「赤い泥って知ってる?」
ある日の川辺で、やおら栄太郎は言った。
「なに、それ」
「人が人でなくなるとき、その泥に沈んでいって、もう一度上がってくるんだ」
いつもの乾いた声で言い、いつものまっ黒い目で川面を見つめて、栄太郎は笑顔だった。
私はなんとも言うことが出来ず、ただ奴を見つめる。
「やっぱり、ルイは知らないんだね」
「……なんのことだかさっぱり」
「うん、それなら俺と一緒に行こうよ。赤い泥へ」
「そうしたらどうなるの?」
ゆるやかな川の流れ。当然のように流れる透明な川。そこに、私は赤いどろどろを思い浮かべた。
「……そうしたら、」
栄太郎が目を細める。
「人でなくなるんだよ」
「だから、それってどういうこと」
「俺のようになるんだよ」
「……?」
私は微かに口を開いて、でも何も言えなかった。
「とにかくさ、行こう。夜九時にまたここで会おう」
奴は突然早口になって、言いながら立ち上がった。だけど表情はそのまま、笑顔だった。
白い満月が浮かんでいる。
夜九時とはいつなのか正確には知らない。ただ以前にもその時間に栄太郎と会ったことがあるからわかる。それは確か、風が静かに肌にしみ入る時頃。
「栄太郎」
川辺の青草の中に足を踏み入れ、私は呼んだ。
奴の背中が、石橋の下に見えたからだ。
「ぴったり」
「え?」
「ぴったり九時だよ、ルイ」
栄太郎はふり返って笑った。手の中に金色の丸いものが見える。あれは確か懐中時計。栄太郎の少ない持ち物の一つ。
「私の動物的直感だもの」
「うん。さすが」
奴はいつもと変わった様子もなく、屈託なく笑っている。
「ねえ、泥ってどこにあるの。今からそこに行くの?」
「……泥?」
奴は眉をひそめた。
「いっしょにいこうって言ってたじゃない。赤い泥って……」
「ああ」
思い出したように間抜け声を出す。いつもそうだ。
「案外興味を持ってくれていたんだね、ルイ」
「その為に来たんだもの、今夜は。普段ならうちの裏山に星を見に行っている頃なのに」
「ごめんね、ルイの大切な時間を潰して」
まっ黒い目がすまなさそうな光を見せた。栄太郎は私の日々の行動ときもちをよくわかってくれる。星を見ないと次の日はいつもしおれてしまうのだ。
「でも、明日からはしおれることはないよ」
奴の目線は川の流れへと移った。その声もいっそう乾いたものとなった。
「……どうして。その、赤いどろどろに行くとそうなってしまうの?」
いぶかしげな私の問いかけに、栄太郎は小さく笑い声を上げた。
「まあ、そんなところかな」
そう言うと、ぷいと背を向けて上流の方向に歩き出した。私は小走りでその後を追った。