灰色のレディジョーカー


1 :ミツネ :2008/12/16(火) 20:15:12 ID:ocsFWHLc

 自殺をするときは大量の睡眠薬で。
 それは相田理沙子が生まれてから死ぬまでの間に、唯一自分の意志で決めたことだった。

 屋上の縁から少しはみ出したつま先を見つめながら、ふとそのことに思い至った理沙子は、その意志さえまっとう出来ない自分の最期に、少しだけ笑った。そして、口角をもとの場所にもどすのと同じ速度で虚空に体を倒し、笑い終えるとすとんと落ちていった。


******


 そこは喫茶店のようだった。理沙子だけが、カウンターに肘をついていた。客は1人もおらず、店員さえも1人もいない。ただそこにはさっきまで人に使用され、時間が来たらまた誰かを迎え入れる、そういう種類の清潔さがあった。

 調理台の内側には数十種類もの紅茶葉の瓶と、コーヒー豆の缶が並んでいる。銘柄は英語で表記されているが、理沙子はその内のいくつもの味や香りを知っていた。それらを思い出し、カウンターの奥から目をそむけた。

 点けたてのマッチのような灯りが部屋の所々を照らしているだけで、店の奥行きまでは見通せない。店の中は暖かく、それだけに理沙子は自分の体が冷え切っていることを感じた。

 校舎の屋上の冷たさだ。死んだのだろうか、理沙子は思い、口に出してそう言い、そう言っている自分の声を聞いた。死んでいないのだろうか、それを口にしそうになった。

 カウンターの隅で1本のローソクが、ゆるゆると燃えているので、理沙子の手元は明るい。理沙子はその暖かそうな炎に手を伸ばした。

「触ってはいけない」

 カウンターの奥から気配もなく発せられた声に、理沙子は飛び上がった。

「触ってはいけないよ」

 男の声がもう一度それを言った。カウンターの奥から銀色のカフスを付けた腕が伸び、燃えるローソクをのせた皿を摘んで調理台に乗せる様子を、理沙子は息もしないで見つめていた。

「外は寒かっただろう」

 穏やかな声だった。理沙子は息を詰めたまま顔を上げようとしたが、男と目が合いそうになって俯いた。

「座って。コーヒーか、紅茶か、どちらがいいかな。体を温めて、少しこれからの話をしよう」

 嫌なことがまた起こるのかと、理沙子は思った。コーヒー、紅茶、これからの話。
 どれも理沙子の嫌いなものだった。そんなものはいらない。そう言いたいけれど、言いはしないことを知っていた。

 理沙子は言われるままにスツールの端に体をのせた。相変わらず、下を向いてカウンターの木目を見ている。その木目の上に、ティーカップが置かれた。ミルクティーが入っている。これはオレンジペコーだ。

「心配しなくても、君はもう助からないよ」

 男は言った。
 理沙子は息を吸い、息を吐き出した。涙が出た。
 嬉しいわけでも、悲しいわけでもない。ただ、ここ何年か無かった安堵であった。熱いティーカップに両手で触れると、体中を覆っていた氷のような凍えがほどけていくようだった。

「君はいま5階建ての建物の屋上から落下している。もうすぐ地面に付く頃だ」

 理沙子は涙を拭き、紅茶を一口啜った。

「おいしいわ」

「まだ時間はある。紅茶もたくさんある」

 男はそう言うと、自分の分の紅茶を注ぎ、黙って飲み始めた。
 この人は誰で、ここはどこで、自分はどうなるのか、理沙子はそういうことに興味を持たないように気をつけながら生きてきた。1杯ずつの紅茶を飲み終えるまで、2人とも何も言わなかった。

「生まれ変わるとしたら、どんな人に生まれて、どんな人生を送りたい?」

 男のほうが、口を開いた。理沙子は相変わらずティーカップを見つめている。

「人間にはなりたくない。別に今回色々とつらかったからじゃない。向いてないんです」

 誰かにこんなにはっきりと自分の気持ちを伝えたことが無かったので、理沙子は自分にもそういうことが出来るのだということに驚いた。

「出来れば、天国にも地獄にも行かずに、消えたい」
 
 理沙子は初めて男の目を見た。中年の上品な紳士で、外国人のようだった。蝋燭のゆらめきを瞳に映して、泣いているようにもみえる表情を保っていた。

「おいしかったです。昔親が作ってくれたミルクティーに似ていて」

 男が紅茶を注ぎ足すと、ティーカップから濃い湯気が溢れた。

「ずっと君を待っていたよ。僕らのレディージョーカー」


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