ウィスパー・ハッピー


1 :日原武仁 :2007/06/03(日) 22:22:16 ID:n3oJtLmk

 こちらでははじめまして。日原武仁です。
 この作品は元々、とある企画の一発モノとして書いたんですが、少しばかり気に入ったのでもう少し書いてみたいなぁ……、といういつものパターンから始めることにしました。週刊更新を目指したいと思います。
 楽しんで頂けたら幸いです。


2 :日原武仁 :2007/06/03(日) 22:25:18 ID:n3oJtLmk

五月人形、英訳するとMayDoll?

 何となくひいきにしている喫茶店、“カフェ・ガルガンチュア”の奥まった席に俺達はいた。二十人も入れば一杯という店内にお客は一人もいない。若葉台学院という学園都市にあり、客層のほとんどを学生が占めるため、授業中や講義中にあたる今のような時間ではさして珍しい光景でもない。かと言って、朝方や夕方に客でごった返すという光景を見たことは無いけれど。
 二限目が休講となり、午後の三限目までの暇を潰しつつダラダラしようと親友である吉永と共に入った訳だが……
「五月人形というのは不自然だと思うのだよ」
 席に着き、それぞれ飲み物を注文した途端に吉永は唐突にそんなことを言い出した。
 俺が何と言っていいものか、反応と対応を考えていると、
「なんだい、その呆れたようなやれやれというか今日の夜は激辛カレーにしようと思っている顔は。これは重要な問題だよ。もっとはっきり認識することを勧めるよ」
 患者の家族にガン告知する医者のような表情で吉永は深刻そうに言ってきた。
 今日も今日とて吉永の悪い癖が始まった。こいつはどうも思い立ったが吉日というか、まっ〜すぐゴー! というか。何か気になることがあるとそれがすぐに口と行動に表れる。
 つい一週間前も、
「今の世ではライトノベルと分類される小説が人気を博していると聞いてな。いくつか読ませてもらえないか?」
 と、日曜の朝も朝、午前八時にいきなり人の家に押しかけ、挨拶もそこそこにいきなり言い放った。
 久方ぶりにバイトも無く、何も予定の無い日曜を心行くまで惰眠しようとしていた俺の計画はあっさり潰され、唐突にも急遽、ライトノベル読書会が俺の部屋で開かれたのだ。
 窓の外には雲ひとつ無い青空が広がっているのに、いい大学生二人が黙々と一日中本を読んでいたという休日はどうしたものだろうね?
 まあ、そんなことを休日は常にインドア派の俺が言っても栓も無いし説得力も無いことだけれど。
「それで、五月人形が何だって?」
 軽く水で唇を湿らせながら、暇潰し代わりに吉永に付き合うべく、聞く姿勢を態度で示す。
「五月人形はどうして五月人形なのだろうね? 三月に飾る人形は雛人形というのに。どうしても不公平だと思うのだよ」
「……何が不公平なんだ?」
 これまたいつものことではあるけれど、吉永が気にするポイントもよく分からない。もしかすると深い意味や高い見識からくるとても高尚なことなのかもと思わせる深刻さを匂わせる重い口調を作るけれど、聞いてみればその内容はおばあちゃんの知恵袋にも、雑学のネタにもならないようなことがほとんどだ。
 この前にもこいつはとあるラノベのページを示し、
「見たまえ。この作者は同じことを考え、疑問に思っているようだ。前から気になっていたのだよ。小学生で始まり、中学生を経て、大学生で終わるのにどうして高学生ではなく高校生なのか。これは由々しき問題だよ」
 半ば興奮して言うと吉永は己の持論を滔々と述べた。そして出た結論が『総檜作りのプールで泳ぐことこそ和風の極み』というこれまた訳の分からないものだった。その過程の大半を聞き流していたのは失敗だったかもしれないな、と、二十秒間くらい後悔したものだ。
 そんなことを回想している間も吉永の言葉は続いていく。
「君には分からないのかい? この得も言えぬ不公平感が。いいかい? ふたつとも桃の節句、端午の節句という子供の成長と健康を祈願するもので発祥は同じだ。なのに片方には雛祭りと付き、雛人形と呼ばれ、片方は特別な名称がある訳でもなく、人形もそのまま五月人形だ。この捻りの無さ具合は不公平を通り越してもはや差別だな」
 憤慨を滲ませながら吉永は鼻で息をついて腕を組んだ。
 言われてみればそうかもしれない。だがしかしだぞ、吉永。お前は重大な見落としをしているぞ。
「でもさ、吉永。三月三日の雛祭りは休みじゃないけれど、五月五日の子供の日は休日だ。社会貢献的には端午の節句の方が上だろう?」
 アンチテーゼを述べる俺の顔は少しばかりにやけていたことだろう。大概のことを人並み以上にそつ無くこなす吉永の、たとえこんな下らないことであっても気付かない事に気付いたのだ。少しは得意がってもバチはあたらないはずだ。
 そしたら吉永は――こいつにしては酷く珍しいことなのだが――キョトンとした顔を数秒した後、深いため息を漏らしやがった。
「あのな、日下部。話をきちんと聞いていたのか? 問題なのは祝日かどうとかではないぞ? 純粋に単純に名前だけだ。それによってもたらされるカレンダー的な意味は含まないし考慮に値しない」
 それぐらい分かっていてくれたと思っていたのだがな、と付け足すと吉永はどこか残念そうな顔を一瞬だけ見せるといつの間にか置かれていた注文したアイスコーヒーのストローに口を付けた。
「悪かったな。ご期待に添えなくて」
 不機嫌を隠そうともせず、それどころか強調するように言葉尻を強めて俺は言うと乱暴にアイスティーを飲んだ。
 そんな俺を見て、吉永はくっくっく、と喉で笑った。
「気を悪くしたのなら謝るよ。別に悪気があった訳ではない。ただ……そうだな。ただ、君のそういう子供っぽい仕草を見てみたかったから、と言ったら君はまたへそを曲げるかな?」
 曲げるね。大いに曲げるさ。何が悲しくてお前の意地悪に喜ばなければいけない。遊ぶのなら他の奴でやってくれ。謹んで、ついでにのしも付けて押し付けてやるよ。
 と、正直言いたいところだが、そんなガキっぽいことを言おうものならまたからかわれるのがオチだ。だから俺は黙ったまま腕を組み、そっぽを向いて鼻を鳴らした。吉永がまたも小さく笑うのが視界の端に映ったが気にしないことにした。
「やはり名前を変えるのが早いと思うのだよ」
 吉永は己の考えを口にした。
「さっきも言ったが、五月だから五月人形ではあまりに安直だからな」
「そうすると鎧武者だから武者人形とか?」
「それもそのまま過ぎるが発想は悪くない。だが、それは駄目だな」
「理由は?」
「武者頑駄無とかぶる。亜種であれ何であれ、由緒あるガンダムシリーズと重なることはよろしくない」
「………………」
 言葉が出ない。どっからそんな単語と言うか発想が出てくるんだ? このご時勢に武者頑駄無はないだろう。せめて遊戯王とかポケモンくらいにはならないか? そもそもファーストのイメージモチーフ自体が鎧武者――だったはずだ。本末転倒もいいところだ。ちなみに、あのシリーズでは仁宇頑駄無が一番好き。
「ああ、かと言って雛祭りで雛人形なのだから子供の日で子供人形、端午の節句で端午人形と言うのもイマイチだな……」
 ぶつぶつと自分の考えをまとめるかのように吉永は呟く。と、不意にポンと手を打ち、
「そうか。違うな。見方を――考え方を変えればいいのだ。まったくこんなことにも気付かない自分が恥ずかしくなるな。神ならざる身なれば全知全能、完全万能は望むべくも無いが、それにしても矮小が過ぎる。本当に恥じ入るばかりだよ」
 吉永はどうやら自分が許せないらしく、やり場の無い憤慨を顔に張り付かせ、フンと大きく鼻を鳴らした。
「それで吉永。お前の灰色の脳細胞だが知恵の泉だかカオスの欠片だかが導いた考え方というのはどんなのなんだ」
 自分の閃きに満足するようににやけて頷いたり、今まで気付けなかったことが悔しいとそっぽを向いては苛ただしげにテーブルの上で指をタップするという、はたから見ると非常に器用な忙しさを見せていた吉永の動きがピタリと止まり、真面目な表情を俺に向けてきた。
「気付いてみれば簡単なことだよ。人形を飾る行事が三月と五月にしかない、というのがいけないのだよ。それぞれの月にあれば問題無い」
「……そうか?」
「そうだとも。星座や誕生石のようなものと思えば問題なかろう。ついでに言えば一年に一回戦ってドール・ザ・ドールを決めたり、最後まで残った人形が完全無欠の少女や少年になれるという設定を付けてもいい」
「どこのGガンダムでどこのローゼンメイデンだよ!?」
「今風に言うならギガンティック・フォーミュラだな」
 まだまだ甘いぞと付け足して吉永は得意そうに楽しそうに笑った。
 ん、待てよ? 俺はどうして吉永とこんな話をしているんだ? 確かに吉永はこっち方面に理解がある奴だ。だが、こんな風にこっちサイドに乗ってきたことは無かったはずだ。なのにどうしてこんなネタ振りできるくらいにはまっているんだ?
「勉強したからだよ」
 俺の疑問を察するように吉永は口を開き、言葉を作っていく。
「まったく褒めてもらいたいね。この一週間は随分とハードだったぞ。全てのアニメ雑誌に目を通し、テレビをチェックし、その上君の家にあったDVDや漫画、小説のほとんどを読破したのだからな」
 どこか得意げに話す吉永に対し、驚いていいのか呆れればいいのか。そんな中途半端で曖昧な表情しか浮かべられない俺に吉永はニヤリとした顔を見せ、
「もちろんベッドの下や机の引き出しの奥、偽装百科事典の中身もチェック済みだ」
 なっ!? 俺の秘蔵部にも吉永の魔手が伸びていたと言うのか!? そんな馬鹿な! あ、あの時、俺が席を外したのはトイレに行った時と飲み物を取りに行った時くらいだぞ……? ふたつを合わせても十分も無かったはずだ。そんな短時間でこいつは……!
「まあ、隠し場所の見当は付いていたからな。あとは時間との勝負だったが……いや、なかなかハラハラしたぞ。久々にドキドキした時間だった」
 どこか晴れやかな顔で吉永は言ってくる。
 言葉が無い。よりにもよって吉永に……俺の健全なる闇の部分が知られてしまった……。よ、よりにもよって吉永に!
「そんなに悲観するものでもないぞ。君の性的傾向や趣向は墓まで持っていくからな。それで、だ」
 茫然自失、真っ白になってマヌケ面を浮かべているであろう俺に吉永が身を乗り出すように話しかけてくる。
 その声に引っ張られるように、操り人形のほうがまだ感情的だと思わせるような魂の抜けっぷりの反射でしかない機械的な動きで俺は首を吉永へと向けた。
 そこで、違和感を覚える。何となく落ち着き無く見えるのは気のせいか?
 いつも落ち着いていて余裕があって、泰然自若という言葉を体現しているのが俺の知る吉永だ。ぱっと見では――おそらくは知り合いや友達程度の付き合いでは分からないだろうぐらいの、小さくて曖昧でもどかしいと思うくらいの所作の違い。
 何が違うのか、ようやく回りだした思考でぼんやり考えていると吉永が二の句を継いだ。
「君のあらゆる好みに対し……この吉永には合致する点が多くあると思うのだよ」
 は? 今――こいつは何と言った?
「君はロングヘヤーが好きだったな。腰まで伸ばすのには少々時間がかかってしまったがね。毎日の手入れも怠らなかったからどうだい? 輝くように綺麗だろう? 今度触ってみるといい。顔の造作は自分で言うのも何だが、それなりに整っていると思うぞ。かわいいというよりはかっこいいというのかな? 実を言うとこのつり目気味の顔はあまり好きではなかったのだよ。だが、君の好きなタイプを思わせるというのだからな。現金なもので今では結構気に入っている。高くも無く低くも無い身長であるが君と並ぶと丁度よい具合なのがたまらないな。スタイルだって悪くないぞ? ちなみに君の嗜好するキャラクターのスリーサイズを平均するとおおよそ八十九・五十八・八十四になる。なかなかの巨乳さんだな。残念ながらこの吉永のサイズは八十七・五十七・八十三で少しばかり及ばないが大きく逸脱した数値でもない。今後のがんばりに期待してもらいたいところだ。あとは――」
「ちょ、ちょっと待て! 待ってくれ、吉永! お前はさっきから何の話をしているんだ!?」
 吉永の言葉を慌てて遮る。こいつは一体どうしちまったんだ? 何をペラペラと一人でしゃべっている?
「君の嗜好傾向とこの吉永の身体的特徴についての対比、及び類似点の検討だが?」
「そうじゃない。そんなことじゃない。何を俺に言いたいのかということだ」
 真顔で言ってくる吉永に俺はかぶりを振る。すると、こいつにしては珍しく、逡巡するように俯き、瞳を閉じて沈黙した。
 時間にしたらおそらくは数秒のことだったろう。しかし妙に重苦しく、圧迫感さえ孕むその沈黙の中にあっては、永劫にこの空間に閉じ込められるのではないかと錯覚させるものだった。
「――線引きをしたいのだよ」
 ぽつりと、吉永は呟いた。
「お互い大学生になって一ヶ月が過ぎ、大学生活にも慣れてきた頃だろうし、そろそろ頃合も良いかと思ってな」
「……頃合、て何のだよ」
「先にも言っただろう? 線引きのだよ。友達と恋人との、な」
「友達と恋人……」
「そうだ。実を言うと今まで恋や愛だ恋愛なんてものは必要ないと思っていたよ。――違うな。正確に言うなら必要なものではあるだろうが、この吉永からは限りなく遠いものだと思っていた。多くの友達と少々の親友で十分だと考えていた。だと言うのに……」
 吉永は深々と息を吐き、頭を大きく振った。
「君がそれを崩してしまった。壊してしまった。参ったよ。まったく降参だ。初めて会ったその時から情緒は不安定になる一方だ。余計なことで杞憂だと思うことばかり考えてしまう。腹立たしいとさえ思うよ。こんな自分にね。君はどうなのだろうね?」
 不意に吉永は探るような目線を寄越してくる。
「君はこの吉永を――吉永京子をどう思っているんだい? 友達かい? 親友かい? それとも異性として捉えてくれているのかな?」
「それは……」
「それは?」
 戸惑い、言葉に詰まる俺に吉永は真っ正面から真顔でもって見つめてくる。その様相はいつもの吉永のように見える。しかし時折、かすかに、ほんのわずかに指先が震えたり、瞳が揺らいだりする瞬間があることを考えると、相当に緊張している――違うな。怯えているんだろう、恐らく。何に? 俺の返答に……
 正直に言おう。俺は吉永のことが好きだ。友達としてではなく異性として。
 高校三年生の春。同じクラスになって初めて会った時から気持ちは変わらない。いや、強くなってさえいる。だが、俺は今まで友達からその先へ進むための一線を、一歩を踏み出そうとはしなかった。
 怖かったのだ。振られることが、じゃない。今の交友関係が壊れることが、でもない。
 吉永がいなくなってしまうのが恐かったんだ。
 吉永は俺の理想の異性像そのものだった。強気で勝気で凛々しく整った容貌も。綺麗な長い黒髪も。スラリとして均整の取れたスタイルも。形のいい口から紡がれるその声も。どこかみんなと一線を引いたように達観した、けれど決して冷めている訳じゃない性格も。
 全てが俺の好みだった。だからだから――あまりにも理想過ぎるから、俺は何も出来なかった。そんな理想の人の傍にいたかったから――理想を理想としておきたかったから、俺は普通の友達で、吉永にとって大きな影響を与えることの無いその他大勢の一人として自分を位置付けようとした。その結果、お互いがお互いを親友とし、気の置けない関係を築くことが出来たのだと思っている。
 いや、今の今まで思っていた。だけど実際はそうではなく、俺は吉永に甘えていたに過ぎなかったんだ。
 吉永は恐らく、他人に対して特別な感情を――いわゆる恋愛感情を持つことは初めてに近いくらいだったのだろう。だからどうしていいのか、どうしたいのか分からなかったはずだ。だけれど、ただ一緒にいたくて、ただ純粋に一緒にいたいと思ってくれていたからこそ、俺も親友足り得る事が出来たんだ。
 まったくもって情けない。吉永の気持ちに気付くどころか勝手に勘違いまでしていたんだから。
 その挙句、最後の最後まで吉永に全部を背負わせてしまった。俺の気持ちは決まっていたのに。ただ自分勝手な理由を付けて、臆病な自分を隠していただけなのに。
 俺の男としてプライドなんてものは最早どこにもないけれど。だけど、だからこそ大きく一歩を踏み越えてきてくれた吉永を受け止めるのが俺の最後の矜持だ。
 俺は改めて吉永を見る。向けられている表情は見惚れるくらいに凛々しくて、瞳は真剣そのものだ。睨んでいるといってもいいくらいに視線に力が入っているのは吉永が心の底から本気だということだ。
 吉永の真剣な気持ちが心地良い。やっぱり、俺は吉永のことが好きなんだと実感してしまう。友達として。親友として。そして女の子として。全てにおいて大好きだ。だから俺は正直に、心の全てを言葉にした。初めて会った時から惹かれていたこと。なのに俺があえて友達と言う立場に固執した理由。そして……吉永を女の子として好きな気持ちは変わってないこと。それら全部を吉永に伝えた。
 吉永は全てを聞き終えると静かに息を吐いた。
「……なるほどな。基本的には現状維持を考える、まったくもって君らしい判断に基づく行動を一年以上もこの吉永にしていた訳か。まったくもって君って男は実に度し難い」
 静かな怒りを声に滲ませながら吉永は言葉を続けていく。
「これではまるで道化ではないか。一年と一ヶ月の間、この吉永がどんな心持ちであったと思うのだ。まったく本当に度し難い……!」
 言うなり、吉永は席を立つと喫茶店の出口へと歩いていった。
 呆れられた……いや、嫌われたか……。まあ、そうだろうな。ただ鈍感なだけでなく、俺が距離を置いた理由が臆病に過ぎる自分勝手な理由だからな。幻滅されて当然だ。仕方ない……と頭で分かっていてもやっぱり痛いよなぁ……
 椅子に深く身を預けながらぼーっと天井を見上げていた俺の視界が暗くなった。ふいっ、と視線を横に移すとそこにいたのは――
「吉永……」
 そう、今歩いていったばかりの吉永が腕を組んで立っていた。
「何を呆けているのだ、日下部」
 睨むように俺を見下ろしながら吉永は言う。
「……お前、俺のことを嫌いになって出て行ったんじゃないのかよ……?」
 絞り出すように声を出す俺に、吉永は不思議そうな顔をした。
「何訳の分からないことを言っているのだ。君のことを嫌いになった? この吉永がか? どこをどうしたらそういう結論が出てくるのかご教授願いたいな」
「え……だってお前、あんなに俺のこと怒ってたじゃないか」
「多少はな。こう言っては何だが君に意気地が無いことなど折り込み済みだよ。それを考慮していたにも関わらず、手を打つ事が遅くなってしまった自分自身に腹が立ってな。頭を冷やすために化粧室へ行って来ただけだ」
「……何だよそりゃ……」
 気の抜けた声で呟くと、俺はずるずると椅子から滑り落ちた。
「それはこちらのセリフだ。戻ってきたら彼氏が魂の抜けた顔で天井を見つめていたのだぞ? 何があったか心配してみれば……君って男は案外思い込みが激しかったのだな」
 殊更に呆れたような顔でやれやれと頭を振る吉永。そんな吉永を見て、俺の口から思わず安堵の息がこぼれた。それと同時に回りだした頭がひとつのことに気付いた。
「そう言えば吉永。さっき俺のことを『彼氏』て言ったよな?」
「ああ、言ったな。気に入らなければ『ダーリン』とでも言い直そうか?」
「恥ずかしいから止めろ。でもいいのか俺で? 高校の時からそうだったけど、吉永ならもっといい――」
「それ以上は言うものではないよ」
 俺の言葉は吉永の声に遮られ、そして唇に置かれた吉永の人指し指によって物理的にも止められた。
「自分のことを過大に評価するのも考えものだが過小に見るのも良くはないのだぞ? この吉永京子は日下部仁志のことが好きなのだ。そして君もまたこの吉永に好意を寄せてくれている。それで十分だし、あまり自分のことを卑下すると、君を想っているこの吉永に対して失礼になると思わないかい?」
 いたずら小僧めいた笑顔を浮かべて吉永は俺の目を覗き込んでくる。
 まったくもって適わない。ああ、そうか。ようやく気付いた。どこまでもやっぱりこいつは吉永なんだ。俺の大好きな友人で、親友で、女の子で、彼女だ。俺の下らない危惧は結局は杞憂で、ただの臆病以外の何物でもなかった。俺のせいで一年も待たせてしまった――なんて言うのはカッコつけすぎだけど……やっぱり、そういうことなんだと思う。だからこれからそれを埋めていこう。二人で、さ。
「吉永。これから時間はあるか?」
「午後イチの講義をサボればあるな」
「ならサボれ。先週封切した映画を見て、それから飯でも食いに行こうぜ」
「望むところだ。当然、君の奢りなのだろう? ここ同様に」
「へいへい。お姫様の仰せのままに」
「よろしい」
 満足そうな笑顔の吉永に苦笑を返しながら、俺は椅子から身を起こすと伝票を持って立ち上がる。
 いつものように並んで歩きながら、だけど普段とほんの少しだけ違う心で俺達は席を後にした


3 :日原武仁 :2007/06/06(水) 18:06:02 ID:ocsFWGV4

病室響くオルゴール

「君は漫画の主人公か何かなのかね?」
 リンゴの皮を果物ナイフで剥きながら、吉永は溜息混じりに言った。
「夕方遅く、暗くて視界が悪かったといって飛び出してきた猫を慌てて避け、河川敷の土手を自転車ごと滑り落ちて入院だなんてな。看護師の方とフラグでも立てようと思っていたのかね?」
 詰問するように、吉永は睨むような視線を寄越してくる。凛々しい若武者のような容貌のせいか、返答次第では斬り捨てるという、そこはかとない殺気が滲み出て見えるのは俺の気のせいだろうか?
 ここは市内の総合病院の一室だ。四人用の部屋にいるのは患者である俺と、彼女である吉永だけだ。中年のおじさんが同室なのだけれど、吉永が見舞いに来たのを見ると、気を利かせたのか病室から出て行ってしまった。
 その心遣いは嬉しいけれど、微妙に一緒にいてくれたほうが良かったな、と思うのはどうしてだろうね?
「入院といっても検査入院だから明後日には退院できるし。吉永が思っているような展開になるには少しばかり日数が足りないな」
「そうとも限らない」
 やんわりと笑顔で、男の包容力を思いっきり発動させて答えた俺を、八つに切り分けたリンゴのように一言の元に吉永は切り捨てた。
「君にその気が無くとも向こうにその気があった場合は分からない。君はまあ、適度に着飾って街を歩けば十人中四人くらいの婦女子が振り向く程度の容姿だ。万が一、億にひとつがあるかもしれない」
 ……多分、誉められているとは思うのだけれど、そんな気がしないのはなぜだろう……? というか、暗に服のセンスが悪いと言われてる気がして仕方ないんだけれど……
「だからだな」
 内心軽く凹んでいる俺を知ってか知らずか、吉永は己の言葉を続けていく。
「君がもし、誘惑に負ける事があった場合」
 サクッ、と、吉永の果物ナイフがリンゴの一切れに突き立てられた。その所作は自然で、声音も淡々としている。だからだろうか、相当に怖いものを感じてしまうのは。
「この吉永のことは忘れたまえ」
 ナイフに突き刺されたリンゴと共に、俺の前に出てきたのはそんな言葉だった。
 思わずぽかんとしてしまう。てっきり「君を殺すからな」くらいの脅迫にも近いようなセリフが出てくると思っていただけに、妙な肩透かしをくらった気分だ。
 そんな俺に吉永は不思議そうな顔をし、
「食べないのかね? それとも君は『アーン』とでも言って欲しいのかな? ならば仕方ない。ではあらためて……」
「ああ、いやいやいや、そうじゃないそうじゃない。やって欲しいっちゃやって欲しいが、ナイフでやるのはどうかと思うんだ――じゃなくて!」
 思考が空白のあまり、不意な本音が出てしまうのを何とか押し止め、頭の中を整理しながら言葉を紡いでいく。
「でもなんか意外だな。吉永から身を引くような発言が出るなんて」
「そうかね」
 出したリンゴを手元の皿に戻しながら吉永は平然と言った。
「君の心がこの吉永から離れてしまうということは、それだけ君の心をこの吉永が掌握出来ていなかったということになる。それはこの吉永に落ち度があったと言わざるを得ないからな」
 ……そういうもの、だろうか……? 吉永の言う事は分かる。分かるしその通りなのだろうけれど……何か違う気がする。上手く言えないけれど、何か……違うと思う。
 曖昧な違和感に首を傾げる俺に、吉永は続けてこう言った。
「それは君とて同じ事だ。今の吉永は心も身体も君で一杯になってはいるが、それがいつ何時他者に取って変わってしまう可能性はゼロでないことを自覚したまえよ?」
 ニヤリとした笑顔で茶化すような口調であるけれど、俺を見つめる瞳は真剣だ。
 ふと、全然関係無いことを思った。
 吉永は……もしかしたら素直にお願いが出来ないのではないのだろうか? 何かして欲しい事があっても直接言わず、まったく関係無いことを遠回しに言う事しか知らないんじゃないのだろうか?
 だとすれば。だとすれば、だ。吉永の本当に言いたい事、分かってもらいたいことは……
「あー、吉永。そんな風に言われた後で言うのも何だけど……」
 ひとつの心当たりに思い当たり、何となく気恥ずかしいものを感じながら、俺は意味無く頬を人指し指で掻きながら口を開いた。
「そこのチェストの引き出しな。開けてみ」
 言われた吉永は何も言わずに引き出しに手をかけ、引いた。
 中から現れたのは少し形が歪んでいるが、黄色いリボンと水色の包装紙できれいにラッピングされた箱だ。
「………………」
 無言で見つめてくる吉永から顔を背け、窓の外に目を向けながら俺は言う。
「こんな場所で渡すつもりはなかったんだけどな。まあ、その、なんだ。……誕生日おめでとう」
「……開けてもいいのかな」
 たっぷりとした沈黙の後、吉永は静かにそう言った。俺はこくりと首を縦に振る。
 急ぐようにガサガサと、だけれど丁寧に包装紙を開けていく音が聞こえてくる。
「オルゴール……」
 吉永の呟くような声が聞こえ、続いて澄んだ音色が響く。ビートルズの“プリーズ・プリーズ・ミー”だ。
「この前デートした時、何となく欲しそうに見てたからさ。それでそいつにしようと思ったんだけど――」
 ようやく吉永に顔を向けて俺は言う。吉永の顔は冷たい程に無表情だった。
 やば! 俺……何か地雷を踏んだのか?
「……この吉永の誕生日は昨日だが?」
「あ、ああ……遅れたことについては謝る。俺だって本当は昨日の内に渡そうと思ったさ。だけどこんな風になっちゃってさ。ホント、俺ってば間が悪いよな」
 包帯に覆われた右腕を上げて示しながら苦笑する。 
 そんな俺に吉永を溜息を返し、
「君はもう少し気遣いの仕方を覚えた方がいいな」
 と、ギクリとするようなことを言い放った。
「笑顔が硬くなったな。やはりこの吉永の想像通りということか」
 しまった! 今のはカマ掛けだったのか! これは不覚すぎるぜ……
 昨日、バイトが終わるのが遅かった。吉永へのプレゼントを買い、彼女の家へ自転車でとばしている最中に俺は怪我をしたのだ。
 これが平日だったら大学で渡せたんだが、生憎昨日は土曜日だった。そのせいでまさかこんな風になるとは思ってもみなかった。まったくもってカレンダーが恨めしい。
「言っとくけど吉永はこれっぽっちも悪くないぞ!? 俺がドジでノロマな亀なだけであって……!」
 慌ててフォローする俺は思わずギョッとした。吉永が――泣いていたからだ。
「ど、どうしたんだよ、吉永!? どこか痛い所でもあるのか!?」
「どこも痛くない。この吉永はいたって健康だ」
 オロオロする俺に吉永は涙を流した顔のまま、平然と気丈そうに……だけど所々震える声でそう言った。
「嬉しいのだよ。好きな人から贈り物を――誕生日のプレゼントをもらうのがこんなにも嬉しいものだとは思わなかったのだよ」
 吉永は目元をハンカチで拭う。だけれど透明な雫が止まる気配はまるでない。
 ど、どうすればいいんだろう……? 何と声をかければいいのか、何をすればいいのか本当に分からない。
「腕を貸したまえ」
 困って戸惑い、何も出来ない俺に吉永は唐突にそう言うと、俺の左腕にしがみつくように身体を預けてきた。
 吉永の柔らかさに思わず身体が硬くなり、吉永の髪から香るシャンプーの匂いに身体が熱くなる。
「あ、あの……よ、吉永、さん? い、一体、な、何の真似で、ご、ござりますでしょうか……?」
 緊張のあまり頭は真っ白になり、紡ぐ言葉は出来そこないのロボットのように片言で壊れていた。
「本当に君は気遣いを知らない男だ」
 俺の肩に頬を押し付ける格好で、吉永は呆れたように言ってくる。
「目の前で彼女が泣いていたなら肩を抱くなり、胸を貸すなりするのが男の役目だろうに。まったく君ってやつは物を知らないというか、意気地無しというか、甲斐性無しというか」
 酷い言われようだが、事実その通りなのが情けない。
 いつもなら憎まれ口のひとつも返している所だが、今は吉永の毒舌よりも二の腕に当たる柔らかさに意識が行きっぱなしな訳で……
「ささやかなお返しだ」
 突然に吉永は言った。
「ここが病院ではなく、君が怪我をしていなかったらもう少し違う派手なものになったのだろうが……まあ、今回はこれで我慢しておきたまえ」
 もう涙は止まったらしく、その声に濁りは無い。それどころか、どこか嬉しそうで満足したものさえ浮かんでいた。
 これよりも派手な事か……色々想像が膨らむな。でも今はこれでも十分過ぎるくらいだろう。
 吉永の体温と、柔らかさを心地好く感じながら、俺は吉永の方に頭を傾けようかどうかを考えていた。


4 :日原武仁 :2007/06/10(日) 21:12:05 ID:ocsFWGV4

ツンデレる?

「か、勘違いしないでよね!? べ、別に君のためじゃないんだからっ!」
 言われ、手作り弁当であろう包みを突き付けられた。
 台詞主:ツリ目気味の美人さん。
 髪型:赤いリボンの黒髪ツインテール。
 服装:フリルいっぱいメイド服。
 その種の人間なら卒倒しかねないシチュエーション――なんだけれど……
「――吉永、それは何の冗談だ……?」
 彼女がやると、それはもう性質の悪い悪夢でしかない。
 大学は文化祭一色だった。壁にはサークルの企画や出し物のポスターが貼られ、呼び込みや宣伝の声が響く。そんな中、俺達の所属する文芸研究会が催すのは……何故かメイド喫茶だった。
 普通、ウチみたいな文科系は地味な展示と相場が決まってるんだけれど、どうしてこんな色モノをやることになったのやら。総勢十名、男女比三対七の我がサークルは、会長の趣味で美形が揃っているのが幸いしたのか、それなりに――否、かなりの盛況を博していた。その戦場のような忙しさの合間を縫って、食事休憩のために二人で部室へとやってきた訳だ。
 顔を引きつらせ、鳥肌を立ててさえいる俺に吉永は首を傾げ、 
「男性の九割は『ツンデレ』という状況なら理性を失うと会長から聞いたが……君は残り一割の方だったか」
 淡々と、実験結果を報告する研究者のように吉永は言う。
「食べたまえよ。この吉永の愛情とともに」
 先程の包みを開き、吉永の手作りらしいサンドウィッチの並んだバスケットを俺の前に置いた。
 そのひとつをつまみ、口へと運ぶ。案の定、下手な喫茶店の物より格段に美味い。
「間違いがあるぞ、吉永。『ツンデレ』は状況じゃない。属性だ」
「属性……好みということかな?」
 いまいちピンときてないらしい吉永は意味を反芻するような顔でツナサンドを咀嚼する。
「そうだ。ついでに言えばツンデレなんて参考にするな。あれは二次元だけのもんだ」
「ほう。それは興味深い話だね」
 身を乗り出す吉永に、つまならそうに俺は言って缶紅茶を啜った。
「好意を寄せても突っ返すのがツンデレだろ? 普通に考えてその時点でそいつとの友好関係は終りだよ。付き合いたいと思う奴はただのマゾだ」
 意地っ張りレベルなら可愛いとは思うけれど、ツンの状態は遠慮したい。その先にデレが確実に待っているなら考えてはみるけれど。
「なるほど。勉強になるな」
 缶コーヒーに口を付け、吉永はなぜか嬉しそうな顔を見せた。
「君がツンデレなるものに傾かない確証を得た。これで心置きなく次を試せる」
 吉永の言葉に看過出来ないものを聞きとがめ、俺は眉を寄せる。
「次? 何だよ次って」
「この吉永は小心者でな。ひとつひとつ可能性を潰していかないと不安なのだよ」
「可能性? 何の可能性だよ?」
 尋ねるも吉永は答えない。ただ曖昧な笑みを浮かべるだけだ。
「これは君にとっても有意義だと思うのだがな。この吉永が様々に変わるのだぞ? かなりお得だろう」 
 伺う様な視線を寄越す吉永に、俺は何とも形容し難い微妙な顔を返す。
 正直勘弁して欲しい。吉永にどんな意図があるのか皆目見当もつかないが、今日はネコミミ、明日は巫女。明後日は眼鏡なんてのならまだいいが、スク水を着られ、あまつさえ「お兄ちゃん」なんてハートマーク付きで言われてみろ。俺は舌を噛んで死ぬね。いや、その前にきっと発狂する。
 俺は吉永が吉永だから好きなのであって、その他の属性は必要ない。そんなものは王者の名を冠する少年誌の連載漫画にでも任せておけばいい。今まで恋愛を必要としなかった、そういうことに不慣れな吉永が――だから、か? だからなのか……?
 俺は唐突に理解した。次いで、口から自然に笑いが溢れる。
 痛い人を見るような、怪訝な顔をする吉永に構わず、ひとしきり笑ってから俺は言葉を作った。
「ははははは……。吉永は可愛いな」
「な!? な、何を急に言い出すのだ、君は!?」
 お、珍しく動揺したな。俺の推測はビンゴらしい。
 頬を赤くする吉永をからかってやりたい気持ちが爆発的に膨らむが、残念ながらここまでのようだ。
「時間だ。戻らないと会長にどやされるぞ」
 缶紅茶を飲み干し、空き缶をゴミ箱に捨てると腰を上げた。
「待つがいい。君は大きな誤解をしている。それを訂正させたまえ」
 手早くバスケットを片付け、慌てて吉永も席を立つ。
 本当に吉永は可愛い。今更ながらに俺の好みを確認し、俺の心が離れないように防波堤を張ろうというのだから。
 やり方は多少ズレてはいるが、吉永は真面目で一生懸命で、そしていじらしい。まったくもって大好きだ。巡り巡って好き過ぎる。思いっきり、力一杯に抱きしめたいね。
 隣を歩きながら、何やら弁解めいたことをまくし立てる吉永を視界の端に収めつつ、いつものお返しとばかりに一時の優越感を噛みしめていた。


5 :日原武仁 :2007/06/17(日) 00:41:10 ID:ocsFWGV4

寂しいと死んじゃう?

「月にウサギが住んでいる、という発想は素晴らしいな」
 隣りを歩く吉永は空を見上げながらそう言った。
 時間にして午後八時。いつも大学への通学路として使っている銀杏並木はライトアップされ、きれいに色づいた葉っぱはさながら黄金のように輝いて見える。
「古代の日本人の想像力や感性には頭が下がるな。見習わないといけない」
 うんうんと頷きながら吉永。
 万葉集や古今和歌集を紐解けばすぐに分かるように、昔の日本人は今以上に情緒が豊かだったのは火を見るより明らかだ。自然を愛し、恐れ、共存しなければならなかった故に生まれた感性。現代の一般人では到底芽生えないであろうことは俺にだって分かる。
 だがな、吉永。お前の想像力や感性だって相当なもんだと思うぞ。前々からその兆候はあったけれど、いわゆる恋人として付き合うようになってから特に顕著になったんじゃないか? それが良いか悪いかは分からないけれど。
 そんなことを思いながら俺は空を見た。
 満月だ。
 周りが明るいため、その輝きは薄らいで見えるけれど、それでも冷たいその姿はやっぱりきれいだと素直に思う。
 吉永が急に月見がしたいと言い出した時にはどうしたもんかと思ったが、満更こういうのも悪くない。
「そういえばウサギは寂しいと死んでしまうという」
 柄にも無く風流めいたことを考えていると、吉永が真剣な口調でそんなことを言った。
「ああ、よく言われるな」
 ドラマのヒロインのセリフで有名な言葉だけれど、これには何の根拠も無いのだ。ウサギだってきちんと世話をしてやればしつけも覚え、長生きをする。
 だから、奇妙に思う。吉永が確証の無いそんなことを言い出すなんて、と。
 これが普通の女の子ならロマンチックだなぁ、で済んでしまうのだが……こと吉永にいたってはこれは当てはまらない。
 なので。俺からすれば身構えてしまうのも無理からぬことで経験上の不可抗力だ。だが、それが吉永は気に入らないらしく、不機嫌そうな顔を作った。
「何だね。その引きつったようなまたかというか呆れたような顔は。三日ぶりに共有できる時間が出来たのだ。もっと喜びたまえ。それとも何かね? 先程購入したドーナツの比率について怒っているのかい?」
 君も意外に子供なのだなと付け足すと、やれやれと肩をすくめて大袈裟に首を横に振った。
 正直に言えば、ここ最近は二人とも大学の実習やレポートで忙しく、まとまった時間が取れなかったから、こうして二人でいられる時間は嬉しいさ。だけど、だからこそ身構えてしまうこともあるってもんだ。吉永が相手だと特にな。
 吉永に分からないように小さく溜息をつきながら、左手に持った世界最大規模を誇るドーナツ店の箱を見やる。
 月見の肴の中身はポン・デ・リングがニ十個にフレンチ・クルーラー、チョコ・ファッション、ダブル・チョコレートがそれぞれニ個という陣容だ。
 吉永はポン・デ・リングが大好きだ。いくらでも食べられると豪語しているし、いつだったか、
「この吉永が国を建てたら通貨単位は『ポンデ』にしようと考えている」
 と、件のドーナツを頬張りながら、吉永は至極真剣な顔でそう言った。吉永の持てる力の全てを最大限まで発揮すれば、どっかの国王のお妃様に収まる事くらい出来そうだけれど、それのせいで自国の通貨をドーナツと同じにされた国民はいたたまれない。
「その時は君が王様だ」
 続いて、いたずら小僧めいた笑顔で言われた俺はどういう顔をしたのか覚えていない。
「で、ウサギがどうかしたのか?」
 話を戻すべく、俺は吉永へと顔を向ける。
 ……唖然とする。いつの間にか――吉永の頭に耳が生えていた。それも、白いウサギの耳が……
「寂しいと死んでしまうのだよ」
 真面目な顔で俺を見る吉永。
「寂しいと死んでしまうのだよ」
 吉永は同じ言葉を繰り返す。
 頭をハンマーで殴られた気分だ。この三日、会ってこそいないがメールのやり取りはしていた。だが、吉永からの返信はどれも短く、素っ気が無かった。少しばかり物足りなさを感じながら、忙しいんだろうな、と漠然と思って納得はしてはいたんだけれど……どうやら勘違いだったらしい。
 ただ、不器用なだけだったんだ。ただ、上手く言葉を見つけられなかっただけだったんだ。
 何でもそつ無く人並み以上にこなすくせに、変に不器用な吉永らしい。そして今も、その不器用さ具合が思いっきり発動中だ。
「悪かったな」
 小さく言って、俺は吉永の肩を抱き寄せた。
「分かればいいのだよ」
 偉そうに言いながら、吉永は頭を預けるように身体を俺にくっつけてくる。
 吉永に連絡を入れる時は電話にしようと誓いながら、ウサミミをいつ取り外してもらおうかと、ひそひそ声が聞こえてきそうな微妙な周りの視線を気にしつつそんな事を考えていた。


6 :日原武仁 :2007/06/27(水) 01:43:44 ID:ocsFWGV4

不意打つどきどき?

 それは、そういう感覚だった。
 映像で表現するなら甲高い音と共に額にイナズマが走るかもしれないし、地味に言えば首筋がムズムズする類のものかもしれない。
 だから俺は素直に、名状し難い感覚に従って膝を折り、深く身体を沈めて頭を下げた。
 刹那、頭上を何かがものすごいスピードで通り過ぎる。
 そのままの姿勢で素早く身体を捻り、数秒前まで前方だった方向へ後ろ向きに跳ぶ。
「あー、残念だなぁ。さっきのタイミングなら今度こそひーくんを昏倒させられると思ったのになー」
 さらりと怖い事を言いながら、そいつは高く掲げた足を下ろしてぷー、と頬を膨らませた。
 ……ちっ。膝上くらいの制服のスカートの下はスパッツか……
「通り魔のように人を襲うのは止めてくれ」
 少しばかりのガッカリを胸に抱えながら立ち上がり、心底辟易して俺は言う。
 バイトからの帰宅途中、夕暮れを過ぎた住宅地に人通りはほとんどないというシチュエーション。いかに知り合いとは言え、角から出てきていきなり襲われる、なんてのは勘弁してもらいたい。
 凶悪にも背後から頭目掛けて上段蹴りを放ってきたこいつの名前は七美奈々(ななみ なな)。漫画やラノベに出てきそうな名前だけれど、れっきとした本名だ。現在高校二年生で、俺こと日下部仁志(くさかべ ひとし)の後輩だ。いや、妹分と言ったほうが正確かな?
 今ではもうすっかりだけれど、小さい頃の俺は身体が弱くて病気がちだった。だから鍛えるために小学二年から中学卒業まで、父親の知り合いだった人の拳法道場に通っていたことがある。
 その道場の一人娘が奈々だ。当時の奈々は人見知りが激しかった。道場のため、周りが年上の男ばかりという環境も奈々の人見知りに拍車をかけていたんだと思う。
 だから同年代の俺と仲良くなったのは自明の理であり、自然の摂理ってなもんだ。
 後は言うまでも無いお約束の展開。奈々は徐々に人見知りが直っていき、明るくなり、俺を真似て……かどうかは定かではないけれど、拳法を学び始めた。最終的に恋愛沙汰にはこれっぽっちもならなかったのは幸か不幸か分からない。
「軽い挨拶なんだから気にしない気にしない」
 ぽんぽん、と俺の肩を叩きながら気安く言ってくる奈々。お前は軽い挨拶で人を昏倒させるのか!? と思わず出掛かったツッコミを飲み込み、代わりに諦め気味の溜息をついた。
 昔から、奈々は俺と出会うと学校だろうが道路だろうが所構わずにどういう訳か攻撃を仕掛けてくる。多分、道場での手合わせで俺から一本も取れなかったのが原因なんだろう。
 小学校の時は互いに拳を交えていたけれど、中学校ではいなしたりやかわしたりの防御一辺倒。高校になってからは避けるだけに俺はなっていた。理由は特に無い。ただ何となくそうなっただけだ。
「今日はどうしたんだ? 奈々の家は逆だろう?」
 当たり前のように隣りを歩く妹分に尋ねる。
「お父さんがおじさんに持っていけって」
 そう言って奈々は肩に下げたショルダーバッグを開く。中には黒い毛に覆われた短い丸太のようなものが入っていた。
「何、これ?」
「熊の手だよ」
 さらりと答える奈々。熊の手てあれか? 高級中華料理のひとつで頼むと数万するって言うあれだよな? へぇ、知らなかったな。熊の手はこんなに大きかったんだ……て、これは見るからに熊の腕丸々一本だろ!
「一週間くらい前に行ってきた熊狩りの戦利品だって。おいしかったよ」
 調理する時はニ、三日かかるから気を付けてね、と何事も無いかのような口調で付け加えると奈々はバッグを閉めた。
 熊狩りって……まあ、深くは聞くまい。あのいかにも拳法家……いや、武術家のおじさんのやりそうなことではあるしな。珍しい肉が食べられるということで良しとしておこう。思考停止は最高の解決法だ。……現実逃避とも言うけれど。
「じゃ、親父には俺から言っておくからバッグを……」
「ダメだよ。これは私の仕事だもん。最後まで責任もってやらなきゃいけないの」
「ならバッグくらい持つ……」
「だからダメ、なの」
 言って奈々はバッグを守るように両手で抱えてしまう。まあ、本人がいいというのなら無理強いはしないさ。俺は仕方なく前に出した左手を引っ込めた。
「こうやってひーくんとゆっくり話すのも久しぶりだね」
「んー、そうだな」
 家へ向かいながらの世間話――と言っても、ほとんど奈々が話すことを聞いていただけだけれど――が一段落した時、奈々は懐かしそうに目を細めた。
 道場を辞めた後も奈々とは中学・高校と一緒だったため、何かと会う機会は多かった。だけど、俺が大学に入ってからは全く会っていない。そりゃそうだ。全然違う生活習慣だし、第一方向が逆なんだから会うほうがおかしい。
「全然変わってないよね、ひーくんは」
「まあ、そうだろうな」
 奈々と最後に会ったのは高校の卒業式以来だから……半年ぶりくらいか。さすがに人間、十九ともなれば半年やそこらでは変わらないさ。
「私はどうかな?」
 ぴょん、と跳んで俺の前に出ると、奈々は俺を下から覗き込むように見上げる。
 その上目遣いの表情は正直言って、ひいき目に見なくても間違い無くかわいいだろう。
 奈々を表すなら元気少女が一番だ。
 溢れんばかりの生気に満ちた大きな瞳が印象的で、顔は中性的ですっきりとまとまっている。
 黒髪のショートで身長は平均よりやや小さいくらいか。スタイルはまあ、悪くないだろう。修練上、必要な所に必要な分だけ筋肉が付いているはずだから、もしかしたら見た目よりもいいのかもしれない。着痩せするタイプとでもいうのだろうか? それとも脱いだらすごいんです、か?
 ボーイッシュなのは昔と変わらない。だけど何だろう……変な違和感を覚える。いや、違和感と言うよりもこれは……
「女の子ぽくなった……?」
 自問の答えが口をついて出る。
 そうだ。前まではスカートを穿いていても女装している……とは言い過ぎだけれど、しっくりとこない印象だった。普段からパンツが多かったからというのも原因のひとつでもあるのだろうけれど、それとは別に――
「酷いなぁ、ひーくん。それじゃ私は今まで男の子ぽかった、てこと?」
 奈々はぷー、と頬を膨らませ、不機嫌そうに俺を睨む。
「いや、男の子ぽいというよりは子供っぽい」
「むー、もっと酷いー!」
 ありがちな展開なら、両手でもってポカポカと殴られる場面なのだろうけれど、腰の入った正拳突きが飛んでくるなら話は別だ。
 一撃必殺、確実に人体の急所を狙う奈々の拳を上半身の動きとステップでかわしていく。俺は格闘マンガの主人公になった覚えはないんだけどな。
「でも良かったよ」
 三分程して、繰り出す拳をようやく収めた奈々はそんなことを言った。
「何がだよ?」
 そろそろ蹴りがくるんじゃないかと冷や冷やしていた俺は内心で安堵しながら尋ねた。
「私の事を女の子だと思ってくれて」
「は? 奈々は初めから女の子じゃないのか?」
 何を当たり前のことを……は! もしかしてそう思ってるのは俺だけで――じ、実は奈々は……おと――
「そんな訳あるかーっ!」
「ぬぉっと!」
 正確に顎を狙い、跳ね上がるように蹴り出された奈々の爪先を寸でのところで顔を引き、身体を反らすように後ろへ跳んで何とかかわす。
「危ねぇな! いきなり何しやがる!?」
「ひーくんが変な事考えてるからだよ」
 足を下ろす奈々は全く悪びれる様子が無い。どころか、
「いー、だ」
 と、歯を見せて威嚇さえしてきやがった。
「なんで俺の考えてる事が分かるんだよ。テレパス能力者か!」
「小さい頃からの付き合いだもん。分かるよ、ひーくんの考える事ぐらい。私の事、男の子だったのか、とか思ってたんでしょ?」
「………………」
 図星だった。
 まったくどうして俺の周りにいる女の子ってのは吉永といい、奈々といい、人の思考をズバズバ言い当てるんだろうね? 俺はそんなに分かりやすい思考パターンをしているのか?
「そんな落ち込まないの。ほーら、いい子いい子」
 凹む俺の頭を満面の笑顔で撫でる奈々。く、屈辱だ……。いつかいつか、この借りは十倍にして返す……!
「ひーくんは私の事を女の子ぽくなった、て言ったよね?」
 俺の頭から手を離し、奈々は言う。
「どの辺が女の子?」
「どの辺、て言われてもな……。全体的な雰囲気、かな……?」
 さっき感じたイメージをなんとか言語化する。男子三日会わざれば刮目して見よ、と言うくらいだ。半年間会わなかったら女の子だって変わるだろうさ。
「ふーん……そう、なんだ……」
 奈々は含むような口調で言い、言葉を続ける。
「それはひーくんが私の事を女の子として認識してる……てこと?」
 は? またこいつは何を言い出してるんだ? 女の子として認識してる?……前にも同じ様なことを別の誰かに言われた気がするけれど……デジャヴ?
 嫌な予感を覚え始めた俺との距離を少しずつ縮めながら奈々は言葉を紡ぐ。
「もっと言えば――私を恋愛の対象に見てくれてる、てこと……?」
 上気した頬、潤んだ瞳の上目遣いで俺を見る奈々。
 まずい……ちょっとどきどきしてきた……。
 こいつ――こんなにかわいかったっけ?
 そう思った瞬間だった。突然、地面を失った。ほんの刹那の、思考が硬直化したところを狙って足払いを仕掛けられたと気付いたのは道路に尻餅をついた時だった。
「…………っ!」
 不意の衝撃に声も出ず、思わず顔を歪めてしまう。
 と、首に何かが巻きついた。違う。奈々が抱きついてきたんだ。
 しまった! 絞め落とすつもりか!
 振り払おうと腕を奈々の肩に置いた時――
「大好きだよ」
 そんな言葉が耳元で聞こえ――冷たく柔らかいものが唇に触れた。
 ……十秒間くらいそのままの姿勢でいただろうか。実際はもっと短かったのかもしれないし、もっと長かったのかもしれない。
 奈々は唇を放すと、はにかんだ笑顔を見せて腕をほどいた。
「それじゃ、またね」
 それだけを残し、走り去っていった。
 小さくなっていく彼女の背中を見つめながら唇に触れ――そのまま仰向けに倒れ込む。
 空は濃紺へと変わり、いつの間にか灯っていた電灯の元、汗の噴き出す身体にアスファルトはほんのりと冷たかった。


7 :日原武仁 :2007/07/08(日) 12:11:21 ID:ocsFWGV4

会長、現る!

 窓の外は依然として雨が降り続き、時折り思い出したように青白い光が煌めく。控えめに言っても豪雨であり、風も強くて雷まで鳴っているとあっちゃ、今日の講義が全て終って大学に用が無い状態でも帰りたくなくなってくる。ホント、今日はバイトが無くて何よりだ。
 携帯で見た天気予報は一時的かつ集中的な激しい雷雨なのでしばらくすればやむといってはいるが、どこまで信用できるか分からない。少なくとも一、ニ時間は足止めだろう。
 雨宿りのために俺は所属するサークル、文芸研究会の部室にいた。急な雨だから誰かいるかと思ったけど、十畳ほどの部屋にいるのは俺一人。部室は講義棟から離れているから、もっと近い食堂や図書館に他の面子はいるのかもしれない。
 誰かと一緒ならそっちの選択肢もあるけれど、一人で暇を潰すのなら部室が最適だ。
 俺は何とはなしに部室を見回す。雑誌や漫画ばかりの本棚、ロッカーが十本。事務机にパイプイスが十脚前後。小さな冷蔵庫に十七インチのテレビと繋がれたビデオデッキにDVDデッキ。それらに加えてなぜか、もう製造中止になった白いハードと海外メーカーの黒いハードがある。ちなみに、会長命令で前者は『ランスロット』、後者は『ガウェイン』と呼ばないといけない。
 時間を消費できるアイテムが揃っている部室はこういう時ありがたい。
 窓の外の雨は全く勢いを弱くしておらず、叩きつけるような雨音がすごい。雷はおさまったようだけれど、やはりもうしばらくは長居をしないといけないようだ。なら、久しぶりにゲームでもやりますか。
 俺はカーテンを閉め――テレビが窓際にあるため、こうしないと微妙に画面が見えにくい――X……じゃなかった、『ガウェイン』をテレビに繋ぎ、机の上に無造作に積んであるソフトから一枚を選んでセットする。さあ、次のオーデションをクリアできればワンランク上のアイドルになれるんだ。がんばれ、千早。
 しばらくぶりにプレイするゲームに思いを馳せながらスイッチに手を伸ばした時、勢い良く部室のドアが開いた。
「いっやー! すっごい雨だねぇー! おねーさん、びっくりだ!」
 陽気な声と共に入ってきたのは会長だった。
「あ、会長。こんち――!」
 挨拶しようと入口に顔を向けたのも束の間、俺はすぐに会長に背を向けた。
「およ? 日下部クン? その態度はちょっとつれないというか失礼なんじゃないかい? おねーさん、キミに何か嫌われることしたかな?」
 背中に不機嫌な会長の声が突き刺さる。おっしゃる通りです、会長。普段ならこんな態度取ったりしませんとも。でも今は別ですよ。なぜって、会長。それは……
「会長の服、下着が透けてますよ」
 この豪雨と風だ。傘をさしても意味がなかったんだろう。会長は全身びしょ濡れで、肌に服が張り付いていた。
「そんなことだったのかい? 日下部クンは意外にウブだねぇ」
 そう言って会長は愉快そうにコロコロ笑った。次いでロッカーを開ける音がし、濡れた服を脱ぐ音と身体を拭く音が続く。
 ……なんか、想像しちまうな。こう、見えないだけにエロいというか、さっきの淡いピンクのブラが印象に残ってる分リアルに……
「もうこっち見てもいいよ」
 言われ、ちょっとヤバイとこまで行きそうだった妄想が打ち切られる。
 胸中で安堵の息をつきながら、会長へと振り返った。
「がっ!!」
 瞬間、雷に撃たれてような衝撃を受け、思わず俺は仰け反った。
 な、な、な、な、何で……は、裸エプロン……!
「いぇーい。男のロマーン!」
 グラビアアイドルのようなポーズを取り、親指を立てた拳を突き出す会長。
「冗談は止めて下さい!」
 ものすっごく見ていたい欲望を振り払うように声をあげ、再び窓側へ身体を向ける。
「あれ? 気に入らない? うーん、おねーさん自信あったんだけどなぁ」
 ショックを受けたように残念気味な声を出す会長。
 自信を無くす事はありません。破壊力は抜群でした。背が高くってスタイル良くて、やや童顔気味なほんわか美人のそんな姿を見られるなんて死んでも悔いはありません。見つめていたいのはやまやまです。ただ……それを実行する意気地が俺に足りないだけです。
「日下部クン。着替える服は何がいい? せっかくだからキミの好みに合わせるよ。メイドさん? 巫女さん? ナース? バニー? 女教師もあるよ。あ、もしかしてスク水とか? きゃ、やだなぁ、日下部クン」
「何でもいいですからとにかく服を着て下さい」
 勝手に人の嗜好を想像して勝手に照れないで欲しいなぁ……
 ぶー、つまらないぃ、とかぼやく声と一緒に衣ずれの音がしばらく続き――
「もういいよぉー」
 かくれんぼしてる子供のような節をつけて会長は着替えの終了を告げてきた。だけれどさっきのことがある。油断は出来ない。
「本当ですか? ちなみに今、どんな格好ですか?」
「露出の少ない格好」
 一番のネックがそれだから、及第点の返答ではある。
 やれやれと思いつつ、再び俺はゆっくりと会長へと身体を向けた。
 ――サンタがいた。
 絵本の中にいるようなスタンダートなものではなく、同じ本でも成人向け雑誌の表紙を飾りそうなノースリーブのミニスカサンタだ。
「………………」
 言葉が無い。裸エプロンよりおとなしいけれど、これはこれでどうなんだ?
「ほら、日下部クン。感想は?」
 満面の笑顔で訊いてくる。
「……よくお似合いです」
「やったー! おねーさんの勝ちぃ!」
 何が勝ちかは分からないけれど、どうでもいいような得体の知れない敗北を感じたのは確かだった。



「そういえば吉永ちゃんはどうしたの? 別れちゃった?」
 俺の前に座った会長はそう切り出した。
「いきなり滅多な事を言わないで下さい」
 今更改めて言う事ではないと思うけれど、吉永はまあ、世間で言うところの俺の彼女だ。
「ほとんどキミ達一緒にいるじゃない。それが今日はキミ一人だけ。誰だって振られたって思うわよ」
 確かに最近は二人でいる事が多いから、吉永が隣にいないというのは周りから見れば珍しいことかもしれない。だからって、俺が振られたと決め付けるのは何気に酷くないだろうか?
「吉永は親戚の結婚式で家族と一緒に地元に戻ってますよ。帰ってくるのは明後日です」
「そうなんだ。ちょっとつまんないな」
「つまらなくていいんです。俺の恋路を何だと思ってるんですか」
「んー? 教えて欲しい?」
「……遠慮します」
 ニタリ、とした笑みを閃かす会長。癒し系の顔のため、こういう表情をされると見えない刃に囲まれているような妙な怖さがある。
「それじゃさ。吉永ちゃんとはどうなの?」
「どうと言われても……まあ、普通に」
 興味津々に目を輝かせてミニスカサンタが聞いてくる。が、詳しく答えるのもあれなので適当にぼやかした。
「日下部クン。人のやる事に『普通』なんてものはないんだよ?」
 人指し指を立て、会長は妙に大人びた顔で言ってくる。
 言わんとする意味が分からない俺を察してか、会長は続けて二の句を継いだ。
「例えばテストなんかでさ。日下部クンが出来た出来ないを客観的に判断しようとした時、何を使う?」
「そうですね……平均点、でしょうか?」
 とりあえず、素直に質問に答える俺。
「だろうね。平均点が一番分かりやすい『普通』だね。じゃあ、クラスに全教科平均点の子がいたとしたら……その子は普通かな?」
 表情こそにこにこした笑顔だけれど、目にはどこか探るような光をたたえて会長は俺を見る。
 もし、仮にそんなやつがいたとしたら――そいつはきっと『普通』じゃない。そこまで平たいのは異質だ。異質はもう、普通にも標準にもなりえない。
「そういうこと。『普通』なんてのは概念だけで実体はない。数字のゼロみたいなもんだよ。無いのに在る、てね」
 おねーさんはゼロ好きだけどね、と会長は付け足した。
「で、実際どうなの? チューくらいしたんでしょ? それともその先まで? やん、日下部クンたら」
 だから想像を捏造して頬を赤らめないで下さい。
「会長が考えているようなことは何もありませんよ。残念ながら」
 隠しても仕方ないので正直にそう言った。
 吉永が他人とこういう関係になった経験は皆無だし、俺にしたって……情けないことだけれど経験は少ない。なので、まあ、そういうことだ。
「嘘……本当に何も無いの? キスもしてないの?」
 意外そうに目を丸くして言われるとなぜだろうね。何だか悪い事をしているような気分になってくるのはどういうことだ? 全然悪くないのに目の前で女の子に泣かれてしまった時に感じる罪悪感のような感覚だ。
「もしかして、日下部クン…………不能?」
「なんてこと言うんですかあんたは!?」
 心底哀れむような顔で言われ、思わず立ち上がって叫んでしまう。こ、この人は言うに事欠いて、よりにもよってそんなことを言うのかよ……
「だって……」
「だってもロッテもないです。そんな事実はまったくもってこれっぽっちもありません!」
 力いっぱいに否定する。と、会長は何か考えるような顔を作り、
「ふぅん。なら、日下部クンに根性が無いだけ?」
 くっ! この人は次から次に人の心をえぐるようなことばかりを……
「あ、ごめん。気にしてた?」
 だから逆に聞いちゃいけなかったかしら的な心配気というか、しまった! みたいな顔をされると余計にヘコむんですって。
「へーへー、そうですよ。俺はヘタレで意気地ナシで甲斐性ナシで根性ナシですよ。よく吉永にも言われます」
 開き直って憮然とし、俺は不愉快な顔を作る。
「へぇ。……吉永ちゃんはそんなこと言うんだ……」
 てっきり、かさにかけて茶化してくると思ったんだけれど、どういう訳か会長は真面目な顔をし、伏せ目がちに考え込むように呟いた。
「……会長?」
 意外な反応に眉をしかめながら声をかける。と、会長は顔を上げて真正面から俺を見た。
「おねーさんと練習しよっか?」
「え? 練習?」
 急に出てきた予想もしなかった言葉を俺はオウム返しする。
「んー? とりあえずキスの」
 ……何を言い出すんだろうね、この人は。どう考えればそんな話になる? 会長の思考回路は俺のような凡百な凡人には及びもつかないものなのは前から知っていたけれど、だけどその発想はどこのエロゲですか?
 これからの展開に期待するどころか、逆に軽く引いてしまっている俺に構わず会長は言葉を続ける。
「やっぱり物事、てのは才能が占める部分も確かにあるけど、練習と経験も欠かすことの出来ない重要なファクターなのは間違いないことだし。日下部クンに足りないそんな才能や経験を補うためにおねーさんが一肌脱いであげよう、てこと。うーん、おねーさん後輩思いっ!」
 さも名案のように提案されても困ってしまう。おそらくは一も二も無く飛び込んでしまうような状況なのかもしれないが……やっぱりなぁ……
 煮えきらず、どうしたもんかと思案して逡巡していると、
「おねーさんじゃ……嫌?」
 弱々しい、半ば泣きそうな震える声で会長は表情を曇らせた。
「い、いや……そんなことはないですけれど……」
 俺には吉永がいる。だから、ここは断る場面であるのは間違いない。だけれど、思ってもみなかった会長の反応に俺は戸惑い、曖昧に答えて口ごもってしまう。
「なら、さ」
 妙に色っぽい、妖艶とも言える表情と口調と息遣い、そして動作で以って会長は俺の隣に座り…………瞳を閉じた。
 うるさかった雨音が急に静かになった。全身に響く心臓の音しか聞こえなくなり、全速力で走るよりも鼓動が早くなる。
 ナンダ? ヤバイ? コレハ? ドウスル? ナゼダ? イクノカ? ダメ? ケレド?
 頭の中が真っ白に、そして疑問詞だけが答えの無い問いをぶつけてくる。
 Be or not to be. いやさDead or alive. 
 ――だめだ。
 据え膳喰わぬは何とやらとは言うけれど、それはやっぱりだめなんだ。
 結論し、俺は会長の柔らかそうな唇に自分のそれを重ねたい欲望を必死に抑え込む。
 と、いきなり会長は目を開けた。
「ていっ!」
 言うや、会長はやや広めの額を突き出してきた。完全に不意を突かれた結果、俺はヘッドバッドをくらってしまう。
 痛みは全然たいしたことはないけれど、会長の突然の奇行に驚き、言葉が出ない。
「ふふん? ひっかかったね、日下部クン?」
 会長は得意満面に言ってくる。
「おねーさんはそんな簡単に身売りするような安い女じゃないんだよ?」
 渾身のいたずらが成功したかのように笑いながら会長は俺から離れるとロッカーを開けた。続けて中から黒いコートを取り出して羽織る。
「おねーさんはもう帰るよ。雨も止んだみたいだしね」
 その時になって、ようやくまとまな思考を取り戻した俺は緩慢な動きで確かめるようにカーテンを開けた。
 雨は嘘のようにあがっていた。それどころか雲の切れ間から光が差し込んでさえいる。
「それじゃ、日下部クン。またね」
「あ、はい。お疲れ様です」
 いつの間にか部室の入口まで歩いていた会長に、半ば反射的な動きで挨拶を返す。
「あ、そうだ日下部クン」
 ドアノブに手をかけ、扉を開けながら会長は振り返る。コートの前はしっかりと閉ざされていた。いかに会長といえどもさすがにあの格好で外は歩かないらしい。
「おねーさんは安い女じゃないけれど――日下部クンがもう少し積極的だったら分からなかったんだよ?」
 え? それってどういう……?
 疑問を言葉にする前に、会長は外へと出てしまっていた。
「…………ふう」
 開きかけた口を閉じ、出かけた言葉を飲み込むと、代わりにとばかりに軽く息だけを吐く。
 からかわれた――んだよな? 最初から最後まで手抜かり無く、一から十まで余すところ無くからかわれたんだよな? 腹を立てるべきシーンだよな? 
 もしかして、なんていう可能性を考えるのは傲慢だよな、うん。
 期待しちゃいけない。希望を持っちゃいけない。
 期待なんてのは実体の無い気体と音が一緒だし、希望なんて世界の災いを閉じ込めたパンドラの箱の一番奥に入っていたくらいにタチが悪いシロモノだ。
 何となく重くなった腰を上げ、机の上に置いてあったリュックを背負う。家に帰ったら吉永に電話をしようと考えながら、俺は部室を後にした。


8 :日原武仁 :2007/07/16(月) 00:43:58 ID:ocsFWGV4

不一致スイッチ

「文化祭はメイド喫茶をします」
 いきなりだった。
 そして、決定だった。
 十畳程の文芸研究会の部室には、俺や彼女である吉永を含めた十人のサークル員が全員揃っていた。一ヶ月後に行われる文化祭の出し物について話し合うからと、副会長からメールを受けて集まったのだ。
 だから開始早々の、突然の会長発言に面食らってしまった。
「実行委員会への申請とか手続きは済んでるから。あとは内装やメイド服の細かなデザインなんだけど」
「ちょ、ちょっと待って下さい」
 話を進める会長を遮るように、俺は思わず口を出した。
「あの、話が見えないんですけれど……文化祭でメイド喫茶をやるなんていつ決まったんです? 俺はてっきり今から決めるもんだと思ってましたよ」
 もしかして、俺の知らないところですでに話し合いが持たれていたとか? でも、そうするともらったメールと食い違うよな?
「あれ? 日下部クン。規約読んでないの?」
 逆に不思議そうな顔で聞き返された。規約? 規約って何だ? 
「入部した時に渡したはずだよ。B6の冊子」
 冊子冊子冊子……ああ、あれか? 黒地に赤い文字で『ようこそ 文芸研究会江』と書かれた、どこぞの特殊機関の案内をパロッた表紙の二十ページくらいのやつか。あとで読もうと思って机の上に置いて、そのままにしてたっけな。
「もう。きちんと読んでおかないとダメだよ、日下部クン。減点三だね」
 めっ、と小さい子を叱るように顔を厳しくして言うと、会長は手元のバッグから黄色の手帳を取り出して何やら書き込んだ。
 初めて見るけれど、おそらくあれが噂に名高い読川 円(よみかわ まどか)会長の“読川手帳”――通称『黄泉の手帳』か。得点にしろ減点にしろ、三十点貯まると何かが起こるというもっぱらの評判だ。減点三十になった教授は横領が発覚して警察に捕まったとか、三十点獲得した学生が宝くじの一等を当てたとか。ホントかウソか真偽の程は定かではないけれど、そんな話がまことしやかに囁かれている一品だ。
「ふむ。文芸研究会規約第三条。文芸研究会が参加する大学内公式イベントの内容は会長に決定権がある、だ」
「さっすが吉永ちゃん。五点あげちゃう!」
 嬉しそうに言って、会長は手帳に書き込むと、
「ありがとうございます」
 吉永は小さく頭を下げてそれに応えた。
「そんな訳で。異論がなければ決定しちゃうけど、どうかな?」
 言って会長は全員の顔を見る。
 メイド喫茶ねぇ……。そういう色モノ的なのはどうなんだろうね? 文科系サークルは地味な展示で無難に過ごすのがセオリーなような気もするし。第一、メイドってそんなにいいものなのか?
「メイド喫茶ですか……」
 煮え切らない、どこか懐疑的な口調が外に漏れた。別に反対しようと思った訳でも無いし、悪意があるどころか含むものすら何も無い。単純に迷いがそのまま声になってしまっただけのものなのだけれど、捉え様によっては意見有りと見られてもおかしくない。現に会長はこっちを見ているしな。とりあえずフォローしとこうと口を開きかけた時だ。
「なんだ、日下部。その気だるそうな呟きは」
 俺の言葉に反応し、睨むような視線を投げてきたのは中園さんだった。
 中園和真(なかぞの かずま)、四年生。履修すべき単位は全て修得し、就職も決まっているのでやることがないらしく、ふらふらと部室に顔を出す前会長である。よく食事を奢ってくれるし、色々な相談に乗ってくれる良い先輩なのだけれど、この人にはひとつ、大きな欠点があった。
「ああ、お前の言いたい事は分かるっ。分かるぞ! そう。こう言いたいんだろう。『最近は格好ばかりのメイドさんがなんて多いんだろう』と。ああ、そうだ。お前の言う通りだ。いや、思っている通りだ!」
 それがこれだ。何かの拍子にスイッチが入ると、所構わず見境無く自分の持論をしゃべり倒してしまうのだ。
「今は言うなれば空前のメイドブーム! ゲームやアニメには必ず一人はメイドキャラがいるのは言うに及ばず! 三次元にしても喫茶店からマッサージ、はては風俗に至るまでメイドメイドメイド! 猫も杓子も右を向いても左を向いてもメイドメイドメイド! 全く嘆かわしい! まったくもって情けない! カネになると思いきや何にでも飛びつく拝金主義。腐れきった資本主義の産み落とした罪悪は計り知れない!」
 ……俺を見るみなさんの視線が痛い。
 これは仕方ないでしょう? 不可抗力です! 確かに中園さんが好きそうで話題にしそうな萌えですよ、メイドさんは。それに今まで反応しなかったんだから油断だってしますでしょ? 
「これが純粋に、メイドさん足るものを完全に理解した上、された上でのブームなら諸手をあげて賛同しよう。応援しよう。だが、実態はどうだ? 全然違う。まったくもって大誤解が蔓延っている。メイドさんを単純な『萌え』などという概念で括るのがそもそもの間違いだ。メイドとは高貴なものなのだ。大変なものなのだ。滅私奉公とはまさにこのことだ。主人のためだけを思い、主人のためだけに尽くす。そこにミスがあってはならない。完璧でなくてはならない。主人にしてもそうだ。メイドさんに尽くされることを当然と思うのはただの外道だ。メイドさんの思いに、奉仕に報いようとしなければならない。そうすることで絆が生まれ、その絆こそがこの世で最も美しい! まさにファンタスティック! 故に、その根底を揺るがす悪しき概念は絶たねばならない。 ドジッ娘メイド? そんな奴は人に仕えるな! 迷惑極まりない! 幼稚園からやり直せ! ツンデレメイド? そんな人格破綻者は必要ない! コミュニケーションを学んでから来い!」
 敵を確実に増やしそうな演説が終ったらしく、その余韻に酔うように目を閉じて斜め上を向く中園さん。そして、不意に俺に顔を向けると、
「そういうことだ、日下部。分かったな」
 至極真面目な顔で言ってくる。
「はい。分かりました」
 正直、何がそういうことなのかこれっぽっちも分からないけれど、とりあえずややこしいことになる前に機械的に首を縦に振る俺。
 そうかそうか、と満足げに中園さんは頷いた。
「さすが中園前会長、深い洞察だな。物事を大きく広い視野で見ている。見習わないといけないな」
 呟きながら、隣りの吉永が感じ入ったように頷く。
 吉永はなぜかこの変わり者の中園さんに心酔している――とは言いすぎだけれど、尊敬の念を抱いているのは間違いない。特異な思考形態を持つ者同士、波長が合うのかもしれないな。俺としては吉永の尊敬が恋とか愛とかにならないことを祈るばかりだ。当然、そうならないように俺も努力をするけれど。
「それじゃ、反対も無いようなのでメイド喫茶でいいかな?」
 お昼の長寿バラエティ番組の司会者めいた口調で会長がまとめにかかる。
 とりたてて反対する理由も無いし、大学で初めての文化祭だ。様子見も兼ねて賛成にしておこう。
 「いいとも!」と答えたほうがいいのかどうかを考えていると、
「ちょっといいか?」
 と、挙手と共にそんな声があがった。会長の幼馴染みで副会長をやっている三年生の月山美奈(つきやま みな)さんだ。
「メイド喫茶をやろうが何をやろうが文句は言わない。ただ、これだけは言っておく。私はメイド服なんか着ないからな。そのつもりでいてくれ」
 一見すると空気を読まない発言のように思えるが、月山さんなら頷ける。
 会長と並んで歩けば十中八九、彼氏と間違われるほどに月山さんをスレンダーでマニッシュな容姿だ。月山さんにその自覚はないのだろうけれど、男装の麗人と言っても過言じゃないと思う。
 と、思っていたんだけれど……どうやら意識してそういう女性っぽい服を避けていたみたいだ。吉永の容貌も凛々しいけれど、それはあくまでも女性にしては、というレベルに過ぎない。だが、月山さんは中性的な顔といい、ベリーショートな髪型といい、背が高くて――言ってはなんだけれど凹凸の少ない身体といい、そのまま男として見えてしまう。男っぽい服装しか着ないのもスカートとか、フリルがある服は似合わないという自覚が月山さんにあるからだろうな。怖いもの見たさと言うとかなり失礼だろうけれどある意味、月山さんのメイド服姿を見てみたい気がしないでもない。
「なんてこと言うのツキちゃん!」
 月山さんの発言に、一番血相を変えたのは会長だった。
「ツキちゃんに……ツキちゃんに着てもらいたくて一生懸命にデザインしたのに!」
 慟哭しながら会長は背後にあったロールした紙を取り出すと、手馴れた動作で壁にかかったホワイトボードにマグネットで貼り付けた。
「………………!」
 その場の全員が言葉を失う。
 広げられたB全の紙に描かれていたのはほぼ等身大の月山さんだった。フリルがいっぱいで、ミニスカで、胸元を大きく開けて強調したデザインの半袖メイド服を着た……
「――くっ!」
 月山さんの動きは速かった。見るや否や飛びつくような勢いで用紙をはがしにかかる。
 だが――会長の所作はもっと速い。いや、月山さんの行動を読んでいた、というのが正しいのだろう。
 月山さんの指が紙に触れる寸前、マグネットを飛び散らして紙を乱暴に、だけれど破れないように回収すると、会長は机を乗り越えて外に繋がる扉へと走った。
「待て! 円!」
「やーだーよー」
 月山さんは会長を追う。が、会長は憎たらしげに言いながら部室を出て行き、それに月山さんも続いた。
 ああなると、二人はしばらく帰ってこないのはいつもの事だ。あ、もしかしたら会長……宣伝をしに行ったのか? 大学を一回りするようなコースを走って逃げ、少しでも印象を残すため、とか? 
 と思うのは考えすぎか。さすがにまだ一ヶ月あるからな。インパクトはあるかもしれないが、人の記憶に残るとは思えない。
 メイド喫茶ねぇ……。俺にメイド属性はないけれど、吉永があの会長デザインのメイド服を着るというのなら――まあ、悪くない。いや、けっこういいんじゃないのか? ああ見えて吉永は何を着ても似合うからな。
 吉永の横顔を眺めながらそんな事を考えていたら、不意に机を叩く音が聞こえた。
 そちらに目をやれと、清水岩さんが議事録と書かれたノートの角で机を叩いたようだった。
「会長と副会長が出て行ってしまったので規約第五条に基づき、進行は書記の私、清水岩潤子(しみずいわ じゅんこ)が引継ぎます。と言っても、この場では決を採るだけで詳しい内容は後ほど決めますのでそのつもりで。それでは、文化祭の出し物について異論のある人はいますか?」
 感情の起伏の少ない、事務的な口調で清水岩さんは言い、全員の顔を見る。
「反対意見はないようなのでこれで決定とします。本日の会議は終了です。お疲れ様でした」
 清水岩さんは丁寧に頭を下げた。それに倣い、全員それぞれ会釈する。
 それからの動きは各自バラバラだ。席を立って外へ出て行く人もいれば、本棚から雑誌を取る人もいるし、備品であるハードに手を伸ばす人もいる。
 各自思い思いの行動をする中、俺はこれからどうしようかと携帯電話で時間を確認しながら考える。
 液晶に映る時刻は五時過ぎ。今日の講義はもうないし、バイトも入っていない。いつものパターンなら吉永と夕飯でも食べながらダベるのだけれど……そうだな。文化祭でメイド喫茶をやるのなら、本物を見ておいた方がいいかもしれない。内装とか料理とか接客の仕方とか。何かしら得るものがあるだろうからな。
 決めると、俺は吉永に顔を向けた。
「吉永。これから暇か?」
「無論だとも」
「なら、これから文化祭のための下見と言うか、勉強の為にメイド喫茶に行ってみないか?」
 提案した途端。吉永は眉をしかめ、顔を曇らせた。
 ……もしかして……やっちゃった? メイド喫茶に彼女と一緒に行こうとするのはおかしかったか!?
「……君はメイドが好きなのかね?」
 好感度が一気に暴落したと危惧する俺に、吉永はどこか呆然とした顔でそんなことを言ってきた。
「え? いや、別にそんなことは――」
「みなまで言わずとも良い」
 吉永は手の平をこっちに向けて俺の言葉を遮った。
「君はこう言いたいのだろう? この吉永にメイド服を着てもらいたい、と。この吉永は君のためならば何でもする覚悟がある。仮装するぐらい朝飯前だ。その格好で朝飯を作ることすらやぶさかではない。だからな、日下部。今回のように文化祭にかこつけて、遠回しに自分の願望や要求を言う必要はないのだぞ? 相手がこの吉永でなかったら、君の望みは察せられる事も無く、君の願いは叶えられなかったのだからな。感謝して欲しいものだ」
 ふふん、とでも言いたげな得意満面な吉永だった。
 ……なんて反応すればいいんだろうね? とんでもない誤解と言うか、どうしようもなく間違った解釈と言うか。いや、“吉永だから”その結論に思い至ったと言うべきか。俺からすれば吉永がメイドコスをしたいがための曲解に思えてならないわけだが……まさか、な。
 まあ、その方向性はどうあれ、吉永が俺を思ってくれていることは十分に分かった。何においてもそのことは素直に嬉しい俺だ。
 吉永も乗り気(?)みたいだし、後学のためにメイド喫茶を体験しておくとしようか。確か、ふたつほど向こうの駅近くにそれらしいものがあったはずだ。
「それじゃ、とりあえず行くとするか」
「了解した。君がこの吉永にメイド服なる衣装を着せたい事も含めて」
「いや、そっちはいいから」
「隠す事はあるまい。君とこの吉永の仲だぞ?」
 どうあっても吉永は己の推論を曲げないつもりらしい。逆に言えば、吉永は俺をそういう目で――自分の彼女にコスプレさせて楽しむような男に見えているということか。……吉永とは今度時間を取ってじっくりと話し合わないといけないようだ。間違いの是正は早いに越した事はないからな。
 それを二、三日後に設けようかと半ば本気で考えながら、俺は吉永と一緒に部室を後にした。


9 :日原武仁 :2007/08/04(土) 17:28:44 ID:ocsFWGV4

真・メイドvs黒・執事 1

「どう? ものすごく似合ってると思わない?」
 着ている服を見せるように、秋山梨香(あきやま りか)は俺の目の前でくるりと回る。
 なので。俺は一瞥し――小さく息をついた。
「うきゅー!」
 次の瞬間、謎の奇声と共に拳が飛んでくる。俺は慌てず騒がず左手でそれを受け止めた。
 俺は昔、健康上の理由で小学校二年生から中学卒業まで親父の知り合いの武術道場に通っていたのだ。四年近いブランクがあるとはいえ、同い年で素人の女の子に後れを取る訳が無い。
 ふと思い出す。道場の一人娘で、幼馴染みと言っても差し支えない女の子がいるのだけれど、あいつとは高校卒業以来会っていなかった。今度久しぶりに顔を出しに行ってもいいかもしれない。 
「なによ! その反応は!?」
 右手を掴まれたまま歯をむき出して抗議してくる秋山に、俺はやれやれと首を振る。
「質問の仕方が悪いな、秋山。もし、お前が可愛いとか訊いてきたなら俺はYESと答えただろう。けれど、お前はこう言った。『似合っているか』とな。ならば――答えは考えるまでもないんじゃないのか?」
 どこか哀れむ口調になってしまった俺に、「ぐぅっ!」と秋山は声を詰まらせた。
 秋山の姿は一言で言えばメイド服だ。フリルがいっぱいでミニスカで、胸元を大きく開けて強調するデザインの半袖タイプ。こういうデザインはそれなりに女性的な体型の人でないと様にならないのは火を見るより明らかだ。
 何が言いたいのかと言うと、記号的な物言いであまり好きではないけれど、その『女性的な部分』が著しく欠けている女の子には少しばかり厳しいデザインということで……
「わ、悪かったわね! どーせあたしは胸が無いわよ貧乳だわよツルペッタンよ!」
 沈黙に耐えかね、自ら暴露する秋山。ああ、やっぱり自覚があったんだなぁ……
「貧乳はステータスなのよ! 希少価値なのよ! 大きくするのは簡単だけど、小さくするのはすっごく難しいのよ!? そう! 言うなればあたしはレアキャラ! 人類の至宝! プレミアものの限定品なのよ! どう、すごいでしょ!?」
 強張った顔であえて胸を張る秋山の姿を俺は涙無くしては見ていられなかった。ここまで自虐的な強がりも聞いたことが無い。あまりにいたたまれなくなったので俺は空いた手で秋山の肩を叩き、
「頑張れよ」
 と、心からの激励を送った。そしたらどうだ。秋山はなぜか、
「うきゅー!」
 と、またもや奇声を発すると空いた手で殴りかかってきた。俺は秋山の肩から素早く最短距離で手を戻して慌ててブロックする。
「お前は俺に恨みでもあるのか?」
 両手を掴み、力比べをしているような格好で俺はうんざりと言う。
「あんたみたいなデリカシーの無い奴は一発ガツンとやらないと気が済まないのよ!」
 俺から手を引き剥がそうと引っ張りながら、秋山はそんなことを言う。誠意を込めた言葉すら届かなくなっているとは、いよいよもって秋山の貧乳コンプレックスは心の奥深くまで染み込んでいるということらしい。
「いい加減手を放しなさいよ、日下部のくせに! このバカ! スケベ! エロ変態!」
「…………」
 振りほどこうと顔を赤くしながら力を込め、罵詈雑言を放つ秋山の手をそのまま、望み通りに放してやった。
「ふえ!? きゃっ!」
 急に支えを失い、引っ張っていた自分の力に引きづられ、足を跳ね上げるように秋山は大きく体勢を崩す。幸い、後ろには何も無く――まあ、だから放したんだけれど――派手に尻餅をつくだけの被害に留まった。
「いったぁ…………っ!」
 予想外にダメージが大きかったのか、目尻に涙を滲ませる秋山。そして次の瞬間。何かに気付いたように、スカートの裾を慌てて押さえた。
「……見たわね?」
 ぺたりと床に座ったままで秋山は俺を睨み上げる。
「何を?」
「あたしのスカートの中よ!」
「見てないよ」
 頬を赤くし、噛み付かんばかりの威勢の秋山に顔色ひとつ変えずに即答した。
「嘘言いなさい! あんなに派手に転んだのよ!? 見えてない訳ないじゃない!」
「見えてないものは見てないんだから仕方ないだろう。それとも何か? お前は俺に見て欲しかったのか?」
「……! そ、そんなことある訳ないでしょ!?」
 さっきよりもなぜか顔を赤くして秋山は勢い良く立ち上がると服に付いた埃を払う。
 ふぅん? そういう反応をするということは……もしかしたら秋山には露出癖があるとか? さっきのはこう、見られたいけれど素直になれない恥ずかしさと嬉しさが混ざりつつ、それに照れ隠しがトッピングされた感情が噴き出した結果なのではないのだろうか? なら、ここはひとつアドバイスしてやるのもいいかもしれない。
「なあ、秋山」
「……何よ」
「私見ではあるけれど助言をひとつ。人に見てもらいたい、見せたいのなら薄いピンクの無地よりも縞のやつにしたほうが破壊力は大きいぞ?」
「うきゅー!」
 間髪入れず、なぜか顔を真っ赤にした秋山の拳を俺は軽く受け止めた。
「……ずいぶんと楽しそうだな」
 不意に背後から声がした。それは酷く冷たくて、殺意すら孕む声音だ。
「よ、吉永……」
 油の切れたロボットのような動きで振り返ると、果たしてそこに立っていたのは吉永だった。いつもはストレートの黒髪が赤いリボンのツインテールになっているのはメイド仕様だからだろうか?
 吉永は大股で歩いてくると、俺と秋山の間に割って入った。
「梨香よ。すまないが『これ』はこの吉永のものだ。確かに話していると楽しいし、なかなかにいじりがいがあって面白く遊べる逸材であるから突っつきたいのはよく分かる。だがな? 『これ』はすでに吉永のものなのだ。ちょっかいを出すのはほどほどにしてもらいたい」
 多分、吉永は焼きもちを妬いているのだろうけれど、素直に喜べないのは何でだろうね?
 吉永は秋山への注意を終えると、複雑な心境の俺へと振り返る。
「大体、君も君だ。下着が見たいのなら梨香に頼らずこの吉永に言えばいいのだぞ?」
 いや、だぞ? とか言われてもな。というか、いつの間にそんな話になったんだ?
「しかも今日は髪型から下着まで全て会長に見立ててもらった特別仕様だ。なんなら、今から見てみるか?」
 何の照れもてらいも無く言うと、吉永は両手でスカートの裾を掴む。
「いや、いいから。そういうのはいいから」
 正直に言えば、会長が見立てた下着がどういうものかとても興味のあるところだけれど、今からそれを見ようというのはいくら何でもマズいだろう。
 そんな思いの元に止めた俺をどう思ったのか、吉永は小さく微笑み、
「そうか。ここには梨香がいるからな。いくら友と言えど見せたくないということだな? その独占欲、嬉しく思うぞ」
 ……何も言うまい。吉永がそう思うのならそういうことにしておこう。何となく秋山の俺を見る目が汚らしいものを見るような視線のような気がするけれどそれは無視で。うん。事なかれ主義バンザイ。
「もう、みんな何してるの」
 教室に、やんわりとした怒気を含んだ声が響いた。
「あ、円先輩!」
 秋山が真っ先に声の主の名前を呼ぶ。そこにいたのは俺達が所属するサークル、文芸研究会の読川 円(よみかわ まどか)会長、そのメイド服バージョンだった。
「いつまでたっても来ないから、メイド服に興奮した日下部クンが二人を襲ってるんじゃないかって心配しちゃったわよ」
「そんな心配しないで下さい! 俺に信用はないんですか!?」
「安心して下さい、会長」
 憤慨する俺に、吉永が言葉を重ねる。
「残念ながら日下部にそんな度胸も意気地もありませんので」
 …………ねえ? 吉永さん? それはフォロー、ですか……?
「……苦労してるのね、吉永ちゃん……」
「分かって頂いて光栄です」
 うんうんと頷きあう会長と吉永。
 これはイジメだろ? 新手の遠回しなイジメだよな!?
「円先輩。そろそろ戻らないと」
 腕時計を見ながら、秋山が少し焦った口調で言うと、会長は小さく頷いた。
「そうね。それじゃ行きましょうか。みんなのお店へ!」




 メイド喫茶“らんぶる・ふぃっしゅ”。
 それが俺達文芸研究会の文化祭における出し物だった。
 教室棟二階の一般教室をふたつ借り、ひとつは喫茶店に。ひとつは調理場兼荷物置き場兼控え室。水道水の確保やお客で混雑する事を見越し、教室棟の端と端という位置関係になって料理を運ぶのに少しばかり不便なのはまあ、仕方の無い事だ。
「それにしてもすごいですね」
 控え室で今日のタイムスケジュールを確認していた俺は、隣りで食器類の点検をする月山さんに話し掛けた。
「何がだ、日下部君」
 手にしたボードに数を書き込みながら、俺と同じウェイター姿の月山さんが聞き返してくる。
 月山さんは男ではない。月山美奈(つきやま みな)という名前のれっきとした女性だ。ただ、その中性的な外見や男性的な装い、そして凹凸の少ない身体も手伝ったマニッシュさで、会長なんかと歩くと十中八九彼氏に間違われるという、そこらへんの男よりも男らしいのが月山さんだった。
 そんな月山さんがメイド服を着る着ないで一悶着が――主に会長とだけれど――あった末、前会長である中園さんの一言。
「男装の麗人は必要だろう。メインターゲット以外の客層も集められる」
 この言葉で――その後、中園さん独自の経営論が続いたのだけれど、それは割愛する――こうなった。
 言っては何だけれど、ウェイター姿の月山さんはやっぱりカッコいい。男の俺から見ても倒錯的な趣味に目覚めてしまいそうなくらいに本当に惚れ惚れしてしまう。ん? 月山さんは女性なんだから憧れじみた感情を抱いても間違っていないのか? 女性と言う前提があるからこそ俺はこう思ってしまうのか? 
 そんな心に芽生えた不可思議な気持ちを振り切るように、俺は月山さんに答える。
「まだ開店まで三十分くらいあるのに並んでいる人がいるんですから」
 そうなのだ。店の前には――正確には廊下を挟んだ階段にだけれど――もうすでに二十人近くが列を作っていた。しかも、ほとんどが在学生でないっぽい……
 三日くらい前に会長から聞いた話だ。会長は独自で“らんぶる・ふぃっしゅ”のホームページを作り、メイド好きのコミュニティやメイド専門のサーチエンジンに登録して宣伝活動を行っていたらしい。ホームページにはメイドの格好をしたサークル員の紹介と一言メッセージしかないようなお粗末なものではあるけれど、会長デザインのメイド服は可愛いし、メンバー全員の器量も良い事も相まって、その上文化祭だけという期間限定が拍車をかけ、密やかな人気を博していたのだそうだ。
 正直に言えば、たかだか大学の文化祭程度にそこまでやる必要があるのかどうか甚だ疑問だけれど、否応無く置かれてしまった今の状況を考えれば、流石は会長だと言わざるを得ない。
「まあ、そうだな。だが……」
 月山さんは頷き、窓の外に目をやりながら言葉を続けた。
「それはあちらさんも同じことのようだ」
 俺は窓に近寄り、それを見る。
 向かいの教室棟、その一階の角には十人くらいの女性が列を作っていた。
 そこにあるのは執事喫茶“ローゼンリッター”。
 俺達の『敵』だ。




 事の起こりは昨日の昼過ぎだった。
「読川はいるか」
 内装の準備をしている時に男にしては小柄で、それでいてどことなく偉そうな雰囲気をかもし出しているその人はやってきた。
「あら、ジュンくん。何? 手伝いに来てくれたの?」
 会長が親しげに話すのを見ると、それなりの顔見知りなのだろう。ということは上級生なのかな?
「読川。お前に勝負を申し込む」
 小柄な男は会長が出てくるなりそう言った。
「いいわよ。で、方法は何?」
 そして一も二も無く承諾する会長。勝負とか言ってるのにそんな本の貸し借りみたいなノリで受けていいものなのか? それにそういう展開ならもっとこう盛り上がりながら進んでいくのものなのだろうに、何だろう、この淡々具合。ある種の肩透かしを喰らった気分だ。みんな思っていることは一緒なのか、リアクションに困ったような、どうすればいいのか判断のつかない顔をしている。
 何となく口を挟めない微妙な空気の中、二人の話は進んでいく。
「読川。お前、メイド喫茶をやるんだってな」
「そうよ。ジュンくん、メイド服着たいの?」
「着たい訳あるか! ふん、奇遇な事におれ達も喫茶店をやることにしてな。他に喫茶店もないみたいだし、どちらがより優れた喫茶店であるかを競うのには丁度いいだろう。よって今回の方法は売り上げ勝負だ!」
「ふーん。それで何を賭ける?」
「知れたこと。おれが勝ったらおれと付き合え!」
 ビシッと指を突きつけるジュンくん。
 うわ、すげぇ! そんな漫画みたいな恥ずかしい要求をする人がこんなところにいたよ!? まあ、のっけから勝負を申し込んじゃう人の思考からしたら当然なのかもしれないけれど、それにしてもこういう展開は実際にあると引くなぁ……
「いいわよ。じゃ、こちらの条件はいつも通り。勝ったら三つのお願いをきいてもらう、てことで」
「……ぐ! まあ、いいだろう」
 一瞬だけ逡巡し、顔を引きつらせるジュンくん。あー、その気持ちは分かるかもしれない。あの会長のお願いだからな。何をさせられるか分かったもんじゃない。
 て、いつも通り?
「またか……」
 ため息混じりのそんな声がした。見ると、買出しから戻ってきた月山さんが額を押さえて立っていた。
「あいつは福谷潤一朗(ふくたに じゅんいちろう)。ボクと円の幼馴染みだ」
 俺の視線に気付き、月山さんはため息混じりに語を繋ぐ。
「潤一朗は昔から円のことが好きでね。中二の時に長年抱いていた気持ちを初めて言葉にして伝えたんだ。そしたら円は何て言ったと思う? 『円と勝負して勝ったら付き合ってあげるわ』だ。それからの潤一朗はすごかったぞ。三日に一回ぐらいは何だかんだと勝負を申し込んできた。が、あえなく全敗だ」
 月山さんは一度言葉を切り、大きく息をつく。
「ただ、あいつは妙に紳士というか、変に正々堂々としていてね。男女の筋力差を考えた体力勝負なものは一切無かった。あくまでフェアな、互角の状態で戦える方法ばかりを選んでいた。ここ二ヶ月は何も無かったので流石に諦めていたと思っていたが……」
 はあ、そんな経緯があったのか。ジュンくん――いや、福谷さんは一途にずっと、また相当に大変な人に惚れ込んだもんだ。月山さんの話だと良い人そうだし、別の形で知ることが出来てたら応援してあげてたんだけどな。
「ふふん。悪いけどジュンくん。今回の勝負も円の勝ちだよ。読川円率いるメイド喫茶“らんぶる・ふぃっしゅ”に敵は無い!」
 会長は勢いよく啖呵を切る。
 これは俺もそう思う。メイドさんの器量は最高だし、出す料理類にしたって並みの喫茶店以上のものを用意している。ちょっとやそっとのものでは太刀打ち出来ないだろう。
 だけど、福谷さんは自信満々な会長に対し、小さく口元だけで笑ってみせた。
「ふっ、なるほど。メイド喫茶は悪くない発想だ。だが、少しばかり古い――いや、ありふれていると言うべきか」
「何が言いたいのよ」
 勿体つける福谷さんに、会長は不機嫌そうな声をあげる。
 口元に浮かべた笑みを深くして、福谷さんは言った。
「メイドは古い。これからの時代は執事だという事さ。だから俺はプロデュースした。執事喫茶“ローゼンリッター”を」
「な……! 執事ですって!」
 会長は怯み、一歩後退る。
「今度こそ念願を果たさせてもらうからな。覚悟しろよ、読川!」
 ふはははははー! と悪役じみた笑い声を残して福谷さんは帰っていった。
「大丈夫ですか!? 円先輩!」
 秋山は駆け出し、なぜか倒れそうになっている会長を急いで支えた。
「くっ……、さすがジュンくん。そこをついてくるとは予想外だったわ」
 額に脂汗すら浮かべ、戦慄する会長だった。あの何事も飄々と対応する会長があそこまで狼狽し、恐れを抱く執事喫茶てのはどういうものなんだろうな。印象的にメイド喫茶の執事版みたいな感じでいたけれど、どうやら違うみたいだし。執事喫茶、てのは一体なんだ?
「メイドが給仕するのがメイド喫茶ではあるが、内容は普通の喫茶店と変わりがないだろう?」
 俺の顔色から疑問を察したのか、中園さんが説明してくれた。
「だが、執事喫茶は違う。客を本当の主人として、お嬢様として扱う。そういう雰囲気を演出する、と言ったほうが正確だろう」
 ああ、なるほど。執事喫茶はウェイターが執事の格好で給仕をするだけじゃなく、執事そのものになりきってもてなすということか。
 待てよ……それだとお客一人あたりに割く時間が多くなる、てことだよな。喫茶店は回転率が勝負に――しかも今回は売り上げが勝敗を分けるのだから、効率の悪さは致命的じゃないのだろうか?
「福谷氏がどんな手を打ってくるか分からないが、我々は出来る事を精一杯にするしかないな」
「そうですね」
 中園さんにそう答えて俺は頷いた。
「執事に目を付けるとは福谷氏には先見の明があるな。なかなか見所のある人物だ。執事、それはかしずく者。執事、それは仕える者。執事、それは主人の生活全てをサポートするフォーマルな守護者。主人の全てを見守るエキスパート。そこにはメイドに無い洗練されたものがある。巷が執事に沸くのも分かる。人々は今、格好だけでは無く中身も求め始めた証拠だ。もともと執事とは――」
 スイッチが入り、持論を展開する中園さんからそっと俺は距離を取った。




「“らんぶる・ふぃっしゅ”へようこそ! ご主人様!」
 午前十時きっかりに、弾けるような会長の声でメイド喫茶“らんぶる・ふぃっしゅ”は開店した。
 店内に八ある席は瞬時に埋まり、一階の階段下まで埋まるくらいに待つ人がいた。
「三番テーブルにケーキセットふたつお願いしまーす」
「六番様に紅茶セット入ります」
 注文を迅速に処理するために、店と調理場を繋いだ無線から店内のざわめきとともにひっきりなしに入ってくるオーダーに合わせて吉永が手早く準備する。そしてそれらを俺が店へと運ぶという段取りだ。
 午前中は吉永と秋山が調理担当、俺と中園さんがそれを運ぶ役で、食器を洗ったりするのが大城さんだ。ちなみに、大城さんは二年生で男性サークル員のことだ。
 店内にいるのは会長と月山さんと清水岩さん。残りの二人は午後からのシフトだから、今頃は文化祭を回っているのだろう。
 こんな形で基本八人で運営し、残り二人が二、三時間の自由時間というターンテーブルになる。
 それにしても忙しい。席が空いたと思ったらすぐに埋まってしまうのは嬉しい悲鳴の限りだけれど、もう少しくらい余裕があってもいいんじゃないかと思ってしまう。
 喫茶店というのはゆっくりとダベるところだと思うのだけれど、来る客全員がなぜか二、三十分くらいで席を立ってしまう。食べたらすぐに出てしまうような慌ただしいことこの上ないが、それで回転率が上がるのだからありがたい。
 などと思っていたら、彼らが席を早く立った理由がしばらくして分かった。なぜなら、同じ人が来店したからだ。時間的に考えて、店を出てすぐに最後尾に並んだようだけれど……と、不思議に思った時、不意に会長の言葉を思い出した。
「商売の基本はリピーターを作ること」
 人指し指を立て、教師のような顔で会長は言葉を作る。
「特に今回のような一日限定のお店ならなおのことね。本当は色々な人にメイド喫茶を楽しんでもらって、おいしいものを食べてもらいたかったんだけどね。まあ、今回は仕方ないかな」
 そう言って会長は少し残念そうに、わずかに哀しそうに微笑んだ。
 会長にしてみれば文字通りに自分の身体がかかった勝負だ。おいそれと負けるわけにはいかないからな。どんな手を使っても――とは言い過ぎだけれど、出来る限りの可能な方法を取るならばバチは当たらないだろうさ。
 なので。リピーターを作る方法、その一。
 ありがちで陳腐だけれど、だからこそ効果がある手法――ポイントカード。
 来店で一ポイント、代金の五百円毎に一ポイントがカードに押され、五ポイント貯まるとハズレ無しのクジが引ける。景品は食事券、メイドさんのサイン入り生写真、一緒に写真を撮る権利。そして最大の目玉である一時間だけ一緒にメイドさんと文化祭を回れる権利。割合にして五:三:一・九:〇・一。いずれの権利もメイドさんを選べるとはいえ、来店して二千円分食べれば一回クジが引ける訳だけれど、これが高いか安いか、真っ当かあこぎかと思うのはその人次第だ。
 そんなこんなで慣れない事ばかりでバタバタしてしまったけれど、午前中は何の問題も無く順調に、予想以上の成果を残して終了したのだった。




「か、勘違いしないでよね!? べ、別に君のためじゃないんだからっ!」
 言われ、手作り弁当であろう包みを突き付けられた。
 台詞主:ツリ目気味の美人さん。
 髪型:赤いリボンの黒髪ツインテール。
 服装:フリルいっぱいメイド服。
 その種の人間なら卒倒しかねないシチュエーション――なんだけれど……
「――吉永、それは何の冗談だ……?」
 彼女がやると、それはもうタチの悪い悪夢でしかない。
 俺と吉永は部室にいた。午後も継続するであろう、戦場のような忙しさを戦え抜くための食事休憩を取るためだ。で、向かい合わせに座った途端にさっきのセリフを言われたのである。
 顔を引きつらせ、鳥肌を立ててさえいる俺に吉永は首を傾げ、 
「男性の九割は『ツンデレ』という状況なら理性を失うと会長から聞いたが……君は残り一割の方だったか」
 淡々と、実験結果を報告する研究者のように吉永は言う。
「食べたまえよ。この吉永の愛情とともに」
 先程の包みを開き、吉永の手作りらしいサンドウィッチの並んだバスケットを俺の前に置いた。
 そのひとつをつまみ、口へと運ぶ。案の定、下手な喫茶店の物より格段に美味い。
「間違いがあるぞ、吉永。『ツンデレ』は状況じゃない。属性だ」
「属性……好みということかな?」
 いまいちピンときてないらしい吉永は意味を反芻するような顔でツナサンドを咀嚼する。
「そうだ。ついでに言えばツンデレなんて参考にするな。あれは二次元だけのもんだ」
「ほう。それは興味深い話だね」
 身を乗り出す吉永に、つまならそうに俺は言って缶紅茶を啜った。
「好意を寄せても突っ返すのがツンデレだろ? 普通に考えてその時点でそいつとの友好関係は終りだよ。付き合いたいと思う奴はただのマゾだ」
 意地っ張りレベルなら可愛いとは思うけれど、ツンの状態は遠慮したい。その先にデレが確実に待っているなら考えてはみるけれど。
「なるほど。勉強になるな」
 缶コーヒーに口を付け、吉永はなぜか嬉しそうな顔を見せた。
「君がツンデレなるものに傾かない確証を得た。これで心置きなく次を試せる」
 吉永の言葉に看過出来ないものを聞きとがめ、俺は思わず眉を寄せてしまう。
「次? 何だよ次って」
「この吉永は小心者でな。ひとつひとつ可能性を潰していかないと不安なのだよ」
「何の可能性だよ?」
 尋ねるも吉永は答えない。ただ曖昧な笑みを浮かべるだけだ。
「これは君にとっても有意義だと思うのだがな。この吉永が様々に変わるのだぞ? かなりお得だろう」 
 伺う様な視線を寄越す吉永に、俺は何とも形容し難い微妙な顔を返す。
 正直勘弁して欲しい。吉永にどんな意図があるのか皆目見当もつかないが、今日はネコミミ、明日は巫女。明後日は眼鏡なんてのならまだいいが、スク水を着られ、あまつさえ「お兄ちゃん」なんてハートマーク付きで言われてみろ。俺は舌を噛んで死ぬね。いや、その前にきっと発狂する。
 俺は吉永が吉永だから好きなのであって、その他の属性は必要ない。そんなものは王者の名を冠する週刊少年誌の連載漫画にでも任せておけばいい。今まで恋愛を必要としなかった、そういうことに不慣れな吉永が――だから、か? だからなのか……?
 俺は唐突に理解した。次いで、口から自然に笑いが溢れだす。
 痛い人を見るような、怪訝な顔をする吉永に構わず、ひとしきり笑ってから俺は言葉を作った。
「ははははは……。吉永は可愛いな」
「な!? な、何を急に言い出すのだ、君は!?」
 お、珍しく動揺したな。俺の推測はビンゴらしい。
 頬を赤くする吉永をからかってやりたい気持ちが爆発的に膨らむが、残念ながらここまでのようだ。
「時間だ。戻らないと会長にどやされるぞ」
 缶紅茶を飲み干し、空き缶をゴミ箱に捨てると腰を上げた。
「待つがいい。君は大きな誤解をしている。それを訂正させたまえ」
 手早くバスケットを片付け、慌てて吉永も席を立つ。
 本当に吉永は可愛い。今更ながらに俺の好みを確認し、俺の心が離れないように防波堤を張ろうというのだから。
 やり方は多少ズレてはいるが、吉永は真面目で一生懸命で、そしていじらしい。まったくもって大好きだ。巡り巡って好き過ぎる。思いっきり、力一杯に抱きしめたいね。
 隣を歩きながら、何やら弁解めいたことをまくし立てる吉永を視界の端に収めつつ、いつものお返しとばかりに一時の優越感を噛みしめていた。


10 :日原武仁 :2007/08/14(火) 04:52:45 ID:mmVcnDrk

真・メイドvs黒・執事 2

 俺と吉永が遅めの昼食を終えて控え室に戻ってくると、秋山と会長が難しい顔をして向き合っていた。あれ? この時間、確か秋山は自由時間のはずだったと思ったんだけれど……?
「ジュンくんとこの手口が分かったわ」
 いつもお気楽な人を食ったような笑顔の会長が珍しく、憎々しげと言うか忌々しい顔で唸るように言った。
「あたしの友達が“ローゼンリッター”に行ったのよ。で、その話をさっきまで聞いてたの」
 秋山が補足し、続けて執事喫茶のやり方を話し出す。
 使用する教室は隣り合ったふたつ。ただ、こちらと違うのはひとつと半分を喫茶店とし、残りの部分を暗幕で区切って調理室にしているらしい。全ての窓を厚めのカーテンで塞ぎ、柔らかい光で満たしてゆったりしたクラシックの流れる室内は高貴で神秘的な雰囲気があるらしい。席は全部で八席。十分な余裕を持たせた配置は優雅さの演出であるに違いない。
 メニューは紅茶とケーキとクッキーとサンドウィッチ。気になる値段は通常のおよそ一・五倍。それに加えてチャージ料が千円かかる。冷静に考えなくても、まともに客が来るとは思えないものだけれど、繁盛するには訳がある。
 ひとつのテーブルに一人、執事が付いているのだ。専属の従者としてお客に仕えるスタイルらしい。給仕はもちろんのこと、望めば話し相手にもなるようだ。喫茶店と言うよりはほとんどホストクラブなのだろうけれど、美形にかしずかれるのに悪い気になる人はいないだろう。
 そうそう、言い忘れていたが“ローゼンリッター”は“らんぶる・ふぃっしゅ”に負けず劣らずの美形揃いなのだ。なぜそれを知っているのかと言えば答えは簡単。“ローゼンリッター”にもホームページがあったからだ。当然、執事好きのコミュニティやサーチエンジンに登録されていた。コンテンツは執事紹介と掲示板。そしてブログ形式で執事達が日替わりで日記を書くというもので、こっちのものよりよっぽど充実しているのはさすがだ。こういう根回しをするあたり、さすがに会長の幼馴染みだけあって考えることは一緒なのかもしれないな。
 話を戻そう。
 店内に居られるのはおよそ三十分。終わりが近付くと、最初に席に案内された時の設定――例えば、『乗馬』とすると、「お嬢様。乗馬のお時間になりました」という具合に送り出されるのだそうだ。
 帰り際についた執事と一緒に写真を撮る事が出来、スタンプをひとつ。それプラス値段に応じてスタンプが押される。これが十個貯まるとお気に入りの執事と文化祭を一時間、一緒に回る事が出来るようだ。
 こういう部分でもこちらと酷似しているところを見ると、うちのサービスは会長が独自に考えたシステムというより、おそらくはこういう色物系喫茶店では常套手段として使われているのだろう。うーん、なんというかスゴイ世界なんだと改めて思ってしまうな。
「なるほど。『敵』は単価を高くすることで粗利を大きく得ようという作戦か。サービスが価格と釣り合っているかは甚だ不明だが、CS(顧客満足度)は高いのだろう。でなければあんなにも客が付く理由が無い。並ぶ者達の心理はこの吉永には分かりかねるものではあるから、推測でしかないがな」
 吉永は辟易したような顔でそう言った。
 タイムリミットは午後六時。もう二時を回っているから残すところ四時間弱。回転率はこちらが上だろうけれど、全体的な売り上げベースなら五分五分か――下手をするとあっちが上な可能性もある。このまま同じペースで行けば俺達が負ける公算が高い……!
「……仕方ないわね。この秘策は――ううん、奇策は出来る事なら使いたくなかったんだけど」
 一言、躊躇するような言葉を挟むと会長は『奇策』を口にした。




 会長が使うのを戸惑っていた策は、結果から言えば大当たりだった。どっから聞きつけてきたのか新規の客とリピーターを合わせ、午前中に比して一・三から一・五倍の集客だった。
 たいした事をした訳じゃない。ただ――そう、ただメイドさん各自に分かりやすい属性を与えたに過ぎない。
 例えば、清水岩さんのように小柄で、冷静そうに見える美人は無感情で無口に。秋山のように可愛いけれど強気さが滲み出るタイプはツンデレに。会長のようにほわわんしているのなら天然系お姉ちゃんに。外見と一致するだろう性格を演じ、なおかつそれを印象付けるセリフないしは会話を一言二言するようにしたのだ。
 例えば、ツンデレ役の秋山なら、
「あら、来たの? ……ま、来ちゃったんなら仕方ないわね。で? 注文は何?」
「お待たせ。あたしが、わ・ざ・わ・ざ、あんたのために持ってきたんだからしっかり味わって食べなさいよね。絶対においしいから」
「え? もう帰る……の? そ、そう。ならさっさとしなさい。後がつかえてるんだから。でも……暇になったらまた来なさいよね!」
 と、まあ、こんな感じで。会長の指示の元、お客のツボとなる属性のメイドさんを給仕に当てていくのだった。
 しかし何と言うか、会長の眼力は流石だ。お客を一目見ただけでその属性をピタリと言い当たるのだから。
「ふふん。日頃の人間観察のなせる技なのよん。恐れ入った?」
 とは会長の弁。いやはや、本当に会長の多芸と言うか、スキルの多さに頭が下がる。
 午前中で多少慣れたとはいえ、お客が増えた事もあって忙しさはほとんど変わらない。本当は三時三十分から俺と吉永は自由時間だったのだけれど――会長も休んでくれていいと言ってくれたけれど――そういう訳には流石にいかず。結局、俺と吉永の大学初の文化祭はメイド喫茶“らんぶる・ふぃっしゅ”で最初から最後まで終ったのだった。
 ま、これはこれで楽しかったからいいんだけどな。




 片付けの時に聞いた話だ。
「円は別に潤一朗のことが嫌いというわけじゃないんだよ」
 控え室で洗い終わった食器を箱の中に丁寧にしまいながら月山さんが聞かせてくれた。
「むしろ好きなんだろうな。友達以上に、幼馴染み以上に」
「ならどうして未だに勝負なんかしているんです? わざと負けてしまえばいいじゃないですか」
 床に座り、内装に使ったカーテンを畳みながら俺が首を傾げると、月山さんは小さく笑った。
「確かにそうだね。でも残念ながら二人の仲は深い。お互いがお互い、勝負に際して相手が手を抜いているのが分かるくらいに」
 なんだそりゃ。それは裏を返せばお互いの気持ちは分かってて、通じ合ってるってことになるんじゃないのか?
「前に円が酒に負けて口を滑らせたことがあるんだけどね。こう言ったんだ。『円とジュンくんはずーっと同じ舞踏会で、ずーっと同じロンドを踊ってるの。ダンスが終って手を放せば別れてしまうからそれが恐いの。足もフラフラで身体も疲れ切って手も上がらないのにただ顔だけは元気に、嫌われないように精一杯の笑顔でひたすら踊るの。どっちかが倒れるか、どっちかが手を放してしまう時まで』とね。おかしいだろう? 格好つけて言ってはいるが、なんてことはない。どちらも意地っ張りで天邪鬼なんだよ。二人とも十年以上もの付き合いなのに、中身はまるで変わっていない。少しは成長して欲しいと心の底から願うよ。付き合うこちらがたまったもんじゃないからな」
 よっ、と小さくかけ声をあげ、食器の入った箱を持って月山さんは立ち上がった。
「そんな訳だ日下部君。迷惑をかけるかもしれないが、温かい目で付き合ってくれると助かる」
「このサークルに――会長につかまって、知り合った時に覚悟は出来てますよ。ご心配なく」
「そうか。それは心強いな」
 月山さんは静かに微笑んだ。それはとても神秘的で、吸い込まれそうなほどに女性的な笑みだった。
 ああ、と思う。きっとこれが月山さんの素顔なんだ。男性的な容貌は本当に、月山さんが意識して、無意識なまでに演じているものなんだ。なぜそうしているのかは分からないけれど、直感としてそれが分かった。
 思わず見惚れ、部室へと向かう月山さんの後ろ姿を何とはなしに目で追っていたら、
「まだそんなことをしているのかね」
 不意に後ろから声をかけられた。どきり、と身を固くして振り向けば案の定、メイド姿の吉永が腰に手を当てて立っていた。
「あちらの片付けは全て終わり、みんなもう部室にいるのだぞ? 君がもたもたしている分、祝勝会兼打ち上げに出掛けるのが遅れてしまうということを自覚したまえよ」
 “らんぶる・ふぃっしゅ”は“ローゼンリッター”との売り上げ勝負に勝利した。
 お互いの注文伝票を取り替えてチェック・集計した結果、からくも僅差でもってわずかだったけれど俺達は上回ったのだ。
 まさに薄氷の勝利だ。
 これにより会長の身柄は守られ、福谷さんは会長の『お願い』を三つ叶えないといけないことになったのだけれど、気になる『お願い』は後日発表ということで解散となり、片付けに入って今に至る。
「悪い。これで最後だよ」
 手にしたカーテンを丁寧に、素早く畳んで袋にしまう。
 文化祭が終った。
 一ヶ月近い準備がたった一日で終ってしまうのは正直惜しいと思うけれど、その一日の為に一ヶ月近い準備があったのだから、それこそ本望なのだろう。準備をしてる時がとても楽しかったから余計にそう思ってしまうのかもしれないな。お祭りがずっと続くよりも、お祭りの前日がずっと続くほうが楽しいんじゃないかと思うのは少しばかりおかしい感性なのかもしれないが、俺は心底そう思う。まあ、お祭りだって毎日続けばそれはただの日常に変わっちまうから、お祭りが続く、なんてのは永遠に起こり得ないのだろうけれど。
 そんならしくもなく感傷じみたことを考えていると、背中に柔らかい感触と一緒に心地好い重さがかかった。吉永が背中から抱きついてきたのだ。
「吉永?」
「充電しているのだよ」
 俺の肩に顎を乗せるような吉永は、日向で気持ちよく眠る猫のように目を閉じて言葉を続ける。
「君以外の者に笑顔を向けるというのは精神的にも肉体的に存外疲れるものでね。自由時間に君と二人で文化祭を回って疲労回復しようと思っていたのだが、あんな状況だったからな。おかげでこの吉永はヘトヘトなのだよ」
「そいつは悪い事をしちまったな」
「ああ、悪い事だったとも。君と文化祭を回ることをこの吉永は少なからず楽しみにしていたのだからな。もっとも、君はあの時に自分を優先するような男ではないことは分かっていたが」
「……そいつはどうも」
「だが、だからと言って許されることではない。この埋め合わせはしてもらうからな」
「お手柔らかに頼むよ」
「さてな。覚悟しておく事だ」
 不敵な笑みを残して吉永は俺から身体を放すと、前へと回り込む。
「戻るぞ、日下部。会長達をこれ以上待たす訳にはいかないからな」
 右手を差し出しながら吉永は言ってくる。その手を掴み、カーテンの入った袋を持って立ち上がった。
「そう言えば聞き忘れていたのだがな」
 不意に吉永はそう言うと、その場でくるりと回転してみせる。
「この格好はどうだい? この吉永に似合っているかな?」
 胸を張り、腰に手を当てて仁王立ちのような姿勢で吉永は聞いてくる。
 そんなことは聞かれるまでも無いし、今更に言われるまでもないことだ。だから俺は即座に答えた。
「ああ、よく似合ってるし、とても可愛いさ」
「そうか」
 吉永は特に表情を変えることも無く、小さく頷くと言葉を続けた。
「君はやはりメイドとやら好きなのだな」
 は? ちょっと待て。何でそんな話になる? 
 戸惑う俺に構わず、吉永は話を進める。
「会長や中園前会長も言っていたからな。男性のおよそ九割はその根底にある理由はどうあれ、メイド好きなのだと」
 あの人達はまた余計なことを吹き込んでくれるよなぁ、ほんとに……
 吉永は何だかんだ言っても素直だし、それに加えて萌えなんかの概念に対する知識が全く無いのだ。しかも何気に吉永はあの二人にはなぜか敬意を抱いているから、余計に信じ込んでしまうのだろう。むう、何か手を打たないといけない状況だな、これは。吉永があの二人のように変な風に染まってしまう前に。
「なに、図星を突かれたからと言って弁解をする必要はないのだよ。君とこの吉永の仲だ。今更君の隠していた嗜好がひとつ明るみ出たからといって問題にはなるまいよ。それにな? この吉永は安心しているのだ」
「安心?」
 とりあえず言い訳のひとつもしようとした俺の、その機先を制した吉永の言葉に入っていた意外な単語を繰り返す。
「そうだとも。君がある意味において普通の、世の男性と共通する好みを持っていたことに対してな。人並みとか普通とか言う言葉はあまり好きではないのだが、かと言って逸脱しすぎても困ってしまう。君がもし、メイドが嫌いという一割に属し、なおかつ下着を着けないでミニスカを穿く異性が好みだとか、家から裸エプロンで来る女性に朝起こされるのが好きだとか、『にょ』とか『にゅ』とか『だっちゃ』等といった語尾をつける女の子が好きだと言われるとさすがにこの吉永もそれなりの覚悟が必要だ」
「そんなレベルのマニアックな好みを俺が持っていると本気で思っているのか!?」
 飛びすぎる発想に、俺は呆れつつも大声を出してしまう。
 それをどう受け取ったのか、吉永は目を丸くして一歩分身体を引いた。そして驚愕に、動揺に唇を震わせる。
「な……! そ、そうか。君を見くびっていたことは謝ろう。まさか君が女の子を全裸にし、首に鎖付きの首輪を嵌めた上で四つん這いにして深夜の公園で散歩させるのが好きだったとは……」
「不当に低く評価されてるって意味じゃねーよ! 俺はどんだけ変態だよ!?」
 いかん。元々変だった吉永の発想器官や思考回路がここ最近で加速度的にますますおかしくなってる気がする。会長や中園さんの撒き散らす毒が吉永を確実に蝕んでいるのか……?
「はあ……。本当、お前は俺をどんなふうに思っているんだろうね」
 思わず疲れたようなため息とともに呟いてしまう。俺はそんなにも特殊な趣味を持っていそうな外見をしているんだろうか……
「そんなことは決まっているだろう」
 俯き気味だった顔を上げると、目の前に酷く真剣な吉永の顔があった。
「愛しいし大好きだぞ? 愛していると言っても過言ではない。君が生きてくれるのならこの吉永は死んでもいいと思っているし、君が助かるのなら百人だろうが千人だろうが、誰を犠牲にすることだって厭わない。そう思っている」
 睨むほどに視線に込められる力は強い。吉永が心の底から本気で思っているという証拠だ。
 吉永の気持ちは嬉しいし、俺も吉永が側に居てくれるのなら何もいらないと思っている。
 だからこそ、俺は思う。人を想う気持ちは決して綺麗じゃない。いや、人を想う気持ちだからこそ綺麗じゃないのだと実感する。どこまで自分の気持ちを、意思を。周りの迷惑を考えず、一切を鑑みないで貫き通せるか。
 究極の自分勝手。それが人を想う事なんだと俺は思う。
 だから素直にも、正直に自分の心を明かしてくれる吉永が俺は大好きなんだ。
「ありがとな」
 俺は吉永を抱きしめる。
「俺も吉永が大好きだ」
「知っているさ」
 腕の中、頬を胸に押し付けるように身体を預けてくる吉永は、さも当然と言わんばかりに言葉を放つ。
「だから君はこの吉永の隣りにいるし、だからこの吉永は君の隣りにいるのだ。今更当たり前の事を確認したところで意味は無いが――君の口からその言葉を聞くのは嬉しいものだな」
「そいつは何よりだ」
「ああ、何よりだとも」
 そして、小さく笑いあった。
 しばらくして、どちらともなく身体を離すと俺達は並んで歩き、夕陽に染まる教室を後にした。


11 :日原武仁 :2007/08/26(日) 22:46:10 ID:ocsFWGV4

意味深な水深

「こ、こんなところで…………か……?」
 膝を折り、俺の腰辺りに顔が来る姿勢になりながら、半裸の吉永は上目遣いで俺を見る。
「こんなところもあんなところもないだろう? それに『したい』と言ってきたのはお前の方だぞ」
 珍しく躊躇し、戸惑いを見せる吉永に、俺は突き放すように冷たく言った。
「しかしだな……」
「しかしもかかしもない。言っておくがな、吉永。俺はすぐにしてもいいんだぞ? だが、お前が心の準備が必要だとか、お互いの身体を慣らしたほうがいいと言うからだな」
「う……む。それはそうだが……」
 ことこの段に至ってもなお、吉永の言葉は歯切れが悪い。吉永にしてみればやはり恐いものがあるのだろう。いや、俺だって当然ドキドキしている。顔も多分赤いだろう。だけれど、そんなに戸惑いが無いのは男女の差なのか。あるいはする方とされる方の違いなのかも知れない。
 いずれにしても、このままうだうだやっていたのでは埒が開かないのは確かだ。上手く出来るかどうかは不安だが、俺からリードを取るしかないのだろう。心を決め、俺は吉永の白い肩に手を置いた。
 ビクリ、とその細い肩が一瞬震え――吉永の目付きが変わった。どこか潤んでいた瞳に明確な意志の光が瞬時に宿る。
「……分かった。この吉永には君の求めならどんなことでも応じる覚悟があることを証明してみせよう!」
 宣誓するように言うと、吉永は何かを咥え込もうとするように大きく口を開け――
「…………ん」
 と、息を止めると水面に顔をつけた。


 俺達がいるのは『ウォーターアイランド』という名前が示す通り、プールに特化したレジャー施設だ。施設内には大小様々、種々色取り取りのプールが十種類ある。その中のひとつ、『リトルボール』と言う水深が腰辺りの、小学校低学年向けの丸いプールに俺と吉永はいた。
 吉永――吉永京子と俺、日下部仁志は世に言う恋人同士なのだから、夏のイベントを楽しむ意味でウォータースライダーのある『マウンテン・ティム』や流れるプールの『ラディカルグッドスピード』なんかを満喫したいところなのだけれど……なぜ、小学生に混じり、「あー、あのおにーちゃんとおねーちゃん。もう大人なのになんでここにいるのー。変なのー」とかお子様に指さされ、赤面しながらここにいるかと言えば、話は一週間前に遡る。
 大学が夏休みに入ってしばらく経ったある日。俺と吉永が所属するサークル、文芸研究会の読川円会長による召集がかけられた。
「二週間後の日曜日。サークルのみんなで海に行きます」
 サークル員全員が集まり、席に着いて早々に会長は話を切り出した。
 海水浴はいいな。ここ最近の陽射しは強く、夏過ぎるくらいに夏真っ盛りだ。海なんかで泳いだらさぞかし気持ちがいいだろう。だろうけれど、俺がそう考えるくらいだから他のみんなも同じことを思い付くに決まっている。どこの海水浴場もきっとイモ洗い状態になっているのは火を見るより明らかだ。
「ち・な・み・に。人込みは心配しなくてもいいわよ。中園さんがプライベートビーチを提供してくれるから」
 プ、プライベートビーチ!? 中園さんは四年生で前会長なのだけれど……さすがこの学園都市――若葉台学院理事会副理事兼大学部理事長の息子だけはある。
 俺は前に一度だけ、中園さんにレポートの手伝いを頼まれて家に招かれた事があるのだけれど……その家はめちゃくちゃデカかった。まさに豪邸ここにあり、だ。そして何より驚いたのが、そこにはなんと――メイドさんがいたのだ! 使用人でも家政婦さんでもお手伝いさんでも無く、メイドさん。メイド属性は無い俺だけれど、部屋まで案内してもらったり、紅茶を出してもらったりしてもらうのはちょっとキュンとしたものだ。
「そういう訳だから予定は空けといてねん」
 そう言って会長は話を終え、解散となった。
「ん? どうした吉永?」
 帰ろうと、隣りに座る吉永に顔を向ければ、その綺麗な横顔がどことなく、ほんのわずかに青ざめているように感じた。
「気分でも悪いのか?」
 気遣うように声をかける。と、吉永はこちらに振り向き、
「……行くぞ、日下部」
 唐突にそれだけ言って、吉永は席を立つと部室を出て行った。
「お、おい。待てよ、吉永」
 慌てて立ち上がり、会長達への挨拶もそこそこに俺は吉永の後を追ったのだった。

 ◇          ◇

「泳ぎを教えてくれないか?」
 思い詰めたように真剣な顔で吉永はそう言った。
 無言で進む吉永についてやってきたのは、俺達がよく利用する喫茶店“カフェ・ガルガンチュア”だった。いつも通りガラガラの店内の、いつもの席に陣取って、いつもと同じ飲み物――俺が紅茶で吉永がアイスコーヒーだ――を注文し、いつものウェイトレスさんが持ってきたところで吉永はようやく口を開いたのだった。
 そんな吉永に、俺は少なからずの驚きを覚えてしまう。
 吉永はいわゆるオールラウンドプレイヤーだ。眉目秀麗、スポーツ万能、学業優秀、品行方正、料理上手……まあ、性格には少々難ありではあるが、人が羨むような物をいくつも持っているのが吉永京子という人間だ。性格的なものを除けば完璧超人な吉永が、まさか泳げないとは思いも寄らなかった。俺達の高校にはプールが無く、体育の授業に水泳が無かったからそのことを知らなくても当たり前と言えば当たり前なのかもしれないけれど……それにしてもすっげー意外だ。
「悪かったな泳げなくて。だからと言って物珍しいものを見るような呆れたようなからかってやろう的なサディスティックな顔をするものではない。その気になってしまうではないか」
「なるなよ。頼むから」
 鼻を鳴らし、憤慨しながらもわずかに頬を染める吉永に俺は辟易しながら言い、紅茶に口を付けた。
「まあ、泳ぎを教えるのは全然構わないけどな。『ウォーターアイランド』もあることだし。いつにする? 早速明日からにするか?」
「ん、いや。……そうだな」
 逡巡するように迷うように、吉永は右手を形の良いおとがいに当て、視線を落としながら考え込む。
 違和感を覚えた。
 端から見れば、頭の中で予定をすり合せているように見えるだろうけれど……何か変だ。基本的に俺がどこかに行こうと誘った場合、吉永は即断即答する。しかも、今回は吉永からの提案だ。吉永の性質上、自分の予定を把握し、俺が何を聞いてくるのかを予測して無い訳が無い。なのに今更ながらに考え込むなんてのは一体どういうことだ? また何かを企んでいるのだろうか?
「そうだな……。一週間後の日曜にしよう。構わないか?」
 俺が怪訝に思っていると、吉永が結論を出した。
「ああ、大丈夫だ。それにしても海水浴の一週間前のそんなギリギリでいいのか? もっと早くても俺は構わないけれど」
「この吉永にも色々準備が必要なのだよ」
 そう言って、吉永は曖昧に笑ったのだった。

 ◇          ◇

 それから明けて一週間。俺達は予定通りにここへやって来た訳だ。
 天気は快晴。利用者は学園都市の学生がほとんどのため、お盆という時期だけあってみんな帰省しているのか、そんなに混んではいない。
 濃い青に白いラインが脇に一本入ったサーファーパンツの俺と、ライトグリーンのハーフカップビキニの吉永は早速泳ぎの練習に取り掛かったのだ。
 顔に水をつける所から始め、身体を伸ばして浮く練習、バタ足、息継ぎと基本的なものをこなしていく。
「力を抜いて身体を伸ばせ。人間てのは基本的に水に浮くように出来てるんだから」
「違う。バタ足は膝から下で大きく水飛沫を上げるんじゃない。足全体を使って水を下へ押し付けるようにするんだ」
 こんな具合に、俺のアドバイスなんてのは指導というほどのもので何でも無く、小学校で習ったことに経験から学んだことを付け加えた程度の、正直いい加減な代物に過ぎない。にもかかわらず、二時間もすると吉永はクロールで、多少ぎこちなくはあるけれど、二十五メートルを泳げるくらいの域に達していた。相変わらずセンスと言うか、運動神経の良さには舌を巻くばかりだ。
 逆に言えば、俺程度が教えたくらいですぐに泳ぐ事が出来た吉永が、どうして今まで泳げなかったのが不思議に思えてならない。小さい頃、家族で出かけた海水浴で溺れてしまったとか、そんなことがあったのかもしれない。
 八コースある競泳用二十五メートルプール『スクールディズ』の第二コースのスタート台に座り、こちら側へと泳いでくる吉永を眺めていると、くぅ、と腹が控えめに自己主張した。空を見れば太陽は高くなり、肌を刺す陽射しもかなり強い。もう二時間も泳ぎっぱなしだし、休憩するにはいい頃合だろう。
「吉永。ここらで一休みしてメシにしようぜ」
 壁に手を付き、水面から顔を出す吉永に声を掛け、右手を差し出す。
「ああ、分かった」
 肩で息をしながら答えると、吉永は俺の手を掴んだ。


 ウォーターアイランド内のレストラン街、その少し外れには芝生に覆われた公園のようなところがある。木陰のある場所にレジャーシートを広げ、吉永手製の弁当に舌鼓を打ちながら俺は言う。
「泳げるようになって良かったな」
「全て君のおかげだ。この吉永、心から礼を言うぞ」
 生真面目に頭を下げる吉永に、俺は軽く手を振った。
「別にたいした事はしてないさ。吉永の運動神経が良かっただけだ。でも不思議なもんだな。ちょっと教えただけで泳げるようになったのに今まで泳げなかったなんてな。よっぽど体育の先生に恵まれなかったんだな。それとも小・中と水泳の授業が無かったとか?」
 から揚げを口に放り、味わいながら咀嚼する。この絶妙な味付け具合が本当に素晴らしい。
「そんなことはないぞ。普通に水泳の授業はあった。ただ、この吉永が受けなかっただけだ」
「ふーん。そりゃまたどうして?」
「よくある話だ。子供の時の出来事が原因で水が恐かったのだ」
「トラウマ、てやつか。海ででも溺れたか?」
 深く考えず、卵焼きを箸で取りながら俺は言った。吉永も特に表情を変える事無く、明日の天気を話すような口調で言葉を返す。


「小さい時に風呂場で溺れたのだよ。母親に頭を押さえ付けられてな」


 ――え? 今……吉永はなんて言った? 俺の聞き間違いで無ければ――母親に殺されかけたと言わなかったか……?
「当時は大変だったのだぞ? 水が魔物のように思えてな。コップに入った水すら見ることも、ましてや飲む事なんて持っての他だったのだから」
 過去を懐かしみ、幾ばくかの笑みすら浮かべて吉永は平然と話す。
「……吉…………永……」
 俺の喉は干上がり、上手く喋ることが出来ない。水分を取ろうと、麦茶の入ったコップに手を伸ばすが、手が震え、掴む事すらままならない。
 そんな俺を見て、吉永はため息をついた。
「君が動揺することはあるまい。この吉永に起こった事であるし、過去の事なのだぞ?」
「いや、だがな……」
 何とか言い繕うと、言葉を返そうとする俺に再び吉永はため息をもらす。
「仕方ない。まあ、いい機会だ。君にはいずれ話そうと思っていたことだしな。少し、この吉永の昔話に付き合ってもらおうか」
 前置きのようにそう言うと、吉永は語り始めた。
「断っておくが、この吉永は当時四歳で、全て後から、しかも色々な人から聞いた話になる。さて。ではその時の家族環境から話そうか。簡単に言えば、この吉永の父は生活費こそ家に入れてはいたが、全く寄り付かなくなっていた。離婚の話もあったようだが、体裁の都合で絶対に認めなかったそうだ。そして母は、恐らくノイローゼだったのだろうな。この吉永と無理心中を図った。この吉永を胸に抱いて風呂に入り、浴槽でこの吉永を溺死させた後、自らは手首を切って死んだ。運が良い事に、もしくは悪い事にこの吉永はその時点では仮死状態だったようだ。毎日様子を見に来ていた祖母が真っ赤な浴槽に横たわる二人を発見し、ギリギリの所でこの吉永は助かった、という訳だ」
 他人事にように淡々と過去を明かす吉永に俺は何も言えなかった。言うべき言葉が見つからなかった。止めてくれ、もういい、聞きたくないと突き放して、あるいは抱きしめてやるべきなのかもしれないが……俺は身体を少しも動かす事が出来ない。
 吉永は麦茶で唇を湿らせ、話を再開する。
「その後、この吉永は祖母の元で暮らす事になった。よく覚えていないのだが、当時のこの吉永は酷く精神が不安定だったらしくてな。母の葬儀には出なかった。いや、出られなかったが正しいか。水も恐くて仕方なかった。さっきも言ったが飲み水すら口に出来ない状態だ。にも関わらず、父親は一度も顔を出さなかったそうだ。法的な手続きも全て代理人が一任し、最後まで姿を見せなかったというのだからその徹底ぶりには恐れ入る。祖母は怒髪天を突いていただろうがね。だが、そんな祖母との生活も半年で終ってしまった。葬儀に出た親類縁者は同情こそすれ、この吉永を預かろうとする者はいなかったので施設に行く事になった。そこで一年近くを過ごした後、今の吉永家に引き取られて今に至っている」
 まあ、つまらない話だよ。と、吉永は付け加えて口を閉じた。
 聞き終わった後も、俺の口が言葉を紡ぐ事は無かった。
 重い話だ。吉永が他人事のように、何でも無いことのように話すのは過去のことだからだろうか? それとも幼い頃の出来事で、ただ水が恐いというイメージだけが鮮明で、事件そのものを実感できていないからだろうか? 
 だけど、母親に殺されかけたという事実は変わらない。
 けれど、父親に見捨てられたという現実は変わらない。
 小さな子供が直面するにはそれはあまりにも――残酷すぎる。
「今の両親は本当によくしてくれている」
 吉永は言う。
「実の娘のように可愛がってくれているし、当時払われた前の父からの慰謝料の残金も。亡くなった祖母が残してくれたお金も。『これは京子のものだから』と言って一銭も手を付けず、書類から通帳から印鑑から。全てを銀行の貸し金庫に預けてしまっているしな。本当に尊敬できる、愛すべき両親だ。だからこの吉永は真に吉永家の人間になろうと日々努力をしてきたつもりだ」
 まだまだ遠くあの二人には及ばないがな、と苦笑した。けれどその顔は満ち足りて、思わず嫉妬してしまうくらいに幸せそうだった。
 吉永は本当に、今の両親が好きなんだ。それも当然だろう。下手をすれば――その生い立ちを考えれば屈折し、歪んでしまってもおかしくないものを抱えているのに吉永は真っ直ぐに、全てを飲み込み乗り越えて、道を踏み外す事無く生きて、ここにいる。
 不幸の連続だった吉永は、きっと出会うべくして吉永家に引き取られたのだろう。それはとても、本当に幸運なことだ。
 ふと、気付く。不意に、思い付く。吉永が自分の事を『この吉永』と呼ぶのは……吉永家の人間になりたいからではないのだろうか? 未だに外の人間だと思っているからではないのだろうか? 十年以上を共に過ごしてなお、吉永の中では両親との壁が消えていないではないのだろうか? 日々を重ねるごとに低く薄くなってはいるが、まだ隔たりは残っていると感じているのだろうか? だから吉永は自分の事を『この吉永』と、吉永になろうと意識しているのではないのだろうか?
 過去に縛られるように。
 往時に呪われるように。
 その呪縛から解き放つために――俺に、何が出来る?
「なあ、吉永」
「なんだ、日下部」
 俺は呼び掛け、考えながら言葉を作る。
「お前のこと……京子、て呼んでいいか?」
「…………!」
 俺の発言がよほど想定外にして予想外だったのか、吉永は目を丸くし――次いで、吹き出した。
「なっ!? ここは笑うトコか!?」
「いや、はははは……なに、あまりに、な……あははははははは!」
 愉快そうに大口を開け、目の端に涙すら浮かべて吉永はひたすらに笑う。
「あははは、はぁ……笑った笑った。こんな楽しい気分にさせてくれるとはさすがは君だよ」
 白い腹に手を置きながら吉永は目元を拭う。褒められているんだろうが、何とも複雑でどんな顔をすればいいのか皆目見当がつかない。
「基本的に現状維持を指向する君がどんな思考過程を経て、その結論に達したか。おおよそ予測でき、理解も出来るし嬉しく思う。だが――それはまたの機会まで取っておくことにしよう」
「いいの、か……」
「良いか悪いかと問われれば、正直なところ判断に迷う選択ではあるな。ただ、言えることがひとつある」
 吉永は言葉を切り、
「この吉永は君に『吉永』と呼ばれるのが好きなのだよ」
 そして、いじわる小僧めいた笑みを見せた。
「……そうか。なら、そういうことで」
「ああ、そういうことでよろしく頼むよ。君の愛情溢れる指導のおかげでこの吉永はまたひとつ水を克服し、泳ぎをマスターした。君といると何でも出来そうな気になってくるから不思議なものだ。さあ、早く食べたまえ。午後は君と共に全てのプールを制覇するつもりなのだからな」
 吉永の要望に応えるべく、俺は頷くと止まっていた箸を動かし始めた。
 今日はまだまだ終らない。


12 :日原武仁 :2007/09/14(金) 13:04:16 ID:PmQHQJsG

プリズム=ダーク

 私はひーくんが好き。ううん、大好き!
 『ひーくん』て言うのは私のふたつ上の幼馴染みの男の子。ん? 男の人、かな? すっごくカッコよくて、強くて、その上とっても優しくて。すっごい素敵なんだよ!
 そんなひーくんと知り合ったのは私が小学校に上がる前。虚弱だったひーくんが、身体を鍛えるためにうちの道場にやってきたのが最初。
 当時の私はちっちゃくて、しかも周りにいるのは大きくてごつい大人の人達ばかり。道場なんだから当たり前なんだけど、そんな人達がとっても恐くて、いつの間にか私は人前でまともに話せない子供になってたの。
 そんな時に現れたのがひーくんだった。
 ひーくんはよく私と遊んでくれた。ひーくんからしてみれば、同じ年くらいの子が私しかいなかったから、話し掛けやすかっただけだったと思うけど、私には――すっごく恥ずかしい印象だけど――王子様に見えたんだよ?
 白馬にも乗っていなかったし、派手できらびやかな格好は何ひとつしていなかったけど、直感的にこの人が私の王子様なんだ、て思っちゃった。
 ひーくんと少しでも一緒にいたかったから、私も道場で拳法を習うようにしたの。余談だけど、その時のお父さんの驚き様と言うか、喜び様はなかったんだよ? 滅多にお酒を飲まないお父さんがその日だけは門下生の人達と夜通し飲み明かしたくらいだもん。
 そして、私とひーくんは一緒に拳法を学んで、一緒に強くなっていったの。ひーくんとの修練はとても楽しかったけど、悔しい……とは言い過ぎだけど、どうしても気にしちゃうことがひとつ。
 それはひーくんと手合わせして、一回も勝てなかったし、一本も取れなかったこと。私よりも、そしてひーくんよりも大きな身体の先輩門下生にだって負けないくらいの私なのに! だから私はどうにか打ち負かしてやろうとムキになっちゃって、学校でも道路でも、所構わずにひーくんに拳や蹴りを浴びせるようになったのは、同じ武を学んだ身としても、恋する乙女としても仕方ないことだよね?
 小中高と一緒に過ごしたひーくんも今年、大学に行っちゃった……
 方角は私の高校とは反対。しかも生活する時間帯が全然違ってるから、家はそれなりに近所なんだけど、顔を合わせるどころか、姿を見かけることすらなくって……
 だから、先週の日曜日。思い切ってひーくんの家へ遊びに行っちゃった。ひーくんと会うのは卒業式以来だから……七ヶ月ぶりになるのかな? ひーくんはどんな顔するかなぁ……なんて、びっくりするひーくんの顔を頭の中で思い描きながら、ついつい溢れてくる嬉しさに頬を緩めて、あとひとつ角を曲がればひーくんの家というところまで来た時――私は電柱の陰に隠れちゃった。今にして思ってもみても、ゆっくり考えてみても。隠れる理由なんか何ひとつとして無いのに――私は反射的に隠れてた。
 向こうから歩いてきたのは、紛れも無くひーくんだった。
 久しぶりに見たひーくんは、やっぱりカッコよかった。ううん。ちょっと大人びて、もっとカッコよくなってた。歩き方や身体つきは変わってないから、まだ――きっと私よりも――強いままなんだと思うと、少し悔しいけど、優しいままでもあるんだ、て思いのほうが強くて、思わず涙がこぼれるくらいに気持ちが高ぶっちゃった
 でも。
 でもでもでもでもでもでもでもでもでもでも!
 なんで。
 なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで?
 どうして……どうしてひーくんが女の人と歩いてるの? しかも仲良さそうに楽しそうに。そう、まるで××同士みたいに――!
 ううん、違う! そうじゃない。そんなことない。
 うん、そう。ひーくんはカッコいいし、強いし、優しいから私と同じ――ううん、似たような気持ちを私以外の女の人が持ってたっておかしくない。そ、それがちょっとキレイな女性なら、ひーくんだって男の人だから悪い気はしないだろうし、ちょっとぐらい一緒にいようと思ったって不思議じゃない。
 ひーくんの隣りにいる女の人の長い黒髪は遠目からでも分かるいくらい艶があって素敵だし、顔もツリ目気味ではあるけれど、文句のつけようの無い凛々しい感じの美人だし、身体もスラッとしててスタイルだって理想的なくらいに均整が取れてる。男の人なら誰だって、言い寄られたらコロッといっちゃうような、絵に描いたような完璧な女の人だ。
 ――で、それが何だっていうの?
 自慢するつもりは無いけど、そういうことなら私だって負けてない。髪なんかは伸ばせばいいし、顔だって――こういう言い方は好きじゃないけど――テレビに出てるアイドルより可愛い自信はある。身長は少し低いかもしれないけど、スタイルなら負けてない。
 なのに……!
 ――ああ、ダメダメ。そう考えてる時点で……比べてる時点ですでに劣ってる。
 そうじゃないそうじゃない。ひーくんが誰と何人と付き合おうが構わないし、関係無い。最後には私と、最期までいてくれればいいんだから。肝心なことはただひとつ――私以外の女とひーくんが過ごす時間をどれだけ短く出来るか。それだけを考えればいいんだから。
 さしあたって、今はひーくんと歩いてるあの女とひーくんとの時間をどうやって縮めるか、よね……
 分かりやすいのはあの女がいなくなるか、少なくとも彼女より私が美人で魅力的になればいいだけなんだけど……髪とか身長とかを考えると、あの域に達するには一年くらいはかかりそう――
 て――ああ、そうか! 逆に考えればいいんだ!
 あの女が――私より醜くなればいいんじゃないの?
 うん、そう。うんうん、そうそう。そうよ、それよ。なんだ簡単じゃない。いなくなるとかそっち方向に考えちゃうと、鉈で頭をカチ割ったり、鋸で喉元をかっ切ったり、ナイフでお腹を刺さないといけないもんね。
 本当にお手軽。重い鉈も必要無いし、隠して持っていくのに不便な鋸を用意しなくてもいいし、危ない人そのまんまなナイフなんかも不要。
 私の腕と脚と。指先や爪先があの女の顔を軽く撫でればそれでおしまい。ジ・エンド。ゲームクリア。お姫様は王子様といつまでも幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし。
 あはははははははは! なんて簡単! うふふふふふふふふ? なんて単純?
 そう、それだけ。たった――そ・れ・だ・け。
 何を深く考えていたんだろう。あれから何日も考えていたのがバカらしい。あぁあ、時間を損しちゃったよ。
 答えを出しちゃえばもう悩む必要は無いじゃない。
 実は昨日、ひーくんに「明後日にサークルのみんなで秋祭りに行くけど、お前も来るか?」て誘われてたの。行こうかどうしようか迷ってたけど、絶対に行かなくっちゃ。
 きっとひーくんの隣りにはあの女がいるんだろうな。『サークルのみんな』の中にどれくらい女の人がいようが関係無い。みんなまとめて――私より醜くなっちゃえばいいんだから。
 あははははははははははははははははははははははははははははは。
 ホント、楽しみ。明日が待ち遠しいなんて思ったのはいつ以来だろう?
 待っててね、ひーくん。今、会いに行きます。なーんちゃって!
 あはは。あははははははは! あははははははははははっ!
 ああ、本当に楽しみ。今から眠れるかな? ううん、無理にでも寝なきゃ。寝不足の顔じゃひーくんに見せられないもんね。お気に入りの浴衣を着てくから……ちょっとは褒めてよ、ひーくん?
 もうドキドキが止まらない。顔が火照ってしょうがない。ああ! もう本当に――


 早く明日になぁーれ!  


注意:これは七美奈々がヤンデレだったら、という想定で書いてあります。本編で彼女がこうなるかはまだ未定であることをご了承下さい。


13 :日原武仁 :2007/11/24(土) 23:08:24 ID:kmnkzJxn

京子/キャット

 ――歌が、聞こえる。

 響くように流れてくる歌声は遠く、歌詞までははっきりと分からない。だけど、そこに込められた想いが心に伝わってくる。
 あなたと一緒にいられて良かったです。
 あなたと過ごせて楽しかったです。
 あなたがいなくて寂しいです。
 あなたに会えなくて悲しいです。
 私はここにいます。私はここで待っています。
 早く私を見つけて下さい。早く私に会いに来て下さい。
 出会えた事も、別れた事も。
 あなたの全てが私の幸せでした。

 明るくて哀しい――歌が、聞こえる。

   ◇                ◇

 目を覚まし、枕元の時計を見てみればいつもよりも一時間近く早い時刻だった。
 いつか読もうと積み上げた文庫やコミックで半ば埋まっているベッドで上半身を起こして頭を掻く。
 何となく夢見が悪い。悪夢を見た時の得体の知れない恐怖も無ければ、楽しい夢を見た時の高揚も無い。全てが曖昧模糊としているにも関わらず、それを不審にも不思議にも思うことも無い。妙に割り切り、そういうもんだと冷めている自分がいる。楽しむために映画を見るんじゃなく、批評や評論のための仕事で映画を見る時の心境がこうなのかもしれないな。
 本当に奇妙な気分だ。我が事ながらおかしく思う。時間もあるからもう一度寝直そうかとも思ったけれど、残念なことに目は完全に覚めてしまっていた。眠る事が出来なければ起きるしかないので、今からどうやって時間を潰そうかと考えながら仕方なく伸びをして軽く目元を拭い――ぬるりとした感触に眉をひそめた。
 それの正体は瞳から流れた涙だった。
 俺は――泣いていたのだ。



「どうした日下部? いつにも増して茫洋とぼんやりして。この吉永に内緒で何か美味しいものでも食べたのかね?」
 目の前に座る吉永が窓の外に目を向ける俺にそんなことを言ってくる。
 彼女の名前は吉永京子。俺こと日下部仁志の……まあ、世間で言う所の恋人だ。低くも無く高くも無い身長でスタイルは良く、艶のある黒髪は背の中ほどに届くくらいに長い。凛々しい若武者を思わせる、端整な容貌をした大学生だ。学業にしてもスポーツにしても、大概の事を卒なくこなす完璧超人と評しても過言でないこいつが、八百屋の店先で一山いくらで売られているみかんのような俺を好きだというのだから世界は分からない。たで食う虫もすきずきってのは真理だね。
 俺達がいるのは毎度の事ながら二人が所属するサークル、文芸研究会の部室だ。いつもは誰かしらいるのだが、一コマ目の半ばという中途半端な時間のためか、雑多なものであふれる十畳ほどの部屋には俺と吉永しかいない。
 吉永の軽口にいつもなら「俺はどんなキャラだよ!?」とでも突っ込むところだが、今の俺はまったくもって気分が乗らない。なので至極つまらない、ありふれた返事をした。
「いや、別に」
 すると、吉永は形の良い柳眉を逆立て、腕を組むと鼻を鳴らす。
「古来より『何でも無い』と答えた者が本当に何でも無かった試しは一度も無いのだよ。暗に気にして下さいと言っているようなものだ。さあ、気になることを言いたまえよ。どんな些細なことであってもこの吉永が君の力になる。それとも、この吉永では役者不足かな?」
 挑むような、睨みつけるような瞳で吉永は俺を見る。これは吉永が心の底から本気で思っている時の癖だ。
「……ズルイぞ、吉永。そんなふうに言われたら話さない訳にはいかなくなる」
 これみよがしに、半ば当てつけるように大きく息をつくと、俺は今朝見た夢の話を舌に乗せた。


「おそらく……それは猫の歌だ」
 全て聞き終えた吉永は、考えをまとめるようにそう言った。
「猫と言うのは知っての通り、気ままで気高く人に懐かない動物だ。だが、そんな猫の中でも稀に、人を好きになる……人間に恋してしまう猫がいる」
「人に恋をする……」
「これがおとぎ話であったなら、猫は人間になって恋した者と幸せになりました、となるが――悲しいかな現実はそうはいかない」
 淡々と語る吉永の話を聞くうちに、おぼろげながら小さい頃の出来事をひとつ思い出す。
「猫の寿命は人より短い。恋した人間と最期までいられること。それが猫達にとって最上なのだろうな。だが、それすらも叶わず別れてしまった、別れざるを得なかった時に、猫達は歌を歌う」
 浮かび上がった思い出は完全に結像し、脳裏に鮮明に映し出された。
 俺は小学校に上がる前の半年間、父方の実家である宮城県で暮らしていた事がある。父さんが仕事の都合でドイツに行く事になり、専業主婦だった母さんもそれについていった。俺は小さかったし、期間が半年間と決まってる上に比較的短かったためにドイツに行かず、じいちゃんとばあちゃんの家で暮らす事になったからだ。
 時期は晩春から初夏の頃という季節の変わり目。当時の俺は体が弱く――これも両親についていけなかった理由のひとつだ――節目ごとに体調を崩しては一週間くらい布団で過ごす事が常だった。
 そんな時、一匹の猫と出会った。
 両前足の先だけ白く、他の所は茶色で毛並みのいいメス猫だ。
 彼女はここいら一帯を縄張りにしているらしく、近所の家々を回ってはエサをもらったり、我が物顔で庭先や軒先を歩くことはもちろん、時には家の中で眠る事さえあった。俺も彼女が家の縁側でゆったりと毛繕いしているのを見たことがあるくらいだ。
 そんなどこまでも猫らしく、決して家猫にはならないような、なる必要がない彼女が、ある日突然に今までの生活を止め、ひとつの家に――俺の家に入り浸るようになった。
 そのきっかけは俺が熱を出して数日間寝込んだ時のことだ。彼女は俺の枕元から離れなかった。足を揃え、背筋を伸ばして座りながらじっと俺を見つめていた。俺はその時のことをはっきりとは覚えていない。熱にうなされ、目を覚ましても霞むような意識とぼんやりした視界しかなかったけれど、確かにいつも彼女が側にいたような気がする程度だ。
 様子を見にばあちゃんが来ても、往診に医者が訪れても微動だにせず、静かに俺を見ていたのだとばあちゃんが話してくれた。その姿は子供を見守る母親のようだった、とも。
 体調が回復した後も、彼女は俺から離れなかった。近所に友達のいなかった俺は、彼女を相手に色々な話をしたものだったし、追いかけっこをしたりして遊んだものだ。
 彼女をモデルに絵を描いたりもした。描いた後に必ず彼女を見せるのだけれど、絵の良し悪しが分かるのか、それとも色や光に対するただの反射だったのか。何枚かは「気に入らないのだわ!」とでも言いたげに顔を背けることもあった。そんな時は彼女が気に入るまで色々と子供なりに試行錯誤して何枚も書き直したりしたもんだ。
 また、彼女は俺が本を読んでいると必ず膝に乗ってきた。構って欲しいのかと思って本を置くと、すぐさま彼女は膝から離れ、距離を取って俺を見る。近付こうとすると、逃げるように距離を置こうとするのだ。そんなことが何回も続くので、最後には彼女を膝に乗せたまま、心地好い重さと温もりを感じながら本を読むようになった。
 彼女に色々な話をしたと言ったけれどたったひとつだけ、最後まで言わなかったことがある。それは彼女と別れなければならないということだ。両親と住んでいた家に戻る前日もいつも通りに彼女と過ごし、当日になってたった一言だけ――ただ「さよなら」と告げて別れた。
 どうしてそんなことをしたのか今の俺には分からない。子供なりの理由が、小さいなりに何かを考えた結果の行動だったのだろう。すぐに帰ってくると、近いうちに絶対にまた来るからという意志の表れだったんだろうとなんとなく思っている。
 俺が自宅に戻ってちょうど一月が経った頃、ばあちゃんからの電話で彼女が死んだことを知った。死期を悟った野生の猫は絶対に人前に自分の亡骸を晒さないというのに、彼女は俺が寝起きした部屋で、静かに息を引き取っていたと。日当たりのいい庭の片隅に、彼女を丁寧に埋葬したと教えてくれた。
 俺は泣いた。泣いて泣いて泣いて。神様に彼女を生き返らせてくれと本気で懇願もした。
「喜びを込め、悲しみを込め。恋した人との全ての思い出を忘れぬために歌を歌う。それが猫の歌と呼ばれるものだが……ふむ」
 吉永は語る言葉を止めると俺を一瞥する。
「――どうやら君には思い当たる思い出(モノ)があるようだね?」

 そう言って――吉永はまるで猫のように笑った。

 ドクン、と、俺の鼓動が跳ね上がるような音をたてた。
 ……そんなことはありえない。それは明らかに妄想だ。非現実的で非科学的で、執着とも言うべき願望が生み出した幻想だ。ここは漫画の中じゃない。ここは小説の中じゃない。そんな状況はありえない。あってはいけない。
 そう――吉永が彼女の生まれ変わりであるなんてありえない。彼女の霊が取り憑いている訳が無い。京子という名前が伏線なんて展開が存在しちゃいけない。
 俺は頭にこびり付く妄執を振り払うように目を閉じて頭を振った。
 落ち着く事だ。現実的に考える事だ。理論的な根拠も、科学的な証拠も無い。ただの思いつきだ。ただの想像だ。ある訳が無い。否、あってはならない。二十一世紀にもなって、今さらオカルトもないだろう? 平静になれ、俺の心。沈着を取り戻せ、俺の鼓動。
 呼吸を意識して深くする。長く吸って長く吐く。深く吸って深く吐く。――よし、大丈夫だ。
 数十秒の事とは言え、今の行動は吉永から見ればよほど奇妙に映っていただろう。何と言い訳しようかと思いながら、俺はゆっくりと目を開けた。
 ……目を開けなければ良かった。見なければ良かった。
 目の前で微笑む吉永の頭から――猫の耳が生えていた。



 縁側に小さい時の俺とばあちゃんが座っている。ああ、これは初めて彼女を見たときにばあちゃんに聞いた時の夢だ。
「キョウ?」
 足をぶらぶらさせながら、俺は教えてもらった名前を繰り返した。
「そうだよ。『今日』をしっかり生きてるからキョウ。ふてぶてしいくらいに『強』く生きているからキョウ。雅なくらいに気高いから『京』。ああ、あと猫嫌いの人は禍々しい『凶』なんて字をあててるかもねぇ」
 俺の頭を撫でながら、ばあちゃんはにこにこと笑う。今にして思えば、たかだか猫一匹の名前にここまで凝るくらいにみんな暇だったのだろう。逆に言えば、それだけ彼女は近所のみんなから愛されていた証でもあるのだけれど。
「……よくわかんない」
 素直に俺はそう言った。そりゃそうだ。小学校に上がる前に漢字のことを言われても分かる訳がないし、イメージすら覚束ない。
「そうだねぇ。難しいねぇ。とにかく、あの猫をみんなキョウって呼んでるってことだよ。だから仁志もそう呼んでおあげ」
「うん、分かった! キョウちゃんだね!」
 彼女の名前はキョウ。だから俺は「キョウちゃん」といつも呼んでいたんだ……



 ……気付くと、心配そうで不安げな表情の吉永が俺を覗き込んでいた。
 頭がぼんやりしていて、状況をしっかり把握出来ない。自分の状態が飲み込めない。実感できる事は後頭部の柔らかく心地好い感触と、手の平に当たるふんわりした肌触りだけだ。
 俺は身体を起こす。と、その動作によって俺は横になっていたのだと理解した。
 周りを見回せば、場所は変わらずに部室だった。どこから持ってきたのか、床には毛布が敷かれ、吉永に膝枕をされる格好で寝かされていたようだ。
「日下部。本当にすまないと思っている」
 謝罪の言葉に振り返れば、吉永が殊勝な顔で俺を見つめていた。
「まさか君が気絶するほど驚くとは思ってもみなかった。意地悪が過ぎてしまったようだ。その……トラウマに触れてしまったことも謝る」
 本当にすまないと、正座したまま吉永は深く頭を下げた。
 その段になってようやく思い出した。吉永の頭に明るめの茶色い猫の耳を見た瞬間、情けないことに俺は気を失ってしまったのだ。
 だが、今の吉永にネコミミはない。こりゃ一体どういうことだ?
「それはこれのせいだ」
 訊くと、吉永は傍らに置いてあった、細い紐のついたやたらに幅が狭く、かつ薄く黒いカチューシャを掲げて見せた。
「これには仕掛けがあってな」
 言いながら、吉永はそれを頭に嵌める。するとそれは不思議と、ぱっと見では付けているのが分からないくらい髪に馴染んで見えた。
「それでこの紐を引くとだな」
 ぴょん、と一瞬でくすんだオレンジ色のネコミミが吉永から生えた。うん? さっきは茶色っぽく見えたけど、本来はこういう色だったのか。というか、この色は今、街のいたるところで盛んに飾り付けられてるものじゃないか?
「パーティーグッズの――今ならばハロウィングッズが正確か? まあ、そういうものの一種らしい。『男の子はネコミミに弱いから、ここで勝負! と思うところで使ってみるといいわよん』という言葉と共に会長から頂いた」
 ……あのお気楽会長はまた余計なものを吉永に渡してくれるもんだ……よりにもよってこの時期――え? ……ああ、そういうことなのか? そういう伏線……なのか?
 まったく、タイミングが良すぎて心臓に悪い。ジグソーパズルの最後の一ピースがジョーカーだったなんて聞いた事も無い。
 だがまあ、仕方ない。許そう。オカルトなんて信じてないが、超常的な何かのせいにするのもたまにはいいのかもしれない。そうさ。時にはこういうのも悪くない。
「なあ、吉永? 本当に悪いと思っているのか?」
 あえて神妙な顔を作り、吉永に尋ねる。
「思っている。この吉永に君がどんなエロいことをしても耐えられるくらい」
 真剣な顔で吉永は即答した。いつもことではあるけれど、その尺度を置いておくとしても謝罪の意志と気持ちがあることはよく分かった。そうとなれば、俺の言う事は決まっている。
「ならな、吉永。これから宮城のばあちゃん家までの旅行に付き合え。やらなきゃならないことが出来た」
「祖母君の家? それは君の実家ということかな?……ふむ。そうか。日下部がそこまで考えてくれていたとは嬉しい誤算ではあるが……少々早急すぎではないだろうか? 先日、君の父君と母君にお会いしたが、あれは文字通りに挨拶だったぞ? ああ、なるほど。君の家ではまず祖父母君から許可を取らないといけないのか」
「あー、悪いが吉永。そういうのじゃないから」
「……なんだ、そうなのか」
「露骨に本気っぽくがっかりされるとリアクションに困るのでスルーするとして。目的はただの墓参りさ」
「墓参り? ご先祖のか?」
「いいや、俺の大切な――家族みたいな友達の、な」
「そうか。ならばこの吉永は彼の人に是非とも挨拶せねばなるまいな」
「ありがとよ」
 俺達は立ち上がり、部室の片付けと出る準備を始める。早いとこ学内にある旅行センターに行って時刻表を調べたり、切符を買わないといけないし、ばあちゃんにも連絡を入れとかないといけないからな。吉永を連れて行ったらはてさて、どんな顔をされることやら。
 ただの偶然か。はたまた何かの意志が働いたのか。あまりにも出来すぎな展開だけれど。あえて、言おう。
 今日は――キョウの命日だ。


14 :日原武仁 :2007/12/17(月) 22:54:32 ID:kmnkzJxn

決戦するは秋祭り

 待ち合わせ場所へと続く緩やかな坂道の両脇には夜店が並んでいる。りんごあめ、チョコバナナ、たこ焼き、綿菓子、べっこうあめにベビーカステラと、見事なまでにお祭り定番のラインナップだ。
「やはり祭りはいいものだ。自然と心が高揚してくる」
 並んで歩く吉永が、頬を幾分上気させてそんなことを言った。
 これには俺も同感だ。遠くから聞こえる太鼓や横笛が奏でる祭囃子に、ちょうちんの灯りが照らす薄暗い夕暮れの道を笑いながら歩く人々には活気が溢れている。そんな中にいるだけで気分がウキウキとうずいてくるのは祭り好きという日本人の性と言ってもきっと過言ではないだろう。
 それに加え、みんなの服装が普段と違うのも場と言うか、雰囲気作りに一役買っているのは間違い無い。
 浴衣。この衣装は祭りには外せないし欠かせないファクターだ。
 ――そんな訳で。
 空気や雰囲気を読んだというより、十中八九は会長の入れ知恵だろうけれど――俺の彼女たる吉永京子はご多分に漏れずに浴衣だった。
 濃紺の生地に赤紫のヒルガオを置いた浴衣に赤い帯の吉永は、背の中程までに長い艶のある黒髪をアップにして結い上げていた。
 凛々しい若武者を思わせる端整な容貌の吉永だが、こうして見るとそれこそ匂い立つような女らしさで溢れてて――その、なんだ。口に出しては決して言えないけれど――本当に綺麗だった。
 正直ドキドキしてしまう。女の子は髪型ひとつ、化粧ひとつ、衣装ひとつで化けると言うが……この吉永は反則だ。それとも一発ケーオーとでも言うべきか?
 時折り、奇をてらうような服装や小物で攻めてくる吉永だけれど、真っ向勝負が一番破壊力が高いというのがいかにも吉永らしい。本人がそのことに気付いてないのが幸か不幸か俺には分からないけれど。
 そんなことを考えつつ、他愛の無い話をしながらしばらく歩き、待ち合わせ場所である鳥居に着いた。
「もう! 日下部クン、遅いよぉ!」
 着いて早々、明るいオレンジに白いユリの花をあしらった浴衣に青い帯を締めた会長に怒られた。
 俺はジーパンのポケットからケータイを取り出して時間を確認する。ディスプレイに映る時計は集合時間である七時の十五分前を示していた。
「文芸研究会時間では集合時間の一時間前に集合なのよ。それに第一、会長であるおねーさんより遅く来るなんて会員失格ね!」
 文芸研究会というのは俺と吉永が所属するサークルの事で、そこの会長が腰に手を当て、どっかの団長のように器用にアヒル口を作ってそっぽを向く大学三年生の読川 円さんなんだけれど……文芸研究会時間ってなんだ?
 知ってるか? と隣りの吉永に聞こうとそちらに目を向ければ、吉永はまるでこの世の終わりを迎えたような顔で硬直し――ふらりと会長の前へ出て深く頭を下げた。
「……申し訳ありません、会長。文芸研究会規約第六条・文芸研究会時間を完全に失念しておりました」
 文芸研究会規約とはその名の通り、サークル内規範を指し、入部した者にはB六の冊子として配られ、熟読しなければならないものだ。俺もとある一件が原因で一通り読んだのだけれど……そんなのあったっけ?
「ああ、いいのいいの。吉永ちゃんは全然悪くないから」
 悲痛な面持ちで頭を下げる吉永を慰めるように会長は浅く抱きしめた。
「悪いのはみーんなみーんな日下部クンだから。吉永ちゃんは浴衣だし、おねーさん許しちゃう」
 ……会長の物言いには色々言いたいことはあるけれど、今に始まったことではないし、気落ちした吉永が元気になるならいくらでも悪役にでも悪者にでもなっておくさ。
「日下部君も成長したようだね」
 そんな近くの声に振り向けば、いつの間に近付いたのか、月山さんが小さく笑いながらすぐ側に立っていた。
 月山美奈さん。大学三年生で会長の幼馴染みでもある。背が高く、ベリーショートでマニッシュな月山さんは男の俺から見ても男らしくカッコいい。ほんわかしたかわいいおねーさんな外見の会長と並んで歩くと、まず間違い無く彼氏と思われる女性である。
 俺は肩をすくめ、諦めたような顔を作った。
「成長なんてとんでもないですよ。ただ、慣れただけです」
「そうかい? そいつは頼もしいね」
 そして二人で小さく笑いあった。
「そう言えば月山さんは浴衣じゃないんですね」
 月山さんはいつも通り、革のぴっちりしたパンツに男物の厚手のシャツという格好だ。
「ボクはこんなだからね。浴衣が似合わないことくらい知っているだろう? キミは意外にイジワルだね」
 苦笑を浮かべる月山さん。
 そうだろうか? 月山さんは確かに、そこら辺の男より男っぽくてカッコいいけれど男じゃない。中性的な容姿な人が着ても別に問題無いだろうし、似合わないと思っているのは月山さんだけではないのかな?
「うーん……俺は月山さんに浴衣が似合わないなんて思ってませんよ? それに月山さんの浴衣姿見てみたかったですし」
 素直にそう思い、口に出してそう言った。
 と、月山さんは鳩が豆鉄砲でも食らったような、きょとんとした顔をすると、慌ててそっぽを向いてしまう。
「せ、先輩をからかうもんじゃないよ。本当にキミはイジワルだよ」
 そう言って、会長の方へと大股で歩いて行く月山さん。その横顔が少しばかり赤かったのは……もしかして照れていたからだろうか……?
「おーう、日下部。ナチュラルに女口説いてんじゃねーよ!」
 そんな人聞きの悪い事をのたまう声とともに背中を強く叩かれ、痛みに顔をしかめたのも束の間、いきなり首に腕を回された。
 こんなキレイにガッチリとキめる筋肉質な腕の持ち主は俺の知り合いの中じゃ一人しかいない。と言うか、ちょっと気が遠くなると言うか、ふわふわした気持ち良さがじわりじわりと来てるんですが……
「雅士くんダメです。仁志くんが落ちちゃうです」
 霞みがかった意識にそんな声が響いてくる。
 と、首を絞めつける力が不意に消えた。途端に熱を帯びるように意識がはっきりしてくる。
「いや、悪ぃ悪ぃ。ついいつもの癖で。まあ、許せ」
 そう言ってバシバシと俺の肩を叩いてくる。いつもの癖で人を即座に落とすって……どんな修羅場にいるんだよ、この人は……
 出会い頭にこんなことをしてきたのは俺の一個上の先輩、大城雅士さんだ。普段はバイトが忙しいらしく、あまり部室に顔を出さない先輩だ。引き締まった筋肉質な身体に彫りの深い猛禽類を思わせる顔。なんとなく悪の組織の幹部を思わせる容姿だけれど、気さくないい先輩なのは間違いない。
 そして、俺を助けてくれた声の主が清水岩潤子さん。大城さんと同学年で従妹同士らしい。日の角度や光の加減によって金にも銀にも見える不思議な光沢のある色素の薄い茶髪は短くシャギーが入っている。体格から顔のパーツも含めて何もかもが小さく出来ているのだけれど、それが返って神経質な彫刻家が設計したような精緻に整った容姿をしている。先輩に対して少し無礼にあたるけれど、人形みたいに可愛らしい人だ。緑の帯を締め、薄い水色に金魚が無数に泳ぐ浴衣が本当に似合っていた。
「ほら、なんてーの? 猫が狭いところに入りたがるのと同じでよ? こう、無防備な首を見ると腕を回して落としたくなるじゃねーか。動物としての習性、てやつ?」
「大城さんが危険人物なのがよく分かりました。今度から俺の三メートル内に入らないで下さい」
「んだよ。そんなに照れることねーじゃねーか」
 そう言って大城さんはまたバシバシと俺の肩を叩いた。俺は痛みに顔をしかめ、少しばかり大城さんから距離を取る。
「今日のバイト。早く終ったんですか?」
「あぁ? おうよ。意外に早く片付いたんでな。Bボタン連打してここまで来た」
 Bボタン連打って……Bダッシュ=走ってきた、ということだろうか……? なかなか分かりにくい暗喩を使ってくるなぁ……
「お疲れ様です」
 いつの間にやってきたのか、清水岩さんは労いの言葉と共にどこかから取り出したペットボトルのスポーツドリンクを差し出していた。
「おう。ありがとよ」
 と、軽く感謝しつつ受け取り、口を付ける大城さん。
 清水岩さんはどちらかというと、あまり人前では表情を変えない人だと思っていたのだけれど……。ふーん、大城さんの前では嬉しそうと言うか、幸せそうな顔をするんだ……
「これで全員揃ったわね? それじゃ、しゅっぱーつ!」
 会長の号令で、俺達はゆっくりと階段を昇り、本殿へと向かった。

      ◇             ◇

 百五十段ほど階段を昇ってようやく境内へと入る。ここから百メートルほど参道を歩けば本殿だ。
 参道の脇には当然のことながら出店が並んでいた。ただ、下とは違うのは金魚すくいや射的、ヨーヨー釣り、くじ引きなどのゲーム系やおもちゃ系の比率がぐっと高い事だろう。
 TV放映している人気アニメがプリントされた袋が飾ってある綿菓子屋の横を通り過ぎたとき――頭にきらめく電撃じみた、首元をぞわりとさせる感覚が走る。
 周りは満員電車程ではさすがにないけれど、それでも軽い一歩で人の肩に触れてしまうくらいの人込みだ。だから、俺は半歩ほど身体を動かし、上半身を捻る。
 瞬間、すぐ横を通り抜ける烈風。
 土煙を伴ったそちらに目を向ければ、風の正体は俺から三歩離れたところで止まっていた。
「あ、ひーくんもお祭りに来てたんだ」
 そいつは足元から立ち昇る薄い煙と微かなこげくささを伴って、俺に向かって笑顔を見せた。
 どこかの賭博漫画のようにざわつく周囲を一切気にせず、『ひーくん』と俺を呼んだ少女の名前は七美奈々。
 俺が小学生の頃に身体を鍛えるために通っていた道場の一人娘であり、幼馴染み……と言うよりは妹のような存在だ。一月ほど前に奈々からキスされて告白されると言う事があり、それに伴う一騒動があったりしたのだけれど、とりあえず今は前と同じ様な関係に落ち着いている。
「お前なぁ……もういい加減に出会いっぱなに仕掛けてくるの止めろよな。当たったらどうするんだよ」
 言って、俺は嘆息した。
 奈々には悪癖――と言うには度が過ぎているけれど――があって、俺を見つけると必ず何らかの攻撃を、しかも完全な不意打ち放ってくる。奈々は俺との手合わせで一度も勝っていない……どころか一撃も当てられなかったことが奈々にしてみれば相当に我慢ならなく悔しいらしく、小学生の頃から今に至るまで、それこそそれが挨拶だと言わんばかりに拳や蹴りを繰り出してくる。
 だが、今日の一撃は極め付けだ。
 一歩の踏み込みから全体重と身体のバネを最大限にして放つ肘撃ち――《矢突(やとつ)》。当たり所と力の加減にもよるけれど、最悪、内臓破裂を引き起こしてもおかしくないほどの威力がある。
「当たらなかったんだからいいじゃない。気にしない気にしない」
 少なくとも加害者が言うようなものじゃないセリフをのたまい、紅色の浴衣に黄色の帯を締めた奈々は気軽くパタパタと手を振った。
「愛情表現も人それぞれだが、過激なものはあまり感心しないな」
 横に立つ吉永が、やれやれと言外ににじませる。
「自分をアピールするのならば相手のニーズに応える事が必須。その点においてはこの吉永、日々の研鑚に日夜の研究を怠ってはいないのだぞ?」
 そうだろう? と目で以って付け加える吉永に、俺は目を泳がすような曖昧な表情を返すことしか出来ない。
 それを目聡く見つけた奈々がふふん、と鼻を鳴らし、
「ひーくんは固まってるように見えますけど? 京子さんのだってきっととんちんかんで的外れなんですよ」
「む。そんなことはないぞ。この吉永が勉強不足ゆえに日下部の複雑に入り込んでいるだろう嗜好に未だ少しばかり及んでいないだけだ。今までの積み重ねが完全に実を結ぶのもそう遠い話ではない」
 どこにそんな根拠があるのか、自信を持って断言する吉永。自分のアプローチの仕方に微塵も疑問を持ってないのはどうだろうね?
「まあ、なんだ。こうして出会えたのだ。この吉永たちと一緒に祭り見物をしようではないか。そっちの二人も一緒にな」
 若干遠くに声を投げる吉永。そちらを見やれば二人の少女が戸惑い気味な表情を浮かべて佇んでいた。恐らく、奈々の友達なのだろう。
「な……! なんでそうなるんですか!?」
 奈々が大声と共に吉永に食って掛かる。吉永は一瞬、きょとんとした顔を見せた後に口を開いた。
「なんでと言われてもな……。同じ人間を好きになった者同士、親睦を深めるのも必要ではないか?」
 真面目な顔で、それが至極当然であるかのような口調の吉永だった。
「なんですかその理屈!? 余裕……余裕ですか!? 絶対に負けないという自信ですか!? それとも私を馬鹿にしてるんですか!」
 周りの目も考えず、奈々は顔を真っ赤にして怒鳴った。
 そりゃ奈々が怒るのも当然だ。自分で言うとものすっごく複雑な気持ちになるけれど……あえて言わせてもらう。恋敵にさっきみたいなことを言われたら挑発しているというか、舐められていると思うのが普通だ。
 だけど、吉永は違う。そういう次元で話していない。純粋に、素直にそう思っているのだ。天然と言うか鈍感と言うか。察しがいいくせにそういう機微が分からない、器用に不器用な吉永らしい言葉だ。
 奈々も吉永がそういう人間だと、その表情から読み取っているはずだ。だから何も言わず、何を言えばいいのか分からず、吉永を睨みつけることしか出来ないんだ。
 吉永は吉永でなぜ睨まれているのか見当がついていないらしく、吉永にしては珍しく、困ったような表情で俺をちらちらと見てたりする。
「じゃ、こうしましょう」
 パンと音高く手を打つ拍子と共に、会長が二人の間に横から割って入った。
「このまま睨みあってたって何の解決にもならないでしょ? だから勝負をしましょう。題して『勝った方が日下部クンと二人っきりでお祭りを回れるのよ三本勝負!』」
 名案でしょ? と、笑顔で以って二人の顔を交互に見る会長。その表情は買ってもらったばかりのおもちゃでどう遊ぼうかを考えている子供の笑顔に見えるのは俺の心が荒んでいるからだろうか?
「勝負……」
「……ですか」
 突然の闖入者に奈々は不審げな、吉永は思案げな顔を向けた。
「そう。このお祭りの中にある屋台なんかを使っての平和的な戦い。睨み合うよりはっきり白黒ついていいと思うけど。そう思わない?」 
 そんな会長の言葉に、二人は同時に俺を見る。奈々はどこか期待するようなすがる目で。吉永は仕方ないなと言いたげな目で。
 事あるごとに俺の意思や意見が尊重されず、無視されるのが常だから、きっと今回も何を言った所で変わらないし、これを収める良策も思い付かない。勝負を通して二人が少しでも仲良くなってくれれば――なんてことはおそらくないだろうけれど、こういう場合は流れに任せるのが一番いいのかもしれない。事なかれ主義と言うなかれ。こんな場合の助言をしてくれる人はいつでも大歓迎、大絶賛募集中だ。
 消極的賛成とばかりに、俺はやれやれと頷いた。――本来ならビシッと言うべきなのかもしれないなと思いながら。
「決まりね。それじゃ一回戦目は……あれにしましょう」
 会長は心底楽しそうにそう言って、屋台のひとつを指さした。

      ◇             ◇

「第一回戦。お祭り屋台の定番中の定番。金魚すくい〜!」
 ドンドンパフパフー! なんてSEが聞こえてきそうなテンションで会長は無駄に手を振りながら、すでに大きな青い水槽の前でおわんと紙の張ってある輪っかを持ってしゃがみこむ吉永と奈々に説明を始める。
「勝負は単純にして明解。より多くの金魚をすくった方の勝ち。当然、紙が破れた時点で終了。時間は五分間。二人とも準備はいい?」
「もちろん!」
「いつでも」
 確認に、奈々と吉永は水面に目を向けたまま答える。
「それでは! 第一回戦、レディ……ゴー!」
 号令と共に勝負が始まった。


 それは凄まじい勝負だった。
 金魚すくいを経験したことのある人なら分かるだろうが、普通は張られた紙の部分で金魚をすくう。数をこなそうと思ったら、水の濡れ具合によって徐々に無くなる耐久性を考えながらやっていくのが通常だ。だが、それはあくまで一般人の反応で、一般人のやり方だ。だが、吉永と奈々は――そんなレベルの人間ではなかった。
 例えば奈々。奈々はまず、紙で金魚をすくわない。その周り――プラスチックの枠ですくう。いや、弾くと言うべきか。
 波を全くたてず、輪を差し入れたかと思うと次の瞬間には金魚が水面から飛び出ており、それをお椀でキャッチする。紙に余計な負担をかけない、全く無駄の無い動きや手首の返しは機械のように正確で、芸術品のように綺麗だった。
 例えば吉永。吉永も常人を凌駕するすくい方を見せていた。
 吉永も紙で金魚をすくわない。奈々のように周りの枠も使わない。吉永は――水を切る。
 水面近くに浮かぶ金魚を周囲の水ごと切り取ってお椀へ入れていく。その効果範囲というか、有効範囲は水深の半分程。全体数の五割から六割が対象となる。
 位置を正確に見る眼と精緻な動き。そして何よりセンスがなければ出来ない技だ。
 金魚すくいのプロがいるとしたら、まさに二人をさすのだろう。……限定的にすぎるものだけれど。
 お互い一歩も譲らない。同じ様なスピードで、次々に黙々と金魚をすくっていく。
「はーい。そこまでー!」
 タイムアップを告げる会長の声と同時に吉永と奈々は動きを止めた。
 大きく息を吐く二人の周りには金魚の入ったお椀がいくつもある。それらを素早く、けれど間違いがないように入念に数えた結果――吉永、三十一匹。奈々、三十一匹!
 数は同数。だけど、軍配が上がったのは……
「一回戦目の勝者は――七美奈々ちゃん!」
 会長は高らかに勝敗を告げた。
「やったー!」
 と、一緒にいた二人の友達とはしゃぐ奈々の横で、吉永が悔しそうに目を伏せている。
 吉永のすくい方には大きな欠点があった。水面近くの、それも比較的小さく軽い金魚がどうしても多くなってしまうことだ。数をこなす、ということにおいては最適な方法であるには間違いないし、それを選んだ吉永は正しい。ただ――この場合は相手が悪かった。
 奈々のすくい方は基本的に金魚を選ばない。数をこなすため、奈々も小さめなものを選んでいたようだが、その合間合間に大きいものや黒い出目金を混ぜていたことが勝因に繋がったのだ。
「さあ。次の勝負はあれよ!」
 勝利の余韻も、敗北の屈辱もそこそこに、会長は次なる種目を指し示した。

      ◇             ◇

「第二回戦はこれ! 屋台の王道中の王道! 射的屋さん!」
 ジャン! と口で言いながら、会長は射的の屋台に手の平を向けた。
「勝敗はこれまた単純明解! 相手より大きいものをゲットした方の勝ちよん!」
 弾は五発だからね、と会長は付け加え、吉永と奈々に順番を決めるためのじゃんけんをさせた。じゃんけん、ぽんで出した手は吉永がチョキ。奈々がグー。
 選択権を得た奈々は迷わず先攻を取る。当然だろう。『相手より大きいもの』が勝利条件なのだ。先に行ったほうが良いのは自明の理だ。
「銃は好きなものを選んでねん」
 会長が言うと、台の上に屋台のおじさんが店にある全ての銃を置いた。
「加藤さん、すいません。無理を聞いてもらって」
「なぁに、気にするない。円嬢ちゃんの頼みじゃあ、断れねぇやな」
 かっはっはっは、と笑いながら銃を出す手伝いをしながら頭を下げる月山さんに屋台のおじさんはそう言った。
 金魚すくいの時もそうだったけれど、屋台のおじさんと会長は顔見知りらしい。だからこそ、一時的な貸し切り状態で勝負が出来たのだろうけれど……会長のコネクションの広さは底が知れないなぁ。
 などと思いながら俺は奈々へと目を向ける。台の上に置かれた銃はおよそ二十丁。その中で比較的新しいものを数丁、丁寧に眺めすがめつしていた奈々は、やがてひとつを選んだ。
「あの……会長……さん?」
 何と呼べばいいのかを迷うように、奈々はたどたどしく会長を呼んだ。
「試し撃ちをしちゃダメですか?」
 訊く奈々に、会長は顎に人指し指を置き、「うーん……」と思案し、
「うん、オッケー。但し、一発だけよ?」
 そう許可を出した。
 奈々はぺこりと頭を下げて礼をし、弾を銃に込めると景品の中で一番大きな、白いオオアリクイのヌイグルミに向けて迷う事無く引き金を引いた。
「ふーん……」
 破裂音と共に飛んだ弾はオオアリクイを撃つ。が、少し揺れたくらいでビクともしない。
「思ったよりも威力はあるし、精度も悪くないけど……五発じゃ少し厳しいかな」
 奈々は呟くと、次弾を銃に装填する。そして狙ったのは――二番目に大きなトラのヌイグルミだ。
 弾を詰める動作は素早く、だけれど狙いは正確な射撃。瞬く間に四発を撃ち終わり――最後の五発目でトラは台から落ち、地に着く前に屋台のおじさんに受け止められた。
「ほいよ、嬢ちゃん。おめでとさん」
 賞賛の言葉と共に、ヌイグルミが奈々の前に置かれた。
「へへへ……。どう? ひーくん?」
 奈々は嬉しそうにヌイグルミを掲げ、俺へと見せる。
「ああ。スゴイな、奈々」
「あったりまえだよっ! ひーくんのためなら私は何だって出来るよ?」
 どこか上目遣いで、なぜか照れたようにそんなことを言う奈々。
「次はこの吉永の番だな」
 吉永はそう言い、俺と奈々の間を通って射的台へ着く。並べられた銃を眺めながら、ふと、その視線を会長へと向けた。
「会長。この吉永も試射をしてもよろしいでしょうか?」
 尋ねる吉永に、会長は「もちろん、いいわよん」と答えた。
 ありがとうございます、と吉永は礼を言い、手元にあった一丁を無雑作に掴むと弾を込める。そして銃口が狙うのは――やはりオオアリクイだった。
 吉永は銃を発射。だが、少し揺れるだけで落ちる気配は無い。吉永が勝つにはあれを落とすしかない。だが……出来るのか、吉永?
 吉永はくるりと身体を回し、真正面から俺を見た。
「そんな顔をするものではないよ、日下部。君のためなら何でも出来るのは――この吉永も一緒なのだからな」
 ニヤリとした口元だけの笑みを残し、吉永は身体を元に戻す。そして、試射した銃に弾を込めると――残りの弾をそれぞれ別の銃に装填した。
 そうか! その手があったか! 弾の威力を最大限に生かすのなら、前の衝撃が残っているうちに次弾を叩き込むのが一番だ。銃は単発式だから、撃った後には当たり前だけれど、弾を込め直さないといけない。そのタイムロスを無くすために、吉永はあらかじめ弾を詰めた銃を用意した……!
 吉永は銃を撃つ。正確に、重心を揺るがす場所に叩き込む。一発目では多少の揺れ。その揺れが収まらないうちに、振幅のリズムに合わせて――向こう側に傾いた時に着弾するように二発目を。もっとも的確な場所とタイミングで続く三発目を。四発目で大きく傾き……最後の五発目でオオアリクイはついに――落ちた!
 全員が呆けたように見守る中、屋台のおじさんだけが迅速に動き、オオアリクイをキャッチした。
「こいつを落とされるとは思っちゃいなかったが……。やるな、嬢ちゃん」
 吉永は小さく頷き、目の前に置かれたオオアリクイを受け取った。
「勝者! 吉永ちゃん!」
 会長が右手を上げ、判定を下した。
「言っただろう? この吉永は君のためなら何でも出来ると」
 吉永は俺の隣りに並ぶと不器用に小さくウィンクしてみせた。そんな仕種に俺は思わずドキリとしてしまう。すると、奈々が俺たちの間に割って入り、厳しい顔で吉永を睨み付けた。それに対し――珍しいことに吉永は不敵に笑ってその視線を真っ向から受け止めたのだ!
「さあ、盛り上がってきたわね。お互い譲らずの一勝一敗。雌雄の決する最終戦! それを飾る最後の種目は――あれよん!」
 会長の指さす先にはライトアップされたステージがあり、『浴衣美人コンテスト』とデカデカと書かれた横断幕がかかっていた。

      ◇             ◇

「この吉永は君が入院した時に言ったことがあったな」
 高台のベンチに並んで座る吉永は、星の輝く夜空を眺めながらぽつりと言った。
 飛び入り歓迎の浴衣美人コンテストに優勝したのは……会長だった。
「はーい、優勝はおねーさーん! だから今夜の日下部クンはおねーさんのモ・ノ」
 と、指をわきわきさせながら俺にゆっくりとにじり寄る会長を、月山さんが羽交い絞めにする。
「何おいしいところを持っていこうとトチ狂ってるんだ、円」
「な、何するのよ、ツキちゃん!? 優勝した人が日下部クンとこれからを過ごせるって三回戦を始める前に言ったじゃない!」
「だからってキミが日下部君と過ごす道理にはならないだろう……」
 嘆息しながら月山さんは言い、顔を俺と吉永と奈々に向ける。
「順位で決めるなら準優勝が吉永さんで三位が七美さんなんだけれど……どうする?」
「どうすると言われても……」
 正直、困惑してしまう。心情から言えば、吉永と一緒に回りたいというのが本音だ。けれど、別に相手を限定する必要はないだろうから、みんなで見物するのもありだと思う。また、久しぶりに奈々と一緒に時間を過ごすのも悪くないし……だー! 俺はいつからこんな優柔不断になったんだ!?
「……今回は私の負けです」
 胸の奥から、心の奥から声を絞り出すように俯きながら奈々が口を開いた。
「でも……次は負けませんから」
 きっ、と並みの人間なら失神しかねないような、けれど目尻に涙を湛えた悔しそうな顔で吉永を睨み、
「それじゃまたね、ひーくん。行こ、さっちん、まこぴー」
 俺へは泣き笑いの微笑みを残し、奈々は二人の友達と一緒に歩いて行った。
 こうして、勝負は吉永の勝利という形で決着したのだった。



「これから花火見んだろ? だったらいいトコがあんぜ? 俺の秘密の場所だ。ホントは潤子と行くつもりだったけどよ、お前らに譲ってやんぜ」
 と、大城さんに教えられた、神社裏手の獣道を抜けたところにある高台の、ちょっとした広場に俺達はやって来た訳だ。
「んー? 何か言ったっけな?」
 心当たりがなくもないけれど、俺はあえてとぼけてみせる。
「君にこの吉永以外に好きな者が出来た場合、この吉永のことを忘れてくれて構わない。そう言った」
「ああ、そうだったな」
 夜空に小さな花火が連続して上がる。花火大会開始の合図だ。
「だが、それは取り消そう」
 夜空に大輪の花が咲く。様々な光に照らされる吉永の横顔を視界に収めつつ、俺は次の言葉を待つ。
「日下部。この吉永のことを忘れてくれるな。ずっと想っていてくれ。そうなるようにこの吉永は努力しよう。そうなるようにこの吉永は全力を尽くそう。今回のことでよく分かった。君でないと駄目なのだ。君が別の女の子と仲良くする様は見ていて気分が良くない。いいや、我慢がならない。嫉妬するなどみっともないと我ながらに思う。理性では分かっている。だが、押さえられない。あふれる気持ちが止まらない。この吉永は実感しているよ。恋焦がれるとはこういうものだと。日下部仁志のことが大好きなのだと。君の隣りにずっといたいと――そう思う」
 吉永の視線はずっと夜空に打ち上がる花火に向けられたままで、語調だって特に気負ったところはなく、平素なものとは変わらない。
 だからこそ思う。だからこそ感じる。
 吉永は本気で、心の底から、嘘偽りの無い気持ちを言葉にしたと、本気なのだと――そう思う。
 吉永は言葉を待っている。決して俺へと顔を向けないけれど、その表情はいつもと同じ凛々しいものだけれど。
 俺の言葉を吉永は待っている。恐がるように、怯えるように待っている。
 だから俺は――何も言わずに吉永の肩を抱き、自分の方へと引き寄せた。
「正直に言うぜ、吉永」
 身を固くする吉永に構わず、俺は自分の気持ちを口にする。
「明日の俺が何を考えて、何を思っているのか今の俺には分からない。だから『ずっと』なんて言葉は口が裂けたって言えやしない。だがな、はっきりしていることがたったひとつだけある。それは――今の俺はお前の事が大好きだってことだ」
 有史以来、進化から科学技術に至るまで、人が得てきたものは過去の蓄積と現在の分析による産物だ。確実な未来なことなんて何ひとつとして分かっちゃいない。だから俺は『未来』のことを語らない。俺が言えるのは『たった今』のことだけだ。
「それを聞いて安心したよ」
 吉永は嬉しそうに、俺へと頭と身体を預けながら言ってくる。
「基本的には現状維持を指向する君らしい回答であり、悪くない答えだ。未来は現在の積み重ねによって過去へと変わる。然らば、必然的に重要なのは、真に重きを置くべきは現在――今のこの時間に他ならない。ならば……もっとスキンシップを取ろうではないか……」
 言って吉永は俺へと顔を向け――目を閉じた。
 ……っ! これは……あれか? あれなのか!? チューを……キ、キスをしてくれという意思表示なのか!?
 え……、え!? ど、どうしよう……? どうすればいいんだ? 据え膳食わぬは何とやらと言うけれど……確かに俺と吉永は世に言う恋人同士だし、彼女たる吉永も求めているのなら――やるしかないのか……?
 ぃよし! やってやろうじゃないか!
 意を決し、吉永の柔らかそうな唇に自分のそれを近づけていく――
 
 ――ガサガサッ! 

「痛って……会長、押すなよっ!」
「おねーさんじゃないわよ。ツキちゃんが身を乗り出してくるから……」
 茂みを突き破る音に続き、聞き覚えのある声が耳を打った。見やれば、会長に月山さん、大城さんと清水岩さんが崩れた組体操よろしく、折り重なっていた。
 ……遠くから響く花火の音の中、時間が止まったような気まずく重い無言が場を支配する。
「ううん。あー、おねーさんたちのことは気にせずどうぞどうぞ」
 咳払いをし、何事も無かったように会長は茂みの奥へと戻ろうとする。
 なるほど、そういうことか。大城さんと会長が最初からグルだった……と言うことではなく、大城さんが会長になんらかの経緯をもって俺と吉永の居場所を教えた結果――みんな揃って見物に来たという事か……
「すまない。日下部君。ボクたちはキミらの邪魔をするつもりはなかったし、悪意を持ったり悪気があった訳じゃない。ただ、やはり……気になってしまって、ね。本当に申し訳ない」
 月山さんは謝罪して頭を下げた。それに会長と大城さん、清水岩さんも続く。
「ふう。……もういいですよ」
 ため息をつきながらベンチから立ち上がる。
「みなさん頭を上げてください。こんなこと、今に始まったことじゃないですし」
「でも……」
 捨てられたネコのような、心底申し訳無さそうな顔をする月山さんに、俺は手の平を向けた。
「確かに少しばかり残念な部分はありましたけれど……まあ、これで最後って訳じゃありませんからね。そうだろう? 吉永」
 振り返り、隣りに立つ吉永に声を投げる。
「無論だとも。これから幾度でも君が求めればその都度にこの吉永は応えよう」
「……そういう訳です。ご心配には及びません」
「…………そうかい」
 そうして、ようやく月山さんは胸のつかえが取れたかのように淡く笑んだ。
「ならせめてもの罪滅ぼしだ。花火が終ったらボクが食事を奢ろう」
「わーい! やったー!」
「円! キミは払う方だろう!?」
 両手を上げて真っ先に歓声を出した会長に、素早く月山さんが突っ込んだ。
「えー。ツキちゃんが奢るって言ったぁ……」
「それは日下部君と吉永さんに対して! なんで円の分まで奢らないといけないんだよ!?」
「だってぇ……」
「ダッテもロッテもない!」
 月山さんと会長の、いつものやり取りを聞きながら、俺はもう一度吉永の肩を抱く。
 身体を預けてくる吉永の、心地好い体温を感じながら夜空を見上げる。
 そこには、大輪の花火が咲いていた。


15 :日原武仁 :2008/05/29(木) 21:56:53 ID:kmnkzJxn

願い、願われ、叶う事

「正義の魔法使いだ。願いを三つ叶えてやろう」
 部室に響いた声に振り向けば、つば広の山高帽に黒マントという、童話に出てくる魔法使いがそこにいた。
「『服を着替えろ』。『椅子に座れ』。『訳を話せ』。それが願いだ、吉永」
 そう。魔法使いの正体は、俺の恋人であるところの吉永京子だった。今日もまたロクデモナイコトを思い付き、鋭意実行中のようだ。
「その願いは面白みに欠けるぞ」
 意外にも素直に吉永は帽子を取り、マントを脱いで俺の正面に腰を下ろす。
「『願いを無限にしろ』とか『君のような魔法使いにずっと側にいて欲しい』とか『奴隷となって一生願いを叶え続けろ』だとばかり思っていた」
「お前が俺の事をどう思っているのかよく分かったよ」
「この吉永が君の事をどれほど愛しているかがまたひとつ伝わったようで何よりだ」
 その認識について訂正したい事が瞬時に二十程浮かんだけれど、吉永の嬉しそうな笑顔に免じて黙っておく事にする。
「世界は等価交換、ギブ・アンド・テイクで成り立っている」
 この世の真理に迫る探求者のような顔で吉永は言ってくる。
「それに則り、目に見えるはっきりした形を示せば、君はそれに応えるべく何らかの行動を起こすだろうとこの吉永は考えたのだよ」
「だから三つのお願いか……」
 頷く吉永に、俺は複雑な顔をした。
 労働に対する報酬のような、明確な契約の元ではもちろん、情けは人のためならずという諺が示す通り、それは暗黙の了解として存在する。
 だけれどこう、あからさまに言われて実行されてしまうと立つ瀬が無い。まるで俺が吉永に対して何もしていないみたいじゃないか。……じゃあ、具体的に何をしたのかと問われれば、何もしてないとしか答え様がないんだけれど。
 言いたい事はあるけれど、それはただの弁解にしかならないだろうから心で留め、全く別のことを口にする。
「で、吉永は俺に何をして欲しいんだ?」
 情けない台詞だ。およそ恋人に向かって放つ言葉じゃない。俺は朴念仁です、と宣言しているのだから。
「ふふん。そうだな」
 薄い刃のような笑いを閃かせ、吉永はゆっくりと勿体つける。
 どんなお願いをされるのか、奇妙な緊張感で時間が何倍にも引き伸ばされる中、ようやく吉永は願い事を口にした。
「膝枕をさせてもらおう」
「は?」
 出てきたお願いに、俺は思わず間の抜けた声を返した。
「一足飛びな事も考えたのだが、やはり物事は順番に順序良くこなしていくのが重要だろう」
 最終目標をどこに設定しているのか分からないけれど、膝枕が吉永の中ではどのくらいの段階なのか気になるところだ。
「さあ、準備万端だ」
 いつの間にか床にレジャーシートを敷き、そこに吉永は正座してぽんぽんと腿を叩いていた。
 今まで意識したことは無かったけれど、改めて膝枕をしてもらうとなると、途端に恥ずかしくなるのは俺だけだろうか?
「それじゃ失礼して」
 場違いな断りを入れ、吉永の腿に頭を乗せて寝転がる。
 うわ、気持ちいい。
 柔らかくて温かくて、根拠も無く安心してしまう。
「いいものだな」
 俺の前髪を梳きながら、吉永は満足そうな声を出す。
「心地好い重さだ。癖になりそうだよ」
「なあ、吉永」
 嬉しそうな吉永とは反対に、俺はばつの悪い顔で口を開く。
「情けなくて不甲斐ない話だけれど、この際だから言っておく。して欲しいことがあったらはっきり言ってくれ。こんな遠回しなやり方でなくな」
「それはまた殊勝な心掛けだね。君にしては思い切ったことを言うものだ。だが……ふふん。それは遠慮しておくよ」
 底意地の悪い笑みと共に吉永は続ける。
「こういうやり取りがこの吉永は楽しいのだよ。己の感覚を君の感覚へと調整していく。心の在り様を擦り合わせていくという作業がね。そうやってお互いの事を深く知っていきたいのだよ」
 どうだろうか? と瞳にわずかな不安を覗かせる吉永の頬に俺は手を伸ばした。
「好きにすればいいさ。俺が好きなのはそんな吉永なんだから」
 吉永は俺の手に自分のを重ね、子猫が甘えるように頬を掌に押し付けてくる。きめの細かい滑らかな肌が心地いい。
「この吉永は君の期待に応えるべく、この吉永のままでいよう。そしてより好きになってもらえるよう研鑚しよう。期待しているがいい」
「お手柔らかに頼むよ」
 俺と吉永は似た者同士だ。鈍感で不器用で、相手の事を大切に思っているけれど、それをどう伝えればいいのか分からない。模索して迷って。とんちんかんな事をして。
 そうしてゆっくりと、本当にゆっくりと近付いていくのだろう。焦る必要は無い。それが俺と吉永の、最も冴えたやり方なのだから。
 膝枕は気持ちのいいものだ。日曜が晴れだったらピクニックにでも行くとしよう。青空の下ならもっと気持ちいいはずだ。うん、それがいい。
 この名案を吉永に伝えるべく、俺は口を開いた。


16 :日原武仁 :2008/10/01(水) 02:53:52 ID:ocsFWioH

はじめましてのコスプレ 1

 同人誌即売会には大きく分けてふたつある。
 『オールジャンル』と『オンリー』だ。
 『オールジャンル』はその名の通り、全てのジャンルを――人が想像し、空想し、妄想する全てのモノを対象としている。夏と冬に開催される、『コミケ』と略称されるコミックマーケットが一番有名だろう。
 そして、それの対極にあるのが『オンリー』だ。これもまたその名の示す通り、ひとつのモノだけが対象だ。メーカーやゲーム、漫画や小説、アニメ作品はもちろんのこと、ツインテールや眼鏡、妹、スク水、メイド、巫女、百合、ヤンデレ等の属性を扱うのも『オンリー』の特徴と言えるだろう。
 最近では、例えば涼宮ハルヒシリーズの長門のように、人気が高まりすぎるとそのキャラクター一人を中心にしたものが出始めてきた。これがもっと進化すると――同じ作品で申し訳ないのだけれど――涼宮ハルヒの性転換モノであるキョン子のように、二次創作キャラクターを中心に据えたものまで出てくる始末だ。
 このように、『オンリー』はどこまでも、それこそ人の好みが無限にあるのと同様に細分化が進み、「え? こんなのに需要があるの?」とか言うものまである(ちなみに、俺が今までで一番驚いたのは『女装ショタ』)のが最大の強みなのかもしれない。
 運営する側は「イケる!」と思うから企画して開催するのだろうけれど、いやはや、何と言うかそのフロンティアスピリットには頭が下がる。きっと採算とかはあんまり考えてないんだろうなぁ。もしかしたら、あえて考えないようにしているのかもしれないけれど。
 やっぱり、こういうイベントは気楽な参加者側であり続けたいと正直思う。
 とまあ、なんでこんなことを話しているのかと言えば、俺は今日、サークルの会長の手伝いでとあるイベントに参加しているからだ。
 イベントの名前は【戦姫円舞曲ONLY同人誌即売会 “戦姫乱舞”】
 《戦姫円舞曲》はラノベに端を発し、数ヶ月前からコミック化され、来月からはアニメが始まるという、絵に描いたようにメディアミックス展開している作品だ。内容を一言で、身も蓋も無く表してしまえば「格闘武装美少女アクション」なのだけれど、それだけじゃないのはこの盛り上がりが如実に物語っている、というものだ。
「それにしてもものすごい人ですね」
 入場前に見た、一般参加者の長蛇の列を思い出しつつ白い長机に黒い布を被せるように敷きながら、隣りでダンボールを開けている会長に話しかける。
「んー? まあ、一回目だしね。作品人気もさることながら、来てるサークルもなかなかすごいし」
 同人誌即売会のイベントに参加する方法は三通りある。
 ひとつは運営側のスタッフとして。ふたつは同人誌を販売する『サークル』として。そして最後が一般参加者としてだ。
 スタッフは準備から運営・撤収に至るまでの全てを取り仕切る。ちなみに、このスタッフはほとんど無償だ。多くの場合、主催は『戦姫乱舞実行委員会』というように一時的に作られた団体でしかなく、企業の後ろ盾がある訳でも核となるような営利団体がある訳でもない。趣味と言うとさすがに言い過ぎだけれど、ほとんどは遊び心からこういうイベントは成り立っていると言っても過言ではないだろう。分かりやすく言うなら文化祭に近いかもしれない。スタッフのほとんどは半ばボランティアで、「この作品が好き!」という気持ちに突き動かされてやっているのだ。
 『サークル』は同人誌やグッズを売る側のこと。つまり、今日の俺達だ。
 事前に申し込みをし、書類に不備が無く、募集数内(数が多い場合は抽選になる)に入れば『スペース』と呼ばれる販売場所として長机半分のスペースを与えられ、その許可証としてサークル参加証が主催事務局から送られてくる。逆に言えば、これがなければ『サークル』として認められず、サークル入場出来なくなるのだ。
 サークル入場と言うのは与えられた『スペース』の設営と準備なんかのために早く会場に入る事。会場に早く入れる権限がある、と言い換えた方がいいかもしれない。時間帯は開場時間の三時間前から三十分前。今日のイベントは十一時からだから、サークル参加者は八時から十時半の間に会場入りをしないとサークル参加証は無効になり、開場後の入場を余儀なくされる。今回のように列を作っていると否応無く最後尾に回されるので気を付けないといけない。もっとも、よっぽど大規模で厳しい運営で無い限りは遅刻しても中に入れてくれるのが常だけれどな。
 一般参加者は本やグッズを買う事に主眼を置いた人々で、イベント参加者の大半を占める。
 ここで注意してもらいたいのは、イベントはスタッフ、サークル、一般参加者の全員で作るもの、と言うことだ。
 一般参加者の中には、自分達のことを『お客』だと勘違いしてサークルに横柄な態度を取ったりする輩がいるが、これこそ本当に勘違いだ。
 同人活動なんてものは趣味だ。世の中には『同人作家』と呼ばれるように、それを職業としている人もいるけれど、それは本当に一握りでしかない。ほとんどの人は『好きで描いている』のだ。極論を言えば、売りたくない人には売らなくてもいいのだ。そのことを間違えず、しっかりと頭に入れておいて欲しい。イベントに参加する人々に対する、それだけが私の望みです。
「そうですね。カタログ見ましたけれど、そうそうたるものがありましたからね」
 カタログと言うのはサークル一覧や諸注意等がまとめられている冊子で、一般参加者の通行証となる。価格はおおよそ七百円から千円くらい。諸注意が作品キャラの漫画で描かれていたり、サークル参加者やゲストのイラストが載っていたり、そこそこに楽しめる作りをしているのが特徴だ。
「結構な大手も来てますし。みんな姫曲が好きなんですね……っと」
 会長が開けたダンボールから新刊を取り出し、机の上に適当に置く。釣り銭のチェックをしている会長に顔を向け、
「配置はどうします?」
「とりあえず二列対応でお願いね」
「了解しました」
 頷き、本日の販促物を頭の中で整理する。
 新刊の姫曲本に、既刊であるコード・ギアス本、クラナド本、フェイト・ゼロ本、マクロスF本、ストライクウィッチ−ズ本というラインナップ。ちなみに全て全年齢対象の健全本だ。新刊を中心に置き、その両脇に発行日の比較的新しいストパンとマクロス、その後ろに残りと言うのが妥当な陣容だろう。
 配置を決めると、俺は後ろへと振り返る。そこにあるのはダンボールがおよそ十箱。中身は全て売り物である同人誌だ。内訳は新刊五百部に既刊がそれぞれ百前後。会長のサークル〈宵闇迷宮〉が壁サークルとは言え、感覚的に言わせてもらえばオンリーで新刊五百は入れすぎ――搬入しすぎだとは思うけれど、余ったらメッセサンオーやとらのあな、メロンブックスなんかの同人誌委託専門書店に卸せばいいのだから、まあ、問題はないのだろう。
 会場のサークル配置には『壁』と『島』がある。『壁』はその名の通り、会場の四方の壁に沿うように配置されるもので、大手と呼ばれる人気があって、買う人の列が長く伸びるであろうサークルが選ばれる。集客と言う意味で強い力を持つので、『島』よりサークルスペースが若干広く取られていたりするのが違いと言えば違いかもしれない。
 今日の勝利条件は新刊百部にしよう、と勝手に決めながら本を取り出し、机の上に並べていく。
 と、作業をしていると会場がほんの少しざわついた。
 今の時間は十時すぎ。体育館くらいの広さがある会場だけれど、サークル参加者やスタッフでそれなりに賑わっている。作業する音やスタッフの指示の声、または準備が終って雑談しているような様々なざわめき、あるいは無秩序だった雰囲気とも言うべきものがほんの少しだけ、ある一定の方向にまとまったような感じがした。
 何気なく振り向けば、そこにいたのは異形の巫女だ。
 白の上着に朱袴なんだけれど、肩は露出し、腿は剥き出しになっている。黒いハイレグのアンダーウェアの上に上半身だけの肩を見せた白い着物を着、脛を覆うだけの筒状の袴を腰にリボンのような紐で繋いだ格好、と言うのが的確かもしれない。
 それはまさに、作中に出てくる竜宮寺綾瀬が武装した姿に他ならなかった。
 会場の誰もが注目するのがよく分かる。それはあまりにもイメージ通り過ぎなのだ。
「どうした日下部? 何かおかしなところでもあるのかな?」
 不思議そうな顔で綾瀬が――いいや、彼女のコスプレをした吉永が、自分の衣装を眺めながら言ってくる。
 それ自体が光を放ってそうな黒い髪は腰に届くほどに長く、凛々しい若武者のような美人であり、スタイルも素晴らしいと言うのが俺の彼女である吉永京子の外見だ。その容貌はそのまま綾瀬に通じ、現実にいたらまさしくこんな感じなのだろうと思わせるくらいに見事に決まっていた。
「いやいや。おかしいところがあるどころかばっちり似合ってるな」
 素直に思ったことを口にする。と、吉永は顔を綻ばせ、
「ふむ、そうか。この吉永では作中のイメージを壊すのではないかと危惧していたのだが、君がそういうのなら大丈夫だな」
「ほら言ったじゃない。京子ほど綾瀬が似合う人はいないって」
 そんな風に同意を示したのは秋山梨香だ。ショートカットにツリ目気味な強気な美人、とでもいうのだろうか。特定部分の肉付きの薄いスレンダーな身体を包むコスプレは、舞台となる八葉学園の女子制服だ。赤銅色をベースにしたセーラー服なのだが、上半身がボレロのようになっているのが特徴的だ。
「そうだね。人選は間違っていなかったってことさ」
 自信を持っていいよ、と言ってくれたのはふたつ先輩である月山さん。当然、彼女もコスプレをしているのだけど……これもまたひどく似合っていた。
 上条伊織という、中性的な容姿を持つキャラの武装バージョン。胸元のみを覆うアンダーウェアと青いミニパンツ。その上に後ろの部分だけが長い長袖のコートを羽織っており、足元固めるのはごつい黒のブーツだ。
 月山さんもまた、紙面から出てきたと思わせるくらいに素晴らしかった。
 これは当然、着ている人が美人だというのもあるけれど、それより何より衣装の出来が良過ぎるというのも大きな要因だ。そうでなければこれだけの注目は集められない。
 ちなみに、衣装を用意したのはもちろん会長だ。これらは全て、多少の流用はあったもののほとんどを手縫いで仕上げた言うのだから恐れ入る。
 原稿もあったはずなのに、同時進行でこれだけの数と物を完成させてしまうのだから、そのスキルの高さには本当に舌を巻いてしまう。
「更衣室は混んでなかったのか?」
 必要の無くなったダンボールを潰しながら、本を揃えていた吉永に聞いた。
「それなりに人はいたが、動きがとれないというほどではなかったな」
 まあ、そんなものかもしれない。更衣室――本来の用途は会議室か何かだったのだろうけれど――の広さは教室くらいの面積しかないけれど、使っているのはサークル参加者、つまりは売り子しかいない。コスプレして売り子をする人はほとんどいないから、まあ、当然のことだろう。
 どうして売り子に狩り出された俺がそんなことを知っているかと言えば答えはカンタン。俺自身もコスプレをしているからだ。吉永や月山さんのようにいかにもコスプレ! というレベルではなく、ただの男子制服だ。袖のところに白い線が一本入った、短ランタイプの学生服だ。
 最初、俺のコスプレは男キャラの武装姿の予定だったのだけれど……それは俺が拒否をした。……だって恥ずかしいじゃん。今までコスプレなんてしたことはないし、吉永はともかく、ずっと会長に付き合ってた月山さんやコスプレイヤーだった秋山のように慣れてはいないのだ。
 普段着がいいと言う俺と、全員でコスプレして接客したいと言う会長。その間を取ったと言うか、俺が折れたような格好で男子制服を着る事になったのである。
 ちなみに会長のコスプレは有坂琴子の武装バージョン。童話に出てくる魔女が被るようなつば広の帽子に黒マント。その下はミニスカノースリーブの黒地のボディコン……とでも言うのだろうか? 所々に金糸の飾り縫いがあるくらいで、割と地味なデザインではある。琴子はおっとり系のお嬢様キャラなので、ほんわか美人お姉さん的な会長にそれそれはよく似合っていた。ん? 言い方としては逆になるのかな? まあ、いいか。とにかく、キャラを実写化したみたいにそっくりだと言う事さ。
 俺達五人は一緒に会場に着いたのだけれど、比較的着替えに時間のかからない俺と会長が先に着替え、それを待っている間に残りの三人が見本誌の提出やダンボールの確認などをし、俺と会長と入れ替わりに更衣室へと向かうという段取りをとっていたのだ。
「さて、準備はこんなものかしらね」
 会長はパンパンと埃を払うように手を叩きながら首を鳴らした。
 机の上には二列で捌けるように本を配置し、札入や釣り銭の準備もよし。後ろの壁にはサークル名とスペース番号を大きく入れた新刊表紙のB全ポスター、価格表に列の最後尾を示す最後部札と、列を分ける時のための「ここは最後尾ではありません」と書かれた札。そして完成度のメチャクチャ高いコスプレをした五人の売り子。布陣としてはこれ以上ないくらいに完璧だった。
「それじゃ簡単な打ち合わせをしましょうか。まずは吉永ちゃんと秋山ちゃんが売り子。私とツキちゃんと日下部クンはバックヤードで本の補充係。で、場合によっては日下部クンは列整理に回ってもらう。こんな感じでいいかしら?」
 会長の指示に俺達は頷く。
「大変なのは午前中――開始から一時間くらいだと思うから、その間はしっかりね。あ、日下部クンと秋山ちゃんは行きたいサークルとかある?」
 気付いたように会長は言い、俺と秋山を見る。
「あたしは特にありません」
 即答する秋山に対し、俺はサークル一覧を思い出しながら少し考える。あー、そう言えば一ヶ所だけ行きたいところがあったっけ。
「あ、じゃあ、俺――」
 と、切り出そうとした瞬間だ。
「円円(つぶらまどか)さんはいるかな?」
 会長のペンネームを呼ぶ、ちょっとかっこいい系の声が聞こえてきた。
 声をかけてきたのは糊のきいた水色のシャツに、白のスラックスをはいたハンサムな青年だった。いや、おそらくハンサムなのだろう。と言うのも、寝癖こそ無いものの髪はぼさぼさで、目元が隠れてしまっていていまいち容貌が判然としないからだ。ただ、整ったおとがいと形のいい鼻から推測してそう思ったのだ。
 そして何より驚いたのが、彼の両隣には美人のメイドさんがいたことだ。
 一人はスタンダードな長袖ロングスカートのメイド服に身を包んだ、無表情で人形のように綺麗なメイドさん。もう一人は長袖ミニスカの、全身のラインと胸元を強調するようなぴったりしたメイド服を着こなした妖艶な美人メイドさん。
 ……あれ? どうしてだろう……この二人には見覚えがあるぞ……? 何かのコスプレ……にしてはそれこそ普段着、仕事着のように妙に着慣れて馴染んで見えるんだよなぁ……
「あら、桂木先生。お久しぶりです」
 会長は彼に気付くと頭を下げた。ん? 桂木?
「嫌だなぁ、先生は止めてくださいよ。恥ずかしいです」
 後ろ頭を掻きながら青年は苦笑した。
「円さんこそ早くこっちに来ればいいのに。オファーはたくさんあるんでしょう?」
「ええ、ありがたいことに。でも、今は気楽にやろうと思ってますから」
 会長はやんわりと微笑み、机に並べてある新刊を手に取った。
「どうぞ。よろしかったら既刊もお渡ししますけど」
「ありがとうございます。でも、大丈夫ですよ。そこにあるのは全て買わせてもらってます」
 人好きのする微笑を浮かべて青年は受け取ると、背後に控える無表情なメイドさんへと目配せした。メイドさんは頷き、手に下げた無地の紙袋から同人誌を取り出し、彼女の主へと恭しく差し出した。「ありがとう」とお礼を言って青年は受け取り、それをそのまま会長へとスライドさせる。
「うちの新刊です。みなさんでどうぞ」
「ありがたくいただきますわ」
 会長が受け取るのを確認すると、青年は再び口を開いた。
「それじゃ、俺はここで。時間が合ったら食事でもしましょう」
 会釈し、青年はメイドさん二人と共に去って行った。
「会長、今の人って」
 三人が人込みに紛れるまで見送り、確認してから会長に尋ねる。
「ええ。漫画家の桂木桂(かつらぎかつら)さんよ」
 やっぱりだ。描く漫画の全てが当たり、時の漫画家とさえ呼ばれる漫画界の寵児。来期にはあの名作《オン・ユア・マークス》がアニメ化され、それに先駆けてのノベライズ、ドラマCDの販売と、マルチメディア展開していることで話題を集める漫画家だ。ということは……一緒にいたメイドさんは不定期web連載《メイドさんを呼ばないでっ!》のモデルになったメイドさんか……。どうりでどこかで見たような覚えがあった訳だ。
「会長はすごい人と知り合いなんですねぇ……」
 単純に純粋に、憧憬を込めて会長を見ると、会長は小さく苦笑した。
「昔からの知り合いがスゴイ人になっちゃった、てだけよ」
 おねーさんは何もしてないのよん、と、会長は付け足した。
 同人界というのは横の繋がりが意外に強い。基本的に趣味でやっていることだから、同好の士が集まりやすく、仲間意識が芽生えやすいからだ。なかには同じジャンルの大手と仲良くなって、それにまつわる恩恵だけを目当てに近付いてくる輩もいるけれど、その手の人間とは長く付き合えないのが常だ。一方的な利害関係を押し付けられても困るだろう?
「はい。日下部クンの分よん」
 そう言って、会長は俺に何かを差し出してきた。
「あ、すいません」
 反射的に受け取って、それを確認した瞬間――思わず目を見開いてしまった。それはさっき訪れた桂木桂の同人誌――当然新刊で、限定コピー誌付きでおまけのクリアファイル付きでご丁寧にペーパーまである……!
 うわー! うわー! うわー! スッゲーよ、マジで! ちょっと言葉が出ない。このフルセットを揃えられるのって即行で並んだ先着百人くらいしかいなんじゃないか?
 新刊を手に入れるだけなら同人誌を扱ってる書店で十分だろう。値段はイベントより一割二割高くなっているだろうけれど、これが一番堅実で確実な入手方法だ。だけれど、イベントでしか手に入らないものもある。作家本人と――忙しくなければ、だけど――挨拶程度に一言二言の言葉をかわせるのも大きなメリットだけれど、それと並んで限定品というのがある。
 代表例がコピー誌だ。コピー誌はコンビニなんかのコピー機を使って作る、一番簡単な同人誌だ。イベント開始のギリギリまで原稿、並びに製本が出来るというメリットがある代わりに数が作れないというデメリットがある。
 順番が前後してしまったけれど、同人誌には二種類ある。『オフセット』と『コピー』だ。
 オフセット、略してオフセと呼ばれるものは印刷所に依頼して作るものを指す。まがりなりにも業者を通じて作るのだから、その完成度は高いし綺麗に仕上がる。ただ、当然のごとく、製本にかかる日数の関係上、欲しい日――大概はイベント当日だ――から逆算して一週間から十日前までには原稿を完成させて印刷所に届くようにしなければいけないし、店によって様々だけれど、基本的には百部単位の注文数になるので、小さなサークルでは大量の在庫を抱える羽目になったり、小部数だと一冊あたりの単価が割高になったりして完売しても赤字、良くてもトントンということになりかねない。
 その点、コピー誌はオフセのデメリットを全て解消する事が出来る。先にも述べたけれど、原稿作成は当日の朝までというくらいギリギリまで出来るし、コピーなのでコストパフォーマンスの良さは言うまでも無い。部数だって一部から作成可能だ。印刷する紙を変えれば様々なバリエーションが自分の手で好きなように作れるのも強い魅力だろう。
 が、反面。大量生産に適さない。製本の全行程を自ら行わなければならないからだ。刷って折って閉じるという作業を一人で、またはサークル仲間数人でやるとなると、その生産部数も自ずと限界がある。
 最初からコピーで出す人もいれば、本来はオフセで出したかったのに間に合わずにコピーになってしまった、なんかがコピーを選ぶ主な理由だけれど、中には印刷所への入稿が終わり、手が空いて時間があるからコピー誌を作る剛の者いる。
 これを販売に回すところもあれば、本を――主に新刊の場合が多いのだけれど――買ってくれた人におまけとして配布するところもある。買う方にすれば、おまけが付いてくるというのは単純に嬉しいし、イベントならではだから悪い事じゃないと思う。ただ、それをある一定以上の人気がある作家がやると無用な混乱を招く恐れもあるので、何が正しいのか判断がとても難しいし、繊細なところでもあるんだろうけれど。
 まあ、そんな一般論はどうでもいいとして、単純に今日のイベント俺的目玉であるところの桂木桂の新刊フルセットがこうして手に入ったのはとても喜ばしいことだ。
「ああ、そういえば日下部クンは行きたいサークルがあるんだっけ?」
 全員に桂木桂の新刊を配り終えた会長が、思い出したように俺に顔を向けた。
「いえ。その用事はなくなりました」
 俺はさっきの一式を軽く掲げてみせた。
 会長は「そう」と頷き、「良かったわね」と続けた。
「それじゃあ、みんな。そろそろ始まるけど準備はいい?」
 腕時計を見、次いで全員の顔を見回す会長。それに応えて頷く俺達。
 その時だった。ピンポンパンポーン、と放送を告げるチャイムが流れた。
『ただ今より、【戦姫円舞曲ONLY同人誌即売会 “戦姫乱舞”】の舞闘を始めます。それではみなさん――バトルフィールド展開!』
 作中のセリフをもじったアナウンスにそこかしこで笑いが起こり、同人イベントお決まりの開始を祝う拍手へと連鎖する。
 さあ、いっちょやりますか!

 ◆

 甘く見ていた、と言わざるを得ない。今一番の旬であり、最も勢いのある作品の人気を見くびっていた。
 人の波が途切れない。否、会場に入りきらない。考えられない事にカタログは売り切れ、会場一時間と経たずにフリー入場になったイベントなんてほとんどないだろう。会場内は人で溢れ、身動きが思うように取れない状態だ。島中で列が出来てるサークルはきっと大変なことになっているだろう。通行と列整理のスタッフに心からの激励を送る。
「日下部クン、新刊ちょうだい」
 言われ、俺は持っていた新刊の束を会長の前に置いた。
 人の波は俺達のサークルにも当然のことながら影響していた。列が途切れないのだ。開場とともに一気に列が出来、二列対応を三列対応に変更。入りきらない列を会場の外に流すことになった。列整理はスタッフに任せ、売り子は会長、吉永、秋山がやり、俺と月山さんがバックヤードで本の積み出しだ。見る間に本が減っていく様というのはなかなかな爽快な眺めではある。
 ほとんどのお客は新刊を買っていくだけだけれど、当然、既刊を買っていく人だっている。
 注文を聞き、お金を受け取って本を渡す。言うだけなら簡単だけれど、これは慣れないと存外に難しい。しかも、二列の予定を急遽三列にしているので、机上の配置は二列のまま。想定外の真ん中の列を担当する――ちなみに会長だ――人はやりにくいったらないだろう。
 秋山と会長はさすがに慣れているが、吉永は最初、少々ぎこちなかった。だけれど、そこはさすが吉永だ。二十分もすればすっかりコツをつかみ、会長達となんら遜色ないこなし方になっていた。まあ、欲を言えばもう少し笑顔で接客できたら満点なのだけれど、素っ気無い顔もそれはそれで綾瀬っぽくていいのかもしれない。
 本の価格と配置を完全に把握するのは当然の事ながら、合計金額によっては相手の出してくるお金を――札か硬貨かも含めて――予想してお釣りを用意する。簡単なようでなかなか難しい作業をこなすことによって回転率は飛躍的に増す。買いに来る人だって回る所がまだまだあるのだ。手際の良い対応は願ったり叶ったりのはずだしな。
 そんな戦争のような――と言うのはさすがに言い過ぎだけれど、一息吐く暇も無い状態も、さすがに開場後二時間もすればかなり緩和され、列が出来ない程度に人がやってくるようになっていた。
 この時点で既刊の四分の三が無くなり、新刊も三分の二まで減っていた。俺的勝利条件を大幅に上回る大勝利だ。姫曲人気もさることながら、会長の実力にも今更ながら舌を巻いてしまうな。
「日下部クン。一段落したから吉永ちゃんと会場回ってきたら?」
 いらなくなったダンボールを潰していた俺に、会長はペットボトルのお茶に口を付けながらそんなことを言ってくれた。
 確かに、これから先、人の波が押し寄せて列が形成される可能性は低い。対応は売り子一人、ないしは二人で十分だろう。会長達も見て回りたいだろうから、さすがに今から閉場時間いっぱいまで回る訳にはいかないけれど、一時間くらいなら抜けてもいいかもしれない。即売会イベントには過去に何度か来ている俺だけれど、イベントごとに全然違った雰囲気がある。ジャンルが違えば参加者も変わってくるのが当然だから、当たり前と言えば当たり前なんだけれど。
「それじゃ、お言葉に甘えて見て来ます。吉永、行くぞ」
「承知した」
「ゆっくりしてらっしゃ〜い」
 スペースを出て行く俺と吉永の背中に、会長の見送る声が向けられた。



〈無名迷宮〉【http://moonlit21.blog105.fc2.com/


17 :日原武仁 :2008/10/01(水) 02:59:24 ID:ocsFWioH

はじめましてのコスプレ 2

 開場直後に比べれば幾らかマシになったとは言え、それでも会場の混み具合は酷かった。押し分けるように、とは言い過ぎだけれど、人に肩が当たらないように、吉永を人込みから庇いながら気を配って歩かないといけない。しかも着ている服が服だ。普段着ならいざ知らず、借り物のコスプレ衣装だということがそういった気遣いに拍車をかけている。ホント、俺も吉永も角張ったコスプレでなくて良かったと思う。
「ふうむ、これが同人誌即売会と言うものか……」
 興奮したような、感慨深いようなため息を吉永は漏らした。
「情熱に溢れているな。コスプレする者、漫画を書く者、買う者。参加者からスタッフまで一生懸命と言うのか、楽しもうという気持ちや気概が見て取れる。まるで文化祭のようだな」
 言われてみれば、文化祭という例えはまさに言い得て妙だ。ひとつの作品が好きな者同士が集まって、一定のルールの下でわいわいと楽しくやることこそが本来の意味でのイベントなんだと俺は思う。それが最近じゃ、悪い意味での客意識で参加している輩が多いのは全くもって嘆かわしいことだ。
「おおっ! 見てみるがいい、日下部。こんなものがあるぞ」
 草原を走るガゼルのようにはしゃぐ声を出し、吉永は俺の袖を引っ張った。
 彼女の指差す方を見やれば、雨竜修一と綾瀬が抱き合い、親の仇を見るような険しい表情でこちらを見据える構図の、フルカラー表紙の同人誌があった。
 閉じ込められ、満身創痍になりながらも二人で敵を倒して脱出するという、姫曲三巻のワンシーンなのだろう。この回は作中でも名シーンが数多くあり、二次創作でよく取り上げられるモチーフでもある。
 吉永はそれを手に取って中を開く。俺もそれを隣りから覗くようにして見てみた。
 それは原作には無い、完全な創作だった。幕間と幕間を繋ぐとも言うべき移動途中のエピソードだ。
 内容は――ぶっちゃけエロだった。前々から修一のことが好きだった――という設定の――綾瀬が彼に思いを告げ、そのまま肌を重ねるという、ありがちと言えばありがちな話なのだけれど、綾瀬の吐露する心情が本編と上手くリンクさせてあり、あの時の行動はこういう思いからだったのか、と思わず納得してしまうくらいに良く考えて作られていた。画力も荒削りであるけれど勢いがあり、読ませる工夫がされている。
 同人エロはあまり好きではない俺だけれど、これは素直に漫画として面白い。
「すいません。これ下さい」
 売り子の女の人にそう言うと、その人はどこか微妙な表情をした。
「あー、別にそう言うんじゃないですよ?」
 俺の格好は男子制服であり、元となったモデルは雨竜修一だったりする。そして、吉永はそのままズバリの綾瀬のコスプレである。そういう風に、変に想像されてもおかしくないし、不自然ではないけれど……
「あ、すいません……そういうつもりでもないんですけれど……」
 苦笑する俺に、売り子さんはバツの悪い顔をしながら代金である六百円を受け取った。
「これはオマケです」
 そう言って、一緒に並べてあった綾瀬のラミネートカードを付けてくれた。
「すいません。ありがとうございます」
「いえいえ。良かったらそちらの彼女さんにも」
 売り子さんは吉永に、今度は修一のラミカを差し出した。
「これはすまない。では、この吉永も本を頂こう」
 吉永はラミカを受け取り、本の代金を売り子さんに渡す。
「ありがとうございました」
 頭を下げる売り子さんに小さく手を振って俺達は別れた。
「いい買い物だった」
「そうだな」
「それにしても日下部が竜宮寺綾瀬好き――専門用語で言えば綾瀬萌えだったとは知らなかったぞ。ふむ。すると彼女の格好をしているこの吉永にはいつにも増してドキドキしつつ、今までになかったくらいに劣情を催しているという訳か……」
「という訳か……、じゃねーよ。なに分かったように納得した顔で頷いてこっちに期待したような目を向けてるんだよ」
「ふふふ……分かっているとも。この吉永は全て分かっているとも。これをこの吉永の前でわざわざ買ったというのはそういうことなのだろう?」
 さっきの本を俺の前に押し付けるように掲げ、楽しそうで嬉しそうでおかしそうな感慨深いしみじみした表情を向けてくる。
「さあ、善は急げだ。途中で手伝いを放棄して抜けてしまうことになり、会長達には申し訳ないが、事情を話せばきっと必ず分かって頂けることだろう。ふむ、衣装を借りる事も了承してもらわないとな。なに、その辺りの交渉はこの吉永に任せておくがいい。せっかく日下部がやる気になっているのだ。無下なことをする程会長の器は小さくない。万事上手くいく」
 一息にまくしたて、俺を引っ張るようにスペースへ戻ろうとする吉永。
「ちょ、ちょっと待て! お前、何か壮大な勘違いして一人で先走ってないか!?」
 会場の熱気に当てられたのか、いつにも増しての思い込んだら一直線な行動はもはや暴走と言っても過言じゃない。そして引っ張る力が、少しばかり本気にならないと引きづられてしまうくらいに強いのが吉永の本気っぷりを如実に現していてスッゲー恐い。
 思い込んだ時と言うのか、ナチュラルに必死になる時の力は凄まじいな、と頭の隅でぼんやりと思いながら、俺は吉永の誤解を解くための言葉を口にしようとした時だ。
「ちょっといいですか?」
 そんなかわいらしい、女の子女の子した声が俺達にかけられた。
 俺と吉永の息の継ぎ目を狙ったような、絶妙なタイミングの呼びかけに、俺達二人は同時にその方向へ顔を向けた。
 眼前にいたのは武装状態の美水麻衣だった。いや、正確には彼女のコスプレをしているのだけれど、そのあまりの出来のよさに小説から抜け出してきたような錯覚を覚えたのだ。
 麻衣の武装状態は――今更言う必要の無い程周知の事とは思うけれど――簡単に言えば露出の多い鎧武者だ。八十年代ファンタジー風ビキニ鎧の武者バージョン、と言った方がイメージしやすいかもしれない。
 星と三日月を組み合わせた飾りを付けた兜に、肩と胸元と腰周り、二の腕と向こう脛だけに鎧を着けている。色は鮮やかなショッキングピンクだ。
 その衣装を纏う少女もまた可愛らしかった。人目を引くくらい大きな瞳に対し、鼻や口をなんかの全体の作りは小さい。よく言う小顔というやつなのだろう。髪は肩を越えるくらいで、染色してあるのか、麻衣と同じ淡いピンク色だった。
 本当に何から何まで同じだった。こういうのをコスプレの鑑、真のコスプレイヤーと言うのだろうな。
「むむむ……むわわぅ、むむわむわむむ……」
 少女は目を細め、呻きとも唸りとも言えない奇妙な声を漏らしながら、検分するように無遠慮に、その上俺達の周囲を回りながら眺めてくる。
 初対面の相手に、それこそ何かのサンプルや実験動物を見るように子細に見つめられるのは気分の良いものじゃない。さすがにちょっとイラッときた俺は、注意しようと口を開く。
「ちょっと、君な……」
「すっごいですぅっ!」
 いきなり少女は俺達の正面に回り、胸の前で祈るように手を合わせると、きらきらした瞳を向けてきた。
「おにーさんもおねーさんも! きっと名のあるコスプレイヤーの方ですよね!?」
 は? この子は一体何を言い出すんだ?
「綾瀬と修一のこの衣装。布地から縫製まで本当によく出来ています。学生服は本当に学生服ですし、綾瀬の服も一見すると綿ですけど、型崩れしない工夫とか、場所によって布を変えたり縫い方を変えたりして……はぁー、ため息が出るような完成度です!」
 はぁうぅー……、と本当にため息をつきながら一息でそう言って、次いで少し眉を曇らせた。
「でも、ちょっと残念です。おねーさんの綾瀬は頭の先から爪先まで完璧で、『パーフェクトだ、ウォルター』なんですけど、おにーさんのその頭……髪型はいいんですけど、脱色して茶髪にすれば完全だったのに……」
 なぜか悔しそうな少女だった。
 確かに、修一は派手じゃないくらいに脱色した茶髪だ。このコスプレをする前に会長から「ちょっと髪の色、抜いてきてくれる?」と消しゴム貸して、くらいな気軽さで言われたのだけれど、それはさすがに断った。たかだかコスプレに、もっと言えば手伝いのためにそこまでするのは何か違う気がしたからだ。会長もその事を分かっているのか、それ以上は何も言ってこなかったしな。だけれど。ここまで完璧な、原作のイメージ通りのものに仕上げてくれていたのなら、事前にこれを見せてくれていたのなら、俺も少しは似せようと努力したのになぁ。
「でもでも! それを差し引いても類稀なる似合いっぷりなのは変わりません!」
 身体の前で手をブンブンと振りながら、少女はフォローのように言ってくる。ちなみに、作中で修一の外見がどのように描写されているかいうと、『中肉中背に短い茶髪。彫りの濃い整った顔立ちではあるがどこか物憂げというか、眠たそうな目元が見る者に妙に年寄り臭い印象を与えていた。』(一巻より抜粋)だ。……何と言うか、素直に喜べない俺だった。
「お名前を伺ってもいいですか?」
 唐突に少女はそう言った。
「きっとお二人とも名のあるレイヤーに違いありません。まひるもこの道に入って三年目で、それなりにならしてきたつもりですけど、まだまだ世界は広いですね!」
 ニコニコキラキラした瞳を向けてくる少女――まひるちゃんと言うらしい――だった。
 むぅ、これはどうしたものか。俺と吉永は名のあるどころか、今回初めてコスプレをしたただの素人だ。会長の用意した衣装と、キャラ選択と、コーディネイト(?)がきれいに決まり、たまたま結果として大はまりしたに過ぎない。言ってしまえば全て会長のおかげであり、俺達が堂々と言えることは何も無いのだ。あたかも自分の手柄のように言うのはおこがましいし、それを笠に着て名乗ることなんてもっての他だ。
 そんな事情を話したところで詮の無い事でもあるのだけれど……ここはやっぱり正直に話すしかないのもまた事実だ。
「あー、何か申し訳ないんだがな」
 頬を掻きつつ、サンタを信じる子供の期待を裏切るような罪悪感を感じながら、俺は言いにくそうに口を開いた。
「俺達は今日初めてコスプレしたんだよ。この衣装は全て会……知り合いのものなんだ」
「あや? そうだったんですか? 早とちりしてすいませんでした」
 少女はきょとんとした顔で目を丸くし、小さく頭を下げた。
「むむぅ、それにしてもその知り合いの人はスゴイです。縫製スキルもさることながら、着る人に何が一番似合うかを見抜く目を持っているんですから」
 確かに、会長の保持するスキルの多さと性能の高さは誰もが認める折り紙付きだ。
 おそらくは自慢し、誇ってもいいことであるはずなのに、会長は褒められたりすると、
「おねーさんは出来る事しかやってないし、出来てないわよん」
 決まってそう言ってはにかむように照れたように笑うのだ。才能や能力があったのも確かだろう。けれど、それだけじゃ済ませない、片付けられない努力があったのは間違いない。
「ああ、色々な意味でスゴイ人だよ」
 性格や思考の方向性のことを思いながら、俺は思わず微苦笑した。
「ふーん……」
 少女はどこか意味ありげな、意地悪風味な視線を向けてくる。我が子を見守る母親と言うのか、少しばかり興味を持ったおもちゃを見る子供と言うのか、何にでも恋愛沙汰に結び付けたがる多感な少女と言うのか。そんな生温かいとも表現出来るものを瞳がまとったのはほんの一瞬だ。
 次の瞬間、少女はさも名案を思い付いたように顔の前でパチンと音高く手を打った。
「一緒に写真を撮りましょう!」
「写真?」
「まひるの願望を言わせてもらえば、三人でユニットを組んでレイヤーの頂点を目指したいんですけど、お話を聞いた印象ではこれから先、お二人がコスプレすることはもう無いかもしれませんでしょう?」
 まひるちゃんの言う通りかもしれない。今回は会長に頼まれた事もあるけれど、俺の大好きな姫曲だったから承諾した方が理由としては大きい。コスプレに目覚めてしまうような劇的な何かが無い限りは、自ら進んで望んでコスプレする事はおそらくないだろう。
 そういう意味で、まひるちゃんの洞察は的を射ている。だから俺は、素直に首を縦に振った。
「まあ、そうだろうね」
「だったらそのお姿を写真に残して後世に語り継ぎたいです!」
 胸の前で両拳を握り締め、目を輝かせて言ってくる。
 後世に語り継ぐ云々は別にして、写真を撮るくらいは別に構わない。実を言えば、俺も後で写真を撮っておこうと思っていたところだしな。
 それにしてもこの子、一生懸命と言うか、言動にしても行動にしても、コスプレが好きなんです! という思いが感じられて素直に好感を持ってしまう。元々が人見知りしない人懐っこい性格なのもあるんだろうけれど……うん、きっと妹がいたらきっとこんな感じなのかもしれない。
「せっかくの記念だしな。吉永、構わないよな?」
「無論だとも。これでまたひとつ君との思い出が形として残るのだからな。この吉永としても願ったり叶ったりだ」
「俺達はオッケーだけど。どこで写真を撮るんだい? 一度外に出るとか?」
 顔をまひるちゃんに戻し、訊く。
「向こうのステージ近辺にレイヤーが集まるところがあるんですよ。まひるの友達もいますから、みんなで一緒に撮りましょう!」
 元気にそう言い、俺と吉永の手を引いた。と、彼女ははっと何かを思い出したような顔をする。
「ととと。自己紹介がまだでした」
 まひるちゃんはそう言い、腰のポーチ――これも上手く衣装に隠れるように作ってあって、全体のラインが崩れないようにしてあるのはさすがだ――から四角い紙片を取り出し、一緒に出したペンで何やら書き込んでから俺と吉永に差し出した。
 それは名刺だった。淡い水色の紙に、おそらくは自分で描いたらしい自画像(何気に上手い)、名前、HPアドレス、メールアドレスが印刷してある。
 『竜崎まひる』。これが彼女のフルネームらしい。
「裏にまひるのケータイも書いておきました。コスプレについて何か困ったことがあったら気軽に連絡下さいね」
 裏っ返してみれば、丸みを帯びてはいるけれど、意外にキレイな文字で携帯電話の番号が書いてある。
「いいのかい? こんな簡単に番号を教えちゃって」
 気にし過ぎかもしれないけれど、初対面の相手に番号を教えるのは少しばかりマズイんじゃないだろうか。個人情報を悪用するつもりは毛頭無いけれど、色々と面倒な事になりかねない。
「まひるだってバカじゃないですから、誰彼構わずに教える訳じゃありません。気に入った人……って言うと失礼かもしれませんけど、信用出来ると思った人だけです」
 なるほど、俺と吉永はまひるちゃんのお眼鏡に適ったということか。なら、ここは素直に受け取っておくことにしよう。
「改めて、と言うのも変かもしれないけれど。俺は日下部仁志。で、彼女が」
「吉永京子と言う」
「竜崎まひるです。幾久しく、よろしくお願いします」
 ごく簡単に自己紹介し、小さく頭を下げ合う俺達。コスプレを通して知り合いが出来るというのもイベントならではだな。
「ではでは早速行きましょう。まひるの仲間を紹介します!」
 まひるちゃんは再び俺達の手を取って、引っ張るように先導して歩いて行く。間に彼女を挟む格好で、俺と吉永はステージへと向かうのだった。

 ◆

 周りの人間全てが姫曲のコスプレをしている光景というのは、ある意味圧巻だった。主人公から悪役まで、メインキャラからサブキャラまで、その割合に偏りはあるものの、ほぼ全てのキャラクターがそこに揃っていた。
 彼らを見て初めて実感したのだけれど、俺達三人の完成度は段違いだった。俺は全然の素人だから詳しい事や専門的な事は分からないけれど、逆に言えば、素人の俺から見ても分かるくらいに差は歴然としていた。縫製の仕方とか、サイズが合ってないとか、材質の違いなんかもあるのだろうけれど、それよりも何よりも、俺が感じた素直な印象は『衣装に着られている』だった。似合ってない……とは言い過ぎかもしれないけれど、やっぱりキャラに合っていないのだ。
 もっとも、二次元キャラの衣装なんてものは往々にして非現実この上無いものだから、それに三次元の俺達に似合え、というのが無理難題であるのだろうし、彼らの大半は趣味でやっているのだ。単純に好きなキャラの格好をしたいというだけなんだろうから、まひるちゃんのように「人生かけてます!」みたいな意気込みの人間と出来が違っても当然だ。
 だけれど、俺と吉永の衣装は借り物だ。コーディネイトも着付けも、全て会長によるものだ。俺と吉永は衣装作りに少しも参加していない。そういう意味で俺と吉永は彼らと同じ土俵に立っていない。まさに、他人の廻しで相撲をとっている。引け目とか負い目なんて大袈裟なものじゃないけれど、褒められたり賞賛されるとほんの少し、わずかに罪悪感が胸を刺す。
 そんな思いが顔に出たのか、気付くとまひるちゃんが心配そうな顔で俺を覗き込んでいた。
「仁志さん、疲れちゃいましたか? 慣れないことばかりですもんね。少し休みます?」
 気遣わしげに言ってくれるまひるちゃんに、俺は首を横に振った。
「いや、そうじゃないんだけど……ちょっと、ね」
 言おうか言うまいか、少し逡巡したけれど、結局俺はさっきまで思っていた事をかいつまんで話す事にした。
 話を聞き終わると、まひるちゃんは俺の頭を優しく撫でてくれた。俺と頭ひとつ分くらい身長さがあるために、若干爪先立ちで背伸びをするまひるちゃんだ。
「仁志さんは真面目です」
 まひるちゃんは柔らかく微笑んだ。
「きっと何でも真剣に考えてしまう人なんですね。でも大丈夫です。ここのみんなはそんなこと気にしてません。人間のやることですから、作り上げたものや出来上がったものに上手い下手はあります。でも、そんなの関係無いんです。みんな好きだからやってるんですもん。作るのも着るのも見るのも。全部ひっくるめて楽しいんです。あ、でも、なかにはいますよ? 自分の出来具合や完成度の高さを鼻にかけて自慢する人も。でも、そういう人はすぐに相手にされなくなっちゃいます。どんなに衣装や見映えがよくても結局は人間なんですから。ネットに写真をアップするだけならそれで十分でしょうけど、こういう場でのコミュニケーションも重要なんです」
 まひるちゃんの表情に、何かを悔恨するような、後悔するような自嘲めいた苦笑が混じる。まひるちゃんは三年くらいコスプレをしていると言っていた。その間に何かがあったことは想像に難くない。気になりはしたが、さすがにズカズカと訊く訳にもいかない。この後も縁があったなら、いつの日かそういうことも話し合えるようになりたいな、と素直に思う。そう思うくらいにまひるちゃんはいい子で魅力的だということで、俺が決して浮気性という訳では決してないのでそのつもりで。
「それにですね」
 憂えるような表情は一瞬で、次の瞬間にははにかむような、それでいていたずら小僧のような笑顔がそこにあった。
「衣装も大事なんですけど、やっぱり着る人が重要なんです。外見が完璧でも、中の人ががっかりだったりすると半減どころかマイナスになっちゃうとまひるは思います。コスプレの世界に『馬子にも衣装』という言葉は存在しないんですから」
 そう言うと、まひるちゃんはいきなり俺に抱きついてきた。
 露出の高い衣装からも分かる通り、まひるちゃんのスタイルはかなりいい。そんな訳だから、布地越しにもその柔らかさが十分に伝わってきたり、なんとなく甘い香りがしてきたりして、それだけで目を白黒させてしまう俺はきっと、情けない部類のチキンな男です。
 動揺のあまりに言葉が出せない俺にも、周りが見ていることにも構わず、まひるちゃんは俺の胸に頬をすり寄せるように身体をますますくっつけてくる。
「んー、やっぱりまひるの人を見る目は確かなようでした。仁志さんとこれからもずっと一緒にいたいなぁ……」
 母親に甘える子供のような顔で、聞き様と受け取り方のよってはとてつもない誤解をしてしまいそうな事を言うまひるちゃんだ。
 懐かれたというのか、信用されているというのか。それをダイレクトな行動で示してくれるのはとても嬉しいんだけれど、周りの視線が痛かったり、好奇心に満ちていたり、殺気立っているのもあったりで、一言で言えばちょっと逃げ出したい心境な状況だ。
「まひる。そこまでにしておくことだ」
 不機嫌にイライラをまぶした声で割って入ってきたのは吉永だった。そして声だけに留まらず、俺とまひるちゃんを手でこじ開けるように物理的に引き剥がし、俺をガードするように間に身体を割り込ませる。
「これはこういう男だからな。お前が気に入るのも十分に分かる。それが正常な反応だと言えよう。そしてお前の人を見る目の高さと確かさもたいしたものだと称賛しておく。だが、これはもうすでに吉永のものだ。それを絶対的な大前提として肝に銘じてからこれとの接し方を考え、行動するがいい」
 口調は普段の吉永と変わりのない平坦なものだ。だが、その言葉の底には明らかな敵意と言うか、威嚇が盛り込まれていた。
 嫉妬してくれるのは――不謹慎かもしれないけれど――、とても嬉しい。けど……俺ってば『これ』扱いなんだ……
「分かりました。では、それを踏まえた上でまひるは仁志さんの二号さんということにしましょう」 
「うむ。それならば問題無い」
「問題大アリだっての。なに本人無視して話進めてるんだよ」
 さも名案であるかのように手を叩きながら言うまひるちゃんと、大仰に頷く吉永の二人に俺はため息まじりにそう言った。
「まあ、吉永は今に始まったことじゃないからとやかく言わないけれど。まひるちゃんもこんな吉永に合わせなくてもいいから」
「こんなとは失礼な事を言うものだな。この吉永は所有権と占有権、並びに優先権を主張し、相互の理解と納得を得た上で今後のお互いの行動指針を話し合った末に合意に至ったのだ。批難される覚えはない」
「そうですよ。京子さんが本妻でまひるが二号さん。これで決まりです」
 まるで自分達の言い分が正しいように、どこか批難混じりの表情でもって二人は言ってくる。
 俺は一度、深く嘆息すると、少しばかり腰を落としてまひるちゃんの目の高さに自分の視線を合わせ、彼女の顔を真正面から見つめた。
「まひるちゃんのノリの良さと言うか、空気を読んだ行動が出来るという事はよく分かったよ。でも、だからって吉永にそこまで合わせる必要は無いさ。まひるちゃんは可愛いんだから、無防備にそんな事言われたら俺が本気にするでしょ?」
「むー、まひるは本気なんですけどぉ……」
 若干頬を膨らませ、不満気に不機嫌そうな顔をするまひるちゃん。やっぱりまひるちゃんは付き合いがいい。吉永の事を慮ってまだそういう方針を貫いているのだから。
 もう少し言葉を重ねようと口を開きかけた時だ。

『生き残りたい 途方にくれて キラリ、枯れてゆぅくぅ〜 本気の身体 見せぇ〜つけるぅ〜まで わた〜し ね、む、らないぃ〜』

 と、メールの着信を告げる歌がポケットから響いた。余談だけれど、電話の着メロは《ノーザンクロス》。なぜなら俺はシェリル派だからだ。
 ケータイを取り出して内容を確認する。会長からのメールで、新刊が売り切れた(!)からそろそろ撤収するわよん、というものだった。
 閉場まであと一時間くらいあるけれど、一通り回ったし、帰りのラッシュの事を考えれば引き上げるにはいい時間かもしれない。
「吉永。会長が帰ってこいとさ」
 顔を向け、メールの内容を伝える。吉永は「了解した」と頷いた。
「それじゃね、まひるちゃん。俺達は帰らないといけないんだ。色々ありがとう、楽しかったよ」
 まひるちゃんに別れを告げる。まひるちゃんは寂しそうで残念そうな顔をする。う……、何と言うか、変な罪悪感が胸に湧き上がってくるのはどうしてだろう。
「むー、そうですかぁ……うぅー、仕方ないです。じゃあ、最後にみんなで写真を撮りましょう。あと、出来た写真を送るためのメアドも教えて下さい」
「ああ、了解」
 ペンと一緒に差し出されたメモ帳に、俺は普段使っているフリーメールを書く。まひるちゃんはそれを丁寧に、まるで宝物の扱うようにしてポーチにしまうとニカッと微笑んだ。
「お二人方とも時間が無いようですし、ちゃっちゃっと撮っちゃいましょう!」
 その声を合図にするように、そこでコスプレをしていた全員の集合写真を撮ったり、ペアで撮られたり、グループで撮られたり、個人で撮られたりと何枚撮られたか不明だが、おおよそ十分間、俺と吉永は被写体としてレンズを向けられたのだった。

 ◆

 明けて次の日、月曜日。
 午前中の講義を終えた俺は一コマ目の終わりに買っておいた昼食を持って部室の扉を開け――中にいた人を見てわずかに眉をひそめた。
 パイプ椅子に座っていたのは二人。一人は会長で、もう一人は見慣れない小柄でショートカットの女の子だった。
「日下部クン。待ってたわよん」
 微妙な不自然さと言うか、若干の違和感を覚えてしまう程度の猫ナデ声未満を声にまぶしながら会長は俺の方へと歩いてくる。
 俺の視界を防ぐような立ち位置と、変に笑いを噛み殺している会長に嫌な予感を脳裏に感じながらではあるけれど、俺はとりあえず彼女の事を訊いてみた。
「あの子は誰です? 入部希望ですか?」
「まあ、入部希望と言えば……そうかもしれないわねぇ……?」
 明らかに言葉を濁す会長。次いで、ほんわかお姉ちゃんな造作の顔に浮かぶニヤニヤがグッと深くなる。
 ヤバイ! これは罠だ!
 俺は瞬時に判断し、一歩後ろに後ずさる。が、遅かった。足を踏み出したその時にはもう身体を押さえられていた。――そう、会長の背後から死角をついて現れた少女に!
「むふー。また会えましたね、仁志さん!」
 俺を抱きしめる少女が胸元に頬をこすりつけながら甘えた声で言ってくる。……え? この聞き覚えのある声はもしかして……?
「ま、まひるちゃん!?」
「はい! 昨日ぶりですね、仁志さん」
 まひるちゃんはぴょこんと俺から離れると、語尾にハートマークが付いていそうな弾んだ声で元気に微笑んだ。
 髪こそ短いものの、目が大きくて全体的に造りの小さい整った顔立ちは紛れも無くまひるちゃんだ。昨日のピンク色で肩まで届く髪は自毛を染色したのではなく、ウィッグだったってことか……。はー、最近のものはよく出来ているもんだ。
 いやいや、そんなことよりも!
 まず疑問に思う事はどうしてまひるちゃんがここにいるのか、ということだ。
「まひるがここにいるのは全部円さんのおかげなんですよ」
 俺の驚きと疑問を見て取ったのか、まひるちゃんはそう言った。
「んふふん。タネを明かせばね? おねーさんと竜崎ちゃんはちょっとした知り合いだったのよん」
 なぜだか得意げに、会長は豊かな胸を張りながら説明してくれた。
 話を聞けば、それはたいしたことじゃない。
 会長はネット巡回中、まひるちゃんのブログ――《まひるのストロベリー・コスプレ・ストーリー》というらしい――で知り合いの写真を見つけた。もちろん、俺と吉永だ。それは半ば特集のように組まれ、どの写真もベタ褒めで、締め括りには「また会いたいなぁ」と書かれてあったという。共通の趣味の世界を持つ二人は、元々チャットで話したり、メールのやり取りをしたり、イベントで時間に余裕があれば挨拶をするくらいの仲であるために、会長はすぐにまひるちゃんに連絡し、今日のこの状態をセッティングした、ということらしい。
「まさか円さんのお知り合いの方だったなんて驚きました。でも、そうならあのトータルでの完成度の高さも納得できますよ」
 そんなことを言うまひるちゃんだった。
「まひるちゃんってうちの大学……どころか高校生だよね? 今日、学校とかはいいの?」
 ようやく気持ちが落ち着いてきた俺は疑問に思ったことを口にした。学校なんて一日二日休んだところで授業や成績なんかに影響はないだろうけれど、平日に私服で家を出るならそれなりの理由がなければ親御さんは許さないだろう。よっぽどの放任主義か、特殊な家庭環境を除けばだけれど。
「それなら大丈夫ですよ。まひるの学校は今日、創立記念日でお休みですから」
「あ、そうなんだ」
「はい。ですから今日一日、ずっと仁志さんといられます!」
 いや、いられます! って両拳を握り締めて気合を入れられてもなぁ……
 今日はバイトも入ってないし、午後一の三コマ目の講義が終れば完全にフリーになるんだけれど。……あ、まさか会長――そこまで計算に入れていたのか……? どこまで用意周到なんだよこの人は……
「慕われているわね、日下部クン?」
 喉元まで出かかった笑いを堪えるようにして会長が言ってくる。
 マズイ。この状況は非常にマズイ気がする。何がどうと具体的には上手く言えないけれど、ここでのまひるちゃんの登場は予想外に過ぎる。まひるちゃんの行動力は尊敬に価するし、慕ってくれて訪ねてきてくれたことは素直に嬉しい。一緒に食事したり、街をぶらついたり、カラオケなんかに行くのもやぶさかじゃない。だけれど。それは、何と言うか……
 そんな葛藤と言うか逡巡と言うか。どこぞの血の黒い魔剣士風に言うなら「どう接すればいいのか分からないよぉ」状態になっていると、不意に背後のドアが小さな音をたてて開き、
「おや? まひるではないか」
 珍しいものを見るような声を出しながら入ってきたのは吉永だった。
「京子さん。昨日はお疲れ様でした」
 吉永に気付くと、まひるちゃんは挨拶をして頭を下げた。
「あ、あのな。吉永。これは……」
 とりあえず、吉永が変な誤解を起こす前に現状の説明をしようと吉永の顔を見る。だが、それから先の言葉に詰まってしまう。――吉永の綺麗な黒い瞳から涙がこぼれていたからだ。
「よ、吉永……」
「……すまない。少し感動してしまってな」
「感動?」
 戸惑う俺に、吉永は目尻を拭いながら言葉を続ける。
「まひるにだ。昨日会ったばかりの人間を追ってここまで辿り着いた調査力に、行動力に、幸運に。そして何よりもまひるの想いにだ。きっと生半可な事ではなかっただろう。それにも関わらずまひるは君に会いたいという一心でここに来た。これを感動せずに何を感動すると言うのだ?」
 会長とまひるちゃんから経緯を聞く限りでは、まひるちゃんがここにいるのは全くの偶然で、そういう意味では感動するレベルの幸運の持ち主なのかもしれないけれどさ……
「よし、まひるよ。これから遊びに行こうではないか。時間はあるのだろう?」
「はい、もちろんです!」
 やったー! と諸手をあげて喜ぶまひるちゃん。へぇー、吉永が俺以外の誰かを遊びに誘うところなんて初めて見た。よっぽどまひるちゃんの事を気に入ったんだなぁ……て、ん? 吉永のやつ、今からって言ったか?
「あー、吉永? 知ってると思うが、俺には三コマ目に講義があるんだが……」
 まずはファミレスで食事をして、それからカラオケに行こう等と、まひるちゃんと本日の計画を練っている吉永に俺は声をかけ――
「あ、でも京子さん。お二人のこれからのご予定は大丈夫なんですか? 午後から講義とかあったりしません?」
 お、まひるちゃん。いいところに気が付いた。そうなんだよ、俺には講義が入っててだね……いや、遊びたくない訳じゃないよ? ただ、昼休みと講義の間――今から二時間半くらい待っててもらいたいだけで……
「気にすることはない。この吉永の講義は午前で終わりだ。日下部だってそうだ。もし仮に講義が入っていたとしても、わざわざまひるが訪ねてきてくれているのだ。しかも日下部の事を慕ってだぞ? そんな健気なまひると講義。どちらを優先するかなど聞くまでもないことだ。なあ、日下部?」
 そうだろう? と言いたげな、全てを見透かす傲慢な王女のような顔で俺を見やる。
 くっ……! 痛いところを――いいところを突いてくる。そんなふうに言われたら、俺の言うべき答えは決まっちゃうじゃないか。
 さすが吉永。俺の操作の仕方を、誘導の仕方をよく知っていやがるぜ。
「……ま、そうだな」
 俺は降参だとでも言うように、小さなため息をひとつ吐く。少しばかり癪ではあるけれど、吉永の計略に乗ってやるとしよう。これも男の甲斐性さ。
「心配しなくてもいいよ、まひるちゃん。俺もこれからの予定は入ってないからさ。まひるちゃんの時間が許す限り遊べるよ」
 俺を気遣うように、整った眉を不安げに心配そうに歪めるまひるちゃんに、俺は安心させるようにそう言った。
「本当ですか! わあ、まひる感動です!」
 わーいわーい、と飛び跳ねて、身体全部をいっぱいに使って喜びを表すまひるちゃん。そうまでして喜ばれると、講義のひとつやふたつや三つや四つくらいサボったってどうってこと無いって気になってくる。
「時間が惜しい。早速出掛けるとしよう」
 吉永は言い、会長へと頭を下げた。
「勝手な事で申し訳ありませんが、これで失礼させて頂きます」
「はーい。三人で思いっきり楽しんできなさいな」
 優しく微笑み、手を振る会長に俺はふと、小さな違和感を覚えた。いや、違和感というほど大袈裟なものではなく、ちょっとした引っ掛かりと言うべきか……?
「会長。良かったら俺達と一緒に来ませんか?」
 声をかけてみる。それに吉永が、
「おお、それはいいアイディアだ。浮かれ過ぎて失念していた事が情けない」
 自分の迂闊さを後悔しながら賛同し、
「はい。ぜひ、そうしましょう!」
 元気にまひるちゃんが頷いた。
「ありがと。でも、ごめんなさいね。これからツキちゃんと行く所があるから」
 心底すまなそうな顔で手を合わせる会長だった。
「あ、いえ。予定があるなら仕方ないですし。それじゃ、俺達はこれで」
「失礼します」
「また連絡しますね」
 小さく頭を下げる俺に、それぞれ吉永とまひるちゃんが続いた。
 気のせい……だったのかな? なんとなく会長が寂しそうな目をしていたと思ったんだけれど……。会長のことだ。もしかしたら気を遣ってくれたのかもしれないな。
「とりあえずカフェ・ガルガンチュアでメシでも食って、それからカラオケにでも行くとするか」
「日下部にしては平凡で無難な選択ではあるが、まあ、順当なところだ」
「お二人が一緒なら、まひるにとってはどこでも天国です! むふー、幸せ過ぎます!」
 そんなことを話しながら俺達は部室を後にした。
 さあ、今日はめいっぱいに遊ぶとしよう。  



〈無名迷宮〉【http://moonlit21.blog105.fc2.com/


18 :日原武仁 :2009/02/23(月) 04:43:38 ID:ocsFWiti

バレンタイン・ラプソディ

 日本のバレンタインデーは取りも直さず、お菓子業界の策略なのは周知の事実であるけれど、それでもやっぱり気になる相手に自分の気持ちを伝える機会と手段を提供したという事実は評価してもいいと思う。
 もっとも、それは相手がいる人や人気者と呼ばれる人達に限ったことで、俺のように箸にも棒にもかからない十把一からげの人間からすれば、蚊帳の外も甚だしいイベントである。漫画や小説にあるような、甘酸っぱくもドキドキワクワクするようなバレンタインの思い出なんてものは無く、ふたつ下の幼馴染みから急所を的確に狙う正拳突きと一緒にチョコを渡されるという恒例行事があるのがせいぜいだ。
 だけれど、今年は少し事情が違う。環境が違う。状況が違う。
 今の俺には吉永京子という付き合っている彼女がいるのだ。なんだかんだとイベントを押さえてくる吉永が、このバレンタインデーをどうしてくるのか、俺としては非常に興味がある。
 くれるくれないは問題じゃない。吉永がどういう風に考え、どういう意図でもって、どういう行動を起こすのか。それが一番の関心事だ。世間一般とズレた楽しみ方であるのは百も承知だけど、とにかく俺はそういう意味で期待をしていたりする。
 バレンタインデーの吉永は、いつものように斜め上を行くビックリ箱となるのか。はたまた良い意味でも悪い意味でもパンドラの箱になってしまうのか。そんな、何かの予兆を見逃すまいと、ここ一週間ばかりはいつにもないくらいに真剣に注意深く、それでいて吉永に気付かれ悟られない様に見てきたのだけど、今の所はこれといった変化も発見も無い。当日までのお楽しみか、とそんなことを思い始めたバレンタインデーの前日である十三日の今日。不意に吉永はこんなことを言ってきた。
「日下部。君は明日、どんなチョコをもらいたいのかな?」
 俺達二人が所属するサークル、文芸研究会の部室で向き合って座り、やたらと分厚いことで有名なライトノベルを読んでいた俺はそんな吉永の声に顔を上げた。
 吉永はポッキーの袋を開け、その中の一本を口へと運びながら俺を見ている。
 これは少し意外な展開だ。まさかド直球に飾ることなく、真っ正面から訊いてくるとは思わなかった。欲しい物を本人に訊くのは一番確かな方法だけど、こういう場合はちょっとアレではなかろうか? 
 まあ、それはそれとして、ここで俺が欲しいチョコを伝えるのは簡単だ。だけど、それを言ってしまっては俺的な吉永風バレンタインデーの楽しみが大きく減じてしまう。それは望むべきところでは全く無いので、回避するために俺は軽く驚いて、そして少し心配げな顔をしてこう言った。
「意外だな。吉永がそんなことを訊いてくるなんて。何か変なものでも食べたのか?」
「そんなことある訳ないだろう。この吉永は健康と体調、ならびにプロポーション管理には万全を期している。君がいつ劣情を催し、常軌を逸したものを求められても受け入れる覚悟と共に」
「そんな覚悟は仕舞っておきなさい」
 真顔で言ってくる吉永に、俺はため息を返した。
「まあ、本気は置いておくとしても、少々思い悩んでいるのだよ」
 本気なのかよ!? とツッコミを入れたいのをぐっと堪え、目でもって先を促す。
「君に贈るのだからな。君が喜び、十分に満足するものを選びたい。そのためにこの吉永は二月に入ってからずっと考えていたのだが……どうも思い付くものにピンとこないしパッとしない。期日の迫った今、いっそのこと君に選んでもらったほうがいいかと思ってな」
 反則かもしれないがね、と吉永は口の端にポッキーを咥え、腕を組んで少しばかり忌々しそうにそう付け加えた。
「ちなみに、吉永はどんなものを考えたんだ?」
「ふむ。少し待ちたまえ」
 参考とするために尋ねると、吉永は鞄の中からルーズリーフを一枚取り出し、近くにあったボールペンで素早く書き込むとそれを俺へと差し出した。
 達筆な文字で書かれたリストに目を通し――絶句する。
 なん……だと……? 吉永は……これを本当にバレンタインのチョコにするつもりだったのか……?
「見て分かると思うが、上から順がこの吉永の勧める順番だ。君の趣向を十分に考慮したつもりだが……どうだろう」
 引くようで驚くような俺に、ポッキーをカリカリと削るように食べながら吉永はさらりと言ってくる。
 ……前々から思っていたことだけど、やはり吉永とは一度きっちりと話をする必要がありそうだ。これらを本気で俺の趣味だと思っているのなら。

 @ この吉永の裸体に直接チョコレートをデコレーションする。   
   *補足:デコレーションする(垂らす)役目を君にすることも可。あまり熱くしないでもらえるとありがたい。

 A この吉永を原型とした複製チョコ。部位は君の好みで。
   *補足:君が型を取る役を負うのも可。全身像は難しいかもしれない。

 B この吉永の六分の一スケールのチョコレート製フィギュア。
   *補足:製作のために一ヶ月ほど期間が必要となる。衣装は君の趣味で。

「全て却下だ」
 吉永のバレンタインチョコ案に対し、嘆息で応えると静かに吉永へとリストを押し返した。
「気に入らなかったかね」
 少しばかりの落胆と、やっぱりなという納得のない交ざった表情で吉永はリストを受け取った。
「俺の趣味を多分に誤解しているのもあるけど、吉永は奇をてらい過ぎだ。もっと普通にしてくれ」
「この吉永はもっと君に好きになってもらいたいし、この吉永の君を好きだという気持ちをもっと君に伝えたい。あまりに普通すぎるとその目的がぼやけてしまう。それでは意味が無いのだよ」
 ポニーテールの凛々しい若武者を思わせる整った容貌の瞳に強い光をたたえ、身を乗り出すようにして睨むように見つめてくる吉永。この表情をする時は、吉永が心の底から本気だと思っている証拠に他ならない。
 吉永は真っ直ぐだ。真っ正面に自分の気持ちをぶつけてくれる。それをとても心地良いと思ってしまうのは、俺が吉永に惚れているからなんだろうな、きっと。
「吉永の気持ちは十分に伝わっているさ。今更に変な手を講じて確認するまでもなく、な。だから明日は一般的なもので十分だ」
 少しばかりつまらないと思いはするが、勘違いした変な方向に持っていかれるのも良い事じゃない。だから、俺は吉永の気持ちに応えるように笑顔でそう言った。
 すると、吉永は新たにポッキーを口に咥え、腕を組んで少しばかり思案するように俯いた。
「……ふむ。やはりあれが一番有効なのかもしれないな」
 可聴域ギリギリの声で呟いた吉永は顔を上げ、「ん?」という何かに気付いた顔で視線を壁へと向けた。釣られて俺もそちらへと目を走らせる。そこにあるのは年末にサークル活動の一環で作ったカレンダー。女の子がディフォルメされた鬼に豆を撒くイラストにも日付にも何も変わったところは無い。
 ?を顔に貼り付け、顔を元に戻す。
 刹那――目を閉じた吉永の顔が視界いっぱいに広がっていた。そして、唇に柔らかくて冷たいものが触れて……
 思考は回らず、身体は硬直して動かない。ただただ呆然と、真っ白な頭の中で唇だけが別のもののように生々しく俺を支配するだけだ。
 恍惚とする長い時間で短い時間だった至福の感触が去り――気付くと、身を乗り出していた吉永が椅子へと戻るところだった。
「一日早いがハッピー・バレンタイン、だ。この吉永の食べ差しで申し訳ないがね」
 少しばかり顔を赤くして、それでも平静さを装って吉永は言ってくる。
 瞬間。口の中に甘いチョコの味が広がった。無意識のうちに唇を舐めてしまったのだろう。
 そして、ようやく理解する。初めて実感する。キスをしたということと、吉永がポッキーを食べていた理由を。
 あれはきっと、唇にチョコレートを塗っていたのだ。おそらく、これは吉永からしてみれば保険的なものだったのだろう。本来はあのリストの中から俺が選んだもの実行するつもりだったはずだ。だけど、案の全ては却下されてしまった。だから吉永は自分の考えと俺の意見をすり合わせ、辿り着いたのがさっきの行動――最大限に気持ちを伝える方法としてチョコ味のキスを選んだ、ということか……
 まったく、吉永には毎回やられっぱなしだ。本当に、自分が情けないと思うくらいに。
「で、どうなのだ」
 不甲斐なさと自責の念に駆られ、嬉しいのに顔が歪みそうになる俺に、吉永がなぜだかどこか不機嫌そうに、それでいて不安をまぶして訊いてくる。
「どう?」
「感想だよ。この吉永は初めてだったのだからな。ああ、それから礼も聞いていない」
 表情とは裏腹に口調は早く、頬の赤みも増している。きっと時間が経ったことで恥ずかしさが増大してきているのだろう。
「……ふふふふふ」
 泣きそうだった俺の口から笑いがこぼれ、顔に浮かぶ笑みが深くなる。いつも超然としているくせに、こういうところは不器用な吉永がひどく愛らしく、そして俺を救ってくれる。
 さて、なんて答えたらいいだろう。この胸の中いっぱいの温かい気持ちと――溢れて止まない吉永への想いを表すには。
「吉永」
 名前を呼ぶ。愛しい人は震える子猫みたいな光を瞳にたたえて俺を見る。
「大好きだ」
「この吉永もだ」
 俺達は小さく笑い合い――そしてもう一度キスをした。 



〈無名迷宮〉【http://moonlit21.blog105.fc2.com/


novel plaza system
甘辛流小説家ギルドGAIA
produced by COLUN.