僕たちは、落とし物をした。
それは、とてもとても、大切なモノだったのに。
そして、新たな能力を手にした。
それは、人の
(いつか……いつかもう一度、私は歌を歌えるのかな……?)
LAS【アリウム】
〜心で言葉を紡ぐ者〜
「あたしもみんなみたいに、走り回ってみたいな……」
LAS【アリウム】
〜重力を司る者〜
「せやから……俺は男や! なんべん言うたらわかるんや!!」
LAS【アリウム】
〜大人になれない者〜
「あぁ……大丈夫だよ。すぐに治るから…………」
LAS【アリウム】
〜長い時を生きてきた者〜
「……みんなの話を、ちゃんと聞けたらいいのに…………」
LAS【カルミア】 スティル・ルカイア
〜心を感じ取る者〜
「もう、視たくないのに……。どうして、視えてしまうの…………?」
LAS【カルミア】 エリィ・キルシェアム
〜心で世界を視る者〜
「僕は……誰なのかな? “何”なのかな……?」
LAS【カルミア】
〜すべてを覚えていない者〜
「……あれ? いつの間に、怪我をしてたのでしょうか?」
LAS【カルミア】
〜痛みを忘れた者〜
「私は、みんなが怪我したら治すから……。だからみんなは、安心して戦って」
LAS専門医 セルシアフォーム・スパイラレット
〜彼らの傷を癒す者〜
僕たちは、落とし物を見つける為。
大切な人を守る為に。
戦う。
歌うことが大好きだった。
みんなも、私の声が綺麗だって褒めてくれた。
だけど、私は落とし物をした。
歌うことが……できなくなった。
―――――――――――――――――――――――――第1話「落とし物を探して」
ここは日本にあるLAS本部。LASは人外の生き物……妖魔と戦える人材を集めて作られた組織だ。妖魔は魔力を持ち、普通の人間では太刀打ちできない。そこで、人の範疇を越える能力を手にした者達が集められた。
彼らは、尊敬と畏怖の意を込められ、こう呼ばれる。“プラダジー”。プラダジーの数は少なく、LASに所属しているのは9人しかいない。ちなみにLASの会長様は普通の人間だ。
そんな瑠璃は、いつもどこか悲しげで、憂いを帯びた眼をしていた。仲間といるときだけ、明るく笑うが、普段は恐ろしいほどの無表情。瑠璃が落とし物をしたあの日から、常に悲しみと隣り合わせの生活を強いられている。彼女が悪いわけでは、全くないのに……。
「瑠璃ー!」
LASの廊下を、特に意味もなく歩いていた瑠璃は、名前を呼ばれて振り返った。向こうからこちらに、一生懸命に車いすでやって来る姿が見える。どうやら、稚世のようだ。
「ねぇねぇ瑠璃! 今日暇?」
元気に話しかけてくる稚世。瑠璃はそれに応える為、“能力”を行使する。
(暇だけど……どうしたの? どっか行きたい?)
瑠璃の言葉が、稚世の心に直接流れ込んでくる。そう、これが瑠璃の能力。人の範疇を越えた理由。瑠璃は、喋ることができない。だから、心に直接言葉を送る。
「うん! 買い物行こう!! 瑠璃はセンスいいから、服選んで欲しいのー」
にこにこと話しかけてくる稚世。自然と瑠璃も笑顔になる。先ほど1人で歩いていた時とは、比べ物にならないくらいの優しくて、生き生きとした表情。まるで別人のようだ。
(いいよ。私も買い物したかったし……。稚世1人だと、何かと心配だしね)
「何? 足のこと言ってんの? 瑠璃は心配性過ぎだよ。いつもは1人で平気だもん」
稚世は、足が動かない。だから、車いすで生活している。たいていのことは1人でこなせるが、瑠璃はついつい心配してしまう。
(ごめんごめん。じゃあ、午後から行こう? エリィ達も誘う?)
「う〜ん……。今日は2人で行きたいな。セルシアは忙しいみたいだし」
(わかった。じゃ、また後でね)
瑠璃がそういうと、稚世は嬉しそうに頷いた。そして、普通に走るくらいの速度で車いすをこいで行ってしまった。1人取り残された瑠璃の顔からは、表情が消え失せていた。
LAS専門病院の病室に、1人の医者がいた。後ろ姿ではっきりとはわからないが、髪が長いので女性だろう。肩下20pはある超ロングさらさらストレートヘアーは、綺麗な金髪だった。毛先まで手入れが行き届いている。
「セルシア先生、225号室の錦織さんですが……」
「……え? 唯斗がまた何かしでかした?」
看護婦に呼ばれ振り返ったその姿は、女性と言うよりも女の子だ。その瞳は、緑っぽい蒼色。深くて、綺麗な光を放っていた。
彼女の名前はセルシアフォーム・スパイラレット。まだ15歳だか、立派な医者である。しかも、LAS専門病院の院長をやっていたりする。LAS専門病院は、LAS本部に併設された建物で、LASに所属しているプラダジーや、LASの一般の職員専門の病院だ。そして彼女もまた、LASに所属しているプラダジーの1人である。アメリカ人だが、プラダジーとしての能力が目覚めてから間もなく、日本のLAS本部にやって来た。
「それが……病院を抜け出しまして…………」
「また? はぁ……。いくら痛くないからって、両腕折れてるのに……」
そこからセルシアは、口には出さず思案する。痛みを感じないからといって、すぐに病院を抜け出す彼を、一体どうしたものかと。
(少しは反省させようと思ってすぐに治さなかったのに……。逆効果だったようね。もう、仕方ないなぁ……)
「……どうしましょうか?」
看護婦は、遠慮しがちに聞いてくる。その問いに彼女は、さらっと言ってのけた。
「捕獲して。もうあいつはどうしようもないから、骨をすぐに繋げる。どうせ抜け出されるくらいなら、さっさと治した方がいいしね」
「わ、わかりました……」
セルシアが言った“捕獲”とは、読んで字の如く“獲物を捕らえる”ことだ。唯斗は簡単には捕まらない。それもそのはず、彼もLASに所属しているプラダジーなのだ。しかも彼は戦闘要員。ちょっとやそっとのことでは、両腕が折れていたって捕まえられない。
と、いうわけで、この日のLAS本部は大騒ぎになったという……。逃げ回る唯斗に、追いかけるプラダジーや一般職員。少し設備も壊れてしまったそうだ。
午後1時。LAS本部の入り口には、瑠璃が1人で立っていた。稚世を待っているのだ。先ほどまで着ていた制服のような服とは違い、私服だった。清楚な感じの白いワンピース。漆黒の髪によくはえている。彼女は無表情に、世界を見据えていた。愁いを帯びた雰囲気が、なんとも大人っぽい。実はけっこうもてたりしている。本人は全くと言っていいほど気づいていないが。
「瑠璃ー。お待たせ!」
稚世がやって来た。こちらも私服に着替えている。ちょっとボーイッシュな感じだ。いつも元気な稚世によく似合っている。
(じゃあ、行こうか)
瑠璃が言葉を送り、2人は歩き出す。正確には、瑠璃が稚世の車いすを押して歩いている。
のどかな昼下がり、時間までもがゆっくりと流れているようだ。しかし突然、何かが脇道から飛び出してきた。
「わ!!」
稚世は声を上げて驚き、瑠璃は目を見開いた。飛び出してきた物は、なんと唯斗だった。
瑠璃と稚世は、唯斗の両腕が包帯で巻かれているのを見て、同じことを思う。
(ああ……。また病院を抜け出してきたのか…………)
「瑠璃に……稚世ですか? よかったです……。見つかったかと思いました」
心底ほっとしたように唯斗が言った。彼は常に敬語だ。ついでに言ってしまうと、かなりの天然。とにかく天然だ。
「よくないよ。また抜け出してきたんでしょ?」
稚世が、上目遣いで言う。車いすに座っている為、誰に対してでも自然と上目遣いになってしまうのだ。
(セルシアに迷惑かけて……。まだ骨も繋がってないんでしょ?)
2人に容赦なく攻められる唯斗。少したじろいだ。
「そ、そうですけど……。痛くありませんから、大丈夫ですよ。セルシアがなかなか骨繋げてくれないんですもん。病院は暇で暇でしょうがないです……」
唯斗は目線が下がってしまっている。やはり後ろめたさはあるようだ。そこに稚世が、更なる追い打ちをかけた。
「唯斗が逃げ出すから、LASはすごい騒ぎになってるんだよ? 早く戻って治療してもらいなよ」
彼女の言うとおり、LAS本部はすごいことになっている。そりゃもう、大変な騒ぎだ。設備一部破損、軽傷者数名、普通の仕事がきちんと進んでいない等々……。それはすべて、唯斗の責任だ。
(唯斗、あんまりみんなに迷惑かけちゃだめだよ? セルシアも心配してるだろうし……)
瑠璃にも言われ、目に見えて唯斗は落ち込んだ。そんな姿がなんとなく可愛い。
「……わかりました。帰ります。かなり怒られるでしょうけど……」
確かに、目をつり上げたセルシアが目に浮かんでくる。ちょっと……いや、かなり怖い。セルシアは普段とても優しいが、怒ると怖い。特に怪我が絡んでくると、更に怖くなる。医者の鏡のような人だ。
唯斗は、肩をがっくり落として、とぼとぼと帰って行く。さすがにちょっと可哀想だ。
「しょうがないなぁ……。唯斗! 帰りにシュークリーム買ってきてあげるから、ちゃんとセルシアに謝るんだよ!!」
なんだかんだ言って友達想いの稚世は、唯斗の背中に呼びかける。唯斗はくるりと振り返る。
「本当ですか!? ありがとうございます!」
ぺこりといった感じでお辞儀すると、とても足取り軽やかにLAS本部へと去ってしまった。シュークリーム1つでここまで浮かれてしまう唯斗。やっぱりちょっと可愛い。
(世話が焼けるね……)
瑠璃がぼそっと言った。全くだといった感じで稚世は頷く。
「だいぶ予定より遅れちゃったね。ちょっと急ごう?」
瑠璃が頷くと、2人は足早にその場を去っていった。
LAS本部の敷地内。まるで庭のような場所に、2人のプラダジーがいた。
「ったく、なんで俺らが唯斗の捕獲なんかせんとあかんのや?」
「あいつもなかなか強いし、すばしっこいからな。普通の人間じゃ無理だ」
どうやら彼らは、唯斗を探しているらしい。あまりやる気は出していないようだが。
関西弁の方は、
そしてもう1人は、
「はぁ……。せっかくの休みやったのに……」
「颯夏は年がら年中休みみたいなもんだろ? たまには働け」
などと、だらだら喋りながらのんびり歩いてる。本当に見つける気はあるのだろうか?
と、彼らが探している指名手配犯……ではなく、病院脱走者が、向こうから歩いて来ている。それをいち早く見つけた颯夏は、叫ぶと同時に走り出した。
「唯斗! お前どこ行ってたんや!?」
あっという間に詰め寄ると、腕を掴む。これでもう逃げられない。
「……すみません。ちょっと散歩に……」
「嘘付け! 逃げ回ってたやろ!」
そこに、後ろから詩がのんびりと歩いてやって来た。
「まぁまぁ、颯夏。そんなに怒らないで。唯斗にも言い分があるだろうし……」
唯斗の顔がぱっと輝く。助かった、という表情をしている。
「詩、こいつを甘やかしたらあかんで。ちょっとは反省させな」
「颯夏〜。大目に見て下さいよ〜」
ちょっと涙目の唯斗。何故こんなに可愛く見えるのだろうか?
「あかん。とりあえずセルシアんとこ行くで。骨繋げてもらい」
そのまま颯夏にずるずると引きずられていく唯斗。「詩〜。助けて下さい〜」などと言っているが、颯夏は無視してすたすたと歩いていく。その後を詩は、やれやれといった感じでついて行った。
デパートや飲食店、娯楽施設などが建ち並ぶ通りに、瑠璃と稚世は来ていた。
「さぁて、今日は買うぞ!」
(無駄遣いはしないようにね……?)
周りの人には、稚世がひたすら独り言を喋っているように見える。瑠璃の言葉は、伝えようと思った相手にしか聞こえない。たまに制御を誤ってしまうこともあるが、それは瑠璃がかなり疲労していたり、大怪我をしているときくらいだ。滅多に起こることではない。
たくさんの人が行き交う大通り。2人はのんびりと歩いていた。その時、
「きゃぁぁぁぁ!」
突然、近くから悲鳴が聞こえてきた。一瞬、顔を見合わせる瑠璃と稚世。次の瞬間には、声がした方に走り出していた。
どうやら、妖魔が現れたようだ。女の人が襲われている。
「瑠璃、今日はあたし見てるから、任せちゃっていい?」
(……わかった。じゃあ、女の人はお願いね)
「了解!!」
稚世が女の人を安全な場所に誘導しつつ、瑠璃は妖魔に立ち向かう。一見、狼のような獣だ。しかし、大きさが普通の狼とは全く違う。2メートルは越えているだろう。ざっと見ただけでも、20頭ほどいるようだ。普通の人間には酷だ。しかし、瑠璃はプラダジー。これくらいの数なら、1人でも平気だ。
瑠璃は妖魔の中心に行くと、懐からナイフを取り出した。その眼が、鋭くなる。狼が一匹、彼女に襲いかかってきた。それをひらりとかわすと、ナイフをその胸に突き立てる。ナイフが引き抜かれた傷口からは、おびただしい量の血が溢れ出し、妖魔は悲鳴を上げながら倒れた。仲間が傷つけられたことに怒ったのか、残りの妖魔が一斉に瑠璃を襲う。瑠璃の右側から、爪で引き裂こうとするもの、左側から牙を突き立てようとするもの、上から飛びかかろうとするもの、後ろから、体当たりしようとするもの……。しかし、すべての攻撃は避けられてしまう。
(遅い……)
瑠璃の呟きは、誰にも届かなかった。次々にナイフを刺し、切り裂き、薙ぎ倒していく。
5分後。妖魔は、血と肉の塊と化していた。その中心にいるのは、返り血をまったく浴びることなく、1人で戦った少女。ナイフに付いた血を拭うと、懐に戻した。
「瑠璃、お疲れ〜」
稚世が、瑠璃に近づき言った。周囲の人間は、瑠璃に畏怖の視線を向けている。そんなことは全く気にせずに、瑠璃は平然としていた。
(稚世、怪我人はいない? さっきの人は大丈夫?)
「うん。もっちろん!」
瑠璃は、少しだけ安堵したような表情をした後、携帯電話を取り出した。LAS本部に連絡を取るらしい。彼女の能力は、通信機器を通してでも使える。すなわち、携帯電話で通話することも可能なのだ。携帯電話で会話する瑠璃の姿は、端から見たら無言のままだが、相手に彼女の言葉はちゃんと伝わっている。二言三言交わした後、瑠璃は電話を切った。
(後片づけは本部の人がしてくれるって。かなり遅くなっちゃったけど、今から買い物行く?)
「もちろん行くよ。せっかくここまで来たんだもん」
そして、彼女たちは歩き出す。血と肉の残骸を、その場に残して。周囲の人間の、冷たい視線を後にして。
彼女は怒っていた。そりゃもう、周りの人間が少し遠ざかるくらいに。赤色の怒りオーラを纏っている感じだ。そこに、彼女……セルシアの怒りの根元、唯斗が颯夏に連行されてやって来た。
「セルシア、唯斗連れて来たで。みっちり叱ったってや」
唯斗は捕まえられた兎のように縮こまって、びくびくしている。
「ごめんなさい……。もう抜け出しません。許して下さい〜」
唯斗は完全に怯えきっている。
「毎回毎回同じ事言って……。少しは反省してよね」
「……はい」
「もう病院抜け出しちゃ駄目だよ?」
「……はい」
「じゃ、さっさと骨繋げるから、治療室に入って」
「わかりました……」
唯斗は素直に従い、治療室へと入っていった。そんなセルシアの対応に、反論する者がいた。
「ちょ、セルシア、そんだけ? 俺ら、休みを返上して唯斗を追っかけまわしたんやで? 怪我人もでとるし……」
「颯夏は本気出して捜索してないでしょ? いっつも暇なんだから、たまには働いてよね」
詩と同じ事を言われている。彼は颯夏の脇で、くすくすと忍び笑いをしていた。
「俺かて……毎日訓練とかで忙しいんやで」
「颯夏、誰がどう考えても、セルシアの方が多忙だろ?」
「はいはい。じゃあ、2人はもう帰ってね。私は唯斗以外にも、患者がたくさんいるから」
すごすごと帰っていく颯夏。その後を、詩は楽しそうに付いて行くのだった。
治療室の中には、医者が1人と、患者が1人。セルシアと唯斗だ。
「唯斗、本当に麻酔いらないの?」
「はい。どうせ痛みは感じませんし……」
唯斗は、痛みを感じることができない。彼には、痛覚が無いからだ。正確に言えば、無くなってしまった、だが。
「わかった。じゃ、骨繋げるからね? 動かないでよ」
「……わかりました」
セルシアは、両手を唯斗の右腕、骨折箇所の上に翳した。手のひらを下にして、右手の上に左手を置く。途端、光が溢れ出した。セルシアの両手から、光が放たれている。すぐに光は消え、唯斗は右腕を動かしてみる。
「繋がったみたいです」
「よし、じゃあ今度は左腕繋げるからね」
先ほどと同様にして、唯斗の左腕の骨を繋げる。きちんと繋がったかどうかは、レントゲンを撮って確認した。
「うん。ちゃんと治ってるね。もう退院していいよ。あんまり怪我しないようにね」
「はい。ありがとうございました」
唯斗はぺこりと頭を下げると、病院を後にした。1人治療室に取り残されたセルシアの顔には、疲労の色がありありと浮かび上がっていた。彼女の能力は、怪我や病気を、通常あり得ないスピードで治すことだ。便利だが、かなり疲れる。しかし、あまり休んでいるわけにも行かない。彼女を待っている患者は、たくさんいるのだから。
「さてと、頑張ろう!」
自分で自分を励まし、彼女は次の患者の元へと向かった。
そこは、LAS本部のとある一室。狭くも広くもないその部屋に、大量の書類と、3人のプラダジーがいた。彼ら3人は、LASの【カルミア】というチームに属している。唯斗と同じチームだ。
「はぁ……。唯斗がいない分、書類整理も大変だな……」
最初にぼやいたのは、スティル・ルカイアだ。銀色に輝く短い髪と、黄金の眼をしている。その髪と眼は、とても綺麗な輝きを放っていた。イギリス人で、セルシア同様、能力が目覚めてから来日した。年齢は17歳。気のいいお兄さんといった感じだ。
「しょうがないでしょ、ティル。両腕折れちゃってるんだから」
そんなティルをたしなめたのが、エリィ・キルシェアム。彼女はアメリカ人で、能力が目覚める前から日本にいた。黄緑色の、肩より少し長いくらいの髪の毛。瞳の色は、銀色だ。年は16歳。瑠璃と同い年だ。彼女は手際よく、書類を種類分けしていく。彼らは戦闘などが無いときは、訓練をしたり、その他の仕事をしたりしている。書類整理もそのひとつだ。
「エリィの言うとおりだよ。僕たちは怪我をしなかったんだから、ラッキーだと思わなきゃ」
てきぱきと仕事をこなしながら言ったのは、深海心〔hukami sinn〕だった。少し長めの漆黒の髪と、漆黒の眼。色白なので、そのギャップが綺麗だ。年は不明。彼には記憶がなく、年齢がわからないのだ。容姿からして、12歳くらいだろうが。彼が記憶を失ってから、まだ5年しか経っていない。すべてを忘れてしまった心は、精神年齢は5歳ということになるのだろうか?
エリィとティルは、やっぱり制服らしき物を着ていたが、心は違った。颯夏と同じで、高校生には見えないからだ。ちなみに、彼らが制服っぽい物を着ているのは、戦うときに相手が一般の高校生だと思ってくれていれば、戦いやすいからだ。逆に言うと、見た目高校生の彼らをプラダジーと知っている相手は要注意ということになる。そのことを知っていても尚、戦いを挑んでくるということは、かなりの実力者であるということになる。また、それなりに情報を得ていると言うことだ。まぁ、そんなわけで、彼らは高校生に扮していた。
「確かにな。それにしても、セルシアもさっさと骨繋げてやりゃいいのに。あいつ、また抜け出すんじゃねぇのか?」
「もう抜け出しちゃってるみたいよ? なんか騒いでたし」
どうやら唯斗が病院を抜け出すのは、しょっちゅうあることらしい。
「それなら、もう見つかったみたいだよ。颯夏が唯斗引きずって歩いていくの、見たもん」
心がそう言ったとき、扉が開いて、誰かが部屋に入ってきた。噂をすれば影、と言ったのは、一体誰だっただろうか? とにかく、部屋に入ってきたのは先ほどまで話題の中心だった、唯斗であった。
「唯斗、腕もう平気なの?」
「大丈夫です。セルシアに骨繋げてもらいました」
エリィの問いに、唯斗はにこにこしながら答えた。
「よかった〜。これでやっと、4人そろったね!」
「じゃ、唯斗も書類整理手伝え。今日中にやらなきゃなんねぇのに、まだ半分も終わってねぇからな……」
と、その時、誰かがドアをノックする音が室内に響いた。
「どうぞ」
ティルが言うと、扉が静かに開いて、瑠璃と稚世が入ってきた。
「唯斗がここにいるって聞いたんだけど……」
「はい。いますよ〜」
唯斗の声が弾んでいる。よほど楽しみにしていたらしい。
(シュークリーム、買ってきたよ。みんなも食べる?)
「ありがとうございます〜」や「うん! 食べる!!」などど、みんなから返事が返ってくる。
まぁそんなわけで、みんなでシュークリームを食べた。ついでに言うと、ティルが紅茶をいれてくれた。ちょっとしたお茶会のような雰囲気で、のんびりとお喋りなんかをしたらしい。
その後、瑠璃と稚世も加わって、みんなで書類整理をした。それでも終わりそうになかったので、颯夏と詩も呼び寄せた。颯夏の愚痴を聞きつつ、8人で頑張ったところ、なんとか時間内に終わったのだった。
LAS本部でも、一際広くて、豪華な一室。そこに“彼”はいた。彼は紺色の短い髪と、漆黒の眼をもち。LASのトップにいた。つまり、瑠璃達の上司であり、LASの会長様……。
それが彼、忽那響〔kutuna hibiki〕であった。まだ25歳と、かなり若い。ちなみに彼は、普通の人間だ。プラダジーではない。しかし、LASに所属するプラダジーは彼のことを尊敬している。何故なら、単純に響が強いからだ。
「……また新たな、戦いが始まるようだな…………」
響が、そっと呟く。誰も、その言葉を聞くことはなかった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
瑠璃 :(さぁて、やって参りました☆)
稚世 :キャラ総出演でお送りします、次回予告&キャラと雑談コーナー!!
小豆 :テンションあげていきましょー。
ティル:あんた……誰?
小豆 :まぁ酷いッ。作者に決まってるでしょ!
颯夏 :こんなんが……俺らの生みの親? 豆やん……。
小豆 :はいはい、細かいこと気にしない〜。
心 :今回は何をするの?
唯斗 :適当に質問コーナーでもやりませんか?
エリィ:賛成〜。
詩 :じゃ、質問その1〜。このお話の世界観はどんな感じですか〜?
小豆 :リアルの世界と同じだよ。ただ、妖魔とプラダジーって存在がいるって事だけが違うかな。
セルシア:だけって……。かなり違うじゃない。
瑠璃 :(質問その2〜。なんで会長はプラダジーじゃないの?)
小豆 :それについてはご本人からどうぞ。
響 :それはだな、プラダジーをまとめる力があって、なおかつ強いからだ。
颯夏 :かなり簡潔やな……。まぁ、そこらの人間には無理やろうけどな。会長は特別や。
稚世 :そうそう、あたしらより強いもんね。
エリィ:質問その3〜。なんで瑠璃は喋れないんですか〜?
小豆 :それはね……能力を得た代償なんだよ。詳しくは2話で明らかに♪
心 :ちょっと意味深だね……。
唯斗 :まぁ、僕たちも色々ありますしね。
小豆 :すとっぷ〜。それ以上言うとネタバレになるから黙ってね☆
セルシア:質問その4〜。“プラダジー”って言葉の意味は何ですか〜?
小豆 :それもそのうち本編で明らかになると思うよ。まぁ、そんなに深い意味はないんだけどね。
詩 :ないのかよ。じゃあわざわざ質問させるなよ。
小豆 :気にしない気にしない〜。
響 :質問その5〜。1話、短くないですか?
小豆 :ぐはぁ!! それは……訊かないで…………。
ティル:駄目な作者だな……。
小豆 :うるさい☆ そうそう、実はこの1話にはサブタイトルがあるんですよね。それは、「兎の脱走と、町中での戦闘」でした〜。まぁ、そのまんまって言えばそうなのかな。
瑠璃 :(えと……そろそろ時間みたいだけど……?)
小豆 :そうか。じゃあ、次回予告いってみようかな! 後はみんなよろしく〜。
瑠璃 :(会長が言った、“新たな戦い”とは、一体何のことなのか?)
エリィ:私はいつものように、あるモノを視てしまった。
稚世 :それは、会長の言ってた戦いに通じる所があって……。
心 :戦闘へと、向かっていく僕たち。
唯斗 :その戦いは、犠牲を産むものなのでしょうか? それとも……。
ティル:新たな、可能性に繋がるのだろうか?
セルシア:その問いに答えてくれる者など、どこにもいなかった。
詩 :決めるのは、自分自身ということなのだろうか?
颯夏 :次回、僕たちの落とし物。第2話「彼らの戦いと、彼の苦悩と」(変更あり)
響 :お楽しみに!!
絵を描くことが、好きだった。
色彩豊かな世界は、本当に美しいと思っていた。
けれど私は、落とし物をした。
私は色を失い、モノクロの世界に放り込まれた。
絵を描くことも、やめてしまった……。
――――――――――――――――――――――――――第2話「彼らの戦いと、彼の苦悩と」
会長室の前に、大量の書類を両手に抱えたティルが立っていた。
「はぁ……。今日は切れてないといいんだけどな……」
溜息と共に、意味深な台詞を吐くティル。左手で器用に書類を支えながら、右手で会長室の扉を叩く。
「……入れ」
室内から、響が不機嫌そうに言った。ティルは静かに入室すると、響の前にあるデスクに書類をドスンと置いた。
「遅くなってすみません。書類整理、終わりました」
響の前に、山のように大量の書類が置かれる。これだけの量を整理する為に、8人で夜遅くまで頑張ったのだった。しかし響は、そんな彼らをねぎらうどころか、切れ気味にこう言った。
「ったく、てめぇらは毎度毎度、仕事が遅ぇんだよ」
やっぱ切れてる……。そんなことを思いながら、無駄だとわかっていながら反論するティル。
「いくら仕事が早い人でも、さすがにこの量の書類整理となれば、時間がかかると思いますが?」
「うっせぇんだよ。口答えする暇があったら、さっさと仕事なり訓練なりしてろ」
「……はい」
「わかったならさっさと行け。次は遅れんじゃねぇぞ」
「失礼します……」
これ以上響の機嫌を損ねないようにと、素直に従うティル。軽く礼をすると、入ったときと同じように静かに退室した。広い部屋にただ1人になった響は、大量の書類を眺め、軽く溜息をついた。
太陽が南の空に高く昇り、暖かい日差しを投げかけてくる。天気がいいので、今日は中庭で昼食をとることにしたプラダジー達。それぞれお弁当を開き、作ってくれた人に感謝しながら食べていた。そんな時、
「……本当に颯夏は可愛いな」
唐突に、颯夏を眺めながら詩が言った。その言葉に、颯夏はあからさまに嫌そうな顔をする。
「うっさいわ! 俺より心のほうが可愛いやろ!」
「心は、可愛い男の子ですよ。颯夏はかーわいい女の子じゃないですか。仲間内で1番年下ですし」
「うん! 僕より颯夏の方がかわいいよ〜」
唯斗の言葉に、心が同意する。颯夏の表情がどんどん険しくなっていった。
「お前ら……ええ加減にせぇよ。だいたい、俺は見た目こんなやけど、詩の次に年上や!」
そう、9人しかいないプラダジーの中で、颯夏は2番目に年上だ。しかし、誰がどう見ても8歳程度にしか見えない颯夏は、1番年下と思われがち。颯夏は、それがたまらなく嫌らしい。
必死に否定する颯夏を、詩や唯斗達はからかう。なんだか少し可哀想だが、瑠璃やエリィは、(やれやれ、また始まった……)といった感じで、我関せずと口を挟まない。しかし、そろそろ誰かが止めなければ、颯夏がマジ切れしそうだ。
「まぁまぁ、そのへんにしとけって」
口を挟んできたのは、ティルだった。
「ティル……お前はやっぱええ奴やな……」
颯夏が感謝の眼差しをティルに向ける。そんな彼に、ティルは笑顔でさらりと言ってのけた。
「女の子をよってたかっていじめるもんじゃないぞ」
「はーい」
「わかりました!」
元気に返事をする心と唯斗。詩はくすくす忍び笑いをしている。
「ティル……お前もか…………」
こうして颯夏の眉間の皺は濃くなってゆくのだった。
昼食後、彼らはそれぞれのチームに別れ、訓練やら仕事やらに戻っていった。しかし、まだ昼食を終えていないプラダジーが1人いた。
「……ふう。お腹すいたなぁ……」
病室で1人呟いたのは、セルシアだった。相変わらず多忙らしい。
「……セルシア先生、俺が変わりますから昼休憩に入ってください」
そんなセルシアを気遣い、話しかけたのは、中学生くらいの男の子だった。しかし、彼は医者らしく白衣を着ている。彼もLAS専門医なのだ。
「シェンファ……なんで姉に対して敬語なの? しかも“セルシア先生”って……」
「今は仕事中です。仕事上、俺とあなたは、医師と院長ですので」
「まぁ、そうなんだけど……。相変わらず真面目ね」
「医師として、これが普通だと思いますが?」
「はいはい。じゃ、ありがたく昼休みに入らせてもらうわ。後のことよろしくね〜」
それだけ言うと、セルシアはさっさと病室から出て行ってしまった。後に残ったのは、医者がただ1人。その医者は、すぐに仕事に取りかかった。
彼の名前はシェンファ・スパイラレット。セルシアの弟だ。まだ13歳だが、LAS専門病院で医者をしている。11歳の時に最年少で医師免許を取った、IQ200以上の天才だ。シェンファはセルシアと同じ、緑っぽい蒼色の眼と、金色に輝く髪を持っていた。後ろ髪よりも長い前髪は、邪魔にならないように真ん中で分けられている。目が悪いのか伊達なのか……。とにかく彼は、眼鏡をかけていた。レンズの奥に見える瞳は、まだ13歳とは思えないほど大人びている。彼はセルシアが日本に来るとき、一緒について来た。そして今は、同じ病院で働いている。
シェンファは、せわしなく動かしていた手をふと止めた。そして、窓の外を眺める。雲がゆっくりと流れていた。誰に言うわけでもなく、ぼそりと呟く。
「まったく、あの姉は……。こうでもしないと、自分からは休憩しようとしないんですから……」
そしてまた、仕事に取りかかるのだった。
最初に“それ”に気づいたのは、エリィだった。彼女は“それ”を、視ていた。エリィの目に映るのは、彼女の目の前に広がる景色ではなく。未来の、景色だった。
エリィの、プラダジーとしての能力。それは、未来や過去、遠い場所の景色を“視る”こと。彼女が意識して能力を使うことで、それは彼女の目に映し出される。その映像は、白黒で、色がない。そして、彼女が普段見ている世界にも、色はなかった。そう、彼女の落とし物は、色。すべてがモノクロに見えるのだ。それは、未来や過去も同じで、エリィの世界から色というモノは無くなってしまっていた。
そして今、エリィが視たモノとは……? 彼女は駆けだしていた。たった今視たモノを伝える為に、響の元へと。エリィの話を聞いた響は、プラダジー達を呼び集めた。
9人が部屋に集まったのを確認すると、響は静かに話し始めた。
「……いいか、よく聞けよ。これから、ある程度知能の高い妖魔が集団でここを襲う。だいたい50頭くらいだ。お前らは全力でここを守れ。一般職員は避難させる」
「は? いきなり呼んで何やねん? エリィが視たんか?」
勘のいい颯夏は、響の言葉だけで推測してしまう。
「あぁ。俺もなんとなくわかってたけどな……」
「え!? 会長、知ってたの?」
目を丸くするエリィ。そういえば、エリィが視たことを伝えたときも、響はさほど驚いてはいなかった。
「当たり前だ。俺の情報網をなめんじゃねぇぞ? 妖魔の動きくらい把握してる」
(情報網って……、一体どんな……?)響以外の誰もが気になっていたが、聞いてはいけないような気がしたので、黙っていた。
「……とにかく響が俺らに言いたいのは、LASを守り、妖魔を倒せって事だろ?」
唯一、響を呼び捨てで呼ぶ詩が言った。
「そういうことだ。派手に暴れても良いが、施設は壊すんじゃねぇぞ。あと、お前らもなるべく怪我するな。わかったな?」
「「はい!」」
響の言葉に、プラダジー達は応える。まだ若いLASの会長は、満足そうに頷いた。そして彼らは、動き出す。
それは、静かな……本当に静かな、昼下がりのことだった。
急に慌ただしくなったLAS本部。プラダジー達は戦闘の準備を整え、一般職員は安全な場所へと避難する。10分ほどで一般職員が避難してしまうと、LASは先ほどとはうって変わり、シンと静まりかえった。LASの敷地内に残っているのは、プラダジーの8人と、響だけだ。セルシアは病院で待機している。いかにも緊急事態といった感じだ。まぁ実際、あと何分か後には、LAS本部は非常事態に陥る。エリィが視たのだから確実だ。
「今日は……血を見ることになるかもしれませんね……」
唯斗が、ぼそりと呟く。今プラダジー達がいるのは、LAS本部のメイン施設の前の広場だ。エリィが視た映像によると、妖魔達は正面から堂々とやって来るらしい。だから彼らは、ここで戦うことにしたのだ。建物の中だと戦いにくいし、壁などを破壊しかねない。
(戦う前からそんな弱気でどうするの?)
「瑠璃の言うとおりだよ。自分と、仲間を信じて頑張ろうよ!」
「……そうですね。僕は、自分の血を見ることに、慣れ過ぎてしまったのかもしれません……」
痛覚のない唯斗にとって、怪我はあまり怖くない。ただ、出血多量で死なないよう、気を付けなければいけないが。
「唯斗、そないなこと言ったらアカン。お前は怪我することを恐れんけど、それはお前の弱さにしかならへんで?」
「……颯夏も、たまには良い事言うんだな」
感心したように詩が言う。そんな彼を、颯夏は口では反論せず、きつく睨んだ。しかし、はっきり言ってあまり怖くない。幼い子供が、いじけているようにも見える。颯夏のそんな様子を上から眺めながら、詩はくつくつと笑うのだった。
「みんな、お喋りの時間はもう終わりみたいよ……」
エリィが遠くを見ながら言った。その視線の先には、たくさんの妖魔達が……。その形は、虎のようにも、狼のようにも、獅子のようにも見える。大きさは、だいたい一頭が3メートルくらいだろうか。とにかく、でかい。そんなのが、50頭ほどこちらに向かってくる。
「全員、戦闘態勢に入れ! とにかく片っ端から倒すぞ。LASの施設には近づけるな!!」
大声で指揮を執るのは、ティルだ。
「「了解!!」」
7人から声が返ってくる。その瞬間、全員が動き出した。彼らは、2人ずつに別れる。戦うときは、いつも同じ組み合わせだ。ティルとエリィ、唯斗と心、瑠璃と稚世、颯夏と詩。それぞれ、同じチームに属している者と組んでいる。つまり【カルミア】と【アリウム】は、この組み合わせが2組ずつということになる。
ティルはエリィを気遣いながらも、次々に妖魔にナイフを突き立てていく。彼らの能力は戦闘向きではないので、体術で戦うしかない。それなりに鍛えてはいるが、やはり素手だときつい。だからティルは、いつもエリィをかばうようにして戦う。それは彼の優しさであり、思いやりであった。エリィは彼に感謝しつつ、彼を援護するようにして戦う。息はピッタリだ。彼らの前にいた妖魔達は、悲鳴を上げながら倒れていった。
「エリィ、大丈夫か?」
少し息を切らしているエリィに対し、ティルはいつもと変わらない顔色をしている。
「平気。気を抜いたらやられちゃうしね!」
言いながら、エリィは新たな敵に向かった。
その向こうでは、唯斗と心が苦戦している。2人とも背があまり高くないので、3メートルもある敵の急所をつくのはなかなか困難だ。
「唯斗! 僕は能力を解放するから、援護して!」
心が叫ぶ。この妖魔と、ノーマルのまま戦うのは無理だと判断したのだろう。
「わかりました!」
唯斗も叫び返し、心に妖魔を近づけないようにする。心は一度深呼吸をすると、能力開放に入った。心の周りに、光が漂う。彼を中心に、螺旋状に伸びてゆく光。まるで、光を纏っているかのようだ。そして、ゆっくりと光は消え失せた。
「いくよ!」
心が大声で言うと、彼は妖魔に向かって駆け出す。見た目は何も変わってない心だが、明らかにさっきとは違う。その眼には、静かな殺意が漂い、そして、走るスピードは尋常ではない。あっという間に間合いを詰めると、地面を蹴りつけた。3メートルを越える妖魔よりも高く飛び上がると、頭からナイフで斬り付けた。その細い体からは想像できない力で斬り付けられた妖魔は、悲鳴を上げる事もできずに、即死した。ふわっと着地する心。いつもの無邪気な笑顔とはかけ離れた、冷たい表情をしている。そんな彼を、妖魔が後ろから襲う。
「心、後ろです!」
唯斗が叫んだときにはもう、心の姿は消えていた。いや、妖魔の後ろに回り込んでいた。つまり、一瞬で移動した……。そのまま心臓の位置を狙い、血で汚れたナイフを突き立てる。妖魔の分厚い皮膚を簡単に突き破り、凶器は心臓まで達した。わずか、1秒ほどのできごとだった。そして、周りにいた妖魔達も、薙ぎ倒していく。それはまるで、鎌鼬の如く。疾風のように速く、何よりも鋭く。心の動きが止まったときには、彼の周りは血の海と化していた……。
心の能力、それは身体能力を飛躍的に上昇させること。これにより、心は人間離れした力を出せる。しかし、かなり体に負担がかかってしまうのだった。
「……うっ」
いきなり苦しそうに顔を歪めると、心はその場に倒れてしまった。
「心!」
唯斗が駆け寄る。心配そうな顔をしている唯斗に、心は弱々しく微笑んだ。
「大丈夫ですか!? 無茶するからです!」
「……平気だよ。ちょっとふらついただけだから……」
それは、いつもの心だった。冷たく殺意を湛えた眼ではなく、暖かくて優しい眼をした心だった。
「唯斗! 心をセルシアんとこ連れてけ! ここは任せろ!!」
ティルが向こうで戦いながら叫んでいる。どうやらこちらの状況もきちんと把握しているらしい。
「わかりました! 後はお願いします!」
唯斗は叫び返し、心に肩を貸して歩き出した。
瑠璃と稚世は、そんな心達の様子を横目で見ながら、妖魔と対峙していた。瑠璃が妖魔に接近してナイフで戦い、稚世は少し離れたとこから銃で援護していた。まだ16歳の女の子が銃を扱う姿は、かなり不釣り合いだ。しかし稚世は、慣れた手つきで次々と妖魔に弾を撃ち込んでいく。ヘタをすれば瑠璃に当たってしまいそうだが、彼女たちは長年の戦友だ。瑠璃の横1pを弾が行き交う事があっても、それが彼女に当たることはない。
(それにしても、多いね……)
瑠璃が稚世にだけ伝える。
「確かにね〜。でも、これくらい余裕でしょ!」
稚世は元気に答えながら、また一頭、犠牲者を増やした。
みんなが奮闘している中、颯夏と詩は、何故か喧嘩をしている。
「颯夏、まだ小さいんだから無理するなよ」
「アホ! 俺は子供やない!」
「しかも女の子なんだから、顔に傷でもできたら大変だぞ?」
「せやから……俺は男や! 何べんいうたら理解するんや!?」
かなり言い争っている。というよりは、詩が颯夏をおちょくり、それに対して颯夏が食ってかかっている。口では喧嘩をしつつも、彼らはちゃんと妖魔を倒していた。器用な奴らである。颯夏に至っては、妖魔に目を向けずに、詩を睨み続けている。それなのに妖魔は彼に、傷ひとつ付けることができない。目で相手をとらえることなく、倒す。一体彼の強さはどれほどなのだろうか?
まぁ、そんなこんなで、それぞれ戦い続けた。たった8人のプラダジー達に、50頭以上の妖魔は歯が立たない。そして20分ほどした頃には、妖魔はすべて倒れ伏していた。
「……これで全部だな? 被害状況はどうだ、詩?」
ティルが周りを見渡した後、詩に訊いた。
「心が倒れただけだな。施設は平気だろ」
「よし。任務完了!」
「はぁ〜。疲れた……」
「颯夏は喧嘩してただけだろ?」
「うっさいわ! 詩のせいやろ!」
またもや喧嘩を始めてしまった2人。そんな2人に対し、瑠璃はぼそっと呟く。
(喧嘩するほど仲がいい……)
「あはは〜。瑠璃ナイス!!」
稚世は笑いながら茶化している。
「はぁ!? 瑠璃、誰のことや!?」
「そうだな。颯夏と俺は仲良しだもんな〜?」
詩の笑顔が少し怖い。
「はいはい、そこまでー。心の様子見に行くよ」
エリィが言って、みんなは病院へと足を向けるのだった。
彼らが戦闘を終える5分ほど前。唯斗と心は、セルシアの元にたどり着いた。
「心!? もう、いっつも無理して!」
心の姿を一目見て、とりあえず怒鳴るセルシア。
「なんで心と唯斗は、いっつも限界越えるまで戦うかなぁ……」
「僕は限界越えてませんよ? ちゃんと生きていますし」
「それでも怪我してくるでしょ! いくら痛くなくても、血の量が減るでしょうが!!」
ちなみに、病院利用数は、ダントツで心と唯斗が多い。詩も怪我はよくするのだが、ほっといても治ってしまうので医者にかかる必要はない。あとのみんなは、ちゃんと自分の限界を考えて戦う。しかし、この2人だけは、どうしようもなく無理をしてしまうのだった。
「はぁ……。とりあえず診察室」
「……うん」
とぼとぼと入っていく心。唯斗が声には出さず、口だけ動かして「ファイトです!」と、心に向けて言っていた。
「セルシア〜? 心の体調はどう?」
エリィが扉からひょっこり顔を出して聞いた。
「あれ? もう終わったの?」
「あぁ。そんなに強くなかったしな」
「いや、詩。あれは十分強かったで?」
珍しく冷静につっこむ颯夏。「そうだったか?」と詩は余裕で笑っている。
「で? みんなは心のお見舞い? それとも他に怪我したの?」
(ううん。私達は平気。心の様子見に来たの)
「そう、それならよかった。こっちも疲れるのよね〜。心は今寝てるけど……明日辺りには起きるんじゃないかな。会う?」
「寝てるならいっか〜。起こしちゃ悪いし」
稚世が明るく言う。
「そうですね……。また明日来ますか?」
「うん……って、唯斗! いつからいたの!?」
「エリィ……失礼ですね。最初からいましたよ」
「あはは〜。そうだっけ?」
ちょっと笑顔が引きつっているエリィ。ふと思い出したように、ティルがセルシアに聞いた。
「そういえば、シェンファは元気か?」
「ええ。相変わらず仕事熱心でね。お姉ちゃんは楽させてもらってるわ」
「そうか……」
セルシアの言葉に苦笑を浮かべるティル。プラダジーのみんなとシェンファは、昔からの馴染みだった。特にティルにとって彼は、弟のような存在であり、また、親友のような存在でもあった。
「じゃ、俺は会長に結果報告してくるから。みんな解散していいぞ」
「は〜い!」
稚世が元気よく返事する。そしてそれぞれ、散らばっていった。
「はぁ……。気が重いな。なんだって、あんないっつも切れてるヤツに、1日に3度も会わなきゃなんねぇんだ……?」
会長室の前で1人ごちたのは、ティルだった。プラダジーのリーダー的存在である彼が結果報告をするのは当たり前といえば当たり前だが、相手はあの響。やはり気が重い。あまり切れてませんようにと祈りながら、ドアをノックする。
「ティルか。入れ……」
うわ……不機嫌なときの声だ……。半ばヤケになりつつ、ティルはいつもどおり静かに入室する。
「……失礼します。任務結果の報告に参りました」
「おぉ。簡潔にな」
「はい。……妖魔はすべて討伐完了。施設に損傷はありません。以上」
「……おい、それだけか? 心が倒れただろうが? あぁ?」
それじゃどこぞのヤクザですよ……。そう思いつつ、ティルは別のことを言う。
「お見通し、ということですか……。心はセルシアの治療を受け、今は寝ています。セルシアの話だと、明日には意識も回復するそうです」
「そうか。ったく、怪我はすんなつったのによ……」
雲行きが怪しい……。マジ切れされる前に逃げた方が良さそうだな……。そう判断したティルは、早々に立ち去ることにした。
「では、報告は終了したので、俺はこれで……」
「ちょっと待て」
「……はい。なんでしょう?」
捕まってしまった……。表情は笑顔を保ちつつ、内心は泣いていた。
「お前……封印、解けかけてるぞ。ちょっとこっち来い」
「……マジですか?」
心底驚いた表情のティル。これはヤバイと、すぐに響に近寄る。すぐ側まで来たティルの額に、響は手をあてる。
「いいか、楽にしてろ」
「はい……」
ティルは静かに目を閉じる。そして、一瞬だけ、手をおかれた場所が輝いた。そして、ティルの額に複雑な図形と文字が浮かび上がる。それは刻印のようにも、刺青のようにも見えた。
「忌まわしき印をもって、心の闇を閉ざせ……封!!」
響が唱えると、もう一度刻印は光り輝き、そして、消えた。いや、見えなくなっただけで、確かにティルの額にその印は存在する。
「……よし、もういいぞ」
「ありがとうございます……。会長のおかげです。俺が、まともな精神を取り戻せたのは……」
「もうその話はすんなっつってんだろ。さっさと行け」
「……はい。失礼しました」
ティルはまた、静かに退室する。廊下に出た後、会長室の扉に向かって……いや、その奥にいる響に向かって、深々と礼をするのだった。
会長室にただ1人、その部屋の主がいる。そして、誰にも聞こえないように、呟いた。
「……あいつらに、救いはあるんだろうか? 俺に、あいつらを救う力はあるのだろうか……?」
彼の苦悩を知る者はいない。いつも、完璧に隠しているから。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
小豆 :さぁさぁやって参りました♪
瑠璃 :(毎回恒例☆キャラ総出演で予告&雑談コーナー!)
響 :キャラが増えたのでちょっと混乱気味だが、まぁ、気にするな。
稚世 :今回も元気いっぱいに質問タイム行ってみよ〜!!
詩 :質問その1〜。2話……更に短くなってないか?
小豆 :……さぁ、次の質問いってみようか!
颯夏 :ごまかそうとしてるんバレバレやで?
小豆 :うふふ。颯夏うるさい。今以上にいじめられキャラにしてあげようか?
エリィ:質問その2〜。ティルの“あれ”は何ですか〜。
小豆 :今ここで言えるわけねぇだろ!
ティル:まぁ、そのうち本編で語られるだろうけどな……。
唯斗 :質問その3〜。瑠璃の影、薄くないですか?
瑠璃 :(私……一応主人公なのに……)
小豆 :あのね、今回の話はね、エリィとティルと響をピックアップしたかったの。
心 :そういえば、会長無駄にたくさん出てたもんね!
セルシア:質問その4〜。シェンファって、作者の趣味に走ってない?
小豆 :……えへ。バレた?
シェン:バレバレですね……。眼鏡ですし金髪碧眼ですし前髪長いですし敬語ですし……。
小豆 :うわぁ。素敵な要素がいっぱい!
響 :そう思うのって、てめぇだけじゃねぇのか?
稚世 :質問その5〜。みんなの能力って、まだ出ないんですか〜?
小豆 :次回に明らかになる予定〜。ティルはまだかもだけどね。
ティル:何故いつも微妙に特別扱いなんだ……?
エリィ:じゃ、最後に作者から読者の皆さんに一言どうぞ〜。
小豆 :え〜と、とりあえずここまで読んでくれてありがとう! シェンファの登場シーンが少なくてちょっと悲しい小豆ですが、番外編とかで書こうかな〜とか、企んだりしてたり。まぁ、こんな駄目小豆ですか、ぼちぼち頑張っていきますんでこれからもよろしくです!
詩 :もうちょっとまともな挨拶はできないのか……?
小豆 :……さぁ、次回予告いってみようか! 後はみんなよろしく!!
ティル:妖魔達との戦いを終え、休息についていたプラダジー達。
詩 :ほっとしたのもつかの間、すぐに新たな敵と遭遇する。
瑠璃 :(それは、ただの妖魔とは訳が違って……)
エリィ:苦戦する中、敵が呟いた言葉とは……。
稚世 :そこから、新たな事実を知るあたし達。
颯夏 :せやけど、前進することは、簡単や無くて。
唯斗 :それでも諦めたくない僕たちは、もがき、抗い。
セルシア:それは、無駄なことなのか……。
心 :結果に、繋がるのか……。
響 :次回、僕たちの落とし物。第3話「神に選ばれし者達」(変更あり)
シェン:お楽しみに。
学校のかけっこでは、いつも1番だった。
リレーはずっとアンカーだったし、男の子にだって負けたことはなかった。
あたしは、走ることが大好きだった。
だけど、あたしは落とし物をした。
走ることも、歩くことさえも、できなくなった……。
――――――――――――――――――――――――――――――第3話「神に選ばれし者達」
「………………」
白い壁、白い床、白い天井、白いカーテン……。見渡す限り真っ白だ。そう、ここは病院。そして、この真っ白な病室で目を覚ましたのは、心だ。
「…………ええと、なんで僕は、ここで寝てるのかな?」
ぼーっとした眼差しで、窓の外を見る。白い鳥が1羽、飛んでゆくのが見えた。
「あ、起きましたか?」
病室に入ってきたのは、シェンファだ。
「……シェンファ? なんで僕はここで寝てるの?」
「覚えてないんですか? 昨日、妖魔と戦う際、能力の使い過ぎで倒れたんですよ」
「ああ……そっか。思い出した」
シェンファは、ぼーっとしたままの心の、心音やら喉やらを調べる。
「もう大丈夫みたいですね。ちゃんと目、覚めてから帰ってください。そのまま行ったらこけそうですから」
それだけ言うと、シェンファは病室を出て行った。
病室にただ1人となった心は、曖昧な意識の中で、自らの左腕を掲げてみる。その左手首には、傷跡がある。普段は袖の長い服を着て隠している、たくさんの傷跡。リストカットの跡だ。
「……僕は一体、誰なのかな? なんで、こんな傷跡なんか……」
その傷跡は、心が記憶を失う以前のモノだ。つまり、何故心がそのような傷跡を持っているのか、彼自身わからない。
「誰か……誰か教えてよ……。僕は何なの?」
彼は自身の左手首を右手で掴み、うずくまる。静かな泣き声が、病室に響いていた。
どこか遠くから聞こえてくるチャイムの音。その音に、稚世は目を覚ました。今稚世がいるのは、LAS本部の屋上。風通しがよく、とても気持ちのいい場所だ。そこに寝転がって、昼寝をしていた稚世。チャイムの音で起こされてしまい、少し不機嫌だ。
「もう〜。せっかくいい気持ちで寝てたのに、なんでチャイムなんか……。ん? チャイム……?」
何故チャイムの音がしたのだろう……? しばし考えて、稚世はひとつの答えを導き出した。
「ほわぁぁぁぁぁ! 授業だ!!」
飛び起きて車いすに乗り、急いで降りていく稚世。そう、今日は珍しく授業のある日なのだ。プラダジー達は、年齢がいくつだろうとすでに高校卒業レベルの学力はついている。LASで徹底的に叩き込まれるからだ。しかし、やはり脳みそという物は使わないと衰えるわけで、月に何度かは授業があった。仕事やら訓練やら戦闘やら授業やら……。まだ子供なのに忙しい奴らである。
やっとのことで講義室の前にたどり着いた稚世。ひとつ深呼吸すると、意を決して中に入った。
「遅れてすみません!!」
ヒュッ……グサッ。
彼女にしては珍しく素直に頭を下げる。それもそのはず、彼らの講師はあの響だ。稚世は、頭を下げたままの体勢で硬直した。彼女の頭上5pの所を、ナイフが通り過ぎた。そしてそのナイフは、背後の壁に突き刺さっている。先ほどの音は、ナイフがすっ飛んできた音だったのだ。(うわぁ……。刃物投げちゃったよこの人……)稚世と響以外の誰もが思ったことだが、誰も口にはしなかった。そんなことを言えば、今度は自分にナイフが飛んで来かねないからだ。
「あぁ? すみませんじゃねぇぞ、コラ。てめぇ、何分遅れたと思ってんだ?」
ナイフを投げ終わったままの姿勢で、響が言った。そんな彼は、いつにも増してお怒りの様子。これはヤバイ。必死に頭を下げる稚世。
「すみません……次からはちゃんと来るんで……」
「当たり前だ。ったく、他の奴らは5分前には来てるっていうのによ……。とにかくさっさと座れ」
響の言うとおり、他の7人のプラダジーはすでに着席している。セルシアは病院が忙しいので欠席だ。稚世は言われたとおり、いつも座っている席に着席する。しかしそこに椅子はなく、机があるだけだ。彼女は車いすなので、椅子は必要ないのだ。
「じゃ、授業を始める。今日はLASの歴史についてやるぞ」
彼らの授業に教科書は存在しない。ノートだけだ。それだけで事足りてしまうのだから、全くすごい奴らである。
「まず、LASが設立した頃について。……稚世、何でもいいから言ってみろ」
案の定というか何というか……。遅れた生徒が最初に当てられるのは必須である。
「はい。今から1000年ほど前、妖魔の存在が明確になったことにより、その対策としてLASは設立されました。当時はプラダジーが所属しているわけはなく、普通の人間によって妖魔は討伐されていました。その頃の名称は“妖魔対策機関”です」
「その通りだ。で、その後はどうなった、ティル?」
「はい。その後、プラダジーという人間の範疇を越える力を持つ者が注目され始めました。これが今から約250年前のことです。そしてプラダジーを導入して、妖魔と戦うようになりました。最初にLAS所属となったプラダジーは、詩です。その頃から、“妖魔対策機関”から“LAS”と呼ばれるようになりました」
「正解。唯斗、LASという名称の意味についてはわかるか?」
「はい。LASは[Lost Article Search]の頭文字を取った物で、直訳すると“落とし物を探して”という意味になります」
「よく知ってたな。つまりお前らは、落とし物を探してるって訳だ。まぁ、お前らの落とし物は特殊だからな。見つけるのは苦労するだろうが……。能力を得た代償にしては、大きすぎると俺は思うがな……」
一瞬で講義室内の空気が重くなった。彼らはそれぞれ、大切な物を無くしている。彼らが得た、人間にしては大きすぎる力の代償として。
「さ、次の講義にうつるぞ。いつまでもシケた顔してんじゃねぇ」
響の言葉で、我に返るプラダジー達。響はその性格のせいで誤解されがちだが、実は笑うとそれなりに好青年に見える。しかし、彼の目はとても鋭い。その目が印象に残りやすいため、そして彼の切れやすい性格のため、ヤクザのように怖い人と思われている。まぁ実際、かなり恐ろしい人なのだが……。もっと笑えば、好感度も上がり、仕事もしやすくなるだろうに……。こびを売らないと言えば聞こえも良いが、ただ単に損な性分なだけだ。
(それにしても……。授業中に生徒に対してガンをつけるのはやめてもらいたいな……)ティルは思わず溜息が出てしまうのだった。
それから約1時間。延々と響の授業は続く。彼の授業において、間違いはタブーだ。響の機嫌が悪くなるからだ。いつだったか、授業中にマジ切れしてしまったことがある。あの時は確か、怪我人が出た。そうならない為にも、彼らは一生懸命予習してくるのだった。
と、不意にチャイムが鳴った。
「よし、今日はここまで。次回は15日後だ。今日の続きから始めるから、しっかり予習して来いよ。それから稚世、次遅れたら容赦しねぇからな。肝に銘じとけ。以上、解散」
響はそれだけ言うと、さっさと出て行ってしまった。彼もまた、LAS会長として仕事が山積みなのだ。
「はぁ〜。やっと終わった〜」
颯夏が伸びをしながら言った。
「そういえば颯夏、今日は遅刻しなかったんだな」
「俺かて、毎回毎回遅刻するわけないやろ〜」
あまり説得力のない言葉である。颯夏は、俗に言う遅刻魔というヤツだ。2回に1回くらいの割合で遅刻してくる。響に容赦なく睨まれるが、それでも彼は平気だ。あのヤクザみたいな会長に睨まれて平気な顔をしていられるのは、颯夏と詩ぐらいだろう。肝の据わった奴らである。
「授業受けると肩こるな……。会長のせいか……?」
「ティル、肩こりには運動が1番だよ。久しぶりに共同訓練しない?」
ティルの呟きに、エリィが返した。
「そうだな……。実践でもエリィと戦うんだし、たまにはやっとかねぇとな……」
「じゃ、行こっか! たぶん訓練室も開いてると思うし」
そうして彼らは、訓練室に向かった。
「颯夏、俺らも久々に戦っとくか?」
「ええけど……詩、また負けてまうで〜?」
単純な力の差で言うと、詩は颯夏に敵わない。しかし頭脳で戦った場合には、詩が圧勝する。それは長く生きた分だけ、知識が豊富だからだ。
「はは……。あんまり調子乗ってると、思わぬミスをするぞ?」
「心配御無用。少なくとも詩には負けへんわ」
なにやら好戦的な会話をしつつ、彼らも講義室を出ていくのであった。
「さぁて、あたしは屋上でもう一眠りするかな〜」
(稚世……最近寝てばっかりだよ? たまには銃の訓練とかしないと……。私も付き合うから、射撃場行こう?)
屋上へと向かいかけた稚世を、瑠璃が呼び止める。
「……えへ。バレた?」
ぺろっと舌を出し、頭をかく稚世。とても可愛らしい。
「しょうがないなぁ……。今日は訓練といくか!」
(本当はもっと頻繁にやるべきなんだけどね……)
瑠璃がぼそっと呟いたが、稚世には聞こえなかったようだ。そして2人は、射撃場へと向かった。
「みんな行っちゃいましたねぇ……」
「僕たちはどうする?」
後に残ったのは、唯斗と心だ。
「そうですね……。訓練は昨日嫌と言うほどしましたし……」
「じゃあ、シェンファの所に遊びに行かない?」
「シェンファですか? 今日も仕事で忙しいと思いますけど……」
「たまには平気だよ! ほら、行こう!!」
心に手を引っ張られ、唯斗は仕方なく行くことにする。そして講義室には、誰もいなくなった。
“訓練室U”と書かれたプレートが貼られた扉。その向こうには、颯夏と詩がいる。2人は一度対戦して、今は休憩に入っていた。第一回戦の勝者は、颯夏だ。
「やっぱり颯夏には敵わないな……」
「喧嘩で負けてもうたら、詩に勝てるもんなくなってまうわ」
「はは、お前頭は悪いもんな〜?」
良いながら、詩は颯夏の頭を撫でる。その手を嫌そうに振り払う颯夏。
「頭撫でるな!」
「あれ? 子供って頭撫でられたら喜ぶもんじゃないか?」
「またそれを言うんか! 俺は、19歳や。子供やない!!」
相変わらず喧嘩の好きな2人である。訓練室Uの室内には、1人の笑い声と、1人の切れ気味の声が響いているのだった。
「シェンファいますか〜?」
いつもシェンファが仕事をしている病室を、ひょっこり覗く唯斗。茂みから顔だけ出した兎みたいだ。
「はい……って、唯斗!?」
「僕もいるよ〜」
「心もですか!? どうしたんです? 怪我ですか?」
まず最初に疑うシェンファ。それもそのはず、この2人はいつもどこかしら怪我をしている。
「いえ、今日は元気です〜」
「遊びに来たんだよー」
「珍しいですね。……ちょっと待って下さい。あと少しでカルテを書き終えますので……」
手元にある白い紙に、なにやら医学用語らしきものを、英語で書き込むシェンファ。とても綺麗な字だ。その紙を棚に置いてあるファイルにとじ、心と唯斗に向き直った。
「お待たせしました。では……お茶でも飲みますか?」
「うん! シェンファのおごりでね」
「ありがとうございます〜」
「……仕方ないですね。行きましょうか」
そして3人は、LAS専門病院内にあるカフェに向かった。
ドンッ…………。
弾丸が、的の中心を射抜く。
「っしゃあ! 真ん中いった!!」
稚世が嬉しそうに指を鳴らした。
(……私の方がたくさん練習してるのに……。なんで稚世の方が上手いのかな?)
「神サマが与えた才能じゃない? あはは〜」
笑いながら稚世は、いつも持ち歩いている愛用の拳銃をくるくると回した。手先が器用なのも、射撃が上手い理由のひとつなのだろう。しかしなんといっても、その天才的な才能だ。稚世の射撃のセンスのよさは、仲間内でも1番である。LASに所属し、初めて拳銃を撃ったとき的の真ん中に命中させてしまった。あれには響も驚いたものである。
「ねぇ〜瑠璃〜。もう1000発以上撃ったし、そろそろ昼寝させてよ〜」
(……しょうがないなぁ。まぁ稚世は、あんまり練習しなくても上手いからいっか……)
「やった! じゃあ瑠璃も一緒に屋上行こうよ!」
瑠璃のさりげない嫌みにも気付かず、明るく誘う稚世。何故こんな少女に、射撃のセンスなど備わっているのだろうか?
(はいはい。そう言えば私、昨日はあんまり寝れてないんだよね……。屋上で一眠りしよっか)
「よし、決まり! 早く行こ〜」
稚世に急かされ、急いで拳銃に弾を込めなおし懐にしまう瑠璃。稚世は既に拳銃をしまっていた。それから2人は、屋上に並んで寝っ転がり、ぽかぽか陽気を浴びながらお昼寝したらしい。
“訓練室X”と書かれた扉の向こう、そこから、何やら硬質なモノがぶつかり合う音が聞こえてくる。ティルとエリィが戦っているのだ。対戦相手は疑似妖魔。機械で精巧に作られた、妖魔との対戦の訓練に使うモノである。それを100体ほど起動し、ティルとエリィの2人で対峙している。すでに60体ほどは動かなくなっていた。
「エリィ、右だ!」
「うん!」
ティルが正確に指示を出し、2人で次々と疑似妖魔を動かなくしていく。
「ちょっと腕なまったんじゃないか?」
「ティルこそ、動きが鈍ってるんじゃない?」
戦いながらも、お互いの欠点を指摘する2人。こうした地道な訓練の甲斐あって、彼らの動きは息がぴったりだ。
それから約10分後。100体ほどいた疑似妖魔は、すべて地に倒れ伏していた。
「よし、終了」
「お疲れさま!」
手をパンッと合わせる2人。勝利したときはいつも、こうして手を叩いていた。
「エリィ、飲むか?」
言いながら、ティルはスポーツドリンクをエリィに投げ渡す。
「ありがと!」
暫くのんびりする2人。しかし、100体もの疑似妖魔を、そのままにしておく訳にはいかない。
「さて、そろそろ片づけるか……」
「あ〜。なんで100体も使っちゃったんだろ……?」
「50体やそこらじゃ訓練にならないだろ?」
「まぁ、そうなんだけど……」
愚痴をこぼしつつ、2人で次々と片づけていく。全部倒すのに20分程かかったのに対し、片づけるのにはもっと長い時間がかかってしまった。全部片づけ終わった所で、2人はもう一度休憩に入った。しかし。
『ピンポンパンポーン。LAS本部内にいる――――』
「お呼び出しのようね……」
「ったく、今度は何だよ……」
文句を言いつつも、彼らは会長の元へと歩き出すのだった。
「で、最近調子はどうですか?」
「怪我も少ないし、元気だよ!」
「僕も割と健康ですね〜」
シェンファはブラックコーヒー、心はオレンジジュース、唯斗はミルクティーを飲んでいる。
「そうですか……。なるべく怪我しないで下さいね」
「「はーい!」」
元気に返事を返す2人。シェンファは満足そうに頷いた。
「そういえば心、何か思い出しましたか?」
シェンファが言っているのは、記憶のことだろう。記憶喪失については、心の主治医はシェンファだ。
「全然駄目〜。何ひとつ思い出せないよ」
「そうですか……。まぁ、忘れたままの方が幸せな記憶だってありますからね。引き続き様子を見ましょう」
「……うん」
思い出さない方がいい記憶。左手首の傷のことを言っているのだろうか? 彼の傷跡の事を知っているのは、シェンファ、セルシア、響くらいだ。2人の会話に、事情を知らない唯斗は頭の上にクエスチョンマークを浮かべている。
「はぁ……。どこか旅行にでも行きたいですねぇ……」
「僕も行きたい! 会長に長期休暇もらってー」
唯斗の呟きに、心も同意する。
『ピンポンパンポーン。LAS本部内にいるプラダジーは――――』
「……長期休暇どころじゃないようですね」
シェンファが冷静に言った。
「うぅ……。今度は何?」
「この間妖魔と戦ったばっかりですよ!?」
「はいはい。文句言わないで、さっさと会長の所に行って来て下さい。俺も仕事に戻りますから」
そして心と唯斗は、半泣き状態で会長室へと歩いて行った。
屋上に2人、寝っ転がっているプラダジーがいる。稚世と瑠璃だ。半分寝ている状態で、ぼーっと会話をする2人。
「平和だねぇ……」
(……うん)
「もう当分は何も起こって欲しくないねぇ……」
(……うん)
「この間妖魔が襲ってきたばっかりだもんねぇ……」
(……うん)
何とも平和ボケした会話である。しかし、そののんびりとした時間は、脆くも崩れ去る。
『ピンポンパンポーン。LAS本部内にいるプラダジーは、すぐに会長室に来い。繰り返す。LAS本部内にいる――――』
「なんだか、そうもいかないみたいだねぇ……」
(……うん)
響の声を遮って、稚世が言った。それに同調する瑠璃。
「行きたくないねぇ……」
(……うん)
「でも、行かないと会長が怖いもんねぇ……」
(……うん)
「はぁ……。しょうがない、行こっか……」
(……うん)
こうして2人は、意識を無理矢理に覚醒させ、会長室へと向かうのだった。
訓練室Uでは、颯夏と詩がまだ喧嘩を続けていた。しかも、口喧嘩だけでは収まらず、殴り合いに発展していた。
「颯夏〜。殴るなんて平和的じゃないぞ?」
「うっさいわ! 仕掛けてきたのは詩の方やろ? 覚悟しい!!」
この2人の喧嘩には妙な方程式のようなモノがあって、颯夏の我慢の限界が超え、手を出せば颯夏が勝つ。颯夏が手を出すことなく、口喧嘩だけで終われば、詩が勝つ。拳が強いか、口が達者かという違いだ。今回の場合、殴り合いに発展しているので、おそらく颯夏が勝つだろう。そう思われた矢先、意外な結末が待っていた。
『ピンポンパンポーン。LAS本部内にいるプラダジーは、すぐに会長室に来い。繰り返す。LAS本部内にいるプラダジーは、すぐに会長室に来い。5分以内に来ねぇと殴る。以上』
2人の動きが止まった。これは、珍しく引き分けとなった訳だ。
「何やねん……。人が喧嘩してる最中に……」
「まぁ、怪我人が出ないで終わったからいいじゃないか。それより、早く行かないと会長に殴られるぞ?」
「なんであいつは、ああもすぐに人を殴るんやろ……」
(お前もだろ……)と詩は思ったが、黙って笑っておいた。いきなりくすくす笑い出した詩を、颯夏は気味悪そうに睨んだだけで、その理由を聞いたりはしなかった。そして彼らも、会長室へと走り出す。
「よし、みんな集まったな……」
放送があってから約4分30秒後。会長室にはプラダジーの9人と響がいた。
「今日は何やねん? また妖魔でも出たんか?」
喧嘩を邪魔され、少し不機嫌な颯夏。誰もが気になっていることを、最初に響に訊いた。
「残念ながら今回は妖魔どころの敵じゃねぇ。お前ら全員でかかっても、敵わないかもしれないような相手だ」
「えぇ……やだなぁ……」
「……そんなの妖魔以外にいるの?」
心と稚世が更に訊く。それに対し、響はいたって普通に応えた。
「いるに決まってんだろ。お前ら自分の力を過信し過ぎるんじゃねぇ」
「……で、今回の敵ってのは、何?」
響の言葉を簡単に受け流し、冷静に核心を突いてきたのは、詩だ。
「あぁ……。お前ら以外のプラダジーだ」
「「………………?」」
誰もが言葉を失う。それもそのはず、彼ら以外のプラダジーと言えば、公にはあと2人しか確認されていない。2人はLASには所属しておらず、個人で妖魔を討伐しながら旅をしている。その2人とも彼らは面識があり、敵にはなりようもない人物である。
(…………え?)
「僕たち以外の……プラダジー……ですか?」
いち早く状況を飲み込んだ瑠璃と唯斗が、言葉を発した。そんな彼らに対し、響は話し続ける。
「そうだ。まぁ、お前らが知ってるプラダジーはここにいる9人とあと2人だけだろうが、世界は広くてな。たった11人ってことはあり得ねぇ。確認されていないプラダジーは他にもたくさんいるって訳だ」
「それで……そのプラダジーに、何で俺達が狙われなきゃならないんですか?」
響に対しては常に敬語を使うティルが言った。
「そんなこと俺が知るか。誰か恨みを買うようなことでもしたんじゃねぇのか? ま、とにかくだ。そいつがLASを襲ってくるという情報が入った。お前らもその心づもりをしとけ。仕事は減らしてやるから、出来る限り訓練に時間を使え。それからエリィ、お前は未来を視て、いつ頃来るのか詳細を伝えろ」
「はい……。会長、施設内で戦った場合などの被害は……」
「許さん」
「…………」
エリィの言葉を途中で遮り、短く言い切った響。これは、施設に傷を付ける訳にはいかなそうだ。
「よし、これから各自準備に入れ。解散」
「「はい!」」
そして、それぞれが動き出した。自らがすべき、備えをするために。
あれから2時間ほどして、プラダジー達は、もう一度会長室へと集められた。響からの招集の放送があったときには、エリィ以外のみんなはすでにそれぞれの準備を終えていた。瑠璃は新しいナイフをそろえ、稚世は愛用の拳銃の掃除をし、セルシアは輸血パックなどの医療品を準備し、ティルは戦闘服に着替え、心は能力を最大限使えるようにする為休息を取り、颯夏は隠しナイフをいつも以上にその身に備え、詩は集中力を高める為に瞑想をし、唯斗は怪我で出血しても平気なように前もって輸血をした。
響は、全員の状態を手早く把握した後、この後のことについて、話し始めた。
「……エリィが視た映像によると、後1時間ほどで敵はやってくるらしい。それ以外の詳しいことはわからなかったそうだ。ただ、俺が得た情報から推測するのに、かなりの強敵だ。心してかかれ」
9人は、それぞれ力強く頷いた。
それからおよそ1時間後。LAS本部の前広場に集合した8人は、とんでもないモノを見てしまっていた。
「……ねぇ、“アレ”なのかな……?」
「誰がどう見てもそうだろ……」
「えぇ……ヤダなぁ……」
稚世、ティル、心の順番に呟いた。彼らが呆然とするのも当たり前だ。彼らが見たモノとは、大量の妖魔を引き連れてやってくる、ひとつの人影だった。まぁ、人影はとりあえず置いておくとして、その妖魔の量が半端じゃない。この間は50頭やそこらだったが、今回は軽く100頭を越えている。
そして、その大量の妖魔と共に歩いてくる人影は、一人の青年だった。漆黒の短い髪に、真紅の眼と、目立つ容姿をしている。年は10代半ばと言ったところか。ゆっくりと歩いてくるそいつは、顔に笑顔を貼り付けている。明らかに作り笑いだ。
そいつは、8人から10メートルほど離れたところで止まると、軽く一礼し、笑顔で言った。
「初めまして。神に選ばれし者達……」
そいつは、近くにいた妖魔の頭を優しく撫でた。
「神に……選ばれた?」
エリィが、呆然として聞く。みんなは、何を言っているのか理解できない、という顔をしている。
「……何も知らないんだな。そう。君たちは、神に選ばれた特別な人間。人の範疇を越えた、高尚なる存在。そして、この俺、
「……津吹雅玖? お前……プラダジーやな?」
「あぁ。お察しの通り、LASに所属していない、君たちの敵となるべきプラダジーだ」
(……どうして? あなたは何故、私達の敵となるの?)
瑠璃が話しかけると、雅玖は少しだけ驚いた顔をした。誰だって、いきなり心に言葉を送り込まれたら驚くモノだ。
「噂通りだな。なるほど、心に直接送り込む……か」
(……質問に答えて)
「何故君たちの敵になるのかって……? その答えは簡単だろう。俺は、ただ単純に、君たちのことが大嫌いなんだよ」
ニコッと微笑む雅玖。その笑顔に、8人の背筋はぞっとした。恐ろしいまでの憎悪が込められた、笑み。それは、見る者を凍らせるような力を持っていた。
「全く、困ったよ。せっかくこの間、妖魔を送ったのに皆殺しだし。ま、あれくらいの数で君たちを殺せるとは思っていなかったけどね。それに俺は、妖魔を手なずけるのは慣れてるからな。いくらでも補充可能って訳だ」
「……やっぱり、お前の仕業だったのか…………」
雅玖と、それから詩の言葉に、みんなは驚く。
「詩、どういう事ですか!?」
「だいたい、おかしいと思っていたんだ。いきなり妖魔がLASを襲ってくるなんてな……。それにあんな集団で。誰かの差し金じゃないかと思ってたんだが……まさかプラダジーだったなんてな」
雅玖を睨み付けたままで、詩は言った。驚く彼らを見て、雅玖は声を上げて楽しそうに笑った。
「あはははははは! 流石だな、柳館詩。だてに285年も生きてた訳じゃないんだな」
「まぁ、少なくともお前よりは博識だよ」
詩も笑みを漏らす。いつもの彼とは違う、誰かを嘲笑うような笑顔。その表情を見て、みんなは少なからず恐怖を覚えた。
「だろうな。たかだが16年生きたヤツと、お前を比べたら駄目だな……」
そう言いつつも、雅玖の眼は笑っていた。それが気に入らなかったのか、颯夏が食ってかかる。
「ご託はええから、さっさとかかってこい」
「ふふっ。葉梨颯夏、君はずいぶんと好戦的だな。……いいだろう」
本当に色々な笑い方をする奴だ。最後に彼は、にやりと笑った。そして、右手を軽く上げる。それが、合図だった。妖魔たちは、一斉に8人に襲いかかった。
「あーあ。颯夏が相手をけしかけるから……」
「まとめて戦った方が早う終わってええやろ!」
いつものからかうような笑顔に戻った詩が、颯夏に反論した。言い争いつつも、彼らは戦い続ける。と、詩に一瞬だけ、隙ができた。その隙を見逃してくれるほど、妖魔も甘くはない。妖魔の牙が、詩の左腕に深々と突き刺さった。
「……くっ」
「詩ぁ!!」
遠くで戦っていた稚世が叫ぶ。しかし。
「……残念」
詩は、にやりと笑った。そして、右手に持っていたナイフで、妖魔を斬り付ける。妖魔はすぐに絶命し、詩の左腕から離れた。その腕からは、恐ろしいほどの鮮血が流れ出る。しかしその傷は、すぐに回復し始めた。
もう一度詩が笑い、自らの左腕を胸の前に持ってきて、敵に見せつけた。服はずたずたに切り裂かれ、血に真っ赤に染まっているのにもかかわらず、その腕は傷ひとつ無い綺麗な肌をしていた。
「……俺に、肉体的外傷は通用しない」
詩は、きっぱりと言い切る。これが、彼の能力。恐ろしいほどの回復能力と、不老不死の力。彼の落とし物は、“死”だ。死ぬことが出来ない。その身に傷跡が残ることもない。何度も自殺を図ったが、その傷は体には残らず、心にしか残っていなかった。
「はぁ……心配かけんといてぇな」
颯夏はほっと一息ついた。その背後から、妖魔が襲いかかる。颯夏との距離は、ほとんどない。避けることは不可能だ。だが……。
「……どこを向いとるんや? そこに俺はおらへんで?」
妖魔の鋭い爪は、空を切り裂いた。颯夏の声は、妖魔の背後から聞こえてくる。その一瞬後には、妖魔は血を流しながら倒れていった。
「久しぶりやったし、イメージと1、2pずれとるな……」
今、颯夏が使ったのは、彼の能力。成長というモノと引き替えに得た、テレポートという、信じられない力。彼は、一瞬で空間を移動したのだ。
「颯夏〜。お前、それはこっちの台詞だぞ?」
「悪い。ちょっと油断しとったわ」
そして2人は、また新な妖魔と戦う。
――――バンッ!
突然、何かが叩きつけられるような音がした。
「……がッ!!」
「唯斗っ!」
苦しそうに声を漏らしたのは、唯斗だった。つい先ほどまですぐそばにいた心は叫ぶ。唯斗は、妖魔に殺人的な力で突き飛ばされ、吹き飛んだ。10メートルほど宙を舞ったあげく、高さ5メートルはあろう位置から、地面に叩きつけられた。そんな彼の元へ、心は駆け寄る。
「……唯斗! 唯斗!! 生きてる!?」
「だ……大丈夫です…………」
唯斗は血を吐き出しながら起きあがった。その様子を見て、心の眼には怒りと、殺意が満ち溢れてくる。
「……許さない。殺してやる……殺してやる!!」
心は立ち上がると、すぐに能力を開放する。いつもなら白い光に包まれるその身が、今日は何故か赤い光に包まれた。まるで、彼の怒りを具現化したように。そして……。心の、漆黒の瞳は、深紅に染まった。
「…………心?」
唯斗は、信じられないといった顔で、心を見上げる。その声を無視して、心は駆けだした。いつも以上のスピードで、先ほど唯斗を突き飛ばした妖魔に近づくと、拳で殴りつけた。少しのモーションだったのにも関わらず、その一撃で妖魔は唯斗以上に吹っ飛んだ。しかし、その背後には、すでに心が先回りしている。地面に叩きつけるように、蹴りを食らわせた。それから心は、固執にその妖魔をいたぶった。殴り、蹴り、弾き飛ばし、叩き落とし……。そしてその妖魔は、苦しみながら死んでいった。その姿を一瞥し、心は嘲笑うかのような笑みを見せた。そして、ナイフを取り出すと、他の妖魔に襲いかかる。
「っ……心!」
唯斗が苦しみながらも叫ぶ。どうやら肋骨が折れているらしい。息をしづらい。しかし心は、そんな唯斗のほうを全く見ず、強大なる力をもってして妖魔を薙ぎ倒していく。そんな彼に、妖魔は束になって襲いかかる。
「……遅い。俺をなめてんのか?」
だが、2秒ほどですべてやられてしまう。心が跳躍したかと思うと、次の瞬間には妖魔が2、3頭倒れ伏す。まるでそれは、妖魔よりも邪悪なる、悪魔のように。
突然、心の動きが止まった。彼は見えない力に押さえつけられ、抗おうとするが動けない。
「心! 落ち着いてください!!」
唯斗が大声で叫ぶ。唯斗の右手は、まっすぐに心に向けられていた。心は一瞬だけ、はっとしたような表情をする。心を束縛する見えない力は、唯斗の仕業だった。これが彼の能力。手を触れずに、物体に圧力をかけること。
ゆっくりと、心の眼の色が漆黒に戻っていった。次の瞬間、彼は意識を失う。その場に倒れると、身じろぎひとつしなくなった。しかし、彼を襲う妖魔は、いない。彼の周りには、生きた妖魔はもうすでにいなかった。
そんな心を見つめながら、唯斗はただ呆然とする。
「唯斗! 心が生きてるか確認しろ!」
ティルは戦いながらも、唯斗に叫んだ。その言葉に我に返った唯斗は、少し変な方向に曲がっている足で立ち上がると、ゆっくりと心に近づいていった。
「……心? 返事をしてください……」
心のすぐそばに座り込むと、心に呼びかける。しかし、心は返事をしなかった。唯斗は慌てて心の胸に耳を付けた。かすかだが、心音が聞こえてきた。呼吸もしているようだ。
「ティル! 心は生きてます!!」
「よし。お前らは安全な場所に移動しとけ!」
戦う手は止めず、ティルは叫んだ。そして、唯斗は軋む体に鞭を打ち、心を背負って避難した。
ティルは、今回は珍しく息が上がっていた。いくら身体能力の高い彼でも、この数は多すぎる。しかし、エリィはそこそこ楽そうだった。彼女は、あまり戦闘向きではないはずの能力を駆使し、戦っていた。
(……右)
彼女は左に体を傾ける。すると、妖魔の攻撃が右にきた。そのままの体勢から、いっきにナイフで斬り付ける。彼女が今視ているのは、一瞬後の映像。妖魔が次にどう動くのか視て、それにいち早く対処する。必要最小限の動きで済む為、あまりしんどくはなさそうだ。しかし、ぶっ続けで能力を使うと、やはり体にガタがくる。エリィの場合、眼が痛くなってくる。
「エリィ! あまり無理するな!」
「まだ平気! それよりさっさと倒しちゃお!」
心配して話しかけるティルに対し、エリィは笑顔で返した。あまり彼女に無理をさせない為に、ティルはできるだけ素速く敵を倒していくのだった。
遠くの方では、瑠璃と稚世が戦っていた。瑠璃は相変わらず至近距離で戦い、稚世は遠距離から戦う。瑠璃がナイフを使い妖魔の命を奪うのに対し、稚世は銃を使う。しかし今回は、前回とは少し違っていた。稚世の周りに、たくさんのナイフが“浮かんで”いる。
「行っけぇ!」
稚世が叫び、軽く右手を前に出すと、ナイフは一斉に妖魔めがけて飛んでいった。瑠璃のすぐ横を恐ろしいスピードで駆け抜けるナイフ。それは妖魔に突き刺さり、動きを鈍らせる。そこに瑠璃がとどめを刺していく。稚世の能力。それは、物体を手に触れずに動かすこと。足が動かなくなった変わりに、生物以外の別のモノは動かせるようになった。
(稚世! 次いくよ!)
「あいあいさー!」
瑠璃に言われ、稚世は元気に返事をした。
彼らが戦い初めて約1時間後。LAS本部前広場に生存しているのは、たった9人となった。つまり、妖魔はすべて倒されていた。ちなみに、妖魔の3分の1以上は、マジ切れした心がひとりで倒していた。と、突然寂しい拍手が聞こえてきた。音がしてきた方を振り返ると……。
「……お疲れさま。君たちの能力、素晴らしいな」
雅玖だ。偽善者のような笑顔で、語りかけてくる。
「うっさいわ。あとはお前だけやで? ボコボコにしたるわ……」
「颯夏……切れすぎ」
詩は、颯夏の言葉に冷静に言った。しかし、颯夏の怒りは収まらない。
「はぁ!? 切れてもしゃぁないやろ! 唯斗と心があんな目に遭わされてんで!?」
「まぁまぁ、落ち着けよ。確かに俺は君たちが大嫌いだけど、今日は殺すつもりはない」
「……は? どういうことだ……?」
ティルの問いに、雅玖はにこりと笑い、応えた。
「言ったとおりの意味だよ。今日は小手調べに来ただけだからな」
「ふざけないでよ。このまま帰す訳ないでしょ?」
エリィが鋭く睨み付ける。それにまったく臆することなく、雅玖は笑顔を崩さずに言った。
「はは。まぁ、また近いうちに会いに来るよ。じゃあな」
最後にもう一度笑うと、雅玖の姿は一瞬にして消え失せた。
「あれは……!」
颯夏が絶句する。他のみんなも、唖然としていた。しかし、内心はほっとしていた。かなり力を消費した上、雅玖と戦うとなると、やはりきつい。
「はぁ……とりあえずは、一難去ったか……」
詩が溜息と共に言った。だが、これですべてが終わったわけではない。雅玖はおそらく、もう一度LASに現れるだろう。次こそは、自分たちを殺す為に。
「とりあえず、心と唯斗はセルシアのとこ行かないと……」
稚世が心配そうに呟く。
(2人だけじゃ歩きにくそうだから、私がついて行くね……)
瑠璃はそう言うと、少し離れたところにいる心と唯斗の元へと駆けていった。
「……じゃあ、俺は会長に報告行ってくる」
ティルはみんなに背を向けて歩き出す。しかし、彼は右腕から血を滴らせていた。妖魔にやられたらしい。
「ティル!」
そんな彼を気遣い、詩は呼びかけたが、ティルはそのまますたすたと歩いて行ってしまった。まるで、何も聞こえなかったかのように。
詩は走ってティルに追いつくと、その肩に手を置いた。ティルは振り向く。
「おい。ティル……」
「あぁ……悪い。呼んでたのか?」
詩は軽く頷いた。ティルの表情に、翳りが落ちる。いつもは強い意志の光を宿した、金色の綺麗な眼も、今は哀しみに染まっていた。詩は、気まずそうに言う。
「……俺も悪かった。つい、後ろから話しかけて……」
「気にするな……」
「それより、お前右腕怪我してるだろ? 響のとこは俺が行くから、お前も治療してもらって来い」
「あぁ。悪いな」
そして2人は、別々の方向へと歩き出す。
イタイ イタイ サケブ ココロ。
ニドト ヒラカナイ ココロ ズタズタニ キズツイテ。
ヤメテ ヤメテ ナゲク ココロ。
トザシタ ココロ チヲ ナガス。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
小豆 :ぱんぱかぱーん。毎回恒例☆キャラと質問コーナー!!
瑠璃 :(怪我の為、今回は心と唯斗は欠席だよ……)
セルシア:早く良くなると良いんだけど…………
小豆 :はいは〜い。暗い話は終わりにして、適当にテンション上げて質問いきましょー。
ティル:質問その1〜。雅玖って……何者?
小豆 :ん〜? プラダジー。
颯夏 :……いや。そういうことを聞いとるんやなくて……。
詩 :つまりは、まだ細かいことは言えないって訳だな。
シェン:質問その2〜。最後の“アレ”は何ですか?
小豆 :……私に、その問いに答えろと?
エリィ:えと……とりあえず今は秘密ってことで!
響 :今回はやたらと謎な点が多かったな……。
稚世 :質問その3〜。瑠璃の影が更に薄くなってない?
小豆 :ふふ……。影の薄い主役よりも活躍する脇役=素晴らしい!!
瑠璃 :(……何? その方程式……)
ティル:あいかわらず訳わかんねぇぞ?
エリィ:質問その4〜。“神に選ばれし者達”って?
小豆 :まぁ、それだけ稀少で、孤高な存在なんだよ、きっと。
セルシア:普通の人間として生きたかったわね……。
颯夏 :しゃぁないやん……。諦めようや。
稚世 :質問その5〜。詩は怪我したのに、唯斗みたいに輸血しなくていいの?
小豆 :それはだね……。詩は血の量が減っても、自分で回復できるから大丈夫なのですよ。
シェン:つまり彼の再生能力は、体内も同様という訳です。
詩 :便利だろ?
響 :質問その6〜。心の眼は、一体どうなってんだ?
小豆 :……えへ。
瑠璃 :(またそれ……?)
稚世 :まだ言えないなら、そう言えばいいのに。
小豆 :それより、今回短くなかったと思わない!? 褒めて褒めて!!
響 :……やっと普通になった程度だろ?
颯夏 :それくらいで褒める訳ないやん。
小豆 :……しくしく。
エリィ:はいはい。泣かない泣かない。
ティル:そろそろ次回予告の時間じゃないか?
小豆 :おっと! じゃ、後はみんなに任せた!!
瑠璃 :(心と唯斗の怪我は、大丈夫なのか……?)
ティル:彼らを心配しつつも、颯夏はある疑問を抱いていた。
颯夏 :俺は、その疑問の答えを探しとって……。
シェン:そんな中、LASにある依頼が舞い込んだ。
セルシア:それは、ある地域での異変についてだったのだけれど……。
エリィ:私達【カルミア】は、その任務を会長に任せられる。
詩 :そして、【カルミア】の4人がいないLASで、大変なことが起きた……。
稚世 :次回、僕たちの落とし物。第4話「血を流す悲しみ、旅立つ希望」(変更あり)
響 :お楽しみに。
「あれ? シェンファ?」
「……姉さん?」
「やっぱりシェンファだ! てか、今は“セルシア先生”じゃないの?」
「休憩時間だしね……」
「ふぅん……」
―――――――――――――――――――――――――――――番外編「天才と呼ばれる姉弟」
今2人がいるのは、LAS専門病院の屋上だった。今日は天気が良く、風も心地いい。シェンファがここで景色を眺めていると、後ろの扉が開き、セルシアがやって来たのだった。
「休憩時間になるとよくいなくなってたけど、いつもここにいたの?」
「……まぁね」
つまらなそうに、シェンファは呟く。セルシアの方を向くこともなく、遠くを見つめている。セルシアは、そんな彼の隣りに歩いていき、フェンスに寄り掛かった。ちょうど、2人の向いている方向は真逆になる。
「ここ、好きな場所なの? 確かに気持ちいいよね〜」
「……そうだな」
「もう、そっけないなぁ」
セルシアが苦笑しながら言う。この姉弟は、いつもこの調子だった。昔からずっと、というわけではないが……。
「ねぇ、私達が小さかった頃のこと、覚えてる? 一緒にお父さんの書斎に忍び込んだりして……昔はよくいたずらしたよね」
「あの時は確か……父さんに見つかって、かなり叱られたな」
やはりそっけなくシェンファは言う。幼かった頃の彼の面影は、今はない。彼は、変わってしまった。
「シェンファは泣いちゃって……。いつもお母さんが慰める役だったよね……」
「…………」
シェンファは押し黙った。彼が変わってしまったのは、母親が亡くなってからだった。
セルシアとシェンファの家、スパイラレット家は、医者の家系だった。父親・母親共に医者をしており、自慢の両親だった。しかし……母親は病気になった。医者の不養生とはよく言ったもので、母親は自分の身を省みず、患者の為に無理をし過ぎたのだ。ちょうど、今のセルシアによく似ている。母親の死をきっかけにして、姉弟は人の死の痛みを知った。そして、医者になることを誓ったのである。もう二度と、自分たちの目の前で、人が死ぬことなどないようにと、夢見て。
姉弟は猛勉強した。特に弟の方は、その秀逸な頭脳で次々に知識を吸収していった。弟に負けないようにと、姉は血の滲むような努力をしていた。
そして、姉弟は周囲から、天才だと、言われるようになった。だが、そんなことは姉弟にとって、どうでもいいことだった。とにかく医者になる為に、必死だった。
だが、ある日、姉が落とし物をした。あり得ない力を、手にした。すぐに彼女は日本に行かなければならなくなる。LAS専門病院の院長になる為に。姉よりも早く医師免許を取得していた弟も、一緒について行くことになった。そして、今に至る。
「母さんの話は……もうするなよ」
「ごめん……」
シェンファが、苦しそうに言った。セルシアも、暗い顔になる。雲がゆっくりと動き、太陽を隠した。少しの間だけ、辺りは暗くなる。そしてまた、太陽が顔を出した。
「……ねぇ、シェンファは日本に来たこと、後悔してない?」
唐突に、セルシアが聞く。シェンファは、わずかに考えるようなそぶりを見せた後、頭を横に振った。
「いや。こんな頼りない姉だけじゃ、心配だしな……。俺、もう戻るよ」
シェンファはそう言うと、その場を後にした。後に残されたセルシアは、少しだけ嬉しそうに、そして、悲しそうに微笑んでいた。
「ありがとう……だけど、ごめんね…………」
誰にも聞こえないと知っていながらも、セルシアは呟く。
優しく風が吹き、彼女の髪を揺らしていた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
番外編です。
本編ではないので要注意。
かなり、小豆の趣味に走ってしまいました……。
「8人で共同訓練なんて久しぶりですね〜」
「うん! 最近、個人訓練ばっかりだったもんね!」
(で、ティル。今日は何をするの?)
「会長から聞いてきたんでしょー?」
「あぁ。今日は……シャトルランをする」
「「…………は?」」
―――――――――――――――――――――――――――番外編「みんなでシャトルラン」
話は、約1時間前に響がティルを呼び出したことから始まる。朝っぱらから呼び出されたにも関わらず、文句1つ言わないティルに、響は真面目な顔で言い切った。
「……暇。お前ら何かしろ」
「…………は?」
当然の如く訳が分からないといった顔をするティル。そんな彼をよそに、響は勝手に話を進めていく。
「そうだな……シャトルランにしよう。お前ら、裏のグラウンド空けてやるから、走れ。能力の使用は不可。それから、お前らは20メートルじゃ物足りねぇだろうから、50メートルで」
「ちょ、ちょっと待ってください……。任務とか、仕事とかじゃないんですか?」
我を取り戻したティルは、困惑しつつも聞いた。しかし響は、さらっとこんな事を言う。
「いや、ただ単に俺が暇なだけ。ま、共同訓練って名目にしとくから問題ねぇだろ」
(問題、ありまくりですよ……)そうは思ったが、それを口にすることはできそうにもない。LASにおいて、響の決定は絶対だ。
まぁそんなくだらない理由……もとい、共同訓練という名目で、走らされることになった彼ら。放送で、LAS本部の裏側にあるグラウンドに呼び集められたのだった。
「シャトルランって……あの、小学校や中学校の体力テストでやるヤツ……?」
エリィが呆然として聞く。
シャトルラン。制限時間内に、一定の距離を行ったり来たりする持久力が必要な運動。普通、20メートルの距離を走る。そして、行ったり来たりする制限時間は、だんだんと短くなる。2回連続で制限時間を切ってしまったら、そこで終了だ。
「……あぁ。あのシャトルランだ。今回は、俺らの基礎体力向上を目的とする」
表向きはな。という言葉は、ティルは言わないでおいた。響の暇つぶしとは言えない。みんなのやる気がなくなるし、第一、あとで響に何をされるか分からないからだ。
「……何を考えとるんや? あの阿呆は……」
あの阿呆、というのは、響のことだろう。颯夏がそう言いたくなるのも、分かる気がする。
「あぁ、それから、今回は50メートルでやるからな」
「えぇ!? 嘘!?」
心ががくっと肩を落とす。みんなも似たような反応だ。
「……追い打ちをかけるようで悪いが、制限時間は20メートル用の使うから」
「あの会長……あとで血祭りにあげたる」
「いや。颯夏には無理だろ。逆に殺されるぞ?」
冷静につっこむ詩は、1人だけ余裕の笑みを浮かべている。
そんなこんなで、愚痴を言いつつも響に逆らえるはずもなく、走ることにしたのだった。
「じゃ、スタートするよ〜」
ポチッとな。といった感じで、制限時間を放送するテープを再生したのは、稚世だ。彼女は車いすなので、今回は応援。他の7人は、スタートの合図とともに走り出した。最初からけっこうなスピードを出して走る7人。そうしなければ、50メートルの距離に間に合わない。
そして、あっという間に、100回を越えた。つまり、総距離にして5q。しかし、脱落者はまだいない。かなりすごい奴らである。しかし、流石にきつくなってきたようだ。
「……なんで、私達、こんな、こと、やって、るの、かな?」
(もう、限界かも……)
女子2人は、本当にばてている。エリィは走りながらなので言葉が途切れ途切れだ。
「心……そろそろ止めませんか? また無理をし過ぎると……」
「も、もうちょっとだけ……」
心と唯斗は仲良く並んで走っている。唯斗は、すぐに倒れてしまう心を気遣いながら。心は、自分の限界に挑戦しながら。
その隣で走っているティルは、息は上がっているものの、まだいけそうだ。そしてその向こうで走っている詩と颯夏は……。
「あ〜。……きついわ」
「だったらリタイアしたらどうだ?」
「イヤや。絶対、詩を負かしたる」
「じゃ、俺は颯夏に勝つまで走る」
「それやったら終わらないやん……」
ちなみに、持久走はどちらかというと詩の方が得意だ。突発的な運動や、反射神経などは颯夏の方が上なのだが、持久走だけは敵わない。やはり、体力の差だろうか。なんだかんだ言って、颯夏は8歳の体だ。かなりの努力はしてきたが、限界はある。
その直後、117回でエリィがリタイア。続いて122回で瑠璃、143回で心、146回で唯斗が終了。4人は走り終わった後もぜぇぜぇ言っている。
「お疲れさま〜」
言いながら、稚世がタオルとスポーツドリンクを持ってきてくれた。4人が汗を拭きながら見てみると、残りの3人はまだ走っていた。
(そろそろ限界かもな……。それにしても、ただの会長の遊びなのに、なんで俺マジで頑張ってんだ?)ティルは自分自身に対し、少しの疑問を抱きつつも、やはり真剣に頑張るのだった。
結局ティルは、157回で終了。かなり頑張ってしまった。おそらく最高記録だろう。
しかし、詩と颯夏はまだ走っている。ちなみに、ずっと喋りながら(言い争いながら)だ。よくもまぁ、息が上がらないものだ。
「詩〜? そろそろリタイアしたらどうや?」
「却下」
「それやったら、いつまで経っても終わらないやんか〜」
「お前がリタイアしたら問題ないだろ」
「大ありや!」
「だいたい、持久走くらいでしか颯夏には勝てないんだからいいじゃないか」
「よくないわ! 運動関連では詩に負けたくないんや!」
不毛な言い争いである。
そして、頑張ったのにもかかわらず、やはり颯夏は負けてしまった。颯夏は179回。詩は180回。彼曰く、颯夏に勝つことが目的な為、一回でも多ければそれでいいそうだ。一体、詩が本気を出したら何回いけるのだろうか?
「また……また負けてもうた…………」
落ち込む颯夏。そんな彼を慰めるのは、いつも詩の役目。
「まぁまぁ、他のことでは勝ってるんだし」
「嫌や。頭脳対戦では敵わんから、せめてこれだけは譲れん」
「……とりあえず、共同訓練終了ってことで、解散な」
ティルはそう言うと、そそくさと立ち去ってしまった。他のみんなも後に続く。最後に残った詩と颯夏だけは、言い争い(詩が颯夏を慰め、それに颯夏が反論する)を続けるのだった。
「……会長、共同訓練、終わりました」
「おぉ。ご苦労だったな。だがなぁ……」
ティルは会長室に直行し、訓練終了を告げた。しかし、響はあまり満足していない様子。
「思ったよりつまらなかったな。……よし、今度はフルマラソンやるか? 42.195qで」
「……もう勘弁してください…………」
彼らが響に振り回される日々は、まだまだ続く。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
またもや番外編。
前回とはうって変わり、
お笑いに走りました。
ちなみにこれは、友達からのリクエストで書きました。
ノリノリで楽しく書いてしまった……。
「颯夏〜。キャッチボールしないか?」
「は? なんやねん、いきなり」
「……あ、なるほど。颯夏は女の子だから、キャッチボールなんてしないか……」
「またそれかいな! ……しゃあないなぁ。さっさと行くで」
―――――――――――――――――――――――――――――――番外編「永遠を生きる」
今、2人がいるのはLAS所有のグラウンド。適当に距離をとってキャッチボールをしている。
颯夏が詩に向かって投げた。その球の速さは、尋常ではない。詩は左手でキャッチしようとするが、そのまま後ろにもって行かれそうになる。
「……っと、危ね……。颯夏〜。お前、130qくらい出して投げてるだろ?」
「当たり前やん。俺にとっては普通や」
「……一般人だったら捕れねぇ球だぞ? てか、ヘタしたら怪我する」
「詩は平気やろ〜」
何というか……。端から見たら青春である。又は、仲のいい兄弟がキャッチボール、という風に見えなくもない。しかし、そういう風に見るにしては、弟の投げる球が速すぎる。
「お前、昔野球やってただろ?」
「せや〜。中学までやけどな!」
言いながら、またもや速い球を投げてくる。
「だから危ねぇって! だいたい、まだ子供なのにそんな球投げてたら肩壊すぞ?」
「俺は子供やない! それ以上言うたら殴るで!?」
この2人は、いつも喧嘩ばかりだ。
だけど、心の奥底では、互いを思っている。
これは、そんな2人の本音。
決して表には出さない、本当の気持ち。
『……お前はいつも、冗談みたいにしてしか言わん。
せやから、お前の本当の気持ちが俺には分からへん……。
ずっと、そばで笑っとって欲しい。
お前がとなりにおってくれるんやったら、
俺は8歳のまま、永遠に生きてもかまへん。
そう思っとるんは、俺だけなんやろか……?』
『愛してるよ。誰よりも、何よりも。
お前さえいてくれれば、それでいい。
だけど、大切すぎて……。
また、喪うのが恐くて。
軽くしか言えない。
お前の気持ちだって、俺には分からない。
何度も、何度も、喪った。
俺の永遠の命につき合える人間なんて、いない。
だから、望んではいけないと、わかっていた。
わかっていた、はずなのに……。
ごめん……。
ひとりぼっちの孤独には、勝てなかった。
お前と出会ったとき。
もう、ひとりじゃないと思った。
その想いさえも、罪になってしまう。
だってそうだろ?
“もうひとりじゃない”って、俺が喜んだことは。
お前にとっての不幸でしかないのだから。
俺と同じ、死ねない苦しみを。
お前には味わって欲しくない。
だけど、ずっとそばにいて欲しい。
なんて、矛盾した想いなんだろうな。
……なぁ、お前は、俺と共に永遠を生きてくれるか?』
きっと、2人の想いが、伝わることはない。
だけど、お互いがお互いを求め続ける限りは、
そばにいられるのだろう。
2人は、そんなギリギリのカンケイ。
「……だって、お前まだ19歳だろ?」
「は? 8歳やなくて……19?」
「あれ? 8歳って言ったら怒るんじゃなかったか?」
「それはそうやけど……。なんや、気色悪いな……」
「はは。やっぱり颯夏は可愛いな」
「うっさいわ!」
“お願いやから、ずっと笑っとってや。俺の、となりでな……”
“もう、大切な人を喪うのは、嫌だ……。だから、死なないでくれ……永遠に”
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
ごめんなさい。
また番外編です。
本編書けよ! って話ですよね。
でも、かなり書くの楽しかったです、コレ。
医者になるのが、夢だった。
そのための努力も、たくさんしてた。
……そして私は、落とし物をした。
夢は、叶えることができた……。
だけどこれは、私が望んだ私の未来……?
―――――――――――――――――――――――――第4話「血を流す悲しみ、旅立つ希望」
――――コンコン。
「……ティルじゃねぇな。まぁ、とにかく入れ」
ノックの仕方だけで、相手がティルではないと見抜いた響。やはりこの人は、色々とすごい。
「失礼します」
「……詩か。ちょっと待て」
視線だけ動かして、一瞬だけ詩の方を見る響。どうやらデスクで仕事をしているようだ。詩は黙って、直立不動のまま待っている。
仕事が終わったらしく、響は手を止めて、詩を正面から見据えた。
「ティルはどうした?」
「任務中に負傷した。任務結果の報告は、俺が変わりにする」
きっぱりと言った詩に、響は先を促すような素振りを見せた。
「敵は、妖魔が約100頭と、プラダジー1人。妖魔はすべて倒したが、プラダジーは取り逃がした。施設損傷は無いが、怪我人が出たな。心は能力の使い過ぎで倒れ、唯斗は何カ所か骨折、ティルは軽く腕を切っただけだ。現在、セルシアとシェンファが治療にあたっている。……何か質問は?」
「プラダジーはどんな奴だった?」
「……態度のでかいガキだったな。本名かどうかわからないが、津吹雅玖と名乗っていた。先日の妖魔襲撃も、あいつの差し金だったらしい。能力についてはまだわからないが……少し気になることがあるな。まぁ、それについては俺よりも颯夏に聞いた方がいいだろうから、後からあいつに聞いてくれ」
「わかった。お前はもう帰って良いぞ」
すぐに響は、内線用のマイクに向けて、何やら話し始めた。恐らく、颯夏を呼び出しているのだろう。
「失礼しました……」
マイクに声が拾われないよう気を付けながら、詩は控えめに言い、そのまま会長室を出ていった。
その頃、LAS専門病院は少々慌ただしくなっていた。それもそのはず、重症患者が2人も一度に運ばれてきたのだ。
「シェンファ! とりあえずティルの止血と消毒!!」
「はい!」
「唯斗のレントゲン撮って骨折箇所調べて! 心はすぐに治療室!」
セルシアの指示通りにあたふたと動く看護士や医者達。
「……忙しそうだな」
シェンファに手当てをしてもらいながら、ティルは呟く。その言葉には返事をせず、シェンファは黙々と血の止まった傷跡を消毒する。そしてその上から、包帯を綺麗に巻いた。
「あまり怪我しないように気を付けてくださいね。明日、包帯替えますからまた来てください」
「わかった」
そしてシェンファは、姉を手伝うべく次の仕事に取りかかった。ティルはそっと治療室から出ていった。
「セルシア先生! 錦織さんのレントゲン撮れました」
言いながら、看護士がセルシアにレントゲン写真を手渡した。すぐに光源に貼り付け、骨折箇所を調べていく。
「……肋骨5本、左の尺骨と上腕骨、それから……あぁ! 左足の大腿骨も折っちゃってる……」
「どうやら左側を下にして落下したようですね。……しかし、大腿骨とは厄介ですね…………」
シェンファが、セルシアの後ろからレントゲン写真を覗き込んで言った。そんな彼に、セルシアは写真を見たまま言う。
「……シェンファ、心は任せた。ただの能力の使い過ぎなら、いつもみたいに寝てたら自然と回復するだろうし。なにか外傷があったら連絡して」
「わかりました。……唯斗はどうするんですか?」
シェンファの質問に、セルシアは振り返り、答える。
「肋骨と大腿骨は繋げる。肋骨が肺に刺さっても困るしね。尺骨と上腕骨は……明日繋げる。今日全部繋げたら、たぶん私が倒れるから……」
「……あまり無理しないでくださいね」
そしてシェンファは、心がいる治療室にそそくさと行ってしまった。
治療用のベットの上に、唯斗が横たわっていた。周りには、看護士が数名いる。そこに、セルシアがやって来た。ざっと唯斗の様態を聞いた後、看護士達に告げる。
「……これから肋骨、及び大腿骨を繋げる。尺骨と上腕骨は固定して、明日繋げるから」
「セルシア先生、麻酔はどうしますか?」
「必要ないわ」
看護士の一人の問いに、セルシアは平然と答えた。看護士は多少戸惑いつつも、彼女の指示に従い、麻酔を片づけた。
セルシアは唯斗に近づき、顔を覗き込む。どうやら、気を失っているらしい。
「じゃあ、まずは大腿骨……」
セルシアは両手を翳す。そして……いつものように、その手からは光を放たれ、治癒が始まった。しかし、普段以上に治療時間が長い。大腿骨は太いので、繋げるのが困難なのだ。
「…………ッ」
セルシアの額に、汗が浮かぶ。彼女は少し苦しそうに、片目を細めた。そして、光が消えた。
「……ふぅ。次、肋骨…………」
「大丈夫ですか?」
看護士がセルシアを気遣って聞く。彼女は、笑顔で頷いた。しかし、たくさんの汗をかき、少し息が上がったその姿を見れば、あまり大丈夫でないことは容易にわかる。……だが、おそらく彼女は、誰が止めようとも治療を止めないだろう。セルシアフォーム・スパイラレットとは、そうゆう人間なのだ。
今度は肋骨を繋げる為、能力を開放する。セルシアも、流石にきつそうだ。伸ばした腕が、軽く振るえている。5本の肋骨を次々に繋げていき、やがて光は消えていった。
セルシアは額の汗を拭い、壁にもたれかかった。そうとう能力を使ったのだろう。かなりしんどそうだ。
「……尺骨と上腕骨の固定はお願い。それから、ちゃんと繋がったかレントゲンで確認。あと、打撲が何カ所かあるみたいだから、それも治療しといて…………」
「はい。……歩けますか?」
壁により掛かったまま、セルシアは動かない。顔色もあまりよくないようだ。
「……平気。ちょっと休憩する」
セルシアはよろよろと危なっかしく歩き、治療室を出ていった。
シェンファは、心の診察をしようとして、ある異変に気付いた。
「これは……」
彼が気付いた異変とは、痙攣だった。心の腕や足が、小刻みに振るえている。心は息が荒く、苦しそうだ。
「……筋肉の疲労が原因ですね。血管が縮小するほど、筋肉を使うなんて……」
“心は一体、何をしたのでしょうか……?”そう続くであろう言葉は飲み込み、点滴の針を苦労しながら、心の振るえる腕に入れた。この種の痙攣には、血流の改善や水分摂取が必要である。そのために、点滴で血液内の水分を増やす。
「それなりに鍛えているはずですし、いつもは能力の使いすぎで倒れようとも、痙攣はしなかったのに……何故でしょうか?」
後で姉さんに報告しよう。そう思いながら、彼は立ち上がった。軽く伸びをして、治療室から出て行く。そして、近くにいた看護士に、点滴が終わったら心を病室に連れて行くよう頼んだ。
「……後は、セルシア先生が倒れているかどうかの確認ですね」
彼は、すぐに無理してしまう自分の姉の元へと、急ぐのだった。
会長室の前に、響に呼び出されたプラダジーが立っていた。その人物は、静かに扉をノックする。
「……入れ」
「失礼します……お呼びですか?」
静かに入室してきたのは、颯夏ではなく、ティルだった。
「あぁ。お前、怪我したらしいな? 平気か?」
(……会長が人の心配するなんて珍しいな)そう思いつつ、ティルは答える。
「はい。かすり傷ですから」
「それならいい。【カルミア】の他の奴らはどうだ?」
嫌な予感がする。チームの健康状態を聞いてくると言うことは、任務なのだろうか。
「エリィが能力の使いすぎで眼がズキズキすると言っていましたが、本人曰く寝たら回復するらしいので大丈夫です。心と唯斗は、現在病院で治療を受けていますが、いつ回復するかは分かりません。……あの、もしかして任務ですか?」
「お前もだいぶ勘が良くなってきたな。唯斗と心の治療が終わり次第、任務に出てもらう」
「しかし……【アリウム】に任せるわけにはいかないのですか? 彼らも、病み上がりですぐに任務となると……」
2人のことが心配なティルは、今回怪我人が出なかった【アリウム】に行ってもらいたかった。しかし、響は首を横に振る。
「そういう訳にはいかねぇんだよ。詩と颯夏にはLASにいてもらう必要があってな……」
「……わかりました。それで、任務内容は何ですか?」
響は手元の資料をペラペラとめくり、今回の任務内容を話し出した。
「場所は……聞いたことはあるだろうが、ルーラ村だ。最近、異常なほど頻繁に妖魔が村を襲っているらしい。妖魔から村を守りつつその原因を突き止め、村の治安を回復するのが今回の任務だ」
「ルーラ村……って、あの東の果ての村ですか!?」
「巷ではそう呼ばれてるな……」
(と、遠い……。移動だけですごい時間になりそうだな……)肩を落として落ち込むティル。
「あぁ、それから。2週間以内には帰ってこいよ」
「はい……失礼しました」
ティルはすごすごと出て行った。
「はぁ……」
彼は思わず溜息を漏らしながら、自室へと帰っていくのだった。
雅玖がLASを襲ってから、一夜が明けた。心と唯斗はLAS専門病院に入院。誰もが心身共に疲れ果てていた。
そして約1名、不機嫌な顔をして響の前に立っている人物がいた。
「……俺、まだ寝足りんのんやけど? 今度は何の用やねん」
颯夏だ。彼は朝早く響に呼び出されたのだ。
「良いから黙って質問に答えろ。……あの、雅玖とかいうガキ。お前、あいつのことで何か違和感とか感じなかったか?」
「…………相変わらず情報が早いやん。詩か? まぁええわ……。あいつな、LASから帰るとき、テレポートしよった」
響が驚愕の表情を浮かべる。テレポートは、颯夏の能力だ。その能力と全く同じモノを、雅玖は持っているということなのだろうか?
「……それは確かか?」
信じられないという意味を込めて、もう一度訊く。しかし、答えは同じだった。
「見間違いようもないわ。あの消え方は、テレポート以外の何でもない。俺が言うんやから確かや」
「そうか……。お前、もう帰って良いぞ」
「……あいつの能力について何かわかったら、教えてぇな」
それだけ言うと颯夏は、眠たそうに目を擦りながら会長室を出ていった。そして、もう一度寝る為に帰っていく。
後に残された響は、深い溜息をついた。
「思った以上に厄介な敵だな……」
コンコン――――。
突然、ノックの音がした。
「おう。遅かったな、入れ」
「失礼します……」
言いながら入ってきたのは、詩だった。
「遅くなって悪い。心と唯斗の様子見に行ってた」
「そうか。で、どうだった?」
(響が珍しく他人の心配をしている……。ってことは、あいつらこれから任務だな)ティルと同じような思考回路になっている。そんなことは知る由もなく、詩は答えた。
「いつもならもう目覚めているはずの心が、まだ気を失っているらしい。まぁ、そのうち起きるだろうが……。セルシアは少し心配していたな。唯斗は今日の午後、セルシアに左腕の骨折を繋げてもらうらしい。明後日くらいには2人とも退院できるんじゃないか?」
「そうか……。よし」
(あ。よしって言った。やっぱり任務なんだな……)詩は内心で呟く。しかし、顔色は一切変えなかった。
「それで? 今度は何の用だ?」
一気に本題に入る。あまりここに長居はしたくないというのが本音だ。
「あぁ。颯夏から話を聞いたんだが……。あの雅玖ってガキ、テレポート使ってたらしいな。そこでお前の並はずれた記憶力を頼ろうと思う。確かお前、物心ついたときからの記憶はあるって言ってたよな?」
「あぁ。何一つ間違いなく記憶している。まぁ、俺が記憶した時点で、その事柄が間違っていたら話は別だが……」
さも当たり前のように応える詩。一体、彼の脳内の情報量は、どれだけ膨大なのだろうか?
「それで? ここまで話せば、俺がお前に何を訊こうとしてるのか、だいたい予想はついてるんじゃねぇのか?」
「……まぁな。響が俺に訊きたいのは、“全く同じ能力を持ったプラダジーが、短期間に複数存在するのか”って事だろ?」
詩の答えに、響は軽く頷く。
「お前は相変わらず察しがいいというか、勘が鋭いというか……。聡明だな。で、その問いに対する答えも、もう用意してるんだろ?」
詩は、少しだけ冷ややかに笑った。
「……こういう会話ができる相手は、響だけだな。流石はLAS会長、頭脳明晰って訳か。……問いの答えはだな、“あり得ない”だ」
響は、怪訝そうに片眉を上げる。
「……あり得ない? どういう意味だ、詳しく話せ」
「俺の記憶している限りでは、確かに同じような能力を持つプラダジーはいた。だがな、そいつらがこの世に存在する時間は、かぶることはなかったんだ。先代の奴が死んでから、必ず100年以上は間を開けてから、次世代の奴が産まれてくる。そうして、均衡が保たれていた」
「……ってことは、奴は稀少な例外か?」
響の呟きに、詩は少しだけ考える素振りを見せた後、言った。
「その可能性もある。俺の話はあくまで、俺が産まれてからのことだ。それ以前には、そういうことがあったのかもしれない。だが、もうひとつの可能性もある……」
「あのガキが……別格だってことか?」
響の推測に、詩は同調するように頷いた。
「あぁ。もしかしたら、奴はプラダジーを凌駕する力を持つ、別の存在なのかも知れない。又は、今までにない、特殊な能力を持っているのかも知れない。……どちらにせよ、かなり危険な敵であることには変わりないな」
「そうだな……。ったく、なんだって俺の世代でそんな奴が出てくるんだよ」
響は苛立たしそうにしながら、右手で目にかかるほどに長い前髪をうるさそうに払った。
「はは。煩わしいか? 違う世代の会長に相手してもらった方が良かったのか?」
詩が、相手を試すような笑みをその顔に貼り付け、響に問うた。そんな彼を鋭く睨み付け、響は言い放つ。
「はっ。……おもしれぇ。俺が相手してやるってんだ」
彼の眼差しに、迷いなどなかった。それはまるで、これから始まる何かを楽しむような、そんな眼だった。
響の強い意思を垣間見た詩は、確信した。(なるほど……。だから神様は、雅玖の相手として響を選んだのか)と。そして、こうも思ったのだった。(響になら……見つけられるかも知れない。俺が、“生”という名のしがらみから開放される術を……)それは、幾度も幾度も彼が抱き、その度に裏切られてきた、願い。叶わないと知りつつも、願わずにはいられない、想い。
その頃、屋上で一人、風に髪を揺らしている人がいた。瑠璃だ。彼女は遠くの景色を眺めながら、“あの日”のことを思い出していた。最近のことでもなければ、ずっと昔のことでもない、あの日の記憶。
その日、響とプラダジーの9人が、会長室にいた。(……そう、あの日私達は、チーム名をもらったんだ)瑠璃は思い出す。鮮明に、あの日のことを。
珍しく正装したプラダジー達。少し緊張した面もちで、響の言葉を待っていた。そして、彼はLAS会長としての威厳を放ち、言った。
「柳館詩、葉梨颯夏、神庭瑠璃、新稚世、以上4名に【アリウム】の名を。
スティル・ルカイア、エリィ・キルシェアム、深海心、錦織唯斗、以上4名に【カルミア】の名を。
LAS会長、忽那響の名において命ずる」
「「はい。ありがとうございます」」
そして8人は、そろって礼をした。
「これからバリバリ働いてもらうからな。覚悟しとけよ。……それから、これは蛇足かも知れねぇが、【アリウム】と【カルミア】の言葉の意味、教えといてやるよ」
そして響は、少しだけ楽しそうに笑った。
「【アリウム】は“無限の悲しみ”。【カルミア】は“大きな希望”って意味だ。お前らにピッタリだろ?」
その時瑠璃は、なるほど、よく考えたものだ。と思ったのを、今でもよく覚えている。
(無限の悲しみ…………か)
誰にも届くことのない言葉を、瑠璃は紡ぐ。そして、自嘲の笑みを浮かべるのだった。
あれから5日が経った。ティルの怪我は完全に癒え、他のみんなの疲労も回復した。唯斗はすべての骨がきちんと繋がり、血液量も回復した。心も、いつもより1日遅かったがなんとか目覚め、今は何事もなかったかのようにけろっとしている。そして今日は、【カルミア】がルーラ村に旅立つ日。
ルーラ村はかなり遠いので、まだ太陽も昇っていない、東の空がうっすらと明るくなり出しだような時間に出発しなければならない。
「では……行って参ります」
ティルが代表して響に言った。
「あぁ。さっさと行って、さっさと仕事を片づけて来い」
見送りは、響、瑠璃、稚世、颯夏、詩、シェンファ(忙しくて来られないセルシアの代わり)だ。
「みんな、気を付けて行ってきてね!」
(怪我をしないようにね? 特に心と唯斗)
稚世が言った後、瑠璃は本気で心配する表情で心と唯斗を見ながら言った。
「大丈夫だよ!」
「向こうにはセルシアがいませんし、気を付けますね〜」
「そうそう。セルシア先生からの伝言ですが、“怪我をしたら、とにかく私に連絡を入れるように。特に心と唯斗”だそうです」
表情を変えることなく、淡々とシェンファは伝言を告げる。
「みんなに疑われてるわね……」
半ば呆れているエリィ。
「しゃあないやん。こいつら、いっつも怪我しとるんやし」
「まぁ、早めに帰って来いよ。雅玖がいつ来るかわかんねぇし」
雅玖の名前が出たことで、わずかに空気が重くなった。淀んだ空気を振り払うように、エリィがわざと明るく言う。
「じゃ、行ってくるね!」
そして【カルミア】の4人は、旅立った。
LASを出発した時とはうって変わり、太陽はすでに山の向こうに沈もうとしている。そんな時刻になってやっと、【カルミア】はルーラ村にたどり着いた。
「流石は東の果ての村ね……」
村の入り口で、移動だけで疲れ果ててしまったエリィが呟く。
「ねぇ……。ここ、本当に人が住んでるの?」
「誰一人として見あたりませんけど……」
心と唯斗は、周りを見渡しながら言った。彼らの言うとおり、見渡す限りは人が全くいない。人の気配はそれなりに感じられるが、まだ夜中と言う時刻でもないのに、何故だろうか。
と、向こうから10人くらいの村人がやってくるのが見えた。すべて大人だ。【カルミア】の前までやって来ると、そのうちの1人が一歩前に出る。
「……LASの方々ですな。ようこそ、このような辺境の地までおいで下さいました。私はルーラ村の村長をしております、リドル・セイミンです」
ゆったりとした口調で言ったのは、中老の男性だ。常に笑顔で、暖かい感じのする人だ。笑うと顔にたくさん皺が出来る。ところどころ白髪が交じった短めの黒髪は、綺麗に梳かされていた。
リドルの挨拶に、【カルミア】の4人が返す。
「ご丁寧にありがとうございます。LASから参りました、スティル・ルカイアです」
「……エリィ・キルシェアムです」
「深海心だよ!」
「錦織唯斗です〜」
ティルはリドルをまっすぐ見据え、エリィは軽く会釈をしながら、心は右手を元気よく挙手して、唯斗はにこにことしながら言った。
「プラダジーの方が見えるとは聞いておったが……まさかこんなに若い方々とは」
リドルは若干驚いたような表情をしながら言う。
「どこでも似たようなことを言われます……」
苦笑した後、真面目な表情にかわるティル。
「俺達は、プラダジー4人で構成された【カルミア】というチームです。今回、こちらの村での任務を会長から任されました。ルーラ村の治安を取り戻す為に、尽力いたします」
「ありがとうございます……」
リドルが深々と礼をすると、他の村人も一緒になって礼をした。
「では……詳しいことをお聞かせ願えますか?」
今まで黙っていたエリィが、横から口を挟んできた。リドルは顔を上げてから、彼女に軽く頷いた後、一人の女性に目で合図した。その女性はリドルに軽く会釈した後、一歩前に出る。
「この村での異変については、私からお話しさせて頂きます。……私は、今回皆様のお世話役をさせて頂きます、アンヌ・メイリです」
アンヌは、黒目がちの目がとても綺麗な若い女性だ。その黒髪は、頭の後ろ、低いところで綺麗にひとつにまとめられている。
「後のことは、アンヌにすべて任せておりますので……わからないことなどありましたら、彼女に尋ねてください」
「わかりました」
リドルがにこやかに言い、ティルが頷いた。
「……では、まずはホテルにご案内いたします。お話はそこで……」
アンヌが言って、歩き出した。他の村人は、違う方向へと去っていく。【カルミア】は、アンヌの後をてくてくとついて行くのだった。
ホテルに着いたときには、辺りは真っ暗になっていた。ホテルは、3階建てほどの、小さな建物だった。
【カルミア】の4人以外、泊まり客はいないらしい。あまり広くないロビーのソファーに5人は座り、話の続きをすることとなった。
「アンヌさん、ひとつお聞きしてよろしいでしょうか?」
口火を切ったのは、ティルだ。心と唯斗は、少し眠たそうにしている。
「はい。なんでしょう?」
「……ここに来る途中、村人を全く見かけませんでしたが、彼らはどこに?」
ティルの言うとおり、村には人影が全くなかった。夜とはいえ、はっきり言って異常だ。
「その疑問にお答えするには、まずこの村についてお話しするべきですね……」
目線で先を促すティル。
「ルーラ村は、立地条件などの色々な要素が集まり、昔からよく妖魔に襲われていました。村人達は妖魔に対抗する術もなく、死者を増やすばかりだったそうです。しかし、今から200年ほど前、この村に賢者が現れました。そのお方は、自身を神からの使者だと名乗り、琥珀色に輝く守護石を村人に授けました。“この守護石が、この村を守ってくれるだろう。必ず、この村の中心に置くことだ。少しでもずれたら、この石は力を出すことができない”そう言い残し、そのお方は去りました。村人は、そのお方の言うとおり、守護石を村の中心に安置し、周りを守るように石垣で囲みました。その時から、嘘のように妖魔がルーラ村を襲わなくなったのです」
「その守護石が……村を守ったと?」
アンヌは深く頷き、続きを話す。
「信じられないような話ですが、本当に村に妖魔は来なくなったのです。それからというもの、代々村人はその石を守ってきました。安寧と、平和をもたらしてくれたその守護石を。……しかし、最近何者かによって、その石が盗まれてしまったのです」
「盗まれた……? 一体誰に?」
エリィが驚きつつ、身を乗り出して聞く。しかしアンヌは、首を横に振った。
「わかりません。……一ヶ月ほど前、200年ぶりに妖魔がこの村を襲いました。私達は急いで守護石を確認しに行ったのですが……その時にはもう、すでに石が盗まれた後でした。石垣は全く壊されることはなく、中の石だけが消失していたのです」
「……石垣の中に入ることが可能な人間は誰なの?」
心が眠たそうに目を擦りながら聞いた。すでに時刻は11時を廻っている。
「村人なら誰でも入れます……」
「誰でも……ですか? 不用心ですね」
少し怪訝そうにする唯斗。やはり少し眠たそうだ。
「守護石を盗もうなんて……この村の人が考えるはずがありません。その石が私達を守ってくれているのですから」
「確かに……。ところで、最初の疑問に対する答えは……」
「はい。守護石が盗まれてから、妖魔は再びこの村を襲うようになりました。だから村人達は、極力家から出ないようにしているのです。大人は、生活を営む為、最低限のことをする為に、外へ出ることもありますが、子供は一歩も外へ出ることはありません」
なるほど、と言いながら、ティルは腕を組んだ。少し思案する。そして、口を開いた。
「お話をお聞かせ頂いて、ありがとうございました。……旅の疲れもあるので、今日はこれで」
「わかりました。……私もこのホテルに泊まることになっているので、ご用の時はいつでもどうぞ」
ティルは頷いた後、立ち上がった。続いてみんなも立ち上がる。そして、それぞれの部屋に向かっていくのだった。
「……どう思う?」
ティルがベットの上に座り、腕組みをして聞いた。ここはホテルの一室で、唯斗と心も一緒の部屋だ。エリィは隣の部屋で1人で泊まっている。
「どう思うって、何がですか……?」
「ティル〜。まだお話しするの? 僕眠いよ〜」
今にも睡魔に負けてしまいそうな2人。それに対してティルは、まだ余裕といった感じだ。旅の疲れなどはないのだろうか?
「何って……。守護石とやらを盗んだ犯人だよ。そいつ見付けて、守護石を取り返さないと、この村の治安は回復しねぇんだぞ? つまり、今回はその犯人探しが俺らの任務になるって訳だ」
「そんなのわかんないよぅ〜。だって、村人みんなが犯人の可能性があるんでしょ?」
「……ティル、その話は明日、エリィと4人でしませんか? 僕たちもう限界です……」
そう言うと唯斗は、ベットに倒れ込んだ。続いて心も。すぐに静かな寝息を立て始める。そんな2人の様子に、ティルは軽く溜息をついた後、電気を消した。
次の日の朝。昨晩とは違い、唯斗と心はお目覚めすっきりだ。1番早起きなのはやはりティルで、2人が起きてきた時には、すでに着替えも済ませていた。
「おはようございます〜」
「おはよう!」
伸びをしながら言った唯斗に、心が笑顔で返す。
「やっと起きたか。にしても……2人とも朝は元気だな」
「ティルもおはよう〜」
心はにこにこ顔だ。
「相変わらず朝が早いですね……」
そんな彼に対し、唯斗は少し呆れ顔だった。ちなみにティルは、いつも5時起き。はっきり言って早すぎだ。
まぁこんな感じで、その日は平和に始まったのだった……。
それから3人は、朝食をとる為に食堂へと向かった。すでに来ていたエリィを見付け、一緒のテーブルに座る。
「で、3人とも旅の疲れはどうだ?」
「平気」
「元気いっぱいですよ〜」
「僕も!」
「よし……。今日は石垣を見に行くぞ。とりあえず犯人探しから初めねぇとな……」
適当に食事を済まし、アンヌを探して廊下をうろつく4人。そこへ、後ろから呼びかける声があった。
「皆さん、こちらです」
アンヌだ。3人は振り返ったが、1番前を歩いていたティルは気づくことなく、歩いていってしまう。それをエリィが、彼の袖を掴んで止めた。
「あぁ、アンヌさん。おはようございます。……すみませんが、後ろからは話しかけないでもらえますか?」
ごく普通に挨拶した後、少し謎なことを言うティル。案の定、アンヌは小首を傾げ、不思議そうな顔をした。
「何故ですか?」
「それは…………」
「……ティルはね、耳が全く聞こえないんだよ」
言い淀むティルに変わり、心が言った。その言葉に、アンヌは驚愕の表情を浮かべる。
「でも、昨日は普通に話して……?」
「……読唇術という物を、ご存じでしょうか?」
「読唇術……って、唇の動きを見て何を話しているか想像する、あれですか?」
ティルは頷く。
「俺は、生まれつき耳が聞こえないわけではないので、修得するのにそう苦労はしませんでしたが……。後ろから声をかけられても、気づけないので」
もちろん、これが彼の落とし物だ。聴覚。その代わりに、彼が得たモノとは何なのだろうか?
「アンヌさん、今日は石垣に連れて行ってくれませんか?」
さりげなく話題を変えつつ、ティルはアンヌに聞いた。
「もちろんです。今からでも大丈夫でしょうか?」
「うん! 準備万端だよ〜」
「では、ご案内させて頂きます……」
それから5人で、村の中心にある石垣へと向かった。
石垣に向かう途中、歩きながら、ティルはアンヌにひとつの質問をしてみた。
「……アンヌさん。リドルさんは、どんな方ですか?」
単なる好奇心……なのだろうか。ティルはたまに、何かしら企んでいたりする。アンヌは、その質問にあまり疑問をもつことなく、笑顔で話し始めた。
「とても立派なお方ですよ。2年前、先代の村長であり、リドル様のお父上でもある、ダンテ・セイミン様が亡くなられたのを機に、村長に就任されたそうです。私は、リドル様が村長になられてからこの村に来たので、ダンテ様にはお会いしたことはありませんが……」
「そうですか……」
と、石垣が見えてきた。
「着きましたよ。あれが、守護石を囲んでいた石垣です」
「おっき〜い!」
「ずっと見てると肩が凝りそうです〜」
それは、見上げるほどのドーム型の物だった。ちょうど直径5メートルくらいの球を半分に割り、伏せて置いたような形だ。石だけで作られており、器用に積み上げられている。入り口はひとつだけで、鉄製の頑丈な扉が石垣にはめ込まれるようにしてあった。
「…………つまり、ここが村の中心なのね」
エリィが石垣を見上げながら言う。
「はい。皆さんが宿泊なさっているホテルは、ここからちょうど北の方角にあります」
4人が後ろを見ると、遠くの方に小さくなったホテルが見えた。
「村長のお宅はどちらの方角に?」
「ここからですと、真東に見えますよ」
言いながら、アンヌは東の方を指さした。確かに、立派な建造物が見える。4人は、石垣の周りを調べてみることにした。何か、手がかりはないかと。
そして、約30分後。かなり細かいところまで探したが、これといって何も見つからなかった。
「困りましたね……。これでは、犯人の見付けようがありません……」
「他に何か、手がかりはないのかな……?」
困惑したように話す唯斗と心。
「私達も、守護石が盗まれてから色々と調べたのですが……何も」
5人でどうしたものかと悩む。そこへ突然、西の方から村の男が一人、慌てた様子で走ってきた。
「アンヌ、大変だ! 西に妖魔が出た!!」
その言葉を聞くや否や、【カルミア】は走り出した。真っ直ぐに、西へと。
4人が辿り着いた、村の西端。そこには、20頭くらいの妖魔の群れが。しかし、その大きさが通常よりも大きい。
「皆さん!」
アンヌと男が、後からやって来た。その2人に向けて、ティルは叫ぶ。
「危険です! 近づかないでください!!」
2人は足を止めた。心配そうにこちらを見ている。
「エリィ、心、唯斗。妖魔をこれ以上村へは近づけるな。できるだけ早く倒すぞ!」
「「了解!」」
4人は、一斉に走り出す。その動きに、妖魔達は咆哮を上げた。
ティルはいつの間に取り出したのか、すでにナイフを持っており、それを使っていつものように妖魔を斬りつける。しかし、そう簡単に倒れてはくれない。やはり、大きすぎる。
「3人とも気をつけろ! こいつら、普通とは違う!」
「そんなの見れば分かりますよ!」
叫びながら、唯斗も奮闘している。いつも以上に大きい敵に、唯斗と心の身長は全く足りていない。しかし、跳躍したり、足を狙ったりしてなんとか頑張っているようだ。
ティルとエリィは、2人で協力して妖魔と対峙する。いつもはエリィは援護なのだが、流石に今回は2人とも全力でやらないと倒せそうにない。
「エリィ! お前は右から行け!」
「うん!」
右と左に分かれ、両側から妖魔に斬りかかる。2人がかりでやっと、一頭が倒れた。
――――――ザッ!
何かが、切り裂かれる音がした。とても綺麗な、赤色の液体が宙を舞う。それは、唯斗の左腕から流れ落ちる鮮血だった。しかし、当の本人は、左腕に違和感は感じたものの、それが怪我だとは気付いていない。
「唯斗! 血が……」
心が言って、唯斗はようやく気付いた。
「……いつの間に、怪我をして…………?」
突然、足下がふらついた。出血量が……多すぎる。傷口からは血が溢れ、唯斗の足下にぽたぽたと落ちていく。彼は、立っていることができず、膝をついてしまった。
「心! 唯斗の止血だ!!」
「う、うん!!」
ティルとエリィは2人をかばうようにして立ち、妖魔を近づけないようにする。心は唯斗に駆け寄り、傷口よりも上を、取り出した紐で強く縛り上げた。なんとか血は止まったものの、唯斗は血が足りず、動けそうにない。
「唯斗……」
心は泣きそうな顔をした。そんな彼を安心させようと、唯斗は無理に笑顔を作る。
「……心配しないでください。僕なら平気です」
しかし、まったく平気そうではない。顔は青ざめ、極度の貧血であることが分かる。
「どうして……」
「……心?」
ほとんど聞き取れないような心の呟きに、唯斗は怪訝そうな顔をした。
「どうして、いつも唯斗ばっかり……!!」
その瞬間、心のまわりに光が現れた。能力開放の時の光だ。しかし、その光がまた、赤色に染まっている。
唯斗は朦朧とする意識の中、心の眼を見た。深紅に染まりつつある、それを。雅玖がやって来たあの日に見た、憎悪に満ちたその眼を。
「心! 駄目です!!」
(心を止めなければ……)意識が遠のいてゆく中、ただ一心に唯斗はそれだけを思った。
願いが通じたのか、唯斗の言葉に心は反応した。
「……唯斗。どうしていつも、唯斗は怒らないの……?」
光がゆっくりと、白くなっていく。眼も、漆黒に戻っていった。それを見て安心した唯斗は、ついに意識を失った。
「唯斗……後は、僕たちががんばるから、だから、死なないでね」
気を失った唯斗のそばを離れるとき、心はそっと呟いた。そして、その逸脱した身体能力で、妖魔に襲いかかっていく。能力を開放した今の心にとって、妖魔の大きさなど関係なかった。ただ、無慈悲に、残酷に、薙ぎ倒してゆく。その、絶対的な強さで。エリィとティルは援護にまわった。ここは、心に任せるべきだと判断したのだ。
そして、10分ほどしたときには、20頭ほどいた妖魔は、すべて地に伏していた。そしてもう1人。唯斗も、自らの血にその身を赤く染め、横たわっていた……。
LAS本部には、色々な設備がそろっている。訓練室、グラウンド、病院、研究室、屋内プールなどなど。図書館も、そのひとつだ。広さは500坪ほどもあり、その蔵書量は半端ではない。防音対策のされた個室もあり、研究や勉強を集中して行えるようになっている。
10室ほどある個室のうち、ひとつだけ“使用中”の札が下がっていた。普通、その札が下がっている部屋には誰も入らない。中にいる人を邪魔しない為だ。しかし彼は、迷うことなくその部屋の扉を開けた。
「颯夏、頑張ってるか?」
「……なんや、詩かいな」
その個室を利用していたのは、颯夏だった。彼の周りには、本が散乱していた。どうやら、調べ物をしていたらしい。
「何か分かったか?」
「全然駄目や……。あ〜!! 俺はもともと、勉強するようにはできてないんや! 思いっきり体動かしたい……」
そのまま本の上に突っ伏してしまった。その様子をくすくす笑いながら見ている詩。
颯夏が調べていたのは、もちろん雅玖のことだ。過去に、彼のような特殊な例はないのかと、探しているのだ。
「もう嫌や……」
「はいはい。俺も手伝ってやるから、もうちょっと頑張れ」
そう言われ、渋々文献に手をのばす颯夏。本当に嫌そうだ。
「そんな顔ばっかしてたら、眉間の皺が濃くなるぞ?」
「うっさいわ。俺かて、好きでこんなんやっとるんとちゃうわ……」
あまり元気がない。勉強は肌に合わないようだ。
「そういえば……。聞いたか? 唯斗が怪我したらしいぞ」
「はぁ!? またかいな……」
「出血量が多くてやばいらしいな……。セルシアが大慌てで飛び出してったぞ」
「セルシアが行ったん? それはよっぽどやな……」
そう、よっぽどのことなのだ。セルシアがLAS専門病院を離れることは……。
時はさかのぼること約2時間前。LAS専門病院に、一本の電話が入った。それに出たのは、セルシアだった。
「はい……エリィ? どうしたの?」
書類整理の手を休めることなく、電話に応対する。やはり、彼女はいつも忙しい人なのだ。
「……唯斗が怪我? もう、だから言ったのに……。で、容態は?」
と、そこでセルシアは手を止めた。エリィから唯斗の様子を聞いて、どんどん青ざめていく。
「ちょ……。かなり危険な状態じゃない! 早く輸血しないと半日ももたないわよ! すぐに私がそっちに行くから、それまでなんとかして輸血だけはしといて!!」
そのまま電話を切ると、彼女は病室を飛び出し、ルーラ村へ行く準備を始めた。鞄に医療品やらなんやらを詰め込んでいく。
そして、響に許可をもらい、久しぶりに病院から離れることになった。最後に、シェンファに後のことを頼んで、彼女は飛び出していった。
ルーラ村のとある民家で、唯斗は寝かされていた。この村は小さく、病院などはない。
「エリィ。セルシアは何だって?」
受話器を持ったまま呆然としているエリィに、ティルは聞いた。放心状態から抜け出せないまま、エリィは言う。
「……唯斗、早く輸血しないと、半日で死んじゃうって……。すぐに何とかして輸血してって……」
「え!? 嘘だよね!?」
「何とかって……。俺らにそんなことできるわけ……」
困惑する2人。彼らに、医療器具を扱う技量など、ある訳がない。簡単な応急措置ならできるが、輸血などしたこともなかった。どうすることもできず、うろたえる3人。いくら戦闘では強いと言っても、こういう時にはどうしていいか分からなくなる。しかし、一人だけ冷静な人がいた。
「……ルカイアさん、錦織さんの血液型は?」
アンヌだ。彼女は落ち着き払った声音で聞いてくる。焦りながらも、記憶を掘り起こし、ティルは答えた。
「えと……O型ですけど」
「わかりました。ちょっとどいてください」
アンヌは、唯斗の横にしゃがみ込んだ。そして、自分の鞄から輸血パックを取り出す。全員が驚いて目を丸くしている間にも、彼女は素速い動きで、しかも正確に、唯斗の腕に針を刺し輸血を始めた。
「あの……アンヌさん? ……なんで?」
心はちぐはぐな言葉になりながらも聞いた。それに対し、アンヌはさらりと答える。
「私、医師免許持ってるんですよ。……言ってませんでしたか?」
空気が凍りつく。(聞いてませんよ……)誰もが、村人さえもが、そう思っていた。
「はぁ……とりあえず一安心だな」
「よかった……」
心はふらふらと座り込んでしまった。彼も顔色が悪い。
「深海さん、あなたも休まれるべきです……」
アンヌが心配そうに心の顔を覗き込む。しかし、彼は首を横に振った。
「……僕、唯斗のそばについていたいから」
「心、本当に大丈夫なの? いっつも、能力使った後は寝込んでたでしょ?」
「平気だよ。……今は、唯斗のそばにいる」
こういうところは、かなり頑固である。唯斗の枕元から離れようとしない。何を言っても無駄だろうと判断したティルとエリィは、疲れて眠るまで放っておくことにした。
明くる日。昨晩は唯斗が動ける状態ではなかったので、民家に泊まらせてもらった【カルミア】とアンヌ。
そして、その日の午前中に、セルシアがルーラ村に到着した。
「ティル! 唯斗の様子はどう?」
民家に入ってくるとすぐに、すごい剣幕で聞いてくるセルシア。その迫力に少し圧倒されながら、ティルは答えた。
「運良く医者がいてな……。とりあえず輸血はしてもらった」
「え……。医者……?」
「私です」
セルシアが不思議そうにしていると、アンヌが声をかけてきた。
「……って、アンヌさん!!」
「セルシア、知ってるのか!?」
「知ってるも何も……だって…………」
セルシアがアンヌの方を盗み見ると、アンヌは彼女にだけ見えるようにして、口の前で人差し指を立てていた。極めつけに、“黙っておいて”と、口だけ動かして言っている。
「えと……ちょっとね」
適当に誤魔化すセルシア。ティルは少しだけ疑問に思ったものの、今はそれよりも唯斗だ。彼がいるところに、セルシアを案内する。
部屋に入ってみると、心は唯斗のそばで眠ってしまっていた。そんな彼には、暖かそうな毛布が掛けられている。きっと、エリィが掛けてくれたのだろう。
セルシアは唯斗の診察をしながら、あることを考えていた。(……流石はアンヌさんね。対処が万全だわ。私がわざわざ来る必要は、なかったかも知れない)
「セルシア? 唯斗はどうだ?」
「うん。もう平気みたい。一応、もう1パック輸血して……。それから、傷口は塞いでから帰ることにするね」
「よかった……」
ほっと胸をなで下ろすティル。そこに、エリィがすごい勢いで走り込んできた。
「大変! また、西に妖魔が出たって!!」
「は!? またかよ……。心、起きろ!」
心の肩を揺さぶり、起こそうとしたティルを、セルシアが止めた。
「無理よ。……気を失ってる。無理矢理にして起こしても、心は戦えない……」
「……わかった。エリィ、行くぞ!」
「うん!」
そして、2人だけで西に走り出した。たったの、2人だけで。
「……くそ。昨日よりも多いな」
ティルとエリィが昨日と同じ場所にたどり着いたとき、最初に見たものは、40頭ほどの妖魔だった。昨日と全く同じ種類だ。
「昨日は心がいたからよかったけど……私達だけだったら無理なんじゃ…………」
「それでも……やるしかねぇだろ!」
意を決して、2人はナイフをかまえた。妖魔もこちらに気付いたらしく、牙をむき出しにして威嚇してくる。はっきり言ってしまうと、こちらのほうが不利だ。勝てる確率も、かなり低いだろう。【カルミア】にとって、心と唯斗こそが1番の戦力なのだ。
その場の空気が、張りつめているのがわかる。少しの間、睨み合いが続いた。そして、両者は一斉に動き出した。しかし。
「……な!」
ティルが驚きのあまり声を出す。突然、こちらに向かってきていた妖魔が動きを止めた。そして、仲間同士で殺し合いを始めたのだ。
「…………久しぶりだな」
ぶっきらぼうな、それでもよく通る声が響いた。ティルとエリィは、声がした方を振り向く。そこにいたのは、この世の闇を全て集めて凝縮したような“黒”だった。
「環さん!?」
「………………」
2人が環の登場に驚いている間にも、妖魔達は仲間同士で殺し合っていく。こちらには見向きもしない。しかし、そんな妖魔達の眼は、先ほどまでの好戦的な瞳とは違い、淀んでいた。まるで、自らの意志など、なくなってしまったかのように。
「……これは、環さんが?」
エリィが、妖魔達の悲惨な姿を眺めながら聞いた。環は無言のまま頷く。環の能力。それは、心を操ること。だが、その能力には制限があり、人間の心を操ることはできない。妖魔や、動物だけだ。操られた相手は、環の思いのままである。かなり恐ろしい、あってはならない力。それを持つ環は、昔から迫害を受けてきた。そして、その代償としての彼の落とし物は、“表情”。笑うことも、怒ることも、泣くこともできない。彼が無表情なのは、こういう理由があったからだ。
それから、3人はただ傍観しているだけだった。妖魔が、互いに命を奪い合うのを。
そして、最後に残った一頭は、環が心の呪縛を解いた瞬間、そのまま自害してしまったのだった。
後に残ったのは、妖魔達の残骸。ただ、それだけだ。
「自殺……。後味悪いわね……」
「まぁ、仲間意識の強いヤツなら、当然だろうけどな」
「………………」
少しの間、余韻に浸る3人。しかし、今はそれより他に、するべきことがある。
「ところで……環さん、どうしてこの村に?」
「……最近のここでの異変が気になってな」
「じゃあ、環さんも守護石のことを知って……?」
「ああ」
頷く環。必要最低限しかしゃべらないらしい。一言も発することなく、一日が終わることも珍しくなかったりする。
「来てくれて助かりました。流石に俺達だけじゃ……」
言いながら、ティルは妖魔の残骸を振り向く。そんな彼に、環が珍しく自分から話しかけた。
「ティル……。お前、もう犯人分かっただろ?」
「え!? ティル、そうなの?」
「……環さんは何でもお見通しなんですね」
そして、ティルは歩き出した。彼が導き出した答えからわかった、犯人のもとへと。
光に照らされ、綺麗に輝く海が一望できる丘の上。そこにひとつの墓石と、ひとりの人影がある。その人物は、丘に茂る草の上に座り、読書をしていた。
彼、
孤征が今読んでいるのは、なんと分厚い辞書だった。その辞書のハードカバーだけが唯一、色彩を有している。開かれているページには、“P”が頭文字の単語が連なっていた。
孤征は、丘の上を流れる風に、かき消されてしまいそうな声で呟いた。
「プラダジー。神童、天才児か。はは……あのガキ共はともかく、俺や環はそんな年でもねぇだろ」
孤征は辞書を閉じて立ち上がり、軽く伸びをした。波の穏やかな海を見て、それから墓石を振り返る。白い花が、手向けてあった。
「相変わらず、ここは綺麗な場所だな。なぁ、朱温……」
孤征の顔に、少しだけ寂しさが宿る。だがその表情は、とても優しかった。
それから彼は、左手で1メートル以上はある大剣を鞘ごと持ち上げた。それを背中に背負い、固定する。彼の利き手である左手を伸ばせば、いつでも簡単に鞘から抜けるようにして。
「……久しぶりに、あいつらに会いに行くか」
彼が思い浮かべるのは、自分の同志達。それから孤征は、丘をゆっくり下りていくのだった。
「え? ここって……」
すたすたと歩いていくティルの後を、黙って着いていったエリィと環。そして3人が辿り着いたのは、先ほどいた場所と、正反対の場所。村長、リドルの邸宅だった。
ティルは、迷うことなくその大きな門をくぐり、敷地内に入っていく。
「ねぇ、ティル? ここに、犯人がいるの?」
「……あぁ。俺が全部喋るから、お前は黙っとけよ」
あえてエリィだけに言う。環には何も言わなくとも、無言でいるだろうし、ティルがやろうとしていることもなんとなくわかっているだろうから。
「わかった……」
3人はどんどん進んでいき、建物の中に入った。近くにいた人に、リドルの居場所を尋ねる。その人の話によると、彼は自室にいるらしい。
そして、奥へと入っていき、彼の部屋を見付けた。ティルは、ためらうことなくその扉を叩いた。
「どうぞ」
「失礼します……」
どこかで聞いたような会話だ。だが、“入れ”ではなく、“どうぞ”と言っている辺り、あの人とは丁寧さが違う。それはさておき、3人はリドルの部屋に入った。ティルが一歩前に出て、笑顔で言う。
「リドルさん。守護石を盗んだ犯人、わかりましたよ……」
所変わってここは、【カルミア】不在のLAS本部。その、中庭に面する廊下。そこは、廊下と一応呼んではいるが、中庭との間に隔たりはなく、そのまま中庭へと下りていくことができる場所だ。
そこを並んで歩いている、身長差の激しい2つの影。もちろん、颯夏と詩だ。
「はぁ……。結局なんも、ええ資料見つからんかった……」
「ま、そうだろうとは思ってたけどな」
「せやったら、早う言うてぇな……」
相当疲れたらしい。反論する言葉にも、元気がない。
「……まぁ、見つからんもんはしゃぁないな。こうなったら、気晴らしに訓練するで!!」
颯夏の眼が、めらめらと燃えている。そんな彼を振り返り、詩は聞いた。
「……それって、俺も?」
「当たり前や! さっさと行――――――」
それは、一瞬の出来事。突然、詩の視界から颯夏が消えた。
「颯夏!?」
前方を見ると、何かに突き飛ばされた颯夏が、10メートルほど先で倒れている。危険だと感じた詩は、前に跳躍しながら慌てて振り返った。そこにいたのは……。
「……やぁ。久しぶりだな」
こちらに、笑顔を向けてくる一人のプラダジー。彼の名は。
「……津吹…………雅玖」
詩は驚愕の表情を浮かべながらも、その人物の名を呼んだ。気配もなく、突然そこに現れたそいつは、津吹雅玖。その人だった。すぐに詩の顔から驚きは消え、目が鋭くなる。そんな彼に対し、雅玖はわざとらしく笑い、しかし、極めて友好的に言った。
「覚えててくれて嬉しいよ、柳館詩」
「守護石を盗んだ犯人、わかりましたよ……」
その言葉に、リドルはわずかに眉根をつり上げた。
「ほう……。それで、誰なのです?」
訝しそうな表情はすぐに消え去り、リドルは笑顔を作っている。
「その前に、ひとつお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「……どうぞ」
「この村の名前……。なんでしたっけ?」
笑顔のまま、ティルは聞いた。リドルは少し不思議そうな顔をしながらも、答える。
「ご存じでしょう? ルーラ村ですよ」
「あぁ。そうでしたね。では、“ルーラ”という言葉の意味は、ご存じですか?」
相変わらずの笑顔。エリィは、何を言っているの? という顔でティル見ている。
「いえ……知りませんが。それがどうかしたのですか?」
リドルの問いに、ティルは友好的な笑顔を消し、変わりに嘲笑を浮かべた。
「“ルーラ”は……“支配者”という意味ですよ、リドルさん。……皮肉なものですね」
「ティル! まさか……この人が!?」
それまで黙っていたエリィも、耐えきれずに聞いた。
「あぁ。そういうことだ。こいつが、守護石を盗んだ張本人。……そうだろ、リドルさん?」
リドルに視線を向けると、彼はこちらを睨み付けていた。
「……何故わかった?」
「簡単だ。この村への妖魔の襲撃、俺らが来てから2回あったが、どちらもこの村のちょうど西で起こった。それだけじゃない。この村周辺を調べてみたが、妖魔が襲った痕跡が、“西だけに”いくつも残っていた。何故、妖魔は西からやって来ていたのか。その答えは単純明解だ。“東に、守護石があったから”。その東に位置するのが、この屋敷だ。守護石は村の中心を離れたために、村全体を守るような力は出せなくなっていた。だが、それでも少しは守護の力があったってことだ……」
「……流石は天下のLAS……か」
少しだけの自嘲と、多大な悲しみを含んだ笑みを見せたリドルに対し、ティルは疑問をぶつける。
「何故、あなたがこんなことを?」
「………………」
リドルは黙ってしまった。うつむき、何も言わない。その姿は、とても小さく、哀れに見えた。
「……言え」
そんな彼に、きっぱりと言ったのは環だ。そのたった一言には、とてつもない圧力と、威厳があった。何人も、その言葉には逆らってはいけないような、そんな重みが。
「……君たちにはわからないだろうがな。私は、この村の村長など、やりたくはなかったのだよ。前村長の息子だというだけで、何故このような世界の端で、一生を過ごさねばならない? この村を愛する人が、その役目を担えばいい……。そう、思っていたんだ。私には、他に夢があった。こんなことなど、したくはなかった。だが、村のしきたりに逆らうことなど、できるはずがあるまい? 最初のうちは、仕方なくやっていたよ。だがな……。もう、どうでもよくなったのだよ。この村も、村人も、……我が身も、壊れてしまえばいい。そう、思ってしまった……」
うつむいたままでそこまで喋ると、リドルは両手で顔を覆い、その場に崩れ落ちてしまった。
「……馬鹿ね。村のしきたりだの、家系だの……。そんなの、自分の努力次第でどうにもなるじゃない」
エリィは言いながら近づくと、リドルのそばにしゃがみ込んだ。
「他にも方法はあったはずでしょう? こんな事をする前に、誰かに言えたはずでしょう? それをしなかったあなたは、馬鹿よ。……でも、ここまで追い込まれている、自分たちの長に気付かない村人達も……みんな馬鹿よ」
いつの間にか、エリィは涙ぐんでいた。それを服の袖で乱暴に拭うと、まっすぐにリドルを見据えて、言った。
「どうしようもなかったのかも知れないけど……。あなたのしたことは許されることじゃない。このまま、あなたをLASに連行します」
「……申し訳ない」
ぽつりと、しかし確かに、リドルは応えた。
そんな2人にティルは近づき、聞いた。
「リドルさん、立てますか?」
「……ああ」
リドルはふらふらと立ち上がった。その後ティルは、しゃがみ込んでいるエリィの腕を引っ張って立たせる。
「後は……守護石だけだな」
「…………ティル」
環はぼそっと呟き、何かをこちらに向かって放った。それは、綺麗な放物線を描き、ティルの右手に収まる。彼は環から受け取った物を目の前まで掲げてみる。それは、琥珀色に輝く鉱物だった。
「……奥の部屋で見付けた」
「いつの間に……」
エリィが唖然としている。ティルは、綺麗に輝くそれを、まじまじと見つめる。
「……宝石? まさか!」
ティルは慌てて環を振り返る。環はそんなティルを一瞥した後、部屋のドアの方へ視線を送った。ティルもその視線を追う。そこにいたのは。
「……お察しの通り、それが守護石です」
「アンヌさん!?」
いつの間にか、アンヌが部屋に入ってきていた。彼女を視野に入れたティルは、思わず溜息が出てしまう。(どうしてこう、俺の周りには気配もなく行動する人ばっかりいるんだ……?)
「ねぇ……。とりあえず、その守護石をあるべき場所に返しに行かない? また妖魔が来ても面倒だし……」
「そうだな。……環さん。あなたは、ここにいてくれますか?」
ティルはそう言った後、一瞬だけリドルに視線を移し、また環に戻す。その一連の動作で、環はティルが言いたいことを理解した。(監視をしとけってことか……)環は、言葉には決して出さない。リドルは今、うなだれ、顔も上げようとしない。そんな彼を前にして、言えるはずもなかった。
「……わかった」
環の返事に、ティルは頷きを返すと、エリィと共に村長宅を後にした。
「痛ってぇ……。ったく、あの野郎……マジで蹴り飛ばしやがったな!」
蹴られた腹を片手で押さえながら、颯夏は立ち上がった。
「颯夏! 会長に連絡しろ!!」
「わかっとるわ!」
颯夏は緊急用の無線を使い、会長に連絡を取った。すぐに、一般職員の避難及び、瑠璃と稚世に中庭へ行けという指示が出るはずだ。
「……それにしても。今日は一人か? なめられたものだな」
「せっかく俺が、君たちを殺しに来たのに、万が一妖魔に殺されでもしたら困るだろ?」
にこりと笑う雅玖。しかし、言っていることはかなりブラックだ。
「つまり……今日は俺らを殺しにきたんやな? ちょうどええわ。返り討ちにしたる……」
颯夏がすごい勢いで雅玖を睨み付けた。いつもならあまり迫力もないはずだが、今日は違う。一般人なら、確実に逃げ出してしまうような視線だ。
と、そこに瑠璃と稚世がバタバタと走り込んできた。
(2人とも、大丈夫?)
「ああ。颯夏は蹴られたけど……平気だよな?」
「痛くも痒くもないわ」
まぁぶっちゃけた話、それなりにさっきの蹴りは重かった。まだ、ずきずきとうずいている。しかし颯夏は、それを一切表情には出さない。おそらく、詩にはばれているだろうが。
「で、またコイツなの?」
「……また、はないだろ? 新稚世。せっかく殺しに来てやったのに」
(おあいにくさま。私達に、死ぬ気なんてないわ)
約1名をのぞいてね。とは、言えるはずがなかった。瑠璃の言葉を聞いて、雅玖は本当に残念そうな顔をする。
「それは残念……。まぁ、君たちの都合なんて、どうでもいいんだがな。それよりも、他の4人はどうした?」
「お前なんか、俺ら4人だけで十分や」
言いながら颯夏は、いつも持ち歩いている隠しナイフを取り出す。それを見て、雅玖は嘲笑った。
「ふっ……。それはどうかな?」
刹那。雅玖の姿が消えた。その一瞬後に、彼は瑠璃の左側に現れ、殴りかかってきた。
「瑠璃!!」
間一髪で、瑠璃は左腕でガードした。だが。
(……重い!)
予想以上に雅玖の拳は重く、そのまま右に倒れそうになる。よろめきそうになるのを、瑠璃は足に力を入れ、なんとか倒れないように耐えた。しかし、その努力も虚しく、雅玖に足を払われ、バランスを崩して倒れてしまった。受け身をとる暇もなく、地面に背中を強く打ち付ける。
「…………っ」
瑠璃の口からは、声にすることのできない悲鳴が漏れた。倒れて動けない彼女に雅玖は、容赦なく右の拳を打ち込もうとする。瑠璃は反射的に目をつぶった。しかし、何の衝撃も来ない。代わりに聞こえてきたのは、鈍い銃声だった。
「瑠璃、起きて!!」
稚世だ。稚世が雅玖を狙って弾丸を放ち、それをかわす為に雅玖は瑠璃から少し離れた。瑠璃は急いで起きあがり、雅玖から距離をとる為に跳躍。その間にも、稚世は次々に雅玖を狙って撃つが、ことごとく避けられてしまう。
「……その腕、邪魔だな」
ぼそりと呟くと、雅玖は懐からナイフを取り出し、稚世に投げつけた。すごいスピードで飛んでくるナイフ。しかし、距離がありすぎる。稚世はそのナイフをひょいとかわした。
だが、かわされたはずのナイフが途中で向きを変え、ほぼ真上から稚世めがけて飛んできた。
「くっ……」
稚世の表情が、苦痛に歪む。震える彼女の手からは、愛用の拳銃と、自らの血が落ちる。その右手に、深々とナイフが突き刺さっていた。
「どうして……物体を操る力を……」
左手で傷口を押さえ、雅玖を睨み付ける稚世。かなりの力で押さえつけているが、血が止まる気配はない。それを一瞥し、雅玖は笑った。
(……君たちの能力は、すでにコピー済みだ)
心に、彼の言葉がダイレクトに流れ込んでくる。これは、瑠璃の能力だ。
「なるほど。お前の能力は、プラダジー達の能力のコピー……」
詩が、愕然としながらも言った。その表情を見て、雅玖は楽しそうに、嘲るように笑った。
「……せやから、俺のテレポートも使えたっちゅう訳やな!」
いつの間にか雅玖の背後に移動していた颯夏が、彼に殴りかかった。避けられる距離ではないはずだ。しかし、雅玖はあり得ないような速さで前に跳躍。ギリギリのところでかわした。地面に着地するなり、颯夏との距離を詰める。そして、恐ろしいスピードで殴りかかってきた。ガードする事も叶わず、そのまま颯夏は殴り飛ばされる。その時颯夏は、鈍い音を聞いた。自らの、骨の折れる音を。
「がっ!!」
颯夏は中庭の芝生の上に投げ出された。そのまま勢いを殺すこともできず、芝生の上に軌跡を描いていく。10メートルほど滑り、植え込みの木に当たってようやく止まった。そのまま、動かなくなる。
「くそ……。あのスピードと馬鹿力は、心か……」
(どうしたらいいの……。これじゃ歯が立たない)
瑠璃は、詩にだけ聞こえるようにして言った。颯夏は気を失い、稚世は意識を保つのがやっとな状態だ。勝算など、あるはずもなく……。
「ふふっ。4人で十分じゃなかったのか?」
嫌な笑い方をした後、雅玖は詩に向けてまっすぐに手をのばした。
「!!」
詩の首が、見えない力によって締め上げられていく。これは、唯斗の能力だ。
(……詩!)
詩の異変に気づいた瑠璃は、雅玖に向かって駆けだした。ナイフを構え、雅玖を斬り付けようとする。ナイフの切っ先が雅玖に触れる一瞬前、背後で、ドサリと音がする。詩が倒れたのだ。いくら不老不死とは言え、首を絞められれば意識も失う。しかし、死んではいないはずだ。
瑠璃のナイフは、雅玖の頬をかすめたものの、避けられてしまう。雅玖の頬を、血が一筋だけ流れた。そして、彼の血が一滴、地面に落ちた。それと同時に、瑠璃は腹を蹴り上げられていた。
瑠璃は、地面に崩れ落ちると激しく咳き込み、血を吐いた。
もう、【アリウム】に戦える者は、いなくなった。
「さて……どうやって殺そうか?」
一人だけ、平然とその場に立ち、笑顔を見せる雅玖。引き上げられた右頬には、瑠璃がつけたナイフの傷があった。
ルーラ村の中心。石垣の内部に、ティル、エリィ、それからアンヌがいた。石垣の中は、広い空間だったが、中心に小さな台座があるだけで、他には何もなかった。
「……アンヌさん。あれに、守護石を置くだけでいいんですね?」
ティルが、台座を見据えたまま聞いた。アンヌは静かに頷く。
「はい。あるべき場所に置かれれば、自然と守護の力を発揮してくれます」
「……わかりました」
ティルはゆっくりと、台座に近づいていく。右手には、守護石をしっかりと握り締めて。
ほんの数秒で台座の前に辿り着き、一度深呼吸する。エリィも後方で、息を呑んだ。そして、ティルは腕を伸ばし、台座の中心にある窪みに、そっと守護石をのせた。
途端、すごい光が、守護石から放たれた。耐えきれずにティルは目をつぶる。彼は、空気の流れが変わったことを肌で感じた。(……そうか。この流れが、守護の力……)根拠はないが、ティルはそう確信した。
そして、ゆっくりと目を開き、背後を振り返る。
「これで……任務完了だな」
「うん。……帰ろっか」
エリィは、優しく微笑んだ。
ドンッ…………。
突然の銃声。雅玖の左腕に、弾丸が命中した。
「……くっ」
彼は左腕を押さえ、周りを見回す。そして、ひとつの人影を見付けた。こちらに銃を向け、睨み付けてくるその人は。
「てめぇ……よくも俺の部下をこんなにしてくれたな」
「忽那……響? 何故、LASの会長が……」
「ふざけんじゃねぇぞ! あぁ!?」
驚きのあまり、雅玖に隙ができた。そこに響は、もう一発撃ち込む。今度は、右足に命中した。
「痛……」
雅玖は地面に膝をつく。いつも嫌な笑顔を浮かべるその顔が、今は苦痛に歪んでいた。
「……俺は今、最高に腹が立った。だから死ね」
いつも以上の迫力で、雅玖を睨み付ける響。はっきり言って恐すぎだ。
「……はは。すぐに切れるヤクザみたいな会長……。聞いてたとおりだ。……分が悪いな」
そう呟いた後、彼は姿を消した。
「ちっ……。逃げやがった!!」
苛立たしそうに言うと、響は近くにあった柱を蹴り飛ばした。ゴッ。という鈍い音がした後、柱にはヒビが入ってしまった。いつもは施設に傷を付けるなと言う彼が、自ら傷を付けている。よっぽど腹立たしいのだろう。
「響!!」
と、そこで誰かの声がした。【アリウム】の4人ではないことは、彼らの様子を見れば分かる。ほとんどが気を失っているからだ。だとしたら、その声の主というのは……。
「……孤征。何故ここにいる?」
春日孤征だ。彼は、綺麗な長い白髪を風にたなびかせ、こちらに走ってくる。響のそばで止まると、周りの状況を見て、顔を少しばかり青ざめさせた。
「何故って……。こいつらに会いに来たんだよ。だが……これは何だ? 響、何があった?」
孤征は響をまっすぐに見据える。その視線は、かなりの威圧感を有していた。その威圧に負けることなく、目をそらすこともなく、響は言う。
「……色々とやばい奴に、目つけられてんだ。これは、そいつの仕業だ」
「馬鹿な! こいつらだってそれなりに強いはず……」
言いながら、周りを見わたす。その光景は、酷い有様だった。そして孤征は、首を横に振った。
「……いや、今はそれよりもこいつらの手当てだ。セルシアんとこ連れて行くぞ」
「今は……セルシアがいない」
響はうつむいて言った。その表情は、後悔の念でいっぱいだ。まるで、自分に全ての責任があるかのように。
「は!? ここにいない? ……ったく、本当に何があったんだよ!!」
孤征は苛立たしそうに、自らの前髪を掻き上げた。
ここはLAS本部の中庭。
そこにいるのは、紺と、白。
歴代最高と言われるLAS会長と、世界最強とうたわれる剣士だった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
○次回予告○
怪我人が多く、かなりの損害を受けたLAS。
しかし、響のおかげで、雅玖にも手傷を負わせることができた。
もう一度彼が来る前に、何としても回復しなければならない彼ら。
そして、彼が次にLASを訪れるとき、それが最後のチャンスだという。
その最後の戦いに、弧征や環も巻き込まれて……。
そこでもまた、新事実が発覚する。
次回、僕たちの落とし物。第5話「心の叫びは」(変更あり)
ちなみに、“しん”ではなく、“こころ”と読むらしい。
お楽しみに!
どうも、小豆です。
番外編を書いてみました。
第5話の前に、一息といった感じで……。
ちなみに、遊びに走ってしまいました。
ごめんなさい……。
あれでも響さんはいい人なんです!!
かっこいいんです!!
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
さぁ、今週もやって参りました。
“突撃! 隣のお部屋を拝見!!”
隣の晩ご飯じゃないので要注意。
では、みんなのお部屋にちょっとお邪魔してみよう。
―――――――――――――――――――――――――――番外編「突撃。隣のお部屋を拝見」
「……エリィ、マジでやるのか?」
「やるしかないじゃない。会長の命令だし……」
今、2人がいるのはLAS本部内にある住居区画の廊下。ここには、LASの一般職員やら、プラダジーやら、色々な人が住んでいる。
「あの会長、絶対歪んでる……」
「同感」
そして、2人は何故か困惑していた。それもそのはず、またもや会長に、変なことをやらされる羽目になったのだ。
それは何かというと、一言で言うのならば“お宅訪問”だ。プラダジーのみんな、シェンファ、孤征、環、響の部屋を拝見してみよう。みたいな感じで、ティルとエリィがお邪魔するらしい。
「さてと……まずはここか」
「唯斗と心の部屋ね」
コンコン。
ティルがどこかで見たことのあるような大きなしゃもじを手にし、扉をノックした。
「はーい!」
「どうぞです〜」
中から元気な返事が返ってくる。ティルとエリィは、お邪魔します、などと言いながら、部屋に入った。
まず最初に目に入ってきた物は、大量のぬいぐるみだった。その向こう、うさぎやらくまやらに埋もれるようにして、唯斗と心がいた。
「いらっしゃい!」
心がにこにこしながら言った。それに対し、ティルは呆然として問う。
「……とりあえず聞いていいか?」
「はい。何ですか?」
それに応えたのは、唯斗。こちらも満面の笑みだ。
「ここは、お前らの部屋だよな? ……なんで、ぬいぐるみだらけなんだ?」
顔を青ざめさせたティルは、誰もが抱くであろう疑問をぶつけた。しかし、唯斗と心は一度顔を見合わせた後、さらっと言ってのける。
「なんでって……。だって、可愛いもん」
「癒されますよ〜」
その答えに、ティルはがくっと肩を落とした。
「嘘だろ……おい」
「えぇっと……。じゃ、私達はこれで」
それまで黙っていたエリィが、かなり曖昧な笑みを浮かべて言った。
「また来てくださいね〜」
「ばいばい!」
唯斗と心は、笑顔で手を振ってくる。
「……嘘だ。だって、あいつら男だよな? そりゃ、あいつらは可愛いけど……でも…………」
何やらぶつぶつ呟いているティルを引きずり、エリィはその部屋……否、ぬいぐるみ小屋を後にした。
ティルのショックも癒え、次の部屋の前に辿り着いた2人。
「次こそ、普通の部屋でありますように……」
両手を合わせ祈るティルに対し、エリィは笑みを含んだ口調で言った。
「大丈夫よ。瑠璃に限ってそんなことないって」
そして、扉をノックする。
(どうぞ……)
心に言葉が返ってきた。2人は瑠璃の部屋に入室。
広く、殺風景な部屋だった。唯斗&心の部屋とは全く違い、物がかなり少ない。いや、ほとんどないと言っていいだろう。モノクロ調のその部屋には、必要最低限の物しか置いておらず、生活感が感じられなかった。
「……瑠璃。本当にここで生活してるの?」
(そうだけど……。なんで?)
瑠璃は本当に不思議そうにしている。
「だってお前……。物少なすぎだろ」
ティルに言われ、瑠璃は自分の部屋を見渡した。そして。
(そうかな? 普通にこれだけ物があれば生活できるよ?)
平然と言う。確かに、日常生活を送る上で、困りはしないだろう。だが、16歳の女の子の部屋としては、異常である。
「瑠璃……今度一緒に買い物行こっか?」
見かねたエリィが、瑠璃をショッピングに誘った。それに対し、瑠璃はちょっと首をかしげて応えた。
(いいけど……。エリィ、服でも買いたいの?)
「いや、そうじゃなくてね……」
エリィは自分のこめかみを押さえ、悩み出してしまった。
「と、とりあえず俺らは次の部屋行くから……」
そう言いながら、ティルはエリィの腕を引っ張って瑠璃の部屋から退散した。
「なんでこうも……変な部屋ばっかりなんだ?」
「ただのお部屋訪問なのに……訓練より疲れるわね」
廊下で愚痴をこぼす2人。次に訪れるのは、ティルの部屋。休憩がてら、無難な場所に行くことにしたのだ。
「ま、入れよ」
扉の前に着くと、ティルがさっさと先に入っていった。エリィもそれに続く。その部屋は。
「なんて言うか……。普通の部屋ね」
「……さっきまでが個性的すぎたんだろ」
そう、普通の部屋だった。物も多すぎず少なすぎず、平均的。そして、綺麗に整理整頓、掃除されていた。
「ティルって、自分で掃除とかするの?」
「まぁな」
「ふぅん……。なんだか拍子抜けしたわね」
そう言い、そそくさとエリィは部屋を出て行ってしまった。
次に向かうのは、稚世の部屋。
「ねぇ、どんな部屋だと思う?」
「そうだな……。稚世のことだから、なんか変な物置いてそうだな……」
2人でそんな話をしながら、廊下を歩いていく。
そして、稚世の部屋の前に着いた。他の部屋よりも、扉が僅かに大きい。とりあえずノックをすると、中から返事が返ってきたので2人そろって入室した。と、突然。
「危ない!!」
稚世が叫んだ。ティルは咄嗟にしゃがみ込み、エリィは後ろに跳躍。2人の目の前を、ダーツがすっ飛んでいった。
「ふぅ……。ぎりぎりセーフ。気をつけて入ってきてね〜」
「稚世! 普通に俺らが入ってくるの分かってただろ!!」
ティルが怒りをあらわに怒鳴った。ぶっちゃけた話、本当に危機一髪だったのだ。稚世の投げるダーツが直撃でもしたら、大怪我を負ってしまうことだろう。
「……しかも、ど真ん中命中ね」
エリィがぼそっと呟いた。ティルが振り向くと、ダーツの矢が、的の中心に見事命中していた。ティルとエリィに刺さりそうになった一本意外に、あと3本刺さっていたが、いずれも中心に突き刺さっている。
「流石だな……。って、感心してる場合じゃねぇか」
「ごめん、ごめん。でも、2人なら普通に避けられるでしょ?」
稚世が笑顔で言ってくる。
そして、2人は本来の目的を思い出し、部屋を見渡した。その部屋は、段差が全くない、バリアフリーの造りだった。そう言えば、扉も車いすで楽々通れるように、大きめに作られていた。
「稚世……それは何に使うの?」
エリィが妙な物を発見し、それを指さしながら言った。
「んー? これ? 筋トレだよ!」
稚世が片手でひょいと持ち上げたのは、ダンベル。それも、大きな文字で30sと書かれている。それを片手でいとも簡単に。
改めて部屋を見回してみると、ところどころに筋トレの用具が散らばっていた。そして何よりも。
「お前……部屋の片付けとか、いつ以来してないんだ?」
そう、かなり散らかっている。
「えっと……。2ヶ月くらいかな?」
あはは、と笑って頭をかきつつ、稚世は言った。
「稚世……。後で瑠璃に頼んでおいてあげるわね」
「何を〜?」
エリィの計らいに、稚世は本当に不思議そうな顔をして聞いてきた。
「……はぁ。なんでもない」
エリィは深い溜息をついてしまうのだった。
次に訪れることにしたのは、エリィの部屋。稚世のひとつ隣である。
「どうぞ」
エリィが言い、先に入っていく。ティルはその後に入っていった。
「……お前も普通だな」
ティルが率直な感想を言った。確かに、エリィの部屋はとても普通。掃除も片付けもきちんとされており、エリィのこまめさがうかがえる。
「さっきティルも言ってたじゃない。みんなの部屋が個性的すぎるのよ」
言いながら、エリィはコーヒーを入れた。テーブルに座り、一休みする。
「後は……誰の部屋が残ってるんだ?」
「えっと……。詩、颯夏、セルシア、シェンファ、孤征さん、環さん、会長ね」
「……とりあえず詩の部屋行くか」
1番無難な部屋を選ぶ。孤征や環、響の部屋は想像もつかず、未知の世界と言った感じだ。
「さて、それじゃそろそろ行くか」
ティルが言いながら立ち上がり、エリィもそれに続くのだった。
コンコン。
詩の部屋の扉をノックする。
「どうぞ」
中から声が聞こえてきた。2人は部屋に入室。
まず最初に思うことは……。
「足の踏み場が……ない」
ティルが思わず呟く。そう、全くと言っていいほど、足の踏み場がない。稚世の部屋以上に散らかっているのだ。大量の本やら辞書やらノートやら資料やらが、床に散乱している。
「詩……。ここでどうやって生活してるの?」
「心配ない。基本的にここには、昼間しかいないから。本読んだりとか、勉強とかはここでしてる。目に見える範囲に全部置いてないと落ち着かなくてな。寝泊まりは颯夏の部屋」
「あ、そうなの……」
言いつつ、詩は勉強中だったのか、かけていた眼鏡をとった。そして軽く伸びをする。
「お前ら、もう颯夏の部屋行ったか?」
「いや、この次」
ティルが応えると、詩はにやっと笑った。
「じゃ、俺も行く」
そして3人で、颯夏の部屋に向かうことになったのだった。
颯夏の部屋は、詩の部屋からあまり遠くはなかった。
ノックをすると、中から声が返ってきた。
「ん〜何や? とりあえず入りぃ」
3人は部屋に入る。どうやら颯夏は、寝起きらしい。まだ寝ぼけ眼だ。
「あぁ……せやったな。今日はティルとエリィが……。って、詩!?」
一気に目がさえる。颯夏は目を見開き、信じられないものを見るような顔をした。それに対し、詩は軽いノリで挨拶。
「よっ。相変わらず寝ぼすけだな。……あ、そうか。子供はよく寝るのか」
「うっさいわ! お前はわざわざ人をからかいに来たんか!」
喧嘩を始めてしまった2人は放っておき、ティルとエリィは部屋を見渡してみる。とりあえず思うことは。
「……意外と綺麗だな」
「颯夏のことだから、散らかってると思ったのに」
そう、綺麗なのだ。掃除も片づけもきちんとされており、詩の部屋とはまるで違った。その感想に対し、颯夏は喧嘩の合間に話しかけてくる。
「しゃあないやん。詩の部屋があれやもん。俺の部屋まで散らかっとったら、俺ら寝る場所のうなるわ」
「はは。颯夏はいいお嫁さんになるぞ。俺がもらってやろうか?」
「お断りや!!」
そしてまた、言い争いを始める。やはり仲良しの2人だ。
そんな彼らを放置し、次の部屋にティルとエリィは向かうのだった。
「……エリィ、次は誰だ?」
「んーと……。セルシアかシェンファね。どっちから行く?」
「じゃ、シェンファで」
言いつつ、シェンファの部屋に向かい廊下をどんどん進んでいく。彼らの部屋は、LAS専門病院に近いほうにある。いつでも駆けつけられるようにとの配慮だ。
そして、病院に近い方から2番目の部屋、つまりシェンファの部屋に辿り着いた。
「シェンファ? 入るぞー」
「どうぞ」
ノックはせず、中に声を掛けるとシェンファの声が返ってきた。中に入った2人が最初に見たモノは、床に散乱する大量の本と紙だった。
「散らかってて悪いな」
勤務時間中ではないシェンファは、普段の喋り口調で言った。
「気にするな。詩よりマシだ」
確かに、詩よりはマシだが、かなり散らかっていることに変わりはない。一番多いのは医療関係の本だ。彼は姉を支える有能な医者でいる為の努力を欠かさない。
「お前……それ以上勉強してどうすんだよ」
「更に上を目指す……かな」
「はは。でかい野望だな」
笑いつつ、ティルとシェンファは会話する。今回エリィは黙っていた。
そしてまた、次の部屋へ行く為にシェンファの部屋を後にする。
「相変わらず仲がいいのね」
廊下で、エリィが呟いた。それに対してティルは、曖昧な返事を返す。
「まぁな……」
次の部屋は、シェンファの隣り。LAS専門病院に一番近い部屋、セルシアの部屋だ。有事の際は、10秒以内に病院へ行くことができる。
今までと同じように、ノックしてから中に入る。
その部屋は、普通に、綺麗に片づいていた。掃除もこまめにしているらしい。常に院長として多忙なはずの彼女は、いつそんなことをしてるのだろうか。
ともかく、彼女の部屋を一言で形容するならば……。
「……ここはどこだ」
「図書室?」
確かに部屋は綺麗に整理整頓されているが、本棚の数が尋常ではない。部屋の面積の大半を本棚が占めている。
「ほら、医学書とか……。色々ね」
セルシアが苦笑いを漏らしながら言った。彼女の言うとおり、本棚にはぎっしりと医学書が詰まっていた。それも、あいうえお順に。
「姉弟そろって勉強熱心ね……」
「人命に関わることだから、手を抜くわけにいかないのよ。私達の性格上もね……」
少し目を伏せ、彼女は淋しそうに言う。こんな時いつも思い出すのは、人一倍真面目で、人を救うことに一生懸命だった母の姿。
セルシアの表情に翳りが落ちたことに気づいたエリィは、一人にしてあげようと思い、ティルの袖を引っ張って部屋から出ていったのだった。
次に向かうのは、いよいよ響の部屋だ。
「俺ら、生きて帰れるだろうか?」
「大丈夫…………だと思うけど……」
顔に不安をあらわにした表情を貼り付け、2人は響の自室の前に立つ。
「……行くぞ」
妖魔に立ち向かうときのような真剣な声で、ティルは言った。エリィも静かに頷く。
コンコン。
「入れ」
「失礼します……」
お決まりの会話だ。まずティルから入っていく。エリィはその後に着いていった。
まず最初に目に入ったのは、これ以上ないくらい汚い部屋だった。床には物が散乱しており、詩の部屋より酷い状態。部屋の隅には埃も溜まっており、長い間掃除がされていないことがわかる。
「あぁ。お前らか……」
「……会長。ひとつ聞いてもいいですか?」
ティルが引きつった笑顔で言った。
「何だ?」
「この部屋……いつから掃除してないんですか?」
「そうだな、3年くらいじゃねぇか?」
さらっと言ってのけた響。ティルもエリィもいよいよ笑顔を失った。
「掃除をしようとは思わないんですか!? 又は掃除をしてくれる人はいないんですか!?」
「それに、こんな部屋で暮らしてて気持ち悪くないですか!?」
ティルとエリィは思わず叫んだ。それに対し響は、だるそうに応える。
「うるせぇな。別に困りゃしねぇよ。掃除してくれる人間は、いるにはいるんだが……。今は長期任務中でな」
「そうですか……」
なんとなく落胆してしまう。自分たちの尊敬すべき上司が、これだ。その、“掃除してくれる人”に同情しつつ、ティルとエリィはその部屋を後にした。
「……非常に疲れてきたんだが、次は誰だ?」
「んと……。次は孤征さんね」
環と孤征は、LASに所属しているわけではないが、響の計らいでLASにも自室がある。たまにしか帰ってこないので、さぞ散らかっていることだろう。
コンコン。
とりあえずノックしてみる。
「おう。よく来たな」
すると、わざわざ出迎えてくれた。そのまま3人で中に入る。
「悪いな……。だいぶ長いこと帰ってきてなかったから、かなり散らかってんだ」
孤征はそう言うが、思ったほど散らかってもいない。もともときれい好きな人なのだ。
その部屋は、とりあえず大量の本が本棚に収められており、他はいたって普通だった。しかし、部屋の隅に物騒な物が大量にある。それは何かというと。
「……剣?」
「あぁ。50本はくだらねぇな。基本的にこれしか使わねぇが……」
孤征は背中に背負った大剣の鞘を指で指しつつ言った。
「LASはもしかして、故意に個性的な人間を集めているのかしら?」
「ん? 何か言ったか?」
孤征が首を傾げ聞いてくる。エリィは笑って誤魔化しておいた。
さぁ、いよいよラストの環の部屋だ。彼の部屋とは一体……。
「…………何だ?」
部屋に入れもらって開口一番がこれだ。
「いや、ですから……。部屋を拝見してこいと会長に言われて……」
ティルが苦笑を漏らしつつも説明する。
「……そうか」
環はぽつりと呟くと、テーブルのそばにある椅子に腰掛け、ティル達が来たときと同様にまた本を読みだした。ティルは、“勝手に見ていけ”という意味だと解釈する。
その部屋は、綺麗に片づけられており、掃除もつい最近行われたようだった。部屋にはたくさんの棚があり、そこに並ぶのは……。
「……環さん、あの、これは何ですか?」
エリィが引きつった笑顔で環に聞く。彼女が指さしているそれは、瓶詰めにされた怪しげな液体。にごった紫色で、沸騰している感じに泡が出ている。
「…………それか? それはな、俺が妖魔の毒にやられて死にそうになったときに、旅先で出逢った遊凪とか言う男にもらった薬だ。確か……“魔女のぐるぐるかき混ぜてる液体君”。と言う名前だったか……」
すらすらと喋る環。珍しく饒舌である。
「……じゃあ、これは?」
ティルが指さしているのは、緑色に輝く鉱物のような物だ。
「それは、俺が昔妖魔に襲われてる村を救ったときにもらった物だ。なんでも、世界にひとつしかない鉱物らしいぞ」
ティルとエリィは、思わず溜息をついてしまう。他にも、棚には怪しげな物がずらっと並んでいるのだった。
「……会長、全ての部屋を訪問し終えました」
「そうか。それで? どうだった?」
会長室に、響とティルがいる。響はデスクに座り、ティルがその前に立つといういつもの位置だ。
「……非常に疲れました。そして、LASには個性的な人間しかいない、という結論に至りました」
「そうか? 至って普通の人間ばかりだぞ」
不思議そうな顔をしている響。本気で言っているのだろうか。
「会長……。もう、変な思いつきで俺達を弄ぶのは止めて下さい」
ティルが真摯な瞳で言う。本当に迷惑しているようだ。
「俺がいつ、お前らで遊んだか? 俺はいつでも大真面目だ」
マジな顔で言ってくる響。ティルは、深い深い溜息をつくのだった。
時々夢に見る、幼い頃の僕は。
顔も見たことのない人達に囲まれて。
笑っている。
だけど僕は、落とし物をしたから。
だから、あの人達が誰なのかわからないよ……。
――――――――――――――――――――――――――――――――第5話「心の叫びは」
帰ってきた。【カルミア】と、セルシアと、環が。
あれから、3人で民家に帰ってみると、心と唯斗はまだ目覚めていなかった。早く帰りたいティルとエリィは、セルシアに2人を治療してもらうことにした。あっという間に2人は快復。セルシアの疲労は溜まったが、そのまま長時間移動しても大丈夫だと彼女は言った。そして、環も久しぶりにLASを訪れることにし、6人で帰ってきたのだった。
とりあえず、帰って来て最初に感じたのは、違和感だった。
「……なんだか、静かですね」
唯斗が始めに言った。そう、静かすぎる。しかし一カ所だけ、騒がしい場所が。それは、LAS専門病院。
「嫌な予感がする……」
セルシアは呟くと、病院の方へと走り出した。彼女が本来、あるべき場所へと。
他の5人も、一瞬顔を見合わせた後、彼女の後に続いた。
「………………」
「わぁ〜。セルシアが環さんみたいになった〜」
病室に走り込み、周りの状況を一目見て、彼女は黙り込んでしまった。それを、心が物珍しそうに言う。
「…………私の」
不意に、セルシアが小さな声で言った。耳のいい唯斗だけがそれを聞き取り、不思議そうな顔をする。
「私のいない間に…………何があったの!?」
すごい剣幕で、セルシアはシェンファに詰め寄った。
「……セルシアが爆発してますー」
これ以上ないほど、わかりやすい表現だ。しかし、今はそんなことを言っている場合ではない。
彼女が怒るのも当たり前。遠路はるばる帰ってきてみれば、重症患者……いや、今にも死にそうな人間が4人もいたのだから。
「落ち着いてください! セルシア先生!!」
周りの看護士達がセルシアの恐ろしさに泣きながら叫ぶ。
「……そうですよ、セルシア先生。今は切れてる場合じゃありません。あなたにしか治せない、死にかけている患者がいるんですから。それに……仲間ですよね? 助けなくて、どうするんですか」
冷静に、淡々とシェンファが言った。その言葉に、セルシアは我を取り戻す。
「そうよね……。死なせるわけにはいかない。その為に、医者になったんだから。……すぐに治療を開始する! 全員、治療室に運んで!!」
いつもの、気丈なセルシアに戻った。そんな彼女を見て、シェンファは一瞬だけ、安堵したような表情を見せるのだった。
「……俺達は邪魔みたいだから、帰ろうか」
おもむろに、ティルが言った。他の4人は頷く。そして、それぞれの自室に帰ろうとした、その時だった。
「……環? お前、どうしてここにいるんだ?」
後ろから、誰かに呼び止められた。みんなは振り向く。そのまま行きかけたティルも、エリィに袖を引っ張られて気付いた。
「孤征さん!?」
ティルは目を丸くした。そこにいたのは、春日孤征、その人だった。
「…………それはこっちの台詞だ、孤征」
環は、いつもの抑揚のない口調で言った。この2人は、並ぶととても対照的だ。白と黒。光と闇。表と裏。そんなところか。
「俺はこいつらに……同胞に会いに来たんだよ。はるばる中国からな。お前は?」
「……ルーラ村で【カルミア】に会ったから、ついでにこっちにも来てみただけだ」
「そうか……。これから響の所に行くから、お前も来い」
「…………ああ」
と、そこまで話した後、孤征は【カルミア】の4人の方を向いた。
「久しぶりだな。ティル、エリィ、心、唯斗。元気だったか?」
「……はい、お久しぶりです」
「元気でしたよ。少なくとも死なない程度には……」
「僕と心は何度か死にかけましたけど……。とりあえず生きてます!」
「孤征さんも元気だった?」
ティル、エリィ、唯斗、心の順番で言った。最後の心の質問に対し、孤征は応える。
「あぁ。怪我も少ないし、それなりに元気だぞ。……じゃ、俺らはLASの会長サマんとこ行ってくるから」
一応様付けしているが、敬意もへったくれもあったもんじゃない。そして2人は、会長室の方へと歩いていってしまった。
「……私達も、自室に帰ろっか」
エリィが言って、4人はそれぞれの部屋に帰っていくのだった。
薄暗い会長室。その中央にあるソファーに座るのは、環と孤征、それに響だ。
しばらく3人とも黙っていたが、不意に孤征がその沈黙を破った。
「……こうして3人そろうのは、どれくらいぶりなんだろうな?」
「…………5年ぶりくらいか?」
環が虚空を見つめながら言った。
「もう、そんなに経つのか……。本当に奇遇だな。3人そろうなんて」
響の言葉に、2人は頷いた。
「……そういえば、響。お前の秘書に会ったぞ」
「…………何人目のだ?」
環の言葉に、響は真面目な顔をして聞いてくる。それに対し、孤征は呆れ顔で言った。
「お前……一体何人に逃げられたんだよ」
「ざっと5人ほどだ」
「…………前代未聞だな。俺が会ったのは、現秘書だ。3年間もよく長続きしてるもんだ」
3年間で長続きとは、一体響は秘書達に何をやらせてきたのだろう。まぁ、彼の性格上、秘書が苦労するのは仕方がないことだが。
「それで? あいつ何か言ってたのか?」
「……もうすぐ帰る、と」
「今度こそ苦労かけすぎで逃がすなよ。あの人は歴代の秘書の中でもトップクラスだからな」
孤征が親切にも忠告してやる。彼がこんな事を言うとは、その秘書とはどれほどすごい人なのだろうか。
「わかってる。あれほど良くできた人間はいないさ。10カ国語がペラペラ、持っているライセンスは数えきることが不可能。特に医者としては医学界の第一人者だ」
やはりすごい人らしい。一体、どんな人物なのだろうか。
と、そこで、扉がノックされた。
「……入れ」
響が少し不機嫌そうに言った。
「失礼します……」
静かな動作で入室してきたのは、一人の女性だった。
「……響様。只今戻りました。長い間LAS本部をあけてしまい、申し訳ございません」
とても丁寧な口調で言ったその人は、響に対して礼をした。
「おう。長期任務ごくろうだったな」
「いえ。響様も私の不在中、真面目にお仕事をされていたようで何よりです」
どうやらこの人こそが、LAS会長、忽那響の専属秘書らしい。
「……それで? 俺達をこの部屋に呼びだしたってことは、何か話しあるんだろ?」
「…………さっさと言え」
孤征と環が、響をまっすぐに見据えて言った。その言葉に、響は軽く溜息をつく。そして、目が鋭くなった。
「あぁ。……悪いが、今LASに起きている非常事態に、巻き込まれてもらう。今LAS……いや、プラダジー達は、ヤバイ奴に目ぇつけられててな……。津吹雅玖ってガキなんだが、こいつもプラダジーだ。何故かLASのプラダジーを嫌っていて、殺そうと企んでいる。真面目な話、そいつがかなりの強者でな……」
「つまり、俺と環に共に戦えと?」
「そういうことだ」
響は言い終えると、ソファーの背もたれに寄り掛かり、腕組みをした。そして、口を開く。
「だが、無理にとは言わない。これは、俺達の問題だ。お前らが嫌だというのなら、こちらに強制することはできない」
そう言うと、響は姿勢を正した。組んでいた腕もほどく。
「…………どうする、孤征」
「どうもこうも……。断る理由はないしな。そして、引き受ける理由はある」
そう言うと、孤征はにやりと笑った。そんな彼を見て、環は小さな溜息を漏らした後、深く頷いた。
「いいだろう。俺は割と、あのガキ共が好きでな。殺されたら困る。……共に戦おう」
「……右に同じ」
孤征が言った後、環は目を伏せて言った。その言葉に、響は深く頷く。
「悪いな。感謝する」
「……それでは響様、会議はいつに致しましょうか?」
それまで黙っていたその女性が、響に聞いた。
「そうだな……。【アリウム】の奴らが快復してからじゃねぇと……。よし、1週間後だ。手配しとけ」
「かしこまりました……」
そして彼女は、会長室を後にした。
「本当に良くできた人だな。だから3年も耐えられたのか」
「…………同感」
孤征の言葉に、環も同意する。それに対し、響はかなり曖昧な笑みを返すのだった。
「シェンファ、みんなの容態。簡潔にね」
LAS専門病院では、セルシアによる治療が開始されていた。
「……はい。詩は酸欠による意識不明。現在酸素マスクによる酸素の供給と共に、意識の回復を待っています。颯夏は骨折が数カ所と打撲、脳震盪です。骨折についてはレントゲンがあるので確認してください。打撲は治療済み、脳震盪は快復し、今は意識ももどっています。瑠璃は内臓破裂。現在輸血を続け、出血を止めようと試みているところです。稚世は腕の裂傷。輸血と止血を施しています。何か質問は?」
カルテを見つつ、シェンファが一気に説明した。彼の話を聞くにつれ、セルシアの顔色は悪くなる一方だ。
「……わかった。稚世の裂傷の縫合はあんたに任せる。詩は引き続き酸素の供給ね。そのうち意識も回復するはず……。瑠璃と颯夏は私が治療する」
言いながら、セルシアは治療室に入っていった。シェンファも、稚世のいる治療室へと急いだ。
まず颯夏のいる部屋に行ったセルシアは、彼のレントゲン写真を眺めていた。手際よく骨折箇所を調べていく。
「肋骨……。それから前腕骨に……」
ぶつぶつと呟くセルシア。周りでは看護士達が慌ただしく準備を始めている。その喧噪の中、すごい集中力である。
「全部で9カ所ね」
レントゲン写真を机に置くと、セルシアは颯夏に近づき、顔を覗き込んだ。
「颯夏? 調子はどう?」
「……どうもこうも。めっちゃ痛いわ。早うなんとかしてくれ……」
呼吸も荒く、汗も大量にかいている。その顔は苦痛に歪み、苦しそうだった。
「わかった。……全身麻酔かけるね」
セルシアが言って、看護士達が動いた。颯夏に、麻酔をかけていく。すぐに彼は、眠りへと落ちた。
「全ての骨折を繋げるからね。みんな、私がもし倒れたら支えて」
そして彼女は、治療を開始する。いつものように両手を翳し、光を放つ。しかし、その光が今日はいつもより大きく眩しい。快復スピードも速かった。そして、あっという間に全ての骨折が繋がる。
「…………っ」
いきなり、セルシアがその場に崩れ落ちた。
「セルシア先生!!」
「大丈夫……大丈夫だから」
そう言いながら、セルシアはふらふらと立ち上がった。次は、瑠璃を治療してなくてはならないのだ。
治療室を出たところで、シェンファと会った。彼女は無理に笑顔を作りつつ、彼に聞く。
「シェンファ、稚世の縫合手術は……?」
「もちろん成功ですよ。……それより、セルシア先生。それ以上は危険です。一度休んで…………」
そこまで言って、彼は口をつぐんだ。セルシアがすごい勢いで、彼を睨み付けている。
「……駄目。それに、何言ったって私が治療を止めないこと、わかってるでしょ?」
彼女はふらふらと、瑠璃がいる……否、瑠璃が待つ治療室へと向かうのだった。
そしてこれは余談だが、瑠璃の治療後、セルシアは倒れてしまったらしい。
飛び起きた。もう朝だ。ふと彼は、自分の姿を見下ろす。すると、たくさん汗をかいていることに気づいた。
「心? どうしたんです?」
突然飛び起きた心を、訝しそうに覗き込んでくる唯斗。ここは、心と唯斗の相部屋。部屋はたくさんあるのだが、2人はなんとなく同じ部屋で寝ている。唯斗は先に起きていたらしい。
「……また、昔の夢をみたの…………」
「覚えていない頃の……ですか?」
「うん……」
そのまま、心は左腕を抱えてうずくまってしまった。そんな彼の頭を、唯斗は撫でてやる。
「大丈夫ですよ。今は、ここに僕がいます。それだけが、現実です」
「…………うん」
と、唯斗はあることに気づいた。心が、自分の左手首を、硬く握り締めていることに。
「心……。駄目ですよ。そんなにきつく握ったら、血が止まってしまいます」
そっと、彼の左腕をとると、手首にからみついた右手をほどいてやる。そして、見てしまった。彼の左手首に残る、傷跡を。
「心!? これは……」
慌てて、唯斗は心の顔を覗き込んだ。そんな彼に対し心は、笑って見せた。眉尻は下がり、今にも泣きそうな顔で。
「見られちゃったね……。ずっと、隠してたのに。唯斗だけには、見られたくなかったのに……。でもね……心配しないで、唯斗。これは、僕が記憶を失う前の。唯斗に、出逢う前の傷跡だから」
目にいっぱい涙をためて。それでも心は、笑顔で言った。
「……心は馬鹿ですよ。こんな傷、ずっと隠していたなんて。……1番最初に、僕に言って欲しかったです」
「ごめんね……」
そして心は、泣きじゃくる。そんな彼を、唯斗は優しく抱きしめてやった。
(ずっと……辛かったですよね。僕に、みんなに、見られないようにするのは……)
自分の腕の中で震える心を想い、唯斗は目に涙を浮かべるのだった。
「……落ち着きましたか?」
抱きしめたままの体勢で、唯斗は腕の中の心に尋ねる。泣き声はだいぶ前から、止んでいた。
「うん。……ありがとう」
そっと、腕をほどいてやる。すると心は、えへへと笑った。
「……どんな、夢だったんですか?」
遠慮がちに、上目遣いで唯斗は聞いた。それに対し、心はちょっと悲しそうな笑顔で話し始める。
「あのね……。この間の夢で、僕と一緒に笑っていた人がいたの。その人に…………殴られる夢だったの……」
心はうつむく。声が震えていた。
「僕……恐い。いつか、記憶が戻るのが恐い。この傷のことを思い出すのが……恐い」
「大丈夫ですよ、心。たとえ思い出したとしても、それは過去です。今は、誰も心を殴ったりしません」
優しい表情で、唯斗は話しかける。心は顔を上げた。涙でぬれた頬を、唯斗は拭ってやった。
「……ありがとう。唯斗は優しいね。……僕、唯斗のこと大好きだよ」
笑顔に戻った心は、明るく言う。
「僕も大好きですよ、心」
そして、2人で笑いあった。心の底から、2人一緒にいれることを喜んで。
「……ねぇ、唯斗のお家はどんな感じなの?」
「僕の、ですか? そうですねぇ……」
遠くを見つめる唯斗。何やらワケありのようだ。
「心には、話してもいいかもしれませんね……。実は僕、家出したんです」
「えぇ!?」
心が目を丸くして驚く。予想していた反応なのだろか、唯斗は苦笑いを返しただけだった。
「……心は、錦織組って知っていますか?」
「知らないけど……何?」
まだ衝撃から抜け出せない心は、呆然として聞いた。それに対し、唯斗はほっと胸をなで下ろす。
「よかったです……。知っていたらどうしようかと思いました」
「その何とか組がどうしたの……?」
心は頭の上にクエスチョンマークを浮かべている。それに対し唯斗は、ちょっと困ったような顔で言った。
「錦織組は、世界の裏側を牛耳る極道です。僕は、その錦織組の跡取りとして、この世に生を受けました。プラダジーとなってからも、それは変わらなかったんですけど……。僕はそれが嫌で、家出してきたんです」
「嘘……。じゃあ唯斗は、いつかその世界に戻って行っちゃうの? 僕、嫌だよ。ずっと一緒にいたいよ……」
必死になって心は訴える。唯斗は、彼を安心ささせるように微笑んだ。
「大丈夫ですよ。僕には弟がいます。幸い、彼は跡取りになることを望んでいたので、僕より適任ですよ」
「本当に……? ずっと、一緒にいてくれるの?」
心はまだ少しだけ、不安そうに聞いた。唯斗は、笑顔で応える。
「もちろんです」
そして2人は、顔を見合わせて微笑むのだった。
あれから1週間が経ち、みんなの傷も癒えた。そして、響主催の会議が開かれることとなった。
だだっ広い会議室に、プラダジーの11人、シェンファ、響がいる。上座に座るのは、もちろん響だ。彼は普段とは違う、真面目な声音で言った。
「これから、津吹雅玖に関する会議を始める。……と、その前に紹介したい人物がいる。入れ」
響がそう言い、みんなが扉に注目した。ゆっくりと扉が開き、入って来たその人物は……。
「アンヌさん!?」
エリィが驚いて声をあげた。他の【カルミア】のメンバーも、目を丸くしている。
「皆さんお久しぶりです。……改めて自己紹介させていただきますね。私はLAS会長、忽那響様専属秘書、アンヌ・メイリです」
そして彼女は、深々と礼をした。
「ルーラ村でお会いした時は驚いたけど……。まさかあなたが、会長の秘書になっていたなんてね……」
呆然として言うセルシアに、シェンファが聞いた。
「セルシア先生、お知り合いですか?」
「シェンファ、よく見なさいよ。医学界の第一人者、アンヌ・メイリさんじゃないの」
言われてシェンファははっとした。そう、彼女は医学界では知らない人がいないくらいすごい人なのだ。
「アンヌには、長期任務としてルーラ村に行ってもらっていた。これからはLASから出ることはほとんどないはずだ」
響に促され、アンヌも議席に着席した。
「どうして最初に言ってくれなかったんですか!?」
ティルが驚きの表情を浮かべて聞いた。それに対して響は。
「正体がバレたら困るだろ。……それより、さっさと会議を開始するぞ」
さらっと受け流してしまった。ティルはガクッと肩を落とす。
「まず始めに言おう。次にあのガキがここを襲う時は、全力で潰す。2回目以降はない。次が最後のチャンスだ。いいな?」
響の問いかけに、みんなは深く頷いた。
「それと、今回は孤征と環にも協力してもらうことになった。お前ら、感謝しとけよ」
響に言われ、みんなはそれぞれに孤征と環に礼をした。
「よし。それじゃあまず、詩。お前の雅玖に対する見解を聞きたい」
そして、詩はすっと立ち上がった。
「……あいつを見ていて、あいつの能力についてわかったことがいくつかある」
開口一番、彼はそう言った。
「流石だな。お前は本当に頭がいい。……詳しく話せ」
「……まず、あいつの能力には制限がいくつかあるってことだ。何故奴は、最初にここに来た時にはテレポートしか使わなかったのか。こうは考えられないだろうか。使わなかったのではなく、使えなかった。つまりあいつは、能力をコピーするのに時間がかかる。テレポートだけはスムーズに逃げる為に、最優先でコピーしたのだろう」
詩はそこで一呼吸おいた。
「せやな……。詩の言う通りに考えればつじつまが合う」
颯夏は腕組みをして呟く。他のみんなも同意した。
「それで? 他に気付いたことは?」
響が聞くと、詩は一度頷いてから話し始めた。
「第二に、奴にはコピーできる能力と、できない能力があるってことだ。又は、彼の意思によってコピーするかしないか決められる。どちらかというと前者の方が確率が高い」
そして詩は、響の方を向き、聞いた。
「響、お前が雅玖のところに駆けつけた時、あいつの頬には瑠璃がつけた傷があったか?」
響は考え事をするような素振りを見せた後、首を縦に振った。
「あぁ。お前の言う通り、確かに傷があったぞ」
その答えに、詩は満足そうに頷いた。
「そう。彼には傷があった。そこから何が分かるのかというと、“俺の能力はコピーされていなかった”という事だ」
「そうか! 詩の能力は恐ろしいほどの快復力。傷が癒えてなかったってことは……」
「雅玖は詩の能力をコピーできなかった。又は、コピーしなかったってことだね!」
ティルの言葉を引き継いで、心が言った。詩はひとつ頷く。
「そういうことだ。そして最後にもうひとつ、奴は俺らの能力をコピーするが、落とし物まではコピーしないってことだ。あいつは瑠璃の能力をコピーしていたにも関わらず、普通に喋っていた」
(確かに……)
「以上。俺が気付いたのはこれくらいだ」
そう言うと、詩は椅子に座った。
「しかし何故……。奴は詩の能力をコピーしなかったんだ? 詩の快復力は戦闘においてかなり便利だぞ?」
響は腑に落ちない様子で言った。それに対し詩は。
「分からない。だから最初に言っただろ? “コピーしなかった”ではなく、“コピーできなかった”の方が確率が高いと」
みんなが悩みだしてしまったので、響はパンッと手を打ち、注意を向けさせた。みんなは響に視線を向ける。
「考えても分からねぇことは悩むな。……本題に入るぞ。まず、雅玖が狙っているのはプラダジー達の命だ。つまり、セルシアや孤征、環にも危険が及ぶだろう。孤征や環はいいとして、セルシア。お前はただの医者だ。戦えねぇだろ」
響はセルシアの方を向いて言った。セルシアは軽く頷く。と、ここまで黙っていたシェンファが不意に立ち上がった。そして。
「……分かりました。俺がセルシア先生の護衛を引き受けましょう。俺なら、医者ですので病院にいても誰も疑いませんし」
「……戦えるのか?」
たった一言。それでも重い響きで。それに対しシェンファは、ひるむことなく応えた。
「はい。こう見えても射撃は得意です」
その言葉に、響は深く頷いた。
「いいだろう。お前ら2人は通常通り専門病院にいろ。そして万が一、雅玖が来たときには戦え」
「はい」
どんどん話が進んでいく中、セルシアが不服の声を上げた。
「ちょ、ちょっと待ってください。シェンファをそんな危険な目に遭わせる訳には……」
言いかけた彼女を、シェンファが片手を挙げて制した。
「セルシア先生、これは俺が決めたことです。黙って従ってください。それに、こういう時の為に俺はわざわざ日本について来たんです。……分かってください」
彼にそう言われてしまっては、セルシアは返す言葉がなかった。
「……よし。セルシアも納得したな。……それでは改めて聞こう。次に津吹雅玖がここを襲う時、本気で戦う気のある者は立ち上がれ」
響はそう言うと、すっと立ち上がった。そして、他のみんなも次々に立ち上がる。13人全員が起立したところで響は大きく頷いた。
「では、誓いを得られたので会議を終了とする。解散」
そして、みんなそれぞれに帰っていった。しかし、ひとりだけ響に呼び止められる。
「……ティル、お前はちょっと残れ」
ティルは不思議に思いつつも、言われた通りに会議室に残る。やがて、会議室は響とティルとアンヌの3人だけとなった。会議室に、沈黙が降り積もる。
その静けさを壊したのは、響だった。
「ティル、悪いが最悪の場合は……、外せ」
訳が分からないといった顔をしているティルに、響は自分の額を人差し指で2回、トントンと叩いた。それを見て、ティルは理解した。一度頷き、口を開く。
「分かりました。……最悪の場合、ですね?」
「あぁ。極力使うな。あれは、お前にとって苦痛でしかないからな」
ティルは伏し目がちに頷いた。そして、会議室を後にしたのだった。
瑠璃はいつかと同じように、LASの廊下をただなんとなく歩いていた。と、向こうの方にひとつの人影を見付ける。車いすに座るその姿は、稚世だ。どうやら電話をかけているらしい。
「うん……うん。じゃ、また近いうちに行くね。……それじゃ」
そう言うと、稚世は電話を切った。そして、普段とは違う、悲しげな表情で溜息をつく。
ふと彼女は、こちらを振り向いた。
「あ! 瑠璃だぁ!!」
元気に笑うと、彼女はこちらにやって来た。先ほどの暗い表情は影も形もなくなっている。見間違いだろうかと、瑠璃は思ってしまった。
(稚世、電話してたの?)
とりあえず当たり障りのない話題を口にする。
「うん! 久しぶりに母さんにね。……あ、そうだ! 今度お見舞い行くとき、瑠璃も一緒に行かない?」
(え……。お見舞いって、お父さんの? 私が一緒に行っちゃっていいの?)
稚世の父親は、入院している。彼女が中学生の頃から、ずっと。
「もちろん! お母さんも喜ぶよ。瑠璃のことよく話すんだけどね、気に入っちゃったの。一度連れてきなさいって!」
にこにことしながら稚世は言った。それにつられ、自然と瑠璃も笑顔になる。
(うん、わかった。今回の件が片づいたら行こうね)
「うん!」
と、そこに。どこからか声が聞こえてきた。
「ふふ……仲がいいんだな。……平和でいいことだ」
2人は慌てて振り返る。
「雅玖!!」
稚世が驚いた表情で言った。瑠璃は素速い動きでナイフを取り出す。
「おっと……。ここで戦りあうつもりはない。……正面広場で待っている。他の奴らも呼んで、すぐに来い」
それだけ言うと、彼は姿を消してしまった。恐らく、正面広場にテレポートしたのだろう。
後に残された2人は、しばし呆然とする。しかし、すぐに我に返ると、会長へ連絡を取った。非常事態だ、と。
セルシアを除くプラダジー達と、響がLAS正面広場に来て最初に見たのは、大量の妖魔だった。軽く100頭は越えているだろう。
「……君たちとの最終決戦の為に、大量に用意してやったぞ。……いけ」
雅玖はそう言うと、包帯の巻かれた左腕を前に出した。刹那。全ての妖魔が、こちらに襲いかかってきた。みんなは戦闘態勢に入ろうとする。その時。
「お前らは下がってろ!!」
孤征が叫んだ。そして、孤征と環は一歩前に出る。
「……春日孤征に、五十嵐環? 何故君たちがここに……」
「…………黙れ」
環がすごい威圧を持った声で言った。孤征はどこからか朱色の紐を取り出し、長い髪を高い位置でくくった。そして、背中の大剣を抜刀。透き通るような純白の刃が、光に照らされ輝いた。そして、2人とも目が鋭くなる。そんな彼らに、妖魔は容赦なく襲いかかった。しかし。
「……遅ぇんだよ」
孤征の振るう大剣に、ことごとく薙ぎ払われてしまう。純白の軌跡を描くそれは、何よりも鋭利に、何よりも無慈悲に、妖魔を切り裂く。遠距離にいる妖魔は、環の能力によって殺し合いを始めていた。
「……無様に散ってゆけ。雑魚ども」
とてもブラックな台詞を吐く環。しかし今回は、それだけではなかった。
「…………行け。愚かな主を切り裂け」
環が言うと、妖魔のうち何頭かが雅玖に襲いかかった。だが彼も、甘くはない。
「便利な能力だな。……だが」
雅玖は懐から取り出した拳銃で、妖魔を撃ち殺していった。自らに襲いかかる妖魔など、もう知ったことではないらしい。
環が雅玖に妖魔を仕向けている横で、孤征は能力の開放に入る。
「我の言葉に準じ、その形を変えろ!
すると突然、孤征の持つ大剣がその長さを変えた。一気に2メートルほどになる。孤征はそれを軽々と振り回し、妖魔を斬り付けてゆく。
そう。これが孤征の能力。物体を自由に伸縮させること。しかしその質量も、密度も、変わりはしない。科学的には矛盾しているが、それをやってのけるのが彼なのだ。
「す、すごい……」
こうなると、【カルミア】も【アリウム】もただ傍観するだけだった。
そして10分後。妖魔はほとんど倒され、その残骸が大量に地面に転がっていた。そんな時。
――――ドクン。
孤征の中で、何かが脈打った。
「……くっ! ゴホッ!!」
突然、孤征が苦しそうに胸を押さえ、大量に血を吐いた。地面に真っ赤な水溜まりができる。純白の袖を自らの血で真紅に染めつつ、孤征は血を拭う。
「くそ……。こんな時に…………」
孤征は悔しそうに呟く。
彼の落とし物。それは、健康体。定期的に薬を飲んだり、注射を打ったりしないとすぐにガタがくる。血を吐くこともしょっちゅうだ。しかし、いくら慣れているからといって、耐えられるようなものではない。
「…………悪い。
最後に彼は、2メートルほどまでになっていた愛用の剣をもとの長さに戻すと、気を失った。
「孤征!」
響が叫ぶ。しかし孤征は、何の反応も返さなかった。
「……こんな時に限って」
倒れた孤征を横目で見つつ、環は苛立たしそうに言った。そして彼は、残った妖魔を次々とその支配下に置いてゆく。何人も、その力に逆らうことは叶わず。妖魔達は、環やみんなに傷ひとつ付けることもできずに、死んでいった。
残る妖魔が、後数頭になったその時。
「…………っ!」
環が、その表情を全く変えることなく、しかし誰が見ても苦しそうな素振りを見せた。そしてそのまま、倒れてゆく。妖魔達は、自由の身となった。
その様子を見て、響は切れ気味に言った。
「馬鹿野郎! 倒れるまで能力を使う奴があるか!!」
しかし当の本人は、すでに意識を失っていた。
響は、懐から拳銃を取り出す。その直後、鈍い銃声がいくつかしたと思うと、残りの妖魔が全て倒れた。
「忽那響……。銃の腕は一流…………か」
雅玖が、何かを確かめるように言った。そんな彼を、響はすごい勢いで睨み付ける。
「うるせぇ……。てめぇ、分かってんだろうな? てめぇが敵にまわしたのは、天下のLASだぞ、コラ。殺されても文句は言えねぇぞ! あぁ!?」
「いや、会長。日本の法律上は殺しちゃ駄目です」
ティルが冷静に突っ込んだが、シカトされてしまう。
「……ふふっ。俺が殺される? おもしろい。やってみろよ」
言いながら、雅玖はどこからかナイフを取り出す。よく見ると彼は、右足にも包帯を巻いていた。頬には、瑠璃が付けた傷がかさぶたになっている。
「お前……やっぱり俺の能力はコピーしてなかったんだな。……何故だ?」
詩が鋭い視線で問う。しかし雅玖は、あくまでも笑顔で。
「何故かって? ……はははは! 簡単だ、柳館詩。君の能力なんかコピーしたら、俺は死ににくくなるじゃないか。そんなの、フェアじゃないだろ?」
そして雅玖は、にやりと笑った。その笑顔に、響は弾丸を撃ち込もうとする。しかしそれを、雅玖は間一髪でかわしてしまった。すごい動体視力である。
と、いきなり雅玖の姿が消えた。次の瞬間。
「……1人目」
響の耳に、囁き声が聞こえてきた。その直後に、腹に激痛がくる。3発ほど連続で蹴り上げられ、ついには血を吐いて倒れてしまった。
「会長!」
稚世が叫んだ。そして。
「2人目」
稚世の耳に、雅玖の声が聞こえた。稚世は慌てて、声がした方に銃口を向ける。だがそこに、雅玖の姿はなかった。
「……残念」
背後から声がしたかと思うと、突然。
「あぁぁぁぁぁぁぁ!!」
すごい激痛が、背中を襲った。稚世は悲鳴を上げる。彼女の背中に、後ろからナイフが深々と突き刺さっていた。
(稚世!!)
瑠璃が激昂した。ナイフを構え、雅玖に走り込んでいく。
「ばっ! よせ!!」
ティルの静止も聞かず、瑠璃はひた走った。大切な友を傷付けられたという、怒りにまかせて。
「……3人目」
瑠璃は聞いた。雅玖の、楽しそうな声を。そして、その更に奥。楽しさで隠した、奥底にある彼の哀しみを。
瑠璃は右側から飛んできた拳に、殴り飛ばされた。10メートルほど宙を舞い、コンクリートの地面に叩きつけられる。右足から、鈍い激痛が走った。どうやら、骨を折ってしまったようだ。
「……生温いんだよ! お前ら、自分たちが世界で1番不幸みたいな顔してんじゃねぇぞ!!」
突如、雅玖が吼えた。口調は変わり、嫌な笑顔も、いつもの余裕も消え去り、怒りをあらわにしている。
「お前に……。お前に俺達の何が分かるんや!? 一体お前が、どんだけ不幸な人生を歩んできたっちゅうねん!?」
大声で怒鳴ったのは、颯夏だ。しかし雅玖の怒りは、収まることがなく。彼も大声で叫んだ。
「お前らこそ分かるのか!? 実の親に、親友に、冗談じゃなく“お前は誰だ?”と言われた、俺の気持ちが! すぐ近くに家族がいるのにも関わらず、孤児院へ行かなければならなかった、俺の気持ちが! 俺と関わった全ての人間から、一切の俺に関する記憶が消され、存在そのものを消された、俺の気持ちが! 分からねぇだろ!? 分かってたまるか!!」
そこまで言うと、雅玖は顔を伏せ、肩で息をした。
彼、津吹雅玖の落とし物。それは、存在。彼の両親、友、全ての人間が、彼のことを忘れてしまったのだ。故に彼は、この世に生きてきた証がない。ご丁寧にも、戸籍や在学名簿からも名前は消えていたのだ。
全ての人間から忘れ去られ、存在そのものを奪われた彼の孤独とは、一体どれほどのものなのだろうか。
「……分かりたくもねぇよ。てめぇの気持ちなんかな」
響が、袖で口に付いた血を拭いながら立ち上がった。そして。
「ティル! これはもう“最悪の場合”以外のなんでもねぇ! 使え!!」
響に言われ、ティルはひとつ溜息をついた。仕方ないな、といった顔をした後、みんなの前に歩み出る。その時にはもう、彼は真剣な表情になっていた。
「……ティル?」
エリィに問いかけられ、ティルは一度振り返った。諦めたような、哀しいような、そんな笑顔を見せた後、また前を向いた。
「……雅玖、喜べ。特別に俺の能力をみせてやるよ」
そして彼は、目を閉じた。ゆっくりと3つ数え、もう一度目を開く。鋭く、迷いのないその眼差しを雅玖に向け、ティルは能力の開放に入った。
……心の傷は、癒えることなく。
ただ、そこにあり続ける。
無理に塞いだ傷口。
その枷を、その封を取り払うとき。
心の流す血に、この身を赤く染めようとも。
心が、悲痛な叫び声を上げようとも。
悔やみはしない。
何かを、守る為ならば。
今、心の呪縛を解き放て。
…………解!!
ティルの額に、複雑な刻印が浮かび上がった。彼は苦しそうに、胸を……否、心を押さえる。
心の叫びは。
いつも、俺に真実を語ってくれる。
故にそれは、俺にとって残酷だ。
あぁ。心が、血を流す。
叫ぶ。“ヤメテ”と。
もう、何も聴きたくないと。
あの感覚が、蘇る。
何かが、俺の中でざわりと動く。
心に直接、言葉が投げ込まれてくる。
だけど……。
それでも清々しい。
何も、心に絡みついていない。
開放された、今が。
エリィは気付いた。ティルが、能力を開放したことに。彼の額に浮かび上がっていた刻印は、今度こそ本当に消えてゆく。
エリィは叫んだ。
「みんな! ティルから離れて!! 今ティルの近くにいると、心を読まれるわよ!」
みんなは急いで、ティルから離れる。
ティルの能力。それは、心を読むこと。その能力のせいで、ティルは今まで知らなくてもいいことを、たくさん知ってきた。たくさん、涙を流してきた。
ティルはふっと、自嘲の笑みを浮かべる。
……無駄だよ、エリィ。
どんなに離れたって、
みんなの心の声は聴こえてくる。
俺に深く関わった人間の心ほど、
大きな声で叫んでくるんだ。
でも、よかった…………。
みんなは、俺のことを疎ましく思ってないんだな。
あいつらとは、違って……。
流石に、ここまで距離があれば、あいつらの心の声は聴こえてこない。
きっと俺の人生で、1番深く関わった人間達なのに。
……それよりも、今は雅玖だ。
あいつは今、何を想っている?
何を、考えている?
あぁ。声が、聴こえる……。
――――――殺して。誰か。もう、死なせて。
あぁ。そうか……。こいつは、死にたいんだ。
――――――臆病で、小さい俺には。自分で自分は殺せない。殺して欲しいだけなんだ……。
……だから、俺達に喧嘩をふっかけてきた。
そうだったのか。……それなら、いっそのこと。
「…………お前の、深すぎる心の傷は、もう……癒えることはない。せめて、お前が望む通りに、死をもって開放してやるよ…………」
ティルはゆっくりと、雅玖に近づいた。懐からはナイフを取り出し、構える。しかし雅玖は、それに対して身構えることはなかった。
「……殺されるなら、俺の心を理解してくれる人に、殺されたかった。……どうやら、俺の望んだ人は、スティル・ルカイア。……君だったんだな」
雅玖は、少しだけ哀しそうに呟いた。ティルの持つナイフが、雅玖の心臓を射抜く。そこから、大量に血が流れ出した。
きっとこいつは。
誰よりも苦しんでた。
きっと、俺らなんかよりも、ずっと。
あぁ……。
なんて、悲しい存在なんだろう。
まだ、何か言ってる。
――――――言わなくちゃ……。殺して……くれた。早く……言わないと。あいつ……。
「……俺に、何を言おうとしてる?」
ティルは静かな声で、優しく訊いた。それに対し、雅玖は身を震わせる。泣いているのだろうか。だが、その表情は笑顔で。今まで浮かべていた、嫌な笑顔ではなく。安堵に包まれた、柔らかい笑顔で。彼は口を開く。
「…………手を汚させて……悪かった。………………ありがとう」
最後にそう言い残し、彼は死んでいった。
「救えなくて……ごめんな…………」
雅玖の亡骸をそっと横たえ、ティルは涙を流した。
そしてそのまま、彼は意識を失う。崩れ落ちてゆく体を支えたのは、響だった。
「……悪かったな。無理をさせて。…………忌まわしき印をもって、心の闇を閉ざせ……封」
ティルの額に、再び刻印が浮かび上がり、定着した。
そして、すべてが終わった。
あっという間に、あれから3日が経った。みんなの傷は癒え、とりあえずLASは元通りになった。表面上だけは。明らかに、みんなは落ち込んでいた。特に、ティルが。
「……ティル。今回の件だが、俺が上から圧力をかけておいた。警察沙汰になることはありえねぇから安心しろ」
「…………はい」
会長室にいるのは、響とティル。それにアンヌだ。なんだかんだ言って、殺人を犯してしまったティルだが、それくらいのことは響の権力でどうにでもなるらしい。
「失礼しました……」
目に見えて落ち込んでいるティルは、会長室を後にした。響は溜息をひとつつく。そんな彼に、アンヌが話しかけた。
「……スティル様は、大丈夫でしょうか? いくら大人びているとはいえ、彼はまだ17歳の少年ですよ……」
それに対し、響はどうでもいいようなフリをして応えた。
「知るかよ……。あいつが決めたことだ。あいつが解決するしかねぇだろ」
響はそれでも、悩んでいた。彼のこと、雅玖のこと、みんなのこと。どうするのが、1番いいのだろうか。不器用な彼には、誰かに任せることくらいしか思いつかなかったのだ。
ティルは屋上にいた。風に吹かれ、髪が揺れる。表情は暗く、翳りが落ちていた。
と、背後に誰かが立つ気配がした。
「……なんですか。孤征さん」
孤征だ。ティルは振り向くことなく、彼だと気付いた。こんな時、いつもどこからか現れるのが孤征なのだ。
「……落ち込んでんじゃねぇのかと思ってな」
「落ち込んでますよ……。かなり」
素直に認めるティル。よっぽど今回のことが堪えたのだろう。
「……はぁ。“お前のせいじゃない”なんて、安っぽい言葉をかける気はねぇが……。ただ、あのガキは死にたがってたんだろ? そしてお前は、あのガキの願いを叶えてやった。それで十分じゃねぇか。あのガキにとって、お前は救いになったはずだ。……違うか?」
孤征はティルの背中に、語りかける。しかしティルは、身動きひとつしなかった。返事も、返っては来ない。
「ふさぎ込んでんじゃねぇぞ。お前のそういう態度が、他の奴らにもうつる。あの稚世まで、元気がなかったぞ。お前が1番、フリでもいいから平気でいねぇと駄目だ。分かってるんだろ?」
そこまで聞いてティルは、やっと振り返った。悲しみに満ちた笑顔を浮かべ。
「……分かっていますよ。俺はあいつにとって、救いになることをした。……だけど俺だって、人を殺したの初めてなんです。落ち込みますよ……」
そして彼は、顔を伏せる。肩が、震えていた。
「人を殺したのは初めて……か。17のガキには重すぎるだろうな。……だが、俺が初めて人を殺したのは、15の時だ。俺だけじゃねぇ。この世には、もっと暗い過去を背負っている奴もいる。……忘れるな」
そして孤征は、屋上から去った。後に残されたティルは、静かに嗚咽をもらすのだった。
すべてが一度、崩れてしまった。
元通りになるのは、いつの日か。
それでも、諦めることを知らない俺達は。
あがき、苦しむことしかできなかった……。
俺は、何気ない、くだらない毎日が好きやった。
ありきたりな、何処にでもいるガキやった。
せやけど俺は、落とし物をしてしもうた。
その日から、俺だけ時間が止まったんや。
みんなは進んでいくのに、俺だけ立ち止まってしもうたんや。
―――――――――――――――――――――――――――――第6話「墓石に刻まれた名」
LASの屋上。そこに、純白の姿があった。彼の長い白髪が、風に揺れる。孤征だ。
ふと、彼の背後にある扉が開く音がした。そこからは誰かの気配がし、その人物は孤征の隣まで来る。
「……環か」
「………………」
孤征は視線だけを動かして、隣りに立った環をちらりと見た。
しばらくは2人とも、無言だった。不意に、環が口を開く。
「……ティルはどうだ?」
その問いに対し、孤征は苦笑を漏らす。
「心配なら、あいつに直接会ってくればいいだろ」
「…………お前がそう言うってことは、もう大丈夫なんだな」
「はは。……お前は鋭くて困るよ」
孤征は更に苦笑を濃くした。ガキ共の心配をしているのは、響や俺だけじゃないんだな、と。
ふと孤征は、あることを思いついた。いたずらっぽい笑みを浮かべ、環に問う。
「……環。お前、これからどうするか決めてるのか?」
「…………また旅に出るつもりだ」
やはりな。と思いつつ、孤征は更に問うた。
「行き先は?」
「……まだ決めていない」
そこで孤征は、にやりと笑う。その笑顔を、残念ながら環は見ていなかった。
「だったら……中国に来ないか? 連れて行きたい場所がある」
その誘いに、環は深く考えることなく、応えてしまっていた。
「…………そうするか」
「よし。決まりだ」
そして孤征は、楽しそうに、愉しそうに、そして悲しそうに笑った。
LAS本部から歩いて5分ほどの場所にある、小さな高台。爽やかな風が流れるそこに、ひとつの人影があった。ティルだ。彼は高台の頂上を目指し、ゆっくりと歩く。その手には、白い花を抱いて。
その高台のてっぺんにあるのは、たくさんの墓石。ここは、墓地なのだ。そのうちのひとつの前で、ティルは立ち止まる。それは、雅玖の墓。そこに、ティルはそっと花を手向ける。そして、手を合わせた。目を閉じ、彼の冥福を祈る。
その墓石には、名前が刻まれていなかった。戸籍も何もなく、“津吹雅玖”というのが本名かどうかがわからなかったのだ。
ティルはゆっくり目を開け、そして墓石に問うた。
「……俺は、正しいことをしたのだろうか? お前の、救いになれたのだろうか?」
答えなど、返ってくるはずもなく。
ただ風は、優しく吹いた。
「……時は確実に流れ。傷さえも、押し流していく」
彼は呟きながら、ただ、あの場所へと歩く。
「だけど、僕たちには……。決して消えることの無い、傷跡があるんだ」
てくてくと彼は歩いていき、そして、立ち止まった。その場にしゃがみ込み、手を組む。それはまるで、神に祈る咎人のよう。
「……神様、どうか、哀れな“彼”のことも。決して消えることの無いように。どうか、僕の中に、傷跡として残してください。救えなかった現実を、忘れてはいけないから……。一度、すべてから忘れ去られた彼を。もう誰も、忘れてはいけないから……」
彼、深海心が跪くのは、雅玖の死した場所。そこには、いくつもの花が供えられていた。
神に祈るように組まれたその手が、不意に震えだす。しだいにその震えは全身に伝わり、彼の意思では止められなくなってしまった。
そんな、震え続けている彼を、不意に誰かが後ろから抱きしめた。ふわっと、包み込むように。
「……唯斗。どうして……」
心は振り向いたりしなかったが、迷うことなくその名を呼んだ。背後から感じる気配は、紛れも無く、大切な親友の存在そのもの。
心は唯斗に、ここに来るとは言っていなかった。それなのにどうして、彼は今、ここにいるのだろう。
「……心が、泣いているような気がしたんです」
聞こえてきた声は、やはり紛れも無く唯斗のモノで。だから心は、安心してその身を委ねた。
「僕、泣いてなんか、ないよ」
その声さえも、震えていたのに。それなのに心は、涙を流しはしなかった。
「そうですね……」
唯斗は呟き、そして心の震えは少しずつおさまっていった。
「ティル……?」
いつの間にか彼の近くまで来ていたエリィが、優しく彼の名を呼んだ。ティルはゆっくりと、笑顔を作る。
「エリィか…………」
「……帰ろう、LASに。そして、前に進みましょう? …………雅玖は、死んだ。けど、私達は生きてる。彼の為にも、前だけを見据えないと駄目」
そう言いながらも、エリィは目を伏せる。それに対しティルは、空を仰いだ。
「……あいつのことは、忘れない。だが、執着はしてやらない。記憶の中に留め、意識からは排除する。そうして、俺は前に進む」
これが、彼がここ数日悩み続け、そして見つけた答えだった。
エリィは顔をあげ、穏やかな笑みを浮かべた。ティルも視線を彼女へと移す。
「帰るか。みんなが、待ってる」
「うん」
そして彼らは、悲しい同胞の墓を後にして、歩き始めた。
「瑠璃ー!」
向こうから、稚世が手を振ってやってくる。ここはLASの中庭。瑠璃はベンチに座り、読書をしていたのだ。
(……稚世。どうしたの?)
稚世がすぐそばまでやって来るのを待って、瑠璃は聞いた。すると稚世は、「じゃじゃーん!」などと言いながら、白い紙を2枚、瑠璃に見せた。その紙には綺麗な字で、“外泊許可書”と書かれている。ちなみにこの綺麗な字は、以外にも響の直筆だ。
「会長に外泊許可もらって来たよ! これであたしの実家、2人で行けるね!!」
稚世は笑顔で言った。それに対し瑠璃は、少し驚いたような顔をする。
(よくあの会長が許可したわね……。大変じゃなかった?)
「えへへ〜。ナイフ投げられた!」
やっぱり……。と瑠璃は思い、溜息をひとつついた。しかしすぐに、笑顔になる。
(じゃあ稚世、さっさと準備して出発しよっか)
「うん!」
稚世は元気に頷いた。
そして約2時間後に、2人は稚世宅へと向けて出発したのだった。
瑠璃は少しだけ、困惑していた。何故なら、稚世に連れられてやって来た彼女の実家。その家が……でかい。とにかくでかい。純和風の家で、それはもうお屋敷といった感じだ。
(……稚世)
「ん? 何〜?」
にこにことしている稚世。そんな彼女に、瑠璃は引きつった笑顔で聞いた。
(本当に、ここ稚世の家?)
「そうだけど。どうかした?」
(ううん。なんでもない……)
そして瑠璃は、もう一度稚世の実家をまじまじと見る。なんで一緒に来ちゃったんだろ、と思ってしまった。
「あら、稚世? お帰りなさい」
突然、後ろから声をかけられた。瑠璃と稚世は背後を振り向く。そこにいたのは、稚世とそっくりの女性。
「ただいま、母さん!」
稚世がその女性に、笑顔で言った。瑠璃は驚いて、もう一度その女性を見る。かなり若々しい人である。そして、本当に稚世にそっくりだ。だた、その目は少し垂れ下がり、稚世よりも髪はずいぶんと長かった。その髪は頭の後ろ、高い位置でひとつにまとめられ、かんざしを挿している。そして何故か、着物を着ていた。その姿はまるで。
(……中居さん?)
少なくとも瑠璃には、そう見えた。瑠璃の疑問に答えたのは、稚世だった。
「そうだよ。あたしの家、旅館だもん。言ってなかったっけ?」
聞いてないよ……。と瑠璃は思いつつ、曖昧な笑みをひとつ返しておいた。と、そこで稚世の母が瑠璃の方を向いた。
「稚世のお友達かしら?」
「うん。瑠璃だよ!」
言いながら、稚世は瑠璃の背中を押した。瑠璃は促されるまま、一歩前に出て挨拶する。
(初めまして。神庭瑠璃です)
ぺこりとお辞儀する。稚世の母は言葉を心に投げ込まれ、少し驚いていたが、やがて柔らかい笑顔に戻った。
「初めまして、瑠璃ちゃん。稚世からあなたのことはよく聞いているわ。うちの娘がお世話になっているみたいで……。あ、私は
(あ、はい……)
なんとなく可愛らしい人である。この母あってのこの娘。といったところだろうか。
「さぁ、入ってちょうだい」
そう言うと、友華は大きな引き戸を開けて中に入っていった。稚世と瑠璃はそれに続く。
「だたいまー!」
(お邪魔します……)
中は広々としており、正面にはフロントらしきところもあった。
(ねぇ、稚世ってもしかして、将来女将になるの?)
瑠璃が稚世にだけ聞こえるようにして聞いた。
「うん。てか、もう若女将だよ?」
瑠璃は驚いた。そりゃもう、マジで驚いた。
稚世が女将……。そういえば確かに、きちんとするところではきちんとできるし、長時間の正座もへっちゃらみたいだった。
新たな事実が発覚し、瑠璃は稚世へのイメージが少し変わったようだった。
そしてその晩、瑠璃は友華にいろいろ詰め寄られて大変だったらしい。やはり彼女は、稚世の母なだけあって瑠璃のことがお気に入りなのだった。
翌朝の早朝。まだ朝日も昇っていない時刻に、孤征と環は旅立とうとしていた。プラダジーのみんなはまだ寝ており、見送りは響とアンヌだけだ。
「本当にいいのか? あいつらに何も言わないで旅立って」
響が睨み付けるようにして聞く。どうでもいいがその目つきの悪さは何とかしてもらいたい。
「あぁ。俺達に見送りなんて似合わねぇよ」
「……またそのうち来るだろうしな」
孤征の言葉に、環は付け足した。響は苦笑する。
「お前らの“そのうち”は、かなり長いけどな。ま、気が向いたときにいつでも来いよ」
「そうさせてもらう。……あのガキ共のこと、頼んだぞ」
「…………1人でも死なせたら、俺が責任をもってお前を殺す」
環が冗談抜きで言った。本当に彼ならやってしまいそうで恐い。響はまた、苦笑する。
「あぁ。お前に殺されないよう、努力するよ。俺もあいつらには、死んでもらいたくないからな」
その割には、ナイフとか投げつけてるよな……。と孤征は思ったが、黙っておくことにする。
と、不意に響は孤征に話しかけた。
「孤征。お前昔……俺が会長になる前に、俺に聞いたことがあったな。“お前の夢は何だ”と。覚えてるか?」
「……あぁ。確かお前は、“分からない”と答えたと記憶しているが、それがどうかしたか?」
孤征の言葉を聞き、響は笑った。自嘲とも、苦笑とも、嘲笑ともとれる笑みで。
「今なら、その問いに対する答えが分かる。……俺には、夢などない。だが、野望はある。それは、“この世界から、全ての妖魔を絶滅させる”こと。ただ、それだけだ」
そして響は、不適な笑みを浮かべる。胸の痛みを、一生懸命に隠して。
アンヌはその横で、静かに目を伏せた。
「流石は“神の子”だな。掲げる野望もでかい。…………響。その夢は、
「それ以外あるわけねぇだろ。……俺は一度、すべてを喪った。だからもう、喪いたくねぇ。誰一人として、死なせたくねぇ」
響は、まっすぐとした瞳で。まるで、前しか見ることを知らないような、眼で。
それに対し環は、至極つまらなそうに言った。
「その無謀な夢。叶うといいな」
「叶えてみせるさ。その為だけに俺は会長となった。その野望の為だけに、生きてきた」
そして響は、楽しそうに笑う。いつもの、自信に満ちた表情で。
「……それではお二人とも、どうかお気をつけて」
アンヌが、深々とお辞儀した。
「おう。お前も、この大馬鹿野郎の子守頑張れよ」
「……見捨てないでやってくれ」
親切にも孤征と環はそんなことを言う。それに対しアンヌは。
「承りました」
淡々と応えるのだった。
「……じゃ、またな」
「おう。お前らも死ぬんじゃねぇぞ」
「…………任せろ」
そして2人は背を向けると、旅立っていった。
彼らが目指すは、中国。世界最強の剣士のすべてが始まり、すべてが終わった場所。
時は過ぎ、今はお昼。食堂に仲良く2人並んで昼食をとっているのは、詩と颯夏だった。
「なぁ、颯夏。聞いたか?」
唐突に、詩が話しかける。
「何をや?」
「孤征さんと環さん、もう旅立ったらしいぞ」
ゴホッ。
しばらく咳き込む颯夏。息を整え、詩の方を向いて言う。
「嘘やろ! 早ッ!!」
「まぁ、いつものことと言えば、いつものことだろ?」
詩は平然として答えた。
「にしても、別れのあいさつもなしかいな……」
「だから、それもいつものことだろ?」
「それはそうやけど……」
そしてまた、無言で昼食に戻る。
不意に、颯夏が思いついたように言った。
「そういえば、瑠璃と稚世も出掛けとるし……。俺ら暇やな」
「稚世の実家に行ってるんだったか? まぁ、あの2人が帰ってくるまで、【アリウム】は休止だろうな」
と、少しの沈黙。そして颯夏は、思い出したように。
「……何して過ごそうか?」
「普段忙しい分、こうなると暇な上にする事無いな……」
しばらく2人は、するべきことはないか考える。そして、颯夏が何かを思いついた。頭の上に電球が光る。
「せや! ええ機会やし、詩の部屋の大掃除しようや」
「却下」
即答の詩。そんな彼を、颯夏は不機嫌そうに下から睨む。
「なんでや?」
「片づけたりしたら、どこに何があるのか分からなくなる」
さらりと言ってのけた詩に、颯夏は切れた。
「今の方が分からんわ!」
「俺は完璧に把握してるぞ」
その言葉に、颯夏は脱力。ぶつぶつと、何やら呟く。
「せやった……。こいつの記憶力は半端ないんやった……」
そしてまた、振り出しに戻ってしまった。この暇な時間を、どう使うのか。
「……俺も久しぶりに、実家に帰ろかな」
「大阪のか?」
詩に聞かれ、颯夏は頷いた。忙しさのあまり、ずいぶん長いこと帰ってないらしい。
颯夏のとなりで、詩は何やら思案する。そして。
「俺も、一緒に行こうかな」
「は!?」
驚いて聞き返す颯夏。片眉をつり上げ、怪訝そうな顔をする。
「だって颯夏、実家に帰るんだったらどれくらいLASを開けることになる?」
「……3日くらいやな。それがどしたん?」
「無理。3日も颯夏いなかったら、俺、死ぬ」
笑顔で言われ、颯夏は大きな溜息をついた。詩はにこにこしている。
「わぁったわ。その代わり詩、会長に外泊許可もらってきてな」
「了解」
楽しそうに言う詩に、何やら嫌な予感を感じる颯夏だった。
まぁ結局、2人で行くことになってしまった。そして早くも、その日のうちに旅立ったのだった。
稚世と瑠璃は、病院の廊下を歩いてた。もちろん、稚世の父のお見舞いに行く為に。
(それにしても……。まさか稚世のお父さんが、精神科に入院してたなんて……)
そう、2人がいるのは精神科の病棟。稚世の父、
「うん。だから、セルシアに治してもらうわけにもいかなくって……」
(そう……)
セルシアの能力は、病気や怪我を治すこと。だが、それには限りがある。彼女には、精神病は治せないのだ。だから、LAS専門病院の精神科は、シェンファが担っている。
「……ここだよ」
稚世が瑠璃に向けて言った。2人が立ち止まった病室の扉には、確かに“新秀平”のプレートがはまっていた。
コンコン。
瑠璃がノックする。中から返事は返ってこなかった。それに構わず、稚世は扉を開ける。
そこは、個室の病室だった。ベットはひとつしかなく、そのそばにはソファーがある。ベットに寝ているのは、ひとりの男性だった。稚世の父、秀平だ。
「父さん、具合どう?」
「………………」
秀平は、稚世の呼びかけに反応しない。そればかりか、こちらを向くこともなく、ただぼんやりと窓の外を眺めていた。
「今日は落ち着いてるね。ご飯とかちゃんと食べれてる?」
構わず、稚世は喋り続ける。やはり秀平は応えることなく、微動だにしない。心が、壊れてしまっているのだ。瑠璃はどうすることもできず、ただ、傍観しているだけだった。
それからしばらく、稚世は秀平に話しかけ続けたが、結局何の反応も得られなかった。
「じゃあね、父さん。また来るから」
最後に稚世はそう言い、病室を後にした。瑠璃も一礼だけして、出て行った。
2人は病院から出ると、近くの公園に向かった。瑠璃はベンチに座り、稚世はその横に車いすを止める。
そして稚世は、遠くを見て話し始めた。
「……今日はね、割と落ち着いてるからよかったんだけど……。激しいときは、暴れたりしちゃうんだ。先生の話だとね、もう、治らないかもしれないんだって」
瑠璃は、返す言葉がなかった。ただ、沈黙して、稚世の話を聞く。
「…………父さんね、あたしのせいで、あんな風になっちゃったの」
(え!?)
瑠璃は驚き、稚世を振り返った。稚世は普段見せない、悲しそうな笑顔を浮かべる。
「あたしがプラダジーになったのは、中2の時だったの。その頃あたしは、陸上部で、短距離では市の記録とか持ってて、次期エースになることも決まってた。高校も推薦で通るだろうって、言われてたの。だけど……落とし物をして、全部が壊れた」
そこでいったん言葉を切ると、稚世はうつむいた。そしてまた、話し始める。
「父さん、科学者だったの。家は旅館だったけど、それでも構わないって、おじいちゃんとおばあちゃんは納得してて。だから母さんが、女将として頑張ってた。……父さんね、科学者だから、科学で証明できないことは、信じないような、そんな人だったの。…………だけど」
うつむいてた視線を上げ、稚世は瑠璃の目を見る。
(稚世……?)
瑠璃は、見た。稚世の、悲しみに染まった目を。今にも泣き出しそうな、彼女を。
「……だけどね、その父さんの目の前で、科学では決して証明できないことが、起こった。……あたし、プラダジーになったばかりの頃、能力を制御できなくって、家中の物を浮かしちゃったの。自分の娘が、突然歩けなくなって、そればかりか家中の物を浮かして。そんなものを見て、正気でいられるはずがなかった。特に、父さんはああいう性格だったから……」
稚世はまた、うつむいてしまう。わずかに、肩が震えていた。
(それで……ずっと入院しているの?)
瑠璃は、少し遠慮がちに聞いた。稚世はひとつ頷くと、もう一度口を開く。
「母さんね、父さんのこと、本当に大好きだった……。だからきっと、あたしのこと許せなくて。だからあの時……。あたしのこと見捨てたんだ。……あたしね、母さんに一度、縁を切られたことあるの。“もう、娘とは思わない”って……。今はまた、なんとか元に戻ったけど……。でもね、母さんたまに、隠れて泣いてるの……。全部、あたしの、せい…………」
それから稚世は、何かが壊れたように、泣き続けた。ずっと我慢していたものが、一気に溢れ出してくるかのように。
彼女もきっと、辛かっただろうに。走ることもできなくなり、高校推薦への道も絶たれ。しかも、たったひとりでLASに行かなければならなくなって。不安でいっぱいだったろうに。それなのに、実の母親からは見捨てられた……。
アタシノコトミステタンダ。
瑠璃の頭から、この言葉が離れなかった。
笑顔の絶えない、能天気な人だと思っていた。だけど、違う。きっと稚世は、誰かに見捨てられるのが怖くて、泣くのを我慢していたんだ。誰も、自分から離れていかないように。笑顔を、保ち続けていたんだ……。
瑠璃はただ、稚世を抱きしめてやることしかできなかった。
夕方。大阪のとある一軒家の前に、身長差の激しいふたつの人影があった。
「はぁ……。ほんまに詩を連れて来てしもうた……」
「はは。その言い方は酷いな。……それにしても。初めて彼女の家に行く彼氏って、こういう気持ちなんだろうか」
「阿呆! 誰が彼女や!」
いつものように、喧嘩を始める2人。近所迷惑なことこの上ない。
…………がばっ!
「うぉわ! な、何や!?」
突然、誰かが颯夏に後ろから抱きついた。当然の如く颯夏は慌てふためく。そして頭上から、楽しそうな声が降ってきた。
「やっぱ颯夏や〜ん。何々〜? 彼氏でも連れて来たん?」
「お、お袋! ええ年して、いきなり後ろから息子に抱きつくんやない!」
言いながら、颯夏は自分の母親を振り払う。と、詩がすっと自然な動作で前に出てきた。そして、笑顔で言う。
「初めまして。颯夏さんとお付き合いさせてもらっています、柳館詩です」
「お前も便乗するんやない!」
とりあえず頭を一発殴る。
「颯夏〜。ええ人見付けたんやなぁ」
「だからちゃうって……」
何というか、おもしろい母親である。彼女はショートの黒髪に、颯夏と同じ深緑色の目をもっていた。とても若々しく、そして颯夏にそっくりだった。どうやら、颯夏は母親似らしい。
「……にしても、お若いですね」
詩が何の邪気もない笑顔をつくり、言った。こんな表情を意のままに作り出せるのだから、まったく恐ろしいものである。
そして颯夏の母は、ぱっと顔を輝かせた。
「詩くん、あんたええ子やわぁ〜」
本当に嬉しそうだ。そんな2人のやりとりを見て、颯夏は頭を抱えてしまうのだった。
(稚世……。稚世!)
「ん……。うあ?」
夕方の公園。稚世はどうやら、泣き疲れて寝てしまったようだ。
「あれ? なんで寝て……。てか、もう夕方!?」
寝起きで混乱する稚世。しばらくすると、思い出したらしく、勝手にひとりで納得してしまった。
(ふふ……。稚世、すごい寝てたよ)
瑠璃は少し安心したようにして笑う。
よかった……。いつもの、元気な稚世だ。
瑠璃は内心、ほっとしていた。彼女の泣き顔など、もう、見たくはない。
「……瑠璃。暗い話して、ごめんね?」
(気にしなくていいよ。それよりも、ちゃんと話してくれたことが、私は嬉しいから)
瑠璃は笑顔で言う。稚世は、安堵の表情を浮かべた。
「瑠璃だけには、話してもいいかなって、思えたんだ」
そしていつものように、笑う。
と、唐突に瑠璃が言った。
(……じゃあ、稚世。ひとつの、つまらない昔話を聞いてくれる?)
「昔話……? いいけど、何?」
稚世は訳が分からない、といった感じだったが、瑠璃は構わずに話し始めた。
目を閉じ、流れるような口調で。
あるところに、ひとりの女の子がいました。
彼女は、歌を歌うことが大好きでした。
女の子の家では、いつも彼女の美しい歌声が響いていました。
その歌は、学校でも評判で、音楽の先生も絶賛するほどでした。
そして女の子が、14になった時。
彼女は母の薦めで、歌手のオーディションを受けることにしました。
女の子はただ、歌うことが好きで。
歌手にはあまり、興味はありませんでした。
しかし、歌を一生歌っていけるなら。
たくさんの人に、自分の歌を聴いてもらえるなら。
やってみたいと、思ったのです。
女の子は見事、オーディションに合格。
歌手としてデビューしました。
初めて売り出したCDが、なんとオリコンで7位を獲得。
家族から、所属していた会社から、……みんなから、期待されていました。
……しかし。
女の子は、声が出せなくなりました。
歌が、歌えなくなったのです。
そして女の子は一度、すべてを失いました。
女の子は、毎日毎日、泣きました。
でも。
女の子は、たったひとつだけの、大事なモノを見付けました。
だから彼女は、その大事なモノのとなりで、生きていこうと決めたのです。
そこまで一気に話すと、瑠璃は目を開けてから稚世を振り返り、笑顔で言った。
(女の子の名前はね……神庭瑠璃。歌手として生きる道を絶たれた、哀れなプラダジー。歌うことができなくなった、歌の大好きな女の子よ)
「じゃあ……瑠璃はずっと、歌いたくても歌えなかった……?」
呆然とする稚世に、瑠璃は静かに頷いた。そして、笑顔で付け足す。
(でもね……。女の子は、不幸だなんて思ってないの。今は、とっても幸せなんだよ)
「どうして……?」
稚世は、瑠璃よりもずっと悲しそうな顔をしていた。
自分のことのように、悲しい表情をしてくれる。なんて嬉しいことなんだろう。
そう瑠璃は思った。だけど、そんなことよりも……。彼女には、笑顔でいて欲しかった。
(……さぁ? どうしてかな?)
瑠璃はいたずらっぽく笑ったのだった。
とりあえず立ち話もあれなので、家の中に入る颯夏と詩。ちなみに颯夏の家は一戸建て。大阪では割と珍しい。
和室に通され、お茶を出される。
「ほな、ちゃんと自己紹介しようかな。……うちは颯夏の母、
「いえいえ、息子さんにはいつもお世話になっていて……」
「…………猫かぶり」
颯夏がぼそっと呟いたが、詩は笑顔を崩さなかった。
「何か言ったか、颯夏?」
「何も……」
颯夏はそっぽを向いて誤魔化しておいた。
と、玄関の方で何やら物音がした。誰かが帰ってきたらしい。
「ただいま……」
「雷夏! ちょお来てみぃ。珍しいのがおんで!」
初帆に呼ばれ部屋に入ってきたのは、眼の色、髪、顔、すべてが颯夏とそっくりな青年だった。颯夏をそのまま成長させたような感じだ。
「……あ。颯兄ぃ帰っとったんか。お帰り。……で、そっちの人は彼氏?」
「雷夏……お前もか…………」
「初めまして、柳館詩です。颯夏さんとお付き合いさせて……」
ボコッ。
本日2発目だ。
「俺の友達や、友達」
「雷夏、あんたもこっちきて自己紹介せな」
初帆に言われ、雷夏は彼女のとなりに座り、とりあえず自己紹介した。
「俺は
「一応って何や、一応って」
雷夏を睨みつけつつ、颯夏は言った。そんな彼に対し、雷夏は平然と応える。
「見た目だけやったら、颯兄ぃは俺の弟やろ?」
「ずいぶん年の離れた兄弟ですね。16歳と8歳だから8歳差?」
「阿呆! 3つ差や!」
くすくすと笑う詩。雷夏と初帆も楽しそうに笑っている。どうやらこの家族、詩とは仲良くなれそうだ。
「……ほな、せっかく詩くんが来てくれたんやし、お寿司でもとろうか」
「あ、どうぞお構いなく……」
「気にせんでええんや、詩。このおばはん、自分が晩飯作るんめんどくさいだけやから」
ボカッ。
初帆が颯夏を殴った。
「普通、息子を殴るか……」
結構きつかったらしい。颯夏は頭を押さえ、ちょっと涙目だ。
「さてと、電話電話〜」
初帆は鼻歌を歌いながら向こうへ行ってしまう。颯夏が詩をすぐに殴るのは、血縁のせいらしい。
「ほな、俺も着替えてくるわ」
制服のままだった雷夏も、2階へと上がっていってしまった。
なんとなく2人きりの颯夏と詩。
「……やっぱり詩なんか連れてくるんやなかったわ」
「はは。楽しい家族だな」
「ボケばっかりでツッコミが不足しとるわ……」
と、またもや玄関が開閉する音がした。
「ただいま」
「……あ、親父や」
声を聞いて、颯夏は言った。詩に少しだけ緊張が走る。
ゆっくりと、足音が2人のいる和室に近づいてくる。と、和室の手前で足音が止まり、彼はひょいと中を覗き込んできた。
颯夏の父、
「…………彼氏か?」
そう、真面目に聞いてきた。そんな瞭一に対し詩は、にこりとして言った。
「ええ」
ドコッ。
本日3発目。
「どいつもこいつも……。どうなっとるんや俺の家族は!!」
颯夏は頭痛を感じてしまうのだった。
そんなこんなで、5人で家族団欒。詩もいい感じに馴染んでいた。というより、すでに葉梨家とは仲良しになっていた。
ふと、瞭一が疑問に思ったことを詩に聞いてみた。
「詩君のご家族はどこに住んではるんや?」
「あ、親父。こいつは……」
何か言いかけた颯夏を、詩は右手で制した。その雰囲気に、葉梨家の3人は更に疑問を抱く。そして、詩は笑顔でつらつらと話し始めた。
「家族や兄弟は、200年以上前に死にました。……実は俺、見た目こんなですけど実年齢は285歳なんです」
3人は驚いて目を丸くする。
「せやったら……詩くんもプラダジーなん?」
妙に鋭い初帆が聞いた。それに対し、詩は笑顔を崩すことなく続ける。
「ええ。俺の落とし物は、“死”そのものです。死ぬことができない。俗に言う不老不死というヤツですね。……こんな俺の、長すぎる命に付き合える人間なんて、いない。だから俺は、ずっと独りで生きてきました。もちろん、結婚もしたことはありませんよ」
「せやったんか……。ほんでも、颯夏ならあんたとずっと一緒におれるかも知らん。こいつも不老やから、もしかしたら死ねんのかも知らんからな」
「……俺は、それでもええけどな」
ぼそっと、颯夏は呟いたが、誰にも聞こえなかったようだ。
「……実は、今日は大事なお話があって来ました」
突然、詩が真面目な表情で言った。一瞬、その場の空気が凍りつく。颯夏はとてつもなく嫌な予感がした。詩は姿勢を正し、極めて真剣に言った。
「……お父さん。息子さんを、僕に下さい」
そして詩は、深々と頭を下げる。
ドカッ。
本日4発目。ただしこの4発目は、先ほどまでの3発に比べ、ずいぶんと重かった。
「ド阿呆! いきなり何を言うんや!!」
颯夏は完全に切れていた。というか、顔が真っ赤だった。彼でも照れることはあるのだ。
ちなみに、この世界では同性愛は認められている。つまり、法律上は全く問題なしだ。
「……こんな喧嘩っ早い息子で良ければ、どうぞ」
「うちも大賛成やわぁ。詩くん、めっちゃええ子やし」
と、あっさり了承してしまう瞭一と初帆。
「そんな軽いノリでええんか!」
「ええんや。お前みたいに小さい子、他に誰がもろてくれると思っとるんや? 願ったり叶ったりやないか」
「せやせや。うちも心配しとってん。颯夏はそんなナリやし、結婚なんてできひんのとちゃうかって。詩くんなら安心やないの」
瞭一に続き、初帆もにこにことして応える。
「これで公認の仲だな」
極上の笑顔で、詩は颯夏に言った。
「そないなアホな……」
颯夏は唖然とするのみ。ただし、その顔は赤く染まったままで。
「よかったやん、颯兄ぃ」
そんな彼をクールに冷やかすのは、雷夏の役目。
「よっしゃ! 今日は婚約祝いや!」
瞭一の一言で、その日は何故か婚約祝いという名目で飲みまくったらしい。ちなみに、颯夏はやけ酒だった。
所変わってここはLAS本部の会長室。時刻は既に午前2時を廻っている。最近特に寝不足の響は、ソファーで仮眠を取っていた。
なんだかんだ言って、彼は世界の頂点に立つ人間だ。多忙、なんて言葉で片付けられるような生活はしていない。
狭いソファーの上、響が寝苦しそうに寝返りをうった時、廊下に続く扉とは反対側にある扉が静かに開いた。その扉の向こう側にあるのは、LAS会長専属秘書の個室。そう、入ってきたのはアンヌであった。
響の姿を視野に入れ、彼女は軽く溜め息をついた。
「……またこんな所でお休みになられて……」
予感はしていたのだろうか。彼女は用意していた毛布を、そっと響に掛けた。
そして、物音ひとつ立てることなく、また秘書室に戻るのだった。
瞼を焼く眩しい光に、彼は目を開けた。起き上がって辺りを見回すが、そこにあるのは真っ白な世界で、光しか存在しない。
「…………夢、か?」
夢の中、響は声を出して呟く。自分の耳に、はっきりとした感覚でその声は響いた。
「久しぶりだな。悪い夢でなければいいんだが……」
彼は冷静に、もう一度辺りを見渡した。その“夢”の、本意を理解する為に。
視線を横へ横へと動かす。やはりそこに在るのは光だけで、他には何も無いように思えた。だが。
「……あれか」
響の目が一点に定まり、そしてそれをまっすぐに見据えた。
そこにあったのは、ひとつの人影。大人だろうか、子供だろうか。あるいは、その狭間くらいの年齢のようにも思える。あまり背は高くない。
ゆっくりと、その人物はこちらに近づいてきた。しだいにその姿が、はっきりとしたものになっていく。少しずつ特徴がはっきりしていくに連れ、響の表情が驚愕と呼ばれるものに変わっていった。嫌な汗が、首筋を流れる。
その姿は、まだ高校生とも思えるほどに若い、青年だった。色白の肌、短く黒い髪、そして……。日本人としての顔立ちに似つかわしくない、異端な蒼い眼。
彼の名を、響は知っている。彼のことを、響は誰よりも知っている。
「みつ……き……」
名前を呼ばれ、舜輝は嬉しそうに微笑んだ。
「久しぶりだね。響」
柔らかい口調で自分の名を呼ぶ、その声を。透き通るように綺麗な、その蒼い眼を。穏やかで優しい、その眼差しを。邪気というものを微塵も感じさせない、その笑顔を。その全てを、響は哀しいくらい鮮明に覚えている。
「あぁ。久しぶりだな、舜輝……。まさかお前が出てくるなんてな。…………面倒事か?」
口元を笑みの形に歪め、響は笑った。
相反する2つの笑み。いや、笑顔だけではなく、彼ら自身は相反する存在なのだ。
「面倒事、なんてもんじゃないよ。下手をすると、死ぬかもしれない。だから…………」
舜輝は一度、目を伏せる。少しだけの躊躇。響は黙ったまま、舜輝の次の言葉を待った。
「……逃げて、響。逃げて……」
その言葉に、響は冷笑を浮かべた。
「っは。お前のことだ、そう言うだろうと思った」
そこで響は笑顔を消す。珍しく真顔になり、舜輝に言い放った。
「……お前は誰よりも、忽那響という人間のことを知っているはずだ。いくらお前の忠告だろうが、俺が素直に従うわけねぇってことも、知ってんだろ?」
その言葉を聞いた舜輝は、少しだけ残念そうに笑った。
「君なら、そう言うだろうって、思ってたよ」
彼が呟き終わるや否や、急に辺りの光がその威力を増した。舜輝は、光に包まれていく。
“夢”の、終わりなのだ。
「またね、響。……お願いだから、無茶はしないで」
最後にそれだけを言うと、舜輝は笑顔のまま消えていった。
そしてまた、辺りは光だけとなる。真っ白な世界の中、響はただひとりで立っていた。そして。
「……またな、舜輝」
虚空を見つめ、ただひとりの愛した人に向けて別れを告げるのだった。
「………………」
彼は今度こそ本当に、目を覚ました。周囲の状況を冷静に把握していく。
どうやら自分は、ソファーの上で寝てしまったらしい、という思考に至ったところで、秘書室の扉が開いた。
「お目覚めですか、響様」
アンヌが会長室に入ってくる。響はそちらをちらりと見ただけで、すぐに視線を窓の外に移した。空が薄っすら明るくなっている。
「……時刻は?」
「午前5時32分です」
「そうか……」
彼らしくない生返事に、アンヌは若干の不安を覚えた。訊きたいことは沢山あったが、それでも彼女は黙っていた。響が、真剣に何かを考えていたから。
「あいつが出てきたとなると……よっぽどのことだな」
響はソファーの上に座ったままで、呟いた。本当に小さな声だったが、アンヌは聞き逃したりなどしない。
「……アンヌ」
「はい」
響が、アンヌに視線を向ける。彼女はいつもと変わらない、凛とした表情をしていた。
「ここ一週間の、妖魔の動向を徹底的に調べろ」
「範囲はいかがいたしますか?」
「地球全体だ」
即答した彼に、アンヌは少しの動揺も見せず、頷いた。
「かしこまりました」
そしてそのまま、会長室を出て行こうとする。たった今下された、指令を実行に移す為に。
しかし、ドアノブに手を掛けたところで、彼女は一度立ち止まった。振り向くことなく、そして少しためらった後に、彼女は意を決して問うた。
「……響様。“夢”を、みられたのですか?」
響は、軽く溜め息をついた。
頭も直感もいい彼女には、隠し通すことは無理だろう。そう、判断する。
「そうだ。それが何を意味するか、分かるな?」
「……はい」
「なら、さっさと行け。これは急務だ」
「はい。……失礼します」
そしてアンヌは、会長室を後にした。
その日の午後3時。大阪では颯夏が二日酔いで苦しんでいる頃、孤征と環は、中国にいた。そして、あの海が見える丘に登る。丘の上にあるのは、ひとつの墓石。
「……孤征、連れて行きたいところというのは、ここか?」
墓に白い花を手向けている孤征の背中に、環は問う。
「あぁ」
振り向くことなく、孤征は答えた。そして、そっと手を合わせる。環もその横にしゃがみ込み、手を合わせた。
環は目を開き、墓石の名を読む。墓石に刻まれたその名は、“
孤征は目を閉じたまま、あの日のことを思い出す。
まだ、自分は若くて。あの人も若くて。すべてが、輝いていたあの頃のことを。
強がりで、そして本当に強くて、明るくて、そのくせ泣き虫な、あの人のことを。
10歳くらいの少年が、学校へ行く為に通学路を歩いていた。その髪は、短い白髪。眼も色素が薄く、着ている服まで白。まるで、色をどこかに忘れてきたかのような、そんな少年だった。彼は、背中に鞄と、なにやら物騒なモノを背負っていた。
白髪の少年、春日孤征は、突然何かを感じ取った。背後から感じるそれは、殺気。
一瞬で孤征はしゃがみ込む。刹那。彼の頭上を朱色の軌跡が通り過ぎた。何よりも鋭利なそれは、剣。瞬時に孤征は前へと跳躍。振り向きながら純白の剣を抜刀。殺気を感じ取って約3秒後には、相手と対峙していた。
振り向いた先にいたのは、ひとりの少女。下ろしたら腰は越すであろうオレンジ色の長い髪をポニーテールにし、こちらに向けているのは朱色の剣。その眼は、髪や剣よりも深くて濃い朱色だった。着ているのは朱色の拳法着と、どこからどこまでも朱色だった。それに対し、少年はどこからどこまでも純白だったが。
突然、少女の鋭かった眼が、柔らかくなる。そして。
「あはは! おはよう、孤征!!」
笑いながら、剣を鞘にしまった。そして、朱色の紐でくくっていた髪をほどく。先ほどまで発していた殺気はもう何処にも感じられず、今はほんわかとしたオーラを発散していた。
「はぁ……。朱温、朝っぱらから人を襲うなよ。しかも背後から」
「でも、孤征なら避けられるよね?」
「そういう問題かよ……」
ぶつぶつ言いながら、孤征も剣を鞘に戻した。この頃はまだ短かった髪を、うるさそうに払う。
「それより、早くしないと学校遅れるよ?」
無邪気に笑う朱温。やはり、先ほどとはまるで別人だ。そんな彼女に対し、孤征は少し不機嫌そうに言った。
「ったく……。遅れたらお前のせいだからな」
「なんであたしのせいになるのよー?」
朱温は口をとがらせて反論する。それに対し、孤征は棒読みでわざとらしく言った。
「登校中、背後から見知らぬ少女に襲われましたー。って言ってやる」
「何よそれ! あたしのこと言ってんの!?」
言い争いを続けながらも、2人は仲良く学校へと向かった。
「…………孤征」
環に名前を呼ばれ、孤征は我に返る。
「あ、悪い悪い。……ちょっと思い出に浸ってた」
そう言われ、環は墓石をもう一度見る。孤征は遠く、海を眺めていた。
「……李、朱温…………。中国人か?」
聞かれ、孤征は左眼の傷跡にそっと触れながら言った。
「……あぁ。俺の、この左眼の傷跡。これは、彼女がつけたものだ。……この世界で唯一、剣術で俺に勝てた人だよ」
環は表情には出なかったが、心底驚いていた。
世界最強の剣士とうたわれる、春日孤征。彼が、まさか女性に負けたことがあるとは。おそらく、このことを知っているのは孤征自身、そして朱温だけだろう。公になっていれば、すごい噂になっているはずだからだ。
「……くだらねぇ思い出話、聞くか?」
唐突に、孤征が言った。しかし環は、応えない。彼には分かっていたからだ。
孤征が自分をここに連れてきたのには、何か理由がある。思い出話をするのがそれだとは考えづらいが、その話をしなければ本題へは入れないのだろう。つまり、自分が応えずとも孤征は話す。
そう、環は考えたのだ。
「………………」
だからただ、無言を返す。
孤征は懐から、戦闘時に髪をくくる為に使う、朱色の紐を取り出した。そして、喋り始める。
「……俺は、戦う時にはいつも、この紐で髪をくくるだろ? あれは、朱温から受け継いだジンクスなんだ。彼女曰く、気合いも入るし、集中力も増すんだと」
そこで孤征は一度言葉を切り、空を見上げた。種類は違うであろう、純白の鳥と朱色の鳥が、仲良く連なって飛んでいった。
「……さて、話を始めようか。俺が産まれたのは、中国にある小さな田舎村だ。ここからそう遠くないな。子供でも歩いて行ける。……両親は日本人だったが、仕事で中国に住んでいたんだ。そして、俺と朱温が出逢ったのは、2人とも8歳の時だった。あいつは、俺が住んでいた家の隣に、引っ越してきたんだ……」
「初めまして。となりに越してきた李朱温です。どうぞよろしく」
少し緊張した面もちで、朱温は言った。腰まである綺麗なオレンジ色の長い髪に、髪よりも濃い朱色の眼。
孤征は、その朱色一色の少女に、しばし見とれた。なんて、綺麗な髪と眼なんだろう、と。
「…………春日孤征。日本人だ。よろしく」
孤征は少し、ぶっきらぼうに言う。しかし朱温は、笑顔を返した。と、そこで彼女は孤征が左手に持っている物に気付く。
「……それ、剣だよね?」
そう、彼が持っていたのは、1メートルはある剣だった。鞘に収められたままである。
「そうだけど……。それがどうかしたか?」
ぱぁっと、朱温の顔が明るくなる。そして、突然親しげに話し出した。
「剣術するの!? 実はあたしも習ってるんだ。よかったら手合わせしてもらっていい?」
そして、満面の笑みを浮かべた。確かに彼女が着ているのは動きやすい拳法着。戦うのには最適だろう。だが、彼女にはそんな雰囲気はなかった。どちらかというと、穏やかな少女が纏う、ほんわかとした雰囲気だった。
「……いいけど。怪我しても知らないぞ」
それなりに剣に自身のあった孤征は、少し心配して言う。しかし朱温は、まったくひるまない。
「平気だよ。あたし、かなり鍛えてるから!」
ということで、2人でやって来たのは、海が見える丘の上。そこに、5メートルほどの距離を開けて、向かい合って立つ。
「……ルールは、相手の動きを封じ込めた方が勝ちって事で……。いいかな?」
朱温がにこにこしながら聞く。孤征はひとつ頷いて応えた。それにまた朱温は笑顔を返すと、どこからか朱色の紐を取り出してきて、長い髪を高い位置でくくった。……そして。
「…………ゲーム、スタート」
顔を上げた時にはもう、彼女は別人だった。纏う空気はピンと張りつめており、視線も鋭く、まるで8歳の少女には見えない。顔つきも変わったように見える。隙などどこにもなく、孤征はただ、大きな威圧だけを感じた。
嘘だろ……。これじゃまるで別人だ。
孤征は内心で呟き、わずかな恐れさえも感じていた。
周りを包み込む空気は、しだいに重く、鋭く、張りつめていく。それが最高潮に達した時、2人は同時に動いた。瞬時に抜刀し、一気に距離を詰める。
ガキンッ!
硬質な音が鳴り響き、ふたつの刃が重なり合う。
「……くっ」
孤征は思わず、声を漏らす。交えた刃が、重い。朱温はすごい力で、孤征の剣を押してくる。ふたつの剣の交わった部分が、キリキリと音を立てていた。
くそ……。こいつぜってぇ女じゃねぇ!
最大限の腕力を使い、なんとか弾き飛ばす。後ろに跳躍し、僅かに距離を開けた。ふっ、と、朱温が嫌な笑みを見せる。人格まで変わってしまったかのようだ。
その、孤征を嘲るかのような笑みに、彼は切れた。朱温の僅かな隙を見付け、そこに剣を振るう。
「ここだッ!」
振り下ろそうとしたその時、何かが視界の端を通り過ぎた。それは、朱温の冷ややかな笑顔と、赤い軌跡。剣を振り上げたままの状態で、孤征は固まる。
「……あたしの勝ち」
まっすぐに、孤征の喉もとへと朱温の刃が突きつけられていた。その距離は、僅か3センチほど。
「ゲーム終了」
そう言い、朱温は孤征から剣を離した。孤征は振り上げていた剣を下ろし、朱温を睨み付ける。
「お前……わざと隙を…………」
「そう、当たり。……あたしが隙なんて作るわけないでしょ。罠だよっ」
髪をほどき、優しく穏やかな少女に戻る。
そう、彼女はわざと隙を作り、そこを孤征に狙わせた。そして、彼が大振りになった時、着実に喉を狙う。孤征はそれに、まんまと引っ掛かってしまったのだ。
悔しそうにしている孤征に、朱温は笑顔を見せた。
「っとに、嫌な戦法だよな。まぁそれでも、負けは負けだ」
その時のことを思い出したのか、孤征は少し苛立っていた。環はただひたすら、無言で彼の話を聞く。
「俺は父の薦めで、5歳から剣術を習ってたんだ。よく分からねぇが才能があったらしくて、あの頃は負け知らずだった。近所でも割と有名だったんだよ。それが、同い年の女の子に負けてみろ。悔しさも倍増って訳だ。まぁ、朱温は3歳から剣術をやってたんだけどな……」
孤征は苦笑を漏らす。
眺める海は、とても穏やかで。流れる風は、とても優しくて。
「……まぁ、俺は悔しくて、何度も朱温に戦いを挑んだんだが……。ことごとく負けてな。それで俺は、よけいに剣術にのめり込んだんだ」
「つまり、彼女がいなければ、世界最強の剣士も誕生しなかったってことか…………」
ぼそっと、環は呟く。その言葉に、孤征は笑いながら頷いた。
あの丘の上。孤征はその日も、朱温に敗北した。その、後だった。2人で並んで草の上に座り、朱温はにこにこと孤征に話しかけた。
「ねぇ、孤征」
「……なんだよ」
負けたことが悔しいのか、孤征はちょっと不機嫌だ。それにももう慣れたのか、朱温は構わず喋り続ける。
「孤征は、自分の名前の由来とか、知ってるの?」
「……なんだよ、突然」
朱温は空を見上げ、話し始めた。
「名前はね、親があたし達にくれる、最初の贈り物なんだって。あたしの名前はね、お母さんがつけてくれたの。“朱”は太陽の意味。“太陽みたいに、温かい人になれ”って。そういう願いがあるんだって。……孤征は?」
「……“孤”は独り、孤独を示す。“征”は旅だ。つまり孤征とは、独り旅の意。……俺はいつか、旅に出るつもりだ。この名前の、宿命なのかも知れない」
言った後、孤征は朱温の方を向いた。すると、彼女は泣いていた。
「な、なんでお前泣いてるんだよ!?」
「だって、だって……。独りなんて、悲しいよ……」
朱温には、両親がいない。妖魔に、殺されたのだ。だから今は、母方の祖父母と共に暮らしている。それを知っている孤征は、少し目を伏せ、言った。
「お前、あんなに強いくせに泣き虫だよな」
そして、ぽふっと、頭の上に手を置く。
「……孤征、独り旅なんて嫌だよ。……だから、あたしも一緒に行く。そしたら、孤征は独りじゃない」
孤征は驚いて、彼女をもう一度見た。彼女は、涙に濡れた目でまっすぐに孤征を見ている。その視線に、孤征は負けてしまった。
「…………あぁ」
「じゃあ、約束だよ」
そう言い、彼女は自分の小指を立てた。少し照れながらも、孤征は自分の小指を差し出した。そして、いつか2人で旅に出ようと、約束したのだった。
「……だが、その約束が果たされることは、なかったんだ。俺は結局、ある事件をきっかけに独りで旅に出た。日本へとな……」
孤征は目を伏せる。長い髪が揺れ、その顔を隠した。環からは、彼の表情が見えなくなる。
「俺は、15の時、人を殺したんだ……」
環はさほど驚かなかった。かくいう彼も、人を殺したことがない訳ではない。この世界では、仕方のないことなのかも知れなかった。
「あれは、俺が15になってすぐの事だった。近所で、殺人事件が起こったんだ。その犯人は、逃げる途中で俺に出くわした。そいつはな、俺が剣術を得意としていることを知ってか知らずか……。とにかく、俺にナイフを突きつけてきた。そいつが返り血を浴びていることに気付いた俺は、容赦なく剣を振るった。だが……。俺もまだ、ガキだったんだ。手加減が、上手くできなくて。殺してしまったんだ……」
孤征はまるで、自白するかのように、懺悔するかのように、話した。環は何も言わず、ただ、耳を傾ける。
「正当防衛ってことになって、罪は問われなかった。だが、世間の眼は冷たく、無慈悲だ。俺のことを、人殺しと呼ぶ奴もいた。だから俺は、日本に行くことにしたんだ」
「……朱温」
名を呼ぶと、彼女は振り返った。孤征が人を殺してからも、前と変わらず接してくれたのは、彼女くらいだった。
「俺は、日本へ行くことにした」
「……うん」
その目が、悲しみに染まる。そして彼女は、うつむいた。
「だから、朱温。最後にお前に、勝負を挑む。髪の毛一本でも切り落とした方の勝ちだ。……受けて、くれるか?」
朱温は顔を上げ、少し淋しそうに笑う。その後に、その長い朱色の髪をまとめ上げ、くくった。目が鋭くなり、纏う空気もきついものになる。そして。
「……受けて立つわ、孤征。あなたが本気であたしに向かって来ると言うのならば。あたしは本気で、あなたを迎え撃つ」
そして2人が向かったのは、いつもの丘。
いつものように向かい合い、そして口を開くのは、朱温。
「…………ラストゲーム、スタート!」
瞬時に2人とも抜刀。孤征は純白、朱温は真紅の刃を構え。そして、同時に走り出す。前へ、前へと。
キンッ……。
刃同士がぶつかり合う高音が、丘に吹く風に流されていく。その音は、何度も何度も繰り返される。お互いに、隙など見せることもなく。ただ、刃をぶつけあう。
そして2人は同時に跳躍。息を整える為、距離を開ける。始めてから、すでに10分は経っていた。その間、どちらも相手を傷付けることはできず。ただ、刃をぶつけあっただけだった。
あの頃よりも強くなったな、朱温。……だが、成長したのはお前だけじゃねぇ!
思考をとめると、孤征は走り出した。一瞬で間合いを詰め、剣を振りかざす。対する朱温は、僅かに身を引いて構えた。と、一瞬、本当に一瞬だけ、朱温が隙を見せる。そこを孤征が、見逃すはずもなく。ためらうことなく、刃を振り下ろした。そして。
ザッ…………。
鮮血が、宙を舞った。草の上に、血が数滴と、白髪が数本、落ちる。それを見て、朱温ははっとした。
「…………っ!」
孤征は自らの左眼を押さえる。
「孤征!」
朱温は刃よりも濃い赤色で汚れてしまった剣を投げ捨て、孤征に走り寄る。
「……あの時と同じ手かよ…………」
孤征は悔しそうに呟いたが、顔は笑っていた。朱温はまた、涙を浮かべる。
「ごめん……。眼が…………」
「大丈夫だ。眼球までは達してない。……最後まで、お前には勝てなかったな」
そう言い、孤征は諦めたように笑った。
そして、あっという間に孤征の旅立ちの日はやって来た。傷はまだ癒えておらず、左眼は包帯に隠されていた。
その左眼にそっと触れ、朱温は言った。
「……孤征。傷、ごめんね…………」
「気にするな。餞別にもらっとくよ」
そう言い、孤征は笑顔を見せる。対する朱温は見る見る涙目になり、そして、涙が零れ落ちた。最後は、笑顔でいようと、決めていたのに。
「孤征、酷いよ。2人で旅に出ようって、約束したのに……」
流れ落ちる涙を拭おうともせず、朱温は孤征を見上げる。
「悪い。……また、今度な。俺は必ず、中国に帰ってくる。その時は、お前よりも強くなっていることを約束しよう」
「……馬鹿。あたしが、孤征なんかに負けるわけないでしょ……」
言いつつ、朱温は無理矢理に笑った。孤征も、笑顔を返す。
「……朱温。次に会う時までに、泣き虫治しとけよ」
最後にそう言って、孤征は朱温の頭を撫でた。そして、彼は旅立った。
「…………俺は日本に来てから、猛特訓した。それこそ、血反吐吐くくらいにな。ただ、朱温に勝つ、その為だけに……。多分俺は、朱温に負けてなかったら今ほど強くはなってないだろう。誰も俺には勝てない。そう思い込んで、更なる高みを目指そうとはしなかっただろうな。そういった意味では、あいつに感謝してるよ……」
言いながら、孤征はまた空を仰ぐ。環はその視線の先を追ったが、雲が流れているだけで、他には何もなかった。それでも孤征は、空中の一点を見つめ続ける。昔を、懐かしむような表情で。
そのまま、孤征は語り続ける。
「そして俺は……、落とし物をした。俺が17の時だ。その後すぐに、強制的にLASに所属させられた。……最初は嫌々だったんだが、結果として5年もの間LASの為に俺は戦った。まぁ、その世代のLAS会長がいい人だったからな。響ほど強いわけでもなく、頭がいいわけでもなかったが、純粋に尊敬できる人間だった。響は歪んでいるが……。あの人はまっすぐだった。だから俺もおとなしく従っていたんだよ。まぁ結局は、その人がLASの会長を辞めるとき、俺もLASから出て行ったがな。それが、22歳の時の話だ」
一気にそこまで喋った孤征は、一度口をつぐむ。脳裏に描かれるは、懐かしきあの日々。
「……それで、中国には帰ったのか?」
環が先を促すと、孤征は続きを話し始めた。
「あぁ、もちろん帰ったさ。約束したからな。俺が中国に戻ったのは、LASを辞めて3年後……。俺が25歳になった年だった…………」
心地よい風が吹く丘の上。朱と、白の思い出が詰まった、あの場所。
そしてその場所に、白は再び立つ。丘の上にはまだ、墓石などなかった。
「……懐かしいな。あの頃と、何一つ変わっていない……」
俺はこんなにも、変わってしまったのに。
心の中だけで呟いた。純白の彼、孤征は少しだけ寂しそうに笑う。たくさんの思い出を、その心に描きながら。
孤征はそっと、左眼を縦に走る古傷に触れてみた。痛みなどとうの昔に消えたはずのそれが、ズキズキと疼いたような気がした。
突然、孤征の目が鋭くなる。彼が背後から感じ取ったのは、懐かしくも恐ろしい、殺気。
そして、風の割れる音が、した。それは、刃が風を切る音。
孤征にまっすぐ振り下ろされたのは、真剣。しかし彼は、その攻撃を避けなかった。
キンッ!
一瞬で抜刀し、孤征は刃を止めた。振り向くことなく、ただ、空気の流れだけで刃の軌道を読んだのだ。
「……孤征?」
不意に、懐かしい声が聞こえてきた。
孤征の純白の刃と交わっているのは、朱色の刃。そう、“彼女”の愛刀だ。
「朱温……か?」
孤征は彼女に背を向けたまま、呟く。朱温がゆっくりと頷いたのを気配だけで感じ取ると、そっと剣を退いた。交わっていた二つの刃が、そっと離れる。
朱温は剣を鞘に収め、ポニーテールにしていた髪をほどく。風に吹かれるその長い髪は、鮮やかな朱色。
孤征は緩慢な動作で振り向いた。その姿をしっかりと視野に入れると、朱温は涙を浮かべる。
「久しぶり。やっと……、やっと逢えたね」
涙で濡れた朱色の瞳を、朱温は孤征に向ける。
そんな彼女に対し孤征は、優しく微笑んだ。
「元気だったか、朱温。…………帰ってくるのが遅くなって、悪かった。ただいま」
「お帰り、孤征!!」
朱温は心からの笑顔を浮かべたのだった。
「ルールは昔と同じ。相手の動きを封じ込めた方の勝ちだ」
「……ねぇ、本当にやるの? 帰ってきたばっかりなんだよ?」
丘の上に対峙する朱と白。朱は再び高い位置で髪をくくり、白は短い白髪を風に揺らしていた。
「当たり前だ。……お前を倒す、その為だけに、俺は帰ってきたのだから」
この時彼は、嘘をついた。中国に帰ってきた目的。それは、ひとつだけではなかった。
孤征の言葉を聞き、朱温は一度目を閉じた。そしてもう一度開く。その時にはもう、優しい彼女ではなかった。目は鋭く、纏う空気は殺気そのもの。
「……分かったわ。だけど、負けてなんてあげないから。……それと、もうひとつ。プラダジーの能力は使わないでね」
「無論だ」
朱温は彼の能力のことを知っていた。それもそのはず、彼のLASでの活躍は目を見張るものだったのだ。
たったの5年間。その5年の間に、彼は“世界最強の剣士”という称号を得ていた。その名は、世界の誰もがある事実を知らなかった為に得たもの。彼が、とある女性にどうしても勝てなかったという、事実を。
孤征は鞘から刃を抜き放つ。その眼は鋭くなり、まっすぐに朱温を睨みつけた。彼女に引け劣らない、背筋が凍りつくような冷たい殺気を放ちながら。
「……お前に勝ち、俺は真の“世界最強”と成る」
「あなたがそのつもりなら。あたしはあなたに勝ち、“世界最強”を超えた存在と成るわ」
朱温はにやりと笑い、自らの愛刀を抜刀。そして。
「ゲーム、スタート!」
彼女の声が丘の上に響き渡る。そして2人は、同時に動き出した。
――――キンッ!
再び白と朱が交じる。刃同士が触れ合った一点では、ギリギリと嫌な音が鳴る。それは、二つの剣の叫び声のようでもあった。
やはり力勝負では孤征の方が有利なのだろう。少しずつ朱温は押されていく。
「……くっ」
朱温は全身のバネを使い、白の刃を弾き飛ばす。そのまま後ろに跳躍し、左足で軽く着地すると、そのままもう一度前に跳躍。すごい速さだ。しかも一連の動作に一切の無駄はない。その動きは、美しいとも形容できるだろう。
2度、3度と、刃の打ち付けられる音が鳴り響く。丘の上にあるのは、風の音と、剣と剣が交わる硬質な音、そして2人の音もなく走る気配だけだった。
孤征と朱温の力量はほぼ互角といっていいだろう。昔は、わずかに朱温が上だったが。
彼女は長い髪を揺らし、前へと踏み込んだ。しかし。
「ッ!」
わずかに、本当にわずかにだが彼女はふらついた。先日降った雨のせいだろうか。地面がわずかに、ぬかるんでいたのだ。
朱温のその一瞬の隙を、孤征は見逃さない。ここぞとばかりに彼は踏み込み、白銀の大剣を振りかぶる。
「終わりだッ!」
孤征は叫ぶ。しかし朱温は臆することなく、そればかりか余裕の笑みを浮かべた。
「甘い!」
大振りになった孤征の喉下はがらあきだ。朱温は一歩だけ後ずさり、ぬかるみから抜ける。そして一瞬にしてしゃがみ込み、前へと跳躍しようとする。だが。
「……遅い」
朱温が瞬きをする、その直前。視界の端をよぎったのは、孤征の冷笑とも嘲笑ともとれる笑み。そしてもう一度目を開いたときには、孤征の姿が消え失せていた。そればかりか、声が背後から聞こえてくる。気がついたときにはもう、全てが決着した後だった。
「ゲームエンド.……俺の、勝ちだ」
朱温の喉元には、背後から伸びてくる純白の刃が当てられていた。その間わずか1ミリ。孤征が少しでも手を捻れば、彼女の喉は切り裂かれ、絶命してしまうことだろう。
突然、朱温がふっと笑みをこぼした。いつの間にか殺気は消えている。
「……完全にあたしの負けね。まさか孤征にスピード負けする日が来るなんて……」
そして彼女の喉元から、ゆっくりと刃が離れていった。
朱温は髪をほどき、その長い髪を風に遊ばせる。それから2人とも、剣を鞘にしまった。
不意に孤征は、柔らかな笑顔を浮かべた。優しく細められたその眼は、まっすぐに朱温に向けられていて。
「やっと……。これでやっと、言える」
ただ、それだけを呟いた。
「……何を?」
朱温は首を傾げる。刃を持たない普段の彼女は、とても穏やかで暖かい人だった。
「負けっぱなしじゃ……お前よりも弱いままじゃ、駄目だったんだ。だからずっと、言えなかった」
そこで孤征は言葉を切り、真剣な表情になる。その真摯な瞳を、朱温は真正面から受け取めた。
「李朱温。あの約束を覚えているか?」
「……忘れるわけ、ないじゃない」
朱温は、あの日を思い出す。孤征の、名前の由来を聞いた日を。そして、彼が旅立った日を。
“いつか、2人で旅に出る”。
あの日交わした約束、未だ、果たされていない約束。
「……俺は、お前の剣を越えた。そして今、真の“世界最強の剣士”となった。だから……。俺はお前を、守ることができる」
孤征はふっと、柔和な笑みを作った。
「旅に出よう、朱温。人生という名の、一生を懸けた2人旅に」
一筋の風が、丘の上に吹き渡った。朱色の長い髪に風は絡みつき、そして流れていく。
その髪の持ち主は、優しい笑顔に涙を浮かべ。
「…………ばか。一体、何年待たせるのよ」
そして走り出した。一気に距離を詰め、そして孤征に抱きつく。そんな彼女を彼は、優しく、しかし力強く抱きしめたのだった。
「……まぁ、そんなわけで俺たちは結婚した」
孤征はわずかに照れくさそうにしていた。環はそれを分かっているのかいないのか、孤征の方は向かずに海を眺めていた。まぁ、“世界最強の剣士”の恥ずかしがる姿など、あまり見たくはないだろう。
「…………お前と苗字が違うのは何故だ?」
唐突な環の質問。確かに彼の言うとおり、孤征の姓は春日、朱温の姓は李だ。その疑問に答えるのは、やはり孤征自身で。
「俺と朱温は中国に住んでいたからな。中国は夫婦別姓なんだ」
なるほど、といった感じに、環は頷く。
突然、何の前触れも無く、激しい風が吹いた。その風は、2人の髪を揺らし、そして天空の雲をゆっくりと動かした。西にだいぶ傾いていた太陽が、隠れる。孤征の顔に、翳りが落ちた。
「…………だが、“一生を懸けた2人旅”は、そう長くは続かなかった……」
環は何も言わず、ただ、横目で朱温の墓石を見た。そして、孤征の方に目を移す。彼は、何の感情も浮かばない、まるで表情を失った環のような、そんな顔をしていた。
無表情のまま、極めて、冷静に。そして、一言一言、確かめるようにして。
「……朱温は、死んだ。…………いや、殺されたんだ」
風はついに、吹き荒ぶことをやめた。
平凡な、どこにでもいるような、中学生だった。
繰り返される、変わり映えのしない日々。
……だけど、落とし物をして、初めて気付いた。
その凡庸さこそが、幸せだということに。
2度とは取り戻せない、幸せだということに。
――――――――――――――――――――――――――番外編「名前を呼ぶ、その人に」
一日の終わりを告げるチャイムが、冬の冷たい空気の中を響き渡る。この時期、受験生達はかつて自分が所属していた部活動を横目で見ながら、受験勉強の為に足早に家路を急ぐ。中学3年生である、紅い眼をもつ彼もまた、例外ではなかった。
「じゃ、またな」
「おう! また明日!」
彼は友達に手を振られ、教室から出ていく。廊下でも何人か知り合いとすれ違い、その度に挨拶を交わした。
すべてはいつもと変わらぬ、夕暮れ時のこと。それは、何気ない日常の1コマ。
彼は道を歩きながら、空を見上げた。冬の空気はピンと張りつめており、空がいつもより高く思える。夕日は今まさに沈もうとしていて、西の空は眼が焼けそうな程に赤かった。
「ただいま」
彼は建て付けのあまりよくない引き戸を、ガタガタと横に引く。彼はこの音が嫌いだった。まるで、誰かの悲鳴のように聞こえるからだ。
「お帰りなさい」
家の奥、台所の方から聞こえてきたのは、彼の母親の声だ。恐らく夕食を作っているのだろう。彼は家に上がり、2階へと続く階段を上る。その途中、彼は自分の妹とすれ違った。
「あ、お帰り、お兄ちゃん」
「ただいま」
小学生である彼の妹は、彼よりも帰ってくるのが早い。一階に下りていったところを見ると、大方母親の手伝いでもするのだろう。彼女はよく、家の手伝いをする子だった。
彼はそのまま2階まで上がると、自分の部屋に入った。制服から私服に着替え、いつものように勉強を始める。
彼が目指す高校はそれなりに倍率が高く、彼の学力ではギリギリの所だった。その為、部活引退を区切りに必死で受験勉強に勤しんできたのだった。
ふと、彼はシャーペンを動かす手を止め、カレンダーに目をやった。……そろそろ、あの日が来るはずだった。
「…………明日か」
いつの間にか日々は通り過ぎ、それは明日にまで迫っていた。明日、彼はひとつ歳をとる。つまりは、誕生日なのだ。だからと言って、何かが変わるわけでもなく。彼は明日からも、ただの受験生であり続けるのだ。……その、はずだったのだ。
日が暮れ、闇が町を覆い尽くす頃、彼の父親が帰ってきた。
「ただいま」
「「お帰りー」」
食卓で交わされる挨拶。既に夕食の支度は整っており、あとは父親が席に着けば夕食が開始される。
4人がけの、小さなテーブル。それを囲む、彼の家族。
すべてはいつもと変わらぬ、夕食時のこと。それは、何気ない日常の1コマ。
当たり前すぎる日々の中、彼はただただ、淡々と繰り返していた。人生なんて、そういうものなんだろうと。そうやって、変わり映えしない日々が続き、いつか終わっていくのだと。
飽きていたわけではない。
嫌になっていたわけではない。
……それなのに。
翌日。彼はいつものように、学校へと出掛ける。
「じゃ、行ってきます」
「行ってらっしゃい。ごちそう作って待ってるからね」
見送る母親。既に会社へと出勤してしまった父親。未だに寝ている、朝寝坊な妹。
すべてはいつもと変わらぬ、明け方のこと。それは、何気ない日常の1コマ。
だけどその日は、彼にとって少しだけ特別な日。
それでも空はいつも通り、澄み渡っていた。
彼はただぼんやりと通学路を歩く。冬の朝は寒い。自然と早足になってしまう。
平凡過ぎる毎日。
凡庸な自分。
日々を生き、そしていつかは死んでいく当然。
それが当たり前だった。……当たり前のはずだった。
「……ッ!」
彼は驚いて立ち止まった。慌てて辺りを見渡すが、人の気配どころか、猫一匹もいない。耳が痛くなるほどの静寂の中、彼が感じるのは、違和感。周囲ではなく、己の中で生じた、僅かなようで、大きな変化。
「……何だ?」
問いかけるようにして呟くが、その問いに答えられる者など、この場にはいなかった。
不思議に思いながらも、彼はまた歩き始めた。その先にあるはずの、日常へと。
彼が学校に着いたのは、HRの始まる10分前だった。そのまま彼は自分の教室へと直行。慣れた様子で、扉を開けた。
「はよ」
いつもと同じように挨拶する。しかし、誰からも返事は返ってこなかった。いつもなら、数人から返ってくるはずなのに。
彼は不思議に思いながらも、自分の席の方へと歩いていく。彼の席は1番後ろだった。教室の中程を過ぎる時、彼の耳に、クラスメイトの囁き声が聞こえてきた。
――――なぁ、あんな奴、この組にいたっけ?
彼はその言葉の意味を理解した瞬間、あまりのことに驚いて立ち止まる。そしてそのまま、動けなくなった。彼の真紅の目が向けられた先にあるのは、空っぽの空間。そこは、彼の席があるはずの場所。しかし今は、そこには何も無かった。
――――俺も今、それ思った。見覚え全然無いんだけど。
囁き声は、続く。彼は信じられないような気持ちで、辺りを見回した。だが、その場にいる誰もが、彼に対してよそよそしい。……いや、むしろ“誰だか分からない”とでもいうかのような態度だった。
「……どうしたんだよ、みんな」
彼は引きつった笑顔で問いかける。すると、クラスメイト達は全員、目をそらした。その様子を見て、彼の頭の中に嫌な単語が浮かんだ。
“いじめ”。
嫌な汗が、一筋流れ落ちる。そんなはずはないと、彼は自分に言い聞かせた。
昨日までは、普通だったのだ。何も嫌われるようなことはしていないはずだし、何より、何の前触れもなかった。それなのに、突然こんなことになるなど、考えられない。……そう。昨日までは、普通だったのだから。
と、そこでHR開始のチャイムが鳴る。呆然と立ち尽くす彼を尻目に、生徒達は席に着いた。やがて、担任の先生がやって来る。
「HR始めるぞー」
言いながら扉を開け、教室内に入る。ふと、先生は教室の中心で立ち尽くしている彼に気付き、口を開いた。
「君、自分の教室に帰りなさい」
彼は自分の耳を疑った。ここは、紛れもなく自分の教室である。担任の先生だって、昨日までと何ら変わりない。
「……先生、俺のこと、覚えてないんですか……?」
震える声で、彼は問うた。だが、現実はあまりにも残酷だった。
「そういえば初めて見る顔だな。どこのクラスだ?」
先生は不思議そうに尋ねる。その表情には嘘偽りなど見て取れず、それが冗談などではないことが容易に分かった。
彼は自分に何が起こっているのか理解することができず、それでも、自分がここにいてはいけないことだけは悟った。そしてそのまま、教室を飛び出す。他の生徒達は、異様な物を見るような目で、彼を見送っていた。
訳も分からず走っているうちに、彼は学校と家の中間あたりにある公園へと辿り着いていた。荒く息をつきながら、子供の頃よく遊んだその場所で、彼は何とか頭の中を整理しようとする。
一体、何が起こっているんだ? あれじゃまるで、俺が最初から存在しなかったみたいだ。
自分の思考に、彼はぞっとした。けれどそれを否定することは、できなかった。
「……そうか」
すぐそばに誰かがいたとしても、その人に聞こえないくらい小さな声で、彼は呟いた。実際には、周囲には人っ子ひとりいなかったのだが。
そして彼は、空を見上げる。自分の吐いた息だけが、白く、青い空に昇っていった。
「…………みんな、俺を忘れたんだ」
はっきりとした根拠があった訳ではない。……ただ、通学途中に感じた違和感が、それが揺るぎない真実であると言うことを、彼に語りかけていたのだ。
静かに、音もなく、一滴の雫が地面に落ちる。そしてその哀しみは跡形もなく、土に染みこまれていった。
15歳の誕生日。
その日俺は、“自分の存在”を失った。
それからは、すべてがあっという間だった。
俺は家族にさえ忘れ去られ、すぐ近くの孤児院に入れられた。
そして、1ヶ月が経った。
普通なら、いつの間にか過ぎてしまうような日々も。
俺を絶望のどん底に突き落とすには、十分すぎる時間だった。
彼は、夜の町を見下ろしていた。そこは、彼が入れられた孤児院からほど遠い、とあるビルの屋上。冬の風は冷たく吹き荒び、容赦なく彼の体温を奪っていく。しかし、彼はそんなことはまったく気にしていなかった。体温など……体の芯にあるであろう“心”と呼ばれるモノに比べれば、この1ヶ月で凍えきってしまったそれに比べれば、大したことはなかったのだ。
「…………」
彼はただ、無言でがらんどうな目を町にむける。自分ひとりの存在が欠けたことなど、何でもないとでも言うかのように、世界はただ、当たり前に廻り続けていた。
薄暗くて、真っ白な壁や天井、床が特徴的な広い部屋。ひとつの壁には大きなモニターが取り付けられ、そしてそれを椅子に座って眺めているのは、ひとりの若くて綺麗な女性だった。彼女はうっとりとした表情で、画面を見つめ続ける。
そこに、10代前半くらいの年に見える少女が、ゆっくりとした動作で部屋に入ってきた。少女は女性のそばまでてくてく歩いていくと、語尾を伸ばしたのんびりとした口調で言った。
「あのぉ……今ご覧になってるサンプルの対処ですけどぉ、どうなさいますかぁ?」
それに対し、女性は視線をモニターに向けたままで答える。
「そうね、そろそろ回収に行かないと……」
そこで一度女性は口をつぐみ、麗しい笑顔を浮かべた。
「本当に、死んでしまうかも知れないわね」
そんな女性の発言に全く動じることなく、少女はまたもやのんびりと喋る。
「では、車を用意しますねぇ」
「ええ、そうしてちょうだい」
そして少女は、部屋に入ってきた時と同様、緩慢な動作で部屋を出ていった。広い部屋に残された女性は、画面に映る人影を見て、感嘆の呟きを漏らす。
「……ああ、何て綺麗な目をしているの。その奥底に眠る闇がとても深くて……素敵だわ。きっと、素晴らしい研究材料になってくれるでしょうね」
そして彼女は再び、口を笑みの形に歪めた。それは、見る者すべてを魅了する、とても美しくて……おぞましい微笑だった。
カシャン――――。
彼が右手で軽くつかむと、フェンスは小さな音を立てた。恐くは、無かった。生き続けていくことの方が、恐かった。もう……限界だった。
……この世界から、俺の存在は消えた。だとしたら、今ここにいるのは何だ? ……矛盾している。今ここに、自分が生きていることは、矛盾している。
彼はそっと、フェンスに足をかけた。その時だった。
「……死ぬの?」
突然、誰かの声が聞こえてきた。彼はゆっくりと振り返る。
「誰だ……?」
彼の虚ろな目がとらえたのは、ひとりの若くて綺麗な女性だった。その女性は穏やかな笑みを浮かべ、彼から5メートルほど離れた場所に立っている。
「私はあなたを迎えに来たの。そしてあなたは、私の元で生きてゆき、私の為に働くわ。……違うかしら? 津吹雅玖」
息が止まるかと思うほどの、衝撃だった。彼……津吹雅玖は、フェンスから離れる。その紅い眼は、久方ぶりに生き生きとしていた。
「それでいいわ。……ついてらっしゃい」
女性はにこりと微笑むと、屋上の扉に向かって歩き出した。そして雅玖は、一切の迷いをみせることなく、その女性の後を追っていったのだった。
……名前を呼ばれた、その瞬間。
俺は決心した。
自分の名前……そしてその存在を、覚えていてくれた。
たったひとりの、この人に。
……ついて行こうと。
例えその行く末が、闇の奥底であろうとも。
僕は、運命を受け入れようと思っていました。
あの家の長男として、生を受けたのですから……。
仕方の無いことなのだ、と。
しかし僕は、落とし物をしました。
そして、どうせなら運命に抗ってみようと思ったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――第7話「乱」
「響様。妖魔の動向調査、終了いたしました」
アンヌが響にこう言ったのは、調査指令が出てからおよそ半日後だった。夕方と夜の狭間の時間帯、会長室でのことである。
「おう、早かったな。……それで?」
会長室のデスクに座り、響は腕組をして問う。アンヌはその前にビシッとした姿勢で立ち、手元の書類を見ながら報告を始めた。
「世界的に見て、大きな変動はありません。……しかし、一部に限り、異常な動きが見られます」
「……それはどこだ」
響が鋭い視線をアンヌに向ける。彼女は、その視線をまっすぐ受け止めた。
「日本です。日本全土に散らばっていた妖魔が、ここ5日間で大きく移動しています」
言いながら、アンヌは響に資料を手渡した。それに、詳しい妖魔の動向が記されているのだ。
響は黙ったまま、しばらくその資料を眺める。そして、あることに気がついた。視線を資料から放し、アンヌを再び見据える。
「確かに異常だな。……お前はこれを見て、どう考える?」
あえて自分の見解は言わず、アンヌに問うてみる。その問いに対しアンヌは、デスクの上に広げられている日本地図を指し示しながら答えた。
「……妖魔はこの2地点に集まろうとしている模様です。意図は不明ですが、恐らくは……」
そこでアンヌは口ごもってしまう。それでも響は、彼女の言わんとしていることを理解したようだ。軽く頷き、同意する。
「あぁ、そうだろうな。この動きは、そうとしか考えられない」
「……いかがいたしますか?」
彼女にしては珍しく、声音に少しだけの不安が混じっている。
「そうだな……。とりあえず、“あいつ”に連絡しておけ。後の対処は、俺がしておく」
「承知しました。……響様。もうひとつ、お伝えしておきたいことがあるのですが……」
「何だ?」
響に問われ、アンヌは手元のファイルから、一枚の写真を取り出した。それをデスクの上におき、響によく見えるようにする。
その写真に写っているのは、一本のナイフだった。銀色の刃と、漆黒の柄。そしてそれを汚す、紅い血の跡。
「これは津吹雅玖の遺品のひとつです。先日、何か彼に関することが分からないかと、調べていたのですが……。ここをご覧ください」
アンヌが指差した一点。それは、ナイフの柄の部分だった。黒色の中に、小さく白い文字が彫られている。
「……“PMARL”? 英単語じゃねぇな。組織名か何かか……?」
そう、大文字で書かれたその言葉は、“PMARL”。響は怪訝そうに片眉を上げる。
「私もそうかと思い、色々と調べてみたのですが……。そのような名前の組織は、存在しませんでした。私が調べられる範囲内では、ですが」
「そうか……」
響は腕組をして、何かを考え始めた。彼も記憶力はいい方だが、どれだけ考えても、そんな言葉は記憶になかった。
「……そっちの方は、俺が引き受ける。お前はとにかく、“あいつ”に連絡だ。急げ」
「かしこまりました」
そしてアンヌは、会長室を後にした。……そう、“あの人”に、連絡を入れる為に。
会長室にひとり残された響は、深い溜息をついた。そして、緩慢な動作で、窓の外に視線を向ける。外はゆっくりと、一日の終わりを告げようとしていた。
世界の頂点に立つ彼は、漆黒の目を細め、昔を思い出す。その眼は、悲しみに染まるばかり。彼は目を細めたまま、問いかける。もう二度と、現実では会うことのない、彼に。
「……なぁ、舜輝。今度こそ俺は、守り抜くことができるだろうか……?」
答えが返ってくることなど、期待していない。何故なら、これは現実であって、“夢”ではないのだから……。
午後10時。瑠璃と稚世がLASに帰ってきた。
「……ふぁ。眠い〜」
(移動に結構時間かかったもんね。今日は早く休もう?)
「そうする〜」
すでに睡魔に負けてしまいそうな稚世。それに対して瑠璃は、まだまだ余裕といった感じだ。
(それにしても……。すごかったね、友華さん)
瑠璃が思い出し笑いをする。稚世も帰り際の友華の対応を思い出し、苦笑していた。
2人が稚世の実家を後にする時、友華は瑠璃の手を掴んで離さなかった。瑠璃が何度も、また来ますから。と約束し、なんとか開放されたのだった。それほどまでに友華は、瑠璃のことが気に入ったらしい。
「ごめんね。あたしの母親あんなので」
(ううん。ちょっと嬉しい)
にこにこしている瑠璃を見て、稚世は彼女が友華に気に入られたから嬉しいのだと解釈した。しかし実際は、違った。瑠璃は、比べていたのだ。自分の母親と、稚世の母親とを。
翌日。明け方は肌寒い風の吹く、丘の上。まだ太陽も昇っていないというのに、彼は草の上に寝転んで考え事をしていた。青々とした草花にはあまり似合わない、漆黒の姿。環だ。
彼はぼんやりと空を眺め、昨日のことを思い返していた。
――――朱温は、死んだ。…………いや、殺されたんだ。俺は、あいつを守ると、約束したのに……。守り抜くことが、できなかったんだ。
自分とは間逆の色彩を持つ彼は、悔しそうにそう言った。環はその姿に、自分を重ねる。
「…………大切な人との約束を守れない人間は、最低……か」
ならば自分は、どうなるのだろう。愛する人の為に必死だった彼に比べ、自分はあまりにも、愚か過ぎる。
一体俺は、どれだけ裏切れば気が済むのだろう。お前はまだ、あの約束を守り続けてくれているのだろうか?
環はあの人の顔を思い浮かべ、果たされないままの約束を想う。そして、ゆっくりと呟いた。
「……ごめんな、ユヅル…………」
彼はうずくまり、ただただ謝る。それだけしか、今の彼にはできなかった。
一方、大阪では颯夏と詩が葉梨家でくつろいでいた。詩はすっかり馴染んでおり、全く違和感といったものがなくなっている。
「颯夏、二日酔いは治ったか?」
「もう平気や。昨日は死ぬかと思うたけどな」
詩の問いかけに、颯夏は平然と答える。ちなみに今2人がいる和室は、詩にあてがわれた客間だ。
「それならよかった。……ところで、お前なんか不機嫌じゃないか?」
「……別に。不機嫌やないで」
そう言った颯夏の眉間には、皺が寄っていた。ちなみに詩の方を向かず、そっぽを向いている。明らかに機嫌が悪い。
「じゃあ、何だよ。この距離は」
詩が不服といった感じに言う。颯夏は詩から少し離れたところに座っていた。詩はそれがおもしろくないらしい。
「…………何でもかんでも急やねん。お前は」
ぼそっと、颯夏が呟く。詩はしばし思考して、彼が何のことを言っているのか理解した。
「何だよ。婚約のことか? 颯夏は俺と結婚するの、嫌なのか?」
「そういうこと言っとるんとちゃうねん。順序がめちゃくちゃやないか。何で俺に言う前に親父やお袋やねん?」
颯夏はいじけたように言う。端から見ると拗ねたガキ以外の何者でもない。
「……悪かったよ。でも、お前は照れて簡単にOKしてくれないだろ? だから、親から攻めた方が早いと思ったんだよ」
珍しく素直に謝る詩。しかし颯夏は、そんな彼の方をちらりと見ただけで、また目をそらしてしまった。
「……それだけやない。詩は何も、俺に話してくれん。自分のことも、過去のことも。せやから俺、お前のことあんまり知らんやんか……」
ずっと、颯夏が不満に思っていたこと。それは、詩の秘密主義。詩は自分についてほとんど喋らない。出逢う前の彼について、颯夏はごくわずかなことしか知らないのだ。
「過去は関係ないだろ? 大事なのは“今”じゃないのか?」
「確かにそうや。ほんでも、誰かを好きになるんは、過去も未来も、全部ひっくるめて好きになるのとちゃうか?」
颯夏は頑なだった。これはもう、詩の口の巧さでもどうしようもないだろう。
詩は諦めたように、ひとつ溜息をついた。
「……俺はLASに来る前、ある人と一緒に暮らしていたんだ。その人は、俺の親代わりのような人であり、俺に戦い方を教えてくれた師匠だ」
いきなり自分の過去を話し始めた詩に多少驚きつつ、颯夏は更に問うた。
「ほんでも、お前はプラダジーになってからずっとLASにおったんとちゃうんか?」
「いや、それは違う。響に頼んで、資料は改竄しているが……。実際は、俺は一度LASから逃げ出したんだ」
「……あの会長は、そんなことにまで手を染めとったんか……」
がくっと肩を落とす颯夏。本当に響は、何でもやってのけてしまう怖いもの知らずである。
「それより、逃げたっちゅうんはどうゆうことや? LASは会長に認証されれば辞めれるやろ?」
「……順序立てて説明した方がよさそうだな」
詩は一度言葉を切った後、昔を思い出すように遠くを見た。そして、語り始める。
俺の昔の名は、
柳館詩というのは、実の親につけられた名前じゃないんだ。
まぁ、300年近く前に“詩”なんて名前をつける親は、まずいないからな。
いたって普通に暮らしていた俺は、18歳の時、プラダジーになった。
そして、無理矢理LASに所属させられたんだ。
昔のLASは、今とはまったく違った、プラダジー達にとっては残酷な組織だった。
任務を拒否することも、逃げることも、辞めることも許されなかった。
プラダジー達に意志はなく、強制的に、死ぬまでただの兵器としてこき使われたんだ。
特に俺は不老不死だから、普通の人間がやれば死ぬような仕事ばかり与えられていたな。
もちろん、それを咎める人間なんかいなかった。
当時プラダジーはかなり差別されていたし、人権もなかったからな。
人間だと認められない俺達は、LASに幽閉されてるも同然の生活だった。
俺はそれが嫌で、LASから逃げ出したんだ。
まぁ、これは俺だからできたことで、他のプラダジーだったらLASの人間に殺されてたな。
俺は殺されても死なないから、追っ手から逃れることができた。
……それからは、闇の中を生きた。
酷い生活だったが、自由がある分、LASよりはマシだったな。
そんな日々をどれくらい過ごしたのか、自分でもわからなくなっていた頃、俺は師匠に拾われた。
師匠はどうしようもなく荒んでいた俺に、色々なことを教えてくれたんだ。
俺がそれなりにまともな人間になれたのも、すべて師匠のお陰だよ。
そうしているうちに、俺は師匠の薦めで、LASに戻ることになった。
その頃にはもう、LASはプラダジーを人として扱うようになっていたしな。
俺は逃げ出したままだったらから、けじめをつけるためにも……。
そして、師匠への恩返しの為にも、ひとりで立って、歩いていきたいと思ったんだ。
そこで俺は、それまでの名前を捨てた。
夕月飛永という、一度地の底に堕ちてしまった人間としてではなく。
まったく別の人間として、新しく生まれ変わったつもりで、まっすぐに生きようと。
そして俺は――――。
「そして俺は、名前を“柳館詩”と改め、再びLASに戻ってきたんだ」
「せやったんか……」
と、ここで詩は、そっと立ち上がった。ゆっくりと颯夏に近寄り、彼の正面にしゃがみ込む。そして、顔を颯夏に近づけ、耳元で囁いた。
「そうだ、俺は詩となり、飛永は死んだ。そしてお前は……。俺が“柳館詩”として愛した、最初で最後の人間だ」
恐怖さえも感じる、低く、重く、囁く声。その言葉の意味を理解した時、颯夏はばっと、俊敏な動きで詩から離れていた。
囁かれた方の耳を手で押さえ、ぱくぱくと金魚のように口を開閉する。あまりのことに言葉にならないらしい。その顔は、耳まで真っ赤に染まっていた。
「な……何を言い出すんやお前は!!」
やっとのことで出た言葉。その様子を見て、詩はこれ以上ないほど嬉しそうに、楽しそうに笑っていた。
「何って……。プロポーズ?」
詩の飄々とした態度に、颯夏の中で何かがぷつりと切れた。
「この……ド阿呆が!!」
颯夏が詩に殴りかかろうとした、その時。
――――プルルルル。
詩の携帯電話が、鳴り響いた。しかも、ディスプレイに表示された名前は、“忽那響”。これは何が何でも、今すぐに出なければならない。でないと、後が恐い。
と言うわけで、仕方なく颯夏は引き下がった。不服そうに詩を睨み付ける。
詩は残念でした、とでも言うように、にこりとひとつ笑みを見せた後、電話に出た。
『詩か?』
聞こえてきたのは、いつもの不機嫌そうな声だった。詩はそれに対し、愉しそうに応える。
「あぁ。……流石はLASの会長様だな。グットタイミングだよ」
『……あ?』
「いや、こっちの話。ところで、何か用か?」
言いながら、詩は携帯を操作し、響の声が颯夏にも聞こえるようにした。
『あぁ、任務だ。お前ら、まだ大阪にいるな? これから大阪支部に行け』
「はぁ!? 何が悲しゅうて休暇中に仕事なんかせんとあかんのや? それに、今日はこれから東京に帰る予定やで?」
響の言葉に真っ先に反論するのは、颯夏だ。しかし、彼らが響に敵うわけなどなく。
『あぁ? 誰が休暇なんてやった? 俺が出したのは、外泊許可だけだ。四の五の言ってねぇでさっさと行け』
簡単に一蹴。確かに響は、外泊は許可したが、休暇は出していない。正論なのだが、彼が言うと屁理屈に聞こえてしまうのは何故だろう。
「……何を言っても無駄なようだな。で、任務内容の詳細は?」
すぐに諦めた詩は、響に問う。颯夏はまだ納得いかないようだったが、響に逆らうことなど到底不可能。仕方なく従うことにする。
『あー……。電話で説明するのは面倒だな。支部の奴に直接聞け』
何とも無責任な話である。これで会長が務まってしまうのだから、世の中というものは不思議だ。
「分かった。いつまでに支部に着けばいい?」
と、あっさり了承してしまう詩もすごいと言えばすごい。まぁ、慣れているのだろう。
『そうだな……。とりあえず昼までには行っとけ。それから、今日はこっちに帰って来る必要は無ぇから、支部にでも泊まらせてもらえ』
「了解。じゃ、切るぞ」
と、詩が電話を切ろうとした時、響がそれを止めた。
『ちょっと待て。詩、お前にひとつ、訊いておきたいことがある』
「何だ?」
『……PMARLという組織名に、聞き覚えは無いか?』
それは、アンヌが雅玖の遺留品から見付けた、謎の組織名。あれから響も独自に調べたのだが、彼の情報網をもってしても、分からなかったのだ。こうなったら年の功、というわけで詩に訊いてみたのだろう。
「PMARL……。そういった組織名は知らないな」
しかし、期待に反して詩も聞き覚えは無いようだった。
『……そうか、それならいい。さっさと大阪支部に行け。……それから、生きて帰ってこい。じゃあな』
実に意味深な言葉を残し、電話はぷつりと途切れた。
ツー……ツー……、と、一定の間隔で発せられる音を前に、颯夏と詩は不思議そうに顔を見合わせる。そして詩は、通話終了のボタンを押し、耳障りな音を停止させたのだった。
カチャリと会長室の扉が開き、アンヌが現れたのは、響が受話器を置いた直後だった。アンヌは響の前まで歩いていき、口を開く。
「……響様。柊様への連絡が取れました。これから準備に取りかかるそうです」
「そうか。こっちも今、詩と颯夏に支部へ行くように言ったところだ」
言いながら、響は軽く伸びをする。流石に疲れが溜まっているのだろう。
不意に、アンヌは一枚の紙をすっと取り出し、響の前のデスクに置いた。
「響様、これに署名をお願いします」
そう言われ、響はその紙に視線を落とした。紙の上に書かれた字を読み、彼はわずかに驚いたような顔をする。
「これは……」
「“鎖楼”の解放、及び使用許可証です」
言い淀む響に、アンヌは淡々と、そして冷静に言い放った。響が睨み上げるようにアンヌを見上げる。その視線にも、アンヌは恐れをなしたりなどしない。
「……本気か?」
「はい」
即答するアンヌ。その視線は一分の狂いもなく、響へと注がれていた。その強すぎる意志の眼差しには、死をも恐れぬ堅い決意が秘められている。そのことをよく理解している響には、彼女の申し出を断ることなどできなかった。
彼は無言で万年筆を取り出すと、書類の1番下に記名した。そしてそれを、アンヌに手渡す。
「すぐに行動に移れ」
「了解しました」
軽く頷くと、アンヌは会長室を出て行った。そんな彼女に、響は背を向けたまま、
「……アンヌ。無茶はするんじゃねぇぞ」
そう、言ったのだった。
午前10時、大阪。颯夏と詩は身支度を整え、今まさに葉梨家を発とうとしていた。そんな彼らを見送るのは、葉梨家の3人。今日は日曜日なので、昼間でも瞭一と雷夏も家にいたのだ。
「相変わらず慌ただしいな。もうちょっとゆっくりして行ったらええのに」
最初にそう言ったのは、雷夏だ。それに対し颯夏は、苦笑いを浮かべて応える。
「しゃあないねん。会長に逆らったら殴られてまうわ」
「……あんたらの上司は、一体何やねん」
初帆は呆れたように言う。それに対し颯夏と詩は、顔を見合わせ困ったように笑うだけだった。
「……ほな、行ってくるわ」
「おじゃましました」
颯夏が言った後に詩は軽くお辞儀した。そんな2人に、瞭一は穏やかな笑顔で。
「詩君、またいつでも来てくれてかまへんからな。颯夏、体にだけは気ぃつけて頑張り」
そう、言ったのだった。
「はい。ありがとうございます」
にこりと笑って応えた詩に対し、颯夏はそのまま背を向けて歩いていってしまう。その後を、詩はのんびりと追いかけていった。
「行ってらっしゃい!」
初帆は大きく手を振り、そして彼らの後ろ姿はだんだんと小さくなっていった。
それから約1時間後。颯夏達は電車、バスを乗り継ぎ、目的地に一番近いバス停から、今は徒歩で移動しているところだった。
そんな中、不意に詩が立ち止まり、空を見上げた。
「……雨が降りそうだな」
言われて颯夏も空を仰ぐ。確かに彼の言う通り、空は雲に覆い尽くされていた。
「せやんな。まぁ、建物ん中入ってしまえば関係ないやろ」
そして颯夏は、改めて前を見据えた。その先にあるのは、大きな門。それには、黒地に達筆な金の文字で“LAS大阪支部”と書かれた札が掛けられていた。
LASは地球規模の組織なので、支部が世界各国至るところに設けられている。大阪支部はその中でも、本部の次に大きい施設だ。世界全体から見れば小さな島国にすぎない日本に、何故LASの重要機関が2つもあるのか謎と言えば謎だが、あるのだから仕方がない。
その大阪支部は、東京にある本部に比べ、だいぶ容貌が異なった。本部はコンクリート固めの、まるでどこかの要塞のような風貌なのに対し、大阪支部はいかにも和風の、大きな日本家屋のお屋敷といった感じだ。まぁ、その大きさは普通の民家とは比べ物にはならないのだが。
「……さて、これからどないする? とりあえず支部長に会うのが無難やとは思うけど」
「同感だな」
門をくぐり抜けた2人は、壮大な大阪支部の敷地内をぶらぶらと歩いていた。何故まっすぐに支部長の所へ行かないのかというと……。
「……問題は、支部長がどこにおるかやな」
「まぁ、十中八九、支部長室にはいないだろうな」
そう、支部長がどこにいるかわからないのだ。一日のほとんどを会長室で過ごす響と違って、大阪の支部長は自室にいる時間が少ない。というのも、支部長は敷地内を散歩していたり、戦闘訓練をしたり、花に水をやったりと、外にいることの方が多いのだ。
「虱潰しに探すゆうても、広すぎやんなぁ……」
颯夏が困ったように呟く。辺りを見回すが、視界に入ってくるのは数人の一般職員と、颯夏たちから見て右手にある背の高い生け垣のみ。
「……毎回のことながら、弱ったな」
珍しく詩が弱音を吐いた時、どこからか、ドサッという何か重たい物が落ちる音がした。2人は同時に、音のした方を見遣る。
どうやらそれは、彼らの右側にあった生け垣の向こう側から聞こえてきたようだ。不思議に思った2人は、中を覗いてみることにする。生け垣の切れ目を見付け、その中に入ってみると、そこにはひとつの人影があった。
その人物は、深緑色のショートヘアに、髪と同じ深緑の瞳をもっていた。着ているのは濃緑の男物の着物と濃紺の羽織。着物の帯には鞘に収められた日本刀が挿されている。足下にスッパリ綺麗に斬られた巻藁が落ちているところを見ると、どうやら試し斬りをしていたようだ。
「……あ、おった!!」
颯夏は嬉しそうな声をあげた。その声に反応してこちらを振り向いたその人は、まさに詩たちが探していた人物。
「……葉梨に柳館か。久しぶりだな」
「お久しぶりです、柊さん」
そう、LAS大阪支部長、一ノ葉柊〔Ichinoha Hiiragi〕だった。まだ31歳と若い方だが、支部長の務めは今年で8年目という、かなりのベテランだ。
「よく来たな。とりあえず立ち話も何だから、支部長室へ行こうか」
そう言い、柊は穏やかな笑みを浮かべた。
「せやんな。……ちゅうか、柊はんは相変わらず男前やなぁ」
颯夏の言葉に、柊は苦笑を浮かべる。実はこの人、男性ではなく女性だ。男物の和服を着ているのは、身長が高い上に、本人の性格がそこら辺の男以上に男らしい為である。また、この方が戦いやすいのだ。
「私自身は、あまり自覚して無いのだがな」
言いながら困ったように笑う柊。ちなみに彼女、女性に惚れられることはそう珍しくない。もともと顔立ちがいい上に、強く、頭もよければ性格もいい。まさに理想の男性像といったところだ。
「では、案内しよう。雨が降っても困るからな」
そう言って歩き始めた柊に、詩と颯夏は続いていく。生け垣で囲まれた場所……訓練場を抜け、支部の施設の中で1番大きく、敷地の中心に位置する本館へと向かう。
「他のプラダジー達は元気か?」
歩きながら、柊が問うた。それに対し、颯夏と詩は。
「ぼちぼちやなぁ。ま、今は誰も入院しとらんし、一応元気やな」
「怪我は日常茶飯事ですけどね」
そう答えた。柊は安心したように頷く。
「そうか、それならいい。…………っと、来たか」
何かに気付いたようにして呟く柊。そして彼女は、立ち止まった。同じように歩みを止め、不思議そうにしている颯夏と詩の耳に、不意に誰かの声が聞こえてきた。それも、彼らの頭上から。
「柊姉様ー!!」
2人は空を仰ぐ。すると、燃えるように赤い髪と眼をもつ少女が、叫びながら空から降って来るのが見えた。
「な!!」
颯夏が驚愕している間にも、少女はどんどん落ちて来る。そして、柊の背中にガバッと抱きつくようにして落下の勢いを殺した。
「柊姉様、書類整理終わりましたっ」
少女は柊の背中にすがったまま、嬉しそうにそう言った。彼女は柊と同じショートヘアに、ピンク色の甚平を着ている。颯夏と詩は状況が飲み込めず、黙って成り行きを見守っていた。そんな2人を尻目に、柊は慣れた様子で少女に言う。
「楓、職場では“支部長”と呼ぶようにと、いつも言っているだろう?」
「ああ! も、申し訳ございません、支部長! 5階の窓から支部長が見えたので……つい」
慌てたように弁解する少女。なんとも可愛らしい。
「……柊はん、その子は妹?」
「にしては、歳が離れすぎているような……」
話についてゆけない颯夏と詩が、困惑して問う。そこで初めて、少女は2人の存在に気付いた。どうやら今まで、柊のことしか視界に入っていなかったらしい。
「はわわわわ! お客様でしたか!」
言いながら、慌てて柊の背中から降りる。そんな中でも柊は、落ち着き払った声音で応えた。
「そういえばお前達は、会ったことがなかったな。こいつは私の義理の妹だ」
「初めまして! 大阪支部長専属秘書、一ノ葉楓〔Ichinoha Kaede〕です!」
楓はペコリとお辞儀した。彼女の言葉に、颯夏たちは少なからず驚いた。それもそのはず、楓はとても背が低く、せいぜい6歳くらいにしか見えないのだ。もちろん、颯夏よりも背が低い。柊との身長差は55p程だろうか。
「……いくつなん?」
「18歳です」
颯夏の問いに、にこりと微笑んで答える楓。2人はまたもや、驚かされた。身長とのギャップもさながら、それ以上に、わずか18歳で大阪支部長の専属秘書になっているという、事実に。
ちなみにLASの各支部長の専属秘書になる為には、その支部長に推薦され、LAS会長がそれを受諾しなければならない。つまり楓は、あの響に認められて、秘書になっているわけだ。
「……確かに楓は、身長120pに満たない小さな体躯だが……強いぞ。私が保証する」
柊がビシッと言い切ると、楓はとても嬉しそうに微笑んだ。その姿はあどけなくて、やはり幼い子供にしか見えなかったが。
と、ここで柊が思い出したように言う。
「では、行こうか。本当に雨が降ってきそうだ。……楓、お前も来なさい」
「はい!」
そうして4人は、支部長室へと向かった。空は更に鈍く、暗い色になりつつあった。
広々として、それでいて殺風景な和室。室内には書机がひとつだけ、ぽつんと置かれていた。そこから少し離れた場所には座布団が並べられ、そこに座るのは4人の人物。柊、楓、詩、颯夏だ。
「……で、今回俺らは、何の用があって呼び出されたんや?」
口火を切ったのは颯夏だった。確かに、未だにその謎は解明されていない。とにかく行け、とだけ言われて、仕方なくここまで来たのだから。
「響から何も聞いていないのか?」
柊は若干驚いたような表情をする。まぁ、当たり前と言えば当たり前の反応だ。どこの世界に、何をするかも知らさずいきなり部下を現場に向かわせるような上司がいるだろうか。実際、存在してしまったのだが。
「それが、大阪支部の人に聞くように言われてて……」
詩が苦笑いを浮かべながら言う。それに対し柊は、軽く溜息をついた。
「全く、響には困ったものだな。……まぁ、わざわざ私が説明するまでもないだろう」
柊が言い終わったのと同時、いきなりけたたましい音が大阪支部内に響き渡った。カンカンカンカン……と鳴るそれは、警鐘。和風の大阪支部にマッチしていると言えばそうなのだが……このハイテクの時代に警鐘とは、珍しいを通り越して異質である。
「な、何や……?」
突然のことに、颯夏は困惑したように言った。それにひきかえ詩は、じっと柊の言葉を待っている。すると柊は、まっすぐ前を見据えたままで、一言。
「楓」
それだけを言った。
「はい!」
すぐに楓は立ち上がり、急いで窓から外へと飛び出していく。恐らく、一般職員や戦闘要員達に指示を与えに行ったのだろう。
「さて、私達も行くか」
言いながら、柊が立ち上がった。その左手は、しっかりと日本刀を握り締めている。
「ちょ、柊はん! 行くってどこに? っちゅうか、これは一体何やねん?」
慌てて颯夏が問うと、柊は落ち着いた様子で答えた。
「百聞は一見に如かず、と言うだろう? これから始まることが、お前達の任務だ」
「そういうことですか……」
はぁ、と、諦めたように溜息をついた後、詩は立ち上がる。それにつられ、未だに話が見えていない颯夏も詩の横に立った。
「……さぁ、行こうか。戦の始まりだ」
そして柊は、不適な笑みを浮かべたのだった。
明け方は雲ひとつ浮かんでいなかった空は、時が経つにつれ厚い雲に支配されていく。もし、朝と同じように雲がなければ、今頃太陽が空の真上まで昇っているのが見えたことだろう。
どんよりとした鉛色の空の下。彼はただ、海を眺めていた。遠く、遠く、水平線の彼方を。その先にある、何かを。
「……ここにいたのか、環」
名前を呼ばれ、彼は緩慢な動作で振り返った。その視線の先にあるのは、純白の姿。
「…………孤征か」
呟き、また海へと視線を戻した。そんな彼の隣に、孤征は座り込む。
「昨日の話、頼まれてくれるか?」
不意にそう言われ、環は昨日のことを思い起こした。孤征の声が、今も耳に残っていて……その言葉は、鮮やかに蘇ってくる。
――――俺は、そう遠くない未来に……死ぬだろう。俺の体はもう、かなりガタがきてんだ。薬も年々増えていくしな。落とし物として健康体を失ってから、こうなることは分かってたんだ。だから恐くなんかねぇ。でも、死ぬ前に、どうしてもお前に頼みたいことがあるんだ……。
そこまで環が思い出した時に、現実の孤征の言葉が飛び込んできた。
「もう一度言う。……環、俺の遺骨をこの地に……朱温が眠るこの丘に、埋めてくれ」
そう、孤征の願いとは、自分の埋葬。彼には子供がいないので、誰かに頼むしかなかったのだ。しかし環は、ぶっきらぼうに、こう答えた。
「……俺が約束を守れない人間だと言うことは、お前も知っているはずだ」
その目には、憂いと後悔が満ちている。だが、そんな環の態度にも、孤征はまったく困った様子など見せなかった。
「だからこそだよ。お前は俺が知っている誰よりも、約束を破り続けている自分を憎み、苦悩している。そんなお前だからこそ、俺は信頼することができるんだ」
そう言われ、しばらく環は沈黙した後、海の遠くへと視線を向けたままでぼそりと呟いた。
「…………後悔しても、知らないからな」
それは、とても分かりにくい、彼の肯定の返事だった。しかし孤征には、ちゃんと伝わったようだ。
「悪いな、環。……感謝する」
言いながら、孤征は頭を下げる。そんな彼を横目に見ながら、環は更に一言。
「……お前が俺に言いたいのは、それだけじゃないだろ」
「はは……。相変わらず鋭いな」
驚き、そして困ったように笑う孤征。その笑顔はすぐに消え、真剣な表情に変わる。
「環、お前は夕鶴〔Yuduru〕のところに帰ってやれ。……俺みたいに、後悔することになるかも知れねぇぞ」
孤征の言葉に、環は応えられない。“後悔するかも知れない”。そんなことは、彼に言われなくともわかっていた。……わかっていたけれど、できなかった。それはすべて、自分が弱いから。自分が、傷付くのが恐いから。
「……俺は、あいつに――――」
言いかけで、環は口をつぐんだ。それと同時に、孤征は抜刀。背後に迫っていたそれを、真横に一閃した。
「ったく、人が大事な話をしている時に……」
孤征が苛立たしそうに呟く。彼の目の前で悲鳴をあげながら死んでいったのは、一頭の妖魔だった。そして、改めて辺りを見渡してみると、大量の妖魔が近づいてきている。だいたい50頭弱といったところか。
「……囲まれたな」
環の呟きを聞きながら、孤征は盛大な溜息と共に、自らの愛刀を地面に突き立てた。開いた両手を使い、慣れた様子で髪を縛り、そしてもう一度その大剣を手にした。
「共同戦線といくか、環」
「…………ああ」
好戦的な微笑と共に言った孤征に対し、環は淡々と応える。そして2人は、妖魔へと向かっていった。
曇天の下、にわかに騒ぎ立つのはLAS本部の敷地内。そこではたくさんの獅子のような妖魔と、プラダジー達の交戦が繰り広げられていた。
そんな中大声で叫ぶのは、稚世だ。
「会長ー!! 何コレ、どうなってんの!?」
彼女は次々と弾丸を妖魔に放ちながら、響へと問う。問われた彼もまた、拳銃を握り締めたままで応えた。
「知るか。ぐだぐだ言ってねぇでさっさと倒せ。もうだいぶ侵入してきてるぞ」
そう、LAS本部はかつてないほどの窮地に陥っている。すでにかなりの数の妖魔が入り込んできており、プラダジー達はその対応に追われていた。
と、そこで心が何かに気付き、慌てた様子で空を指さす。
「みんな! 何か来てるよ!!」
彼の言葉に、プラダジー達と響は空を見上げた。始めは何も見えなかったが、徐々にそれは黒い点となって姿を現し、すぐにはっきりとした形までもが視認できるほどになる。
「あれは……鳥型の、妖魔ですか?」
唯斗の呟きに、ティルは響を振り返り。
「どうするんですか会長! 地上の妖魔だけでも手一杯なのに……」
「空の奴らはほっとけ」
たった一言、あっさりととんでもないことを言ってしまう響。だが、それだけでは到底納得できるはずがない。
「ほっとくって……すぐに地上に降りてきますよ!?」
ティルがそう言った、その瞬間。
――――ドンッ。
鈍い、銃声が響いた。その一瞬後に、こちらに向かって飛んできていた妖魔が一頭、地面へと落ちていく。まだ距離がだいぶあった為、どうやらそれは敷地外に墜落したようだ。そして、銃声は続いてゆく。ひとつその鈍い音がする度に、妖魔が一頭、また一頭と、空から姿を消していった。
「心配すんじゃねぇ。こっちには、“鎖楼の守護神”がついてる」
言いながら、響は本部敷地内の外れにある、かなり背の高い塔を見遣る。それに気付いた瑠璃は、小さく呟いた。
(……なるほど。アンヌさんね)
そう、先程からの援護射撃は、アンヌによるものだったのだ。
鎖楼……それは、
その一番上の階には、360度すべての方角を狙えるように沢山の窓が取り付けられており、そこから狙撃手は獲物を狙うことができる。アンヌはもともと狙撃の名手で、ライフルを扱わせたら超一流なのだ。その為、彼女の特技を最大限に活用できるようにと、彼女が秘書に就任した際、響が造らせたのが鎖楼だった。
「ま、そういうことだ。だからお前らは空なんか気にしてねぇで、地上にだけ目を向けてろ」
「「了解!」」
そして彼らは再び、鳴り止まぬ銃声の中、妖魔と対峙する。いつものように2人一組になって戦っている中で、瑠璃はある異変に気付いた。
(……エリィ? どうしたの、顔色が……)
そう、エリィが真っ青な顔をして、立ち尽くしているのだ。その眼の焦点は合っておらず、目の前に広がる景色は見えていないようだった。
「エリィ、大丈夫か?」
ティルも心配そうに彼女の顔を覗き込む。不意に、彼女ははっとしたような表情をしたかと思うと、響に向けて叫んだ。
「会長! 病院が……っ!」
他のプラダジー達が状況についてゆけない中、響だけは、エリィの言っていることを理解しているようだった。
「……早く行ってやれ」
「はい!」
響の言葉に応え、そしてエリィは一目散に駆け出した。自分の仲間達の、不思議そうな顔を後にして。
丁度その頃、LAS専門病院は大変な騒ぎとなっていた。病棟内に、妖魔が侵入してきたのである。そしてその院長であるセルシアは、第二病棟内を駆け回り、声を張り上げていた。
「第二はもう駄目だわ! 患者を第一へ移して!!」
「はい!」
彼女の指示に従い、看護士達は患者を避難させていく。ほとんどの患者を第一病棟へ移し終わった頃、セルシアは廊下でシェンファにバッタリ会った。
「シェンファ、よかった、無事ね?」
「はい、セルシア先生もお怪我はありませんか?」
いつものように、淡々と応えるシェンファ。彼も今まで、患者の移動に手を貸していたのだ。
「私は平気よ。それより、患者はすべて――――」
言いかけてセルシアは固まる。ついに、恐れていたことが起きた。彼女の目の前にいるシェンファの向こうに、妖魔が現れたのだ。
「伏せて!!」
叫ぶようにそう言ったのと同時、セルシアは白衣の懐から拳銃を取り出し、妖魔に対して発砲。シェンファは咄嗟にしゃがみ込んだ。
銃弾は見事に命中し、妖魔は苦しそうに喘ぎながら絶命する。しかし、ほっとしたのも束の間、新たな妖魔が次々と、その後ろから現れた。
「セルシア先生、ここは一端退いて……」
「駄目よ! ここで食い止めないと妖魔が第一へ行くかも知れないわ!」
シェンファの言葉を遮り、セルシアはきつく言う。だが、シェンファは彼女の言葉を聞き入れようとはしなかった。
「あなたは戦闘要員ではありません! セルシア先生、あなたは医者なんですよ!? もしあなたが怪我でもすれば、誰が怪我人を治療するんですか!!」
彼にしては珍しく、語尾を強めて言う。けれど、セルシアはシェンファ以上に、頑固者だった。
「確かに私は医者だわ。……そして、患者の命を守るのが、医者の仕事よ」
きっぱりと、彼女は言い切る。その、あまりにも強い意志を宿した目に、シェンファはついに折れた。
「……はぁ。分かったよ。その代わり、怪我はするなよ。お前は治す側の人間なんだからな」
普段の口調になった彼は、セルシアと同じように拳銃を取り出した。彼らは戦闘要員ではないが、一応護身用に拳銃だけは持たされているのだ。勿論、射撃訓練もきちんとやっている。
「それじゃ……医者の職務を全うしましょうか!」
セルシアがそう言い、2人は妖魔へと銃口を向けた。何発もの銃声が、普段は静かな病院内に響き渡る。弾丸の命中した妖魔は、痛みに暴れ、壁に沢山の傷をつけた。
その時、降り注ぐ銃弾から運良く逃れた妖魔が、こちらに向かってきた。それはものすごい速さで駆け、セルシアに襲いかかる。あっという間に、その鋭い牙が、彼女に迫った。彼女は咄嗟に両手を前に翳し、頭をかばう。
ガキンッ!
「姉さん!」
シェンファの叫び声と重なって響いたのは、金属音。セルシアの両腕は、妖魔に噛みつかれていた。しかし、牙の突き刺さった傷口からは、血がまったく流れ出てこない。その代わりに、破れた皮膚の隙間から見えたのは、剥き出しになった鈍色の金属だった。
「くっ……!」
セルシアが苦しそうに声をもらす。両腕が塞がれているために応戦できない彼女の代わりに、シェンファが発砲しようとした、その時だった。
――――シュッ。
突然、風を切る音がしたかと思うと、シェンファのすぐ横をナイフが猛スピードで飛んでいき、それは妖魔に突き刺さった。妖魔はあまりの痛みに、叫ぶように鳴く。その隙を利用して、セルシアは妖魔から急いで離れた。そして、ナイフが飛んできた方向を見ると。
「……エリィ?」
こちらに駆けてくるその姿は、外で妖魔を討伐しているはずのエリィだった。
「エリィ、どうしてここに?」
近くまで来た彼女に、セルシアが問う。その両腕は、未だに金属が露わになったままだった。
「……さっき、ここが襲われる映像を“視た”のよ。だから、加勢しようと思って」
かなりの速さで走ってきたのだろう、彼女は少し息が切れている。深い深呼吸をひとつして、息を整えると、エリィは少し青ざめた顔をして言った。
「それよりセルシア、その腕……」
彼女はわずかに震える指で、セルシアの腕を指差す。その様子を見て、セルシアは困ったように笑った。
「これが、私の落とし物なのよ」
ほんのわずかな人間にしか知られていない、セルシアの落とし物。それは、両腕だった。肩から指先まで人工皮膚を被せているため、それが義手であることはまず気づかれないのだ。
そしてエリィは、セルシアの言葉を聞き、あることを思い出した。以前、ふとした瞬間に、セルシアの手がエリィに触れたことがあった。その時、セルシアの手が、恐いくらいに冷たかったのだ。セルシアは「冷え性なの」と言って笑っていたが、実際は違う。本当は、人肌の温もりというもの自体が、彼女の腕には存在しなかったのだ。
驚きのあまり言葉を失っているエリィに、セルシアは苦笑を濃くしながら、更に言った。
「私はね、決してメスを握ることは許されない、医者なの」
そう、彼女は医者でありながら、メスを握ること……つまり、“手”を使って手術をすることが許されないのだ。日常生活には差し支えないが、細かい手の感覚が必要とされる手術ができるほど、義手の技術は発展していない。その為彼女の治療は、専らその能力に頼らざるを得ないのである。
と、ここでシェンファが冷静に一言。
「……あんまり長話してる暇もなさそうだぞ」
彼の言う通り、今はそんなことをしている場合ではないのだ。まだ倒されていない妖魔が、何頭も残っているのだから。
「そうね、今はとにかく……病院と患者を守らないと」
言いながら、セルシアは立ち上がった。妖魔に噛みつかれた時に破れてしまった白衣を脱ぎ捨て、拳銃を握り締める。そして3人は、病棟という神聖な場所には不釣り合いな妖魔たちへと、向かっていくのだった。
足早に、彼らが大阪支部本館の廊下を歩いていると、こちらにやって来る人物がいた。どうやら、支部の一般職員らしい。その人は柊に近寄ると、少し慌てた様子で話し始めた。
「支部長、現状をご報告いたします! 妖魔は大群で支部を襲っている模様。部類的には虎に似た型一種のみで、すでにかなりの数が敷地内へ侵入しています」
「総数は?」
「はっきりとは分かりませんが……恐らく50頭以上は」
彼はかなり困惑していたが、柊は50という数にもさほど動揺せず、冷静に応える。
「わかった。報告ご苦労」
そう言われ、彼はまたどこかへ行ってしまった。
柊、詩、颯夏の3人は、とりあえず本館の外へと出る。そこで見たものは……。
「何やこれ……。50やそこらの数やないで」
颯夏が唖然として呟く。確かに彼の言う通り、妖魔の数はとんでもないものだった。
「柊さん、これは本部から援軍を頼んだ方が……」
流石の詩も多少困惑気味のようだ。しかし柊は、平静を保ったままで、それどころか、少し呆れたようにこう言った。
「……本当に何も聞いてないんだな。今、東京もここと似たようなことになっているはずだ。援軍どころでは無いだろう」
「は!? 一体どういうことやねん?」
颯夏の問いに、柊は妖魔達を見据えながら、丁寧に応えてやる。
「響から連絡があったんだ。ここ5日で、妖魔が東京と大阪に集まりつつあることが、アンヌの調査で分かったと。奴は本部と大阪支部が狙われていると推測し、お前達をここへ向かわせた。……つまり、今回はお前らだけで何とかしろ、ということだろうな」
「そんな無茶な……」
困ったように呟く颯夏に対し、柊は強く言い放った。
「私達をなめるなよ、葉梨。ここはLAS最大の支部として、決して落とされてはならない場所……大阪支部だ。私達はそこを守り抜く為に在る者達だぞ」
あまりの迫力に、いつも強気な颯夏さえも身を引く。それほどまでに彼女の目は、強い力を有していた。
と、そこに大阪支部の職員が、慌てた様子でやってくる。
「支部長、大変です! 妖魔が全制御館に近づいています!!」
この言葉を聞き、柊は一瞬だけ目を見開き、そしてすぐにその目が鋭くなった。
「分かった。そちらは私が行こう」
そう言った柊の周りの空気が、ピンと張りつめる。彼女は颯夏達を振り返り。
「お前達は敷地内に侵入した妖魔を、潰していてくれ。……それから、今回は掠り傷も受けるな。特に柳館、お前は避けることに慣れていない。気をつけろ」
「何でや、柊はん? 俺はともかく、詩は怪我しても……」
柊の言葉に、颯夏は疑問を抱く。確かに詩は、怪我を負ったとしてもまったく問題はない。すぐに、治ってしまうのだから。
「2人とも、あれを見ろ」
そう言って柊が指さしたのは、敷地内に生える雑草だった。遠く、妖魔の近くに生えているそれは、腐って枯れている。そして、よくよく見れば、その雑草には妖魔の唾液が垂れていた。
「……毒、ですね」
詩の呟きに、柊は頷く。
「そういうことだ。流石に柳館でも、毒は危険だろ」
「わぁった。確かにアレは強力そうやわ。毒喰らうなんてまっぴらごめんやしな」
颯夏の言葉に、詩も頷く。そして柊は。
「では、ここは頼んだぞ。私もすぐに戻ってくる」
それだけ言うと、走り去ってしまった。その後ろ姿を見送りながら、颯夏はぼそっと呟く。
「ほんまに、おっかなかったわ……」
彼が言っているのは、先ほどの柊の目のことだろう。普段は穏やかで暖かい人である柊だが、切れると恐い。精神的に押し潰されてしまいそうな程の威圧感に、喉元に刃を突きつけられているかの如き、殺意。彼女はそれを有しているのだ。
「ま、あれはお前の発言が悪かったな。柊さんは将来、一ノ葉一族の族長になる人だからな……プライドも実力もあって当然だ」
「せやんな……」
詩の意見に颯夏は納得する。一ノ葉一族……それは、言わずと知れた戦闘専門の名家である。その族長ともなれば、LASの会長と同じくらいすごい人なのだ。
「よっしゃ、俺らは俺らの仕事をせんとな! 行くで詩!!」
「了解」
わざと明るく言った颯夏に詩は短く返し、そして彼らは妖魔の元へと駆け出したのだった。
その頃柊は、全制御館へと急いでいた。普通なら走りにくいはずの和服でも、彼女はすごいスピードで駆け抜けていく。
柊の向かう、全制御館。それは、大阪支部のメインシステムがすべて集約された建物のことだ。発電からメインのコンピュータまで、すべてがここにそろっている。いくら古風な大阪支部とはいえ、中枢部分はかなりハイテクなのだ。もしここが壊されでもしたら、大阪支部は完全に停止してしまうだろう。LAS全体的にも、大打撃を受けてしまう。つまり端的に言ってしまえば、大阪支部長はここを守る為に存在するも同然なのである。
敷地内の外れに位置する全制御館へと向かう途中、柊はいきなり立ち止まった。彼女の視線の先にあるのは、立ちはだかる妖魔達。
「こんな時に……」
呟き、柊は左手の親指を刀の鍔へとそえる。そして右手を柄へと伸ばそうとした、その時。
――――ヒュッ。
風を切る音と共に、何か赤いものが柊と妖魔の間に降ってきた。その燃えさかる炎のような色彩を有する人間など、ここにはひとりしかいない。
「……柊姉様、ここは楓にお任せください」
そう、柊の秘書、楓だ。彼女は柊に背を向けたまま、きっぱりと言い切る。しかし柊は、少しのためらいをみせた。
「だが……」
「お急ぎください! 全制御館が落とされれば、ここだけではなく世界にも影響がでます! ……わたしのことなら心配いりません。このような雑魚にやられるようでは…………。楓は、柊姉様のおそばにいる資格がなくなってしまいます」
柊の言葉を遮り、楓は一気にそこまで喋る。その真っ直ぐな意志に、柊も折れた。
「……分かった、お前に任せる。だが、手傷は負うな」
「はい!」
そして柊は、楓と妖魔を残して走り出す。当然の如く、柊の後を一頭の妖魔が追おうとした。だが。
――――シュッ!
黒い物体が猛スピードでその妖魔へと飛んでいき、それは妖魔の右後ろ足に突き刺さる。妖魔は苦しそうな叫び声をあげ、その場に倒れ込んだ。
「それ以上先へは行かせません!」
大声でそう言ってのける楓。今彼女が投げたのは、クナイ。一ノ葉一族の人間は主に、刃を用いて戦うのだが、日本刀や槍を扱うには彼女は小さすぎた。その為、比較的軽いクナイを楓は愛用しているのだ。
妖魔達は柊を追うのを諦め、今度は楓へと牙を剥く。そんな妖魔達を気にせず、楓は小さくなっていく柊の後ろ姿を見送っていた。そして、小さく呟く。
「……柊姉様。あなたはわたしの、世界のすべてです。あなたの為に死ぬことなど、楓はまったく恐くありません。……しかし、あなたはいつもわたしに、“死ぬな”と仰るから……。わたしは何があっても、死ぬわけにはいかないのです」
楓は柊の姿が完全に見えなくなるまで見守った後、妖魔達に向き直った。
「勝負です、妖魔。楓の存在意義を、今ここで証明してみせます!」
彼女が言い終わるや否や、妖魔達は一斉に襲いかかってくる。楓はクナイを取り出さないまま、妖魔達をギリギリまでひきつけ、そして一気に地面を蹴りつけた。ふわりと軽く、高く跳びはね、そして落下のスピードに乗せて妖魔の頭蓋に右足の踵を振り下ろす。
ガッ――――。
骨の砕ける、嫌な音が響いた。楓はまた、妖魔を蹴りつけた反動で空を舞う。先ほどよりも高く宙に浮き、そして一度に何本ものクナイを取り出した。それを空中から、妖魔達に投げつける。彼女がふわりと地面に着地する頃には、半径5メートル以内にいた妖魔はすべて、クナイの餌食になっていた。
「まだまだこれからですよ!」
叫ぶようにそう言うと、楓は左手に一本のクナイを握り締め、妖魔へと駆けていく。そして一気に、妖魔の懐へと飛び込んだ。低い位置から上へと、妖魔の喉を切り裂く。彼女は体が小さい為、このような戦い方が可能なのだ。
と、いきなり妖魔の鋭い爪が、真横から楓を切り裂こうとしてきた。それは、恐ろしいまでのスピードで迫ってくる。しかし楓は上半身を後ろにそらせ、間一髪のところでそれを避けた。彼女の真っ赤な髪が数本切り落とされ、宙を舞う。それはまるで、鮮血のようにも見えた。
楓はそのまま後ろに倒れていき、地面に手をついて飛び跳ねるように後方転回。その着地の勢いを殺しきらずに、楓は片膝を地面についた。その頭上を、彼女の背後に迫っていた妖魔の爪が通り過ぎる。楓はしゃがんだままでクナイを両手に1本ずつ持つと、前と後ろに投げた。それは、先ほど彼女を斬り付けようとした2頭の妖魔の急所を捕らえる。そしてほぼ同時に、その2頭は倒れていった。
それから彼女は、その身軽さと俊敏さを生かし、次々に妖魔を仕留めていった。力はあまりないが、そのスピードや軽い身のこなしには、妖魔もついていけない。
そして、柊を見送ってからあまり時間が経たないうちに、彼女はたった1人でその場にいた妖魔をすべて倒した。たくさんの妖魔の屍の中心に立ち、楓は悲しそうに呟く。
「……ごめんなさい。例えあなたたちの命を奪うことになっても、わたしには守り抜きたいものがあるんです」
自分が倒した妖魔達に祈りを捧げた後、楓は柊の後を追って走り出した。
「くそっ! 銃弾が足りない! 支部長はまだか!?」
拳銃に新しい弾倉を叩き込みながら、ひとりの支部職員が苛立たしそうに言った。
「見原を支部長の所へ向かわせました! もうすぐ来られるはずです!」
それに対し応えるのは、他の職員。彼らは全制御館を守る為、妖魔と対峙していた。しかし、何とか妖魔を近づけないではいられるものの、すべてを倒すのは無理だ。実質、柊が来るまで耐えるのが彼らの役目と言ったところである。
と、その時、数頭の妖魔が一気に全制御館に突進してきた。
「やば……ッ!」
慌てて職員達は発砲するが、そのうち一頭を仕留め損ねる。その一頭は、すごい勢いでこちらに迫ってきた。妖魔が、全制御館へと到達する一瞬前。
「伏せろ!」
――――ザッ。
怒号と共に響いたのは、何かを切り裂く音。誰かが真横から、妖魔を斬り付けたのだ。その人物は身軽に着地すると、沢山の妖魔達へと血で汚れた刃の切っ先を向けた。
「支部長!」
そう、その人物とは、LAS大阪支部の支部長、一ノ葉柊だった。彼女は自分の愛刀を握り締め、静かな殺意を湛えた眼を、妖魔に向ける。そして背後を振り返らず、そのよく通る声で。
「お前達は下がっていろ」
それだけを口にした。職員達はその言葉に従い、後退する。それを気配だけで感じ取り、自分から彼らが離れたことを確認すると、柊は一気に駆けだした。
前へ前へと、妖魔達との間合いを詰める。妖魔との距離がほんのわずかになった時、柊は強く踏み込み、恐ろしい速さで妖魔を薙いだ。鋭い日本刀で斬り付けられ、妖魔は悲鳴をあげる間もなく絶命していく。
「……す、すごい」
柊たちから離れたところで、職員達は唖然としてその姿を見守っていた。彼女が現れて、形勢は一瞬にして逆転。妖魔の数は減っていく一方だ。
と、不意に柊の動きが止まる。そんな彼女を、妖魔達は囲った。だが、柊は余裕の笑みを浮かべて言い放つ。
「自己紹介といこうじゃないか、妖魔ども」
それは、彼女の産まれた、一ノ葉一族の流儀。自分が殺す相手には、自分の名を名乗るのだ。
「我が名は一ノ葉柊。柊とは即ち……守護する為に在る者なり!!」
その瞬間、妖魔達は柊へと一斉に襲いかかった。それでも彼女は冷静なままで、近い妖魔から順に切り裂いてゆく。その動きは、普通の人間には視認し難いほどに速かった。
そんな彼女を、残り少ない妖魔のうち一頭が、背後から襲いかかる。その毒牙が、もの凄い勢いで柊に突き刺さろうとしていた。
「支部長ッ!」
職員のひとりが、大声で叫ぶ。しかし柊は、その毒牙を避けようとはしなかった。
彼女は自分の日本刀を左手だけで持つと、空いた右手を妖魔へと伸ばす。そしてそのまま、強く地面を蹴りつけた。人並み外れたその脚力で、柊は高く跳ぶと、右手を妖魔の頭へ付ける。その腕を軸に、彼女は妖魔の背後へと体をもっていった。そしてふわりと、軽く着地する。
「……安息へと堕ちろ」
低く、聞く者を凍えさせるような声音で言うと、柊はその妖魔を背後から切り裂いた。
そして、残った数頭の妖魔達も、次々と薙ぎ倒していく。その姿はまさに、守護者と呼ぶに相応しいものだった。
柊が到着してから、わずか数分後。全制御館に集まってきていたかなりの数の妖魔は、すべて地に倒れ伏していた。
彼女は自分の愛刀に付着した血を軽く拭ってから、それを鞘に収める。そして、自分の後ろに控えていた職員達を振り返り。
「怪我はないか?」
朗々と、いつものように問うのだった。
一方、詩と颯夏はと言うと……。
「詩、そっち行ったで!!」
「了解……っと」
詩は自分に向かってきた妖魔に対し、回し蹴りを繰り出す。長身の彼の、遠心力に乗せた蹴りはもの凄い威力だ。妖魔は蹴り飛ばされ、すぐに動かなくなる。
本来、毒を持つ妖魔には銃などで遠距離から戦うのが定石なのだが、彼らの射撃のスキルはあまり高くなく、むしろ体術を主としているのだ。まぁ、無闇に苦手なことをするよりも、多少のリスクを背負ってでも得意な分野で戦う方が正しいやり方だと言えるだろう。
「にしても……とんでもない数やなぁ。倒しても倒してもキリないで!」
言いつつ、颯夏は空中へと飛び上がり、妖魔の脳天に踵落としを喰らわせた。そんな彼に対し詩は。
「まぁ、それでも無限では無いんだから、そのうち終わるだろ」
などと、かなり悠長なことを言っている。そんな彼は自分に迫って来た妖魔を軽い身のこなしで避けると、その腹に膝蹴りを見舞った。内蔵が破裂したのだろう、妖魔は血を吐いてその場に倒れ込む。その妖魔に背を向け、次の妖魔へ向かおうとした、その時だった。颯夏の悲鳴にも似た叫びが、響く。
「詩! まだや!!」
ザッ――――。
一瞬、詩には何が起こったのか理解できなかった。すぐに足に激痛が走り、彼は前のめりにこける。さっき倒したはずの妖魔が、最後の力を振り絞って詩の足を切り裂いたのだ。詩は慌てて後ろへと視線を送る。力尽きてしまったのだろうか、妖魔はぐったりとしていた。そしてその爪は、詩の血で真っ赤に染まっている。
「詩、平気か!?」
颯夏は妖魔と戦いながら、大声で詩へと聞いた。それに対し詩は、冷静に応える。
「大丈夫だ、毒があるのは牙だけだからな」
そして彼は、立ち上がろうとした。しかし。
「っ!」
彼は立ち上がりかけで、またもやこけてしまう。どうやら、筋肉が切断されてしまったようだ。すでに治癒は始まっているが、流石に筋肉はそう簡単に繋がるものではない。詩がもたもたしているうちに、今度は本当に、妖魔の毒牙が彼に迫ってきていた。詩はそれに、気付いていない。先に気付いたのは、颯夏の方だった。彼は血相を変え、詩へと駆ける。
「詩ッ!!」
颯夏の叫び声と同時、ついに雨雲が、水滴を振り落とし始めた。
ぽつり、と、頬に何かが触れる。唯斗はそれにつられ、空を見上げた。
「雨……ですか?」
天には厚い雲が立ちこめていて、そこから雨粒が次々とこぼれ落ちてくる。そこで唯斗は、はっとした。
「心!!」
叫びながら、彼は心へと駆け出す。……だが、気付くのが、遅すぎた。
すでに心は両手で自分の耳を塞ぎ、うずくまっている。その小さな体は、震えていた。
ぽつり、ぽつり。
雨の音がする。
連れていかないで。
置いていかないで。
雨は、嫌いだよ……。
だって雨は。
いつだって僕から、奪い去っていく。
ぽつり、ぽつり。
雨ノ、オトガスル。
「ッあああぁぁぁぁぁ!!」
雨音が鳴く、鈍色の空の下。
ひとりの少年の、こころが壊れた。
お久しぶりです、小豆です。
つなぎがてら、以前に友人からの依頼で書いた番外編をアップします。
第8話は、とりあえず受験が終わらないことにはどうにもなりそうにありませんので……
今しばらく待ってやってくださいm(_ _)m
※番外編は、時間的には本編の半年後くらいの話です。
――――――――――――――――――――番外編「テスト範囲は?」
「ほんまにもう……、何で俺らがこんなめんどくさいことせなあかんねん!?」
苛立ちからか、がしがしと頭を掻きながら叫ぶ颯夏。そんな彼を、ふわりと後ろから抱きすくめる人物がいた。
「はいはい、イライラするのはいいけど、図書館では静かにしようなー? 他の人の迷惑になるだろ?」
たしなめるような台詞ではあるが、その口調はとても楽しそうなもの。そんな詩の満面の笑みに、颯夏の鉄拳が飛んだ。それを詩は間一髪で避けるが、その拍子に緩めてしまった腕から、颯夏はするりと逃げ出してしまった。それを残念に思いながらも、詩は余裕の笑みを崩さずに言う。
「そんな殴りかかるほど全力で照れなくてもいいだろー? 避けれなかったらどうするつもりだ?」
「照れてないわ! いらんことするお前が悪い!」
口ではそう言うが、僅かに上気した頬ではあまり説得力がない。そんな彼の様子に益々気をよくした詩は更に何か言おうとしたが、横からの冷静な言葉にそれを阻まれてしまう。
「……詩。颯夏が余計うるさくなってるから。あんまりからかうなよ」
「はは。悪い悪い」
ひらひらと手を振って適当に謝る詩に、ティルは嘆息。再び本棚へと視線を戻しながら、言葉を続けた。
「颯夏もだだこねてないで手を動かせ。面倒なら、さっさと終わらせたらいいだろ」
「……ほんでも、資料探しなんて一般職員にでもやらせとけばええやんか」
尚もぶつぶつ言っている颯夏に、今度は両手一杯に資料を抱えたエリィが言葉を返した。
「仕方ないじゃない、会長からの命令は絶対。最近は妖魔も大人しくしてるし、私たちが暇だったのは事実でしょ?」
彼女の言葉は正論。だから颯夏はそれ以上言い返せず、渋々資料探しを再開した。と、そんな時、不意に心が驚いたように声を上げる。
「……ねぇ、あれってセルシアとシェンファじゃない?」
この言葉に、全員が心の指さす方向に注目した。
LASの図書館は大ざっぱに分けて、3つの区画から成り立っている。数百はあろうかという大量の本棚が並ぶ一画、10室ほど用意された防音の個室、そして、本を読んだり勉強したりするために使うテーブルとイスが並べられた空間だ。心が指さしたのはまさにその3つ目の空間で、彼らのいる場所からはかなり遠い。というのも、過去に起こったことを記載しただけの、おもしろみの全くない資料ばかりが並ぶこの辺りは、本棚の区画の中でも一番奥に位置するからだだ。
他のみんなは目を凝らすが、心の言う2人を見つけることはできなかった。
「心、僕たちにはよく見えないんですが……」
困り顔で言った唯斗を振り返り、心はきょとんとした顔をする。
「えー? ちゃんといるってば!」
僅かに口を尖らせてそう言ったかと思うと、彼はくるりと踵を返し、たったったっという効果音が聞こえてきそうな軽い足取りで駆け出した。
「心! 図書館は走っちゃ駄目ですよ!」
とは言いつつも、心を追いかけるためにやはり走って行ってしまった唯斗。後に残された他のみんなは一瞬顔を見合わせるが、すぐに2人のあとを追うことにした。勿論、彼らは歩いてだったが。
カリカリカリカリ――――。
シャーペンが紙をこする、規則正しい音が続く。その音を発生させているのは、顔のよく似た2人の人物だった。10代半ばくらいの女の子と、同い年か少し下くらいに見える男の子。2人とも金髪に青みがかった緑色の目をしていて、髪の長さの違いと男の子だけが掛けている眼鏡を覗けば、まるで双子であるかのように瓜二つであった。
そんな2人は窓際の4人掛けの長テーブルを陣取り、対角線上に座っている。隣り合わせでもなく、向かい合わせでもないこの微妙な距離は、まるで2人の関係を体現しているかのようだった。相手に干渉しすぎることはなく、それでも遠く離れはしない。丁度いい距離からお互いがお互いを見守り、大切に思う――そんな、2人の関係を。
テーブルの上に広げられた大量の本から察するに、どうやら2人は一緒に勉強をしているらしい。一緒に、とは言っても相談したり質問したりと言うことはなく、彼らは始終無言のまま熱心に手と頭を働かせていた。
そんな時、
「セルシアー、シェンファー!」
どこからか自分たちのよく知った声が聞こえ、2人は手を止めて同時に顔を上げた。見れば、にこにこ顔でこちらに駆けてくる心と、その後ろを追いかけてくる仲間達の姿が視界に入る。
「心っ、まだ走っちゃ駄目って言ったでしょ!! 骨がくっついたっばかりなんだから!」
驚いて目を丸くし、いつもの怒号を飛ばすのは2人のうち女の子の方……仲間の体を常に気遣うのが癖になってしまっている、心配性のセルシアだった。そんな姉の発言に続け、一緒に勉強していたもう1人の方、シェンファが冷静に指摘する。
「……そもそも、図書館は走るなよ」
「ごめんなさい……。でも、腕の方はもう大丈夫だよ!」
しょんぼりして謝ったかと思うと、すぐに笑顔で腕を振り回してみせる心。表情の移り変わりが多彩で、見ていて飽きない。自分の感情を表現するのがあまり得意でないシェンファにとって、心のこういう一面は少なからず憧れの対象でもあった。
そうこうしているうちに、心の後から歩いてきたみんながぞろぞろとテーブルを囲うように集まってくる。セルシアは勉強を一時中断し、彼らへと疑問の眼差しを向けた。
「みんな、どうしてここに? 今日は任務はないの?」
「ああ、ここ数日は妖魔も出てこないし、平和なもんだよ。今日は会長からの指示で、過去の資料を漁ってたんだ」
言いながら、ティルはその手に持ったままの紙の束をひょいと持ち上げてみせる。それで得心がいったようで、セルシアはひとつ頷いた。
「瑠璃と稚世は?」
不意にシェンファが漏らした呟きのような問いに、セルシアははっとした。改めて見渡してみれば、確かに瑠璃と稚世の姿が見当たらない。
「ああ、2人なら別件で遠出してますよ。確か、沖縄支部に用事があるとか何とかで……」
「僕も一緒に行きたかったなぁ……」
と、唯斗の説明であっさり疑問は解決し、続けて心が零した溜め息混じりの言葉に、みんなは自然と苦笑を浮かべる。まぁ、いくら仕事とはいえ、沖縄となれば話は別だろう。実際、瑠璃と稚世は(特に稚世の方は)遊ぶ気満々で2日ほど前に、足取り軽やかにLASを後にしている。
その話はさておき、みんなにはセルシアとシェンファに是非とも尋ねたいことがあった。今この状況で、恐らく最大の疑問であろうそれを口にしたのは、エリィだった。
「2人こそ、こんな時間帯に私服なんて珍しいわね。何かあったの?」
そう、今は昼を過ぎたばかりの時間帯。本来ならセルシアとシェンファの2人は白衣を身に纏い、LAS専門病院の医師として忙しく働いているはずだ。
みんなもエリィと同じ疑問を抱いていたようで、答えを求める視線を姉弟に向ける。するとシェンファは苦々しげに眉をひそめ、軽く溜め息を落としただけで何も言おうとしない。そんな彼に代わり応えたのが、セルシアだった。
「それが……」
言いながら彼女はテーブルの上に積み上げられた本の山から、B5サイズの紙を引っ張り出し、みんなに見せる。
「……こういうことなのよ」
全員がその紙に視線を落とす。するとそこには、そっけない活字のコピーが施されており、やはり素っ気ない文面でこう書かれていた。
『 セルシアフォーム・スパイラレット
シェンファ・スパイラレット
上記2名に試験を課す。
LAS会長 忽那響 』
「「…………はい?」」
綺麗に6人の声がそろった。確かにこれだけ見せられても、謎は深まるばかり……。更に恐ろしいことを言えば、紙の下の方に“彼”の直筆の文字で、『合格できなかったら医師免許剥奪するぞ』と脅し文句のようなことまで書かれていた。
「えーっと……。まず、どこからつっこめばいいでしょうか?」
顔を引きつらせる唯斗に対し、セルシアはもう苦笑を返すしかない。
「ほんまにツッコミどころありすぎやろ! 医師免許剥奪て……会長の権力はどないなってん!?」
「……どうやら、あの人は医学界にも顔が利くらしいんだ。そもそもLAS自体が世界最高機関と言っても過言じゃないくらいだし、そのトップに刃向かうような真似は誰もしたくないんだろ。しかも本人が、あの性格じゃあな……」
恐くて誰も逆らえない。と続くはずだった言葉は呑み込んで、はぁと溜め息を落とすシェンファの顔はやはり渋い。そんな中でも詩だけは、楽しそうに喉を震わせて笑っていた。
「権力と言うより、まるで脅迫だな」
流石は年の功というか……年季の入りようが違う。並大抵のことでは動じない。
「……ねぇ、LAS病院はどうしてるの?」
という、心の素朴な疑問に返ってきたのは、やはりとんでもない答えで。
「それが……、アンヌさんが代理として働いてるのよ」
これ以上ないくらい申し訳なさそうにそう言ったセルシアに、またもやみんなは絶句させられる。唯でさえ多忙な人間に、更に仕事を押しつけるとは……。
「……あの人でなしは、アンヌさんを過労死させる気か?」
まさにそれである。仮にも自分たちの上司である響に対して酷い物言いではあるが、言われても当然の所行をなしているので、これも仕方のないことだろう。
それでも、誰も本人に対して直接異論を唱えたりしないのは、きっと無茶苦茶で自分勝手な会長様に振り回されることが、日常となってしまっているため。そしてそれ以上に、その無茶苦茶な要求は、必ずしも無意味ではないためで……。例えそれが何の目的なのか自分たちにはわからなくとも、後々それが役に立ったり、深い理由があったりするからなのだ。まぁ、極たまに、純粋に響の暇つぶしでしか無いときもあるのだが。
ふと、思い出したようにエリィはセルシアに視線を向けた。
「あんまり聞きたくないような気もするんだけど……。テスト範囲は?」
「医学全般」
即答で返ってきた言葉に、最早溜め息すら出てこなかった。
「2度目の医師国家試験を受けてるような気分だよ」
普段からあまり文句を言ったりしないシェンファがそうぼやくのだから、これは相当ダメージを受けているらしい。なんだか聞いているこっちまで疲れが出そうだ。
「医学、なぁ……」
呟きながら、勉強はからっきし駄目なはずの颯夏はどうやら医学書に興味を持ったらしく、適当にその辺の一冊を手に取った。本を開いて数秒後、彼はそれをパタンと閉じる。
「あかん……。俺にとって英語は宇宙語と一緒や」
どうやら彼が手にした医学書は日本語ですらなかったらしい。しかし、肩をすくめる颯夏の隣りで、何故だか詩はくすくすと忍び笑いを漏らしている。
「……颯夏。それ、ドイツ語だから」
一瞬、颯夏の動きが止まった。が、直後に顔が真っ赤になったかと思うと、
「……わ、わぁっとるわ!!」
と、なんとも説得力の無い台詞を吐いた。そのままぎゃーぎゃーとうるさく喧嘩を始める2人。正確に言えば、詩が颯夏をからかい、それに颯夏が突っかかっていっているだけなのだが。
最早毎日の恒例行事のようなものなので、他のみんなはそんな2人を軽くスルー。図書館の利用者達(LASの関係者しかいないのだが)も迷惑そうに眉をひそめるどころか、まるで我が子を見守る親のような眼差しで、温かく彼らを見守る始末だった。
「……じゃあ、あんまり邪魔しても悪いし、そろそろ俺たちも仕事に戻るか」
ふと思い出したように言ったティルに、周りの声が聞こえていないケンカ馬鹿2人以外のみんなは頷きを返す。
「あんまり励ましにならないかも知れないけど……がんばって」
「会長なんかに負けちゃ駄目だよー」
と、無邪気に言う心の台詞がなんだか一番恐い物知らずだったりするのだが、それもまぁ天然な彼らしさであろう。
「努力はする。問題はあの会長の作る問題がどこまでひねくれてるか……だな」
「酷い言われようね、会長……。けど、どんな試験でも大丈夫よ。みんなの傷を治すのは、私たちでありたいから」
そのためなら、どんな労力も惜しまないわ。
そう、何でも無いことのように、まるで当然のことのように言うセルシア。そして彼女たち姉弟なら、きっとその言葉を実現してくれるのだろう。それは、決して彼らが特別な天才だからではなく、普通の人間として、ただただがむしゃらに努力することによって……。
「特に僕らは、すぐに怪我しちゃうんで2人がいてくれないと困りますしねー」
苦笑混じりに言う唯斗の台詞に、みんなからも笑いが漏れ、なんとも穏やかな空気が流れる。
そうしてプラダジー達は、セルシアとシェンファに手を振りながら仕事に戻っていった。
窓から差し込む日射しは徐々に朱く染まり、夕刻の訪れを告げる。図書館内の人影は減り、昼間以上に静かな空間となっていた。そんな時間帯になってもまだ、カリカリカリカリ――という、規則正しい摩擦音は響き続けていた。
息苦しくはない静寂。それを壊したのは、「姉さん」というシェンファが姉を呼ぶ声だった。
「何? シェンファ」
セルシアが手を止めて斜め前方へ目をやると、彼も顔をこちらに向けていて、その表情は何やら腑に落ちない様子だった。どこかわからないところでもあるのだろうかとセルシアは考え、しかしすぐにそれはないか……と否定する。単純な頭脳のできの良さで言えば、セルシアはシェンファに遠く及ばないのだから。
そんなことを、内心苦笑しながら思考していたセルシアに投げかけられた言葉は、やはり医学に関する質問などではなくて。
「……何でこんなことしてるのか、わからなくなってきた」
馬鹿馬鹿しい、とでも言わんばかりに、シャーペンを放り出す弟。そんな姿を見れば、普段妙に大人びている彼が、まだ10代前半の子供だという事実が思い出される。
才能に恵まれ、医者としての腕は自分よりも遥かに上である弟。いくら努力しても、自分の実力など軽々と越えられてしまう。立場上は、LAS専門病院の院長である自分の方が彼よりも上なのだが、それはたまたま落とし物をしたのが自分だったからに過ぎなくて……。
弟に対し、嫉妬や羨望を抱いたことがないと言えば、それは嘘になる。
しかし、セルシアにとってシェンファは、必死になって大人ぶっているただの可愛い弟でしかなかった。天才医師と呼ばれ、それらしく振る舞うことを余儀なくされている弟が、時々セルシアには可哀想で、心配で、たまらなくなる。
だから、せめて――。
「……嫌ならやめてもいいのよ? もともとシェンファは、LASで働きたくて医者になった訳じゃないんだし……。アメリカに帰れば、シェンファを雇いたい病院なんて、それこそ腐るほどあるわよ」
子供らしく甘えたり、弱音を吐いたり、そういった当たり前のことが許されないのなら、せめて……。その身だけは自由に、好きな場所で生きていて欲しい。もしも自分が彼をここに縛り付けているのだとしたら、それはセルシアにとって耐え難いことだった。
そんな姉の気持ちに、果たして弟は気付いているのだろうか。彼女の言葉を聞き終わり、暫く黙ってセルシアの顔をじっと見ていたシェンファだったが、不意についと視線をそらした。その表情は、呆れたような、戸惑ったような、なんとも言い様のないもので。
「……そういうことを言ってるんじゃない。帰りたいなら、もうとっくに帰ってる」
そこで一度言葉を切り、シェンファは再び自分の姉へと目を向ける。一言一言、自分の気持ちを確かめるようにして言った。
「だから、ここにいるのは、俺の意思だ」
“姉さんが気にするような事じゃないよ”。
セルシアには、そう言われている気がした。そんな優しい弟に、セルシアはもう苦笑を漏らすしかない。馬鹿ね……と言って泣いてしまいたいのを、必死で堪えた。
照れ隠しなのか、話をそらしたいのか……。シェンファはわざとらしく不機嫌そうな顔を作り、更に言葉を続ける。
「ただ、この試験に何の意味があるのか、それが理解できない。……納得できないことなんてできるか」
腕を組んで、最後は吐き捨てるように言った。そんな彼の様子に、セルシアは一瞬呆気に取られるが、今度は可笑しさに笑いが込み上げてきた。手を口元にやり、くすくすと含み笑いを零した後で、しっかりとシェンファの目を見据える。
「確かにそうね。……でも、理不尽から逃げるなんて、シェンファらしくないんじゃない?」
あさっての方向に向けていた目を姉へと戻し、その真摯な視線を受け止める。シェンファはまるで、体を射抜かれるかのような、そんな錯覚に自分が陥るのを感じた。
きっと彼女は、気づいていないのだろう。その瞳に宿す意志の強さに、いつもシェンファは圧倒されっぱなしだと言うことに。この目を見る度、シェンファは思い知らされるのだ。
きっと、自分にはないこの意志の強さが、彼女の強さなのだろう、と。
医者の腕だけではどうしようもない、もっと別の、埋めがたい差がそこにはあるのだ。それを彼女は気付いていない。
「……わかったよ」
溜め息をつきながら、困ったように笑う。シャーペンを握り直し、再びノートに視線を落とした。そんな弟を嬉しそうに眺めてから、セルシアは自らの勉強を再開したのだった。
その意志の強さは、いつか君を殺してしまわないだろうか?
丁度、母さんがそうだったように……。
君ほどの強さはないけれど、どうか俺の力が、君の助けとなりますように。
その天才的な才能は、いつかあなたを壊してしまわないだろうか?
丁度、お父さんがそうだったように……。
あなたほどの才能はないけれど、どうか私の手で、あなたを守れますように。