Border Line -彼女と僕の世界-


1 :小豆 :2010/02/27(土) 21:44:29 ID:PnmLzLQG




 僕という存在が、彼女の人生において、何か意味を持った存在であってほしい。
 彼女にあんな決断を下させた最後の原因が、僕でなければいい。
 そんな、矛盾した思いを抱えながら、今日も僕は境界線を探している。

 彼女と僕の間にある、あやふやで、確かな境界線を。

   ◆

 二学期が始まって間もないある日、僕は彼女の家を訪ねた。担任に書いてもらった不格好な地図と照らし合わせながら、見慣れない風景の中を歩く。
 会うのは久しぶりだった。彼女はもう、二週間以上も学校に来ていなかった。

   ◆

 僕が彼女の存在を知ったのは、高校二年生になり、初めて同じクラスになった時のことだ。教室の隅、息を殺すようにひっそりと、彼女はまるで人から遠ざかるようにそこにいた。
 不思議な感じのする子だなと思った。色白の肌、流れるような長い黒髪、整った顔立ち。目立たないはずが無いほど綺麗な容姿をしているのに、その存在感はとても薄かった。まるで誰も彼女がそこにいることに、気づいていないかのように。
 彼女もあえて、自分からクラスメイトに関わっていこうとはしなかった。むしろ、自ら進んで関わり合いを断っているようだった。たまに誰かから話しかけられても、眉ひとつ動かさず、徹底的に無視を決め込む。当然、彼女が孤立するまでに、そう時間はかからなかった。
 一方で僕はと言うと、普通にトモダチをつくり、そのトモダチと毎日とりとめのない会話をし、ありきたりな高校生活を送っていた。何の接点も無く、本当なら卒業まで関わることのないはずだった僕と彼女が、関わり合いを持つようになったのは、新しいクラスにも慣れてきた五月中旬頃のことだった。


 その日僕は、教室に携帯電話を忘れた。気づいたのは家までの帰り道を半分くらい歩いた後だったのだが、家に帰っても暇を持て余すだけの僕は、一緒に下校していた友人に別れを告げ、たいして何も考えずに踵を返していた。
 教室の扉を開けると、そこには彼女がいた。窓際に位置する自分の席に腰掛け、ガラス越しに外を眺めている。薄暗い教室には、夕日が斜めに射し込んでいた。赤く焼ける天空にでも、見入っているのだろうか。
 そんなことを考えながら、僕は自分の机の中から目当てのものを探し始める。普段から置きっぱなしにされているかわいそうな教科書たちに押し込まれるようにして、机の一番奥にそれはあった。
 携帯電話を取り出し、顔を上げた僕の視界に飛び込んできたのは、すぐそばに立つ彼女の姿だった。突然のことに、僕は少し驚く。教室のほぼ対角線上に位置する僕と彼女の席。ここまで歩いてくる足音はおろか、席を立つ際にイスを引く音さえ聞こえてこなかった。
 不思議に思いながらも彼女に視線を送ると、形のいい桜色の唇がゆっくりと開かれ、
「……ねぇ、私は生きてる?」
 彼女の声を聞いたのは、それが初めてだった。無表情のままに淡々と、あまり抑揚のないしゃべり方。その言葉の意味を理解したとき、僕は訝しげに眉根をつりあげていた。そして、僕から答えを得られないまま、彼女はもう一度口を開く。
「それとも……死んでる?」


2 :小豆 :2010/02/28(日) 10:04:49 ID:PnmLzLQGnH

 その日以来、僕は暇な放課後、教室に残るようになった。それはもちろん、彼女がそうすることを日課としていたからだ。
『生きてると思うけど……。なんで?』
 あの日、思ったままを口にした僕に対し、彼女はそっけなく呟いた。
『……私には、生と死の境界線は、あやふやなの』
 自分がどちらに属するのか、自分でもよく分からないのだと言う。
 意味が分からず、戸惑う僕をよそに、彼女はさっさと教室から出て行ってしまった。
 単純な好奇心だった。彼女には、人を惹きつける何かがあるように思えてならなかった。
 僕は彼女のひとつ前の席――誰の席なのかよく分からないが――に座り、彼女と一緒に夕日を眺めた。特に会話をするわけではない。ただ、同じ空間の中にいるだけ。たまに僕が話しかけたりもしたが、そっけない返事が返ってくるか、あるいは無視されるか。いつもそのどちらかだった。


 そんな日々が過ぎていき、いつの間にか梅雨の季節も終わった。夏休みに入っても、僕の通う高校には夏期補習というものがあって、七月が終わるまでは学校に行かなければならなかった。だから、彼女と僕の風変わりな日課はいまだに続いていた。かと言って、僕と彼女の関係に何か変化があったのかと問われれば、そんなことは一切無かった。ひとつ変わったことがあるとすれば、制服が冬服から夏服になったことくらいだ。軽く想像はついていたが、半袖のワイシャツからむき出しになった彼女の腕は、太陽を知らないとでも言うかのように色白で、細かった。
 夏期補習も残りわずかになったある日、僕は彼女に、問うてみたことがある。
 なぜ、多数いるクラスメイトの中から僕を選び、僕にあんなことを訊いたのか、と。
 彼女は僕に視線を移し、いつもの無表情で答える。
「珍しいと、思ったの」
 その言葉の意味を問うと、彼女はまた、窓の外に視線を戻してしまった。いつものように無視をするつもりなのだろうと思いかけたその時、意外にも返事が返ってくる。
「大人になればなるほど……、人は、生きているようには見えなくなる。『死』に魅了されているわけではないの。ただ、みんな、生きたままで死んでいる。それに気づいていない人ばかり。だから私は、悲しくなる」
 質問の答えにはなっていないような気がしたが、それでも僕は相槌を打つことにする。
「君は、気づいたんだね」
 すると彼女は、もう一度僕を見遣って。
「……そう、私は知っているの。境界線は脆くて、あやふやなこと。だけどあなたは、はっきりと生きているわ。だから、珍しいと思ったの」
 ふう、と息を吐き、まるでこんなにしゃべったのは生まれて初めてだと言わんばかりに、彼女は疲れた顔をした。
 彼女から見て、僕は『生』に限りなく近いところに立っているらしい。極地にいる僕ならば、あるいは彼女の立っている位置が見えるのではないか、そう思って、彼女は僕にあんなことを訊いたのだ。
 しかし、彼女の言うように、実際僕はちゃんと生きているだろうか。自分で考えてみても、そうは思えなかった。ただ、ふつうに、平凡に毎日を暮らしている、ありきたりな高校生でしかない。僕にはそうとしか考えられなかった。けれども、彼女がそうと言うのだから、彼女の世界においてそれは真理なのだろう。
 そんな、自分でも頭が痛くなるようなことを考えていた僕は、不意に彼女に目を向けて、はっとした。
 黒曜石のように深い目で、彼女は自分の左腕を見つめている。その、あまりに美しく、生気の感じられない無表情に、僕はわずかばかり、ぞっとした。
「……境界線があやふやなことに気づいた人は、自分で線を引かずにはいられなくなるのよ」
 夢見心地で、独り言を呟くように彼女は言った。
 もし、彼女の言うことがすべて真実なのだとしたら、彼女の左腕――その上に引かれた『境界線』よりも先は、すでに死んでいるということになるのだろうか。
 彼女の左腕に、無数の傷跡があることには気づいていた。知っていて、あえて訊いたこともなかった。
 リストカットの跡。ずいぶんと古いものもあれば、真新しい、かさぶたになって間もないものも入り交じるそれ。僕が彼女に興味をもった、要因のひとつでもあった。
「……淋しいんだね」
 僕が呟くと、彼女はほんのわずかに、それこそ、ここ数ヶ月彼女を見続けてきた僕にしか分からないくらいほんのわずかに、目を見開いた。それが彼女の驚愕の表情なのだと気づくまでに、僕には少し時間が必要だった。
 彼女の驚きは静かに消え、そして再び、無表情へと還る。何かをためらうかのような沈黙が、少しあった後で。
「――うん」
 小さく、今にも掠れて消えてしまいそうな音を喉から漏らし、彼女は悲しそうに笑った。
 それは紛れもなく、僕の見た、最初で最後の彼女の笑顔だった。


3 :小豆 :2010/03/02(火) 19:57:35 ID:PnmLzLQGnH

 「さよなら」の代わりに言えることって、何だろう。
 きっと今の僕には、何もない。
 慰め、制止、叱責、同情、呆れ、恋情。
 どんな言葉を並べ立てたところで、それは彼女を動かすにはあまりにも脆弱だった。

 高校二年生の八月三十一日、彼女は死んだ。

   ◆

 鼻腔をくすぐる線香の匂い。僕は昔から、この匂いがあまり好きではない。それでも僕は彼女の為に、線香を上げた。両手を合わせて目を閉じたまま、久しぶり、と心の中で挨拶する。
 目を開ければ、少しだけ見上げたところに、漆黒の額に縁取られた彼女の笑顔があった。
 あの時とは違う、とても幸せそうな微笑み。まだあどけなさの残る顔と、見慣れない制服を着ていることから、中学時代の写真だろうと僕は考えた。
 その、僕が見たこともない明るい笑顔を眺めながら、僕は彼女のことを思い返した。
 あの日――、僕が、彼女の悲しそうな笑顔を見た、あの日のことを。

   ◆

 苛まれて、苛まれて……。
 彼女は耐え続けていた。
 救いを求めず、ただ一人きりで。

   ◆

「――うん」
 彼女は静かに微笑んだままで、ゆっくりと語り出した。
「淋しいときとか、悲しいときに手首を見ると、なんとなく、切りたくなるの。最初は、線を引きたいだけだった。一度目は確かに、そこに『生』を見た気がしたの。だけど……、何度も繰り返していたら、また、境界線はあやふやになってしまった」
 切りたいと思うか、否か。
 それが彼女のような人間と、僕のような人間との単純で明瞭な違いなのだと言う。
「あなたには『生』が満ちている。『死』の匂いが、少しもしないから」
 遠くを見つめ、一種の諦めのようなものを含んだ声音で、彼女は続けた。
「きっと、住む世界が少し、ずれているのね」
 その言葉を聞いたとき、僕は自分が何を思ったのかよく覚えていない。ただ、気づけば僕の手は、机の上に置かれた彼女の手に、そっと触れていた。拒絶するような素振りを見せなかったので、そのまま包み込むようにしてその手を握る。思っていた以上に細く、小さな手だった。
 彼女はそれでも平然としていて、こちらを見ようともしない。そんな彼女の横顔に、僕は問いかけた。
「……触れられる距離にいるのに、同じ世界ではないんだ?」
 その問いに、彼女が答えることはない。ただ、いつもの無視とは少し違っていて、空気を振るわせるような深い溜息を漏らした。そして、
「あの時、あなたに話しかけたのは、間違いだったのかも知れない」
 震えた、小さな声で、囁くようにそう言った。
 彼女の手は、僕の手からするりと抜ける。彼女はそのまま立ち上がり、鞄を手に取ると、教室の扉へ向かって一直線に歩いて行った。
 その時だ。いつもなら、そのまま出て行くはずの彼女が、その日だけは扉の前で立ち止まった。そして、ゆっくり僕を振り返ると、人形のような無表情で、言った。
「――さよなら」
 それは、一片の感情も含まれない、まるで紙面上の文字列のような言葉だった。
 彼女はその場を去ろうとしない。こちらを、闇を湛えたがらんどうな目で、じっと見つめている。僕は慌てて口を開いた。しかし、喉から漏れたのは空気だけで、言葉を紡ぐことは敵わなかった。何を言えばよいか分からなかった、なんて、陳腐なことは言えない。ただ、あの時確かに、僕の喉は声を発する機能を失っていたのだ。
 そんな僕の状態に、彼女が気づいたかどうかは定かではない。しばらくしてから、彼女は何も語らず、表情ひとつさえつくらず、そのまま教室を出て行ってしまった。
 彼女の姿が視界から消えた途端に、僕の喉は声を取り戻したようだった。
「…………また、明日」
 聞く相手はもういないと知りながら、それでも僕は呟いていた。
 その時の僕は呆然としたままで、言いしれぬ恐怖を感じていた。
 ――また明日。
 口ではそう言いつつも、それが実現しないことを、僕は本能的に感じ取っていたのだ。


4 :小豆 :2010/03/08(月) 11:48:24 ID:PnmLzLQGnH

 ループの中で僕は、何度も何度も悪夢を抱く。
 幾度も、幾度も。
 それはまるで何かの呪いのように、笑顔あふれる彼女の悪夢。

   ◆

「あの子の、恋人か何かかしら」
 不意に鼓膜を振るわせたこの言葉に、僕は現実に引き戻された。いつのまにか、彼女の母親が僕の隣りに座っていた。母親は少し前までの僕と同じように、彼女の遺影を見上げている。その横顔は、いつか僕が見た彼女の横顔にそっくりだった。
 彼女の家を訪れたときに、僕を出迎えてくれたのもこの人だった。まだ歳は若いように見えるが、目の下には濃い隈ができており、娘の死に相当なショックを受けていることは容易に見て取れた。
 母親は僕からの返事を待たず、勝手にしゃべり続ける。きっと、初めから返事は必要としていなかったのだろう。僕が彼女の恋人であるということは、母親の中では確定事項らしかった。
「あの子は……、本当に、本当によく笑う子だったの。それなのに、高校に入学した頃から、だんだん笑わなくなって……。最近では、少しも口を利かなくなって」
 最後に近づくにつれ、弱く、細くなっていく母親の声。彼女と同じように華奢な肩が、わずかに震えているのは、きっと僕の見間違いなどではないのだろう。
 母親は緩慢な動作で僕を振り返った。その目に湛えられた大粒の涙が、僕の心をかき乱す。
「ねぇ、あなたなら知ってるんじゃないの。どうしてあの子は、自殺なんてしたの。学校でいじめられてたの。どうして、あの子が……私の娘が、どうして……っ」
 僕にすがるように、何度も何度も母親は「どうして」と繰り返した。
 潰れてしまいそうだった。何が、と問われれば、心が、としか答えようがないけれど、もっと別のもの……、僕の体の核にある、何かとても大切なものが、壊れて、潰れてしまいそうだった。
 それでも僕は、あくまでも冷静を保った。母親が少し落ち着くのを待ってから、静かに応える。
「僕にも、わかりません。ただ……」
 言葉を切った僕に対し、母親は涙に濡れた頬をそのままに顔を上げた。僕はどうにかして、続きの言葉を絞り出す。
「ただ、彼女は、『死』にとても敏感な人でした。そのせいで、『生』に鈍くなってしまったんです」

   ◆

 彼女の家からの帰り道。僕はひとり、思考の渦に埋もれていた。
 きっと彼女は、平均台の上を歩いていたのだ。もしくは、綱渡りと言ってもよいかもしれない。細く、あやふやな境界線の上を、おぼつかない足取りで歩いていた彼女は、バランスを崩してしまった。『死』に傾ぐ体を立て直す術を見いだせぬまま、彼女は死んでしまったのだ。
 今までは、左腕を差し伸べるだけだった『死』の世界に、体ごと飲み込まれた彼女は今、向こう側から『生』を見つめることで、そこにはちゃんと境界線が存在することを知ったのだろうか。
 いや、もしかしたら――。
 彼女のことだから、自分が死んだことにさえ、気づいていないのかも知れない。


 ふと、彼女の言葉を思いだした僕は、自分の左手首に視線を落とした。刹那の間。そこに、彼女の傷跡と寸分も違わない、赤い軌跡が瞬く。けれどもその残像は、すぐに消えてなくなってしまった。
 泣きたい、とは思わなかった。むしろ、とても渇いていた。背後から淋しさが忍び寄る。それは見えない手となり、僕にまとわりついて離れなかった。
 僕は自分の手をまじまじと見つめる。そうして、彼女の世界と僕の世界はやはりずれていたのだと、改めて思い知らされた。
 僕は彼女のように、淋しさでそれを切りたいとは、どうしても思うことができなかった。





                                                                         fin.


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