四季


1 :緋桜 :2007/06/16(土) 21:31:17 ID:ommLPmsk

 はじめましての方、そうでない方、この作品を読んでみようと思ってくださってありがとうございます。
緋桜と申します。
 前作・前々作と重い話が続いたので、今回は軽めな話に挑戦してみました。
……が、あえなく玉砕。
やはり重いかもしれません。
とりあえず、心意気だけはラブコメ……?です。
 なお、基本ノーマルですが時々同性愛的描写が入る(かも)しれないので苦手な方はご注意ください。


2 :緋桜 :2007/06/16(土) 21:32:03 ID:ommLPmsk

四季

 僕らはあの日に憧憬している
 還りたいと願っているわけじゃなくて
 還れないとわかっているから憧れるんだ


3 :緋桜 :2007/06/16(土) 21:39:28 ID:ommLPmsk

1. 春

「あーっ高杉(たかすぎ)!!今年もクラス一緒じゃん!!」
 教室に入るなり、響き渡る大音声。教室の注目を集めてしまった水姫(みなぎ)は、このままくるりとUターンして帰ってしまいたかった。だが今日から新学期。初日から欠席が付けられるのは避けたい。否、初日でなくとも、中学三年間皆勤賞をとり続けた水姫としては、できれば高校もその栄光を保ち続けたい。
 様々な葛藤の末、水姫はようやく教室内に踏み入れた足を進めた。既に登校しているクラスメイトたちからの視線は同情を含んだものが半分、怪訝そうなものが半分といったところか。黒板に貼られた座席表で自分の席を探していると、能天気な声が再び水姫を呼ぶ。
「たーかーすーぎー!!こっちこっち!俺の後ろだよ!!」
「……ッ」
凛桜(りおう)、やめなって」
「え、なんで?」
 潮騒のような笑い声がざわめく中を進み、水姫は自分の席につく。立っている彼の友人が水姫に向って完全に同情のまなざしを向けてきたが、ちっとも嬉しくない。そんな目をするくらいならちゃんと彼の手綱を握っていてほしい。
「また同じクラスだな♪高杉!」
「……最悪」
「え、なんで!?」
 凛桜を無視し、鞄を置いて椅子に座った水姫は頬杖を吐く。
 中高一貫の私立校、翠蘭(すいらん)学園に通う水姫が凛桜と同じクラスになるのはこれで四度目だ。四クラスしかなかった中等部はともかく、高等部は八クラスあるのだから今度こそは離れられるだろうと思ったのに、どうしてまた。
 水姫の苦悩など知るよしもない凛桜は、椅子に横向きで座る。まだ会話を続ける気なのか。いい加減にしてほしいと思いながら水姫は眉をしかめる。凛桜の傍に立っている彼の友人はそんな水姫の胸中を察しているのか、苦笑いを浮かべながら話しかけてきた。
「このクラス、内部生多いみたいだよ。桐生(きりゅう)やサトルも同じクラスだし、女子は梅宮(うめみや)さんや相楽(さがら)さんもいるみたい」
「中一ん時とほぼ一緒じゃんって話してたんだよ」
「……さいあく」
「だからなんで!?」
 高杉ちょー機嫌悪い!と口を尖らせる仕草を見て、その頭かち割ってやろうかとか思ったのは、秘密だ。
 水姫はこの男が嫌いだった。いや、苦手、と言った方が正しいかもしれない。
 中学時代、サッカー部に所属していた彼は、男女問わず人気があった。背が異様に高いとか、彼の友人のように目を見張るほどの美少年だ、とかいったような特徴は容姿には無かったが、彼はなぜかどこにいても目立ち、人の心を惹きつけていた。彼の周りには、いつも人が集まっていた。
 けれど水姫は、どうしても凛桜のことを好きになれなかった。
 それなのに、凛桜はこうして人目も気にせず話しかけてくるのだから、うっとうしくて仕方ない。水姫がここまで邪険な態度をとっているのだからいい加減、自分が疎まれていると気付かないものか。―――きっと、気付かないのだろう。彼のように、周りの人間すべてが彼のために動いてくれるような世界で生きている人は、自分が嫌われているかもしれない、などとは考えもしないだろう。
 いつだって彼の世界は彼を中心に動き、凛桜はそれを疑問にも思わない。
「でも俺は高杉さんと同じクラスになるの久しぶりだから嬉しいよ」
 水姫の眉間に刻まれた皺に気付いたのか、凛桜の友人が微笑みながら言った。本人同様騒がしい人間が多い凛桜の友人の中で、彼は珍しく物静かで穏やかな性格をしていた。他人の気持ちに敏感でよく気のつく彼は、常に暴走している凛桜のフォロー役に回っている苦労人だ。正反対の性格をしていながら、中学時代からずっと二人はとても仲がいい。水姫も彼のことは別に嫌いではなかった。むしろ好きだとさえ思えた。
「……廣瀬(ひろせ)君……」
「一年間よろしくね」
「……うん」
「えっ何それ!!なんで真樹(まき)だとそんな反応!?」
「……」
 サベツサベツ!!と騒ぐ凛桜はやはりうっとうしくて仕方ない。どうしてみんな―――水姫以外の人間は、こんな男が好きなのだろう。この男の傍若無人ぶりを許せるのだろう。
「りお〜!!お前まーた同じクラスじゃ〜ん!それにヒロセも!!」
「おー、おっはよー桐生、サトル!」
「つーか俺ヒロセと同じクラスになんの何回目だっつの!」
「うっわー。サトルの顔、学校でまで見なきゃいけないなんて俺、耐えれるかなぁ」
「えっ何それ!!俺の何がダメなの!?」
「俺、乙女座の男って信用できないんだよね」
「生まれ変わってやり直せってか!?え、じゃぁ何、ヒロセって今まで俺のことそんな目で見てたの!?」
「そんな目ってどんな目だよ」
 続々と登校してきたクラスメイトの中に、自分の席に荷物を置いた後、わざわざ近付いてくる二人がいた。先程真樹の話の中にも出てきていた真樹たちの中学時代のチームメイトだ。この学校は運動部の活動に力を入れていて、特にサッカー部は部員数60名と言う大所帯だった。見渡すと、他にも何人かいるようだ。比率から言えばクラスの半分が中等部からの持ち上がり組になるのだろうが、真樹の言うとおりこのクラスは内部生の割合が高いのかもしれない。
 話しかけてくる二人に応じる凛桜は、水姫の方を向いていた身体を座り直して前を向いた。


4 :緋桜 :2007/06/23(土) 21:07:31 ID:ommLPmsk

                                                  □■□■□

 翠蘭名物「五秒で終わる理事長の話」。中等部からの持ち上がり組はもう慣れてしまったが、外部から入学してきた生徒たちはやはり驚いたらしく、「え、もう終わり?え?え?」と少しざわついたほどだ。
 学園のトップである理事長の話が五秒で終わるとなると、他の教員たちの話も必然的に短くなる。だから入学式や始業式など翠蘭の式典は、かなり早く終わる。そんな中でも、居眠りぶっこく輩は必ずいるのだが。
「ふぁ〜。よく寝たーっ」
「たかが10分の式なのに、なんで寝れるんだよ……」
「えー、だって俺、偉い人の話聞くと絶対眠くなんだもん」
「りおーの場合、話の内容じゃなくて単純に『偉い人』がダメなんだよなー」
「そう言うサトルも一番前で舟漕いでたくせに」
「ちょ、バラすなよ!」
 教室への帰り道、一際煩い集団の中心には、言うまでもなく凛桜がいる。外部生とももう仲良くなったのか、中には見知らぬ顔も数人混じっている。
「相変わらずだねぇ、高科(たかしな)君」
「まぁ高等部上がったからってそんなすぐに変わるもんでもないし」
夏海(なつみ)朝緋(あさひ)
「おはよ、ミナ」
「おはよう」
 煩い凛桜たちの声に眉をしかめている水姫の肩を、追いついてきた友人二人が叩く。彼女たちもまた、中等部からの内部生だ。夏海とは一、三年、朝緋とは一、二年のときに同じクラスだった。
「まぁた高科君と一緒のクラスなんだ?ミナ。何年目よ」
「そう言う夏海だって廣瀬君と四年目じゃん」
「まぁね。朝緋は桐生と四年目じゃなかったっけ?」
「そうだっけ……?」
「うっわこの子酷い!」
 酷いと言いながらも夏海は楽しそうだ。いくら桐生だからって可哀想じゃーんと言って笑う夏海につられ、水姫も笑った。
「ねぇねぇ、三人とも内部生?」
「え?」
 水姫たちの会話が聞こえていたのか、前を歩いていた少女が振り返る。小柄で色白な可愛らしい女の子だが見覚えは無かった。内部生全員と面識があるわけではないが、おそらく外部生だろう。
「えっと……?」
「あ、私楢崎(ならさき)まゆか。翠蘭は高等部からなんだ。よろしくね」
「よろしく。あたし梅宮夏海」
柿本(かきもと)朝緋」
「高杉水姫……、よろしく」
 それぞれに名乗ると、まゆかはよろしくね!と朗らかに笑い、けれどすぐ声を潜めた。
「ね、三人は高科君と仲いいの?」
「は……?」
「高科君ちょーかっこいいよねー!サッカー部なんでしょ?去年うちの中学に遠征に来たとき見てね、もうチョー好みだったの!!だから頑張って翠蘭入って、そしたら同じクラスになれて超ラッキー!!もーどうしようって感じ!」
「……」
 小声ながらも一人騒ぎ出すまゆかに、水姫は白けた視線を返す。
 全国でも四強に入るほどの強豪翠蘭サッカー部で、凛桜は一年の頃からエースストライカーを務めていた。才能もセンスもあり、しかも現役プロの兄を持つサラブレッド。認めたくはないが、容姿に関してもそれなりに整っている凛桜は地元ではちょっとしたアイドル選手で、中学の頃から知名度は全国区だった。
「何、高科君狙い?あたしたちに声かけてきたのもそう言うこと?」
「え〜?そう言うんじゃないけどぉー」
 口ではそう言うが、おそらく夏海の言うとおりなのだろう。どうにかして凛桜に近付きたいと思っている女生徒は、まゆかのほかにもいるはずだ。
 だがその期待を、朝緋はあっさり打ち砕く。
「でも残念でした。高科君は廣瀬君ラブでキャプテン命だから」
「え?」
「キャープテーン!!俺の晴れ姿見に来てくれたんスか!!」
 不可解な朝緋の返答にまゆかが首を傾げると、前方で歓声があがった。あの能天気な声は聞き間違えようがない。凛桜だ。その後に、凛桜よりも低い、けれどなんだかとっても切羽詰っているように聞こえる声と不機嫌な声が続く。


5 :緋桜 :2007/06/29(金) 19:44:27 ID:ommLPmsk

「は……離れろ高科!」
「だから俺はこいつなんかの入学式見に来んの嫌だったんだよ!」
「何スかそれ!てか俺だって別にしーな先パイに会いに来てもらいたかったわけじゃないっスよ!」
「あぁ!?」
「とりあえず離れろ!」
「なんでっスか!!せっかく俺キャプテン追いかけてやっと高校生になれたのに!!」
「別にたいした苦労してねぇだろ!エスカレーターなんだから!!」
「いいから離れろ!!」
「キャプテンはまた俺と同じ学校通えるようになって嬉しくないんスか!?久々っスよ!?また一緒にサッカーできるんすよ!!」
「朝も寮で会ったし春休み中も散々しただろうが!」
「それとこれとは別っス!!つーか俺キャプテンと話してんのになんでしーな先パイがしゃしゃってくんスか!!俺とキャプテンの会話邪魔しないでくださいよ!」
「こんのガキしまいにゃ簀巻きんして沈めんぞ!」
「いいからとりあえず離れてくれ!」

「あー……久々だわ。サッカー部のトリオ漫才」
「夏海自宅生だもんね。寮じゃ入った日からこっちずーっとあんな調子だよ」
「何……?あれ」
 中学時代は日常的だった光景に、内部生三人は遠い目をする。だが水姫たちにとっての日常を日常として受け止められないのはまゆかだ。いや、まゆかだけではない。ほとんどの外部生は繰り広げられるくだらない舌戦に度肝を抜かれている。
 新入生の注目を集めながらもトリオ漫才は続いていく。

「大体俺はもうキャプテンじゃないって何回言ったらわかるんだ!」
「でもキャプテンはずっと俺にとってはキャプテンでキャプテン以外の人がキャプテンになっても俺のキャプテンはキャプテンだけっス!!」
「もうお前何言ってんのか全然わかんねぇよ……」

「あ、椎名(しいな)先輩が戦線離脱した」
「余計な体力使う前に気付けばいいのにね」
「まぁそこが椎名先輩の椎名先輩たる所以て言うか椎名先輩はだからこそ椎名先輩だって言うか」
「あー、そんな感じ」
「もー、何言ってんのか全然わかんなぁい」
 頷き合う三人の間に割り込み、まゆかは頬を膨らませる。媚びるとまではいかないが、甘えたような仕草は、少し水姫を苛立たせた。これは自分には無い女の子らしさを持つまゆかへの僻みだろうか。
 わかるように説明してよぉと甘えた声を出すまゆかに、夏海は苦笑を返す。
「ごめんごめん。でも何って訊かれてもね……」
「んー……翠蘭では日常だから、今更説明しろって言われてもね……」
「とりあえずあの人たちは中学のときの高科君の先輩。ちなみにもちろんサッカー部。背の高い方が榎本(えのもと)さんで、あたしたちが中二のときのキャプテンだった人。中一の頃から高科君、あの人に異様なほど懐いてて、『俺キャプテンと結婚したい』とかいきなり突然何の前触れもなく唐突に叫びだすくらいなキャプテン命っぷり」
「で、あのタレ目の方の人が椎名さん。ちょっと悪人面だけどいい人で、意外に貧乏くじ引かされやすい可哀想な人」
「無駄にいい人だから、面倒後と背負い込んじゃうんだよねー」
「ねー。顔怖いくせにね」
「……そうなんだ……」
 二人の説明に、まゆかはわかったようなわからないような、複雑な表情を見せた。水姫としても複雑だ。二人の説明では、三人ともものすごく変な人に聞こえる。否、実際ちょっと不思議な人たちなのだが。
「二人とも詳しいんだね〜」
「朝緋は椎名先輩と仲良しだもんね」
「別に……たまに話するくらいだよ。この一年は全然会ってないし」
「えー羨ましー。あの椎名って人、ちょーかっこいいね!!」
「まぁ顔と頭のよさがとりえだもんね」
「性格は歪んでるけどね。いい人なのに」
「……」
 言いたい放題二人が言っているうちに、ようやく榎本から引き剥がされた凛桜は、真樹に首根っこ掴まれて連行されていった。三人がトリオ漫才を繰り広げている間にも列は進んでいたため、真樹たちが去った後、水姫たちはすぐ二年生の立っている場所を通ることになった。
「大変ですね、先輩たち」
「おー。相楽じゃん。久々。入学おめでとうな」
「ありがとうございます」
「梅宮も」
「……どうも」
 すれ違いざまに朝緋たちと二三言葉を交わし、二人は去っていった。
 中学時代あまり二人で行動しているところを見なかったような気がするが、今年は同じクラスになれたのだろうか。
「え〜。近くで見たら二人ともちょーかっこよかった!なんで二人知り合いなの〜?ずるーい」
「あー……なんかこのノリ誰かさんを思い出すわ……」
「あぁ、聖佳(さとか)ちゃん?」
「うん」
 確かにまゆかのミーハーさは、中学時代の友人によく似ている。
「でも、確かに夏海はなんで知り合い?中学からだっけ?」
「やー、先輩の卒業式のとき、ちょっと宣戦布告してさ」
「は!?なんで!?何について!?」
「女には、負けるとわかっていても売らなきゃいけない戦いがあるの」 
「や、言ってることがよくわかんないよ」
 なんだかとっても誇らしげに夏海は言ったが、はっきり言って意味不明だ。結局その戦いに勝ったのか負けたのかも謎のままだった。


6 :緋桜 :2007/07/03(火) 20:16:14 ID:ommLPmsk

                                                 □■□■□

 文武両道を校訓に掲げる翠蘭学園は、偏差値も高く、運動部のほとんどは全国大会の常連と言う名門校だ。だから生徒は全国から集まり、そんな遠隔地の生徒のために寮設備も整っている。ちなみにサッカー部は全員寮生活を義務付けられている。運動部の中にはスポーツ推薦で入学する者もいる。榎本や凛桜、朝緋がその例だ。
 中学受験を推薦で回避し、高校受験はエスカレーターだから免除。もちろん例外もいるが、人間とは一様に楽な道を与えられると、堕落して言ってしまうものだ。残念なのか自業自得なのか、当たり前の如く凛桜はその「例外」には含まれない。
「どうしよう真樹!俺の教科書暗号で書かれてる!!何書いてんのか全然わかんないよ!!」
「んなわけないだろ。お前は授業中寝てばっかだからついてけなくなるんだよ」
「つーかりおーが教科書開いたこと自体奇跡じゃん。しかも昼休みなんかに」
「ってかなんでりおー昼休みなのに教科書開いてんの?」
「まーた榎本先輩に何か言われたんじゃねえの?りおーが赤点とったら、呼び出されるの榎本先輩だもんな」
「去年はヒロセの役目だったけど、今年から晴れて解任じゃん。よかったなぁ」
「っていうかそのシステムがおかしいってことにいい加減誰か気付くべきだと思うんだよね俺としてはさ!!」
 友人たちの言うとおり、サッカー部の先輩であり凛桜のお目付け役でもあった榎本が卒業してからは、凛桜の身辺管理はなぜかすべて真樹に一任されることとなってしまっていた。真樹は凛桜の友人であって、決して母親などではないのに。だが話題には事欠かない凛桜が何かやらかすたびなぜか一緒に呼び出されて叱られている真樹は前々から何度も主張しているにもかかわらず、周りの認識は一向に改まらない。
「しょーがないって。お前ら二人でセットなんだし。高等部でも同室だし」
「そもそもその認識からおかしいだろ!?俺は凛桜の保護者じゃないっつぅの!」
「そーだよなー。お前らもう夫婦的だもんなー」
「だからなんでそうなるの!!」
「なぁ見て見てー。これちょっと可愛くない?」
「なんでお前文字式で顔文字作ってんだよ!女子高生か!!」
「ひぐ〜〜〜!ひゃっへあひひゃっはんひゃほん!」
「飽きたじゃないだろ!!お前中間で赤点とったら部活出れないって榎本先輩に言われたろ!?中学とは違うんだぞ!?留年だってあるんだぞ!?わかってんのか!?」
「うぎゅ〜〜〜」
 入学早々留年の心配をしなければいけない者も珍しいだろう。だがその心配が杞憂に終わらないところが凛桜だ。もっとも、気を揉んでいるのには、いつも周りの人間―――特に真樹ばかりで、本人に危機感はまるで無いが。
「君らはいつも楽しそうだねぇ」
「相楽さん、梅宮さん」
「あれ、高杉は?一緒じゃないの?」
「ミナは三年の先輩と昼食デートだってー」
「え!!高杉って彼氏いたの!?」
 購買で買ってきた昼食の入った袋を提げた夏海と朝緋が帰ってきた。五月の頭に席替えし、真樹と朝緋は隣同士になった。朝緋の前、本来ならば水姫の席に夏海が座り、買ってきたパンを袋から出す。
「や、彼氏じゃないっぽいよ。お兄さんの後輩かなんかで、中学のときから仲良かった人。さっき購買で会ってついてっちゃった」
「でもかなり仲良さそうじゃなかった?ミナは違うって言ってたけど、あれはかなりアヤしくない?」
「は!?何それ!!マジで言ってんの!?」
「何。いきなり大声出して」
「え、あんたそうだったの?」
「は!?や、ち、違うから!!」
「え〜。高杉彼氏いるんだー。オットナ〜」
「……凛桜……」
「お前何聞いてたんだよ」
 先ほどカップ焼きそばを食べたにもかかわらず、凛桜はいつの間にか非常食用のスナック菓子を出している。パンを食べる二人を見ているとお腹が空いてきたのだろう。夢中になり、一連の話をまったく聞いていなかったようだ。
 フィールド上ではボールを操り、ゲームを支配するエースストライカー。だがサッカーから離れると、お気楽極楽天然少年。真樹はいつも振り回されてばかりいる。
 だが多大なる気疲れや迷惑をかけられながらも結局は仕方ないなと許してしまうのは、この笑顔のせいなのだろう。
 凛桜の笑顔には裏表が無い。可笑しければ笑い、腹が立てば怒る。真っ直ぐで純粋で、素直な凛桜。
 初めて出逢った頃から、真樹はずっと思っていた。
 この笑顔が壊れる日など来るのだろうか、と。

 


7 :緋桜 :2007/07/06(金) 21:17:09 ID:ommLPmsk

                                                 □■□■□

「久しぶりだね、水姫ちゃん」
「……そうですね」
「今更だけど、入学おめでとう」
「……ありがとうございます」
 二年ぶりに言葉を交わしてみても、この人の水姫を見るときに少し寂しそうに笑うところは少しも変わっていない。この人はいつも、水姫を見るときはほんの少しだけ切なげな表情をしていた。
「ごめんね、昼、友達と一緒に食べるつもりだったんだよね」
「いえ……気にしないで下さい」
 あの二人も、きっと気にしていないはずだ。朝緋も夏海もあっさりした性格をしていて、お互いあまり干渉し合わない。気も合うし、仲もいいけれど、四六時中べったりしていたいとは思わないし、二人もそうだろう。そんな付き合い方が、水姫たちには合っていた。
「……水姫ちゃん、元気そうでよかった」
「……」
「水姫ちゃんが高等部来るかどうかわからなかったから、会えて、嬉しかったよ」
「……私は、星稜行くほど頭よくありませんから」
「……」
 ほんの少しの皮肉をこめて言うと困ったように微笑まれてしまったから、言わなければよかったと後悔した。
「……先輩」
「うん?」
「先輩は、まだ……」
 お兄ちゃんのこと、すきですか?
 訊きたかった。
 訊けなかった。
 十二歳の春、水姫はこの人に出逢った。
 そして惹かれた。惹かれ合った。
 この人が卒業するまで互いに想いを伝え合うことはなかったけれど、二人とも、何となく気付いていた。惹かれ合っていたその理由にも。
 彼は水姫と出逢う前、水姫の兄、雪波(せつは)のことがすきだった。部活の先輩であった雪波に恋し、叶わない、許されない想いに苦しんでいた。そして水姫の初恋もまた、兄だった。幼い頃の、ままごとのような、今となっては笑い話にできるような幼い恋だったけれど、水姫にとっては大切な初恋だった。
 そんな二人だから、同じ相手に恋した二人だったから、惹かれ合ったのだ。
 彼は水姫の中に兄を求め、水姫は彼の向こう側に兄を探していた。
 だからいくら見つめ合っていても、二人の視線は絡まなかった。
「『まだ』何?」
 途切れた言葉の先を促される。
 だが水姫が選んだのは別の言葉だった。
「……まだ……陸上続けてるんですか?」
「……うん。短距離から高飛びに種目は移ったんだけどね」
「そう……ですか」
 雪波のことがすきなのかと訊いて、もしあの頃と彼の気持ちが同じだったら、水姫はどうするつもりなのだろう。どちらの答えを期待していたのだろう。
 わからないから、結局他愛無い会話に逃げてしまった。
 だが。
「水姫ちゃん」
「はい」
「先輩、元気?」
「……」
 彼の方から問われてしまい、水姫は言葉に窮する。
 どんな気持ちで訊いているのか、わからない。水姫はこの人のこと、何も知らない。わからない。
「……どうでしょう。最近会ってないから、わかりません」
「そっか」
 今年大学生になった雪波は、この春から家を出て一人暮らし始めた。中学時代、翠蘭に通っていた雪波は高等部へは進まず、翠蘭よりも偏差値の高い星稜高校へと進んだ。だから雪波が卒業して以来、彼は雪波に会っていないはずだ。
 彼がまだ、雪波のことをすきなのかどうかはわからない。訊けなかった。
 だから、せめて。
「……会いたいですか?」
 水姫がそう問うことをわかっていたかのように、彼は答えた。
「わかんないや」
「……」
「会いたくないとは思わないけど、会えなくてもかまわないと思ってるから」
「……」
 彼の雪波への想いはわからないけれど、彼の言っていることは、少しわかる気がした。
 水姫もきっとこの人と会うことを、そんな風に考えていたから。

 


8 :緋桜 :2007/07/06(金) 21:18:07 ID:ommLPmsk

                                                 □■□■□

「久しぶりだね、水姫ちゃん」
「……そうですね」
「今更だけど、入学おめでとう」
「……ありがとうございます」
 二年ぶりに言葉を交わしてみても、この人の水姫を見るときに少し寂しそうに笑うところは少しも変わっていない。この人はいつも、水姫を見るときはほんの少しだけ切なげな表情をしていた。
「ごめんね、昼、友達と一緒に食べるつもりだったんだよね」
「いえ……気にしないで下さい」
 あの二人も、きっと気にしていないはずだ。朝緋も夏海もあっさりした性格をしていて、お互いあまり干渉し合わない。気も合うし、仲もいいけれど、四六時中べったりしていたいとは思わないし、二人もそうだろう。そんな付き合い方が、水姫たちには合っていた。
「……水姫ちゃん、元気そうでよかった」
「……」
「水姫ちゃんが高等部来るかどうかわからなかったから、会えて、嬉しかったよ」
「……私は、星稜行くほど頭よくありませんから」
「……」
 ほんの少しの皮肉をこめて言うと困ったように微笑まれてしまったから、言わなければよかったと後悔した。
「……先輩」
「うん?」
「先輩は、まだ……」
 お兄ちゃんのこと、すきですか?
 訊きたかった。
 訊けなかった。
 十二歳の春、水姫はこの人に出逢った。
 そして惹かれた。惹かれ合った。
 この人が卒業するまで互いに想いを伝え合うことはなかったけれど、二人とも、何となく気付いていた。惹かれ合っていたその理由にも。
 彼は水姫と出逢う前、水姫の兄、雪波(せつは)のことがすきだった。部活の先輩であった雪波に恋し、叶わない、許されない想いに苦しんでいた。そして水姫の初恋もまた、兄だった。幼い頃の、ままごとのような、今となっては笑い話にできるような幼い恋だったけれど、水姫にとっては大切な初恋だった。
 そんな二人だから、同じ相手に恋した二人だったから、惹かれ合ったのだ。
 彼は水姫の中に兄を求め、水姫は彼の向こう側に兄を探していた。
 だからいくら見つめ合っていても、二人の視線は絡まなかった。
「『まだ』何?」
 途切れた言葉の先を促される。
 だが水姫が選んだのは別の言葉だった。
「……まだ……陸上続けてるんですか?」
「……うん。短距離から高飛びに種目は移ったんだけどね」
「そう……ですか」
 雪波のことがすきなのかと訊いて、もしあの頃と彼の気持ちが同じだったら、水姫はどうするつもりなのだろう。どちらの答えを期待していたのだろう。
 わからないから、結局他愛無い会話に逃げてしまった。
 だが。
「水姫ちゃん」
「はい」
「先輩、元気?」
「……」
 彼の方から問われてしまい、水姫は言葉に窮する。
 どんな気持ちで訊いているのか、わからない。水姫はこの人のこと、何も知らない。わからない。
「……どうでしょう。最近会ってないから、わかりません」
「そっか」
 今年大学生になった雪波は、この春から家を出て一人暮らし始めた。中学時代、翠蘭に通っていた雪波は高等部へは進まず、翠蘭よりも偏差値の高い星稜高校へと進んだ。だから雪波が卒業して以来、彼は雪波に会っていないはずだ。
 彼がまだ、雪波のことをすきなのかどうかはわからない。訊けなかった。
 だから、せめて。
「……会いたいですか?」
 水姫がそう問うことをわかっていたかのように、彼は答えた。
「わかんないや」
「……」
「会いたくないとは思わないけど、会えなくてもかまわないと思ってるから」
「……」
 彼の雪波への想いはわからないけれど、彼の言っていることは、少しわかる気がした。
 水姫もきっとこの人と会うことを、そんな風に考えていたから。

 


9 :緋桜 :2007/07/10(火) 20:07:22 ID:ommLPmsk

                                                 □■□■□

「と、言うわけで相楽さん。マネージャーやってみませんか」
「どう言うわけか知らないけれど廣瀬君、あたしは既に陸上部入っているので無理です」
「……どうしてもダメ?」
「ていうかあたし基本的に人のために何かするの嫌いだからマネとか向いてないと思うわ」
「んー……致命的ぃ……」
 きっぱりばっさり一刀両断の朝緋の返答に、真樹は頬を掻く。五月も下旬だが、例年の如くサッカー部にはマネージャーが入らず、誰か勧誘して来いと上級生につつかれた真樹はとりあえず身近なところを当たってみたが、案の定玉砕してしまった。
 華やかな面々の多いサッカー部。そのマネージャーとなると人気職と思われがちだが、実際はまったくそんなことは無い。否、実際には四月、選手目当てに十人ほど女生徒が入部してきたのだが、その半数が仕事の過酷さに二週間も経たぬうちにやめてしまう。見事サバイバルに生き残った三年生が二人、二年生が三人いるが、今年の一年は全滅だった。
「夏海は?あの子面倒見いいし、あたしよりは向いてると思うけど」
「……バレー部入ってんの知ってて言ってるでしょ」
「んじゃミナ。あの子は確か部活入ってなかったんじゃない?」
「サッカー興味ないからルールわかんないって」
「んー、致命的ぃ」
 先程の真樹のマネをし、朝緋は肩をすくめた。
「てかさ、勧誘なら外部生しなきゃ。あたしら内部生は中学からの部活入る子多いし」
「んー……でも俺、外部の女子とはほとんど話したことないし……」
「いきなり恥ずかしがり屋さん!?そんなキャラ!?思春期!?大丈夫大丈夫、廣瀬君なら『ちょっと君たち一緒にサッカーで青春しなーい?』とか言えば何人か引っかかるって」
「相楽さんは俺を何だと思ってんの……」
 出逢った頃は「清楚系美少女」だったはずの朝緋に、三年間で一体何があったのか。相変わらず美人には違いないが、年々「変な人」になっていっている。
「ま、見つかるといいね、マネージャー」
「わー。もう丸投げされたー」
 あくまで人事な朝緋は、完全に傍観体勢を決め込んでしまった。この分では、やはり首を縦に振ってはくれないだろう。
 大体、朝緋に頼んだのが間違いだったのだ。彼女は翠蘭にスポーツ推薦で入学し、中学時代は短距離の記録も持っていた陸上部期待のホープなのだ。そんな彼女がサッカー部マネージャーになどなってくれるわけがないし、また、陸上部が彼女を手放すはずもなかった。
「あー……もうどうしよー……。まーた先輩たちにどやされる……」
「なんとかなるって」
「だといいけど……」
 ぽんぽんと肩を叩かれ、真樹は困ったように笑い返した。どことなくほのぼのとした空気でまとまりそうだったのに、廊下をばたばたと走る音が聞こえてきた。
「真樹ー!!見て見てー!!これ貰っちゃったー!!」
「またにぎやかなのが戻ってきた……」
 騒音の犯人は、言うまでも無く凛桜だ。トイレから帰ってきた凛桜は手に可愛らしいラッピングされた袋を持っている。明らかに女の子からのプレゼントだ。
 凛桜はモテる。まぁサッカー部でこの容姿でこの愛嬌ならばもてない方が不思議なのだろうが、中学生のうちは上級生のオネーサマ方に「高科君て可愛いよねv」と言われるモテ方だったのに対し、高校生になってからは「高科君てかっこよくない?」と同級生にも人気が出始めた。
 だがそれにしても、貰ったものをわざわざ見せに来るなど、こいつは本当に高校生なのだろうか。凛桜の場合、本当に報告に来ただけで、自慢とか見せびらかしたい、とかいった気持ちは一切ないのだ。たぶんどんぐりを拾ったから母親に見せる幼児と同じ感覚だ。
「貰ったって誰に?」
「知らない人ー」
「……」
「……」
 そう言えば誰だろ、と首を傾げる凛桜に、二人は絶句する。
「知らない人に食べ物貰っちゃいけません!」
「廣瀬君違う!正しんだけどそうじゃない!」
「でもくれるって言うから」
 貰ってきたんだよ〜、と笑うこの男に、危機感という言葉は無いのだろうか。校内だから安心とも言い切れないが、校外でもこの調子ならばいつか誘拐されてしまうかもしれない。
「せめてちゃんと名前訊いて来いよ……」
「F組の子じゃない?今日調理実習らしいし」
「お帰り、ミナ」
「あ、じゃぁそうかも」
「……凛桜」
 朝緋の前に座った水姫が、凛桜を見ずに言った。休み時間の間、水姫もどこかへ行っていた。最近水姫は、よく一人でふらりとどこかへ行ってしまう。
「まぁそんなことはどうでもいいんだけどさ、高杉、さっき一緒にいた人が噂の彼氏?」
「は?」
「どうでもいいって凛桜……」
「ちょっとフォローできない発言だよ……」
 あまりの言い草に真樹と朝緋は再び絶句する。一方水姫は凛桜の問いに眉を寄せた。
「何の話?あたし、彼氏なんかいないけど」
「えー?三年の先輩と付き合ってんでしょー?」
「だからそれは違うって言ったじゃん!」
「お前ホント何聞いてたの!?むしろ今の話聞いてたの!?」
 興味の無い話はとことん聞き流す。それが凛桜だ。
「え?何が?」
「……」
「……」
「とりあえずさ、それってさっき階段で話してた人のこと?」
「あ、うん。そうそう」
 このままでは埒が明かないと思ったのか、水姫が仕切りなおす。これ以上不毛な口論を続けてもしかたないと悟った真樹と朝緋は、諦めて口を噤んだ。
「あの人は彼氏なんかじゃないよ。お兄ちゃんの後輩だから、仲良くしてもらってるだけ」
夏枯草(うるき)先輩?」
「そう」
 三つ上の水姫の兄は、朝緋と同じ陸上部だったらしい。彼が卒業した次の年に真樹たちが入学したため面識は無いが、噂は聞いている。選手としての業績だけでなく、彼の遺していった数々の武勇伝は、今も中等部で語り継がれていることだろう。
「その人と付き合ってないんだー?なんで?」
「なんでって……」
「あ、そう言やさっきそこで松葉(まつば)先輩と会ったんだけどさー」
「もうお前本当に自由だな!」
 自分でふっておいて放置する。そんなことはもう日常茶飯事で、今更怒る気にもなれない。ここまで来るとどうしたらそんなに自由に生きられるのか逆に教えてほしいくらいだ。
 だが、真樹はもう慣れてしまったが、水姫は凛桜のこういうところが嫌いなのだろうか。
 水姫が凛桜をあまりよく思っていないことは、何となく気付いている。本人が気付く気配は一向に無いが、凛桜といるときだけ水姫の表情は硬い。きっと朝緋や夏海も気付いているだろう。
 けれどそれは、仕方ないことだと思う。好意であれ敵意であれ、凛桜に心を動かされない人間などきっといない。誰も凛桜を無視できない。凛桜はそう言う人間だから。
 次々と変わっていく凛桜の話に相槌を打ちながら、真樹はそっと、水姫の横顔に目をやった。


10 :緋桜 :2007/07/13(金) 20:43:41 ID:ommLPmsk

                                                 □■□■□

 どうして夏枯草と付き合わないのか。凛桜の言葉が耳の奥で蘇る。
 なぜ凛桜にそんなことを言われなくてはいけないのか。けれどそう思う反面、同じ言葉を自分に問いかけてみた。
 答えは簡単だ。
 夏枯草が付き合おうと言わないから。
 至極簡単な話だ。
 だがもし夏枯草に付き合ってくれと言われた場合、そうするのかと言われると、たぶんそれは違う。と、言うか、想像できない。夏枯草が水姫に交際を申し込むなど、「ありえない」ことだった。だから考えてみてもピンとこない。
 二年前の桜が咲いていたあの日、夏枯草は水姫にすきだと言った。水姫も彼がすきだった。そう伝えた。けれど、それだけだ。夏枯草の想いも水姫の想いも、雪波への恋心の上にしか成り立たなかった。そして今水姫が夏枯草へと向ける想いは、あの頃と同じようにも違うようにも思える。同情か、それとも同調か。水姫と夏枯草はきっとよく似ていて、だからこそ互いのことが見えなくなる。距離感が上手くつかめなくなる。
 夏枯草は、どうなのだろう。夏枯草の水姫へのあの頃とどのように変わって、どんな風に同じなのだろう。
「いっ……たぁ……」
「え?」
「どこ見て歩いてんのよ、あんた」
「す、すみません……」
 廊下を歩いていると、上級生と思しき女生徒に睨まれた。どうやら考え事をしながら歩いていたせいでぶつかってしまったようだ。明らかに非があるのは水姫の方なので素直に謝ったのに、女生徒は更に眉を寄せた。
「ちょっとぉ。この子って例の夏枯草に付きまとってる一年じゃない?」
「え……」
「あぁ、高杉先輩の妹だっけ?」
「あー、言われてみると似てるわ」
「あの……」
 水姫がぶつかった女生徒とは別の女子が言い、頷く。雪波を知っているということは彼女たちはやはり上級生でしかも内部生なのだろうが、それにしても、卒業後三年経っても彼女たちの記憶に居座り続ける兄って一体何なのだろう。
「つーかさ、あんたどういうつもりなわけ?」
「は?」
「夏枯草に付きまとって、何なわけ?はっきり言ってさぁ、マジうざいんだけど」
「はぁ……」
 どうやら、ぶつかってしまった女性とは三年の集団のようだ。一年の水姫が三年の夏枯草と一緒にいると、三年生のオネーサマ方からすれば「三年男子にまとわりつくずうずうしい一年女子」にしか見えなくて、非常に目障りらしい。高校生になっても、こういった低俗な言いがかりは無くならないようだ。
 早く解放してくれないかと醒めた心地で彼女たちの言い分を聞き流していたが、聞き流せない一言に、水姫は思わず反応する。
「大体さぁ、彼女持ちの男にまとわりついて、どういうつもり?」
「え……」
「知らないの?あいつ、彼女いるんだよ?」
「知らないでまとわりつくって、マジで夏枯草狙いだったわ……」
「こらー!!何にやってんのー!!」
「ぐふっ」
「!?」
 廊下を走ってきた女生徒が、集団のうちの一人にタックルをかます。何事かと水姫は目を剥き、身体を堅くした。
「一年生苛めちゃだめじゃん!!」
「い……じめてないわよ!!つーかあんたのためにやってんじゃん!!この一年、あんたの彼氏にまとわりついてんだよ!?」
「別にまとわりつかれてないって夏枯草君言ってたもん!!それよりみんなで囲んだら可哀想でしょー!!」
「つーか紗幸(さゆき)、マジ痛いんだけど……」
「えっ、ごめんね!!」
 飛び出してきた小柄な少女は謝りつつも集団を追い払う。タックルをかまされ、見事直撃された女生徒は、本気で痛そうだった。ちょっと涙目だったし。
「ふぅ。大丈夫だった?」
「あ、はい……。ていうかあの人の方が大丈夫じゃないんじゃ……」
「気にしないで!!」
「え、あの、はぁ……」
 にっこりと満面の笑みを返され、水姫は返答に困った。本当に気にしなければいけないのは水姫ではなくこの人ではないだろうかと思いつつも、おそらく三年生である彼女に進言はできない。
 先程の彼女たちの会話から察するに、この人が夏枯草の恋人、なのだろう。小柄で、華奢で、柔らかそうな髪の女の子らしい女の子。当たり前だけど、雪波とはまったく似ていない。夏枯草に彼女がいたことより、その方がショックだった。
「てかごめんね、やな思いさせちゃって。あの子達、いい子なんだけど」
「はぁ……」
 言い子かどうかは知らないけれど、どうしてこの人が水姫に謝る必要があるのだろう。少しひねくれた気持ちでそう思った。
「えと、水姫ちゃん、だよね?夏枯草君と仲良しの」
「……えと……」
「あたしは紗幸。大楠(おおくす)紗幸。あたしも夏枯草君と仲良しだから、水姫ちゃんとも仲良くなりたいな」
「……はぁ……?」
 紗幸の言うことはちょっと妙で、この人本当に夏枯草の彼女なんだろうかと水姫は思った。先程の三年生曰く、紗幸にとって水姫は「彼氏にまとわりつくうっとうしい一年生」のはずなのに、この友好的な態度は何だろう。
「嫌?」
「え?あ、いえ、そんな……」
「大楠さん……?」
「あ、夏枯草君」
「!!」
 少々強引とも思える紗幸にどうしたものかと困惑していると、夏枯草が現れた。
 心臓が、大きく跳ねる。
 逢いたくなかった?
 違う。
 並ぶ二人を見たくなかったのだ。
「……水姫ちゃん苛めてる三年生って、大楠さん?」
「違うよ!!それは佳奈(かな)たちだよ!!あたしは水姫ちゃんと仲良くなりたいの!!」
「そう」
「そうだよ!!」
「……ごめんね、水姫ちゃん。この子煩いでしょ。適当に聞き流してくれてかまわないから」
「ムキー!!何それ!!」
 自分でムキーとか言う人、初めて見た。困惑を通り越し、混乱し始めた頭で思う。
「てか大楠さん、ちょっと向こう行ってて」
「なんで?」
「水姫ちゃんに話があるから」
「え……」
「それはあたしが聞いちゃいけない話?」
「うん」
 即答した夏枯草に紗幸は怒る素振りも悲しむような表情も見せず、わかった、とあっさり頷いた。


11 :緋桜 :2007/07/17(火) 20:14:01 ID:ommLPmsk

 二人の関係が、まったくわからない。先程の女生徒は、二人は付き合っていると言っていた。紗幸もそれを否定しなかった。それなのに、二人の態度―――紗幸の水姫に対しての態度もまた―――は、「恋人」と言うにはあまりにも「妙」だ。
 困惑する水姫を夏枯草と共にそこに残し、じゃあまたお話してねーとか言いながら紗幸は去っていった。残された水姫は、夏枯草に促されて場所を移す。移動する間の沈黙が、居心地が悪い。そう感じているのは水姫だけだろうか。前を歩く夏枯草の背を見つめながら、どうして彼は今まで紗幸のことを言ってくれなかったのだろうかと思う。別に、夏枯草と付き合いたいとか思っていたわけではない。ただ夏枯草が女の子と付き合っているということを聞いて、胸の中がざわざわして仕方なかった。
 人気のない非常階段に着くと、ようやく夏枯草は口を開いた。
「……三年の女子に絡まれたんだってね」
「え」
「大丈夫だった?」
「あ……はい……。って言うか、元々ぶつかったのは私なんです。考え事してて、前見てなくて……。なのに相手の人、大楠さんにわりとダメージ与えられてみたいで、何か……逆に気の毒だなって……」
 どうしてこんな言い方をしてしまったのだろう。紗幸は水姫を助けてくれたのに、どうして紗幸が悪いみたいに言ってしまったのか。
 紗幸は夏枯草の彼女なのに、こんな風に言われて、夏枯草が面白いはずが無い。
 だが予想に反し、返ってきた夏枯草の反応は至極穏やかな口調だった。
「そっか。困ったものだよね。大楠さんにも」
「……」
 言葉と裏腹に、口調と同じように、夏枯草の瞳はとても優しいものだった。大切なものをいとおしむかのように細められた瞳は、水姫を見つめるそれとはまったく違う。
 夏枯草はいつも、水姫を見るときは哀しそうな瞳ばかりしている。
「……大楠さんと、付き合ってるんです、よね?」
「……」
 思わず口をついた問いに、夏枯草はすぐには答えなかった。訊かれたくなかったことなのか、それとも言葉を選んでいるのか。
 自分の問いに後悔しながらも、水姫は黙って夏枯草の返事を待った。このまま、ずっと沈黙が続けばいいと思った。尋ねたのは自分なのに、答えなんて聞きたくないと思った。
 けれどやがて夏枯草の声が静寂を壊した。
「……すごく、迷った。水姫ちゃんに言うべきなのかな、って」
「……」
「思ったけど、言えなかった。知られたくなかった。……『やっぱり』って思われるのが、怖かったんだ」
「……」
 俯いたまま、夏枯草は壁に背を預けた。下を向いている夏枯草の表情は、水姫からは見えない。
「……ずっと、すきだった。忘れられなかった。他の人なんて一生すきになれるわけないって、本気で思ってた」
「……」
 誰を、とは言わない。言わなくてもわかる。わかるからこそ、続く言葉を待った。
「でも、僕は彼女をすきになった。先輩でも君でもないのに、僕は、彼女をすきになっていた」
「……」
「……本当はね、まだすきなんだと思う。先輩のこと。中学の頃みたいに、先輩のことで頭がいっぱいになったり、胸が苦しくなったりすることはもう無いけど、会えば簡単に、あの頃の気持ちに戻ってしまうくらい。……それでも、かまわないと思うくらい」
 兄のことをすきだった夏枯草を、水姫は知らない。夏枯草の恋がどんなものだったのか、どんな風に夏枯草は兄のことをすきだったのか、水姫は知らない。けれどあの頃の水姫を見つめる夏枯草の瞳は、いつも哀しそうだった。雪波の面影に重なる水姫を見て苦しみ、そんな自分を責めてばかりいた。だから夏枯草は紗幸を選んだのだろうか。もう苦しい恋をくり返さないように、雪波でも水姫でもない人を。
「……こんな気持ちのまま大楠さんと付き合うなんて、彼女に対して失礼だってこと、わかってる。彼女の気持ちに甘えてるってことも。でも、すきなんだ。彼女のこと。一緒にいたいんだ……」
 どうして。
 雪波のこと、まだ忘れていないって言うなら、なんで紗幸をすきになったの。二人の人を同時になんてすきになれるの?それとも、どちらかへの想いだけが恋で、もう一人への想いは恋じゃないの?だったら、夏枯草の恋は、誰に向けられたものなの?
 わからない。
 夏枯草の気持ちも、どうして今、こんなに胸が痛いのかも。
「……僕はきっと、先輩がいなければ、君のことをすきになっていたと思う」
 俯いたまま、夏枯草はポツリと呟いた。
 何て酷い言葉。そんなの、慰めにもならない。けれど慰めてほしかったのかと問われると、答えは見つからない。慰めてもらう理由も原因も、そんなものあるわけない。
「でも、きっと先輩のことをすきにならなければ、僕と君が出逢うことはなかったと思う」
「……はい」
 それは、水姫も同じだ。兄に恋した水姫でなければ、同じ人をすきになった二人でなければ、こんな風に出逢って惹かれあうことはなかった。
 それともあの頃の気持ちは全部、間違いだったのだろうか。
「……だけど、もし先輩と出逢わなくても、僕は彼女のことをすきになったと思うんだ」
 そう言った夏枯草が顔を上げていたのか俯いたままだったのか、もう水姫にはわからなかった。どんな表情で言っているのかなんて見たくなくて、今度は水姫が俯いたからだ。
 何が本当で、何が間違いなのかもうわからない。
 わかるのは、今夏枯草の傍にいるのが、 紗 幸 (雪波でも水姫でもない人)だということだけだった。

 


12 :緋桜 :2007/07/20(金) 21:37:31 ID:ommLPmsk

                                                 □■□■□

 高科凛桜が机に向って何か書いている。しかもかなり真剣な表情で。それだけで大騒ぎになるこのクラスって、どうなんだろう。
「りおー何してんのまさか勉強!?」
「お前どうしたの最近!もうすぐ死ぬ!?もしかして!!」
「バカでもいい、元気なら。が合言葉なのに!!」
「しっかりしろりおー!!」
「あー、もううるさい!!考えらんねぇじゃん!!」
 大恐慌に陥ったクラスメイトを、顔を上げた凛桜は怒る。言っていることはかなり名誉既存な内容なのに、それ自体はどうでもいいらしい。
「つーかマジ何してんの」
「手紙書いてる」
「手紙?母の日の?」
「え、りおーってマザコン?」
「つーかりおーの母さんマジきれーだよなー。しかもめっちゃ若くね?」
「や、ヒロセの母さんもきれーだろー」
「つーかそっくりだよな、ヒロセんとこは」
「でもさ、かわいーのはやっぱ椎名先パイのお母さんじゃね!?いくつだよ!っていう」
 中等部からの持ち上がり組で共にサッカー部の凛桜、悟、桐生はどんな話をしていても必ず脱線する。凛桜単体だけで十分目立つのに、やたら騒がしいこの三人はB組の三バカトリオとして他のクラスでも有名になりつつある。
「っていうか別にこれ母の日の手紙じゃねぇし!」
「じゃぁ何?」
「父の日?」
「実はファザコン?」
「違うって!何か今朝手紙貰って、そこに俺のこともっと知りたいとか書いてたから返事書こーとしたんだけど、何書けばいーかわかんねー」
「は!?何それラブレター!?」
「このご時勢に!?」
「見して見して!」
 凛桜の机の上に置かれたラブレター(仮)はあっという間に悟たちの手にわたり、回し読みにされている。「おおー」と何に対する歓声なのかわからない感嘆の声が漏れる中、凛桜は書きかけの手紙を逆さにしたり回したりとにらめっこしている。
「え、これA組のめっちゃ可愛い子じゃね!?」
「うっそまじうらやましー」
「つーかずりぃ!!」
「え、その子のこと、みんな知ってんの?」
「は!?逆にお前なんで知らねーの!?」
「そっちにびっくりだよ!?」
 周りに問われ、凛桜は口を尖らせながら答える。まさしく「拗ねた」表情は果たして高校生男子が浮かべていいものなのか疑問が残るが、凛桜ならば似合ってしまう。
「だってその子内部じゃねーじゃん。他のクラスの外部の子とかまだ覚えてねーし」
「信じらんねー」
「それより何書けばいいと思うかって訊いてんの!」
 ぎゃぁぎゃぁ騒ぎながら進んでいくこの話はすべて大声で行われているため、水姫たちの座っているところまで筒抜けだ。個人名こそ出ていないものの、あれではラブレターの差出人が誰なのか、わかる人にはわかってしまう。
「だから高科君に告ると、その日のうちに広まっちゃうんだよねー」
 騒ぐ集団を遠巻きに眺めながら、苦笑気味に朝緋が言った。
 しかも凛桜は報告魔だから、他人の秘密まですべて筒抜ける。
「最悪」
「まぁ……悪気はないんだろうけどね」
 むすりと水姫は呟いたが、お茶を濁しながらも、夏海も朝緋もやんわりとフォローを入れる。二人とも、仕方ないと諦めているのだろう。
 水姫もきっと、割り切ってしまえば楽になるのだと思う。気にしなければそれで終わりだ。けれどそうとわかっているのに、どうしても気に入らない。割り切れない。どうしてこんなに凛桜の一言一言に苛立ってしまうのだろう。
 さらに大声を出して騒ぎ出した凛桜を睨むように眺めながら、あの手紙の差出人の女の子は、凛桜のどこがすきなのだろう、とぼんやり考えた。

 


13 :緋桜 :2007/07/24(火) 20:07:58 ID:ommLPmsk

2.夏

 グラウンドに響き渡る歓声。弾ける笑い声。ソファーに仰向けで転がっていた水姫は、半袖から覗く白い腕をだらんと力なく投げ出す。
 昨日から夏休みまでの一週間、翠蘭学園高等部では球技大会が行われる。授業は午前中のみで午後から丸々大会に当てる。期末テストも終わって生徒たちは浮き足立ち、ちょっとしたお祭り騒ぎだ。ユニフォーム代わりにそろいのTシャツを着用するクラスもあれば、女子がチアリーダーの真似事をするクラスもある。十月にある文化祭の前にクラスを一致団結させておこうという学園側の目論見は成功のようだ。
 だが水姫は、その輪の中に入っていない。
 先程ドッジボールで顔面ヒットをくらい、早々に退場してしまったのだ。あまり運動が得意ではない水姫はバレーボールやバスケットなど経験者が集まる競技とは違ってその他大勢が出場するドッジボールに回されたのだが、どうやらそれでも足手まといだったようだ。先程まで友人たちがついていてくれたが、もうすぐ女子のソフトボールの試合が始まるため練習のためグラウンドに向かった。
 一人ぼんやりとソファーに寝転がっていると、保健室のドアがガラリと音を立てて開き、よく見知った友人が顔を覗かせた。
「具合どう?鼻血止まった?」
「は!?鼻血なんか出してないよ!?」
「え、『高杉が鼻血出してぶっ倒れた〜』って凛桜が大騒ぎしてたけど……」
「〜〜〜ッもう!!ほんとあいつどうにかなってくれないかな!!」
 様子を見に来てくれた真樹の言葉に、水姫は声にならない唸り声を上げる。本当に、どうしてくれようあの男は。ニ、三回張り飛ばしても許されるような気がする。
「ホント出してないから!!ちょっと脳震盪起こしただけだから!!」
「う、うん。わかったから落ち着いて……」
 大騒ぎ、と言うことは真樹以外にもそう言う勘違いをしている人がいるということだろうか。誰か訂正して、ついでに凛桜を撲っといてくれないかと思う。わりと殺傷力のある、鈍器的なもので。
「……どうなってる?今」
「えっと、男子のソフトとバスケは勝ってるよ。あと女子のソフトの二回戦が今から始まるみたい。具合良くなったんなら見に来れるかなって思って呼びに来たんだけど、どう?」
「あ、うん。もう大丈夫」
「じゃぁ行こうか」
 促され、立ち上がる。真樹は保健委員だからわざわざ見に来てくれたのだろう。
 女の子みたいに綺麗な真樹は、誰に対しても親切で優しい。このくらい心の広い人でなければ、凛桜のような人間とは付き合えないのだろう。実際水姫は、真樹が本気で怒っているところは見たことなかった。
「女子のソフトって、夏海と朝緋出てるよね?」
「うん。昨日の一回戦すごかったよね。特に梅宮さん。打っては投げ投げては打ち……」
「なんで夏海も朝緋もあんなに運動神経いいんだろ……。ちょっとくらい分けてくれてもいいと思わない?」
「っていうか、高杉さんは運動神経無さすぎだよね」
「酷!!」
「ごめんごめん、冗談だよ」
「いーや、今のは本気だっ……」
「?高杉さん?」
 首を傾げる真樹の腕を引っ張り、水姫は曲がり角の影に隠れる。廊下の向こうから、夏枯草と紗幸が歩いてくるのが見えたからだ。避けなければいけない理由も、隠れたかったわけでもなかったのに、反射的に身体が動いた。
 夏枯草と紗幸の関係を知った日から、何となく夏枯草とは顔を合わせ辛かった。たぶんそれは水姫が一方的に感じている気まずさでしかなかったのだろうけれど、こうして姿を見かけても、反射的に隠れてしまうようになった。
「絶対テリアでいいと思う!!だって長いし、テリアのが可愛いもん!!」
「でもそれだとロッテと勘違いしない?」
「しないよ!べつにロッテは可愛くないもん!大体ヨークってわけわかんない」
「テリアでもわかりやすいわけじゃないと思うけど……」
 否応無しに聞こえてくるが、謎の会話だ。しかも結構白熱している。一体何の話をしているのだろう。
 やがて二人の声が聞こえなくなると、水姫は脱力してしゃがみこんだ。真樹からしてみれば、二人の会話だけでなく水姫の行動もかなり謎だろう。
「……どうしたの?」
「……」
「高杉さん」
「あー……」
 しゃがみこんでため息を吐く水姫を、真樹は不思議そうに見ている。当たり前だ。水姫だって自分で自分の行動がわからない。
「今のって……例の先輩だよね?隣にいたのは……」
「……先輩の彼女」
「え」
「なんかさ、失恋した気分」
「……?」
 立ち上がろうとしない水姫に合わせて真樹もしゃがみこんだのが、衣擦れの音でわかった。
 沈黙の後、ふいに頭に温もりが移った。ちらりと横目で見ると、躊躇いがちに真樹が水姫の頭を撫でている。
「……何」
「や、慰めた方がいいのかなーっと思って」
「……やめてよ。惚れちゃうじゃん」
「それは困る」
「困るの!?」
 そんなはっきり拒絶されるとは少々ショックだ。
 優しくて穏やかな性格の真樹だけれど、ここ最近では付き合っている人がいるという話は聞いたことがない。中等部のときは年上の恋人がいるらしいという噂が流れていたが、その人ともかなり前に別れてしまったようだ。真樹のような人がすきになったのは、どんな人だったのだろう。どんな人と、真樹は恋をしたのだろう。
「……幸せな恋を、してほしかったの」
「……」
「あたしの知ってる先輩は、いつも寂しそうな表情ばかりしてた。あたしを見る目は、いつも悲しそうだった。
 だから、ちゃんと、先輩のこと幸せにしてあげられる人に現れてほしかった。その人と幸せになってほしかった。……なのになんで、こんなに寂しんだろ。……なんで喜んであげられないんだろ……。ほんとは、あたし……」
 事情を知らない真樹には、水姫の話は支離滅裂だろう。だが真樹は、黙って水姫の話に耳を傾けてくれていた。
 そして水姫の声が途切れると、呟くように話し始めた。
「……終わって初めて、気付くことってあると思う」
「え?」
「失ってからしか気付けないこと、誰にだってあるよ。なくしても気付けない人もいる。どっちがいいとか悪いとか、そう言うことじゃない。そう言うんじゃなくて、気付いても気付かなくても、寂しいだけなんだ」
「……廣瀬君……」
「俺もさ、いなくなって初めて、その人が大切だったんだってことに気付いたこと、あるよ。傷付けて振り回して、結局、突き放されて初めて気付いた。自分が思ってたよりもずっと、ずっとその人のことをすきだったこと。どうしようもなくなるまで気付けなかった」
 それは、あの頃付き合っていた人のことを言っているだろうか。別れた恋人のことを、真樹は今も想っているのだろうか。まだすきだというのなら、どうして別れてしまったのだろう。
「それでも俺は、あの頃は精一杯だった。今も後悔は尽きないけど、全部俺が招いたことだから、受け入れるしかないんだよね。……諦めることと受け入れることは違うって、俺は思う」
「……」
「ごめん、上手く言えなくて」
「……うぅん。ありがと。今ちょっと、廣瀬君のこと師匠と呼びたい気分だよ」
「何それ」
 顔を見合わせて二人は笑い、立ち上がる。
 受け入れるしかない。確かにそのとおりだ。
 どんなに悔やんでも、過去は変えられない。変わらないのだから。
 二人の間の緊張が解け、再び穏やかな空気が流れ始める。だがそれを、廊下の向こうから聞こえてきた声が壊した。
「あー、見つけたー!!何してんの真樹!!あんまり遅いから探しに来ちゃったし!!」
「凛桜」
「もうソフト始まってるよ!何してんの!!」
「ごめんごめん。行こっか、高杉さん」
「うん……」
 廊下の隅で話しこむ二人に、通りかかった凛桜がぷりぷり怒っている。二人を、と言うよりむしろ真樹を探しに来たのだろう。本当に、この男はどれだけ真樹が好きなのだ。クラスも部活も寮もこんなのと一緒で、真樹はうっとうしくならないのだろうか。
 真樹が歩き出し、水姫もそれに続く。だが凛桜は動かない。立ち止まったまま、凛桜が水姫の腕を掴んだ。
「な……」
 驚いて振り向くと、思いのほか凛桜は真摯な眼差しをしていた。
「何話してたの」
「は……?」
「真樹と二人で何話してたの」
「……ッ」
 つかまれた腕が、鈍く軋む。
 凛桜にこんな表情させられるのは、サッカー以外では真樹だけだ。いつだって凛桜は真樹しか見ていない。
 胸がざわめく。
 この不快感の正体は何?どうして、何がこんなに気に入らない?
「……痛い。離して」
「あ、ごめ……」
「そんなの、あんたに関係ないでしょ」
 振り払うと、あっさりと手は離れた。
「凛桜?高杉さん?」
 先を行く真樹が、立ち止まったままの二人を不審に思って振り返る。
「……」
「何でもないよー。早く行こ!」
 水姫を置き去りに、凛桜は真樹の元へ小走りで駆けていく。高杉さん?と真樹にもう一度呼ばれ、水姫も歩き出す。
 凛桜に掴まれた腕が、痛い。握られた箇所を右手で触れると、少し熱を持っていた。その熱は、凛桜のものか水姫のものか。
 凛桜は何事も無かったように真樹と話している。
 そう。
 きっと彼にとっては、何でも無いことなのだろう。
 それなのにどうして、水姫だけがこんな風に彼に振り回されてばかりいるのだろう。凛桜に見つめられただけで、凛桜の一挙一動に、どうしてこんなにかき乱されるのだろう。
(ばかみたい)
 凛桜の背を見ながら悪態をついてみても、心は一向に晴れなかった。

 


14 :緋桜 :2007/07/28(土) 21:22:08 ID:ommLPmsk

                                                  □■□■□

 真樹と凛桜と共にグラウンドに戻ると、試合は二回の裏、水姫のクラスの攻撃だった。
「あ、やっと戻ってきたりおーたちー」
「お帰りー」
「高杉ー。お前鼻血大丈夫か〜?」
「ちょっと!!鼻血なんて出してないっつーの!!」
 フェンス際で応援していた悟たちが、水姫たちを見つけて手を振る。真樹曰く、大騒ぎした凛桜のせいでクラスメイトたちは完全に水姫が鼻血を出したと思い込んでいるようだ。仮にも一応年頃の女の子なのに。
「照れんなよ〜。大丈夫だって鼻血ぐらい。生きてる証拠さ的なカンジだから」
「意味わかんないし!!つーかだから出してないってば!!」
「まぁまぁ。鼻血ぐらい誰だって出すって。ヒロセだって出すしな」
「嘘よ!!廣瀬君に限ってそんなことあるわけないし!!」
「ばっかお前ヒロセに夢見てんなよ。ヒロセは鼻血だって出すし寝言だってすごいんだぞ!!」
「いきなり『カルフォリニア!』とか叫ぶんだぞ!!」
「『カリフォルニア』じゃなくて『カルフォリニア』なんだぞ!!」
「何の話をしてるんだよ……」
 自他共に認める美少女顔の真樹だが、やはり心の中は立派な男の子らしく、もはや論点がずれまくっている悟と桐生の主張に呆れつつも、鼻血ぐらいでは動じない。
「そんなことよりさっきすごかったんだぜ梅宮!!三者凡退!!あいつもうバレー部じゃねーよ。野球部入れるよ!!」
「えっ、マジで!?うわ〜。見たかった〜」
 遅れてきた三人のために、悟が試合状況を説明してくれる。昨日同様、朝緋も夏海も大活躍のようだ。
 フェンスにへばりついてガシャガシャ騒音を立てながら応援していると、戻ってきた水姫たちを見つけたまゆかが近付いてきた。
「ミナちゃーん、顔、大丈夫ー?」
「まゆか……」
「私のせいでミナちゃん怪我しちゃったみたいなものだから、心配してたんだよ〜?」
 先程水姫が負傷したドッジボールの試合で、まゆかは同じチームだった。水姫が試合中顔面ヒットを食らったのは前に立っていたまゆかが向かってくるボールを間一髪でよけたせいなのだが、ドッジボールとはボールをよける競技なのだし、やはり一番の原因は水姫の反射神経の鈍さにあるのだからまゆかのせいではないだろう。
「そんなん高杉が運動神経切れてんのが悪いんだから、楢崎が気にすること無いって」
 と言う桐生の言うとおりなのだが、なぜそれを桐生に言われなくてはいけないのか。ケラケラと笑う桐生を水姫はじろりと半眼で睨みつける。
「ちょっと桐生!自分で言うのはいいけど人に言われるのはむかつくんだけど!!」
「何それ高杉超わがままー」
「桐生超むかつく!!
 ……てか、別にまゆかのせいじゃないよ。もう平気。心配かけてごめんね」
「そう?ならよかったー」
 水姫の言葉でほっとしたようまゆかは笑った。その笑顔は、可愛いと思う。けれど、どうしても敬遠してしまう。
 入学式の日に話して以来まゆかはしょっちゅう絡んでくるが、何となく避けがちになってしまう。嫌いなわけではない。ただ女の子らしくて常に甘ったるい声でだらだら喋るまゆかは、水姫の苦手なタイプだった。話しかけられれば答えるけれど、積極的には関わりたくないというのが本音かもしれない。
 自分が可愛くない性格をしていることを自覚しているせいか、水姫は「女の子らしい女の子」が苦手だった。周りの目を気にして、男に媚を売って、自分を可愛く見せることに長けている女の子。まゆかと言う少女は、まさにそんな女の子だった。もちろんそう言う女の子を否定する気はない。馬鹿みたいだとも思わない。女として生まれたのだから、男に愛されたいという気持ちだってわかる。ちやほやされたいと思う子だっている。
 だけど水姫は嫌なのだ。そんな女の子になりたいと思わない。なりたくなんかない。
 「女」であることを武器にしている女は、「あの人」を思い出させるから。
 しばらく一緒に試合を観戦していた凛桜たちは、自分たちの試合があると言って去って行った。彼らの種目はバスケで、いずれも中学時代はサッカー部でレギュラーを張っていた奴ばかりだから、上級生相手にまだ勝ち残っているようだ。
 真樹たちが去った後、まゆかと二人残された水姫は何となく気まずくて、試合に集中しているふりをした。観戦していた女子も何人か男子バスケの試合に移動しているようだが、まゆかは水姫とそこに残ったままだった。まゆかもまた沈黙を気まずく思ったのかどうかは知らないけれど、話しかけてきた。
「そう言えばミナちゃんが保健室行ってる間ね、高科君が他のクラスの女の子と話してるの見ちゃったー」
「……へぇ」
 なぜまゆかがいきなりそんなことを言い出したのかわからず、水姫は生返事を返すことしかできなかった。まゆかは入学初日から凛桜にご執心だったようだが、どうしてわざわざそれを水姫に報告するのだろう。自分が興味ある話題は、相手も興味がある、とでも思っているのだろうか。
 だが思ったことをそのまま口にするわけにもいかず、水姫は黙ってまゆかの次の言葉を待った。
「なんかみょーな雰囲気だったけどぉ、告白されてたのかなぁ」
「……さぁ」
「でもねぇ、相手の子、ゼンッゼンたいしたこと無かったんだー。あの程度で告白してくるなんて、身の程知らずだよねー」
「……」
「やっぱり高科君みたいな人には、朝緋ちゃんくらいの子じゃなきゃつり合わないよね」
 そう言って笑うまゆかは、無邪気なのか、それとも無邪気を装っているのか。ミナちゃんもそう思うよねーと同意を求められ、水姫は頷くことができなかった。無反応な水姫の顔を、まゆかが不思議そうに覗き込む。
「ミナちゃん?」
「……つり合わなきゃ、ダメなの?」
「え……」
「すきなだけじゃダメなの?つり合わなきゃ、みんなが認めてくれる人じゃなきゃ、すきになっちゃいけないの?」
 みんなが認めてくれなくちゃ、その恋は「間違い」なの?だったら、同性(雪波)に恋した夏枯草は、兄に恋した水姫は、全部、間違いだったの?やっぱり夏枯草にとって「正しい恋」の相手は、雪波じゃなくて紗幸の方なの?
「ミナちゃん?どうしたの?」
「え……」
 不審げな視線を送られ、水姫は慌てて口を噤む。こんなことをまゆかに言っても、仕方ないのに。気まずくて、三度黙り込んだまま俯いてしまった水姫に、何を勘違いしたのかまゆかが尋ねた。
「……ミナちゃん、もしかして高科君のことすきなの?」
「は?何言って……」
「だからそんなこと言ったんじゃないの?あ、でも大丈夫だよ〜。心配しなくても、ミナちゃんだったら高科君とつりあうと思うよ〜?」
「バカ言わないでよ」
 見当違いなフォローをするまゆかに、こめかみが疼きだす。
 水姫が凛桜をすきだなんて、そんなこと、あるわけない。
「そんなこと、あるわけないでしょ」
「え〜?」
「だって、あたしあいつ嫌いだもの」
 すきになんてならない。なるはずがない。
 だってさっき、水姫の脳裏に浮かんだのは、凛桜じゃなかった。

 


15 :緋桜 :2007/07/31(火) 20:58:39 ID:ommLPmsk

                                                  □■□■□

「よっしゃーニ連勝!!」
「夏海すごかった!!かっこよかった!!」
「さっきので夏海のファン、六人くらい増えたわよ」
「何そのびみょーな増加」
「しかも全部女子」
「まじで!」
「でも本当かっこよかったよ!朝緋のランニングホームランもすごかった!!」
 女子ソフトボールの二回戦は、4対3の接戦ながらも、1年B組が勝利を収めた。勝因としては、夏海と朝緋の活躍が大きいだろう。昨日同様打っては投げ投げては打つピッチャーの夏海に、ここぞと言うとき長打を打つ朝緋。二人とも抜群の運動神経を披露し、上級生相手に快勝だ。
 それに引き換え。
「そー言えばミナは鼻血大丈夫だった?」
「だから鼻血じゃないってば!!軽い脳震盪!!なんでみんなあんな奴の言うこと信じるの!!」
「もー、そんなに興奮するとまた出るわよ〜?」
「夏海!」
 このままでは完全に鼻血キャラにさせられてしまう。これと言うのも全部凛桜のせいだ。自分の運動神経の悪さは棚に上げ、あること無いこと吹聴し回るクラスメイトの能天気な顔を思い出し、きりきりする。
 二人の試合終了後、水分補給のため水飲み場に来ていた水姫、朝緋、夏海の三人は、首にかけたタオルで汗を拭きながら更衣室へと向かう。今日の試合はもう終わったため、この後は自由解散だ。
 だがまだ試合をやっているスペースを通りかかったとき、ものすごい悲鳴に三人は思わず足を止めた。
「きゃあぁぁぁぁ!!椎名先輩超かっこいー!!」
「こっち向いてー!!」
「先パーイ!!」
「……」
「……」
「……」
 男子のソフトボールの試合が行われている側のグラウンドのフェンスに張り付いている大量の女生徒。上げているのは、もはや声援と言うより悲鳴だ。絶叫だ。水姫たちが給水所に行くために通ったときよりも、確実に増えている。
 そしてその中には、よく見知った少女がいた。
「……聖佳……。あんた何してんの」
 中学時代のクラスメイトを夏海が呼ぶと、聖佳と呼ばれた少女は振り向いた。その頬が上気しているのは、運動直後だからというわけではないのだろう。
「あっ、夏海ー!!久しぶりー。もぉ見てぇ!椎名先輩超かっこいいのぉ!ホームラン予告してねー、本当に打っちゃったんだよぉ!」
 目を輝かせて言う聖佳は、中学時代から椎名のファンだった。椎名だけでなく、「美形大好きv」と言ってはばからない彼女は、同級生で同性である朝緋にさえも、先程の試合中黄色い声援を送っていた。
「うわぁ……。それはまた……」
「そーゆーことははずさない人だね、本当」
「超かっこいい……どうしよう……。もー一生ついていく……」
「迷惑だからやめなさい」
 興奮しすぎてめまいがしてきたのか、ふらぁっとよろめく聖佳を夏海が受け止める。が、夏海の表情は呆れ顔そのものだ。言っていることも、たぶん正しい。
「っていうかそんなことで人生棒に振っちゃいけません!」
「!!」
(ひかる)先輩!?」
「ヘイバッター!!サードびびってんよー!!ぶつけちゃえー!!顔面ぶつけちゃってー!!」
「やかましい輝!!」
「うっせーばーか!!ちょっとくらい顔歪んじまえ!!むしろピッチャー!!しーなにぶつけろ!!大丈夫しーななら死なない!!俺、信じてる!!」
「お前ほんとちょっと黙っててくんない!?」
 突然現れてグラウンドにむかってヤジを飛ばす男子生徒は、朝緋と同じ陸上部の二年生だ。椎名とは友人なのだろう。ピッチャーに向かってとんでもない要求を叫んでいる。サードを守る椎名もそれに応戦する。群がる女生徒が椎名先パイこっち見た〜と大騒ぎするが、彼女たちを見ているわけではない。絶対に。
 フェンスをガシャガシャしながらひとりで三人分ぐらい煩かった輝だが、新しいおもちゃ発見とばかりにさらに目を輝かせる。
「お、何だバッター松葉じゃん。まーつばー!サード返し!サード返し!!」
「返しじゃねえよそれ!つーかお前マジで煩い!!」
「あー、しーな先パイってばサード守ってるー!マジ受けるー!!」
「なんで」
 輝の標的が椎名からバッターへと移り、またもくだらない舌戦が繰り広げられていると、試合の終わった凛桜と真樹たちが通りかかる。更衣室へ向う途中だと思われる凛桜は、なぜか椎名を指差してけらけら笑い出した。さらにバッターである松葉は同じくサッカー部の先輩だ。凛桜は嬉しそうにフェンスにしがみつき、輝と並んで野次を飛ばしだした。
「しかも松葉先輩バッターじゃーん!なんでー?」
「お前の言ってることがなんでだよ」
「松葉先輩頑張れー!!」
「椎名先輩体操服かっけー!!」
「サトルもおかしいよ!?あんなんただの芋ジャージじゃん!!」
「お前ら後で泣かす!!」
 言いたい放題の後輩たちに、三塁手の椎名がとうとうキレた。と同時に。
 キィン!
 金属音と共に、ボールが空へと吸い込まれる。が、ファールだ。しかも器用にファースト方面に飛ばし、松葉ダッセーと輝に爆笑されている。
 結局松葉は次のボールを空振りし、結局ゲームセットとなった。
「あー。松葉先輩かっちょ悪ー」
「お・ま・え・ら・が・煩いせーだろが!」
 バッターボックスから出てきた松葉を、凛桜が指差してけたけた笑う。別に凛桜は笑い上戸と言うわけではないのに、笑いのツボがどこか可笑しい。
「まぁまぁ仕方ないって松葉なんだし」
「何それ!」
「カタキは俺らがとるっスから!」
「え。次お前試合しーなと?」
「違いますよ」
「つーかりおー、ソフトじゃないじゃん」
「えへへー」
「そこで照れる意味もお前の言ってることももうわかんねぇよ!」
「松葉ー、整列してんぞー。とっとと来いー」
 試合後、フェンスをはさんで凛桜たちと騒ぐ松葉をグラウンドに整列しているクラスメイトたちが呼ぶ。呼ばれた松葉は駆け足で去っていった。凛桜のような後輩を持つと、相手をするのも大変だろう。面倒見がよく、後輩に慕われている松葉でも、凛桜との意思の疎通は困難らしい。
「じゃぁ椎名先輩に泣かされる前に逃げるとしよっか」
「どーせ部活で会うけどねー」
「あー、この後部活ってタリィなー」
「じゃぁ帰れば」
「だからなんでヒロセってそんな俺にだけ冷たいの!?」
 嵐のように凛桜は去っていった。いつの間にか、輝もいない。だが椎名のファンは、まだいる。試合が終わってもまだ熱い声援を送られる椎名を見ながら、夏海は呟く。
「……愛されてるよね、椎名先輩」
 水姫もそう思う。

 


16 :緋桜 :2007/08/07(火) 20:32:11 ID:ommLPmsk

                                                  □■□■□

 球技大会は、男子優勝3年D組、女子優勝1年B組という結果で幕を引いた。表彰式と終業式の後教室に戻ると、いつもの如く教室の真ん中で男子が集まっていた。その中心には、やはりいつものように凛桜がいる。
「なー、したいよなー」
「でも実質無理じゃね?つーかお前らが無理じゃん」
「えー、でもやりたいよなー。なぁ、相楽さん」
「ごめんあたし廣瀬君じゃないから主語が無いと何のことだかわかんない」
 席に戻ってきた朝緋は唐突に同意を求められたが、唐突すぎる問いには眉を寄せることしかできない。同じ国の言葉を喋っているはずなのに、どうしてこんなにも意思疎通ができないのだろう。
「だからー、打ち上げ。球技大会優勝したじゃん!」
「女子がな」
「俺だって男バスで準優勝したし!」
「で、その打ち上げしたいってことなの?」
「えー。楽しそぉ〜」
 いつの間にか凛桜の隣に移動してきたまゆかが、甘えたように凛桜の服の袖を掴む。
 入学直後、まゆかは二年生と付き合い始めたが、二週間で別れ、その後ニ、三人と付き合っていたようだが、どれもあまり続かず、最近再び凛桜に付きまとい始めた。凛桜には朝緋のような子じゃないとつりあわない、と言っていたくせに、自分ならば大丈夫だということなのだろうか。
「あたしもしたいなー、打ち上げ。ね、いつやるのぉ〜?」
「って言うか言いだしっぺの高科君が一番暇無いんじゃないの?夏休み入ったら大会だし、帰省期間は実家だしで、いつできるの?」
「ね〜、高科君の実家って横浜なんでしょ〜?あたし横浜って行ったこと無いんだ〜。行ってみたいな〜」
「へー。
 あ、そう言えば夏休み中、莉宇(りう)帰って来るんだって。あんまり長くはいれないけど、相楽さんたちに会いたいって言ってたよ〜」
「り、莉宇って誰?」
「俺のいとこ〜」
「あー、もう莉宇のことはいいから!で、どーなの、暇あるの?」
 どんどんずれていく話題に朝緋は少し苛立ったように仕切り直す。
「えっと……合宿っていつからだっけ」
「八月の頭からだろ」
 凛桜の問いに悟が答えた。いつもは凛桜のフォローは真樹の役目だが、なぜかまだ帰ってきていない。いつにもまして今日の凛桜の暴走は酷いと思ったら、保護者が不在のためか。
「合宿終わったら帰省期間で、りおー実家帰るんだろ?」
 翠蘭の学生寮には、強制帰省期間なるものが存在し、盆と年末年始がそれに当たる。水姫や朝緋も寮生だが、一応都民だ。一方凛桜の実家は隣県の神奈川、横浜だ。帰省期間中はさすがにサッカー部の練習も休みになるが、打ち上げのためだけにわざわざ隣県から来るのは難しいだろう。
「あ、じゃぁさ。帰省の初日にやろーよ」
「は?お前今何の……」
「帰省期間中何日か真樹んちに泊まるんだー。だから大丈夫大丈夫」
「や、お前が大丈夫でも他の奴らどうすんだよ」
 真樹はサッカー部だからという理由で寮に入っているため、実家は翠蘭に近い。というか、徒歩10分だ。だが中には、通えない距離だから寮に入っている人間もいるのだ。その人の都合も、ちゃんと考えているのだろうか。考えているわけない。考えていたら、大丈夫だなんて言えるわけない。
「でもぉ、現実問題、みんなの都合が合う日なんてないわけだしぃ」
「まぁ……そうだけど……」
「とりあえずその先で話進めていった方がいいんじゃなぁい?」
「進めるって誰が?」
「……」
「……」
「……」
横溝(よこみぞ)、任せた!」
「えぇ!?俺!?」
「頑張れ級長!」
「まけるな級長!」
「ファイトだ級長!」
「お前はできる子だ!」
 嫌なことは他人に押し付けろ。それが高校生の正しいあり方だ。肩を落とす横溝の背を、夏海がぽんと叩いて励ました。が、励ますだけで協力はしない。
「じゃぁ……まぁ8月の15日あたりでいんだな?」
「とりあえず15から17の間で都合のいい日訊いたら?んで、一番人が来れる日にすれば」
「だな」
 何だかんだ言いながらも、結局は凛桜の意見が通るのだ。いつだって、凛桜中心に回っている。
 そのことが、水姫はいつも気にいらない。けれどそれを口に出して訴えるほど、もう子どもではない。水姫も結局は口を噤むのだった。

 


17 :緋桜 :2007/08/10(金) 21:11:25 ID:ommLPmsk

                                                 □■□■□

 女の子は可愛い。やたらとずうずうしくて煩くて勘違いしたような女の子は苦手だが、さりげないおしゃれをしたり、少しでも自分を可愛く見せようと努力している女の子は可愛いと思うし、好感も持てる。けれど可愛いと思うことと、すきだと思うことは違う。愛情は無くても、可愛いと思える。可愛いと思えても、すきだとは思えない。だから真っ赤な顔をした可愛い女の子にすきだと言われても、心が動いたことは一度もなかった。罪悪感があっても、それ以上の感情は沸かない。
「ごめんね……」
「うぅん、気持ち、伝えたかっただけだから、いいの」
 ちゃんと答えてくれてありがとう、と言って、少女は去って言った。悪いな、と思う反面、くだらない、と妙にさめている自分もいた。
 告白して、振られて、涙を堪えて、一人泣いて。さしずめ悲劇のヒロインか。そんなドラマにつき合わされるこっちの目にもなってほしい。
 ため息を吐いて、真樹は振り返る。早く教室に戻らないと、HRが始まってしまう。何だって彼女はこんな時間を告白タイムに選ぶのか。式が終わり、教室に戻る途中呼び止められ、体育倉庫の前まで連れてこられた。本日二度目の溜息を吐いた真樹は、しかし、HRが終わったら自分はすぐさま部活に向かうからだという理由にたどり着いた。そう考えると、確かに真樹がつかまる時間は今しかなかっただろう。
「溜息なんか吐いちゃって、罪な男だねぇ廣瀬君は」
「ひゃう!」
「相っ変わらず可愛い声出すねー」
 背中をつ……と撫でられ、真樹は妙な声を出す。慌てて振り返ると、そこには、真樹の予想通りの人物が立っていた。真樹にこんなことをする人は、もうこの人しかいない。
「き……綺更(きさら)先輩……ッ」
「ホント、君はいつも可愛いねぇ。先輩どきどきしちゃう」
「いつからいたんですか」
「ん?『こんなこと、急に言われても廣瀬君困ると思うんだけど』からかなー」
「最初からじゃないですか!」
「まぁそうとも言うね」
 怒っても廣瀬君は可愛いなぁと、綺更は真樹の頭をぐりぐり撫でる。セクハラですとその手を撥ね退けると、綺更は気分を害した様子もなく、それどころかいっそう楽しげに笑った。
 だが綺更の目は、真樹からは片方しか見えていない。蜂蜜色の髪の奥に右目は隠れてしまっているからだ。奇妙、というほか無い容貌だが、綺更は目を見張るほどの美形であるため独特の雰囲気を醸し出し、それが奇異には写らない。それに綺更がそんな髪形をしているのには、理由があった。
 日本人離れした蜂蜜色の髪は、綺更の地毛だ。綺更は純粋な日本人ではない。父親がヨーロピアンのハーフだ。そのためか生まれつき彼の目は右だけが色素が薄く、綺麗な蒼をしている。左右で色の違う目。それを隠すために、綺更は前髪を伸ばしていた。
「可愛かったのにね、あの子。付き合っちゃえばいいのに」
「……すきでもないのに付き合うなんて、相手に失礼でしょ」
「これからすきになるかもしれないよ?可能性は大事にしなきゃ」
「なりませんよ」
 茶化すような綺更の言葉に、真樹はぴしゃりと否定を返す。これではどちらが失礼なのかわからない。
「……なりません」
「どうして?」
「……」
「まだ、忘れられない?」
「……」
 囁き、綺更はそっと真樹に触れる。壊れ物でも扱うように、優しく。綺更の手の温もりはあの人とよく似ていて、けれど、同じではなかった。
「……忘れるとか、そう言うんじゃないんです」
「ふぅん?」
「忘れるとか忘れないとかじゃなくて、……ただ、もう、終わったことなんです」
「……」
「綺更先輩だってそうでしょう?忘れてないけど、もう、終わってしまったんでしょ?」
「……」
 触れていた手が、離れていく。あの人とよく似た、あの人とは違う手。この手は、どんな風にあの人に触れていたのだろう。
 あの人は、どんな風に綺更を受け入れていたのだろう。
 嫉妬か、羨望か、寂寥か。どちらにしろ、想い出となった過去には、焦がれることしかできない。
「俺、行きますね。教室戻らないと」
「ねぇ」
 再び歩き出した真樹の足を、綺更の声が止める。けれど真樹は振り返らない。振り返らずに、綺更の言葉を待った。
「君は、忘れたいと思ったことはある?」
 誰よりも真樹を愛してくれたあの人を、真樹の幸せを祈ってくれたあの人を、真樹を置いていってしまったあの人を、真樹の声に振り向いてくれなかったあの人のことを。
 いつの間にかおぼろげになってしまったあの人の顔や、耳の奥にまだ残っているあの人の声を思い出しながら、真樹は答えた。
「……忘れないって、決めましたから」
「……」
「あの人が俺を忘れても、俺はあの人のこと、忘れません」
 二度と会えないけれど、傷付けることしかできなかったけれど、あの人をすきだったことを忘れないと決めたから。

 


18 :緋桜 :2007/08/15(水) 02:34:44 ID:PmQHunWF

                                                  □■□■□

 約300人を収容する翠蘭高等部寮、通称山茶花寮。その寮生の三分の一ほどはサッカー部だ。男女の比率は男子200人女子100人で、男子棟、女子棟は各階の共有スペースで繋がっていて、夜9時から朝8時の間は互いの棟の行き来は禁止されている。その共有スペースとは、一階は食堂、二階は談話室、三階は学習室だ。ちなみに山茶花寮は四階建てだが、四階に共有スペースは無い。二階の談話室にはテレビが置かれ、ソファーや自販機、ちょっとした娯楽ゲームなどが用意され、主に人が集まるのはこの談話室だ。
 自販機に飲み物を買いに来ると、男子棟の方から真樹が現れた。お互い飲み物を買って壁にもたれながら世間話を交わす。
「宿題終わった?」
「まだゼンッゼン。なんで高校ってこんなに宿題多いんだろ」
「同感。俺、明後日から合宿なのにどうしよう」
「とか言って、どうせ廣瀬君はほぼ終わってんでしょー」
「全然だってば。あまりにも終わんないから勉強会始めたんだけど、メンバーが悪かった……。凛桜とサトルと桐生で、勉強なんかできるわけ無いんだよ。もっと早く気付け俺……」
 確かにあのメンバーではすぐ雑だが始まり、大騒ぎになるだろう。桐生と悟と真樹の三人ならまだいい。だがそこに凛桜が加わっただけで、大惨事になることは必至だ。そのメンバーで静かにお勉強などできるわけが無いのだ。
 ため息を吐いた真樹はいい子にするから寝てる間に妖精さんやっといてくれないかなー、などと言い始めた。本格的に追い詰められているのかもしれない。
「……大丈夫?」
「うん……。だったらいいなーとは思う」
「希望なんだ……」
「むしろ願望?
 まぁその辺は今日できるだけ頑張るとして、話変わるけど高杉さんの実家ってどの辺?遠い?」
「え、いきなり?そーだなぁ……電車だと一時間かかんないくらいかなぁ」
「そうなんだ」
 通えない距離ではない。けれど寮に入ったのは―――寮のある翠蘭を選んだのは、家にいたくないから。だから水姫は毎年帰省期間ギリギリまで寮に残っている。
「なんでそんなこと訊くの?」
「や、もう八月入ったけど高杉さんいつ帰るのかなってぁって」
「え……」
 真樹の問いに、水姫は言葉に詰まる。
 部活もしていないのに、八月に入ってもまだ寮にとどまっている生徒は水姫くらいだろう。朝緋も昨日、実家に帰っていった。強制帰省期間まで、あと十日を切った。まだ寮に残っているのは、サッカー部員と水姫くらいだ。真樹が訝るのも無理は無い。
 けれど水姫は、家に帰りたくなかった。
「……ギリギリまでは寮にいるつもり」
「そっか。なんで?早く帰って来いっておうちの人言わない?」
「散々催促はされてるんだけどね。……帰りたくないんだ」
「え……」
 訊いちゃいけないカンジ?と決まり悪げに真樹は首を傾げた。そう言うわけじゃない。そう言うわけじゃないけれど。
 水姫は一度息を吐き、言葉を紡いだ。
「母親と、顔合わせたくないの」
「……仲悪いの?」
「っていうか、嫌いなの」
「……」
「母親って言っても、義理だし。って言うか母親とか思ってないし。……あんな女、大嫌い」
 水姫が六つのとき、父親が再婚した。まだ三十を超えたばかりだった義母は、女であることを武器にして父の妻の座を射止めたのだ。貪欲で狡猾で、打算的な女。水姫は世界で一番あの女のことが嫌いだった。
「……そっか」
 真樹はただ一言そう呟いた。けれど下手に何か言われたり慰められたりするよりも、よっぽどよかった。
 真樹との会話は、苦ではなかった。
 あれ以来、水姫と真樹は急速に仲良くなった。夏枯草への想い―――水姫にとって、一番触れられたくなかったものを知られた今では、真樹の前で取り繕う必要がなくなった分、楽だったのかもしれない。それは友情ではなくて、ただの水姫の甘えかもしれない。けれど甘えさせてくれる真樹の存在が、素直にありがたいと思った。
 しばらく談笑していると、急に男子棟の方が騒がしくなってきた。どどどどど、と言う足音と叫び声が聞こえてくる。
 それを聞いて何事かと目を見張る水姫とは対照的に、真樹はため息を吐いた。


19 :緋桜 :2007/08/18(土) 00:58:46 ID:PmQHunWF

「トシー!!」
「わー!!だって高科がー!!つーかなんで俺ばっか!!言い出したの高科なのに!!」
「心配すんな高科は後でちゃんとシメてやる!!その前にとりあえずお前からだ!!」
「後でいいし!!高科からでいいって!!
 あ!!真樹!!助けて!!」
 男子棟の方から、大騒ぎしながら少年二人が談話室に駆け込んできた。一人は小柄で幼い顔立ちの少年、もうひとりはタレ目で驚くほど顔立ちの整った少年。二人とも真樹と同じ部活の二年生で、前者が俊彰(としあき)、後者が椎名だ。駆け込んできた俊彰は涙目になりながら真樹の後ろに隠れる。この二人の追いかけっこは、もはや日常茶飯事となっていた。真樹にしがみついてふるふるしている俊彰を見て、この人は本当に十七歳なんだろうかとか思いながらも水姫は大体の状況は把握した。
「先輩たち……今度は何ですか」
「廣瀬……とりあえずそのアホをこっちに渡しなさい。大人しく言うこときけばお前には何もしないから」
「やだー!!俺を捨てないで真樹ー!!」
「ちょっと抱きつかないでくださいよトシ先輩、鬱陶しい。とりあえず、今度は何したんですか?また椎名先輩のプリン糧勝手に食べたんですか?椎名先輩も椎名先輩ですよ。とられたくないならちゃんとプリンに名前書いとかないと」
「書いといても食うんだよこいつは!!つーか違ぇし!!」
「じゃぁ何ですか。油性ペンで眉毛さらに太くされたとか?眉間に肉って書かれたとか?そのくらいで怒るから、先輩ますます目ぇタレるんですよ」
「俺のタレ目は生まれつきだって何回言わせるんだよ!つーか違ぇっつの!!もうお前聞く気ねぇなら向こう行ってろ!!」
「俺もそうしたいんですけどねぇ」
 幼馴染でもあるこの先輩がしがみついて放してくれない。完全に傍観者となっている水姫も、この場から離れたい。が、特に誰かに捕まっているわけではないが何となく動けない。
「こいつが俺の時計、壊したんだよ!」
「え?」
「わ……わざとじゃないもん……」
「……どういうことですか」
「昼間高科と部屋でキャッチボールしてたら、手元狂ってボールぶつけちまって棚から落としたんだと!!んでその時計さっきまで隠してたんだよ!!」
「……」
「それ本当ですか?」
「……」
「トシ先輩」
 語気を強めて真樹が呼ぶと、俊彰はゆるゆると緩慢な動作で真樹から離れる。十七歳にしてはあまりにも幼い瞳には、涙が溜まっていた。
 え、泣く?と水姫は意味もなく内心焦るが、真樹は厳しい表情のまま俊彰に向き直った。
「どうしてそんなことしたんですか」
「……」
「あの時計、椎名先輩が大事にしてたの知ってましたよね?なのになんですぐ言わなかったんですか」
「……だって……」
「『だって』何だよ」
「だって……壊したの知ったら、しーな、悲しむもん……。大事なの知ってたから、言えなくて、すぐ気付くだろーけど、怒られるより、しーなが哀しくなる方がやだった……。すごく、悪いことだってわかってたけど、俺らが悪いけど、でも……」
「トシ先輩」
「お前な……」
 とうとう泣き出し、しゃくりあげながらぽつぽつと訴えだす俊彰に、真樹も椎名も言葉に詰まる。要するに、壊した時計を見て椎名が悲しむのが嫌だったから、とりあえず隠してしまったと言うことか。随分短絡的だ。本当に、この人いくつなのだろう。
「ごめん、しーな。ホントごめん。ごめんなさい……」
「……別に、正直に言や怒ったりしねぇよ」
「しーな……」
「お前らいちいち考えおかしんだよ。気の使い方間違ってるっつーの。壊したこともむかつくけどさ、隠すほうがよっぽどありえねぇよ。わかってる?」
「ごめん……」
「わかったんなら、もう二度とこんなことすんじゃねぇぞ。あと、部屋で野球もすんな。お前はもっとサッカー部であることに誇りを持て」
「うん……」
 泣き出した俊彰に椎名も動揺してしまったのか、後半わけがわからないことを言い出した。
 だがどうしてこの人は、これで許してしまえるのだろう。朝緋や夏海の言うとおり、気が短いくせに妙なところでいい人だ。
「ホント、ダメですよ。悪いと思ったらちゃんと謝らないと。いくら先輩がエロ目だからって、鬼ってわけじゃないんですから」
「うん……」
「おい。誰がはエロ目だ」
「だって先輩は存在自体エロいって言われてるの知らないんですか?もうエロテロリストの域ですよ。エロリストですよ。歩く十八禁ですよ」
「お前いつか訴訟起こしてやるからな……」
 相変わらず先輩に対して言いたい放題だ。椎名もまた中等部からの持ち上がりであるため二人は中学のころからこんな感じだったが、聞いているこっちがはらはらする。
「じゃぁ次は高科シメに行くかな」
「俺の部屋で桐生たちと勉強会してますよ」
「あいつが勉強?明後日から合宿なのに、珍しいことして雨でも降ったらどうするつもりなんだよ」
 まぁとりあえず行ってみるわ、と椎名が踵を返すと、ごしごしっと目をこすって涙を拭いた俊彰も、俺も行く!と言って椎名に続いて談話室を出て行った。立ち直りの早い二人だ。
「あー……嵐が去った。ごめんね、高杉さん。煩い人たちで」
「やぁ……。相変わらずって言うか何て言うかだね」
「まぁ三年目となると、ね。でも、二人きりになるとちょっと気まずい」
「ふぅん?」
「トシ先輩とは家も近いから去年もよく会ってたけど、他の先輩とはほぼ一年会わなかったから。それに高等部になって知らない先輩もいるしね。……やっぱ、前とは違うよ。ちょっとずつ。……ずっと同じってわけにはいかないんだろうね」
「……」
 それは、何のことを言っているのか。誰のことを言っているのか。
 談話室の閉鎖時間が迫ってきているため、話はそこで打ち切り、二人は飲み干した空き缶をゴミ箱に捨てて談話室を後にした。

 


20 :緋桜 :2007/08/24(金) 20:55:16 ID:PmQHunWF

                                                  □■□■□

 この部屋に入るとき、いつも少しだけ緊張する。少しだけ無理をしてしまう。以前はこんなことなかったのに。一年と言う時間は、いろんなものを、少しずつ変えてしまった。いつまでも、あの頃と同じようにはいられない。
 わかっている。
 そんなことくらい。
 ノックをして、返事を待つ。返ってきたのは、真樹のものよりずっと低い声。あの頃の声よりも低いのかそれともあの頃と変わっていないのか。あの頃の声をもう覚えていない真樹にはわからなかった。
「失礼します」
「何だ、お前か」
 荷造りしていた部屋の主は、入ってきたのが真樹だと知ると上げた顔を再び荷物に戻した。何だって何、と思いながらも真樹は部屋の中を見渡す。この部屋は椎名と俊彰が使っているのだが、もう一人の住居人の姿は無い。
「……トシ先輩は……?」
「トシに用か?あいつならついさっきどっか行ったけど」
「トシ先輩にって言うか、椎名先輩にも用なんですけど」
「俺にも?
 ……っと、あー、悪い。本棚んとこある電子辞書とって」
「……なんでこんなとこに辞書置いてるんですか」
 言いながらも、言われたとおり辞書を取る。
 サッカー部の合宿から今日の昼帰ってきたばかりだが、明日から帰省期間に入るため、椎名は実家へ帰るための荷造りをしているようだ。中等部の頃からの毎年のことだが、あわただしいことこの上ない。
 真樹は辞書を椎名にわたし、ふと、彼の机の上に目を留める。そう頻繁に来るわけではないから部屋の家具の配置をすべて把握しているわけではないが、俊彰の机上とは対称的にいつもどおり整然としている彼の机に、何か違和感を覚えた。
(……あ)
 その違和感の正体には、すぐ気付いた。いつもあった、そこにあるべきものが姿を消しているのだ。
「先輩……時計……」
「え?」
 荷物を鞄に詰めていた椎名が顔をあげる。真樹の視線の先を探り、すぐに合点がいったのか、あぁ、と小さく呟いた。
 椎名の机の上から消えているもの。それは合宿前に俊彰と凛桜が壊してしまった時計だ。
「……直らなかったんですか?」
「って言うか……直してねぇ」
「え……」
「あ、捨ててはねぇぞ。……箱に入れてしまってる」
「……」
「ただ、そろそろ潮時だろ。いい機会だし、もう終わりにしてもいいかな、って」
「……」
 終わりだなんて、どんな気持ちで言っているのだろう。
 その時計は、一昨年の椎名の誕生日に、彼が当時付き合っていた女の子からもらったものだった。
 モテるのをいいことに女の子をとっかえひっかえしていた椎名が、初めてまともに付き合った相手―――少なくとも、真樹の知る限りでは―――だった。特別美人と言うわけではなかったが、愛嬌のある、笑顔が可愛い女の子だった。椎名は彼女をとても大切にしていたし、彼女も椎名のことをとてもすきだった。
 けれど椎名が中等部を卒業し、彼の一つ年下だった彼女とは学校が別れてしまってなかなか会えなくなり、次第に上手くいかなくなった。
 それはたぶん、愛情が足りなかったわけじゃなく、ただ、幼すぎたのだ。椎名も、彼女も。高校生になってますます生活の大半がサッカーで占められるようになり、会う時間がなかなか作れなくなった椎名を、彼女は責めなかった。理解しようと頑張っていた。理解していた。けれど、理解できても寂しくないわけではない。会えない時間はどうしても二人の心の間に距離を生み、昨年の夏頃結局二人は別れた。親の仕事の都合で中学卒業と同時に彼女は渡仏し、たぶんそれ以来二人は会っていない。
 彼女と別れてから、椎名は誰とも付き合わなかった。サッカーに集中したいから、と言う運動部の常套句ですべての告白を断ってきた。
 別れてからも貰った時計を飾り続けた、壊れた時計を机の奥にしまいこんだ椎名の気持ちは、真樹にはわからない。ただきっと、椎名はまだ彼女のことを忘れてはいない。恋でなくなっても、想い出として椎名の心に残り続けている。
「……莉宇ちゃん、夏休み、日本に帰ってくるらしいですよ」
「……」
「会いたいですか?」
「……」
「……ごめんなさい」
「……別に」
 椎名の答えを待てず、真樹は謝った。
 どうしてこんなことを訊いてしまったのだろう。訊いたって、何も変えられないのに。どうして聞かずにいられなかったのか。椎名を怒らせたいわけじゃ、傷付けたいわけじゃないのに。
「んなことより何の用だよ」
 荷物を全部詰め終えた椎名が三度顔を上げる。その表情は、怒ってはいなかった。傷付いてもいなかった。じゃぁ、何を思っているのだろう。彼は今、何を感じているのだろう。
 知りたいと思った。けれどごく普通の椎名の表情は、それ以上この話を続けることを拒んでいた。
「……みんなでご飯食べに行くけど、椎名先輩もどうかな、って」
「みんなって?」
「キャプテンとか松葉先輩とか、あと残ってる三年生……氷浦(ひうら)先輩や森吾(しんご)先輩も誘うって言ってました」
「氷浦先輩も?」
「はい。都合つく人で三年生の引退記念パーティーをしようって。一、二年生で割り勘して食べに行くから、俺は椎名先輩とトシ先輩呼んで来いって松葉先輩に言われて……」
「あいつらよくそんな元気あるな」
「バスの中で爆睡してましたからね。で、どうします?」
「氷浦先輩も行くんだろ?なら行く」
 即答し、椎名は立ち上がる。途端に視線の高さが入れ替わる。真樹に比べて椎名はかなり背が高く、体つきもしっかりしている。きっとこれが一年の差なのだろう。いつだって椎名は、真樹の一年先を行く。決して縮まらない歳の差が、二人の間にはあった。
「結構な人数?」
「いえ。そこまででは。三年生はほとんど帰っちゃってますし、一、二年生も結構ダウンしてますから。全部で20人くらいかな」
「まぁそんなもんか」
 三年生は夏の大会を最後に引退したため合宿には参加しなかったが、まだ数人は寮には残っているようだ。
 連れだって部屋を出て、椎名はドアに鍵をかける。それを待ち、二人は玄関へと向った。寮の玄関前のスペースにはサッカー部員がたむろしていた。その中には俊彰もいる。どこからか話を聞きつけたのだろう。
「あ、しーな先パイと真樹来たー」
「うっせぇバカ科。お前はとっとと神奈川に帰れ」
「ムキー!!何スかバカって!!」
 顔を合わせると喧嘩を始める椎名と凛桜は、中学の頃から変わっていない。呆れたように間に入って仲裁する榎本の役割も。
 ものすごくくだらない言い争いを続ける二人だが、榎本に叱られとりあえず収まる。中等部のときと同様、三年生の引退後新キャプテンに就任した榎本は相変わらず苦労が絶えないようだ。
 マジあのバカうぜぇ!と悪態を吐く椎名に周りは傍観体勢だが、近付いて声をかけるつわものもいた。
「お帰り椎名君。合宿お疲れ様」
「あ、ただいまッス、氷浦先輩。まだ帰ってなかったんスね」
「うん。みんなが帰ってくるの、待とうと思って」
 そう言って微笑んだのは、三年生の氷浦だ。彼は中等部の頃キャプテンを勤めていた上級生で、椎名は彼にとても懐いていた。
 無愛想で反感を買いやすかった椎名は、ひとつ上の先輩には煙たがられていたし椎名自身も先輩を嫌っていたが、氷浦だけは例外だった。ポジションが同じで引退まで椎名が氷浦から背番号を奪うことはできなかったが、二人の間にはそんな確執は無く、周りが引くほどの懐きっぷりを見せていた。
「しーなは相変わらず桔梗(ききょう)まっしぐらだなぁ」
「俺たちもいるのにね」
「可愛い後輩の帰りを待ってた先輩たちに言うことは無いのかなぁ。ねぇ、真樹ちゃん」
「え!?あ、ありがとうございます!?」
 矛先が急に自分に向けられ、真樹は慌てて頭を下げる。その頭を、んー、真樹ちゃんはいい子だなぁ、とぐりぐり撫でられた。高一男子相手にいい子も何も無いだろう。サッカー部の伝統か、上級生から後輩へのスキンシップは多少過多なところがあると、常々思う。言わない―――と言うか、言えないけれど。
「あー!!シンゴ先輩セクハラ!!」
「はっはっは。どぉの口が何を言ってんのかなぁ、りおー」
「ていうか森吾は存在自体セクハラだし。今更だし」
(こう)君も何言ってんのかなぁ」
「しーな先輩と一緒ッスね!」
「お前とりあえず一回死ね?それが俺のためだ。むしろ世界のためだ」
「……お前ら、そのくらいにしとけ。バカやってないで行くぞ」
 だんだん拡大していくじゃれあいを、前キャプテンの円谷(つぶらや)が何とか収拾をつける。円谷は中等部時代は副キャプテンだったが、高等部ではキャプテンに就任していた。中等部時代のキャプテンの氷浦は、実力こそ同世代の誰よりも抜きん出ていたが、身体が弱く、高校二年になった頃から持病の気管支炎の発作が頻発するようになった。入退院をくり返す氷浦の身体を慮り、候補に上がっていたが結局キャプテンは辞退したのだと、以前椎名が言っていた。キャプテンではなくても、彼の人望が厚い事に変わりは無いが。
「予約入れといたから、急ぐぞ」
「はーい」
 円谷の言葉に皆素直に返事し、各自靴を履いた者から外に出て行った。

 


21 :緋桜 :2007/09/05(水) 16:19:55 ID:PmQHsLm4

3.秋

 翠蘭学園高等部の文化祭は派手だ。中等部のそれに輪をかけて派手だ。近隣の学校で噂が立つくらい派手だ。というか、カオスだ。
「きゃー!!」
 悲鳴と共に一年B組の教室から転がり出てきた友人に、たまたま通りかかった椎名は目を見張る。「きゃー」って何。どこの女子高生。なんで「きゃー」。
 突っ込みたいところは多々あるのだが、どこから反応していいのかわからない。とりあえず床にうずくまっている友人その一松葉を見守っていると、彼の出てきた戸から、友人その二の輝に肩を貸した真樹が出てきた。
「……何」
「あ、椎名先輩こんにちは」
「あぁ……おー……」
「松葉先輩大丈夫ですか?」
「こ……コシ……腰抜けた……」
「もー、だらしないですよー」
 一体中で何があったのか。椎名のズボンの裾を掴む松葉をうぜーと一蹴すると、松葉は膝を折った真樹にしがみついた。
「つーか、何これ」
「松葉先輩です」
「いや、そーじゃなくて」
「廣瀬君、さっきの人たちこれ、落としてったみたいだけど……」
「あ、ごめん高杉さん」
 暗幕を掻き分けて出てきた少女は、手に青い携帯電話を持っている。少女は椎名を見て軽く頭を下げた。椎名の方も、少女に見覚えがあった。最近、真樹と一緒にいるところを良く見かけるような気がする。
「つーか、何?ここ」
「お化け屋敷です」
「わりと本格派です」
「松葉先輩がケータイ落としていくくらいには怖いです」
「……そう」
 寄っていきますか?と真樹は尋ねたが、謹んで辞退した。何が哀しくて男ひとりでお化け屋敷なんぞに入らなくてはいけないのか。大体この二人もどうして男二人で入ったのだろう。
「……そんな怖ぇの?」
 あまりの怯えように尋ねると、松葉は刻々と小刻みに頷く。よほど怖かったらしい。
「俺……廣瀬のことすきになるかもしんない……」
「なんで」
「これが世に言う吊り橋効果……」
 恐怖による脈拍数の上昇を恋愛のそれと勘違いしてしまうアレか。
 俺も廣瀬君に恋しそうだった、と真樹に救出されたらしい輝も力無く呟く。それに対して真樹は困ります、と冷たく返した。当然の反応だ。
 とりあえずいつまでも廊下に座り込んでいては通行人の迷惑だし、視線も痛い。へたり込む松葉に手を貸そうとした瞬間。
「シーナー!!」
「うおぅ!?」
 何者かに抱きつかれ―――むしろ体当たりされ、衝撃が来た。そのままバランスを崩し、松葉もろとも廊下に倒れこむ。うわっとかギャッとかあぁ〜とか周りから声が上がる中、椎名に体当たりしてきたこの騒ぎの犯人は、「シーナちょー間抜けー!!」と能天気に笑っている。
 この声と奇行。振り向かなくても、誰だかわかった。というか、わかったからこそ振り向きたくなかった。
 けれど現実とは無情なもので。
「トモ先輩!?何やってんスかこんなとこで!!」
「あ、やほー。松葉。何、久しぶりに会ったのになーんでそんなとこ転がってんの」
「や、トモ先輩のせいでしょ!?」
「えー?あたしが突き飛ばしたの、シーナだけだよー?」
「その二次災害です!!」
 まじで〜?うっそごめんね〜?と謝るが、なんで疑問系。むしろどうしてこの人がここにいるのだろう。
 トモ、と呼ばれるこの人の本名は朝樹(ともき)。椎名や松葉より二年上級で、中等部からサッカー部のマネージャーを務めていた。中高合わせて二年のみのお付き合いだが、短いながらもそのお付き合いは濃く、何かと可愛がってもらっていた。―――彼女的には、たぶん。
 そして。
「……姉ちゃん」
「あっ、真樹ちゃーん!!久しぶりー!!今日も可愛いねーv」
 椎名も松葉もほったからかしで真樹に抱きついた朝樹のフルネームは、廣瀬朝樹。
 彼女は、真樹の姉でもあった。

 


22 :緋桜 :2007/09/11(火) 19:46:06 ID:PmQHunWc

                                                  □■□■□

 校内でも一・二を争うほどの美形であり、下級生の憧れの的である椎名に文字通り突撃してきたこの女の人は、どうやら真樹の姉らしい。校内で見かけたことはないし、私服を着ている、さらに椎名とは面識があるということは、おそらく水姫や真樹たちよりも三学年上だろう。ならば、水姫の兄とは同い年だ。
 並ぶ真樹と朝樹を見て、あまり似ていないな、とこっそり思う。真樹の血縁者だけあって整った顔立ちをしているが、それよりもまず、可愛い人だと思った。物静かで大人びた印象のある真樹とは対照的に、無邪気に笑う奔放な人。
 ――少し、似ているかもしれない。
 そう思い、浮かんできた人物の顔を慌てて打ち消す。
 どうかしている。
 真樹の姉とあんな奴(・・・・)が似ていると思うだなんて。
「ちょっと姉ちゃん、いい加減にしてよ」
「え、真樹ちゃんてば反抗期?かーわいーいv」
「……」
 真樹にじゃれ付く朝樹を、真樹は眉をしかめて邪険に振り払う。だが朝樹はまったくめげない。姉――否、女は強く、たくましいのだ。彼女の私生活はどうなのか知らないが、寮住まいの真樹とは長期休暇以外はなかなか会えないだろう。そのせいか、姉弟の再会を堪能しているようだ。その隙に、椎名と松葉が立ち上がる。
「てかトモ先輩、今日一人で来たんスか?」
 立ち上がった松葉が、まだ真樹とじゃれている朝樹に尋ねる。
 いくら母校と言えども一人で高校の文化祭に顔を出すなど、あまりしない。と言うか、普通できない。少なくとも、水姫にはそんな勇気は無い。出逢って五分で破天荒だとわかるくらい自由なこの人になら、それも可能なのだろうか。少しそう思ったが。
「んーん。一人じゃないよ。高杉と一緒」
「は?」
 やはりいくら朝樹でも、一人で来たりはしないらしい。だが問題は、朝樹と一緒に来た人物の名前だ。「高杉」とは、言うまでもなく水姫の苗字だ。
 自分のことではないということくらいわかる。けれど水姫は、思わず声を上げてしまった。失態に気付いて慌てて両手で口を塞ぐが、もう遅い。朝樹は水姫を見て、にっこり笑った。
「初めまして。高杉の妹さんの、水姫ちゃんだよね?そっくりだからすぐわかっちゃった。あたしは真樹ちゃんの姉で、廣瀬朝樹。高杉とは中等部のときのクラスメイトだったんだ。水姫ちゃんの話、高杉からよく聞いてたよ。すっごく可愛い妹さんがいる、って」
「あ……え……は、初めまして……」
 よろしくね、と朗らかに笑う朝樹に、正直言って水姫は困惑することしかできなかった。
 知らなかった。
 雪波が、真樹の姉と友達だったなんて。
 水姫が中学に上がったくらいから、二人の間に会話らしい会話はほとんど無くなった。だからきっと雪波は真樹のことを知らないだろう。知っていても、朝樹の弟が水姫の友達だなどと結びつけることはできないはずだ。
 もう何年、兄とまともに口をきいていないだろう。
 会わなくても、言葉を交わさなくても、どうしていつまで経ってもあの男の影がちらつくのだろう。
「たたたたた高杉先輩来てるってマジですか!?」
 何とか生還したらしい輝が、朝樹に食いつく。朝緋の先輩である輝はもちろん、朝緋同様陸上部に所属している。ならば同じく陸上部だった雪波とも面識があるのだろう。そう言えばこの人、中等部に入学してすぐ、「高杉先輩の妹って君!?」と訊かれた覚えがある。
「うん、来てるよー。でもはぐれちゃったー。ちょーっとよそ見した間にいなくなっちゃってさー。はぐれちゃった。確か陸部の展示見に行きたい的なことは言ってたような気がしないでもないけど……」
「陸、部の」
「うん。後輩に会いに行くとか行かないとか……」
「―――ッ」
 曖昧な朝樹の言葉に、けれど水姫は走り出す。「高杉さん!?」と真樹の声が追いかけてきたが、そんなのかまっていられなかった。
 どうして今更。なんで来るの。
 胸の中ではそんな疑問が渦巻いていた。
 「後輩に会いに来た」と言う雪波。その後輩とは、誰のことなのか。
 まさか、夏枯草?
 雪波は夏枯草に会いに来たのだろうか。
 まさか、そんなわけない。
 でも万が一、二人が鉢合わせてしまったら?
(そんなの、だめ)
 ―――どうして?
 頭の隅に、問いかけるもうひとりの自分がいた。
 そんなの、わからない。
 でも、二人を会わせたくない。
 会わせたら、何かが変わる。変わってしまう。そう思った。だから。
(先輩……っ)
 笑ってしまうくらい簡単に思い出せる、少し寂しそうな笑顔。優しくて哀しい人。あの人と雪波を会わせてはいけない。会わせたくない。
 ただそれだけのために、水姫は陸上部の展示教室まで走った。

 


23 :緋桜 :2007/09/18(火) 13:12:56 ID:ommLPmsk

                                                 □■□■□

 高等部と中等部の文化祭の大きな違いは、三年生の参加が任意と言うところだ。よほどのことがなければ高等部にそのままエスカレーター式に進学できる中等部とは違い、高等部の三年生は正真正銘の受験生だ。そのため三年生は、基本的には文化祭の運営側には携わらない。当日、部や後輩のクラスに顔を出す程度だ。
「見て見て、夏枯草君!!これ取れた!!」
「……良かったね」
「うん!!」
 弓道部の「ダーツバー」。バーと言ってももちろんアルコールなどは出てこない。教室の隅にダーツが設置され、袴を穿いた部員が注文した飲み物を持ってくるという和なのか洋なのかよくわからない催し物だ。実は弓道部だった紗幸に連れられてやって来たのだが、当の紗幸は先程から一人で楽しんでいるようだ。景品の中に欲しい物があると言っていたが、自力で取ってしまったらしい。普通こういう場合男にねだるのではとも思ったが、紗幸に「普通」を求めても今更だし、何より紗幸が嬉しそうなのでそれでいい。カウンター風に並べられた机の傍にいた部員に料金を払い、二人は教室を後にする。廊下は人でごった返している。この階は喫茶系の模擬店などで使用されている教室も多いため、他の階に比べても人の往来は盛んだ。
「夏枯草く〜ん」
 人の合間を縫って歩いていると、よれよれした声に名前を呼ばれる。振り返ると、隣を歩いていたはずの紗幸がいつの間にかいなくなっている。小柄な紗幸は人ごみに流されてしまったらしい。2mほど向こうで手をばたばたさせている。
「大楠さん!」
「助けて〜」
 人ごみから紗幸を救出し、二人は一旦人の流れから避難した。
「大丈夫?」
「このサイズだとHP削られて仕方ないわ……」
「外出る?」
「外の方が込んでそう……」
 げっそりと言う紗幸は、心なしか顔色も悪い。これだけ人が多ければ、人酔いしても無理ないだろう。
「……帰る?」
「それは嫌!!」
 恐る恐るたずねると、紗幸はバッと顔を上げた。そうした矢先、通行人と肩がぶつかって再び流されそうになる。あわあわする紗幸の腕を掴んで引き寄せ、彼女を壁側に隠した。
 かばわれた紗幸は、夏枯草のシャツをきゅっと握った。
「……大楠さん?」
「……だって、最初で最後だし」
「え……?」
 聞き取れなかったわけではない。だがにわかには信じられなかった。常に夏枯草の予想の斜め上を行く紗幸は常に奔放で、彼女のこんな殊勝な態度は珍しい。
「夏枯草君と一緒に文化祭回るのって初めてだし、来年はもう高校生じゃなくなっちゃう。だからすごく楽しみにしてたし、すごく楽しいんだもん。……だからもっと一緒にいたいよ……」
「……」
 何だろうこの可愛い生き物は。
 常に直球勝負!!の紗幸は、無自覚で恥ずかしいことをさらりと言う。本人にそんなつもりは無いのだろうが、紗幸はわりと夏枯草のツボを性格についてくる。夏枯草は彼女のこういう無邪気さに惹かれ、純粋さを愛しく想った。
 俯く紗幸に手を伸ばし、ためらいがちに髪に触れる。そのままぐしゃぐしゃっと撫で回したい衝動に駆られるが、公衆の面前だし、何とか思いとどまり、そのまま手を下げていき、そっと頬に触れるだけに留めた。
「……何?」
 紗幸は少し顔を上げ、伺うように夏枯草を見る。濃いまつげの奥からのぞく瞳は真っ直ぐに夏枯草を捕らえていて、そのことに胸が震える心地がした。
 抱きしめたい衝動と戦いながら、夏枯草は告げる。
「じゃぁ、一緒にいよう」
「……」
「ちょっと休憩したら、もっかい回ろう」
「……うんっ」
 嬉しそうに笑い、紗幸は夏枯草にぎゅっと抱きつく。突然の抱擁に、夏枯草は普段あまり感情が表に出る方ではないのに耳まで赤くなってしまった。そんな顔を見られないよう手で覆って隠す。
 どこまでも自由な紗幸に、夏枯草はいつも振り回されてばかりいる。だがそれが嫌だと思ったことは無かった。
 体当たりな紗幸の愛情を受け止めながら本当は、貰った分だけ返したいと、いつも思っている。思っているのに、煮え切らない態度ばかりとってしまう。
 紗幸にはいつも笑ってほしいと思うのに、気の聞いた台詞ひとついえない。
 もっと普通の男なら、普通の恋人同士なら、もっと紗幸を喜ばせて揚げられるのだろうか。幸せにしてあげられるのだろうか。
(でも)
 夏枯草は、「普通」の男じゃないから。
 「普通」の女の子と「普通」に恋をするなんて、それだけで十分夏枯草にとっては奇跡みたいな夢物語だ。
 夏枯草には、こうして紗幸と並んで歩いていても、ふとした拍子に蘇る、諦念を伴う疼きがあった。
 思い出してしまう人がいた。
 雪波のことは、今も忘れられない。何年も会っていなくても、いまだにあの人は、夏枯草の心に居座り続けている。
 初恋だった。
 本当にすきだった。
 でも。
 忘れていないけれど、少しずつ、確実に薄れていっているのも、また事実だった。
 顔を合わせるたび嬉しかった。言葉を交わすたび幸せだった。声が聞こえるたび切なかった。
 そのことを、覚えている。あの人のことを思い出すと、今も胸が苦しくなる。
 だがそれも、完全に消える日が来るのだろうか。何年、何十年と時間を積み重ねていくうちに、疼くような胸の痛みも、忘れられることができるのだろうか。初恋を、想い出に変えられるのだろうか。
 もしそうであると言うのなら、夏枯草はその日を、紗幸とともに迎えたい。
 その日まで、紗幸に傍にいてほしい。
「行こっか、夏枯草君」
「大丈夫?」
「うん」
 微笑む紗幸とともに歩き出す。はぐれないように手をつないで。夏枯草よりも小さな手が与えてくれる温もりを、愛しく思う。
 けれど。
 階段を上り、三階の廊下に出た夏枯草は、そこに立っていた人の姿を見た瞬間、瞬きさえも忘れて凍りついた。

 


24 :緋桜 :2007/09/21(金) 21:12:34 ID:ommLPmsk

                                                 □■□■□

 水姫が陸上部の展示教室を訪ねると、雪波はすでに去った後だった。
 雪波とよく似た水姫を見て彼のことを思い出したのか「うぉあ!!」と叫んで若干怯える部員がいたが、兄は彼らに一体何をしたのか。四年経っても未だ彼らの記憶に居座り続ける雪波は、またも新たに彼らの中にトラウマを刻み込んでいったようだ。
「高杉先輩なら、五分くらい前に出て行ったよ」
「そう……ですか……」
「まだ遠くに入ってないと思うけど……」
 ケータイかけてみれば?と助言してくれる陸上部員に、水姫は曖昧に笑う。水姫は、兄の携帯の番号など知らなかった。
 探してみます、と礼を言って、水姫は教室を後にした。
 教室には、夏枯草はいなかった。そもそも今日来ているのかどうかもわからない、と部員も言っていた。ならばこのまま、二人が会わずにすむだろうか。
(……何やってんだろ)
 人ごみをかきわけて進みながら、水姫は嘲笑がこみ上げてくるのを感じた。
 水姫は、何をしたいのだろう。
 どうしてこんなことをしているのか。どうしてあの二人を会わせたくないのか。
 夏枯草の今の幸せを、雪波に壊されたくないから?
 雪波よりも紗幸を選ぶ夏枯草を見たくないから?
 わからない。
 どちらも正しい気も、どちらも違う気もした。
 会って何を言う気だったのだろう。
「……ッ」
 階段を下りて三階の廊下に出ると、前方に見覚えのある後姿を見つけた。
 ―――雪波だ。
 随分会っていないけれど、見間違えるわけない。後姿だけでわかってしまう。
 だって水姫は、雪波の背中ばかり見ていたのだから。雪波はいつも水姫に背を向けていて、一度だって水姫の方を見てくれたことなど無かった。だからこそあの頃は、こっちを向いてもらおうと必死だった。
「……ッお兄ちゃん!!」
 思わず叫んだ。そう大きな声ではなかったけれど、雪波の足が止まる。振り向いた兄は記憶の中の兄より少し大人びていて、けれど水姫を呼ぶ抑揚は、昔のままだった。
「……ミナ……?」
 振り向いた雪波は、一瞬驚いたように目を見張った。けれどすぐ柔らかく微笑む。微笑みながら、水姫の方に歩いてくる。
 兄と会うのは、本当に久しぶりだった。今年の四月に家を出た雪波は、結局夏休みの間、一度も帰ってこなかった。水姫が実家を避けているように、雪波もまた実家を避けていたのだ。その理由は、水姫とはまるで反対だったけれど。
 雪波が、目の前にいる。それは確かに今、現実のことなのに、水姫はそれを、どこか他人事のように感じた。兄と再会している自分を遠くから眺めているかのような、そんな錯覚を覚える。
「……久しぶり」
「……」
「元気だった?」
「……」
 穏やかに微笑む雪波は、昔のままだった。昔から雪波の笑顔は嘘くさくて、この上なく空虚だった。水姫と同じ色の瞳は、ガラス球のように透明で、何も映していないかのようだった。
 そのことに気付いたから、水姫は雪波から離れた。
 雪波のことが怖くなったのだ。
 この男はきっと、水姫を簡単に切り捨てる。誰よりも優しくて残酷なこの人にとって大切なものはたった一人だけ。
 水姫は違う。
 そのことに気付いた。
 水姫の胸中など知ってか知らずか雪波は微笑む。
「ミナのクラス、見に行こうと思ったんだけど、何組かわかんなくてさ。一緒に来てた奴もいつの間にかいなくなってたし……」
 ミナ、髪伸びたね、と雪波はのんびりと言う。
 それは、いつのときと比べているのだろう。
 雪波の中の水姫は、今、いくつなのだろう。
 何だか泣きたくなって、水姫は俯く。けれど雪波はそれを不審に思った様子もなく、あれ、背も少し伸びたんじゃない?などと言った。
 いつもそうだ。雪波はいつも、水姫のことなんて気付かない。雪波はいつも水姫ではない人を見ているから、俯いてしまった水姫が何を考えているのかなんて、どうでもいいのだ。
「あ」
 ふいに雪波が呟く。その声に思わず顔を上げると、雪波の視線は水姫の上を通り越し、水姫の背後を見ていた。
 水姫を見つけたときよりもずっと驚いた表情。
「……ッ」
 まさか。
 そう思って振り返る。
 嫌な予感がした。
 予感は、当たっていた。
 雪波の視線の先には、夏枯草と紗幸が立っていた。


25 :緋桜 :2007/09/25(火) 22:08:32 ID:ommLPmsk

                                                 □■□■□

 たとえば。
 何万と言う人ごみの中にいても、この人だけはどこにいるのかわかる。
 あの頃夏枯草は、本気でそう思っていた。
 寂しそうに微笑むこの人の表情が、泣きたくなるほどすきだった。男同士なのに、この人が夏枯草をすきになってくれることなどないと知っているのに、ずっとすきで。いろんなことに気付かないふりしてずっと、この人のくれる優しさに甘えていた。本当は優しくなんかない、残酷な人だと知っていながら惹かれていた。
 そして四年経った今も、四年越しに会っても、簡単にその姿を見つけることができた。見つけてしまった。
 薄れてきていたはずの胸の痛みが、あの頃の記憶とともに蘇る。
 けれどそれはこの人と一緒に過ごした日々ではなく、ただひたすら、この人に恋をしていた自分の姿だ。
 すきだった。
 どうしようもなく。
 傷付けられることさえ幸せだと思うほどただ必死に恋をしていた。
 そのことを、思い出した(・・・・・)
 思い出して、動けなくなった。
 呼吸さえ忘れ、夏枯草はその人を凝視した。なんで、どうして。何回も何回も、その台詞が頭の中でぐるぐる回る。その場を動けず立ちすくんでいると、その人がとうとう夏枯草に気付いた。
「サヤ?」
 視線が、絡む。切れ長の瞳が驚いたように見開かれる。
 確かめるように、そう呼んだ。それだけで、泣きたくなった。
 夏枯草の下の名前は、唯明(いさや)といったが、夏枯草のことをそんなふうに呼ぶのは彼だけだった。どうして彼がそんな風に呼ぶのか、訊いたことは無い。けれどその雪波しか使わない呼び名は、まるで彼に特別をもらっているようで、嬉しかった。雪波と初めて話したのも、この珍しい名前がきっかけだった。

『これ、何て読むの?』

 その一言から、すべてが始まった。
「サヤだろ?大きくなったな。元気だった?」
「は、い……」
 四年間ぶりに会ったこの人―――雪波は、四年前と変わらない笑顔を見せた。柔らかで、少し寂しそうな微笑、その笑顔の理由を知りたくて、夏枯草はずっと彼を見ていた。
 一瞬、四年前に戻ったような感覚に襲われる。四年前と同じ抑揚で、四年前と同じように微笑み、四年前と同じ風に雪波が夏枯草のことを呼ぶから。
 胸が痛い。
 けれどそれは、四年前とは違う痛みだった。あの頃のことを思い出したからこそ、違うとわかった。
「今、陸部の展示見てきたんだけど、サヤいなかったから来てないのかと思った」
 だから会えてよかった、と雪波は微笑みながら言った。
(……なんで)
 会えてよかったなんて。
 どんな気持ちで言っているの
 夏枯草に逢いに来た?そんな、はずはない。だって。
 でも。
 もし本当にそうだとしたら、雪波が夏枯草に会いに来てくれたのだとしたら、夏枯草はそのことが嬉しいのだろうか。
 彼に会えて、嬉しい?
 もしそうなら、それはどうして?
 沸き上がってくるこの感情は、何?
 懐かしいだけ?
 それとも、まだこの人のことを?
 胸の中で渦巻く問いの答えは、一向に見つからない。
 何かが胸につかえてしまっているように、苦しくて仕方ない。もしもこの想いを声にしてこの人にぶつけることができたら、少しは楽になれるのだろうか。けれど伝えたい言葉さえ、今の夏枯草には見つけられない。
 泣き喚きたくて、でもそんなことできるはずもなくて、どうしたらいいのかわからなかった。
 どうにかなってしまいそうだった。
「夏枯草君?」
 自分を呼ぶ紗幸の声に、はっと我に還る。
 今までの混乱が嘘のように、頭の中が晴れていく。
 紗幸に呼ばれただけなのに。
「お知り合い?」
 夏枯草の顔を覗き込んだ紗幸が無邪気に尋ねる。
 ―――あぁ。
 いつだって夏枯草は、彼女の無邪気さに救われてきた。
 これまでも、今だって。
「……うん。中等部のときの部活の先輩。……水姫ちゃんのお兄さんなんだ」
「水姫ちゃんの?……あ、ホントだ。似てますね」
「よく言われます」
 後半の雪波に向けられた紗幸の言葉に、雪波は人当たりのよい笑みを見せる。そうして、雪波と一緒にいる少女が水姫だということにようやく気付いた。そんなこともわからないくらい動揺していた。
 雪波の隣に立つ水姫を見やると、水姫ははらはらしたように夏枯草たちを見ている。すべて知っている水姫にしてみれば気が気でないのだろう。
 紗幸の言うとおり、夏枯草はずっと水姫と雪波はよく似ているのだと思っていた。けれどこうして並べてみると、思ったほどは似ていないのかもしれない。それは雪波が変わってしまったせいもあるだろう。今、目の前にいる雪波は、あの頃の面影を確かに宿しているけれど、夏枯草の記憶の中にいる雪波とは、少し違う。あの頃よりも背が伸びて、顔立ちも大人びて、声もずっと低くなっている。この人は夏枯草が恋した高杉雪波だけど、何もかもがあの頃のままなわけじゃなかった。すべてが変わったわけじゃない。でも、すべてが同じわけでもない。
 夏枯草だってそうだ。
 夏枯草だって、あの頃と違ってしまっている。
「それで、君は……サヤの彼女?」
「えっと……。はい……そう、デス」
 照れたように雪波の問いを肯定する紗幸を、冷静に見つめる自分がいた。雪波がどんな反応をするのか気にならないわけではなかったが、怖くはなかった。
 対照的に、緊張で息をつめる水姫が見守る中、雪波はそっと笑った。
「そっか……。よかったね、サヤ」
「……」
 会いたくないわけじゃなかった。けれど会えなくてもいいとも思っていた。
 だって、会えば何かが変わると思った。
 それでもいいと、思っていた。
 けれど。
「……はい」
 会うことで変化が生まれるわけじゃなかった。もう変わっていたのだ。雪波も、夏枯草も。雪波はあの頃のままの雪波じゃないし、それに今、夏枯草の隣には紗幸がいる。あの頃はいなかったけれど、今は。
「……高杉先輩」
「ん?」
 好きで、愛しすぎて、どうしても呼べなかった名前を呼ぶ。そのことに、この人は気付いているだろうか。気付かなくてもいい。
 夏枯草が、覚えておくから。
「……わざわざ来てくれて、ありがとうございます。俺も、先輩に会えて嬉しかったです」
 強がりじゃなくて、心からの言葉だった。
 雪波との再会を冷静に受け止めている自分がいた。四年という歳月は、初恋を想い出へと変えてくれた。もうあの頃とは違う。もうがむしゃらに恋をし、上手くいかない恋に嘆いた子どもではない。
 まだ胸は痛むけれど、きっとこの痛みも次第に薄れていき、やがて消えてしまうだろう。
 そんな確信が持てた。
 そのことが少し寂しい気もするけれど、きっと、これでいいのだ。
 顔を合わせるたび嬉しかった。
 言葉を交わすたび幸せだった。
 声が聞こえるたび切なかった。
 思い出すたび、苦しくなった。
 でも。
(……あなたのことが、すきでした(・・・)
 終わって初めて、すべてが想い出になった。
 思い返せば全部、恋だった。

 


26 :緋桜 :2007/10/02(火) 20:42:28 ID:ommLPmsk

                                                 □■□■□

 雪波と向き合って話す夏枯草は思いのほか穏やかで、雪波を見つめる瞳には、かつての恋情などないように思われた。彼の中ではもう、整理はついてしまったのか。和やかに談笑する夏枯草たちを見ながら、水姫が雪波と夏枯草を会わせたくなかった理由は、怖かったことはこれ(・・)だと気付いた。覚悟していたことなのに、現実として突きつけられてこんなにも動揺している自分がいた。
「あ、あたし、そろそろクラスの方に戻らないと……ッ」
「ミナ?」
「水姫ちゃん?」
 追ってくる二人の声にかまわず、水姫はそのまま駆け出した。――違う。逃げ出したのだ。
 これ以上、二人が一緒にいるところを見たくなかった。哀しくなんかない。寂しくなんかない。必死に自分に言い聞かせる。でも、割り切れるはずなかった。
 思い知らされた現実。突きつけられた失望。水姫はまだ、期待していた。けれどそれを容赦なく砕かれた。二人の間には水姫の入り込めない世界がある。水姫の踏み込めない領域があって、水姫の考えなんて及ばぬところで、夏枯草はもう、自分の想いに決着をつけてしまっている。水姫一人、のけものだ。
 そんな、勝手なことを思った。勝手に傷付いた。
 三人と別れた後教室には向かわず、階段を駆け上がる。一人になりたかった。誰にも会いたくなかった。けれど、屋上へと続く非常階段に一歩踏み出したとき。
「高杉さん?」
「……ッ」
 呼ばれて振り返ると、真樹がいた。先程話の途中で一方的に水姫が別れてしまったのに、怒ったそぶりを見せず水姫の方へ歩いてくる。
「どうしたの、急にいなくなって。探してたんだよ」
「……廣瀬君……」
「……何かあった?」
「……ッ」
 水姫を気遣う優しい声にこらえきれなくなり彼の元へと駆け寄る。一人になりたかったはずなのに、真樹の存在に救われる想いがした。
「え」
 耳元で驚いた真樹の声がする。
 駆け寄った水姫は、思わず彼にすがりついた。だってもう、どうしたらいいのかわからない。どうしてこんなに苦しいのかわからない。
 夏枯草は、雪波は、水姫にとって何?
 水姫は、二人にどうしてほしかった?
 わからない。
 もう、考えたくない。
「高杉さん?」
「ごめ……でも……あたし……」
「高杉さん……」
「わかんない……もう……わかんないよ……ッ」
 ためらいがちに水姫を呼ぶ真樹の声に応えることができず、水姫はいっそう強く真樹にすがりついた。肩口に顔を押し付けると、ふわりといい香りが聞こえた。男の子なのに。やがて真樹の手が、ぎこちなく水姫の背に回される。けれどそれは抱きしめるためではない。子どもをあやすように真樹は水姫の背を撫でた。
 真樹の肩に顔を埋め、水姫は泣いた。真樹は何も言わず、水姫の背を撫でてくれていた。
 その手があまりに優しいから、涙は余計止まりそうになかった。
「ごめ……ごめん……ッ」
「……大丈夫だよ」
「……ッ」
「大丈夫」
 囁くように聞こえてくる真樹の声に甘えた。
 どれほどそうしていただろう。ようやく涙が枯れてきた頃、ばたばたと近付いてくる足音が聞こえ、水姫は慌てて真樹から離れた。
「ご、ごめ……ッ」
「あ、うん」
「あたし、どうかしてるよね、ごめん、ホント」
 抱きついているときには何とも思わなかったのに、真樹の顔が見えると妙に気恥ずかしくなってきた。動転していたとはいえ、何と言うことをしてしまったのだろう。いつの間にか熱くなった頬を冷まそうと真樹に背を向ける。
「あー!!やっと見つけた!!ま……き……?」
 目尻に溜まった涙を袖で拭いていると、曲がり角から凛桜が現れた。真樹を探しにきたのだろう。けれど一緒にいた水姫を見て、その表情がこわばった。
 凛桜のこんな表情を見るのは、初めてかもしれない。だって凛桜はいつも笑っているから。いつも、誰にでも、同じ笑顔を見せるから。
「え……高杉……なんで……」
「凛桜、どうしたの?」
「え?え……えと……サッカー部の方で……キャプテンが真樹探して来いって……キャプテンが……」
「え、本当?じゃぁちょっと行ってくるけど……。高杉さん、もう大丈夫?」
「え、あ……うん……」
「よかった。じゃぁ、またあとで」
 水姫に言い、真樹は足早に去って行った。
 彼について行ってしまうのかと思ったのに、予想に反し、凛桜はその場に残った。
 凛桜と二人きりにはなりたくない。慌てて水姫も立ち去ろうとする。けれどその腕を、凛桜が掴む。
 ―――まただ。
 めまいがした。
 夏と同じ声で、夏と同じ言葉を凛桜は紡いだ。
「真樹と何話してたの?」
「……関係ないでしょ」
 言葉とともに腕を振り払うと、一瞬、凛桜の表情が曇る。思いもよらないその表情に怯み、水姫は言葉に詰まった。
「真樹のこと、すきなの?」
「は……?」
 水姫の困惑をどうとったのか、こともあろうか凛桜は水姫の目を見つめてとんでもないことを言い出した。
「だめだよ。俺だって、高杉のことすきだもん」
「―――ッ」
 何を言っているのか。
 一瞬、頭の中が真っ白になった。そして次の瞬間、どうしようもない怒りが押し寄せてきた。
 すきだなんて、そんなこと、軽々しく言わないで。
 どんなにすきでも、どんなに気持ちが大きくても、決して口に出すことができない人だっているのに。
 その想いを抱いてしまったばかりに、どうしようもなく苦しんでいる人だっているのに。
 そんな風に、簡単に言わないで。
 水姫のことを、夏枯草のことを侮辱されたような気がした。
 衝動のまま、凛桜の腕を振り払い、そのまま頬をひっぱたく。乾いた音が、人気の無い非常階段に響いた。
 叩かれた凛桜は、驚いた表情で水姫を見ている。どちらかと言えば童顔な凛桜だから、そんな表情はますます凛桜の幼さを際立たせる。出逢ったときから少しも変わらない、無邪気で、奔放な凛桜。水姫は最初から、この男の奔放さが嫌いだった。凛桜はいつも、悪意なく人を傷付ける。自分が人を傷付けているということにさえ気付かない。無邪気であれば許されるとでも思っているのだろうか。
 そこまで考え、水姫は自分の思考に違和感を覚える。
 「傷付いている」?
 誰が?
 どうして?
 水姫が?
 浮かんだ考えは、不可解なものだった。どうして水姫が傷付くのか。傷付く理由なんて無いはずなのに。
 関わらないようにしていた。関わりたくなかった。なのにいつも凛桜は水姫の中に勝手に踏み込んできて、水姫の心を踏み荒らしていく。
 それが不快で仕方なかった。それは別に、傷付いているわけじゃない。傷付いてなんかいない。
 努めて平静を装う。けれど心の中はざわめいて仕方ない。凛桜の声、表情、すべてが水姫を苛立たせる。
「……いい加減にして」
「え?」
「人のことバカにするのも、いい加減にしなさいよ!!」
「高杉!?」
 言い捨て、水姫は走り去る。けれど追いかけてくるのは凛桜の声のみだ。凛桜からしてみれば、告白した相手にひっぱたかれ、罵倒されるなんて不可解極まりないだろう。
 だが凛桜がすきなのは、水姫ではない。凛桜が水姫にすきだと言ったのは、水姫に、真樹をとられたくなかったからだ。勝手に水姫が真樹をすきだと思い込み、勝手に真樹が水姫をすきになることを恐れ、勝手に先走って勝手に先手を打った。ただそれだけ。
 きっと凛桜は気付いていない。
 でも。
 最初から、凛桜の心に入り込めるのは、真樹だけだった。
 そのことで、どうして水姫が惨めな思いをしなくてはいけないのだろう。
(ばかみたい……っ)
 傷付いてない。傷付いてなんかない。なのにどうして、こんなに苦しいのだろう。
 もう何も、考えたくなった。
 夏枯草のことも、雪波のことも、凛桜のことも、何も。
 けれど考えないようにしても、どうしようもなく悔しくて、空しくて、止まったはずの涙がまた溢れそうになった。


27 :緋桜 :2007/10/05(金) 21:31:13 ID:ommLPmsk

                                                 □■□■□

 文化祭二日目、高科凛桜が左頬を腫らして登校してきた。
 それだけで大騒ぎになるこの学校って、何なんだろう。
 あの(・・)高科凛桜に手を上げる人間は、今まで彼の先輩である椎名以外いなかった。しかし椎名の攻撃手段は基本的に蹴り、もしくはたまに頭をはたくくらいで、顔に危害を加えたことは一度も無い。それに椎名は夜になって腫れてきた凛桜の顔を見て大爆笑していた。これらのことから考えると、犯人は椎名ではない。ならば誰の仕業なのか。当の本人が昨日から何か考え込んでいるのか口数が少ないところも、不気味だ。一体凛桜の頬を叩いた犯人は誰なのか校内はその噂で持ちきりだった。
「りおー?何拗ねてんだー?」
「……」
「可愛いかっこが台無しだぞ〜?」
「……」
「今更拗ねてんのか〜?」
「……」
「お前意外とちっちゃい男だなぁ。そんなんだから顔ひっぱたかれるんだぞ〜?」
((((森吾さん!!))))
 誰もが避けて通っていた道に、凛桜の先輩の森吾があっさり踏み込んだ。三年生であり受験生のはずの森吾は、今日も今日とてサッカー部の模擬店に入り浸っていた。外部編入組の森吾は凛桜との付き合いはまだ浅いが、四月からこの半年、暇さえあれば凛桜をかまい倒している。今日も教室の隅で小さくなっている凛桜にわざわざちょっかい出す人間など、森吾ぐらいだ。
 だが、凛桜が塞ぎこんでいる理由を、完全に誤解している。―――否、正確に理解しているからこそのこの態度か。
「可愛いじゃんアリス。一目散にうさぎ追っかけて穴に入る前にとっつかまえそうなおてんばっぷりがいいと思うぞ〜」
「……そんなんじゃないッス」
「え?何?チェシャ猫の方がよかった?ネコ耳付けたかったのか?しょーがねぇなぁ。おーい松葉ー。お前りおーと衣装交換してやれ〜」
「は?」
 ネコ耳をつけて給仕していた松葉は、突然声をかけられてお盆を持ったまま立ち止まる。え、何スか。や、お前も似合ってんぞ。え、はぁどうも。と交わされる会話に、とうとう凛桜がキレた。
「もー!!ちょっとどっか行っててくださいよシンゴさん!!」
 心配すんな、お前ならネコ耳似合う!!松葉もきっとアリスが似合う!!と二人の会話はまったくかみ合わない。飛び火を食らった気の毒な松葉は、何のことだがわからずにおろおろしている。気にすんな、と森吾が片手を上げると、首を捻りながらも持ち場に戻った。
「じゃぁメイドさんがよかったのか?まぁメイドさんは男のロマンだもんな。でもそれならそーと、衣装決めのときに言わなきゃダメだぞー」
「もーやだシンゴさんまじうざい!!どっか行って!!」
「な!!お前先輩に向かって何てこと言うんだ!!」
「大体なんでシンゴさん今日来てんの!?受験生じゃん!!家で受験べんきょーしてなよ!!」
「後輩の晴れ姿見に来てやったんだろー。俺ってばなんて優しい先輩!」
「わーん!!キャプテーン!!シンゴさんがうざいー」
「あっこらりおー!待て!!」
「……」
「……」
 愛しのキャプテンに助けを求めようと凛桜は逃げ出すが、しつこく絡む森吾につかまり、再びおもちゃにされている。凛桜をからかいおちょくることに生きがいを感じているように見えるが、あれも彼なりの愛情表現なのだろう。その表現法はまるでお気に入りのおもちゃをとことん使い倒す幼児のようだが。そんな愛情を一身に受ける凛桜の方はたまったものではないだろう。能天気で普段あまり動じない凛桜が、本気で嫌がっている。そんな二人を、真樹は何とも言えない表情で見守った。
「凛桜()遊べるのって、ほんと森吾さんくらいですよね」
「っていうか、森吾のはもう一昨年の仕返しのようなものだから。一年のとき、凛桜の兄貴に随分可愛がられてたみたいだし」
「……」
 それはさぞ随分鍛えられたことだろう。プロサッカー選手の凛桜の兄はここの卒業生で、凛桜よりは常識人だが凛桜よりぶっ飛んだ人だ。もちろん森吾自身凛桜のこともかなり気に入ってはいるのだろうが、それ以上に凛桜の兄におもちゃにされたほろ苦い思い出を弟で晴らしてんだろ、と真樹の運んで来たコーヒーをすすりながら光介(こうすけ)は言った。
「てか、光介先輩も受験生のクセに暇そうですよね。昨日も来てませんでした?」
 森吾と同級生の光介は、今日も昨日も森吾とともにサッカー部の模擬店に訪れた。暇なんですか、と暗に問うと、光介はコーヒーカップを持ったまま、にこりと笑う。
「廣瀬はメイド服が似合うなぁ。写真引き伸ばしてパネルに飾ってトモ先輩に送り付けたいくらいだよ」
「来くれて嬉しいです光介先輩ゆっくりしていってくださいね!」
 運動部らしい爽やかな笑顔を添えて光介は言うが、脅し以外のなにものでもなかった。
 サッカー部の模擬店、「メイドカフェin不思議の国」。
 考えた奴出て来いと怒鳴り散らしたくなる企画だが、数年前から文化祭での伝統になっていた。もしかしたらこれも、凛桜の兄が残していった数々の伝説のうちのひとつかもしれない。一年生がアリスとメイド、二年生がチェシャ猫と時計うさぎの格好でウェイターをするという、早い話がコスプレ喫茶だ。
 厳正なるくじ引きの結果、真樹はメイド、凛桜はアリス、ちなみに松葉はチェシャ猫となった。
 生まれながらの女顔のせいで中等部の頃からイベント時の女装はもはや定番となってしまい、もはや諦めの境地に達しつつあるが、さすがに身内に見られるのは極力避けたい。そのために、おそらく姉は初日に来ると予想して当番を今日にしてもらったのだから。
「いらっしゃいませー」
 客の回転が早い中、三十分以上居座っている光介と教室の隅で凛桜で遊んでいる森吾はもう放っておく。自由人には何を言っても無駄だ。そもそも縦社会である運動部において、一年生の真樹が三年生に本気で文句を言えるわけがないのだから。
 光介を放置し新しく入ってきた客にオーダーを取りに行く。だが窓際に座った三人の姿を見て、真樹は若干頬を引きつらせる。それは夏海と聖佳ともう一人、二人や真樹の中等部からの友人の千晴(ちはる)だった。
 身内にこの格好を見られるのは確かに避けたいが、だからと言ってそれは友人ならば平気と言うわけではない。特に、女友達には、女装を引き受けた―――と言うかもはや押し付けられた時点で客寄せパンダになることは覚悟していたが、一応真樹にだって男としてのプライドくらいある。容赦も遠慮もない友人景気よく叩き壊されてしまうようなプライドだけれど。
「やっだ廣瀬君ちょー可愛ー。さとかも着てみたぁ〜い」
「……いらっしゃいませ……」
「ダメじゃん廣瀬君。もっと笑顔笑顔。接客には愛想がないと」
「……ご注文は……」
 完全に面白がっている夏海に言われ、真樹はしぶしぶ愛想笑いを浮かべる。が、完全に引きつっている。そのぎこちない笑みをどうとったのか、千晴が力説した。
「大丈夫だよ、廣瀬君!すっごく似合ってるよ!だから元気出して!!」
「……」
「千晴……。今あんた追い討ちかけたよ」
「え?」
 励ましてくれるつもりなのはわかる。わかるのだが、真樹のためを思うのなら、このまま帰っていただきたい。
 だがそう言うわけにもいかないので、オーダーを取り、ベランダを通って隣の教室へと向う。隣はケーキや飲物の保存室になっていて、裏方を勝ち取った部員たちが控えていた。
「チーズケーキ二つとチョコケーキ一つ、それからミルクティーとレモンティーとカフェオレです」
「ういー」
「あ、廣瀬」
「はい」
 キャプテン(責任者)だから、と職権乱用で裏方に回った榎本が手招きする。誠実で生真面目な性格なのに、この人はいざと言うとき結構あざとい手を使う。そんなことはごく稀だが、いざと言うときは必ず身の安全を確保するちょっとズルイ人だ。
「さっきから高科の絶叫が聞こえるんだが……」
「それは森吾さんのせいです。俺にはどうすることもできません」
「……そうか」
 一応注意してみたものの運動部において上下関係は絶対だ。どんな理不尽でも、三年生が引き起こしていることならばいくらキャプテンと言えども二年生の榎本は口出しできない。
「じゃぁそれはいいが」
「いいんですか……」
 一応突っ込んでみたが、森吾が出てきた時点で真樹たちにどうすることもできないのは明白だ。
 男は引き際が肝心。
 昔の人が残した言葉は大体的を得ているけれど、昔の人もこんなところで使われるは思ってもみなかっただろう。
「今日、お前たちどうしたんだ?」
「え……」
 思いもよらない問いに、不覚にも言葉に詰まる。
「どう、……って……」
 とようやく絞り出した声は、少しかすれていたかもしれない。
「朝から全然口聞いてないだろ。喧嘩でもしたのか?」
「え……と……」
「だめだぞ、仲良くしないと」
「……はぁ」
 あんたどこの保父さんですか。
 内心そう突っ込みながらも、真樹は他の言葉を探す。どうごまかせばいいのだろう。言葉に詰まる真樹を、気遣わしげに榎本が覗き込む。
「廣……」
「ほら、用意できたぞ、持ってけ」
「……ッ」
「椎名」
 榎本の前で俯いたまま頭の中がぐるぐるしている真樹の前に、椎名がケーキとジュースの乗った盆を差し出した。
「つーかどーでもいいだろ、あの馬鹿のことなんざ。バカはバカなりに反抗期迎えたい年頃なんじゃねぇの」
「反抗期って……」
「お前もそろそろ子離れしろよ」
「待て。いつから高科が俺の子どもになったんだ」
「んなの俺が知るかよ」
 気持ちいいほど無責任に言い切り、椎名は盆を真樹に突きつける。
「ほら。あのバカは今森吾さんが躾してくれてるから、お前はとっとと働いて来い」
「痛っ」
 つつかれた額をさすりながら、真樹は椎名から盆を受け取る。
 今のはやはり、もしかして助けてくれたのだろうか。
 彼は、知っているのだろうか。真樹と凛桜に、昨日何があったのか。
 10p程度身長差がある椎名をじっと見つめると、どうしても見上げる形になってしまう。上目遣いを睨まれたと思ったのか、椎名は何だよ、そんな痛かったか?と少しうろたえた。妙なところ鋭いのに変なところ鈍い人だからいまいちつかみどころがない。
 でもきっと、知っているのだと思う。悪人面のくせに、めんどくさがりやぶってるくせに、素直じゃないくせに、本当は優しくて面倒見のいい人だから。いつも真樹を、助けてくれる人だから。
「……行ってきます」
「おぅ。行ってこい」
「気をつけてな」
 あの距離で何をどう気をつければいいのか。少々天然気味なキャプテンとタレ目の先輩に見送られ、メイド服のサッカー少年はベランダへと出て行った。


28 :緋桜 :2007/10/16(火) 21:16:13 ID:ommLPmsk

                                                 □■□■□

 「何かあったのか」と言う榎本の問いに即答できなかったのは、それが真実だったから。
 昨日の夜、二人の間には確かに「何か」はあった。けれど別にそれは喧嘩ではない。と、思う。断言できないのは、出逢ってから今まで、凛桜と真樹は喧嘩したことないからだ。真樹はわりと事勿れ主義だから他人と諍いになることなどほとんど無い。だから「喧嘩」がどういうものかわからない。
 二人の間に何かあったのは、夕食も風呂も済ませ、後は寝るだけというくらいの時間だった。部屋に付いてあるユニットバスを使う真樹を残し、寮に備え付けられている大浴場に入りに行っていた凛桜が帰ってきたのは、十時前くらいだった。中途半端に濡れた髪にタオルをかぶせたまま部屋に入ってきた凛桜の顔を見て、真樹は心底驚いた。
「真樹ー。これ腫れてないー?」
「は!?何それむちゃくちゃ腫れてんじゃん!!何!?何があったの!?!どうしたの!!」
「やっぱ腫れちゃったかー」
「いやいやいやいや腫れちゃったかーじゃなくてさどうしたのそれ!!」
「んー……」
 今日も今日とて能天気な凛桜の頬は、一目見てわかるほど見事に腫れていた。そう言えば、思い出してみると部屋を出る前も左頬だけ少し赤かったような気がしないでもない。風呂に入って温まり、血行が良くなったことで腫れてきたのだろうか。
「って言うか口ン中もちょっと切れてたー。どーりで晩飯ん時痛かったはずだよなー」
「いやいやいやいや気付こうよそこは!!……って言うかえぇ!?何!?何があったの!?まさか椎名先輩にやられた!?」
「あ、そー言やさぁ、しーな先パイひでーんだよー。さっき廊下ですれ違ったとき、俺の顔見て大爆笑すんの!!しかも指差して!!もう信じらんねー」
「てことは先輩じゃないってこと?じゃぁ誰にやられたの!!」
 微妙に会話がかみ合っていないが、凛桜の口ぶりからすると犯人は椎名ではないのだろう。だが、だとすれば誰なのか。まったく見当がつかない。真っ先に思い浮かんだのが椎名で他に思い浮かばないと言うのも彼に対しては失礼な話だが、すべては日頃の行いのせいだ
 被害者よりも慌ててぐるぐるしている真樹に、凛桜はあっさり犯人を告げた。
「何かさー、高杉に撲られたー」
「え」
 凛桜の口から告げられた犯人の名に真樹はつり目がちの大きな瞳を更に大きく見開く。それはあまりにも意外な人物だった。一方凛桜は、相も変わらずマイペースな態度を貫いている。
「撲られてすぐはなんともなかったんだけど、ちょっとしたら何か痛くなってきちゃった」
「ちゃったって……」
 つーかびっくりしたー、と凛桜は言うが、そんなの真樹の方がびっくりだ。
 水姫が凛桜に対して複雑な感情を抱いていることには、何となく気付いていた。水姫が凛桜を見る目は、他の女の子たちのそれとは明らかに違う。態度にして見ても、彼女はあからさまなほど凛桜に冷たかった。そのことをどう思っているのか、そもそも気付いているのか、凛桜はまったく気にしていないように能天気に笑い、それが更に彼女を苛立たせていたのだが。それでも三年半我慢してきた彼女がなぜ今頃実力行使に及んだのか。理由が無ければ人は普通暴力などには訴えないし、水姫だってそうだ。水姫はいくら気に入らないからと言って、理由も無く人に暴力を振るうような人間ではない。
 ならばその理由を凛桜が作ってしまったのだ。
「……凛桜。高杉さんに何したの」
「えー?何もしてないよー。ただすきって言ったら殴られた」
「……は?」
 凛桜の返答に、真樹は自分の耳を疑う。
 今、何かとっても不可解な答えが返ってきた気がする。
 すきって、誰が、誰を。なんで、そんな、誰に。
 たっぷり十秒はかかり、ようやく凛桜の言うことを理解する。だが、理解できても今度は納得できなかった。
「凛桜って……高杉さんのこと、すき、だったの?」
 強豪翠蘭でエースナンバーを背負っていただけあって、凛桜は中学のときからモテていた。イベントごとに靴箱はラブレターやらファンレターやらで溢れかえっていたし、二ヶ月に一度くらいの頻度で告白されていた。ミーハーに騒ぐ子が多かったが、中には凛桜のことを本気ですきだった子もいる。けれど凛桜はその仲の誰とも付き合わなかった。部員のほとんどがサッカーと恋愛を両立させていく中で、凛桜だけはサッカーのみを見つめていた。
 なのにどうして、よりにもよって水姫なのか。確かに凛桜は頻繁に水姫にちょっかいを出していたが、それは朝緋や夏海にだって同じだ。凛桜は誰にでもわけ隔てなく話しかけ―――。
(……あれ?)
 否、違う。
 同じだけど、凛桜の態度は同じだけれど、凛桜に対し、邪険な態度をとるのは水姫だけだった。椎名の態度も凛桜に対して容赦なかったが、そこにはチームメイトとしての信頼があった。それに凛桜の方も、椎名にはやられた分だけ応戦していた。
 けれど水姫には、どんなに邪険にされても、鬱陶しそうにされても、凛桜の態度は変わらなった。
 それは、つまり。
(うわぁぁ)
 どうして今まで思いつかなかったのか。そうか、そう言うことだったのか。思い至ってしまった考えに、真樹は急に恥ずかしくなる。
 凛桜は彼が言うとおり、水姫のことがすきなのだ。だからどんなに相手にされていなくても、水姫に正面からぶつかっていたのだ。彼女と関わろうとしていたのだ。そんな相手、水姫以外にはいない。それはつまり、水姫が「特別」だということではないか。少なくとも、真樹にはそう思えた。
 だが。
「え、わかんない」
「……は?」
「俺って高杉のことすきなのかなー」
「は?え、何それ」
 当の本人は、なぜか首を捻る。水姫に告白したと言い出したのは自分のくせに、凛桜は珍しく考え込むそぶりを見せた。そしてちょっと困ったように答える。
「何かさぁ気付いたら言ってたって言うか……」
「は?え、ちょ、ちょっと待って凛桜。言ってることの意味がわかんない。それ、どういうこと?てかまずどういう状況ですき言ったの」
「んー……文化祭ん時、キャプテンに言われて真樹呼びに行ったじゃん?あの時見ちゃったんだよね。真樹と高杉が抱き合ってるとこ」
「え……ッ」
 予想だにしなかった凛桜の言葉に真樹は思わず動揺する。
 別にあれは抱き合ってたわけじゃなくて水姫が泣いていたから慰めていただけなんだけど別に水姫も嫌がってなかったしって言うかそもそも抱きついてきたのは水姫だし真樹は水姫に対して特別な感情は持っていないし水姫だってそうだけどあれだとしたらやっぱ抱き合うっておかしい?と再び真樹はぐるぐるしだす。だが内心ものすごく焦っている真樹に対し、やはり凛桜はあくまでマイペースだ。
「それ見たらさ、もしかして高杉が真樹のことすき?とか思っちゃって、そしたらそんなのやだって思ったら訊いてた」
「……何、て」
「『真樹のことすきなの?』って。そしたら俺にはカンケー無いとか言うから、ついカンケー無くないよ、俺高杉のことすきだしって言っちゃった」
「……」
 そしたら怒ったんだよー、と凛桜は不満げに言ったが、真樹にしてみれば、どうしてそんな言い方をしてしまったのかと尋ねたい。凛桜は思ったことを何でも口にするところがあり、それは彼の長所なのだろうけれど、それじゃダメなこともある。
 悪意の無い言葉だって、時には人を傷付ける。
「つーかさぁ、『すき』って言われたら誰だって嬉しいはずじゃん。なのになんで叩かれなきゃいけないんだろ」
「……」
「おまけにふざけんなとか言われたしさー。あー、もう女子ってわかんねー」
 頭を抱える凛桜を見て、真樹は妙な気分になった。胸の奥が、ざわざわする。
 水姫に告白したと言った凛桜。けれど、それは告白ではない。一方的に自分の欲求を押し付けただけだ。
「……本当に、わかんないの?」
「え」
「高杉さんがなんで怒ったのか」
「?うん」
 真樹はわかるの?と尋ねる凛桜は、驚いたように目を丸くした。
 どうして水姫が怒ったのか、すきだと言った凛桜を叩いたのか。そのとき水姫が何を思ったのか、真樹にはわかる。凛桜にはわからなくても、真樹だからこそ(・・・・・・・)わかる。
「……高杉さんは、怒ったんじゃないよ」
「え?」
「高杉さんは、傷付いたんだよ」
「傷付いた……?」
「高杉さんはたぶん、凛桜に傷付いているってこと、わからせたかったんだと思う。自分が傷付けた分と同じ分だけ、凛桜にも傷付いてほしかった。自分が今、どんな気持ちなのかわかってほしいから。でも、そんなの無理だから(・・・・・・・・・)、せめて、身体だけでも傷付けようとした」
 言うと、凛桜は目を丸くした。出逢ったときから変わらない、あどけない表情。無邪気で、奔放で純粋で、いつだって前だけ見ている。それが高科凛桜だ。それを知っているはずなのに、どうしてだろう。
 苛々する。
「なんで?」
「……」
「なんでそんなことすんの?てか、高杉が傷付いてるって、なんで?」
「……」
「って言うかさ、そんなん口で言えばいいじゃん。いきなり撲られても意味わかんないし」
「言ってもわからないだろ、凛桜は」
「え……」
「凛桜ってさ、わかんないじゃなくてわかろうとしてないだけじゃないの?叩かれたとき、どうして高杉さんが怒ったのか、ちゃんと考えた?今だって、俺に訊く前にちゃんと考えてみた?高杉さんがなんで傷付いたのか。人に訊く前にちゃんと自分で考えたこと、あるの?
 ……凛桜はいつもそう。わかんない、知らないってそればっかで、一度もきちんと考えたことないでしょ?わからないって言えば、それで許されると思ってるんだろ」
 ―――あ、だめだ。
 これ以上、言ってはいけない。
 頭の中で警鐘が鳴る。けれど言葉が止まらない。増幅していく凶暴な気持ちに、歯止めが利かない。
「でも仕方ないかもね。凛桜は傷付いたことないから、傷付いてる人の気持ちなんてわかんないんだ」
「……真樹……?」
 不思議そうに真樹を呼ぶ凛桜の声に、ハッとする。
 今、何と言った?
 苛立ちに任せて、酷いことを言った。きょとんとする凛桜の顔を見ることができず、真樹は顔を背けた。
 けれど自分が言ったことが信じられない、とは言わない。
 今言ったことは全部、ずっと前から真樹が思っていたことだった。
 誰にも、凛桜を傷付けることなんてできない。
 初めて会ったときから真樹は、ずっと凛桜に惹かれていた。彼の放つ強烈な輝きに魅せられていた。真樹だけじゃない。みんな知っている。彼は「天才」。彼は、「本物」。誰よりも高みへと上り詰めることのできる、孤高の存在。その心は決して折れることはない。誰にも曲げられることのない、真っ直ぐな心。それは、誰も彼の心に触れることはできないからだ。集団の中にいても凛桜は特別であり、異質だった。こんなに近くにいたって、どれだけ同じ時間を過ごしたって、真樹に凛桜は理解できない。理解したくても寄り添いたくても、決して叶わない。

『高科は、「可哀想」。だから嫌い』

 そう言ったのは、誰だっただろう。とらえどころの無い笑みを浮かべながらそう言った人は、今はもうここにはいない。誰よりも凛桜に近くて、一番遠かった人。凛桜の異質さに気付き、凛桜のことを可哀想だと言った。けれどそれは同情でも憐憫でもなかった。彼は「特別」な凛桜を羨むこともなく、哀れむこともなく、ただ、事実だけを受け入れていた。そのままの凛桜を受け入れていた。
 けれど真樹は、そんな風にはれなかった。凛桜のことが羨ましかった。そう思う自分が惨めだった。
 天才ゆえの孤独など感じることも無く、ただひたすらに前だけ見つめる凛桜の背中を見ることが、辛かった。
 決して交わらない視線。真樹は凛桜を、追いかけてばかりいた。


29 :緋桜 :2007/10/17(水) 23:03:08 ID:ommLPmsk

 そしてそれは、きっと水姫も同じだった。
 彼女もまた、凛桜に惹かれている。そこに色恋が絡んでいるのかどうかは知らないし、詮索もしないけれど、水姫はいつも凛桜を気にかけていた。けれどその想いは一方通行で、決して交わることのないものだった。同じように凛桜を追いかけていた真樹だからわかる。水姫は凛桜を嫌っていたわけではない。ただ分かり合えないことに苛立ち、並んで立てないことが哀しくて、水姫はいつも凛桜を遠ざけようとしていたのだ。それなのに、凛桜はいつも無遠慮に彼女の中に踏み込もうとしていた。わかり合おうとしないのに、わかろうとしないくせに、感情を真っ直ぐにぶつけてくる凛桜に苛立ち、一方的に想いを告げられ、とうとう爆発してしまったのだろう。たとえ凛桜が本当に水姫のことをすきだとしても、凛桜のやり方では、それは伝わらない。わかろうとしないのに、わかってもらおうとする。そんなの、凛桜のわがままでしかない。だから水姫は怒ったのだ。傷付いたのだ。
 同じだ。
 真樹と。
(俺は)
 本当は真樹は、ずっと凛桜を傷付けたいと思っていたのだ。
 傷付けてみたかった。わかってもらえないならせめて、傷付けることで自分の存在を彼の中に刻み込みたかった。
 それはちっぽけなプライドだった。
 凛桜は真樹にとって憧れであると同時に、脅威でもあった。真樹は凛桜のことをとても好きだけれど、同じくらい怖かった。凛桜といると楽しいのに、嬉しいのに、それだけじゃいられなかった。凛桜といるといつも劣等感に襲われていた。
 「天才」で「特別」な凛桜は自分とは違うから。どうしても踏み越えられない境界線が、二人の間にはあった。
 彼は「持ち得た者」。そして真樹は「持たざる者」。
 凛桜といると、その事実が常に付きまとう。いつだって、振り向けばすぐに残酷な現実が牙をむく。
 対等でありたいと思うあまり、凛桜を傷付けようとしたのだ。
 馬鹿みたいだ。
 こんなんじゃ、凛桜のことを勝手だなんて言えない。真樹も十分、自分のことばかりだ。
 今だって本当は、水姫をかばうふりをして、水姫を傷付けた凛桜を責めるふりをして、本当はただ、自分の欲や不満を押し付けているだけだ。
「……真樹?」
 おそるおそる凛桜が真樹の顔を覗き込む。それを見て、真樹は思った。きっと凛桜には一生わからない。矛盾も、葛藤も。凡人の悩みなんて、一生。でも、だからと言って真樹が凛桜に酷いことを言ってもいいという理由にはならない。
「……ごめん」
「真樹?」
「言い過ぎた」
「え……」
「何言ってんだろな、俺。ごめん、今の忘れて」
 頬がこわばり、上手く笑えたかどうかわからない。けれど凛桜の反応を確かめるよりも、とにかくこの場から逃げ出したかった。
「そう言えば俺、先輩と約束してたの忘れてた。ちょっと出てくるね。遅くなるかもしんないから、先寝てていいよ」
「え……」
「じゃ、お休み」
 凛桜を残し、真樹は逃げるように部屋を後にした。不自然極まりない。いくら鈍い凛桜にだってわかっただろう。
 先輩と約束、だなんてもちろん嘘だ。
 部屋から逃げ出した真樹に、どこにも行くところなんて無い。こんなとき、居場所を与えてくれた人は、もういない。話を聞いてくれた人は、もういない。
(……馬鹿か、俺は)
 この期に及んでまだ誰かにすがろうとしている。傷付けたのは自分なのに、そのことで勝手に傷付いている。
 どこにも行けず、結局屋上へと続く階段を上がった。十月半ばの夜の空気はひんやりと冷たく、こんな時間に屋上に出てくる生徒など、真樹くらいしかいなかった。けれどひとりになりたくてここに来たのだから、ちょうどいい。
 慰めてくれる声も寄り添ってくれる温もりもないから、真樹は一人で泣いた。
 思う存分泣いて部屋に帰ると、凛桜はもう眠ってしまった。

 


30 :緋桜 :2007/10/19(金) 21:54:53 ID:ommLPmsk

                                                 □■□■□

 幼い頃、世界はとても簡単だった。
 好きだという気持ちがあれば、優しくなれた。優しくできた。なのにどうして、大人になるに連れてそれができなくなるのだろう。大切なら、傷付けたくなんてないはずなのに。好きな人には、優しくしてあげたいはずなのに。いつの間にか、意地を張ることばかり覚えていた。嘘を吐いて、ごまかすことばかり上手くなっているような気がする。
「サボり発けーん」
「……椎名先輩」
「何してんの」
「……」
 人気の無い特別棟の三階。普段授業でもあまり使われない第三音楽室は、文化祭の今日はいつにも増して静まり返っている。窓から見下ろせば、中庭は人で溢れかえっているのに。ここはまるで世界から隔絶された空間のようだった。
 サッカーブの模擬店の当番が終わったあと、真樹は一人、音楽室に訪れた。中学に上がって寮に入るまでは毎日弾いていたピアノ。サッカーを覚えてからも、ピアノを弾くことはやめなかった。鍵盤に触れている間は、嫌なことを忘れられるから。嫌なことがあると、いつもピアノを弾いていた。それを知っているのは、きっともう、この人だけ。別に隠しているわけではないけれど、自分から他人にピアノを弾くことを言ったことは無い。この人が知っているのは、三年前の秋、音楽室で真樹がピアノを弾いているところに偶然この人が現れたからだ。
 ちょうど、今日のように。
 けれど今日、真樹はピアノを弾いていない。窓際に置かれた棚に座って、ぼんやり外を見ていた。
「高科と喧嘩したんだって?」
「……」
「ヘコんでたぞ。うっぜぇくらい。てかまじうぜぇ」
 だから何とかしろよ、と椎名は面倒くさそうに命じた。命じているのに、その声は優しかった。
 そう。椎名はいつも、真樹に優しい。こうやって椎名が真樹をいつも甘やかすから、真樹はどんどん弱くなる。一年会わない間に、少しは強くなったつもりだったのに。一人で立てるようになったつもりだったのに。
 音楽室の中に入ってきた椎名は、窓際の棚に座る真樹に近付き、髪に触れる。お前の髪、好きだなぁと、真樹の髪を撫でながら言ったのはいつだっただろう。そんなことを思い出せる自分が嫌になる。
「……喧嘩なんてしてません」
「ふーん」
「俺が勝手に拗ねてるだけ。勝手に拗ねて勝手に傷付いて勝手に苛々して、……凛桜に酷いこと言っちゃっただけです」
 どうしてあんなことを言ってしまったのだろう。どうして凛桜が傷付かないなんて思ったのだろう。
 凛桜は強い。
 強いから挫折を知らず、だからこそどこまでも強くなれる。誰もが彼に惹かれ、憧れ、愛する。彼は愛されるために生まれてきた人間なのだ。
 彼は「天才」。彼は「特別」。
 でも、だからと言って傷付かないわけがないのに。
「……俺、あの頃と何も変わってない……。全然成長できてない……。いつも自分のことばっかだ……」
 椎名と初めて二人きりで話したのは、三年前の冬だった。あの時も今と同じように真樹は凛桜のことで悩んでいた。あの時、割り切ったはずだったのに。諦めることと受け入れることは違う。そう水姫に言ったのは自分なのに。諦めるんじゃなくて受け入れて、その上で前に進んで行こう。そう決めたはずなのに。
 結局真樹は何も成長できていない。
「……んなことねぇだろ」
「ありますよ」
 否定の言葉が、今はただ辛かった。
 慰めなんて要らない。責めてほしい。自分が何言ったのか、思い知れるように。打ちのめして欲しい
 そう、思っているのに、どうして。
「ねぇよ。あん時はお前、自分の中に溜め込んで全部一人で背負い込んでたけど、今回はちゃんと言えたんだろ?」
「え……」
「大事にすんのと遠慮すんのは違ぇぞ。それにお前、いつも一人で抱え込もうとするけどさ、本当はもっと周りに寄りかかってもいんだぜ?何でもかんでも頼られるとうぜぇけど、全部一人で自己完されるとそれはそれで寂しいもんだぞ?」
「そんな……」
 そんなことない。今だってこんなにも椎名に甘えてしまっているのに。もっと強くなりたい。強くならなきゃダメだ。女の子じゃないんだから、守られてばかりじゃ何もできない。そう思うのに、椎名は。
「特にあいつは、お前が思ってるよりずっとお前のこと好きだぜ?お前に迷惑かけられるんなら、逆に喜ぶんじゃねぇの?」
「んっ」
 そう言って、椎名は真樹の頭をぐしゃぐしゃっとかき回した。何すんですか!と思わず噛み付くと、元気出たじゃん、と言って椎名は笑い、自分が乱した真樹の髪を指で梳いて整えた。やっぱり自分はこうやって、十分椎名に甘やかされていると思う。
 まだ髪をいじっている椎名の手の感触に戸惑いながら、真樹は俯いた。
「……俺、凛桜のこと好きです」
「……うん」
「むちゃくちゃ好きなんです」
「うん。知ってる」
「何かもう……あいつがいくら馬鹿でも頭悪くても勉強できなくても病気とかせずに元気にサッカーしてグラウンド走り回ってくれてたらもうそれでいいってくらい好きなんです!」
「お前……もうそれ友情じゃねぇだろ。母性だろ」
「やっぱそう思います!?」
 廣瀬真樹、十五歳にして母性に目覚める。
 ってそうじゃなくて。
 内心ツッコミを入れつつ椎名を見やると、真樹の主張にちょっと引いていた。
 うん、まぁ、いいと思うぞ、と目を泳がせながら椎名は言うが、何がいいのかわからない。おそらく椎名もわかっていない。
「……すいません」
「や、別に……」
 真樹の頭を撫でていた椎名の手が行き場をなくして結局彼の首元に納まる。
 何となく気まずくなってしまった。
 だがどうしようかと考える暇も無く。
「真樹!!」
「高科!?」
「凛桜!?」
 椎名の入ってきた突然扉が開き、そこから凛桜が飛び込んできた。泣きそうな表情をした凛桜はそのまま真樹に駆け寄り、ぽかんと口を開けたまま立ちすくむ椎名を突き飛ばし、真樹に抱きついた。突然の抱擁に真樹もまた身動きできずに固まる。吹っ飛ばされた椎名はというと、飛んでいった拍子に棚で打ち付けたのか、腰を抑えて悶絶している。
「やっぱり俺、真樹が好き!!だからこのままなんてやだ!!」
「は!?ちょ、凛桜なにごと!?」
「俺バカだし無神経だし、何かをちゃんと考えたこととかあんまりなかった。そのせいで真樹のこと、傷付けてきたかもしんない。でも、これからはちゃんと真樹のことわかっていきたい!!だから……ッ」
「ちょ、りお……」
「ハイそこまでー。盛り上がってるとこ悪いんだけど、ここは一応学校よ?青少年。そして今日は特別棟は立ち入り禁止」
「く……っぬぎ先生……」
 次から次へとなんだというのか。凛桜に続いて現れたのは、真樹たちのクラスの担任教師だった。功刀(くぬぎ)は抱き合う―――凛桜が真樹に抱きついているだけとも言えるが―――二人につかつかと歩み寄り、凛桜の首根っこをぐわしと掴み真樹から引っぺがした。
「あっ」
「『あっ』じゃない!こんなとこで何やってんのあんたらは!友情を確かめ合うのは結構だけどねぇ、そう言うことはプライベートの時間にしてくれる?今は文化祭。お祭り中。一、二年生は参加する義務があるの。わかる?」
「うぅ……」
 襟首をつかまれたまま説教され、凛桜は見る見るうちに涙目になる。高校生にもなって、本当に感情豊かな奴だ。次々現れる外野により真樹はあっけにとられていたが、やがて功刀の矛先は真樹へと向けられる。
「大体廣瀬!」
「は、はい!」
「あんたねぇ、ここ、中庭から丸見えなの知ってる?」
「え!?」
「音楽室でサボってる奴なんてどこの馬鹿かと思えば廣瀬だったなんて、先生悲しいわ。しかも呼びに来たらコレとかアレとか何か増えてるし!……って何してんの椎名」
「お……かまいなく……」
 すっかり忘れていたが、凛桜に吹っ飛ばされた椎名はまだうめいていたようだ。功刀の言うところの「アレ」の存在は、本人の申し出どおり無視されて話は進む。
「とにかく、サッカー部はさ、仲良しなのはいんだけどもうちょっと節度ってものを覚えなさいね」
「……」
「……」
「返事は?」
「「は、はい!!」」
 じろりと睨まれ、真樹と凛桜は同時に姿勢を正し、返事する。その反応に満足したのか、功刀はにかっと笑う。
「よし。じゃぁ校舎戻るよ。学生のうちは、学生のうちにしかできないことを楽しみなさい。
 て言うか高科。あんた二時から当番でしょ。横溝が探してたわよ」
「あっ、やべ!!」
「ほら、とっとと行くー。廣瀬は椎名が復活したら連れてきなさい。次サボってるとこ見つけたら、顧問の先生にチクって出場停止にしてもらっちゃうゾ☆」
「はい……」
 冗談めいた口調だが、目は笑っていない。たぶん本気だ。たぶんて言うか絶対。
 功刀に連れられ凛桜は出て行く。
 その背を真樹は見つめた。
 今の凛桜の告白めいた絶叫には、心底驚いた。内容や抱擁はもちろん昨日から今の間に、一体凛桜に何があったのだろうということも。「わかりたい」なんて言葉、凛桜の口から出るなんて思わなかった。
 そう、勝手に決めついけていた。わかって欲しいと願いながら、一方では、心のどこかで諦めていたのだ。無理だと思い込んでいたから、それを凛桜に告げようともしなかった。
 何て自分勝手なんだろう。
 凛桜のこと、何もわかっていなかったのは真樹も同じだ。一方的に責めて被害者ぶって、きっと凛桜を近付けた。前ばかり見てる猪突猛進の凛桜に、あんなことを言わせたくらい。
 でも、なぜだろう。
 傷受けて、醜い本音を晒したのに、ここからもう一度始められるような気がするのは。嫌われても仕方ないと思っていたのに、凛桜はまだ、真樹のことを好きだと言ってくれる。だったらもう一度はじめよう。わかって欲しいと駄々をこねるだけじゃなくて、真樹もまた、凛桜を理解するために。
 わかりたい。
 そう思った。
「……て言うか大丈夫ですか?椎名先輩」
「あンのバカ……いつかゼッテーシメる」
 まだうめいている椎名に尋ねると、腰を抑えた椎名はちょっと涙目で呻くように宣言した。

 


31 :緋桜 :2007/10/23(火) 21:50:56 ID:ommLPmsk

                                                 □■□■□

 文化祭が終わる。
 後夜祭の火が消えれば、これまでお祭り騒ぎが嘘のように、明日からは日常に戻る。
 祭りの最後は今までで一番の盛り上がりを見せているのに、どこか切ない。それはきっと、みんな楽しい時間がもうすぐ終わることを知っているから。
「真樹」
「……凛桜」
「今、話せる?」
「……うん」
 近寄ってきた凛桜が、真樹の隣に立つ。音楽室での一件後、凛桜はすぐクラスの方の当番に駆り出され、その後も学校に留まっていた森吾に連れ回されていたため、二人でゆっくり話す暇が無かった。一般公開の時間が終わっても後夜祭までは片付けの時間だっため、それどころではなかった。
 だから凛桜とこうして二人きりで顔を付き合わせるのは、昨日以来これが初めてだ。
「……昼間、さ」
「うん?」
「俺が言ったこと、覚えてる?」
「……」
 手に持った青い蘭の造花をいじりながら、俯きがちに凛桜は尋ねた。
 文化祭の後夜祭では、晴れている場合キャンプファイヤーが行われ、その際生徒には「翠蘭」にちなんだ青い蘭の造花が配られる。後夜祭中それを交換したカップルは永遠に結ばれる―――という、まぁ言ってしまえばありがちな伝説があった。
 あちこちで告り告られの小劇場が繰り広げられている中、男二人で話しこんでいる真樹たちは、端から見ればかなり寂しい二人組だろう。また周りからの視線―――主に凛桜に向けられた、おそらく凛桜に告白しようとしている女子からのもの―――をひしひしと感じるが、今はそんなことどうでもよかった。しばしの沈黙の後、真樹は静かに頷いた。
「……うん」
「俺さ、いろいろ考えたんだ。真樹に言われて。真樹のことも、高杉のことも。俺、こんなだから今までそーゆーの考えたことなかったし、考えてみようと思ったこともなかったけど、何か俺、何もわかってなかったんだって、思った」
「凛桜……」
「そんな俺が今までやってこれたのって本当、真樹とか……しーな先パイとか、いろんな人が傍にいてくれたからなんだなって、思ったよ」
「椎名先輩が……?」
 思いがけない名前に、真樹は数度瞬きを繰り返す。どうしてここで椎名の名前が出てくるのだろう。
 けれどそう思う反面、そっか、とかやっぱり、とか思った。凛桜の言葉で、すべてに納得がいく。やはり椎名は、知っていたのだ。
「昨日真樹が出てった後、しーな先パイが来たんだ」

 


32 :緋桜 :2007/10/30(火) 23:15:09 ID:ommLPmsk

                                                 □■□■□

 先パイって、どの先パイだよ。
 部屋を出て行く真樹の背を見送りながら、凛桜は思った。
 凛桜よりもその先パイの方が大事なのかよ、とも。

『わかんないじゃなくて、わかろうとしてないだけじゃないの?』

 先程の真樹の言葉が蘇る。
 どうして真樹がそんなことを言ったのか、わからなかった。今日だけじゃない。真樹の言うことはいつも凛桜には難しくて、きっと真樹には簡単にわかるのだろうことが、凛桜には上手く理解できなかった。

『凛桜はいつもそう。わかんない、知らないってそればっかで、一度もきちんと考えたことないでしょ?』

 でも、人の気持ちなんて考えたってわかるわけない。だって、みんな別の人間なのだから。どうして水姫が怒ったのか、どうして水姫が傷付いたのか。そんなの、水姫じゃない凛桜にどうしてわかると言うのだろう。

『わからないって言えば、それで許されると思ってるんだろ』

 そんなことない。と、思う。でも、真樹が言うならそうなのかもしれない、とも思った。
 他の誰でもない、真樹の言葉だから。

『真樹?』

 躊躇いながらも名を呼ぶと、真樹は気まずげに顔を背けた。その反応が凛桜にとっては不可解で、けれど少女のように整った真樹の横顔に思わず見惚れた。
 真樹は、綺麗だ。
 綺麗なだけじゃない。強くて優しくて、凛桜の知らないことをたくさん知っている。凛桜にはわからないことでも、真樹にならすべてわかっているような気がするくらい。その真樹が言うのだから、きっと凛桜は水姫を傷付けてしまったのだろう。
 でも、どうして?
 わからない。
 許されると思っているわけじゃない。でも、わからないことはどうやったらわかるようになるのだろう。どうすれば答えを見つけられるのだろう。

『凛桜は傷付いたことないから、傷付いてる人の気持ちなんてわかんないんだ』

 真樹にはわかるのだろうか。傷付いている人の気持ち。わかるのだとしたら、それは真樹は傷付いたことがあると言うことで、それはつまり、真樹を傷付けた人がいるということ。じゃぁ、誰が真樹を傷付けた?
 まさか、凛桜が?
 もしかして、凛桜は今まで、水姫だけじゃなく真樹のことも傷付けていたのだろうか。
 わからない。
 思い出せない。
 今までずっと、一緒にいたのに。
「廣瀬いるかー?」
 ノックと同時に開いたドアから椎名が顔を覗かせる。凛桜にはいつもノックしろと偉そうに言うくせに、自分はどうなのか。いくらノックをしたって、ノックと同時に開けたらする意味ないのに。
 部屋の中にいたのは凛桜だけで目当ての人物はいなかったから、椎名は目を見張った。こんな時間に真樹が部屋にいないのは、珍しいことだから。それでも部屋に入ってドアを閉める椎名に、真樹はいないのだから帰ればいいのに、と思った。
「何、お前一人?珍しいな」
 部屋の中央で一人座り込む凛桜を、椎名は不思議そうに見やる。真樹が一人で部屋にいることはあっても、その逆は今まで無かった。少なくとも、この人の知る限りでは。
「……俺だってひとりになりたいときくらいありますよ」
「は?何、ナマイキに反抗期?
 つーかお前ちゃんと顔冷やしたか?明日腫れても知らねぇぞ」
「……」
 さっき散々大笑いしたくせに。
 内心思い、眉を寄せる。けれどそれは珍しく優しい椎名に戸惑ったからではない。
 椎名は意地悪だし性格歪んでるし凛桜のこと殴るしすぐバカとかアホとかばっかり言って凛桜のこと苛めるくせに、こうやって優しくする。
 ズルイ。
 どうせなら、最初から最後まで冷たくすればいいのに。本当に嫌な人なら、思う存分嫌いになれるのに。
「つーか廣瀬は?」
「……先パイんとこ行きました」
「マジで?誰んとこ?」
 ごく自然に尋ねてくる椎名のことが、腹立たしく思えた。どこに行ったかなんてそんなの、凛桜の方が知りたいのに。
「知りませんよ!!先パイと約束してるとしか言ってませんでした!!」
「何怒ってんだよ」
 完全に八つ当たりで大声を出すと、一方的に怒鳴られた椎名は、怒るでもなく不思議そうに尋ねた。この人の怒りのツボは、未だによくわからない。気が短くて怒りっぽいくせに後輩の生意気な態度に寛大なときもある。昔、椎名のことをわかり易いと言っていた人がいたけれど、そんなの嘘だ。出逢いから三年半、付き合いだけなら二年半経っても、凛桜にはちっともわからない。それは、その人が変なのか。それともおかしいのは凛桜の方なのか。
「怒ってません!」
「じゃぁ泣いてんの?」
「泣い……ッ」
 椎名の問いに、言葉に詰まる。
 泣いてなんかいない。
 だって、泣く理由が無い。
 真樹が言っていた。凛桜は傷付いたことなんてないんだと。だったら、傷付いていない凛桜が泣くわけない。
 でも。
 凛桜が水姫を傷付けたと知ったとき、真樹が凛桜を置いて部屋を出て行ったとき、胸がざわざわした。哀しかった。寂しかった。
 これって、傷付いてるってことじゃないの?
 水姫と真樹を傷付けたのだとしたら、そのことを、後悔してるんじゃないの?
「……うぅ〜……」
「え、何。マジ泣き?」
「しーな先パイのエロ目―」
「……おい」
 どさくさにまぎれて八つ当たりするが、聞き逃してはもらえなかった。さっきは怒らなかったのに、今度は椎名は凛桜に近付いて頭を叩く。
 なんでこの人俺に対しては容赦ないんだろ。真樹には絶対手なんか上げないくせに。
 内心思ったけれど、口には出さない。それくらいの学習能力は、凛桜にだってある。
 泣き顔を見られるのも悔しくてぐしぐし目をこすっていると、椎名は凛桜の目の前で腰をかがめた。
「何、廣瀬と喧嘩でもしたの」
「……」
「また何かやって廣瀬怒らせたのか?」
「……なんで俺が悪いことゼンテンなんスか」
「『前提』な。じゃぁ違うってのか?」
「う……」
「違わねぇだろ」
「……」
 ほれみろ、と器用に片眉だけ上げて、鼻で笑う椎名は意地悪そのものだ。これが真樹相手なら慰めるくせに。何となく面白くなくて、凛桜は立てた膝に顔を埋めた。
 椎名はいつも真樹の味方だ。椎名は凛桜には時々優しくて、真樹にはいつも優しい。
 でもそれは仕方ないと思う。椎名は凛桜よりも真樹の方が好きなのだ。だって、真樹は優しいし、素直だし、上級生にも礼儀正しいし、凛桜なんかよりずっといいやつだ。
 そんな真樹のことが、凛桜も。
「……俺、真樹のことすげぇ好きッス」
「は?何、いきなり」
 唐突な凛桜の言葉に椎名が驚いたように尋ねるが、かまわず続けた。
「中学生になって寮に入って同じ部屋になったのが真樹でよかった。そうずっと思ってたッス。
 一緒の部活で一緒の部屋で、そんなずっと一緒にいて飽きねぇのってよく言われたけど、全然そんなことなかった。真樹と一緒は、いつも楽しかった。これからも一緒にいたい。本気でそう思ってた。……でも、そう思ってるのは俺だけなのかな……」
 ずっと一緒にいたのに、真樹が凛桜のことをどう思っているかなんて、考えてみたこともなかった。考えるまでもなく、これからもずっと真樹と一緒にいるのは当然だと思っていた。だって凛桜は、真樹のことが大好きなのだから。

『「すき」って言われたら誰だって嬉しいはずじゃん』

 けれどもしそれが、一方的な好意だったとしたら?相手の気持ちも考えず、ただ自分の想いを優先させて、相手の気持ちを否定したら?
(―――そんなの)
 嫌に決まっている。怒るに決まっている。哀しいに、決まっている。
(だから高杉は怒った?)
(真樹がそれに気付いたのは)
(真樹も高杉と同じだから?)
 真樹に対しても凛桜は、自分の気持ちだけ押し付けていた?
 わかるはずないと諦めて、他人の気持ちを考えたことなんてなかった。全部をわからなくても、考えてみれば見えてくるものだって、あったかもしれないのに。
「高科?」
 俯いてしまった凛桜を、椎名が呼ぶ。どうしたんだよ、と尋ねる声とともに衣擦れの音がする。椎名がしゃがみこんだのだろう。声が近くなる。
「……何があったか知らねえけどさ」
 少し、戸惑ったように椎名は口を開いた。
「心配しなくても、あいつはお前のこと相当好きだろ。でなきゃお前の相手なんか四年もやってらんねーよ」
 思いがけない椎名の言葉に、凛桜は反射的に膝に埋めていた顔を上げる。
 驚いた。椎名がそんなことを言うなんて、思わなかった。
 目の前にいた椎名は、優しい目をしていた。凛桜にはめったに向けられることのない、温かな眼差し。
 けれど知っている。
 椎名は元々、酷い人なんかじゃない。意地悪だけど、本当はすごく優しい人。
「お前の馬鹿みたいな話ちゃんと聞いて、理解しようとして、突拍子もないお前に付き合って。そんなの、お前のことよっぽど好きじゃなきゃできねぇだろ」
「でも……真樹……怒って出てっちゃった……」
「じゃぁ今は嫌われたんじゃねーの」
「えぇ!?」
「知らねえよ。俺はあいつじゃねぇんだから」
「だっ」
 額を指で弾かれる。随分古い攻撃法だ。いってーすっげー音したよここも赤くなったらどーしてくれんのとぶちぶち言う凛桜を尻目に、椎名は立ち上がる。二人の距離が一気に開く。追いかけるように凛桜も見上げた。
「俺もお前も、あいつじゃねぇんだからあいつの気持ちなんかわかんねぇよ。つーか、勝手にわかった気になってる方がどうかしてんだろ」
「……」
「だから聞いてみれば。あいつがどう思ってんのか」
「……それで嫌いって言われたら俺、どうしたらいいんスか」
「そこまでは責任持てねぇよ」
「……いじわる」
「あ?どこがだよ。それが貴重な時間をお前ごときのために使ってやった先輩様に向って言う言葉かよ」
「……」
 ふてくされたように椎名を睨むと、椎名は再びしゃがみこみ、ばーか、と言いながら凛桜の頭をぽんと叩いた。
「つーかさ、人と人との関係って、そう単純なもんじゃねぇけど、別にそんな難しいもんでもねえんだぞ。傷付けたって思ったんなら謝りゃいいし、捻じれたんなら直せばいい。傷付けたって事実はなかったことにはできねぇし、やり直すこともできねぇけど、それでも真剣にぶつかってけば、取り返しのつかないことって、そんなに無いもんだぞ」
 そんなことをいえる椎名は、そんな風に思える椎名を、すごく強い人だと思った。椎名自身も辛い別れを何度も体験しているのに。それとも、乗り越えたからこその言葉なのだろうか。
「時間は元には戻らない。過去はやり直せない。でも一回立ち止まって考えて、そこからもう一度始めることはできるんだからよ」

 


33 :緋桜 :2007/11/02(金) 21:45:10 ID:ommLPmsk

                                                 □■□■□

「……そっか」
 そんなことを言われたのか。いつも喧嘩してばかりなのに、椎名は凛桜に、そんなことを言ってくれたのか。仲直りのきっかけを、二人に与えてくれたのか。
 不器用な彼の優しさは、いつも真樹を救ってくれる。真樹だけじゃない。たくさんの人が、椎名の優しさに救われる。凛桜もその一人だ。
「真樹やしーな先パイに言われて俺、ちゃんと考えたんだ。いろんなこと。ずっと考えて、わかったこととどうしてもわかんないことがあった。わかったのは、俺が真樹のこと、凄く好きだってこと」
「……凛桜……」
「だからこのまま真樹に嫌われたくないって思った」
 恥ずかしげもなく凛桜はそんなことを言った。凛桜はいつだって、自分の気持ちを素直に言える。この素直さゆえに、時に凛桜は人を傷付けるけれど、凛桜の素直さに救われたことだって、確かにあった。この素直さを、好きだと思った。
「なぁ、真樹。俺はさ、今までずっと真樹のこと、傷付けてた?」
「―――ッ」
「答えて、真樹」
 素直な凛桜に真っ直ぐに見つめられ、そんなことない、と即答できなかった。いろんな感情が一気にこみ上げてきて、上手く言葉が見つからなかった。
 凛桜といると、真樹は傷付いてばかりいた。けれどそれは、凛桜が悪いわけではなかった、真樹が勝手に傷付いていたにすぎない。真樹が凛桜との間に感じていた壁は、凛桜が作ったものではない。どうやったって追いつけないのは、凛桜が悪いからではない。真樹はどうにもならないことをどうにかしてほしくて駄々をこねていただけだ。
 だから凛桜が悪いわけじゃない。
 誰も悪くなんかない。
 ただみんな、欲しいものが少しずつ違うだけだ。
「真樹」
 再度促され、真樹は心を決める。真っ直ぐな凛桜に応えたいと思ったから。
「……俺は、ずっと凛桜といるのが辛かった。……寂しかった。凛桜はいつも迷いなんかなくて、真っ直ぐに前だけ見てて、それが羨ましかった。迷ってばっかの俺に凛桜は、いつも眩しかったんだ。俺は一番大切なものが何なのかさえ決められなかったから」
 サッカーもピアノも同じくらい大切で、大好きだった。
 翠蘭の入学が決まると通っていたピアノは教室はやめたけれど、どうしても諦めきれず、一人でピアノを弾いていた。サッカーを選んだはずなのに、手離せなかった。
 サッカーと共に生きていく。そんな夢みたいなことを本気で口にできる凛桜が、ずっと羨ましかった。才能も実力も夢も覚悟も、凛桜は全部持っていた。
「凛桜といると、傷付いてばっかだった。現実を思い知らされて、何度も逃げ出したくなった。何もかも放り出したくなった。……でも、そんなになっても、凛桜と一緒にいたかった。傷付いても、凛桜と一緒にいたかったんだ」
 その想いにだけは、嘘はない。
 分かり合えなくても、傷付いても、繋いだ手を解きたくなかった。
「真樹……」
「俺も、謝らなきゃいけないことがあるんだ」
「真樹が?俺に?なんで?」
「昨日、酷いこと言った。……俺、嫉妬してたんだ。高杉さんに」
「高杉に……?」
「俺たちはサッカーって言う共通のものがあったから出会えた。サッカーがすべてじゃないけど、無関係でもないだろ?でも高杉さんは、サッカーって言う、凛桜の一番大切なもの抜きにしても、凛桜と関わってる。……それが、羨ましかったんだ」
 凛桜が水姫のことをすきだと気付いたとき、真樹は水姫に嫉妬した。
 水姫を傷付けた凛桜を非難するふりをして本当は、水姫に嫉妬していたのだ。彼女が羨ましかったのだ。
 サッカーに愛された少年。
 人は彼をそう称す。
 天賦の才を持って生まれてきた凛桜は、間違いなく「天才」で、それゆえ孤独だ。
 真樹では凛桜を理解できないし、同じ高さに立つことはできない。
 真樹だけではない。
 椎名も、榎本も、森吾も。
 みんなサッカーを通じて繋がっている。
 それは絶対的な絆。でも、もし自分たちの間からサッカーというつながりが無くなってしまったら、今の関係はどうなってしまうのだろう。もしも自分たちの間に最初からサッカーというつながりが無ければ、きっと今みたいな関係を築くことはできなかった。
 サッカーをしている凛桜に憧れていた。初めて会ったときからずっと、真樹にとって凛桜は「天才ストライカー」だった。
 自分にないもの―――真樹では決して手に入れられないものを最初から持っている凛桜のことが眩しくて、羨ましくて妬ましかった。劣等感が真樹を支配し、対等になんて付き合えるわけなかった。
 でも、そんなの寂しい。
 真樹だって、ちゃんと、一人の人間として凛桜と関わりたい。
 水姫のように。
「でも、だからって、凛桜にひどいことを言ってもいいって理由にはならないよな。……本当、ごめん」
 きっと傷付けた。たくさん傷付けられた。
 でも、それでも、まだ遅くないのなら、もう一度ここから始めたい。
 やり直すことができないなら、もう一度新しく始めよう。
 真樹の言葉に、凛桜はゆっくりと瞬きする。凛桜の睫毛が上下する様を見ながら、なぜだろう。真樹は初めて凛桜と向き合えたような気がした。
 永遠にも一瞬にも思える沈黙の後、凛桜は口を開いた。
「……たぶん俺さ、真樹が言ってくれなきゃ全然気付けなかった。真樹を傷付けたことにも、高杉を傷付けたことにも」
「凛桜……」
「だからありがと。気付かせてくれて。……それと、傷付けてごめんね」
 何か俺たち、謝ってばっかだな。
 ちょっと照れたように笑いながら凛桜が言ったから、真樹も笑った。「好き」も「ごめん」も、今日一日で一生分言ったかもしれない。
 けれど、たくさんの「好き」とごめんを重ねてもう一度始めることができるなら、言葉なんて惜しくはない。
「でもさ、これだけはわかってほしいんだ。俺らが出逢ったのは、確かにサッカーをしてたからだけど、俺はもしサッカーをやめても、真樹と友達でいたいって、思ってるよ。サッカーやめても、真樹は真樹だろ?だったら俺は、ずっと真樹のことが好き」
「凛桜……」
 わかって欲しいと駄々をこねるだけじゃ何も変わらない。変えられない。想いは、口にしなきゃ伝わらない。たとえすべてが上手くいかなくても、きっと何かは変わるはずだから。
 「もしも」の話なんてしても仕方ない。過去は変えられないのだから。けれど未来は変えていける。二人の手で、作っていける。
 凛桜もそれを望んでくれていることが、嬉しかった。
「……俺さ」
「うん」
 照れ笑いから一変し、凛桜はふいに真剣な表情を見せた。
「真樹のおかげでさ、いろんなこと考えれたよ。真樹のこともだし、……高杉のことも……」
 水姫の名前が出てきたことに、少しどきりとした。
「いろんなこと考えすぎてよくわかんなくなったんだけどさ、結局、すきなんだと思う」
「……」
「きっかけとか始まりとかはわかんないんだけどさ、気付いたら、いつもいたんだ。高杉が。俺はいつも高杉のこと怒らせてばっかいたけど、本当は、笑ってほしかった。笑顔が見たいから、高杉に話しかけてた。……すきだから一緒にいたかった。すきだから笑ってほしかった。すきだから、誰にも奪られたくなかったんだ」
「……」
「奪るとか奪られるとか、高杉は物じゃないんだからこんなふうに言うのは間違ってるかもだけど、他に上手い言葉が見つかんないんだ。俺は、高杉に俺以外の誰かをすきになってほしくない。たとえそれが真樹でも、俺は嫌だ」
 つまりこれって、すきってことなんじゃないかな。
 俺は高杉のことがすきなんだ。
 真樹の瞳を真っ直ぐ見て、凛桜はそう言った。
「……凛桜」
 そんな風に、誰かのことをすきだと言う凛桜は、初めてだった。胸がざわざわする。けれど反面、よかった、と思うこともできた。サッカーしか知らない凛桜が、ちゃんと他人を求めることができて。
 そして真樹も、凛桜ときちんと関われるようになりたい。憧れたり羨んだりするんじゃなくて、大切にし、大切にされ、そんな対等な関係になりたい。隣を並んで歩きたい。
 そう思った。
「だから、ちょっと言ってくるね!」
「は!?」
「じゃ!!またあとで!!」
「えぇー!?」
 思い立ったが吉日。止めるまもなく凛桜は水姫を探しに走り出す。どうしてあいつはあんなにも野生動物なのか。素晴らしく猪突猛進な親友は、もう人ごみにまぎれて見えなくなってしまった。
 この先、凛桜と水姫がどうなるかわからない。いい方に転ぶか、また下手なことをして余計に怒らせてしまい、今度こそ引導を渡されてしまうか。
 どうなるにしろ、凛桜は変わり始めている。少しずつ、確実に。そのことがほんの少しだけ寂しくて、でも、それ以上に嬉しかった。
(……それにしても)
 キャンプファイヤーを見ながら一人佇む真樹は、端から見るともしかしてものすごく寂しい人ではないだろうか。今更ながら、その事に気付く。
 あぁ俺も可愛い彼女欲しいなぁ!
 心の中で叫びながらとりあえず真樹は親友の健闘を祈った。

 


34 :緋桜 :2007/11/06(火) 21:52:36 ID:ommLPmsk

                                                 □■□■□

 ゆらゆらと揺れている炎を見つめる。
 水姫の手にはまだ、青い蘭の造花がある。これが今日、誰かの手に渡ることはないのだろう。渡したい人は、きっと受け取ってくれない。
 脳裏にちらつくあの人の残像を消したくて、水姫はきつく瞼を閉じる。
 気付いてしまった、自分の気持ち。水姫の中にあった欲。
 気付きたくなんてなかったのに。ずっと、傍観者のままでいたかった。
(……ずるいね、あたしは)
 でも、誰だって、傷付きたくなんかないでしょう?誰も哀しい想いなんてしたくない。幸せな未来が欲しいはずだ。
 神様は、どうして人の気持ちを一対一に作ってくれなかったのだろう。
 正しい相手をすきになれれば、傷付かずにすむのに。迷わなくていいのに。
「ミナちゃん」
 今一人?と言って水姫に近付いてきたのはまゆかだった。そうだけど、と答えながらまゆかこそ一人なのかと尋ねる。後夜祭こそカップルのためのイベントのようなものなのに。四人目のだか五人目のだか知らないけれど、彼氏はどこにおいてきたのか。
「別れちゃった」
 あっさり答えたまゆかの表情からは、後悔や未練のようなものは感じられなかった。入学以来付き合って別れてをくり返すまゆかは、その人たちのことを本当にすきだったのだろうか。その人たちのことを想って、泣いたことがあるのだろうか。余計なことと知りつつ、思わずにはいられなかった。
「さっき朝緋ちゃん、三年生の人に告白されてたよー」
「……へぇ」
「夏海ちゃんもF組の人と話してたみたいだし、二人ともモテるよねー」
「……そうだね」
「ミナちゃんは?」
「え」
「ミナちゃんは、告白したりされたりしないの?」
 年頃の女が二人寄れば色恋の話が始まるのは常のことだが、いきなり自分のことに話が飛び、水姫は内心狼狽する。昨日あったことをまゆかが知っているはずはないのに。
「何、いきなり。されてないよ?」
「ホントに?」
 詰問のような問いに、今度は困惑した。
「まゆか……?」
 まゆかは、何が言いたいのだろう。どんぐりのように大きな瞳に見つめられ、水姫は返答できなかった。その沈黙をどうとったのか、まゆかはふっと笑う。
 まゆかのそんな表情を、水姫は初めて見た。
「……高科君、さ」
「え」
「今日、ほっぺた腫れてたね」
「……」
 今度は何を言い出すのか。ころころと変わるまゆかの話についていけない。まゆかの言いたいことが、水姫はまったくわからなかった。
 けれど。
「あれ叩いたの、ミナちゃんでしょ」
「……ッ」
「ミナちゃん昨日、高科君と何かあったでしょ」
 それは問いではなく、確認だった。
 まゆかが凛桜とのことを知っているはずない。けれどただの勘にしては、突拍子が無さすぎる。動揺を押し殺すことができないまま、水姫は問う。その声は、少しかすれていたかもしれない。
「……なんで」
「だって今日高科君、ミナちゃんに一回も話しかけてないでしょ」
「そんなことで……」
「わかるよ」
「……ッ」
 普段のおっとりした態度からは想像できない、まゆかの真摯な眼差しに水姫は思わず息を呑む。於真っ直ぐなまゆかの瞳は、泣き出す寸前のようにも今にも笑い出しそうにも見えた。
「ねぇ、ミナちゃんは、ずるいよね」
「え?」
「ずるいよ」
 青い蘭の造花を握り締めるまゆかの手は、かすかに震えていた。その花を今日、まゆかは誰かに渡すつもりなのだろうか。それとも水姫のように、渡せずに終えるのだろうか。水姫には関係ないことなのに、なぜか今そんなことを思った。
「こんなの言いがかりだよね。ミナちゃんにとっては迷惑でしかないよね。でも、私はミナちゃんが羨ましい」
「あたしが……?なんで……」
 まゆかがどうしてそんなことを言うのかわからなかった。まゆかは女の子らしくて可愛くて、水姫に無いものをたくさん持っている。普通の女の子は、意地を張ってばかりいて全然可愛くない水姫より、まゆかになりたいと思うはずだ。けれどまゆかは、水姫が羨ましいと言う。
「私の欲しいもの手に入るのに、要らないって言って興味ないふりするミナちゃんはずるいよ」
「何言って……」
「高科君、ミナちゃんのことがすきなんでしょ」
「―――ッ」
 どうして。
 今、そんなことを言うの。
 そんなわけない、そんなはずないと、昨日からずっと否定し続けてきたのに。
 昨日凛桜にすきだと言われたことを、もう思い出したくなかった。なかったことにしてしまいたい。だって、あんなの間違いなのだから。
 考えないようにしていた。これ以上、凛桜に振り回されたくなかった。あんなの、凛桜の気まぐれでしかない。深い意味なんて、何も無い。だったら気にする方がどうかしている。
 そう、思おうとしていたのに。
「何、言ってんの……」
「ごまかさないでよ。気付いてるくせに」
「そんなこと、あるわけないじゃない。大体、そんなのまゆかに関係ないでしょ」
「あるよ」
「なんでよ。って言うか、さっきから何なの。いい加減なことばっか言わないで」
「いい加減なんかじゃないよ」
 きっぱりとまゆかは答えた。水姫を真っ直ぐ見つめて。その瞳には静かな、けれど強い光が宿っていた。
「わかるよ。高科君がミナちゃんのことすきだってことくらい。わかってたよ。だって、ずっと見てたもん」
「え……?」
「すきな人のことくらい、ちゃんとわかってるもん」
 一瞬、まゆかの言うことが理解できなかった。
 何を、言っているの。
 凛桜のことが、すき?
 それをどうして水姫に言うの。
 すきだと言うのなら、どうして凛桜以外の人と付き合うの。付き合えるの。
「何言ってんの……?」
 一瞬にして浮かび上がる疑問を、うまく声に出せたかわからない。困惑しながらも、さっきから訊いてばかりだなとぼんやり思った。
「なんで、あいつのことがすきって、本気……?」
「本気だよ」
「じゃぁ、なんで他の男の子と付き合えるの!?なんでそんな簡単に……ッ」
 あっさりと返ってきたまゆかの答えに、なぜだろう。腹が立った。凛桜のときと同じように、簡単にすきだと口にしたまゆかにどうしようもない苛立ちを覚えた。
 けれど。
「簡単なんかじゃない!!」
 まゆかもまた、声を荒げる。けれどすぐ我に返り、俯いてごめんと呟いた。その声で水姫も冷静さを取り戻した。
 俯いたまま、言葉を紡ぐまゆかを見つめる。落ち着かなくては。これではまた、昨日と同じことをくり返すだけだ。
「……簡単なんかじゃない。周りの人が思ってるほど、私何も考えてないわけじゃないよ。ただ単に、軽い気持ちで付き合ってるわけじゃない」
「じゃぁ、なんで……」
「中学のとき、うちの学校に遠征に来た高科君を見て、一目ですきになった。顔とか雰囲気とかそう言うんじゃなくて、もっと……存在そのものに惹かれたの。高科君みたいな人、初めて見た。あったのはその一回だけだったけれど、ずっと忘れられなかった……。雑誌やテレビで見るたび、どんどんすきになって、だから頑張って翠蘭を受験したの。入学手同じクラスになったとき、涙が出るくらい嬉しかった。一方的じゃない、高科君に私のことを知ってもらうこともできる。それが、信じられないくらい幸せだった。
 ……でも、だからわかったの。この人が、私のことすきになってくれることはないんだって。せっかく近付けたのに、哀しかった。忘れようと、他の人とちゃんとした恋をしようと、何度も思ったよ。すきって言ってくれる人のこと、すきになりたいって、なろうとしたよ。
 ……でも……無理だった。やっぱり、どうしてもすきなの。すきになってもらうことできないって、わかってるのに」
「まゆか……」
「ねぇ、ミナちゃん。すきになることとすきになってもらうこと、どっちが難しいのかな」
 そう言ってまゆかは顔を上げ、泣きそうな表情で微笑んだ。きっと泣きたかったはずなのに、泣かなかった。
 歳を重ねていくうちに、どんどん泣くことが下手になっていくような気がする。感情を吐露することが、素直に行動に移すことが、いつの間にかできなくなっている。
 きっと、大人になるってそういうこと。
 なのにどうして、凛桜はあんなにも簡単に心を言葉にできるのだろう。
 傷付くことも、傷付けることも畏れずに。
「ミナちゃんはね、高科君の『特別』なんだよ」
 水姫からキャンプファイヤーの火へと視線を移しながら、まゆかはそんなことを言った。
「何言ってるの……?あいつの『特別』は、廣瀬君でしょ」
 昨日の告白をもしまゆかが知っているのだとしても、あれは本当の告白なんかじゃない。凛桜は、水姫に真樹を奪られることを恐れただけだ。たまたま真樹と一緒にいたのが水姫だったというだけで、もしあれが水姫でなくとも凛桜は同じことを言っただろう。
 だがまゆかは、水姫の言葉に妙な表情をした。
「ミナちゃん……それ、本気で言ってるの?」
「本気も何も、事実でしょ」
 もちろん水姫だって凛桜が真樹に恋愛感情を抱いているだなんて思っていないが、彼にはきっと、真樹以上に大切な人などいないだろう。凛桜は、恋よりもサッカーしている方が楽しい根っからのサッカーばかだ。そんな彼に、サッカー以上に夢中になれる存在なんていない。
 まゆかはまだ腑に落ちないような表情をしていたが、それ以上の反論はしなかった。
「……ねぇ、ミナちゃん。ミナちゃんは高科君のこと、本当はどう思ってるの?」
「本当はも何も、まゆかだって知ってるでしょ?あたしはあいつのことが嫌い」
「どうして?」
「どうしてって……」
 内心うんざりしながらまゆかの問いに答えようとして、水姫は言葉に詰まる。
 水姫はどうして(・・・・・・・)凛桜のことが(・・・・・・)嫌いなのだろう(・・・・・・・)
 考えてみたこと無かった。
 今まで凛桜と向き合ったときに生まれる漠然とした苛立ちのせいで、凛桜のことを疎ましく思っていた。
 近付きたくなかった。踏み込まれたくなかった。凛桜の言動にいちいち振り回されることが、嫌で仕方なかった。
 だって水姫は、凛桜にとっては大勢の中の一人でしかないのだから。
「水姫ちゃん」
 名前を呼ばれ、水姫は我に返る。まゆかの問いに、いつの間にか思考が沈んでしまっていた。けれどどんなに考え事をしていても、この人の声だけは水姫の元まで届く。だからこそ苦しい。
 確信を持って振り返ると、そこには案の定夏枯草が立っていた。
 彼の胸ポケットには、青い蘭の造花が刺さっている。もう、紗幸と交換したのだろうか。
「先輩……」
 心臓が、不自然に速くなる。手が震えているのが、自分でもわかった。
 昨日のあれ(・・)以来、夏枯草と顔を合わせるのはこれが初めてだった
 会いたくなかった。
 会うことで、予感が現実になってしまうことが怖かった。
「あ、友達と一緒だった?」
 水姫の隣に立つまゆかの姿に気付き、夏枯草はわずかに表情を曇らせる。水姫に話があってわざわざ探しに来てくれたのだろう。けれどちっとも嬉しくない。だって夏枯草の話が水姫にとって嬉しくないものだと言うことはわかっているのだから。
「いえ、いいですよ。私の用事は終わりましたから」
 普段どおりの愛らしい微笑を添えてまゆかは夏枯草に言う。
「まゆか」
「じゃぁミナちゃん、また後でね」
 そう言って手を小さく振り、まゆかは去っていく。呼び止めることもできなかった。
 夏枯草と二人きりになりたくないのに。
 残された水姫は、花を持つ手をいっそう強く握った。けれど震えはおさまらない。
 どうして。いつから水姫はこんなにも弱くなった?
 最初からわかっていたはずでしょう?
 水姫では、夏枯草の一番になれないってことくらい。
「水姫ちゃん」
 まゆかを見送った夏枯草が、そっと水姫の名を呼ぶ。
 それだけで、泣きたくなった。
 水姫のことをそう呼ぶのは、この人だけだった。それは水姫にとってこの人が特別だったからじゃなくて、この人にとって水姫が特別じゃなかったからだ。
「ごめんね友達と話してたのに」
「……」
 俺、割り込んでばっかだね、と言って、夏枯草は困ったように笑った。
 水姫は今まで、こんな風に笑う夏枯草しか知らなかった。昨日みたいに―――雪波と対峙しているときみたいに―――穏やかに笑う夏枯草など、知らない。水姫には、あんな風に笑ってくれたことなかった。
 ―――違う。以前に一度だけ見たことがある。初めて水姫が夏枯草と紗幸の関係を知ったときも、夏枯草はあんな風に穏やかに、幸せそうに微笑んでいた。
 昨日、あんまり話せなかったね、と言って夏枯草は水姫の隣に立った。夏枯草は水姫なんかと何を話したかったと言うの。どこまでもひねくれている自分に、いっそ嘲笑さえ浮かばない。
「……大楠さんは一緒じゃなかったんですか」
「大楠さん?向こうで友達と話してるけど」
「……そうですか」
 ほらね、と夏枯草は紗幸がいるのだろう方を指差したけれど、水姫は視線を向けなかった。
 なんで大楠さん?何か用があるの?と尋ねる夏枯草に、別に、何でもないです、とそっけなく答えた。けれどなんでなんてそんなの、水姫の方が訊きたい。
 この人はどうして紗幸よりも水姫を優先するのだろう。
 この人にとって、水姫は何?
 雪波(初恋の人)の妹でしかないはずだ。その雪波への想いも、夏枯草の中ではもう終わってしまったものなのに、どうしてまだ、水姫にかまう?
「先輩、心配してたよ。水姫ちゃんのこと。久しぶりに会えたのにぜんぜん話せなかったし、って。夏休みも帰れなくてごめんねって言ってた」
 あの人の話を、どうして夏枯草から聞かなくてはいけないのだろう。
 本当に、泣いてしまおうか。声を上げて子どものように泣いて、徹底的にこの人のこと、困らせてしまおうか。
 そんな勇気無いくせに、そんなことを考えた。
「……別に、そんなことどうでもいいです。あんな人のことなんて、もう、どうでも」
「水姫ちゃん」
「先輩だってそうでしょう?もうお兄ちゃんのことなんて、どうでもいいんでしょう?先輩には大楠さんがいますもんね。だからもう、あたしのことなんて気にしないでください。あたしは先輩にとって、初恋の人(お兄ちゃん)の妹でしかないでしょ?だったらもう、お兄ちゃんのことすきじゃなくなったなら、あたしのことなんて……ッ」
 言葉を募らせるにつれて、どんどん自分が惨めになっていく気がした。こんな醜い感情、夏枯草には知られたく無かった。けれど一度溢れ出した本音は止まらない。
 これは、嫉妬だ。水姫はずっと、嫉妬していた。雪波に、紗幸に。夏枯草の「特別な人」が羨ましくて仕方なかった。
 だって本当は。
 水姫は、夏枯草のことをずっとすきだった。忘れられなかった。最初からすきだった。優しい声も、寂しそうな瞳も、繊細な顔立ちも、色素の薄い髪も、哀しげに微笑む表情も。全部すきだった。最初から。本当は、雪波のことなんて関係無かった。彼が雪波をすきにならなくても、水姫はきっと彼のことをすきになった。けれど水姫はどうしても、夏枯草にとっては「雪波の妹」でしかない。だから夏枯草が雪波のことをすきでなくなれば、水姫は雪波にとって何の価値もない存在になってしまう。
 そのことを水姫は知っていた。そのことが水姫は怖かった。さっき、まゆかの本音を聞いて何も言えなくなったのは、水姫も同じだったからだ。叶わないと知っているのに想いを伝えることなんてできなくて、一番近付きたい人から逃げた。
 水姫は、夏枯草にとっての「特別」になりたかった。でもなれないことがわかっていたから、自分の気持ちも惹かれた理由もごまかしていたのだ。
「……水姫ちゃん」
 困ったように水姫の名を呼ぶ夏枯草の声が聞こえた。
 違うのに。
 困らせたいわけじゃないのに。そんな声が聞きたいわけじゃないのに。苦しくて、もどかしくて、どうにかなってしまいそうだ。

『幸せな恋を、してほしかったの』
『先輩のこと幸せにしてあげられる人に現れてほしかった。その人と幸せになってほしかった。』

 そう言ったのは、自分自身のはずなのに。夏枯草に、幸せになってほしかったはずなのに。
(……違う)
 本当はそうじゃない、と否定する自分がいた。
 水姫は、夏枯草に幸せになってほしかったんじゃない。一緒に幸せになりたかったのだ。
 水姫のことを、すきになってもらいたかったのだ。
 誰だって、傷付きたくなんかない。哀しい想いなんてしたくない。
 でも、捨てきれない想いだってある。諦めきれない恋をすることだって、ある。
 どうして上手くいかないんだろう。
 すきな人が自分のことをすきになる。
 ただそれだけのことが、奇跡みたいに思えた。その奇跡を手に入れた紗幸のことが、羨ましいと思った。
 俯いたままの水姫に、夏枯草がそっと口を開いた。祭りの喧騒の中で、それは小川のせせらぎのように静かな声なのに、彼の声はいつだって水姫の元まで届く。
「……俺は、先輩のことがどうでもよくなったわけじゃないよ。先輩(男の人)をすきだったことをなかったことにしたいから、大楠さん(女の子)をすきになったわけじゃない」
「そんなの……ッ」
 信じられない。
 雪波じゃない人をすきになるなら、どうして水姫じゃいけなかった?
 すきだって言ったくせに、どうして水姫を選んでくれなかった?
 結局、夏枯草は逃げたのだ。紗幸をすきになることで、過去の恋の清算をつけたのだ。
 そうじゃなきゃ、納得できない。割り切れない。
 けれどそう思う反面、違うということもわかっていた。まゆかの言葉を借りるなら、「すきな人のことくらいわかってる」。
「先輩への想いが恋じゃなくなっても、先輩をすきだったこと、忘れたわけじゃない。昨日先輩に会えて、俺なりに自分の想いにけじめをつけたつもりだよ。でも、先輩が俺の初めてすきなった人だってことは変わらない」
 それは未練じゃなくて、夏枯草は過去を想い出に変えることができたのだ。諦めたんじゃなくて、受け入れることができたから夏枯草は初恋ごと前へ進んでいける。
 水姫だけが、取り残されたままだ。三年前のあの日に、未だにしがみついている。あの瞬間が永遠になればいいのになんて、そんなばかみたいなこと願ってる。
「君のことも、先輩とは関係なく大事に想ってた。きっかけは先輩だったけれど、先輩と出逢わなければ君をすきになることはなかったけれど、でも、……ちゃんと、すきだったよ」
「……ッ」
「ごめんね」
 それは、何に対する謝罪だったのだろう。雪波と重ねていたことか、それとも紗幸を選んだことか。
 尋ねることができずただ思わず顔を上げると、夏枯草は今まで見たこと無い切なげ表情で水姫を見ていた。

 


35 :緋桜 :2007/11/09(金) 21:38:42 ID:ommLPmsk

                                                 □■□■□

 背の高い、華奢な少年が水姫の元から去っていく。残された水姫は、その背を見送ることなく俯いた。泣いているのだろうか。あの人のために。
 泣かないでほしい、と思った。
 笑っていてほしい。凛桜はいつも水姫を怒らせてばかりいるけれど、凛桜の前で水姫は不機嫌な顔ばかりしているけれど、彼女が本当はとても可愛く笑うことを知っている。
「……何」
 近付き、持っていた青い蘭を水姫の眼前に差し出すと、水姫は一瞬肩を震わせて顔を上げた。そして目の前にいたのが凛桜だとわかると眉を寄せた。どうして凛桜は水姫にこんな表情ばかりさせてしまうのだろう。
「……あげる」
「なんで」
「高杉のことすきだから」
「……は?」
「高杉が誰をすきでも、俺は高杉がすきだよ」
 水姫のすきな相手があの人でも真樹でも関係なかった。水姫が誰と話していても、同じぐらい胸が苦しかった。初めてあの人と水姫の関係を聞いたときも、何でもないふりしていたけれど本当はすごく動揺していた。水姫が凛桜じゃない人と話すたび、いつも嫉妬していた。
 真樹に、あの人に見せる笑顔を、凛桜にだって見せてほしい。そう思っていた
「……またその話なの」
「『また』って何」
「人のことばかにするのもいい加減にしてって言ったでしょ。あんた、まだわかってないの?あんたがすきなのはあたしじゃない。あんたは廣瀬君をあたしに取られるのがいやなだけでしょ?結局、あんたにとって大事なのは廣瀬君だけで、他の人のことはどうだっていいのよ。
 心配しなくても、あたしと廣瀬くんの間には何も無い。だからもう、あたしのことなんて……」
「だから高杉は怒ったの?」
「―――ッ」
「俺が真樹のことしか見てないって思ったから、高杉は傷付いたの?」
「何、言って……」
 凛桜の問いに、水姫は切れ長の瞳を大きく見開いた。声がわずかにかすれている。
 椎名が部屋を出て行った後、文化祭の間森吾に遊ばれながら、いなくなった真樹を探している間、ずっと考えていた。真樹のこと、水姫のこと。考えてみて、わかったこととわからないことがあった。わからなかったのは、どうして水姫が怒ったのか、傷付いたのかと言うことだ。自分なりの答えは見つけた。でも、その答えが正しいのか間違っているのかは、凛桜ではわからない。水姫の気持ちは水姫だけのものだから。
「高杉の言うとおり、俺、高杉のこと全然わかってなかった。わかろうとしなかった。でも今は、わかりたいって思ってる。高杉がどうして怒ったのか、どうして傷付いたのか、……傷付けたのか、ちゃんとわかっていきたいんだ」
 押し付けるんじゃなくて、向き合って、ちゃんと考えて生きたい。大切に想う人を、傷付けたりしない自分になりたい。
 怒った表情じゃなくて、水姫の笑顔が見たい。凛桜が笑顔にしてあげたい。
 それは。
「高杉のことがすきだから」
 そう告げると、水姫は今度は怒らなかった。
 ただ困惑したように、凛桜と凛桜の差し出した青い蘭の花を交互に見つめていた。

 


36 :緋桜 :2007/11/13(火) 21:43:11 ID:ommLPmsk

4.冬

 文化祭が終わると一気に秋も深まり、吹く風も冷たくなった。クラスのほとんどはセーターの上からブレザーを着込んで登校するようになり、中にはマフラーを巻いてくる者もいる。夏生まれの水姫も寒さにはめっぽう弱く、十二月に入る前にたんすの中からこたつ布団を引っ張り出した。
 やがて秋から冬へと季節が完全に移り、カレンダーの枚数も残すところあと一枚になると、朝布団から出ることさえできなくなる。それでも学生の本分は勉強。眠気と寒さと戦いながらどうにかテストを乗り越えなければ、楽しいクリスマスもお正月も迎えられない。だがそうとわかっていても、遊びたい盛りの高校生。勉強の他にも気になることはたくさんある。
「そう言えばさ、ミナって高科君とどうなってんの?」
 朝緋が一言発した後、静かだった部屋の中にポキと言う音が響く。水姫の使っているシャーペンの芯が折れた音だった。
「どどどどどどうって何がそんな別になんで何の」
「……わかりやすい動揺をありがとう」
「……ッ」
 大きな瞳を半眼にして胡乱げに水姫を見る朝緋に、水姫は自分の迂闊さを呪った。何でもない表情をしてやりすごせばそれですむのに、動揺して大げさな反応をしては、朝緋に突っ込む隙を与えてしまうだけだ。
 近付いてくる期末テスト対策のため、水姫は朝緋の部屋を訪れていた。朝緋は中学三年間主席をキープし続け、高校に入ってからも五位以内から落ちたことがない。点はニ物を与えず、と言うが、朝緋はおよそ人の羨むものを何でも持っていた。すべてにおいて「完璧」な朝緋に水姫は試験のたびいつもお世話になっているのだが、今日ばかりはこの部屋に来たことを後悔した。彼女のルームメイトが不在の今部屋には二人きりで、先程までは中央のこたつ机に向かい合って大人しく勉強していたのに、一区切りついたのか顔を上げた朝緋は思い出したように爆弾を投下した。その問いは、およそ普段の会話には必要とされない破壊力をふんだんに含んでいた。
 文化祭が終わってもう二月近く経つ。後夜祭で水姫が凛桜に告白されたことは、何となく噂になっている。まさかあの高科凛桜が、と直接確かめようとする勇者は未だに現れないが、朝緋も噂については知っているのだろう。
 だが実際には、二人の間にこれといった進展はなかった。結局あの夜、告白に返事はしなかったし、凛桜も何も言ってこない。以前と同じように水姫に接する。あの夜あったことが、夢だったかのように。
 けれど夢でないと思うのは、水姫の凛桜に対する感情が変化しているからだ。
 凛桜のことをすきになったわけではない。ただ、以前のように凛桜の言動にいちいち苛立ったり不快に思ったりするようなことはなくなった。自分でも驚くほど穏やかに凛桜と接することができるようになった。その小さな変化は、凛桜には、周りの人間にはどのように映っているのだろう。
「で、どうなの」
「……」
「ミーナー」
「……別に、どうもなってないよ」
 むすりと答えると、朝緋は綺麗な顔を不満げに歪めた。正直に言ったのに、どうしてそんな表情されなくてはいけないのだろう。朝緋って、ときどき理不尽だ。
「……本当に、何も無いもん。あいつは何も言ってこないし、あたしから何か言うわけにもいかないし……。って言うか、二ヶ月も何も無いんだし、そんなの、あいつだってもう……」
 もう水姫のことなんて、何とも思っていないかもしれない。それなのにわざわざ蒸し返してどうしようというのか。
 あのときの凛桜の気持ちが嘘だったとはもう思わない。けれど人の心は変わるのだ。夏枯草のように、水姫のように。それが悪いことだとは思わない。仕方のないことなのだ。変わっていくものを留めておくことなんて、誰にもできない。
「じゃぁミナ(・・)は、高科君のことどう思ってるの?」
 いつの間にか朝緋はシャーペンを起き、まっすぐに水姫を見つめていた。黒曜石のような漆黒の大きな瞳が水姫を捉える。
「え……」
「高科君のこと、嫌い?それともすき?」
「……」
 直球な朝緋の問いに、水姫は思わず言葉に詰まる。
 以前ならば、間髪入れずにすきなわけないと断言していただろう。けれど今は、即答できない。否定の言葉も肯定の言葉も返せない。
「……わかんない……」
「……」
「嫌いじゃ、ない、のかもしれない。でも、だからってイコールすきってことにはならない、でしょ?」
 こんな風に、曖昧な言葉しか返せなかったのは、自分でも自分の気持ちがわからなかったからだ。
 ずっと、凛桜のことを嫌いだと思っていた。
 凛桜といると、苛立って仕方なかったから。凛桜にいつも心をかき乱されて、それが不快だった。
 けれど、今は?
 あの夜から、凛桜と話していても妙な反感を覚えることは無くなった。苛立つことも、不快感も。だから今ではもう、彼のことが嫌いなのかどうかわからなくなってしまった。
 だが、ではすきなのかと問われると頷くことはできない。
 嫌いじゃないからすきだなんて言えるほど、人の心は簡単にできていない。
 それに。
(あたしは、まだ)
 自分でもしつこいと、不毛だとわかっている。
 文化祭の夜から夏枯草と顔を合わせていない。同じ学校に通っている上彼も寮生なのだから姿を見かけることくらいあるが、実際には声をかけることなんてできなかった。これ以上傷付いたり、惨めな姿を晒したくなかった。彼をすきなことが、今はただ辛かった。
 それでも、どうしても夏枯草のことをすきだと思ってしまう。彼への想いが褪せることはなかった。
 こんな水姫が、凛桜(他の男)をすきになんてなれるわけない。
 膝の上に置いた手を強く握ると、ギシリと軋んだ。否、軋んでいるのは、心だろうか。
「……ごめん」
 短い沈黙の後、先に口を開いたのは朝緋だった。
「……なんで朝緋が謝るの」
「……」
「朝緋が謝る必要なんて、無いじゃない」
 言葉通りの意味だった。責めているつもりなんてない。朝緋は何も悪くない。水姫がそう思っていることは、ちゃんと伝わっているのだろうか。水姫から少し視線を落とし、朝緋は言葉を重ねる。
「要らないおせっかい焼いた」
「おせっかい?」
「気になってたんだ、高科君のこと。ずっと思ってた。あの人は、ちゃんと他人を求めることができるのかなって。……高科君には、大切な人なんて誰もいないみたいに見えたから」
「……」
 朝緋の言葉に、水姫は心底驚く。朝緋には、凛桜のことがそう見えていたのかと。
「高科君は、いざとなったら全部を捨てられる人だと思ってた。高科君にとって、大切なものはサッカーだけで、廣瀬君のことも榎本先輩のことも、サッカーってつながりがあるから執着してるだけなんじゃないかなって。もしも二人がサッカーをやめるようなことになったら、二人のこと、切り捨てちゃうような気がしてた。大切なものがたった一つだけ……それ以外のすべてを捨てられる人は、強いけど、脆いよ。高科君は誰よりも強いけど、同じくらい危うい人だって思ってた。だから、高科君が他人を求めることができて、すごく安心してたの」
 怖い言葉だった。
 まるで凛桜には、サッカー以外に大切なものなんて無いかのような言い方だ。―――否、実際そう言っているのだ。朝緋には、凛桜のことがそんな風に見えていたのだ。
 知らなかった。朝緋がそんなことを感じていただなんて。水姫は、サッカーをしている凛桜を知らない。水姫が知っているのは、グラウンドではなく教室にいる凛桜だけだ。一年生レギュラーで、エースで、天才。常に凛桜に付きまとうそれらの肩書きは知っていても、凛桜が実際にどんな風にサッカーと関わっているのかは知らなかった。だからサッカーなんて関係なく、凛桜は真樹のことをすきなのだと思っていた。けれど、朝緋はそうではないと言う。同じものを見ていても、見え方は違うのだ。同じように凛桜と真樹を見ていても、水姫と朝緋では見え方が全然違っていた。だから水姫が凛桜に苛立っている間も、朝緋は朝緋なりに彼のことを心配していたのだ。
「でも、こんなの余計なお世話だよね。
 心配するのも、安心するのも全部、あたしの勝手。あたしが勝手にしたこと。だから、ごめん」
 朝緋はそう言ったけれど、彼女の問いが好奇心から生まれたものではないということくらい、水姫にだってわかっていた。朝緋は凛桜だけでなく、朝緋のことも心配してくれていたのだろう。朝緋はそういう子だ。
 だからこそ水姫は、俯く朝緋に何の言葉もかけられなかった。

 


37 :緋桜 :2007/11/16(金) 23:17:25 ID:ommLPmsk


                                                 □■□■□

 長期休暇が近付くと、大抵の生徒とは対照的に水姫は憂鬱になってくる。それはひとえに、長期休暇中は寮が閉まり、実家へ帰らなければいけなくなるからだ。
 夏休みの強制帰省期間の前に真樹に言ったとおり、水姫は実家が嫌いだった。正確には家族が、ではなくて義理の母親が。
 水姫の両親は、水姫が四つのときに離婚した。水姫は兄の雪波と共に父親に引き取られ、父はその五年後、新しい妻を迎えた。それが今の義母だ。だが水姫は、彼女を母親だなんて認めていない。彼女は水姫にとって、他人でしかなかった。血の繋がりも愛情も無い他人を、家族として受け入れられるわけない。それなのに義母は、当たり前のように家族の中に入り込んできた。
 他人が家の中にいるという状況が、水姫には耐えられない。そんな水姫なのに同じ学校に通っていると言うだけで名前も知らないような人間と同じ寮で共同生活を送る方がまだましだと言うのも、妙な話ではあるけれど。
「あ。おはよ、高杉」
「……おはよう」
 朝食をとるために食堂に向かうと、ジャージ姿の凛桜と鉢合わせた。今から部活だろうか。テストも近いのに、大変だ。翠蘭は原則的にテスト一週間前から部活は活動停止になるが、サッカー部だけは例外だ。三日前まできっちり通常通り行われる。それでも真樹や榎本、椎名のように上位の成績をキープしている生徒もいるのだから、さすがとしか言いようが無い。
「休みなのに早いなー」
 朝っぱらから冗談みたいに爽やかに笑う凛桜を見ていると、昨日の朝緋との会話を思い出して何だか落ち着かない気分になった。
 文化祭が終わってすぐと今とで、凛桜の態度が変わらないのは、水姫のことなどもう、すきではなくなったから?それともまだ、すきだから?
 こんなことを気にするなんて、水姫らしくないと思うのに。
 そんな自分が嫌で、浮かんできた思考を水姫は慌てて打ち消した。
「……遅くまで寝てるの、嫌いだから……」
「すっげー。俺とか朝起こされるまで絶対起きねー。毎朝真樹に叱られてるよ」
「……そんな感じする」
 朝っぱらから繰り広げられる凛桜と真樹の攻防戦が目に浮かび、水姫は小さく笑った。
 その笑顔を見て、凛桜が目を見張る。驚いたようなその反応に、水姫はたじろいだ。
「な……何……」
「や……」
「何なの」
「高杉……笑った……」
「え?」
「高杉が笑ってくれて、嬉しい」
「……ッ」
 照れた様子もなく、無邪気に凛桜は笑った。
 何を言い出すのか、この男は。
「俺、ずっと高杉と、こんな風に話してみたかったんだ」
 無邪気に笑う凛桜に、水姫はいつも苛立っていた。この男の笑顔が嫌いだった。惜しげもなく、誰にでも同じ笑顔を見せる凛桜のことが嫌で仕方なかった。
 今も笑う凛桜を見ていると、胸の中がざわざわした。けれどこのざわめきは、今までのものは違う。嫌じゃなくて、落ち着かなくて、変な感じ。

『ミナは、高科君のことどう思ってるの?』

 昨日の朝緋の言葉が思い出される。考えないようにしていたはずなのに。
(嫌いじゃない)
(でも)
(だからって、すきなわけでもない)
「……あたし、行くね」
「あ、うん。ごめんな、呼び止めて」
「別に……。……部活、頑張って」
 消えそうなくらい小さな声でそう告げると、凛桜は一瞬きょとんとした表情を見せ、すぐに嬉しそうに笑った。
「うん!ありがと!!」
 胸が痛い。
 凛桜が笑うたび胸の奥で生まれるのは恋心ではなくて、きっと罪悪感だった。

 


38 :緋桜 :2007/11/20(火) 21:45:51 ID:ommLPmsk

                                                 □■□■□

「もーいーくつ寝ーるーとー、おーしょーおーがぁーつぅー」
「……おい高科。毎年のことだけど一応訊いてやる。なんでお前はその歌を歌いながら短冊に書いた願いごとをクリスマスツリーに飾ってんだ」
「えー?もうすぐクリスマスで正月だからっすよ〜」
「だからその『だから』はおかしいだろ!?百歩譲ってクリスマスと正月を一緒にするのは許そう。でもクリスマスも正月も断じて短冊に願いごと書いてツリーに吊るす行事じゃねぇ!!」
「えぇ〜?何言ってんスかしーな先パイ。毎年やってるじゃないスか」
「お前が勝手にサッカー部の伝統にしたんじゃねぇか!!」
「ははは。お前ら練習のあとなのに元気だなぁ」
「てかしーなもいい加減相手にしなきゃいいのになー」
「なー。あ、松葉ー。緑のペン取ってー」
「あいよー」
「つーかお前らも部室で短冊書くな!!」
 練習が終わった後、凛桜はどこから持ってきたのか部室に置かれていたクリスマスツリーにこれまたどこから用意したのか願いごとの書かれた短冊を吊るそうとしている。それを見て毎度のことながらぎゃんぎゃんとやかましく騒ぎ立てるのは椎名だ。二人以外の部員は、榎本のように我関せずで傍観を決め込んだり、俊彰や松葉のように凛桜と一緒になって短冊に願いごとを書いたりと様々だ。真樹もとばっちりを受けないよう、口を挟まず着替えを進める。あの二人のじゃれ合いに巻き込まれては、いつまでたっても帰れない。
「つーかしーな先パイ、パーティーしましょよー。クリスマスパーティー。先パイ彼女いないんスからどーせヒマでしょー」
 そんなことより、と凛桜は椎名の主張をあっさり無視する。自由が代名詞の凛桜は先輩相手だろうと怖いもの知らずだ。
「うぜぇ高科。雪にまみれて死ね」
「なんでッスか!」
 凛桜の提案に、椎名は面倒くさそうに表情を歪ませる。が、その頬は見事に引きつっている。
 凛桜の言うとおり、椎名はモテるのにここ一年半ほど彼女がいない。今年のクリスマスもおそらく友人と過ごすのだろう。が、そのことを彼女いない歴=年齢の凛桜に指摘され、いたくプライドを傷付けられたようだ。
「つーか高科もそろそろクリスマス一緒に過ごしてくれる彼女作ればいいのになー」
 実は中学の頃から付き合っている彼女がいる松葉の言うとおり、凛桜は彼女ができなかったのではなく、作らなかったのだ。本人もそのことは自覚しているらしい。
「そんなんよりみんなでパーティーした方が楽しいッスよ!!松葉先輩もパーティーしましょーよ!!」
「うわこれモテる奴の余裕だよ!!超ムカツク!!」
「お前モテない奴の気持ちを考えたことあんのか!?」
こちらは作らないのではなくてできない悟と桐生が吼える。完全にモテない男のひがみ且つ八つ当たりだが、思春期の男心は傷付きやすいのだ。そんな複雑な男心を抱える友人二人に、凛桜は唇を尖らせる。
「何だよー、サトルも桐生もパーティーしたくないのかよー」
「ヤローだけのパーティーほど寂しいもんはねぇよ!」
「大丈夫だって。遊依(ゆい)先輩たちも誘うから」
「「そうじゃねぇ」」
 解決策と言わんばかりに凛桜は椎名たちと同学年の女子マネージャーの名前を挙げるが、根本的なことが解決できていない。悟たちはクリスマスを女の子と過ごしたいのではなくて、彼女と過ごしたいのだ。
 て言うかもう、ぶっちゃけると彼女が欲しいのだ。
「てかさー、なんでそんなクリスマスを彼女と過ごしたいとか思うんだよー。そっからおかしくね?クリスマスはご馳走とケーキ食ってプレゼント貰う日じゃん」
「や、それは違うだろ」
「確かにクリスマスが恋人のための日になってんのは日本だけだけど、お前の認識もおかしいぞ」
「えー?」
 なんでー?そうじゃーんと不満げに首を傾げていた凛桜だが、とうとう榎本にとりあえず部室を閉めたいから早く着替えろ、と叱られる。はぁ〜いと気の抜けた返事をしながら短冊をツリーに吊るし、着替え始める。凛桜は榎本の言うことだけはちゃんと聞く。ただし、六割程度は。
「てかさ、凛桜。クリスマス高杉さんと一緒に過ごしたい、とかは思わないの?」
「えー?」
 着替えを終えて帰り支度を済ませた部員たちは、それぞれ帰途に着く。サッカー部員は原則として全員が寮生活が義務付けられているから結局は同じところに帰るのだが、全員が全員一同に下校するわけではない。キャプテンの榎本は部日誌を書いて戸締りするためまだ部室に残っているし、椎名や俊彰たちはコンビニへと行ってしまった。テストが近いからと一目散に帰る者もいれば、現実逃避のため寄り道する者もいる。
 片道十分もかからない道を、真樹は凛桜と二人で並んで歩いた。
「んー……。一緒にいたいとは思うけど、別にクリスマスにこだわんなくてよくね?」
 なんでそんなにみんなこだわるかなぁと凛桜はまだ腑に落ちないようだ。
「てか、まだそんな時点の話じゃないしね」
「……」
 あっけらかんと言った凛桜が何を考えているのかは、わからなかった。
 文化祭から一ヵ月半。二人の間に流れる空気が以前のぴりぴりしたものと違って至極穏やかなものになっていることは誰の目にも明らかだが、具体的な進展は無いらしい。それどころか後夜祭で水姫に告白した凛桜は、そのときの返事をまだ貰っていなかった。
「……返事、貰わなくていいの?」
「要らないわけじゃないけどさぁ」
 白い息を吐きながら、凛桜はマフラーを口がすっぽり隠れるほど引き上げる。グラウンドを走り回っていたときには気にならなかった寒さが、今は身にしみた。真樹も指定ジャージのチャックを上まで引き上げてはいるが、やはりマフラーも必要かもしれないと、凛桜を見ながら思った。
 凛桜の言葉を待ちながらしばらく歩くと、寮が見えてきた。寮に帰ったら人がいて、こんな話はできない。真樹と凛桜は同室だから夜になれば二人きりになれるが、帰ってすぐは夕飯や風呂やらでゆっくり話す暇は無いだろう。何より、今はテスト前なのだ。普段サッカー三昧で学生の本分がおろそかになっているのだから、こんなときくらい勉学に勤しまなければ帰ってきた答案を見て泣くことになる。
 なかなか答えない凛桜に真樹が内心焦れていると、凛桜はようやく口を開いた。
「怖いのかもしれない」
「え?」
 思わず聞き返したのは、聞き取れなかったからではない。
「高杉にフラれるのが、怖いのかもしれない」
 今まで告白してきてくれた子たちもこんな気持ちだったのかな、と言った凛桜の鼻は、寒さのためか少し赤かった。

 


39 :緋桜 :2007/11/27(火) 23:03:51 ID:ommLPmsk

                                                 □■□■□

「「『怖い』?」」
 大きな瞳と釣り目がちな瞳がまん丸に見開かれ、ぱちぱちと瞬きをくり返す。二者同様のリアクションを見ながら、それが正しい反応だよなぁ、と真樹は内心力いっぱい思う。真樹だって、聞いたときは耳を疑った。だがそれは聞き間違いでも何でもなくて、「怖い」とは確かに凛桜が発した言葉だった。
「って高科君が言ったの?」
「うん」
「怖いのはにんじんを持ったキャプテンだけ、の高科くんが?」
「うん」
「「信じられない……」」
 目を丸くしたまま朝緋と夏海は声をそろえて言うが、おそらくそれは大げさでもなんでもない。まっとうな反応だ。ちなみににんじんを持ったキャプテンが怖いと言うのは、凛桜はにんじんが大嫌いで、しかし食事のときに残そうとすると、17歳にしてなぜかもう父親じみている榎本に好き嫌いするなとにんじんを無理やりねじ込まれるからだ。そのときの凛桜の断末魔は、きっと寮で生活しているものなら一度は聞いているはずだ。
 そんな脱力するようなエピソードには事欠かない凛桜が、水姫にフラれることが怖いなどと口にするなんて誰に想像できるだろう。
「それだけ本気ってことだよねぇ」
「でも高科君の口からそんな言葉が出てくるなんて、意外って言うか意外すぎって言うか」
「てゆーかあたしはあの噂が本当ってとこからびっくりよ」
 関心のような困惑のような微妙な表情を浮かべる朝緋の隣で、眉を寄せた夏海が面白くなさそうに言う。
「高杉さんから何か聞いてないの?」
「聞いてないって言うか……あんまりそういう話しないしね、あたしたち」
「そうなの?」
 女の子と言えば色恋沙汰が大好きで、四六時中恋の話をしているイメージがあるのに。
「あたしはこの間したけど……」
「は!?何それ聞いてない!!何二人でしてるの!?あたしのけもの!?」
「え……だって夏海いなかったから……」
「なんであたしがいないときにそーゆー話すんの!?てか朝緋っていつもそう!!こないだ佐柄君に告られたのだって教えてくんなかったんし!!」
「ちょ、なんで夏海それ知ってるの!?何情報!?」
「ほらー!内緒にしとく気だったんじゃん!!」
「べ……別にそう言うわけじゃ……。て言うかそれなら夏海だって二年の先輩にケータイ訊かれてたじゃない!!デート誘われてたの黙ってたくせに!!」
「はー!?何言っちゃってんの廣瀬君の前で!!てか言うほどのことじゃないじゃん!!」
「ほらそうやって隠すー!!」
「や、そう言うのは悪いんだけどできればあとでやってくれる……?」
 白熱していく女の戦いに真樹は恐る恐るストップをかける。今のやり取りでわかったのは、凛桜と水姫の進展具合などではなく、朝緋も夏海も大変おモテになるということだけだ。特に朝緋はちょっと変わっててちょっと天然だけど、やっぱりものすごく美人だから、中身を知らない男子の間では絶大な人気を博していた。
「そうよ。今はそんなことよりミナと高科君よ」
「自分が脱線させたくせに……」
「何か言った?朝緋」
「いいえ別に」
 夏海がじろりと睨むが、朝緋は取り合わず顔を背ける。美少女二人の漫才は見ていてもすごく面白いのだけれど、それはまた今度楽しませてもらうとして、今はもっと大事なことがある。
「それで、高杉さん、凛桜のこと何か言ってた?」
「何かって言うか……」
 朝緋の返答は、珍しく歯切れが悪かった。確かに、当人のいないところで情報を交換し合うなど、遣っていることが野次馬のようで余り気持ちいいものではない。真樹だって、こんなことしたくない。きっと三人がやっていることはただのおせっかいで、凛桜も水姫もこんなこと望んではいないだろう。それでも、余計なお世話でも、心配なのだ。二人のことが。そうやって自分たちを正当化するつもりは無いが、どうしても放っておけない。
「『嫌いじゃない、イコールすき』にはならない、だってさ」
「え……」
「ミナが言ってた。……確かにそのとおりだなって思っちゃった。……そうだよね。そんなに単純なことじゃないよね」
「……」
 水姫の凛桜への態度は、目に見えて穏やかなものとなってきている。けれど、だからと言って、水姫が凛桜をすきになったのかと言うと、そうとは限らない。好意と嫌悪は、対義語ではない。ましてやそこに色恋が絡むと、もっと複雑になってくる。
 すきとか嫌いとか、軽々しく口にできるほど、もう子どもではない。
「廣瀬君は高科君の味方だから早くはっきりしろって思ってるのかもしれないけど、ミナもいろいろ戦ってるんだと思うよ?」
「……」
「まだ割り切れないこともあるし、何より、高科君がまだ自分のことをすきかどうかもわかんないのに、今更蒸し返せない、ってさ」
「え……」
「そんなこと考えてる時点で、もうすきみたいなものなのにね」
 冗談めかして朝緋は肩をすくめる。けれどその表情は、決して笑っていなかった。
「でもミナには、それに気付きたくない、認められない理由があるんだよ。……そのことも、わかってあげて」
「……そうだね」
 朝緋の言うように真樹は凛桜の絶対的な味方、と言うわけではない。けれどそれでも、煮え切れない水姫をじれったく思う気持ちはあった。水姫が何を思い、何を考えているのか知らなかったから。
「……でも、あたしは二人には上手く言ってほしい」
「夏海……」
「梅宮さん……」
 黙って二人の話を聞いていた水姫が口を開く。
「だって、初めてじゃん。高科君が誰かをすきって言う話聞くの。それに、最近の高科君ちょっと変わったって思うもん。高科君変えたの、ミナだよ。それだけミナのことすきってことでしょ?高科君と付き合うのってやっぱいろいろ大変だろうけどさ、でももし付き合ったら高科君、ミナのことすごく大切にしてくれると思うんだよね」
 凛桜だけじゃなく、水姫にも幸せになってほしい。二人で幸せになってほしい。
 頬を撫でる柔らかな髪を耳にかけながら、夏海はそう言った。
「……うん」
「そうだね、でも」
「……」
「やっぱ、最後に決めるのは二人なんだよね」
 二人のために、真樹たちができることなんて何も無い。二人に幸せになってほしいと思うのは真樹たちのエゴであって、それを二人に強制することなんてできない。二人の気持ちは二人のものなのだから、この先の関係がどうなろうと、真樹たちが口を挟むことなんてできないのだ。
 それでも何もできなくても、こうしてみっともなく頭を抱えてしまうのだけれど。
 
 


40 :緋桜 :2007/11/30(金) 20:48:56 ID:ommLPmsk

                                                 □■□■□

 教師も走る十二月―――ではなく、坊主も走る十二月。十二月も終わりに近付くと、デパートは年末大セールを行い、商店街は福引を始め、家々では家族総出の大掃除が敢行され、子どもたちは来年の正月にもらえるお年玉に期待で胸を膨らませる。街は活気付き、着々と新年を迎える準備が整ってきている。
 が、その前に、何と言ってもクリスマスだ。
 クリスマスを乗り切らないことには、大晦日も正月も来ない。たとえ人口の四分の三が形だけでも仏教徒であるとしても、そんなの関係なく国民は浮かれきっている。イルミネーションも店頭に並ぶケーキも街角で風船を配るサンタも、すべてクリスマス仕様だ。
 そんなクリスマスイヴに。
「クリスマスが何ぼのもんじゃー!!」
 人ごみに向かって叫ぶ女子高生。が、浮かれきっている街はそんなもの気にも留めない。普段ならば間違いなく注目を集める夏海の行為も、「クリスマスなんだから浮かれているんだろう」で済まされる。
「夏海……叫ばないでよ恥ずかしい……」
「だって何このカップルの生存率!!ウザイ!!ウッザイ!!何かもういっそのこと石投げつけてやりたくなる!!」
「確かに生存率は下がりそうだけどさぁ……」
 普段よりも三割り増しのカップルの多さに、普段はクールな夏海が発狂する。美人でモテるのになぜか彼氏いない歴=年齢の夏海は、この時期になると必ず荒れる。荒れるくせに、外に出たがる。街に出ればカップルでごった返していることくらいわかるはずなのに。今年も自宅生のくせに朝早くからわざわざ寮の水姫の部屋まで押しかけ、こうして水姫を連れ回している。
「て言うかそんなこと叫ぶくらいなら、夏海も彼氏作ればいいのに」
「『作ればいいのに』でできるんなら苦労なんかしないわよ!」
「嘘だー。こないだ男バレの子に告られてたじゃん。文化祭でも先輩に話しかけられてたし。なんでOKしなかったの?」
「……」
 水姫が問うと、夏海は急に静かになった。予想外の反応に、水姫は内心たじろぐ。軽い気持ちで尋ねたのに、こんな反応が返ってくるとは思わなかった。もしや触れてはいけないことだったのだろうか。
 そう思って水姫は気を揉むが。
「や、だって付き合うとかめんどくさそうじゃん」
 と、夏海はあっけらかんと言い放った。
 クリスマスにいちゃつくカップルが羨ましくて、彼氏が欲しくて、でも付き合うのは面倒くさい。それって、もすごく矛盾していないだろうか。堂々と言い放つ夏海に水姫はがっくり肩を落とした。
「もー、夏海意味わかんないよ」
「わかろうとするな。感じるんだ」
「それも意味わかんない……」
 朝緋と言い夏海と言い、水姫の友人たちは美人なくせになかなかどうして一筋縄ではいかない曲者ぞろいだ。
 ちなみにもう一人の曲者である朝緋は本日の夏海主催のやけ買いツアーは欠席だ。一応誘いはしたのだが、夕方から用事があると言って断られてしまった。しかしその用事と言うのが家族と食事だと言うのだから何とも色気が無い。
 だがそれも仕方ないのかもしれない。朝緋の両親は昨年の春再婚したばかりで、今は家族と言う新しい関係を築き直すのに苦労しているのだろう。他人の家庭環境だから詮索などはしたくないが、それでも似たような立場にいる水姫としては、考えてしまう。
 朝緋は突然やって来た他人を、「家族」として受け入れることができたのだろうか、と。
「さ、そんなことより次の店行くよ!!」
「えー。まだ見るの〜?もう疲れたよー」
「何言ってんの、イヴはまだまだ……」
「夏海?」
 息巻いていた夏海の言葉が、不自然に止まる。どうしたのかと前を歩いていた夏海の視線の先をたどろうとすると、夏海は勢いよく振り返った。
「うわっ」
「やっぱり帰ろうかミナ!!」
「は?ちょ、何……」
「今なら朝緋もまだいるだろうし、ケーキ買って三人で食べよう!!」
「ちょ、何なの夏海、何が……」
「あ……ッ」
 水姫の肩をがしっと掴んで立ちふさがる夏海の向こう側を、身を乗り出して見る。そうして、夏海の不自然な態度の理由を知る。
 水姫の視線の先、すなわち夏海の背後には、よく見知った二人の男女の姿があった。
 凛桜とまゆかだ。
 私服姿の二人が、仲睦まじく談笑していた。
「み、ミナ……」
「……」
 気遣わしげに名前を呼ぶ夏海の声を、なぜか疎ましく感じた。
 どうして二人が一緒にいるのか。
 クリスマスイブ(こんな日)に男女が二人で出かける理由など、ひとつしかない。いくら彼氏いない歴=年齢の水姫にだってわかる。加えてまゆかは、凛桜のことをすきだと言っていた。ならば、答えは簡単だろう。
「……あの二人、付き合ってたんだね」
「ミナ……」
「知らなかった」
 まゆかはいつ告白したのだろう。凛桜はいつそれに応えたのだろう。
 少し考えてみるけれど、すぐにそんなことはどうでもいいと思い直した。
 確かなのは、二人が付き合っているという事実。ただそれだけ。それだけのことで、どうして水姫が夏海に気を使われなくてはいけないのだろう。二人の仲がどうなろうと、水姫には関係ないことなのに。
「さ、次の店行こっか、夏海」
「ミナ……」
「ん?それともやっぱ帰る?朝緋のお土産にケーキ買うなら、あの写真屋さんの隣のケーキ屋さんが美味しいよ」
「……いいの?」
「何が?」
 微笑んで問うと、夏海は言葉に詰まり、眉を寄せたまま黙り込んでしまった。
 どうして夏海が、そんな表情をするの。水姫は何も気にしていないのに。気にする理由なんて、ひとつもないのに。
 確かに凛桜は水姫のことをすきだったのかもしれない。けれどそれは、以前の話だ。人の心は変わるのだ。何年も何十年も同じ人を思い続けられる人もいれば、数ヶ月で心変わりする人もいる。その期間は人それぞれで、短いからと言って誰もその人を責められない。誰だって幸せになりたいのだから、自分をすきになってくれる人をすきになった方がいいに決まっているのだ。
 ならば凛桜だって、水姫よりもまゆかを選ぶだろう。
 きっとそれが、一番いい選択だ。
 だから水姫は、何も気にしてなんかいない。
「変な夏海」
 そう言って笑う水姫から夏海は目をそらし、俯いた。

 


41 :緋桜 :2007/12/04(火) 21:07:27 ID:ommLPmsk

                                                 □■□■□

 クリスマスイヴから三日後、強制帰省期間が始まった。
 どんなに嫌だ嫌だと騒いだところで、所詮高校生の水姫には、寮を追い出されれば帰るところは実家しかない。親の金で学校に行って親の金で生活している以上、親の元に帰らなければいけないのだ。
 約四ヶ月ぶりの自分の部屋は、不在中人の出入りはまったく無かったのだろう。生活感がまるで無かった。机の上や本棚には、うっすらと埃が積もっていた。それは同時に、あの女がこの部屋に入らなかったという証拠でもある。
 今更あの女を追い出そうとは思わない。だがせめて、水姫の空間には入ってきてほしくなかった。あんな女に、水姫の物に触れて欲しくない。
「ミナちゃん」
 ノックのすぐ後、ドアの向こう側で若い女の声がした。水姫は無意識のうちに眉を顰める。
 声の主は、義理の母、千鈴だった。
「……何」
「晩御飯のお買い物行ってくるから、(ゆう)ちゃんのこと見ててくれるかしら」
 返事を入室の許可と取ったのか、千鈴は五つほどの男の子を連れて部屋の中に入ってきた。
 水姫の義母、千鈴はまだ若い。正確な年齢は覚えていないし興味も無いけれど、おそらくまだ三十をいくつか越えたほどだろう。水姫の父とは、一回り近く離れていた。そして千鈴は若いだけでなく、美しかった。繊細な美貌は今にも消えてしまいそうなほど儚げに見え、男の保護欲を掻き立てる。守ってやらなければ、と男に思わせるような風貌だった。
 男に守られ、男に頼り、男にすがって生きていく女。
 一人では生きていけないような弱いこの女が、水姫は大嫌いだった。
「有ちゃんがお姉ちゃんと遊びたいって言うの。お願いできる?」
「……有秀(ゆうほ)、おいで」
 千鈴の問いには答えず、水姫は歳の離れた弟を呼ぶ。千鈴の影で部屋の様子を伺っていた有秀は、パッと顔を輝かせて、駆け寄ってきた。
 今年年中生になったばかりの有秀とは、一年に数回しか会えない。水姫が中学に上がって寮に入って実家を離れたからだ。だが、有秀は水姫によく懐いていた。水姫も昔から有秀を可愛がった。
 たとえ有秀のせいで(・・・・・・)水姫の世界が狂い始めたのだとしても。
「じゃぁお買い物行ってくるわね。今日はミナちゃんの好きな物いっぱい作るから」
 水姫が好きな物なんて何も知らないくせに、千鈴はそんなことを言った。
 少女のように無邪気な笑顔を浮かべながら。自分の存在そのものが水姫を苦しめていると知っているはずなのに、理解しようとしない。どんなに嫌っても、邪険な態度をとっても、すぐに彼女の中では「他愛ないこと」として片付けられてしまう。水姫は空回ってばかりいる。
「あなたが作った物に、好きな物なんてあるわけないじゃない」
 冷たく言い放つと、千鈴は傷付いたような表情を見せた。
 被害者ぶらないで。
 水姫から大切なもの、全部奪っていったくせに。
「……じゃぁ、行ってきます」
「行ってらっしゃい、ママー」
 水姫にじゃれつく有秀が、千鈴に手を振った。
 この子は、いつ知るのだろう。いつ理解するのだろう。
 水姫と有秀は、半分しか血が繋がっていないこと。姉が、自分の母を嫌って―――憎んでいること。自分の存在が、すべてを狂わせたこと。
 知らないでほしいと思う。気付かないでほしい。
 何も知らず、幸せな世界でただ笑っていてほしい。
「……有秀」
 なぁに?と無邪気に水姫を見上げる有秀を抱きしめた。
 大きくなるにつれて、父に似てくる有秀。この子が父の子でなければよかったと、何度思っただろう。けれど水姫は、自分を姉として慕う有秀の小さな温もりに、何度も救われてきた。その温もりを、を手離したくなかった。
 どうしようもない矛盾だった。
「お姉ちゃん?」
「……」
「どうしたの?どこか痛いの?」
「……なんでもないよ。ごめんね」
「うん?」
 大切なものは、いつも手に入らない。振り払われるのが怖くて、手を伸ばせずにいるから。
 そんなことを続けていて、最後に何か残るのだろうか。

 


42 :緋桜 :2007/12/11(火) 14:45:10 ID:ommLPmsk

                                                 □■□■□

 はしゃぎ疲れて眠ってしまった有秀をベッドに運び、布団をかける。あどけない寝顔はまだ水姫がこの家で暮らしていた頃のものと少しも変わらない。
 水姫が十のとき生まれた有秀は、水姫が育てたようなものだった。あの頃千鈴は若さを言い訳にして遊び歩き、家を空けがちだった。そのことで何度も口論になったが、千鈴はなぜ自分が義理の娘に怒られているのか理解できず、理解できないのに泣きながら何度も謝った。それでも、何度も同じことをくり返した。
 水姫の父は、そんな後妻を咎めようとはしなかった。千鈴をかばっていたわけではない。父が口を噤んでいたのは、愛情からではなく、無関心からだ。父は、千鈴にも有秀にも興味は無かった。
 元々女性関係の問題が絶えない男で、母とも、それが原因で離婚した。それなのに母と別れてからも懲りることはなく、父の周りには多くの女性の影があった。けれど父が愛していたのは、母だけだった。だから母との離婚後、どんな女とも再婚しようとはしなかった。雪波(息子)水姫()に取り入ろうと、家の中まで上がりこもうとした「恋人」の女は、手酷く追い返された。

『父さんは母さん以外の女の人と結婚する気はないよ』

 父はそう言って笑っていた。酷い男だと思った。愛しているのにどうして母以外の女と関係を持とうとするのか、どうして母と別れたのか、水姫には理解できなかった。
 けれど母と別れて五年後、頑なに再婚を拒んでいた父が一人の若い女性を連れてきた。それが千鈴だ。
 だが千鈴は父に選ばれたわけではない。
 有秀を妊娠したため、父に責任を(・・・)とってもらった(・・・・・・・)にすぎない(・・・・・)
 そのことを彼女自身も知っているから、再婚してからもいろんな女性との浮気をくり返す夫に泣いていた。泣くことしかできなかった。
 悪いのは、父のような男を愛した自分なのに。男にすがって生きていこうとした弱さなのに。千鈴はまるで自分に非は無いとでも言いたげに、少女のように泣いた。
 肩を震わせ、被害者ぶって泣く千鈴が、水姫は大嫌いだった。
 けれど。
 雪波は、そんな彼女に恋をした。
 水姫が雪波を見ている間、夏枯草が彼を想っていた間、ずっと雪波は千鈴だけを見ていたのだ。
 彼女と出逢ってから、雪波にとって大切なものは千鈴だけだった。だから他のものはどうでもよかったのだ。
 だからみんなに同じ態度をとる。大切なもの以外は、どれでも同じだから。
 雪波は優しい。誰に対しても優しくて、いつも穏やかに笑っていた。三つしか違わない兄が怒ったり泣いたりしているところなど、見たこと無かった。水姫はずっと、それを雪波の強さだと思っていた。
 けれどある日、変わらない雪波の笑みを見ながら思った。
 誰にでも同じということはつまり、誰も特別ではないということではないだろうか、と。
 そのことに気付いたときの水姫の絶望を、きっと雪波は知らないだろう。
「ミナちゃん!!」
 部屋の外で聞こえた声に、苛立ちが増す。千鈴が帰ってきたのだ。千鈴の声は歌うように綺麗なのに、水姫には不快感しか与えない。耳障りな雑音だった。
 返事も待たずにドアが開く。不快感に眉を顰める水姫とは対照的に、ドアから覗いたのは千鈴の嬉しそうな笑顔だった。
「ビッグニュースよ、ミナちゃん!!今電話がかかってきたんだけどね、誰からだったと思う!?」
 部屋の中で不機嫌そのものの表情を浮かべる水姫になどお構い無しで、千鈴は顔を輝かせる。
 誰からでもいいから出て行って。
 そう言おうとした声は、喉で消える。続く千鈴の言葉に、水姫は声を失った。
「雪君からだったの!今日、雪君帰ってくるんですって!!」
 雪波の自分への想いを知ってか知らずか、千鈴は雪波のことをひどく可愛がっていた。反抗的な義理の娘、無関心な夫、物心つかぬ息子の中であの頃、雪波は唯一の千鈴の絶対的な味方だったからだ。その雪波が帰って来ることが、嬉しいのだろう。大学入学と同時に一人暮らしを始めてから、雪波は一度も家に寄り付かなかったから。
 けれど水姫は喜べない。喜べるはずなんてない。今会えば、何を言うかわからなかった。
 水姫は無言で立ち上がる。ミナちゃん?と不思議そうな千鈴の声が聞こえた。
 わからなくていい。
 わかってほしいなんて、思っていない。
「ミナちゃん!?」
 追いかけてくる千鈴の声を無視し、彼女の隣をすり抜けた水姫は、外へと飛び出した。

 


43 :緋桜 :2007/12/14(金) 21:20:10 ID:ommLPmsk

                                                 □■□■□

 両親が離婚したとき、父と共に暮らすことを決めたのは、水姫自身だった。慰謝料を一切受け取らなかった母に、水姫と雪波の二人を育てる余裕は無く、兄と一緒にいるためにはそうするしかなかった。幼い水姫には離婚の意味もどうして母が出て行くのかもわからなかったけれど、兄と離れることだけは嫌だった。水姫は父のことも母のことも好きだったけれど、一番好きなのは、兄だったから。
 けれど大好きなはずの兄が、今一番会いたくない人だった。
「来るなら来るって前もって言っておいてよね。いきなり来たって、ろくなもの出せないわよ」
 家を飛び出した後訪れたのは、十年前に離婚した母の家だった。女の一人暮らしにしては広い、綺麗なマンション。父との離婚後、再び働き始めた母は、自力でこの家を手に入れた。身一つで父の元を去り、自分の力でここまで上り詰めたのだ。
「いいよ、別に食べなくて」
「何言ってんの。育ち盛りの高校生が。残り物で何か作るから、ちょっと待ってなさい」
「はーい」
 そう言って母が二十分ほどで作ったものは、昨日の残りの肉じゃがとほうれん草のおひたし、焼き鮭、きんぴら、お吸い物。一緒に暮らしていた頃から母の料理は和食が主で、冷蔵庫にある有り合わせだけでも何でも美味しく作っていた。ハンバーグだのグラタンだの、お子様ランチみたいなものばかり作る千鈴とは違う。
「美味しい?」
「ん」
「そ、よかった。よく噛んで食べなさいよ」
 幼い子どもを相手にするような母の言葉に、水姫は素直に頷いた。子ども扱いも、母にされるなら嫌じゃなかった。
 母が家を出て行ったのは水姫がまだ五つのときだ。離婚したといっても、二人の中はそう険悪なものとなったわけではなかったため、母とも定期的に逢うことはできた。大きくなってからは、こうやってひとりで母の家を訪れることもある。だが水姫は、幼少期、母に甘えた記憶などほとんど無かった。大好きだったのに、過ごした時間はあまりにも短く、甘え方がよくわからなかった。
「……あたし、ママについて来ればよかった」
「え?」
「なんでパパについてっちゃったんだろ……」
 呟く自分に、嫌気が差した。
 自分で選んだはずなのに。
 千鈴(あんな女)が現れるなんて思わなかった、なんていいわけにしかならないということはわかっている。けれど、思わずにはいられない。違う道を選んでいれば、こんな気持ちにはならなかったのに、と。それとも、何を選んでも結局は同じなのだろうか。何度も同じことばかりくり返してしまうように、何を選んでも同じものしか掴めないのだろうか。
 箸を持ったまま俯いた水姫に、母が問う。
「……また、あの人と何かあったの?」
「……」
「あの人にだって、いろいろあるのよ。まだ若いのに、雪波や水姫みたいな大きい子が突然できて、大変でしょうに。それがわからないほど、水姫は子どもじゃないでしょう?」
「……ッママは!!」
 諭すような母の口調に、悲しくなった。苛立ちや腹立たしさじゃなくて、寂しくなった。
 もう子どもじゃない。でも、大人でもない。ひとりで大人になんて、なれるはずない。水姫だって、支えてくれる人が、傍にいてくれる人が欲しい。一緒にいたかった人は、水姫のことなんて見てくれてなかった。水姫はいつも、一人きりだ。
「ママは……嫌じゃないの!?あんな女にパパ奪られて……悔しくないの!?」
「……悔しいって、何が?」
「だって、あの女が今いる場所は、ママの場所だったんだよ!?なのにあの女は後から来て、家ん中入り込んで、勝手に家族面して……ッ。あんな女、いなくなればいい……ッ。最初から、いなかったらよかったのに!!」
「水姫」
「……ッ」
「『あんな女』なんて言い方しちゃだめ。それに誰かを傷付ける言葉は、自分も傷付けるのよ」
「だって……ッ」
「『だって』もだめ」
「……ッ」
 ぴしゃりと言われ、水姫は母を睨む。けれど目元に力が入らない。
 どうして母は、千鈴を許せるのかわからなかった。
 父のことなんてもう、愛していないから?それとも、最初から愛してなんていなかったから?
 だからどうでもいいの?
「水姫だって知ってるでしょう?ママとパパが別れたのは、千鈴さんのせいじゃないってこと。二人が出逢ったのは、ママたちが別れた後だもの」
 母の言うとおり、父と千鈴が出会ったのは、二人が結婚する半年前だ。両親の離婚とは何の関係も無い。そんなことくらいわかっている。けれど水姫は、そういうことを言いたいんじゃない。
 黙りこんだ水姫に母は小さく溜息を吐いた。
「……ねぇ、水姫。ママはね、パパを奪られたなんて思ってないわ。パパがママを捨てたんじゃない。ママがパパから離れたの。ママはいつまでも水姫とお兄ちゃんのママだけど、もうパパの奥さんじゃない。だからパパがどこで何をしても、怒ったり悔しがったりする理由なんて無いの」
「……もうパパのことなんて、どうでもいいってこと?」
「そう言うことじゃなくて」
 母は苦笑気味に笑い、おいで、と手招きした。すっかり止まってしまった箸を置き、水姫は促されるまま、母と共にソファーに並んで座る。水姫の手をそっと握る母の手は水仕事で荒れていて、けれど温かかった。
「……水姫には話してなかったけど、パパとママがお別れしたのは、パパの浮気が原因じゃないのよ」
「え……?」
「もちろんまったく関係ないわけじゃないけれど、原因のひとつって言うか……きっかけでしかない、ってことになるのかしら。パパが浮気してたことは知ってたし、嫌だったけど、その前からずっと、どこかで無理を感じてたの。パパと一緒に生きていくことに」
「……」
「ママはこういう性格だから、家の中でじっとしているなんて、できなかったのね。それでもパパのために頑張ろうって思ったけど……疲れちゃった。パパのことは愛してたし、今も愛しているけれど、一緒に生きていくことはできなかった。ママは、パパを支えてあげられなかった。だからママはママの人生を、パパはパパの人生を生きることに決めたの。愛していたから、愛しているからもう前みたいには戻れない。一緒にはいられない。関わることはできない。……別々に生きていくって、そう言うことよ」


44 :緋桜 :2007/12/22(土) 00:09:27 ID:ommLPmsk

                                                 □■□■□

 母の言うことは、難しくてよく理解できなかった。
 今も父のことを愛していると言った母。父だって、母のことを愛しているはずなのに、どうして二人は別々の道を生きなくてはいけなくなったのだろう。気持ちは変わらないのに関係は変わってしまうなんてそんなこと、本当にあるのだろうか。
 台所から水音が聞こえる。時々途切れるその音は、不快ではなく心地よかった。帰るべき場所であるはずの実家では、こんな風に心休まる時間なんて無かったのに。ずっとここにいたい。もう、あの家に帰りたくない。
 そう、思った。
 ピンポーン
 台所で水仕事をしている母が出す音を聞きながらテレビを見ていると、客の来訪を知らせるチャイムが鳴った。
「ごめん水姫ー。今手が離せないから出てくれるー?」
「はーい」
 母に言われ、水姫は玄関へと向かう。時刻は八時を少し過ぎている。来客には少し遅い気もするが、特に不審にも思わなかった。
 それが、いけなかった。
 玄関のドアを開けた水姫は、心臓が止まるかと思った。ドアの外に立っていた人物は、よく見知った男だった。水姫の三つ上の兄、雪波だった。
「―――ッ」
 開けたドアを、思わず閉めようとする。けれど雪波がそうはさせない。閉じかけたドアの隙間に足をねじ込む。まるで悪徳商法のセールスだ。ドアにはさまれて痛みが走ったのか、雪波がかすかに眉をしかめる。その表情を見て、思わずドアを持つ手の力が緩む。その隙に、ドアをこじ開けて雪波が中に入ってきた。
「ミナ……」
 雪波が水姫を呼んだ。
「こんな時間まで、何してるんだよ」
「あ……」
「行き先も言わないで家飛び出したんだって?心配するだろ」
 千鈴さんが、と口には出さない雪波の声が聞こえた気がした。いつだってそう。雪波は、千鈴のことばかりだ。自分が惨めになり、逃げ出したくなった。
 でも、もう逃げる場所なんて無い。
「水姫ー?どうかした……あら、雪波じゃない」
 なかなか戻らない水姫を心配したのか、台所で後片付けをしていた母が玄関まで出てきた。そして息子の姿を見て、目を見張る。
 何かあるとすぐに母の元を訪れていた水姫とは違い、雪波はめったに母に会いに来ない。その息子がこうして突然尋ねてきたのだから、母としては嬉しいというよりもただ驚いたのだろう。
「どうしたの、雪波。うちに来るなんて珍しいじゃない」
「うん。もう遅いし、ミナを迎えに来たんだ。あと、久しぶりに母さんの顔を見に」
「あら、嬉しいこと言ってくれるじゃない。まぁこんなところで何だし、とりあえず上がったら?」
「うん」
 母に言われ、雪波は玄関のドアを閉めた。雪波が横を通る間水姫を見つめる視線を感じたけれど、水姫は雪波を見れなかった。
 雪波が水姫に背を向けてようやく水姫は雪波を見ることができた。母の顔を見に来たと言った雪波。けれど兄の口から、母について聞いたことは無かった。だから水姫は、雪波が母のことをどのように思っているのか知らない。
 母と父が離婚しなければ、父と千鈴が結婚することはなかった。けれど二人が結婚しなければ、雪波と千鈴が出逢うこともなかった。
 そのことを雪波は、どう思っているのだろう。
「コーヒーでいい?」
「お構いなく」
「あんたたちは兄妹そろってそっけないわね」
 誰に似たのかしら、と肩を竦めた母がコーヒーを入れる間、水姫は居間で雪波と二人きりだった。沈黙が、痛い。水姫を見つめる雪波の瞳はとても優しいのに、水姫はいつも彼に責められているような気がしてならない。
 大好きだったはずの兄を、どうして怖いと思うようになったのだろう。
 いつから、どこからねじれ始めた?
 逃げ出したい気持ちと泣き出したい気持ちが混ざり合って、どうしようもなくなる。
 泣き喚くほど子どもじゃないし、もう逃げる場所なんて無い。
 どうすることもできない水姫は、やがて交わされた兄と母の談笑を、身を硬くして聞いていた。
  


45 :緋桜 :2008/01/08(火) 18:26:48 ID:PmQHunWe

                                                 □■□■□

 雪波と共に母の家を出たのは、九時過ぎだった。送ろうかと言った母に、雪波は父が迎えに来るからかまわないと答えた。嘘だとすぐわかった。雪波が父に頼みごとをするわけが無いのだから。
 街灯の光だけを頼りに、夜の道を二人で歩く。母の家から水姫の家までは、徒歩十五分くらいの道のりだ。雪波の斜め後ろを歩く水姫に、彼の顔は見えない。
 いつも水姫は、雪波の背中ばかり見ていた。
「ミナ」
 振り返り、雪波が水姫を呼ぶ。いつもと変わらない、穏やかな声で。
「危ないから、隣歩きな」
 手招きする雪波は、怒ってはいないのだろうか。水姫が雪波を避けていることに。それとも、そんなことは最初からどうでもいいのだろうか。
 頑なに雪波の後ろを歩く水姫は、彼の背を見つめながら尋ねる。千鈴の報せを聞いたときからずっと思っていたことを。
「……どうして」
「ん?」
「どうして帰ってきたの」
「えぇ?」
「夏休みには、帰って来なかったのに」
 それは帰って来なかったことを責めているようにも、帰ってきてほしくなかったようにも聞こえる。雪波は歩いたまま、少し笑いながら答えた。
「それで拗ねてんの?」
「な……ッ」
「文化祭のとき、拗ねてただろ」
「あれは……ッ」
「ミナは本当、俺のこと大好きだもんな」
 からかうような口調でもなく、当たり前みたいに言う雪波は、いったい何を考えているのだろう。何を思ってそんなことを言うのだろう。雪波のことが少しもわからない。わからないことに水姫だけ苦しんでばかりいる。
「……もう、すきじゃない」
「そう?」
「お兄ちゃんなんか、もう要らない」
 水姫の言葉に、今度こそ雪波は足を止めた。足を止めて、水姫に向き直る。けれど薄茶の瞳からはやはり、感情が伺えない。
 水姫のことをどう思っているのか、わからない。
「知らなかったでしょ。パパとママが離婚したとき、あたしがママじゃなくてパパと暮らすことを選んだのは、お兄ちゃんの傍にいたいからだってこと。お兄ちゃんとパパと、三人で暮らして、それで幸せだった。ママがいなくて寂しかったけど、お兄ちゃんと一緒なら我慢できた。……でも、あの女が現れて、その幸せ、全部壊してった」
「ミナ……」
「あたしのこと何も知らないくせに、わかったようなこと言わないでよ。あたしがどんな気持ちでお兄ちゃんのいない家にいたかなんて、全然わかってないくせに……ッ」

『わかりたいって思ってる』
『ちゃんとわかっていきたいんだ』

 どうして。
 今、凛桜の言葉を思い出すのだろう。
 考えないようにしていた。目をそらしてばかりいた。けれど、ようやくわかった。水姫が凛桜を嫌いだったのは―――嫌いだと思い込んでいたのは、凛桜を雪波に重ねていたからだ。
 わかろうとしなかった凛桜。考えようとしなかった雪波。水姫のことをないがしろにする兄と同様に、凛桜もまた水姫のことなんてどうでもいいのだと思っていた。それが寂しかった。水姫のことをちゃんと見て、わかってほしかったのに。
 けれど水姫も、今まで彼らに、わかってもらおうとしたことがあっただろうか。わかってほしいと叫びながらも、いつもわかってもらうことを諦めて、わからないと決め付けて、口を閉ざしていたのは水姫の方だ。伝えようとしなければ、伝わらない。伝えていないものをわかってもらおうだなんて、そんなのできるはずない。水姫だって、何もわかっていなかったのに。
 責めてばかりいた。
 わかってほしいと、欲しがってばかりいた。
 身勝手なのは、水姫だって同じだ。
 それでも凛桜と向き合えたのは、凛桜の方から水姫に歩み寄ってくれたからだ。
 ならば今度は、水姫が変わる番だ。
 伝えようとしなければ何も変わらない。わからない。
 たとえそれが無駄に終わっても。
「……あたし……」
 かすれた声で言葉を紡ぐ。
「……ずっと、寂しかった。お兄ちゃんがあの女をすきになって、あの女のことしか考えなくなって、どんどんあたしから離れてくのが、あたしのことなんてどうでもよくなってくのが、すごく怖かった。いつか要らないって、本当に突き放されるんじゃないかって、怖かったよ……。もっとちゃんと、お兄ちゃんにあたしのこと見てもらいたかった……」
 初めて吐露した、自分の気持ち。
 ずっと、こんなこと言っても仕方ないと思っていた。鬱陶しく思われるだけだと。
 でも、一人で抱え込んで寂しいのはもう嫌だ。
「ミナ……」
 彼の嫌う父とよく似た、けれど父と比べて感情の起伏に乏しい声。いつの間にか声変わりを迎え低くなっていた声に呼ばれるたび、水姫の中では戸惑いが生まれていた。もう昔とは違うのだということを感じて、いつも寂しかった。
 けれどもう、受け入れなければいけない。
 いろんなことを。
 水姫はゆっくりと顔を上げて雪波を見る。月明かりのせいか、水姫を見下ろす雪波の顔は、心なしか青ざめているように見えた。
「お前……ずっと、そんな風に思ってたのか……?」
 無言で頷く。それが答えだ。
 あの頃の雪波は、千鈴しか見ていなかった。誰よりも千鈴を想い、全力で彼女を愛していた。
 だから雪波は家を出た。戻れなくなる前に、離れようとした。雪波は千鈴のためなら、他の何を―――自分の心さえも犠牲にしてもかまわないと思っていたのだ。
 だから水姫は、雪波のことが怖くなった。いつか自分も、切り捨てられてしまうのではないかと思って。好きだからこそその分、傷付けられることに怯えていたのだ。
「お兄ちゃんにとって大事なのは、あの女だけでしょ?だから……」
「だったらこんなに苦しんだりなんかしない!!」
「―――ッ」
 雪波の突然の大声に、水姫は思わず身を竦ませる。
 いつも穏やかで、何を考えているのかわからない、つかみどころの無い笑みばかり浮かべている雪波が怒鳴るところなど、初めて見た。
 ずっと見ていたはずなのに。
「お前のことが大事じゃなきゃ、家を出たりしなかった……」
「え……?」
 怒声から一変し、絞り出したような小さな声で雪波は言った。雪波の表情が、今にも泣き出しそうなものへと変わる。水姫はそれを、信じられない面持ちで見つめた。
「……なぁ、ミナ。俺は確かに千鈴さんのことがすきだよ。初めて会ったときからずっと、……これから先も、千鈴さん以外の人をすきになるなんて、ありえない。あの人のためなら何でもできる。そう思ってた。何でもするから、俺のものになってほしかった。そのためなら、父さんを裏切ることも、千鈴さんに軽蔑されることも、平気だった。矛盾だよな。あの人のことすきなのに、あの人を傷付けてもかまわないなんて」
「……」
「でも、それができなかったのは、お前がいたからだ」
「え……?」
「他の何を失ってもよかった。あの人が手に入るなら。でも、お前を失うことだけは怖かったんだ……」
 千鈴を求める欲望に歯止めをかけてくれたのは、水姫の存在だった。たとえ父と親子の縁を切ることになっても、戸籍上のみとは言え母子の関係に当たる千鈴と禁忌に触れることになっても、彼女をこの腕に抱くことができるなら、それでもよかった。泣いている千鈴を抱きしめたくて、その身体の隅々まで触れたくて、欲望のままに一線を越えてしまおうと、何度も思った。眠れない夜を幾夜も過ごした。何度も頭の中で彼女を犯した。
 けれどそれでも現実には思い留まったのは、水姫がいたからだ。
 自分を慕う妹を傷付けるようなことは、水姫の信頼を失うようなことは、できなかった。
 泣きそうな表情で、雪波はそう言った。
 水姫は驚きのあまり、瞬きすらできなかった。初めて語られる兄の胸の内を、信じることができなかった。
「……でも、それが余計にお前を傷付けてたんだな」
 傷付けたくなくて口を閉ざし、そのことが余計に水姫を傷付けていたことに気付かなかった雪波。
 傷付きたくなくて顔を背け、注がれる愛情に気付かずに、心を閉ざしていた水姫。
 二人とも、随分長い間くだらないことを続けていたのだ。
「あ……あたし……」
「ずっと大事に想ってたよ」
「……」
「幸せを、祈ってた」
 そう言って雪波は水姫に向かって手を伸ばす。けれど触れる直前、水姫は思わず身体を強張らせた。水姫の反応に雪波は息を呑み、伸ばした手をやがて拳に変えて下ろした。そして哀しげな瞳を水姫に向けた。
「あ……あたし……」
「ミナがずっとそんな風に思ってたんなら、信じられないのも当然だと思う。でも、これが俺の、本当に気持ちだから」
 そう言った雪波の声は、水姫を責めてはいなかった。
 ただ静かだった。

 


46 :緋桜 :2008/01/15(火) 21:49:49 ID:ommLPmsk

                                                 □■□■□

 年が明け、三箇日も終わった。
 雪波は明日、下宿先のマンションに帰る。今頃は部屋で荷造りしているのだろう。結局どうして帰ってきたのか、雪波は何も言わなかった。特に意味は無いのかもしれない。言えない理由があるのかもしれない。どちらにせよ、雪波が言いたくないのならば追及はしないでおこうと思った。
「ミナ」
 自室に篭って一人冬休みの宿題をしているとノックの後、部屋の外から雪波に呼ばれた。
「何?」
「散歩行かない?」
「散歩?」
「初詣。まだ行ってなかっただろ?」
 そう言った雪波と共に訪れたのは、近所の神社だった。歩いて五分ほどなのに、こんなところに神社があるなんて知らなかった。どうして知ってるの、と尋ねると、内緒と言って雪波は微笑み、ポケットから取り出した小銭を差し出した。
「え、いいよ。自分のあるし」
「いいから。こんなときくらい兄貴面させてよ」
「……」
「って言ってもたかだか十円程度なんだけどね」
「……うん」
 素直に受け取り、賽銭箱に投げ入れてお参りを済ます。こうやって兄と初詣に来るなんて何年ぶりだろう。久しぶりなことばかりだ。
「何お祈りした?」
 目を開けると、雪波が水姫の顔を覗き込んでいた。ほんの少しの照れくささと気まずさをごまかすため、水姫はくるりと振り返る。
「お祈りの内容は、人に言うと叶わないんだよ」
「そうなの?」
「そうだよ」
 そうなんだ、と水姫の言葉に雪波は目を丸くした。
 博識で頭もいいのに、意外なことは知らない兄に何だか笑えた。
「おみくじ引く?」
「ん」
 境内の片隅にあったおみくじを引く。雪波が大吉で水姫が末吉。末吉と小吉ってどっちが因だろ、と話しながら木にくくりつける。寒さで指がかじかんで上手く結べず悪戦苦闘していると、ミナは不器用だなぁと言って雪波が笑った。
 小さい神社だから、境内もそう広くない。お参りとおみくじがすめば他にやることもなかった。二人は神社を後にする。
 散歩なんだし遠回りして帰ろうか、と言って歩き出す雪波と並んで歩いた。
 今まで水姫が雪波の背中ばかり見ていたのは、水姫が彼の隣に立とうとしなかったからだ。雪波の隣はいつだって空いていたのに。呼べば、こんなにも簡単に振り向いてくれるのに。
「……お兄ちゃん」
「何?」
 雪波に見返され、水姫の中で緊張が生まれる。
 あの夜、長年胸の奥でわだかまっていた兄への想いは全部吐き出した。
 でも、まだ言っていないことがある。
「……あたしは、お兄ちゃんが羨ましかった」
「なんで?」
「先輩が、お兄ちゃんのことすきだったから」
「『先輩』って……?」
「夏枯草先輩」
 水姫の言葉に、雪波は少し驚いたように目を見張った。
 それは、水姫が夏枯草をすきだったことに対してなのか、それとも夏枯草が雪波をすきだったことに対してか。
「……ミナ、サヤのことがすきだったんだ?」
 しばらくの沈黙の後、雪波が口を開く。言葉を探し、選んだ言葉をゆっくりと紡ぐように。
「うん。振られたけどね」
 別に告白はしていないけれど。だが夏枯草に彼女がいることは雪波も知っているため、そっか、と小さく呟いただけだった。その態度に、水姫の中でひとつの確信が生まれる。
「知ってたの?」
「何を?」
「先輩が、お兄ちゃんのことをすきだったこと」
「……」
 沈黙は、肯定か否定か。
 夏枯草の話を切り出したのは、知りたかったからだ。不器用なまでに真っ直ぐに雪波を想った夏枯草は雪波の中で、どんな存在だったのか。今更知っても、どうしようもないことだ。けれど水姫は知りたかった。
「……俺が寮を出る日、言われた」
「……」
「すきだって」
 雪波は水姫から視線をはずし、切れ長の瞳を細めた。過去を想い出すように、懐かしむように。
「出逢ったばかりの頃のサヤは、人と関わることを怖がってた。自分と違う他人が怖くて、怖いからいつも他人を拒絶してた。自分以外はみんな敵だって思い込んでた。そんなサヤは昔の俺に……樟葉(くずは)と出逢う前の俺によく似てて、放っておけなかったんだ」
 樟葉と言うのは、雪波の友人の名だ。翠蘭時代の兄のルームメイトで、卒業後、彼と同じく星稜高校へ進学した。家族から離れて暮らしていた兄を、一番近くで支えてくれていた人なのだと思う。
「樟葉が俺にしてくれたこと、俺もサヤにしてあげたかった。俺は樟葉に救われたから。俺もサヤの力になりたかった。最初は俺のことも怖がってたけど、だんだんサヤが心を開いてくれるようになったのがわかって、……嬉しかった」
「……」
「……嬉しかった。四年前のあの日、サヤにすきだって言われて、嬉しかった。サヤが俺をことをそんな風に慕ってくれてるなんて気付きもしなかったし、応えることはできなかったけど、すごく……すごく、嬉しかったんだ。こんな俺でも、すきになってくれる人がいた。俺が千鈴さんのことしか見てなかった間も、ずっとサヤは俺のこと見ててくれた。……それが、嬉しかった。多分、たくさん傷付けた。気付かずに、傷付けてばかりいた。それでもサヤは俺をすきでいてくれた。俺との日々を大切に想ってくれていた。そのことがすごく嬉しくて、……俺はずるいから、そのとき初めて気付いたんだ。俺もサヤと過ごした二年間を、サヤと作った想い出を、……サヤのこと、すごく大切に想っていたんだ、って。サヤだけじゃない。それまで過ごした日々、出会った人、全部大切で愛しかったこと。サヤが気付かせてくれた」
「……」
「救われたのはサヤじゃない。また、俺だったんだ」
 雪波を好きになったことで、夏枯草は苦しみ、自分を責めただろう。けれどその想いは、雪波に確かに届いていた。雪波の救いになった。
 そのことを夏枯草は知っているのだろうか。知っているからこそ、初恋を想い出へと変えられたのだろうか。
「千鈴さんに出逢って、サヤに出逢って、初めて知ったんだ。大切なものはひとつじゃない、いくつあってもいいんだって。それまでは大切なものはひとつしかいらない、0か100の答えしかないって思ってたけど、俺はお前も、千鈴さんも、サヤも有秀も、みんな、同じくらい大切なんだ」
「……あたしのことも、大切?」
「もちろんだよ」
 そう言って、雪波は水姫の頭をそっと撫でた。まだ二人が幼かった頃してくれたように。
 雪波とこんな話ができるなんて、想わなかった。しなければずっと、知らないままでいた。雪波の夏枯草への想いも、水姫への愛情も。
「……そっか」
「そうだよ」
「そっか」
 雪波の夏枯草の想いを聞いたからと言って、兄に対する確執が無くなるわけじゃない。夏枯草への想いが消えるわけじゃない。そんなに急には変わらない。急激に変わるなんてこと、ありえない
 けれど少しずつでも、変わっていけたならいい。
 頑なな心が融けていけばいいと、思えるようになった。
 それはきっと、気付けたから。今まで目をそらしていたこと、わかろうとしなかったことに。
 すべてが思うように上手くいくわけはないけれど、いろんな人が支えてくれているから、見守ってくれているから、水姫はまだ、立っていられる。


47 :緋桜 :2008/01/22(火) 20:48:46 ID:ommLPmsk

                                                                                 □■□■□

 冬休みが終わり、新学期が始まった。毎回恒例の「五秒で終わる学園長の話」のおかげで十分ほどで始業式は終わり、生徒たちは教室に戻る。久しぶりに会う友人との話に花を咲かせていると、毎度のことながら騒がしいのは凛桜と愉快な仲間たちだ。
「えー、りおーって元旦生まれなんだー?」
「そーだよー」
「まじでー?すげーな」
「お前かめでたい日に生まれたなー」
「さっすがりおーってカンジじゃね?」
「えへへー」
 輪の中でクラスメイトに数日遅れの祝いの言葉を受ける凛桜は、今日も今日とて能天気に笑っている。
 冬休み明けのそのやり取りは、毎年のことだった。したがって、中等部で凛桜と同じクラスになった者で彼の誕生日を知らない者はいない。毎年凛桜が自分で主張しているからだ。もちろん、水姫も知っている。中学三年間同じクラスだったのだから、毎年見てきた。
 高等部からの編入生で今はこの場にいないまゆかは知っているのだろうか。
 ―――知っているだろう。だって、二人は。
「ねー、高科くーん」
 沈みかけていく思考を、女生徒の黄色い声が遮った。窓際でにぎやかに話している凛桜に、クラスの女子が近付いていく。何となく視線をめぐらせる。凛桜に話しかけたのはどちらかと言うと派手なグループに属する面々だった。綺麗な部類に入るけれど、朝緋ほどの美人ではない。その分を化粧や装飾品で補っているような、華やかな女の子。
「何ー?」
「あのさー、クリスマスイヴの日、駅前でまゆかと一緒にいたのって、高科君?」
 女子たちの口から出た言葉は、思いがけないものだった。少なくとも、水姫にとっては。水姫の他にも、あの日、一緒にいる凛桜とまゆかを見た者がいたのか。そう思った瞬間、あの日見た、仲良く並ぶ二人の姿が唐突に思い出された。
 ずっと、考えないようにしていたはずなのに。
 少し緊張した女生徒の問いに、教室中の人間が聞き耳を立てるのがわかった。その手の話題には疎い朝緋でさえも。
 ―――否、朝緋が気にしているのは凛桜の返答ではなく、水姫の反応だ。
 クラス中が息を詰める中、そんなただならぬ気配を察しているのかいないのか、凛桜は常と変わらぬ態度であっさり答えた。
「イヴって24日ー?だったら多分そーだと思うけど、それがどーかした?」
「やっぱそうなんだー」
 きゃー、と何に対する歓声かわからない黄色い声が、教室のあちこちで上がる。ちょうどそのとき、もう一人の話題の人物が教室に入ってきた。まゆかだ。凛桜に尋ねた女生徒たちが、まゆかの元に駆け寄る。騒がしい教室の中で、やっぱり、とか、どうして、とか、いろんな言葉が水姫の頭の中を巡った。けれどふと、凛桜と目が合う。何か言おうとして、凛桜の唇がかすかに動いた。その瞬間、水姫は立ち上がる。それ以上、聞きたくなかった。凛桜の声も、真実も
「……あたし、トイレ行ってくる」
「え」
「ミナ!?」
 慌てたような朝緋と夏海の声が聞こえたが、かまわず立ち上がった水姫は、逃げるように教室を出た。あのまま教室にいたら、みっともない自分を晒してしまいそうだった。
 イヴの日、まゆかと一緒だったと答えた凛桜の表情は水姫からは見えなかった。けれどきっと、幸せそうな表情をしていたのだろう。彼は、幸せを手に入れたのだ。
 そのことが、どうしてこんなに苦しい?
(……ッあたしは)
 ずっと、考えないようにしていた。あの夜の告白のこと。あの日見た二人のこと。けれど考えないようにしていたということはいつも考えていたということと同じで、本当はただ、信じたかっただけなのだ。心のどこかでまだ期待していたのかもしれない。あんなの、見間違いだって。そんなわけないとわかっていても、凛桜が否定すればそれで信じられる気がした。
(なんで)
 嫌いだったはずの凛桜なのに。どうして今更離れていくことを寂しいだなんて思うの。
 嫌いじゃなくなった凛桜の幸せを、どうして祝ってあげられないの。
 どうして凛桜とまゆかが一緒にいるところと見て、嫌だなんて思った?
(まさか)
(そんなはずない)
(だって)
(でも)
 でも。
(―――すき、なのかもしれない)
 有り得ないと思っていたけれど、本当は最初から。
 だって水姫は、凛桜の「特別」になりたかった。
 嫌いだったんじゃない。他の子と同じように扱われることが嫌だったのだ。苛立っていたわけじゃない。凛桜にわかってもらえないことが、悔しかったのだ。遠ざけようとしても、どうしても無視できなかったのは、凛桜のことがすきだったからだ。
(……でも)
 今更気付いても、遅い。それに。
「高杉!!」
「―――ッ!?」
 いつの間にか耳障りではなくなった声に名前を呼ばれ、水姫は思わず振り返る。声を聞いただけですぐ、誰だかわかった。けれど顔を見ても信じられなかった。
 ―――どうして。
 どうして凛桜が追いかけてくるのだろう。
「急に教室出てくから、びっくりした」
「あ……」
「どしたの?何か、泣きそうな表情してる……」
「―――ッ」
 心配そうな表情の凛桜が、水姫の顔を覗き込む。真っ直ぐな、怖いくらい澄んだ凛桜の瞳に、水姫が映っている。あの夜と同じように。水姫にすきだと言ったときと同じ瞳で、凛桜が水姫を見ている。
 そんな瞳で凛桜が水姫を見つめるから、思い出してしまった。あの夜のこと。あの夜の気持ち。
 凛桜にすきだと言われて、戸惑っただけじゃない。嬉しいと思う気持ちも、確かにあったと言うこと。
 今更もう、遅いのに。
「……」
「高杉?」
「……てよ」
「え」
「もう、ほっといてよ!」
「たかす」
「あたしはまゆかみたいに可愛くないし素直じゃないし、自分でもわかってるよ!あたしみたいな女は、すぐ愛想つかされるって。プライドだけ高くて、変な意地ばっか張って。……でも、仕方ないじゃない!これがあたしなんだから!あたしはまゆかみたいにはれないんだから!!」
 素直で可愛くて弱くて、守ってもらえる女の子。羨ましいとは思わない。なりたいとも思わない。けれど時々、自分が惨めに思えて仕方なくなる。弱い女になりたくないけれど、かと言って今の自分が強いとも、好きだとも思えない。
 水姫は何が欲しかったのだろう。どうしてほしかったのだろう。
 みっともない姿を晒すのが嫌で教室を逃げ出したのに、結局一番見られたくなかった人に見せてしまった。凛桜をすきだと自覚した後では、余計に空しい。あと少し素直になれば、もう少し早ければ、きっといろんなことがうまくいったのに。いつもあと少しが足りなくて、どうしようもできなくなる。
 うつむいた水姫の上に、凛桜の声が降る。出逢った頃に比べて、随分と低く、男らしくなった声が。
「……なんでそんなこと言うんだよ」
 静かな声だった。いつもの騒がしい様子からは想像もできないほど真摯な声。
「なんでそんな風に『自分なんか』って言うんだよ。自分を傷付ける言葉を使うんだよ」
「だって……ッ。あたしはまゆかみたいにはなれないもの……ッ」
「当たり前じゃん。高杉は、高杉だ。他の誰でもない。他の誰にもなれない。ならなくていい。高杉は、高杉のままでいい。俺は、そのままの高杉がすきだ」
「……ッ」
 必死に言葉を募らせていた水姫は、凛桜の一言で息さえも失う。
 今、何て。
 何と言ったの?
「何……言ってるの……。あんた、今まゆかと付き合って……」
「は?俺が楢崎と?何のこと?」
 水姫の言葉に、凛桜は目を丸くする。その反応に、水姫の方が戸惑った。
「何のこと、って……」
「付き合うわけないじゃん。俺は高杉のことがすきなのに、なんで楢崎と付き合うんだよ」
「な……だ……だって……イヴの日……」
 クリスマスイヴ、まゆかと二人で歩いていた。以前、凛桜のことがすきだと言っていたまゆかと。だから二人は付き合い始めたのだと思った。
 けれど。
「さっき教室でしてた話?だったら高杉、何か勘違いしてない?楢崎とはあの日、偶然会っただけだよ。俺、イヴはサッカー部でパーティーしてたもん」
「……ッ」
 凛桜の目は嘘を言っているようには見えなかった。
 ばかみたいな、勘違いをした。
 二人が付き合っていると思い込んで、凛桜に八つ当たりした。
 恥ずかしくなって、逃げ出したくなった。
 逃げ出そうとした。
 けれど。
「待って」
「―――ッ」
 踵を返した瞬間、凛桜に手を掴まれる。
 これで、三度目。
 今度は逃げられなかった。
「……」
「高杉」
「……」
「今の、何?」
「……」
「なんでそんなに楢崎のこと気にすんの?なんでさっき、楢崎と一緒だったって言ったら教室出てっちゃったの?」
「……」
「俺、高杉の気持ちわかりたいから、ちゃんと考えるけどさ、でもやっぱ言ってくんなきゃわかんないよ。だから、教えてよ。高杉は俺のこと、どう想ってんの?」
「……あたしは」
「俺は、高杉がすきだよ。高杉に、俺のことすきになってほしいって思ってる。……傍にいてほしいって、思ってる」
「あたし……」
 ずっと、思っていた。
 凛桜のことが嫌いなのだと。
 けれど、違った。
 水姫は凛桜のことが嫌いだったんじゃなくて、凛桜に他の女の子と同じように扱われることが嫌だったのだ。
 頑なな水姫の中にあっさりと入ってきて、いつも水姫の心をかき回す凛桜。けれど水姫は、決して凛桜の心に触れられない。凛桜は、何物にも捕らわれず、花から花へと舞い遊ぶ蝶のように軽やかで自由だ。奔放な凛桜。誰にも歪められない、真っ直ぐな凛桜。誰にも凛桜をひとところに留めておくことなどできない。美袋にも。そのことが悔しかった―――否、寂しかった。
 本当は水姫は、凛桜の「特別」になりたかった。
 じゃぁ、凛桜の「特別」になった今は?
 水姫は今、凛桜に何を求める?


48 :緋桜 :2008/01/26(土) 01:38:10 ID:ommLPmsk

「……イヴの日、駅前でまゆかと一緒にいるとこを見たとき、すごく嫌だった。なんで、って。あたしのことすきって言ったくせにどうしてまゆかと一緒にいるの、って思った。……まゆかに、嫉妬した」
「それって……」
「でも!」
 心なしか弾んだ嬉しそうな凛桜の声が、心に突き刺さる。
 違うの。
 そうじゃないの。
 聞いていられなくて、水姫は思わず声を張り上げた。けれどそれは一瞬だけ。すぐに声は小さくなる。
「でも……だめなの……。高杉の気持ちには、応えられない」
「なんで」
「……」
「高杉」
 泣きたくなった。泣いていいはずがないと思った。
 凛桜の触れた指先が熱い。けれど同時に、凍えてしまっているように冷たくも感じた。
「すき、なのかもしれない。でも……」
「『でも』?」
「……」
「高杉」
「……忘れられない人がいるの」
「え……?」
「忘れたいのに、もうやめたいのに、どうしても考えちゃう。すきだって思っちゃう。高科のこと、すきなのに、その人のことの方がもっとすきなの……。こんな気持ちのまま、傍にいることなんてできない……っ」
 酷いことを言った。軽蔑されても怒られても、嫌われても仕方ないことを。やっと気付けたのに、差し出された手を自分から離そうとしている。
 水姫は夏枯草を思うことをやめられない。彼への想いはもう、純粋な恋心だけじゃなくなっている。羨望や嫉妬、欲、執着。そういった感情が混ざり合って、浄化されないまま、水姫の中に沈んでいる。苦しいだけの恋から抜け出せない。
 ばかみたいだ。
 でも、この男のほうがもっとばかだ。
「……いいよ、それでも」
「え……?」
「それが高杉の正直な気持ちだって言うんなら、俺、待つよ。高杉が俺のこと、ちゃんとすきになってくれるまで。……俺のことだけすきになってくれるまで」
「……何、言ってんの」
 尋ねたのは、凛桜の言っていることが理解できなかったからじゃない。できたからこそ、尋ねずにはいられなかった。
「自分が何言ってるか、わかってるの?なんでそんな……」
「すきだから」
「―――ッ」
「ほんの少しでも可能性があるならそれを信じて待てるくらい、高杉のことがすきだから」
 そんなことを何のためらいもなく言える凛桜を、怖いと思った。苛立ちや疎ましさを感じるよりも、ただ、怖いと。
 水姫はずっと、すきと言う言葉を簡単に口にできる人を疎ましく思う反面、羨ましくも思っていた。意地っ張りな水姫は、自分の気持ちを伝えることすら上手くできないから。
 でも違う。
 簡単なんかじゃなかった。
 だって水姫を見つめる凛桜の瞳は、思いつめたような光を孕んでいた。
「ね、高杉。他は要らないから。今はこれだけでいいから、傍にいてよ。……いさせてよ」
 懇願のようにそんなことを言った凛桜の手を、今度は振り払うことができなかった。
 震えていたのは、水姫の手か、凛桜の手か。
 それとも、そのどちらともだったのだろうか。

 


49 :緋桜 :2008/01/29(火) 20:33:04 ID:ommLPmsk

5.季節は廻る

「嘘吐き」
 掃除のあと手を洗っていると、いきなりそう言われた。驚いて振り向くと、同じように手を洗いに来たまゆかが水姫の後ろに立っていた。
「まゆか……」
「高科君のこと、すきじゃないって言ったくせに」
「……」
「嘘吐きだね、ミナちゃん」
 まゆかの「嘘吐き」とは凛桜のことなどすきではないと言ったくせに、結局凛桜と付き合い始めたことを言っているのだ。
 彼女も水姫と凛桜が付き合い始めたことを知っているのだろう。凛桜の告白を受け入れてから十日ほどの間に、噂は瞬く間に広がった。「あの」高科凛桜が付き合う相手を、彼のファンやサッカー部の上級生がひっきりなしに教室へ訪れては覗いて行ったのだから、同じクラスのまゆかが知らないわけがない。
 蛇口を捻る音が、廊下に響く。隣で手を洗うまゆかの顔を、水姫は見ることができなかった。水音と、石鹸の匂いがする。沈黙が怖くて、まゆかに何か言ってほしかった。けれど同時に、何を言われるのか怖いとも思った。
 水姫が息を詰める中、しかしまゆかは肩をすくめた。
「……何てね」
「え……」
「しょうがないよね、人の心は変わるんだし」
「まゆか……」
「昨日まで嫌いだった人のことすきになるとか、不思議だけど、おかしいことじゃないもんね」
 そう言いながら、泡を洗い流したまゆかは蛇口を捻って水を止める。その手は、かすかだけれど震えていた。
 何と言葉をかけていいのかわからず、水姫は口を噤む。こんなとき、震える手に、まゆかの複雑な心情を垣間見た気がした。
「……私も、変われるのかな……。高科君じゃない人のこと、すきになれるのかな……」
 俯いてしまったまゆか。泣いているのだろうか。けれど泣いているのだとしても、水姫はそのことを確かめる術を持たない。凛桜を恋いながらも、ほかの男と付き合ったまゆか。ほかの男と付き合いながらも、凛桜を忘れられなかったまゆか。
 彼女は、水姫にどこか似ている。
 そう言えば、まゆかは怒るだろうか。
「……まゆか」
「何?」
「……ごめんね」
 思わず口をついた言葉は、きっと正しくなかった。案の定、顔を上げたまゆかは形のよい眉をしかめた。
「……なんでミナちゃんが謝るのよ」
「……」
「謝んないでよ。これ以上、惨めになりたくないの」
 泣いているのかな、と思ったけれど、まゆかは泣いてはいなかった。きっぱりとした口調は、意地を張っているようにも、水姫を拒絶しているようにも聞こえた。
 可愛くて、甘え上手で、守られてばかりに見えるまゆかにだってきっと、プライドはある。人をすきになるにも恋を諦めるにも、きっと覚悟が要る。だから謝ることは、まゆかの覚悟に対しての侮辱にしかならないのかもしれない。
 それでも。
「……ごめん」
 他に言葉が見つからなかった。
 今度はまゆかも、何も言わなかった。

 


50 :緋桜 :2008/02/01(金) 19:39:52 ID:ommLPmsk

                                                 □■□■□

「やっべー!!忘れ物した!」
「え?」
「取ってくるからちょっと待ってて!!」
「ちょ、高科!?」
 靴箱が見えてきた瞬間いきなり声を上げて今来た道を一目散に逆走していく凛桜を、水姫は為す術無く見送る。程無くして階段を駆け上がる騒音が聞こえ、やがてそれも途切れる。一年生にしてサッカー部一の俊足を誇る凛桜だ。この分では教室まで行ってすぐに帰ってくるだろう。待っていろと言われた手前先に帰るわけにもいかず、水姫は溜息を吐きながらもとりあえず靴箱のところまで向かった。
 学年末のテストを明後日に控え、サッカー部もようやく活動停止となった。そのため、水姫は付き合いだしてから初めて凛桜と一緒に帰ることになった。一緒に帰ると言っても、二人とも寮生であり、しかも今はテスト期間中であるため寮まで真っ直ぐ帰る。学校、寮間の道のりなど十分もかからないほど短い。
 それでも凛桜が一緒に帰ろうと言ってくれたことは、素直に嬉しかった。
 付き合い始めたと言っても、二人の関係に今までと比べて劇的な変化は無かった。相変わらず凛桜はサッカー中心の毎日を送っているし、教室でも今まで通り友人たちとつるんでいる。それは照れているわけではなく、水姫に気を使ってくれているのだと思う。中途半端な答えしか出せなかった水姫を。
 あのときの言葉通り、凛桜は待ってくれている。水姫の気持ちの整理がつくまで。そして水姫もまた、このまま忘れていけたらと思う。このまま夏枯草に関わらずにいれば、凛桜と一緒にいれば、夏枯草のことを忘れて、凛桜だけをすきになれる気がした。
 ずるい考えかもしれない。けれど、きっとそれが一番いいのだ、とも思った。
「あ、高杉さん」
「廣瀬君……」
「何してるの?帰らないの?」
 茶色のチェックのマフラーを巻いた真樹が、靴箱で一人たたずむ水姫を見つけて、不思議そうに首を傾げた。けれどすぐ、何かに気付いたように薄い唇が「あ」の形になる。
「もしかして、凛桜待ってるの?」
「……うん……まぁ……」
「そっか」
 水姫の肯定に、真樹は大きな瞳を細めて微笑む。それを見て、水姫は落ち着かない気分になった。
 真樹は、きっと知っていた。あのとき泣いている水姫を見て、水姫の夏枯草への想いに気付いただろう。
 夏枯草のことを忘れると決めた。忘れたいと思った。でも今はまだ、中途半端だ。それなのに今、水姫は凛桜と付き合っている。そんな水姫のことを、真樹はどう思っているのだろう。
「うまくいってるみたいだね、凛桜と」
「……」
「安心した」
 昇降口から入り込んだ冬の風が頬を撫でる。ここ数日、雪は降っていない。雪が降れば寒さなんて気にならなくなるのに。凛桜も雪が好きだと言っていた。もっとも、彼の場合は雪合戦や雪だるまを作って遊ぶことが好きらしいが。らしいねと言って笑うと、凛桜も笑った。
 それくらいの話は、できるようになった。そのくらいのことは、知っていた。
「高杉さんが、凛桜の傍にいてくれてよかった」
 少女のような繊細な美貌に柔らかな微笑を浮かべながら、真樹はそんなことを言った。
 真樹は優しいけれど、嘘や世辞を言うような男ではない。だからこれは、真樹の本心なのだろう。
 けれど水姫の不安は消えない。凛桜と夏枯草の間で揺れている中途半端な水姫を、凛桜は受け入れてくれた。水姫の迷いごと受け止めて、傍にいてくれる。水姫はそれに甘えてしまう。けれど、凛桜だっていつまでも待ってはくれない。早くけじめをつけなければ、いつか愛想を尽かされてしまう。そんなの嫌だ。失いたくない。手放したくないものを、傍にいてほしい人をやっと見つけたのに。
 大切なものはひとつじゃなくてもいいと雪波は言った。でもやはり、一番大切なものはひとつでなければいけないと思う。
 だってそうでなければ、「特別」とは言えない。
「お待たせー!高杉!!」
 忘れ物を取りに行った凛桜が戻ってきた。走ってきたのか、うっすらと汗がにじんでいる。
「あっ、真樹も一緒だったんだ」
「うん。高杉さんが一人で寂しそうにしてたから、どうしたのかなーって」
「な……ッ」
「え、ごめん!!寂しかった!?」
「……ッ別に!」」
「えぇ〜?本当は〜?」
「〜〜〜どうでもいいでしょ!!そんなことより、汗かいてる!」
「えー?」
「この寒いのになんで汗かくの……」
「高杉に早く会いたかったからだよ!!」
「……ばか」
 ハンカチを取り出し、うっすらとにじんだ額の汗を拭いてやる。冬なのに日に焼けた凛桜の肌は、水姫とはまったく違った。
「……俺、もう帰るね」
「え」
「真樹も一緒に帰んねーの?」
「うん。何かもう心が寂しくなる……」
「は?」
「え?」
「じゃぁね……」
 ぽかんとする水姫と凛桜に手を振り、真樹は帰っていった。残された二人は顔を見合わせる。
「どうせ寮なんだから、一緒に行けばいいのに」
「ねぇ」
「まぁいっかー。俺らも帰ろ」
 そう言って凛桜は靴を上靴からスニーカーに履き替え、昇降口から出て行く。
 寒いなーと言って凛桜が笑うから、そうだね、と水姫も微笑んだ。


51 :緋桜 :2008/02/05(火) 23:16:19 ID:ommLPmsk

                                                 □■□■□

「さ〜む〜い〜」
「寒いって言うと余計寒くなるからやめて」
「って言うかもうそのやり取りから寒い」
「だって寒いんだもん!」
 ジャージの袖にすっぽり手を隠し、水姫は全身で寒さをアピールする。が、返ってきた二人の反応はそれこそ冬の風の如く冷たい。
 次の授業は体育であるため学校指定のジャージに着替えてグラウンドに出たのだが、二月下旬の寒さは、寒さに弱くしかも帰宅部で基礎体力の無い水姫には過酷すぎる。
「……こんな寒い日にマラソンとかあれだよね。これもう死ねって言う先生からのメッセージだよね。死刑宣告だよね」
「大げさな……」
「大げさじゃないよ!!いくつカイロ貼ってると思ってんの!?いくつカイロ貼っても寒いんですけど!!」
「走れば身体も温まるわよ」
「だから走りたくないの!って言うかなんで朝緋はそんな平気な表情してんの!?おかしいよ!!夏もぜんぜん暑さ感じてません、みたいな表情してるしさぁ!なんでなの!?」
「ミナ」
 完全に八つ当たりで文句を言う水姫を、言われた朝緋はじっと見つめる。
 朝緋はたぶん今まで水姫が会った中で一番の美少女で、見つめられると同性だと言うのになぜか緊張してしまう。いつに無く真剣な表情に戸惑っていると、誰もが認める美少女は。
「それは、気合よ」
 などとのたまった。
「気合があれば大抵のことは何とかなるわ」
「そんなばかな……」
 自身満々に言う朝緋に水姫は肩を落とす。それを見て夏海が「ミナの負けー」と笑っている。これがいったい何の勝負なのか、そもそも勝負だったのかすら謎だ。
 とりあえず勝負に負けたらしい水姫が二人とともにグラウンドへと向かおうとすると。
「相楽ー!!」
「何!?」
「誰!?」
柘植(つげ)先輩……?」
 グラウンドの向こう側から大声で誰かが朝緋の名前を呼ぶ。何事かと三人が思わず声のした方を見ると、そこにいたのは制服を来てマフラーを巻いて鞄を持った男子生徒だ。防寒対策バッチリの彼は、おそらく今登校してきたばかり、あるいは今から下校するのだろう。寒いのに見ていて暑苦しいくらいのテンションでこちらへ向かって走ってきている。
「誰……?」
「部活の先輩。男子陸上の三年生」
 名前を呼ばれた朝緋に尋ねると、簡潔な答えが返ってきた。
「相楽ー!!俺大学受かったー!!」
「ホントですか!?おめでとうございます!!」
 陸上部と言うだけあって、確かに柘植は足が速かった。一目散に朝緋に駆け寄り、顔を輝かせながら報告する。
「よかったじゃないですかー、奇跡ってほんとに起きるんですね!!」
「あっはっはー、もう今日は許す!!俺は今スゲー気分いいから許しちゃう!!」
 よほど興奮しているのか、柘植は周りの目をまったく気にしていない。本人の言うとおりひたすら上機嫌だ。
「先輩たちすごいですねー。続々と決まってって。後まだなのは……中村先輩とゆみ先輩だけですか?」
「や、あと夏枯草もまだだぜー」
 水姫は何の気なしに二人の会話を聞いていたが、突然柘植の口から夏枯草の名前が出てきたことで、大きく心臓が跳ねた。何の心の準備もしていなかったため、不意打ちもいいところだ。
「そうなんですか」
「おー。あいつ、彼女と同じ大学行くらしくてさー。どこだっけ、九州?の大学受けたんだってさ。しかも発表、卒業式の前日だって。大変だよなー」
 柘植はただ、部活の友人の進路を後輩に話しているだけで他意はないだろう。だが彼の話は、水姫に衝撃を与えるのに十分だった。
 今まで水姫は夏枯草の進路を気にしたことは無かった。いや、気にしないようにしていた。ただ漠然と、他の多くがそうであるように、都内の大学に行くのだと思っていた。東京に住んでいるのに地方の大学に行く人間は、あまりいない。
 それなのに、夏枯草は、九州の大学に行く?
 しかも、紗幸と二人で?
 ご機嫌な柘植はまだ朝緋と何か話していたが、水姫の耳には何も届かなかった、
 ただ、動悸が静まらなかった。
 卒業。
 それは、中学のときとはまったく違う意味を持って響いた。
 三年前は、卒業とは単に中等部から高等部に上がるということだけだった。時が経てば追いかけることができるし、待っていてくれる。けれど高校を卒業したらみんな、それぞれの道を行く。大部分は大学に行くが、それでも、同じ大学に行く人間など、数人しかいない。
 今度こそ、夏枯草がいなくなってしまう。
 たったそれだけのことが、水姫に衝撃をもたらした。

 


52 :緋桜 :2008/02/08(金) 22:53:28 ID:ommLPmsk

                                                 □■□■□

 九州と北海道って、どっちが遠いんだろう。
 中等部の修学旅行で行った北海道が、きっと今まで水姫にとっては一番遠い場所だった。飛行機で二時間程度。九州だと、どれくらいかかるのだろう。少なくとも、簡単に行ける距離ではない。
(……ばかみたい)
 こんなこと考えて、どうするつもりなのか。
 もう関係無いのに。だって水姫には、凛桜がいる。だから夏枯草のことも、もう忘れると決めたのだ。
 夏枯草が九州へ行こうと、それが紗幸と一緒だろうと、そんなの関係無い。そう思うのに、考えまいとすればするほど、夏枯草のことで頭がいっぱいになる。
「なー、高杉?」
「え?」
「『え?』って……聞いてなかったの?」
 凛桜に呼ばれた水姫は我に返り、今自分がいる場所が教室だと思い出す。今日は日直だったため、放課後、水姫は凛桜と一緒に教室に残っていた。二人は「高科」と「高杉」で出席番号が前後だった。掃除が終わった後日誌を付けている間、水姫の机に向かい合わせで座っていたのだが、凛桜の話をまったく聞いていなかった。
「何か今日、高杉ぼーっとしてね?」
「ごめん……。考え事してた……」
「考え事?」
「うん……。ごめん。何の話?」
 考え事、と言う単語に凛桜は少し引っかかったようだが、追及はしてこなかった。
「だから、俺来週から遠征に行くんだけど、何か土産で欲しい物ある?って訊いたの」
 気分を害した様子も無く、凛桜は無邪気に尋ねた。
「……別に……何でもいいよ」
「え……」
「日誌、書けたから職員室持ってくね。あとはやっておくから、高科はもう部活行っていいよ」
 そう言って水姫は机の上の荷物を鞄の中に詰める。
 自分でもそっけないとは思っているが、後ろめたくて凛桜の顔を見ることができなかった。凛桜はいつだって真っ直ぐに水姫のことを見つめてくれているのに。
 ちゃんとすきなのに、本当はもっと優しくしたいのに、凛桜と一緒にいると、罪悪感しか生まれなかった。
 だって凛桜といるのに、水姫は夏枯草のことばかり考えている。
「じゃぁ、また……」
「高杉!」
「―――ッ」
 立ち去ろうとした水姫の手を、凛桜が掴んだ。
 けれど水姫はその手を振り払った。
 無意識だった。
 けれど、凛桜を傷付けた。
 傷付いた表情で、凛桜は水姫を見ていた。
 どうしていつも、傷付けた後でしか気付けないのだろう。
「あ……」
「……」
「ごめ……」
 唇が震えて、上手く言葉にならなかった。
 凛桜が一度俯き、再び水姫を見つめる動作を、水姫はただ見ていることしかできなかった。
 痛いほどの沈黙を破って、凛桜が口を開く。
「……やっぱ、無理なのかな」
「え……」
「まだ、ダメなのかな……」
 凛桜の言ったことを水姫が理解する前に、凛桜は自分のスポーツバッグを取り、教室を出て行った。

 


53 :緋桜 :2008/02/12(火) 19:36:47 ID:ommLPmsk

                                                 □■□■□

 高等部の卒業式は、中等部よりも一週間早く行われる。センター試験が終わると三年生は自由登校となり、校内で見かける回数もめっきり減る。更に、二月が半分も過ぎると主役不在のまま校内は卒業ムードだ。三月に入り、卒業式を明日に控えた今日はなおのこと。学校全体が何となく感傷に浸っているみたいだ。
 部活動が盛んで、しかも生徒の半分が中等部からの持ち上がり組である翠蘭は、横だけでなく先輩後輩の縦のつながりも非常に強い。そのため、卒業式が近くなると卒業しないはずの在校生までもどことなく沈みがちになる。
 そんなどんよりとした雰囲気も、きっと卒業式が終わればすぐ元に戻るのだろうけれど。
 すすり泣く声を聞きながら、水姫は自販機で買ったホットココアで暖を取る。泣いている女生徒と、その背を撫でる女生徒の姿が見えた。卒業式を前に登校した三年生と鉢合わせ、感極まって泣いてしまったのだろう。慰めている女生徒は、青のネクタイをしていた。
 白い息を吐きながら、水姫は場所を移動する。美しい上下愛をこれ以上盗み見しては失礼だ。
 卒業式を翌日に控えた三月上旬の東京は、相変わらず今日も寒い。教室に戻れば暖房がかかっているけれど、何となく居づらくて出てきてしまった。授業合間の十分休みならまだしも、昼休みの45分をあの教室で過ごすのは、息が詰まりそうだ。
 教室での一見以来、水姫と凛桜の間に再び流れ始めた不協和音。きっと、気付く人は気付いている。たとえば真樹とか、たとえば朝緋とか。
 あの日、水姫は凛桜の手を振り払った。けれどそれは別に拒絶したわけではなく、本当にただ驚いただけだった。けれどそれを上手く伝えられるかわからないし、何より水姫が凛桜を傷付けてしまったと言うことは変わらない。
 あれほど大騒ぎして付き合うようになったのに、終わりはあっけないほど簡単に訪れた。
 もうだめなのかと呟いた凛桜に、水姫は何も返せなかった。
 終わりにしたくなかった。失いたくなかった。けれどあれ以上、凛桜の傍にいることもできなかった。
 忘れたいと思った。忘れようとした。忘れられると思った。
 けれど現実はどうだろう。
 実際には、夏枯草の名前を聞いただけで簡単に揺れてしまった。水姫のことを一番に考えてくれる凛桜よりも、夏枯草のことばかり考えていた。
 凛桜は水姫を信じて待ってくれているのに、酷い裏切りだ。
 けれど凛桜から離れたのは、凛桜のためじゃない。自分のためだ。夏枯草を想いながら凛桜に愛されることの罪悪感に、これ以上耐えられなくなっただけ。
 いつだって、水姫は自分のことばかりだ。
 自己嫌悪に陥ることもいい加減飽きてしまったのに、後悔が尽きない。
 再度溜息を吐きながら、水姫は廊下を歩いた。昼休みが終わるまでまだしばらくある。これからどこで時間を潰そうか。そう考えていると、水姫を呼ぶ声が聞こえた。
「水姫ちゃん!」
 水姫のことをそう呼ぶのは、夏枯草だけだった。けれどこの声は、どう考えても夏枯草のものではない。夏枯草よりも高い、少女のものだ。
 嫌な予感がした。
 振り向いて水姫は、その予感が当たっていたことを確信する。
「……大楠さん」
「久しぶりー」
 無邪気に笑う紗幸は、水姫よりも二つも年上だなんて思えない。紺のダッフルコートを着て赤のストライプのマフラーを巻いた紗幸が、大きく手を振りながら水姫の方に走ってきていた。
 彼女の言うとおり、紗幸と話すのはかなり久しぶりだ。と、言うか、これでまだ二度目だった。春の終わりに夏枯草の恋人だと紹介されて以来、一方的に見かけることはあっても、言葉を交わすことは無かった。水姫はずっと、彼女を避けていた。
「……お久しぶりです」
「って言うか、あたしのこと覚えてくれてるー?」
「……はい」
「本当!?」
 嬉しいなーと言って笑う紗幸は、どこまでも無邪気だ。夏枯草はこの無邪気さに惹かれたのだろうか。だとしたら、水姫ではだめなはずだ。
「ごめんねー、いきなり。でもあたし、今ちょーテンション高くてさ!もー会う人みんなに報告したい気分だったの!!」
「……何かあったんですか?」
「受かったの大学!!合格通知今日届いてさー、これでもう灰色の受験地獄とはさよならだー!!」
 THE☆開放感!と浮かれる紗幸の言葉に、水姫は自分の心臓が大きく跳ねた心地がした。
 朝緋の先輩が、今日は夏枯草と紗幸の大学の合格発表の日だと言っていた。二人が同じ大学を受けるのだ、とも。
「……おめでとうございます」
「ありがとー」
「……夏枯草先輩も、受かったんですか……?」
 消え入りそうな声を絞り出したように問うと、紗幸は軽く目を見張った後、笑った。
「うん!受かったってー」
「……そう、ですか」
「水姫ちゃん、あたしたちが同じ大学に行くの知ってたんだ。夏枯草君から聞いたの?」
「……いえ……」
 じゃぁ誰から聞いたの?と尋ねる紗幸には答えず、水姫は別の問いを口に乗せる。
「……そんなに、一緒にいたいんですか?」
「え?」
「大学とか、進路とかわざわざ一緒にするくらい、先輩のことすきなんですか?」
「水姫ちゃん……?」
「どうして、先輩のことすきなんですか?大楠さんは先輩の何を知ってるんですか?先輩が昔、誰をすきだったか、どんな恋をしていたか、全部知っててすきになったんですか?先輩の全部を知ってて、その上ですきだって言ってるんですか?」
 くだらない問いだと思った。紗幸も、困惑したような表情で水姫を見つめている。
 けれど、問わずに入られなかった。きっと、紗幸にも夏枯草にも水姫はもう会えないのだから。
 明日の卒業式が終われば、退寮式までに夏枯草は寮を出る。そうすれば、水姫は夏枯草には会えない。東京と九州は、そう簡単に会える距離ではない。理由がなければなおのこと。会うための理由も必要性も、二人の間には何も無かった。結局二人の間には、何も残らなかった。
 けれど二人は、夏枯草と紗幸は、これからもずっと一緒にいる。水姫の知らない場所で、二人の時間を過ごす。紗幸はこれからもずっと、夏枯草を独り占めできる。
 ずるいと思った。
 水姫にはそんことを思う権利なんて無いのに。
 紗幸が、夏枯草の何を知っているというのか。彼が以前、雪波をすきだったと知っているのか。知った上で、夏枯草のことをすきだと言えるのか。
 そんなくだらないことを考えた。
 やがて困惑していた紗幸が、そっと口を開く。
「……水姫ちゃんは、夏枯草君のことがすきなんだね」
「……ッ」
「だから夏枯草君が遠くに行っちゃうの、寂しいんだね」
 思いがけないことを言われ、水姫は言葉を失う。そして理解した瞬間、顔が一気に熱くなる。
 どうして想い人の恋人に、ずっと秘めていた恋心を言い当てられなければいけないのか。あまりにも惨めだ。
 そのとき紗幸がどんな表情をしていたのか水姫は知らない。恥ずかしくて、消えてしまいたくて、顔を背けていたからだ。
「……違います」
「……」
「先輩のことなんて、すきじゃないです。だって、あたしは……」
 凛桜のことがすきだから。
 そう言って否定することも、今の水姫にはできなかった。
 夏枯草のことも凛桜のことも胸を張ってすきだとは言えない、中途半端な自分に心底嫌気が差した。
「……水姫ちゃん」
「……」
「あたしたちが同じ大学行くのは、約束とか一緒にいようねって示し合わせたからじゃないよ」
「え……」
「本当に偶然だったの。ギリギリまでお互いの進路言わなかったから」
 だから同じ大学だって知って、すごく嬉しかったよ、と紗幸は言った。思わず紗幸を見つめるが、嘘を吐いているようには見えなかった。
「……夏枯草君ね、付き合う前、初めてすきだって言ってくれたとき、言ったの。自分は『普通』じゃないから、すきって言ったらあたしは困るよ、って。そんなことない、どうしてそんなこと言うのって訊いても、何も答えてくれなかった。
 夏枯草君がどうしてそんなこと言うのかわかんなかった。だって夏枯草君、何も教えてくれないんだもの」
 夏枯草の過去を、紗幸は何も知らない。その事実が水姫に与えたのは優越感なんかじゃなかった。
「夏枯草君の全部がすき、なんて言えない。まだ知らないとこいっぱいある。知っても、全部受け止められるかどうかわかんんない。
 でも、これからもずっと一緒にいられるってわかって嬉しかった。一緒にいたいって、思った。知らなくても、わかんなくても傍にいたいの」
「そんなの……ッ」
 ずるい。
 すべてを受け入れられるわけじゃないのに傍にいたいなんて。水姫なら、全部受け止めてあげられるのに。雪波をすきだった過去も、これからも。
 すべてを知った上で、夏枯草のことをすきになったんだから。
 けれど夏枯草がそれを望んでいないのなら、水姫のひとりよがりでしかない。
「ねぇ、水姫ちゃん。多分さ、みんないろんなことを抱えて生きてるよ。これまでも、子どもみたいな恋かもしれないけど、一生懸命恋をしてきたよ。今の恋が大切だからって、それまでの恋、否定する必要なんて無いよ」
「……」
「少なくとも、あたしはそう思う」
 そう言った紗幸は、話せて嬉しかったよ、と言って去っていった。紗幸は、きっと今の恋と同じくらい過去の恋を大切にしている。
 自分のそれだけでなく、他人の恋も。きっと夏枯草の過去の恋を知っても、彼女は夏枯草を拒絶しないだろう。同性愛と言う特殊な恋愛を受け入れることはできなくても、ちゃんと考えて、理解しようとして、その上で夏枯草に寄り添うのだろう。一番難しくて、一番大切なことが彼女にはきっとできる。
 水姫にはできないのに。
 過去の恋にしがみついて、踏み出せない、進めない水姫。
 今の恋も過去の恋も大切にできず何も掴めない。
 紗幸が去った後も、しばらく、昼休み終了のチャイムが鳴るまで水姫は立ちすくんでいた。
 温かかったはずのミルクティは、いつの間にか冷え切ってしまっていた。


54 :緋桜 :2008/02/15(金) 19:30:37 ID:ommLPmsk

                                                 □■□■□

 ベッドの中で丸くなっていた水姫は、枕元に置いてあった携帯電話で時刻を確認する。
 朝からずっと枕元で存在を主張していた携帯電話。ひっきりなしに光っては震えていたそれが、ここ三十分ほど静かだ。それは着信履歴に残された名前の主たちが諦めたからではなく、おそらく電話をかけられない状況にあるためだろう。
 すなわち、卒業式が始まったのだ。
 ならば在校生である水姫も、こんなところで丸くなっていないで卒業式に出席しなくてはいけない。在校生には卒業生を送り出す義務がある。翠蘭の卒業式は、二年生だけでなく一年生を含む全校生徒が出席する。
 だが水姫はいつもどおりの時間に起きたにもかかわらず、どうしても式場に向かうことができなくて、こうしてベッドの中にいた。
 気分が悪いから休みたい、と言うと、ルームメイトは心配しながらも登校していった。水姫の言葉をすんなりと信じた友人に、罪悪感を覚えた。
 気分が悪いなんて嘘だ。見たくなかっただけだ。卒業していく夏枯草の姿を。
 水姫がどんなにあがいても現実は何も変わらないのに、三年前、どうやって夏枯草を見送ったのか、もうわからない。
 どうしてこんなにすきなのかわからない。
 諦めれば楽になれることはわかっているのに、どうして抜け出せないのだろう。
 もう何も考えたくなくて、水姫は枕に顔を押し付ける。
 そのとき。
「高杉!!」
「!?」
 部屋のドアがいきなり開いた。入ってきたのは、ルームメイトの女生徒ではなく、凛桜だった。
 どうして凛桜がこんなところにいるのか。
 卒業式は、学校はどうしたのだろうか。
 ―――否、どうして今更、凛桜が水姫の元へ来るのか、水姫にはわからなかった。
 酷いことを言ったのに、酷いことをしたのに。
「た……高科……」
 毎日顔を合わせているのに、こうして凛桜と向き合うのは、酷く久しぶりな気がした。教室での一件以来、水姫は凛桜を避けていた。今更何を言えばいいのかわからなかった。
「か……勝手に入ってこないでよ……ッ」
「何してんだよ、こんなところで」
「何……」
 突然入ってきた凛桜は、ベッドの上で半身を起こす水姫に詰め寄る。凛桜こそ、学校は、卒業式はどうしたのか。そんなことを考える余裕すらもう無い。
「行かなくていいのかよ!!先輩、卒業しちゃうんだろ!?もう会えなくなるんだぞ!!」
「……ッ」
 凛桜の言葉に、呼吸(いき)が止まる心地がした。
 どうしてそんな、当たり前のことを言うの。凛桜はいつも水姫が目をそらそうとばかりしている現実を突きつけてくる。
「そんなの……っ。あんたに関係無いじゃない!!」
「あるよ!!だって俺、高杉のことすきだもん!!」
「……ッ」
「だから高杉が悲しい顔してんのなんて見たくない!!高杉が俺以外の人のこと考えてるなんて嫌だけど、高杉が苦しんでんのに何もしてやれないのはもっと嫌だ!!」
 いつだって凛桜は真っ直ぐで、いつだって正直に自分の気持ちが言える。だから水姫は、いつだって凛桜のことを信じることができる。同じように凛桜も水姫のことを信じてくれる。逃げてばかりいる水姫なのに、真っ直ぐにぶつかってくれる。そんな凛桜だからこそ疎ましく思い、羨ましく思い、すきだと思った。
「俺はこれからずっと高杉と一緒にいる。もっと俺のことすきになってもらう。
 でも、あの人とはもう今日で会えないんだろ!?最後なんだろ!?だったら言えよ!!ちゃんと、自分の気持ち伝えろよ!!
 ……すきだったんだろ!?」
 初めて会ったときから、ずっと。
 全部、すきだった。
 夏枯草の初恋が終わりを告げても、会えない時間が二人の関係を少しずつ変えてしまっても、ただ、すきだった。誰にも負けないくらい。誰の想いとも、比べられないくらい。時間は、距離は、何も解決してくれない。会えないからと言って、離れたからと言って、忘れられるわけじゃない。水姫はもう、そのことを知っている。
 だから。
「行こう!」
 水姫のために差し出された手をとって走り出す。
 綺麗じゃなくてもいい。どんな形でも、時間がかかっても、いつか想い出にできるように。


55 :緋桜 :2008/02/26(火) 17:47:02 ID:PmQHunWc

                                                 □■□■□

 二人が学校に着くと、卒業式後のホームルームももう終わっていた。中庭では、卒業生や在校生が入り乱れて写真を取っていた。その中に、夏枯草を見つけた。
「ミナ!?」
 最初に水姫に気付いたのは、夏枯草の近くにいた朝緋だった。陸上部で集まって写真を撮っていたのだろう。輪の中には輝や柘植の姿もあった。
「どうしたの?今日、具合悪くて休んでたんじゃないの?」
「……うん……」
「高科君どこ行ってたの?急にいなくなって、先生怒ってたよ」
「あはは」
「あははじゃないよ!」
 笑ってごまかそうとする凛桜に、朝緋は呆れたように肩を落とす。
 朝緋の話によると、卒業式が終わって教室に戻る途中に凛桜は突然逃走したらしい。凛桜は何も言わなかったけれど、それはすべて水姫のためだった。
「高杉」
「……」
「行ってきなよ」
 凛桜が水姫を促す。それは突き放すようなものではなく、そっと背中を押すように優しい声だった。
「ミナ……?」
「いいんだ」
「え……?」
 不思議そうに目を瞬かせる朝緋と、それに少し困ったように笑い返す凛桜をその場に残し、水姫は夏枯草に近付く。
 文化祭の夜以来、夏枯草とは話していない。水姫は逃げてばかりいた。あの頃から、三年前から、何も変わっていなかった。
「……先輩」
 呼ぶと、振り向いてくれる。いつだって夏枯草は、水姫のことをちゃんと見つけてくれる。四年前の入学式、水姫に気付いたのも、夏枯草の方が先だった。
「水姫ちゃん」
「卒業、おめでとうございます」
 夏枯草は目を見張った後、小さく微笑み、ありがとう、と言った。
「今、お話いいですか?」
「……うん」
 まるで水姫がそう言うことをわかっていたかのように、夏枯草は頷いた。何お前浮気ー?彼女に言いつけるぞーと笑う友人に苦笑気味に手を振り、夏枯草は水姫の後に続く。三年前と、まるで一緒だ。人の輪から離れながら、水姫は思った。
「何?話って」
 そうやって促す夏枯草も、これから返す水姫の言葉も。
 四年前の桜の中、水姫は夏枯草に出逢った。あの頃夏枯草は今よりずっと背が低くて、水姫も髪が短かった。だから夏枯草は水姫に気付いた。水姫を雪波だと思って驚いていた。

 『せんぱい?』

 そう呟いた今よりずっと高い夏枯草の声を、水姫はまだ覚えている。
 出会って四年。過ごした時間はもっと短い。交わした言葉も、きっと普通の友人よりももっと少ない。
 けれどそれでも、すきだった。
 交わした言葉も過ごした時間も、全部大切で、宝物だった。
 だから三年前告げた言葉を今、もう一度伝えたい。
 あの頃とは違う気持ちで。
 本当の言葉を。
「私……先輩のことすきでした。初めて会ったときから、ずっと。お兄ちゃんとは関係なく、ずっと先輩のこと、すきでした……」
 言えなかったことも、言わなきゃいけないことも、きっともっとあった。でも夏枯草を前にしたら何も言えなくなった。
 これで最後なのに、否、最後だと思うと余計に言葉が見つからない。胸がいっぱいになる。
 だからせめて最後に、これだけは言いたい。
 これだけは伝えなくちゃいけない。
「だから……祈ってます。先輩の幸せ。どこにいても、先輩が幸せであるように……」
 告げると、夏枯草は驚いたように目を見張った。けれどそれは一瞬のこと。すぐに笑みを浮かべた。
 いつものように切なげな笑みではなく、かといってそれは紗幸や雪波に向けていたものでもない。
 水姫を真っ直ぐに見つめる、優しい笑顔だった。
「……ありがとう」
 そう言って、夏枯草は手を差し出す。三年前のあの人同じように。そして水姫も、その手を握り返した。
「君に逢えてよかった」
「……先輩……」
「ありがとう」
 そう言って微笑む夏枯草を見て、水姫はなぜだか泣きたくなった。
 けれどその涙は決して、悲しみから生まれたものではなかった。
「俺も、祈ってる。水姫ちゃんの幸せ。君が、君だけの幸せをつかめるように」
 もう二度と会えなくても、こうして言葉を交わすことが叶わなくても。
 過ごした日々を忘れない。
 そう、誓った。

 


56 :緋桜 :2008/05/01(木) 20:57:44 ID:ommLPmsk

                                                 □■□■□

 夏枯草と別れた水姫は、輪に戻っていく夏枯草の姿を見つめていた。今度は夏枯草も振り向かない。
 間違いだらけの、辻褄合わせの恋だったけれど。出逢わなければよかった、と思うときもあったけれど。
 彼に出会えた軌跡に感謝する気持ちは、嘘ではない。
 だがふと、視線を感じる。見ると、凛桜がじっとこちらを見ていた。目が合うと、複雑な表情をしたまま凛桜が近付いて来た。
「……」
「……高科」
「……ちょっと妬けた」
「……」
 拗ねたように唇を尖らせる凛桜に何と言えばいいかわからなかった。「ありがとう」ではおかしい、ましてや「ごめん」も違う気がした
「高杉」
 何と言えばいいのかわからず黙ったまま俯いていると、笑みの滲む声で名前を呼ばれる。機嫌は直ったのだろうか。そう思って顔を上げると、そのまま唇に柔らかいものが触れた。
「な……ッ」
 それが凛桜の唇だと気付き、水姫は慌てて手で唇を覆う。対照的に凛桜は、悪戯が成功した子どものように、にんまりと口の端を上げていた。
「すきだよ、高杉」
「……高科」
「だからもう、遠慮しないから」
 そう言って凛桜は無邪気に笑った。


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甘辛流小説家ギルドGAIA
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