「大地」 太陽のように


1 :流(rui) :2007/08/31(金) 15:57:48 ID:o3teQ3xi

         うだるような暑さから逃げるようにして、柳の陰に身をひそめた。




「だるい……」
 この極北の大地で一週間も真夏日が続くなんて珍しい。ここのところ日光の勢いはとどまるところを知らないようだ。
 あまりの暑さに、さすがの楓も目をどんよりとさせながら溜息をつく。
 そしてまた腹立たしいのは、グラウンドの向こうで延々とノックを続ける野球部員たちだった――日に焼けてまっ黒の肌に汗を光らせて、金属バットの快音を幾たびも響かせている。まったく彼らは疲れ知らずなのだ。こうしてグラウンドの隅っこで柳の幹にもたれかかり、その様子をただ眺めているだけで疲労を感じる楓とは違う。
 彼らを――あの健やかな、引き締まった肉体を柔軟に動かし、駆け回る野球部員たちを――楓は気怠そうに、しかし一挙一動を逃すまいとして眺めている。
――羨望、嫉妬、後悔。一体なんだろう、私の感情は。 
 グラウンドの向こうで一段と大きな掛け声がした。主将が休憩を伝えたのだ。
 部員たちはぞろぞろ部室の前に集まってタオルや水を手に取り、また互いにバッティングのことか何かを言い合っている。
「…………」
 夏休み最後の日、そういえば自分はこの数週間に何ができただろうと楓は考えた。しかしすぐに思考は終わった。
――わかりきってることじゃん。私は結局、なんにも……。
「ねえ!」
 突然どこからか声が聞こえた。と思ったら白いユニフォームが一人小走りでこちらに近づいてくるではないか。
 楓の頭は一瞬まっ白になった。見かけには口をだらりと開けて、さぞやる気のない女の子に見えたことだろう。
「ねえ、君さ、」
 その部員の少し高く乾いた声にはっとして、楓は柳から背を離した。
 一年生だろうか、やけに小柄だ。だけど肩や腕は意外とがっちりしている。その微笑した口元から白い八重歯がのぞくので、まるでいたずらっ子がにやりと笑っているかのようだ。
「君さ、野球好きでしょ」
「はい……?」
「だっていつもこっち見てるから」
――どうして知ってるの……。
 心の中で舌打ちをした。なんとなく、誰に対してでもなく嫌悪感を抱いていた。
「別に、好きじゃないですよ」
 その部員の生き生きとした体に汗が流れるのを見て、楓はそう言わずにはいられなかった。胸の奥でざわざわと音がする。
 それでも小柄な部員はにやっと笑って、そうかなと言う。
「こんなに暑いのに、君はほとんど毎日うちの練習見てた。うちずっと弱小だけどさ、三年生が引退して今度のチームは今までにないやる気で頑張ってんだよね。そういう雰囲気、見ていてわかる?」
「…………」
 ついこの部員の弁舌に乗せられて、はいわかっていました、と言いそうになる。そしてそんな自分がまた腹立たしい。
「好きならもっと近くで見ればいいよ。おいで」
「だから、そういうのじゃないです」
「じゃあなに?」
 初対面だというのに、この見た目「悪童」は、他人の心にずかずか入り込んできて恐れない。
――嫌いだ。こういうタイプ。
「もう放っといてください。私、帰ります」
 楓は目を鋭くして「悪童」を一瞥し、足早にその場を去ろうとする。いらだちがこみ上げてくるが、必死にこらえる。顔が少し歪んだ。
 すると「悪童」はふいに真面目な顔をして、出し抜けに言った。
「ちょっと待ってよ。君、二組の若村さんでしょ」
 楓の足がぴたりと止まる。
 太陽にさらされた土のように、粗く乾いた声が更に響いた。
「そんでもって、野球やってたんでしょ。若村さん」
 心臓が一瞬止まったかと思うと、どくんどくんと大きな音をたてて波打ちはじめ、楓は呆然として「悪童」の目を見た。
 まっ黒で静かに光る瞳は、「悪童」でありながら純粋だった。
「どうして……」
 楓はやっと声を絞り出した。
「うん。どうして知ってると思う?」
「…………」
 思い当たることがあるだろうとでも言いたげに、「悪童」はまたもとの笑顔を見せた。それは楓の頭にあった微かな一つの予感を、目の当たりにさせるものだった。


2 :流(rui) :2007/08/31(金) 15:58:23 ID:o3teQ3xi


「秀!」
 突然、二人の沈黙の間に声が割って入った。
 「悪童」の背後に軽快に駆け寄る白いユニフォーム姿が見える。すらりと高い背に、引き締まった腰、際立って黒い肌。それは、楓には遠くから眺めていてもすぐに誰だかわかってしまうシルエットだった。
「なにしてんだよ、そんなところで」
 その足音がどんどんこちらに近づくにつれて、楓は明らかに顔色を変え、何か声に出そうとあえぐようにして口を動かす。
 「悪童」はその様子を横目にふり返り、ちょっとねと軽く答えた。
「ちょっとねじゃないだろ。監督呼んでんぞ。秋季大会の……」
 そう言いかけて、その部員は息を止めた。
 視線がぶつかってくる。楓は地面をじっと見つめていた。握った手が汗ばむ。
「楓」
 ぽつりと、呟くように名前を呼ばれた。何年ぶりのことだろうか。
「なんで、おまえ、こんなところに……」
「野球、見てたんだよ」
 「悪童」が鋭く言った。
「ここ数日間、ね。多分気づいてんの俺だけだぜ。おまえら鈍いからな、野球やってるときは野球のことしか考えられないの。まあ、その方がいいかもしれないけど」
「楓」
 もう一度、今度ははっきりと名前を呼ばれた。
 意志の強そうな目が向けられているのがわかる。
「おまえ、やっぱり……」
 胸が強く鳴る。暑さもなにも忘れた。ただその言葉だけが一語一語こだましている。
「地区大会」
「は?」
「よかったよ、ピッチング。いつの間にシンカーなんか覚えちゃって」
 口から自然と言葉が流れた。どうしてこんなことを言っているのか、自分でもよくわからない。
――そうだ。あの球を見て、私は……。


 六月の最終日。市営球場で行われた地区大会三回戦。これで勝てれば北大会。甲子園への第一歩だった。
 栄章高校はその日、楓が入学してからは初めての全校応援で、三塁側の応援席から栄章ナインのプレーを見ていた。
 相手は春のセンバツ出場の下斗津高校。
 五回までに三点を失い、なお六回表でワンアウト満塁のピンチ。三年生のピッチャーが小さく肩を上下させているのがわかる。
 ここでピッチャー交代。小走りでマウンドに上がったのは、二年生の福士達矢だった。
 他にも三年生の控えピッチャーがいるというのに、その日達矢は、これ以上の失点は許されない緊迫した場面を任された。しかも、公式戦登板は一度しかない。
「あいつの練習量、ハンパないぜ。今回かなり調子いいみたいだし。うまく抑えられるかも」
 楓の近くで、ベンチ入りしていない野球部員が言っていた。
 そしてその通りに、達矢は一人を三振、もう一人を外野フライであっという間にこの回を終わらせた。
 楓は息をのんだ。
 なんで、全校応援なんて。面倒臭いと思っていた。高校に入って、野球になど目もくれなかった。以前のような嫉妬も悔しさも感じることなく、部活にも入らずに、ただぼんやりと毎日を過ごしてきた。
 忘れていた。いや、忘れていたかった。野球なんて。野球なんて。
 一年生の時、廊下で達矢とすれ違って一度だけ目があった。昔と変わらない真面目な顔をして、目は何かを訴えてきた。あの時あいつは何を言いたかったのだろう。
 球場に目が釘付けになった。
 達矢の丁寧なフォームを、まばたきもせずに見つめた。
 ストレートの球威はなかなか。そしてあのシンカー。
 達矢はその後も安定したピッチングを続け、もう一点もわたさなかった。打撃も七回に元気が出て二点を返したが、そこまでだった。
 だが、試合の勝敗よりも、楓の心を動かしたのは、達矢のピッチングだった。
 九回表、ツーアウトランナー無し。一、三回と打点を上げていた好調の五番打者が打席に立った。
 達矢はほんの一瞬空を見上げて、なにかを、誰かに誓ったふうに見えた。
 ストレートでツーストライクワンボール。外に内にきちんと決まっていた。
「冷静だな」
 球場がしんと静まりかえる中、誰かが呟いた。
 そして、最後の一球。
 今までも、達矢の球は沈むことがあったが、わずかだった。ミートのうまい打者には簡単にヒットにされていた。ストレート勝負なのだと思っていた。
 だけどあの球は、浮かんで、手元できれいに落ちた。打者は完全に空振り。スリーアウト。
 確かにシンカーだった。だけど、あんなに完成された球を、たった一球だったが放てるなんて。
 信じられない気持ちになったが、当然だ、とも思った。
――達矢は私と違ってずっと、中学も高校も、野球を続けてきたんだ。昔からストレートがしっかりしていたんだ。変化球くらい、当然練習しはじめる……。
 九回裏、ランナーが二人出たが結局スリーアウト。
 泣いている三年生はいなかった。ただその中で、達矢と、もう一人レギュラーの二年生がなぜかにかっと笑った。自信に溢れているようでもあった。
 楓は遠く離れたところから達矢を見ていた。
「福士くんて、すごいんだねえ」
 同級生の女子が口々に言っていたが、楓は少し眉を寄せたままだんまりとしていた。
――あの球を、もっと近くで見られたら。
 強く思った。かつてない衝動が全身を興奮させた。
――あの球を、もっと近くで……。
 渇望していた。ぼんやりと考えも無しに過ごしてきた今までの日々が悔やまれる。こんな熱い気持ちになったのは何年ぶりだろう。


 栄章に勝利した下斗津高校はそのまま北大会に進み、優勝。春夏連続の甲子園出場だった。
 だが楓は、テレビで甲子園を見ることもなく、夏期講習の帰りに野球部の活動を遠くから眺めてばかりいた。
 新チームは溌剌として、見ていて気持ちがよかった。楓の知っている部員は達矢しかいなかったが、どの部員の動きも元気があり、野球を心から楽しんでいるようで、見ていて飽きなかった。


「さすが、楓。沈んだのわかったんだ」
 楓の言葉に、達矢は嬉しそうに笑った。
「それまでは、微妙だったけど。最後の一球ははっきりわかった」
「うん、あれ。決め球のつもり」
「体に負担かからないの?」
「一年間、みっちり練習したから。まあ、まだまだだけど」
 こうして普通に会話をしていることが、楓には不思議でたまらなかった。同時に、胸の熱くなるような、泣きたいような気持ちがこみ上げてくる。
 「悪童」と目があった。
 ほら、やっぱ野球が好きなんだ。そう言いたげな顔で、笑っていた。
「楓……」
 達矢がまた真面目な顔をした。
「おまえ、まだやっぱり」
 達矢が何を言いたいのかわかっている。今は、逃げ出したいとは思わない。楓は、うなずいた。
「うん、やっぱり好きだよ、野球。でも女の子は、小学校の軟式までって、散々言い聞かされたもん。あんたにまで、そうやって説得されたんだから」
 楓は静かに笑った。唇が、震える。
「私は、栄章の野球、見ていられるならそれでいい。だから、もう気にしないで……。邪魔してごめん」
「じゃあ」
 「悪童」が突飛な声を上げた。
「入りなよ、野球。ほら、マネージャーとして」
 今日はいい天気ですね、とでも言うような口調だ。
 達矢が、おいと制した。
「秀、何言ってんだよ。マネなんて」
「なんで」
「野球を見て楽しむってのと、世話係は、違うじゃねえか」
「世話係。ひでえ言い方」
 秀と呼ばれた「悪童」は肩をすくめた。
「俺だって、今までの話聞いてなかったわけじゃない。若村さんが、しょうがないって、あきらめてんのよくわかる。だけど、それでも野球が好きなんだろ。そんだけ強い気持ちなのに、遠くから眺めてるだけじゃ、つまらないでしょ」
 ツマラナイ。秀はそう言った。遠くから眺めているだけじゃ、つまらない。
「どうせなら、一番近いところで見なよ」   
「近いところ……」
「そう。マネになれば、そりゃあ俺らの『お世話』に忙しいだろうけど、そのかわり」
 秀はくすっと笑って、達矢の肩に手を置いた。
「こいつの投球、ずっと見ていられる」


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