あなたは私の世界のすべて


1 :緋桜 :2007/04/19(木) 23:05:32 ID:ommLPmsk

 始めましての方、そうでない方、この作品を読んでみようと思ってくださってありがとうございます。
緋桜と申します。

 この作品は、仮想中世ヨーロッパが舞台となったお話です。
世界史苦手ですが、頑張って書くのでよろしければお付き合いください。


2 :緋桜 :2007/04/19(木) 23:07:46 ID:ommLPmsk

あなたは私の世界のすべて

「リュカは、神様を信じていますか?」
 本を読んでいたリュカは、ジュリアの問いに顔を上げた。
 目が合い、ジュリアはにこりと微笑む。リュカは慌てたように顔を背けた。緑に見えるほど黒い髪がリュカの白い頬を撫でる。端正な横顔を、なおもジュリアはじっと見つめた。けれどリュカは、決してジュリアの顔を見ない。
 そのことがジュリアは悲しいのだろうか、寂しいのだろうか。それとももう慣れてしまったのだろうか。
 ジュリアは――リュカが見ていなくとも――微笑を湛えたまま、彼の返事を待った。
 しばらく考えるようなそぶりを見せた後、リュカはそっと口を開いた。
「……神などいない」
「なぜそう思うのですか?」
 返ってきた彼の答えに、ジュリアは再び問いを重ねる。彼の声は木の葉を揺らす風の音のようで、ジュリアはリュカの声がとてもすきだった。もっと聞いていたいと思うのに、リュカはあまり話さない。だから時折こうした言葉遊びのような謎かけを与えるのだ。リュカはそっけないけれど、決して冷たいというわけではないから。
「……もし神がいるのなら、今こうして私が生きているはずがないからな」
「……リュカ……」
「神は全知全能なのだろう?ならば、私のような罪深きものを生かしておくわけがない」
 皮肉や自嘲などではなく、事実を淡々と述べているかのような口ぶりで、リュカは答えた。
「なぜ突然そんなことを訊くんだ?」
「昼間、ノーラに訊かれたんです。神様って、本当にいるの、と」
「……それで君はなんと答えた?」
「神様はいますよ、と」
「……そうか」
 リュカと正反対の答えを口にしても、リュカは決してジュリアを否定しない。拒絶しない。ありのままのジュリアを、ジュリアのすべてを受け入れてくれる。
 そのことにジュリアはどれほど救われてきただろう。
「……私にとっての神様は、あなたですわ」
「?何か言ったか?」
 林檎色の唇から零れた呟きは、リュカの耳に届くことなく消えた。それでいい。知らなくていい。
 あなたは私のことなど気にしなくてかまわない。
「いいえ、何も」
 あなたは私のことなんてかまわず、あなただけのために生きて。
 だって私の神様は、あなただから。


3 :緋桜 :2007/04/24(火) 20:30:09 ID:ommLPmsk


「ジュリアは薬師様のお嫁さんなの?」
 そんなことを尋ねてきたのは、この間六つになったばかりのカルラという少女だった。
 医者のいないこの村にリュカとジュリアが訪れたのは三年前。薬学とほんの少しの医学の知識を備えているリュカはこの村のはずれで薬草を煎じながら、子どもたちに文字を教えていた。住人が百人弱しかいない小さな村ではすべての村人が顔見知りで、互いに支え合い、協力し合って生きている。この村に来る前のジュリアには考えられないことだった。
「カルラはおませさんですね。『お嫁さん』だなんて、どこで覚えてきたんですか?」
「ママが言ってたの。もう少し若くてジュリアさえいなければ、ママが薬師様のお嫁さんになりたかったのにって」
「まぁまぁ。そんなことをおっしゃってはカルラのお父様が妬いてしまいますね」
 幼いカルラの言葉にジュリアは笑う。
 女性と見紛うほど美しい彼は、無愛想でめったに笑うことが無いが、生来の誠実さと聡明さで村中の人間に慕われていた。こうして二人がこの村に住めるのも、彼の人柄のおかげだった。
「ねぇ、ジュリアは薬師様のお嫁さんなの?」
 答えをはぐらかすかのように微笑むジュリアに焦れたのか、カルラが問いを重ねる。
 村のはずれで、ジュリアとリュカは二人で一緒に暮らしていた。
 三年前、突然現れた美貌の青年と少女。年頃の、それもとびきりの美男美女である二人がただならぬ関係であると村人たちが憶測することは想像に難くない。けれどリュカとジュリアは、村人たちが邪推するような関係ではない。
「違いますよ」
「本当?」
「えぇ」
「じゃぁ、カルラが薬師様のお嫁さんになることはできる?」
 六つの幼子の問いに、ジュリアは目を見張った。けれどカルラは真剣な表情で更に続ける。
「カルラが大きくなってジュリアみたいに綺麗になったら、薬師様はカルラをお嫁さんにしてくれると思う?」
 ――あぁ、子どもと言うのは、どうしてこんなにも純粋で真っ直ぐで、愚かなのだろう。けれどその愚かさごと、愛おしいと思う。羨ましいと思う。ジュリアには、そんな時間など無かったから。ジュリアには幸せな子ども時代など存在しなかった。
「……えぇ、きっとなれますよ」
「本当?本当にそう思う?」
「はい」
 癖のある茶色い髪を撫でてやると、カルラは嬉しげに声をあげた。
 この子はいつ、ジュリアの吐いた嘘に気づくだろう。残酷な現実を知るのだろう。自分の思い通りになる世界などどこにも無いと言うことを、世界は決して優しくないと言うことを、いつ思い知るのだろう。
 そのことに気付くまで、大人は子どもに優しい嘘を与える。いつまでも、温かい優しい世界にいられるように。
 それが本当に優しさなのかはジュリアは知らない。
 けれどそれでも、ジュリアは今日も嘘を吐く。


4 :緋桜 :2007/04/26(木) 20:23:43 ID:ommLPmsk


「その花飾りはどうしたんだい?」
 夕食の時間、作った料理をテーブルに並べていると、ジュリアの髪につけられた髪飾りに気付いたリュカに問われた。小さな白い花で作られた髪飾り。それはカルラに貰ったものだった。
「昼間、カルラが作ってくださったんです」
「そうか。……君には、白が良く似合う」
「……ありがとうございます」
 賛辞の言葉に礼を返し、料理を並べ終えたジュリアは椅子に座る。
 この家には、必要最低限の家具しかない。元々空き家だった家に移り住むとき、リュカがこしらえたテーブルと椅子とベッド、それから食器が入る小さな棚だけだ。二人で暮らしていくには、それだけで十分だった。
 ジュリアは、リュカがいれば、リュカの傍にいられれば、他には何もいらないのだから。
 けれど、リュカは?
 リュカにジュリアは、必要なのだろうか。
 出逢いから四年。彼がどうしてジュリアを傍に置いてくれているのか、ジュリアにはわからなかった。
 愛着か、それとも憐憫か。
 少なくとも、愛情ではない。
「昼間、言っていましたわ。カルラは大きくなったらリュカのお嫁さんになりたい、と」
「カルラが?」
「可愛らしいですね」
 くすくす笑うジュリアに、リュカは困ったように眉をしかめた。
 からかってみただけのつもりだったのに、真面目なリュカは真剣に悩み始めてしまったようだ。カルラの母親もリュカと結婚したいといっていたと言えば、どんな反応をするだろうか。
 結婚云々はともかく、リュカは、村の人間に慕われている。
 この村に着たばかりの頃は得体の知れない二人組に村人は奇異の目を向けたが、リュカは少しずつ確実に彼らの心へ入り込んでいった。薬師としての学識、洗練された都人然とした立ち振る舞い。穏やかな気性に似合わぬ武術の腕。そのどれもが、村人の心をひきつけていった。このような男がどうしてこんな辺境の村に身を寄せているのか不思議に思う者はいても、リュカ自身を不審に思う者など、もう村には一人もいない。
「……庭に、薔薇の花が咲きました」
「え?」
「明日、薔薇のジャムを作ります」
「あぁ……?」
「リュカも召し上がってくださいね」
「……あぁ」
 明日も、明後日も、あなたと一緒にいたい。
 ずっと、ずっと。
 そんなこと、叶うはずないと知りながらも、願うことをやめられない。


5 :緋桜 :2007/04/28(土) 19:42:36 ID:ommLPmsk



「こんにちは、ジュリアさん」
 天使の容貌を持つ少年が、にこりと微笑む。十六と言う齢にもかかわらず、その表情はどこか幼い。
 子どものような笑顔。
 子どもを装った笑顔。
 濃茶の髪を風に揺らしながら、少年――シオンはジュリアに近付いてくる。
「こんにちは、シオン」
「何してるの?」
「薔薇の手入れですよ」
「へぇ。ジュリアさんは、薔薇が好きなの?」
「えぇ。けれどこの薔薇はジャムを作るために育てているんです。出来上がったら、シオンにも差し上げますね」
「わぁ、ありがとう」
 微笑みかけるとシオンもふわりと笑い返す。けれどその笑顔から無邪気さは感じられない。シオンはいつも、「子どもを装った笑顔」を浮かべる。
 そしてジュリアがそのことに気付いていることを、シオンは知っている。
 知っていて気付かないふりをする。
「でも」
「シオン?」
 ジュリアの隣にしゃがみ、シオンは一本の薔薇を手折る。薔薇の棘が白い指を緋に染めようと、シオンは変わらず微笑んで見せた。
「シオ……」
「やっぱりジュリアさんには薔薇が似合うね」
「シオン……」
「血みたいに赤い薔薇、すごくよく似合うよ」
 手折った紅薔薇をジュリアの髪に挿し、シオンは耳元で囁く。
 男が女を口説くときのような甘い声。けれどジュリアを見る瞳は、至極冷めている。
 シオンはジュリアからすぐに離れ、何事も無かったかのように明るく言った。
「そう言えば、さっき森で薬師様を見たよ」
「りゅ……薬師様、を……?」
「うん。ティルデと一緒にいたよ。二人きりで、ね」
「……」
 シオンの言葉に、ジュリアは思わず息を呑む。そんな自分に気付き、胸の内を悟られたくなくてジュリアは顔を背けた。
 シオンはいっそ楽しげに続ける。
「知らなかったの?ジュリアさん。薬師様がティルデといること」
「……」
「ジュリアさんは薬師様のことなら何でも知ってると思ったのに」
 薔薇の棘によってできた傷に、シオンは唇を寄せる。傷口に舌を這わすと、いっそう紅く血が滲んだ。
 ティルデというのはシオンの双子の姉の名だ。シオンと同じ十六歳の少女は、リュカのことを密かに慕っている。リュカはまったく気付いていないようだけれど、ジュリアには、ジュリアにだけはわかってしまった。
 気付きたくなんてなかったのに。
「……申し訳ありませんがシオン。私、夕食の支度をしなくてはいけませんので」
「そう?じゃぁ僕もそろそろ帰るね。もうすぐティルデも帰ってくるだろうし」
「えぇ。ティルデによろしくお伝えください」
「うん。ジュリアさんも、薬師様によろしくね」
 まだ血の止まらぬ手を振り、シオンは去っていく。
 もしもこの世に悪魔がいるなら、シオンは天使の皮をかぶった悪魔だ。
 ジュリアの心を乱し、追い詰める。天使のような笑顔でジュリアを絶望へと突き落とす。ジュリアの想いもティルデの想いもすべて知った上で、嘲笑うかのように超然と見下ろしている。わからない。彼の想いも目的も。ただこうやって気まぐれのようにジュリアの前に現れては、ジュリアの心を乱していく。
 彼は一体ジュリアをどうしたいのか。

 ――カルラが大きくなってジュリアみたいに綺麗になったら、薬師様はカルラをお嫁さんにしてくれると思う?

 何をばかなことを言っているのか。
 美しくたって、何の意味も無い。
 どれほど美しくても、リュカは決してジュリアを愛さない。
 それでいい。
 リュカのような人は、ジュリアのような女など愛してはいけない。
 そのことをわかっているはずなのに、どうしてこん何も胸が痛いのだろう。


6 :緋桜 :2007/05/01(火) 18:21:01 ID:PmQHsLm3



「お帰り、シオン」
 扉を開けると、温かい夕食と、世界で一番大切な人が待ってくれていた。微笑むティルデにつられるように、シオンもまた、相好を崩した。
「ただいま、ティルデ」
「遅かったね。どこ行ってたの?」
「ジュリアさんの家に言った後、森に寄ってきたんだ。そしたら可愛い花が咲いてあったから、ティルデにと思って」
「わ、ありがとう」
 摘んできた白い花を渡すと、ティルデは嬉しそうに笑った。
 ティルデには、白が似合う。一点の穢れも無い純白の花は、まるでティルデのようだ。薔薇のような豪奢さは無いけれど、風に揺れる雛菊のように可憐な少女。それがティルデだ。清廉で、潔白で、誰にも汚されない彼女の高潔さを、シオンはずっと守ってきた。一番傍で、誰よりも近くで。
「ティルデ」
「シオン?」
「……すきだよ」
「どうしたの、いきなり」
「すきだよ。ティルデのこと、大切なんだ」
 さほど背丈は変わらないけれど、シオンよりも随分華奢な身体を抱きしめる。ティルデは、シオンの大切な半身。同じ速さで刻まれる鼓動が重なり合う。
 ティルデに触れているときが、唯一シオンの安心できる時間だった。
「私も、シオンのこと好きよ?シオンのこと、とても大切」
「……うん」
「大好きよ、シオン」
 ―――ねぇ、ティルデ。
 どうして僕たちは二人に生まれてきてしまったんだろう。どうして僕たちは別々の人間なんだろう。
 二人なら寂しくないよといって君は笑ったけれど、僕は君と一緒にいるときが一番寂しいんだ。
 一番幸せなはずの時間に、一番寂しくなるんだ。


7 :緋桜 :2007/05/04(金) 17:31:14 ID:PmQHunWD



 黒い髪に黒い瞳。
 リュカを初めて見たときは、驚いた。
 黒瑪瑙の色の髪と目は、この国では非常に稀有だったから。黒髪、あるいは黒目の男を、ジュリアは見たことが無かったわけではなかったが、その男たちの誰よりも、リュカは美しかった。暗闇の中で差し込んだ稲光により、彼の顔が見えたのはわずか一瞬だったけれど、その美しい黒に、一目で心を奪われた。
 リュカの髪は夜の色ですね、と、以前言ったことがある。なら君の髪は月の光の色だな、と、少し考えた後リュカは言った。ジュリアもまた、この国では珍しい銀の髪をしていたから。
 銀の髪と、紫の瞳。
 生まれながらに稀なる色をその身に宿していたジュリアは、幼い頃から周りの人間に、人ならぬモノとして扱われてきた。
 なのに。
「おはよう、ジュリア!」
 庭で薔薇の手入れをしていると、茂みの上から声が降ってきた。顔を上げると、満面の笑みを浮かべた金髪の少女がジュリアを見下ろしていた。
 眩いまでの金髪に、青い瞳。
 髪の色は違うが、彼女は双子の弟シオンと顔立ちは瓜二つだった。
「おはようございます、ティルデ。いい天気ですね」
「うん!洗濯物が良く乾いて気持ちいい!」
「えぇ、本当に」
 ジュリアは薔薇をいじる手を止め、立ち上がる。その間にティルデは茂みを回り、庭の中に入ってきた。
 ティルデとシオンは容貌こそ瓜二つだが、抱える性情がまるで違う。ティルデの笑顔には裏表がなく、心からジュリアを慕ってくれている。この村に来て、一番最初に二人を受け入れてくれたのもティルデだった。
 明朗で快活で、太陽のような少女。彼女の笑顔には、人を幸せにする力がある。彼女が笑うたび、胸の中が温かくなる。
「今日ね、うちの鶏が卵、たくさん産んだの。だから、おすそ分け!」
「まぁ、ありがとうございます。確か……小麦が残っていましたね。マフィンでも作りましょうか。ちょうど昨日作った薔薇のジャムもございますし」
「わーい!!あたし、ジュリアのマフィン大好き!」
 卵の入った籠を受け取って、家の中に入ろうとしたジュリアの腕に、ティルデが抱きつく。肌と肌が触れ合い、ジュリアはどきりとした。
 人は、こんなにも温かい。それを教えてくれたのは、ティルデだった。
 ティルデの笑顔を見ながら、ジュリアは過去に思いをはせる。
 ジュリアがティルデくらいの歳のとき、自分は何をやっていただろう。少なくともこんな穏やかな日々を過ごすことなど、夢に見ることすら叶わなかった。
「ジュリアはいいなぁ。綺麗で美人で優しくて料理も上手で何でもできて」
「……まぁ。そんなに褒めてくださっても、マフィンぐらいしかご馳走できませんよ」
「本当だよ。
 私、本当にジュリアみたいな人になりたいもの」
 ジュリアの瞳を真っ直ぐ見つめて、ティルデはそう言った。
 ――どうしてティルデがそんなことを言う?
 叶うのならジュリアは、ティルデになりたかった。
 ティルデになって――。
「ありがとう、ティルデ」
 胸の内で蔦のように絡み合う想いを押さえつけて笑うと、ティルデも嬉しげに笑い返した。
 彼女の笑顔を見るたび、ティルデは思い知らされる。
 ジュリアは決して、ティルデにはなれない。
 そんな風に笑えない。
 嘘を吐くことを覚え、穢れてしまった自分では、望むことすら許されない願いがある。
「あたしね、ジュリアがこの村に来てくれて嬉しいの。お姉さんができたみたいで、すごく嬉しい。ジュリアは優しくて温かくて、大好き。ジュリアはあたしの憧れなの」
「ティルデ……」
「だからジュリアには、ずっとこの村にいてほしいの。ずっと一緒にいたいの」
 ティルデの頭を撫でると、ティルデは嬉しそうに笑った。
 ティルデは、可愛い。
 容姿の愛らしさだけではなく、生来の素直さがある。嬉しいことを嬉しいと言い、哀しいことを哀しいと言える素直さ。
 それはジュリアにはできないことだった。
 想いを告げることも、願いを伝えることもできない。それなのに、ただ傍にい続けようとしている。ジュリアのせいで、素直なティルデが口を閉ざしてしまっていることに気付きながら。
「……私も、ずっと、ティルデと一緒にいたいです」
「本当?嬉しい」
 妹のように自分を慕ってくれるティルデを可愛いと思う一方で、疎ましく思う気持ちも、ジュリアの中には確かにあった。
 ねぇ。
 どうしてあなたみたいな子が、この世界にいるの。
 どうしてこの世界で、あなたのような子が生きていけるの。
 あなたにとってこの世界は、そんなにも優しいものなの?


8 :緋桜 :2007/05/07(月) 21:14:55 ID:ommLPmsk



 リュカと出逢う前のことは、あまり良く覚えていない。
 唯一鮮明に残っている記憶は、女になった夜のことだけ。
 相手の顔も声も名も、何一つ覚えていない。ただひどく乱暴に扱われたことだけは覚えている。乱暴に扱われ、抗うことさえ疲れ、頼りない身体を床に投げ出して見た月はあまりにも明るく、美しかった。
 床に転がされて組み敷かれ、物のように扱われた。何度も何度もぶたれ、縛られた痕はその後何日か残っていた、
 初めのうちは泣き叫び抵抗もしたけれど、そうした日々を重ねるうちに、次第に諦めの心が芽生えた。
 口を閉ざして心を沈め、そうすることでやり過ごした。地獄のような日々はいつの間にか日常へと形を変えた。何をされても心は動かなくなった。
 けれどあの夜。
 雨の降る夏の暑い夜。
 あの夜ジュリアは、もう一度生まれたのだ。


9 :緋桜 :2007/05/10(木) 20:07:31 ID:ommLPmsk



 白い頬に影を刻む、長い睫毛。規則正しく上下する胸は、彼が息をしている―――生きている証。ジュリアは持ってきた毛布をリュカの身体にそっとかけた。こんな風に安らかにリュカが眠るようになったのは、いつからだろう。まだこの村に来る前、転々と二人で旅をしていた頃、リュカは毎晩魘されていた。
 狂ったように喚き、何かに怯えていた。それは昼間の穏やかなリュカの様子からは想像できないほど狂気めいた姿だった。
 けれどジュリアは、そんなリュカを見て愛おしいと思った。
 自分でもどうかしていると思う。けれど狂気に侵されたリュカを見るたび、怖いと思いながらも、愛しさが、募っていった。
 理由などわからない。
 ただ愛しさで、胸が震えた。
『仕方なかったんだ……ッ』
『あぁするしかなかった、ああしなければ、俺は、俺が……ッ』
『違う、そんなつもりじゃ、だって……ッ』
 自らの頭を抱え、錯乱するリュカの身体を、ジュリアはずっと抱きしめていた。一晩中、リュカの手を握っていた。
 リュカの力になりたい、リュカを支えたいなど、そんなおこがましいことを考えたことなどなかった。ただジュリアが、リュカの傍にいたかっただけだ。いつだってジュリアは、自分のことばかりだった。
 リュカの手を取り、指先にキスを贈る。彼に触れるたび、胸の奥が疼くようにちくりと痛む。愛しさともどかしさで気が狂いそうになる。
 ―――狂ってしまえばよかったのに。
 何度そう思っただろう。
「ん……」
 リュカが唸り、目を覚ます。気付かれないようジュリアは彼から手を離した。
「起こしてしまいましたか?」
 何事も無かったように微笑み、リュカに問いかける。リュカの傍にいることで、ジュリアはどんどん嘘を吐くことがうまくなっている気がする。
「私は……眠っていたのか……?」
「えぇ。毛布をかけてさしあげようとしたのですが、起こしてしまったようですね。申し訳ありません」
「いや……」
「珍しいですね。リュカが転寝をなさるなんて」
「……雨が」
「え?」
「今日は雨が降っているから、頭が痛む……」
「……リュカは、雨がお嫌いですか」
 答えのわかりきった問いを尋ねる。その理由も知っている。雨は、彼に悲しい記憶を蘇らせるから。
 答える代わりに、リュカはジュリアに尋ね返した。
「君は好きなのか?」
「はい」
「……そうか」
「はい」
 リュカはジュリアの視線から逃げるように、窓の外に目をやった。
 横顔を見つめながら、ジュリアは思う。
 雨が好きなのは、雨が私に、あなたと出逢った夜のことを思い出させてくれるから。


10 :緋桜 :2007/05/10(木) 21:22:20 ID:ommLPmsk

お詫びと訂正

 作中でリュカとジュリアが村に訪れたのは三年前、二人が出会ったのは四年前とありますが、正しくは半年前と二年前です。
すみません。


11 :緋桜 :2007/05/12(土) 01:36:01 ID:ommLPmsk



 この村にジュリアとリュカが訪れたのは、二年前の、月の明るい夜だった。ドアを叩く音に、ティルデとシオンは同時に目を覚ました。音と共に声も聞こえてくる。ベッドから抜け出したティルデが部屋のドアを開けると、シオンもまた、部屋から顔を覗かせた。
 二人の家のドアを叩いているのは、男のようだ。何か叫んでいる。かなり切羽詰ったような声だ。
「……シオン……」
 この家には、ティルデとシオンの二人しかいない。母は二人が生まれてすぐ病でなくなり、父も、二人が十一のとき、野犬に襲われ、息を引き取った。
 けれど、寂しくは無かった。
 ティルデにはシオンがいたし、シオンにはティルデがいた。手を繋ぎ、身を寄せ合い、二人は二人で生きてきた。
 二人は頷き合い、シオンが扉に手をかけた。恐る恐るドアを開けると、外には銀髪の少女を腕に抱いた、青年が立っていた。
「あの……?」
「すまないが寝台を貸してくれないか」
「は……?」
「連れが酷い熱なんだ。寝台と綺麗な水、それから布を貸してくれ」
「え……?」
「お願いだ……ッ。ジュリアを……ジュリアを助けてくれ……ッ」


12 :緋桜 :2007/05/15(火) 20:06:45 ID:ommLPmsk



「きゃー!!」
「どうした!?」
「へ……へ……蛇……蛇が……ッ」
「蛇?」
 森の中、響き渡る少女の悲鳴。
 山菜摘みに森へ訪れたティルデは、うっかり蛇と遭遇し、力の限り悲鳴を上げた。悲鳴を聞いて慌てて駆けつけたリュカにすがり付いてふるふる震える。ティルデは蛇が大嫌いだ。
「蛇……蛇……」
「ティルデ、大丈夫だ」
「蛇……」
「もう追い払った」
「へ……」
 うわ言のようにくり返して震えていたが、リュカに肩を叩かれ、ティルデは顔を上げる。
「……ッ」
 至近距離にリュカの顔があった。ティルデは慌ててリュカから離れる。
 薬草摘みに森へ向うリュカとは村の外れで会い、それから行動を共にしている。以前森の中で遭遇して以来、二人はいつも一緒に森へ訪れるようになった。陽が高いうちとはいえ、女の子が一人で森へ入るのは危険だとリュカが言ったからだ。
 気遣ってもらえて、リュカと一緒にいられて嬉しいと思う反面、後ろめたい気もした。
 ティルデは、リュカのことがすきだ。まだ彼と出逢って半年ほどしか経っていないけれど、顔を合わせるたびに、言葉を交わすたびに、どんどん彼に惹かれていっている。昨日よりも今日、今日よりも明日、どんどん彼をすきになる。
 けれど。
「ティルデは蛇が苦手なのか」
「蛇苦手な女の子なんていないよ!!」
「そうか?彼女は平気そうだったけれど……」
「……」
 名前を呼ばずとも、誰のことを言っているかなんてすぐにわかった。
 ティルデはリュカのことがすきだけれど、リュカには、ジュリアがいる。半年前ジュリアと共にこの村へ訪れたリュカは、ジュリアのことを、とても大切にしている。宝物みたいに、いつも傍で大事に守っている。二人には、ティルデの踏み込めない世界がある。
「初めて蛇を見たとき、『何ですか、これ』と言って蛇に手を伸ばしていた。それが運悪く毒蛇で……」
 あのときのことは今思い出してもぞっとする、と、リュカは少し疲れたように呟いた。
 ほら。
 こんなとき、ティルデは、そうなんだ、と生返事を返すことしかできない。
 ティルデの知らない二人だけで過ごした時間が、二人にはあるから。
「……ねぇ、薬師様」
「なんだ?」
「薬師様のお名前ってなんていうの?」
 出逢いから半年経っても、ティルデは彼の名前を知らない。尋ねても教えてくれなかった。そしてそれは今日も同じ。
「……君は知らなくていいことだ」
「ずるいよ。薬師様はあたしの名前知ってるのに、あたしは知らないなんて。そんなの不公平」
 唇を尖らせてみせると、リュカはかすかな逡巡を見せた。
「……知ってどうするつもりだ?」
「もちろん呼ぶの」
「……ならばなおさら教えるわけにはいかない」
「なんで?」
「……捨てたからだ」
「捨てた?」
「名前は、捨てた。必要ないからな」
「……でも……」
 ―――ジュリアさんは、知ってるんだよね。
 胸中のみで呟くと、リュカは訝るように首を傾げた。そんな彼に何でもないよ、わがまま言ってごめんね、と微笑を返した。リュカはまだ納得いかないようにティルデを見下ろしていたが、やがて視線を森の奥へとめぐらせた。
 ティルデはそんなリュカの横顔をそっと盗み見た。
 黒瑪瑙の、優しい瞳。その瞳を、ひとり占めしたいと何度思っただろう。
 けれどそんなことできない。
 リュカの傍にいてもいいのは、ティルデじゃない。
 ジュリアは、ティルデの憧れだった。
 綺麗で優しくて温かくて。ジュリアがこの村で暮らすようになってからは、姉ができたようで嬉しかった。ジュリアなどいなければよかったのに、なんて、思ったことなど一度も無い。ティルデはジュリアのことが本当に大好きだ。
 けれどそれと、哀しくないのとは違う。
 ジュリアが好きで、けれどリュカを諦めることもできなくて、だからこそ胸が、千切れそうに痛い。リュカを想うたび、罪悪感で心の奥が軋む。
「ティルデ?」
 歩き出したリュカが、立ち止まったままのティルデを振り返る。早くおいで、とその瞳が言ってくれているようで、泣きたくなった。
「はい……っ」
 最初から、叶わない恋だった。
 わかった上での恋だった。


13 :緋桜 :2007/05/16(水) 19:55:58 ID:ommLPmsk



 私をあげる。
 私を、一生好きに使っていい。
 私は一生あなたのものでかまわない。
 だから。
 だから――


14 :緋桜 :2007/05/16(水) 20:03:23 ID:ommLPmsk



 ティルデの家を訪ねると、家の前で話していたのは珍しい組み合わせだった。いや、珍しいというよりむしろ、初めてかもしれない。そこにいたのは、シオンとこの村の領主。そしてその従者だった。
「これはこれは。久しぶりだね、ジュリア嬢」
「領主様……」
「こんなところで会うだなんて奇遇だね」
「はい……。珍しいですね……。領主様が、村の方へいらっしゃるだなんて」
「うん?いや、少し野暮用でね」
 ジュリアに気付いた金髪に深緑の目をした青年が、朗らかに笑う。彼はこの村の領主だ。だが森の中の大きな屋敷に住んでいて、村に訪れることはめったに無い。先年亡くなった父親の跡目として領主となった彼はまだ若く、立ち振る舞いも洗練された美丈夫だ。少年時代は都住まいをしていたらしく、村に住まう若者とその雰囲気は明らかに違う。そう言った意味では、少しリュカと似ているかもしれない。
 だがジュリアは、この男のことがどうしても苦手だった。
 理由など無い。
 ただジュリアの中の何かが、この男を拒絶していた。
「しかし……相変わらず君は美しいね」
「……そんなこと……」
「薬師殿のものでなければ、私のものにしてしまいたいくらいだよ」
「……」
 ―――そうか。
 この目だ。
 異形とさえ言える容姿を持つジュリアのことを人とは思わず、ただ美術品の品定めをするかのようにジュリアを眺める瞳。
 領主のジュリアを見つめる目は、あの頃、ジュリアの元に訪れていた男たちの目とまるで同じだ。彼は、彼らは、決してジュリアと同じところには立たない。はるか高みからジュリアを見下ろす―――見下す。
 そのことに対しては、何の感情も起こらない。当然だと思う。ジュリアはそう扱われて当たり前なのだから。
 ただ、体中を這い回る蛇のような彼の視線が不快で仕方ないだけだ。
「主、そろそろ……」
「あぁ。そうだね。
 では、ジュリア嬢。私はこれで失礼するよ」
「……はい」
 従者に促され、領主は去っていった。
 ジュリアの身体に、いいようのない不快感を残して。
「……何を話していらしたんですか?」
「別に、何も」
「……」
 にこりと笑って、シオンは答える。微笑んでいるのに、それは紛れも無い拒絶だった。
「ジュリアさん、ティルデに用?」
「え……。あ、はい……」
「僕は出かけてくるから」
「……はい。お気をつけて」
「うん」
 歩き出したシオンを見送る。シオンは一度も振り返らなかった。


15 :緋桜 :2007/05/17(木) 20:55:13 ID:ommLPmsk



 ノックをしたが返事が返ってこない。シオンはティルデは中にいるといっていたのに、どうしたのだろう。
「ティルデ?入りますよ」
 一応声をかけ、ジュリアはドアを開けた。
「ティルデ……?」
 シオンの言ったとおりティルデは部屋の中にいた。部屋の中央においてある机に向って座っている。だがノックの音にもジュリアにも気付いていない。
「ティルデ?」
「え……っ」
 近付いて肩に触れると、ティルデはようやく顔を上げた。その顔は、少し顔色が悪いような気がする。
「返事が無いので勝手に入らせていただいたのですが、どうかしましたか……?」
「あ……ごめん……。ちょっと考え事してた……」
「考え事?」
 机の上で組まれた手にティルデは目を落とす。白く美しい、けれど赤切れた指が忙しなく組みかえられる。その手は少し震えている。
「ティル……」
「ジュリア」
 名前を呼ぼうとしたジュリアの声を遮り、ティルデが再び顔を上げる。シオンと同じ色をした碧い瞳がどうしてこんなにも曇っているのか。机の上で組んでいた手をほどき、その手を伸ばしてティルデはジュリアの服を掴む。
「ねぇ、ジュリア。あたし前ね、ずっとジュリアと一緒にいたいって言ったこと、あったよね」
「……えぇ。覚えていますわ」
「あれね、本気だよ。本当に、ずっと、ジュリアと一緒にいたいんだよ。ジュリアのことも薬師様のことも、好きなの。大好きなの。だから……ッ」
「ティルデ?どうしたのですか、落ち着いてください」
「あたし……あたし……ッ」
 泣き出す寸前のように、ティルデの表情が歪む。けれどティルデは、泣かなかった。泣かずに、泣きそうな表情のまま笑って言った。
「あたし、ジュリアと、薬師様に会えてよかった」


16 :緋桜 :2007/05/20(日) 15:26:30 ID:ommLPmsk



「ティルデがおかしい?」
 夕食後、摘んできた薬草を煎じていたリュカが顔を上げる。ジュリアはホットミルクを手に、リュカの隣に腰を下ろした。
「えぇ。今日の昼間に伺ったときに、様子がおかしかったんです」
「……」
「それに……」
「『それに』?」
「家の前で、シオンと領主様が話してらしたんです。領主様が村の方へいらっしゃるのも珍しいですけど、あの二人が一緒にいることも、初めてですから……」
「……」
 そのこととティルデに元気が無かったことが関係あるかどうかはわかりませんけど、と付け加えると、リュカは手を止め、考え込むように俯いた。長い睫毛が、白い頬に影を落とす。自分から切り出した話なのに、今、リュカの頭の中がティルデのことで占められていることに寂しくなった。
 隣に座るリュカの方に頭を預ける。どうした?と尋ねる声に、泣きたくなった。
 どうしてもっと、普通じゃいられないんだろう。
 リュカがほしくてたまらない。リュカを独り占めしたい。ジュリア以外の誰も、見ないでほしい。ジュリアだけのものでいてほしい。
 そんなこと、叶うわけないのに。願うことすら許されないのに。
 出逢ったときから、ジュリアはリュカのものだった。
 けれどリュカは、ジュリアのものではない。ジュリアのものにはならない。
 それでかまわなかったはずなのに。
 リュカがティルデのことを思うたび、ジュリアではない人に微笑みかけるたび、苦しくてたまらない。
 リュカがいなければ、ジュリアは息もできない。
 出逢わなければよかった、とは思わない。そんなことは言えない。
 けれど出逢わなければ、こんな苦しい思いはしなくてすんだ。
 それだけは確かだ。
「……リュカ」
「何だ?」
「……リュカ」
「……?」
 名前を呼ぶ。その存在を確かめるように。ジュリアしか知らない名前を呼び続ける。
 これは、呪縛だ。
 肌を重ねることも心を通わすこともできないからせめて、こうして自分の元に繋ぎとめておこうとしている。
 布越しに伝わるリュカの体温に甘えるように、ジュリアはリュカに寄り添った。


17 :緋桜 :2007/05/21(月) 19:45:02 ID:ommLPmsk



 笑った表情がすきだった。
 泣いた表情がすきだった。
 彼女のすべてが、すきだった。
 彼女だけがシオンのすべてで絶対で、唯一だった。

『本気なの?ティルデ』

 数週間前交わした会話を思い出す。
 柔らかな、太陽の色に似た金の髪。青い瞳は、シオンと同じ色なのにシオンのそれよりもずっと穏やかで温かだった。その瞳に映るのは、シオンだけだったのに。その瞳が悲しみに染まらないように、ずっと守ってきたのに。
 同じなのに、違う。傍にいるのに、こんなに遠い。
 ねぇ。
 僕を見て。
 僕だけを見て。
 それだけでいいのに。
 いつから君は。

『薬師様には、ジュリアさんがいるんだよ?なのに、なんで』
『わかってるよ。シオン』

 どうして僕を映す君の瞳は、そんな悲しい色をしているの。どうして君にそんな顔をさせているのは僕じゃないの。

『確かにバカなことかもしれない。こんなことしたって、薬師様が振り向いてくれるわけじゃない。喜んでくれるわけじゃない。でも、それでも、いいの』
『ティルデ……』
『ごめんね、シオン。でももう決めたの』

 そう言ってシオンを見つめるティルデは、シオンの「姉」でも十五歳の少女でもなく、女だった。
 シオンは知らない。こんなティルデは。こんなの、ティルデじゃない。
 ティルデは。
「シオン」
 名を呼ばれ、シオンははっと我に返る。いつの間にか、シオンの前には背の高い青年が立っていた。領主の従者、ファリオスだ。
「……」
「主が呼んでいる」
「……」
「来なくてもかまわないが、後悔するのはお前だぞ」
「……」
 彼の言わんとしていることはわかっている。今日が約束の日だ。今日、ティルデは―――。
「ねぇ」
「……」
「あなたはどうして、領主様に仕えているの?」
「……」
「お金のため?地位?名誉?どうしてあなたは、あの人を選んだの?」
 十年以上前、領主がこの村に訪れたときから、ファリオスは領主につき従っていた。領主より二つか三つほど年上に見えるこの青年は、どうしてあの男を主と定めたのだろう。
 ―――あんな男を。
「……あの方が私のすべてだからだ。あの方のために、生きると決めた。それだけだ」
「答えになってないよ。僕が訊きたいのは、どうしてそう思ったのか、だよ」
「では、お前はなぜだ?」
 逆に問い返され、シオンは言葉に詰まる。ファリオスは表情を変えず、問うてくる。
「なぜお前は、あの娘にそんなにも執着する?そんなにも執着しているのに、どうして手離せる?」
「……」
「人の心など、わからぬことばかりだ。人の心には邪も鬼も棲んでいる」
「……」
 はぐらかされた、とわかった。けれどそれ以上問うことはしなかった。
 行かないのか、ともう一度だけ促され、シオンは彼に続く。もう言葉は交わさない。二人とも黙って歩く。けれどシオンには先程ファリオスに与えられた問いの答えがわかっていた。
 答えなんて、ひとつしかない。
(僕が、ティルデのことを―――)
 すべてで、絶対で唯一の存在。
 君を失ったら、どうやって生きていけばいいんだろう。
 君のいない世界を、僕は知らないのに。君のいない世界なんて、僕は要らないのに。
「貴様らのような下衆と同じ空気を吸っているというだけで、虫唾が走る―――!!」
 森を抜けて家が見えてくると、家の方から激しい嫌悪を孕んだ領主の怒声が聞こえた。
 ―――あぁ。
 日常(せかい)が終わる。終わってしまう。
(―――違う)
 そうじゃない。
 シオンの世界は、ティルデと二人きりでなくなったときに、終わっていたのだ。


18 :緋桜 :2007/05/22(火) 20:14:27 ID:ommLPmsk



 リュカに言ったとおり、ここのところティルデはおかしい。
 ジュリアたちの家に顔を出さなくなったし、山菜取りにも出かけていないようだ。他の村人たちの話によると、家の中に閉じこもってばかりいるらしい。何かあったのかと訊いても、誰も何も知らないのか何も教えてくれない。
 だから、今日はジュリアの方から会いに行くことにした。

『君は本当に、花を育てるのがうまいな』

 庭に咲いた花を摘み、花束を作るジュリアを見ながら、リュカは呟くようにそう告げた。リュカと出逢って三度目の春。相変わらずジュリアはいつも微笑み、相変わらずリュカはジュリアと目を合わせようとしない。

『花束を作って、誰かにあげるのか?』
『ティルデに差し上げようかと。ここのところ元気がないようなので……』
『……そうか。君は優しいな……』

 ポツリと、こぼすようにリュカが笑うようになったのは、いつからだろう。リュカの笑みを見るたび、千切れそうに胸が痛い。
 記憶の中のリュカにさえ傷付く自分は、なんと滑稽なのだろう。
 何度も通った道を歩く。三日に一度は尋ねてくるティルデほどではないが、ジュリアもよく二人の家に訪れていた。シオンは感情の読めない瞳で一瞥するだけだけれど、ティルデはいつもジュリアを温かく受け入れてくれた。いつも変わらず微笑んでくれていた。
 けれど今日は、様子がおかしい。家の前に見慣れぬ馬車が停まっている。
 この村で馬車など有しているのは、領主だけだ。状況がつかめず立ち止まると、家の中から領主とともにティルデが出てきた。二人は二言三言何か言葉を交わし、俯いたティルデの肩に、領主が手を置く。そしてそのまま促すように、二人して馬車に乗り込もうとした。
「―――ッ待って!!」
 わけがわからない光景を目の当たりにしたジュリアは、思わず叫んだ。二人が足を止め振り返る。ティルデの青い瞳が強張るように大きく開かれる。
 思わず放り出した花束が落ちる音がかすかに聞こえた。
「ティルデをどこへ連れて行く気ですか!?」
「ジュリア……」
「これはこれは、ジュリア嬢」
 領主は深緑の瞳を細めて笑う。
 ―――ゾクリと、腕が粟立った。不快感が体中を駆け巡る。どうしようもない嫌悪がこみ上げてきた。
「連れて行く、などと人聞きの悪い。私はティルデを私の屋敷にお迎えするだけですよ」
「は……?」
「ティルデはいずれ、私の妻となるのですから」
「な……ッ」
 一瞬、彼の言っていることが理解できなかった。混乱して言葉が見つからず、ジュリアはティルデを見つめる。ティルデは、何も答えなかった。答えずに、ジュリアの視線から逃げるように顔を背けた。それが何よりの肯定だった。
「ティルデ……」
「さぁ、行きましょうティルデ」
「……はい……」
「それではごきげんよう、ジュリア嬢」
「待……ッ。待って、待ってください……ッ」
「―――触るな!!」
 ティルデの肩を抱き、馬車に乗り込もうとした領主の腕に、ジュリアは思わずすがりつく。その手を、領主は振り払う。そして今まで見たこと無い形相で、ジュリアを睨み付けた。
「殺人鬼にまで身体を売った卑しい売女めが!!」
「―――ッ」
「貴様らのような下衆と同じ空気を吸っていると思うと、それだけで虫唾が走る!!」

 


19 :緋桜 :2007/05/23(水) 20:02:51 ID:ommLPmsk



 銀の髪と紫の瞳。
 その類稀なる容貌のせいで、五つのときに生まれた村から人買いに攫われた。売られた先の村でも別の人買いに攫われ、そうして転々とするうちに流れ着いたのが、西の都の遊女屋だった。
 十三のときから客を盗るようになり、暗い部屋で日々を過ごした。身の回りの世話をする遊女見習いの女の童と遊女小屋の女主人、そしてジュリアを買いに来る客の男以外とは言葉を交わすこともなく、昼はただぼんやりと窓から外を眺め、夜は男たちに物のように扱われていた。どんな綺麗な着物を着せられても、自由に空を飛ぶ翼を持たないジュリアには、すべてが無為で空虚だった。
 自分という命はこうしていき、朽ちていくだけのものなのかと、自らの運命を嘆くことにも疲れ、あの頃のジュリアは生きていると言うよりもただ、生かされているだけだった。
 そんなぬるま湯のような日々が続いていたある夜、数日間体調が優れず、客も取らずに部屋でうずくまっていたジュリアの耳に、複数の男の叫び声が聞こえてきた。下で客の男が騒いでいるのだろうか。月明かりのみの光の中でそんなことをぼんやりと考えていると、部屋の戸が開けられ、男が一人飛び込んできた。黒い髪に黒い瞳、黒い服と、全身を黒で覆われた、烏のような男だった。
 ぼんやりと少年を見やるジュリアの口を、少年の手が塞いだ。
 その瞬間、暗い空を稲光が走り、窓から差し込んだ光が二人を照らした。
 一瞬だけ見えた少年の手は驚くほど色が白かった。
 驚くほど白い手は、驚くほど冷たくて、まるで、血が通っていないかのようだった。
「声を出すな」
 変声期を終えたばかりのような声で、少年は告げる。落ち着いた雰囲気を纏っているが、歳はジュリアとそう変わらないのかもしれない。
「騒がなければお前に危害を加えるつもりは無い。ここを通して欲しいだけなんだ」
 ジュリアに抵抗するつもりがないことを悟ると、少年はジュリアを解放した。そしてすばやく部屋の中に視線を巡らせ、窓の方へと向かい、桟に手をかける。
 けれどジュリアは、その背を呼び止めた。
「……お待ちください」
 声を出すのは、何日ぶりだろう。ここ数日誰とも話していなかった。
 少年は振り返る。動きに合わせるように、結わえられた黒の髪が揺れる。
「見逃して欲しいのなら、条件があります」
「……条件、だと?」
「えぇ。ここを通りたいのなら、どうぞお通りになって。その代わり、私を連れて行ってください」
「……何だと……?」
「連れて行ってくださらないのなら、人を呼びます」
 少年は心底驚いたように目を見張った。けれどすぐ我に返ったように眉をしかめた。
「……お前は勘違いしている。俺はお前を殺していくこともできる。お前が叫ぶより早く、お前の喉を掻き切ることが、俺にはできる。お前は俺より優位に立っているわけでは……」
「私をあげる」
 ジュリアの言葉に、今度こそ少年は言葉を失った。
 黒曜石の瞳は、目の前に立つ美しき遊び女を凝視する。
 ジュリア自身、自分がどうしてそんなことを言い出したのかわからない。
 けれどそのときジュリアは、この人についていきたい、そう思った。
 初めての、心からの願いだった。
「私をあげる。私を、一生好きに使ってもかまわない。だから」
 だから私を、ここから出して。

 


20 :緋桜 :2007/05/25(金) 21:28:37 ID:ommLPmsk



 ティルデの家からどうやって帰ってきたのか、覚えていない。いつの間にか現れたシオンに手を引かれ、いつの間にか家の中にいた。
 たったあれだけの間に、いろんなことがありすぎて、頭が上手く動かない。
 どうしてティルデが領主の元に嫁ぐのか。どうして領主がリュカの、ジュリアの過去を知っているのか。
 わからない。
「……」
 膝の上で握ったこぶしを、シオンの手が包み込む。ジュリアは驚いて弾かれたように顔を上げる。すぐ目の前で、シオンが笑みを浮かべていた。
「大丈夫?ジュリアさん」
「……」
「顔色が悪いよ。少し眠る?薬師様が帰ってくるまで傍に……」
「どうして」
「……」
「どうして、ティルデが薬師様の妻になどなるの!?ティルデは、ティルデは……ッ」
「何を怒ってるの?」
「……ッ」
 肉付きの薄い手が、ジュリアの首筋を這う。はりつくような不快感。身を引こうとしても、押さえつけるシオンの力が強くて抗えない。
 シオンはジュリアを引き寄せ、囁くように告げた。
「何を怒ることがあるの?これで薬師様はジュリアさんだけのものなのに」
「……ッ」
「ずっと邪魔だったんでしょう?薬師様に愛されてティルデのことが。ジュリアさんのリュカ様を独り占めするティルデのことが」
「―――ッやめて!!」
 思わずシオンを突き飛ばす。突き飛ばそうとした。けれど叶わず、逆にその腕を掴まれ、椅子から引き摺り下ろされた。床に組み敷かれ、馬乗りにされる。肩口を押さえつけられて体の自由を奪われる。
 恐怖は無かった。
 怖いのは、シオンではなかった。
「……ッ」
「ずるいね、ジュリアさんは。知っていたのに、ずっと。ティルデが薬師様をすきなことも、薬師様がティルデをすきなことも。知っていて、薬師様の傍にいたんでしょう?」
「……」
「薬師様のことすきなくせに、薬師様の幸せ、自分で壊してたんだよね」
 ギリ……と肩を押さえるシオンの手に、力がこめられる。皮膚に爪が食い込む感触に、ジュリアは顔を歪める。
「……ティルデは、領主様の嫁になんてならないよ」
「じゃ……ぁ……」
「中央とつながりのある貴族が、こんな辺境の地の村娘なんか妻に迎えると思う?そんなわけない。ティルデは侍女としてあの屋敷に入る。領主様の世話係としてね。運がよければ、領主様の妾になれる。でもせいぜいあの男の慰み物になっていいように遊ばれて、飽きたら捨てられるのが関の山だよ。ティルデもそれをわかってる。わかってて、あの男の元に行くんだ」
「それがわかってて、あなたはどうしてティルデを行かせたの!?あなたがティルデに行くなって言えば、ティルデだって……ッ」
「無理だよ」
 睫毛が触れ合うほど近くで、シオンが囁く。互いの吐息で肌が湿る。ゾクリと腕が粟立つけれど、どうしても身体が動かない。
「ティルデはもう、僕のためには生きてくれない。僕を一番に愛してはくれない」
「シオン……」
「……薬師様と出逢ったときから、ティルデは僕だけを見てくれなくなった」
「―――あッ」
 シオンの手が再びジュリアの肌を這い、たどり着いた細い首を締め付ける。一瞬にして、呼吸が上手くできなくなる。酸素を求めて喘ぐジュリアにシオンは顔を寄せ、そっと呟く。
 睦言のように甘く、呪言のように禍々しく。
「ティルデは幸せになんてなれないよ。幸せになるなんて、僕が許さない」
「な……で……」
「あなたと同じだよ。あなたも、思ってるんでしょう?自分以外の女の傍で、薬師様が幸せになるなんて許せない、って」
「そ……なこと……」
「わかるよ。だってあなたは、僕と同じだもの」
 ジュリアの細い首を掴む手の力が増す。この少年の身体のどこに、そんな力があるというのか。
 殺される。
 だめ。
 死ぬなら、いっそ―――。
「何をしている!?」
 意識が遠のきそうになった瞬間、呼吸が楽になる。解放されたジュリアは盛大に咳き込む。まだ朦朧とするまま身体を起こすと、シオンが地面にしりもちをついていた。そしてそれを、リュカが見下ろしている。
「リュ……」
「何をしている!?彼女に何をするつもりだったんだ!?」
「……うるさいなぁ」
 激昂するリュカにかまわず、シオンは立ち上がる。ジュリアが解放されたのは、リュカがシオンの襟首を掴んで彼女の上から引き摺り下ろしたからのようだ。
 乱れた襟を整えながら、シオンは鼻で嗤う。それは、普段のシオンからは想像もつかない傲慢な態度だった。けれどジュリアにはわかる。これがシオンの「地」だ。
 悪魔は天使の皮を脱ぎ、牙を剥く。
「シオン……君は……」
「こんにちは、薬師様。―――いいえ、リュカさん」
 ジュリアとリュカは、同時に息を呑む。
 シオンの唱えた名は、シオンの知るはずのないリュカの名前だった。
「―――!?なぜその名を……」
「その様子じゃ、何も知らないみたいだから教えてあげる。ティルデはね、もうこの村にはいないよ。あなたのせいで、ここからいなくなったんだ」
「何のことだ……」
「ティルデが……領主様の元に……」
「ティルデはね、領主のものになるんだよ。あなたのせいで、ね」
 ジュリアの言葉を、シオンが遮る。
 天使のような容貌を歪めて悪魔は嗤った。
 愉しげに、残酷に。
 この世のすべてを憎むかのように。
 そして、吐き捨てるように告げた。
「二年前、西の都のある貴族とその情婦を殺し、遊女屋の女を連れて逃げた殺人鬼。
 あなたの罪を見逃す代わりに、領主はティルデを手に入れたんだ」

 


21 :緋桜 :2007/05/27(日) 22:04:27 ID:ommLPmsk



 親はいない。
 いたのだろうけれど、覚えていない。
 気が付いたときには、男と共に暮らしていた。
 男に飼われていた。
 始めのうちは男の身の回りの世話をされていたが、長ずるにつれ、夜の相手もさせられるようになった。そうしなければ、生きていけなかった。
 最初の夜、男はリュカを無理やり組み敷き、手首を縛り、口に物を詰め、事に至った。嫌がって抵抗すると鞭で打った。新しい傷を刻まれるたび痛みにうめくリュカを見て愉しむかのように。
 男には、情婦らしき女も何人もいた。昼間から睦み会う男女の姿を、何度も見せつけられた。男の元に訪れる女はみな美しく、従順で、そんな男がどうしてリュカを傍に置いておくのはわからなかったけれど、リュカが男の一番の気に入りだった。男はリュカを飾り立て、いつも傍に置きたがった。愛していると囁きながら、リュカの身体を痛めつけた。
 生き地獄とは、きっとあのようなことを言うのだろう。閨以外での男はリュカにいつも優しかったが、そんなの、慰めにもならなかった。
 けれど、死ねなかった。
 それは、ただ死ぬのが怖かったからだ。
 辱めを受けて、生き恥を晒して。それでもリュカは生きたかった。死にたくなかった。―――だから、殺した。
 嫉妬に狂った男の情婦に首を絞められ殺されかけたとき、机の上に置かれた果物ナイフで女の胸を刺した。
 返り血で染まる、白い手。あの男に愛でられていた手が、鮮血に濡れている。
 どうして。
 なんで。
 どうしてこんなことに。
 誰のせい?
 何が、どこで間違えた?
 男がリュカを拾わなければ、男と出会えなければ、男さえ、いなければ。
 ―――わあぁぁぁぁぁ!!
 錯乱状態に陥り、女の胸からナイフを引き抜き、男を刺した。背後から一突き。生死は確かめていない。怖くて、確かめられなかった。
 屋敷を逃げ出しても、リュカに行くあてなどなかった。今までリュカは男の傍で、男の相手だけして生きてきた。リュカの世界は男が与えるものだけで完結していて、それ以外、何も無かった。苦痛と屈辱の対価に、男はリュカに安寧をくれていた。男の庇護の中で、リュカはただ生きていればよかった。けれど男は、もういない。リュカが殺した。血で汚れた手を洗い流す雨を遮ることさえ、リュカにはできない。
 お尋ね者となったリュカは、とにかく逃げた。食べ物を探してゴミ捨て場を漁り、それでも見つからないときは盗みを働いた。生きるために、更に罪を重ねていった。とにかく遠くへ、この国を出て、誰もリュカを知らない地へと行こうと、逃げ続けた。
 そして。
 暗い牢獄に閉じ込められていた、女神と出逢った。


22 :緋桜 :2007/05/30(水) 21:54:29 ID:ommLPmsk



「ど……して……そのことを……」
 シオンが、ティルデが知っているはずないのに。そのためにリュカはこんな辺境の村まで逃げてきたのに。
 顔色を失うリュカを嘲るかのように、シオンは嗤う。15歳の少年にしては、あまりにも禍々しく。
「ねぇ、どんな気持ち?育ててくれた人を殺すのは。人を殺しておきながら、人を愛するのは」
「……」
「どんな気持ちで、ティルデに触れた?どんな気持ちで、ジュリアさんを傍に置いていた?どんな気持ちで、ティルデを愛した?」
「―――ッやめて!!」
 叫んだのは、リュカではなくジュリアだった。
「どうしてあなたがそんなことを知っているの!?なぜ……ッ」
「教えてくれたんだよ、領主が」
「領主様が……?」
「詰めが甘いよ。あの人は中央とつながりがあるからね。あなたは知らないだろうけど、あなたが殺した貴族は公爵家の人間で、あなたの首には懸賞金もかけられてるらしいよ」
「……」
「『君が私のものにならないのなら、私は悲しみのあまり中央の役人にあの薬師のことを告げてしまうかもしれないな』。
 領主様はティルデにそう言った。
 そんなことを言う男の元で、ティルデが幸せになれると思う?なれるわけないよね」
「じゃぁティルデは……リュカのために……」
「違うよ、薬師様のせい(・・)だ」
 シオンはジュリアに向かって微笑む。けれど瞳は少しも笑っていない。蒼い瞳には、悲嘆とも憎悪ともつかない冷たい炎が燃えている。
「愛した男の過去の罪のせいで、ティルデは愛してもない男のものになるんだ。
 ばかだね。幸せになんか、なれるはずないのに。
 ……そうだよ。ティルデが幸せになるなんて、僕は赦さない」
「どうして……ッ」
「……」
「あなたとシオンは、双子の姉弟でしょう?お父様が亡くなってから、ずっと二人で生きてきたのでしょう?ならどうしてあなたがそんなことを言うの……ッ」
「訊いてばかりだね」
 シオンは顔を歪める。それは笑顔ではなく、かといって泣き顔でもなかった。
 シオンは一度目を閉じ、ゆっくりと睫毛を上げた。ティルデとは違う濃茶の髪と同色の睫毛の奥から覗く青の瞳は、不気味なほど静かに澄んでいた。
「愛してるから」
「は……?」
「愛してるから。ティルデのこと。世界で一番、ティルデのこと愛してるから。だから僕がティルデを幸せにしたかった」
「だ……だったら……」
「なのに!!」
「……ッ」
「僕とティルデは、ずっと一緒にはいられない。ティルデは、ずっと僕の傍にはいてくれない。僕だけを見てはくれない。いつか僕から離れていく。今だってそうだ。もうティルデは、僕だけを見てくれない。ティルデの一番は、もう僕じゃない……ッ」
 ティルデは、リュカと出会い恋に落ちた。一人の女として、リュカを愛している。それは、シオンにとって酷い裏切りだった。赦せるわけが無い。
 けれど。
「でも、それでも僕はティルデを愛してる」
「……シオン……」
「だから僕は、ティルデの不幸を望むんだ。僕の手で幸せにしてあげられないなら」
 いっそ。
 不幸になればいい。
 そう言ってシオンは、凄絶に笑った。


23 :緋桜 :2007/06/01(金) 22:17:12 ID:ommLPmsk



 半年前の月の明るい夜。
 意識をなくしたジュリアを運び込んだ村で、リュカは彼女と出逢った。
 苦しげに唸るジュリアの手を握る。森の中で蛇に噛まれてしまったジュリアは、昨日から熱が下がらない。毒を吸い出し、煎じた薬草を与えたが、様子は変わらない。
「……ジュリア……」
 握り締めた彼女の手を額に寄せ、名を呼ぶ。自分が付いていながら、彼女をこんな目に合わせてしまうなんて。もしもこのままジュリアを失ってしまったら――そう思うと、ぞっとする。
「具合……どうですか?」
 ドアが開き、リュカは慌てて手を離す。意識の無いジュリアを連れて駆け込んだ家には、少年と少女が住んでいた。顔立ちがよく似ているから、姉弟だろうか。二人で住んでいるのか。まだ幼いのに、親はどうしたのだろう。そんなことをぼんやり考えた。
「……すまない」
「いいえ。……早く、よくなるといいですね」
「あぁ……」
 夜中に突然押しかけてきたリュカたちを、少女は嫌な顔せず受け入れた。今もジュリアのために、井戸から冷たい水を汲んできてくれたようだ。
「熱……下がらないんですか?」
「……あぁ」
「この村に……お医者さんはいないんです……」
「……処置はした。薬も煎じた。後は……彼女次第だ」
 もうリュカにできることは無い。
 どうしてリュカは、こんなにも無力なのだろう。
 膝の上に置かれた手を、震えるほど強く握り締める。汚れたこの手で掴めるものなど、やはり何も無いのだろうか。リュカは結局、何も守れないのか。
「……大丈夫ですよ」
「……っ」
 リュカの手を、少女の小さな手がそっと握る。水仕事のせいか、その手は少し荒れてしまっている。けれどとても、温かい。
「大丈夫です……きっと。信じましょう」
「……」
「大丈夫」
 涙が、出た。
 温かな手に、張り詰めていた心が融けていく心地がした。少女の言葉に、安堵した。少女に与えられる温もりにすがるように、リュカは泣いた。

 


24 :緋桜 :2007/06/03(日) 21:13:51 ID:ommLPmsk



 私をあげる。
 そう言ったあの日から、ジュリアはリュカのものだった。
 リュカのために生き、リュカによって生かされるもの。
 けれど、本当は。
「……もう、五日になりますね」
「あぁ……」
 僕はティルデの不幸を望む。
 そう言って笑った日の夜、シオンは村から姿を消した。姉であるティルデの元にも訪れていないらしい。どこへ行ったのかは、誰も知らない。生死すらもわからない。
 ティルデのことを、女として愛していると言ったシオン。純粋すぎる愛情は、時として狂気のように捻じれてしまうのだと、凄絶に笑うシオンを見てジュリアは思った。
 けれどシオンは、ジュリアの姿でもあった。
 愛し方も知らないのに、求めて、欲して。傍にいたくて、自分だけのものにしたくて。
 このままではジュリアも彼と同じように、リュカの不幸を望むようになるだろう。愛してもらえないのなら、ジュリアとともに幸せになってくれないのならいっそ、と。
「……リュカ」
「なんだ……?」
 名前を呼ぶと、リュカは答えてくれる。けれど決してジュリアの目を見ない。
 だからこそジュリアはリュカを見つめていられた。二人の視線が決して絡まないからこそ。
「……私は」
 向かい合っていても視線がすれ違ってしまうのは、きっとリュカのせいだけではない。過ごした時間が増えるたび、ジュリアもまた、胸の中にリュカに対する罪悪感が積もっていった。リュカと向き合うことが怖くなっていた。
 向き合えば、本音を晒しあえば、きっとそこで終わってしまうことがわかっていたから。
 終わりにしなくてはいけないことがわかっていたから。
 だから、もう。
「私は、あなたのものです。あなたのために生き、あなたによって生かされているもの。あなたは私を、すきに使ってかまいません。
 けれどあなたは、私のものではありません。……だから」
 ここに、捨てて行ってかまわない。
 そう告げると、リュカは表情を歪めた。今にも泣き出してしまいそうな、道に迷った子どものような表情。
 どうしてあなたがそんな表情をするの。
 あなたは、私のために泣いたりしないで。
 私は最初から、あなたに酷いことばかりしているのだから。
 あなたを一目見たとき、私は。
「……どうして、いきなりそんなことを言う」
「初めて逢ったときから、あなたは私の神様でした」
「……」
「私を、死へと誘ってくださる死神。……わたしは、あなたの傍で生きることで、あなたの傍に死に場所を探していたんです」
 遊女屋で男の相手をして生きていた頃、ジュリアが何よりも望んでいたものは死だった。
 けれど一人で死んでいくのは嫌だった。淋しかった。
 だからジュリアはあの夜、リュカの手にすがった。
 血に染まった手だからこそ、ジュリアには愛おしく思えた。
 そう。
 確かにリュカを愛していた。愛しいと思うところはあった。けれどその愛情はあまりにも打算的で、決してティルデのような恋心ではなかった。
 人を殺めた罪の意識の間で揺れ動くリュカにとって、ジュリアは一番残酷なことを望んでいたのだ。
「私、知っていました。あなたがティルデをすきなこと。ティルデもあなたをすきなこと。私のせいで、二人がすきだと言えないこと。……知っていて、黙っていました。知っていたのに、あなたから離れられなかった。あなたをティルデに渡したくなかった。あなたの幸せを邪魔していた。全部、全部それは、あなたの傍で死にたかったからなの」
「……」
「ごめんなさい……ごめんなさいリュカ……ごめんなさい……」
「……謝らなくていい。君が謝る必要なんてない、ジュリア」
「―――ッ」
 ふいに訪れた温もりに、ジュリアは息を呑む。
 この瞬間、世界が終わってしまっても、ジュリアはきっとかまわなかった
 これは、夢だろうか。こんなこと、あるはずない。リュカがジュリアを抱きしめているなんて。
 リュカの腕の中で、ジュリアは身動きできなかった。
 初めて触れ合う肌に、リュカの体温が浸みていく。ずっと焦がれていた匂いが胸の中に広がる。欲しかったのは、この温もり。
 打算的で、傲慢で、歪な愛情だったけれど、ジュリアは確かにリュカを愛していた。
 リュカにも、愛して欲しかった。
 それなのにどうして。
 ずっと望んでいたことだったはずなのに、どうしてこんなに哀しいのだろう。


25 :緋桜 :2007/06/05(火) 21:32:01 ID:ommLPmsk



 今もまだ覚えている。
 頭を撫でる、美しい手。戦慄と驚愕で染まった瞳。人が物に変わる感触。
 人を殺して間もない頃はまだ実感がわかず、逃げることで、生きることで精一杯だった。
 悪夢が始まったのは、ジュリアと暮らし始めた頃からだ。眠れない夜を、ジュリアと共に過ごした。
 怯えるリュカを、ジュリアはずっと抱きしめてくれていた。
 ずっと傍にいてくれた。
 だからその温もりを、リュカは離せなくなっていた。

 


26 :緋桜 :2007/06/07(木) 19:35:58 ID:ommLPmsk



 思わずジュリアを抱きしめた。抱きしめてしまった。
 理由はわからない。けれどこの腕を解いてしまえばもう終わりだということだけはわかった。
「君を手放せなかったのは、君から離れられなかったのは、俺だって同じだ」
「リュカ……」
「俺は、君を……ッ」
 愛していると。
 言えたら、どんなによかっただろう。
 打算も辻褄合わせもなく、ただジュリアを愛することができたら。そう、何度思っただろう。
「……君は、俺にとっての戒めだった」
「戒……め……」
「あの夜のことを忘れないように、忘れられないように君を連れていた。そのはずだった、なのに」
「……」
「嬉しかった。君が笑うと。些細なことで喜んでくれる君の笑顔を見るたび、俺まで嬉しくなった。戒めの、償いのために君を連れていたはずなのに、そんな資格ないのに、俺は、知らず知らずのうちに何度も君に、幸せを貰っていたんだ……ッ」
 稲光の中、一瞬だけ見えた少女はとても美しく、初めて彼女を見たとき、リュカには彼女が女神のように思えた。
 銀の髪と紫の瞳。緋色の着物を身に纏い、人ならぬ色をその身に宿した彼女はただ、神々しいまでに美しかった。
 そう。
 ジュリアは、リュカの女神だった。
 彼女がリュカに微笑むたび、リュカを求めるたび、リュカは安堵した。
 ジュリアはきっと、リュカがいなければ生きていけない。そしてリュカもまた、そうであることを望んでいた。そうあるように、リュカが仕込んだ。
 欲しかった。自分がいなければ存在さえしえない「何か」。それを守っていくことで自分の存在理由を確かめたかった。
 人を殺めた夜と同じ雨の夜、逃げ込んだ遊女屋にいた少女の手を取ったのも、流れ着いた村で薬師として人々に薬を調合して生きてきたのも、すべては己の犯した罪に対する贖いだった。
 リュカは本当は、許されたかったのだ。何かを守ることで、自分の犯した過去の罪を、無かったことにしてしまいたかった。口では自分を責めながら、きれいごとを並べながら、すべては自分が赦されたいがための茶番でしかなかったのだ。
 そしてもうひとつ。ジュリアを傍に置いていた理由。
 リュカがいないと生きていけないジュリアは、リュカのすべてを赦してくれると知っていたからだ。ジュリアにとっては、リュカがすべてだと、知っていたから。
 リュカにとっても、そうだった。
 ジュリアのために、ジュリアを守るために生きていこうと誓った。
 けれど。
 そのはずだったのに、リュカは、出逢ってしまった。
 光の中で無邪気に笑う、太陽のような少女と。優しくて、温かくて、ティルデは、天使のような女の子だった。ジュリアと二人きりのリュカの世界に、ティルデはいともたやすく入り込んできた。凍えてしまったリュカの心を融かしていった。醜い世界を知らず微笑む彼女の無垢な笑顔に、リュカはどれほど救われてきただろう。ジュリアのために生きると決めたのに、いつの間にか、ティルデに惹かれている自分に気付いた。
 抱きしめたかった。この腕の中に閉じ込めて自分だけのものにしてしまいたい、そんな欲望が自分の中で大きくなっていった。
 それでも。
 リュカには、ジュリアを突き放せなかった。愛情なんて存在しないのに、手放すことができなかった。
 許されたかったのに、過去の罪をすべてなかったことにして愛する者と幸せになることも怖かったのだ。

 


27 :緋桜 :2007/06/09(土) 22:13:55 ID:ommLPmsk



 生きるために、人を殺した。生き延びるために罪を重ねた。それは決して許されることのない罪。
 けれど。
 生きたいと、そう思ったのは、幸せになりたかったから。生まれてきたからには、誰だって幸せになりたい。
 それは、そんなにも悪いことなのだろうか。

 


28 :緋桜 :2007/06/11(月) 20:21:10 ID:ommLPmsk



「……ジュリア……」
 名前を呼ばれる。それだけで、胸が痛いほどの幸せを感じる。
 幸せなのに心が千切れてしまいそうに痛いのは、きっと、ジュリアが終わりを予感しているから。
「……ありがとう、リュカ。今まで私を傍においてくれて」
 放り出そうと思えばいつでも放り出せたはずなのに。追われる身であるリュカにとってジュリアなど邪魔でしかなかったはずなのに、リュカはずっと、ジュリアの傍にいてくれた。
 ジュリアのために生きてくれた。
 出逢わなければよかった、などとは言わない。思えない。
 けれどきっと、出逢ったことは、間違いだった。出逢ったことも愛したことも寄り添ったこともすべて、間違いだったのだ。間違いに間違いを重ねても、歪みは増すばかり。一度ねじれてしまったものは、決して元には戻らない。
 だから。
「リュカ」
 リュカの胸を押し返すと、ジュリアを抱きしめていた腕はいとも簡単にほどけた。離れた二人の視線が至近距離で、絡み合う。初めて見たときと同じ、黒曜石の輝きに似た瞳が、初めてジュリアを見つめていた。
 ―――なぜだろう。
 あんなにもずっと傍にいたのに。この瞳に惹かれてジュリアはこの人についてきたのだと、たった今気付いた。
 どうして今なのだろう。
 さよならの直前に気付くだなんて、笑い話にもならない。
「迎えに行ってあげてください、ティルデのことを」
「……」
「愛してるのでしょう?ティルデのことを。……ティルデも、きっと待っています。ティルデもあなたのことを……」
「そんなこと……ッ」
 リュカの手を取り、そっと頬を寄せる。
 人は、こんなにも温かい。
 それをジュリアに教えてくれたのは、ティルデだった。そんなティルデだからこそ、リュカは彼女を愛したのだ。
「あなたの手は、人を殺めた手です。あなたが犯した罪は、生涯あなたが背負うもの。
 けれどあなたのこの手は、誰かを幸せにできる手でもあるのです」
「……」
「あなたと過ごした日々は、私にとっては幸せそのものでした。あなたの手は、私に幸せをくれました。
 だから今度は、ティルデを幸せにしてください。あなたの愛する人を」
 ジュリアには、幸福な子供時代など存在しなかったから。物心ついた頃から疎まれ、蔑まれ、物のように扱われ。愛することも愛されることも知らず生きてきた。
 けれどリュカと出逢ってから今日までジュリアは確かに幸せで、その幸せは間違いなくリュカが与えてくれたものだった。
 愛することも優しくされることも笑うことも泣くことも、すべて最初に教えてくれたのはリュカだった。
 死を望んでいたはずなのに、彼の傍で死にたかったはずなのに、他でもない彼がジュリアに幸せをくれていた。
「……いいのか……?」
「……」
「俺は、俺なんかが、誰かを、愛しても、本当に……ッ」
 俯いて肩を震わせるリュカを見て、思う。
 本当は、どうでもよかった。リュカの過去も、犯した罪も、この手が血に汚れていようと、どうだってよかった。
 それは彼の過去ごと愛していたからではなくて、現在(いま)の彼だけがジュリアのすべてだったからだ。
「リュカ」
「……」
「幸せに、なってください」
 私ではない誰かと幸せになるあなたを見るのは辛い。
 傍にいたらジュリアはきっとリュカの不幸を願ってしまう。
 だから。
 遠くから、祈ることにした。
 天上の神に祈りを捧げるように私は、遠くからあなたの幸せを祈ります。
 だって。
 出逢ったときからあなたは私のたった一人の神様だから。


29 :緋桜 :2007/06/11(月) 20:28:52 ID:ommLPmsk

あとがきに代えて

 最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
「あなたは私の世界のすべて」、完結です。

 ある日突然降りてきた『逃亡者と元遊女の恋物語』というフレーズにときめき、勢いのみで書き上げた作品ですので、反省すべきは多々あります……。
モノローグや階層の入れ方をもっと工夫しないと、特に後半時制がごちゃごちゃして読みにくいことこの上ないですね……。
 次はもう少し何とかなるように頑張りますので、よろしければまた次回作も目を通してくださると嬉しいです。


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