初めましての方もそうでない方も、改めまして(?)こんにちわ。夕咲 紅と言います。旧の方で一時期活動させてもらってましたが、訳あってずっと放置してました(汗
が、こうして活動再開することになりました。とは言っても、旧の方に未完の話がちらほらと……
心機一転! と新作の臨もうかと思ったのですが、とりあえずやはり未完作品をきちんと書き上げなくてはと思い、一番更新してなかった作品を引っ張り上げることにしました。とりあえずはリメイクということで、既存の話だけになりますが……
ちょっとずつ改筆しながら進めていこうと思っておりますので、宜しくお願いします。
好き≠セってわかってた。
お互いが、お互いのことを好き≠ネんだって。
でも、それを確かめるのが怖くて……
二人して、臆病になってて……
今もこうして、友達以上恋人未満≠ェ続いてる。
それは心地良い関係だけど、それ以上にもどかしい関係。
だから、この夏こそは――
二人の関係を、進展させるんだって、心に誓った。
それは、18歳の夏。高校生活、最後の夏休み。
俺たちは、みんなで泊まりで海に行く事になっていた……
ただ君のそばにいたくて――
俺は、今日もいつも通りを演じる。
近付くことで、今の関係が壊れてしまう気がしたから……
With capricious you -気まぐれな君と、一緒にいたいから-
ガタンゴトン――
ガタンゴトン――
そんな陳腐な擬音で済ませられるくらい、やっぱりその音はそんな音だった。
何度も聞いたことがあって、きっとこれからも何度も聞くことになる音。
だけど……
この夏だけは、今までと違った音に聞きたかった。
いや、音そのものが変わるわけはない。あくまでも、俺自身の心境に変化が欲しかっただけだ。ただ、電車に乗っているだけの時間。そんな時間でさえ、幸せと思える様に。
『次は、見浪町。見浪町――』
車内アナウンスで、俺は現実へと意識を戻した。
次の駅が、待ち合わせ場所だ。
何のって――
そりゃあ、俺たちの旅行のに決まってる。
旅行って言う程でもないかもしれないけど、俺たちは夏休みを利用して海に行くことにした。メンバーは、俺――
高校生活最後の夏休みを、海辺の町で数日過ごそう。そう言い出したのは、晴彦だった気がする。皆もそれに賛同して、計画は練られ、こうして実行に移している。
皆の予算とかの理由から、この小旅行は2泊3日。たったの3日だけど、きっと楽しい3日間になるに違いない。ただ、俺はそれ以上を望んでいるけど。
長谷川 沙知――
俺が好きな女の子。
どちらかと言えば小柄。軽く茶色がかったショートの髪に、活発そうで勝気な瞳。男勝りな性格ではあるけど、面倒見が良くて、根は優しい。特に部活には入ってないけど、運動能力はそこそこ高い。まあ、中学時代は陸上部だったらしいから、それも頷ける。頭も、そんなに悪くない。というより、多分結構成績は良い。少なくとも、俺よりは……
一応言っておくと、俺だってそんなに成績が悪いわけじゃない。平均よりは上だ。まあ、限りなく平均に近いんだけど。
そんな沙知とは、高校に入ってからの付き合いだ。
1年の時にクラスが同じになって、席も近くて――
最初は、特別仲が良かったわけじゃない。
そりゃあ、挨拶ぐらいはしたけど、ただそれだけだった。
よく話す様になったのは、委員会が決まってから。
必ずどれかには入らなきゃいけなくて、俺がしょうがなく選らんだのが、選挙管理委員会だった。理由は、楽そうだから。なんたって、年に2回しか仕事がないって聞いたからな。
そんな邪まな理由で選んだものの、うまく当選。俺はめでたく選挙管理委員になった。でまあ、沙知も選挙管理委員になったってわけ。それが、話す様になったキッカケ。
話し始めると、凄いウマが合うことがわかった。
趣味が近い。とでも言うべきか。
普段聞く音楽とか、好きな食べ物とか……
些細なことだけど、だからこそ日常として受け止められるモノ。そんなモノたちが、俺たちの共通点だった。
それからどんどん話す様になり、いつからか、俺たちはお互いを意識する様になっていた。それは、きっと傍から見ても一目瞭然だったに違いない。
ふとしたことで、お互いを感じてしまう。
気が付けば、目で追っている。
まるで、幼い恋愛の様に……
惹かれ合っているのは実感出来た。
だけど、それを確認する事はお互いにしなかった。
きっと、二人共同じ様に思っている。
一歩踏み出すことで、今の関係が壊れてしまうんじゃないか。
と……
そんな曖昧な関係を続けて、もう2年経つ。
そろそろ、この曖昧な関係に終止符を打ちたい。
だから、この旅行は俺にとってのチャンスだ。今の関係を終わらせて、一歩先に進む、大きなチャンス――
そんなことを考えているうちに、見浪町に着いていた。
気が付けば、いつの間にか開いていた扉が閉まろうとしている。
俺は慌てて電車を降りて、改札へと向かう。
皆が集まったら、またここから電車に乗ることになるんだけど、待ち合わせ場所が駅から少し離れている為、一度改札を出る必要がある。
駅を出て3分くらい歩いた所に、広場がある。
そこが、待ち合わせ場所だ。
広場の中心には、噴水を象ったオブジェ(水は出ない)がある。その前に、一人の少女が立っている。
見間違えるハズがない。
その後ろ姿は、間違いなく沙知のものだ。
「おはよう」
後ろから、俺はそう声をかけた。
「侑人、遅いっ」
そう言いながら振り返った沙知が、俺の額に右手の人差し指を当てる。
俺と背が20cm近く離れている為、少しだけ背伸びしている。それがおかしくて、つい苦笑を漏らしてしまう。
「何がおかしいのよ?」
「いや、別に」
ただ、沙知が可愛いな。って、そう思っただけ。
そんなこと、素直に口に出来るハズもなくて、心の中に閉まっておく。
「って言うか、遅くないだろ。むしろ早いくらいだ」
約束の時間は9時。今の時間は8時半。因みに、俺と沙知以外のメンバーの姿はない。
「でも、あたしより遅い」
「そりゃあ、わるぅござんした」
理不尽な言葉だが、まああくまでも事実。それに文句を言おうものなら、屁理屈を10倍にして返されるのがオチだ。
それがわかってるから、一応形だけでも謝っておく。
別に怒ってるわけじゃないから、大体それで落ち着く。
「わかればよろしい」
そう。こんな風に。
「ところで、何時からいるんだ?」
ふと気になったことを聞いてみる。まさか、朝早くからずっといるなんてことはないよな? いや、沙知ならあり得るか……?
「えっとね……10分くらい前からかな」
「そりゃまた、随分と早くから来てたんだな」
まさかってことはなかったけど、それでも十分に約束の時間よりは早い。そんな沙知の返答に、呆れ混じりに――正直、呆れ9割くらいで、俺はそう言ってやった。
「まあね〜。つい早起きしちゃって」
だけど、そんな皮肉は通じない。
ある意味、天然に近いのかもしれない。
「ついって何だよ……」
「ついはついよ。それ以上でも以下でもないわ」
と、こんな調子だ。
まあ、話してて飽きないからいいんだけど。
「それより、侑人も早いじゃない。どうしたの?」
「俺も早起きしたんだ」
「それじゃあ理由になってない」
ごもっとも。だけど、沙知も人のこと言えないんだけどなぁ。
なんて、そんなこと言ったら怒るに決まってるから、すんでの所で飲み込む。
「まあ、遅刻したくなかったから、早く家を出ただけだ」
「ふぅん」
自分から聞いといて、なかなか興味なさそうに応える沙知。
ちょっと傷付いてみる。
「どうしたの?」
「何でもない」
変化に気付いてくれたから、それで良しとしておく。
「変な侑人」
そんな呟きは、聞かなかったことにしておこう。
そんな会話をしているうちに、時間は意外と流れていて――
腕時計を見たら、もう40分になっていた。
基本的に時間にはうるさい連中ばかりだから、10分前には確実に全員揃うだろう。
つまり、もう少し沙知と話をしていれば、直ぐに全員揃うというわけだ。
「あ。二人共おはよう〜♪」
なんて考えているそばから、一人やってきた様だ。
大通り(駅とは反対側)から、黒い三つ編み(左右に2本だ)に、黒縁の丸い眼鏡をかけた少女が小走りで近寄ってくる。
香川 由里佳。旅行のメンバーの一人だ。
間延びした口調が特徴的だが、それ以上にミーハーという特徴がある。
見た目だけだと、黙っていれば暗いイメージを持ちそうだが、現実はやかましいくらいにマシンガントークを放つおそろしい奴だ。
もっとも、自分の好きなモノに対しての会話限定だが。
「おはよう」
「おはよ〜」
俺と沙知の返事に、振りまいていた笑顔をよりいっそう明るく振りまく香川。
そうだな――笑顔が絶えない。って言うのも特徴の一つだな。
なんて思っているうちに、残りのメンバーもぞろぞろと集まってくる。
というか、残り二人が一緒にやってきただけのことなんだけど。
「全員揃ったな」
そう言ったのは、今回の旅行を企画した、通称≪仕切り屋≫の伊藤。
全員頷き、伊藤へと視線を集める。
「それじゃあ、さっそく出発と行こうか」
何か挨拶があると思った俺は、思わずこけそうになってしまった。
周りを見れば、岡部も俺と同じ様な体勢だ。
女子二人は、平然と「おー」なんてノッているが。
まあ、何にせよ――
こうして、俺たちの旅行は幕を開けたわけだ。
切符を買って、改札をくぐる。
いざ、海へと向かうべく――
俺たちは、電車に乗り込んだ……
電車の中で、まるで子供の様にはしゃぐ君の姿。
それは眩しいくらいに輝いていて――
俺は思わず、そんな君に見惚れていた。
だからこそ、強く思う。
君のその微笑みを、俺一人のモノにしたい。と……
Scenery which is visible-海の見える風景-
「見て見て〜! 海が見えてきたよ〜!」
最初にはしゃぎ出したのは、言わずもがなか、香川だった。
見浪町から電車に揺られること20分。大きな線に乗り換えて、小さな町に向かうこと50分。そこから更に、ローカル線に乗り換えてから30分程経った時の出来事だった。
今まで見えていた林を抜けて、今や窓の外には海が広がっている。2時間もしない内に、海までやって来れるなんて……意外と近くに海があったんだな。なんて、ちょっと感慨に耽ってみる。
……まあ、誰からも反応はないんだけど。
沙知はもちろん、岡部と伊藤も便乗して景色に意識を向けている。まあ、その気持ちもわからなくはない。それだけ、今窓の外に広がる風景は素晴らしいモノだと思う。
「海見るのなんて何年振りかなぁ」
「オレは一昨年以来だな。去年は山だったから」
「わたしは、中学校卒業する前に行った時以来かしら〜」
「僕は去年も来たから、1年かな」
沙知の漏らした言葉に、皆がそれぞれ反応を返す。
ちなみに、俺は中2の夏以来だ。
「侑人は?」
「中2の夏以来だな」
俺にも話を振ってくれたのが嬉しくて、つい顔が綻ぶ。
急に笑顔になった(と思う)俺を見て、少しだけ訝しげな顔をした沙知だったが、直ぐに次の言葉を続ける。
「へぇ。その間、山とかには行ってたの?」
「去年は、岡部たちと一緒に山行ったけど……それ以外は、どこも行ってないな」
「何だか悲しい夏休みを過ごしてたんだね」
「うるせぃ」
ちょっと膨れてみる。
まあ、沙知も本気でそんなことを言ってるわけじゃないのはわかってるから、俺も別段本気で膨れてるわけじゃない。
「そういう沙知は、どっか行ったりしてたのか?」
「あたりまえじゃないっ。去年は、由里佳と一緒にライブに行ったでしょ。一昨年は家族と避暑に行って……海に行ったのは、その前の年以来ね」
「って言うことは〜、わたしと同じくらいだねっ」
なんて、香川が割り込んでくる。
卒業前に行ったって言うなら、時期的には結構違う気もするけど……
まあ、このメンバーの中では確かに一番近い時期になるのかな。
『次は、瀬口。瀬口』
なんて考えていると、車内アナウンスが流れてきた。
どうやら、次が降りる駅らしい。
「次だな」
なんて言ったのは伊藤。全員、その言葉に頷く。
確か、駅を降りてから少し歩いた所に宿泊先があるって言ってた気がする。まあ、伊藤の言葉だから、その少し≠ェどれくらいなのか気になるところだけど……
宿の手配とか全部任せっきりにした手前、問い詰める様な真似も出来ずにいた。
まあ、歩けない距離なんてことはさすがにないだろう。大丈夫だよ、な? ちょっと不安になってきた……
駅に着き、俺たちは電車を降りた。
宿の場所を知ってるのは伊藤だけなので、ここから先は伊藤に先導してもらわなければ誰も進めない。
「さて」
なんて切り出した伊藤に、なぜか不安を覚える。
何となく、嫌な予感がするんだよな……
俺以外の奴らもそう思ったのか、何となく不安そうな表情をしている気がする。
「皆には残念な知らせがある」
「何だよ?」
無謀にも(?)、そう聞き返したのは岡部。
せっかちな岡部らしく、もったいぶる様な伊藤の言い回しに、少しいらついている様にも見えた。
「まさか、実は宿がとれてないとか?」
「そんなわけないだろう」
沙知の呟きに、きっぱりと言い切る伊藤。
俺も一瞬それを考えたけど、そうじゃないらしい。なら、やっぱりもう一つの方か……
「宿まで、この荷物を抱えて歩くには些か辛い距離がある」
やっぱりか。
いや、待てよ……
伊藤が辛いって言う程だ。かなり辛いんじゃないか?
「そこでだ。女性陣の荷物を、僕たちで交代しながら持とうと思うんだが、どうだろうか?」
「はぁ?」
あまりに紳士的な伊藤の台詞に、岡部が突っかかる。そりゃあそうだ。辛いなんて言っておきながら、さらに苦境においやろうとしてるんだから。
だけど、それなら尚更俺たちで持ってやるべきだと思う。俺的には、伊藤の提案に賛成だ。
「皆口はどうだ?」
「俺は別に構わないぞ」
「おい侑人!?」
信じられない。という顔で、俺を見てくる岡部。
その気持ちはわからなくもないが……
ただ、俺は沙知に良いところを見せたいだけなんだよ。
「ほら、一番重い荷物貸しな」
俺はそんな岡部を視線の端にやり、沙知に声をかける。
「え? いいよっ。皆に悪いし」
「そうだよ〜。自分の荷物くらい、自分で持てるもん」
「いいから。全部持つとは言ってないんだからさ。少しは、頼ってくれ」
もう勝手にしろっ。という岡部の呟きを聞き流しながら、渋々と差し出してきた沙知の荷物を受け取る。
そうこうしている内に、伊藤も香川から荷物を受け取っていた。
「ありがとう」
「ありがと〜」
そんなお礼の言葉に、「気にすんな」とだけ言って、俺は伊藤を促した。
「それじゃあ、ついてきてくれ」
そう言って歩き出した伊藤に、俺たちは続いて足を動かし始めた。
「ちょっと待て。結局オレはどうすればいいんだ?」
自分の荷物しか持っていない岡部が、ちょっとだけ焦った様に聞いてきた。俺たちは脚を止め、出遅れかけた岡部に振り返った。
そういや、岡部は自分の荷物しか持ってないな……
沙知たちもさっきの態度から、あんまり俺たちを頼り過ぎるのは気まずいみたいだし、これ以上は荷物を預ける気はないだろう。とすると、岡部には俺と伊藤の荷物でも持たせるか?
「交代制でいいだろう。ずっと大荷物で歩くのは辛いだろうしな」
なんて伊藤の言葉に、俺はすんなりと納得した。けど、沙知たちは違った様だ。
「そんなに辛いなら、やっぱり自分たちで持つよ」
「お前らは気にしなくていいんだって。岡部はそれでいいか?」
「そうだな。交代するペースとかは、晴彦がしっかりと考えてくれるんだよな?」
「ああ、任せておけ」
岡部も納得したところで、俺たちは改めて歩き出した。
君と過ごす時間は、何よりも大切で――
ただ君といられるだけで、幸せを感じていた。
忘れない様に、そっと胸の中にしまっておく。
いつか、二人で笑いながら話せる様に……
The fragment of recollections-君と二人でつくる、思い出のかけら-
瀬口駅を降りてから歩くこと30分。いまだに宿には到着していない。
照りつける太陽から身を隠す木陰もなく、ただずっと海を横目に映しながら歩いている。
汗だくのTシャツが肌に吸い付く様で、さっきからずっと気持ち悪くてしょうがない。
「暑い」
「まったくだ」
俺の漏らした呟きに、岡部が賛同して頷いた。
ちなみに――
荷物持ちは10分毎に交代ということになり、最初の10分が経った所で沙知の荷物を岡部が持つことになり、俺が休憩。って言っても、当然自分の荷物は運ばなきゃいけないわけだが。そして次の10分で俺が伊藤から香川の荷物を受け取り、伊藤が休憩になった。そしてさらに10分が経った今、今度は岡部が沙知の荷物を伊藤に手渡した所だ。
「なあ晴彦」
「何だ?」
「まだ着かないのか?」
「あともう少しだ」
疲れた声で問いかけた岡部の言葉に、こういう状況で一番宛てにならない返事をする伊藤。その言葉を言ったのが伊藤となれば、尚更信用ならない。
とは言っても、俺たちは伊藤について行くことしか出来ないわけで――
ただ黙々と、俺たちは歩く。最初のうちは、まだ結構会話もあったんだけどなぁ。なんて思ってみるが、そりゃあ、これだけ暑い中30分も歩いてたら、話す気力もなくなるってもんだ。
ふと周囲を見渡せば、似た様な景色が続いている。
空を仰げば、どこまでも青く――
流れる白い雲に目を追わせ、夏の日差しを感じる。
「夏だよなぁ」
それは、誰かに向けた言葉ではない。ただ、自然と漏れた言葉だった。
だと言うのにも関わらず、沙知はその言葉を聞いていたらしく、今まで閉じていた口を開いてくれた。
「そうだね。これだけ暑いと、もう歩きたくなくなってくるけど」
そう言って、苦笑を浮かべる沙知。
その額には汗が滴っていて、その姿を見ていれば暑い≠ニいうことが伝わってくる。
「そうだな。伊藤のもう少しって言葉を信じるしかないな」
俺たちを先導する伊藤に、少しだけ恨めしそうな視線を送りながらそう言った。
沙知は、再び苦笑を浮かべながらも頷いた。
ちなみに今は、先頭を歩く伊藤の後ろに岡部。その直ぐ後ろに香川がいて、その少し離れた後ろを俺と沙知が歩いている。
そんなに大きな声でもないので、伊藤にこの会話が聞こえることはないだろう。
それから、また会話がなくなり――
俺たちは、黙々と足を動かす。
左腕に着けた腕時計を見ると、11時半を示していた。
もうすぐ、40分くらい歩いていることになる。
腕時計を着けている部分が、汗でむれて気持ち悪い。いっそのこと時計を外そうかと思う程だ。
そんなことを考えていると、伊藤が口を開いた。
「あそこだ」
どうやら、宿が見えてきたらしい。
時計と睨めっこしていた視線を上げ、伊藤の指す建物を目で追う。
そこには、確かに旅館らしき建物が一つ。
割と造りはしっかりしている様だ。まあ、遠目だから何とも言えないけど。
そう。遠目だ。まだ、結構な距離がある。10分くらいは歩きそうだ。そう思うとげんなりとするが、もう目的地が見えているとなると、それはそれで元気になってくるから不思議なものだ。
「とりあえずそろそろ交代だな」
そう言って、俺は香川の荷物を岡部に手渡す。おそらくこれが最後の交代だろう。そう思うと、不思議と足取りも軽くなる。
大して口を開くことはなかったが、雰囲気が今までと違う。浮かれた様な、ホッとした様な雰囲気。
実際に歩いてみれば、10分もかからずに宿に着いた。7、8分と言ったところだろうか。
宿は、浜辺の直ぐ近くにある小高い崖の様な所に建っている。
旅館の様に見えたが、どちらかと言うと民宿っぽい感じがする。造りは、遠目に見た通り割としっかりしている。本当は白かったであろう外壁が、薄く黒ずんでいたり黄ばんでいたり――
何となく、歴史を感じる。
入り口(海とは反対側)に着くと、入り口の方に看板が掲げられていた。
海の丘
何だか、そのまんまなネーミングだな。
そう思うと、思わず苦笑が漏れる。
「到着だな」
そう言ったのは、なぜか大して疲れた様子もない伊藤だった。
「やっとか……」
「疲れた〜」
岡部と香川が安堵の息を漏らす。
沙知は伊藤に近付き、荷物を受け取る。
「ありがとう」
ああ――
そういや、沙知はこういう娘だった。
着く前に、俺が荷物持っておけば良かった。なんて、変な後悔をしてみる。
「侑人も、ありがとね」
「あ、ああ」
不意を突かれ、驚きを隠せなかった。ただ、頷くだけで精一杯。でも、それは決して不快ではない。むしろ、嬉しい驚き。
見れば、香川も「ありがとう〜」と言いながら岡部から荷物を受け取っている。
「チェックインって、何時なの?」
「12時だ」
沙知の質問に、伊藤は簡潔に答えた。
結局外さなかった時計を見れば、まだ10分ちょっと時間がある。
「少し早いけど……大丈夫だよね?」
「多分な」
沙知の呟きに、俺はそう頷いた。
ここでこうして立ち止まってたってしょうがない。
俺は一度地面に置いていた自分の荷物を抱え上げ、宿の扉を開いた。
皆も、俺の後に続く。
扉を潜り中に入ると、少しだけ涼しい空気を感じた。
クーラーが効き過ぎていない、心地良い空気だ。
今までかいていた汗が、冷気に晒されて冷たい水の様に思える。
「すいませーん」
入り口付近に誰もいなかったので、大きな声で呼んでみる。
すると、奥の方からドタドタと足音が聞こえてきて――
「はいっ。お待たせ致しましたっ」
曲がり角の先から、一人の女の子が現れ、俺たちをそう出迎えてくれた。
格好からするに、仲居さんなんだろうけど……
「若い」
というより、俺たちと同年代くらいだと思う。
若い。それは本当に小さく漏らした言葉だったが、どうやら沙知には聞こえてたらしく、沙知はギロリと俺を一睨み。
慌ててその場を取り繕い、その女の子に声をかける。
「予約させてもらってる者なんですけど」
「はい。お名前よろしいですか?」
「伊藤です――で、いいんだよな?」
前者は女の子に、後者は伊藤に対して向けた言葉だ。
伊藤は無言で頷き、前に出てきた。
「まだチェックインには少し早いですけど、もう入ってしまって平気ですか?」
それ、俺が聞こうと思ってたんだけどな。
「はい。大丈夫ですよ。伊藤様ですね――では、案内させていただきます」
丁寧に、深々と頭を下げ、女の子は人数分のスリッパを用意し、一歩下がった。
俺たちは靴を脱ぎ、玄関横にある棚に置いて中に上がる。用意されたスリッパを全員が履くと、女の子は口を開いた。
「申し訳ありませんが、お荷物は各自で運んで下さい。では、案内いたします」
そう言って一礼し、踵を返す女の子。俺たちは頷き、歩き出した女の子の後に続いた。
さっき女の子が出て来た角は曲がらず、もう少し真っ直ぐ進む。そうすると左手に階段が見え、女の子はその階段を昇って行った。
どうやら、俺たちの部屋は上にあるらしい。
俺たちが階段を昇ると、先に昇っていた女の子が、「こちらです」と言って止めていた足を再び動かす。どうやら、待っていてくれたらしい。
待たせたら悪いと思い、少しだけ足早に歩く。
が、それは無駄な労力だった様だ。
直ぐに部屋に着いたらしく、女の子は足を止めたからだ。
「こちらです」
俺は女の子に通され、部屋の中を見回した。
結構広いな。でもまあ、男3人で泊まるなら、これくらいは必要か。
部屋の隅に、荷物を置く。
「女性はこちらです」
その声に振り返ると、部屋の外で女の子が沙知と香川を向かいの部屋に案内しているのが見えた。
二人が部屋に入ると、その後に続いていたらしい岡部と伊藤がこっちの部屋に入ってきた。
「へぇ〜」
「なかなかだな」
岡部と伊藤が、それぞれ感想を漏らす。
「それでは、お夕食の頃に呼びにまいりますので」
そう言って、立ち去ろうとする女の子。
「何時くらいなんですか?」
俺は女の子を呼び止め、そう尋ねた。
「7時頃でございます。他に何か質問はございますか?」
そんな女の子の言葉に、伊藤と岡部を見やる。
二人共首を横に振った。俺も特にはい。
「いえ。大丈夫です」
「そうですか。それでは、失礼します」
そう言って、女の子は今度こそ去って行った。
俺は窓に向かって歩く。
窓の外は崖の側面になっていて、その先には浜辺が広がっている。
窓を開けると、潮風が頬を撫でる。
今さらながら、海に来たんだな。そう感じる。
これから、俺の夏が始まる。
そう思うと、何となく力が入る。
さあ、頑張ろう!
楽しむことよりも、俺の頭は沙知のことで一杯になっていた……
君との距離を縮めるために訪れたチャンス。
たったの3日……
このチャンスを逃がさすわけにはいかない。
だけど――
今はまだ、この楽しい時間に流されることしか出来ない自分がもどかしい。
早く君に、伝えたい……
For you song -この想いを、君に伝えたい-
とりあえず海に行こう。
そんな話になり、準備をして部屋を出た男3人。沙知たちとは、宿の入り口で待ち合わせをした。
「二人共遅い」
10分程待っただろうか――
早くもシビレを切らした岡部が、苛立ちを隠そうともせずにそんな言葉を漏らした。
「女の子は準備に時間がかかるモンなんだよ」
と、知った様なことを言ってみる。
実際、そんなものだとも思ってる。沙知と遊びに行った時とかも、よく待たされたし……
「時間はあるんだ。気長に待とうぜ」
「…………」
黙ったまま、岡部は小さく舌打ちをし――
「お待たせ〜」
宿の中から、香川の声が聞こえてきた。
出入り口に背を向けていた俺は、その声に反応して振り返る。
扉は開かれたままになっていたせいか、中からの声はよく通った。香川と沙知の姿が、階段のある辺りに見える。
二人は小走りでこっちに向かってきて、靴を履き替える。
「ごめんごめん。待った?」
「そんなことないぞ」
沙知の言葉に、俺が答えておく。
岡部は、ムスっとして黙ったままだ。どうやら、直接文句を言う気はないらしい。けど――
「岡部君、ごめんね」
沙知が、岡部に向かって謝った。
やっぱり、あれだけ態度に出てれば分かるよなぁ……
「別に」
「ただ遅れたわけじゃないんだから。ね?」
素っ気ない岡部の言葉を聞いているのか聞いていないのか――
沙知は、明るい態度で香川に振った。
「うんっ。あのね、仲居さんにこの辺のこと色々と聞いてたんだよ〜」
「へぇ〜。どんなこと聞いたんだよ?」
「とりあえず、海までの近道とか」
もしかしたら、伊藤君なら調べてあるかもしれないけど。
そう付け加える沙知。伊藤は特に口を挟むつもりはないらしい。
沙知と香川の先導で、その近道とやらへと向かう。
崖先部分の手前には、あまり大きくないが道路がある。その道を通ってここまで来たわけだけど――
崖から少しだけ離れた所に、浜に降りる階段がある。
何で来る時に気が付かなかったんだろう? と思うくらいに、普通に視界に入る場所にある。
まあ、歩いてた時は周りを見てる余裕がなかったからな……
階段を降りると、そこはもう浜辺だ。
とは言っても、海まで少し距離がある。そのせいか、この辺に人はいない。
ただ、人の声――喧騒と呼ぶに相応しいモノは聞こえる。駅からこっちに向かう途中に、嫌と言う程聞いた喧騒だ。ちょうど崖の影になってるから、喧騒を生んでいる人たちの姿はここからじゃ見えない。
「何してんの?」
ぼんやりと思考を巡らせていた俺に、いつの間にか先に進んでいた沙知が声をかけてきた。
意識を思考から現実へと戻し、沙知の言葉に返す。
「何でもない。今行くよ」
そう言って歩き始めた俺だったが、周りに沙知以外の姿がないことに気が付いた。
「あれ? 他の連中は?」
「そんなことにも気付いてなかったのっ?」
驚いた様に声をあげる沙知。
何だよ……
俺、おかしなこと言ったか?
「侑人がボケッとしてる間に、先に行ってるって言って行っちゃったわよ」
「薄情な奴らだな」
「あんたがバカなだけでしょ」
割と素な返答っぽい。ちょっと傷付いたぞ……
「ほら、早く行くわよっ」
俺の右腕を掴んで、ぐいっと引っ張る沙知。
突然のことにバランスを崩しかけたが、何とか持ち堪えた。何て考えてる間もなく、沙知の横行は続く。これ以上コケそうにならないためにも、沙知の歩幅に合わせ歩くことに。
「急ぐのはいいけど、あいつらがどこに行ったか知ってるのか?」
沙知に連れられる形で歩きながら、そんな疑問を投げかけた。
「知らない」
即答だった。しかも、あんまり良くない答えだ。
「じゃあどうするんだよ?」
「適当に歩けば見つかるでしょ」
「おいおい……」
俺のそんなぼやきなど聞こえなかったらしく、沙知はズンズンと歩く。
何て思っている内に、人混み――とまではいかないかもしれないが、十分に人は多い――に突入。合間をかい潜って、俺たちは歩く。目的地があるわけでもなく、ただ先に行った伊藤たちと合流するために。
俺としては、このまま二人でも何の問題もない。と言うより、好都合なんだけどな。
そう考えて、ふとあることを思いつく。
もしかして――
あいつら、わざと先に行ったのか……?
ったく、余計なマネしやがって。いや――むしろありがたいか?
まあどっちでもいいや。せっかくのチャンスだ。これを逃す手はない。
「なあ、沙知」
「何?」
「別に二人でいいんじゃないか?」
「え?」
「あいつらだって、どっかで楽しんでるだろ。戻る場所は同じなんだから、別に無理に合流しなくたっていいんじゃないか?」
「――それもそうね」
少しだけ考える仕草をした沙知が、俺の提案に頷いた。
とりあえず第一関門突破ってとこか。
「それじゃあ、せっかく海に来たことだし泳ごっか?」
「そうだな」
水着の上に羽織っていたパーカーを脱いで、適当に放り投げる。
沙知は俺と違って、脱いだパーカーを投げたりはしない。パレオ代わりの様に、腰に巻いている。
「失くしても知らないわよ?」
「大丈夫だろ」
比較的人口密度の低い場所にいるし、好き好んであんな安物を盗みたがる奴はいないだろう。
「そんなことより、早く行こうぜっ」
今度は、俺が沙知の腕を引っ張る。
海に足が浸かった瞬間、その冷たさに思わず一歩下がりそうになった。それを何とか堪えて、沙知を無理矢理海に引きずり込む。
「ちょっ!? きゃっ」
沙知も足が浸かった瞬間、思わず身を退いた様だ。俺は沙知が痛がらない様に、沙知の動きに合わせた。でも、腕は放さない。
「ほら、波打ち際で躊躇してたってしょうがないぞ」
今度は一転、思いっきり沙知の腕を引く。
俺は一歩も動かずに、沙知だけを海の中へと放る。
「はははっ」
浅瀬に倒れ込む沙知の姿を見て、思いっきり笑ってやる。そんな俺を見て、沙知は不機嫌そうに睨んできた。
「侑人〜! えい!」
「はは――は?」
笑う俺の腕を掴んで、思いっきり退く沙知。
不意を突かれた俺は、バランスを保つことなど出来るわけもなく――
バシャンッ。
そんな音を立てて、倒れた。
「あはははっ」
いつの間にか立ち上がっていた沙知が、前のめりに倒れている俺を指差して笑っている。
「こいつ〜」
「あはははっ。良い格好だねぇ、侑人君」
変な口調で笑い続ける沙知。
これが岡部や伊藤だったら、間違いなく怒鳴ってる所だけど――
相手が沙知だと、許せるから不思議だよなぁ。
今、この瞬間――
俺の中の沙知への気持ちは、より一層強いモノへとなっていた。
伝えたい。だけど、今はその時じゃない。頭のどこかでそんな声≠ェする。
だから、今はまだ抑えないとならない。
そうして沙知と二人で遊ぶうちに、時間は過ぎ去り――
やがて陽は傾き、人の数も減っていった。
日暮れという程でもないが、時間帯的には夕方と呼べる、そんな時間。
「あ」
「どうした?」
急に声をあげた沙知に、俺はそう尋ねた。
「あそこ」
そう言って指差した方向に目を送ると、そこには伊藤たち3人の姿があった。
「あんな所にいたのか――割と近くにいたんだな」
「そうだね」
「おし。時間もそろそろだし、あいつらと合流するか」
「うん」
俺は浜に放っておいたパーカーを拾い、沙知に渡す。
沙知のパーカーは(俺のせいで)濡れてしまった為、代わりに持ってやる。搾ってはあるものの、一度水を吸ったせいか冷たくなっていた。これを沙知に着させるわけにはいかないからな。
「パーカーのポケットにハンドタオルが入ってるから、軽くでも拭いておけよ」
「ありがと」
俺の言葉に従い、パーカーのポケットからタオルを取り出すと、身体を拭き始めた。
一通り水分を飛ばすと、タオルを俺に手渡し、パーカーを羽織る沙知。
「それじゃあ、行くか」
「うん」
俺はタオルで身体を拭きながら、伊藤たちのいる方向へと向かって歩き出した。
沙知は、黙って俺に続く。
「おーい!」
距離を縮めながら、俺は叫んだ。その声が届いたらしく、3人がいっせいに振り向いた。
「お。侑人じゃん」
最初に声をあげたのは岡部だった。
3人が、こちらに近寄ってくる。
何時間も経ったとは言え、無事(?)合流することが出来た。
めでたいめでたい。
「お前ら何してたんだよ? 一応探したけど、見つからなかったら適当に遊んでたんだぞ」
「だと思って、こっちも適当に遊んでたよ」
岡部の言葉に、そう返した。
香川が、意味あり気にこっちを見ているのが気になるけど……
今は、問い詰めないでおこう。
「それじゃあ、そろそろ時間だし戻るか」
「俺たちもそう思ってたんだ」
伊藤の言葉に、俺は頷いてそう言った。
反対する者などいるわけもなく、俺たちは海の丘≠ヨと向かって浜辺を後にした。
まだ言えない。伝えられない……
もどかしさばかりが増える。
時間がないわけじゃない。だけど――
早く。早く。と、どこからか急かす声が聞こえる。
それは、紛れもない自分の声
嘘偽りのない、俺自身の心=c…
The heart which approaches -そばにいたくて、もっと近付きたくて-
「疲れた〜!」
宿に戻った俺たちは、先にシャワーを借りて、用意しておいた服に着替えてから部屋に戻った。
今のはまあ、戻るなり吐いて捨てた岡部の言葉だ。
「お前ら何してたんだよ?」
「ビーチバレー」
「3人でか?」
「3人で」
「…………」
「…………」
訪れる沈黙。
っていうか、バカだな。ん? 待てよ……
岡部はやけに疲れてるけど、伊藤はそうでもない。
「何で岡部だけヘバッてるんだ?」
疑問を直接ぶつけてみる。
「1対2だったからな」
なるほど。弱々しい岡部の返事を聞いて、俺は深く頷いた。
3人でビーチバレーなら、確かに1対2になる。まあ、1対1で交代しながらやるって手もあるけど。
ふと部屋の中にある時計を見ると、時間は6時半を回っていた。
そろそろ飯の時間だな。
コンコン。
そんなことを思っていると、控え目にドアがノックされた。
「はい?」
俺が返事をすると、「失礼します」という言葉と共にゆっくりとドアが開かれた。
そこには、俺たちを出迎えてくれたあの少女がいた。ゆっくりと頭を下げ、またゆっくりと顔を上げる。
「少し早くなりましたが、お夕食の準備が整いました。1階の広間までお越し下さい」
「わかりました」
俺がそう答えると、少女は再び頭を下げ、ドアを閉めた。少しすると、小さいながらも足音が聞こえ始め、だんだんとその足音が遠ざかっていく。
ということは、先に沙知たちの部屋に行ってたのかな。何て思っていると、さっき程じゃないが、それでも控え目な感じでドアがノックされた。が――今控え目にノックした意味があるのか? と言いたくなるくらい、直ぐにドアが開かれた。そこにいるのは、勿論沙知。そんな気はしてたんだ。
って……他には香川くらいしかいないけどさ。
「ご飯だって」
「おぅ。今こっちも聞いたところだ」
沙知の言葉に、俺はそう応えて頷いた。
頷いたのは、多分沙知の言葉に食べに行こうっていう意志が含まれていると思ったから。それに対しての応えのつもりだ。
「俺、今食欲ないぞ……」
「自業自得だな」
呻く岡部に、冷たく言い放つ伊藤。
……何があったんだ?
ただビーチバレーをしてただけのハズなのに、何となくおかしな二人を見て、そんな風に思ってしまった。
「それじゃあ、早く行こっ」
そう言って踵を返す沙知。
俺はもう一度「ああ」と頷き、部屋の外に出る。
廊下には、沙知の他に香川もいた。
香川に手をあげることで挨拶を交わし、部屋の中を見る。伊藤は既に準備が出来ているらしく、こっちに向かってきている。その後ろで、何やらもそもそと立ち上がろうとしている岡部の姿が見えた。伊藤が部屋の入り口に来た時には、伊藤で岡部が見えなくなっていた。ただ、その時にはもう岡部が歩く足音が聞こえ始めていた。
「じゃあ、行くか」
伊藤も廊下に出ており、もう直ぐ岡部も出て来る。待つまでもなく、直ぐにやってくるはずだ。そう考えた俺は、そんな言葉を紡ぐと同時に歩き始めた。
皆もその後に続いてくるのが足音でわかる。
階段を降りて、言われた通り広間へ――
「って、広間ってどこだ?」
足を止め、そんな言葉を漏らす。
背後から冷たい視線を感じる……
「こっちよ」
沙知が呆れた様な声を出し、俺を先導する様に前へと出た。
「何で知ってるんだ?」
「海に行く前に、ここの間取りとかも簡単に教えてもらったから」
なるほど。
なんだか情けない気もするが、沙知の先導の元、階段を降りた所から左へ。そして、突き当たりを右に行った先の部屋の扉を沙知が開けた。俺たちの泊まっている部屋はドアと呼べる様な扉だったが、ここは日本っぽくふすまだ。
その奥に広がる部屋は、確かに広間と呼べる部屋だ。正確に何畳かはわからないが、何組かの宿泊客が同時に食事をとれる様になってるんだろうな。
そんなことを考えてはみたが、俺たち以外の客の姿が見当たらない。
俺たちしか客がいないってわけじゃないと思うんだけどな……
いくつかあるテーブルの一つに、『伊藤様』と書かれたプレート(らしきもの)が置かれたテーブルがあった。そこに集まれということだろう。全員がそのテーブルに向かう。長方形のテーブルを囲う様に、片側の奥に伊藤、岡部が座った。反対側――伊藤の正面に香川。そして、その隣りに沙知。普通に考えれば、俺は岡部の隣りに座るべきなんだろうけど……
沙知の隣りに座るか、それとも岡部の隣りに座るか……
「岡部、場所替わってくれ」
結論。沙知の正面に座るべく、岡部が今座っている場所を譲ってもらう。
岡部は別段渋る事なく、その場所を譲ってくれた。
「サンキュー」
俺たちが全員座ると、あの女の子が料理を運んできた。料理を俺たちの前に並べると、『伊藤様プレート』を持って一礼。そのまま下がった。
「それじゃあ、食うか」
「そうね」
俺の言葉に、沙知が頷いた。
それに賛同する様に、伊藤と香川も頷いた。岡部だけはちょっと違った反応だったが、まあここまで来たんだから、食べないってことはないだろ。
『いただきます』
自然と皆の声が揃った。それが何となくおかしくて、つい笑みをこぼしてしまう。それは俺だけじゃなくて、沙知も同様だったみたいだ。それがちょっと嬉しくて、また笑みをこぼす。
楽しい。そういうのとはちょっと違うけど――
穏やかに、俺は沙知との時を感じていた。
こんなにも、この気持ちが膨れ上がるなんて……
こんなにも、この想いが止められなくなるなんて……
今までは、これっぽっちも思いもしなかった。
君もまた、俺と同じ様に想ってくれているんだろうか?
そう想っていてくれるなら、きっと……
It brings close to happiness -君とならきっと、幸せへと近付ける-
「ごちそうさまでした」
両手を合わせて、丁寧にそんな挨拶をする沙知。
既に晩飯を食べ終えた岡部と伊藤は、先に部屋に戻った後だ。今この広間にいるのは、俺と沙知と香川の3人だけだ。
普段なら、俺の方が沙知より早く食べ終わるんだろうけど、沙知に見惚れたりしながら食べていたら、いつの間にやら……って感じだ。
香川はいつも通りゆっくりと食べている。実にマイペースで、急かされても早く食べようともしない。
……もしかしたら、アレで急いでいるのかもしれないが。
「うーん……あたしも、先に戻ってるね」
少しだけ思案した様子で、沙知がそう言った。いつもなら香川が食べ終わるまで待っていそうなのに、そう断りを入れたのは、きっと香川がまだ結構時間かかりそうだからだろう。沙知が残って、話しながらとなると尚更だ。
「うん。ごめんね」
謝る香川に対し笑顔を浮かべ、沙知は立ち上がった。
食器はそのまま置いとけばいいと言われていたが、自分たちでまとめるくらいはしておこう。ということになり、同じ皿などは重ねてある。岡部と伊藤のまとめた食器に、沙知も積み重ねていく。
「それじゃあね」
今度は俺と香川の二人に笑顔を向け、沙知は先に広間から出て行ってしまった。
何となく取り残された気分になるが、ある意味これはチャンスとも言える。沙知抜きで香川と話せることなんて、そうはないだろうからな。
「なぁ、香川」
「なぁに?」
せっかく早く食べ終わる様にと沙知が気を遣ってくれたにも関わらず、声をかけた俺に嫌な視線一つ向けずに応える香川。何だかんだで、凄く良い奴だってことがわかる。
「頼みたいことがあるんだけど」
「沙知のことで?」
時々鋭いんだよなぁ。やっぱり、香川もこういった面では女の子ってことか。
俺はそんな風に考えながら、無言で頷いた。香川は、俺が沙知を好きなことを知っている。というか、理解しているとでも言っておこうか。俺も沙知も口にしたことはないけど、きっとそういった態度は取っているんだろうし。
「まあ、友達思いのわたしとしては、聞かないわけにはいかないわよね〜」
「助かるよ」
俺は香川の言葉に苦笑を浮かべながらも、心底感謝の気持ちを込めて言葉を紡いだ。本当に、助かる。
「それで〜、どんなことを頼みたいの?」
「ちょっと、沙知と二人きりで話したいんだ。だから……」
「わたしが部屋を外せばいいの? それとも〜、どこかに呼び出すのを手伝う?」
「部屋でってのも、あんまり雰囲気ないけど……この辺の地理がわからない以上、部屋の方が無難なのかな」
まあ、夜空の下の浜辺とか、最高のシチュエーションな気もするけど。
「浜に人気がないんだったら、そっちの方が良いとは思うんだけどね〜。あ。それじゃあさ、とりあえず皆口君は浜に行ってみて。それで、わたしにメールするの。人気がなかったら沙知をそっちに向かわせる。もし誰かがいる様なら、わたしが部屋を出るから、皆口君が部屋に来るの。どうかなぁ?」
それは、ひどく魅力的な案に聞こえた。理に適っている様にも思えるし、物凄く妥当な意見だ。
それ以上の案など見つかる気がしなくて、俺は香川の案に頷いた。
「よし。それでいこう」
となれば、とりあえずは飯を片付けないとな。
「それじゃあ、とりあえず食おう」
「そうねぇ」
俺たちは頷き合い、残った飯を平らげる。とは言っても、ものの3分くらいで俺が食べ終えたにも関わらず、香川は未だに食べ終えていない。
「ごめんね〜」
「いや、いいけど。俺は先に行ってるな。岡部たちにも、一応声かけておかないといけないし」
「うん。わかった。それじゃあ、がんばってね〜」
何を。とは聞かない。わかりきっていると言えばわかりきっていることだ。それを聞く必要はない。俺は黙ったまま頷いて、広間を後にした。
一度部屋へ戻る。途中、廊下で伊藤と出くわした。これから温泉に浸かりに行くらしい。岡部も少ししたら来るとのことで、俺も誘われた。だけど――
「悪い。ちょっと、用事があるんだ」
「……そうか」
多分、伊藤は全てを悟ったに違いない。俺が、これから何をしようとしているのか。だから、それ以上何も追求してこなかった。それに、きっと岡部にも上手く言っておいてくれるに違いない。
「悪いな」
「気にするな。頑張れよ」
その言葉で、先程の考えが確信に変わった。伊藤は、全て気が付いている。
「ああ」
俺はそう頷いて、あえて部屋には戻らずに浜へと向かった。
海の丘≠出て、浜へと向かう途中、夜空を見上げる。いや、夜空と呼ぶにはまだ早い。時間は7時半。ほんのり明るい、けれど夜の暗みを帯びた空。紺色の空――
浜へと着いた俺は、とりあえず辺りを見回す。着いた時点でかわってはいたものの、一応用心の為。結論。今浜辺には俺しかいない。この先人がやってくる可能性もゼロではないが、まあきっと大丈夫だろう。
携帯を取り出し、香川にメールを打つ。
『誰もいないから、浜に呼び出してくれ。あの階段を降りた先にいる。』
送信――
さすがに、香川も食べ終わっているだろうから、きっと沙知が来るまでそんなには時間がかからないはず。そう考えると、何となく緊張してくる。きちんと伝える言葉を考えたわけじゃない。ただ、二人きりで話がしたい。そう思っただけ。昼間は周りに人が多かったし、きっとこんなチャンスはそうはないだろう。そう思うと、香川への感謝の気持ちが溢れてくる。
ありがとう。香川。
そんなことを考えていると、風が吹いた。それ程強くはない、だけど風が吹いたとハッキリ認識出来るくらいの風。
なんとなく振り返る。だけど、そこに沙知の姿はまだない。当たり前だ。まだ、メールを送ってから1分くらいしか経っていない。
夏とは言え、日が落ちた浜辺で風が吹くと少しだけひんやりした。軽く身震いをしながらも、俺はただ待つことしか出来ない。これから沙知がやってきて、二人で話をして――
どんな話を? 考えないと。いや、そうじゃない。俺が考えないといえけないのは、もっと先のことだ。まだ、旅行は初日。成功すれば良い。だけど、失敗したら……
いや、そんな風に考えるのはよそう。ただ、想っていれば良い。ただ、信じていれば良い。期待はして良いはずだ。自惚れじゃなく、そう思える。だから――
俺は一人。夜になりかけた紺色の空の下で――
沙知がやって来るのを待っていた……
伝えたいと思っていた。
伝えることが怖くて、ずっとしまい込んでいた想い。
くすぶっていることしか出来なくて、もどかしくて……
でも、もう直ぐ伝えられる。きっと、全てがうまくいく。
そう、思い込んでいた……
Breaking every day-思いもしなかった、かけがえのない日常が壊れてしまうなんて-
どれくらい時間が経ったのだろうか?
いや、そんな風に思う程大した時間が経ったわけじゃない。携帯を取り出して、ディスプレイに示された時間を見ればそれがすぐにわかる。
香川にメールを送ってから、まだ5分くらいしか経っていない。
だと言うのにも関わらず、もう30分くらいは待ってるんじゃないか。そんな風にさえ思える。それくらい、沙知がやってくるのが待ち遠しい。
ただ待つという行為が、こんなにも苦痛に感じるなんて、今まで思ってもみなかった。
「…………」
じっと、階段の先を見つめる。沙知がやって来るであろう、階段の先を。
――その数分は、永遠にさえ思えた。
多分、メールを送ってから10分くらい経った。もう一度携帯を取り出し、時間を見ようとしたその時、人が近付いてくる気配を感じて、俺は顔を上げた。階段の先から、こっちに駆けてくる人影が一つ。月明かりだけが唯一の光源な為か、その人物の顔は暗くて良く見えない。だけど、それでもわかった。それが、沙知なんだって。簡単に、理解できた。
ドクン――
急に、鼓動が高く波打った。
それから、まるで今までの落ち着きが嘘だったかの様に、激しく高鳴っていく。
まるで、自分の心臓じゃないみたいだ――
「侑人?」
気が付けば、目の前に沙知の顔があった。突然の出来事にパニックになり、思わず後ずさる。
きっと、顔真っ赤なんだろうな……
なんて溜息を吐きたい気分になりながらも、それは寸での所で飲み込む。
「どうかしたの?」
そんな俺の心境など関係なく、沙知はいつもの様子で俺に話しかけてくる。
ってまあ、俺が呼び出したんだから、当然と言えば当然か。沙知にしてみれば、日常≠フ一環なんだろうから……
「まあ何だ、その――二人で、ちょっと話がしたくてさ」
何とか、そんな言葉を口にする。いつもなら、何の気兼ねもなく言えるであろう言葉。なのに、たったそれだけのことを口にしただけで、喉がカラカラに渇ききっていた。
「ふーん、そうなんだ」
なんて、やっぱりいつもと変わらない沙知。
――いや、変わらないからこそ、沙知なのかもしれないな。
「それで、何か話題とかあるの? って言うか、わざわざ呼び出したからには、あるんだよね?」
そりゃまあ、あるに決まってる。だけど、それがわかってるからこそ、もう少し遠まわしに聞くとかは出来ないもんかな。まあ、沙知らしいと言えばらしいけど……
そんな思考を繰り返す。それは、ただ本題に入るのが怖くて雑談を交わすのと同じ気持ち。知りたい。でも、怖い――そんな気持ちが大きく膨れ上がって、ただ遠ざけているだけの、無駄な行為。それでも……
(いざとなると、やっぱり怖いんだよな)
答えを知ることが。今≠ニいう、この時が壊れてしまうのが。
「侑人?」
いつまでも喋ろうとしない俺に、少しだけ怒った口調で名前を呼ぶ沙知。
「ああ、悪い――」
そう答えたものの、何を喋っていいのやら……
本気で困った。いつもなら、会話の内容なんて考えなくても出てくるのに。
……ああ、そっか。何も思い浮かばないのなら、言ってしまえばいい。そもそも、その為に呼び出したんだから。ただ怖がってたって、納得のいく答えは出てこない。たとえ望まない結果だったとしても、何もしないままでいるよりはいい。
……ハズだ。
「あの、さ」
「ん?」
「ずっと、言いたかったことがあるんだ」
真剣に、いつになく真剣に。ただ、これが本気なんだと伝えたくて、沙知の瞳を見つめながら言葉を紡ぐ。ゆっくりと、俺の心が伝わる様に。
「沙知が好きだ」
どんな装飾もない、純粋な俺の気持ち。偽りなく、ただ真っ直ぐに伝えたかった。そして、聞いて欲しかった。出来れば、応えて欲しい。
「ずっと、好きだった。もちろん、今も――だから、恋人になって欲しい」
友達以上、恋人未満――そんな関係がずっと続いてきた。だからこそ、ハッキリと口にする。俺が望む関係は、恋人≠ネんだと……
「侑人」
沙知の表情も真剣だ。さっきまでは驚いた様な顔つきだったくせに、今では沙知には似合わないくらい真剣な顔をしている。
「…………」
俺は、その呼びかけには応えない。多分、それが正しい反応だと思ったから。正確には呼びかけなんかじゃなくて、ただ漏らした言葉。そんな風に思えたから。
「侑人、あのね――」
沙知の頬が、ほんのりと赤く染まっている。いつの間にか、俺の手の平は汗ばんでいた。緊張、してるんだろうな。沙知も、緊張してるんだろうか? 何となく、そうだといい。なんて思ってしまう。
「あたしも、侑人のこと好き。ずっと前から、今も。それに、これからも――」
変わらない気持ち。それは、俺と沙知が抱き続けてきた想い。そして、これからも抱き続ける想い。
そう信じられる。沙知の気持ちを聞いた、今なら――
俺は無言で、沙知の肩をそっと抱き寄せた。
「あ――」
何かを言いかけて止める沙知。いや、それ以上続けさせるつもりもない。
首の後ろに腕を回し、沙知の後頭にそっと手を当てる。沙知を導くかの様に、顔を近づけさせる。それが何を意味しているのか分かったらしく、沙知は目を瞑った。
優しい口付け。
きっと、そう呼ぶに相応しい感じの、唇を触れさせるだけのキス。それでも、たまらなく嬉しい気持ちに駆られる。
沙知も同じ気持ちなら、もっと嬉しい。
そう思いながらも、そっと唇を離す。それでも、すぐ近くに沙知の顔がある。それだけで、何だか恥ずかしくなって思わず顔を背けてしまった。
「ちょっと、何でそっぽ向くのよ?」
ちょっとだけ拗ねた様な口調で、そう問いかけてくる沙知。
だって、恥ずかしいだろ? そんな言葉は口にせず、改めて沙知の顔を見つめる。
「ごめん」
「どうして謝るの?」
「何となく。それよりさ――」
「ん?」
「もう一回、キスしていいか?」
「……うん」
いつもと違う、素直な反応に嬉しくなって――
俺は、もう一度触れるだけの優しいキスをした……
知らなかったんだ。
そう、知らなかった。それはただの言い訳でしかないし、そもそも知ろうとすらしてなかった。
俺はただ、沙知が見せてくれる一面だけを好きになって、それが沙知なんだと思い込んでいた。
だから、知らなかった――
二度目のキス。そっと離した唇。お互いの吐息がかかる距離で、微笑みながら見つめ合って――
それは、幸せな一時。気持ちが通じ合った。そう、幸せだったんだ。なのに……
「そろそろ戻ろうか?」
そう言って、抱き寄せていた沙知の身体から、腕を離した。ただ、それだけのことだったのに――
バタッ。
支えてやることも出来なかった。何が起こったのか理解出来なかった。
突然、沙知が倒れたのだ。
「さ、ち……?」
何が起こったのか、理解出来なかった。
何も出来ずに、倒れた沙知を見つめている俺。
今、俺は幸せだった。幸せだったハズなのに……
呆然としてしまう。だけど、このままというわけにもいかない。
思考が上手く追いついていない。それでも、沙知をこのままにしておくわけにはいかない。そんな常識染みた思考だけはきちんとまとまって、俺は携帯を取り出した。
それからのことは、良く覚えていない。
多分、病院に連絡して、あいつらにも連絡して――
俺たちの旅行は、一晩を明かすことなく幕を閉じた……
どうしてこんなことになってしまったんだろう……?
俺は今、幸せの絶頂にいるはずだった。
俺は今、沙知をこの手で抱きしめていたかもしれない。
それなのに――
現実という名の刃は、深く俺の胸に突き刺さっていた……
She name is... -沙知-
俺は今、この町の病院のロビーにいる。伊藤たちは宿で待機。本来なら俺も宿に戻らされる側だが、沙知の両親がまだ着かない(今タクシーでこっちに向かってるらしい)ため、付き添い兼連絡係としてここにいる。
今、俺は割りと落ち着いてると思う。ある程度時間が経ったこともあるだろうが、何よりも大きい理由は――
「まだいたのかい? えっと……皆口君、だったかな?」
目の前までやってきた医者が、俺にそう声をかけてきた。その声は穏やかなものだ。一仕事終えて、肩の力が抜けているんだろう。
そう。結論を言えば沙知は無事だ。少なくとも、直ぐにどうにかなることはないそうだ。今と比べて随分慌てふためいてた俺に、目の前の医者がさっき教えてくれたのだ。
「はい」
「さっきも言ったけど、長谷川さんなら大丈夫だよ。ご両親が来られるんだし、君は今からでも帰って休んだ方がいい。タクシーも手配するよ?」
「嫌です。沙知の両親が来るまではいてもいい。って、さっき言ったじゃないですか。その後どうするかはともかく、今はまだ、ここにいさせて下さい」
「まあ、それは構わないんだけどね」
そう言って苦笑を浮かべながら、その医者はどこかに行ってしまった。聞きたいことはあるけど、俺が聞いて答えてくれる内容じゃない。だから、別にいい。むしろ、俺が知りたいことは沙知の両親から聞けるかもしれない。沙知が、倒れた理由を――
悶々とした気分の中、どれくらい時間が経っただろうか……
沙知が倒れてから、2時間以上は経ったと思う。一台のタクシーが、病院入り口の前に止まった。
それは、ある種の死刑宣告。
それは、ある種の希望。
あのタクシーには間違いなく、沙知の両親が乗ってるはずだ。俺と沙知の未来を左右する答えを持つ、その二人が……
自動ドアが開く音が鈍く響く。何度か見たことのある沙知の両親が俺に気がつき、一度足を止め会釈してから俺に近づいてきた。
「沙知なら、一応大丈夫だそうです」
「ああ、ここに来る途中に病院から連絡が来たよ」
やけに落ち着いてると思ったらそういうことか。まあ、それはいい。それより……
「聞きたいことがあるんです」
余計なことは言わないし、聞かない。俺が知りたいことはただ一つ。
「沙知は、どうして突然倒れたんですか?」
体調が悪かっただけ。そんな風には見えなかった。過労? そんな風にも感じなかったし、それくらいなら医者だって俺にも教えてくれるはずだ。もしかしたら……そう考えてしまう、おそらく最悪の真実。
「沙知は、何か重い病気にでもかかってるんですか?」
言葉は静かだ。自分でも驚くくらいに。だけど、今にも俺の心は押し潰されそうだ。その答えを聞くことが、何よりも辛い。いや、それはきっと本当の意味での最悪な真実ではない。沙知は生きている。少なくとも今は、それが救いとなっている。ああ……だからか。今俺が、こんなにも落ち着いていられるのは。
「…………」
俺の質問に、押し黙ってしまう沙知の父親。横目に見れば、母親も顔を伏せてしまっている。
「俺……さっき、沙知に告白したんです」
この場で、そんなことを報告するつもりはなかった。だけど、答えを聞くためには……いや、そうじゃない。これからも、沙知と共に歩んでいくために必要なんだ。
俺の言葉に顔を上げ、沙知の母親は俺の方を見た。父親もだ。二人共少しだけ驚いた顔をしているけど、どこかで納得した様な表情でもある。
「沙知は、俺の想いに応えてくれました。だけど……だけど、その後直ぐに……」
沙知が倒れた時のことを思い出す。何が起こったのかまったく理解できなかった。俺は、倒れる沙知を支えることもできなかった。無力……そして、沙知のことを何も知らない無知さが悔しくて、涙が込み上げてくる。
「教えて下さい! 沙知は、沙知は……!」
それ以上、言葉にすることはできなかった。自分の口から、その絶望を発することが怖かった。これは、逃げなのかもしれない。だけど、精一杯に踏みとどまる。例えどんな絶望が待っていたとしても、俺はその答えを聞かなければならない。これからも、沙知と共に生きていく為には……
そして、沙知の父親がゆっくりと口を開いた。
「沙知はね……心臓を患ってたんだよ」
「患って……た……?」
「ああ。幼い頃は、常に死と隣り合わせだったと言っても過言じゃない。しかし、幼い沙知には手術に耐えるだけの体力がないということで、学校にもほとんど行かず、とにかく心臓を刺激しない様に過ごさせたよ」
当時を思い返しているのか、寂しそうな……それでいて哀しそうな表情を浮かべる父親。
それは悲痛な表情だったが、それでもその時を乗り越えたからこそ今があるんだろう。
「沙知が10歳になった時に、医者から手術を勧められたよ。それが成功すれば、少なくとも普通に生活を送る分には問題なくなる。まだ体力的にはまだ厳しいかもしれないが、あまり歳を重ね過ぎると、動けないことが当たり前の身体になってしまうから。と……悩んだよ。私も、妻も、もちろん沙知も……」
今≠生きることができなくなるかもしれない。それでも未来≠手にすることができるかもしれない手術を受けるか、少なくとも今≠ヘ生きられる。ただし、常に死と隣り合わせな日常を選ぶか……
悩むのは当然だ。考えるのは当然だ。そんな大事なことを、直ぐに決めるなんてできるわけがない。それでも、沙知は選んだんだ。未来≠生きることを。
「手術を受けることを決めたのは沙知自身だった。私たちに反対なんてできるわけがない。だから、ずっと励ましていこうと決めたんだよ。手術が成功した後も、ずっと」
「……確か、沙知って中学の時陸上部でしたよね? それってもしかして……」
「ああ。リハビリも兼ねていたんだよ。中学に上がる頃には、日常生活はほとんど問題なく過ごせる様になっていた。けど、沙知はそれだけじゃ満足できなかった。普通の人――いや、皆みたいに動きたい。運動したい。ってね。運動部へ入部させるのにも苦労したよ。学校側には説明してあったから、許可を下ろすわけにはいかない。って。それでも無理はしない。させないと説得して、入部を認めてもらったんだよ」
そりゃあ、一応治ったとは言え激しい運動の出来ない生徒を、運動部に入れるなんて普通は許可しないよな……それでも入部出来たんだから、この二人の努力は相当なものだったんだろう。もちろん、沙知自身の努力も。
「最初はほとんど見てるだけだったらしい。でもちょっとずつ、ちょっとずつ練習に参加する様になって、体力も少しずつついてきた。元々運動神経そのものは悪くなかったみたいで、2年の夏、沙知は中距離の選手に選ばれた。あの時は、本当に嬉しそうだったな……」
なんて、遠い目をして語る沙知の父親。
短距離じゃあ心臓に負担がかかる。長距離を走るには体力が足りない。そこで中距離ってことか。
「でも……」
でも? 何か、あったのか?
「結局、沙知は試合には出れなかった。無理をしてたんだ。中距離で勝つ為には、どれだけ短距離に近い速度で走れるかが重要だったらしい。だから、沙知は心臓に負担がかかるのを承知で、それでも選手として勝つ為に、練習にも気合を入れてた。誰もそのことに気づかなかったんだ。その結果、沙知は練習中に倒れた。試合には補欠だった子が出たそうだ。それからしばらくは、ずっとふさぎ込んでたよ」
そりゃあそうだ。みんなみたいに運動したいと願って、やっと手にいれた選手という立場。なのに、倒れてしまった。選手ではなくなってしまった。自分は、普通の人とは違うという劣等感。おそらく、沙知はそんなことを感じてしまったんだろう。
「学校側からは退部の話が出たけど、沙知はそれを拒否したよ。まだ、頑張りたい。そう言ってた。結局部活を辞めるとまではならなかったけど、沙知はそれから先選手になることはなかった。沙知も選ばれないと思ってはいたみたいだけど、それでも引退までずっと続けていけたのは、自分は普通の子だ。周りと違う所なんてない。って、それを証明したかったからだと思う」
多分、この人の言う通りなんだろう。そして、沙知はそれを証明したんだ。少なくとも、高校生活の中で沙知が普通と違うなんて思ったことはない。ただ、俺にとって特別だっただけだ。
でも、それなら何で……?
考える。沙知は普通と何ら変わらない。もちろん、限界は低いんだろう。でも、それは個人差でしかない。そんな沙知が、突然倒れた。
突然? いや、あの時何があった? 俺が告白して、それからキスして……
もしかしたら、目の前の二人はもう気づいているのかもしれない。俺が告白したって言った時から、なぜ沙知が倒れたのかを。
その理由に、俺も思い至った。信じたくない。でも、それしか考えられない。
沙知が倒れたのは……俺の、せいだったんだ――
俺はどうしたらいいんだろうか?
俺は何をすべきなんだろうか?
いくら考えたって、答えは出てこない……
俺は何も知らない。
俺は何も出来ない。
俺は、沙知に対して何もしてやれない……
自分の無知無力を嘆く。
俺は、沙知を好きでいていいんだろうか……?
Hesitation at mind-何よりも大切なコト、何よりも大切なヒト-
沙知が倒れてから、一晩が明けた。
沙知の両親と話をした後、俺は二人が乗って来たタクシーに乗って伊藤たちが待っている宿へと戻った。とりあえず命に別状はない。という医者から聞かされた話を皆に伝えて、俺たちはそのまま何をするでもなく眠りについた。というのが昨日の顛末。今朝になって、携帯で連絡すればあのまま病院で沙知の側にいることが出来たんじゃないかと思ったが、今となってはもう遅い。それに……俺は、逃げたかったのかもしれない。だから、気がつかなかったんじゃなくて、意識的に考えなかったんじゃないか。そんな風にさえ思える。
「どうした? 暗いぞ侑人」
部屋の窓際に座りながら外を眺める俺に向かって、岡部が至極真っ当な意見をぶつけてきた。
今の俺を見て、明るいと思う奴なんていないだろーさ。
「長谷川、無事だったんだろ? なのにそんな顔してんじゃねーよ」
「……悪い。ちょっと、そっとしておいてくれないか?」
岡部の言ってることは正しい。沙知は結果だけ見れば無事だ。その結果が全てである岡部たちからすれば、それでも落ち込んでる俺がおかしく見えて当然だろう。だけど、俺にとっては結果が全てじゃない。だからこそ、考えなきゃいけない。考えたって、答えなんて出るはずがない。だけど……考えずには、いられないんだ……
「……はぁ。まあいいけどよ。俺たちは昨日の夜何があったか知らないからな。だけど、お前に責任があるわけじゃないだろ? そんなに落ち込むなよな」
俺に責任がない? そうだったら、どんなに気が楽だったか……
もっとも、気が楽だろうが何だろうが、問題が解決されるわけじゃない。だから、そんなことで落ち込んでるわけじゃないんだ。どうすればいいのか分からない。だから、考えて、考えて、悩む。まるで、出口のない迷路に入ってしまったかの様に、答えの出ない思考を繰り返す。
「俺はちょっと外行ってくるけど、昼にはチェックアウトすること忘れるなよ?」
岡部はそんな言葉を残して、部屋から出て行った。もしかしたら、気を遣ってくれたのかもしれない。因みに、伊藤は俺が起きた時にはもう部屋にはいなかった。旅行中止のこと、昼には帰ることを俺に伝える様に岡部に言って、どこかに出かけてしまったらしい。
宿泊費を安くする為に、初日の夕飯以外は宿に手配をしていない。伊藤も岡部も、朝食の為に外に行ったのかもしれない。ここに来る前は、皆でどこかに食べに行こうって話だったんだけどな……
なんて考えていると、俺の腹の虫が鳴った。
どんな時でも腹は減るらしい。そんな自分に少しだけ嫌気が差しながらも、俺は朝食を求めて部屋を出ることにした。
「あ」
部屋を出て鍵を閉めると、背後から聞き慣れた声が聞こえた。振り返れば、そこには予想通りの人物が立っていた。
「香川……」
「皆口君……お、おはよう」
「ああ、おはよう」
お互い気まずいながらも、何とか挨拶を交わした。俺たちが気まずくなる必要はないけど、どこかお互いに引け目を感じてしまっているらしい。それは、昨日の夜にわかった。
「わたし、これから朝ご飯食べに行くんだけど……皆口君は?」
引け目から緊張してるのか、香川はいつもの間延びした口調じゃない。こんな喋り方も出来るんだな。あのマシンガントーク以外でも……
「俺も飯行こうと思って出たんだけど……」
「それじゃあ、一緒に行く?」
「構わないけど、どこか当てはあるのか?」
「うん。昨日、仲居さんにここの周辺の食事処は聞いておいたから」
「あの時か……わかった。それじゃあ、場所は任せていいか?」
「うん。それじゃあ、鍵閉めるからちょっと待ってね」
そう言って踵を返し、部屋の鍵を閉める香川。とは言え、鍵を閉めるくらい直ぐに終わる。案の定直ぐに振り返り、「じゃあ行こうか?」なんて言いながら歩き出した香川の後に続いた。
俺たちがやってきたのは蕎麦のチェーン店。宿から一番近くにある食事処ということで、ここを選んだんだけど……
伊藤や岡部がいるかもしれないと思ったが、どうやら見当違いだった様だ。と言うか、俺たち以外に客がいない。大丈夫なのか? この店……
「皆口君」
注文をして、それが届くのを待ってる間。香川が意を決した様に口を開いた。
「ごめんね。わたし……」
「ちょっと待て。何で香川が謝るんだよ?」
何かを言いかけた香川の言葉を制し、俺はそう言った。香川は、何も悪いことなんてしない。むしろ俺たちのことを応援してくれてたんだ。協力だってしてくれた。感謝こそすれど、責める要素なんて何一つないはずだ。少なくとも、俺からすれば。
「わたしね、知ってたんだ」
「え?」
その言葉が何を指しているのか、瞬時には理解できなかった。だけど、それ程時間を要することなく思い至る。
「沙知の、心臓のこと……皆口君は、知らなかったんだね。わたし、てっきり知ってると思ってたから……」
香川の告白には確かに驚いた。だけど、それと謝ることとは関係ないんじゃ……
「だから、沙知が倒れたのはわたしのせい……まだ、二人の想いが繋がるには早かったのに……」
「何言ってるんだよ!」
両手を握り、悔しそうに唇を噛み締める香川。それを見て、俺は思わず叫んでしまった。ほんの少し後悔したけど、この感情を引っ込めるつもりはない。
「香川は何も悪くないだろっ。沙知の心臓のことを知らなかった俺がいけないんだよ……何も知らずに、沙知のことを好きなんて言った俺が……」
「皆口君……それは、違うよ。沙知も皆口君のことが好きで、皆口君も沙知のことが好き。それは、形になってなくても皆が感じてたことだよ? だから、いつかは二人の想いが繋がるんだって、皆思ってた。だけど沙知には心臓のことがあったから……まだ。いつかは。って、きっと沙知は考えてたんだと思う。わたしもそう思ってたし。だけど、今回の旅行では。って、沙知も考えてたみたい。わたしと二人でいる時はずっとそわそわしてたし、皆といる時もいつも以上に皆口君のこと見てたから。だから、皆口君に相談された時、嬉しかったんだ。二人の気持ちは繋がってる。今がきっと、その時≠ネんだって。だけど、それはわたしの思い違いだった……」
やっぱり、香川は自分が悪いんだと思ってる。それは、違うのに……
「違う……違うんだよ、香川。悪いのは俺だ。俺が、急ぎ過ぎたんだよ。だから香川は悪くない。そんなに、自分を責めないでくれ……香川が自分のことを責める程、俺も辛くなるから。もし、俺の為を思ってそう感じてくれてるなら、余計に香川は気負わないで欲しい」
「皆口君……うん。ありがとう」
いつもよりは元気がない、だけどそれでも笑顔を浮かべてくれた香川。俺もそれに答える様に笑みを浮かべた。
これで、苦しむのは俺だけで済む……
なんて思っていると、注文した蕎麦を持って店員のおじさんがやってきた。
それからは大した会話もなく、俺たちは朝食を済ませた。相変わらず香川の食べるペースは遅かったけど、俺は何も言わずに香川が食べ終わるのを待った。
「それじゃあ、わたしは宿に戻るけど……皆口君はどうするの?」
しばらくして食べ終え、外に出た所で香川がそう聞いてきた。
「少し、散歩してから戻るよ」
「そう? それじゃあ、後でね」
そう言って軽く手を振りながら、香川は宿へと戻って行った。
俺は、まだ考えないといけない。これから先、どうすればいいのかを。
ゆっくりと歩き出し、海岸沿いの道を歩く。
俺と一緒にいる限り、命の危機に晒されることになる沙知。だったら、俺はこれ以上沙知の側にいない方がいいんじゃないか……だけど、それは俺の気持ちとも、沙知の気持ちとも逆の答えだろう。それでも、沙知が生きていく為には仕方ないことだ。少なくとも、今はまだ……
「しっかりしなさいよ、侑人!」
「え?」
後ろから、ここにいるはずのない人の声が聞こえた。
ゆっくりと、振り返る……
「仲居さん……?」
そこにいたのは、海の丘≠フ仲居さんだった。沙知の声の様に聞こえたんだけどな……
昨日は沙知のことばかり考えてたからあまり気にしてなかったけど、良く見れば顔立ちもどことなく沙知に似ている気がする。あれ? でも昨日とは声がちょっと違う様な……
「今、あなたにとって大切なのは何? 自分の心が潰されないこと? それとも、恋人の命?」
「なっ! そんなの沙知の命に決まってるだろ!」
「それじゃあ、あなたと恋人――二人の想いと恋人の命。どっちが大事?」
「それは……命の方が、重いに決まってるじゃないか……」
「でも、今回のことで命に別状はなかった。だったら、あなたが今想いを引く必要なんてないんじゃないの?」
「わかった様なこと言うなよ! 今度同じ様なことが起きて、助からないとは限らないんだぞ!?」
「逆に言えば、助からないなんて決まってないし、これから先同じ様なことが起きるとも限らないわ。今のあなたは、ただ逃げてるだけ。自分のせいで恋人が死んでしまったら……そんな恐怖から、ただ逃げてるだけ」
「っ……あんたに、何がわかる? 大体、あんたは俺たちとは何の関係もない人間だろっ? 誰かが話すとは思えないし、盗み聞きでもしてたのかよ?」
「いいえ。私は、最初から知ってたのよ」
は? 何を言ってるんだ……?
「私はもういなくなるけど、答えを間違えないで。あなたは、逃げる必要なんてないの。手術は成功してる。今回のことは、初めてのことで負荷が大きかっただけだから。あなたが気負う必要なんてこれっぽっちもないわ。二人は、二人の気持ちに正直に生きていけばいいの」
「あんた、一体誰なんだ? 沙知のこと知ってるみたいだけど……」
「さあ? 誰でしょうね」
小さく微笑みを浮かべながら、そんな風に答える仲居さん。結局は、俺を励まそうとしてくれたみたいだけど……
「また5年後に会いましょう」
「は?」
そう言って踵を返し、俺の浮かべた疑問に答えてくれるはずもなく、彼女は走り去ってしまった……
彼女が何者かはわからない。だけど、俺に答えをくれた。大切なことは何なのかを、ハッキリと教えてくれたんだ。
病院に行こう。沙知のいる、あの場所へ。
行って、伝えなきゃいけない。俺の出した、答えを――
俺は沙知のことが好きだ。
だからこそ、もっと知りたい。
大事なことはもちろん、どんなに些細なことだって。
俺は、沙知のすべてを知りたいんだ。
沙知のことが好きだから――
これからも共に、歩いていく為に……
It deceives and twists and is a thought -ずっと抱き続ける、偽りない想い-
昼頃には海の丘をチェックアウトして、その足でそのまま帰ることになっていた。皆はそのつもりで動いていたけど、俺はこのまま帰るつもりなんてこれっぽっちもない。俺には、まだすることが残ってる。
だからこそ、こうしてこの場所までやってきた。
瀬口中央病院――
この場所に、沙知がいる。
一晩かけて悩んだ。いや、一晩じゃ足らなかった。だから香川に迷惑をかけた。岡部や伊藤にも心配かけたと思う。だけど……だからこそ、俺はもう迷わない。たとえ俺が出した答えが間違っていたとしても、絶対に後悔なんかしない。俺は沙知が好きだ。この想いは、絶対のものだから。
皆には何も言わずにここに来た。岡部も伊藤も部屋に戻ってくる前に荷物をまとめてタクシーを呼んだ。直ぐにでも、沙知に会いたかったから。逸る気持ちを必死で抑え、ゆっくりと深呼吸をする。
その時、ポケットにしまっていた携帯が震えた。マナーモードにしていたが、それが着信だと直ぐに確信出来た。十中八九、伊藤たちの誰かからだろう。
「もしもし」
『もしもし。じゃねーよ! お前今どこいんだ?』
と、これは岡部か。ディスプレイを確認せずに取ったから誰からの着信かは分からなかったけど、まあ予想的中。というか当然か。
「病院」
一言で返す。それが何を意味するか、岡部だって気づくはずだ。
『病院って……長谷川がいるところか?』
「ああ」
『何でって……聞くまでもないか。だけど、何も言わずに一人で行くのはどうかと思うぞ』
「そうだな。悪かったよ」
『何かあんま心こもってねーな……ってまあいいや。荷物は全部持ってってたみたいだから、チェックアウトは済ませたけど、お前どうするんだよ?』
「俺はしばらくこっちにいると思う。皆は真っ直ぐ帰ってくれていいよ」
『まあそれは予定通りだからいいんだけど……って、ちょっと待て。晴彦が替われって言うから替わるわ』
『――皆口』
少しだけ空いた間の後に、伊藤の声が聞こえてきた。
『長谷川にはよろしく言っておいてくれ』
「あ、ああ」
『それと、長谷川の荷物は宅配便で長谷川に家に送っておいたと伝えてくれ』
「わかった」
そういや沙知の荷物のこと忘れてたな。午前中伊藤がいなかったのは、沙知の荷物を送りに行ってたのかもな。
『もう一つだけ言わせてくれ』
「何だ?」
『僕は、皆口と長谷川なら上手くいくと思ってる』
伊藤……
『それだけだ。ああ、香川も何か言いたいらしい。ちょっと待ってくれ』
『皆口君。わたしから言えることはただ一つ。頑張ってね』
「ああ。ありがとう」
『それじゃあ、また学校でね』
「そうだな。また学校で」
そんな言葉を最後に交わし、俺は携帯を切った。
また学校で――俺と、沙知と、そして伊藤や岡部、そして香川と。いつもの面子で、いつも通りの日常を迎える。夏が過ぎて、少しだけ変わった俺と沙知の関係。それを当たり前の様に迎えてくれる友人たち。そんなささやかな未来を思い描き、俺は小さく笑みを浮かべた。
きっと、それは当たり前の様に訪れる未来。
俺と沙知が迎える、幸せな未来。
行こう。そんな未来へと向かって――
携帯の電源を切って、俺は病院の中へと入った。
「すいません」
受付にいる看護士さんにそう声をかけると、物腰の柔らかそうなその女性はニコリと笑みを浮かべて俺が聞こうとしていた内容を口に出してくれた。
「長谷川さんの病室なら502号室よ。あの子なら元気そうにしてたから、多分今日中には退院出来ると思うわよ」
よく覚えてないけど、きっと昨日ここに来た時に俺のことを見た人なんだろう。
「一応、面会っていう形になるからここに記名してくれるかしら?」
俺を手招きしながらそんな風に見せられたのは、面会者名簿と書かれた紙だった。氏名と、入院している人間の名前。そしてその間柄を書く欄がある。看護士さんからペンを借りた俺は、自分の名前。沙知の名前を書き、間柄の欄でその筆を止めた。少し考えて、俺は恋人≠ニ書いてペンを返した。心なしか、看護士さんの表情がニヤついて見える。受付を後にする俺の背中に「ごゆっくり〜」なんて言葉までかけてくるくらいだからちょっと困る。
まあそれはいいとして。502号室ってことは、やっぱ5階だよな。
近くにあったエレベーターに乗り5階まで上る。エレベーターを降りた目の前の壁には部屋番号の案内があった。左に行けば501号室から505号室まで。右に行けば506号室から510号室まである様だ。当然、502号室のある左に進む。病室は進行方向の右側にしかなく、左側はトイレやら病院関係者用の部屋がある様だ。右側の部屋番号を見ながら歩く。
504号室。
503号室。
502号室。
あった。念の為、部屋番号の下にある患者名にも目を配る。
長谷川 沙知。確かにその名前があった。個室というわけではないが、どうやら今この部屋にいるのは沙知だけらしい。それなら変な遠慮はいらないな。なんて軽い気持ちで俺は病室に入った。
「あれ? 侑人じゃない」
「……っておい! 何かえらく軽いなぁ」
沙知のあまりの普通っぷりに思わずツッコミを入れてしまった。いや、これは喜んでいいのか? うーん……微妙だ。
「どしたの?」
「いや、様子を見にきたんだけど……元気そうだな」
「まあねー。今日中に退院できるみたいだし。そもそも、入院なんて必要な程大したことじゃないんだから当然よね。まあ、今回のは検査入院というか、ただの様子見って感じだったんだろうけど」
「……沙知、本当に平気なのか?」
「ん? 当たり前じゃない。侑人、何か勘違いしてない?」
「え?」
「多分、あたしの心臓のこと聞いたんだと思うけど……病気は、もう完全に治ってるんだからね」
「え?」
って、俺はこれしか言えないのか……
「ちょっと後遺症って言うか、ちょっと他の人より心臓が弱いけど……それでも、あたしはもう病気なわけじゃない。多分、侑人はあたしが倒れたのは自分のせいとか思ってるんでしょうから一応言っておくけど、全然関係ないから。あたしが勝手に興奮して、それで倒れちゃっただけ。だから気にしないで」
「沙知……」
「ねえ、侑人?」
「ん?」
「あたしたち、もう恋人同士でいいんだよね?」
「当たり前だろ」
その答えは揺るがない。沙知が俺を拒絶しない限りは――違うな。たとえ沙知がどう思おうとも、俺の答えは揺るがない。
「それじゃあさ、キスしよっか?」
ムードも何もあったもんじゃない。だけど、それは確かに沙知の想い。沙知が求める、ナニカ――
「いや、そこで呆然とされるとちょっと恥ずかしいんだけど……ほら、昨日はちょっとアレだったじゃない? だから、ね?」
仕切り直し? いや、ちょっと違うか……
「侑人とのキスを、嫌な思い出にしたくないから」
「そう、だな」
昨日のキスが、全てじゃない。俺と沙知は、これからもっともっと幸せになれる。
だから、これは改めて踏み出す一歩。俺と沙知が紡ぐ物語の、新しい幕開け――
目を瞑る沙知。そっと、そんな沙知と唇が触れるだけのキスを交わす。
「幸せの味がする」
ゆっくりと目を開けながらそんなことを言う沙知。俺は無言で頷き、そして、伝えたかった言葉を紡ぐ。
「俺はもう逃げない。俺は、沙知のことが好きだから。沙知の全部を知りたい」
「うん。あたしも……」
それ以上、もう言葉は必要なかった。
自然と、二人の唇が近づく。四度目のキスは、少しだけ大人のキスだった……
始まりは覚えてない。
だけど、それは確かな想いで……
二人で紡いでいきたいと思った。
ありふれた、平凡な……
それでも、幸せな物語を――
The happy future-キエナイキズナ-
今年もまた、夏が終わった。
沙知と結ばれたあの日から、もう5年の月日が経った。
高校を卒業して、俺も沙知も大学に進学した。同じ大学ではあったが、学部は違った。まあ、講義以外はほとんど一緒に過ごしてたから特にどうということはないんだが。
そう――
特にどうということはない。
特別な出来事なんて何もなくて、ただ平凡な毎日を送ってきた。
大学に入ってから始めたバイトのせいで、多少は沙知との時間も減っていたけど……
それはまあ、その先にある幸せの為の仕方ない犠牲だったんだ。
「一緒に暮らしたいね」
沙知にそんなことを言われたのは、大学に入ってから1年程が経った頃だった。
それからは沙知もバイトを始め、二人で暮らす為にお金を貯めた。
結局、大学生活中でその夢は叶わなかったけど、大学卒業と同時に結婚。そして二人の部屋を借りることが出来た。俺はそれなりに有名な企業に就職が決まっていたし、沙知も小さいけどしっかりとした会社の内定をもらっていた。金銭面の問題がそれ程なくなった為に決行出来たわけだ。まあ、小さなアパートの一室を借りれただけなんだけど……
一緒に暮らし始めて1年。
沙知の良い所も、悪い所も見てきた。
時にはケンカもしたけど、それでも俺たちは仲良く暮らしている。
きっとこれからは、今以上に幸せな日々が待っているに違いない。
「ねえ侑人、本当にあたし会社辞めて良かったの?」
「大丈夫だって。ちゃんと沙知の分も頑張るからさ!」
去年、沙知は妊娠した。
沙知を雇ってくれた会社には悪いが、産休というよりもそのまま寿退社させてもらうことにした。沙知にあまり負担をかけたくないというのが本音だが、それを口には出さない。
「沙知はさ、しっかりその子の面倒を見ててくれよ。きっと、沙知にも負けない美人になるから」
「何言ってるのよ」
俺の言葉に苦笑を漏らす沙知。
その腕に、夏の間に産まれた俺たちの子供を抱きかかえながら。
俺たちは今、幸せに暮らしている。
俺と、沙知と、俺たちの娘の3人で――
5年前、俺が選択を間違えれば決して訪れなかった今。
あの時俺の背中を押してくれた皆には今でも感謝しているし、これからも感謝し続けるだろう。
「あ、目覚ましたみたい」
今まで沙知の腕の中で眠っていた俺たちの娘が目をパチリと開いた。
と思ったが、また直ぐに目を閉じてしまった。
「この子ったら、本当に良く寝る子ね」
なんて苦笑する沙知。
「きっと元気に育ってくれる証拠だよ」
「そうね」
俺の言葉で、微笑みがこぼれる。
幸せな空間。
俺たちの住む部屋。
狭いけど、この子が小学校に入るくらいまでは大丈夫だろう。でも……
「やっぱり、その内引っ越さないとな」
「そうねぇ……でもそれなら、やっぱりあたしも働いた方がいいんじゃない?」
「大丈夫だって。今すぐにってわけじゃないんだ。何とかなるさ」
何とかする。沙知を幸せにするって決めたあの日から、俺は何も諦めないと胸に誓ったから。
「それじゃあ、この子抱いててくれる? ご飯作るから」
「ああ」
俺は沙知の腕から俺たちの娘を抱き上げる。
「絆」
俺の腕の中で眠る娘の名前を呼ぶと、嬉しそうに笑顔を浮かべた。
絆――
それが、俺たちの娘の名前。
俺と沙知の間に産まれた、絶対に消えることのない絆。
……キッカケは覚えていない。
それでもいつからか、俺は沙知のことが気になり始めた。
近すぎて、どこか遠い。そんな関係が続いて……
ただそばにいられればいい。そんな風に思った時もあった。
それでも眩しすぎる彼女の存在をただ欲した。
二人だけの思い出が欲しくて、少しだけ積極的になった。
想いを伝える決意を固めた夏の夜、早く伝えたいと気持ちが逸った。
二人で幸せになれると信じていたのに、一度壊れかけてしまった想い……
それでも、知ることができた。本当に大切なコトを。本当の想いを。
だからこそ、俺たちの想いは変わらない――
高校3年生の夏。俺たちは結ばれた。
それからずっと、俺たちは幸せに暮らしている。
今も、そしてこれからもずっと。
俺たちの幸せは、続いていく。
俺たちの間に、消えない絆があり続ける限り……
fin.