HB 空葬(新小説板版)


1 :異龍闇◆AsVGmnGH :2007/04/01(日) 13:56:24 ID:QmuDsJYm


 現在、銀鍵月雫譚 バリアント+ -故に我あり-で共闘している主人公の作品を旧小説板からこちらに移行してみました。
 バリアントととの時系列の関係上、約一年半前を想定していただければよろしいかと思います。
 それでは例の口上より物語を紐解くとしましょう。


 ところで、例えば彼方は、他人を捨てて生きる事は出来ますか?

 ――Legend of Faceless Natural Born Killer



 Heavenly Burial――, the curtain.


2 :異龍闇◆AsVGmnGH :2007/04/02(月) 13:54:39 ID:QmuDsJYm

目次


>>3  ■背信無想■ 一人の天から毀れた神子(みこ)への祝い。
>>4  ■四望遊戯■ 地上より高く、天上よりなお遠い舞台より。
>>5  ■無音非殺■ 恐怖とは見えるものでなく見えないからこそ。
>>6  ■一方通好■ 友好とは名ばかりの腹の探りあいと吐露。
>>7  ■天使兆候■ 病とは存在の変化の一形態に過ぎないと解く。
>>8  ■寂肉狂食■ 新たな獣は建物群(ジャングル)に身を潜める。
>>9  ■寝叛惹生■ 世の中、上手く行くことの方が少ないと心得よ。
>>10 ■規制人類■ 忍び寄る、非現実からの使者達。
>>11 ■営利刃物■ 趣味を仕事にするな、と昔の人は言った。
>>12 ■天獄自極■ 人は生まれながらに微かな狂気の種を持つ。
>>13 ■人間失殻■ 胎海より出でた生物は世界の痛みに泣く。
>>14 ■世界唱歌■ 唄うように全てが崩れ去る危機、その前兆。
>>15 ■空葬回帰■ 永劫へと異たる、運命。それは翼を仰ぐように。

*警告*:現世へと未だ降臨していない物語に、不適切な時期に迎合した際には諸兄の個人端末に接続不可と表示されうる。心得よ、物語は然るべき時に降り立つ。


3 :異龍闇◆AsVGmnGH :2007/04/02(月) 13:56:00 ID:QmuDsJYm

■背信無想■


 ボクは空を飛びたかったんだ……
 The Modern Dark Ages, Human-kind have been still distracted slowly...

 ただ落ちて、急激に離れていく、黒いほどに青空。
 Hope, Peace, Welfare... Everybody wish, however nobody gain.

 でも翼は無くて……
 Cease remorse whatever they happen...

 ――ボクは唯一、跳ぶ事だけが、この世で出来た。
 I only say, "Hello, world."


4 :異龍闇◆AsVGmnGH :2007/04/02(月) 13:57:35 ID:QmuDsJYm

■四望遊戯■


 曇天は背景に、木枯らしは音響に、観客席は路上に、役者は……、彼一人で十分だろう。
 舞台は見渡す限りの三百六十度の世界。限りはあっても果てはない。視界に収まる小さな舞台。
 二月下旬。周辺の外気温は華氏マイナス四度。地上三百三十三メートル。日本で一番有名な電波塔の上に『彼』は一人で立っていた。
 道行く人は誰一人として上を、彼の居る舞台を見る事はない。自分の行き先だけが心配なのだ。たぶんそれどころか自分の真横すら見えていない。人は他人からの見方は気になっても、元始の目線と視線は気にしないようだ。
 ただひたすら高い場所に取り残されるように、彼は一人ただ立っている。彼は彼らのその視線を、ある意味では超越していた。
 人が本来居るべきでない場所に、彼は既に何時間残されているのだろう?
 呆けるにしては些かに危なげなく、彼は黙しながら塔の一部のように立つ。二十平方センチの水平面に片足だけが身体を支えている。
 無論、彼は一人で勝手に達観して人生を見限ったコードレスバンジーや酔狂、勿論政治的な意図をもったメッセージでココに上り下界を眺めているワケではない。
 彼の全身はビルの一部のようでも、澱んだ空のようでもあるような灰色。冬色のくすんだ空ならいざ知らず、赤と白で彩られた電波塔上では僅かに目立つだろう。
 灰色の全身はピッチリとした、ゴムにも薄い金属にも見える不思議な素材に包まれていた。身体の要所要所、いわゆる急所と呼ばれるモノが強化プラスックであろう板で鱗のように守られている。
 身体は普通の人よりもやや大きいと言うくらいで、人込みに紛れれば消えてしまいそうなほど特徴に欠ける。ただ、腿の後ろ側や膝上の内側、ふくらはぎ、背中、首と言った場所は、ふと気付けば忘れられないほど発達している。まるで、騙し絵のような身体の構成である。
 その上に位置する顔は同じく灰色ののっぺらぼうのようにツルリとした平面。頭をスッポリと仮面が覆う。仮面にしては面白みに欠け、何かを表す記号にしては黙しすぎていた。絵も何も描かれていない、ただの貌無し。フェイスレス。
 しかしそんな面でも、仮面越しの、マジックミラーのように映る内側では彼の鋭敏な瞳が全ての景色を捉えていた。
 研ぎ澄まされた感覚受容体は、異様な服の上からでも、全身が舌のように外気の動きを敏感に捉えている。
 (ひょう)と風がその舌を舐める。僅かな身震い。流石に彼のような奇怪な人物でも、人並みの感覚は持ち合わせているのだろうか。
「今日は、何もない……、か」
 子供っぽさが僅かに残る声色。
 ポツリと零した言葉は、期待外れとも安堵とも取れるような微妙な表現だった。
 彼は頭からスポッリと覆う仮面越しに頭を掻きながら、遥か地上で蠢く人々を眺める。そこには、日々の忙しさはあっても彼自身の望んでいたモノはなかった。その望みというのは些か、普通の人が抱くにしては狂ったシロモノなのだが……。
「……帰るか」
 自らの宿へと彼が身体を向けた時だった。
 複数のパトカーがサイレンを急き立てるように鳴らしながら、彼の目下を過ぎ去る。
 おそらくは何かの事件なのだろう。
「やっぱり……、何かを起こると思っていた」
 己の勘の良さを恨むように吐くのは後悔。しかし、淡い気体となった思いが瞬く間にも鋼の如き意志へと変わる。
 身体を預けていた片足の膝は折り畳まれ、両手は羽ばたくように、また何かを大空から受け取るように掲げ、

 そして、彼は塔の先端を僅かに蹴って、落ちていった……



 その日本で一番有名な電波塔から二キロメートル先。彼女は、古紫椎音(コムラサキ シイネ)はビルの柵の外に居た。
 幼さが残りながらも、大人との狭間に揺れる女の子。おそらく、ビルの柵の外に立たなくても人目を惹くだろう容姿。細身の身体は風に吹かれれば飛ぶようなほど。ボブカットと呼ばれる髪型の前髪は僅かに、切れ長の理知的な瞳を意図的に隠していた。
 その瞳の先には、蟻のように、塵芥のように小さい小さい人形達。上司に操られ、世論に操られ、さらに自身のしがらみにすら操られる。無様な、神に似た肉人形。
 ただそれが、憎らしかった。
 彼女は如何に世間が動いているか、如何に世界が動いているか、如何に人が動いているのか。唯それだけを追求していた。
 理解に次ぐ、理解。様々な理解を迎えれば、迎えるほど、見てはならない暗黒が垣間見える。いや、直視してしまう。
 淘汰を促す自然環境、世間を操る情報産業、利益を覆う富裕の事情。
 とにかく、彼女の闇を回避するために通じた学問とやらは、その闇の色と形と臭いを形付けるだけだった。
 失望。
 世界も、大衆も、個人も全てはバラバラで、混沌で、不愉快でまるで理解出来ない。
 既存の空間を抹消する事は個人の力では出来ない。
 だから、理解を、認識を、個人の思考をココで止める。
 存在否定。今の流行。体良く言えば、世を儚んだ酔狂死。体悪く言えば、唯の自己満足のための自決、自害、自殺。
 簡単にやるなら、風呂場でお湯に浸かりながら、静脈の方向に向かって縦に裂くのだ。
 最初は痛いけど微温湯(ぬるまゆ)に患部を付ければ痛みも引く、血も外に向かって退く。ゆっくりとぼぅとしながら楽に死ねる。
 何処ぞの自殺者みたいに七輪を車内で焚くのでもいい。一酸化炭素が優しく窒息させる。
 でも敢えて、勇猛に、文字通り命知らずに、彼女は投身自殺を選んだ。
 理由は簡単だった。飛びたいと思った。子供の頃からの夢と、人目を惹く為に死ぬ間際くらいは目立ちたかったのだ。
 彼女は先に挙げた容姿でありながら、高校でも目立つ方ではなかった。淑やかと言っても通ったし、そこそこ悪い事をする(喫煙や飲酒、万引き、援助交際などの反社会的行為)仲間の間でもそこそこは知られていた。可も無く不可も無く、彼女は日常に程よく埋没していた。
 それは自身を量産された個性で埋葬するようにムリヤリ取って付けたように飾った日常だった。
 彼女自身の日々を一言で表すなら、退屈。
 死に続けているような日々の清涼飲料水は、死そのものの味。
 彼女は日々、何気なく通い詰めていた自殺サイトに昨日未明にこう書き記した。
[ 明日の午後五時に都内のビルから飛び降りて死にます。 ]
 とりあえず、書いた文面をチェックし、送信。
 直後に管理人から絵に描いたような人生の素晴らしさを綴ったメールを受け取り、一通り読んでゴミ箱に捨てた。彼女の意志と言ったモノは既に硬いとも軟らかいともしれない心境であり、端的に言えば自殺そのものを辞める気は一向に無かった。
 とにかく、現在取り巻くあらゆる現実は彼女を納得させるほど都合は良くなかったのだ。
 現実離れしたモノに止められる事を期待したが、彼女の目に届く事は未だなかった。
 彼女は日常からの逸脱を望んだのだ。

 死。
 解脱。
 永劫へ。
 輪廻外延。
 投身に頓死。
 永久への跳躍。
 自己問答の悲哀。
 庇護に寄せる義務。
 最上を旨とする両親。
 理解を常とする自己愛。
 もう沢山だ辞め、辞める。
 機能停止、フェイズ消去へ。

 飃と薙ぐ風。スカートがインドア派の彼女の柔肌を肌蹴るが、彼女の視線はボゥとしたままで、遥か下でネットを待機する消防隊員が言うなれば面倒だろうなぁなどとか、女子高生のスカートの中身が見れてラッキーだろうなぁ、なんて勝手に思っていた。あぁ、そう言えば下着を替えて無かった、まぁいいか、どうせ死ぬし、云々。
 この高さから落ちれば相当だ。頭からも足からも、落ちて生きていたら奇跡か、もしくは自身が化け物に違いない。

 火葬、土葬、水葬、鳥葬、木乃伊葬。投身自殺は一体何の葬送儀式に類別されるのだろうか?
 おそらく、それはそのまま。空葬に違いない。飛べない、鳥以外ならその場所は空虚な、それこそ空の棺と変わらない。
 息を吸って、吐く。本能が拒絶する高さを彼女は一瞥した。
 世の中には地上三千メートルの高さから落ちて生きていた人間もいたが、そのまさかがここで起こり得るはずもない。硬いコンクリートの上では流石に、全てを肯定して生きるのは難しいのだ。
 動植物さえ生きるのがままならないのだ。ましてや、自然の延長線上の、更に突端にある生物がどう生きようと言うのだ。
 生きるために誤魔化す日々、誤魔化すことで生きる日々。
 どちらにしろ、彼女はこれ以上どうするつもりもなかった。

 跳んだ。支えの消失。観客は息を呑む。













 ――直後、彼女は、ようやく今になって後悔をした。
 気持ち良いかもしれないと思った投身は、いつも以上に不安定で捉えどころがない。
 ふわふわとして内臓も、方向も、感覚も点で定まらない。
 体の内側だけが落ちる方向とは逆に留まろうと墜落を否定する。
「あぁ、畜生」と呟いた。
 地面が無い事がどんなに不安なことなのか、それをまだタップリと考えられる時間が憎らしい。
 もっと短い方が、低い方が良かった方が良かったかもしれない。中途半端に痛くてもいいから、この不安な感覚からは抜け出したかった。
 中空でもがいても掴まる物は何も無い。ただ全身をただ圧倒する風が包んでいる。
 死とはこんな不安なモノなのだと、今更のように気付いて、彼女はとにかく後悔してみた。

 そして、祈る。
 もし、神と言う慈悲があるならば不真面目な私を助けて、と。

 地面まで後何秒だろう。命がけになると何事も良く見えて、よく考えられる。
 歩道を歩く児童は何秒後かの彼女の骸を見るだろうとか、消防士の本当に飛び降りやがったと言うだらしなく開けられた口とか、微妙に、彼女が収まる場所から少しズレた衝撃吸収のためのマット。そのそれぞれが良く見えるのは走馬灯に似た脳の一種の作用。幻覚。在り得ざる超現実の世界。



 そして、神の使者、灰色の天使の降臨。



「えっ?」
 彼女と同じ向き、いつもとは逆さまに感じる重力の方向で顔をつきあわせる貌の無い、灰色の仮面。
 天使は彼女を無言で抱き寄せる。奇しくも、これが初めて彼女が男性に抱かれた、忘れられない記憶になったのは言うまでもない。
 現実感の乏しいわりに、身体と身体の間を吹き抜ける痛いほどの空気と生物の温もりが、その人物を現実だと物語っていた。
 誰と言うよりも、何なのか?
 疑問が氷解する直前に衝撃。
 揺れる首が天使の背中から廻された手で止められる。落下と着地の衝撃。それを天使は自らの身体で着地の全ての圧力を受け止めた。
 ――化け物?
 二度目の衝撃。それが、彼とそれに乗っかる形になった彼女の両方を打ち上げた。
 爽快。地面の代わりに感じるのが、灰色の天使の身体。金属のようなゴムのような全身スーツには体温が、温もりが入っている。
 駆け抜ける空なんて、心地が良いのだろう。
 死地回生。彼女は助けられたのだ。
 その光景を見た者達は誰もが口を揃えて言った。
 あれは都市伝説の仮面。空を駆ける者。超躍者(リーパー)だ。
 今まで存在を誰もが仄めかしながら、誰も見たことの無い人物。
 曰く、ビル間を駆ける奇人。空へ跳ぶ狩人。都市でのあらゆる犯罪、災害を未然に防ぐ怪人。
 超人で無ければ化け物か? 彼は支えの無い宙から僅かな反動で、彼女を抱えて天地無用の方向へと戻す。
 再び、足から百メートルのビル屋上への着地、跳躍。
 直後、ヒーローはその名の通り、跳んだ。
 それは何と美しい事か。
 虚ろな灰色の中間色が蒼穹へと映える。
 人ならざるモノ、人はその昔、人の抗えない自然を神として祀った。そして、それを超越する者も同様だった。それが現在も起こっていた。英雄崇拝とでも名付けるのだろう。ともかく、その跳躍は人の域を越えて、それ故にただ美しさを発起していたのだ。色無い灰色が跳ぶ風景。
 しかしながら、彼女にはそんな事を感じる余裕すらもなかった。物理的に、加速度の方向を変えれば、それ相応の衝撃を受ける。ましてや彼女は、飛び降りて地面に触れる直前と同じ速度で今度は二度も跳んでいるのだ。
 さながらロケット射出のように、彼女は自分の体の四〜五倍もの重圧を受けているのだ。普通なら失神する直前だ。
 それでも、彼女は遥か彼方の、既に豆粒になった下界は見た。あれほど大きかったビルが指先で隠せるほど。
それはやっぱり小さくて、それでもその場所で、自分の存在は十分であると、彼女は理解し、ようやく気絶した。

 これが古紫 椎音と都会のヒーロー、フェイスレス、そしてリーパーと呼ばれる受難者との最初の出会いだった。


5 :異龍闇◆AsVGmnGH :2007/04/03(火) 13:46:15 ID:QmuDsJYm

■無音非殺■


 少女が助けられる十六時間前、今度は宙に人が浮かんでいた。いや、浮かばされていた。それは踏ん張ろうとして、それに抗え切れなかった結果であり、体勢は硬直で無様に無様を重ねていた。しかし、それは仕方ないのかもしれない。
 続いてもう一人、体重が八十キログラム近い成人男性が横に引っ張られ、『縦』に回転していく。重なるように屈強な男達がぶつかり合う。
 それを行っているのは全身が灰色の者である。
 暗闇の中でありながら灰色の中の僅かな白色が燐光を灯したように目立つ。それはあたかも幽霊、もしくは地獄の亡者のようであり、未だ意識の残る男達に必要以上の緊張感と不安感を与えていた。
 薄暗い倉庫の中をその亡者は有り得ない速度で地上を駆け、時に天井まで飛び上がり、壁を走る。男達を翻弄、驚愕させていた。
 恐怖である。灰色の亡霊が残像をありありと視界に残しながら、次々と暴力を知る男達をほぼ一撃で戦闘不能にしているのだ。そのため、あろうことか見た目からしても成人男性すら一睨みで後込ませるような容貌にも関わらず、男達は闇に這い蹲るように潜み、反撃のために未知への震えを堪えながら、亡者が眼前に裁きに現れるのを待つしかなかった。
 その男達が潜む物陰はコーヒーの粉の詰まった木箱とそれに包まれ、密輸途中の臭いの誤魔化されたヘロインである。男達は俗に麻薬の売買を生業とする暴力団関係者だった。
 彼らは本当の非常時のために軽機関銃すら装備をしていたが、何時の間に突き止められたのか、亡者の手によって真っ先にそれは銃口をひん曲げられ、引き金を折り取られ、使用不可能な状態にさせられていた。
 逃げようとした倉庫は外側から錠を下ろされていた。
 逃走不可能の恐怖。
 だが、法の影に属する者は暴力の素質が必須であり、それが反逆を受ける事など遭ってはならないのである。例に漏れず、ちょうど亡者の舞い降りた先に居た男もその手の、その中で強く反逆を良しとしない者だった。
 用心棒とブローカーを宙ぶらりんとしていたその男だが、内実、せせこましいヘロインの売買よりも単純な暴力を好いていた。つまり、この瞬間は彼にとってその牙を余す事なく振るう絶好の機会であり、同時に暴力を与える快楽を得る場所だった。
 そしてその男の胆はこの場に着て妙に冴えており、今なら胸元の拳銃でなく自慢の拳で一撃に伏せると確信していた。
 目前、地面に灰色の尾を引いて、亡者が舞い降りて来た。
 後ろ向き。無防備な背中。
「しめた」と心中でほくそ笑み、そのまま頭と胴体を一体にして上体を軽く振り、不意打ち気味にちょうど地面に降り立った亡者へと向かっていく。
 ボクサー上がりのその男は軽く握った右の拳を顎に寄せ、そこから絶対の自信を持ったストレートブローを放った。狙いは後頭部。六回戦止まりとは言え素人にも、真後ろからではどんな暴力の玄人にも止められるパンチでは無い。下手をすれば頚骨が砕ける拳撃。
 そう、一秒前までは思っていた。
 『消えた』。視界から一瞬にして、亡者が消えた。彼の視界の外れ、伸びきった肘のちょうど真下あたりから亡者が飛び込んできたのだ。首辺りから左手が顔の右側を覆うように添えられている。慌てて横薙ぎに肘打ちを打ち込もうにも、成人男性よりわずかに低いくらいの身長。それを更に膝を曲げて縮ませ、拳を届かせようにも届かない。そして、仮に打ち込んでも亡者が左手でカバーしている事で十分な打撃すら与える事も出来ない。
「ヒッ」
 そこまでの思考と言うか、思い付きを一呼吸で彼が終えた次の瞬間、綺麗に伸びたストレートを放ってがら空きになった脇に衝撃が走った。
 彼はもっと若い頃に車に友人を縄で結びつけて突然走り出すと言う笑えない遊びをしあう事をしていたが、その理不尽なまでの力で引っ張られた直後にその不可思議な打撃は似ていた。
 浮かぶ。いや、踏ん張っても耐えられないのだ。亡者の左手は親指でへそを押さえるように、右手を天井に掲げるように掌を広げていた。拳での突きでも手刀でも無い、手首から肘にかけての腕刀と呼ばれる部位を脇下に斜め下から叩き付けたのである。横方向の打撃に強いのがアーチ状の肋骨の構造だが、その弱点、斜め下からの打撃は亡者の腕刀の形に三本も骨を砕いていた。
 彼がもし、中国拳法、『心意六合拳(しんいろくごうけん)』と呼ばれる回族(イスラーム)の伝統拳術を知っていたなら、それが【挑領(ちょうりょう)】と呼ばれる代表的な技だと気付いただろうが、現段階で身体を『く』の字に曲げながら、『手加減され』、それでも余りあまった打撃の衝撃を受けて吹き飛んでいる段階では今も、そして亡者に捕縛されて檻の中で気がついて反省するまでは、考える事も出来ないだろう。
 意識暗転。
 また一人、人数が減る。



 亡者の使用するその拳法は一般的な、日本では極有名であろう八極拳(はっきょくけん)や太極拳とは似ても似つかないまったく異質なものだった。一般的な、伝統的な中国拳法には震脚(しんきゃく)と呼ばれるモノが着いてくる。足裏を地面に打ち付ける事で地面を押す事で押した物体に返ってくる力、物理学で言う所の抗力(こうりょく)を瞬間的に地面から増大させる事で得て、打撃力とその衝撃の透徹力を増大させる技法が中国の伝統武術に幾つかあり、その一つを震脚と呼ぶ。
 人はそうした物理的力を、勁道と呼ぶ身体が通す力の道順で更なる、引き絞られた効率化された運動の力を『(けい)』と呼び、その力を攻撃として放つ事を『発勁(はっけい)』と呼ぶ。達人ともなれば震脚を通しての発勁でコンクリートの地面に足型を残し、その反発力で胴体に打ち込んだ肘、拳の圧力で顔面の穴と言う穴から血を噴出させるほどだったと言われているが、亡者の拳法はそれとはまた明らかに理屈の異なるものだった。
 通常の場合、前に出している足を思いっきり踏み出す、震脚の練習は個人の程度の差はあれど、とても楽で修得しやすい運動である。何故なら、人の身体は猫背だろうが何だろうが若干胴体が前倒しになりながら進むものであり、それに前進する力と下に身体を、足の裏を叩きつけて拳に勁を載せるのは自然な運動であり、その気になれば、厳密にやらずともそれなり打撃力を修得する事が出来るのである。そした技法を震脚とは別に沈身勁(ちんしんけい)と呼ぶ。他にも体を急速に上下内外に開く事で天地と横方向の十文字の力を使う十字勁、腰から人工的に体の関節を急激に捻転させる事で螺旋の力を呼び込む纏絲勁(てんしけい)と呼ぶ。だが、大抵の修行者はその力を用いる際に前足での踏み込みを重要視していた。
 だが、亡者の場合は違った。亡者は前に出した足で無く、後ろに残された足を要としていた。亡者の身体は一ミリメートル以内で地面に落下する直前まで驚異的なバランスと共に後ろ足の脹脛(ふくらはぎ)で力を発揮し続けているのだ。これが意味するのは力がずっと掛かり続けると言うことである。そして力がずっと掛かると言うのは先の震脚のように踏み込んだ直後の力の掛からない瞬間、掛ける事の出来ない時間の隙間が存在しないと言うことである。
 これらの意味するところは、亡者の動きに止まる瞬間は決して無く、詰まる所勁力の発する事が出来ない『隙』と言うものがまったく無いのである。実戦においてコンマでも『打つ』事の出来ない隙でもあればそれは致命的であり、彼のように日頃から多人数を相手にする場合はそれは当然として重要である。一人を倒せたとしても、次の一人に殺されたら本末転倒である。
 先の震脚が沈身勁と呼ばれる下に向かう勁ならば、彼の勁は身体を常に前進させる、一つの点へと向かう【直進勁】とでも名付けるべきだろうか? 無論、単純な震脚に比べれば、驚異的なまでに後ろ足の片足で支えるのバランス感覚とそれを維持する筋力が必須であるこの勁力は並み大抵の練習量、『功法(クンフー)』で表現出来るものでなく、日頃からの厳しい鍛錬によるものだろう。無論、先の震脚とはまったく方法論の異なる非日常的な運動であり、それが修得の難度に拍車を掛けている。
 優れた武道家、特に合気道の達人などの静かな動きを体現する者ははこれと同じ動きをしていると言われている。そして彼らにも同様、日常生活にも隙が無かった事を付け加えておこう。優れた者の動きや在り方は類似すると言われているが、まさにその典型である。

 そして、要約するならば、亡者が使うのは素手の格闘技の枠を超えた実戦武術であり、同時に亡者はその達人であった事だ。

 挑領を食らった男が脇腹を押さえて悶絶と同時、あまりの突然な痛みで意識を失った。それを亡者は確認した直後。
 金属同士の擦れる音。
 仮面の奥の研ぎ澄まされた感覚が危険信号を察知した。
 後ろ斜めに飛び込んで転がる。
 半拍遅れて木箱に着弾する。
 一発の銃弾。
 軽機関銃が無くなったとは言え、彼らの何人かは拳銃を携帯していた。だが携行する際に、安全のために手動セーフティが掛けられていたのが幸いである。
「をぅる゛ぁ、でてごいや゛ぁッッ!!」
「殺っぞゴルァ゛ァ゛!!」
「…………」
 涎を撒き散らしながら、反逆の可能性を見つけた男達が間髪入れずに恫喝を加える。
 だが、守りに入った相手には有効な心理的圧力だが、あくまで攻めしか考えていない亡者には無意味であった。
 亡者は身を庇う木箱に両掌をピタリとくっ付け、そのまま一気に『押し』出した。【双把(そうは)】と言う直進勁による零距離からの打ち込みである。震脚のような身体技法の場合は膝の曲げ伸ばしなどの大きな挙動が必然となる。しかし、彼の行う直進勁は片足で全身を支える時の筋肉の内部の緊張と呼吸による細かい筋肉の瞬間連動しか使わないために表面上の身体の個々の部位の動きは見えない。先の見える動きの打撃の勁を『明勁(みんけい)』と呼び、見えない場合の打撃の勁を『暗勁(あんけい)』などと伝統的に呼ぶ。
 三十キログラムの木箱が真横に、拳銃を持った男二人へと襲い掛かった。
 動きも気配も消した結果、それは男達から見れば超能力か何かのように突然木箱がすっ飛んできたのに等しい。
 慌てて避けるのも束の間、その木箱の押し出しと同時に、それを楯にして亡者は木箱ごと突っ込み、木箱越しに頭突きを加えた。鷹が急激に舞い落ちるような激しい落の動作、【鷹捉把(ようそくば)】。無論、落ちるために上半身を突っ込むかのように前に折りたたんだとしても、感覚的には直進勁を続けている。
 頑丈な木箱は更に押し出されて、男達を巻き込んで壁へと打ち付けた。
 しかし、ここで想定外のアクシデントが起こる。
 主人の一人の手元から離れた拳銃は地面に落ち、その衝撃で撃鉄が落ち、弾丸を発射、暴発させたのだ。
 勝手に発射された弾丸は亡者の胴体を仰け反らせた。
 中華人民共和国北方公司(ノーリンコ)。中国最大の兵器製造企業であり、その拳銃は北方公司が旧ソ連製のトカレフTTをコピー製造し、それが秘密裏に流れたものである。通常の拳銃弾は電話帳を6冊から8冊程度貫通できるが、トカレフ弾はそれらと同等の電話帳を12冊貫通することが可能であるという。
 亡者の体、その全身スーツの繊維は鉄の十倍の強さを持つ防弾用のスペクトラと衝撃吸収用の特殊ポリエチレンで囲まれている。しかし、弾丸の入り込む角度によってその衝撃が完全に分散されるとは限らない上に、動きなどを重視する腰周りや肩などは自然と防具を薄くせざるを得なかった。
 弾丸は防具を貫いていた。しかし、それは完全な貫通と言うほどではなく、例えるならボールペンの先が皮膚を破って肉まで入った程度である。
 無論、痛い。
「んんッ――」
 しかし、それは亡者の戦闘力を奪うほどでは無い。それ以前に亡者にとってはこの程度の負傷は日常茶飯時であり、逆に痛みのパルスが闘争本能を喚起させるほどだった。
 アドレナリンが音を出して脳を駆け巡るように感じ、ボディアーマーの下の血管が励起するように浮き出る。
 仮面越しに、亡者は知らずうちに口を半開きにして笑っていた。
 飛交う銃弾。射線を乱すようにジグザグに走り出す。
 視線上から人間の消える恐怖。

 港の倉庫が謎の火災を起こし、駆けつけた消防団員にピアノ線で縛られた構成員のべ二十人が発見されるのは半時間後のことだった。


6 :異龍闇◆AsVGmnGH :2007/04/05(木) 03:46:06 ID:QmuDsJYm

■一方通好■

 頭と鼻の穴に温い違和感を感じて、目覚めと同時に椎音は顔を勢い良く上げた。
 直後に轟音と煌く星。
 前頭部が音を立てて天井にめり込んでいた。どうも同じ凹みがある事から、以前同じ事を誰かしたのだろうか?
「痛ぁ」
 その衝撃は前頭部に緩やかに与えていただけに終わっていた、湿り気のある布で多少は和らげられていたのだ。
 記憶を辿り、推測する。
 あの途轍もない加速での『あの跳躍』の直後に鼻血を出して、さらに気絶してしまった彼女の火照った頭を冷やすためのモノだったのだろう。鼻に詰まっている鼻紙を取る。どうやら誰かが取り替えてくれたようで血糊は少ない。
 その直後を思い出して「うわぁーなんてダサいことしちゃったんだろう私」と額に残る疼痛を抑えつつ思い、椎音は呻いて辺りを見回した。
 二段ベッドで下は机と言うタイプで人が起き上がれるギリギリの低い天井。窓は一つでブラインドが掛かっている。もう薄暗い。午後四時か半頃だろうか?
 六畳。一ルームにキッチンとバスルームも付いているのか? 人一人が住むのにそこそこの暮らしであろう。冷蔵庫と音も無く付けたままのテレビが先ほどの彼と、彼女自身の事を報じていた。無論、彼女の身元は判明していないので身投げしようとした中学生、謎の人物に今度は拉致される、と適当に報じられていた。さすがマスコミである。
 テレビの下の本棚の一、二、三段目には洋書、それも英語以外の語学の本が並んである。その下は格闘技、武道関係の和書に加えて、学術向けの犯罪者心理学についてが数冊。ザ・殺人術などのその手の際物の他に、球根栽培法、薔薇の詩、ケーキの作り方などインターネットで一度は見たことがあるテロリスト養成のためのマニュアルのタイトルも垣間見えた。おそらくは原本だろうか。
 卓袱台の上には救急箱と工具と何か、ちょうど剣道で使うような、それでもその何倍も厚い胴鎧のようなモノが重く横たわっている。粉状のプロテインを飲み物と混ぜるプラスチックのカップに、空のツナ缶、ビタミン剤のケース、卵の殻。その横には点々と潰れたキノコのような、小指大の金属片が四個あった。ネットとかで見た事がある発射後に物体にぶつかって潰れた銃弾、その形象名をトリュフだがマッシュルームだかそんな名前だったと彼女は反芻していた。その隣には古めのラップトップが呪文のようなコードを弾き出しながら稼動し続けている。パッとコードを読む限り、警察無線を自動的に傍受して暗号化(スクランブル)処理された無線を拾っているのだろう。何処から元のコードのパターンを拾ってきたのか分からないが電波法違反であるのは間違いないような気がする。
 その下の床には無造作に仮面が転がっていた。
 それはまさしく灰色の天使の仮面。
 そこから続くように脱皮された、おそらく脛当、手甲、下半身の鎧が転々と転がっていた。
 そして、装甲の終着点にはぬっと黒くて太い足が転がっている。もちろんそれは一部だけのバラバラ死体ではなく、暗闇にただ単に紛れていただけだ。
 黒いのは、闇に埋没していたのは下半身を包むタイツのような服のせいだった。眼を凝らせば、その輪郭は僅かながら垣間見れる。
「んごッ」
 まるで拍子も無く、突然何かの仕掛けのようにそれは起き上がった。立ち上がるのが見て取れないほど、速い、否、早い。
「おはようございます」
 くるりと振り向いて、顔も確認出来ないうちにバネ仕掛けのようにそれは頭を下げた。
「おはようございます」
 とりあえず、目前(正確にはベッド下、目下)のその物体に律儀に挨拶を返して、何か間違えている事に気づいた。
「……わ、私は、一体?」
「鼻血を出して気絶されたので、身元も証明できるモノも無いので僕の家に運ばせて頂きました。拉致じゃないです」
 それについては先刻より承知だった。何より自殺する人間が財布やら身分照明出来るものを持っている方が可笑しいだろう。そして、それ以前に彼女が気になったのは、
「あなたは……、誰?」
 暗い泥の中で揺れる影。どうやら彼は、そこからでは彼女に顔の見られていない事を分かっているようだった。暗みの中で含んだ笑い声をさらに押し殺して、彼は顔見せずに笑っていた。暗色の中で白い歯と赤い唇が半円を描いていた。
 理解と言う常識を超えたモノが居る。
 唇のやや上、猫のように大きく、暗闇の中で拡大された瞳孔が彼女と目を合わせている。
「灰色の仮面、貌無し、色々と呼ばれていますが、僕自身の特徴と合わせて覚えやすさを追求するなら、」
 そのまま、暗闇の中で、彼女には見えないように仮面を付け直し、ベッドの直前まで近付いた。
 テレビのぼやけた明かりが輪郭を際立たせる。
超躍者(リーパー)と僕を呼ばれるのが、妥当かと」
 つるりとした仮面には表情と凹凸が無かった。
 本名を言うつもりは無いようである。無論、噂に寄れば警察機構にマークされているとの話しなので当然だろう。
 彼の胴体には真新しい包帯が巻き付けられていた。右肩に二箇所、左の背中、腰近くに赤く血が滲んでいる。
「で、何で私なんかを助けたの?」
 その姿を見ながら、この得体の知れない人物を観察し始めた。
 身長はベッドの二段目に届くか届かないか程度の、男性としては低めの部類に入る。身体は服を着れば目立たないが、どちらかと言えば肩幅も確りしていて胴体も太目の筋肉質な体型に見える。特に胴体は、わき腹の下辺り、そして肩から直ぐ下の先週辺りに保健体育で習った、大円筋とか後背筋とかの背中がやたら発達していた。だからと言ってズングリムックリな、不思議の国の住人では無く、腹筋が前面の腹直筋だけでなく、脇腹である外腹斜筋まで発達し、やたらと格闘家のように締まった体付きをしていた。いや、身体に転々と残る傷から見ると、彼は歴戦の戦士だった。特に首筋から肩、背中に掛けての火傷のような痕は痛ましい。
「その傷は?」
「質問ばかりですね。まず最初の質問に答えるなら、人助けは僕の趣味の高じた仕事です。故に勢いだけで飛び降りたように見えた古紫さんを助けさせて戴きました。無論、僕の目の届く範囲で飛び降りるなら何度でも助けさせて戴きますが」
 澱みなく、まるで鉛筆が机から転げ落ちそうだから拾い上げたような言い方である。しかも、正義の味方にありがちな、命が重要だからとか、そんな無闇に綺麗な思想も語らずに淡々と、日記で今日の一日を綴るように、人助けを実行していたようだった。
「次の質問に答えるなら、これは撃たれた傷、銃創です」
「う、撃たれた?!」
「えぇ、まぁ、流石トカレフ弾だけあってTYPEVシリーズのボディアーマーでは二、三度受ければ防ぎ切れなかったみたいです。スペクトラの比率を考えて今後の防御面の課題として考えておこうかと思っています」
 撃たれると言う行為で、弾が当たっていなくともショック死などがすることが稀にある。無論、撃たれれば並外れた精神力か、もしくは負傷に気付かないと言う状況でなければ耐えることは出来ないだろう。たが、撃たれた事実に気付いていたと言う事は、この仮面の男は前者の人間(?)である事が窺い知れるのである。
「でも、何で撃たれる事なんか……」
「『北の国』が最近形振り構わずに上質のヘロインを密輸してきていました。で、とある方々から命を受けて倉庫をまるごと潰そうとしたんです。その際に四発ほど構成員に撃たれました。先に固定の機関銃の方は壊しておいたので大きなダメージは食らいませんでしたが、個人所有の拳銃にまでは完全に対処できませんでした。次回までに改善すべき点でしょうね」
 そう言えば、と彼女の脳裏に昨日の朝方にボゥと自殺の文面を考えながら見ていたテレビで、倉庫の火災、そして、重軽傷を負った北の国の在日暴力団関係者達が麻薬所持、売買の関連で逮捕された、と言う話を見たような気がする。どうやら、その目前の彼が大本であることが分かった。
「さて、大方の質問には答えましたし、満足しましたか?」
「……えぇ、彼方自身に、かえって興味は惹くけれどね」
「死に急ぐ必要はありませんよ。折角助かったのですから、『そちら側』の生活を楽しめば良いと思います」
 拒絶では無いが、これ以上の関わりを望まない意志が垣間見えた。
 彼女は死のうと思ってその直前を垣間見た結果、彼の言う『そちら側』からは半歩外れた人間となったのかもしれない。
「あなたは何者?」
「名前で満足しないのでしたら、存在的に死者の類と考えてもよろしいでしょう。僕は半分死人みたいなものです。この世の生物として図れません。ただ大空へと見境無く挑んで跳躍する大馬鹿者です」
「観念的ね。煙に巻こうとしてるのがありあり。質問を変えるけど、彼方は何で跳べるの?」
 空を羽ばたくので無く、地面をトランポリンのように蹴る事なく跳び続ける彼の原理は知的好奇心の旺盛な彼女に非常に興味深いものだった。
「そうですね、……」



 天使に、昔、取り憑かれたからでしょうか?

 そんな、奇妙な事を言った。


7 :異龍闇◆AsVGmnGH :2007/04/08(日) 11:04:18 ID:QmuDsJYm

■天使兆候■


 エンジェルダストシンドローム(EDS)と言う病気がある。
 一九七二年頃、オーストリアのフーバー博士により発見された感染性かつ後天発症の遺伝性の病である。発見者のアルフレッド・フーバー氏のフーバー症と言う正式名称よりこちらの呼称の方が頒布している。
 最初は感染後の三〜四日の潜伏期間を置いて、その後様々な段階を踏む症状を発する。
 当時から現在において、高高度からのスカイダイブを趣味とする人々の間で感染が確認されたものである。
 最初は視界に白い粉が漂う症状が発症する。この段階で眼科医に掛かったとしても飛蚊症などの別の病と認識され、発症は確認、検証されない。これは視神経や水晶体が濁る、もしくは視覚関係の側頭葉の混乱と言った影響でなく、より総合的な、前頭葉での認識部に神経パルスのノイズのようなが出始めた発症の裏づけとなるものである。
 続けて、その二週間前後に第二の症状が発症する。時折、見える白い粉が視界を埋める範囲が広くなるにつれて、今度は幻覚症状が訪れる。主に白昼夢などの幻視であり、時折声が聞こえると言う報告例が多い。まれに嗅覚、幻痛などを体験するものがいる。その症状の度合いは日々での振幅が大きく、一般生活が苦も無く送れる事もあれば、食事や排泄すらもままならない通常生活が困難な場合もある。
 次の段階は、三日から三年と大きく幅がある。この段階に入ると、前頭葉から原因不明の何かに因って快感などを司る視床下部まで侵食され、一日中快感物質を得続ける事がある。この段階で麻薬患者よりも酷く快感物質を受容するレセプターが麻痺し、如何なる苦痛も受けずに脳に障害を得る可能性が高い。
 そして、最終段階では脳の神経パルスの八割が快感のみを発するようになり、最終的に思考表現、身体運動がまったく出来ない、麻薬病患者の末期症状のような脳と同じ状態となる。この時、筋紡錘の変化によって表情筋の形作る笑顔が、天に祝福されたような恍惚とした表情と表現出来、口ずさむように賛美歌のような声帯の震えを見せるのため、聖書で天上で歌う使者と掛けて『天使となる』と言う呼び方、加えて初期段階で必ず患者の訴える粉末が視界を覆う事により、天使が授けた粉、天使粉症候群と広く仮称されるようになった。
 この病はいわゆる中枢神経の変性などのハンチントン舞踏病などとは異なるが、狭義の中枢神経細胞自体の障害による器質精神病ととも取れる。
 しかしながら、不思議な事に酸素ボンベを携行使用していたダイバー達にはまったく症例は見られなかったため、この病はウィルス性の空気感染の病では無いかと検証されている。(資料二十一の通り、現在でもそのウィルスは確認されてはいない)また、受容体刺激剤(アゴニスト)とも取れる受容体を刺激し、神経毒のような致命的な働きをする事がある作用薬のような働きも最近の研究で関連性が指摘され、一部の研究機関では受容体抑制剤(アンタゴニスト)を投薬する実験も試みられていると言う。

 一九七二年に発見されたこの希少病は現在でも徐々に増え続け、二千年には一万人を突破している。(資料二十三を参照の事)この病の国際医療機関への登録以来より、スカイダイビングをするモノには高度四千メートル以上でのダイビングの際に酸素ボンベの使用を義務付けられている(諸国によってはスカイダイビングを法的に禁止している。代表的な国では日本、ドイツなど。アメリカ合衆国ではスカイダイビング協会との論争により、法律締結が遅れている)。

 また別の症例として、この病に感染した患者は一応に託宣を受けると言う。
 有りもしないものを見、聞いた事も無いような事を話すという。これは複数の学者による裏づけも取られている現象であり、隔離した病棟の中でテロを予言した者も居るという。
 また、白痴者のような超人的反復動作や膨大な記憶力、高度な暗算を行う事、一ミリメートルの紙片に絵を描く、百メートルを世界記録と同じ、もしくはそれ以上の記録で走る(注・非公式)などの卓越した思考能力、身体能力を見せる者が数多く見られる。
 快感物質に伴う付随的な効果であると推測される。同じく、公式には記録されていないが、一部の物理法則を破るような(放射性物質を触れただけで還元したり、摩擦係数を零にする)特異な現象を見せる患者もいると報告されている。
 しかし、これらの患者はWHO(世界保健機関)の下部組織に接収され、研究対象にされていると言う。そのため、この患者らのその後の発症の経過、足取りは一切掴まれていない。

 添付コメント:
 前述の通り、司法解剖後もその原因となるウィルスなどは発見されてはいない。
 もしかしたら、これは天上の神に近づいた結果、彼らに与えられたギフトなのかもしれない。しかし、それを抑制、否、使いこなせる人間は居ないようである。もし、患者の彼らが使いこなせるのであれば、彼らは新たな人類として神に祝福されるだろう。
 天使と言う名も患者達の見せる快感物質に伴う穏やかな笑みは、世界の幸福を享受し、受け入れたようにも見える。


 ――トンデモ本百選 神は月の使者である! 救選社より抜粋――

 以上は昭和五十年代に、『宇宙人とのヤヌス信仰』などで流行を巻き起こした照山利一(てるやま りいち)と言う二十冊近いトンデモ本(荒唐無稽な説を持ち出し、飛躍した知識への者好きの購買意欲を高める本)を専門に書き連ねるライターが気紛れに書いた、それほど完成度の高くない、ありふれたトンデモ作品と言われている。
 だが、このライターの名前を同社に電話による取材を行ったが、同名のライターは存在せず、同時に彼が編集者の数名しか顔を会わせていないゴーストライターであり、足取りも掴めないと言う。またその編集者も直接顔を合わせたわけではなく、誰も顔も所在も知らないと言う。そして実際、彼の著作である『神は月の使者である!』の脱稿後に、彼との連絡は絶ち、消息は断たれている。
 しかし近年同社の著書である『航空機事故はアメリカ軍の実験結果か?!』の記事の作成のリサーチ中に、同社の編集者が偶然、一九九六年 七月十八日のあの『大日空航空機墜落事故』の犠牲者の中で、彼の名があった事を発見した。
 歴史的大惨事であり、一人残った少年の行方も当時の人道的報道規制(一説によると生きるために人肉で生き延びたや、あまりのショックで精神障害が見られたなど)により、消息は分からなくなった痛ましく、風化した事件であった。
 この事件では飛行機は空中分解をし、彼を含む乗客三百七十四人は空中に投げ出されたと言う、今は亡き大日空では整備不良と言われているが、同社ではアメリカ軍の衛星からの重力ビーム攻撃である事を主張する。
(中略)
 以上など理由を挙げればきりが無い。
 どちらにしろ、照山氏は天使を見たのか? それは非常に興味深いものである。
 ――『飛行機はインカ文明から存在する!』 民明社より抜粋――



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 どきっ! 血液型で分かる彼との前世からの相性!
 ――ちょっと不思議な女の子のためのオカルトweb のコンテンツより――


「彼の言葉を元に調べてみた結果がこれか……」
 椎音は目元の疲れを解しながら画面から眼を離した。
 唯一の出入り口の扉の前で寝そべる彼。
 再三男児と夜を過ごす事を拒否したにも関わらず、
「いや、僕三十歳以上にしか興味無いので気にしないでください」
 と言い、彼女を引き止めた。
 彼女の未だ不安定な部分でも感じ取ったのか? それともただの気まぐれなのか?
 彼女をこの場に引き止めたのだった。
 こっそり抜け出ようと扉の二メートル手前まで寄れば彼は突然動き出す。下手なB級ホラー映画よりも、よっぽど彼の神経質なまでの感覚の方が怖い。
 仕方ないので開き直って大人しく、触っても彼が何も言わないモノを物色し始めた。
 だが、身元が割れない自信でもあるのか? 彼は何も言わず、色々ガサ入れをしていた彼女もついに諦めて、仕方なく彼のラップトップを弄って、ネットから彼の身元を洗う事にしてみた。
 が、結果は上記の通り、彼があるのかないのか分からない奇病を患っているのかくらいしか推測して分かる事はなかった。
 そして、画面を長時間見た事と、今日の劇的な死境を覗いて疲れたのか?
 瞼はいつの間にか重く、閉じられた。


8 :異龍闇◆AsVGmnGH :2007/04/09(月) 17:03:52 ID:QmuDsJYm

■寂肉狂食■


「椎音さん、あなた、夜半はどちらにいらっしゃいましたか?」
 低血圧のために寝惚けたまま、トーストにマーマレードを塗っていた手をピタリと彼女は止めた。
 しばらく黙ったままトーストを見つめていると、
「まぁ、あなたの事ですから無茶はしないと思います。今日、明日も自宅に帰る事が出来ませんので家事諸々はいつもどおりお任せしますね」
 と勝手に納得して、彼女の母である百合加(ゆりか)はそのまま仕事へと出掛けた。
 扉の閉まる音と共に、母親の発展的な思考力の無さに、軽く、嘲笑した。
 一人娘の最近の行動異常に気付けない配慮の無さ、仕事に託けた養育の放棄に等しい行動。
「どれも失格」
 しかし、どれだけ思考力と想像力があろうと、まさか、現在進行形で国家警察に出頭を、むしろ指名手配として求められている怪人物に飛び降り自殺中に命を助けられたとは、頭の神経がイカレてでもいないと思いつかないだろう。

 あの後も好奇心で彼自身を探ろうと色々と質疑を兼ねてみたが、まるで何処かで訓練を受けた軍人のように名前も、出自も「知らない」やら「君の考えるとおり」だと、灰色の(かお)でのらりくらりとかわされた。
 結局分かったのは、彼が何処かしらで必ず噂になっている超躍者と呼ばれる者だと言う事。変な奇病持ちで、人助けは趣味の領域と言う、些か自身の風貌と比べて言論にそぐわない、気紛れめいた回答を得たのだ。
 その後。「もういいでしょう」と手早く目隠しをされ、気付けば彼女が飛び降りようとしていたビルのエントランス前に明け方に一人佇んでいた。
 あれほど騒がしかった野次馬やレポーター、目に毒々しい色をした赤い消防車や白装束を思わせる救急車は影も形も無い。
 時間と情報は泡沫の飛沫のようなものだとは思っていたが、あれほど騒いでいたものが失せ切ると、祇園精舎の鐘の音でも聞こえてきそうである。

 そこからはいつも通り、歩いて中流住宅街の自宅まで帰ると、玄関の鍵を郵便受けの裏蓋から抜き出し、そのまま浅く眠りを取り、母が起きる前に登校の準備を迎えたのだった。
 本来ならビルの谷間に赤い血溜まりを作って死んでいるはずと考えてみるが、どこぞの奇跡体験のように『九死に一生を得た』ような感覚は無かった。あの時の彼女は死の回避を望んだわけでなく、気持ち悪さを回避したかったのだ。言わば、リセットして死に直したいと言う不真面目で奇妙な意識を落ちている時は味わっていた、と彼女は思っていた。その自身の心象記憶は客観的事実とは多少違えている気もしない訳でもないが、人の思考は連続していると言う以外、その場その場における強い観念に拘束され、思考の幅が変わることを彼女は知っていて、それで良いものと思っていた。言うなれば都合の良い解釈と自分の望む事実に基づいた記憶の改変である。もっと簡単に言えば、気が変わっただけとも言える。
 さて、ここまでは落ちている段階の思考として、実際助かってみたところ、その瞬間に考えていた思考と言うか、目的意識の趣は昨日の段階とはかなりの割合で異なっていた。

 彼にもう一度会いたい。

 彼女の出会った中では唯一不思議とありのままに実感出来る人間だった。
 今まで出会った事象や物事は如何に荒唐無稽でも納得の出来る範囲内のものだった。しかし、かの人物は彼女の理解力の限界を軽く突破していた。
 理解を旨とする彼女は限界を向かえ、飛び降りる事を決意させた。しかし、限界など遥か遠くから、まさに飛び越えてきた男に助けられたのだ。
 そこで、彼女はもう一度決心する。彼を理解してみようと。
 椎音は何故かそこで『愛とは理解である』と言う何処かの漫画の台詞を思い出したが、彼の凹凸の無い顔は恋心のようなものを想起させなかった。
「人間が恋愛の諸症状に陥る際に美醜は重要なファクターだから。それが分からないから、恋心は湧かない、か……」
 美醜とは、所謂、障害と通じる。
 日常の風景から見慣れないと言うのは異常であると言う事。それを肉体面に照らし合わせれば健康ではないと言うことで、それは正常な個体が生き残りやすいと言う自然の原則からは外されるのだ。
 例えば、ある水鳥の一部は遺伝の関係で、上と下の嘴が合わさらずに曲がる個体が出てくる。その際に彼らは自らの摂取するための獲物を曲がった嘴では取りにくいために自然と死滅してしまうのだ。つまり、生物は骨格の正常性や皮膚や部位の統一性で個体の壮健さを示すパロメーターとなり、それを視覚的に判断する。つまり、人間を含めて、生物の大半は美しければ健康、良いものと感じ、醜ければ不健康、あるいは障害の確認できるもの、悪いものと判断する事が多いのである。むろん、人間に限らず、同生物、同種族などでの価値観の違い、生物自体の持つ強い生命の機能を持つために視覚的な状態から不健康と断ずるには要素が薄い場合、また人間に限れば、社会的な役割によって多くの人間に個体差での美醜を超えて、魅了させる人間は確実にいる。もちろん、逆に表面上の美しさがあったとしても精神的、社会的に欠落してしまっている人間はいくらでも居るわけだが。
 身体障害、身体欠損、発達障害、精神障害、病。
 とにかく、それらを『醜い』と感じるのは当然の感覚であり、所謂本能の一種なのだ。だが、それらを公に批判したり、差別、蔑視するのは動物を超えた、人間の枠組みの原則である社会を形成するルールからは外れる。故に、近代に入ってからは社会が人と言う全体の個体生存のために、差別撤廃、社会保障などの活動を始め、通念上の公平さを謳ったのだ。

 と、そんな事をトースト二枚を食べ終わるうちに椎音は考え終わらせると、時計を確認してとりあえず、学校に行く事にした。

 満員電車の中で彼女は揺れる。
 それはまるで水槽の中で個としての根があるのかも分からない群体が海草のように揺れているのと変わらないように彼女は思えた。
 揺れるだけに意味があるなら、個の様相とは偶然の海流の見せた気紛れに他ならない。時代の流れ、人の流れ、個とは何なのかも判別がつかない。
 そんな事をいつも通り考えている時、彼女の腰の辺りに違和感を感じた。
 手を下ろすにしては不自然な位置で、その手は図るように下へ下へと撫でていく。
 身を電車の揺れに合わせて捩るが、一度離れた手はまた暫くすると元の位置へと戻る。
 チラリと後ろを見れば、多少彼女よりは多少大柄な男の気配が感じられた。、
「(痴漢か)」
 彼女は今度は無言で鞄に手を突っ込む。
 その無抵抗な行為を好機と見たか? その手はスルスルと下へ、スカートの上を撫でようとしていた。
 だが、その瞬間に声にならない悲鳴と共に斜め後ろの男の全身が突然弾かれたように動いた。
 直後に男は電車の窓ガラスに顔を無様にくっつけながら、全身を痙攣させている。
 周りの人々は訝しげに、そして迷惑そうにその男を眺めていた。
 彼女は淡々とした表情で通販で買って、更に自力でリミット解除したスタンガンを仕舞った。

 学校に着く。
 公立ながらも進学校で云わば受験の真っ最中であるこの時期は、不思議な緊張感に包まれて何処も彼処も静まり返っている。時折聞こえるシャーペンの音と、参考書を捲る音だけが不規則に音階に並べていた。
「古紫さん、この不定積分の問いについて聞きたいのだけど良いですか?」
「√の二次式を利用しての二通りの解き方があります。そのどちらかが必要か気付きましたら、また教えますね」
 そう言うと、彼女は自らの席について目を閉じた。
 ありがとう、と彼女のいつもながらに余所余所しいながらも的確な答えに満足し、クラスメートの女の子は自らのグループへと帰っていく。
 彼女にとって学校の授業は出席するだけで十分なものなのだ。
 友人と呼ぶことの出来る存在は居ない。昔、自らの僅かな感性を埋没させて組み込まれたグループは家族への愚痴と社会への不満を口にし、それを日々の憂さ晴らしに直結さえていく、彼女とは相容れない存在ばかりだった。彼女は徐々に疎遠となって、そのグループを抜け、以来、誰とも学校以外では表層的繋がりしか持たないようにしか生活しないようになった。
 日常には森林の草花のように、穏やかに埋没するだけでいい。
 そう言えば、今日はあまり睡眠を取っていないし、静かな日常の喧騒の中でしばらく眼を閉じよう、と考えた。

 しかし、その穏やかな喧騒を単車の排気音が群体で引き裂いた。
 ゴッドファーザーのテーマが滑らかに流れ出てくる校門をチラリと窓際の彼女は見据える。

 校舎の三階から窺えるそこには、彼女の目でなくても些かに派手な服装と単車に乗った、あまり頭は良さそうに見えない時代錯誤な連中が居た。
 後五年くらいした後で、自分がした事が恥ずかしくて後悔しないのか?
 そう言う意味では見物の集団だった。

「(下劣で低脳な連中。こんなところに暴れても警察に捕まるだけなのに)」
 彼女の辛辣な思考を勿論露知らず、頭の悪そうな叫びを挙げる。

「うるっぁぁぁ! (たいら)ぁ! 出て来いやぁぁッ!」

 彼女はその名前を聞いて、思い当たる人物、校門とは真逆の教室内、自らの机の隣に顔を向けた。

 彼女よりも先に教室に来て、机に突っ伏して寝ている男の子だ。
「(名前は確か、平 直門(たいら なおと)。出席番号20番。所属部活は無し。一応、成績的には上位クラスにあたる私と同じクラスに居るけど、成績はクラスの中でも並みの部類。ただ言語は相当出来るみたい、なんで国立理系のクラスに居るのかは分からないけど。土方とかの肉体労働のアルバイトをしているとも聞いた事がある。体力もあり、実際運動はかなり出来るみたい。この間の体育のサッカーでは関東大会にも行ったサッカー部員を相手にしてあっさり抜いたのも見たような気がする。シュート自体は決めてはいないが、うちのクラスの決め手は彼が敵をボールを持ったままあっさり抜いたことだったような気がするけど)」
 と彼の事を思い起こしながら、視線を注いだ。

 彼らの声が聞こえたのか?
「んごっ」と声を挙げて、寝惚けてしょぼくれた目を擦りながら、彼は立ち上がる。
 身長は百七十センチと少々。
 大きくは無いと言うか、成長期の少年の中では割と低い部類に属する。
 顔はやたらと個性に欠けている。眉は太くも無く、細くも無く、目も鋭くも無く、かといって垂れているわけでもなく、まるで大量生産のように特徴も、そして表情も無い顔だった。
「もしかして、僕の事呼んでる?」
 同じく昨日今日の寝不足のために、多少眠くてしょぼくれた目をしている椎音は視線を合わせ、ただ頷いて答えた。
「面倒だなぁ」と言いながら、彼は首を両手で押さえて、肩をグリグリと動かす。
「喧嘩はご法度よ、平さん」
 そう言う彼女に「怪我はしないし、させないよ」と言いながら、彼は背中を向けて教室から出て行った。
「(あれ?)」
 その妙に制服を押し上げて張りのある背中に、彼女は何故か既視感を覚えた。



 学区内では進学率の高い公立高校とは言え、ガラの悪い人間と言うのは出てくるものである。
 彼らは彼の学校のガラの悪い連中と少し小競り合いをしていた別の高校の学生達である(学生の本分を弁えているかは甚だ疑問であるが)。彼らは暴力団にも抱えられた人間も居るために、立派な犯罪者予備軍でもあった。

 職員でも、割合、暴力の対処に結び付けられやすい体育教師はまだ出勤していないのか? 警備員の必要性がなく、放置されていた校門と言う境界は既に突破され、彼らの呼びつけていた該当の人物は速やかに取り巻いた。それは狼達が最後に獲物を痛めつけて、じわじわ殺すような、円を描いた囲み方だった。

「で、該当する人物は僕のようなのですが、何か御用向き?」

 余裕を持った口調。
 それは口調だけでなく、『構え』にも表れていた。
 十人近い、ガラも頭も悪そうな団体を目の前に彼は力を抜き、足を前後に軽く開いて、身体を僅かに腹を中心にして捻ったような姿勢だった。手はだらりと垂らし、前に出た方の足に近い手だけが、太腿に添えられていた。
 中国拳法に詳しいものが居たら、それは心意六合拳の使い手の起勢である事はすぐに分かった。起勢とはつまり、初めの構え。ただ単に囲んで獲物を精神的に痛ぶるだけを目的とする彼らとは違い、既に彼は相手に対して拳を使う戦闘態勢を整えていたのだ。
 彼らは木刀などを肩を担いで威勢を見せているが、どれも一度体勢を変えなければ戦闘にはまるで準備出来ない状態だった。木刀を振るために、頭に上げて構え直す、もしくは突く為に正眼に構えるような動作が必要なのである。
 つまり、直門だけは百メートル競走での、よーいは既に終えていて、後はドンだけを待つのみだった。彼はよーいをしている間に、ドンで目の前の相手を打ち殺せる状態だったのだ。
 もし彼らが、彼が脅しも何もなく一足飛びに戦闘態勢なのだと気付く事が出来るのであったら、彼がまともな面構えだけをした狂人だと瞬時に気付いただろう。だが、集団の利と言う蓑で覆われて麻痺した感覚では、その更に下、地にひっそりと隠れた地雷に気付かないほど鈍っていた。
 羊の皮だけを被った飢えた虎に対して、日常に飼い慣らされた狼では敵う事はありえないのだ。
 不用意に近付けば致命傷だと、気付かない。

「てめーか? 吉田をチョーパンで潰した奴ってよ? え?」
「チョーパンって、確か関西方面の方言で頭突きの事でしたっけ? ……あぁ、あれは正当防衛だと思いますよ。相手は武器持っていましたし、訴えられた覚えもありませんし、何か?」
 チンピラの言う吉田とは、彼の土方の職場で色々と同僚に嫌がらせをしていた相手だったのだ。度重なる欠勤の上に、仮出勤した事を強要する男で、バイト連中でも誰か上に掛け合わないとイケナイだろうと言う話しになっていた。そこで、直門は名乗りを挙げて上司に『仔細』を報告して、吉田は即日で辞めさせられた。その腹いせに帰り掛けを金属バットで襲われたのだ。
 その殴打の不意打ちを真っ向からのカウンターで、バッドを持った腕を軽々と反らし、逆に胸へと頭突きを打ち込んで胸骨を破砕したのは一昨日辺りの事だ。心意六合拳で言う所の【虎撲(こぼく)】から【鷹抓把(ようそうば)】の連続技である。虎の怪力を模した腕で内側から相手の中央の攻撃線、もしくはガードを切り開き、直後に鷹が下降しながら獲物を掴むように両肩を押さえて次の攻撃へと移れなくなったところに渾身の頭突きを加えたのである。ちょうど去年の夏辺りにフランスのジダン選手が相手のイタリア人選手に加えた頭突きのような感じだ。無論、そのイタリア人選手のように地面に自ら倒れて力を逃す事が出来なかった吉田何某は胸骨を砕かれて、全治何週間かの重傷を負ってしまったが。
「せーとーぼーえーだろうがんなことかんけーねーよ。ちょっと面貸しな、え?」
「断ると言いましたら?」
「この場で袋だよ。けーさつ来る前に三分もあればボロクズだぜ、お?」
「じゃあ、お断りしますね。この後授業なんです。怪我したら授業も受けられませんし」
「……は?」
 あまりにも拍子抜けした言い方だった。数を見せれば誰しもビビるのが大概の相場である。テレビでもよく出てくる試合でも有名な空手の使い手も武器を持った五人も居れば尻込みをするし、ある護身を謳っていたある武道家も彼らの前で震えながらお金を差し出していたこともあった。あわよくば、先制したとしても五対一である。前後、左右、遠巻きに一人。逃げられる事は酷く難しい上に、一撃で敵を倒す手段でも無い限りは後ろからの奇襲などを食らうために撃滅などは不可能である。

 そんな中で直門はぼんやりと、少し視線を下に外したような感じで主要にやりとりをしている。一番手近な相手を見ていた。実際は鎖骨の継ぎ目あたりを見て、肩がいつ動くか、攻撃をするかを観察していたのだ。
「後にも先にも袋にされるつもりは無いですよ。昔から頑固なもので、正当防衛である事は明白ですからこれ以上の争いは御免被ります。それから、」
 次の瞬間、斜め左後ろに飛び込みながらくるりと振り返った。
 そこには不意打ちをしようとバッドを掲げて、何が起こったのか分からずに立ち尽くす男。
「これからも一貫してその主張は変える気はないです」
 男は動けない。当たり前だ。胸と胸ががくっ付きあうほどの近距離でどうしてバッドが振れるのだろう?
 直門の身長は高くはない。そのためか、自然と太腿辺りにぶらんと添えられた手が、男の股間の急所に最短で到達するようになっていた。バッドを振るために下がれば、踏み込みながら確実に手を開いたまま、裏拳のように下から突き上げるような打撃を一番痛い場所に食らわされるだろう。いや、下手すれば骨盤が砕けるかもしれない。この至近距離でありえるのか? いや、ありえるのだ。その説得力を流れるような体捌きで見せたのだから。
 逆にこのまま胸を擦りあう距離に居たとしても、そこからチンピラ達にはどうすることも出来ないのだ。逆に直門は零距離から肩で相手を打ち抜く靠と言う技術を知っていたため、無理に殴ろうと拳を振り被ればその間に逆に打撃を加える事が出来た。
 喧嘩の経験のある彼らにはそれくらいの事は単純に分かった。助けようにも、得物を振れば仲間に当たるし、掴みかかろうとしてもさっきのような、『隙』の無い歩法で零距離まで詰められるはずだ。
 近過ぎる間合いだと、柔道などの組技でも逆に使いにくい事ともなる。足を掛けようとすれば、逆に直門はセオリーどおり、そのまま『足を掛けるために片足になった相手』押し倒す事は目に見えていた。
 そして、どの攻撃も前述の【直進勁】によって威力は折り紙がついている。故に、下手に金属バッドをフルスイングして殴るより、彼がくっついてから打ち込んだ方がよっぽど痛いのだ。

 しかし、一連の高等技術も見た目からはただ単に後ろからバッドで殴ろうと相手にくっ付いただけで、そこまで見破れる人間は滅多に居ない。
 だが、一連の動きがあまりにスムーズだったためにそれがど素人の彼らでも予測、いや今度こそ、地雷の確かな恐怖を感じ取る事ができた。
 超近距離での打撃戦のエキスパート。それが真の中国拳法での闘いを会得した者の戦闘方法だった。
 踏むことなど、出来ない。
「『何も無ければ』、僕は次の授業があるので帰らせていただきますよ。あー、もし何かあるのでしたら後から、駅前の『シャローム』もご連絡ください。僕はそこの『関係者』なので」
 ニコリと特徴の少ない顔を僅かに破顔させると、そのまま身体を揺らさず、足音も微塵も立てずに普通に歩いて校舎へと戻った。
 呆けた彼らは何か毒気を抜けさせられたかのように、「シャロームつったらあれか?」「あそこの喧嘩屋の知り合いかよ?」「どっちにしろかかわっちゃいけねーんだろうなー」と自然と納得して、来た時より一層悲壮なゴッドファーザーを流しながら退散していった。

 彼が校舎に戻る途中、下駄箱の前に佇む彼女、椎音に気付いた。
「何か? どうやら人違いだったとこれから職員室に報告してきますが、来ますか? 証人がいらっしゃるとありがたいので」
 面倒事は御免被ります、と彼女は首を横に振る。
「上手く煙に巻いたようですけど、彼らのような人種はしつこいと思いますよ? また何かしらの因縁を付けてくると思いますが?」
 彼は上履きに履き替えながら苦笑した。
「まぁ、暴力を振るえば、多少の因果はついて廻りますよ。それぐらいは当然のことです。それにここで暴力を振るえば、僕にも彼らにも余計な縁が付きまといますからね。まぁ、別の因果で打ち消したのつもりなので、まぁ、余程の事がない限りは彼らは交わらないでしょう」
「……私は唯我論者では無いですから、因果なんて理解出来ても、納得は出来ません」
「それも真理です。人の数だけ正しい事はあるんですよ。個人が納得出来て、他人に迷惑が掛からなければ導き出す過程はどうあれ理想形ですね」
 そう言って彼女を横を摺りぬけると、
「……ねぇ、勧善懲悪って、正しい事だと思う? 『リ〜パ〜さん』」
 斜め後ろから彼女は問い掛けた。
 彼はそれを表情を変えず、チラリと見て首を傾げると、
「さぁ、そんな事を続ける人は恐らくただの自己満足だと思いますよ。古紫さん」
 そう言って、二人は視線も言葉も一度も交わす事も無く廊下を行き、教室と職員室へとそれぞれ分かれた。


9 :異龍闇◆AsVGmnGH :2007/04/13(金) 18:26:52 ID:QmuDsJYm

寝叛惹生(ねはんじゃくせい)


 澱みの奥、闇の敷居で何かが蠢いた。
 次の瞬間、元は暗黒の底にあった六畳半の部屋が光に満ちた。全ては壁に備え付けられた十四の液晶ディスプレイの輝きであり、それぞれが別々のオペレーションシステムで動いている事は明白だった。白いタイル床は小奇麗にされているが、所々に血痕のようなものが落ち、拭った後が見られた。
 その中心、黒い皮張りの椅子に、同じく全身が黒い男が身を預けていた。
 その顔は一昔前のレンズが緑に染められた防毒用のマスクで覆われ、ひょろ長い全身は指の先から足の先まで光沢のあるゴムのスーツで覆われていた。全身を、黒いゴムのスーツで皮膚呼吸すら『封印』したような者がいた。

 液晶ディスプレイに写るのは訪問者の姿。それが無害な人間だと確認すると、いつもは複数のロックを掛けている扉を全て開けた。

 薄暗い空間に今の光量よりささやかに強い光の筋が差す。
 六畳半の世界を外界と繋げる扉には灰色の男が立っていた。
 扉が閉まり、再び外界と閉ざされて暗くなる空間。
 黒いゴムスーツの男と灰色の貌の無い男が対峙した。
 暗い中で、久しぶりに会った感慨が何かなのか、お互いの怪しい全身をを見詰め合う。
「やぁ、毒蟲(ヴェノム)元気にしているかい?」
「ははっ、相変わらず息災だよ。超躍者」
 ゴム越しにも関わらず若く、快活な笑い声を毒蟲は響かせると、その声に反してよろよろと掌を返して床を指し、座るように促した。
 超躍者は無造作に椅子の前に胡坐をかくと、背後の雑嚢(ナップザック)から帯び付き万札の束をごろごろと逆さにして取り出す。
「いつも通りの情報料だよ。これで三ヶ月分は足りるはずさ。しっかり外貨に換えてから洗っておいたから足は付かないと思うよ」
「昨日の暴力団からあの政党に流れていた裏金を回収したのか……。ひいふうみの、二千万くらいかな。そう言えば、上海のベンチャーが投資口を探していたな。そこに入れてみるかな。彼らも表に出さないで裏で転がすなんて勿体無いね。まぁ、その裏での転がし方もお世辞を言っても上手くないけど」
「バブル当時とは違うからね。金に物を言わせるのは限界なのさ。最近は何処も悪事をするにも財布の口が堅いみたいでね。こう言う時こそ毒蟲みたいに先行投資する方が利に適っているのにね」
「……私に情報料を払うより自分の学費に投資した方がいいんじゃないかな? 私と違って、君は学校に行ける体だからね」
「うーん、僕は公私混同はしない主義なんだ。これは僕のささやかな趣味。それに日の当たっている場所に団子蟲を持ち込む奴はいないだろ? ん、何だか例えが悪いな、むぅ」
 毒蟲と呼ばれる男は、いや、言いたいことは分かるさ、と言うと、机を指差して金を置くように指示した。
 超躍者が金を積み終えた頃には、それぞれのディスプレイには海上保安庁や海上自衛隊の独自のラインからバイパスしてきた密航企業の情報、米国の軍事諜報網エシュロンから更にバイパスを重ねて取り出した電話などの記録のデータベース、暴力団がやりとりしていたスクランブルの掛かった無線、政治家が利用している携帯の音声記録、某有名料亭からの盗聴記録、都内の有名ホテルのスィートに極秘に仕掛けられたカメラなど、総括して言えば、あらゆる日本の黒い情報が十四のディスプレイに写っていた。
 それをそれぞれ吟味し始める超躍者。

 彼ら二人の関係は三年ほど前から始まっていた。
 『ある病気』に関わるアンダーグラウンドのウェブサイトを通じて二人は知り合った。毒蟲は超躍者になる以前の彼を、彼が関わる前からヤバイ山に個人的に関わっていたのだった。表に出る事の出来ない体は自然と室内でも出来る仕事へと傾倒していき、発症以前に作っていたサイバーコミュニティーから彼と彼の仲間は独自の路線を歩んで今の独自の、そして巨大な情報網を作り上げた。組織犯罪、特にお金になる業界に置ける明らかな黒ゾーンの癒着や麻薬関係、談合、総会屋に探りを掛け、外部から告発を仄めかして強請りで儲ける事を続けた。時には実力を行使して公営放送を掌握して犯罪を明るみにするなどの行為で儲け、また取り入れた非公式の株情報で莫大な財産を築き上げたのだ。そして、資金力で日本の殆どの総会屋を圧倒する頃には徐々に犯罪抑止の路線へとシフトしていった。既に絶大な影響力を持っていた彼らは法曹や警邏組織とも既に司法取引を済ませ、まったくの御咎めなく合法違法を問わずに情報の傍受を様々な手段で行い、外部告発を仄めかす事で犯罪を抑止する、サイバー界での法の番人へと成り上がったのである。
 まったく足が付かない、もしくは付いたとしても上層部の意向で存在自体を揉み消されてしまう事から、彼らの事を僅かにでも知る人々は足が付かないことから無足(ノーフット)などと呼んでいた。某巨大掲示板でも、無足である事を語って恐喝を繰り返していた嘘吐き存在を、逆にクレジット番号から出身の小学校まであらかた挙げてしまった事から、サイバー社会では畏怖されている存在だった。
 超躍者、もとい当時は、ただの平 直門だった彼に出会ってからは彼の強い意志を汲み取り、装甲服などの裏からの購入をし、より『超躍者』として相応しい活動を始めるための支援をした。あくまでそれはギブアンドテイクの関係である。
 そのために彼らの情報網を掌握、破壊しようしたある国外サイバーテロリスト組織を最初の仕事で超躍者は『物理的に』壊滅させた。それ以後も、当時迫っていたある組織からの足取りを消すために、更なるコンタクトを取ってきた彼を行政への介入によって身分保障したりやら今日のような、彼らなら歯牙にも掛けない犯罪者の情報の売り買いをする売り手と言う形で支援したり、または、彼の『日常生活の方』の保護者として関わっていた。無論、彼は病気とその症状のために部屋を出る事は並大抵で無い用心が必要なので、仮の代理人である女性を、彼の母親役として雇っていた。勿論、彼女は彼らについては何も知らず、面談などの際の代理として活躍し、また興味も無いので良好な関係を保っていた。ちなみにその母親役の、超躍者の親の年齢と比較すれば明らかに合わないような女性が超躍者の中ではかなり好みの部類に入っていたが、「仮にも親子の関係になっているものが別の関係を持つのは不味いだろ?」と毒蟲に窘められているので我慢していた、なんてのはどうでも良い話である。

「そうそう、君の事を最近嗅ぎまわっている、一般人の女の子がいるらしいんだ。あんまりうろちょろされても困るからね。君も放置するのは良いけど、くれぐれも『奴ら』の網には引っ掛からさせないでくれよ。警察や官庁機関ならともかく『奴ら』には私達は情報網だけでは対抗出来ないからね。彼女の身の安全のために、早めに確保した方が良いと思うよ」
 何となく、彼には想像がついたが、とりあえず、その彼女の名前を聞いて見る事にした。





「始めまして、古紫 椎音と申します。現在、城北大学の情報社会科のリサーチのため、一個人が社会に影響を与える割合を調べているのですが、大手旭川新聞社様はどのような見解をお持ちでしょうか? ……なるほど、個人の中で最も影響を与えているのはやはりここ二年程の間に騒がれている超躍者と言う存在ですか。ところで、これは個人的な質問ですが、彼個人を旭川新聞社様、いえ、優秀な社会面のホープである種島さんは特定をしているのでしょうか? その辺りを、少しお聞きしたいです……」





「……まぁ、想像はついたけど、ここまで当たるのは何だか嫌だね」
 予想された名前とどんな手段を使ったのかを聞いて、貌の無い仮面の下で同じく普段は表情の乏しい顔面を歪ませた。
「彼女は何処まで迫っているのかな?」
 ふと聞き返して見れば、毒蟲がディスプレイを見ながら読み上げた人名はなんと少なからずとも、毒蟲自身とネットワーク上で交流した事がある人物が多数混じり、彼の足跡に徐々に迫りつつあるのは明白だった。
「ここ数日、特に以前私と接触した事のあるこの種島さんから何らかの情報を得てからの伸びが凄まじいね。その後の接触は五人中四人ヒット」
 つまり、五人の内、彼の足跡を辿れる人物に四人も接触出来たわけである。
「探究心と言う点で素晴らしいけど、接触の消し方は六十点未満だね。こう言う人物調査は長い時間を掛けて、外堀の人物から埋めていかなくちゃいけないんだ。もしくは買収して口封じしておかないと背後に何が居るか分からないから、なーんてね。学生じゃ金をばら撒いたり強請るのは難しいかな? まぁ、そんな事していたら私みたいな人間になってしまうだろうけど」
 そう言って、毒蟲は灰色の男をちらりと見たが、当の仮面の本人はどうでもいいと言うように他のディスプレイの情報を暗記していたが、ふと、一つの画面の中央、携帯の音声を文字化した情報に釘付けとなっていた。

 中央に書かれた言葉は『ABC』の三文字。
 つまり、ある携帯の電波に『ABC』の三文字だけが音声として発せられたのである。

「気になるのかい?」
 そう聞く毒蟲に僅かに落ち着きの無い所作を見せながら頷いた。
「同じプリペイド式の携帯へと発信されたであろう局に解析難儀なMACDコード(四次元バーコード)のデータが受信された。一応受信者は洗ったけど、架空の人物。現在付随されていた暗号の解読を急いでいるけど、『ABC』に関わる事は題名通り明白だろうね」
 彼の手甲の奥、鷹の爪のように鍛えられた指先が拳を作り上げる。
「ようやく近づいたのかな?」
 落ち着いた声と無貌とは裏腹に、言葉の芯には針のように力が凝縮され、ABCの三文字を穿とうとしているのは確実だった。
「分からない。でも、情報は常に動いている。何か東亜細亜圏内で動きを見せれば、私達の網にはどんなに些細でも掛かるだろうさ」
「…………」
 気、気配。ただ人の印象などを変えるだけの決して物理エネルギーすら持たないはずのそれが、磁力のように灰色の衣も周りを取り巻き、空気と全身を禍々しく歪ませていた。殺意が彼によって形を与えられているような、途轍も無い光景。
 彼の耳に聞こえるのは、あの阿鼻叫喚と灼熱、墜落の暴風の中で聞こえる怨嗟の声だけである。
 普段、感情を出さない彼だけに、それはドス黒く、同時に底冷えするような禍々しさと怖さを孕んでいた。
 仮面の下でキリリと歯が音を立てて噛み締められる。
「逸る気持ちも分かるが、二年前の愚考を繰り返したくないなら早く家に帰って練習でもして寝るんだね。頭を冷やさないとまた繰り返すよ」
 その言葉で彼の周囲の空気の揺らぎが消え、薄い暗闇に相応しい静寂が満たされた。
「帰るよ」
「あぁ、そうだ」
 扉から出て行こうとする灰色の彼に毒蟲は白い紙袋を投げた。背後からにも関わらず振り返らずに超躍者は片手で受け取る。中には金属ケースで囲まれた注射針と人体に何らかの影響がありそうな紫の液体が入っていた。
「四十八時間以内の投薬を忘れるな。症状は沈静化したとは言え、君は未だ第二段階の発症者扱いだよ」
「分かってる。高い金も出して研究機関から薬をちょろまかして貰ってんだ。恩に着るよ」
 ピッと額から人差し指と中指を超躍者は投げかけ、そのまま部屋は闇へと還った。
 静寂。
「『ABC』、か。掴むのは彼らが先か、私が先か……」
 そう、言い聞かせるかのように言うと、彼は革張りのシートに添えられたキーボードを持ち出し、静かに、しかし、十分な速度を出してコマンドを打ち出した。


10 :異龍闇◆AsVGmnGH :2007/04/20(金) 12:23:00 ID:QmuDsJYm

規制人類(きせいじんるい)


 鈍い音を立てて、真夜中の高架下に安物のジッポライターの灯りが点った。その先に縮れた手製の紙煙草が灯りを分け与えられ、二度三度灯りを明滅させて紫煙が吐息と共に出ていた。
 僅かに見える灯りには目に光の無い、四十代くらいの男だった。いや、四十代と言う顔のみの外見に対して、百八十近い身長が壮健さとガタイの大きさに見合わない軽快さを思わせた。そんな男が咥え煙草のままくたびれたトレンチコートを引っ掛けて高架の柱に背中を預けていた。ジッポライターを戻す手、指が長く、それでいて太い。何をすればこんな手になるのだろうか?
 男の刻まれた皺に隠れて、首元などにはナイフ痕や銃創が垣間見えた。つまり、『そう言う』人間だ。

座天使(トロウンズ)のカマエルさんですよね」
 高架下に突如現れた中性的な声と何者かの気配。ちらりとカマエルと呼ばれた男が色の無い瞳を向ける。
 そこにはその声に似た髪の長い中性的な男が立っていた。細い顎に華奢な痩躯。ダブルの紺スーツの中を通した背は非常に高いせいか? 空中にハンガーを掛けたようにも見える男が立っていた。
「ハシュマルから派遣させれた主天使(ドミニオン)ラグエルだったか? 粛清専門の若手が俺みたいな半端ものに何のようだい? 俺でも粛清(つぶ)すんのかい?」
 その皮肉な彼の物言いに「いえいえとんでもない」とニコリと笑い返すラグエル。
「最近、鼻に付く不穏分子が居るので、粛清を行っていただきたいのです」
「例の超躍者か」
 口元の紙煙草が喋りに合わせて揺らめきながらも明滅が続く。
「今年度より天使均衡機関(Angel Balance Community)の最高使徒であるメタトロン様は離反、もしくは従属していない者達に裁きを加えるように勅令があったのです。その命の日本での適応第一号として彼が選ばれましたので、こうしてMACDコードを通じてあなたをお呼びしました」
「はっ、年明けから一ヶ月もしない内にえらく忙しいこった。で、同じく半ば離反者でもある俺に何でまた超躍者を倒す命が出るんかね? 粛清逃れの交換条件ってやつか?」
 針金のような男はついにニコリとした笑みから金属を歪めたような笑みに変えた。
「それは簡単です。あなたが近接戦のエキスパートだからです。日本国内で現代兵器でドンパチをやらかすと流石にABCの強固派であられるメタトロン様と言えど、他の派閥からの弾劾は煩いですからね。しかし、例え、アザゼル様の派閥のカマエルさんと言えど、現在の主流はメタトロン様ですから、これ以上劣勢にあられるアザゼル様の首を絞めたくないのであれば支援すべきですね」
「……興味はねぇな。だいたいからして最近相手にした奴はどいつもこいつも腑抜けばかりでな。ウリエルあたりにその命を渡してみな。あの殺人狂なら喜んでやりそうだぜ?」
 僅かな煙草の灯りに照り返され、高架の柱にラグエルの影が映る。その形相は如何にも悪魔にしか見えない。
「いえ、彼女は療養中です」
「療養?」
「ここ三年の足取りが掴めませんでしたので中々報告出来ませんでしたが、彼女は二年前の超躍者との交戦から未だ意識が戻っていません」
 カマエルと呼ばれた男の眉毛が上がる。
「ほぅ、俺もあのイカレ女を多少は使えるようにしたつもりだが、超躍者は意外にやるみたいだな」
「では続いて良い事を教えますと、彼、超躍者と彼方は『同門』です」
 直後、ぎしりという歯軋りが響き、煙草のフィルターが千切れて地面へと落ちた。
 同門、それは中国武術の言葉で同じ流派を意味する言葉である。彼らの行う武術は伝承者が少ないため、同門を指せばそれは師がほぼ一人であると意味して差し支えはない。それは『直進勁』を主流で行う流派は限られているからだと言う理由がある。
「まさか、奴が老師の閉門(最後の)弟子だと言うのか?!」
 カマエルは口に残ったフィルターを吐き出し、落ちた火種を忌々しげに踏みしめて消す。
「ええ、彼は彼自身の最後の弟子の手に掛かって死んでいるとの事」
「…………」
「あの『事故』でも彼方の老師は生き残り、その生死の境の際、その全てを生き残った彼を伝えたようです」
「秘伝套路、十形聯意を……」
 次の瞬間、高架下近くで今まで消えていたはずの電灯が明滅を始めた。同時に空気中を裂くような音と共に、彼の身体の周りを白い電光が閃く。それは彼の体から漏電、いや、放電でもしているような様子だった。
「ふふふ、仕損じないでくださいね」
 悪魔の笑みが彼から漏れる雷によって映し出された。



「【起勢】、」
 次の日の昼、校舎の屋上、通常では入れない場所に彼は、直門は居た。
 自らの口を突いた言葉と同時に身体は自然に、この間の不良に取った構えと同じ形を見せていた。
 両足は前後に開かれ、腰は前を向きながら腹で片方の肩を地面と平行に出す半身を取り、出した前足と同じ手は反対側の腰に添えられ、奥の手はその下に添えられていた。
「【双把】、」
 腰に添えられた両手がそのまま彼の顎の高さまで一直線に伸びる。さりげなく、一歩踏み込みながら後ろ足からの【刮地風(かっちふう)】、蹴りも忘れていない。
「【飢虎撲羊(きこぼくよう)】、」
 顎を打つ動作であろう形から、蹴った足を次の一歩へと踏み換え、反対の足で大きく踏み込みながら、顎を打ったであろう両手をそのまま打ち下ろした。それは言葉通り、大爪を持つ飢えた虎が羊に飛び掛って撲殺しているようでもあった。前足側の腕の肘が胴体に、後ろ足側の手首が腰に添えられている。下腹部から大木の丸太を切り口から両手で添えながら押し出しているようにも見えるそれは、見えないはずの直進勁の威力を露骨なまでに顕にするようだ。
「【飢虎撲羊】、【挑領】、」
 再び、その形から両手を振り上げて【飢虎撲羊】をすると、次は体がまるごと沈み込んでからあの腕刀を斜めから叩きつける【挑領】を出した。天空まで届くような腕刀が空を切る音を出す。
「【跳躍鷹捉】、」
 【挑領】で出した手を静かに、頭をまるで揺らさずに前進と共に引き寄せながら、胴体の脇、肩、耳を撫で、その手が頭上へと向かい頭からほぼ離れると同時に、音を立てずに、そして体をブレさせずに跳躍を行うと、着地と同時に身体を沈めながら腕を振り落とし、頭突き、同時に両手は相手の肉を掴むかのように閉じられた。それはまるで空中から反転した鷹が獲物を降下しながら掴むかのような動作である。
「【単把(たんば)】、」
 【鷹捉】の頭突きと掴みを加えて、股関節から倒れた胴体を起こすと同時に、両手を両脇にほぼ垂らして片方の手の腕に指先を添えながら、添えてない方の手の二の腕を心持を下ろす。そこから上腕が跳ね上がり、開いた掌が耳の横に並ぶ。瞬転、直線的に彼の胸の位置までを掌が走る。直後に破裂音。耳の横に並んだのと反対の手が、胸元に到達した手の甲を腕を滑りながら打った音だった。
「【龍盤】、」
 次の瞬間、彼の身体はとぐろを巻いた蛇か何かのように身体を捻りながら、胴全体を地面へと下ろした。それぞれの手は胴で根元から交差しながら、片手は顔をガードし、もう片方はガードした腕の下を通り、相手の腹でもえぐるかのように指先で現在は虚空を突き刺している。
「【反身飢虎撲羊】」
 くるりと胴体を縮めた状態から、真後ろに伸び上がり、再び同じ動作で、今度は反対側の套路へと続ける。

 彼がその身で表現しているのは心意六合拳の基礎套路である。套路とは空手で言うところの型であり、攻防の流れと個々の技を連結させて、門派の風格を覚える為のものである。
 心意六合拳には著名な四把推と言う套路がある。把は技と意味し、四把とは頭、肩、肘、拳の四つを武器とすると言う意味の套路だが、彼やその師匠はその套路自身の流れや套路の根底に流れる思想がブツ切れのために好んではいなかった。むりやり四つの技を入れたような形であり、一貫性が無いのだ。彼の師は「まずい炒飯(チャーハン)みてぇだ」と言っていたがまさにそんな感じである。おそらく他流に技がバレないように適当に詰め合わせたものなのかもしれない。そのため、彼らの大師がおそらく研究、発展させたのであろう独自の套路を使っていた。
 左右を入れ替えながら、彼は何度も同じ套路を繰り返す。その動きは一つ一つ確認するように止まりながらも、止まる時は昆虫が何かの拍子にピタリと動きを止めるようでもあり、次の動きまでまるで遅滞はなく、更にブレも無かった。透明な、それだけの容器にその瞬間だけはめ込まれているように同じ形を繰り返す。
 一般的な心意六合拳、いや、ほぼ全ての中国拳法と同じように、踏み込みと同時に力が出るのではなく、既に立った状態で力が出ているのである。懸命な方なら覚えているであろう、『直進勁』の事である。山東省の形意拳の一派や一部の太極拳でも似たような勁の使い方をしている時がある。
 彼自身の解釈では、胴体より後ろ側にある足がその全体重を支える事で、その足から受けている斜めの反力として足に伝わる。それが胴体よりも後ろに足があると言う事で斜めの下の前に倒れると言う事で、斜めの二つのベクトルが合成されるのである。つまり、全体重を効果的に支える。云わば、立つだけでいきなり予想もしない前方ベクトルを発生させるのが彼らの門派が使う勁力なのである。無論、それにその力の方向を合わせるために筋肉の流動による勁道の微修正を加えて打っているわけだが。
 【氣】も何も無い。ただ単に物理的に検証できるものなのだ。神秘は無い。それでもそれを成し遂げる、人間の精密な意識と日常の鍛錬がその技術を生み出すとすれば、その日常の研鑽自身が奇跡と言えるだろう。それが【内功】、【功夫】と呼ばれる。しかし、彼らの体内で生まれる力、予想もしないベクトルを【氣】の作用だとかと言うように根拠も検証も無しに言う者や勘違いする者、もしくはその神秘性の意味を失ったり、弟子が強くなる事を恐れて誤った伝承をさせる者など様々な誤謬が中国拳法、いや武道の世界には溢れているのだ。しかし、近年のインターネットによる情報公開と伝承が完全に失われる事を危惧した先達が自ら、その秘伝と言われた技術を公開しているのである。しかし、大抵は巨大な組織の無意味な方針に付き合う事が出来ず、または伝承を幅広く伝えられないほどの小規模だったり、インターネット上で巨大派閥にこき下ろしにされたり、別の中小規模との些細なトラブルに巻き込まれている事が多々にある。
 先にも彼が仮に属させてもらっている会派の一派と関西の中国拳法の一派がトラブルを起こしたらしい。
 彼の兄弟子にあたる、彼の武術に関しては面倒を見てもらっている会派の会長自身は呆れ、もう面倒ごとを避けようと殆どの交流を断って塞ぎ込んでいるらしい。
 無論、それを受けてそのシンパ同士が激しくネット上で匿名を介して攻撃しあう事があったとかなかったとか。

 彼自身は思う。僕らの体には神秘が溢れているのに、何でそれに皆は気付かないのだろう? と。なんでこんなくだらない事を続けるのだろうと……。十分な根拠のある批判は良い、だが、根拠のない否定は違う。
 そう思いながらも、地味に見えながら、見る者が見れば職人芸のように滑らかな技の数々を披露し続ける。おそらく人によっては五体倒地してでも習い請いたいくらいのものなのだ。



 ぴたり、と始めの起勢の形に戻ると、そこから気を付けをするかのように動きを収めてから構えを解いて、いつも通りの形のない、しまりがなくフニャフニャとした平 直門へと戻っていた。
 なにやら感じる視線。
 反射的に校舎内と屋上を行き来する扉を見た。そこには窓枠から隠れる事が間に合わず、僅かに引き攣った顔と体勢でこちらを見つめる椎音が居た。
 彼はため息を吐くと同時に、逃げる事を諦めた彼女は何処からか持ち出したのか、合鍵で屋上の扉を開けた。
 後ろ手に閉める彼女から逃げ出す間もなく詰め寄られた。

「勝手に屋上にいるのは校則違反よね」
「勝手に合鍵を作るのは違反以上だね」

 彼女は別に気にしないわ、と言うようと反対の手の袋から玉子サンドイッチとチョココロネ、焼肉おにぎりを取り出した。
「何、これ?」
「お昼、食べてないでしょ? 直門君はいつも、その水筒で何か飲んでるところしか見た事がないし」

 それはホエイプロテインとクレアチン、ビタミン諸々を混合した無駄に甘くてくそ不味い飲料なのだがどうでもいい事だった。

「何? 僕に興味でもあるのですか?」
「……そうね」
 眼を細めてニヤニヤと、普段意識して見せない笑いを見せ付けるかのように唇を歪ませる彼を、逆に粉砕する小さな笑顔。
 なるほど、『対象外』でも笑えば殆どの女の子は可愛く見える。特に普段は無表情な顔の子こそ。

 やれやれ、今回は負けました、とばかりに肩を竦め、屋上とを繋げるドアの横に彼は座った。ここなら多少北風が当たっても大丈夫なはずである。
 その横に彼女も座る。

「ちょ、距離、近くないですか?」
「? 寒くないの? 風が当たるからそっち側にいてよ」
「無理やり誘っておいて、今度は防風林扱いですか?」
「いただきます」
 パリパリと音を開いて先に包みを開ける椎音。
「て、無視ですか。と言うか僕は玉子サンドなのにそっちは竜田サンドって格差が激しいのですが」
「ただ飯に文句は言わないのがセオリー」
「と言うか、こんな寒いのによく外出れますね」
 彼女の口に合わせて小さく齧られたサンド。
「コーンポタージュがあるから」
 確かに指を指した袋の中には『あったか〜い』の品揃えにありそうなコーンポタージュがある。
「なるほど。……あ、僕、肉類好きじゃないので焼肉おにぎりどうぞ」
「でもプロテインは取っているじゃない」
「あー、肉の触感とかが苦手なんです」
「意外ね」
 そう言われた彼は済まなそうに、今度は意地悪くなく微笑むと、久しぶりに昼間に噛み砕く必要のあるものをモノを口にした。

「さっきのは、何していたのを?」
 あんなに小口で食べていたのに、先に包みを開けたにしては早過ぎる速度で彼女は食べ終え、まだ咀嚼途中の直門に訊ねた。
「武術、素手での格闘技の練習をしてました」
「試合の?」
「いえ、うちの門派に個人の技量を他人と争うような大会はないです。確か、技の技量を見せるだけの大会、表演はありましたが、僕は興味は無いです」
「実戦のため?」
「……まぁ、そう捉えていただいて構わないです」
「戦うような事があるの?」
「人生は戦いの連続ですよ。別に殴りあわなくとも集中力を高めるためにちょうどいいのです」
「そのわりに成績は良くない。成果出てるの?」
「バイトで忙しいんです。苦学生ですから。それに僕は進学するかはまだ悩んでいる途中です」
「この時期で? それに自分から苦学生なんて言うのは反則。勉強なんて、しようと思えば何処でも、いつでも出来る」
「そうですね。じゃあ、僕は勉強に向かないんですよ。趣味に生きる人間ですから」

 空っ風。渇いた空気が流れる。直に風が当たる彼から汗の臭いが彼女に流れた。

「男臭い」
「そりゃ、男性ですから。でも僕はよく運動する方なのであまり臭くないと思いますけど?」
「ふーん」
「興味無しって感じですね」
「普段、家に男の人は居ないから、そう思っただけ。確かにそうかも」
「まぁ、僕も普段女性と一緒にいる機会はあまりありませんから、……って少しずつ嫌な顔をしながら離れないでください! 飢えてませんよ! 何もしませんよ! 対象外ですよ!」
「失礼な人、自分で言うのも何だけどこれでも十派一絡げ、とは言い難い容貌ですが?」
「古紫さんが十派一絡げかは疑問ですが、美醜とは関係ありません。ただの好みの問題です」
「……まさかいわゆる二次元の女性じゃないと興味が」
「僕は至って正常に現実の女性が好きなんです」
「へぇ。じゃあ、そうね。現実の女性として扱う手段として私の事を名前で呼んで」
 微かに目を見開いてみる直門。普段、表情が乏しいだけにそれが椎音には楽しく感じた。
「(私があまり笑えない理由とは違うのだろうけどね)」
 椎音は悪戯めいた唇を描いて、必死にクラスメイトの名前を思い出そうとする直門を見つめる。
「えっと……、僕は年上属性なのでパス、って、手でバツを作られても、……あー。古紫、し、……。古紫椎子さん」
「無駄に口調が自信満々だけど外れ。ペナルティ十」
「ちょ! じゅ、十って、ペナルティ大き過ぎです!」
「自信がないなら改めて訊けばいいでしょ?」
「えー、じゃあ」
「椎音。椎茸栽培に使う大きな樹の椎に、音楽の音」
「椎音さんですね。次からは間違えませんよ」
「どうだか。あなた、名前の覚え方とか適当そうだもの」
「むっ、遺憾。人に対してどうしてそんなイメージ持っているんですか?」
「そうそう、超躍者って人、どう言う訳か、私の『苗字だけは』知っていたみたいよ。私、身分証明の生徒手帳や定期も、名前も自分は全然名乗ってないのに」
「…………、偶然って怖いですね」
 そう言えば、質問か何かに答えようとした時に苗字をうっかり言ったような、彼は気がした。その時は何も突っ込まれなかったので杞憂だと思っていたが、此処に来て突っ込まれるとは思いもよらない。
「そうそう、それも含めて、ペナルティは忘れないで何かしらで返してね」
「君、黙っていて色々親切に人にはしているけど、意外と性格悪いんだね」
 そう毒づくように言われて、椎音はどう感じたのか。無言でポタージュの缶を開けると僅かに顔を赤らめて飲みだした。

 灰色の空をそれより僅かに濃い雲が流れる。
 平 直門、もとい超躍者は名前がバレた事はどうでもいいのか、ぼぅとその空を眺めている。
 同じ方向を霞んだ瞳で見つめていた椎音の唇が動く。

「……イキナリ質問するけどいいかしら?」
「『個人的な』質問でなければ、別に構いませんが? 授業まで後二十分弱はありますし」
「こんな事を訊いて、痛い子だと思われたらそれまでだけど……」

 ヒリヒリと焼け付くような外気ともう冷えかけた缶を指で弄ぶ。彼女は口を噤み、伏目がちに彼を横目で見つめた。

「生きているってどう言うことかな?」
「それまた難しい、哲学的な話ですね」

 雲が風で流れている。引いた汗とひんやりとした校舎の壁のせいで彼は一度ブルリと震えた。

「生きる事は日常で生活する事です。好きな食べ物を食べて、好きな運動をして、次の日のために働いて、グッスリ寝る。生きているってそんなもんじゃないですか?」
「…………」
「もっと古紫さんの好きな表現で言うなら、中国の道教の宗教観で言う『無為』が正しいのかもしれませんね。何にも縛られず自然に過ごす事ですよ。まぁ、ここまで世界が複雑になるとしがらみとかで何かしら不自然に過ごす事はあるとは思います。ですが、それこそ、大きな視点で見たら自然なんですよ。しがらみに抗って、色々損する方が不自然ではないですか? ん〜、少し循環論法な気も感じますが、そんなところです」
「平くんは、世界がどう言う風になっているのか気にならないの?」
「自分の事で手一杯ですよ。僕は頭が良くないので、物事はシンプルで良いじゃないですか?」
「でも理解をしなければ、それこそ自分が損をする事になるんじゃない?」
「何を持って損をするかはその人の価値基準によるでしょう。人はそれぞれ違うものです。仕方の無いことです」
「それは思索を放棄したただの諦観にしか聞こえない。共通の価値基準は存在するはず。その価値基準を私自身が組み込まなければ、私は世界から置いてきぼりになる」
「違います。それはただ共通なだけであってあなたの価値基準とはまったく同じでは無いのです。妄言です。古紫さん目指すのは、彼方の望む世界ですか? それは不可能なはずです。それが可能なのは彼方の頭の中だけです。彼方と言う枠組みのすぐ上には世界はありません。古紫さんの身の回りの環境があり、社会があり、国があるんです。別の思惑が常にあるんです。それを肯定して、あなたの価値基準自体を形成する事が出来なければ、彼方は同じところを回り続けますよ」
「まるで知ったような口ぶりね」
「喋りすぎたので飲み物が欲しいですね」
「惚けた事をほざく男に残りのコーンポタージュは渡さない」
「ケチですね。てか間接キスになるので遠慮しておきます、なんつって」
「――じゃあ、代わりに私の知らない世界を見せて。この、私の知る世界を、別の世界で壊したい……」
「……古紫さん、それはただの現実逃避です。あなたの見える世界から逃げる必要なんて無いのですよ?」
「……あの時みたいに壊して。飛んでみせて、お願い……」
「…………。彼は飛びません。背伸びして跳んでいるだけです」
「そっか、あなたはヒーローだものね」
 すっくと彼女は立ち上がり、撓んだフェンスに手を掛けた。
「飛び降りても、ヒーローでも『今度は』助けませんよ」
「……そんなこと言ってられるかな?」

 彼女がフェンスを越えて行こうと指を掛けた瞬間、十メートル先で座り込んでいたはずの彼が彼女の手首を掴んでいた。
「ヒーローは助けないんじゃないの?」
「普通の人間なら理由は無くとも止めますよ」
 彼女の前髪から覗く瞳は濁っていた。
「古紫さんは普通よりもちょっと頭の良い女の子なだけです。自分の取り入れた知識が自らの認識する世界観とのギャップを感じたからと言って、好き好んで今居る世界から踏み外す必要はありません」
「……彼方は何かを分かったような口調で言うのね」
「分かってません。悟ったふりをしているだけです」
「そうやって、他人を欺き続けるの? 人の知らない高みの世界に居て、他を見下ろすのね」
「それは誤解です。僕の身を置く世界は高みでも何でもありません。それに古紫さんの生きている世界でも、まだまだ知らない一面があるはずです。そしてはそれは体験しない限りは分からないと思います。僕はたまたま、それを経験する事があっただけです」
「…………」
「本やインターネットで取り入れられる知識には限界があります。所詮、文字などと言うのは二バイトの情報量しかありません。でも、実際の世界はそれ以上に芳醇な感覚に満ち溢れていますよ」
「それは彼方の金言?」
「そうですね。武を志した過程で得た実感です。閉じこもってもしょうがないですよ? 外にあるものを自分の感性で掴まないと」

 そう言いながら、力強く、直門は彼女の手首を引いた。
 フェンスから、空との境界から彼女の身体が離れる。

「不思議な人ね」

 彼女は手首を捻ると、引いた力強さとは裏腹に、簡単に彼の手から離れた。

「でも、私は諦めないから。あなたの見ている世界を――」

 そう言うと、スカートを翻して、彼女は校舎へと戻って行った。
 直門はしばらく閉ざされた扉を見つめてから、次の時間は英語だと思い出して、あの教師は発音も自分よりも下手だし、大して役に立たないからサボろうと決めた。


11 :異龍闇◆AsVGmnGH :2007/05/05(土) 17:34:06 ID:QmuDsJYm

■営利刃物■


 一撃必殺。
 武を嗜むものなら求めて止まぬ境地の一つである。
 一度限りの攻撃で相手を絶命、もしくは死に近い戦闘不能にさせる技術。
 それは標的の急所に受けも辞さずに攻撃を加える技の早さだったり、相手の攻撃の出すもっとも無防備な瞬間を確実に狙える技量と正確さだったりする。
 そして、それよりも確実視されるのは威力である。ある空手家の集団は胴体程もある氷柱を叩き割ったり、試割用、容易に割れる種類でないバットを三つ重ねて蹴り折り、自然石を拳で砕き、牛を殴殺し、確実に殺傷できる速度と重さに至った人物の拳は頑丈な木材をまさしく速度で切り落とす。その断面はバターのように滑らかであり、蹴れば確実に相手の骨を断つ技を持っている。

 そんな技を持っている者は武徳を持つと言う。つまり独特の倫理観の事である。法律上でも、武道の高段者は凶器を持っている者として扱う。そのため、否、そんな法律が制定される以前から、暴力を嗜むものには自らのうちに巣食う狂気を扱う気構えが必要なのである。暴力は暴力で返る。暴力を扱う者が、不必要な命の危険を伴う接触を避けて生き残るために、相手の心象に不快さを与えない『礼儀』を定めたのである。武を嗜む者に求められるのは礼儀による精神の修養ではなく、それは護身のための、社会的アプローチによる第一プロセスとして身に付けるものだ。それは生温い人格向上ではなく、徹底した現実主義に基づいた、苛酷な闘争で如何に自分の身を守るかと言う事実と結果の積み重ね、理合なのである。



 しかし、世の中には暴力を糧としなければならず、同時に礼儀を慇懃無礼として捉えられる可哀想な男がいる。



 菌糸類が繁茂したかのように夥しいまでに発達したビル群が並び立つ都心。その主要道路からも、外縁を作り出して周り続ける線路脇からもそれて寂れた脇道。その近くをしばらくうろちょろとすれば目立たない半地下のダンスクラブ『シャローム』が見つかる。その先へと階段を進めれば、第三水曜日の十七時以降はいつも休業である。
 それは単純な理由で、その日ばかりは舞踏ではなく武闘のために使われるのである。

 薄暗いホールはいつものような極彩色のカラーボールの光線ではなく、熱線のようなスポットライトで中央を照らしていた。光の重なり合う中央から同心円状に人垣がグルリと囲み、スポットライトで出来た人影によって蠢くリングは、真上から見れば巨大な光の歯車に思えた。アップテンポの洋楽が流れるそれだけが、いつもと変わらない。

 人の金で回る巨大な賭けの歯車。ここはあらゆる種類の格闘技の練達者を闘わせて、賭け試合で儲ける違法の賭博場だった。

 今回、その歯車の中央に居るのは拳を保護する布であるバンテージを巻いた百七十センチ後半でスポーツウェアの男と、腕組みをして相手を見据える百八十センチを優に超える長身で半裸の男である。
 スポーツウェアの男は、おそらくキックボクシングの無名選手なのだろう。顎の延長線上に二つの拳を置き、やや前足の左に体重を掛けて、シャドーボクシングをしている。右足の頭部への蹴り、踏み込んでのハイキックが彼の得意技なのだろう。ぼさぼさの長め髪に、鋭い目付きをしていた。初めての舞台に緊張しているのか、ウェアから覗く素肌からは妙に多い汗を掻いていた。
 腕組みをしている男は異常に太い首と逆三角形の体型からレスリングが得意なのだろうと、眼の肥えた客達は予測しあっていた。
 半裸の男は眼の肥えた者より、更によく通う常連からはかなりの勝率を誇る事を知られていた。組み付き、マットも敷いていない床に叩きつけて、相手が意識を失うか、降参するまで踏みつける。その徹底したストイックさ故に足蹴無く通う者達からは定評があった。
 現段階でキックボクシングには三、レスリングの男には七のレートで賭けが進められていた。

 キックボクサーはスポーツウェアを脱ぐと競技者特有の減量で締められた身体を晒した。バンテージを二度三度握って、心地を確かめる。頷いた男に、長身のレスラーは顔をピクリとも動かさずに顔の前のガードを固めて重心を沈めた。
 舞台の中心に闘争本能が集約する。

 ゴングの無いこの場でのルールは、いつでも、人垣に入った時点で開始である。しかし、ややこの場の雰囲気を忘れるほど、緊張しているのか? キックボクサーは『人垣の中』でウェアを脱いでいた。対戦者によってはその隙に殴られる可能性もあるが、半裸の男は武骨にも、相手が構えるのを待っていた。
 対戦者の余裕、と言うより、ストイックな倫理観なのだろうか?

 キックボクサーがこちらに意識を向けたと同時に体が僅かに沈む。

 構えた瞬間、キックボクサーの右のハイキックの予感。
 それに合わせて弾丸にも等しいスピードで半裸の男は、相手が踏み込んでいた最も近い左足に両手で組み付きに掛かった。
 体勢からして両腕を絡め、アキレス腱に腕の骨を当てて絞り上げるアキレス腱固めの流れ。
 だが、組み付いた半裸男の顔面に右のハイから即折り畳んた膝が側頭部に入った。
 鈍い音を立てて半裸の男が斜めに崩れ、キックボクサーは膝から倒れこむようにその無防備な背中にニープレスを落とした。
 レスリング用のマットでなく、リノリュームの硬い床に倒れ、更に肘で床とサンドイッチされた男はそのまま動く事はない。先に立ち上がったキックボクサーがサッカーボールでも蹴るように男の頭を二度蹴り上げて、戦闘不能にさせた。

 一瞬にして悔しがる観客と賭けの成功に喜ぶ観客。
 蹴り上げた時に床に点々と飛び散った血を気に止める者は居なかった。
 いつも自らがしていた最後の戦法を逆にやられて、倒れた半裸の男。

 その倒れた男を運んでいくのは、小柄な青年だった。
 仕事風味の淡々とした表情のためか、それとも元々変化の少ない顔のためか? 初めての賭け試合でエキサイトしているキックボクサーには気にも留めず、半裸の男を抱えてまるで何でも無いかのように持ち上げ、人垣の外へと連れ出した。

「丹下さん! しっかりしてくださいよぉぉぉ!」

 半裸の男の後輩だろうか? 彼を運んでいた青年から男を奪い取り、半ば泣き叫びながら揺さぶる。
 揺さぶり続ける彼を青年は押し留めた。
「頭部にダメージを受けたんです。そんな事をしては余計ダメージが酷くなるだけですよ。頭を冷やして安静にさせておくのが先決です」
「何なんだよ! てめぇ! 丹下さんは、丹下さんは強ぇんだぞ。こんな事が、こんな事が」
 淡々とした青年に向かって、丹下と呼ばれた半裸の男の連れ合いは苦悩していた。
「タオルと氷があるから、これを丹下さんの顔と首に巻いておくといいですね」
「くそっ」
 憧れていたいただろう人が成すべく事もなくやられて、その事実にいきりたった男は突然振り返ると、人垣を掻き分けて興奮しているキックボクサーの前に向かって重心を低くした。
 その瞬間「また面倒な事に」と思いつつ、それでも未だ悠々と丹下の処置をする青年。

 後輩の男は「このくそやろう」と言うが早いか、半裸の直伝であろうタックルの姿勢で驚いて硬直しているキックボクサーに向かう。
 が、まったく予想も出来ない事が起きた。
 観客の横から出て来た、同じくキックボクサーの連れ合いであろう同体格の男二人が丹下の後輩の足を逆にタックルでがっちりと掴み、更にもう片方が蹴りを入れて倒した。それでも倒れた後輩は抵抗を続ける。それゆえの容赦ない踏み蹴りが後輩に降り注ぐ。

 突然の試合でなく乱闘騒ぎに観客の輪が崩れた。
 その混乱の中、そこから蛇のようにスルリと先ほどの、半裸の男の処置をしていた青年が出て来た。そこから出て来たことに誰一人として気付かない。
 観客は小柄な青年が暴力の渦に近づいた段階でようやく存在に気づく。
 小柄な青年が暴風圏に入り込めば、確実に怪我をすると思われた、その時。
 観客の見た光景は違った。

 蹴り続けるキックボクサーの連れ合いの片方の胸を軽く片掌で弾き飛ばし、もう一人の方の蹴りを片手で掬い上げるように蹴り足から倒した。
 あまりの淡々とした動作の上に、変化もまるでないため初めは勝手に二人ともすっ転んだように思えた。
 倒された男は頭から落ちたようで失神、もう一人は胸を押さえて、口の横から涎を出して苦しんでいた。

 伸ばされた腕、彼が付帯する腕章には『店員(揉め事などは当方へ)』と書かれている。
 血塗れになって喘ぐ後輩の男を、「だから言ったでしょう」と言いながら、青年は先ほどの半裸同様に担ぎ上げて、人垣のリングから出て行こうとする。

「おい、待ちな。そいつの制裁はすんじゃいねーぜ?」
 目前に先ほど試合を終えたばかりのキックボクサーの男が立ち塞がる。
 試合後のアドレナリンのためか、汗をかいた膚に血管が浮いていた。
「えー、これ以上は当店の規約を超える騒ぎとなります。こちらで処理しますのでお引取りください」
「てめーもこっちを好き勝手殴っておいて良い身分だな? え?」
「そりゃ店内での規定違反ですから。それとも何ですか? 賭けとは関係の無い死合いでもしたいのですか?」

 無言の睨み合い。いや、睨んでいるのはあくまでキックボクサーで、担いでいる青年はまるで眼に力とかそう言ったものが感じられない。柳に風とは言ったもの。だが、風に揺れる柳は人の肌を気安く裂く事がある。

 観客も一様に騒ぎ出す。
「なぁ、あの高校生くらいの奴、確かいつも店にいるけど何なわけ?」
「確か、用心棒だって。客の乱闘とか、対戦者が興奮して殺しそうになるのを止めるらしいよ」
「知らないのお前ら。あいつは二年前くらいから店に来て、『あまりにも勝ち過ぎた』から店の用心棒になったんだってさ、たしか、名前は……、直門だっけな? 中国拳法やってんだけ?」
「なんか形意拳みたいな名前のやつやるんだろ?」
「何それ、アチョーとかやるカンフー? 強いの?」
「そりゃ店で用心棒やっているくらいなら強いでしょ」
「おい、さっき倒された奴、痙攣して全然動かないぞ? 大丈夫か!?」

 観客のざわめきを聞いて半月のように笑うキックボクサー。店内一の強さと言えば、闇社会のドンが行う賭けの対象となり、一試合で数百万、時には数千万を優に稼ぐと聞いていた。その相手に直ぐに出会えるとは幸運中の幸運。プロへの足がかりのため、店内最強の男、直門へと挑む。

「その『荷物』を置きな。特別試合が始まるぜ」
「死合いに荷物や時間なんて関係無いですよ、スポーツマン」



 意味深な一瞬のやりとりの直後、信じられない出来事が起こった。
 挑発の後、キックボクサーの目算と距離を測る牽制の左ジャブは僅かに首を引いて指二本分の距離を残して外され、
 ジャブの引き戻しよりも早く、その次の二発目のストレートとの時間の隙間に斜め一歩前に出て、しかも『荷物』を持ちながらストレートを回避した。
 キックボクサーのストレートで踏み込んだ軸足を【卷地風】で蹴る。
 直後、流れるようにその場の誰もが軽く見える一発のストレートを放った。まるでナイフでも刺すかの様な拳が【巻地風】で体勢が崩れた男の脇腹に当たった数瞬後、男は脇腹を押さえて白目を剥きながら悶絶した。
 床に崩れて泡を吹く男に対し、荷物を抱えている直門は呼吸すら乱していなかった。

 『一発目の』ストレートが当たった瞬間、彼は同じ手で肘の角度を変えただけでもう一度、いわゆるほぼ零距離から悶絶させる寸勁での突きを放っていた。
 つまり彼は同じ手、『片手で瞬間的に二発の突き』を放っていたいたのだ。
 人を担いでいたために片手での突きだったが、実際は両手で接触した瞬間的に片手での突き、同じ手での寸勁、反対の手での同じ二動作で計四発の打撃を与えるのが彼の、だいたい『手加減した』時の動きである。つまり、手加減の、更に半分で相手は倒れたのだ。
 人間の体は時に頑丈で時に脆い。
 一度、打撃を受けた直後の数瞬は、如何に筋肉を締めようと僅かに緩むからだ。頑丈に固め、凌いだと思った所にもう一発食らわせるのだ。無論出来ないことはないが、競技では殆どのキックボクサー、世界ランカーの過去の歴史でも、そんな事が出来るのは一人か二人くらいである。
 【卷地風】で踏み込んだ足の軸を歪ませて、すぐに反撃出来なくし、足に意識を集めた直後に長勁と寸勁での瞬間片手突き。

「店長、肋骨が折れたみたいなんで病院まで五人連れていく準備をしてください」

 キックボクサーがKOした半裸の男。
 その連れ合いにボコボコにされた後輩の男。

 直門に地面に頭から叩きつけられて失神し、または胸を突かれて胸骨の折れた男二人。
 そして、最初の【巻地風】で脛にヒビが入り、続く片手の二連撃で脇腹を一方的にで粉砕されたキックボクサー。

 他の人間が何発も殴っているのに対し、単純に見れば、直門が相手した人間はどれもほぼ一撃かその僅差で済ませていた。

 相手の攻撃を攻めるように受け、脱力と集中によって発する巨大な勁力を勁道に乗せての突き蹴り。
 心意六合拳の深奥の技芸に『触れず』ともこの程度で相手を済ませる事が可能なのだ。

 直門の突き蹴りは競技で活躍する打撃プロのトップクラスよりも早いくせに、更に『術』までを使う。
 技が攻撃を中てる手段が突きや蹴りなら、術はその方法である。如何に相手に効率良く当てるかと言うポジション取り。
 相手の攻撃が届き、自分の攻撃が必ず届く位置に必ず移動する。
 まず相手の攻撃はほとんど自分の胴体の外側で確実に受ける。
 手を前へならえように真っ直ぐ伸ばしてみれば分かるだろう。真っ直ぐに手を伸ばした内側の間合いから攻撃をされる間は、どんな素人でも攻撃には反応出来るはずだ。ところが彼はその手の内側でなく、外側に常に居るのだ。むろん、自分は攻撃はその手の内側に収めるように動いている。蛸のような軟体動物でもないか、もしくは横蹴りのような攻撃する方向を変える方法でない限りは相手は戦えない。むろん横蹴りを威力のある得意技にするような選手は殆ど居ないだろうし、蛸の骨格の無い身体では打撃力、勁力は発生しない。
 とにかく、これによって相手の次の打ち込みは身体の構造のために届く事は無い。
 攻撃を受けられた相手は次の攻撃をするために相手に向かって自分の正面に立つ様に身体の角度を変えなければならないが、直門は相手にロックオンしたまま即攻撃が出来るのである。相手が二動作掛かる間に、一動作、もしくは無動作で相手を攻撃する事が出来るのである。
 つまり、直門は一般的なボクシングのように正面対正面で戦う事は無い。二次元的、もしくは三次元的に違う角度から相手の攻撃を受けてから動く。もしくは、心意六合拳の真骨頂である相手の最も強いバランスを先に破壊して、から攻撃をする。
 軸足やバランスを【巻地風】などで破壊して、そこから攻撃のラインを変える。武術でよくよく言われる、相手の隙を攻めるような面倒な事はしない。正面突破。相手の最も強いバランスを崩し、更に相手に打ち込む。相手は必ずバランスを崩されてから、必ず攻撃を受ける。
 故に相手は三発以内に倒れる。それも強大な打撃力、発勁によって裏付けられたものである。
 受けに回る時には必ず相手の次の攻撃が当たらない位置に居ながら、自分の攻撃が確実に、最大の威力で当たる位置にいる。
 もしくは自らが攻撃する時、相手に必ず受けさせてから相手のバランスを歪曲、時には破壊し、そこから相手の攻撃を読み取って変化した攻撃を当てる。
 攻防双方の備わった戦術、どちらも相手の実のある攻撃か、バランスの中心を攻める技法である。もっとも強い場所を攻める、それが心意六合拳である。
 ある種、ここまで来たらチェスのような知的ゲームに近い、積極的に王将を狩るのでなく、包囲をかける為に相手を詰むのである。
 故にそれは戦いではない。彼が近付く頃には相手が矛先を納めなければ、一方的な虐殺になるのは目に見えているのだ。

 若い身空で、いわゆる達人と呼ばれる人間の技法と戦術を飄々と行う直門。
 もし何かの節に攻撃が当たるとしたら、それは万分の一の確率だろう。彼の技法はまだ十年にも満たない。外殻の完成はし、これからは早熟にして円熟の時である。

 開店当初からの観客は達人候補の無言の凄味に改めて賞賛し、はじめて観た観客達は、競技者とは次元が違う化け物みたいな人間が確実に居ると言う事実に人生で初めて気がついた。



「でもね、平君困るよぉ。せーっかく君が出ないようになったから対戦者が集まってきたのに」
 絵に描いたようなちょび髭の店長の言葉で頭を申し訳無さそうに下げる直門。
「済みません。手加減したつもりなんですけど、ついブレーキが利かなくて、カーンって、そしたらドターって。彼のボディじゃ世界なんて到底無理ですね。前やらせてもらった元ボクシングのヘビーのチャンピョンの方が根性ありましたよ」
「とにかく、また対戦者が居なくなったら、もーっと減給だからね。殴り合いは人気高いんだから。君みたいなのが出ても面白くないの、分かる? 観客は殴りあうのが観たいのにいっつもパパッと一撃で終わらせたら見所無いでしょー? 獅子が兎狩るのを観ても面白くなーいの。用心棒でもその辺り意識してさ、もし分かるならちょっとは魅せるつもりでさ、殴り合おうよ、ね?」
「えっ、は、はい。す、済みません。でも、癖みたいなもので、攻撃されたらオートで楽に事を済ませちゃうんですよ」
「まぁ、君が強いのは良いんだけどね。それでさ、連勝伝説を作ろうかと思えば、別のバイトの先約で不戦敗するし……。君、私の事嫌いでしょ? ねぇ?」
「い、いえ、そんな事は……」
「もう今日は挙がって良いから。あっ、対戦者壊した分は給料から引くからね」
「はい……」

 殴りあう武術で飯は食えない。彼のような若さではまだまだ達人とでも触れ込むような金を取る講習会をしても集まらない上に、学生とそれに見合う複数のバイトの掛け持ちでは定期の指導は出来ない。むしろ、指導は以前に諸事情があったためにもうコリゴリなのである。
 故に、こうした賭けのバイトで稼ごうとしたが強過ぎて逆に相手にされない。
 高レートの違法賭博にも海外まで参加したが、あまりにも勝ち過ぎて賭けの胴元の恨みを買い、開催地のタイでその組織を丸ごとを返り討ちにしてしまったのだ。そのためしばらくは国内外を問わず、参加禁止状態なのである。パスポートも無くしたために、毒蟲にはかなり裏からお世話になり、去年の十一月頭でその裏に手を回したお金で借金まみれだった事もある。
 仕方なく元々の賭博を始めた場所での用心棒のバイトで身を費やし、それ以外は別のガテン系のバイトで食い繋ぐ日々である。
 市井で驚異的な実力を誇る武芸者と貧乏学生との狭間で生活費と治療費と『別の装備費用』に悩む、それが最近の平 直門である。


12 :異龍闇◆AsVGmnGH :2007/09/12(水) 11:29:17 ID:QmuDsJYm

■天獄自極■


「つけられていたな」
 直門の卓越した感性が、店を出てから尾行を続けていた存在を感知していた。
 観客の中。その存在が居た段階から違和感は既に察知はしていた。
 何者かは分からない。だが、視線を注いでいる者がいたのは確かだった。
 敵意とも観察とも付かない注視。娯楽を楽しむ目では無い事は感じ取れていた。
「だが、もう離れた、か?」

 生物には元々危険を効果的に察知する優れた感覚が備わっている。それは目の無いアメーバーが近付く何かを感じ取るように、魚介類が巧妙な捕食者を避けるように、サバンナに忍び寄る獅子から素早く気付いて逃げるガゼルのように、視覚以外の感覚を本来人は予想以上に備わり、また同時にそれに気付けた人自身が使いこなす事が出来るのである。それを『超感覚』や『職人芸』などと周りが囃し立てるだけなのだ。そう、大抵の人はその感覚に気付く事が出来ず、【鈍化】したまま過ごす故に理解出来ないのである。武術を嗜む者が『山篭り』をする理由はその鈍化した感覚を元々が持つ力まで、つまり『本能』を呼び覚ます為のものなのである。ボクサーが減量を重ねるのも、体重を軽くする事で動きをシャープにするだけでなく、減量と言う極限下で感覚を鋭くさせるためでもあるのだ。そして一度本能を呼び覚ます事が出来る過酷な状況に置かれれば、人は嫌でも感覚は鋭くなるのである。そして、彼もそれを過去に体験したのだ。

 直門が捉えられたのは二つ。どちらも敵意でも殺意でもない、ただの観察だった事は確かだった。
 しかし、その対象は彼の感覚を信じるなら既に、彼の知覚領域の範囲には居ない。少なくとも、彼が寄り道のフリをしてコンビニに入った段階から明るい場所を避けるかのように遠ざかった気がした。
「あるいは待つのが『寒くて』帰ったか。まぁ、『彼女だけ』ならありえるな」
 女の子だし、と続けながら、立ち読みの定期購読を続けている少年漫画の週刊誌を開いた。

 その頃、彼の知覚がギリギリ届かないところ、距離にして約四百メートル先から双眼鏡越しに彼を見据えていた。
「……寒い」
 ダッフルコートの下まで浸透する寒さに悴みながら、歩道橋上の吹き荒ぶ風に煽られながら彼を観察、いや監視していた。
 自分は一体こんな寒い中で何をしているのだろうと疑問を感じつつも、徐々に、その感覚が寒さで麻痺してくるかのように淡々と彼の行動を見据えていた。
 先日から彼の行動し、彼の驚くべき知覚領域、それこそ感覚の幅でなく広さは統計的に把握していた。そして彼の間合いから離れれば、彼自身は気に止めないと言うか、そこまでアンテナのように届かないと言うか。とにかく彼の領域から外れる事が出来た。

 口から漏れた呼気が白く虚空に浮かぶ。
 一体自分自身で何をしているのだろうと疑問に思いつつも、それでも彼自身に惹かれた。
 確信だろうか? 彼が超躍者なのだと、椎音は自殺をした次の日に会って直感していた。論理的に思考を組み立てる事を得手する彼女にとって、その直感を頼りにする事は不思議な事だった。むろん、様々な、自らの自覚自得していない知識や考えが表層的にあらわれたのが直感とするなら、それは頷ける結果だと彼女は言外に思い、納得する事にした。
 彼の飄々とした、まるで溶け込んでしまうような雰囲気。
 いつもの事だが、彼の顔を思い出そうとすると難しくなってしまう。それはあたかも彼自身が薄絹で覆い、顔を消しているかのように彼女には感じられる。
 何者も自身を悟られぬように淀みたゆとうように、泡沫のような人の調べに縫うように歩む者。
 吉事も凶事もありのまま受け入れるような彼の姿。
「受け入れられない、か。人生は突然の事で身構えるのが普通で、それをありのまま受け入れる方が異常」



 そして彼女への凶事も何の兆しを表さずに突然起こる。

 彼女が双眼鏡越しに思索を繰り広げている間に、歩道橋の両端から複数の男たちが彼女に詰め寄っていた。
 次の瞬間に彼女の思考は渾沌とし、体は拘束され、そして何事も無かったかのように拉致。
 鮮やかなまでの誘拐である。

 奇しくも、その瞬間、彼女と双眼鏡越しに彼は眼を合わせていた。


 ――――――――――――――――。


 人が意識の連続であるなら、夢などの、意識が断絶した、目覚めるその瞬間まではそれはいったい何と言う存在なのだろう?
 もし仮に、人が意識を失っている間だけ自己の認識する存在とはまったく別個の存在が自らを支配していたらどうだろう? いや、実際のところ自ら支配権を握っているはずの意識さえ、その存在に仮初と気紛れで意思を与えられ、それに気付かずにノウノウと暮らしていたらどうなのだろうか? 真の支配者である彼はそれを知らぬ私をほくそ笑んでいるのだろうか? もし、その意識は歪められ、本来は芋虫にも関わらず、人間として生きている事を夢想し、人間として世間に溶け込んでいると言う妄想だったらどうなるのだろうか? 突然、魔法が解けるように妄想と現実の境界が崩れて、自身が芋虫だと気付いた時にはどうなるのだろうか? その瞬間、芋虫としては分不相応に与えられた知も、私も溶けて流れてしまうのか? それとも、もっと残酷な事に、その知恵と人だった頃の経験を持ちながら芋虫として生きることになったとしたら……、それは煉獄よりも厳しい責め苦であるだろう。



 ――と、そんな事を彼女は、眩んだ闇色のビルの倒れて低い視界から思った。
 見えない境界の彼方の方から重低音を持って四方へと響いてくる沿道からの音。
 四角に節々が罅割れて切り取られた空を眺める事が出来た。

 雲に覆われてビルを掠めるような位置にあるはずの低い月も見えていない。

 身体は芋虫のように拘束されていた。
 幸い卑劣な乱暴や陵辱の類をされた形跡は衣服や下着にはなく、ただただ後ろ手にされた手首と足首がそれぞれナイロンの手錠で縛られていた。
 地の底から冷え上がる悪寒が身体に伝わって彼女は小さく呻き、それに反応するように彼女の視界から足音響いた。

「スマンね。これくらいしか手段無かったんだよ」

 最初に視界に入ったのは野太い足だった。カモシカなどの自然の動物が持つような太さ。
 その足は踝までの革ブーツで包まれ、緩やかなはずのブラックジーンズを鍛え上げた筋肉が押し上げている。黒のタートルネックに、その上からトレンチコートを羽織っていた。
 カマエル。『神を見る者』という意味の名をもつ大天使の名を仮された者である。

「超躍者の奴もここまでやれば、流石に来るだろうな」

 割と若い声色にも関わらず、年輪が刻まれたような重い響き。
 彼はやたらと大きな手で椎音の襟首辺りを掴むと、そのまま壁にもたれるように座らせた。
 お尻はまだ床に接しているため冷たいが、剥き出しの冷気を持つ床に面している部分が少ないだけあって、幾らかマシである。

「超躍者?」
「そうだ、奴とは俺は因縁があるからな」

 革靴を鳴らして罅割れた空との境界へと赴く。
 月光に照らされた青い光の中に紅い灯りが点り、白い煙が彼の口と鼻から抜け出た。

「……っ、ぇほっ」
「こんなに離れても煙草は苦手かい?」
「割と」
 通学中の電車でも、彼女は出来る限り煙草臭い人間には男女を問わず近寄らないようにしている。

 そうか、と言う言葉と共に、革靴の下で火がにじり消えた。

「因縁って?」
「関わらない方が身の為だぜ、嬢ちゃん」
「巻き込んでおいてそう言うのはお門違いでは?」
「そいつは謝罪しよう。だが、俺には時間が無いからな、こう言う性急な手段に出させて貰った。大丈夫だ。俺の用事が終わった後は目の前には二度と現れない。俺が雇った奴らにも手出しはさせない」

 無意識なのだろうか? 胸元から自然な動作で煙草をケースから出そうとして、ふと、こちらを見て止めた。
 深い瞳。顔には年以上に皺や傷のようなものがおぼろげに青い月光に浮かび、死者と生者の境目に立っているようだ。
 死者と生者の境界、それは、否がおうにもあの灰色を思い出させる。

「何故、彼と?」

 超躍者と敵対するのですか? そう意味のない、問いかけを彼女はしてみた。



「……三百七十三人、十年前、たった一人の人間を残して死んでいった人間の数だ」
「三百七十三人?」

 十年前と言えば、彼は七歳前後である。確かに後進国である紛争地域では多くのチャイルドソルジャーと言われる存在はいる。だが、その殆どは大人になる前に死ぬ事が多い上に、たかだか子供がそこまでの被害を出すとは考えにくい。彼はその関係なのだろうか?
「その中に俺の師、照山利一が居た」
「……照山利一は、私の記憶が正しければ、フリーライターのはずですが、たしか」
 あの航空機事故と関わっていたはずだ。
「半分正解だ。だが、俺のような大陸の武術に関わる者の視点となると違う」
 男は罅割れた境界を軋ませ、僅かな段差に腰を掛ける。
「回々砲、照。弾丸の如き拳とその連打を誇った、大陸でも屈指、いや世界でも屈指の心意六合拳の達人だ」
「……死んだって一体?」
「『大日本航空機墜落事故』、覚えているか?」



 一九九六年 七月十八日の『大日空航空機墜落事故』。
 歴史的大惨事だった。突如整備不慮でも何でもない、乗客三百七十四人を乗せた航空機が日本よりの太平洋沖で『空中分解』をした。
 事件の不可解性によって、日米の事故調査委員会が三年くらい前まで事故の検証をしていたとはずだった。
 確か、そこに照山の名はあった。

「上空五千メートルから地上に叩き落された人々。たまたま起きていた強い上昇気流などの影響で助かった人間も多く居た。航空機の空中分解した場所から多少離れた岩礁で三週間、二十人を超える多くの生存者が生きていた痕跡があった」

「岩礁?」
「気付いたようだな」

 三週間、その間、その人達は何を『 食 べ て 』生きていたのだろう?


 酷い死臭。岩礁へと流れ着く、機体の燃料で焼かれた焼死体、海面との衝突でコンクリートとぶつかったのと大差のない分割死体。


「始めは手持ちの食料で凌いでいた。だが、そんな食料も無くなってしばらくしてからの、飢えと渇き。人だって動物だ。理性の皮を剥げばその下は獣と変わりはない。最初は人の食料を奪うために暴力を使い、次に食料を奪い返すために殺人を犯し、飢餓で狂った安っぽい人間性は剥がれ、彼らは肉食動物の牙を取り戻した」

 つまり、それは……

「生き残った奴は『人を食らい合った』のさ」



 数日前の食事風景を思い出す……


『なるほど。……あ、僕、肉類好きじゃないので焼肉おにぎりどうぞ』
『でもプロテインは取っているじゃない』
『あー、肉の触感とかが苦手なんです』
『意外ね』



「(と言う事は、彼も……)」


 人殺しなどは生ヌルイ狂気。彼は、同族である人間を、殺し、(あまつさ)え食べたのだ……

 腐りかけた屍肉。歯を突きたて、筋と腱を噛み切り、冷たくなった血を啜る。

「その時、俺の師も奴に『食われた』。が、『そんな事はどうでもいい』」
「はっ?」


 キリキリとなる男の奥歯の軋み。


「奴は、たった三週間で閉門弟子となり、全ての秘伝套路をモノにしたのだ! いいか! 高々十代にも満たないガキが二十年も修練を重ねた私を差し置いて、その技を、流儀の全てを受け継いだのだぞ! 奴は肉だけでなく知識を食った。創始から数えて二百年の伝統を僅か二週間で奴は食い散らしたんだ! 如何に我が師が生命の危機に瀕し、手近な若者に技を絶やさぬように授けたからと言って許せるものではない!」

 中国拳法では閉門弟子とは死ぬ間際に取った最後の直弟子を意味する。むろん、師の死ぬ直前の技であるからしてその技法は、その師がもっとも洗練されている時である。過去に例を挙げるまでもなく、閉門弟子は最後に最高の流儀を受け継いだ者として門派でも特別の扱いを受ける事が多い。むろん、そこは高弟と呼ばれる、長くに亘って師事した弟子は問屋が卸さないだろう。むろん、格闘においては個人の技量が優先されるが、中国拳法の場合、技量よりも伝統を重視する事自体も多いのである。それにより何度も門派間、もしくは同じ弟子の間で争いが起きた事も少なくない。



「だから、俺は奴を『すぐには殺さない』。徹底的に痛め抜いた上で、殺す」
「でも、彼は貴方の事は承知でしょう? そんな罠にホイホイ掛かってくるかしら?」
「奴は確実に来る。奴には負い目があるからな。『死ぬはずの人間が生きるとしたら、それは何かを訴えるしかない』とほざきやがる。奴はただの偽善者だ。贖罪と(かこ)けて、自らを多くのものを奪った事を正当化しようとしているんだよ。何があっても嬢ちゃんを助けにくるはずだ。それが奴の存在理由だからな」

 その独白の直後、瞬時に片足だけで立ち、もう片方の足首を膝辺りに付け、それぞれの拳を腹の前で打ち出す。独立歩での【馬形鑚拳】。静かな動きにも関わらず、暴れ馬が蹴り上げるのような荒々しさで拳の近くの空間が歪んだ気がした。実際に目の前に対敵がいた場合、内臓を押し潰し、肋骨を拳の形に砕いてしまうような打撃だったのだろう。


「…………」
「馬鹿げた事に巻き込んだ事、同級生が死ぬ所を見せるのも謝罪しよう」
「彼があなたより強いとは考えないのですか?」
「それはないな。俺の方が奴と潜り抜けた死線も経験も違う。若さや体力とは関係無い。歴然とした経験差があるんだよ」
 月を見上げるカマエル。

「でも、……」

 彼女は考える。教えられただけの人間がそんなに簡単に技を覚えたりする事が出来るのだろうか?
 数式や文法とは違う、むしろ無形に近い、体術の数々をそんなに簡単に教える事が出来るのだろうか?
 そして、それを『あの賭博場』でのように滑らかに使いこなす事など出来るのだろうか?


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「もしもし、毒蟲か? 僕だ。ちょっと拙い事になってね。個人的に死人が出るかもしれない。だから、あぁ、処理チームを用意しておいてくれ。場所は――」


 会話を終えて携帯を閉じてポケットにしまうと、直門はカマエルにメールで送られてきた、建設途中で放棄されたビルを見上げた。バブル期の終わりからまるで変わる事無く、未完成なままの空間。五階
 先ほどと同じ、腕章が無いだけで一般人と同じ格好の平 直門。
 ただ、いつもに比べて、体が何故か大きく見えた。歩く姿も普段のぼんやりとした代物と違い、まるでかっちりと隙が無い。『触れた死ぬぞ』とある意味優しく警告しているような、そんな様子。

「さて、お城の中のお姫様のお迎えか……」

 近場に止まった車の台数からして四十台弱。一台四人換算として百六十人といったところだろうか?

「しらみ潰しだな」

 気配が探る。衣擦れ、靴擦れの音。握り締めた鉄パイプが月明かりを僅かに照り返す光。

「死人出ちゃうとやだなぁ」

 そうため息を吐きながら唯一封鎖されていない玄関から入ると同時に、カマエルの雇ったチンピラ達が動き出した。


 真横から振り被られたバットを振り切られるより先に歩み寄って肘辺りを掌で止め、【卷地風】で膝を折り切ると同時に直門は肘から手首までの前腕を叩き付ける【虎擺尾(こばいび)】で頚骨ごと相手の喉を一瞬で潰す。
 白目の向いた男を後ろへと蹴り飛ばして後ろに居た二〜三人を巻き込み、手近な体勢の崩れた男を真下から両掌で克ち上げる【白猿献桃(はくえんけんとう)】で顎を砕いて、更にナイフで突こうとした相手の手首を払い、肘でリードしながら前腕を叩きつける【揺閂把(ようさんば)】で定礎の部分へと体を叩きつけ、更に頭を壁へと叩きつける。
 その直門の真後ろから背中をヤクザキックしようとした相手のその蹴り足を手で払いながら、反対から肘を叩きつける【蛇行歩(じゃこうほ)】で胸骨の折れる感触を味わう。その折れた胸板に更にお返しのような横蹴り、【馬登腿】で横の壁とサンドイッチ。砕け散る合板の壁。反対側に隠れていた男ごと壁に潰される。
 頭の後ろから振り被られる鉄パイプ。【鷹捉把】で相手の肘辺りから手の甲から前腕で鉄パイプを逸らし、受けた手と同じ側の手の肘に添えられた手が更にそこから受けた手の部分からロケットが発射するように飛び出して、顔面から胸までを手を下ろしながら肉ごと握り潰し、そのままの勢いで頭突き。内臓へとモロに当たった男はそのまま泡を吹いて悶絶した。その男の顔は直門の鍛えられた指先で男の顔の肉が抉れ、頬の肉が削げて歯が見えるまでになっていた。
 恐慌に満ちた男が振り被る釘バット。まるで慌てる事無く直門は下から男の肘を狙って手の親指側、空手で刀峰と呼ばれる場所を叩きつける。自分の振り下ろした力+直門が叩き付けた勁力で肘が折れ、更にアッパーカットが如く掌で顎を克ち上げられる【鷂子側帖】で歯が二、三本吹き飛んだ。

 八人が倒れるまでに呼吸を三度しかしていない。だが、彼の敵はまだまだ居る。

「早く助けて帰ろう」

 そんな事を表情を変えずに淡々と言いながら、その虐殺劇を見て及び腰になっている男達へと迫っていった。


13 :異龍闇◆AsVGmnGH :2007/12/22(土) 18:10:27 ID:QmuDsJYm

■人間失殻■


 顎が歯と共に砕ける。頚部が筋と腱を切り捻られる。頭髪や耳が皮ごと引き千切られる。前腕部の尺骨、橈骨の破砕と粉砕。筋肉を拳で押し潰し、膝の腱と半月板を蹴折り、肘が鼻骨や胸骨を陥没させ、指先が皮とその下の肉を豆腐のように掴み取る。頭突きで胸骨を砕かれ、内臓を押しつぶされた者の胃から逆流したどす黒い血がコンクリのたたきに溜池を作り、振るわれる四肢で工事途中の剥き出しの天井まで飛び散る血潮と肉片。赤と黒のコントラストがべっとりと部屋を彩る。挙がる悲鳴に挙がらぬ断末魔。ただの四肢とその指先が獅子の顎の如く獲物を食い散らす。多勢の無勢だったはずのそれは、いつの間にか、ただ一人が獲物を狩る一方的な虐殺へと成り果てていた。次々と捲き起こる血粉と骨の破砕音と半拍遅れてどぅと斃れていく男達。残酷無慚極まりない光景に多くの者が恐怖で閉口し、ある者は凄惨さに吐瀉物を撒き散らし、そのまま気絶する者すらいた。その気絶した者すらに能面のような貌で、足を倒れた相手の顔面に踏み下ろして完全な戦闘不能となるトドメをさしていく平 直門。

 二十万。その男、直門と対峙しただけで支払うと言われた報酬である。前金で支払われた五万に加え、更にその男を討ち取った時には二百万と言う破格の報酬に誘蛾灯の如く惹かれた男達は、金銭以上の手痛い失費を支払っていた。
 直門が逃げる事の出来ないよう、一つの入り口以外を封鎖された場所は、自らが逃げる事の出来ない檻となり、ただ一方的に喰われる結果となっていた。

 五分前まではただの楽のお小遣い稼ぎだったそれは、狩りの開始の五分後には違和感を感じ、十分後には混乱を生じ、十五分後には檻から出られない恐慌に陥っていた。

 逃げられない。逃がされない。相手が二度と自分に対しておかしな真似が出来ないよう、物理的にも、心理的にも潰していく。恐怖を深層に刻んでいく直門。

 あまりの恐怖に心理的外傷で幼児退行を起こす者、狂ったように笑い、仲間にまで暴行を加える者、無気力に座り込む者。そんな者にも一累の容赦も無く、惨殺の如き暴力を加えていった。現在の段階で死んでない人間が居ない方が可笑しいくらいだが、奇跡的にも、半死人や手足に障害の残る不具者は居ても死人は出ては居なかった。

 今際の悲鳴が如きそれが葬送曲の如く、倒れ伏した重傷者の呻きが念仏の如く、冷たいコンクリを生暖かい血潮と肉塊と共に埋め尽くしていた。

 一時間後、最上階手前の階段にある踊り場。その場で静かに直門は息を整えていた。血糊、人の皮、脂、肉片がべっとりと服、拳、靴に付き、屠殺場で牛馬を殺し馴れた者でも吐き気を催すほどの悪臭が身体から漂っていた。それでも、直門は静かに、入り口から入った時と変わらずに息を整えていた。

 心拍数は百二十前後。百五十人以上の人間を殺戮の限りとも言える暴力の嵐を巻き起こしたとは思えないほどの平静さ。

 参考までに記述するが、某巨大派閥の空手では百人と連続して試合を行う百人組手と言うモノがある。勝っても負けても動く限り百人と戦う荒行である。その会派の初段への昇段審査では十人と戦う事がある。その初段ですら六人目と戦う頃にはフラフラになり、八人を越える頃には意識がなくなると言う事実を考えるのならば、百人組手の異常さを窺い知れるだろう。その百人組手を完遂したのは歴代十五人の挑戦者のうち九人。完遂者の一人はテレビでも放映される有名な格闘技の大会で幾度も王者に輝き、その他も一会派を開き、自ら指導に当たる実力者達である。
 その彼らでも一対一での対戦しかしていない事や、禁じ手と呼ばれる反則技、目突き、関節折り、掴み取りからの投げ飛ばしなどの解禁された状態、相手が武器を持っている状態などで百人との戦闘を成したわけではない。

 それを考えると、直門の異常なまでの心拍数の低さはこれ以上の人数でもまだまだ相手に出来ると如実に物語っているのである。そしてそれと同時に、その彼でも階上にいる相手が息を確実に整えないと仕留められる対手だと感じ取っていた。
 膨大なまでの圧力。武を嗜み、感覚が少しでも危機を感じ取れるまでに高めたものなら否が応にも感じる圧力。むしろ、異質なまでの戦意が自らが近づくごとに研ぎ澄まされた殺意に変じている事に、否が応にも常人であれば体が硬直してしまうほどになるだろう。


 それでも滑るように軽快に、警戒も無いように階上に登っていく。



 冷たく罅割れたコンクリートのキャンバス。絵画のように蒼く凍った月の手前に黒いコート男はいた。

 斜め後ろにいつもの教室で見る憮然とした表情を見つけ、直門は安堵する。暴行を加えられたような形跡はない。


 次の瞬間、自らのこうしようと言う意思とは関係なく直門の身体が斜め前にズレ、自然に【起勢】の構えを取っていた。
 四メートルの距離を音も無くほぼ一呼吸で移動して片手による変形のストレートに見える【馬形崩拳】を男は放ち、対して直門は斜め前、死角ぎみからの拳をかわして構えていた。

 言葉は要らない。ただ、殺しに来た相手に自然に反応した。

 距離は五歩。一足一拳よりも遥かに手前の距離である。蹴りも届かない間合い。

 そんな距離を保ったまま、どちらも両手を伸ばしたまま半身となり、自らの鼻、胸骨などの急所の中心を封じた構えをとっている。
 半身とは身体のどちらか右、もしくは左半分を出した構えであるが、きちんと功を積んだ者であれば本当に身体の真ん中から片方だけが相手に向けられている状態となる。こうなると胴体半分の距離だけ、突きこんでいく側の拳が届き、相手からは反対の側に位置する胴体は胴体の距離の分だけ遠くなる。つまり正面から胴体分だけの相手からの距離を自らに有利に引き込めるのである。加えて斜めである事で正面からの攻撃は逸れやすく、同時に『半身』であるために相手に晒した、自分が攻撃を受ける場所を半分に減らす事が出来るのである。そして、言うまでもなく、正面から見ればどちらも身体が半分しかないと錯覚するほどに綺麗な半身をとっていた。
 そしてその半身に加え、双方とも足先を平行にして閉じ、膝を深く曲げ、踵を僅かに挙げた【鶏歩】と呼ばれる歩形。心意六合拳に置ける基本にしてそのまま奥義たる連続する勁力へと繋がるモノである。

 彼らが取るのは【蛇撥草(じゃはっそう)】の技の構えである。相手の腕の内側へと外側からスルスルと入り込む技法である。


 武術とは相手の中心、専門用語的には『正中線』を如何に制するかが肝要である。大まかに言えば真正面なら鼻から臍へと貫く真ん中の線、半身なら肩口から股関節へと貫く垂直線。それぞれは相手の攻撃がもっとも強く発する事が出来る境界であり、それを如何に抑え、入り込み、相手の攻撃を殺して、自分の間合いに作るかが鍵となる。
 正中線の内側に入れば相手は攻撃がほぼ出来なくなり、逆にこちらはいつでも攻撃出来る体勢となる。

 大抵のテレビで見る事の出来る格闘技では、真正面の正中線を制する勝負となるために、お互いの正中線がぶつかり合う、つまり正面から殴りあう膠着状態となる。こうなると交通事故で正面衝突をしている事と同じであり、体格が大きい者が自然と有利と成る。逆に、言い換えるならば闘う事となるが、本当の武術は闘わない、もとい小柄でも大柄な相手を一方的に殴り殺すが普通なのである。

 そのために、相手の正中線にぶつからず、別の角度から入り込むかが、もしくは相手の正中線をどうやって意図的にズラすかが重要になる。しかし、彼らの心意六合拳は更にそれを越え、真正面から相手の正中線に、言うなれば相手の集中砲火に飛び込みながら、それでもスルスルと内側に入り込む技法を編み出していた。

 それがこの【蛇撥草】である。相手の正中線となる場所へと蛇の如く入り込む技法である。初見であれば、ある種の正中線の取り合いに慣れた、一般的には達人と呼ばれる人物か、【蛇撥草】の技よりも遥かに早く突きこめる常人離れした動きの人間でなければ攻略する事は適わない。半身の絶妙な使い方によって生まれる妙技であった。


 異様である。


 いつの間にか、血塗れの少年と黒服の男が非常に深く膝を曲げた低い姿勢での移動、【鶏行歩】で両手を伸ばし、互いの相手には半身のまま、両足は相手から九十度違う方向に向けて、二人で向かい合いながら同時に円を描くように回っているのだ。

 何かの宗教的儀式のような、それでいてあまりにも正確に真円を描くその様は、あまりにも異様だった。

 中国拳法では柔の拳としてもあらゆる意味で特異とされる八卦掌にも似たような鍛練がある。何を一点、木か何かを目標として、それから等間隔でその目標を中心として円を自身で描く技法である。この場合、動く相手と相対的に動くか、何かを中心として絶対的に動くかの違いはあるが、目的は同じである。

 相手の正中線を外さないように動く事。それを人でやるか、動かない無生物でやるかの違いである。むろん、人を対象とする動きは八卦掌にも太極拳にもあるのだが、それでも、彼らほどの機械的にも思える精密さをもってして動いている人間はそうそう世界的にもいないだろう。

 半身と半身がそれぞれ入れ替わり、円を描いていた方向も逆になる。
 僅かに切り返しがどちらかが早ければ、それは正中線を無防備に晒した相手を瞬時に攻撃出来るのだが、どちらもそのタイミングを取ろうとして逆に、同時に進行方向が入れ替わっていた。


 円は一時的に縮んだかと思えば、時折拡がり、まるで肺が呼吸するかのように有機的な一つの生命体のようである。その不可思議な中でただ一つ分かる事はどちらも退く気はないと言う事である。

 ピタリと動きが止まり、互いに一呼吸で踏み込めないところまで後退しあった。。


「何故、師を殺した? 貴様ほどの技量があれば、師を殺さずとも済んだんじゃねぇか!」

 眼前の敵を射抜いたまま、総毛を立たせて喋る狂人に、ボンヤリとした、何処を見ているともしれない瞳のまま、

「腹が減ったからです」

 同じく狂人が応えた。

「打法を持って拳法を教える。これを持って真伝と称する。打法を与えられて老師を弟子は打ち倒す。師は殺される事を承知で僕に拳のあり方を伝え、僕はそれを使った。僕に伝えられた技術が未熟であれば師の手を患わずとも潰されたであろうし、そうでなかったから生きている。……それだけです。だから、僕は師を倒し、餓死する直前の中で、喰らって生き延びたのだけです」


 彼の発言に、その場に同じ中国拳法の修練者であればゾッとするような言葉が含まれていた。打法は人の殴り方、言わばどうすれば強く打ち殺せるかであり、拳法はそれに加味する技とその使い方の事である。
 元来、中国拳法は殺人芸術と呼ばれるモノもあるほど、内容に富んでいる。むろんの事ながら知らなければ絶対に回避する事の出来ない技も数多くあり、またその技自体にもいくつも隠しの技法とその効果的使い方があった。師は弟子に抜かれ、欺かれないように技自体をも気軽に教えず、下手すれば墓場まで殆どを持っていく事まである。その混沌とした大陸武術の中で、心意六合拳はひたすら特異であった。師を裏切って殺す事をもままあった時代から、弟子に最初から全てを教えて打ち倒される事を肯定する武術。それだけに師は弟子を技の修練によって隔絶する存在であり続け、弟子はその隔てを超えるように目指すと言う、正方向性の合理性を持っていた。自ら餌を獲れない獣に餌を与え、最終的には成長した獣に打ち倒される。それが彼らの美学なのだ。


「確かに、そうだった」

 黒い服の男、カマエルは淡々と答えた。

「幾度と無く俺も師に挑戦し幾度と無く敗れた」
「見ればだいたい分かります。左耳を顎まで千切ら掛けた痕、左前腕は屈曲の加減からして曲げながら折られたんでしょうね。右膝も正面から蹴って皿ごと砕かれたのでしょうか? 少し引き摺ってますよね。一番重症なのはたぶん肘を打ち込まれた背骨じゃないですか? 治療と功を積んでようやく右下半身がまともに動けるようになった、ってところでしょうか?」
「お見通しか」
「はい。どんな風にそうされたかも」
「つまり……それは」
「はい、彼方が師より弱かった。ただそれだけです」
「では貴様が、老師から授けられたはずの秘伝套路は?!」
「生きる死ぬの段階で秘伝なんかどうでもいいではないですか。それよりも重要な事を僕は師の死から学びました」

 澱む事無く、明確に事実を伝える。
 あまりに真っ正直な言葉は剛直と言うだけに留まらず、むしろ流麗な体術に反して、不器用と呼べるに等しい口調だった。


「あなたは師を食べる事が出来ず、僕は食べた。それだけです」

 椎音はやっとこの少年に何故惹かれたのか理解した。

「ですから、彼方に限らず、誰でも僕を、いつでも食べに来て構いません。こんな人質を捕らずとも僕は自らの技を試す試合でも自己の生命力を試す死合いでもなく、生き残りと言う天地自然の円環の和に入る事情であれば、いつでも何処でも誰でも僕は応じましょう」


 彼は、普通に日常から思考がズレていた。
 狂っていたのだ。

 殺される事を完全肯定する人間など居ない。だが、彼はそれはありだと理性を持って断言した。
 殺人に対する禁忌も、人に暴力を揮ってはいけないと言う道徳もありながら、彼は根幹部分、生きる死ぬの決定を完全にその場の状況に任せて、自らの意志を放置していた。死んでも良いなど、自暴自棄や意思薄弱でなく、論理的に『死ぬ事があるのは仕方がない』と納得しているのは本来人であってはならない精神構造である。

 それでも、殺す事はいけない、暴力を揮ってはいけない、だけど自分が死ぬかも知れない状況で、自分が生き残るために他人を殺す事は躊躇しないし、同じ事情で殺されても仕方が無い。

 そう、彼は言ったのだ。論理でも、観念でもなく、生命としての原点、殺るか殺られるかを忠実に自らが体現し、口述したのだ。

 そう、だから彼女は惹かれたのだ。彼女が理解を放棄した世界でただ純粋に生き、そして死のうとするその姿。単純なまでに自己を凝縮した姿に惹かれたのだ。
 そして今なら彼が何故超躍者として生きるのかも彼女は分かる。
 生物として統一した生き方でありながら、人の社会で関知する、様々な理不尽に許容できるだろうか? 誰かの意思が関わるもの、何かしらの悪意に見過ごしたままで居られるだろうか? ただの生物では見過ごす事は出来るだろうが、彼は人であり続けていた。人として関わる小さな幸せな何かや誰か故に見過ごす事は出来ず、多くの社会への理不尽な不幸を与え得る存在に自らは対峙する道を人として選び、生物として、等価交換のために己の命を代価で差し出したのだ。


 悪意を撒き散らす貴様らを殺す。代わりに自分がその過程で殺されても文句も後悔も言わない。



「彼方は僕に殺される事を許容出来ますか? その場の『覚悟』ではなく、ありのまま、何も出来ずに殺されるとしてもそれを後悔しない事が出来ますか?」

 彼が踏み出した時、カマエルは身体を僅かに引いた。同時にその事実が、彼の心が先に自ずと敗北した事を認識してしまった。

「彼方ほどの使い手なら触れ合わずとも分かると思いました」
「あぁ、十年も真面目に取り組んだつもりだが、身体も技も、心すらも敵いそうにねぇな」
「事実、ですからね。僕としては一番の難敵で、スマートな決着が出来て幸いです」
「ちっ、ふざけた子供(ガキ)だぜ。まさか自分も相手も一発も出さずに終わるとはな」
「仕方ないです。彼方は僕を殺そうとしましたけど、僕に殺される事までは想定してなかったのでしょう」
「ハッ、思いも拠らず、ここで老師の決着が自分の中でつくとは」
 いつの間にか点していた煙草を吸い、煙を吐き出した後に「想像もつかなかったな」と独白した。



 椎音は月に縁取られた影を灰色の床に朧げに投影する彼を見つめて実感した。
 中途半端な、生きる事も死ぬ事もままならない自分とはまるで違う。初志貫徹の意思。命が尽きようと構わない心の強さ。それに惹かれたのだ。


 命をあっさりと自分のために捧げた、どうしようもない愚者。
 たった一人に一身を掛ける事を即時決定し、撤回しない強さ。

 あれほど嫌悪しても、自らの命の散花を今際で後悔する弱さ。
 世界と言う枠組み自体を高尚にしようと飾ってしまった賢者。


「……あぁ、なるほど」

 言わば、これはまるで正反対な彼に対する恋愛感情みたいなものなのかもしれない、と彼女が思った瞬間。
 目の前の直門の身体が突然弾けて壁へと叩きつけられた。


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甘辛流小説家ギルドGAIA
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