誰でも書き込める創作日記


9 :海月 :2007/08/28(火) 02:10:38 ID:kmnkt3rF

読ませる技術について

 小説を書くというのはどういうことか?
 自分の思考や思想をカタチにする、というのもありますが、他人様の目に晒すとなると、いかにして読ませるか、というのが重要になります。
 ここは一応、小説の第一目標は「他人に読んで貰うこと」にしてしまうとしましょう。
 読んで貰う相手、というのはモチロン「読者」のことです。
 何らかの懸賞に応募する時も、これは同じ事であって、例えそれを選別するのが出版社の編集者や選考委員の文筆家であれ、筆者というのはそれらの向こう側にある「一般読者」を意識して書くように心がけなければなりません。
 そこで「読ませる技術」というのが重要になってくるのです。
 そういうわけで、読ませる技術についていくつか簡単なアドバイスをしようと思います。

其の一「冒頭で読者の心を掴め」
 これはもう、作家に否定する人はいないだろうと思えるほどの常識です。
 たとえば、その作品が現代の都市に現れた異形の怪物を倒していく伝奇物であったとすれば、取り敢えず月並みですが、いきなり主人公が怪物に襲われたり追跡されたりする息詰まるシーンを冒頭に持ってくるのが相応しく、逆に良い感じの喫茶店でアンニュイにコーヒーなんぞを啜るシーンはあまり相応しくない、と言えます。
 冒頭に何の変哲も無い日常シーンを持ってくることで、後々の波瀾万丈の展開とのギャップを作れる、と思う人が意外と多いものです。が、大方の読者はそんなシーンを読んだ所で面白くとも何とも感じず、読むのを投げ出してしまうことが多いものです。
 冒頭にストーリー上重要なシーンを持ってくることで、ネタバレになってしまうかもしれないと恐怖を感じている人もいるかもしれませんが、その程度で面白みが失われてしまうようなストーリーやアイデアは、たとえ冒頭から隠したところで面白くなるとは到底思えません。
 小説を執筆する上で大切なことの一つに「大胆且つ繊細」というのもありますが、冒頭では思い切って大胆に書き出した方が読者の目に留まりやすく、また読み進めてくれる可能性も高まるというものです。
 何も小説というのは大胆なスタートが必要である、と言っているのではありません。小説は他の種類の文芸に比べれば制約がもっとも少ない類になりますから、本当なら冒頭はどんなカタチでも構わないのです。
 ただ、冒頭で読者にインパクトを与える手法は非情に有効なので、みすみす逃す手はない、と言っているだけです。
 自分のやりかたを固持することで、読者を逃してしまうと言うのも馬鹿馬鹿しいこととは思いませんか?

其の二「筆者は自分が親馬鹿であることを自覚せよ」
 フラフラになるまで脳味噌を絞って刻みつけた文章にただならぬ愛着を持つのは筆者として当然のことです。
 しかしながら、読者というのは筆者が文章を書き記すプロセスなどというものに、さほどの配慮も理解も持つことはありません。
 つまり、筆者がその文章にどれほどの想いを抱いていようとも、それが作品に付加される価値に影響を及ぼすことは無い、ということでもあります。
 何が言いたいのか。
 それは「読むのに邪魔になる文章、無関係なシーンや展開などは思い切って削除してしまえ」ということ。
 これは先ほどの冒頭云々と通じるところもあります。
 冒頭のシーンで読者にインパクトを与え、そこでは一旦成功したと言えるかもしれませんが、その後のストーリーに無駄が多ければ、せっかくの冒頭も水の泡です。
 つまりは、冒頭でインパクトを与えて、次の展開に興味を抱かせたならば、次の展開でもその次に興味を抱かせるような書き方をしなかればいけないのです。
 極端に言えば、段落ごとに興味を抱かせるような要素を織り込み、次の段落へと読者の目を向かわせる、ということです。
 冒頭のシーンで敵から追われ、なんとか逃げ切ったとして、その次のシーンが日当たりの良いベランダの安楽椅子に座りながら本を読む優雅な一時、だったりすると、読者の熱は一気に冷めてしまうものです。しかしその優雅なシーンにストーリーに大いに関わる要素が含まれているというのであれば、話は別です。(ただ、筆者がそう思い込んでいるだけで、読者には理解してもらえない、ということも多々あるということを知っておくべきです)
 つまりここで言いたいのは、極限まで推敲せよ、ということなのです。
 最初の第一稿は思うまま気のままありのままに書き綴ってもいいのですが、それはダイアモンドで言えば、周囲を無骨な石によって包まれた、本来の輝きにはほど遠い原石の状態と同じ事です。
 読ませる、というのは、宝石を見て貰い、その質を確かめて貰い、そして買って貰う、というのと同じであり、そこに至るまでには原石を砕いて宝石本体を取り出し、カッティングし、研磨しなければなりません。
 文章で言えば、余分な文章を削り、文章の本質を明確にするために文体を調整する、ということになります。
 また、余分なのは文章に限ったことではありません。
 時によっては――というより大概の場合は、読者の熱に冷や水を浴びせてしまうようなシーンもあります。
 そう言うときは、どれだけ身を削ったシーンであっても、非情になって削除することをお薦めします。
 これは農業にも通じるところがあり、畑に蒔いた種が発芽したとしても、他の苗の発育を阻害してしまう可能性があれば、間引きしなければなりません。小説も、他の文章やシーンの効果を阻害してしまう可能性のある文章・シーンは削除してしまった方が、より作品全体にメリハリをもたらすことが出来るのです。
 ここまで削除することについて述べてきましたが、逆に付け加えるという行為はどうなのか、と言いますと、物書きにすればこれほどのタブーというのはありません。
 ただでさえ間延びしがちな文章に、さらに文章を付け加えてしまう、というのがどれほど愚かしいことなのか、ということは多少の執筆歴がある人ならば理解できると思います。
 文章というのはおかしいもので、削除することで整合が保てることはあっても、付け加えることで保てるという事例はほとんどありません。
 仮に新たな文章を付け加えなければ成り立たない文章が存在するのであれば、それはおそらく不必要だと思います。そう言うときは思い切ってその文章自体を削除してしまった方がむしろスッキリするものですよ。
 もしも何らかの懸賞に応募するのであれば、これらの作業は必要不可欠なものになります。
 昨今の作家になりたいという熱によって、以前に増して出版社に押し寄せる原稿は半端無い量になっているようです。
 ネット上で第一審査(ほとんどの場合は下読みの段階)で蹴落とされた作品が公開されていることがありますが、実際に読んでみてさもありなんと思うのが99%です。
 不必要な語句・文章・シーンがあまりにも多く、そこには推敲した痕跡は一つも見ることが出来ません。
 もしその作品が推敲されているのだとしたら、一つだけ断言できます。
 推敲不足である、と。
 推敲というのは、誤字脱字を修正したり、言い回しの間違った文章を直したりするだけのことではないのですよ、と。
 時によっては、一つの短いシーンを三十回、四十回と見直し、手を入れ、時には丸ごと削除する、ということもあります。
 文章は磨くことによって損をするということは絶対にあり得ませんし、磨く回数を増すごとにより完成に向かうということを否定する人などいません。
 後半は懸賞向け、作家向けになってしまいましたが、あくまでアマチュア指向だったり、趣味の範疇であったりする人にも有効です。
 アマチュアであれプロであれ、読んで貰いたいという気持ちに違いは無く、その為にすべきことにも違いはないからです。
 実際に上記に示したことをやってみようと思う人がいましたら、もっとも効果的な方法があります。
 それは文字数を制限する、ということです。
 ネットで探してみても、千文字、五百文字に限定した小説を投稿するサイトは数多くあります。
 そこに投稿されている作品を読んでみて、そして実際に書いてみると、文章にどれだけ無駄な贅肉がついているかを実感できるはずです。
 実際、千文字縛りの小説を書いみて、結果は三千文字以上になり、それを三分の一に削るということをしましたけれど、その行為は試合前のボクサーの減量に酷似しているということに気付きました。
 そして、減量をしないボクサーというのは勝敗を決する以前に、試合に出場することすら叶わないのです。
 小説も然り。


novel plaza system
甘辛流小説家ギルドGAIA
produced by COLUN.