プリーズ・プリーズ・コールミー


1 :菊之助 :2008/05/28(水) 01:12:39 ID:ocsFWJxH

●それは昔々のお話で。
 
 海と山の見える国に、大変力の強い鬼が二匹おりました。
 二匹は心優しい鬼ではありましたが、その異形の姿と力により、人々から忌み嫌われておりました。
 だから二匹は互いに寄り添い、世間からは身を隠し、ひっそりと二人だけで暮らしておりました。
 二人は互いにそれでも良いと思っておりましたが、他の人から忌み嫌われる事はやはり少しばかりさびしかったようでした。

 
 そんなある日。

 二匹の元に一人の若い神官がやってきました。
 その神官の瞳は大変珍しい事に、右が銀、左が金色をしておりまして、見詰められると心の臓がおかしな具合に跳ねるようだと、二匹の鬼は思いました。
 互い以外に殆ど会話をしたことのない二匹の鬼は、突然やってきた神官にひどく戸惑いましたが、そんな二匹に若い神官はそっと語り掛けました。

 お前達が心優しい鬼だということを私は知っています。
 だけど、人はどうしても形にばかり目が行くもの。お前達の恐ろしい姿と力を怖がって、近寄っては来ない事でしょう。
 そこで私に提案があるのです。
 私の右目はお前達の異形の力と姿を封じる事が出来、私の左目は封じた姿と力を解放する事ができます。
 もしお前達が他の人々と共に暮らしたいと思うのならば、私はお前達の姿と力を封じましょう。
 だけど、それだけでは人間の生活を知らないお前達が人とまじって暮らす事は難しいでしょう。
 だから、お前達は私の従者として、私を守り、そして国を守り、人の中に混じっていきなさい。

 それを聞いた二匹の鬼は、暫く悩みはしたものの、忌み嫌われる寂しさをこれ以上味わいたくないと考えて、若い神官の提案を受け入れ、力と姿を封じてもらいました。
 そして人の姿になった鬼たちは、若い神官が治めるその国と、神官を守る仕事に就いて、人にまじって暮らす事となりました。

 力が強く、体の丈夫な鬼は「九鬼(くき)」と名乗り、表から国を守る事にしました。
 反対に、術に長け、人の痛みを取り込んで治してやる事が出来る鬼は「鬼灯(ほおずき)」と名乗り、裏から国を守る事にしました。

 海と山の見える国は、やがて『翔の国』と呼ばれるようになり、そこを治めるのは初代首領であった神官と同じように、銀色と金色の目をした者が務めることとなりました。
 ですが時たま思うのは、二匹の鬼にとってそれが本当に幸せな選択だったのかということです。



 そうして、やがて時代は過ぎ去って。
 人々の中でその「昔々のお話」が曖昧になっていった頃。
 
 このお話は始まります。





●それは幼い次期首領の心
 夜空の向こう、遥か天空の彼方に死者の世界があると聞く。だけどそれが本当なのかどうか、死んだことの無い僕には分からない。


 紺碧の空が広がっていた。どこまでもどこまでも、先が見えないほど続く空を見上げた後、視線を自らが立つ大地へと移す。乾いた風は頬を通り過ぎて、彼は二度瞬きをした。
「ここに置いていくのですか?」
 荒野に累々と並ぶ土饅頭を見て、その少年は横に立つ男にそっと尋ねた。砂塵が舞い落ち、彼らの純白の衣装を黄色く汚していく。そんな汚れを気にしてか、男は先ほどから少々神経質とも思える動作で砂を払っていた。
「ん、なにかね?」
 少年が自分を見詰めている事に漸く気が付いて、男は袖を払う手を止める。男の肥えた体から一言発されるたびに、随分と厚みのある顎の贅肉が震えた。その醜悪なさまに少年は一瞬眉をしかめかけたが、すぐさま自分の立場を思い出して表情を整える。いつも通りの無表情となった少年は、醜い大人へと再度言葉を繰り返した。
「ここに、おいていくのですか?」
「何をだね?」
 少年の視線の先を一度眺めてから、男は本当に何も分かっていないような声で更に聞き返す。その物分りの悪さに、流石に少年もきゅっと奥歯を噛んだ。
「彼らを、ここに置いていくのですか?」
「彼らというのは?」
 男の質問は、少年を戸惑わせるために発せられたものではないのだろう。だが、純粋な少年は不覚にもそう聞き返された瞬間、自ら口の肉を噛み締めた。そうでもしないと、幼い自分の本音が零れ落ちそうになったから。
「兵士達です、戦死、した……」
 語尾になるにつれ消え入りそうになる自分の声に、瞬間苛立ちを覚えつつ、少年はそれでも視線だけは質問をしている男にむけたまま続けた。
「彼らには家があるのに、何故こんな異国に埋めるのですか? 連れ帰って、しかるべき供養をするべきではないのですか?」
 
 はっ

 男が確かに鼻で笑った音を、少年の耳は聞き漏らすことはなかった。
 自分と同じような銀と金の瞳がこちらを嘲るように見下ろしている。ただ、この男の瞳は特殊な染料で染め上げたらしく、少年が生まれたときから有する澄んだ金と銀の瞳の輝きには、遠く及ばないが。
「これだけの戦死者を、いったいどうやって国につれて帰るというのかね?」
 視界に広がる荒野、そしてそこに盛り上がる土饅頭を顎で指しながら、男は唇の端を吊り上げた。醜穢な笑顔を見て、少年の胸の中に濁った沼が沸きあがったような気がした。しかし、少年がそれは「嫌悪」なのだと気付くには、まだ幼すぎる。
「連れ帰る方法はあります。最近開発した『黒点』を使えば、せめて骨だけでも持って帰れます」
「最新軍機を死んだ兵のために使用するなど、考えられんよ」
 再びこちらを馬鹿にした嘲笑を浮かべて男が言ったので、少年はそれ以上言葉を口にすることをやめた。不用意に口を開けば、感情に任せた、それこそ不用意な言葉を発してしまいそうだったからだ。しかし悔しい事に、彼がこれまで生きてきた十年という歳月と、横に並ぶ男の生きてきた年月とでは間がありすぎ、その間は確実に彼の能力と男の能力の差を見せ付ける。
 少年は、確かに同年代の子供に比べたら聡い。しかし、黒い瞳で生まれながらも「翔の国」という一つの宝を得るために自らの瞳を無理やり金と銀に染め上げ、敵となるであろう有力者達を策略により闇に葬り、なおかつ今度は他国の領地まで乗っ取ろうとする「翔の国」現首領を言い包めるだけの知恵、そして技量を、今の少年は持ち合わせていない。

「海津彦(かいつひこ)殿は、まだ戦というものをよくご理解していないようであるな」
 翔の国首領、天神冶良彦(あまつかみ やすらひこ)に言われて、天神昇竜海津彦(あまつかみ しょうりゅう かいつひこ)少年は不自然に見えない程度に自らの奥歯を噛み締めた。
「戦とは死した者は冷酷と思われても排除せねばなりませぬ。そうでないと、本陣をとられてしまう。迷ってはなりません。時期首領となる方なのですから、そのことを今の間から理解しておかねば」
 薄ら笑いを浮かべて諭すかのように言った男、治良彦に、少年――海津彦は何も答えなかった、だが、時期首領という地位からしてそのままではいけないと思い、固い声で一言「肝に銘じておきます」とだけ答える。
 そんな少年の様子に、現首領は吐き気がするような粘っこい笑みを浮かべてから、己の衣にこびり付く砂塵を振り落とす作業に戻る。
 海津彦は、横の男の見苦しい姿が視界に映らないように注意しつつ、再び前方に広がる土饅頭へと視線をやった。

 今は当に戦乱の世といえるだろう。
 海津彦が生まれる随分と前から、既に各国において小競り合いが始まっており、それは次第に戦火を激しくしていった。何がそもそもの原因だったのか。そう尋ねると大概の大人達は
「暁の国の、同盟放棄、そして突然の武力行使が原因でございますよ」
と答える事だろうが、子供であり、それ故純粋に世界の素性を見ることの出来る海津彦は、暁の国だけが悪いとは思えなかった。
 戦争というものは、一人では決して出来ない。
 どこかが何か競り合うような事を起こし、それに乗じる輩がいるから次第に激化し、様々なものが壊れ、関係のないような人々が命を落とすのだ。
(なんて酷い……)
 戦死した自国の領民が埋められていく様を眺めつつ、海津彦はそう思った。
 今回の遠征において、次期首領という地位の人間が直接戦場に赴く必要性はない。しかし、伝令兵を通して聞く戦場の凄惨な様子に、海津彦は安全な自国の屋敷で納まってはいられなかったのだ。
 戦場に赴く事。それが決して賢い選択でないことを、海津彦は知っている。力も策も無い十歳の少年が、矢と弾が飛び交う戦場に足を運んだところで事態が悪化したとしても、好転する事はまずありえない。ただでさえ、海津彦のことをよく思わない有力者達が、日々彼の命を狙い刺客を送り込んでくるというのに、更に死地へ向かう事は、愚かでしかないわけだ。
 しかし、海津彦は屋敷にて、のうのうと過ごすなど出来なかった。
 領民が死んでいる。
 それも、首領の命令一つで。
(理不尽だ)
 日頃命を狙われる者だからこそ分かる、その理不尽な仕打ちを、海津彦は他の者達に味わわせたくなかったのだろう。
 そのためには、少しでも現状に近付き、いずれくる己の統治する世界をより良くするため、危険と思われても今は出来るだけ現場に近付かなければならない。
 

 しかし実際のところ、海津彦が全戦へと赴く事は許されなかった。
 その理由はひとえに海津彦が「次期首領」という立場にあるからである。次期首領。 それは国の行く末を背負って立つ人物だ。そんな重要人を、たとえ本人の希望だとしても最も危険な全戦へ連れて行くことを許す人間がいるわけがない。
 だが、元来筋を通した物言いを得意とする海津彦を止める事が出来る人間は少数だ。 仕方なく、海津彦の歯止め役として首領である治良彦がこの戦場視察に引率したわけである。
 そう、海津彦の申し出により、現首領の治良彦が付き添いと言う形でこんな戦場にまで赴く事になったのだ。
 安全な場所で、首領としての豪遊を尽くしたい治良彦にとって、海津彦の戦場視察は実に不快な申し出であったものの、それを否と言うだけのことはできなかった。
 何といっても、海津彦は生まれた頃より『翔の国』の統治権を有する金銀の瞳を持ち、何より先々代の『翔の国』首領の子孫なのである。それ故後ろ盾も強く、下手に言葉に反するような行いをすれば、それは即ち現首領、治良彦の破滅を表すのだ。
 子供ながら実に不愉快な相手。それが海津彦に与えられた、翔の国有力者達の認識だった。

 実際、海津彦が今言っていること(つまり、戦死者の遺骨をその家族の元へ送り届ける事)も不可能ではない。戦況はいまだ油断できないとはいえ、最新軍機が投入されるまで追い詰められてはいないのである。
 しかし、軍機を使って遺骨を返すとなれば、莫大な金がかかる。
 何事にしても金を規準に考える治良彦にとって、それは実に不愉快でしかない申し出なのだ。
「海津彦殿は、まだ幼いですからな」 
 これ見よがしに呟いた治良彦の言葉に、海津彦はそっと自らの拳を握りしめた。
 悔しい。
 悔しいと思いはするものの、まだ名前のみで力の無い己がどうすることも出来ないことを、聡い海津彦はよく理解している。
 だから余計に悔しく、歯がゆい。

 目の前に広がる領民の簡素な墓を見詰めながら、幼い少年は胸の中で彼らに謝罪した。
 
 いずれ。

 いずれ必ず。

 私が首領となった暁には、いずれ必ず。


 だが、その「必ず」の後に続く言葉を、十歳の少年が続ける事は、出来ないのだった。


2 :菊之助 :2008/05/30(金) 23:25:14 ID:kmnkzJok

二匹の鬼

 使われる者が心を持つ必要は、きっと無い。



 夕刻まで血が飛び散っていた、最前戦。
 荒廃したその場所に、黒髪の偉丈夫が大太刀を手に座り込んでいた。彼の周りや足元には累々と敵兵の屍が積み上げられていた。つまり、青年はその屍の上に座り込んでいるわけである。
 度重なる戦によって、死者に対する弔いの精神が朽ち果てたのか。それともこの男にはそもそもそういった弔いの精神が欠如しているのか。
 理由は定かでないにしろ、その姿は尋常でなく、それ故味方兵さえも彼に近付こうとはせず彼を残して自らの陣営へと早々に引き上げていった。
 しかし男はそうした味方の行動にはなれている。そもそも奇異の眼差しで見られ、そのように扱われることにもすっかり慣れてしまっていた。
「九鬼(くき)」
 そのとき、突如背後から自らの姓を呼ばれて、男は振り返る。
 気配を感じさせない相手は、世界広しと雖も男は一人しか知らなかった。
 累々たる屍を踏み分けてこちらに近付いてくるのは、ほっそりとした「影」だ。
 否、影ではない。
 それは人だ。黒い衣装を纏い、眼の部分だけをあけた黒頭巾を被る人物は、気配の無さや、彼と同様に異質な存在のため到底「人」とは思えないのだが。
「……鬼灯丸(ほおずきまる)か」
「これまた、随分と殺したものだな、九鬼」
「……お前だって、山ほど殺しているじゃないか」
 屍を踏みつけて、九鬼と呼ばれた青年の横に立ったその「影」は、頭巾の下でふっと笑った。
「お前ほどは殺していないよ。今日は相手側の大将首をこっそり獲ってきただけだ。でも、それでこの戦は勝利した」
「それで明日には違う戦場に連れて行かれるわけだな」
 暮れ行く空を見上げつつ、九鬼が呟くのを聞いて、さすがの「影」こと鬼灯丸も首を捻る。
「……どうした、九鬼。何かあったか?」
「何かあったと何故思う?」
「随分と感傷的だからな。いつもならば即刻陣営に戻って勝利の酒に酔いしれているところだろうに」
 鬼灯丸がそう言うと、九鬼は僅かに頬を引きつらせた。それが苦笑だと鬼灯丸が理解するのには、九鬼が愛用の大太刀を握ってゆっくりと立ち上がるまでの時間を有した。 実に彼らしくない。
 沈みゆく日を眺め無言で立ち尽くす九鬼の横顔を盗み見ながら、鬼灯丸は思った。
 
 そもそも、この九鬼嘉雅(くき よしまさ)という武者は至極真面目な男である。齢二十一歳にして城代を勤め、九鬼家の二十代目当主。文武両道の精神を貫き、翔の国首領の命令を実直にこなることで名高い。真面目であるが故、理不尽な命令も迷い無く実行すると言うのに、今日の九鬼はどうにも迷いがある。
 確かに、連日何百人という敵兵を切り殺していれば迷いが生まれるのが通常というものだ。しかし、九鬼も、そして鬼灯丸も、およそ「通常」というものからは大きくかけ離れた存在でもあった。
 なんと言っても、自分たちは鬼の末裔。
 表と裏から翔の国を守る鬼なのだ。
 
「夕日を見ていると、突然馬鹿らしくなったんだ、鬼灯丸」
「何?」
 突然九鬼がそういったので、鬼灯丸は問いかえす。
 言った九鬼のほうは、地平線へその姿をほとんど隠した日から未だ視線を外さずに、更に呟いた。
「日は平等に人々に降りそそぐというのに、どうして人の世は平等ではないのだろうな」
 大太刀を手に、九鬼は淡々と呟いた。彼より頭二つ分は小さい鬼灯丸は、その問い掛けに対して、返答はしなかった。
 ただ、横にいるもう一匹の「鬼」と共に、沈む日を眺める。

 静かな世界だった。
 足元には、名も知らぬ敵兵の躯があるというのに、とても心が静かだった。
 こんな状態で、こんな風に心が静か自分たちは、やはり「人」ではないのだろう。
 そういえば、今回の戦には現首領と次期首領が視察に来ているらしい。
 今朝方、部下から聞いた報告を思い出し、鬼灯丸はぼんやりと二人の「首領」を思い起こす。
 現首領である天神治良彦は、己の欲と野望のために染料を持ってして自らの目を金銀に染め上げた。
 対する次期首領は、生まれながらにして金銀の瞳を持っていたがために、首領となる運命を背負わされていると聞く。齢まだ十歳の少年が、何故自らの意思で戦場視察に訪れたのか鬼灯丸には理解できないが、それはそれできっと不幸なのだろう。
 
 生まれながらにして決められた道。
 
 自分も、そして九鬼嘉雅もそうだったから。

 九鬼は右手、自分は左手にそれぞれ浮かんだ鬼の紋章。
 九鬼家と鬼灯家において、その紋章を刻印して生まれた者は、本人の希望とは関係なく互いの家の当主とされる。そして本人の意思に関係なく、首領と国を守るため生涯奔走させられることとなる。
 そんな自分の運命に付いて、鬼灯丸はなるべく疑問に思わないようにしてきた。おそらく嘉雅もそうなのだろう。
 しかし、時たま疑問に思う。
 自分たちの先祖である、二匹の鬼。
 
 二匹の鬼は本当に、人にまじって暮らすことを望んだのだろうか。
 
 子孫が苦しみを背負わされる事を、本当に少しも考えなかったのだろうか。


 日は既に地平深くへと沈んでしまい、夜の帳が荒野に落ちる。
「……行くぞ」
 行って陣営へと踵を返した九鬼の背中を見詰めながら、鬼灯丸も再び敵兵の躯を踏みつけてその後を追うのだった。


3 :菊之助 :2008/06/18(水) 00:15:32 ID:kmnkzJok

鬼の仮面をかぶる娘

 心も体も武装した。だけど、中にあるのは乙女の涙。 



 夜は心地よい。
 そう思うのは、きっと自らの姿を闇が隠してくれるからだ。それ故、自分は『本当の自分』に戻る事が出来る。
 陣営から少し離れた木立の中で、ひっそりとその乙女は息を吐いた。
 顔を隠すための頭巾は息を詰まらせ、体の線を出さないために作らせた装備の数々は否応にも彼女のふくよかな体を締め付ける。それでも不十分だとばかりに、ゆったりとした長衣を羽織はしているが、これがなかなかにして動き辛い。しかし、そのような格好をしていても、彼女は与えられた任務をこなし、誰にも姿を見られることなく働き続けている。
 つい先日までは、自分とほぼ同じ境遇(つまり「理不尽な生き方を強いられた者」という意味だ)である三歳年上の幼馴染の元で、少々の時間ではあってもくつろぐ事が出来たが、その者も半月前に嫁を貰ってしまった以上、極力夜に出向く事は控えている。別に、その幼馴染と彼女との間に色事があるわけでもない。寧ろ戦友という言葉が相応しい二人ではあるが、生真面目な男であるその幼馴染のことと、そして新婚であるにも関わらず遠く離れた屋敷で留守番させられているその嫁のことを考えると、彼女が夜に幼馴染の寝所を訪ねるわけにはいかなくなったのだ。
「俺は、別に構わないさ」
 幼馴染のその言葉は、彼なりの戦友を気遣っての心なのだろうが、こんな戦乱の世においてこれ以上彼に心労をかけるわけにもいかない。
「第一、俺のは政略結婚なわけで、お前が訪れたところで嫉妬なんてものが妻に起こるわけがない」
(本当に女心が分からない男だこと)
 戦友の言葉を思い出し、彼女は小さく苦笑した。
 黒い頭巾を剥ぎ取ると、途端、中に押し込んでいた長い黒髪が背中へハラリと落ちた。 
柔らかな波の形をとる黒髪を、無造作に手で何度か梳り、彼女はほっと再度息を吐く。
 そういえば。
 先代の頭に、自分の頭髪について注意された事があった。
 影に身をおく者が、そのような長い髪をしていれば必ずや油断を見せるだろう、と。
 その時、まだ幼い自分はなんと答えたか。ああ、そうだ。

(この髪は、獣の体毛と同じです。それ故邪魔にもならず、髪を原因に自分が油断を見せる事などあるわけもありません)

 それで先代が納得してくれたのは、偏に自分が他の追随を許さぬような働きを見せたからだ。
 しかし今となっては思う。
(本当は違うのかもしれないわね)
 体を締め付ける装具を外しながら、彼女は先代のことを思い出した。
 無骨な老人だった記憶がある。
 決して日の当たる場所には出ず、生涯国を裏から守る仕事に捧げた男。
 これまで『例の名』を襲名した者の中で、最も長く働いて、最も長く生きた者。

「お前は、自分の長い人生の中で、最も健気な子であった」
 敵の策略から首領を守るため、代わりにその傷と毒を老いた体で引き受けた先代は、最後の力を振り絞り彼女に襲名の儀を執り行ってから、か細い声でそう呟いた。
「これまで二十八代この名は継がれてきたわけだが……女子がこの名を継ぐのは初めてだ。その紋様さえなければ、お前にこんな過酷な道を進ませなくて済んだものを……」
 毒のせいで次第に黒く変色していく先代の左手を握りながら、彼女は何も言う事が出来なかった。何か言えば、それだけで涙が零れ落ちそうになったからだ。
「ここ百年、紋様を宿して生まれる者はいなかった……だから、その時代時代で一番力のある男がこの名を襲名してきたのだ……この名を襲名すると、結婚も子を作ることも許されず、ただただ国のために暗躍せねばならぬ……」
「……知っております」
 ああ、ほら。
 固い声で答えたと同時に、彼女の瞳からは涙が零れ落ちた。
 既に毒のため視力が衰えていたのだろうか、先代は彼女が泣いていることに気付かなかったようだった。呼吸は更に浅く、声は更に小さくなる。
「男は……それで良い……それを仕事と思えるから……しかし、女子は……女子の幸せは、男のそれとは異なる……その紋様さえ無ければな……お前は誰か好いた男の元へ嫁に行き、その男の子を産めたというものを……」
「当に女など捨てました。それに例え紋様が無かったとしても、自分のこの力はきっと無くならなかった。この力を隠して人の世で生きる方が、きっと辛かった……」
 両方の瞳から流れる涙は、いっそそのままにしておいた。今先代の手を離してしまうと、それだけで先代の魂は老いたその体から抜け出ていくように思えたからだ。
「必ずこの名を語るに相応しい働きをして御覧にいれます。必ず、必ず……」
 その時、確かに先代の乾いた唇が微笑した。
「……本当に、お前は健気な子だ……ラン」
 それだけ言い終えると、先代はそっとその目を閉じた。
 彼が再び目覚める事は、二度と無かった。


(……いけない。感傷的になりすぎてるわ)
 思って彼女、ランは窮屈な衣装を脱ぎ捨てる。陣営から離れているこの場所に、こんな深夜人が寄り付くことも無いだろう。だからこうも大胆に日頃の装備を取り外す事が出来るわけだ。
(……きっと夕刻の時、壽雅(よしまさ)の感傷的な心が私にも伝染したのね)
 心の伝染なんてあるわけがないと考えつつも、ランは自分の考えに納得した。人のせいにしておかないと、心に隙が生じている事を自ら認めることになる。心の隙は、即ち仕事の隙へとつながり、それは自国の損失、そして自らの破滅へと繋がるのだ。それは、避けねばならない。
(とにかく。感傷的なのはこれでお仕舞。今はそれよりも体を拭いて、昼間の匂いを消さないと)
 荷物から取り出した木綿に、竹筒の水を含ませて、ランは自らの体を拭き始める。
 暗躍する者にとって、『匂い』は厳禁だ。
 彼女自身、匂いがしないように日頃から口にするものに気をつけてはいるが、人を殺した日はそうもいかなかった。極力返り血を浴びないようにしてはいるものの、戦場を駆け抜けるとそうもいかない。
 代えの衣服はいくらか持ってきていた。そもそも、彼女ほど強固な装備に身を固めるものが、直接肌にまで血を浴びるはずもない。
 しかし、それでもランは今日のような静かな夜には、戦場でもこまめに体を拭くようにしている。汚れてはいないだろうが、血が付いているような気がして、仕方が無い時がある。
 これは自分の心がまだ非情に成りきれていないから?
 人を殺す事に慣れているようで、実は慣れていないから?
 それとも、自分が女子である事実をまだ捨て切れていないから?

 そこまで考えはするものの、その答えをラン自身出さないようにしている。払えない迷いならば、深く考え込まないのが一番だ。ただ、自分の好きなように振舞えばいい。厳しい仕事の中、体を拭くと自由くらい良いだろう。
 その時、彼女の類稀な聴覚が、何者かの足音を感知した。同時にパッと飛び上がって、木の枝に降り立つ。
 敵?
 いや、それならば、反対の方向から来るだろう。足音が近付いてくる方角は、味方の陣営の方向からだ。
(こんなところまで、何のために?)
 息を潜めて、彼女は木の上から足音の持ち主が現れるのを待った。
 装備品をすべて下に置いていたのは愚かだったが、足音はひとつ。
(一対一ならば、相手がこちらを認識するまでに倒せばいいだけの話……)
 体を拭っていた木綿の布はあるわけだし、もし相手がこちらに気が付けば、これを投げつけ視界を奪ったところ、気絶させればよいわけである。
 様々な策を考えつつランがジッと足音の方向に目を凝らした。
 そして、絶句する。
 夜の木陰を掻き分けて姿を表したのは、まだ幼い少年だったからだ。


novel plaza system
甘辛流小説家ギルドGAIA
produced by COLUN.