
 ある日、咲子がそう訊ねてきたとき、『瞳の宇宙』はあと一週間で第一稿を書き上げる事ができそうだった。「そうだな……今週中には一段落つけられそうだよ」
「じゃぁ、読めるのはまだまだ先ね」と咲子。
「ああ、そうだな……推敲だのなんだのしてたら、一箇月くらい軽く掛かりそうだしな……」弘隆は肩をすくめた。
 咲子は仕方がないというように微苦笑して、やれやれというように首を何度か振った。
「貴方のことだから、また推敲をみっちりやるんでしょうね?」
「ふふっ、趣味の領域さ、推敲はね」
「趣味……」咲子は弘隆の真似をして肩をすくめた。
 ややあって、弘隆が声をあげる。
「なあ、咲子? 今度、一緒に河川敷まで散歩しないか?」
 それは咲子にとって、願ってもない申し出だった。「一緒していいの?」と咲子がいう。
「もちろん」と弘隆。
 弘隆はこの前の散歩のときに話しかけてきた男女のことを思い返していたのだった。自分ひとりだけで河川敷でじっとしているから、一声掛けただけで逃げられてしまうのだ。咲子と一緒なら、そんなこともなくなるだろう。
 そんな思いを胸に抱きながら、弘隆は散歩の約束を取りつけるのだった。
 その夜、弘隆は相手の迷惑になるかもしれないと思いつつも、伊藤修司に電話をかけてみることにした。しかし、何度コールしても相手は電話に出ない。まあ、そんなものさと仕方なく諦めると、弘隆は小さな卓子の脇の椅子に座って、読みかけの本を取り出し、それを読み始めた。ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』。もう読み返すのは十遍を超えている。細部まで頭に入っているとはいえないが、はじめてこの作品を読んだ高校生時代にはわからなかった人情の機微や入り組んだ設定なども、齢を重ねるごとに理解できるようになってきて、いまでは細を恃んで大を穿つかのごとく、さまざまな感慨が頭の中に去来するのを楽しんでいた。
 非凡な才能であるドストエフスキーも、勝負していたのは自分と同じく小説というジャンルなのだということを頭の中で反芻してみる。そうして、気合を入れてかかれば、カラマーゾフのような作品を自分でもものすることができるのではないかと思うようになった。
 しかし――しかしである。
 一流の作品として通用させられるように書き上げるには、弘隆の力量ではまだ不足しているのではないか、と思われる面も多々あったのである。
 それには、先の批評家の話、人生を経てきた深みが感じられない。まだ頭の中で小説を書いているようなのだ=B確かにそうだと思える面があり、弘隆は表情を曇らせるしかなくなってしまう。
 ――やはり私小説も守備範囲に入れておかねばならないのだろうか?
 弘隆は無念という気持ちを大きくした。
 いや、私小説を嫌悪しているわけではない。ただ、自分の心情を赤裸々に告白するような文体、その文体にどことなく弱々しさを感じてしまって、好きになれないのである。しかし――。
 弘隆は改めて考えてみる。私小説風に書きながらも、主人公を力強い雄渾な性格の人物にして物事を眺めるならば――。
 それはいい着想だった。
 これならいけるかもしれない。弘隆は不確かではあるが、ある確信めいた物を得て、その着想を膨らませようと、それをメモ帳に書き記した。
『雄渾なる心の力を持つ主人公、精神の大パノラマ、見えるは類稀なる美しき世界……』と。


15 :蒼幻 :2008/07/06(日) 11:35:17 ID:nmz3zmrc

第十四章 妻の過去



 波乱の幕開けだった結婚式はもう五年も昔のことだった。
 弘隆は今の事のように当時を思い出す。
「咲子、私たちの結婚ってほんと、なんだったんだろうな?」弘隆がそう訊ねかけると、咲子は苦笑した。
「あはは、まあ、いろいろあるわよ」
「いろいろあるっていったって、こうして結婚して、おまえとひとつの家庭を形作っているっていうことが信じられないよ」弘隆はしみじみとそういう。「あのときのお義父さん、お義母さんの反応を思えばね……」

 弘隆が咲子と知り合ったのは弘隆が大学を卒業してそのまま新人賞に自作を応募している頃だった。その頃の弘隆は大学が文学部ではなく経済学部だったこともあり、なにひとつ文筆の基礎となる物を獲得していなかったのだが、学生時代に参加した学生運動の中で、メンバーの一人に文学部の生徒がいて、弘隆はその生徒と仲がよかったのだった。
 弘隆はその頃、自前の詩というか箴言というか、そんな短文をいくつも作るようになっていたから、それをその文学部の生徒に読ませて感想や批評などを貰っていたのだった。
 それは弘隆にとって非常に貴重な体験であり、自分が作った文章を他人に読んでもらって評価してもらうということが喜びにつながるということに気づき、なんとか経済学部の自分であるが、文章を書くことに携われるような職業に就きたいと考えるようになったのだった。
 学生時代は学生運動に参加しつつ、学業のほうもおろそかにせず、その間にさまざまな本を読み、文章を作り、ワープロを購入したことで小説にも手を出すようになり、卒業する頃には百枚程度の小説を何作か書き上げるほどになっていたのだった。
 弘隆が公募に参加するようになったのは経済学部卒という肩書きを利用して入社したある商社で幾月か働くようになって、その仕事を長年続けていくことは自分の性格に合わないと思い始めた時期と重なる。弘隆は合わない仕事を続けることで溜まるフラストレーションやストレスといったものを新たな世界へ飛び込もうとする希望や憧憬にかえて、公募小説を書くようになったのだった。
 二度目か三度目の公募作品を書き上げた頃に、弘隆は咲子と出会う。
 大学時代はそこそこ人付き合いもよかった弘隆が、就職してからも異性との交友関係がさっぱりだということを聞き知った後輩が、方々手を回して、同じく彼氏の居ない女性を紹介してくれたのだった。良くありがちな、あまり魅力的でない異性をくっつけようとするのではなく、それは先輩に対する畏敬に満ちたものであり、その時紹介された高橋咲子にしても、弘隆のことをとてもいい男性だという風にしか吹き込まれておらず、それが二人の間を急速に接近させることに繋がったのだった。
 弘隆が公募に当選したのが社会人二年目のこと。
 咲子は付き合っている男性が文筆業につくということに悦びを覚え、自身も同じようになにか文筆に関する職業に就こうと考えたのだった。そして、文学部の心理学科という利点を活かして、大手出版社の編集者として雇って貰えることになった。
 二人の間はうまくいくかに見えた。
 外面的にはなんら問題なく、二人はやがて結婚を考えるようになる。
 しかし、その二人の間に思わぬ障壁が立ちふさがったのだった。
 咲子の両親の猛烈なる反対である。それは咲子の実の母が持ってきたお見合いの話を断わったときに生じたものだった。どうして相手の写真も見ずにこの見合い話を断ろうとするのか、と母が問い詰めたとき、咲子はきっぱりと自分にはお付き合いしている男性がいます、と伝えたのだった。それが父親の耳に入った。
 父はいままで聞いた事がないほどの怒りの声で、電話口で自分をを叱り飛ばした、と咲子は弘隆に告げた。その頃には弘隆もある程度の冊数を刊行できるようになっていたから、社会的知名度もそこそこあった。しかし、なにぶん、咲子の両親は新潟の一地方都市に住んでいるということもあり、娘の付き合っている相手が作家と聞いて、山師か香具師のようにしか思えなかったのであった。
 咲子にはひとりの弟があった。
 その弟が、咲子の両親の不快を解消してくれたのだった。
 咲子は自分の付き合っている相手が作家だということをすでに弟である朔には伝えていた。朔はまだ高校生だったが、姉の彼氏が本を書いていると聞き、とても興味をもったらしく、そのデビュー作である新人賞受賞作『美しき世界』を読み、非常に感銘を受け、弘隆の小説をかたっぱしから読み耽っていたらしい。弘隆の人となりをその作品群から受け取った弟は、娘の相手が作家だと知ってまるで詐欺師に欺されたかのごとく罵倒する両親の言動をよく思わず、ことあるごとに両親に加納弘隆という作家のその真面目さ、実直さを説いたのだった。
 弘隆と咲子が今日夫婦として生活していられるのは、ひとえに、弟朔のお蔭だった。
 弘隆と咲子の結婚式。
 弘隆の両親は願ってもないことだったから東京での仏前結婚式に喜び勇んで出席したのだったが、咲子の両親はというと、その直前まで行くの行かないのといってごねていたらしく、朔が一人ででも東京の結婚式に出席するという意見をいったことで、両親は心配し――東京にはさまざまな誘惑があり、新潟の田舎を殆どでたことのない朔には悪影響を及ぼすものが多すぎると心配していたから――仕方なく、娘の結婚式に出席することにしたのだった。
 結婚してからは朔が東京の新居にやってくることは滅多に無かったが、それまでに三度、朔がやってきたことがあった。朔は姉の結婚式の折、両親が東京の悪弊に染まるといけないと心配したほど溺愛された息子だったが、しかし、姉の家に世話になる時は決まって日中、渋谷や池袋といった場所に向かい、どこでなにをしているのか、夜遅くに帰ってきて、そこから、弘隆と酒を飲み、文学についてや、小説を書くときの苦労などについて話を聞くのが常になっていた。
 あるとき、朔がその体だけは一人前に成長していながら、精神的にはまだ大人といえない時期に弘隆にこんな質問をした。
「作中で主人公が何人もの女性と関係を持つ話がありましたが、それは実体験に基づくものですか? もしそうでないとしても、そういった不真面目な心が義兄さんの心にはあるということではないですか?」
 朔が挙げた作品は弘隆が二ヶ月ほど前に刊行した作品で、それまで真面目一辺倒の作風だった弘隆が、少し趣向を変えて、さまざまな女性の相手をするひとりの男性を主人公にしたものであった。その転身に純粋に反応を示した朔は、その性格も純真で、確かに無垢な面があったといえるかもしれなかった。
 弘隆はそんな朔にむかって、こんな返答をした。
「作家は実体験を元に作品を書き上げる事はあるけど、私はそういった方向性で作品を作ることはない。確かに自分も男性だから、魅力的な女性を見つければ、心惹かれないわけではないけれど、だからといって禽獣のように見境なく女性に色目をおくるということはしないよ。私がいつも心掛けているのは、理知の極に自身を置いて、そこから何が見えるだろうか、ということさ」
「理知の極?」朔は聞き慣れない言葉を聞いて、思わず、弘隆に訊きかえしていた。
「純粋なる理性とでもいうのかな……。絶対的な視野を確保して、そこから人物を動かしていく。主人公イコール書き手というのが私小説と見られがちだけど、主人公イコール書き手の一人格とすることもできるんだ。そのとき、主人公は作家の分身であり、沢山いる分身のなかの一人と定義することができる。作家は、この人物をいかにして動かしていくかということに苦心するんだ」
「なるほど……」朔は落ち着いた口調で、これまでの弘隆の話を頭の中で整理する風だった。「ということはつまり、この作品の中の主人公は非常に異性にだらしないところがあるけれど、それは書き手である義兄さんの本性というわけではなくて、義兄さんの数多くある心のなかの一部分を切り取ったものであるというわけですね?」
「まあ、そういうことになる……」
「ということは、私小説と、どう異なるのですか? 私小説だって、自分の意思をそのままそこに表現しているとは限らないんじゃないですか?」
「……なかなかきついね」と弘隆は苦笑する。やや置いて、返答を続ける。「私小説はどこまでいっても私小説さ。個人の都合を一歩もでないという点でね。私が書きたい本格的な小説は重厚なる論理の積み重ね、そこに泰然と生じてくる確かなる重み。それこそが私の表現したいもののすべてだ。あの小説では確かに、沢山の女性と関係を持って、モラルを唾棄してやまない青年を描いている。しかし、その都度考える主人公の考えが、物語の初めと終わりでは様相を異にしているだろう? その重さが私の表現したいものなのさ」弘隆は自分のいいたいことがしっかりと相手に伝わっているかどうか確かめたくて、じっと朔の目を見つめた。
「二人とも難しい話してるのね?」そのとき、風呂から上がってきた咲子が濡れた髪の毛をタオルで拭きながら、二人の話に割り込んできたものだ。
 弘隆と朔は同じ秘密を共有しているかのように顔を見合わせると、同時に頬を緩めた。
 そのとき咲子はある女性誌の編集者としてめきめき頭角を現していたから、夫と兄の会話に興味を持って当然だった。
 弘隆は咲子に、朔と話していた内容を包み隠さず開陳する。
「それは私の仕事でもそうよ」と咲子は勝手知ったるように申し述べる。「私たち書き手は自分の本心を吐露することはなく、ひたすら事実から導き出せる真実を追って文章を編んでいくのよ。文章を編むって言うのはいい言葉ね。それは自分の意思からくるものなのか、それとも事実から来るものなのか、そのわからない面が、文章を面白くしているともいえるの。作家が自身の本心を自作で吐露しているかどうかなんて、実際、些細なことなのよ。それよりも物語としての真実性を持っているかどうかということのほうが、大切になってくることもあるのよね」咲子はそういうと、ドライヤーをかけに洗面所の方へ向かった。


16 :蒼幻 :2008/07/06(日) 11:35:49 ID:nmz3zmrc

第十五話 新たなる方向性



 それからの数度にわたる伊藤修司への電話は徒労に終わった。
 いつかけても、相手が電話に出ないのだ。伊藤も仕事に追われていて、家でゆっくりする時間もないのだろうと、初めは理解のあるような思いでいたのだが、次第に電話することも忘れてしまい、次第に、伊藤修司という存在を意識することがなくなっていった。
 弘隆は締め切りギリギリだという郁子の文章を三度推敲してやり、期限の三月上旬に間に合うようにしてやった。そのお礼の手紙がこの五月の第一週に届き、同じ郵便でその郁子の文章の掲載された冊子も送られてきた。
 弘隆は自分の文章を推敲するように、もう何度目になるわからない郁子の小説の載っているページを開いて読み始めた。それは舞台こそ明かしてはいないが、片田舎に棲む若い女性が都会に憧れる気持ちを持ちながらも、地元のいい面を見いだして愛着を感じるというものだった。地味な舞台設定にもかかわらず、それが見事な叙情感を齎しているのは、ひとえに、郁子の瑞々しい感性の賜物だった。その小説を読み終えると、弘隆は自分の文章を読むときよりも数倍疲れてしまったことを自覚した。
 弘隆はその日はもう執筆に費やすことをやめて、散歩に出ることにした。
 執筆はもう『瞳の宇宙』を仕上げて、推敲にかけている途中だったけれど、同時進行で新しい小説のプロットを書こうともしていた。しかし、そのプロットはまだ概観すら出来上がっておらず、まったく白紙の状態だったから、いいアイデアを思いつくまでは散歩などして気分を落ち着けるのが一番だとも思っていたのだった。
 弘隆は頭の中に湧き起こるさまざまな雑感を落ち着いて消化するためにも、今日は河原ではなく、普段足を運ばない、この町のメインストリートの方にでも行ってみようと思うのだった。この大黒町のメインストリートにはいくつかの店舗が並んでいて、大黒神社という少し大きめの神社――一説にはかまどの神様が祭られているらしい――の門前町として、昔は栄えていたのだそうだ。弘隆は家から三キロ離れたその神社まで散歩してきて、久々に大黒神社に参ることにした。手水で手と口を浄め、小銭を賽銭箱の中に投げ入れ、手を合わせて祈る。境内をいろいろと回ろうかとも思ったが、なぜかそうする気力が萎えていて、気がつけば鳥居をくぐっている。弘隆は折角ここまで来たのだからと、神社を出たすぐ向かいにある土産物屋で名物の最中を購入した。最中にはあんこの中に糯が入っていて、それが独特の美味さを醸していると評判だった。
 家までの帰り道、弘隆は妻の咲子のことをいろいろと考えていた。
 確かに咲子は元編集者だけあって、頭が回る。しかしそこが鼻をつくということもあった。もう少し柔らかくなってもいいと思うのだが、まぁ、それも仕方のないことかもしれない。編集者の仕事に就いているとき、相当苦労したらしく、大学時代はあまり喋らない性格だった咲子が、編集者の仕事に就いて一年も経つと、目に見えてよく饒舌るようになり、気がつけば、社内でも敏腕編集者の名を欲しいままにするほどだったのだ。咲子は表立ってそのことを弘隆に告げることはなかったが、業界大手の出版社の女性誌編集者の噂は、それが出所不明のものであったとしても、作家、編集者連の集まりのときに弘隆も耳にすることがあった。
 編集者としてばりばり働いていた咲子は確かに尊敬できる存在だった。しかし、いまはどうか? 真治の世話を懸命に頑張っている咲子は、編集者として働いているときと較べても見劣りせず、それ以上に尊敬できる存在だと弘隆には思えるのだった。
 家に着くと、弘隆は居間に向かい、それからふと、頭に思い浮かんだ疑問を咲子に告げた。
「なあ、咲子……今の生活に何か不満はないか?」それは普段でも時々、訊いてみたいと思っていた疑問だった。弘隆はやや唐突に過ぎるきらいがあるかもしれないという思いも感じながら、その質問の答えを待った。
 咲子はやや考えてから、その口をゆっくりと開いた。
「そうね……真治の子育てについてわからない面が沢山あって、その疑問を解消するための同じ世代のお母さんとの交流がないことかしら……」
 弘隆はその咲子の言葉を充分に理解した。つまり、ここは都会じゃないから住む人も少なくて、他の人との交流が少なく、自分の力だけではなんともできないことを相談するのも難しいということだった。弘隆はそのことに思い至ると、自分ひとり生活しているだけなら、なんとも思わなかったこの好ましい立地条件が、妻にとっては重荷になっているのだと知り、なんとも申し訳ない気分になるのだった。
「いまは実家の母に私や弟の子育てのときのことを訊くくらいかしらね。それでも母の話はなかなか参考になるのよ……」咲子は気丈に振舞った。
「そうか……でも、近所の人との交流が少ないというのは確かにマイナス面かもしれないね……かといって、家を空けて何キロも離れたメインストリートの方へ行くのも億劫だし……」弘隆はそこまでいうと、ふと、数箇月前に聴いたある作家の話を思い出した。
 その話はこうだった。
 その作家は書いている小説のイメージがどうにも膨らまなくて筆の進みが遅くなっているのを悩んで、ある日、気分転換がてら近くの図書館に向かうことにしたのだった。平日の昼間、普通ならサラリーマンだったら一生懸命仕事をしているはずの時間帯。そんなときに図書館を訪れてみると、そこにいるのは受験生と主婦ばかり。受験生は椅子に座って家ではなかなか集中して行なうことのできない受験勉強を根詰めており、主婦は生まれて半年とか一年とかいうような子供をつれて、自分の好きな本を渉猟しているという感じ。その作家は平日の図書館は主婦の憩いの場だとそのとき断言したのだった。
 弘隆はそのことを思い出すと、さっそく妻に提案した。
「図書館に行くってのはどうかな?」
「図書館……?」咲子は急に夫が何をいいだすのかと思ったらしく、頓狂な声をあげた。
「ある人がいってたんだ。平日の図書館は主婦の憩いの場だってね。一度行って様子を観てくるといい。真治ももう生まれて半年なんだ。外出してもそんなに泣いたりすることもないだろうし、図書館みたいに時間がゆっくり流れているところに行けば、咲子も日頃の疲れが吹き飛ぶってもんじゃないかな?」
 弘隆の提案を咲子はしばらく受け容れるかどうするか、迷っている風だった。
「でも……それは根本的な解決にはならないわ」とやがて、咲子が口を開く。
 弘隆は首をかしげた。「うん? どういうことだ?」
「だから、図書館って確かに主婦は多いかもしれないけど、みんな、自分の読む本を探すのに一生懸命で、日頃の子育ての悩みとか話すような雰囲気じゃないと思うの……。それに、図書館って私語厳禁だろうから、もともと誰かと話すのに向いている場所じゃないと思うのよ」咲子は眉をひそめて困惑した表情をしてみせた。
「そうか……」弘隆は残念そうに声のトーンを落とした。
 咲子はなおもしばらく考えている様子だったが、ややあって口を開いた。
「そうね……図書館は駄目かもしれないけど、うちの町の図書館って、ときどき、小部屋で絵本の読みきかせとか人形劇とかやってるみたいだから、それに参加するってのもひとつの手かもしれないわね。そこで、他のお母さんたちと仲良くなって子育ての苦労とかを話し合う。そうね、やってみようかしら……」咲子は嬉そうにそういった。
 弘隆は自分の提案が完全に否定されたわけではないということに気づき、少し嬉しくなった。自分は真治の子育てにほとんど参加していないけど、妻の咲子に対して少しでもアドバイスできたことは大きな喜びだった。

 後日、弘隆は机の前に座って新たなる小説のプロットを考えていた。
 そして正月に地元に帰省したときのことを考えながら、ふとそのときに感じた感興などを小説にしてみてはどうかとの思いが胸に去来した。
 それは弘隆が長年忌避してきた、小説に実生活の体験を持ち込む、私小説の創作態度に非常に似通ったものだったが、弘隆にはいまの自分の現状を打破するのは、その方向からのアプローチに間違いないとの確信を抱いていたので、いままでの自分の作品を否定するかようなその創作態度を今度の作品で試してみようと思うのだった。
 弘隆は地元滋賀というものをいまの東京近郊に住んでいる自分の生活と見比べながら、その差異を筆に集めようとしてみた。
 今回の作品では文体に実直さよりも繊細さを兼ね備えさせ、旅情感を漂わせる色彩的な文章を盛り込み、読む人に臨場感を与えようと思っていた。
 弘隆はいままでの小説の創作手法とは異なる、まったく新しい手法に戸惑いを覚えながらも、プロットを仕上げてみた。全部で原稿用紙四枚ほどの内容。
 これを旅日記風の小説にしたなら、二十枚くらいの作品になるだろうとの予測がついた。
 どんな作品になるかわからないが、この作品で作家加納弘隆は新たな境地を開拓する! そんな意識を持って作品に当たろうとの思いが沸々とこみ上げてくる。
 弘隆はその思いが、あの地元での伊藤修司との邂逅に端を発しているということに気がついていた。伊藤修司、あのどこから見ても光っていた高校時代の寵児に対し、自分の腑甲斐なさを思い知らされていた自身の高校時代、それを振り切って、大学での華々しいデビュー、そんなことを思うと、昔のことがなつかしく思い出され、弘隆自身、感傷的な思いが胸に去来するのをどうすることもできなかった。
 弘隆はワープロの断片ファイルにこう記す。
『いつか観た夕焼け、青春のゴール、淡い空想、落日。
心に残る原風景。ススキの繁茂した草原を吹き渡る風。哀愁。
いつも希求している憧憬。アキアカネ。時とともに弱くなる西日』
 弘隆はこのような言葉で表現される、どこか郷愁に似た感情を言葉で掬い上げたいと感じていた。それは不発に終わるかもしれない、また成功するかもしれない。どちらにせよ、自身がこれまでに求めてこなかった方向性だけに、自分がどこまでやれるのかという境界を見定めるためにも、今回の作品は、本腰を入れて取り組もうと思う弘隆であった。


17 :蒼幻 :2008/07/19(土) 17:47:38 ID:nmz3zmrc

第十六話 弘隆の過去

 ――確かに最初は自身の高校生の頃を思い出してプロットを組んでいたはずだ。
 弘隆はどこでどう間違ってしまったのかと、自身の思索の道程を振り返ってみた。やがて、自分の人生の中で最も振り返りたくない事件、疑獄事件のことを思い出していた。
 確かにあの頃、自分の心は荒んでいた。
 デモの仲間が官憲の弾圧を受け、多数逮捕されたことも知っていた。この活動には危険が伴うのだということを思い知ったのも、あの時期だ。弘隆はそう回想する。
 当時、自分はデモ活動に打ち込んでいた。そして、表立っての活動はしなかったにせよ、よく活動の仲間たちと時間を過ごし、様々な物事に付いて語り合い、理解を深めていったものだ。それは青春の一ページとして弘隆の心に深く刻まれている出来事だった。
 落ちついて考えれば、どうしてあの当時、そのような活動にのめりこんでいたのか、よくわからない。気が付けばそうなっていたとしか形容できないのである。確かにあの頃、自分は人生に目的が見出せなくて、知らず識らずの間に焦っていたのだろう。人生の目的なんてこうして生きている今であっても明確になっていないというのに、あの当時の自分がそんな大問題をあれこれと扱えるわけがなかったのである。弘隆は落ちついて考えられるようになったのは小説を書き始めるようになってからだと思い至った。
 断章や箴言を書き始めた頃にはまだ曖昧模糊とした心の中だったが、小説と言うひとつの固まり固まりを仕上げるようになって、その中に表現したい意見や思想といったものが形をとって現れるようになってからは、そう混乱することもなくなり、小説が良い形で自分の心に作用していったことがわかったのだった。
 警察に逮捕され、牢に放りこまれたとき、弘隆はまず初めに、他の仲間の安否を確認したいという誘惑に駆られた。なんといっても共に活動してきた仲間である。心配にならないといえば嘘になる。しかし、その仲間だと信じていた人間がそれぞれに疑心暗鬼になり、活動を共にしてきた仲間を売って、自分だけ助かろうとする者の多さに、弘隆ははじめの頃こそ受け入れがたいことと思っていたのだったが、それが人間の本性なのだということを知って落胆していった。
 仲間はありのまま、否、あることないことを喋り散らして、その功績によって早めに釈放されることになったのだが、弘隆はそういった駆け引きが苦手なこともあって、結局、二年間も牢の中で生活することになった。
「お前も取調べで素直に事情を説明すれば、すぐに釈放されるだろうに、何が悲しくて、そんなに口を緘するんだ?」同情してくれる刑務官のひとりがよくそういったものだ。
「貴方にはわかりませんよ。たった一人きりになっても、私はいまの状況を甘受する」
 その頃の弘隆には、融通というものがまるでなかったから、周りから見ていて、あまりに不器用で、そしてあまりに痛々しかったに違いない。
 弘隆は自身の書斎で過ぎし日のことを思い返しながら、去年の暮れにこの家にやってきデモ活動の一団のことを思い出した。
 あの一団にしたって人数が居るから、みんなあれほど活発に活動を起こそうと言う気持ちでいたけど、もし何かで逮捕されるような騒ぎになったとき、あのうちの何人が仲間を売らずに、自身の正義を貫くことができるだろうか? そんなことを考えていると絶望的な気分になってきたため、弘隆はその空想を脇へと押しやり、次の作品のプロットをまとめようと、ワープロの画面をじっと睨んだ。

 美しい紀行文のようなタッチで描く現実直視の文章……。
 そんなものを書こうと試みる今作。弘隆はそのプロットをどうにかこうにか、五月の末までに作り上げた。あとは着想を言葉にのせるだけだ……と弘隆は考える。
 自分の中にどれだけの力が隠されているのか? これまでの小説では出せなかった力を今作ではしっかりと発揮したい。弘隆はそう考えていた。
「美しい物を書こう書こうと力むんじゃなくて、素直に、美しい物を感じ取る心で筆を進めれば良い物が書けるはずよ」と妻の咲子はいった。
 自分でもその理屈はわかると思った。しかし、それにはまず初めに文章を書く姿勢から改めなければならないのではないか、と弘隆は思った。というのも、自分のいままでの書き方は、何か物があれば実直に物があると書くやり方だったのである。それを一八〇度転換して、その物の外面内面双方を把えて、それをどう表現するかに心血をそそぐ。
 これでは自分が長年忌避してやまなかった私小説作家の後を追うだけではないか、と考える。しかしこうも考える。自分の中で忌避していたということは、必ず何らかの大きな原因があるはずだ。その原因を究明して、自分でもそういった文章を作り上げられるようになったとき、自分は本当の作家になったといえるのではあるまいか?
 まずは書いてみることだ、そして咲子に評価してもらえばいいではないか……。
 主人公は流浪の画家、丁度、夏目漱石の『草枕』に登場する主人公に似通っていたが、那古井の町のような旅情感たっぷりの町は望むべくもなく、弘隆は自身が子供の頃から慣れ親しんだ関西の町のいくつかをピックアップして、今回の作品の舞台とすることにした。
 弘隆はその日一杯、プロットに時間を費やした。
 しかし、思い通りになるかどうかは、書き出しの一段落で決まると言っても過言ではない。
 その次の週、弘隆は新しいその小説『(仮題)紀行小説』の執筆に取り掛かる。
 弘隆はそれがもっとも難渋する作業だと思い知った。
 というのも、これまでに書いたことのない小説を書こうとすることと、物語の書き出しというもっとも気を使う個所を執筆するのだという意識がないまぜになって、非常にハードルが高くなってしまっていることを痛感せずにはいられないのだった。
 やがて数時間、うんうんと煩悶した結果、次のような一文が出来あがった。
 ――子供の頃、野山を駆けまわり、容赦ない陽射しにたらたらと汗を流し、時のたつのも忘れて遊びまわっていたあの時代を懐かしく思い返すにあたり、南の空に雄渾に広がる入道雲の大きさ、勢力、威圧感を子供の頃からうらめしく感じつつ、私達はそのどうしようもない無力感を味わいながら毎日を生きていくことを意識せねばならなかったあの日々。
 弘隆はそこまで書いてみて、その一文にどことなく違和感を感じ取っていた。
 書いていることは確かに自分の感慨なのだが、それが本当に小説の書き出しとして適当なのだろうか、という疑問。弘隆はそれ以上追及する気持ちを持たない方が賢明かも知れないと思いつつ、なお数行、文章を書き連ねた。
 しかし読み返してみるとやはりしっくりと来ない。これが自分の文章かと嘆きたくなる。弘隆は無念な気持ちで一杯であったが、思いきって、今書いた文章をすべて消去してしまった。
 なお、一週間ほど、弘隆はその小説の書き出しに悩んでいた。
 スランプというわけではない。同時に並行して書いている日記風の雑記文章は考える前に手が動いて、次々に文章を書くことができているのだ。書けないのは、ただ、これまでとはまったく異なる作風の文章を書こうとしているからに違いなかった。
 書き出しさえ決まれば、あとは筆が勝手に動くという楽天的な考え方もあるにはあった。しかし、何度目かの書き出しのあと、文章を続けようとしても、そこから少しも筆は動き出すことがなかった。これは自分にまったく合っていないのではないだろうかとも思う。しかし、これは自分の少年時代の思い出と慣れ親しんだ土地に対する恋文であると位置付けていた弘隆は、まかりまちがってもこの作品を未執筆で終わらそうとは思っていなかった。
『いついかなる時でも、普遍的に輝く光の世界というものが目路の先に展けている。人はそれをどう呼ぶだろうか? 私は過去と未来とをつなぐ掛け橋であると思いたい。そしてそうであることがなによりも大切な思い出を一段高いところへと押し上げてくれるのだと思っている。これから話す話もそれらの類するような話なのである。』
 弘隆は思い誤って、これは序文ではないかと書きなおした文章を読んで苦笑した。
「今日は駄目だな……」そうこぼすと、弘隆はまた居間の方へ向かった。
 咲子は起きていた。
 真治は相変わらず眠っている。
 弘隆は思いきって咲子に訊ねてみた。
「どんなときに故郷を思い出すか?」とか、
「幼い頃の思い出はどんなものか?」とか、
「初恋の風景はどんなであったか?」とかいった類である。
 咲子は戸惑いながらも、それが現在夫が執筆している作品に関することなのだと察知した上で答えるのだった。
「そうね……この家ではあまりテレビを見ないけど、たまにテレビをつけたときに旅番組をやってて、田舎の地方都市の特集をやってるときなんかに故郷を思い出すわね」咲子は嬉しそうに質問に答える。「幼い頃の思い出と言っては――」
 咲子は夫の満足する答えを出そうと気を張って、質問に答えていった。そしてそれは少なからず、弘隆の創作意欲に火をつけ、やがて萎えかけていた執筆に対する意欲を取り戻した弘隆は、書斎に戻って執筆の続きを行うことにしたのだった。

 しかし、この小説は一年たっても仕上がらなかった。
 どうしても弘隆の肌に合わなかったのだろう。
 弘隆は作品がまったく仕上がる気配を見せないのを苦痛に思い、これはこれまでに経験したことのないほどのスランプではないかと思い至り、そしてそのために精神を病み始めていたのだったが、一番気付かねばならない妻の咲子にしても、まったく夫の変調に気付かず――それも仕方の無いことで、弘隆の精神疾患は目に見えて表に現れてくる種別のものではなく、その肉体の内側をじわりじわりと蝕んでいくようなものであったのだ。
 その頃から、弘隆は何かと咲子と衝突するようになり、気がつけば喧嘩の絶えない家庭になってしまっていた。
 真治二歳、弘隆三十二歳、咲子三十歳のときであった。


novel plaza system
甘辛流小説家ギルドGAIA
produced by COLUN.