月花譚


1 :蒼幻 :2008/02/10(日) 16:26:16 ID:nmz3zmrc





 古来、美しく儚いものの喩えに花が引き合いに出されることが多かった。花といってその最たるは桜か。桜はその白き花弁の美しさもさることながら、風に吹かれて飛んでいく一枚一枚の花弁の風情そのものが観る者の心に寂の一字を想起させる。また桜を愛でるのに月下をしてなされることも、風情のあるものとして、古来より、人々の間に愛好されてきたのである。
 月を賞で、花を愛で、げに貴ぶべきは自身の心か――? 美しき物を傍に置きたいとするのは、万人一致の心根であるに違いない。そして、常に、身の回りに花を欠かさぬ人というのに、悪い人はおるまい。花を愛でるには、まず、自身の心に余裕がなくてはならぬ。余裕のない、日々の生活を送るに齷齪しているものには、まず、この花を愛でるという行為自体が、無駄で、非生産的で、どうしようもない道楽のように思われることだろう。しかし、そうではないのである。花を愛でることこそ、人が普段、生活の中に置き忘れている、惻隠の情を取り戻す一助になるのである。そして、日々、変化する日常を的確に捉えさせ、世の有情無情を認知させ、自身の存在の尊さに気づかせるのである。
 石楠花、睡蓮、小菊、木蓮、芍薬、女郎花――。
 花にはそれぞれ存分があり、美しさは十種十様。愛で方にもさまざまあり、それがまた人の心を喜ばせる。そして、午に観る花と、夜に観る花とでは存外、同じものでも異なるのである。その妖艶さを加味する具合、それは花それぞれに持っている特性によって変わってくるかもしれないが、それもまた、可憐なる呪いとでも云うべき、美しきものには魔性が乗り移るとされている女性の魅力の如きもので、人の心を惹き付けてやまぬものであろう。
 花の一生は、人のそれに較べて、実に儚いものである。その生涯最高の時はまさに、一瞬の光輝に譬えられる。それは人生に於いてもそうではないか、と感じられることが多々ある。稚い青春の盛りを過ぎると、人は老衰に向かって一直線に突き進む。その間に、あの青春の頃の光輝は一瞬たりとも帰ってこない。否、帰ってくるように見える瞬間でも、やはり肉体がそれについてこれず、青春の頃のようにはいかないものである。一瞬の光輝、それは一過性の、大きな輻輳たる運命が見せる一時の充実ではあるまいか? 人はその充実した時期を過ごした後、その焼き増しされたものを目前に見せられながら、徒に時を過ごしてしまうものではあるまいか?




 美しく白い桜の花びらが、折からの南風に吹かれて、儚く散っていく。
 月は寂蒔として南の空高くにあり、その絵画的の一幕を見戍っている。
 画家が画布に描いた様なその景色の中に、一人の青年が佇んでいる。青年は観たところ、二十五、六といった印象。明眸皓歯、桜の植わっている湖の畔に立って、湖面に浮かぶ桜の花びらを眺めている。
「ああ――」青年伯備は嘆じた。「これも有情無情の為せる業か」
 伯備は美しいものを愛でながら嘆くという人間特有の欠点に陥っていた。
 伯備は都に有る鎮守府の役人の一人だった。仕事としては人物の登用を担当していたのであったが、今回の外出も、西の大連という街のすぐ傍に、庵を構えている人物がおり、その人物が殊の外優秀であると云うことが噂されていたため、その登用のためにわざわざ出向いたのであったが、仕事は失敗に終わったのである。そんなことがあったために、伯備は少し気落ちしていた。
「美しきものを観て美しいと素直に感じとることは、それだけで一つの才能だ。その才さえあれば、大抵のことは乗り越えられるだろう。いつでも、心に余裕を――だ。しかし、己の心は独り愉しまない。何が不足しているのであろうか?」伯備は独言とも取れる言葉をそっと風に浮かべるように口にした。
 確かに平時、己は物を愛でると云うことを、心の鍛練の一つと思い為してきた。しかし、いったいこの偏狭な心はどこから生まれたのであろう。自分ひとり愉しむことの惨めさ、儚さ、物足りなさ。己はいったい、どうなってしまったんだ? 伯備は指で目を押さえると、そのまましゃがみこみ、顔を俯けた。伯備は心の中で葛藤していた。いったい、何が起こったのだ? 己の心に魔障が棲みついたとでもいうのか?
 時は草木も眠る深更だというのに、不図、背後で物の動く気配がしたと思って振り向くと、そこには一組の男女が手を取り合って立っているのだった。何者だ――? 伯備は近くに民家の明かりのひとつも見えなかったことを思い出し、その二人の存在に異質な物を感じて疑念を持った。
「御機嫌よう――」男の方が口を開いて、伯備に挨拶をはじめた。「私どもはこの近くの村に住む夫婦で、私は李庸、こっちは妻の阿香と申します」李庸と名乗る男には、少し寂しげな影がその声に滲んでいるようだったが、その詠うような響きは、その言を聞く者の心に、心地よい清涼感を齎してくれるのであった。
 伯備はこんな時間に夫婦揃って外出しているその怪異さに妖しいものを感じていたのだったが、それは敢えて訊かぬことにした。「私は都の人間で、鎮守府の役人をしている伯備という者だ。この辺りの者には訝しげな人間に見えるかもしれんが、何、私は誰に危害を加えようとするような暴威の人ではない。安心して欲しい」伯備は初対面の者に対して、礼を失さないように注意しながら、夫婦にそう伝えた。
 稍あって、李庸は伯備の傍らの、桜の大樹を見上げた。その瞳には、言外に情を残すもののような、云い知れぬ思いが渦巻いているようであった。
「この桜は立派ですね」伯備は言わずもがなのことを云った。
「そうですね、この桜はもう何百年もこの土地を見戍っているのですよ」李庸はこの桜を褒められたことに自尊心をくすぐられたかの様子で、自信たっぷりにそう語った。
 しばらく二人して桜を見上げ、そこから伝わってくる印象に心を添わせていたのだったが、その沈黙を破ったのは、男の妻阿香であった。
「桜の花も月の光を浴び続けていると、妖精のようなものになって、私たちの心を愉しませてくれるのではありませんこと?」その言葉には、甘くて柔らかな一顆の果実のような魅力があった。
 伯備はその阿香と云う女性の声に、懐かしさを喚起された。それはまだ稚かったとき、もう今は越してしまって行方も知れぬようになってしまった娘だったが、二歳年上だった麗晨姉さんを思い出していた。昔は暇さえあれば、もう一人同い年の郭槙を誘って三人で遊んだものだった。その麗晨姉さんが恰度、この阿香のように不思議な魅力を持った声をした女性だったことを思い出した。
 伯備は稚い頃の憧れの気持ちを、甘酸っぱい思い出としてその心の裡に甦らせていた。まだ男女の関係を知らぬ幼き日のことであったため、その時にはまったく気がついていなかったのだが、後から考えてみると、それは伯備の初恋であったのだった。そして、麗晨が越してしまった後、どうしようもない無力感に襲われて、三日間寝込んでしまったことも、今ではほろ苦い思い出だった。そんな麗晨に瓜二つとはいかないまでも、どこかその面影を垣間見せる阿香の外貌に、伯備は邪な感情の宿るのを否めなかった。
 しかしそれは、不可抗力であり、また、歓迎されるべき思いではなかったにせよ、人ならば、およそ誰でも抱くであろう、性欲というもののなせる業であるに違いなかった。だが、伯備はその感情に流されてしまうほどの、蛮人とは異なっていた。経書を諳んじ、武技を修め、一己の人間として最低限守らねばならぬ、礼儀、常識、倫理と云ったものを兼ね備えた人間であった。
「桜を妖精に見立てるとは、阿香さんはなかなかの詩人ですね」伯備は微笑みながら阿香を見遣った。
 阿香はその顔に妖艶とも云えるような微笑みを浮かべて、伯備の方をじっと見た。その表情には凛としたしなやかな力強さと云ったものが垣間見えたが、それは気のせいかもしれなかった。阿香の表情には、どことなく、救いを求めるような、又、人を拐すようなものが見え隠れしているようであった。
「いえ、この桜には本当に、怪異な話が付きまとっているのですよ」李庸は真顔になって伯備に云った。
「怪異な話……」伯備はどういうことなのか、詳しく知りたいと云うように、身を乗り出して、続きを期待した。
「それはこういう話なのです――」李庸はゆっくりと口を開くと、静かに語り始めた。「――それは満月の夜のこと、春宵という言葉がまさしく似合うような、空気の澄みきった春の夜のこと。これは私が自身で経験した話でも、知人から聞き知った話でもなく、この辺りの村の老人が子供たちに向かって繰り返し話すような昔ばなしに似た趣のある話なのです」李庸は前置きともいえる言葉を発し、伯備の様子を窺った。伯備が自分の話に聞き入っていることに満足した李庸は、そのまま、何も云わずに続けた。
「それは恰度、今日のような美しい春の宵のこと。今日と異なるのは、薫風とも云うべき南風がまったく動きを止めたことと、辺りの空気が時間の枠外に存しているように思われることぐらい。一人の旅の青年が桜の樹の生えた湖の畔に腰を下ろし、少し休憩していました。誰も青年に声を掛けるものはなく、道は人の往来も絶え、青年は落ち着いた時間を過ごすことが出来ていたのです。そこへ、いつの間にか独りの娘が青年の脇へ姿を現し、座ってもいいかと逡巡するように顔を俯け、目を細め、秋波を送る様子。青年は言葉も発さず、一つ頷くと、娘のために少し横へ身体をどけてやりました。しばらく二人は会話をすることもなく、湖面に浮かぶ桜の花びらを見るともなく眺め、そして、悠久の時の流れの中に自身の心を置いていました。幾時が経ったでしょうか? ふと横を見ると、娘の姿はなかったのです。青年は夢を観ていたのだろうか、と疑いました。しかし、娘が座っていた辺りに手をやると、確かにぬくもりが感じられます。青年は夢ではないと強く意識しました。だが、娘が何者だったのか? それは永遠に答えの出ない問いのように感じられました。青年は娘の肌が白磁のように美しかったことを思い出しました。そう、娘の肌はこの桜の花びらのように白く透き通っていたのです。青年は下から樹冠を見上げました。桜の樹は枝をしっかりと四方に差し伸ばし、その枝をびっしりと桜の白い花弁が覆っているのでした。男は不意に、娘が桜の精ではなかったか、と疑いました。そして、その思い付きが、ただの思い付きではなく、幾許かの真実を含んでいると信じるに至りました。娘は桜の精だった。それは男の発見でした。男はその桜の樹の下で一晩を過ごした後、山を一つ越えたところにある村に辿り着きました。そこで聞いたのです。あの桜の根方に、不幸な娘の亡骸が埋められている、と。その不幸について多くを語る者はいませんでしたが、敢えて男はそれを訊こうとはしませんでした。娘が確かに、あの桜の樹の下に存在している。その事実だけで、男は充分満足していたのです。そして、その桜というのが、この貴方の目の前にあるこの桜なのです――」
 李庸はある諦念を持っているかのような目つきをして、伯備を見た。それは自身の話が、この伯備に如何に受け止められたかを量るような目つきだった。
「まことに不思議な話ですね」伯備はひとつ息をついた。「しかし、その娘は何のために男の前に姿を現したのでしょう?」
「それはわかりません。それにしても、娘は自身の無念を嘆くわけでもなく、男に取り憑こうとするでもなく、ただ一緒に時間を過ごすことを望んでいたのかもしれません。しかし、桜の樹にはそういった怪異を不思議なものとして受け入れる懐の深さがあるように思われてなりません。どうしてなのでしょう?」李庸は訊ねた。
「桜には優雅さと儚さが同居しているからではないか?」伯備は多くを語らなかった。「しかし、話を聞いてみると、この桜がその桜だとは、俄かには信じられないな……。この今の瞬間、その娘が姿を現さない限り、俄かには信じられない話だ」
 見ると、阿香が含み笑いをしていた。
「如何致した?」伯備は怪訝そうに阿香に訊ねた。
「いえ、なんでもございません。ただ、貴方が余りに物事に動じない方だと思われて――」阿香はその裏のあるような含み笑いを止めずに云った。
「物事に動じない? それは買いかぶりすぎというものだ。現に、先程の怪異な話にしたって、まだ心の奥底に受け入れきれずに、怖ろしいという思いが去来しているのだから」
「それでもです」阿香は云い切った。
「少しムキになっておらぬか?」伯備は阿香に訊ねた。
 阿香は「そのようなことはございません」と丁寧に云った。
「まぁまぁ、昔ばなしはその辺りにして、阿香、そろそろ戻ろうか」李庸はそう云うと、阿香の手を取った。
「そうですね」と楚々として阿香が応じる。
「ではまた」李庸と阿香は声を揃えて、伯備のもとを辞した。
 伯備は何度か二人の方に向かって手を振ったのだったが、すぐにまた湖面の方へ目を遣った。再び、二人の元へ目を遣ったとき、伯備は不思議な光景を目にした。
 それは二人の姿が闇の中にうっすらと消えゆく様だった。それは確かに宵闇のせいかも知れなかったが、伯備にはそれが闇のせいだけとは思われなかった。確かに、二人は顕界に存していた。それが幽界へと去っていく亡霊のように姿自体がふっと消えてしまったのだ。伯備は奇異なことだと思い、しばらくそのことに意識を集中させた。そして、自身の知力では、如何にしても答えの出せぬ問題であると云うことを思い知り、そのことは暫らく脇へ置くことにした。




 東の空がしらじらと明け、雀が小さく啼きながら飛び交いはじめる時刻。
 桜の樹の下で一晩を過ごした伯備は昨夜の怪異な出来事を思い出しながら、馬に跨り、先を急いだ。あの李庸の話にあった最寄の村というのはあの山を越えたところだろうかと思い做し、南の地平を劃っているなだらかな山を眺めた。道はそちらに続いているから、村は通り道にあるのだろうか、と思われた。山道はところどころに雑草が生え、手入れされているのかされていないのか、よく分からない道だったが、それでも、迷うことはなかった。ただ単に、人通りが少ないだけなのかもしれない。
 伯備は馬に揺られながら、昨夜のことを反芻していた。いったい、あの夫婦はどこに居を構えているのか? この道を通っても一向に民家らしい建物は見えもしない。道沿いから離れたところに住んでいるのかもしれないとも考えられたが、一方は湖、他方は沼沢地ということで、あの桜の樹の植わっていた付近に人の住める土地があるとも思われぬ。伯備は疑念の深まるのを感じないわけにはいかなかった。そして、あの奇異な消え方。まさか――。伯備の心はそのあとを考えることを拒んだ。
 山を越え麓に辿り着くと、そこには小さいながらも人の住む村があった。
 伯備は食料を調達するために、この村に止まり、村人から糧食を売って貰うことにした。幸い、お金には不自由していなかったから、二週間は持ちそうなくらいの食料を手にいれることが出来た。
 まぁ、本当のことを云えば、二週間分もいらなかったのであるが――ここから都までは一週間ばかりで着くことが出来る距離だったから――、大は小を兼ねるという諺のあるとおり、備えあれば憂いなしだと自身を慰めながら、伯備は荷物袋の中に糧食をしまった。
 そして出発しようとしていたときに、不意に村人に話しかけられた。
「もし――」
 見れば、それはもう髪も髭も真っ白の老人だった。
「そなたはあの孔湖の脇を抜けてこられたか?」
「孔湖?」伯備は初めて聞く湖の名前に思わず問い返した。
「あの桜の樹のある湖のことですじゃ」
「ああ、それなら、昨夜、その樹の下で過ごしたが――」
 老人は伯備のその言葉を聴くと、途端に警戒心を強めたように見えた。
「どうしたのだ?」伯備は怪訝そうに老人の顔を覗きこむ。老人の顔は気の毒なほどに眉間に皺がよっている。
「あの桜の樹の下には三人の亡骸が埋まっておる」
「うん? 三人?」伯備は昨日聞いた話と少し細部が異なっていることに気がついた。「若い娘だけじゃないのか?」
「いや、三人じゃ」老人は巌とした表情で、そう云い切った。
「三人……」伯備はしばらく思案する風だったが、やがて思い当たったように背筋をびくりとさせた。
「一人は若い娘。残りの二人は夫婦者」老人は矍鑠たる様子で云った。
「若い娘の話は既に聴いて知っている。夫婦者というのは、まさか、李庸と阿香ではあるまいな?」伯備は自身の悪い予感が当たりそうな気がして、背筋にぷつぷつと冷汗が浮かぶのを感じた。
「なぜそれを――」老人は声を顫わせた。
「なぜって、本人から昨日聞いたからだ」伯備は吃りそうになりながらも、なんとか声を出した。
「ううむ……それは幻ではなかったかの?」
「幻だったかもしれん。よくよく考えてみればな……」
「しかし、そなたが二人の名を識っていると云うことも、揺るがせに出来ない確固たる事実。二人に出会ったというそなたの話、虚言だと一概に切って捨てることはできぬの」
「いったい、あの二人、いや、三人は何者なんだ?」
「それは――」老人の表情が困惑の思いにますます皺だらけになった。「三人はいまでこそその恨みを静めておるが、昔は手の付けられぬ悪霊だったのじゃ。娘の方はそうでもなかったが、特にあの夫婦がな――」
 伯備は俄かには信じられなかった。あんな温和そうな夫婦が昔は、手の付けられぬほどの悪霊であったとは――。
「生前、あの李庸と阿香の夫婦は仲睦まじい関係だったが、他人に対しては冷酷で非道な振る舞いをしておった。それがこの村の近くに居を構える盗賊団の恨みを買い、復讐されることになってしまったのじゃ。その復讐は一晩で終わった。闇夜、音もなく村に侵入した盗賊団の精鋭部隊は、眠っている夫婦の寝室に押し入り、殆ど意識もさせないまま、心臓を一突きにして夫婦を殺した。それがいまから五十年ほど前のことじゃ。儂はまだ二十になるかどうかという若造じゃった。儂が覚えておるのは、その斬殺された夫婦を村の墓に入れることを嫌った村人たちが、村から離れた桜の根方に遺体を埋めることに決めたことだけじゃ。その桜の根方にはすでに玲紫という娘が埋められておったが、その娘の脇に二人を埋めることに決めたのじゃ。以来、その三人は桜の樹を見戍る霊として、旅人にさまざまな幻を見せているということであるのじゃが」
「フム、俄かには信じ難い話だが、私が昨夜経験した出来事を理解するには、いまの話を信じるしか無さそうだ」伯備は力なく微笑んだ。
「それにしても、あの夫婦者が悪霊でなく、精霊とも言うべき、清らかな心を持ってくれていることは、儂ら、同じ村の元住民としても、嬉しい限りじゃ。生前のひねくれた心はどうすることもできないが、長年の桜の樹の下での反省が二人を美しい心の持ち主にしたのかもしれん。これこそ、桜の樹の聖なる力とでもいうべきか――?」
「少なくとも私には、二人は善良な人間のように見えました」伯備は昨夜の二人の物腰の柔らかさを思い出してそう告げた。
 ――それにしても、あの夫婦が以前は村の鼻つまみものだったとは……。
 伯備は人とは分からぬものよ、と思い做した。
 そして、桜の樹が取り成した夫婦との関係を快いものとして受け入れることを自身に認めた伯備は心に暖かな感情の宿るのを感じた。
 桜の樹の下の怪異。それは月と湖の存在に浮かぶあの白い花弁のごとき思い出の泡の浮き沈み。

(了)


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