それは、奇跡にも似て


1 :S’ :2007/05/01(火) 22:53:50 ID:WmknPctG

「…なんで誰も来ないんだよ…」
肺からすべての空気を吐き出すような、深い深いため息が漏れる。
青聖高校二年、紅林椎歌(くればやし しいか)は、手に箒とちりとりを持ち、いまにも抜け落ちそうな床に立っていた。ベニヤ板か、それに近い薄い材木の壁はくすんだ色になり、不規則に並んでいる机や椅子は、欠けたり壊れたりして使えない。
ここは青聖高校の敷地の最南端に建つ旧校舎。大分前から使われなくなっていたが――OBたちの強い希望だろう――取り壊されていなかった。
それがなぜか、急に取り壊されることになったのだ。
生徒会長を務めている椎歌は、全校生徒に知らされる数日前に、そのことを知った。


2 :S’ :2007/05/01(火) 22:56:30 ID:WmknPctG

「紅林くん、旧校舎が取り壊されることになったんだがねえ」
用があって職員室に行くと、生徒会本部顧問の北村に呼び止められ、小声で告げられたのだ。
「そうですか。突然ですね。生徒達は、このことを?」
俺には関係ねえよ、と内心で呟きつつ、椎歌は精一杯の愛想笑いを浮かべ、訊ねた。
その途端、北村の顔が歪む。もともと顔立ちが整っていない上、非常に太って脂肪が見苦しいほどにつき、さらに異常なまでに多汗症な彼から、椎歌が、さりげなく一歩離れたことは、いうまでもない。
「それがなあ…。旧校舎が取り壊される前に、って、騒ぐ馬鹿どもが出ると思うんだなあ。だから…ねえ?」
「はい。僕が旧校舎を見張って、生徒達が近付かないようにすればいいんですね?」
極上の微笑み。腹の中でなにを思っていようと、かけらも表に出さない椎歌に、北村は下品な笑みを浮かべた。舐めまわすような視線が、気持ち悪い。
「もちろん、ボクも手伝うからねえ。…旧校舎で…ね?」
ねっとりとした視線と、涎を垂らしそうな、緩みきった口元。
これで北村の本意が見えない人間はいないだろう。
椎歌は、込み上げる嫌悪感を押し込み、綺麗に微笑んでみせた。
「いえ、先生のお手を煩わせるほどのことではありません。それに、生徒会本部役員の皆が、手伝ってくれると思いますので」
これまでも、男にあからさまに誘われたことがある椎歌を、生徒会本部の仲間たちは、本当に気の毒に思っていた。
高校二年の少年とは思えないほどに華奢な身体つきに、色白のきめ細かい肌。明るい茶髪はさらさらで柔らかく、顔立ちは驚くほど綺麗だ。
椎歌にとっては迷惑極まりない話だが、彼は、危ない男たちを引き寄せる能力があるようだった。
町を歩いていて、会ったこともない男に突然ホテルに誘われたことは、それこそ数え切れないほどある。
それは、教師でも同じだった。
授業でわからなかったことを訊きにいって、間近で覗き込んだ椎歌の顔に、思わず赤面してしまった男性教師もいた。
椎歌は、自分の顔立ちや身体つきが男モテしていることは理解している。
別にそれは仕方ないと割り切れた。自分に比があるといわれれば、まあ、そうかもしれない。
だが、誘っているとまでいわれて大人しくしているほど、温和な性格はしていないつもりだった。見た目の割に強い方だと思うし、いままでも、"男娼"と呼んで嘲った馬鹿な男たちを相手に、街中でかなりな騒ぎを起こしたこともある。もちろん、二度と同じことが言えないくらいに痛めつけ、警察が来る前に逃げたが。
北村はさすがに声に出してはいわないが、いやらしい目線で考えていることはわかる。
北村の性癖がどうであれ、椎歌は男には興味がなかった。付き合っている女こそいないが、性癖は普通だと思う。
そこで、誤解を持たせないように、ことごとくそういった誘いは断り続けているのだ。ふたりきりになるような危険も犯さない。
幸い友達は多い方だったし、北村を嫌悪している生徒もかなりいたから、いままではなんとか貞操を守ってきた。
にやにやと下卑た笑みを浮かべる北村は、今度こそ椎歌を喰ってやろうとしているのだろう。本当に気持ちが悪い。
北村を振り切り、旧校舎の鍵を受け取った、その放課後。
ちょうど生徒会の定期ミーティングの日だったので、椎歌は率直に切り出した。旧校舎の取り壊し、北村の誘い、等。
生徒会本部役員十五名は、そろって気の毒そうな顔を浮かべ、簡単だが心のこもった言葉で、生徒会長を慰めた。
「…そういうことだから、悪いけど、旧校舎の見回り、手伝ってくれるか?」
「おう、我らが生徒会長のお頼みとあらば!」
副会長を務めている瀬名(せな)が、ふざけた口調で椎歌に答えた。他の役員も、皆、快く頷く。
「紅林生徒会長」
「? …なに?」
もうひとりの副会長、水城(みずき)が、真剣な表情で手を挙げた。
水城は椎歌の親友とも呼べるような存在だ。瀬名と同じくらいか、それ以上のお調子者だが、今はその性格は影を潜めている。
しん、と静まり返った生徒会室の中に、水城の真面目な声だけが響く。
「…旧校舎は、取り壊すんですよね?」
「…うん」
「…俺らは、誰も入ってこないように、旧校舎を守るんですよね?」
「守る…とは違うかもしれないけど、まあ、そうだな」
「…そして、紅林生徒会長は、旧校舎の鍵を持っている」
「…まあ、な」
「水城。いい加減にしろよ。言いたいことがあるなら、言えって」
水城の焦らしに、瀬名がうんざりしたように口を挟んだ。水城は一瞬目を向けただけで、すぐに視線を椎歌に戻す。
「…つまり、だ」
生徒会室の全員が、軽く身を乗り出す。
「俺らが旧校舎取り壊し記念パーティーを開けばいいわけだ!!」
水城の叫びに、生徒会本部役員全員の歓声が重なった。生徒会室が揺らぐほどに大声を上げ、すばらしい思いつきに、全員が歓喜する。
五分ほど騒いだ後で、椎歌は全員を止めた。
「じゃあ、旧校舎の見回りと称して、旧校舎の教室を掃除して」
「パーティーに備える、と!!」
椎歌の後を、水城が続ける。
「よし。じゃあ、有志による掃除ってことで。そのうち、全校集会かなんかで連絡があるはずだから、その日の放課後から始めよう」
生徒会本部役員は椎歌の言葉に頷き、楽しいパーティーに胸を膨らませた。


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