暗殺獣リブナッカ


1 :八針来夏 :2007/05/27(日) 11:33:27 ID:m3knVcnk

 巨城の外壁から視線を周囲に向ければ、この周辺を満たすのは煉瓦作りの家々。
 漆黒の魔獣が夜闇に埋もれた天に目を向ければ、生れ落ちてからずっと変わらぬ月が穏やかな月光を放っている。
 城の壁面に爪を立てて、その魔獣はゆっくりと垂直の壁を登り始めた。
 ぬめぬめとした光沢を持つ漆黒の鱗に、ぬめぬめとした体表。獅子を上回る巨大な体躯。その下には高密度の筋肉が圧縮されている。外見は、湿地帯を住処とする亜人種である爬虫人のそれと酷似していた。
 だが、その両肩に盛り上がる四本の腕は明らかなる異形の証。手の一つには首狩り鎌を持ち、もう一つには人を抱えている。体から夜よりもなお深い黒色の炎を身に纏う魔獣。漆黒の体の中でただひとつ、瞳だけが黄金の太陽のように輝いていた。
 
 彼の生には変化などない。

 彼を生み出したのは狂気と天才を両立させた偉大な錬金術師だった。
 周囲に溶け込む体表、人外の膂力、聖気と邪気を混ぜ合わせて獲物を作る異能、そして死者を捕食する事により相手の記憶と外見を奪う能力。
 
 歴史の裏側、多くの存在が彼を求めた。
 伝説の暗殺者、歴史の大道を歪めるもの。彼の手に掛かった歴史に名を刻むものの名前は少なくない。

 存在のみが語られる裏の歴史の魔人。


 

 
 
 彼は、壁面にへばり付きつつ、巨腕の一つに人を抱えている。
 暗殺者、同業者。ただし、人間だ。彼のような人外の存在ではない。

 裏の世界に生きる以上、幾度もこのような事はある。
 暗殺は彼にとって第二の本能のようなもの、殺さずにはいられない。人語を解し、人の姿を奪う力のある彼は人の姿をとることなど容易かった。
 齢三百を重ねる魔獣はこれまでに幾度も窮地に陥った事がある。
 もちろん、人の身で彼を屠ることは出来ない。ただ、そういった強敵は常に捕食し、その実力を吸収してきた。
 彼が腕に持つ暗殺者は彼の魔獣の生の中でも稀な強敵だった。見れば騎兵の突撃すら跳ね返す強靭な鱗はあちこちが剥がれ、その黄金の瞳の片方は塞がれている。
 たかだが一体の人間にこれほどの手傷を負わされたのは初めてだった。
「……流石だ……。『暗殺獣リブナッカ』……」
 魔獣がその巨腕のひとつで支える首狩り鎌に腹腔を抉られた男は息も絶え絶えながら声を出す。
 リブナッカ、人が己につけたその名前を聞き、不思議そうに魔獣は己を追い詰めた相手を見た。
「……俺も達人であると自負していたが……三百年を閲する暗黒の力には適わぬか……」
 黄金の片目を開く魔獣リブナッカ。先ほどまで光を失っていた片目が再生し、再び蠢いて暗殺者を見る。
 高度な知性を有する魔獣は当然のように人語を解する能力を有していた。喉元をグルルル……と鳴らし、相手を見る。普通であればすぐさま捕食するところであるが、少し興味がわいたこともまた事実だった。
「……俺を喰らうがいい、リブナッカよ……」
 魔獣は軽く目を見開いた。
 彼の能力の事を知っているのだろう。しかし今まで彼自身に己を喰らうように勧めた相手はいなかった。不可解そうな疑問の光を目に灯し、リブナッカは首を捻る。
「……俺は貴様のようになりたかった……。俺のような決して歴史に残らぬ人間にとって……裏の世界の伝説であるお前のような存在に……、なりたかった……。俺を……喰らえ、魔獣……。俺はお前のようにはなれなかったが……お前の一つにはなれる……。お前という……伝説の欠片に……」
 死に逝く者の懇願の言葉に、リブナッカは目を細めた。
 全身から暗黒の炎を沸き立たせ、その千剣を並べたような口蓋をいっぱいに開いた。
「……それで……いい」
 捕食されるにも関わらず、その暗殺者の表情には不思議と満足そうな笑みが浮かんでいた。




 暗殺者の男は一人、巨城の尖塔の頂上に立っている。
 不可解な感覚だった。その暗殺者は確かに一度死んだ。言うなら己を飲み干そうとするリブナッカの口元の歯の一本一本まで覚えているし、更に言うなら口蓋を開いた魔獣の記憶もしっかりとある。
「……さて、奇妙な事だな」
 腹部を触ってみれば、傷跡などない。当たり前だ。この肉体はリブナッカの肉体であり、彼のもともとの体はすでに消化され消えてしまっている。
 意識を集中し、聖気と邪気を混ぜ、獲物を作り出す。完成したのは彼の腹腔を掻き回したリブナッカの首狩り鎌。
「リブナッカが捕食した相手の記憶を奪うとは聞いたが……」
 魔獣としての本能を、人間の理性が押し込めているのだろうか、首を捻りながら暗殺者の男は不可解そうに笑った。
 いずれ暗殺者の男の心は魔獣の獣性が駆逐するだろう。だが、そうなるまではこの伝説の暗殺獣の肉体は彼のものだ。

 暗殺者は生まれ変わった。大きな大きな変化。
 ただの歴史の中の石ころとして死ぬはずだった彼が、歴史を歪ませる卓越した暗殺者として生まれ変わったのだ。

「……さ、どいつの首を狩りに行こうか、リブナッカ。出来るだけ、出来るだけ歴史が狂うぐらいに大きな変化をもたらす首がいい」
 
 体の奥底で魔獣の楽しげな笑い声が響いたような気がする。
 迎合するように暗殺者の男も笑いながら、尖塔から飛び上がった。
  


2 :八針来夏 :2007/06/09(土) 10:16:41 ID:o3teVAue

プロローグ

 暗殺獣リブナッカという名前がもともとは聖人の名前であった事を知る者はもう、殆どいない。
 遍く天下に知れ渡るのは、法王庁最強の不可視の刃、三百年を閲する伝説の暗殺獣リブナッカの名前のみだ。


 法王庁に認定されぬ、第九聖人リブナッカ。
 世界に秩序と安寧、法を広げたと言われる聖人たちの中で、その存在を抹消された唯一怪物を出自とする聖人。
 
 元来は亜人達の王であり悪逆を欲しい儘にする魔獣であったが、ある時、聖サンクリオに教化されたといわれている。
 その後は彼の弟子の一人として聖サンクリオ巡礼の旅に同行する事となった。

 かの聖人が司るものは『死』と『必死』。
 寿命が尽き、命数が終わろうとしている人間に安らかなるうちに眠るような死を与えたという。
 しかしかのかの者の姿は怪物としか見えぬ恐ろしいものであった。
 安らかな死を齎そうにも己の醜い姿を見て幼子が泣く姿を見、リブナッカは己の姿が醜いと嘆き悲しんだ。その姿を見て哀れに思った聖サンクリオはリブナッカに己の姿を消す法を与えた。
 
 ある時、リブナッカは娘が死んだ親を見つけた。
 その二親は娘が死んだ事を受け入れる事ができず、屍と生活をしていた。歪みながらも確かにそこには幸福があったが、両親が気がかりで成仏できない娘の亡霊に頼まれ、リブナッカは再び聖サンクリオに話を聞いた。
 そしてその際、彼は死者の記憶を受け継ぐ法を与えられた。
 死者の屍を己の纏う炎で焼く事により、その記憶と人格を借り受ける法。

 リブナッカはそうやって娘の姿を仮り、両親をゆっくりと諭し、死を受け入れさせた。

 
 第九聖人リブナッカが司るものは『死』であり、また彼は災厄から人を守る子供の守護神という側面も持っている。
 命数に関わらず人の命を奪う人災、戦争や犯罪から子供を守るという戦神としての一面もあった。

 
 
 
 だが、聖サンクリオ無き後、第九聖人の名は抹消される事となる。
 聖サンクリオの九人の弟子の中で彼が唯一亜人を出自とするものであったからだ。
 亜人種に対する差別は社会底辺の人々の不満を向けさせる矛先でもあり、国家の労働力として運用する事も考えていた法王庁は第九聖人の存在を、亜人種の聖人の存在を邪魔と見なした。
 


 宗教と権力が組み合わされば、そこには確実に腐臭が発生する。



 第九聖人はわけもわからず獄に繋がれた。
 人でなく、むしろ魔神(シン)である彼は一種の不老不死、かつて世界に遍く法を齎さんと奮闘した彼は仲間達がみな老いて死んでいく様を見届け嘆き悲しんだ。
 寿命で死した仲間の代わりに、彼らが残した教えを守ろうとした。
 だが。
 唯一、ただ唯一生存する聖人の存在は、教えを曲解し、法を歪め、支配のための宗教へと組み替える法王庁の人間達にとって邪魔でしかなかった。
 もし第九聖人の存在が明るみに出れば、法王庁はその存在をリブナッカへと譲らなくてはならなくなる。
 法王庁は、彼を利用する。記憶を奪い、人形に貶め、そして法王庁の支配から脱出しようとする人間を暗殺する事を命じる。

 裏切られた。
 名は貶められた。

 暗殺獣リブナッカという名前がもともとは聖人の名前であった事を知る者はもう、殆どいない。
 遍く天下に知れ渡るのは、法王庁最強の不可視の刃、三百年を閲する伝説の暗殺獣リブナッカの名前のみだ。


 

 もう、真実を知る者はほとんどいないのだ。

 


3 :八針来夏 :2007/06/09(土) 10:38:34 ID:o3teVAue

第一章

 なにが救世主だ、とザフィーラ=ケンドールは一人薄暗い森の中、自分自身の血の香りに噎せながら仰向けのまま夜空を睨んで一人ごちた。
 言葉を喋ろうにも喉笛を突き刺した刃の傷はそれを許さないし、腹腔を刺し抉る刃の跡は焼けた火箸が身体に潜り込んでいるかのように熱い、というか痛い、というより死ぬ。
 指を動かそうにも指は一本も動かない。助けを呼ぼうにも舌は断末魔の悲鳴を上げる力も無いし、そもそも助けが来たってどんな神医だって今の彼の身体を見れば匙を投げるだろう。絶対に助からないと確信したからこそ、暗殺者達は自分に止めを刺さず逃げだしたのだから。
 薮医者という言葉があるが、アレは薮暗殺者だ。 死に瀕しているにも関わらず、笑いの発作が突き上げるが、笑みを浮かべる余裕もない。それにそんな薮暗殺者に殺される俺はいったいどれ程の間抜けなのだろう、とザフィーラは面白くないと思う。
 あの暗殺者、一撃で命を断つのではなく、人海戦術で自分を殺した。近衛の爬虫人の剣士、ギバルに教えを受けても、流石に七人近くに押し包まれては抗しようがなかった。

 
 生まれた時、託宣の巫女、『未来』と『備え』を司る先代の第二聖人メステリアの名前を引き継ぐものに、自分は亜人種の救世主だという予言を貰ったらしい。
 冗談じゃない、何が救世主だ。
 亜人種たちを救う英雄だというなら、こんな森の中で死に絶えるはずが無い。
 本来なら救世主として尊重される彼は幾人もの騎士の護衛を受けているはずだった。はずだったが、今回その裏切った護衛達に殺された、いや殺されかけ、今にも死に絶えようとしている。自分を守ろうとした忠実な騎士も既に鬼籍に入っている。
 苦しい。脊椎から伸びる二本の角が地面に当たってうっとおしい。
 痛いし苦しいが、なにより怖い。
 死ねば何処に行くのだろう。死ぬとどうなるのだろう。人類がいつも抱える命題を出血で薄ぼんやりしてくる頭で考えた。
 乱暴にしてきたな、と彼の周りの人間達を振り返って思う。
 救世主救世主と周りはよく言ってくる。幼い頃はその重責に答えようとして必死だったが、成長し、知識を得るにつれ、法王庁の敷いたその完璧とも言える支配体系をひっくり返す事が困難であると知る。
 救世主であると法王庁も懸念しているからこそ、彼は幼少の頃から人質として連れ攫われた。父親にも母親にも兄弟達とも別れさせられた。
「……たく、ないなぁ……」
 呟くたびに血の泡が割れるような感覚がする。
 亜人種の王族に生まれ、そして救世主と言われ、そして今ここで死ぬ。何も成さぬまま。
「……くしょう……」
 その人生のあまりの無意味さに絶望がよぎる。
 生まれて救世主と言われ、そして人質として連れ攫われ、故国に対する恫喝の道具とされ、そしてこのままなにもせずまま死んでいく。
 悔しかった、残念だった。そしてもうどうすることも出来ない事に絶望した。
 
 
『汝、今生に未練は無きか?』
 声が、響いた。
 もう視線を傾ける力すら無いザフィーラはぼやけた頭で声のする方向を見てみた。
 
 いつから、そこに立っていたのだろう。
 魔獣。彼のような亜人種の一つである東竜種ではなく、これは真性の魔物であると脳髄の奥底が直感する。
 外見を言うならば爬虫人種(リザートマン)が一番似通っているだろう。しかしその体格は、戦闘種族と揶揄される彼らの中でも破格の巨体、二メートル半近くの巨大な直立する蜥蜴だった。ぬめぬめとした光沢を放つ鱗に巨大な筋肉を搭載する四肢。満月のように爛々と輝くその瞳。聖性と邪気を混合させて物質化させたと思しき大鎌をその手に携えていた。
 そして何より、背中から伸びる、漆黒に燃える炎の翼を見て、ザフィーラは思う。これは魔獣ではなく聖に属する気高いものだ。
「リブ……ナッカ……?」
 名実共に世界を征服している法王庁の最強の刃、暗殺獣リブナッカ。噂に伝え聞くその外観に彼は呟いた。
 だが、と思う。
 暗殺などという穢れた仕事を請け負うものが、ここまで誇り高い眼をするものなのだろうか?
 その身から放たれる清浄な気はむしろ世界の何者よりも気高く神聖であるような気すらする。少なくともぎらぎらと俗っぽい光を放つ僧衣に身を包んだ高僧よりもよっぽど僧侶っぽいと思った。
『汝、今生に未練は無きか?』
 見れば、その魔獣、リブナッカは体中のあちらこちらから只ならぬ手傷を負っていた。
 青味がかった鱗のあちこちははがれ、赤い血を流し、片目の一つは刃傷で塞がっている。大鎌の刃はところどころが欠けていた。それまでに魔獣が潜り抜けた修羅場の激しさを物語っていた。
 だが、その傷の痛みを微塵も感じさせぬ声で彼は再度訊ねる。
『汝、今生に……』
「ある……!!」
 死に瀕するその身体から力を掻き集め、ザフィーラは文字通り己の血に溺れながらそれでも明確に意思を表す。怒っていると、理不尽なこの今の状況に怒り狂っているという、生きる事を求める悲憤を込めて叫ぶ。
『ならば、汝と我、契約を交わす事を提案する』
 契約? 先ほどの叫びで文字通りの全身全霊を込めたザフィーラは目で相手を見る。
『然り。我、人の屍を焼き、その記憶を奪う術を持つ。……但し、我は重傷である。汝の記憶を奪おうと、半刻も経たぬうちに死ぬであろう』
 じゃあ駄目じゃないか、そう思ったザフィーラは気落ちの余りそのまま意識を失い死に掛けた。
『故に、汝を捕食する』
 まるで手立てがあるようなその言葉にザフィーラはうっすらと目を明けた。徐々に瞼が落ち行く中、怪物を不思議そうに見上げる。
『汝を魂ごと肉体ごと捕食する。さすればこの身に受けし傷も癒える。……我も生者を捕食する法は試した事かつて無し。魂を直接取り込む法は、汝と我の魂が混ざり合い、全く別個の人格が誕生すると思われる。しかし、汝も我も共に一刻を待たずして死する身。賭けるや否や?』
「……僕を食らえば、お前は助かる……」
『然り。汝は我の心となり、ながらえる。しかし、汝の意思そのままではない。記憶を持ち、意思持つが、かつての汝ではない。そして我でもない。残るのは二つの魂混ざりし新しき魂』
 選択の余地など無かった。
 亜人種の国ケンドールの王子である自分が死ねば、今まで押さえに押さえてきた怒りが爆発し、一大大乱が起こる。それになにより、このまま死んでいくという選択に比べれば遥かにましであると思えた。ザフィーラは微かに、首を縦に振った。
 魔獣は頷く。
『宜しい、ならば契約だ』
 そのまま血に汚れたザフィーラの身体を魔獣は持ち上げる。口蓋を開いた。そこには千剣をずらりと並べた歯が見える。喉の奥が良く確認できた。
「……お手柔らかに……」
 生涯最後の光景が魔獣の胃袋なんてろくな人生じゃなかった。ザフィーラは薄れていく意識の中で迫る口蓋を見てゆっくり目を瞑った。



 少年が、一人夜闇の森の中でうつ伏せになって倒れていた。
 彼は、まるで生まれたての赤子のように弱弱しく指を伸ばし、地を掴む。指先に力を込めて生まれたばかりの小鹿のようにゆっくりと立ち上がった。
 少年は自らの体を見下ろし、全身を覆うものが一つも無い事に気付く。
「……ふむ」
 身を隠すものが欲しい。これは中々奇妙な感覚だった。
 魔獣は服を着ないが、人は衣服を着る。本来なら恥ずかしくてたまらないはずなのだが、それを少し新鮮に捉えているリブナッカの意識がある。
 一瞥すればそこには自分の部下達。己を守るために闘ってくれた剣士から衣服を剥ぐ事は死者への侮辱に繋がる。ザフィーラでもあり、リブナッカでもあった少年は微かに小首を傾げた。
 お腹が空いた。ザフィーラの肉体を摂取し吸収してもいささか空腹を感じる。好物の卵が食べたい。特に駝鳥の卵は最高だ。殻を割らずにそのまま丸呑みにして喉の筋肉を収縮させて割ってそのまま飲み込むのだ。時折雛が入っているのはご愛嬌だろう。そこで思考を切り、口の大きさと駝鳥の卵の大きさを比べてみる。
「……食べれるわけあるか」
 少し横に目をやる彼。ザフィーラを護る為に死んだ剣士を見て、微かに彼は咥内で溢れる唾液を感じる。
「…………なにを考えているんだ、俺は!」
 その一瞬よぎった食欲に、人の部分が激しい嫌悪を覚える。
 人間全般の常識が通じない魔獣の部分を感じながら彼は冷や汗を掻く。冗談じゃない、彼らは自分を護る為に死んだ。墓を立て、彼らの角を家族にもって行かなくてはならない。自らの欲望に戦慄しながら彼は記憶を辿る。
 それに自分はあの人に従ったとき、未来永劫人を食わぬと誓ったではないか。
 そうだ、そもそもそんな方向に思考が向うのはお腹が減っているからだ。
 そこまで思考が行き着いたときに混乱が起こる。果たしてその記憶はいったい誰のものでいつ思ったのだ? さっき思ったあの人とはいったい誰だ。埋没する魔獣の記憶の中からそれを探り出そうとして魔獣の記憶が、まるで無い事に気付いた。
「俺はザフィーラ=ケンドールであり、我は魔獣リブナッカ……、でもなんで魔獣は何も思い出せない……?」
 
 不思議な感触だった。
 彼はザフィーラの記憶を覚えている。それが自分の物であった事も記憶している。だが、まるで自分の物であるという実感が無い。さながら他人の日記を覗いているようだ。
 ザフィーラ=ケンドール。ケンドールの第四王子であり、そして第二聖人の未来視によって法王庁にいずれ仇名すと考えられ、人質として副都カウスベルへ人質として送られている。
 だが、魔獣の記憶はまるで無い。薄っぺらな紙のようだった。
 魔獣にあるのは、切実な恐怖。
 記憶に浮かぶのは彼と同じく脊椎を守るように伸びる角を生やした剣士。そしてその剣士が持つ剣。
「……!」
 魔獣と溶けつつあるザフィーラであった部分が戦慄する。
 東竜種、西竜種、爬虫人種、人魚種総ての鱗種に祟る鱗斬りの魔剣。
 逃げなければ。今は体調が完全ではない。今闘ってもあの剣の魔力には勝てないと判断し、彼は走り出した。
 魔獣もザフィーラも関係ない原初の生存本能に突き動かされ、彼は暗い森の中を必死に走り始めた。


novel plaza system
甘辛流小説家ギルドGAIA
produced by COLUN.