Cross†road(S*E)="GHOST" 2nd


1 :コンピュータソーダメロン :2009/11/25(水) 23:43:47 ID:mcLmLiVD

寂れた酒場の裏路地で、一人の女性が、ある人物の最期のメッセージを受け取った。
その場所は、六年前、ある環境テロ組織として名高い【地球防衛機動隊】のあの銀蘭聖香学園爆破事件で破壊された校舎跡に程近く、事件のあと、売りに出され、小さなショッピングモールができる予定となっていた。
 しかし、建設が進む中で奇妙な噂話が近隣で広まったことが災いし、その土地での建設に反対する声が高まった。
それでも建設を強行しようとする企業側と近隣住民との間の対立が深まる中、その噂話もさらに一人歩きし始める。
 あの事件。あの爆破事件は、実は単なるテロ事件ではなく、何者かが何か得体の知れない生物兵器を使った実験を行うために、環境テロリストを模倣して行われたもので、真の黒幕が行ったその実験を隠ぺいするために、膨大な量のTNT爆薬を使って周囲を一瞬にして焼き払ったのだという。
 現にそこで犠牲となった人たちの大半は、爆破の影響で完全な灰となったか蒸発したために、遺体もまともに揃わなかったというが、一方で、あの“程度”の爆破で、大半の人体が回収もおぼつかないほどに消失するなどは不自然とする専門家もいる。
 ともあれ、警察も政府関係者も、あの事件についてもちろん何者かの生物兵器を扱った実験があった事実など認めてはいないし、そのような噂話には耳も貸さない。
やがて、一般の興味も薄れ、そのような突拍子もない噂話は、しょせん噂話として人々の記憶の中からかき消されていったが、最後までその噂話に絡んでいったのはネタの尽きたワイドショーか、そこらのタブロイド誌程度のものだった。
もっとも、近隣住民からしてみれば他人事ではなく、そういった気持ちの悪い噂話のたつ校舎の爆破後には誰も近づこうとはしなかった。ただ、いまだ遺体も満足に見つからない中で、校舎跡に何かを建築するのは遺族の気持ちからいって無神経極まりないものだった。
 だが、そういった反対意見もすぐに委縮していくことになる。
噂話がひと通り収縮し始めた頃より、建設現場で奇妙な事件が発生し始めたのである。
 朝の6時より集まり始め、一日の作業の準備を始めようとした建設作業員が、それを見つけたのは、ちょうど、かろうじて焼け残った唯一最後の校舎の壁に囲まれた外から見えにくい場所だった。
建設指令所として臨時に設置されたプレハブ事務所の裏側で、作業員たちからも見えにくく、作業する中心部から離れているために、その場所の撤去は結局、一番最後に回されていたのだが、いつの頃からか、その壁に白いチョークのようなもので大きく、そして不器用に円陣のようなものが書き記されていた。
 子供の描いた悪戯のように見えなくもないが、子供が書いたにしても奇妙に細かく文字のようなものが書き込まれ、何かの一定の法則のもとに記号のようなものや文様のようなものが並んでいる。
 そして様々な線によって刻み込まれたその図形の中心には、不気味な何かの目のようなものが大きく描き出されている。
一見して、それが何なのか分かる者はそういないだろうが、それでもそれが何かの儀式のようだとは感じたことだろう。
 宗教的な意味合いを持つ何かの儀式だ。
その円陣の中央には、それを象徴するかのような“生贄”が無造作に放り込まれていた。
猫だ。
すでに放置されて数時間経っているのだろうか。
 猫の首が中央に放り込まれ、その傷口から赤い血が垂れ出ているが、いつの間にかその血がどこからか、赤黒い色に変色していた。
その様子を観た作業員は、すぐに指令所に戻って、警察を呼んだ。
 数人の警官がパトカーに乗って現場に現れたのは、それから数十分後、周辺住民がその様子を観て、ざわめき、野次馬が数人集まってきた。
事の事情と状況とを観て、建設反対を叫ぶ一部の者の悪戯だと思われた。
 警官の一人が、集まった野次馬の方に、意味深げな視線を向ける。
だが、奇妙なのはそこからだ。
その事件以降、警察は深夜まで現場を見張ることにした。彼らが監視する中で、儀式を行った者として怪しい者は、誰一人見出すことはできなかった。
しかし、どういうわけか、撤去したはずの儀式跡は、必ず毎朝、そこに出現し、生贄もそのたびに新しいものが放り込まれているのを作業員が見つけるのだった。
当然、警官は24時間体制で常にそこを見張るようになるが、どういうわけか、翌朝になると、それはそこに出現する。
やがてその事実は、周辺住民の耳に入り、余計に気持ち悪いとばかりに建設反対を声をあげるようになっていくのだった。
 絢咲零は、そんな建設現場跡の裏路地にある暗い酒場で、そのメッセージを見つける。
挑発的な胸元の大きく開いた黒いレディーススーツを着ていて、胸元には白いレースのリボンが印象的となっている。
彼女のほっそりとした肢体が、強調されたようなこの服だが、逆に動きやすいので彼女は好んで着ているともいう。
 タイトなスカートの奥から覗く美しい脚は黒いストッキングに包まれ、より妖しく艶めかしい。
 絹のような黒髪は後ろに結い上げてアップにし、細身のメガネをかけている。
その姿は、6年前と変わらず容色麗しく、悩ましい。
そんな彼女の瞳が、より細く、そして鮮やかな紅の薄い唇をわずかに震わせた。



センセイ。

センセイと出会って六度目のクリスマスを迎えようとしています。

僕の中の時間が終わろうとしています。

そんな今だから、あなたに伝えておきたいことがあります。

六年前のあのハロウィンで、【預言者】に殺されたとき、僕の中の運命が動き出し、

そして最後の時間を刻み始めました。でも、僕はあなたと出会えたあのハロウィンでの

出来事を悔やんではいません。

あなたに会えてよかった。

あなたを愛しています。

センセイ……。

















――チュイン、チュイン!

灼熱の閃光が笹原ナオヤの目の前で白く弾けた。
その閃光と共に迸る爆熱と弾圧が、彼の身をかろうじて覆い隠している脆い石壁の端を砕け散らしていく。
粉っぽい石材のカケラが、ナオヤの頬にぱちぱちと当たっていくが、弾丸そのものを頬に受けるよりは遥にましだろう。
言うまでもなく、今現在、笹原ナオヤ、13歳である少年は、激しい銃撃を受けていた。
1996年の10月に入って間もないイタリア、ヴェネチア国際空港からわずかに離れたサン・マルコ大聖堂から北に900メートルに位置するティティンホテルの屋上でのことだ。
時間は23時46分。
深夜のサン・マルコ広場からここまでの間に23発の銃撃を受けながら何とか逃げ延びてきた彼の横顔は、わずかに疲れながらもその瞳は、絶えず“敵”の姿を捉えている。
 3年前のあの“事件”のとき10歳だった幼い少年は、わずかに身長も伸び、ぼんやりとした顔付きも少しだけ凛々しさを見せ始めている。
もっとも、あどけなさはまだまだ抜けきらないし、現状の危機に際しては、華奢なその細身がいかにも頼りない。
そんな13歳の少年は、少年にしてはやや大人びたような黒いスーツ姿でパリッとした白いシャツにブラウンのネクタイが沁み一つ、皺一つなく綺麗に首元に収まっている。
そしてそのスーツの上には、黒いロングコートを羽織っている。
皮靴は、夜の町中にあってなお、わずかな月光で煌びやかな光沢を放っている。
恐らく、念入りに磨きあげられているのだろう。
 まったく隙のない手入れの行き届いたスーツにコートなどは、間違いなく選び抜かれたブランドのものだろう。
まだ13歳の少年であるにも関わらず、ほんの少しだけ大人びた印象を周囲に与えるものの、決して無理をしている印象を与えない。少年はごく自然に最良の品質を誇るそのスーツを着こなしているが、それは彼自身の物腰によるものではなく、彼にそれを着るように指示した『スタイリスト』の目利きによるところだろう。
もっとも、周囲から見て無理のない着こなしを自然にさせているように見えてはいても、決して、本人にとってもそうだとは限らない。
“彼女”に着るように強く言いつけられたから仕方なく着ているものの、笹原ナオヤ自身はどうにも窮屈でならない。
だが、仕方ないので着ている。
 結局、そうしたところは、3年前と今もそう変わってはいないのだ。
ただ、今の彼の『スタイリスト』となっているのは……。
『ホテルに逃げたのは間違いだったと思うけど、屋上に逃げたのはさらにひどいわね』
今もなお激しい攻撃を受けているわけだが、ナオヤの耳の奥に響く美しい女性の声は、いたって平静を装っているかのように聞こえるが、その実、わずかに苛立っていることを笹原ナオヤは知っている。
恐らく、遠い何処かからこの状況を観察しているのだろう。
「サン・マルコ広場の真ん中で銃撃してくる相手だよ。通りに出たらもっと犠牲が……」
『屋上に出れば、あなたがいい的になるのよ?』
「それ、スゴク困る」
『あなたってコは……』
頭痛を覚えでもしたのか、彼と連絡を取っている女性が呆れたかのように言葉を失っていく。恐らく、この後で待っているのは女性からのきついお仕置きだろう。
とはいえ、少年は少年でこの状況を打開しなければ、それ以前に命を失うことになる。
それは少年の予定にはないことだった。まだあと3年くらいは……。
銃撃の方向からして、同じホテルの屋上出入り口の方からなのは明白だった。
間違いなく少年を追ってきた者が、ホテルの屋上に出た少年を追いかけ出入り口を塞いだ位置から発砲を続けている。
 サン・マルコ大聖堂にならって、荘厳なビザンティン建築を彷彿とさせる八角形の集中式平面の壁に囲まれ、アーチ型の門や精密な彫刻の描かれた支柱に支えられた建物は、天井はドーム型となっており、そのドーム型の天井がいくつか連なって、中央から美しいバランスの元に美しい建築様式を形成している。
そのドーム型の天井が、ぽこぽこと並ぶ中、屋上の北側角の壁と壁の間に隠れている笹原ナオヤである。その角から先には、当然のことながら何もない空間が続いている。
 まともに落ちれば40メートル以上の高さから地面に激突することになるだろう。
もちろん、それは“敵”もよく分かっている。
だから出入り口を陣取って後戻りできなくした状態で、遠慮のない射撃を続けているのだ。
「っ!」
その時、パシュっという音が、ナオヤのすぐ耳元で響き渡り、白い少年の頬に一筋の赤い線が引かれた。
一瞬、わずかな痛みに瞳が震え、唇を強く噛みしめる少年だったが、決してそれで臆することなく、状況を冷静に分析していた。
むしろ、彼に連絡を取っている女性の方が、声をわずかに荒げている。
『だいじょうぶなの!?』
「平気……。ちょっとカスっただけ」
そう囁く少年の声は、まさに冷静そのものだ。
ほんの少し髪が揺れて、昔より少しだけ長くなった髪が衝撃で首筋にかかる。
 少年の奇妙に色っぽい白く細い首筋から鎖骨にかけて、シルクのようなしっとりときめ細かい黒髪がさらさらと垂れ下がる様は、一見して、少年が少女のように見紛うほどの美しさと妖艶さが混在している。実際、笹原ナオヤを少女と間違えた人間は、彼がこの国に入国した空港からここまでの間に4人いた。それほどナオヤの容姿は、少年でありながらも少女のような儚さと可愛らしさと美しさに溢れていたということだが、それは、3年の間に彼をそのような美麗で妖艶な魔性の存在へと育てた“彼女”の努力と執念によって創造された賜物であるといえる。
もっとも、当の本人にはそういった自覚はカケラもない。ごく普通の13歳の子供である。
『そこでじっとしていなさい。わたしが……』
そう言いかけた時、先ほどから銃撃を続けていた“追跡者”が、声を張り上げた。
「あたしは、イデア・ジョーンズ。そこのヴァンパイア! これ以上先には逃げられないわ!」
 どうやら追跡者は女性のようだ。それもずいぶん若い。
といっても、ナオヤよりは年上だろう。驚いたことに流暢な日本語で叫んだ。ここまで追跡してきて、どうやらナオヤがアジア系のヴァンパイアだと誤解しているようだ。
『いったいどうしてあなたがヴァンパイアだと思われるようになったのよ……』
露骨に呆れた様子の女性の声が、ナオヤの耳元で響き渡る。
これに対して、ナオヤ自身は苦笑するしかない。
「さっきから誤解だって言ってるんだけど聞いてくれなくて……。日本語で話せる人なのはいいけど、とにかく話を聞いてくれない……。」
『とんだマヌケなヴァンパイアハンターだわ』
「ヴァンパイアを殺すのに他人の巻き添えも無視とかあり得ない」
ナオヤはなんとか、この状況を打開すべく、最大限に状況を把握することを試みてきたが、ここにきて逃げ道はやはりどこにもないことを確認するしかなかった。
強いてあげるならば、追跡者はこちらと違って一切の犠牲を厭う意思がないということだ。この事実は、ナオヤにとってさらに絶望的な状況であることを認識せざるを得ないものだ。
加えて、これまでのところ、相手に誤解でることを説明しようにもこちらの話を聞く耳が相手には全くない。当然だ。ここ、ヴェネチアを含むヨーロッパ諸国におけるハンターと呼ばれるもの、あるいはエクソシストなどを行う日陰の存在たちは、そのすべてが例外なく、自分たちが狩るモノと必要以上の会話は一切しないし、聞き入れもしないのは鉄則となっている。
なぜなら、悪魔や妖魔、悪霊といった類のモノは、人間を堕落させ、滅ぼすために、そのすべてが人間の心の弱い部分を巧みに翻弄し、相手を混乱させようとするのを常套手段としているからだ。
彼らの言葉を聞き入れてはならない。
 そうしたことで発生する一瞬の迷いで、仲間たちが殺されていくのを彼らはその眼で見てきている。
『ナオヤ、仕方ないわ。そのバカ女を殺しなさい』
「センセイ、それは無理です」
逃げ場はない。
かといって、この位置からでは、どうにも追跡者の方も確実にナオヤを仕留められそうもないようだ。恐らく、いずれは追跡者自身がナオヤの立っているその場まで近づいてくるだろう。
 そうなった時に行動を起こすしかない。
だが相手は銃を持っている。ヴァンパイアを殺すために銀の弾丸なのは間違いないだろうが、結局、人間である笹原ナオヤにとってもその弾丸が脅威なのは間違いない。
 そして、相手もまた勘違いはしていても、こうした特殊な状況下と特殊な“敵”との戦闘に長けたプロなのは間違いないだろう。
相手を殺さないで切り抜けるといった悠長な発想は、間違いなく命取りだ。
『無理でもヤるしかないでしょう! あなたにまだ死なれては困るのよ!』
ついに感情的になる女性に、ナオヤはのんきなほどその声に委縮してしまう。
「でも……相手、人だし……」
『ああ、もういいわ! わたしがヤってあげる!』
そう言いかけた時である。
不覚にも感情的になった女性とナオヤの隙をついて、追跡者はすでにナオヤを確実に仕留められるほど目と鼻の先にまで近づいていた。
素早くナオヤの隠れている壁の外側から飛び出し、一瞬で彼のこめかみに銃口を突き付けた。
「動かないで!」
「あ……」
きょとんとした顔と間の抜けたような掠れた声が、ナオヤの口から零れ落ちる。
しかし、驚いた面持ちをして見せたのは、ナオヤだけではなかった。
ナオヤよりわずかに背の高い17、8歳くらいの若い女性が、黒いフレームのコルトを握りしめたまま、あっけにとられたように呟いた。
「お……女の子のヴァンパイア……?」
「……」
その一言は、いろんな意味でナオヤの全身を支える何かを砕け散らしていった。


2 :コンピュータソーダメロン :2009/11/27(金) 02:09:05 ID:mcLmLiVDuH




こめかみに銃口を突き付けられたその一瞬、ナオヤはそれでもなお、平静を保っていた。
そんな彼から一切の冷静さを奪ったのは彼女の次の言葉だった。
「ちょ、ちょっと女の子なの?」
 長く明るい栗色の髪を両肩まで垂れさがらせ、その先は綺麗な孤を描く形でカールを巻いている。まるで両家の令嬢のような優雅で上品な顔立ちだ。まだ歳は若いが、美しく白い肌には不釣り合いなほど健康的な赤い唇を強く噛みしめ、その気性の荒さを表現するかのように眉は一直線に伸びている。
その下で、鋭く切れ長の瞳が、わずかに驚愕に打ち震えるかのように見開かれ、一瞬の戸惑いが見て取れた。恐らく、普段の彼女は強気な鋭い眼光を持って悪魔と対峙しているのだろうが、この瞬間の彼女はそうではない。
擦り切れたラフなジーンズに白いファーのついた薄いロングコートを着ている。
その内側には、彼女の胸元をかろうじて隠す程度で谷間を強調したかのようなへその出た黒いトップスを着ている。
 一見して、ヴェネチアを訪れたハメを外した学生の外国人観光客に見える。
だが、そんな彼女のコートの内側にあったのは、コルトパイソンと呼ばれるリボルバータイプの銃で、6インチほどの大型だ。銃弾は357マグナム。もっとも、この場合は口径をそれに合わせた銀の弾丸だろう。
 そんな大型の銃を難なく扱う彼女でありながら、今は驚いた表情でナオヤを見ている。
「……個体数の激減したヴァンパイアは、ほとんど見かけは20代前半以降の姿をしているのが大半のはず……」
大半であって、すべてというわけではない。
確かに生粋のヴァンパイアは、近年では急激にその数を減らしつつあるという。
その大きな理由は、人類の昨今の急激な科学力とそれによって開発されていく強力な兵器のせいだと言われている。もともと肉体的な能力でいえば、ヴァンパイアのほうが遥に強靱であり、まともに素手で戦って勝てる相手ではないが、年月をかけて人間は進化し、ヴァンパイアやその他の悪魔、妖魔などと戦う知恵を身につけてきた。
そして、強力な近代兵器を開発し、それをヴァンパイア狩りに応用することによって、今ではヴァンパイアは人の社会の闇に生きる存在となった。
 それ以降、ヴァンパイアとは違い、短い生を生きる人間が、ヴァンパイアや悪魔といった存在を忘れるようになって久しい。
とはいえ、闇に存在するそれらの邪悪なモノとの戦いは終わったわけではなく、今もなお一部のハンターたちによって続けられている。
だが、本当の本当に真実、人類の進化こそが彼らの存在を希薄にしてきたといえるのだろうか。
 事実は誰も知らない。
だが、ヴァンパイアがその数を近代においては急激に減らしつつあり、いまだ幼い“少女”の姿をした者は、ほとんど見ることはなくなったとはいえ、全く存在しないわけではないのだ。
イデア・ジョーンズなるこの若いハンターの経験の薄さが、彼女に驚きを与えているに過ぎない。とはいえ、もちろん、笹原ナオヤはヴァンパイアではないし、この場合、“女の子”ですらない。
銃口を突き付けられたままのナオヤは、そのまま力なく後ろにへたり込んだ。
イデア・ジョーンズは半ば、へたり込んだナオヤの上に馬乗りになる形で銃口を突き付けた。
「だから、ヴァンパイアじゃないって……」
「黙りなさい! そうやって女の子の姿で油断させようとしても……」
今のナオヤにとって、ある意味では銃弾を受けるよりも苦しい衝撃が彼を襲っている。
だが、実際のところイデア・ジョーンズなるハンターがナオヤを“少女”と見間違えるのも無理のない話だった。
男物のスーツとコートを羽織ってはいるが、そのほっそりとした物腰と思春期前独特の幼くあどけない表情、声、そして今の彼の『容姿』では、男装した繊細そうな美しい少女に見えても仕方がない。
天性の素質というべきか。
あるいは彼の運命か。
3年前に【聖者】として覚醒して以降、笹原ナオヤは、どんどん成長していく過程で、その姿を容色麗しく、まるで魔性のヴァンパイアそのものを彷彿とさせるような美貌を開花させていく。天使のような悪魔か、それとも悪魔のような天使か。
 咲き誇る清廉な白い花のごとく、穏やかに清らかに、美しく育っていく。
そして、そんなナオヤの才を見て、絢咲零と呼ばれるヴァンパイアが、彼をここまで育て、そして『教育』していきた。まるでこの世に生み出された珠玉の芸術品を創造しようとするかのように、彼女は大切に、決して傷つけるものを許さず、ナオヤを教育し育ててきた。
 そうして今、笹原ナオヤ、13歳はここにいる。
少しだけ長く伸びた髪がふんわりと伸び、毛先が外側に跳ねるような曲線を描きながら、ほんのわずか肩にかかる程度に収まっている。シャープなミディアムヘアの繊細そうな顔立ちをした少女のように見えた。
もっとも、繊細そうではあっても、この状況に恐れを抱いているようには見えない。
ただ、ひどく落胆はしている。
「その一言は、とても深く傷つきました……」
そういって、顔を伏せて少し涙目になっているように見える少女は、とてもいじらしく、自分にはないはずのサディストじみた感情が、イデアの心の奥に湧き上がった。
もっとも、今はそんな場合ではない。
「ヴ、ヴァンパイアのくせに何を! 立ちなさい!」
そういって片手で乱暴にナオヤの腕を掴み上げる。
コートの袖に隠れているが、思いの他、相手の腕が細く華奢なことに彼女は少し疑問を感じた。だが迷うわけにはいかない。
「あなたがヴァンパイアじゃないのなら、一緒にいたあの女は何なの? あれはヴァンパイじゃないというの?」
「あの人は、ヴァンパイアでボクのセンセイです」
無理やり起こされたナオヤは、両手をあげて無抵抗であることを相手に示しながら慎重に答える。
「じゃあ……」
「だけどボクはヴァンパイアではありません」
「そんな言葉を信じると思っているの?」
「それは……けっこう難しいとは思うけど……」
そう答えながら、ナオヤはその時はじめて困ったような苦笑を浮かべた。
そんな彼の耳元で溜息をつくような気配を感じた。
その時である。

――まず一つ教えておいてあげるわ、ハンターさん。

聞きなれた女性の声が、ナオヤに銃口を向けるイデアの背後より響き渡った。
 それはしんと静まり返ったヴェネチアの街の深夜、冷たい空気の中を切り裂くような鋭さがあった。それでいて耳の奥に沁みこんで離れない。
たった一言で、心の奥底に隠れた欲望や本能を呼び覚まし、激しく火を灯そうとするかのような扇情的な魔法のような効果があった。
病的なまでに、白い肌の豊かな胸を大きく強調し、胸元の開いた黒いスーツ姿で立つ。そして太ももから先、ぴっちりとしたタイトなスカートから伸びる白い脚は、悩ましいまでに官能的で欲情を刺激するものだった。
“彼女”を見て欲望を感じない男などいないだろう。
それはまさに魔性という言葉が相応しい。
純白の肌の美麗な顔立ちに、理知的な細身のメガネをかけ、切なそうに切れ長の瞳を細める。
もっとも、この場合は切なさではなく、内心ではイデアという女性を完全に見下した感情で細めているのだが。その白い肌には不気味といえるほどに鮮やかな紅い唇が、薄く笑みを浮かべていた。
この妖艶な美貌を持つ女性は、見たところ20代前半頃であり、どこかのオフィスか法曹関係の職場で働く才媛という印象を周囲に持たせる出で立ちをしていたが、そんな印象を一瞬で打ち砕こうとするものが彼女の右腕に握られており、それは今まさに、イデアの後頭部に突き付けられていた。
 リボルバーを持つイデアとは対象的に近代的なオートマティックのハンドガンだ。
ワルサーP90と呼ばれる。
「本物のヴァンパイアは、このコみたいにあなたを殺すことを躊躇したりしないし、月の光を浴びているのに瞳の色が黒いままだということもないわ」
「!?」
そう言われて、イデアは、自分の目の前でへたり込んだままのナオヤの瞳を覗きこんだ。
確かに瞳の色は変わっていない。
本物のヴァンパイアなら、瞳の色は独特の深い蒼に染まり光沢を放つ。
それはどこの地域のヴァンパイアでも共通している彼らの生理現象の一つだ。
つまり、ヴァンパイアかそうでないかを見分ける基本的な特徴といえるはずだった。
「まさか……本当にヴァンパイアじゃない?」
「さっきからそう言ってるのに……」
ようやく理解されたことを受け、ナオヤは少し疲れたような表情を浮かべて起き上った。
土埃のついたスーツのズボンを払いあげて立ちあがるナオヤに、彼を救った女性はうんざりした顔をする。
絢咲零である。
「ナオヤ、下に車を停めてあるわ。先に行きなさい。お仕置きはこの後よ」
「せんせい、その人はどうするの?」
「ここにもう用はないし、降りかかる火の粉は払いのけた方がいいわ」
冷徹な声でそう囁きながら絢咲零は銃のトリガーに指をかける。
「それはダメ! ぜったいダメ!」
ナオヤが引きつった表情で強く言い放つが、絢咲零は気にする様子もない。
そしてそれは当人であるイデア・ジョーンズもまた同じだった。
覚悟を決めた彼女の表情には、わずかな恐怖が浮かんではいるが、それ以上にヴァンパイアに対して一歩も引く気のない強気さがにじみ出ている。
 彼女にとって、ヴァンパイアなる存在がいかに憎しみの対象であるかを感じさせる。
「殺すなら殺せば? そのコは人間なんでしょうけど、お前は本物のヴァンパイアなんでしょう? 殺さなければ、追いかけてあたしがお前を殺すことになる」
「悪いけど、わたしはいい男の血が趣味なの。あなたみたいなバカな女の血はちょっとね……」
そう言いながら、絢咲零は今度こそ銃口をイデアの後頭部に向け、撃鉄を起こした。
その様子を見たナオヤが、すかさずイデアの前を通り抜け、イデアの盾になるかのように彼女と絢咲零の間に割って入る。イデアに向けられていたはずの銃口が、ちょうどナオヤの額に当たった。
「ちょっと! せんせい! ほんとにダメだってば!」
「どきなさい、ナオヤ! 怒るわよ?」
「今回ここに来たのは、この人みたいな関係ない人を殺すためじゃないでしょ!」
「今は大いに関係あるわ。わたしたちの顔を見て、わたしたちに攻撃してきたのよ? あなたも撃たれそうになったじゃないの」
「撃たれてないよ! カスっただけでしょ!」
「当たってたらどうするの? 人間のあなたではケガくらいじゃ済まないかもしれないのよ? 本当にあなたってコは聞き分けが……」
銃を構えたまま、しきりにナオヤがその身をどけるように叱りつける絢咲零と、彼女が真剣に怒る様子に少しびくびくとしながらも、決して一歩も引かずに自分を守ろうとしているナオヤを見ていて、イデア・ジョーンズは混乱していた。
「……」
どう見ても人間の“少女”とヴァンパイアの女の会話には見えない。
まるでデキの悪い妹を叱りつけようとする姉の姿に見えるが、そんなことがあり得るはずがない。だが、目の前のヴァンパイアの女は、いつでも引き金を引ける体勢にありながら、決して発砲する様子を見せない。
 普通のヴァンパイアならここぞとばかりに、人間の“少女”の身などお構いなしに、“少女”の身もろとも銃を撃って自分を殺そうとするだろう。
なのに、ヴァンパイアの女は、普段は妖艶な笑みで人間を誘惑するであろう、その美しい顔を呆れたような、困ったような、それでいて本気で“少女”を心配するような苦悶の表情で歪ませながら、しきりに“少女”に退くよう『説得』している。
 これはイデアにとってかなり驚異的な出来事だった。
(ちょっと、ちょっと! いったいなんなの、コレ!? ヴァンパイアが人間の“女の子”を心配してるっていうの!?)
そうこうしているうちに、イデアの前に立つ“少女”の身が突然、ぐらりと揺らいだ。
「!?」
突如、糸の切れた人形のように“少女”の全身から力が抜けたかのように脆く崩れ、その場に倒れこむ。かろうじてイデアが咄嗟に後ろからナオヤを抱き止めたことで、その身が地面に叩きつけられるのを防いだ。
「ナオヤ!」
絢咲零がすぐさま駆け寄り、半ば奪い取るようにイデアの腕からナオヤの身をもぎ取る。
その場で抱き止められたナオヤのスーツの下腹部の右脇から黒い沁みが広がっていくのが見えた。
血だ。何者かが何処からか銃撃したのだろう。銃声が聞こえなかったということは、少なくとも1キロ以上は離れた位置からの狙撃かもしれない。
絢咲零は、そう考えながらもほとんど狙撃者のことは無視したまま、ナオヤのスーツの上着を開き、白いシャツを覗かせる。すると白かったはずのシャツが、今は温かく紅い液体で濡れそぼっていた。
「くっ! なんてことを」
こみ上げてくる怒りを必死で抑えながら、絢咲零は、傷口から溢れ出る血をなんとか抑えようと自らのスーツの袖を引き裂き、ナオヤの傷口に巻きつける。
 それを見ていたイデアは、さらに信じられない光景を見ている気分だった。
自分より遥かに非力で頼りなく、すぐにも死んでしまうような弱い人間、それも瀕死の“少女”を必死で救おうとしているヴァンパイアの姿など見たことがない。
 だが、今は驚いている場合ではない。
狙撃者は恐らく自分と同じ“同業者”だろう。
何者かが、誤って人間の“少女”を狙撃した。狙撃手としての腕はいまいちらしい。
“少女”の脇腹を貫通したせいで、即死は免れた。
しかし、このままでは“少女”の身は長くは保たないだろう。
 どうすべきだというのか……。
一瞬悩んだ彼女は、結局、眉間にシワを寄せながらも決断せざるを得なかった。






「ヴァンパイア、そのコを連れてついてこれる!?」


3 :コンピュータソーダメロン :2009/11/28(土) 02:32:30 ID:mcLmLiVDuH




幸いなことが二つある。
絢咲零は、すぐさまナオヤを地面に寝かせて傷口を確認した。
使用された弾丸は恐らく5.56ミリの弾丸で、幸いにも綺麗に脇腹を貫通している。
その際、内側の臓器への損傷は見られない。溢れ出ている血液の色からしても、恐らく問題ないだろう。
そこまでを手早く確認すると同時に、急いで止血するために傷口を切り取ったスーツの袖で強く巻きつける。
 応急措置は問題ない。
早い段階で治療を行えば助かるだろう。
そしてもう一つ。
 ナオヤを撃った狙撃手の腕は、あまりにお粗末すぎるということだ。
銃声が聞こえなかった点からして、かなりの長距離からの射撃を試みたのだろう。
それなりにスコープを使用した狙撃仕様のライフルを使ったのだろうが、恐らく狙った対象とは違う相手に着弾させてしまったのだろう。
通常狙撃するポイントとしては人体の上半身から上、1キロ以上離れている場合には、人体の中心部を狙う。下腹部脇腹というのは、あまりに狙いが外れすぎている。
風向きからいって、本当なら自分を狙っていたのだろう。
 このとき、絢咲零はそこまで推測しながら忌々しげにこの一瞬、狙撃手のことが頭によぎった。
(ヘタな腕で狙撃を……!)
「せ、せんせい……」
苦痛にゆがんだ顔で、ナオヤは零を見上げた。
「喋らないで」
喋ると体力を消耗する。血液を多く失ったこの状況では、少しの体力の消耗も防がなければならないだろう。
 零は可能なかぎり衝撃を与えないようにしながら、狙撃手から狙われないように姿勢を低くして、ゆっくりとナオヤの身を抱き上げた。
その時感じたナオヤの体重は、かなり軽くなっているような気がしたが、それが決して気のせいではないことを零はよく理解している。彼女は屋上の端の手すりとなっている石壁に身を隠した。隣にはイデアがいる。
「ヴァンパイア女! そのコを連れてついてこれる!?」
イデアが狙撃してくるポイントに視線を向けながら口を開いた。
しかし、そんな彼女に一切の目もくれず、絢咲零はナオヤを大切に抱き上げながら、イデアが見つめる方角と同じ方向を見つめる。
そして次の瞬間、突如、イデアの背後から首筋を軽く掴み上げて彼女を一気に反対側に放り投げた。
「な、何を……きゃぁぁぁ!」
二、三メートルは放り投げられた彼女が、地面に叩きつけられながら叫び声を上げる。
そんな彼女をヴァンパイアと勘違いしたのか、狙撃手からの銃弾が彼女のすぐ脚の傍らで砂埃を上げて着弾する。
「ちょ、ちょっと! あたしはヴァンパイアじゃないっつーの!」
そう叫びながら狙撃する何者かに向けて、手を振りかざす。
それに気づいたのか、狙撃手からのそれ以上の攻撃は止まった。
「いったいなんてことするのよ! 死ぬとこだった……」
つくづく腕の悪い狙撃手のおかげで命拾いしたイデアが、突然自分を放り投げた零の方に向き直り、怒涛の勢いで当たり散らしてやろうかと思った時、そこにさっきのヴァンパイアと“少女”の姿はなかった。
「あの女……」



イデアを囮にして、素早く昇降口に飛び込み、屋上からホテルの階段をものすごい速さで駆け降りていく。いや、ほとんど飛び降りているというべきなのかもしれない。
およそ人間の動作ではない。
しかし、その腕に抱き上げているナオヤにはほとんどその衝撃は伝わっていないはずだった。
一流オフィスで働いていそうな上品で理知的なスーツ姿の美女が、年端もいかない“少女”を抱き上げて疾走する様は、シュールという他ない。
零は時折、激痛に苦しみナオヤの顔を覗きこみながら、壁と壁の継ぎ目で一瞬、立ち止り狙撃手の存在を確認していく。
確実にセーフティーゾーンを確保しつつ、ホテルの廊下を走る抜ける彼女は、時折、ホテルの従業員に呼び止められるが、一切無視して走り抜けていく。
恐らく、普通にロビーから出たのでは、それこそ狙い撃ちになるだろう。
あのスナイパーの腕では、そう当たるものではないだろうが、それでもスナイパーだけが待ち構えているとは限らない。
 彼女の判断は素早く、そして正確だ。
そう。
こういった状況に遭遇するのも、彼女のこれまでの経験ではそう珍しいことではない。
いつでも冷静に対処し、危険を切り抜けてきたはずだ。今だって冷静に状況打開のために確実に行動している。
なのに、今回はひどい結果だ。
 自分の能力であれば、冷静に周囲に気を配っていれば、スナイパーの存在に気付いたはずなのだ。あの程度のスナイパーの存在に気付かないとは……。
結果、ナオヤが重傷を負うこととなった。
これは自分の責任だ。
ナオヤの心配をするのにかまけて、周囲への注意が散漫になった。
これでは言い訳にもならない。
つくづく自分の迂闊さに腹が立つ。
「……」
痛みに耐えて、目を強くつむるナオヤの苦しそうな顔を見て、さらに自分に対しての怒りがこみ上げてくる。
だが今は、そんな自責の念に苛まれている場合ではない。
一階まで降り立った零は、そのままスタッフルームに足を向ける。
途中、何人かのスタッフと警備の人間が、彼女の尋常でない様子とその手に抱く“少女”が血まみれなのを見つける。
 受付にいた数人の従業員が、彼女の様子を見て何かの犯罪が発生したと判断したのだろう。手早く電話を手に取る。
それを見ながら警備の人間数人が、彼女が向かう先を阻む形で立ちはだかった。
イラリア語で何か警告するかのように手で制止ししてくる。
しかし、零は歩みを止める気は一切なかった。
「邪魔よ。退きなさい」
ナオヤには見せなかった一切の躊躇のない冷酷な瞳で、目の前に立つ屈強な警備員二名を鋭く貫くように睨みつける。そして、ほんの一瞬で彼女の身体は大きく回転し、遠心力と尋常ではない力の乗った美しい脚が虚空を切り裂いた。
二名の警備員が彼女の一蹴りで、数メートル後ろの壁まで吹き飛ばされ、気を失う。
目の前で起こった華奢な細い身の美しい女に、男が蹴り飛ばされるというシュールな現実が信じられないその他の警備員たちは、互いに顔を向き合わせながら、とにかく、彼女を抑え込もうと走り寄るが、次の瞬間には女性はスタッフルームのドアを蹴破って走りこんでいった。
その直後、明らかに警備の人間とは無関係と思われる数人のスーツ姿のイタリア人の男たちが、ロビーの入り口から入りこんできた。
彼らは入った直後、だらしなく壁に蹴り飛ばされて目を回している警備員と、混乱するスタッフやその他の客の様子を見渡し、何人かの警備員たちが急いでスタッフルームの奥へ駆け込んでいくのを見つける。
「……」



スタッフルームの中に入った直後、そこがスタッフたちの集まる休憩所であること分かった。ロビーに用意されたものとは打って変わって簡素な椅子やソファ、古い自動販売機が並べられ、何人かのスタッフたちが、談笑して休んでいる。
 スタッフが零の存在に気づくが、尋常でない様子にどう声をかけていいのか迷っているのか、こちらに視線を向けるだけですぐに動き出す様子ではない。
零は、そんな彼らのことなどお構いなしに、奥へと続く扉に向かった。
扉を開けてすぐ向こうには、かなり広い調理場となっていて、深夜のこの時間にはほとんど誰もいないが、数人の白い調理師の制服を着たコックたちが、明日の料理の仕込みをしている。大きな七面鳥を台の上に乗せて、様々な香味野菜などを詰め込んで、調味料をかぶせているようだが、やはり零はそんな彼らの前を素通りしていく。
さらに奥へと進んでいけば、裏路地へと出られるはずだ。
そこに待ち伏せがないとは限らないが、正面から出るよりはマシだろう。
ようやく最後のドアに手をかけた時。
「……!」
ドアを開けようとする直前で、零はドアから手を離し、ドアから身を離した。
次の瞬間。
激しい爆音と粉砕塵とともに、ドアが粉々に砕け散り、その背後にあったウォータークーラーが破壊された。ガラスが飛び散り、中にあった水が一気に地面に零れ落ちる。
(やっぱり待ち伏せ……)
こうなっては他の逃げ道を探るしかないが、これ以上、他に外に通じる通路は見つからない。ナオヤの身も長くは保たないだろう。
「くっ……」
本当にまずい。
そう思ったときだ。
突如、外から車のヘッドライトのようなものがこちらに向けられたかと思うと、急発進するかのようなタイヤが地面を擦りつける音が響き渡る。
それはこちらに向けて銃撃している者たちにとっても、意外な出来事だったのか、遠慮なく続いていた銃撃が、ほんの一瞬、まばらになった。
その隙をついて、一台の黒いメルセデスが破壊されたドアの前にきっちり覆い囲む形で停車した。そしてすぐさま助手席が開いて、中から先ほどの女、イデア・ジョーンズが顔を覗かせた。
「乗り込んで! 早く!」
「……」
迷っている暇はなかった。
絢咲零は、先に後部座席にナオヤをできる限りゆっくり乗せ、半ば自分の身は助手席の方に放り込むようにして飛び乗った。
それを確認するや否や、イデアは一気にアクセルを踏み込み、軋むようなタイヤの叫びを聞かせて、車を発進させた。
進行方向側から嵐のように銃弾が撃ち込まれてくる。
フロントガラスに数発の弾丸が突き抜けていき、ガラスにクモの巣状の亀裂が入る。
「ったく! 遠慮ってものがないの!?」
そう叫びながらもハンドルだけは離さず運転する彼女の横から、絢咲零がハンドルを掴む。
「伏せなさい!」
零は、自分が座る助手席側にイデアの上半身を寝かせながら、ハンドルを操作する。
「アクセルは踏んだままで、目を瞑っていて」
フロントガラスや運転席側の窓が割れ、そこかしこに銃弾が撃ち込まれて穴だらけになりながらも、なんとか車は走る。四方八方から受ける銃撃に、車のあちこちが破壊され、時折火花を散らしてはいるものの、路地の傍らに置かれたゴミ箱を引き飛ばしながら走り抜けた。
 やがてブレーキを踏むことなく大通りに飛び込んだ車は、交差する方向から走ってきた数台の車のクラクションを受け、わずかな追突を受けながらもなんとかその場を離脱することに成功した。


4 :コンピュータソーダメロン :2009/11/29(日) 01:19:09 ID:mcLmLiVDuH







1996年。
笹原ナオヤは13歳になった。
彼が最初に戦いを決意した“あの事件”から、すでに3年が経過している。
 その3年の間に、彼はすでに他界した警官の父、笹原トウジの師であり、元SWAT教官でもあるジョン・デイビットから様々な戦闘技術を習得した。
もっとも、その訓練は今もなお続いてはいるが、元々、父、トウジからその才覚を受け継いでいたナオヤは、銃器の扱い、市街地戦における様々な近接戦闘技術など、およそあらゆる白兵戦技術を恐るべき早さで習得し、自分の血肉に変えている。
 ただ、絶対的な実戦経験がまだまだ乏しい。
それが彼に隙を与え、今回のように傷を負うケースも少なくない。
しかし、その多くが、彼自身の精神力の弱さからきていることを、ジョン・デイビットはよく理解していた。元々、笹原ナオヤの戦闘センスは笹原トウジから受け継いだものだろうが、その内面や性格などは母、笹原ユキノから受けている影響が大きいだろう。
それは仕方のないことだった。
生前の父、トウジは典型的な警官という仕事を天職とする人間だった。
常に事件を追う父は、ほとんど毎晩深夜に家に帰り、休みも署で働く。
幼い息子と過ごした時間は、結果的にほんのわずかなものだった。
ナオヤが記憶している父の姿などは、とても希薄なものだろう。思い出も、最期は悲惨な記憶で結末を終えている。
 より母の存在が強くなったとしても、無理からぬことだろう。
そんな母からの影響を強く受けてきたナオヤは、おっとりとした性格で、どちらかといえばぼんやりしており、積極性がほとんどない。
優しいコだといってしまえば、それまでだが、やんちゃ盛りの男の子らしい元気さからは無縁の性格に育ってしまった。
 虫も殺さない性格とはよく言ったものだ。
笹原ナオヤに銃を握らせ、バケモノと戦わせるなど、彼を知る誰に想像できるだろう。
 まして、“あの事件”以降、【聖者】として覚醒しつつあるナオヤは、時間を重ねるごとに美しく成長し、まるで天使の羽根のように純白の透き通るような肌、ほっそりとした肢体、緩やかに孤を描く眉の下に、少し大きいくらいの純粋な瞳が印象的な、まさに清廉で可憐な“少女”を思わせる姿へと育った。
 妖艶なる魔女、絢咲零は、そんなナオヤの華奢な手に銃を握らせることに抵抗を感じつつも、自分は彼に悪魔と戦う知恵を与えていった。
 こうして笹原ナオヤは、3年の間にジョン・デイビットからプロフェッショナルの高度な戦術を学び、絢咲零からは知識を受け、戦う準備を整えていった。
絢咲零は、日々、疑問と葛藤に苛まれながら、ナオヤを訓練してきたが、ここにきてそれは後悔へと変わりつつあった。
運命の時が訪れるにはまだ早い。
だが、このままではその時が訪れるよりも早く、この大切な存在を失ってしまうのではないか。残虐非道、冷酷無比、容色麗しき妖艶なるサディストと言われたヴァンパイア、絢咲零は、笹原ナオヤという少年を失うことを何よりも恐れていた。そのことを彼女自身ももはや自覚し、内心では認めている。
傍目には、20代前半頃の理知的なメガネの似合う美女と思しき魔女と、3年後に死を予言された13歳になったばかりの少女のような少年の【聖者】。
 この二人の物語は、まだ始まったばかりだった。


5 :コンピュータソーダメロン :2009/12/02(水) 02:56:46 ID:mcLmLiVDuH

第1章:ゴーストと傷痕




「ぷ、ぷはぁっ! うっ、い、痛い……」
気がついたとき、笹原ナオヤの細い身体は、全身脱がされていて、濡れた硬い石畳の上に寝かされていた。
 裸足で歩いたり、濡れて露出した敏感な肌に触れて怪我をすることのないように、その石畳はすべらかな材質に加工されており艶がある。その上を生温かい水が流れていくのをナオヤは、ぼんやりと眺めていた。
藍色に染め上げられたタイルは美しく光沢を放ち、その上を白い湯気がそこかしこに浮かんでいる。そういえば、先ほどから何処からともなくシャワーのような水が流れ落ちる音が響いているようだ。
 少し首を動かして周囲を見渡してみる。
すると藍色のタイルだけでなく、黒い御影石の床材や乳白色の大理石で組まれたプールのような浴槽があるかと思えば、同じように大理石を削りだして造られた獅子の口から熱い湯気とともに大量の湯水が流れ落ちているのが見える。
 白い天井には何かこの地域の伝承を示すかのような彫刻が刻まれ、それを透明なガラスで覆われたパネルの下から橙色のライトが照らし上げている。
ほんのわずかな薄明かりが、独特の雰囲気を醸し出し、そのわずかな明かりを乳白色の大理石が反射させて、周囲を必要最低限に照らしていた。
そこまで見渡してから、どうやら何処かのホテルの浴室の床に自分は寝かされているのだとナオヤは、理解した。
「うっ……くっ……」
誰が自分を裸にさせたのかは、容易に想像がつく。
 そんな自分の身体は今、力なく横たわり、数十分前か、あるいは数時間前かに受けた銃撃の傷痕は、相変わらず下腹部の右脇から血を流し続けていた。
鮮やかな紅い糸が絡み合い、ナオヤの腹部から水に流されて一本の線を引いている。
さらさらとした水に撃たれながら、ナオヤは実感した。
刻一刻と死に近づいている自分自身を。
「痛み止めは打てないの。少しガマンして」
「せ、せんせい……?」
白い湯気が立ち込める中、どこからともなく女性の声が聞こえた。
それはまさに、男を誘惑し、惑わし、そして甘い安らかな死へと誘う悪魔の声だった。
そして、その湯気の向こうから人影が浮かび上がったかと思うと、その湯煙りはまさに薄いベールのように彼女の妖艶な身体を僅かに覆い隠していた。
裸のナオヤと打って変わって、絢咲零自身は、先ほどと変わらぬ黒いスーツ姿で、黒いタイトなスカートの裾から悩ましげな足は、この湯気の中にも関わらず、黒のストッキングを穿いたままだった。この湯気の中では、湿気で濡れそうなものだが、どういうわけか彼女の身が湯気で湿っている様子は見られない。
 涼やかな様子で立っている。そんな彼女のクリーム色の大理石よりもなお白く、透き通るような肌は、あまりに官能的で扇情的だ。
ほっそりとした白い肢体に闇夜のごとく漆黒に彩られた長い髪が印象的だった。
その黒い艶やかな長い髪は高く結い上げられ、彼女の背から水のように流れ落ち、時折、湯気に舞い上げられ、そよいでいる。
 触れれば折れてしまいそうなほどに華奢な肢体に豊満な胸、完璧という他ないほどに美しい肉体を惜しみ隠すでもなく、静かにナオヤを見下ろしていた。
 本来ならこういった状況での彼女は、そこで男を見下ろし鮮やかな紅く薄い唇で妖しい微笑みを浮かべていたことだろう。だが、今の彼女に微笑みなど一切ない。
それどころかその細い眉をわずかに落とし憂鬱そうな表情を浮かべているようにさえ見える。細身の眼鏡をかけた理知的な彼女の顔が曇って見えた。
「喋ってはダメよ。それと目を瞑っていなさい。絶対に開けてはダメ」
「……何を……?」
苦しげに言葉を吐き出すナオヤは、それでも言われたように目を瞑る。
それを見やり、彼女はそっと横たわっているナオヤのそばに片膝をついて心配そうに彼を見下ろした。
「いいから、大人しくしていなさい」
穏やかで静かに囁くように、零は呟いた。
そうかと思うと何を思ったか、突如、絢咲零は、するすると服を脱ぎ始める。
黒いジャケットをあっさりと脱ぎ去り、その奥から豊満な白い胸を覆う黒いレースの下着が覗く。
「ちょ、ちょっと! ヴァンパイア女! そのコに何するつもりなの!?」
ずっとその様子を蔭ながら心配そうに覗き見していたものの、そこでたまらず背後から姿を現したのは、先ほどのイデア・ジョーンズだった。
 零がナオヤの服を脱がしている最中、不幸にもナオヤが少年であることを知った事実だけでも驚愕だったが、ここにきて少女と見紛うほどの綺麗な少年に対し、零がやろうとしていることが何かは分からないものの、彼女は様々な意味合いを持って危険だと判断した。
「黙っていなさい。ナオヤの気を紛らわせないで」
ずっと囁くような声でナオヤを落ち着かせようとしていた零は、突如響き渡ったイデアの声に、露骨に不愉快そうな表情で、瞳をすっと細める。
あくまで目を瞑ったままのナオヤの気を削がせないように、しかし、逆に不気味なほどに落ち着いた声で、零は背後を振り返ることなく告げる。
「だめよ。そのコに何をするつもりなの? 危害を加えるつもりなら……」
そう言いかけたとき、少し強く「黙れ」と言おうとした零を差し置いて、ナオヤが口を開いた。
「だいじょうぶ。せんせいのことは信用して。絶対にひどいことはしない人だから」
「……」
零は困ったような、怒ったような複雑な表情をしていたが、それは目を瞑っているナオヤにも、後ろにいるイデアにも見えなかった。
「だけどキミ……その女はヴァンパイアなのよ!? そんな無防備な状態で……」
少年が抱いているヴァンパイアの女に対して抱いている信頼は絶対的なもので、それはヴァンパイアハンターであるイデアには到底理解できないものだった。
 何度、これに似た状況の中で、人間が苦痛の叫びをあげながら死んでいったことだろうか。あるいはこの少年は、女がヴァンパイアであるということをまずは知らないのか。
いや、そんなはずはない。少なくとも少年はヴァンパイアなる存在を知っていた。
ならば、この女が本物のヴァンパイアであることも知っているはずだ。
イデアの内心の混乱など余所に、ナオヤは零に力なく囁くようにして言った。
「……せんせい……や、やって……」
何をされるのか分からないが、それでも零がしようとしていることなら恐れてはいないナオヤに対して、零は不敵な笑みを浮かべた。
「そう。そんなにわたしのことを信用してだいじょうぶなの?」
意地の悪い笑みを浮かべて、絢咲零はナオヤに囁いた。
「またそういうことをいって……」
「悪魔に身をまかせる【聖者】というのも背徳的でソソられるわね」
「せんせい、ハイトクテキって何……?」
そういいかけたナオヤの唇にそっと彼女の人差し指が触れた。
そして、彼女は再び服を脱ぎ始める。
「あ……」
自分には理解できない信頼関係がこの二人にはある。
よくよく考えてみれば、このヴァンパイアは、先ほどの銃撃戦の中で、少年を放っておいて逃げようと思えば逃げられたにも関わらず、わざわざ邪魔になるだろう撃たれた少年をそっと抱きしめながら脱出しようとしていた。
 自分の知らない何かがある。
どうしていいか分からないものの、事が進んでいく様子をあっけに取られながら見つめるしかないイデアは間の抜けた呟きを漏らすことしかできなかった。
少年の前で服を脱いだ零は、下着姿でナオヤの隣に横たわり、そっとナオヤの身体をその腕で包みこんでいく。
 自分がその手で触れれば、最近は過剰なまでに反応するようになったナオヤは、そろそろ年頃の少年になったような気がする。そう思い始めたのはいつからだろうか。
だが、今のナオヤは反応するどころか、自分が触れていることにすら気づいていない様子だった。かなり消耗している。
「ナオヤ……」
少年の顔を自らの胸へとその細い腕で抱きしめながら、零はそっと呟いた。
そして、ゆっくりと上体を起こし、ナオヤの下腹部にある傷痕へと顔を向ける。
少年のきめ細かな白い肌を犯す残虐な傷痕は、今もなお紅い血を流し続けていた。
零は細身の眼鏡を外し、その傷を見つめて僅かに顔を歪ませた。
そして、ナオヤの傷口へと彼女の紅い唇を近付けていく。
「うっ!」
一瞬、ナオヤの顔が苦痛に歪んだ。
「……だいじょうぶ……だいじょうぶよ。ナオヤ……」
そっと優しくナオヤの頬に彼女の白い手が触れ、彼の頬を撫でながら囁く。
そして、ナオヤの傷痕にまた唇を寄せていった。
やがて奇妙な現象が起こった。
痛みにこらえるナオヤと、そのナオヤの傷跡に唇を触れさせる零を中心として、流れ落ちていたはずの湯水が、まるで意思をもった生き物のように重力に反して流れを変える。
そして沸き起こっていた白い湯気が二人に吸い込まれるように集まりだし、それに合わせて水が空中に浮かびあがった。
それはまるで、シャワーの噴射口から流れ落ちる瞬間、時間を停めたかのように、奇妙に空間に停止しているように見えた。そして、そのまま二人の周りに集まりだし、水のカーテンが出来上がる。
「な、なんなの? これはいったい……」


6 :コンピュータソーダメロン :2009/12/04(金) 02:30:07 ID:mcLmLiVDuH




イデア・ジョーンズは、絢咲零がナオヤをそっと抱きしめながらその周囲に水のカーテンを創り上げていく様子をあっけに取られながら見つめることしかできなかった。
彼女は幼少期より父親独りに育てられながらアメリカ全土を転々と過ごしてきたが、物心ついた頃から父が親として自分に教え、与えてくれたものは、ただ一つ、ヴァンパイアを狩る方法を含めた“敵”についての知識のみだった。
ヴァンパイアは危険で恐ろしく、そして醜悪だと教わった。
一見、美しい姿をしているが、それは人間を惑わすためで、それ以外では獣と変わらない。
一皮むけば醜く恐ろしい悪魔の形相が現れ、血生臭い息を吹きかけてくる。
 人間らしい感情も道徳もなく、ただ人間を欲望のままに襲い、その血を浴びるのだ。
温かみの一切感じられない機械のようであり、凍るほど冷たい蒼い瞳を見開き、夜の闇から現れ、一瞬で人間の首を切り裂く。

――イデア、悪魔に魅入られた人間がどうなったか。俺はよく見てきた。
  欲望に身を浸し、哀れなまでに残酷に切り裂かれていく姿を。お前は惑わされるな。

父の言ったことは正しかった。
父に連れられ、共に狩ってきたヴァンパイアの数は数え切れない。
中には何百年と生きてきた古参のヴァンパイアも含め、自分たちは、その身をもって学んできた悪魔狩りの知恵で、なんとか生き延び戦ってきた。
 数年前、その父とも死に別れた。
父は戦いの中で幼い子供をかばって“敵”に殺された。
厳しい父だったが、父らしい死に方だった。以来、ずっと独りでイデアは戦い続けてきたが、19にして自分ではもはや十分な知識と経験を積んだつもりだったのだ。
その自分でさえ理解できない現象が、今、目の前で起こっている。
「……」
ヴァンパイアは、人間よりも遥かに強い力と敏捷性を持っている。
 人間がまともに戦おうとすれば、どんなに鍛え抜かれた人間であっても、そうは勝てないだろう。そして古参のヴァンパイアなると、その血が何千何百という人間の血を吸うことによって変質し、体内である化学反応を起こすようになる。
 その科学反応によって生まれた物質が、脳内のある部分を刺激することによって、幾つかの特殊な能力に目覚めるようになるのだ。
その一つが、【魅了】だ。
 絢咲零もまた身に付けた能力で、人間の記憶を操り、その意思さえも乗っ取ることがでできる能力だ。
あるいは自分自身の肉体を怪物のような姿に変態させ、現状より遥かに優れた身体能力に目覚める者もいる。
他にも様々な能力が“同業者”の間で、情報がやりとりされているが、総じて言えることは、どの能力も非常に危険であり、そして邪悪なものだということだ。
 だが、今の目の前にいる“女”はどうだ。
まるで時間が逆戻りした状態で停止しているかのように、宙に浮かんだ水の柱はその状態を維持し、二人を包みこんでいる。
具体的に、どのような仕組みでこんな現象が発生しているのか、イデアには理解できなかった。ただ確かなことは、その水のカーテンの中で、どうやら笹原ナオヤは絢咲零に抱きしめられ、そしてその傷がみるみる塞がっていくかのように見えるということだ。
「こ、こんなことって……」
人間を癒すヴァンパイアなど聞いたことがない。
まして、そんな能力などこれまで一度も見たことも聞いたこともなかった。
やがて、いつまで続くのかと思われたこの現象は、ある瞬間、あっさりと停止する。
いや、正確には動き出したというのが正しい。
時が凍りついたかのようだった目の前の現象は、ある時思い出したかのように、いっきに重力にひっぱられ、浮かんでいた水の柱は、次々にばしゃばしゃと床に飛沫を上げながら落ちていく。
当然、ナオヤを抱きしめていた絢咲零の二人も水浸しになる。
そこで起こっていたことが、幻であったかのように、今はごく普通に湯水が溢れ流れ落ちていた。
「……はぁ、はぁ、はぁ……やっぱりひどく疲れる……」
水浸しになった下着姿のまま、しばらくナオヤを抱きしめて荒い息をついていた絢咲零が、自分の腕の中でいつの間にかぐっすりと眠っている様子のナオヤを確認してからゆっくりと起き上がる。
 しかし、その動きはいつものようにキレのある優雅なものではなく、どことなく疲労感が漂っていた。
「いったい、何をしたの?」
とにかく、このヴァンパイアは少なくともこの少年に対しての害意はない。
それどころか、彼の身を何より心配している。
 この時、イデアはようやくその衝撃的な事実を受け入れ始めた。
ナオヤのそばに駆け寄り、濡れた身体を抱き起こしながら、ヴァンパイアの絢咲零に声をかける。美しい黒い下着姿の肢体が水に濡れ、妖艶なその姿がさらに妖しく煌めいている。
人間の男ではなく、女性であるはずの自分ですら、どきりとしそうなほどに美しい。
その姿に、思わずイデアは息を飲んだ。
そんなイデアの様子など気にも留めず、あるいは分かっていても、彼女にとってはそう珍しいことでもないのかもしれないが、一瞬、イデアに視線を向けたものの、あっさりその無視するかのように視線を外し、濡れた髪を手串でほぐしながら立ちあがる。
「お前たち人間の言葉でいえば房中術……」
「房中術?」
イデアは言葉の意味が理解できず、とにかくナオヤの身に起こったことを確認しようとその身にあったはずの傷に目をやる。
すると、そこにはわずかな血が残っているだけで、傷口はほとんど塞がっていた。
 やはり見間違えではない。
「ここに流れている水も合わせて使いながら、人間の体内の血液や組織液などの水分をコントロールして、新陳代謝を高めた。痛み止めを使うとその作用が阻まれてしまって効果が出にくい……」
「それでこのコの傷口を塞がせたっていうの?」
結果として事実、ナオヤの傷は塞がっているが、そう簡単に理解できるものではない。
イデアはもう一度傷口を確かめる。
そんな彼女のうんざりして、半ば奪い取るようにしてナオヤの身を自分の方に引き寄せながら、ゆっくりとナオヤを抱き上げた。
 ごく普通の美しい人間の女性に見えるその姿には、少し滑稽に映る様子だったが、疲れてはいても、やはりヴァンパイアである絢咲零にとって、このほっそりとした身の少年くらいなら軽々と持ち上げられるらしい。
「人間は弱いわ。体内の重要器官が損傷を受けなくても、血を流し続ければいずれ死んでしまうし、重度の後遺症を残してしまうこともある。傷口を閉じて完全な止血を急ぐ必要があった」
「なぜ、あなたにそんなことができるの? あなたは……」
ナオヤを抱き上げ、浴室から出ていこうとする零の背に、なおもイデアは問いかける。
そんなイデアの声に、一瞬立ち止まった絢咲零は、わずかな溜息の後答えた。
「よくケガをするのよ。あまり運動神経がよくない。もともとボンヤリしているところもあるし、とにかくよくケガをする。それでも何かのために闘おうとする。だから、わたしも学んだのよ。このコを守る方法を」
そう言いながら、絢咲零はナオヤの顔を見つめた。その顔は、イデアが知っているどんなヴァンパイアの横顔とも違っていた。
 醜悪な獣が獲物を見て舌舐めずりするでもなく、ただただ、慈しみと愛情、そしてほんのわずかに悲しそうな想いを込めた瞳を少年に向けている。
それはいったいどんな感情なのだろうか。
 姉が弟に向ける感情だろうか。それとも少年が『せんせい』といっていたように、教師が生徒に向ける愛情か、あるいは恋をしている女が、愛する者に向ける想いか。
だが、そのどれにも当てはまらない。
もっと深く強く、そして切ない感情だ。
イデアにはまだ、それがヴァンパイアと人間の間に芽生えたことを信じることができなかった。
いったい、この二人はどんな関係だというのだろう。
 イデア・ジョーンズなる者が、この【聖者】と【悪魔】と出会った運命の夜、彼ら二人の旅に巻き込まれていく過程で、そのことを本当に理解し、知ったのは、まだ先のことである。


7 :コンピュータソーダメロン :2009/12/10(木) 13:04:07 ID:mcLmLiVDuH




1993年、笹原ナオヤは【聖者】として覚醒した。
それは運命だったといえる。
しかし本来、彼の父、笹原トウジがその役目を担うはずだった。彼は類まれな才能を持ち、肉体的にも精神的に、他の多くの人間よりも研ぎ澄まされた能力があった。
笹原トウジの父であり、笹原ナオヤの祖父にあたる笹原ジンはそれを見抜き、アメリカで旧友であったジョン=デイビットの元に預け、その才能を磨かせた。
 様々な銃器や爆薬を扱う技術と知識、近接戦闘時における白兵戦技能、格闘技、そしてさらにより高度な部隊統率における状況判断、様々な戦略など、その多くの知識と技術を笹原トウジはみるみる吸収し、自らの血肉に変えていった。
しかし、それらはあくまで対人戦闘におけるものであり、“人ではないモノ”との戦い方ではなかった。トウジはその後、ジョン=デイビットの元で戦闘技術だけでなく、自分の人生も見つけていくことになる。
 やがて、母国、日本に戻ることを拒み、そのままアメリカで警官になり、門戸の狭いエリート警官、特殊戦術部隊SWATに入隊を果たしていく。彼の才能からして当然の結果だが、笹原ジンは不満だった。だが、それでもしばらくは息子の好きなようにさせていた。
 時が来たら、笹原ジンはトウジに真実を話すつもりだったのだ。
だが結局のところ、笹原ジンはトウジに真実を告げることができなかった。
トウジがSWAT試験に合格し、人生を順風満帆にこぎ出した頃、笹原ジンがトウジに真実を告げようとした。しかしその頃には、旧姓、宮沢ユキノとの間に息子、笹原ナオヤが宿っていたのだ。
 笹原ジンはトウジに真実を話すことを躊躇い、そして時間は過ぎ去った。
笹原トウジは、【聖者】として覚醒する瞬間を完全に逸したのである。
そのことを笹原ジンは自らの大罪として心に刻みつけ、すべての真実を隠匿した。
代々受け継いできた【笹原家の日誌】を大学から引き払い、自らの書庫に封印するかのようにしまい込んだのもこの時期だ。
罪悪感に苛まれる笹原ジンだったが、幸せな家庭を築こうとする息子トウジの前では、そんな素振りを一切見せなかった。
 そして時が過ぎ去り、ある時、成長していくナオヤの姿をぼんやり眺めていたジンは、笹原家で育つ男たちとは類を見ないおっとりとした性格で、時折、どこを見ているのか分からないような眼で空を眺めている様子を見ているうちに、ある恐ろしい考えが頭をよぎった。すぐにそんな考えを振り払うジンだったが、今にしてみれば彼のその考えは正確に事実を見抜いていたと言える。
通り過ぎて行ったはずの運命は、そのまま消えたのではなく、トウジの息子、ナオヤの身に宿っていたのだ。
笹原ジンは死ぬ瞬間まで、その事実を恐れ続けていた。
 だが、結局、ジンはその事実を心のどこかで受け入れていたのだろう。
死ぬ直前、ジョン・デイビットに笹原ジンはある手紙を書いている。
その手紙を受け取ったジョン・デイビットは、やがて数年後、運命に導かれる形で笹原ナオヤと出会うことになる。
それはあまりに唐突であり、意外な存在からの通告であった。
笹原トウジの死。
そしてその彼を悼むために日本に降り立ったジョンを待ち受けていたのは、長年、SWAT隊員でもあり、引退後は教官職に就きながらも、なお現役を貫きとおした【エクソシスト】としての裏の顔での宿敵、レン=フレイザーとの再会である。

――よぅ、ジョン=ドゥ。おまえに頼みがある。

かつては旧友から、そして今度は宿敵から、再び、兵士<ソルジャー>を鍛え上げろ、と依頼されたのである。
 そしてそれは新たな“敵”との戦いが近いことを意味している。






1993年のハロウィン。
【聖者】として覚醒するはずだった笹原トウジの死、そしてその後、新たな【聖者】として笹原ナオヤが覚醒してから3年後の1996年の夏。
笹原ナオヤが絢咲零と共にヴェネチアに旅立つ3か月前、ナオヤは北アメリカ大陸北西部に連なるロッキー山脈のある中腹部にて、岩で覆われた山道をひたすら走り続ける毎日を送っていた。
標高の高い地域でひたすら走り続け、基礎体力と耐久力、瞬発力を身につけるため、ジョン=デイビットが自ら造った山荘の訓練場にナオヤを呼び寄せたのだ。
 ジョン=デイビット。
今年で70を超える身でありながら、180センチを超える体躯で、その鍛え抜かれた肉体は黒いコートを着た上からでも分かるほどだ。白髪混じりの髪を肩まで伸ばし、黒いサングラスをかけている。彫の深い顔、洗練された立ち姿、歩き方などは、まさに歴戦を戦い抜いた古参の兵士そのものである。
 笹原ナオヤの父、笹原トウジの師であり、さらにその父、笹原ジンの旧友でもあった。
現在は、笹原ナオヤのマスターとしてここロッキー山脈の山荘で彼を鍛えている。
もっとも、ここ数年は今回が初めてではなく、事あるごとにこの山荘にやってきては、ナオヤは訓練を続けていた。
 夏の暑い日差しを受けて、少年はひたすら毎朝早くに起きて山脈の麓まで続く荒い山道を走り続け、そしてまた戻ってくる。
戻ってきたら休む間もなく薪を割り、束ねて小屋に直したあと、今度は体力トレーニングに励む。午後を迎える頃には、ヘトヘトになり、岩がむき出しになった地面に寝転がり、荒い息をついて休むが、そんな彼にジョンは水をかぶせて再び起きあがらせる。
 ナオヤが割った薪で火を焚いて、絢咲零が食事を作るが、その大半をそのあとの走り込みが終わった午後3時頃にはほとんど吐いてしまう。
 まさしく無茶なトレーニングである。
科学的に見て、ここまで無茶なトレーニングだと、ナオヤの肉体を鍛えるということが目的だった場合、まったく意味を成してはいない。いや、むしろ逆効果だろう。
いつか身体を壊すことになる。
そのことをジョン・デイビットは重々承知していた。
しかし、それでも彼はそれをナオヤに続けさせたのだ。なぜなら、彼がナオヤにさせているこのレーニングは、ナオヤの肉体を鍛えることが目的ではないからだ。
吐いて倒れるナオヤを引きずり、山荘の近く少し開けた場所まで連れていく。
 彼の日課になりつつある行為だ。
初めのころ、見るに見かねた絢咲零が、引きずられていくナオヤを引き止めようとしたが、ジョンは、絢咲零の介入を一切許さなかった。
引きずられた先の広場は周りが岩石で覆われてはおらず、珍しく草木が生い茂る草原になっている。その少し奥で木材を組み合わせた簡素な棚が、50メートル先に立てられているのが見える。幅3メートル奥行き30センチほどだろうか。高さは160センチほどのその台の上には、いくつかの形の違う酒瓶が、等間隔に置かれているのが見えた。
 そしてナオヤが引きずられたその場所にも、同じような造りの台が立てられている。
ただし、50メートル先の台と違って、そこにあるのは、ハンドガン一つとマガジン一つを置ける程度の小さなものだった。
そしてまさにハンドガンが一つ、無造作に台の上に置かれている。
9ミリ口径の自動小銃。
 ベレッタM92FSを改良し、スライド部分を肉厚にして強化したブリガディアスライドを使用したモデルだ。グリップは握る指の形に窪ませたフィンガーチャンネルを採用し、よりグリップしやすく設計されている。さらに銃口から突出していたバレル先端を切り落とし、ホルスターから素早い抜き出しを可能とさせている。
 これが、笹原ナオヤが初めて撃った銃ということになる。
「脇をしっかりしめろ。右手に力が入りすぎだ。左手は軽く右手を包み込むようにして添える。右手の人差し指はトリガーに添えるようにするんだ。いいか? トリガーを引くんじゃない。絞るんだ。そうやって撃つんだ」
ナオヤの後ろに立ち、ジョンは細やかに指示を出す。
構え方だけで30分以上、指導して正しい姿勢を身に着けさせようとするが、ナオヤの方は午前中から続くトレーニングで満身創痍なため腕に力が入らず、その細い腕では重い銃をいつまでも持ったまま姿勢を維持するのはつらかった。
 だが、ジョンは一切妥協しなかった。
いいというまで腕を上げ続けさせる。
そんな日が何日、何週間、何カ月と続いたが、決してナオヤは根を上げることはなかった。
やがて三年の月日が経った。
 結論から言ってしまえば、ジョン=デイビットはナオヤに対して完全に見込みなしという判断を下していた。
三年の間に成長期でもある少年はずいぶん体力もつき、銃に関しての知識やその扱いも手慣れたものになってきたが、根本的に闘争本能に欠けるということをジョンは改めてこの少年に対して確認する結果となったのだ。
 スジはいいが、どうしても、これはもはや才能の問題である。
あの笹原トウジは、ナオヤとは比べ物にならない能力を持っていたが、その才能の最たるところは、銃を向けた相手を撃てるかというところにかかっている。
かつて、ジョンはナオヤの父、トウジに対して言った。
「銃を撃てる人間と撃てない人間がいる。いくら訓練を積んでもそれは変わらない。お前は、もしかしたら撃てない人間なのかもしれない。だが、それを恥じる必要はないんだ」
結果としてトウジは銃を撃てる側の人間だった。
しかし、間違いなく笹原ナオヤはそういう側の人間ではない。
 訓練の合間、少し休んでいる時、ナオヤは山に棲む鹿やウサギ、鳥たちを静かに眺め、触れる。動物たちもナオヤに触れられることを望むかのように集まってくることがあった。
その様子を見ているうちにジョンは自分がひどく間違ったことをしているような気になったという。
 才能に溢れたトウジとこの少年とでは根本的に違う。
トウジが優れた兵士<ソルジャー>だとするなら、ナオヤはなんと呼ぶべきだろうか。
そう……。まるで動物と話すことのできる指輪をもっていたソロモン王のようだった、と後にジョンは語っている。
 こんな少年にこんな訓練を施すことが果たして本当に正しいことなのか。
彼は何度となく迷うことがあった。
だが、結局、そうしながらも月日は流れ、結論としては、才能はないに等しいながらも、それなりに訓練の成果がわずかながらも出始めた1996年の夏。
 ナオヤはいつもの通り、走り込み、トレーニングを積み、そして銃を握りしめて的を撃ち抜いていた。
ここに来て、ナオヤはずいぶん成長したと言える。
まず、標高の高いこの土地でかなり酸素濃度が薄い中、これほどの運動量をこなしながらも息一つ乱れることなくこなした。
 そしてその直後、射撃場となっている広場で、50メートル先の小さな小瓶などは、まず外すことなくすべて撃ち抜いている。
最大の変化は、その容姿だろうか。
幼かったあの少年は、わずかな面影を残してはいるものの、この年齢の少年の成長は著しい。身長はずいぶん伸び、髪が少し伸びたせいだろうか。
 もともと華奢なほどに細い身体に、ほっそりとした線の薄い顔立ち、少し瞳が大きく、薄く形のいい唇から、まるで少女のような印象を受ける。
とはいうものの、日々の鍛錬のおかげか、その華奢な身でありながら決して頼りなげな印象だけというわけではない。少女らしい明るく健康的な美しさが際立っているように見えた。
 恐らくそれは、絢咲零の手ほどきによるところが大きいだろう。
「残弾数は?」
「6発です。ジョン」
「いいだろう。戻って食事だ」
「はい」
後ろで腕を組んで見ていたジョンは、特に感情のこもらない声で言いながら、かけていたサングラスを外す。
ナオヤは素直に頷き、慣れた手つきでベレッタからマガジンを引き抜き、スライドを引いてチャンバーに残っていた弾丸を外した。開いたスライドの奥からバレルの内側を覗きこみ、点検するのも忘れない。何千回と繰り返した一連の作業の後、銃をいつものデコボコと凹凸のできた古い金属製ケースになおす。
 それらを眺めていたジョンが先に歩きだし、その後ろをついていくようにナオヤもまたケースと弾薬ボックスを持ってついていく。
今日のような基礎的な訓練だけでは、もうすでにナオヤの実力からいって、物足りないだろう。昨今では、より実践的な訓練を積むようになっていた。
この日もまた、午前中、実は地元の警官で組織された元SWATのOBたちと市街地内における模擬戦闘訓練を行ってきたばかりだった。OBとはいえ、ジョンと違って、まだまだ肉体年齢としては油の乗ったベテラン警官との戦闘訓練だ。そこらのSWAT隊員たちでは、まだまだ彼らの足元にも及ばない。当然、いかに訓練を積んだナオヤとはいえ、そんな彼らにそう易々と勝てるものではない。
この日の戦績では、ナオヤはテロリストに扮したSWAT隊員たち10名のうち6名を行動不能にしている。
これはこれで、優秀な結果だったといえる。いや、むしろ13歳の少年がたった3年の訓練でベテラン相手に得た成果だとするなら、それは快挙といってもいいはずだった。
もっとも、ジョンは満足していない。
「今朝の模擬戦闘ですけど……」
「あれではだめだ。お前の戦う相手は人間ではない。初動が遅すぎる。敵味方の識別をもっと素早くしろ」
「はい」
そして、山荘に戻ったとき、二人の前に意外な人物が待っていた。
この山脈を歩くには、いかにも不自然と思えるような格好をした一人の女性が二人を待っていたのだ。年齢20代前半頃。タイトなミニスカートに気温が低いにも関わらず大胆なほどに胸元の開けたジャケットの黒いスーツ姿をしている。シルクのような光沢を放つ漆黒の髪を高く結い上げ、妖艶で麗しい顔立ちに細身の眼鏡が理知的な印象を周囲に与えるが、その一方で官能的で悩ましいほど魅惑的な肉体を惜しげもなく周囲にアピールしている。
 ヴァンパイアとしての本能が、ごく自然に人間の理性を狂わせようとしている。
もっとも、ヴァンパイアとの戦闘経験も豊富なエクソシスト、ジョン=デイビットに、ヴァンパイアの【魅了】など一切効果のない【聖者】、ナオヤには通用しない。
いや、ナオヤの方は果たして今はどうだろうか。
「せんせい!」
身知った相手を見つけたナオヤが嬉しそうに絢咲零の元に駆け寄る。
彼女の前に立ったとき、少しだけ顔を赤らめた。5カ月ぶりに会う絢咲零に対して嬉しいからか、それとも何かを意識してなのだろうか。
「ナオヤ、久しぶりね。少し身長が伸びたかしら」
そう言いながらも、まだまだ絢咲零よりは身長の低いナオヤに対して、彼女の方は彼に笑いかけるでもなく、腕を組みながら淡々と語る。
「ヘリできたのか?」
遠くで聞こえるローター音を聞きながら、ジョンは言った。
「ええ、そうよ」
山の中腹であるこの場所に、まともにヘリが着陸できる場所などない。
通常なら滞空したまま、降下ロープを使って降りるものだが、それはやはり訓練を受けた者でなければ安全にはできないし、それ相応の装備を着てするものだが、今現在の絢咲零の格好からして、そんなものを使用したとは到底思えない。
 間違いなく、目の前にいるのがヴァンパイアの女だということをジョンは改めて確認し、凄みのかかった鋭い視線をサングラスの奥から彼女に向ける。本来なら“敵”である存在なのだ。
それに気付いてか。零は切れ長の瞳がすっと細くなり、獲物を見据える冷徹なヴァンパイアとしてジョンと視線を交わす。
「せんせい、今日はどうしたの?」
そんな二人の様子に気づかないナオヤは、暢気な様子で零に話しかける。
零はジョンに視線を向けたまま、ナオヤの髪に触れるが、やがてナオヤの方に向き直ったときには、いつもと変わらない淡泊な表情をした零に戻っていた。
「少し髪が伸びたわね。けれど、とても可愛くなったわ。肌もすべすべで透明感あって、わたし好みになってきた」
「それ、ぜんぜん嬉しくないです……」
「ユキノにあなたを任されているんだから、わたしには責任があるのよ。あなたを可愛く育てるって」
少し意地悪く微笑みかけながら零は言う。
「母さんは元気?」
「元気よ。あなたに手紙を預かってる。あとで渡すわ。それと……」
そこで一呼吸おいた絢咲零は、ナオヤとジョンを二人に視線を向けて話し出した。
「あなたとジョンに急ぎの話があって来たの」


8 :コンピュータソーダメロン :2009/12/15(火) 01:46:25 ID:mcLmLiVDuH







ロッキー山脈のジョンの山荘は、山脈の西部に位置し、ユタ州のソルトレイクシティにほど近い山の中腹に存在している。
 鉱山資源が豊富で、アメリカにおける金の産出量は一、二を争うというが、実際、ジョン・デイビットがこの場所に山荘を建てる理由としては、金ではないものの、この地で産出される鉱山資源による。
 ここで採れるある鉱物が、悪魔除けに役立つからだ。
もっとも、それ以外にもナオヤを訓練するのに最適の場所であるといえる。
そこに建てられた山荘は、大の男2人分の太さはありそうな大木で組み上げられており、ダイニングやキッチン、客室などを含めると、部屋は30を超える。
一階はラウンジなどを含めた広い部屋が二つ用意され、ダイニングにキッチンがある。廊下などを挟んで比較的簡素なアトリエなども用意されていた。
 広々としたラウンジからは屋敷の裏庭へと通じており、そこにはジョンが栽培しているのであろう簡単な植物栽培用の温室が檜作りの板張りとなって造られている。
 まるでウッドデッキのように木造の床と壁に覆われる中、大きな棚が壁に沿うように設置され、そこには大小様々な観葉植物が栽培されている。
まるで、この場所だけはアメリカではなくジャングルの奥地にいるかのような錯覚を覚えさせる。やがて、デッキから外側に向けて、ガラスの壁と天井に覆われていくこととなる。
ウッドデッキはそのガラスのドアの向こうまで続いており、そのまま裏庭に出られる構造となっているらしい。
 ガラスの天井は、比較的天然の陽光を温室内に誘い込むためだろうが、とても解放感があって、落ち着く雰囲気を醸し出していた。
 二階には客室が十ほどあり、半分はそのまま壁と天井から解放された見開きとなっていて、プールが設置されている。そしてそのまま山の中腹から望むソルトレイクシティーの夜景が覗けるようになっていた。
とてもジョン一人で住むには広すぎるような広大な敷地のログハウス調の屋敷となっていた。
 文句のつけようがないほどの贅沢な屋敷だが、問題はこれほどの屋敷でありながら、前述の通り、住んでいるのはこのジョンという男一人で、プロも脱帽なシステムキッチンでありながら、まともな料理ひとつ作れないのがこのジョン=デイビットという男だということだ。
「ヤツの名はウォン=カーミッシュだ。駆け出しの建築家で、香港でショッピングモールのトイレの設計を任されてた。ところが運悪く夜道でライカン(狼男)に襲われ、あと少しで噛み殺されそうなところで、偶然退治しようとしていた俺に助けられた。以来、俺にしつこく付きまとい、恩返しをしたい、と。数年後、建築家として有名になったヤツが、俺に好きなところに好きな家を建ててやる、とか言いだした」
 アンティークな調度品や銀食器が飾られ、美しい装飾で彩られた暖炉には薪がくべられ炎を灯している。
長々と続くテーブルには、まだオーブンから出したばかりの湯気の立ちこめるロースビーフにチキンのスペアリブが色鮮やかな紅いリボンを巻きつけられて食器に並ぶ。
新鮮なサラダに熱いスープ、焼き立てのパンなど。
たくさんのローソクが明るい火を灯し、グラスに注がれたワインに光沢を添えている。
およそ昨日までとは、比較にならない料理がテーブルを賑わわせていた。
 そのテーブルにつき、ジョンはチキンを頬張りながら語る。
彼はこの屋敷の主らしく、テーブルの奥を陣取り、彼の横にナオヤと絢咲零が座っていた。
「俺はその頃、SWATの引退を考え始めていた。もっとも、裏の仕事はそのまま続けるつもりだった。だから引退した後も訓練を続けられる場所が欲しかった。家なんてなくてもトレーラーがあればいい」
「アメリカ人らしい発想ね。トレーラー暮らしでいいなんて……」
ナオヤの横で綺麗にナイフとフォークでローストビーフを切り裂き、口に運びつつ、冷めた口調で絢咲零は呟いた。
「イギリス人と違って、上品な家なんてなくても俺は生きていける。だから訓練所を造れとヤツにいった。そしたらヤツは造ったわけだ。この家を」
さもうんざりしたかのように、ジョンは天を仰ぐ。
そんな彼が仰いだ先には、豪勢なシャンデリアが煌びやかな光を放っている。
ほんもののクリスタルとダイヤで造られたこのシャンデリアだけでも、想像を絶する価値があるはずだ。
 しかし、彼はそれをつまらなそうに見上げるだけだった。
「とても綺麗な家だと思うけど。二階のプールから覗く景色なんてすっごい綺麗だし」
ナオヤがサラダを突きながら、ジョンに言った。
「バカをいうな。訓練所を造れといったのに射撃場はどこだ? トレーニングルームさえない。代わりにあるのは地下のでかいだけのバスルームとサウナと大げさなシアターシステムだ」
「……」
ナオヤからしてみれば、文句のつけようのない邸宅だが、ジョンからしてみれば、問題だらけだという。ここまで価値観の相違があることに、ナオヤとしてはあっけにとられる以上の反応が返せない。
 絢咲零に関してはもはや価値観以前の問題であり、初めからジョンとまともに会話をしようという意思がないらしく、まったく無視して食事を続けていた。
「ナオヤ、口の端にクリームが付いているわよ」
「あ、うん……せんせい、これ、おいしいね」
どうやら、このテーブルを埋め尽くす料理の数々は、絢咲零の手によるものらしい。
それもそのはずだ。ジョンはまともに料理できない。
ナオヤはかろうじてカレーは造れる。
しかし、その程度である。
絢咲零が来るまで、二人の食事はせいぜいファーストフードかブリトー、あるいは妖しげな屋台の中華料理などだった。
「きのことサーモンのクリームソテーよ。あなた、これ好きだったでしょう」
そう言いながら、手近にあるペーパーナプキンでナオヤの口元をそっと拭いてやる。
その様子をいつのまにか黙り込んでいたジョンが静かに見つめている。
「……うん」
そう言いながら、ナオヤはそのあとの言葉を続けられずになんとなく、歯がゆいような表情で、零に視線を向ける。
しかし、零はそれを知ってか知らずか、特に反応する様子もなく、食事を続ける。
「あの……せんせい」
「おしゃべりばかりしないで早く食べなさい」
「はい」
決して厳しいわけではないが、それ以上何かいうことを拒絶するかのような雰囲気がささやくような零の言葉にはあった。ナオヤは頷くことしかできないまま、再びサーモンを口にするのだった。



その後、キッチンのシンクで食器を片づける零は、相変わらず物静かで冷静だった。
食事の間、何度か零に言葉をかけようとしていたナオヤだったが、結局、零にまったく相手にされず、寂しそうに耳を垂れて食事を続けていた。
まるで叱られた子供のように、項垂れたナオヤは、早々に食事を終えたあと、二階の自室に戻って行った。
 ジョンは、そんな二人を静かに見守ったまま、最後までゆっくりと食事を続け、やがてワインではなく、ビールを冷蔵庫から取り出し、じっくりと味わうように飲んだ。
彼だけがテーブルに残って、ゆっくりと食事をしつつ、酒を飲み続けるので、彼の周りの皿だけは片付けようがない。
 零はジョンを無視して片付けを続けた。
洗い物が、そこそこ片付こうとする頃、不意に背後からジョンの声が響き渡った。
「ヴァンパイアってのは、【魅了】で懐き始めたペットにはすぐ飽きるものなのか」
「あのコはペットではないし、【魅了】も効かないわ」
きゅっと水道の蛇口を閉めながら、零は答える。
極めて感情のこもらない冷徹な響きがそこにはある。しかし、それはかえって不自然なほどであった。
「そういうことを言ってるわけじゃない」
「何が言いたいの? ジョン=デイビット」
「この数カ月、あいつをお前や家族から引き離して訓練させてきたが、実際、まだ13のガキだ。久しぶりに会うお前ともっと話したそうに見えたが」
「……」
「まぁ、いい。ヴァンパイアが人間のガキに愛情を注いでいる姿なんて俺には、想像できんからな」
そういって、ジョンはさしてどうでもいいかのように言った。
誰にいうでもなく、独り言のようなその言葉は、自分を責めているように絢咲零には受け取れた。それが思いのほか、彼女の心を痛める。
そのことが彼女には痛烈ではあったものの、実際には言った本人であるジョン自身が、自分の言っている言葉に信じられない想いだった。
それを表情に表すことはなかったが、それでもその場にいることに軽い嫌悪感を感じて、彼はさっさとビールの缶だけを手にとって席を立っていく。
残された絢咲零は、やっと片付けられるジョンの皿をさっさと拾い上げながら、心の奥で複雑な問答を続けていた。
 明らかに自分は動揺している。どう反応すればいいか分からないし、どんな表情や態度をあの少年に向ければいいのか分からなくて戸惑っている。
 今まで数百年と生きてきた中で、こんなふうに迷うのは初めてだった。
これまでどんな相手でも、どんな危険な敵や強大な力を持つ相手、そう、あのヴァンパイア組織のリーダー、レン=フレイザーを相手にしたときでさえ、常に自分は冷静でいられた。死を目前にしてなお、常に心は穏やかでいられた。
にもかかわらず、今はあの年端もいかない少年相手に、自分はどう接すればいいのかで悩んでいるのだ。
 少年は成長し、昔のような幼さをかなり残してはいるものの、少しだけ大人っぽくなった。自分ほどではないものの、ずいぶん背は伸びた。
これからも伸びていくだろう。
 綺麗な黒髪はまるで絹のようだ。
その中の小さな顔は、少女のように繊細で純粋な瞳が印象的な美しい顔立ちをしている。
触れれば折れてしまいそうなほどに華奢な細い身体、まだ誰の手に触れられたことのない、穢れない白い肌は、瑞々しい光沢を放っているような気さえする。
 まさに【聖者】と呼ぶに相応しい姿へと成長しつつある少年に、悪魔であるヴァンパイアの絢咲零は、どう触れればいいのかで悩む。
もし、不用意に自分が触れたことによって、あの少年が汚れてしまうようなことがあったら……。いや、それよりも心の奥ではいつか誰かのモノになってしまう前に、自分の手で少年を汚したいという欲求に苛まれてしまいそうになる。
 ちょうど三年前、レン=フレイザーの館で、レンの誘惑によって一瞬、我を忘れて快楽に飲まれそうになったあの時のように……。

「……」

そんな過去を思い返しながら、気がついたとき、絢咲零はナオヤの部屋の前に立っていた。
そして何かに制される前に、ドアをノックしていたのである。
ほどなくしてドアが開き、中から少年が顔を覗かせた。
「せんせい?」
午後の訓練から戻ったあと、少年はシャワーを浴びてからダイニングで食事したはずだが、そのあとで、再びシャワーを浴びにいったのだろう。
濡れた髪をタオルで拭きながら、少しだけ大きいように見えるウォーターブルーのパジャマ姿で立っていた。
 少しだけ火照った顔が、零の中のヴァンパイアの本能を刺激し、欲情させる。
「ユキノから手紙をあなたに渡しにきたの」
自分の心の奥とは裏腹に、発せられる声はいつも冷静であることに、この時の零は心の底から感謝する。
「母さんから?」
その言葉に顔がぱっと輝いたナオヤが、ドアを開けて零を部屋に招き入れる。
丸太で組まれた剛直な白木のベッドに、簡素な机、スタンドがあるだけの少し寂しい部屋ではあるものの、他の部屋同様に一人で住むには十分過ぎるほどの広さがある。
 この歳の少年の部屋なら、壁には映画か好きなアーティストのポスターが貼ってあったり、棚にはCDや雑誌が並んであったりするものだろうが、ナオヤの部屋はあまりに簡素で、子供らしいものが何ひとつない。
机の上には、飾り気のない棚があるが、それは本を収納させるものではなく、いくつかのハンドガンが銃口を上向きにした状態で保管されている、
壁に設置されたのは本棚ではなく、黒い鉄製のケースで、中にはM4やG36などのアサルトライフルが立て替えられている。
もちろん、いずれも弾薬などは抜かれマガジンも取り外されてはいるが、本物の銃である。
 かろうじて本が収納された本棚がベッドの傍らにあるが、そこに納められているのは、雑誌やコミックなどではなく、分厚く古臭い表紙の哲学書や古典、歴史書、それに何かの図鑑や辞書が立てかけられている。
 とても年頃の少年の部屋には見えないし、ましてやこんな少女と見間違いそうなほどの容姿をした繊細そうな少年の部屋とはとても思えないものだった。
「母さん、元気にしているんだね」
ベッドに座り、零に渡された手紙を読みながら、薄い微笑みを少年は浮かべる。
縦書きの日本語の文章を見るのでさえ、数か月ぶりだ。
まして家族の手紙を見て、懐かしさを感じずにはいられない。
封を開けたとき、わずかにローズマリーの香りがした。
家を出る前に、母であるユキノが庭先で手入れしていたハーブの香りだった。
「ユキノはあなたがジョンの元で短期留学をしているものと信じたまま、何も疑わずにあなたのことを想っている。心配しなくていい」
「そう……」
故郷のことを想いながら、家族の言葉を深く心の奥で噛みしめるかのように見つめる少年の横顔を見つめながら、零は、ゆっくりと少年の邪魔にならないような動作で隣に座る。
とても綺麗な横顔で、思わず見惚れてしまいそうだった。
 この三年間で、自分なりに少年をしつけ、美しく育ててきたつもりだったが、ここまで美しく成長するとは予想もしていなかった。
まさに至極の美だ。
零自身、自分の容姿にはある程度自身を持っているが、それは獲物を誘い込むために本能を刺激するための妖艶さであって、この少年のような穢れない神秘的な美しさとは到底次元が違うものだ。
「……」
零はごく自然にナオヤの隣で、ナオヤのまだ少し濡れた髪を優しく撫でる。
そして、すべらかな白く細いうなじに触れる。
ほんの少し力を入れれば折れてしまいそうな首筋は、零の持つ妖艶さとは違った色気を感じさせる。
じっと手紙を読むナオヤは、零の細い手が首筋に触れるのを感じたとき、思わず、強張るように震えた。
「ちょっ、ちょっと! せんせいの手、冷たい!」
「そう?」
「そんなに冷たくてだいじょうぶなの?」
「ヴァンパイアにする質問じゃないわね」
「そうだけど……」
実際、零の手がそれほど冷たかったわけではない。
ただ、ナオヤの火照った肌には、少々、刺激が強すぎただけだ。
「手紙は? もう読んだの?」
そう言いながら零の手に思わずのけぞるナオヤに、ぐいっと身体をねじ寄せるようにして顔を近づけていく彼女は、その美しくも危険なまでに妖しい美貌で少年に迫る。
「ちょっと、せんせい、何する……!?」
そのまま上からナオヤにのしかかるようにして、零はベッドにナオヤを押し倒していった。
手紙を手にしたまま、無防備な姿勢で押し倒されたナオヤは、必死に抵抗するが、零の美貌と彼女の身から香る甘いフローラルの香水の香りに、思わず、意識が飛びそうになる。
もっとも、どの道、ヴァンパイアである絢咲零に力で勝てるはずもなかった。
「そ、そういうのダメだから!」
混乱しきりながら、半ばパニックでありつつも、平静を装うとするが、それがかえって少年の動揺を浮き彫りにする。
そんな少年の困惑を楽しみながら、零は妖しい微笑みをこの時、初めて少年の前に見せた。
それは獲物を手にしたヴァンパイアのそれに似ている。
「わたしに冷たくされていじけてたくせに?」
意地悪い微笑みを浮かべる彼女のそれは、まさに悪魔と呼ぶに相応しく、ナオヤは、悔しさと屈辱で顔が紅く染まる。
「……せんせい、それ、すごくヒキョーですよ!?」
「ええ、わたしは悪魔ですから。【聖者】様?」
わざとらしく丁寧な言葉で艶めかしくそう言いながら、零はついに抵抗するナオヤの上にマウントポジションにつく。
タイトなミニスカートから覗く悩ましい太ももが、ナオヤの腹部を挟み込むようにして乗り上げ、そして、さらにナオヤの両手を掴んで一切の抵抗をできなくさせるのに成功した。
「……!」
そのあとは、もうナオヤに一切の反論を許さないまま、彼女は少年の唇を奪っていた。


9 :コンピュータソーダメロン :2009/12/18(金) 02:41:30 ID:mcLmLiVDuH

笹原ナオヤはキスが苦手だった。
あまりいい思い出がない。
できればしたくないし、強引にされるのはもっと嫌だった。
その理由については、彼なりに分かっている。つまらないトラウマだ。
三年前、学校である少女とキスをした。ちょっとした事故だった。だが、その少女に問答無用でその場で殴られてしまった。そして今、自分の目の前にいる絶世の美女である絢咲零とも、あの事件の夜、キスをした。
 激しい爆発の渦の中、瀕死の重傷を負った絢咲零との、それが最期の別れになったかと思われた。
結果として、絢咲零は今、目の前にいて当然ながら生きている。
しかしキスをしたあと、何か不幸なことが起こるようなトラウマが、ナオヤの心の奥には刻み込まれている。
絢咲零とキスをするのが怖い。
「……」
また、彼女がどこかへ行ってしまうようなことがあったら、その時自分は、自分はどうすればいいのだろう。
どうなってしまうだろう。
ナオヤは、ふとそんなことを考える。
 冷たかったはずの零のすべらかな手が、今は少しだけぬくもりを持ち、ナオヤの胸の肌を優しく撫でる。
ただそれだけで、心臓が止まりそうなほどにどきどきしているのが分かる。
3年前なら、優しい彼女の手に触れられるのはとても心地よかったはずなのだ。
面倒くさいコだとか、バカだとか、仕方のないコだとか、あれこれ不平を言いながらも、どうしてかいつもこの悪魔は、溜息交じりにそっと優しく髪に触れたり、肌に触れたりしながら自分を助けてくれた。
そんな彼女に触れられるのが好きだったのに……。
どうしてだろう。今はただ、胸が高鳴って苦しい。
触れられた肌が熱くて焼けてしまいそうな気がしてくる。
「どうしたの? 顔が紅いわよ?」
本気で心配しているのだろうか。それともいつも意地悪のつもりだろうか。
そういいながら、彼女の少しだけ冷たい手が頬に触れた。
冷たくて気持ちいい。
「せんせいは、いつもこういうことをしているの?」
「こういうことって何?」
ヴァンパイアは人を誘惑する。それが本能だ。
ベッドの上で、タイトなミニスカートをはいてはいるし、ブラウス一枚とはいえ、一応、まだ服は着ている。
パジャマ姿の自分のシャツが少しはだけているが、それくらいで、特に何かいかがわしいことをしていたわけではない。
もっとも、ベッドの上で絢咲零は相当ナオヤを苛めた。
キスが嫌いだという少年に覆いかぶさり、その頬にキスを重ねながら何度となく髪を撫で、麗しく成長しはじめた彼の肌に触れる。
「いいよ、もぅ……」
どう表現すればいいのか分からなかったし、なんだか自分が嫉妬しているようで自己嫌悪に陥りそうになったナオヤは、それ以上何か言うのをやめた。
 零を拒絶するかのように、そっぽを向いて寝ころんだ。
「何をスネてるのかしら、このコは。わたしが苛めるのはあなただけよ?」
やや呆れた調子でそう言いながら、それでも上体を起こしてナオヤを包み込むように腕をかけ、そっとナオヤの髪や耳に触れる。そしてもう一度だけ少年を諌めるように頬にキスをしてから、再び彼の横で仰向けの状態で天井を眺める。
少しばかり激しい運動を繰り広げたせいか、ナオヤは息が上がっていたし、絢咲零も少し疲れた様子だった。
「せんせい、急ぎの話って何なんですか」
「……」
唐突にナオヤが問いかける。
その質問に、零はしばらく答えようとはせず、天井を眺めていた。
本当なら、一番初めにこの話を切り出すつもりが、結局、タイミングを逸して話せないまま今に至っている。
それでも本来、彼女がここにきた理由が、その話をするためである以上、明日にはジョンを交えて切り出すつもりでいた。
「レン=フレイザーからの依頼よ。3カ月後にヴェネチアに飛んでほしいの。【預言者】が現れたとの情報が入ったわ」


10 :コンピュータソーダメロン :2010/03/12(金) 17:13:43 ID:WcuDsLL3PD

レン=フレイザーとは3年前、父トウジが死亡した頃からの関係が続いている。
彼との関係は非常に複雑で、ナオヤ自身、彼と接するときには細心の注意が必要だった。
もっとも、それを言い出すなら彼と同じ組織に属する絢咲零に対してでさえ、同様の注意が必要のはずだが、これもまたこれまで記述されてきたように、非常に複雑な関係といえる。レンはイギリス発祥のヴァンパイア組織の長で、日本にも拠点を置いている。その目的はようとして知れないが、当初、【預言者】との戦闘に巻き込まれた10歳にも満たない幼い笹原ナオヤを監視する名目で絢咲零をナオヤの元に送りこませた張本人である。
 当時は、ナオヤの挙動如何においては抹殺するつもりだったが、運命の皮肉というべきか、笹原ナオヤは絢咲零の戦闘に巻き込まれた際、【ロンギヌスの槍】に貫かれて死亡、そして後に【聖者】として覚醒したナオヤは、本来、敵であるはずの魔性の存在である【ヴァンパイア】の長、レンに、ある取引を持ちかけたのだ。
レン以下、すべての彼の組織の【ヴァンパイア】を皆殺しにしないかわりに、自分に武器と【預言者】と戦うための知識、情報を与えよ、というものだった。
 レン=フレイザーの館で、彼の配下の【ヴァンパイア】たちに囲まれながら、少年はまったく臆することなくそういってのけた。
果たして、その瞬間、少年は少年たりえたのか。
まるで何か別の存在が少年の心に憑依し、語りかけるかのような存在感と威圧感が、館内のすべての生物たちを圧倒した。
 さらにナオヤを守るべく決死の機転と一発の銃弾によって絢咲零は、この緊迫した状況を切り開いた結果、意外にもレン=フレイザーの気まぐれか、あるいは何かの企てによるものか、レンは笹原ナオヤの取引を受け入れたのである。
もっとも、レン=フレイザーという狂気に満ちた男が、果たして【聖者】とはいえ、この幼い少年を億した上での判断だったかは、はなはだ疑わしい。
レンにはレンの野望があることだろう。
 そのことを思い、零は頭痛のする想いでこの状況の最中、少年を見つめていた。
それから三年。
かつてのレンの最大の敵の一人であり、ナオヤの父、トウジの恩師でもあるジョン=デイビットの元で訓練を積んだナオヤは、ほんの少しだけ成長した。
年頃の少年に。



「ヴェネチアに【預言者】? ヴェネチアってイタリアの?」
一夜明けて、ジョンの屋敷のリビングではナオヤがさっそく、焼けたベーグルに手を伸ばしながら問いかけた。
レタスやベーコン、卵にトマト。クリームチーズを挟んで豪快に頬張る。
アメリカに来る前、零は一通りのテーブルマナーをナオヤに教え込んだはずだが、彼をジョンに預けた途端に、このザマである。
ビールジョッキに冷たいオレンジジュースを注いでガブ飲みする姿を絢咲零は瞳を細めながら見つめていた。
彼女のテーブルにはグラスに並々と注がれたワインがあるだけである。
ナオヤに言わせてみれば朝からお酒というのもどうかというところだろう。
「正確にはイタリア北東部。アドリア海の真珠ってやつだ。古くからヴェネチアでは悪霊払いが闇では盛んに行われてる。中世でのペスト大流行の傷痕が深く歴史の闇の部分に沁み込んで、今でも『吸血鬼伝説』なんかが残ってる」
焼き立てのホットドッグに特大のマスタードソースを遠慮なく塗りたくりながら、ごくごくつまらないことのようにジョンは口をはさんだ。
「実際には『伝説』じゃない?」
ナオヤがジョンに向き直って問いかける。
ジョンは軽くおどけるようにして頷くと、いっきにホットドッグにかぶりついた。
「ひゅうへんはえに、あほほへおひゃっひきほろはっら(十年ほど前に、あそこで五百匹ほど狩った)」
口いっぱいに頬張ったパンと肉がまだ口の中に残っているにも関わらず、無理に喋るジョンの様子をナオヤは特に気にしたわけではなかったが、この状況に我慢しきれなくなったのは絢咲零の方だった。
「まったく……。我慢できない。あなたにナオヤを預けたのは失敗だった。わたしがナオヤを訓練させるべきだったわ」
「せんせい?」
「ナオヤ、こんな下品なアメリカ人のマネをしてはダメよ」
「う、うん……」
そう答えはするものの、テーブルマナーを気にしようにもここにはナイフもフォークもないし、ベーグルは手で掴んで食べるものだ。零の言わんとしていることが分からないでもないナオヤだったが、いかんせん、どうしようもない。
「そりゃあ、悪かったな。イギリス人のお上品な食いもんはここにはなくてよ。それに、ホットドッグはかぶりついて食うのが正しい作法なんだぜ」
零の言いようを全く気に留める様子もなく、ジョンはマイペースに食事を続ける。
そんなジョンに苛立ちを隠せない絢咲零だったが、この人間のペースに嵌ることだけはプライドが許さなかった。
「それより、【預言者】の情報はどこから流れたんだ? 最近じゃ、キナ臭い連中が【預言者】を使って何かしている。日本でも三年前に例の事件がある」
ジョンが何を言わんとしているかは、ナオヤにも零にもよく分かっていた。
三年前の銀蘭聖香事件では、明らかに何者かの意思が働いて人為的に【預言者】を兵器のように利用し多くの犠牲を出した事例がある。
首謀者イオン=スプートニクを含めたルーマニア人【ヴァンパイア】組織の手によるものだ。彼らの組織の全貌については、三年経った今なお、レン=フレイザーの組織による調査にも関わらず、依然掴めてはいなかった。
 本来、【預言者】は百年に一度生まれるか生まれないかの非常に希有な存在である。
『彼ら』がどこからきて、何を目的にしているかは誰にも分からない。
ただ一つ分かっていることは、人類側の存在もでなければ魔性の側でもない。
突如、その場に発生し、その場にいるすべての生物たちを獰猛な殺意で喰らい、侵食し、増殖する。まるで自然発生した致死率の高い病気のように蔓延し、やがて突然鎮圧され、終息する。
 人類の長い歴史の中でも、それらは様々に形を変え、言葉を変えて記述されているが、誰にもその正体は分からない。
ただ、その存在をいつのころからか、誰かが【預言者】と呼ぶようになった。
そんな制御はおろか、正体すら分からない存在を兵器利用しようという者の気が知れないが、事実それは起こったのだ。なんの感情もなく、ただ事務的に『実験』は行われ、一定の成果に満足した『彼ら』は三年前に姿を消して以降、なんの情報も入ってきてはいないが、確かに存在する。
「情報は確かよ。すでに現地でレンのエージェントが状況を確認してる。国連保健機構(WHO)と米国疾病予防センター(CDC)も動いてる」
「どういう意味?」
ナオヤが嫌な予感がするとばかりに、顔を暗くさせて問いかける。それもそのはずだ。まさにこういったオカルト現象に対して、自分たちはそれと知っていて事態に対処するものの、現代の文明において、公的機関や国連機関などが動くようなケースはそうそうあるものではない。あるとすれば、明らかに無視できない何らかの大規模でより広範な超自然的な現象が発生した場合に限るだろう。
そして、それは確かにそうだった。
「ヴェネチアからほど近い小さな村落の住民が一夜で全員消失したの。代わりに正体不明の生物の死骸が。これよ」
恐らく現地に最初に踏みいれた調査組織によって撮影されたもので、本来、最高機密として扱われているはずの写真だろう。
どうしてそれを絢咲零が手にしているかは、その場にいるナオヤもジョンも問いかけはしなかった。
ただ、そこに写っているものは、三年前、ナオヤも見たはずのものだった。
未確認感染症対策のために黄色い宇宙服を着た物々しい集団とともに写っているそれは、かつて銀蘭聖香学園爆破事件の最中、校舎内を徘徊し、その場にいた生徒、教師を虐殺したあの“生物”だった。


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