クレマチスが枯れるまで


1 :おやま :2006/05/19(金) 23:42:20 ID:VHknketG

あらすじ:
 魔術師とその見習いのみが住むことを許された空浮かぶ塔の、ある年の冬の終わりから春にかけての物語。
 ドリドル先生の受け持つ中級見習い魔術師のクラスには三人+αのいたずら少年がいた。
一人は、過激派のルグル。一人は、参謀のコルト。一人はそんな二人に憧れてついてまわるチビのクロッカスと使い魔の「生きている水」のクレマチス。
 三人+αは皆で春から上級に進級し、先生や同級生や妖精をからかい毎日面白おかしく生きていくのだと信じて疑わなかった。しかし、クロッカスに体の変調が……。
 ヒトの願いが奇跡を起こす長編人間ファンタジー。
 ……のはず。

取り扱い説明書

・本腰入れて現在進行形で書いているもののほうが、いろいろ気付きやすいかな、と思ったので。内容そのものは、以前GAIAの小説広場においてあったものと同じです。
・この物語は部分的に残酷な描写を含んでいます。エッセンス程度ですが苦手な方は注意。
・この物語は「サンドリオンに恋した魔法使い」と舞台と登場人物を共有していますが、どちらも一つの物語として完結しています。ただ、両方読んだら発見する面白さもあるかもしれません。


2 :おやま :2006/05/19(金) 23:44:02 ID:VHknketG

序文

******

 ずっと考えたことのなかったことを十日の間で考えていた
 生きるって何なのか、死ぬって何なのか
 そんなこと生きていてずっと考えたことはなかった
 ただ生き死にが、当たり前なことが悲しかった
 そんな当たり前のことに気付くのは遅すぎたけれども
 けれども、涙なんて出なかった
 よかった、ってことに気付いていたから涙は流れなかったんだ
 生きていてよかった
 三人一緒にいられた時間は何よりの宝物
 ありがとう 楽しかった
 これから残された時間も 友達の為に力を尽くそうと思う
 生きる機会を与えてくれたすべてのものに感謝を

******


3 :おやま :2006/05/19(金) 23:56:10 ID:VHknketG

目次


「ドリドル先生の日記」
1.友情の小部屋
2.結晶融解
3.受け皿の不在
4.振り出しに戻る病
「死に至らない呪い」
5.妖精の生活 日常編
6.妖精の生活 冒険編
7.綿毛の故郷
8.緑の指の貴人
9.死を糧とする花
「あなたに」
10.一人の受難は三人の……
11.大切な授業
12.ふたり
13.難解な証明問題
14.クレマチスが枯れるまで
「緑の指の大切なひと」


4 :おやま :2006/05/20(土) 00:00:29 ID:VHknketG

「ドリドル先生の日記」 1

 2月20日 晴れ 卵年齢:12日

『卵の中に確かに生命力が生まれたのを観察しました。とうとう直に飛竜が孵るところを見られるようです。毎日卵を見るのが楽しみでなりません。
 逆に楽しみでないのが最近の仕事でしょうか。どうして私は中級のクラス担任なのでしょうか。初級や中級のクラス担任などやらずに、上級の講義のみ担当や、専属のみを担当したい……。まあ校長も講義を持っているほど講師陣が薄いですから我侭などいえませんね。助教授なんて肩書きが偉そうになっただけで講師時代とやっていることがかわらないのが悲しいところですが……。
 まずはテストです。問題を作る以上に、カンニング対策をどうするか……まったく困ったものです。
 必ず、あの三人組はテストで何らかの仕掛けをしていると思うのです。今まで尻尾はつかめませんでしたが、きっとそうでしょう。そうでないと毎日毎日悪戯ばかりしているあの三人のテストの点数が説明できません。
前回のテストを返した時の、ルグル君のしてやったり、といった表情……あれで確信しました。やはりルグル君をはじめ、3人とも何らかの方法でカンニングしているに間違いありません。ルグル君は斜め後ろのコルト君の回答を右半分だけ正確に写し取っています。何らかの魔術でそちら半分だけを写しているのだとは思われますが……現状の装備では、魔術の行使を感知することができません。まったく、カンニングとなると大人顔負けの隠密魔術を使えるとは、困ったものです。
 問題は、ルグル君に複写されたほうにもあります。綺麗に正規分布がとれ、かつ満点が出ないように細心の注意を払って作ったテスト問題にもかかわらず、満点を取ったコルト君。鬼才だのと他の先生はもてはやしますが、全てのペーパーテストでそのような点、あのような振る舞いをしていて取れるわけはないのです。第一彼はいつも私の授業寝てばかりじゃないですか。時々日々の観察について話をし、そこで得た知見を元に問題を作りますが、一切番板を取らないコルト君が満点を取るなんてきっと間違いです。
 そして何故かあの二人に雛のようについてまわるクロッカス君。明らかに二人と付き合うようになってから、単位の取り方が変わってきています。おかしい! 初級から中級に進級するのに三年かかっていますから、中級もそれくらいのペースくらいかかると思っていましたし、去年までは三年かかると思いましたが、二年で済んでしまいそうではないですか。きっと何かよくない知恵が入っているに違いありません。
 この三人が問題を起こすのが進級だけならまだしも……他の生徒への危害なども考えると、本当に頭痛が。クラスの中では実に委員長のイルフェさんが抑えてくれていて助かります。私もしっかりしなくては。この間校長に呼び出しを食らった時は心臓が止まりかかりました。まさか大魔術師の預かり子を塔の上から突き落とすなんて、まったく恐ろしい! 普通の塔ならまだ助かるかもしれませんが、ここの塔は塔でも高さ百階以上のうえに、空に浮かんでいるんですよ! 落ちたらたとえ妖精でも助からないでしょう。校長からちゃんと命の大事さなど道徳的なことを教えるのもまた教師の役目と言われましたが……さてどうしたものでしょう。面白がっている三人を、止めることができるんでしょうか。どのような方法がよいのか……。
 じかに生き物と接する機会を設ける? いやだめです。生き物が傷ついてしまいます。
 他には……物語でも聞かせればいいでしょうか。しかし中級クラスは八歳から十四歳の子供がいますからね。皆が興味を持つような、生き物の尊厳を問うような物語……。難しいですね。一番聞いて欲しい連中に限って昼寝してしまうでしょう。まったく』


5 :おやま :2006/05/20(土) 00:01:46 ID:VHknketG

「ドリドル先生の日記」 2


 まったく……じゃない。
 ため息をついて、書き手であるドリドルはペンを置いた。日記の上に落ちている紫色の髪の毛を大切そうにつまんで、日記を閉じる。
 ドリドルは髪の毛を見ていると自然と頭に空いた手がいってしまうのが悲しい年頃だ。髪の毛の色も人間として異様だが、彼の異様さはそれだけではない。百年ほど前の魔界からの魔王の侵攻に伴って、地上人間社会に存在した魔という魔の文字が滅んでしまった。今では魔の字のつく力を行使できる人間は、ほんの一握りの空に浮いた拠点に残っているだけである。ドリドルもそんな拠点の一つ、空飛ぶ石の塔に住む魔術という力を行使する魔術師の一人である。
 通称「塔」と呼ばれるここは、数少ない魔術師の教育研究施設の一つだ。主な構成は、塔の持ち主である大魔術師とその門弟たちである。塔は,
魔王が滅んでからできたわりと新しいほうの魔術師の学校である。しかし今ではその規模は世界一とも言われている。その理由は、この塔に所属する魔術師とその見習いのほとんどが、百年ほど前に枯れかけた由緒正しき生まれの魔術師のエリート達ではなく、この学校は地上でも偶然魔力を持って生まれてしまった子供達だからである。新しい血を外から入れ反応が起こし加速的に魔術を進歩させていく方針は、危険だが手っ取り早い。そのもくろみは成功しているといえ、塔の規模は少しずつだが確実に大きくなってきた。最初は大魔術師一人だった教師も、今では数十人いる。
 ドリドルもかつては地上に住み、髪の毛の色で異端視された少年だった。そのままだったらさぞや惨めな生涯を送っていただろう。しかし、大魔術師の門弟の一人に見初められ、塔に住むことになった。見習い期間が終えた後も、教える側という形式でこの塔に残り、今では塔の助教授にして中級の魔術師見習いのクラスの担任でもある。
 見習い卒業をして、一人前の証をもらった後もドリドルがここに残った理由はただ一つ。
 地上で生きてゆける自信なんてまるでなかったからである。どうしてもここに残りたいと、大魔術師と校長に頭を下げて今がある。
 だからこそ、担当しているクラスが荒れると、ドリドルの胃が荒れて毛が抜けるのであった。


6 :おやま :2006/05/20(土) 00:12:08 ID:VHknketG

1.友情の小部屋 (1)


 ぼっちゃんの朝は早いのです。
 ぼっちゃんは、起きたらルームメイトを起こさないようにそっとベットから抜け出します。その後、部屋を出て廊下のまだはっきりとしない明るさの窓の前で大きく伸びをし、流しで私を置いてから顔を洗います。最初はぼうっとしていた顔も、半分水に濡れたままに歯磨きしているうちに、どんどんはっきりとした意識を感じさせるようにひきしまっていきます。そばかすだらけで冬の寒さに赤みが引いた頬、かさかさに乾いた唇を舌で舐めすぎて炎症している口回り、眉毛よりも少し長いくらいに伸びた茶色い前髪。
 ぼっちゃんは前髪を手にとって、静電気の魔術を使ってそれをツンツンと尖らせていきます。これは、ぼっちゃんが一人の寝ぼすけな子供から、見習い魔術師になる為の儀式のようで、今年度に入ってからほぼ一年、毎日欠かさず続けています。
「おはようでやんす、クレマチス」
 私を再び首にかけて、毎朝ぼっちゃんは私に視線を絞って挨拶をします。
 私の名前はクレマチス。ぼっちゃんの手によって生み出された、「生きている水」です。もちろん名前どおり、私は手も足も頭もなく、魂とぼっちゃんの魔力と無色透明の液体からできています。当然非常に不安定な生命なかたちなので、日頃は崩壊しないようにネックレスの飾りのガラス瓶の中に入れられています。
『おはようございます、ぼっちゃん。頭をそろえるのもいいですが、ちゃんと口のまわりに軟膏塗ってください。どれだけ唇を大きく見せたら気が済むんですか!』
 やかましく怒鳴ったくらいでようやくぼっちゃんは面倒くさそうに保健の先生からもらった軟膏をポケットから出し、口周りに塗りたくってくれました。
 私の声は、人間と同じような声ではありません。空気を震わすのではなく、空気中に溶け込んだ魔力を震わせて、直接相手の心に語りかける一種の魔術のようなものです。普段はぼっちゃんと親しい人にしか聞こえないように自分で調整しています。
『今度は舐めて落とさないよう』
 はいはい、と気のない返事をぼっちゃんは繰り返し、部屋に引き返しました。
それからまたルームメイトを起こさないように、こっそりと支給された黒を基調とした長衣に着替え、今日の授業の用意が済んだ鞄を持って窓から外に抜け出します。
「今日もいい天気でやんすね」
 この時間はまだ朝一つ目の授業が始まるまでに二時間ほど余裕があります。食堂が開くまでにもまだ半刻ほどの余裕があります。それでもぼっちゃんは日課の為にこんなに速くに部屋を出るのです。
『うっかりのんびりしていると気化しそうにいい天気ですね』
「クレマチスは気化熱が低いから大変でやんすねぇ」
『ぼっちゃんが乾燥肌だからですよ。使い魔までに主の性質反映させるなんてこの半人前』
「う……。人が気にしていることを」
 露骨にぼっちゃんの顔がひきつってしまいました。気にしていることはそりゃ私だって当然知っています。
 でも、ぼっちゃんは知っているからこそできる道を選んだ。それは悪いことではないと思うのです。


7 :おやま :2006/05/20(土) 00:21:57 ID:VHknketG

1.友情の小部屋 (2)


 見習い魔術師にも、幼年、初級、中級、上級、専属と階級が分けられています。
 幼年というのは、まぁ三歳以上六歳以下の幼い子供の面倒を見るクラスです。当然魔術についての勉強をするわけではなく、基本的な読み書きなどを教わります。ぼっちゃんは物心つく前に塔に来たので、幼年組からスタートしました。
 その次が初級クラス。この段階も杖を持つことは許されません。基本的な学問や、魔術を使うのに必要な知識を教える階級です。ぼっちゃんは幼年を卒業した後、ここに3年いらっしゃいました。
 さらに上が中級クラス。ぼっちゃんは去年から中級クラスに所属しています。この段階になると、ようやく杖を持つことが許され、魔術の使い方を習います。
 クラスを上がるには、幼年以外はある一定以上の科目で優秀な成績を修めなければなりません。だから、ぼっちゃんは初級クラスに三年かかっていますが、二年で済む人もいれば四年かかる人もいます。自分のペースでのびのびと魔術を学習できる、というのは、他の魔術の学校ではない試みなのかもしれません。なので、ぼっちゃんも自分のペースでのびのびしていればいいのに……と思うのですが……
 ぼっちゃんには髪を尖らせてわざわざ早起きするだけの理由が、今の中級クラスにあるのです。


8 :おやま :2006/05/20(土) 00:24:01 ID:VHknketG

1.友情の小部屋(3)

 当然といえば当然ですが、ぼっちゃんが教室についたのは一番最初です。ほぼ毎日、ぼっちゃんが一番最初にやってきます。ですが、教室の扉は施錠されていて空きません。なので、ぼっちゃんはしばらく待ちぼうけをくらいます。
『ぼっちゃん、もう少し寝ていてもよかったんじゃないですか? こけてもらったら私が困ります』
「その時はクレマチスをがんばって瓶に戻すでやんす」
 首にひっかけた鎖を持ち上げ、ぼっちゃんは私に視点をあわせました。にへら、と馬鹿の子のように笑うぼっちゃんに人間でいうため息を心の中でつきました。
『ぼっちゃん、しみこんでしまったらどうするんですか。ぼっちゃんこの間染み抜きの魔術失敗していたじゃないですか』
「ぐっ。でもでもでもでも、そのあとちゃんとできたじゃないでやんすかっ!?」
 言葉につまったぼっちゃんの手に力がこもり、私は微妙な揺れ加減を体感しております。
『ぼっちゃん。……落ち着いていてその成功率なのに本番で私を元に戻せます?』
「ぐっ」
 意地悪い私の言葉に、ぼっちゃんはまた言葉を詰まらせました。真っ赤になっていくぼっちゃんは、飲み込んでしまいたいほどとても愛らしい。
「朝っぱらからいぢめてやるなよ、クレマチス」
「クレマチス寝不足か? 今日すごく機嫌が悪くないか?」
 ぼっちゃんのお顔をじっくり観察している間に、ぼっちゃんのお供……ではなくぼっちゃんのサポーターの二人が到着していたようです。
『おはようございます。ルグル様、イドン様、ご冗談を。ぼっちゃんが健やかな限り私の機嫌が悪いわけはございません』
「お、おはようでやんす……」
 小ばかにしたようにオリーブ色の髪の少年は鼻で笑いました。すらり、というのがよく似合う体なのですが、今も長衣の袖口から見えているような生傷がたえないのが目の毒です。
「フン。その健やかさが冒されているから機嫌が悪いってことか」
 ぼっちゃんのご学友の一人、ルグル・ルグル様です。悔しいですがご明察です。本当はもっと長い家名の方ですが、三人足したような字面の家名を大変嫌っておりまして、略称でルグル様とお呼びしています。ぼっちゃんよりも三つ年上の兄貴分を気取ったお方です。おかげでぼっちゃんもルグル様のことをまねして頭を立てる始末……。ツンツンのどこがよいのか、私にはまるでわかりません。
「クロ、気づいていないだろうがまた舌なめずりしているぞ」
「あっ。しまったでやんす! ごめんクレマチス!」
『今更気付いたのですか? まったく。世話が焼けるんですよぼっちゃん』
 やれやれと濡れたような黒髪の少年が肩をすくめました。ルグル様がすらり、ならば彼はひょろり、という言葉がよく似合います。彼の名前はコルト・イドン様。ぼっちゃんよりもやはり三つほど年上の兄貴分を気取ったお方です。ルグル様が俺についてこいの兄貴分であるとすれば、イドン様は怪我したぼっちゃんの応急処置は必ずするような兄貴分です。自ら手や足をもってぼっちゃんを支えることのできない私にとっては救いとなる人でもあります。まあ同時に激しくねたましいのですが。
「さて、ちゃっちゃと入ってちゃっちゃと仕掛けますか。チビ、頼むぞ」
 ルグル様は後ろからぼっちゃんを軽々と持ち上げました。
「任せてくれでやんす! でもチビじゃないでやんす! クロッカスでやんす!」
 頼むぞ、という言葉に弱いことをしっていてルグル様はそういうのです。まったく困ったことです。おかげでぼっちゃんはどれだけルグル様にそそのかされて悪事を冒したことか……。
 イドン様はじっと教室への壁の上――天井付近にある窓を見上げ、自分の棒杖を構えました。
「準備は?」
 ルグル様の言葉に当たり前のようにイドン様は頷きます。
「もちろん。……クロ、浮かべ」


9 :おやま :2006/05/20(土) 00:25:48 ID:VHknketG

1.友情の小部屋(4)


 イドン様の棒杖が私……ではなく、ぼっちゃんを示します。同時に、見えない糸で引っ張り挙げられたかのような浮遊感にぼっちゃんと私は包まれました。そのまま天井付近まで浮かんで、ぼっちゃんは身を縮め、窓に身を通します。
 そう。実はずいぶん前から、ここの窓に戸は抜かれています。担任の先生も決して背の高い人物ではないので、この不備に一年近くも気付いてらっしゃらないのです。
 窓を潜り抜けると浮遊感がなくなりました。ぼっちゃんは重力にしたがって当然のように下に落ちますが、びし、と床に着地を両足でお決めになりました。いや、お決めになられたつもりなのでしょう。しかし実は足の裏が痛いこと、私はわかっていますから。ぼっちゃんの眉毛が微動している時は痛がっている時ですもの。それをこらえて、ぼっちゃんは内側から教室の鍵を開け、二人を招き入れました。
「よし。十分でさっさと仕掛けるか。今日は何にしよう、軍師殿」
 ルグル様の言葉に軍師ことイドン様は腕組みします。
「昨日一昨日とは下から攻めたので、我らが担任殿はずいぶんと下に関して注意深くなったと思われる」
「でも正直上に何かしかける、っていうのはやりすぎている感じがするでやんす」
「そうだな、チビ。……だからだ」
 ニヤリという言葉がぴったり当てはまるような邪悪な笑みを浮かべ、イドン様はポケットから糸を取り出しました。
「どうしたんだ? それ」
「イルフェから頂戴した強化糸」
 ぶっ。
「よく盗れたなぁ」
 関心するところですか、ルグル様。
「イルフェに使ったことばれたら、怖くないでやんすか?」
『ツンツン頭立てているくせに何度胸のないこと言っているんですか、ぼっちゃん』
「そうだ、クレマチスの言うとおりだぞ、チビ。バレたらバレたでスキャンダルにすればいいじゃないか」
 ルグル様、どうしてこうスキャンダルという言葉に楽しそうに笑うのですか。
「だがスキャンダルは面倒だ。ルグル、不可視の魔術で」
 不可視の魔術は本来なら上級用の魔術です。しかしルグル様は実技だけなら十二分に上級魔術師見習いに太刀打ちできる腕前をお持ちなので、この程度は文字通り朝飯前なのです。
『なるほど。糸を切ると……ですか』
「お、クレマチス。さすがわかりがよい」
 イドン様にほめられるといい気分になりやすいのです。
「お、おいらは全然わからないでやんすよ……!」
『ふ、ぼっちゃん。創造物よりも物覚えが悪いとは。もうちょっと頭を使いなさい』
 だからついつい意地悪なことをいってぼっちゃんを困らせてやりたいと思ってしまうのです。
「クレマチスがいうと意味不明に説得力あるよな」
 ルグル様はそうもいいつつちゃっちゃと魔術の必要な作業を行い、そうでない手先の器用さが問われるような作業はぼっちゃんが行います。
 ぼっちゃんがルグル様とイドン様と付き合うようになったのは、まぁいろいろあるのですが……前々から悪戯好きなルグル様とイドン様が、ぼっちゃんと組むことによって、さらにダイナミックな悪戯ができるようになりました。その裏ではぼっちゃんの芸の細かさがあるのです。えっへん。


10 :おやま :2006/05/21(日) 01:47:16 ID:P4teneuG

1.友情の小部屋(5)


 三人の早起きしてイタズラの攻撃に晒されるのは、毎日一番に教室に来なければならない人物です。その人は、朝食後に教室の鍵を開けるという義務を課せられているのです。その名はゼライダ・ドリドル。ものすごく強そうな名前をしていますが、名前に負けているというのが専らの評判の召喚魔術師です。
ドリドル先生はぼっちゃんの所属している中級クラスの担任です。あまりにもイタズラされた時の反応がよいので、ルグル様に愛されています。私もドリドル先生に好意を抱いています。あの方は、人間と同じように私のような存在まで気にかけてくれますから。もっとも、向こうは私がしゃべられることなんて全然知りませんが。
 でも、それと面白いとはまた別なのです。私もやはり、ドリドル先生がからかわれている場面は、面白いと思ってしまうのです。
「みなさん、おはようございます」
 教室の扉が開き、紫色の目立つ頭が入ってきました。まったくラヴェンダー色の肩掛けも竜胆色の長衣も似合わない頭の薄いたるみきった腹の中年こそ、我らが担任ドリトル先生です。髪の毛と同じくとした紫色の瞳は実に神秘的なのですが、たるんだ頬肉がその神秘性を愛嬌に変換しています。
「「おはようございます!」」
 反響効果の高い階段教室中に、上は十四歳下は八歳の様々な波数で別々の波形を持つ二十の声が響きました。声が大きいのは大体ぼっちゃんと同年代くらいの子達です。上になればなるほど落ち着いていく傾向がありますね。ただ、まぁいつものことですが、ここの挨拶は笑い声を含んでいることが多いですね。今日もでですが。
 ぼっちゃん達はいつも一番上の教壇から見て左端の席に陣取っています。教室では別に席は決っているわけではありません。しかし、好みの席というのはやはりあり、ぼっちゃん達はいつも影でこそこそするのに都合のよい席に陣取っているのです。階段席なので、目さえよければどこに座っていても板書に先生の顔も見えますので、授業をまじめに聞くのにも不自由はありません。最も、授業はイドン様は基本的に居眠りをなさっていますし、ルグル様は基本的に上級者向けの魔術の勉強をされていて、授業などまったく聞いていません。だから、授業中のぼっちゃん……そして私の役割は、ちゃんと授業についていってて、こっちに注意が向いた時に二人をフォローすることと、黒板の内容を完璧に押さえておくことだったりします。ルグル様とイドン様が前を見るのは、最後の授業の終わる五分前からと、まさに今、毎朝連絡事項を伝えに担任のドリドル先生がやってくる時だけです。
「皆さんわかっているかと思いますが、今日が進級試験受験票の最終提出日です。四時までに必ずどの教科を受けるのか明記した上で事務室か私に受験票を提出してください。今年度進級を考えている方はしっかりと必要な単位数を数えて教科選択を行ってください」
 教壇の上でドリドル先生は淡々と連絡事項を口にしています。それをルグル様はにやにやと笑いながら、イドン様は口元を押さえながら、ぼっちゃんはどきどきしながらそんなドリドル先生を見守っています。
「当たり前ですが、不正行為を行った学生には罰則が与えられ、今年度の進級資格が剥奪されます。皆さん正々堂々と勉強してください」
「「はーい」」
 挑戦的に私達のほうをドリドル先生は見上げてきます。はいはい、とばかりにぼっちゃんら三人はそんなドリドル先生に頷いて返しました。まったく、こっちのほうをしっかり疑ってきていますねドリドル先生。しかし、ルグル様やイドン様はともかく、ぼっちゃんは一切の不正など行っていないのです。今年度はぼっちゃんは弱冠九歳で上級クラスへの進級を狙っています。普通上級クラスに進学するといったら十二歳を超えてからになるのですが……ぼっちゃんは、ルグル様やイドン様と同じ教室で通いたいと思っているから、必死で勉強しているのです。まったく、ぼっちゃんの努力も知りもしないで何嫌疑をかけているのやら。冷笑してしまいますよ、私。
 私の心情を察しているのか、いやはや、イドン様は本当に冷笑を浮かべていますね。もやしっ子の冷笑は本気で倒れる五秒前ではないかと心配になる雰囲気ですが、イドン様はそれでも目の輝きが強いので生気にあふれた気味の悪い冷笑になるのです。
「あの……先生」
「どうしました、イルフェさん?」
 おそるおそる、最前列教壇の真正面に陣取る栗毛色のおさげのイルフェ・ラックルート様が手を挙げました。ラックルート様はこの教室の良心……ではないですね。ええ。違いますね。この教室の委員長です。つまり、教室の中で一番のおせっかい、ということです。
「その、後ろを向いてくれませんか?」
 困惑の表情を浮かべながら、ドリドル先生は後ろを向きました。委員長がそういうからには理由がある、ということをよくわかっての行動でしょうね。
「ぷ」
 最初に噴出したのは誰でしょう。それが起爆剤となり、教室中が大爆笑に包まれました。わかっていないのはドリドル先生本人だけです。
「どうしました? イルフェさん」
 教室の暖房が暑いわけではないのに浮かんだ額の汗を拭うドリドル先生。何が自分の身に起こっているのか、未だに理解していない様子の先生に、恐る恐るイルフェさんは申しあげました。
「先生の肩布に紙がついています」
「はい?」
 後ろに手を伸ばそうとしても、うまくドリドル先生はそれを取ることができません。ラックルート様はそっとそんな先生の頼りなさげな背中に手を伸ばし、びりっと張り付いた紙をはずしました。
「これです」
 振り返りその紙を受け取ったドリドル先生の顔はみるみるうちに羞恥心と怒りで染まってゆきました。
「誰ですか、これを貼り付けたのは!!」
 声はもはや裏返っていて聞き取るのにはドリドル語録が必要となります。私は持っていますよ、ドリドル語録。そしてこうなったドリドル先生はお腹と比較して短い腕をぶるんぶるんと振り回すのです。ぶるんぶるん、というのはもちろん腕のまわる音でもありますが、それに伴って揺れるお腹の音でもあります。
 まぁ、ドリドル先生がぶるんぶるん魔獣化するのもムリはありません。あの紙の内容を貼り付けて歩きまわるとなったら……ねぇ。
「助教授様なのにー、ずっとそれが張り付いていたこと、気付かなかったなんて恥ずかしいですねー、センセー」
 愉快げに茶々を入れるルグル様。この人は本当にこういうこと好きだなぁ。
「記憶が正しければ、ドリドル先生。それ、朝食の前からつけていました」
「ほ、本当ですか!?」
 ドリドル先生に冷や水を浴びせたのは、イドン様の一言です。目を潤ませたドリドル先生は、可愛いさが割り増しになって破壊力増大ですね。
「本当でやんすよ! 食堂で教職員側の席はその話題で持ちきりだったでやんす!」
 ええ、もちきりでした、ぼっちゃん。すごく楽しかったですね、その時の教職員側の方々の反応。
 それを容易に想像できてしまったから、ドリドル先生はふらふら、と倒れかけ、教壇に手をつき体重を支えるような状態になってしまいました。
「また貴方達!?」
 勢いよく啖呵を切るラックルート様。悪事を憎みきった視線を教室の左上――つまり、ぼっちゃんら三人に撃ち込んできていますね。視線だけで人を呪うほどの卓越した魔女になるでしょうね、いずれ。
「くっくっく。さーて、どうだかー。オレっちらがやったという証拠あっての物言いだろうなぁ、委員長」
 高いところから喉で笑うルグル様。ああ、楽しんでいますねぇ。この人。
「そうだぞ、イルフェ。オレ達がやったというのも無理だろ。オレ達はいつもほぼ一番に朝食に行くこと、わかっているだろ? 少し後からドリドル先生が食堂に入ってくるのを見たが――オレ達、その頃にはドリドル先生の背中に紙が張り付いているの、見たぜ?」
 自分でアリバイを疲労するあたり、正直イドン様。貴方真っ黒です。ルグル様の嗜好よか黒いですよ。
「そーでやんすよ! いいがかりとはみぐるしいでやんすよ、委員長!」
「あんたは黙ってなさい!」
 ラックルート様の雷が落ちてぼっちゃんは頭を机の下に隠してしまいました。
『ぼっちゃん、ちょっと何頭かくしているんですか。今朝もせっかく尖らせたのに』
「いやだってイルフェ怖いでやんすよぉ……」
『やれやれ』
 確かに、ラックルート様の今の形相は南国の伝承に残っている憤怒の悪魔のように怖いですね。三歳も年の離れているぼっちゃんがおびえるのも無理ないこと。実際ぼっちゃんと年の大してかわらない子はみんな肩を震わせていますよ。
「い、イルフェさん。落ち着いて落ち着いて」
「先生はこれでいいの!?」
 まったくもって、証拠なんて何もない悔しさから、矛先がドリドル先生にシフトしていますね。
「よくはないです。よくはないですが、証拠もないのに人を悪くいうのもまた、よくはないことですよ。……ははっ。それでは失礼」
 お約束ですが、ふらふらと歩いて教室を出ようと思ったドリドル先生は、扉に頭をぶつけてしまいました。そこでまた教室中に笑い声が響きます。ぼっちゃんも、そしてイドン様やルグル様も笑い転げています。ラックルート様も、笑いをこらえていますね。やはり、ドリドル先生はからかうと面白い。
「いったいどうして……」 
 ドリドル先生。貴方が朝教室の鍵を開けて、暖房を点火した時ですよ。暖房の中に引っ張り込まれていた糸の先が切れ、天井を支点にした糸と結ばれた紙が振り子運動をし、暖房前のドリドル先生の背中めがけて張り付いたのです。
 ぷぷ。
 いけない。私も思い出して愉快な気持ちになります。
 あの紙には、この塔きっての怪女、百歳越えると評判の校長先生に午後愛の告白をします、という宣伝が書かれていたのですから。はたして、ドリドル先生は校長と会ったらどのような顔をするのでしょうね。想像するだけで、ついつい泡が立ってしまいます。どうやら私もルグル様の影響を受けているようです。


11 :おやま :2006/05/23(火) 00:00:41 ID:P4teneuG

1.友情の小部屋(7)

 午前午後の授業が終わり、窓から差し込める日も傾き始めました。普段ならば、ぼっちゃんら三人は上級生に絡まれ死闘を繰り広げていたり、妖精など奇妙な生物を捕獲したり、同級生をからかい倒したりしているのですが、試験前はそうもゆきません。
 ぼっちゃんはルグル様と同様に二年で上級クラスへの進級を狙っていますので、少なくとも今度の試験で二十の試験を通らなければならないのです。実技は朝の秘密悪戯や上級生との乱闘騒ぎでかなり鍛えられていますが、筆記試験となるとそうもいきません。できるだけ課題提出で済むような講義を狙って選択してはいますが、やはり試験も何教科かあるのです。今日も図書館の隅っこの自習室の大きな机を一つ借り、三人で思い思いの教科書と紙を広げていました。三人の他には誰もいません。ぼっちゃんらはお世辞にも静かに勉強なさらないので、入っていくと他の人が逃げるように去っていくのです。
 ぼっちゃんは教科書と一緒に広がってしまいました。先ほどまで、イドン様が考え、ルグル様が実際に試してみた魔術の犠牲になったのです。おかげで人間の限界の速さでペンを動かし、古代文字の書写という課題が終了しました。イドン様にルグル様、感謝です。ただ一点……ぼっちゃんが倒れている点を除いては。まぁ遅かれ早かれ三人そろって倒れることになるのだから、些細なことですが。
今ではペン先から煙を出しながら、同じくルグル様の魔術でイドン様が同じ課題を行っています。
『ぼっちゃん、起きてください』
 呼びかけても、ぼっちゃんはまるで起きる気配はありません。書きっぱなしの課題を放置して、分厚い古代文字の本を枕に机に突っ伏しているぼっちゃんは、気持ちよさそうに寝息を立てています。もうしばらく寝させたほうが、きっとぼっちゃんの疲労回復になるんじゃないか。そういう気持ちが、ぼっちゃんに呼びかける私の声を自然と小さくさせています。
「おーい、起きろチビ。礼の一つもなしで何寝ているんだよルグル様特製魔術をもう一つお見舞いしてやろうか」
 ルグル様は容赦という言葉を知らないのです。がつん、と椅子の足を蹴られてぼっちゃんはあわてて顔を上げました。
「もうちょっと寝させてくれでやんす〜」
 しかし情けないことにすぐに撃沈してしまいました。
ルグル様は、困ったやつだと肩をすくめて私達を見下ろしていました。
「クロにはキツすぎるだろ、これ」
 ようやくペンを動かす音が止まりましたか。イドン様が日頃芽生えたもやしならば、今は土から顔を出したてのもやしといった感じです。
「よし、それじゃあコルト。オレっちに使ってみてくれよ」
 実技専用ではなく、悪戯専用の杖――マッチ棒式をポケットにしまい、ルグル様は腕まくりをしました。
「お前ほど上手くいかないだろうが、まぁやってやるよ。お前だけやっていないっていうのも悪いしな」
 イドン様は二の腕ほどの長さの棒杖をぴたりとルグル様に向けて、同じ人間操作系の魔術の高速書写を使用しました。ルグル様が使った場合は、魔力で人の動きを操っているというしぐさすらも見せなかったのですが、イドン様が使うと使用分の魔力が必要分の魔力よりも多めの為か、杖先からルグル様に魔力の糸が伸びているのが、私からでもよくわかります。
「おおおぉぉおおおおおぉぉぉ?!」
『ルグル様、何だかステキですよ』
 暴走気味に発動するくらい、魔力が多めに術に篭っていた為でしょうか。今までイドン様の早さが人間の限界かと思っていましたが、まだまだ出るものですね。
「火、火、火が出てるー!」
 そりゃ高速で動かせば、時と場合によればペン先と紙との間の摩擦によって発火することも可能でしょうね。先ほどまでは煙止まりでしたが、とうとう火が出ましたか。
「ちょっとこげているだけだろが。ほら、まだ三分の一しか終わってないぞルグル」
 ぴし、と杖をしならせて、出力を抑えるイドン様。考案はイドン様ですが、ルグル様よりも術行使がへたくそなのがイドン様の悩みの種……なのですが、これは明らかに意図的な暴走に見えて仕方がない私です。
「うう、クレマチス……。何だか焦げ臭いでやんすぅ〜」
『ぼっちゃん、悪が滅びるところを一緒に見ましょう』
「酷、クレマチスにオレっち何かした?!」
『ぼっちゃんと同じくルグル様もぼろぼろになればいいのです。ほほほほ』
「このチビマニアぁぁぁぁ」
 さすがに疲れてきたのか、覇気がどんどんなくなってきていますね。
「ほら後半分。下手に叫ぶと舌噛むぞ」
「…………」
 面白いようにイドン様の言葉の後に静かになってしまいましたね、ルグル様。しかも目が潤んでますよ。
「噛んじゃったでやんすね」
 哀れみをこめてぼっちゃんはその言葉を発しました。
 ルグル様の書かれたものに目を通してみますと、インクよりも焦げ跡が文字を成しているように見えて仕方がありません。救いがあるとすれば、古代文字の講義を持つ方があまり成績評価に真面目なほうではなく、ある一定以上の厚さを持つ課題を出すと単位をくれる方、ということでしょうか。
「こんなものか」
 焦げ臭さを残しつつも、ついに完成したようです。しれ、とイドン様は棒杖をしまいましたが、ルグル様は対照的に肩で息をしながら机に突っ伏しています。
「ゼェ、ゼェ……こ……この魔術にはまだまだ改良の余地がありそうだな……」
『同感です。ルグル様。ペンだけを動かすとかは無理なのでしょうか』
「……これからの検討……項目……かな……」
『ぼっちゃんの負担にならないようにキリキリ働きなさい』
「クレマチス……おいらのことを何だと思っているんでやんすかぁ〜」
 情けない声を上げるぼっちゃん。楽しくなってついつい瓶の中で跳ねてしまいました。
『世話のかかる創造主、です』
「クロ、クレマチスに迷惑かけねぇ程度に気合入れろよ。ああはならない程度にな」
 笑顔でイドン様はロッドをしまいました。その後ろでは、全力疾走しきった感じのルグル様がへばっているのが見えました。
「はい、でやんすぅ〜」
 ぐ、とぼっちゃんはお二人に比べたらかなり小さく、私を包み込めるくらいの大きさの手を握りこみました。この決意がしばらく続けば私も何もいうことはないのですが。本当に。
 さて、そろそろルグル様はいつまで寝ているつもりでしょうか。ルグル様も頭を立たせているくらいだから、もうちょっと気合というものをぼっちゃんに示して欲しいものです。
 なんて思っていると、もう手に握力が戻ってきているようですね。さすがです。ぼっちゃんが髪型まねるような者なのですから、ぼっちゃん以上にへばってもらっても困るのです。
『もう復活しましたか。何て復活の早い……』
「なぁ、本当にオレっちクレマチスに何かしたか?」
『ほほほほ……お、や?』
 ふと私は不思議な視線を感じました。
 敵意はないのですが、観察したい気持ちと怯えて逃げ出したいという気持ちが半分半分でブレンドされ、水と油のように二相に分離しているような何ともいえない視線です。このような視線には覚えがあります。
 私は視線の線を感覚で手繰り寄せ、誰の目から出ているものか知覚しようと試みました。
「っ……」
 タン、と少し離れた本棚の影から力強く床を蹴る音がして、視線が逃げてゆきました。その時、ひらりと特徴的な金糸のような髪が舞ったのが見えました。ああ、また貴方ですか。
「妖精だ。追いかけるぞ」
 低い声でささやいてから、ルグル様は体に鞭を打ち立ち上がりました。
「ぐ、ぐずぐずするなでやんすよぉ〜」
『ぶっ。気合入りすぎですぼっちゃん!』
 私の制止の声を聞かずに、さらに、微妙にガクガクしているルグル様を置き去りにし、真っ先にぼっちゃんは走り出しました。
「……懲りないなぁ」


12 :おやま◆kmPLreLu :2006/05/23(火) 23:20:05 ID:P4teneuG

1.友情の小部屋(8)


 この塔は基本的に魔術師とその門弟達が住んでいます。ぼっちゃんだって、今よりもずっと幼い時に魔術師としての才を見出され、誰かに手を引かれここの塔の門を叩いたのです。でも、こんな魔術師の見習い達とも、そして当然魔術師とも一線を隔てたところにいる存在がこの塔の中にいます。
 それが、今追いかけている妖精です。
 妖精は本当に本の中にいるような容姿をしています。ヒュンと尖った耳、陽の光に当たればキラキラと光輝く金糸如き髪、血の通ったような温かみのない白い肌、そして宝石のように無機質な瞳。人間の細工師が絶対作れないような生きる人形。そう評される通りの姿を持つ妖精は、何故か私達と因縁があります。
 この因縁も完結に説明するのは難しいのです。
 だって、私とぼっちゃんには……どうして私とぼっちゃんを見たら、あの妖精が全力で逃げていくのか未だにわからないのですから。
 だから、逃げられると追いかけるしかありません。
 ぼっちゃんは今度こそ捕まえる、と鼻息荒く、足音大きく図書館の奥へ奥へと進んでいきました。遠くの先に、長い金色の髪が見えます。向こうは細かく曲がりながら走っていますが、曲がったところですぐに姿が見つかるのもまた図書室だからです。ぼっちゃんは付かず離れずの位置から、妖精を追いかけます。このまま走っていったら、図書館の隅っこに妖精をおいつめて、とうとう捕まえることができるでしょう。以前のように、追い詰めるといっても、塔の外周に追い詰めて向こうが飛び降りを図るといったことはないはずです。
 それに、イドン様があの角の向こうに待ち受けると合図して、先回りして走ってゆきました。もやしっ子とはいえ、妖精はぼっちゃんよりも小さい子供の姿をしているので、逃がすことはないでしょう。
 ほら、角まであと三歩、二歩、一歩……
「そこまでででやんす…………ぅ!!」
「ぁぅ……」
 ごちん、とすごい音が図書館の隅っこに響きました。ぼっちゃんらの他になまじ他の人の気配がないから、私まで揺れているような錯覚をしてしまう、そんなすごい音でした。
『大丈夫ですか! ぼっちゃん! どうしてイドン様がここにいるのです!』
「っー。それはこっちのセリフだぜ、クロ。ちゃんと追いかけていたんだろうな?」
「ももももも、もちろんでやんすよぉぉぉ」
 とんでもない、と折れた髪を整えながら、すごい早さでぼっちゃんは頷きまくりました。
「つかまえたかっ……って、また逃げられたか」
 後遺症から立ち直るのに時間が食ったルグル様も、ここでようやく合流なさりました。ぼっちゃんが茶色の角を折り、ルグル様の髪が呪われた孤島の波が如く荒れ狂っているのに、実にルグル様のオリーブ色の角は涼しいものです。いや、実際ここは涼しいですね。ここだけまるで暖房がうまく当たっていないような、そんな涼しさ……いえ、寒さを感じます。
「さすが塔を知り尽くしている妖精……一筋縄じゃいかないか」
『どこかに隠し扉でもあるかもしれませんね』
 考察する余裕のあるルグル様に、同じく余裕のある私が相槌を打ちました。
「扉?」
 半信半疑の声をイドン様が上げられます。それと対照的に、ぼっちゃんは実に楽しそうに目を輝かせていらっしゃいました。
「それ、何だかとっても面白そうでやんすね!」
「そーだな。ほら、ここの本を見てみろよ。この塔の誰がこんな本借りるよ」
 ルグル様はびし、と辞書のような厚さを持つ分厚い本を指差しました。いろいろな人が手にとったのか、背表紙の印字がかなり削られていますね。
「ええっと、カドーでいいんですかね。……カドーって、東洋の花占いでやんすねぇ……」
『ぼっちゃん、カドーは東洋のフラワーアレンジメントです。階段の踊り場においてある針山に木を刺してあるアレですよ。というか、本探索は後にしてください。ずっとここにいたら風邪を引いてしまいますよ』
「クレマチスは物知りでやんすねぇ」
 まったく、困ったものです。興味のあるものが出たらついつい手を伸ばしてしまうのですから。ぼっちゃんの植物栽培好きにも程がありますよ、まったく。
「ん?」
 本が一冊分抜けた空白を除きこみ、ルグル様がその奥に手を伸ばしました。
「本気で隠し通路があると思っているのか?」
 あきれた様子のイドン様。私も同様に考えているのですが、ルグル様の返事は声ではなく、鉄と鉄の擦れ合う不快な音でした。
「ほ、本棚が動いているのでやんすぅ!」
「チビ、驚くなら本棚を壁側にスライドさせるの手伝えっ」
「は、はいでやんすぅ!」
 その後にあわててイドン様も手伝い、三人がかりで本棚を横方向へスライドさせました。何と、壁だと思って
『これは東洋のフスマ、といったものを模した扉ということですね……』
「感心するならお前も手伝えクレマチス、ほら、クレマチスハンドとかクレマチスビームとか何か出してみろってんだ」
『ほほほほほ、何をおっしゃるルグル様。そんな能力が私に備わってましたら今頃クレマチスカイロとかいって冷えたぼっちゃんの体をこれでもかと温めてさしあげますよ』
「冷えてないからそんな不気味な能力はクレマチスにはいらないでやんすよぉ〜」
『いやがることですか? ぼっちゃん』
 わざとシュンとした声を伝えてみましたが、ぼっちゃんは顔を真っ赤にして首を横に振りました。
「こんなときにそんなこといわなくてもいいじゃないでやんすかぁ!」
 ぜぇ、ぜぇ、はぁ、はぁ。
 赤茶の線を残して本棚を壁側にスライドさせたときには、ぼっちゃんを含めて三人とも肩で息をしていました。今日は本当に試験勉強をやっていたとは思えないくらい体力を消耗していますね。しかしその甲斐はありました。本棚の裏には、これぞ本命といわんばかりの鉄の扉が立ちふさがっていましたから。
『もうとっくの昔に妖精はこの辺りから逃げ出していますよね』
「だなー。だがしかし! こんな面白そうな扉を放置しておくわけにもいくまい」
 ルグル様、あなたならそういうと思っていましたよ。
「ルグル、この扉には押すところも引くところもスライドさせるところもないぞ。あるのは手型の窪みが三つだけだな」
 ペタペタと扉を検分しているイドン様、実に冷静な判断です。
「こういうのは、何か呪文(かぎ)があったりするんじゃないのでやんすか?」
「よし! 試してみろ、チビ」
 ぼっちゃんは胸を張って、大きく息を吸い込み、
「開け、ゴマ!!」
 ……何も起こりませんでした。
『ぼっちゃん、それは些か古典です。そんな使い古された呪文、誰が使うのですか』
「クレマチス優しいよな、些かどころか千年単位昔だろう」
 イドン様、こういうときに優しいなどという言葉を使われても反応に困ってしまいます。憮然とした様子のぼっちゃんですが、これが現実というものです。
「この手型が怪しくねー?」
『そうですね。いかにも触ってください、といった手形です。ちょうど三つ、ちょうど三人いますし、手形に手を重ねてみてはいかがです?』
 ルグル様の言葉に頷く私、また鼻息の荒くなるぼっちゃんでしたが、イドン様はいまいち乗り気ではないようです。
「それで、手がなくなったりしたらどうするんだよ」
「フン、怖いのか?」
 慎重論を鼻で笑い飛ばし、ルグル様は真ん中の手型に自分の手をはめこみました。
「ここここ、怖くないでやんすよぉ!」
 明らかにイドン様の言葉で肩が震えていましたが、こういうときはぼっちゃんは従う他選択肢がありません。悲しいかな、これが三人の中の力関係というものなのです。
「やれやれ。どうなってもしらないぞ」
 自分のおさまりの悪い黒い髪をむしるように掻いてから、イドン様も手型に手を添えました。


13 :おやま◆kmPLreLu :2006/05/24(水) 17:28:16 ID:VHknketG

1.友情の小部屋(9)


「飛ばされたか?」
『ええ。空間を移動するような違和感を感じました』
 気がつけば、周りは真っ暗でした。ぼっちゃんの右手は私の瓶を、左手はルグル様の長衣の袖をしっかり握っています。
「明かりよ」
 ルグル様の言葉に従って、マッチ棒の先に闇を切り裂くまばゆい明かりがつきました。
「小さな部屋……だな。帰る時はこっちの手型に手をはめればいいのか?」
 イドン様は背後にあった壁に同じような手型をまた発見したようです。
「探索してみるか」
 ルグル様はマッチ棒の形をした悪戯専用の杖を天井に掲げました。マッチ棒の光は、それに呼応して天井に浮かび、張り付いてしまいました。
「すごいでやんす、壁にいっぱい字が書いてあるのでやんす!」
 妖精はどうしたんですか、ぼっちゃん。
 まぁ、妖精なんて今は気にならないくらい、せいぜいぼっちゃんの部屋と同じくらいの広さの小部屋の壁という壁にびっしりと文字が書かれていますね。ほとんどが塗料によるもので、刻んだものはなさそうです。他に目につくのは、小さな机とその上に無造作に置かれた本ですね。表紙が六星であるあたりがかなりコテコテらしいですが、簡単そうなタイトルですね。「ゆうじょうのけいやくまじゅつ」、と、書かれています。
「何だこれ? 新手の魔術か?」
 魔術といったら実践する側に魅入られたルグル様が放っておくわけもありません。ぼっちゃんが手にとるよりも先に、上から本をとって、読み込んでしまいました。仕方なく、ぼっちゃんは頬を膨らませて、壁に書かれた文字をなぞります。
『三人で過ごした日々は忘れない、たとえこの塔から離れても、僕達は友達だ』
 読みあげるとムズ痒くて仕方ががない言葉ですね、本当に。
「クサいな」
 よくよく見ると、ぼっちゃんよりも先に壁の検分に入ったイドン様は、砂を吐いていますね。確かに……
『君らと僕との三年間、忘れない、宝石のような日々』
「ぶふ!」
 あ、イドン様が噴出しています。かなり珍しいですね。
『繋いだ手、離した後も手を洗うのが惜しかった、そんな初めて君と友達になれた日』
「ね、ねくらでやんすぅ……」
 ええ、ちょっと怖いですね、ぼっちゃん。でもって、そんな根暗なことを影で考えていそうなもやしっ子のイドン様は腹を押さえて床の上を転げまわっているのですが。面白いなぁ。
『僕らは三人常に一緒、一人が長距離走で一番最後になるのなら、三人そろって最後まで一緒に走るだろう』
「だんごのような三人組でやんすねぇ……」
 そんな友達いたらやだなー、とぼっちゃん顔に出ていますよ。でもぼっちゃん、貴方その三人の中だったらほぼ最後の一人になること確定していますから。そろそろ致死量が近いのか、イドン様はうつぶせになっています。伸ばされた手先がぴくぴくしていますね。
『君が勇者を自称するなら、僕は君の為に魔王になることも厭わない』
「わ、わけわからないのでやんす〜」
 こんな狂気に近い英雄伝説、わからなくて結構です、ぼっちゃん。
「わかったー!」
 だからそんなことぼっちゃんに教えないでくださいよ、ルグル様。
「何がわかった?」
 私の声が止まったところで、イドン様は一時的に砂吐き状態から回復なさった様子ですね。
「この本に書いてある魔術が、だ」
 ルグル様は片手で本をパラパラと開きながら、説明を始めました。
「ここに記されているのは、まぁ文字通り友情の魔術だ。使用者の条件は、三人であること、三人に友情があること、右手に他の契約魔術の紋章等がないこと、だ」
 パラパラとめくれる本でしたが、あるページに親指を挟み込み、そこに描かれている図を私達の方に向けました。
「床に書いてある円の上、この足跡の書いてあるところに立て、ってことでやんすね」
 ぼっちゃんの視線を辿り、下を見てみると、確かに直径二歩くらいの円が書かれていますね。
「その通りだ、チビ」
 よくよく見ると、格好つけているだけでなくてルグル様、もはやちゃんと所定の位置についているんですね。
「なぁルグル、肝心の効果は何だよ? こう匂うようなことを書かせるような何かがあるだろ、その魔術」
 もったいぶりながら、ルグルさまはイドン様の言葉に頷きました。
「まず、この部屋に一人で自由に出入りすることができる」
「秘密基地にはよさそうでやんすね!」
 ぼっちゃんはそういう言葉に弱い年頃です。しかし、ぼっちゃんの反応を見てからさらに唇の端っこを釣りあげるあたり、もっと大きな効果がありそうですね。
「友情の魔術の使用者がそろっており、かつ危機的な状況である場合、自分の能力のベストを出せる可能性が高くなる」
「それって、試験もでやんすか!」
 ぼっちゃん、そこでも飛びつきますか。試験が危機ですか、ぼっちゃん。確かに三人そろって上級になろうとぼっちゃんがお考えになっているのなら、試験はそうとう危機ですが。さあ、ルグル様、頷いてください。じらさないでさっさと頷いてくださいってば、本当に。汗かいて体積増やしてみますよ本当に。
「もちろん。ここに使用例が書いてあるが、試験にも十分有用だそうだ。特に、グループ実技の場合は、最高のチームワークを発揮できるそうだぞ!」
「すごいでやんすね!」
「……ふーん」
 ああ、やはり反応が割れましたか。ちなみに私はぼっちゃんが満足するなら是非ともそういうすばらしい魔術を使用して欲しいところです。
「さらに、三人そろって左腕に印が入る。同じやつなー」
 今確かに耳がぴくりと動くのを見ましたよ、イドン様。
『三人そろっておそろいの印ですか、いいですね、友情って何だか後には残らなさそうなものだと思っていましたが、体の一部にそのように形が残るなんて』
「そうでやんす!」
『非常にうらやましい』
 ぁ、とぼっちゃんは小さな声を漏らしてしまいました。残念ながら、私にはしっかり聞こえていますよ。どうせ私は、あなた方の輪に入ることなど、水の身ですから無理なのです。
「わかった。オレの協力がいるなら、協力するぜ。ただし一つ条件がある」
「おーう、何だいってみろー」
「同じ印、クレマチスの瓶にも入れようぜ」
 ぱちくりとぼっちゃんは瞬きしました。私も最初は何をいっているのか理解が追いつかず、しばし固体のようにぼうっとしていましたが、わかったとたん、恥ずかしさで飛び跳ねてしまいました。
『ほほほほ、本当ですか?』
「よし、そうしよう。クレマチスもチビとおそろいがいいだろ?」
『ええ、もちろん。ぼっちゃんがどうしても、というならこのクレマチスも同じ印を受けましょう』
 素直に言葉が出てきてくれないことが非常にもどかしい。
「どうしても、でやんす。クレマチスも同じでやんすよ」
「よし、なら協力しよう」
 とうとうイドン様も首を縦に振りました。この人はどうしてこう人の弱み(ほしいもの)を見抜くのでしょう。まったく。

「この印に誓う」
「我ら三人は、これからのの苦と楽を共にする」
……
「友っ!」
「一人の喜びは三人の笑顔」
「一人の悲しみは三人の涙」
「一人の受難は、三人の試練!」
「故、一人の道が三倍の厚みを持つ」
「我らは友。いつか道が違えるその日まで」
 ……
「共に輝く未来への道標を探しにゆこう」

 イドン様、ルグル様、そしてぼっちゃんの左手の重なりに、契約の魔術を行使する魔力の余分が、部屋を白く染めあげました。
『成功しました?』
「何とか!」
 三人の左腕には、確かに小指一本くらいの辺を持つ、中身の塗りつぶされた正三角形の紋章が刻まれていました。確かにその紋章には魔力を感じます。
「クロがかんだ時は辺な風に魔術が発動するんじゃないかと心配になったが……まぁ、多めに払った魔力が光になっただけだったしな」
 言葉とは裏腹に、実に大切そうなもののようにイドン様は右手でつけたての紋章をなぞりました。
「ほら、クレマチスにも同じ紋章を描くのでやんすよぉ〜!」
 うれしそうにぼっちゃんはポケットにつっこんだままのペンで、私を閉じ込めるコルク栓に三角形のマークを書き込みました。
『これでぼっちゃんとおそろいですね』
「おそろいでやんす〜」
 ぼっちゃんがにっこりと笑っている。
 私も、顔があればにっこりと笑っているでしょう。
「さて、これで試験に何かいいことあるといいなー! 打倒、イルフェー!」
「はいはい」
 左拳を振り上げるルグル様に、イドン様はため息をつきました。
『今度こそラックルート様を実技で凌駕なさることをお祈りします』
「お、珍しくクレマチス乗り気じゃーん」
『ほほほほ』
 こんなに気分がいいなら、ルグル様がぼっちゃんに悪影響を及ぼしても、少しくらいは許してあげてもいいかもしれません。ええ。
「クレマチスも角立ててみるー?」
『やはりルグル様は現実を見つめなおす必要がありそうですね』
「クレマチス、何か冷えるでやんすよぉ〜」
 ああ、ついつい冷えてしまいましたか。申し訳ありません、ぼっちゃん。でもやはりそのままルグル様を受け入れられるほど、私はどうも熟成された液体ではないようです。


14 :おやま◆kmPLreLu :2006/05/26(金) 00:41:45 ID:VHknketG

2.結晶融解(1)


 始まりには原始の緑があった。

 空気にも、葉を陽に透かせてみたような透明な緑のように着色されて見えた。その中で、緑じゃない色を探すほうが困難だっただろう。
 土は地肌が見えぬほど緑色に侵食され、木すらも蔦に這われ肌を露出させない。自分に落ちてくるのは、黒がかった緑色の影と、葉と葉の隙間から降りてくる薄い緑色の光だった。
 緑が嫌いだったわけではない。ただ、緑色には溶けこみたくはなかった。緑色の中にいると、四肢すべてが溶けてなかったものになってしまうという危機感があったのだ。
 緑ではない色を探そうと、ぼんやりと緑色の世界の中を歩きはじめた。とりあえずは影色の緑から抜け出そうと、薄い緑の差す方向へと歩きだした。
 やがて、足が痛いと思い、歩くのをやめた。緑の中に踏み込み散策するだけでも、皮膚を傷つけるのには事足りる。緑色の中で自分がいかに矮小な存在であるのか、歩くだけでも認識させられた。あとほんの数歩で薄い緑が絨毯のような緑色の地を照らすというのに、この距離が遠すぎる。遠さが、おそらく自分の中で緑を迎合している部分の存在を示しているのだろう。
 それでも、溶けたくないと、緑ではない色が欲しいと、視覚が求めた。そうでなくては、今は薄い血色の自分も、緑に溶け込んでしまうと錯覚してしまうから。
 ぐるりと周囲を見渡す。所々に、小さな白い花が見えた。影色もなければ、のっぽの木も途切れた向こうに、光を受け新芽のように輝く三つの葉を持つ下草の白い花があった。花は一つではとても小さいけれども、それがたくさんあつまって大きな大きな花となっていた。
 緑に埋もれない一つのものになるのに、どれだけたくさんの小さなものがいることだろう。緑色の世界に投げ出される前の出来事をまるで象徴するような花。そんなものでも美しいと感じてしまう自分に、嫌悪感を感じてしまう。
 緑色の絨毯の上に咲く白い小さな花よりも、きっと自分が気に入らないのだ。それでも、縮こまる為には自分の体を大事にするように折りたたまなければならない。
「花は好きか?」
 言葉は理解できた。折りたたんだ首を伸ばして、新たに重ねられた影色の先を見上げた。ただ、言葉を重ねる気にはなれなかったから、頷くだけだった。
 緑でない色があった。自分と同じように薄い血の色をした肌を持っている。しかし、ずっと大きく、自分とは別の生き物だ。長い髪や、目の色の名前は、多分土色とか、茶色とかといったものだと思う。
 その生き物が手を伸ばして、視線のすぐ上に触れ、髪の毛をかき乱すことが何の意味を持つのか自分には解らなかった。ただ、その自分に触れている手が、大きくて、水気がまるでなく、がさがさなのはわかった。
「そうか。ならば、花の名前をやろう。クロッカスと、クレマチス。それが今日からお前達の名前だ」


15 :おやま◆kmPLreLu :2006/05/30(火) 04:44:43 ID:VHknketG

おまけ話1.ルグルの意地が滅ぶまで


 生まれは特別だろう。
 魔術の名門、ルーグルグルグラッツ家。そこの跡取りとして生まれた彼は、まさしく歴史に名を残す魔術師としてふさわしい生まれと言える。
 ただ、問題は、彼は自分の生まれを誇りなど欠片も持ち合わせることのできない現状にある。
 現在のルーグルグルグラッツ家の当主とその妻の間の息子は、確かに彼だ。遺伝が全てそう語っている。ただし、彼が出てきた腹はルーグルグルグラッツ家に仕える牧場主の妻の腹だ。そして変わりに当主の妻の腹からは、牧場主とその妻の息子が出てきた。
 たまに起こるこのような事件は、「妖精の悪戯」と呼ばれている。大体の場合、悪戯があればすぐに気付くが、髪も瞳の色も、どちらも遺伝上十分にありえる色合いだった。故に、悪戯の真相に気付いたのは彼に塔からのスカウトが来た時だ。
 ほとんど魔力を持たない自分の息子、そして天性の才能があると伝説の大魔術師の眼鏡にかなった牧場主の息子。
 彼は渡りに船、と伝説の大魔術師の誘いを受けた。当時弱冠十歳の彼でも、実家にも、そしてお屋敷にも自分のしっくりはまるところなんてないということが理解できてしまったのだ。
 そしていつか塔を出たあとは、何もしなくとも自分の居場所があればいいな、と願った。死後にもあればなおさらだろう。

「し、死ぬでやんすぅぅぅぅ〜」
『ぼっちゃん、幻ですって!』
 白い胞子をモロに吸い込み、中級見習い魔術師のクロッカスのチビは素っ頓狂な声を上げた。クロッカスの使い魔、生きる水のクレマチスが冷静で突っ込んでいるところを見ると、瓶詰めペンダントの中の水はまったく影響を受けていないようだ。今だって便利だからと明かりの魔法がかけられた瓶は、異常なんて何もありませんよとばかり、ホラーに近い角度からチビの顔を照らしている。
「チビ、一体何を言いかけたんだよ!」
 中級見習い魔術師から上級見習い魔術師へ昇格する為には、年二回の試験で規定数以上合格しなければならない。
 毒々しい色の苔やら菌糸キノコやら生えた洞窟の中に三人一組で入り、指定されたキノコを摘んで帰る。これが今回の集団実技の課題である。
「弱点は……、って得意気に言い張ってこれだからな。……突風よ。」
 そういいつつも冷静に仕事をするのが、コルトである。第二派の幻覚作用のある胞子を、二の腕ほどの長さの棒杖から噴出した突風が吹き散らしていく。たった一言の共通語で、自分の魔力をその名の通り風に変換したのだ。ちょっと前……というか、一年前であるが、中級クラスに上がりたてで魔術の簡単な使い方を訊ねてきた時を考えると、見違えるほどの成長である。師として、そして友としてこれほど嬉しいことはない。
『どうしましょう、ルグル様! ぼっちゃんが!』
「はにゃらぁ〜、おいらは実はキノコ植物人間だったんでやんすねぇ〜」
 やれることをしなければならないのならば、今がその時だろう。
「すぐにオレっちが毒抜いてやるからな!」
「むが!」
『何をぼっちゃんにしやがるんですかこのバカルグル!!』
 舌をかませない為だ。だから、ちょーっと、チビを押し倒して馬乗りになり、口の中に杖の先っぽを突っ込むくらいでうるさく言われると困る。もっとも、コルトの使っている指揮棒のような棒杖と違って、俺の使っている杖は、太さが指三本束ねたくらいあるから、見た目かなり危険かもしれない。
 目を閉じた。体に入り込んだ不純物を抜くという魔術は、普通の魔力を物理的や自然的作用に変換する時よりも、込み入っている。先ほどのコルトが使ったような風を一瞬だけ吹かせる魔術は、突風をうまくイメージして、自分の魔力に対して暗示力のある言葉を唱え、魔力を突風に変換しているのである。物理的自然的作用というのは、そうだな。簡単にいうと、イメージしやすい。しかし、体から毒を抜く、というのは健康な体というものをそもそもイメージを持っておかなければならない。日頃から健康体の自分達にとって、健康な体そのものを想像するのは正直難しい。だから、主の正体が不明になり取り乱したクレマチスの言葉に噴出すことをこらえ、精神を集中させた。視覚を切断し、沈黙が耳に痛くなり、杖と手が同化するような境地になって初めて気付くこともあった。腕につけた印が、疼いている。ご利益があればいいと願いつつ、自分の作った想像の回路に魔力を流す。
「起きろチビ!」
「!!」
 それまで正体のなかったチビだったが、俺の魔術がちゃんと発動したようで、バチっと目が覚めた。あわてて俺は杖を引き抜く。クレマチスがうるさいからだ。
『ぼっちゃん、大丈夫ですか! 課題中にキノコにやられたんですよ!』
 チビははっとして、キノコのほうを見た。
 キノコは身の丈は俺達三人が肩車したらそんなくらいの高さになるだろうな、といったくらいに大きい。
「ぎょぎょぎょぎょ、タッダシャンコキハイセンセハツジキノコでやんすぅ!」
 さっき倒れる前とおそらく一字一句間違わずにチビが叫んだ。
「倒し方は!? あの数百年クラスの根元を一刀両断しろとかはいわないだろうな!」
 突風で吹き荒らすのが難しく、今ではゆるりと広範囲を覆う膜のような風の流れで胞子を吹き荒らすコルト。言葉なく冷静に仕事をこなしているように見えて、びっしりと額に汗が浮かんでいるのを俺は見逃しはしなかった。
「根元のほうは、びっしりと赤い菌糸に覆われているのでやんす! それを全部切断すると、一刀両断しなくってもあいつは一人でに倒れて、地面と離れるのでやんすよ!」
『そうですそうです。その現象のことをリコンというのですよ!』
 チビは俺よか三歳も年下だが、俺と塔のキャリアがちがう。俺が今まで四年の間塔で生活していたが、このチビはその倍近くいる。
「やれるか?」
 さっさと決めてくれよ、というのがものすごく疲れた声色に出ているぞ、コルト。
「オレっちが誰だと思っているよー?」
「そうだったな。中級(うちの)クラスの悪戯大将がキノコ如きに遅れをとるわけないもんな」
 ぶんぶんと手を振り回し、杖先をキノコの根元に向けた。向けた杖先はまさにぴたり、と止まる。
 状態よし、集中よし。あとは……いつぞやどこぞの委員長に使って後で大変なことになったあの魔術を使うだけである。
「戯れに生まれし戯れに育ちし戯れの子が戯言を申す」
 杖先にたまった魔力が、変換を待たずに漏れ出し、金色の光をほのかに放つ。光の強度が弱めなことからも、何だか今日は絶好調らしい。
「我が糸切りはさみに切れぬ糸も、その集まりもない」
 金色の光が消える。漏れもなく、魔力は全て形をなす。俺が描いた、どんな糸だって切れる糸切りはさみは、稲妻のように動いて赤い菌糸という菌糸を残らずジョキジョキと切りまくった。その間、一呼吸の間である。以前同じ魔術を使った時は、稲妻が糸を焼いた風味になってしまったが、今回は焦げ後なども残さず、きれいに糸だけ切除できた。
 ふ、俺かなりやった。俺すげえ。
「た、倒れるでやんすよ!」
 自画自賛に浸る時間もなく、警告するチビ。確かに、めきめきいっているし、倒れるだろうな。てか、倒れたな。
 倒れた瞬間、構えるには時間がなかったから、地面の振動に対応することもできず、しりもちついてしまった。
 俺かっこわるい。

「クロッカス、ルグル、コルト組……十分二十秒。よくできました」
 ああ、なごむよ、ドリドル。そのよくできましたなどといいながら、俺達をたたえる歓声の中もひたすら何か不正はないかと懸命に記録をチェックしているその無駄な努力加減が。思わず馬鹿なやつだな、そんなことしていないのに、と満足げに笑ってしまうではないか。
「先生、おいらたち、今のところトップでやんすか?」
「ええ。今の所は文句なく二位と十分以上引き離して三人が一番です」
 文句があるのはドリドルの顔くらいだな。
「よかったな、ルグル。これだけ早い時間であがったら、個人実技じゃもう少し楽できるんじゃないのか?」
「そうだな。オレっち二人に感謝するぜ。これさまさまだな!」
 俺にとっては、知らない魔術があった。ならばそれは使う価値があるものだろう、と軽い気持ちでやった契約だった。しかし今ではやってよかったと大事なもののように腕の印をなぞらう気持ちに自然となれる。
「そうでやんすね! ご利益があったんでやんすよ!」
 ノリがいいチビは、俺にとって実にありがたい生き物だ。ちと不機嫌な時は、チビをからかえばそれで俺は笑える。
「本当かよ? と思っていたが……ご利益というのもあながち馬鹿にならないかもしれないな」
 冷静で、そして悪戯の相談でほとんど俺以上の策を提案するコルトは、俺にとって実にありがたい知恵袋だ。おかげで今年受けた処罰の回数は、去年の半分となった。おかげで無事二年で上に進級できそうだ。
 上級クラスになると、教員の立会いで簡単に見習い魔術師同士の手合わせができる。
 中級クラスはそもそも極端に攻撃的で複雑な魔術を習わないが、上級では少しずつそのような魔術の知識も入るだろう。ついつい中級にいるときも我慢できずに上級の連中にちょっかいを出したが、もう痛みわけなどで終わることもあるまい。春からは完全征服だな。
 俺が成績を喜んでいるようにみせて実は塔の実力者を全員屈服させる夢を見ていると、そんな夢の時間を邪魔にする奴が洞窟から帰ってきた。キノコは引きずらずに、大きな風船の中に浮かべている。
「アンゼ、イルフェ、リルリ組、十分二十秒!」
 主に魔術師出身の家柄じゃない連中から歓声が上がった。
「すばらしい成績です、三人とも。トップとタイですよ」
 素直に褒め称えるドリドルの言葉に、三人のリーダー……委員長は眉尻を不服の形に曲げた。
 なるほど、俺達はくそ正直にキノコを三人で担いで帰ってきたが……ああすれば、時間短縮になる。さすが俺がこのクラスで一番の実技トップの宿敵だと考えていただけある。実に冴えている。それにあのメンバーの中には、吸魔のリルリがいる。
 リルリは魔術師見習いにとって疫病神ともいえる存在だ。もちろん俺もあまりあいつとは係わり合いになりたくない。あいつは、いるだけで、他の誰かの魔力を奪うという魔術を発動させている。
 俺にはないが、塔にスカウトされてやってくる魔術師の見習いには二種類の素質がある。ひとつは、俺のように魔力を強く備えているもの。もうひとつが、生まれながらに特別な魔術を持っているもの。
 俺のすぐそばにいる知り合いにも一人いる。チビことクロッカスだ。
 あいつ自身がマスコットみたいなものだが、あいつのしゃべるだけで役に立たない使い魔(マスコット)のクレマチスは、チビの手によって生み出された本来はありえない生命のカタチだ。魔力を持った生理食塩水が人間と同等……いや、違うな。すくなくとも創造主よりも利口だという。高等魔術に本来ならば命なりえないものに、魂を吹き込む魔術というのは確かに存在する。人形細工や、石巨人などはその手の魔術によって作られたものだ。だが、これらを作成するにはとても時間がかかるし、製作者以上の知能を持つことはまずない。故に、チビはチビでしかない魔術のカタチをもっていて、それが理由でこの塔に幼いころに引き取られたのだ。
 こういう連中は、大体大魔術師が引き抜く。そのとき、大魔術師はその盛っている魔術のカタチを適当に命名する。リルリの力はもうひねりも何もなく「吸魔」と名付けられているし、クロッカスは「魂入れ」と名付けられている。連中が歴史に残るような魔術師になるなら、それぞれの魔術の名を冠することになるだろう 。そう考えると、チビは歴史に名を残すのは遠慮したほうがいいだろうな。「魂入れ」なんてちょっと間違えれば運動会で強そうな魔術師になってしまう。
 さて話は脱線した。そして魔術のカタチを持つものにも、自分の魔術の制御できるものと、制御できないものが存在する。クロッカスは不用意にそこらへんの無機物に魂を入れたりなどしていないので、前者である。ただ、その気になればあのチビは白墨の粉にすらも魂を吹き込むことができるがな。後者がリルリである。あいつはちょっと感情が高ぶるだけで、まわりの魔力を集めてしまう。奴が中級クラスにいて今年で三年目らしいが、その間に起こったクラス閉鎖は全てリルリによる無差別魔力吸収事件によるものだった。もちろん俺も一回抜かれた時は、三日ほど立てなかった。あれは今思い出すだけで鳥肌の立つ体験である。
 そんな危険人物と同じチームで、ご利益のあった俺達と同順位同点の委員長――イルフェ・ラックルート。自分がちょっと他人よりも優れているところがあったら見せびらかしたくて仕方のない、茶色のおさげの女。
 どうやら簡単に勝たせてくれる気はなさそうだ。
 向こうも俺の視線が気づいたらしく、こちらを向いてせせら笑った。
 倒してやるから向かってきなさい、この姿を見せない卑怯者。
 今日こそ鼻を明かしてやるから覚悟しろ、この似非優等生。
 俺も負けじと微笑み返した。

 それから後半の個人魔術実技は中級クラスの中で実技トップを競うのにふさわしいものとなった。かつて塔の歴史の中で、たかが中級、たかが進級試験で試験突破以上の成績で競うものがいただろうか。
 全ての魔術を合格者平均で抜けていくコルト。確実で失敗をしないやり方は実にお前らしいな。そしてお前一年目なのにどうしてそんなにできるだよ。こいつのノウハウや筆記試験勉強方を本気で盗みたい。俺の筆記試験は一部こいつの回答を盗み見しているが、こいつは正々堂々と試験を受けて常に満点を取りやがるんだ。一体いつどこで勉強しているんだよ、同室の俺にもわからないぞ、こいつの試験勉強方法。
 薬草学実技、薬剤調合実技、魔術細工実技など、手先の器用さを問われるもので秀でたものを持ちつつも、他は基本的にギリギリで合格線上のアリアを奏でるチビ。お前そんなに若いのにもう上級にあがるつもりかよ。どうも俺の髪型を真似るだけではなく、本気で俺……いや、俺とコルトの後ろをこれからもついてくる気満々のようだ。そえはいい。来年からも退屈せずにすみそうだ。
 そんな二人もまぁ、それなりに進級かけて真摯に試験を受けているのだろう。
 だが、俺は違った。
 いや、違うな。俺と彼女は違った。
 今日負ければ片方の人生が敗北に彩られるものになるだろう、といった趣で違った。
 まさに人生というか、見習いだが魔術師として負けてはならないものを賭けて戦うのならば、今日この時だろう。
 俺が変身魔術実技で、課題の中で一番大きくて難易度の高いタンスを、小指の先くらいの大きさのマッチ棒にして見せれば、魔術制御実技で正確無比な制御能力で彼女は針の上に風船球を十分も風の魔術で浮かせてみせた。
 彼女が石占いで来週の天気予報を全て的中させれば、俺は即興魔術実技でドミノを一万個倒す魔術を十分でひらめいてみせた。
 つまり、お互いの長所ばかりで勝ち続け、一部の乱入者の存在を除けば、十六あるはずの魔術実技試験、残りひとつを残して七対七……俺と彼女の頂上決戦となってしまった。この一部の乱入者は、まぁ意外でも何でもないが、チビである。生き物を育てるということに関してチビはやはり生まれながらの何かもっているのだろう。薬草学実技で奴にかなうやつは同じクラスにはいなかった。

「最後の試験は魔力量測定です。皆さん十分間ゆっくりと休憩をとってください」
 冬の短い日はすでに落ちかけていた。俺はドリドルのいうとおり、教室の壁にもたれかかって目を閉じた。今までの試験でかなり消費している。ここで少しの間瞑想して空気中に溶け込む魔力すらも吸魔のあんにゃろうの目をごまかして吸収しておかないと、勝ち目が下がる。ぎりぎり受かるか落ちるか瀬戸際であるチビも、俺に習っていた。懸命な判断だ。コルトはさっきからちょっと席をはずしている。今までの成績でも確認しているのだろうか。
「よ、名門の星」
 誰かが俺の前に立った。声からして、イタヴァーロ(ナメクジ)だろう。ナメクジに似た髪の色をしているから、俺達の間じゃナメクジ呼ばわりだ。家の名前だけで無理やりこの塔に入門した奴だ。俺よりか二つも年上で、四年も先に塔に入学しているのに、まだここにいるとは本当に驚きである。そしてそんな自慢にもならないことでいちいち人に忠告したがるのだから、まったく大きなお世話だ。
「後でな」
 ほら去れ去れ、と俺は犬を払うようにイタヴォーロに手を振った。
「つれないなぁ……。同じ名門の家の出として応援に来てあげたのに、この後輩くんは」
 季節外れのナメクジにかける塩、誰かよこせ。俺は集中したいんだ。
「……無視? いいけれども、イルフェ・ラックルートに勝ちたくないのかい?」
 勝ちたいからこうやって目を閉じて少ない時間で体力と魔力の回復にあててんだよ。今年上級にいきたいなら、いい加減に黙れ。そしてチビのように集中するか、コルトのように席をはずせ。
「もちろん、僕……いや違った、僕らは君の見方だよ、ルグル・ルーグルグルグラッツ。次期ルーグルグルグラッツ当主が、魔力を持たない卑しい針子の娘に負けるところなんて見たくはないからね」
 お茶入れてきたよ、といった親切な女クラスメートの一言で、どっと場が沸いた。皆疲れていて何か飲み物が飲みたかったのだろう。だから、そのクラスメートの親切を素直に受け止める気持ちになったのだろう。たとえ、そのクラスメートが日ごろそんな親切なんてかけらも見せない傲慢な存在でも、今はそれも疑う判断力が皆落ちている。
「あのお茶には、脱魔力薬が入っている。今日の試験、僕があたったのあの薬だったのさぁ。君は脱毛薬作っていたけれどもね。あれ、何もしらない卑しい連中が飲んだらどうなると思う? そこのチビや、卑しい教職員連中に贔屓されているコルトが飲まないのはちょっと残念だねぇ。僕も次期ヴァルヴァローカ家の主として、次期ルーグルグルグラッツ当主に忠告するけれどもさ、いい加減卑しい連中とツルむのはやめたほうがいいよ? 君はこっちに来るべき歴史も権威もある大魔術師さ」
 俺も判断力も忍耐力も鈍ってたかな。
「黙れナメクジ」
 この速さがあれば、おそらく俺は彼女に速撃ち魔術試験に勝利しただろう。それくらい俺ベストの速さでポケットからマッチ棒杖を抜き、ナメクジに空気鉄拳魔術を放った。だがどうやら俺はまだまだ彼女と比較して精度が悪いみたいだ。俺ベストの速さで魔術はナメクジの頬を掠めたが、実際の鉄拳はお茶の入った薬缶にぶち当たり、薬缶は中身を持っている女クラスメートにぶちまけた。
 お茶の周りは、お茶を入れてきた女を称えたり媚たりして騒々しかったのに、しんと静まりかえった。
「何をしているのよ、ルグル!」
 あれ、何で俺ってバレるんだ?
 ぐるりと見渡したが、皆俺を見ている。もちろん、さっきまで瞑想していたチビもだ。
 なるほど。よくよく俺の手元を見れば、思いっきり腕を薬缶の方向に指している。杖こそ皆の目からは見当たらないが、俺がやったなんてことは簡単にわかることか。
「ちょっと手が滑った。悪いな」
 悪びれずにいって俺は目を閉じた。
「ルグル、貴方って最低ね。こうまでして他人を貶めたいの?」
 泣き声が聞こえる。うるさい。薬缶を持っていったお前が悪いんだ。大勢の前で水びだしになることを恥と思うのなら、どうして一服もって自分有利に持っていくことを恥だと思わないんだろうな。
 やれやれ回復時間が遅れるなぁ……。

 魔力量測定試験は簡単なものだった。今も暗いままの居住等、今日は自動ろうそく点火の魔術は切ってあるから、自分達で力の限りつけろ、といったものだ。ここで自室が汚い奴は恥をさらすことになるが、それはまた別の話だ。
「ルグル君、千二十四本で終了」
 最後の二人が誰が残ったのかはいうまでもない。
 その声とともに、俺は膝に力を入れるのをやめた。もう立ってもどうしようもない。
 さっきの俺の蛮行のせいか、俺が倒れても拍手も何も称えもしない。ただ、無言でコルトが俺をうつぶせから仰向けに転がし、チビが俺の汗を上掛け雑巾でぬぐった。
「チビ、受かったか?」
 こくりとチビが頷く。そいつはよかった。
「イルフェさん、千二十五本で終了」
 どうやら別階で女子部屋の明かりを点してまわったイルフェにもすぐに限界が来たようだ。
 つっこみひとつ入れるような魔力を残していれば、俺が勝利していたわけか。そりゃ、もったいないことをした。

 俺の意識は疲労の果てにある深い闇に落ちた。

「チミたちー。倒れるくらいろうそくつけなくっても、十分進級できるだろー?」
 魔力回復薬を俺とそして同じくして倒れたイルフェに調合しつつ、保険医はぶつくさと説教垂れた。確かに倒れるところまでやってしまった点では、魔術師失格だろう。自己管理も満足できていないんだからな。
 チビとクレマチスとコルトが見舞いにもってきたチョコレートは実においしかった。魔力回復薬の苦さを忘れる程度にな。
 イルフェにも、見舞いは来た。俺よか人脈のあるイルフェには多種多様の人が多種多様の労いの言葉をかけていった。
 俺とイルフェは、顔をあわせることも、話すこともなく、時同じくして部屋に帰った。

「待って!」
 階段で分かれてからどのくらいたっただろうか。後ろから階段を駆け上がる音が聞こえた。女子部屋は下の階なのに、どうしたものか。
「助けてくれたの?」
「は?」
 疲れた後に階段駆け上がるなんて牧場育ちでもなかなかしないような蛮行をやってのけた優等生は、死にそうな声で俺に話しかけてきた。俺は面くらった。一体彼女が何を伝えようとしているのかさっぱりわからない。
「さっきリルリが教えてくれたの。……貴方、ヴァカらが私に何か盛ろうとしたこと、知っててああやったの?」
「ヴァカ?」
 訊きなれない言葉に首を傾げれば、イルフェの顔はますます赤くなった。
「あ、ごめんなさい。イタヴァーロさんのことよ」
 なるほど。確かに奴がよく口にする家の名前を略したらヴァカになるな。なめくじよりもそっちのほうがいいかもしれない。ヴァが詩的だ。
「しらね」
「知らないって……。だって、本当だったら、貴方が勝者じゃない」
 むかついた。ああ、むかついた。むかついた。
 うまく言葉にはできないが、こいつは途方もない勘違いをしている。
 そして勘違いから勝手に泣こうとしているのだ。まったく付き合いきれない。これだから女に委員長は苦手なんだ。
「何でお前が泣きそうな顔をしているんだ、似非優等生。いいから恩だ何だと思うな。今日は俺っちの乾杯だ。勝てるところで俺は落とした。もちろん、それは最後の魔力量じゃないからな。それじゃ!」
 それだけまくし立てて、俺は階段を駆け上がっていった。
 牧場育ちで馬を追いかけて育った俺に勝てると思うなよ、針子の娘! もっとも、子馬しかないけれどもな!


16 :おやま◆kmPLreLu :2006/06/02(金) 02:40:26 ID:P4teneuG

2.結晶融解(2)


「ああああああああ、もう、まじ、腹が立つぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!」
 実技のテストの最後の最後、ガス欠で敗北してしまっていたルグル様。ここ数日間はとても穏やかに……といっても、人並みにはとても穏やかとはいえませんが……暮らしていたのですが、やはりここではっきりと成績表に出てしまったが故に、感情を露わにしています。
「つ、次もあるのでやんすよぉ! 次こそギャフンと言わせればいいのでやんす!」
 そうルグル様をフォローしつつも、ぼっちゃんはルグル様と悔しさを共感している様子は欠片も見られません。
「そうそう、今日はまぁ、三人とも上級に進学できたことを喜ぼうじゃないか」
 くしゃくしゃに丸めた成績表が、ゴミ箱に捨てられました。いやはや、この図書館隅っこの小部屋も、私物が実に増えたものです。
「まぁそうだが、オレっちの気が晴れねぇぇぇぇぇ」
『ダントツ実技二位が何をいうのです』
「そうそう、そうでやんすよ! おいらなんて、スレスレだったんでやんすよぉ」
『……ぼっちゃん……』
 ぼっちゃんは本当に実技はスレスレ合格でした。本当に上級に上がれてよかった、と私も祝福する気持ちでいっぱいです。しかしとても満たされてはいません。……ぼっちゃんは、もう少しで十才になりますが、その年で上級クラスは若すぎるのです。塔にいるキャリアに関しては、上級クラスの方々と負けているとは思いませんが、年が低いということは、どうしても肉体的技術的ハンデが出てしまうでしょう。ぼっちゃんが早く進級しすぎたが為に、春からどんな目にあうのか考えると……
「クレマチス、心配しなくてもクロは大丈夫だろ。お前もいるし、オレらもいるしな」
 実技と筆記もあわせて総合主席のイドン様の言葉は、実に深みがあります。ええ。本当に鬼才鬼才言われていますが、どういうテクニックを用いたら一年でぼっちゃんの倍の筆記の単位を取ることができるのでしょうか。イドン様は講義中は寝ていてばかりで、試験の時に片っ端から受験教科をばしばし○つけている様子で、本当いつ勉強しているのか謎です。
「そうそう、そうだぞ! こんな便利な舎弟、オレっちがみすみす手放すものか、なぁチビ」
『ほー、それってどういう意味ですか、ルグル様』
「しゃてー、って何でやんすか?」
『ぼっちゃん、指くわえない! 口のまわり舐めない! ったくはやく軟膏つけてください!』
 私の声に実にうるさそうに耳をふさぐぼっちゃんです。しゃー。
「まぁクレマチスも硬いこというなよ。あれがルグル流のお祝いの仕方だろ」
「なっ!」
 イドン様の言葉が図星だったのか、みるみるうちに頬が風邪引いた時のように赤くなっていますよ、ルグル様。
『まぁ、そうでしたか。それは気付かず……。ルグル様、イドン様。ぼっちゃんをどうかよろしくお願いします』
 ちょっと気に食わないルグル様でも、筋は通しておかねばなりません。確かに、ぼっちゃんが上級へ進級できたのは、この二人の力が実に大きいのですから。
「ほんとうに、コルトもルグルも、ありがとうでやんす」
 くしゃ、とぼっちゃんがせっかく立てた髪の毛が、イドン様のようにわかめになるくらいまで乱暴にルグル様はかき回しました。ぼっちゃんに抱きつくのも、できれば私の許可をもらってからがよかったですよ、イドン様。
 そんなイドン様も、照れてらっしゃいますね。あさっての方向をみながら頬を掻いてらっしゃいます。まったく、この二人は……。


17 :おやま◆kmPLreLu :2006/06/02(金) 18:04:12 ID:VHknketG

2.結晶融解(3)


「うう、お、おいらの頭がぁ」
 ぼっちゃんの頭のトンガリが丸まったくらいで、素直でない二人の体温も落ち着いてきた様子でした。
「あー、力いれすぎちまった。悪いなチビ。まぁ遊んで忘れようぜ」
 本当にここはいろいろとものが増えました。先日まで、ここの部屋の過去の利用者の何だかありがとうメッセージで壁が埋め尽くされていましたが、現在は別です。ルグル様が持ち込んだ棚が四方を囲み、イドン様が持ち込んだ様々なおもちゃやら本やら水槽やらがその中をうめてしまっています。まさに秘密基地、といった雰囲気で、この三人は試験勉強を行い、そして時には遊んだりもしていました。
 ここなら騒いでも怒る人はいませんし、私も加減なくお話しすることができる。本当にいい所です。
「魔力量養成のアレやろうぜー」
 やはりそうとうこたえている様子ですね、ルグル様。
「いいでやんすよ〜」
 一番近かったぼっちゃんが棚から一抱えほどの大きさの箱を取り出しました。箱を開けると、透明なケースに覆われた地面の模型と、石英を切り出して作ったサイコロが入っています。ぼっちゃんは、これまたルグル様が拾ってきた年輪五百年クラスの丸太の机の上に模型を置き、お気に入りのサイコロを配りました。
「魔力量養成というよりも、これは制御力養成だろ、どっちかっていうと」
「どっちも負けているからいいんだよっ」
 イドン様のつっこみにめげずにルグル様は乱暴に自分の好きな透明のサイコロを手の中で転がし始めました。
「おいらもいつまでも負けてばかりいられないのでやんす」
 ぼっちゃんのサイコロはルグル様の髪の色と同じような薄い黄緑色のものです。見習うのもいい加減にしろと突っ込みたいところですね。
「運はともかく、制御力じゃオレもいい加減ルグルには勝ちたいところだな」
 イドン様も乗り気で、黒に近い紫色のサイコロの調子を綿密に確かめています。
 これは、「水晶育て」という昔からある見習い魔術師の遊びです。まず、順番をサイコロで決めます。大きな目が出たものから、一度サイコロを振り、出た目分の魔力をサイコロに流し込みます。すると、ケースの中にある水晶がその魔力を受け取り、育っていくのです。ただ、出た目分よりも多い魔力を加減を間違って流してしまった場合は、水晶に皹が入り、下手をしたら振り出しに戻ってしまいます。魔力の流し方にもいろいろあり、波の少ない魔力を流せば、ごろごろと丸い水晶が育っていきますが、強弱の波の強い魔力を流すと、角の生えた水晶となり、やはり折れやすくなります。しかし、逆にこの角の生えた水晶を育てることによって、隣のプレイヤーの水晶の成長を妨害したりなど、そういうこともできたりします。最後にケースいっぱいの大きさまで育てられたものが勝者です。
 必要な魔力量といっても、ぶっ倒れるところまで出せ、というわけではありません。せいぜい見習い魔術師の持ちえる魔力の一日の回復量の十分の一くらいしか必要としません。しかし、その分その微弱な魔力の制御力というものを非常に必要とされます。他にも、サイコロ運、そしてどのように水晶を育てるかという戦略性の要求されるゲームです。もちろん、サイコロの触れない私にはできませんが。
「「いっせーのーでっ」」
 転がったサイコロの目は、ルグル様が一、イドン様が三、ぼっちゃんが六ですね。
「ついているのでやんすー」
「へ、チビ。次のターンにはお前の水晶砕いてやるからな!」
「一出した奴がいきがっててもなぁー、がんばれよ、クロ」
『ぼっちゃん、落ち着いてっ』 
 ぼっちゃんは黄緑色のサイコロを握り締めて、目を閉じ、六分の魔力を流し込みました。『ぼっちゃん、目を閉じていたら水晶見えないじゃないですか!』
 魔力を流すにつれ、黄緑色の水晶が土から顔を出しましたが、熱中するにつれて、ビキビキと水晶の表面が乾燥した一部の女性教員の肌のようになってしまいましたよ。
「やっちゃったでやんすぅ〜」
『割れなかったからまだまだ挽回は可能ですよ! ぼっちゃん』
 次は、イドン様の番ですね。
 転がした紫色のサイコロの目は一。にやり、とルグル様が笑いましたし、ぼっちゃんは手に汗を握りました。私はぼっちゃんが勝つ可能性が上がったことを素直に喜びたいところですね。
「お前ら、またオレが失敗すると思ってるだろう?」
「とんでもないのでやんすよぉ〜」
「ああ、激しく。いい加減一の目に慣れろよなー」
 見てろよ、とつぶやき、イドン様はサイコロに魔力を込めました。少しだけ、紫色の水晶がケースの中の土から顔を出しましたが、次の瞬間粉々に砕け散ってしまいました。
 ああ、ルグル様が腹を押さえて笑っています。
「魔力多すぎるんだよ、コルトはよ」
 お手本を見せてやるとばかりに腕まくりするルグル様。ぶんぶんと腕を振り回し投げたサイコロは案の定机をはみ出しました。どれどれ。
『一、ですね。ふふ、サイコロの目はルグル様でもどうしようもないでしょうね』
「きぃぃぃぃ、見てろよクレマチス! これがオレっちの実力だぁ!」
「すごいのでやんす! おいらのよりもずっと綺麗なのでやんすよぉ」
「ふ、オレっちだからな」
 得意げに胸を張るルグル様に、忌々しげに跳ねる私です。しかしルグル様の水晶は見事としかいいようのない。実に綺麗に辺の長さのそろった六方結晶です。
「でもおいらもまだまだ負けないのでやんすよぉ」

 終盤のケースの中は、黄緑、紫、透明の水晶がひしめきあっています。
 黄緑色の水晶はところどころ削れながらも、今のところ縦方向ではもっとも大きい。紫の水晶は黄緑色の水晶や透明の水晶がこれ以上大きくなるのを阻止せんようにと、棘だった腕を四本真ん中から木のように伸ばしていてて、はた迷惑です。透明な水晶は、ルグル様自身の制御力を誇示せんが如く隅っこを根城に固く大きく正六法結晶の形のまま大きくなっています。イドン様の紫水晶が、他の水晶のどちらも削り落とすことのできたらイドン様の勝ち、ぼっちゃんとルグル様は、イドン様の水晶に触れないように、もしくは触れられても壊れないように力強く水晶を育てることができたら勝利、といった感じでしょうか。
「正念場でやんす!」
 ここで失敗したら負けることを知ってか、ぼっちゃんのサイコロを握る手は汗ばんでいました。
『ぼっちゃんの勝利をお祈りします!』
 こくり、と私の言葉にぼっちゃんは頷いてくださいました。そして、運命のサイコロを転がします。
 目は……六。正しくこの目だけの魔力を通し、水晶表面を補強できたら、逆にイドン様の水晶を葬ることができるかもしれません。しかし、それをやってしまうと、ルグル様を利することとなる。どう判断するかが勝負の鍵ですね。
「んー」
 目を閉じずに、ぼっちゃんは少しずつサイコロに魔力を込めてゆきました。それに従い水晶は……
「んーー」
 大きくならない。
『ぼっちゃん……?』
 踏ん切りがつかないのか、と私は思いました。でも、ぼっちゃんは本当にかなりの魔力を込めているらしく、耳が真っ赤になるところまで気張っています。それでもまるで魔力を受け付けていないかのような水晶です。
「どうした、チビ。握り潰したか?」
「ちょっと一回手を開けてみろよ」
 二人に言われ、ぼっちゃんは手を広げ、息を大きく吸い込みました。
「……ちょっとこのゲームお預けな」
 イドン様の声なんて、まるで聞こえていないようなぼっちゃんです。ぼっちゃんは、大きく肩で息をしています。
『ぼっちゃん……?』
「ちょ、ちょっと疲れただけなのでやんす〜」
 ちょっと、っていいますか。どうしていつのまにそんなに汗をかいていらっしゃるんですか、ぼっちゃん。
「ちょっとチビ、手、貸せ」
 サイコロをらくらくとぼっちゃんから坊ちゃんから没収し、代わりにルグル様が魔力を込めました。問題なく水晶は育ち、イドン様の歪な水晶の腕をへし折ってしまいました。
「あー」
 残念そうなイドン様ですが、それよりも、それよりも、それよりも……
『ぼっちゃん、どうしたんですか! 本当、何か悪いもの私に黙って食べましたか?!』
 知ってます。そんなことぼっちゃんができないなんてことも。
「こりゃ、あれだ。魔力切れだ。きばりすぎだぞチビ」
「この間お前が倒れたやつだな、ルグル」
 言われてルグル様は舌を出し、ぐったりとしているぼっちゃんを背負いました。
「大丈夫でやんすよぉ〜」
 ぼっちゃんの声は、先ほどと違って弱弱しい。まるで……まるで……動力の切れた人形か何かみたいじゃないですか。
『ぼっちゃん……』
「クレマチスも、心配しすぎでやんす〜」
「いや、本当全然大丈夫じゃないから。クロ、嫌がるなよ。保健室いくぞ」
「ううう……」
 仕方がないですね。
 保健室くらい、ぼっちゃんの為なら、私いくらでも行きますから!


18 :おやま◆kmPLreLu :2006/06/03(土) 00:55:59 ID:P4teneuG

3.受け皿の不在


『ぼっちゃんはどうなのですかぁ〜』
 私は悲しいことに、ぼっちゃんと引き離されてしまいました。その上、心の味方のイドン様、そしてこういう時には頼りになると期待してもよいであろうルグル様とも引き離されてしまいました。今では憎くて憎くて仕方のない保健医の机の上にちょこんと置かれてしまってて、ぼっちゃんの顔が遠いのです。サボテンの植木鉢なんて近くなくてもよいというのに。
「クレマチスが心配しても、クロッカスはよくならないよ。それよりも現実的にクレマチスがどういう風に動いているのか解析するほうが個人的には非常に興味がある」
『ひ、ひとでなし』
 くっくっく、と保健医は喉で笑いました。
「からかって悪かったな。久しぶり。相変わらずだな、クレマチス。どうして保健室に来なかった?」
 この男らしい保健医は、実は女医です。年はドリドル先生と同じくらいでしょうか。見た目はドリドル先生よりも十ほど若い、漆黒の黒髪を短く切りそろえたよく切れる刃物を連想させるような女性です。何でも二人は同期だそうですが……ドリドル先生よりもこちらの保健医のほうがずっと男らしい方です。精神的な問題として。
『貴方がいやだからですよ、もちろん。キキ・クレイストーン様』
「つれないなぁ。私とチミの仲じゃないですから」
 ああ、蛇に睨まれたカエルの心境です。しかしここで戦わないと、ぼっちゃんをこの毒女に取られるかもしれません。クレマチスも死ぬかもしれませんが、ぼっちゃん、貴方は生きてください。
「悲壮なオーラが漂っているな。クレマチス。まぁ私としても、クロは大事な初めての生徒だ。悪いようにはせん」
 そうです。ぼっちゃんと私がこの塔に来て最初は幼年クラスに入りました。ここでは、基本的に読み書きや遊び方を教わるような、そういう段階です。学校に上げる前に基本的に社会活動を行えるように育てるところ、というのが妥当でしょうか。
 その担任が、ここにいるキキ・クレイストーン様です。最初もちろんぼっちゃんに指一本触れさせるものかと思いましたが、手も足もないぼっちゃんを導くことは私には不可能だと私はそこの三年間で痛いほど教わりました。
『もう一度聞きます。ぼっちゃんはどうしたのですか?』
「典型的な魔力切れの症状だ。とりあえず基本的処置としてイモリの肝エキスを飲ませた。一時間くらいで回復する」
 てきぱきと業務口調でクレイストーン様は私に告げました。
『よかった……』
 私の言葉に、クレイストーン様は私から顔を背けました。
「さて、これで回復すればいいがな」
『どういう意味ですか?』
 まるでこれじゃいけない、ようなくクレイストーン様の態度ではないですか。
『ただ、遊んでいただけですよ、ぼっちゃん。何か悪いことをしたわけでもないですし、無理をしたわけでもありません。試験の無理がたたったのなら、それこそルグル様のように当日お倒れになるでしょうし』
「だが、クロッカスは倒れた。問題はそこにある」
 そういうことじゃ、まるでぼっちゃんは助からない。そんな冷徹さを持って、クレイストーン様は言い放ちました。
「クロッカス、久しぶり。おきたか?」
「うー、先生、あまりクレマチスをいじめないで欲しいのでやんすぅ〜」
『ぼっちゃん。いじめられてはいません。私はぼっちゃんの使い魔として言いたいことをクレイストーン様に述べただけです。ぼっちゃんは口を挟まないでいただきたい』
 きっぱりと言い返すと、ぼっちゃんは困ったように鼻の頭をかきました。
「クロッカスが起きたところで話を続ける。クレマチスもそういってやるな。これはクロッカスの問題だからな」
 そういわれると、膨れるしかありません。もっとも、私には自分の体積を自力で膨張させるなどといった能力などないのですが。
「先生、おいら、一体どうしたんでやんすか?」
 恐る恐る訊ねるぼっちゃん。本当に何を言われるのだろうとおびえて、顔色がここに運ばれてくるよりもずいぶんよろしくない様子です。
 クレイストーン様は、さらりと髪に手櫛を通し、言葉を一つ一つ選んでいるように考えているそぶりを見せた後に、その一言を発見した様子でした。
「わからん」
 私が人間で椅子に座っていましたら、間違いなく椅子を蹴飛ばして、クレイストーン様の胸倉を掴んだでしょうね。私に手と足がなかったことをこれほど悔やむ日はありませんでした。ぼっちゃんだって、ベッドに寝かせられていなかったら椅子から倒れていたでしょうね。
「いや、呪ってくれるなクレマチス。私の腕じゃはっきりとしたことはいえない。もっと上に掛け合わないとな。それに、私は医者だ。憶測を口にしたくない」
「でも、嘘を言わないところが先生らしいのでやんすよ」
 ぼっちゃんはため息をつきました。そうでした、ぼっちゃんの言うとおりです。あいまいな言葉でごまかされるよりか、このほうがずっとよいでしょう。
「ほめているのか、クロッカス。まぁ憶測は言わないが、現状だけいっておこう。とりあえず薬飲んで魔力は今は回復している。でも、再発はしないか、と問われれば答はわからない、だ。今後何かまた魔力がなくなってしんどい状況になった時の為に同じ薬を出しておく。クレマチスはちゃんとそれをクロッカスが携帯するようにしつけてやってくれ」
『はい。もちろんです』
 に、とクレイストーン様は口の端を吊り上げました。
「最近クロッカスの口周りの炎症がずいぶんよくなったのはお前の功績だな、クレマチス」
「クレマチスは本当においらの気付かないことをいろいろやってくれているのでやんす」
『……』
 何を当たり前なことを、と言おうとしても言葉が出なかったですよ。私に赤い色素が含まれていなくて本当によかった。
「クレマチス、照れているな?」
『て、照れてなんていません! それよりも、再発の恐れアリとかどういうことなんですか!?』
 そうですよ、憶測は口にしなくても、そのような危険性がある、というのは非常に気になるのですよ。
 困ったようにクレイストーン様はあさっての方向を向きました。
「正直憶測は口にしたくない。……仕方がないな、そこに至るまでの例え話をしようか。クロッカスは四世界英雄伝大好きだったな。あれを使うとしよう」
『なつかしい話を持ち出しますね、貴方は』
 四世界英雄伝というのは、今ではこの世界……下手したら、他の三世界の子供達にも語り継がれているであろう壮大なスケールで展開される物語です。本当に百年前に起こったことだそうで、今でもあちこちにその足跡が残っているそうです。
「クロッカス、お前は誰が一番好きだ?」
「獅子王でやんす!」
「そうだな。人間界出身者にとって、一番縁があるのが獅子王だな。獅子王の築いた国とこの塔は深い縁もある」
 この塔は、年に一度食料の買い込みとかで一つの国の上空に留まります。それが、その獅子王が大戦の後に起こした国です。ぼっちゃんは……獅子王の格好のよさももちろん好きなのですが、獅子王のおかげで美味しいご飯にその一月ありつけるのがまた理由の一つなのです。
「クレマチスは?」
『著者でもある、流浪の吟遊詩人です』
 そう。この大戦の記録がしっかりと残っているのは、大戦に直接参加した流浪の吟遊詩人のおかげなのです。それでも客観性を失わずして物語を書いているこの方は妖精説が根強く残っています。
「チミらしいな。やはりアレか?」
『ええ、アレです。傷ついた妖精の姫君を助ける為に自身の歌声を代償に世界の神にお願いをするところが』
 そうです。だから流浪の吟遊詩人は物語を残しても、歌として四世界英雄伝を作っていないのです。だから、今では吟遊詩人らは好き勝手に歌をつけているそうですね。
「私はクレマチスとは逆になるが、妖精の姫君は憧れだ。彼女の『自分の感傷を一族と引き換えにできない。私は一族を守る為ならば、人間や魔族のような蛮行も厭わない、鬼にも悪魔にもなろう』というセリフは実に痺れた」
 そしてその後妖精の姫君はその言葉通り、魔王側に寝返ったかつての同胞を文字通斬り捨てたのでしたっけ。
「逸れたな。しかし忘れてはならない。かの英雄達が輝くのも、悪役……そう、大戦の敗北者である魔界からの来訪者、魔王とその配下達あってだ」
 流浪の吟遊詩人は、実に巧みに自身と敵対している側についても賛辞交じりの描写をしています。おそらく、流浪の吟遊詩人は出会い方を間違えたのではないかと後悔しているのではないのでしょうか。
「そうでやんすね。獅子王が有名人になったのも、邪竜将軍を倒したからでやんすね」
 頷くぼっちゃん。そう、四世界英雄伝が有名になったのも、倒した敵が実に強大な世界の脅威だった、ってことがあったのでしょうね。
「魔王の配下には、もちろん魔界の住民の魔族以外のものもいた。四世界をそれぞれ裏切り、魔王側に居場所を求めた者達がな」
 そう、魔王には魔王の戦う理由があったから、だからこそ、人間の魔術師でも、妖精でも、そして精霊の中ですらも魔王に下るものが多かったのです。
「魔王が倒された後、魔族達は魔界に去った。他の配下達は、勝者側に戦いを挑み玉砕したもの、そして条件を飲み勝者側に帰化したものもいた」
「その話は初めて聞いたのでやんす」
『置いてある本は、魔王を倒して平和になったところで終わりますからね』
「そう、この後は娯楽性が低い。現実的な話になってしまうからな。だから子供達に読み聞かせても反応薄くてやめてしまったんだ、チミー」
 ばつが悪そうにぼっちゃんは顔を毛布にうずめました。私もそんな話があったなんて覚えていませんでしたよ、ぼっちゃん、大丈夫ですっ。
「まぁ中には帰化の条件が厳しいものがいた。その中の一人が、緑の指の貴人だ」
『緑の指の貴人……。妖精の姫を絡め取った魔性の薔薇を育てた魔王の庭師ですね』
 妖精の姫と、その心を射止めた流浪の吟遊詩人の話は私の好きな部分なのでよく覚えているのですよ。ぼっちゃんは、そういうところよりも、やはり獅子王の勇ましい活躍や若き日の大賢者の智謀の類が好みなのですがね。
「そう、クレマチス、正解」
「緑の指の貴人……思い出したのでやんす。庭師のくせに魔王のお気に入りで、庭師に手を出した魔王の部下が逆に魔王に殺された、っていう話、あったでやんすな」
「そう、クロッカスも正解。その通り。緑の指の貴人は魔王側にも火種だった。その理由の一つは、緑の指の貴人が人間の魔術師だったからだ」
『……そうなのですか?』
 魔界の植物を育てる魔族の庭師だと思っていましたが、意外です。
「ああ。魔界の植物を育てるのは別に人間でも魔術が使えればかまわないらしい」
「すごいでやんすねぇ〜」
 もともとそういう植物を育てることが好きなぼっちゃんも、今まであまり興味がなかった敵役に興味深深ですね。
『その緑の指の貴人にも、お誘いがあったのですね。その能力を考えると当然でしょうが』
「その通り。まぁ派手な戦いで深刻なダメージを受けた土地も少なくなかったからな。人間界側につき、魔王の大魔術によって砂地となった土地を元の豊かな土地に戻してくれ、という依頼が緑の指の貴人にあった」
「断ったのでやんすか?」
 もったいぶりながら、クレイストーン様は首を横に振り、自分の机の上にのってあるサボテンの鉢に自身の指を当てた。
「まだそれは早い。彼の者は使いのものに、薔薇の植木鉢を差し出しこういった。『この植木鉢に水を注いでくれ』とな」
 クレイストーン様は、無声無音で魔術を行使する。指先からあふれた水は、サボテンの鉢に注ぎこまれてゆきました。水はすぐに植木鉢の下の穴からこぼれます。
「先生、机の上っ……」
「少し濡れたくらいで慌てるな。まぁこうなってから、緑の指の貴人は使者をつっぱねた。『今更受け皿をこの植木鉢に用意しても、注がれた水は元に戻るわけはないのだ』ってな。それから緑の指の貴人は使者の言うとおり広大の砂地の緑化につとめた。しかし、その後何処かに姿を消した」
「よくわからないのでやんすよぉ……」
 ぼっちゃんがベッドから救いを求める視線をこちらに投げかけてきていますね。まったく、もうちょっと自分で考えたらよさそうなものの……。
『ええとですね。おそらく緑の指の貴人が人間の魔術師ならば、人間側ではなくて、魔族側……につく理由があったはずです。しかもそれは人質を取られていたとか、脅されていたとかそういう類のものではない。つまり、言いにくいのですが、緑の指の貴人は何らかの理由で人間社会で暮らしていくことのできなかった人物ではないのでしょうか』
「クレマチス、正解。幼年クラスにいたときよりもチミの洞察力も上がっているねー」
 観察物を見るクレイストーン様の視線に、虚勢を張りますよ。本当はいつ解剖とやらをされるのか恐怖を感じるのですが。
『私もこの塔でぼっちゃんと同じくいろいろ学んできたのですから、このくらい当然です。そして、かつて人間達に邪険にされたからこそ、緑の指の貴人は敵対こそしないが人間と仲良くやるつもりはない、と使者を突っぱねたのではないですか?』
 私の言葉にクレイストーン様は頷きました。
「このように空中に浮かぶ塔に暮らしている私としても言いにくいことだが、緑の指の貴人はその才能を地上の人間達に蔑まれていた。人間の世界に居場所のなかった彼は、ひっそりと人のいない土地で植物を育てていたらしい。そこを魔王に拾われ、忠義を尽くすようになったのさ」
そう考えると、腑に落ちない話になりますね。ついつい疑問が口から出てしまいます。
『そのくらい魔王に忠誠心のあって、魔王のもとにしか居場所のないような人物なら、魔王の死後敵対したのでは?』
「そうだな、チミー。しかし彼の者が魔王の死後に投降したのは魔王自身の望みだった、と流浪の吟遊詩人が記している。もしこの楔がなければ、死ぬまで彼の者は自分の生に決着がつくまで戦い続けただろう……と」
 しばらく会話に参加していないぼっちゃんを見ると、ぼっちゃんは実に複雑に眉毛をうねらせていました。
「どうして、緑の指の貴人は人間の世界で暮らせなかったんでやんすかね」
 ぼっちゃん、ぼっちゃん、ぼっちゃん。
 この塔の中でも、他にはいない稀有の力を持つ貴方が言いますか。といいますか、そういう自覚なさすぎですよ、ぼっちゃん。
 同じ気持ちを私と共有しているのでしょう。クレイストーン様は肩からずりおちた白衣を羽織なおして、教師口調に戻りこういいました。
「さ、お話は終わりだ。ちゃんとルグルとイドンにお礼いっておけよ」

 何を言いたいのかよくわからない話でした。しかし、今日はこの後ぼっちゃんと私はしばらく久しぶりに四世界英雄伝についての話で盛り上がったのでした。それは今日の不気味な事件を帳消しにするほど、楽しい出来事でした。
 後からぼっちゃんのお見舞いにチョコレートを持ってやってきたルグル様とコルト様も交えて、四世界英雄伝のクライマックス、魔王対白銀の騎士と火霊界の巫女を実演しました。ちなみに私がナレーター、魔王がイドン様、白銀の騎士がルグル様で、巫女は……ぼっちゃんでした。


19 :おやま◆kmPLreLu :2006/06/06(火) 03:30:03 ID:P4teneuG

4.振り出しに戻る病(1)

 ここは、塔の中でも一番高く、そして広い個人の居住地として有名です。
 ここに来るという話を伝えに来たのは我らが委員長、イルフェ・ラックルート様です。ラックルート様は、日頃敵対勢力にある私達に口すっぱく、今日は頭を立てないこと、ご飯に誘われたら絶対に断ること、といいました。
 ここに来るという話をしたのは、ぼっちゃんにとって頼れる先輩のルグル様とイドン様です。ルグル様は、私達にすっぱく、今日は頭を立てないこと、といいました。イドン様は、ご飯に誘われたら絶対に断るように、といいました。
 三者に共通しているのは、理由を尋ねると自分の口からはとてもいえない、ということでした。
「一体どういうことでやんすかね?」
『行ってみればわかるでしょう』
 塔は、壁をぐるりと囲むように外と内に螺旋階段がついています。今ぼっちゃんが歩いているのは、最上階以下三階の内階段です。外階段はぼっちゃん達の度胸ためしの場として使われていますが、イドン様がとうとうあの妖精を追い詰め、そしてうっかりあの金色の妖精と一緒に塔から落ちた後はなるべく三人とも通らないように気をつけています。
 塔の階は、四方向で四分の一階ずつずれており、内階段もそれにあわせて踊り場がそのまま廊下になるように広くとってあります。おかげでまだ十才前のぼっちゃんの体にも負担にならない程度に階段を上ることが可能なのです。まったく、塔の最上階まで直通の箱型移動基があればいいのですが、塔の上十階はどういうわけだかそれが備わっていないのです。
『ぼっちゃん、疲れませんか?』
「大丈夫でやんすよぉ〜。今日は絶対に倒れないでやんす」
『信じますよ、その言葉』
 そういいつつも、私は不安でなりません。昨日も本当に私が異変を察せないくらいに急に具合が悪くなったじゃないですか。
「あっ」
 ぼっちゃんが声を上げました。
『あっ』
 私も気付いて声を上げました。
 こんなことは今までなかったのですが、ぼっちゃんよりも背の低い妖精が廊下の先に立っていました。妖精の大きさを見ていると、ぼっちゃんが下級見習いだった頃を思い出してしまいますね。しかしそんな懐かしさを感じる雰囲気を迎合しないかのように、キッ、と妖精はぼっちゃんのことを睨みつけてきました。
「うっ」
『ぼっちゃん、そこで言葉に詰まってどうするのですか。ガツンといってやんなさい』
「ガツン、っていわれても……おいらは気になるだけで、きっと話があるのは向こうのほうだと思うのでやんすよぉ……」
 まったく。ならば私が改めてガツンと言ってさしあげましょう。……と意気込んだのですが。
 私達がやり取りをしている間に、妖精はトントンという足音もなく、重さという概念を感じさせずに階段を登っていってしまいました。
『お出迎え、ってことですね。たしかあの妖精は、大魔術師の預かり子なのでしょう?』
「そうコルトが言っていたのでやんす。クレマチス、行くのでやんす」
『無理しないように、ぼっちゃん』
 妖精ほど幻想的な足取りではないですが、ぼっちゃんは確実に……以前にこの一番高い塔に来た時よりも、存在を主張するような足取りで、最上階の部屋を訪ねました。

「いらっしゃい、クロッカス君。それからクレマチス君」
 何だか住んでいる住人達の肩書きやそういうものに反して、何なんだこの出入り口と声を大にして主張したいところでした。
 最上階の主本人が、扉を開けて出迎えてくれました。そのはるか後ろには非常に警戒心むき出しの金色の妖精の子供が隠れています。そんな妖精の子供が目立って目立って仕方がないくらい、この最上階の扉はポストに表札がついているとありえないくらい庶民的でしたし、主本人はどこにでもいそうな青年然としていました。その上、主本人の服装がぼっちゃんらの見習い魔術師達の黒い長衣よりももっと平々凡々の灰色のよれよれの長衣だから、なおさら地味に見えてしまうのです。
「お邪魔しますのでやんす」
『違います、ぼっちゃん。失礼します、ですよ』
「固くならなくていいですよ。呼び出したのはこちらですから」
 柔らかな微笑みを浮かべながら、最上階の主――つまり、この塔のオーナー、嘘名の大魔術師は私達を室内に招きいれました。
 そして、入って廊下を数歩歩いたところで扉が閉められました。がちゃり、としっかりかぎもかけられてしまいました。悲惨なほどびくり、とぼっちゃんの肩が飛び跳ねてしまいました。私も飛び跳ねました。それはもう。
 これでもう何があっても逃げることはできません。
「クレマチス……」
 ああ、もう今にも泣き出しそうな声でぼっちゃんが私を呼びます。
『ぼっちゃん、私が一緒です。多分取って食べるとかそういう話じゃないはずです』
「あはははは。取って食べるのは校長のほうですよ」
 もう一人――この最上階の住民はいる。大魔術師のビジネスパートナーであり、齢百歳は越えているのではと噂される校長先生です。「た、た、た、た、食べるのでやんすか……?」
「それはもうぺろりと」
 にこにこ笑いながら大魔術師が飛んでもないことを言い出します。
『ぼっちゃんをいじめないでください。話があるといって招いた癖に、一体どういうことなのですか! 悪ふざけにもほどがあります!』
 ぼっちゃんが泣き出す三秒前に私はすかさず文句をいいました。
「すみません、ついつい面白くて」
 ぼっちゃんが冴えないくせに笑顔だけはやたらと愛嬌のある大魔術師に注意を集中しているすきをつかれました。ガタン、と、今ぼっちゃんが背を向けた扉が一人でに開いてしまいましたよ。またも、ぼっちゃんは可哀想なくらい肩を震わせてしまいました。
「いや、ただ扉を開けただけですから。こちらです」
 大魔術師が開いた扉の中へと入り、明かりをつけました。窓のないこの部屋はとても小さく、息苦しい感じがしました。壁も床も白く、窓もありません。ふっくらとした高級品そうなソファーは二人掛けが二つ、大理石をそのまま切り出し、表面を滑らかな硝子で覆ったテーブルが一つ――
『内緒話に適した空間ですね』
「ええ、用件が内緒話ですから。ここだったら、どれほど耳のよい妖精も精霊も、話を盗み聞くことはできません。クロッカスくん、好きなソファーに座ってくれてかまわないよ」
 もし、塔のてっぺんあたりの外階段に何の話かとあの二人が盗み聞きに来ていたら、気の毒ですね。
 ぼっちゃんも同じことを思ったのでしょう。今まで座ったことがないくらいにすわり心地がよい椅子であろうに、そわそわと壁の向こうばかりを透かして見ています。それだと何も見つけられないと知った後に、そっと私の入った瓶を握り締めました。

 最初はたわいもない話でした。
うちの子がお世話になっています、という大魔術師の妖精の子自慢が始まり、お茶とお菓子を持ってきた妖精の子にやはり私もぼっちゃんも睨まれたり、そのことに気付いていない風味の大魔術師がこの御菓子うちの子が焼いたんですよとお茶も淹れたのもうちの子供でー、と、やはりうちの子自慢を始めたり……。
 いい加減私もぼっちゃんも疲れてきたくらいになった後に、大魔術師が話を切り出しました。
「昨日、キキ・クレイストーン先生から君の話を聞きました」
 私に自分の身を律することができたなら、ぼっちゃんの体の動きなしでも跳ねたでしょう。
「話って、おいらの体のことについてでやんすか?」
 ぼっちゃんは困惑している様子です。
「ええ、その通りです」
『あまりいい話ではなさそうですね』
 大魔術師の愛想のよい笑顔は口元だけで、灰色のまなざしに真剣さの色が混じってきていました。
「何がいいか、何が悪いのかはクロッカス君達が決めることですが……」
 ぼっちゃんはぎゅっと私の瓶を握りこみました。私の視覚はぼっちゃんの手のひらしかとらえることはできませんが、きっと顔を上げて大魔術師を見ているのでしょう。そう信じます。
「クレイストーン先生から、緑の指の貴人の話をしたと聞きました。戦後、緑の指の貴人は、受け皿のない植木鉢に水を注がせ、一度行ったことは取り返しのつかないと、和平の使者に説きました」
 どこか思い出に耽るような物言いで、昨日聞いた話をもう一度なぞらう大魔術師。
「受け皿置いておけよ、って話ですよね」
 ぶふ、とぼっちゃんは勢いよく噴出しました。お茶を含んでいなくてよかったです、本当に。といいますか、大魔術師。シリアスな話に防御力を高めていたぼっちゃんに、どうしてそういう弱いところをつくのですか。
「それをいったら、先生……身も蓋もないのでやんす」
 おずおずとぼっちゃんは私から指をはなしました。予想したとおり、大魔術師の瞳に真剣さが消えさってしまっていました。
「はっはっは。その通りです」
 こ、この男は……。私の中でルグル様よりも危険人物スケール上位と確定しましたよ、ええ。
『話を戻してください。その話と、ぼっちゃんと一体何が関係あるのです?』
「クレマチス君、せかさないでください。僕にも順序ってものがあるので」
 本当ですかい……。
「クロッカス君、魔力って何でしょう?」
「魔術を使うのに必要な、燃料のようなものでやんす」
 講義の時の口調での問いかけ、にぼっちゃんは実にすらすらよどみなく答えました。この問答は初級クラスのレベルですから、答えられなければ困ります。
「と、私は一門の方々に教えていますね。では、魔術を使った後、術者の魔力はどうなりますか? 減りっぱなしですか?」
「え、えっと……。運動して走ったりした後も、寝たら疲労回復するのでやんす。魔力も同じでやんす。たくさん使った後は、よく寝ると回復するのでやんす」
 ああ、だんだんぼっちゃんがつまってきています。といいますか、いかにぼっちゃんが適当な理解で適当に魔術を使っているのかばれてしまいますよ。
「確かに睡眠をとったら回復する、というのはよくある事例の一つですからね、間違ったことはいっていないでしょう。でも、具体性が足らない」
 ひょっとして、これはぼっちゃんの話とはいっておいて、実は上級クラスに上がるなといったそういう脅しなのでしょうか。
「で、でも……。前この質問、誰かが先生にしたら、ちゃんとしたことは神のみぞ知る、今は現象から近似した理論が最も真相に近い、って見栄を張っているだけだ、っていっていたのでやんすよ」
「はっはっは、そういえばそんなこともいいましたっけ。でもその現象から近似している理論、というのは真実かどうかは神にしかわかりませんが、今のところその理論で矛盾はありません」
 勉強しましょうね、って案に言っているのですか、この人は……。
『ぼっちゃん、寝ている間に人間の魔力が回復するのは、魔力の持つ人間は自分の中で寝ている間に食べたものとかから魔力を生成するからですよ』
「クレマチス君、詳しいね」
『ほほほ』
「め、面目ないのでやんす……」
『俯かないでください、ぼっちゃん。ぼっちゃんは私の創造主なのだから。私はぼっちゃんがいきなり上級クラスで最下位にならない限り、文句など何一つ言いませんよ』
「ううう……」
 ぼっちゃんが追い詰まっていますね。でも、ここでこれだけ脅しておけば、ぼっちゃんは春休みの間ももっと真面目に勉強してくれると思うのです。のこのこと実家に帰る方々や、だらだらとすごす方々を置いてきぼりにする勢いで、がんばってくれれば私としても言うことは何もないのです。
「確かに魔術師になりえるほどの魔力を持っている存在は、この使った魔力を取り入れる能力を持つものばかりですね。ただし、例外は存在します」
『例外ですか?』
 しばし沈黙が支配していると思うと、瞬きを三度してぼっちゃんは目を輝かせながら手を挙げました。
「はい、わかったのでやんす! ケチケチ魔力を生成しなくてもいいくらいに、一生分に使うくらいの魔力を持っている人でやんすな!」
『ぼっちゃん、ナイスひらめきです』
「ええ、今度はクロッカス君正解です」
 肯定の意味で頷いてから、大魔術師は講義を再開しました。
「まあ、それが君なのですが」
「お、おいらでやんすか? でもおいら自慢できるほど魔力ないのでやんすよ」
 困惑気味なぼっちゃんですが、無理もありません。ぼっちゃん自身の感覚としては、もっと魔力があれば魔力量測定の試験でもっといい成績が取れたはず、と考えているのでしょう。
「クロッカス君。君は君が思っている以上に、たくさんの魔力がありますよ。だからこそ、今までこの塔で魔術師見習いできていたといっても過言ではありません」
『どうして過去形なのでしょうか』
 私の言葉に、かの大魔術師は両手を組みました。

「結論からいいましょう。残念ながら、今のままの状態で塔はクロッカス君を見習い魔術師として認めることはできません」


20 :おやま◆kmPLreLu :2006/06/07(水) 05:13:48 ID:P4teneuG

「死に至らない呪い」


 人を寄せ付けぬような森がある。この森は、森としては生まれて新しい。新たに生まれた恵みもあるだろう。それなのに、森の主の心情を反映しているかのように、誰も寄せ付けようとはしない。
 森の奥には、かつて黒々とした古城があった。しかし、その古城ももはや蔦に侵食され、黒い石の肌を見せることはもはやほとんどない。今では誰が見ても緑色の城だというだろう。
 その緑色の城の中庭に、二人の魔術師がいた。
 一人は鋏を持つ魔術師。道具と材料と、そして器を備えた机の上で、機械のように手を動かしていた。
 一人はお茶を飲む魔術師。ただ、鋏を持つ魔術師の少し後ろのベンチで、その作業の様子をじっと見守っていた。
 二人とも、年は人間にして二十台後半にしか見えないだろう。しかし、伝説の後この地に根をつけた木々は、百年の間に、すでに元は人間の魔術師でありながら、二人とも人間とも呼べない別の存在に変わり果てていることを悟っていた。
 鋏を持つ魔術師は、机の上に添えられた切花を、なれた手つきでいらないものを鋏で削ぎ落とし、自らの心の内にある絵をなぞらうように花瓶に差した。
「もったいない腕をしている。うちで生ければいいのに」
 何百回目になる誘いの言葉に、鋏の音は大きくなった。
「私がここを離れるのは主が迎えに来た時だけだ」
 あくまで声色は平然としていたが、鋏の音は依然大きなままだった。
「困った人ですね、貴方は。貴方の腕を欲しがる魔術師は、私だけではないというのに」
「心配する必要はない。私は誰のものにもならない」
 花瓶の上の空間が、花弁という絵の具で彩られてゆく。白、赤、黄。どれも瑞々しく、決して油では出ない色合いだ。
「死の王が貴方を訪れても、貴方は死の王の腕をすりぬけることを選び、破滅の女王がこの城の扉を叩いても貴方は決して開こうとしない。ただ在るだけだ。やはり、もったいないですよ」
 お茶を飲む魔術師は、魔力を使わない鋏を持つ魔術師の魔術から目を離すことができなくなっていた。
「我が主が望まれたことを守っているだけだ。私は自ら命を絶つような真似は絶対しない。その上で在り続ける土地を選ぶとしたら、ここしかあるまい」
 城は城壁こそ立派である。しかし、中庭に入ればわかる。ここは、既に過去に滅びがあったのだと。城壁は、城壁としての機能を果たせずに残っている。本当の城は、もはや全て中庭と化していた。
「貴方自身が大木のようですね。いい加減その根を引っこ抜いて、自分の植木鉢に植えるのはどうですか?」
 あくまでお茶を飲む魔術師は温和に問うた。
「貴様は名前から何から何まで空虚な存在だ。いい加減根も葉も生やしたらどうだ?」
 帰ってきた返答は、やはり拒絶のものだった。
 空になったティーカップをもてあそんでいると、鋏を持つ魔術師の下僕が、音もなく現れ、それを回収していった。相変わらずここの下僕達は全て人形のように綺麗な目をしていると、お茶を飲んでいた魔術師は嘆息した。決して自らは輝こうとはしない、他の光を見事な屈折現象で魅せる目だ。こんな生き物がいるからこそ、生き生きとした生き物に囲まれた生活というのが充実感にあふれるものになるのだろう。嘘名を持つ魔術師は、自分の内が空虚だからこそ満たされる今の生活に、満足していた。その実感を、胸内で鋏を持つ魔術師の問いの答とした。
「綺麗ですね」
 答を導き出した時には、鋏を持つ魔術師の手は止まっていた。あれだけあった切花ももうない。出来上がった作品は、実に巧みだった。花が花とは見えず、もはや個を主張するのではなく一枚の絵を描いていた。その絵は、光の角度によって、脈の透け具合がかわり、その都度別の顔を見せる稀有の絵だ。花と花との関係は、決して倒れず、そして消えず。それでも普遍ではないと光がそれを主張するのだ。
「当たり前だ」
 短い一言だが、万感の想いがこもっていた。
 後を追いたい。追えない義理がある。
 ここを去りたい。去れない恩がある。
 全てを忘れたい。忘れられないぬくもりがある。
 愛していたい。憎まない理由もない。
 思考を止め人形となりたい。理性を保つ呪いがある。
 死にたい。生きろという願いがある。
 いくつもの二律相反が根となって、類まれなる緑の指を持つ魔術師を、決して抜けない大木たらしめていた。
 たとえ、その願いがもはや百年の時を経て、耳からも掠れかけていても、緑の指を持つ魔術師は歩み出すことができない。時を経た今となっては、願いは呪いとなり、動くことすらも許さない。
 そうなってしまった緑の指を持つ大木にできることは、秋となって落ちた葉が、いい肥やしとなり、次の春にまわりに綺麗な花が咲くことを期待することくらいしかなくなってしまった。
 その綺麗な花は、根を張る想いの向こうに届ける。
「では、いただいてゆきます」
 嘘名(うそな)を冠する大魔術師は、指をはじくという動作だけで魔術を行使した。時を止める箱が、すっぽりとできたばかりの作品を覆いこんでしまった。
「……ああ」
 緑の指の魔術師は、今までも何度も言いかけた言葉を、今回も口にすることもできなかった。
「そうそう。近いうちに人を連れてここに来るかもしれません」
 緑の指の魔術師は、最初、嘘名の大魔術師が何を言っているのかまるでわからなかった。
「もう、十年になりますから」
 続く言葉と、そして視界の隅に入った控えている下僕の姿で思い出した。
「生きているのか」
「ええ。元気です」
「そうか。面倒な」


21 :おやま◆kmPLreLu :2006/06/20(火) 04:25:33 ID:VHknketG

5.妖精の生活 日常編


「何でもする、といったよね?」
 試すかのように金色の妖精はいいました。ただし、妖精は十歩以上ぼっちゃんに近づこうとはしません。今だって、十歩の結界を守っての立ち位置で、じっと無機質な視線をぼっちゃんに向けてきました。
 上目使いにじっとぼっちゃんの顔を見ている様子は、非常に人形そっくりで、視覚で愛でたいと思うのですが……しかし、いかんせん距離が遠い。
「……そ、そうはいったのでやんすがー」
 見た目はこの妖精はぼっちゃんよりも三歳くらい年下に見えます。幼年クラスか初級クラスでわいわいやっている年頃でしょう。しかし、先ほど大魔術師から説明をうけましたが、実のところぼっちゃんの三倍は生きているとのこと。そんな妖精の有無を言わさない迫力のある浅い海色の瞳に見つめられ、ぼっちゃんは所在なさげに頬をかきました。
「じゃあ、しっかりやってね。もちろん隣も」
 投げつけられたデッキブラシとスポンジをぼっちゃんが何とか受け取っている間に、ぴしゃりとドアを閉められてしまいました。
「うううう……」
 ぼっちゃんのうめき声が白いタイル張りの部屋に実によく反響します。ここは教職員専用の風呂場です。照明から何から何までグレードが一つ上で、つやつやとした光沢を放っています。学生が当番で掃除している風呂場とは大違いです。
『ぼっちゃん! 始めないと終わらないですよ!』
 途方にくれているぼっちゃんに声をかけると、ぼっちゃんの肩が大きく跳ねとびました。
「そ、そうでやんす! がんばって昼までに終わらせるのでやんすよクレマチス!」
『ええ、ぼっちゃんになら魔術なしでもできます!』
 ぼっちゃんは潔く掃除に邪魔な長衣を脱ぎ去った後、自らの手でデッキブラシを握り、浴室を磨きはじめました。時々心底うらめしそうな視線をバスタブの上に置いてある私に注いできましたが、きっと私が転げないかどうか心配だったのでしょう。ええ。

 両方のお風呂の掃除が終わった頃にはお昼になっていました。お昼ご飯をどうするか妖精が聞きにきましたが、現在地から比較的近い最上階で食べることを謹んで断り、五十階下の教職員階と学生階のはざまにある食堂に下りることにしました。
「はっ、しまったのでやんす!」
 箱型移動基の前まで来てぼっちゃんは自分で自分の頭をぽかりと殴りました。
『うかつでしたね』
 ぼっちゃんの左腕には、今は大魔術師から渡された腕輪を通しています。これは魔力封じの効力があるのです。魔力の体外への放出を禁止するこの腕輪をはめている限り、ぼっちゃんは魔術はもちろん、魔力が必要となる魔術的道具も一切使用できないのです。乗っている人の魔力を少々利用して上下に動く箱型移動基も、もちろん例外ではありません。
こんなことになったのは、もちろん朝の最上階での話し合いが原因です。

「結論からいいましょう。残念ながら、今のままの状態で塔はクロッカス君を見習い魔術師として認めることはできません」
 大きく私は飛び跳ねました。ぼっちゃんが前屈みになったからです。
「ど、ど、ど、ど、どういうことでやんすか? 昨日、確かに上級に進級できるって、発表あったでやんすよ!」
 大魔術師はしばらく言葉を宙に視線を泳がして捜していました。大人がごまかす時によく見せる表情です。
「クロッカス君は、受け皿のない植木鉢のようなものです。いくら外部から魔力の素となるものを摂取しても、それを魔力として貯めておくことができない。今はまだ魔術が使える程度には残っているようですが、私の見立てでは一月後にはまったく使えなくなるでしょう」
 ぼっちゃんの血の気が引いて、手の先が冷たくなっていくのを感じました。ぎゅっと握られても、力を込めすぎて白くなった手の冷たさばかりが目についてしまいます。
『どうしてこのように急になくなるのです?』
「そうですね。ポンプ式の溶剤入れを想像してもらえるといいですね。容器の中のポンプの管があるところまでならば、どれほど容器の中の液体が少なくても吸い上げることができます。しかし、管が届かないところまで落ち込んでしまったら、もう液体を吸い上げることはできないですね。今のクロッカス君の段階は、水面の高さが管が届くか届かないかのぎりぎりのものだと考えてください」
 ぱくぱくとぼっちゃんは何度か口を開いたり閉じたりしていましたが、やがてかすれた声を絞り出しました。
「ま、魔力が回復する方法は、ないのでやんすか? 回復さえすれば、おいらはここにいられるのでやんすね?」
 大魔術師は困ったように眉尻をハの字に曲げ、諭すような口調でこういいました。
「クロッカス君にはどれほど外部から魔力を注いでも、自身の中に受け皿がない。回復するのは一時的でも、それは一日二日で消えてなくなるものでしょう」
 暗に、大魔術師はぼっちゃんが上級魔術師見習いになることを否定しました。
「お、お、おいら、もうここにいられないのでやんすか?」
 ぼっちゃん、ぼっちゃん、ぼっちゃん。できることなら私を飲み干して、その喉の渇きを癒して欲しい。そのくらい、ぼっちゃんの声はカラカラに干からびてしまっていました。
「貴方がここにもういられないと、強く思うのならば、ここに貴方の居場所はなくなるでしょう。ですから、クロッカス君」
 大魔術師は、はっきりとぼっちゃんの瞳を覗き込んでこう続けました。
「新学期が始まる一月弱の間の時間で……君は、君の生きる道を選びなさい。九歳という小さな肩には重たいものでしょうが、私には君にああしろこうしろなどという権利はありませんから」
 今のぼっちゃんに、そんな道を選ぶほどの強さ、あるわけないのに。何て酷いことをいうのだこの大魔術師は。
ただ、ただ。道がどんなものか私だって探すことくらいはできるはずです。
『つまり、ここにいたい、とぼっちゃんが思った場合……見習い魔術師以外で、ここに残る手段はあるのですね?』
 大魔術師の視線の強さに俯きかけていたぼっちゃんでしたが、その言葉で生気が戻りました。
「あります。ただし、つらいですよ?」
「お、お、おいら、塔に残れるなら何だって!」
 ぼっちゃん、もっと計画的に話しましょうよ。何だって、といって、人体実験の材料にされたらどうするのですか。
「その覚悟、試してみましょうか」
 にっこりと、大魔術師は笑いました。
「ユリン君。クロッカス君を使ってください」
 その言葉を聞いた時、妖精の人形のような顔は、露骨な嫌悪に歪みました。
 ぼっちゃんは気付いていない様子でしたが……やはり、塔から落ちた事件が尾を引いているのでしょうか。

これが、現状に繋がります。
 ぼっちゃんが内階段から五十階を降りきる頃には、膝がガタガタになり、実に私もよく泡立ってしまいました。
『イドン様やルグル様の姿はありませんね』
「さすがに少し遅かったのでやんすよ」
 昼食の締め切り間際です。いつもならば長蛇の列となるカウンター前も今日はガラガラです。さほど待たずにぼっちゃんはトレイを手にして席につき、遅い昼食を始めました。
『食べられますか?』
「正直苦しいのでやんす……。でも、食べなきゃ午後からも体が持たないのでやんすよ」
 震える手でぼっちゃんはナイフとフォークを持ち、油っこい鶏肉の照り焼きに挑んでゆきました。
 ぼっちゃん……。本当に大丈夫なのでしょうか。

「遅い」
「うう……面目ないのでやんすよ」
 ぼっちゃんが昼食を食べた食堂から四十八階登った頃には、約束の昼食一時間から三十分ほど経過してしまっていました。
 先に待ち構えていた妖精は、やれやれ使えねぇ奴めとばかりに肩をすくめて、木の大扉を開きました。ここはまだぼっちゃんの入ったことのない部屋です。
「今度はここの草抜き」
 通された部屋は、室内というのに外と変わらぬほどの太陽の光が差し込んできていました。天井を見上げると、鏡とガラスが張り巡らしてあります。どこからか光を取り入れて、ここの中に通しているのでしょう。そういう感じで上方向に意識を逃避させるほど、ここの部屋は酷かった。
「すごい雑草でやんすね。おいらの背の高さと大してかわらないのでやんす」
『ええ……。一体どうやったらこんなに雑草ばかりが生えるのでしょう』
「さっさと入ってこい」
 少しいらついた様子の妖精の声に、ぼっちゃんは小走りでぼうぼうの包丁草の向こうに消えかけた妖精の背中を追いました。
「はい、ここの中に道具がある」
「わかったのでやんす。で、ここは何の部屋なんでやんすか?」
 妖精はやはり露骨にいやそうな顔をした後、蚊の鳴くような声で答えました。
「……温室。校長の」
 確かに、ここは暖かいですね。
 ……という問題ではなく。
『いつから放っておいたらこんなに酷いことになるのでしょう……。もともと植えている薬草か何かがまるで見えないのですが』
「校長は『今は』ここを使っていない。しかし、春からここを使いたいといっている。だから、それまでにここを何とかすること。……一朝一夕じゃ何ともならないのはこちらも承知している」
 確かに、教室二つ分の広さの土地を一朝一夕で整備しろといわれても魔術なしじゃとても無理です。
 十歩の距離を縮めないまま、妖精はぼっちゃんに金色の鍵を投げてよこしました。
「校長先生が使っていないなら、誰がここを使っていたのでやんすか?」
 妖精はぼっちゃんの言葉に眉をひそめました。
「どうして?」
「この季節、温室の管理をちゃんとしないと春の花は咲かないのでやんす」
 ぼっちゃんが指差したところは、確かに青い花のつぼみがありました。ぼっちゃんほど花には詳しくないですが、あれはチューリップですね。青いチューリップなんて初めて見ます。きっと珍しいものなのでしょう。他にも、低く地を這う紫色の六枚の花弁の花が、雑草の絨毯を横切る形で生えていました。
「ここはまかせたから」
 ぼっちゃんの言葉に対する返事はなく、ぷい、と妖精はそっぽを向いて出口から出て行ってしまいました。
『……ルグル様以上に捻くれてますね、あのユリンとかいう妖精』
「そうでやんすね。ルグルのほうが全然わかりやすいのでやんす。結局今日にこりとも藁ってないんじゃないでやんすか?」
 身近にいるヒネている人代名詞を挙げてから、ぼっちゃんは案内された倉庫の中から鎌を取り出しました。
「あの花のあたりから綺麗にしていくのでやんすよ」
 ぼっちゃんは紫色の花のほうに、道を作るようにして草を踏み倒してゆきます。
『どうして?』
「あれ、クレマチスの花でやんす。クレマチスは大切にしないといけないのでやんすからな」
 そんな言葉を笑顔でいわれたら、何もいえないじゃないですか、ぼっちゃん。

 日の暮れるころに、作業を切り上げてもいいよというお許しが大魔術師から出ました。
「明日も続けるつもりですか?」
 ぼっちゃんは階段地獄のことを考えて唸りましたが、数秒間迷った後に、頷きました。
「それじゃ、明日の朝も今日と同じ時間に来てくださいね」
 腕輪をこれで外してもらえるのではないかと思ったのですが……甘かった。
 腕輪はつけたままでした。
「部屋に帰るのがつらかったらうちに来ますか? 夕食もうちで作っていますし、階段登り降りするよりずっと楽ですよ?」
「と、友達が待っているからいいのでやんす……!」
 今朝の忠告から、ぼっちゃんは当たり前のようにノーといいました。
「そうですか」
 大魔術師は、私を見下ろして、こういいました。
「友達は大事ですから」
 その言葉にどれだけの想いと、そして皮肉がこめられていたのか。気付いたのはずっと後の話でした。


22 :おやま◆kmPLreLu :2006/06/26(月) 21:08:27 ID:VHknketG

Ex. ある一家の禁則


 昼飯食べに食堂に上がってきたのはいいが、ルグルはチビことクロッカスの姿を見つけることができなかった。仕方なく、いつもの席にお盆を置き、二人きりで昼食にとりかかることになった。
 今は暦の上では春休み。帰る家のある魔術師見習い達は帰省している為、講義のある時と比較すれば人はまばらである。
「チビがいねーと暇だなー」
「そうだな」
 相槌を打ちつつも、コルトは内心でため息をついた。今日午前中だけでチビという言葉を何度コルトは聞かされただろうか。校長に頭を丸刈りにされてはいないだろうか、妖精にいじめられてはいないだろうか、百通り以上の不安を述べている。そして口や想像にはかなり午前中の時間を使ったのに、いつもどおりの遊びや、上級生闇打ち――ではなく、上級生の手を借りちょっと魔術の指導をしてもらう機会のセッティングなどにはまったくといってもいいほど気がまわっていなかった。
「ちょっと聞いていないだけでクレマチスの声がなつかしいな」
「そうだなー」
 コルトの零した一言に相槌を打ちつつも、ルグルは内心でため息をついた。今日何度コルトの口からクレマチスという言葉を聞いただろうか。クロッカスを心配してクレマチスが何かとんでもないことを言い出したりしていないだろうか、実は進級はドッキリでしたとか言われて怒鳴り声を上げているのではないかなど、クレマチスの口の悪さに関することを百通りくらい述べている。そして普段ならばどの上級生がどの時間に一人っきりになってそこを襲えば一対一の魔術勝負ができると綿密な計画を提示するほど気が回っていなかった。
「どうしたの? 二人ともため息ついちゃって」
 二人とも心の中でついていたつもりだったが、実際ため息は外に出ていたらしい。何故お前が同じテーブルに座るんだ、と、声の主を二人ともにらみつけた。
「こんにちは」
 にこやかにイルフェ・ラックルートは二人に会釈した。
 ルグルもコルトも言葉なく、視線でイルフェに言葉を送る。
「クロッカスは? 今朝学長に呼ばれたけれどもまだ戻ってきていないの?」
 その一言で二人ともの疑問は氷解した。何のことはない、おそらく伝書鳩役をした委員長にとって、やっぱり送信先がどうなったのか気になったのだろう。
「まだ戻ってきていなーい。話にしては長すぎるから、非常に気になるところだよー」
 ルグルは今日も立てている自分の頭の角を撫でた。
「ひょっとして、ご飯を向こうで食べてきているんじゃないのかしら?」
「だとしたら最悪だな……」 
 自分の言葉だというのに、ご飯というひところで青ざめる委員長。それにコルトも同調した。
「ん? 二人とも校長室でメシ食べたことあるのー?」
 ルグルの何気ない一言に、二人は乾いた笑いを口の端に浮かべ、そしてコップに手を伸ばし水を一口飲み、唇の潤いを取り戻した。

 コルト・イドンの場合

 コルト・イドンにとって、今現在の塔の食生活に不満を抱いているわけではない。塔に登る前のことと比較すれば、ずいぶん人間らしい食事ができるようになったと喜ぶべきことである。それでも骨と皮しかなかった体つきに肉はなかなかつきにくく、いつまでたってもクレマチスにもやし呼ばわりされるのは体質由来のものだと切って捨てるしかなかった。だから、塔の中でも身分の高いものに呼ばれた食事というものは、栄養面から見ても、味から見ても当然興味の対象であった。たとえ、大魔術師の大事な預かり子をうっかり塔から突き落としかけ、さらに自分も落ちかけ、それからこってりと説教をされた後でも、である。
 その日の塔の最上階の夕食の席は四つ。一つは塔の持ち主である大魔術師のもの、一つは教育研究機関としての塔社会の統治者である校長のもの、一つはその二人が預かった妖精の子供のもの、最後の一つが本日の来客者――コルトのものだった。
 コルトにとって、このまったく血の繋がっていない最上階の住民達は非常に興味深い観察対象である。自分がこってりと怒られ、そして大事な秘密について厳重に口止めをされた後でも、気分は非常に良かった。
 食事は非常に気軽に行われた。食べ始めの前の食べ物への感謝の祈りの後は、三人とも気ままに食器を操り、食事を開始した。コルトもそれにならった。
 まずは、パイを一口。
 そこで、コルトの動きは止まった。
「どうしたの?」
 今日の料理を作ったという妖精が怪訝そうにコルトを見つめた。硝子玉のような瞳でじっと見つめられ、コルトは見えないところに器用に冷や汗をかき、こういった。
「あまり食べなれない味がしたからさ」
 実際食べなれない味だ。非常に薄い。薄味だ。どこのじいさまばあさま用の食事だと突っ込みを入れたくなるほど、塩気も何もなかった。
そしてその一言を口にしてから、食卓の空気がまるでかわってしまった。ざらりとした蛇の舌のような殺気がコルトの頬を撫でるのだ。おそるおそるコルトが殺気の元凶を見上げてみると、鎌首をもたげた蛇のように構えている校長が見えた。日頃では、人を寄せ付けぬような長い銀髪の年齢不詳の綺麗な人だという印象だったが、今の彼女はまるでぬらりとした銀色の鱗のような髪の触るとかみ殺されるような人に見える。いや、どちらかというと爬虫類の類か。
「慣れ、ですね」
 助けを求めるように大魔術師に振り向くコルトだったが、悟りきった表情で大魔術師はつぶやくだけだった。
「慣れ、ですか」
 コルトの復唱に、大魔術師とユリンが頷いた。
「何か?」
 涼しげな校長の声にコルトはぶんぶんと首を横に振って、食事を再開させた。もはや味も何もしない。味覚そのものが麻痺している。こうなっては、食事は単に腹の中に物をつめるだけの作業となってしまった。

 イルフェ・ラックルートの場合

 イルフェ・ラックルートには日課があった。ちらりと後ろ姿でも、ユリンの姿を見かけたら、その場所を秘密ノートにメモをすることである。そして、ユリンの出現する回数の多いポイントで、しばらくうろうろして時間を潰す。そうでもしないと、ユリンとはなかなか会えないのである。
 確実に会おうと思ったら、それこそ塔の最上階に顔を出せばいいのだが、用も何もないのにあの部屋にいくほどイルフェは度胸がなかった。だから、イルフェは塔の下の階で、仕事をしているユリンを見つけては、仕事を手伝うと申し出ることにしているのだ。
 イルフェがユリンの仕事を手伝いたがるのには、当然理由がある。そしてそれは数年以上の根深いもの。イルフェは自分の中でそれを、恋とか、憧れとか、そういうキラキラとしたものとして決め付けていた。それが本当にどういう気持ちなのか、イルフェが知るにはここからさらに三年の月日が必要となる。
「ユリン、持つから半分頂戴」
 目の高さよりもずっと高くに積まれた帳簿の山のうちの半分を、イルフェはごっそりと奪っていった。
「あ、イルフェ。ありがとう」
 今まで帳簿に埋もれて見えなかったユリンの顔は、真っ赤だった。やはり相当無理をしていただろう。
「ほら、乗っていこうよ。何階?」
「一番上。部屋に持って帰るから」
「わかったわ」
 イルフェも詳しいことはわからないが、ユリンは魔術を使うことを大魔術師に禁じられているらしい。その魔術の使用の中に、魔術的道具の使用も含まれているというのだから、魔術的道具が多いこの塔で暮らしていくには相当大変だろう。ここから塔の一番上のユリンの暮らす部屋までは、百階近いほどあるというのに、ユリンは素直に階段を登って歩いていくしか方法がないのである。二人で階段を登る時間なら、持ってもいいかと思うけれども、それでは手伝う意味もあまりない。
 あっさり箱型移動基でいける一番上まで上って、そしてあっという間にユリンの住処までやってきてしまった。
「ありがとう、イルフェ」
「どういたしまして」
 ユリンが最上階の部屋の扉を開けると、おいしそうな臭いがイルフェの尾行をくすぐった。そして、意図していないのに、腹の虫が鳴り、イルフェは羞恥で顔を真っ赤にした。
「そうだね、もう夜だもの」
 クスリとユリンに笑われて、ますますイルフェは顔を真っ赤にした。そして顔色が元に戻るのを待たずに、ユリンが部屋の中に進んでいってしまう。慌ててイルフェは小さな後姿を追いかけた。
「おじゃまします」
「ああ、イルフェさん。ユリン君のことを手伝ってくださったんですね、ありがとうございます」
 玄関から長い廊下を歩いた先は、食堂である。ユリンの部屋はさらにこの先の廊下を歩いた先だから、ここでイルフェの姿が甲斐甲斐しく白いエプロンに三角布で武装した大魔術師に見つかってしまうのは仕方のない話です。
「どういたしまして」
 そしてイルフェはユリンの部屋の机の上に帳簿を置いた後に、大魔術師に挨拶をしようとした。しかし、頭を下げる前に向こうに先手を打たれてしまった。
「今日はよかったらここでご飯を食べていきませんか? ちょっと作りすぎちゃったんですよ」
 朗らかに笑う大魔術師。
「いつもお礼しかいえないから、こんなくらい遠慮しなくていいよ」
 そういってくれるユリン。
 ユリンと一緒にご飯が食べられる。
 この時イルフェの頭の中には他の二人のことは完全に含まれておらず、そしてそれ故にこくりと頷いてしまったのだった。

 あ、薄味……。
 ポトフを一口食べてイルフェはそう思ったが、素朴な味わいが実家にいた時と似通っていると考えると嫌いにはなれない味だった。
「どうですか?」
「美味しいです、先生」
 天下の大魔術師もこう見れば本当にどこにでもいる青年である。感想を言われて素直にほっとした表情を見せているのを見るとなおさら、とイルフェは思った。そして同時にこう食事の席についている校長も、普段の冷徹な指導者、氷のような魔女という様子はまるでなく、ちょっと綺麗で自慢のできるお母さんのような顔をしている。
 まったく血は繋がっていないのだけれども、この三人は家族のようなんだな、と今更イルフェは納得した。
「そういえば、ユリン。貴方何を部屋に仕事を持ち込んだのかしら?」
「そうですね、普段ユリン君が仕事を部屋に持ち帰るなんてことはないのに」
 確かに、あの量の帳簿を上まで持ち帰るというのはただ事じゃないだろう。
「ああ、大したことじゃないです。一部の見習い魔術師の成績に、不備があったので」
「また、ですか?」
 うんざりしたような校長。
「仕方ないですねー。誰ですか? クレスト先生か、カステロ先生だと思うのですが」
 イルフェの耳を右から左に通りぬけていく固有名詞は、当然聞き覚えのあるものである。どちらも塔で教鞭を持っている先生だ。しかし、三人が何の話をしているのか、イルフェはいまいち掴みきれていなかった。
「クレスト先生です。何名の見習い魔術師達の成績を一度つけた後に、修正し、点を上乗せした跡があります。前回の試験前にも同じ見習い魔術師達に同じ処置をしていたので、これは計算の事故ではなく、故意でしょう」
 事故? 故意?
 イルフェのスプーンを持つ手は止まった。それでも、三人はもぐもぐ食べながらも話が弾んでいる。
「仕方ないですわね。クレスト先生の出身のことを考えると」
 当たり前のようなことのように、軽い口調の校長に、イルフェは目を白黒させた。成績に関わることは一大事だと思っていたが、この三人にとっては大したことでもなさそうである。
「戦争前の旧家を大事にしたいとだけ考えていても、これじゃ結果としては品性を辱めるだけです。ユリン君、元の数字に戻せますか?」
「はい、師匠。あまり綺麗に処置されていなかったので、何とか」
「ユリン、なら元の数字に戻して置いてください。できれば大魔術師(ライ)の口からクレスト先生にそれとなく警告をお願いしたいのですが……」
「校長は貴方でしょう?」
「クレスト先生の考えるところの、旧家の定義から私は外れています。大魔術師である貴方の口から言ったほうが効果はやはり高いでしょう」
「わかりました」
 やれやれと校長は肩をすくめた。
「……よくあることなんですか?」
 イルフェのスプーンはもはやまったく動いていなかった。無理もない。自分の下の土がどうなっているのか気にならないものもいないだろう。土の中に今までないと思っていたものがある、といわれた直後ならなおさらである。
「うん。イルフェも心当たりあるだろうけれども……」
 ユリンは言葉を濁してから、小さな声でごめん、と謝った。
 いいのよ、とイルフェは首を横に振った。
 今もまだ、校長と大魔術師はそういう話をしている。右から左に聞き流しながら、イルフェの食欲は完全にうせていた。


『はー』
 まったく同じタイミングで、イルフェとコルトがため息をついた。
「相当ヤバイんだーなー」
 こくこくと二人とも同じように、ルグルの言葉に頷いたが、口に出すのも恐ろしいのか、実際どんな食卓なのか二人とも言わなかった。

 その夜……。

「あ、チビ、いた!」
「クロ! 大丈夫だったか?」
 非常に心配していた風味のルグルとコルトが、食堂でクロッカスのやつれきった姿を見つけるなり、指さしながら駆け寄ってきた。
「……疲れたのでやんす。あの部屋……」
 身もぼろぼろだが、心もぼろぼろらしい。
「どうして? ここにいるってことは、クロは無事に食事も、それから頭も抜けられたんだろ?」
『ええ、抜けられたのですが……それにいろいろあったのですが……』
 珍しくクレマチスの言葉の歯切れが悪い。
「どういうこと? 何があったんだー? ユリンに意地悪されたのか?」
 大きい二人がいない今、ユリンにとっては絶好の復讐のチャンスだったということに気付いてルグルの顔は妖精のように真っ白になっていた。
「違うのでやんす……。食事も、多分髪立てるのもダメでやんすが……もう一つ、駄目なものがあるのでやんす」
「駄目なもの?」
『ええ……それは……』

 クロッカスとクレマチスの場合

「お疲れ様でした、クロッカス君。どうでした、温室?」
「実際魔術を使わないで、温室の面倒を見るのもすごく大変なのでやんす。でも、すごく楽しかったのでやんす」
 日も暮れる時間だが、クロッカスはまだまだやり足らないという顔をしていた。それが何だかクレマチスには不満らしく、クレマチスは黙ったままだった。
「本来、植物を育てるのに魔術は使うものじゃないですからね。道具を使うのは確かに知恵ですが、実際指先を使ったほうが、植物の気持ちがよくわかっていいと……そう、緑の指の貴人が作中で語っていました」
 知っている人のことのように、大魔術師は微笑んだ。
「その気持ち、ちょっとわかるような気がするのでやんす」
 つられて、クロッカスも微笑んだ。
『それにしても、大魔術師は四世界英雄伝に詳しいですね』
「全部覚えてしまいました」
 さらりと言われた言葉に、クロッカスは目をまん丸にした。
「マニアでやんすか?」
「あっはっは。ユリン君昔夜泣きが激しかったんですよ。それでも、四世界英雄伝を読み聞かせたらすやすやと可愛い寝顔で眠ってくれまして。それでついつい私も物語に没頭してしまったんですよ」
 親ばかの顔で、親のようなことを言う大魔術師に、さらにクロッカスはショックを受けた。
「あの妖精……ユリンがでやんすか?!」
「ユリン君は妖精の中で考えると君たちよりもずっと若いですからね」
 それもそうだ、と、今だに幼年クラスにいても違和感のない容姿を持つことに合点のいくクロッカス。
「それはそうと、クロッカス君もずいぶん読んでいるんでしょう、四世界英雄伝。誰が一番好きなんですか?」
「獅子王でやんす!」
 屈託なく答えるクロッカス。その言葉に、何か鞄が落ちる音がした。
『あ……』
 ふと温室の出入り口付近を見ると、いかにも授業帰りの校長がいた。しかし、講義用に持ち歩いている革の鞄を足の上に落としている。
「クロッカス君、二番目は?」
 背後に圧迫感を感じているのか、大魔術師の額には脂汗がにじんでいた。クロッカスはまるでそれに気付かない。ただ、気付いているクレマチスはあわあわと口をつぐんでいた。
「二番目は、白銀の騎士でやんす。二人とも、こう、魔術も何もなしで、武器だけで強大な魔族と敵対していたなんてすごいのでやんす!」
 うきうきらんらんと、その場にあった箒を剣に見立てて振り回してみせるクロッカス。
「ほ、他には? ほら、いろいろ麗しい女性陣もいるじゃないですか」
「んー。女の人の中だったら、一番は火霊界の巫女でやんす。健気で守ってあげたくなるのでやんす」
 ね、とクレマチスにも振ると、クレマチスからも肯定の言葉が漏れた。
「……夜に澄む女密偵、とかは?」
 ここでようやくクロッカスも、大魔術師の背後からただならぬ気配が漂っていることに気付き、伝染したかのように額に汗を光らせた。
「……も、もちろん、好き、でやんすよ……」
 言わされている、言わされている。クレマチスは何か一言でもいっておきたいとは思ったが、あまりにも、大魔術師の背後、温室の入り口から漂っている気配が危険すぎて、思念派一つもつぐんでしまっていた。
「そう、ですよね。あはははははは」
 大魔術師の乾いた笑い声が経過するに従って、ただならぬ気配は霧散していった。
「こんにちは、クロッカス・サフラン」
 氷のように冷たく、そして鋭利な刃物のように人の気を引く声がかかり、クロッカスは自然と背筋を正した。
「こんばんは、校長先生」
 ぐるりと、校長は部分的に片付いた温室を見回した。
「まぁ初日はこんなものでしょう。続けるならがんばりなさい。後、私の前で獅子王という名前を出しなさんな。ついついうっかり、夜に澄む瞳を持つ美貌の女密偵のように、首を絞めたくなりますから」
 校長は女性の割に大きくてごつごつとした骨格を持つ手で、宙にある何かをひねり潰すような造作を見せる。空気しかない場なのに、何をひねって潰したのか理解できるような露骨な動作に、クロッカスは思わず喉を押さえた。
 校長はにっこりと微笑んだ。しかし、目までは笑っていない。だから、クロッカスはいまだに吹き出るような脂汗の扱いに困っている。
「校長先生……」
 何か言いたげな大魔術師の言葉に、校長はクロッカスへの注意を散らした。
「失礼。それではお疲れ様です、クロッカス・サフラン」
 わざとらしくバサリと外套を翻し、銀色の嵐は去っていった。
「あはは……」
 後には乾いた笑いを浮かべる大魔術師と、腰が抜けてしまったクロッカス、それから大丈夫ですかとクロッカスを心配するクレマチスだけが残された。


『ルグル様、イドン様。……一番上でもう一つ禁句があるのです』
「まーだあったのか!」
「……まだまだあるんだろうな」
 疲れ果てて口も聞く元気もなくしたクロッカスの変わりに、クレマチスが説明を続けた。
『四世界英雄伝で好きな人は、と問われた場合、獅子王とだけ答えてはいけないのです。そして、できれば、夜に澄む女密偵と答えなければならないのです』
「は?」
「ふ?」
 今朝、説明を受けた時はクロッカスがぽかーんとした表情を浮かべた。しかし、今度は難解な説明に、ルグルとコルトが、ぽかーんとした表情を浮かべた。


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