エンブレイス・オア・キル


1 :高岡書幹 :2007/05/30(水) 01:21:05 ID:mcLmt7P7

前回の投稿が2000年10月13日……
なんと、実に6年半ぶりの投稿となります。
ここに出入りしてなかっただけで、ぼちぼち修練は積んでいました。
以前の作品と読み比べていただけると面白いかもしれません。

今回は、二人芝居のような雰囲気の、青春小説です。
ストーリーは、高校生の「僕」と早野優希が、
二人にしか分からない会話を交わす過程で、絆を深めていく話……
とでも言うべきでしょうか。
早めの更新を心がけていきますので、どうぞ最後までお楽しみ下さい。

ちなみに、「エンブレイス」とは、英語の「embrace」で、
「抱き締める」或いは「包み込む」という意味です。


2 :高岡書幹 :2007/05/30(水) 01:26:11 ID:mcLmt7P7

scene1

 最初のチャイムは鳴らない。
 大事な音を、今日の僕はまだ何も聞いていない。
 軽く、硬質の音と共に、シャーペンの頭が掘削を繰り返す。その度ごとに不安げに浮い
た芯がだんだん長くなり、そしてまた一本ポトリ、と落ちた。
 まだ一人の、早朝の教室に響くのは、僕自身が鳴らす無意味な音だけだ。開いたノート
の上には、その音の結果が二、三本転がっている。
 後何本、この中に入っているのだろうか。普段から多めに入れているので、まだ二本ぐ
らいはあるだろうか。そもそも、こんなことをせずに早く書くべきことを書いてしまわな
いといけないのだが、あれからずっと、このページを埋める気にならない。
 ノートの右隅には、数を示す「正」の文字が二文字と、一画足りない不完全な「正」が
取り残されていた。
 十四日。まだ二週間だが、もう二週間だ。待つには短いが、思い焦がれるには長過ぎ
る。
 芯が落ち、親指の手応えが軽くなった。どうやら今のが最後だったらしい。こんなこと
をしている場合じゃない。キャップを外し、転がっている芯を一本ずつ元に戻す。
 あと三十分もすれば誰かが来てしまうだろう。そうなればこんなはた迷惑な音も立てら
れなくなる。昨日も「書きもしないのにうるさい」と、二番乗りで入って来た奴に指摘さ
れてしまった。
 そう言えば、彼女はどうだったのだろう。自分を含まない雑音に、不安を感じたり、自
分の領域を侵されたような脅威を感じたりすることはあったのだろうか。それとも、彼女
の場合は、雑音の中に自分が含まれていない方が幸せを感じられていたのだろうか……
 雲間に陽が滑り込み、白く照らされていた教室が灰色に変わる。
 僕の親指が、またせわしなく動き始めた。


3 :高岡書幹 :2007/05/30(水) 01:39:06 ID:mcLmt7P7

scene2

 二学期最初の席替えで、彼女の横顔を間近で毎日見ることになった時、僕はこの高校に
入学して以来、最大の不安を抱えることになった。
 彼女は、美人だ。校則ぎりぎりの長さで止まるセミロングの髪と、少し気弱なカーブを
描く瞼だけでも、大抵の男子を一目でギブアップさせてしまうぐらいの力はあると思う。
 その横顔を授業中いつでも見られるというのは、特別な感情を抱いていなくても、まあ
悪いことじゃない。悪いことじゃないのだ……「あれ」さえ無ければ。

 一時間目が終わった後、物理の教科書を整理しながら、僕は彼女の横顔を目の端だけで
ちらりと見る。またたく間に会話を楽しむ人の塊が幾つもできていく中、彼女は開きっ放
しになっている手元のノートを、微動だにしないまま見つめていた。
 まずい、と反射的に思う。授業中の彼女は至って普通で、むしろ静か過ぎるぐらいだ。
だが、一週間に一度ぐらいの割合だろうか、休憩時間に限り、その性格が一変してしまう
ことがある。特に、あんな風に身動ぎ一つしない時はそうなってしまう確率が高いのだ
が……

 と、突然、彼女が勢いをつけて立ち上がった。やはり、今日だ。僕は目を伏せ、彼女の
ターゲットにならないよう、静かに教科書を机の中にしまい始めた。
 彼女は、立ち上がったまま動かない。「被害者」になるべき人間を見定めているのだろ
うか。
 来るなよ。こっちに来たって何もしてやれないからな。来るな、来るな……
 そう念じ続けていた僕の耳に、離れていく足音が聞こえる。良かった、僕じゃない。
 だが立ち止まった足音は、僕のすぐ右後ろだった。
 ……来たか?
 思った直後、こんな話し声が聞こえてきた。
「ねえ、明日は晴れると思う?」
 声は僕の方を向いていない。良かった。セーフだ。
 目立たないようにそっと振り返ると、立ち上ろうとした瞬間だったのだろうか、右後ろ
の席の女子が、随分苦しそうな角度で両膝の関節を僅かに曲げたまま、今にも腰を落下さ
せそうな姿勢で立っている。

 始まってしまった。
 その一言で、ざわざわと騒がしかった教室が、突然声のトーンを落とした。素早く盗み
見ると、女子三人のグループの中に彼女が割り込んでいる。
「天気予報じゃ雨のち曇りとか言ってたけど、それってずっと雲がかかってるってことな
のかな?ときどきでもいいから晴れがあった方がいいと思うんだけどさ、どう思う?」
 知るか。
 心の中で反論する僕と同じ感想を持っただろう三人は、戸惑いをこらえたような表情を
浮かべつつ、それぞれ曖昧に相槌を打つだけだった。

「また変なこと言ってるぜ」
 隣に立っていた友人が、聞こえないように気をつけながら小声で話しかけてきた。
「普通に話すこともあるけどな」
 僕が同じくらいの小声で、返す。
「でも、ありゃあ駄目だろ。いくら可愛くても」
「まあ、それは」
 僕は腕組みをする。駄目というのは、当然好きだ嫌いだという相手として見られないと
いう意味だ。

 何がきっかけかは分からないが、彼女にはこうして唐突に話し始める癖があった。
 単純に言えば、「おしゃべり」になる。
 勿論、それだけなら実害はない。問題はその傾向だ。既に話題は天候を通り過ぎ、最近
発売された洗顔料のことへと飛躍していた。
 たいていの女子は、現状の彼女達のように、苦笑いを浮かべながら適当に相づちを打
ち、周囲の人間は何をするでもなくただ気の毒そうに見ているといった状況になりがち
だ。
 無理もない。今まで挨拶もしたことがない奴にでも、前略の断りも拝啓の一言もなくい
きなり話し掛けてくる。その上、話題が前触れも無く変わるから、会話に割り込もうにも
引っ掛かる所がない。
 美人だが、頭がいかれている。神経症だ。いや、二重人格だ。説は様々だが、少なくと
も彼女を正常な人間として見ている奴は誰もいなかったし、僕自身、毎日のように生まれ
る「被害者」を、こんな風に友人と話しながら、こっそり視界の隅で見ているだけだっ
た。
 だが、今日から僕は、そんな彼女の隣に座ることになった。それは、休み時間の度に狙
われやしないかとびくびくしなければならないことを意味している。
 早野、優希。
 その変わった行動を取る女の子は、しかしそんなありふれた名前だった。

「あいつに話しかけられたこと、あるか?」
 友人の問いに、僕は少し首をかしげ、
「ない」
と短く答えた。
「でも早野って、やっぱり男には話しかけないんだな」
「いや、中井は突撃喰らってた」
「何で?」
「さあ。近くにいたからじゃないか?」
「……不運だな」
 友人がため息をつく。彼女はあの馴れ馴れしさで男子に話しかけることは滅多にない。
上手く行けば次の席替えまで、横顔だけ見て終わり、という可能性だってある。
そうなればこの上ない幸せだ。大袈裟な言い方かも知れないが、下手に邪推されて、こん
な妙な奴仲がいいなどと思われた日には、無理に視力を落としてでも最前列の奴と席を替
わってもらったほうがましなくらいだとまで考えている。僕だけじゃない、恐らくはクラ
ス中の生徒が。
 まあ、気にしすぎても、戦う前から負けているような気持ちになるだけで、かえって精
神衛生上良くない。男は女よりはるかに安全だし、おそらくは大丈夫だろう。
 そう思い込もうとした、この席替え初日。甘い予想は、ものの見事に打ち砕かれた。

 三時間目が終わってしばらく後、早野が席を立って、僕の方を見たのだ。
 今日は既に「被害者」が出ていたこともあって、油断しきっていた僕は、彼女とまとも
に目が合ってしまった。
 まずい、と思ったが遅かった。目を反らそうとしたが、そうさせまいとするかのよう
に、早野は立ったまま僕の目を真正面から見抜いて、この上なく無邪気な笑顔をくれたの
だ。
 僕は思わず固まってしまい、視線だけを所在無さげに動かすより他なく、逃げなければ
と思ったのと、彼女が僕の座っている前に立つのはほぼ同時だった。
 突撃を、喰らってしまった。

 やるせない思いが胸に芽生えた僕をよそに、彼女は立ち止まるなり、こんなことを言っ
た。
「ねえ。水たまりって、好き?」
「え……?」
 何のなぞなぞだよ。
 内心僕は毒づいた。昨日は雨だったから、そのことに関係があるのだろうという予想は
すぐに立てられたが、それ以上の思惑は掴めない。
 だが彼女の悪意のかけらもない目を見ていると、どんな言葉を返しても頷かれそうな気
がする。いや、そもそも頷くのだろうか。遠目で盗み見た限りでは、会話はほとんど成り
立っていなかったように見えたが……
 そんな僕の思考経路とはお構いなしに、彼女は更に語りかけてくる。
「ねえ。どう? 私、今はあんまり好きじゃないけど、小さい頃は好きだったな。長靴は
いてたからかな? 長靴って、高校じゃ禁止なんだよね。あれ、オーケーの学校が増えた
らもっと靴屋さんも儲かるんじゃないかなって思うんだけど。どう思う?」
 だから、知るか。
 まくし立てられる間に、周囲をちらちらと見てみる。どのグループもまるで気にしてな
いような素振りだが、誰一人として完全にはこちらに背を向けていない。

 早くもうんざりしそうになるのを抑え、とにかく何か言おうと、とっさに口をついて出
た言葉をそのまま出した。
「そう思う」
 どうでもいい言葉だ。気のない相づちと全く変わらない。だが、ここで思いもかけない
ことになった。
 彼女がはっと胸を突かれたように固まってしまったのだ。
 何かまずいことでも言ってしまったのだろうか。いや、返答としては普通だから、これ
は僕の態度に対するリアクションなのだろうか。
「どうかした?」
 考えている過程を表に出さないよう、平坦な口調を壊さずにそっと訊いてみる。彼女
は、
「ううん」
と呟くように返して、そのまま視線を足下に向けた。想像の範囲内だったとはいえ、突然
こうなられてはどうしようもない。

 ふと意識を切ると、周囲のこちらを窺う視線が、否が応にも感じられる。
 このまま放っておくことができたらどんなに楽だろうか。いつでもこちらとの関係を切
ることが出来るよう、その体勢を既に作り上げつつある、この連中のように。
 僕は、黙って俯いたままの早野の顔を下から覗き見た。さらりと落ちた髪の隙間から、
物憂げな目が垣間見え、その目が微かに光を宿しているのが見えた。
 泣いている?
 反射的に、これは自分が原因かも知れないと思ってしまった。
 この時点で、僕はもう無関係な気持ちを装うことが出来なくなった。
 そうなれば、僕はこう言うしかない。彼女の顔を見上げたまま、気持ちのままに。
「ごめん」
 びくん、と彼女の体が震える。僕は構わず言葉を続けた。
「突然色々言われたから、何言ったらいいか分からなくて。適当に答えて、ごめん」
 我ながら素直過ぎる打ち明けに、しかし彼女は何も言わない。ただ黙って、ゆっくりと
顔を上げた。
「ありがとう」
 髪が睫毛と頬にかかったまま、彼女は僕を見て、静かな笑顔でそう言った。
 いや、と言おうとした瞬間に、チャイムの音が教室に響いた。
 慌ただしく皆が席に着く。先程まで視線を向けていたのが嘘のように、もう僕達二人の
ことなど誰も気にしていないかのようだった。
 煩わしかった筈の視線が消えて、逆に所在がなくなってしまった僕も、仕方なく周りに
合わせて自分の席に着くことにする。
 隣を見ると、席に着いた早野が、潤んだ目のままでこちらを向いた。
 そして、先程僕に話し掛けた時と同じ、あの可憐で、悪意のない笑みをもう一度僕に
くれたのだった。


4 :高岡書幹 :2007/05/31(木) 01:08:39 ID:mcLmt7P7

scene3

 放課後の高校には、大きく分けて二通りの人種がいる。目的地に急いでいる奴と、人を
捜している奴だ。
 前者は部活か、もしくは居残り。後者は、様々な理由があるが、大抵事前にしていた何
らかの約束を果たそうとしている場合が圧倒的に多い。
 だが、そのどちらにも属さない少数派もいる。
 僕のような、帰宅部だ。
 特にそうなりたいわけではなかったが、一学期中にどの部活に入るか決められなかった
ため、結果的にこうなってしまった。我ながら優柔不断だと思うこともあるが、そう思っ
た時は、これといって興味を引く部活がなかっただけだと言い聞かせることにしていた。
言い訳がましいのも僕の悪い癖だが、そうでも思わないと、一人で帰るのは、やはり少し
淋しい。

 この日も、真っ直ぐ家に帰るつもりでいつもと同じように身支度を整え、適当に周りと
挨拶を交わしながら教室を出た。
 今日は災難だった。席替え早々あの早野の被害に遭ってしまったのだから。だが、一回
話しかけられればしばらくは大丈夫だろう。いちいち勘定していないから確かには分から
ないが、同じ人間が連続で話しかけられたことは無かったはずだ。
 階段を下り、廊下を歩く。僅かにオレンジ色が混ざった、暖かみのある日差しが、窓枠
の影を長く伸ばしている。
 そして、足早にグラウンドへと急ぐジャージの集団を邪魔しないよう、適度に気を遣い
ながら靴箱の方へと向かう。と、身長ほどある靴箱の陰から、スカートの裾が留まってい
るのを見つけた。

 誰がいたとしても、毎日一人で帰る僕が気にする必要などないはずなのだが、その裾が
どうにも気になって仕方がない。
 歩くペースを変えることなく近づいていく。確証もないのに、逸る気持ちに足取りを合
わせたくはなかった。
 もう少しで顔の見える位置まで辿り着く、という所で、スカートの主がひょこっとこち
らに顔を出した。
 早野だった。

「あ」
 早野が短く声を上げる。どうやら僕を待っていたらしい。
「あ、えーと、じゃあ」
 気付かない素振りで靴を取りに行こうとする。もうこれ以上関わらないでくれ。全身で
それを表現しているつもりだった。
「待って」
 僕の背中に、早野の声。やはりそう上手くいくはずはなかった。声の調子で遠慮するべ
きか否かを判断する神経があれば、誰彼構わず話しかけたりはしない。分かってはいるの
だが。
「何?」
 いかにも面倒な声で答えておく。ここで捕まったらまずい。休憩時間はチャイムがある
が、放課後は無制限だ。引き分けに持ち込めないのでは分が悪すぎる。
 だが、彼女の口から聞かれたのは意外な言葉だった。
「ばいばい」
 甘く、耳を撫でるような声だった。普段からざらついた声ではないが、媚びているので
はないかと思ったほどだ。
「うん……それじゃ」
 驚いているのを隠して小声でそれだけ言うと、僕はさっさと靴箱から靴を落とした。そ
のすぐ側には、早野の物と思われる通学靴が置いてある。背中に視線を感じながら、急い
で僕は靴を履いた。

 振り返ることなく外に出たものの、どうも後ろが気になって仕方がない。中庭を横切っ
て校門まで来た時、僕はそっと後ろを振り返って、思わず身を固くした。
 早野がいる。しかも、真後ろに。
 僕の二、三メートル後ろ、他人の振りも出来そうにない距離で、視線をこちらに向けた
まま、何の頓着もなくこちらに近づいてくる。
 何で僕につきまとうんだ。話す気がないのならもう用は無いだろう。頼むから早く帰っ
てくれ。僕なんかに構ったって何の得もないのに……
 早野がどんどん近くなる。どうする。どうしよう。用事を思い出した、とか。忘れ物、
とか。そんな理由を無理やり自分につけて、この振り返った勢いのまま教室まで戻ろう
か。
 などと考えている間に、早野が目の前に来た。
(……まずい)
 そのまま僕の横を通り過ぎて、校門をくぐった。
(あれ?)
 校門を出て、右に曲がった。
(……そうか)
 同じタイミングで、帰路についただけだったらしい。それもそうだ。意味は分からなか
ったが、僕に礼を述べるために待っていたのなら、それが終われば帰るだけだろう。
 自意識過剰。
 馬鹿みたいな話だ。だいたい僕は何をこんなに怖れているのだろう。話しかけられた
ら、用事があると言えばいいだけのことじゃないか。

 慌てて踵を返し、校門を右に曲がる。追っているわけではない。ここまでは同じ道なの
だ。
 と、早野が突然立ち止まった。なんだ、と思う暇もなく彼女がこちらを振り返った。
 視線がぶつかる。
「あの」
 反射的に声が出た。しまった、と思った。何でここまで来て自分から墓穴を掘るような
ことをするんだ。
 彼女が、少し首を傾げた。こうなったらしょうがない。何か喋らないと。
「帰り道、こっち?」
 頷く早野。何を言ってるんだ、僕は。
「そうか。……僕もだ」
 小粒の汗が顎を伝っていくのを感じる。話が妙な方向に向かっている。修正だ。何でも
いいから、立て直さないと。
「いや、まあ、それだけ」
 違う。これじゃあただの情報提供だ。どっちが変なやつか分からなくなってしまったじ
ゃないか。
 次に何を言おうか瞬時に出てこない僕を見て、彼女は丸い目を細め、一度軽く頷いて微
笑んだ。
 僕は、諦めざるを得ないことを悟った。


5 :高岡書幹 :2007/06/03(日) 04:30:06 ID:mcLmt7P7

scene4-1

 一人で帰らない日は、四月以来だ。口を利ける友人が少々出来た頃で、帰り道では出身
中学と部活の話ばかりしていた記憶がある。
 結局、帰宅部は仲間内で僕一人だけになり、知らないうちに帰る時にもグループが出来
てしまっていて、家路に就く際は、雨で運動部が休みの日でも例外なく一人だ。
 だからこんな風に女の子と二人で帰る時、何を話すのが適当であるか、僕は知らなかっ
た。
 ましてあの早野が相手だ。話し掛けることよりも、知り合いに見つかったら何と言い訳
しようかと、そんなことばかり考えていた。
 しばらくそのまま歩き、僕達は一言も発さないまま、最初の信号待ちをした。交差点に
は同じ制服が二人いたが、いずれも顔見知りではない。
 少し気持ちに余裕が出来、僕はさっき汗ばんだ額を手の甲で拭う振りをしながら、そっ
と左隣を窺った。
 早野は、斜め上を見ていた。何が見えているのだろう、と僕もそちらを見上げてみる。
九月なのに雲が大きい。秋口とは思えない、鈍重な夕空だ。だがあの雲も、明日になれば
何処かへ行ってしまうのだろう。今この時点では、とても想像し難いことではあるが。
 しかし、こうして重い空を見ていると、ここを見続ける早野に何か話しかけないといけ
ない気がしてくる。
「なあ」
 視線を空に向けたまま、僕は声を掛ける。返事がない。視線を下ろすと、彼女は小首を
傾げてこちらを見ていた。
「明日は晴れるかな?」
 言ってすぐ、早野が今日あの「被害者」に話し掛けた内容と全く同じだったことに気付
いた。同時に、僕と話した時に見せたあの涙も頭を掠めたが、今更取り消すわけにもいか
ない。
 余計な引き金を引いてしまったかに思えたが、しかし彼女はこちらを見たまま、ちょっ
と戸惑った表情を見せた後、しっかり一度頷いただけで、また視線を斜め上に戻してしま
った。
 どうなっているのだろう。学校ではうっとうしいぐらい話しかけてきた彼女が、今は日
本語が通じないかのような大人しさを見せている。授業中の彼女がこれに近いが、今大人
しくされてもこっちが戸惑うばかりだ。
 機嫌が悪いのかとも思ったが、今の笑顔を見る限りそれも違う気がする。
 そうやって早野の様子をいちいち考察しているうちに、靴箱からここまでの心構えがだ
んだん馬鹿馬鹿しくなってきた。
 これまで話しかけられるのをあんなに怖れておきながら、今は沈黙が苦しくて仕方がな
い。それを思うと、我ながら勝手な考え方をしているような気がして、恥ずかしくなって
きたのだ。
 僕の家はまだ遠いし、ここまで来たらもう後先考えずに話しかけてしまおう。そう決心
した僕は、とにかく思いつく限りのいろいろな話題を提供してみることにした。
 学校のこと、帰宅部でいること、普段の生活のこと、好きなアーティストのこと、な
ど。そんな自分は、まるで早野のようだと思えたが、彼女はそれを少しも嫌がることな
く、逆にそれらに一つ一つ頷き、考え、心の籠もった相づちを打ちながら受け止めてくれ
た。
 すれ違う人も、ほとんどいなかった。不思議なぐらい、二人だった。
 そして僕の話が近所の新築マンションに移った時、彼女が不意に立ち止まった。
 一歩遅れで、慌てて僕も立ち止まる。振り返ると、彼女が唇をぐっと閉じたまま俯いて
いた。少し肩が震えているようにも見える。
 何、と思うよりも前、早野はいきなり掌でバンと自分の胸を叩き、そのまま制服のリボ
ンの辺りで握り拳を固めた。
「あ……」
 いきなりの行動に声をかけるタイミングも分からず、様子を窺う僕。見ると、下を向い
たまま、早野は何ごとか呟いている。その中から微かだが一言、はっきりと聞き取れた。
「うるさい……」
「ご、ごめんっ」
 反射的に自分のことだと思い、すぐさま謝ってしまったが、早野はそんな僕を驚いたよ
うに目だけで見上げ、必死で首を振って否定した。
「違うの?」
「うん……君じゃ、ないよ……」
 弱々しく頷く。よく聞くと、呼吸がかなり乱れている。明らかに苦しそうだ。
「だ、大丈夫か?」
 困惑したまま、彼女を気遣う。やや間があってから、絞り出すように彼女が答えた。
「あの、お願いがあるんだけど」
「何?」
「手、貸して……!」
「え、手?」
 どういうことか全く分からないまま、彼女の切迫した声に恐る恐る右手を差し出す。す
ると彼女は、僕の手を取ると、迷うことなくそれを自分の胸にぐっと押し当てた。
「!」
 突然のことに、身体が固まる。一瞬の後、反射的に手を引こうとしたが、早野は僕の右
手にすがりついて胸を押さえている。まるで命綱でも握りしめているように。
「早野……」
 僕の呼び掛けにも、彼女は微かな呻き声を上げるだけだ。こんな事態なのに、胸の膨ら
みからやや外れた、上の方に掌が置かれていることを既に確認出来ている、自分が恥ずか
しい。
「大丈夫か?」
 僕はもう一度声を掛けた。だが今度は何も返って来ず、代わりに苦しそうに喘ぐ息遣い
だけが聞こえてきた。
「誰か呼んでくるよ」
 早野が強く首を振る。
「でも、そんなに……」
 もう一度強く首を振る。そして、念を押すように、右手を更に力強く握ってきた。
 声を上げようかと思った。顔を上げて辺りを見回す。さほど広くない通りだが、両脇に
は商店や家が立ち並んでいる。大声で助けを求めれば、一軒ぐらいは応じてくれるのでは
ないか。
 早野は、もう屈み込みそうなほど腰を深く曲げ、立っているのも辛そうな様子だった
が、僕の右手を握る力だけは頑なにそのままの強さを保っていた。
「誰か呼んでくる」
 より力を込めて僕は言ったが、またしても早野は首を振った。
「ここで待ってろ。人を連れて、すぐに戻って来る」
 思い切って僕はそう宣言する。もう見ていられない。そして、振り切るつもりで腕に力
を込めようとした、その時。
(ぐっ!)
 僕は思わず口の中で呻き、左手で自分の耳を押さえた。突然、神経を指でなぞられるよ
うな不快感が僕の全身に広がり、瞬く間に左耳の奥へと集まって来たのだ。
 わけが分からず、僕はその感覚から逃れようと、身をねじり、左耳を強く押さえる。右
手はと言うと、早野の必死の力によって未だに胸の上から離れていない。
 身体の外と内における、ほんの僅かな間のせめぎ合い。だがその間隙が、僕と彼女を救
ってくれた。早野の息遣いが、少しずつではあるがだんだん落ち着き始めたのだ。苦しそ
うだった呼吸は規則正しいリズムに近付いて行き、それに伴って右手を掴む力も弛んでき
た。
「早野……」
 早野の息がある程度整ったのを感じ、内側の不快感に耐えつつ僕が声を掛けると、躊躇
しながらも彼女は僕の右手を離し、明らかに無理やり作った笑顔を浮かべながら尋ねてき
た。
「心配した?」
 当たり前だ、と叫びたい気持ちだったが、それを抑えて頷くだけにした。するとどう
だ。あの妙な感覚が、嘘のように消え去ってしまったのだ。
 何が何だか分からない。だが考えようにも、どこからどう考えていいかも分からない。
困惑したまま、僕は左手を耳から離した。早野は既に立ち直ったらしく、今までの苦しみ
を吐き出すように深く息をついている。
「落ち着いたか?」
「うん。ありがとう」
 それだけ言うと、彼女は何の説明もせず、くるりと前を向いてそのまま歩き始めた。
「あ、待てよ」
 慌てて横に並ぶ僕に、しかし彼女が視線を向ける様子はない。
「心配なら、付いて来て」
 ふと見ると、あの作った笑顔はもう、横顔から消えていた。


6 :高岡書幹 :2007/06/10(日) 14:19:25 ID:mcLmt7P7

scene4-2

 そうして案内された先は、帰り道からそう離れていない通りに面した公園だった。西日
の傾いた方向には背の高い団地があり、公園はその付属品らしい。ブランコと滑り台、そ
してベンチが一つずつ有るだけの、狭く、独自性のない空間だ。大抵この手の場所は、夕
暮れ時になると子供達が数人で占領しているものだが、ここには不思議と誰もいない。
「誰もいないでしょ?」
 見透かすように、辺りを見回しながら早野が言った。
「ここはいつもこうなの。あそこの団地、本当に人住んでるのかな?」
 僕に問いかける風でもなくそうおどけると、彼女は駆け足でブランコへ向かった。
 誰も占領していないのに何をそんなに急いでいるのか、一足先にブランコに辿り着いた
彼女は、それを漕ぐでもなくただ座って、僕が来るのを待っている。それに気付いていな
がら、僕は何となく急いでいるように見せたくなくて、ゆっくり歩いた。
 隣まで来ても、早野は足で地面を撫でている。僕も彼女に倣ってブランコに座ろうとす
ると、
「こっちに来て」
と先回りされてしまった。言われるままに隣に立ったが、彼女は相変わらず身体を前後に
揺らすばかりだ。
 聞きたいことはいくつもある。「おしゃべり」のこと。さっきの苦しそうな様子。僕を
ここに連れてきた理由。だが、目の前の彼女は、未だに重要なことを何も語らない。だか
ら僕も何も言えず、ただ突っ立っている。
 そして僕が視線を団地の向こう側に移しかけた時、ようやく早野が口を開いた。
「変なやつだって、思ってるよね」
「いや」
「嘘」
 予測していたように、言葉を重ねてくる。
「いいよ。本当に変だから、私」
 早野はそう自嘲すると、座ったまま足で地面を軽く蹴った。ブランコが錆で軋み、不協
和音を立てる。
「何でもね。喋ってないと持たないの」
「その場が、ってこと?」
「ううん」
 ブランコがまた、キイと乾いた音を立てる。
「私が」
「そうか」
 僕は最初、自分の身勝手を告白したのだと思った。自分の話したい時に話さないと気が
すまないのだと。
 だが彼女は、虚を突かれたような表情でブランコを止めた。
「私よ。耐えられないの」
「だからそれは」
「音よ」
「音?」
 意外な言葉に会話を切った僕に、早野は一呼吸置いて、告げた。
「聞こえるの。変な音が。耳鳴りとかじゃないのよ。頭の内側から響いてくるような感覚
なんだけど。君にはそういうの、ある?」
「……いや、ないよ」
 さっきの不快感を思い出しながらも、その体験を認めたくなくてつい否定してしまう。
「どんな音?」
「色々。近いのは、電波が届いていない時のテレビの砂嵐とか、金属が擦れるような音と
か。聞いてみる?」
「……うん」
 頭をもたげ始めた好奇心に促されるまま、僕は頷いた。
「でも聞くって、僕にも聞こえるのか?」
「多分」
 彼女は努めて自信ありげにそう言うと、ブランコから立ち上がった。
「手を貸して」
「どうするんだ?」
「さっきみたいにするの」
 照れもなく、早野はそう言った。
「手で?」
「そう」
「ああ」
 曖昧な口調になりつつも、何とか相槌を打つ。ここでためらったら、むしろ不審に思わ
れてしまう。
 言われるままに手を預けると、早野はその手を取り、さきほど彼女がしたのと同じよう
に、しかし今度は胸元のボタンを留めるような自然さで、自分の胸に押し当てた。
 制服の上から掌に伝わる、彼女の体温。その優しい温もりに、身体中の神経が僕の掌へ
と集まっていく。手を当てているのはちょうど鎖骨のすぐ下だから、鼓動は感じず、血流
だけが掌を微かにくすぐってくるばかりだ。
 だがその向こう側、とでも言えばいいのだろうか、彼女の身体の中に、確かにそれはあ
った。
 何かが、僕の手に触れている。
 血流とは別の、しかし掌の感覚でも捉えきれていないかのような、不思議で、不規則な
リズムがあったのだ。
 雨音のようにも、テレビの砂嵐のようにも聞こえるそれは、言葉にするとしたら――
「ザー、ザー?」
 疑問形で、思わず呟く。
 その不思議な刺激は耳の外側からは聞こえず、彼女の身体の内側から、掌を通して微か
に漏れ伝わってくる。それは、意識を集中させていなければたちまちの内にかき消えてし
まいそうなほど微弱だ。明らかに脈動とは違う刺激だが、耳で聞いたわけでもないのに、
本当にこれを音と言っていいものか……
「分かった?」
 確信に至らない僕を急かすように、早野が問いかけてきた。
「このノイズみたいなやつ?」
「そうよ」
「分かったけど、音、なのかな?」
「音よ」
 はっきりと確信した口調で彼女が告げる。その断定が、ちらと僕を苛立たせた。
「本当にそうなのか? 心臓の音とか、血が流れる音とか、そういうんじゃないのか?」
「違うよ。間違いない。音だよ」
「でも、耳で聞いたわけじゃないし」
「そこまで疑うんなら、直接聞いてみる?」
 売り言葉に買い言葉、かもしれない。だが早野の言葉は、真剣そのものだった。
 この勢いだと、もし僕が頷けば、おそらく彼女は僕の耳を胸に埋め、今度こそそれが音
であると証言させるだろう。この場所でそんなことをさせるわけにはいかない。
 僕は小刻みに首を横に振った。
「いいよ、信じる」
「信じてないでしょ?」
「信じるよ」
 早野はなおも何かを言いたそうにしながらも僕の手を胸から離したが、その手はまだ彼
女の手に握られたままになっている。
 こんな押し問答をしても無意味だ。早めに話題を先に進めた方がいい。
「初めて聞く音だったけど、あれは何?」
「分からない。お医者さんも分からないって。色々調べられたけどね。えっと、CTスキ
ャンだっけ?」
「ああ」
 よく知らないが、聞いたことはある。
「そんなこととか、色々。でもね、分からなかった」
 努めて明るい、早野の声。
「だから考えてないの、今。でも耳が痛いぐらいうるさくなることがあってね」
「だから、誰にでも話しかけるってこと?」
 先ほどの痛みを思い出しながら、僕が尋ねる。あれは彼女の音が流れ込んできたからな
のだろうか。
「そうよ。うるさくて仕方ないから、何か喋っていないと辛いの。どうせ喋るなら、一人
で喋るより二人。二人よりみんな、でしょ?」
「そりゃそうかもしれないけど」
 しかし理由の一つも言わないと、ただの変な奴だと思われて終わりだ。実際、クラスの
奴からはそう思われているわけだし。
「私ね、嫌いなの。『こいつは病人なんだから仕方がない』って目で見られるの」
 僕の考えていることを察したのだろう。彼女はやや早口で言葉を並べた。
「今もそう見られてるかもしれないけど、はっきり病気だってばれてたら、それが治った
としても私を見る目は変わらない。こいつはいつか、またおかしくなっちゃうんじゃない
かって思われるだけ。だから、内緒のままで治すの」
 早野はそこまで言って一息置き、僕を見た。
「あなたには知られちゃったけどね。相変わらず、鳴ってほしくないときに鳴るんだも
の。嫌になる」
 そう言いながらも、彼女の目は失望感を湛えてはいなかった。だが一応、この立場にい
る者としては言っておくべきことがある。
 僕は、未だに握られたままだった手を、不安を与えないよう静かに離した。人肌に湿っ
た掌が風に撫でられ、心地よい冷たさが通り抜ける。
「秘密にしておくよ。その、病気のこと」
「……うん」
 一拍置いて、早野が頷く。
 正直、「病気」とは言ったものの、本当にそうだという確信は、僕には無かった。だ
が、身体の中から雑音が聞こえる、などという異常な状態が病気でなければ一体何なの
か。それに対する答えを持っていないのもまた、事実だった。
 押し黙って考え込んでいる僕を見かねたのだろうか。彼女がまた僕の手を取った。
 顔を上げた僕の目の前に、あの柔らかいカーブを描く瞼がある。思わず見つめてしまっ
た僕の目を受け止め、早野は、悪戯を思いついた子供のような笑顔でこう尋ねた。
「ねえ、もう一回聞いてみる?」
「いい。もう十分だ」
 顔を背け、手を離そうとした僕に、早野は近くにある顔を更に近づけてきた。
「な、何だよ」
「じゃあ、また明日聞いて」
「明日?」
 思いもかけない一言に驚く僕。
「私の音って、日によって違う音がするのよ。擦れていたり、柔らかかったり。この音の
話が出来る人がいたら嬉しいなあって思ってたんだ。どう? 付き合ってくれない?」
「ん……」
 何となく悩んでいる風に見せている僕だったが、話を聞き終えた時点で答えは出てい
た。
「分かった。いいよ」
 僕の同意に、早野が丸い目を細めて笑った。僕と一緒に帰ることになった、あの時と同
じ笑顔で。
 重い雲の切れ間からようやく覗いた夕日が、その笑顔をオレンジ色に染め上げていっ
た。


7 :高岡書幹 :2007/06/13(水) 17:41:34 ID:mcLmt7P7

scene5

 その日から、僕達の奇妙な関係は始まった。
 学校では今まで通り、特別親しく話すこともなかったが、学校が終わると、お互いを待
たずにあの団地の前の公園に来る。二人で歩いているところを見られて妙な噂にならない
ための、些細な気遣いだ。
 そしてすぐに、掌で彼女の音を聞く。ここまで来てようやく僕達は会話らしい会話をす
るのだが、それも長くは続かず、音の感想を交換し合った後、それぞれの家路につく。
 僕達の関係は、それだけだった。


 そして、初めて音を聞いてから一週間後。
 いつものように夕暮れの公園にやって来た僕は、鞄に一冊のノートを忍ばせていた。そ
れは、一週間前から持ってはいたが、彼女に見せるべきかどうか迷っていたものだった。
 僕が公園に着いて、五分と経たないうちに早野が来た。一週間も待ち合わせをしている
と、お互いに相手のリズムが分かって来たようで、この頃には僕が先に着き、彼女はその
すぐ後に来るようになっていた。
 金属製のベンチに座り、辺りを見回す。誰かに見られたところでその意味など知られる
はずもないが、この秘密を反射的に守ろうとしている自分が、いる。


 早野はいつものように僕の右隣に座ると、これから何をするのか分からないかのよう
な、澄ました顔でこちらを見てきた。言わなくても分かるでしょ、ということらしい。僕
は少しためらいながらも、彼女の胸に手を当てた。
 気持ちを落ち着かせ、掌に意識を集める。ほどなくして、いつものように触覚とも聴覚
とも判断できない部分が震わされて、音が僕に伝わってきた。
 この時の僕は足元に視線を落とし、早野の影ばかり見ている。もし目が合えば、掌の下
方、触れている更にその内側へと意識が向いていることを感付かれるのではないか。そん
な根拠の無い不安に包まれてしまっているからだ。
 だがその不安とは裏腹に、僕の目はつい彼女の胸をちらちらと見てしまう。この一週
間、毎日のようにこの至近距離で見ていると、顔だけではなく、スタイルの良さも相当な
ものだというのが分かる。その胸のすぐ近くに僕の手が触れている……そう認識すると、
音を聞くどころか、この生殺しの状況を耐えるだけで精一杯になってしまうのだ。
 こんな思いをするくらいなら、正直、聴診器が欲しい。いや、欲しくない。そうだ。別
に変なことをしてるわけじゃないんだ。何をどう考えたって気兼ねすることは何もな――
「どう?」
 早野の一言で、我に返る。同時に自己嫌悪のもやが僕の心に薄くかかる。
「もうちょっと」
 こう答えるのも毎度のことだ。慎重なやつだと、好意的に捉えてくれているだろうか。
 気を取り直してもう一度、掌に意識を向ける。音が再び広がってきた。


「……ザー、ザー」
 聞こえたまま、僕が言葉にする。
「ザーザー? いつもの?」
「それから、ガリガリって」
「うん。何か引っかかってるよね」
 早野が頷く。
「今日、嫌なことでもあった?」
「ううん。音は静かな方だったし、普通の日だったよ」
「こっちは大変だったけどな」
「そうだった。英語も数学も国語も当てられたもんね」
 彼女がクスッと笑う。ノイズのような音が、高音へと歪んで、また戻った。
「今、ちょっと変わった」
「え、何?」
「音が変わった。気付かなかったか?」
「全然」
 早野の影が揺れる。首をひねったらしい。
「昨日も同じこと言っていたよね?」
「うん。やっぱり、感情と関係があるんじゃないか?」
「うーん……お医者さんにもそう聞かれたけど、喜んだり悲しんだりしてる時までいちい
ち音を聞いてるわけじゃないから、自分じゃ分からないんだよね」
 それもそうだ。たとえ感情の変化に合わせて音が変わるとしても、それが分かるぐらい
に冷静なら音は変化しないのかもしれないし。
 やはり、ここはあれの出番だ。


 僕は彼女の胸から手を離し、鞄からノートを一冊取り出した。
「何?」
「これ、何だと思う?」
「ノートでしょ」
「そうじゃなくて、何に使うか」
「さあ」
 わざと焦らす僕に合わせまいと、早野がすぐに答える。予想通りの反応だ。僕は、それ
が名案であると分からせるために、ゆっくりとした口調で言った。
「これは、早野のためのノートなんだ。僕が聞いた音を、これに書いていく」
「書いてどうするの?」
「どうするって……調べるんだよ」
 こちらの意図を飲み込まない早野の質問に、少し苛立ちを覚えながら言葉を返す。
「関係あるかどうか分からないけどさ、その日の気分と音を書いておけば、ひょっとした
ら何か分かるかも知れないだろ」
「何かって、原因?」
「そうだよ。今までの音も、一応書いてある」
 ページを指でパラパラと弾きながら、僕が答える。
「どうやって音が鳴っているかまでは分からないけど、これがあれば、原因を探る時に役
に立つと思うんだ」
「そう」
 僕の名案に、早野はしかし他人事のような返事をしただけだった。
「興味ないのか?」
 彼女の反応に期待を裏切られた僕が、即座に尋ねる。
「前はあったけど」
 苦笑する早野。
「そういうことはもう考えていないんだ。今は、もっと違うことを知りたいの」
「何だ、それ」
 こうなると僕も引っ込みがつかない。それを察したように、彼女はベンチに座り直し
た。


「この音って、どうしてだろうね」
「……何が?」
 キョトンとする僕に、彼女は続ける。
「この音は、何のために鳴ってるんだろうな、ってこと」
 言いながら、早野の視線が空へ向かう。柔らかい風が、ふわりと髪を撫でつける。
「他の人に聞こえない音が、私には聞こえる。そのことにどんな意味があるのか、それを
知りたいの。例えば病気になったら、痛かったり苦しかったりするから病気だって分かる
でしょ? それと同じで、この音も私に何かを教えてくれてるんじゃないかなって思っ
て」
「それって、原因を知りたいってことと同じじゃないのか?」
「違うよ。原因じゃなくて、理由だよ」
 少し苛立った口調の早野。すっかり立場が逆になってしまった。
「そうか」
 呟くように相槌を打つ。だが僕には、お互いが指している意味の違いがもう一つ理解で
きない。「原因」と「理由」という言葉の違いほどにも、その差はないと思うのだが。
「そうか……」
 もう一度言葉を連ね、背伸びを一つする。まださほど時間は経っていないが、既に夕暮
れは団地の向こうへ半分ほど隠れていた。
「だからね、ノートに書いてくれても構わないけど、私は見なくてもいいかな、って」
 視線を空に向けたままで早野が言った。その横顔は僕を疎外しているようにも見える。
胸の奥に寂しさがじわり、と広がった。


「もう一度、聞いていいか? 音」
「あ、うん」
 ホッとしたように、彼女が答える。今は少しでも近づいていたい。そうしなければ、僕
はこのまま、早野を理解することも、されることもないような気がする。
 再び掌が胸に置かれた。音はやや鈍く、ボリュームも小さくなって先ほどより聞こえに
くくなっている。
「また変わってる」
「うん」
 そう短く答えて、彼女は胸の上にある僕の手の隣に、自分の手を並べてきた。
「今日は、静かだね」
「でも、さっきまではもっとよく聞こえたぞ」
「すぐ変わっちゃうから。私って、気が変わりやすいのかな」
「どうだろう。普通だと思うけど」
「普通?」
 早野がクスッと笑う。
「普通だよ」
 もう一度、はっきりと告げる。だが彼女は謎めいた笑顔を浮かべただけだった。
「そんなこと言っても喜ばないよ」
 冗談めかしてそう言うと、彼女は僕の手を胸から外し、ベンチから立ち上がった。
「本当は、変な奴だって思ってるでしょ」
「そりゃあ、前はそう思ってたけど。でも今は違う。事情だって色々分かったし、本当
に、前と同じようには思ってない」
「ふーん……」
 それなりに力を込めて言ったつもりだったが、早野はさして気のある返事もせす、傍ら
に置いてあった鞄を取り、底についた砂を払った。どうやら今日はここまでらしい。何の
前触れもなく帰ろうとするのも、いつものことだ。


 ふっと、少し強く風が吹いた。思わず早野がスカートの裾を押さえる。夏はもう、八月
で終わっていた。
「寒くなるかな?」
「まだ大丈夫だろ」
 それでもまだ九月になって十日余りだ。夏を多少感じる秋はあっても、冬を感じる秋は
まだまだ先の話だろう。
「暑くはならないよね?」
「夏より暑くはならないよ」
 細かすぎる念押しにイライラしながら僕がいい加減に答えを返すと、手で握った時にで
きたスカートの皺を直しながら、いかにも当然であるというように、彼女は言った。
「じゃ、明日は私の家で聞こうね」
「……は?」
 思考が停止しかけてしまった。今の話とどういう繋がりがあるんだ?
「ここからなら、すぐそこだよ。あ、でも今日はダメだからね。部屋、片付けてないか
ら」
「まだ行きたいって言ってないだろ」
 こんな誘い文句に何を返せばいいのか知らない僕は、思わず反駁してしまった。
「来たくないの?」
 早野が首をかしげ、丸い目を見開いて僕を見る。思わず見とれそうになってしまう。
「そういうわけじゃないけど。別にここでもいいだろ」
 口ごもりながらも何とか反論する。
「良くないよ。暑くならないんでしょ?」
「なら、ここでいいじゃないか」
「だから、良くないって。ほら」
 言って、早野が空を見上げる。その方向を注意深く見ると、団地の向こう側の空に、重
い灰色が微かに見えた。
「この時期に暑くならないんなら、明日、雨降るかもよ?」
 どうする、と問い詰めんばかりの顔で彼女がこちらを見つめてくる。
「そうなったらまあ、中止ってことでも」
「毎日ノートにつけるんでしょ?」
 すぐさま早野が切り返してきた。口の端には、横腹をつつく時のような悪戯っぽい笑み
を浮かべている。
「一日ぐらい空いても問題ないよ」
 心にもないことを言う。本当は彼女の「音」を聞くのが今いちばんの楽しみなのに。
 またすぐに何か言ってくるかと思ったが、意外にも早野は何も言い返さなかった。代わ
りに笑みを消し、鞄を右手に持ちかえてさっさと先に歩いていく。
「お、おい」
 慌てて僕も後に続く。
「どうしたんだよ」
「何でもない」
 短くそう言っただけで、こちらを見ようともしない。どうやら怒らせてしまったようだ
が、肝心の理由がさっぱり分からない。
「何怒ってるんだ?」
 当然、こう聞く。だが、こんな時の女の子の答えなんて相場が決まっている。
「別に怒ってないよ」
 案の定、だ。早くも切り返す術がなくなり、僕は首の裏をボリボリと掻いた。
「そんなに来てほしかったのか?」
 苦し紛れにまたこんなことを言ってしまう。こんな尋ね方をしたって、どうせ返ってく
る答えは一つしかないのに。
 しかし、今度は予想が外れた。


「……そうだよ」
 彼女の歩みが遅くなり、止まる。背中を向けていても、うつむいているのが分かる。
「そうか」
 思わず間の抜けた言葉を返してしまって、僕は少し後悔した。早野からはやはり、何も
返ってこない。僕もここから何と言っていいか分からず、二人とも固まったまま、気まず
い風が流れていく。軽口を叩けない自分の不器用さが、こんな時は本当に憎らしい。
 でもこのままじゃどうにもならない。思い切って僕が足を一歩前に出すのと同時に、早
野が小さな動きで、口を開いた。
「私の『音』を、聞いてほしい」
 風にかき消えそうなほど、小さな声だった。
「雨が降ったぐらいで、一人になりたくない。私の言うことを信じてくれて、ちゃんと話
ができる人と、毎日一緒にいたい。そんな人は、今はあなたしかいないの」
 彼女は、後ろにいる僕を振り返らなかった。振り返らずに、寂しそうな声だけで僕に答
えた。
 僕はすぐには答えない。答えず、そのまま彼女の言葉を反芻していた。
 これは一種の告白、なのかもしれない。本来なら赤面の一つもするべき台詞だ。だが僕
の心は、嫉妬にも似た歪んだ羞恥にすっぽりと覆われてしまっていた。
(今は、か)
 はっきり言われたことはなかったが、医者や親を除いて、彼女の「病気」を知っている
のは恐らく僕だけだろう。そのことにはほぼ確信を持っていたし、同時にそれを誇らしく
も思っていた。でも彼女は、将来僕以外にも理解者が出てくることを期待している。僕以
外の奴に頼る可能性を、はっきりと見据えている……


「分かったよ」
 いかにも仕方なくという素振りを見せながら、僕は答えた。
「行くよ。それでいいんだろ?」
 早野が躊躇いながら振り返る。しかしその顔はまだ不機嫌そうだった。
「嫌ならいいんだよ?」
「嫌なら嫌だって言ってるよ」
 苦笑いを浮かべながらも僕は返す。
「雨だったら困るしな、確かに」
 今更ながら言い訳がましい、一言。それを聞いて、ようやく早野の表情が崩れた。
「意地っ張り」
「ほっとけ」
 僕がムスッとしてそう言うと、早野が一歩下がって横に並んできた。
「途中まで一緒に帰る?」
「止めとく」
 即答したが、彼女はそのまま、僕と歩調を合わせて歩き始めた。僕もそれ以上は何も言
わず、同じ歩幅で歩く。
 隣を見ることも出来なくて、僕はまた、何となく空を見上げた。
 団地の向こう岸までやって来た雨雲。夕暮れ時の、涼やかな風。
 雨はもう、すぐそこまで来ていた。


8 :高岡書幹 :2007/06/19(火) 19:53:22 ID:mcLmt7P7

scene6

 次の日、放課後になると、僕は急いで荷物の片づけを始めた。
 正直、授業の内容なんて全く頭に残っていない。朝からこの時までずっと早野の横顔を
見ては、彼女の音と、彼女の部屋を想像してばかりいた。
 勿論そんな意味で誘われたわけじゃないことは分かっている。それでも女の子の部屋に
上がりこむというのは、やはり一大イベントだ。
 鞄を閉める前に、ノートを確かめる。早野と会う時に必ず持っている、例のノートだ。
見せる見せないはともかく、やはりいざという時のために記入は続ける方がいいだろう。
 慌てまいとしながらも慌てて荷物を持ち、椅子を立った僕に、友人が声をかけてきた。
「今日も早いな。さすが帰宅部」
「帰宅部でも、暇じゃないんだよ」
「何かやってんの?」
「まあ……勉強とか?」
「嘘つけっ」
 友人がオーバーに驚いてみせる。
「まあ、そりゃ嘘だけどな」
「したら、女?」
「そんなわけあるか!」
 女、という言葉に思わず強く反応してしまった。健全な一般的男子高校生が、それを見
逃すはずもない。
「ほー、そうかー。そりゃ知らなかったなー」
「いや、本当に違うから」
「ふーん」
 笑顔で疑わしそうな視線をこちらに送る友人。単にからかっているだけなのだろうが、
今はこのふざけた態度も底意地の悪いトラップにしか思えない。
「どんな奴?可愛い?」
「じゃ、可愛いってことにしとけ」
「そうかー。可愛いのか。いいなー」
 弄ぶような笑顔のままで、さらに友人が続けた。
「ま、早野だけは止めとけよ。言うまでもないと思うけど」
 その名に、ドクンと鼓動が響く。胸の奥が瞬く間に熱くなる。
 言い返したい。だがここは言い返せない。
「ああ」
 乾いた口の中から、咄嗟に捻り出す。
「でも、可愛いからな、あいつ」
 小声のそれが、精一杯の抵抗だった。
「んー……」
 なおも何か言いたげな友人に手で別れを告げると、僕はそのまま逃げるように教室を後
にした。


 靴箱へ急ぎ、踵を踏んだまま校門をくぐる。待ち合わせの場所は、今日の昼に彼女から
指定された。とは言っても、やはりいつもの公園だったのでその必要は無かったが。
 途中の信号待ちの間、ふと空模様を確かめた。昨日早野が言った通り、淀んだ色の分厚
い雲が空を包み、今にも落涙しそうになっている。当然傘は持って来ているが、降られな
いに越したことはない。
 早めに彼女が来てくれればと思いつつ公園に駆け込むと、そこには既に早野がいた。こ
っちが友人と話していた分、先に来ることができたのだろうが、こんなに急いだ僕よりも
早いとは予想外だ。
「もう来てたのか」
「この天気だしね」
 こちらに視線もくれず、空を見上げたまま早野が答える。心なしか息が弾んでいるよう
に見えるが、気のせいだろうか。
「早速だけど、来る?」
「そうだな」
 言って、僕はもう一言付け加える。
「この天気だしね」
「あ、真似した」
 早野が唇を尖らせる。話すようになってまだ一週間しか経っていないのに、僕の前で見
せる表情は随分豊かになった。
「それで、家はどこ?」
 問いかけに、早野は指を差した。
「……団地?」
 公園のすぐ側にある、人気のない団地。指はその塊の方を差している。
「その向こう。普通の家よ」
 言って、早野はそのまま団地の方へ歩き出した。僕も慌てて後を追う。
「いきなり行くなよ」
 抗議の声を上げる僕に、彼女は
「心配なら手でも繋ぐ?」
と口の端を曲げて振り返った。やや動揺したが、こういう所でペースを乱されるから後々
会話の主導権を握られるのだ。僕は平静を装い、
「いいけど」
と答えておいた。
「もう。冗談だよ」
 再び早野の顔が前を向く。
「僕も、冗談だよ」
 もう一度オウム返しに答えて早足で横に並ぶと、早野は鞄を抱え込み、ちょっと膨れて
見せた。


 団地と団地の間をすり抜け、裏手の小さな階段を降りる。二階建ての彼女の家は、その
すぐ前にあった。
「日当たり、良くないんじゃないか?」
 家を見るなりどうでもいいことを気にした僕に、やはり
「まあね」
と興味なさげな声が返ってきた。
「まだ誰も帰ってきてないから。心配しないでね」
 鍵を開けながら早野が言葉を続ける。
「分かった」
 何気なく返そうとしたが、妙に声がかすれてしまう。
「あ、そういう意味で言ったんじゃないよ」
 軽く笑って念を押す早野。
「知ってるよ」
 変に勘ぐられると困るので、もう一度素っ気なく答えておいた。
 早野の部屋は、二階に上がってすぐだった。青のカーペットが敷かれた室内はきちんと
整理されていて、特に女の子らしい可愛げがあるわけでもなく、一箇所を除いては殺風景
と言ってもいい。
 そう。ただ一箇所を除いては。
「すごい量のCDだな」
 ミニコンポの横には彼女の背丈くらいの本棚が置いてあるが、中身は全てCDのよう
だ。辛うじて下の段に少し余裕があるだけで、それ以外は満員御礼とでも言いたげに透明
のケースがひしめき合っている。
「まあ、趣味だから。お小遣いもほとんどこれに消えちゃうんだ」
 早野はミニコンポの近くに置かれていたCDを手に取ると、ラック(正確には本棚だ
が)の方へ向かい、整理し始めた。
「洋楽しか聴かないのか?」
 日本語が全く見当たらない棚の中を覗きながら、僕が尋ねる。
「うん。激しいのが好きだから。ガンズとか、レッチリとか」
「ガンズ?」
「あ、国内オンリー派?」
「……まあ」
 そんな派閥は初めて聞いたが、取り敢えず頷いておく。
「何かかけようか?」
「いいよ。今から音聞くんだし」
「そんなに焦らなくてもいいでしょ」
 早野がCDを持ってきて、コンポにセットする。だったら僕に確認するなと言いたい。
程なくして、CD独特の回転音が聞こえてきた。と、途端にすさまじい爆音が部屋を揺る
がし始めた。物の例えじゃない。本当に窓ガラスが震えている。
「お、おい、音がでか過ぎだ!」
 思わず両耳に手を当てて顔をしかめた僕に、しかし早野は、まるで波の音に耳を傾けて
いるかのような穏やかな表情で、
「大丈夫だよ。防音はきっちりしてるから」
と言ってのけた。
「そういう問題じゃない!」
 すぐさまコンポに駆け寄り、ボリュームを抑える。
「ったく、耳が壊れるかと思ったよ……」
「壊れないよ。ライブ行ったらこんなもんじゃないし」
 その音量を部屋で流すのが理解できないんだが。
 まあ、これ以上言い合うのも馬鹿らしい。僕はそのまま元の位置に戻り、近くにある青
い縞模様が入った座布団を引き寄せた。
「私はこれが当たり前だから」
 平常を顔に浮かべたまま、早野がベッドに腰掛ける。
「うるさくないと、意味ないからさ」
 ……意味がない?
 どういうことかと考えた僕は、すぐに答えに行き当たった。同時に、ギリッと胸が軋
む。
「悪い」
「何が?」
「……なんでもない」
 あの音は、自分の音を掻き消すためのものなんだろう。好みもあるとは言え、静かな曲
では楽しむ以前の問題が、彼女にはある。


「さっさと始めよう」
 ばつが悪くなって、僕は急かした。早野はなおも何か聞きたそうにしていたものの、す
ぐに隣に来てちょこんと正座した。
 だが、近い。確かに「隣」だが、肩が触れそうなほど近い。斜めを見上げるように首を
かしげる彼女の目が、ちょうど僕の首筋の横にある。
 妙な圧迫感を覚え、膝をずらして距離を空けようとする直前、彼女の掌が手の甲を掴ん
だ。
「あ」
 僕が上げた短い声にも、彼女は全く動じていない様子で、いつものように僕を見つめた
まま、こう言った。
「どうぞ。触って」
 わざと言っているとしか思えない、挑発的な言い回しだ。だが、どんなに心を乱されて
もやることは変わらない。普段と同じようにすればいい。そう自分に言い聞かせる。胸に
手で触れるというこの行為にだって、少しは慣れてきているのだが、それでも彼女と部屋
で二人っきりという状況が、それまでとは違う緊張感を嫌でも高めてしまう。
 僕の手が、ぎこちなく彼女の胸元まで近づいていく。心の中では、いつものように、い
つものようにと針飛びをしたレコードのように繰り返している。
 やがて辿り着いた僕の手を、早野の両手が優しく包み込んできた。
「おい……」
 小さく抗議の声を上げる。触れられた手の甲が、麻痺したように震えてしまう。
「今日はこの手で、一緒に聞きたい」
 遠慮がちに、しかしきっぱりと言い切る早野。見ると、彼女はもう目を閉じて音に耳を
澄ませている。その姿は、胸の前で合わせた手と相まって、まるで祈りを捧げているかの
ような清らかさすら湛えていた。
 痺れた手が、ゆっくりと感覚を取り戻していく。代わりに、彼女の手の柔らかく、心地
良い温かさが改めて感じられた。


 やがて、CDから流れる音の隙間を縫うようにして、小さな「音」が聞こえてきた。そ
れは、いつものような雑音に近いものではなく、澄んだ、単一の音だった。
「ツー」
 聞こえたままに、僕が音を奏でる。
「ツー」
 彼女がそれを追って、音を奏でる。すぐさま「音」は変化し、今度は高周波のような、
高く、耳の奥を刺す音になった。
「ピー」
 変化した音を、僕が追う。
「心電図の音みたいだ」
「死んじゃった時の?」
「ん……いい例えじゃないけど」
 僕がそう言うと、早野はなだめるように閉じたままの目で笑った。
「ピー」
 早野が僕を追う。徐々に耳障りな音は丸くなっていき、水の流れる音にも似た、優しい
音になった。
「サー、サー」
 穏やかになった音を追いかけると、彼女は穏やかに笑った。
「どうかしたか?」
「ううん。本当に、冷静なんだなって」
 ザリザリ。
「冷静? 僕が?」
「そうだよ」
 ジジー。
「結構、緊張してるけど」
「それは分かるよ。手、あったかいもん」
 手だけでなく、今は顔も赤いはずなのだが、顔を伏せているせいで気付かないのだろ
う。
「それでも、ちゃんと音を追っかけるんだね」
 ガガガガ。
「そりゃ、そのために来たんだし」
「それでも、もうちょっとびっくりしたり、感動したりしないの?」
「してるけど」
 この答えは嘘じゃない。彼女の音を聞く度に僕は驚き、不思議に思い、いつも新鮮な発
見をしている。ただ、表には出さない。何故、と言われると困るが、いちいちそんな態度
を取っていたら変な奴だと思われるから、だろうか? 改めて考えると、自分でもよく分
からない。
「ふーん」
 少しつまらなさそうに早野が鼻を鳴らし、そして意外な言葉を口にした。
「よく分かんない人だね、君って」
「……え?」
 一瞬、自分のことを言われたような気がしなかった。
「いつも冷静で。曖昧なことばっかり言って。こっちにあんまり乗ってこないよね」
「そうか?」
 僕に言わせれば、それは早野の方だ。身体はこうして僕の手の中なのに、心は振り回さ
れてばかりなんだから。
「そう見えるんなら、そうかもしれないな」
「ほら。すぐそうやってごまかす」
「いや、その……」
 言いかけて、止めた。確かに、変に早野を意識しないようにと努力してしまっている自
分がいるのは、認めざるを得ない。だがそれを口にしてしまったら、更に話がおかしくな
るに決まってる。
「言わないんだ」
 早野は何か、分かったという風に頷いている。
「どうせ僕は音を聞くだけなんだから、こいつの言うことなんてどうでもいいとか思って
るんでしょ」
「違う」
 僕はすぐに否定する。
「だったら何で? そういうキャラだから?」
「そういうことにしておいてくれ」
「もー、またそういう言い方する」
 早野が膨れてしまったが、仕方ない。
「もういい。好きに考えろよ」
 投げやりにそう言うと、早野はぷいっと横を向いてしまった。だがあまりにも子供じみ
た反応で、これすら本気かどうかも僕には掴めない。


「ごめん」
 取り敢えず、謝っておこう。
 その程度の気持ちしか含まれていなかった僕の言葉に、早野は即座に反応した。いや、
正確には早野ではない。音が、形を変えて僕に答えたのだ。
 カリカリ、カリカリ……
 音が、かすれたように飛び飛びで流れてくる。そのかすれは、どこか寂しげなリズムの
ように感じた。
「ねえ」
 早野の呼びかけ。それもやはり寂しそうだった。
「正直に言って。私と一緒にいるのは嫌?」
 不安げに、しかしまっすぐに僕に問いかけてくる。
 やはり、さっき謝ったのが口先だけだったことに気付かれていた。すまないという思い
は確かに生まれたのに、口にする答えは、有りもしない方向へと曲がってしまう。
「嫌じゃないよ」
 言ってから、良くない言葉だと改めて実感する。もっとはっきり言わなきゃいけないの
は十分に分かっているはずなのに。
「私の音を聞くのは、嫌?」
 声のトーンが、更に一段落ちてしまう。それに合わせるように、音も小さくなってい
く。
「嫌じゃないって」
 条件反射のように、もう一度同じ言葉が口からこぼれてしまった。
「やるって言った以上、付き合わなきゃいけないだろ」
 取り繕おうとする意志すらも、喉から先に出ると何故か真逆に向かってしまう。
「しなきゃいけないからここにいるの?」
「それもあるけど……」
 何故だ? 何故こんなにためらってしまうんだ? 思っていることを素直に言えばいい
だけだろう?
 でも、と僕の思考が立ち止まる。
 僕の言いたいことは、早野が聞きたい答えと同じなんだろうか。もし違っていたとして
も、彼女はそれを受け入れてくれるのだろうか。僕にはそこまでの自信がない。自信がな
いから、「僕の言葉」を探すのも、どこかいい加減になってしまう。
 僕の意識が内側へと閉じかけた。それは時間にして数秒程度のことだったろう。そんな
僕の意識を引き戻したのは、僕の手に重ねられた、彼女の掌だった。
「だったら」
 早野の手に、僅かに力がこもる。ほのかな熱に、汗が滲んでいる。
「私達って、身体だけの関係、なのかな?」
「おい。意味が違うだろ」
 はっと僕が顔を上げる。だがそこに見えた表情は落ち着いたものだった。
「私達は、この手で繋がってる。それだけの関係ってことでしょ?」
「……」
「なら、身体だけで繋がってるんだよ、きっと」
 優しく言い聞かせるように言うと、彼女は僕の手の甲を撫で始めた。その心地よさに、
手の中の温度は更に上がっていく。
「ねえ、知ってる?今、君と私は、女の子の部屋に二人っきりでいるんだよ?」
 分かってる。しかもこんな、可愛い子と。
「だから、もっとこう……緊張しようよ」
「してるよ、もう」
 もういい加減にしてくれ。こんな雰囲気が続いたら、どうやったって意識してしまう。
 彼女を、と言うより、彼女の身体を。


「じゃあ、本当に身体だけの関係になる?」
「え?それは――」
 どういう意味だよ、と言いかけて、僕は身体をこわばらせた。
 早野が、彼女の胸に手を当てている僕の手を取り、僅かに左下に滑らせたのだ。
 そこにあるのは、彼女の胸の、膨らみ。
 今まで感じたことのない柔らかさが、掌に伝わってくる。
 僕は、それをとがめる言葉を口にしようとした。だが、喉が焼け付いてしまったように
渇き、何一つ出てこない。
 早野は、そんな僕の様子を楽しんでいるかのように、こちらを見つめている。その目は
とても妖艶な光で濡れていて、今の今まで話していた彼女と同一人物だとは思えない。
「ねえ」
 唇を舐めるように、早野が口を開いた。その息遣いにすら、僕は視線を逸らせない。お
そらくは、もう興奮を隠し切れていないだろう。
「私のことは、嫌い?」
 膨らみの上に乗せられた手が、ヒリヒリと焦げつく。
 信じられないことを言う。この状況でそんなことを言われたって、選択肢は一つしかな
いに決まっているじゃないか。
 だがその質問は、同時に僕を少し冷静にさせた。
 このまま彼女の思い通りになっていいものだろうか。彼女の気持ちは、僕の気持ちは、
どこにあるのだろうか。どちらからであれ、それを対等にぶつけ合ってからでも遅くはな
いんじゃないか……
 掌の熱さと、質問に答えようとする冷えた落ち着きが、僕をぐらぐらと揺らす。
 と。突然、僕の全身を痛みが襲った。
(うっ!)
 声が出そうになるのを堪え、すぐにその出所を確認する。外ではない。やはり、中だ。
僕の身体の中から痛みが生まれている。
 この感覚には覚えがあった。早野と始めて話した日、帰り道でうずくまってしまった彼
女に手を貸した時に感じた、あの不快感だ。だが、今回のものは不快感なんてレベルじゃ
ない。全身を切り裂くように、音が僕をいたぶっている。
 だとすれば、早野もまた、この痛みの中にいるのか? この全身を切り裂くような痛み
の中、僕に、こんなことを。
 痛みに耐えるのに必死で何も言えない僕を見て、早野の表情がまた変わった。今度は感
情も読み取れない、一種冷酷とも取れる表情に。
「私は、どうだろう。よく分かんないな」
 目を伏せる、早野。
 分からない? じゃあなんでこんなことをするんだ? 自分の気持ちはどうでもいいの
か?
 身動ぎした僕の手を、彼女がもう一度握り直す。
「だから、身体だけの関係だよ」
 唇の端を歪めて、早野が笑った。その笑顔は、寂しそうだった。諦めていないのに、諦
めようとしている時のような、そんな笑顔。
 その意味を考える余裕もなく、彼女の手に力がこもる。それに合わせて早野の左胸が、
制服と下着を介した僕の指の中で、優しく形を変えていく。
 だが、この圧倒的な快楽と痛みの中で、僕はもう完全に自分の意志を捉えていた。
 これ以上、触れていたくない。彼女は自分の気持ちも僕に教えないまま、僕との関係
を、本当に身体だけのものにしようとしている。そんなことは絶対に、絶対に許さない。
 僕は押さえつける手に反発し、掌を胸から押し上げた。そしてそのまま残った左手で、
彼女の手を掴み、引き剥がす。だが勢い余って、僕の身体は彼女の上に折り重なって倒れ
てしまった。
 身体の自由を失ったまま、長い沈黙が流れる。痛みは、やはりもう消えていた。


「ばか」
 ようやく聞こえてきたのは、拗ねたような、悲しんでいるような、早野の声。でも僕に
は、どこか救われたような声にも聞こえた。
 この不自由な体勢になっても、彼女はしっかりと僕の手を握っている。その手は、微か
に震えていた。
「好きじゃないなら、止めてくれ」
 ぽつり、と僕が漏らす。
「でも別に、嫌いじゃないよ」
「そうじゃない」
 努めて冷静な声で、早野を遮る。
「そんな答えを聞きたいんじゃないんだ」
 じゃあ、何?
 そう聞かれると思っていた。その予測に対して何の準備もしていなかった僕は、早く先
の返答を導き出そうと急いで考えていたが、彼女は何も返さなかった。だから、僕も答え
を先回りするのは止めて、彼女の言葉をひたすら待った。
 灰色の空はまだ、涙をこらえている。


9 :高岡書幹 :2007/06/19(火) 20:05:16 ID:mcLmt7P7

scene7

 それからどれくらい経ったのか。僕達は抱き合ったまま、ずっと床に寝転がっていた。
「時々ね、考えちゃうんだ」
 ふと早野が呟いた。
「この音。まるで機械みたいだ、って」
「機械?」
 平坦な声で、僕が返す。
「歯車が動く時、音がするでしょ?私の音はそれとおんなじ。動く度に、何かを考える度
に、音が形を変えていくってことは、『お前は動いているんだ。生きているんだ』って、
わざわざ音が知らせてるんじゃないかって」
「なら、きっと生きてる」
「生きてたら、そんな風に知らせなくたっていい。生きてないから、いちいち知らせるん
だよ」
「考えすぎだ、そんなの」
 早野の肩に乗った額を転がし、こつん、と彼女の頭に当てる。
「生きてるよ」
 早野は黙っている。
「生きてる。だって……」
 こんなに、と言いかけ、僕は凍りついた。
 こんなに、何だ? 僕は何を言おうとしていたんだ?
 当たり前のように、僕は「生きている」。でもそれは、確かな形で目の前にあるものじ
ゃない。「命」をえぐり出して見たことも、レントゲン写真で見たこともない。
 何を証拠に、僕は「生きている」というのか? ……いや、答えは決して遠くないはず
だ。今まさに、僕は何かを言おうとした。それは、ほとんど確信めいた答えが胸にある
と、自分自身で分かっていたからに他ならない。
 でも、現実は。
 僕の唇は、それ以上動かない。
「だって、何?」
 口先だけで、早野が急かす。行き当たるはずがない、と諦めている様子だ。
「だって……」
 もう一度、同じことを口にしてみる。忘れ物をした人間が、どうにか思い出そうとして
直前の行動を取ってみるように。それでも、彼女の不安を打ち消すことができるほどの答
えを、僕はどうしても探し当てることが出来なかった。
 そんな僕を慰めるように、早野が優しく一つ、息をつき、僕にぴったりと身を寄せてき
た。
 暖かい。身体は彼女に抱きすくめられるようにくっついているし、頬には彼女の髪の毛
が触れているし、やっぱり、こんな状況は。
「……ドキドキする」
「えっ……」
 意表を突かれて、早野がキョトンとする。
 しまった。繋げるつもりのなかった言葉同士が、繋がってしまった。
 でも。
「ま、いいか」
 言葉の端で笑って、僕は頭をカーペットに落とした。あながち間違いでないような気も
するし、訂正するのもかえって逆効果だろう。
「ドキドキ?」
 たどたどしく彼女が尋ねた。どうやら本気で考え込んでいるらしい。
「ドキドキ、だよ」
 ちら、と早野を見てみた。悩んでいるようだが、困っている風ではない。
「アハ……そっかあ」
 早野がほっとしたように、笑った。笑顔なんて今日だけでも何度か見ているはずなの
に、ひどく久し振りに見たような気がする。
「ドキドキするから、生きてるんだ」
「もう言わないぞ」
 正面きって言うのは、さすがに照れるから。
「だったら、私が君をここに連れてきた意味も、少しはあったかな」
「何だって?」
 わけが分からない。雨に降られたくないから、ここにしたんじゃないのか。
 しかし早野は答えなかった。変わりに、うつ伏せになった僕の首に、ぎゅっとしがみつ
いてきた。
「あ」
 声を上げてしまったことを反射的に後悔したが、彼女は特に気にしていない様子で、随
分と楽しそうにしがみついている。仕方なく僕も倣い、そのまま彼女の温もりに浸ること
にした。
 息。髪。腕。胸。足首。
 そして、指。僕の身体にトントンと、微かなリズムを刻む、早野の指。
 リズム?
 ふと耳が、早野を離れる。そう言えば、こうしていた間にもCDは律儀に演奏を続けて
いたんだった。どうやら彼女の指は、そのリズムを追っているらしい。
 さっきボリュームは下げたが、音は決して小さくない。コンポから流れる激しいドラム
が、床に当てた鼓膜を震わせている。


「……いい曲だな」
 何気なく、感想が口から零れ落ちた。
「好きな曲だよ、すごく」
 早野が、それをすくい上げた。
「今日貸してくれるか、これ」
「うん」
 僕の左手に自分の手を合わせて、早野が言葉で頷く。
「返すのはいつでもいいから。その代わり」
「ん?」
 言葉に真剣なものが混じったことを悟り、僕は少し身を強張らせた。
「私の音の感想を聞かせて。今までのもノートに書いてあるんでしょ?」
「興味ないんじゃなかったのか?」
「まあ、ね。でも」
 珍しく早野が言い淀んでいる。
「その……ね、私が君にどう見られているかは、ちょっと気になるからさ」
 何気ない風に見せようとしているが、手足は居心地悪そうにもぞもぞと動いていた。
「気になるのか?」
 こうなると、意地悪だと思いながら、もう少しだけ聞いてみたくなってしまう。
「あの、こういうの、どう言ったらいいか分からないけど、さ。何考えてるか分からない
人のことって、結構、気になっちゃうもんだよ」
 つっかえながらやっとそこまで言うと、早野は僕の二の腕にぐっと顔を埋めてきた。
「だから、いつか見せて」
「いつか?」
 妙に距離のある言い方だ。
「今でもいいよ」
 唸るように僕は言ったが、腕の中の早野は顔をこすり付けるように首を振って、穏やか
に拒んだ。
 何故だろう。こんなに側にいるのに、何故彼女は、僕が遠くにいるみたいに話しかける
のだろう。
「いつか、だよ」
 そう言うと、早野はもう一度、腕に強くしがみついてきた。僕ももうそれ以上追及する
気にはなれず、彼女の体温に身を委ねようとする。
 その時、僕の身体に、彼女の身体を通して、またあの音が伝わってきた。
 風の吹き抜けるような、柔らかく、耳をくすぐる音。それはとても小さく、ともすれば
音楽にかき消されてしまいそうだが、何よりも確かな温かさをもって、僕の身体を包んで
いく。
 僕はそのまま目を閉じた。その微かな音が、この世界の全てであるかのように。
 ほんの数秒、そうしていただけだと思う。
 僕の唇が、心地よい柔らかさに触れた。
 目を閉じていても分かる。これは、早野の唇だ。
 初めからそこにあったかのような自然さで、僕の唇はそれを受け入れた。彼女もまた何
も言わず、ことさらに強くもなく、僕の唇を温め続ける。その温もりと反比例するよう
に、また聴覚が落ち着きを取り戻していく。
 コンポから流れる、激しいドラム。それを迎えるように窓の外から聞こえてくる、アス
ファルトを打つ、硬質の水音。
 暖かい空が、泣き始めていた。
 僕を包むそれらの音と、温かさ。僕はその中心にいて、甘えにも似た安らぎを感じてい
た。それは言うならば、ただ生かされているような、何を迷う必要も無いと思わせる、安
心感。
 二人は今、一つになっている。共有できる物の全てを共有しているのだ。心も、身体
も、感覚さえも。
 そのまま僕らは、溶けてなくなるまで、その安らぎに全てを委ねて。
 そして。
 この日を最後に、早野優希は、僕の前から姿を消した。


10 :高岡書幹 :2007/06/19(火) 20:09:17 ID:mcLmt7P7

last scene

 戻したはずのシャーペンの芯が、また一本、意味も為さずに落ちた。
 陽の光は、まだ雲から出て来ない。
 僕のせいだ。
 早野は生きていると、機械なんかじゃないと、そう証明出来なかった自分の責任だと思
わなければ、後悔の念は理由がないことを理由に、無制限に肥大化しそうになっていた。
 ならば、と救いを求め、僕は自問する。
 あの時、僕は何と言えば良かったのか?
 「生きている」ことの証明など出来るのだろうか。心臓や筋肉が勝手に動いていること
が、「生きている」証拠だと言うのか。でもどんな形でそれを見せたって、きっと彼女の
不安を消すことなど出来ない。今、多分「生きている」この僕も、その源となっている命
そのものをこの目で直接見たことはないのだから。


 右手が、また動いてしまっていた。
 机に広げたページに目をやる。あの日の音の感想を書いておくべきページだ。だがそこ
は、今も白紙のままになっている。
 書く内容など始めから決まっていた。感じたままに書くのなら、音の感想は一言で済
む。
 その日の音は、大半が機械的だった、と。
 彼女がいなくなった原因を推測すると、それを馬鹿正直に書くのは憚られる。だがこれ
は日記のようなものだ。日記に嘘を書いては何の意味もない。
 書いてしまえばいい。これまでだって、思ったままに書いてきたはずだ。一言書いて、
それで終わりだ。早野にこれを見られたって、僕が彼女を信じていればいい。その時にも
う一言、想いを表す言葉を付け加えるかどうかは別にしても。
 僕は信じ続ける。だから待ち続ける。朝は誰よりも早くこの教室に来て、放課後はあの
公園に急ぐ。いつまでだって、僕は待つ。そして一秒でも早く、彼女に会う。それがあの
時、彼女を不安の奥底から救えなかった僕の、せめてもの償いだ。
 落ちた芯を横に払い、何十回目かの決心をつける。息を深く吸い、ゆっくりと吐き出
す。
 そして右手のペンを持ち替えた、その時だった。


(痛っ!)
 耳に、鈍い痛みが走った。
 鼓膜の奥の方。指でつまんだような、違和感にも似た、痛み。
 いや、違う。それは、痛みでは、なく。
 ガリリ。
 音が、響いた。
 僕の身体に、誰にも聞こえない音が鳴った。
「……まさか」
 思わず呟き、左耳を手で塞ぐ。音は、外からは聞こえてこない。
 ザリ、ザリ。
 中だ。やはり僕の身体だ。
 この音は何度も聞いた。初めて聞いてから今まで、ずっと僕の中心にあった音。
 僕の中に、早野の音が生まれた!
 僕は右手で、耳に当てた左手ごと、自分の身体を抱きしめる。聞こえる。音がある。早
野の音が、僕と共に響いている。その実感が湧き上がるにつれて、僕の口からは自然と笑
いがこみ上げてくる。
 そしてすぐに僕の直感が、何よりも重要なことを教えた。早野は帰ってきたんだ。まだ
姿は見えないが、きっと近くまで来ているはずだ。
(近く?)
 はっと気付いて僕はすぐさま立ち上がり、窓に駆け寄った。外には誰もいない。
今のは直感ではなく、憶測だったのか? いや、そんなはずはない。
 勢いよく振り向き、教室のドアを開けて廊下に躍り出る。


 視界の開けた、そこには、やはり。
 あの、音の。
 彼女が、そこにいた。いつもの制服を着て、待っていた、信じていた人が、立ってい
た。
「早野……!」
 僕の頭の中が、かっと熱に包まれて、そのまま身体中に飛び火していく。
 彼女はただ、立っていた。目の前三メートルもきっと、ない。だが僕もまた、その距離
を縮めることも出来ずに、ただ、立っていた。
「びっくりした?」
 早野が安心させるように、場違いなほど軽く問いかけてくる。
「生きていたのか……」
 思った言葉がそのまま口をついて出て、すぐにはっと気付いた。
「ごめん。縁起でもないこと」
「いいよ。私だって、生きてて良かったって思ってるから」
 そういうと、早野はおぼつかない足取りでこちらに歩いて来た。
「二週間歩いたら、さすがに疲れちゃった。一日寝たくらいじゃ、やっぱりダメだね」
 おどけるような仕草で首を傾げる彼女に、僕は何も言わなかった。黙ったまま、彼女に
背を向けた。
「心配した、よね。ごめん」
「当たり前だろう」
 思いが、たまらず口をついて出る。
「どうして突然いなくなったんだ! 探したって見つからないし、電話しても出ないし! 本当に、本当に心配した!
 ……いや、そりゃ、きっと帰ってくるって思ってたけど、ひょっとしたらって思うと、
夜も寝られなかったし、それに――」
 考えようとしたら、突然何も言えなくなって、一旦そこで言葉を切り、もう一言だけ付
け加えた。
「とにかく、心配した」
 沈黙が流れる。不安定になりかけた空気を動かそうと、僕は彼女の様子を窺って、そっ
と振り返った。彼女の気持ちを波立たせないよう、音を立てず、そっと。
「ごめんね、何も言わなくて」
 早野はそっぽを向いていた。そしてそのまま、ぽつりと言った。
「音、無くなっちゃった」
「えっ?」
 あまりにも唐突な、早野の告白。
「あの後、一時間もしないうちに、何にも聞こえなくなったんだ。十何年も、ずっと、ず
っとあった音が、さ。どうしてか分からないけど、何をしても、どんな気持ちになっても
聞こえなくなって。
そしたらなんか、自分の身体が壊れちゃったような気になって、どんどん不安になってい
って」
「それで、家出か」
「うん。……変だよね。あの音が嫌で嫌でしょうがなかったはずなのに、おかしかった所
が治ったのに、不安になるって」
「そうだな」
 わざとぶっきらぼうに答えた。側にいるのに、そんな風に落ち込んでほしくはない。
 彼女も喋りにくくなったのだろう。一呼吸おいて、恐る恐る早野が尋ねてきた。
「もう、音は聞かなくていい、よね?」
 僕の背中はまだむこう向きだ。彼女が何を言おうと、僕の言うべきことは、一つだか
ら。
「変わらない」
 するりと口をついて出た。この二週間、これだけはと思っていた言葉だった。
 早野が、顔を上げる。
「変わらないの?」
 全てを察したように、早野がそのまま問いにして返してくる。
「変わらない」
 もう一度、言い切った。そして、身体を向ける。
「だから、どこにも行くな」
 一瞬驚いたような表情を見せた早野が、みるみるうちに涙目に変わっていき、目尻を歪
ませて、そして。
 笑みが、零れた。
「君は、本当に分からない人だよ」
 歩み寄って来る、早野。
「音はもう、聞こえないよ?」
 スカートの裾が、僕のズボンに触れる。
「聞こえるよ」
「聞こえないって」
 僕の両手が、早野の背中を抱き寄せた。
「ほら。聞こえるだろ?」
「……それ、ひょっとして」
 頷く、僕。
「ドキドキ?」
 それは、違う。けど。
「……そう。ドキドキ」
「それ、恥ずかしすぎ」
 涙声で言いながら、早野も腕を回してくる。
 彼女には聞こえないのだろうか。
 僕の内側では、ずっとあの音が鳴っている。僕が早野と毎日聞いていた、あの聞く度に
違っていた、不思議な音。
 それは、僕の中の音が小さすぎるからだろうか。或いは、それは。
「私も、ドキドキ」
 二人の鼓動が、大きすぎるからか。
 僕は早野の髪を頬で除け、耳元で囁く。
「ノート、今日見せるよ」
 あのページに書くことは決まった。
 二人の音は、「生きている」音。
 僕らが奏でる、大きな鼓動。
「うん」
 日の当たり始めた廊下で、僕らはただ、互いの温もりを味わい続ける。
 チャイムが鳴るまで、あと二十五分。
 今日二番目に聞くことになる、大事な音。それまでに僕の腕は離れてくれるだろうか。


 朝の日差しは、抱き合う僕らの側を淡々と通り、開け放たれたドアの向こうへと進んで
行く。
 その光は、無意味に転がしたシャーペンの芯と、机の上に広げてある、あの白紙のペー
ジにまで、等しく手を伸ばそうとしていた。


11 :高岡書幹 :2007/06/19(火) 20:11:56 ID:mcLmt7P7





FIN.


                  all written by   高岡 書幹(2007.6)


novel plaza system
甘辛流小説家ギルドGAIA
produced by COLUN.