化学のセカイに住んでみる


1 :小豆 :2009/07/07(火) 17:10:24 ID:ncPiWHtn


化学好きにはたまらない!(かもしれない)短編を書いていこうかと思います。
化学の授業中、「なんか化学物質って、考えようによってはすっげ可愛くない?」
と思い、こんなことを思いついたわけです。
そんな可愛い化学物質達を擬人化して、
化学反応などに即してお話を書こうかと思います。

各短編のあとに簡単な説明もつけておりますが、
そこはすっ飛ばしてくださっても全く問題ありません。

化学好きの方も、化学嫌いの方も、
純粋に短編として楽しめるように尽力いたしますので、
暇なときにでもお付き合いくださいませ。


2 :小豆 :2009/07/07(火) 17:11:50 ID:ncPiWHtn

実験1 「塩酸×水酸化ナトリウム」



 触れれば傷つけてしまうと知りながら

 それでも、誰かを求め続ける僕は、愚か者ですか?





 生まれたときからそうだった。
 触れるものすべてを、溶かして、壊してしまう。

 何故、僕はこんな運命を背負って生まれてきたんだろう。

 堕ちるのはカンタンなことだった。
 触れるモノすべてを、片っ端から喰らい尽くしてやった。
 どうせ手に入れられないのなら、全部全部、壊れてしまえばいい。

 そんな荒んだ心で、君と出会った。

 長くて綺麗な、青色の髪。
 深海のような瞳は――気のせいだろうか?
 僕と同じ悲しみを、はらんでいるように見えた。

 彼女は何も言わず、ただ、僕に手を伸ばす。
 突然のことに、僕は慌てた。


「触んなよッ!!」


 僕は、壊してしまうんだってば……。

 思いきり後ずさり、彼女と距離をとる。
 今までは、すべて溶かして、消してきた。
 それなのに、今になって、彼女だけは汚したくないと思った。


「……探してたの、あなたを」


 彼女はゆっくりと微笑む。


「大丈夫。わたしとなら、大丈夫だよ……」


 彼女の手が、伸びてくる。
 なのに今度は、不思議と怖くなかった。
 見えない糸に引かれるように、僕も彼女へと手を伸ばす。

 指先と指先が、静かに触れあった。


「…………っ」


 僕は泣いていた。
 初めてだった。
 僕と触れても、壊れない存在は。

 君も泣いていた。
 触れあった指先から、零れるように。
 確かなぬくもりを、感じていた。


「君は……?」

「わたしは、(NaOH:ナオ)。……あなたと、同じだったの」


 そうか、だから君も、泣いたんだね。
 君の目に見た悲しみは、気のせいなんかじゃなかったんだね。


「ナオ……。やっと、逢えた」


 ずっと、探してたんだ。
 僕も、君を。





――――――――――――――――――――



 「塩酸×水酸化ナトリウム」

 両方とも、素手で触れば皮膚が溶けてしまう劇薬ですね。
 この2つの物質を反応させると、以下のようになります。

  HCl + NaOH → NaCl + H2O

 一番基本的な中和反応ですね。
 単品だと劇薬ですが、
 それらを混ぜ合わせることによって生じるのは食塩と水。
 つまり、小豆的解釈でいけば涙です。
 きっと、ナオの方も色々辛かったんでしょうね。


3 :小豆 :2009/07/15(水) 21:26:02 ID:ncPiWHtn

実験2 「ベンゼン×塩素×光」



 むかしむかし、あるところに、

 とてもきれいな王子さまがおりました。

 きんいろのかみと、きんいろのひとみ。

 やさしいかおをした王子さまは、

 やっぱり、やさしいこころをもっていました。

 王子さまは、なまえをπといいました。

 π王子は、いちねんじゅう、いちにちじゅうを、

 くらいへやのなかですごしていました。

 だから、π王子はそとのせかいをしりません。

 そんなπ王子をとりかこってしゅごするのは、

 6にんの黒い騎士たちでした。

 π王子はいつもかれらにまもられて、

 あんぜんに、しあわせにくらしておりました。

 π王子はそとにでることができないので、

 まいにち、ほんをよんでいちにちをすごします。

 たくさんのほんを、ひがわりで

 6にんの白い召使いたちがはこんできます。

 π王子はほんがだいすきで、

 まいにちまいにちほんばかりよんでいたものですから、

 いろんなことをしっておりました。

 しかし、それらのちしきは、

 ほんとうにみたりきいたりしたものではなく、

 ほんにかいてあることばから、そうぞうしただけのものでした。



 それは幸福なのか不幸なのか。
 それは守護なのか束縛なのか。



 あるひ、π王子のすむおしろに、

 ひとりの黄色い少女がやってきました。

 黄色い少女はいいました。

「王子さまはいつもひとりで、きっとさみしいにちがいないわ。

 わたしを王子さまのはなしあいてにしてください」

 黒い騎士たちはなやみましたが、

 へやのそとにでられないπ王子のことをあわれんで、

 黄色い少女をおしろにむかえいれました。

 黄色い少女は、なまえをクロロといいました。

 クロロはπ王子のいる、くらいへやのなかへとはいります。

「はじめまして、王子さま」

 クロロはやさしくほほえみました。



 それは偶然なのか必然なのか。
 それは慈愛なのか誘惑なのか。



 π王子とクロロはすぐになかよくなりました。

 としのころもおなじくらいでしたし、

 なにより、クロロがかたるそとのせかいのはなしは、

 いつもπ王子をむちゅうにさせました。

「クロロはものしりだね」

 あるとき、π王子がいいました。

「王子さまのほうが、わたしよりも

 もっとたくさんのことをしっているわ」

「ううん。ぼくはクロロみたいに、そらのあおさをしらない。

 くものしろさをしらない。きみは、ものしりだよ」

 なんだかうれしくなって、クロロはにっこりとわらいました。

 あるひクロロはπ王子にたずねました。

「どうしてこのへやは、こんなにくらいの?」

 π王子はこたえます。

「黒い騎士たちが、ひかりにあたってはいけないというんだ」

 π王子はなにかをおもいついたように、かおをかがやかせました。

「ねぇ、ひかりについてはなしてよ」

「ひかりはね、きらきら、きらきらしてて、あったかいの。

 めをとじてると、まぶたのうらがあかくなって、

 まぶしいなぁって、おもうのよ」

 こんどは、クロロがかおをかがやかせました。

「ねぇ、ふたりでひかりをみにいきましょう。

 すこしだけなら、きっとばれないわ」

 π王子はとてもわくわくして、すぐにへんじをしました。

 黒い騎士たちにばれないように、

 ふたりはこっそりへやをぬけだします。

 へやのそとのろうかもまっくらでしたが、

 ろうかのずっとさきに、ひかりのこぼれるとびらがみえました。

 ふたりはてをつないで、そこまでかけていきます。

「もうすこしよ」

「たのしみだね」

 くすくす、くすくす、しのびわらいをかわしながら、

 ふたりはひかりのもとへとかけていきます。

 クロロはとびらのとってをにぎり、

 π王子をふりかえりました。

「あけるよ?」

「うん!」

 ぎぃ、とおとをたてて、

 おもたいとびらはゆっくりとひらいてゆきます。

 クロロのきいろいかみが、

 ひかりにてらされてきらきらとかがやきました。



 それは解放なのか崩壊なのか。
 それは歓喜なのか慟哭なのか。



 黒い騎士たちがかけつけたときには、

 もう、π王子のすがたはどこにもありませんでした。

 かわりにそこにいたのは、

 なみだでかおをぐしゃぐしゃにしたクロロでした。

「なにがあったのだ?」

 黒い騎士たちが、クロロをといつめます。

「とつぜん、王子さまがきえてしまったの」

 クロロはなきじゃくりながら、

 なんとかそれだけをくちにしました。

 黒い騎士たちは、すぐにくにじゅうをさがしてまわりましたが、

 けっきょく、π王子をみつけだすことはできませんでした。

 おしろにのこされたクロロは、

 いつのまにかなきやんでいましたが、

 ことばがしゃべれなくなっていました。

 こころが、こわれてしまったのです。

 そんなクロロをほうっておくこともできず、

 黒い騎士たちは、クロロをそのまま

 おしろにすまわせることにきめました。





 むかしむかし、あるところに、

 とてもきれいな王女さまがおりました。

 きいろいかみと、きいろいひとみ。

 やさしいかおをした王女さまは、

 こわれたこころをもっておりました。





――――――――――――――――――――



 「ベンゼン×塩素×光」

 今回はまず、化学反応式から書いてみたいと思います。

 C6H6 + 3Cl2 → C6H6Cl6

 これはいわゆる、付加反応ですね。
 ベンゼン(C6H6)に塩素(Cl2)を加え、
 光(ただしくは紫外線)をあてることで、
 ベンゼンに塩素がくっついてしまいます。
 そうして生じる物質は、ヘキサクロロシクロヘキサン(C6H6Cl6)といいます。

 そもそも、今回のお話のπ王子が何者かと申しますと、
 ベンゼンは炭素原子が六角形になってできているのですが、
 その六角形の真ん中にいて、結合のお手伝いをしている
 π電子というものが存在するのです。
 そのπ電子ですが、塩素が付加してシクロとなった時点で、
 消えてしまうらしいのです。

 クロロひとりだけなら、どうともないのですが
 そこに光が加わることで、π王子はこの世にはいられなくなってしまうのです。

 ちなみに“6にんの黒い騎士たち”は炭素原子で、
 “6にんの白い召使いたち”は水素原子だったりします。

 授業でπ電子のことを聞いたときに、
 「報われない存在だなぁ」っと思いました。
 束縛されて、最後にはあっけなく消えていく。
 そんな彼にとって、クロロはどんな存在だったのでしょうか?


4 :小豆 :2009/07/27(月) 00:05:59 ID:ncPiWHtn

実験3 「皆既日食」



 遥か遠くの昔の話

 神はぽつりと呟きました



「彼の2人、出逢うこと勿れ。

 出逢えば世界は、闇に堕ちようぞ」



 それを罪とは、呼べないけれど

 別たれし運命

 今ここに、廻り逢う





「ヨウ……やっと、見つけた……」

 彼女は息を切らせ、それでも顔を綻ばせる。
 そんな彼女の姿を見て、彼は心底驚いた顔をした。

「ルナ……? どうして、ここに?」

 焦りを隠せない。
 そうこうしているうちに、彼女はどんどん、彼へと歩み寄る。

「ずっと追いかけてたから。ヨウの背中」

 言いながら、笑顔で手を伸ばした。

 どうしてそれを、拒否できようか。
 彼女と同じか、それ以上に、彼も彼女に会いたかったというのに。

「……駄目だって、言われてるだろ?」

 うつむいて呟く。
 言葉とは裏腹に、彼はその小さな手を取っていた。

「いいじゃない、何年かに一度だもの」

 禁忌を犯して、世界を闇に堕としてしまっても。

「これくらいのわがまま、神様だって許してくれるよ」

 2人の影がひとつになっていく。
 世界は闇に、呑まれていく。

「ねぇ、ヨウ……。ちゃんと、言って?」

 淋しそうにそう言った彼女。
 泣き出しそうなのを、必死に堪えていた。

「……逢いたかったよ、ルナ」

 だから彼は、素直に彼女を引き寄せた。





 そうして世界は、闇に堕ちた

 それを罪とは、呼べないけれど





――――――――――――――――――――



 「皆既日食」

 はい、すみません。
 少し化学からズレました。
 一応理科の分野と言うことで大目に見てください……。

 ちなみに、ルナというのはイタリア語で月のことです。
 ヨウの方はもちろん、太陽の“陽”から取りました。
 
 ルナは昼も夜もヨウのことを想い続け、その背中を追っています。
 ヨウはそんなルナのことを想い、彼女が輝けるようにと光を与えます。
 そんな2人のお話でした。


5 :小豆 :2009/08/02(日) 22:18:11 ID:tcz3unte

実験4  「サリチル酸×メタノール」


 この声は、あなたに届いていますか?

 あなたに、伝えたいことがあるの



「サリチルー!!」
 物陰から何かが飛び出してくる。突然のことにサリチルは驚いてしまい、反応が遅れた。かばっと腰回りに抱きつかれたかと思うと、楽しそうな声が飛んでくる。
「わぁい! 今日も会えたね、運命かな!?」
 サリチルは半ばうんざりしながら、自分に抱きついたままの彼女を見下ろした。少しくせのある、ふわふわの茶髪。間違いない。
「メチル……。待ち伏せしておいてよく言う……」
 はぁ、と自然に溜め息が落ちた。ふと、背後から楽しそうな忍び笑いが聞こえてくる。
「おいおい、見せびらかすなよサリチルー。女のいねぇ俺に対する嫌味かぁ?」
 その言葉に、サリチルは真っ青になって振り向いた。やはりそこにいたのは、ちょっと性格に問題のある自分の親友。この状況がこの上なく面白いらしく、笑いを堪えるのに必死な様子だった。
「からかうな、テツ。誰が誰の女だって?」
 べりっ、と無理矢理メチルを引きはがし、鋭い眼光でテツを睨み付ける。
「だいたい、お前は女がいないんじゃなくて、誰ともまともに付き合ってないだけだろ」
 サリチルの厳しい指摘にも、テツは飄々とした態度を崩さない。誤魔化すように笑って、
「さぁ? それはどうだろうな。……それより、」
 そっちの子、大丈夫?
 テツの言葉につられて振り返れば、メチルが今にも泣き出しそうな顔をしてうつむいていた。これには流石のサリチルも慌てる。そんな彼に、とどめの一言。
「……サリチルは、そんなに私のこときらい?」
 ああこれはまずいどうしよう。
 そんな心の声が聞こえてきそうなほど、サリチルの顔が焦りに染まる。
「あーあ、何やってんだよサリチルー。泣いちゃったじゃん」
 と、横から余計なことを言ってくる親友をとりあえず殴って黙らせ、サリチルはメチルに向き直る。ぶっきらぼうに、それでも最大限の優しさで、口にした。
「……違う。嫌いな訳じゃ、ない」
 すると、メチルの泣き声が静かに途切れる。ほっとしたのも束の間、
「隙あり!!」
「え……?」
 気付けば、またメチルに抱きつかれていた。
「お前……っ。嘘泣きか!?」
「ふふっ。これくらいで騙されるほうが悪いんだもーん!」
 そう言って笑うメチルの目が赤いことに気付いたのは、傍で見ていたテツだけだった。



 この声は、あなたに届いていますか?

 今はまだ、届かなくても……

 私は私の全部で、言い続けるよ



「私はあなたが、だいすきです」





――――――――――――――――――――



 「サリチル酸×メタノール」

 えーと、とりあえず化学反応式いきます。

 C7H6O3 + CH3OH → C8H8O3 + H2O

 これはサリチル酸(C7H6O3)とメタノール(CH3OH)が結合する反応です。
 できる物質は水とサリチル酸メチル(C8H8O3)。
 ちなみにこのサリチル酸メチル、湿布薬なんかに使われてます。
 だからメチルはやたらサリチルにくっつきたがるんですね、何せ湿布だから。

 それから、このサリチル酸メチル、もう一つ面白い反応がありまして、
 実は塩化鉄(V)を加えると、青色になるんです。(普段は無色)
 つまりまぁ、塩化鉄(V)=テツだったわけですが……。

 なんだかややこしいですね、反応も、彼らの関係も。
 こんな風に考えてると、化学のセカイも楽しかったり悲しかったり色々です。


6 :小豆 :2009/08/31(月) 22:21:11 ID:xmoJmmnc

実験5 「塩素の漂白作用」



 記憶はすべて、ここに置いていけばいい。

 僕が全部、憶えていてあげるから……。

 どうか、君は思い出さないでいて。

 こんな想いをするのは、僕だけで充分なはずだから。



 身分違いの恋、なんて、大昔じゃあるまいし、今ではありえないと思っていた。――君に出逢うまでは。
 君はいわゆる資産家の娘ってやつで、一般的な家庭に育った僕とは、確かに住む世界は違っていたかも知れない。
 一目惚れだった。よせばいいのに声をかけたりして、何の冗談か君も僕に興味を示して、悲運にも……、僕らは、恋に堕ちた。
 もちろん彼女の両親が、それを快く思うはずなんて無かった。隠れて会っていたけれど、いつまでもそんな誤魔化しが通用するほど、世の中は甘くない。関係がバレてからの、彼らの行動は早かった。
 娘にこれ以上悪い虫がついてはいけないと思ったのだろう、彼らは早々に彼女の結婚相手を、彼女の同意もなしに決めてしまったのだ。



 ――ああ、報われない想いっていうのは、こういうことを言うのか。

 泣いている君を視界に捉えながら、痛いほどに、僕は思い知らされてた。心臓を鷲掴みにされたような、そんな息苦しさの中、僕はせめて泣かないようにと、必死で目に力を込める。
「……ラーレ」
 声が震えてしまったのは、どうか大目に見て欲しい。
 名を呼ばれ、顔を上げる君。流れる長い髪と同じ色をした黄色の瞳には、大粒の涙が留まることなく溢れ続けている。
「いやよ……。絶対にいや……」
 僕が何を言おうとしているのか、何をしようとしているのか、わかっているのだろうか。ラーレは必死に首を横に振る。
「お願い……。いっそのこと、私を殺して……」
 あなたに死んで欲しいとは、言わないから。
 悲痛なまでの、切実な懇願だった。だけど、どうして僕に、そんなことができるだろうか。
「……何言ってんだよ、ラーレ。お前はこれから、幸せになるんだろう……?」
 僕のこの言葉に、彼女が浮かべた表情は、絶望と呼ばれるモノだった。
 そんな顔するなよ……。離せなくなるじゃないか。
「なんで……そんなこと、あなたの口から聞きたくない。私は、あなたと一緒じゃなきゃ……ッ」
 それ以上、君が言葉を発することはなかった。それはきっと、僕が君の頬に手を添えたから。揺れる大きな瞳。そこから流れ落ちるは、枯れることのない君の哀しみ。
「いやよ……。あなた以外の人と一緒になるくらいなら、私は……」
 ――死んでしまいたい。
 言葉にはしなかった君だけど、暗い瞳はそう物語っていた。
 頭を激しく打ち付けられたような、そんな衝撃が駆け抜ける。僕は、覚悟を決めた。喉はカラカラだったけど、どうにか、言葉を紡ぎ出す。
「……愛してるよ、ラーレ。…………だからどうか、忘れて欲しい」
 頬に添えた手を、彼女の額へと移した。その直後、君の目から光が消える。
「クロル…………」
 絞り出すように、愛おしそうに僕の名を呟いて、君は意識を失った。――記憶とともに。
 見る見るうちに、君の髪から色が抜け落ちていく。黄色から、純白へと。今は瞼に覆われている瞳も、恐らく同じ色に変わってしまったことだろう。
 あんまりだ、と思う。あの日出逢わなければ、僕が声をかけたりなどしなければ、……恋に、堕ちなければ。君が、こんなにも泣く必要なんて無かったのに。
「……どうか、幸せになって。もう二度と、僕を思い出さないで……」
 泣かないようにと、ずっと我慢していた。だけどもう、駄目だった。
 僕は力のない君の体を抱きしめて、どうしようもなく込み上げてくる嗚咽に身を震わせた。



 初めから、わかっていたはずだ。

 これは時代錯誤の、“身分違いの恋”。

 長くは、続くはずがないんだって。
 


 数ヶ月後。君は――、

 僕のことを、僕と過ごした時間を、僕にくれた想いを。

 それらすべてを綺麗に忘れた君は、親の決めた相手と結婚した。
 
 とても幸せそうな、微笑みを浮かべて。





――――――――――――――――――――



 「塩素の漂白作用」

 今回は化学変化ではなく、化学物質の性質に即して書いてみました。
 クロル……塩素(Cl2)には、強い漂白作用があります。
 つまり色を無くして、真っ白にしてしまう性質ですね。
 お話の中ではその性質を、記憶を消す能力として扱ってみました。
 記憶と共に抜け落ちてしまったラーレの髪と目の色ですが、
 それがもともと黄色だったのには、ちょっとした理由があります。
 ラーレとは中近東の言葉で、チューリップのことなんですね。

 黄色のチューリップの花言葉は、「望みのない恋」
 白色のチューリップの花言葉は、「失われた愛・新しい恋」

 つまりは、そういうことなんです。


7 :小豆 :2009/10/18(日) 22:15:21 ID:xmoJmmnc

実験6 「ポリエチレンテレフタラート」



 きっかけは単純だった。

「……俺はポリエチレンテレフタラート。PETと呼べ」

 名前を聞かれた。だから答えた。
 ただ、それだけのこと。





 第一印象は、大人しくて、控えめなヤツ。
 あまり関わってきたことのないタイプだったし、こいつとも、
 やっぱりそんなに仲良くなることもないだろうと思っていた。
 なのに――。


「ラート……。ねぇ、ラートったら。僕の話聞いてる?」


 ……今ではこれだ。
 世の中ってのは、本当にわからない。


「聞いてる。それより、その変な呼び方やめろって」

「……みんなと同じ呼び方なんて、おもしろくないよ」


 ふてくされたようにそっぽを向く。
 俺はいつも、こいつに手を焼いてばかりだ。
 そう、いつもいつもいつもいつも。
 出会ってから、そんなに長い時間が経ったわけでもないのに、
 ずっと一緒にいるせいで……いや、
 すっとこいつが付きまとってくるせいで、
 俺はこいつについていろんな事を知った。
 可愛らしい外見に反して実は頑固なとことか、


「それともなに? 君にとって僕は、他のみんなと同じ存在なの?」


 時々、こういうわけのわからない台詞を吐くとこだとか。


「お前は俺の恋人か何かかよ」

「ラートがいいなら、それでもいいよ」

「……」


 まったく、本当に意味がわからない。
 まぁ、もう慣れてきたから別にいいんだけど。

 こんな風に、こいつの謎の言動に振り回される日々が、
 これからもずっと続いていくんだと思っていた。
 未来を疑ったことなんてなかった。
 なのに――。


「おい……、嘘だろ? ……何で、お前なんだよ」


 ……現実はこれだ。
 アスファルトの上に広がっていく赤。
 無情にも、その拡大は止まる気配をみせない。

 交通事故。

 昨日までは、テレビの中だけの話だった。
 それが今、リアルに俺たちに襲いかかっている。
 握りしめた手は、徐々にその熱を失っていった。
 見えているのか見えていないのか、
 かすかに開かれた両眼は、それでも、
 しっかりと俺に向けられているのがわかる。


「…………いやだよ……ラート。僕以外の人に、君をラートと呼ばせないで……」


 “死にたくない”でも、“助けて”でもない言葉。
 最後の最期まで、俺を振り回す、言葉。


「確かな、“特別”を僕にちょうだい……?」


 それだけを言い残して、お前は瞼をおろした。







 名前を聞かれた。だから答えた。


「俺は……、PET。呼び捨てでいい」


 もう誰も、俺のことをラートなどと呼ばないように。
 俺はこれから、PETとだけ名乗っていこうと思う。

 俺をラートと呼んでいいのは、永遠にお前だけだから。





――――――――――――――――――――



 「ポリエチレンテレフタラート」

 まず、このポリエチレンテレフタラートが何者なのかと申しますと、
 エチレングリコールとテレフタル酸の脱水縮合によってできる、
 ポリエステルの一種なんですね。
 化学反応式はちょっとややこしいので省きますが、
 化学Tの教科書なんかにはちゃんと載ってると思います。

 このポリエチレンテレフタラートは、頭文字からPETと略称されてます。
 ペットボトルなんかのPETですね。
 名前は長ったらしく聞き慣れませんが、案外身近な奴だったりします。

 今回のお話は、完璧にこの長ったらしい名前だけに妄想が広がった結果です。
 やっぱり略称って素敵ですよね。


8 :小豆 :2010/02/20(土) 20:17:11 ID:PnmLzLQGnH

実験7 「水分子」



 私はいつでも、あなたの横顔だけを見ていた。






「……ねぇ」


「ん……なに?」


「こっち向いて?」


「それは……むり」


「なんで?」


「…………ごめん」


「……うん」





 いつだってそばにいた。

 だけど近づくことはできなくて。

 つかず離れずの距離。

 手を伸ばせば触れられるほど、あなたはすぐそこにいるのに。



 それでも遠い。



 私たちが向かい合える日は、来ない。





――――――――――――――――――――



 「水分子」

 誰でも一度は目にしたことがあると思いますが、水の分子は酸素原子ひとつに、
 水素原子ふたつがななめにくっついています。
 そのふたつの水素原子の角度は、必ず104.45度で固定されてるらしいですね。
 そこから思いついたのが、この水素の片思いの話です。
 いつもそっぽを向いてる2人が、人知れず恋心を抱いていたら可愛くないですか?


novel plaza system
甘辛流小説家ギルドGAIA
produced by COLUN.