先生と僕


1 :緋桜 :2007/03/04(日) 01:08:28 ID:PmQHunWc

 始めまして、緋桜と申します。
この小説は男女三人(四人?)がいろいろどろどろうやうややってる感じのお話です。
かなり殺伐としているうえ同性愛・性的描写も(そのうち)含まれる(かも)しれないので、苦手な方はご注意ください。


2 :緋桜 :2007/03/04(日) 01:09:48 ID:PmQHunWc

T.

 夏休みが明けて数日。部活を引退してしまうと、やることがなくて暇だ。否、やることはきっとたくさんある。たとえば九月末から始まる中間テストの勉強とか、たとえば10月中旬にある模試の勉強とか、たとえば三年生になると同時にやたらと目の前でちらついている高校受験の勉強とか。
 でも璃紅はそれらに対するやる気がどうしても出なかった。かと言って、夏休みに友人とうんざりするほど遊んだから今更学校帰りに寄り道する気にもなれず、真っ直ぐ帰った。
 三年生になって付き合い始めた彼女もいるにはいるが、夏休み中まったく連絡をとらなかった。隣のクラスの子で、学年でも三本の指に入るほどの美少女だ。告白されて付き合うようになったのだが、まだキスどころか手すら繋いでいない。一学期の間は部活が忙しく、デートも一度もしていない。このままメールも電話もしなければ、自然に終わってしまうのだろう。
 別に、それでもかまわないと思った。
 告白されたことは嬉しかったし、多少なりともすきだと思ったからこそ付き合うことにしたのだけれど、追いかけてまで自分の元に繋ぎとめておきたいわけではない。十年来の幼馴染にそれを言うと、あんたサイテーだね、と言って笑われた。幼馴染はいつも璃紅(りく)の言うことを、否定するかのように笑う。
 歩いていくには億劫で、自転車で行くには近すぎる道を璃紅は歩いて帰る。徒歩十五分という距離は、歩くという行為自体はなんともない。ただ、教科書の入った鞄が重いだけで。毎日持ち歩いたスポーツバッグは、中学最後の総体が終わると同時に姿を消し、代わりに学生鞄の中に詰め込む教科書の量が増えた。ただそれらが自宅で開かれることはなく、毎日璃紅とともに学校、自宅間を往復しているだけなのだが。
 家に着くと、まだ四時半にもなっていなかった。こんな時間に家にいるのは本当に久しぶりだ。築三十年の古い家の扉を開く。生前祖父が建てたというこの家は都内では珍しい一戸建てで、母と姉と祖母と璃紅の四人で住むには広すぎるくらいだった。父は璃紅が生まれる前に他界し、一緒に暮らしていた祖父も、璃紅が小学校に上がった歳に亡くなった。二人とも、同じ病気だった。この家の男はみんな早世なのかねぇと、璃紅を膝に乗せた母の隣で祖母は呟いた。そのときは祖母が何のことを言っているのかわからなかったが、成長するにつれて「早世」の意味も自分が「この家の男」であることもわかるようになった


3 :緋桜 :2007/03/04(日) 18:35:00 ID:PmQHunWe

「ただいま」
 返事がないことはわかっていたが、玄関の戸を閉めながら璃紅は言う。この時間、いつもなら母は仕事に出ていて祖母は離れにある自分の部屋にこもって書を書いている。母方の家は代々書道家の家系であり、母もまた、書の師範をして生計を立てていた。
 だが、今日は違う。玄関には明らかに女物ではない革靴がきちんとそろえて並べられ、居間から母と知らない男の談笑が聞こえる。こんな時間に、母と男が?不審に思った璃紅は、恐る恐る居間の扉を開ける。
 祖父のこだわりだったという純和風な部屋の中心には、母と、二十歳過ぎぐらいの若い男が向かい合って座っていた。
 楽しげに笑っていた母が璃紅に気付き、手招きする。
「あら、お帰り璃紅君。ちょっとこっちいらっしゃい」
「弟さんですか?」
「えぇ。二つ下の。
 璃紅君、ご挨拶なさい。今日からお姉ちゃんの家庭教師をしてくださることになった鴫宮(しぎみや)先生よ」
「始めまして、璃紅君。鴫宮緋雨(ひさめ)です」
 そう言って微笑んだその人の表情はとても綺麗で、とても優しくて。
 その瞬間、璃紅は呼吸をすることさえ忘れ、彼の微笑に目を奪われた。


4 :緋桜 :2007/03/05(月) 22:04:43 ID:PmQHunWD

 鴫宮緋雨は璃紅よりも六つ年上で、今、T大の三年生らしい。
 あの後すぐに帰ってきた姉とともに鴫宮緋雨は二時間みっちり部屋にこもり、七時から一緒に夕飯を食べた。あんな時間に母が家にいるなんて珍しいと思ったが、いわく「今日は始めて先生が来る日だから特別」だそうだ。この若い家庭教師を、母は非常に気に入ったようだ。歳のわりに落ち着いて理知的な青年は、四十路過ぎの女の話もいちいち耳を傾け、穏やかな笑みを浮かべていた。T大生なんて言うからどんな堅物で厭味なエリートなのかと思ったのに、紳士的で、柔らかに笑う人だった。
 夕食後、璃紅は駅まで鴫宮緋雨を送っていくことになった。「璃紅君はどうせ家にいたってテレビ見てるだけでしょ」。決め付けたような母の言い方にカチンときたが、鴫宮緋雨と二人きりになれるのは嬉しかった。
 その理由は、よくわからなかったけれど。
「璃紅君は、今中学生?」
「……はい」
「若いなぁ。凛々(りり)ちゃんの二つ下ってことは、中学三年生?その頃って僕、何してたっけ」
 微笑みながら髪を耳にかける指が、とても綺麗だと思った。
 「綺麗」なんて大人の男に対する褒め言葉じゃないし、鴫宮緋雨の容姿のどこにも女性的なところなんてないのに、そう思った。
「そういえば、璃紅君は家庭教師つけてもらってないの?中三ってことは、今年高校受験だよね?あ、塾に行ってるとか?」
「……」
「でも凛々ちゃんは塾にも行ってるよね?」
 やはり微笑みながら、鴫宮緋雨は尋ねる。
 何気ない鴫宮緋雨の問いに、璃紅は唇を噛んだ。
「……」
「璃紅君?」
「……俺は、姉貴みたいには期待されてませんから」
「え?」
 姉は、何でもできた。美人で賢くて優しくて、母の期待通り、県下一の進学校にトップで入学した。けれど勉強の虫というわけではなく、明るく快活な人柄で、運動神経もよかった。姉は、何でも持っていた。
 一方、璃紅はどうだろう。
 姉が滑り止めで受けた高校も夏休み前の三者面談で無理だといわれ、部活だって、三年になってようやくレギュラーになれたものの、市の大会でベスト8止まりで。姉とはまったく違う、「だめな弟」。できの悪い弟に、母も次第に興味を失っていった。
「昔はまだ……期待されてて、それに応えようとした頃もあったけど……」
 日に日に感じるようになった。母の関心が姉一人に向けられるようになるのを。今はもう母は、璃紅に何の期待もしていない。
 『やっぱり璃紅はダメね。凛々とは全然違うわ。彼にも私にもちっとも似てない。どうしてあんな子が生まれたのかしら』
 祖父に言っている母の姿を見たことがあった。母に悪気はなかったのだろう。嘆くわけでも悲しむわけでもなく、本当に不思議そうな表情だった。祖父に咎められても、「あら、本当じゃない」とけろりとしていた。
 嫌われているわけではない。ただ無関心なだけで。
 けれど璃紅は知っている。
 愛情の反対は嫌悪ではない。
 愛情の対義語は、「無関心」だ。
 どこかひとつでも父に似ているところがあれば、愛してもらえたのだろうか。
 そんなことを考えたのは、もう何年も前のことになる。
「母さんは、俺のことなんてどうでもいいんです。期待なんてしてないし、感心もない。……そう言う人なんです」
 璃紅もきっと、母のことなどどうでもいいのだ。何とかして母の愛を得ようとするほど子どもではないし、愛してもらえる保証もないのに愛せるほど大人でもない。昔から、諦めのいい子どもだった。何でも持っている姉の隣で、何も与えられず、生きてきたから。
 鴫宮緋雨は何も言わない。
 彼のような人からしてみれば、こんなの、拗ねた子供が駄々をこねているだけにしか聞こえないのだろうか。


5 :緋桜 :2007/03/06(火) 21:52:22 ID:PmQHunWD

 おそるおそる鴫宮緋雨の方を見ると、鴫宮緋雨も璃紅を見つめていた。
 頭ひとつ分背の高い鴫宮緋雨と目が合い、璃紅は自分の頬が熱くなるのを感じ、慌てて顔を背けた。
 夜でよかった。紅くなった顔を見られずにすむから。
 どうしてこんなにどきどきするのだろう。男同士なのに。こんなの、おかしい。けれど動悸は静まらない。
 何か言って欲しいと思ったし、このまま沈黙に身を委ねたいとも思った。それはきっと、璃紅を見つめる鴫宮緋雨の表情が、とても優しかったから。璃紅は今まで誰にもこんな風に見つめられたことなんてない。
 鴫宮緋雨の足が、不意に止まる。璃紅も慌てて立ち止まった。
「……」
 鴫宮緋雨は手を伸ばし、そっと璃紅の頭に触れる。そして一言、そっか、と呟いた。
「哀しいね」
「……ッ」
「璃紅君、こんなに頑張ってるのに。わかってもらえないの、寂しいね」
 そんな、こと。
 言ってくれる人、今まで一人もいなかった。璃紅の気持ちをわかってくれる人なんてどこにもいないのだと、勝手に思っていた。
 でも。
 わかってくれた。
 鴫宮緋雨が驚いたように少し目を見張る。けれど俯いて涙を流す璃紅はそれに気付かない。
「……」
 璃紅に触れた鴫宮緋雨の手が、そっと動く。頭を撫でられるなんて、何年ぶりだろう。まるで子ども扱いだ。でも、ちっとも嫌じゃなかった。心地よかった。
「……よく、頑張ったね」
 たったそれだけの言葉で満たされていく。優しくして欲しいとか、愛して欲しいとか、そんなことを願っていたわけじゃない。ただ璃紅は、肯定の言葉が欲しかっただけ。
 毎日聞かされる否定の中で、鴫宮緋雨の言葉は、まるでたったひとつの宝物みたいにきらきらしていた。

 その日から、鴫宮緋雨は璃紅の特別になった。


6 :緋桜 :2007/03/09(金) 14:01:01 ID:PmQHsLm3

U.

 中間テストが終わり、結果の記された成績表が返ってきた。それを見て、璃紅は軽く目を見張る。
「あれ、璃紅ってば結構上がってるじゃん」
「!!鷹野(たかの)!!」
 思いのほかよかった成績に驚きながらもこっそり喜んでいると、成績表をひょいと奪われる。とったのは、クラスメイトの紗七(さな)だった。紗七は成績優秀でその上学年一と評判の美人なのに、変人だった。彼女とは十年来の幼馴染でもある。
「何?夏休み中佳織(かおり)ちゃんをほったらかしにして、一人勉強してたわけ?やな男ー」
「そんなんじゃねぇよ!!返せ!!つーかなんでお前がそんなこと知ってんだよ!?」
「佳織ちゃん紹介したの、誰だっけ?」
 切れ長の目を細め、紗七はにやりと笑う。璃紅は紗七のその笑顔が嫌いだった。「底意地の悪い」笑みを浮かべても、紗七の美貌が少しも崩れないことも、璃紅を苛立たせていた。
 紗七は、綺麗だ。けれど容姿の美しさに反比例するかのように性格が悪い。佳織との仲を取り持ったのも、璃紅のためではない。紗七は、傷付く璃紅が見たいのだ。
 初めて彼女ができたのは、中学二年の夏だった。紗七に呼び出され、けれど向かった先で待っていたのは見知らぬ女子。そしてその子に告白された。その子が紗七に璃紅を呼び出すよう頼んだのだと言う。その三日前、璃紅が紗七に告白したにもかかわらず。
 恥ずかしくて情けなくて、半ば紗七への当てつけのように付き合い始めたその子とは、結局一月も経たぬうちに別れた。
 あれ以来、璃紅は告白について一度も触れていない。紗七も何も言ってこない。何事もなかったように璃紅に笑いかけ、璃紅を笑う。
 それが、何よりの答えだった。
「……うるさいな、関係ないだろ」
 成績表を奪い返すと、紗七は軽く肩をすくめた。仕方ないな、とでも言いたげに。
 軽く扱われているような、あしらわれているような気がして、璃紅は顔を背ける。
 あんなことをされた今では、紗七に対する恋愛感情はもうない。けれど未だに璃紅は、紗七の行動一つ一つに振り回されている。
 恋心はないはずなのに、璃紅は紗七を拒めない。
 それでも紗七を「鷹野」と苗字で呼ぶようになったのは、璃紅の意地だった。もう昔と同じではないのだと、主張したかったのかもしれない。それに気付いているのかいないのか、紗七はいつも微笑むだけで何も言わないのだけれど。


7 :緋桜 :2007/03/10(土) 17:36:25 ID:PmQHsLm3

 璃紅の姉、凛々は電車で一時間かけて高校に通っている。家庭教師は五時半から菜々時半までの一時間半だったが、間に合わないときの方が多い。そんな時、緋雨はいつも凛々が帰ってくるまで璃紅と一緒にいてくれる。璃紅の勉強を見てくれるときもあれば、勉強とまったく関係のない話を聞かせてくれるときもある。
 緋雨といる時間は、ちっとも退屈じゃなかった。
 緋雨が見てくれるのなら、勉強だって頑張れた。
「頑張ったね」
 そう言って、緋雨は璃紅の頭を撫でた。頑張ったと言ってくれるのは緋雨だけだ。母はきっと、璃紅の成績が上がったことにすら気付かない。
「先生がみてくれたおかげだよ。ありがとう、先生」
「そんなことないよ。璃紅君が頑張ったからだよ。僕はその手伝いをしただけ」
 緋雨が笑うたび、心が温かくなる。嬉しくなる。
 今まで誰に対しても、こんな気持ちにはならなかった。
 緋雨は璃紅の「特別」だった。
「ごめんなさい先生!!遅くなりました!!」
「お帰り、凛々ちゃん。大丈夫だよ、今日も璃紅君が相手してくれてたから」
「あぁあぁ本当ごめんなさい〜。璃紅ちゃんもごめんね、ありがと!!」
「……うん。お帰り」
「じゃぁ部屋に行こうか、凛々ちゃん」
「はい!!」
 息を切らせた凛々が飛び込んでくる。
 そんなに急いで帰ってこなくてもいいのに。
 緋雨とこうして二人で過ごせる時間なんて、実際は二十分もない。
 璃紅はもっとずっと憂緋と一緒にいたいのに。
 優しい緋雨、大好きな緋雨。あの瞳にもっと映りたい。璃紅は緋雨を独り占めしたかった。
(どうかしてる)
 緋雨と逢ってから、彼のことばかり考えている。
 緋雨と凛々の出て行った扉を見つめる。
 どうしたもっと、緋雨の傍にいられるのだろう。
「せんせい」
 そっと呟いてみる。
 胸が苦しかった。


8 :緋桜 :2007/03/12(月) 19:20:45 ID:PmQHunWe

「毎週ごめんね、ご馳走になって、送ってまで貰って」
「うぅん。気にしないで。母さんが好きでやってることだし、俺だって……」
「うん?」
「……なんでもない」
 先生と、もっと一緒にいたいだけなんだよ。
 そう言えば、驚くだろうか。困らせてしまうだろうか。けれどそれよりも、どうしてだと訊かれるほうが璃紅は困る。そんなの、璃紅の方が知りたい。どうしてこんなにも一緒にいたいと思うのか。自分でもわからない。ただ、緋雨の傍は心地よかった。
 隣を歩く緋雨を見る。沈黙は苦痛ではない。緋雨の端正な顔立ちは、見ていて飽きない。
(……恋人とか、いるのかな)
 きっといるだろうこんなに格好いいんだから。
 そんな想像を勝手にしておいて、璃紅は胸の奥がちくりと痛むのを感じた。
「先生ってさ」
「うん?」
「彼女とか、いるの?」
 少し唐突過ぎただろうか。問われた緋雨は驚いたように目を瞬かせる。ただそれだけの仕草なのに、かっこいい、と思った。
「彼女はいないよ」
「本当?先生、モテるでしょ」
「モテないよ?女の子と付き合ったのは、一回だけだもの」
 ちょうど璃紅君と同じ歳のときかな、と、緋雨は少し寂しそうに笑った。
 振られたのかな。
 緋雨の顔を見ながら、そんなことを思った。
「璃紅君は?彼女いないの?」
「え……」
「璃紅君こそ、モテそうなのに」
「……モテたりなんかしないよ、俺」
「そうなの?璃紅君、こんなにいい子なのにね」
 そんな風に言ってくれるのは緋雨だけで。
 緋雨だけが璃紅を肯定してくれる。
 嬉しい。
 でも、痛い。
 緋雨に他の女の子との関係を指摘されただけで、こんなにも胸が苦しい。
(どうかしてる)
 こんなの、まるで―――。
「きゃっ」
「うわっ」
「え?」
 曲がり角から飛び出してきた人物とぶつかり、いきなりのことに璃紅はよろける。慌ててそれを緋雨が抱きとめる。耳の辺りに緋雨の吐息がかかり、ゾクリとした。
「大丈夫?璃紅君」
「あ……うん……」
「君も、怪我はない?」
 璃紅とぶつかって完全にしりもちをついてしまった相手に緋雨が手を差し伸べる。璃紅は慌てて緋雨から離れ、地面に座り込んだ相手を見て目を見張る。
「岡本(おかもと)……」
「香里(こうざと)君……」
 相手も驚いたように瞬きを繰り返す。ぶつかったのは、璃紅の彼女である岡本佳織だった。
「どうぞ」
「あ……すみません」
 緋雨の差し出した手につかまり、佳織は立ち上がる。それを見て、璃紅の心がズキリと疼く。
 それは、自分の恋人にほかの男が触れたことに対する嫉妬ではない。
「ごめんなさい……急いでて……」
「こんな時間に何してるんだよ」
「香里君……」
「璃紅君のお友達?」
「あ、うん……まぁ……」
 彼女だ、と言えなくて答えが曖昧になる。佳織は余計なことを言わないだろうか。ちらりと盗み見ると、佳織の表情は少し曇っていた。


9 :緋桜 :2007/03/15(木) 17:59:31 ID:PmQHunWF

「お、岡本?どうしたんだよ、こんな時間に。まだ制服じゃんか」
「ピアノのお稽古に行ってたんだけど……遅くなっちゃって。暗くて怖いから走って帰ろうとしたら、香里君にぶつかっちゃったの。ごめんね」
「いや……」
 佳織は一度視線を落とし、そのあとじっと緋雨を見上げる。その視線に気付いた緋雨は、穏やかに微笑む。
「こんばんは。僕は璃紅君のお姉さんの家庭教師の鴫宮です」
「こっ、こんばんは……っ。岡本佳織です……ッ」
「璃紅君、僕はここでいいから、岡本さんを送って行ってあげて」
「え」
「こんな暗い道を女の子一人で歩かせたら危ないよ」
「でも……っ」
「駅までの道も覚えたし、もう大丈夫だよ」
 緋雨は佳織のことを心配しているだけで、他意はないのだろう。けれどまるでそれは、璃紅はもう要らないと言われているようで。
「じゃぁ、また来週」
 そう言って去っていく緋雨の後姿を、璃紅は見送ることしかできない。
 一緒にいたいのに。佳織じゃなくて、緋雨と。緋雨の傍にいたいのに。
「……久しぶりだね、香里君とこうやって話すの」
 それはまるで夏休み中連絡をしなかったことを責められているようで、苛々した。
「忙しかったんだよね、部活。香里君、レギュラーだも」
「岡本」
 名前を呼ぶと、佳織の表情が強張る。今から璃紅が何を追うとしているのかわかっているかのように。
「岡本」
「……」
「ごめん」
「……」
「俺と、別れて」
「……ッ」
 佳織の瞳が涙で曇る。泣かれたらどうしようと思った。けれど佳織は泣かなかった。目を真っ赤にしてうつむいた。
「なんで……」
「……」
「他に、すきな人ができたの?」
 うつむいて、佳織は問う。
 けれどそれは少し違う。
 最初から璃紅は、佳織のことをすきだったわけではない。佳織といたとき、胸が苦しいほどときめいたり、疼くように痛んだことなんてなかった。緋雨といるときみたいには。
「……香里君は……やっぱり、鷹野さんのことすきなの?」
「は?」
「みんな言ってる。香里君は本当は、鷹野さんのことすきなんだって。鷹野さんも……」
「違う。それは違う」
 それだけは違う。紗七は、紗七だけは、もう二度とすきにならない。絶対に。
「鷹野のことがすきなわけじゃない。ただ……これ以上付き合ってても、岡本を傷付けるだけだって思ったから」
「……」
「ごめん。今まで中途半端なことして。……本当にごめん」
 佳織がどうして璃紅をすきになってくれたのかわからない。けれどこの先、璃紅が佳織をすきになることはきっとない。
 今までもこれからも、頭の中が佳織のことでいっぱいになるなんてことはない。
 わかってしまった。あの瞬間。佳織が緋雨の手を取ったとき、璃紅は、誰も緋雨に触れて欲しくないと思った。誰にも緋雨を渡したくないと思った。
 いつも緋雨のことばかり考えてしまうのは、緋雨のことを思うだけであんなにも胸が苦しいのは、佳織との関係を緋雨に知られたくなかったのは、彼のことが、すきだから。きっと初めて逢った瞬間から、惹かれていた。璃紅を受け入れてくれたあの瞳に。
 六つも年上だけど、こうして目の前で長い睫毛に涙を溜める佳織を見るよりも、華奢なのに力強い腕で璃紅を受け止めてくれた緋雨のことを想うときの方が、胸が痛いくらいにざわめくのが何よりの証だ。
「……ごめん」
 謝りながらも、考えるのは緋雨のことばかり。
 たった今別れたばかりなのに、何してるだろう、なんて。
 そんなことばかり考えた。


10 :緋桜 :2007/03/16(金) 23:14:10 ID:PmQHunWF

V.

 俺がしているのは可能性のない恋。相手は六つ年上の大学生。誠実で穏やかで賢くて優しい、大人の男の人だった。



「佳織ちゃんと別れたんだって?」
 長い髪の先をいじりながら、紗七は尋ねた。いったいどこから情報を得ているのか。璃紅は返事の代わりに沈黙を返した。
「せっかく紹介してあげたのに。なんで別れたわけ?」
「……」
「言っとくけど、あんたに黙秘権はないよ?」
 にやり、と笑い、紗七は顔を近づける。紗七はとても綺麗なのに、彼女の笑顔はいつもいびつだ。紗七はいったい、璃紅をどうしたいのか。どうしてそんなにも、璃紅を傷付けたがるのか。そんなにも璃紅が嫌いなら、かまわなければいいのに。
「お前」
「うん?」
「いったい俺をどうしたいわけ?」
 問うと、紗七は目を見開いて完全に表情を失った。そんな紗七を見たのは初めてで、璃紅の方が驚いた。数瞬の沈黙のあと、紗七は弾かれたように笑い出した。腹を抱え、机をばしばし叩きながら。璃紅は怒るのも忘れ、ぽかんと紗七を見つめる。周囲もめったに聞けない紗七の馬鹿笑いに完全に呆気にとられている。クラス中の人間が見守る中、ようやく笑い止んだ紗七は、笑いすぎてうっすらと目尻に溜まった涙を拭いながら言った。
「まだそんなこと言ってんの?」
「……ッ」
「だからダメなんだよ、璃紅は」
 残酷なまでに甘い声でそう告げ、紗七はにやりと笑った。


11 :緋桜 :2007/03/18(日) 18:31:13 ID:PmQHsLm4

 苛々する。
 紗七と話しているといつも心の中を土足で踏み荒らされているような気がして、苛立って仕方ない。
 どうして璃紅は、紗七のことがすきだったんだろう。すきだったと言うことは確かに覚えているのに、どこがすきだったのかもうわからない。
「先生」
「うん?」
「……なんでもない」
「えぇ?何それ」
 何かを言いかけて口を噤んだ璃紅を、緋雨は目を細めて笑った。緋雨の笑顔はすき。紗七とはまったく違う、優しい笑い方。
 緋雨のことをすきだと自覚して以来璃紅は緋雨の顔をまともに見れなくなった。話を聞いて欲しいのに、声を聞きたいのに、緋雨を前にすると、うまく言葉が出てこない。今はまだ緋雨も、不思議に思いながらもあまり気に止めていないようだが、こんなことを続けていて、いつか愛想を尽かされたらどうしよう。かまってくれるけれど、緋雨が璃紅に優しくする必要性などどこにもない。
 教材に目を落とすふりをして、こっそり緋雨を見つめる。
(すき)
 心の中だけで唱えてみる。伝えたいなんて思わない。多くのものは望まない。こうして傍にいられるだけでいい。叶うはずがないことくらいわかっているのだからせめて、想うことくらい許して欲しい。
「璃紅君は、星が好きなの?」
「え?」
「下敷き、ずいぶん古いみたいだけど、大事にしてるなぁって思って」
 ノートをめくっていると、ページの下から現れた下敷きを緋雨の指が指し示す。綺麗な指。その手に触れたいと、触れて欲しいと思う。
「大切なもの?」
「あ……えと、小学校……四年生くらいのとき家族でプラネタリウム見に行って、すごく綺麗で……そのとき買ってもらって……」
「それからずっと大事にしてるんだ?」
「うん……。
 ホント綺麗で、今も覚えてる。あの時は、あんなに綺麗なものが世の中にはあるんだって、思ったくらいだった……」
「そっか」
 今思えば、あれが家族でどこかに出かけた最後だったような気がする。次の年凛々が私立の中学に入学してからは、どこへも出かけていない。
「僕も星、好きなんだ。星自体も好きだし、星に纏わる神話とかも」
「そう……なんだ……」
 嬉しい。
 自分の好きなものを、自分のすきな人も好きでいてくれたことが。たったそれだけのことで、こんなにも嬉しくなれる。それだけで、十分なのに。
「そうだ、じゃぁ今度一緒に行かない?」
「え?」
「プラネタリウム。今度冬の星座の博覧会があるんだ。よかったら璃紅くんや凛々ちゃんも一緒にどうかな?」
 二人きりで出かけられるのかと思って心臓が飛び出るかと思ったが、やはりそんなにうまくはいかないようだ。所詮璃紅は緋雨にとって教え子の弟でしかないと言うことを、思い知らされた気がした。けれど緋雨と出かけられるのは、魅力的だった。
「どうかな」
「う……」
 ピーンポーン
 うん、と返事しようとした瞬間、玄関の呼び鈴が鳴った。


12 :緋桜 :2007/03/19(月) 20:34:32 ID:PmQHsLm4

「誰だろ」
 璃紅の返事よりもすでに緋雨の注意は来訪者の方に向けられてしまったようだ。
 天国から地獄に一気に突き落とされた心地になる。
「……」
「璃紅君?」
「……出てくる」
 むすりと応え、璃紅は立ち上がる。視界の端で、緋雨が首を傾げているのが見えた。
 わかっている。
 緋雨は、何も悪くない。
 璃紅が勝手に緋雨をすきになって、勝手に面白くなく感じているだけ。悪いのは、全部璃紅だ。
 そして憮然とした璃紅の表情は、玄関を開けた瞬間更に引きつった。
「……ッ」
「これ、母さんの実家から送られてきた柿。おすそ分け」
 そう言って持っていた袋を突き出したのは、紗七。幼馴染の彼女とは、いわゆる「家族ぐるみのお付き合い」をしているが、何だって、こんなときに。
「はい」
「あ……りがと……」
「一人?」
「いや……」
「上がっていい?」
「え……」
 尋ねたものの、璃紅の返事を求めていたわけではなかったらしく、璃紅の反応を待たずに紗七はずかずかと家に上がる。勝手知ったる他人の家。慌てて追いかけるも、慣れた手つきで居間の扉を開けられる。
(……)
 音も無く引き戸を開けた紗七が目を見張るのを、横顔だけ見る。
 何となく、理由はわからなかったけれど、二人を会わせたくなかったのに。
「……」
「……」
「……」
「誰?この人」
 目を瞬かせながら先に口を開いたのは、紗七だった。
「ちょ、先生を指差すなよ!!」
「先生?」
「……ッ姉貴の家庭教師(カテキョ)だよ!!」
「凛々ちゃんの?なんで凛々ちゃんの家庭教師が璃紅の先生なの?」
「うっさいな!!つーか帰れよ!!」
「あ……璃紅くん……」
「ちょ、痛いから!押さないでよ!!」
 柿を机の上に置き、無遠慮に質問を重ねる紗七を今から追い出す。これ以上、二人を合わせたくない。ようやく家の外に追い出すと、心なしかむっとした表情で紗七は居間―――緋雨のいるあたりを見つめた。
「……今の人が、璃紅のすきな人?」
「―――ッ」
 居間の方を見つめたまま、紗七が尋ねた。璃紅は息をすることさえ忘れて紗七を凝視する。何か言わないと。これでは肯定しているようなものだ。けれど今更、否定の言葉は無意味だった。
「そっかぁ……。あたしの次にすきになったのが男なのかぁ」
「……っ」
「ほんとダメだね、あんた。あれだけ可愛い彼女がいたのに、よりにもよって男?まともな恋愛もできないんだ」
「―――ッうるせぇ!!」
 思わず声を上げると、紗七は笑った。にやり、と。確実に璃紅に不快感を与える笑い方で。
「お前……いったい俺をどうしたんだよ。いつもいつも、俺のこと傷付けてばかにして、そんなに楽しいかよ!?」
「……ばかになんかしてないわよ」
「じゃぁなんで俺のことすきだって言う奴との仲、取り持とうとするんだよ!?俺は……ッ」
 感情のままに怒鳴ると、それを受け止めるように紗七はそっと目を伏せた。そして次に瞳が現れたときは、紗七の顔から、一切の表情が消えていた。小さくて形の良い唇が、静かに開かれる。
「すきだから」
「……は?」
「璃紅のことすきだから、璃紅のこと傷付けたいの」
「は……あ……?何だよ……それ……」
「璃紅のことすきだから、ずっと見てた。だから知ってた。璃紅が本当は、付き合った子達のどの子のこともすきじゃないこと。今はもうあたしじゃなくて、あの人のことがすきなこと。
 ……女の子はね、すきな人のことくらい、わかるんだよ」
「だったら……ッ」
「……」
「だったら、なんであんなことしたんだよ!?」
 すきだったのに。本当に。まだ十三歳だったけれど、本気ですきだったのに。その想いを、どうして踏みにじるようなまねした?今更訊いても仕方のないことなのに、問い詰めずにはいられなかった。詰問のように強い口調でぶつけられ、紗七は笑った。いつも璃紅に向ける「にやり」と言う笑い方ではなく、少し、寂しそうな表情で。
「だって、いくらすきでも、いつか璃紅はあたしのこと忘れちゃうでしょ?」
「は……?」
「『ずっとすき』なんてありえないよ。あの時あたしが璃紅にすきだって言ったって、どうせ璃紅にはあたしより大切な人ができるよ。……今、あんたがあの人をすきになったみたいに」
「……」
「だから、傷付けたかった。あんたが絶対にあたしのこと忘れないくらい酷いことして、ずっと、あたしのこと考えてて欲しかった」
「何……だよ、それ……」
「……」
「何だよそれ!!何だよ……ッわけわかんねぇよ!!」
 あまりにも勝手な言い分に、璃紅は激昂する。信じられない。信じたくない。全身で紗七の言葉を拒絶する。けれど紗七は、そっと璃紅に触れた。
「……っ」
「わかんなくていいよ」
「……」
「わかんなくていい。だから、すきなの」
「……」
「ごめんね、璃紅。こんな風にしかすきになれなくて」
「……紗七」
 久しぶりに名前を呼ぶと、紗七は目を細めて笑った。
 泣き顔のような笑みだった。


13 :緋桜 :2007/03/20(火) 16:29:21 ID:PmQHunWD

「璃紅君の周りには、可愛い女の子がいっぱいいるんだね」
 それはまるで暗に璃紅が女たらしだと言われているようで、何となく面白くない。
 いつものように駅まで緋雨を送って行く途中、緋雨は笑いながらそう言った。
「別に……岡本はそう言うんじゃないし、紗……鷹野だって、ただの幼馴染だし……」
「『そういうの』って?」
「そ……べつに……て言うか……」
「ん?」
「……先生、意地悪だ」
「えぇ?」
 からかわれていると気付いた璃紅はむすりと拗ねた表情を作るが、楽しそうに緋雨が笑うから、つられて璃紅も破願した。
「ねぇ、先生」
「うん?」
「行きたい、プラネタリウム」
 夕方の話題を出すと、緋雨は少し目を見張った。もしかしてあれは社交辞令で、緋雨の中では終わった話だったのだろうか。不安になる璃紅の頭を緋雨がぽんと撫でた。
「うん。行こう」
「……」
「プラネタリウム」
「二人で」
「え?」
「先生と、二人で行きたい」
 今度こそ緋雨は目を見張った。わかっている。こんな気持ちは間違ってるってこと。傍にいたいとか、独り占めしたいとか、そんな風に思っちゃいけない。困らせてはダメだ。でも。
「……じゃぁ、行こっか、二人で」
「え……」
「凛々ちゃんには内緒だよ」
 いけないとわかっていても、緋雨が璃紅を見てくれるだけで、璃紅に笑ってくれるだけで、こんなにも胸がいっぱいになる。苦しいくらい、嬉しくなる。
「約束だよ」
「うん、約束」
 ねぇ、先生。
 いつまで傍にいてくれる?
 このまま想いを告げずに耐えていれば、ずっと傍にいてもいい?
 すきなってなんて言わないからせめて、俺のこと嫌いにならないで。


14 :緋桜 :2007/03/22(木) 13:47:58 ID:PmQHunWD

W.

 喉を焼くほど強い酒を飲み干す。初めて酒を飲んだのは、十五のとき。以来一度も酔ったことが無い。酒は嫌いではない。けれど好きでもない。緋雨にとって酒を飲むことは、水を飲むことと同義だった。特別な意味など無い。
 対照的に、隣でウィスキーをあおる女はめっぽう酒に弱い。三口で頬を赤く染める。しかも飲むのは決まって機嫌の悪いときばかり。いわゆる「自棄酒」と言う奴だ。
 二人とも、美味い酒の飲み方を知らない。
「そう言うのってさ、疲れない?」
 女の愚痴を聞きながら、緋雨は尋ねる。女は黙って煙草に火をつけた。むせ返るような甘い匂い。そんな独特な匂いのする煙草をどうして吸い続けているのだろう。抱き合えば、肌を重ねれば、そんなに強い匂いはすぐに移ってしまう。そうなってしまえば困るような男と彼女は付き合っているのに、相手は何も言わないのだろうか。
「美法(みのり)ってさ、実は相当なマゾヒストだよね。自分を痛めつける恋愛、自分で選んじゃうんだもん」
「……」
「煙草も不倫も、全部自分を痛めつけるためにしてるみたい」
 グラスの中に残っていた酒を飲み干す。女―――美法は、秀麗な眉を顰め、顔を背けた。
 美法が今付き合っている男は、妻のいる男。今だけじゃない。前も、その前も、美法は不倫を繰り返していた。付き合う男は皆、左手の薬指に指輪を付けている。
「ねぇ、美法。美法はさ、傷付きたいの?」
「……」
「傷付くことでしか、愛してるってことを確信できないの?」
 可哀想だね。
 そう囁くと、美法は傷付いたような表情をした。


15 :緋桜 :2007/03/23(金) 17:05:09 ID:PmQHunWD


 白いシーツの中で眠る女の髪を撫でる。
 寝顔は初めて身体を重ねた夜からちっとも変わらない。
 愛しさと同時に切なさや憎らしさがこみ上げてくる。
 このままその白い首に手をかけて絞め殺してみたいと思うし、一生この部屋に閉じ込めて、自分だけのものにしてしまいたいとも思う。彼女のことをマゾヒストと評したのは自分だが、自分も大概、立派なサディストだ。
 前髪を指でよけ、こめかみにキスを贈る。
 こうして、二人で朝を迎えるのは何度目だろう。
 だか十五歳の冬以来二人は身体を重ねていない。中学三年の冬、恋人同士という二人の関係は終わったのだ。けれど、彼女を愛しく想う心はまだ心の中にある。たとえ彼女の中ではもう終わってしまった恋だったとしても、緋雨の中ではきっと一生燻ぶり続ける。
「ん……」
 寝苦しそうにくぐもった声を漏らすのが聞こえ、緋雨は美法から離れる。美法は緋雨がこんな風に彼女に触れていることを知らない。
 罪悪感は無い。
 ただもどかしさで、気が狂いそうになる。
「起きた?」
 何事も無かったように緋雨は微笑んで尋ねる。美法は目をこすりながら身を起こした。
 汗をかいていたため緋雨のシャツに着替えさせたのだが、サイズがまったく合っていない。裾から除く白い脚や襟がはだけて露出した肩は、裸体を晒されるよりもかえって扇情的だった。
「出かけるの……?」
 あられもない格好のまま、美法は尋ねる。その瞳も髪も唇も、彼女の身体すべて、もう自分のものではない。もう緋雨には、彼女を抱く資格が無い。それでも傍にい続けようとするのは、どちらのエゴなのだろう。
「うん、バイト。でもまだ時間あるから、食べたいんならなんか作ろうか?」
「ん……うぅん……。コーヒー……だけでいい……」
「わかった。じゃぁ入れるから、その間に顔を洗っておいで」
 こくん、と子供のように無言で頷き、美法はシャワールームへと向かう。
 美法が昨日着ていた服は、着替えさせたときに洗って脱衣所においておいた。
 美法の裸体を見ても、今更欲情などしない。むしろ、きちんと服を着て、肌を隠しているときの方が、劣情を催させる。
 どうかしている。
 愛しているはずなのに、ぐちゃぐちゃに、踏みにじってやりたくなる。
 抱きしめる勇気もないくせに。
「バイトって、家庭教師の?」
 緋雨の入れたコーヒーを飲みながら美法が尋ねた。
「うん」
「男?女?」
「残念ながら女の子。高校二年生のね」
「ふぅん……」
 答えると、美法は少し眉を顰めた。緋雨の答えに含まれた意味を正しく理解しているから。
 緋雨は美法と別れてから、女の子と付き合ったことは無い。けれどそれ以来恋人がいなかったわけでもない。
 高校一年の夏、男性教師と関係を持った。その男とはたった一度身体を重ねただけで、もうずっと会っていない。まだ若い、臨時講師だった。それからずっと、付き合う相手は男ばかり。一夜だけともに過ごした相手もいた。「お付き合い」する「恋人」も、金を貰って寝る男もいた。
 悪いことだとは思わなかった。
 きっと、麻痺していたのだ。
 女の子に告白されたり、言い寄られたこともあった。けれど嬉しいとは思わなかった。触れられるたび、不快感しか覚えなかった。緋雨は美法以外の女をすきになれるとは思わなかったし、なりたいとも思わなかった。
「……いつまでそんなこと続ける気なの?」
「そんなことって?」
「あんたはあの大きな会社の跡取りなんだから、ちゃっちゃと大学卒業して綺麗なお嫁さん貰ってご両親安心させてあげなきゃ」
「じゃぁ、美法が僕の子を産んでくれる?」
 一瞬美法の顔から表情が消える。
 美法は、傷付いた表情はしなかった。
 だからこそ、酷いことを言ったと思った。
 ―――どうしてだろう。
 傷付けたかったはずなのに。
 どうして、満たされないのだろう。
 美法は表情を取り戻し、俯いて言った
「……あんたは、立派なサディストね」
 緋雨もそう思う。
 だから、笑った。


16 :緋桜 :2007/03/25(日) 19:52:10 ID:PmQHunWD


 家は金持ちだった。
 何千と言う社員を抱える大企業で、六代続いた老舗でもある。緋雨はその鴫宮の長男としてこの世に生を受けた。
 両親は厳しい人だった。
 「鴫宮家の長男はすべてにおいて完璧でなければいけない」。
 そう言い聞かされて、緋雨は育った。別段疑問を持つことも無かったし、不満も無かった。自分の家が友達の家と「違う」こともわかっていた。鴫宮は「特別」であり、憂緋もまた鴫宮にとっては「特別」な存在だった。単調な日々。同じことを繰り返すだけの毎日。緋雨はあの頃とても狭い世界で生きていて、それが「退屈」なのだということすら知らなかった。
 けれど、出逢ってしまった。
 十五歳の春。
 孤独の中で一人、自分の足で立つ少女に。少女に出逢って気付いた。自分が「孤独」なのだということを。自分は、ずっと「寂しかった」のだということを。
 最初はきっと、同情だった。手負いの獣が傷を舐めあうように、孤独な二人は身を寄せ合った。けれどそれはいつしか愛情に変わり、二人が互いを二人の男女として求め合うようになったことはきっと不自然ではなかった。
 そう。
 出逢ったことも、愛し合ったことも、そして別れも、すべては必然だったのだ。
「先生?」
「え?あ、あぁ……ごめん」
 どうしたの?と小首を傾げる少年に、緋雨はそっと微笑んだ。
 一瞬にして、少年の顔が赤くなる。
 六つ年下の、教え子の弟。何とも奇妙な関係ではあるけれど、彼が自分を慕ってくれていることには気付いていた。
 「先生」としてではなく、恋愛対象として。
 相手はまだ未成年、しかも中学生で、手を出せばいろいろと面倒なことになることはわかっていたから気付かないふりをしていただけで。緋雨の言動にいちいち赤くなったり落ち込んだりと一喜一憂する璃紅を見るのは面白かった。
 だからこうして二人で出かけ、部屋に上げた。大学に上がると同時に緋雨は家を出て独り暮らしを始めた。といっても、ここは父の所有しているマンションだから実家の管理下にあることに変わりは無いが。ここに住み始めて三年。ひとつしかない合鍵は、美法に渡した。美法は中学一年のときに両親が離婚した。一緒に暮らしている父親との仲はあまりよくないらしく、最近は友人のところを転々とし、ろくに家に帰っていないらしい。
 璃紅は、知らない。
 こうして一緒にいても、緋雨は美法のことばかり考えていると言うことを。
「ごめん。ぼうっとしてた。はい、これ」
 本棚から探していた本を取り出し、璃紅に渡す。璃紅はためらいがちに受け取った。
「ありがとう……。でも本当にいいの?」
「うん。僕はもう何回も読んでるし。あ、あっちの本棚に入ってるのはダメだけど、ここにあるのはどれでも好きなもの持っていっていいよ」
 二人でプラネタリウムに出かけた帰り、緋雨は璃紅を家に連れてきた。プラネタリウムで売っていた本を璃紅は欲しかったらしいが、中学生に手が出せる値段ではなかった。諦めきれず無言で悩んでいた璃紅を、その本ならうちにあるからよかったらあげるよ。うちに取りにおいで、と誘ったのだ。
 他意はなかった。
 けれど着いてきた璃紅は面白いほどそわそわしていた。
 書斎を出てしばらく一緒にお茶を飲んでいたが、そろそろ暗くなってきたため、璃紅は帰ると言い出した。玄関まで送る途中、前を歩く璃紅の髪にほこりが付いていることに気づいた。書斎で付いたのだろう。緋雨は整理整頓が苦手で、居間の掃除は美法がやってくれているが、さすがに書斎までは面倒見切れないと言われたため、もう何ヶ月も掃除機すらかけていなかった。
「璃紅君」
「なっ何!?」
「埃」
「えぇ!?」
「埃、髪についてるよ」
 そう言って緋雨は振り向いた璃紅の前髪に触れる。
 至近距離で、視線が絡まる。
 璃紅は目を零れそうなほど大きく見開き、頬を染める。
 ヤバイ、と頭の中で警鐘が鳴った。
 少しからかいすぎたか。
 子供は、とても純粋だ。だからすぐ本気になり、周りが見えなくなる。あの頃の、緋雨のように。
 不自然にならないよう、緋雨はゆっくり璃紅から離れる。
「……ほら、取れたよ。さ、早く帰らないと、お母さん心配するよ」
「……」
「いつものお礼に、今日は僕が駅まで送」
「すき」
 目をそらした瞬間、璃紅に服を掴まれた。
 ―――遅かったか。
 震える指に力をこめ、璃紅は緋雨の胸に額を寄せる。
「先生がすき。初めて会ったときから、ずっとすきだった。憧れとかじゃなくて、恋愛感情で先生のことすき」
「……大人をからかうんじゃないよ」
「からかってなんかないよ!!本気だよ!!……本気で、先生のことすきだよ……っ」
「……」
 子供の本気は、怖い。純粋で真っ直ぐで壊れやすい。
 そう。
 緋雨の服を掴む手は、可哀想なくらい震えている。


17 :緋桜 :2007/03/26(月) 20:31:49 ID:PmQHunWD

「……帰りなさい」
「……」
「璃紅君」
「……キスしてくれたら、帰る」
 子供は純粋で真っ直ぐで、わがままだね。大人よりもずっと簡単に「すき」が言えて、わがままが言える。
 ずるい。
 大人なのに、そんな、子どもみたいなことを思った。
 璃紅の髪にそっと触れる。璃紅は肩を揺らし、恐る恐る顔を上げた。再び絡んだ璃紅の瞳は、今にも泣き出しそうな色をしていた。
「……」
 頬に手を添えると、璃紅の身体がびくりと震える。
 今更後悔しても、遅いよ。
 そっと顔を近づける。
 二人の唇が重なるのと玄関のドアが開いたのは、ほぼ同時だった。


18 :緋桜 :2007/03/27(火) 19:35:41 ID:PmQHunWD

X.

 扉を開けた瞬間、美法は今日ここに来たことを後悔した。
 何が悲しくて元彼のキスシーンなんぞを目撃しなくてはいけないのか。しかも、相手は見るからに未成年だとわかる少年。この男が同性愛者だということは知っていたが、学生にまで手を出しているなんて。ショック、と言うより衝撃的だ。
 声も出せずに固まっていると、最初に動いたのは少年だった。美法に気付いて、緋雨から離れる。まだ面立ちに幼さを残す、可愛らしい少年だった。目が合うと、赤かった顔が更に赤みを増す。その反応で気付いたのか、緋雨も振り向く。
「あ、美法」
 あ、美法じゃないわよ、ばか。
 美法は逃げ出したい衝動に駆られた。けれど逃げたのは少年の方だった。耳まで真っ赤になったまま、少年は美法を突き飛ばして出て行く。ばたばたと廊下を走る音が聞こえ、やがて消える。
 部屋の中に奇妙な沈黙が訪れる。
 どうしよう。
 美法もついでに逃げてしまおうか。だがそれはあまりにも不自然か。いや、そもそもどんな行動をとるのが自然なのだろう。完全に混乱しきった頭で考えてもちっともまとまらない。
「……」
 少年が落とした本を、緋雨は拾う。それは緋雨が高校生のとき、恋人だった男に買ってもらったものだった。
「行っちゃった、璃紅君」
 キスシーンを目撃されたと言うのにちっとも慌てもせず、緋雨は少年の出て行ったドアを閉める。追いかけなくていいのだろうか。そう思いながら、美法は別の問を唇に乗せた。
「……未成年には手ぇ出さないんじゃなかったの?」
「まだ何もしてないし、する気も無いよ」
 じゃぁ今のキスは何なんだ。
 きっと緋雨にとっては、「意味のない行為(こと)」。
 彼は本当は、誰も愛してない。愛することをやめてしまった、可哀想な男。
 あの日から動けないでいるのは、美法だけじゃない。緋雨の時間も、あの日から止まったままでいる。
「……誰?あの子。カテキョの子は、女の子じゃなかった?」
 本の埃を払う緋雨を見ながら問う。
 違う。
 そんなことを聞きたかったわけじゃない。
 でも、訊けなかった。
 訊かなくても、わかっていた。
「女の子だよ。凛々ちゃんて言う、高校二年生。あの子は凛々ちゃんの弟で、璃紅君。中学三年生。僕のことすきなんだって」
「……それはまた」
 と、いうことはまだ十五歳。ともすれば十四歳か。緋雨との年齢差は六つ差。年齢差はともかく、中学生と言うことを考えるとちょっと犯罪的だ。
 十五歳は、とても微妙な時期だ。大人でも子どもでもない、微妙な年齢。
「上がってく?入れば?」
「……今日はやめとく」
「そう?残念だな」
 何しに来たの、とか、どうして帰るの、とか、緋雨は何も訊かなかった。訊かれても答えたくなかった。
 今入ってきたばかりのドアに向き直ると。歩み寄ってきた緋雨がそっと美法の髪に触れた。ただそれだけのことなのに、心臓が跳ねた。
「璃紅君とは、何も無いよ。キスしたら帰るって行ったから、してあげただけ」
「……別に、そんなことあたしには関係ない」
「うん。でも美法は、僕が未成年の男の子に手を出してつかまっちゃったら嫌でしょ?」
「……」
 緋雨に背を向けたまま、美法は唇を噛む。
 そうじゃない。そんなことが知りたいわけじゃない。
 緋雨の触れた髪が、感覚など無いはずなのに、じりじりと熱い。
 緋雨は美法をどうしたいの。
 美法は緋雨をどうしたかったの。
 もう一度あの頃に戻れたら、もう一度やり直せたら、ちゃんと、愛し合えたの?
 とられた髪が緋雨の手から離れ、肩へと戻る。
「ねぇ、美法」
「……何」
「これ、璃紅君に渡しておいてくれる?」
 たぶん下にいると思うから、と言って持っていた本を美法に差し出す。
 ―――あんた、本当に酷い男だね。
 淡く笑う端正な顔を張り飛ばしてやりたくなった。
 でもできなくて、黙って本を受け取った。
「ありがと、美法」
 そんな言葉がききたかったんじゃないの。
「気をつけて帰りなね」
 そう言って、サディストは笑った。
 美法は何も答えなかった。


19 :緋桜 :2007/03/29(木) 21:28:53 ID:ommLPmsk


 緋雨と別れたあと、初めて付き合った男は左手の薬指に指輪をしていた。
 けれど気にしなかったし、気にならなかった。
 美法はそのとき確かに男を愛していたし、愛されていると思っていたから。その人の家庭を壊すつもりなんてなかった。傍にいられればそれで良かった。
 けれど奥さんにばれた途端、男は美法をあっさりと捨てた。彼にとって美法との関係は退屈な日常に刺激を与えるただの遊びでしかなかったのだ。
 愛してるって言ったくせに。うそつき。
 膝を抱えて一人呟いた。裏切りは、美法の心に傷を刻んだ。
 けれどまた美法は、妻子のある男をすきになった。その次も、そのまた次も。
 今度こそは、今度こそは。
 そう願いながら何度も不毛な恋愛を繰り返し、裏切られ、捨てられ、傷付き、そしてようやく気付いた。
 美法は、本当は男たちを愛してなどいなかったし、愛されたいとも思っていなかった。最初から、幸せになりたいなんて願っていなかったのだ。永遠なんて無いと言うことを、知っていたから。どんなに愛し合った二人にも、いつか必ず終わりは訪れる。美法と緋雨のように、美法の両親のように。
 母は、美しい人だった。
 美しく聡明で気丈な女性。歳のわりに若く見え、男に混じって常に第一線でバリバリ働く母は、美法が中学に上がる前の年に家を出た。母とは対照的に、父は気が弱く、優しいだけがとりえの男だったから、母にとって父は、男としても夫としても不満だったのだろう。穏やかで、常に笑っていた父。外へ外へと出て行く母とは本当に正反対で、絵を描く仕事をしていた彼は自然の中で緑を眺めることが好きだった。きっと父の時間は周りよりもずっと緩やかに流れていたのだろう。美法が幼い頃、父のそう言うところがすきだと言っていたはずの母は、父のそう言うところが嫌になり、家を出た。今はどうしているのかは知らない。彼女は同じ会社の上司―――仕事のできる、年上の男を選んだ。優しいだけの父は捨てられたのだ。養育費と称して毎月決まった額が振り込まれるが、美法は一切それに手をつけていない。二度とあの人と関わりたくなかった。
 母が好きだった。父が好きだった。両親のことが、大好きだった。けれどそれは、「夫婦である二人」が好きだったのだ。だから別れた二人に失望した。捨てた母も捨てられた父も、大嫌いになった。
 母が出て行った後、美法は父と暮らし始めた。暴力を振るうことは無いが、酔って愚痴を零す父の気の弱さが美法もまた煩わしくて、家ではほとんど父と口を利かなくなった。自分を責めてばかりの父の言葉を聞きたくなくて、美法は次第に夜を外で過ごすようになった。
 両親の離婚は、美法の心に深い傷を刻んだ。
 愛も、愛を語る人も信じられなくて、他人が嫌いだった。人の中にいることは美法にとって苦痛でしかなく、人との触れ合いはわずらわしくて仕方ないものだった。
 そんな美法がもう一度人を愛してみようと思ったのは、緋雨と出逢ってからだった。
 あの頃の二人は、本当に幸せだった。
 緋雨は、傍にいてくれた。美法の傍で美法だけを見つめてくれていた。そのことが、どれだけ嬉しかったか。
 それなのにあんな形で二人の幸せが終わってしまうなんて。
 幸せだったはずなのに、今はもうあの頃の記憶を幸せなものとして思い出すことができない。
『ごめん、美法。ごめん……』
 泣いている美法を、緋雨は抱きしめた。けれど美法はその手を拒んだ。あのままでは、二人はダメになると思ったから。だから終わりにした。終わりにしようと思った。
 なのに今も傍にいるのはなぜなのだろう。
 こんなの、傷の舐め合いですらない。膿んだ傷の上に更に新たな傷を刻み続ける。けれど二人はきっとそれを望んでいた。
『美法って、実は結構なマゾヒストだよね』
 そう言って笑った緋雨を美法はサディストと評した。だがきっと緋雨も十分マゾヒストだ。二人とも癒されることを望んでいない。癒されることは、忘れることと同義だから。
 今もまだ緋雨のことを愛しているのかと問われると、美法は即答できない。それでも。
「……」
 肉付きの薄い手で、左の手首を掴む。そこには、古い傷痕があった。もうずいぶんと薄くなった、けれど決して消えることの無い傷。それは、過去の罪の証だった。
 きっとこの傷が消えるまで、美法は緋雨から離れられない。
 どれほど傷だらけになろうと、緋雨の傍にい続ける。
 ばかみたい。
 ばかみたいで、可哀想だ。
 マンションから出ると、先程の少年が立っていた。
 可哀想に。
 緋雨を待っていたのだろう。彼が追いかけてくれるのを。
 けれど現れたのが美法だったから、少年―――璃紅は傷付いたような表情を見せた。
 まだ少年と呼ぶべき齢の幼い顔立ち。どうしてこんな子が、緋雨をすきになったのだろう。
 かわいそうだ。
 胸中で呟きながら、美法は璃紅の方へと近付いた。


20 :緋桜 :2007/03/30(金) 16:23:43 ID:ommLPmsk

Y.

 緋雨の部屋を飛び出したあと家に帰らなかったのは、追いかけてきて欲しいと思ったから。
 キスして、と言った緋雨は璃紅のわがままを叶えてくれた。軽く触れた唇は柔らかく、ほんの少し冷たかった。心臓が飛び出しそうなくらい早鐘を打ったのは、キスが初めてだったからじゃない。相手が緋雨だったから。
 だから嬉しかった。
 けれどマンションの下で立っていた璃紅の前に現れたのは、緋雨ではなく、先ほど緋雨の部屋に入ってきた女だった。緋雨と同い年くらいの、綺麗な「大人の女の人」。気だるげな瞳が、璃紅を捉える。視線が絡んだのは一瞬。璃紅はすぐに顔を背けた。
 けれど女は緋雨に向かって歩いてくる。
「……ッ」
 思わず息を呑む璃紅に、女は持っていた本を差し出す。それは先ほど緋雨が璃紅にくれたものだった。
 これを緋雨ではなくこの女が持って来たと言うことは、つまり。
「はい」
「……」
「これ、緋雨が君に渡してくれって」
「……」
 ほら、と重ねて促され、璃紅は緩慢な動きで本を受け取る。
 どうして、この本が、この女の手から璃紅の手へと渡ったのだろう。緋雨がくれたものだったはずなのに。
 本を両手で持ち、璃紅は俯いて唇を噛む。女はそんな璃紅を嘲笑うかのように告げた。
「緋雨なら来ないよ」
「……ッ」
 微笑みながら、女は言った。残酷な言葉は、真実。だからこそこんなにも璃紅の胸を鋭く抉る。
 けれど璃紅は、その言葉を聞く前からわかっていた。この女が現れたときから。緋雨は、追いかけてきてくれないのだと。
 何を期待していたのだろう。ばかみたいだ。
 嘲笑うような、哀れむような女の視線が疎ましくて仕方なかった。
「……あんた、先生の何?」
「さあ、何だと思う?」
 女は質問に答えず、目を細めて笑った。からかわれている。それくらいは璃紅にだってわかるから、女をキッと睨みつけた。
「そんな表情して怒んなくても、あたしはあいつの女なんかじゃないよ」
 笑顔のまま、女は言う。
「……知ってる。先生、今は彼女いないって」
「彼女は、ね。でも、恋人はいるんじゃないかなぁ」
「は……?」
「知らないんだ?あいつ、同性愛者なの。男の人しか愛せないの。だから君にキスなんかできたんだよ」
「……ッ」


21 :緋桜 :2007/03/31(土) 19:26:06 ID:ommLPmsk

 女の言っていることが、すぐには、理解できなかった。けれど一瞬後、理解と同時に何か激しい感情が押し寄せてくる。その感情の名前は璃紅にはわからなかったけれど、決して気持ちのいいものではなかった。
 女は満足したように、いっそう甘く微笑む。
「ねぇ、君は?君も、男の人がすきな人なの?それとも、すきになったのは緋雨が初めて?女の子、抱いたことある?ちゃんと抱ける?」
「―――ッ」
 逆上し、璃紅は思わず女の胸倉を掴む。緋雨から貰った本が、再び地面へと落ちる。
 緋雨は、どういうつもりでこれをくれたんだろう。
 璃紅は、彼に何を期待していたのだろう。
 女は璃紅の神経を逆なでするように笑ってみせた。
「やめといた方がいいよ。あたしに何かしたら、君の大好きな先生は、絶対に君を赦さない」
「……ッ」
「あたしは君の先生の女じゃないけど、君よりは大切にされてるからね」
 射殺さんばかりに睨みつける璃紅の視線を、女は軽く受け流す。
 ずるい。
 緋雨も、この女も。大人はみんなずるい。璃紅はいつだってもういっぱいいっぱいなのに。緋雨の見せる余裕に悲しくなり、この女の見せる余裕に苛立つ。
 まるで時が止まったように、二人は何の言葉も発さなかった。
 やがて璃紅は女を解放する。舌打ちし、ぐしゃぐしゃと髪を掻き回す璃紅を見ながら、女は乱れた襟元を治した。
 近くで見ると、女はとても綺麗だった。妖艶な美女、とはこういう女のことを言うのだろう。
 けれど璃紅には、緋雨の方がずっと綺麗に思えた。
 それはきっと、璃紅が緋雨のことがすきだから。
 なぜだろう。それはとても哀しいことに思えた。
「ねぇ。少年。緋雨にキスしてもらえて嬉しかった?」
「……」
「でも残念だね。あいつが君にキスしたんなら、それはあいつが君のこと何とも思ってない証拠だよ」
「な……ッ」
「君のこと大切に思ってるなら、絶対にそんなことしないもの」
 あいつが君にあげたのは、優しさじゃなくて同情だよ。
 言葉を失う璃紅に、今度は女の方から近付いてくる。そして璃紅の耳元に唇を寄せる。
「可哀想、だね」
「……ッ」
 狡いでしょ、大人って。
 そう言って、女は璃紅から離れた。
 女を睨みつけていた璃紅は、やがて視線を落とし、俯いて唇を噛んだ。
 泣きたかった。
 泣けなかったのは、最後のプライドだった。
 何を、勘違いしていたのだろう。何を期待していたのだろう。
 ただ、想うだけでよかったはずなのに。何も望まないから、せめて傍にいることだけは赦してほしいと、ただそれだけだったはずなのに。いつから思うようになった?自分のこんな身勝手な想いに答えてほしいなんて、いつの間にそんなに欲張りになっていたのだろう。どうして人の欲望には限りが無いのか。
 勘違いしていた。緋雨が、優しいから。璃紅のすべてを受け入れるかのように、笑ってくれたから。
 その優しさすら、女は同情だと否定したけれど。
 うな垂れる璃紅に、女はそっと囁いた。
「ねぇ、少年」
「……」
「あたしん家来る?」
「……」
「大人の狡さ、もっと教えてあげようか」


22 :緋桜 :2007/04/04(水) 01:36:21 ID:ommLPmsk


 女によって連れてこられた古いマンションの一室。表札には、名前が二つ記されていた。
 その下の方に記された名前。
 「深川(ふかがわ)美法」。
 璃紅はそのとき初めて女の名前を知った。
「……何て読むの?」
「これ?みのり。ふかがわみのり」
「……ふぅん」
「美しい法、だなんて笑っちゃうよね。法律違反な悪いことばっかしてるのに」
「……」
 ガチャリ、と金属特有の無機質な音と共に鍵が開く。おいで、と促す声に璃紅は黙って従った。
 どうして自分はこんなところにいるのだろう。なぜ自分はこの女―――ふかがわみのりについてきたんだろう。あの時何が、璃紅の足を動かしたのだろう。
「この歳で中学生に手ぇ出すのって、犯罪なのかなぁ」
「……」
「でもまぁ、合意の上なら大丈夫なのかな?」
「……」
「どうする?帰る?」
「……」
 楽しげに微笑みながら、美法はベッドに腰掛ける。
 女の子の部屋なんて、紗七の部屋くらいしか入ったことない。それも、中学二年―――璃紅が紗七に告白し、二人の仲が剣呑になるまでだ。
 今まで璃紅は三人の女の子と付き合った。けれどそのうちの誰とも、手すら握っていない。キスをしたのも、今日、緋雨とが初めてだった。
 男である緋雨に恋したといっても、璃紅だって男だ。女の子に興味が無いわけではない。密室で二人きり、しかもベッドのある部屋と言う状況に、男として、生理的にこみ上げてくる熱だってある。
「おいで」
 促されるままに、璃紅は美法に歩み寄る。隣に腰掛けると、美法は満足げに笑った。
「緋雨じゃ絶対教えてあげられないこと、してあげる」
 囁きながら、口付けられる。重ねられた唇は、緋雨のものよりも柔らかく、温かかった。
 女の人の体温て、男の人のより高いのかな。
 そんなことを思いながら、璃紅は美法に押し倒されるままにベッドに倒れこむ。その拍子に、美法の身体から甘い香が聞こえてきた。香水ではない。これは、タバコの香り?
 美法の手がボタンを一つ一つゆっくりとはずしていくけれど、璃紅はその手に抗うことができない。意識の芯まで痺れるような深い口付けの熱に浮かされる。
 美法の舌使いや手の動きは巧みで、どんどん熱くなっていくのを感じた。
 唇が離れ、暗がりの中で視線が絡む。
 そのとき、璃紅は唐突に理解した。
 なぜ璃紅が美法についてきたのか。
 あのとき璃紅の足を動かしたものが何だったのか。
 美法も、同じなのだ。
 このひとも璃紅と同じように、寂しい人。
 最初からそうだった。
 この人は本当は最初からずっと、寂しいと、目が、表情が言っていた。
 このひとも璃紅と同じように、孤独におびえている。
 だから付いてきた。
「みの……り……」
 名前を呼ぶと、美法は驚いたように目を見張った。けれどすぐ、微笑む。
 ほら。
 やっぱり、寂しそう。
 美法によって与えられる熱に身を委ねながら、この人も可哀想な人なんだ、と、ぼんやり思った。


23 :緋桜 :2007/04/04(水) 21:02:46 ID:ommLPmsk

Z.

 今でも時々思うことがある。もしもあのときに戻れたら、もう一度、やり直すことができたら、と。
 けれど本当は、そう思うことに意味は無い。
 だって二人は、何度やり直してもきっと、同じことをくり返す。何度だって、同じ間違いをくり返す。
 そんな簡単に別の道を選べるほど、あの頃をいい加減に生きていたわけじゃない。


24 :緋桜 :2007/04/06(金) 00:28:30 ID:ommLPmsk



 彼女と始めて出逢ったのは、中学三年の春だった。否、きっとそれまでにも何度かどこかで会っているのだろう。二年間、同じ学校に通っていたのだから。けれどそのときまで、自分は彼女の存在を知らなかった。
 深川美法と言う同級生を始めて認識したのは、満開の桜の木下だった。
 桜の木の根元には死体が埋まっていると言う話は聞いたことがあるけれど、そこに立っていた少女はまるで何か魔物のように美しかった。
 しばらく眺めていて、ふと思った。
 彼女の美しさは、その空ろな瞳から来るものだろうか、と。
 桜を見つめながら、何も映していない空虚な瞳。
 美しいと、思った。
 不意に、視線が絡む。けれどやはり空ろな瞳に憂緋は映らない。
 そのことに、心がざわめいた。
 逃げ出したい衝動と、触れたいと言う欲望が同時に湧き上がる。
 そのとき二人は、何度も言葉を交わさなかった。
 見つめあったまま、肌を刺すような沈黙に身を委ねた。

 再会は、それから半年後だった。


25 :緋桜 :2007/04/06(金) 21:38:42 ID:ommLPmsk


 少女と出逢ってから、彼女のことばかり考えている自分がいた。
 学年もクラスも、名前も知らなかった。
 きっと調べようと思えばすぐにわかっただろう。それなのに何もしようとしなかったのは、知ることで彼女が消えてしまうような錯覚にとらわれていたから。
 家を出たものの、塾に行くのが面倒くさくて、風邪と偽って塾に電話した。緋雨は成績は常に主席で素行もよいため、疑いもなく塾の講師は信用した。親も、緋雨が塾をサボるだなんて思いもしないだろう。
 くだらない、と思った。
 自分も、周りも。
 そんなことを思うのは初めてで、少し驚いた。今まで、何かに心が動いたことなんて無かったのに。日常は無機質で単調で、そのことに疑問や不満を持つことさえなかった。
 一体、どうしてしまったのだろう。
 当てもなくふらふら歩いた。途中で何度か派手な格好の女に声をかけられたが、すべて無視した。
 女は、嫌いだ。
 甘ったるい匂いを漂わせ、媚を売って、打算的でしたたかで―――気持ち悪い。
 歩き続けていると、のどが渇いてきた。ジュースでも買おうと自動販売機を探す。だが自販機よりも先に、道の傍で立っている一人の少女を見つけた。
 ―――あのときの少女だ。
 一瞬。
 呼吸の仕方を忘れた。心臓が、大きく跳ねた。
 会いたかった?会いたくなかった?
 わからない。
 だが少女は一人ではなかった。四十過ぎの男に寄り添って立ち、男の耳に何事かを囁いた。男は下卑た笑いを浮かべ、スーツの内ポケットから財布を取り出す。そして中から、一万円札を数枚取り出した。
「―――ッ」
 考えるよりも先に身体が動いていた。
 二人に駆け寄り、金を差し出す男の腕を掴む。
「な……なんだね君は!!」
 男は面白いほど狼狽し、けれど少女は軽く目を開いただけだった。
「……おじさん、知ってますか?援助交際って、犯罪なんですよ?」
「な……ッ」
「しかもこの子、中学生ですよ?14歳なんかに手を出したら、おじさんどうなっちゃうんでしょうね」
 淡々と言い、最後ににこりと微笑むと、男は脱兎の如く逃げ出した。
 おっさんでも走れるんだ。
 どうでもいいけれど。
「……何するの」
 ポツリと聞こえた声が少女のもだと気付くのに、わずかにかかった。
「……」
「邪魔しないで」
 想像していたよりも低い声。凄んでいるわけではなくただ淡々と喋っているだけなのに、その声はよく通った。
「邪魔、って?」
「あなたのせいで、逃げちゃったじゃない」
「……自分が何言ってるかわかってる?」
「わかってる」
 間髪入れずに少女は答える。緋雨を見つめて。
 ―――ゾクリとした。
 彼女の瞳が自分を映していることに。
「ご飯一緒に食べてくれたらお金あげるって、あの人言った。先に頂戴ってあたしが言ったら、あの人くれようとした。でもそれをあなたが邪魔した。だからあたし、怒ってる」
「……」
 怒っている、と言うわりに少女は冷静だ。
 こうなることは何となく予想できた。遠目から見ても、あの男が無理強いしているようには見えなかったし、むしろ少女の方が誘っているように見えた。
 それでも、緋雨が少女の「邪魔」をしたのは。
「……君は、こういうことよくやるの?」
「……今日が初めて」
「そう」
 少女の言葉に問いを返すと、気分を害したように眉を顰めた。
「……あんな男についていって、どうなるかわかってるの?ご飯だけじゃすまないことだってあるんだよ」
「……」
「そうなったとき、どうするの?逆上して乱暴されたら、抵抗できるの?」
「……」
 緋雨に問い詰められ、少女は黙ってしまった。泣くかな、と思った。けれど少女は泣かなかった。泣かずに、緋雨から目をそらしながら答えた。
「……別に、それでもいい」
「え?」
「どうだっていいもの」
 投げやりなわけではなく、ただ、淡々とした口調。自暴自棄ではなく、彼女は本心からそう思っているのだろう。
 だが。
「……でも、僕はいやだ」
「え?」
「君があんな男に……君が誰かに触れられるなんて、いやだ」
「……」
「君に、誰も触れて欲しくない」
 今度こそ、少女は目を見張った。
「……何、それ」
「……」
「何言ってるの?」
「わかんない……」
「……何なのよ……それ……」
 どうして、わかんない。
 ただその言葉をくり返しながら、二人は泣いた。声も上げず、ひっそりと。ただ自分の居場所を確かめるかのように身を寄せ合い、涙を流した。


26 :緋桜 :2007/04/08(日) 02:42:06 ID:ommLPmsk



 それから二人は、毎日会った。言葉を交わすこともなく、視線を絡めることもなく、ただ同じ場所で同じ時間を共有した。寄り添い合い、同じ時を過ごした。
 美法と過ごす時間が増えるにつれて、緋雨は塾に行かなくなった。入学以来ずっと主席をキープしていた成績も次第に落ちだした。親や教師に責められたが、どうでもよかった。緋雨には、美法と過ごす時間の方が大切だった。
「緋雨に会うまで、あたし、ずっと寂しかった」
 長い髪を風になびかせながら、美法はぽつりと言った。美法と初めて言葉を交わした日から一月。美法は時々、思い出したように自分のことを話してくれるようになった。美法のクラスメイトの話では、美法はクラスではめったに喋らず、その美貌ととっつきにくさから、クラスでも浮いた存在だと言う。彼女を昔から知るひとは、もともとあまり社交的な方ではなかったが、中学に上がる少し前くらいから、それに輪がかかったのだと言っていた。その理由を知っているのは、緋雨だけ。その事実は少なからず緋雨にかすかな優越感を覚えさせていた。
「僕も、美法に会うまでは『寂しい』気持ちがどんなものなのかさえ知らなかった」
 彼女と出逢って初めて知った。自分はずっと寂しかったのだと。
「いろんなこと、美法が教えてくれた。美法だけが、僕のことわかってくれた。僕を見てくれた」
「……うん」
「すきだよ、美法」
「……うん」
「美法がいなきゃ、僕は生きていけない」
 そんなばかみたいなこと、本気で信じていた。愛し愛されたあの瞬間は永遠のものだと、信じていた。
 幸せなんて、すぐに崩れ落ちてしまうものだなどと知らずに。
「傍にいて、美法……」
 どうして人は、ひとつになれないのだろう。
 手を繋いでも、唇を重ねても、まだ足りない。美法のすべてを手に入れたくて、叶わない現実に、苛立ちばかりが募る。
 焦燥感に突き動かされて美法を抱いたのは、十五歳の冬だった。人気の無い放課後の学校の、使われていない古い体育館倉庫。どうしてその日その場所にいたのかなんてもう覚えていないけれど、コンクリートを打つ雨音がうるさくて、やけに耳障りだったことは覚えている。息が詰まりそうな沈黙の中、二人は濡れて冷え切った身体を温めるように、黙って抱き合った。
 こんなにも身を寄せ合えば、心臓の音が聞こえてしまうと思った。このまま身体なんか融けて、ひとつになれればいいのに、とも思った。
 雨に濡れた美法の身体は冷たく、その冷たさが、愛しかった。物音ひとつ立てずに抱き合う二人。先に沈黙を破ったのは、美法だった。
「……ひさ、め」
 だいて。
 かすれた声がそう告げた。
「ひさめが、ほしい」
 ―――あぁ。
 どうして人は、ひとつになれないのだろう。同じ気持ちなのに。こんなにも愛してるのに。
 手を繋いで、抱き合って、吐息を絡めて。それでも決して、体と言う境界線を越えることはできない。
 肌に張り付く服や髪が邪魔で、互いの服を脱がしあった。暗闇に浮かぶ美法の白い肌はやけに扇情的で、ごくりと唾を飲んだ。恐る恐る白皙の肌に手を触れると、美法はびくりと身を震わせた。
「……いけないことなのかな、これ」
「……わかんない」
「悪いことなのかな」
「わかんないよ……」
 二人はもう子どもではなくて、けれど決して大人でもない。一人で立っているつもりでも、結局は周りに守られて生きてる。着るものも食べるものも住む場所も与えられている、温かな世界に生きている。
 それでも。
 真剣に、恋をしていた。
 まだ十五歳でも、他の何も見えなくなる、他に何も要らないくらい、本気で、誰かを愛することができる。本当の愛を知っている。
 本当の愛なのだと、思っていた。
「すき」
「……うん」
「すき」
「うん」
「だいすき。だいすき、緋雨」
「うん……っ」
 悲しいくらい綺麗な言葉を重ねて、二人はどこへ行きたかったのだろう。何が欲しかったのだろう。
 雨から隔てられた暗闇の中、二人は生れ落ちた姿のまま抱き合った。


27 :緋桜 :2007/04/09(月) 02:15:45 ID:ommLPmsk

[.

 ねえ、緋雨。
 あたしたちは、何度間違えたら正しい答えにたどり着けるのかな。


28 :緋桜 :2007/04/09(月) 02:18:13 ID:ommLPmsk



 年が明け、学校は一気に受験ムードになった。クラスメイトは休み時間も教科書を開いている。教室の空気はどこかぴりぴりしていて、居心地が悪い。美法は勉強が嫌いだった。どうして勉強なんてしなくちゃいけないんだろう。どうせ、みんないつか死ぬのに。
 美法は、死ぬなら若い方がいい。若くて、美しいまま死んでいきたい。できれば、緋雨の傍で。
 一緒に死んでほしい、なんて言ったら、彼はどんな表情をするのだろう。
「緋雨」
 会いに行くと、緋雨は嬉しそうに笑った。緋雨が笑うと、美法も嬉しくなる。けれど同時に、じわじわ侵食してくるようなどす黒い感情もあった。
 緋雨と肌を重ねたのは、一度だけ。けれどあの交合から、美法はどこかおかしい。
 緋雨を見ると、悲しくて、寂しくなる。その理由は、何となくだけどわかっている。
 美法は、知ってしまったのだ。どんなに身体を重ねても、人は決してひとつにはなれないと言うこと。肌を触れ合わせたからこそ、はっきりとわかった。
 そして自分の中で増殖していく欲望にも。
 身体を重ねても、まだ足りない。どうすれば満足できるのかわからない。緋雨が欲しくてたまらない。どうして普通でいられないのだろう。
 こんな想いを知れば、緋雨は失望するだろうか。煩わしい想いをさせてしまうだろうか。
 緋雨は読んでいた教科書を閉じ、廊下に出てきた。
「いいの?」
「うん。そろそろ休憩しようと思ってたことだから」
 緋雨は、優しい。
 美法のことを一番に考えてくれる。
 美法と過ごす時間が増えてから、緋雨はどんどん成績が落ちだした。そのことで何度も教師に呼び出されている緋雨を見た。
 こんな時期に何をやっているんだ、悪い友達がいるのか、こんなことで人生棒に振る気か。耳障りな教師の叱責を緋雨は受け流し、けれど美法との関係を指摘されることを恐れて再び勉強を始めた。
 美法は、緋雨の邪魔ばかりしている。
 一緒にいたいと思うことは、端から見れば、美法のわがままでしかないのだろう。
 それなのに、緋雨は微笑む。微笑んだまま、美法を見つめる。
「美法と一緒にいるときが、一番ほっとする」
「……」
 手を繋いで、視線を絡めて、吐息を溶かして。
 けれどそれでも満たされない想いは、一体どうすればいいのだろう。


29 :緋桜 :2007/04/10(火) 01:08:33 ID:ommLPmsk



 口の中が胃液で気持ち悪い。口をゆすいでもまだ胃酸が残っている気がして、吐いても楽にならない。胃の中はもう空っぽだ。美法は水道を止め、手の甲で手を拭う。
 ここのところ、気分が悪くて仕方ない。何か食べても、すぐ戻してしまう。
 食事よりも、蜜柑や檸檬など酸っぱいものが欲しくなる。
 まさか、でも。
 心当たりが無い、などとは言わない。けれど、頭をよぎったある考えは、あまりにも恐ろしいものだった。
 美法は、布団の中で丸くなる。けれど横になっていても少しも楽にならない。
 緋雨に会いたい。
 逢って声が聞きたい。
 けれど、こんな状態では逢えない。確かめなければ。
 こんなの、美法の思い過ごしだ。季節の変わり目に体調を崩してしまっているだけだ。
 でも、もし本当に、美法が考えているとおりだったら?
 緋雨は、困るだろうか。
「……」
 当たり前だ。喜んでくれるわけ無い。
 二人ともまだ十五歳で、どんなに愛し合っていても、二人とも、こんなこと望んでいたわけではなかった。
 どうしたらいい?
 緋雨には相談できない。できるわけない。
 緋雨に逢うまで、美法は一人だった。誰も信じられなくて、誰も愛せなくて、ずっと一人で寂しかった。緋雨に出逢って美法は救われた。孤独から解放された。けれどそれは、錯覚だった。
 人は所詮孤独で、決して、ひとつになることなんてできない。
 愛し合うことはできても、分かり合うことはできないのだ。
 ベッドの中で横たわり、膝を抱え、美法は声を殺して泣く。
 もしも緋雨に嫌われたら―――美法は、生きていけない。
 じゃぁ、生きていけないのなら、いっそ―――。
 美法はベッドから抜け出し、机の上においてあったカッターを手に取る。チキチキ……と音を立てて刃を出す。暗い部屋の中で鈍い光を放つそれを、手首の内側へと当てた。
(……)
 ねぇ、緋雨。
 あたしには、あなたに嫌われることよりも怖いことなんて何も無いの。
 あなたがいれば、何も要らなかったの。
 空ろな瞳で微笑みながら、美法は右手に力をこめた。


30 :緋桜 :2007/04/12(木) 01:29:31 ID:ommLPmsk



 人って、そんなに簡単には死ねないんだ。
 左手首に巻かれた包帯を見ながら、美法はぼんやり思った。
 自分が妊娠していたこと、そして流産したということは、目が覚めたとき医師に聞かされた。安堵と虚無感が一度に押し寄せてきて、涙は出なかった。
 更に残酷な事実を聞かされた後も。
「……美法」
 父と入れ違いで病室に緋雨が入ってきた。美法が呼んだのだ。言っておかなければならないことがあるから。
「美法……。どうしてこんなこと……」
「あたし」
「……」
「あたし、あたしのおなかの中に、緋雨の赤ちゃんがいたの」
「……ッ」
「でももういないの。……これからも、ずっと、あたし、赤ちゃん産めないって」
 それは医者から聞いた事実。流産した美法は、二度と子どもを望めぬ身体となった。
「そのせいで……美法……」
「違うよ」
「死にたいって思ったのは、緋雨のことすきだから」
「……ッ」
「緋雨のことすきだから、死にたかったの」
 酷いことを言った。緋雨を傷付けた。
 最初から美法は、緋雨に酷いことばかりしているような気がする。
 でも今日で、それも終わりだ。
「……ねぇ、緋雨」
「僕が、美法を苦しめたの?」
「え?」
「僕が、美法を……」
「ひさ……」
「……ッ」
「―――ッ」
 美法を抱きしめた腕は少し震えていて、緋雨の熱を体中で感じながら、美法はただ、涙を流した。
 胸が、心が、壊れそうに痛い。哀しいくらい、この人が愛しい。ずっとこの人と一緒にいたかった。
 でも。
「……緋雨のせいじゃないよ」
 包帯の巻かれた腕が緋雨を抱きしめ返すことは無い。美法の声を聞いて緋雨の腕の力がいっそう強くなった。
「……緋雨は、何も悪くないよ。あたしは、緋雨がいて嬉しかった。」
「だったら……ッ」
 嬉しかった。緋雨がいてくれて。幸せだった。でも、それだけじゃ足りなくなった。
 愛されるだけじゃ足りなくて、けれど愛する以外、他にどうすればいいかわからなくて。
 だから美法は。
「……でも、もう、無理だよ」
「美法……」
 緋雨の胸を押し返し、美法は緋雨から離れる。きつく抱きしめられているはずなのに、腕はあっさりと解けた。それはきっと、緋雨も美法と同じことを感じていた証なのだろう。
「ごめんね……。ごめんね、ごめんね、緋雨……」
 うな垂れて、謝ることしかできない自分が悔しくて。
 緋雨の腕が、もう伸びてくることはない。代わりに、美法の髪に雫が落ちてくる。
 緋雨の、涙だった。


31 :緋桜 :2007/04/13(金) 20:52:22 ID:ommLPmsk

\.

 美しくプライドの高かった母親はよく、可哀想という言葉を口にした。
 それは他者を慈しんでいるようで、その実、見下している言葉だった。
 美法は、可哀想な子ね。
 そう言って微笑みながら美法の頭を撫でる手は、白く、しみひとつ無い美しい手だった。
「……俺が生まれる前に父親は死んで、俺はずっと母さんとばあちゃんと姉貴の四人で暮らしてた」
 知らなかった。父親の存在がどういうものなのか。だからこそ年上の男性に憧れる傾向が昔からあったのだと、璃紅はうつ伏せになったままぼそぼそと言った。
「それでも女の子は普通にすきだったし、付き合ってた子もいた。
 ……でも、先生に初めて逢ったとき思ったんだ。この人しかいない、俺のことわかってくれるのは先生だけだって」
 璃紅の話を聞きながら、美法は黙って煙草に火を点けた。
 もう身体に染み付いてしまった甘い匂い。恋人と一緒にいるときは、美法は絶対に煙草を吸わない。今の恋人だけじゃない。今までの男、全員。奥さんに匂いでバレるとまずいから。
 それでももう美法の身体には、この甘ったるい匂いが染み付いてしまっているのだけれど。
 煙草を覚えたのは、十六のとき。年々本数は増え、今では一日一箱は開ける立派なヘビースモーカー。別に好きだというわけでもないのに、もうやめることができない。
 まるで恋愛のようだと言ったら、あの男は笑うだろうか。
「先生は、俺の理想どおりの人だった。優しくてかっこよくて賢くて。本当は姉貴の先生だけど、俺の勉強も見てくれて、……俺の話をちゃんと聞いてくれた」
 優しい緋雨。
 みんなに優しい緋雨。
 けれどその優しさはまるでガラス管のように空洞で、緋雨はいつも微笑みながら、誰のことも見ていなかった。
 あの目を見たとき、わかった。
 彼は気付いていなかったけれど。
 緋雨は、美法と同じだったのだ。
「俺、先生がすきだって、俺には先生しかいないって、本気で思った。……なのになんで俺じゃ駄目なんだろう」
「……」
 璃紅がだめなんじゃない。
 美法じゃなきゃ駄目なだけ。
 十五歳の冬、二人の恋は終わりを告げた。それ以上傷付け合いたくなくて、二人はつないだ手をほどくことを選んだ。
 美法が一方的に終わらせたような形になってしまったけれど、緋雨もきっとわかっていた。
 それなのにまだ二人は動けないでいる。
 触れ合うことのできないぎりぎりの位置を保ちながら傍にい続けようとする。
 二人が決して叶わない恋を選ぶのは、叶えることを諦めた恋があったから。
「これ……」
 机の上に飾られた写真を見つけた璃紅はベッドから降り、写真立てを手に取る。
 そこには体操服を着て笑う、十五歳の美法と緋雨が写っていた。
 それは二人で写る、たった一枚の写真だった。
「あんたと先生?」
「そう。中三の体育祭かな」
 今の璃紅と同じ歳の頃、美法と緋雨は出逢った。あの頃の二人は、哀しいくらい純粋だった。
「ふーん……」
「……羨ましい?」
「……」
 むすりと黙り込む璃紅にばれないよう、美法は笑みを零す。本当に素直な子だ。
「……この部屋、先生は入ったことあんの?」
「無いよ。男の子入れるのは君が初めて」
「……あんた、恋人は?」
「いるよ。二十七歳、妻子持ち」
 写真立てを持ったまま、璃紅は振り向き、珍獣でも見るような目で美法を見た。でも不倫よりも同性愛者のほうがよっぽど希少価値だと想うけどな。
 まぁ、どちらも不毛な恋愛であることは変わりないけれど。
 内心呟きながら美法は微笑んだ。
「珍しい?不倫してる女って」
「……」
子ども(君たち)が知らないだけで、不倫なんて結構ザラだよ」
「……」
 笑いながら煙草を消す。火が消えても、甘ったるい匂いは部屋に残った。
「……ねぇ、あんたと先生はどういう関係なの」
「またその話?」
「だって、まだ答えてもらってない」
 写真立てを机の上に戻し、璃紅はじっと美法を見つめる。その視線から逃げるように、美法は顔を背けた。
「昔付き合ってた。それだけ」
「……ッ」
 一番純粋だった頃に同じ時間を共有した相手。すきですきでどうしようもなくて、ただひたすらに愛し、愛しすぎて、駄目になってしまった人。一番純粋に恋をしていたあの頃。
 一緒にいたくて、一番に愛して欲しくて、相手のすべてが欲しかった。
 本当に、あの頃の二人はどうかしていたのだ。
「……なんで……」
「……」
「なんで、あんたが……ッ」


32 :緋桜 :2007/04/15(日) 22:40:14 ID:ommLPmsk

 ベッドに押し付けられ、璃紅に首を絞められる。璃紅がちょうど蛍光灯の光を遮り、美法からは表情が見えない。
 けれど美法には、璃紅が泣いているのだとわかった。
 頬に落ちるしずくで、そのことを知る。
 首筋に張り付くような璃紅の手の感触にゾクリとする。けれど息苦しくないのは、璃紅が美法の首を閉める手に、ちっとも力をこめていないから。
「……なんで泣いてるの?」
「……っ」
「何が哀しいの?あたしが緋雨をすきだったこと?緋雨があたしをすきだったこと?」
「……っ」
「ねぇ。どうして少年は、泣いてるの?」
「……」
 手を伸ばし、璃紅の瞳から零れ落ちる涙を指ですくう。

 ――美法は、可哀想な子ね。

 母親の声が耳の奥でよみがえる。
 そう。
 美法も璃紅も緋雨も、みんな、みんな可哀想。みんな同じくらい可哀想な人で、だから哀しいくらいに平等なのだ。
 美法は両手で璃紅の頬を包み込む。その感触に驚いたのか、美法の首を絞めていた指の力が緩んだ。そして璃紅は、目を見張る。けれどそれは美法の行動に対する驚愕ではない。美法の左手首の裏にある傷を見て、だ。
 抱き合って肌を重ねていたときは気付かなかったのだろう。
 璃紅は黙って傷跡を凝視した。
 それは六年前、美法が自分で刻んだ傷。
 美法と緋雨、二人の子どもの命を奪った傷。
 けれど本当は美法は、緋雨にこそ、殺めて欲しかった。
 美法はあの頃、緋雨になら殺されても構わないと思っていた。
 それで緋雨のすべてを手に入れることができるなら。
 二人の時間を止めることができるなら。
 そう、本気で思っていた。
「これ……」
「……」
 呆然とする璃紅に、美法はそっと目を閉じる。
 ―――あぁ。
 殺されるなら、この子にでもいいかもしれない。
 緋雨をただひたすらに愛している、この子になら。
 けれど璃紅はそっと、美法の傷に触れた。思いもよらぬ感触に美法は身体を揺らし、目を開ける。
「―――ッ」
 璃紅の唇が、美法の傷をたどる。今度は美法が驚く番だった。
「……な、に……」
「……痛い……?」
 唇を寄せたまま、璃紅はそんなことを尋ねた。どうしてそんなことを聞くのだろう。そんなことを聞いてどうしようというのだろう。美法は黙って首を横に振る。
「……もう、痛くないよ……」
「……」
 身体の傷は、いつか癒える。半年もすれば、鮮やかな緋色が滴ることも無くなった。痛みが消えれば、存在すらも忘れてしまう。
 けれど、痕は残る。
 心に刻まれた傷のように。
 美法の手を解放した璃紅は、馬乗りにしていた美法自身も解放する。ベッドの縁に腰掛けるのを見て、美法も身を起こした。
 美法の顔を見ずに、璃紅は呟くように尋ねた。
「……あんたは……先生のこと、まだすきなの……?」
「さぁ、どうだろう」
「……ッちゃんと!!……ちゃんと……答えろよ……」
「……」
 美法は何も答えず、黙ったまま、自分に背を向けたままの璃紅の髪に触れた。
 すきだった。愛していた。世界で一番大切な人だった。
 もう二度と、あんなにも誰かを愛せることなんてきっと無い。
 それは、たとえ相手が緋雨であったとしても。もう、以前のようには緋雨のことを愛せない。
 疲れてしまった。
 あんなふうに、自分のすべてをかけて人を愛することに。
 だから思った。
 もう二度と誰かを一番に愛したり、誰かに一番に愛されたりはしないと。
 誰かを一番に愛している人を愛そう。
 そうすればもう、あんなふうに苦しむことは無いから。
 そう思った十五の冬。
 あの頃の美法と同じ歳の璃紅は、真っ直ぐに緋雨を想ってる。緋雨の一番になりたがってる。
「……ねぇ、少年」
「……何だよ」
「大人って、ずるいでしょ」
「……」
「君は、そんな大人になっちゃだめだよ」


33 :緋桜 :2007/04/15(日) 22:42:27 ID:ommLPmsk



 きっと二人はもう二度と、あの頃には戻れない。
 たとえ何度やり直しても、二人は同じことを繰り返す。
 だってそんなに簡単に別の道を選べるほど、あの日々をいい加減に生きていたわけじゃない。


34 :緋桜 :2007/04/15(日) 22:53:43 ID:ommLPmsk

あとがきに代えて

 ここまでお付き合いくださった方、ありがとうございます。「先生と僕」、以上で完結です。

「悲しい少年」、「酷い人」、「悲しい女性」の三人が織り成す恋物語、いかがだったでしょうか。
まだまだ表現が未熟なところや誤字・脱字も多くあると思いますが、感想や指摘などがあれば感想室に書き込んでいただけると幸いです(ただ苦情は受け付けますが中傷はご遠慮願います……)
もし反響がよければ美法と璃紅のその後を書こうかなーとか目論んでますので……(あぁっ。調子乗ってごめんなさい!)

 いずれにせよ、ここまでお付き合いくださった方、本当にありがとうございます。
よろしければまた次の作品にも目を通してやってください。
嬉しくて画面の向こうで小躍りしますので。


novel plaza system
甘辛流小説家ギルドGAIA
produced by COLUN.