23.4


1 :菊之助 :2007/10/02(火) 23:56:32 ID:mcLmLGuJ

●ワンコイン


 自動販売機の下にコインがころりと落ちたのを見て、ヒナが小さく「あっ」とつぶやいた。
「……どうしよう」
「放っておけ。小銭だろ?」
 こともなげに俺が言うと、彼女は金色と赤という不思議な色合いのオッドアイでギッとこちらを睨みあげた。可愛い顔でも、その迫力に一瞬俺はたじろぐ。

「知っているか、ストーク?」
「……なんだ?」
 俺が相手の機嫌を損ねないように慎重に聞き返すと、彼女はそれが嬉しかったのか形の良い眉を片方だけ器用に吊り上げて囁いた。
「ジャパンでは『一円を笑うものは一円に泣く』と云うんだぜ?」
「一円じゃないだろ、お前の落したのは」
「そういうのは『言葉のあや』って言うんだよ。それよりもオレ、コインとるから。お前、人が来ないか見張っておけよ」
「はぁ?」
 今度こそ思いっきり間抜けな声で聞き返してしまったが、そんな俺のことはお構いなしに、ヒナは見事に地面に這いつくばって、地面と自販機との狭いスペースに、その腕を突っ込んだ。その躊躇ない動きに、今度は俺のほうが慌ててしまう。昼下がりの裏路地だ。こんな場所、よほどの物好きでもなければ通らない。彼女が言うとおり、誰か来ないか見張っていたところで、どうせ人どころか野良犬さえも通らないことだろう。だが、それよりもうら若い乙女(に見える。少なくとも彼女の外見はティーンエイジャーだ。しかもローティーン)がジャケットを脱いでシャツを二の腕までまくりあげ、ひざまずいて自販機の下を探るなんて、とても直視しがたい光景である。
 少なくとも、俺はやめてもらいたい。

「おい、ヒナ」
「んだよ、ちょっと待って。あとちょっと、ちょっとで……」
 ジーンズの尻をこちらにむけたまま、ちっとも話を聞こうとしないヒナに、俺は早口で囁く。
「そんな恥ずかしいことはやめておけ。金ならまだあるだろうが」
「そりゃ、あるけど……そういう問題じゃ、くっ。ないんだよ」
「何も年頃の女の子が地面にひざまずいてやるほどのことではないだろうが」
 相変わらず自販機の下に手を突っ込む黒髪の少女に、俺は次第にしびれをきらしてくる。普段、どんな相手にも冷静でいられるよう訓練を受けているというのに、どうにもヒナには調子がくるわされてばかりだ。だが、当の本人は俺の苛立った声に不思議そうに振り返って言い放った。
「なんで?」
「なんでって、なにがだ?」
 質問の意味が分からず俺が再び聞き返すと、ヒナはグイッと体を自販機に押し付けて更に下をまさぐりつつ言った。
「自分の落したものを拾おうと思うの、なんで悪いんだよ」
「……は?」
「オレの持ってるものは少ないんだよ。だから一つとしてそのまんまに、どこかに置きっぱなしなんてしておきたくないんだ、よっ」
 言われた意味が分からず立ち尽くした俺の足元で、彼女はひとつ大きく気張ると一気にその手を隙間から取り出した。白い手は埃と泥で汚れていたが、確かに握られていたのはヒナが落としたはずのコインである。感触だけでなく、視覚でもそれを認めると、黒髪の少女は嬉しげに俺の方を振り返ると手を開いて見せた。
「ほらな、とれただろ?」
「……そうだな」
 
 俺はそれだけ呟いて、苦笑した。
 なにもヒナの貪欲さに苦笑したわけではない。
 失うものが多すぎた彼女の、それでも失うことを止めようとする精神に。
 一途というには直線すぎて、ひたむきというには曲線すぎる。
 だが、そうした彼女の心と笑顔に、俺はともすればすぐさま任務だからと切り捨てようとしてきた自分に、苦笑したのだろう。
 汚れてしまったヒナの手の中には、やはり同じように汚れてしまったコインが一枚。

 だが、それはどんなものよりも誇らしげに、銀色に輝いていた。


23 :菊之助 :2009/07/03(金) 14:40:55 ID:ommLomrk

氷紋


 体を貫くような寒さで目が覚めた。
 吐く息が白くて、視界が曇る。寒さをやわらげようと身を丸めていたために、四肢を伸ばすとぎこちない動きになった。
 全身に血の気がいきわたるのは、もう少しかかるだろう。痒みのような痺れは、覚醒と共に体温を上げようと体に血液が盛んに流れ始めた証拠だ。
 震える手で無意識に胸元をさわって、そこに何もないことに気がついた。
(そうだ……)
「昨日、なくしたんだ……」
 軽くなった胸元をなでて、目線だけをあげてみる。
 監禁されているこの場所は、鉄格子付きだけど窓があった。
 朝日もまだ昇りきっていない薄明かりの中、窓に見慣れぬ模様を見つけて、オレは目をこらした。
 霜が降りたのかと思ったけれど、もっと違う、はっきりとした白い何かが窓をびっしり覆っている。
 以前見た、氷の結晶の写真に似ているようにも思えたけれど、それよりもずっとずっと繊細できれいに見えた。
「ああ……」
 久しぶりにこぼれたため息に、自分でも驚いた。
 名称も知らない、その綺麗な白いものを見上げながら、胸元を触る。
 小鳥と鳥かご。
 もう、そこにはいないのに。それがあったことを確認するかのように、オレは胸元に手を置いたまま目を閉じる。
 瞼の裏ではまだ、窓についた結晶が弱い朝日を浴びて輝いていた。
(なんて、名前なんだろう……)
 彼ならば、知っているだろうか。
(……ストークに、見せたかったな……)




 警報機が館内に鳴り響いたのは、それからすぐのことだった。
 


24 :菊之助 :2009/07/30(木) 20:45:48 ID:ommLomr7

キッチン

 何か食べたい物でもあるか、と聞かれて、何もないと答えたのは料理の名前をしらなかったからだ。
 俺の答えに、彼はそうか、と答えると、キャンプの中で唯一のコンロに火をつけた。
 ザックの中から取り出した鍋を火にかけて、その中に入れたのは驚いたことにチョコレートだった。
 火力は最大。すぐさま甘い香りは焦げたそれに変わった。
 そんな顔をするな。普段はもう少しましな物が作れるんだ。
 言うと、鍋を火からおろして俺の前に突きつける。
 火を使えば、それで料理だ。料理を作るところはすなわちキッチンだ。
 薄い青色の瞳に見つめられ、言い切られて、俺は生まれて初めて返答に困った。俺の様子を気にしていないのか、彼はさらに付け加える。
「キッチンで作られたものは、すべて情が詰まっていると聞いたことがある。お前がこれまで敵兵だったとしても、これを食べて仲間になる」
 一瞬意味がわからなかった。 
 感情の読み取りにくいその少年の言い分を、4回頭の中で反すうしてから、どうやら俺は彼に歓迎されているのかもしれないという考えに至った。
 だが、あくまで「かもしれない」だ。
 相変わらず鍋は異様な臭気を放って、俺の前に突きつけられている。
 こちらの困惑にようやく気がついたのか、目の前の少年はおもむろに鍋に己の指を突っ込んで、元「チョコレート」をすくいとり、
「熱いっ!」
 ほぼ無表情のまま叫んで、思わず持っていた鍋を地面に落とした。下は土なので、アルミ鍋は大した音も立てずに地面にひっくり返る。
 土の色とチョコレートの残骸の色が混じりあい、なんとも言えない微妙な空気が俺達の間に流れた。
 しばしの沈黙の後、鍋を見下ろしていた目の前の少年がふっと俺の方を向く。
「俺はハルシオンと呼ばれている。職業はお前と同じ少年兵だ。が、おそらくお前よりはいくつか年上だと思う」
 これまた唐突な自己紹介に、俺はもう何が何だかわからなくなった。たぶんかなりのアホ面をしていたのだと思う。
 そんな俺にハルシオンというコードネームの少年がすっと手を差し出した。
「料理はだめになったが、俺達の施設はもっとしっかりとしたキッチンがある。施設に到着次第、ちゃんとした料理をふるまおう」
「……またチョコレート?」
「いや、もう少しまともな物がいい。ついでに俺は料理が出来ないので、給仕担当のヨハンナ女史に作ってもらおう。
 なので、とにかく施設につくまでは「仲間」ではないにしても、味方にはなってもらいたい。いいだろうか?」
 無表情のまま言われ続けて、本音なのかどうなのかもうさっぱりわからなくなった。俺が手を取るべきか悩んでいると
「ついでに、仲の良い人間には、ハル、と呼ばれている。といっても、まだ俺のマスターだけだが」
と付け加えられた。
 これは、つまり、自分を「ハル」と呼べということか?
「名前はなんていうんだ?」
 答えあぐねていると、立て続けにそう聞かれる。相変わらずの無表情。
 俺は急にばかばかしくなって、だが不思議に軽い心持で、ハルの手を握り返した。
「俺の名前は……」



『ストーク、しっかりしろ』
 突如頭の中に響いた声に、俺の意識は戻る。
『衝撃弾により一時意識が飛んでいたようだ。怪我はほかにないか?』
「……ああ、大丈夫だ」
 体内に仕込んだ通信からの音は、まだジンと痛む耳を通さなくてもしっかりと聞こえた。閉鎖空間で衝撃弾を打たれ、着弾は防げたもののハルの言うとおり一時意識が飛んでいたようだ。
『こちらのモニターでは敵の姿は見えない。自分で対処しろ』
「……それでサポートといえるのか?」
 思わず口から出た不満に、すぐさま耳元で
『気を失いかけた後輩に、声をかけて呼び戻したのはサポートというだろう』
と無感情な声が返ってきた。長年付き合っているが、彼の性格はいっこうに変化を見せない。
『しかし、これで一つ確信が持てたな。チビスケは必ず屋敷の中にいる』
 淡々とそうつづけられて、俺はぐっと黙り込んだ。
 突然の襲撃に、鳴り響く警告。確実に俺は目標に近づいている。
『帰ってきたら、飯を食いにいくからな』
「……どこに?」
『無論、お前たちの所にだ。チビスケに料理を作ってもらう。当然の報酬だな』
「……」
 また、そんな勝手なことを。
 ヒナが聞いたら「勝手なことを!」と怒りそうなことをいう。だが、それで幾分か気分が盛り上がった。
「……捜索を続ける」
 一言だけそう返して、俺は再び立ち上がる。


25 :菊之助 :2010/01/03(日) 18:03:59 ID:PmQHscoiz3

「目を閉じて」


 戦場で暮していれば、世間では非現実といわれるような状況が現実へと変わってくる。

 だが、それらはひとたび「現実的」といわれる世界に戻れば、己の心を蝕む闇にしか成りえない。
 人に対しては「大丈夫だ」「安心しろ」といえるはずなのに、自分のことになると対処のしようがなかった。起きている間はまだいい。眠っている間はどうしようもない。
 手首をつかまれる恐怖。それを振り払う恐怖。そして無意識的に銃を相手に構える、自分への恐怖。
 わけがわからず、一度目覚めるとそのまま日が昇るまで一睡も出来ないことがほとんどだった。

 その日も、そうだった。
 どんな夢を見たのかはわからない。ただ、恐怖と緊張が夢を通り越し体全て支配して、こわばりと押し上げるような衝撃で目が覚めた。
 カーテンをかけた部屋の中には、外からの光も入らない。
 完全な暗がりの中だと、住み慣れた自分の部屋のはずなのに、敵陣の真っただ中にいる気分にさせられた。
 昔は過呼吸に陥ることもあったが、今はそれでも落ち着いたものだ。ただ、もう朝まで眠ることはできないだろう。
 その時。
 部屋の扉が開いた。
 控えめなノブの回し方ではあったが、反射的に枕の下にあった銃を構える。
「……オレだよ」
 聞きなれた声だった。控えめに開いた扉の向こうには、小柄な影が見える。
「……なんか、呻いてたみたいだから、心配になった」
 弱気なその声に、俺はようやく自分が銃を構えていたことに気がついた。慌ててそれを枕の下に隠す。だが、夜目の利く彼女には、俺が何を構えていたか、またそれがどこに再び納められたかも見えていることだろう。
「入っても……いい?」
「ああ、いや、あ、違う、どうぞ」
 普段とはまるで立場が反対だ。大人げない慌てぶりを見せながらも、どうにか俺が答えると、意外に彼女はためらうことなく俺のベッドまでやってきて腰かけた。その手がすっと俺の額に伸びてくる。反射的に体を引いてしまったことに、内心自分に舌打ちした。が、彼女は―ヒナは、気にした様子もなく、さらに腕を伸ばして俺の額に手をやった。
「……なんだ?」
「眠れないのは知ってる。でも、休まないといけない」
 静かに、まるで俺よりも年上のような落ち着いた声で、そう言う。
「大丈夫。もう悪い夢は見ないよ。さあ、目を閉じて」
「あのな、ヒナ」
「目を、閉じて」
 静かで、優しい声だった。
 自分よりも一回り以上年下に見える少女に言われて、最初は躊躇していた俺だったが、自然と再び横になった。 
 枕の下に感じる鉛の銃に、一瞬こめかみが引きつったのが自分でも判ったが、ヒナはそのこめかみをそっと触れて、再びつぶやいた。
「目を閉じて」
「……」
 言われて、目を閉じた。
 先ほどよりも濃い闇が、俺を覆う。一瞬体が奥から緊張するのを感じたが、そんな俺に対してヒナは優しくつぶやいた。
「そう。いい子だね」
 まるで母親のような慈悲の声で。
「おやすみ、ストーク。よい夢を」
 そのまま、彼女の小さな手で頭をなでられて、俺は何度か深い呼吸を繰り返した。
 
 体がふっと軽くなる。
 闇は、やはり闇だったし、頭の中にはやはり昔体験した戦場の音が響いていたようにも思う。
 ただ、悪い夢は見なかった。
 静かで、温かな、そんな闇だった。


26 :菊之助 :2010/02/10(水) 18:29:24 ID:PmQHscoiz3

風船

風船


「……さて。君は自分の現状がいかなるものか、まだよく理解していないみたいだね」
 拘束具で全身を固定され、ご丁寧にさるぐつわまで噛まされた状況で、オレは唯一動かせる目で激しく相手を睨みつけた。薄暗い部屋だ。天井から吊り下げられる電球の弱い光が、目の前でパイプ椅子に座りオレに微笑する男の姿を映し出している。
「この二週間、気を張っている君は、なかなかどうして我々に隙を見せなかった。本当に厄介だったよ。計画が大幅におくれてしまった」
 やさしい笑顔は、嘘だった。
 確かこの男、オレの「ちちおや」だと名乗っていた。
 そう。「父親」だ、と。
「すさまじい殺気だな。ああ、そうかそうか」
 拘束され、動けないオレの額に人差し指を突き立てて、男が笑う。微笑ではなく、嘲りの笑い。
「裏切られただけれなく、希望や夢もつぶされたからか。まっとうなおうちで、まっとうな可愛らしい女の子として人生を過ごせると思ったのだものね」
 とん、とん、とん。
 額をつつかれて、オレの体は怒りによって芯から凍えた。
「淡い希望と夢でふくれた風船は、君の表向きな死によって、きれいさっぱり割れてしまったね。かわいそうに」
 編入学しないといけないからと早朝に車に乗せられたところまでは覚えている。だが、唐突に意識が途切れた。
 目覚めれば、拘束され、この部屋に投げ込まれていた。
 それだけで、すべてが理解できた。
 オレは、だまされた。
 そして、オレの両親なんてのは、でっちあげられた嘘だったのだ。
 よくも。
「しかし、ある意味我々は君の最後の希望の風船は壊していないのだよ? そんなに憎まないでほしいな」
 中年男が、初めてオレを迎えに来た時となんら変わりない笑顔でそう続けた。どういう意味だ?!

「君は、その、可愛らしい年頃の姿でいて、かれこれ何年目になるかな?」
 尋ねた男は、そうしてオレの目の前に一枚の紙切れを突き付けた。紙切れじゃない、写真だ。
 オレが写っている。
 見たことのない服を着て、気をつけの姿勢でカメラを構える誰かを睨みつけている。そのオレの横に、少年が立っていた。白い髪に、オレと同じような金と赤の眼。
「わかるね?そう、君だ。隣に立つのは、君と同じ施設で育った少年だ。これ一枚しか入手できなかったが。そして、これが最近になって入手できた、その少年の姿」
 さらに一枚写真を突き出された。
 そこには、二十代半ばの青年が写っていた。髪は白く、眼は、赤と、金。
 そんな奴、そんな人間、たくさんいると思えない。

 だったら、この青年は。少年の面影を残した、この青年は。
 理解するのと同時に、背筋が先ほどよりも数段凍りついた。


 認めたくない、何かが、膨れ上がる。


「端的に言うと、君はある特殊な遺伝子と細胞を持っている。そのため、通常よりも年をとるスピードが極端に遅い。信じられないかね? だが、これまで何度か死にかけていたのに生きてこれたのは、その類まれな回復力、細胞の活性力の一端だと言えば説明がつくだろう」
 自分でも目が見開くのがわかった。男はさらに続ける。
「しかし、そんな強力な細胞が、はたして君のようなか細い体の中にとどまるだろうか? 汗、涙、呼吸。すべてにおいて、生物は何かを体外に排出しながら生きているのだよ?
 その強力な細胞の排出が、自然界に溶け込むと思うかな?」
 自分でも喉が鳴ったのがわかった。この男の話は嘘だ。
 信じるに値しない。
 だが、信じられない根拠もない。
 確かに、オレは、他と、違う。
「君の周りにいる誰かが、最近体の不調を訴えたりはしていないか? そうでなくても、いずれそうなると考えたことはないか? 君の大事な人が傷つかないようにする最良の手段は何か、もうわかるのではないか?」

 何かが抜けていくような音が聞こえた気がした。
 希望とか。
 願いとか。
 怒りも、悲しみも。
 

「君は、我々に隔離幽閉されたと思えばいい。ついて回る実験、訓練とよばれるものも、すべて君自身から君の大事な人たちを守るためのモノと考えれば耐えられるだろう?」

 自分がしぼんでいくような気がした。
 多くの何かが抜けていく。
 風船みたいだ。
 オレは、しぼんだ風船みたいだ。

 


27 :菊之助 :2010/02/24(水) 00:48:31 ID:rcoJsGumo3

愛しさ

愛しさ

 爆風と喧騒の中、確かに誰かが名前を呼んだ気がした。
 脇には銃を構えた兵士が控え、振り返ることも許されない。だが、自分を取り囲む彼らの体に緊張感が走るのを見て、ヒナは聞き間違いではなかったのだと確信した。
 その声が誰のものなのか、すぐに分かった。
 警報機が館内に響き渡った時から、すでに分かっていた気がする。
「……ストーク」
 誰にも聞こえないような声だったはずなのに、口にしたら胸が締め付けられた。
 無論、返事はない。
 彼が、新しい「家」に自分が入り込んでから一度も連絡をくれなかった理由は、何とはなしに理解しているつもりだった。きっと、彼の相棒や同僚達は、何度かこちらに連絡をくれようとしたことなのだろう。それを、彼が止めたのだと、ヒナは自然に想像できる。

 新しい家になじむのに、俺達が不必要に連絡をしないほうがいい。
 ヒナのことを考えろ。
 普通でも混乱しかねない状況なんだ。
 落ち着いたら、きっと自ら連絡をよこしてくる。
 連絡がなかったら、それはあいつが自分の本当の家になじんだということだ。
 いいことじゃないか。

 煙草をくわえながら、眉間にしわを寄せて、きっとそんな風に言ったのだろう。
 豪奢な家具がおかれた、だだっ広い部屋のベッドの上で、ずっとそんな風に考えていた。彼がそんな不器用な優しさを持っているのを、何よりヒナは知っていたから。
 だから、穴のような深い寂しさで心がおさえこまれても、彼の優しさを思って、ヒナは精いっぱい新しい家になじもうと我慢したのだ。
 
 しかし、唐突に裏切られた。
 新しい家は、彼女の「家」ではなかった。全てが全て、嘘で塗り固められ、実際は彼女の持つ何かしら特殊な細胞を占領しようとする組織の、虚像が作り上げたものだった。
 それでも、逃げもせず、言葉の通り死にそうな訓練や実験にも耐えてきたのは、やはり胸の内に彼がいたからだろう。
 自分は普通ではない。いるだけで周りの者を破壊しかねない。どのように破壊するのか、どのような毒が自分の中にあるのかまでは理解できなかったが、それは誰にも言わず、そして自分自身でも気付かないようにしていた事実を提示され、理解できなくても認めざるを得なかった。
 自分が彼の元に戻ったら、そうすれば穴のような寂しさは、湧き上がる喜びで満たされる。
 でも、もし自分が戻ったことで、彼が、原因不明の病にかかったら?
 それが完治しないような病だったら?
 それが原因で、彼が苦しみ、そして、そして――。

(死んでしまったら)


 唐突に、彼女の右側にいた兵士が倒れた。
 眼だけで兵士を確認すると、彼の眉間に麻酔弾の痕がある。次いで、後方右と前方右も呻き声をあげて倒れた。プロではあるが、実戦の経験は明らかに少ないであろう兵士達が、埃が待って白く濁る前方に向かい自動小銃を乱射した。
 背筋が冷たくなる。
 やめろと叫ぶより早く、拘束具を付けられた彼女のベルトをつかんで、横の兵士が急いで前を走らせようとする。ヘリポートはこの先だ。そこに彼女を護送すれば、彼らの仕事は一段落する。正体不明の敵に、狙い撃ちにされるなんていう経験は、きっと彼らはしたことがないのだろう。
 気の毒に思いながらも、どうにか後方を確認しようと彼女が首をひねったら、バランスが崩れた。手と腕をがっちりと拘束され、無理な体勢で走らされたのだ。無様にも顔面から地面に倒れる。
「なにをしている?!」
 兵士の苛立った声が、頭上から降りかかった。
「立て!」
 言われて立ち上がろうとするが、腕を使えないのでは、思うように体を起こせない。しかし、兵士はそれがわざと時間をかせぐための行動だと認識したのだろう。横合いから銃のグリップで背中をたたきつけてくる。
「……!」
「とっとと走れ! この野郎!」
 息が詰まる衝撃に身をよじるひまもあたえず、兵士は再びベルトをつかんで無理やり彼女を立ち上がらせた。だが、長引く無茶な実験で弱り切った今の彼女は、そこからすぐに走り出すことができない。痛みに呻き、奥歯をかみしめてみるものの、衝撃と疲労に意識がもうろうとする。
 横で再び兵士が銃を振り上げる気配がした。
 だが、悲鳴を上げたのは意外にもその兵士だった。ついで、その体が地面に倒れこむ。ぼやける瞳でも、兵士が完全に気を失っているのがわかった。
 
 そこで気がついた。
 誰かが、そこに、立っている。
 倒れかけた体を下から支えられ、もう片方の手は背中で結ばれている拘束具のベルトを冷静に外していく。
 すん、と彼女の鼻に煙草の匂いが届いた。胸が締め付けられる。よく知っている匂いだ。
「待たせたな」
 ぽつりと耳に届いた声は、ずっとずっと、彼女が待ち望んでいたものだった。
 拘束が解かれ、反動で体が前のめりになったが、また地面に倒れることはなかった。大きな手が先ほどと変わらず彼女を支えていてくれたからだ。そっと、振り仰いだ。

 濃いブラウンの髪。
 緑の瞳。
 険しげによった眉根は、彼の慎重な性格と、これまでの経験を物語っている。
 あ。

(……ひげ、剃ったんだ)

 むさ苦しかったひげが、綺麗に剃りあげられていた。そのため、これまでよりもずっと若く見える。もしかしたら。
(思ってたよりも若いのか、な……)
「ああ、髭か。今日は、剃ってきた」
 こちらの視線に気がついて、彼が小さく苦笑した。胸が熱くなる。言葉が、何も、出てこない。
 だから。
 彼女は。

――君の周りにいる誰かが、最近体の不調を訴えたりはしていないか? 

「大丈夫か? 歩けるか?」

 聞かれる。心配そうに。優しげな、まなざしが、自分にふりそそぐ。
 だから。
 だから、彼女は。

――そうでなくても、いずれそうなると考えたことはないか? 君の大事な人が傷つかないようにする最良の手段は何か、もうわかるのではないか?

「ストーク」
 息を吸い込むようにつぶやいたはずだったが、相手はその呼び掛けに反応した。
「なんだ、ヒナ?」
 求めていた、望んでいた全てが、今、自分の目の前にある。
 瞬間、最後の言葉が頭に響いた。



 すべて


 君自身から君の大事な人たちを守るためのモノと考えれば


 耐えられるだろう?


 気がつくと、自由になった自分の体は、愛しい相手の手を退けて走り出していた。
 背後で自分の名前が叫ばれた。
 だけど、振り返らない。立ち止まらない。
 ヘリポートと反対方向、途中に何度も曲がり道を抜け、以前自分が「訓練」に連れて行かれた屋外へと飛び出す。
 日は、もう暮れかけていた。
 伸び放題の木に、生え放題の草をかき分け、彼女は懸命に走った。どこにいくのかわからない。どこに向かおうとしているのかわからない。
 なぜ、走っているのかさえも。
 訓練で何度も走らされた場所だった。土地は覚えている。だけど、今はどこをどう走っているのかさえもわからない。
 伸びすぎた枝が、無防備な体を打った。痛みが走る。ここから先に進んだら、もしかしたら崖だっただろうか? 崖から落ちるつもりなのだろうか?
 瞬間、背後で短く悲鳴が聞こえた。
 ハッとして、初めて振り返る。
 後方で、彼が、目元を押さえてうずくまっていた。
 その手の隙間から、赤い血が、滲んで見えた。

「――――っっ!」

 全身に震えが走った。
 踵をかえし、走り寄る。呼吸が止まりそうだった。

「ごめんなさいっ!」

 口から思わず出た言葉の意味を、自分でも理解できないまま。
 手は自然と彼の、傷を押さえる手に向けられていた。

「ごめんなさいっ! ごめんなさいっっ!!」
 声が震えているのがわかる。それ以上に、体が恐怖で震えていた。
 どうしようどうしよう。どうか、どうかどうか!

「……大丈夫だ、目には入ってない」
 震える手をつかんで、彼は血がにじんだ顔をゆがませた。それがひどく不器用な笑顔だとわかるには、彼女には少々の時間を弄したが。
 彼の言うとおり、その緑の瞳には傷はなかった。細く鋭い枝が、瞼の上をかすめたのだろう。まだ出血しているものの、傷口自体は浅く小さい。
 肺が震えた。息が苦しい。目を閉じる。涙が、滲む。
 ハタと気がついた。手を掴まれている。
 思わず立ち上がり、再び走ろうとした。
「待て!」
 ガクンッと体が停止した。彼が、手をつかんで離さなかったから。
「……逃げないで、話をしよう」
 静かだが、必死な声だった。これまで彼女が聞いたことのないような、そんな声に、もう、彼女は、ヒナは、立ち止まったままだった。


28 :菊之助 :2010/08/10(火) 23:07:06 ID:rcoJsGumo3

いらっしゃいませ



 いらっしゃいませ。


「あー……表のショーケースに入っているペンダントが欲しいんだが」
 言って入ってきた男性は、若い女性向けのアイテムを扱うこの店には明らかに不似合いだった。
 年齢は見たところ三十代前後だろうか。黒のジャケットにカーキ色のカーゴパンツ、髭面で鋭い目つきに筋肉質。服の上からでも、筋肉の厚みが分かる、いうなれば「町中にいるサラリーマン」とは明らかに違う人種だ。白くて、かわいくて、女の子好みなこの店には、こんな武骨で、強そうで、ついでに背も高くて怖そうな軍人っぽい彼は、異様な存在に見える。
 それは店内にいたスタッフ全員が感じたことらしく、皆一応にポカンとした間抜けな表情で彼を見たまま、動くことができなかった。
 いつもはイノセントに偉そうなマナが、一番その「お客様」に近い場所で在庫管理をしていた。が、バインダーで彼が見えなかったことにしたのか、明らかに気がついた風ではあったが彼女はそのまま黙々とリストチェックを続ける。
 男性は、ただでさえ渋い顔つきをさらに渋くして、立ち止まったままだ。が、少しして踵を返した。店を出て行こうとする。
「ショーケースの鍵をお持ちします、少々お待ちくださいませ」
 店内のスタッフ全員の視線がこちらを向いたのを感じてから、私はようやく自分が「お客様」に向かって声を出したことに気がついた。
 店の一番奥、カウンターで帳簿整理をしていた私は、己のでっかい声にびくつきながら、足をとめた「お客様」へと歩いていく。
「どちらのお品でしょうか?」
 小さな鍵でショーケースを開けながら私は「いつも通り」の接客をしながら、お客様の様子を伺った。
 その指は男性の中でもかなりごつごつしている類で、同じ職場にいる他の男性陣とは比べ物にならない。そのごつごつした人差し指が、引き出したショーケースの中の一つをさした。
「その、左から三番目のペンダントが」
「こちらですね?」
 言って、私はトレーの上にそれを置き、確認する。
「こちら、今はチェーンを通してネックレスのようにしておりますけれど、ペンダントトップはリングにすることも出来ますので、個人的にもお勧めです」
「……リング?」
 触れないように遠目で品を見つめていたその男性が、露骨に眉をしかめた。私はうなずき返す。
「ええ、そうなんです。サイズはフリーサイズですのでよほど指が太い方でなければ大丈夫ですね。リングは二連なので、その日の気分に合わせて一つ指につけて、もうひとつをトップにすることも出来ますし、今みたいに二連トップにすることもできます。また同じ指に二つともつけてもらっても、フリーサイズの中では結構細いリングなのでゴチャゴチャしませんから綺麗に見えますし……お客様?」
 男性がさらに顔をしかめ、仕舞には片手で困ったように口元を押さえたのを見て、私は思わず彼に声をかける。すると、お客様はその手をさらにこめかみ、顎に移動させた後、他のスタッフには聞こえないくらいの小さな声で呟いた。
「……女性からの意見として聞きたいんだが」
「はい、なんでしょうか」
 つられて小声になった私に、彼はさらに声をひそめて聞いてくる。
「普段行動を共にしている同僚が、ペンダントとは言えリングにもなるような物を渡してきたら……キミならどう思う?」
「私、ですか?」
「……ついでに、相手はここ最近大変なことが多々あり、それがようやく解決して、まあ、その、疲れているというか、気落ちしているというか、そんな状態のときに、これを渡されたら……」
「それはつまり、結婚しようとまでは言わなくても、何かしら特別な感情を抱かれていると誤解されないかどうかという……?」
 どうにか言葉を探して聞き返すと、彼は神妙なまでに深くうなずいた。
 その表情は険しいといったら険しいに違いないが、どこか情けない。まるで、思春期の少年のような、その少年が好きな子に初めて気のきいたプレゼントを贈るような、そんな感じだ。
 そこで思い出した。
 この人、確かバレンタインシーズンに来た髭面の人じゃないか!
 今は髭がなくずいぶん若く見えるが、確か以前来た時は髭面で同じように険しい顔だったから、今日のように他のスタッフが近寄らず私が接客したのだった。
 確かその時購入されたのが、小鳥と鳥かごのトップがついたペンダント。あげる人の年齢を聞いたら
「……二十代? 前半?」
と、ものすごーくあいまいな答えを返してくれた人だった。おー、それじゃあげる人は同じ人か? というか、そんな定期的にアクセサリー(しかも決して安いものではないと思う)をあげる間柄だと、よほどの鈍い人でないと好意があるのなんてばれるんじゃない? というか、好意があるからあげるんじゃないの?
 ああそうか、と私は納得する。彼は、まだ自分に自信が持ててないのか。
 あいまいな年齢発言を聞くと、もしかしたら相手はもっと年下なのかもしれない。今は年の差カップルも当たり前な時代だし、これがものすごく変態チックなお客様ならば躊躇するところだけど、見た感じ目の前の男性は真面目そうだ。お互い探り探り、相手の気持ちをはかっているのかも。
 だとすれば、ここで必要なのは冷静な意見よりも、後押しの意見か。
「人それぞれであると思いますが」
 慎重に第一声をつぶやくと、彼の緑の眼はさらに真剣な色を浮かべる。
「見ず知らずの相手からでなければ、女性は大抵「プレゼント」として受け取ると思います。自店の商品を褒めるわけではないですが、こんな可愛いものですもの。もらって嫌な気分になる人はそういないと思いますし、もし嫌ならば身につけなければいいだけですもの」
「なるほど」
 ふむふむとうなずく顔が、本当に思春期の少年みたいだ。
「それに深い意味を持たせるには、こちらは細工が本当に可愛らしいので、もしお客様が相手様に誤解をされたくないのならば、何を贈ればよいかわからなかったので色々と付け替えることが出来るものを贈ってみた、とお話すればよいのではないでしょうか。私ならば、大抵の場合はそれで納得するかと思いますが」
「そうか……」
「でも、何か特別な意味をこめるにしても、良いお品ではありますよ?」
 その瞬間私は見逃さなかった。
 目の前の男性の頬が、一瞬にして赤くなるのを!
 よし、ではとどめの一言を。

「今なら、無料でラッピングさせていただきます。期間限定の白い箱に、金色リボンで」
 優しい笑顔で微笑みかけると、その「お客様」は再び目元に手を当て、深く息を吐いてからおっしゃいました。

「……これ、ください」



ありがとうございました。


29 :菊之助 :2011/02/23(水) 23:59:39 ID:sGsFVFunYD

23.4

 地球の地軸が23,4度に傾いていると教えてくれたのは、確かルーだったと思う。
 オレは知らないことが沢山あって、思い出せないことが沢山あって、だからなのかその話を聞いたときに「へー」としか思わなかった。
 だって、23,4度なんて、あんまりぴんとこない数字じゃないか。

 それに、それだけ傾いているからといって、何になるのかとも感じた。
 もしその傾きが少し変われば、地球には多大なダメージが起こるのかもしれない。
 でも、実際その傾きが変わったのを体験した人間なんているわけないのだから、それこそ信憑性のない話じゃないか。

 そう思って、そう考えながら、今日はまた屋上のタイルの上に寝転んでいる。
 首から下がっているのは、可愛らしいネックレスだ。
 こんなの、オレが付けてていいのかなとも思う瞬間はあるけれど、気がつくと手でいじっているし、眺めているし、やっぱり気に入っているんだろうな。

 4日前にそれをくれた人物のことを思い出すと、なんだか胸のあたりがきゅっと苦しくなった。いつも仏頂面で、睨んでて、きっと顔はハンサムの部類に入るのだろうけれど、それよりもとがっている印象の方が強い。
 でも、そいつがオレのために、こんな可愛いネックレスを選んできたのかと思うと、また胸がきゅっと痛んだ。

 オレと、あいつとは、いったいどれくらい年が離れているのだろうか。
 そもそもオレ自信、本当は何歳なのだろうか。
 この前であった、腹立たしい輩の話では、オレは年をとっていないらしい。外見上は、14、5歳だけど、実際はもっと上だというようなことを言われた。
 もっと上って、どれくらいなんだ?
 記憶が戻ると同時に、突然外見もふけるとかそんなのか?

 あいつの年齢も、実はよく知らない。
 髭を生やしていたときはむっさいオッサンだと思っていたけれど、髭をそると意外と若かった。もしかして、オレのほうが年上だった、なんてことも起こりうるかもしれない。
 濃密な人間関係に年齢は関係ないというけれど、本当にそうなのだろうか。
 
 外見の急激な加齢が万が一オレに起こりうるとした時、オレは、そしてあいつは今まで通りに付き合っていけるのだろうか。
 それよりも、オレの体には、他のものに害をもたらすような細菌やウイルスがあるとも聞いた。
 今のところパメラからは「そんなことはない」と言い切られたが、実際は分からない。
 オレがそばにいるだけで、あいつが苦しんだならばどうしよう。

 思うと、また胸が痛んだ。

 どこか遠くに行くことは、オレにとっては簡単なことだ。
 でも、それをして、あいつはまたオレのことを探してくれるのではないか。

 矛盾した思いに、胸が再三にわたって痛む。
 悲しいとも、情けないとも、つらいとも違う、この痛みに、ため息が漏れた。
 そのため息に呼応するように、首にかけたネックレスが揺れる。


 世界はまっすぐなようで23,4度傾いている。
 その傾きが少しでも変わると、世界はどうなるのだろうか。
 オレがこの場から姿を消すことは、この世界においてどんな風に受け止められるのだろうか。
 そんな風に考えた自分が馬鹿らしくなって、また胸が痛んだ。

「ヒナ、いるか?」
 背後にある扉が開いて、オレの名を呼ぶ声がする。
 髭のなくなった顔は、本当に若々しく見えた。もしかして、三十歳に満たないのかもしれない。でも、いくつなのかはオレは聞かない。知れば、その分、きっと悲しくなるから。

「いるよ、ストーク」
「お前、まだ本調子じゃないだろ? 早く部屋に戻れ。風邪ひくぞ」

 言って、寝転がるオレの腕をとる、ストーク。その口調は年上のそれだけど、ねえ、もしかしてオレのほうが年上とか、考えたことある?
「なあ、ストーク」
「なんだ?」
 ぶっきらぼうに返されて、オレは立ち上がるふりをしながら下を向いた。

「地球って23,4度傾いてるって、知ってる?」
「ああ、それがどうした?」
「……傾きが変わったら、どうなると思う?」
「は?」

 下を向いていたからあいつの表情は分からなかった。
 でも、ややあって頭の上から声がする。
「傾きが変わっても、俺たちは変わらないんじゃないか?」
  
 さらっと。

 そう、さらっと答えられた。
 拍子抜けして顔を上げると、そこにはいつもの仏頂面がオレを見下ろしている。
 深い考えがあっての発言なのか、そうでないのかは分からないけれど、ストークはオレの頭をポンポンと叩いてほほ笑んだ。

「さ、部屋に入れ。風邪ひくぞ」
「……うん」

 言って前を歩いていくその背中に、小さく呟いてみた。

「……ありがと」
「ん? 何か言ったか?」

 聞こえてないと思ったけれど、振り返られてオレは慌てて言い返す。
「何も言ってないよ!」
「そうか? 何か聞こえた気がしたんだがな」
 ぶつぶつと言って、そうしてストークはまた屋上から室内へ続く階段へと歩き始めた。
 オレもその後へ続く。

 変わらない23,4という傾き。
 変わればどうなる?
 変わっても、きっとオレ達はオレ達のままでいられる。

 胸元で揺れるネックレスをちらりと見ながら、オレは、そう思えた。 


30 :菊之助 :2011/04/20(水) 10:18:00 ID:sGsFVFueWc

23.4ストーク編第一章「chiave(鍵)」

「chiabe(鍵)」

 潜入捜査を終えて、本部に報告し、朝飯にとコーヒースタンドで買った品々が入った袋を手に我が家に帰ってきたら、なぜかヒナがいなかった。
 デスクで眠りこけていたルーを叩きおこし(無論、手加減して叩いたのだが、後々まで頭が痛いと責められた)事情を聞くと、こいつもヒナがいなくなったのに気がつかなかったという。
 全身から血の気が音を立てて引いて行くのが分かった。
 すぐさま部屋の痕跡をチェックするが、特に異常は見つからない。
 連れ去られたのではないのか、それとも薬品で部屋全体が眠らされて、騒ぐことなく拉致されたのか。それならば、科学部のマードックを呼ばねばと、俺が無線を立ち上げかけたところで部屋の扉が開いた。
「あ、ストーク。お帰り」
 こちらが拍子抜けするほど、あっけらかんとした口調でヒナが部屋に入ってくる。
 手には、俺が立ち寄ったのとは別のコーヒースタンドの袋が。
「パンが切れててさ。ついでにコーヒーもなかったみたいだから、買ってきた。あれ? ルーどうしたの、なんか頭、盛り上がってね?」
 すたすたと前を横切られ、キッチンに消えていくその姿を、俺はルーの痛いほどの視線を背中に感じながらも茫然と見つめていた。


「なーんか、お父さんみたいねぇ」
「なんだって?」
 定期健診を終えてシャツを着治していた俺に向かって、パメラが呆れた声でそう呟く。
血液検査に簡単な反射力テスト。その間、俺は今朝のことをずっとパメラに話しこんでいた。愚痴、というわけではない。ただ、今から考えると愚痴に聞こえなかったこともなかったかもしれない。
 ヒナは、少し前に拉致された。彼女を救出した後に、彼女をとらえた輩を締め上げ、できるだけの情報を吐かせようともした。が、その輩は有益な情報を吐くその前に、死んだ。検死の結果、急性心不全だと分かったが、そうも都合よく心不全になるわけがない。
 ヒナをとらえていた屋敷の中でも、他に関係者と思しき兵士がいたわけだが、それらも時期同じくしてバタバタと死んでいったと、ハルが報告してきた。
 何が起こっているのか、まったく理解できないままに、解決の糸口もつかめない拉致事件だった。そうした状況下において、前回と同じようなことが再び起こりうる可能性は十二分にある。
 だからこそ、ヒナが独り歩きするのはできるだけ避けたい。
 同じようなことがあっては、困る。

「少し窮屈なんじゃない、ヒナ?」
「ヒナのことを、俺が窮屈に思っているとでも?」
「違うわよ。今のストークの態度が、ヒナにとっては窮屈なんじゃないかしらと言ってるの」
「は?」
 水の入ったペットボトルを手渡しながら、パメラは肩をすくめて見せた。
「だって、最近のあなた、年頃の娘を抱えるお父さんみたい。何か危ないことをしないか、怪我しないか、できれば毎日目の届く場所に置いておきたいと願っているみたいよ」
「ば、馬鹿言うな!」
「はいはい、顔赤らめないで。私より年下なのに、お父さんは悪かったわ」
「赤らめてなんていないっ!……というか、パメラ、え? 俺より年上なのか?」
「そうよ。知らなかったの?」
 手元のファイルに何か書きこむ彼女を前に、俺は本日二度目の衝撃を受ける。二十代半ばだとばかり思っていたのだが……。女は本当に分からない。

「ヒナは自分でもすっごく気にして行動しているわよ。ただ、同時に自分の正体を知りたいと思って、探し回ってもいるの」
「……ヒナがそう言ったのか?」
「言葉は違えど、真意はそうね。だから、自分なりに何かきっかけを探そうとしている」
 書き終えたファイルをデスクに置いて、パメラはふっとほほ笑んだ。

「大丈夫よ。彼女が帰る場所はストークのところなんだから。あなた自身、もうちょっと落ち着いたら?」
「……しかしだな」
「いっそ鍵付き扉にでも、閉じ込めちゃう?」
「ば、馬鹿いうな!」
「あーやだ、大きな声出さないで。はい。検査結果は順調よ。血液検査は明日にでも出る予定だから、また明日、ヒナと一緒に来てね」
 わざとらしく「ヒナ」の部分を強調して、パメラは俺を医務室から追いやった。
 成す術もなく扉の外に出された俺は、だがしばしその場に立ち尽くす。

 鍵のついた扉。
 その中にヒナがいる。
 つまらなそうな顔をしていたが、鍵を開けて入ってきた俺の顔を見るや、花のような笑顔でうれしそうに叫ぶ。
(ストーク! 待ってた!)
 そして、おもむろに走り寄り俺に抱きついてきて……。

「馬鹿か俺は!」
 わけのわからない考えに、俺は自分のほほを思い切り叩いた。
 何てことを考えてるんだ! 鍵付きの扉? 馬鹿馬鹿しい。第一、閉じ込めていたりしたら、あのヒナのことだから笑うどころか蹴り殺される。
 だが、背徳的なその考えに、俺の腹の中はおかしな熱がこもっていた。
 禁煙のせいだ。
 禁煙して、イライラしているんだな俺は。
 よし、今日は思い切って一本久しぶりに吸おう。吸うぞ俺は、吸っちゃうからな俺は!

 自分を奮い立たせ売店に歩き出した俺だったが、まだ中心の熱をいやなぬくもりを残していた……。


31 :菊之助 :2011/06/17(金) 19:05:54 ID:sGsFVFueWc

ストーク編第二章「voce(声)」

 飲みかけのレフブロンドを脇へ押しやられ俺が不機嫌な顔をすると、対照的なまでの無表情でハルシオンが淡々と呟いた。
「ビールなんかで酔っ払おうとするな」
 ビアレストランでそれも無理な話ではなかろうかと思ったが、ハルの言うことはいつも常人の理解を逸脱したものばかりなので、仕方なく睨むだけにとどめておく。週末ということもあり、ベルギービアレストランはなかなかの込み合いだ。軽めのエールも出すためか、女性グループも多い。男二人で差し向かいで飲んでいるのは、俺達だけではなかろうか。

「それで? 今日は何か聞いてほしいことがあったのではないか?」
 これまた唐突に切り出し方をされたが、俺はグラスを再び手元に引き寄せつつ素知らぬ表情でとぼけてみせる。
「何が? もう十分話しているじゃないか。新人の話もそうだし、予算のこともそうだし」
「もっと聞いてほしい何かがあるのではないかと、訊ねているんだ。……いや。お前の場合はこちらが真髄を使ないと口に出さないな。ヒナのことだろう」
「……何が?」
「こめかみが引きつったぞ。本当に表情豊かになったな」
 相変わらずの無表情の相手に言われてもピンとこないが、思わずこめかみ辺りを触れている自分に対して、俺はまた渋面になる。誤魔化すかのようにグラスを思い切り傾けると、ほろ苦い液体が乾いた喉を勢いよく通っていった。

「気になるのは理解できる。アイツの出生も、どのような場所でどのように育てられたのかも結局分からなかったわけだしな。拉致したやつらの正体も分からないのでは、次が無いとも限らん」
「……俺はどうするべきなんだ?」
「えらく弱気だな、ストーク」
  背もたれに体を預け、今日初めてハルが苦笑した。手に持つグラスの中身は、ほぼ減っていない。ハルは、俺の先輩にもあたる傭兵は、ひどく優しげな声でつづけた。

「一番いい方法は、今の会社にヒナを丸ごと預けてしまうことだ。そうすれば、少なくとも無断外出はできなくなり、それと同時にこれまで以上に彼女の安全は確立される。お前の悩みの根本もそれで解決されるはずだ」
「いや、それは……」
「お前が悩んでいる原因は、ヒナの安全ではないのだろう? 自分がいかに、自分自身でヒナを守れるか、守りたいという気持ちを抑えられるか、そういったことだろう?」
 アイスブルーの瞳が、冷やかに輝いて見えた。グラスの中身はすでに温くなりつつあるのだろう。小さな水滴が透明なガラスの表面をつたって、木目のテーブルに黒い染みを付ける。
「あんなコンパートメントで、非戦闘員である博士と共同生活もしながら、どうやって敵から一人の女の子を守れるんだ? 守りたいと思っている時点で、すでに傭兵としては失格だな。お前な」
 言葉の出ない俺に対して、ハルは音もなく顔を近づけて囁いた。

「この調子ならば、遅かれ早かれヒナが理由で死ぬぞ?」
「……」
 言い当てられた気分だった。
 一番触れてほしくない、だが自分でも認めなければならない部分を無理やりはぎとられてむき出しにされたような、そんな気分だ。
 ヒナが無事であればいい。
 だが、それは無機質な場所で幽閉、軟禁されての安全ではない。
 俺の手の届くところで、視界の中で、無事であってほしいと願っている。
 だが、それは果たして可能なのか?
 敵の正体も分からない今、取り合えず現状維持ということで以前同様に俺とルーの住むコンパートメントにおいてはいるものの、それが決して最良の処置ではないことを、俺自身が一番理解していた。

 理解しているからこそ、本来ならば安全な場所に彼女一人を置くべきなのだ。

 敵にはおそらく俺の素性もばれている。
 探そうと思えば、ヒナが一人でいた時よりも俺がそばにいる方がずっと確実に見つかる可能性が高い。ならば、俺から遠ざけるのが一番良いに決まっている。

 でも、今現在、それが出来ていない。
 なぜか?
「情が移ったか、ストーク?」
「……」
「あんな幼い姿でありながら、すさまじい潜在能力をもち、そのことで自身を責めているヒナに対して、昔の自分を重ねているんじゃないか?」
「……そんなことは!」
「ふむ」

 温くなったビールに口をつけて、ハルは少し考え込むように黙った。
 ややあって、グラスをテーブルに置き、呟く。
 その声は、静かで優しく、まるで恋人に、愛をささやくような響きだった。
「殺してやろうか?オレが、ヒナを」

 その声に。

 気がついた時には、俺の利き手はハルシオンの喉仏を砕くため、奴の喉をきつくきつく締めあげていた。無意識の行動だったためか、反射でテーブルに足があたり、すさまじい音が店内に響く。
 俺達の周囲で目をまるくし、かすかな悲鳴が聞こえた。
 喉を締め上げられ、普段は白い顔が瞬く間に赤黒く変色したハルシオンだったが、非常に落ち着いた様子で首をつかんでいる俺の腕をポンポンと叩いた。
 口元には冷ややかな笑み。
 だが、そこで俺はハッとして慌てて手を離す。
 軽くせき込んでから、ハルはわざと聞えよがしに言った。
「飲み過ぎだぞお前。ビールでそんなに酔っ払うなよ」
 軽い口調に、周囲の客達が安堵する。
 ちらちらとこちらを見る者はまだ何人かいたが、次第に彼らは自分たちの話題に戻って行ったようだ。

「……オレよりも、彼女の方が大事なんだな」
 再び座席戻り、下を向く俺に、ハルはポツリと呟いた。
「いいことだ。嘘もあてこすりでもなく、そう思う」
 小さな声だったが、それは異様にはっきりと耳元にまで届く。

「頼れ、ストーク。オレはお前の先輩で、兄弟で、そして友人だ。一人で解決しようとするから、今のお前は迷っているだけだ」

 顔を上げると、いつもの無表情が己の喉をさすりながらこちらを見返していた。喉もとには俺の手の痕が、まだ赤く残っている。
「何かあればとにかく俺を頼れ。お前がヒナを守る手助けくらいは、オレにも出来ると自負している。悩むなら、話せ。助けてやる」

 その声は、顔と同じくらい無感情だった。
 ただ、長い付き合いで知っている。
 ハルシオンが無感情な声で話すときは、それは真実を話している時だ。
 
 温くなった手の中のグラスの表面で、透明な雫が固まりとなり俺の手に伝っていた。


32 :菊之助 :2017/05/13(土) 16:24:42 ID:P7PiVLL7xJ

 体調よりも心の調子というものが直接表面に出ることがあるのは、過去何度も受けたカウンセリングで知っている事だった。たかが数杯の軽いアルコールで、今の俺の足取りはおぼつかず、視界は妙な歪みを見せている。

「今、博士に連絡した。20分以内に迎えにくるらしい」
 
 タブレットを優雅に操って、サラリと言い放ったハルシオンが憎々しい。
 この「長年の先輩」による誘いがなければ、俺はこんな無様な状況になりもしなかったものを。
「それにしても、本当に弱くなったなストーク。数カ月前は酒瓶三本空けてもケロリとしていたのに」
「……黙れ」
「いや、ケロリとはしていなかったな。あの時はとんでもなく気落ちしていたから、アルコール検知も体が出来ていなかっただけか」
「……」
 何を言っても冷静な声で言い返されるだけだと思い、俺はそのまま口をつぐむことにした。下を見ると、胃の中でドロドロした黒い淀みがそのまま食道を駆け上がって口から飛び出しそうな感覚に襲われる。ひどいもんだ。
 数カ月前、とハルシオンは言ったが、確かにそうだった。
 数カ月前、俺は仕事のない日に限っていたものの、毎日大量のアルコールを摂取していた。それこそ仕事自体においてなんら支障をきたさなかったから上も特に何も言ってこなかったが、医師であり潔癖なパメラは毎朝顔を合わせる度に眉をしかめて
「ちょっとストーク、あなたタバコ臭いし、酒臭いわよ? おっさん道まっしぐらじゃない!」
と怒鳴られたものだ。
 実際年齢よりも上に見られがちな俺としては「おっさん道まっしぐら」と言われても、何をいまさらと気にもならなかったが、同室のルーファスがとにかくそんな俺を気にしてくれたものだった。

「今の君を見たら、ヒナが怒るよ」
「ヒナだったら、このよどんだ空気の部屋には入りたがらないだろうね」
「ストーク、君、ちょっと臭いよ。ヒナの嫌いな臭いがしている」

 ……ちょっと待て。
 思い返してみると、ルーの発言の端々に必ず「ヒナ」という単語が出ていなかったか?
 なんだそれは、訳が分からん。
 いや、それよりも今更になってそんなことを思い出して気が付いた俺がおかしいのか。
 そうなれば、当時は全く酔っていないと思っていたのに、あれはあれで強かに酔いつぶれてていたという事ではないか? え? え? それで、俺はいったいなんて言い返していたっけか?
 数カ月前の自分の行動を再度思い返そうとして、今度こそ胃の中の淀みが喉を駆け上がる感覚を覚え、俺は慌てて空を見上げた。
 狭い都会の空には星なんてものは見えるわけもなく、深夜帯に入った為か街灯もまばらだ。
「吐くなよ。清掃員に迷惑がかかるからな」
 横でハルシオンが相変わらずの冷たい声を出す。ついでにハルのいう「清掃員」というのは「町の清掃員」という意味ではない。俺達が所属する会社の「特別清掃員」のことだ。個人データを無暗やたらに残してはならないと言われ続けているが、実際うっかりして痕跡を残そうものならば、それら「特別清掃員」が文字通り清掃にやってくる。なかなかに面倒な職場に勤めたものだと、たまに思うことがある。

「来たぞ。あの車だろう」
 静かな街の中に軽いエンジンの音が響く。ハルシオンンに言われて視線を前に戻すと、大きなカーブを描き反対車線からこちらに向かってくるワンボックスが見えた。
「博士は運転が下手だな。あれに乗ると余計に吐くかもしれんが、まあ身内の車の中ならいいだろう」
 ふらふらと路肩に停車した車を眺めて、無責任にハルシオンがつぶやいた。ホイールキャップに新たな傷が増えたことを黙視した俺は、ゲンナリしながら聞き流す。ただ、次の瞬間中から出てきた意外な人物にさらにゲンナリすることとなったのだが。

「ストーク! 飲み過ぎてつぶれたって?!」
 助手席から怒声と共に飛び出してきたのは、黒髪の少女だ。知ってる。今一番顔を合わせたくなかったヤツ、ヒナだ。こちらに駆け寄ってきたヒナの後を、自分の運転に酔ったのかふらふらした足取りでルーファスが追いかけてきた。
「僕だけで迎えにこようと思ったんだけどさ。よく考えたら、僕だけだと部屋に君を挙げられないかと思ってね。ほら、階段を上るのに、僕一人の体重では君を支えるのはムリだから」
 嘘くさい笑いを浮かべて、ルーファスが頭をかいた。
 そんなのハルに同乗してもらったらいい話だろうが! 叫びたいのを必死にこらえて、恨みがましい目でにらみつけると、奴はすぐさま視線を外して空を見る。この野郎。
 無言で蹴ってやりたかったが、俺が何かするよりも先に俺の体は軽々と背負われた。そう、今この場で一番不釣り合いな、ヒナによって。
「ば、お前、こら、何するんだ」
「だって足取りも不確かだし、酒臭いし、その状態で車まで行くのしんどいだろ?」
 こちらの気持ちに気づいていないのか、シレッとヒナが言い放つ。 
俺のガタイはかなりでかい。でかい方だし、顔もいかつい。それが、ぱっと見ティーンのヒナに背負われるというのは、顔から火が出るほど恥ずかしい。
しかも、ヒナの足取りはまるで真綿を背負っているかのような軽い足取りで、停めたワンボックスまで問題なくスタスタと歩いていくではないか。
 慌てて振りほどこうとするのだが、体の不調も相まって力が入らず、また小さな体の割に異常なまでの力強さで脚をホールドされて、文字通り俺は手も足も出ない状態だ。背後では仲間の笑い声が聞こえる。更にシャッター音まで聞こえた。どうにか動く首を精一杯後ろにやったら、慌ててルーがタブレットを背後に隠す様子が見えた。あの野郎、データ削除だけで済まさないからな。
「はい、後ろ乗って。吐きそう? ビニール持ってきた」
 器用に車のドアを開けて、後部座席を俺を下したヒナは、悪ふざけの様子もなくてきぱきと自分のジャケットから色々なものを取り出して俺に渡す。紙袋で覆われたビニール袋に、ミネラルウォーター、それを言われるままに受け取る、情けない、俺……。

「クッションいれといたから、とにかく到着するまで横になってなよ。ルー、運転頼む」
 まだニヤニヤ笑いを浮かべているルーファスに、ヒナが声をかける。
「ハルも、ごめんね。連絡くれて助かった」
「どういたしまして」
 まるで姉のような口調でハルシオンにヒナが礼をいうと、やつはいつもの通りの無表情でそれにこたえていた。
 マテ。それじゃハルシオンが連絡したのは、ルーファスでなくヒナだったのか?!
 今更ながら、俺は俺の「先輩」の底意地の悪さを思い出した。そうだ、俺がどんなに酔いつぶれた時も、ハルはこれまで何かしてくれたことはなかったじゃないか。それなのに、今日に限って同室のルーファスに連絡を取ったというのは、今更ながらおかしな行動だった。
 畜生めが。
「気持ち悪い? 吐いた方が楽になるかもよ?」
 悪い大人二人に気付かず、ただ一人本気で心配してくれているのが、ヒナ。
 自らも助手席に乗り込んで、こちらに声をかけてくる彼女の首には、二連のリングを通したネックレスが見えた。
 こんな真夜中に、慌てて部屋を出てきたというのに、なんでちゃんとそれを首からかけているんだよ。
 そんな心配そうな顔をするなよ、こちらが情けなくなるじゃないか。
「ストーク?」
「それじゃ車動かすよ」
 ようやく運転席に乗り込んだルーファスが危なっかしくアクセルを踏んだので、俺はそのまま目を閉じてしまうことにした。
 
 淀みはいまだに腹の中。
 時折助手席から感じる視線に気づかないふりして、俺は口を真一文字にむすぶ。
 そうしていないと、酔いや体調不良とは関係がない、情けないため息が漏れそうになってしまうからだった……。


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produced by COLUN.