心から消したいことがあるか? と聞かれたら、完璧な人であればあるほど多いのではないだろうか?
私の場合は。
小学2年生の時、堪えきれなくなって教室でもらしてしまった事。
中学1年生の時、教壇までテストを受け取りに行く途中転んた拍子にスカートが捲れてパンツ丸見えになったこと。
高校3年のとき、好きな人の前で緊張のあまりオナラしてしまったこと。
どれもこれも消し去りたい過去ばかりだ。
だけど、今日以上の出来事は無かったと思う。
そう、私は今、この時を記憶から消し去りたい。
というか、私自身消え去りたい。
ぶっちゃけ、ノストラダムスの大予言カマーン! もう2000年に入っちゃったけど、世界滅亡カマーン! と叫びたい気分だ。
世界が壊れたらいいわ、と思う。
マジで。
そんな精神の人間がいるから戦争がなくならないのだ!と言われたら本当にその通りだと思うし、自分の軽はずみな発言に申し訳ないと思うが、極限の状態においてそんな反省心は関係ない。
私は今、非常に焦っている。
何もかも記憶から消し去り、何もかもきれいに無くしてしまいたいと思う。
だって、そうだろう?
私は今非常に焦っているのだ。
こんな状況に陥れば誰もが私の発言に頷いてくれることだろう。
汚い話で申し訳ないと思う。
だが、本当に焦っているのだ。
ここは『エスケープ舟木荘』202号室。私の付き合って3ヶ月になる彼氏の部屋である。
そして、私は今その部屋のトイレにいる。
奥手な私が本気で好きになって、結婚したいと思う彼氏。
その彼氏の部屋のトイレだ。
察しのいい方ならば分かっていただけるだろう。
そう、まさに貴方の予想通りなのだ。
私が本気で愛して、自分の欠点を見せたくないと思うその彼氏の部屋。
リビングにある小さなテーブルの上には、2時間前にこの部屋に来た私が調理し、きれいに盛り付けた夕食がのっている。
出張の多い彼が久しぶりに帰ってくるとしたら、きっと多くの女性は同じことをするのではなかろうか?私も例外に漏れず、同じことをしたのだ。
あまり料理が得意ではないが、そう思わせないように昨日何度も練習したのである。
「あ〜ん、失敗しちゃった〜」という可愛らしい台詞が許されるのは、男の方にそれを許せるだけの度量、体力、精神力、そして余裕がある時だけで、出張帰りなんて心身ともに疲れているときに限ってそんな行動を実行するのは相手の神経を逆なでするだけなのである。
だから頑張った。
苦手なのに頑張った。結果予想以上に良い出来となった。
だが、計算外のことが起きたのである。
料理をする方ならばわかってくれるだろう。
料理は意外と体を動かすのである。
調味料を棚に入れたり戻したり、ボールをかき回したり、フライパンをひるがえしたり、鍋を焦がさないようそこから離れてはいけなかったり。
動くと腸の動きが活発になる。
鍋を焦がさないようそこから離れられないので、トイレに行きたいのも我慢しないといけないわけである。
そして、漸くテーブルにそれらを盛り付け後は彼を待つだけ、というところになってから、私はトイレに駆け込めることが出来たのだ。
腸内運動が活発だった。
我慢もしていた。
だから、出るものが出ても、それは自然の摂理として見逃してほしい。
いいではないか。もし結婚することになれば、いずれ色々お互いの生活を見せ合うことになるのだから。
そんな甘えが私の中にあったからいけないのだろうか。
そう、私はしてしまったのだ。
汚い話になって申し訳ないが。
彼のトイレで。
大きい方を。
ちゃんと臭い消しも持ってきていた。
あとは流して、それをトイレ内に振りまけば終わりだった。
しかし、予想外のことがおこったのである。
事を済まし、清々しい気分で流すためのレバーを倒した。
目が点になった。
流れなかったのだ。
流れなかったのだ、水が。
ポンプの故障、ということなのだろう。
しっかり作られているとはいえ、所詮は安い木造アパートである。そんな故障があっても仕方がないと思うべきだろう。
だが、私は思えなかった。
流れない。
トイレが流れないのである。
予定では彼はあと30分で戻ってくる。
上から水をぶち込めば流れるかもしれないが、生憎彼の家には一度に大量の水を流せるだけのバケツのような大きな容器がなかった。
今から私のアパートに戻るまで40分はかかる。
間に合わない。
間に合わないのだ。
頭の中が真っ白になる。
無かった事にして! と叫びたいが、私の目の前にあるものが無かった事にしてくれない。それどころか親近感あふれる様子で「やあ、こんにちわ」とあいさつをしてきそうな勢いである。そう、勢いがありそうなくらいの大きさだったのだ、現に、それは。
参ったどころではない。
困ったどころではない。
神様助けて! と叫んだ所でどうにもならないのは分かっている。
ああ、だけど、誰か。
(だれか助けて!)
いや、誰か来たら困る、恥かしい。
じゃあ、せめてどうにかして目の前の物体を消し去って。
そして私の記憶も消し去って〜!!
だがどんなに叫んだ所でどうにもならないのを、現実逃避したい頭で私ははっきりとわかっていた……。
焦りと緊張で私の心臓がバクバク鳴り始めた。
困った。
本当に本当に困った。
いえ、困った時だからこそ、人は冷静にならなければならないのだ。
とり合えず、落ち着こう。思って私は更に自分へ問いかける。
落ち着くには何がいい? 何がいいかしら私? そうよ。空気が脳内にちゃんと行きわたればダウ以上ぶよ!
そう、深呼吸!
今の私には深呼吸が必! 要!
思って私は大きく空気を吸い込み、叫ぶ。
「くさっ!!」
当たり前といえば当たり前。なんたってここはトイレの中なのだ。
そして、目の前にはどれだけ願っても消え去る事の無い問題のブツが……。
体の中にある時はさして臭くも無いのに、外に出るとどうしてこうも臭いのか!
「ちっ……張り切って夕食作るため体力つけようと、昼からニンニク大盛りラーメン食べたのがいけなかったわね……」
静かに呟いてみるが、顔にはねっとりした脂汗がダクダクと浮かんできた。
まいったわ。本当に参ったわ。
腕時計を見てみると、事の始まりから既に五分が経過していた。って、五分間も私ぁトイレの中で立ち止まっていたんかい!?
……ま、まあ、いいや。
気を取り直そう。そう、目の前のブツをどうするか。それが今一番考えないといけないことなのだ。
水が流れない以上、何か別の大きな容器に水をため、それを一気に流すしかないだろう。そうだ、水洗トイレは上から大量の水を流せばそのまま流れるのである。なんて素敵。まさに文明の利器。トイレ大好きと叫びたくなる。まあそれは嘘だけど。
んが。
この家にはバケツがない。バケツの代わりになりそうな物といえば洗面器くらいしかないのだが、洗面器にたまるくらいの水では到底流れるとも思わない。
となれば、お隣さんにバケツを借りてくるか?
だけど、どう言って借りるのさ?
想像しよう。
ピンポ〜ン(チャイムの音)
「あのぉ、トイレで大きい方しちゃって〜。でも水が流れないんですぅう。だからぁ、お水流すためにバケツを貸してほしいなぁって、きゃは?」
……。
……あかん。
頭悪そうな上に、むかつく。それ以前に、サバサバ系美女の私に「大きい方」なんて言葉は合わない。つーか言えない。いうくらいならここで手首を切ってやろう。
それでは、これなんてどうだろう?
想像。
リンゴ〜ン(チャイムの音)
「すみません。なんか上から水が漏って来ちゃって。」
いやいや、雨も降ってないし。
と言うかここ三階建てアパートの二階だし、それでお隣さんが親切にも「もしかしたら上の階の人が水を出しっぱなしにしているのかも。一緒に三階まで行ってあげましょうか?」とか言われたら断わり様がなくなるわ。だいたい、それくらいの水ならば洗面器で充分受け止められるだろう? という顔をされちゃいそうだ。
それではこれは?
想像想像!
チャンドンゴーン(チャイムの音)
「バケツリレーの練習するんです。だけど、バケツリレー同好会の人間が肝心のバケツ忘れちゃって。貸していただけませんか?」
バケツリレー同好会ってなんだよ?!
だいたい、それなら自分で買いにいけよバケツ! どうしたんだよ私! どこまで追い詰められてるわけよ?!
腕時計を見るとまた5分が経過していた。わわわ、何やってんだ私!
だいたい、私はこの部屋のお隣さんを知らない。知らない人に突如「バケツを貸してください。」なんて言う事が出来るだろうか。それに私が知らないと言う事は、向こうも私の顔を知らないと言う事になる。そんな人間が突然やってきても疑わしげな眼差しで見られるだけだろう。
さあ、どうしよう。困った。水道修理に電話したらいい、という発送は端からパスである。
だって、臭い消しを振りまいても消えないこの臭いを、他人に臭われたくないし、それにブツだって見られたくない。もし水道屋さんがカッコイイお兄さんだったら、なおの事である。そのようなお兄さんが来るとは思えないが、今目の前に起こった事態が「在り得ないなんてことは、在り得ないのさ」と私に教えてくれた。
さあ、困った。本格的に困ってきた。バケツと同じくらいの大きさで、一度に水が流せるもの……この部屋の中にあるもの……あ。
思い出して、私は急いでトイレから出る。手を洗っていない事なんて、この際おおめにみてもらろう。そして台所の戸棚をガサガサ探ると、あった。
それは大型ゴミ袋である。ビニール製のそれならば、水をこぼすことなく、またバケツよりも水をためることが出来る。いける、これはいける!
私は早速袋を3枚ほど取り出して重ねると、風呂場まで行きその中に水をため始めた。
黒いビニール袋の中に水はどんどん溜まっていく。
バケツよりも更にたくさんの水が入っていく。よかった。これで助かる!
ビニール袋に大体8分目まで水がたまるのを確認して、私は水がこぼれないよう口の部分をシッカリと手で塞ぎ、えっちらおっちらトイレに向って歩いていく。
……重い。こなき爺のように重い。だが、この重さで私の失態が消されるのならば大した事は無い。
どうにかそれを持ち上げてトイレの前まで来た時、私ははっとあることに気がついた。
トイレ出たとき。
トイレのドア閉めちゃったよ。
「……なんてこったい。」
今、もし片方でもビニールから手を離すと、8分目まで入れた水がこぼれる事だろう。
しまった、水を袋に溜める前にドアが開いていることを確認しておけばよかった……。
「……仕方ない。」
思い直して、私は袋をまた風呂場へと運び出す。こうなれば一度袋の水を捨て、トイレのドアを開けてからもう一度袋に水をためなおそう。でないと、こんなところで水をぶちまけてしまう事になる。それは遠慮したい。
「ったく、こんな小さなアパートのくせに、なんでトイレと風呂場が分かれてるのよ。普通はユニットバスでしょ? これだから、もう……このアパートが好きになれないのよ、ねって、あら、え? お?」
ブツブツ呟いていたから悪かったのか。そんなことはどうでもいい。とにかく、下を見ずに歩いていた私はものの見事に袋の下部分を踏んでいたのである。
崩れるバランス。
そして一瞬後。
ばしゃっどたっ
「…………」
バランスをとり損ねた私は物の見事にトイレと風呂場の間にある通路でひっくり返った。無論、袋の中身はぶちまけられ、通路ならず洗面所、玄関までもが水浸しとなる。
「……あ、あははは……うそぉ」
泣き笑いを浮かべる私。
だが目の前で起こった事実は、やはり事実。
トイレのブツだけでなく、私はこの水の処理までしなければいけなくなったのだ。
バケツの容量よりも沢山の水を。
まいった。
時計を見ると、彼が帰ってくるまで既に残り十分少々しかない。
万事休す。まさに、万事休すだ。
「あ、ははっは……はぁ……あ」
不覚にも涙を浮かべそうになった私だが、水を被った所為で冷静になった部分があったのだろう。瞬間、頭の中にいい案が浮かんできた。
そうよ。これだけの水。水をふき取った雑巾を絞るのに、わざわざ台所か洗面所まで行くには時間がかかるじゃない。それよ。それを理由にお隣さんからバケツを借りたらいいんだわ!
想っ像っ!
ジャンゴーン(チャイムの音)
「すみません。私、隣に住む向井の親類の者なのですが。私がドジなために、少しだけ布巾を湿らそうと蛇口に布巾をくっつけて水を出したら、思いのほか勢い良く水が出ちゃって……しかもちゃんと蛇口に布巾が当たっていなかったのか、蛇口と布巾の間から水がほとばしって、それが床をひどく濡らしてしまったんです。しかも、あまりの出来事に私ってばビックリして放心してしまって、暫く水は出しっぱなしに……。あの、水をふき取りたいのですけど、いたる所に零れてしまって、一回一回拭いては台所まで雑巾を絞りに行くってことをしていたら、きっと私が拭ききるまでに水が染み渡って下の階の方にご迷惑をかけてしまうと思うのですよ。だからスピーディーに拭ききるために、拭いた水が直ぐに絞れるようにバケツが欲しいのですけど、生憎向井の部屋にはバケツが無くて……。あの、ご迷惑でなければ、バケツをお貸しいただけませんか?このお礼はいずれ必ず致しますので……」
しおらしい様子。
下に向けた眼差し。
震える手。
いける。
これなら、さして疑われる事無く、いけるわ! それに人間っていうのは「出来る女」よりも「少しドジ」くらいの方が親近感やらが湧くのよ。そうよ、湧くの!
きっとお隣さんは疑うことなく、バケツを貸してくれるわ。
そのバケツでまずトイレの水をガシッと流してから、床のふき取りをすればいいのよ。
きっと十分もかからない間に、すべて終了。何事も無い顔で彼に「お帰りなさい」と言う事が出来るわよ!
よかった、まだ解決策はあるじゃない!
思って、私はビニール袋を踏まないよう玄関まで行き、履いてきたミュールに足を差し込んだ。
が。
がちゃ。
その音に私の体は凍りつく。
凍りついた私の目には、鍵を開け、当に扉を開いた彼の姿が映った。
そう、彼が帰ってきたのだ。
だけど、私はそれを喜ぶ事も、「お帰りなさい」と言う事も出来ない。
凍りついた私を見て、そして彼の顔も凍りついた……。
目の前に彼がいる。
私の愛しい彼が。この部屋の持ち主で。私の愛する男性。
その人がこちらを見つめている。
驚いたような眼差しで。
扉を開けた姿勢のままで、その場からピクリとも動かない。
見開かれたその目は、じっと私のことを見ている。
瞬間、今まで感じていた焦りが恐怖へと変わった。
彼はきっと怒っているのだ。出張から帰ったら、部屋は水浸し。ここからでは分からないとしても、トイレの水が流れない事を知ればもっと怒るだろう。
怒られるのはいい。怒られるのはいいけど、嫌われるのは。
いやだ。それはいや。
「あ、あの、お帰りなさい……出張、お疲れ様でした……」
震える声で私はどうにかそれだけ言う。ミュールに半分入った自分の足をそろそろと引き抜いて濡れた床へと戻す。だが、彼はそんな私の動作がまるで見えていないかのように、その場に凍り付いている。
動かないほど怒っているのか。どうしよう、これではますますトイレの水が流れない事なんて言える訳が無い。
「あ、あの……テーブルの上にご飯が……作ったの、貴方の好きな肉じゃがもあるし。あ、でも、その前にお風呂かな……? あ、ごめんなさい、私、お風呂のお湯いれてなかった……」
ここに来て、また自分の失態に気がつく。彼は動かない。瞬きさえもせず、私のことを見つめている。
怖い。
この沈黙が怖い。
私はゆっくりと、少しずつ後退りする。
「ごめんね? この水も、今処理しようと思ったの……ちょっと間違えて、水こぼしちゃって……あのね、でも貴方がお風呂に入っている間に、きれいにしちゃうから。だから、ね? お風呂、入ってきたら……」
喉が渇いた。先ほどの脂汗とは違う冷たい汗が流れる。
怖い怖い。
この人に嫌われる事が怖い。
嫌われると考えたら、恐怖で涙までが浮かんでくる。
「ごめんなさい。でも、本当にきれいにするから。それから一緒にご飯食べよ?ね? ……お願い、何か言って?」
震えだした自分の手をもう片方の手で包み込むようにして私は懇願する。
彼は動かない。
私の肩が震えだす。この人に嫌われたら、私、もう生きていけない。
「…………だ……」
「え?」
見開いた目をこちらに向けて、彼が何事か呟いた。
震えていた私はその声にはじかれたように顔を上げ、彼の方を向き直る。彼が何と言っているかよく聞こうとしたのだ。
彼は、固まったまま、ドアノブから手も離さないで、だけどもう一度確かに呟いた。
「……あんた、誰だ……?」
「え?」
彼の言った言葉の意味がわからず、反射的に私は聞き返した。
私のその行動に、ドアノブを掴んでいる彼の手が震える。
その震えが何を意味するか分からず、私の視線はそのまま上に、彼の顔に向けられた。
固まっていた彼の顔に、水滴が見える。違う、それは汗だ。滝のような汗。
ついで。手から伝わったかのように震えは彼の体全身に広がった。
「あ、あ、あ……あんた、誰だ? どっから入ったんだ?!」
私はわけがわからなかった。
「え?どういうこと?」
「それはこっちの台詞だ!!」
大声で怒鳴られて私はまた体を震わせる。だが、私以上に体を震わせていたのは彼の方だった。
「あんた誰だよ?! どうやって俺の家に入ったんだ?!」
「わ、私は杏子よ?あなたの彼女の。」
「あんたなんか知らない!!」
悲鳴に近い彼の声。
だけど私はそれ以上に彼の言葉にショックを受けていた。
あんたなんか知らないって、どういうこと?
「な、何言っているの?私とあなたは恋人同士じゃない?」
「誰か来てくれっっ!! 頭のおかしな女が!」
彼の声が安アパート内に響き渡る。その声につられて隣の部屋から誰かが出てきた音がした。
でも私はそんなことは関係ない。
茫然とする。
何故?
私とあなたが出会ったのは3ヶ月前のお昼時。
私の勤めるコンビニに貴方は私に会いに来るために来たじゃない。
私のところへ、鮭とコンブのオムスビ、それからお茶を持ってきたじゃない。
あの時目が合って、その瞬間私とあなたは互いに気がついたでしょ? この人が運命の人だって。
だから私、貴方がコンビニから出て行くとき、ちゃんとその後ろに付いて行ったでしょ?
さすがにお仕事場所までは入れなかったけど、でも、私そのあとずっと待っていたのよ外で。
夕方になって貴方が会社から出てくるまでずっと外で待ってた。出てきた貴方は私との関係が会社の人に知られたら恥かしいからすぐにタクシーに乗っていってしまったけど。
でも、私、恥かしがりやの貴方が自分から言えないことを知っていたから、凄くドキドキしたけど貴方の住所も電話番号も調べてあげたのよ。
無断で店からいなくなったからとコンビニは辞めさせられたけど、そんなこと気にしない。
仕事で忙しい貴方はお昼休みの時しか外へ出てこない。だから私いつも会社の側で待っていたの。でも貴方が恥かしがると悪いから、いつも声をかけずに。
夜もそう。あなたが疲れていると悪いからって、本当はお話したいのに電話をかけて貴方の「もしもし」という声を聞くだけで満足するようにしたわ。
貴方は、私に心配かけさせまいと出張の日程も教えてくれなかったわよね? でも、あなたのことを知りたい、貴方の役に立ちたいと思っている私は独自でそれを調べたのよ。
貴方の会社に電話したときはドキドキした。貴方と同じ部署の男性、名前は忘れてしまったけど電話での応対は凄く優しかった。「向井さんはいらっしゃいますか?」と聞くと「向井は出張に出ております」といって、帰りの電車の日時まで教えてくれたのよ。覚えておけば良かったな、あの親切な人の名前。今度御礼に行かないと、と思ったもの。
貴方は誠実な人だから直接私に合鍵は渡してくれなかったけど、でも私、貴方が郵便受けの天井部分にガムテープで私のための合鍵を置いてくれている事もちゃんと知っていたのよ。
それは、貴方が私のことを試すためにしたことなのよね?
その鍵に気がついて自分を部屋で待って置くように、ということなのよね?
なのに、どうして私、あなたにそんな目で見られないとダメなの?
なんで、人を呼ぶの?
どうして?
どうして?
どうして?
騒がしいアパートの廊下。部屋に入ってきたのは見知らぬ人々。
彼らは私のことを押さえつける。
視界の端に引きつった顔でこちらを見る貴方の顔が映った。
ああ、それでも私はあなたを愛してる。
ね? トイレのこと、ごめんね?
床の事もゴメンネ?
だから、お願い。
私のことを嫌いにならないで?
私の事を。
愛していて。