螺子と見えないスケッチブック


1 :瓜畑 明 :2007/05/30(水) 16:20:48 ID:ommLomoA

僕の壊れてしまった世界は、温かい紅茶の匂いと、少し錆びた鉄の匂いに支えられている。







「ナサレ様、お早う、ですね?」
「ローズ、挨拶を疑問で返すもんじゃないよ」
僕の朝の目覚めは、幾度と無く繰り返されたこの返答から始まる。







世界が今よりもう少し優しくなかった頃、僕は光と足を失った。
彼女、いやローズは、国家研究班が格好の実験材料だと判断した僕に、与えた次世代型福祉ロボットだった。







「今日の朝食はですね。紅茶とパンです、ね?」
「作った本人が聞いてどうするんだよ」
ベッドから体を引きずって、車椅子へと自分のみを移した。
ローズが言ったとおり、机の上にはハムやチーズを挟んだロールパンが二つと紅茶が美味しそうに湯気を立てていた。
「ローズ、ご苦労様。美味しそうだね」
「ありがとうございます、ナサレ様」







僕達が住む世界は多くの物を奪って、何事も無かったように静かになった。
あれ程悲惨だった時間は、今は忘れられて新しい時間を刻んでいる。







「ナサレ様、今日もお出かけいたします」
「……なんで、ローズは一つ抜けてるのかな? そこは疑問にしなきゃ」
笑って、彼女が手渡す帽子を受け取った。
「ローズ、いつもの取ってくれるかい」
ローズは頷いて、木製のカバンを渡してくれた。
「では、出発といたします」
「『か?』でしょ、まったく。 さて、行こうか」







僕が光を失ってローズと過ごすようになってから、僕は一つの事を日課にしていた。
それは、絵を描くことだった。
足と光を同時に失って絶望の海を泳いでいた僕を辛抱強く救ってくれたローズが、教えてくれたのがソレだったからだ。
彼女は本当に変わったロボットで、絵も描けたし、歌も歌えた。
そのローズがまだ僕が立ち直っていなかった頃、彼女が描いた絵を僕に渡すと触るように言ったのだ。
『花の絵を描いたんですよ? 太陽にいっぱい照らされた向日葵の絵を』
そう彼女が言ったのを今でも覚えている。
最初、彼女が目の見えないことを馬鹿にしていると思って、癇癪を起こして何枚も破り捨てた。
それでも、彼女は粘り強く何度も何度も触れ触れと描き直してやって来て、僕はとうとう根負けしたんだ。
『心の篭った絵は、絵の具の乗りで分かりますから』
半信半疑ながら、絵を手で触っていくうちに、何となくそんな気がするようになっていた。
そうして、今度は僕が描きたいな、となって今があるわけだ。







「ナサレ様、良いお天気ですね」
ローズに引かれて、石畳の町を進む。
季節は春というだけあって、進めば草木の青い匂いがした。
「今日は、風を描こうかな」
「はい」







これは、僕と彼女の静かな生活の抒情詩である。


2 :瓜畑 明 :2007/05/31(木) 10:37:58 ID:ommLomoA

風には風の匂いがある。





「ローズ、ここにしようか」
そう言って、僕は気のカバンを開けた。
選んだ場所は、僕の家からそう離れていない丘の上。
「はい、そうします、ね?」
「ふふ、そうだね」





彼女に教えられて、僕は色々なモノを触れ合うことが出来た。
光を失って先を絶たれたと思い込んだ僕にとって、それは新しい希望の光だった。
『花は色がついている花びらとそうでない花びらとでは厚さが0.01mmほど違うんですよ』
そう言われて必死で何度も何度も触った覚えがある。
彼女が言う事は何でも半信半疑なものばかりだったけど、やってみれば何となくそんな気がするのが常だった。





「今日は風が温かいね」
「はい、昨日より2℃ほど」
機械らしい正確な説明に、笑いが漏れる。
丘で吹く風は優しさを全体に湛えていた。
「生きてますね」
「そうだね、風が生きてる」
ローズが用意してくれた特性のキャンパスを手で触って位置を確認する。
キャンパスの真ん中に突き出た針で中心も確認する。
「さてと、緑を取ってくれるかい」
ローズから受け取った絵の具をパレットに出して、筆で弧を描くようにゆっくりと伸ばす。
筆を通じて伝わってくるパレットと絵の具が擦れあう微震が何となく好きだった。
「さて、と」
差し出された水に毛先を湿らせると、キャンパスに筆を添えた。


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