この黄金の月と終わりなき夜の下で


1 :寝狐 :2006/06/22(木) 20:58:11 ID:o3teQHoe

 旧小説広場にて連載しておりました「この黄金の月と終わりなき夜の下で」、略して「黄金月夜」をこちらに移動しましたー。(カテゴリは何故かファンタジーに設定←魔法や魔術が登場するがため)
 今まで読みづらかった部分(主にルビが必要な所)や感想室で指摘された部分なんかを修正して再連載していきます。
 とりあえず、現在出ている所までは順次更新させていくので、七月頭までには現在連載している分全部出しておくようにします。
 ……というわけで、次回の<2−21>はその後ってことで!(オイ)


2 :寝狐 :2006/06/22(木) 21:03:12 ID:o3teQHoe

大雑把説明

 魔法――現代の概念・考察・定義・理論で物理的に不可能であることを可能にする奇蹟の力。
 現在確認されている魔法は八つあり、この神秘を使える者は魔法の数と同じたった八人しかいない。かつて大昔に存在したとされる魔法使いは、この八人を残して誰もいない。
 故にその者達のことを“失われし魔法使い(ロスト・マジックマスター)”と呼ぶ。

 主人公『凰霞翠琥(おうかすいこ)』は偶然立ち寄った地方開発都市『高天原市(たかまがはらし)』で、一人の少女と出会う。
 ――全ては単なる偶然が重なった出来事、のはずだった。
 ――それはちょっとした気まぐれの始まり。
 ――そして新たに別の地から始まったことが、
 ――やがて一つの道へと繋がる。
「私の名は凰霞翠琥。職業は……」
 紡がれるその名は、世界の(ことわり)を曲げる者。
「――魔法使いよ」

 ――その日、街に魔法使いが訪れた。


3 :寝狐 :2006/06/22(木) 21:09:18 ID:o3teQHoe

プロローグ 前日 -前兆-

 ――刻は、人々があの暑かった夏を過ぎるように忘れていった、紅葉が咲く秋の十月。

<0−1>

 日本国のY県にある地方開発都市、高天原(たかまがはら)()
 その都市の上空を一機のヘリコプターが飛び回っていた。
 よく見ると、ヘリコプターは一般の物ではなく、側面にJTVと書かれたロゴが見える。どうやらテレビ局専用のヘリコプターであるようだ。
 ヘリコプターは左側のドアを開放しており、そこから二人の人間が身を乗り出している。一人はマイクを片手に実況をする女性リポーター。もう一人は右肩にテレビ局用のカメラを担いだカメラマンで、そのカメラの視線はヘリコプターが飛ぶ地方都市に向けられていた。
「現在、高天原市の黄土(おうど)区上空に来ています。画面中央に見えるあちらの大岩を御覧ください。大岩出現からすでに約八時間が経過しようとしています」
 女性リポーターは上空から見える光景に驚きと興奮が入り交じった目が離せないでいるが、その状況からも確実に実況を続けられるのは彼女が長年やってきた経験によるものだろう。
 その黄土区には大きな公園があった。公園といっても、砂場やブランコといった子供達が遊ぶ遊具があるわけではなく、ただの焼け野原が広がっている。唯一あるとすれば、古びたベンチが一脚、ぽつんと置かれているだけだ。
 公園の広さは野球ができるぐらいの大きなドームが二個か三個ほど収まるかもしれない。それほど、その焼け野原は広いということなのだが、その公園には一つだけ不自然なモノがあった。焼け野原となっている公園のちょうど中央。幅は百メートルぐらい。高さは六十メートルぐらいだろう。そんな巨大な岩がそこに鎮座していた。
 その巨大さは、人為的に作られたとは思えない。
「この大岩の出現は今回が初めてではありません。今からちょうど六十年前、今と同じようにこの焼け野原が広がる比良坂公園の中央に出現していました。ですが、その時は六日間だけの出現であり、その後はまるで幻だったかのように忽然と消えたのです。そして、今回の再び発生した謎の大岩。これは一体、何を予言しているというのでしょうか?」
 女性リポーターは熱の入った言葉と同時にカメラに勢いよく振り向く。しかし、カメラの視線は眼下に見える大岩に釘付けになっていた。


4 :寝狐 :2006/06/22(木) 21:18:29 ID:o3teQHoe

<0−2>

「予言というより、何かの前兆だと思うんだけどねぇ」
 居間で座布団に正座しながらくつろぐ着物姿の老婆が、両手で持つ湯呑みに入っているお茶を一口静かに飲むとテレビに向かって独り言のようにそう呟いた。
 老婆といっても、顔にはまったくシワは見えずむしろ若々しい。とても六十を超えているとは思えない元気さと若さを感じさせる。
 金色の髪に青の瞳。彼女は生粋の日本人ではない。日系一世と英国人の間に生まれたハーフである。
 名はサーティー=ファイマン=南郷(なんごう)。つい数時間前、仕事場であるイタリアはローマからこの日本へ帰ってきたばかりだ。その名残か、居間の奥にある彼女の部屋の和室には旅行用トランクが乱雑に置かれている状態である。
 サーティーがそんなことをしているうちに、がちゃりと玄関の方で鍵が開く音。そして内側から鍵を閉める音の後にドタバタと足音を立てながら「ただいまー」という声がサーティーの耳に入る。この家に住む誰かが帰ってきたのだ。
「ただいまー……って、婆ちゃん?!」
「おかえり、(さや)
 居間に入った直後、座布団に正座しながらテレビを見ている老婆にその人物、鞘と呼ばれた少年はひどく驚いた様子で叫んでいた。
「なんで婆ちゃんがここにいるんだ!? 僕はいつの間にイタリアに来ていたんだ?!」
「安心しなさい。お前はイタリアには行っておらんよ。ここは確実に日本国。お前の家よ」
 鞘が思いにもよらないサーティーの帰省にパニックを起こすその姿を、サーティーは落ち着かせるようにのんびりと答えた。
 そうして、数分ほどサーティーは鞘が落ち着くのを待っていた。
 肝心の鞘は台所に行き、冷蔵庫から二リットルのペットボトルに入った烏龍茶を取りだして、コップに注ぎ一気に飲み干していた。彼にとってこれが一番気を落ち着かせるには良いらしい。
 サーティーはそんな鞘の姿を眺める。
 年齢は十五歳の中学生。身長一六七センチ。短く、染めても固めてもいない髪。顔立ちは母親似で形は良い方。そのためか、全体的に肌は男の子っぽいというより女の子に近い。筋肉質だとか、ガリ勉とかのような特徴らしき特徴も見受けられなく、どこにでもいるような普通の学生、南郷鞘が彼女の瞳に映っていた。
 鞘はサーティの孫にあたる。彼女の娘であり、鞘にとっては母親のリゼ=エズラ=南郷は実家の英国からこの日本へと留学し、この地、北海道にて結婚した。しかし、夫の浮気により数年で離婚。現在は息子の鞘との二人暮らし、つまり母子家庭である。
 ただし、鞘は小中高を一貫された学校の寮に住んでいるため、いつもならこの家には母親のリゼしかいない。
「そういえば鞘。学校はどうしたの? 今日は平日のはずだけど」
 サーティーはカレンダーを見ながら鞘に尋ねた。現在の暦は十月であり、この時期の学校に長期の休みはなかったはずだ。
「ああ、そのことなんだけど。今学校はね、修理中なんだ」
「はあ? 修理って、なんかあったのかい?」
 今回鞘がこの家にいるのは、現在彼の通う学校で起きた原因不明の謎の爆発事件により、破損した壁などの大幅な補修のために数日間の休日になったからだ。鞘はそれを簡単に説明した。
「ふぅん、変な学校ね」
 手にしている湯呑みを口元に添えて、ズズズとお茶を啜る。
「でしょ? なんか噂では高等部の生徒たった三人の喧嘩の跡らしいんだって」
「なにそれ。お前の学校には反平和主義を唱える武装したゲリラ生徒でもいるの?」
「さあ、どうだろうね。……っと、そういえば肝心なことを思い出した。婆ちゃん、なんでここにいるの?」
 鞘はポンと拳を作った右手を左手の平に叩き、サーティーに聞いた。
 すると、サーティー本人もそのことをすっかり忘れていたせいか、ああ、と言いながら手にしていた湯呑みをテーブルに置いた。
「そういえばそうだったわね。この間、イタリアにあるわたしの研究室に手紙で連絡が来たのよ」
「連絡?」
「そう。久々に仲間内で集まって昔話でもしようっていうやつよ。でもね、場所とか時間とか全然決まっていないのよ。……全く、あの子ったら企画だけ突発的に思いついて場所なんか大雑把に『日本国で』なんて記載して肝心なことは何にも伝えないんだから、ホントしょうがないわね」
 ため息混じりの言葉だが、その中にはどこか懐かしむような温かみのある口調が感じられた。
「それって、同窓会みたいなもの?」
「まあ、そんな感じね」
 サーティーは居間から見える縁側を眺める。この家は平屋の和風の家のため、縁側には自然に生えた草木があった。
「婆ちゃんの仲間ってどんな人達?」
 サーティーは久々に集おうとしている仲間達の顔を思い浮かべながら、小さく笑って孫の方に振り向いて答えた。
「わたしと同じ、“魔法使い”よ」


5 :寝狐 :2006/06/22(木) 21:40:02 ID:o3teQHoe

<0−3>

 日本国は古都、京都。
 八十畳はあるかと思われる、広く白き部屋の奥に四、五段ほどの階段の上にぽつんと置かれた、背の部分が妙に高い一人用の椅子があった。それは西洋風に言うなら国王が座るような立派な椅子だ。
 そこに座っているのは若い女性。
 十八歳ぐらいだろうか、肩まである流れるような艶やかな黒髪。穏和な物腰。高級そうで清楚な雰囲気を感じさせる服を纏い。椅子に座り左腕を肘掛けに乗せて寄り添っているその姿は、彼女にとってのいつもの習慣だった。ただ唯一違うと言ったら、今自分の前に立っている白い装束を着た者がたった独りなだけ。
 そこにいるのは、彼女にとっては一番に信頼をおける女性であった。
 その女性の名は七海(ななみ) 真弥(まや)。彼女の直属の部下であり、この国を、そして自分にもっとも忠誠を誓う者。かつて幼き頃はよく彼女と遊んだものだ。
「陛下、今年も出雲大社で行われる八百万(やおよろず)神祭における警備は例年通り、陰陽(おんみょう)機関が総出で行います」
「ええ。それと、討魔(とうま)機関からも何人かは向かわせてください。(よこしま)なる神々も紛れ込む可能性がないとは言い切れませんから」
「はい。では、柳生一族の者から宗隆(むねたか)宗康(むねやす)を警備にあたらせます」
(むね)兄弟ですか。ならば安心ですね」
 陛下と呼ばれし彼女、(すめらぎ) 富桜那(ふるな)は毅然とした態度で、自分よりも長く人生を歩んできた者に指示を下す。
 富桜那は今年、皇位を受け継いだ第百二十六代目の(みかど)である。
 これまでの歴史上、日本国で女帝となった者はたった六名しかいなかった。本来、帝は男系の男性だけとされてきたが、とある事情により富桜那以外の正式に皇位を継げる男がいなくなったが為、彼女が皇位を受け継ぐことになった。
 皇位継承から数ヶ月間はやはりメディアや女帝を認めない政治家らが反発を繰り返したが、元より政治情勢やそれらに対する勉学は幼い頃から既にカリキュラムとして組み込まれていたので富桜那にとっては特に苦ではなかった。
 いや、もしかしたら彼女には既にこうなることが分かっていたのかも知れない。おそらく彼女に下に就く真弥も同じことを思っていたに違いない。それが彼女の全身から発せられる威厳の理由なのだろう。
 今回彼女とは、一般メディアには特別講義という名目で極秘裏な話し合いをしている。そのため、この皇室にいるのは富桜那と真弥だけである。他の付き添いの者は皆外で待機させていた。
「それと、例の都市の件ですが……」
「何か、良くないことが起きたのですか?」
 真弥は僅かに口を濁らす。
 今回真弥は、この話の為にわざわざ特別講義を設けたのだ。報告をしないわけにもいかない。
「……はい。これは六波羅(ろくはら)機関からの報告ですから、わたしは(じか)に確認はしておりませんが……」
「構いません。報告してください。私には全ての情報を知る義務があります」
 真弥は一呼吸置いてから、口を開く。
「例の都市に、第六拾九魔が現れたとのことです」
 その意味深な番号に富桜那は息を呑み、眉を潜める。
「……そうですか。彼らは動き出しましたか」
「彼らの行動が確認されたのは、二年前の淤能碁呂島(おのごろしま)事件以来です。事件以降、彼らに目立った行動は見られませんでした」
「やはり、彼らは焦っているようですね。二年前はあと一歩の所で失敗しましたから」
「今回は前回よりも確実な方法で“穴”を開けるつもりかと」
「そのようですね」
 富桜那は椅子から立ち上がり、窓側へと歩み寄る。そして窓に手を当て、外を眺める。
 ……いや。彼女は“外”を見ているのではなく、この“世界”そのものを見ているのかも知れない。
「現状況で、こちら側に彼らに対抗できる者はおりますか?」
 振り向かず、窓の外を見つめながら問う。
「いいえ。二年前の事件に関わった者は全て、行方不明になっていたり、別国で任務の実行中であります」
「つまり、止められる者はこの国にいないと」
「そのとおりでございます」
 真弥は頭を深々と下げる。
「それに関してですが、我々の代行者として法王庁(ヴァチカン)の方に連絡をしてみました」
 その名前に富桜那の表情が僅かに険しくなった。
「向こうと話し合いができたとは思えませんが……」
 富桜那が言うのも当然である。彼女らと相手側は協力的な関係ではない。互いの思想が大きく反しているため、むしろ敵対と呼べる関係である。
「いえ。直接、法王庁に要請したわけではありません」
 身体を反転させ、富桜那は真弥へと振り向く。
「と、言いますと?」
「法王庁本部ですらまともに動かすことができない一癖も二癖もある“課”に要請をしました」
「それで、向こうの反応は?」
「予想通り、本部側の意向に“反逆”し、こちらの要請を快く受け入れてもらえました」
 それを聞くと、富桜那は再び窓の外を眺める。
「今回の戦いは、この国を巻き込むおそろしいものになるでしょう」
「こちら側も対抗するための術を、北海道と出雲の協力を得て検討してみます」
「お願いします。……ご苦労様でした。引き続き、八百万神祭の警備をお願いします」
「御意」
 真弥はそう頷くと、皇室から出ていった。
 最後に残るは、富桜那の独りだけ。
 彼女のできることは、ただ、祈ることだけだった。


6 :寝狐 :2006/06/25(日) 18:30:30 ID:mcLmm4nD

第一章 一日目 -試験的第四次都市国家-

<1−1>

そこは暗い闇だった。
天も地もない、黒の世界。
いや、それは背景なだけにあり、その世界には不思議なモノがまるでそこが宇宙のようにふわりと漂っていた。
赤い液体。棒のような塊の先端から流れる赤い液体。丸い置物のような物体の付け根から落ちるように出ている赤い液体。
それが何なのかはよくわからない。ただ、この光のない世界では何かがあるとしか認識できないからだ。
では、なぜ赤い液体だけはわかるのだろう?
光のない世界で色の認識は不可能である。それなのに、その赤い液体ははっきりとこの世界では見えていた。
そこに、彼女はいた。
彼女もまた、黒の世界に取り込まれてはいるが、色だけは取り込まれていなかった。
黒の世界に、赤い液体と彼女だけが存在している……。


7 :寝狐 :2006/06/25(日) 18:33:14 ID:mcLmm4nD

<1−2>

 高天原(たかまがはら)市、赤火(せきか)区。
 その街で女は人々が行き交う中をゆっくりと歩いていた。
 年齢は二十五歳前後だろう。身長は百七十センチとモデル並みの長身。大きく目立つ、腰まである長い緑みにかかった黒髪。柔らかそうでどこか眠たげな、翡翠の瞳をした双眸。黒い上着に灰色のロングスカートという服装。その上からでも分かるぐらいの見事なプロポーションを持つ女は、左手に車輪の付いたトランクを引いていた。
 向かい側から彼女の横を通る男達は皆、誰しも彼女を一目見て、一瞬だが見惚れるように目が離せずにいた。それほど、彼女は美人と言うことなのだろう。
 女は横断歩道を渡ろうとしたが、信号が赤であった。仕方が無く立ち止まる。
 「ふわぁあ〜……」と口に手を当てながら欠伸をして、呆けながら目の前を走る車を眺める。
 どうやら寝不足のようだ。目元が眠たげになっているのはそのせいだろうか。
 しばらくすると信号が青に変わる。同じように信号待ちしていた周りの人達が動き出すと、女もトランクを引いて歩き出した。
 のんびり目的もないように歩いていると思われていた女は、ふと足を止めた。
 横を振り向き、目の前の看板に目を向ける。
 それは街の案内板であった。このあたりの簡易地図が書かれており、交番や公園、所々にお店の名前、この街の名所だと思われるところには少し大きめの赤い文字で表示されていた。
 女はこの街は初めてのようだが、地図も持たずして何も考えずにただ気の向くままに歩いていた様子である。しかしさすがに空腹には耐えきれなかったようだ。その証拠に、女のお腹からくるるぅと案外可愛い音が聞こえた。
 アナログの腕時計を一目見ると、長針と短針が揃って十二を指している。
 時間を確認して案内地図に視線を戻すと、女の目線はラーメンや蕎麦などの飲食店に集中していた。
 赤い丸印で表示されている現在位置から見ると、ファーストフードのお店が一番近いのだが、女はそれを視線から外していた。何故ならこの時間帯はもっとも飲食店が混み合う時間であり、ファーストフード店はその中でも人が最も入りやすい場所だからだ。
 さすがに今日は平日なので学生がいるとは思えないが、それでも社会人やら、この不況の世の中で職探ししている人達で混み合うのは目に見えている。
「う〜ん、どれがいいかな〜……」
 女は下唇に人差し指を当てながら思案する。どうやら、ラーメン店か蕎麦屋をどちらにするかを迷っている様子だ。
「……よし。今日はお蕎麦に決定〜!」
 結局迷いに迷ったあげく、女は蕎麦屋に決めたようだ。そしてトランクを握り返すと、女は再び歩き出した。


8 :寝狐 :2006/06/25(日) 18:53:46 ID:mcLmm4nD

<1−3>

「う〜ん、なかなかいい場所が見つからないわね〜……」
 数十分後、女は未だに町中を歩いていた。
 いくつかあった蕎麦屋がどれも混雑のため入れず、空いている蕎麦屋をめぐって町中を練り歩いているのだ。

「……ちょっと離してください!」

 そんな中、どこからか女の子の叫び声が耳に入った。
「ん?」
 その声に女は辺りを見渡す。
 小さいが、声は奥に見える公園から聞こえている。
 なんとなく気になって、女はその声の方へと向かった。
 公園の中、中央にある噴水のところに声の主はいた。
 両手で紙袋に入った大きな荷物を抱えた少女が、数人の男達に囲まれるように立っている。
 周りにいるのは友達ってところだろうか? ……いや、先ほどの少女の声からして、それは違うだろう。ならば、単なるナンパか。
 少女は嫌々な表情で対応しているが、取り囲んでいる男達は彼女の困っている姿を楽しんでいるようにしか見えない。
 女はただならぬ雰囲気とやりとりを見ていた。
 面倒くさいことには関わらない、と女は普段から決めている。……なのだが、いかんせん。このまま見過ごすのも気分が悪い。というより、放っておいて食事中に、あの少女がどうなったかなと思い出してしまうと食欲が失せる気がする。
 それだけは嫌だった。
「はぁ〜。どうして私って、こう面倒くさいことに首を突っ込むのかなぁ……?」
 ため息混じりに呟きながら、女は少女の方へと歩み出した。
 別に知り合いというわけではない。しかし、ただ一言だけ声を掛けることにした。
「ちょっと、なにやってんの?」
 少女は女の顔を振り向く。少女と女の目があった瞬間、困惑の顔に安堵が広がった。
「なんだよ、お前?」
 男達の一人がうざったそうな声で聞いてきた。
「この子の知り合いよ」
 当然、これは嘘。しかし、少女を助ける理由としてはこれが妥当だ。
 女は少女と男達の間に割って入り、少女を庇うように男達と向き合う。
 少女は女の方を見ながら、何か言いたげな顔を浮かべている。
 ……やっぱり絡まれているようだった。
「で? この子に何か用なの?」
「ちょっと道を聞こうと思ってたんだよ」
 「なぁ?」と聞きながら他の男達に顔を向ける。すると、仲間達はその男に合わせるように「そうだそうだ」と言ってきた。
「ふぅん、そのワリには彼女、すごく嫌そうな顔をしているけど。……ホントなの?」
 わざとらしく、女は少女に振り向く。
 その言葉に、少女は「違います!」とはっきりと答えた。
「そっちが、いきなり私を連れ出そうとしたのよ!」
「……だそうよ。どうなの?」
 女はわざと嫌みったらしく男達に聞き返した。
 それを言われた男達はチッと舌打ちをして、二人に背を向けて歩き出した。
 男達が退いていくのを見ながら、女はやれやれと安堵を漏らす。
 だが、退いていく男達が呟いたその声を、女は聞き逃さなかった。
(……ったく、なんなんだよ。あの口煩いオバサン(・・・・)は)
(まったくだ。あのオバサン(・・・・)の所為でせっかくの可愛い子を逃がしちまった)
(あ〜やだやだ。最近のオバサン(・・・・)は何にでも文句を言いやがるもんな。たまったもんじゃないぜ)
 女は確かに普通の男からみれば振り向いてしまうほどの美人であるだろう。しかし、皮肉なことにこの三人組はロリコン(・・・・)だったのだ。故に、大人な女性には見向きもせず、自分達よりも年下、つまり女子高生といった十代の女の子をターゲットとしていたのだ。
 だが、女はそんな三人組の好みなど知る由もない。
「……お、おばさんですってぇ……?」
 当然、女の片眉がピクピクと吊り上がり、こめかみに血管が浮き上がる。
 そして、ふと視界の端に映る路上に捨てられたスチール(・・・・)の空き缶を右手で拾い上げ、ギュッと潰しかねないぐらいの力強さで握りしめる。
「だ〜れ〜が〜……」
 狙うは連中の中心にいる男の後頭部。最初に『オバサン』とぼやいた男だ。
 右足の底を完全に地面へ固定させ、空き缶を握る右腕を大きく振りかぶり、左足を前に出し、ダンッと地面に叩きつける。
「おばさんよー!!」
 渾身の力で腕を大きく振り下ろし、女の手から解き放たれた空き缶が豪速で男の後頭部へ一直線に飛ぶ。
 そして空き缶は見事、たとえどんな人間であろうと鍛えようにも鍛えることが絶対に不可能である男の後頭部に的中した。
 そのあまりの痛さと衝撃で男は前のめりに倒れ、顔面から地面と接触した。
「……いってぇ〜!」
 倒れた男は当てられた後頭部に手を当てながら立ち上がる。
「なにしやがるっ、このババ――?」
 罵倒しながら後ろを振り向いた直後、顔面をギリギリすり抜けながら何かが落ちてきた。
 ドンッと音を耳にして、男は足下を見下ろす。
 そこには足があった。踵を着けた地面が異様にへこんでおり、小さなクレーターができている。
 そのまま首を持ち上げると、そこに先ほどの女がいつのまにか、目の前に立っていた。
()が、オバサン(・・・・)だって?」
 優しく静かな声が男に尋ねる。しかしそれが、殺意が混ざったものだということに男は恐怖という身体の反応で悟った。
 現に、今男の眼前に落ちたのは女の足。……すなわち踵落とし(・・・・)が高速で振り下ろされたのだ。万が一直撃していれば、頭蓋骨陥没していたのかもしれない。
「い、いいえ! 目の前にいるのは美人なお姉さんだけですっ! ……しっ、失礼しました!」
 男は足下をふらつらかせながら、他の男達を引っ張り、その場を走って逃げだした。
 男達が見えなくなるのを確認してから、女の横で少女が大きく息を吐く。
 助かったという安堵の表情が手に取るように判る。
「あなた、大丈夫だった?」
「あ、はい。本当にありがとうございます」
 少女は頭を下げてお礼を告げる。
「いいって、大したことじゃないから」
 感謝をする少女に女は少し照れながら答える。
 目の位置が女の首辺りだから、おそらく身長は百六十ぐらいだろう。腰まである艶やかな黒髪に、優しげな瞳。なんとなく少女は女と似ているが、こちらの少女は清純な育ち方をしているはずだ。女はなんとなくそう見た。
 ……まあ、これだけ可愛ければ声を掛けられてもしょうがないな、と女は内心呟く。
「あの、助けて頂いたお礼に、なにかしたいんですけど……」
「別にいいわよ。お礼がもらいたくて助けたワケじゃないし。それに困ったときはお互い様っていうでしょ?」
 そう答えるも、少女の方は納得のいっていないようで、まだ何か言いたげである。そしてふと、腕時計を見ると、そうだといいながら女へ顔を向ける。
「あの、昼食はもう済ませましたか?」
「え〜と、まだだけど……」
 その言葉に少女は「よかった」と呟く。
「それじゃあ、食事はどうですか?」
「食事?」
 女はつられて聞き返す。
「はい。一緒に昼食はどうかな〜、と思いまして」
「私と、あなたが?」
「もちろんですっ!」と少女は元気に答えた。
「もちろん助けて頂いたお礼ですから、私の奢りです」
「そう? それじゃあ、奢ってもらおうかしら」
 女は奢りと言う言葉に僅かに反応しながら笑顔で言った。
「はい。美味しいお店を知っていますから案内しますね」
 そう言って少女は歩き出そうとしたが、ふと立ち止まり女の方に振り向いた。
「そういえば、まだお互い自己紹介していませんでしたね」
 言われて気付いたのか、女も「そういえば、そうだったわね」と小さく笑った。
 先に少女がまるで面接でもしているかのように自己紹介を始めた。
御子神(みこがみ) 無月(なつき)。一介の高校生です」
 続けて女も言う。
「私の名は凰霞(おうか) 翠琥(すいこ)。職業は……」
 一瞬、女はそれを言うか言うまいかと迷ったが、まあいいか、と呟きながらゆっくりとその名を口にした。
「――魔法使いよ」


9 :寝狐 :2006/06/25(日) 19:16:47 ID:mcLmm4nD

<1−4>

 窓から射す柔らかな日射し。
 そして遠くから聞こえる鳥の囀りが、深層意識界に潜っていた少女の意識を外へと目覚めさせた。
「……ん、ふわぁ〜」
 ベッドから上半身だけを起こすと、欠伸混じりに両腕を上げて身体を伸ばす。
 そのままベッドにまた倒れようとも思ったが、それでは仕事場に遅れると理性が言い、なんとか倒れるのを思い留まる。
 起きなくてはいけないという勢いだけでベッドから降りる。
 少女はブラウスと下着はショーツだけという格好だった。これは彼女の寝間着であり、別に着替えるのが面倒なわけではない。
 他人が見ればなんとも恥ずかしいのだが、生憎この家には彼女しかいないので平気で部屋を歩き回れる。
 人肌に温かいベッドに未練を残しつつ、少女は洗面所に向かう。
 洗面台の正面に立て付けられている鏡を呆と眺める。
 幸い目立つような寝癖は見受けられなかったが、瞼はほとんど落ちかけており、いかにも寝起きだという状態が窺える。
(まずは眠気を覚まさないと……)
 蛇口をひねり、冷たい水を両手で掬いながら顔に浴びせる。
 それを二、三回。ひんやりとした感触に少女の意識は覚醒された。あとは水滴が残る目を閉じたまま片手を横に伸ばして探り、備え付けられている清潔なタオルを掴む。
 それで顔をふき取り、使ったタオルをタオル掛けへと戻す。
 そうやって少女は再び鏡を見た。
 年齢は十五歳くらいだろう、ショートカットに切られた藍色の髪の先端には先ほどの水滴が未だに滴り落ちている。物事の真実を見通すような鋭い瞳。目鼻共に整った顔立ちは年相応というよりも少し大人びた感じである。おおよそ美人に入る部類の顔立ちだろう。
「顔色良し、健康状態に異常は見られず。……訂正、まだ眠気が抜けていない可能性が大と思われる」
 おそらく普通の人間が鏡に向かって言わない(鏡でなくとも言わない)ような台詞を、あたかもそれを計算したような口調で少女は呟いた。
 居間に戻ると、少女は何かの音を耳にした。細かく、機械的な振動音。
 すぐにそれは携帯電話のバイブレーションの音だと気付いた。
 少女は仕事の都合上、着信メロディーは常にオフにしている。そのため、普段なら肌身離さず持っているのだが、さすがに睡眠の時までは部屋のどこかに置いていた。
(……っと、早く携帯に出なきゃ)
 身体的には目覚めているものの、どうやら精神的にはまだ眠気は抜けていないようだ。
 音の方向を見ると、昨夜脱ぎっぱなしにして床に置いていた服の中から聞こえていた。
 どうやら、上着の胸ポケットに入れっぱなしにしていたようだ。
 少女は上着を拾い上げ、胸ポケットから携帯電話を取り出す。
(誰だろう?)
 二つ折りになっている携帯電話を開き、受信相手が表示されている液晶画面を見る。
「……うわ」
 思わず呻いた。
 それは仕事場の番号だった。
 しかし出ないわけにもいかず、少女は通話を繋げた。
「……もしもし?」
『やっほーマイちゃん! 起きたぁ〜?』
 とびきり元気な女の声が、耳はおろか脳にまで響いた。
「……あー、はい。司令のその声で精神的な眠気が一気に起きました。おはようございます」
 携帯を持っていない方の手で頭を押さえながら、マイと呼ばれる少女は答える。
 司令と呼ばれた女は少女の直属の上官である。
 名を秋元(あきもと) 我沙羅(がさら)。姉御肌で仲間の面倒見が良く、統率力・指導力に富み、いつの間にか周囲を自分のペースに巻き込んで物事を進めてしまうというかなりゴーイングマイウェイな性質で強烈なキャラクター性をもつ。
 普段からチャイナドレスにジージャンの上着を羽織るという一風変な格好をしている。しかし、一見おかしな組み合わせであっても、彼女が着ると意外と違和感が湧かないのは不思議であった。
『それなら良し。それとマイちゃん。現在の太陽の位置は分かっているのかな?』
「は? 太陽の位置って、朝だからまだ東の方角に――」
 そう言いながら、少女は窓を全開にして身を乗り出した。
 東の方角に顔を向けてみると、そこにあるはずの太陽は見つからない。その代わりに、頭がやけに暖かい。
「……え〜と。現在太陽は頭頂部に位置しています」
『正解!』
 気付いたことに喜んだかどうかは分からないが、電話の女、我沙羅は元気に叫ぶ。
 陽は一日のうちもっとも高くなる位置にあった。それは現在の時間がお昼になっていることを示す。
 つまり――
「うそー? 寝坊っ!?」
『太陽は嘘つかないわよ』
 はぁ〜、と深いため息が受話器の向こうから聞こえた。
『仕事に根詰めるのもいいけど、ほどほどにしなさいね』
「……わかっていますよ」
 窓は風を通すために開けっ放しにしておいて、少女は先ほど未練を置いてきたばかりのベッドに座る。
「それで、何のようですか?」
 わざわざ寝坊助さんを起こすためだけに、この人は電話を掛けては来ない。それなりの用件があるはずだ。……おそらくは、仕事関係の内容。
『ああ、そうだったわね』
 我沙羅はコホンと、一度だけ咳き込んで声調を整え、先ほどのふざけた声が変わって、真剣な声に切り換えられる。
詩原(しのはら) 真斑(まいか)に新たな任務を与えます』
 その一言で少女――詩原真斑の表情はキリッとした仕事状態へと切り替わった。
『一時間前、日本国の天津帝(あまつてい)からとある要請が入ったわ』
「要請、ですか」
(仕事ということにはうすうす気付いていたけど、まさかあの天津帝からだとは……)
 天津帝と言えば、彼女たちの仕事上、関係者なら誰もが耳にしたことがある極東でも有名な組織の名前だ。
 古くは平安時代から神術や霊力を操り、日本国の太平の世を守り続けているという巨大な組織。
 政府の裏から日本国の情勢の混乱を防ぎ、警察やメディア関係などあらゆる情報を全て統制するほどの影響力があるため、『怪奇事件』など一般的な理解・理論では認められないような大事件が起ころうとも表沙汰になるようなことは一切無い。よって世間には絶対知られることもなく、全ては歴史の影に葬られるのである。
 天津帝を知るもの達は、皮肉を込めて『陰府』と呼称している。
 もっとも、彼女たちの仕事も結局は彼らと似たようなものなので、笑って言えることではないが……。
『内容は、日本国はY県にある地方開発都市“高天原市”の現地調査よ』
 高天原市の名は真斑にも聞き覚えはあった。たしか、かつて『高天原村』と呼ばれていた小さな村が、数年前に政府が提案した第四の国家都市計画の実行のために、次期国家都市として建設された都市だという。
「現地調査? 日本国の中の事だったら、わざわ隣国(・・)であるこちらにまで連絡をしなくとも、こちらの機関にはきちんと極東支部の“課”がありますし、そっちに連絡すればいいじゃないですか。なぜこっちに?」
 真斑の意見はもっともであった。
 彼女らが所属する組織は欧州にある本部を含め、世界に十七つの“課”が存在し、そのうちの一つが極東、日本国にあった。
『ええ。確かにあちらさんに頼めば済むことでしょうけど……』
 我沙羅は日本国にある“課”のことを頭に浮かべて口を濁らす。
『辞めた方がいいわ。あっちは確かに“課”の中では最強と呼べる“課”だけど、あれは戦闘の時だけよ。情報収集なら、こちらが一枚も二枚も上手なんだから』
「ああ確かにそうですね。諜報活動だけならこちらが専門でした」
 真斑は素直に頷いた。
『というわけで、詳しい話は後で司令室で話すから今は早く着替えてこっちまで来てね』
「了解しました。一時間以内ににそちらに向かいます」
『あ、そうだ。ちょっと待って!』
 通話を切ろうしたが、我沙羅が声を上げたので真斑は手を止める。
「……なんですか?」
 まだ用件があるのか、という気持ちで真斑は問う。
『あのさ〜、こっちに来る途中にパン屋さんがあったでしょ? そこでカレーパンを五個買ってきてくれないかなー。あそこのカレーパン、ものすごく美味しいって評判――』
 ピッ!
 話の途中で真斑は力強く通話を切った。
(人に早く来いと言っておきながら、食べ物を買ってきてと頼むなんて、そんなの矛盾だ。あのゴーイングマイウェイな性格に、自分のペースを乱されるわけにはいかない)
 よし、と頷きながら真斑は着替えるために寝間着用のブラウスを脱ぎ、きれいな白い肌に無駄な脂肪のない細い体つきを露わにする。
 下着を付け、真新しいブラウスに袖を通し、ニーソックスを履く。そして、横にあるトタン板のクローゼットを開ける。
 ハンガーに掛かったいくつかある服の中から取りだしたのは、婦人用の黒いリクルートスーツであった。
 スカートを履き、ジャケットに袖を通す。
 ピシッと形を整え、鏡を見ながら髪型も整える。
 台所に向かい、コップ一杯に入れた水を飲み干し、眠っていた内臓器官を活性化させておく。これにより、急激な運動をしても身体に異常は出ない。
 そして、ゆったりとだが確実な足取りで玄関へと向かい、ヒールを履いて外へと出た。
真斑の眼下に大きな湖が映った。
 その湖を挟むように二つの島があり、両方とも高層ビルなどが建ち並ぶ街があった。
 ――都市国家新香港(・・・)特別行政区。
 眼下にある湖はヴィクトリア湾。二つの島のうち、大陸と地続きの島は九龍(カオルン)半島。その反対側にあるのは香港島である。
 今真斑が立つその場所はそのうちの香港島側で、ヴィクトリア山の斜面にひっそりと建つ賃貸施設の一つ、日昇荘。
 このあたりは街の中心部と異なり、静寂に包まれている。
 真斑はその場に立ち止まり、風になびく髪を押さえながらヴィクトリア湾を眺める。
 既に見慣れた景色なのに、意味も無く湾を見つめる。
 本当に意味は無い。だが、何故か見つめたくなる。
 そういう人間は大抵、よほど海が好きか、あるいは嫌いな人間かのどちらかである。
 そして今、湖を見つめる少女は、どちらかといえば前者だろう。


10 :寝狐 :2006/07/02(日) 18:55:23 ID:mcLmmAWD

<1−5>

 太陽が一日のうちで一番高く昇る頃。
 焼けたアスファルトからの熱気を抜け、翠琥は無月に案内され、人通りの少ない通りに向かう。
 いくつかの飲食店や洋服店などの横を通り、翠琥達はとある一軒のお店に辿り着いた。
「ここが私のお薦めのお店です」
 無月が翠琥の方に振り向いて見せたお店は喫茶店であった。
 入口の横に立て飾られている看板には“ディアテーケ”とギリシャ語で書かれている。
 無月は大きな荷物で両手が塞がっている為に、翠琥が先導して店のドアを開ける。中に入ってみると、アンティークな店だった。
 壁側に中を見渡せるぐらいの大きな窓が五つ作られており、そこから秋の淡い陽射しが照明の役割として店内に射し込む。
 天井に埋め込まれている電光灯は強すぎず、それでいて暗くも感じさせない光度を放っていて、それが店内を人工的な雰囲気ではなく自然な雰囲気にしている。
 この喫茶店は余程の穴場なのか、それとも人通りの少ないような場所にあるから人気がないのか、正午過ぎなのに、何故か客の数が三人ぐらいと少なかった。
「いらっしゃいませ」
 店に入ってきた翠琥に気付いたのか、奥のカウンターに立っていた中年の男性店主が声をかける。
 翠琥が中に足を踏み入れると、後ろにいた無月が横から顔を出す。
「ただいま、パパ」
「おお、無月。おかえり」
 二人のやりとりに翠琥は思わず驚いた。
「えっ! もしかして、ここって無月の家なの!?」
「あれ、言ってませんでしたっけ?」
「言っていないわよ」
 なるほど、と翠琥は思った。
 お店の雰囲気としては上々だ。しかし、場所が人通りの少ないところなせいで、客の出入りが悪い。だから一人でも多くの客を入れて父親を喜ばそうという考えなのだろう。
 いや、別の考え方をすれば、少しでも自分たちの店を気に入ってくれる人を求めているのかも知れない。それに、自分たちの店があるのに他の店を紹介する人はそうそういないはずだ。
 親想いの子なのね、翠琥はそう思いながら店内を見渡す。
 ここにいる客は本当にこの喫茶店が好きなのだろう。なんとなく常連客的な落ち着きを感じた。
「ほら。こんなところに突っ立っていないで、早く座ってくださいよ」
 そう言われて、無月に背中を押されながら案内されたのはカウンターの奥の席であった。
 手にしていたトランクを脇に置き、翠琥は席に座る。
「無月。このお客さんとは知り合いなのかい?」
「うん。さっき公園でナンパされていたところを助けてもらったの」
「そうかい。いやぁ〜、うちの娘が世話になったね。どうもありがとう」
「いえいえ。別に大したことじゃないですよ」
 言いながら翠琥は手を横に振る。
「よし。娘を助けてくれたお礼になんでも注文してくれ。全部マスターからの奢りだ」
 気合十分かのように、マスターこと無月の父は服の腕部分をたくし上げる。
「いや、別にお礼されるようなことじゃ――」
 そう謙虚した翠琥だったが、食べ物のことを思い浮かんでしまったが為か、くるるぅ〜と可愛らしい空腹の音が鳴った。
「あっ……」
 その光景が面白かったのか、無月と彼女の父親は笑いだす。
「身体は、正直のようだね」
「……すみません。ご馳走になります」
 無月の父親の言葉に、翠琥は白旗を上げた。


11 :寝狐 :2006/07/02(日) 18:59:39 ID:mcLmmAWD

<1−6>

 賃貸施設『日昇荘』を後にした真斑は新香港の中心部『東方双龍塔』の中にいた。
 東方双龍塔とは新香港にある巨大建築物であり、宿泊施設や映画館、食料・衣料品店などがひしめいている。WR(ダブリュ・アール)を世界に繋ぐ巨大駅の要であり、WR設立第一号駅として有名な場所だ。
 WRとは正式名称『An International World Railroad』の略であり、日本語に訳すと国際世界鉄道である。
 現在、世界の交通機関は大きな変化が起きている。
 国際軍事連合軍、通称『国連軍』による高度三千フィート以上の飛行空域規制。
 米国は空軍施設の増加を計り、国家予算の五十分の一を使用した最新鋭戦闘機の大量生産で自衛領空の大幅な強化。
 世界で産出されてきた石油埋蔵量の減少化による、暴落とも言える程の単価上昇。
 それに伴い、各国の空港が所有する航空機の大幅な削減。および空港数も米国の北側は二十五ヵ所、南側は二十一ヵ所。欧州は八ヵ所。アフリカ大陸は二ヵ所。アジア圏はロシアが二ヵ所。中華人民共和国は三ヵ所(うち新香港には一ヶ所)。エネルギー資源不足が問題とされてきた朝鮮半島は全空港を破棄。日本国は北海道一ヵ所と本州二ヵ所、九州は一ヵ所と計四ヵ所。
 というように、世界は大規模に空港を削減させた。残りのこれまで現役で活動していた空港は全て国連軍により廃棄処分された。
 これにより、各国は新たな交通手段の計画を提案する。そして、そこから生まれたのがWRである。
 これまで国内の移動手段としか使用されなかった鉄道を世界交通手段に転用させたのだ。
 海上に電気を走らせるのは危険だということで、米国はMIT(マサチュセッツ工科大学)で開発された、これまで長年の問題視とされてきた電磁波を一切発しないという最先端科学技術、磁場反転機関『リニアドライブ』を利用した超弩級距離の特殊線路を敷き、そこに列車を走せることでこのWR計画は成功したのだ。
 WRは航空機とは違って、事故が発生する可能性はまず低い。
 分厚く強力な特殊ドームで線路を包み込むので海水による浸水の心配もなく、台風でもこないかぎりは運行停止することはない。
 乗車人数も一般の航空機よりも多く乗れるよう設計されており、さらには運行時間も航空機とそう変わらず、運賃は航空機よりも安いときたものだ。
 このことからして、人々の反応は上々で、航空機よりもWRを利用する者が多い。
 つまり、この世界においての鉄道は航空機に匹敵する超長距離交通機関なのである。
 なぜこのような世界的交通機関が存在するのか。その根本的な理由は二十一年前に遡る。
 今から二十一年前、この地球は世界規模の戦争が起こっていた。
 戦争というが、それは人間と人間との争いではない。
 外宇宙から突如現れた異星人勢力。人類はこれを『インベーダー』と呼称。
 異星人、インベーダーは侵略した惑星に適応した姿形になることができるという、準拠した能力を持ち合わせており、さらに人類が誇る現有兵器が全く効果が無いという異能が人類を脅かした。
 しかし、欧州は某国のとある組織が現有兵器をも効かないインベーダーと対等に戦い、勝利を収めるという偉業を成し遂げた。
 その戦いは人類の記録には残されず、表向きの歴史には『異星人勢力は地球の制圧を諦め外宇宙へと消え去った』、と記され一般的には『異星人侵略事件』と人類の記憶の隅に残った。
 撃退された今も、目的および正体が一切不明な異星人勢力、インベーダー。
 彼らとの戦いはのちに大きな影響をもたらすのかも知れない。人類はそんなことを予感しながらも、二十一年という歳月はそれを忘れさせるには十分な刻だった。
 だが、戦争の爪痕はあれから二十一年を迎えた現在も世界各地に痛々しく残っている。
 戦争終結後、人類は主要都市の復興を目指した。中には復旧のメドが立たず、新しく主要都市の開発を提案する国も現れた。世界各国はこれを機会にと世界会議を起こし、世界の各トップが考案した計画、“都市国家計画”を発案した。
 都市国家とは、国家そのものよりも国家内の都市が権力を持つようになり、その中でもより大きな権限を持つ都市のことを呼ぶ。
 そしてそのうちの一つが、この新香港なのである。
 世界でもっとも早く都市国家化した場所でもあるがゆえに、他国からの移住者もそこそこいた。
 東方双龍塔はそんな移住者たちには喜ばしい場所でもあるのだ。

 真斑は人ごみの中をすり抜け、塔内においては唯一の死角となる場所へと向かう。
 そこは階段もドアもなく、少し奥、ただ壁に寄り添うように不自然に置かれた人一人分は余裕で隠せるぐらいの大きな観葉植物が植えられた鉢が一つあるだけの無意味な空間。
 鉢の奥側に隠れるように真斑は移動し、正面の壁を見る。
 真斑の視線から右斜め前の所に不自然に設置されたカードリーダーがあった。
 胸ポケットから一枚のIDカードを取り出し、リーダーに通す。すると、何もなかったはずの壁の一部が横にスライドし、新たな空間が現れた。
 それは数人が入れる程度のエレベーターだ。
 エレベーターに乗り込むと壁は閉まり、音もなく真斑の姿は消えていった。
 何もないはずの場所から一人の少女が消えたことに、近くを通る人たちは一切気付くことはなかった……。


12 :寝狐 :2006/07/02(日) 19:10:42 ID:mcLmmAWD

<1−7>

「そういえば……」
 翠琥が四皿目(・・・)のカレーライスを平らげようとしたとき、横で紅茶を飲んでいた無月がふと口を開いた。
「翠琥さんって、魔法使いなんですよね」
「ん。ふゃふぃぎゃふぃった?」
 口の中にまだカレーが残っているのか、翠琥の言う台詞は言葉になっていない。
 無月はおそらく「何か言った?」と彼女は言ったんだと思った。
 それに気付いたのか、翠琥は無月に“ちょっと待って”とばかりに手の平を無月に向けて、ガラスコップに入っている水を一気に飲み干す。
「……ごめん。で、何?」
「え〜とですね。翠琥さんは魔法使いって言っていましたよね」
 ナンパ野郎達から助けたとき、翠琥は自分を確かにそう呼んでいた。
「ええそうよ。まぁ、大したことじゃないけどね。……あっ、智一(ともかず)さん! 次は麻婆豆腐くださーい。もちろん激辛で」
 肩をすくめて答える。そしてついでとばかりにカウンターから身を乗り出し、奥の厨房に向かって叫ぶ。奥の厨房にいる無月の父親、智一は沢山食べる翠琥に嫌も見せずに笑顔で「わかりましたー」と叫んだ。おそらく、ここまで食べるお客さんもいなかった所為なのか、久々にマスターとしての気分が良いのだろう。
「でも凄いことだと思いますよ。……それで、翠琥さんはどんな魔法を使うんですか。箒で空を飛ぶとか? それともいろんな所にパッと瞬間的に移動したりとか?」
 それを聞いた翠琥は思わず大笑いをしながら、テーブルを手の平で叩く。その振動でテーブルの上にあるカレー四皿と、スパゲティー二皿、石焼ビビンバ二皿、和風ハンバーグ一皿に、エビグラタン一皿の残骸が揺れる。ちなみに、飲み物はずっと冷水である。
「な、なにが可笑しいんですか!?」
 突然笑われた無月は頬を膨らませる。
「いや、だってね。無月の例えた魔法って、かなり古くさいんだもん」
「古くさい、ですか?」
「ええそうよ。ま、良い機会だから魔法について少し講義してあげるわよ」
 厨房から戻ってきた智一から、注文した麻婆豆腐が入ったどんぶりと新しい冷水が入ったコップを受け取り、水を一口飲んでから、再び口を開く。
「近代の世は、あらゆることができるようになったわ。大昔では不治の病とまで言われていた代物も手術で簡単に治せるようになった医療技術。航空機で大空を飛んで大勢の人間を運んだり、大量の人間を一度に殺すことができる地上科学技術。果てには宇宙にまで飛ぶことができる宇宙科学技術。現在ではありとあらゆることが文明の力で実現できるの。だから、魔法とはそれらのことができなかった大昔の時代に名付けられた『奇蹟』なのよ」
「ふーん。でもそれを言ったら、翠琥さんは魔法使いではないじゃないですか」
 指摘された翠琥はチッチッチッと舌を鳴らしながら人差し指を無月の前で横に振る。
「実はそうでもないのよ。いい? 現代では昔呼ばれていた『魔法』という代物はなくなったわ。でもね、いかに文明が発達している現代でも不可能なことはあるのよ」
「不可能なこと?」
 無月は首を傾げる。
「たとえば、“死者を蘇らす”こと。エジプトの方では死者が蘇ることを信じて、ミイラ化させた王様の死体を棺桶に入れてピラミッドの奥深くに葬っているでしょ。まあ、あれは実際どうなのかは不明だけどね。
 本当に蘇った王様が未だに現れないということは、たぶん失敗だったんだろうけど。でも、『奇蹟』を起こして死者を蘇らせれば、それは『魔法』と世間からは見なされるのよ」
「じゃあ、翠琥さんは死者を蘇らせることができるんですか?」
「そんなの無理よ」
 即答で答えた翠琥に、無月の肩の力が一気に抜ける。
「無理って、翠琥さんは魔法使いなんでしょ?」
「今のは一つの例えよ。私にあんな芸当はできないし、“死者の復活”は私達魔法使いでも不可能な奇蹟なのよ。それに、そう簡単に死者をポンポン生き返らせたら、世界の人口が増えすぎて食糧問題やら年金問題やらが一斉に降り掛かるわよ。嫌よ私。そんな狭っくるしくて平均気温が五度くらい上がりそうな世界は」
 そう言う翠琥は、熱々(・・)の麻婆豆腐が入ったどんぶりを手に持ち、食べ始める。
「それなら翠琥さんはどんな魔法が使えるんですか?」
 肝心なことを聞かれ、一瞬だけ麻婆豆腐を食べる翠琥の手が止まる。
「あ〜、んとね〜……」
「なんなのですか?」
 ずいっと無月が顔を近づける。
「……秘密よ」
 勿体つけておいて答えた翠琥に、ガクッと無月の身体が落ちた。
「な、なんですかそれ〜」
 その姿に翠琥は小さく笑う。
「まあ結局、魔法というのは物理的に可能なことではなく。概念や原理を超越し、世界の(ことわり)を曲げた神秘の力よ」
 一息ついたところで翠琥は冷水を飲む。
「ついでに言えば、魔法使いと言っても大したことはないのよ。現代の魔法使いが使える魔法というのは生涯たった一つだけなの」
「たった一つだけなんですか?」
「そうよ。そんな神秘の力を何個も使えたら、それこそ凄いわよ。魔法使いは滅多なことでは魔法を使用しないし、……まぁ、使う場所が無いだけなんだけど。基本的にはそこらの魔術師と同じよ」
 翠琥の口から出た魔術師という単語に、無月は敏感に反応した。
「魔法使いだけでなく、魔術師っていうのもいるんですか」
「まぁね。“魔法”と呼べないものは全て“魔術”と呼ばれるわ。簡単に言えば、物理的に可能でタネも仕掛けもあって、それをいかにも神秘的に見せかけたもののことよ」
「それじゃあ、私にも魔術を覚えることできるんですか?」
「そのままじゃ駄目だけど、きちんとした場所で訓練すれば修得もできるわ。稀に独学で覚えようとする輩もいるけど、止めた方が良いわよ。自分がどの属性を操れるのかを見極めなくちゃいけいないし、それに魔術を研究するにはそれなりの設備やお金も必要になるわ。だから個人的な趣味で魔術を会得しようなんて無理ね」
「う〜。私じゃ無理ですか?」
 内心、魔術師になろうとでも思っていたのか、翠琥の駄目出しに頭を抱えながら無月は聞く。
「別に無理とは言わないけど。……そうねぇ〜。私が所属している機関に入れば特に問題は無いけど。まぁ、無理でしょうね。そこに入るということは、この国を出るということだし、英語とイタリア語とドイツ語を覚えなくちゃいけないわね。それでもやってみる?」
 ふるふると無月は首を横に振る。だいたい予想がついていた翠琥は笑いながら再び水を飲む。
「今一番に魔術師になるための近道と言ったら、優秀な魔術師の所にでも弟子入りすることね」
「優秀な魔術師……」
 その言葉を無月は小さく呟く。
「翠琥さんっ!」
 バンッとテーブルを叩きながら無月は椅子から立ち上がる。
 だが、翠琥はそれを予想していたかのように、
「ダメよ」
「あう〜。まだ何も言っていないのに……」
 即答で拒否され、力無く無月はテーブルの上に倒れる。
「私の弟子になろうなんて百万年早いわよ。それにね、私に師匠なんて向かないの。諦めなさい。まっ、どうしてもなりたいって言うなら、まずは独立して生活ができるようになることね。それができたら国内にいる知り合いの魔術師にでも頼んであげてもいいわ」
「魔術師になるって、そういうものなんですか〜」
「そういうものよ。……あっ、智一さん! デザートはフルーツサンドウィッチね!」
 微笑みながら、翠琥はいつの間にか(・・・・・・)空にした麻婆豆腐のどんぶりを残骸の山に追加した。


13 :寝狐 :2006/07/02(日) 19:14:59 ID:mcLmmAWD

<1−8>

 喫茶店ディアテーケをあとにした翠琥は、無月に誘われて街を案内してもらうことになった。
 まだ街になれていない翠琥にとっては願ってもないことであり、無月の申し出を快く受け入れた。
「この赤火(せきか)区は、他の区と比べるとそこそこお店の数が多いんですよ」
「あぁ、だから商店街みたいなところが意外と多かったんだ」
 無月の横を歩く翠琥は素直に納得する。
 二人は今、高天原市の南側、赤火区にいる。無月の自宅であり喫茶店であるディアテーケもこの赤火区に位置する。
 地方開発都市『高天原市』は大きく分けて五つの区で構成されている都市である。
 この開発都市という名目ということから、市の中心となっているのは近代的な開発が進んでいる黄土(おうど)区。
 そして、黄土区を挟み込むように北には海沿いの黒水(こくすい)区。南には赤火区。東には青木(そうもく)区。西には白金(はっきん)区がある。無月の言うとおり、赤火区は商店街が多いが、黄土区を除く他の区は基本的に居住区であり、あまり大企業などが店を構えるところも少なく、大抵の買い物客は皆中心地である黄土区か、安い物狙いであるのなら赤火区にやって来るのが多い。
 そして何よりこの都市の特徴は、この五つの区を上空から見下ろすと、なんと十字型となるのだ。
 これは市案内のパンフレットにも記載されていることで、市長にとっては大きな自慢の一つだそうだ。
 二人は中央の黄土区と赤火区の境界まで移動する。
 それぞれの区界には川が流れており、各区とは大橋によって繋がっている。川の幅は意外と大きいため川の流れも急で橋以外での移動方法は空を飛ばぬ限りはまず無いだろう。
 大橋の大きさはなかなかのものである。道路は片側四車線であり、左右合わせると八台も車が横切るのである。これは各区界にあるのでこの南側を含めると四個所だ。
「この大橋以外では他の区を渡ることは不可能なんです。だから、他の区へ行くには必ず黄土区を通らないといけないんです」
「結構面倒くさいわね」
 率直な意見で翠琥は答える。
「確かに面倒ですけど、意外と良い運動になりますよ」
「私はパスよ。運動するのは苦手だから」
「確かに、翠琥さんって部屋に籠もって研究でもしていそうですね」
 無月は翠琥が実際にそうしているような姿を浮かべながら笑って言った。
「でも翠琥さんって私から見ても美人なんだから、着飾れば結構良いと思うけどなぁ〜」
「生憎、私はファッションには疎いのよ。それに洋服なんて買うお金があるんなら、古本屋にでも行って、珍しい本でも買うわね」
 自慢するように豊かな胸を張って言う翠琥。それを見て無月はなるほど、と素直に頷いた。
「なら、一通りの案内が終わったら、一緒にショッピングに行きましょう」
「ショッピングって……洋服めぐりってこと?」
「そうですよ。女の子らしい、ね」
 ふふっと微笑みながら無月は歩き出した。


14 :寝狐 :2006/07/02(日) 19:24:18 ID:mcLmmAWD

<1−9>

 大橋を越えて、翠琥と無月の二人は黄土区に入った。
 黄土区は高天原市の中で最も発展した区である。
 急速に発展した町並みは、どこぞの企業団体などが一斉に入り込んだがためか、高層ビルばかりが建ち並び、結果として一般市民が住めるような場所ではなくなった。
 おかげで、観光客が黄土区を見回った後に、他の区に向かうと、ここは何処の街だ? とばかりに首を傾げる者も出るぐらいだ。
 地元の市民にはすでに馴れた光景でも、外からやって来る観光客にとってはやはりこのギャップは激しいのだろう。
 中心地である黄土区には数年前、WRと呼ばれる国際世界鉄道駅が作られ、市では一番急速発展している。
 WRが作られた理由は、ここ地方開発都市『高天原市』は次期都市国家指定場所なのである。
 都市国家とは、国家そのものよりも国家内の都市が権力を持つようになり、その中でもより大きな権限を持つ都市のことを呼ぶ。
 日本国では首都であった東京の復興は、二十一年前の戦争により、あまりにも不可能なほどの崩壊状態であったが為に諦め、新たに本州は西側に“第壱新大阪”、東側には“第弐新埼玉”。北国である北海道には“第参新札幌“を開発。二十一年の歳月を経て、日本国は三つの都市が国を動かすという“都市国家”の設立に成功したのだ。
 ちなみに、東京は今や崩壊された残骸だけが残る荒れ果てた不毛の地と成り果てたが、かつての首都としての名残を残すために、地図上では旧都と名が付けられた。
 そして、この地方開発都市『高天原市』は、政府が第四の都市国家を設立しようという試みで造られた試験的都市である。
 移住者による人口増加。近年開発が完成されるという先行試作型第五次都市国家用建築技術。これらが政府に認められれば、この高天原市は正式な都市国家“第四新高天原”となるのである。
「他の街とはえらい違いね」
「ははっ、ここに来た人は皆大抵そう言うでしょうね」
 二人は黄土区の中心街にいる。
 国家都市にはよくある大型のバスが何台も見え、辺りの店は活気に溢れている。
 当然、それらを目的に来る観光客らが何度も彼女らを横切り、店の中へと消えていく。
 観光客にあきたらず、仕事中のサラリーマンやOLも忙しく動いている。
 人波は多く、道を行く自動車も途切れることはない。
 無月は翠琥を引っ張りながら町中を練り歩く。
 そうして、暮れる日が空を茜色に染める頃。
 大体の街並みを案内されたあと、無月は最後に翠琥をとある場所に連れて行った。
「へぇ〜、この街にこんな場所があったんだ」
 翠琥が案内された場所は、木々と芝生に覆われた大きな広場であった。

 ――それは、高天原市の中心にして、“異界”とされている場所。

「ここが、この市の中心地でもある比良坂(ひらさか)公園です。どうです、ここ。広いでしょ?」
「ええ。確かにもの凄く広い公園ね。でも――」
 そこで言葉を閉ざす。翠琥は周囲を一通り見渡し、言葉を紡ぐ。
「人気……ないわね」
 この公園は一般的にあるような只の公園ではなかった。
 プロ野球ができるぐらいの大きなドームが二、三個収まるぐらいの広さを誇る公園は、平日でも子供の格好の遊び場となっているはずである。
 しかし、ここに人の影は翠琥と無月の二人だけ。他の影は無く、冬を真近に控えた秋の冷たい風だけが流れている。
「ここって本当は立入禁止区域とか?」
「……いいえ」
 無月は首を振る。
「パパから聞いた話だと、市長が言っていたみたいですよ。ここって、ホントはきちんとした公園にするための工事があったんです。でも、工事を着手した途端、結構な数の事故が多発したらしいんです。最初は皆ただの偶然だと思っていたらしいんだけど、それがさらに増えるとさすがの市長も焦ったんでしょうね。
 結局、ここは『呪われた土地だ』とかなんとか言われるようになって、常に開放状態。一応、公園だなんて呼ばれてはいますけど、ここにはベンチがあるぐらいで、地元の人間では一人か二人、稀にやって来るぐらいなんですよ」
 翠琥は近くの木の下にあるベンチを一脚見つけた。
 おそらくは、工事はできないが公園という名を付けるための代役のようなだろう。
 確かに、ベンチがあるだけで公園という雰囲気には変わるだろう。無いよりはマシというところか。
「呪われた土地、ねぇ〜。……まあ、確かにそうかもね。ここは、あまり来たくない場所だわ」
「あれ、翠琥さんもそうなんですか?」
「ええ。だって、ここって嫌な風が流れているから」
「嫌な風?」
 翠琥の目線が下に向けられる。
「地面の奥底から何か、引っ張られるような……。そんな感じね」
 彼女の視線をたどって、無月も地面を見つめる。
「もしかすると……」
 思案顔で指を口に当てる無月。
「この公園に、アレがあるからじゃないですかね?」
 彼女の指した指先の方角を翠琥は視線で後を追う。
 そこに、ソレはあった。
「あぁ、やっぱりアレの所為なのね……」
 それは翠琥がこの公園に入った時からずっと気になっていた代物。呟くのも無理はなかった。
 壁のような表面。完全な一個体としての大岩。
 大きさは幅百メートルぐらい。高さは六十メートルはゆうにある。
 これだけ巨大な大岩は人数、時間、どんなに集めても動かすことは出来ないだろう。
 津波のために高いところまで打ち上げられた大岩があるというが、これはそれの一種だろうか?
 しかし、ここにある大岩はそんなレベルの巨石ではない。
 昔に津波かなにかで海底の大岩がここまで打ち上げられたのだろうか?
 きっともの凄い津波だったのだろう。
 いや、それはないだろう。もし、それが本当なら、歴史にも残るぐらいだ。
 海沿いの黒水区ならまだしも、この黄土区の比良坂公園までは相当な距離がある。
 そんな津波、恐ろしくて溜まらない。
(ぞっとするわね)
 もし、そんな津波が来た場合、この街の人達にどんな選択肢があるのだろうか?
 それにしても、こんな都市の、しかも公園のど真ん中に鎮座してあるなんて、人為的なものだろうか?
(……それは無理な話よね)
 これだけの大きさだ。力に自信のある筋肉だらけの大男が千人いようとも、決して持ち上がらないだろう。
「あの大岩って、都市国家計画の時に置かれたの?」
 翠琥の問いに無月は首を横に振る。
「アレは、置かれたんじゃなくて、現れた(・・・)んです」
「現れた?」
 無月の言い方に翠琥は疑問を持った。
 本来、大岩などの物理的なものに対して“出現”という言葉は適さない。通常この場合、何者かの手による“置かれた”、もしくは以前からそこに“在った”と言った方が正しい。
 しかし、無月は確かに“現れた”と表現した。つまり、大岩は以前までは無かったことになる。
「二日前の夜のことです。たった一人という目撃者の証言では、眩しいくらいの巨大な光の柱がこの比良坂公園で発生したらしいんです。そして光の柱が消えたあと、この公園の中心、つまりこの場所にあの大岩が出現したそうなんです」
「なんか、無月は見ていない話のようね」
 そんな珍しい現象を、何故彼女は他人事のように言うのだろうか?
「はい。私も含めて、地元の人達は誰も知らないんですよ。気付いたのはその翌日の朝。テレビで報道されているのを見て、私も知りました」
「ふ〜ん。変な話ね〜」
 人一人が消えたというならまだ分かるが、これだけの出来事を、何故この街の人達は気付かなかったのだろうか?

 ――この街は、何かがおかしい。

 翠琥は確実にそう直感した。
「まっ、そういうことです。……さて、一通りの案内は終わりましたし、本当はのんびり洋服めぐりしたかったんですけど……もう夜になりそうですので帰りましょうか」
「へ? 帰るって、無月の家に?」
「そうですよ。何か変ですか?」
「ああ、いや。無月は自分の家に帰るとして。私はホテルにでも泊まろうかな〜と思っていたんだけど」
 もっともこれからホテルに行って部屋が空いているかどうかを聞くのはどうかと思うが、素直に言えば、昼頃にこの街に着いたばかりで、そのあとも無月と出会ったりといろいろとあったが為に、そういうことをしている時間がなかっただけなのであった。
 ……そもそも、どうやって夜を過ごそうか、などと考えてもいなかった彼女の無計画性に問題があったのだが。
 それを聞いて「ああ〜」と、無月は頷いた。
「それなら大丈夫ですよ。パパが翠琥さんを家に泊まらせてあげなさい、って言っていましたから」
「えっ? 本当っ!」
「はい! ちょうど空き部屋もありますし、遠慮することはないですよ」
 無月は大きく頷いた。
 翠琥にしてもこのようなことは予想外だったので素直に喜んだ。それにホテルに泊まるだけの所持金もあまりなかったので願ったり叶ったりである。
「それじゃあお言葉に甘えて、ディアテーケに帰り――、……っ!?」
 帰ろうと公園の出口へ体を向け、足を動かした瞬間。翠琥の首筋にチクリと刺さるような気配を感じた。
「翠琥さん?」
「……無月、動かないで」
「あ、はい……」
 翠琥の声が真剣だったので無月は素直に従った。
(……私を、見ているの?)
 索敵(さくてき)の為に意識を全周囲に飛ばす。
 彼女の可能索敵範囲はおよそ百五十メートル。相手の視線もおそらくその圏内のはず。
 公園内なのは確実だ。だが、この広い公園の中でその姿はなかなか見つけられない。
(……誰? 誰なの?)
 確実に自分のみに向けられた視線。それも好意や興味的なものではなく、明らかな殺意。
(まいったなぁ〜。殺意を持たれるほど、私何かしたっけ?)
 それは余裕から来るものなのか。それとも自身の意志を固めるためなのか。おそらく、どちらかを聞かれても彼女は答えられないだろう。
 それが何秒経過したのか、精神で練り上げた索敵干渉波が一点だけ反応した。
 翠琥はその方向に顔を向ける。
 背を向けていた後方。大岩の付近にある木々の下。

 ――そこに、己の敵と成すであろう者が立っていた。

 神社でよく見かける神主を連想させる漆黒の装束を着た、不気味な鬼面を被った者。その体格からしておそらく男であろう。両腕を突き出した先の手には鞘に収められた古代刀。その先端が男を支えるように地面に突き刺さっている。
 その男はただじっと、こちらを見ている。
 それが何を意味しているのかは分からない。ただ、こちらが気付いても、男の殺意は一向に消えないことが翠琥に戦闘意識を持たせていた。
「翠琥さん? 一体何を見ているんですか?」
 無月の声に翠琥はハッとして無月の方に振り向いた。
 ここには無月がいる。相手の力量が分からない限り、とても守りながら戦えるような状態ではない。

 ――風が吹いた。

 翠琥が再び男の方へ振り向くと、すでに男の姿は無かった。
(何だったのかしら、今の男は……?)
 翠琥はただならぬ予感を感じながら、大岩を背に歩き出す。
「あっ、翠琥さん!」
 それを見て、無月が追いかける。
「無月……」
 無月が翠琥の真後ろまで追いつくと、と翠琥は立ち止まった。そして、無月に振り向く。
「ごめんね。先にディアテーケに戻っていて」
「何かあったんですか?」
「うん。ちょっと野暮用ができちゃったみたい。夜中に帰ると思うから、裏口の鍵、貸してもらえる?」
「はい。分かりました」
 そう言って無月はポケットから家の鍵を取りだし、翠琥に手渡す。
「階段を上がってすぐ右の所に空き部屋がありますから、そこを使ってください」
「ええ。ありがとうね、無月」
 踵を返し、翠琥は一人で公園を後にする。
 茜色に染まった大岩の景色を背にして歩くその表情は、只の“女性”ではなく、一人の“魔法使い”としての顔であった。


15 :寝狐 :2006/07/02(日) 19:28:26 ID:mcLmmAWD

<1−10>

 深い蒼が空を染め、無数の星が瞬く頃。
 凍えるような夜気の中、黄土区において一番高い高層ビルの屋上に翠琥はいた。
 彼女は眼下に広がる黄土区の夜の街並みを見下ろしている。

 ――そこに、行き交うはずの人々の姿は無かった。

 街を照らす街灯は明るく灯っている。しかし、本来そこにいるはずの人間はいない。
 時刻はまだ午後の十時。
 この時間帯ならまだ人は街の中で歩いているはずだ。だが、文字通りの無し。
 翠琥はふと思った。

 ――やはり、何かがおかしい。

 まだ空が茜に染まる夕方頃。たしかに、街には人が大勢いた。
 だが、空が暗くなるに連れて、自分の横を過ぎる人は少なくなり、ふと振り返ってみれば幻のように消えていた。
 気のせいだろうと思っていたが、こうしてビルの屋上から眺めてみれば、人はおろか、道路には車一台も走っておらず、所々に道路の脇に駐車された車が幾つか見える程度である。
「まるで、偽物都市(フェイク・シティ)ね」
 自分にしては面白い例えだと思った。
 しかし、目の前に広がる光景は本物。下手に笑っていられる場合ではない。
 翠琥の視界に映る大岩。この位置からだと大岩の巨大さがはっきりと分かる。
 細長い建築物の中にそびえ立つ、場違いで巨大なオブジェ。
 それが異様に見えた。
「光の柱、か……」
 あの大岩がある比良坂公園で無月が言っていたことを思い出す。
 光の柱を目撃した人間は一人だけ。
 それが本当なら、何故この街の人達は誰も気付かなかったのか。
 もしかすると、この無人の夜の街と光の柱には何か関係があるのかもしれない。
「――ん?」
 唐突に、翠琥の視界内で不可解なものが映った。
「あれって……!?」
 西の方角。その方には雲を貫くほどまで伸びてそびえ立つ光の柱。
 無月が言っていた光の柱の一種ではないかと翠琥はすぐに思った。
「あっちは確か白金区だったわね」
 片足を屋上の端へ乗せる。
 高層ビルということもあってか、下から風が突風のように吹き上げ、翠琥のスカートを激しく揺らす。
「調べてみる必要がありそうね」
 そう言って翠琥は端に掛けた足に勢いをつけて、ビルから飛び降りた。
 だが、それは落下ではなく、飛行であった。
 突風が吹き上げられる空。
 彼女は黄金の月を背に下界へと飛び降りる。


16 :寝狐 :2006/07/05(水) 21:23:35 ID:kmnkzGWF

<1-11>

 翠琥が白金区に着いたのは、光の柱を確認してからすでに三十分は経過しようとしている頃だった。
 彼女が黄土区と白金区を繋ぐ大橋を渡っていたその最中、光の柱は既にその姿を消していた。
 町中から離れた郊外、その最西端へと向かう。
 光の柱が見えたのはその場所であった。
「なに、これ……?」
 眼前に見えるものは、翠琥を再び驚かせた。
 何かの記念碑だと思われる五メートルはあるであろうオブジェ。
 それはピラミッドを上下二つに張り合わせた様な、縦に細長い八面体の幾何学的形状。その下部の先端が地面に深々と刺さっており、直立に立っている。
 だが、そのオブジェは何故か上半分が見るも無惨に砕けていた。
 翠琥は不安を抱きつつも、そのオブジェに触れてみる。
 石肌に直接指をなぞり、触感を診る。
「これ、(くさび)だわ」
 普通の石とは違うザラつき感。近くで目を凝らすと、微かに霊的な波動を発する青白い光が見える。
 本来、楔とは堅い木や金属でつくったV字形のもので、繋ぎ目を固定させるために使用されるものだ。
 この楔の柱もおそらくその一種だろうが、これは物を固定する代物ではない。物理的でないもの、例えば自縛霊や怨霊。はたまたこの世とは違う別次元といった空間的なモノを封印するために使用されるものであろう。
「おそらく、何かを封じていたのか、繋ぎ止めるためにあったものね」
 翠琥は楔の柱を見上げる。
「でも、一体何を……?」
 そう考える間もなく、それは唐突にやって来た。
「……!?」
 首筋に針を刺すようなツンとした気配。産毛が逆立ち、神経が張り詰める。
 その気配は翠琥にとって何年も前から幾度と無く感じ取っていたもので、今では当然のように慣れたものであった。
「まさか、この都市でこれを感じるなんてね……」
 くるりと身体を反転させて駆け足となり、その場から離れ、気配の元を辿る。
「やっぱり、この都市には何かがあるわ」
 気配の元は、白金区の町中から感じた。


17 :寝狐 :2006/07/05(水) 21:34:30 ID:kmnkzGWF

<1−12>

 翠琥は白金区の街を疾走する。
 その間、彼女の脳裏に確信的なものを感じ取った。
「やっぱり……、誰もいない」
 先ほどの楔の柱へ向かったときも思ったが、夜になってから一度も自分以外の人間に出会ったことがなかった。

 ――まるで、それが当然であるかのように……。

 これが何処かの小さな村だとかなら納得はあった。しかし、この次期都市国家と呼ばれているこの大都市だ。夜になっただけで人一人に出会わないのは不自然である。しかも、住宅やビルの中からはきちんと灯が灯されているにも関わらず、そこからは生命の息吹を感じさせない。
 はっきり言ってしまえば、異常だ。
 人一人出てこない大都市なんて、聞いたことも見たこともない。
 ……いや、実際に現在体験しているのだから、見たことが無いというのは間違いとなる。
(え〜い。今はそんなこと考えている場合じゃない!)
 白金区の街は途中までは住宅圏が多かったのだが、やはり大橋付近になると高層ビルなどの高い建築物が目立ち始めた。
 その一角で翠琥の足音だけが響く。
「――っ!?」
 すると突然、何かに反応した足が急停止をした。
「な、なによこれ……」
 気配の流れに沿って走っていた翠琥は、辺り一帯に鼻を突く臭いが漂っているのを気付いた。
 それはあまり嗅ぐことのない独特な濃厚なもの。
 脳裏に、その匂いの正体が映し出される。
「まさか……!」
 再び地面を蹴り、走り出す。
 そして気配と匂いが最も濃い場所に、翠琥は辿り着いた。
「……え?」
 彼女は我が眼を疑う。
 視界の先は闇。何も無い。ただ空虚だけが漂う暗黒空間。
 足元に広がるはコールタールの如き海。

 ―― 一瞬そこに、悪魔によって食い殺された百を超える惨殺死体の残骸が見えた(・・・)のは幻だったのだろうか?

 だが、二瞬目に起きた眩暈が視覚情報を正しく示した。
 誰も居ない街。生命の存在を感じさせない建築物。夜気に包まれ冷えきったコンクリの道路。夜に包まれた街を照らすは街灯のみ。

 ――電球が切れかけているのか、何度も点滅を繰り返す車道上の街灯の下、ソレ等は居た。

 街灯の光を通さぬ黒き人狼を模した肉体。
 野生の本能をそのまま体現した息遣い。
 金属を擦るような不快な周波の咆哮。
 ガチガチとその手に伸びる鋭い獣の爪を鳴らし、いつでも襲いかかれるようにしている。
 ソレ等は赤き目を通して、自分達の目の前に現れた“生きた肉”を獲物という本能で以って見ている。
 其れは暗黒の獣。三十体はいようか。ソレ等は背後に居る者に従えるようにそこにいた。

 そいつは二メートルはあろうかという巨体。
 獣のような茶色の毛が全体に覆われており、皮膚らしき部分は伺えない。
 だが、二本足で立つソレは人間と似た構造であったが、一箇所だけ違った部分があった。
 それは首から上――頭部だ。
 前に突き出している口。扇状に伸びたヘラのような形をした大きな角。まるで北半球の寒帯林に住んでいる最大のシカ――ヘラジカを連想させる。
 その赤き目からは、黒き獣等とは異なる本能ではない意思を感じさせる。
 傍目には鹿の被り物をした変質者だと見られなくともない。しかし、それが只の変質者とは翠琥は思わなかった。
 何故か? それはその者が、先ほどから漂う気配と臭いを発していたからである。
 彼女が感じる気配は妖気。そして、鼻を突くその匂いはまさに血。
「まさか、この都市で異形(いぎょう)なんかと出会うなんてね……」
 それはこの世のものではない生物。
 ……いや、これを地上世界の常識における“生物”と言っていいものなのだろうか?
 もし、翠琥以外の人間がコレを見たときにはこう言うであろう。

 ――“化け物(・・・)”、と。


18 :寝狐 :2006/07/05(水) 21:45:33 ID:kmnkzGWF

<1−13>

 『異形』。
 異形とは簡単に言えばこの世の者ではない存在である。
 主に我々のいる現世(うつしよ)に固め成されなかった残滓思念や産霊(むすひ)と繋がらなかった浮遊魂があの世と呼ばれる幽世(かくりよ)に沈殿し、とある場に堆積した念などが曲霊(まがつひ)の役目を果たしてそれらの魂と結合し、“魔界”と呼ばれる異世界に顕在化する。発生した異形が現世に渡ってきた場合、これを一般的には“化け物”や“妖怪”と呼称される。
 なお、“異形”という呼称は翠琥のような魔術師や、其専門の組織らが呼ぶいわば業界用語であり、一般の人間世界で使われることは無い。
 基本的に異形が現世に発生する場所は限られている。
 何十年に渡って人間の負の思念が溜め込まれた大都市の一角、通称“魔窟(まくつ)”と呼ばれるような場所。
 小さな村にありがちな、ワケの分からない異神を祭る祠(ほこら)。
 人気のない森の奥で漂う不安定な魂が、その土地にある思念や腐敗した肉体に乗り移った場合など。
 簡潔にいうと、ネガティブな場所に彼等は現れるということなのである。

「ホウ、マダ生キテイル人間ガイタノカ……」
 ヘラジカの頭を持つ異形が口を開いた。それは人間の発する声とは違う、異質な声であった。
 この異形が言葉を話せることに翠琥は安堵した。何故ならば、現在起こっている異常事態について問いただすことができるからだ。
「この街の異常を引き起こしているのはあんた達なの?」
「異常? サテナ。我等ニオイテハ正常ナノダガ。何カ不満デモ?」
「……なんか、話がかみ合いそうに無さそうね」
 そうである。異常と捕らえるのは自分達にとって正常なことが捻じ曲がった際にできる言葉である。だが、異形にとっては人間にとって正常なことが捻じ曲がっている異常だと捉え。逆に人間にとって異常なことが、異形にとっては正常なのである。
 “生”を司る人間と“死”を司る異形とでは互いの価値観というものが全く正反対なのである。
「あんた達の目的は何なの?」
「ソレヲ教エルワケニハイカナイ。我等ノ存在ヲ知ラレタカラニハ、生キテ帰スワケニハ行カナイ」
 質問に答える気はようだ。異形は淡々と喋る。
「マズハ手足ヲ切リ裂キ、臓物ヲ綺麗ニ引キズリ出ス」
「ちょっと、それって“殺す”ってこと?」
「違ウナ。“殺ス”デハナク、“喰ラウ”ノダ。貴様ハ我等ノ贄トナッテモラウ」
「それって、結局終着地は“死ぬ”で同じじゃない」
 異形にとって人間とは単なる肉の塊であり、喰っても喰っても減ることは無い生きた贄なのだ。
 だが彼等は普段、表の世界(日常)に現れることはなく、主に裏の世界(非日常)にいるのだ。何故ならば、この世界には彼等に対抗すべく組織された対魔機関が存在するからだ。
 異形はこの存在を恐れ、夜の闇に紛れて表の世界を跋扈(ばっこ)する。
「断るわ。誰があんた達に喰われてたまるもんですか!」
 もはや質問している場合ではない。彼等は殺る気だ。その殺意が翠琥の肌にじわじわと伝わる。
「……ヤレ」
 異形が黒き獣に指示を下す。獣達は待ってましたばかりに勢いよく翠琥に襲い掛かった。
 獣の爪が翠琥に迫る。
「遅いわよっ!」
 左右にステップするように体を捻り、それを易々と避ける翠琥。
 三十体の獣は、時には単体で、また時には複数で何度も仕掛ける。だがそれも全て翠琥は回避し続けた。
「ああもうっ、しつこいわねー! そんなにやられたいのなら、こっちからも反撃させてもらうわよっ!」
 言うや否や、翠琥は両腕を大きく横に振るった。すると何処からともなく風が吹き荒れる。その正体に気づいたのはヘラジカの異形であった。
「……! 魔術行使ダト!? 貴様、何者ダ?」
 その言葉に対して不敵な笑みを浮かべた翠琥は答えた。
「魔法使いよ」

 『魔術』と呼ばれるものには幾つか種類がある。
 主に対異形や対魔術師用に開発された戦闘魔術。
 肉体の細胞を強制的に活性化させた自己治癒能力の向上や筋肉などの一時的な強化をするほか、ルーン文字による補助的な戦闘行使を可能にする神聖魔術。
 鉄などの無機物を分子レベルまで分解し、別な物質に再構成させる錬金魔術。
 木や鉄、宝石などの鉱石を材料とした道具に魔術要素を固定化させた魔術道具。
 外界からの敵の侵入を防ぐほか捕縛などにも使用される魔術結界。
 これらを使用する者達が『魔術師』と呼ばれるのだ。

 翠琥は魔力で構成した風を集め、両拳に覆わせる。
「構成隻影(せきえい)固定。――獅子の爪っ!」
 力ある言葉と共に拳を広げる。すると両手の指先から伸びるように、肉食獣を連想させる鋭く長い爪の形をした魔力の(かたまり)が具現化した。
「この“獅子の爪”の切れ味、その身を以て味わいなさい!」
 軸足をバネに翠琥は体勢を低くしながら前に飛び出した。
 それに反応した黒き獣が再び襲いかかる。
 正面から飛び出したお互い。すれ違う瞬間、翠琥の戦闘魔術“獅子の爪”が獣の頭部から股先までを一直線に切り裂く。
 獣から噴き出たのは真っ黒な血であった。体内には臓物の類は一切がない。どうやらこの獣達は、あの黒い血だけで構成された混沌の塊のようだ。
 続けて襲いかかった獣も、その場に立ち止まった翠琥に回避され、空中に漂った胴体を横から真っ二つにされる。
 背後から飛びかかった獣の凶爪が翠琥を捉える。だが素早く反応し、振り向きざまに左手を手刀にして顔面から串刺しにする。その状態から同じく手刀にした右手を胴体へ下から刺し貫き、とどめを刺す。
 串刺しにした獣から右手を引き抜き、左手で周りにいる残った獣へ放り投げる。
 同族の死を目の前にして怒り狂ったのか、それとも彼女が抵抗するからなのか、残る獣達は単体での攻撃を止め、複数による同時攻撃に移行した。
 しかしそれも無駄な足掻き。次々と獣を倒していく翠琥を止められる者は一匹もいなかった。
 数分も経たぬうちに、辺りには獣の死骸の山が転がっていた。その中心には魔術を解除した翠琥が立っている。
 残されたのはヘラジカの異形一体だけとなった。
「さぁ、残ったのはあんただけよ」
 異形を見据えながら言う。だがその光景に異形は怒り狂ったりなどはしなかった。
「フム。ヤハリ、餓獣(がじゅう)デハ相手ニナランカ」
 どうやらあの黒い獣は餓獣というらしい。翠琥はその名を頭の隅に留める。
「タダノ人間カト思ッタノダガ、マサカ魔術師ト出クワストハ。我ハ実ニ運ガ良イ。魔術師、シカモ女ヲ喰ウノハ久々ダ。存分ニ楽シマセテモラウゾ」
 異形が構える。それに応じ、翠琥も次の魔術構成を始めたが、異形から感じる妖気が瞬時に高まったことに気づき一時構成を止めた。
 頭部にある扇状に伸びたヘラのような形をした大きな角。その部分が若干であったが、バチバチと静電気みたいな放電現象が生じているのだ。
 それを見た瞬間、翠琥は直感的に横へ大きく跳んで数メートル先に駐車されてあった乗用車の後ろに転がり込んだ。
 直後、轟音と共に先ほどまで翠琥が立っていた場所へ空気を焦がすほどの目映い光が落ちた。コンクリの地面は粉々に砕け、所々には焦げ痕が残る。
 それは異形の角から発せられた雷(かみなり)であった。先ほどの放電現象はこれの前触れであったのだ。
 バチバチと異形の角に放電現象が見えた。次弾を放つつもりだ。
「くっ!」
 慌てて翠琥は車から離れた。
「ガアァ!」
 咆吼と共に角から雷が放射された。直撃した車は鋭利な刃物に切られたかのように真っ二つに割れ、激しく爆発、炎上した。
 その光景に思わず翠琥は見呆けてしまった。
「ちょ……、洒落にならないわよアレ!」
 つい叫んでしまうが、異形には通じていない。
「ドウシタ、逃ゲルノデ精一杯ナノカ? 先ホドマデノ威勢ハ何処ニ行ッタノダ?」
 口調からは楽しんでいる感じである。だがそれは“狩り”をしている“追う側”のこと。“狩られる側”である翠琥にとってはいい気分ではない。
「もうっ! 鹿のくせに人間を狩ろうと思わないでよね。食物連鎖が崩れるでしょうが」
 異形に対していう台詞ではないと思われるが、それはどことなく翠琥の余裕が見え隠れしていた。
 再び角から放電現象が見られた。その発生を翠琥は見逃さない。
(……いち……に……さん……)
「ガアァ!」
(……よん!)
 放射された雷。これも間一髪で近くにあったもう一台の乗用車の後ろへ逃げ切った。
(放電現象から発射まで四秒。着弾時間を計算して……四コンマ三秒ってところかしら)
 翠琥はただ逃げているのでは無かった。異形の攻撃を回避しながらも、それを見極めていたのだ。
 残る問題はタイミングである。
 先に動いても、同時でも危険だ。
 標的は自分。異形が雷を放つ前に作戦を悟られては狙い打ちとなってしまう。
 故に動くのは異形の放電現象し始めた直後。一度放電を始めれば奴は確実に四コンマ三秒後には雷を放つ。
 だが車の後ろに隠れている状態では異形が放電現象を始めるタイミングがわからない。かといってわざわざ頭を出して見るわけにはいかない。
 しかしその必要はない。翠琥はタイミングをわかっていた。異形が放電現象を行う直前、奴から感じる妖気が高まるのだ。それが放電の合図。
「ソロソロ夜ガ明ケテシマウ。残念ダガ、次デトドメヲサセテモラウ」
 その言葉を待っていたかのように、翠琥は己の右足に魔術構成を始めていた。

 ――魔力の奔流(ほんりゅう)が翠琥の周囲にバチバチと火花を走らせる。

 辺りの妖気がグンと高まった。
 異形が放電現象を始めた次の瞬間、翠琥は行動を開始した。

 ―― 一。

 立ち上がり、異形の方へ振り返る。 

 ―― 二。

 隠れていた車のトランクに足を乗せる。

 ―― 三。

 駆け上がり、天井へと立つ。その間に、異形の充電は終了していた。

 ―― 四。

「ガアァッ!」
 目映い雷が走る。着弾まで残りコンマ三秒。翠琥は車の天井を蹴り、上空へ跳躍した。
 雷は車を貫いた。漏れたガソリンが空気中に漂い、それに電気が触れた。
 直後、引火したガソリンは爆発。爆音と共に車の破片が吹き飛び、炎が柱のように巻き上がる。
 もちろん、翠琥もその爆発の衝撃に巻き込まれた。空中にいる状態では反撃もとどかない。ましてや異形からは狙いやすく、逃げることもできない姿はいい標的である。
 しかし、それが彼女の狙いであったのだ。

 異形が放つ雷はまさに一撃必殺の代物である。これをまともに受ければ(ただ)の人間なら一発で灰になるだろう。
 ……そう、只の(・・)人間なら。
 凰霞翠琥は『魔法使い』である。彼女が持つ戦闘魔術にも当然、一撃必殺の魔術が存在した。
 これは一騎打ちだ。“生”と“死”を天秤に乗せた互いの死力を賭けた勝負。
 この戦いは……一撃で決まる。

 爆発の衝撃波により翠琥の身体は大空へと舞い上がった。そして跳び蹴りの体勢になると、強大な魔力が込められた右足にバチバチとプラズマが奔った。

 ――黄金の月を背に、魔法使いの影が浮かぶ。そして力ある言葉が無人の夜の街に響き渡った。

「――断罪(だんざい)のぉ……稲妻ぁぁぁーっ!」
 魔術発動!
 右足に込められた魔力が爆発するように輝き、右足に雷光を纏った翠琥は異形へと高速落下する。
 戦闘魔術“断罪の稲妻”。その姿はまさに神の雷とも呼べる光景。
 タイミングは完璧であった。だが、最大の問題はその後である。
「ウガァー!」
 異形は勝負を諦めなかったのだ。瞬時に放電を始め、そして角からありったけの雷を放った。それは翠琥も予想していなかった反撃。
 どうやら、あの放電の四秒は十分な威力を発揮するために必要な時間だけであって、必要あれば一秒だろうとすぐに放てる代物であったのだ。
 異形の雷が翠琥の雷光と激突する。互いに力を削り、打ち消そうとする。だがそれも長くは続かなかった。
 弾かれるは異形の雷。翠琥の雷光が異形の雷を打ち消したのだ。
 勝敗における最大の要因は時間であった。翠琥は十分な時間を使って魔術構成を起こったのだが、異形の雷は即興の代物。故に、十分な威力を持たぬ異形の雷が神の雷に敵う道理はない。
 神の雷が異形へと天罰を下す。
「はあぁーっ!」
 翠琥の叫びと同時に、雷光の右足が異形を貫き、激しい爆発が起きる。
「ヴァァァオォォォォォォォー……!」
 断末魔と共に、異形の身体は雷光によって塵一つ残さず消滅した。
 コンクリの地面にできた大きなクレーターの中心には、勝者である魔法使いが悠然と立っていた。
 今宵の戦いは終わった。無人の白金区に再び夜の静寂が戻り始める。


19 :寝狐 :2006/07/05(水) 21:47:30 ID:kmnkzGWF

<1−14>

 ヘラジカの異形を倒したのを確認してから、翠琥はその場を後にしようとした。だが、彼女の足は唐突に止まった。
「見ているのはわかっているのよ。とっとと出てきなさい!」
 辺りを見渡しながら叫ぶ。すると何処からともなく翠琥の周りが黒い霧で立ち籠めていく。
「アヒャハハハハハハハッハハハハハッハハハ! ヨクゾ気付イタナ魔術師! 殺気ヲ殺シテイタツモリデアッタガ、バレテシマッテイタカ」
「さっきまで消えかけていた妖気が急に膨れたんだもの。当然よ」
「クハハハハハハハ! ソウカソウカ、嬉シサノアマリ、ツイ洩レテシマッタカ」
 黒い霧の向こう。そこにボンヤリと浮かんだものは、顔であった。
 その者の顔を見た瞬間。翠琥の目つきが険しくなった。
 皮膚が無く、白骨で覆われた外形を通して内部にはおそらく筋肉であろうと思われる赤色のものが窺える。
 そこにある二つの眼と思われる穴は深淵な黒い空洞であり、その深淵の奥に毒々しい赤い光が輝いている。
 それはまさに異形のものであった。
「ヨモヤ、奴ガヤラレルトハナ。相手ヲ甘ク見過ギダナ」
「何の用なの? もしかして私を殺しに来たとか? だったら姿を見せなさい。さっきの異形と同じ目にあわせてやるわよ」
「クックックックックッ……。ソウ死ニ急グナ。ドノミチ我ラノ計画ノ妨ゲニナル存在ハ全テ殺サレルノダ。モウ少シ生カシテオイテヤル。ソノ方ガ殺ス楽シミがアルトイウモノダ」
「勝手なことを……」
 異形は陰湿な笑い声を上げる。それが翠琥にはかなり不愉快であった。
「イズレ会オウ。マァ、ソノ時ハ貴様ガ死ヌ時ダガナ」
「!」
 異形の顔が闇に消えた。同時に黒い霧が薄れていく。そして晴れきる頃にはすでに妖気の気配は消え去っていた。
(逃げられたか……)
 だが一つわかったことがある。それは、この『高天原市』には他にも異形が紛れ込んでいることであった。

 それから数刻。
 白金区と黄土区を繋ぐ大橋の上。
 餓獣とヘラジカの異形との戦闘を勝利に収めた翠琥は、赤火区にある無月の家、ディアテーケを目指して歩く。
 その最中、翠琥は今日一日で起きたさまざまな出来事を思い出していた。
 無月と出会ったこと。
 巨大な大岩。
 人のいない夜の街。
 光の柱。
 白金区の先端で見つけた楔の柱。
 同じ区で遭遇した異形。
 これら全てが偶然だとは思えない。
「それに、あの男……」
 比良坂公園で出会った謎の鬼面の男。
 おそらく、あの男が全てを知っているはずである。
 あくまで推測の域だが、翠琥は自信を持ってそう思った。
「どうやら、厄介なことに巻き込まれたのかも知れないわね」
 無意識に呟き、それが独り言であったと気付くと翠琥は口を閉ざし、再び帰路へ目指す。
 冷たい夜気の中、静寂で包まれた街に、只、魔法使いの足音だけが響く。
 そして見上げた空に浮かぶ黄金の月は、今宵も変わらず、無言のまま彼女を照らすだけだった。


20 :寝狐 :2006/07/07(金) 23:51:19 ID:ncPiPnxe

第二章 二日目 −霊媒ハッカー−

<2−1>

 少女は再び、黒の世界を漂っていた。
 衣類を一切身に着けておらず、白い肌の裸身を露わにしている。
 普通なら胸元等を手で隠すのだが、この何も無き黒の世界でそれは無意味だと少女は思っているのかも知れない。
 ……いや。それは間違いのようだ。少女は何も考えていない。その瞳の光はまるで夢遊病のようにうっすらとくすんでおり、生気を感じさせていない。
 ただ、波の流れに身を任せているかのように身体が動かさないでいる。まるで死体だ。
 その時、今まで少しも動かなかった少女の『右腕』がピクリと痙攣したかのように動いた。
 それに気付いたのか、少女の瞳が首を曲げずして動いた『右腕』を見る。ただし、その瞳は未だに生気が無いが。
 黒の世界が少女を闇の中へと包み込み始める。
 両脚が消え、両腕が消え、胴体が消える。そして最後に頭部が消えていく。
 完全に闇の奥底へと消える最後の一瞬、今まで無表情だった少女の唇が、微かにだが歪んだように笑っていた……。


21 :寝狐 :2006/07/08(土) 00:05:50 ID:ncPiPnxe

<2−2>

 身体が小刻みに揺れる。それは列車が走る際のほんの僅かな振動の所為だと気付くのに、詩原(しのはら) 真斑(まいか)は若干時間が掛かった。
「ん、……ふわぁ〜」
 横になっていた簡易ベッドの上で目を覚まし上半身を起こすと、無意識のうちに両腕を上げ身体全体を大きく伸ばす。目に浮かべた涙をふき取りベッドから降りると、簡素なこの個室で一個所しかない窓を開放し、外の景色を眺める。
 一面に広がるは、東から昇って間もない陽の光に反射し、その青さを堂々と見せつける海。白い雲が点々と浮かんでおり、これでカモメの群れでも飛んでいれば絶好の海水浴日和である。
 しかし、現在の暦は十月。どの海水浴場はもう遊泳禁止になっているはずだ。それはどの国でも同じだろう。
(……いや。南半球側って遊泳禁止なんて無かったような)
 オーストラリアでは、十二月になると海水浴場にサンタクロースが現れるくらいだ。
 現在真斑が乗車しているのは国際世界鉄道、通称『WR』の海上列車である。
 磁場反転機関『リニアドライブ』を利用した超弩級距離の特殊線路上を走る海上列車は、かつてリニアモーターカーと呼ばれていたそれを電磁波を発せずして超高速で走るのを可能にしたものである。
 先ほど真斑の目を覚まさせた振動とは、磁場反転時に起きる微量な反動作用である。しかし大抵の場合、この反動作用の振動に気付く者はいない。気づけるのは彼女のように周りの僅かな変化に気付くことのできる敏感な人間ぐらいだ。
 WRの車両は一番先頭の運転車両を除き、基本的に二十五車両の階級編成である。ただし車両は五百人乗車可能の大型で、全車両合わせて計一万二千五百人が乗れるのである。
 まず、先頭車両から五両は一等車両だ。豪華で繊細な造りとなっている内部構造で、バーやビリヤードに一等客専用食堂、そしてホテルにあるスイートルーム並の広い個室が備え付けられており、航空機で例えるならファーストクラスに値する。
 そして、六両目から十二両目までが真斑が乗っている二等車両だ。内装は一等車両から比べればそれなりにランクは下だが、簡易ベッドが備え付けられていて、三人ぐらいで狭いと思えるような小さな個室は一人だと丁度良い広さである。ビジネスクラスってところだろう。
 最後に十三両目から二十五両目までは三等車両だ。ここは普通の列車と同じで、二人用の椅子が向かい合わせになって置かれている。大抵の一般客はこの三等車両を利用することが多い。ちなみにエコノミークラスである。
 真斑がWRに乗っている理由は、今から十八時間前まで遡る……。

 東方双龍塔に隠されている超高速下降エレベーターに乗ること数十秒。階層表示パネルが地下六百四十メートルを表示したところでエレベーターはチンッと音をたてて止まった。
 扉が開いた先には横幅十メートル、奥行き三十メートルほどの廊下が続いていた。一番奥にはいかにも頑丈そうな金属製の扉、その途中の左右には幾つかの扉がある。だが真斑は左右の扉には目もくれず、真っ直ぐ奥の扉に向かう。
 扉の横にはIDカードを通すスリットと、指紋認識のセキュリティーシステムが備え付けられていた。真斑はスリットにIDカードを通し、次に指紋認識のパネルに右手を重ねるとシステムが自動的にそれを読み取る。
 システムはIDカードとスキャンした指紋照合を始める。登録されているIDと指紋のデータの中から詩原真斑のデータと一致。本人であることを確認したシステムは電子ロックされている扉を開放した。
 扉の中へと入る。そこは広大な空間が広がっていた。
 『メインオーダールーム』。それがこの部屋の名前である。壁に据え付けられた巨大なディスプレイ。その両脇に中型のディスプレイが据え付けられている。
 コンソール一体型のデスクが数人分。そこでは数名の人間が作業を行っていた。エンジニアとオペレーターの人達である。
「おっ? おっはよう、マイ」
「遅かったわねー。また寝坊?」
 入ってきた真斑に気付いた人達が次々と挨拶を交わす。
 真斑は自分専用のデスクの席に着くと、テーブルにうつ伏せで頭を乗せる。
「はぁ〜、眠い」
「マイ、昨日までは何の調査をしてたんだっけ?」
 と、隣のデスクで作業をしていた女性が声をかけた。
 彼女の名は副司令兼エンジニアの鷹尾(たかお) (ゆう)。この施設のメカニック長やシステム管理を全部担当しており、さらにはオーバーテクノロジー兵器設計からゲームソフトまで何でも作ってしまうマッドサイエンティスト気質の漂う天才科学者なのである。
「うー、ロンドンの時計塔事件の事後調査」
 顔を上げながら嫌々に答える真斑。
「あー、あれね。時計塔にインベーダーが潜んでいたっていう」
「そう。インベーダー自体はイギリス支部の連中が始末したらしいけど、そもそもインベーダーがなんで時計塔に隠れていたのかっていうのが分かんないのよねー」
「分かんなくていいんじゃないの? 所詮、現在地球に侵入しているのは偵察型のインベーダーだけだし」
「二十一年前の戦争では惑星制圧型。んでもって今は偵察型とは……。二十一年も偵察して一体どうするつもりなんだろうね、連中は」
「たぶん狙っているのは地球だけじゃなくて、他の惑星もなんじゃないかな。ほら、地球って銀河の辺境でしょう? だから本隊が来るのはまだまだ先の話だと思うよ」
「その方がいいかも。今の地球側の戦力で、生身(・・)のままで宇宙で戦える人っていったら三人しかいないし」
「とにかく今は、地球内部での争いをなんとかしなくちゃ。異形とか悪の秘密結社とかいろいろといるし」
「そうね。外よりも今は内側の問題が先決ね」
 と、二人が話している最中、離れた所にいるオペレーターの女性が声を上げた。
「そういえばマイ、我沙羅(がさら)司令に呼ばれていなかったっけ?」
「あー! そうだった。すっかり忘れてた!」
 言われて思い出した真斑は慌てて椅子から立ち上がる。それを見ていた遊はその慌てぶりに笑った。
「ははっ。早く行った方がいいかもね。確かお腹を空かせていたから餌を与えないと喰われるわよ」
「それに関してはノープロブレムよ。ちゃんと餌は買ってきておいたし」
 真斑は持ってきていた白い紙袋を遊に見せながら、『メインオーダールーム』の奥にある扉へと向かった。
 扉の向こうは静けさに包まれていた。幅広い廊下が続くそこは作業員達の宿舎や研究施設が設けられた区画である。今は皆メインオーダールームにいるので、こちらには誰もいない。
 そこから更に奥に進むと、真斑は一つの扉の前に立ち止まった。扉の横の壁に貼り付けられているパネルには『司令室』と書かれている。
 真斑は一度深呼吸し、二回ノックをした。
「詩原真斑です。失礼します」
 扉の開閉スイッチに触れ、横にスライドした扉を潜り抜けた。その部屋には一人の女性がデスクに備え付けられている椅子に座っていた。チャイナドレスの上からジージャンを着ている彼女こそが、真斑が所属する『課』の司令官、秋元(あきもと)我沙羅なのである。
「おっそーい! もうお腹ペコペコよ!」
 司令室に入って真斑が言われたのはその一言であった。
「第一声がそれだと、なんかもう帰りたいのですが……」
 額に手を当てながら真斑は溜息を吐く。とにかく目の前の我が侭な司令官の腹を満たせるため、持ってきた紙袋を彼女のデスクの上に置く。
「頼まれましたカレーパンです。これでその五月蝿いお腹を黙らせてください」
「うわぁー、ありがとね」
 言いながら我沙羅は早速袋からカレーパンを取り出し、口にする。
「うーん、やっぱ羅刹天(らせつてん)の鬼火カレーパンは最高ね!」
「ちなみに、羅刹天はパン屋ではなく喫茶店ですよ」
「いいじゃないのよ、そんな細かいことは。そういえばあのお店って、本店は第参新札幌にあるらしいわね。今度行ってみようかしら」
 鬼火カレーパンを頬張りながら、我沙羅は笑顔で言う。
「それで我沙羅司令。今回の任務に関してなんですが……」
 黙っているとずっと鬼火カレーパンを食べていそうなので真斑はすぐに本題へ入る。その言葉に我沙羅の表情も先ほどまでとは打って変わって真剣になる。ただし、右手に食べかけの鬼火カレーパンを手にしているが……。
「電話でも話したけど、日本国は次期第四都市国家の『高天原(たかまがはら)市』の現地調査をお願いするわ。一応諜報活動になるからマイちゃんが適任だと思うし」
「ただの諜報活動だけとは思えませんが……」
 真実を見通すような瞳が我沙羅を映す。我沙羅は肩を竦めながら鬼火カレーパンを一口食べる。
「やっぱ勘付いちゃっていたか。……そうよ。今回はただの諜報活動じゃないわ」
 一呼吸置いて、我沙羅は真斑を見つめながら口を開いた。
「現在高天原市に、数体の異形が侵入しているらしいの」
 やっぱり、と真斑は内心呟いた。
天津帝(あまつてい)からの情報提供によると、第六十九魔が絡んでいるらしいんだけど、詳しいことはまだ不明ね」
「それで私に現地調査、ですか」
「そゆこと」
 手にしていた鬼火カレーパンを食べきり、次の鬼火カレーパンを取り出す我沙羅。
「明日の朝にはWRで現地に向かってもらうわ。新しい情報が入ったらマイちゃんのノートパソコンに送っておくから、今日のところは準備だけしておいて」
「分かりました。では、失礼します」
 我沙羅に背中を向け、ドアへと向かう。開閉スイッチに手をかけたところで我沙羅が声をかけた。
「ところでこの鬼火カレーパン。ちゃんと領収書貰ってきたわよね?」
 真斑は振り向き答えた。
「当然です。もちろん未記入で」
「うむ、完璧! さすがマイちゃんね」
「それが私ですから」
 笑みを浮かべて、真斑は部屋を出た。

 そして、今に至る。
 ポケットに入れていた携帯電話を手に取って時間を確認すると、新香港の中心部である東方双龍塔のWRを出発してからまだ三十分しか経っていない。
 真斑はその駅から日本国の高天原市へと向かっている最中である。
 途中、台湾経由で乗り換えしなくてはいけないので、そろそろ到着する頃だろうと思い、真斑は荷物をまとめ始める。
 大した荷物もなかったのでまとめるのはすぐに終わった。時間を気にしてか、ポケットに仕舞っていた携帯を再び取り出す。
 「えーと、台湾駅で第壱新大阪行きに乗り換えをして、そこから目的地に到着するまであと約一時間後、か……」
 思案顔で、携帯を見つめる。
 「高天原市に着くまで仮眠を取ろうっと。ここで体力と精神力を温存させておかないと、この後の任務に支障が出る恐れがあるし」
 これまでの経験を生かし、真斑は携帯のアラーム機能をONにすると再び簡易ベッドに体を預け、WR台湾駅に到着するまで(まぶた)を閉じた。


22 :寝狐 :2006/07/09(日) 00:24:22 ID:mcLmm4mH

<2−3>

 早朝の柔らかな日が、窓から射し込む頃。御子神(みこがみ) 無月(なつき)は珍しく、目覚まし時計が鳴る前に目が覚めた。
 ベッドから上半身だけ起きあがり、欠伸(あくび)混じりに身体を伸ばす。ついでにもうすぐ鳴ろうとする目覚まし時計を、その役目を果たす前にオフにしておく。
 窓を全開し、風を部屋の中に送り込む。
「良い風、ね」
 涼しげな秋風が、もうじき寒い冬が訪れることを物語っているようにも思えた。
「いっけない。お店にでなくちゃ……」
 パジャマ姿から急いで私服に着替える。
 二階にある自分の部屋から廊下へと出て、階段を下りようとした。
 だが、ふと階段のすぐ近くにある部屋に振り向く。
 そこは凰霞(おうか) 翠琥(すいこ)の部屋だ。
 昨日ナンパから助けてくれた彼女をこの家に泊めることになった。もちろんパパこと智一(ともかず)が承諾しているので特に問題はない。
 彼女がどうしてこの都市に来たのかは分からないが、おそらく観光だろうと勝手ながら無月は推測した。
 一階に下りるのをやめて、翠琥の部屋の前に立った無月は軽くドアをノックする。
「翠琥さん。起きていますか?」
 しばらく待ってみたが返事はない。
 昨夜、街を案内したあと、翠琥は突然一人で何処かへと行った。ちゃんと帰ると言っていたので裏口の合い鍵を渡しておいたが、帰ってきているのだろうか。
 もしかすると、夜中に帰ったものだから疲れてまだ眠っているのかも知れない。
「翠琥さん。入りますよー」
 小声で言いながら、無月はそっとドアを開け、中を覗く。
 元々は空き部屋だったのを綺麗に掃除したその部屋は、窓が開いており、そよぐ風がカーテンを揺らしていた。
 真新しいシーツが被せられているベッドには誰もいない。だが、そのベッドに被されていた毛布が捲れているのを見て、彼女が帰ってきていることは分かった。
「……下にいるのかな?」
 独り呟きながら、無月は部屋を後にする。
 階段を下りると、店内である一階で智一と目が合った。
「おはよう。無月」
「おはよう。パパ」
 エプロンを着けている智一は、カウンターでモーニングコーヒーを淹れていた。
「パパ、翠琥さんは?」
 智一はレジの方に視線を向ける。無月もその方を見ると、長い黒髪の女性が携帯電話で誰かと通話していた。
「――うん、そう。場所はこっちになったから。ゴメンね、おばさま。連絡が遅れて。……え? あぁ、おじさま? たしかもう日本国(こっち)に着いて、彼女の病院にいるはずだから、そっちに連絡して。……分かっているわよ。……今夜? そんなに急ぐ必要はないと思うけど。……分かったわ。うん、それじゃあね」
 ピッ、と通話を切ると彼女はカウンター前の席に座る。
「おはようございます。翠琥さん」
「ええ。おはよう、無月」
 智一からコーヒーを受け取りながら、翠琥は無月に笑顔で挨拶を返す。
「誰と電話していたんですか?」
「ん。ちょっち知り合いにね」
「ふ〜ん」
 無月は翠琥の横の席に座り、智一から日替わりモーニングセットを受け取った。これはいつもの朝食であり、小さい頃から変わらずこのメニューである。
 翠琥の前のテーブルには、焼いたトーストにバターを乗せた簡単な朝食があった。翠琥は食べかけのトーストを一枚手に取り、囓る。
「……あれ?」
 無月はふと気付いた。トーストにのっているバターはそのほとんどが溶けており、生地に十分染みこんでいた。しかも、トーストからはあまり熱さを感じられず、大分冷えた状態だ。そして、皿にあるトーストは三枚。翠琥の口の中に入っているのも含めるとおそらく四枚である。
「翠琥さん。今食べているそのパンって、何枚目ですか?」
「ん?」
 もぐもぐと口の中のパンをコーヒーで溶かし、飲み込む。
「ん〜と、四枚目(・・・)
 さらりと平気な顔ですんなり答えた翠琥に対し、無月は「……うわ」と気持ち悪そうに声を上げた。何せ、全部で七枚あったことが判明したからだ。
「よく朝からそんなに食べられますね」
「まぁね。昨夜は結構運動したから、お腹が減っちゃってさ」
(そういや、昨日もかなり食べていたような……)
 翠琥の見事な食べっぷりに、無月は昨日翠琥が食した量を思いだし、苦笑するしかなかった。
「そういえば、昨夜は何処に行っていたんですか?」
 無月は昨日のことを思い出す。
 公園で翠琥と分かれた後、無月は寄り道せず真っ直ぐ帰宅。だが、その後の夕食も就寝時の時にも翠琥は依然として帰っては来なかった。もしかしたらこの街から去っていったんではと不安しながら眠ることになったが、今朝彼女の部屋を覗いたとき、彼女が帰ってきたという跡が残っていたことでその不安も解消された。
 しかし、やはりその後の翠琥の行動が気になったのか、無月はそれを問う。
「……ちょっちね。夜の街を散歩しただけ」
 僅かに間を空けて、翠琥は口を開く。
 内容は嘘である。だが本当のことを言っても彼女は信じられないだろう。
(この街に“化け物”がいる、じゃあね……)
 それに下手に言って怯えさせてはいけない。嘘は彼女なりの配慮であった。
「そう、ですか……」
 無月はそれが真実ではないと何処かで気付いていた。何故だか分からない。直感ともいうべきか、そんなものだろう。
「あっ、そういえばこれから黄土(おうど)区へ行ってショッピングにでも行きませんか? 昨日は時間が無かったんで案内だけでしたし」
 無月は昨夜のことに関しては触れないでおこうと考え、なんとか話題を変えた。
 それを聞かれて翠琥は「う〜ん……」とコーヒーを飲みながら返答を濁らせる。
「ごめん。まだ昨日の用事が終わっていないのよ。しばらく時間が掛かると思うから、また今度で良いかしら?」
「はい。私は別に構いませんよ。用事が残っているんなら仕方がないことだし……」
 翠琥が素直に謝ってきたことに無月は少し残念な気持ちになりながらも、やはり翠琥の言う“用事”が気になってはいた。
(なんだろう。翠琥さんの用事って……)
 気にはなりながらも、口に出すのはやめておく。プライバシーに対する無月なりの配慮だ。
「そういえば、智一さん。朝刊の新聞はあるかしら?」
「新聞? ああ、あるよ。……はい」
 言われて智一はカウンター下に置いてあった新聞を翠琥に手渡す。
 翠琥は新聞を手にして広げる。
「……ん?」
 何枚かめくり、その途中で翠琥の手が止まる。そのページを見る眼は細く、何かを睨むような視線。
 その一瞬だけ、翠琥の表情が強張っていたのを無月は見逃さなかった。
 新聞を折りたたみ、テーブルの上に置く。
「……ごちそうさま」
 いつの間に食べ終えていたのか、皿の上を綺麗にして翠琥は立ち上がる。
「ちょっち、出かけてくるわね」
「“用事”、ですか……?」
「ええ。たぶん朝帰りになるかもしれないから、裏口の鍵、まだ預かっているわね」
「分かりました。いってらっしゃーい」
「いってきまーす」
 かるく手を振りながら翠琥はドアを潜って外へと出ていった。
 翠琥の背中を見送ってドアが閉じるのを確認しながら、無月はテーブルに身体を向けモーニングセットのハムエッグサンドを手に取る。
「翠琥さんの用事ってなんだろう……」
「意外と乙女の秘密とか?」
 カウンターの奥でコーヒーを淹れていた智一がぼそりと言う。
「パパ。何げに恥ずかしい台詞言わない」
「はははっ。今日の店番、頼むぞ」
 笑いながら智一は奥の厨房へと消えていった。
「もう、パパったら……」
 ため息を吐きつつも、それがパパらしいと無月は納得している。
 カウンターの中に入り、自分もコーヒーを飲もうと、ティーカップを手にする。
 淹れたてのコーヒーを一口飲むと、翠琥が座っていた場所にある、いつの間にか平らげていた(・・・・・・)トーストの皿をかたづけようと手を伸ばす。
「ん?」
 皿を持ち上げたところで、ふとその横の物に目が入った。それは朝刊の新聞である。出かける寸前の翠琥が読んでいた物だ。
「何を読んでいたんだろう……」
 運良く翠琥が開いていたページが表になって折り畳まれていたが為に、すぐにそのページを開けた。問題は、翠琥がどの記事を読んでいたかだ。
「え〜と、どれだろう……?」
 芸能人のスキャンダル記事……違う。
 近日公開予定のハリウッド映画……違う。
 現在人気の特撮ヒーロー俳優の写真集発売……違う。
「う〜ん……」
 一際目に付く大きな見出しから次に小見出しの記事を探す。しかし、何処を見ても、翠琥の表情が強張りそうな記事は見つからず、どの記事も至って普通の内容である。
(株かな? ……いや、翠琥さんはそういうの興味なさそうだし)
 システム問題により大安で株を売った証券会社の記事が目についたが、無月は別の記事へと目を移していく。
 それでも目ぼしい記事は見つからず、最後に目についたのは伝言欄であった。
 その伝言は三つ記載されていた。
 一つは、<(はがね)――早く帰ってこないと 鬼火カレー抜き>。
 次に、<十六――長野F12 OT有り B指定>。
 最後は、<銀翼――天つ神の住まう地の(とり)の方 (くさび) 三百の(むくろ) 幽世(かくりよ)の亡者>。
(……うーん、変なのばかりで余計に分からないし)
 結局翠琥が何を見ていたかは無月には分からなかった。諦めて新聞を閉じて、カウンターの下に放り投げた。
「さて、お店の準備でもしよっと」
 残ったコーヒーを一気に飲み干す。底に溜まっていた苦味が口に広がり、無月の頭の中は営業モードへと切り替わっていった。


23 :寝狐 :2006/07/13(木) 22:57:27 ID:mcLmm4ne

<2−4>

 ディアテーケを後にした翠琥は黄土区を通り、白金(はっきん)区へ来ていた。
 目の前には地面に突き刺さっているピラミッドを上下二つに張り合わせた様な、縦に細長い八面体の幾何学的形状の巨大なオブジェ。それは昨夜、黄土区のビルの屋上から翠琥が見た光の柱の正体、楔の柱であった。
(これは一体、何を封印していたのかしら……)
 楔は本来、何らかのモノを固定するために使われる代物。ならば、この巨大な楔の柱も何かを固定、つまり封印していたことになる。柱は現在、上半分が粉々に砕けており、元々がどれくらいの大きさなのか、以前までの状態を見たことがない翠琥にとっては分かりかねていた。
 楔の柱というのは風化などにより自然に朽ちるものではない。それ自体に強力な霊力を込めることにより、その寿命は幅広い。翠琥が昨夜確認した限りでは、まだ柱に込められた霊力は僅かながら残っていた。よって霊力が尽きての崩壊というのは考えにくい。ならば、それを外界から手を加えて破壊したとしか考えられない。
 そしてもう一つ。翠琥の思考の中にある謎。それは先ほどディアテーケで読んだ新聞の隅に掲載されていた伝言欄である。
 地上科学技術が特に発展したこの時代。今や電子情報ネットワークにおける映像通信やメールなどが主流とされているが、それらは一般的に使用されるものであり、表舞台に立てぬ組織などは現代の世でもアナクロな手法によって情報交換などが行われる場合が度々ある。なぜなら、電子情報におけるならばハッカーと呼ばれる不法に他のコンピューターシステムに侵入してデータを改変したり、無断でコピーしたりする者達がいるからだ。
 最先端技術は誰でも扱えるのが長所であるが、逆にいえば誰でも情報を手にすることが可能となる。だからこそ、国家機密を扱う軍や組織などは誰にも情報が漏れないアナクロな手法を用いることがあるのだ。
 そのアナクロ手法の一つが新聞による伝言欄である。
 誰でも目にすることが出来ても、特定の人物にしか解析できない伝言。つまり公共の物を利用した暗号通信手段なのだ。
 そして、現在この新聞の伝言欄を使用している組織は、翠琥が知っているかぎり数えられる程度しかない。
(一つ目の伝言は悪の秘密結社退治組織『羅刹天組』。二つ目は法王庁(ヴァチカン)の対異星人組織。この二つはどうでもよかったけど、あの三つ目の伝言……)

 『銀翼――天つ神の住まう地の酉の方 楔 三百の骸 幽世の亡者』

(あれって確実に私宛だわ。そうじゃなきゃ、わざわざ銀翼だなんて書かないだろうし)
 『銀翼』という宛名に何故翠琥が当てはまるのかは定かではない。それはもしかすると、彼女の魔法に関係するのだろうか。
(ということは、あの伝言の内容も私に関係することのはず)
 まずは最初の『天つ神の住まう地』。これはおそらく『高天原市』のことだろう。地上の人間が住む世界である葦原之中津国や、地中にあるとされる根の国・黄泉に対し、天上にあるのが高天原と呼ばれているのだ。
 次に『酉の方』。酉は方位吉凶図における六白、つまり西の方角を意味する。
 『楔』はたぶん翠琥の目の前にある楔の柱のことだろう。これは間違いない。
(でも、『三百の骸』ってなんのことかしら?)
 骸だから、おそらくは死体という意味だ。だが、翠琥はこの街で死体を見たことはない。しかもそれが三百体もあるとすれば、事故ならまだわかるが、殺人となると世界的にも大ニュースだ。
 しかし、そのようなニュースは新聞には一切記載されていなかった。つまり三百体の死体なんてなかったはずだ。ならばこの伝言にある『三百の骸』とは一体何なのか?
(そういえば……)
 ふと、翠琥の脳裏にとあることが思い浮かんだ。
 それは、昨夜白金区にて異形と遭遇した時。あの視界情報を狂わせる暗黒空間に浮かぶコールタールの如き海に見えた、悪魔によって食い殺された百を超える惨殺死体の残骸の幻。
 もしあれが幻ではなく、現実の出来事であったのなら……。『三百の骸』というのはそのことを指すのではないのだろうか。
(確かに、あれなら三百体はあってもおかしくは無いわね……)
 だがそれには問題がある。その三百もある死体は一体何処にいったのか? 一体や二体ならまだ隠しようがあるが、三百という数は到底隠しきれない。どう足掻いても確実に誰かに見つかっているはずだ。それが見つからないということは、よほどうまい隠し場所があるのか、それとも……。
(隠さず、埋めもせず、燃やさずして、死体を無くする方法といえば……まさかね)
 一瞬、頭に過ぎったとある可能性を翠琥は敢えて考えないでおくことにした。万が一その可能性が当たっていた場合、自分はとんでもない化け物と敵対していることになるのだから。
 そして最後の『幽世の亡者』。これは異形のことだろう。それ以外にこの単語に該当するものはない。
 これらを纏めると、おそらくこういう文章になる。

 『高天原市の白金区にて、楔の柱が破壊され、三百人の人間が犠牲。その原因は異形の仕業である』

(後は、一体誰が私にあの伝言を寄越したか……)
 おそらく何処かの組織なのは間違いないはずだが、新聞社に問いただしても答えられないだろう。組織というものはそういうものだ。
 いずれにしてもこれらのことはただ事ではない。翠琥はその事件に巻き込まれているのだから。
 楔の柱と一夜にて消えた三百の死体。そしてその原因である異形。
 昨夜、翠琥が遭遇した異形はヘラジカの異形であった。
(倒したのはいいけど……。問題は何故この街に異形がいたのか、よね)
 異形とは簡単に言えばこの世の者ではない存在だ。
 近代の世では異形が発生するような場所は少なくなっている。高天原市のようなたった数年前にできたばかりの都市に、異形が発生する確率はほぼ無い。
 更に言えば、ヘラジカの異形のような完全な自我を持つ異形は上級クラスであり、発生してまもない頃から固定した自我を持つ異形はまずいない。
 これらのことから翠琥はある仮説を立てた。
(外からの侵入……としか考えられないか)
 異形は基本的に、発生した地域から離れることは滅多にない。何故ならば発生した場所は己にとってもっとも生きられる場所、つまり縄張りである。しかも彼らはそれぞれ単独で行動することが多く、仲間意識が有る者の方が少ない。
 更に言えば、この日本国には他の国とは全く違う流れを持つ魔を討つための退魔組織が幾つもあり、その中には国家レベルの組織も存在する。下手に縄張りから出れば瞬く間に彼ら退魔組織の標的になってしまうのである。よってあのヘラジカの異形と呼ばれる異形が単独で人間の血肉を求めて高天原市に入ったとは考えにくい。
 そこで翠琥は新たな仮説を打ち立てる。
(もしかしたら単独ではなく、他に仲間がいるんじゃないかしら。そう、最後に現れたあの異形が……)
 その仮説は考えられぬことではない。単独で都市に入るのは無理であっても、集団、しかも彼らを纏めることのできる者を筆頭にすれば、退魔組織に見つかることなく都市に侵入は可能だ。
 ヘラジカの異形を倒した後に現れた白骨の異形。確かにあの異形はヘラジカの異形のことを知っていたようだし、「我等ノ計画」と自分等が集団であると仄めかしていた。
 計画、それは一体なんなのか。まだ謎だらけで全然情報が足りないことに翠琥は若干苛立ちを覚える。
(その筆頭となっている者は……たぶんアイツ)
 翠琥の脳裏に昨日黄土区の比良坂公園で見たあの鬼面の男が浮かび上がる。
 やはり、あの男が全ての謎の鍵を握っているのではないのだろうか。
(もう一度、あの公園に行ってみる価値がありそうね)
 それらを確かめるために、翠琥は楔の柱を背に比良坂公園へと歩き出した。


24 :寝狐 :2006/07/13(木) 23:06:23 ID:mcLmm4ne

<2−5>

 京都府の右京区にある応護宮廷(おうごきゅうてい)。そこは日本国の太平を守る天津帝(あまつてい)の拠点である。
 まるで平安時代の朝廷を連想させるような時代の掛かったその広大な建築物は、皇族とそれに許された者達だけが住まうことのできる場所である。
 住まうこと以外にも、国家機密レベルの会議ができる超防音の会議室や教育施設も備え付けられており、ここにいるだけでありとあらゆることが可能なのである。米国流にいうなら、ホワイトハウスに近いのかも知れない。
 その中央部にある皇室に、腰まで届く黒髪の少女、(すめらぎ) 富桜那(ふるな)はソファに座って背中を預けていた。その横につい先ほど皇室に入ってきた七海(ななみ) 真弥(まや)が立っている。
「例の次期都市国家で、動きがあったそうですね」
 富桜那は真弥に顔を向け、そう言った。
「はい。すでに最初の犠牲者達も……」
 そうですか、と富桜那は目を伏せながら呟く。
「こちらの目測よりも早く第一段階を踏まれたのは痛手ですが、それを和らげる良い報告があります」
「良い報告とは?」
 はい、と真弥は頷きながら手元の報告書を一通り見る。
六波羅(ろくはら)機関からの報告です。新香港より現地調査を依頼しました“課”の者が、あと一時間で現場に到着するそうです」
「現場に向かった者は何名ですか?」
「えーと、一人です」
 資料を見て真弥は答えたが、富桜那は少し驚いているようだ。
「……一人、ですか?」
「はい。報告が間違っていなければ」
 真弥は迷いなく肯定する。
「……まあ、あの方達らしいですね」
 笑いもしなければ、皮肉すらない。富桜那はただそう納得するように言った。
「ところで、こちらの対抗準備はどうなっていますか?」
「二時間ほど前、『宝鏡』は警察庁による厳重警備の下、十台の護衛車を囲んで伊勢神宮より護送中。それと同時刻に、第参新札幌の北海道神宮で一時保管していた『宝剣』の方は法王庁極東支部の“課”によって護送中です。『宝玉』は現場で待機中の討魔(とうま)機関と陰陽(おんみょう)機関で邪なる神々の妨害に対抗すべく厳重警備をしております」
「極東支部……法王庁が正式に協力してくれたのですか?」
「いえ。新香港の“課”同様、単独的な意志で協力を受け入れてもらいました」
「それは良かったです。極東の“課”が敵対となれば、こちらは壊滅的(・・・)な打撃を受けていたでしょうから」
 富桜那はゆっくりとソファから立ち上がり、真弥の方へ顔を向ける。
「では、真弥は先に出雲大社へ向かってください。準備が整い次第、こちらも出雲へ向かいます」
 そう言って真弥が「御意」と頷くのを確認し、富桜那は皇室を後にしようとする。
「あっ、少々お待ち下さい」
 ふいに真弥が声を上げ、富桜那は立ち止まって振り返る。
「まだ何か?」
「はい、申し訳ございません。もう一つだけ報告する項目がありました」
 真弥は別に持っていた報告書を読み上げる。
「これも六波羅機関からです。例の国家都市に抑止力が現れたとのことです」
「抑止力? それは一体……?」
 真弥は一呼吸おいて、報告書に書いてある通りに言った。
「魔法使いです」
 一瞬、富桜那の思考が止まった。何故ならば、それは今回の事件には全く関係の無い存在だったのであるのだから。
「魔法使い……。世界の(ことわり)を曲げる者があの都市にいるというのですか?」
「確認は取れております。それに陰陽機関の報告によると、その者は抑止力となる存在であることも」
 真弥の言葉に富桜那は目を閉じた。
(偶然にしては話がうますぎる。果たしてこれは<世界>の意思によるものなのでしょうか? それとも『創造主』の意思なのでしょうか?)
「……あの、陛下?」
 真弥の声に富桜那は、はっとして思考を断ち、目を開いた。
「どうかなさいましたか? 何処かお体の具合でも……?」
 心配そうな表情で聞く真弥に、富桜那は平然とした顔で答えた。
「いいえ。問題はありません。ただ考え事をしていただけです。……それよりも、その者が抑止力となるのならば、こちらから何かしらの助力をしなければなりませんね」
「それに関しては既に行動済みです。我々の暗号通信手段によって、抑止力に昨夜の事を伝えておきました。あの者が所属する組織も同様の手段を用いていたので確実に気付いていることでしょう」
「さすが真弥ですね。私が指示する前に事を為しているとは」
「いえ、勝手な行動をどうかお許しください」
「構いませんよ。情報はいち早く伝えるのが良いですから。それに、そういう事ができるように貴女にはそれなりの権限を与えていますので」
「ありがたきお言葉」
 真弥は深々と頭を下げる。
 そんな真弥を横目に、富桜那は窓へと視線を向ける。
(こうなることを、貴女は予測していたというのですか? 『真実の瞳(トゥルース・アイズ)』の秋元我沙羅……)
 ――空は澄み切っており、冷えた風が秋の終わりを告げているようにも思えた。

 同時刻。新香港にて。
「ぶぇーくっしょんっ!」
 突然のくしゃみに、コンソールで作業中であった者達は一斉に彼女――秋元我沙羅へと振り向いた。
「司令ー、風邪ですかー?」
 司令席から一番近い位置にあるデスクでガンプラを(・・・・・)組み立てていた(・・・・・・・)鷹尾 遊がニッパーを片手に皆を代表して聞いた。
「うんや。誰かがあたしを噂しているのね、きっと」
「うわ。ありえなーい!」
 笑いながら、遊はわざとらしく声を上げる。その声に、他のオペレーターたちがクスクスと笑った。


25 :寝狐 :2006/07/13(木) 23:09:31 ID:mcLmm4ne

<2−6>

「ああー! ついやってしまったぁー!!」
 早朝にこの街に着いた所為か、開店時間と同時に居座っていたゲームセンターを出て、詩原真斑は入口の前で頭を抱えながら叫んでいた。
 店に入ってすぐ近くにあった新作のアーケードゲーム『決闘救世主 〜自由〜 −メサイア V.S. 破滅−』という多人数参加型格闘ゲームに見事にハマリ、彼女は乱入者百人切りを披露して自分がどれくらい凄いことをしたかということに気付いたのと同時に店を飛び出してきた。
 新香港にいた頃からゲームに熱中しやすい性格の所為か、つい新作ゲームにどっぷり浸かってしまったのだ。
「あの新作、新香港のゲーセンに導入されるのは一ヵ月後だったから待ちきれなかったのよ……」
 誰に対しての言い訳なのかは分からないが、ため息混じりに携帯を取り出して時間を見れば、午後の五時を少し回った頃。ふと空を見上げれば陽が西に傾いており、もうじき地平線の彼方に消えそうだ。
「この都市に到着してからすでに六時間以上が経過しちゃって、今のところ調査ができた場所はっと……」
 ポケットから高天原市の地図を広げてみる。先ほどのゲームセンターの開店前に調査しておいた場所には既に赤丸が記されているのだが、その赤丸が記された場所はホビーショップやゲームショップ、ゲームセンターにアニメ・ゲーム専門店、さらには同人誌作品専門店などの名前が目立っていた。
「って、あたしの趣味の場所しか印付けていないしー!」
 再び頭を抱える。
(なにが現地調査だ。調べるものが全然違うではないか。しっかりしろ、詩原真斑!)
 そう己の心の中で激励して、真斑は顔を上げる。
「よし。今度こそ任務を遂行しなくては!」
 ガッツポーズをして歩き出す真斑。だが、突然グゥ〜とお腹が鳴り「うっ!」と唸りながら真斑の足がと止まる。
 真斑はこの都市に到着してから食事を一口もしていなかった。今頃それに気付くとなんか無性にお腹が空いたと身体が訴え始めている。
 さすがに空腹は辛いのか、真斑は辺りを見渡して飲食店を探し始める。するとすぐ近くにBSE問題を苦としない特徴的なオレンジ色の看板の店が目に映った。その店は真斑にとっては馴染み深い店である。新香港にいる時からよくお世話になった所であり、彼女の大好物がそこにある。
 それを確認した瞬間、彼女の中でカチンとタガが外れた。もう我慢ならないとばかりに真斑の足が一気に加速を乗せて地面を蹴る。
「大盛り葱だく玉、二十杯ちょうだい! お金はあるからっ!」
 次の瞬間には、真斑は既に店内で注文をしていた。


26 :寝狐 :2006/07/13(木) 23:14:06 ID:mcLmm4ne

<2−7>

「大盛り葱だく玉、二十杯ちょうだい! お金はあるからっ!」
 ものすごい勢いで店内に入って注文した少女に、注文した大盛り汁だく玉の十五杯目(・・・・)を食べていた翠琥は、驚きのあまりに思わず動かしていた箸を止めてしまった。
(葱だく?! しかも、二十杯!?)
 そう驚いている間に少女の前には次々と大盛り葱だく玉が置かれていく。少女は全部置かれる前に、すぐさま割り箸を割り、丼に食らいつきだした。翠琥が見ている限りでは、噛まずに飲み込むような食べ方ではなく、きちんと白飯と牛肉と葱を噛み尽くし咽喉に流している。それは腹を満たすためだけの行為ではなく、味わって食べるという、人間独特の感性を少女は体現しているのだ。
(……あそこまで高速で、なおかつお米をきちんと噛み切っているのは凄いわね)
 ちなみに翠琥は三十分前にこの店に入り、一杯につき二分で平らげ、現在十五杯目を終わらせようとしているところである。
 と、少女はふと箸を止めると、翠琥に顔を向けた。……頬に米粒を付けながら。
「あたりまえです。お米には七百八十八体の神様がいるのですから、ご飯を粗末にするのは神に対する冒涜ですっ!」
 そう言い終えると少女は何事も無かったかのようにすぐに食事を再開する。
「……」
 翠琥は沈黙してしまった。何故ならばそれは、少女が翠琥の思考していたことに対して返答した……ではなく、「それをいうなら七人の神様と八十八の苦労なのでは?」というツッコミをするべきがどうか迷ってしまったからである。
 なんて考えていたら、今度は少女が丼に口をつけたまま箸を止めて固まってしまった。
「……まぁ、誰にだって間違いはあります」
 誰にも聞こえない小さい声で言いながら、若干頬を赤らめている少女は再び箸を動かす。
 そんな少女をぼぉーっと見ていた翠琥だが、ふと我に返り、丼に残ったものを一気に口にかき入れた。
(まだ腹四分目(・・・・)だけど、まぁ今日はこれくらいで保つかな? あんまり食べると激しい運動の際に結構響くし……)
 そう考えながら残っていた冷水を飲み干すと「会計お願いしますー」と言いながら席を立ち上がった。
 手際のよい定員によってすんなり会計を済ませ、少女を一瞥したあと(きびす)を返した。
「ご馳走様〜!」
 店員の「ありがとうございましたー」という声を後ろに、翠琥は店を出て行った。


27 :寝狐 :2006/07/15(土) 22:38:20 ID:mcLmmAW7

<2−8>

「無月ー。そろそろ閉店だからお願いなー」
「はぁーい」
 厨房の方から智一がそう言ったのを、カウンターにいる無月は返事をする。
 店内を見渡すと、残った客はあと一人である。その客も先ほど注文した珈琲を飲み干しており、今は携帯電話で誰かとメールをしているようだ。
(……そういえば、翠琥さんの携帯の番号とかメルアド、知らないなー)
 今朝翠琥が携帯を使っていたのを思い出して、無月は気付いた。
(帰ってきたら、ちゃんと聞いておこうっと)
「あのー、会計お願いします」
 そんなことを考えていたら、いつの間にかレジの方で声が聞こえた。視線を向けると先ほどまでメールを打っていた客がそこにいた。
「あっ、はい!」
 慌ててカウンターから出てレジへと向かう。
「525円になりますー。……はい、では25円のお釣りです。……ありがとうございましたー。またのお越しをー!」
 接客スマイルで最後の客を見送り、無月は入り口のドアに掛けてある『OPEN』の看板を『CLOSE』に裏返す。
 客が使っていたテーブルにある食器を片付けようと無月はテーブルに向かう。
「……あれ?」
 と、客が座っていた席にはハンカチが一枚落ちていた。おそらく忘れていったのものであろう。
「……まだ近くにいるはずよね」
 無月はすぐにハンカチを拾って店を飛び出し、客が帰った方向へと走った。


「おぉーい、無月。取り置きの洗剤ってどこに……あれ? 無月?」
 厨房から顔を出した智一だが、カランとドアの鈴の音が聞こえて入り口をみると、無月が外に出て行ったのが見えた。
「………………」
 その後姿を見る智一の表情は、無月ですら見たことないような険しい目つき。
「無人の夜の下に往くのはまだ早いぞ、無月……」
 謎の言葉を残して、智一は二階へと上がっていった。


 忘れ物をした客を探して、無月は通りを走っていた。
「はぁ……はぁ……。――……あれ?」
 だがいくら走っても肝心の客の姿が見えなかった。
 この通りはほとんどが直線で構築されている。であるからにして、いくつかの飲食店や洋服店に入り込んでいない限り、この通りで見失う可能性はほとんどない。
 実際走りながらも横切る店内をざっと見ていたが、どこにも忘れ物をした客の姿は無かった。
「……っていうか、誰もいない?」
 ふと見渡せば、誰も居なかった。確かに人通りの少ない場所とはいえ、人っ子一人いないのが珍しかった。
 普段ならこの時間帯でも普通に店は開いているのだが、なぜか『OPEN』の看板を出している店はいくつもあるのに、店内には客どころか店員すらいないのだ。
 一箇所ならまだしも、全ての店に人間がいない。無月は思わず背筋に悪寒を感じてしまった。
(――なんなの、これって?!)
 踵を返して、無月はディアテーケへと走り出す。
 生まれて初めて、無月は自分の住むこの都市が怖くなった。
 ………………。
 …………。
 ……。

 この時、無月は気がつかなかった。
 走る己の背後で、黒き獣が横切ったのを……。


 ――もうじき、二日目の夜を迎える。

 ――無人の都市に、闇の淵より顕れし異形たちの息遣いが溢れだす……。


28 :寝狐 :2006/07/15(土) 23:06:15 ID:mcLmmAW7

<2−9>

 落ちる日が空を茜に染める頃。翠琥は再びあの比良坂公園へと足を運んでいた。
 公園を敷き詰める草原は赤く染まっており、草木が照り返す夕焼けの陽光が、まるで幻想的な光景を作り出している。
 翠琥は視線を上げた。比良坂公園の中心、そこに巨大な大岩が鎮座している。
 だが、翠琥は別に大岩を見るためにここに来たわけではない。
 あの鬼面の男。おそらく、昨夜の事件に関して一番情報を持っていそうな人物。そいつに会うために彼女は来たのだ。
「とは思って来たはいいけど……」
 辺りを見渡す。あるのは大岩とその周りの木々、そして一脚だけあるベンチぐらいだ。相変わらず人気は全くない。やはり街の人々もこの公園の不穏な空気を無意識に何処かで気付いているのだろう。
「やっぱりそう簡単に会えない、か……」
 そう呟いて、公園を後にしようと大岩に背を向けた瞬間であった。

「――誰をお捜しかな? 魔法使い」

「――!?」
 背後から突然掛けられた声に翠琥の背筋がビクンと跳ねた。同時に一気に前に跳んで距離を稼ぎ、身体を反転させて振り返る。
 そこに、夕日を背にしてあの男が立っていた。
 顔に鬼面を被り、漆黒に染められているが形状は神社で見かける神主の衣装、左手にはまるで古代剣を連想させる青白い石のような鞘に収めた石の剣が握られている。
(いつの間に私の背後を……?)
 翠琥は驚いていた。これまで数々の異形と戦っていたことのある彼女は戦闘に関して負けることはなかった。それも熟練した魔術技術と優れた戦闘センスが彼女を勝利に導いていたからだ。
 しかし、それほど百戦錬磨の翠琥ですら背後に現れた男の気配に全く気付かなかったのである。
 目の前に立つ男はどれほどの腕を持っているのだろうか。自分の背後を取れるくらいだから相当の相手である。翠琥の頭の中にそんな思いが渦巻く。
「そう驚くでない。せっかくこちらから接触してやったんだ。逆に感謝してもらわんとな」
「感謝? そんなの断るわ。誰が異形なんかに感謝する人間がいるっていうのよ。それよりアンタは何者なの? 異形にしては珍しく人型のようだけど」
「ほう、我を異形と申すか。その根拠は?」
「だって、あんたが着ている鬼面と装束が証拠よ。
 まずは鬼面、それは牛頭鬼馬頭鬼(ごずきめずき)よね?
 牛頭鬼馬頭鬼は地獄で亡者を責めさいなむ獄卒鬼のリーダーの一を示す特殊なもの。人間の敵であることを表した面を被るということは、それは異形である一つの判断材料。
 そして装束の方。それは無紋の狩衣(かりぎぬ)でしょ?。
 しかもただの狩衣ならまだしも、その色は忌色とされ禁色でもある漆黒。神祭に使用されない、歪殺死衣(わいさつしぎぬ)
 その面と衣から放たれるは異様な程の密度の高い妖気。まさに闇の淵より顕れし黄泉の使いって感じよ!」
「よくぞ気付いたな魔法使い。あぁそうだ。これらはただの人間がそうやすやすと触れられる代物ではない。だが相手に名を尋ねるときはまず、自分から名乗れと誰かから教わらなかったのか?」
 男の人間らしい口調に腹を立て、翠琥は睨む。だがそうしないとこちらは何もせんぞとばかりに、男は黙ってその場に立ち尽くしている。
「……凰霞翠琥。魔法使いよ」
 敵意を込めて言う翠琥であったが男には効果がなかったようで、男はゆっくりと鬼面の奥から窺える赤く輝く眼光の視線を翠琥に合わせ口を開く。
「我が名は闡提尊霊(せんだいそうりょう)。世界を深淵に還す者」
「闡提、尊霊……?」
 翠琥の眉が僅かに潜める。何処かで聞いたことのある名だと翠琥は思った。
「それじゃあ聞くけど、昨夜この都市の西の方で異形が現れたわ。同時に三百人の人間が消えたらしいんだけど、あれってアンタの仕業?」
 それを聞いて男、闡提尊霊はフッと小さく笑った。
「さあ? どうだろうな」
 それは人を小馬鹿にしたような言い方であった。悔しさからか、翠琥は歯を食いしばる。
「もし、そうだとしたら?」
 今度は闡提尊霊から問いただしてきた。
「もちろん。やることはただ一つ……」
 両拳を力強く握りしめ、左の拳を顔の前に掲げる。
「アンタを倒すだけよ」
「ふんっ、そうか……」
 闡提尊霊は左手に持つ剣の柄を右手で掴み、ゆっくりと抜刀する。
「我が頭槌剣(かぶつちのつるぎ)の錆となるがいい」
 頭槌剣――それは神話の時代に使用されていた古代剣の名だ。そのような剣を異形が所持していることに翠琥は気になったが、今はそんなことは考えている場合ではない。
「そのむかつく態度……徹底的に叩き直してやるわ!」
 その言葉と同時に、翠琥の魔術起動式が廻り始めた。魔力で構成された風が吹き荒れ、手刀の形にした両手に絡みつくように風が纏う。
「――構成隻影(せきえい)固定! 獅子の牙っ!」
 力ある言葉によって魔術が発動。両手首から指先を媒体として覆い、手刀の先からは緑色に光る風の魔力によって編まれた鋭い刃が一メートルほど伸びていた。

 ――戦闘魔術“獅子の牙”。
 近接攻撃を持たぬ対魔術師用に翠琥が開発したものである。
 現代の魔術師は基本的には過去に誰かが開発したのを覚えるのが多い。だが、翠琥の場合は近接攻撃用魔術を好みとしており、ただでさえ後方支援を目的とされた魔術体系が多いだけにそのような魔術が過去に開発されていたわけがないので、仕方が無く自らがそれを開発しているのだ。

「行くわよ、闡提尊霊!」
 両腕を左右に広げ、翠琥は前傾姿勢で走り出す。同時に闡提尊霊も鞘を地面に突き立て、両手で剣の柄を握り構える。
 翠琥が走るだけで、左右に広げられた柄の無き風の刃が空気を切り裂く音を立てる。
 ガキィン!
 “獅子の牙”が闡提尊霊の剣と激しく衝突する。火花が散り、弾くように翠琥は後ろに跳ぶ。
「どうした? たった一度で終わりか」
 余裕の声で闡提尊霊は言う。
「減らず口をっ!」
 地面を蹴り、再び突撃。横殴りに振られた左の刃が闡提尊霊の剣とぶつかり、剣を外側へ払うことで刃が弾かれる。同時に右の刃で闡提尊霊の空いた脇を突く。だが、寸前で剣の柄によって手首を下から当てられ、軌道が上に逸れる。
 その体勢から闡提尊霊の左手が翠琥の襟元を掴んだ。
「ふんっ!」
 そこから軸足だけで身体を反転させ、気合いと共に柔道の背負い投げに似たモーションで翠琥を投げ飛ばす。
「なっ!」
 抜き手で突進した際の勢いが加算された衝撃が、背中から地面に落ちた翠琥の身体全体に与えられる。
「ぐっ……!」
 倒れたのと同時に両手に構成されていた“獅子の牙”が、さぁと音を立てて四散する。
 すぐに立ち上がり、体制を整える。だが前方に立つ闡提尊霊はそれを見届けるかのように茫然と立ち尽くしていた。
「追撃をしないのね」
「生憎だが、弱き者をいたぶるのは我の趣味ではないのでな」
「やっぱ、むかつくわ。その言い方」
「こういう性分なのでな。文句を言われても困る」
「絶対に叩きのめすっ!」
 翠琥は叫ぶのと同時に、再び手刀に構え魔力を注ぎ、“獅子の牙”を再構成する。
「ほう。大した魔術技能だ」
 剣を両手で支え、闡提尊霊は構える。
「ならば、その魔力を打ち砕くまで」
「やれるもんならやってみなさい!」
 再度の突撃。大きく後ろへ振った右手の刃を下から切り上げる。闡提尊霊は半歩後方へ下がり、剣を斜めにすることで攻撃を防ぎながら刃の軌道をそのまま上に伸ばす。
 浮き上がった状態から次は左の刃を振り上げた。しかしそれを予測していたかのように、闡提尊霊の剣は刃を左上から右下へと叩き斬る。切断された魔力の刃はガラスが割れたようにパリンッと音を立てて砕けた。思わず左手を退かせる。
「魔力を斬った!?」
「当然だ。神話より伝わりしこの古代剣は、魔力をも斬ることが可能なのだよ」
 翠琥は残った右手の刃を横から斬りかかる。だがそれも、左下から右上へと斜めに切り上げられた頭槌剣によって破壊される。
 闡提尊霊は剣の先端を翠琥に向け、突きを放つ。狙いは喉元。
 咄嗟に翠琥は両腕を顔の前でバツ字に組み、その両腕を瞬時に構成した魔力で編む。魔力防壁となったそれと頭槌剣が真っ向から衝突。バチバチと火花を散らしながら頭槌剣は徐々に翠琥の魔力を打ち消していく。そして最後の防壁が打ち消され、魔力が拡散し、衝撃で翠琥は後方へ弾けるように吹き飛んでいった。
 仰向けで地面に倒れる。しかし翠琥は一向に動こうとはしない。
 ……いや、動かないではなく動けないのだ。無理矢理に零工程で発動させた魔力防壁による神経の麻痺。さらにはそれを打ち消されたという魔力反動が彼女の身体を動けなくさせていた。
 足掻こうにも両腕の痺れが治らず、さらには背中を強打した所為か肺が詰まりそうな感覚に捕らわれている。
 それを見て、闡提尊霊は剣の先端を翠琥に向けた。
 だが、闡提尊霊はそれ以上動かない。剣先はあいからわず翠琥の方へ向いているが。
「……これ以上貴様と争う時間は無意味だ。殺す必要もあるまい」
 そう言って闡提尊霊は最初に立っていた場所へと歩くと地面に突き立てていた鞘に頭槌剣を収め、そのまま翠琥に背中を向けながら歩き出す。
「また会おう。魔法使い」
 風が吹くのと同時に、闡提尊霊の姿は消えていた。
 しばらく翠琥はその体勢でいた。痺れが治るのを待っていたと言えるが、本人にとっては別の理由である。
「……負けちゃった、か」
 悔しいという気持ちはなかった。ただ、負けたということが、あの男が消えてから実感したのだ。
「次こそは必ず、アイツの顔に一泡吹かせてやらなきゃね」
 痺れが治りかけていた腕を大空へと伸ばし、そこにある何かを掴むように強く握りしめる。

 ――茜色の陽は隠れ、夜空に黄金の月が輝き始めようとしていた。


29 :寝狐 :2006/07/15(土) 23:08:39 ID:mcLmmAW7

<2−10>

 西日も隠れ、空に黄金の月が輝き始めた頃。
 北の黒水(こくすい)区にある小さな児童公園のベンチに詩原真斑は座っていた。
 公園は定番な遊具が数台と砂場が中央にポツンとあるぐらいで、どこにでもある光景であった。
 ただ、そこにいるのは児童ではなく、十五歳くらいの少女であるが。
「ふぅー、お腹いっぱいー」
 右手でお腹をさする。
 夕方入ったお店で、大盛り葱だく玉二十杯分の食事を食べきったとはとても思えないそのお腹は意外にも膨れておらず、健全な状態で保っている。どうやら食べても膨れない身体のようだ。女性から見ればとても羨ましい体質である。
 その時、細かく機械的な振動音が彼女のポケットから発せられた。
 それに気付いた真斑はポケットから振動の原因、携帯電話を取りだす。
「……メール?」
 二つ折りになっている携帯を開き、液晶画面を見ると、メールの受信を表示していた。
「誰からだろ?」
 すぐに送られてきたメールを開いてみる。送り主は彼女の仕事場からであった。
 真斑はその内容に目を通す。

『マイちゃん。天津帝から重要人物のデータが送られてきたので、パソコンの方に送っておきます。』

「重要人物?」
 おそらく、今回の任務に関する人物なのだろう。しかし何故、それが最初から渡されなかったのだろうか。真斑は不思議に思った。
「あれ? まだ下に何かある」
 その文章の下にまだ続きが書かれていた。

『追伸。その街でなんか美味しそうなお土産があったら是非とも買ってきてください。というか買ってきなさい! これは最優先重要任務よ!』

 真斑は何もなかったかのようにすぐ携帯を閉じた。
「……最後のは見なかったことにしようっと」
 そう言って携帯をポケットに仕舞いながら、横に置いていたデイパックからノートパソコンを取りだし、起動させる。先ほどメールに書いてあった重要人物のデータというのを見るためだ。
「重要人物ってどんな人なんだろう……?」
 立ち上げたパソコンのメール受信フォルダに、確かに先ほど送られてきたばかりのメールがあった。
 早速真斑はそれを開く。そこに重要人物という一人のプロフィールが表示された。真斑はスクロールバーをゆっくり下げながらそのプロフィールを一通り見る。
 プロフィールは一番上に人物画像。次に名前、年齢、所属機関、過去の経歴などの項目がある。そのうちの所属機関のところで真斑の視線が止まった。
「……うそ。なんであの機関の人間が……?」
 その人物が所属している名前を見て、真斑は驚いた。無理もない。その人物が所属する機関は今回の任務には参加しているはずがないのだから。
 スクロールバーを一番上まで上げて、その人物が映っている画像をもう一度見る。
 おそらくはこの街の何処か、しかもロングアングルで撮影したのだろう。人通りの少ない場所に立っているその女性は、大きく目立つ腰まである長い緑みにかかった黒髪に柔らかそうでどこか眠たげな翡翠の瞳をした双眸。黒い上着に灰色のロングスカートという服装。その上からでも分かるぐらいの見事なプロポーションを持ち、左手に車輪の付いたトランクを引いていた。
「凰霞、翠琥……」
 それを見ながら、真斑はその人物の名を呟いていた。


30 :寝狐 :2006/07/23(日) 16:13:15 ID:mcLmmAW7

<2−11>

 一部だけ切り離された少女の魂が、夜の都市の上空を漂う。
 何かを探すように。夜空から眼下の都市を見下ろしている。
 街明かりが灯る都市には、今、ヒトは存在していない。
 黄金の月を恐れるかの如く、ヒトという影は消え去っている。
 それがどれだけの異常なのか。それとも、それが正常なのか。
 少女にはわからない。
 だが、一つだけいえることがある。
 確かにヒトはいない。しかし、その都市からは息吹を感じる。

 其れは狂喜。
 其れは怨讐。
 其れは呪い。
 其れは暗黒。
 其れは邪悪。
 其れは混沌。
 其れは闇の淵より顕れし、異形の咆哮。

 まだ姿の見えぬ存在が、少女の意識をチリチリと刺激する。
(初日からこんななんて……。どうやら今回の任務、単なる調査だけでは終わりそうにないわね)
 北の黒水区にいる“本体”で、少女は内心呟く。
 すると、都市の上空を漂っていた少女の魂が何かを発見した。
 この都市で最も高いビルの屋上。そこに一人の女性が南側を正面に都市を見下ろしていた。
 黄土区の北側にあるビルなので、少女の魂から見ればちょうど女性の背中がこちらを向いている。
(……見つけた)
 女性よりもさらに高い位置にいた少女の魂がゆっくりと、その女性の背後に近づく。
 真後ろまで接近。少女は両手を伸ばして――

『――異法接続開始(オープンハッキング)!!』

 女性の体に触れた。


31 :寝狐 :2006/07/23(日) 16:14:11 ID:mcLmmAW7

<2−12>

 ビルの屋上から見る風景はいつ見ても絶景であった。
 翠琥は再び昨夜と同じようにこの都市で一番高いビルの屋上に立っていた。ここからならば、この都市全体を見下ろせるからだ。
 もしも、昨夜と同じことが起きればすぐに場所がわかる。翠琥はそれを考えてこの場所にいる。
 あの黄土区の比良坂公園で会った男、闡提尊霊。あの男との戦いに敗れた翠琥はしばらくあの公園で身体を休めていたのだが、夜になったのをきっかけに活動を再開したのだ。
 公園を出て翠琥は街の異様に確信を持った。
 やはり昨夜と同様、夜の街には人一人ですら残さずしてその影を消している。車のエンジン音もなければ、動物の吐息も聞こえない。全くの偽物都市(フェイクシティ)。それがこの都市の夜。
 見上げた夜空には、黄金に輝きつつも冷たい光を放つ月。そして無数に瞬く星を背景に、翠琥は静かに煙る自らの吐息を見つめていた。
「まだ秋季なのに、もう冬季が目の前にいるみたい」
 現在の暦は十月の中旬。冷たい雪が降る冬は十二月であり、まだ先だ。それでも、風が強いこのビルの屋上では地上とは違い、気温は身体が凍るぐらいに冷たい。
 だが、そんな肌を刺すような冷気を翠琥は心地よいと感じた。
 心が静まり、大気と一つになったような錯覚を覚える。
「今夜は、ハズレかしら」
 いくら待っても昨夜のような光の柱が伸びてこない。今夜は何も起きないのか、と思い見下ろす風景に向けて溜息を漏らしたその時――。

『――――――――――……!』

「――えっ?」
 背中から何かが体の中に触れるような感覚がした。一瞬驚いて翠琥は振り向く。だが背後には誰も居ない。後ろにあるのは唯一下に行ける出口と、その上にある給水タンクぐらいだ。
「……なん、だったのかしら」
 身体を触ってみるが、特に異常は見られない。気のせいだと思いつつも不安が拭いきれない。
 翠琥は北の方角を眺める。体の中に触れた“何か”は北からやってきた。その方向に何かがあるのだろうか?
「……とりあえず、行ってみようかしら」
 そう思い出口のドアへ向かおうとしたが、一瞬思い留まり、真っ直ぐに走りだす。出口の横を通り過ぎる。その先はビルの端。出口なんてものはない。
「面倒だから、ショートカットしよっと。どうせ誰もいないしね」
 言いながら、翠琥はビルの屋上から地上へと飛び降りていった。


32 :寝狐 :2006/07/23(日) 16:17:10 ID:mcLmmAW7

<2−13>

 話は戻り、今から約十二時間前。
 場所は北海道は第参新札幌にて。

「あれ? ばあちゃん、どっか行くの?」
 祖母――サーティー=ファイマン=南郷(なんごう)の自室から何やらガサゴソと音がしたので、その孫――南郷 (さや)が覗いてみれば、トランクに荷物を詰めている、相変わらずの和服を着ている祖母がいた。
 簡単な二、三日分の着替えなどを詰め込んだトランクの蓋を閉めて鍵を施してから、サーティーは顔を上げた。
「ええそうよ。仲間の子がやっと場所を決めてね。今からそこにいくのよ」
 鞘はトランクを見下ろしながら口を開く。
「もしかして長期の泊まり?」
「うーん。二、三日で済むと思うんだけど、ちょっと厄介な事件に巻き込まれているみたいだし……。まっ、一週間以内には帰ってくるわよ」
「は? 厄介な事件って……?」
 サーティーは立ちあがり、トランクを片手に入り口へ歩む。そしてドアの前にいる鞘の肩に手を乗せ……。
「気にしない気にしない。わたしの血を濃く受け継いでいるからって、無理にこっちの“世界”に入り込もうとはしないの。お前は普通が一番なんだから」
 言っている意味はあんまり理解できていない鞘であるが、とりあえず首を縦に振った。
 素直に頷く鞘に可愛さを覚え、思わず頭に手を乗せて「よしよし」と撫でる。
 そして玄関へと向かい、靴を履いてドアを開けたところで、後ろから鞘が声をかけた。
「あんまり無茶するなよ。ばあちゃん、もう歳なんだから」
 その言葉に、「くっくっくっ……」と苦笑しながらサーティーは振り返った。
誰にものを(・・・・・)言ってるんだい(・・・・・・・)? わたしは未だ現役の魔法使いよ。あと三十年は生き抜いてやるんだから」
 そう言い残して、サーティーは玄関を潜っていった。
 ポツリと残された鞘は、もはやいない玄関に向かって一言漏らした。
「……いってらっしゃい」


 そうして家を出てから数歩。おもむろにサーティーは袖から携帯電話を取り出して通信をかけた。
 数度のコールのあと、渋くて低い声の老人の声が聞こえた。
『……なんだ? 今病院内だから、あまり長時間喋っていられないのだが』
「つれないわねー、エゼ。せっかくわたしからの電話なのに。やっぱり若い女の子と話していたほうが楽しいのかしら?」
『ワシからすれば、この世界に生きる人間は皆、ワシよりも十分若いぞ』
「まぁ、四桁(・・)も歳くっているあんたからすれば、そうなんでしょうね……」
 思わず溜息を漏らすサーティー。
『……で、用件は?』
 なんとなく面倒になってきたので、サーティーは簡潔に答えた。
虚無(きょむ)にも伝えといてね。集合は今夜。場所はY県の高天原市。あの子、ちょっと厄介な事件に巻き込まれているみたいだから、完全武装(・・・・)でお願いね」


33 :寝狐 :2006/07/23(日) 16:21:26 ID:mcLmmAW7

<2−14>

 そして、再び話は高天原市へ。

 翠琥は高天原市の北にある黒水区を歩いていた。
 目的の場所はない。ただ、この街を歩いていれば何かが現れると思っていた。
(それに、さっきのこともあるし……)
 ビルの屋上で翠琥の身体に触れた“何か”。その正体が分かるかも知れない。
「――ん?」
 不意に翠琥の足が止まった。
「この気配……」
 何か強い気配を翠琥は感じた。自分はここにいる、という何処か誘っているような……。
(でもこの気配、誰かに似ているような……)
 そう思いながらも翠琥は視線を真っ直ぐ前に向ける。
「この先ね」
 神経を張り詰めながら、翠琥はその方向へ歩き出した。
 高層ビルが立ち並ぶ黒水区の中心街、その四車線の道路上の先に人影が見える。だが、街灯が壊れているようで明かりが疎らにしか灯されていない。さらには雲に隠れているのか月の光が地上に届かず、はっきりとした容貌が見えない。
(誰かしら……?)
 シルエットからして人間のようだ。少し安心しながらも、翠琥の緊張感が解かれることはない。
 やがて、雲に隠れていた黄金の月が姿を見せ、人影の容貌が見えてくる。
 それは少女であった。身長は百六十センチぐらい。藍色のショートカットで黒い婦人用リクルートスーツを着込んでいる。紺色のニーソックスに包まれた脚線美が翠琥から見てもいい形をしていると思えた。物事の真実を見通すような鋭い瞳をしており、目鼻共に整った顔立ちは年相応というよりも少し大人びた感じである。おおよそ美人に入る部類の顔立ちだろう。
「アンタ何者? どうやらこの街の住人じゃなさそうだけど」
「ええ、そうよ。あたしはこの街の住人じゃないないわ」
(何なのだろうこの子は?)
 翠琥は疑問に思う。観光客とは思えない格好であるし、ましてや会社帰りの社員でもあるまい。それに少女が纏う気配から感じるものが、ただ者ではないと直感が言っている。
「やっぱり先にあの画像を見ておいて正解だったわ。知らないで出会っていたら真っ先に倒していたところだったし」
「なっ……!」
 少女が発した言葉に翠琥は驚く。この少女は自分を倒すと言っているのだ。
(敵、なのかしら……?)
 その予想はあながち間違ってはいないのかも知れない。夕刻に戦った異形のこともある。人間の皮を被った異形であるとも言えなくともない。
 翠琥は観察をするが、少女からはそのような物は見受けられず、さらには妖気も感じられない。
 何処から見ても、目の前の少女は間違いなく人間である。
(でも、異形に手を貸す人間ってのも、ありえないとも言えないし)
「言っておきますが、私は正真正銘の人間です。それと、異形に手を貸すなんてそんなクレイジーなことはしません」
「ちょっ……、アンタ、今……?」
 自分の考えが見抜かれていたことに翠琥の鼓動が早まる。
(……そういえば、これと似たようなことがつい最近にもあったような……。いつだったっけ?)
 少女は翠琥に正面から見据える。よく見ると、両手が拳につくられている。明らかな戦闘態勢。
「――あたしの名は詩原真斑。……凰霞翠琥、貴方を今回の調査の重要参考人として拘束させてもらいます。抵抗しても構いませんが、できればすんなり受け入れてください。手短に終わらせたいので」
「ちょ、重要参考人って……? しかも拘束ですって? そんなことされる理由が浮かばないんだけど!」
 言っていることがさっぱりわからないとばかりに翠琥は叫ぶ。しかし、少女はそれを無視するかのように地面を蹴り、思いにもよらない速度で迫ってきた。
「はっ!」
 少女の右の正拳が翠琥に迫る。
「くっ!」
 それを左手で払うことで軌道を逸らす。
 真斑は左足を軸に身体を時計回りに反転させ、右足での後ろ回し蹴りを仕掛ける。
 それを翠琥は右腕を盾に受け止める。その反動を利用して、翠琥は横に跳んだ。
 二人の間に距離ができる。
「随分と手荒なことをするのね」
「これくらいのことをしないと、“戦慄の黒き悪魔”の異名を持つ貴女の力を計ることはできないし」
「へぇー、そこまで知っているんだ。もしかして私って有名人?」
「そうね。ある意味、有名人かも知れないわ」
 お互いに余裕の笑みを浮かべる。
「さーて、今ので準備運動は終わったことだし、そろそろ本気でいかなきゃね」
 そう言いながら、真斑はヒューと独特な呼吸をした。取り込んだ息吹が体内を駆け巡る。
 精神を統一し、練り上げたソレを両手両脚の四肢に具現化させる。
 ポウと浮き上がるように出てきたのは青白く燈る陽炎であった。それが真斑の四肢を覆うように輝いている。
「それってまさか……、闘気!?」
 翠琥はそれの正体をすぐに看破した。
「ご名答。そういうこともちゃんと知っているなんて、さすがは格闘魔術師ね」
 フッと真斑は喜ぶよう笑った。
 闘気とは、人間誰しにも流れている“気”と呼ばれる生命エネルギーの一種であり、少林寺や蟷螂拳など中国系格闘術に多用されている。しかし実際、己の“気”を自在に操れる格闘家はそうそういないのだが、そのような者は相当の強者である。
 そして、翠琥の目の前に立つ真斑は“気”を自在に操り、しかもそれを視認できるぐらいに具現化も可能としている。まさに戦闘用の“気”。すなわちこれを闘気と呼ぶ。
「それを操れるってことは、まさかアンタは……」
 翠琥の脳裏にとある名前が浮かぶ。
「ええ。そのまさかよ」
 闘気を纏いながら、真斑は答えた。
「法王庁第零独立特務執行局 <葬儀室(アンダーティーカー)>アジア支部“反逆課”、諜報活動担当の詩原真斑。それがあたしよ」


34 :寝狐 :2006/07/23(日) 16:27:35 ID:mcLmmAW7

<2−15>

「そう。あの反逆課の人間だったのね」
 翠琥はその名を聞いて納得したのであった。
 法王庁第零独立特務執行局 <葬儀室>、通称アンダーティーカー。
 ――それは、欧州のイタリアにあるヴァチカンの法王庁を拠点とする対異星人殲滅組織の名である。
 今から二十一年前、地球を襲った異星人勢力、現有兵器をも効かないインベーダーと対等に戦い、勝利を収めるという偉業を成し遂げた組織というのが彼ら葬儀室であった。
 葬儀室には十七つの“課”に分けられており、瞬殺課や銃装課と呼ばれる“課”が世界各地に配置されている。そのうちの一つが、詩原真斑が所属するアジア支部『反逆課』なのである。
 しかし、対異星人殲滅組織として設立はしたが、肝心の異星人が二十一年前の戦争以来大きな動きをすることなく、ただ密かに暗躍する偵察型異星人の殲滅や異常現象の調査、現世を跋扈する異形の退治という今に至り、現在では“対異形殲滅組織”として彼等は動いている。
「反逆課ってことは、あんたの司令官は我沙羅でしょ?」
「我沙羅司令をご存知で?」
「そりゃそうよ。だって高校時代からの親友だからね。今でも互いに連絡とりあったり、酒飲んだりしているんだから」
「――……はあっ!?」
 翠琥がさらりと言った衝撃発言に、真斑は今までの真剣な表情が一気に崩れた。そして、額に掌を当てながら、
「……まさか、魔法使いと親友だったとは。納得できそうで恐ろしい人だわ」
 溜息混じりにそう呟いた。ちなみに同時刻、話の原因である秋元我沙羅がくしゃみをしたのは言うまでも無い。
「……にしても、なるほどねー。アンダーティーカーが動くってことは、ただごとじゃないのね。この都市は……」
「それに関しては現在調査中です。……ですが、それを分かっているのなら貴女も本気でかかってきてください」
「そうね。その闘気を見てさすがに手加減はできないわね」
 敵対という視線を真斑に向けながら、翠琥は両手を拳につくる。
 そして精神を研ぎ澄まし、魔力を腕全体と足に収束させる。
「なら……全力でいかせてもらうわよっ!」
 辺りの空気が変わった。翠琥の足下にある小さな小石が次々と浮き上がり始めた。まるで翠琥を中心に重力が変化しているかのように……。
 そして魔力が一つの塊となる。
「――内包(ないほう)重化(じゅうか)っ!」
 力ある叫びと共に、翠琥の腕全体と足に込められた魔力が具現化した。
 内包の重化――それは翠琥が最も得意とする魔術であり、重力系戦闘魔術は他の魔術師の間でも一番扱いが難しいと言われている代物である。
 簡単な戦闘魔術は火水地風という世界を構成する四大元素を使用するのが主流だ。この四大元素系魔術の他には、翠琥が扱う重力系や次元系、呪詛系に音波系、さらには光系と暗黒系というものまである。ただし四大元素系魔術以外の魔術は皆癖があり、まともな魔術師は学ぼうとも思わない。よって、翠琥のように重力系の戦闘魔術を得意とする魔術師は珍しいのである。
 翠琥は左足を前に置き、腰を低く落として左腕を顔の近くまで掲げ、右腕は拳の状態で脇の下に固定する。
 明らかな格闘戦用の構え。しかもそれは、彼女が空手をベースとして独自に編み出した凰霞翠琥独特の構えだ。
 それを見た真斑は身構える。相手の型が独流であるが故に下手な動きは敗北に繋がる。
「……やはり、アレを使うしかなさそうね」
 真斑は小さく呟いた。それは翠琥の耳には届いていない。
「ん?」
 翠琥は真斑が依然動かないことが気になった。目を細めて、彼女の表情を観察する。
「なっ……!」
 翠琥が驚くのも無理もなかった。何故なら真斑は目を閉じていたからだ。目を潰されて開けないのなら納得するが、戦闘中に健全である目を閉じるのは自殺行為である。
 それを見て翠琥も動けないでいる。相手が何をしでかすか不明である以上、下手に仕掛けるのは危険である。
 そう思った瞬間であった。
「――異法(オープンハッキング)再接続(・リスタート)
 真斑が小さく呟いた。
「――……?」
 疑問に思った瞬間。翠琥は己の身体が止まった気がした。まるで何か別なモノが体の中に入り込んだような感覚。気のせいかと思ったが、その感覚は以前にも感じたことのあるモノだと脳裏に閃いた。
「これって……!」
 翠琥がそれに気付いた時、真斑の目がカッと見開いた。
「――読み取り完了(ロードコンプリート)。……行くわよっ!」
 真斑の足が地面を蹴る。翠琥はハッとするがすぐに応戦する。
 驚くほどの速度で真斑は翠琥の間合いの中に入った。
「せいっ!」
 かけ声と共に真斑の左拳が真っ直ぐ翠琥の胸元へと突く。
「なんのっ!」
 だが、翠琥の顔の前に掲げられていた重力の魔力で覆われている左腕がそれを払う。
 次に右足の下段から上段への蹴り上げ。それを左腕の肘が突き落とす。突き落とされた真斑の右足が、後ろに弾かれた反動を利用して左足の踵を軸に身体を時計回りに回転。そのまま右足による下段から上段へのすくい上げるような回し蹴りを放つ。
 しかしそれも、重力魔術に包まれた翠琥の左手になんなく受け止められた。
 受け止めた瞬間、翠琥は前傾姿勢の状態にして左足が僅かに前へ踏み込む。
 だがそれを予測していたのか、真斑は瞬時に後方へと跳び、翠琥との距離を離した。
「ちっ……」
 それを見て翠琥は舌打ちする。真斑はフッと笑った。
「読み取ったとおりだわ、今の所で決着をつもりだったのでしょう?」
 しばらく翠琥は沈黙していた。そして“内包の重化”を解除し、通常体勢に戻す。
「……なんで、分かったの?」
 沈黙を破って、なんとか口から出たのはそんな言葉だった。
「なんで? そんなの簡単よ。あたしは貴女のその構えの構造を読み取ったんだから」
 一瞬何を言っているのか翠琥は分からなかった。実際に戦ってみてそれの正体を見極めた、ならば納得はする。だがしかし、目の前に立つ少女は何と言ったか。
(構造を読み取ったですって? そんな言葉は設計図という物に書かれた構図とかを見た際に言う台詞よね?)
 一体その言葉にどういう意味が込められいるのだろうか。翠琥の頭にそんな思考が生まれる。
 翠琥が戦闘態勢を解いたのをみて、真斑も闘気を解除した。
「まぁ、簡単に種明かしをしてあげるわ。あたしはね、ハッカーなの」
「はあ……?」
 思わずそんな声が出てしまった。
(ハッカーってアレよね? 相手のコンピュータへ勝手に忍び込んで悪戯をする人達ってやつ、たしか……)
「基本はコンピュータによる電子的ハッキング。だけどあたしの場合はそれをさらに加えた霊的ハッキングも可能にしたのよ。あたし的には“魂の同調(シンクロ)”と呼ぶけど、正確に言えば相手の魂への強制接続介入ね。
 元々は霊的思念による精神ハッキングの工程の際に、人の魂とか霊界にも侵入できるようになってしまったという偶然による産物なんだけど、でもこれのおかげで機械や御札でも、とにかく何か媒体さえあればどんな端末へもハッキングできるようになったわ。もちろん人間へもね。
 直接相手に一切触れる必要はないから、普通の人間には全く気付かれることもなくハッキングが可能なのよ。その所為か、あたしは周りからこう呼ばれるようになったわ。“霊媒ハッカー”と」
 霊媒ハッカー。確かにそれは、霊を身体に宿すことで死者と対話することができるイタコのように霊的な力でハッキングするんだから、その名前は実に合っている。
「それじゃあ、さっきの変な違和感は……?」
「ああそれ? たぶんあたしが貴方にハッキングした時ね。でもめずらしいな。今までハッキングされた人達って誰もそんなのに気付かなかったのに、貴方は気付いていたなんて。さっすが魔法使いだわ」
 翠琥はあまり嬉しくないのだが、真斑は誉めているようだ。ここは素直に受け取っておこうと翠琥は思った。
「でも今の説明を聞くと、どうやって私にハッキングをしたの? 媒体になりそうな物なんて持っていなかったようだけど」
「そのこと? それは簡単よ。単に自然界に流れる極僅かな魔力を媒体にしただけのこと。魔術師にはこれが一番やりやすいから」
 ああなるほど、と翠琥は納得した。
 自然界、つまり空気中にも極々僅かな魔力の風は流れている。しかしそれを普通の人間が捕らえることができるわけでもなく、魔力を扱う魔術師でさえも呼吸を安定させるために利用する程度しか使い道が無い。魔術行使に使えるほどには到底少なすぎるものなのである。
 その魔力の風を目の前の少女は、魔術師でもないのにそれを感じ取り、しかもハッキングの媒体に利用するほどである。翠琥以外の一般的な魔術師がそれを知れば、驚愕であろう。何せ、ロクに使えぬものが実はかなり有効利用可能な代物であるのだから、その用途は計り知れない。
「ということは、もう私の動きは完全に見切っているってこと?」
「そうね。もはや貴方に勝ち目はないわ。ええ、一パーセント以下です」
「それなら……」
 翠琥は再び魔力を形成して両腕両脚に“内包の重化”を発動させる。
「その一パーセント以下の可能性を見せてあげるわ」
 その言葉に真斑の表情が僅かに強張る。
「いいでしょう。その言葉、ねじ伏せてあげます」
 真斑も両腕両脚に闘気を再度発動させる。
 互いに構え、視線と視線がぶつかり合う。
 次の瞬間!
「せいっ!」
「はっ!」
 気迫と共に二人はぶつかり合った。


35 :寝狐 :2006/07/28(金) 22:14:40 ID:m3knVisk

<2−16>

 真斑の拳が翠琥の左腕へ叩きつける。しかし、重力で覆われている翠琥の腕には全くダメージが届かない。
「無駄よ。その程度の闘気じゃあ、私の重力を突き破ることは不可能よ」
 しかし真斑はフッと笑った。
「それならばっ!」
 右の拳に闘気を集中させ、今までよりも膨大で濃密な闘気を溜め込む。
「はぁっ!」
 大きな塊と化した拳が翠琥の左腕に直撃する。
「同じことをしても私の重力は――」
 その言葉は最後まで続かなかった。
 ギシッと骨が軋むような感覚が左腕に走る。
「っ……!」
 思わず左腕を退かせた。
 激しい痛みが左腕から発っしていた。それは真斑の拳のダメージが翠琥の重力を貫いたことになる。
「貴方のその構え、左腕を盾にして全ての攻撃を払い、その際相手の隙を狙って右に込められた重力拳により一撃で相手を倒す。無敵の盾と必殺の拳、それが貴方の戦い方ですね」
「ふーん。ハッキングってのも馬鹿にできないのね。……でも――」
 翠琥の表情が不敵に笑った。
「無敵の盾は、護るだけが能じゃないわよ」
「えっ……?」
 翠琥の言葉が理解できず、真斑は一瞬戸惑った。それが真斑の動きを止めさせた。
「呆けていると、潰す(・・)わよ?」
 不適な笑みをしていた瞳がすうっと細まり、鋭い視線が真斑を貫く。
 今度は翠琥が自ら、真斑の間合いの中に飛び込んだ。
「なっ?!」
 翠琥の行動の意図が読めない真斑は、翠琥が放った左肘の当てを受け損なった。
「ぐっ!」
 僅かに体勢を崩す真斑。だが、翠琥の猛反撃は止まらなかった。
 重力を宿した鋭い踏み込みからの前蹴りをかわすと、今度は左手の正拳をフェイントにした肘打ちが襲いかかってくる。
 それをギリギリで払いのける真斑であるが、重力魔術の衝撃は凄まじさを覚えた。
(本来、受け型格闘態勢であるあの独流構えから攻撃型格闘態勢に転換?! こんな戦術予測工程(タクティカル・パターン)、ハッキングしたときには無かったはずよっ!?)
 真斑が戸惑う最中も、翠琥の怒涛の攻撃はなおも続く。
 左足を軸にしての後ろ回し蹴り。避けられると判断した直後、真斑の頭上に届いた足をすぐさま踵落としへ切替。真斑が後方に退くのを追うようにして足払い。体勢を崩してからの顎を狙った左手の掌底。と見せかけて真斑の胸ぐらを掴んで左腕の腕力だけで放物線に放り投げ、地面に叩きつけられた真斑の上から跳び蹴りを叩き込もうとする。最後のそれは、真斑が横に転がるようにして避けることでなんとか直撃を免れる。なんとか立ち上がった真斑は自身が戦ったその戦場に戦慄を覚えた。
 翠琥が叩きつけたコンクリートの地面はまるで隕石でも落ちたかのように深いクレーターが出来上がっていた。
 しかも悔しいのが、翠琥は左腕と両脚しか使っていないこと。つまり、まだあの必殺の右拳は一度も使用されていないのだ。
 これほどの圧倒的な戦闘力を出していても、未だに本当の意味での“本気”で戦っていない。では、彼女が右拳も使用するとなると一体どうなるというのか……。
 この事実に真斑の背筋は凍ったように“戦慄”という寒気が走った。
 全身に宿した黒き重力力場で相手を完膚無きまでに叩き潰す。彼女が“戦慄の黒き悪魔”の異名を持つ所以(ゆえん)がこれだった。
「なんて、無茶苦茶なの……」
 あまりにもの惨状にそんな言葉しか浮かばなかった。だが、それが真斑にとって致命的であった。翠琥の接近に気付かなかったのだ。
 ハッと数瞬遅れて反応したが、既に翠琥の右拳が今まで固定されていた腰から離れており、その拳には濃密に凝縮された黒色の重力魔術が輝いている。
「――くっ!」
 必殺の態勢に反応し、真斑は咄嗟に腹部に全ての闘気を集中収束させた。
 翠琥の左足が前に踏み出す。体を固定するために踏みつけられたコンクリートが超重力加圧に耐え切れず亀裂が走る。
 そして、力ある言葉が開放された。


聖拳(エクス)――――― 抜刃(ブレイカー)ぁぁぁぁぁぁぁっーーーー!!」


 一閃と共に疾風が駆ける。翠琥が誇る一撃必殺の重力正拳『聖拳抜刃(エクス・ブレイカー)』が真斑の土手っ腹に直撃した。
 魔力圧衝撃が闘気に覆われていた真斑の腹部を貫き、強力な重力圧が全身に掛かり、背後の数十メートル先にあるビルの壁まで吹き飛び、叩きつけられた。
「がはっ……!」
 叩きつけられた壁は一人分のクレーターを作り、真斑はそのままの体勢で地面に倒れた。
 相手がもう戦闘不能だと思った翠琥は“内包の重化”を解除し、倒れている真斑に近付く。
「そこまでよ。これ以上の戦闘は無意味だから」
「くっ……!」
 気絶をしていなかったのか、真斑は上半身だけ起こすとビルの壁に背中を預けて翠琥の方に顔を向けた。
 真斑は翠琥の拳が入る直前、闘気を腹部に集中し、盾代わりとしてダメージを軽減させていたのだ。
(闘気でなんとかなったけど、それでも肋骨数本にヒビ。内臓器官に多少の損傷。トドメには壁に叩きつけられたときのダメージ、か。……よく生きているな、あたし)
 ハッキング能力を生かしたステータスチェックで自分の容態を確認した真斑は、なんとか動く右手で上着のポケットを探り、そこから一本の注射器を取り出し、それを左腕に注射した。
 それを見ていた翠琥は不思議そうな目で真斑に問う。
「……なんで注射? もしかして痛みを忘れるための麻薬?」
「違います。あたしはそんな違法物なんて興味ありません。これの中身は治療用ナノマシンです。
 これは、かつてKGBで極秘に開発された、初期型バイオ・サイボーグ用の“再生に特化した”ナノマシンを反逆課で独自に解析して通常の人間向けの治療用に転化したもの。このぐらいのダメージなら、あと十分もあれば完全に再生できるわ」
「さっすが反逆課。オーバーテクノロジーやら、機動兵器やら、あぶない物ばかりを扱うだけはあるわね」
「所属している人たちが一癖も二癖もある人達ばかりですから」
「あははっ! 確かにそうね」
 その人たちを頭に浮かべたのか、二人はその言葉に笑いあった。
「それにしても、九十九パーセントの敗北を上回るなんて……予想外だったわ」
「一パーセントの可能性があるのなら、残りの九十九パーセントは私の“勇気”で補うだけよ」
 翠琥の自信たっぷりな台詞に真斑は小さく笑った。
「なるほど。その自信がこれまで貴方を勝利に導いてきた理由ですか」
「別にそんなんじゃないわよ。単に、私が強いだけ(・・・・・・)
「……納得です」
 もはやお互い戦闘する気はなかった。だからこそ、こんな他愛のない会話ができた。
 少し時間が流れた後、翠琥は本来聞こうと思っていたことを口にした。
「ところで、アンタの目的はいったい何なの? 新香港の反逆課が観光のために来たとも思えないし、やっぱりなんかの任務?」
 その質問に、真斑も真面目な表情になる。
「ええそうよ。実は――」
 真斑はことの始まりを翠琥に語った。
 その話をしている間に、真斑のダメージは殆ど回復し、終わる頃には立ち上がっていた。
「ふーん。あの天津帝がねぇ。それで現地調査ってどこまで進んだの?」
「えっ? ああ、いや、そのですねぇ。あまりいい情報が手に入らなかったというかなんというか……」
 真斑は慌てた感じになり翠琥は思わず首を傾げる。
(い、言えるわけないじゃない。ホビーショップとゲームセンターに牛丼屋しか調査していないなんて! とても言えたものじゃないわ……)
「と、ところで、貴女は何しにこの街に来たのですか?」
 なんとか自分への質問を流そうと、真斑は翠琥へ質問してみる。
「ん、私? う〜んとねぇ」
 真斑からの質問が意外だったのか、翠琥の答えはすぐには出てこない。
「たぶん……、なんとなくかな?」
「え?」
 それは意外な答えであった。真斑の予想では、観光か彼女の所属する機関からの任務だと思っていたからである。それが彼女の出した答えはなんと気まぐれだったのだ。
「そんなナンセンスな」
「しょうがないじゃない。ホントに気まぐれだったんだから」
 はぁーと真斑はため息を吐く。
「でもね、案外偶然じゃないかもよ」
「偶然、じゃない。と言うと?」
「それがね――」
 翠琥は昨夜から起きている事に関して詳しく説明した。
「なるほど。確かに、夜になってから一度も貴方以外の人間には出会ったことがなかったなぁ。てっきりあたしは、この都市の住人は規則正しい生活を営んでいるかと思っていたのに……」
「それはありえないわ」
 思わずツッコミを入れる翠琥。
「それに謎の三百人の行方不明者。これは確かめる必要があるみたいね」
 そこで翠琥はある名案が浮かんだ。
「ならさ、一緒に行動してみない? 単独で動くよりも二人の方が情報が多く手にはいると思うし」
「確かに、それは理想的なことです。わかりました。ではお互い協力関係ということで」
「ええ。よろしくね、え〜と……」
「真斑。詩原真斑です。あたしのことは好きに呼んでください」
「わかったわ。それじゃあ私のことも好きに読んでいいわよ。よろしくね、マイ」
 そう言って翠琥は右手を差し出した。
 マイ、そう呼ばれて真斑は差し出そうとしていた右手を一瞬止めた。
(……やっぱ司令の友人だわ。呼び方まで同じとは……)
「……どうかした?」
 不思議そうに首を傾げる翠琥。
「いえ、何でも。……宜しくお願いします。凰霞さん」
 内心溜息を漏らしながら右手を差し出し、翠琥と手を合わせた。
 その時、ゴウッという何かが噴き上がるような轟音の直後、二人の視界に光が映った。
「「!」」
 そろってその方向に顔を向ける。
 そこに光の柱が天に向かって伸びていた。場所は翠琥達のいるこの黒水区の町中から離れた郊外、その最も北にある先端。海が見える方角だ。
「あれが、例の光の柱……」
 先ほど話を聞いていた真斑はその光景に驚いていた。最初は信じられないと思ったが、実際目の前で起これば信じざるを得ない。
「マイ。行くわよっ!」
「あ、はい!」
 光の柱へと走り出す翠琥の後ろを、真斑は追いかけるように走り出した。


36 :寝狐 :2006/08/03(木) 22:16:57 ID:kmnkzJzn

<2−17>

 時刻は深夜零時。
 高天原市で北に位置する黒水区。海沿いにあるこの区には船が停泊できるようにきちんと整備された港があった。
 翠琥と真斑はその港の方に来ていた。
 波は穏やか。海鳥たちはなく、ただ不気味なほどの静けさだけが漂っている。
「……まいったわね」
「そうですね。完全に光の柱が見えなくなってしまいました」
 後頭部を掻きながら翠琥は辺りを見渡す。
 翠琥たちがこの港に入るころには既に光の柱の輝きは失せてしまい、楔の柱があると思われる場所が分からなくなってしまったのだ。
 それでも、港のどこかにあるのは確かであった。それだけを頼りに二人は何か無いかと見回す。
「……もしかしたら、灯台の方にあるのでは?」
 ふと思いついたように真斑が口を開く。
 言われて翠琥はかなり離れたところにある灯台に目をやる。確かに、白金区にあった楔の柱が最西端にあったのだから、こちらのも最北端に位置する灯台の場所にあってもおかしくない。
 まだ実物を見たことがなく、ただ翠琥から聞いた情報だけで真斑は楔の柱がありそうな場所を推測したのだ。その情報処理能力の良さに、翠琥は舌を巻いた。
「そうね。行ってみる価値はあるかも」
 そう言って、二人は倉庫群を横切りながら灯台へと走りだす。
 いくつかの倉庫を抜けたところで、二人は辺りに流れる臭いに思わず足を止めた。
「……翠琥さん、これは……?」
 真斑が鼻を押さえながら翠琥に振り向く。
 辺り一帯に鼻を突く匂いが漂う、独特で濃厚な臭い。それは血の匂いだ。
 翠琥は辺りを見渡しながら臭いの元を辿る。そして、幾つもある中の一つの倉庫でその視線は止まった。
「……あそこね」
 ゆっくりとその倉庫へと歩む翠琥。その後ろを真斑も続いていく。
 倉庫の中は薄暗く、灯りらしいものは灯されていなかった。
 真斑は辺りを見渡しながら歩いていた。見える範囲ではところどころダンボールなどの積荷が置かれている。
「特に変なものはありませんね。でも臭いはこの倉庫から漂っているはずだけど。……っと!」
 と、突然翠琥が立ち止まった。危うくぶつかりそうになった真斑は、何があったのかと翠琥の横から顔を出す。
「なっ……!」
 真斑は目の前の光景に息を呑んだ。
 目の前に広がる色は全て、赤。赤。赤。
 押し潰し、切り裂き、食いちぎり、挽き潰し、砕き、焼き尽くし、溶解し、バラバラにされた――人間。……そこは血の海であった。
 赤い水溜まりに浮かぶ、皮が剥げて筋肉と骨が見える片腕。
 胴体から引きちぎられて投げ捨てられたような太い足。
 女性の胴体だと思われるそれは、肋骨が胸の中から外へと花みたいに咲きだしており、そこから胃などの臓物類がまるで無邪気な子供によって無理矢理引き出されたように、グチャグチャになって外へとはみ出している。
 近くにある丸い塊はおそらく頭部だろう。男性とも女性とも区別が付かないぐらいに焼けただれたそれは、黒こげになっていて全く表情が見えない。……いや、その方が二人にとっては良かったのかも知れない。死ぬ直前の恐怖の表情なんて、誰も見たくないのだから。
 それが数から見て、ざっと百人……いやこれはもっと多い。おそらく三百人分くらいはある。

 ―――まるで地獄絵図。

 そこにあるのは無惨な亡骸の海だ。
「うっ……!」
 そのあまりにも酷い惨状に思わず、真斑は口元を押さえ嗚咽を堪えながら目を逸らす。それが普通の反応だ。誰しも普段では見ることの無く、しかもそれが人間の惨殺死体であれば尚更、目を逸らしたがるのだから。
「凰霞さん。この人達ってまさか……」
 真斑の言いたいことは翠琥にもなんとなく分かっていた。
「ええ。たぶん、昨夜行方不明になった三百人の人達……」
「こんな、酷い……」
 もはや酷いというレベルでないことは翠琥も思う。だが、この惨状をどう言ったらいいのか、翠琥には分からなかった。
 ただ、胃の底から逆流してくる嗚咽をなんとか押さえて飲み込むのが精一杯であった。
 すると、目の前の光景に変化が現れ始めた。
「マイ! よく見て!」
 翠琥に呼ばれて、真斑は顔を上げる。
「なっ、なによこれ……」
 思わず真斑はそう呟いた。
 三百人分の血の海に黒い影が滲み出てきた。それは全てを覆うぐらいの黒い海と化す。
 血の海が黒に染められ、そこに浮いていた人の肉片が徐々に沈んでいく。まるで底なし沼のように……。
 黒い海が全てを飲み込んでいく。ただし、倉庫内に置かれた積荷などは一切飲み込まず、ただ血肉だけを喰らうように飲み込んでいる。
 その光景を見て、翠琥はあることに気付いた。
「まさか、昨夜の三百人の行方不明者もこれと同じことに……?」
 その仮定が確かならば納得できた。行方不明となった人達はこれと同じように殺されて、黒い影に飲み込まれた。これならば跡を残すことがない。だから死体も何も残っておらず、世間には“行方不明”として扱われたのだ。
「ということはこの死体って、“昨夜”とは違う“今夜”の新たな犠牲者、なの……?」
 昨夜に続いての犠牲者。しかもおそらく三百人。
 くっ、と翠琥は歯を食いしばる。自分が近くにいてながらの犠牲者。チクリと胸が痛んだ。
 やがて死体を全て飲み込んだ黒い影はまるで最初から無かったようにうっすらと消えていった。残ったものは何もない。あの黒い影は全く跡を残さずして消えたのだ。
「なんだったの、今のは……」
 真斑が驚きのあまり目を大きく広げながら聞いてくる。
「さぁね。……でも、とんでもないモノってことは確かね」
 翠琥がそう言った直後。

 ――― ドクンッ!

 一度だけ、都市全体が胎動した。


37 :寝狐 :2006/08/03(木) 22:24:31 ID:kmnkzJzn

<2−18>

「「なっ!?」」
 二人揃って驚く。
 大地がほんの僅かに跳ねたのだ。まるで心臓が動いたかのように。
「何なの、今のって……?」
 真斑が呟く。だが、その問いに翠琥は答えることはできない。
 何か、とてつもない大きな何かが胎動したということしか翠琥には分からない。
 それが一体何なのか。己の創造を絶するものに違いない。
 この世ならざる存在であること。あるいは壮絶なる意思かもしれない。
 今、彼女の背筋は冷えきっていた。自分はまさに、とんでもない計画に巻き込まれているのではないのか。そして自分のこの行動全てが誰かによる策略であり、計算ずくされた舞台なのか。
 だがそんなのはあくまで推測に過ぎない。翠琥は脳裏に横切るあらゆる可能性を否定するしかない。今自分にできること。それが最善であり、最も正しき道なのであるという勇気を以って。
 乱れかけていた呼吸を整え。震える足をどうにか押さえつけ。いつものように。そう、『凰霞翠琥』という存在をここで取り戻せずして何があろうか。
「とにかく、早く楔の柱を見つけましょう。ここにはもう用はないわ」
 邪念を振り払うかのように翠琥は踵をかえして倉庫の外へと向かう。だが、その歩みは二歩で止まってしまった。
「ふぅん、そういうこと。全部お見通しってやつかしら? ……まったく、嫌になるわね」
 倉庫の出口から、そして内部の奥からも、足音と荒い息遣いが聞こえてくる。
「マイ、どうやら(やっこ)さん、私達をここで始末するつもりよ」
「ええ。そうみたいですね」
 翠琥の背後に立つ真斑は己の前方、倉庫の奥側を見た。
 彼女達から数メートルほど先。そこに“人でないモノ”、黒き人狼を模した異形がいた。
 それは昨夜、翠琥が白金区で見た黒き獣達。それがざっと見ただけで五十体いるのがわかる。
 異形を目の当たりにして、真斑は構える。
「凰霞さん、もしかしてあの異形たちが先ほどの人たちを……?」
「さぁね。実際に()っているところは見てないからどうこう言えないけど……」
 言いながら異形たちを見据える。
「でも。こいつらが敵であることは間違いないわよ」
 野生の本能をそのまま体現した息遣いと金属を擦るような不快な周波の咆哮。

「「「――ニンゲン。生キテイル、ニンゲン……!」」」

 そしてそこから聞こえる、耳障りな敵意、憎悪、怨恨。

「「「――殺ス。喰ラウ。獲物ヲ。血ヲ。肉ヲ……!」」」

 その瞳は赤く爛と輝いている。それは明らかな殺意の眼差し。
()るわよっ、マイ!」
「はい!」
 翠琥と背中合わせになりながら、真斑は戦闘態勢に移行。
 魔力の風を収束させ、手を剣につくり、翠琥は両腕に精神を集中させる。
「構成隻影(せきえい)固定……獅子の牙っ!」
 両腕に巻きついていた風の魔力が発動。前腕を支点に指先へと一メートル程の緑色に輝く風の刃が生まれる。
 それに倣うかのように真斑も戦闘態勢に入る。
「精神集中。雑念(ノイズ)削除(クリア)し、イメージを形成……」
 ヒューと特殊な息吹を体内に流し、全身の“気”を腕と足に集中。そしてそれを戦闘用へと変換。
「ふんっ!」
 気合いと共に、真斑の腕と足に青白く陽炎に灯る闘気を具現化させた。
「後ろを頼むわよ、マイ」
「もちのロンです!」

 二日目の戦いが始まる。
 それは血に飢えた旧き闇底の魔と、舞台に踊らされし魔法使いと反逆者の凍夜。
 第六拾九魔の烙印を与えられた、鬼面の男は嗤う。
 生と死の舞を。
 そして、地の底の牢獄に眠る『旧きもの』の目覚めに。


38 :寝狐 :2006/10/22(日) 22:28:57 ID:ncPiPnWG

<2−19>

 高天原市の北に位置する黒水区。
 海沿いにあるこの区の最北地にある灯台。その建築物の前にあるは地面に突き刺さっているピラミッドを上下二つに張り合わせた様な、縦に細長い八面体の幾何学的形状の巨大なオブジェこと楔の柱。
 だが既にその上部が粉々に砕かれた今、その元の形状を知る者はいない。
 破壊された楔の柱の前に立つは一人の男。……否、“元”人間であったであろう鬼面を被った男、闡提尊霊がいた。
 鞘に収められた古代剣『頭槌剣(かぶつちのつるぎ)』を左手に闡提尊霊はただ、砕けた楔の柱を見つめる。
(これで二つ目、か。……あと半分だな)
 彼がそんなことを考えていると、背後の地面に円形にくり抜かれた底無しの漆黒の影が生まれる。そしてそこから、一体の異形が姿を現した。
「闡提尊霊サマ」
 呼ばれて彼は振り向く。そこに佇む異形は、骨の内側に筋肉が伺える、まるで人体の構造を反転させたようなおぞましい姿をしていた。それを覆う黒いローブが一層恐怖を煽る雰囲気だ。
餓鴎(がおう)、か」
 餓鴎と呼ばれた異形は、先日の夜、ヘラジカの異形を倒した後に翠琥の前に現れたあの異形であった。
「例ノ魔術師……イヤ、正シクハ魔法使イガ傍マデ来テオリマス。始末イタシマスカ?」
 一度顔を見ただけで闡提尊霊は再び視線を楔の柱へと向きなおす。
「構うな、放っておけ。それに貴様は東の担当だ。ここは“水”の“行”。“木”の“行”たる貴様には“克”ではないが、それでも本来の力は出せぬだろう」
「イエイエ、“火”ノ“行”ナラ“克”デスガ、“水”ハ“木”ヲ生ジサセルタメ、意外ト心地ガ良イモノデス」
「ふん、そうか。だが奴等が東に来るのは明日だ。それまで生贄の準備でもしておけ。一人でも足りないという事態があればこの計画は無意味になってしまうからな」
「ソレニ関シテハ重々承知。……シカシ、ソノ言動カラスルト、アノ者達ハ今夜デハ死ナナイ(・・・・・・・・)ト言ッテイルヨウニ聞コエナクトモ……?」
 言いながら餓鴎の視線が闡提尊霊の左手に移る。彼が握る古代剣が若干カタカタと震えていた。 
「……生きていれば、という意味だ」
「左様デ」
 それ以上の追求を餓鴎は控えた。おそらくこれ以上口を挟もうなら、彼が握る古代剣が己を斬ると悟ったからだ。
「ソレデハ、ワタシハコレデ……」
 そう言って餓鴎は顕れた時と同じように影の中へと消えていった。
 餓鴎が消えたあとも、闡提尊霊はずっと楔の柱を見続けた。
「……これでいいんだ。これで」
 握る剣を収めた鞘の先端を地面に突き刺す。すると、そこを中心に地面に漆黒の影が生まれる。
鰺逗(そうず)、ここは任せるぞ」
 彼の言葉に反応するように、傍の海で突如渦巻きが現れる。それは肯定の意を示すかのように激しく渦巻き、徐々に海の底へと消えていく。
「……そう、全ては、あの子のために……!」
 独白のように呟き、影はまるで底無し沼の如く彼を飲み込み、そして消えていった……。

 後に残るは、静寂。
 自然のままに揺れる波音が港に流れる。
 しかし、その静寂もすぐに掻き消えた。
 灯台へと向かう二人分の足音。
 凰霞翠琥と真原真斑の二人がやってきたからであった。


39 :寝狐 :2006/10/26(木) 20:54:18 ID:ncPiPFWc

<2−20>

 魔術構成完了。射程距離問題なし。敵の数……もはや数えるのも飽きた。纏めて一掃。それが楽。
 翠琥の思考は瞬時に流れていき、両手で包みこむ圧縮された風の魔力を、力ある言葉と共に解き放つ。
風塵(ふうじん)……咆吼(ほうこう)っ!」
 倉庫の入り口から風の塊が剛風を伴って吹き荒れ、中から黒い獣――餓獣(がじゅう)が数体、体を切り刻まれながら吹き飛ばされる。
 あらかた倒した翠琥は後ろを振り向く。そこでは真斑が他の餓獣と戦っていた。
「くっ……せぇぇーりゃあー!」
 襲い掛かる餓獣を闘気を込めた回り蹴りや手刀で迎撃。接近する敵をあらかた片付けた所で数歩後退。左手の指を剣指にして、横に大きく振る。
霊位接続(エレメントアクセス)!」
 その瞬間、真斑のハッキング能力が発動。霊的世界に接続し、周辺の空間に自身が呼び出した霊魂を転送。
 数は八体。霊魂は虚ろな青白い人影となりて上空に現れた。そして、真斑の右手には八つに分けられた闘気の塊。
邪根死流(じぇねしすりゅう)――丹吐駆履棲(にとくりす)返鏡弾(へんきょうだん)!!」
 放たれた八つの闘気は餓獣ではなく、彼女が呼び出した霊魂へと飛ぶ。そのまま霊魂達に闘気が直撃……否、霊魂達はその闘気を体内に吸収、するとおもむろに全員右手に取り出したのはマシンガン。次の瞬間には発砲。闘気を宿した何百、何千発の霊弾が数十体もいた餓獣に直撃。
 それが数秒続いたのち、マシンガンは撃ち止まり、残るは全身穴だらけの餓獣。倒れ、混沌たる真っ黒な血があたりに流れこむ。
 敵が死んだのを見届けたあと、霊魂達はすぅっと空気に溶け込むように消えていった。
「……おつかれさま」
 それは霊魂達に対しての感謝の言葉だったのか、真斑は呟くようにそう言った。
「アンタって邪根死流使えたんだ?」
 倉庫の入り口あたりから声が聞こえた。振り向くと、既に戦い終わっていた翠琥がゲートに背を預けていた。
「……知っていたんですね」
「まぁね。あの我沙羅が私との喧嘩の際にしょっちゅう使っていたからね、なんとなく覚えていたのよ」
 翠琥は肩を竦めて答える。
 邪根死流――正式名称、『邪根死流気装術(じぇねしすりゅうきそうじゅつ)』。
 それは、真斑の所属する反逆課の司令官である秋元我沙羅が編み出した我流の格闘術のことである。生命体の発するエネルギーの一つ“闘気”を大々的に攻撃に組みこんだもので、この基本ができるなら後は何でもありという滅茶苦茶な代物だ。使用者が使用者なりの戦い方を作りあげていくので、流派当主の我沙羅と真斑の技はそれぞれ違う方向に発展していくのである。自分の持てる技術を使って、自分だけの技を作り出す。それが重要とされており、自分の技なら限界も分かりやすく、それを伸ばしたり、新しい技に派生させられる。そこが秋元我沙羅の言う、キモなのだそうだ。
 真斑の場合は己が得意とするハッキング能力を生かしたものだ。霊界に接続し、自分が調服させた霊魂の力を借り、闘気と霊体エネルギーの混合攻撃を可能にさせている。
 今回使用された霊魂は、戦争で亡くなった突撃兵士の霊達である。主に広域集団攻撃に使用される場合が多い。
「さて、あらかた終わったことだし、早く灯台へと向かうわよ。こいつらの所為で無駄な時間を過ごしたわ」
「ええ、そのとおりですね」
 一通りあたりを見渡した二人は倉庫の外へと走り、灯台へと向かった。

 ……………
 ………
 …
 そして、数分後。
 ようやく辿り着いた灯台の前には、二人の予想通り、楔の柱がそこに鎮座していた。
 だがやはり一足遅かったか、上半分が粉々に破壊されており、消えようとしている僅かな霊力しか感じられなかった。
「これが、楔の柱……」
 翠琥から話を聞いていた真斑は、その破壊された柱に手を触れる。ザラついた感触ではあるものの、何処かしら力の流れみたいなものを感じとれた。
「ええ。……といっても、壊されちゃっているけどね」
 肩を竦めて翠琥は答える。
「おそらくはこの楔の柱に込められた霊力が破壊されたことによって外部へ開放され、それが光の柱となったものだと思われますね」
「連中がこれを破壊しているってことは分かったけど、でも一体なんのために?」
「さぁ? あたしにもそれはわかりませんね。……ですが、これほどの巨大な楔の柱と込められた膨大な霊力。ただの悪霊を封じているにしては大袈裟すぎる程。よほど強大な、それも神に匹敵するほどではないかと」
「……神様、ね。都市の端々にあるくらいだから、よっぽどデカイのでしょうね」
 半分冗談交じりに言う翠琥ではあったが、内心困惑していた。
(あの闡提尊霊って奴が開放させたがる神っていったら、一体どんな神様なのかしら?)
 一瞬、翠琥の脳裏にとある存在が過ぎる。だがそれはあり得ないと内に走った影を振り払う。
(それはないわね。だってアレが封じられたのはこの土地なんかじゃないはずよ……)
「…………?」
 翠琥が物思いに耽っていた最中、真斑は不穏な雰囲気を感じ取った。あたりを見渡すが、何も不審な影は見当たらない。深夜なだけに、海鳥は鳴いてはおらず、海も小さな波一つたてずに静かである。

 ――そう、()すらもたてずに!

「――?! 翠琥さんっ!」
「ふぇ? 何、どうし……」
 突然呼ばれた翠琥は、思考を中断されたせいで何が起きたが分からずに口を開いたが、それも途中でかき消された。
 ザパァーンと水が跳ね上がる音がした。何かが海から出てきたのだ。その何かが翠琥達から少し離れた所に降り立つ。
 音がした方に二人は振り向く。そこに一体の巨大な異形の姿があった。
 二メートルと五十センチぐらいはあるその巨体は二本足で立っていて、その大きな両手足の指と指の間には水掻と思われる薄い膜が張っており、その指先は鋭い爪が生えている。その顔はまるで寺とかにいそうな坊主のような出で立ちで、口には人間の骨をも砕きそうな鋭い牙が見えている。全身の肌の色が青々としており、外見だけで凶暴さを感じさせた。その中で最も目立つのは背中にある大きな甲羅であった。それを踏まえると、その異形はまるで巨大な妖怪、『海坊主』である。
 あの闡提尊霊が、この場を去る直前に呟いた鰺逗(そうず)という名こそ、この海坊主のことであったのだ。
 海坊主――鰺逗は巨体を動かし、二人の姿を毒々しい赤き眼で捉える。
「でかっ!」
 真斑が思わず漏らした最初の感想はそれだった。


40 :寝狐 :2007/01/07(日) 18:58:20 ID:kmnkzJWA

<2−21>

「マイ。でかさに驚いている場合じゃないわよ。……来るわよっ!」
 その声に真斑はハッとする。
 既に鰺逗はその巨体からは想像できない程の速度で迫っていた。
 すぐさま戦闘態勢になる翠琥と真斑。
 鰺逗は大きな腕を振り上げ、近くにいた真斑に振り下ろす。しかし易々と攻撃を受ける真斑ではない。振り上げのモーション時点で既に回避行動をとっており、振り下ろされた時にはもうその場にはいなかった。
 巨体からによる破壊力は凄まじく、コンクリの地面が砕かれた。
(あんなもの食らったらシャレにならないわよ!)
 そう考える真斑の次の行動は早かった。鰺逗が単なるパワータイプだと判断するや、数メートルほど距離をとり、右手に闘気を球状に集束させる。
「邪根死流・疾烈波(しれっぱ)っ!」
 アンダースローの要領で掬い上げるように闘気の弾を放つ。
 狙いは鰺逗の足。巨体に似合う短い足を払うことで転倒させようというのが真斑の狙い。
 闘気の弾は真斑の狙い通り鰺逗の足に直撃し小爆発が起きる。……だがそれまでであった。
「うそっ?!」
 鰺逗はビクともしなかった。むしろ何かが当たったのか? とでも言うように鰺逗がゆっくりと真斑の方へと振り向く。
「なんつー固い鱗してんのよ、アレ!」
 鰺逗が真斑に気を向いている隙を狙い、翠琥も即座に魔術を編む。
「――構成隻影固定! 獅子の牙っ!」
 背後に回りこみ、跳躍。手刀の形にした右手に宿った緑色に輝く風の刃を鰺逗の首筋に叩きつけた。
 だがそれも表面の鱗にぶつける程度。中にまで達しはしない。
「獅子の牙でも無理?!」
「――グゥアァーーー!!」
 翠琥が背後にいるのを邪魔に思ったのか、鰺逗は叫ぶと腕だけを後ろへ振るった。極太の腕が翠琥の体を大きく横へ吹き飛ばす。
 巨体のパワーが翠琥をコンクリの地面に叩きつけ、二回三回と翠琥の体が跳ねる。
「凰霞さんっ!?」
 倒れた翠琥に近づこうと真斑が一歩踏み出したときだ。鰺逗は次の行動をとっていた。
 真斑が鰺逗の方を振り向くと、大口を開けた鰺逗の口の奥から何かが湧き出るように渦巻いている。
「マイっ! 避けなさい!」
「―――っ!」
 叫ばれた声に真斑は一瞬の判断も許さぬほどの反射速度で大きく横へ転がるように跳び込む。
「ガアァァーッ!」
 直後、咆吼と共に鰺逗の口から膨大な量の水鉄砲が勢いよく飛び出した。
 ドォンという轟音と共に数瞬前まで真斑が立っていたコンクリの地面が砕かれ吹き飛ぶ。そこに大きな穴が空いた。
「マイ、無事?」
「凰霞さん!」
 立ち上がった真斑が見たのは、ゆっくりとだが立ち上がろうとしていた翠琥の姿。水鉄砲が発射される直前の声も彼女である。
 先の鰺逗による攻撃を翠琥はとっさに両腕に展開した重力魔術でその衝撃を和らげていたのだ。だがそれでもコンクリに叩きつけられたダメージは体中に響いている。それを証明するかのように、翠琥の動きは若干鈍く感じられた。
 その翠琥の視線は鰺逗が開けた大きな穴。その光景にぼそりと感想が漏れる。
「凄い水鉄砲ね……」
「っていうか、アレって水鉄砲と言うより、水大砲でしょっ!?」
 翠琥の方へ振り向き様に右手を突き出してツッコミをいれる真斑。その姿に翠琥のフッと小さな笑いが漏れる。
「そういうツッコミができるんだからまだ大丈夫のようね。……ってマイ! 後ろ!」
「……えっ?」
 真斑が振り向くと、すでに次弾を構えていた鰺逗が水鉄砲、もとい水大砲を撃ち出した。その矛先は真斑へと向けられている。
「しまったっ……!」
 不意で撃ち出された水大砲を真斑の身体は反応しきれていなかった。
 コンクリートをも砕く水大砲が真斑に迫る。
(闘気の構成も間に合わない……!)
 一瞬の間で闘気の構成はまず不可能。数刻前に、翠琥の必殺重力正拳『聖拳抜刃(エクス・ブレイカー)』を防いだ時よりもタイムラグが短い。
 この瞬間、真斑の脳裏では上半身だけが吹き飛ぶ己の姿が思い描かれた。
 だが次の二瞬目。真斑は己の目を疑う。
 目の前に迫っていた水大砲が横から飛んできた何かによって一気に打ち消されたのだ。
「……えっ!?」
 状況が読めず、思わずそんな声が漏れた。
 そして後からやって来たように、バァーンと銃声。さらには銃声がした方向からバイクのエンジン音が聞こえてくる。
 真斑の横から突然飛び出してきたのは黒塗りの軽二輪アメリカンカスタムバイク『V-ツイン マグナ』というバイクであった。バイクは、前輪を上げたウィリー状態から鰺逗に体当たりをかます。
「グガァッ!」
 突然のことに対応しきれず、鰺逗の巨体が横に大きく吹き飛ぶ。
 驚く真斑の前にバイクは急ブレーキで横滑りをさせて止まる。
「若い者が、何を呆っとしておるのだ」
 そんなことを言ってきたバイクの運転手はなんと外国人の老人であった。……いや、老人と言っても、和室でのんびりお茶を飲んでいそうなひ弱そうな御老人ではない。
 六十歳ぐらいだろうか、神父を連想させる黒い法衣を身に纏い、ビシッと背筋を伸ばした物腰、堅そうな表情をした顔に白髪頭。そんな厳つい爺と表現できるその人物は右手に銀色の銃を握っていた。
 回転弾倉式拳銃、四四MAG、<ANACONDA>。銀に光るまるで鋼材みたいなそれは、大口径のマグナム弾を撃てるように銃身が長くされ、同時に重量が加算されている。その大きな銃口には硝煙が漂っていた。
「エゼキエルおじさまっ!」
 それを見た翠琥が声を上げた。エゼキエルと呼ばれた男は翠琥に振り向く。
「久しぶりだな、お嬢。久しく見ないうちにまた一段と美人になったな」
「もう、おじさまったら。そんなに褒めても何も出ないわよ」
 笑い合う二人。もう何がなんなのかさっぱり状況が読めない真斑は、只それを見ているしかない。
「グゥオォー!」
 いつの間にか起きあがっていた鰺逗がバイクに乗っているエゼキエルに向かってゴン、ゴン、ゴン、と轟音を立てながら走ってくる。
「おじさま、危ない!」
「むっ?」
 轟音がする方へエゼキエルは振り向く。振り向いた先には巨腕を振り上げた鰺逗の姿。だが、エゼキエルは動けなかった。……違う。その老人の表情は笑っていた。まるで何かを待っているような。
 そしてその予想は正しかった。

「――大気の砲弾(アーフェスト・ブレイズ)っ!」

 何処からともなく発せられた力ある言葉と共に、真斑とエゼキエルが立つ二人の間から一陣の風の塊が高速で飛び出した。それは二人の背後。エゼキエルが出てきた方角からだ。
 風は突進していた鰺逗の土手っ腹に直撃する。強力な衝撃が込められた爆風に鰺逗は後方へと大きく吹き飛び、仰向けに倒れる。
「まったく、わたしが魔術で援護しなかったら、あんたお墓行きになっていたわよ」
「ふん。お前ならばやってくれると信じていた」
「あら。それって口説いているのかしら?」
 そう言いながらやって来たのは二人の女性であった。
 一人は先ほどの魔術を放った方だろう、その人物は着物を着た老婆であった。老婆といっても顔にはまったくシワは見えずむしろ若々しい。六十歳ぐらいだろうが、瑞々しい元気さと若さを感じさせる。金色の髪に青の瞳からしてこの女性も外国人、おそらく欧州系だと思われる。その流暢な日本語はエゼキエルもそうだが、なかなかのものである。外国人なのに着物姿は意外と似合っていた。おそらく日系一世の血が混じったハーフなのだろう。
 もう一人は日系人女性だった。二十代前半ぐらいだろうか、白いマントを羽織り、腰まで届く長い黒髪は一層日系人女性らしさを引き立たせる。細い眉と冷たそうな瞳は美人の部類に入るだろう。マントからのぞく細く白い手足はまるで病人を思わせた。
「サーティーおばさまも来てくれたんだ」
「なぁに言っているのよ。あんたが誘ったんじゃないの」
 それもそうだったわね、と翠琥は笑う。
 とそこで、日系人女性も口を開く。
「お久しぶり、翠琥。相変わらず元気そうね」
 か細い口調で翠琥に言う。
「虚無も元気そうで何よりだわ」
「ふふっ、ありがとう」
 虚無と呼ばれた女性は小さく笑う。
(だ、誰なんだろう、この人達って。でもこの人達の名前って何処かで……?)
 その光景を見ていた真斑は呆気にとられながらも疑問に思っていた。
「グゥウゥ……」
 異形の呻り声に全員がその方へ向く。いつの間にか起き上がっていた鰺逗が威嚇するように体を前屈みにしていた。
「あらあら、まだ生きていたのね。手加減をし過ぎたかしら?」
「おばさま、遊びじゃないのよ」
「分かっているわよ」
「……たぶん治らないと思うわ。おばさまの癖は」
「はははっ。虚無にもようやく分かったんだな、サーティーの遊び癖を」
「あら、そう言うあなたこそ、その若く見せようとするバイク運転は控えた方がいいと思うわよ。そろそろ腰に来るでしょうに」
「残念だが。魔術改造したコイツを乗り回して幾数年、一度も腰を痛めたことは無いぞ」
 再び笑い出す四人。その中で唯一緊張感を抜け切れていないのは真斑だけだった。
「ちょ、なに笑っているんですか! 敵が目の前なんですよ!」
 真斑に指摘され、かるく手をプラプラと振るサーティー。
「はいはーい。え〜と、あなたは?」
「えっ? は、はい。法王庁第零独立特務執行局<葬儀室(アンダーティーカー)>、反逆課所属の詩原真斑です!」
 思わず早口で答える真斑。
「そう。……それじゃあ詩原さん。わたし達の戦いをよぉーく見ておきなさい。滅多に見られるものじゃないから。魔法使い達(・・・・・)の連携戦なんて」
「は、はい。……え? 魔法使い、達?」
 予想外の言葉に、真斑はただ呆然と聞き返すだけであった。


41 :寝狐 :2007/02/25(日) 21:24:38 ID:o3teQHoJ

<2−22>

 サーティーの言葉に疑問符が浮かぶ真斑。だが、それを流すかのようにサーティーは後ろにいる三人に振り向く。
「さぁて。行くわよ、みんな!」
「とーぜんっ!」
「無論だ。ちょうどいい腕慣らしにさせてもらおうか」
「わたくしも、準備運動ぐらいはしておかないと。ずっと病院で寝ているから身体が鈍っていると思うし」
 サーティーの掛け声に、翠琥、エゼキエル、そして虚無が答える。
 エゼキエルのバイクがエンジンを吹かせる。
「まずは、儂から行かせてもらう」
 バイクを急発進させ、海坊主へと走る。
「グォオォー!」
 鰺逗はそれを敵と見なし、振り上げた巨腕をエゼキエルが乗るバイクへと振り下ろす。だがそれを、エゼキエルは流れるようなハンドル捌きで回避する。そのまま鰺逗の背後に回り、右手に持つ銀の銃 <ANACONDA>>の銃口が海坊主へと向けられる。
 海坊主は背後へ振り向こうとした。
「遅いっ!」
 ドンッ、ドンッ、ドンッ!
 ダブルアクション形式である銀の銃が火を噴いた。放たれた銃弾は鰺逗の甲羅へ全弾直撃。強固な甲羅に弾が貫通した跡ができる。
「この弾を只の四四マグナム弾だと思うなよ。これは儂の魔術改造技術とアイルランド最大の教会セント・パトリック大聖堂による祝福儀礼を施した対異形用特殊魔弾。おぬしら異形を殺すにはもってこいの代物だ」
 すると鰺逗の体が痙攣するようにビクンビクンと跳ねた。まるで電気ショックを受けているようだ。
「更に言えば、今使用した弾は雷穿弾(ヴォルト)と言ってな。水系を扱う異形に対しての弾で、着弾と同時に雷穿弾に込められた雷系魔術が発動。電気ショックに似たダメージが与えられる。もっとも、他の異形と違って水系異形は体内の膨大な水により通常よりも遥かに強力なダメージを与えられるがな」
「ガガガガッ……!」
 痙攣する身体は身動きが取れず、鰺逗はその場に立ち尽くす。その正面から黒髪の女性、虚無がゆっくりと歩く。細腕である右手の人差し指と中指だけを伸ばして重ねて剣指をつくり、その二本指に魔力を構成する。
「――……風の短刀(ウェズ・カッター)
 か細いが力ある言葉に従い構成された魔力が具現化する。指先に魔力の風が集まって固定化され、1メートルほどの細長い両刃のナイフとなる。
 虚無は鰺逗を左に避けるようにゆっくりと歩きながら素通りする。だが同時にシュンと音を鳴らし、その風のナイフを持つ右手を鰺逗の右肩へ通していた。
「グギァー!」
 絶叫。鰺逗の大きな右腕が肩からボトリと地面に落ちる。切り口から吹き出たドス黒い血がコンクリートの地面を染めた。
「泣き叫ぶにはまだ早いわよ」
 鰺逗の左肩方向に、いつの間にか現れていた着物の女性、サーティーが立っていた。右手を前に突き出し、その先に魔力を構成し始める。
「――荒れ狂う風(エアーズレイド)!」
 発動された魔術は鰺逗の足下から発せられ、巨大な竜巻が下から突き上げ海坊主を包みながら空高く舞い上がらせる。
「今よ翠琥っ!」
「分かっているわよ、おばさま」
 サーティーが叫ぶ前にすでに右足に魔力を貯めていた翠琥は、バチバチと右足から火花を散らしながら彼女の横を過ぎていた。暴風となっている竜巻の中に飛び込み、跳躍。上昇する風を利用して翠琥の身体が舞い上がった。
 上空にいる鰺逗の位置を確認。翠琥は身体を上下に反転させ、そのまま跳び蹴りの体勢へと入る。そして右足に込められた魔力を一気に開放した。
「――断罪のぉ、稲妻ぁぁぁぁぁーっ!」
 下から突き上げられた雷光を放つ右足が、上昇竜巻の超加速を加えて鰺逗の腹の中心を貫く。
「グガァー……!」
 眩い閃光と爆発と共に、異形は消滅した。
 その戦いを真斑は只見ているしかいなかった。
 真斑の視線の先には地面に降り立った翠琥の所にサーティー、エゼキエル、そして虚無が集まる。その光景に真斑はふと先ほどサーティーが言った台詞を思い出した。

『――滅多に見られるものじゃないから。魔法使い達の連携戦なんて』

「あぁー! まさかっ!」
 その台詞で真斑の頭の中で渦巻いていた疑問が一気に解決した。
 真斑の驚き声に、四人は何事かと振り向く。
「サーティー=ファイマン=南郷、エゼキエル、虚無。貴方達は魔術研究機関 <シナゴグ>に所属する世界にたった八人しかいないといわれる存在。“失われし魔法使い(ロスト・マジックマスター)”!」
「あら。今頃気付いたの?」
 真斑の驚きに、サーティーは平然と答えた。

 ――暗黒に広がる海が、黄金の月光を受けて波間を輝かせる。

 無音を知らない波音が、静かに、黒水区の港に響いていた。


42 :寝狐 :2007/07/08(日) 19:16:46 ID:ncPiPFWD

第三章 三日目 −失われし魔法使い(ロスト・マジックマスター)

<3−1>
 裸身の少女の(からだ)が、黒の世界を漂う。
 これまで死体のように漂っていた少女に、少しだけ変化が訪れていた。
 まずは左腕。その手が何度も開いたり閉じたりを繰り返す。そして、つい先ほど動くようになった右手も開いたり閉じたりを繰り返す。それはまるで、今まで動かすことができなかった己の躯を思い出すかのように……。
 久々の動作に無表情だった少女の口元に笑みが零れる。……ただし、その瞳は未だ生気を取り戻しておらず、口だけが動くそれはある意味、不気味であった。
主上(しゅじょう)……」
 黒の世界に響いた男の声に、少女は動かしていた両腕を止め、瞬時に無表情に戻る。
 少女の前にポウッと人が浮き上がる。
 その人物は顔に鬼面を被り、漆黒に染め上げた無紋の狩衣(かりぎぬ)を身に纏い、左手には青銅の鞘に収めた古代剣が握られていた。
闡提尊霊(せんだいそうりょう)。ただいま戻りました」
 剣を横に置いて少女にひざまずき、男――闡提尊霊は頭を深々と下げる。
「…………」
「はい。多少邪魔者がおりますが、計画自体は順調に進んでおります」
 少女の声なき声に闡提尊霊は答える。
「主上。今しばらくの我慢です。もうじき、旧き神の封印が解かれます。それまでのご辛抱を……」
 少女の生気なき瞳が闡提尊霊から離れ、頭上を仰ぐ。
 そこに―――朱い。血の如く染まる、朱い月があった。


43 :寝狐 :2007/09/17(月) 22:18:18 ID:mcLmm7mL

<3−2>

 窓から射し込む柔らかな光。
 外から届く鳥の鳴き声を耳に、閉じていた目をゆっくりと開く。
 そして翠琥(すいこ)は上半身を起こし、ゆっくりとベッドから降りて立ち上がる。
 昨夜、真斑(まいか)との戦いで一撃を受けた左腕をさすり、正常に機能しているかを確かめる。
「何とか大丈夫ね……」
 爽やかな朝の陽射しを浴びようと、翠琥は窓を全開にした。
 照らされる陽。その温もりで現在が朝だということを身体が認識。
 窓から離れ、ベッドの横を見る。
「あら?」
 そこには床に敷いた一枚のシーツと、その上に枕代わりの丸めた白いタオルに、薄い毛布がポツンと置かれていた。
 その即席寝床は詩原真斑が眠っていたはずの場所だ。
 昨日深夜にこの喫茶店ディアテーケに帰ってきた二人は、ここに住む御子神無月とその父親である智一を起こさぬよう静かに部屋に入り、翠琥はベッドで、真斑は床で寝ると言って即席寝床を作って就寝した。
 ちなみに、昨夜合流したサーティー他二人は別で用意していたWR駅近くのホテルに泊まっている。
 その即席寝床に真斑の姿はない。
 仕方が無く、翠琥は部屋を出て階段に向かい、一階へと下りる。
「おはようございます。翠琥さん」
「おはよう、無月(なつき)
 一階に下りるとまず先に挨拶したのは無月であった。お店の名前が入った白いエプロンを着けて店のテーブルを水で濡らした布巾で拭いている。
 カウンターの前まで行くと、奥から三番目の席に一人の少女が座っていた。
「おはよう、マイ」
「おっはよ、凰霞さん」
 少女――真斑はコーヒーの入ったコップを置くと、翠琥の方に振り向いて挨拶した。
 もはや専用席になっているカウンター奥の席に翠琥は座る。すると、待ってましたとばかりに、無月がカウンターの中に入って翠琥の朝食をテーブルに置いた。
 朝食は昨日と同じ、山積みになっている焼きたてトースト八枚とバター、そして淹れたてのコーヒーである。
「うわ、そんなに食べて胃がおかしくならないの?」
 横でそれを見た真斑が尋ねる。……前日に牛丼大盛り葱だく玉を二十杯食った人間が言う台詞ではないと思うが。
「全然。まだ少ない方よ」
「えっ! それだけあってまだ足りないんですか?」
 それを聞いた無月は驚いた。
 まぁね、と言いながら翠琥はトーストにバターを乗せてかぶりつく。
「翠琥さんのそれもビックリですけど、それよりもさっきは驚きましたよー。朝起きたらお店に知らない人がいたんですから」
 コーヒーメーカーを操作しながら無月が言う。知らない人とはおそらく真斑のことだろう。
「ああ、うん。ゴメンね。断らなくて勝手に」
「お世話になります」
 深々とお辞儀をする真斑。
「いいんですよ。真斑さんに事情を聞いてパパに電話したら快く受け入れましたし。それに私も大歓迎ですよ。人数は多い方が楽しいですし」
 居候が増えても嫌な顔をせず、逆に喜ぶその表情に翠琥は無月と智一に深く感謝の気持ちになった。
「あれ? そういえば、智一さんは?」
 ふと店内を見渡す。一階に下りてきてから一度も智一の姿を見ていない。厨房の方にもいるような気配は感じられない。
「パパならいませんよ。なんでも、親しい友人の家に泊まっていくと言って、昨夜から出かけましたから。明日の夜には帰ると言っていましたよ」
「お店の方は? メニューはほとんど智一さんが作ってるんでしょ?」
「それなら大丈夫ですよ。この間から窓の所に臨時休業の告知をしていますから」
 そう言われて、翠琥は店の窓を見た。確かに、窓の所に張り紙があった。
「それじゃあ、私もちょっと出かけてきますね」
「買い物?」
「友達と遊ぶ約束をしているんですよ。……では行ってきますね。翠琥さん達も出かけるときは玄関の鍵、ちゃんと閉めといてくださいね」
 エプロンを外し、それをカウンターテーブルに置くと無月は外に出ていった。
「行ってらっしゃーい」
 手を振りながら翠琥は見送る。カランとドアに取り付けてある小さな鐘が鳴りドアが閉まった。
「……さて、どうするの凰霞さん」
 無月が見えなくなったところで、真斑が口を開く。
「何が?」
「何が、じゃなくて。例の夜の街のことです」
「あぁ。アレね……」
 翠琥は昨夜のことを思い出す。
「さっき朝刊の隅っこにあった伝言記事を見たけど、やはり黒水区で三百人の人間が一夜で行方不明になったそうよ。……おそらく、港の倉庫群で見たあの時の亡骸の海が」
 あの惨状を思い出したのか、目を伏せて真斑が言う。だが、すぐに顔を上げる。
「これはあたしの予想だけど、二日前と昨夜、このままで行くとおそらく今夜もあんな惨劇が起こるんじゃないかと思うの」
「そうね。今夜は起こらない、なんて言えないしね……」
 思案顔でコーヒーを飲む。
「よし。それじゃあ、街中を調べるわよ。マイ」
 そう言って翠琥は、皿に残っていた最後の一枚(・・・・・)のトーストを口にした。


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