神仙綺譚


1 :蒼幻 :2008/03/09(日) 15:05:29 ID:nmz3zmrc

                  ‡ 1 ‡

 茄子紺の壺には茶葉がはいっている。
 この唐の時代、茶はたいへん高価であった。一杯を淹れるために必要な茶葉を手に入れようと思えば、一箇月は働きに働きづめないといけない。また、金が手にはいったからといって、必ずしも店に置いてあるわけでもない。遠き場所から交易船によって不定期に運ばれてくるごく少量の茶葉を、先を争って手に入れるのである。その争いに勝利した青年佳英はホクホク顔で、これで父の怡ぶ顔が見られると満悦の態である。
 店主の顔がまたよかった、と佳英は思い出し笑いをする。
 ――はじめ店に入ったときには、まるで異物扱いでもするような視線で私のことを眺めていた。確かに私はそのような店で茶を購入するのははじめての経験であったが、しかし、それだからといって店主から蔑視の視線をうける理由(いわれ)はない。私だって一介の客なのである。他の者と同じく客扱いをしてくれてもいいではないか?
 佳英ははじめそんな気などまったくなかったのに、少しでも良い客であると認識してもらいたくて、店でもかなり高価な部類に入る茶葉を贖うことにしたのだった。『竜珠茉莉華茶』、それがこの壺に入っている茶葉の正式名称である。崑崙の山の裾野で採れたというその茶葉は、ひとつひとつが珠のように丸くなっており、茶として飲むときには、そのうちのひとつを択んで温めた湯に落とすのだそうだ。すると、花びらがひらくようにゆっくりと葉が展がっていき、それとともに、滋養分が湯にとけていくのだそうだ。佳英の稼ぎでは十個にも満たない数の茉莉華茶しか手に入らなかったが、それで十分である。購入してからの店主の顔は、それまでのぶっきらぼうな表情にかわって、喜びに溢ちていた。
 佳英は現実のことに思いをはせる。妻を亡くしてからの義父はその寂しさを酒で紛らすようになってしまい、昼日中から飲んだくれて、くだをまいている。それもこれも、時代が悪いのだといってしまえば責任の所在はあやふやなものになって、それ以上考えなくて済むのだが、それではいけない気がして、なんとか義父に更生してもらいたいと思っている。
 ――屹度、義父もこの珍しい茶を飲めば、何か感じるところがあるだろう。佳英はその考えに望みを託すのだった。
 しかし、同時にこんな考えも抱く。母の生前中、義父は私のことを思いやってはくれなかった。義父の中では妻の前夫の子供である私など、子供ではないという考えが大きかったのであろう。母と結婚してから数年、義父はいっこうに子供のできぬ母を恨みに思いながら、日々を過ごしていた。そしてようやくにして出来た子供は生まれることなく、母の死とともにこの世から姿を消した。
 それから四年、義父はいま酒に溺れている。
 惰弱な義父だといってしまえば、それまでである。
 しかし、義理とはいえ、父である。出来ることなら、母の生前の頃のあの活発な義父に戻ってもらいたい。佳英はその思いを抱きながら、大事に茶壺をかかえて家までの道程を急ぐのだった。


2 :蒼幻 :2008/03/09(日) 15:05:56 ID:nmz3zmrc

                  ‡ 2 ‡

 自然と早足になる。
 人々は彼が高価な茶葉を持っているとはゆめ思わない。
 通りはいつものように雑踏し、活気の溢れた市の風景が展がっている。そんななか、佳英に目をとめたひとりの老人があった。
 その老人は佳英の姿を認めると、とても老人とは思えないほどの素速さで佳英の行手に進み出た。
 佳英は自分が見られていることに気づかないまま、道をずんずん進んでくる。佳英はできるだけ小さな動きでその老人を躱そうとした。
「あいや、待たれい!」
 老人にはありえない凛とした声がした。
 佳英がその声にびくりとすると、老人は右手をさしのばして佳英の動きを制する。
 佳英は自分が立ち止まろうとは思ってもみなかった。否。立ち止まるつもりなどなかったのだ。しかし、その老人の一喝によって身体の動きを止められてしまったというのが本当のところだった。
 彼は老人の目的がわからなかった。
 そして思い当たる。
 ――この老人はこの壺の中身が目的なのではあるまいか? 佳英は背筋を緊張させた。
「そこの青年よ。そなたには仙骨がある。今後の鍛練次第では羽化登仙も夢ではないぞ」老人の声はとても外見とは似つかわしくない立派な張りのある声だった。しかし、声の大きさと口の動きが一致していない。
 ――どういうことだ? 佳英は困惑気味だ。
 いきなり羽化登仙などという言葉をかけられたのだ。困惑しないほうがおかしい。
 佳英は老人の真意を探ろうと、その立ち居振る舞いから、顔の表情、そして身裡から発する気の流れを感じとろうとしたが、なんら有効な手段(てだて)は見つからなかった。
「フム。貧道(ひんどう)のことが信じられんようじゃな」佳英は聞きなれぬ『貧道』なる言葉の不思議な響きにうっすらと不安を助長された。
 しかし、心のどこかで、これは変転の機会ではないかと思う気持ちも生じていた。
 佳英は常日頃、恵まれない今の生活が、本来自分が打ち込まねばらぬ仕事とは遠くかけ離れたところにあるのではないかという現実との乖離を強く感じていた。
 佳英は、この老人の持つ不思議な雰囲気に威圧されそうになっていた。どこか飄然とした態度のなかにも、芯の強そうな、確固としたものが潜んでいるように思われてならない。その老人はそこらにいる翁(おきな)、嫗(おうな)とは異なると直感していた。
 老人は名を名乗った。「貧道は南華(なんか)霊仙(りょうせん)と申す。人間(じんかん)にあっては蘇晋(そしん)と呼ばれておった」
 佳英はこの蘇晋という老人の語る言葉のひとつひとつに衝撃を受けていた。
 ――南華霊仙? 蘇晋? いったいなんなのだ……。
 佳英は通りを何度も見回してみた。老人は消えることなく、その場に立っている。通りを歩く人は二人のことなど眼中になさそうに、目先のことに追われている様子。
「あなたは仙人様なのですか?」佳英は辛うじてその質問を口に上(のぼ)す。
「ふむ……仙人といえば仙人かもしれんのう。もうこうやって何百年も生きとるからの」南華霊仙=蘇晋老人はとんでもないことをごく自然に口にする。
「その仙人様が、私に何の用です?」佳英の声は老人のそれに負けないくらい凛と響く。
「フフフ、身中に秘めた気の清冽さを感じさせるいい声じゃ」
 佳英は老人が何をいおうとしているのかまったく分からず、ただ心の中に疑問だけが渦巻いていた。
 南華霊仙は口元にだけ笑みを浮かべ、機嫌の良さそうな様子だ。
「貧道は弟子を持っておらん。今回、適当な人間を見つけて同道の士としたいと思っておるのだが、どうだ、そなた? 儂の弟子にならぬか?」
 佳英は戸惑った。いきなり見ず知らずの老人に仲間になれといわれたのだ。戸惑わないほうがおかしい。しかも、相手は自分から仙人だと名乗っている。これではなにか裏があるんじゃないかと疑いたくなるのも自然だろう。
「それで、貴方の弟子になったところで、私に何の利点があるというのです?」
「何の利点があるかじゃと?」南華霊仙は表情を変えずに、口元だけで声の調子を御している。「仙への道は、人生の糧ぞ。ただひたすらに修行に打ち込むことで、美しき心、正しき気、大宇宙の無窮の活動を知ることができるのだ。それをただ利己的に、何が自分の得になるか分からぬから、というのであれば、貧道はそこまでして弟子を取りたいとは思わぬ。それなら、さっさとこの場を離れるが良い」老人はそういうと、たいして悔しそうにもせず、飄々といった雰囲気をまとって佳英を眺めている。
「いますぐ連れて行こうと思ったが、もう少し時間がかかりそうだの。明日の同じ時間、もう一度、ここで待つ。その時に返事を聞かせてもらおうか」老人はそういうと、長くてまるで土の色のような服の袖をパッと飄す。その瞬間に風が湧き起こり、佳英のほうまでその風は流れてきた。
 佳英は思わず目をつむる。
 その次の瞬間、鎌鼬でも起こったかと思うほどの鋭い音がして、目を開けてみると、そこにはもう誰も見なかった。


3 :蒼幻 :2008/03/09(日) 15:06:20 ID:nmz3zmrc

                  ‡ 3 ‡

 佳英は煩悶していた。
 義父が家にいないことではない。正体の知れぬ老人に出くわしたことでもない。その老人の口にした『羽化登仙』という言葉の響きに、子供の頃、おぼろげに感じていた自分だけは他の皆と違う、特別な人間なのだとの考えをふたたび、掘り起こされた形になったからだった。結局、それはあの老人の口車に乗っていることになりはしまいかと感じるのだったが、心の反面では、それもまたいいではないかとの気持ちも働いているのだった。
 いちいちこんなことで気持ちをぐらつかせていたら、とてもではないけど、人生をしっかりとした足取りで渡って行くことはできないのではあるまいか、佳英の心にはこのような思いが去来していた。
 結局、義父が戻ってきたのは、日もとっぷりと暮れ、夕涼みの風も凪ぎ、なべての大地の上の生命という生命が淡い月の光をその身に受け始めた頃だった。
「おう、永徳(えいとく)よ、帰っておったか」と義父は告げる。永徳というのは佳英の字(あざな)であった。「今日の昼間はずっと見かけなかったが、何処へ行っておったんだ?」義父はそういうと、赭ら顔を佳英の方に向けた。
「少し買い物に出ておりました」佳英は控えめにいう。
 佳英はいつ茶を出したものかと思案していたが、食事が済んでからにしようと思い、夕食の準備をすることにした。その準備中に、一度義父が炊事場の方へやってきたのだったが、その時に、また引き戸から紹興酒の甕をとっていくのを見つけ、佳英は何もいう言葉が出なかった。
 佳英は確かに今の自分は不遇だ、と思わずには居られない。しかし、あの仙人のいうような羽化登仙などという大それた事を成し遂げられるほどの器を自分は持ちえているのだろうか? それにいま自分が居なくなったら、いったい義父はどうやって今後、その命を繋いでいくだろうか? そんな心配もあったため、佳英は夕食の仕度をしている間中、気が気でなく、上の空だった。
 夕食は山菜のお粥だった。山菜は一本向こうの通りの外れに住んでいる燐励(りんれい)婆さんが朝早くに皇霊山に登ってとってきたもので、売れ残った物を安く譲ってもらったものだった。正直なところ、茶葉に大枚をはたいたので、今日の夕食代ですらどうしようと思い悩んでいたほどだったから、その婆さんの厚恩は佳英にとってありがたいものだった。
 夕食は滞りなく進んだ。他に川魚の白蒸しというものがあったが、これも昨日、佳英が近くの川で長い間糸を垂れた釣果だった。
 酒が回ってごろりと横になっている義父に対し、いつものように憐れみの視線を投げていた佳英だったが、そんな義父に対してでも、なんとか自分に対する自然な感情を持ち直して欲しいと思い、ここで、今日贖った茉莉華茶を出すことにした。こんな義父でも、茶を飲めば、美しい感情を表に出してくれるだろう、そんな淡い期待を籠めながら、佳英は鉄瓶に水を入れ、沸かし始めた。
 やがて湯ができる。
 佳英は大切に持ってきた茶壺と二つの湯飲みを卓子に置く。それから壺の蓋を開けて、中から丸々とした珠のような茉莉華茶の顆を二つ取り出して、それぞれの湯飲みの中へ落とした。その上から先の鉄瓶の湯を注いでいく。
 部屋の中に茶の高貴な香りが漂い始めた。気のない義父もその匂いに誘われて身体を起こすと、見慣れない湯飲みの中の茶葉を目敏く見つけて、佳英に訊ねかけた。「永徳、これはいったいなんだ?」
 佳英は義父の当然の反応に気持ちをほぐされて、気軽に答えた。「これは茉莉華茶という茶ですよ。お義父さんのために、今日、街で買ってきたのです」
 それを聞いた義父の顔はいきなり顰め顔にかわった。
 義父は人がかわったように怒りだした。「永徳! お前って奴は!」
 佳英は戸惑った。
「こんなものを買う余裕があるなら、どうしてもっと他の事にお金をかけようとせんのだ? わしらが着ているこの着物を見てみろ、ところどころに綻びがあって、土や油のシミがついていて、もう何年前からこの着物を着続けているかわからんのだぞ。それなのに、おまえという奴は! これだから、お前は世間というものをわかっておらんというのだ!」
 佳英は無念と感じ、眼をつむって、義父の言葉を聞いていた。
「この茶葉は儂が預かる。これを金に換えて、他の事に充てるからな」義父は有無を言わせぬ態度で卓子の上の茶壷を奪った。
 佳英は心中、穏やかではなかった。自分は義父との関係を良くするために、この茶を贖ったのだ。それには一ヶ月の労働という厳しい試練があったわけだが、義父の喜ぶ顔を見たくて自分は来る日も来る日もせっせと働いたのだ。それなのに――。


4 :蒼幻 :2008/03/09(日) 15:06:42 ID:nmz3zmrc

                  ‡ 4 ‡

 一晩煩悶して眠ったか眠っていなかったかわからぬ夜を過ごした佳英は、心此処にあらずといった気持ちで、朝の家事を済ませた。朝食を済ませた後、当然の事ながら、義父の姿は見当たらなくなった。
 屹度、あの壺の中の茶を金に換えて、それを飲み代に充てるのだろう。見なくてもわかっていた。義父の長年の習性はその傍で観ていた佳英が一番よく知っている。結局、自分の今回のあては外れたわけだ。折角の一ヶ月の労働が、水泡に帰したのだ。
 佳英はこれまでになく気落ちしていた。どれほど義父に素っ気ない態度をとられようとめげる事のなかった佳英でも、今回の事は本当に心に堪えた。佳英は行き場のない憤りと、進む道を完全に見失ってしまった閉塞感に包まれて、その日の午前を過ごした。
 午になっても帰ってこない義父を待ちつかれて、佳英は簡単な食事を摂ろうとしたが、粥が咽喉を通らない。結局、茶碗によそった粥は一口も口を付けられることのないまま鍋に戻された。
 どうしようもない絶望感に心を擾された佳英は、暗闇の中に一筋の光明を見出したときのように、あの南華霊仙=蘇晋の言葉を思い出した。
『そなたには仙骨がある。今後の鍛練次第では羽化登仙も夢ではないぞ』
 佳英はそれまでそれほど意識していなかったこの言葉に強く惹かれる自分を感じていた。
 あの南華霊仙に昨日出逢った事は運命の導きではあるまいか? 自分がここまで打ちのめされてしまう事を天が存じ上げていらっしゃって、そこに一筋の救いを齎すために、あの南華霊仙をして、吾を仙の道に入らしめようとされているのではあるまいか?
 それは考えてみれば、一方的な、自分に都合の良い考え方だったが、佳英にはそうに違いないという思い込みの気持ちが勝っているようで、そんなことには気づきもしない。
 そのとき、未の刻を告げる鐘の音が丘の上の法勝寺から響いてきた。
 あの老人との約束まであと二時間か――。
 佳英はくよくよ悩むのをやめて、運命に従おうという気持ちを持って家を出ることにした。
 今日は仕事休みだが、明日からはまた働きに働きづめなくてはならないことはわかっていたが、羽化登仙を口にしたあの蘇晋老人に従っていけば、そのような苦しみから抜け出せるような気がしていた。それは苦しみから逃げ出すという一種の逃避行であるようにも見えたのだが、それもいまの佳英には意識されないことだった。考えてみれば、いまの生活にはさまざまな問題点が挙げられたのだが、いまの佳英の目にはそれが不遇が不遇を招き寄せた結果としか映らない。なにがいまの生活を荒んだ物にしているのか。それはいまの佳英には導き出せない無窮の問いだった。
 佳英はいま文無しだった。家に残っている備蓄はあと二日持てば良いほどだろう。自分が居なくなったら義父はどうやって生活していくのだろう、と佳英は考えた。必要に迫られれば、義父は自分で仕事を探そうとするだろうか? しかし、真昼間から酒をかっくらっているあの義父ではどのような仕事もそう易々とは勤まると思えない。そうすれば義父は明日の米にも困ることになりかねないだろう。佳英は慈悲の心を持ち合わせていたから、そのような義父をおいて、自分だけ仙の道に入る事を途轍もない裏切りのようにも感じていた。
 しかし、自分にはどうしてもいまの生活から抜け出したいという気持ちがある。それは身を苛む葛藤だった。だが、佳英はそんな地獄の苦しみを追いやって、自分だけは他の人間とは違うのだという選民的な思想にどっぷりと身を涵していたいという気持ちを抱いた。それは甘い花の蜜だった。しかもそれはたっぷりと毒を含んだ甘い罠。
 佳英は蘇晋老人との約束の時間まで、あと三十分というところで目的地に着き、そこでしばらく物品を見て気を紛らわすことにした。


5 :蒼幻 :2008/03/09(日) 15:07:01 ID:nmz3zmrc

                  ‡ 5 ‡

 そこは戦いの時に用いる戈や槍や盾を扱う武具の店だった。生来、戦いとは無縁の生活をしていた佳英には、見るものすべてが珍しく、老人との約束の時間が来るまで、それらの物品を眺めていた。
 そして約束の時刻、佳英は通りに出て、昨日、老人が大音声で佳英を呼び止めたあの道筋で老人が現われるのを今か今かと待ちわびていた。しかし、約束の時刻付近になっても老人が現われる気配はまったくない。
 ――まさか、たばかられたか? 佳英は心ならずもそう感じた。
 しかし次の瞬間、その疑いは霧と変じた。
 突如鎌鼬のような突風が湧き起こり、空を切り裂くような音がしたかと思うと、そこに南華霊仙の姿を認めた。
「ほっほっほっ、青年よ、昨日ぶりじゃの。あれから考えは変わったか?」仙人はそう告げる。
 佳英は昨日の事が夢ではなかったかと疑う気持ちが強かったので、またこのように約束の時刻に姿を見せた南華霊仙を見て、彼を敬う気持ちが新たになった。
「はい、私はもうこの世に未練などありません。できれば貴方様についていって、仙の道を窮めたいと思います」佳英はそう云いながらも、心の中で義父のことを思い描いており、これは彼を裏切る行為だという思いを深く感じていた。
 南華霊仙は「フム」とだけ云うと、神妙な顔つきになって佳英のほうをじっと見た。その視線は心の奥底まで見透かすように透徹したもので、そのまなざしの力に佳英は射すくめられるような思いがした。
「そなたには係累がおるようじゃの」仙人は唐突に云った。
「居たらどうだというのです?」と佳英は受け答えた。義父のことを指摘されてつい感情をむき出しにしてしまったのだった。
「これは貧道の失敗じゃの。心を煩わすものがおる身で、道を修し畢えることのできる者は滅多におらん。それはそなたではないと云い切ることはできんが、貧道は昨日のそなたを見て、この青年ならば立派にひとり立ちできると思って見込んだのじゃ。しかし、それは誤りであった。そなたにはそなたの世話を必要としておるものがおる、そのような身でこの道に入れば、きっとその人間の悪念がつきまとって、まともなことにはならんじゃろう。悪い事はいわん。この話は諦めて、家へと帰るがよい」仙人はすげない態度をとった。
 佳英は目の前が真っ暗になったような心地がした。
 自分には確かに、自分の世話を必要としている義父がいる。しかし、その義父も働けない身の上ではないのだ。自分に降りかかった不幸に押しつぶされて、自分で自分の身を駄目にしている駄目な父親なのだ。そんな義父をこれから先も世話していかねばならぬと思うと、気が沈んでしまいそうだった。義父の面倒を観るのはもう沢山だった。そんな思いがあるからこそ、昨日の今日、こうして老人に会いに来たというのに……。
 佳英はどうしても、老人に弟子にしてもらいたいと頼み込もうとした。
 しかし、次の老人の言葉は意外なものであった。
「青年よ、貧道はそなたの名前すら知らんが、そなたの身裡に秘めている清冽の気を見誤ることはないであろう。不遇の身の上でありながら、その働きに身を打ち込むこと大である事はそなたの目を見ればようわかる。その世話をせねばならぬ係累との関係が切れたら貧道はまたそなたの前に姿を現そう。それまでは、嵩山の高みで霞を食らって余喘を保っていよう。なに、時が過ぎるのはあっという間じゃよ。それまでは自分の身を打ち込むことに専念せよ。貧道は南華霊仙。南華経の訣をそなたに授けておこう。それを常日頃思って仕事に打ち込むのじゃ。劫成った暁には、そなたを迎えに来よう」
 そういうと、南華霊仙はひとつの言葉を誦した。
「何居乎、形固可使如槁木、而心固可使如死灰乎(何ぞや、形はもとより槁木の如くならしむべく、心はもとより死灰の如くならしむべきか)」
 佳英は言葉の細部の意味はわからなかったが、その訣をしっかりと自分のものとした。
 南華霊仙に別れを告げると、佳英はまた再会できる日を心待ちにしております、といった後、家のある方角へと向かって歩きだした。
 不思議と心は晴れ晴れとしていた。いまから思えば結果論だが、自分があの仙人に連れられて修行の道に入っていたなら、きっと後悔していただろう。それは義父の生命を弄ぶような好意であり、決して、人から褒められるような、敬われるような立場には立てなかっただろう。それが目的ではないにせよ、そんなあやふやな立場で修行を積んでいれば、きっと好くない災い、業障が現われていたことであろう。佳英は南華霊仙に感謝の念を抱いた。
 ――今日は義父に何を作ってやろう。夕暮れまでにはあと少し時間があるから、また絲でも垂れるとするか。佳英はそう思いながら、西に向かおうとしている太陽を仰ぎ見て、春の好日の過ごしやすさに、心をうきうきさせるのだった。


6 :蒼幻 :2008/03/09(日) 15:07:23 ID:nmz3zmrc

                  ‡ 6 ‡

 五年後、義父は亡くなった。
 酒をやめる事ができず、肝の臓を患って亡くなったのだった。
 佳英は親戚と近所の人々を集めて簡単な葬儀を執り行い、二年間、喪に服した。
 佳英が人との交わりを断じ、四つ足の生き物を弑する事を罷め、喪が明けたときには、人びとは佳英の姿に驚愕を隠しきれなかった。
 その透き通るまなざしに秘められた透徹した光はただ真実のみを見つめるために存在しているような趣きであり、その立ち居振る舞いは風に揺れる楡柳のごとくで、なんら人の心を聳てるものがなく、南華霊仙の見通したその清冽の気はますます意気軒昂といった感じで、佳英の身裡に宿っている聖なる火と見まがうばかり。
 もともと人とは異なった考え方をしていた佳英だったから、そのような超然の気をまとっていたとしても、なんら不思議ではなかった。これまでは義父の影響下にあったために阻害され、表に出てこなかったものが、こうやって、なんら邪魔されることなく出ていることは、佳英にとっても本当に自然なことであった。
 佳英は南華霊仙との約束を片時も忘れた事はなかった。
 いつか彼が迎えに来てくれるという思いを、喪に服していた時期、いや、義父の存命中であっても強く抱いていた。その思いがついにかなう時がやってきた。
 それは佳英が人との交わりをふたたび持とうと決意した日と同じ日だった。
 佳英は意識することなく、あの仙人と初めて出くわした通りを歩いていた。そのとき、一陣の風が吹き、佳英は思わず目を瞑った。その目をふたたび開いたとき、佳英はあの仙人の姿を認めた。
 それは数年前と変わらぬ蘇晋老人の姿だった。その顔に刻まれた皺の数も増えず、あの時見た老人の姿に瓜ふたつであった。佳英は思わず、うなり声を出してしまった。
「久しぶりじゃの、青年よ」老人は相変らず、朗々とした声で云った。
「会える日を今か今かと待ちわびておりました」佳英はそう告げる。
「ふむ……係累との別れの悲しみを断ち切ったようじゃな?」老人は佳英の心の奥底を見透かしたようにそう告げる。
 佳英は募る思いをここで告白したいような気持ちに流されそうになったが、なんとか思いとどまった。もう何年も前からの知り合いではあるが、まだ数度しかあったことのないこの仙人に、自分の思いを打ち明ける事が、相手の迷惑にならないとも限らないとの気持ちが働いたからだ。しかし、この南華霊仙に対しては祖父に対するような親密の情が滾々と湧いてくるのを止めようがなかった。
「仙人様にはお変わりありませんか?」佳英は丁重に訊ねる。
「いや、貧道はいたって健康そのものじゃ。そなたこそ、何か変わりはないかの?」
「身内を失って身も心も軽くなりました。何ももう煩わされるようなことはありませぬ」佳英はそう告げると、にっこりと微笑んだ。
「それでは約束どおり、仙の道を修してもらおうかの」南華霊仙はそう云うと、殆ど跫音も聞かせないまま、佳英の方に歩み寄ってくると、その肩を掴んで、自分の方へ引き寄せた。
 佳英はその瞬間に頭をぐらっと揺らされたかのように蹣跚いて、思わず目を瞑ってしまった。すると、もう耳慣れた鎌鼬の如き音がして自分の身裡を風が掴むのを感じとっていた。佳英はおそるおそる目を瞠いた。
 それは信じられない光景だった。
 眼下に芥子粒か胡麻粒のような大きさの人びとが通りを進んでいるのが見え、家々の並びはまるでゴミ屑のように小さく、佳英はこんな光景を観るのは初めてだったので、興味を抱くと共に、恐怖心もそれなりに心にわだかまっていた。
「仙人様、これは落ちる事はないのですか?」佳英はおそるおそる訊ねる。
「貧道が手を離せば、或いは、落ちるかも知れぬの、フォフォフォ」南華霊仙は興がるように笑った。
 佳英は恐怖で背筋が縮み上がるのを感じていた。
 目的地は嵩山の巓付近の洞穴だと聞き、佳英はいよいよ仙の道がはじまるのだな、と感じ始めていた。


7 :蒼幻 :2008/03/09(日) 15:07:45 ID:nmz3zmrc

                  ‡ 7 ‡

「仙人様、いつまでこれを続ければ良いのです?」
 佳英は今月に入ってから何度目になるか分らぬ質問を、また口にのぼせた。
 佳英は站椿(たんとう)という修行法をひたすら続けていた。
 しかし站椿というのは地味な修行で、足を肩幅に開き、膝を曲げて腰を落とし、その姿勢で何時間も呼吸を整えながら気を練るのである。佳英はその修行法の地味なところが少し気に食わなかった。仙の修行といえば、雲に乗る修行だとか、千里を見渡す視界を得る修行だとか、そういう見た目にも派手な修行こそ似合うと思っていたのに、やることといったら、外界で武芸者がひたすら行なうような修行ばかり。これではやる気がでないと思い始めていたのだったが、しかし、ここから懶けの心が出てしまったら、今後の修行に差しさわりが出るに違いないと思いなおし、真剣に修行に明け暮れることにした。
 站椿を始めて三年。佳英はもう三十になっていた。下界にいれば、とうに嫁どころか、子供もいそうな齢だった。しかし佳英には下界の生活に未練はなかった。とうに断ち切るべき係累はおらず、天涯孤独の身の上となって、この修行に身を打ち込んでいるのである。そんな佳英にも近頃、奇妙に思う事があった。南華霊仙のことである。
 南華霊仙は佳英の為に、魚や穀物、時には四つ足の肉といったものを調達してきてくれるのだが、それがどこから入手されたものなのか、さっぱりわからないのであった。そして、それだけでなく、それらの物品はすべて佳英の腹の中に収まるばかりで、ひとつも南華霊仙は口にしないのだった。いや、口にしているかもしれないが、佳英の見ている前では、決して食べ物を口にしないのだった。
 ある時、思い切って佳英は霊仙に訊ねてみた。
「どうして貴方様は食事を摂られないのですか? 摂らなくても大丈夫なんですか? もしかして、不老長寿の法をすでに修しておられるとか?」
 佳英は質問攻めになる自分を抑えられなかった。
 南華霊仙は嫌な顔一つせず、素直に答えてくれた。
「貧道は尸解仙(しかいせん)と呼ばれる種別の仙人なのだ。仙人としては位はもっとも下だが、一度死んで生き返ったため、もうこの世では死ぬ事はない。何も貧道の身体を傷つけることはできんということじゃ。勿論、この貧道でも、黒がねの刃で一突きにされれば命は失うやもしれん。しかし、それ以外の何物でさえ、貧道の身体を侵す事はできんということじゃ」
「尸解仙……一度死んで生き返るとは、いったい、どのような心地のするものなのでしょうか?」と佳英。
「貧道はある者の恨みを買って毒を盛られて死んだのだ。自分が死ぬのだと云うことを意識する暇もなく、倒れてしもうた。しかし、それを不憫に思った姉が貧道の亡骸をこの嵩山の霊樹の根方に埋めてくれたのだ。この嵩山というのは不思議な土地でな、この霊樹のある付近とこの洞窟とは、洞天福地(どうてんふくち)といって、大地の気――いわば龍脈といったものがある恵まれた場所でな。いろいろと不思議な作用を生き物に齎してくれる土地なのじゃよ。貧道の肉体もその大地の精気なる物に觸れて、不思議な作用を起こしたのじゃろう。一度失った命を吹き返した肉体は、ふたたび活動を起こして、貧道に生きる気力を齎してくれたのだ」
 佳英はこのように饒舌に語る仙人を見たことがなかった。それは南華霊仙が心に秘めていた思いで、誰かにその思いを語りたいと長年思い続けていたことだったのであろう。
 南華霊仙はさらに続けた。「生き返ってからの貧道は、自分に様々な力が宿っていることに気づいた。それは今から思えば、龍脈に流れる大地の精気が結晶した力じゃったのだが、始めはそのことに気づけず、その力を持て余しておった。次第に自分の力が明らかになっていくうちに、これは誰かの為に役立てねばならんという気がしてきた。この洞窟に栖んでおった師匠に弟子入りしたのもその頃だった。師匠はこの道の大家でな。いろいろな仙道を教えてもらったもんじゃ。毎日が楽しかったの。しかし、その師も十年ほどで亡くなられた。老衰じゃったのだよ。悲しかった。そして、その頃に、気づいた。もう何年も食べ物を口にしておらぬな、と。食べ物を摂取しなくても大丈夫な身体になっていたことに改めて気づかされたのじゃ。それは不思議な気持ちだった。あれほど以前の自分は食べ物を口に入れることに無上の喜びを覚えていたというのに、一旦、死んで蘇った後は、どのような食べ物にも興味が湧かなくなっていた。気がつけば、呼吸しているときに吸い込む気の中に含まれる水分だけが貧道の滋養のもとになっておった。そなたもここでの生活を続けていけば、そのうち食に対する欲も薄れてくるじゃろうて……。ふぉふぉふぉ」南華霊仙はそう云うと、煙に巻くように佳英の目の前の食べ物を指差していった。「試しに、今日の食事を抜いてみるか?」


8 :蒼幻 :2008/03/09(日) 15:08:09 ID:nmz3zmrc

                  ‡ 8 ‡

 もうあれから七年の歳月が過ぎた。佳英は三十五に近づいていた。
 近頃では気の温養も順調に行う事ができ、臍下三寸に溜めた気を自在に行使することができていた。站椿もある程度形になり、仙の修行は、この洞天福地の地の利もあって、下界の数十年分の修行と同質のものとなっていた。
 この嵩山の洞窟は自然に出来たものなのか、それとも人の手が加わって出来たものなのかいまいち判然としなかった。しかし、その洞窟の奥には直径九メートルほどの洞があり、そこにはいつの時代の物とも分らぬ、不思議な石像が置かれていた。
 それは女神像だった。どの宗派の像なのかはっきりしなかったが、それがとてつもなく素晴らしい出来である事は、その意匠の巧みさからも充分にわかった。下界であれば、人びとから愛し敬われる存在であろうと思われた。
 佳英はその像を一目で気に入り、一ヶ月に一度、修行の合間に、手入れする事を怠らなかった。沢から水を汲んできて、いらなくなった着物の布を絞ってこまめに埃や汚れを落としていく。その勤めが報われるのは、いつもその作業を終えて、最後に総点検したときだった。穏やかな微笑みを湛えた女神は、いつも温かい慈愛のまなざしを投げかけ、観る者を温かな気持ちにする。
 今日もそんな一日になるかと思っていたが、汚れを落としている最中にふと目をやると、女神像の背面に一本真直ぐに線が入っていることに気づいた。これまでにその筋に気がついた事はなかった。佳英は突嗟にこの女神像には仕掛けがなされているのだと云うことに気がついた。
 その筋を辿っていくと、思ったとおり、長方形の形になっていた。その表面を仔細に調べ、なんとかなりそうだとの感触を掴むと、佳英はその四角の部分を引き抜いた。
 果たしてその中には、三巻の巻物があった。
 題を確かめると『太元経』と読めた。三巻のそれぞれに、『天の章』、『地の章』、『人の章』と記されている。
 佳英はこれを南華霊仙に知らせたものかどうか悩んだ。あれこれ思い悩んで、佳英は『天の章』だけをその像から取り出し、残りはもとあった場所にしまうことにした。
 その話を切り出したのは、もう佳英も食が細くなり――決して衰弱したためとか、病気にかかっているとか云うのではなく、この洞天福地の影響下にあるためだった――、いまでは数日に一度きりの食事の時間に当たっていたその日の夕刻のことだった。佳英は懐から『太元経 天の章』を取り出すと、南華霊仙に見せた。
 南華霊仙は一体なんだというような表情を一瞬見せたが、巻を繙き、目で追ううちにそのまなざしは真剣な物になっていった。
「これをどこで?」南華霊仙の興味はまずそこだった。
「掃除をしていて見つけたのです」佳英は言葉を濁した。
「ふむ……。ここには天の章とあるが、他にはなかったのじゃな?」霊仙は念を押す。
「私が見つけたのは、これだけです」佳英は嘘をつく事がこれほど悪い気分になるものだとは知らなかった。しかし、心の片隅で、これを師匠に見せたのは失策だったかもしれないという気持ちも同時に浮かんでいた。
 その思いを助長するように、明らかに、その『太元経』の一巻を見せる前と後で、師匠の目つきが変わっている。人は心変わりする生き物だとは、人間(じんかん)にいる間にもよく聞かれた言葉だったが、道を修した仙人ですらそういうことが起こりうるのだから、弱い人間の心が簡単に変わってしまう事は、何も不思議な事ではない、と思われるのだった。
「とりあえず、この書籍は貧道が預かろう」南華霊仙はそういうと、懐に巻物をしまった。
 その様子を見た佳英は、それがあの女神像に対する冒涜であるように受けとった。それは自分が見つけたものであり、正しい行いから得た報酬――いわば戦利品であり、それを手にする資格を有しているのは、自分だけだという気持ちが心に湧き起こったのだった。
 それからことあるごとに佳英は仙人に自分の渡した巻物――『太元経』を返してくれるように云ったのだったが、仙人は巧く云い逃れて、一向に返す気配がない。佳英はある日、我慢に限界が来て、仙人の寝室に忍び入ってこっそり巻物を取り返そうと思った。その行為は褒められることではなかったが、しかし、佳英にはあの女神像の神々しい姿に操を立てたいという気持ちが大きかった。


9 :蒼幻 :2008/03/09(日) 15:08:30 ID:nmz3zmrc

                  ‡ 9 ‡

 師は眠りこんでいた。
 師の寝室に忍び入るのは初めてのことであったから、いらぬ緊張のしてくる佳英であった。しかし、どこに何が置かれているのか、あらかじめ、予測は立てておいたので、短時間のうちに、さまざまな場所を捜す事ができた。常に身から離さず持っているということは考えにくかったので、必ず、この部屋のどこかにあると確信していた。
 そして佳英は匣の中に入った巻物を見つける。佳英はその巻物を確認すると、師の部屋から出た。そうしてこれからどうしようと思ったが、それ以上、ここにいるのは危険だと感じられた。師――南華霊仙のこの巻物に対する執着は相当なものがある。それは侮ってはならない。侮れば自分の死を招くかもしれない。死を招くとは穏当でないが、確かにそう疑ってかかってもいいだけの材料は揃っている。そう考えた佳英は下の女神像のある処へ行き、あの四角形の切込みをあけて、中から『地の章』、『人の章』を取り出した。
 三巻を懐に入れて、佳英は洞窟を出た。
 一夜、歩き詰めで麓に辿り着き、そこの近くにある家で休ませて貰うことにした。その家に着いたのは、もう日もかなり高くなり、普通の人間なら農作業や行商にでているような時間帯であったので、この家の主人がまだどこにも出掛けず、ゆっくりしていたことは僥倖といってよかったかもしれない。これも日頃の善行の報いと思い至り、佳英は心の底から感謝の念を新たに沸き起こしていた。
 日が沈んでから佳英はその家を後にした。主人には世話になったといい、この嵩山に修行に来る前に持っていた僅かながらの金銭をその主人に与えた。どこの家も貧しい時期だったので、その主人は大層喜んだ。
 日が暮れたころ、出発した佳英は、途に寂れた湖畔を通りかかった。
 折しも月明かりが湖面をきらめかせている時間帯だった。佳英はその脇を通りながら、数年前の流行の曲を鼻歌で歌いながら、途を急いだ。しかし、どうやら行手に人が立っているのが見受けられた。それも満月という明かりがあってのことだった。その人物はまだ遠くてどんな姿格好をしているのかわからなかったが、近づいていくうちに、予感は不安へと変わっていった。それはまさしく南華霊仙だった。
 仙人は眉間に皺をよせ、何事か煩悶するかのように、口元をもごもごと動かしている。呪詛でもするつもりなのだろうかと、佳英は疑った。しかし、いくら仙の道を究めた老師であろうと、人を呪い殺すような強烈な呪詛などをよくするとは思えない。佳英は必要以上に怖れる事を止まり、なんとか意識を正常に保った。
 佳英が何もいわずに立ち止まっていると、霊仙が口を開いた。
「何ゆえ、あの洞窟から脱け出した? 貧道はそなたに目をかけて、ここまで育て上げたというのに、何が不服だというのだ?」
 佳英は一戦交えることも仕方ないと考え始めていた。この霊仙の前ではどのような隠し事も白日のもとに晒される運命にあるだろう。そうであるから、これ以上、物事を隠す事は無駄であろうと思われ、佳英は正直に話すことにした。
「それは、実は、私が貴方様に見せた巻物ですが、これには全部で三巻あり、そのうちの一巻を択んで貴方様に見せたわけであります。その巻物には様々な道の修し方について書かれてあり、修行中の身である私にとっては非常に有益なものであると思います。それなのに、貴方様は巻物を預かったまま返してくださらなかった。私は不満を募らせていったのです。これは私があの女神像から承ったもの。それを第三者に持っていかれていることに我慢がならなかったのです」
 そう云い切った佳英に後悔はなかった。
 当然、怒りに顔を燃え上がらせているであろうと思われた南華霊仙の顔に瞋恚の表情はなかった。
「フム……」南華霊仙は溜息をついた。「何か、思い違いをしておるようじゃな」
「えっ?」佳英はなんのことか飲み込めずに、問い返した。
「この巻物は貧道の師の師、瑟夕(しつゆう)女仙が書いたものだ。貧道の仙道の血脈の大本の流れを汲んでおる人物じゃよ。貧道はその巻物の存在を遥か昔から知っておった。しかし、どこにあるかまではわからずにおった。佳英、そなたが見つけるまではの。初めに見たときに、この一巻しかなかったのか、と訊いたのは、この巻物が全部で三巻あることをあらかじめ、貧道の師匠に伺っておったからじゃ。『太元経』。この貧道の流派はその名も太元道。根本経典は別にあるのだが、その傍流ともいえる書籍がその太元経なのだよ。貧道がそなたに渡されてずっと手にしておったは、何も手放すのを惜しんでの事ではない。その巻物こそ、貧道の流派の真の持ち物であると思ったから、貧道が保管しておったまでのこと。そなたのことを考えていなかったのは貧道の失策じゃが、それでそなたとの仲がこじれるほど悪因縁が生じたわけでもあるまい。さあ、あの洞天福地に戻ろうではないか」
 佳英はここが運命の分岐点だと思った。
 自分はどういう選択でもすることができる。
「あの師匠……」佳英は思い切って云いだした。「私はもうあの場所には戻りません。確かにそのままあの地に居て修行すれば羽化登仙も夢ではないでしょう。しかし、私はこの数年間で、あの無味乾燥な修行の日々に面白さを見いだす事ができませんでした。これからは下界に降りて打ち込むべき仕事に打ち込んで修行を積みたいと思います。これからの生活は修行の延長上にあると思いたいのです。私になにができるかはまだわかりません。しかし、この巻物を参考にして、独自の道を切り拓いていきたいと考えているのです」
 そう云い切った佳英に思い残すことはなかった。
 このまま南華霊仙に殺されても文句をいうことはなかっただろう。
 しかし、南華霊仙は大人しく引き下がった。「そうか……同道の士ができたと喜んでおったのだが、それは残念じゃ。しかし、こうも思う。そなたは下界でこそ、光る人材なのではないかとな……。これまでの仙の修行を無駄にせぬようにな。そして、『太元経』はそなたへの餞別ということにしよう。その巻物を失う事は非常に残念だが、しかし、それでそなたの劫が成るというのなら、それもまた佳しじゃろうて。では貧道は行く。達者でな」
 そういうと、霧と変じて霊仙の姿はなくなった。
 あとには一陣の風が湖面を渡ってくるばかりだった。
 鏡のような湖面には細波が立ち、月明かりは無辺際の慈悲の光を落としている。
 佳英は懐の三巻の巻物を大事に抱えて、月明かりの中、自分の生家へと急ぐのだった。
 義父はもう居ない。一からの生活が始まる。これからの人生に潤いはあるだろうか? なくても構わない。人生のどのような場面も修行と感じ入れば、耐えられないことなどないのだから。
 佳英はそう思い、しっかりと地を踏みしめて歩いていく。

(了)


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