神頌


1 :蒼幻 :2008/02/10(日) 16:15:38 ID:nmz3zmrc

 神の言語で綴られた頌歌(しょうか)。その頌(うた)を自在に操ることの出来る存在。それは選ばれた人間であり、その力は王をもしのぐといわれるほど。しかし、魔法は衰退した。いまではスペルを唱えるものは絶えていた。だが、再びそれが必要とされる時代が来た。〈闇の王〉が復活してしまったのだ。唯一の対抗手段は〈頌〉、しかし、肝心の主人公はその頌の書かれた書物を読むことができない――。
 毎日更新を心がけます。枚数は300ページほどを目安に。


2 :蒼幻 :2008/02/10(日) 16:16:45 ID:nmz3zmrc

第一章 神頌の力――覚醒するもの、失うもの

1 マイセルと頌との邂逅


3 :蒼幻 :2008/02/10(日) 16:17:32 ID:nmz3zmrc

1 マイセルと頌との邂逅



 ここにはさまざまな知識が結集している。
〈王立図書館〉には十人の司書がいて、マイセル・グースはそのうちのひとりだ。
 蔵書数は百万超。この国で年間に刊行される書籍は三百がいいところだから、単純計算、三千年分の知識が保管されていることになる。しかし、物事はそう単純ではない。あくまで、この国ではということである。大陸にはイスハーク国以外にもさまざまな国があり、ここイスハークは大陸中でも小国中の小国、猫の額ほどの土地しか持たぬ弱小国と呼んで差しつかえないほどなのだ。
 百万冊の本のうち、市民が目にすることができるのは、比較的内容のやさしい流通本がほとんどで、魔術書とか呪いの書とかいわれる稀覯本やそれらを解説したような専門書は一般に公開されていない。それらを閲覧できるのは、たまにこの図書館にやってくる偉い学者先生や、魔術研究所の所員といったひと握りの人々だけだ。そこに勤める司書とはいえ、それらの本を目にする機会は限られている。
 その珍しい書籍がいま、マイセルの目の前に置かれている。それは数部屋ある保管室のなかの一室で、マイセルは館長に命ぜられた書籍の整理のために、この部屋に入ったのだったが、その生来の好奇心から、彼はその本の内容に心惹かれる自分を抑えられそうになかった。
 ――少しだけなら……。
 マイセルは好奇心に目を輝かせながら、しかし、わずかではあるが、後ろめたい気持ちも感じながら、陳列台に一冊だけ大切に置かれている書籍に手をのばした。
『真実の頌』。
 本の表紙にはそう書かれていた。
 革表紙に金文字。公用語ではなく、古代の高地イルメル語。
 マイセルは正式に高地イルメル語を学んだことはなかったが、本の題名に使われる言葉くらいは知っていた。頌≠ニいう単語は難しかったが、いまでも、古めかしい詩をさすときに、高地イルメル語の頌≠ニいう言葉をそのまま用いることがあったので、本をよく読むマイセルはその言葉を知っていたのだった。頌≠ニいう言葉には不思議な力がある。それがマイセルのイメージだった。
 マイセルは誘惑にかられながら、その本のページをめくろうとした。そのとき、ふと、不思議なことに気づいた。この部屋は人の出入りがほとんどなく、一年をとおして閉めきられていることが多かったのだが、その影響か、部屋の隅には綿埃やら虫の死骸やらが多数散乱しているのだ。それは本棚のある壁際も同じだった。しかし、その『真実の頌』のおかれた陳列台の上だけは塵一つ落ちていないのだった。まるでそこだけが荘厳な空気に取り囲まれていたかのような、汚れを寄せつけない魔法でもかけられていたかのような印象。マイセルは怪訝に思いながらも、その思いを脇へ押しやり、まるで飢え死に寸前の者が食べ物に手をのばそうとしているときにように、時間のすぎるのも惜しいという感じで、表紙をめくるのだった。
 それは不思議な読書だった。
 書かれている内容はまったく理解できないのに、その高地イルメル語の字面だけが心に活写されるよう目に飛びこんでくる。マイセルは高地イルメル語を勉強しておかなかった自分を悔やんだ。しかし、後悔してもはじまらない。マイセルは読めないことを承知しながらも、わずかでも心にとどめようと文字を目で追いつつ、次のページ、またその次のページへと進んでいった。
 ――この本はいつ、だれが、どんな目的で書いたんだろう?
 マイセルは疑問を抱きながら、一書生になった気分で、時間を忘れて書物に没頭した。
 しばらくその疑問を夢見がちに考えていたのだったが、ふと、ページを繰る手がとまった。一瞬、細波が心に到来したのだ。それは書籍を見る自分の心に直接訴えかけてくる、大いなる存在からのメッセージのように思われる。
 マイセルはわからない文章の中に、意味のたどれる一節が潜んでいることに気づいた。マイセルはその箇所を何度も目で追った。

 黎明の刻、東の空に陽は昇りて、すべての悪を滅徐しつくす。そこには常に〈頌〉があった。〈真実を詠う者〉、闇より生ずる魔障を禦ぎ、なべての世界に聖なる光を齎すであろう。

 ――どうしてここだけ読めるんだ?
 マイセルはおどろいた。初めてみる語句だらけなのに、まるで自分が普段用いている言語のように、目に映ったその言葉は、直接、脳に語りかけてくるような具合だったのだ。マイセルにはそのメカニズムが理解できなかった。人知を超えた力が働いているような思いがした。しかし、たかが古い書籍の一節、と蔑む気持ちもあるにはあったのだ。
 マイセルはその後、自分のなすべきことは、この部屋の掃除だと、館長に命ぜられたことを思い出し、自分の職務に戻った。まず、締め切った窓を開けて空気を入れかえる。部屋の隅にたまった埃や虫の死骸を取り除き、乱雑にしまわれた書籍をカテゴリーごとに分類して整理しなおし、最後に、窓をすべて閉める。掃除はそれで終了。マイセルはその部屋を後にし、掃除の完了を告げるため、館長室に向かうことにした。
 しかし、マイセルはこのとき出会った書籍『真実の頌』が自身の運命をめまぐるしく変化させることにまだ気づいていなかった。


4 :蒼幻 :2008/02/10(日) 16:18:07 ID:nmz3zmrc





「なあ、マイセル。おまえ、いったい、これからどうするつもりなんだ?」
〈王立図書館〉の司書歴五年の頼りになる兄貴分セシル・マイオールが、酒を一気にあおるマイセルに訊ねてくる。セシルはマイセルより二歳年上で、透き通った青色の目と馬のたてがみのような赤い毛をした好青年だ。セシルは図書館司書という体力の有無とはほとんど関係のなさそうな職に就いていながら、頑丈な太い腕と足をしており、以前マイセルが聞いた話では、子供の頃から伯父さんにみっちり鍛えられたのだが、その伯父さんというのが王国内で開かれる武術大会では毎年決勝に残るほどの腕前を持っている人物であるらしかった。そのことから、セシルの腕前は推して知るべし。その将来有望な青年がどうして図書館司書を……とマイセルは疑問に思うのだが、そこには余人にはわからぬ事情があるらしい。マイセルは、多くを語らないセシルに不満を持ったが、それは他人が立ち入るべき問題ではないと思いなおし、今日まで訊かないでいた。それに、そのうち気が向いて、このような酒の席でぽつりぽつりと話してくれるだろうという淡い期待もあったのだ。
「図書館司書を勤め上げ、ゆくゆくは司書長くらいになって、この図書館の運営に携わりたいと思ってるよ」酔いの回りはじめたマイセルは、気分よく微笑みながら将来の希望を口にした。
 それを聞いたセシルは口元に意地の悪そうな笑みを浮かべながら、さらなる質問をした。「それはそうと結婚は考えているのか? 好きな人くらいいるんだろう?」
「いきなり何を言い出すんだよ?」マイセルは焦った。セシルの軽口が、酔いによるものであることは、顔を見なくても、彼がそれまでに飲み干したジョッキの数で見当がついた。
「ムキになるってことは……まさかまだ好きな娘もいないのか?」
「ほっといてくれ」マイセルは顔を真っ赤にした。マイセルには純情なところがあり、女の子と話すのは苦手だった。
「俺はてっきりフィーナとうまくやってるんじゃないかと思ってたんだがなあ」セシルの口調には、近所のおじさん連中とかわらぬ、余計な詮索が含まれていた。
 マイセルは照れ隠しにテーブルに置かれたグラスの赤ワインを一気にあおった。
 マイセルがふと傍らをみると、もう何杯目になるかわからないジョッキを手にとって中身を乾すセシルの姿があった。
 セシルはゆったりとした麻のベストを着ており、その下には開襟の白いシャツを合わせている。服装だけ見れば、いかにもインテリといった様子であるが、彼の腕や胸元の筋肉はその印象にそぐわない。
 それに較べると、マイセルの体格はまさに書生といった感じで、剣よりはペンによってたつきを得ているという印象が強い。マイセルが王立図書館の司書だといえば一般人にも信じてもらえそうだが、もしセシルが同じことをしたなら、その言葉を信じる者は十のうち一にも満たないだろう。
「どうしてフィーナの名前がここに出てくるんだよ」マイセルはセシルの鍛え抜かれた胸元の筋肉を眺めながら、言った。
「だって、フィーナとお前は相思相愛っていうもっぱらの噂だぞ」セシルは面白がるように口元をゆがめた。
 しかし、マイセルはそのセシルの言葉に喜びを感じるどころか、常日頃、フィーナという女性が自分には高嶺の花ではないかと感じていたために、素直に喜ぶことができないのだった。
「フィーナは僕のことをそれほど気にかけてくれてないよ」マイセルがそういうと、セシルはやれやれと言う風に首を振った。
「わかってないなぁ……」セシルがしっかりとマイセルの瞳を見つめる。「女ってもんは、そういうものなんだよ。自分の気持ちを素直に伝えたいという気持ちと、はしたない心のうちを相手に見られたくないという気持ちが仲良く同居している。もちろん、その女は葛藤というものを心の裡に生じさせるだろう。しかし――だ。女は本能的に自分を愛してくれる相手を求めるものだ。その相手が自分のどこでもいい、髪でも、瞳でも、鼻でも、唇でも、心でも。また、胸や足でも、そういったものを含めて自分を好きになってくれる異性を求めているんだ。でも、その気持ちが強いことを相手に知られたくない。その想いで、女は本能的に自分のことを好きになってくれる男が現れるまで、ひたすら硬い殻に閉じこもるんだ。その殻を融かすことができるのは、その娘を好きだという男の純粋な気持ちだけだ。この酒の席で明らかにできないような心情でしか愛せない相手なら諦めるんだな。そんな生半可な気持ちで恋なんてできないだろうよ。天空の宮殿に燈されている聖なる炎で自身の身を灼いて犠牲にするほどの心根がないかぎり、女は決して振り向いてくれないだろうよ」
 マイセルはセシルの言うことも一理ある、と感じた。しかし、あくまでも一理である。自分の秘めた思いを周りに明らかにしないからといって、その娘の心を振り向かせることができないとは思えない。それはしりごみでしかないと感じていた。
 ――それにしても、とマイセルは思う。
 セシルは天空の聖なる炎という比喩を用いた。
聖なる炎≠ニいう言葉に、セシルは神々しいものを感じとっていたが、それだけではない、今日の昼間に見かけた『真実の頌』の中の聖なる光≠ニいう言葉を思い出したのだ。それまでマイセルは自分が今日見た『真実の頌』のことを忘れかけていたのだが、その中の、かろうじて自分が読むことのできた一節が、頭の中ですでに形をとって血肉の一部になっていることに気づき、そうしてその浸透力に怖れを抱いた。
「今日、不思議な書物を見たんだ」マイセルがぽつっと口を開いた。
「ん? 書物?」セシルは頓狂な声をあげた。
「そう、一冊の……たぶん、魔導書だと思うんだけど……」
 セシルは興味深げに身を乗り出して、その次の言葉を待った。
「『真実の頌』という書物なんだけど……」
「『真実の頌』――。図書館の本か?」セシルは肩をすくめる。
「第三保管室の陳列台の上に置かれてたんだ」
「――第三保管室……」セシルは思い出そうと懸命に頭を働かせている様子。
 セシルはしばらく考え込んでいたが、やがて思い当たる節があるらしく、目を輝かせて口を開いた。
「金文字の、茶色の革表紙の装丁本だな?」
「そうそう」
 マイセルはセシルが知っていたことに驚きを覚えた。全部で二十ある保管室の中の書籍をある程度まで正確に把握しているセシルにとっては、『真実の頌』の名前もお手のものなのだろう。
「それで不思議というのは――?」セシルがさらにつっこんで訊ねてくる。
「そう、それなんだけど」マイセルは一度目を天井にやってから説明を続ける。「それがその書物――全部、高地イルメル語なんだ……」
「高地イルメル語……」セシルは何か荘厳なものに出会ったかのような口ぶりをした。
 無理もない。高地イルメル語はかつて歴史的支配権を持っていた魔導士集団が作成した呪詛用の言語だからだ。もっとも、成立当時はその魔導士集団〈イルメルの塔〉の専売特許の言語だったが、その後、塔≠フ内部抗争に巻き込まれ、野に下りるしかなくなった魔導士くずれがそのたつきをなりたたせようと、一般人に高地イルメル語を教えた。そのために世間に口伝されて広まったのだ。魔術は生まれもった資質がものをいうため、一般人がたとえ学んだイルメル語を用いて魔術を行なおうとしたところで、結局、何の力も引き出せないのだが、そのイルメル語は統制のとれた理知的な言語であったため、そのことがこの言語の一般への浸透を促進したと言えよう。しかしそれは千年以上も昔のことである。


5 :蒼幻 :2008/02/10(日) 16:18:31 ID:nmz3zmrc

 マイセルが読書を趣味にしていることはセシルも知っていた。頻繁にマイセルが最近読んだ本の話をセシルに持ちかけるからだ。セシル自身は図書館司書という職についていながら、あまり本を読まなかった。その代わり、記憶力が人より優れているために、どこのどの場所にどの本が置かれているかということを正確に把握しているのだった。
 しかし、高地イルメル語――。
 その言語で書かれた書物はほとんどが解読不能の難解本であるといわれていた。イルメル語はいわば選ばれた者が用いる言語であり、確かに一般にもその言語を扱える者が少数ながらいたのだが、彼ら、もしくは彼女らは少しかじったという程度で、それらを自在に操ることはできないのだった。しかし、その危険極まりない言霊とでもいうべき力をもった言語で書かれた書籍である。世の中には、書かれている内容はわからないが価値のある書籍というものが沢山ある。そして、高地イルメル語による書籍は、どれもたいへん高価な値で取引されていた。
「その中に気になる一節があったんだ」マイセルはどうして自分が顫えているのかわからなかった。
「うん? 内容?」セシルはとまどいの表情を浮かべる。
「うろおぼえだけど、内容はこうだよ」
 そのとき、酒場の扉が開かれ、ひとりの壮年の男が入ってきた。
 セシルはその男の方へ一度視線を投げてから、向かいのマイセルに集中した。
「――黎明の刻、東の空に陽は昇りて、すべての悪を滅徐しつくす。そこには常に〈頌〉があった。〈真実を詠う者〉、闇より生ずる魔障を禦ぎ、なべての世界に聖なる光を齎すであろう=v
 ――……
 マイセルはセシルの反応を待った。
 しかし、セシルからの返事はない。セシルは押し黙ったまま、何かを考えている。
 マイセルはその間に、さっきこの店に入ってきた壮年の男が、着ているマントのフードも下ろさず、カウンター席について酒を注文している様子を眺めた。マイセルは不用意にその壮年の男を眺めていたのだが、その男はまるで後ろに目がついているかのように振り返り、マイセルを睨みつけた。まるで肉食獣のような獲物を射すくめる鋭い眼光。
 ――いけない。マイセルは慌てて視線を外す。
 身体は正面を向いたが、好奇心はまだ男の周囲をさまよっていた。
「あのカウンター前の男、怪しいな」セシルが眉間に皺をよせながら言った。
「あ……うん」とマイセル。
「それはそうと、そのイルメルの書だ」セシルは溜息まじりに続けた。「その本は俺の記憶の中にもはっきりと残ってるよ。『真実の頌』。確かに、そんな名前だった。もっとも、俺はイルメル語なんてわからないから、学者先生の知識に頼ってのことだったんだがな……。しかし、マイセル! その本の内容をどうして知ったんだ? おまえ、イルメル語はマスターしてないんだろ……なのにどうして」
 セシルはマイセルの反応をみるために、ここで言葉をきった。マイセルはどぎまぎした。
 ――たしかにそうだ、僕はどうしてあの本の内容がわかったんだ?
 ややあって、「わからないよ」と肩をすくめるマイセル。
「イルメル語の文章を読むには最低でも五年の修練が必要とされている。しかも、イルメル語を教えられる人物は年々減少しているし、大抵は教えるといっても魔導書を読みこむほどの知識は望めない。魔導士とか呪術士とか歴史家とか、その中でも、特にすぐれた知識を有した者しかイルメルの言葉は扱えないはずさ」
「そうなんだけど……」
「ふっ、何かの見まちがいじゃないのか? 幼児が大人向けの本を読むようなものさ。字面だけ眺めて知っている単語のみを拾い、自分の中で文章を組み立てる。そうじゃないのか?」セシルは怪訝そうな目つきでマイセルを見つめた。
「それが不思議なんだ。その箇所だけ、まるで浮かび上がるかのように直接僕の脳に作用したと思われて、気がついたら読めるようになっていた。魔術なんじゃないかな?」
「魔術!?」
 セシルの頓狂な声がマイセルの機嫌をそこねる。
「そんな都合の良い魔術なんてないぞ」
「ん〜」
「どうして読めたんだろうな? 『真実の頌』か……謎だな」
 そのとき、カウンター席に座っていた男が振りかえってマイセルたちを睨みつけるようにして席を立った。どうするのだろうとマイセルは様子を眺めていたのだが、男はすたすたと二人の席に近づいてきて、やがて口を開いた。
「いま『真実の頌』という言葉を耳にしたのだが――」
「はい、確かにその本のことを話していました」とセシル。物怖じしない態度だ。
 男の目がぎろっと光る。
 マイセルは男の姿、顔かたちを改めて見る機会を得た。
 男はまるで鷹のような鋭い表情をしており、年齢を感じさせる目元の皺が印象的だった。年は五十歳程度、マントはくるぶしまでの長いもので、色合いは夕闇のなかの影のような濃い灰色。持っている荷物は頭陀袋ひとつ。何が入ってるかはまったく見当がつかない。
「本? 『真実の頌』とは本なのか?」男は疑問を口にした。
「ええ、僕たちは〈王立図書館〉に勤務する司書です。蔵書の中に、その本が含まれてるんです」
「ほう……なかなか。わしの知っておる『頌』はpower spellと呼ばれる歌のごときものでな……。わしは使えんが、なんでも言霊を支配することのできる言葉であるらしい」
「へぇ〜」マイセルが感心する。
「で、いったい、その、『真実の頌』がどうしたんだね?」


6 :蒼幻 :2008/02/10(日) 16:18:59 ID:nmz3zmrc



 自分の正体も明かさず質問ばかりしてくるこの男に、セシルは警戒心を強めた。それに気づいた男は自己紹介をはじめた。
「わしはロギヌス。いちおう、肩書きは歴史家ということになっておる。ここ数年は大陸各国をまわって地域の伝承やら歴史やらを蒐集しておってな。〈王立図書館〉はわしの目的地のひとつでもある」
「へぇ〜。歴史家……」セシルが軽口をたたく。
「ここでイスハークとその周囲の歴史を語るのもいいが、子守唄になりそうな気がするから遠慮しておこう。それで、頌≠ノは何が書かれておったんじゃな?」
 マイセルは今日、自分が昼間に見たイルメル語の書物の一節をロギヌスに説明した。
「真実を詠う者≠ゥ……とうに、昔話の季節は過ぎ去ったものと思っておったが」ロギヌスはかぶっているフードをとって、顔をあらわにした。
 マイセルは真実を詠う者≠ニはただの比喩表現だと思っていた。しかし、ロギヌスの、その言葉を識っているような口ぶりに、なにか自分の知らない真実が聞けるのではないかとの期待を込めたまなざしを向けた。
「〈真実を詠う者〉、別名the singer of the true spell。これは伝承の中だけの話ではない。真実を詠う者は実在する。ただ、その能力の特殊性のため、歴史の影に隠れてしまっているような状況なのだ。もっとも、〈真実を詠う者〉と呼ばれるには、魔力を受けつぐ人々の子孫であることが必須条件だ。血筋の賤しい者にスペルは唱えられん。その辺りは〈イルメルの塔〉の魔導士の資格に似たところがあるだろう」
「なんでも血統か……。まるで闘鶏みたいな感じだな」セシルの軽口は止まらない。
「血は大切じゃよ、若者よ」ロギヌスは青い目をぎろっと光らせた。「しかし、その一節は厄介だな。謎の多い文章はまるで予言のような格調だし、本自体は禁書といってもいいほどの叙述がなされておるようだ」
 そのテーブルに落ち着いたロギヌスのために、年頃の女給仕が改めてビールのジョッキを持ってきた。
「わしはウイスキーのほうが好きなんだがな……」ロギヌスは不満をぶつける。
 マイセルは店内を見まわしてみた。
 カウンターは頑丈な樫の木でできており、正面の棚にはワインやウイスキーのボトルがところせましと並べられている。ビールは樽で保管されている。たとえいま百人の軍人が店を占拠したとしても、充分にまかなえるだけの酒量が店にはストックされていた。
 客はマイセルたちを含めて四組。客のたてる音や話し声が酒場の喧騒をつくっている。
「明日、わしをその〈王立図書館〉に連れて行ってもらえんかな?」ロギヌスは柔らかい表情で二人に頼んだ。
「いいですよ、それくらいなら」マイセルが気軽に請合う。
「そうだな、それくらいなら俺も手伝おう」セシルは肩をすくめた。
「で、ロギヌスさんは、今日はどこに泊まられるんです?」とマイセル。
「この酒場の隣に宿屋があるんでな。そこで休ませてもらうよ」
「そうですか、でしたら、明日の朝、迎えに来ますね」
「そうしてくれると助かる」ロギヌスは微笑んだ。
「じゃ、今日はこの辺りで――」マイセルは勘定を払おうと懐から財布を取り出した。
 席を立ってカウンター前へ行き、店の主人に銀貨一枚を渡して、かわりに銅貨十四枚を受け取る。銀貨は銅貨の二十倍の価値があるから、今夜の飲み代は銅貨六枚ということになる。ひとりあたま銅貨三枚。今日はマイセルが全額を支払う日だった。
「それじゃ、これで――」ひとりロギヌスを残して、二人は酒場を出る。
 もうすっかり暗くなった外では街燈がともされており、影がゆったりとうごめいていた。
 蛾や羽虫、こうもりといった生物の、街燈にあつまるながめは気分のよいものではなかったが、それが何かの隠喩になっており、彼らにこれから災難が降りかかるなんてことはないと言いたいところだ。



 マイセルがセシルと連れ立って帰り道を急いでいると、セシルが急に陽気になった。
「おい、マイセル。これからフィーナの家にいって、告白したらどうだ?」セシルは完全に酔っている。
 マイセルは困惑した顔つきで傍らの先輩を眺めた。確かに仕事中は頼りになる先輩だけど、ことプライベートに関しては、プライバシーなんで考えてくれない横暴な人だった。それでも一緒に酒を飲むのは、いくら彼が酔っ払って羽目を外そうとも、それを補って余りあるだけの信頼感を、彼はセシルに寄せていたからだった。
「ちょっと、もう酔ってますよ、先輩。今日はこれくらいでよしておとなしく家へ帰りましょう。さあ、送りますから」マイセルはふらつくセシルの身体を支えようと、彼の腰に手を回した。
 セシルがふらふらだったため、普通五分で到着するはずの彼の家に辿り着くのに半時間もかかってしまった。セシルは自分の家の玄関を観ると、いっそう陽気になって、「いま帰ったぞ!」と家族に聞こえるように大声でどなった。
 しばらくするとひとりの若い女性が玄関扉を開けて姿を現した。「兄さん、また飲んでるのね」開口一番、とがめるような口ぶりだ。
「ああ、リナ。なかなかないぞ、こんなに気持ちよく酒を飲める日は……」セシルはそういうと玄関前でぐったりして座り込んでしまった。
「ちょっと……こんなところで眠らないでよ」リナと呼ばれたセシルの妹は、兄をなんとか起こそうと、しゃがみこんで、彼の身体をゆすった。


7 :蒼幻 :2008/02/10(日) 16:19:28 ID:nmz3zmrc



「僕が運びましょう」マイセルはリナに微笑んだ。
 セシルの身体を運ぶのはたいへんだったが、時間をかけて説得すると、セシルは身体をふらつかせながらも前へと進んでいった。
 マイセルはセシルの家の中に入るのは初めてだった。まだ建てられて比較的新しいにちがいない、壁は漆喰塗りで黒い柱がところどころ見え隠れしている今風のつくり。平凡な家屋というよりも、洗練され、細かな配慮のなされた建物という印象が強かった。マイセルは以前に、セシルの家族は郊外に住んでいたという話を聞いたことがあった。郊外というよりもむしろスラム街。日々の生活にあくせくしている人々の集まる秩序なき街スラム。その街では道徳観念や一般常識はいっさい通用せず、中流家庭よりも下の人間がうごめく、はきだめのような場所だと世間ではささやかれていた。
 昔はどうであれ、いまは、ここでつつましやかな生活を送っているわけだ。マイセルは表情を変えずに、自身で納得した。
 セシルの両親は、彼が仕事の同僚を連れてきたのが嬉しかったのか、食事をしていくように勧めた。しかし、マイセルはその申し出を丁重にことわった。
 セシルを居間に寝かせると、マイセルはほっと安心し、それから、今日は帰ります、とセシルの両親に告げた。
「そう、残念ね」とセシルの母親が顔をくもらせた。
 マイセルはこの家を出る前に、もう一度、リナの顔を観た。画家が細心の注意をはらって画布に描いたように整った顔。確かに観る人を惹きつける美しい顔だ。でも、自分には彼女と愉しんで会話するための精神的余裕がない、とマイセルは感じていた。
「玄関まで送るわ」とリナが申し出た。
 帰ろうと居間の扉を開こうとしていたマイセルは、ふと、その手を止めた。そして後ろを振り返ると、「いえ、ここでいいですよ」と遠慮するように告げた。
「それはいけません」リナは凛とした口調でマイセルにいった。
「そうですか……では玄関まで」とマイセルが折れる。
 リナの口調は凛としたものだったが、マイセルにはそれが嬉しかった。確かに、この部屋で別れの挨拶を済ませればそれでいいと思っていたけれど、ここで別れるのと、玄関まで出てきて挨拶を受けるのとでは格段の差がある。普段、自分はそんなことにこだわらないのに、今日に限って、いや、リナという存在だからこそ、という気持ちが働いていたのは、マイセルにも信じられないことだった。もちろん、そこにはセシルの妹だという親近感もあるにはあったのだが、生来、女性と口を聞くことを苦手にしてきたマイセルには、その感情はあまりにも意外なものであったのだ。
 マイセルとリナは家の前の道に出ると、そこで別れの挨拶を交わした。
 そして夜の闇で見えなくなるまで、マイセルはたびたびふりかえりながら手を振った。
 マイセルは自分の家に向かう道すがら、先程のリナのことを思い、気分が上向くのを感じていた。
 ――リナか……なかなか活発そうな人だったな、とマイセルは考えた。
 しかし、
 ――それにしても……とマイセルは考える。
 酒場でであった灰色フードの男性。彼はいったい何者なのだろう? 確かに自分たちには歴史家だと名乗ったが、どうもそれだけではない雰囲気が全身から滲み出ていた。なにか、人を食ったような印象。いや、ちがうな……一歩はなれたところから人生を眺めているような、余裕のある態度、もしくは諦念。そうだ、そんな感じだ、とマイセルは思った。
 ロギヌス――彼はそう名乗った。
 大陸でも珍しい名だ、とマイセルは感じていた。なにか神話にでも出てきそうな名前で、現代的ではない気がする。もしかして、偽名? と思ったが、それならばどうして偽名を使わなければならないのか、その理由が定かでない。マイセルはそれ以上、自分にこの問いを解くための鍵が与えられていないのを実感した。
 いろいろ考えているうちに自宅の前についた。家では父と母が待っているはずだ。マイセルは家の玄関の前のベルを鳴らすと、そのまま扉を開けて中へと入っていった。



 家に着いたマイセルはひとり掛けのソファに腰をおろした。
「遅かったのね……仕事が忙しかったのかしら?」マイセルの母ロアンナが台所から声をかける。
 父のホリックは向かいのソファに座り、おそらく今日買ってきたのだろう、インテリアの雑誌を読んでいた。
「セシルっていう先輩の家まで行ってきたんだ」とマイセルが元気に告げると、母ロアンナは鍋をかき混ぜるのをやめて、嬉そうに表情を緩めた。
「あら、そうなの? で、今日はどうだったの? お仕事ははかどった?」
「んー、そんなはかどるとかはかどらないとか、そういう仕事じゃないんだ。書棚の整理をして、利用者に本を貸し出して、在庫管理をして、万事滞りなく進める。それだけの仕事なんだよ。書棚にどんな本を埋めるかっていう実際的なプランはすべて上が決めるんだからさ。僕たち下っ端はいろいろと突発的に沸き起こる雑務を的確にこなしていくだけさ。早く一人前になって司書長くらいにはなりたいと思ってるんだけどね」マイセルはもう何度目になるか分からない説明を血のつながらない母親に告げた。
 血のつながりがないのは向かいに座る父も同じだった。
 マイセルはまだ赤子の頃、人通りの少ない教会の前の道に捨てられていた。それを見つけた教会の神父が健気に思って、彼を引き取り育てることにした。しかし、教会自体もそう裕福ではなかった。もちろん信者からの献金などもあったのだが、神父は敬虔な人物で、貰った喜捨の金はすべて恵まれない人々のために用いるのだった。そして、手元に残るのは自分が最低限の生活を送るために必要なわずかばかりの金額のみという状況だった。その状況を察したいまの両親が、それならば子供のできない自分たちにその子を育てさせてほしいと頼んだのだった。そうして、マイセルは五歳のときに、現在の両親、ホリックとロアンナに引き取られた。
 マイセルは大切に育てられて、十歳になる頃にはイスハークの公用語をほとんどマスターし、難しい計算もこなせるようになって、将来は学者になれるんじゃないかと、学校を含む世間の噂の的になっていた。しかし、彼はいつのまにか読書に耽るようになり、自分とは何か? というような問いを常に考えるような青年へと成長してしまい、そこからはほとんど他者と交流を持たない性格の人間になってしまったのだ。本が友達。そのような思いを抱きながら、それが逃げの思考であることに気づかないまま、十六歳まで成長した。


8 :蒼幻 :2008/02/10(日) 16:20:06 ID:nmz3zmrc



 十六になったマイセルは自分が何をしたいのかという将来的ビジョンをなにも持っていないことに気づいた。趣味といっては本を読むことと、音楽を聴くことくらい。本を読むことが好きなのはひとつの才能と呼べるほどだったが、そのときの彼には、その趣味を何に活かせばよいやらまったくわからなかった。一時、作家になるという考えも持ったことがあったが、しかし、書くことが見つからないという理由ですぐに断念してしまった。もうひとつの趣味、音楽を聴くことにしても、何もすることのない休日、少し大きめの市内の公園に素人音楽家がトランペットやらフルートやらバイオリンをひいているのを聴きにいく程度だった。青年マイセルは悩んだ。世の中には働いている大人は大勢いて、職業はさまざまあるのに、自分はそのうちの何にも向かないのではないかと思う無力感。マイセルはさんざん悩んだ挙句、初心に立ち返った。本が好きなんだから、本に囲まれる仕事を……。そうしてマイセルはダメもとだと思いながら、〈王立図書館〉の新規採用試験を受けたのだった。
 もともと頭脳明晰だったマイセルは、試験の出来もよく、首席で試験に合格した。同期で入ったのは三人。試験を受けたのは五十人ほどだったので、これに合格したマイセルは優秀だったといえよう。
〈王立図書館〉勤務が決まったとき、父と母は自分のことのように喜んでくれた。常日頃、マイセルが部屋に閉じこもって本ばかり読み耽っているのを咎めることもせず容認していた父ホリック。どう声をかけてよいやら分からず逡巡していた母ロアンナ。マイセルに対して遠慮しているのは明らかだったが、マイセルは、それが、自分が彼らの本当の子供ではないからだ、と思い込んでいたのだった。しかし、職場が決まったことは両親にとっても喜ばしいことだったらしく、普段、あまり口を開かないホリックも温かくて優しい祝福のことばをかけてくれたのだった。
 それからマイセルは改心したように素直で従順な性格になっていき、仕事もこれこそが天職と思いなすようになったのだった。素直で従順な性格≠ニいうのは、もともとその素地がマイセルにはあったということだろう。これまでの人生ではその素直で従順な性格というのは周りからプレッシャーを受けてねじまがっていたようなのだ。しかし、〈王立図書館〉という職場を見つけたマイセルは、なんとか自分をそこにまにあうような人間になろうと思い立ったのだった。そしてその努力こそが、彼の先天的な性格を表に導いたのであろう。
「ねえ、父さん」
 マイセルは雑誌を読んでいる父に向かって声をかけた。
「うん、どうした?」ホリックはページに付箋を貼り付けて、雑誌を閉じる。
「ちょっと気になることがあるんだ……」マイセルはおそるおそる話を切りだした。「あの僕が捨てられていた教会、そこで僕は育ったのはわかるんだけど、いったいどうして僕を引き取ろうと思ったの?」
 マイセルはこんな質問をするのははじめてだった。もし否定的な、あるいは消極的な返答が返ってきたらどうしようという気持ちに邪魔されて、訊くに訊けなかったのだ。
「んー……実はな……」ホリックはひとつ深呼吸してから話しはじめた。
「――それはその年の初めの、雪が降った夜のことだ。外は寒くて凍えそうな気温だったんだが、わしも母さんも布団のなかに湯たんぽをいれて、暖をとりながら眠ったんだ。そして、その夜、わしらは夢をみた。それはこんな風だ。なにか危ういという気持ちが先に立った。そしてたったいま眠ったばかりなのにどうして外にいるんだと思っていたところに、第一の印象が到来した。それは血のように真っ赤に染まった空だった。いまは戦時中で、どこもかしこも逃げ惑う人々でいっぱい。どこか閉塞的な世間に絶望感を覚えているような感覚だけが頭の中をめぐっていた。自分に何ができるんだろう、と思った。そして、その思いを昇華するために、わしは単身、街の中心部にある教会跡地に向かった。それはもう壁もぼろぼろに崩れてしまっているような建物だったんだが、その中の本尊である神像だけは誰が手入れしているのか、その戦時下にあってもこうごうしく輝いていたんだ。わしはその像の前にひざまずき、祈りの言葉を述べた。こう見えても、昔は教会の敬虔な信徒のひとりだったんだ。もっとも、いまではそんな思いも消し飛んでしまったがね」ホリックは目じりに皺をよせ、力なく微笑んだ。そして続ける。「それで教会の神像の前で祈りを捧げ終え、帰ろうとしたときに子供の泣き声が聞こえてきた。わしにはその泣き声がどこからするのか、わからなかった。しかし、すぐ近くだ、という直感だけはあった。そこで、いろいろと捜してみたんだが、その子供は神像の裏にいたんだ。わしはそのとき、その子供の顔をしっかりとみた。そして、家に連れ帰ってその子の世話をしなきゃならん、という気持ちになっていた。この子は普通じゃない、そうわしの本能が告げていた。いまから思えば不思議なことだったんだが、そのとき、第二の印象が到来した。そこから場面は一気に切り替わる。いまよりももう少し文化の進んだ世界にわしはいた。それは街を一望できる丘の上だったんだが、わしはそんな風景、これまでに一度も見たことがない。それに、この首都イスハークの周囲に丘なんてないしな……。だからそれは、きっとここではない他の街か、それとも夢が作り上げた空想の産物かもしれないな。そんなことはどうでもいい。話の核心はこれだ。気がつくと、隣にひとりの青年が立っていた。それは他人ではなく、あの崩れかけた教会で見つけた子供の成長した姿だとわしは直感した。その青年がなにか意味は分からないけど、美しい声で歌い始めると、鳥たちがやってきて、彼の頭上をめぐるんだ。そして心地よい風が吹き、雲間からのぞく太陽が万物を化育する光を地上にふりそそぐ。それは一幅の絵画的光景だったよ。わしはしばらくその青年の歌声に聴き入っていた。何語なのかあいかわらずわからなかったが、そんなことは関係ない。わしは言葉の持つ美しさにひかれていた。人の声がここまで他人の心を魅了するなんて……そんなことを考えるうちにまた場面は転換し、第三の印象が到来した。わしはひとりの男に命を狙われていた。そんな危機的状況でまたも青年が姿をあらわす。今度は眉間に皺をよせたつらそうな表情だった。わしはその表情からこの青年が冷たい怒りを心に宿していることを知った。そして青年はまたも歌いはじめる。あの春の日の丘の歌とちがって、今度は心の深奥にともる信念のようなものを前面に押し出す印象の歌だった――」ホリックはそこで少し言葉をきった。
 すぐさま、マイセルが質問をする。「で、この話は僕の身柄の引き取りとどういう関係があるの?」
 ホリックはすぐさま返答することはせず、自分の話を先に聴くようにと促す態度を示した。
「――で、その青年は歌を歌い、わしの命を狙っていた男の殺意を喪失させた。それ以上、不幸なことは起こらなかったが、それでも、歌というものが人の心に及ぼす影響の大きさを感じさせる事例であったことはたしかだ。そして、その青年――いや、子供こそ、他でもない、お前だったんだ」


9 :蒼幻 :2008/02/10(日) 16:20:38 ID:nmz3zmrc

「えっ?」マイセルは意外そうに表情をゆがめた。
「そういうことだ」ホリックは落ち着いた口調でいった。「目覚めたとき、その夢は他の夢とちがって、いつまでも心の奥に印象の残るものだった。そして傍らに眠るロアンナも同じように目覚めて、ふしぎな夢を観たといったんだ。わしは予感したよ。きっと母さんも同じ夢を観たんだろう、ってな。話してみると、案の定、そうだった。そこでこれは何かの天啓じゃないかと感じ、わしらは街の教会へと足を運んだ。それまでにときどき、日曜礼拝などでお前の存在を見かけることがあったから、夢の中に出てきた少年はおまえだとわかっていたんだ。そして、その日、神父と一緒に神像の前で祈りを捧げているお前を観て、直感的に――そう、一種のひらめきだな――お前を引き取って育てようという気持ちが、自分の心に結晶したんだ。教会の神父は優れた人物だと云うことは、日曜礼拝での法話を聴いても明らかなことだった。しかし、引き取ったとはいえ、お前に満足に食事もさせていないことは、お前のやせ細ったからだを見れば、明らかだった。これではいけないと思ったんだな。わしはすでにその夢でおまえの未来の姿も知っていた。だから、自分たちがお前を引き取って育てれば、きっとすべてがうまくいくだろうという確信があったんだ。だから、わしらはお前を引き取ろうと、神父に提案した。はじめ神父は警戒していた様子だったが、やがて、わしらの心根の正しさを知るにつけ、これは神の慈悲だといわれ、賛同された。わしらは難しいことはわからないが、この子を慈しんで育てようという約束を神父と交わした。それで、お前がこの家に来たってわけだ。どうだ、納得できたか?」ホリックは血のつながらない息子マイセルに自分の気持ちが通じているのか確かめるように、少し怪訝そうな目つきをしながら、様子を見守った。
「そう――」マイセルはもうひとつの疑問を心に抱いていたが、いいだすべきかどうか迷っていた。
「その顔つきでは他にもなにか知りたいことがあるようだな?」ホリックは肩をすくめて表情をゆるめた。
「その――あの――」マイセルは逡巡していた。そして決意する。「父さんの夢の中で、僕に似た青年が歌を歌っていたっていったね」
「ああ、いったとも」ホリックはきょとんとした目つきをした。息子が何を言おうとしているのか、量りかねるという表情だった。
「その歌ってどんな歌だったの?」マイセルはそれが重要なことだとでもいうように、こだわりを見せた。
「んー、いまでは記憶が薄れてしまってるからな……もう、十五年以上も昔だからな……。でも、なんとなく覚えてるのは、その歌の文句は古語に近いものだったように思う。昔から連綿と受けつがれてきたものであるような……。意味はとれないけど、どこか心に入り込んでくるような印象があったな……」
「父さんって、高地イルメル語は知ってたっけ?」マイセルは名案でも思いついたかのような表情で父に訊ねた。
「子供の頃、吟遊詩人を職業にしているケトルって男に基礎的なことを二三、教わったくらいだが――それがどうかしたのか?」
「ううん、なんでもないんだ。ただ、その歌は高地イルメル語だったんじゃないか、って思ってね」
「んー、そういわれればそうかもしれないとしかいえない。わしは高地イルメル語の発音を知らんしな」
「そっか……」
「母さんはどうだ? 知ってるか?」ホリックは助けを求めるように妻に話をふった。
「いえ、わたしも知りませんよ。ただ、なんだか美しい歌だなって思った印象だけは残ってるかしら……。そう、物語に出てくるpower spellみたいな感じね。なんだか、魔術でも使ってるような印象」
 ――power spell! あの歴史家ロギヌスが口にした『頌』という言葉……。
 マイセルは、すべてが一本でつながった気がした。図書館で見た『真実の頌』――power spell――〈真実を詠う者〉。しかし、父の話が本当なら、その歌を歌う者はこの自分ということになる。歌を歌うなんてこれまでの人生の中で一度もなかったマイセルには、それが突拍子もないことのように思われた。それに、その歌が高地イルメル語で出来たものだとしたら、いったい、誰がその歌を解読することができるだろうか? 歌には言霊が宿っているらしい。しかし、その歌の力を十分に発揮するには、魔術的素地がないといけないだろう。あのロギヌスはいった。魔術を扱うには、血筋が大切だと。自分には頼りにするだけの血統がない。というよりむしろ、実の両親の手掛かりがまったくない。そんな状態で、自分が高地イルメル語の歌を使いこなせるとはとうてい思えない。そんなことを考えているうちに、マイセルは、理想と現実のあまりのギャップに打ちのめされそうになった。
 ――もう風呂に入って寝よう。
 マイセルはクローゼットから着替えを取り出すと、風呂に入ることにした。
 風呂からあがったマイセルは、父と母におやすみの挨拶をしてから、自分の部屋に引っ込んだ。マイセルの部屋は二階の階段を昇った突き当たりにあった。
 部屋に入ると眠るには少し時間が早すぎると思い、ロウソクに火をつけ、書棚の中から一冊の本を取り出した。題名は『悪魔のささやき』。中身は昨今はやりのロマンス小説で、空想小説と呼ばれることもある。もうページの三分の二ほどを読み終えており、もうすぐクライマックスというところまで読み進めてきていた。マイセルはベッドに倒れこむようにうつぶせになると、顔だけ上げて本を開いた。読書の時間は蜜のように過ぎていった。
 そして若干の眠気がマイセルの頭に覆いかぶさってきたころ、あと数十ページとなった本を閉じ、部屋の隅にある燭台のロウソクの炎を吹き消して眠りについた。
 さまざまなことが頭と心に去来した。――頌――スペル――真実――闇。
 しかし、整理がつかないままに、マイセルは眠りへとおちていったのである。


10 :蒼幻 :2008/02/10(日) 16:21:39 ID:nmz3zmrc

2 古の血の伝承



 歴史家には大きくわけて三つのタイプがあるらしい。
 第一が、時間の流れを等間隔に分断し、それらを個別に、詳細な歴史を調べようとする学者タイプ。第二が、ある特定の人物に惹かれ、その人物の生涯をとことん調べつくそうとする伝記作家タイプ。そして、最後に、伝承や民族の歴史をその根源に遡って、物事の道理を正しい方向に導こうとする哲学者タイプ。自分はその第三のタイプにあたる。ロギヌスによる説明は以上のようなものであった。
 マイセルとセシル、そしてロギヌスは、〈王立図書館〉の本館にいた。図書館に向かう道すがら、ロギヌスに歴史家のことを訊ねたのは好奇心旺盛なマイセルだった。そして、セシルもその言葉に惹かれたのか、ロギヌスの話に熱心に耳を傾ける風だったのだ。
「ほう、噂にたがわぬ、立派な建物だな」
 それがロギヌスの図書館を見ての第一声だった。
「そりゃそうですよ、イスハークの〈王立図書館〉といえば、さまざざまな稀覯本が保管されてあって、国自体が文化の興隆を支持しているから、国の援助を受けて近隣の国々、もしくは遠方の国々の作品まで蒐集することができるわけですし。そんな風に知識に貪欲でいることが、この〈王立図書館〉を他に類を見ない、文化的財産の結集とまで呼ばれるほどにしたんですから」マイセルはまるで自分の長所を語るかのように、この稀有な建物を自慢した。
「ふむ……このようなところだからこそ、『真実の頌』も得ることが出来たんだろう」ロギヌスはふしぎな感心の仕方をした。
 しかし、その言葉から、彼の関心は『真実の頌』にこそあるのだということがはっきりした。
 マイセルとセシル、二人の司書は、司書長のひとりであるユービックのもとにロギヌスを連れて行き、稀覯本が多数安置されている保管庫に立ち入る許可を得ようとした。ユービックは図書館に入れる新刊本のピックアップをしていたらしく、書類とにらめっこしながら、表にチェックを入れている最中だった。
 司書長ユービックは、司書二人が連れてきた歴史家にうろんげな視線を投げかけたのだったが、すぐにロギヌスを客人としてもてなすような態度を見せはじめた。先に、稀覯本を目にすることができるのは学者先生や、魔術研究所所員くらいのものだと書いていたが、もちろん、歴史家も学者先生のなかにふくまれる。マイセルは直属の上司であるユービックがほとんどなんの疑念もいだかずに、ロギヌスを歴史家と認めたことに、信じられないという気持ちをもった。
 ユービックはマイセルとセシルが歴史家と知り合った経緯を知りたがったが、セシルが気のない返事をしながら、酒場で出会った話をしてユービックの関心をそいだのだった。
「うちの図書館には二十の保管庫があり、そのうちの三つ目にお探しの本はあるでしょう」ユービックが丁寧に説明しながら、保管庫に続く廊下を歩きだした。
 ロギヌスは始終無言だったが、何事か考えている様子は見てとれた。
 マイセルが昨日掃除を済ませた部屋、第三保管室の扉がユービックによって開かれた。そして、マイセルが昨日観たところに安置されている稀覯本『真実の頌』を指差して、ロギヌスに知らせた。
 ロギヌスは大股に部屋を横切ると、陳列台の上に置かれている本の前まで進み、そして顫える手でその本を持ち上げた。
 ロギヌスの手が顫えているのはどうしてだろう、昨日、あれから酒を飲みすぎたのだろうかと邪推してしまうマイセルだったが、どうやらそういうことではないらしいということに気づいた。どうも、本を手にしたことに対して感動を覚えているような様子なのだ。ロギヌスは何度も表紙に目を遣り、「そうそう」とか、「これだ」とか、ひとりごとをいった。
「この本のこと、ご存知なんですか?」とユービックが丁重な印象のある雰囲気で質問をした。
「ああ、知っておる。知っておるとも。これは超一級品の魔術書じゃよ」ロギヌスは目じりに皺をよせた。満足げな表情だ。
「へー、でも、観たところ、これは高地イルメル語の書物ですね。読めるんですか?」とユービック。
「いや、読めんよ。でも、何が書いてあるかは大体分かる」
 マイセルはロギヌスが強がっているのではないかと感じた。本当は読めないし、意味もわからないし、書いている内容も知らないのではないかという印象を強くする。しかし、それは正確ではなかった。どうやらロギヌスは本当に、何が書かれているのか、知っているらしい。そして、彼はページを繰り、昨日、マイセルが口にした一節が書かれているページをひらき、「これじゃな」といってマイセルに示したのだから。
「そうです、それです」とマイセルは返事した。
 マイセルはその言葉が頌歌の形式をとっていることに気づいた。ロギヌスが口に出して発音していた言葉を聴き、そう感じたのだった。本能が告げていた。これは歌である。つまり、父が昔観た夢に出てきた青年が歌っていた歌こそ、この頌にちがいない、と。
 しかし、納得いかなかった。歌はすべてを統べるものという風に、父ホリックの夢は徹底していた。しかし、いま、目の前でロギヌスが歌った歌は、なんというか、本当のところ、心に響くもののまったくない棒読みといってもさしつかえないような無表情の歌にすぎなかった。マイセルは少し悩んだ。
「どうしたんだ、マイセル?」黙りこくったマイセルにセシルが声をかける。
「いや、なんでもないんだ」とマイセル。
「ふむ……」ロギヌスは高地イルメル語の書物のページを繰りながら、マイセルの顔と交互に見比べた。
「どうかしましたか?」セシルはその表情に戸惑いを浮かべながら、ロギヌスのほうを観た。
「いや、もしかして、と思ってな」ロギヌスが含みのあるいいかたをする。
「何がですか?」自分の顔を見られているをはっきり悟ったマイセルは、怪訝そうな面持ちでロギヌスに訊ねる。
「いや、高地イルメル語は習ったことがないんだろう、マイセルよ?」
「はい」
「しかし、この書物の一節は読むことができた……」ロギヌスは鋭い眼光を見せた。
「そうなりますね」とマイセル。
 マイセルはロギヌスが何をいいたいのか、はっきりと把握できないことにいらいらしはじめていた。この歴史家はいったい、何をいいたがっているのか? 含みのあるいいかたは気を揉ませるだけで、なんの成果もあげないことに気づいていないんだろうか? マイセルはそんなことを思いながら、歴史家の次の言葉をまった。
「そなたがいった箇所はどうやらpower spellの大本になっている頌の一節らしい。これが読めたということは、やはり、そなたにイルメル語の素養があるということかもしれん」
「えっ?」マイセルとセシルは同時に驚き、そして両者はお互いの顔を見比べた。
「でも、イルメル語の魔導書なんて、僕には読めません」マイセルがきっぱりと断わる。
「いや、そなたにはなにか魔力の片鱗が見受けられる。かくいうわしも僅かであるが魔力を有しておる。そのわしが感じるのだ、そなたと酒場で出会ったときから、気になっておった。いったい、どれほどの魔力を有しておるのかはわからぬが、確かにそなたの中には魔力の萌芽がひそんでおる」


11 :蒼幻 :2008/02/16(土) 11:04:53 ID:nmz3zmrc



「嘘だ! 詭弁です!」マイセルの言葉は熱をおびた。
「いや、現に、魔導書を公用語に訳して読んだではないか? 魔力の助けを得ずに、魔導書を読むことはできん。そなたは、この魔導書『真実の頌』のおめがねにかなったというわけさ」
「まるで魔導書が意思をもっているかのような口ぶりですね?」セシルがつっけんどんに訊ねた。
「ふっ、意思を持つ本か……」ロギヌスは口元をゆがめて笑った。「確かにそうかもしれん。しかし、これだけは覚えておいて欲しい。なんでも、適正というものがある。その資格を有した人間にはいつも自然の流れというものが回りにただようことになる。今回の場合もそうだ。その行為が好奇心によるものであれ、利己心によるものであれ、おまえがこの魔導書を観るという行為自体が、理にかなったものとして認められているということを知らねばならない。そして、魔導書の中の一節を知りえたという事実。これは大きい。それだけでも、そなたが普通の人間ではないという証左になるだろう」
「買いかぶりすぎです!」なおもマイセルはロギヌスの言葉を否定するようにいった。
「うむ……」ロギヌスは言葉を詰まらせる。「ならば仕方あるまい。こうして納得してもらうことにしよう」
「納得?」とマイセル。
「いったい何を?」セシルも気になるようだ。
「それでは私はこれで失礼します」司書長のユービックが部屋を退室した。
 部屋の中は三人だけになった。これから何が始まるのだろう、と興味津々だったが、ロギヌスの言葉尻を考えるに、楽しいことが起こるとは、とうてい考えられなかった。そして、ロギヌスは次なる行為を推し進めることにしたようだった。
 突然、頭が破裂しそうなほどに痛みだしたのをマイセルは感じていた。そして、立っていられなくなり、床に倒れてしまった、傍らを観れば、セシルも同じように、苦悶し、のたうちまわっている。その傍にはロギヌスが歌を歌いながら、手を伸ばし、音の強弱で微妙なコントロールをしているように思われた。
「ロギヌス……いったい」マイセルは一瞬、ロギヌスが自分たちに苦痛を与えようと、わざとこれらのことを行なっているという気がした。急速に、ロギヌスに対する不信感が心に芽生えはじめた。
 マイセルは痛む頭の中で、ふしぎな感触を得はじめていた。確かにロギヌスの言葉は自分の頭に痛みをもたらす。しかし、その頭痛はいつのまにかおさまるものであり、特に心配はないだろうという印象があった。そして、それは自分も歌うということで解消されるものではないか、という印象を持つのだった。ロギヌスの歌声は確かに苦痛をもたらすものであったが、しかし、その歌の文句が耳に入ってくるのは、嫌な気分ではなかったし、もちろん、自分のなかにある意識がそれを讃仰しているとさえいえた。
 そして本能が告げる。この歌を歌え、と。
 マイセルはロギヌスが口にしている歌を同じように口ずさみはじめた。
 するとどうだろう。これまでの頭痛が霧のように晴れていくのだった。マイセルはその感触に喜びを覚えた。見れば、セシルも頭を押さえながら立ち上がっている。
「ほう……一度で憶えたか……記憶力はいいようだ」ロギヌスが感嘆の声をあげる。
 やがて、マイセルはその歌が力を喚起する頌であることを知り、意外そうに顔をゆがめた。
 ふたつ疑問が生じる。――ひとつ、どうしていまの頌を力を喚起する頌だとわかったのか? ――ひとつ、どうしてロギヌスが歌ったときだけ、苦痛が生じたのか?
 そのふたつの疑問はいまいちよくわからない。マイセルにはそう感じられた。そこで、歌うのをやめたロギヌスにマイセルは質問してみた。
「ふむ……それはな……」ロギヌスは微笑んだ。「頌にはそれぞれ力があって、役割が決まっておる。確かにそなたがいま感じたように、これは力を喚起する頌であることにまちがいない。わしが〈真実を詠う者〉から教わったスペルだからな……しかし、その〈真実を詠う者〉はもうこの世にいない。わしの心の中だけで生きておるのだ。そして、なぜ苦痛が生じたかだが……頌は〈真実を詠う者〉に歌われることによってのみ、その効力を発揮する。わしはしがない、一介の歴史家にすぎん。そのような者が神威に満ちた頌を唱えたところで、狙った効果は期待できんというわけさ」
「なるほど」マイセルはふんふんとうなずき、納得した。「要するに、私が自分の意思で歌うのでなければ、効力は期待できないというわけですか?」
「そういうことになるの」
「つまり、私は〈真実を詠う者〉だということになる」
「そうなるの」
「フム……なんとも納得のいかない事実だけど、しかし、それを信じるしかなさそうですね」マイセルは表情には何も出さなかったが、事実の重さに衝撃を受けていた。――自分が〈真実を詠う者〉、まさか?
 マイセルはしかし、自分が高地イルメル語の歌を歌ったときのふしぎな感触を忘れられずにいた。
「ふっ、自分の秘められた能力にいま気づいたという表情をしておるな」ロギヌスが意味ありげに微笑む。
「わたしは――」マイセルは言葉につまった。
「案ずることはない。すべては良い方向に動いていくものだ。わしが知りうるpower spellをそなたにそべて伝授しよう。だから、わしが懸念していることをそなたにすべて伝えるから、その話を聞いてから、次の行動を決めてほしい。このことにはちょっとした重い問題が絡んでおってな……」
「重い問題?」マイセルはロギヌスの言葉を繰り返す。
「そう――重い問題じゃ。ほかでもない、このことがこの世のあり方を大きく変えてしまうことになるだろうからの」
「それはちょっと大げさすぎやしませんか?」マイセルは事の軽重をはかる前にロギヌスに横槍を入れた。
「そういうのは、話をすべて聞いてからにしてくれんかの? ことはそれだけ重要ということだしの」
 マイセルは緊張の面持ちでこれからどんな話がはじまるのか、神妙に訊きはじめた。
「話は単純ではないのだが、はじめに衝撃的なことを告げねばならない」といい置いて、ロギヌスはセシルの方をちらっと見てから、マイセルのまなざしが自身に向けられていることを確認し、話を続けた。
「実は、この『真実の頌』に書かれている闇より生ずる魔障≠ニいうのは〈闇の王〉の眷属のことなのだ。そして、いま北の大地――荒寥とした原野であるのだが――を支配しているのが、この〈闇の王〉の軍勢なのだ。確かに、このイスハークのある大陸全土には人間以外にも多数の種族がくらしておる。エルフ、ドワーフ、ノーム、コボルド、それにトロール等々」


12 :蒼幻 :2008/02/22(金) 23:24:05 ID:nmz3zmrc



「それは御伽噺じゃないんですか?」マイセルは頓狂な声をあげる。
「ふっ、自分の種族しか知らん者は幸せだな……。しかし、その幸せは白痴に近いものがあるかも知れん」
「それはどういう――」マイセルはロギヌスの口ぶりに少しむっとした。
「ふふ、そう怒るでない」ロギヌスは口元だけゆがめて微笑んだ。「で、エルフやドワーフがどんな種族か知っておるのか?」
「いえ――あ――いや――その……昔ばなしによると、エルフは森に祝福された種族で、耳はつんととがり、顎は鋭角でシャープ、その瞳はあらゆるものを見通し、非常に俊敏で、若干の魔力を有しているとのこと」
「ふむ」歴史家は納得するというほどではないが、ひとつこくりとうなずいた。
「で、ドワーフは――いつも炭鉱穴なんかにもぐっていて、薄暗がりの中でミスリルの原石を採掘しているため、闇に目が慣れ、ちょっと鳥目ぎみ。背は人間の胸あたりまで……高くて肩あたりといった感じで、身体は頑丈、そしてなによりエルフとは犬猿の仲とかいう噂ですが――それは御伽噺じゃないんですか?」
「ふむ……そなたはエルフやドワーフの存在が御伽噺と思っておるわけじゃな?」
「ちがうんですか?」マイセルは驚きをかくせなかった。
「んー、これは意識の改革が必要かも知れんな……ふむ……」
 ロギヌスはしばらく思案顔だったが、やがて決めたのか、きっぱりと顔を上げてマイセルの瞳を見つめた。
「これまでに遠方に旅した人間に出会ったことは?」ロギヌスは質問の方法をかえたようだった。
「んー、遠方……南の国レギンズや西方シュラハクに行った人の話なら聞いたことがありますが」
 レギンズもシュラハクもこのイスハークから歩いて半月はかかる場所に位置する国だった。それより遠方となると、マイセルには途方もない距離のように感じられて、仕方なかった。しかし、どうやら、ロギヌスがいう遠方とは、それよりもはるかに遠い世界であるらしかった。
「レギンズにシュラハクか……どれもまだ人間の世界じゃな。もっとも、小国であるイスハークからこれらの国々に旅することじたい、本当に珍しいことだろうが……残念ながら、世界はもっと広い。エルフやドワーフは人間の住む土地を離れたところに棲んでおる。どちらも自然を崇拝しておる高潔な種族じゃ。もっとも、ドワーフの方はいまいちその信仰の状況があやふやになっておるかもしれんが、エルフの方は本物だ。そして、どちらもいまは人間とかかわりあうことなく、自分たちの種族のなかで関係を保っておる」
 マイセルは途方もないほら話を聴いているような印象を受けた。ロギヌスのいうことは信じていいのだろうか? 歴史家となるくらいなのだから、常識や良識は持ち合わせているのだろう。しかし、子供でも知っている御伽噺を真実として事細かに語るロギヌスの言葉にはどことなく迂散臭い雰囲気が漂うのをいなめなかった。
「ふっ、まだ信じられんという顔をしとるな……」
 マイセルだけでなく、セシルもどう反応していいか、迷っている様子だった。
 しばらく三人の間に、沈黙のときが訪れる。
 そしてロギヌスが説明し始めた。「この『真実の頌』の著者はどうやらエルフの賢者であるらしい」
「えっ?」マイセルとセシルは意外そうに声をあげた。
「高地イルメル語は人間だけの専売特許ではない、ということさ。そして、この書物の裏面の端にエルフの紋章が描かれておる。著者名は見当たらないが、その紋章こそが、エルフの著した書籍であることを示しておる」
「紋章……」そういうマイセルに、ロギヌスが『真実の頌』を裏返しにして彼に示した。確かにそこには、なにかを象った浮き彫りの紋章があらわれていた。
 マイセルはなにか秘密めいたことを知ったような気がした。そして、『真実の頌』がどうしてこのようなところに置かれてあったのかが、なんとなくうすぼんやりとわかるような気がするのだった。たぶん、こういうことだろう。この『真実の頌』はエルフが著した。そして、エルフの知識の結集したものとして、この魔導書は誰かの手によって大切に保管されてきた。しかし、あるときこの書物は持ち主によって手放された。そして流れ流れて、人間の手に渡り、図書館関係者の目にとまり、高値で購入されたというわけだ。この〈王立図書館〉が書籍を入荷するルートは確かに幾種類もあったが、この方法がもっともポピュラーといえた。新刊本は近くの広域書店に頼っていたが、中古本のなかでも特に稀覯本を手に入れるには、仲買人たちや古書店の主人らを個別にまわって説得するという手法がとられていた。世の中の流れに左右されない、良質の書物を手に入れるには、その方法が最善だったのだ。
「このエルフの書物はすさまじい魔力を秘めておる。わしがさっき唱えた歌も、〈真実を詠う者〉から授かったといったが、元をただせば、このようなエルフの書物から生まれた歌なんじゃよ。もっとも、歌というより、頌、もしくは真言というわけだがな……」
 ロギヌスは真言≠ニいう言葉を発するとき、ややためらう表情を見せたが、マイセルにはそれがどういうことなのか分からないでいた。だから聞くことにした。「真言って?」
「やはりそこにひっかかるか」ロギヌスは説明しようと、頭の中で言葉を練っている風だった。
「真言というのは、ここよりも東方の、海を超えた先にある島国で培われた言葉のひとつでな……。言葉には言霊が宿るという思想は、その国で生まれたとされておる。言葉を神聖なものとして認めるということじゃな。そして、その言葉の神聖さを奉ずるあまり、ある特定の言葉にはまことの力が生ずるとされたのが、真言という呪文群だった」
「真言というのは呪文なんですか?」マイセルは頓狂な声をあげる。
「そう……呪文じゃよ。もっとも、その東国では呪文といわず、真言として……神聖なものとして認められてはおるが、これはわしらがいま話しておる頌という言葉に対応しておると思ってよい」
 マイセルは新鮮な驚きを覚えた。頌≠ニいうと、ちょっと気分が高揚するまじないのように思っていたが、真言≠ニいうと途端に神聖な響きを得る。両者が同じものだとしても、言葉の上では天と地ほどの違いがあると感じられた。


13 :蒼幻 :2008/02/22(金) 23:24:41 ID:nmz3zmrc



「で、先程の話に戻るのじゃが――」
 マイセルはロギヌスの話に聴きいった。
「その闇より生ずる魔障=q闇の王〉の眷属がノームとコボルドを率いて、暗躍しようとしておるのだ」
 ロギヌスの告白は途方もないものであるように思われた。
 エルフやドワーフが御伽噺の中の存在ではないと打ち明けた次に、ノームとコボルドが悪行を為そうと画策しはじめている! マイセルは信じられないという風に、何度もまばたきしてから、頭をふった。
「その様子では……信じられんか」ロギヌスは目じりに皺をよせて、力なく微笑んだ。
「ひとつ疑問があります」マイセルはきっぱりといった。「どうしてあなたは人間の身でありながら、そんな遠方のことを、しかも、〈闇の王〉の眷属のことをご存知なのですか?」
 そのマイセルの発言を聴いたロギヌスは、途端に目の色をかえた。
「それは予言を知っておるからだ」
 マイセルは耳慣れない言葉を聴き、戸惑った。そして訊ねる。「予言――?」
「そう予言じゃ。それは〈カーライン予言〉と呼ばれるものでな。その名のとおり、カーラインという、いまより五世紀ほど前の時代に活躍した魔導士の行なった予言でな……一般には流布していないが、その筋の者たちには、絶大な支持を受けておった。その予言のなかの一説にあるのだ。光と闇の交錯凄まじきとき、頌もて立ち上がる若者あり。そは人間なり≠ニな。わしもじかにそなたと会うまでは、その予言に疑念をもっておったが、そなたに会ってはっきりした。そなたこそ、その頌もて立ち上がる若者≠セ!」
「えっ? いったい、なにを」マイセルは唖然としてしまった。
「信じられんか? 自分が世界を救う勇者だと告げられたようなものだからな。それこそ、その日までまったく何も知らずに、毎日の生活に汲々としていたというのに」ロギヌスは目じりの皺をぴくりとも動かさない視線でマイセルを見つめた。
「詭弁です!」マイセルはむきになった。
「確かに詭弁に聞こえるかも知れん。しかし、わしは真実を述べておるつもりだ」
 マイセルはそのロギヌスの話が途方もないことのように思われた。
 自分が〈闇の王〉の眷属とたちうちできる――? そんな、まさか。剣の扱いひとつ満足にできないのに、たかが魔導書に書かれた一節を読めたからって、そこまで人を買いかぶるなんて、どうかしてる。ロギヌスはきっと頭がおかしいんだ、マイセルはそう思いこもうとしたが、しかし、それが誤りであることを心のどこかで感じているのも事実なのだ。
 マイセルが考え込んでいるのを見て、ロギヌスはしばし掛ける言葉を思案した。
「――それは本当なんですか?」やがて、マイセルは声を顫わせて言葉を発した。
 ロギヌスはひとつこくりとうなずいた。「わしは嘘はいわん。あくまで真実のみを口にしておる」
「でも信じられません」マイセルはごねる。
 確かに、今日までまったく何も知らされず、奔放に育った青年に、いきなり剣を渡して、おまえは勇者だ、これからその剣を用いて、世界を救うために〈闇の王〉を倒すようにといわれたに等しい。それは不親切というものかもしれない。マイセルは何度も首を振った。これは悪夢だというように、いま見ているものをすべて否定するかのように。
「そうすると、僕はいったいなにから始めればいいというんですか?」マイセルは懇願するような目つきをした。
「そうじゃな……とりあえず、エルフの里を目指すことかの」ロギヌスは肩をすくめる。
「エルフの里……」マイセルはめまいを覚えた。「これまでに一度も足を踏み入れたこともないようなところです。僕にそんなところへ行くことができるでしょうか?」
「行ってもらわねば困る」ロギヌスがフンと鼻を鳴らした。
「ちょっと待った」それまでおとなしく話を聴いていたセシルがここで口を挟んだ。「なんだか、俺にはあんたがマイセルを巧妙に危険の渦中に追いやろうとしているようにしか聞こえないんだが……」
 それを聞いたロギヌスは度しがたいやつというように、セシルをにらみつけた。しかし、そこには威厳のような、人を寄せつけない冷たいものは皆無だった。「フッ」ロギヌスは歯と歯の隙間から空気を押し出すように息をはいた。「仕方ないの……しかし、わかってもらうしかない」ロギヌスはやれやれというように何度か首を振った。
「ん〜」セシルは首をひねった。
「首をひねりたいのは、わしも一緒じゃ。どうしてこんな僻地に〈真実を詠う者〉が存在しておるのか。そして、どうしてこのわしがその青年と出会うことになったのか。その運命の稀有さに、心を動かされておるといっても過言ではない」ロギヌスは目を細めて、まばたきした。
「やっぱり、マイセルを操り人形のひとつにしようとしてるんじゃありませんか?」セシルは同僚を思いやる気持ちにあふれているようだった。
「セシル……」そのセシルの言葉に自分を思う気持ちをくみとって、マイセルは穏やかな表情で、先輩の方をみた。
 部屋の中にはふしぎな空気が満ちていた。
 焦慮というものがまるでない、緊張感だけが漂う室内。部屋の壁の前に置かれた本棚には稀覯本や魔導書、よくわからない事物について描かれた書物の数々、そういったものが所狭しと置かれている。そして、全部で三つある陳列台には、そのひとつに『真実の頌』が、もうふたつにもそれに近い稀覯本がおかれてあった。陳列台はほぼ部屋の中央に一列になっている。『真実の頌』が置かれているのは、そのうちもっとも窓ぎわの位置だった。そして、先日、マイセルが掃除したので、部屋にはチリひとつ落ちていないのだった。
 いま室内にはマイセルとセシルとロギヌスの三人だけである。廊下を人が通る物音もまったくしない。三人が口を緘する間、静謐とでもいうような時間が流れる。
 そんななか、口を開いたのはセシルだった。「なんていうのかな……それは運命ってやつなのか?」
 ロギヌスはしばらく思案する風だったが、ややあって、口を開いた。「うむ……運命かもしれんの」ロギヌスは目をしょぼしょぼさせた。


14 :蒼幻 :2008/03/01(土) 22:19:05 ID:nmz3zmrc



「しかし、運命なら――」ロギヌスがそこで言葉を切って、しばらくしてから続きを語りだした。「運命なら、その渦中にある者は何の準備もなく、そこに飛び込むことになる。しかし、マイセル、そなたには時間が十分与えられておる。もっともその時間も、ここでいたずらに過ごすならば、〈闇の王〉の眷属の手にかかるのも時間の問題だろう。わしにはそれをふせぐてだてがある。確かに、わしはこの状況を好転させる改心の術というものは持ち合わせておらぬが、そなたは幸運かもしれんぞ。このわしとめぐりあうことになっての。そして、わしも幸運だった。こうしてそなたと出会うことができたのだからの。というのも、わしは〈カーライン予言〉によってこの地に導かれてきたようなものじゃからの」
「ロギヌス、さっきあんたはマイセルと出会ったのは偶然である、というような口ぶりだったのに、今度は、〈予言〉に導かれたとかいってる。それは都合のいい、意見のさしかえじゃないのか?」セシルはなおも、ロギヌスの言葉に信用がおけないという雰囲気だった。「どっちが本当のあんたの意見なんだ?」
「……甘いの、セシル」ロギヌスは慈愛のこもったまなざしで青年を見つめた。「これを理解するのは難しいことかもしれんが、これは運命の諭しぞ。運命という大きな流れの中では、個人の意見なんぞ、なんの意味も持たぬ。それは運命が人のことわりも飲み込んで流動する種別のものであるからだ。それに抗うことは、たとえ〈闇の王〉とてできぬ。だからこそ、〈闇の王〉もやっきになって、〈真実を詠う者〉を捜して滅そうとしておるのだからの」
「滅そうと――!?」マイセルは言葉を失った。
「まさか、そんな」セシルもことの重大さに驚きをかくせなかった。
「そう、〈闇の王〉は〈真実を詠う者〉を捜させておる。手下の眷属を使っての。そして、眷属はその手下のノームやコボルドを総動員しておる。そして、あるエルフやドワーフの村が、彼らの手によって消滅させられたときく」
「〈カーライン予言〉には〈真実を詠う者〉は人間だと書かれてるんじゃ?」とセシル。
「そこじゃよ」ロギヌスは口元に笑みをうかべた。「〈闇の王〉は〈カーライン予言〉を知らぬ。カーライン予言は定命のものにしか読まれぬ。そして、われらだけが、〈真実を詠う者〉の正体が人間であることを知っておる。しばらくはエルフやドワーフが隠れ蓑になるだろう。そして、ノームやコボルドも人間族の住む地方にまで魔の手を伸ばすには、まだ時間がかかるだろうて。というのも、国境付近の人間の国は、それまでその国土へのノームやコボルドの侵攻がなかったわけではないからの。そういうことに慣れておる。しかし、ノームとコボルドの混成軍、しかも全軍が一点に侵攻してくるとなると……これはたいへんな猛威だろうの。いかに歴戦の勇士といえど、これには国土を蹂躪されてしまうかも知れぬ」
「隠れ蓑って……それでいいんですか?」セシルは唖然としていった。
「フッ……計画の遂行には仕方ないというものだ。それに、国境警備隊はそれまでに何度もノームやコボルドといった闇の軍勢の混成軍の侵攻を食い止めてきた。今度も、きっと食い止めてくれると信じたい。まぁ、矢面に出て行って、直接、頌の力を見せ付けるという手もあるが、頌と出会ってまもないマイセルが、昨日今日で頌を自在に操れるとは思えんし――それはいかな使い手であろうと、無謀というものだろう」歴史家は大きく嘆息した。
「ではエルフの里に向かうのですね」セシルは観念したかのようにうつむき加減に訊いた。
「そうなるの――。マイセル、そこまでは理解できたか?」ロギヌスは油断のない視線でマイセルを見た。
「それはわかりましたが、でも……いまの仕事はどうすればいいんです? この仕事を犠牲にするわけにはいきません。これは僕の天職だと思っているんです」
「何をいっとる。大事のまえの小事ではないか」ロギヌスはフンと鼻をならす。
「そうですか……」マイセルはうなだれる。
「出発は今日の昼一時。昼食を食ったら出よう。それまでに旅に必要な物を買い揃えるように。お金の心配はない。わしはこれまでの仕事でたんまり金貨をもっておるからの。でも注意が必要じゃ。金は魔物。あれもこれもと手を出していたら、いくらあっても足りなくなってしまう。何が必要で何が必要でないかをしっかりと見極めた上でつかうんだぞ。さあ、これを渡しておく。さしあたっては一週間分の食料と毛布を買っておくんだ。道は険しいぞ。旅はつらいものになるかもしれん。覚悟しておくように」
 マイセルはロギヌスの話を聴いているうちに、これは本当に現実なのだろうかという気持ちがむくむくと心をもたげてきた。なんだか一枚あやふやなものでせきとめられてしまっているような印象をもつ。誰か自分ではない、他の人間の行動を見ているような印象を強くもち、自分のこととして受け入れることを本能で拒んでいるような……。
「それで――この本はどうするんですか?」マイセルが『真実の頌』を指差す。
「これはpower spellの結集したものだ。もちろん、これからの旅に必要になってくる知識を我々にしめしてくれる貴重な書物となるじゃろう。当然、持って行くことになろうの」ロギヌスは事もなげにいった。
 しかし――とマイセルは考える。
 この図書館は一般書の貸し出しは認めているけれど、専門家にだけ閲覧を許している稀覯本の貸し出しについては全面的に認めていなかった。マイセルは司書長が自分にだけ、特別に貸し出しを許可してくれるだろうかと思い悩んだが、この場合、頼んでみるしかない。マイセルはこの本を持っていき、貸し出してくれるように頼み込むことにした。ロギヌスに事情を説明してみたが、彼もいい顔はしなかった。しかし、彼もこれは仕方のないことだと納得しているかのようだった。
 考えてみれば、大陸屈指の図書館という名目で成り立っているこの建物に、稀覯本の知識を求めてさまざまな人物が訪れるが、その都度、数々の稀覯本が貸し出し中ということになれば、それはなんともしまらない話ではないか。しかも、貸し出しした本は返されないことも多く、それが稀覯本にまで及んでは、今後の図書館の運営に差支えがある。そのような理由で、貸し出しを渋っているというのが、真実だった。
 マイセルは陳列台から頌の本を取り上げると、ロギヌスとセシルにめまぜを交わし、司書長であるユービックの部屋に向かうことにした。マイセルは気分が少し憂鬱になるのをおさえきれなかった。ユービックに頼みごとをするのは慣れていなかったのだ。心証を悪くする可能性もあったし、なにより、マイセルは階級社会という物に順応することを心のどこかで拒んでいるところがあったから、上司に対して、つい警戒心をいだいてしまうのである。
「ロギヌスはこれまでにたくさんの国々を訪問されてきたんですね?」セシルが当初の警戒心を解いて、軽妙に訊ねる。しかし、完全に彼を信頼しているというわけではないようであるのだが。
「うむ……先ほど話した、言霊という言葉の生まれた国、倭国にもいったことがあっての。そのときはふしぎな体験をした。なんというか、そこでは魚や貝を生で食べる習慣があっての。初めはわしも気持ち悪がったが、郷に入っては郷に従えで彼らの真似をしてみたら、案外、これがいけるではないか。それ以来、魚は生でなければとまで思うようになっての。倭国から帰ってきてしばらくは、もとの習慣に戻すのに苦労したもんだ」ロギヌスはかっかっかっと大きく笑った。それは廊下の向こうにまで聞こえるような大きなものだったから、その付近の部屋で作業をしている館員らの邪魔にならないだろうかと、マイセルは気が気でならなかった。


15 :蒼幻 :2008/03/01(土) 22:19:53 ID:nmz3zmrc



 やがて、マイセルは司書長ユービックの執務室の前に到着した。マイセルはあらかじめユービックがどんな反応を見せるかという想像をしていたので、それを思うと、さらに憂鬱が募った。そしてそれ以上に、職務を放棄して余所の土地に旅をするという自分の希望自体を全面的に否定されるのではないかという恐れを抱いていたのだった。
「司書マイセル、入ります」マイセルは扉をノックしてから丁寧に宣言した。
 扉の向こうから答える声がした。
 その返事を聞いてから、マイセルは入室した。それにセシルとロギヌスも続く。
「ふむ……三人揃ってなんですかな?」ユービックは椅子に座って机の上に乗せた書類とにらめっこしていたが、マイセルが部屋に入ると、その書類から顔を動かさないまま視線を外して彼らを見つめた。
「その……司書長……実は話しにくいことなのですが、二点、申し上げたいことがあります」
「なんだ?」ユービックの声には威厳がともなっている。
「実は、第三保管室の陳列台の上に置かれていたこの書籍を貸し出してほしいのです」マイセルは恐縮して、自然に声が顫えた。
「ほう……」ユービックは先を続けるようにと無言で訴えかけているかに見えた。
 マイセルは続けた。「実はこの書籍ですが、この内容が私たちの今後にとても重要な指針を与えてくれるということが分かって、私たちは誰よりもいま、この書籍を必要としているのです。詳しくはいえません。でも、わかってください。我々にはこの書物がどうしても必要なんです」
 ユービックは口を引き結んで押し黙った。
 この場をどう取りまとめたらいいのか分からないセシルも、はらはらしながら成り行きを見守っていた。
 その状況を打開したのは、なお依然として正体のわからないこの歴史家だった。
「司書長さん、わしはさきほど話したとおり、このような一介の歴史家です。しかし、歴史家といっても、毎日古文書とにらめっこしているような消極的な学者ではないつもりをしております。わしは古来の事象にもいくぶんか通じておりまして、今回、このマイセルがこの本を貸してほしいと述べておるのも、実は、伝承に関連することなのです。もっとも、詳しく話すことは、この場では憚られますが、わしらは決して間違ったことをしようとしておるわけではないのです。分かって欲しいのですが、いまわしらにはこの書物が必要なのです。お願いします。この書籍が貴重なものであることは重々承知の上。それを分かっての上でのお願いでござる。これをわしらに貸していただきたい」
 ロギヌスは頭を下げた。
 その様子を眺めたユービックは思案するように、聡明なまなざしを三人に向けていたのだったが、やがて、思い当たったことがあったかのように、ロギヌスに視線を定めた。
「わかりました、貸し出しを許可いたしましょう。司書長権限です」ユービックは透徹したまなざしをしていた。そして続ける。「しかし、これは今回だけですよ。いかに司書長とはいえ、稀覯本の貸し出しを認めることは越権行為に近いものがあります。まあ、この書物は高地イルメル語の魔導書。そのようなものを好んで読みにくる好事家など、年にいくたりもおりませんでしょう。しかし、気になりますな――一学究として。いったい、この書籍にどんな秘密が隠されているのか?」
「残念ながら、それはいうわけには参りません」ロギヌスが油断のない視線を悠然とたたずむ司書長に向ける。
「それで、マイセルはどうも、ここから離れるような口ぶりでしたが、いったい、もうひとつの知らせとはなんですか?」ユービックは更なる疑問をマイセルに投げかけた。
「それですが――」とマイセルは告げる。どういったものかと思案していた様子だったが、やがて、思い定めたのか真顔になっていった。「実は、わたしとセシルに長期休暇を認めてほしいのです。実は、私たちは故あって――これも詳しく告げることはできませんが――遠方に旅しなければならなくなりました。どうしても、これをしなくてはいけないという旅です。日数は何日になるかわかりません。この歴史家ロギヌスと一緒にです。この旅には目的があるのですが、その目的を果たさないことには、帰るに帰ってこれません。ですから、今の段階で、旅は何日になります、ということはできません。短くて数ヶ月、長くて一年、二年、そんな旅です」
 マイセルはいいながら、途方もない話だと自分で感じていた。これを訊いたユービックはどう思うだろう、とマイセルは考えた。
 ――ユービックの表情を確かめるのが怖い。
 マイセルはおそるおそる目の前のユービックを見た。
 しかし、ふしぎとユービックは持ち出された事項に対して、驚きも、戸惑いもしていない様子だった。
 室内は静まり返っていた。
「そうですか……わかりました。セシルの方は少し不安ですが、マイセル、あなたの普段の仕事振りをみるにつけ、何か褒美を与えなくてはと思っていたところでした。この休暇があなたに対する褒美ということに致しましょうか。しかし、憶えておいてください。あなたはこの〈王立図書館〉の司書だということを。常にそのことを自覚した上で、突飛な行動をとらないように、注意すること。わかりましたね?」ユービックはまるで母親のような気遣いで、マイセルをいましめた。
 マイセルはユービックの注意よりも、自分の申し出が素直に受け入れられたことのほうを意外に感じていた。そして、感謝の声をあげる。「ありがとうございます、司書長。その言葉を忠実に守って、旅に出ます」
 ユービックはその透徹した表情をやわらげて微笑んだ。そして、「セシル、あなたもですよ」といった。
 セシルは背筋をぴしっとしてそれに答える。「気をつけます」
「あなたが一番心配です」とユービックは破顔した。
「では、わしらはこれにて失礼させていただきます」とロギヌスが頃合を見はからってきりだした。
 三人は司書長の部屋を退室する。
 廊下に出たマイセルはロギヌスに向き直り、訊ねた。「これから旅の準備をするのですね。で、いったい、何からはじめれば?」
「いわなかったかの? 先に渡した金貨で一週間分の食料と毛布を用意するのだ。わしは先に部屋に戻っておるから、準備ができたら二人でわしのもとを訪れてくれ。話はそれからだ」


16 :蒼幻 :2008/03/01(土) 22:20:24 ID:nmz3zmrc



 ロギヌスと別れて〈王立図書館〉を出たマイセルとセシルはロギヌスに言われたとおり、まずは食料を購入することにした。金貨なんて持つのは珍しいことなので、気分が高揚してしまった。しかし、ロギヌスがいっていたとおり、お金は魔物だ。マイセルはその言葉をよくかみしめた。そして必要なものだけを買おうと思ったが、パンだけでなく、缶詰や保存食まで購入してしまい、ついつい買い物の点数が多くなることを防げなかった。そして、マイセルは自分の買い物ですら買いすぎだと思っていたのに、傍らのセシルがそれ以上に購入しているのを見て、苦笑を禁じえなかった。
 それから二人はいったんそれぞれの家に帰り、毛布を手にいれることにした。
 マイセルはいつも使っている毛布を持って行くことにした。ちょうど薄手の頑丈なものだったから、長旅にはぴったりと思われた。丸めてもかさばらないし、なにより防寒性にすぐれている。マイセルはそれらの荷物を小分けにしていくつかにまとめた。そしてしばらく家で挽き立てのコーヒーを味わい、気分が落ち着いたところで荷物を持って、セシルとの待ち合わせ場所であるビネル三叉路まで出た。父と母になにもいえなかったのは残念だったが、二人とも仕事で出ていて、しかも自身の用事も急だったため、旅に出ることは少し長めの手紙にして台所の飯台の上に載せて出てきたのだった。
 マイセルに寂しさがなかったといえば嘘になる。いかに血のつながっていない親子といっても、親愛の情は通っている。その感情は実の親子よりも強いものであったかもしれない。実の親子なら、憎み合い、ときに喧嘩もしただろうが、血のつながりがないということは、それだけで相手を思いやる気持ちを持つことができるのが自然であり、互いの身を案じあうような習慣をもつことができるのだった。マイセルは義父と義母の顔を思い出し、ふっと微笑んだ。
 自分がいなくても、二人は大丈夫。きっとうまくやっていくだろう、マイセルにはそう信じられた。
 ビネル三叉路についたマイセルは、まだやってこないセシルにいらいらさせられることはなかった。その三叉路は人通りが多かったし、それを見ているだけで時間を潰せたからだ。大きな樽をかついだ小太りの壮年の男、花籠を手にして小さな花を売ろうとしている小娘、油断なく腰の剣に手を添えて通りを闊歩していく剣士風の男、腰をくねくねさせて魅惑的な色気を振りまく熟年の女、ほんとうにさまざまな人物がそれぞれに主張しあいながらそこを通り抜ける。その様子はまさに百花繚乱、小国とはいえ、いかにも都といったおもむきだ。
 しかし、マイセルは自分に危機感がまったくないことに物足りなさを感じていた。ロギヌスの話では、マイセルの存在は、〈闇の王〉にとって邪魔である。そしてその配下である眷属たちが〈真実を詠う者〉の命を狙って、諸国を蹂躙しようとしている。マイセルには俄かに信じがたいことだったが、しかし、ロギヌスが嘘をいう人間ではないことはわかっていた。
 だが、こんな自分がいったい、なんの役に立つのだろう、という気持ちもあった。確かに自分は〈頌〉の一節を読んだ。しかしそれは偶然の事ではないのだろうか? たまたまなんらかの偶然が重なり合って、その箇所の意味だけ雷のように頭にひらめいたのではないか? しかし、歴史家によると、それは偶然ではなく、魔術につきもののひらめき、インスピレーションというものだという。マイセルには自分がそれほど重要な位置に場所を占める人間ではないという控えめな感情があったので、素直に、現状を自覚することができずにいた。それは現実との乖離感といったものによって印象づけられていた。
 それでも、マイセルにはもうひとつの感情もあった。それは自分が選ばれた人間であるということを知った喜び、選民的な優越感。それはマイセルが孤児だったことに由来するのかもしれない。マイセルは幼い頃、孤児だった。それを意識させないように、教会で大切に育てられたとはいえ、本当の両親の顔を知らないという事実は、幼いマイセルの心に重くのしかかっていた。父と母は自分を捨てた。そこにはいかなる事情があったのか、子であるマイセルにはまったく想像することができない。しかし、こうも考える。父と母は、教会に毎週やってくる家族連れのような貧しい人間ではなく、もっと格が上の人物ではないのか? そしてそんな人の子供である自分は、もっと恵まれた生活をしていいのではないか、と。しかし、その思いは、質素を旨とする教会神父の考え方にそぐわなかった。マイセルはそこにかぎりないジレンマをいだいていた。自分は裕福になるべき人間なのに、いまこうして不遇の時を過ごしている。いつかは報われなければならない、と。その報われるときがいま、訪れたのだ。それはマイセルの心の中にひそむ闇とでもいったものだった。意識してはいないが、マイセルという人間の形成に大きく付与したであろう特性。それは負の思想だったが、マイセルという人間の特性を考えるには避けて通れぬものである。
 ――自分は特別なのだ。マイセルはそんな思いを強くした。その感情が何に起因するものなのか、自覚することなしに。
 しばらく通りを眺めていたマイセルに、背後から忍び寄る者の姿があった。
「よっ、マイセル、待たせたか?」それは大きな荷物を抱えたセシルだった。
「セシル!」マイセルは頓狂な声をあげた。「どうしたんだい、その荷物は?」
「いや、それは……」セシルは戸惑った様子だったが、やがて話しだした。「実は、毛布の他に着替えとか洗面道具とかいれてたらこんな荷物になっちまってな。だって必要だろう、そういうの?」
 マイセルはセシルの話をききながら苦笑した。
 ――そういえば、自分はそんなことまったく考えもしなかったな……。マイセルはふと思った。
「だから、旅行中に読む雑誌とか、遠方を旅した人の紀行文とかの載った本を持ってきたんだ。よかったら旅の途中で貸してやるよ。読むだろ?」セシルはまるでこれから遠足でも行くかのような陽気さで、同僚に声をかけた。「よし、行こう、マイセル。歴史家のもとへ」セシルはそういい、かついだ荷物をもう一度肩にかけなおすと、先頭に立って歩きだした。後ろからみると、荷物の多さにセシルの背のほとんどが隠れていた。荷物が歩いているといった印象だ。
 歴史家の第一声は、馬鹿者、だった。
 そして次に、怒りの声が飛ぶ。
「はやくその荷物を捨ててこい。わしは食料と毛布といったはずだ。必要のないものは持ってこんでいい!」ロギヌスはしばらく怒っていたが、セシルが面食らって部屋を出ようとするのへ、待ったをかけた。「このようすなら、もし仮に荷物を減らしてきたとはいえ、何を持ってくるかわからん。それなら、このわしが選別しよう。そのほうが確実だし、要らないものはこの部屋においていけば、宿の者が処分してくれるだろう」
「そんな〜」セシルはげんなりしたようだった。


17 :蒼幻 :2008/03/01(土) 22:20:56 ID:nmz3zmrc



 それから小一時間ほどロギヌスの小言は続き、その都度、セシルの荷物袋からその中身が消えていった。そしてロギヌスの言葉どおり、セシルの荷物はだいぶシェイプアップされて、食料と毛布、そして役に立ちそうな二三の書物だけということになった。その書物も、持っていくかどうかで、セシルとロギヌスは意見が分かれたのだった。
「最近の若いものは……」ロギヌスはセシルのほうを見ると、やれやれと何度も首をふった。
 一部始終を眺めていたマイセルには、つぐ言葉がなかった。セシルにかける言葉が見つからない。ご愁傷様というしかない。マイセルは思わず苦笑した。
「それで、〈真実の頌〉はどこにあるんだ?」ロギヌスが真顔になってマイセルに訊ねる。
「ここにあります」突然話しかけられたにもかかわらず、マイセルは落ち着いた調子で答えると、荷物を降ろし、ポケットになっている部分をあけて、そこからエルフの本を取り出した。
 ロギヌスはその様子に満足げな笑みをうかべた。「うむ」
「でも、ロギヌス……僕はこの本を読むことができません。読めない本を傍らに持っていたって、どうしようもないんじゃないですか?」
「そうでもない。〈頌〉を唱えることはひとつのスキルだ。スキルというものは、優れた師についたときに飛躍的に能力をアップさせることができる特殊なものだ。おまえは師というものにまだめぐりあっていないだけだ。〈頌〉の一節が読めたのは偶然ではない。それはお前にその能力があることを示している、いわば啓示だ。そのことを励みに思って、これからの道中、学習に専念するんだな。この旅でおそらくそなたは誰よりも成長することになろう。わしはそなたの師になることはできんが、それはわしの力不足を示しておる。わしには高地イルメル語の素養が不足しておってな。この頼りないわしがそなたのspell singerとしての特性を捻じ曲げてしまってはたいへんだ。だから、エルフの里につくまでは我慢してほしい。――さあ、出発しよう」ロギヌスはそういうと、自分も頭陀袋をもって部屋を出ようとした。

 宿の主人に釣りはいらないといっているのがきこえ、ロギヌスの様子を観察していたセシルは、主人が銀貨を手にしているのを見て驚きをかくせなかったのだが、ロギヌスは何食わぬ顔をして、宿の玄関をでていった。何度か後ろを振り返りながら、セシルはマイセルの後につづいて宿を後にした。
「まったく、あれだけの金があれば、この三人の一週間分の食料はまかなえるのに。ロギヌスってさかしげに金の重要性を説いてたけど、本当は一番金の価値を知らないんじゃないか?」それがセシルの言だった。
 マイセルはそれを訊いて苦笑した。さすがにそれはないだろうが、確かに、個室一泊に銀貨一枚は金銭感覚がないといわれても仕方ないのでは? と思った。
 宿を出ればまっすぐ市外へ向かうものと思っていたのに、ロギヌスは見当違いの方へ行こうとしているようだった。
 はじめに気づいたのはセシルだった。セシルは隣のマイセルに舌打ちする。
「おい、本当に大丈夫なのか、この歴史家先生は――」
 しかし、ロギヌスは半マイルほど歩いたところで足をとめた。そこが旅に必要な物を売っている場所だと知って、マイセルは安堵した。
 ――そうか、これは確かに長旅には必要だ。マイセルはそう感じた。
 看板は出ていないが、両脇に並んでいる房を見れば一目瞭然だった。――馬。しかも、王宮の騎士が乗っているような立派な騎乗馬だ。
 このイスハークで馬を見かけることは珍しかった。城の騎兵にしたって、祭りのときしか一般の前に姿をあらわさないし、マイセルが以前に馬をみかけたのも、祭りのときだったのだし。家と図書館の往復であるマイセルの生活では、時折見かける早馬のほかは、馬など市中を走っているのを見たことがない。まあ、貴族の乗る二頭立て、四頭立ての馬車は別だが――この馬車に使用される馬は、騎乗用の馬とちがって、少し小型のモイゼル馬を使うことが多い――それを除けば、馬はイスハークの民にとって、疎遠な存在にちがいなかった。だから、こんな市中で馬を使った商売をしているこの建物の主人は、よっぽど奇特な人間なのだ。
 ロギヌスはその主人と思われる壮年の男と一緒に、房のひとつへ入っていった。そこはマイセルとセシルのいる位置からも見える場所だったので、二人の位置からは、入り口近くにいる干草を旨そうに食んでいる葦毛の馬の姿がはっきりと見えていた。二人はその葦毛馬の一挙手一投足を仔細に観察して喜んだ。
 しばらくしたときふとみると、ロギヌスが入り口にいるマイセルたちのほうを指差し、もう一方の手の指を三本立てて交渉しているのが見えた。その様子をみたセシルは驚きを隠せない様子だった。
「おい、マイセル! 見ろよ、どうやらあの歴史家、おれたちにまで馬をあてがうつもりらしいぜ」
 さすがのマイセルもそれには唖然とさせられた。そして重大な事実に直面した。
「ねえ、セシル」マイセルはロギヌスのほうを見たまま、目を点にしてセシルに問いかけた。
「どうした?」セシルが問い返す。
「僕たち、馬に乗れたっけ?」
「えっ!?」
 二人とも目を見合わせ、口をぽかんと開ける。
 それを知ってか知らずか、ロギヌスが二人を手招きしている。
「行くしかないよな」セシルはマイセルに同情のまなざしを投げかけながら、歴史家のほうにむかった。
 ロギヌスが示した馬はどれも立派なものだった。体格のもっともいいセシルが頑丈そうな黒鹿毛の牡馬〈疾風〉を。マイセルがそれとは正反対に繊細そうな栗毛の牝馬〈水仙〉。ロギヌスは雰囲気にも似合っている哲学者のような表情をした去勢馬〈双刃〉にそれぞれ騎乗することにした。
 騎乗することにしたとはいっても、マイセルとセシルはロギヌスに素直に馬に乗ったことがないと白状した。それをきいたロギヌスは心配はいらないと微笑んだ。自然体で乗っていれば馬のほうで自然に動いてくれるはずだ、と彼はいった。本当にそうだろうかと不安に思いながら、二人は初騎乗を試した。
 しばらく馬を動かす練習をして慣れたあとで出発することにした。セシルはロギヌスが馬三頭の代金に金貨一枚を相当させたことにまたもや不満を持ったようだったが、正直、マイセルは馬三頭の値段の相場なんてわからなかったから、セシルほど気に病むこともなかった。
 ともあれ、旅ははじまったのだ。マイセルは気分を新たにした。
 三人は日が西に向かい始めるころ、その馬房をあとにした。


18 :蒼幻 :2008/03/01(土) 22:21:26 ID:nmz3zmrc

第二章 エルフ族の神秘の森――秘められた恩寵

 


19 :蒼幻 :2008/03/01(土) 22:22:15 ID:nmz3zmrc

1 人間の世界を抜けて



 遠目に見える山稜に美しくたなびく筋雲がかかり、まるで絵画的な、幻想的風景が広がっているのを目の前にして、マイセルは緊張の面持ちで辺りを二、三回振り返り、そして仲間がいることに安堵し、一呼吸した。いまだ謎多き歴史家ロギヌス、司書になったばかりのころから面倒を見てくれた頼れる存在セシル、この二人と旅をすることができて、本当に幸せだと感じていた。
 ふと見上げると、三人の頭上では鳶が悠々と翼に風をため、旋回している。ぼうっと眺めていると、まるで自分も空を飛んでいるような心地がやってきて、なんともいえない高揚感につつまれる。その様子に気づいたセシルが「前を見ないと危ないぞ」と警告してくれなかったら、マイセルは胸のあたりに近づいてくる喬木の枝を躱けることができずに、悪ければ落馬していたかもしれなかった。
「しっかり前を見ておかないと、身体がいくつあっても足りんぞ」ロギヌスは後ろを振り返らずに哄笑した。
 旅に出て二週間が経っていた。しかしいまだ人間の土地。危険が少ないのは歓迎すべきことであるのだが、いったいどこをどう進んでいけばエルフに会えるのか、マイセルには見当もつかなかった。
「ねえ、エルフってどこに棲んでるの?」露営したときにマイセルが歴史家に訊ねた。
「そうだな――」ロギヌスは青い瞳を焚き火に光らせながら、何度か顎に手をやって思案する風だった。
 ロギヌスが考え込むとき――その瞳はいよいよ青く澄み渡り、聡明さが前面に押し出される――その様子はなにか深遠な教唆でも含んでいるのではないかと思えるほどである。セシルはその歴史家の醸す雰囲気に迂散臭いものを感じるといって憚らなかったが、それを否定しては、ロギヌスという人間をまったく理解できなくなってしまうのではないか、と思うのだった。
「うむ……」やがてロギヌスは難解な数学の問題が解けたときのようなうちとけた表情をしてマイセルに話しはじめた。「エルフは前にも話したと思うが、エルフの森に棲んでおる種族が有名だ」
「――エルフの森……」マイセルは繰り返す。
「そう、エルフの森。それは神々に祝福された土地、永遠の聖域と呼んで差し支えなかろう。その聖域で森の精霊を統べておるのが、エルフという種族なのだ。そして、一説には、エルフはもう人間の身では使うことの難しい自然魔法を用いて森に彷徨う迷い人を欺すと噂されるが、それはまったくもって謬見だから、信ずるに値しない。エルフという種族は、我々が思うほど低劣な種族ではない。むしろ特殊、そして我々人間よりも優れた面がいくつも見受けられる点で、優秀といえるだろう」
「エルフ……どんな姿をして、どんな考えをもって、どんな生活を営んでいるんだろう――?」
「ふっ、それは着いてからのお楽しみだな」ロギヌスは口辺をゆがめて嗤った。
 マイセルはロギヌスの貴重な話を聴き終わると、火勢の弱まってきた焚き火に木の枝を数本投げ入れた。するとパチパチと音がして、ふたたび、火は大きく立ち昇った。
「なあ、ロギヌス」それまで横になって眠っている風だったセシルが半身を起こして歴史家に訊ねかけた。「〈闇の王〉が〈真実を詠う者〉の命を狙ってるんだろう? それで、いったいどうやって闇王の眷属やノームやコボルドを防ぐんだ? やつらは恐ろしい武器を持っていて、人間以上の力をもって敵を殲滅しようと目論んでいる。そんなやつらのいる渦中に飛び込むようなまねは、自殺行為でしかないと思うんだけど……」
 ロギヌスはそのセシルの言葉に顔を曇らせたが、すぐに様子は元通りになり、子供に諭すように諄々と告げた。「〈闇の王〉に対抗できる唯一の方策が〈神頌〉だ。マイセルが〈神頌〉をマスターするまでにはまだまだ時間がかかるだろう。なにせ、生まれたての赤ん坊のようなものだからな。まだ、ハイハイどころかはじめての食事も満足に摂ってはいない状況だ。早くエルフの森に着き、そこでさまざまな〈神頌〉を自分のものにしなければならん。しかし、まだこれはいっていなかったが、エルフの森へ行くには、ノームの棲む土地を経由しなければならんのだ。これが一番厄介なのだが……」
「やっぱり旅には危険がつきものってか」セシルは大きな溜息をついた。
「ほら、溜息をついとると幸せが逃げるぞ」歴史家は目じりに皺をよせて笑った。
「ふん、いいんだよ。この旅の間はずっと幸せなんかないんだからさ」セシルはつんと鼻を上向きにしていった。
「ふっ、若いな」ロギヌスはフードを被った。
 マイセルはロギヌスが寒いんだろうかと思ったが、焚き火もあるし、いまは春ということもあり、それはないだろうと推測した。それにしても、ロギヌスのマントは古めかしくて、少し汚れていて、あまり清潔とはいえなかった。しかし、それでも、ロギヌスに品位が保たれているのは、その内面から滲み出る光輝が影響していた。マイセルはなにがこの男をそこまでの人物にしたのかがわからなかった。しかし、わかったらわかったで、それはまた、苦しみ悩むもとになったであろうが――。
「では、寝るとするか」ロギヌスのこの一声でそれまでの和やかな雰囲気が引き潮のように引いていった。
 セシルは再び半身を元に戻して横たわった。テントでもあれば良かったのだが、贅沢はいっていられない。地べたに毛布という状況での睡眠で、マイセルははじめの頃こそ、それに慣れなくて起きたとき身体の節々が痛みに悲鳴をあげていたのだが、一週間もしたころには、何も人はベッドで眠るだけが睡眠のとり方ではないのだということを悟った。それは幾分、強がりではあったのだが、マイセルにとっては貴重な体験であり、その経験はこの旅に出ていなければずっと知らずにいたことだったにちがいない。
「ロギヌス……」マイセルは焚き火の跡の向かい側に身体を横たえている歴史家に話しかけた。
 しばしの沈黙。
 ロギヌスがまだ眠っていないことをマイセルは知っていたので、ひたすら待った。
 やがて、「うん? まだ眠らんのか? 寝なければ明日、もたんぞ」とロギヌスは厳しくいった。
「いや、訊きたいことがあるんだ」とマイセルはいった。
 傍らではセシルがもう寝息を立てている。
「なんだ? いってみるがよい」ロギヌスは一転して、優しく声をかけた。


20 :蒼幻 :2008/03/08(土) 21:24:17 ID:nmz3zmrc



「実は――」マイセルは心中に渦巻く不安を押し込めながら語り始めた。「あの、本当に僕なんかでいいんでしょうか? まだ僕は何もしていない状況だけど、すでに、僕がかかわっているものは大きく変化していこうとしているようで、それに、僕はその流れにおいてけぼりにされたみたいで、なんだか焦りの気持ちがあるんだ。それで僕は本当は何者でもないのに、ただあの〈神頌〉の一節が読めたというだけで〈真実を詠う者〉として持ち上げられるのが恥ずかしいんだ。僕よりもっと適任者がいるんじゃないか、と思うことがある。それについて、ロギヌスの考えを教えてよ」マイセルはそういうと、火が消えたようにじっと押し黙った。
 残り火に炭がばちっとはぜる音がする。遠くで、獣の吼え声がした。
 ――狼だろうか? マイセルは一瞬そんなことを考えた。
 まさかノームの軍勢がやってきたということはあるまい。マイセルは潮のような大軍が自分めざして突撃を開始するところを想像してしまい、さらに気分を悪くするのだった。
「ふむ――継承者には継承者なりの悩みがあるというやつか……」ロギヌスは自分で納得するかのように慨いた。「しかしそなたはそれに耐えねばならない。〈神頌〉を求める旅は始まったばかり。まだ入り口にもたっておらぬかもしれない。そんな状況で、いまから弱音をはいていては何もできなくなってしまう。マイセル、そなたは間違いなく〈真実を詠う者〉だ。それだけは確約しよう。〈真実の頌〉の書を読めたことは偶然でもなんでもない。それはそなたが〈頌〉の継承者であることを示唆しておるのだ。強くなれ、マイセル。肉体的にも精神的にもな……」ロギヌスはそれ以上、語らなかった。
 マイセルはそれからもひとりで考えた。
 いまの自分の持っている力は微々たるものだ。ロギヌスほどの深遠な知識はないし、セシルほど剣の腕が立つわけでもない。ならばこの旅における自分の役割は――? ロギヌスは〈神頌〉が武器になるような口ぶりだった。きっとそうなのだろう。何かはわからないが、確かに〈神頌〉には力があるのだ! power spellというくらいだから。でも、自分は一介の人間としか思えない。特殊な力を持つ異能者とはちがう。そんな思いが去来した。
〈闇の王〉やその眷属はどんな姿をしているんだろうか? そしてノームやコボルドといった異種族。彼らを見たことは勿論ない。しかし、図書館にある本の挿絵でそれらの者どもの姿を見たことはある。どれも人間とはまったく異なる、想像とはかなりかけ離れた外観をしていたように思う。マイセルはそれらの醜悪な面をした軍勢が鬨の声をあげながら侵攻してくるところを想像した。
 ――悪夢だ。マイセルは思った。
 これ以上の悪夢はないように思われた。逃げ場はない。戦う術もない。自分には何もない。マイセルは落ち込む気持ちを奮い立たせることができなかった。
 マイセルは悶々としながら、いつのまにか、眠りに堕ちた。
 夜は次第に深まっていく。



 目覚めるとロギヌスはすでに起きていて、東の空にたなびく雲を見、ツバメがくるりと旋転するのを心地よさげに眺めている。セシルはまだ眠っているらしく、ロギヌスの起きろという言葉も寝ぼけ半分にいなしている。
 マイセルは髪の毛を掻きあげると、タオルに水をしみこませて、それで顔を拭いた。それで眠気が吹き飛んだ。
「ロギヌス」とマイセルがいう。「エルフの森まではあとどのくらいあるの?」
 ロギヌスは目を細めた。
「そうだな――、ノームの棲む土地まであと一週間といったところか……。それからさらに一週間、そうするとエルフの棲む森に辿り着けるだろう」
「しめて二週間か……」マイセルは内心の驚きを隠しながらいった。昨日のロギヌスの口ぶりでは、エルフの森はまだまだ遠く、何ヶ月もかかるんじゃないかと思われた。それなのに、まさか半月で着けてしまうとは――。マイセルはなんだか拍子抜けしてしまった。
 マイセルが自分の荷物袋のなかから食料を取り出し、朝食の準備をしている最中に、セシルがむくりと起き上がり、寝ぼけ眼で髪をくしゃくしゃしながら周囲を見回した。そして急いで立ち上がると、向こうの草むらの方へ行き、用を足し始めた。
 セシルが戻ってきたとき、朝食の準備は済み、三人でささやかな食事を行なった。
 食事はとどこおりなく進み、簡単に身支度を整えると、出発ということになった。
 近くの木に縄でくくっておいた馬の綱をほどくと、三人はそれぞれの馬にまたがった。
 マイセルはこの二週間で騎乗馬〈水仙〉とも気脈を通じ合わせ、もう自在に駆け回ることができるほどになっていた。馬の背に乗ることも、初めは腰や腕に負担をかけて、相当痛みが身体に蓄積していたのだったが、それも一週間でなくなった。マイセルはもう何年も馬に乗り続けている者のように、熟練した腕前を見せていたのだった。また、セシルもそれに追随する勢いで馬に慣れていった。セシルの場合は、もともと身体を動かすことに秀でていたから、そういった馬の騎乗法というものに慣れるのも早かった。しかし、そう考えると、マイセルの馬への慣れ方は、何に起因するものだろうかという疑問が残る。それは当の本人であるマイセルにとって、頭を悩ませる問題ではなかった。自分は食べ物を口に運ぶのと同じくらいの自然さで、馬に乗ることに熟練したのだと思っている。だが、それはマイセルに流れる純血のなせる業だったことは、いかにロギヌスが千里眼の持ち主だったとしても、わからなかっただろう。
 それから一週間、ロギヌスのいったとおり、北へ向かう道に、あきらかな変化が現れてきた。それまでは何もないといっても平原には草が沢山生えていたのに、ここにきて、地面には草木一本見受けられないのだった。マイセルはただひとこと、荒れているな、と思った。
 ――荒野。
 それは何も生えない大地だった。植物はもちろんのこと、肉食獣や草食獣、昆虫に節足動物といったものがまったく見えないのだった。
 マイセルは思わず訊いた。
「ここがノームの土地?」


21 :蒼幻 :2008/03/08(土) 21:24:48 ID:nmz3zmrc



「そうだ」ロギヌスがひとつうなずく。「見た目には何も生き物が存在しないような荒野だが、ノームはそんなことには頓着せん。ノームの村には川が流れていることが多いんだが、その川の水も例に漏れず淀んでおる。しかし、ノームの身体は頑丈だから、そんな水を口にしても、なんら身体に変化が現れん。後天的な疾患はあるかもしれんが、先祖代々、そういう土地で暮らしてきたから、身体がそれに順応して、いま生まれておる者たちは先天的に免疫を持っておるのかもしれんな」
 マイセルは死の大地という言葉を思った。しかし、死の大地とは、きっと〈闇の王〉が棲んでいる土地のようなものを指すんだろう。マイセルは〈闇の王〉という言葉に背筋をぞくりとさせた。
 日が高いうちはひたすら北へ向けて馬を進めた。途中、灌木や喬木すら見受けられない土地は、まさしく不毛、こんなところに本当に生命が棲んでいられるのだろうか、と疑うほどだったが、ノームの土地に足を踏み入れてからはロギヌスの口数も減り、あきらかに緊張している風だった。
 そのとき、前方に集落が見えてきた。
 ――ノームの村だ。
 マイセルは突嗟にそこで暮らすノームたちの生活を思った。この異種族はどんな生活を営んでいるんだろう? マイセルは心中に渦巻いた疑問を確かめたくて、馬の背から身体を乗りだし、前方に注意を集中させた。
「ロギヌス」マイセルは高揚した気分の中、前を歩く歴史家に声をかけた。
「うん?」歴史家ロギヌスはちらっと振り返る。
「ノームの村には寄ってくの?」
「冗談をいっているのか、マイセル」ロギヌスは不服そうに鼻をフンとならした。
 歴史家の言はこうだった。ノームは種族全体が非常に狭量で、偏った思想を持っている。〈闇の王〉に仕えるようになったのも、それが一因だろう。そしてもし万が一、マイセルが〈真実を詠う者〉だと知られてしまったら、きっと束になってかかってくるだろう。わしらにはそれを防ぐてだてがない。もし、そうなったとき、おまえはその手で自分の身を守ることができるのか? ロギヌスは険しい顔でいった。
「幸い、食料は二週間分、手にいれてある。ノームの村で正体を隠して補給するほどのことはあるまい」ロギヌスは自分で納得するかのように、なんどか首を縦に振っていった。
 マイセルは歴史家のその言葉に落胆した。せっかく、人間と異なる文化に触れるいいチャンスだったのに……。マイセルは子供心というにはもう大きすぎたが、多分に冒険心をかきたてられて、それを押さえ込むことができずにいたのだった。今回のノームの村はその冒険心にほだされる勇気を試すいい場所だったのに、とマイセルが思っていると、その様子をみとめたのか、ロギヌスが意見をかえた。
「そうだな――。なんでもいかんいかんといってやめてしまうのはよくないかもしれん。それよりは、敵の懐に忍び入って、なんらかの情報を得るというのも、いいかもしれん。よし、いこう、ノームの村へ。わしもノームの村に入るのは二十年ぶりだ。だいぶん様変わりしとるだろうな」ロギヌスはマイセルの様子を確かめてからにやりとした。
 地平線の近くに蝟集していた芥子粒のような集落は、次第に近づいてきて、そこがイスハークの典型的な町よりも比較的大きな村であることがわかった。その町はどこで集めてきたのか、周囲には樹木の姿の片鱗もないのに、木を組み合わせて壁や柱にした住宅がいくつも立ち並んでいた。これは文明の開化という生易しいものでなく、ひとつの生命活動の中心地というおもむきがした。マイセルは目を疑った。これなら、イスハークの町のうちのひとつといっても通用するのではないか――?
 しかし、そこに住む人々の種族がちがった。
 ――ノーム。それが決定的に人間とそれとを区別していた。
 身体は黄土色で、まるで熟練の人形師が作り出したものであるかのような、まがいもののリアリティをまとっているようなイメージだ。男と女の区別が人間のように容易でなく、また、みな体型が似通っているように思われた。背丈はマイセルの頭半分ほどの高さまでしかなく、誰もががっちりとした体型をしていた。マイセルはこの種族にどことなくユーモラスなものを感じとっていた。
 どこがというわけでないが、全体的にそんな感覚を覚える。
 先にロギヌスがいったとおり、町にはその中央に大きな川が流れていた。それは確かに歴史家の指摘どおり、淀んでいるようだった。黒い水は申し訳程度に流れており、その流れも清冽さなど微塵も感じさせない淀んだもので、あきらかに不衛生という印象を醸していた。しかし、マイセルは目を疑った。その淀んだ流れに、ノームの子供たちが入って水遊びをしている。まるで清水に身体を涵すかのような爽やかさである。そこが淀んだ汚い水であることをマイセルはいっとき忘れた。そして次の瞬間、そのことを思い出し、あまり気分のいい眺めではないと感じたのだった。
 そのあたりが、人間とノームを隔てる境界線になりそうだった。
「なあ、ロギヌス。ノームの町にやってきたのはいいけど、ここでいったい、何をどうするんだ」マイセルと同じく、ノームの村ははじめてで、見るもの感じるものが新鮮なセシルは歴史家に質問した。
「うむ……長老にでも話を訊いて、その方向から〈闇の王〉たちが〈真実を詠う者〉の正体をどこまで掴んでいるかをさぐるというのが適当かもしれんの。――セシル、マイセル、質問されてもこちらの不利になる情報は相手に与えんようにな。そこからわしらの正体がばれれば、生きてここから出ることは難しくなるかもしれん」
「生きて出られない――? ヒッ」セシルは声をつまらせた。
「そうだ」ロギヌスが請合う。「ノームという種族は全体的に知恵が足りん。だから分からないことが出てくると、すぐに長老といわれるノームに相談して、その決定に従おうとしおる。その長老が好戦的なノームだったら、いっぺんに殺されてしまうだろう。それだけは避けねばならん。セシル、マイセル、滅多なことは口にせんように。いついかなるときも、お前たちは試されていることを忘れるな」
「試される――? 誰に?」セシルは歴史家の言葉に納得がいかない様子だった。
「話は後だ。ほれ、交渉役のノームがやってきたぞ」歴史家は前から近づいてくるノームをあごで示した。
 そのノームは美しい黄と紫の織物を身にまとっていた。しめて三人。
 ノームが、村の外からやってきた者たちに対してはじめに敬意を示すものと相場が定まっていることについて、ロギヌスはよく見知っていたのだった。交渉役の三人のノームは、旅の三人の姿を眺めて、自分たちに危害を加えるものではないと納得した上で、中央の一番派手な衣装をつけたノームが歓迎するという風に手をさし伸ばして、ロギヌスに握手を求めた。


22 :蒼幻 :2008/03/08(土) 21:25:19 ID:nmz3zmrc



 ――ノームでも握手という習慣があるのか……。マイセルは驚いた。
 ロギヌスはイスハークの言葉でノームたちに語りかけていた。それにもまたマイセルは驚かされる。イスハークの言葉は人間の世界でしか通用しないものと思っていた。ノームたちはきっと独自の文化を持っていて、言語体系も異なるはずだと、どこかで思っていたのだったが、いまのロギヌスの口ぶりを見れば、それは間違いであったことがよくわかる。マイセルは自分もノームたちと親しく話してみたいという気持ちの湧き起こるのを押し止めることができなかった。しかし、目の前で展開されるその会話は非常に巧みで、第三者が立ち入る隙のないものだった。
「我々はあなた方を歓迎します。迎賓館がありますので、そこへ来てください。案内いたします」真ん中のノームはそういうと、手をさし伸ばして三人についてくるようにうながした。
 迎賓館に向かう道中、マイセルは馬の手綱を引きながら、物珍しいノームの村の様子をあれこれと眺めた。家々の屋根はイスハークの町や村で使われているレンガのものとは違い、すべて板張りだったが、隙間無くぴっちりと敷き詰められている様は、きっと名工の手によるものだろうと思われた。ノームにも職人がいて、人間の職人と較べてもなんら遜色のない技術をもっているのだろうと意識された。そこからもノームの文化の高さが推測されるのだった。
 迎賓館まではしばらく歩かなければならないとノームのうちのひとりが告げる。
 途中、川沿いの道を通ることになったのだが、その川原に一本の十字架が立っているのが遠目に確認できた。
「あれは公開処刑です」と左側を歩く痩せ気味のノームが告げた。
「公開処刑?」マイセルはノームにではなく、歴史家に答えを求めるようにそちらを観て訊ねかけた。
 ロギヌスはしばらく思案するような風だったが、やがて去勢馬〈双刃〉の背を撫でながらゆっくりと答えた。「ノームという種族は常にその知恵の回らない頭を持っているものが多くて、しょっちゅう、内乱を起こしておる。人間風に言えば内ゲバというやつだ。だから、その首謀者なんかを捕えたときには、このように公開処刑という手段で罪を贖わせるということになっておるのだ。そして、川原を選ぶのは、人間の世界と一致している考え方なのだが、生前の罪を水の流れによって洗い流して綺麗にするという思想のためなのだ。チラッと訊いた話なのだが、ノームにも天国や地獄という思想があるらしくてな。その関連から、川原で公開処刑というものが行われることになったのだろう」
 ロギヌスの話し声が前を歩く三人のノームに聞こえやしないかと気が気でなかったが、マイセルはその話に納得して、また前方のゆるやかにカーブして流れている川の脇に立っている十字架に目を据えた。
 よく観察してみると、その十字架の周りにはいくつかのノームの姿があった。あまり派手な色合いの衣装を着たノームはいなかったが、それほどみすぼらしい格好をしているノームもいなかった。その十字架が近づいてくるほどに、マイセルはその人だかりが、公開処刑をいまかいまかと待ち受けている見物客であることを悟った。小石だらけの殺風景の川原は、まさしく公開処刑を行なうにぴったりの場所であるように感じられた。そして、こうも考える。
 ――いったいあの十字架に磔にされているノームはどんな罪を犯したのだろう? いったい何の因果で皆の前で命を断たれねばならないのだろう? マイセルは鬱々とした気持ちでそのことを思った。
「こちらです」先の真ん中のノームが右手をさしのばし、下り坂になっている右の道を指し示した。
 ――この先に迎賓館があるんだろうか? マイセルはそう感じた。
 三人のノームは横並びに歩きながら、特にうちわで気を配るそぶりも見せずにいた。マイセルはその仲間内でのよそよそしさに少し不安を掻きたてられた。何が不安を助長しているのかわからなかったが、確かに、そのような気配を感じる。
 やがてノームの三人はひとつの立派な建物の前で足を止めた。
 そこはいかにも金のかかっていそうな建物のひとつで、これまでの道程で観てきたどのノームの建物よりもひときわ立派だった。門こそなかったが、扉は樫の木のように重厚なもので、きっと遠くから取り寄せたのだろうということが一目でわかる代物だった。扉の脇には二人の衛兵が立っているが、衛兵とは名ばかりの申し訳程度の装備――頭に被る丸い革製の兜と同じく革製の胸当て――しかつけていない。だが、体格は立派で、イスハークでもこれほどがたいのいい男は見つけるのに苦労するだろうと思われるほどだった。いざというときには頼りになりそうだとマイセルは思った。
「へぇ〜。立派な建物じゃないか……」セシルが嬉しそうに声をあげた。
 それを聞いた三人のノームは気分をよくしたのか、顔に笑みを浮かべた。
「では中へ入りましょう。長老がおられるので、まずはその長老に話を伺ってください」
 それ以上、何もいわずにノームたちは衛兵に簡単な挨拶をしてから、重厚な扉を開け、奥へとさしまねいた。馬は衛兵が呼んだこづかいのノームの子供が脇の方へと連れて行った。きっとそっちの方に馬房でもあるのだろうと、マイセルは想像した。ロギヌスたち三人はノームに招かれるままに建物の中へと進みいった。
 建物の中は隅々まで手入れされているようで床はゴミひとつ、チリひとつ落ちておらず、マイセルたちが勤めていたイスハークの〈王立図書館〉の中よりも綺麗にされていた。毎日手入れしている者がいるのだろうとマイセルは思った。廊下には赤の絨毯が敷かれ、それは絨毯というよりは毛布のような柔らかさを持っていたのだったが、足にかかる負担を少なくしてくれる効果があるようだった。壁にはランプが取り付けられており、適度に明かり取りの窓がはめ込まれている。随所に抽象的な絵画や花瓶、壺などの造形物が置かれており、ここまで調度品に囲まれているとまるでイスハークの瀟洒な建物にいるかのように錯覚しそうだったが、どの調度品も人間の世界のものとは異なっていた。異文化という特色を滲ませているのだ。どこがというわけではないが、人間の世界の物品とは微妙なところで異なっている色合いがその造形に練りこまれているようだった。
「こちらになります」真ん中のノームがひとつの扉の前で足をとめ、そういった。
 そのノームが扉を開け、室内へ三人を案内する。
 まずロギヌスが入り、それからセシル、マイセルが続く。
 罠だとは思わなかった。三人のノームの醸す雰囲気は友好的なものであったし、ぎすぎすした空気も感じられなかった。会話の節々に感じられるあたたかみも、それを思わせるものは微塵もなかった。
 部屋は十メートル四方ほどあり、どうやら応接室になっているらしかった。ノームの棲む荒野には生き物の気配がまるでなかったのに、鹿や熊の頭だけの剥製といったものが飾られている。もしかして人間の世界から流れてきたものだろうか、と疑ったが、確かめる術はなかった。


23 :蒼幻 :2008/04/05(土) 22:40:01 ID:nmz3zmrc


 部屋の中にはあらかじめ、ひとりの年老いたノームが椅子に腰掛けていた。その前には玄関扉の材質に負けていない頑丈な木製の机。
「よくぞ参られた。旅の方々」長老と思しきノームがのっぺりとした色とは対照的に古ぼけて皺だらけになった表情をゆるめて微笑む。まるで白日夢のような光景がそこに広がっているかのように感じられたが、マイセルはそれよりも、このノームの年齢がいくつくらいであろうかと、関係のないことに気をとられていた。
「ノームの長老よ。わしは人間の世界で歴史家と呼ばれる部類に入る者で、名をロギヌスと申します」歴史家は穏便にその場を取りまとめようと、丁寧に挨拶をした。
「ほう……」ノームの長老はその言葉に興をそそられたように、さらに顔に刻まれる笑みを深くした。「申し遅れたが、わしはこのノームの村スピンツックの五長老のうちのひとりで、サケックと申すもの。以後、お見知りおきを」ノームの長老はそういうと軽く会釈して、瞳を光らせる。
 サケックは足が不自由なのか、少しふらつきながら腰を上げて、椅子から立ち上がった。
「長老――無理をなさってはいけませんよ」先の三人の案内役のノームのうちのひとりが心配そうに声をかける。「身体に障っては本末転倒なのですから……」
「それくらい良かろう。せっかくの御客人なのだ。わしらが歓迎しないで、誰がするというのだ」
「それはそうですが、しかし――」
「ふっ、まぁ、旅の人間には無礼な話かもしれませんが、もっと近くで見て、その人となりを推量しておく必要があると思いましてな……」
 顔色を変えないロギヌスは、しかし、内心は動揺しているようにマイセルには感じられた。歴史家が醸す雰囲気にぎすぎすしたものが感じられる。どこがというわけではないが、全体的に警戒心を呼び起こす感覚が想起されるようだった。それはロギヌスの歴史家以外の側面がそうさせているようだったが、マイセルにはこの時点で、それを類推することは不可能だった。ただ、なんとなくロギヌスがここに来たことを後悔しているように感じられるのだった。
「ふむ……わしは歴史家だといったあなたよりも、このまだ年若い若者のほうに興味がそそられるのう」セシルがツバを飲み込む音が静かな部屋で異音として、耳に残った。
「僕はマイセル。そして、こっちが仕事上の先輩のセシルです」マイセルは無礼にならないように丁寧に名乗った。
「ほう……仕事ですか……」長老は微笑んだ。そして、微笑みながらも瞳だけは、真摯な光を放っていた。「このノームの村にも仕事をしている者は沢山おります。しかし、仕事といっても、自分たちの生活を守るために仕方なく働くものの多いこと。もし、生活に余裕が出れば、このスピンツック村のノームは皆、堕落してしまうでしょう。そう考えてみると、ある程度の苦痛がないことには、ノームは自己の文化を発展させられないということになるでしょう。厳しいようですが、これが現実です。それで、あなた方はどんな仕事をなさっておられたので? まさか、吟遊詩人ような仕事ですかな?」
「いえ、図書館司書をしておりました」セシルがマイセルを押しのけて発言した。
 その途端に、ロギヌスが深い溜息をついたのがわかった。
 なにかいけないことをいったんだろうか、とマイセルは後悔した。発言したのはセシルだったが、この際、誰が発言したのかなど瑣末なことだった。
「ほう、トショカンシショ……。トショカンというものを識らないのですが、いったい、トショカンシショとは何をする仕事なのですか?」
「本を貸したり読ませたりするところです。沢山の本が集まっているんですよ。なんてったって、蔵書数百万超ですからね。近隣の国々の図書館であっても、それほどの数字はたたき出せません。わがイスハークの人間がどれだけ活字文化を称揚しているかそれを示す好例ですよ」セシルはよどみなくいったが、それがまずい発言だったとわかるまでにはいましばらくの時間が必要だった。
「ほう……本ですか……」
「本といってわしらノームにわかるのは、先祖から一子相伝される極意のごときものを書きしるした紙だとか、顕界に存在するもろもろの精霊と交霊するときに用いる呪術書といったものしか、ありませんがね」
 それを聴いたロギヌスは興味を覚えたのか、少し瞳の輝きが違ってきたように思われる。
「呪術書とは、穏やかではありませんな」歴史家はあふれる好奇心を抑えきれない様子で反応を示した。
「その図書館にはそういった貴重な書物はないのかの?」ノームの長老が目をしょぼしょぼさせながら訊ねかけた。
「あ、いえ、その――あるにはあ……」
「ゴホン!」
 ロギヌスがひとつ咳払いをして、セシルの言葉をとどめた。
 そして、代わりにロギヌスが述べる。「図書館の本は流通本が多くて、呪術書とか秘伝の書とかいったものはほとんどありません。軽い読み物ばかりを集めた図書館で、その方が利用者も気軽に利用できるというものですからの。しかし、わしももっと濃密で重厚な文体で書かれた稀覯本を読んでみたいものですな……」
「高地イルメル語の書物とか?」ノームの長老が険呑な口ぶりでいった。
「そうですな……しかし、わしには高地イルメル語の素養がないからの。長老さん、あなたはどうです?」歴史家は自分の方が年齢が下だということを意識して、少し敬語を用いた。
「そうですか……」長老は警戒を解いた。「わしもそれほど詳しくないですじゃ」
 ややあって、長老が告げる。
「それでは、泊まれる宿を紹介しましょう。一晩、ゆっくり休んでいってください。客人のもてなしができるのは功徳ですからの」
「それは助かります。しかし、ノームはもっと人間に対して厳しいと思っていたのですが、そうでもないのですな」ロギヌスは満足そうに顔に笑みを浮かべた。
 三人が案内されたのは、一軒の民家と思しき建物であった。看板は出ていないが、建物の中に入ってみるとどうやら客商売をしている店だということがわかる内装であった。案内を買って出てくれた若いノームによると、元来、ノームの宿に泊まる外来の客というのは一ヶ月に一グループあるかないかくらいの数だそうで、ほとんどは近所の他のノームの村や町からの訪問者に部屋を貸しているという状況なのだと説明してくれた。


24 :蒼幻 :2008/04/05(土) 22:40:30 ID:nmz3zmrc



 ノームの文化の色濃く残る部屋は、基本的なところではそれほど変化はなかったのだが、細部において、非常に変わった趣味と感じさせるような調度品や、用途のよくわからない奇妙な造形物などが置かれていた。セシルはそれらを観て、ちょっと落ち着かないな、といったきり、口を開かずに、ベッドに横になった。そのまま、セシルは眠りに就いてしまった。マイセルは彼に毛布を被せると、それから、歴史家ロギヌスに向き直り、先程の首尾を訊ねかけた。
「図書館司書と名乗ったのは、少しまずかったかも知れんの」
 開口一番、むすっとしていたロギヌスは口を開いた。
「どうして?」マイセルは怪訝そうに訊ねる。
「まず第一に本に関連した職業だということ。〈真実を詠う者〉が本を持っていることはノームもうすうす感づいておるやもしれん。そんななかで、多量の本に接する機会のある司書という職業に就いていることを知られてしまったのは、マイナスにしか働かんだろう。そして、第二に、〈真実を詠う者〉が人間であるということは、人間だけでない、全世界的な共通項として認知されておる。それはエルフではないし、ましてドワーフであるわけがない、それは人間でなくてはならんのだ。それは〈闇の王〉の勢力であっても同じこと。〈真実を詠う者〉は人間であるとの認識を持ち合わせておる。当然、その配下の眷属たちにもそのこと、重々承知させているだろう。そこで、今回、こうして人間がノームの村を訪れた。われらがエルフの里に向かおうとしていることは、幸いまだ識られておらぬだろう。しかし、いつばれるやもしれん。そのことは覚悟しておくほうがいいだろうな。あの長老の目を見たか? 一時ではあったが、わしらに険呑な目を投げておったではないか。これは十分、警戒しておく必要があるだろうて……」
「んー……」マイセルは眉間に皺がよりそうなほど、その表情に困惑の色を浮かべた。「ロギヌス――」
「うん?」
「僕はこの書物〈真実の頌〉を読むことができるようになるのかな?」
「前にもいったとおり、そなたには素養がある。だから心配はいらん。必ず、読めるようになる。わしの知り合いのエルフの中に特に優秀なものがおるでの。そいつに習えば、そなたは術者としての能力を
飛躍的に伸ばすことができるだろうて」
 マイセルはロギヌスの言葉に少し安堵を覚えた。それは疲労した心と身体にすっと染み渡る恍惚とした雰囲気に似ていた。
「これまでにここからエルフの棲み処まではあと一週間ほどという情報を聞いたけど、具体的にどんな道を通るの?」マイセルは素直に疑問を投げかける。
「ふむ……それを初めての者に説明するのはちょっと難しいのう。ま、何もない荒野をずんずん進んで、何本かの川を渡り、馬で距離を縮めていけば一週間で着くというものでな。そこにアンダルシアの森というほぼ樹海とでもいうべき土地が広がっておる。そこは案内人なしで迷い込めばかならず遭難すると噂される森で、滅多に人もノームも近づかん土地なのだが、実は、エルフはそこに棲んでおるんじゃ」
「樹海に?」
「そう樹海に……。ま、百聞は一見にしかず=Bいってみれば、すぐに納得できるとも。なぜ、エルフが樹海をその棲み処にしたのかということをな……。その気になれば、その理由もそなたに語って聞かせることもできようが、それでは面白くなかろう。物事は多少なりと謎を含んでいるほうが面白い。なに、知らなくても危険はないから、安心しておけ。必要なら、語って聞かせるが、無理に聴きたくなかろう?」
 マイセルは歴史家の謎≠ニいう言葉に心をひかれた。そして、自分でその謎を解いてみようと思い、それ以上、訊くことはしなかった。
 その夜はノームの食事を食べることにして、荷物の中から小麦パンを取り出して頬張るということはしなかった。しかし、ノームの食事はいわゆるゲテモノ料理というやつで、楽しみのためにしているのか、苦痛を味わうためにしているのかわからない、とても奇妙な食事となってしまった。それまで恵まれた食生活を送ってきていたセシルとマイセルの二人は、それに面食らってしまって、無理やりのどの中に流し込んだ緑色のスープの余韻に吐き気を覚えながら、眠りにつくのだった。



 明くる朝、広場に蝟集したノームたちに見送られながら、スピンツック村をあとにした。
 しばらく馬に乗って進んで行くと、昨日の公開処刑のあとが川原に見受けられた。無残に流れた血が川原の小石を染めている。その血はすでに赤や真紅といった葡萄酒を想起させるような色合いからは遠くかけ離れて、どす黒いものになっている。その傍らには囚人を立てかけていた十字架状の材木が放置されており、心棒は真ん中で強引に折られてあった。死体は見当たらない。もう処分されたのだろうか? それとも、興奮した観衆――観衆というのも皮肉な言葉ではあるが――がその勢いで死体を処理してしまったのか? 数々の疑問が頭に去来したが、マイセルは川原に飛び散った血の跡を見ながら、ぼんやりと、ノームの血も人間と同じ、赤色なんだな、と漠然と思ったのだった。
「さあ、急ごう」ロギヌスは馬を駆った。
「ねえ、ロギヌス?」そんなロギヌスにマイセルが訊ねかける。
「なんだ?」馬に乗っているため、両者とも声は自然と大きくなる。
「当初いっていた目標は達成できなかったね」マイセルは様子を窺うようにロギヌスの後姿を仔細に眺めた。
「目標? なんの?」ロギヌスは思い当たる節がないというように訊ねかけた。
「ノームたちが〈真実を詠う者〉の手掛かりをどこまで掴んでいるか、調べるんじゃなかったの?」
「ふっ、何かと思えばそのことか……」ロギヌスはしてやったりというような表情を顔に浮かべた。
「えっ?」マイセルは口をぽかんを開けた。ロギヌスがこの問題についてどう考えているか、分からなかったからだ。
「十分、目的は果たしたよ」
「どうやって? ただ長老に会って少し話しただけだよね?」
「それで十分なのだよ。わしには歴史家としての地位のほかに、特殊な能力も備わっておってな」


25 :蒼幻 :2008/04/05(土) 22:41:29 ID:nmz3zmrc



 マイセルは歴史家が何をいうつもりなのか、まったく理解できなかった。
 歴史家はそんなマイセルの様子を面白がりながら、さらに謎を深めるような物言いをした。
「わしにはあれで十分。長老の意識を探ってみたところ、確かに〈闇の王〉の指令は受けておったようだが、わしらに対して抱いておったのは、敵対心ではなく、弱者を労わるような虚栄心だった。彼らから得るものはなにもない」
「ノーム全体が白だってこと?」
「そうはいっておらん。少なくとも、あの村のノームは人道的であるということがわかったんだ」
「ふーん」
 やや納得のいかないマイセルは相槌を打ったまま、歴史家に引き続き、セシルと馬を合わせて道を進んでいった。何も背景の変わらない荒野の中を一散に、ひたむきに。



 ノームの村を出て一週間が経とうとしていた。
 随分、遠くに来たという実感が湧いたが、地平線にこう何も変化がないと、自分たちが本当に前に進んでいるのか、どうかが怪しくなってくる。マイセルは単調な目前の風景に厭気が指し始めていたのだったが、ロギヌスがいうには旅程は順調なようで、もうしばらく進めば、目的のアンダルシアの森に入るだろうとのことだった。マイセルははやく目前に広大な森が現れないかと、その時をいまかいまかと待ち受ける思いだった。
 変化が見られたのはそれからしばらくしてのことだった。太陽が午を過ぎ、西に傾きかけた頃、これまでの何もない殺風景の荒野の景色の中に、ちらほらと樹木の姿が目立ち始め、地平の向こうが黒く盛り上がっているように見えるのだった。
 ――あれか! マイセルはその変化を心から喜んだ。
 景色の単調さに意志の力を奪われかけていたから、マイセルは傍らのセシルの方を振り返りながら、何度も、指を前方に向けて、注意を促した。
「やっと着いたか……」ロギヌスは目を細めて、できるだけ遠くを観ようとしているようだった。
 ノームの土地に入ってからとんと見なかった鳥の姿が、森の方角へ向けて飛ぶのに気づいた。森の方には生命の匂いがする。マイセルは直感した。
 森の姿の前景が目に見えてからは、それまでの景観の単調な変化に較べて、劇的ともいえるような感覚で森が近づいてくるのがわかった。まるで塞き止められた川の流れが、奔流となって一気に押し寄せてくるようなものだった。マイセルが観ると、ロギヌスもセシルも、顔を晴れやかにして、まるで旧知の親友にでも出くわしたかのような表情を顔に浮かべていた。
 マイセルは改めて、目前に迫った森の姿を見つめた。
 森の中は鬱蒼としており、暗がりになっている径には長く何者も通らなかったのか、下草がこれでもかというくらい繁茂していた。それでも、森は、これまでの荒野と違い、いくつもの生命の炎が宿っているように感じられた。
「ロギヌス――」マイセルは歴史家に訊ねかける。
「どうした」とロギヌスは受け答えるが、その声には明るさがあった。
「エルフはこの森に棲んでいるんだよね……」
「そうじゃが――」
「こんなに広大な森の中では、どこに行けばエルフに出会えるのか分からないじゃないか……。それとも、ロギヌスはエルフの里のある場所を正確に知っているの?」
「それもそうだな……。これだけ広大な森だもの。迷って当たり前って感じだな」マイセルの横を進むセシルもマイセルに同意した。
「心配はいらん。わしらが来たことは、もうとうにエルフに知れ渡っておるだろう。エルフの力を見くびってはならん。わしら人間の知識を超えた知識を有しておるからの。それだからこそ、エルフは神格を持っているかのように神々しく、そして、どの種族よりも明敏で、思慮に富んでおるというわけだからの」
 マイセルはエルフに会うのが楽しみな反面、このロギヌスの言葉を聞き、まるで子供の頃、悪戯をして校長先生に呼び出しをくらったときの、あの、校長と顔を合わせなければならないのかと困惑したときの感じを再び思い出していた。
 森は目前にまで迫っていた。
 森に入るとき、どこか深閑とした、眠りの中、夢へと入っていくときに感じるような透明の膜を通ったように感じられた。それが何なのかわからなかったが、きっとエルフが棲む森は何か神々しい結界のようなもので守られていて、それがこれから森へ入ろうとしている自分たちに意識されたのだろうと、ぼんやり考えていた。
 森の中に入ると、あれほど眩しかった太陽の光は、頭上の樹々のさし伸ばす枝葉に遮られ、斑のように径へと落ちているのだった。径はどこまでも続くかのごとくのびており、両脇の径のない草むらにはよくわからない色をしたキノコや色鮮やかな苔が生えており、人などのまるで立ち入らない森であるように察せられた。
 ――こんなところにエルフは棲んでいるのか……。
 マイセルは不安になった。こんな森の中に棲んでいる種族。そして、神のごとき該博な知識を有している種族、エルフ。どんな生活を営んでいるんだろう? マイセルは疑問がとめどなく湧いてくるのを止めようがなかった。
 森の中に入ると劇的な変化が得られるだろうと期待していたのに、それから日が暮れるまで、それほどの変化は見られなかった。森の奥へと進んでいるのはわかるのだが、それがどこまで続いており、肝心のエルフがどこに棲んでいるのかがはっきりと分からない以上、殺風景な荒野を進むのと、それほどの違いはなかった。
 ロギヌスはむすっとした表情で何事か考え込む様子。
 セシルはしきりに頭上を見上げて、そろそろ日が暮れそうだと慨きながら、馬を進めている。


26 :蒼幻 :2008/04/05(土) 22:42:02 ID:nmz3zmrc



 旅の道伴れが二人とも元気そうにしていないのを見て、マイセルは心細くなってきた。確かに森の中は温かで適度に湿気があり、空気も美味しい。こんなところに住んでいたら気持ちもきっと穏やかになって、賢者にでもなれそうだと感じられるのだが、人生に付いて何ら格言めいた座右の銘も持っていない自分には、賢者どころか、よくて世捨て人が関の山だろうと思い、何度も頭を振ってその考えを押しやろうとした。
 辺りがほとんどまっくらになり、日が沈んだのが分かる頃になって、ロギヌスは今日はこの辺りで休もうと提案した。
 枯れ木を集めて火を焚き、食事をしてから三人は互いの顔を見ながら雑談をはじめた。
 一番に口を開いたのは、森の中に入ってから何か思案をしている様子だったロギヌスだった。
「この森に入ってからなにか不思議に感じることはないか?」
 マイセルには、それが唐突な質問のように思われた。
 ――ロギヌスはどんな答えを期待しているのだろう? マイセルは落ち着いて考えてみた。
 マイセルが答える前に、セシルが口を開く。
「何の変化もない森だけど、外の遽しい世界に較べて、ここはなんだか時間が止まっているとような気がするな……。そして、この森の中で時間が進んでいるのは、自分たちの周りだけのような気がして……。はっきりいって、俺達自身がこの森にとって異物なんじゃないか、と思われるよ」
「ふむ……。なかなか興味深い回答だな」ロギヌスは眉をぴくりと動かしてそういうと、今度はマイセルの答えを期待して、彼の方に視線をやった。
 マイセルはどう答えたものか困惑したが、やがて考えをひとつひとつ辿るように、ちょっとずつ話しはじめた。
「まず初めに思ったんだ。この森には人間の匂いがしないって……。それはどうしてなのか、と考えてみたけど、なんていうか、自然の変化は非常にゆっくりで、無理にねじ曲げられたようなところがまるでないってことに思い当たった。それはどうしてかって考えてみると、この森は誰の意思にも左右されずに、何百年、何千年も昔から、この場所にあったんだってわかったんだ。それはひどくゆっくりな理解の仕方かもしれないけど、今の自分にはそのことに思い当たるので精一杯だった。森っていうのはイスハークにいる頃には、まったく経験することのない場所だったけど、ここにきて、ああ、森っていうのは、こういうものなんだ……って気がしてきたんだよ。イスハークも人が住む前は、こんな感じの広大な森だったかもしれない。人が住むことで森は減少し、その地形が劇的に変わってきたんだと思う。僕にはまだ人の営みの壮大さはわからないけど、きっとエルフって言う種族は、人間とは正反対の方向で文明を形作ってきたんだと思う。できるだけ森を壊さないように、そして、自然との共生。エルフって種族はきっと優しいんだろうな。そして、力勁い雄渾な意思を持つ種族なんだろうと思う。当たってるかどうか分からないけど、いまの僕には確かにそう感じられるんだ」
「ふむ……マイセルもいろいろと考えているんだな……」ロギヌスは目じりの皺をきゅっと寄せた。「二人に共通しているのは、この森が時代の変化から取り残されているということだな」
 マイセルは歴史家がいったい何をいおうとしているのか理解しようと、その話に耳をそばだてた。
「エルフは確かに崇高な種族だ。しかし、過ちも犯している。そのことを忘れんように。エルフとて全能ではないのだ」ロギヌスは何かいいたげだったが、それ以上のことはロギヌスの口から語られなかった。
 マイセルはロギヌスの先の言葉と後の言葉で、ひどく内容が飛んでいることに気づいた。しかし、それを追求することはやめておこうとの気持ちが働いた。何故かはわからない。
 きっと森の深閑とした空気が心に忍び寄って変成したのだろう。
 その夜は穏やかに過ぎていった。


27 :蒼幻 :2008/04/18(金) 23:15:31 ID:nmz3zmrc

2 美貌の妹



 進めど進めど森はつづく。
 いったい次なる変化はどこにたちあらわれるかと辺りに気を配っていたのも、最初の一日二日のことだった。新たな展開が待ち受けていると思い、勇み足で森に踏み込んだまではよかったが、森の寡黙さに辟易しはじめたセシルとマイセルとは、もう、変化を求める心などとうに見失ってしまったかのごとく消沈している。そうして、ロギヌスの視線だけがひとり耿々と光っているのだった。
 耳を澄ますと風の通り抜ける音がする。風に音があるのではない。樹冠を吹き抜ける風が、そのときに折り重なった葉々をこすってたてる音だ。聴いていてこれほど心地のよい音もめずらしい。マイセルはその音に心が安堵するのを感じていた。
 そのとき、異質な音が聴こえてくることに気づいた。
 ――なに? 何かの楽器?
 マイセルはちょっと戸惑った。そしてそれが幻聴でないかどうか答えを求めるように、他の二人の表情を窺った。セシルはまだ眠気が残っているのか、それほど辺りに気を配らない様子で馬を進めている。しかし、ロギヌスは違う。油断のない視線を音のする方へ向けて、それ以上のものが聴きとれないかと気を配っている様子だ。
 やがてマイセルはそれがただの音ではなく、誰かの声であると悟った。男の声ではない。管楽器のような音色に聴こえるのは、女の透き通った声の性質をあらわしている。
 マイセルはそれが女の声であることを知ると、途端に、緊張してきたのを身裡に感じていた。女性の声――それは男だらけの旅で出会う、ひとつのオアシスのような潤いにも思われた。しかし、その一方で、そう感じることは、フィーナに対する裏切りであるようにも感じていたのだ。
 フィーナ。
 彼女と自分とは、まだ何の関係も持っていない。しかし、自分はフィーナのことを気にしている。いや、好きでいることに素直になれずに戸惑っている段階だ。そして、彼女以上の女性には出会ったことがない。その思いがあるから、このエルフの森の奥から聴こえてくる女の声にしたって、フィーナよりも劣っている事実を見出し、安心したいと思う気持ちがむくむくと大きくなってくる。
 しかし、その声はまるで石英のように透き通っていて、聴くものの心をいたずらにそばだてるような夾雑物は感じられなかった。あくまで自然。あくまで周りとの調和を意識した声であるように思われた。だが、マイセルは気づいた。声のする方に近づいている最中なのだが、どうやらその歌詞が共通語ではなさそうなのだ。マイセルは疑問を心に浮かばせながら、前を行くロギヌスに訊ねた。
「ねえ、ロギヌス。あの声の主は誰?」
 マイセルはその答えをすでにはっきりと悟っていた。だが、訊かずにはいられなかった。
「あれはエルフの歌だろう。歌っているのはおそらく詠い手=v
「詠い手?」マイセルは頓狂な声をあげる。
「そう詠い手だ。神の高みに献上する歌を専門に詠うエルフの巫女。その声には精霊を安堵する力が備わっているといわれる。相手の姿はわからないが、きっと美しいエルフだろうて」
「へー、エルフのお出ましか。いよいよなんだな」セシルは眉をぴくりと動かして、そうつぶやく。
 声はさらにはっきりしてきた。言語は定かでなかったが、なんだか神秘的な声だという印象だけはくっきり浮かんできた。
 マイセルはこのような素晴らしい歌声を持つエルフの女がどんな姿をしているのか、想像してみようと思った。すらりとした体躯、肌理の細かい白い肌、物語で知っているような人間のものとはことなるピンととがった耳。そして、古今のあらゆる画家が夢見て理想と掲げる姿をさらに超えたような神格を持った姿。それらが一度に押し寄せてきて、マイセルの意識は混乱をまねく。
「ねえ、エルフって、やっぱりエルフ語をしゃべるの?」マイセルはいわずもがなのことを訊ねる。
 歴史家は振り返って答える。「ああ、エルフ語だ。でも、詠い手の中でも少数の有力者は公用語や高地イルメル語を話せる」
 マイセルは「へー」と相槌をうつ。
 三人のうちもっとも目の利くセシルが前方に何かを見つけたらしく、他の二人に注意をうながす。
「どうした?」ロギヌスは油断のない目を前方へ向けて、セシルに訊ねる。
「誰かいる――。それに歌声がとまった。きっと俺たちに気づいたんだろう」セシルは声に緊張をにじませる。
「――誰です?」透き通るような声が前方の茂みから放たれる。
 マイセルはその声にぴくりと背筋をこわばらせる。
 ――エルフ! マイセルは気持ちがドキドキするのを抑えるのに必死だった。
「我らは人間だ。怪しいものではない」ロギヌスが声のした方へ叫ぶようにいう。
 しばらく沈黙が流れた。
 茂みからはいっこうに次の言葉が出てこない。
 痺れを切らしたセシルがたまらず次の言葉を告げる。
「俺たちはエルフに会いに来たんだ。詠い手を捜してる。俺たちに必要な人材なんだ。知ってたら、紹介してくれないか? なんなら、エルフの里に連れて行ってくれるだけでもいい。あとは俺たちでなんとかするから――」セシルがそういうと、茂みから次の言葉がかかった。
「妾はリナイエ。エルフの詠い手よ。貴方がいうように、エルフの里に案内することは可能だわ。でも、貴方たちがエルフの里に災厄をもたらさないとも限らない。妾はまだ貴方たちを信用するわけにはいかないわ」


28 :蒼幻 :2008/04/18(金) 23:16:10 ID:nmz3zmrc



 その弁をきいて、マイセルは交渉が難航しそうだと感じとった。
 しかし――。
「おお! リナイエか! わしじゃ、憶えとらんか? 歴史家のロギヌスじゃよ。ロギヌス・フォン・アンベール」歴史家はこの旅に出て以来、もっとも陽気な声をあげた。
「えっ!」茂みの向こうで息を飲む気配がしたかと思うと、その茂みががさっと動いて、ひとりの異風の娘が姿を現した。
「ロギヌス!? 本当にロギヌスなの? 信じられないわ!」エルフの娘リナイエはその美しい顔に驚きの表情を浮かべている。
 マイセルはエルフの娘に目をくぎづけにされた。
 あまりに可憐で魅力的な風貌。
 それは人間にはとてももてないと思われる瑞々しい美しさを持つ娘だった。
 遠目に見ているためにその細部まではあきらかでないが、瞳の色は黄色というかほとんど金色で、髪の毛は亜麻色。全体的に若葉色の服は折り目正しく手入れされており、そこからのぞく手と足は目を惹く白磁の白である。整った顔立ちは古今の彫刻家が何年もかけて完成させた彫像のそれよりもさらに美しいもので、芸術的であるとさえ感じられる。マイセルはその存在感に圧倒されそうになった。身長はマイセルほどもなかったが、たった一人の、それも若い娘にここまでの存在感があろうとは……。マイセルはエルフという種族の底知れなさに、恐ろしささえ感じていた。
「ロギヌス、逢いたかったわ」リナイエは破顔して愛嬌のある声で歴史家に話しかける。
「わしもじゃよ」ロギヌスも顔をほころばせる。「大きくなったな。この前逢った時は、まだこれくらいの子供だったのに……」そういうと、ロギヌスは自分の胸の位置くらいに手を伸ばした。しかし、去勢馬に乗っているために、その高さはとんでもなく高いところにある。ロギヌスは「おっと、いかん」とつぶやくと、即座に馬からおりて、ふたたび手を胸の位置に伸ばした。
「妾もロギヌスがこんなに歳を重ねたなんて、想像もつかなかったわ。まだ十分に若くて、生気にあふれ、行動的な歴史家だと思ってたから……」
「失敬な。わしはまだ元気だよ」ロギヌスは苦笑する。
「それで、ロギヌスとはどういう関係なの、そこのお二人さん?」リナイエは三人の方へ歩いてきて、油断のない視線を二人に向けてきた。
「あの……僕は司書のマイセルです」マイセルはぺこりとお辞儀する。「そしてこっちは先輩司書のセシル」
 セシルはつっけんどんな感じで「よろしく」と口先だけで返事する様子。
 マイセルはロギヌスが顔をしかめるのをみとめた。
「ちょっと……セシル……」マイセルは気が気でない。
「ふーん、司書……それってなんなの?」リナイエが訊ねる。
「本を扱う仕事さ」とマイセル。
「売ってるの?」
「ううん」
「じゃ、読んでるの?」
「ううん」
「じゃ、なんなのよ」リナイエはわざとのように目をつりあげて、声を張った。
 マイセルは分かりやすいように言葉を選んで説明することにした。
「本を集めて人に読ませたり、貸したりする仕事なんだよ」
「へー」リナイエは感心したように声をあげる。
 リナイエの声はさきほどの歌にも代表されるように、とても美しくて、まるで鈴のなるような、いや、管楽器の美しい音色にも似たような心地よさが感じられる。マイセルはその声を聴くのがいつのまにか快感へと繋がっていることに気づいた。
 ――いけない、僕にはフィーナがいるんだ。マイセルはよこしまな感情に左右されそうになる惰弱な自分を責めるかのごとくに、気持ちを押さえこんだ。
「本が沢山あるって素敵ね。妾たちエルフはそんな貸し借りの習慣がないから、ちょっと羨ましいわね。で、その司書さんたちがいったいエルフの里になんの用なわけ?」リナイエは腰に手をあてて、マイセルに近寄る。
「あ――あの――詠い手を探しに来たんだ」マイセルはどもりながら告げる。
「ふーん」とリナイエ。
「真実の頌≠チていう本があるんだけど、その本の内容を理解できる人物を探していて、そしてよければその人に教えを乞おうと思ってね」
「ふむ」リナイエは小さく返事する。
「エルフの里ならば高地イルメル語の書物もお手の物だと思っての」二人のやりとりを聴いていたロギヌスが口を挟む。
「なるほどね、わかったわ。ついてきて。里に案内するから」リナイエはそういうと、春のように微笑んでからくるりと後ろを向き、進みはじめた。
 マイセルは前を歩くエルフの娘に気持ちが揺らぐのを敏感に察知していた。
 森はいよいよ深くなり、両脇の茂みがぐぐぐっとこちらのほうへ迫ってくるような印象を受ける。
 樹々の幹にはこれでもかというくらいびっしりとツタやカズラが絡み付いており、その様は身体をねじって悲鳴を上げている最中の囚人のようである。このような樹々をみると、ここが陰鬱な、じめじめした、人が決して立ち入ることのない神秘の森であるような印象を受ける。しかし、初めてここに立ち入ったときのような感動は、もう得られなかった。
 森の正体を見極めたような気がした。しかし、それは一時的な錯覚にすぎなかった。
 リナイエは迷うことなく、径を突き進んでいく。
 森を歩くことに慣れているのだろう。ときどき、とても径とは思えないようなところを進んでいくため、本当に娘は径を知っているのだろうかと不安になりかけるが、いまはこの娘についていくことがもっとも近道なのだと思いいたり、一声もかけることなく、一心について行こうと馬を進める。
 十分ほど進んだろうか。
 森が突然ひらけ、明るいところに出た。
 そこは異様な空間だった。


29 :蒼幻 :2008/04/18(金) 23:16:54 ID:nmz3zmrc



 もっとも気になったのは、樹の上に住居が建てられていること。確かに幹は頑丈そうで、どんな災厄でも防いでしまいそうな印象はあるが、しかし、下からみてみると、不安定なことこのうえない。マイセルはそのような家を見たことがなかったから、ただただ不思議に思うばかりだった。
 ――どうして樹の上に? マイセルは答えを求めるように、歴史家のほうを見た。
 歴史家ロギヌスは慈愛のこもった表情でマイセルをみた。その目には透徹した光が浮かんでいる。
 ――自分で考えろってことか……。マイセルは苦笑した。
 ――樹の上の住居――森との共生――潔癖なまでに美しい生活。マイセルはない頭でいろいろと思案した。しかし答えは見つからない。
 道を進んでいくときに、エルフの青年の一団に行きあった。そのエルフたちはみな一様に作りものめいた美しい顔をしていて、耳はぴんと尖っている。そのうちのひとりがリナイエの方を向き、「おかえり」といった。
 リナイエは「ただいま、兄さん」とだけいって、そのまま前へと進んでいく。
 ――兄さん……。マイセルはそのエルフの青年のことが頭から離れなくなった。
 そうこうしているうちに、先頭を歩くリナイエがひとつの大樹の前で歩みをとめた。
「さあ、ここが妾たちエルフの里、南地区の長老の家よ」リナイエが誇らしげに宣言する。
 マイセルは思わず声をあげてしまった。
 それは樹の上に建物があるという単純な事実の他にさまざまな意外性が混淆している驚きだった。
 ――こんなところに棲む人がいるなんて……。マイセルは唖然としてしまった。
 それはイスハークの中流以上の人間が住むような住居よりさらに大きかった。それが地面の上ではなく、樹の上に建築されているのである。樹は一本ではなく、何本もの樹の枝の密集したところを狙って住居が建築されている。しかし、その材木の色合いから考えて、建てられたのは数十年前、もしくは百有余年の昔であるように思われる。マイセルはうっとりと溜息をつく。
 リナイエはその溜息の気配を察知したらしい。
 リナイエはマイセルの疑問に答えるように口を開いた。
「この長老の館は、代々の長老が住み暮らしてきた建物でね、この長老は第五十八代目なわけ。建物は老朽化したら作りなおす、ということを繰り返していて、この建物は約百年前に建築されたって聞いてるわ。妾が生まれるまえのことだから、詳しくは知らないんだけど、建てられた当時よりも、今の方が周りの樹々の外観と調和して美しいって聞くけどね。ま、うちの父さんの弁だから、あまり当てにはならないかもだけど」
 リナイエの言葉はマイセルの疑問を吹き飛ばすに十分だった。
 しかし――。
 マイセルはこのリナイエの言葉の中に、不自然なところを見出していた。
 それは――。
 リナイエの父さんが、建築当時のことを知っているということだった。
「ねえ、リナイエ……」マイセルはこちらに向き直っているリナイエに質問をはじめた。「君の父さんっていったいいくつなの? 君の話をきいていると、父さんって百年も前のこの建物の建築を目の当たりにしていたような口ぶりなんだけど……」
「えっ?」リナイエは頓狂な声をあげる。
 ロギヌスが口元だけゆがめて苦笑しているのがマイセルに察知された。
 ――なにかいけないことを訊いてしまったのだろうか、とマイセルの心に罪悪感が浮かぶ。
 しかし、返ってきたリナイエの回答はマイセルを納得させるに十分たる内容であった。
「ああ――エルフの長寿を知らないのね」リナイエは楽しげだ。その声には寒い冬を耐えて、温かくなってきた春の気配の浮かぶ青い空の美しさが存在していた。「妾の父は百八十まで生きたわ。妾が生まれたのは父が百五十歳のとき。父も母も亡くなったけど、エルフにしては短命だったかもしれない。エルフは二百年は生きられる身体の構造をしているからね。貴方たち人間はせいぜい生きても六十年でしょ? 私たちとは人生観が違うんでしょうね……」
 マイセルはリナイエの言葉が信じられなかった。
 これまで人間の世界のことしかしらなかった自分にとって、人生の岐路というものはみな平等に訪れるものだと思っていたところがあった。いまのいまこそ、自分にとっての人生の岐路であるかのように、マイセルには感じられた。
「さあ、長老に紹介するから、ついてきて」リナイエは愛嬌のあるまなざしでマイセルたちにいった。
 ロギヌスは眉をぴくりと動かして、それからセシルとマイセルに長老の立派な家に――樹の上にある建物を家と呼ぶことに差しさわりがないのなら――向かうようにうながした。
 はじめマイセルは、どうやって家の入り口まで行けば良いのだろうと考えていたのだが、リナイエが案内してくれた樹の向こう側にいってみると、そこに縄梯子が取り付けてあるのがわかった。
 マイセルはなるほどと思って、縄梯子を上ろうとしたのだが、リナイエはそこに立ち止まったまま、昇ろうとしない。
「どうしたの?」とマイセルが聴くと、リナイエはそのはいているスカートの襞を抑えながら、いいにくそうにいった。
「妾、こんな格好だから、一番には昇れないわ。先に昇って」リナイエは少し顔をあからめる。
「ああ――」マイセルは納得すると同時に、そんな質問をしてしまった自分を少し責める。
 男三人が昇った後で、リナイエが樹の上に昇ってきた。
「長老は気さくな人だから、それほど緊張する必要はないからね。ま、ロギヌスは何度も逢ってるから、知ってるでしょうけど、そこのお二人さん、くれぐれもあがったりしないようにね」リナイエは片目をつむってウインクする。
 マイセルは顔がぽっとなるのを感じた。
 リナイエは玄関扉をノックしてから、返事も待たずに中へ入った。三人がそれに続く。
 屋敷の中は普通の家とかわらないように思われた。人間の世界の家とそれほど構造も内容もかわらない。ただ違うのは、樹上にあるということで、それほど楽に動き回れるようなゆったりしたスペースがないということくらいであった。
 ――確かにイスハークの一般家庭を想像すると、ここは手狭かもしれないけど、不便を感じさせるようなつくりではないな……。マイセルは内装を見ながらいろいろと思案した。
 そして、勝手に入ったわけだが、長老がいるだろうと思われる大広間の入り口に案内されたセシルとマイセルは、めずらしい物を眺めるかのような視線で大広間を観察した。
 ――この人が長老? マイセルはこちらに向かって椅子に腰をおろしているひとりの壮年風のエルフと目が合った。


30 :蒼幻 :2008/04/18(金) 23:17:23 ID:nmz3zmrc



 本能的に目をそらしてしまったが、直感でわかった。この人が長老なのだろう。ほんの一瞬だったけど、その瞬間に見えたそのエルフの男のまなざしには、どこか透徹したものがあって、その奥底に芯の強そうな気概が見え隠れしているように察知されたのだ。
「リナイエ」その声は朗々と響く。
 簡素なつくりの家だから、その声は部屋の隅々にまで行き渡るような波長を持っているように思われた。
「その客人は人間だな。いったい、何者――」そこでエルフの男の声がとまった。マイセルはびくりとしたが、次の瞬間にはそれが杞憂であったことを思い知った。
「ロギヌス! ロギヌスではないか!? そなたとまた再会できることを楽しみにしておったのだ。んーむ。本当に会いたかった」エルフの男はそういうと親しげに顔の表情をゆるめた。
 それを受けて、ロギヌスも応対する。「おう、トレイル。まだ生きておったか」
「いきなりきついな」トレイルと呼ばれたエルフの長老は苦笑した。「今日は三人できたのか?」
「そうだ」
「いつも個人行動を旨にしておるそなたにはめずらしいことではないかな?」トレイルは怪訝そうにセシルとマイセルを眺める。
「はじめまして、マイセルと申します」マイセルは粗相の無いように簡潔に自己紹介をする。
「俺はセシルといいます。よろしく」セシルも殊勝に挨拶する。
「で――、この二人をこの里に連れてきた理由はなんだ?」とトレイル。
「なんでも、詠い手を捜しているとか……」エルフの娘リナイエが口をはさむ。
「詠い手を――。それはまたどうして?」
「高地イルメル語で書かれたある書物を解読して欲しいそうです。そして、その内容を教授できる人物を紹介して欲しいと……」リナイエは端的に答える。
「高地イルメル語か――」トレイルは言葉をにごす。「それは魔導書なのか?」ロギヌスに訊ねる口ぶりだ。
「光と影という分類で言うならば、『真実の頌』は間違いなく光に属しておるだろう。そしてこの書物はどうやら、エルフ族の手になるものらしい」
「そうか……エルフ族の書物……」
「そして、その魔導書の一節を、高地イルメル語を知らぬこのマイセルが完璧に読んだのだ」
「ほう」トレイルは感心したのか、少し眉をぴくりと動かした。そして、「その書物、見せてもらえるかな?」と訊ねる。
「マイセル、出してくれるか?」
 マイセルはロギヌスのその言葉に同意し、荷物袋の中から魔導書『真実の頌』を取り出した。
 その書籍を見た途端に、長老トレイルの表情が暗く沈みこむように見えたのが、マイセルの見間違いであるのかどうかまではよくわからなかった。
 長老はその表紙の金文字を注意深く読み、それから、本のページを繰っていった。
 長老はどうやら高地イルメル語を少しは習得しているらしい。本を繰る手はそれほど速くなく、一節一節を味読するというほどでもないが、確実にすべての文字に目を通しているような速度だった。
 長老はその間、ひとことも発さない。
 ただひたすら、本に視線を向けている。
 マイセルはその間、ふと、リナイエのことが気になって、彼女のほうをちらちらと見た。その何度目かの凝視に、リナイエが顔をこちらへ向けて微笑んだ。
 ――いけない! マイセルは唐突に顔をそむけた。
 その動きが露骨過ぎたのではないかと、その次の瞬間、後悔の念が、マイセルの心の中に生じた。
「なかなか興味深い本だ。しかし、その著者まではわからぬ。この魔導書の裏表紙の刻印には見憶えがあるのだが……」エルフの長老トレイルは眼をしょぼしょぼさせた。
 もやもやした気分のマイセルは、長老が告げた言葉を額面どおりにうけとって、そして、自分がどうしてこんなところにいるのかという改めての疑問を、心のうちに忍ばせる。
「詠い手を紹介してもらえんかの?」とロギヌスは長老にいいかける。
「ふむ……それならば――」とトレイルは考え込む様子。
 しばらくして、ロギヌスが照れから顔を人差し指でぽりぽりとかいていたとき、トレイルはさも名案が見つかったとでもいわんばかりにひとつうなずき、そしてリナイエを指し示した。「この仕事、リナイエこそ適任だと思うが、どうだろう……」
「うん……?」ロギヌスは言葉をスムーズにつぐことができない。
「リナイエは優秀な詠い手で、性格も活発ときている。旅への同行も可能だろう」とトレイル。
「――うん?」ロギヌスはそこで思考をとぎれさせる。「どうしてわしらが旅に向かうことを知っているのだ?」
「ふっ、それくらいわかるさ。エルフだぞ」トレイルは口元をゆがめて、皮肉そうに笑う。
「愚問だったな……」ロギヌスもそれにつられて笑う。
「で、リナイエだが……この年で、もうほとんどの書物を読みこなすことができる。リナイエほどの知識の持ち主となると、この里でも指を折るほどにしかおらんだろう。ぜひ、リナイエに教授してもらうことだな。私でも、リナイエほどの知識を持っておるわけではないのだからの」
「ほう……」ロギヌスは心から感心する様子だ。
 リナイエはその長老のお褒めの言葉を素直に受け取って、ちょっと緊張したように身体をこわばらせている。しかし、その顔には自信が漲っているように、マイセルには思われた。リナイエは手持ち無沙汰のときのように、その美しい金色の髪を何度も手ぐしでくしけずる。
「私からいえることは以上だ」トレイルはさきほどと同じく、朗々とした口調でロギヌスたちにそう告げる。
「ふむ」とロギヌスは返事する。
「それで、その旅は急ぐものなのか?」トレイルは歴史家たちを気遣うように、質問する。
「うむ……。できるだけ早く出発したいと思っている」ロギヌスは眉をぴくりと動かした。
 エルフの長老トレイルはしばらく思案顔だったが、やがて、ひとつの提案をする。
「リナイエの家に泊めてもらうと良い。リナイエは長らく、兄と二人暮しだったから、家も使ってない部屋が多数あるときく。私の家に泊めてもいいのだが、しかし、私の家には沢山の家族がいるからな。いろいろと不都合もでてくるだろうて。その点、リナイエの家はいい。兄の性格も温厚だし、ロギヌス、そなたらといざこざが起こる心配もなさそうだ。――リナイエ。それでいいかな? なにか不満があるなら、いまいっておけ」


31 :蒼幻 :2008/04/29(火) 16:01:09 ID:nmz3zmrc



「不満なんてないわよ」リナイエはその美しい顔をほころばす。「こっちからロギヌスたちに泊まってほしいって頼みたいくらいよ。きっと兄もよろこぶわ。だって、数年ぶりの再会なんですもの。妾だって驚いたのに、あの兄さんが驚かないわけがないですものね」
「兄さん……か……」リナイエの言葉にマイセルは思わずつぶやいてしまう。
「どうしたんだ?」それを聞きつけたセシルがマイセルに訊ねる。
「いや、なんでもないんだ」
 マイセルは自分の心とは正反対のことを述べた。
 マイセルの思いはこうだった――。自分には兄弟というものがない。いたのかもしれないが、いまではそれを探すすべはどこにもない。孤児だった自分を育ててくれた神父に、いまの義理の両親。彼らは実の息子に与えるように、惜しみない慈愛をそそいでくれた。しかし、子供の生めない体質の義母は自分を我が子のように育ててくれたが、義母だって、実の子供が欲しかったにちがいない。しかし、こうも考える。もし義母が子供を生むことのできる体質だったとしたら、このように、自分を引き取って育ててくれることはなかっただろう、と。だから、兄弟がいないことは仕方の無いことなのだ、とマイセルは思った。近所の同年代の子供には、ほとんど、兄弟姉妹のいずれかがいた。一人っ子だったのは、マイセルくらいのものだ。
 そんなマイセルだったから、このエルフの娘リナイエの兄さん≠ニいう言葉には特別の感情を抱くのだった。――もし、自分に兄さんや姉さんがいたら……。そう考えると、なんだか悲しくなってくるのだった。もしかしたら、自分には兄弟がいるのかもしれない。手違いで教会の前に置き去りにされただけで、本当は、兄や姉がいまもこの世界のどこかで生活しているかもしれない。マイセルは自分の右腕にある星型の黒い痣を思った。――この痣こそ、自分を自分たらしめている紋章だ。この痣はなにか特別なものにちがいない。そんな気がする――。マイセルは少し目をうるませた。
「――マイセル! マイセル!」と気がつくと、セシルが呼んでいる。
「うん?」とマイセル。
「もう出発するぞ、リナイエの家に直行だ」セシルはおろしていた荷物を持ち上げると、先に部屋を出ていったリナイエとロギヌスに追いつこうと、少し早足になった。
「お邪魔しました、長老様」とマイセルは軽くお辞儀をすると、そのままセシルの後をついていく。
 部屋を出ると、リナイエとロギヌスが廊下の向こうで待っているのを見つけた。セシルとマイセルがこないのを怪訝そうな顔つきで観ていたのだった。
「ごめんよ」とセシルは開口一番、詫びる。「マイセルがなかなか動かなかったんだ」
 一番最後のマイセルが三人のところについた。
「ごめん、ちょっと考えごとをしていて……」とマイセルが告げる。
 四人は何をいうともなく互いの顔を眺め、それからリナイエの家に向かうことにした。
 縄梯子を下りると、広場には西日が弱々しく差し込んでいるのがわかった。もう夕暮れだ。
 大樹の樹冠の密集している広場に日が落ちかかっているのを認めるのは難しかったが、確かに夕暮れである。サルスベリのような表面のつるつるした白色の幹の表面に、赤みがかった陽光が差していて、それがなんだか生き物の血潮のような印象を際だたせた。
 リナイエは「ついてきて、こっちよ」というと、まだ人通りも多い――人といっても、それはすべてエルフであって、その顔つき、表情、衣装などのすべてがマイセルには異国風のように感じられるのだった――広場を横切って、最初にこの里に入ってきた入り口とは反対方向へと向かった。
 マイセルはイスハークとのその植物相のちがいを、これといって見つけることはできなかったが、どこか、人間の世界のものとは異なるのではないかとの感覚をきわだたせていった。
「ねえ、ロギヌス」とエルフの娘リナイエは歴史家に訊ねかける。
「どうした」とロギヌスは優しく答える。
 聴き方によっては、祖父と孫娘の会話のようにも聞こえる。
「あの二人とはどういう関係? で、マイセルっていったっけ? その、魔導書を読むことができた青年って……。そんなに高地イルメル語って難しいの?」
「ふむ……一度になんでもかんでも訊こうとするのは、悪い癖だな、リナイエ」
「ううぅ……」リナイエはのどの奥を震わせてうなる。
「でも、これだけは答えておこう。あの魔導書『真実の頌』の力は本物だ。そして、エルフであるそなたにとって頌≠ニはただ天空に住まう神へと献上する贈り物という意味合いを有つだけだが、人間にとって頌≠ニはそれだけの意味にはとどまらん。エルフと人間とを較べれば、その特長は一目瞭然だ。魔法の力を行使することに巧みなのは、なんといってもエルフだろう。しかし、人間にはエルフに無い特長がある。それは勇気、力、そして欲だ。欲というときこえは悪いかもしれんが、人は欲があるから自ら行動を起こそうとするともいえる。その衝動はエルフであるそなたには理解できんかもしれん。でも、憶えておいてくれ。その欲こそ、他の種族には持ちえない人間のもっとも鋭い武器になるということを……」
「――欲……。でも、欲があるからこそ、人は、戦争を引き起こして、仲間内で殺し合いをするのではなくって?」リナイエは眉をひそめていう。
「そうだな……。確かに欲にはそういう側面がある。諸刃の剣なんだよ、欲というものは。だからこそ、使い方を誤れば、自分の身を滅ぼしてしまうことになりかねん」歴史家はここでいったん、言葉をきって、話頭を転換した。「そなたも美しい角笛の音色を聴いてうっとりすることがあるだろう。そして、透き通るような自分の歌声にうっとりすることもあるだろう」
「えっ?」エルフの娘はロギヌスが何をいいたいのかわからず、戸惑ったような声を出す。
「その二つの音色は両方ともすばらしいものだ。しかし――。その二つの音色が同時に発されたとしたらどうだ? それはもはや音楽にはならんだろう。互いが干渉しあって、いいところを打ち消しあうという寸法だ。マイセルの頌と、そなたの詠では質が違うのだよ。しかし、高地イルメル語の本質を知っているのはリナイエだ。一方のマイセルは高地イルメル語をほとんど知らん。あの『真実の頌』の一節が読めたのは偶然ではないか、とマイセルは疑ったことがあったが、確かにそういう可能性もあるかもしれん。しかし、読めたというのは、間違いなくひとつの才能の存在を示しておると、わしは思う。リナイエ、頼む。マイセルをいっぱしの詠い手に仕立て上げてくれんか?」
「エルフには人間の頌が理解できないといっていたのに、今度は、その人間に教授するようにって? それは矛盾した言葉じゃないかしら?」リナイエは素直に疑問を口にする。その言葉には皮肉やずるい感情など、微塵も感じられなかった。


32 :蒼幻 :2008/04/29(火) 16:01:43 ID:nmz3zmrc



「本質は同じなのだよ」とロギヌスは自分の言を追加する。「本質は同じなんだが、それを行使する過程において、エルフと人間とは異なってくるのだ。エルフが感性に頼って詠うのに較べて、人間は感情で詠う。その差異こそが、エルフと人間とを隔てている最たるものだろうて」歴史家はそういうと、肩をすくめてみせた。
「わかったわ。じゃ、家に着いたら、さっそく、その魔導書を見せて頂戴。訳すのは早い方がいいでしょ?」リナイエもロギヌスを真似るように肩をすくめた。
 それからのリナイエは終始無言でひたすら道をまっすぐに進んでいった。ロギヌスはリナイエの感情を察して何もいおうとしなかったが、ただセシルだけは状況をつかめず、ひとりでなにかマイセルに話しかけようとしている風だった。
「で、いったいこれからあのエルフの女の家にいって何するんだ?」マイセルは、セシルの質問がなんだか間が抜けていると感じていた。
「だから、これから『真実の頌』を読んでもらって、その内容を理解するんだよ」マイセルは苦笑しながら答える。
「フム……それで、マイセルは晴れて〈真実を詠う者〉になるわけだ……」
「まだわからないよ、本当に僕が〈真実を詠う者〉になれるかどうかは……」
「そうか」セシルはそのまま口をつぐんでしまった。
 エルフの娘は柳葉が風に揺れるかのようにしなやかにその細身の身体をひねりながら歩いていく。その端整な体つきは、マイセルにとって異性を感じさせるものであり、その感情を押し殺すのに苦労していた。
 一方のセシルはこのエルフの里の風物が珍しいのか、しきりに辺りを見回している。
 やがて、前方でリナイエとロギヌスが立ち止まった。
 そこには今ではもう大分見慣れた樹上の一軒家があった。
「ここよ」とリナイエは二人の司書のほうに向けて笑みを浮かべながら告げた。そして「落ちないように気をつけてね」と注意して、前方にある縄梯子を指差し、先に昇るようにうながした。
「もう兄が帰ってるかもしれないから、上に昇っても室内には入らないようにね」と、エルフ娘は縄梯子を昇りかけていた三人に声をかける。
 マイセルは縄梯子を昇りおえると、そのままそこで待機した。
 四人ともが樹の上に達すると、リナイエがまた先頭に立って、自分の家の玄関扉を開けようと手を伸ばした。
 すると、手も触れていないのに、樫の木の玄関扉が開いた。
「おかえり、リナ」中から声がする。テノール調の男性の声だ。
 その声が聞こえたとたん、セシルはびくりと身体をこわばらせる。きっとリナイエの名前が妹の名前と酷似していることに今更ながら気づいたのだろうとマイセルは思った。
「ああ、ただいま、ヨンネル兄さん」リナイエはそういうと、事情を説明しなければならないと思ったらしく、早口に語り始める。「この人たちは旅の人たちで、こっちは歴史家のロギヌス、そして司書という仕事をしている人間の二人で、名前はセシルとマイセル――」
「えっ? ロギヌス? それって……」リナイエに兄さんと呼ばれたヨンネルが驚きのあまり声をつまらせる。そして、一番年長の男の顔をじろじろと眺め始めた。「うん? むむ……」
「よう、ヨンネル、久しぶりだな、元気だったか?」ロギヌスはヨンネルが自分のことをなかなか思い出さないのに痺れを切らして自分から語りはじめた。「人間は年をとるのが早くていかんな……。そなたとこの前あったのは、まだこのくらいの小さな時分のことだったし、覚えとらんのも仕方ないかもしれん」
「いや、知ってる、憶えてるよ」ヨンネルは笑みをこぼす。「ただ……驚きで声が出せなかっただけさ」
「そうか」
「で、兄さん、この小さいほうの人間のマイセルが高地イルメル語の特訓を受けたいんだってさ。それで妾が教授することになったんだけど、これから家で『真実の頌』っていう魔導書を読むことにしているのよ……。兄さんにも手伝ってほしいんだけど、いいかな?」リナイエは真剣な表情をして、兄に頼みこんだ。
「おう、いいよ」とヨンネルはうけあう。「だが――まずは食事だ。ロギヌスたちも腹が減ってるだろう? この妹がなんか美味しい物をつくってくれるだろうから、一緒に食べよう」
 このエルフの青年をどこかで見たことがあるとマイセルは感じていたのだが、どこで見たのか思い出せなくて、気分がもやもやしていた。しかし、次のヨンネルの発言でそれが思い出せたのだった。
「今日の狩りでウサギとシカの肉が手に入ったんだ。ウサギの胸肉とシカのフィレ肉。どちらもこの季節にしては上物だしな。リナイエ! さっそく煮込みでもあぶり焼きでもいいから作ってくれ。ただし、美味しいやつを頼むぞ!」
 マイセルが見たところ、このヨンネルというエルフの青年に陰の部分の少ない陽気な感じの印象を受けていた。外見はエルフの最大の特徴である尖った耳とシャープな顎のラインがきわだっていて、身長はセシルに匹敵しそうなほど。そして狩りで引き締まったのか、身軽そうな印象の体つきで、服装も周りに調和するような優しい春の若葉色であった。森の民――という言葉がよく似合うとマイセルは感じた。
「さあ、入ってくれ」ヨンネルはそういうと、四人を家にまねいた。
 家の中は土足でいいとのことだったから、マイセルは床の上の軋みを気にしながら一歩ずつ踏み込んだ。家の中は清潔で、切窓があり、そこから微風が家の中に流れ込んでいるのがわかった。明かりは間接的に入ってきていたが、もう夕暮れ時とあって、家の中全体が淡く赤みがかって見えていた。
 ヨンネルは客人たちをテーブルの前の椅子に座らせると、次の間へいき、水差しのようなものと人数分の陶器製のコップを手にして戻ってきた。
 水差しと見えたものの中には透明な液体が入っていて、それが内部から淡く青色に光っているのが見受けられた。それがヨンネルの手によってコップに注がれ、それを手渡されたマイセルは一口飲んでみた。
「これは……?」とマイセルはほんのりと甘い液体を飲み込んでから訊ねた。


33 :蒼幻 :2008/04/29(火) 16:02:17 ID:nmz3zmrc



「エーテルだよ」とヨンネルは楽しげに語る。「神秘の水≠ニいってね……。エルフ族に代々伝わる神樹の幹に傷をつけ、そこから出てくる液を採取して蒸留抽出し、自然水を加えて飲み物にしたものさ。エルフの魔法薬ともいわれていて、簡単な傷ならこれを皮膚の表面に塗るだけで治るし、また、気力の低下にはこれを飲むことで身裡の根本から恢復を促進させる効果があらわれるという優れもの。それに、何も悪いところの無い平時に飲むと、体内の免疫力が増進されて、病気にかかりにくいとされているんだ。エルフが長寿なのは、このエーテルを日常的に飲んでいるからなのかもしれないな……」
「へぇ……貴重なんですね」とマイセルは感嘆する。
「機会があれば、その神樹に案内しよう。大地の精であるマナの樹だ。折角エルフ族の里にきたんだから、見ておいて損はないと思う。これこそ、エルフ族が神から賜った恩寵とでもいうべきものだからな……」
「マナの樹か……わしも二十年ほど前に見て以来だな。楽しみにしておこう」ロギヌスはそういうと顔をくしゃくしゃにして笑った。
 やがて、台所のほうから良い匂いがしはじめた。
 マイセルが鼻をくんくんしていると、ヨンネルが告げた。「これは香草焼きだな」
「香草……」マイセルは香草という言葉にあれっという表情をした。
「香草を知らないのか? 人間は何を食ってるんだ、いったい? いや、いわなくて良い。今日の料理はエルフの伝統的な料理だから、故郷のものとは全体的に異なるかもしれん。だが、旨いことは請け合いだから、たんと食え」ヨンネルはまるで自分が料理を作っているかのような口ぶりでそういった。
 良い匂いがしだしてから十分ほどして、リナイエが大皿を手にして戻ってきた。
 リナイエはテーブルの上に料理を盛った皿を乗せ、何度も隣の部屋と往復してその度に、さまざまな料理を手に戻ってきた。最後に取り皿とナイフ、フォークが運ばれてくる。
 リナイエは夕食を食べる前に、部屋が暗くなってきたことに気づき、キャンドルを燈して部屋を明るくした。キャンドルの炎はちらちらと揺らめき、その度に、皆の影が壁に揺らいでうごめいた。
「じゃ、頂きましょう」というリナイエの言葉に、皆が唱和した。
 そしてすぐにコップにさきほどのエーテルが注がれ、夕食ははじまった。
 料理の品目はまさにさまざまで、バリエーションに富んでいた。ウサギの肉の煮込み料理と、シカのフィレ肉の香草焼。ウサギの肉の煮込み料理は、こんな短時間に、どうやって作ったのか、疑問に感じていたマイセルだったが、きっとエルフ族の持つ魔法でも使ったんじゃないだろうかと推測するにとどまっていた。マイセルが訊ねなくとも、その疑問をリナイエが解消してくれた。
 それはヨンネルのこの一言がもとになったのだ。
「またまがつひ≠使ったな?」
「まがつひ=H」聞き慣れない言葉にセシルとマイセルは声をあげた。同時にロギヌスも眉をぴくりとさせて反応を見せる。
「ああ、余所から来たものにはわからないか……」ヨンネルは顎元に手をやって、まるで髭があるかのように、なんどもそこをこすった。「実は、最近、エルフ族の中でひとつの流行になっているある魔法なんだ。それは非常に高火力を有する魔法なんだが、実は、平和利用するために一般に流布したもので、実際、開発されたときには攻撃用の魔法だったんだ。そのせいか、制御に難があってね。もう今年に入ってからでも、家を燃やしてしまったという事例が何件もあるんだよ。だからなるべくまがつひ(禍火)≠ヘ使わないでおこうといってたんだよ。それなのに、こうやって食卓に上がった料理を見てみると、禍火を使った形跡があるというわけでね……」
「なるほど」ロギヌスは目をしぱしぱさせた。
「でも、こうやって美味しい料理ができたんだから、いいじゃない。兄さんは神経質すぎるんだって」リナイエが愛嬌をふりまくように、明るい声でいってのける。それが火に油を注いだように、ヨンネルの怒りを買った。
「リナ! お前が楽天家すぎるんだよ。そうやって油断しているものから順に、家を失くすことになるんだからな。俺達の家が次になくなる運命なのかもしれない。常に、そういうことを考えて行動しないといけないと、俺はいってるんだ」エルフの青年に対し、初めは物静かでクールな印象を受けていたのだが、このように熱くなることもあるのだということを、マイセルは肌で感じていた。
 ヨンネルの苦言はあまり周りの人間の心証を悪くしてはいけないとの意思も働いたのか、そこまでで終わり、あとは和やかな雰囲気で食事が進んでいった。夜は更け、あかりはキャンドルだけとなったのだが、それがなんとも情緒を醸していて、美しい情景を映し出していた。
 夕食が終わり、ヨンネルの発案で、温泉に行こうということになった。
 ロギヌスが最後にエルフの里を訪れてから二十年が経過していたわけだが、それから現在までにかわったことといえば、次期長老候補が選出されたことと、この温泉が整備されたということくらいだった。エルフは人に較べて全体的に寿命が長いため、どうしても変化は人間の世界よりもゆっくりになる。だからこそ、昔ながらの生活を遵守することができたともいえるのだが……。
 ヨンネルは温泉に入れることに満足げな様子だった。
 マイセルは温泉がどういうものなのかまだはっきりわかっていなかったから、異国で体験する初めての温泉というものにいくばくかの緊張を感じていた。
 ヨンネルは神樹のある場所と同じ方角に温泉があるのだと説明した。マイセルは神樹の場所自体がわからなかったから、このヨンネルの言葉は、ロギヌスひとりに当てたものであるらしかった。
 ロギヌスはしばらく考え込む様子だった。
 やがて、「それは神樹の根方から湧出したのではないか?」とヨンネルに訊ねる。しかしロギヌスは「いや」といって、すぐにその考えを取り消した。「樹の根方から湧出する温泉なら、その温度によって根が腐ってしまうはずだ。そんなことはあるまい。いまも神樹は健在なのだろう? で、神樹と温泉との距離はどのくらいなのだ?」
「もちろん、神樹はいまも健在ですよ。距離は、そうだなぁ……半マイルといったところでしょうか?」とヨンネル。
「半マイル……」ロギヌスは思案する表情だ。
 マイセルはロギヌスが何を考えているのか、まるっきり理解できないでいた。
 そうこうしているうちに、温泉のあるという湯治場についた。
 無料で解放されているという湯治場につき、男と女のそれぞれにわかれている脱衣所にむかった五人はリナイエとだけわかれて、あとの四人は同じところで衣類を脱いでいく。あらかじめヨンネルが持たせてくれた薔薇の香りのする石鹸をもって温泉から湧き出ている湯でそれを溶き、身体に塗りたくる。そしてその上から擦り布で古い皮膚を剥ぐように強くこすって新しい皮膚をあらわにする。最後に湯をかけて泡を取り除く。さっぱりしたあとで、マイセルは湯につかろうと、湯船へ向かった。


34 :蒼幻 :2008/04/29(火) 16:02:46 ID:nmz3zmrc



「いい湯だな……マイセル」と傍らでセシルが告げる。
「うん、温泉って初めてだけど、なかなかいいもんだね」とマイセル。
「ふむ……俺はイスハークで温泉町にいったことがあるから知ってるけど、温泉ってどこもこんな感じだぜ。でもここまで疲労を恢復させてくれる湯は初めてだだな。それまでに、慣れない旅を続けてたってことがあるかもしれないけど、きっと、そんなもろもろのことが重なって、この湯を貴重なものと感じさせているんだろう」
「いや……一概にそうともいいきれんぞ」いきなりロギヌスが二人の会話に加わってきた。
「ロギヌス……それはいったい、どういう意味?」とマイセルは訊ねる。
「ずっと考えておったんだが、このエルフの温泉……どうやら神々の恩寵を享けておるようだ」
「神々の恩寵?」マイセルは疑問を口にする。
「うむ……どうやら神樹に近いというのが原因しておるようだ。この湯にはさまざまな滋養分が溶け込んでおるんだろう。それ自体は他の温泉にも共通していることだが、違うのは、それに、どうやらエルフの神樹であるマナの樹の宿しているのと同質の恩寵があるということなのだ」
「よくわからないな……」マイセルはつぶやく。
「わからんか?」ロギヌスはマイセルとセシルの顔を交互に見回す。
「よく見てみい。この温泉の色、僅かに青味がかってはおらんか?」
 そういわれて二人の司書は改めて湯を観る。
 ――確かに青い……。マイセルはどきりとした。これは、この青さは、確かに自然のものというには不自然すぎる。これはあのエルフの飲み物、エーテルと同じ青さだ。
 ロギヌスは二人の様子を眺め、自分のいいたかったことに気づいてくれたと安心してから、続けていった。
「どうやら周りのエルフはみな、この温泉の効用をよく知って通っておるようだな。ヨンネルもこの温泉を貴重に思っているのだろう。わしらは歓迎されておるようだ。こうやって一族の秘密とでもいうべき場所に案内してくれたのだからな」
「なるほどね……」セシルが納得する。
 しばらくするとヨンネルも湯に入ってきた。
 服を着ているときには気づかなかったが、ヨンネルの肉体はしっかりと鍛えられたもので、身体のラインはそれほどがっしりしていなかったのだが、一目で運動に適した体つきとわかるものだった。マイセルは自分が恥ずかしくなった。セシルも同じ司書だけど、体つきは頑丈で、どうみても運動に適している。
 ――それに較べて自分は……。マイセルは身体を鍛えていなかったことに気後れを感じていた。しかし、それは仕方のないことだと過去を振り返っていた。
 自分は幼い頃、神父に拾われて、ずっと学問を友にして生活をしてきた。そして、いまの義理の父母に貰われてからも学校に通うようにこそなったが、そこでも皆と遊ぶことはせず、ずっと書物を愛読してきた。だからというわけではないが、自分の今の仕事は天職だと思っている。身体を使う仕事は自分には向かない。剣も満足に振るえないだろう。しかししっかりとした読書によって培った胆力がある。深く精神を沈潜させてイメージを膨らませる練習だけはしてある。それがきっと頌を詠うときに役立つだろうとの予感だけはしているのだった。


35 :蒼幻 :2008/05/03(土) 17:22:03 ID:nmz3zmrc

第三章 小人の洞窟――美しき鉱石と頌の神秘

    


36 :蒼幻 :2008/05/03(土) 17:22:51 ID:nmz3zmrc

1 エルフの里を離れて



 一夜明けて案内されたマナの神樹の威風に、マイセルは圧倒された。これまでに見たことのないような大きな胴回り、それは大の大人五人分にも匹敵するような太さだった。その太さがゆうに五十フィートほどの高さで聳えているのだ。遥かなる樹冠は辺りから漾う霧でちらちらとしか見えない。遥かなる高みからは、小鳥の鳴き声がさかんにしている。
 マイセルは幹につけられたさまざまな傷跡を見て、痛々しいと感じた。確かにこの樹は神から与えられた恩寵かもしれない。しかし、それをこんな風に無残に切り刻む事をエルフはどう感じているのだろう? マイセルは疑問が頭の中でいっぱいになって、それをヨンネルに聞かずにはいられなかった。
 ヨンネルの答えはこうだった。
 神樹、神樹といっても、なんの役にも立たない樹なら、それは崇め奉られるだけの存在で、そんなものは人間の世界でもごまんとある張りぼての虎でしかない。考えてみて欲しい。エルフに益するものを与えてくれるのだから、つまり皆に平等に利益をもたらしてくれるものだからこそ、エルフがこうやって、その恩寵を常に感じられ、長い歳月、ずっとこの樹を護ってきたのだ。人の世界ではどうか知らないが、これはひとつのギブアンドテイクなのだと、ヨンネルは語った。
 しかし、マイセルにはわからないことが残った。神樹とエルフの関係はギブアンドテイクというけれど、何がギブなのか……。そのことが疑問に残る限り、マイセルは釈然としないものを心に抱えるのだった。
「それにしても立派なものだ。美しく、荘厳で、神威さえ感じられる」切り刻まれた刀の傷をおいて、ロギヌスは感心するように、神樹マナを見上げた。「これが大地の精である力を吸い上げて、それをエルフがエキスとして幹から得ている。ひとつの共生関係だな」ロギヌスは顔をほころばせる。
「でも、共生関係ってお互いにお互いを必要とすることでしょう? この神樹はどうすることでエルフから恩恵を蒙っているの?」マイセルは疑問を口にした。
「ふむ……それを理解するのは難しいかも知れんな」歴史家は眉をひそめた。
 ロギヌスの言葉を引き取って、ヨンネルが答えた。
「この神樹の貯めこむ大地の精はこの神樹にとって薬でもあり、また毒でもあるんだ。神樹を放っておくと、いつのまにかその強大な気の力によって樹が悲鳴を上げはじめる。これはエルフの中でも、長老クラスの人間にしかわからないことなのだが、確かに過去の歴代の長老は、この樹が悲鳴を上げていた事を察知なされている。エーテルの採取は古代から連綿と続くエルフの伝統といってもいいほどの行事なのだが、ときどき、そうやって体内にたまった悪血を出すように、エキスをだしてやらないと、神樹のこの太い幹が持たなくなるんだ。そのメカニズムはよくわからないのだが、少なくとも、このエーテルのエキスを取り出す作業は神樹の延命に必要なことなのだ……」
「そうなんですか」とマイセルは納得する。
 それからなおもマイセルたちは満足行くまで神樹を眺め、この旅に出たからこそ、こういう偉大なる風物にも出会えるのだということを実感し、今回の旅の有益な事を悟った。
「さて、そろそろ戻ろうか」とヨンネルがいう。「リナも待っているだろう」
 セシルがまた身体をぴくりとさせる。「そのリナって名前……どうも落ち着かないな……」
「どうしたんだ?」とヨンネル。
「だから、俺の妹もリナっていうんだよ。なんだか妹が近くに居るようで、恥ずかしい気持ちになるから、そのリナっていうのはよしてくれないか?」
「リナはリナだ。子供の頃からそう呼んでいるのだから、いまさら変えるわけにもいかんよ」ヨンネルはその端整な顔を少し曇らせる。
「んー、なんだかなぁ」セシルは肩をすくめた。
 家につくと午を知らせる合図の鐘が鳴った。
 あの鐘はミスリルで出来ているんだ、とヨンネルは説明した。
 マイセルはミスリルという言葉に神秘的なものを感じていたが、それがどうしてなのかまではわかっていなかった。
「ほう……時を告げ知らせる鐘が、蛇蝎のごとく嫌う種族から贈られた物品とはな」歴史家ロギヌスは口の先でつぶやくように言葉を押し出した。
 マイセルは旅に出る前にロギヌスに説明させられた事項を思い出した。エルフとドワーフとは犬猿の仲。その事実は御伽噺として、どの書物にも記されている常識中の常識といえる事項だった。
「長年の確執は、現在の長老の代になって、多少、緩和されたんだよ」とヨンネルは誇らしげにいった。「俺はドワーフ族を歓迎するね。自分たちにはない、純朴な気風を持った強き人だよ。そして小さい人でもあるが、それがまた小粒でもぴりりと辛いとでもいうように、信念にアクセントがあって面白い。エルフとドワーフの交流は数年前に始まったばかりだが、お互いの国に数人ずつ使者を派遣しあって、互いの文化を学びあっているんだ。あの鐘は、そのときにドワーフ族から贈られたものでね。どうも、前身は、戦いのときに突撃や撤退を告げる合図をするための鐘だったらしい。由緒正しいものだとドワーフのところに行っていた使者が告げていたから、間違いはないと思う。戦争のために作られたものが、いまは平和のために役立っているという寸法さ。なんともエルフらしい使い方じゃないか」ヨンネルはそこまで、一気にまくしたててしゃべった。
 ヨンネルの言葉に耳を傾けて歩いているうちに、リナイエの待つ樹の上の一軒屋に辿り着いた。
 縄梯子を上り、玄関を入って居間に向かうと、もうそこには昨日の昼とは感じの違う料理がいくつも並べられていた。
 リナイエは最後の仕上げをしているらしく、「もう少し待ってね」と告げると、台所から鼻歌が聞こえてきた。
 ――リナイエはエルフの詠い手。マイセルはそう感じた。
 リナイエの歌は春の木漏れ日のような暖かさが感じられる。人の心を温めるような、そんな華やかなイメージ。
 マイセルは今の段階で、おぼろげに、このようなことを考えていた。詠い手にはさまざまな種類があって、その人その人にあった歌の効果の出現が期待できる。自分はどんな歌を詠うことができるんだろう? そしてその歌を聴いた人にはどんな効果が生ずるのだろうか?


37 :蒼幻 :2008/05/03(土) 17:23:20 ID:nmz3zmrc



 いつまでたっても空想の種は尽きない。マイセルはリナイエが鼻歌をやめて、キッチンから戻ってくるまで、その空想を突き詰めていった。
 そしてリナイエも席につき、食事が始った。
 食事は滞りなく進む。
 白野菜のキッシュのようなものがあって、ポタージュのような白濁してとろみのあるスープがあって、昨日の鹿肉の残りをローストしたものがあって、昨日とはまた違った形の豪華な食事だった。
 マイセルはキッシュがとくに気に入った。それでキッシュばかり食べていると喉が渇いたので、エーテル水を三杯もおかわりしてしまった。
「マイセル」リナイエががっつくマイセルに声をかける。
「うん、なに?」
「なにじゃないわよ。食後にあの魔導書を見せて頂戴。勉強の時間よ」
 そのやり取りを聞いていたセシルは口元を歪めて笑った。
「マイセル、頑張れ! 勉強は得意だろう? 入館試験でも首席だったんだからさ」セシルはいらないことをいう。
「記憶力抜群のセシルにいわれたって、何も嬉しくないよ。恥ずかしいだけさ」とマイセルは苦笑する。
「ま、それは置いといて、精々勉強するんだ、マイセル。お前には期待しておるよ」ロギヌスもはっぱをかける。
 食事がすむと、片付けをさっと済ませたリナイエが居間の方にやってきて、木のテーブルの上に魔導書を出すように促した。そのテーブルは足の部分に精緻な彫刻がほどこされてあって、どうやらそれは植物――小粒の丸いものがところどころ密集しているのは、どうやら葡萄らしい――の葉とつると果を象ったものだった。エルフ的意匠である曲線と直線を見事に組み合わせたデザイン重視の家具だったが、こんな小物ひとつでも手を抜かない職人の心意気が感じられて、マイセルはノーム族の村で感じたのと同じような、異文化に対する尊敬の念というものを感じていた。
「それじゃ、最初から行こう」そういい始めたリナイエは、魔導書を開いて、一ページ目から読み始めた。
 マイセルにとっては意味の取りづらい、それどころか、何が書かれているのか、まったくわからない、ただの文字の羅列としか観ることの出来ない文章。リナイエはそんなマイセルを気遣う様子もなく、ただ高地イルメル語の発音で、さっと読み流した。
「えっ?」マイセルは気の抜けた声をあげる。
「うん? どうしたの?」とリナイエは怪訝そうな口ぶりだ。
 マイセルは焦ってしまった。どうやら、リナイエはマイセルが高地イルメル語の素養を少しは持っていると思っているらしい。だからさっと読み流していくだけで、事は済むと思っているらしいのだ。マイセルが唖然としている間に、一ページ目の文はすべて口にし終わり、リナイエは次のページをめくろうとしているところだった。
 そのとき、リナイエはマイセルの様子に気づいた。
「どうしたの?」とまたリナイエが訊ねてくる。
 マイセルは格好悪くて、本当のことをいえなかった。
 リナイエは気づかず、次のページに進む。
 そんな調子で五ページほどが済んだのだったが、相変らず、マイセルはひとつもわからなかった。読み方も、意味も、それが歌になるのかどうかすらわからなかった。
 リナイエもマイセルの緊張を感じとっているのか、次第に不審のまなざしをマイセルにむけるようになってきた。
「あの、リナイエ!」マイセルの声は大きくうわずった。
「なに?」リナイエは急に大声を出したマイセルにびくりとしながらも、愛嬌のある返事をした。
「実は僕、高地イルメル語を習ったことないんだ。だからここまでの文章の意味がさっぱりで――」マイセルは呆れられるのを覚悟で、そう告白した。
「えっ!?」案の定、リナイエは頓狂な声をあげて、マイセルをびくりとさせた。
 後ろの方で、セシルが溜息をつくのがわかった。
 ロギヌスもマイセルを擁護してくれた。「たまたま一節が理解できたという程度でな。実は、マイセルには高地イルメル語の素養がまったくなかったというわけだ。でも、素質はあると思う。習ってもいない言語をほんの少しでも理解したんだからの」
「そんな都合の良い理解の仕方ってあるかしら? やっぱりどこかで習っていないと、高地イルメル語なんて高度な言葉、これっぽっちもわかるわけがないわ」リナイエはむきになって反論した。
「それについていろいろ考えてたんだけど――」とマイセルが告げる。
「うん?」ロギヌスがマイセルの言葉を受けて返事する。
「――実は……その……高地イルメル語の文字を見ていると、なんだか懐かしい気分になるんだよ。どうしてなのかはわからない。書き方も読み方もわからないのに、わかったあの一節の部分は、僕になにか温かい物を与えてくれるような印象を持つ。まるで子供の頃に知らない父と母が僕に教えてくれたかのような……」
「んー、でも、本当の父さんも母さんも知らないんだろう?」その辺りの事情を良く知っているセシルが訊ねる。
「うん、そうなんだ、だからわからないんだよ」マイセルは目をぎゅっとつむった。
「なんだか深い事情があるみたいだけど、いまやるべきはこの魔導書の内容の習得よ。事情はなんとなくわかったから、今度は一節ずつ読みながら訳していくね」そういうと、リナイエは一ページ目に戻って、公用語に訳しながらマイセルに分かりやすく説明していった。しかし、その部分はこれからの本の内容に付いてのいろいろな心構えを説明している文章で、真実の頌の根幹をなす内容とは異なっていた。
 最初の頌が説明されていたのはページも大分進んだ二十五ページ目だった。

 悲しき世につれ現出する不安と冥道、狭き心を押し開き、いまここに美しき門を擁立せしめん。

 マイセルはその頌の高地イルメル語による発音とその意味、そしてその頌を説明した文章の公用語訳を頭に入れた。頌には不思議な響きがあって、それが詩として美しく確立している事を悟り、それを邪魔しないように、なんども頭の中で反芻してみた。


38 :蒼幻 :2008/05/17(土) 22:56:12 ID:nmz3zmrc



 リナイエの説明によると、これは自分の結界を張るときの頌であるらしい。
 対人間には効果はないが、奸邪の類の魔障のものには効き目があるらしい。結界はどうやら周囲数フィートに過ぎないらしいが、それがどうやら物事の基本になっているらしく、ただ漠然とした邪念を払うことにも有効であるらしかった。
「これが初めての頌ね……。それまでの説明の文章のところはどうでもいいから、この頌だけはしっかりと憶えるようにしてね。それが大切なんだから」リナイエはそういうと、屈託のない笑みをマイセルに向けた。
 マイセルはリナイエの言葉を受けて、念を入れて何度も頭の中で、その頌を反芻する。
「じゃ、次、行きましょう」そういうと、リナイエは次のページをめくった。



 その日は一日、マイセルの頌の習得に費やされた。
 そのために、ロギヌスとセシルはヨンネルと共にエルフの里を案内して貰うことになった。家にはマイセルとリナイエだけを残し、三人は樹の上の家を後にする。
 三人が戻ってきたのは夕暮れだった。
 そのときには、マイセルは二百五十ページほどある『真実の頌』の内容をリナイエに説明してもらい、さまざまな頌を習得し終えたあとだった。
 リナイエはマイセルの勉強を邪魔しないように――マイセルはリナイエにすべての頌を教えてもらった後、理解を深めるために、独自に本を読み返していた――台所で食事の準備を始めていた。
 ロギヌスたち三人が帰ってきたのは、ちょうど、その頃だった。
 てっきりまだまだ『真実の頌』に取り掛かっているのだろうと思っていたロギヌスたちは、リナイエが夕食の準備をしているのを知り、怪訝そうに、マイセルに訊ねた。
「いったい、頌の方はどうなったんだ?」と歴史家。
「もうすべて終わって、自分で復習しているところなんです」マイセルはつぶやくようにいう。
「そうか……で、何か為になりそうな頌は見つけたか?」
「それなんですけど……頌って普段、詠っちゃいけない種別の頌じゃないですか? その頌をここで皆に聴いてもらう訳にはいかない。でも、いつか使ってみないことにはその力の程を実感する事はできない。これはジレンマですよ。どうするわけにもいかないけど、使ってみなくちゃ、その能力はわからない。いったいどうすればいいんです? 詠ってみないことには、自分の能力を知ることも出来ないし、もしかしたら、僕は〈真実を詠う者〉ではなく、ただの一般人なのかもしれないわけだし」マイセルは自信なさげにロギヌスに訴えかける。
「ふっ、そのような悩み、杞憂じゃよ。頌を理解する事が出来たのだ。自信を持て、マイセルよ。それよりわしは、難解な高地イルメル語を、この短期間にすんなり覚えこんだ、お前の能力を買うぞ。そして、その能力はどこから来るものなのか、ということに思いを馳せずにはおれん。もしかしたら、そなたの父か母、もしくはその両方が、魔導士だったのかもしれんの。魔導士なら、この高地イルメル語を習得する土台が、すでにそなたの身の上にあったのかもしれんということがわかる。いまの段階ではなんともいえんが、確かに、そなたの身体には高地イルメル語の習得を容易にする特殊な血が流れておるのだろう」
 マイセルはこそばゆかった。両親の事が思わず話題に上ったが、これまで、両親の職業についてなんら確かな事はわからなかったが、このロギヌスの言葉に対して知らぬ父母の姿がおぼろげではありながら、垣間見られたような気がしたのだった。
 マイセルは一通り、頌の書かれていることだけを熟読し、他の説明文に付いては八割方理解できているという状態で満足することにした。
「さあ、料理が出来たわ」リナイエはそういいながら、台所から料理の大皿を持ってきた。
 マイセルは魔導書を袋にしまうと、テーブルの上を片付け、料理の皿を置けるような状態にした。
 リナイエの料理はどれも手の凝ったものだった。
 兎のクリームシチュー煮がメインで、その他に、インゲンのようなマメ科の植物の茹でたものが出され、それを見たこともないような桜色のソースをつけて食べるらしい。それから粉物で、ホットプレートのようなもので薄く延ばして焼いたクレープのような生地の食べ物があった。他の皿に盛られた、細かく切った食材をそれにくるんで食べるらしい。マイセルはその独特の料理を面白そうに、興味深げに眺めた。
「頂きましょう」最後にエーテル水のキャラフェを手にして、戻ってきたリナイエがいつものように食前の挨拶をする。皆がそれに唱和した。
「んー、リナイエって本当になんでも作れるんだな」とセシルには珍しくリナイエに話しかけた。
 セシルはリナイエという名前――特に、ヨンネルが略して言うリナという言葉――に特別の感情を催させることを少なからず意識しているようだった。まるで妹がそばにいるようだという彼の言葉どおり、リナイエはセシルの二歳ぐらい年下に見えていたが、実際の年齢はもう四十を超えていたわけで、その辺りは、人間とエルフの成長の度合いの違いというものが、大きく影響していた。
「妾なんかまだまだよ」リナイエは謙遜する。「近くのマゴット婆さんだったら、数世紀前になくなってしまった幻の料理の復活とかも可能だし、里外れのフィンクさんくらいになると、レストランを開いて、やってくる客にさまざまな料理を提供しているって言う噂だし、頼めば、オリジナル料理も作ってくれるそうよ。一度行ってみたいと思ってるんだけどね」リナイエは愛嬌のあるまなざしでセシルを眺め、そしてにっこり微笑んだ。
 セシルはそれきり口をつぐみ、料理を食べることに熱中し始めた。
「ねえ、マイセル」セシルがそれきり黙ってしまったのを面白く思わなかったのか、リナイエは、今度はマイセルに訊ねかけた。「貴方、高地イルメル語は初めてっていってたわよね」
「うん」マイセルは話の筋が読めなかった。
「高地イルメル語って条理の整った立派な言語体系だと思うの。それは高等数学の問題のように美しいとさえ呼べる知識の結晶よ。その言語をたった一日でこんなに覚えてしまうなんて、本当に、貴方はなんて人なの?」
 マイセルはリナイエの話をこそばゆく感じながらも、本当に、どうして自分がこんなに高地イルメル語の頌を覚えられたのだろう、と不思議に思うのだった。


39 :蒼幻 :2008/05/17(土) 22:56:40 ID:nmz3zmrc



 リナイエはそれだけ言うと、話頭を転換して今度はロギヌスに訊ねかけた。「それでこれからどうするの?」
「うん、これから?」歴史家は眉をぴくりと動かす。
「長老が言われてたじゃない。旅には妾を連れて行くようにって……。で、妾をどこに連れて行ってくれるの?」
「んー、まずは小さい人に会いにいくことになるだろう」ロギヌスは苦笑しながらいった。その苦笑には、あらかじめリナイエの反応がわかっているというような余裕めいた笑みを含んでいるのだった。
「えっ、ドワーフの里にいくの? ドワーフかぁ。噂だけで、まだ見たことないんだよね」リナイエは嬉しそうな表情をして、そういった。
「ドワーフに逢うのが嫌じゃないのか?」歴史家は驚いたように訊ねかける。
「え!? まさか? 私は親ドワーフ派よ。親ドワーフ派は革新的って思われてるけど、これまでの伝統が二つの種族を遠ざけていただけで、妾たち新たな世代が思っているのは、他種族との協調よ。それこそ重要じゃないの。妾はドワーフに親しみを抱いているほどなの」
「ほう……」歴史家は眉をぴくりと動かす。
「だから、ドワーフの里に行くのは嫌じゃないわよ。で、そこにいって、いったい何をするの?」
「ドワーフの詠い手の助言を受ける」ロギヌスは毅然とした態度で発言した。
「詠い手――ドワーフにもいるの? 妾と同じような詠い手が?」
「いや、女性ではない。ドワーフの詠い手はみな、男であるらしい。わしも詳しくは知らんが、その男性ドワーフの詠い手による歌の技術は職人気質で、見所のある若者にしか、門戸を開放しておらん。だから、そこにマイセルを連れて行って、みっちり指導してもらう予定だよ」
「えっ? また勉強?」マイセルは二人の会話に後から混じる。
「ええ、勉強よ。お相手は妾のような可愛いエルフでなくて、むくつけき男よ」リナイエは口に手を当てて、ホホホと笑った。「妾も教えてもらおうかしら? エルフの歌だけでは最近、行き詰まりを感じているのよね。それより、もっと大空から見おろすような、そんな大きな視野の中で自分を見据えて、成長していきたいものだわ」リナイエはもっともなことを一同に告げた。
「ドワーフが魔法に無縁じゃないのはよくわかったけど、ドワーフの魔力ってそれほど大したものなの?」マイセルが怪訝そうにロギヌスとリナイエの顔を交互に見やりながら訊ねかけた。
「ドワーフは何も土くれだけを弄って炭鉱に潜っているわけではないんだぞ。ドワーフはそのエルフに似た恩寵をミスリルという鉱石に還元してもらっており、ドワーフの恩寵といえばミスリルと相場はきまっておるのだが、ただ闇雲に稀少金属を探しておるわけではない。それには詠い手の探査能力をフルに活用し、目的の金属を瞬時に見分ける術を心得ておる。それを可能にしておるのが、詠い手と呼ばれる、一種の魔導士というわけさ」
「詠い手って魔導士なの?」とマイセル。
「んー、そう一概に言い切るには語弊があるだろうが、まぁ、詠い手=魔導士と思っておいても、間違いではなかろう。そこのリナイエだって一種の魔導士なんだしの」
「えっ?」セシルとマイセルはほぼ同時に声をあげた。
「知らなかったの? 妾は魔導士よ」リナイエは事もなげにいってのける。
「ううぅ〜」マイセルは咽喉の奥でうなった。
「どうしたの? これまで知らなかったのが悔しいの?」リナイエは穏やかな口調に戻っていう。
「そういうわけじゃないんだけど、これまでイスハークで――あ、故郷の国のことさ、人間の国のね――魔導士という人物にあった事がなかったから、ちょっと驚いただけさ」
 リナイエはそういうマイセルの後ろを視線の奥で射止めながら、今度は歴史家の方に向いて、そして目配せしてから次の言葉を続けた。
「なに言ってるの? このロギヌスだって魔導士じゃない」それは衝撃的告白だった。
 ――ロギヌスが魔導士? まさか……。
 ロギヌスは顔をくしゃくしゃにして微笑んだ。「まぁ、そうなるかの」とリナイエの言葉を助長するような反応だ。
 理解するのが難しい状況だった。詠い手が魔導士である事は理解できるとして、これまで謎に包まれていた歴史家の正体も魔導士だったとは……。マイセルは落ち着いて考えられなかった。
 ロギヌスはこれまでの道中、何も魔導士らしい素振りは見せなかった。いわば、この年で学究のような雰囲気を醸しており、学問に熱心な風にしか見えなかったのだ。そのロギヌスが魔導士――?
 マイセルの戸惑いを落ち着けるように、歴史家兼魔導士はなだめはじめた。
「わしは隠そうと思っておったわけではない。ただ、そなたらの口がすべることを恐れての、ここまで本当の事を告げられなかったのだよ」
「それはわからないでもないよ」とマイセル。
「でも、意外ではないかな……。ほんというとロギヌスって只者じゃない雰囲気が出ていたから、きっとこの人にはなにかあると思っていたし。それが早々に判明してよかったんじゃないか? もちろん、口外はしないよ、安心して」セシルも協力的な雰囲気を醸している。
「ま、歴史家兼魔導士の本領発揮は旅の道中にてということにして、今日は休もうか?」ロギヌスがリナイエにかわって、一同の指揮をとる。
「そうね、もう遅いわ、眠りましょう」
 リナイエは客室に布団を一つ用意して、備えつけのベッド二つを合わせて三人の眠るところとし、自分とヨンネルはここで眠るといってリビングを指し示した。いつもなら、客室のベッドで兄と眠っているリナイエだったが、今日はセシルとマイセルにベッドを譲ろうといった。
 その申し出にセシルとマイセルは「ありがとう」をいい、それから、マイセルはロギヌスたちと客室にはいった。
「なかなか良い人たちだね」とマイセルはいった。
「そうだね、ああいう人は裏表がないから付き合いやすいし、エルフってどこか神格めいたところがあるから、いわれた事には逆らえないしな……」とセシル。


40 :蒼幻 :2008/05/17(土) 22:57:12 ID:nmz3zmrc



 マイセルは最前のロギヌスの衝撃告白を忘れられずにいた。
 ロギヌスが魔導士……。確かに人間の世界では魔導士という職業は非常に珍しい。しかも、人間の世界――とくに、イスハーク――では魔導士は、魔導研究所に勤めている人間の専売特許で、それ以外は、似而非魔導士でしかないという大勢の見方があった。しかし、この歴史家の存在ははみ出している。要するに、異質ということだ。異質の能力を持った、異能者とでも呼ぶべき魔導士。いったいロギヌスはどんな魔法を使うのだろう? もしかしたら、もう自分たちにわからないうちに使っていて、いまはその影響下にあるのだろうか?
 そんなことを考えていると、マイセルは眠気がやって来るのを感じていた。
 ――心地良い眠り、もう疲れるようなことを考えるのは罷めよう。
 マイセルはそう思いきって、ぎゅっと目を瞑った。
 そのまま夢の世界へといざなわれていき、マイセルは恍惚の思いで、その世界で羽をのばした。



 イスハークの家とかわらない、小鳥の鳴き声で目をさます。ピィピィとさかんに鳴き交わすその声は、喜びの歌だろうか、讃仰の歌だろうか、それとも恋の相手に囁く甘い調べなのだろうか? 切窓からは光が漏れている。カーテンは薄手のものだけで、室内は暗かったから、その光が白くまぶしく輝いて見える。部屋に調度品は少なかった。ベッド二つと衣類をいれておくチェストが、多分、リナイエのものとヨンネルのものの二つ。それだけだった。
 目覚めたマイセルがしばらくベッドの上で上半身だけ起こしてぼんやりしていると、セシルがもぞもぞと身体を動かした。起きるかな、とマイセルは思ったが、セシルは寝返りを打っただけで、また眠りの世界へと入り込んだようだ。
 ――朝は明けたばかりだし、二人はまだ起きないかな……。マイセルはそう思うと、先にベッドから抜け出し、リビングに向かった。
 マイセルがリビングにつくと、そこにあるはずの布団はすでにしまわれ、ヨンネルが本を読んでいた。
「リナイエは?」と訊くと、ヨンネルは没頭していた本から少し視線を上げて、玄関のほうを指差した。
 マイセルがきょとんとしていると、ヨンネルはさらに説明してくれた。
「いつもの、起きぬけの散歩に出ているよ。あれでもリナは健康を気遣っていてね。毎日起きてすぐに里を一周ぐるりとめぐる周遊コースを散歩する事を日課にしているんだよ」
「そうなんですか」とマイセル。
「いま出かけたところだから、急げば間に合うかもしれん。もし里に興味があるなら、追いかけてみると良い」ヨンネルはそういいながら、含み笑いをした。
 マイセルはあれっという気持ちになった。ヨンネルの笑いが、何か面白い事を知っているがそれを隠そうとしているような、そんな本当の意味での含み笑いに見えたからだ。
 ――どうしてだろう、マイセルは疑問に思ったが、すぐにそんな考えを心の隅に押しやって、リナイエのことを考えた。途端に、一緒に散歩をする事が、リナイエのことをもっと深く知るチャンスになるかもしれない、と考え、マイセルはヨンネルのいいつけどおり、リナイエを追いかけることにした。
 ヨンネルは家を出ようとしているマイセルに対し、手短に周遊コースの概略を説明した。この家のある場所は里全体から見ると北西端に近く、家を出て西に向かう道を真直ぐ行くと、周遊コースに当たるらしい。その三叉路に出たら、南の方に進路をとってそのまま道なりに急げば、リナイエに当たるだろうとのことだった。いつもリナイエが反時計回りに回っているということすら知っているヨンネルは、さすが兄だという気が、マイセルにはした。
「では、行ってきます」マイセルが元気良くいうと、
「じゃ、あとは仲良くな」といって、ヨンネルは気を許すような笑みを浮かべていった。
 マイセルはそのとき、ヨンネルの気持ちがなんとなくわかるような気がした。兄として、妹の交友関係を広げてやりたいとの思いがあるのだろう。そこには、詠い手としての一般的な決まりごとの中に、男女の関係を断たねばならぬということがあったのだが、それを知っていながらも、兄としては、妹に異性との交友の楽しみを知って欲しいとの思いがあったのだが、マイセルにはとてもそこまで推し量る事はできなかった。ただ、リナイエと仲良くしてやって欲しいとの、純朴たる兄の願いがあるのだろうかとの思いを強くしたのみだった。
 エルフの樹の家を下りると、マイセルは教えられたとおり、西に向かって歩きだした。道の名前を示した立て看板には『ブラフ通り』と書かれてあった。イスハークでもよく見かけるつけた人間だけが満足しているようなそんな名前だった。意味はわからないが、名前になるくらいだから、なんらかの特別な意味があるのだろうということだけは理解できた。
 道は綺麗に整備され、その真直ぐ伸びる道だけは、誰かが手入れしているのであろう、枯葉一つ落ちておらず、美しい景観を保っていた。そのまま進んで行くと三叉路が見えてきて、同じように散歩をしている人が北のほうからやってくるのが見受けられた。エルフという種族の特徴である長い耳と金髪。そんな美しい外見をしたエルフがたくさん歩いてくるのをみて、自分はなんてところに来てしまったんだろうと、改めて感じるマイセルだった。
 ほんの二ヶ月前なら、イスハークの雑踏を歩いても、いるのは自分と同じ、黒や茶や栗や赤といったさまざまな髪色をした人間だったが、少なくともその外見的特徴は自分とそれほど差異はなかった。それなのに、このエルフの里ときたら……。みな細身でスマートだし、どんなエルフだって神話めいた登場人物のような豪華な衣装をつけており、無言の威圧感を身にまとっている。マイセルは完全に自分が異物であるように感じられてならなかった。
 三叉路を左に曲がって南に向かって行くと、果たしてリナイエが前方に見え始めた。その歩む速度から察するに、どうやらリナイエは散歩を目的にしているというよりも、その周りに見える景色をゆっくりと眺めて愉しむことに気を注いでいるように思われた。マイセルは早足でリナイエの方に歩み寄った。
 リナイエは一本の樹の前で歩みを止めると、そのまま頭上に視線を据えつけ、幹と枝の間にあるうろを見て、小さく詠った。その声は清水を満々と湛えた泉を渡る風が起こす波紋のように、心の表層だけをかすめていくような細波だった。


41 :蒼幻 :2008/05/17(土) 22:57:44 ID:nmz3zmrc



 マイセルはその声に惹かれた。さすがエルフの詠い手だけある、と感心した。そして声をかけるタイミングを完全に逸してしまった。
「あら、マイセル、どうしたの?」不意に後ろを振り返ったリナイエは頓狂な声をあげる。
「あの――その――」マイセルは口ごもる。
「なに?」リナイエは怪訝そうな顔も見せず、真剣なまなざしをして訊ねてくる。
 マイセルはどぎまぎしてしまった。そうして戸惑っている間に、リナイエが次の言葉を発する。
「あ、一緒に散歩してくれるのね」リナイエは嬉そうに蕩けるような笑顔を見せた。「一人じゃいまいちつまらないのよね、散歩も……。こうやって人と並んで歩く事が新鮮な気持ちを運んでくれるのよ」
 マイセルはリナイエに必要とされていると知って、嬉しくなった。心の奥底で、こうやって押しかけるような真似をすることは、このエルフの娘にとって迷惑な事ではないかと思っていたので、予想外のリナイエの反応に、マイセルは喜びを感じていた。
 散歩はみっちり三十分かかった。
 その間に、はしばみ色の実をつけた大きな樹を紹介されたり、同じように散歩をしている他のエルフに面通しをさせられたりしたが、マイセルはそれがいちいち面白かった。
「ねえ、マイセル?」家も近くなったころ、リナイエが訊ねかけた。
「なに」マイセルは落ち着いた声で受け答えした。
「人間の世界って戦争があるんでしょ? どうして戦争なんてしたがるの?」
「んー、それは微妙な問題だね。僕たち一般人にとって戦争なんてカヤの外って感じだよ。でも、中には攻撃的な軍人がいて――僕の住んでいたイスハークは戦争なんてしなかったけど――その軍人が己れの欲望を満たすために他国を侵略する。考えてみれば、戦争っていうのは、ひどく不器用な人付き合いなのかもしれない。殺される相手にとっては災難以外の何物でもないけど、侵略する軍人にとって見れば、処世術のひとつに過ぎないんだからね」
「なんだか、その意見に同意できないわ」リナイエは口を尖らせる。
「確かに戦争は残酷なものだよ。でも、好んで戦争をする人間なんていないと思う。確かに、自分の利益のために、それを助長する人物はいるかもしれないけどね……」
「難しいわ。だって、エルフは戦争なんてしないもの」とリナイエ。
「えっ、まったくしないの? ある本で読んだけど、エルフはオークと戦争したって書かれてたよ」
「それは昔ばなしよ。それも作りもののね。オークなんて種族はこの大陸に存在しないわ。エルフの失敗作といわれてるけど、人間の世界で鬼とか幽霊とか言われている存在と大差ないの。それは昔の人が作り出した創作物でしかない。間違っちゃだめよ。エルフは戦争はしない。確かにドワーフとは犬猿の仲だったけど、いまでは協調関係にあるほどなんだし」
「なるほどね」マイセルは穏やかに微笑んだ。
「さあ、家についたわ、入りましょう」
 そういうと、リナイエは先にマイセルを縄梯子で上がらせてから、自分もついてきた。



 ヨンネルとリナイエのエルフの兄妹はゆっくりと必要な物をカバンにつめていった。
 何が必要で、何が必要でないかを見極め、旅の準備は必要最小限のものだけ入れることにして、しばらくはエーテル水が飲めないことを認識し、本当にこの場所をしばらく離れるのだという気持ちを新たにしたのだった。
 マイセルはその間も、袋から『真実の頌』を出して、そのページを繰っていた。もう殆ど完全に内容をマスターしたといっても過言でなかった。美しいフレーズだと思った。確かに高地イルメル語は難しいけど、口を動かしてその発音を唱えてみると、心地よい響きが感じられ、確かにこれは歌だという気持ちが新たになった。
 一時間ほどしてエルフの兄妹の準備が完了した。
「では行くとするかの」歴史家兼魔導士はそう告げると、近くの樹に手綱を結んでおいた馬のところへ行き、綱を解いてその背にまたがった。
「私達も馬を調達してこよう」とヨンネルとリナイエは一同に告げ、それから里の外れの方に行き、十分後、堂々たる体格の馬をつれて戻ってきた。
「その馬の名は?」歴史家が訊ねる。
「〈スペンサー〉と〈フラッシュ〉です」ヨンネルは丁寧に答える。
「ほう……なんだか、早く走りそうな名前だな」ロギヌスは顔をくしゃくしゃにして笑った。そして告げる。「では参ろう。目的地はドワーフの炭鉱だ」
 里を出て北の方へと向かう。また来た時のように鬱蒼とした樹々が生い茂っており、観るものすべてが自然そのものという状況にあった。しかし、今回はエルフの兄妹がいるということで、道に迷う心配もなかった。ヨンネルは数里先まで見通しているらしく、的確に一同の先に道を示した。
 マイセルは不思議な気分だった。まだ曲がり道にもなっていないのに、それが見える前から、ヨンネルは曲がり道が近くにある事を察知して、告げ知らせてくれる。
 ――いったいこのエルフはどんな視界を得ているのだろう? マイセルは疑問に思う。多分、見えている景色は人間もエルフもかわらないのだろう、しかし、その第六感的センスで物事を捉えているのだ。きっと人間の世界でならば、驚愕されることだろう。しかし、エルフという種族には、そのような超能力めいた力が備わっていると云うことをスムーズに信じさせるだけの神威が感じられる。
 その日は大きな樹の隣に火を焚いて一晩を過ごすことにした。エルフのアンダルシアの森は美しい景観を備えていたが、たかだか一日二日で踏破できるほど狭くはなかった。森を出るには一週間はかかるだろうとの推測がロギヌスをしてなされた。
 幸い、食料はエルフの魔法の常食があったから、嵩張らずに何週間分も持ち歩く事が出来た。ここからドワーフの炭鉱までは町や村といった物は皆無だろうから、すべて持ってきた食料で食事をまかなわなければならない。しかし、もし食べ物に困ったら、ヨンネルの弓がどうかしてくれるだろう。あの見事なエルフの索敵能力で獲物を見いだし、百発百中の弓で獲物を仕留める。この季節だから、野兎や鳥といった獣には事欠かないだろう。今日だって、森を通っている間、さかんに四つ足の生き物の鳴き声が深い森の奥から響いてきていたし、これから温かくなってくるから、屹度、獲物も増えてくるだろう。


42 :蒼幻 :2008/05/17(土) 22:58:12 ID:nmz3zmrc



 ヨンネルは肩から弓を下ろすと、その柄の部分に丹念に視線をすべらせ、不備がないかどうかを確認していた。そして弦を一度といわず引いてみて、力の入り具合が均等かどうかをチェックしていた。
「ねえ、ヨンネル……」マイセルが訊ねる。
「どうした?」とヨンネル。
「ヨンネルはエルフの里では狩人だったんだよね?」
 ヨンネルは「ああ、そうだ」と答えた。その様子は、マイセルの質問の意味が分らない、というような感じだった。
「子供の頃から、弓は使っていたの?」
「ああ、そうだな。父も狩人で弓を使っていたから、日常的に弓矢に触れる環境にいたんだよ。それでも物心がつくころから、ずっと弓をはたに置いてきたってわけさ」
「ふーん、それだけ長い間使っていたら、弓とはいえ、自分の手足のように動くようになるってわけか……」マイセルは感心した。
「そなたの世界では弓は使わないのか?」今度はヨンネルが逆に訊ねる。
「そうだね……使う人は使っているみたいだけど、僕やセシルのような図書館司書に弓は必要ないね」
「味気ないな」とヨンネルはぼぞりとつぶやく。
「あ、兄さんのいうことはあまり気にしないようにね」横合いからリナイエが口をはさんだ。
 確かにヨンネルの言葉は冷たいものがあったが、それは一定の距離を人から取りたいためのものであろう、とマイセルには感じられた。しかし、そんなことは些細なことだった。マイセルはそんなことで落ち込むような人間ではなかったから、ヨンネルというエルフのこの青年は、少し気位が高いところがあるのだろうという気ぐらいしか持たなかった。
 その日の夕食はエルフの常食の菓子――菓子といっても、実際には保存食であり、魔法の品でもあったから、クッキーのようなその一枚を食べるだけで、おなかは充分満腹になったのだった。
 それから眠る段になって、リナイエがごねだした。
「お風呂なしで寝るの? 信じられない」とリナイエは憮然といった。
 ロギヌスがないものはない、といって断じたが、軽く小一時間、そのことでリナイエは不満を口にしていた。
 やがて諦めたのか、リナイエは大人しく横になった。それも、ごわごわの毛布一枚で地面にじかに寝なくてはならない事を恨みに思うとつぶやきながら。
 その夜、マイセルは夢を見た。
 美しい川が流れている。この川は何て名前だろう。マイセルはそこがどこなのか意識しないまま、ただ目の前を流れている川の美しさに魅了されていた。
 川をずっと眺めていると、上流から何かが流れてくるのが見えた。
 ――本?
 マイセルはその本に見憶えがあった。金文字の題名に革表紙の装丁本。
 ――『真実の頌』だ! なぜあの本が自分の手元を離れて、あんなところを流れている?
 マイセルはかつての自分の所有物が自分を離れて、遠いところにいってしまう様を見せられ、悲しい気分になりかけていた。
 ――あれを逃がしてはならない、本能がそう告げていた。
 マイセルは岸を下流に向かって本を追いかけていく。
 しかし、本はマイセルから逃れるかのごとく速度を速める。
 そのとき、一人の若者が対岸からやってきて、その対岸の方に近かった本を川から引き上げた。
 マイセルは「それは僕のだ」と叫びたかったが、どうしても声が出せない。
 その青年は、本を開いて数行読んでいたようだったが、やがてその本の佳致を見極めたのか、口元に不敵な笑みを浮かべて、頌を誦した。
 突然、辺りには黒い靄が立罩め、その中に一筋の雷光が迸った。何かの爆発するような雷鳴が転瞬、辺りを満たした。それはとてつもないエネルギーの塊であった。マイセルは自分の見たものが本当だとは信じられなかった。
 ――頌にこんな力があるなんて、マイセルはいま目にしたものが本当の頌の力である事を知り、敬虔な気持ちに包まれていた。
 本はその青年が持っていってしまった。残されたマイセルは果てしない絶望感に取り残された。あの魔導書がなければ、自分はただの人でしかない。それを知っているからこそ、本は取り戻さないといけない。マイセルはそう思いながら、川へざんぶと飛び込んだ。
 そこで夢はとぎれた。
 マイセルが目をさますと、すでに暁の時刻は過ぎており、リナイエが朝食の準備をしていた。聞けば、夜明け前、まだマイセルたちが夢心地だったころ、ヨンネルが起きだして、キジのつがいを仕留めたらしい。それをあっさりとしたスープで煮込んだからといってリナイエは嬉そうに答えた。
 自分が眠っている間に、ヨンネルとリナイエのエルフの兄妹は一仕事終えたわけだ、とマイセルは穏やかな気持ちで、この働き者の兄妹をまぶしい物を観るかのようなまなざしで眺めた。
 朝食を食べる頃になって、ようやくセシルも起きだした。
 姿を見なかったロギヌスは、ちょっとこれを取りに行っていたといって、鳥の卵を人数分、調達してきた。
 マイセルは不思議に思った。
 ロギヌスはもう老年に近い人間だ。それなのに、どうやって高い樹の上の巣の卵を手に入れたんだろう?
 マイセルはロギヌスというこの歴史家の秘密が、そのようなところにも潜んでいるような心地がした。
「うまいな、これ。キジかぁ……」セシルは料理を食べながらそういった。
「本当は冬に食べると滋養があっていいんだがな……」ヨンネルはにんまりと微笑みながらそういった。
「冬かぁ……いまが冬なら、こんなにのんびりしてられないな。あ、そうだ、ここって雪は降るのかい?」とセシル。


43 :蒼幻 :2008/05/17(土) 22:58:46 ID:nmz3zmrc



「んー、雪自体は珍しくないけど、こんな風に鬱蒼と茂っている森の中は、ほとんど地面に積もらないね。でも、樹の下を歩いていて、ふと、頭上の樹冠に積もった雪が一気に落ちてくる事があって、それで雪を上から被るという被害者もいないわけではなかったけど……」
「ホリックのことね」リナイエが訳知り顔でいった。
「ホリック……誰だい、それは」とヨンネルが訊ねる。
「あら、兄さん、知らなかったの? 剣の道のあばら家に住んでる変り者のホリックよ」
「ああ、あのホリックか……それなら知ってる……」ヨンネルは納得したというように、首を何度も縦に振った。
「そのホリックがどうしたの?」マイセルは堪えきれなくなって、興味津々、リナイエに訊ねかける。
「実はね――」とリナイエ。「その変り者のホリックが、ある雪の降った次の日に森を歩いていて、無性にむしゃくしゃしてたんだって。それで、ある時、自分のそのむしゃくしゃを解消したかったんでしょうね……道の真ん中にある大樹を思いっきり足で蹴飛ばして、それで頭の上から大雪を被ったのよ。それ自体は大した量じゃなかったんだけど、ホリックは何かに突然襲い掛かられたと勘違いしてパニック状態になってしまったんだって……。ただでさえ、変り者で頭のネジをどこかに落っことしたような行動ばかり取ってたホリックだったから、そんな風に不意の事故に遭ったことで、相当その時は興奮状態になってしまったんだって……」
「へぇ……」セシルはその話に関心したように相槌を打つ。
「で、ホリックの変り者の度合いも、それを機に、ますますエスカレートしたんだっていうのがもっぱらの噂よ」
「へぇ……」今度はマイセルがセシルの真似をする。
「ま、それにしても、今年はあんまり雪、降らなかったわね」とリナイエは苦笑いしながらいった。
「そうだな……去年は夏もあまり暑くならなかったし、冬が暖かかったからな……」
 マイセルにもその話で思い当たる事があった。確かに最近、気象の状態がおかしい。数年前なら、夏は夏らしい、冬は冬らしい気候だったのに、ここ数年は本当に、自然のリズムが崩れているように思われた。夏、あまりに底冷えのする日も多かったし、真冬に冷たい物を食べたいと思うほど、その季節にそぐわない気候になったことも何度かあったのだ。この自然のリズムの不調も、どこかで復活しているという〈闇の王〉の影響を受けているのだろうか? 〈カーライン予言〉はどうなっているのだろう? そんなことを考えていると自分のこれからなさねばならぬことに思いが向かい、それに対する多大なる恐怖心が自分の心に押し寄せてきて、どうにもならなかった。
「〈闇王ハデル〉の影響って事は考えられないかな?」マイセルが口にした不穏な言葉に、一同は凍りついたように目をマイセルの方へ据えつけた。
「マイセル! その言葉を軽々しく口にしてはならん。〈闇王〉と呼ぶだけならまだましだが、禁じられたその本当の名だけは決して口にせぬようにな」歴史家兼魔導士はそういうと、眉間に皺をよせながら、マイセルのほうをじっと見た。
 皆の視線がマイセルに集まっている。
 一番にその均衡を破ったのはセシルだった。
「〈闇王〉のことなんて、いまは考えなくていいよ。いまは頌の習得を最優先すればいいんだ。〈闇王〉なんて頌の前では弱者でしかないんだろ、な、そうだろ、ロギヌス?」
 ロギヌスはそのセシルの問いかけに答える言葉を捜す様子だった。そして口を開く。「〈闇の王〉を侮ってはいかん。侮れば、必ず不測の事態が現れてくるだろう。それは永遠に呪われたものなのだ。不完全な頌をもって立ち向かえば、返り討ちに遭うこと必定だ。気をつけねばならん。わしらの存在も、オリジナルなんだ。代わりは誰にも務まらぬ。だから、この旅はとても貴重なものなのだよ」
「ふむ……」とセシル。
「ま、行けばわかる。いまはひたすら前へ。そして今できる事を後回しにせず、ひとつひとつ地道にこなしていくことだ」ロギヌスはそう締めくくった。


44 :蒼幻 :2008/05/17(土) 22:59:30 ID:nmz3zmrc

2 小さい人=強き人



 エルフの里を出立して五日が経ったころ、マイセルたちは樹々の繁茂する森を抜けて何もないだだっ広い平原に足を踏み入れた。
 ここまでの行程で馬はそれほど疲弊しておらず余力がありそうだったので、マイセルたちは馬を駈けさせることにした。やはり走る事が本能であるらしく、どの馬も走れることに喜びを感じているような、そんな軽快さで道なき道を飛ばした。
 遠く地平の方に荒涼たる山脈が見えるのがあまりに寂しげだった。マイセルがロギヌスに訊ねてみると、目的地はあそこだという声が返ってきた。
 ――あそこにドワーフがいるのか……。マイセルは落ち着いて考えた。
 ドワーフに関して知っていることといえば……。彼らはいつも鉱山の中で生活しており、穴掘りと金属加工とで毎日を潰している。そしてその閉じこもった生活はまるでモグラか蟻塚の中の蟻のごとく、まるで趣味であるかのように、その閉塞的な生活を続ける事を生き甲斐にしているところがある、と。しかしその記述は、人間の側に立ってのものであり、ドワーフ側の心理をまるで無視した書き方だったので、鵜呑みにするのは危険なことでもあった。
 マイセルはこうして考えて見ると、自分はイスハークのことで手一杯で、そのような種族が実在するということすら知らずにこれまでの人生を送ってきたのだ、と反省したくなった。
 炭鉱までの道程は単調といえば単調だった。しかし、エルフの森に入るまでに経験した地形とほとんど変わらないかわりに、植物相の方は細長い葉をつけたススキのような高さの草がよく育っており、それを食べようとする草食動物の姿もちらほら見受けられた。
 マイセルたちはヨンネルの弓の腕の立つのを恃んで、その草食動物――大型のリスのような動物やら、野兎やら――を射抜き、その肉を食した。リナイエはどんな料理でも美味しく調理できる天才かもしれないとマイセルは思った。それほどにリナイエの料理の腕はかなりの高みに達していた。
 夕暮れ時、一行は日中地平遥かに見えていた山脈の麓に辿り着いた。どこが入り口か分らず、少し迷ったこともあったが、小高い丘になっているところに、鉱山への入り口らしき穴がくっきりと掘られているのにヨンネルが気づき、一行は馬から下りて、慎重にその中へと足を踏み入れた。洞窟の中はほのかに温かく、そして照明といっては充分な光量を持った特別製の松明が掲げられており、それが暗闇の中の世界を明るく浮き彫りにしてくれていた。
「んー、きついな、やっぱり、穴倉は……」ヨンネルが弱気な事をいったが、それがエルフ族の普通の考え方なのだろうと、マイセルには感じられた。人間である自分にとっても、この閉塞的な穴倉の中は、いまいち心の浮き立つ要素に欠けている。そんなことをいっては角が立つかもしれないが、こんな炭鉱穴で生活していたら、まず精神の方がまいってしまうだろう、とマイセルには感じられた。人間であるマイセルですらそう感じるのだから、あの広々とした森で自然な形で生活していたエルフにとってここは地獄とも見まがうような場所であるにちがいなかった。
 一行はなんの障害もなく、分岐のあるわけでもない単調な道を進んでいき、最初の大広間にぶち当たった。
「誰だ?」まず最初にそのような言葉がかけられた。
 恰度、松明と松明の間で暗がりになっている入り組んだ場所から、その声はかけられた。
「そっちこそ誰だ?」セシルが横柄に訊ねかける。
「不審者はそちらの方なのだから、まずそなたらが名乗るのが礼儀だろう?」いまだ正体の掴めない影の存在が訊ねかける。
 その時、マイセルにはちらと松明の明かりにその人物の姿が映ったように感じられた。それは全体が体毛に覆われているようなそんな毛むくじゃらの男だった。それがうぶげの発達したものなのか、剛毛の髭なのかは判然としなかったが、確かに、その男には顔中に毛が生えているように見受けられた。
 ――ドワーフ? これが? マイセルは言い伝えどおりのドワーフの姿に驚かされた。
「いや、そちらから名乗れ」とセシルはまたもや横柄に告げる。マイセルはその男の正体がおぼろげながらわかったので、それ以上、ことをややこしくしないために、セシルにこれ以上の意地の張り合いは避けるように、とひそひそ声で告げた。
「あんた、ドワーフなのか?」とそれを聞いたセシルは声をあげる。
「……ん!?」男の方はやや考える様子だったが、すぐに返答した。「いかにも、俺はドワーフだが。さらにいえば、前頭領イハーメルの従兄のハーメルの息子ハメルとは俺のことだ。いまは見張りなどしているが、これは俺がわざわざ志願してその職についているまでのこと。ゆくゆくは頭領候補になるだろうと言われているこの俺に対してタメ口を聞こうとする奴など、簡単にその首と胴を切り離してくれるわ」ハメルと名乗るドワーフは声を荒げてそういった。
「そうか、ドワーフか。俺はセシル、図書館司書のセシルだ。そしてこっちは同僚のマイセル、それから歴史家のロギヌスに、エルフの兄妹ヨンネルにリナイエ。この五人で、ドワーフの炭鉱を目指して旅してきた。要するにここはドワーフの穴倉なんだろ?」
 ドワーフは手前の松明の方へ数歩歩み寄った。闇の中から小人のような高さの男の姿が浮かびあがる。
 その男は体長一四〇センチメートルほど。顔中墨でも塗りたくったかのように暗い髭がびっしり繁茂しており、僅かに目の周りとおでこだけが灰色の肌を見せている。目は茶色で顔全体から見ると若干小さいように感じられた。しかしそれが種独特の特徴であるのかどうかは、彼を見ただけでははっきりしなかった。髪の毛は肩まであったが、それもいつ洗ったかわからないほど脂じみていて、よれよれの昆布みたいに頭に張り付いていた。しかし、マイセルは不思議と不衛生だとは思わなかった。この洞窟の中で生活していたら、これが普通なのかもしれない、という気がしたからだった。
「ついてこい、案内する」ドワーフはそういうと、一度ウインクしてから後ろを振り向き、堂々とした足取りで洞窟の中を案内し始める様子だった。
「マイセル! ドワーフってほんと子供みたいだな」とセシルはマイセルの耳に口を近づけて告げる。
 しかし、マイセルはそんな軽口をたたくセシルに同調する気持ちなど持ち合わせていなかった。


45 :蒼幻 :2008/05/26(月) 20:56:00 ID:nmz3zmrc



 マイセルにはひとつの物が目に入ってその視線をどうしても外す事ができなかったのである。それはドワーフの腰に付けられた一本の厚刃の片手斧の野蛮さだった。
 この小男が比類ない体力の持ち主である事は、腰周りや腕回りの太さを自分のそれとくらべてみればよくわかる。小さい体躯でありながら、力はきっと人間の大の大人の体力に匹敵するか、それ以上と見受けられるのだ。そんなことを考えると、とてもセシルのように、ドワーフを侮るような軽口をたたく気にはなれないのだった。
「なあ、ハーメルの息子ハメルよ」これまで無言だったロギヌスが口を開いた。
「なんだ人間よ」ハメルというドワーフはぶっきらぼうにいった。
「おまえ、ロギヌスに対してなんて失礼な口の聞き方を……」セシルがむきになっていった。
 セシルは内心相手を侮っているから、罵詈雑言も吐きやすいらしい、とマイセルは思った。
「俺に対しては別にぶっきらぼうでもかまわねえ、でもな、この歴史家ロギヌスにだけは敬意を払え。それだけの佳致はある。それを分らないのは面の皮の厚い連中と、心が麻痺している連中くらいなもんだ。お前はそのどっちだ、どっちでもないというんなら、いまのうちに敬語の練習でもしとくんだな」セシルはムキになっていう。
 しかし、「何をいっているんだ、お前は」とドワーフのほうも負けていない。「俺のいまの地位がどれほどのものかわかっていないんだな? 俺は王国なら王子と呼ばれるほどの重要人物なんだぞ。その俺が人間如きに頭を下げろっていうのか? へん! そんなのごめんだね。俺は俺の思うがままに人と接するし、気に入らない者に対してはいついかなるときでも、横柄な態度を取らせてもらうからな」ドワーフはそういうと、それっきり後ろを振り向かず、自分のペースで洞窟の奥へと進んでいった。
 マイセルたちは遅れないでついていくので精一杯になった。
 このドワーフはとても頑固者なのだということがこのやり取りでわかった。しかし、それがドワーフ全体の気風であるのか、そうでないのかは、やはり他のドワーフと比較してみないことにはわからないのだった。
「マイセル、このドワーフ、ちょっと面白い性格してるな」セシルはまたひそひそ声で告げてくる。
「面白い?」マイセルは思わず訊ねかける。
「からかいがいがあるってことさ」マイセルはウインクして口元を歪めながら笑った。
「ちょっとあんたたち、何喋ってんの? 前を見て歩きなさいよ。もうこんなに遅れちゃってるんだからね」そういうのは、この洞窟に入ってからやけに無口になったエルフの娘リナイエだった。「何、何か文句でもあるの?」リナイエは腰に手を当ててフンと鼻を鳴らした。
 マイセルたちはリナイエに促されて、小走りになりながら馬を引いていった。
 しばらく行くと、また大広間に出た。その広間には獣の匂いが充満していた。一瞬、何があるのかわからず、混乱しそうになったが、そこに置かれた飼葉の山を見て、ここは厩なのだということがわかった。
 そこでドワーフの王子ハメルは一同に馬を引き渡すようにいった。
 ――引き渡すって誰に? と思っていると、すぐ傍らに、ドワーフの子供が数人寄ってきて、むしりとるように手綱をとって馬を引っ張っていった。
 それを心配そうに眺めていると、ハメルは「心配ない、彼らに任せて置けば安心だ。悪いようにはせんよ。あの四つ足動物の扱いには長けているんでね。ほら、もう飼葉をやっている。四つ足のほうも安心しているようだ。じゃ、行こうか?」
「行くってどこへ?」とセシルは訊ねる。
「おまえはいちいちうるさい奴だな」ハメルは辛気臭そうにそうつぶやくと、セシルの疑問には何も答えず、ただ目的地へと進んでいく様子だった。
 セシルは自分の疑問が無視されたに等しい事を知り、悔しそうな表情をその顔に浮かべていたが、どこか喜んでもいるようでもあった。それは気心の知れた人間に悪戯をされたときのような、お互いに気持ちが通じ合っている中でのじゃれ合いに似たものであるようだった。
 ――ふーん、あのドワーフ、ハメルとセシルはなかなか良いコンビになりそうだな。マイセルはそう考えると、自然と表情が緩み、笑みを浮かべたのだった。
 ドワーフに案内されて行くと、道はいくつにも分岐し、その都度、立ち止まってレリーフを確認し、道を選択していく。この洞窟を熟知しているはずのドワーフですらこれなのだから、初めてこの洞窟に入るマイセルたちにとっては、この道の選択はきっと自分たちだけでは目的地に辿り着けないだろうと思われた。
 いくつかの小徑というか隧道を抜け、小さな広間を通って、ひとつの豪華な門の前でハメルは立ち止まった。
 ドワーフは気をつけをして髭をしごいてまっすぐにしてから――それは無駄な努力というものであり、髭はすぐに捻じ曲がったのだったが――しゃちほこばった姿勢で声をあげた。「頭領ジール様、ハーメルの息子ハメル、入らせていただきます」
 その頑丈な金属の門はぴくりとも動く様子はなかったが、いきなり中から、「入れ!」という大きな声がかかり、扉は自然と開いた。
 扉はギギギッと音がして、ゆっくりと開いた。自然に開いたのかと思われたが、それは中から侍従が恭しく開いたのだということが、中に入ってみてすぐにわかった。
 マイセルにはそこがドワーフの一族をたばねる長の執務空間だということが理解された。そして、次にその質素ではあるが選び抜かれた質の高い調度品の数々に目を据えつけた。松明の明かりでもしっかりとわかるような明暗のはっきりした色合いの草花の模様の入った絨毯、エルフ的意匠である曲線と直線の組み合わせに匹敵するような、無骨ではあるがどっしりとした印象のある沢山の椅子。壁は平板な石でできているのではなく、何か物語の一部を描き表わしたかのような印象的な図面の彫刻。そして、ドワーフの戦士を象った今にも動き出しそうな活き活きとした石像数体。数は少ないが、それぞれがしっかりとした存在感を持って、部屋の中にその居場所を持っていた。
 部屋の奥、向かって正面にそのドワーフは座っていた。
 年のころは、人間の見た目に即せば五十代前半。こればかりは訊いてみないとわからないけど、ドワーフのことだから寿命はもっと長くて七十歳くらいだろうか? ハメルの見た目が三十くらいだから、きっとこのドワーフの長は伯父さんに当たる人なのだろう。そう考えると、ドワーフも人間と同じく血縁を大切にしているのだということがわかり、本当の家族というものを一人も持っていないマイセルにとっては悲しくなりそうな事実だった。


46 :蒼幻 :2008/07/06(日) 11:32:19 ID:nmz3zmrc



「客人を連れてきたか……それで彼らのうちの誰が〈選ばれし者〉なのだ?」ドワーフの長は不思議な言い回しをした。
「〈選ばれし者〉? それはいったいいかなる意味なのでしょうや?」ロギヌスが目をしょぼしょぼさせながら訊ねた。
「いや、なに、それはな……わしらドワーフ族の巫女が告げたのだよ。もうすぐ〈選ばれし者〉がこのドワーフの国を訪れるとな……。それが一週間前のことで、かれこれ今日まで、その人物の訪問を待ちわびておったということなのだ。さあ、誰が〈選ばれし者〉だ?」
「その前に貴方様の名前を伺ってもよろしいですかな?」歴史家は慎重に言葉を選んで話した。
「申し遅れた、儂はこのドワーフの洞窟ヴァルワーの頭領をしておるジール・ヨハス・ハイン。前頭領の兄ハーメル・アイル・ハインの息子、そのハメルの伯父である」
「そうですか、わしらは旅の集団で、このわしが歴史家のロギヌス、こっちがマイセルで、そっちの頑丈そうなのがセシルだ。それからエルフの兄妹でヨンネルとリナイエ。この五人でいま旅をしておる」
 ロギヌスがそういうと、ドワーフの頭領はそれを興がるように椅子から身を乗り出した。
「儂らの巫女はこういった。人間の中の〈選ばれし者〉このドワーフの国を訪れ、得がたきものを得た後に、廃地へと向かうであろう、と」
「廃地――?」歴史家が過敏に反応する。
 マイセルは廃地≠ニいう言葉の響きに、この世の終わりのような印象を重ね合わせて、一瞬、恐怖した。
「廃地とは、つまり、〈闇王〉の栖む地ということですな」ロギヌスは答えを知ろうと、さらに突っこんで、ドワーフの長ジールに訊ねた。
「ありていにいえば、そういうことになるの」とドワーフの長は冷淡に告げる。
「それで、得がたきものとは何であろうか?」ロギヌスは疑問を口にした。
「それはきっとすぐにわかるだろう」ジールは口元に笑みを浮かべてそういった。「まずは〈選ばれし者〉という言葉についてだ」
「フム」とロギヌス。
「この中で〈選ばれし者〉とは、この人間の青年、セシルとマイセルのどちらかであろう」長ジールはゆっくりとした口調でそういった。
「回りくどい詮索はなしにしよう。それよりも、今は早くここでできる事をしておきたい。おそらく、〈選ばれし者〉というのは、この旅の目的でもある打倒〈闇王〉のためにもっとも尽力しておる青年、この図書館司書のマイセル、その人だろう……」
「ほう……」ジールはまぶしい物を見るかのような顔つきでマイセルを眺めた。
「このマイセルは高地イルメル語の頌を習得したばかりなのだが、歌に対して詠い手という存在があるように、頌にもまた定められた詠い手というものがある。このマイセルはその限られた能力者、〈真実を詠う者〉と呼ばれる存在なのだよ」ロギヌスは初めて聞く者にもわかりやすいように、丁寧に説明した。
「そうか、その〈真実を詠う者〉こそ、儂らのいう〈選ばれし者〉というわけだな」ジールは感心するようにそういった。
「それで、得がたきものという話だが……」とロギヌスはふたたび、疑問を口にする。
「それだ!」とジールは片目を瞑ってウインクする。
 ロギヌスは何のことかわからないという表情をして肩をすくめた。
「儂らからそなたらに贈り物がある」そういうと、ジールは近くに控えていた侍従に目で合図して、傍の棚に置いてあった長い棒状のものと袋包みを差し出させた。
「これは儂らからのほんのささやかな気持ちだ、受け取ってくれ」そうジールが告げると、侍従はマイセルの方にその荷物を手渡した。
 その荷物はどちらも重く、ずっしりとしていた。
 ――なんだろう? マイセルにはピンとこなかった。しかし、思い当たる節もあって、すぐに荷物の中身を確認する。
 長い棒状のものは革の鞘に入った頑丈な白銀製と見まがうような、くっきりと闇に浮かびあがる白い剣だった。ジールはひとこと、「ミスリルの剣だ」とだけ告げ、それを常時、身につけて置くように、といった。ミスリルの剣には魔よけの力が在るということで、マイセルは得難い物を得たという気持ちに突き動かされ、何度も、礼の言葉をジールに向かって繰り返した。そして、袋包みのほうだが、こちらもずっしりと重かった。まず始めに飛び込んできたのは金属のこすれあう音と、先程の剣に負けないような、白い金属製の表面だった。
「これは……」といいながら、マイセルが広げてみると、それはミスリルのチュニックだった。鎖帷子ともいえるような形状で、どんな攻撃もものともしないというジールの保証つきの言葉がありがたかった。
 マイセルはさっそく着替えることにした。着替えるといっても、服を一枚脱いで、そこにミスリルのチュニックを着込むだけだったから、たいして時間はかからない。
 マイセルはその着心地のよさに驚いた。手に持ったときにはそれほど感じていなかったのだが、着てみるとよくわかる。ミスリルは魔法の、いや、神々がドワーフ族にお与えになった恩寵ということができるものである。そのミスリルにはいろいろと不思議な現象がつきまとっていて、それほど重さを感じさせないのに、どんな金属よりも頑丈だというのは、まさしくなんらかの神がかり的な力が働いているとしか思えなかった。
「ありがとうございます」マイセルはドワーフの長にそういうと、何度も腕や腰を回して着心地を確かめた。
「今夜はこのドワーフの炭鉱に泊まると良い。出発は急ぐんだろう? それまでにゆっくりと身体を休めるのだ。そうすることで、明日は新たな気持ちで出発できるだろうしの」ジールはそういうと、侍従に一行を部屋へ案内するようにといい付けた。
「この洞窟の雰囲気には慣れましたか?」道を案内しながら、侍従のひとりが傍らを歩くロギヌスに訊ねかける。
「んー、まだ少し慣れんな。思いっきり走り回ったら壁に頭を打ちつけるかも知れんというこの状況、慣れろといわれても、とても無理だな」ロギヌスは苦笑する。
「そうですか? 私どもはいつもこの穴倉のなかで生活しておりますから、それほどの不便は感じないのですよ。もし、何もないだだっ広い空間に放り出されたなら、きっと気が狂ってしまうことでしょう。正常なドワーフとは、そういうものですよ」
「だから、気が合わないのね。妾はその反対、こんなに狭い空間に閉じ込められてたら一週間で気が狂っちゃうわ」あれほど出発の前は親ドワーフ派といっていたリナイエですら、ドワーフの人生観を否定するような事を口にした。


47 :蒼幻 :2008/07/06(日) 11:33:04 ID:nmz3zmrc



 案内された部屋は、全部で二部屋だった。一部屋はこざっぱりとした質素な感じの部屋。もう一つは誰かの子供部屋を少し改装したという感じの、ちょっと子供っぽい調度品の多い部屋だった。初めの部屋をロギヌスとセシルとマイセルの人間組が使い、子供っぽいその部屋をヨンネルとリナイエの兄妹が使うことになった。それで一旦は解散になるかと思ったが、ドワーフの王子ハメルがロギヌスたちの部屋に居座る積りなのか、いつまで経っても退室しないのだった。その様子に、出て行けともいい出しにくい三人は、そのままベッドをひとりずつに割り振って、そこに腰を下ろし、気を休めることにしたのだった。
「あんたらの旅の目的はその〈闇王〉を倒すことなんだろう?」ハメルが確認するように一同に訊ねかける。
 やや間を置いて、ロギヌスが答える。「そうだ」
「いったい、誰かに頼まれたのか? 倒して欲しいって」
「いや、そういうことはない」
「なら、どうして?」ハメルは理解できないという風に肩をすくめた。
 歴史家は返答に困っているようだった。そこでかわりにセシルが口を開く。
「頼まれたから行なうっていうのは、子供の使いも一緒じゃないか? そんな単純な理由だけで動くのが人間ではないし、俺達は自分の意思でいまここにいるんだよ」
 マイセルはセシルが良い事をいったと思った。
「ふむ……」ドワーフの王子は考え込む様子。
「物事には光と影が寄り添うように、表の事情と裏の事情は密接に関係しあって、物事を形作っておる」歴史家は眉をぴくりと動かした。
「いきなりなんだ?」ハメルは頓狂な声を出す。
「一見、表の事情と思えることでも、改めて確認すれば、裏の事情と密接に関係しておる。それはエルフの詠い手やドワーフの巫女のほうが詳しいだろう。わしらはそれに関係している事を知らずに日々行動している。わしらが〈闇王〉を倒そうというのも、大それたことかもしれんが、しかし、そうせずにはおれんだけの理由がわしらにはある。あの巨悪〈闇王〉に太刀打ちできる能力を持ったこの青年マイセルに出会ってしまったのだからの」
 マイセルはロギヌスに話題に出されて、こそばゆい思いがした。
「打倒〈闇王〉か……」ドワーフの王子はなにか確信を持っているような雰囲気でその言葉を口にした。静かな部屋にその声はかなり大きく響いた。そしてそれはなにか途轍もないことのようにも思われ、このドワーフの王子が口にしたことは、なんだか実現不可能の夢のような気もするのだった。
「よし、俺も連れてってもらおう」ドワーフの王子はとんでもないことをいいだした。
「なんだと!?」今度はロギヌスが頓狂な声をあげる。
「いいだろう? ロギヌスよ」ハメルは嬉そうに口元を緩めて笑みを浮かべる。
 マイセルは旅の仲間が増えることには賛成する気持ちが強かった。しかも、物語でしかしらないこのドワーフという種族を間近で見るチャンスだと思った。だからこういった。「ねえ、ロギヌス……ハメルも連れて行こう。旅が面白くなりそうだし」
「だが、この旅は遊びではないんだ。ノームやコボルドが襲ってくるだろうし、また廃地に行けば〈闇王〉の眷属が命を狙ってくるだろう。そんな危険だとわかっている旅に第三者を誘うわけにはいかんよ」
「うぅ……」マイセルはのどの奥からうなり声をあげた。
「命の危険だって? 自分の身は自分で守れるぞ」そういうと、ハメルは自分の太い腕を前に出して、もう一方の手でその腕をぎゅっとにぎった。確かに、そういうだけあって、自分の身は自分で守れるだけの能力は有しているように思われた。
「ふむ……確かに強力な助っ人になってくれそうな気はするの」ロギヌスは眉をぴくりと動かして反応する。「それなら一つ確認して置こう。わしらにはエルフの兄妹という同行者がいる。彼らとうまくやっていく自信はあるか?」
 ハメルは何をいってるんだという表情をした。
「だから、エルフに対して、何か悪いイメージを抱いていないか、ということだ」
 ハメルは少し考え込むようだったが、すぐに口を開いた。「それならきっと大丈夫さ。俺はエルフの里に研修にいったことがあるほどなんだぜ。あのエルフの兄妹のことは知らなかったけど、こう見えても俺は親エルフ派なんだ」
 親エルフ派≠ニいう言葉がいまいち空疎に思われるマイセルだった。同じように、親ドワーフ派といっていたリナイエが、ここにきて、ドワーフをなじるような事をいったためだった。だから、その言葉に確たる効力はない、と思うマイセルだった。
「ふむ……まぁ、よかろう。旅の仲間としてわしらに同行する事を許そうじゃないか」ロギヌスは瞳の奥に炎を宿したかのようにかっと目をみひらいて、そういった。
 マイセルは少し嬉しかった。エルフとドワーフ、その人間に似た異種族が共に、自分たちの旅に同行してくれる。それは途轍もない喜びだった。
 ハメルはそれからしばらく考え込む様子だったが、風呂に入って汗を流したいだろうと提案して、マイセルたちを浴室へ案内するから着替えを用意するように、といった。
 この穴倉にも風呂があるのか、とマイセルがいうと、「俺達は一ヶ月に一回か二回しか入らないがな」と豪快に笑うハメルの姿が印象的だった。しかし、それを訊いたら、いっぺんでリナイエが機嫌を損ねるだろうな、ということは簡単に想像できた。
 ドワーフの浴室は地面をくりぬいてそこに金属製の巨大な桶をおき、そして、その下から薪をくべて加熱する仕組みだった。マイセルたちが辿り着いたときには、もう充分湯がわいていて、いつでも入れる状態になっていた。マイセルが観たのは男湯だけだったが、その隣の部屋が女湯になっていて、リナイエもそちらへ入っているだろうと、ハメルは説明した。
「なんだ、そのひょろ長い頼りない体格は――」ハメルはエルフの兄ヨンネルにそういいかかった。
「そちらこそ、ずんぐりむっくりじゃないか」ヨンネルも負けていない。
 二人の会話はなおも続いたが、険悪なムードは流れず――会話の内容だけ聞けば、充分険悪そうだったのだが――、なんとか全員が身体を洗って、湯につかることができたのだった。
「ねえ、ハメル」マイセルが口にする。
「どうした?」とドワーフの王子。
「ドワーフってどんなものを食べてるの?」マイセルはノームの食事の事を思いだして、不安になっていた。どんなゲテモノ料理が出てくるのかと、気が気でなかったのである。それも、この湯の時間が終われば、食事時間はすぐだろう。そんなときに、ゲテモノ料理を出されたのでは、食事が進まないし、また、空腹のまま席を立つということにもなりかねない。


48 :蒼幻 :2008/07/06(日) 11:33:51 ID:nmz3zmrc



「食事のことか」とハメル。「もう御腹がすいたのか? まだ夜になったばかりだぞ。まぁ、いい。しかし、ビールやエールがあるから、それを飲んでからでもいいだろう。ドワーフのビールは格別だ。あの黒い液体を飲める事が俺達の誇りかも知れんな」そういうと、ハメルは口元を手の甲でぬぐった。
「で、どんなものを食べてるの?」とマイセルはしつこく迫る。
「そうだな……、豚の肉が多いかも知れんな」
「豚?」マイセルが驚きの声をあげる。
 それは意外な回答だった。豚肉を食するとは、なんて人間的なんだろう、と思われた。しかし、その後の言葉がマイセルに衝撃を与えた。
「豚の丸焼きだ。頭……特に鼻の部分が美味いんだ」
 ――鼻? 鼻を食べるのか、とマイセルは驚かされた。
 見ると、傍らでロギヌスが笑っている。マイセルの反応をさも当然であるかのように眺めていて、ロギヌスは既に知っている事項だといわんばかりに平然としている。
「んー、いい湯だ」セシルが足を延ばしてはいることのできる浴槽はイスハークにいる頃には考えられなかったと口にした。確かセシルはイスハークで温泉に入っていたはずだけど……とマイセルが訊ねると、セシルは、確かに温泉にはいったことがあるけど、どれも浴槽は小さくて、一人専用のものばかりだった、と答えた。
 皆でこうして入る機会がこれまでなかったのだというセシルには、この状況を愉しんでいる雰囲気がありありと見てとれた。
 風呂から上がると、もう食事時間だった。部屋でくつろぐ時間もないまま、まだ身体から湯気が立っているような状態で、ハメルに食堂へ連れて行かれた。
 そこには長方形の食卓があり、すでにドワーフの頭領ジールが腰を下ろしていた。
 マイセルたちが席につくと、侍従たちがかいがいしく立ち回って、料理の皿をつぎつぎに並べ始めた。
 その皿はイスハークやエルフの里のように磁器ではなく、どちらかといえば質素にも見えるような、陶器の皿が主流だった。しかし、地味豊かそうな見た目の料理には、そのような器がぴったりであるように思われた。
「この器が気に入ったかな?」とジールが訊ねる。
「あ……はい」やや戸惑いながら、マイセルが答える。
「これは最近流行のスタイルでな。なんというか、こういうような陶器を集団で作っているところがあって、儂らにいつもできのいい物を提供してくれるのだ」
 そりゃ、王族なのだから、下々のものからの献上品を受け取ることもその仕事の一部みたいなものだろうとマイセルは思ったが、口にはしなかった。
「さあ、食べてくれ。酒宴だ」と皿の出揃ったところで、ジールが声をかけた。
 それぞれの前には黒い泡立ったビールのこれまた陶製のジョッキが置かれていた。それを持って高らかに乾杯の音頭を取るジール。
「我々の前途を祝して! 乾杯!」ジールはそういうと、目の周りのこまかな皺をきゅっと寄せて微笑み、ジョッキを口に持っていった。
「うまい」セシルが声をあげた。
 それがビールの事をいっているのだ、ということはマイセルにも判別できた。
「じゃ、料理を頂くとするか……」というセシルに迷いはない。自分の欲しい料理を好きなだけ取り皿に取る事が出来るとあって、セシルは食欲が旺盛なのか、見る間に自分の皿の中を山盛りにする。マイセルが取ろうとしている頃には、もう口の中を一杯にして、つぎつぎに詰め込んでいく。
「おぉ、そう来たか」とセシルは意外な味付けを愉しんでいる様子。
 マイセルはそんなセシルの様子を見て、自分もこれを食べれば、いろいろと思うところが出てくるんだろうかと気になった。
 確かに食べて見ると、料理の味付けが微妙にイスハークのものとは異なる気がした。マイセルは気になってジールに訊ねてみることにした。
「いったい、何が違うんですか?」
「んー、強いてあげるなら塩かの」とジールは答える。
「塩?」とマイセル。
「そう、塩だ」ドワーフの頭領は片目をぱっちりとみひらいて、念を押すようにいった。「塩はこのドワーフの炭鉱穴で見つかったものでな。昔、ここが塩の産地だったらしい事がわかっておる。儂らはもう何世紀も前から、その塩を使って料理を作っておる。はっきりいって、何を作るにしても、この塩は欠かせぬものとなっておるんだ」
「へぇ……」マイセルは相槌をうつ。
「ところで、塩はどうやって出来るか知っているか?」ジールは質問をした。
 しばらく考えてみたが、答えが浮かばない。
「海だよ」ジールは答えた。
「海……?」マイセルは海がしょっぱいことを知っていた。しかし、実際に海を見たことはなかった。すべては書籍による知識だった。
「このあたりは昔は海だったんだよ」
 マイセルは山の中なのに、昔、海だったと聞かされて、心中、気が気ではなかった。こんなところが海だったとしたら、他の平野部はすべて海だったのではあるまいか?
 マイセルは言葉にならない戸惑いを覚えた。
 その戸惑いを察知したかのようにジールが答える。
「ふむ……このあたりは昔は平野部よりもさらに低地にあったと考えられるんだ。いまのような山の形になったのは、随分最近のことでな……。火山活動が活発になった頃と、この地域が隆起し始めたのは、時を同じくしておる」ジールはドワーフの歴史を語るように、その事実を公表した。
 食事は当初心配していたゲテモノ料理でなかったので、マイセルは安心して食事を済ませることができた。他にもジールたちが語ってくれた話は興味深くて、いいエッセンスになったと感じられた。そして、ハメルが旅の同行を願っているということを聞いた頭領のジールはせいぜい頑張るようにと、励ましの言葉をハメルに与えた。
 ハメルはその言葉を受けて、にっと微笑んだ。


49 :蒼幻 :2008/07/19(土) 17:38:41 ID:nmz3zmrc



 マイセルは椅子に座っている間、自分の腰のあたりに違和感を感じていた。というのも、慣れないミスリルの長剣を腰に佩いていることが落ち着かないのだった。確かにミスリルはドワーフの恩寵。それはわかる。しかし、自分にとってドワーフのその剣は宝の持ち腐れになりはしないか、という気がある部分ではしていた。それはどういうことなのか、いまいち表立って口にすることは出来ないけど、これを必要とするような事態には陥らない気がする、という楽観的な気持ちが心に浮かんでいた。
「……マイセル……マイセルったら」気づけばリナイエがその美しい顔を傍に寄せて、訊ねかけている。「もう食事は終わったわよ。さあ、部屋に戻りましょ」リナイエはそういうと、マイセルの手をとった。
「あ、リナイエ」とマイセルは自分がいま何を考えていたのかすっかり忘れてしまっている気がしたのだった。
 確かに心の片隅で、ジールが席を立つところを目で追っていたことを思い出す。しかし、それから先の記憶がない。ミスリルの剣のことを考えているうちに、急に視野が狭くなって、これまでの記憶がすっかり欠落してしまったのだ。マイセルは頭をなんどか横に振った。
 それでも、状況は改善されたとは思えなかった。
 リナイエに引っ張られるようにして部屋についたマイセルは、その扉の前でリナイエと別れた。
「じゃ、また明日」リナイエはそういうと、にっこりと微笑んで、自分の部屋の方へと去っていった。
 マイセルは信じられなかった。女の子と手を繋ぐこと自体初めての経験だったし、その相手がエルフとくれば、それまでの価値観がごろっと転換されるような大事に近かった。
 ――まだ心臓がばくばくしてる。マイセルは落ち着こうと深呼吸を試みた。
 ――それにしても、リナイエはどういうつもりなんだろう? マイセルは疑問に思った。
 なにも思っていない相手と手を繋いだりするだろうか? それも自分から……。そんなことを考えていると、リナイエ、ひいては女の子の思考というものが途轍もない謎であるかのように思われるのだった。マイセルはすべては自分の思い過ごしだろうと念じて、部屋に入ることにした。
 扉を開け、中に入ると、すでにセシルはいびきをかいて眠っている。
 マイセルは気が抜けるのを感じていた。そして、ロギヌスは澄んだ瞳で、部屋の片隅の燭台の炎を眺めているのだった。
「ロギヌス……」マイセルが訊ねかける。
 歴史家からはうめき声一つ漏れてこない。しかし、マイセルの声が届いているのは確かだった。
「ねえ、ロギヌス……ドワーフのあの王子を旅に同行させることには、反対なの?」
 歴史家兼魔導士はその端整なまなざしを少し細めて見せた。「反対というわけではないが、いったい、この旅において彼は有益だろうかということに付いて疑問を呈さざるを得ぬのだよ」ロギヌスは溜息をつく。
「有益か、有益でないか……。それはきっと今後の旅の展開次第だよ。あのドワーフの腕っ節の強さを恃まないといけない状況が現れてこないとも限らないじゃないか? あの腕回りはセシルのものと較べても遜色ないほどだし、しかも、あの殺人的な斧のまがまがしさは群を抜いている。エルフの敏捷さも人間にはないものだけど、ドワーフの力強さだって、人間にはまねできないものがあるんじゃないかな?」マイセルはそこまで一気にいいきった。
「ふむ……確かにそうかもしれんの」ロギヌスは納得するかのように、何度か目をしばたたいた。
 マイセルは歴史家がどうしてここまで悩んでいるのか、理解に苦しんだ。ドワーフという種族はそれほど何か自分の想像もつかないような欠点でも持っているのだろうか? 浅薄なマイセルにはわからなかった。
 確かに、ドワーフ族は美しいというよりは逞しいというほうが似合っている。調度品も洗練されているというよりも、どっしり構えていて安定感がある、という感じだし、全体的に泥臭さがあるようにも思われた。それは彼らが顔の正面にたくわえたさまざまな髭の種類によるイメージの浮遊であったが、それがどうも、彼らの本質を現しているような気がしてならない。
 マイセルはなぜあのドワーフの王子ハメルが自分たちに同行しようと思ったのか、理解できなかった。この炭鉱穴に慣れているのなら、こここそ彼らの本拠地であり、故郷であるというのに、それを離れて旅に同行しようと決意することは、なんという冒険なのだろう? しかし、こうも考える。ハメルはエルフの里に研修にいったといっていた。それはこの洞窟以外の場所で生活することに少しは慣れているということだ。他のドワーフはどうか知らないが、少なくとも、ハメルは外のくらしの一端を知っているのだ。そのことは大きいとマイセルには思われた。ハメルの話では、ほとんどのドワーフはこの洞窟の中で一生を終えるのだそうだ。しかし、一部の例外――自分たちのように他国に研修にいくもの、留学するもの――がいるということが、ドワーフ一族の活気に繋がるとも述べていた。
 マイセルはいろいろと考えが頭に浮かんできたが、それを脇へ押しやって、もう眠ることに決めた。
 ――今日は疲れた……。マイセルはそう思いながら、ふかふかのベッドで眠れる幸せを噛みしめていた。気がつけば眠りの世界に入っていて、その夜は夢を見なかった。



 朝食を食べて、いざ出発ということになった。
 新たな旅の仲間ハメルは馬をどこからともなく調達してきた。それは標準のマイセルたちの馬に較べると一回りほど小さなサイズの馬で少し頼りなくもみえたが、実際にハメルが騎乗したところを見てみると、それはそれでなかなか立派な馬であるようにも思われた。馬の名前は〈パッション〉だとハメルがいう。
「さあ、出発しよう」とセシル。
 それぞれの馬を昨日預けたドワーフの子供たちから受け取り、その謝礼として、わずかながらも銀貨を一枚、ロギヌスは子供に分け与えた。
 子供は銀貨を手にしても、それほど喜んでいる様子はなかった。
「どういうこと?」とマイセルが訊ねかける。
「んー、ドワーフはあまり貨幣を使わないのかもしれないな……」ロギヌスは残念そうにそういった。


50 :蒼幻 :2008/07/19(土) 17:39:18 ID:nmz3zmrc



「そうなんだ?」マイセルは落ち着き払った声でそういった。
 それから一同はドワーフの炭鉱穴を後にして、また平野部に戻った。
 しばらく馬を進めるうちに、日は南の空へ上がり始め、やがて太陽の動きから、正午過ぎであることが見てとれるようになった。
「そろそろ休憩にするかの」と歴史家兼魔導士がつぶやくように告げる。
 休憩はなかなかいい憩いの時間になった。
 食事はドワーフの洞窟で調達したオートミールのまがい品のようなもの。しかし、滋味豊かで、なかなか美味い物だった。これなら一週間でも食べられそうだといったセシルのカバンにも、そのオートミールが何十食と入っている。
 エルフの里から持って来た食事もまだ数週間分あったが、しかし、それは腐ることは決してない、というヨンネルの言葉を受け、痛みやすいドワーフの食事のほうを優先的に食べようと思ったわけである。ロギヌスもそのドワーフの食事が気に入ったようで、なかなかに心をときめかせている印象だった。
 食事を終え、片付けているリナイエにハメルが語りかけた。
「あの……俺はドワーフだけど、研修期間にエルフの里にいったことがあるんだ」
「それはすでに訊いたわ」とリナイエ。つっけんどんな感じの受け答えだ。
「それで、俺は、実際、あんたに会った気がするんだが……」
「えっ?」リナイエは意外そうに頓狂な声をあげる。
「いや、その頃はまだあんたがこのくらいの小さな頃で、俺も若かったんだけど、近くの原っぱで摘んできた花をプレゼントしてくれたじゃないか? 憶えていないか?」ハメルはまるで新手のナンパででもあるかのように、リナイエに迫った。
 リナイエは戸惑っている。
 マイセルはそれを横目に眺めていたが、同じように視線を彷徨わせているセシルと目が会った瞬間、セシルは目配せをした。
 マイセルはその目配せの意味を悟る。
「ハメル……。それは頂けないな」とマイセルは覚悟を決めていう。これで仲が険悪になったら険悪になったときだと覚悟を決めていたのだが、ドワーフは意外とすんなりと引いた。
「悪い、俺は少し熱くなりすぎたようだ」そういうと、ドワーフはエルフの娘にぺこりとお辞儀をし、その場から離れて樹の根方に腰を下ろした。
 リナイエはほっと胸を撫で下ろしているところだった。
「ありがとう」彼女は深呼吸しながらマイセルに礼をいった。「妾、ちょっとあの人が怖かったの」
「ドワーフが?」とマイセル。
「そう、ドワーフが……」
 マイセルがちょっと離れたところで腰を下ろしているドワーフの方を眺めると、ドワーフは完全に地面に寝そべって仰向けで目を閉じている。その姿は恐怖の対象というよりも、どことなく滑稽な、コミカルといってもいいような印象を醸している。
「ま、嫌いなものの一つや二つ、生きてれば見つかるよな」とセシルがはげしく同意する。
「それで、リナイエはいったい、あのドワーフと知り合ったきっかけを思い出したの?」
「それがまったく憶えてないのよ。妾って子供の頃の記憶がほとんどないから、その頃に知り合った人のことをまったく忘れてるのよね……」リナイエは肩をすくめて、その美しい顔を曇らせた。
「んー、ハメルにしてみたら、残念だったんだろうな」とセシルは知ったような口をきく。
「どういうこと?」とリナイエが訊ねる。
「だってそうじゃないか。リナイエが子供の頃のことをこうして憶えていたほどなんだよ。それは相手が自分のことを知ってくれているという期待感と隣り合わせの感情だったのかもしれない。それが、相手は憶えていなくて、自分だけがずっとそのことを心の片隅に残していたということを知ったときのショックといったら……。もしかしたら、いまのリナイエは彼にとって、少し残酷すぎるのかもしれないな……」セシルは珍しく、長々と語った。
 マイセルにはセシルのいい分もわかったけど、それ以上に、なぜセシルがリナイエの世話を焼くのかが少しわかるような気もするのだった。この旅に出て妹とは別れ別れになってしまっている。しかし、ここに妹の名前と同じ愛称を持つエルフがいるのだ。セシルはきっと、そのエルフのことを妹の代わり、もしくは妹と同列に考えているのだろう。だから、手をかしたり、手を焼いたりすることは当然のことだと思っている節があるのかもしれない。そう考えて見ると、マイセルはすべてに納得がいくような気がするのだった。
「あ〜あ、それもこれも妾が幼い頃の記憶を失っていることに起因しているかもね」リナイエは落ち込むようにぼそりとつぶやいた。
「悲嘆することはない」とセシルが励ます。こうしてみると兄妹のようにも見えるが、本当はリナイエの方が数歳年上だった。しかし、人間とエルフの寿命は異なるので、どうしてもリナイエの方が若く見える。
 食事が終わって少し休憩した後で、ロギヌスが今後の行動予定を明らかにしてくれた。
 いまは北に向かっていた。
 北には険阻な山脈を超えた先に、廃地と呼ばれる死の大地が広がっている。自分たちはその廃地を目指して旅をすることになる。そこは死の沼が広がっているようなところで、きっと死と隣り合わせの危険な旅になるだろう。コボルドやノームもいるだろうし、〈闇王〉の眷属だって襲ってくるかもしれない。そんな状態であるので、きっとこれからの旅は覚悟が必要になってくる。それを忘れぬようにな、と歴史家は締めくくった。
「廃地か……いったい、どんなところなんだろう」マイセルはそう口にのぼせた。
「廃地にあまり興味を持たんほうが良い。その期待が落胆にかわることはうけあいだからの……」ロギヌスは肩をすくめた。
「そんなに酷いところなの?」
「一説には不毛の大地が続くともいわれている。昔は森だったところも、いまでは環境汚染が広がっていて、昔の名残として、枯れた樹々がまるで骨と皮だけの老人の指のように地面から伸び上がっていると称した人物もいたそうだ。どこまでが本当なのかはわからないんだがな……」ロギヌスはまた肩をすくめる。
「んー、いまいち想像できないな……」
「想像できなくとも、実際に行ってみればわかるだろう」歴史家兼魔導士はそういった。


51 :蒼幻 :2008/07/19(土) 17:40:13 ID:nmz3zmrc


「ところで、頌のほうはどうだ」ロギヌスの話に一緒に耳を傾けていたセシルが訊ねかけた。
「うん? 頌? それはなんとか習得できたと思ってるんだけど……」
「それは心強い。いったい、どんな風になればマスターなのか分からないけど、でも、現時点で出来ることのほとんどを成し遂げたというのは有益かもしれないな」セシルは自分のことのように喜びながら、マイセルの報告を聞いた。
 マイセルは照れくさかった。しかし、セシルのよろこぶ顔が見られてよかったとも思った。そして期待に応えられるようにもう少し勉強しようと思って、昼食をとった後の休憩時間に『真実の頌』を読み直すことにしたのだった。
 マイセルは言葉を口にのぼせて、つぶやくようにしながら、頌を誦した。
 するとどうだろう。急に春風というにはちょっときつい風が漂ってきて、その風が前方の樹に絡まりながら、颶風のような音を立てる。そしてその樹は葉を根こそぎ持っていかれて、後には茶色の枝だけが残っているという始末だった。
 ――これが頌の威力? マイセルは自分の能力を疑った。こんな力があるpower spellを自分の物に出来たなんて……。やっぱり自分が〈真実を詠う者〉? そうマイセルは感じた。
 確かに頌には不思議な魔力が秘められている。それは予感から実感にかわった。物には魂が宿るというが、頌にも宿るのだろう。自分のような初心者の詠い手でも、その力を引き出すことは容易なのだと思われるのだった。
 昼休憩が終わると、また北を目指して進み始めた。
 馬は息を荒くしながら、道を急いでいく。
 特に急ぐ必要はなかったのだが、自然と馬を早足にさせてしまう一同だった。誰からも、早すぎるという苦情が出なかったからの結果だった。それにしても、マイセルはいったい自分がこれからどうしたいかと無理に考えるのを諦めていた。なるようになるだろうという気持ちも強かった。しかし、こうも考える。
 ――自分には〈闇王〉を倒す動機がそれほどない。しかし、〈闇王〉を倒すこと自体が使命であると考えることは間違いでない気がする。〈闇王〉は確かに勢力も凄いものがあるし、一介の詠い手が太刀打ちできるとも思えない。だが、やるしかない。それには、自分の頌と、仲間の剣や杖が必要になってくるだろう。
 ――きっとこれから様々な危険に出くわすだろう。自分たちは必ずしも成功を約束されているわけではない。失敗することもありえるのだ。でも、いまから悲観するわけにはいかない。やるしかない、そう思われた。
「ねえ、マイセル、貴方、ちょっとおびえてるわね」リナイエが顔を覗かせる。
 リナイエは列の最後尾から二番目にいたから、先頭から二番目のマイセルの顔を見られるポジションまで来るのには、セシルを抜かなくてはならなかった。マイセルが後ろを見ると、セシルは、ふてくされた表情をしながら、自分たちを見戍っていた、
「これからのことを考えてたんだ」とマイセルはリナイエのほうを振り返って告げる。
「ま、なるようになるわよ、妾だって怖いんだから……」
「そう……なんとか元気を出して見るよ」
 そういうと、マイセルは笞をいれて、馬をさらに駈けさせた。


52 :蒼幻 :2008/07/19(土) 17:41:01 ID:nmz3zmrc

第四章 廃地の住人――その悪しき魂たち


 


53 :蒼幻 :2008/07/19(土) 17:41:55 ID:nmz3zmrc

1 死の沼と魔王の眷属


 
 出来うる限りの速度で前方に見える山地に向かって進んでいった。
 昼間は前に進むことだけを考え、夜は疲れを取るために早めに眠る。
 しかし、そういう生活も、不審な物音ですべてがかき乱される運命にあった。それは焚き火をしている最中のことだった。あたりはとっぷりと暮れ、もう、薪にする枝もなくなりかけた頃、ふと、焚き木のはぜる音の他に、落ちている枝でも踏んだような、バキッという音が聞こえた。そのときには、もう六人とも眠りに就こうとしていたのだったが、ヨンネルが真っ先に気づいた。
「誰か!?」ヨンネルが告げる。
「どうしたんだ?」とロギヌスが訊ねようとしたとき、エルフは音のした方に神経を集中させ、警戒する様子を見せていた。
「囲まれてますよ」エルフの索敵能力はすばらしいものだと思っていたから、何事かと起きだしたマイセルも、しばらく考えた末に、腰の剣に手をやった。
「誰に囲まれたの?」マイセルは訊ねかける。
「さあ、それはわかりません。しかし、ここが廃地に近い山の中ということを考えれば、きっと〈闇王〉の息のかかった存在であることは間違いないでしょう」
 そのヨンネルの進言は残念ながら当たっていた。
 遠くの、焚き木の火が届かないような遠くから物音が頻繁にしはじめ、その気配は、とてもひとりものではなく、大勢のコボルドのものだということがはっきりしてきた。緑色の肌、頭に角を持つ者、ごつい棍棒を持った姿――。それはエルフやドワーフとは異なる、もうひとつの種族だった。そこには物語に敵役としてしか登場しない、禁忌とも呼ぶべきような存在であるコボルドがいた。
 コボルドはある国では鬼と呼ばれているということを何かの書物で読んだことがある。その書物には、鬼というのは人間の変化した姿であると書かれていたことを憶えているが、いまのこの緑の肌のコボルドを見る限りでは、以前、人間だったという考えは当たらない気がするのだった。こんな醜悪な表情をした人間がいるものか? そんなことを考えると、マイセルはコボルドという種族が、ひとつの異質の集団であるということに思いがむかうのだった。
 コボルドはじりじりっと間を詰めてくる。
 全部で十体ほどだろうか?
 マイセルには落ち着いて物事を考える時間があった。そしてあの『真実の頌』の中、敵を混乱させる頌があったことに思い当たった。次の瞬間、コボルドは声をあげて襲い掛かってきたが、そのときにはマイセルは頌を口にしはじめていた。
 言葉はすべて高地イルメル語。
 あえて訳すなら、「美しき心は美しき身体に宿る。いま見えるサンザシの丘に太陽は昇りて、万物生育す。生き物の心の湧き立つこと、奇を見るが如し。光の世界に狂気もまた生ず」といったところか。
 それは敵の精神を狂わせ、同士討ちさせるという強力なものだった。
 セシルやヨンネルも武器を構えていたけど、実際に武器を使って敵を倒すのは、同士討ちにはぐれたものだけで済んだ。
 頌に操られたコボルドは口から泡を吹きながら、何かに駆り立てられるように、仲間内でもめている。セシルは改めて頌の威力を確信するのだった。
 あるコボルドは手にした棍棒を手当たり次第に振り回して、仲間の頭上にそれを見舞う。そんなことをしている間に、人数は一人、また一人と数を減らしていくのだ。マイセルは剣こそ抜かなかったが、いつでも臨戦態勢になれるように準備していた。反面、セシルは剣を抜き、あまったコボルドに襲い掛かる。
 美しい剣技の冴えが光った。
 セシルは鳳凰の構え≠ゥら上段にむかって、刺突を加える。あっというまにコボルドの身体に、その一撃が見舞われる。さっきまで意気軒昂だったコボルドの身体は、あっというまに脆くも崩れ去る。セシルは刃についた血を拭わずに、また次のコボルドの身体を狙う。そうして順調に進んだかに見えたコボルド退治だったが、セシルが三体目の止めを刺している最中に、仲間を殺したコボルドが見境なく、棍棒を振り回して、セシルに攻撃の手を加えようとしている状況に陥った。
 それを瓦解させたのは、頼りになる、ヨンネルの弓の腕だった。
「うぎゃっ」とカエルの潰れたような声をあげたコボルドは胸元にささった鋭い矢に明らかにひるんでいた。どうして、自分の身体に矢が刺さっているのかわからないといった風情である。セシルはいま止めを刺したコボルドの肉体から剣を抜き去ると、そのヨンネルの弓が命中したコボルドに襲い掛かった。それはセシルの敵ではなかった。すでに、ヨンネルの弓の攻撃を食らって、ひるんでいたから、そんな相手に負けるはずもない。ヨンネルは最後の残りのひとりまで倒して、一同を振り返った。
「なかなか面白い戦闘だった」というセシルはまるで、なにか出し物をしているかのような軽い口ぶりだった。コボルドは相手を殺そうとまでしていたような連中だったから、マイセルの目には、セシルのその様子がなにか舞台の滑稽な一場面のようにも映るのだった。
「ふむ……セシル……」とロギヌス。「まるで魚が水を得たような動きだったな……。そなたの体つきを見ていると、頭よりも体を使う仕事に向いているように思うぞ。しかし、その剣技、どこで習った? それは王室の用いる剣と同質であるように思うのだが……」
 それは最前の鳳凰の構え≠フことをいっているのだろうと、セシルには了解された。
 確かに、あの構えは独特であり、しかも、王室の剣技を模したものだと思われるが、しかし、セシルの剣技はすべて伯父さんから習ったものであった。セシルの伯父は大会で優勝したときに、名誉師範として王室にも出入りしていたから、その時に、この鳳凰の構え≠習得したのだろう。それが回りまわって、セシルの剣技の冴えに結びついている。
「伯父の受け売りですよ」とセシルは嬉そうにロギヌスに告げる。
「受け売りでも、優れた物は優れている」と歴史家。
「こんな風にコボルドを撃退できたのは、なんらかの恩寵が働いているからです……」
 セシルが謙遜するのは珍しいことだった。それほど気分がよかったのだろう。
「マイセルもよくやったな……」ロギヌスは目を細めて褒める。「頌の実戦投入、成功だな」
「本当に僕なんかが頌を口にしていいんだろうかって思ってましたが、いまの戦闘を見る限り、その心配は杞憂だったという気がします。これからは頌をもっと使っていきますよ。使ってみたい頌も沢山あるし……」


54 :蒼幻 :2008/07/20(日) 22:18:27 ID:nmz3mGL4



 マイセルの言い分はもっともだった。確かに頌にはさまざまな種類があり、いまのように多人数戦闘に威力を発揮するものや、対一体の戦闘にこそ、きらりと光る能力を有する頌もあるのだった。しかし、共通するのは、どの頌も強力だということだ。
 頌さえ詠っていれば戦闘は簡単にこなすことができるのではないか、というマイセルの考えは、確かにある核心を突いていると思えた。
「リナイエ、大丈夫だった?」一同の中で唯一の女性ということで、マイセルは心配になってリナイエに訊ねかけた。リナイエは息を切らしていたが、確かに無事ではあった。戦闘中、リナイエは魔導士が呪文を詠唱するように、何かを口にしていた。それは力と速度を強化させる頌だったのだが、直接に剣を振るっていたセシルには気づきにくいことだった。
「セシル、いまの戦闘で気づくことなかった?」とリナイエが訊ねる。
「んー、わからないな」とセシルはつぶやくようにいう。
 リナイエは苦笑しながら、その会話を終わった。
 しかし、マイセルはちがった。
「ねえ、リナイエ?」マイセルがたずねる。その視線はするどくリナイエの目筋に向けられており、なにか真剣に訊きたいことがあるのはあきらかだった。
「どうしたの?」マイセルの気迫に押され気味になることもなく、リナイエは受け答えする。
「さっきのセシルに対して、何か詠っていたよね。あれってなんだったの?」
 リナイエはゆっくりと表情をかえて微笑んだ。「あれは攻撃補助の頌よ。魔導士ならいっぺんで詠唱を完了させるでしょうけど、私たち詠い手は、継続的に頌を詠わないと、効果が発現しないから難しいわね。さっきのは、力と速度を上昇させる頌だったわけよ。その『真実の頌』には載っていないけど、私たちエルフ族の里に代々伝わっている頌だから、妾も熟練してるってわけ。他にできることといったら、自分の周りに防護壁を造り上げる頌とかがあるけど、それだと自分の身しか守れないからね……。それじゃいけないでしょ。仲間で協力し合って戦っている以上……」
「そうだね」とマイセル。
 しかし、マイセルは落胆する気持ちもあった。自分はこの『真実の頌』に書かれている頌をマスターしただけで、すべての頌を扱えるかのような錯覚に陥っていた。いまリナイエが詠ったような頌は、魔導書『真実の頌』には少しも書いていなかった。世の中には自分の知らないことの方が沢山あるのだと気づかなければならない。そう感じるマイセルだった。増長するまえに気づけてよかった。
「ハメルはどう?」マイセルがドワーフのほうを向いて訊ねる。
 ドワーフは顎鬚を撫でながら、はっきりとした声で告げた。「なんか、さっきの戦闘で身体が軽くての……。普段なら走ったりしないのに、なんとも動きやすかったんだ。なんかの魔法にでもかかってたのかな」
 そういうドワーフの言葉にリナイエの能力のことがうかがい知られ、マイセルは少し笑みを浮かべた。
 結局、六人は無事だった。そして、ここにいると危険だということを悟り、夜の闇の暗いのに紛れて移動することにした。
 遠くでフクロウの鳴く声がする。
 樹といえばほとんど葉をつけていない枯れた喬木などが主流なのに、どこにフクロウのねぐらがあるんだろうと思う一同だったが、そんなことよりもいまは自分の身の安全を図る方が先決と思われ、マイセルたちは馬に乗って移動しはじめた。
 二時間ほど進んでみると、鬱蒼とした樹に覆われた窪地が見つかった。ここなら火を焚いても目立たないだろうとドワーフがいったが、用心のためにもう火は使わないでおこうと歴史家が制した。
 窪地に毛布をひき、ごろんと横になって眠る。馬たちは近くの樹に手綱を結びつけたのだが、それからずっと鳴き声一つあげずに大人しくしている。まるで主たちの心を知っているかのように……。



 曙の光は明るく、心地よい風がなだらかな窪地に向かって吹いてくる。
 起きた時間が良かったのかもしれない。昨日のコボルドの襲撃もまるで余所ごとのように思われ、マイセルは充分に眠って気力復活した自分が、まるで新たに生まれ変わった人間であるかのように感じているのだった。
 朝食はまたドワーフのオートミールだったが、それも美味しく食べる事が出来た。
 準備を済ませ、出発しようということになったのだが、そこで不思議なことに気がついた。あれほど遠くに見えていた山々が、もうすぐそこに迫っているのだった。あれを超えればもう廃地しかないという標である山脈が、もうすぐそばだとは……。マイセルは今日中に、あの山地を超えることになるだろうと予感した。
 マイセルは馬を駈っている最中に、ヨンネルとハメルが背後で何事かいい合いをしているのに気づいた。何を言い争っているのかと思えば、それはいまさっきたべた朝食のことについてだった。
「俺は絶対、ドワーフの食事こそ世界最高だと思うがね」とハメル。
「いや、私はエルフの常備食こそ、世界水準に達していると思う」とヨンネル。
 マイセルはそのあまりにもお互いのことを受け入れないいい争いに、呆れて物がいえないとはこのことだと感じていた。
「ドワーフだ!」
「エルフだ!」
 気づけば、ロギヌスもセシルもリナイエも、ちらちらと後ろを振り返って、二人の発言の成り行きを見守っていた。
 何がきっかけでこんな争いに発展したのだろう、と思ったが、確かに、今日の朝食のとき、オートミールを食べている最中、ヨンネルが、エルフの常備食があるならそちらを食べたいといっていたのを思い出した。それほど食べたいのなら、食べればいいといいかけたマイセルだったが、そのヨンネルの発言を聞いたハメルが、ドワーフの食事をばかにしているのか、とけしかけたのだった。そこからの因縁なのだろうな、とマイセルにも感じられた。
 しかし、どうすることもできない。事態の沈静化を待つしか……。


55 :蒼幻 :2008/07/20(日) 22:19:02 ID:nmz3mGL4

 前方の山脈はすでに近くに迫っており、もう一時間もすればその麓に着くだろうと思われた。
 果たして、一時間後には山を登り始めていた。ほとんど裸山に近かった山脈は、道という道もなく、ただその前方にある山を乗り越えるためだけに、馬を進めていく一同だった。
 マイセルはいよいよ敵の本拠地に乗り込むのだということを知り、緊張で、なにもかもが繊細な心でしか受け止めることのできない不思議な感覚を味わっていた。
 ある瞬間から、一分が一時間にも感じられるような時間感覚を感じとっていたマイセルだったが、それが緊張感によるものだとは意識していなかった。
「いよいよ廃地か……」セシルが感嘆するように声をあげる。「敵の攻勢も強まってくるんじゃないかな」
「そうかもしれんの……。しかし、そんなことでへこたれるわけにはいかんよ」とロギヌスが告げる。
「なあ、廃地っていっても、広いだろう」そうドワーフが口をひらく。
「そうだな」と歴史家。
「いったい、廃地のどこに〈闇王〉がいるのか、わかっているのか? わからないんだったら、ずっと廃地をさまようことになるんじゃないのか?」
「それは心配いらん。〈闇王〉は廃地のなかでも、特に危険が多いとされるハイネ湿地の最奥部、デルラ城に住まいしておることがわかっておる。そこが今回の最終目的地というわけだ」
 ロギヌスは油断のない視線をドワーフに向けた。
 ドワーフは目をさまよわせる。
「あんた、いったい、何者なんだ? 〈闇王〉の居場所なんて、普通、知らないもんだぜ」ドワーフはまるで人知の届かないものに畏怖の念を抱くかのように、声をふるわせた。
「ふっふっ、いろいろと情報網があるんでな。さすがに廃地のことを知るのは骨が折れたが、まったく知らないわけでもないんでな」と歴史家は微笑む。
 歴史家がさらに説明したのは、こういうことだった。
〈闇王〉の本拠地であるデルラ城は、城とは名ばかりの廃墟であったらしい。それが数年前に新たに築城しなおされ、綺麗な城になったとのことだ。そして、〈闇王〉はそこをねぐらにして、眷属たちを指揮し、自分に害なす存在を始末しようと狙っているのだそうだ。
 マイセルはこれまで〈闇王〉が本当に存在しているという実感を抱くことができなかったのであるが、ロギヌスの話を聞くうちに実感というものが湧き起こってくるのを感じていた。
 マイセルは気持ちを整理するために、馬の上で深呼吸を試み、そして、ゆっくりと息をはきながら、前方を見据えた。
 しばらく行くと、山脈は頂上付近にさしかかり、今度は下り坂になった。
 木が生えていないために、殺風景に見える。
 他に道標になりそうなものもないので、下りはいつのまにか麓に着いていたという感じで、なんとも奇妙な感覚に陥っていた。
 ――いよいよ廃地に到着ってわけか……。マイセルはこみ上げてくる奇妙な達成感にさらに緊張の度合いを高める。
 しかし、廃地といってもすべてが荒廃しているわけではないのだということを感じとっていた。荒野と呼ぶにふさわしい土地が広がっている。
 だが、その感想も、一時間後には別の感情に入れ代わっていた。
 山脈の近くの土地は確かに乾燥していて、動きやすい土地だったが、しかし、廃地の奥のほうへ進むにつれ、水気のある土地が増え始め、しばらく行くころには、沼と化しているところがあたりに散在するようになってきた。
 そして、一同は、足をひるませるような沼地が回りにひしめきあっているような場所に出くわしたのだった。
 沼地に足を奪られつつも、なんとか前へと進む一行だった。いったん、道に迷えば、永久にそこから抜け出すことは出来ないと思えるような、たいへんな沼地だった。
 道は硬い地面ではなく、湿気で過度に柔らかくなったところを通らなくてはいけないケースもあった。
 いくつめになるか分からないかなり大きめの沼を超えている最中にセシルが告げてきた。
「しかし、俺たち図書館司書がこうやって冒険をする羽目になるとはな……」セシルは感嘆するように声をあげた。「ユービック司書長もまさか、俺たちがこんなことをしているなんて、思いもよらないだろうよ。それにしても、ほんの二ヶ月前まで、本の整理やら、貸し出しやらしていた自分が、こんな行動的な活動を行なうなんて、人生はわからんもんだな……」
「そうだね」とマイセル。
「しかし、あのとき、一緒に酒を飲みにいっていなかったら、ロギヌスと会うこともなかったし、こんな冒険にかり出されることもなかった。しかも、マイセルがその日に『真実の頌』を見ていなかったらロギヌスに話しかけられるきっかけもなかったわけで、そう考えると、運命ってのは本当に存在しているのかもしれないな……」
「しておるよ。存在しとるとも」ロギヌスが横から口を出した。まるで、二人の会話を黙って聴いていることができなくなったかのように。
「ふーん、でも本当に自分の中で大きな歯車が回っているのを感じることがあるよ」とセシル。
 セシルは、他に何ができるというわけではないけど、自分がこれまでに剣の腕を磨いてきたのは、ひとえに今回の冒険のためだったのかもしれないとロギヌスに告げた。
 歴史家は「そういうこともあるかもしれんな」と遠い目をしていった。
 マイセルはその歴史家のものいいが、本当は事態をよく知っているのではないかと疑えるような様子であることを認識していた。しかし、表立ってそのことを追求する気はなかった。
 湿地帯は先へ進むほどに、程度がひどくなっているような気がした。そして、どうせなら遠回りではあるけれど、沼地の外周をぐるりとまわって奥へ進んだほうがよかったのではないかと後悔し始めるマイセルだった。
 そうロギヌスに訊ねかけたマイセルだったが、ロギヌスの返答は次のようなものであった。


56 :蒼幻 :2008/08/01(金) 15:58:34 ID:nmz3mGL4



 沼地は、目的地であるデルラ城の周囲をぐるりととりまいている。ハイネ湿地帯は沼地そのものだが、そこを通り抜けない限り、敵の本拠地に進むことはできないだろう。いま進んでいるのが正しい道だということができる。
 マイセルは道なき道を進むことは、つねに危険と隣りあわせだということに感づいていた。確かにまだ足をとられるだけで、大事には至っていないけれど、少しでも馬が足を滑らせたなら、この沼に命まで吸い取られるような気がしてならなかった。
「この沼地はいつまで続くの?」とマイセルは不安そうに告げた。
「そうだな……まる三日はかかるかの……」と歴史家。
 ――まる三日……。マイセルは信じられなかった。
 山を超えた時点で旅の大半は済んだように思っていた。それなのに、あと三日とは……。
 気がめいりそうになりながらも、マイセルは前方の、何のかわりばえもしない景色を見やった。遠くの方に一本だけ樹木の生えているのが見受けられたが、それは錯覚で、実は、もう立ち枯れになった巨木であるということが、明らかになった。しかし、その見間違いは仕方のないものだった。というのも、この沼地に入ってから二時間というもの、徐々に霧で視界が悪くなりはじめていたのだ。
 その巨木も、実際に見える距離まで進むには時間が必要であったが、マイセルはひそかに視覚強化の頌を唱えていたので、それが見えたのだった。
 個人的な使用に対して、頌はさまざまな効力を発揮する。
 マイセルはいま、頌に対していい感情を抱いていた。
 頌さえあれば、なんだってできる。超能力という奴は手品と一緒でうさんくさいものだと思っていたのだが、こうして自分で行なうようになってからは、それがもうひとつの自分の秘密の手段であるようにも思われ、それがマイセルに楽しみを与えるのだった。
 マイセルはふとリナイエの方に視線をやった。
 リナイエは馬上で少しそわそわしている。
「どうしたの、リナイエ?」とマイセルは思わず訊ねる。
 リナイエはせわしない感じで視線をさまよわせて告げる。「落ち着かないの」
「えっ?」
「だから、落ち着かないのよ。こんなに沼がある土地なんて入るの初めてだから、緊張しちゃって……。しかも、この沼、ことごとく濁ってて、鏡を脂で拭いたみたいに曇ってるのよ。それが妾には許せなくてね。これが湖沼地帯とかなら、状況は一変するでしょうけど」
「仕方ないよ、我慢しなきゃ」とマイセル。肩をすくめて見せたが、それがリナイエに及ぼす効果はほとんど無きに等しいと思われた。
 リナイエはもう一度、周りをぐるっと見回してみて、自分の心を落ち着けてくれる物はなにもないことを悟ると、溜息をひとつついて、それから馬の首をなでてやった。
 道程は果てしないように見えたが、変化の現れたのは三日目の明け方だった。
 まだ空は薄暗くて夜の名残が残っているころ、ただならぬ殺気を感じて、ヨンネルとリナイエの兄妹とロギヌスが目をさました。そして怪しいところに視線をやって、そこに一団が潜んでいることを察知した。一同を起こしている暇はなかった。
 それでも、セシルとマイセル、ハメルに声をかける。
「おい、囲まれたぞ、早く起きろ」、と。
 しかし、ハメルはむにゃむにゃいうだけで一向に起きる気配がないし、起きたセシルとマイセルもいったい自分がどんな状況下に置かれているのか、まったく知らない様子だった。
「仕方ない、わしらだけでやるとしよう」
 歴史家はそういうとリナイエの方を見やって「あとは頼む」といい、自分は愛用の杖を持って、参戦した。
 隠れていたのはコボルドの集団だった。それは数日前野営中に襲い掛かってきたコボルドとなんらかわらない集団だったが、その先頭には何か馬のような四つ足の生き物――それは巨大な狼のような姿をした生き物だった――に乗った全身黒尽くめの男が見えていた。
 コボルドたちはその黒尽くめの男の指示のもと、奇声をあげて襲い掛かってきた。
 ロギヌスとヨンネルはリナイエのバックアップを得て、自分の持てる力以上の力を発揮して、コボルドたちを撃退していった。
 それはとても勇敢な行為で褒められたものであったが、しかし、途中からセシルとマイセルの剣、それにハメルの斧も加わったので戦闘はかなり楽になった。
 マイセルは剣を振るいながら、頌を口ずさんでいた。
 頌の特殊な力が発効して、敵の混乱を招いた。
 マイセルたちはその隙をついて止めを刺して行くという手法に出た。
 しかし、黒尽くめの男だけは、一筋縄ではいかなかった。しかし、マイセルにはある予感があった。
 それはその黒尽くめの男は〈闇王〉の眷属であろうということだった。
 果たして、男は、兜の面頬をとって、一同の前に素顔をさらけ出した。
 それは見るものを戦慄させるような外貌だった。
「私の部下を殲滅してくれるとは、なかなかの実力者だな……」それは薄暗い影のように不気味な声だった。まるで硝子を爪で引っかいたような声ともいえよう。
「悪は誅滅するに限るというものだ」とロギヌスが威厳のある声でいった。
「それはいい度胸だ」黒尽くめの眷属はぜんぜん、追いつめられたというような雰囲気を出さない。
 そして、黒尽くめは自分のことを語りだした。
「私は〈闇王ハデル〉様の側近、デイスと呼ばれるもの。別名〈命を狩るもの〉と呼ばれている。その二つ名の詳細は、これからそなたらが目の当たりにするだろう」そういうと、眷属デイスは剣を腰から抜き放って、獣の上で上段に構えた。
 剣は光に反射して、黒光りした。刀身が黒いのはもともとなのか、それとも手入れを怠ってわざとそんな風にしているのか、判然とはしなかった。
 その眷属デイスはロギヌスに正対できるように、声をあげて襲い掛かってきた。
 ロギヌスは「ふんぬ」と力んで、まず、デイスの一撃を杖で受け止めた。
 デイスの一撃はロギヌスの杖など簡単に折ってしまいそうに見えながら、実際、切れ味はよくなかった。ガキンと音がして、二つの武器のかみ合う音。また、ロギヌスの杖にしたって、切れ味という物は存在しないものの、剣とかみ合っても、負けていないような印象だ。


57 :蒼幻 :2008/08/01(金) 15:59:19 ID:nmz3mGL4



「美しい花には美しい魅力が備わっているように、美しい武器には、美しい魂が備わっている」力比べでは不利に思われたロギヌスだったが、いまは体力強化のリナイエの頌によって気力は満ち、全盛期のような力を取り戻していた。
 ロギヌスは一気に眷属の剣を押しやると、続けざまに五撃、六撃と杖による打撃を打ち出し、眷属をひるませた。
 そこで眷属はおかしいことに気づいたようだ。「お前たちはいったい何者だ」
 眷属はそれからロギヌスの見た目がもう初老だというのに、まるで若者のような無尽蔵の体力を有していることを不思議に思いはじめ、やがて、それはなにか女エルフが詠っている歌声のせいだということに気づいたようだった。
 眷属デイスはそのおかしなことに付いて、もう〈闇王〉から説明を受けていたのだろう、そこからすぐに〈真実を詠う者〉の事項を思い出した様子だった。
「お前らは頌を操るのだな……。つまり、報告にあった〈真実を詠う者〉の一派だということだ」眷属は剣を鞘に戻しながらそういった。もはや、戦意は喪失したらしい。否、喪失したのではなくて、一時的に引いただけだろう。
 眷属デイスはそれだけいうと、狼のような巨大な生き物の踵を返し、そのまま走り去ってしまった。
 マイセルたちにそれを追いかける気力や体力はなかった。狼は人には出せない速度で一散に走り去ったからだ。
「まずかったかもしれんの……」とロギヌスがひとりごちる。
「敵に正体を知られてしまったわけだ……」とセシル。
 マイセルはそれがどういうことなのか、いまいち飲み込めなかった。そこでロギヌスが説明を試みる。
「敵に正体を知られたということは、今度は大軍でわしらを襲ってくるかも知れんということだ。あの眷属デイスとかいうやつ……慎重を期するタイプと観た。今度は、何百何千というコボルドをつれてくるかも知れん。いまのうちにこの場所を離れたほうが良いだろう……」
 そういうと、ロギヌスは一同に馬に乗るようにいい、そして、一目散にその場所を離れることにした。事態は一分一秒を争う。こんな危険な場所からは逃げ出すに限る。ロギヌスは馬を駈りながら、そう説明をした。
 マイセルは恐怖を覚えていた。さきほどの戦闘で観た眷属デイスの醜悪な顔、それが視界の隅に散らつくようであった。
 マイセルは祈るような思いでロギヌスの後をついていった。何か途轍もない邪悪な物に影を踏まれているような思いがした。それはおびえというものかもしれないが、確かに、自分の中でも納得できない面があることに気づいていた。
 人がしないようなことをしているという、英雄視的な視線で自分を見ている面もあったが、こうしてじっくり考えて見ると、どういうわけか、しなくていい苦労をしている自分というものも見えてくるのだった。
 ――しなくていい苦労……。自分は図書館司書である。それは確かだけれど、いまこうして危険と隣り合わせの旅をしている。それには図書館司書という職種はまったく関係がない。自分が何をしている人間なのか、それが問われない旅なのである。
 ――いったい自分はこれからどうなってしまうのだろうか? そんなことを考えると、不安でたまらなくなってくる。
 ――眷属デイス……。考えれば考えるほど、不気味だ。自分とは人種が異なるというだけではない、自分と同じ生命を持った肉体とは思えないほど、かけ離れている。全身黒尽くめというだけですでに風変りなのに、それ以上に、あの醜悪な顔。
 顔で他者を判断するのはいけないことかもしれないが、しかし、あんな顔を見たのでは、心に悪感情を持っても仕方ないのではないか?
 マイセルは何度か目をしばたたいた。
 そして、一同の顔を覗きこんだ。
 ロギヌスは渋い顔、セシルは飄々として、ヨンネルは穏やかに、リナイエは端整な顔に愁いを帯びて、ハメルは目じりに皺をよせている。五人が五様の表情を見せている。
「ねえ、ロギヌス。妾は思うんだけど、〈闇王〉の眷属って何体くらいいるの?」とリナイエが眉をひそめながら訊ねた。
「んー、難しい質問だの……」とロギヌスは目を細める。
「五人くらい? それとも十人くらい?」
「んー、ま、そのくらいだろう」
 ロギヌスが語尾を濁してそういうと、リナイエは美しい顔を曇らせて怪訝そうな表情をした。
「五人から十人か……」リナイエは心配そうな声をあげる。
「どうした?」とロギヌスが訊ねる。
「ううん、あの醜悪な眷属デイスの腕前を見たでしょ。あんなのが五人も十人もいるんだって思うと、いよいよ気合を入れてかからないといけないんだなと思ってね」
「ふむ、まあ、そういうことだな」とロギヌス。
「妾はまだいいわ。詠うだけだもの。それより、実際に剣を交える三人が、これまでと同様、今日を無事に乗り切る保証なんてひとつもないような気がするの。それはわかってくれる?」
「そうかもしれん、また、そうでないかもしれん」ロギヌスはまるでいいくるめるようないい回しをしてみせた。
 セシルは馬上で二人のやり取りを聞き、何かいいたそうにしていた。
 マイセルはセシルのその表情に、何か確たる覚悟があるように感じられた。
「セシル、どうしたの?」とマイセルが訊ねる。
 セシルは告げる。「いくら眷属たって、二本の腕に二本の足を持った、人間と同じ奴だろ。そんなやつとやりあうのに、命まで奪られるような不始末は起こす気はない、ってもんさ」セシルはあっけらかんとした明るい声を出してそういった。
 すると、それを耳にしたリナイエが、つとめて声を明るくしたようなトーンで語りかけてきた。
「貴方は怖くないの? あの眷属の醜悪な顔を見たでしょ。あんなのがごろごろしてるのよ」リナイエは眉をひそめる。


58 :蒼幻 :2008/10/18(土) 10:40:50 ID:rcoJs3VH



「そんなの、夜中に街中を歩いてる酔っ払いと同じだと思えばいいのさ。そうすれば、あんなの行きずりの人物としか思わなくなるってもんでね。それに俺のとりえといえば、心配を明日に持ち越さないってことさ。確かに、仲間が負傷したり、亡くなったりしたら落ち込んで憂鬱になるかもしれないけど、そうはならないように、今出来ることを真剣にこなして行こうっていう気合だけはあるんでね」セシルはその頑丈な腕に筋肉をぎゅっと張ってアピールする。
 心なしか、リナイエも気分が晴れたように見えた。
 ロギヌスは先程の眷属デイスとコボルドの襲撃を避けてからというもの、目的地のある北方には進まず、東の方へ去ることにしたらしい。あの眷属が巨狼を駈って逃亡したのは北西の方向だった。きっと仲間を集めにいったに違いないと確信していたロギヌスは、狡猾な割に単純そうな眷族をやりこめるために、東へ進路をとったのだった。
「ここから東に進み、反時計回りにぐるりと大回りをしながら、〈闇王〉の居城であるデルラ魔城都市に向かうとしよう」
 歴史家のその物言いに、マイセルたちは驚いてしまう。
「魔城都市? それはなに? ただ城があるだけじゃないの?」マイセルは質問ばかりを並べ立てた。
「魔城都市デルラ。〈闇王〉の棲まいする城は単体であるわけではない。それは人間の世界のものとは較べ物にならないくらい小さなものだが、それでも、いくつかの集団に分かれて、共同生活を送るコボルドやノームが存在している。そこには社会秩序というような一般的なものではないにせよ、ある一定の決まりがもうけられていて、奇妙な社会が築きあげられているわけだ」
 ロギヌスのその言葉に、一同は聞き入った。そして、さらに疑問に感じたマイセルだったが、次に口を開いたのは、旅の間中、無口で、あまり他者と接することをしようとしなかったヨンネルだった。
「その魔城都市とやらは、どれくらいの大きさなのだ?」とヨンネル。
「さあ……わしも風の噂で聞いただけだが、なんでも、数千人が棲まいしているとのことだ。だから、それくらいの規模の都市ということだろう。まぁ、イスハークにでも行けば、数千人という人口は都市というより、小さめの町かちょっと立派な村といった感じだろうがな……」
「ふむ……少し気になるな。あの暴れることしか知らないようなコボルドたちが社会生活を営んでいるとは。ま、どんな種族でも仲間との共存は考えるものだろうがな」ヨンネルは肩をすくめて、そんなことは大した事ではないという風に態度を示して見せた。
 マイセルは魔物と等しいくらい凶悪な種族であるコボルドが数千人も棲まいしている場所というものを想像してみた。そして、そのあまりの醜悪さに身震いを何度も繰り返した。先程の二度の襲撃で、コボルドがどんなものかよくわかった。あの棍棒やら、よくわからない錆びた剣を振り回して、口から唾液をしたたらせ、秩序なく攻め込んでくる、低能な生物、そんな印象だけが心に残っていた。
 しかし、そんな生き物が社会を形作っているという。それはいったいなんなのだ? まだ年端も行かない子供が同年代の子供たちと一緒に同じ場所で保育されるようなものだろうかと考えて見る。そこには原始的ないじめもあるかもしれない、身分格差があるかもしれない、歴然とした貧富の差があるかもしれない、と考えてみる。
 次にマイセルは眷属デイスについて考えてみる。
 眷属デイスは確かに醜悪な顔をしていたが、コボルドほど愛嬌があるわけではなかった。あくまで冷徹な印象。それは指揮官としての重責というものもあるのかもしれない。もともとそういう性格であるのかもしれない。とにかく、デイスは眷族としてはどの程度の腕を持つ者か知らないが、確かに、手ごたえのある、倒すに値する魔物だと感じられた。
 それにしても、引き際が実にあっさりしていた。
 指揮官たるもの、味方の劣勢には、自分の身を守って、速やかに撤退するものかもしれない、と一人で納得してみるマイセルだった。
 一向は半日かかって――太陽が南中に向かう頃――突き進み、それから休憩を入れることにした。〈闇王〉の居城までは何日かかるのか、いまいちわからない。しかし、眷属デイスが向かったのは、間違いなく、デルラ城だろう。そして、いま着々とその軍勢を整えているのかもしれない。そうすると、次は自分たちに向けての出撃ということになるが、たしかに、それは凶悪な悪夢といって差し支えない事項だった。いまなんとか逃げている最中だが、本当に、それで振り切る事ができるかどうか、少し疑問だ。それに、もしかすると、〈闇王〉は自分たちの居場所を察知できるのではないかとの、ロギヌスの予感もあった。そう考えると、どこに逃げようと、確実に死が迫っているとの思いがしてくるのだった。
 ロギヌスは少し仮眠をとろうといいだした。
 ――こんなときに仮眠? とマイセルは歴史家の指示を怪訝そうに受け止めたが、何か深い思慮があってのことだろうとおもんぱかれ、マイセルはしぶしぶそれに同意した。
 起きると、もう夕刻だった。
 こんな時間に、しかも、この沼地で食べ物になりそうな獲物をしとめるのは不可能に近かったから、またドワーフのオートミールを食べることにした。
 もう何度目になるかわからない、ヨンネルの溜息。彼はしんそこ、この食事を生き物が食べるものと認識していないらしい。ヨンネルによると、ドワーフのオートミールにはどこか土臭さがあって、それが洗練された味とはいいがたく、どこか、自分の口に合わないのだ、とのこと。マイセルはヨンネルがオートミールを拒否するのは育ちのせいかもしれない、と考えるのだったが、同じ生活をしてきたはずのリナイエの方は文句も言わず、嫌な顔ひとつせず、しっかりと食べているのである。これはヨンネルの性格によるものかもしれないと思ったが、エルフの閉鎖的な社会の中でも、特に、孤にこだわって生きてきたヨンネルらしい行動といえば、行動であるようにも思われた。
 マイセルは食事後、周りの景色をぐるりと見回してみた。
 辺りを取りまく沼はリナイエの指摘どおり、どこか鏡を脂で拭いたような曇りがみられ、それを透かして、灰色の底がぼんやりと映っている。もう何百年も誰も足を踏み入れていないような、経年的な古めかしさが漾っている。マイセルはこんなところでは一週間と生きられないような気がした。
「おい、セシル」気づくと、ドワーフの王子ハメルが口を開いていた。
「なんだい、ドワーフ」セシルはいまではもうハメルとも打ち解け、出逢ったときのような喧嘩腰の雰囲気は抜けていた。確かにあのままの状態で旅が続いていれば、今頃は一触即発の雰囲気になっていたかもしれない。そう考えて見ると、このドワーフとセシルにはどこか共通点のようなものがあり、それが両者の仲を良くしたり、悪くしたりしているように思われた。


59 :蒼幻 :2008/10/18(土) 10:41:43 ID:rcoJs3VH



「あの眷属が襲いかかってきたときに見せたお前の剣の腕……。なかなか立派なもんだと思ったよ」ハメルは感心する顔つきで、神妙な雰囲気をまといながら、そういった。「あの眷属に向けてロギヌスもなかなかいいところを見せていた。しかし、眷族と較べれば格下だが、確かに、あのコボルドたちに対して見せたそなたの剣の冴は、実力を見誤る事はない、確かな筋のものだったと俺は思う。いったいあの剣はどこで習ったんだ?」
 セシルはそのドワーフの物言いに、気分をよくした。そして、こういった。「これは腕の立つ俺の伯父に習ったものだ。剣の大会ではいつも上位に入賞していた人なんだ。王室ともつながりがあって、俺に教えてくれた剣は、王室に伝わる秘剣術のたぐいも含まれていたみたいなんだけどな……」
「秘剣術か……なかなか奥が深そうだな」とハメルは苦笑いする。
 ハメルも王家に連なる血筋ということで、それが彼自身に親近感をもたらしているように思われた。
 そして、セシルもいう。「それなら、ハメルはどうなんだ? あの斧の振るう様。あんなものは人間の世界ではお目にかかれないぞ」
 ハメルは髭もじゃの顔をくしゃくしゃにすると、口元を緩めて微笑んだ。「斧はドワーフの命だからな。俺達はこれで飯をくっとるようなものだから、斧がなければ何もできんようになる」
 出会いはどうあれ、お互いの能力を認めあえたハメルとセシルだった。
「さて、出発するとしようかの」とロギヌスがいうと、残りのメンバーは全員、それに同意した。
「夜陰に乗じて、速やかに移動するってわけだな?」とドワーフが確かめるように訊ねる。
 歴史家は何もいわなかったが、片目をつむって見せて、それを合図とした。
「ふむ……それにしても、本当にこれで眷属たちをやりこめる事が出来るのかね」ハメルは肩をすくめる。
「いまはこれが最良の方法だろうよ、まさか、同じところに留まって、眷属の軍勢を相手にするわけにもいくまい」とロギヌス。
「それはそうだろうけどよ……」とドワーフは口ごもる。
 マイセルはこの逃避行が戦略的撤退であり、何も、味方の不利を考えての事ではないと考えていた。そんなことをしなくても、自分たちには頌の力の保護があり、それさえあれば、どのような軍勢であろうと、撃退でできるような気さえしていたのだ。しかし、ロギヌスはそうは考えていないようだった。
 確かに、頌はさまざまな効果を発現してくれる魔法の道具であった。だが、ロギヌスにとってそれはあくまで補助であって、それが表立って何かの効果を及ぼすというのは、考えていない様子だった。いくら頌があろうと、最後に物をいうのは、剣や槍や杖といった実際の武具だった。しかも、軍勢が増えれば、頌の効果を現出せしめるには長時間、詠わねばならない。それができるかどうか、果たしてマイセルは……といった感じだが、それをわざわざ危険を冒してまで確かめる事は不必要と思われたのだ。
 確かに長い方がいいだろう。しかし、実戦で確かめるよりは、こうした野営のときに、マイセルに詠わせて、その持続時間の長さを確かめさせるという手段が有効なように思われた。
 マイセルによれば、頌を唱えるとき、それほど咽喉に負担をかけているわけではないから、十分くらいなら続けて詠えるだろうという返答した。
 ロギヌスはその十分という数値に、ちょっと落胆した様子だった。どんな軍勢も十分で仕留めなければならないということだ。それにはマイセルの頌だけでは足りない。一度に唱えられる頌は、一人につき、頌ひとつだった。しかも詠うのを辞めると、効果も消えてしまう。戦闘にはずっと詠い続ける必要があり、役割分担としては、マイセルが敵の能力削減、リナイエが味方の能力補強を行なうのが理想的だ。確かに、マイセルの憶えこんだ頌は敵に対して及ぼすものが多かったし、リナイエのエルフの頌は味方の能力の増強にこそ重きをおいている感じだったからである。
 それにしても、ひとつのグループに異なる二人の詠い手がいるというのは、この大陸では珍しい。もちろん、イスハークでもそのような混成のパーティは珍しかった。
 マイセルは馬上で頌を口ずさみながら、先を急ぐロギヌスについていった。
 東方に向かっていたロギヌスが、やがて北に進路をとり、そして、北西の方へと馬首を返していった。はじめは見渡す限り沼地だったが、やがて、じめじめした地面は乾いて、少し水不足のひび割れた大地が見えるようになった。
 ――沼地の次は旱魃の土地……いったい、ここはどんな気候なんだ? とマイセルは考えた。しかし、答えは出ない。
「ここがどんな土地かわからんというような顔をしとるの」と歴史家はすぐ後ろについているマイセルの顔をうかがって、そういった。「なんといっても、この廃地は〈闇王〉の息のかかった土地だ。一説には、〈闇王〉は天候すら操る事ができるらしい。それで、この土地の不自然さが生まれているのだろう。照るとなったら一年中照りつけ、降るとなったら何年でも同じところに雨を降らせる事ができる。そんな特殊な能力を〈闇王〉は持っているらしい。まぁ、はりつけにされたまま動けないのだから、すべてを自分の自由にする事はできないだろうけどな……」とロギヌス。
「はりつけ――?」セシルは頓狂な声をあげる。
「はりつけっていったいどういうこと?」とマイセル。
「知らなんだか? 〈闇王〉は過去にある人物と戦って、その肉体を壁にはりつけにされておるんだ」
「勇者ジールの物語だね」と思い出したマイセルがいう。
「そう、勇者ジールだ」と歴史家。
「ジール……あの俊足のジールか?」セシルはマイセルにことの真相を確かめるように訊ねる。
「そうだね、あのジールだよ」とマイセルは請け合う。
「ジールの物語はさまざまなところで語られ、伝説となり、世に喧伝された。人びとの美しい記憶の中に刻まれた一片の詩のような趣きをたずさえている」と歴史家。
 こういった話はロギヌスの歴史家たる本分を刺激するらしく、もっと語りたがっている様子がありありと見受けられた。歴史家が話すのなら、最後まで聴こうと思ったが、それ以上、歴史家は語るのを断念した様子だった。


60 :蒼幻 :2008/10/18(土) 10:42:23 ID:rcoJs3VH


 一同はあまり口数を多くすることなく、旱魃地帯を脱けようと馬の足を速めた。
 やがて、見かけないものが多いとはいえ、大地に草が生えているような、なんとか生物が生きていけそうな様子の土地に出くわした。見れば、牛のような生き物が群れをなしてその草を食べているのが見受けられた。
 ――コボルドもこういった生き物を殺して、食料にしているんだろうか? とマイセルは考えたが、コボルドは何を食べていきているのかとか、何を考え、あるいは何を目標にしているのかわからないといったことに思い当たり、歴史家に訊いてみたいという気持ちがふつふつと湧き起こるのを感じた。
 コボルドが人間的な社会を営んでいることはなんとなく理解できた。しかし、人間世界と同じく、農家を営むようなコボルドがいるとはとうてい思えなかった。醜悪な顔をしたコボルドがひとつところに留まって生活しているということは驚きだったし、しかも、作物を育てて、それを食しているとも、到底思えなかった。だが、ロギヌスの言によれば、本当に食べ物を作って、それを市場で売るコボルドもいるらしい。
 それを聴いたドワーフは、あからさまに嫌な顔をした。
「いったい、何なのだ……」それがドワーフの第一声だった。
「ふっ、そう思うのも仕方ないの。わしですら、コボルドの社会をしっかりと見定めているとはいえないからの。どうしても、偏見の目で見てしまう」と歴史家。
 そう軽口をたたきながら進んで行くと、その日は、いつの間にか西に太陽が傾き、闇が忍び寄り始め、すぐに真っ暗になってしまった。
 ロギヌスたちは馬から下りると、手綱をかける適度な場所もないので、荷物袋からハーケンを取り出してそこに馬の手綱をひっかけ、地面に打ち込んだ。
 それから何もない大地に腰を下ろし、車座になって腰を落ち着けた。
「ああ、眠い眠い」といったのはリナイエだった。
「寝ちまえ」というのは兄のヨンネルだ。
「ふっ。寝るのはせめて、これを食べてからにしたらどうだ?」といって歴史家が差し出すのは、ここ数日同じである、ドワーフのオートミールだった。
「うわっ、またオートミールか……」ヨンネルは、あからさまに嫌そうな顔をしてみせる。
 その晩は穏やかな会話のうちに過ぎていった。初めは眠そうだったリナイエも、歴史家の語る俊足ジールの話に興味を惹かれ、まるで煖炉の傍で祖父や祖母の昔ばなしに耳を傾ける子供のような感じで、無垢に話に聴き入っていた。
 俊足ジールは一説に不思議な能力を宿した異能者であったとされていた。その不思議な能力はまるで頌の力を発現するマイセルやリナイエのように、詠い手が持つ特有の波長を持っている人物であるようにも思われると歴史家は告げた。
 マイセルは、その話に影響されて、自分もまた神話に登場するような人物と同列に考えられるのだと思い、その考えに、気分を良くするどころか、あまりに恐れ多いことで、恐縮してしまいそうになるのを堪えるのに大変だった。
 その夜、床に入ったマイセルは、遅くまで眠れなかった。


61 :蒼幻 :2008/11/23(日) 20:11:30 ID:rcoJs3VH

2 魔城都市デルラの全貌

 美しく均整のとれた建物である事は遠目にも確かだったが、しかし、それに近づいてくるごとに、調和の不自然さを覚え、それにより、不安が助長されるようであった。
 確かに見事な建物、建築技術だとは思われる。しかし、イスハークの湖畔の城が、優雅という言葉に裏打ちされた穏やかな様子であるのと対照的に、このデルラの城は見る物に畏怖倦厭の念を感じさせるのだった。
 ロギヌスは何もいわずに、城の方へ近づいていく。
 やがて、城下町が見受けられるようになった。ロギヌスはドワーフのところで手に入れたフードつきマントを体に巻きつけ、フードを深々とかぶって正体を隠そうとした。
 町が近づいてきて、いよいよコボルドやノームが生活を送っている場所に入るのだから、そこに異質の人間が何人も現れたなら、きっと種全体に緊張や恐怖や恨みをもたらすだろうと思われたからだ。
「ちょっとこの町は町って気がしないわね」とリナイエ。
「仕方ない。この町はすべてが〈闇王〉のために作られとるんだからの……」と歴史家。
「んー、なんだかエレガントさに欠けるわね」
「エレガントとは対極だな」ロギヌスは苦笑に顔をゆがめる。
 リナイエは肩をすくめると、その小さな城下町を早く脱けてしまいたいと告げ、あからさまに嫌そうな表情をしてみせ、眉間にしわを寄せた。
 町に入ると――この町には門だとか、衛兵だとかが存在していなかった――一向は口数を減らし、やがて、町の周囲を見回す余裕があらわれてきた。
 建物は古びた木材のものが多く、中にはモルタルのような素材のものもあり、その様子は人間の世界に酷似していた。コボルドというと、自然物を素材にした住居が多い気がしていたが――それはエルフのような自然を活かした建物というよりも、洞窟や祠といったものを丸々利用するようなものだった――それは誤りだったのかもしれないと思いなおすことにした。
 順調に進むかに見えたデルラ突破の侵攻だったが、そこで不測の事態が起こった。
 リナイエのその人形のように整った顔が、それを凝視した子供のコボルドにエルフだと悟られてしまったのだった。子供の年齢は五歳程度。種特有の醜悪な表情ではなく、まだ顔に幼さが残っている様子だったが、すでに声を出すことにかけては一人前だった。その声はあまりに大きく、周りの大人のコボルドたちの注意を喚起するようなものであった。
 コボルドはその騒ぎに混乱し始め、自分たちの周りに人間やエルフやドワーフが混じっているということに、あからさまに敵意をむきだしにする者が多かった。
 場は大混乱に陥ってしまった。
 誰が悪いのか、もちろん、悪いのは異質物であるロギヌスたち一向だったのだろうが、一般のコボルドは武器も持たず、ただわめき散らすだけで、それが収まったかと思うと、次は武器を持ったコボルドの軍人の登場だった。
「なにをしとるか?」とコボルドの軍人が声をかけた。
「あ、兵士様。実は、恐れ多くもこのデルラ魔城都市に足を踏み入れた余所者がおって――」というコボルドの声が届くか届かないかの間に、ロギヌスたちは馬を駈ってその場を一刻も早く離れようとしていた。
「あっ、待て」とコボルドの軍人が声をあげる。
 だが、待てといわれて待つような逃亡者はどこの世にもいない。
 マイセルたちはロギヌスについていき、やがて魔城デルラに到着した。
 門は開いていた。
 誰が入っていっても咎められることは無さそうだ。
 開いている門から向こう側を見回すと、大きな庭があり、そこには人間の世界でもなかなかお目にかかれないような、目もあやな草花が植えられてあった。それはまさしく人の心を和ませる立派なものであったが、コボルドもそういう物を見て心を和ませるのかと思うと、不思議な感じがした。
 そこへ庭を手入れしている庭師らしいコボルドが姿を現した。
 ロギヌスはびくりと身構えたが、そのコボルドは職務に忠実といった感じで、ロギヌスたちの存在に意識を向けながらも、自分の仕事に従事しはじめた。
 マイセルはその一連の流れを奇矯に感じたが、やがて、それが神の加護でもあるかのようにも受け止められ、マイセルは落ち着いた視線をそのコボルドに向けた。
 同じコボルドでもこうも違うのかという好例だった。
 ――コボルドという種族を見直さなければいけないかもしれないな、とマイセルは考えた。確かにコボルドは残忍で、惨酷で、醜怪な生き物だ。しかし、全員が全員、悪いというわけでもない。中には、人間のように、他種族に対しての深い理解を抱くものもいるということ。それを強く心に思い描くことが大切だ。
 景観は壮麗というには何かが足りない。しかし、シンプルな装飾は、けばけばしさを感じさせることなく、権力者の建物としてなんら不思議な面は見当たらなかった。
 いまは春。
 しかし、この城にあっては、肌寒さを感じさせる、そらぞらしい雰囲気をかもしている。
 ただ見た目にもさびしげなその謹厳たる建物は、人を寄せ付けないような固い意思に裏打ちされたような外観を持っているように思われた。ロギヌスはその庭師に向かって馬房の場所を訊ねかけた。
「それなら、ここを右に抜けて最初の曲がり角を左に入ったところだ」と庭師は説明した。庭師は「あんたら、人間なのかい」と動じない様子で、そう訊ねてきた。
「そうだが……」とロギヌスは声を忍ばせるようにして告げる。「そうだったら、どうだっていうんだ?」
「そうか、やっぱり」と庭師は肩をすくめてみせる。「俺も若い頃に人間の世界にいったことがあるんだ。あの南の山脈を越えて、東へ西へ。そして、さまざまな庭を見せてもらって、勉強したもんだ。懐かしいな……。あんたら、この城の庭をみて、何を感じる?」庭師は自分の仕事に誇りを持っているかのように、動じない様子でロギヌスやマイセルに訊ねかけてきた。
「庭か……」とロギヌス。「そういえば、この城の庭はどこか人間の世界のそれに似通っているな……意識してなのか?」
「ああ、そうだ」と庭師。「やはり城は人間の世界の方が洗練されている。俺は人間世界に降りて勉強したが、仲間内で人間世界に勉強にいったのは、自分だけでな……。仲間内では人間世界の情報通で、第一の専門家だといわれている。自分で言うのも恥ずかしいが、人間のことなら、ある程度まで見知っているつもりだ」

 マイセルはその庭師が人間に対して愛着を持ってくれていることに喜びを覚えた。
 庭師は一同を見回し、そして、自分の手を服で何度かこすると、握手をして欲しいと、ロギヌスに声をかけた。
 ロギヌスはその申し出に、嫌な顔をすることもなく従った。握手を済ませると、声を落として口早に庭師が告げる。
「〈闇王〉を倒しにきたんだろう?」庭師はひそひそ声だ。
「ああ、そうだ」歴史家はこの庭師になら話してもいいと思ったのだろう。そう答えると、その意思表明に対してこのコボルドがどのような反応を返すだろうと見つめる様子だった。
 しかし、いくら善良そうに見えるからといっても、コボルドはやはりどこまでいってもコボルドだという考えも、マイセルには思い浮かんでいた。本当に、このコボルドは信用してもいいのだろうか? しかし、こうも考える。人間の中にも重大犯罪を犯す人間がいるように、いくら兇悪なコボルドの集団といっても、その一部には多くの人間のように善良な市民というものがいてもおかしくないではないか。すべてのコボルドが戦争を好み、侵略に明け暮れ、残忍を旨とするような存在ではないことが理解される。マイセルは少しでもこのコボルドを疑った自分の心を恥じる気持ちで一杯になった。
 そのコボルドの庭師は、自分が〈闇王〉のもとまで案内できればいいのだがと残念そうにいった。それにはこういう事情があるらしかった。事情というのは、実はこの庭師は典型的な雇われ人足で、この城の中に入る事は勿論、関係宿舎に立ち入ることも禁じられているということだった。庭師というのは、人間の世界でこそ、その職人芸を認められて、かなり立場的に高い位置にあるのだが、コボルドの世界では、低い身分に留まっている職業だった。コボルドはまいったというように、耳の後ろをかいた。
 歴史家は城に入ることに恐縮するコボルドにだいたいの城の構造を訊き、あとは自分で道を探すことに決めたようだった。その庭師のコボルドに礼をいうと、そのあと馬を繋ぎとめておけそうな場所を訊き、その説明にあったヒノキの大樹の幹に六頭の馬を繋ぎとめた。
 それを確認すると、コボルドは職務へと戻っていった。
 歴史家はあたりに油断のない視線を投げかけ、庭師のコボルド以外に動くものはないかどうかを確かめた。索敵はエルフの方が優秀とはいえ、歴史家の長年の経験もまた一同の役に立つものだった。そして、歴史家は、動くもののないことを認めて、城の中へと入ることに決めた。
 確かに、城の門には衛兵の姿はなかったが、そこから城の入り口、つまり玄関口の扉となると、一筋縄ではいかない様子だった。そこには左右に分かれて二人の衛兵が警備していた。
「マイセル、頌だ――」と歴史家が小声で伝える。
「わかった」この場合、どのような頌を唱えたらいいのか、それはマイセルには充分すぎるほどわかっていた。睡眠誘発の頌。最初は口元だけでごにょごにょと、次第に、声を大きくしていって、衛兵の耳にも入るようなしっかりとした声で頌を詠う。
 衛兵は重心をぐらつかせて、やがてその場にぺたりと座り込んでしまった。マイセルは次第に衛兵たちのいる玄関口まで足を運び、そして、頌を詠うのをやめて、玄関口の扉をゆっくりと開いた。
 先頭に立つのはロギヌスではなく、もっとも索敵能力に恵まれているエルフのヨンネルだった。ヨンネルは油断のない視線を進行方向に向けて投げている。廊下を抜け、奥へと進んで行くと、そこには立派な雰囲気を醸す中庭が存在していた。それまでの旅では見かけた事がないほど立派な庭だった。同じ庭でも、外の庭を手入れしていたあのコボルドの手になるものよりも、数段格が上という気がした。遠目には美しい花と映っていたのだが、よくよく調べて見ると、それはサボテンなどの南国に繁茂していそうな植物ばかりで、優雅とは異なる調和を見せているのだった。
「なんだか生暖かいわね」とリナイエがおそるおそる口を開く。
「そうだね」と答えるマイセルも、どことなく落ち着かなげだった。
 一向は、二階へ昇る階段に足をかけた。ロギヌスは油断のない目を辺りに配っていたが、どうも、様子が変だとマイセルは感じ始めていた。
 第一に、これほどの大きな城なのに、そこに従事しているはずの従者や召使いの姿がまったく見受けられないこと。
 第二に、支配者である〈闇王〉の城でありながら、あまりに無防備であること。
 そのような不可解な様子から、自分たちにとってあまりに都合のいい状況であることを感じていた。
「〈闇王〉はどこにいるんだろう?」とセシルがいう。
「んー、まぁ、この城のどこかにはいるだろう。そうだ、リナイエ、索敵能力を強化する頌とかはないのか?」歴史家が愛嬌のあるまなざしを向けながら、エルフの娘に訊ねかけた。
「まあ、ないことはないわね。じゃ、唱えるから少し待って」とリナイエ。「兄さんの能力をアップさせるから、兄さん、ちょっと見て頂戴」
「わかった」とヨンネル。
 リナイエは階段を昇り終えたところで頌を唱えだした。
 とたんに、ヨンネルの様子が変わる。
 ヨンネルはまるで壁がないかのように、四方をぐるりと見回し、やがて、一点で視線をとめた。
「これだ!」とヨンネルが叫ぶ。
「見つかったか?」とロギヌスが頓狂な声をあげる。
「ああ、これで間違いない」とヨンネル。
 それを聴いたリナイエは頌を唱えるのを辞める。
「ついてきてくれ、こっちだ」とヨンネルはいうと、忘れてしまうといけないという真剣さで、早足にその場所に向かって進みだした。
 マイセルはいつコボルドの従者に出会っても良いように、頌をもごもごと唱え続けていた。案の定、進行方向からコボルドの従者――リネン類を持った召使い然とした者たちだった――がやってくる。マイセルは声を大きくして、従者たちに聴こえるようにした。すると、従者は失神するかのように、がくりと身体を折って眠りこけてしまうのだった。
 ――相変らずこの頌という奴はすごいものだ。マイセルはそう感じていた。

 ヨンネルは速いペースで廊下を進んでいく。歴史家たち後の者は、ついて行くのがやっとだった。雑魚的なコボルドはすべて頌で眠らせることにし、歴史家たちはひたすら、〈闇王〉の居所目指して進んでいく。
 すべては順調に進んでいるように思われた。しかし、ここに落とし穴があった。
 またもや眷属デイスが現れたのである。てっきり、仲間を連れ、自分たちの後を追ってデルラ周辺の警備に出ていると思ったのに、まるでそんなことはなく、コボルドどころか、仲間の眷属に声をかけたらしく――そして、もしかすると、マイセルたちがこの城に現れたことを誰かの口から聞き知ったのかもしれないと思われた――デイスの横にはさらに二人のコボルドではない異質の存在があった。
 ひとりは紅玉の指輪を嵌めていて、兇悪な、また残忍そうな表情をしている。背丈は立派な体格のセシルと同様に、しっかりとした隆々たる筋肉に裏打ちされた見た目にも健康そうな若者といった印象の眷属。
 もうひとりは、魔術師タイプといった外見の、灰色のローブを着込んだ大人しい印象のハイコボルド。
 それに眷属デイスを加えた三人が、廊下の向こうからやってきて、歴史家たちの姿を認め、足を止めたのだった。
「おまえら、こんなところまで来るとは……」デイスが口を開く。
 そのとき、マイセルはその眷属三人に聞こえるように、声を大きくして頌を唱えた。
 しかし、眷属の三人はいつまでたっても平然としており、まるで頌の影響の外にあるように見受けられた。
「ふっ、無駄無駄」と眷属デイスは勝ち誇ったように伝える。
 マイセルは舌打ちしたい気分だったが、頌を唱えるほうを優先させた。
 しかし、一向にその頌を唱えたことによる変化が現れなかった。
「ようは、聞こえてしまうその不吉な頌を聞かなければいいわけだ」とデイスは語る。
 マイセルは嫌な予感がした。
 果たして、その予感は当たっていた。
 眷属デイスは自分の耳を指差す。「ようは聞かなければいいんだ」
 そういうデイスの耳にはしっかりと耳栓がつけられていた。
 マイセルは絶望に近い感情を得た。
 セシルはあからさまに舌打ちする。マイセルもそんな状況下にあって、頌を唱えるのは無駄と感じ、詠うのを取りやめると、自分の持っているミスリルの剣を鞘から抜きはなって、正面に構えた。
 セシルも剣を抜き放って上段に構えている。一触即発の雰囲気が場に流れる。
 眷属も得物を手にして間合いを詰めてくる。
 ここからは肉弾戦だ、とマイセルが感じているのを察知したのかどうかはわからないが、いきなり眷属たちが息を合わせたかのように、一斉に襲い掛かってきた。
 その時には、リナイエがサポートに回って、仲間の能力を上昇させる頌を唱えてくれていたから、なんとか眷属たちの攻撃を防ぐことが出来た。
 それは素速さ重視の頌。
 マイセルたちは相手の攻撃を防ぐことのみならず、その一連の動きの中に、攻撃で隙の出来た眷属たちに対し、致命傷を与える事ができたのだった。
 セシルとマイセル、そしてドワーフのハメルがことにあたった。
 そのうち、セシルとハメルが眷属に強烈な一撃を浴びせることに成功した。
 しかし、マイセルの方はその攻撃の齎す眷属の被害を想像すると、どうしても眷属に致命傷を与える事は憚られたのだった。
 その対手は紅玉の指輪を嵌めている眷属だった。
 他の二人の眷属は床に倒れた。血は人間と同じ真紅で、その大理石の床に滴る血は、不吉に、病的な美しさを放っているのだった。
「あとはこいつだけだな……」ハメルが確認するように声をあげる。
「ああ、そうだ」敵の血を見て少し興奮気味のセシルが返答する。
 残された眷属は咽喉の奥で「ううぅ」と声をあげた。
 一対三、考えてみれば完全に眷属側の不利だった。それにしても、名前もしらない〈闇王〉の眷属を屠る事が、これほど胸を痛めないことだとは……マイセルはそんな冷たい自分の心をまるで自分の心ではないかのように感じていた。いくら眷属とはいえ、生きている事は自分も眷属も同じだった。その存在を消そうとしているのだから、少なからず、慈悲とか諦念とかいうことを考えてもいいはずだった。しかし、そのような思いが去来する事はない。自分は冷たい人間になってしまったのだろうかと、マイセルは思った。だが、どうすることもできない。ただ、心の中にあるわだかまりに不誠実になることしか……。
 リナイエの頌に励まされ、もう負ける気はしなかった。
 そのことに眷属も思い当たっているのか、もうあがきはしなかった。
 止めはごくあっさりと、マイセルが裂帛の勢いで衝いた剣の先で眷属は絶命した。
 思えば、この旅に出てから初めての快挙だった。マイセルはそれまでに敵に致命傷を与えることを避けてきた。それがこの眷属に対して致命傷を与えたのだ。マイセルは意外に穏やかな気持ちでいる事ができた。確かに、生き物を殺すということに抵抗がないわけではなかったが、それまでに残忍な行為を続けてきたであろう眷属に対して、蛇蝎のごとき嫌悪を生じても仕方がないのだった。マイセルはこの眷属に止めをさせたことを悔やむどころか、喜ぶ気持ちの方が大きかった。
 眷属は床に伏せっている。もう息はしていない。床には真紅の血が流れ出している。
 ――この眷属も自分が殺さなかったら、きっともっと残忍な方法で人を殺していただろう。自分は人助けをしたのだ、そう思うことにした。
 歴史家たちはその場を離れることにした。いつまでもここに留まっていては、余計な血を流すだけだと思ったのであった。
 ヨンネルが先頭に立ち、リナイエの補助を得て察知した〈闇王〉の居所へ案内する。
 ヨンネルは人通りのまったくない廊下をあちらこちらへと引き回し、それから階段を次々と通りぬけ、それから、また廊下を進んでいき、やがて重厚な扉の前で立ち止まった。
「ここだ」とヨンネルは告げる。
 マイセルは思わず唾をごくりと飲み込んだ。
「こんなところにいるなんて」マイセルは思わずつぶやく。
 セシルとハメルが先頭に立って、その重厚な扉を開く。

 すると、室内の正面にひとりの端整な顔立ちの青年が存在していた。
 それはごく普通の美しい表情をした青年だったが、唯一違うのは、壁面に大きな刃で繍いつけられていることだった。頽廃という言葉が真っ先にマイセルの心に浮かんだ。そのさまは、まるで無限たる時間の中を闊歩するかのごとくに制限付きの自由を手にしている者と映った。
 マイセルは手にしたミスリルの剣を再度握り締めた。
 なんだか、その様を見ていると、彼を助けたいという気持ちがふつふつと湧き起こるのを感じていた。
「ふっ、とうとう来たか。地獄よりの使者というわけだな」青年はその端整な顔立ちに似合わず、少し冷酷そうな雰囲気も漂うような口ぶりをしていた。
「お前が、諸悪の根源、〈闇王〉か?」とセシルが声を張り上げて訊ねる。
「それならどうした?」と青年。
「まさか、お前のような若いやつが〈闇王〉だとはな……」セシルは忌々しげに吐き捨てる。
「外見で物事を判断するのは、人間のいけない癖だな」〈闇王〉はそういうと、何かの呪文を詠唱し始めた。
〈闇王〉が何を唱えているのかわからないマイセルたちは、少し警戒心を強めたが、ややあっても、〈闇王〉の詠唱は止まらない。何か自分たちに不利になるようなことであるのは違いないと思われたが、判然としない。
 マイセルはやがて、ひとつのイメージに捉われた。それは空気の変化である。呼吸をしている自分の身体が、やがて火照ってきて、空気は乾ききり、何か水に飢えているような印象を覚え、次第に、まるで砂漠の真っ只中に数時間放置されたかのような状態に陥ったのだった。見れば、他の仲間たちもそれぞれに肩で息をしていたり、汗をかいていたり、涙で目が潤んでいたりしていた。
 ――いけない。マイセルは〈闇王〉の呪文にすべての原因があることをつきとめた。
「〈闇王〉! 何を唱えている!? やめろ!」マイセルはなんとかひりつく咽喉の奥からその言葉を吐き出した。
〈闇王〉はそのマイセルの反応を、もうとっくの前から期待していたとでも言うように、口辺をぐいっとゆがめ、不敵に微笑みながら、一同を見回した。
「なかなか愉快な光景ではないか。我に楯突こうとする存在は皆、苦しんでいけばいい。我こそがこの世の支配者なのだから。神などという偶像にすがる弱き存在は、即刻消滅し、我を奉る存在だけが生き残ればいい。我は永久にこの世を支配するだろう。ぬかずくものには永劫の悦びを与えよう。そなたも改心するならば、これで助けてやろう。どうだ、〈真実を詠う者〉よ!」
 マイセルは〈闇王〉が自分を〈真実を詠う者〉と認識していることに驚きを覚えた。こんなところに――刃で貫かれ、壁に縫い付けられているのに、まるで実際に見てきたかのように外のことを理解しているこの脅威の悪魔にマイセルは驚かされた。これは侮ってかかっては痛い思いをするだけだという警戒心が心に兆した。
 マイセルは腰から剣を抜き放つ。ミスリルの剣は、その異質の〈闇王〉の存在に刃を青白く光らせ、私を使って一刻も早くこの魔王をこの世から消し去ってくれと訴えかけるような、そんな無言の発言をしているかのように見受けられた。
「ふっ、そんな剣で何をしようというのだ?」〈闇王〉は怖気づきもしない。
 自分では何も出来ないというのに――確かに呪文を詠唱する口は自由だったが、五体は壁に縫い付けられており、不自由な身となっている――まるでなんでも手にしているものであるかのような口調で告げてくる。


62 :蒼幻 :2008/11/23(日) 20:12:22 ID:rcoJs3VH

 先程の干上がるような苦痛を与える呪文はもう唱えていなかったが、〈闇王〉は確実に一行にダメージを与える方法を取ろうとしているようだった。〈闇王〉が次の行為に出ようとする前に、マイセルたちは行動に移ろうとした。
 しかしその時だ。
 正面左側の扉がパッと開き、中から、眷属とコボルドが現れた。城の警備に出ている眷属やコボルドの他に、城に待機しているいわば侍従――あるいは近衛兵――の軍勢だ。
 かなり広めと思っていた〈闇王〉の部屋には、あっという間に軍勢がひしめきあう形となった。
 全部で二十体はいるだろうか? 眷属二人も含まれている。眷属は二人とも煌びやかな銀色の甲冑に身を包み、面頬の隙間を通して見受けられる表情は非常に似通っており、どうやら彼らは双子であるかのようだった。しかし、種族まではわからない。なんといっても、ハイコボルドのような存在でもないし、皮膚は茶色と灰色のぶちで、もしかしたらこれはトロールという種族かもしれないとマイセルは思った。
 しかし物語で知るトロールという存在は、人の体格を大きく超越した存在で、背丈は五メートル以上、体重は数百キロというもので、とても、この部屋の中では狭苦しくて身動きが取れないような存在であるはずだった。ならば、こいつらはいったい何者なんだ!?
「キケロ、キルロ、奴らを倒してしまえ」〈闇王〉はこの二人の眷属に命令を下した。
 どうやら、キケロ、キルロというのが彼らの名前らしい。ということは、双子という考え方は正しかったのかもしれないとマイセルは感じた。しかし、それがわかったからといって、事態が好転するわけではない。
 キケロは両刃の大剣を、キルロは赤い布のついた大振りの槍を正面に構えてにじり寄ってきた。ふと上を見上げると、〈闇王〉がまた口元を動かしている。
 ――また呪文の詠唱か……。マイセルは危機感を強めた。
〈闇王〉がどんな呪文を唱えてくるかわからないのに、新手の軍勢を相手にしなければならない。これは覚悟してかからないと痛い目に遭うぞ、とマイセルは思った。
 マイセルは素速さを下げる頌を唱えながら、剣を正面に構えた。
 見ればセシルとハメルが得物を構えながら、じりじりと前進していく。
 後ろから、リナイエのものと思われる美しい歌声が響いてくる。その声に励まされて、マイセルは体に活力が宿るのを感じていた。不思議と恐怖心はなかった。自分たちには高地イルメル語の頌の恩寵がある。それを駆使すれば、乗り越えられない困難など存在しない。そう思うのだった。
 先に動いたのはドワーフ、ハメルだった。全身刃とでもいったような獅子奮迅ぶりで雑兵ともいうべきコボルドたちを倒していく。マイセルの頌で弱体化した敵をリナイエの頌で強化された肉体で屠っていくのである。コボルドたちに勝ち目はなかった。

 少なくともそう思われた。
 しかし――。
 キケロが行動を起こしたのだ。
 コボルドたちがやられていく中、キケロは完全に視野から外れていた。それを利用して音もなくエルフの娘に忍び寄り、その詠唱している咽喉元をごつい腕で羽交い絞めにして叫んだ。
「お前ら、この娘がどうなってもいいのか? 抵抗するようなら、この娘をひねり上げるぞ。早く、武器を捨てろ」キケロはそういうと、けたたましく嗤った。
「……卑怯な……」歴史家が杖を持った手を下ろして、それを床に落とした。カランと乾いた音が室内に響き渡る。
 ハメルも最前まで振るっていた斧を持つ手をだらりと下げると、チッと舌打ちをしてから斧を床に転がした。
 セシルとマイセルも仕方なく、剣を床に放る。
 残るはヨンネルだけだった。
 しかし、ヨンネルはひとり、独自の行動を起こした。
 この旅の途中、ヨンネルは一度たりとも、自分の得物、エルフの長弓の手入れを怠らなかった。そして、常に自分の背負っている矢筒の中身を確認し、不備のないようにしていた。ヨンネルは滑らかな手つきで矢筒から三本の矢を抜き取ると、そのまま時間をかけずに弦にひっかけ、それをヒョーっと射た。
 胴体を狙えば絶命するには時間がかかり、その隙に、リナイエがやられてしまうかもしれなかった。したがって、そのような危険を冒すわけにはいかない。ヨンネルは直接額の真ん中、つまり眷属の脳を狙った。
 矢は一縷の筋を描いて眷属の額に突き刺さった。
 リナイエは腕を振り解くと、少し咳き込みながら、その場から離れ、仲間たちの方へ駆け寄った。その隙を活かせば、コボルドたちにも望みがあったかもしれなかった。しかし、三十メートルは離れたところから、しっかりと狙いをつけたヨンネルの腕前に感嘆させられてしまい、言葉も出ないうちに一行に態勢を立て直されてしまったのだった。
 マイセルたちはリナイエを助けると、それからまたコボルドたちに向かって身構えた。
 コボルドたちはその数の多さを恃みにしていたのだったが、マイセルたちに一太刀を浴びせることもなく、仲間ばかりが屠られてしまった事実に、怯えを生じ始めていた。その腑甲斐なさに〈闇王〉は瞋りをあらわにして、コボルドたちを叱咤した。しかし、いったん生じた恐怖の感情はどうにもしようがない。
 マイセルたちは片っ端からコボルドを殪していく。
 その様を観たキケロとキルロは顔を真っ赤にして〈闇王〉と同じく瞋りをあらわにした。驚くべきことに、額に矢の突き立ったキケロはその負傷をものともしていない様子だった。
「おのれ!」キルロの方が声を張り上げた。そしてもうあらかたコボルドが殪された後に、声をあげてセシルの方へ向かった。
 セシル対キルロ。
 その対決は命の駆け引きではあったが、出し物としても充分の見ごたえを供していた。実力が拮抗し、刃と刃が幾度となく、両者の間でかみ合い、鋭い金属音だけが部屋にこだまする。十合、二十合と両者は渡り合い、そして、リナイエとマイセルの頌の魔力によって次第に、形勢はセシルの方へと傾いていく。
 その間も〈闇王〉はなにかと呪文を詠唱している様子だったが、キルロの方に劇的な変化はなく、やがて、セシルの攻撃がキルロに当たるようになり、何度目かの攻撃で、キルロはセシルに胴を貫かれたのだった。
 もしかすると、頌の力は神の力とでもいうべきもので、このときのマイセルたちの背後には、天界の神々の加護があったのかもしれない。しかし、そのようなことは完全に人智を超えたものであるから、人間の身のマイセルたちにとっては思いなすこともできないことは当然であったのだが。
 室内にはコボルドの屍骸がごろごろしていた。〈闇王〉は動かない両腕をぴくぴくさせながら瞋りに眼をむき、これまでとはことなるどこか攻撃的な呪文を詠唱した。
 そして「ハッ!」と声をあげると、真っ赤な熱風が〈闇王〉の口からほとばしり、コボルドたちの屍骸を一気に燃やしつくしたのだった。
 それを観た歴史家ロギヌスは咽喉の奥で「ううっ」とうなる。
 セシルとヨンネルとハメルは少し身体を強張らせて緊張が走った様子。
 リナイエも頌の詠唱にムラが現れ、さすがに恐怖に身を強張らせている。
 マイセルも見たことのない本物の呪文の凄まじさに度肝を抜かれていた。
〈闇王〉は不気味に微笑む。その端整な面差しは美しいと表現するに不足のないものであったが、このように他人を恐怖させて喜んでいるところを見ると、その精神は残虐、他人の不幸を自分の喜びにするような性根の腐った存在である事が明らかであった。
「さあ、どうする、人間たちよ。ん? 中にはエルフやドワーフもいるようだが、我の前ではそなたらの抵抗など蟷螂の斧に過ぎないことは、火を見るよりも明らかではないか。そんなわかりきったことを身をもって証明してしまう前に、我が軍門に降るがよい。命を奪ることだけはやめてやろう。そのかわり、向後一生、奴隷として我に仕えてもらうことになるだろうがな」
 セシルは歯噛みする。そして、身を震わせ、怒りに身を焦がしながら、〈闇王〉に反論する。「お前は人間というものをわかっていない。お前は確かに強大な魔力を持っている特別な存在なんだろう。しかしだ。仲間の眷属といっても所詮は魔物の部下。鍛え上げた人間の力の前には遠く及ばない存在だ。お前らは、人間の世界を侵す禁忌の存在だ。確かに、ある時期には強大な勢力を持って、俺達の住む世界に侵攻したのだろう。人間も無惨に殺されたかもしれない。だが――。お前らは自分たちの力を過信し、人間の力というものを侮っている。そこの意識が変わらない限り、お前らはいつまでたっても外物でしかないのだ。俺のいってることがわかるか? お前らは、決して表の世界に立つことのできない存在なんだよ」
「ふっ、それはお前たち人間も同じ事ではないか……。いつまでたっても同じ生活を続けるしかない進歩のない存在。人間は我ら魔族に使役されるために存在しているのだということをこれから思い知らせてやろうではないか。キケロ! キルロ! やってしまえ」〈闇王〉はそういうと、またもや呪文を唱え始める。
 命令を聞いたキケロ、キルロの双子は、それぞれに得物を手に襲い掛かってきた。キケロはセシルを、キルロはハメルを狙う。それにしても、キケロもキルロも傷を負っているはずなのに平然としているのはどういうわけなのだろうか?

 キケロとセシルの戦いは剣と剣のぶつかり合い。本当の一対一の剣の戦いであった。マイセルは両者の戦いを見ながら、自分も戦いたくてウズウズしていた。しかし、コボルドはすべて殲滅したし、残るは双子の眷属と〈闇王〉のみ。マイセルは素速さを奪う頌を唱えることに専念した。
 頌全般に共通したことだが、マイセルの唱える頌のメロディーは美しい調和のとれたものというよりも、むしろ、聴くものの心に戸惑いとか焦躁とか油断とかを催させるような種別のものであった。反面、リナイエの頌は、美しい旋律によって知性や悟性や活力といった物を増幅させる効果があった。リナイエのソプラノの声は天与の歌とでもいうべきもので、聞くものの心に爽やかな印象を齎してくれる。
 しかし、マイセルの頌にはその他にも、さまざまな物があった。そして義父が夢で観たというマイセルの頌は、そうしたなかでも特に美しい旋律をもったものであるに違いなかった。
 マイセルは国にいる義父と義母のことを思って少し寂しくなった。しかし、周りを見回す。
 ――自分には仲間がいる。一緒に困難に立ち向かってくれる信頼できる立派な仲間が幾人もいる。それはどんな財宝よりも価値のあるものだと思われた。今の自分はひとりではない。共に笑い合える友。そんな友を失うわけには行かない。いまは目前のことに意識を集中すべきだ。マイセルは頌を唱える声をいっそう張り上げる。
 キケロの剣がセシルの頭を狙う。しかしセシルは敵の剣を受け流し、体勢を半歩横にずらして、剣を滑らせざまに横に薙いだ。途端、眷属キケロの首筋から赤い血潮がほとばしった。一番近くにいるセシルがその鮮血をまともに浴びる。キケロの身体は地に沈み、ふたたび動くことはなかった。セシルは額にかいた汗を、剣を持っているほうの手の甲で拭うと、もうひとりの眷属、キルロのほうを観た。
 観ると、ハメルの斧とキルロの槍、異なる武器を手にした両者がにらみ合ったまま、固まっていた。どちらかといえば槍を手にしたキルロのほうが、間合いが長いために有利だったかもしれない。しかし、キルロは動けなかった。ハメルの斧は槍の柄くらいなら簡単に折ってしまえそうなほど頑丈で鋭利なものだったから、警戒して、なかなか攻撃に踏み込めないのだった。
 ハメルは「どうした? 早くこい」と挑発を繰り返す。
 しかし、眷属キルロは動かない。
「怯じたか、魔物よ」とドワーフは髭で覆われた口元をにっとゆがめる。
 その様子を見たセシルが「加勢しよう、ハメル」といったときに、歴史家が叫んだ。
「危ない! その場から離れろ!」
 その声は部屋の空気を張り詰めたものにした。
 そしてハメルとセシルの両者にとって、それは運命の大きな分岐点であった。
 いきなり部屋の空気が変化し、巨大な質量を持った存在が近づいてくるのがわかった。それは忘れていた存在〈闇王〉の口から放たれた熱波だった。
 ハメルは「畜生!」といいながら、突嗟に身を伏せてその熱波の大玉をかわす。
 しかしセシルの方は回避行動が一瞬遅れてしまった。
 巨大な熱源はみるみる近づいてきて、半身を躱したセシルに衝突した。セシルはまるで巨大な質量のものにぶつかったかのように、ゴミ屑のごとく軽々と弾き飛ばされてしまった。そして同時にその熱波の大玉が爆発した。
 一瞬、場の空気が凍りついた。
「セシル!」マイセルは声を限りに叫んだ。
 マイセルは、もうセシルは助からないだろうと思った。一同が、いま目前で起こったことを受け入れられずにいたとき、ひとりリナイエが犠牲者の方へ駆け寄った。
 そしてこれまでとは異なる頌を唱え、それがどうやら治癒の頌であることがマイセルにもわかりかけてきた頃、ヨンネルが懐に忍ばせておいたエーテル水を口に含んで、セシルの傷跡に吹きかけた。
 治癒の方は二人に任せておけば良いと思ったマイセルは、ロギヌス、ハメルとともに、〈闇王〉に対峙した。
「ふっ、弱いな、人間は。まことに弱い。そのような脆弱な人間が、我に楯突こうなどとは片腹痛いわ。どれ? お前らみな、まとめてその男のようにしてやろうか?」
 ロギヌスは静かな怒り、いわば義憤のようなものにかられながら、次の言葉を発した。
「そなたに仲間を思う気持ちを理解しろといってみたところで、仕方のないことだろうな。部下と意思を疎通させて、互いを思いやろうとすることなど、無駄としか思わぬ存在であろうからな、そなたは」
「ふっ、情など判断の邪魔にしかならぬものよ」と〈闇王〉。その声はまるで百年も孤独の中に過ごしている存在であるかのような冷たいものだった。
「孤独の中で過ごしていると、自然と心が凝り固まってしまうものよ。もっとも、そなたにはもともと心というものがないのかもしれぬがな」
「なにっ?」
「他者を思ってこその心。他者を思うことによって、はじめて心は息づく。そのような感情を経験せぬそなたの心は、まだ未熟も未熟、甘々の洟垂れ坊主といったところだな」ロギヌスは挑発を含めた物言いで、〈闇王〉を刺激する。
 しかし、〈闇王〉はその挑発にのってこない。
「ふむ……そのような軽口が叩けるのも、いまのうちよ。これならばどうだ?」そういうと、〈闇王〉はまたもや呪文を口にしはじめた。
 考えてみれば不思議な光景だった。
 倒すべき〈闇王〉は壁に縫い付けられていて身動きが取れない。反面、我らがマイセルたちは多人数であるのに、〈闇王〉ひとりに押され気味。確かにもう一人、キルロがいたが、彼は最前の〈闇王〉の発した熱波の大玉の威力で弾き飛ばされ、瀕死の重傷を負っている。つまりは〈闇王〉対マイセル一行という勢力図なのだった。
 マイセルたちは得物を正面に構えて、〈闇王〉の方へじりじりとにじり寄った。
 その包囲網を次第に狭めていったのだが、どこか〈闇王〉の様子がおかしい。一行が近づくごとに不敵な笑みを口元に浮かべるのだ。
 その様子に不安を感じたマイセルは辺りの様子に気を配ることにした。
 そしてあらゆる場所を見て、さまざまな音を聴いて、漂う大気を鼻でかぎ、五感を総動員しながら、心のどこかで、なんだか様子が変だという印象を強めたのだった。

 ――なにが自分をこんなに不安にさせているんだろう? マイセルはそう思い、〈闇王〉の方へ進めていた足をとめた。
 その様子を見たハメルが「どうした?」と訊ねてくる。しかし、ハメルはロギヌスと一緒に、足を進めている。
 マイセルは真剣に頭を働かせた。
 ――どうした? どうした? なにがある? なにか間違えているのか? マイセルは一向に出ない答えに焦りを生じ始めていた。
 その問いの答えがわかったのは、事が起こったあとだった。
 いきなりロギヌスとハメルが奇声を発して、頭を押さえ始めたのだ。
 その様子に、セシルの治療をしていたリナイエが血相を変えた。
「いけない! 早くもとに戻さないと」リナイエはセシルの方を一度見ると、そのまま立ち上がり、不思議な声をあげた。
 マイセルは何が起こっているのか、まだ理解できずにいた。
 見ると、ロギヌスとハメルはお互いの身体を狙って得物を振り回している。どちらも腕達者だから傷を負う事はなかったが、これ以上続ければ、どちらかがどちらかを傷つけてしまうこともありえると思われた。マイセルはどうしてこんなことが起こるのかわからないと、頭を抱えそうになったが、最前の〈闇王〉の笑みを思い出し、これはすべて〈闇王〉の計略なのではないか、という思いが心に兆したのだった。
「〈闇王〉! お前が原因だな!」マイセルは顫える手を押さえながら、しっかりとした口調でそういった。
「そうだとしたら、どうするというのだ? 非力な人間よ」〈闇王〉は不気味に微笑みながら、言葉を発した。
「くそっ」そういうと、マイセルは剣を振りかざして〈闇王〉に斬りかかった。
 壁に縫いつけられた〈闇王〉に反抗する術はないと思われた。事実、マイセルの剣は〈闇王〉の左胸をぐさりとえぐった。〈闇王〉は咽喉の奥で「うぐぐぐぐ」とうなったが、それ以上の反応はなかった。待っても、それ以上の反応は得られない。
 不思議に思ったマイセルが無防備に二歩、三歩と〈闇王〉の縫いつけられた壁の方へ近づいたとき、〈闇王〉はかっと眼を見開き、見えない力でマイセルを束縛した。
 マイセルはもがくような状態だったが、まったく身体が動かないのだった。無駄に頭だけが左右に振られる。マイセルは全身をよじっているつもりなのだろう。しかし、動くのは頭だけなのだ。そして〈闇王〉の力でマイセルの身体が宙に浮き上がる。
「ふっ、いったいどうしてやろうか? 剣で我の身体を傷つけるとは、良い度胸をしている。このままくびり殺すか、咽喉を締め上げて窒息死させるか、無数の見えない空気の針を全身に一本ずつ打ち込んで悶絶死させるか……」〈闇王〉の頭の中には残虐な殺戮シーンが次々と思い浮かぶようだった。そして、その殺戮方法はまだ無数にありそうな口調でもあった。
 リナイエはロギヌスとハメルの仲裁に入るのに手一杯で、セシルはまだ負傷から立ち直っていなかった。そこでもまたエルフの青年ヨンネルが活躍する。
 ヨンネルは離れた場所から矢を放った。マイセルはヨンネルが矢を放つところを見なかったが、その力強い弦の音でエルフの矢がいま放たれたのだという実感を得ることができた。
 ――チャンスはおそらく一回。マイセルは束縛された身体でそう思った。
〈闇王〉は自身の見えない力で捕縛したマイセルのことに気をとられていて、ヨンネルの行動に気づいていなかった。そこへぶすりとヨンネルの矢が〈闇王〉の右肩に刺さる。
〈闇王〉はひるんだ。その隙に、マイセルへの緊縛の力が一瞬緩んだ。
 マイセルはその隙を見逃さなかった。まだ握ったままだったミスリルの剣の柄を握り締めると、至近距離にあった〈闇王〉の首筋目蒐けて剣を振るった。
 ざくっ、と嫌な感触が手に伝わる。
 しかし、マイセルはひるむことなく、その剣の動きをさらに強めた。〈闇王〉の頭は胴から離れ、まるで兜を床に落としたときのようにごとりと音がして、転がった。
 その途端、ロギヌスとハメルが暗示からとけたように得物を握る手を緩めて脱力した。
「よかった……」リナイエはほっと胸を撫でおろす。
「終わったのか?」ハメルがきょろきょろと室内を見回しながら、そういった。
「マイセル、ようやった」歴史家ロギヌスは目じりの皺を寄せて、マイセルの快挙をことほいだ。
 しかし、マイセルは心の奥底で、何か拭い去り難い、しこりを感じていた。確かに〈闇王〉はその存在自体、悪だったかもしれない。しかしだからといって、こんなに単純に倒してしまってよかったのだろうか? このデルラの城にしたって城下町にしたって、無数のコボルドたちが生活しているのだ。その秩序を乱したのは、自分たち人間ではないだろうか? 確かに、コボルドは人間やエルフやドワーフに悪い影響を与える存在だ。しかし、翻って考えてみれば、コボルドたちにとっては、人間こそ忌み嫌うべき存在であり、害虫であり、ともに天を仰ぐことを許せぬ存在ではないだろうか?
 これは答えの出ない問いだとマイセルは思った。
 そして自分がそんなことを考えていたということを気づかせないために、マイセルは仲間たちに微笑んで、自分は〈闇王〉を滅ぼすことが出来て嬉しいという表情をしてみせた。
 幸い、それ以上、この部屋に眷属やコボルドは現れなかった。
 セシルに簡単な治療を施し、意識の回復を待って、城を抜け出ることにした。

*

「これからどうする?」
 山巓を越えたとき、ハメルが口を開いた。
 一同は顔を見合わせながら肩をすくめたり、目で合図を送ったり、思案顔をしたりしながらしばらく考え込んでいた。やがてリナイエが口を開いた。
「このまま、人間の国に向かうのも悪くないわね。イスハークだったっけ? セシルとマイセルが住んでたところ。そこへ行って、もう一回勉強させてもらうってのもありかもしれないわ」リナイエは少女のように微笑みながらそういった。
「儂もそれに賛成だな。儂も人間世界に世話になっとったことがあったんだ。たまに人間の世界の食事にありつきたいと思う事がある。一年くらい、そのイスハークとやらに逗留するのも悪くないのう」

 一行に否やはなかった。
 マイセルは勝手知ったる我が家に帰れるのだという実感に安堵しながら、危険に身をさらして、誰も欠けることなくあの城から出てこられたことに幸せをかみしめていた。
 そして、生き残ったキルロにエーテル水を残してやったのも、マイセルの機転だった。
 確かに〈闇王〉の眷属は撃ち滅ぼすべきだったかもしれない。しかしいくら悪い奴だからといっても、その下には無数のコボルドが付き従っているのである。
 張り詰めた重い空気はデルラの城に置いてきた。いまは軽やかで、あたたかく、和やかな気分に包まれている。
「なあ、マイセル」馬上からセシルが話しかけてくる。
「なに?」マイセルが答える。
「あのデルラ城にせよ、城下町にせよ、もう俺達には二度と足を踏み入れる事はできない場所なんだろうな。当初の〈闇王〉を滅ぼすという目標は達成できたけど、異文化に触れて、自分の教養や感性を深めることは出来たと思うか?」
「それなんだけど……」マイセルは声のトーンを落とした。「僕たちは人間の世界の常識、決まりごと、尺度でしか物事を観る事が出来ない。しかし、人間以外にもさまざまな種族がこの大陸には住まいしている事がわかった。コボルドもそうだし、トロールもそうだし、眷属だってね。エルフやドワーフは僕たち人間に近い考え方をしているから問題ないけど、それ以外の種族――コボルド、トロール、眷属――は僕たちの考え方が通用しないんだ。だからどうしても彼らの考え方が理解できない。分かり合えないから争いごとが勃発するというわけだね。もし話し合いが持てるとしたら、なにか平和的解決ができるんじゃないかな?」
 セシルはそのマイセルの意見に賛成することはできないという風に首を横に振った。
「それは難しいだろうよ、マイセル。コボルドはどこまで行ってもコボルドだ。最後の一匹を倒すまでは、この大陸に平和は訪れないよ」
「本当にそうかな?」マイセルは眉をひそめる。
「ま、これからの人間世界の発展に望みをかけるとしよう。奸邪は排除する、だけではなく、改心させるという手段もあるわけだしの」歴史家が話に割り込んでくる。
 もう太陽が最も勢いづく季節、真夏の到来を予感させる入道雲が南の地平からもくもくとわだかまっていた。イスハークに戻るには一ヶ月はゆうにかかるだろう。それまでは仲間たちと楽しい旅をすることができるのだ。
 ――イスハークに帰ったら何をしよう? マイセルは馬上でお気に入りの頌を口ずさみながら、今回のことを随筆として文章にまとめてみようかと思った。なにか読んで為になる教訓を盛り込むことができたら最高だ。
 そんなことを考えながら帰途につくのだった。


novel plaza system
甘辛流小説家ギルドGAIA
produced by COLUN.