Eternal Red


1 :霧崎 魅影 :2009/10/18(日) 22:11:04 ID:nmz3oDVF

―prorogue―


 手狭な部屋だった。
 身長170cm前後の者がゆったりくつろげるであろう、標準的な大きさのベッドをどんと置けば、後はあまりスペースが余らない。小さなテーブルには、透明なコップが3つ逆さに置かれ、後は灰皿、マッチ、剃刀、ティッシュなどが置かれている。
 出口は、樫造りのドアになっており、その側に中央から開ける形のクローゼットがある。その左手に、バスルームとトイレがある。
 ホテルの一室であった。
 奥の1つの窓から覗く陽光が、部屋の隅々まで満遍なく届く。
 その部屋の中にいる2人は、親子というにはやや年が近く、年が離れた――あるいは腹違いの――兄弟ぐらいの年に見えた。
 しかし、互いの容姿や雰囲気を照らし合わせると、身内の類にはまるで見えない。
 片方は、赤い者であった。
 椅子に腰を下ろし、足を軽く楽にし、本を読んでいる。ベッドと向かい合う形であった。
 血のような赤色が、その者を包む、最もたる要素であった。それ以外には、せいぜい白い、かといって病的ではないほど艶があり美しいものであった。
 髪が赤い。瞳が赤い。服が赤い。マントも赤い。ズボンも赤い。靴すら赤い。
 腰に下げた剣の鞘も、柄すらも。背中を映す鏡にすら、血塊がそのまま動き出したかのような者の赤が、侵食しているかのようであった。
 顔立ちは、中性的なものだった。顔のどこにもごつごつとした印象がなく、鼻は高すぎず美しく整い、ピジョンブラッドを詰め込んだような眼は、くっきりとした二重瞼であった。赤い「者」という表現は、このことから来ている。
 女性とも、優男とも取れ、両性を惹きつけそうな顔立ちをしていた。それだけに、無表情から表情をまるで動かさないのが、ひどく惜しいものに感じられる。
 年齢は20台を超えているように見えるが、そんな外見からの憶測は、役に立つのか立たないのか、どうにも掴みどころの無い容貌だった。
 静かに、どこまでも静かに、本を読んでいる。速読が得意なのか、ページはパラパラマンガのように次々と流れていくが、紙がしなる音すら、赤い者の「静寂」に呑まれてしまうような、そんな気にさせられる。
 静寂そのものであるかのような。
 死のような静寂が、そこに座っているような。
 もう片方は、少女であった。
 幼女の面影を残しながら、少女への過渡をまだ終えていないようであった。10歳前後かそれ以上に見える。桜色の髪に、くりっとした黒い瞳。ぷっくりした唇の色は鮮やかだ。可愛らしくはあるが、まだ、1人の女性として彼女の魅力を受け止めるには、柔らかく幼い印象だった。
 彼女は、ベッドの上に寝そべったり、身を起こしたり、座って足をぶらぶらさせたりと、落ち着きの無い動作を繰り返している。
 白にデフォルメされたペリカンが大きく入っているTシャツと、ジーンズを短く切って短パンにしたものから、腕や足が見える。そこに、細かい切り傷――が中心となっている――がまんべんなく、散りばめられているのが分かる。
 痛々しいが、若いエネルギーが次から次へと塞ぎ、健常な皮膚に戻そうと奮闘しているため、不健康には見えなかった。
 しかし、その上から、新たに生傷を増やされているため、やはり痛々しい。
 ベッドの上で転がっても、ベッドを汚さない程度には、塞がっているらしかった。
 ふいに、少女が、赤い者に話しかけた。
 赤い者と共に行動するようになり、短くはない。しかし、何処か少女は受け付けてないかのように、棘のような、もやのようなものを言葉に混ぜて、訊いた。
「悪って、何なのかな?」
 そう、少女が尋ねた。
 赤い者は、視線を本から外し、少女を見る。
「正義に反するものが、悪」
 赤い者の声は、よく通る高めのものだったが、男性のそれと判断できるものだった。
「正義って?」
「個人個人が、正しいと思うこと」
「……」
「前に、言わなかったかな」
 少女は、俯き、口をもごもごさせている。
 何か言いたいらしい。それを邪魔するのは、整理がつかない思考か、遠慮する心か。
「――大方、私の理論と、世間から聞こえるそれとの違いを比べ、葛藤しているのだろう」
 少女が、びくりと肩を震わせる。図星らしかった。
「それらは、国や、ある大きな団体が、思想をひとつに纏め上げるための標に過ぎないと考えているが――まあ、これも私の考え方に過ぎない。君の好きなように考えるといいよ」
 少女には、難しいのではないだろうかという言葉を、さらりと放ってのけた。
「ねえ」
「何か」
「それだと、正義っていうのは、いっぱいあるってことになる…じゃん?」
 やはり、少し、遠慮がちだった。
「ああ」
「誰かの正義と、その、えっと、他の誰かの正義とか、「せけん」の正義がぶつかったら――どうなるの?」
「滅ぶだろうね。どちらかが」
「――滅ぶ?」
「どちらかが競争に負け、消えてなくなる。時には、人が死ぬ」
「…おかしくないかなぁ?」
「何が、かな」
 少女は何も答えられない。
 赤い者も、それを予見しているようであった。
「『正義』という言葉に語弊を感じているのならば、私も、そうだ」
 そう言い、赤い者は、また、本に視線を向ける。
 本を見る眼と、少女を見る眼と、「正義」について語る眼は、まるで変わらぬものだった。無温――そう表現できる光が、常に灯り続けている。
「誰もが、己の物語を紡ぐために、誰かの物語を断とうとする」
 話はもう終わった。そう思っていた時に、放たれた言葉だ。
「それを解しない者は醜い。解し、立ち止まる者は「まし」だ。解した上で、物語を紡ごうとする様は――美しい」
 その言葉が、平常のものであるかのように。
 最初から最後まで、喜びも憂いも、あらゆる感情の動きも見せることはなかった。


2 :霧崎 魅影 :2009/10/18(日) 22:14:07 ID:nmz3oDVF

pass away days 1(9年前)

 風祭 紅狂(かざまつり くくる)。
 それが、「ボク」につけられた名前。
 この、かつてニホンという島国に住んでいた民族の、漢字による命名法は元々珍しいものだったが、今となってはそれは尚更だ。
 宿帳などに名前を書くときは――Kukuru Kazamatsuriと書いている。
 女みたいな名前だと、よく言われる。でも、「ボク」には、この名前が悪意を持ってつけられたものだと分かる。
 こんな名前をつけて、3歳の「ボク」を山中に置き去りにした(後で、違う人に聞いた)両親は嫌いだけど、三色だんごは甘くて好きだった。
 和菓子は、「ボク」と同じ民族が減退の一途を辿ってから、それにつられるようにして、作る店やメーカーが減っていっているのが哀しい。
 哀しいのは、減っているからだけではないのだけど。
 ――ああ、やばいやばい。
 つい、関係のないことに夢中になっちゃったね。ついダラダラ余計なことを、言ったり考えたりするのは、「ニホンジン」の悪い癖、かな?
 ――ああ、また余計なことを考えてるや。

 まずは――そう、「ボク」が暮らしている大陸について、思い返そうかな。
 北アメリカ大陸は広大な大陸だ。広大なだけに、大きな賞金がかけられた「魔物」も多く、「ボク」がいたパーティーの懐は潤ったけど、それでも大変な生活だった。
 「魔物」というのは――勿論、旧マエダ製薬の薬物実験で生み出された、遺伝子改造を施された動物のことだ。
 今から46年前――西暦2037年のことだ。「ボク」が生まれるずっと前だ。「ボク」は学校には通っていないから、パーティーで世話を焼いてくれた――お兄さんやお姉さん、お母さんやお父さん代わりのみんなに教えてもらって、分かった。
 卓越した「技術」というものの危険性と有効性。
 最初は、数十体の異形だった。
 膂力も素早さも頑健さも、大型猫科動物のそれを、大きく上回る異形だった。更には、繁殖力は凄まじく、異種交配も可能。生まれた子は、生物学的には「進化」に近いほど、その場の環境に適応することさえできる。
 「ボク」は頭は良くないけれど、何のためにソレが作られたか――真意は史実にも無かったが、想像は幾らでも出来る。軍事利用、テロ活動、見世物―――
 ただし、その異形たちが自分たちの手に余るとは、そのプロジェクトに立ち会った誰もが考えもしなかったようだった。
 最初にニホンが蹂躙された。異形たちは組み込まれた獰猛さに身を委ね、手当たり次第に人間も畜生も構わず肉を喰らい血を啜ってゆく。追い討ちの如く、他種族を孕ませ生んだ異形の子が、孫を作り、曾孫をつくり、蹂躙は爆発的な加速力を帯びる。
 海外へと流出した異形も、同じようにして増えた。
 そのせいで、島国を棄てて海外へと逃げ延びた「ボク」たちニホンジンが、強い非難と迫害を受けていることは、哀しいけど認めなければいけない。
 異形には、恒温も変温も、脊椎も無脊椎もなかった。遺伝子が交配の果てにごちゃごちゃになっているからだ。人間の遺伝子が組み込まれて、人間以上に賢くなった異形もいるらしい。現在では、調査が進むまでの暫定として、「殺戮本能」という1つの共通点を持った全ての生物を――『魔物』と呼んでいる。
 そのせいで、世界各国の、軍事活動は大きく圧迫されている。人々を守りきるには、どこの軍隊の手にも余るということらしい。
 現に、「ボク」は、滅びた街を知ってる。もう写真でしか見られない歴史的建造物を知っている。
 軍需産業以外は、大幅に遅れ、むしろ土地を開拓以前ほどまで蹂躙されたことによって、後退したかもしれない。
 旧マエダ製薬は、責任を問われるまでもなく、魔物の被害が直撃し、完全壊滅状態になったらしい。
 酷い組織だ。と、「ボク」は思った。でも、歴史を教わっていくうちに、一方的に酷いとは見られなくなった。
 確かに、マエダ製薬がなければ今回のことは起こらなかった。それは正しい。でも、当時としては、最先端の薬学技術を持っていたマエダ製薬が無かったなら、もう既に、人類が滅びてしまっていたかもしれないことも、事実だ。
 最新鋭の機関銃や防弾チョッキを持たない、貧民層の「ボク」たちのパーティーでも、最前線で魔物を倒して懸賞金を得られる所以――裏を返せば、手が幾らあっても足りない政府が、大規模に有志の手を借りられるほどのものが、そこにある。
 もう1つの、その時代のニホンの薬物取締法に抵触する研究。現在では、アメリカのT・D(テラーズドラッグ)社が、オリジナルを解析したものに、改良を進めながら供給している。
 その薬の入手は、店頭で平たく言えば「自分の身に何が起こっても責任は自分自身のものです」という内容の誓約書を書けば、簡単に手に入るというものだ。それが緩すぎるか厳しすぎるかは、価値観によってバラバラだろう。
 単刀直入に言えば、人間が魔物に、兵器を持ちいらずに立ち向かうための薬だ。どう作用するかというと―――
 それは、おいおい思い返そうか。
「―――ククル」
 女性の声で、呼びかけられた。
 「ボク」が出発する時間だ。お母さん――と呼んでいいって言われたけど、照れてそう呼べたことのない女性に手を引かれて、歩いて行く。まだ――自分の足では歩けない。
 歩行する、ではなく、独りで歩けるかどうかということだ。
 「ボク」じゃあない誰かが、「ボク」を見たとしても、それは他人事にしか映らないかもしれない。けど。
 でも、出来るなら、出来ることなら。誰かの眼や記憶に、残影か何かでも残せる物語であって欲しい―――




 「ボク」はいつだって蚊帳の外だ。
 ホテルのフロントの、柱の近くに寄り添って、『パーティー』のみんなが話をしている。
 雑談や世間話なら、「ボク」を取り残さないように気を遣って混ぜてくれる。だから、9歳の「ボク」にも、うっすらと仲間外れにされる理由は分かったし、臍を曲げながらも我慢することが出来た。
 眉根を寄せながら、それでも時々笑い声をはさみながら、次に狙う魔物のこと――何を狙うか、どんな準備をするか、どんな戦法がいいか、いつが最適か。前に、少し聞いた時、頭がこんがらがりそうな話をしている大人が、「ボク」にはたまらなく憧れていた。
 早く、みんなの役に立ちたかった。「ボク」にゴハンを出してくれるみんなが好きだったし、「ボク」のために傷つかれるのは哀しかった。「ボク」がみんなを傷つけてるのと何も変わらない、と思った。許せなかった。哀しいよりも嬉しいよりも、「ボク」の「ボク」への怒りを最初に感じて、最後まで感じていた。
 それと―――不安だった。
 何で、ここまで、「ボク」に色々してくれるのか? ニホンジンには、みんなが冷たいということも、もう、分かっていた。大人たちも、自分が生きるのに精一杯の世の中だった。だからこそ、何故? と思った。「ボク」は、偶然に、泣きながら彷徨っていた山の中で、みんなに出会っただけだ。「ボク」は、みんなに、何も出来ていない。
 何もしない奴に、何でなんでもしてくれる?
 いつか見た絵本に、子供を、奴隷商人に売り渡すというのがあった――そんなものを思い出す「ボク」が、酷くくだらない人間に思えた。
 訊きたかった。問い詰めたかった。でも、聞きたいという感情よりも、『今』が壊れてしまうのが怖かった。
 勇気を搾り出して、訊いてしまうぐらいなら、強くなろうとする方が楽だった。
 だから、『薬』を飲もうとした―――みんなに止められた。
 何で?
 どうして?
 みんなも、飲んだんでしょう? 生き延びるために。
 風邪薬のように、子供には刺激が強すぎる、なんて言わせないよ。
 「ボク」は、カラダが悪い親を守るために、『薬』を飲んで、みんなのように強くなった男の子を知ってるんだ。
 みんなも、知ってるんでしょう?
 だって、みんなが、『薬』を買う金もないあの子に、余ったお金で恵んであげたんだから。
 ねえ!
 何で「ボク」はダメなの!? これじゃあ、「ボク」―――
 何で、これだけ、みんなに怒鳴りつけられたのに、その先を言えなかったんだろう。
 “ボクだけ、みんなの役に立ってないのが、不安じゃあないか―――”
 臆病さから弾けたのは、嗚咽と頬を伝う熱い水だった。
 そんな「ボク」を、柔らかく包む匂いがあった。
 匂いがしたと思ったら、「ボク」の目の前に、女の人の顔が広がった。
 30を過ぎていて、目尻のあたりから皺が生まれてきているのが、折角の綺麗な顔に勿体無いといつも思ってた――それが、この時は気にならなかった。
 「ボク」以上に、彼女は、涙を拭うことなく流していた。
「いいの…」
 抱きしめられていた。
 彼女がすすり泣く声が聞こえてきた。きっと、「ボク」の泣き声も、向こうに聞こえていたに違いない。
「いいの…いいのよ……あなたは、いいの……」
 「ボク」たちは、そこに2人しかいないかのように、泣いた。泣き明かした。
 その間、ずっと、か細い声が、「ボク」の耳に届いていた。
 ――結局、『薬』のことは、結果としてはぐらかされてしまったことになる。
 そんなことを、「ボク」が考えていた時、みんなが「ボク」が座っている長イスに近寄ってきた。

「やっほ! ごめん、待ったー?」
 「ボク」は苦笑いした。
 向こうから走ってくる、30代半ばといったところの、長剣を背負った女性。もう少し老成した仕草のほうが、その年齢らしいのではないかと、つい思ってしまう。でも、こんな風にはしゃいで駆け寄ったりするのは、「ボク」にだけだったから、そんなに問題でもないのかもしれない。
 でも、「ボク」は片時も忘れていない。抱きしめてくれた時は、壊れそうなくらい儚かったけど、それでも、子供を思いやる母親の姿が見えたことを。
 お母さん――と、本当に呼びたくなってしまったけど、やっぱり、照れくさかった。
「受け付けんな。クレアのあのハシャギようは、ククルが引くのも分かるぜ」
「受け付けんな。クレアが折角フレンドリーにしてるのに、あのガキ、苦笑いなんかしやがって」
「気が合うな」
「そうだな」
 申し合わせたかのようなやりとりは、最早名物だった。
 最初に口を開いたのが、黒の皮ジャンに長柄の銃の、ホイスターさん。続けて“受け付けんな”を反復し、逆の内容を言ってのけたのがクラッティッジさん。2人とも、30に近いか、あるいは僅かに超えているかというところか。
 それに、文句をつけるように、クレアさん。
「何なのよぉ、好き勝手に。大体、反対のこと言ってるくせに、気が合うなんて変でしょ?」
『クレアには分からねえことだよ』
 語調、発音、タイミング――ずれがあるとしても、人間に判別できるものではなかった。
 この2人。血の繋がりもなければ、同じ人種でもない。
「気が合うな」
「そうだな」
 お決まりの言葉。
 お決まりの相槌。
 更に、クレアがヒートアップするのを見て、「ボク」は、何とか収めようと声をかけた。
「止めなよぉ。クレアさん―――」
 それがいけなかった。
「――クレアさん?」
「クレアさん」
「…クレアさん?」
「…クレア、さん」
「クレア…『さん』?」
「ヒュレア…ヒャン」
 「ボク」の右頬は、クレアさんの左手で、伸ばされて徐々に吊り上げられている。
「――はい、『お母さん』」
「ヒュ、ヒュレア、ファン」
「さん、はい。お母さん」
「オファ…ヒュレファファン」
「惜しい! お・か・あ・さ・ん!」
「…ヒュ、ヒュ、ヒュ」
 最後まで言い切れないほど、伸ばされていった。腰が長イスから少しだけ浮いている。
 その後ろで、クレアさんの肩を叩いて呼びかけ、何か意見しようと――一応、止めに入っているのだろう――全体的に細く、四角い眼鏡をかけた、黒いスーツ姿の男の人が必死に頑張っている。
 バサロさん。気持ちは凄く嬉しいよ。今の「ボク」の味方は貴方だけだ。でも、お願い。お願いだから、もう少し強くなって。
「――おら、ガキども。そろそろ支度をせんか。移動している間に日が沈むぞ」
 ぶっきらぼうな声の方を、その場の全員が向く。
 老人。
 60を超えたぐらいだろうか、顔には幾重もの皺が刻まれている。しかし、全員を見下ろせるほどの、190cmに届くかという長身と、筋骨隆々な肉体を覆ういまめかしい鎧が、全員に威圧感と緊張感を与える。
 槍を、その手に持っていた。自分の身長ほどあるそれを、今は布にて包んでいる。相当重いであろうそれを、しかし彼は、戦闘になると割り箸のように振り回してのける。
 ジンジャーお爺さん――と呼ぶと怒るから、ジンさんと呼んでいる。ジンさんはいつも落ち着いていて、重厚で、リーダーのクレアさんよりも、パーティーをよく纏めてくれた。「ボク」が、今のように助け舟を出されたのも、今回だけのことではなかった。
 それでも、取り付くしまがないように見えたジンさんは、「ボク」は苦手で、少し怖かった。
 そんなことがあって、「ボク」たちは、宿から出た。

 「ボク」たちは、それぞれ、違う人種や故郷を持つ人間の集まりだった。「人種のサラダボウル」と呼ばれているアメリカでは、そういうパーティーは珍しくなかった。
 「ボク」は、黄色の肌に、黒髪黒目。
 クレアさんとクラッティッジさんは、共に肌は白く、金髪青目だった。クレアさんは長い髪に、よく櫛を通していたけど、クラッティッジさんはボサボサのまま伸ばし放題だった。
 バサロさんも、肌の色は白かったけど、茶髪黒目で、同じ白人でもどこか違うらしかった。
 ホイスターさんは、髪も瞳も肌も黒かった。昔は黒人差別なんていうものがあったらしいが、「ボク」には少し遠い話で、それはみんなもそうらしかった。
 ジンさんの目は蒼で、肌は白かった。でも、髪は殆ど白く染まってきていて、元の色が分からない。クレアさんやクラッティッジさんと同じ人種かもしれないし、そうじゃあないのかもしれない。
 ――「ボク」が感じている不安には、誰も気付いていないのかもしれない。
 いや、むしろ、その可能性の方が高かった。
 こんなにも、ひとりひとりが違いすぎると、お互いに分からないことだらけなのではないかと思った。「ボク」が不安を抱えるように、誰かが内面に闇を、ひっそりと持っているかもしれないと考えると、不思議な感覚に囚われる。
 「ボク」が分かるのは、「ボク」ひとり。
 クレアさんが分かるのはクレアさんひとり。ホイスターさんも。クラッティッジさんもバサロさんもジンさんも―――
 ふいに、何故か、ひどく寂しくなった。
 子供のか弱い思想だったかもしれない。




 圧倒的な、「ボク」の目には収まりきらない景観だった。
 広大で壮大。この景色を見てしまえば、「ボク」の存在は、ひどくちっぽけなものに感じられた。しかし、景色に圧倒されると同時に、とてつもなく大きなモノに包まれるような、ある種の安堵感を感じた。
 前にも横にも、下にも深い。
 茶色と薄緑の起伏の連続だった。
 1979には世界遺産にまで登録された、この、グランドキャニオンの景色は魅力的なものだったが、その魅力の裏側に毒牙を隠し持つ。この広大な土地は、魔物の「ねぐら」には最適だったようで、今は、「ボク」たちのような賞金稼ぎの狩場となっている。
 昔は観光客がよく来ていたらしいが、少なくとも、現在にその面影は無い。
 「ボク」たちは、ワゴン車に乗り、グランドキャニオンの入り口の地点にたどり着いていた。
 「ボク」たちのような少数のパーティーが、グランドキャニオンで、魔物狩りをする時は、奥地には踏み込まないのが定石だ。奥地は魔物の巣窟になっており、どうなっているのか分からない。しかし、囲まれる危険が強いのは確からしく、不用意に突入したパーティーは、殆ど戻って来ない。
 また、必然的にワゴン車を守りながら狩りをしなければいけない。帰る手段を失うことが危険であると同時に、緊急時にガードポイントに急げないのも、また、危険だからだ。
 ガードポイント――平たく言えば、魔物対策の交番のようなものである。ここアメリカには、全国各地に設置されている。設置されるようになり大分経ち、一般人や傷ついた賞金稼ぎが、ここに駆け込めば、十分な治療や警護が受けられることは、今では常識と化している。
 さらに、賞金支払いのやりとりを行うのも、ここでだ。
 賞金は、頭部などの、魔物を確実に倒したことを証明できるものと交換で支払われる。持ち運びが不可能な時は、有料だが、電話などで調査員を、現地に呼び出し判定してもらうことも出来る。賞金首リストに載っている魔物以外は、体重や種別などから、報酬額を判定する。
 命を的に、得られる金というものは、果たして割に合うのか合わないのか。
 西部のガンマンも賞金稼ぎも、長生きは出来ない商売だろう。だが、だからといって、生への執着を捨てている者など殆どいない。
 みんな、やりたいことがあった。クレアさんは、時々、またウェディングドレスを着たいと零していたし、バサロさんは、本が好きだから、ゆくゆくは図書館に勤めたいと言っていた。
 世界には、何処にでも、捲れば矛盾が溢れ出す「つぎはぎ」があった。

「クルル君。あまり、淵の方に行ってはいけませんよ―――」
 バサロさんの声が、「ボク」の背中にかかった。
 後ろを振り向き、うん、と返事をして、断崖の方向に歩いていった。
 この場所には、「ボク」とバサロさんしかいない。他のみんなとワゴン車は、30メートルは離れている。「ボク」が、景色を見て回りたいと言ったら、バサロさんが1人では危険だからとついてきてくれたのだ。
 見回っているうちに――もよおしたので、淵から50cmぐらいの場所で足を止め、パンツごとズボンの前を下ろす。
 「先っぽ」を固定して、力を篭める――不意に、断崖から強風が立ち昇ってきた。
「うわっ!」
 大きく煽られ、おしっこが、ズボンの右裾にかかってしまった。
 足首を生ぬるい感触が覆う。
 恥ずかしさと気持ち悪さで、「ボク」は顔を俯かせた。
 声を聞き、駆けつけたバサロさんが「ボク」を見て、状況を把握すると、あちゃー、と声を上げた。
「ごめんね、ククル君。こういう場所では、谷風があることを言い忘れていました」
「バサロさんのせいじゃ、ないよ」
 バサロさんは、10歳以上も年下の「ボク」に対しても、少し腰が低すぎるように思えた。
 ふと、バサロさんが携帯電話で誰かと話し始める。「ボク」が、誰と、何を話し出したのかと、気になって見ていると、
「――それじゃあ、替えのズボンとウェットティッシュをよろしくお願いします。クレアさん」
 最後の言葉で、全て分かった。
 ほどなくして、クレアさんが駆けつけてきた。両手には子供用のズボンとウェットティッシュの80枚入りパックを持っている。「ボク」を見るなり、しょうがないコだねぇ、と言ったが、何処となく嬉しそうなのは気のせいだろうか。
 ――不意に。
 ズボンを、彼女にずり下げられた。
「へ?」
 そんな間抜けな声しか「ボク」からは出なかった。
「ほらっ。ぼさっとしてないで、靴脱いで足上げるっ」
 急かす様に言われ、その通りにしながら、忘れかけていた恥ずかしさが蘇ってきていた。
 鼻のあたりが紅潮してきているのが、自分でもわかる。
 ズボンを脱ぐと、ウェットティッシュで、足首を拭いてくれた。それが終わると替えのズボンを手に取って、
「じゃ、もう一回、足を上げて」
 履かせてくれようとしているらしかった。
 「ボク」は、自分でやるよと、ズボンを半ば奪い取るようにして貰う。クレアさんは、首を傾げながら、「ボク」がズボンが履き終わるのを見守り、
「何か、言うことはないのかしらん?」
「ありがとう」
「はい、良く出来ましたー」
 にっこり笑い、「ボク」の頭を撫でてきた。
 クレアさんは、母親代わりを意識しているにしても、ひどく「ボク」に甘かった。
 9歳ぐらいの子供が、一般的に、どれぐらいの扱いを受けるのかは、比較する相手がいなかった「ボク」には分からない。けれども、ズボンぐらいは自分で履きかえられるし、そんなに大事にしてくれずに、「ボク」に任せて欲しい場面は沢山あった。
 一度、何故、そこまで優しいのかを聞いてみた。
 みんなが、「ボク」を大事にしてくれる理由――「ボク」が触れるのを恐れている核心の質問ではない。クレアさんだけが、何故、みんなより優しいのかという問いかけなので、思いのほか簡単に口に出せた。
 昔、子供を亡くしたらしい。
 それを言った時の、クレアさんの、夜の海に似た瞳は未だに覚えている。
 その瞳に説き伏せられた。
 「ボク」は、クレアさんが過剰にかまってきてくれることに、強いことを言えなくなっていた。
 尤も、それに、嬉しいと思う感情もあったからだが。
「じゃあ、あたしは、こっちのズボンを洗濯籠に―――」
「それも、ボクがやるよ」
 やられっぱなしは、気持ち悪かった。
 汚れたズボンを、クレアさんが丸めたものをそのまま持ち、「ボク」は勢いよく駆けていった。
 クレアさんは、また首を傾げて、「ボク」の背中を目で追っていた。

 ワゴン車の後ろは、基本的には、開けっ放しにしている。
 素早くここを離れなければいけない場合、閉めていたほうがいいようにも思えるが、逆だ。開けていれば、急いで物を詰め込んだり、後ろに乗り込んだりといった動作が楽だからだ。
 闘う時に必要な小道具も、幾らか収まっている。
 だが、今回ばかりは閉まっていた方がよかったかもしれない。
 閉まっていれば、「ボク」は、洗濯籠を使いたいから開けてくれと、誰かに頼んでいただろうから。
 クレアさんとバサロさんは、歩いてここに向かっている。「ボク」は眼に届く位置にいて、周囲に魔物の気配はない。ワゴン車にはホイスターさん、クラッティッジさん、ジンさんがいる。だから、安心して、急がずに来ているのだ。
 今回ばかりは急ぐべきだったかもしれない。
 2人が誰かに話しかけていれば、その「会話」はなかった。
「クレア親子は、微笑ましいな。クレアが親バカでバカ親なところが特に」
「クレア親子は、微笑ましいな。ククルが振り回されているのが特に」
「気が合うな」
「そうだな」
 ホイスターさんとクラッティッジさんの会話だった。
 この2人は、時間あれば、飽きもせずこんな会話を交わしている。
 ワゴン車の、右側の横腹に背を凭れ、並んでいた。2人とも「ボク」には気付いていないようだった。
 ジンさんは、後部座席に座りながら、鼾をかいている。2人以外に、この会話を聞いている者は、誰もいない。そう思っているようだった。
「やっぱり、クレアの奴、亡くしたガキを重ねてるんだろうな。ククルに」
「いや、それは無いだろ。重ねたくもないと思うぜ」
「珍しく気が合わないな」
「そうだな」
 後ろを見る。
 まだ、クレアさんたちの姿は小さかった。それを、ホイスターさんたちも確認しているようだった。聞かれては困る、というところか。
 「ボク」は、いつからか、身を低くしてシートの陰に隠れるようにしていた。
 こっそり、その会話を聞いてしまいたいと思った。「ボク」の幼さは、盗み聞きが悪いことだとは、心にも思わなく。
「知ってるだろ? あいつ、昔、飢えを凌ぐために、双子の片割れを、もう片方と一緒に焼いて喰ったんだぜ。重ねてたら、あんなに明るく接したりしねえだろ」
 ――「ボク」の世界が大きく傾いた。




 魔物も、火は怖がる。
 彼らの起源となった、旧マエダ製薬が作った魔物――『オリジナル』と呼ばれている――には、そのような習性はなかった。しかし、交配を繰り返していくうちに、獣と交わって生まれた魔物に、そのような習性を持つようになったのだ。
 旧マエダ製薬は、子孫に欠点を受け継がせるようなミスをしたのだろうか、と思った。
 調べてみれば、オリジナルの子や孫にあたる代までは、問題なく欠点は受け継がれ得ないらしい。更に言えば、このあたりの世代が、欠点の少なさと交配した動物の能力をバランス良く持ち合わせた、強い個体が出やすい世代らしい。
 ちなみに、オリジナルの寿命は個体によってまちまちのようだ。現在までに、54体の姿を確認し、うち37体が寿命か賞金稼ぎによって始末されている――話が逸れた。
 今、焚き火をサークル状に囲む「ボク」たちを、遠巻きに見ているだろう魔物は、オリジナルの曾々々々々々…と続く孫の世代が殆どだ。旧マエダ製薬は、ここまで範囲が広がった状態のことは想定していなかったか、解決を後回しにしたか。どっち道、当時の内に解決しろ、という方が酷というものだろう。
 そのお陰で、旧来からの、焚き火を使って遠ざけるという方法が役立っている。尤も、その例外にある魔物や、オリジナルに血縁が近い魔物、他にも蟲がベースの魔物も存在するから油断は出来ないが。
 とにかく、夜、野外で食事を摂る時も、交代で見張りの晩をする時も、焚き火は欠かせないものだった。
 今日の夜は、シチューだった。
 今日の料理当番のクレアさんは、女性だからというのは使い古された価値観だけど、とても料理が上手い。具材を切り、適度に茹でるという作業に全く無駄がない。ニンジンや玉葱やじゃがいもは均等に切られ、口に入れると、十分な歯ごたえを残しつつ、噛み砕くと甘くとろける。その過程で、「ボク」は、温かくまろやかなシチューのルーまずは嗅覚で、次に喉でと、2度味わうことになる。
 そのシチューが、今日は喉を通らない。
 いや、口にすら入れられなかった。
 宵闇の下の談笑は、しかし、雰囲気に僅かに陰りがある。そのことに気付いているのは、「ボク」と、ホイスターさん、クラッティッジさんは少なくとも間違いなかった。
 あの時―――

 汚れたズボンを洗濯籠に入れるために、ワゴン車の後ろ側に「ボク」が入った時。「ボク」が、2人の会話を耳にした時だ。
 その後、すぐに、「くらり」という感覚を感じて、前のめりによろめいた。
 音がした。
 「ボク」の体が、スパナや銃器に触れて、それを落としてしまったらしい。
 目や唇がぴりぴりとして、頭の中が水に満たされたように重く、何も考えられなかった。
 その間に、「ボク」の方に、足音が響いてきて、止まった。
「ククル……」
 上から聞こえてきた。ホイスターさんの声だ。
 重い頭を持ち上げ、見上げると――クラッティッジさんも、そこに並んでいた。
 2人とも、凄くなにか言いたげに、唇をぴくぴくさせている。
 その顔には、不注意への叱咤とも罪悪感ともとれる、よくない顔色が浮いていた。
 何かを言おうとした―――
 今の話は?
 本当なの?
 クレアさんが? 子供を? 喰べ―――?
 何故? 餓えて?
 そんな人だったの?
 じゃあ――ボクのことも? ボクのことも? ボクのことも? ボクのことも?
 クレアさんもホイスターさんもクラッティッジさんもみんなもみんなでボクのこと騙して騙して騙して騙して騙して騙して騙して騙して騙してだましてだましてだましてだましてだましてだましてだましてだましてだましてだましてだましてだまして
 優しくしてくれたのもみんなみんなみんな
 ミンナミンナボクヲタベルタメニ
 ボクヲコロシテシマウタメニ―――?
 ――何一つ、「ボク」の喉からは出てこなかった。
 何か、見えないモノに、「ボク」の声帯が絞めつけられているかのようだった。
 きりきりと、変にノドが渇いて、イタイ。
 ぱくぱくと、金魚のように、口を間抜けに動かすことしか出来なかった。
 そして、聞き出す機会は失われた。ホイスターさんたちにとっても、何か、補足をする機会を逸したことになるかもしれない。
 何も知らないクレアさんが、ニコニコとしながら手を振り、「ボク」たちに話しかけてきたのだ。ホイスターさんたちは、愛想笑いと生返事を返して、また談笑に戻った。
 「ボク」は、2人の大人のようには動揺を隠せず、「マンガ読んでくる」と言ってそこから逃げるように駆け出した。
 クレアさんが、不審に思って何かを言うけど、「ボク」は振り向かないし振り向けない。
 ワゴン車の全部座席で、誰とも顔を合わせたくなくて、ただじっとマンガを読んでいた。
 主人公が持つ背後霊の、痛快なパンチのラッシュは、「ボク」の不安やもやもやを吹き飛ばしてはくれなかった。

 シチューを、掬っては、口の前に持っていき、皿の上に置く。そんな動作が何度も続いた。
 食欲がない、だけではない。毒が入ってるのかもしれない、とすら、「ボク」の猜疑心はシチューにも大きくのしかかった。
 バサロさんもジンさんも、自分の食事に夢中で、「ボク」の挙動不審な行動には気付かない。
 ホイスターさんとクラッティッジさんは、チラチラとこちらを見ては、視線を逸らす。気まずいのだろう。話しかけるのを躊躇し、結局はやめる、という仕草は、まどろっこしくも、ありがたくもあった。
 周りが全て敵に見えた。
 「ボク」の中で、積み上がっていた信じる気持ちを、今更、土台ごと引っくり返されたような気分だ。
 優しくしてくれるのは、自分を利用するためかも――その考えを唾棄すべきものと考えていた「ボク」が、徐々に聡く、いい部分を突いている考えだと思えるようになりつつある「ボク」がいる。
 例え、利用するための扶養だとしても、「ボク」には逃げる手段がない。
 知られてしまったからと言って、何かの物語のように、「ボク」の口封じをしに来るかもしれない。
 噴き出した疑惑の中に、怯える心の裡に、信じたいという感情もあった。
 今までよくしてくれたみんなが、「ボク」を陥れるわけなんかないと。
 今の、この疑惑は、全て誤解から出てきたものなのではないかと思っている「ボク」がいる。
 いや、むしろ、そう願っているのか。
 かつん、と鉄の容器に小さな音を立てて、またスプーンを置いた。
 皿が浮かび上がった。
 細い指が、その端を掴み、持ち上げたからだ。白い指。この場にいる男性には、そんなきめ細やかな色は出せない。
 クレアさんの蒼い目が、「ボク」の顔を覗いてきた。
 料理する時にしていたエプロンをまだ外していない。
 覗きこまれた瞬間、「ボク」の全身に、冷や水をかけられたような感覚が奔った。
 怯えている。そう、自分で分かった。
「どうしたの?」
 聞いてきた。
 「ボク」は、何も答えられなかった。
「さっきから、全然食べてないじゃないの―――」
 考えてみれば、クレアさんは、いつも「ボク」のことを見ていて、世話を焼いてくる。最初に彼女が気付くのは、当然だった。
「食べないと、夜、お腹がすいて起きて来るんだから」
「少し無理してでも、食べないと」
「ほら、あーん」
「口を開いてったら。食べさせてあげるから」
「ほら。ほらって」
 クレアさんが説得してくるのにも、「ボク」は、首を横に振るだけだった。
 何も言葉が出ない。それが精一杯だった。
 クレアさんは、いつもとは違う「ボク」の反応に、戸惑いと若干の苛立ちを感じているようだ。「ボク」が、すっかり怯えきっていて、膝が小刻みに揺れているなどとは、全く思っていないようだった。
 そして、何を思ったか、
「ククルが食べないなら、あたしが食べちゃおっかな〜」
 そう悪戯に笑いながら言った。
 多分、違う「ボク」の反応を期待してのことだろう。言いながら、皿とスプーンとを、「ボク」の顔に近付けていった。
 「ボク」の反応は、彼女の予期せぬものだっただろう。
 “食べる”―――
 日中に聞いた会話と、クレアさんの言葉とが重なった。
 「ボク」の胸の中で、はちきれそうなほど成長していたものが、一気に弾けた。
「――わぁっ!!」
 腕をめちゃくちゃに動かして、空気を突き飛ばすようにしながら、離れた。
 だが、腕は空気ではなく、皿を跳ね飛ばしてしまう。
 ――クレアさんのエプロンに、べったりと、シチューがかかってしまった。
 ニンジンとじゃがいもが、エプロンを下につたって、落ちた。
 みんなの目が「ボク」たちに向く。
「ククルっ!!」
 クレアさんが怒声を挙げた。
 珍しく、「ボク」に向かって、目と眉を大きく吊り上げながら、唇を固く結んで睨みつけている。
 いや、睨みつけていた――すぐに、意外そうな顔に変わる。
「……あ……あ……あっ」
 「ボク」が、ようやく、放った言葉だった。
 目から、次から次へと溢れる、恐怖の涙と共に。
 腰もひざも無節操にガクガク震え続けている。
「…た…べ、な…い……で…」
 搾り出すような声。
 ひどく、弱く小さな声だったが、みんなが静粛にしていたため、全員が余すことなく聞いた。
 訪れた沈黙。羅列される驚きの表情。
 食べないで、という言葉の真意が、シチューにあるわけではないと悟った証だ。
 少なくとも、クレアさんは、目の前にいる少年が、自分の核をつく発言をしたと、はっきりと認識しただろう。
 沈黙が続いた。
 長かった。
 「ボク」の涙は、その間にも、止まることを知らなかった。
 やがて、ホイスターさんが、硬直したままのクレアさんに、
「……すまねえ。日中に、クラッテの奴と話してたのを、聞かれ―――」
 その先のことは、「ボク」は知らない。
 みんなの間で、どんなやりとりが起こったのか。あるいは何も起こらずに、すぐに、「ボク」を追いかけたのかどうかということは分からない。
 みんなに背を向けて、暗闇の向こうへと、駆け出していた。


3 :霧崎 魅影 :2009/10/18(日) 22:14:29 ID:nmz3oDVF

pass away days 2(9年前)

 奔る。
 奔る。
 奔る。
 駆ける。
 駆ける。
 駆ける。
 「ボク」は、一心不乱に、滅茶苦茶に駆け回っていた。
 足が自分じゃないようだった。
 逃げ回っていた。
 何から逃げているのか、走っているうちに分からなくなっていた。「逃げたい」という恐怖の感情から逃げ回っていたのかもしれない。
 つんのめる。
 地面と擦れ合う音。
 「ボク」が顔を腕で庇っていたから、砂利に、二の腕を思い切り擦りつけることになった。
 そこに座り込んで、血が滲んでいるであろう腕を、舐めた。目尻に涙の粒が浮いた。
 腕を目で捉えることは出来ないため、痛みの感覚で、患部を探り当てる。そこで、「ボク」の心を貫く情報が脳に浮かんだ。
 ―――――闇。
 無明の空間が360°に広がっていた。
 焚き火からは、既に離れすぎている。周りに光源もない。しかも、こんな時に限って、空には星ひとつ浮かんでいない。
 手を目の前に翳してみても、視界には変わりない闇が映されるだけだった。
 その手ががくがくと震え、「ボク」は、両腕で自分の体を抱きしめた。
 そして、ミートボールのように体を丸め、その場に蹲る。
 ぞぞっ―――と、背中に痒みが奔った。
 かぶれたかのように落ち着かないのに、そのくせ、氷のように冷たい。
 汗すら流れない。
 涙も流れなかった。体を縮めながら、歯を鳴らして震え、「ボク」は何かを待っているかのようだった。
 何を待っているのだろう。闇から出て来た何かに、骨まで喰べられることをか。
 闇は、未知の塊だった。そこに在るだけで、人も、物も、地面も、空も、頑とした秘密主義の姿を取る。
 何も教えてくれやしない。美しいモノも、危険性も。
 暗い部屋に1人でいると、世界が狭い箱になり、自分だけがそこにいる気分になる。
 しかも――ここが安全が保障されている部屋とは違うことは、ひやりと肌を撫でる夜風が、残酷に教えてくれる。
 怖いモノは、世界の外から、いきなり飛んでくるんだ。
 助けて。助けて。と、何度も心の中で呟いた。心に声帯があったなら、今頃、間違いなく擦り切れてしわがれた声になっているだろう。
 ――「ボク」が待っているのは、助けだったんだ。そのことを理解した時には、寒さと一緒に、脈打つ心臓の熱さを感じるようになっていた。
 怖いという気持ちは膨れ上がったが、そのおかげで、「ボク」は行動を起こすことができた。
 戻ろう。
 このままここで震えていれば、そのうち、魔物に襲われてしまう。それぐらいだったら、みんなのいる場所に戻った方がいい。
 もしみんなが本当にヒドイ奴らでも、魔物に引き裂かれて骨まで貪られるほど、酷い目にあったりはしない、筈。
 いや、そもそも、全部が「ボク」の勘違いなのかもしれない。そう思うし、思いたいし、幻想を抱きたいし、縋りたい。
 自分の子供を食べたというのは、言ってしまえば単なる疑惑。今ある現実的で底知れなく未知の恐怖の前には、そんな根拠の弱いものは跡形もなく消し飛んでしまった。
 来たところを引き返そう。がむしゃらに走ったとはいっても、まっすぐにしか走っていないから、方向さえ覚えていれば一本み

がさっ

 ――「ボク」の世界が、一瞬凍りついた。
 何かが、そのあたりで動
 まさか。そんなはずないじゃあないか。
 きっと、風だ。クレアさんは、マナーの悪い賞金稼ぎが、よくその辺りに空き缶やコンビニおにぎりの包み紙とかを捨てていくって言ってた。駄目だなあ。魔物たちはおっかないけど、景色はこんなにキレイなのに。だからきっと、今のは風に飛ばされたゴミが音を立てただけなんだ。そうに決まってる。風のせいだ。風風風風

がさっ

 風を起こすカミサマがいるのなら、こんな冗談が大好きなのかな?
 「ボク」みたいな子供を脅かして喜んでるなんて、カミサマ失格だねあはは。
 それとも、本当に、ゴミじゃあない? いや落ち着け「ボク」。ちょっとがさっとした音ぐらいで、ゴミじゃないかどうかなんて分からないじゃあないか。
 でも、それは、ゴミじゃあないかもしれないってこと? ――あ、なんだ。例えゴミじゃあなくっても、草か何かってこともあるじゃん。なんだなんだそうだよねそうだよね。こういうトコならゴミより草の方が自然だし

がさっ がさっ、がさっ―――

 ちょっと待ってよ何で草が段々大きな音を立てるんだよ大体これじゃあ「ボク」の方に向かって来るみたいじゃあないかゴミが飛んでくるとしても「ボク」の方に風が吹いてるわけじゃあないし

たたんっ たたんっ たたんっ

 一定のリズムを刻むその音は、死刑執行の合図か。
 紛うことなき、足音。
 「ボク」はそこから動けなかった。
 13階段の何処で首を括られるのだろう。びくびくしながら歩を進める死刑囚のような心境――だったと思う。
 腰から下が、震えを感じられるだけの人形のよう。
 股間から、生暖かい感触が感じられた。その感触が重力に従って、おしりの下まで濡らしていく。
 失禁していた。
 上半身も上半身で、崩れ落ちそうな状態を両腕で突っ張って支えるだけで精一杯だったし、唇が震えて上と下がぶつかると、古いパンのように乾いて硬くなっていることが分かった。
 「ボク」は今、死のうとしている。
 3歳の頃に「ボク」を捨てた、顔も名前も知らない親に見取られることなく、優しく楽しかったパーティーが嘘偽りだったかどうかも分からず、死のうとしている。
 その時、「ボク」の口が、初めていうことを聞いてくれた。
 両目から滝のように涙が溢れ出てきた。
「う、うわああああああああああああああああああああああああああああああ――――――――――――!!!」
 恐怖を全てぶちまけるように、叫んでいた。
 その時―――

 背中の方から光と轟音が追いかけてきた。そう思うと、見えなかった何か――魔物が照らし出されて、引き攣ったように硬直していた。
 また、光と音。
 「ボク」の目の前の魔物が、ガソリンが引火したかのように、激しく燃え盛っていた。
 「ボク」は、ただ、初めてキャンプファイヤーを見た時のように、その景色に圧倒されているだけだった。
 ――と、咄嗟に、後ろを向く
「偉いぜ。『バーニングボーイ(熱血漢)』! クソッタレの魔物を焼き尽くして、ククルを救ってやったな!」
「クソッタレ。俺も見えてさえいれば、「うっかり」手元が狂って、『アイシクルガール(つれない女)』でククルの野郎を射抜いてるってのに」
「気が合うな」
「そうだな」
 後ろにいたのは、自分の銃にキスして褒めるホイスターさんに、悪態をつくクラッティッジさん。その前には―――
「ククル! 無事だったのね!」
 クレアさんが、安堵と心配がないまぜになった顔で、泣きそうになっていた。




 異能の力だった。
 それは、主に超能力と言われる力だった。魔術とも、呪術とも、妖術とも、奇術とも、忍術とも、仙術とも、念力とも、法力とも、霊能力とも、神通力とも、奇跡とも呼ばれるものだった。
 ちょっと昔だと、あるかどうかが不明瞭だったという。根拠なく否定して一笑に付す人もいたらしい。
 でも、それは知っている人の絶対数の問題だったんだ。それを知り、使える人が少なかったから、否定された。
 多くなったら、途端に迎え入れられて、そして恐怖された。
 「ボク」の時代はエスパーで溢れかえっていた。
 そこを詳しく説明するには、「マエダ製薬」のことを、前より掘り下げて話さなければいけないだろう。
 マエダ製薬は、人間の限界に挑戦していた。
 同じ走るなら早いほうがいいし、暗記するならより多く覚えるべきだ。簡単に言えば、そんなところだ。
 こう言ってしまえば格好いいが、陸上競技におけるドーピング事件のきっかけになったり、人体に悪影響を及ぼしたりと、埃ばかりが立つ企業だったという。
 そんな企業が、ある時、超能力に目をつけた。
 身体能力の面での研究に行き詰まり、頭脳や精神的な部分に重点を置いた結果らしい。
 一般に超能力者や超人と呼ばれる人物を、合法非合法の方法を問わず、様々な方法で研究し尽くしたという。
 その題材は、研究するには、あまりに多様で抽象的なものだったが、「超能力」という結果に到達するまでのプロセスだけは一定だった。
 何かを『起こそう』という意志が、ある領域まで高まった時に、超能力は発動する。
 超能力者と呼ばれる人種は、一般人より、集中力が遥かに高いという。
 五体を用いない。意志力を武器と化し、物事を切り開く『力』とする。
 能力の特性上、五体が不自由な障害者に、『力』が身につきやすい。
 修行僧の座禅や、滝に打たれるといった修行は、『力』を目覚めさせ、研磨するためにある。
 怒りや憎悪など――強烈な感情が意志へと昇華された時、『力』という刃になることもある。
 マエダ製薬は発見したプロセスに対し、進める開発は決まっていた。一般人でも、「ある領域」まで意志力を高められるようにできる薬を創ればいい。
 創られた薬は――『Spirit loose(魂の開放)』と呼ばれた。
 魂の開放によりもたらされたメリット。飲んだ者は超能力を身につけた。身につく能力は使用者の精神や願望に依存するという。また、「イメージしやすさ」も重要らしく、火・水・風・土の四大属性のどれか、あるいは幾らかを操るものがポピュラーで、それ以外では物体を動かすものなども一般的だ。超能力者のことで一般的、とは語弊があるかもしれないが。
 魂の開放によりもたらされたリスク。薬を服用した人物は、8割ほどは能力に目覚めるが、残り2割は死か廃人、良くとも精神に異常をきたす。当時の日本では非合法だったため、世間から隠れた場所で流通した。後天的な能力であるため、能力は微弱なものになることが多かったが、身についた後に研磨することは出来た。さらに、能力を利用した犯罪も、当然ながら多発した。
 この時点で、きっと、マエダ製薬が「人間」に求める限界の突破は、達成されたのだろう。
 少し経ってからだった。『魔物』が創られ、世界に放たれて、そして日本が滅んだのは。
 一度、目標を達成したマエダ製薬が、更にそれを超えるために、『魔物』に何を求めたのかはよく分からない。しかし、超えようとした結果が、今の死と隣り合わせの世界を作ったことは間違いないだろう。
 秩序も安全もないこの世界に、異能の力が必要になることは当然の流れで――今の時代、簡単な許可を取れば、誰でも服用できるようになっている。
 自分の身は自分で守れということだった。
 「ボク」は憧れた。
 自分で自分の身を守るということに。
 「ボク」を守ってくれるみんなは、誰もがそうだった。賞金稼ぎや自己防衛に協力しあっていても、互いに足を引っ張ることはない、大人の割り切った関係だった。幼く、背伸びしたい年頃だった「ボク」には、特撮のヒーローよりも格好いいものに見えた。
 「ボク」もそうなりたいと思った。
 「ボク」も、みんなのように闘いたい―――
 そう。「ボク」の後ろに立っていた、クレアさんたちのように。

 ホイスターさんは、2発撃った。
 最初の一発は、暗闇を照らすための弾丸。「ボク」の悲鳴で、目的の場所から遠すぎず、且つ「ボク」に当たらない場所を割り出して撃ったんだろう。しかも、魔物を怯ませる効果まで期待できる。
 2発目が当たった魔物は、次に「ボク」が見る頃には炭になっていた。
 でも、魔物の断末魔が、更に魔物を呼び寄せてしまった。
 10匹。
 狼とも狐ともつかない体だが、口からはみ出るほど発達した牙と、赤紫に斑点がある体表の部分は、どんな動物にも心当たりがなかった。
 ぼた、と、重い音を立てて涎が落ちる。
 がり、と、力を篭めた前足が地面を掻く。
 サークル状に4人を取り囲む。
 「ボク」たちの対応は、不可解だった。
 ホイスターさんとクラッティッジさんは、クレアさんと、抱きしめられている「ボク」に背を向けた状態になっている。
 「ボク」たちを守るとか、そういう空気は全く感じない。
 そう――ホイスターさんたちが5匹、クレアさんが5匹。敵を折半するような構えだ。片や屈強な男2人。片や子供と、それを抱きしめている女性。この2組で敵を均等に分けるというのは、凄まじく不自然に見えた。
 だが、魔物が飛び掛ってくることはなかった。
 クレアさんが、魔物たちが地面を強く掻こうとする前に、視線で制しているからだ。視線だけで、魔物たちの動きは止められていた。
 最初だけ、「ボク」を強く抱きしめながら涙を滲ませていて、完全に囲まれる前には立ち直っている。賞金稼ぎとしての顔だった。
「クレア、さん―――」
 「ボク」は声を発した。
 声を発してから、何を言えばいいか分からないことに気付いた。
 子供を食べたっていうことか、来てくれて嬉しかったってことか―――
「ククル」
 考えているうちに、
「今は」
 クレアさんが、顔を近づけて、「ボク」の言葉を遮るように話しかけてきた。
 普段は見ない、神妙な顔だった。泣きそうな顔にも見えた。
 哀しみながら、それを抑えるだけの意志量を持ち合わせている――そんな感じだった。
「今は、何も言わないで――私に守らせて」
 そう言った。
 穏やかに優しく言った。しかし、言葉の裏には、有無を言わせない迫力や決意のようなものを感じさせる。
 クレアさんが「ボク」に向ける感情は、親愛の情であって、義務であって、信念であり生き甲斐――そう、感じた。

 ――その時、魔物たちが、痺れを切らした。
 だけど、この魔物たちは、決して強い魔物ではなかった。賞金額で言えば、かなり下級だと言える。
 背後で、銃声が鳴り響き、赤い光が幾度となく瞬き、揺らめく。
 まず、地面を駆けてくるものに向かって、ホイスターさんがなぎ払うように連射する。4発。その時点で、3匹が炎に巻かれる。
 2匹が空に飛び上がり、避けながら飛び掛ってきた。だが、それは2人の狙い通りで、クラッティッジさんは、冷静に2匹に向かって連射した。太い「つらら」をそのまま発射したような弾丸が、2匹に刺さる。凍りつき、そのまま自由落下し、硝子のように砕け散る――2匹とも仕留めた。が、
 もう一匹がホイスターさん目掛けて走ってきた。そういう知能があったのか、クレアさんに近かったものが、迂回する形で、タイミングをずらして奇襲してきた。
 ホイスターさんに喰らいつく、というところで、喉を透明なモノが貫いていた。
 クラッティッジさんの銃口から、氷の槍が生えていた、それを文字通り槍のように扱って、魔物の喉を貫いたのだ。
 ホイスターさんの「バーニングボーイ」は広範囲を攻撃できるが、近距離では使いづらい。そこを、クラッティッジさんの「アイシクルガール」で補う。
「助かったぜぇ。よく気付いたな」
「ち。気付いちまった」
「…気が合うな」
「そうだな」
 言いながら、顔を合わせて、からかったような笑顔を見せ合っていた。

 「ボク」とクレアさんに襲いかかってきたのは、4匹だった。
 暗かったから、この時、ホイスターさんたちの方に行った1匹が何処にいったかを確認する余裕はなかったし、分かったとしても、轟音の中で2人に伝えられたかどうか。
 4匹が怒涛のように押し寄せてくる――でも、「ボク」はもう怖がることはなかった。
 隣に、後ろに誰かがいるといないとでは、全く違った。直に血走った目を見ても、ズボンを濡らすことはなかった。
 クレアさんが、背中の剣を抜く。その剣が、白いオーラに覆われた。

 羽のように白い炎。

 剣より一回り、二回り――どんどん大きくなっていく。
 「ボク」の頬に静電気のようなものが走った。
 クレアさんの能力―――
 剣の強化。それには、条件があった。
 『子供を護る時のみ白い翼は展開する』
 『護ることを意識すればするほど力は強大になる』
 「ボク」が隣にいることで、それは、限界まで強まっていた。
 魔物が一斉にブレーキをかける。野生の嗅覚。クレアさんは、魔物に前進のエネルギーが残っていて、動きが自由にならないうちに、間合いを詰めた。
 ああ―――
 「ボク」は、何を疑っていたんだろう。
 「ボク」が好きな、羽。
 あんなにも綺麗な、白凰のはばたき。
 思うはずがなかった。
 精神のカタマリが嘘をつくわけがないのだから。
 クレアさんが、「ボク」を、食べようだなんて―――

 漆黒の夜空に魔物たちの影が舞った。




 「ボク」を命を賭けて護ってくれる。そのことを再確認するのに、こんなにも大掛かりなことが必要だったのかと、そう思うと情けなくなってくる。
 結果的に、クレアさんたちが「ボク」に向けてくれている感情が、表面だけじゃあないということが改めて分かったということだ。図ってやったわけじゃあない。それでも、一時の不信に流されて、あんな行動を取ってしまったことは事実で、申し訳ないやら恥ずかしいやらの気持ちでいっぱいだった。
 たった一言が元で、これまでの全てを疑ってしまった。これが馬鹿げたことだったのは間違いない。
 あの後、元の焚き火があった場所に戻ると、ジンさんとバサロさんが、火と車の番をしていた。
 ジンさんからは、拳骨と、「面倒かけるな糞餓鬼」という言葉を貰った。バサロさんからは、怪我はないかという心配の心と、擦りむいた二の腕に冷たい消毒液を貰った。
 だけど、「ボク」が確かに言った――“たべないで”という言葉の意図。それは、誰も聞かなかった。
 夜を終えて、朝、街に帰るワゴンに揺られながらも、みんなは他愛のない雑談と、今後の計画のためにしか口を開かない。
 殆ど口をきかないのは、「ボク」とクレアさんだった。ジンさんも多弁ではなかったが、あの人は、いつもそうだった。
 昨日の騒動。その中核に誰も触れることなく、街に着くなり、ホテルを取って各自休養という風になった。
 つまり、全員が全員、その意味を分かっているのではないか。
 不安定な「ボク」に気を遣い、一切の質問を一時的に控えているようにも思えるが、本当にそうなのだろうか、と「ボク」は思った。
 分かっているとしたら、全員が騙している、敵だ、なんてことはもう言い出すつもりはない。
 理由があるはず。
 クレアさんが、本当に自分の子供を食べたとしても、何か抜き差しならぬ理由があるはずだ、と思った。よく考えれば、ホイスターさんたちが、それを知ってて一緒に賞金稼ぎをしているということは、尚更クレアさんのことを信用しているということではないだろうか。
 少し前までの「ボク」は、ホイスターさんたちも揃って「ボク」を騙している可能性しか考えていなかったが。
 何か理由があるのなら、それを聞いてみたい。それを聞いて安心したい。くどいかもしれないが、もう、みんなが「ボク」に対して陰謀や悪意を持っているという風には欠片も思っていない。出来れば、子供を食べたというのは勘違いであって欲しいし、本当のことだとしても、「ボク」は、クレアさんの白凰の羽を、善意を信じていたい。信じるために、裏付けのできる理由が欲しい。
 いや――例え納得できない結果に終わったとしても、今のクレアさんは今のクレアさんなのだから、これまでと何かが変わることもないはず。
 そもそも、人を食べた理由を聞いて、それに納得することなど、出来るのだろうか。
 なら、どうして聞きに行くのか。
 わからない――けど、聞かなければ、何も始まらない気がした。
 直接聞いてみることにしたけど、クレアさんに聞くのはあまりいい手段じゃないと、幼い頭にもおぼろげに分かった。
 それに、疑ってあんな思いをさせた後だと、顔を合わせ辛い。
 「ボク」は勝手だった。それから目を逸らしながら、ホイスターさんとクラッティッジさんの部屋の前に立っている。
 ノックするために振り上げた拳を、下ろしたり上げたり。時には、固まったように呆けたように、棒立ちになって躊躇い、いつまでもノック出来ないでいた。
 ちなみに、普段は「ボク」とクレアさんが同室になるものが、こんな状態だからと、バサロさんと同室で宿泊することになっている。バサロさんは、今は外出。クレアさんとジンさんは、それぞれ個室を取っている。
 少し、部屋と廊下を隔てる板きれを叩くだけの動作が出来ない自分が、ひどくもどかしかった。
 ぐっ、と拳に力を入れて、意を決する。
「かくごかんりょ―――」
「おら、さっきから人の部屋の前でぼけーっと何してる」
 びくっ、と言葉に合わせて背筋が震えた。振り向くと、そこには赤銅色の肌を持った、長身の男――ホイスターさんが立っていた。
 「ボク」が扉の前で、モタモタしている間に、後ろに来ていたみたいだ。
「と、とっとっとーほーに迎撃のよーい」
「小便漏らしのガキの何が不退転だバカ。俺らの部屋に用があるんじゃあねーのか」
 ホイスターさんが「ボク」の頭を軽く小突きながら言った。
 同時に、思い出したくないことを思い出して、俯いてしまった。
 ホイスターさんが部屋のロックを開け、中に入るよう促す。「ボク」は促されるままに部屋に入り、「まぁ、座れ」と言われたのでベッドに座った。
 ホイスターさんは、向かい合うように、向きの回転ができる椅子に座る。
 クラッティッジさんは外出しているのか、部屋にはいなかった。つまり、ホイスターさんが、今、帰ってくるまでは、この部屋は無人だったということになる。誰もいない部屋の前で、葛藤しつつ立ち往生をしていたことを考えると、馬鹿らしいやら、照れくさいやらで恥ずかしくなった。
「で?」
 訊いてきた。
 勿論、この部屋の扉を叩こうとしていた、「ボク」のホイスターさん(かクラッティッジさんかあるいは両方)への用事のことだ。
 ちなみに、「ボク」には、どちらかだけに聞いてほしい、片方には聞かれたくない、という感情は一切ない。
 2人揃ってる時こそあの調子だが、あれは、言わば合言葉のようなもの。「ボク」や他の人を嫌っているような節があっても、それには、深い意味はないことが多い。
 その証拠に、2人の意見は食い違っているように見えて、行動そのものは同じだし、「ボク」が勉強を教わったり料理を手伝ったりしている時にも、別に嫌っている節はなかった。
 ホイスターさんも、クラッティッジさんも、2人とも平等に信頼も尊敬もできる。
 「ボク」は語りだした。「あのね……」と、弱い言い出しだったかどうかは記憶がおぼろげだが、済んでしまった後ならどうでもいいことだった。
 率直に訊いた。クレアさんが、自分の子供を食べたというのはどういうことか。YesかNoか。Yesなら、どういう過程でそれに至ったのか。
 焦れたように勢いよく尋ねた後に、クレアさんが傷つくことなら、もう訊かない。と付け加えた。
 どんなことを言われても、クレアさんやみんなを、信じてるから――はっきり、目を真っ直ぐ見て、そう言った。
 護られてばかりの今までだったけど、こんなに自分の言いたいことをはっきり言えたのは、初めてだったかもしれない。
「どんなこと言われたって―――」
 ふと、ホイスターさんが、「ボク」の言葉を反芻した。
 そして、笑った。
「まだまだ少年だな、おまえ」
「え?」
 不可解な言葉に、思わず間の抜けた返事を返した。
「勘違いさせねぇように言っとくが、俺は、おまえを褒めてるんだぜ。たった今、おまえは、「ガキ」から「少年」に成長したってな。だが、まだまだ「大人」には程遠いぜ。大人は軽々しく「どんなこと」とか言ったりしねえから、な」
「…うん」
 結局、褒められてるような気分にもなれず、適当に頷くしかなかった。
 言われている意味も、よくは分からなかった。これから分かるときが来るのかもしれない。
 咳払い。
 ホイスターさんは気を引き締めたようにして、話し始めた。
「死んじまったクレアのガキ―――2人いた、ってのは知ってるか?」
 「ボク」は首を縦に振った。
「何年前だったか……8年ぐれぇだったかなー、あいつぁ、俺を酒に付き合わせた時に、ぶちまけた」
 その話に「ボク」は引き込まれ、相槌も打たずに聞いていた。


 ホイスターさんが話を聞いたという時は、クレアさんと出会い、「ボク」を除いた今のパーティーになったばかりのことだ。
 クレアさんには、その頃、ある事件が降りかかったばかりで、かなり不安定な状態だったらしい。
 夫が、魔物に殺された。
 そのことは、哀しみはしたが、致命的な心の傷にはならなかった。今の時代ではごくありふれたことであり、周りにも理解者の友人が大勢いたからだ。女手ひとつで子供2人を養うことになった時、クレアさんは、廃業していた賞金稼ぎに戻ることを決心した。
 まともな教養や学歴を持たない人で、『能力』と腕だけが、結婚するまでの命綱だったという。
 友人の紹介などで安全な職業に就くことは、考えはしたが、友人に迷惑をかけたくないと思いやめたという。今思えば、それが最初の間違いだったのかもしれない。
 大きい街に行き、子供を施設に預け、自分は賞金首を狩って養育費を稼ぐ。そのための移動の途中の不運。
 荒野を通る、舗装されていない道に、どういった意図で地雷が仕掛けられていたのかは分からない。何者かの見当違いな魔物対策かもしれないし、無差別テロや、何かの弾みで道端に落としたものを踏んでしまった不幸なのかもしれない。クレアさんの前には、自分と年少の子供は軽症、年長の子供は、早急に手当てが必要な負傷を負ったという、現実性を纏う悪夢が広がっていた。
 クレアさんはこんな時でも強かった。
 真っ先に泣き出したかったはずなのに、自分の意図を外れて、自然に年少の子供には“心配しないで”と、年長の子供には“大丈夫だから”と。恐怖や嘆きの本能を塗りつぶし、労わりの行動をとっていた。
 母であるからこそ強く、強いからこその母だった。
 携帯電話など、通信端末は悉く大破。しかも、当時、その近くにガードポイントはおろか、ありとあらゆる建物は存在しなかった。
 年長の子供の傷に、服を破いて作った包帯で、ごくごく簡単な応急処置を施す。
 クレアさんは、殆ど一睡もせず、昼は子供たちに気遣いながら周囲を警戒、夜は火の番をしなければならなかった。
 無駄な移動は逆効果。その場に留まり、車が通るのを待つことになった――街から人が出ることが少ない上、ただでさえ、この道は車の通りが極めて稀。儚い希望だったが。
 3日。
 年少の子供は、最初こそ不安をまぎらすために、母と積極的に会話していたが、飢えで頬がやせこけ、一言も発せず横たわっていることが多くなった。
 それより深刻なのがクレアさんだった。意識を途切らせず、周囲に気を配り、時には魔物を追い払って、さらに飢えとも闘っていた。
 魔物の肉には、毒性を含むものもあるため、迂闊に手を出せない。安易に食し、食させるわけにもいかなかった。
 余談だが、クレアさんが子供を護るために生み出した力――『白雌獅子の吐息(ホワイトフレイム)』は、この時に開花し、固まったらしい。それまでは、手品程度の炎が出せたぐらいだった。それでも十分に使えたし凄いが。
 最も深刻なのは、敢えて「ボク」が語ることもないだろう。
 年長の子供の体力――生命力は、じわじわと、傷を覆う布に染み渡っていく。
 もう、手遅れではないか。
 クレアさんはそんな考えが浮かぶ度に、頭を振って否定していた。

 3日目の、ある晩。
 年長の子供の方から、がさ、と動いたような音がしたので、クレアさんはそちらを向いた。
 既に子供に優しい顔を向ける余裕はなく、目の周りには深く隈が刻まれ、その中心にある眼がぎらぎらと鷹のように光っている。
 最早、年長の子供――と言い続けてきたけど、実は、「ボク」よりは年下――に、クレアさんがいる所まで声を届かせる力はなかった。何とか、体を動かすことで、コンタクトをとろうという試みを、クレアさんの鋭敏な聴覚は逃さなかった。
 年少の子供は、寝息すら立てず睡眠をとっている。寝たまま息を引き取るという事態が、笑い話ではなく有り得そうで、そのことでもクレアさんの精神は蝕まれていっていた。
 クレアさんが、怪訝に年長の子供の顔を見る。焚き火の明かりに照らされるそれは、口元がぱくぱくと動いていたように見えた。子供の方に体を寄せ、口に密着させそうなほど近く、耳を近づける。

 ――ぼくは  ぬ
 何を言っているのか。
 ――  は   でしょ? はっき  って
 何を言っている? 聞こえない。いや、聞きたくない。
 ――ぼ    もう   分かるんだ
 言うな。言わないで。
 ――   ぬのなら、せめて、
 言わないで!
 ――おかあさんも  ―――も、 元気ないから だから
 言うな!!
 ――ぼくを
               て

 親不孝者、と罵った。する方もされる方もどれだけ苦しむのか、分かっているの? と感情をぶつけた。子供が、母親に向かって、母親である資格を放棄しろ、と言っているのだ。ここで激情せずに、取り乱さずに、何が母親だ。そう叫ぶように、取り乱した。狂ったように喚き散らした。それを見ても、子供は、ある種悟ったような顔を崩さなかった。確実な死を理解した時とは、そんなものなのかもしれない。最期に望むものは、自分のことではなく、献身。それが、心が一分の空白もなく、満たされた証明だと言うかのように。
 子供は、子供らしく、子供の笑みだけを浮かべ。

 ――ぼくは死にたくない だから、おかあさんと ――の中で、ずっと、ずっと生きていたい ぼくのことなら気にしないで ぼくのわがままなんだから わがままばかり言って、ごめんね おかあさん でも、これが最期のわがままだから もう、ぼくは、おかあさんをこまらせないから

 実に、荒野の道のまっただ中に放り出されてから6日後だった。クレアさんたちが、通りがかった車に救助されたのは。
 クレアさんはともかく、年少の子供の年齢で、飲まず食わずの環境を乗り切ったのは、驚くべきことだった。
 なお、その時に救助された人数は『2人』。他には死者もない。少なくとも救助した人にはそう見えた。


「ククル――おまえは、クレアのやったことを、鬼畜だと罵れるか? 異常だと言い切れるのか? 出来るんなら、別にいいんだ」
 問いかけられた。
 何も言えなかった。だから、一度区切られた話が、何事も無かったように、更に続けられた。
 その後のクレアさんに、常軌の人生に戻れという方が、無茶な要求だった。
 2人の子供を知る知人には、もう会わない。年少の子供も、早朝、寝ているうちに孤児院の正門の前に、毛布で簀巻きにして横にし、そのまま違う街へと移ってしまった。慌しく、あまりにも急ぎ足な時の流れの中で、クレアさんはあらゆるものを失い、あらゆるものを捨ててしまった。
 目的も希望もなく、機械的に魔物を狩り、賞金を受け取り――という生活をしてまもない時、ホイスターさんたちに出会った。
 クレアさんの無気力ぶりを見かねた、当時のリーダーのジンさんは、半ば無理矢理パーティーに加えた。
 クレアさんは、護るべきものがなければ、実力を発揮できない。そういう人だ。
 パーティーの足を引っ張ることも多かった。見限ろう、そういう意見が誰かから出ては、有耶無耶なまま消え、が繰り返されたのは、このパーティーは、誰もが、何かしらの「傷」を持っているからだと、ホイスターさんが教えてくれた。
 ホイスターさんにも、そういうのがあるの? と聞いたら、うるせえ、と突っぱねられた。
「そこで、おまえが新メンバーで加入の運びだ。護るにうってつけな足手まといのコゾーのな」
 3歳の頃に捨てられ、拾われたのが6年前。「ボク」はその頃から、明るく能天気で、そして1番頼りになるクレアさんしか見てないと思うが、それ以前のホイスターさんが言うようなクレアさんは、少し、いや、もの凄く想像しにくい。
 そうか。
 「ボク」の存在が、クレアさんに、護るべきものと目標を与えたんだ。
 こう言うと傲慢な表現かもしれないけど、「ボク」がいたことで、クレアさんが救われたんだ。
 幼い「ボク」は、護るべき対象をずらした、罪悪感からの逃げの行動だとは思わなかったけど。
 クレアさんに、活力を与えていたのだ。いつしか、ムードメーカーであり、何だかんだでみんなを纏める役になってしまうほど、活発に。逞しく。
「護られてばっかじゃいけねえよなぁ。男なら、てめぇの火の粉を、てめぇで払わなくっちゃあなぁ? ん?」
 ホイスターさんがおどけたように言ってくる。「ボク」にとっては、秘めていた劣等感を抉られる、辛辣な刃に感じられた。
「ガキは自己防衛も出来なくて大変だよなー。みんな闘ってる時に、自分だけ何もしてねえって、響くよなぁ〜」
 やめて、と、叫びそうになった時、ホイスターさんが機先を制してきた。
 いや、そんな計算高いものはなかったかもしれない。何故なら、その顔は、言い出しにくい重い台詞を、それでも押し出すように、自信を持って相手に放つ表情だったのだから。
「――なあ、ククル。おまえぐらい根っこが強けりゃ、今じゃなくても、何年かすれば俺らより強くなる。俺が保証してやる。もしならなかったら、ブン殴ったっていい」
 「ボク」は言葉を飲み込まざるを得なかった。
 ホイスターさんが、短く刈った短髪が生えた頭のてっぺんがよく見えるぐらい、深く、頭を下げていたからだ。
「だから今は、クレアに甘えてやってくれ。おまえが、あいつの力が要らなくなるまで…頼むよ」
 「ボク」は、その真摯すぎる頼みに、何も言えなくなっていた。
 10歳にも満たない小僧の意地っ張りの前には、伏せられた頭は、あまりに重すぎた。
 「ボク」の眼に計らずとも涙が溢れてきた。
 意地っ張りの原因で、一時は疑えるだけ疑った、この人が、この人たちが。想像すらしなかったほど、重く、哀しくて、誇り高くて。
 嬉しかった。

 部屋から出て、「ボク」は自分の部屋に向かう。鍵は、「ボク」も、バサロさんも持っているため、どちらかの都合で部屋に入れなくなる心配はない。
 自分の部屋のドアノブに手を掛けた時、左側からした足音に、「ボク」は顔を向けた。
「ククル……」
 クレアさんは、しゅんとしながら微笑むような、複雑な顔を見せた。
「……クレアさん」
 ワゴン車の中では、一切の会話をしなかった。それを考えれば、十分な進歩ではあった。
「……ククル、私ね、プリン買ってきたから。おやつ、そろそろ欲しいでしょう? はい」
 と、半ば強引に笑顔を作り、半ば強引に「ボク」の手に握らせた。そのまま急ぎ足で、すれ違おうとしていた。
 このままじゃいけない。
 「ボク」は、何の答えも出せていないけど、このまま立ち去らせることだけは、駄目だ。
 何故だろう。強く強く思った。
「ねえ」
 クレアさんが反応して、振り向いた。
 少し慌てたように。
「一緒に食べない? いつもみたいに。1つしかないけど、たまには、半分こでもいいからさ?」
 自分から、一緒に食べようと言ったことは、照れから一度も無かったが、照れずにその言葉が言えた。
 この言葉も――「ボク」自身に染み渡り、クレアさんに浸透させるように、ゆっくり。

「おかあさん」


4 :霧崎 魅影 :2009/10/18(日) 22:15:36 ID:nmz3oDVF

The Shadow Of Death 1(9年前)

 ある芸術家が言った。『美しいものは何気ない風景にこそ転がっている』
 芸術家とは、さしずめ探偵のようなものだとも言っていた。一般人と呼ばれる者たちより、少しだけそれらに敏感で、芸術という形にまとめる技術を持っていると。
 だから、きっと、この自然現象の跡でさえも、見る人間が見れば涎が溢れるほどのインスピレーションを受けるのだろう。
 石畳を巨大な爪で削ったような亀裂。
 窓ガラスを周りに散らせ、外壁に皺のような罅を刻んだビル。
 踏み潰したアルミ缶のごとき惨状の家々。
 怒号、悲鳴、助けを呼ぶ声。何処かでは、断末魔さえ聞こえた。
 私は思う。
 ここは地獄であると。
 私は思う。
 何処かの芸術家は、「これ」すらも材料にしている、出来ているのかと。
 芸術家という人種に、私は関わったことがあるが、「インスピレーション」という概念――これが分からない。何かを創作したことがないから、というだけかもしれないが、目の前にある現実から、ありもしない絵や物事を、どうしたら作れるのか。
 超然としていて、私のような凡人とは違う、という面をしている印象がある芸術家を、私は好かないが、「インスピレーション」というものがどのようにして生まれるのか。その点だけは気になっていた。
 孤児院の連中とは馬が合わずに脱走し、裏通りでコカインを売っている連中と知り合い、男に跨らせて金を作っていたら、いつの間にか強盗団の頭目になっていた。
 ただがむしゃらに、次から次へと押し付けられる現実だけを相手に戦ってきた。創造性や斬新さとは無縁の生き方だった。
 今、こんなことを考え出したのは、きっと、昔に比べればゆとりが生まれてきたからだろう。
 だが、そんなゆとりも、すぐに何処ぞへと吹き飛んでしまう。

 誓って言おう。
 私は、このことを見透かして、ここに来たわけではない。
 強盗団のアジトでたむろしていた時に、突如、地震が起きた。かなり大きかった。
 ニュースを見ると、近くの大きな街が震源地で、被害が直撃していた。
 それを見て大喜びで私は部下と街に向かった。
 火事場泥棒に来たというわけだ。
 近隣の警察は、人命救助に追われているはずだ。となれば、その日暮らしに近い、小さな盗賊団にとってこの状況は、かなりおいしい。
 私は、2人を車に待機させ、自分を入れた4人を2手に分けて、貴重品の散策にあたった。
 散策は人気のない場所から始めた。これが半世紀ぐらい前なら違っただろうが、今は魔物がはびこる時代。警察はNGOなどは被災地への集結が迅速に出来ず、こうして、彼らの救助の手が足りていない場所――穴が生じる。
 二次災害は、恐れるところではなかった。『能力者』が2人。1人は私。もう1人は2手に分けた班の片割れに。
 通りの先を、ビルの壁ごしに見る。その先には宝石店がある。しめたことに、その宝石店の瓦礫らしき場所には、死んでいるのか死に損なっているのか分からない者が3人ほど、寝そべっているだけで、立って動いている者はいない。
 私はパートナーの方を見る。
 彼と私が示し合わせたように頷き、瓦礫の上を軽やかに駆け抜ける。
 ――ふと、何かが目に留まる。
 パートナーの男も釣られて止まり、首を傾げているようだが、私は気にしない。
 ソレは、私の視線を束ねて鷲掴みにし、その場に留めていた。一瞬、そのことを自覚できなかったほどのインパクト、とも、説得力とも言えるものを、ソレは持っていた。
 ソレは、赤かった。
 人間が仰向けに、空を温度灯らぬ瞳で、空を仰いでいた。
 赤い髪を生やし―――
 赤い瞳で空を見つめ―――
 全身に纏う赤の衣装を―――
 血の赤に浸し―――
 十代半ばぐらいに見えた。顔立ちは繊細で、かといって柔らかなものではない。中性的で、少年にも少女にも見てとれる。
 美しい、と私は思った。
 奇異なことに、白く瑞々しい肌は、美しく見える反面、真紅の容貌に入り混じった邪魔物にも見えた。
 もし肌までもが赤ければ、それは、人型を為した血の塊に見えただろう。
 血を布団のように敷きながら、石と瓦礫の毛布を体に乗せている、その血塊の空を見つめる仕草。一見して、意識がない被災者の無意味な挙動に見えるが、瞳の動きは明らかに能動的なものを持っていた。
 助けよう、という思考も、リッチそうだから身包み剥がしてしまおう、という思考も、不思議と起こらない。
 事の次第が済んだ後でも、赤い少年、ないし少女に話しかけたことは、不思議には思っているが、自分の行為に納得はしていた。
「あんた、話せる?」
 背後で男が、未だに戸惑っているのを置き去りにして、私は話しかけた。
「ああ」
 返事が返ってきた。
 声は高めだったが、男と見ていいだろう。
 確認を取った後、会話をどう繋げたものかを少し考え、間を置いて言葉を放つ。
「あんた、こんな所でなにやってるの?」
 今度の返事が返るまでには、若干の間があった。
「話せる、と返事はしたが、考え事をしているので会話は少し億劫だ」
 少年は無表情のまま、抑揚の無い声で呟いた。
 年下のこの物言いに男が何か言おうとするが、私はそれを手で制す。
 微笑みを作り――フェイスマスクを被っているため見えないだろうが――下手に出ているように装い、言った。
「そんなこと言わないで、さ。ちょっとだから、付き合っておくれよ。坊や」
「…先に言った通り、やっていた事は、考え事」
 私の含みのある言葉を気にせず、淡々とした口調で、言葉を紡ぎだした。
「始めに、雲になれないだろうか、と考えた」
「雲に?」
「雲は自由だ。……と最初は思った。しかし、その思考の次には、雲も風の動きに身を任せているに過ぎないことに気付いた。決まった形を持たず、好きな己になっているように見えたものは、その実、自由意志を持たずに周りに左右されているだけだった」
「…ふぅん」
「だが、雲になったとしたら、流れに身を任せる己を受け入れ、楽しむようになるのだろうか、とも思う。半面で、僅かにそんな様に興味を持つ自分に嫌悪する」
「なんで?」
「自分の往く末は、自分で決めたい。それだけのこと」
「……」
「尤も、雲を自分に置き換えて考えるなど、思考の遊びでしかないのだが」
「…確かにねえ」
 そこで言葉が途切れる。こんな時、会話と会話の間の沈黙に気まずさを覚えるのが心理というものだが、少年はそんなものは全く感じていないようで。
 その証明が、以下の発言だ。
「――これで、いいのかな」
 一瞬、何のことか分からずに「え?」と聞き返したら、
「こんな所で何をしているか。その質問に答えたので、満足いただける答えかどうかを聞いている」
 はっきりと、そう答えた。
 会話と言うより、Q&Aのやりとりに過ぎない。そういうことだった。
「…あんた、私との会話が、そんなに嫌?」
「歓迎はしていない。億劫だと断った時点で、了承済みのことだと解釈していたのだけどね」
 実も蓋もない、と私は感じた。
 しかし、その時、何故か不快に感じることはなかった。
 少年が真新しかったからだ。
 極端に言ってしまうと、少年を間近で観察しているだけで、会話上での無愛想は帳消しにでき、おつりが帰ってきた。
 赤尽くめの少年が、大地震の跡地で怪我を負って仰向けになり、しかし泰然としている。痛がることも不安がることもなく。この時点で、すでにソレは非日常の存在。
 自分を崩すという気配が、実際に話してみても、まるでない。

 何よりも、私は、この少年が助けを呼ぶような仕草を、一度たりとも見聞きしていない。
 生きることを放棄している、とも違う。もっと底知れない価値観や思想で、彼の行動全てが稼動している。

「その血は、あんたのだけじゃあないね? 瓦礫で傷つけたのだけで、全身に飛沫がかかるようには、血に塗れないもんだ」
「ああ」
 少年があっさりと肯定したことに、私は軽く驚く。
 ただ、隠すだけ無意味なことだというだけだろうが。
 私の口調は、徐々に、茶化すようなものになっていた。
 返答する少年の態度は欠片の変化も起こさないが。
「警察とかに見つかったら、面倒なことになるだろうね? 根拠はないけど、あんたの返り血は「お仕事」でつけたもので、叩けばごっそり埃が出るんじゃあないかい?」
「後半については黙秘するが、面倒事は起こるね」
「さっさと逃げた方が良くないかい。それとも、見たまま逃げようにも逃げられません、って状態だから無理〜?」
「…答える必要のない事柄だ」
 面白がって話していたのが、今の言葉で少し冷めた。
「…秘密主義者はいいけど、時と場合を選ばないと、助かるものも助からないよ? あんた」
「その点には、少し自信がある。それに、あなたには関係のないことだ」

『今から、あんたの身包みを剥がすと言っても?』

 思い浮かんだ悪意ある言葉は、口に出ることはなかった。ただの気紛れだったのか、それは分からない。
 だが――私は明らかに、初対面のこの少年に惹きつけられていた。
 奇妙な感情だった。
 後ろを向くと、おいてけぼりにされた男と目が合う。
「タンカ取ってきな」
 言葉は簡単だった。が、男には十分に伝わった。だが、意図が掴めないという顔で、こちらを見返してくる。
「車からタンカ取ってきな、って言ってるんだよ。こいつは連れてって、手当てしてやる」
「え? それは一体、どういったことで?」
「うるさいな――気紛れ、ってことでいいだろ。ほれ、さっさとしな」
 私が少し不機嫌そうな顔をすると、男は慌てて駆け足で車の方に行ってしまう。
 戸惑うのも無理は無いか、と思う。今まで、部下に危ない橋を渡らせたことはあっても、こんな命令をしたのは初めてだからだ。
「私は、あなたたちを信用していない」
 余計なことをするな。そう言うように、少年が言ってくる。
 ご挨拶だと思うが、それが強がりなどでは決して有り得ないことは、今までの会話が肯定する。
「あんた、薬や医療道具は持っている? 係りつけの「闇」医者は?」
「…どちらも、ある」
「じゃあ、治療には全てそれらを使ってあげるよ。勿論、治療費はあんた持ちだが。これで、他に、不安ごとはあるかい?」
「随分な気紛れを起こしたものだ」
 無表情に返されたことが、無性に可笑しくて、笑い声を上げた。
「私はベルーナ。ベルーナ・ランフォート。人に名前を聞く前に、自分から名乗るのが礼儀、と言われる前に名乗ってやったよ。あんたも、名乗るぐらいしてくれても、いいだろ?」
 この気紛れが、私にとっての、「インスピレーション」だったのかもしれない。
 何気ない風景に、奇妙な美しさを持って、それは転がっていた。
 今、そこにいる少年は、超然とした存在で、なおかつ物語や絵空事から抜け出したような存在だ。
 私が不快になることはなかった。何かの創作物のように常軌からかけ離れた少年が、手の届かない場所ではなく、こんなにも近くにいる。それだけの違いで、私は、物語の登場人物になったような錯覚に陥っているのだろうか。
 どんな種類の刺激なのかは分からないが、今は与えられた刺激に、ただただ心躍らせていた。
 もっと突き詰めたい。この少年を。自分自身を。
 他人の中に自分を見るとは、よく言ったものだ。
 きっと、私は、ずっと待っていたのだろう。長い「マンネリ」のトンネルを抜ける日を。


 少年は、ジュネシス・J・エルフォードと名乗った。




 ニューヨーク郊外の飲食街には、バーが何軒も建っている。
 その中の1つのバーは、木造のシンプルな看板を掲げていた。
 色とりどりネオンランプなどはない。やたら肌を見せる格好のウェイトレスもいない。店内には静かな音楽が流れる。派手さは無いが、シックな雰囲気を好むリピーターが多い店であった。
 しかし、マスターに親しげに話しかける赤ら顔の男も、カウンターの奥の扉の向こうに、何があるのかは知らない。
 ――夜の帳が色濃くなり、最後の客が帰ったところで、閉店となる。アルバイトを帰し、入り口のドアに錠を施すと、マスターはネクタイを解いてカウンター奥の扉をくぐる。
 奥には厨房がある。業務用としては大きくはない方であろう、キッチンに冷蔵庫。ここまでは、アルバイトの者たちも出入りする。
 壁の前のとある地点で立ち止まり、懐に手を入れる。中からペンライトのようなものを取り出した。
 よく見れば、壁には、ちょっとした罅割れの溝がある。そこを、ペンライトのようなものから発した、青い光線で照らす。
 壁に新たな溝が刻まれる。
 溝は、見事な長方形を、人の身の丈が納まるほどの大きさに穿たれ。マスターが軽く押してやると、穿たれた内側が、回転扉のように奥に回った。
 壁の向こうには、梯子と、彼の位置からでは底が窺えない四角形の穴がある。
 最早、マスターの表情は、柔和にして落ち着き払った客商売の顔ではない。店の奥。安全とは知りつつも、警戒心を忘れられない、否、忘れようとしない狼の貌。
 右・左・背後を見、満足した後、壁の向こうに入った。
 ぱたんという安普請な音がすると、壁はただの壁に戻っていた。

「お疲れさん」
「よう、お疲れ」
「おつかれ」
 私が部下を労うと、遅れて他の部下たちも口々に言葉をかける。
 上から降りてきた部下が、ズボンを脱ぎ捨ててマスターの格好から着替える。私以外に女がいないとはいえ、常識に反する行動だが、私はそんなことは気にしない。
 私たちは、表向きはバーを経営している。営業兼留守番の部下を残して、この地下を拠点として、私が残りの部下を率い“仕事”に出る。
 この店の情報を調べれば、「会計」と「シェフ」の人数がやや多いことが分かるかもしれないが、こんなところから私たちを調べようという輩は、いない。
 これが大組織なら話は別だが、取るに足らない小さな強盗団なのだから。
 地下室は僅かに冷える。暖房を強くした。
 地下室の構造は単純で、コンクリート張りの広い長方形のワンルームに、トイレ、浴場、食糧倉庫、そして私の個室が備え付けられている。
 二段ベッドが4つ――団員は私含め8人。尚、ベッドは1つ空いている――隅の方に並んでいる。同じく別の隅の方には、売買ルート未定の盗品でダンボール箱を高く積み上げ、その足元に金庫が置かれている。
 最近、金庫を新しくもう1つ買った。
 盗品は普段より増え、初めて置き場に困り、つい先程、真面目に整理をしたところだ。
 明らかに金回りが良くなっている。
 上機嫌そうにゲラゲラ笑う部下もいるが、いまいちこの好調の原因を飲み込めず、怪訝そうにしている部下もいる。だが、結局はこの好景気に流されて何も疑問を発さないあたり、前者よりも賢くないように思える。
 酒が入っている奴や、賭けポーカーをしている連中を背に、私は自室へと向かう。
 1時間でも、1分でも勿体無い気分だが、流石に夜も遅い。
「私は寝るよ。遅くまで遊び呆けるのは勝手だけどね、今が稼ぎ時っての忘れんじゃないよ。明日の仕事に支障を来たしたら、承知しないからね。いいね?」
 部下たちの方に向き直って、私は声を張った。
 返ってきた声を揃えた返事と、10文字以内ぐらいの簡単な抱負(ガシガシやりますぜ、とかそれぐらいのレベル。抱負とすら言えないか)を聞いて一応は安心し、部屋に入った。
 ――既に部屋のソファに座っている、赤い人影に、親しげに話しかけた。
「おっ、やってるやってる。どうだい? お味は」
 赤いワインと本をテーブルに置いた後、赤い髪をたなびかせて顔を私に向け、赤い瞳を少年が合わせてくる。
 このジュネシス・J・エルフォードは15歳だが、悪ふざけで酒を薦めた。どうやら完全なる上戸のようで、何杯飲んでも、全く酔う気配が無い。
 無表情を保ち続ける彼が酔っ払ったところは想像がつき難いため、勝手に納得しているが。
 いいワインを開けてやった。先に私の部屋に入って飲んでいていいとも言った。その感想を、こうして聞いている。
「悪くない」
 返事は簡単だった。
 人形のような仕草しか返さない、人形のような男だと思ったが、真に人形ならば何かを味わうという意思も、本を読んで情報を受け取るという行動も発しないはず。私たちが笑ったり怒ったりする程度には、ジュネシスの内面世界でも、何かが起こっているのだろうと想像しておくことにした。
 社交性は贅肉のように、不可欠なもの以外を切り捨てたようだった。返答した後、すぐに本に目を通し始め、時たまワインを口に運ぶ。
 私は来ていた服を脱ぎ、適当に放った後、タンスから黒レースのネグリジェを取り出して、着る。ジュネシスの方を見やると、彼は本に目を向けたままだった。わざわざ見える位置で着替えをしたのに、馬鹿にされている気さえした。
 鏡を見てみる。自分で言うのも何だが、ボブカットの金髪は艶やかで、瞳はハワイの海のように青く透き通っている。顔立ちも整っている自信がある。まだ22歳の瑞々しい肌が、肩から、太股から、曝け出されているのに、見向きもされていない。
 そこは、ジュネシスが特別なのだと思えば、プライドの損壊も最小限に留まったが。
 反対側のソファに座る。自分のグラスにワインを注ぎ、一口煽る。この1杯で終わらせるぐらいが、目の前のうわばみ(7つも年下の少年に使うことになるとは想像すら出来なかったが)ほどの強さを持っていない、私には丁度いいだろう。
 彼が読んでいる本の背表紙を見ると、「電子と原子核の因果関係」という、私にとってはいかにも30秒以上の閲覧は生死に関わる書物を、見開きばかり描いてページを稼いでいる漫画を捲るようなペースで読んでいる。
 そんな本を読んでいるかと思えば、観察しただけでも「かずまんが帝王」「惨獄死」「服毒薬生物実験レポート」「ウルトラ競馬〜合衆国を横断せよ〜」と、手に取る書物は専門書から漫画まで、凄まじく選択に頓着が無い。
 これらの要素が内面世界でミックスされ、どんな混沌宇宙を作っているのか興味があった。
 更に言えば、その片鱗が行動や会話に現れないところが、より奇怪さとある種の好奇心を煽る。
「――ねえねえあんた、寝る前にそんなの読んでて、頭痛くならない?」
 ソファを立つ。愛想を振りまきながらジュネシスの横に近寄り、左肩に手を回し、胸を押し付けるようにして凭れかかった。
 彼の右肩には柔らかな感触、鼻にはシャンプーの、ラベンダーの香りを感じているはずだ。
 流石にここまで挑発されては、気付かない、流したりしないはず。
 確かに気付かなくも、流したりもしなかったが、私が是とする状況にも及ばなかった。
 ここまでされても、少年の表情は変化を見せることはなく、
「痛くはならない――それと、そういう誘いならば、きりのいい部分まで読んでからにしてくれると嬉しいね」

 ――あの言葉を聞いた時点で、私は計画していた、ジュネシスの『懐柔』を諦めていた。
 私は暗闇の中、ベッドの上で仰向けになりながら思い返す。
 ジュネシスは、こんな夜中――もう夜3時にもなる――に開いているホテルがあるのかどうか分からないが、何処かへと帰っていった。
 恋愛感情から体を委ねようと思ったわけじゃない。どんな「行為」になるか、興味があったこともあるが、まあ、つまる話が色仕掛けで、恒久的に私の味方につけてやろう、と考えていたのだ。
 そして、この結果だ。
 性欲がないというわけではなかった。ただ、性欲で身を崩すタイプの人間でもなかった。まるっきり意味が無い。

『3日。治療の礼として、この期間だけ、あなたたちの仕事を手伝おう。得意分野は暗殺と戦闘だが、希望なら事務や皿洗いをやってもいい』

 こんなことを2日前に言ってくれるものだから、出来るだけ大きな仕事を多くやろうと。むしろ、3日と言わずに部下として、いや、いっそ同盟や協力者という対等な立場としてでも、彼の恩恵を受け続けることは出来ないかと。それに頭を抱えることになった。
 部下たちは、瓢箪から金貨が出てきて、棚から札束が落ちてきたような喜びだけを感じているだろう。私にとっては違う。
 純粋なスリル。
 想像を超えた男が、想像を超えたことをやってのける爽快感。
 これだけでも、私個人としては、強盗団として得た利益を超える歓びがある。
 私の世界は狭かった。
 上位組織から押し付けられる理不尽は不快で、しかも新鮮さはすぐに消え失せる。挙げた利益の何十%という法外なショバ代を払う時など、口をパクパクさせながら餌を待つだけの金魚の気持ちになる。仕事も、毎度毎度似通ったものばかりで、しょぼくれたサラリーマンのデスクワークと違うのは、ただ命が危険だということだけ。ハッキリ言ってしまえば、生き飽いていた。前まではそれを認める心の余裕すらなかった。
 ジュネシスは教えてくれた。
 狭いのは私の視界だ。
 世界は奇天烈なもので溢れている。
 私が遠ざけていた――理解を超える物の中にこそ、面白いものが潜んでいる。
 勿論、彼自身にはそんなつもりはなく、自分の中にある感情や規範を遵守し、それに従っただけ。自分の利益のためだけの行動を繰り返しただけだろうが。
 引き込めないのなら仕方ない。最早、私の錆びついていたエンジンはかかってしまった。
 彼が抜けた後でも、スリルを仕事に、人生に追求する自信がついた。そういう意味では、感謝してもし足りない。
 ――部下には仕事に支障をきたすなと言っておいて、自分が駄目ではしまらない。
 私は高揚する頭を落ち着けるようにしながら、目を閉じ、内側から毛布を抱いた。
 最後の1日を思い、心臓を高鳴らせながら。


5 :霧崎 魅影 :2009/10/18(日) 22:15:55 ID:nmz3oDVF

The Shadow Of Death 2(9年前)

『3日。治療の礼として、この期間だけ、あなたたちの仕事を手伝おう』

 何て生意気なガキだろう、と、聞いた瞬間には思った。
 落ち着き払い、年上と対等に接する態度が気に入らなかった。それは決して幼さから来る無礼ではない。例え私が幼稚園児、極端に言えば赤ん坊だったとしても、同じように借りを返すために、仕事の手伝いとやらを申し出ていたろう。老成してるとさえ思えた。
 あんたに、私たちに役立てるだけの力はあるの? 聞いた。
 試しに何かをさせてくれれば、分かる。私はあなたたちの基準を知らない。言った。
 本人は謙遜も過信も見せなかったが、何故か、この態度が自信満々で、己に出来ないことは何もないと言外に込めているものに見えた。
 後に至った考え方だが、異常なほど表情の変化がない彼――ジュネシスだからこそ、受けた誤解だったのだろう。恐らく、地球崩壊の1秒前であっても、彼は彼が出来ること、したいことしかしない。意味を感じないことには何処までも無関心な姿勢。
 己の関心を引かない物事は須く無意味、という姿勢でもある。
 無意味な物事が巨大であろうと矮小であろうと変わりはない。
 ――その時は世の中を甘く見た、線の細い優等生くんに見えていたものだから、世間の荒波というのを教えてやらねばなるまいと、嗜虐心が擽られるままに無理難題を命じた。
 突き出した手配書の――3万ドルの賞金首を今日中に仕留めて来いと。
 賞金首を仕留めるには、まず居場所をつきとめ、捕捉のための作戦を綿密に練る必要がある。勿論、臨機応変さも必要だし、人数や資金、武器も揃えなければならない。運も重要だ。
 稀に、ラッキーパンチか何かで、たまたま遭遇した賞金首を捕らえられることもあるが、私が提示した賞金首に限っては万に一つも有り得ない。
 アジトから出ることが殆どないからだ。
 アジトが何処にあるかは分かっていたので、教えておいたが、それがどれくらいの意味を成すか。
 練達した『能力者』ならまだしも、私は、中学生か高校生ぐらいの少年に、一人で「行け」といったのだ。優等生のお坊ちゃまには無茶苦茶もいいところな要求だった。
 ジュネシスがどんな見るも哀れな混乱した顔をするか、あるいは頭を下げて許しを乞うか、はたまた冗談が上手いなどと言って笑い飛ばすか見ていたら、「ふむ」と一言呟いて部屋から出て行った。
 「何処に行くの?」「遊んでくる」会話はごく短く。背中が通路の向こうに消えていった。
 私は失望した。
 所詮、表面を取り繕うのが上手いだけの、賢しい子供か。優等生などではなかったが、興ざめもいいところだった。
 格好いいことを口にして、もう、私の前には姿を現さないに違いない。
 冷えていく思考は、私に、初めてジュネシスと出会った時のことを忘れさせていた。
 血まみれの少年は仰向けの視界に人を収め、助けを求めることも、己の身を案じることもしなかったこと。
 奇妙な期待をその姿に覚えた自分の心を。

 音楽を奏でる携帯電話の画面に、「公衆電話」との文字が浮かぶ。
 ジュネシス。
 予想していなかった連絡に面食らいつつ、テレビが置いてある喫茶店はないか、と聞かれたので教えてやると、そこに呼び出された。
 2人で丸いテーブルを挟む。私はジンジャーエールにチーズケーキ。ジュネシスは何も注文しない。
 呼び出した意図を問おうとすると、彼は視線をテレビに向ける。丁度、時刻は0:00を指して、ニュースが始まった。

『今朝9:39頃、市内を拠点としていた××団が壊滅いたしました。数十の構成員は1人残らず殺害されており、リーダーの○○は頭部を切断され、現場には残されておりませんでした。××団は麻薬の流通・密売を行っていた組織で、『能力者』も確認されており、市警の介入も容易ではありませんでした。今回の出来事は、恐らく賞金稼ぎによって行われたことだと考えられておりますが、未だ賞金と交換するために回収したと思われる頭部が届いていない模様。では、次のニュース……』

 私はハッとしてジュネシスの方を見た。密売組織のリーダー即ち、私が提示した3万ドルの賞金首だった。
「昼のニュースに間に合ってよかった」
 さらりと言い放った。
「世の中、何があるか分からないものだ。こうも唐突に、決して小さくはない組織が壊滅しようとは」
 付け足した言葉を含めれば、それは世間話だったが、間違いなく私の問いへの肯定を意味する言葉だった。
 態度であんたがやったのか? と訊いた私に、そうだと返してきた。

 形だけの世間話もそこそこ、私たちは外に出た。
 車の中に2人で入る。私が運転席。ジュネシスが後部座席。
 ここなら、思う存分、深い話もできる。
「まずは、その、恐れ入ったわ。まさか、昼のニュースに間に合うように殺すだなんて、予想外すぎた」
「ああ。殺せていたようだ」
「殺せていた?」
 斬首まで施した死人に対し、明らかに妙な発言だった。
「首が飛んだということが、完全なる死とイコールで括れるとは限らないからね。この時点で安心せずに「危険性」を心に留めておけば、何年後だろうと平常心で対処できる。とはいえ、ニュースで死亡と報道された以上は、賞金と引き換えに出来るから問題ないだろう」
 言い終わった後、彼は更に言葉を繋げた。どうせ、今の言葉にどうコメントしていいか分からない私が、何も返答せず会話を途切ってしまうだろう。と、見越しての行為かは分からないが。
「標的の首は、違う場所に冷凍保存している。私かそちらか、どちらの手柄にするかという部分が不明瞭だったからだ。良ければ、このまま保存場所まで行きたいのだが、どうだろうか」
「ああ、それぐらいお安い御用さ。全く凄まじい男だね。あんた」
「褒め言葉と受け取るが――結局のところ、どうなのかな」
「どう?」
 キーを回し、エンジンがかかる音を聞きながら後ろを向く。
「協力者として分相応か、否か」
 言い放つ瞳は相も変わらず、己の手柄を驕りも誇りもしない、無温の瞳。
 私の答えは既に決まっていた。
 自然と唇の端に浮く笑みが決めていた。
 ああ、なんて―――
 退屈しない男なんだろう。
「ところで―――」
「・・・・・」
「あんたの『能力』って、何?」
「同じ質問をされたら、あなたは答えるのかな」
「私が教えたら、答えてくれるの?」
「いいや。それと、質問を質問で返すのはどうだろう」
 くすっ、と私は笑みを零した。


 何もかもがうまくいった。
 銀行強盗も、宝石強盗も、列車強盗も。
 金持ちの家に強盗殺人に押し入るなんてこともやった。
 セキュリティの解析やブービートラップ破りは彼のお家芸だったし、厄介な警備兵や『能力者』は、1人残らず彼が殺した。
 どういうわけか、直接、彼が暗殺や戦闘を働いているところを見たことはなかったが。
 適当に賞金首をリストアップして、空き時間に出来るなら仕留めておいてと、軽い気持ちで手配書を渡した。
 2日で5枚の手配書は、もう発行されることはなくなっていた。
 あまりに態度が癇に障る上位組織の幹部がいたので、冗談半分本気半分で、殺してきてと写真と資料を渡した。
 流石に拒否されるだろうなと思っていた願望が、生首になって私の前に突き出された。
 明らかに、二日三日の仕事量ではない。
 元々、作戦だけは以前からあったが、実行に移すとなると難しさは格段に跳ね上がる。それが紅い男が加わったことで異常な回転効率を生み出した。
 また、作戦内容には、幾つか彼による改良があった。
 強盗団の黄金時代。
 私の黄金時代。
 だめだ。
 彼がいなくなった後でも、自分でエキサイティングな人生を歩むことができると宣言したが、すっかり別れが惜しくなってしまっている。
 それは恋心とは質を異にするもので、それよりも深いかもしれなかった。
 と―――――
 視線の先に、いた。
 暗闇を彼自身が照らし、存在を明らかにするように、そこに直立していた。
 漆黒の空間の中に彼と私しかいない。思わず、小走りで近づいていった。
「ジュネシス」
 呼びかけた。
 反応は無い。
「ねぇ、ジュネシス。3日なんて言わずに、ずっとここにいない? 歓迎するから―――」
 言いつつも、その説得に相手が応じるとは、心底から思えなかった。
 元々、大した規模ではな強盗団にいるよりも、彼ひとりで動いていた方が、よほど効率的だということが今までの付き合いで分かったからだ。
 何より、私や強盗団に対して、一度として関心を持ったような節がない。
「ジュネシス、一緒にやっていこう」
 十代もそこそこの少年に、何をここまで入れ込んでいるのかとも思ったが、この際どうでもよかった。
「ジュネシス」
 ――ふと、彼が、違う方向に視線を向けていることに気付いた。
 つられてそちらを向く。
 部屋。
 木造の、広い部屋。絵の具でところどころ汚れている部分があり、大き目の棚に、油絵がところ狭しと詰め込まれている。アトリエのようだった。
 暗闇しかなかったはずなのに。その疑問こそ暗闇に消えていった。
 改めてジュネシスの方を向く。
 影も形もなく消えていた。




 私の家は貧乏だった。
 父は売れない画家。定職につかず、いつもアトリエに篭って絵を描いている。
 父子家庭。母は、明日の食事すら保障されない生活に耐え切れず、家を出た。
 私が6歳の時のことだった。
 こんなに小さい頃のことなのに、母が、両目を袖で押さえながら、背を向けて去っていくところが、記憶に焼きついている。

 芸術は母の仇だった。

 私は、食べるのには困らなかった。
 父が、僅かな稼ぎの殆どを、私の食事代や学費に回していたからだ。
 いくら、私がいらないから、お父さんが食べてと言っても、絶対に口に運ばない。
 家を出た母と、私への贖罪だったのだろう。
 もしくは、ここまで堕ちても絵画を捨てられない、自分の身勝手さへの免罪符。
 いつも、私の半分くらいしか食べない父の顔は、皮と骨ばかりで肉が殆どついていない。
 鮮明に思い出せる。
 面長で陰影の濃い輪郭。
 鼻の下に蓄えた髭。
 垂れ目と、ふちの細い丸眼鏡。
 私の視線の先にいた。
 足が、床についていない。じゃあ、どうやって自分の体を支えているのだろう?
 ロープでだった。
 輪をかいたロープを、首で掴んでいる。
 首で全体重を支えているものだから、表情は青白く、白目を剥いて舌を口から垂らしていた。
 真下の床に糞尿が滑り落ちている。
 7歳の時の記憶。
 首吊り、なんていう単語を知らなかった私でも、父に起こっていることは分かった。
 死を意識できる年頃ではなかったが、それでも、よくないことが起こっていると。
 衝動に身を任せて駆け寄る。
「触るんじゃない!」
 怒鳴られた方を向くと、真っ白な髭を蓄えた老人が座っている。
 見覚えがあった。
 父に、この人の家に連れられたことがあった。絵の描き方を教えてくれる先生、と紹介されて、父が言うままに挨拶して頭を下げた。
 来なさい、と言われたから、老人の傍まで歩いていく。
 老人は、普段、父が使うアトリエイーゼル――キャンバスを丁度いい位置に固定するための道具――の前に座って、父とキャンバスとを交互に見ては、筆を走らせていた。
 父の姿が徐々に徐々に、キャンバスに描かれていく。
 私は違和感に包まれた。
 これは、昔、私に起こった出来事の再現じゃないか。
「お嬢ちゃん、まだ、お父さんに触ってはいけないよ」
 私はこの時、どうして!? と老人に食ってかかった。
 それと同じことを。今、またやっている。
 不意に、たこで硬くなった手で、頭を撫でられた。
 ほのかに油彩絵の具の匂いが漂ってくる。
「君のお父さんはね、おじいさんに協力してくれているんだよ。だから邪魔しちゃあいけない」
「協力?」
「そうだよ。芸術の発展のために、ちょっと、あんなポーズを取ってくれないかな? ってお願いしたんだ」
「おじいさんがお願いしたから、お父さんは、こうなったの?」
「芸術家なら、一度くらい『死』を描いてみたいものなのだよ。君も芸術家の子供なら、分かってくれるね」
 歪んだ芸術家論。
 なにひとつ、分からなかったし、理解もできなかった。
 けれども、優しい口調とは裏腹の、鋭い目に射すくめられて、騒ぎ立てる気勢も無くなっていた。
 今にして思えば、あれが、私が生まれて初めて感じた『狂気』だったのかもしれない。
 ただただ、心臓からの音が煩かった。
「おじいさんがここに来たのは、君だけとの秘密だよ。いいね」
 目を細めて微笑みたくわえ、口の前に人差し指を運び、しーっと言っていた。

 成長と共に、父の死が私を侵食し、理不尽さが顔を出した。
 父が命を投げ打ったのは、何のためだったんだろう。
 老人が描くたった一枚の絵のため?
 更なるインスピレーションを、恩義ある師に与えるため?
 芸術というものの1部になるため?
 どれも抽象的。もしくは、私には到底、命を捨てる価値というものが、見出せないものばかり。
 あの後、父の遺書が発見された。
 何度も、何年にもわたって読み返した。
 1つ目には、母に見限られ、私を置いていく自分の罪を、心より恥じると。
 2つ目には、それでも芸術に尽くす己に、心より満足すると。
 私は何を憎めばいいのか分からなかった。父も許せないが、最も恨むべきは何か。芸術? それは形なきもので、憎しみをぶつける対象にするには、あまりに個体性を欠く。
 目に見えない力というものと反発するようになった。
 反発は成長に比例して大きくなり、周りとの溝を作るほどにさえなった。
 リアリストとして生きることが、私なりの、芸術というものへの反発行為だった。
 遅すぎた涙が流れたのは、父の死から3年経った後に、一回きり。

 芸術は父の仇だった。


 全身がだるい。
 布団はめちゃくちゃ。
 寝具の着付けは崩れている。
 つまり、最悪の朝だった。
 ――あんな夢を見たせいだ、と思う。
 確かに、子供の頃は、頻繁にあの夢を見た。心に深く刻まれていて、当然だと思う。
 しかし、今更なのだ。
 私の性格に、父の自殺のことが影響しているのは間違いないが、もう忘れかけていたことだ。
 あの老画家(今はどうしているだろう、いい年だったし、もう死んでもおかしくないか)を憎んでどうこうしたい、という気持ちもなければ、父を思い出したように糾弾してみるのも、今となっては馬鹿らしい。
 もう、どうでもいいのだ。
 どうでもいいことを、どうして、夢に見るか。
 ――それに、どうも、芸術というものが嫌いではなくなってきている気がする。
 赤尽くめの少年に出会ったからだ。
 自分の想像を超える出来事が、非常に面白いということを知った。
 父を許す、という気持ちこそ起こらなくても、芸術という抽象的で、時として人の理解を超えることに命を投げ打つ気持ちが、少し分かる気がしてきた。
 面白い仕事で最期を迎えるのなら、それはそれでいいとも思う。
 きっとそれは、今まで退屈してきた反動で、一時期の錯覚なのだろうけど。
 不意に―――
 扉を叩く音が聞こえた。
 2回。
 部下の男たちは、荒っぽい連中が多かったから、その穏やかなノックから、恐らく彼だろうと感じて「どうぞ」と声をかけた。
 予想通りの人物が、扉を開けた。
 髪が赤い。
 瞳が赤い。
 マントが赤い。
 服が赤い。
 ズボンが赤い。
 靴が赤い。
「まあ、かけて」
 促した。

 ジュネシスが部屋にやってきたのは、別に2人きりの場所で睦言を紡ぎあおうとか、そういうことじゃあない。
 昨日から、その日のスケジュールについて、この部屋で最終的な打ち合わせをする時間を設けている。
 考えてみれば、彼が来る前のブレインの立つ瀬が無くなっているが、ジュネシスの協力も今日までだから、その後にブレインのフォローをしておけばいいか。
 何で、あんな夢を見たのだろう。
 さっきの疑問がまた頭を駆け巡った。
 むしろ、ジュネシスと面を向かって座っているからこそ、疑問の声が強くなった気がする。
 もしかしたら、彼の出現が原因で、また夢を見るようになったのかもしれない。
 だとしたら、何故?
 芸術というものを毛嫌いする切欠となった体験を、彼から連想しているというのなら、それは理に適っていない。むしろジュネシスは、トラウマ、とまではいかなくても、自分を縛りつける偏見から解き放った恩人と言ってもいい。
 じゃあ、どうしてだろう。
 好奇心が、次から次へと沸いてくる。
 折角忘れて、もとい、克服していた過去の出来事を掘り返すのはナンセンスだと思う反面、急速に気になり出している。
 思い返せば、おぼろだが、ジュネシスも夢に出ていた記憶がある。
 これまでなかったことだ。その事実も、私の興味を掻き立てた。
「ランフォートさん―――」
 強い口調で声をかけられ、ジュネシスの顔を見上げる。
 話を聞いていなかった、ということに気付いてはっとする。
 声は強かったが。怒っている風には見えなかった。気付かせるために強くしたんだろう。
「何か心配事があって集中できないのなら、話は後にしよう。そのことでスケジュールを損なうとしても、私は責任を持たないが」
「…いいや、続けましょう。ところで」
「・・・・・」
「名前で呼んでくれない? 呼び捨てでいいから」
「今ひとつ、発言の意図が解らない」
「いいから。それに、何も、これだけのために話を中断させたわけじゃあない」
「・・・・・」
「今日の予定では、あんたは、単独行動で深部に乗り込む手筈だけど、私も同行して、そっちを手伝いたいんだ。今回のはそんなに難しい仕事じゃないし、構わないだろ?」
「意図を、聞こう」
「カンタンさ。どうせすぐ気付かれるだろうから包み隠さず言うけどね、技術を盗み見ておきたいのよ」
「・・・・・」
「さっき言った通り、そんなに難しい仕事じゃないんだから、トップシークレットなテクニックは使わないんだろう? まあ、それでも見られたくないことをするんなら、目隠しでもするさ。私からこう言わなくても、あんたなら、私の目を塞ぐくらい簡単にやってのけるだろうけどね」
「・・・・・」
「どうなんだい?」
「…了承した。このルートは2人で進もう。ベルーナ」
 思ったよりも簡単に話が進んで、やや呆気ないくらいだった。
 勿論、私が会話の中で言ったことよりも、夢とジュネシスとの関連性を突き止めることに力を入れるつもりだ。
 知ってしまえば、本当に何てことのない、後で笑い話にできるようなことかもしれない。と言うより、そうだったらいいと思っているだけだ。
 余計なことを知って後悔する心配も、なくはなかった。
 どちらにしろ、知らないとわからない。
 だが、知ってしまったらそれで終わり。単純でチンケな二律背反。
 それでも好奇心は歩を止めない。
 今日はいつにも増して濃い1日になりそうだ。


6 :霧崎 魅影 :2009/10/18(日) 22:17:02 ID:nmz3oDVF

away day's memories in bloody shadow 1(9年前)

 ロボット工場を、襲撃。
 表向きは、工業用作業機械製作を受注する会社の一工場。ただし、市場公開される帳簿には決して載らない受注に、戦闘用自律機械というものがある。
 お得意先は、富豪や、マフィアや、他国家など。
 ――明確な違法行為。
 今の時代、魔物からの自衛はもとより、『能力』の普及による解決困難かつ被害が甚大な犯罪行為が溢れ返っている。武器や兵器、賞金稼ぎの需要も、生態系が崩れ、超能力が一般化する以前に比べれば、遥かに多い。
 なお、現代の賞金稼ぎの概念は、昔の西部劇映画のそれとは少し異なる。世界中に分布し、殆どが能力者であり、彼らの中心に『CMHO(Criminal and Monster Hunter Organization)』、通称『賞金稼ぎ協会』がある。総合すれば一国を凌ぐ戦力があると同時に、行動が柔軟且つ自由度が高く、しかも連携もある程度までは行き届く。ゆえに彼らは魔物被害の抑止力であると同時に、超能力犯罪への特効薬でもある。つまり、私にとっては敵だ――話が逸れた。
 同じ犯罪者の立場にいる者として、その工場を経営している者の気持ちが分かる気がした。犯罪という背徳の向こうにある、利益という名の甘い蜜。
 だが、商売の上では敵だ。
 都合のいいことに、工場では都合の悪い研究や製造作業を繰り返している上、廃棄物の量・成分も法に反している(いっぱいいっぱいの国家は細かい調査では、しょっちゅう犯罪組織に出し抜かれている)ので、町外れに立っている。詳しく言えば、山奥の丘の上に建設されており、側には切り立った崖。崖下には廃棄物が溜まっている。警察機構やガードポイントも近くにはない。1時間以内に物品を盗み出すとしても、余裕中の余裕。
 今回のターゲットは、戦闘用自律機械――堅っ苦しい言い方はこの辺でナシにしよう。ロボットの設計図だ。
 上位組織が言い値で買い取ってくれるらしい。この3日間で信頼度が上がり、こちらの言い分の通りも良くなってきたようだ。
 それだけに、ジュネシスの存在が惜しくなってくるが、それはもう言いっこ無しにしよう。…夢の中での私は、あまりに情けなく乱れすぎた。
 機密が入っているディスクがある場所も、研究者用パスワードも調査済み。ただし、警察に頼れないなりに警備が固く、中枢に忍び込むには厄介だった。だが、それもジュネシスという超人を迎え入れた今では、これまでの中程度以下の些細事になっている。
 もう先に宣言したようなものだが、中枢に忍び込み、ディスクを奪取するのはジュネシスの役割だ。それに私も加わることになったが、恐らく大丈夫だろう。私も潜入と実戦には自信がある。
 他のメンバーは、陽動に使う。工場の正面から警備とぶつかってもらってる間に、私たちが排気口から潜入。ディスクを盗み出し、無事に脱出した後、速やかに退却させる。
 正面側のリーダーは、勿論、グラスラス・T・ジェイペグに任せる。
 私と並んで強力な能力者である彼なら、あるいは、盗み出すまでの間に警備を全滅させているかもしれない。
 私とジュネシスは部屋を出た。そろそろ、車で工場がある山に行く時間だ。
「リーダー。ちょっといいですか」
 地下室から出ようと思った先――私に話しかけてきた男がいた。
 男は勿論、メンバーの1人だ。この地下室には彼の他に人はない。私の指示どおり、既に外で車に乗り込んでいる筈だ。
 男は黒い戦闘服で、180の長身とはじけるような筋肉を包んでいた。30代を越えてまもないといった感じの見た目で、顔立ちは精悍だが、惜しくもひどい垂れ目だ。しかし、その奥にある赤茶の瞳は、普段の状態で既に引き絞られていて、鋭い。
「何か用かい? ジェイペグ。いくらコイツが綺麗な男だって言っても、こんな子供にジェラシー感じたわけじゃあないんだろ?」
「…ちっ、違いますよ。冗談を」
 無骨な外見とは違い、礼儀正しく、そして宇生だ。年上だが集団内での上下関係を重視するこの男が時に可愛らしく思え、ついからかってしまう。今もちょっとした軽口に振り回され、しどろもどろな反応を返している。
「――じふっ、じふっ、じふっ」
 この男は、喘息持ちだ。ちょっと変わった咳を零す。
「ああ、からかってすまないね――それでどうしたんだい?」
「じふっじふっ……実は、直前で申し訳ないのですが、工場襲撃に関して、あまり良くない情報が入りまして」
「よくない情報?」
 眉を顰めながらも、ジェイペグを責めたりはしない。恐らくこの男の責任ではないし、これから出る矢先に責めても何の得もないからだ。
 尤も、良くない情報とやら次第では、出発取りやめもあり得る。
「少し悪い情報と、中ぐらい悪い情報。どちらを先にお聞きしますか?」
「小と中? 大はないんだな」
「ええ。俺の見立てではじふっ、…失礼。作戦阻害レベルの問題ではないかと」
「ちょっと安心したよ。少し悪い方から聞こうじゃあないか」
「はい。工場が我々を警戒して、警備を増やしました。警備員と警備用機械、トラップは見立てでは普段の2倍。恐らく『能力』持ちはいないかと」
 ここまでは予想しなかったわけではない。
 以前から目星をつけていたことは知られていたかもしれない、と思っていたが、実行に移す日さえ分からなければ、相手には手の打ちようがないだろう、と今まで思っていた。
 ジュネシスの介入が切欠で、今日、実行に移すことになった。が、最近、爆発的に活動を広げた私たちが、近くに攻めてくるだろうということを、向こうの立場に立ってみれば予想できなくもない。
 しかしそれでも、今回の私たちなら、力量差で押し切る自信がある。
「分かった。それじゃあ、残った中くらいの方は?」
「どうやら、相手は、賞金稼ぎを雇ったようです。賞金首の情報――つまり我々という獲物をリークした上、警備料も払っているのでしょう。じふっじふっじふっ」
「賞金稼ぎどもの情報は?」
「あまりに突然だったため、パーティーと、リーダーの名前ぐらいしか。『能力』持ちであることは間違いないと考えられますが」
 それは紛れもない不確定要素だったが、私に退く気はなかった。
 今は掻き入れ時。長い強盗団稼業の中の、ごく短い全盛期。これしきのことで、逃すわけにはいかない。
 後に思えば、今の私には、冷静さと慎重さが書けていたのかもしれない。
 優秀な部下にも察せない、些細な狂い。
 ジュネシスは気付いていたとしてもいないとしても、何も言わなかった。彼の仕事は雇い主を軌道修正することではなく、ニーズに応えることなのだから。
「まあ、いい。気を引き締めていきましょう。パーティーの名前とやらを、念のため聞いておこうか?」

「『ガーディアンソウル・ホワイト』――そう名乗っているそうです。リーダーの名は…じふじふっ、クレア・アレクセン」




 クレアさんの過去を知ってから、1ヶ月が経っていた。
 もう、ずっと前の話に思える。
 印象深いことほど、記憶が強く焼きついていて、最近起こったように思えるものだから、ってバサロさんが言っていた。世間で親や親戚の人が、大人になった子供(何だか語弊があるなあ)に、つい昨日小学校に入ったばかりだと声をかける心理は、そこから来るらしい。
 「ボク」にはちょっとよくわからないや、と言ったら、バサロさんは苦笑いを浮かべていた。
 クレアさんが子供を喰(た)べたということには驚いたけど、もう過ぎたことだって、納得できている「ボク」がいる。
 ちょっと大人になれたのだと思う。
 クレアさんがしたことが「いいこと」か「悪いこと」か、まだ決められていないけど―――
 悪いことだと思ったとしても、それだけでクレアさんを、「ボク」は嫌えないだろう。そういう確信めいた感情があった。

 今の「ボク」が何をしてるかというと――みんなと一緒に、賞金稼ぎの仕事に来ていた。
 いつも通り、賞金首を自分たちで選んで、パーティーで追い詰める形じゃなかった。賞金首を捕らえろ、という「依頼」だと言っていた。
 みんなは、依頼した人からの給料と、賞金とがまとめて手に入るってはしゃいでたっけ。
 だから、「ボク」たちは今、ロボットを作る工場にいる。強盗団――「スナッチ・アルゴリズム」と言うらしい――に狙われているということらしく、今日から5日間、この工場に寝泊りすることになった。
 5日以内に強盗団が来ても来なくても、給料はくれるし、しかもタダで泊めてくれるみたいだ。
 「ボク」は、今、バサロさんと一緒に控え室にいて、勉強を教わっている。強盗団の『能力者』は2人だという情報で、その2人を抑えるのが今回の仕事(他の『能力』持ちじゃない人たちは、警備と機械で何とかしてくれる、だとか)らしい。だから、パーティーを2つに分ける必要あって、控え室も2つになっている。
 ここは、「ボク」、クレアさん、ジンさん、バサロさんの控え室。
 違う場所にあるもう一室には、ホイスターさんとクラッティッジさん。
 クレアさんは工場長さんの所に、仕事のことで話をしに行った。ジンさんはトイレに。
「じゃあククル君、次はこの問題を解いてみようか。問:おはじきが24個ありました。3人のおともだちで均等に分けるには、何個づつに分ければいいでしょう?」
「…バサロさん、おはじきって昔のニホンにあったオモチャだけど、こないだ行った町に売ってたよね?」
「この間行った町ですか? ああ、ジャパニーズタウンでしたからねー」
「あそこで売ってたのは、30個入りで80セントだったよ」
「思ったより安いんですね」
「だからさぁ――何もたった24個を3人で分けることもないと思うんだけど」
「それもそうですねえ。あはは。ところで、答えは出ましたか?」
「え、っと、ところでアメリカのテキストなのにおはじきで例えてるっておかしいよね?」
「そうですねえ。ところで、答えは出ましたか?」
「……ぁぅぅ」
 視線を下げた「ボク」の顔は、きっと情けなく萎んでるだろう。
 バサロさんは「ボク」に対しても丁寧だけど、厳しいときは厳しかった。今のように勉強している時は、特に。
「ククル君。じゃあ、こう考えてみましょう。問:恐竜より巨大なアフリカゾウが24頭いました。対して、腕っこきのハンターが3人います。1匹を1発の麻酔弾で仕留めるなら、1人あたり最低で何発必要?」
「わかった! 8発!」
「よく出来ました。ノートに式と答えは書けますね?」
 「ボク」は勢いよく頷くと、ノートにシャープペンシルを走らせた。
 24÷3=8。よし、カンペキ。
 バサロさんは頭がよくて、教えるのも上手い。「ボク」は、勉強は殆どバサロさんから教わっている。
 その代わり、体力がなくて、気もちょっと弱い。だから、魔物や賞金首(魔物も賞金首なんだけど、賞金首=人間 という分け方が、何となくシックリくる)と戦う時も、後ろに下がっている。
 だけど、「ボク」とは違って、戦いに役立つ力を持っている。
 「ボク」がみんなと一緒に、どうして賞金稼ぎのパーティーの一員として一緒にやれているかと言えば、それはクレアさんのお陰だった。
 クレアさんの『能力』――『白雌獅子の吐息(ホワイトフレイム)』は、護るべき子供、つまり「ボク」がいないと発動しない。
 発動しないと言うよりは、子供が近くにいるといないとでは、威力が天と地くらい違うということだったけど。
 だから、「ボク」は賞金稼ぎの仕事の時でも、常にクレアさんとセットでいる。
 「ボク」自身は、どういう形であれ、みんなの役に立てて嬉しいと思っている。将来、賞金稼ぎになりたいと思ってるから、近くで戦いが見れるのも嬉しかった。
 だけど、この戦い方が提案された時、みんなはいい顔をしなかった。
 クレアさんは特に、冗談じゃないと猛反対していた。
 みんなは、「ボク」を護りたいと思って戦っている。だから戦いのまっただ中に「ボク」が入ることなんか、もっての他だと言っていた。たとえ、「ボク」を護ることを意識しながら戦うリスクを、クレアさんの能力が強化されたことで完全に埋めることができて、しかもお釣りが返ってくるとしても。
 たとえ危険でも役立ちたかった「ボク」。後押しをしてくれたのはジンさんだった。
『ガキども。例えば何日もかかる仕事の間、ククルをホテルにでも押し込めるとして、金はどうする? 今までそれで困ってきたろうが? それとも、長い間預けられる知人のアテでもあるのか』
 否、という名前の沈黙が返ってきていた。
『孤児院や施設に預けるという手もあるが、ククルはそれをよしとするか、考えてみろ。…クレア、おまえも辛かろう』
 「ボク」は施設や孤児院に行くのは嫌だった。
 その時、もう、「ボク」の居場所はここ以外にないと思ってたから。
 ――結局、みんなが折れる形になって、「ボク」もパーティーの一員として行動することになった。
 条件に一番うるさかったのも、クレアさんだった。
 まず、戦闘中は、みんなの指示に絶対に従うこと。
 次に、クレアさんから絶対に離れないこと。
 最後に、敵に向かっていくことは絶対にしてはいけない。
 初めに言ったものほど、優先順位は上。
 一度でも傷つけられたり、人質に取られたりしたら、パーティーからは外されてしまう。
 外した後にどうするか……は、後で考えるらしい。猶予を作るために、ホテル代が何週間分か貯められている。
 みんなの後ろに隠れて、戦いの凄惨さに慣れ、戦いの空気を掴んでいるうちに、足手まといにならないように逃げる力だけはついた。
 トウガラシをすり潰した目眩ましを作ったら、みんな、褒めてくれた。
 ――さすがに、真っ暗闇の中で一人ぼっちだと、逃げるのも目眩ましを使うのも出来なかったけど。
 1ヶ月前のことを思い出していた。あの時は混乱していたせいで、普段はありえない状況になったのと、何より怖いのがあって何もできなかった。
 そういえば、
 “おかあさん”と呼んだあの後、クレアさんの『能力』が更に強く、綺麗になった気がした。今までより凛々しく、力強く、「ボク」を護ってくれている気も。
 その代わり――なのか、もう一回“おかあさん”と呼んでと、しつこく言うようになった。
 ――呼んだら呼んだで、ずっと「あと一回」と言い続けるんだろうなぁ。
 もう照れくさくて、呼んでと頼まれた時にも、心の中でしか“おかあさん”と呼び返せないのに。
「おや、何か楽しいことでも思い出しましたか」
 バサロさんが微笑んで聞いてきた。
 「ボク」は微笑み返すまでもなく、笑顔をバサロさんに向けていた。


「剣と薔薇とモグラ、どれがいいです?」
 勉強が終わった後に聞いてきた。
 「ボク」は、一見意味不明なこの質問が、いつも楽しみで仕方ない。
 バサロさんが、『本』に書かれている面白い話をしてくれる時は、いつもこんな前フリだ。
 「ボク」はあてずっぽうで答えるけど、どれを選んでも面白いから、あてずっぽうをするのも楽しい。
「えーとー……剣!」
 ニコッ、とバサロさんは微笑むと、机に置いてあった厚手の本を手に取ると、無造作に真ん中のページを開きながら片手に持った。
 本の表紙は、黒。
 ―それに真っ赤な色が混じる。いや、赤い色が黒を食べていっているようだ。
 ――赤が青に食べられる。
 ―――青を緑が侵食する。
 ――――緑が白に。
 ―――――白が茶色。
 ――――――。
 めぐるましく、次々と色が変わる様子は、何回見ても目がちかちかして酔いそうになる。
 ――やがて。
 本の表紙が1色に落ち着いて、うっすらとロゴが浮かび上がってくる。
 「ボク」には分かった。
 『検索』して、読みたい『情報』を見つけたんだ。
 これがバサロさんの『能力』――『ポケットライブラリ(移動型個人図書館)』
 読んだことがある本を、全て記録し、自由に『本』に出力する――だけじゃない。
 知りたい物事について、複数の本の情報をまとめたものを、『本』に出力することができる。例えば魔物の情報を読みたければ、出力されるのは、今まで読んだ魔物に関すること全て。
 紙の束をホッチキスでまとめたものも、本の内に入る。つまり、バサロさんは、無限に近く、しかも正確な記憶力を持っていることになる。
 戦い向きではなかったけれど、「ボク」にもそれは、もの凄いことだと分かった。
 本の表紙は血のような赤で固定される。
 タイトルは『エターナルレッド』と表示された。
 「ボク」の視線は、バサロさんに期待を絶えず訴え続けていただろう。話を声もなく促している。
「それでは勉強を頑張ったよい子のククル君に、『宝魔石剣エターナルレッド』の伝説を話してあげましょう―――」
 これから発せられる一字一句を、「ボク」は聞き逃さなかった。


 ――エターナルレッド

 刃は真紅
 刃は血
 刃は好血
 刃は負の情念を喰らう

 鍔は真紅
 鍔はレンズ
 負の光を増幅させるレンズ
 通り過ぎる負は大いなる悪意の奔流へと

 柄は真紅
 柄は鎖
 生贄を繋ぎとめる枷
 粘性ある火炎でできた鎖は使い手を離さず
 また離れることも適わない

 使い手は狗に
 悪意は殺意に
 殺意に引きずられる狗は血を欲す

 その身
 燃え尽きるまで

 ――エターナルレッド

 狂気を精製した姿たる魔石
 百戦錬磨を象る鏡たる宝剣
 妖しき美を刀身に映す宝石
 血を吸い育つ生命ある魔剣

 ――宝魔石剣エターナルレッド

 己を喰らう宝魔石剣を見ることなかれ
 世界を喰らう宝魔石剣に触れることなかれ

 狂気の手綱は狂気のみが握る


 いつものように、わからない言葉や表現はあったけど、今回のはいつもよりも暗いイメージを受けた。
 その分、いつもより記憶に残った気がした。――「ボク」は何となく「かっこいい」雰囲気に浸る。
 余韻が残っているうちに、バサロさんが簡単に解説してくれた。これもいつものこと。
「ええとつまり、血で出来た怖ーい剣が世の中にあるということですね」
「ホントにあるの? こんな剣」
「実在はするみたいですよ。どこまでが本当かは分かりませんが、剣を血液で作ったり、魅了効果や催眠効果を付加するのは、『能力』で不可能ではありませんからね。伝説は100年以上前のものですが、それ以前にも、今で言う『能力』――どう呼称されていたかはわかりません。仙術かもしれないし、錬金術と呼ばれていたのかもわかりませんが、創る術は0ではない」
「ふぅん……。何処にあるかは、わかるの?」
「あくまで噂ですね、それは。説明するとまた長くなっちゃうんで、次の機会に」
 はは、とバサロさんが軽く笑った。
 エターナルレッドを見てみたいな、と好奇心が沸いてきた。見ちゃいけないというようなことを言っていたのだけど。

 話している途中。
 いきなり、警報ベルが響いた。
 それがどんな意味を持つかはわかっていた。「ボク」・クレアさん・ジンさん・バサロさんが、警報と同時、どんな配置に向かえばいいかも。
 ――「スナッチ・アルゴリズム」が、来た。
「ククル君! 配置はわかりますね!?」
「うん!!」
 バサロさんが立ち上がる。「ボク」も立ち上がり、扉に駆けていこうとする――が、バサロさんが座っていた椅子に何かが落ちた。
 ――それが『Spirit loose』だというのは、何度か包んだままのを見たことがあったから、すぐにわかった。
 『能力』を身に着けるための、賞金稼ぎには必須と言ってもいい薬。
 以前こそ、勝手に使おうとしたことはあったけど、今はまだ『Spirit loose』に頼らないと決めた。にも関わらず、「ボク」はそれをポケットの中に忍ばせた。
 何故なら、バサロさんは「ボク」も一緒に走ったと思い込んで、一足先にドアの前に辿りついていたから。呼び止めるより先に、追いつこうと反射的に思った。

 この時、薬を隠し持ったのには、深い意味はなかった。

 バサロさんは途中で気付いてくれたらしく、ドアノブ握りながら待ってくれていた。「ボク」が駆け込んだ勢いのまま、廊下に躍り出た。




――。
――。
――。

 けたたましい「はず」の足音。
 爆発した音。
 叫び声。
 「ボク」の耳をつんざく、「はず」のもの。
 いや、もう、つんざいているあまり、麻痺しているのだけれど。

――。
――。
――。

 クレアさんが「ボク」に向かって叫ぶ。
 聞こえてないと分かると、何も言わず、前を向いた。
 「ボク」を信じてくれてるからだ。
 「ボク」が、こういう時に取る行動は、ここに来る前に決めている。
 ――クレアさんから、離れない。
 真っ白な剣が伸び縮みして、「ボク」の耳をつんざく「それら」を叩く。
 破裂。
 決して「ボク」や、その後ろにいるバサロさんまで、爆発が届かない場所で。
 クレアさんは、さっきからずっと、護ることに専念している。
 それが最良と判断したから、らしい。
 ジンさんは―――
 男の人と対峙していた。
 ジンさんほどは大きくないけど、がっしりしていて、強そうな人だった。ゴーグルとマスクをしていて、顔が分からない。
 男の人が、腕を真っ直ぐに突き出す。
 手首がだらりと下が――違。
 切られて皮一枚で繋がっているように、手首から先がぶらさがって、断面をジンさんに向けている。
 そこから、ぽん、と砲丸のような真っ黒い球が出てきて、
 爆発。
 それほど大きくなく、ジンさんは、後ろに飛んで躱すことができた。
 追うようにして男の人がハイキック――それも違う。
 足首が同じようにして外れると、また球体が。
 しかも、キックの勢いがあるから、球はすごい速さでジンさんの顔面めがけて飛んでいく。
 でも、それは当たらなかった。
 当たったことは当たったのだけど、ジンさんが死ぬとか、そういうことには全くならなかった。
 槍の柄で顔を護る。球は柄に堅い音を立てながら当たる。
 ――発光。
 それでも、槍もジンさんも、傷一つ負ってなくて。
 そのまま柄を床に向けると、ちょっとした振動と一緒に、爆発。
 もの凄く小さい爆発。
 壊れたものは、柄尻のすこしと床の少しと、というくらいだった。
 さっきからずっと、爆弾がばらまかれる度に、そうやって防いでいる。
 防ぐのは、ジンさんに向けられたものだけで――「ボク」やバサロさん、建物の大きな破壊を防ぐ役目はクレアさんがやっている。
 そういう分担がされた。
 華が何度も咲いたような風景の中、男の人の仕草が眼に入った。
 ジンさんを攻撃しながら、一度だけ、顔を不自然に前後に揺らした。
 咳、だろうと思った。
 出会った時に、硝煙を吸ったあの人が、咳をしていたから。
 喉が弱い人なのかな? ぼんやりとした「ボク」の思考。
 じふっ、じふっ、と変な咳をしているのだろうな。そう思った。


 クレアさんも、ジンさんも、バサロさんも、一様に驚いていた。
 正面からの爆撃。この時点で陽動(一方に気を引きつけることらしいけど、「ボク」にはよく分からなかった)だということが真っ先に思い浮かぶ、らしい。
 陽動だと分かっていても、下手すれば、正面突破だけで押し切られそうな破壊力があった。
 後でバサロさんが言ってたことだと、陽動の可能性さえなければ、全員がかりで仕留めたいぐらい危険な相手だったらしい。
 『能力者』たる熟練と力量を持った、『能力者』
 正面玄関でのぶつかり合い。銃弾が、火炎(いわゆる微弱な能力――半能力者、といった風な人が作ったもの)が飛び交う中、明らかに毛色が違う爆発の連続。
 その中心。

「……じふっ、じふっ、じふじふっ」

 マスクをしているのに大きく咳き込んだところで、ジンさんが飛び掛かり、クレアさんが「ボク」を護るために後退した。
 一瞬でおおよその敵の性質を見抜いて、それぞれの動きをした。
 男の人はそれに気付くと、落ち着いた風に両腕を前に突き出して、“ぱかっ”と音を立てて十指を外した。
 外したといっても、第二関節の握る側に蝶番がついてるかのように、申し訳程度に繋がっていて、ぷらぷらとぶらさがっている。
 断面からマシンガンのように黒い球。
 ジンさんの防御に弾き飛ばされたことで、それがビー玉サイズだということが分かる。
 何十、もしかしたら百を超えたと思われる球が、一斉に発光し、
 どん。どん。どん。ばん。どん。
 どん。
 ぼん。ばん。ばん。
 どどどっ。
 ひとつひとつが、確実に空気を物騒に揺らしていた。
 その真っ只中にいたジンさんが、
 硝煙の中から突く。
「―――――っ」
 大急ぎで真横に避ける男の人は、その時、何か危ない気配を感じてたのかもしれない。
 だからこそ、槍を避けながら、目の前で腕をクロスさせたのだろう。
 だからこそ――軽傷。
 いきなり炸裂し、小さいながら自分のものと同じ爆発を起こした、石突の尖端に対して。

 男の人の能力。『全身の関節を発射口にした爆弾の精製』
 ジンさんの能力。『槍に触れた無形物を圧縮・貯蓄・解放』




 近付けば、勝てる。
 ジンさんは、銃火器を使う敵と戦う時は、よくそういう風に言った。
 けれど。いつだって近付くまでが、もの凄く大変で―――
 能力が使われ始める前は、銃と剣の間には、武器として絶望的な差があったらしい。
 今でこそ、能力との相性次第で、銃を使うより剣を使った方が強くなることもある、らしい。「ボク」たちにとっては常識になっていることだけど。
 「フルプレートメイル」という種類らしい、ジンさんの鎧は、銃弾を全く通さないものだった。
 それでも、大口径のものだと危ない、と言ってた。
 爆弾も危ない、とも言ってた。鎧が壊れるとは限らないけど、中に響いたり、煙で目と肺が詰まったり、するから。

「ぐっ……がっ……!」

 ジンさんは負けない。「ボク」を身を挺して護ってくれた時だって、いつも通りの悪態をついてくれたんだ。
 負ける、なんて思ってない。
 だけど、傷ついて欲しくないんだ。
 あんな、爆発に右腕が巻き込まれて――本当に苦しそうなジンさんの顔なんて。
 篭手の中から、血が滴っている。衝撃で内出血したんだ。
 思わず「ボク」は、足を一歩、二歩踏み出して、
「ククルっ!」
 腕を後ろに強く引かれた。同時に、白い炎。その中に掻き消える爆発の花。
 護りに徹しているクレアさんの負担を、大きくするわけにはいかなかった。「ボク」には見ていることしか出来ない。
 見ていることしか―――

 一瞬だけ黒い花びらが見えたと思ったけど、「ボク」は目を開いていられず瞬きした。
 目を開くと、左足に体重を預けぎみにしながら、それでも血まみれの右足で床を踏みしめてるジンさんがいた。

「ずおおおおおおおおおっ!!!」

 ジンさんの気合いがマヒした「ボク」の鼓膜を揺らした。
 右足で床を掻く時、血がグリップの邪魔になることはなかった。
 突進――にはならない。男の人からは絶えず弾幕が展開されていて、一歩で10cmくらいしか進めない。それほどの。
 爆弾が爆発するまでは、3秒くらいかかるようだ。
 きっと、それを利用して、あの人は計算した攻撃を可能にしてるんだろう。
 「ボク」は、移動中によくゲームをやった。その中にピンボールがあった気がする。
 何度か、ジンさんは、爆弾を男の人目掛けて弾き返していた。
 弾き返した爆弾が、男の人の前に展開された爆弾に邪魔される。
 爆発。
 奥の方のが爆発すると、前の方のまで誘爆して、規模が一気に大きくなる。
 いまめかしい音と共に天井、置物、小道具、巻き込まれた機械に警備の人に、弾け飛ぶ。落ちる。崩れる。割れる。飛ぶ。なくなっていく。
 煙が2人の間に立ちこめている間にも、爆弾は飛んでくる。
 さすがに、煙の中を進むわけにはいかず――晴れたら前進を再開。
 被害が広がらないように、爆弾を拡散・なるべく何もない場所に弾きながら。
 「ボク」には、それが洪水に見えた。
 球の洪水。爆弾の洪水。
 細長い堤防。槍の防波堤。
 球の嵐。球の暴風雨。
 槍の風車が捌いて受け流す。
 ――どれくらい続いただろう。
 根競べだった。
 ジンさんは槍の間合いに入れば「勝ち」だったけど、近付けば近付くほど、爆弾の雨への反応が過密になる。
 どっちが先に参るかのギャンブルで、
 ジンさんが間合いに入った。
 ――体中を、今爆発するかという爆弾に包まれて。
 追い打ちをかけるようにして、次々と、次々と男の人の肘から爆弾が生まれては、放出される。
 しかも、後ろに飛んで間合いを作ろうとしていた。

「ジンさぁん!!!」

 掻き消された声は「ボク」にだけ聞こえた。

 ち、と舌を打ったように見えた。それでも、その顔は恐れても諦めてもいない。
 槍を翻し、石突の方を男の人に向けた。
 そのまま――なんと、激しく踏み込んで、男の人に向かって突き出した。
 「ボク」にはその意味が分からない。
 爆弾はどうするの?
 どうして刃じゃなくて石突なの?
 疑惑。恐怖。疑惑。恐怖。不可解。
 思考の波の中、「ボク」は、ジンさんの槍の穂先に刺さっている爆弾に気付かなかった。
 丁度、肘の中の発射口――きっとまだ爆弾が生産されているそこに、石突を抉りこむようにして、入れて。



 床には大穴が穿たれたようになっていて、天井があった場所から、暢気に浮かんでいる白い雲が見える。
 あの一瞬、また大きな爆発が起こったようで、「ボク」は自分が気付かないうちに、体を丸めながら耳を塞いでいたようだ。
 クレアさんが、肩をぽんぽんと叩いてくれなければ、ずっと蹲ってたかもしれない。
 「ボク」はジンさんのことを思い出し、開口一番にクレアさんに尋ねた。
 するとクレアさんは、ほっとしたような笑顔を浮かべながら、す、と1点を指す。
 バサロさんの介抱を受けながら、仰向けになっていた。
 顔のあちこちに薄く火傷を負っていたけど、クレアさんは大丈夫だと微笑んだ。
 ジンさんは、どうやって助かったんだろう?
 あんなに爆弾に囲まれてたのに。
 クレアさんに尋ねると、教えてくれた。
 槍の穂先に突き刺していた爆弾は、あの時、一番最初に爆発するものだった。
 ジンさんは能力を使って、爆発を圧縮、抑えられるうちに、石突の尖端から逃がすことが出来る。
 それを、利用し――肘の中で製造中の爆弾を誘爆。
 その前に、軽く体を浮かし、槍の柄を抱き締めるようにしてしがみつく。
 後は、運任せだった。
 最初の爆発で押し出され、誘発した別の爆発にも、押し出される。
 爆発に巻き込まれずに爆圧に押され、かつ吹き飛ばされながらも頭を打ったりはできない。成功したからいいものの、物凄く難しい条件だった、と思う。
 ――ジンさんは、やっぱり凄いや。
 「ボク」には、助かるか分からない手段を決断し、飲み込むような覚悟も強さもない。
 それは、「ボク」がまだ子供だったから、といえばそれまでだけど―――
 ジンさんも、クレアさんも、みんな――当分、もしかしたらずっと、「ボク」の目標であり続けるだろう。そう思った。

 あの男の人。名前がジェイペグということは後で知ったことだけれど、この時点で、自分の爆弾で死んでいた。
 ジンさんは紛れもなく正当防衛で、この状況だと無理に生きて捉えることも出来なかったけど――このことが後でどう影響するか、まだ分からなかった。




 予定通り、ジェイペグの陽動で、私とジュネシスは排気口から施設に潜入した。
 ジェイペグはよくやってくれてる。鳴り止まない轟音がその証拠だ。反面、精密作業に狂いが生まれないかと、少し不安に思ったものの。
「開いた。続いてくれ」
 促されて、排気口に頭から入る前に、切り離されたフタが見えた。
 ――こじ開ける、なんていう不細工な言葉が似合わないような、鋭利な断面が見えた。ボルトが刺さっている4隅と、その間の4箇所にだけ刻まれた。
 鮮やかな仕事をするじゃないか。
 私は、その時は、目にした「芸術」に満足を覚えた。

 その時だけじゃなかったら、と、切に思う。

 排気口内をネズミのように這っている時、きゅっ、と指先が何かを撫でた。
 下を見ると、スチールの管内にガラス板が埋め込まれ――カメラの存在に驚きを覚え、次にそれ以上の驚きを覚えた。
 ガラスの表面が黒く染まっている。
 スプレーをかけて塞いだ後だ。
 つまり、先を行くジュネシスには、暗闇の中、カメラの有効範囲に辿りつく前に気付く視力と注意力、「侵入」という状況を意に介さない余裕があったということになる。
 あの歳で。
 背筋が少し冷えた気がした。でも、そんな暇もなく、ある一点で止まっているジュネシスに意識を傾けることになった。
 彼の細身は、何とか、進行方向の先にある風景を妨げないようになっている。
 向こう側に、既に取り外したダクト口が置かれている。
 ジュネシスがナイフを取り出し、下の部屋に突き入れ、一瞬で引いた。
 今度は、2本のナイフを片手で握り、また下の部屋に手首ごと入れ――肘の動きで、前腕が回転したのが分かった。
 腕を引く。ナイフがない。
 私に目の合図が送られる。即座、彼が下の部屋へと頭から降りる。
 それに続いた私は、状況を確認すべく――そんなモノ、ジュネシスが既にやっているだろうけど、私も一応――周囲を見渡す。
 2台。部屋の隅の角。対角線で繋げられる位置に、根元から切断された監視カメラが転がっている。

 降下前の意味不明な仕草。
 1本のナイフに映った部屋の内部を、一瞬で把握し、彼の脳内では既にカメラに、スローイング・ナイフをロックオンしていた。
 投擲の際、カメラには手を映さない、ないし、最小限にしなければいけない。手首から先のみを入れ、投擲は、手首のスナップと肘の回転だけで。
 手に2本のナイフを持ち、しかもそれぞれを逆方向に。
 当たったかどうかの確認もせず、降下――手応えに対する自信。

「・・・・・」
 意識を引き戻された。ジュネシスが先行し、中枢に繋がる最後の通路を調べていた、が――曲がり角の前にいたはずの彼が、消えている。
 不可解に頭を抱える前に、角の向こうから、視線の合図が送られた。
 曲がる。
 ――喉からナイフを生やした、2人の姿。
 銃を構えたままの体勢のまま、人形のように横倒しになっている。
 例えば咄嗟に銃を構えたとして、こんなにも、しっかりした体勢になっているわけはなかった。つまり、私たちが来ることが分かっていて、曲がり次第撃つつもりだった。そういうことになる。
 驚くべきことじゃない。カメラを潰したとはいえ、経路は、カメラが駄目になった順と、そもそもの目的を考えれば簡単に割り出せる。むしろ中枢の真正面で、ようやく配置されたのは遅いと言えるが、こちらの行動の早さを考えれば仕方ないだろう。
 誰かが出てきた、それと同時。蜂の巣にする心構えだった筈の警備員に、引鉄さえ引かせず殺害。それも凄まじいが、更に驚くべきこと。
 流石に、最初から角の向こうに、誰かがいると分からなければ。正確に把握していなければ。
「なんで、敵がいるって?」
 耳元で。
「呼吸音」
 事も無げに。
 爆発からは遠くだから、ある程度は、音が弱まっているとはいえ。
 凍てつく私には気付かず、ジュネシスは、最後の扉の解体を初めようとしていた。

 私はいらない。
 この男と一緒に入ったにしては、随分、自覚が遅かったと思う。
 私は、仕事に入りながら、何もする必要がなかったと。
 そもそもが彼のみの任務だから、当然かもしれなくとも。
 私に出来ないことが出来てしまう。
 私に出来ることも出来てしまう。
 出来すぎてしまう。
 当然のこと。
 分かりきってたことじゃないか。
 彼は、「芸術」なのだから。
 ――「芸術」?
 あれほど嫌いだった芸術。
 好きになれそうな芸術。
 父の仇である、芸術。
 老画家。
 ただ、ひたすら理解を超えたものとして―――


「―――やああああっ!!!」

 私は、どうして叫び声を上げてしまったのだろう。
 意が解せないとして、ジュネシスが、少しだけ目を見開いてこっちを見ている。この男でも、こんな表情をするのか。
 理解できないものは、新鮮ではなかったのか。
 確かに「楽しさ」を覚えたはずなのに。
 事実、私は、ジュネシスが贈ってくれる刺激に、麻薬のごとく溺れていたのではないか。
 どうして、突然、わけのわからない恐怖に駆られたのだろう。
 「どうして」の代償は、大きかった。


 つんざく音と共に、炎と氷とが、盛大に扉を貫き私たちに殺到した。


7 :霧崎 魅影 :2009/10/18(日) 22:17:59 ID:nmz3oDVF

away day's memories in bloody shadow 2(9年前)

 私が熱いと感じたものは、炎じゃない。
 鼓動。溶鉄がじわじわと上がってくるような、いやな感触。
 私が冷たいと感じるものも、氷じゃない。
 隣の男。真正面に、赤と透明の放射を待ち構えながら、顔色一つ変えない。温度差の冷気。

 次に感じたものは浮揚感。
 現実的な感覚と精神的な感覚が混ざりすぎて、それすら、一瞬だけ現実のものかどうかが分からなくなる。
 砕けた扉が低く小さくなるのを認めて、後ろに飛んでいる自分に気付いた。
 胸の下に何かが巻きつく感触で、ジュネシスが、私を抱えながら跳んでいるのが分かった。
 疾く、的確な判断。
 的を失った氷弾と火弾が通路の後ろを焦がす。
「角に……」
 囁く声。
 着地。
 私は、言われた通り、角に身を潜めた。
 事実、避ける面積が限定されている状態で、銃器を使う能力を相手にするのは不利だ。ただの銃弾ならまだしも、相手の力は、明らかにそれ以上のものを持つ。
 2人の能力者―――
 黒人。赤熱した銃口をこちらに向ける、目つきの鋭い巨漢。
 白人。凍てついた銃口でこちらを睨む、落ち着いた視線を送る男。
 話が違う。そういう気分の苛立ち。最低でも2人の、こうまではっきりと『能力』を構築している賞金稼ぎがいるなんて。
 それは、苛立つよりも反省することだ。判断を鈍らせた自分が悪い。
 ジェイペグが心配になってきたが、それよりも、目の前の心配だ。
 あの2人の奥には目的物がある筈。あれはみだりに動かせないものだし、動かしたとしても動向は調べられ、私の耳に入っている筈。
 だからこそ。
 強力な能力者が、別働隊が侵入すると予測した上で、それを迎え撃つための要員として待機していたのだろう。
 設計図を奪うべく侵入していたら、瞬間、同じように発砲していただろう。
 自己擁護をするわけではないが、扉を無事に解体通過していたとしても、それは同じ。
 2人の背後に悠々と回り、物品だけを回収するような裏技などはない。だからと言って、目的を果たさずに退くのは愚の骨頂。
 私の視線は、一瞬、泳ぐようにして赤尽くめの少年に
「隠れたままで……かまわないよ」
 当然のように、強行突破が決まった。
 素直に、私などいても邪魔だ。そう言えばいい――負の念にも似たものを押し殺した。

 変わらず、2人の男が銃先を前にポインティングしている。
 先の能力は、フェイクの可能性を考慮しなければ、それぞれ炎の弾丸と氷の弾丸。
 あの一瞬で見た性質的には、炎は放射性があり、範囲攻撃に向く。氷は点の攻撃になるが、貫通力があり、凍結作用もある。
 性質のまるで違う銃弾。
 わざわざコンビで出てくるのだ。互いに能力が阻害し合うことはまず有り得ないし、互いに高めあうものだと考えるのが自然。
 私が、もしあの2人のどちらかなら。
 相方と、この状況で、どんな戦術を使うか。

 全く以ってそれは再現でしかなかった。

 炎の波が床を這う。コーティングが、熱で崩れた化粧のような無様を見せた。
 予想がついても、どうしようもないことはある。
 私は、直前にこの攻撃を――黒人の方が、床めがけて火銃を放射することを読んでいたとしても、飛び上がるしか手はなかっただろう。
 現に、ジュネシスも、細い体で宙を舞っている。
 片方の白人――氷弾の男が動いたのはこの時だ。
 つららを有り得ないほどに研磨したような弾頭が、ジュネシスの胸へと飛来する。
 宙に浮いた、制御のきかない、格好の的。
 銃弾ほど早くはないとはいえ、あの太さと長さの氷槍が胸に埋まれば、ほぼ間違いなく死ぬだろう。
 でも、ジュネシスが死ぬ可能性は考えられない。
 私の、先から止まらない手の震えが肯定している。
 止まらない震えを心底情けなく思う。噛み締める唇が痛い。

――きん。

 鉄琴の高い音に似たものが届くと同時、壁の側面に叩きつけられ、散らばった氷の華が見える。
 一瞬の花の輝きよりも、私は、それらに混じり宙を舞うナイフに眼を奪われた。
 軌道を逸らした。その腕の動きは欠片ぐらいは見えたし、推測も十分に可能なことだ。
 ただ軌道を逸らした、そこで終われば、身体能力が非常識に高かったと、それだけで完結する。
 逸らすための接触の瞬間、腕を伸ばしきっていたのが見えた。
 出来るだけ手前で氷槍をリードすることで、逸らすルートを滑らかにする。推測だが、計算はそれだけではない。
 凍てつくという、氷の弾の特性を汲み取ったのだろう。向こうからくっついてくれるのだから、タイミングを読む力さえあれば逸らすのは楽になる。
 よって、ジュネシスは、殆ど隙を作らずに着地し、間合いを詰める余裕を得ることになる。
 ――それも、私の想像を全く超える方法で。

たん。

 紅い、私と同じぐらいじゃないかという小さな靴が踏み込む。
 天井を。

たん。

 天井を取っ掛かりもなく歩くというのは、身体能力に関係なく物理的に不可能だ。
 天井歩行は、滞空時間を利用して、そう見せただけに過ぎない。ちゃんと不自然にないように前進できているのは凄いことだが。
 歩みが斜めに向き、丁度、天井から左側面に移るようになった。
 落ちる動きに合わせた動き。対処に僅かに戸惑った黒人の男が、歩の先に火炎放射を

とん。

 側面からの急激な跳躍の利点は3つ。
 1つが、急な動きで、氷槍の使い手に追撃を受けることなく着地する。
 2つ目が、炎を斜め上方に放たせることで、床に掃射させるよりも、ブラインドにしやすくする。保険の要素が強いのだろう。
 3つ目の利点も、炎のブラインドだった。
 火炎放射の展開は速かったが、ジュネシスが位置関係を記憶するのに十分な時間があったのか。
 記憶をトレースした銀刃は、リンゴを通したような軽快な音を立て、炎使いの額に埋まった。
「……あ」
 静かすぎた。
 当然ながら、私は、暗殺の現場を、直に目撃したことはなかった。
 目撃したとしたら、今が始めてのこと。
 正面から戦って、相手を仕留めることが、暗殺に含まれるとは思わない。
 それでも、相手の想定外の技術で、意識の外から殺害する――あの男は、自分の死を自覚できなかっただろうそれは。
 私に暗殺と同一視させるには十分な動作。

「ホイスター……!」
 声を漏らしても、視線をジュネシスから外すことはなかった。
 むしろ、強い決意と殺意を込めているようで。
 ――ジュネシスのずっと後ろで覗く、私すら肌がぴりぴりと痺れる。
 瞬時、音のない発砲。
 ざく、ざく、と後方の壁に、十数のつららが突き立つ。
 がしゃん。
 自重で床に叩きつけられたのは、氷塊だけじゃない。
 脆くなった壁ごと、大きく抉られ、氷と一緒に粉々になった。
 能力が精神力を纏って強力になっている。
 怒りの塊のような氷が、しかし、紅い外套にさえ掠りもしない。
 まるで予め申し合わせていたかのように、あるいは体の傾け、あるいは歩幅の変調で、ジュネシスの後方に消えていく。
 映画のワンアクションが現実に連続している、その美麗さ。奇怪性。
 剣の間合いに入った時点で、片割れの死も確定した。
 最後まで私を驚かせることは忘れなかったが――強大なエネルギーが、槍を超え、銃口で氷塊を構築し、巨大な棍棒を模った。
 それを目の前に叩きつける。
 すり抜ける。
 目標物たる紅い男は、既にそこにいなかった。
 空振るままに、床に蜘蛛の巣を穿ちながら、通路に凍気が拡散し―――
「―――おおおおお!!」
 通路を抉りながら棍棒を後ろに薙いだ。

 それすらも赤い影にはかすらない。
 氷塊の上。赤いつま先。銀のナイフの刃先。
 赤ちゃんに食事を食べさせるように、自然に――刃先を口腔に挿し込んだ。

 2つの音がした、と思う。
 思うというのは、片方が重く鈍く、もう片方と同時だったため。
 ジュネシスの着地音は、きっと、白人の方の頭が地面に崩れ落ちる音に掻き消されたのだろう。
 まあ、あれだけの動作の後、全く足音を立てずに着地したとしても、別に今更驚きはしない。
 全く契約通りに、作戦を妨げる2人を排除した。そんなジュネシスを。
 ジュネシスの目線を。
 私はまっすぐに受け止められない。
 年不相応の妖美さを見せていた、そう思っていたものからも、今は鋭い恐怖しか感じられない。
 変わらぬ無表情から、別の表情が呼び起こされる。

 唇を薄く吊り上げ、瞳を悦楽に光らせた、あの笑みを。
 いつから、あの笑顔のまま、闘いを愉しんでいたのだろう。
 私には、出来るのだろうか。あの笑みに対して弓を引くこと。
 少なくとも、足が痙攣のように竦んでいるうちは、出来やしない。

「ジュネシス」
 口を開くまでにたっぷり取った数秒。ジュネシスは、何も言わず待っていた。
「あなたは、何なの?」
 この男のこと。これぐらいのタイムロスなら平気だろう、クライアントに合わせてもいい。と、冷静に判断した、と思う。
「何、とは」
 私が、どうして芸術を嫌悪していたか――いや、恐怖していたのか。
「あなた、本当に人間? 人間は人を殺す時、あんな表情が出来るもの?」
 私をあれほど魅せた、この男が思い出させた。綺麗で、しかし底の見えない。私が定義する「芸術」そのものの男に。

「さあ。私が人間かどうか――さして重要じゃないので、定義していないよ」
「どうでもいい――そう言っているの?」
「私が“ジュネシス”でさえあれば、どうでもいいね」



 クレアさんが「ボク」の手を引き寄せる。
 爆弾使いの人が、自分の爆弾を受けて、横たわって動かない――黒い煙の中、全身あちこちの皮がずる剥けになって、赤い肉を見せたうつ伏せのまま、人が死んでるところに「ボク」を近づけたくないから。
 でも、そういうモノは、もう見慣れてた。確かに、最初は真っ直ぐ見ることなんか出来ず、吐いたりもして。
 もう大丈夫、って言うと、ちょっと悲しそうに笑う。
 その後で、「ボク」を諭す。腐った人間の死体や、燃えてる人間の死体は、ひどい臭いを出す。ククルはまた吐くことになっちゃうよ。って。
 それと――出来れば慣れてなんか欲しくない。勝手だけど。って言った後、「ボク」の頬にキスして微笑んだ。

「駄目です。応答がありません」
 バサロさんは、さっきから、ホイスターさんたちの携帯電話にコールを送っている。
 こっちで何が起こったかを報せるため。それと、向こうでは異常がないかどうかを確認するために。
 今までも、5分おきに連絡を取り合っていたけど、3回、お互いに連絡が取れていない。
 1回目は、爆弾使いの人と戦っていた最中。こっちからも何も送れなかったけど、向こうからの留守電も入ってなかった。
 2回目と3回目は、そのまま5分前と今。ホイスターさん・クラッティッジさんとは、10分もお互いの確認が取れてないことになる。
「……クレア、さん」
「ええ。『膠着している』みたいだね」
 「ボク」の目には、2人の会話が不自然なように見えた。
 何が、どう不自然なのか。理屈では全く分からなかったけれども、バサロさんが顔色を失くしている傍ら、クレアさんは、いつもよりハキハキと話しているみたいだった。
 言葉を、「作って」いる。「ボク」にそこまで察する知識も経験もなかった。
「戦ってるのは間違いと思うけど、それにしちゃ長すぎる。破壊音も聞こえないし……お互いに機を伺っている状態じゃないかな。そう思わない?」
「うむ。その可能性が高くなるな。となれば、こっちは済んだから向こうを援護に行くとして、より慎重を期さねばならんな。張り詰めている空気を不用意に壊せば、どちらのピンチに転ぶか分からん」
「それに……ホイスターさんとクラッティッジさんの2人が、ここまで膠着する『能力』。相当のものですね」
「そうね――じゃあ、バサロには『本』を使って、敵(スナッチ・アルゴリズムのリーダーだね。恐らく)の分析をして欲しいから、あたしのやや後ろ、斜め横まで上がってきて欲しいんだけど……やれる?」
「……やってみます」
「頼むわね。じゃあ、ジンさんは殿をお願い。ククルはいつものように、あたしの後ろ。行きましょう」
 明らかに「作られた」会話。「ボク」が年を取った時に思い出したら、そういう感想を持つだろう。
 何故膠着している可能性が高いのかとか、機を伺ってるとか、全く意味が分からなかった「ボク」には、会話の不自然さに気付くなんて無理なことだった。
 膠着状態よりも遥かに高い確率で想定できる悲劇。
 話題から、決定的にずらされているもの。
 3人の、「子供」に対する労わりに気付けるのは、ずっと先の話。

 奥に、中枢に近づくにつれて、クレアさんの額に汗の粒が集まるのが分かった。
 「ボク」の心臓も、警鐘を止めない。
 ジンさんの口元は絞るようにきつく閉められ、バサロさんも拠り所のように本を握り、いつでも開けるようにしてる。
 溢れるような、高純度の殺意。
 魔物も、犯罪者も、最初から殺気を剥き出しにすることはなかった。ホイスターさんは、「はい、今から私は君たちをブッ殺しますよー」と言ってるようなものだから、と教えてくれた。隠すつもりがない人は? って、前、同じようなことがあった時に聞いたら、相当自信があるのか、馬鹿なのかだ。と教えてくれた。
 後者の方がいいのは勿論だったけど、みんなは、当然、前者だという警戒をしてる。
 扉をひとつ隔てただけ、という場所まで来た。
 その扉は穴だらけで、無理矢理閉めている感じだ。バサロさんは、扉を見た時に深く額を八の字にして、すぐに戻す。
 「ボク」の神経は、壁や扉の焦げ跡や、不自然な水溜り、血痕にまで行き届かなかった。
 だから、今の時点で、「膠着がどうの」という話が完全になくなり、中枢で起こっただろう出来事が、「ホイスターさんとクラッティッジさんの死」だと、ほぼ完全に確定したことにも気付かない。「ボク」だけが、気付けない。 敵がいるとはいえ、中枢を派手に壊すわけにはいかない。
 からといって正面からぶつかるのは、どうか。
 能力者としての人数の分は、こちらにある。それにこの殺気。下手に時間を与えれば、何をするか。そう考えていたクレアさんは、剣に白い炎を灯し。

 ―――足元が小さく『波うった』

 あまり速くなかったから、「ボク」にも見ることは出来た。
 でも、咄嗟には何も出来なかった。
 足元で、床が、さざ波のように盛り上がりを作って、そして波紋状に流れてきた。
 海に行ったことはなかったけど、クレアさんに、流れるプールに連れてってもらったことがある。あの時に見た波よりは、早くて大きかった。
 波のようなカタチだったけれど、硬さは「床」のままだった。コンクリートのまま、水のようなウェーブを作ってる。
 前に大きくつんのめって、顔を打ちそうになるところを、腕で守った。びた、っと不細工な音がする。いつもなら、クレアさんが気をつけてくれていて、倒れる前に支えてくれてたと思っていたけど、今回は忘れてたわけでもなくて、仕方がなかったんだ。
 扉が完全にカタチを無くす。
 「ボク」にはそれ以上は見えなかったけど、クレアさんが『ホワイトフレイム』で、扉を壊しながら飛んできたモノを落としたことは、何となく分かった。
 何が飛んできたかは分からない。バズーカ砲? 機関銃?
 でも、背筋が凍えたりはしない。
 「ボク」の前では、クレアさんは、いつでも無敵だったから。
 ここで、「ボク」はやっと右足を床につけた。力を込めて体を持ち上げながら、右隣を見た。
 ジンさんがクレアさんには背を向けて、槍を構えてる。クレアさんの立ち位置的に、2人がドア側に並べば横に邪魔になるから、背後からの奇襲を警戒している。それに、クレアさんが奥に進んだら、すぐ雪崩れ込めるよう、盗塁のランナーのように足を広げていた。
 「ボク」ほどじゃないけれど、バサロさんは身を起こすのにもたついているみたいだった。本を取り落としたみたいで、完全に立ち上がる時、さっきまでのように、背表紙を右手で掴むようにして、いつでも開けるように構えてる。
 2人の様子を見ながら、「ボク」は立ち上がって、いつものように、クレアさんのすぐ後ろについた。
 クレアさんが睨む先から、女の人が凄い勢いで向かってくる。
 金髪に、青目。人種はクレアさんと同じに見えたけれど、あっちの方が少し若そうだった。走りながら、機関銃を捨てて(弾切れ?)、ナイフを取り出す。
 抜き身にしてモーションに入る前に、白い炎の流れが槍を作る。
 見とれちゃいけないと分かってても、視界いっぱいにそれを捉えた。包むような飲むような、真っ白なはばたき。羽の世界。ナイフの女の人の顔が、化粧のように純白に照らされる。
 あまり、大きめにも強めにもしていなかった。殺すんじゃなく、捕まえようとしているから。
 羽がくるむように柔らかく撫でて、気絶させると思った。
 女の人に逃げ場なんかないように見えた。けれども、膝を曲げて上体を落とした――ぐらいじゃ説明できないくらい、体が沈んでいる。
 腰から下が見えない。
 水に漬かっているみたいに、と言ったら大げさ。
 でも、ウォーターベッドにダイブしても、あんな風にはならない。
 粘土に指を入れた時を思い出した。炎の下になるようにして、たるんだ皮のように床を「めくる」。コンクリートが女の人を、毛布のように包んで、見えなくした。ヘンテコな光景。
 攻撃は避けられたけれど、心配にはならなかった。
 魔物を倒した時のことで、小さなほら穴に篭ったまま出て来ない敵を、熱でいぶり出して倒したことがあった。今回も、そう。女の人の能力はよく分からないけど、ずっと入ってられるとは思えない。
 クレアさんが、剣を握る手から、雫が2,3滴っている。
 手を洗った後のように浮かんでいる汗。
 たぐり寄せられたコンクリートの下では、クレアさんの手以上の熱気に苛まれているのだろう。「ボク」は、自分たちの心配より、一瞬、あの女の人は大丈夫なのかなと思った。

 ふわっ。

 女の人がいる、筈の床下が遠くなったと思ったら、「ボク」の足は床についてなかった。
 何を言ってるのかよく分からない、と思う。でも、「ボク」も何が起こったのか、分かっていなかった。
 お腹のあたりに、持ち上げられた感触。
 クレアさんの腕が巻きついていて、「ボク」は、荷物のように運ばれていた。
 思い切り走ってる。
 お腹を通して振動が伝わる。
 部屋とは、ぜんぜん逆の方向に。
 「どうして?」 クレアさんは反応しなかった。
 聞こえていない? それどころじゃない?
 どれもちがう。
 「ボク」は、言ってなんていなかった。
 声なんてかけてなかったんだ。
 話そうとしたら、バサロさんが、「ボク」の方を見てるのに気付いた。
 それにしても、どうしたんだろ、バサロさん。
 首をあんな風に曲げて。
 あんなに曲げて、大丈夫なのかな、って風に不安になる。
 背中も曲げてないのに、逆さまになるぐらい、顔を仰け反らせてこっちを見てる。
 それに――誰なんだろ、あの人。
 赤い髪赤い瞳赤いマント赤い靴赤い唇の女の人?
 睫が長くて、すごくきれいな人。
 敵の人? って思った。なんでかわからない。あの眼とか髪とか唇を見てると、胸がざわざわして落ち着かなくなる。
 赤い服もきれいだと思ったけど、ヘンな汚れが浮かんでるように見えた。一部分だけ赤色が『血そのもののイロで』濃くて。濃い部分はバサロさんが仰け反った『クビが切れて血があふれてる』ところにあって。
 「クレアさん……」 クレアさんは反応しなかった。
 今度は、ちゃんと、名前を呼んだ。
 大丈夫、心配ないよ。いつも通り『バサロさんは死ん―――』返ってみんなでお食事しよう。
 『ホイスターさんも』賞金も入るし、久しぶりに、バイキング『クラッティッジさんも』レストランにでも行こうか?
 いつも、こんな風に返してくれた。
 言葉を放った先に、安心はなかった。

 バサロさんの顔が、どんどん下がっていく。仰け反ってる? そんなわけない。
 「ボク」がどんなに認められなくても、痛いほどそれが分かって。解ってしまうのが、いたい。
 ジンさんの叫び声が遠ざかってく。叫んでるわけじゃなくて、何か言ってる。
 分からない。解らない。
 クレアさんが、叫び返す。でも聞こえない。クレアさんの声よりも、バサロさんの頭が、床に、ごんとぶつかる音の方が大きい気がして。
 そんな筈は、ない。周りがうるさくて、聞こえるはずがないのに、床に落ちる音の方が大きいなんて。
 じゃあ、「ボク」は、何を聞いたんだろう?
「あああああああああああああああああああああああ!!」
 「ボク」の叫び声が変に揺れるから、より一層、耳にこびりついた気がした。
 まとわりつく「ボク」自身の叫びが、叫びを、もっと加速させるような。
「あああああああああああああああああああああああ!!」
 ジンさんが体で通路を塞ぐように、赤尽くめに人に立ちはだかると、槍で牽正した。
 槍を、全然動かしていないのに。警戒は解いてなかったのに。
 素通りした風に、する、と懐に。
「あああああああああああああああああああああああ!!」
 赤い衣装もジンさんの巨体も通路の角がみんな隠した。



 しゃっくりが止まらない時のことを思い出した。
 お腹の奥の方が、ひくひくとして止まらくて、だんだん不安になってくる。
 でも、今ひくひくして止まらないのは、ノド。
 口を開けると、勝手に、しゃっくりのようなみっともない声が溢れてくる。
 頬が、涙でべとべとだった。
 今も、目から次々と流れているけど、何で泣いているのか、「ボク」は分からなかった。
 「ボク」は、何も分からない。
 ジンさんのこともバサロさんのことも。
 何が分からないのか、分からない。分からないのに、どんどんと、心臓やお腹で暴れる何かがいた。
 焼いた石のように熱い、六本足の虫。
 暴れまわるたびに、心臓が大きく跳ね上がって、その下に重い水が溜まったような気分になる。
 下さなきゃ。
 ポケットに入ってた粉状の薬。びり、と袋の端を破いて、「ボク」の口に注ぎ込む。
 クレアさんが「ボク」を抱える腕がびくっと動いたから、「ボク」が何してるのか気にしてるのが分かったけど、わざわざ見て確認する余裕はないようだった。
 苦くて、咳き込みそうで、何より口の中がパサパサしたけど、必死に飲み込んだ。これで、不安のカタマリも下せるから。
 みんなに迷惑かけないよう――力になれるように。
 誓って、「ボク」は、みんなとの約束を破りたいって思ってたわけじゃないし、分かってたら絶対にしなかった。
 分かってなくても、しちゃったことには変わりないけども。
 でも、もし許されるなら、「ボク」は懺悔をしたい。クレアさんに。みんなに。「ボク」自身に。
 力になりたいと考えてたから、ポケットの薬が『Spirit loose』なんだと忘れていました。
 心のどこかで、『Spirit loose』だと気付いていたから、力になれるなんて考えてしまいました。

 次々と縮むように流れてく景色が、横方向にもうねるような変化を見せた。
 おでこの奥がいたい。走る振動も混ざって、鐘が頭の中で震えてるように。
 短く重い波だったものが、がくっと頭が揺さぶられる。朝御飯がせり上がってきた喉が熱くなったけれど、ぐっと喉に力を入れて押し戻した。
 今のゆらめきは薬のせいじゃなく――「ボク」はクレアさんが身を沈めたのに気付かなかった。
 真横に回転がかかる。
 クレアさんが立ち止まり、振り向いていた。
 「ボク」が、体を思い切り捻って後ろを向くと、クレアさんの右手には拳銃が握られていて。体にまっすぐに構えている。

 アメコミのヒーローが、軽やかに銃弾を避けていく映像を見た事がある。
 銃弾を、豆まきのように簡単にキャッチすることも。シンプルで、かっこいいと思った。
 まっかな男は、違った。
 イチョウの葉が、風を受け流すような、綺麗な動作でもなく。
 クレアさんが確かに撃っている筈なのに、避けてもいないのに、赤尽くめには触れもしない。
 クラッカーみたいな音の度に、きぃんと奥の方で流れ弾の音がする。
 まるで、幽霊。
 霊の存在なんか、「ボク」は信じていないけど、避けずに直進している――のに当たらないのを見ると。ホントウに素早さで躱しているのか、強く不安になる。

 かちかちと二回引鉄を引いて、銃声が鳴らないとわかると、クレアさんは拳銃を思い切り投げつけた。
 膝を折っただけで、頭の上にやりすごす。低い体勢からナイフを取り出して、迫ってくる。
「許して!!」
 殺人鬼にこんな事言ったりはしない。から、向けられたのは「ボク」にで、振り落とされて、また、腕をクッションにした。
 顔を上げると、視界いっぱいに広がる、白い羽。
 白炎の、監獄。
 クレアさんが雄叫びをあげながら、剣をがむしゃらに振り回して、部屋全体を破壊するように―――
 振る、振る、振る。
 壊す。壊す。壊れる。
 瓦礫が落下するような音も聞いたし、ガラスが割れる甲高い音も響いてきた。重かったり五月蝿かったり、モノが破壊される恐ろしい音が出ているのに、部屋が壊れてゆく姿はノートをブサブサに破くように――軽くあっけない。そんなギャップが滑稽にも見える。
 クレアさんは息を大きく切らしていたのを、思いっきり吐き出して一気に止めて、また「ボク」を抱えて走り出した。
 今度は「ボク」を抱っこするみたいな風で、顔と顔が会ったから、クレアさんが微笑みかけてくれたのが分かった。
 『もう、大丈夫』
 言葉よりもよく分かり、そして安心を与えてくれる顔。
 もう、外が見えている。もうここから出ていける。
 つられて「ボク」にも微笑みが生まれた。
 『もう大丈夫、だよね』
 微笑んだ後に、そっと付け加えた言葉は、クレアさんに伝わったかな。


「ククル――私は、あなたに対して、どれだけの事をしても償いきれないでしょう」
 外に出て、すぐの言葉だった。
 いきなり立ち止まって、何故か、「ボク」に向かって弱く微笑んでる。
「きっと、同じ気持ちだよね――先に行っちゃった、みんなも」
 凄く寂しいことを聞いた気がしたけど、「ボク」の頭には入らなかった。
「付き合わせて、振り回して――危ない目に合わせてばっかりで」
 横に、真っ白な炎を構えて、対峙する。
「あなたには、もっともっと、教えたいことがあった」
 傷一つ、埃一つ浴びてもいない、赤尽くめの姿に。
 「ボク」に視線を走らせる余裕があったら、出口の隣の壁が、楕円に斬られているのが見えたと思う。
 あの状況で、刃物で突破口を――子供の「ボク」には、その凄すぎる判断力と瞬発力は分からなかったけれど、男が、持ってるハズがないものを持っているのは、すぐに分かった。
 只の剣だったら、きっと気付かなかった。
 あまりにも異質だったから、どこに持っていたのだろうという、疑問がこんな異常な時にでも浮かんでくる。
 血のように赤い紅い剣。
 宝石のように美しく。
 魔石のように妖しく。
 宝剣のように厳かで。
 魔剣のようにおぞましい。
 クレアさんの、晴れやかな微笑みの意味が、「ボク」には分からなかった。
 「ボク」はこんなにも怯えているのに。
 ズボンが、いつの間にか生暖かくなっていて、「あそこ」が氷漬けのように竦みあがっている。
 なのに。
 剣に闘気を灯らせ、地面にまっすぐに立っている人を、「ボク」は見上げている。
 どうして、戦えるの?
 どうして、怖がらずにいられるの?
「ククル」


「強くおなりなさい」


 思い切り振り上げられた純白の火炎に、真紅剣を横に構えて受けようとする。
 紅い男は、獅子の吐息を受け止める自信があるらしい――実際に受けることは、なかったけれど。
 火炎はそのままに反転。背後に向かって剣を振る奇行に、赤尽くめは流石に眉を動かした。
 でも、すぐに判断を切り替えて、突きのまま突進する。

 クレアさんの狙いは、崖になってる部分をブロックするためのバリケードで、“ごっ”のような“がっ”のような音と一緒に大きく抉れた。
 幼い頭でも、崖が覗けるような破壊痕を作ったところで何がしたいか、雰囲気だけは察することが出来た。
 でも、それは気にならなかった。そんなササイなことは全く気にできなかった。
 クレアさんの胸から、赤い棘が生えていたから。
 血が固まって突き出したように見える、それの根元から、蛇口の故障のように血が噴き出していたから。
「……っ………で」
 「ボク」は何て言おうとしたのだろう。
 よりにもよって、真っ赤な色をした悪魔に向かって。
 なんでこんなことをするのか。
 人を殺して、貶めて、楽しいの?
 例えばこんな常識的なこと。
 声には出せなかったから、何も伝わらなかった、そうに違いないけれど。

 彼は、言葉ですらない言葉にも、何も疑問を持った風でなく。
 クレアさんから剣を抜き、もう一度突こうとしているのか、引き戻すと。
 ――「ボク」はクレアさんに包まれるように抱かれて、そのまま崖の方へと、飛んでいった。



「もう、いい」

 長距離のスタートのように足を広げ、追撃を開始しようとするジュネシスの姿があった。
 私がようやく追いつき、丁度よく声がかけられたのは、僥倖だった。
 少なくとも、あの2人には。
 私にとっては、どうだろう。
「ベルーナの危機を招く可能性がある」
「杞憂よ。私がそう言っている。きっと、死んでるよ」
 一時の気分に流された発言をせずに済み、将来の憂いも作らなかったのかもしれない。
 私の頭も、相当に煮立っているのか、将来の憂いというものより、どういう心境で手心をかけたのかが飲み込めてない。
 最期に見せた母性に絆されたのかもしれないし。
 ジュネシスの冷酷性を味わったことへの同情かもしれない。
 どちらも、普段の私ならば、何とも甘ったるいと笑い飛ばすだろう。
 けれど、今は考えたくない。体力的には普段ほどでなくても、精神的に磨耗しすぎた。
 とりあえず、一刻も早く休もう。

 濃い一日は、とにかく終わったのだから。

「約束は今日までだから、一緒にアジトまで帰ってくれるね? 部下も減って話相手が少ないんだ」
 ジュネシスは軽く頷くと、手に持っていた紅い剣を、そのまま二の腕に突き刺した。
 リストカット? にも見えたけど、刺した場所からは殆ど血も溢れないし、何よりずぶずぶと埋まっているのに、反対側に突き抜けない。
 腕に取り込まれているというより、血液にそのまま溶けている。
 剣の色彩が、あまりに血液に相似していたせいで、そう感じたのかもしれない。
「……面白いマジックだね。『能力』かい?」
 この程度では、悔しいから驚いてあげないことにした。
 作り笑いを見せながら訊くが、この男のこと。それぐらい看破しているだろう。
「……いや。違う」
「じゃあ、何か特別な剣なのかい?」
 あまり期待しないで追求すると、意外にも頷いた。

「……『宝魔石剣エターナルレッド』という」
 刀身も鍔も柄すらも、彼の腕――血液に完全に収まった。


8 :霧崎 魅影 :2009/10/18(日) 22:18:18 ID:nmz3oDVF

away day's memories in bloody shadow 3(9年前)

 自慰が目障りだった。父と白髭の老人の、盛大な自慰行為。
 明晰夢。
 私は、くたくたの頭でアジトに帰るなり、一言二言を部下に降らせるぐらいにしてベッドについたことを覚えている。
 目の前の、惨状。父の首を括る吊り縄が揺れるたび、屋根が呻く音が聞こえた。蒼白の、舌を垂らした醜悪な父の顔が、格好のオブジェであるような、老人の鋭い眼があった。
 何もかもが、あの時のワンシーン。胸に食いこむ鉈のような、7歳の思い出。
 ひとつ違うとすれば、私が「今」のまま、既に跡形もこの世にないはずの家の中に立っていることだ。
 もうひとつ、違うものがあった。何でだろう、わからない。どうしてこんなにまで―――
 どうでもいいんだろう。目の前の光景が。
 困惑を叩きつけられた光景だった。その後の私の人生を、大きく捻じ曲げただろう出来事だった。
 子供の頃は、この時、どうしようもなく分けがわからなかった。今の大人の自分が相対したら、きっと憎しみと悲しみとが弾け飛んで、老人の喉を切り裂いている。そう思っていたのが、さっきまで。
 どうでも、いいなぁ。とてつもなく下らない。私の目尻が、脱力で落ちていくのを実感した。
 目尻が揺るんだと言い表せば、破顔したようなニュアンスに取れそうだが、私はきっと汚物を眺めるような目をしている。
 凄くくだらない。こんなものはオナニーだ。
 何が芸術だ。え? 糞親父。
 母を捨て私を捨て、自分の命さえ辿りついた場所が、これか。
 こんなちっぽけな終着点か。
 憎みつつも、心の底から死を惜しんだ父親が、虫ケラに見えて仕方がない。好きなものに命を捨てて満足、それはそれでアリなのかも分からないし、信念に殉じた者の末路にあれこれ言うのが無粋なのは認めてもいい。
 でも侮辱する。
 ジュネシスはあんなにも凄まじいのに、この甲斐性無しの唐変木ときたら。
 ジュネシスは、この父とは全く違う。
 素行のすべてが芸術のようだ。
 生きているだけで、息を吸って吐くように人の命を踏み台にする。
 圧倒的な能力を以って、好き放題にする姿が美しかった。
 芸術に身を捧げるのなら、この境地まで来ればいい。いや、ジュネシスほどを父に求めるのは酷だとしても、糞尿を垂れながら首を括っている姿は、あまりに醜態ではないか。
 この老人に描いてもらうくらいなら、おまえがこの爺を殺して描けばよかったのに。
 以前の私に軽口だとしてもこんな冷酷な発想が生まれ得ただろうか?
 疑問に感じる頭も、冷え切っている。危機感も何もなく、黙々と吊り下がる負け犬を眺めている。
 たまに、父の師匠である老人の方に目を運ばせる。
 こんな愚物を喜んで描いてるくらいなのだから、この男の器もたかが知れてるものなんだろうな。
 母もそうだ。馬鹿に人生を狂わせられる者は、もっと致命的な馬鹿ということ。
 ここまで酷い発想が浮かんでも、危機感をまるで感じない。麻酔のように。ジュネシスの、存在が。
 自分が自分でなくなっていく。
 私がべつのなにかになっていく?
 外道か、血も涙もない狂人にか。――あれほど忌み嫌っていた「芸術」狂い。
 今なら、少なくとも、芸術に魅せられる気持ちは分かる。受け入れることはしない、としても。
――本当に?
 本当に――そう、受け入れはしない。ただ、私は、下らないと断じるだけ。

「本当に、かな」

 本当に――そう、あなたを知ったことが、そもそもの、そもそもだ。
 ジュネシス。
 改めて、目の前に現れた威容に目を奪われる。血のような真紅が、ワインを注いだように、花開く立ち姿。
 老芸術家と父の遺体が、更に下らない物体に見える、ということはなかった。
 異物はまったく視界に入らないからだ。強大な存在感は、周りを光色に塗り潰したいらにする。
「その手に持つものが、一定の質量を持った、自然分解しがたい憎悪の塊などではなく、気紛れに持ったものだとすれば、そうだろうけど」
 これは、明晰夢。重要なことで、私の心で直に赴くままに出来るということを忘れてはならない。
 だからこそ、私の手にある拳銃には意味がある。
 私がこれを使って、何をしたいのか。
 ジュネシスを使って、何を自問自答したいか。
「使い方くらい、分かっている」
「何に使いたいかということも分かってる」
「ただ、本当に「それ」に足りる?」
「この老人はそれに足りる? 私の心も、足りている?」
「この老人を、ゴミだと思っている」
「蛆だと思っている」
「蚤だと思っている」
「ちっぽけな父を使って、ちっぽけな自己満足を満たすだけの、芸術家もどきだと思っている」
「ただ見下してそれで終わり、本当にそれでいいの? って感じてる」
「殺すには意志が足りない」
「殺さないには意志が足りない」
「これっぽっちの殺意で人なんて殺せないし」
「これっぽっちの殺意でも私が捨てきれるかどうか」
「本当にあなたは、些細な事で迷っている」
 まくしたてた私の言葉に、割り込むジュネシス。それでも、不快さはない。
 止められなければ、延々とまくしたてて、話しの中身自体が有耶無耶になっていた、という自覚があるから。
 むしろ、期待通り望み通り、私の考えを超える回答をくれると確信できて嬉しかった。
「私があなたなら、殺しているね」
「今言ったような、中途半端な気持ちでも?」
「中途半端、そうは思わない。私=あなたにとって、存在していて得ではないことがはっきりしている」
「ただそれだけで、あなたは、人を殺せる?」
「厳密には、私の中の基準では、この老人は殺すに値する。という事情もある」
「基準?」
「語らないよ」
「そう」
「ただ、殺すことで、少しの価値を拾えそうなことなら、私は躊躇しない」
 こんな、気分が黒く潰される内容だとしても、会話の違和感が拭い去られることは気持ちがいい。
 命の価値が、あまりにも違う。人命の扱いの軽さが違う。
 私が、殺意の弱さを理由に躊躇しているその時、ジュネシスは其処にはいない。自分がバカに思えてくる。
 そうじゃない、あっちが異常なんだ。必死に心に刻み付ける理性はともかく、これがジュネシス。
 父に対し、どうせ芸術に身をやつすぐらいならば、ジュネシスぐらいは徹底すればいい。吐き捨てた唾を、飲み込めたものでないと思える、脅威。
 考えられなかったし、思いつきもしない。
 少しの心の隙間でも、他人の命で埋まるものなら、埋めてしまえばいいと。
「ところで、ベルーナ。あなたが手を下さないようなら、私が彼を始末しようと思う」
「どうして?」
「どうして、というほどのことかは分からない。老人の行いが、個人的に見苦しい」
 常は、無言で実行する男。有言で実行する機会が殆どないことは、私の心臓に、実に優しいことなのだと思い知った。
 血のように紅い剣を取り出す。
 肘を引き、老人に切っ先を向けた。ひ、と女の声をあげる老芸術家。
 私の右手には拳銃。
 戸惑う手。
 じとつく手。
 腕だけで物事を考えたようにして、銃をまっすぐに跳ね上げ、
 私は、
 
  
 
 最悪の気分で起床の覚醒をすることがある。そんな時、頭の中で、ゴムを絞ったような不協和音が鳴り響く。私だけの経験だろうか。
 目やにの、違和感。でも瞼は擦らず、見開く。明け方色の青に照らされる、赤尽くめがあったからだ。
 私が目を覚ます前に、早々と、この場を去ろうとしていたらしい、ジュネシス。
 特に怒りは湧かなかった。別段、怒るようなことでもない。
 ただ、私が目を覚ます瞬間に居合わせたことが、僥倖であって、咄嗟に口をついた言葉を抑えようとさえ思わなかった。
「あなたは、人間?」
 受け取りようによっては、ひどく侮蔑的な。
 そこに立つ者の根元を覆してしまうような。
「人からあなたは生まれたの?」
 どうしても明らかにしたいと思える、「何か」。
「私の知る「人間」は、そんなに迅くない」
「私の知る「人間」は、そんなに聡くない」
「人には粗がある。罅がある。綻びがある。脆さがある」
「私の知る「人間」に、あんな、熱の差さない笑顔はできない」
 きっと、何とかして、遠くに置いてしまいたいんだろう。あまりに紅い存在を。
 もし、人であれば、憧れてしまうから。
 私にもこんな力が。
 私にもこんな自由が。生き方が。
 勘違いだと自覚しながら暴走する、そんな苦痛が想像できてしまう。それは弱さなのか愚かしさなのか。答えを出すまでもなく、腕を足を絡め取る見えない蜘蛛の巣。
 もがくのは、今日の今で終わり。根拠のない確信。
 相変わらずに、整った輪郭。水彩画の眩さの容貌が、くっきりと闇に浮かぶ。
 無表情。
 触れれば凍て付き指を落としそうな顔にも、氷には氷の、美麗さがあり尊さがある。女顔の男。秀麗な女。一級の剣士である以上に、隙がなく髪がゆらりと揺れる。
 明けを待つ夜光に矛盾する。
 青に真紅が矛盾する。
 砂金が混じるように、煌く唇。映す色気と沈黙の閉塞。
 あらん限りの矛盾が男に詰められていた。
 人である、はずがない。
 魔物や、悪魔。期待する答え――優しい回答。神だと答えてもそれはそれで優しいし、きっと笑わない。
 けれども、実際のそれは、私にわかりやすい場所になく。
 
「結論を先に言うと、私が人間かどうかは、あなたの受け取り様でしかない。人間をベースに、改造を施された者なのだから」

 きっと、怪我の治療の礼の範疇に入っている。だからこそ恐らくは言葉に偽りの意図はない。
 自分が人間であるかどうか、あれほど興味がなさそうだった男が、丁寧に出自を交えて解説しようとしている。ある程度の信用を覚えてもいいところではあった。通常なら。
 あまりの突拍子もなさに、簡単には飲み込めないではいた。いや、先ほどまで、ジュネシスが神だと名乗ったとしても受け入れるような意図を浮かべておいて、いきなり懐疑的になる話もない気はするが、とにかく引っかかることだった。
 それでも、話に引き込まれ、疑惑が脳外に描き消えていくのは早く。
「エルフォード一族、というものがある」
「エルフォード一族?」
「暗殺者の血統。遺伝子の時点から、殺人に適した一族を開発し、殺人鬼としての教育を施す」
「あなたの父も、母も、祖父も、祖母も、暗殺者」
「叔父も叔母も曽祖父も曾祖母も、暗殺者」
「気分を害するかもしれないけど、からかってる?」
「無理はない思考だと思う。但し、そう思うようなら、話を続ける意味はなくなる」
「続けて欲しい」
「私は、その暗殺者一族の出ゆえに、この身に決して少なくはない、超人としての調整を受けている。学術的に、人類とカテゴライズ出来るかどうかが分からないほどに」
「あの、あまりにも冷徹で速すぎる動きが、その成果?」
「そうなる」
「手先の器用さや、有り得ない耳のよさも?」
「ああ」
「エルフォード一族には、あなたのような者が、たくさんいる?」
 刃物で切り落とした会話。ジュネシスの一方的な切断が、私に時間を与えてくれたのだと解釈できた。それほどまでに、踊らされているのかどうか。
 ああ、でも――「材料」でしかないのか。人間である。人間ではない。決めつけられた答えはない。
 ただ与えられるだけの回答を求めることは温いというように。
 ただこれだけの材料で、焦がれを断たなければならない。ジュネシスと共にいた刺激を、忘れなければならない、この身になって欲しい。
 芸術というものに対するコンプレックスを、砕き散らしてのけた男に向ける、逆恨みめいた感情。
 初めてこちらを見た気さえする視線に飲み込まれそうになる。
 涼やかな眼。感情のない双眸が私のそれに正面から絡み、背を舐める。
 どんな場所から、見つめている?
 真正面の男に向けた疑念。
「主張しておくと、私にとって、エルフォードの出であることに深い意味はない。人が私をカテゴライズしたとしても、多少の興味は湧いたとしても、意味は感じない」
 静かに。
「私のような者は、私だけだよ。そうありたいとも思う」
 静かだった。
 人の価値観を大きく塗り替えたとしても、尾首にも出さない。些細事にして、他人事。髪も、瞳も、気配さえもがそう言っている。
 この男の存在以上の、刺激というものも、想像のつきようがなくなった。だからこそ憎しみを篭める。
 悔いのないように、心底からの言葉を吐く。
 去りゆく背中にぶつける。

「ジュネシス。あなたはこうやって、出会う人間すべての人生を歪めていくのだろうね」


 この日の朝。ベルーナ・ランフォートは全ての部下に、「スナッチ・アルゴリズム」の解散を告げた。
 直後に昨日の襲撃から生き残った3人は、ベルーナの手で屍を其処に晒した。


9 :霧崎 魅影 :2011/04/25(月) 00:57:42 ID:scVczFncVG

Comma(現在)

 視線に対し、静寂を。吐息に対し、静寂を。
 少女は、辟易していた。桜色の明色を持つ髪に似合わず、口を一文字に結ぶ少女。小学生ほどの容姿に、吊り合わない皺を眉間に浮かべた、エメラルド・ストリームピアス。
 皮膚への負荷(ストレス)が、ホテルの空調以上にも以下にもなり得ない空間をして、鳩尾の下に黒くわだかまる。
 同室者。
 何も語らないからこそ、発生する圧力というものは確かにあり、山のように積みあがった書物に、ほぼ半身を隠されていようとも同様。
 埃と懐古の匂いを同時に漂わせそうな書物。分厚く、日焼けが円形に広がっている。
 意匠を凝らした樫のテーブルが、頼りなくも健気に見える。
 中心に陣取り、ソファーに腰を沈めつつ、書を撫でるように捲る指が桐細工に映るほどには、繊細にして静寂。
 植物。エメラルドが知る、何時間、何日と変質することのない、彼の態度のみを取り上げた印象ではない。朱の唇にしろ、長い睫毛にしろ、皮膚の陶磁色の白が澄めば澄むほど蒼が彩る血管までもが静けさを纏った。
 しかし静寂と平穏は必ずしも同居するだろうか?
 エメラルドは、視界の中に、平和を一点たりとも見つけられずにいた。同時に思う。平穏ではあったかもしれず、平和とは必ずしも共存しないらしいことを。

 ジュネシス・J・エルフォードは。

 頭髪双眸上下着衣。くまなく紅い男であったが、無臭でありながら鼻からの一吸いで、大脳辺縁系までが吸気に浸されて泥酔しうる、血の気配。
 常に顔に貼り付けた無表情の重みとは、どれほどのものであろうか。エメラルドが、辟易する。負けまいと無意識に腿をつねる。ジュネシスの吐息に合わせて、吸気してはいけない。自身に打ち立てたルールの重量は、彼女以外の知る由ではないが、器量という漏斗だけで人の肺いっぱいを埋め尽くし注ぎ込むジュネシスは理不尽そのものでしかなかった。
 青年の中性が、動きひとつ取らず空気を曲げる。彫り細工の美男。硝子細工の美女。しかし人類の形状には到底見えなかった。
 外見が矛盾する。視覚に躊躇無く矛盾する。
 赤尽くめの暗殺者。

「ジュネシス」

 それでも、名前を呼ぶ。いや―――「だから」名前を呼ぶ。
 誘蛾の響きで名前を呼ぶ。今、何よりも呼びたくないからこそ呼んだ。矛盾が少女の舌すらを捻じ曲げ、それを彼女自身が認めようとしないのか。若しくは、先述の表現が無礼にあたるほど、強い意志が篭められていてか。

「ジュネシス」

 紅い名を二度、呼ぶ。今にも膨れ上がりそうなものを、細め、刺すような吐息と横並びの言葉。
 くどい、と思われたとして、呼ばれた側が呼んだ側への注意を強めることは事実。エメラルドの狙いとは、真紅の両眼を自身に向けさせることであり、ジュネシスにそれを拒む理由がない以上は、少女の願望は叶った。
 この所作において、ジュネシスはエメラルドの理解の範疇に降りたことになり、エメラルドが思うところは一点、いつまでその場所に足をつけていてくれるのか、になる。

「正義と悪が“何か”って、僕に、教えてくれた」
「教えたね」
「―――ざんこく、すぎるよ」
「残酷」
「だって、正義って、“その人”そのもののこと、だよネ?」
「・・・・・」
「正義がひとつじゃなければ、戦いは無くならないけれど、正義をひとつにするには、みんな“その人”じゃないといけない―――」
「・・・・・」
「ジュネシス。この世界って、ホントは、蟻一匹棲めないんじゃないかな?」
「・・・・・」
「こんなざんこくなことに、僕は、今まで気付かなかったのカナ?」
「・・・・・」
「世の中って、こんなに怖かったのかな……」
「怖いよ」

 それに繋ぐ言葉は奇怪を極める。エメラルドには、特に。

「君自身が。まあ―――私も、か」

 本を置くほどには、話題に興味を持ったのか。しかし喉を潤すことを忘れないほどには、話題に気を引かれていないのか。
 所作のすべてが、存在を主張する青年。エメラルドが恐れる理由も、避けたい理由も、正面から向き合う他ない理由も全て詰まり、曖昧で定型がない。から、と反響音。ミネラルウォーターの中を泳ぐ氷が、グラスを叩く音は聞き慣れている。とはいえ、そのグラスをジュネシスが手にしていることに慣れようがない。
 嫌だと訴えようとも、目を合わせるのはエメラルドの意思だ。

 少女は由縁ありジュネシス・J・エルフォードを師としている。
 しかし解らない。人に『焼きつく』才能とは、如何に手に入れ、どう磨くべきか。

「人は一人一人が全て異なるゆえに、隅々まで行き届いた正義の中では、確かに蟻も棲めない。正確には、容赦されないことも、ある」
「……」
「容赦が為されない条件なりタイミングなりを、蟻――としておこう――が正確に理解できないとすれば、まあ、“棲めない”と言い換えてもいい」
「……うん」
「しかし―――蟻の一匹にも容赦しない者は、私と君の他に、そうはいないよ」
「えっ―――」
「君は、私と自身の“世界”を念頭に置いたために、残酷という感想を出したのだよ。そうだね、今度は人の価値観についての学習を広げようか」
「……僕、は、」
「残酷だよ。君が私に対して感じている、それに匹敵するほどには」

 ここから、エメラルドが何かを口にしようとするたび、意思と口の動きの連携が取れず、幾度も金魚のごとく口をぱくぱくとするようになる。
 皮膚から抜け落ちた色が、唇と対比され、一種、滑稽にさえ見えた。

「そんなっ……こと」
「……まあ」
「……」
「君がそこまで“自身に”怯えることは、まだ、ないと思うよ。残酷さを成り立たせるには―――相応の、何かしらの“パワー”が必要となる」
「ジュネシスは」

 色が戻る。エメラルドの顔に。
 色が集まる。エメラルドの両手に。
 巻きつく細枝の手が、白い細首に、ジュネシスのそれにかかっていた。

「つまりジュネシスは強くて残酷、ってことだよネ」
「……ある程度は、そうだね。そう持ち上げるものでも、つもりもないが」
「いや、ジュネシスは強いよ。ジュネシスより強くて、怖くて、冷たくて、酷くて、いちゃいけない。そんなヒトほかに知らないし、いないよ。いないに決まってるヨ。ねえ僕がざんこくって思うのは、ジュネシスがいて、そこからジュネシスが広がって、誰も僕もいられなくなっちゃうこと。ずっとずっと前からわかってたんだ。僕はさ、ぜったいにさ、ジュネシスの世界には棲めない」

 エメラルドは、何の予兆もなく噴出した怒りを、怒りとさえ認識しているだろうか?
 黒い瞳に映りこむ、赤髪も赤目も、墨汁に漬けたかのごとく光沢を失った。そう錯覚させる。
 錯覚ぐらいは、させるだろう。逸らさない視線は紅い世界のために。漆黒が、吸収するべく。紅い視線の冷感がおぞましいほど静かであれば、深い闇は一切の音を反響しない。
 何よりも強い主張だ。エメラルドの両の親指は、頚動脈と静脈とを捉え、力一杯に押す。いっそ顎骨の内側で潰そうとするほど。
 すりあげる両手の感触は艶やかで、髭剃りなどの跡を感じさせず、触感からさえ中性を意識させる。白い肌。絞り上げているせいで、僅かに朱が注し、ゆえに全身を纏う真紅とは、更に違う鮮やかさを演じてのけた。

 総じて束ねる。だから、殺したい。

 ジュネシスの言は的を得ており、エメラルドは確かに、自己を恐れていた。おびえていた。世の残酷さを徹底的に呪う少女である。呪うだけの体験に人格が積み上がっている。
 だからこそ残酷さを許してはいけない。
 ジュネシス・J・エルフォードの。暗殺者エルフォード一族の。それを。

「ジュネシス。ひとこと、“許して”って言ってよ」

 残酷さを討滅するための残酷さを身につける、ならばいい。エメラルドの自覚は、断じてそれほど小奇麗で、正当で、明快で、合理的で、冷静なものではないことが問題だ。
 酷いものに対して酷くありたいだけだとしたら。
 何故、こうも、エメラルド・ストリームピアスは。年の頃11にすぎない少女の顔は、きつく締め上げる両手と同じぐらいの白を保ちながら、表情ひとつ浮かべず、膝を抱えて震える自身を胸の内に隠すのだろうか。

「ねえ――命乞い――してみてよ?」

 だが彼女は知る。自分に感じる恐怖とは、やはり未成熟に過ぎなかった。
 本当に怖いモノ。震えた胸がペンチで抉られるような。痛みに押し負けて、自殺道具に頼ることなく命を落としてしまうのではないか。
 右肩に触れる手。ジュネシスの白磁が少し撫でただけで、自分の制御さえ外れていた両手が、ネジを緩めたように自然と外れた。
 これまでの震えとは別種の震えがエメラルドを支配するまでは時間がかからなかった。
 何という、馬鹿なことを。どうして、よりにもよって、ジュネシスを絞め殺そうとしてしまったのか?

「そうだよ」

 青年の声は氷が反響するグラスにも似る。

「君はきっと、私が導くまでもなく、そうあり続ける」

 白磁の左手に摘まれたものは何だろうか。
 エメラルドの心臓が、どくんと一度だけ響く。鼓膜を直接叩くような音に、つられて左の揉み上げを撫でた。
 桜色の、十数本ほどの糸が房になっていた。初見の印象はそれであり、指の周辺に注視しただけでは、そこ止まりであった。
 エメラルドの左手にこびりついた、血。全く同じ色が、ジュネシスの持つ桜色の先にも。
 途端、視界が斜めになる。

「ぃ、あ―――」

 唇から出たものを、声と言っていいかどうか。呻きとも唸りとも言えそうなそれのみを出し、血の気が引いた。
 エメラルドは、ソファーから立ち上がった際に、テーブルが腿を強打した痛みを意に介することなく、吐き気のままに洗面所に駈け出した。
 見送るジュネシスの瞳に表情は浮かばない。
 揺らいだ書物を、僅かに手で制すのみで、抑える。

「エルフォードを憎悪し、ジュネシスを憎悪し、問題は何処に辿り着くか――かな」

 彼の指が僅かに跳ね、桃色の髪と、その先に繋がったものとがゴミ箱に捨てられた。



【序章完】


novel plaza system
甘辛流小説家ギルドGAIA
produced by COLUN.