木漏れ日が眩しく、大樹の根で覆われた大地。
枝影の間を鳥のような滑らかさで過ぎる影があった。
〈SIST(Silver spider thread)〉と呼ばれるワイヤーは、両手首の腕輪に巻きつかせ、両手合わせて7輪の指輪のような金具で自在に操る武器の一種だ。
武器といえど、その使用頻度は日常での活躍のほうが多い。
木々のほぼ全てが太古を思わせる大木に成長するこの辺境を、人々は【ミーミル】と呼び、豊富な果実と水源に感謝して暮らしている。 木の根ばかりでなかなか土の見えない【ミーミル】では、平坦な道など横たわった倒木や枝の間に張った蔓の上くらいのもの。 凸凹の激しい地上を行くよりも、〈SIST〉を駆使して大樹の枝を捕らえ、空中を伝う方が遥かに早く負担も少ないのだ。
彼女は慣れた手つきで俊敏に移動し、やがて視界に人間の一団を捕らえると、〈SIST〉の先に付けられた錘の役目を兼ねるナイフ(〈牙〉)を枝から巻き取り、数メートル上からまっすぐにその一団へと落下した。
彼女が向かってくるのをずっと眺めていた者の一人が、少女の落下地点へと進み、軽く両手を差し出した姿勢で、その体が飛び込んでくるのを待った。
ちょうどのところに落ちた体は、慣れて危なげ無いキャッチに掬い取られた。
反動を逃がし、それでも襲ってくる重力と体重を程よい力加減と体の重心の移動でしっかり受け止める。 まだ若い男性は、一連の動作の終末に少女の足を、自分と同じ木の根の上に着かせ、立たせた。
「おはよう、リビィ」
「おはよ」
淡白に聞こえる声は高く、凛とした空気には女性らしさよりも男さながらの力強さがあった。黒く長い髪に黄色気の肌。深い紫の虹彩は、鋭い眼光を宿していた。
「…すまない、遅れた」
「寝坊だろ?」
からかうような明るい笑みを浮かべた青年は、少女と並ぶと頭一個半も背が高い。赤茶の短い髪に浅黒い肌は、気前よく曲がった口元で人の良さを伺わせた。
彼は微かに眉間のしわを寄せた少女に、それとは違う理由であることを知り「ん?」と聞き返した。
「ザイ・ハバが朝の漁で溺れたんだ。あのバカ引き上げるのに、手間取ったんだよ」
「ハバ?なんだ、あいつまだ漁師なんてしてるのか。木こりの方がよっぽど様になるって、オレ何べん言ってやったと思う?」
肩をすくめて見せる青年は、元の一団の輪に、少女を伴って戻る。
その輪の中に一人だけ、胡坐をかいて座る老父がいた。
「カグ・リビ、向こうの夜明けは」
「いつもと変わりなく」
老父の問いに、軽い会釈と共に少女が答えた。
「ふむ…。今日はガン・ジナと行け。遅刻組みは、仲良く木モグラ駆除でもしとれぃ」
その言葉に、カグ・リビは傍らの青年を見上げた。
彼はニヤと笑って、少女と同じく反省の色も無い。
「お前も寝坊だったら、今日のコンビネーションは上手くいく気がしてたんだけどなぁ。気分の面で」
ため息一つ吐いて、少女の小柄な背が先を歩き出した。
笑いながら一歩後を歩く青年は、ノリの悪い相棒を非難することは無く「今日のノルマは5つな」と軽口を叩いた。
老父、カグ・リビ達の属する【ミーミル】のグループを纏め上げるその人を、彼女は元老と呼び親しんでいた。
元老はここ最近、毎日のようにグループの中でも選りすぐりの練達者を引き連れ、【ミーミル】の森を探索している。
それにはもちろん2つの集落を外敵(主に木モグラ・ミミズと呼ばれる化け物じみた動物)から守るための警戒の意味もあったが、どうやら別の目的もあるらしい、と遅刻コンビは密かに掴んでいた。
このグループに属する2つの集落は、清水の湖側の【リチェット】と、それより外側にあり、主に外敵の睨みと他のグループとの交渉を行う【サグス】とがある。
グループの殆どが【サグス】に住む者たち。
女・子供が多い【リチェット】から来ているのは、リビだけだ。
そして、元老はここ毎日のように、毎朝リビに同じ問いを繰り返す。
「向こう(【リチェット】)の夜明けはどうだ?」と。
〈SIST〉を操りながら、リビとジナの二人は、適度な間隔を崩さずに木々の間をすべり過ぎて行く。時々曲がるときの合図や、向かう先の確認に手を動かしてサインを出し合うが、その合間の会話は何とも悠長な口調だった。
「だからさ、元老の気にしてるってのは水かさのことじゃないって」
「ならなんだ。今まで元老が【リチェット】をああも気にしたのは、枯渇の予兆が出たときだけだろ」
リビは目前に迫りつつある大木に「飛び移る」サインを出しながら聞き返した。
ジナもそれに「了解」と答えながら、ぱっとしない顔でうなる。
「ん〜、なんつーか、尋常じゃあねぇと思うわけよ。俺としては」
大木の枝に同時に飛び移る。
ジナは一休み、とつぶやきながらその場に座り、リビは腕組をして大木に背を預けた。
リビはジナの曖昧な答えが気に入らないのか、眉間を寄せた険しい顔でジナを見下ろす。
「そんな事はオレにだって分かる。問題はその原因だ。お前は元老と同じ集落だろ、何か心当たりは無いのか」
「心当たりはあるさ。確信がねぇうえに、意味もわっかんねぇけど」
「なんだ?」
男顔負けの鋭い眼力に、おじることなく飄々とした青年は肩をすくめた。
「《エオス》」
その単語に、ついリビも硬直して目を見開いた。
「に、関係してるらしい」
「《ミーミルの女神》が、なんの?」
「そこまでは」
分からない、と苦笑するジナに、小さなため息をついて、リビはその髪をかき上げた。
「でも《エオス》は【リチェット】には現れるんだろ?【サグス】には全然だってのに」
「【リチェット】は《女神》の禊ぎ場だ。当たり前だろう?毎朝夜明け時には現れる」
そこで、ハッとしたリビは、単語を繰り返した。
「“夜明け”…か」
「な?そう考えると辻褄は合うだろうよ」
では、何故元老は《エオス》を気にするのか。
それが何故毎日グループの練達者が集まり、森を徘徊することとなるのか。
「《エオス》に何か変わったことは無いのか?」
「夜明けの早い時間に毎日起きるほど、オレは疲れ知らずじゃない。《エオス》の様子がどうとかまでは知らん」
謎は解けず、ぼんやりと空を見上げる。
青が美しい夏の空、風に【ミーミル】の外界から運ばれてくる砂。
美しい、とリビは思う。
外界に、この【ミーミル】ほどの美しさなどあろうハズが無い。
《女神エオス》の加護の元、ここまで恵まれたこの域を、彼女は愛してやまない。
木モグラもミミズも、外敵といえど見慣れた愛着だってある。
この相棒の話す自由奔放で訳の分からない話も、元老の集落を愛する思いも、彼女という存在を満たす掛け替えの無いモノ達だ。
「リビィ?」
その【ミーミル】に、何が起ころうとしている?
直感の良いと自他共に認めるリビの胸には、相棒と二人で気付いた元老の別の目的が、何か重いものに大して感じる動揺が渦巻いている。
知りたい、と思うのだ。
知らなくては、と。
「ジーナ、オレは《エオス》のところに行く」
「…って、今からぁ?」
「急いだほうが、いいと思う。元老にはダメだ。オレが直接《女神エオス》に尋ねた方が良い」
「根拠は」
「ない」
そこまで行って、ジナはニヤりと笑った。
自分とちがってノリの良い相棒の、肯定の笑みであることを確かめて、リビは大木の上の上の枝を見上げる。
〈SIST〉をそこへ伸ばし、高い木の高い枝へ。さらに高い木の、高い枝へ。
そうして、【ミーミル】で最も高い所へ行くのだ。
《エオス》の社へ。
「OK、お供してやるぜ」
「着くまでにばてるなよ」
「どっちが?」
二人は笑みを交わして、腕を大きく振り上げた。
〈SIST〉が飛び出し、〈牙〉が枝を捕らえる。
同時に、二人は足の下の枝をけり、大きく跳び出した。
それから40分程たち、【ミーミル】育ちの敏感な肉体が酸素の薄さを感じ始めた頃、ジナは2メートルほど自分の上を行く少女の背中を見上げて、小さな苦笑を浮かべた。
すでにそこは【ミーミル】で最大の樹木であり、最高の聖地でもある【ダフネリア】の半分を超えた辺りだった。
この巨木を上りきるという重労働は、普段はあまりなされない。雨が少なくて《女神エオス》に雨乞いに来るか、果実の豊作と人々の成長を祝う大祭典の時くらいなものなのだ。《エオス》に捧げモノをする時には、【女神の禊ぎ場=リチェット】で夜明けを張るか【妖精の遊び場=ニンファニー】で満月を待つかのどちらかで、それ以外では滅多に《エオス》には会えない。
別に《エオス》の社に行ってはいけない、という掟がある訳ではない。ただ、長い時間と運動を必要とし、いつ木モグラやミミズに出くわすか分からないという悪環境のため、人々は極力避けるようにしている。
大祭典の時とて、各集落の代表ともいえる練達者が集まってのもので、祭りの神器と捧げモノを社に届けて終わるのだ。
そこへ“気になるから”というだけで足を踏み入れるリビは、やはり男より男らしい。
【リチェット】の女たちの人気も、【サグス】一のクールガイで有名なナギ・エンに次ぐ上々ぶり。グループ唯一の女狩人の名を張るだけのことはある。
(やっぱ、あいつが一番ユイ・リカの血を継いでるなぁ)
共通の母体である女性の名を上げてみて、ジナの脳裏には神秘的で妖艶な女性の、静かな微笑が過ぎった。
狩の腕は【ミーミル】一番。
そう歌われたユイ・リカの後を追うように、カグ・リビは狩人として確実に腕を上げ、周囲の信頼を勝ち取ってきた。 ジナもそうだ。 だからこそ何処かで気があって、それ以来コンビとして共有する時間が多くなった。
〈SIST〉の扱いや跳躍力・直観力・筋肉の柔軟性では、練達者の一人であるジナにも、リビには及ばないと思うことがある。
男と女。 当然ある肉体的な差を、彼女はあっという間に埋めてしまったのだ。