ケモノリア


1 :akiyuki :2007/11/01(木) 18:57:31 ID:VJsFrmQG


 かつてakiyukiが書いた月シリーズ四部作最後の一つ『ケモノリア』です。
 当時一番評判はよかったかな、と思います。ある程度作り直して、再び参上です。
 それでは初akiyukiの人も、そうでない人も、どうぞ最後までお付き合いくださいませ。

 


2 :akiyuki :2007/11/01(木) 19:01:36 ID:VJsFrmQG

ケモノカプリッチョ


 
 頼島(よりしま)えいねるは高校生である。
 住宅街の一軒家に住み、いくつになってもバカップルの父と母、そしてちょっと世間様からズレた妹の頼島つむぎにツッコミを入れながら平凡に暮らす女の子である。どこにでもいるただの人間である。普通でちっぽけで、誰にも迷惑をかけず、かけられす、平和な毎日がすごせるなら、それでいい。それがいい。と、若い身空で彼女は達観していた。
 普通じゃない。
 そんなものは自分の人生にはいらない。
 それが、えいねるの人生哲学だった。


 しかし、奇妙なモノというものは、気付かない内に背後にあったりする。
 本人の意識を問わず、突然現れるものだ。
 だって、奇妙なのだから。
 つまり状況の説明からすると、ここは頼島宅。夜。夕食が終わり洗い物当番のえいねるはいつものように炊事場に立っていた。妹は何事もなく、ブラウン管のみのさんに夢中。寝室に戻った父と母。まあ、いつものように夫婦水入らずでいちゃいちゃしているのだろう。
 お決まりの夜。
 それが突然音を立てて崩れ去ったのは、つい十七秒前。

 居間の方から父の声がした。
「えいねる、話があるからちょっと座敷にきなさい」
 言われたとおりにするため蛇口を逆にひねり水を止め、脱いだエプロンを椅子にかけて妹に洗い物を頼み、えいねるは廊下を歩く。座敷までの短い距離、嫌な予感がしていた。客間兼座敷にどうして自分が呼ばれるのだろう。そんな要因が思い出せない。一体どうしたというのだ? まさか父が痴漢と間違えられて警察沙汰か? 
いやだったらこんな時刻に家にいられるはずがない。まさか母が実家に帰るのか? いや、あの馬鹿ップルに限ってそれはない、なんだ? 妹の受験のことか?いや、あれなら勉強なんかしなくても余裕で志望校だ。なんだ? だったら、まさか私のこと?何過不足なく生きてきた頼島えいねるの人生に落とし穴が?

 不安な気持ちを抱えたまま、えいねるは座敷に着く。
 どうかトラブルが起きませんように。
 戸に手をかけた。

 そして

 両親はそこにいなかった。
 いつものように家の中でも背広の父と、結構いいところのお嬢様だったりして着物を愛用する母は、上座に座っていなかった。そこにはいなかった。
 そこにいたのは、全くべつの物。

 馬と鹿が座っていた。

 馬がいた。父の愛用する灰色の背広に去年の父の日にプレセントした縦縞のネクタイを締めた、馬がいた。馬ヅラとかじゃなくて、馬なのである。競馬場か鈴木牧場園にでもいかねば見られない栗毛の有蹄類が、骨格を無視して後ろ足を綺麗に折り畳み、正座で座っている。何気に背筋も良い。
 思わず視線をそらす。
 鹿がいた。母の愛用する蝶々の刺繍の入った着物に、七代前から伝承され、自分も結婚するときに受け継ぐらしい銀のかんざしを頭に差した、少し背の低い牝鹿が、馬の隣に座っていた。あ、口紅してる。

 目をつぶる。

 目を開ける。
 そして現れた光景は、やっぱり馬と鹿だった。入り口で固まっているえいねるに、馬が言う。
「ほら、えいねる。固まっていないでそこに座りなさい」
 信じたくはない。が、それは知っている声だ。父の声だ。
「ほらほら、えいね」
 信じたくはない、が。自分のことをえいねと略する人物は二人しかいない。妹と母。そして愛する妹は現在居間でテレビを見ている。
 言われたままに、馬と鹿の向かいテーブル越しに座る。
 そして座った後で言いなりになっている自分に後悔。ノーと言えない日本人を憎む。 そこで思考修正。自分が何をするべきか考えなければならない。頭を冷やし、思考を正す。うん。
「なんで馬と鹿が日本語喋るの?」
 やはり質問。すると馬が答える。
「馬じゃないからさ」
 なるほど。
「じゃあ、何?」
 馬が答えた。
「えいねる、お父さんのこと判らないのかい」
 信じたくはなかった。えいねるは馬から視線を逸らし、鹿を向く。
「あなたは、何?」
 鹿は笑う。
「えいね、この声に聞き覚えがないような親子のスキンシップはしてきてないつもりよ」
 服を着た馬と鹿が、えいねるを見る。
 信じたくはなかった。
 けれど、どうもぬいぐるみとか、特撮ではないような気がする。何より、この事態にあまり動じてない自分を自覚している。まるでこうなることを知っていた。だから普通を愛していたかのように、えいねるは突然のカミングアウトにもこう答えたのだ。
「えいねる、黙っていたが、実は父さんと母さんは人間じゃないのだよ」
「見ればわかるよね」
 あまりにつっけんどんな応答。馬、もとい父は鹿、もとい母の耳元に口を持っていく。
(なっちゃん、えいねるは驚きのあまりテンションが上がらないみたいだよ)
(ふみくんったら、だから言ったでしょうゆっくりと段階を踏んで私達の正体を教えましょうって。いきなりそんなこと言われたら誰だって戸惑うわよ)
(なっちゃんだってノリノリだったじゃないか、こんなまわりくどく正装までしてえいねるを待ちかまえて、口紅だって鹿獣人用のいいのまで買って準備して……、ってあー!さてはそれを新しい化粧品を買う口実にしたんだなー)
(ふっふっふ、気付いたときにはもう遅いのよん)
「すいません、私を置いてそっちでひそひそやんないでください」
 というよりその年でふみくん、なっちゃんはないでしょうが。
「ああ、ごめんごめん。で、何の話だったかな」
「父さんと母さんの正体が馬と鹿だったってことです」
 するとうっかりしていたとばかりに額をぺちんと叩き、父はこちらを向いた。
「要するにね、俺となっちゃんは、人間じゃないんだよ」
「じゃあ、何よ!」
 少し苛立ってきたえいねる。すると、父の顔が真剣なもののように、なった気がした。
「俺たちはつまりケモノ人間なんだ」
「ケモノ人間ですか」
 こくりと肯く両親。
 そして今度は母が答える。
「この世にはえ、妖怪とか魔物って言われるような人達、まあ人じゃない場合も往々としてあるけれど、そんな人達がたくさん住んでいるの。私達だって元々蝦夷の地に住んでいた土の精の一族。でもね、百二十と七年前に人間と妖怪の間で非道い争いが起こって、多くの人も人でないひとも、たくさん亡くなった事件があったの」
 父が続ける。
「そして蝦夷の狼男が絶滅したのを期に俺たちは追われるように南へ下った。苦しく、危険な旅だったが我々には希望があった。この国のどこかにある人と人じゃないものが入り混じって暮らす町。そこを探し求めた先人達。そして俺となっちゃんの両親はここにたどり着いた」
 えいねるは素直に感心した。
「ふうん、そんな歴史があったんだ……って、この町が?」
 父と母は声を揃えて
「「うん、そう」」
 父が言う。
「あ、ちなみにおとなりの楠崎さんの息子さんも狼男だよ」
 楠崎剣吾。ああ、つい三年くらい前まで「おねーちゃーん」とか言って自分になついていた少年。このごろは悪い友達とつるんでいるらしく、ちょっと将来が不安な高校一年生。
 母も言う。
「ついでに言うとあなたの通っている坤高校にもケモノ人間のお子さんいるわよ」
 驚愕の事実。するとあのちょっと変わった同級生。『魔女』だの『怪人』だのと呼ばれる彼らも、本物かも知れない。
 そして、想像にふける自分に父がさらりと
「と言うわけで、えいねるもそのうち獣化するから、よろしく」
「え?」
 なんだかさらりともの凄いことを言われたような気がする。
「今、なんて?」
 笑顔が引きつる。
「だから、馬男と鹿女の子供なんだから、えいねるだって獣人に決まっているだろう? 普通は第二次性徴くらいの時期に兆候が見られるんだけど、えいねるはまだ少しもそういうのがないんだよな。なあ、えいねるは満月の夜に興奮したり脚力が急に高くなったり見えない物が見えたりしていないか?」
 自分が興奮している父をいさめながら母は
「ふみくん、個人差があるのよ」
 と言って笑みをえいねるに向ける。
「普通はね、変身が始まってから正体を教えるんだけど、えいねはちょっと目覚めるのが遅すぎだから先に告白することにしたの。でも安心してね、十八歳の誕生日くらいには、きっと変身できるから」
 どこをどう安心したらいいのか判らないが、非常に気になる疑問が湧いてきた。
「あの、父さん、母さん、質問があるけど」
 挙手。
「はい、どうぞ」
 手を下ろし、そして少し悩んだ後、一言。
「私はどっちになるの?」
「「どっち?」」
 馬と鹿が同時にクビを傾げた。
「だって、馬と、鹿でしょ?私は、どっちになるの?馬女?鹿女?」
 すると、何か聞いてはいけない疑問だったのだろうか、急に衝撃を受けた顔をする両親。
「え、私そんなまずいこと聞いた?」
 ちょっと不安になってくる。いや、最初から不安だったが。
 嫌な沈黙の後、鹿が、もとい母が口を開き始める。
「実はね」
 切り出した。
「わからないの」
「わからない?」
「こくり。あのね、ケモノ人間は同種の間柄の結婚が普通なの。違う種の遺伝子情報が混ざると……、ってお母さんもよくわかんないのよね、つまりどんな雑種が生まれるか判らないの」
「雑種?」
「こくり。あのね、ケモノ人間の中では鹿なら鹿。馬なら馬の獣人としか子供は作ってはいけない掟があるの。一族の血を保つことと、血が混ざったとき、どんな変異を起こすか解らないから、生まれてきた子はすぐに殺されて、そんな非道い風習は、今でも残ってて。だから父さんと母さんみたいにあなた達を守り通せたケースは歴史上初めてで、えいねやつむちゃんがどんな能力発言をするか判らないの」
 そこで、えいねるは本当の意味で衝撃を受けた。
 自分が、取るに足らない平凡な人物だと確信していた。そんな彼女が、それでも自分が妖怪だと言われてもそれほどどうとも思わず、平凡な妖怪になるのだろうなというような精神の対処ができていた。
 なのに、今、異端であるはずの妖怪という設定だけではない、しかも、さらに生まれてきたこと自体が奇跡のような言い方をされて、特殊という自分が一番なりたくないものになりつつあるという事実。自分がまるで物語の主人公のような空気が重くのしかかり、今の状況に、初めて危機を感じ始めた。何より父と母は、とても大事な、親子のスキンシップの中で、今一番重大なことを言おうとしているのだということを、理解できた。
「いやあ、そういえば本当、よく結婚できたよなあ、なっちゃん」
「ええ、そうね、ふみくん。日本中の獣人を相手に戦争だったものね。おかげで尾瀬の荒獅子っていえば今でも震える獣人も二ケタは軽く」
 前言撤回。
「鹿女のくせになんで荒獅子なのよ、いやいや、それより私の話は!」
「ああ、そうそう」
 父がまた自分の額をぺちり、とやる。
「だからな、本当、変身するまで判らないんだ。馬になるのか、鹿になるのか……間をとってウマシカになるか」
「ふみくん! それは言っちゃ駄目!」
 しかし母の思いも空しく、しっかり聞こえてしまった。
「ウマシカ? ……うましか。馬鹿」
 ふと気になった。
「もしかして、もしかしてだけど、馬と鹿の合いの子だから、私は馬鹿(ばか)になる、なんてオチじゃないよね」
 まあ、これはただのボケである。たまにはツッコミの苦労を味わえ。
 そんなわけがない。と言いなさい。
 そんなわけがない。と言いなさい。
 そんなわけがない。と言ってください。

 しかし両親は否定してくれなかった。

「うわあああああああああああん」
 走って泣いて叫んで、まるでケモノのごとく逃げるえいねる。理解した。この両親はそれを言いたかったのかそりゃあ生まれてくる子のことを考えれば結婚も反対だ。慣例を捨ててまで自分に教えたのは、だから、そうなるかもしれない前に教えておく必要があったのか。馬鹿女に。
 座敷を飛び出し自分の部屋へと駆け込む娘の背中に母は
「もし体中毛深くなってきたらふみくんには内緒でお母さんにだけこっそりと言いなさいねー」
 ごまかすようにフォローを入れた。

 こうして、十七歳にして人生の岐路に立たされた頼島えいねる。
 普通を愛する彼女の、奇想曲(カプリッチョ)の始まり。


3 :akiyuki :2007/11/01(木) 19:13:22 ID:VJsFrmQG

ケモノコンツェルト


 頼島えいねるは高校生である。
 つい昨日までは普通の高校生であった。
 なら今はというと、実は正体が妖怪だったということを除けばやっぱりどこにでもいる十七歳の女の子だったりするのである。
 頼島えいねるは妖怪の女の子である。
 
 その時間、えいねるは通学途中だった。
 登校風景である。
 いつもなら誰か友達の一人や二人と談笑しながら目的の教室まで進むところなのだが、前日の夜に「お前は人間じゃない」などとカミングアウトされておいて朝から元気百倍モードでいられるほど、えいねるの基礎体力はなかった。
 朝最悪の気分で目覚めると父と母はいちゃいちゃしていたし、妹のつむぎは何も聞かなかったように朝からひいきのアナウンサーのニュース番組を見ている。まるで何事も無かったかのような、空々しいまでの空間。しかし、そうでないことを知ってしまったえいねるには、余裕など無いし、なにより
 えいねるは朝寝坊していた。

「ふぐう」
 早歩きの通学途中、ため息をつく。
 どうしてこうなったのだろう。えいねるは考える。つい昨日まで彼女の世界は平凡に満ちた素晴らしいものだった。どこにも特別なものや盛り上がる所なんて無い、当たり前の日常があったのだ。そう、今だって目の前には学校があって同級生達が昨日と同じように歩いていて日差しがまぶしい。自分の半径五メートルより外の世界は平和なのに。
 たった一人自分だけがすべてから拒絶されている気がする。
 駆け足で誰かが後ろから来る。
 振り返りはしないが、足音と歩行間隔から推定、二人の女の子がこっちに来る。おそらく二年生だろう。多分。
 自分の横を通り過ぎる。横目でちらり、一人はツインテールの可愛らしい子。もう一人の手を引っ張って無理矢理歩かせているらしい。寝癖がひどくどこか不思議な雰囲気が漂う相棒の女の子。こちらもかなり美人の類だ。例えば二人がスキンシップというには随分と密着しすぎているような気がしたとしても、今日からのえいねるには、とても平凡な二人だ。

 えいねるは走り出した。中学時代『直流電流』などという自分には不似合いな通り名で親しまれた陸上部エースの健脚は未だ健在。短距離ならば現役にも負けない。
女の子走りなんて器用なまねはできず足を高々と上げ、腕を前後に振りながら、どんどんと加速していく。次から次に同じ寝坊組を追い抜いていき校門へと近づく。先ほどの二人組も追い抜き、自転車も追い抜き、どんどん近づいてゆく門に向かってラストスパート。
 予鈴が鳴る。
 そして鳴り終わる前に校門突破。頼島えいねるは無遅刻無欠席記録を更新することとなった。目指せ皆勤賞。

 そして気が付く。
 あれ? なんでこんなに速いんだろう。
 そんな奇妙な疑問が頭に浮かぶ。
 だって、こんなに足が速いわけがない。もう三年も運動なんてしていないし全力疾走なんて一年ぶりだ。いくら『直流電流』と呼ばれていた形跡があるとは言え、それは三年も前の話だ。成長期の三年は、かなり大きい。それなのになんで現陸上部部長の乗った自転車を追い抜くスピードで走っておいて、全く疲れていないのか?なんでこんなに呼吸が乱れていないのか?なんでこんなに普通じゃないのか?
 ケモノの如きその走り方を、えいねるはどこか遠いことのように、漠然とした不安と判然としない感覚で捉えていた。

 しかし奇妙と言うものはそんな分かり易く回答が出てくれるものではない。
 突然、思いもしない時間に考えてもいない方向から現れるものだ。
 だって、奇妙なのだから。
 昼休み。えいねるはいつものように椅子に深く腰かけ、窓の外に見える風景を見ていた。
 とても不思議な光景。
 グラウンドでサッカーに励むバスケ部員。美術室で油絵を描いている筋肉質の男(美術教諭。)金髪にピアスの不良なんて呼ばれる男子生徒が子犬に餌をやっている。
 自分よりも、数段まともで普通な人々。昨日までの自分だってその歯車の一部だったのだ。なのに、ほんの少しの出来事で、抜け落ちてしまった。
 しかし、だからと言って何かがかわっているわけでもない。いつもどおり飯を平らげて授業を受けた。なのに、この不安は何なのだろう。一体、いつ自分に普通でないものは襲いかかろうというのだろう。
 そうして転機を迎え落ち込むえいねるに声をかけた男がいた。
「頼島さん、どうなさいましたか?」
 声の主をみやる。そこには、えいねるの良く知る人物、わかりやすくいうと友達が立っていた。とても大柄な、色黒で頑強な面相ををした彼。それに似合わぬ優しい表情と丁寧な口調。最悪な気分にいながらも彼の登場に心をなぐさめられる。無論、それは恋愛感情なんてものとは全く違うし、彼にはきちんとカノジョがいる。それとは全く違う、彼の人柄と笑顔が自分の心の底にたまる不安をすくい上げて取り除いてくれるような声質。えいねるはただ苦笑いして、
「え、うん。ちょっと色々あってね」
 すると彼はただ一言。
「そうですか」
 それっきり黙る。なんとなく、話したくないことだということを悟ってくれたのだろう。
 そしてまた外を見やり、沈黙。
「頼島さん」
 彼はまた声をかける。顔をあげて、目線があった彼がもう一度言うには
「気分が晴れないのでしたら散歩なんてどうでしょうか?今日はとてもいい天気ですし、屋上が開けていて誰もこないはずですからゆっくりと考えことが出来ますよ」
 人生の達人は言うことが違う。
「まあ、たまには変なこともしてみるに限ります。地球は大して普通に回ってますから」
 ということで、反対する理由もなく、えいねるは屋上に向かった。


 何故かえいねるは走っている。
 階段を上りながら、なんとなく、高校三年生になって初めて青春をしているような、おかしい気分になりながら、誰もいない屋上を目指しているえいねる。
 少し気分が晴れてきた。彼のおかげだ。
 一階踊り場から、屋上五階まで駆け上がる。
 運動不足のえいねるは二段とばしで息が切れていたはずだが、もう今では五段とばしで駆け上がれる脚があるなっている。
 確かに少しずつ、自分が変わっていくのを自覚した。
 それはとても怖いことだろう。それまで信じていたものが全く無意味なもののように思えてくる。けれど、それでも認めるしかない。これからは、それが普通なのだから。 妖怪で女子高生。それが自分だと受け入れることを、頑張ってみよう。
 頼島えいねるは、俗に言う大人への階段を駆け上っている。今屋上を目指して走っているように、イメージと違う自分を受け入れようとしている。俗に言う、新しい世界への扉を開こうとしているのかもしれない。今、屋上に着き、ドアノブに手をかけている。
 深呼吸。
 これを開けて、一面の青空を見たとき、何かが変わる気がした。
 自分は生まれ変わる。
 そんな青臭いことを考えている自身に苦笑しながら
 そして握る力を強め、思い切り、ドアを開けた
 そして目の前には青い空がいつものように横たわり
 そしてパンダが座っていた。



 …………。
 …………。
 …………。
 戸を閉める。
 戸を閉めた。
 落ち着け、落ち着きなさいえいねる。なんで学校の屋上にパンダがいる?
 見間違いだ。きっと見間違いだ。そりゃあ、私のお父さんは馬だしお母さんは鹿だ。私はウマシカかもしれない。けれど、さっきのパンダは服を着ていなかったじゃない。日本語をしゃべらなかったじゃない。パンダ人間なんて、まさかいるはず無いじゃない。
 そう、地球はいつも通りに回っているのよ。
 …………。
 …………。
 …………。
 戸を開ける。
 戸を開けた。
 パンダがこっちを見ていた。
 世界は広い。
 硬直。
 どうやら向こうもびっくりしているらしい。そりゃあこんなところにくる変わり者はそういない。そんな彼の第一声は
「見られちゃったんだーよ」
 語尾が間延びしていた。日本語を喋られてしまう。
「ごめんなさい」
 思わず謝る。
「別に気にすることないんだーね、見られて減るもんじゃなーいし」
 妙な喋り方だ。どこの地方の方ですか、と訊ねたいところだが、聞くべきことはもっとある。
「あの、なんでパンダさんがこんなところにいるんですか?」
 確かにパンダだ。白と黒の毛並みの猫熊と書いてパンダ。現在は希少種となってしまい、しかも日本語を喋るパンダとなれば珍しすぎて初めて見る。
 するとパンダは前足を顔の前に持ってきてちゃうちゃうというように振る。
「僕はここの生徒だーね、多分知ってるはずだーよ」
 知らない。普通に知らない。こんな目立つものがいたらそれだけで目立つだろう。第一人間でないのに高校入学だなんて暴挙を教育委員会が認めるはず無い(この際自分のことは棚にあげておく)
 するとパンダは首を傾げる。あ、ちょっと可愛いかも。
「僕はパンダ獣人種なんだーよ。普段は人間モードで暮らしてるわけなんだーよ」
 停止。
 え、とこういう時はどう反応するんだったかな、……うん。
 
 驚愕。
「え?あなたも!」
 本当に驚く。昨日カミングアウトされたばかりなのに、いきなり別の獣人にエンカウントである。ちょっと展開が速すぎる気もするがこの際それは忘れておく。
「ん? すると君もパンダなーの?」
 語尾が変だが、一応疑問文なのだろう。
「違うよ、私は。その」
 さて、なんと言おう。
「馬と、鹿の子だよ」
「ふーん」
 パンダは納得してくれたらしい。
「ではウマシカ女さん、お名前聞いてもいいよーね」
 多分これも疑問文なのだろう
「え、と。私は、頼島えいねる……だけど」
 しかし今の御時瀬見知らぬ人に自分の情報を教えるのは危なくないだろうか?
「じゃー、頼島さん」
「はい」
 パンダは背中を向けた。
「はい?」
「お願いがあるんだーよ」
 そうしてその前足を背中に持ってゆく。爪の先で、背中のある部分を指している。
「ここ、ここら辺を掻いて欲しいんだーよ、僕は体が硬いかーら、届かないんだーよ」
 どうしたものか。
 しかし一生懸命届かない背中に手を伸ばしているパンダも不憫ではある。
 近づく。
 で、しゃがみ、パンダの背中に爪を立ててみた。
「え、と。こうですか?」
「あー、あー」
 どうなのだろう?
「いー感じだーよ、とっても気持ちいーよ」
 喜んでいるらしい。
「あとで頼島さんにお礼しなくーちゃ」
「結構です」
 即答しておいた。

 しかし本当。自分は何をやっているのだろう。
 えいねるは呆れてしまう。考えことをしようとやってきた屋上には先客がいて自己紹介をしても相手は無視して背中を掻くよう頼んで、掻いてあげる。何をやっているのだろう?
 こんな所を誰かに見られたらとてもじゃないが……
 ふと振り返る。
 後ろを向く。


 いた。

 それは朝出会ったツインテールの女の子と寝癖のひどい女の子。なんでそんなに仲よさそうにしてらっしゃるの。
 ドアノブに手をかけたままの所を見ると自分と同じように戸を開いた次に見た映像に戸惑っているらしい。そりゃそうだ。学校の屋上で一番最初に見えるのがパンダの背中を掻いている女子高生だったりしたら。
 二人は無言で戸を閉め、すごい音をたてながら階段を下りていった。

 え、と。こういう時はどういう反応をするんだったかな? ……、うん。

「うわああああああああん」

 最悪だった。

 放課後。
 すごく落ち込んだ気分で教室にいるえいねる。もう授業は終わり教室に残る生徒はほとんどいない。まだこの時期では居残り勉強をするような生徒は坤高校にはいない。
「ふぐう」
 ため息。
「ふぐうう」
 それもかなり深刻な。
 もう、何も言えない。
 何も考えられない。
 まだ二十四時間も経っていないのに、変な世界にいよいよ両足を突っ込んでしまった。とんでもないところを見られた。きっと明日にはものすごく噂が立つぞ。三年の頼島えいねるは屋上でパンダを飼っている、とか。
 机に突っ伏す。元々えいねるは困難に立ち向かうバイタリティなんて持ち合わせてはいない。五時間目と六時間目と補習を受けきったのは奇跡に近い。
 立ち直るには時間がいる。とてもいる。

 帰ろう。

 席を立ったのは良いけれども、帰ったら帰ったで今日は食事当番だ。なんだかどっと疲れが出てきた。
 とりあえずは現実逃避。もう今日は晩ご飯の献立以外は何も考えないようにしよう。
 そして廊下を歩き出すえいねる。
 もう、あんなパンダのことは忘れよう。
 そう心に決め帰路への第一歩を踏み出したえいねるの視界に何かが入る。前方から大勢の人間が来るのが見えた。
 廊下を歩いていた生徒達が次々に壁によりそのグループに道を譲り、廊下の真ん中を彼らは悠々と歩いている。総勢で二十人ほどだろうか? 何か資料のようなものに目を通しながらずらずらと歩いてくる。どこぞの院長総回診でもしているのかというような集団も、この学校ではそんなに珍しくない。
 生徒会の権限が強い坤高校では生徒会長もそれなりにハードスケジュールだそうで会長は分単位で朝早くから夜遅くまで動いている。それでも時間は足りず移動時間も惜しんで秘書のように副会長が寄り添い、その後ろに生徒会役員が何人も付き人として追従している。
 噂では聞いていたがここまで大勢の人間を引き連れる会長とは一体どんな人間なのだろう。
 壁に寄りながら、注目。会議行列の先頭。副会長の燕さんとやりとりをしている彼が生徒会長なのだろう。こんなに近い距離で見るのは初めてだ。
 なるほど、噂通りに肩幅が極端に広く制服の上に校内でも白いコートを着て、睡眠不足故に目の周りが真っ黒。確かに言われているようにパンダみたいだ。

 ……。いや、私今なんて言った?

 すると、生徒会長はえいねるの目の前で止まり、彼女のほうを振り向く。行進が中断され、廊下に静けさが戻る。
「善通寺会長、どうされました?」
 副会長は会長の顔を見た後、えいねるの方を向く。後ろの取り巻き連中、さらにその廊下中にいた生徒全員がその行軍停止に視線を集中させる。
 背が高いわけでもないが、パースが狂ったように広い肩幅のせいで巨大に見える。目の周りが真っ黒で肌は着ているコートのように白かった。
 そしてこの階で今最も目立っているえいねるに、生徒会長はこういった。
「自己紹介がまだだったーね。善通寺吉宗(ぜんつうじよしむね)、やっぱり僕のこと知ってるんだーよ」

 凹んだ。
 こうして頼島えいねるの妖怪ライフは、不運と衝撃の協奏曲(コンツェルト)が終わることなく夕方の学校に響いていた。


4 :akiyuki :2007/11/01(木) 19:16:15 ID:VJsFrmQG

ケモノアンプロンプテュ


 それはとても奇妙な感情だった。何故そう思ったのかは判らないが、どうしても理屈で説明できない、判然としないもやが体に巣くうような感覚。
 えいねるはそれを説明できない。けれど元々そんなものなのだろう。
 だって奇妙なのだから。

「ふわー」
 彼はまずあくびをした。そしてその後しゃべり出す。
「では、改めて自己紹介だーね。僕は三年二組、国語係で空手部の副部長やってて今は生徒会長。うん、肩書きはこんな感じーで、その正体は猫熊の変化と人間のハーフのパンダ人間、善通寺吉宗、よろしくーね」
 そう言って頭をぺこりと下げる。つられて自分も頭を下げてしまう。
 パンダのことを猫熊と書く。えいねるもそれくらいは知っていたが、パンダ人間という単語は生まれて初めて聞く言葉であった。
 昼休み、坤高校屋上。
 変わり者の多いことで有名で、しかも屋上が開放されているという物語が展開するのに最適当でありながら、人が全くやってこない少し奇妙な場所。本来なら最も多くのエピソードが生まれるはずの舞台に、今は二人の男女がいるだけである。
 つまり思い切り特殊な状況下にいるということを証明しながら、頼島えいねるは彼と相対していた。
 えいねるは彼をしつこくない程度に観察する。自分とそんなに身長が違わないのに肩幅の異様な広さから威圧感のある体躯。学ランの上に白いコートを羽織り(校則に違反しないのか?)青白いとでもいえるような透き通った肌。その目の周りは睡眠不足で真っ黒になっている。誰が言いだしたのか、愛称はパンダ。そして惚けた表情、おそらく意識が朦朧として、半分寝ているのではないだろうか。無造作に伸びたぼさぼさの髪に耳が完全に隠れて、けれど頭の上には何も見えないので、ちゃんと顔の横に外耳があるのであろう。その精悍な名前に少し不健康な肉体。
 生徒会長、善通寺吉宗。彼の外見はそんなものである。
 吉宗は自己紹介の後、押し黙る。なんとなく苦手な間。やはり自分が何かを言う番なのだろうか。そう考え、彼女は一度名乗っているがもう一度名乗り返す。
「え、と。私、三年六組、放送委員で部活は入ってなくて、今もなんにも。それで、お父さんとお母さんが妖怪の、頼島えいねる、です」
「昨日聞いたーよ」
 そうかい。
「ふぐう」
 マイペースな彼と向かい合い、えいねるはため息をついた。

 昨日、屋上に現れたパンダに出会い、そしてその正体である善通寺生徒会長と公衆の面前で会話をしてしまった。あの時は一方的に彼が喋ってそのまま生徒会取り巻きを引き連れて去っていったが、おかげで今日登校している道すがら、午前中の授業の合間、あの会長と会話をした女として学校中の視線を集めていた。
 彼がただの生徒会長ならそれほどの噂にも鳴らなかっただろう。しかし善通寺吉宗に限っては、ただということがない。一年時から学年トップの成績、空手では全国大会に出場し、校則違反のはずの白いコートを着ていても何かに化かされているかのように誰も何も言わない。一日中激務に追われ授業中以外に座っていることがない、奇人窟の坤でなお最先端の奇妙。普通を愛する頼島えいねるを鏡に併せた真逆にいる男。そして、たった一つ本性を隠しているという共通点。
 そんな彼から突然誰も予想しない相手に声をかけたという事実は、つまりもの凄く普通の事態ではなく、えいねるの最も苦手とするものだった。
 一日中とぎれることのない特異な物を見る視線。。同級生の視線。窓の外から除く下級生。何より担任の先生までもの珍しそうな目で見ている。(さすがに被害妄想ではあるが彼女はそう確信している)
 友人達は何故自分があの生徒会長と知り合いなのかを興味津々に訊ねてきたが答えようがない。まさか会長はパンダ人間で屋上で背中を掻いているのをばったり目撃しましたなんて言えない。
 そんなわけでため息をついていた彼女の昼休み。吉宗は現れた。
「こんにちは、頼島さーん」
 その声に反射的に首が回転した。
「か、会長」
 えいねるの所属する三年六組教室の入り口に、皆の視線を集めて、白いコートを着た寝不足げな男が立っている。教室中の視線がそこに集まり、そして事情を知る二割ほどがえいねるに向かう。
 みんなの教室が、一瞬でえいねると吉宗の舞台へと変わり
 何の前触れもなく歩き始める吉宗。
 何の関係もなく立ち退く進行方向上の皆様。
 そしてその先にあるのは、頼島えいねるの座席。
 彼女の前に、吉宗は立ち止まる。
 緊張。
 そして彼はおもむろに
「頼島さん、お話がしたいから、ちょっと来て欲しいんだーよ」
 ざわめきの起きる暇もなく、吉宗はその場を去った。
 後に残されたえいねるに総ての視線が戻る前に、彼女も逃げ出すように教室を後にする。ああ、なんでこんなに私の人生は変な方向に曲がってゆくのだろうか。昨日までの現実に逃避したかった。

 そうして現在。
 屋上。
「え、と。会長?」
「僕のことは名前でいいんだーよ」
「じゃ、じゃあ、善通寺、さん?」
「なーに?」
「あの、お話ってなんですか?」
 どうも丁寧口調になる。同級生の男子生徒にさんづけもないだろうが、目の前で見ても正体不明なものに対していきなり気を許せるほどえいねるは心が広くない。今だって何故彼が自分を呼ぶのかまったか見当がつかない。
 彼に自分と関わるべきところが思いつけない。
 しかし彼は、まるでそんなことを聞かれるとは少しも思っていなかったように
「え?」
 首を傾げる。
「別に。ただおんなじ妖怪どーし仲良くしたいなと思っただけだーよ?」
 何故そんなことを聞くのか、と言わんばかりの言い草。しかし、えいねるは、自身を過小評価しているえいねるは、たかが同じ本性を隠しているくらいで、彼が自分と関わろうとすることが解らない。
 えいねるは普通を望んでいる。それはなんのとりえもない宙ぶらりんな自分が、人生に非凡や特別を望んではいけないことだと思っているからでもある。平凡な自分に、誰からも褒められる生徒会長のような人間が、何故友達になりたいのかが本当に解らない。
「だって、会長みたいな人が、たかが同じ妖怪だってだけで、どうして私に声をかけたりするんですか?」
 それこそがえいねるの疑問。
「私と知り合って、何かいいことあるんですか?」
 つまり彼女は十分自分が不思議な人間であることに気付いていないのだった。
「私と知り合ってどうする気なんですか?」
「うーん」
 吉宗は二秒ほどうなった後。
「頼島さんは損得で友達作るーの?」
 そのあまりに直接的で、そのままで、まさにその通りの質問に、えいねるは言葉に詰まった。
 あれ? 自分は何を言っているのだろう。
 何かおかしなことを聞いているのではないか?彼は、別に自分に何かを求めているわけではない。ただ、話がしたいだけという、至極尤もな、普通のことを言っているだけではないのか?それならば自分こそが、おかしなことを聞いているのではないのか?
 言うことが無くなったえいねると、何かを言うのを待っている吉宗。
 どちらともなく沈黙がおり、青い空とコンクリートの床の間から、音が消えた。
 正座し、こちらを覗きこむ男。戸惑う女。
 それほど、時間は経たなかったと思う。

 階段を上る足音が聞こえた。その足取りはまるで苛立ちをこめたような力強さで確実に一段一段踏みしめていた。彼と彼女が振り返る時にはもうその人物は屋上へとたどり着き、踊り場のドアを開けた後だった。
縁のない眼鏡をかけたお下げ髪の少女。その小柄な体格と制服に付いた名札から一年生と判る。特徴的なその鋭いつり上がった眼。視線。そして何より、何故か左手にのみ黒いのフィンガレスグローブをはめている。そして何もつけていない白みがかった右の手には、なにやら書類の束とノートパソコン。
 彼女は、少し鋭いその目線でまず吉宗、次にえいねる、そしてまた吉宗へと移し替え、静かに吠えた。
「会長、探しましたよ」
 そしてまた、目の前の会長のようにこちらの許可なんかお構いなしにかつかつと歩み寄る。抗う暇もなく吉宗の二の腕をその黒手で掴み、無理矢理立ち上がらせる。
「さあ、戻って仕事の続きです。昼休みが終わるまでに三つの議案を採決していただかねばなりません」
 すると、吉宗の顔に、それまでと少し違った、「苦手だな」といった表情が見える。もちろん本当に嫌と言うより、「かなわないな」という意味での苦笑で。そしてせかされるようにして立ち上がり生徒会室に連行される吉宗は、ただぽかんとしているえいねるを一瞥し、
「それじゃーあ、頼島さん、また今度お会いしましょーお、何か用事があったら僕のこと呼んでーね」
 そして振り返ることなく、コートを翻らせて颯爽と消えていった。
 見送るえいねる。
 固まるえいねる。

……彼女が我に返り次の行動に出ようとしたとき、
「ちょっと、あなた」
 いた。
 吉宗を連れ戻しに来た彼女、そう、彼女は、会長についていかずまだえいねるを見下ろしていた。
「はい」
 つい、返事。
 すると彼女は、その、鋭い目線を、冷たい目線に変える。
 なんだろう。
 えいねるはその目線に恐怖を感じた。まるで、チーターかヒョウに睨まれた草食動物の気分だ。
 そんなことを考えているとは露知らず、彼女は、さらりとこんなことを聞いてきた。
「あなた、会長の何?」
「何って……」
 それはこちらが聞きたい。
「普段なら執務をこなしている時間帯に生徒会室を抜け出して何をしているのかと思えば、特に何の取り柄もないただの一般生徒に会いに行っている。何故なの?」
 だからそれはこちらが聞きたい。
「まさか会長に恋人が? と思ったけれど、とてもそんな魅力は感じないし」
 なんだかさらりと非道いことを言っている。もう少し礼節はわきまえましょう。いや、それより
「あ、あの」
 勇気を持って質問。
「何でしょう?」
「あなた、誰ですか?」
 すると呆れたような顔をされた。
「あなた、昨日会った人間の顔も覚えていないのですか?」
 呆れるというより、もう、すでにそれは見下していると言っていい。
 それでも親切に、彼女は自己紹介する。
「生徒会副会長 島田燕(しまだつばめ)です」
「あ」
 思い出した。というか、知っている。
 一年生でありながら生徒会副会長に就くその手腕と中学空手部時代、コンクリートに正拳で穴を開けたという伝説から付いた二つ名が『やり手』。
 右の遣り手と左の槍手 島田燕。
「思い出せました?」
 昨日、吉宗に会った時に後ろに彼女が控えていた。しかしこんなに目つき怖かっただろうか。
「頼島えいねる先輩ですね?」
「え? あ、はい。そう、ですけど」
 やっぱり一年生にも敬語で喋ってしまう。これからはもうちょっと気を強く持とう。すると燕の視線がえいねるの体を撫で回すように、見る。その隠すことのない値踏みするような見られ方はとても嫌だったが、悲しいかな何も言い返せない。
「ふむ」
 何かを勝手に頷く。
「まあいいわ」
 何が良いのか、そして燕は後ろを向く。もう、えいねるを視界に入れる必要はない。その動作はそう感じた。
「じゃあ、忠告しておきます。あなたがどう思っているのかは知らないけれど、これ以上会長に近づくのはやめてください」
 はい?
「え、そんな私は」
 近づいていない。近づいてきたのは、むしろ彼の方だ。
 だがどうしても、それを言うのは気が引ける。その沈黙をどう受け取ったのか燕は続ける。
「何が狙いか知りませんが会長のことを嗅ぎ回るのは控えてください」
 甚だ誤解だ。
 けれど……けれど。今思うのは、彼女が、燕が今自分に言っていることは、自分が吉宗に言ったことと、何か、似ていないだろか?
「あの、もしかして会長の、その秘密って言うか、そういうの知ってるんですか?」
うっかり訊いてしまった。
「はい」
すがすがしいほどに即答だった。
「会長は、あなた達と違って普通じゃないの」
 そして島田燕は去っていった。


 気がつけば、放課後。
 青い空は徐々にその色彩を変化させている時。夕刻。
 えいねるは生まれて初めて授業をさぼった。
 何故か動くことが出来なかった。考えることも出来なかった。
 ぼうっとしていたのでもない。まるで、自分の時間だけが停まったように、スイッチを切られていたかのように、我に返れば夕刻が迫っていた。
 普通じゃないと言い切った燕。その普通じゃない人間(人間ではないのだが)に仕える(その表現がぴったりだった)彼女は、どうなのだろう?

 えいねるはその手に握る一枚の紙切れを覗き込む。
 それはなにやらの会議の資料のようである。
 先ほど目の前に落ちているのに気付き、拾い上げる。
 誰の?それを考えたとき、一人の彼女の姿が浮かんできた。
 片手一杯に紙の束を抱えたこの学校の副会長。

 落とし物。

 無論、届けた方がいいのだろう。けれど、ぶっちゃけ彼女に会うのはいやだった。
 別に燕のことが嫌いなのではない。むしろ普通扱いしてくれたことが嬉しいくらいだ。そして、そういうこととは別に、えいねるは彼女に恐怖を感じていたのだ。
 それが一体いかなる感情なのか、えいねるにはどうしてもわからない。理由が無く、ただ、えいねるは島田燕という存在に恐怖を抱く。
 だから、生徒会室にそっとお邪魔して、そっと置いて気付かれない内に変えることにした。吉宗に会ってしまうのも、燕に遭ってしまうのも、どちらもまずい気がするし。
 
 放課後、人気のなくなった校舎。おそらく叫び声をあげたところで何人に届くか?というような閑散をした気配。
 学校第一棟の一階一番奥。そこに生徒会室はあった。妙にいい造りの戸がそびえ、ドアノブにてをかけるのも気が引けるがここで立ち尽くしているわけにもいかない。えいねるは右手を持ち上げた。
 かちゃと音がして、戸は開いた。さすがに古めかしいぎい、などと言う音はしなかったがそれでも結構響く音である。どうか中にいる人が気付きませんように。
 開いた隙間から中を覗き込む。
 いない。
 人がいなかった。どうやら皆出払っているらしい。これならさぼってでもいない限り生徒会役員には会うことはあるまい。(それにしても誰もいないのにかぎをかけないとは不用心だ)
 抜き足差し足、生徒会長席めざし歩く。とっととこれを置いてさっさと帰ろう。それがいい。
 そしていつも吉宗が座っているだろう光沢のあるよさげな机に近づき、そして何かが動くのを見た。
「!!!」
 全身の毛が逆立つ気分。
「???」
 な、何だ?
 それは最初、書類の山のせいで見えなかった。しかし近づき見る角度を変えたことでその紙の束の合間を縫って机に突っ伏している

 島田燕がいた。

 正鵠を期すなら燕が机に突っ伏して、眠っていた。
 寝息をたてて、本当に無防備に、何をしているのだろう?
 ほんの少し考えればわかること。あれだけ大柄で丈夫そうな吉宗があれだけ眼の下にクマを作るような仕事に追われていて、こんな小柄な、しかも一年生が平気な顔をしていられるはずがない。おそらくは、あの見た目からしてのんびり屋の吉宗以上に神経をすり減らして、ただの性格がキツいお嬢さんでは出来ない執務を、普通なままではやりとおせない激務を、やり通しているのだろう。
 あのどこか全てに対していらいらしているような態度も睡眠不足によるのかもしれない。
 そう思うと、いつのまにか、彼女への恐怖がなりをひそめ、その、随分と穏やかそうな寝顔を覗き込んでいるえいねるがいた。
 燕の顔をみやる。あれだけ鋭かった目も尖りを失い、あれだけいからせていた肩もしぼむ。反り返る背筋は、猫のように丸くその頭の上からはえる二つの耳はぺたんと降り、スカートの下から垂れたシッポも力無くだれ下がり……。

 ……ってょっと待った。今何かとても変なことを言わなかったか? 頭の上の耳?  
シッポ? ちょっと待て。それがホモ・サピエンスの体のパーツか?
 もう一度凝視。
 しかし結果は最悪たるもの。それ以外にも口元には肉食動物特有の鋭く伸びた犬歯。そして、今やっと気付いたが、彼女の髪は、さきほどの黒髪はどこへやら、金色の、黒いブチの入った、豹柄に染まった髪まで発見した。

 落ち着け、落ち着きなさいえいねる。彼女だってたまにはイメチェンするだけよ。頭の上に耳があったりシッポが生えてる人間だってこの広い世界にも……。いないよねえ。

 見る。
 やっぱりネコ耳(いやこの場合は豹耳か)はある。
 なぜ?
 触ってみた。柔らかい。それはぬいぐるみにみられる綿の肌触りではない。こりこりとした生物的な感触。これでカチューシャということはなくなった。マジで耳らしい。そこで、ふと燕の体つきに気が付く。
 背は自分よりも小さいくらいだが、その手足はすらりと長い。
 その姿は豹というよりも、そうチーターに近い。両種は同じネコ科ではあるし、なかなか区別うをつけることもないがチーター亜科とヒョウ亜科に別れるくらいなのでわかる人にはわかる。乾いた大地を猛スピードで駆け抜けるあれだ。
 そんな知識を引き出していたが、それも中断される。
「何をしているの?」

 燕が目を覚ました。

 状況確認。
 起きた燕。何故かいるえいねる。
 人の耳を勝手に触っているえいねる。もろに見られてはいけないところを見られた燕。
 ……。うん。
 ぴーんち
「貴様、見たな」
 燕の眼が、金色に、ケモノの色に光っている。それは、もう全てが違っていた。昨日の吉宗を相手にしていた時の事務的な態度、自分を相手にしていたときの嫉妬、そんな生易しいものではない。
「生かしておけん」
「……」
 『槍手』のグローブを『遣り手』で外す。
「殺す」
「うわあああああああん」
 何故いきなり殺人宣告を受けているのだろう。そんなことを思っている暇はない。本気だこの人。慌てて逃げ出すが、まるでネコのように飛び上がった燕はえいねるの背中に飛びつく。
「きゃあ」
 そして飛びついたと同時に、その爪をえいねるの背中につきたてた。
 
 ザクリ

 え? 今の、何の音?
 えいねるはいつの間にか倒れていた。自分に乗りかかるように燕が、うつ伏せ故姿は確認できないがおそらく燕が、うつぶせに倒れている自分の背中を裂いていた。
 その右手で、その前足で、背中を斬っていた。
「え? これどういうこと?」
 仰向けに体を動かしながら、おもわず口に出し、思考が止まる。
 そこには、人間はいなかった。
 そこにいたのは、金色の毛並みに黒い模様の刻まれた、すらりとした獣影。
 そこにいたのは、一匹のチーター。えいねるを襲う一匹の四足歩行肉食獣。
「え、と。あなた副会長?」
 燕は答えた。
「そうだと言ったら?」

 ああ、そういうことか。
 えいねるは理解した。
 何故彼女をこれほどまでに怖がっていたのか。
 それは、自分の中に流れる馬か鹿の血が、本能的に嫌っていたのだろう。
 それにしてもチーター女がこんなに凶暴だなんて、知らなかった。
 さて、こういう時はどういう反応をすればいいのだろう……。うん。

「うわあああああん、やめて、やめてよおお」
 ケモノの下で暴れる。自分程度の非力な体ではなんの意味も無いかもしれない。けれど、あきらめてされるがままなんて訳にもいかない。
 なんとか、なんとか話だけでも。ケモノは、人間の声で応える。
「あなたは見てはいけないものを見た。死んでもらうしかないわね」
「わ、私何も見てないよお」
「ふん、じゃああなたの目の前にいる化け物は何? 今あなたを襲っている動物は? 島田燕はどこよ。わからないなんて言わないわよね?」
「言わない、誰にもいわないからああ」
「そんな言葉を信用できるほど私はお人好しではないの」
「私を信用してよお」
「これ以上の問答は止めましょう。話が噛み合わないから」
 だからといっていきなり咬もうとするのはどうだろうか?  しかしそんなことは没交渉に、ケモノはその顎を、開く。したたるよだれ。尖る牙。暗い暗い暗い喉の奥。
「うえええええん」
 泣いてみた。
「大丈夫よ、楽に殺してあげるから」
「うええええええん」
 もう一度、泣いた。
 それを一喝するかのように吠えたケモノ。
 目の前で獰猛に脅され、恐怖で身がすくむ。停止。
 そして泣き声と抵抗が止まったところで、牙がゆっくりと、近づいてきた。
 逃げる、逃げなくちゃ。どうにかして逃げなくちゃ。けれど、体を押さえつけられ、恐怖に身をすくませ、今のえいねるに出来ることは助けを呼ぶことくらい。
 けれど、誰に?
 大きく開かれた口の中が見える。肉色の生々しい赤。きっとこれからここを通って燕の胃の中に入ってしまうのか。
 普通、などということを論じ、思考する暇もなくえいねるは死ぬこととなったはずだ。
 けれど、彼女は思いだしていた。
 こんな時に、思い出してしまった。
『何か用事があったら僕のこと呼んでーね』
 だから、かすれた声で、呼んでしまう。
「助けて、善通寺さん」
 別に本気だったわけではない。それでも呼ばずにはいられなかった。
 
 そしてその声は聞こえた。
「はーいー」
 いた。
 生徒会室。女の子。チーター。そして、白いコートを着たパンダ。
 頼島えいねる。島田燕。そして、善通寺吉宗。
 奇妙な場面がそこにある。
 そして、ここからはえいねるの許容範囲をさらに超える。
 ケモノは、燕は何を思ったのか、自分に向けていたその視線を、牙を、吉宗に向けた。どこか血走った眼。我を忘れて飛びかかる。
 来るのがわからなかったのか、パンダは動けなかった。
 いや、違う。来るのがわかったから、吉宗は動かなかった。
 ザク、と音がして、燕の剣歯を吉宗の二の腕が飲み込む。けれども、パンダは動じない。
 そしてこの時、床に倒れていたえいねるは、最も最も恐怖した。
 普通でなくなることを望まないえいねるは、自分が人間でないことも、目立つ真似をすることも、言いがかりを付けられることも、人間でないものに襲われることも皆怖かった。
 けれど、自分の危機にやってきてくれたひとが、庇ってくれたひとが血を流すと言うことに比べれば、そんなものはなんでもない。そんな普通でないことをやってしまって、えいねるは、えいねるは……
「声がしたかーら慌てて来たんだけーど」 
 ピンチに突然現れる、そんなキャラでもないだろうに。
「駄目だーよ燕ちゃん、人咬んーじゃー」
 噛み付かれて、血を流しても微笑んでいるようなことしなくてもいいだろうに。
「ふぐう」
 えいねるは、そんな彼にドキドキしている自分を知った。

 タイミングの良いのか悪いのかわからない即興曲(アンプロンプテュ)が、夕暮れに鳴り響く。


5 :akiyuki :2007/11/01(木) 19:41:43 ID:VJsFrmQG

ケモノエチュード


 えいねるは奇妙というものを怖がる。それは子供の頃に見たサーカスのピエロに泣き出したころから始まって十年来、その場にそぐわない、違うということを怖がる。何故かは本人も解らない。ただ解るのは、その奇妙は時に危険を連れてくるかもしれないということ。


 夕暮れの坤高校。保健室。消毒薬の匂い、清潔感のただよう白い内装。窓から赤光が差し込むその室内。
 善通寺吉宗はその肩幅の広い裸身をさらけだしていた。不健康なまでの青白さでありながら、しっかりと堅い質感を残す筋肉。ちなみにもち肌。彼の体に包帯を巻きながら頼島えいねるは目のやり場に困っていた。もちろん怪我の箇所を見るべきなのだがたった二日前まで赤の他人だった人間(厳密には人間ではないが)の、しかも結構意識してしまった異性の肌を見て眺めて触るというのは思春期末期の女の子からすればそれなりに赤面もので。 
 保健室に入るといきなり服を脱ぎだした吉宗。
「ちょ、ちょっと善通寺さん? 何脱いでるんですか!」
「はーいー?」
 彼の方は自分に肌を見られても平気らしい。(というか昨日全裸を見ている。パンダの時けど)それはそれでちょっとショックだったり……。まあそうも言ってはいられない。彼女が手を止めても出血は止まってくれないのだ。
 吉宗の二の腕から流れ出るそれは、やっと今止まってくれたがそれでも、生々しい痛みを表現し続けている。
 あの後。それは簡単に説明すれば下級生に襲われていたえいねるを庇った吉宗がかわりに腕を咬まれて血を流した。ただそれだけ。けれどそのそれだけがとある高等学校の放課後の場景にしては面白いことになっている。
 彼はへらへらしていた。人間型に戻った後もその笑みを変えぬまま同じ風に人間の姿に戻った『彼女』を抱きかかえ、「うーんー、ちょっと痛いーかーもー」
 こんな時はどう反応すればいいのかな? ……うん。
「か、会長! 大丈夫なんですか?」
「大丈夫だーよー」
 と、また特に意味もない質疑応答のあと一行は保健室へと向かう。
 彼と彼女を先導し、生徒会室を出て保健室までやってきて、そして不安になる。
 さすがに血まみれの男女を保健室に連れ込んだりした日にはどんな噂がたつかわから無い。第一廊下を歩く最中に誰かに見つかったという可能性もある。けれどそれは杞憂であろう。
 放課後、しかも執務の差し支えにならないように生徒の出入りの少ない棟にある生徒会室から生徒に危険が及ばないように最も隔離された保健室まで、人がいるための用件がない。幸運なことに誰とも出会わなかったし、保健教諭は席を外していた。
 吉宗を椅子に座らせ勝手に服を脱ぎだしたのでできるだけ見ないように、しかし横目でちらりと確認しながら、棚やら箱やらをあさって出てきた包帯やら消毒液やらその他諸々をかき集め治療を開始したわけだが、普段から治療行為が身近ではないえいねるの手当が果たして的確といえるのか?
 わからない。しかし、しないわけにもいかない。吉宗は言われたままに両手を上げたり口を開けたり聴診器を胸に当てられたり、とりあえず黙ってされるがままにされていた。
「あの、痛みますか?」
 最終的に血をふき取り消毒をしガーゼと包帯で傷口を密閉する手段に出て、そしてその行為がほとんど終わったところでそう、聞いてみた。
「痛くなーいよー」
 顔をしかめながら言ってくれる。こういうときに本音を言ってくれる人は少ないし、多分、なんとなくだが「痛い」とは言ってくれないだろうな、とは思っていた。
「ツバでけとけば治るーよー」
 でもそれはさすがにない。普段野外活動をたしなまないえいねるにだって彼の怪我が、ただで済まないことくらい解る。
 なのに彼は痛むそぶりを見せない。
 人間という生物種なら耐えられるはずのない痛みが、あるはずなのに。あるべきなのに。人間なら。その言葉が、これほどえいねるの心に空々しく聞こえたことはなかった。目の前にいるのは、人間ではないもの。
「えーとー、どこまで話したんだっけー?」
 彼にはシチュエーションというものはないのだろうか?思い詰めた様子のえいねるを無視して、いやきっとそんな彼女の表情を察してのことだろう、突然口火を切る。えいねるは何かを色々と言いたく、何かを色々と聞きたかった。けれども、やっぱり周りに流されるままに答えるだけである。
「えーとー、どこまで話したんだっけー?」
「島田燕さんが私達と同じような、つまりその妖怪だということと」
 そして
「変身を抑えられないひと、と言うことまでです」
 言った。吉宗は
「そーだったねー」
 思い出した、と言わんばかりの発言。多分本当に忘れていたのだろう。……まあいい。
 吉宗は視線を一度三つ並ぶ白いベッドへと移す。
 併せて動かしたえいねるの視界にも、彼女の姿は映る。三つ編みお下げの少女が一人。その左手にはグローブをはめて、それまでの自尊も虚栄もなく覇気のない、年相応以下の不安を覗かせる、うなだれた様子。島田燕。槍手は、沈黙していた。
「燕ちゃん」
 間延びしない、はっきりとした声、だったように思う。えいねるはこれから先、吉宗とそれなりの親交をもつことになるが、会話文の中に『ー』が入らなかったのはこの時が初めてで、最後だったと思う。
 その声に、どこか憔悴した、やつれた態度でありながら顔をあげた燕。口の周りの汚れは、えいねるが拭き取っておいてあげた。その時はまだ気をうしなったようにぐったりしていたが、今は起き上がるだけの元気を取り戻したようだ。保健室の隠し扉の奥から発見したなんだか不思議色をした栄養剤を飲ませた効果だろう。多分。心ここにあらずと言ったふうに、それでも吉宗の命令に答えるように、「はい」と聞き返した。吉宗はそれでも全く変わらない態度。真っ黒な目の周りの中で、最も深い色をした眼球虹彩部分を燕に向けて
「いいよーね?」
 燕が頷くのを待って、吉宗は体の向きをえいねるに向ける。
「頼島さーんー」
「はい」
「できればご内密な話ー」
 そういうことはできればご内密なままで私に漏らさないで欲しかったがそうも言っていられない。これは、えいねるの問題だから。
「燕ちゃんはーねー、頼島さんに悪意があってー、襲ったんじゃないんだよー」
 彼女の言動を思い出す。
『貴様、見たな』
『生かしておけん』
『死んで貰う』
 うっそだー
 そんな顔をしていたのだろうか?
「『うっそだー』って顔してるねー、でも本当なんだーよー」
 そして、答えを言った。
「燕ちゃんはねー、人食いなんだーよー」
 いきなり過ぎるだろ
 はて、ひとくい?
 ひとくい。
 人食い。 

 え、と。こんな時はどんな反応するんだったかな……。うん。
「ええええええええええええ!!」
 驚愕。そして恐怖。
 その突然の叫声に吉宗、そして燕が身をすくませた。
 しかしそんなことにお構いなくかなり身構えながら燕の方を向くえいねる。『人食い』などと言う単語をそう簡単に真に受けていいのかは議論の及ぶところかもしれない。しかし、とりあえずこれまでの事件色々からの展開予想、実際に襲われたという既成事実。そして島田燕に対する未知の恐怖感。そして、きっと、おそらくは、えいねるの獣人としての血が、その四文字に反応した。これほどぴったりと、分かり易く、侮蔑の称はないだろう。

 人食い

「うえええええええええ??」
 えいねるはあからさまに怯える。
「ひ、ひ、人食い、って、それじゃあ、ま、まさか」
 ならば、えいねるは、あの時本当に食べられようとしていたのか?
 吉宗は、いつかのように手を顔の前に持ってきて、ちゃうちゃうと横に振った。
「違うーよ、燕ちゃんは人なんて食べないよー」
 そうは言っても。
「で、でも私思いっきり食べられそうでしたけどー、かなり悪意たっぷりに」
 ふるふる、と吉宗は首を振る。
「その悪意がー燕ちゃんのものじゃないんだよー」
「それってどういうことですか。じゃあなんで島田さんは私を……」
「だからそれはねー」
 話を続けようとする吉宗は、そこで言葉を止めた。
 特に何か意味があるとは思えない停止にいぶかしく感じたえいねるは、同じく停止して、そしてそれを聞いた。

 しくしくしく

 なにか湿っぽい音が聞こえる。

「ぐすっ、ぐすっ」
 それはすぐ近くから聞こえる。
 振り返る。
 見た。
 泣いていた。
 燕が泣いていた。
 両手で顔を覆い、思い切りに嗚咽している。
 さっきまで茫然としていた彼女が、いつの間にか泣き出して、そして、保健室を飛び出した。狼狽するえいねる。しかし、すぐに理解するえいねる。
 簡単な絵解き。
「あーあー、なかしちゃったー」
 吉宗の発言。こういうところはデリカシーがなかったりする。いや、ただ子供っぽいだけか。
「あの、私何かまずいことしました?」
 わかっているのに、何となくわかるのに、聞いてしまった。ご丁寧に、彼は答えてくれた。
「燕ちゃんはーね?自分のそーいう所を悩んでいるんだーよ」
 
 放課後。二人きり。保健室。
「頼島さんは、僕達のことをどこまで理解してるーの?」
「僕達って、善通寺さんや島田さんのことですか?」
 首をふるふると振る。
「ケモノ人間のことだーよ」
 そこでとりあえず一昨日父と母(ああ、思い出すだけでぞっとするあの馬鹿ップル)から聞いた一部始終を出来るだけ端的にかいつまんで話す。もちろん自分の出自のことと母の二つ名は見事にぼやかせて。
「うーん、全然知らないんだーね?」
 ということだそうだ。
「ケモノにーはー、二つあるんだーよ」
 吉宗の目が細まる。果たしてそれが獣であるのか、化物なのか。
「人を食べないケモノとー、人を食べていたケモノー」
 さらりと、言う。
「そして燕ちゃんはー」
 そこで黙る。もう言わなくても判る。
 後者。
「燕ちゃんはー、人を食べる妖怪の子孫なんだーよ。というよりも、人を食べなければ生きていけない、そういう妖怪だったんだーよ。でも、僕達のおじーさんやおばーさんがこの町にやってきた頃からー、人を食べるのはやめよーって運動が始まってー、燕ちゃんの一族は人食いをやめたんだーよ」
 父と母の言葉。坤にも獣人の子供がいる。という話。
「けれどーね、それでもーね、時々、昔の血がたぎって、どうしても、我慢できなくなって、人を食べたくなるんだーって」
 あの時の、燕のした金色の瞳を思い出す。あれは、人間の目ではなかった。そして、獣人のものでも。
「『元』人食いのひと達はー、みんなその症状を抱えててー、燕ちゃんもー、そうなんだーって」
 燕は確かに言った。『じゃああなたの目の前にいる化け物は何よ』と。あれは自嘲などでは、ない。
「その時が来たら、誰彼見境無くー、殺りたくなっちゃうんだってー」
 さらりと、言う。
 さらりと言って、丸椅子を回転させ吉宗は自分の背中をえいねるに見せた。
「な、何なんですか? これ……」
 パンダのときは体毛で見えなかったがそこには、何か尖ったものでひっかいた、いや、切り裂いたような跡がある。新しいものではないと思う。そう、一ヶ月くらい前の、そんな傷。
「これはねー、先月の『その時』の傷ー」
 さらりと、言った。言うが、しかし、それがどういうことを意味するのか。わからないではいられない。
 『その時』。
 吉宗はいつもあのようなことをしているのか? 燕はいつもあのようなことになっているのか? 今、目の前にいる彼氏がいつも燕をそばに置く理由。校内にいる間、いつ暴走を初めてもおかしくないから、いつも一緒にいるのか? 屋上で背中を掻いていた。傷口が痒いから。燕のつけた傷口が痒くて、掻いていたから、燕のいないところを探して、屋上にいたのか。
「一月に一回くらいねー、燕ちゃんは人食いに戻っちゃうんだー。その時は僕が変身して押さえつけてるんだーよ」
 そして、後ろを向いたままカッターシャツを着始める。痛まないのだろうか?そんなはずはないが、それでもきちんと両腕を使っている。できれば悪化するから着せてあげると言いたいのに、言えない。
「お薬はあるんだーよ、そういうむらむらした気持ちを抑えてくれる薬ー。でもそれを使い続けると効果が薄れていって、その内効かなくなるんだよねー。しかも燕ちゃんは学校に通いたくて、お医者さんに無理言ってー、普通の二十倍もの量のお薬飲んでるんだよー。だからいつ薬が効かなくなってもおかしくないからー、いつ……」
 言葉が途切れた。シャツの一番上のボタンが閉じにくいらしい。たしかおろしたてのシャツはそうだったような気がする。最後のボタンが閉じると言葉を続ける。
「いつー、人を殺すかわからないんだよねー。燕ちゃんは人が好きだからー、とっても怖いんだー。いつか自分がー、人を食べたい気持ちを抑えられなくなってー」
 こちらを向いた。
「食べちゃうんじゃないかってー」
 それでも、吉宗は笑っている。けれど、それが果たして笑顔なのか、えいねるにはわからなくなってきた。
「でも大丈夫だーよ。いつも、学校の中では僕が彼女の側にいて、最悪にはしないって約束を学校としてるからー、だから、わかってあげて欲しいんだー。怖いかもしれないけれど。燕ちゃんのことー、嫌いでも、お願いだからー、怖がらないであげて欲しいんだーよ」
 そして吉宗は会話を途絶る。途絶ざるを得なかった。
 そしてえいねるは沈黙を破れない。破るべき題材がない。
 その現状をごまかすように、畳みかける。
「頼島さんにー、言ったよねー。損得で友達作るの? って。実は下心があってー、声をかけたんだよねー」
 頭を下げられた。面と向かってそう言われてはどうにも返す言葉がない。というか下心とは口にしない心ではないのか? 頭を上げられる。
「燕ちゃん、あれでも僕達より年上なんだーよ」
「どれくらい」
「あの子、二十一なんだーよ」
 年上!
「見た目は僕達より小さいけーどー、ほんとだーよー。燕ちゃんはこれまで、ずーっと病院に閉じこめられててー、去年やっとお薬をかかさず飲んで、僕がいつも側にいるって条件で学校に行ってもいいって言われたんだー。だから、許してとは言えないかもしれないけどー、とても傲慢なことかもしれないけれどー」
 そして、今度は、もっと深く頭を下げる。
「どうか、何も無かったことにしてあげて欲しいんだーよ」
 それは、つまり。自分を襲ったことを秘密にして置いて欲しく、そのために自分に説明をした、ということなのだろう。詳しい秘密を告げて、島田燕にに同情させるための。それはとても効果的だった。
 こんな話を聞かされて、ノーと言えるほど、えいねるはしっかりものではなかった。だが、それでは矛盾している。自分と燕が出会うよりも先に声をかけてきたのだから、つまり。
「それで、お願いってなんなんですか?」
 再び頭を持ち上げる彼は目線を下にしたまま、今度は細々とした声質で、
「お願いがあるんだーね」
「なんですか?」
 それはいつものような軽い調子ではあったが、しかし重量が違う。
 まさに、頼み事のための台詞。お願い。
「燕ちゃんとお友達になってあげて欲しいんだーね」
 え、と。……あれ?こんな時はどう反応するんだろう。
 お願いは続く。
「あの子は実はとっても寂しがりやさんで恐がりで、僕と会うまでお外にも出れなかったんだーね。今でも、僕に心配かけないようにってたまーに一人で隠れて悩んでいるんだよねー。女の子同士ならー、もっと話もしやすいんじゃないのかなーと思うんだーよ」
「もちろん強制はしないーよ。ヘタしたらー、頼島さん死んじゃうからー」
 軽く言った。けれど、その軽い言葉の意味は、本当なのだった。軽くじゃ済まない事実が、いつも隣にある。それが、吉宗と燕と、そしてえいねるの世界。
 その中で、生きている、彼ら。そのことを考えたとき……えいねるは。
「わかりました」
 そう言っていた。
「ありがとうー」
 今までの人生のなかで、一番重みのある言葉を聞いた。

「じゃあ、送るーよ。僕はまだお仕事があって帰れないけーどー」
 確かに本来ならこんなところで血を流している暇など無い男である。
 そして、本来なら泣いて飛び出してる暇などない彼女のことを思い出す。
「あの、島田さんは?」
「ああ、燕ちゃんなーらー、今日は早退だーねー」
 すでに放課後だがこれからが本番の彼ら生徒会にしてみればそうなのだろう。いやはや仕事熱心である。その時には彼は学ラン(破れたところはえいねるが縫ってあげた)の袖に手を通し、そして。椅子に掛けてあった白いコートを手に取る。
 その左袖には、赤いものがこびりついている。これを着て帰るつもりなのだろうか? という疑問と、そして、彼がそれだけの出血をしていることを思い出す。
「あの、本当に大丈夫なんですか?」
 訊ねずには、いられない。
 吉宗は、決して動じることなく
「だいじょーぶだーよ」
 笑う。
「なんでかわかんないけーどー。頼島さんが手当してくれたらとっても痛くなくなったーよ」
 そんなことを、そんな風に笑顔で言われてえいねるは、いよいよ吉宗に心を奪われていく。
「じゃー、行きましょー」
 差し出された手を、彼女は無意識に掴んでいた。

 坤高校。正門前。
 練習風景。グラウンドをハスキー犬とともにランニングする陸上部部長。購買部で八十円の消しゴムの値引き交渉をしている大阪弁の男子生徒。校庭のすみの枯れた桜の下で演舞をおこなう『姫様』
 下校風景。
 背の高い色黒の男とそんな彼よりも長身でありながら驚くほどの猫背の男。 ポニーテールの女の子とその隣を歩く寝癖の非道い女の子。時計台の下のベンチにたたずむゴシックロリータとフォーマルスーツの妖しい二人組。そんな中に紛れて、二人並んで歩く、吉宗とえいねる。
「あの、聞いてもいいですか?善通寺さんはどうして私を選んだんですか?」
 それは、聞いておきたかった。なんとなく答えはわかっていたが、彼女のこれまでの性格がそれを聞かないでいることはさせなかった。
「そーだねー。やっぱり、頼島さんが獣人だから」
 やっぱり。
 ならこの出会いは、吉宗にとっては都合がよかったということだったのだろう。
 さらに吉宗は続ける。
「あと、強いところとかー」
 思考がが飛んだ。
 強さ?
 自分のどこに強さが?
「それって、どういう意味……」
 最後まで、言わせてくれなかった。

「初めて見た時からー、気になってたんだー」

 その一言に、思考がまた飛ぶ。
 そして吉宗はそれ以上は言わずに、歩き続ける。
 えいねるは彼の顔を、その時初めて、見やる。クマの下の、二つの眼球。これが、金色に光るのか。今は、深い黒を湛えていた。
 校内で二番目に忙しい女。島田燕は校門で、誰かを待っている様子で、そこにいた。おそらくいつも、こうして吉宗が来るのを待っているのだろうな、と思う。
 目を赤く腫らして、けれどその視線はすでに鋭さを戻す。吉宗のとなりにいるおまけを見ているその視線は敵対心丸出し。
「やっほー燕ちゃんー」
 吉宗が近づくと燕は一礼し話し始める。
「善通寺会長、今日はお先に失礼してもよろしいでしょうか」
「いいよー、でも今日はまだ会議が四つ残ってるからー、僕は送っていけそうにないんだよねー」
 するとあからさまに悲しそうな顔をしてくれる燕。
「だからー、頼島さんが送ってあげてくれるそーだよー」
 するとあからさまに迷惑そうな顔をしてくれる燕。
 けれど、ノーと言うだけの理由を燕も持ち合わせてはいないのだった。

 三十分後。
 日も沈み掛けた午後の道。
 灯も浮かび出す夕闇の街。
 燕の後をついてゆくえいねる。
 終始無言の二人組。何か共通の話題でも振りたいところだが、今のところ共通の話題と言えば『ケモノ』のことくらいしかない。さすがにそれを今のシチュエーションで出来るほど度胸のある子ではない。
 沈黙のまま、燕の跡をついて
 しかし何故自分がこうして彼女の跡を歩いているのかがよくわからない。吉宗が一緒に歩くのは登下校中に『その時』を迎えることを危惧くてのことのはずだ。なら、自分が一緒に歩いてもその点での働きは無理なのだけれども。
 つい一時間も前。ああなれば間違いなく今度こそ確実に絶対パックンチョ第一号はえいねるのはずである。
 しかしそうなるとは思えなかった。彼女が本性を思い出したときの恐怖を忘れたつもりはない。けれど、今まで通りに大股で歩く燕の背後には、肩張りを見られなかった。
不思議なことに、えいねるはもう彼女を怖いとは思えなかった。
 哀れとも思えなかった。
 突然止まる燕。ここが家か?しかしここは橋の上である。
 まさか橋の下に住んでいるのか?
「ねえ、なんで着いてくるんですか?」
 違ったようだったが、だから困る。
「え?だって善通寺さんが送ってあげてって言うから」
「だから、どうしてついてくるんですか?」
 つまり、どうして自分と一緒にいて怖くないのか?
あんな目に遭わせたのに。
と言いたいのだ。
 それはその通りなのだが、えいねるにもえいねるの思うところがあるわけで、それが済むまでは帰れない。
「私に何をしたいんですか?」
 燕は、高圧的に言い放つ。おどおどしながらも、えいねるは答える。
「あのね、私謝りたくて」
「え?」
 素直に言ってみた。燕は、何を言っているのかわからないような顔で、えいねるを見上げる。
「さっきは、非道いこと言っちゃったみたいで、ごめんね」
 あまり飾る言葉も知らないえいねるはその程度のことしか言えない。そんな謝らなければならないシチュエーションにも今まで恵まれなかったので思いつく最善の言葉を言ってみたが果たして許してくれるだろうか?
「    」
 それを聞き終わって、しかし燕は無言だった。まあ、確かに許されるとも思ってはいなかったが、一応はけじめである。
 でもやっぱり怖い。
 えいねるは顔を上げ、相手の目を見る。
 燕と目が合った。
「……あれ?」
 その疑問詞はどちらが言ったのか、もしくは同時だったのか。燕とえいねるは同時にそれに気付く。燕の目から、何かが流れていた。
「え、と、島田さん?」
「……え、あ、あ! 見ないで!」
 慌てて顔を隠す燕。急いで走り出す。彼女を追いかけ、腑に落ちないままえいねるも走る。きっとここにあの男がいればこう言っていただろう。
 あーあー、また泣かせちゃったー

 時刻は闇。この季節、日が落ちるのは早い。
「あの。島田さん?」
「何か」
「え、と。私何かまずいこと言った?」
「気にしないでください」
 今も燕は先を行く。えいねるを並ばせない。近づけない。
「私、こんな性格だし、こんな体質だから善通寺会長にお会いできるまで人と話すことができなかったから。誰かに謝られることなんてはじめてだったから、ちょっと。涙腺が緩んだだけです」
 どうやら性格を自覚しているらしい。というよりもそんな発言をされて気にするなと言うのは無理なのだけれども。燕は一度あふれ出した言葉をせき止めることることも出来ず、言いたいことを言い続ける。
「私は先輩みたいに強くありませんから」

 また、それだった。
 強い?自分が?
 果たしてどこに強さが見えるという?
 自分のどこを見て、強さなどある?
 二人は、何を求めているのだろう?
 えいねるにはわからない。
 自分を根底からひっくり返した世界にいながら、それでも頼島えいねるであろうとする。 今、たった今自分に襲いかかった人間に、敬意を持って接し、そして素直に謝れる。
 それは、とても普通なことだ。
 人間であるなら普通なことだ。
 けれど、普通なことを普通にできるということの力を、えいねるは、まだわかっていなかった。

「着きました」
 あれからさらに無言の行進を十分ほど進めて、燕は足を止めた。住宅地の一画。えいねるの目の前に一つの住宅がそびえる。どんな豪邸にすんでいるのかと思ったが、なんのことはない、自分の家と似たり寄ったりの中流家庭。落ち着いた色の壁際にはガーデニングが並んでいる二階建て。屋内からは包丁がまな板をぶつ音。
 ぎぃと音を鳴らせて門を開ける。玄関まで歩み、そして振り返る燕。
 そこには、いつの間にか、鋭い、けれど、それは美しい刃物のような視線。
「頼島先輩」
「はい」
「送ってくださってありがとう。それから……」
 一度うつむき、そして力を込めて声を出す。
「会長から聞いたんだけど……、私の友達に、なってくれるの?」
 すごく不安げな顔を覗かせる。そんな顔をされてノーと言えるほどえいねるは人間をやめていない。
「え、あ、うん。いいよ」
 その返答に燕は頬を赤らめる。 なぜ?
「ではこれで失礼致します、頼島先輩。送っていただきましてありがとうございました」
 手のひらを返したような応答。
「あー、もうちょっと砕けた言い方でいいよ」
「え? でもそれじゃあ失礼に当たります」
 今までのは失礼じゃなかったのか
「好きに呼んでくれたらいいよ。友達になるんでしょ?」
 すると、燕は年相応(果たしてそうなのだろうか?一応相手は二十一なのだが)の顔で、えいねるに今日の別れの挨拶をするのだった。
「さ、さようなら」
 とてつもなくぎこちなく精一杯な様子でそう言った燕がちょっとかわいいと思いかけていた。
「バイバイ」
 その後燕は何故か頬を赤らめる。
「あ、あの、それでは、ま、また明日、えいねる御姉様」
「うん明日ね……」

 あれ? 今何かすごい尾ひれがついてなかった?

「ちょっと、何?最後のおね」
 バタン。
 玄関の戸が開くのと燕が中に飛び込むのと戸が力一杯閉まるのは同時であったかのように思えたが、それどころではない。
「ちょ、何お姉様って何?」
 しかし反応はない。誰も何も言ってくれない。
 え、と。こういうときはどういう反応をすればいいのかな……。うん。

「うわああああああああああん」


 人外カミングアウト、パンダ遭遇に続く下級生に食い殺されるという人生第三の危機をやりすごしたえいねる。しかし彼女の頭上には、なんだか踏み込んだらいけない新世界という第四の危機が迫る今日このごろ。

 何か不穏な人間関係。未だ紡がれぬ物語。
 たどたどしい練習曲(エチュード)にのってチャレンジフルな未来が降ってきそうな、宵のことだった。


6 :akiyuki :2007/11/07(水) 18:10:08 ID:VJsFrmQG

幕間

 
「それで、患者はどうした?」
「鎮痛剤を打ったのですが、全く効果が現れません」
「馬鹿、あの患者が何回運ばれて何回暴れたと思ってるんだ。今更人間用の薬が効くか」
「いえ、獣人用を投与しました」
「そうか、じゃあそれ以上の抑止は無理だ。正直、人間の腕力で抑えきれる相手じゃなかろう。拘束衣と首輪の用意急げ。あと他の患者にいらん影響を与えんように十分注意しろ」
「しかし以前の患者は」
「あのチーター女か、あれは特殊だ。あんな無茶な服用。寿命縮めさせていいわけねえだろ。俺は許容できん」
「先生!」
「今度は何だよ」
「患者さんが!」
「発作がまた始まったのか? くそ、体力が持つのか? あの××人間」
「逃げました」
「とかく今の内に厳重に拘束しろ! 体力を使い切るまで暴れさせて置け。正直、我を失った後じゃあ手がつけられん……。いや、お前、今なんて言った」
「患者さんが、拘束を破壊して、外に……」
 
 

 その場にいた全員が凍りついた。


7 :akiyuki :2007/11/07(水) 18:41:12 ID:VJsFrmQG

ケモノロンド


「え、じゃあお姉様はまだ経験ないのですか?」
「燕ちゃん、そういう言い方はちょっと」
 この世界のどこか。この町のどこか。学校。昼休み。
 この学校の屋上は開け放されてはいるが、誰もそこに立ち寄ろうとはしない。
 人は近寄らない。その空間に拒まれているように、人は立ち入ろうとしない。
 そんな昼休みの屋上、そこに三人の男女がいた。学制服の上から白いコートを着た肩幅の広い男。左手に黒い手袋をはめた三つ編みの鋭い目つきの少女。そして、これと言った特徴もないが、何かこの三人の中で、最も異質な気配を隠した女の子。その三人目から、前者二人への質問。
「それで、その、二人はいつ変身できるようになったの?」
「えーとねー」
「そうですね」
 善通寺吉宗と島田燕、それに頼島えいねるはケモノ人間だった。
「私は十二歳の時です。獣人は大抵第二次性徴と同時に変身を覚えますから」
 そういいながら生徒会副会長、妖怪チーター女の島田燕は自分のペースでカップラーメンをすする。お湯をどこから持ってきたのだろうか? などという疑問もあったがそれよりも
「燕ちゃんー、毎日お昼がカップラーメンだと体に悪いよー」
 ということのほうが彼らには重要らしい。睡眠不足ゆえか目の周りがクマで大変なことになっている男、善通寺吉宗は自身の弁当――何故か重箱の三段重ね――をなんだか物凄いペースで口に運んでいる。
「善通寺さんもあんまり食べ過ぎると体に悪いですよ」
 横から口を挟んだのは右手に特大サンドイッチ、左手にコーヒー牛乳と完全武装の頼島えいねるであったり。特にこれと言った外見上の特徴は無いが、この空間にいることができるというだけで、かなり特殊である。一般的な生徒の一人だったえいねるも、いまや学校の生徒会長と副会長と一緒に昼ごはんを食べる仲になっていた。
「そーかなー」
「そうですよ」
 二人は初めて会話をしたのが二日前。しかし人が深く付き合うのに時間が実はあまりいらないのでは、と思い始めるほどに二人は結構にいい、友人になっている。問題は、えいねるの方がそれ以上の好意を秘めてしまったことなのだが。するとそのカップルに割り込むのは、下級生でありながら年上という島田燕二十一歳。
「そうです。会長も人のこと言えませんよ」
 しかしただの揚げ足取りでは終わらない。
「会長はこの坤高校の頂点に立つお方。つねに健康であっていただかなければ。病欠なんて許されないのですよ」
 生徒会副会長でもある燕は学校での吉宗の活動を全面的にサポートしている。燕は一年。吉宗は三年と学年も違うのだが、校長特命により彼女は生徒会本部役員活動を学校生活の最優先順位に持ってくることを許されているらしく、昼休みも放課後も生徒会活動に従事している。今日はたまたま休みがとれたので三人で食事というわけである。しかしそれでも学業や部活でも手を抜かない辺り燕の実力の片鱗だが、それを補うエネルギー源がカップラーメンだけというのも心もとない。
「燕ちゃん。よかったら半分どう?」
 えいねるは自身のサンドイッチを一枚見せた。燕は大変驚き、どうしていいのかわからないように隣の吉宗と真正面のえいねるの顔を交互に見た。
「か、会長。こういう場合はどうしたらいいのですか?」
「んー、丁重にー断ればー?」
 どうにもぎこちない反応だが、えいねるはもう慣れてしまった。
 燕は吉宗以外の他人と食事をするのが十年ぶりらしい。
「申し訳ありません。本当はいただきたいのですが、私はこれ以上、食べることが出来ないのです。あまり胃にを入れると、食欲が増してしまいますから」
 そうなればどうなるかは、二人とも知っている。

 頼島えいねるは獣人である。
 善通寺吉宗も獣人である。
 そして島田燕も獣人なのだが、そこには大きな差異がある。
 燕は人喰い妖怪チーター女の血を引いていた。
 それゆえ本来は人里に下りることすら出来ない。いつ人を喰うのかわからないから、それゆえ生まれてから二十年。その半分の時間を病院の中で拘束されていた。しかし燕は今は学校に行くことを許可されている。それは抑制剤の完成と、本人の強い意思、食事制限、そして、古くからの知り合いであり、同じくパンダ獣人の息子、善通寺吉宗の助けなどがある。いろいろと重なった幸運のおかげで、今年からこの学校に通う。今ではその『槍手』の異名と共に副会長の座にまでのしあがっている。
 だから、燕はできるだけ噛み千切る必要のある食べ物を口にいれないようにしている。その刺激だけでも影響がでるほどに、この獣人は重症なのだった。
「申し訳ありません」
「そんなことないよ。私こそ気遣えなくてごめんね」
 辛そうな燕の表情。食べるということに問題を抱える燕。そしてその横で重箱の隅をつつく吉宗を少しひどく思ったりもする。たしかに妖怪ではあっても、それでも精一杯生活をしているのだとわかり、えいねるはその後輩(年上ではあるが)をそれなりに愛しく思うようになった。ただ燕が食べられないことに悲しんでいるのではなくえいねるの食べかけが手に入るチャンスを失ったことに悲しんでいるなどという真実を知らないでのこと。

 えいねるは普通を愛している。
 多分、そういうものは二日前に置いてきてしまった。
 けれど、そこに平和はまだある。
「ところで、話がそれましたよね」
 えいねるは流れを元に戻す。
「善通寺さんは、いつ変身できるようになったんですか?」
 卵焼きをほおばりながら吉宗は答える。
「僕は五歳の時だーよー」
 口の物が入っているのに、物凄く滑舌がいい。ポケットから何かのカードを取り出した。それは運転免許証のような、身分証名称の類であるらしく、吉宗の顔写真といくつかの個人情報。そして、以下のことが書かれていた。
 
 日本国冥府 獣人種001477 善通寺吉宗 猫熊+(h)

 せめて髪くらいといてから写真に写ればいいのに、というのが感想だった。
「これは?」
「僕の身分証名称ー。燕ちゃんもー持ってるよー」
 そうすると燕も二枚カードを取り出した。
 一枚は吉宗と同じで、ナンバーが000945。やはり年上だと登録も速い。チーター+と書かれているが……+って何なのだろう。血液型?
 もう一枚は、どうやら保険証らしい。妖怪だと通院するのにもいろいろと手続きが必要らしい。
「多分頼島さんも持ってるはずだーよー」
 そうは言われても持っていない。自分の持つ身分証名証は学生証とスーパーまるいちの会員証、あとはCDショップのメンバーズカードくらいで。
 何しろ自分の正体さえ知らなかった。
「お姉様」
 えいねるのことである。何故かそう呼ばれるが、もう慣れてしまっている。
「まだ変身していないから使わないかもしれませんが変身後は何かと入り用ですから今のうちに登録をなされていたほうがいいですよ」
「でもどこで発行してもらえるの?」
「登録証は市役所で。保険証は……保健所です」
 随分と現実的なような、幻想的な会話だった。
「ところでこの日本国冥府ってなんですか?」
 二人が凍る。
「あの、どうしたんですか?」
 燕は怯え、吉宗は沈黙する。
「私、まずいこときいちゃった?」
 答えてくれない。それでも、ゆっくりと、口を開いてくれる。
「そうですよね、お姉様は自分の正体知らなかったんだからご存知ないですよね。私達は妖怪ですから、住んでるって言っても市民権なんてないんです。普通の人間にまぎれて生活しないといけません。だから、犯罪を犯した人でないものを捕まえたり、ひどい時には殺すこともある組織があるんです。本当に恐ろしい奴らです。私を閉じ込めていたのも、そいつらです」
 すると、吉宗が口を挟む。
「まー、警察みたいなものだーねー。普通に生活してる僕たちのことなーらー、守ってくれるーよー」
「そんなもの、表向きだけですよ。人間の組織なんです。いざとなれば、私達を切り捨てることなんて、なんとも思ってない」
「それはー燕ちゃんのー偏見だーよー」
「そうだとしても、嫌いです」
 それは、何か憎しみではない、もっと、何か悲しい感情を含む言葉だった。
 あれほど、辛そうな顔を見たことはなかった。
「でも、例え嫌いーでーも、なくちゃいけないーものだーよねー」
 自分の大事な人が、自分の嫌う者を弁護する。それは、とても辛いことだろう。
「会長は、あいつらが憎くないのですか」
 吉宗の二の腕をがっしと掴み、ケモノは吼えた。
 それでも吉宗は動じない。
 険悪なムードを感じ取ったえいねる。なんとかして話題を変えなくては。
「あれ、そういえば善通寺さん。腕の怪我大丈夫ですか?」
 二の腕を怪我した吉宗。しかし言った後で後悔する。その怪我をさせたのが、燕だった。しかも、彼女は今その怪我をさせたところをぎゅっと掴んでいる。
「も、申し訳ありません」
 あわてて離れる副会長。けれど吉宗は、何も言わない。ただえいねるに向かって
「うんー。頼島さんが手当てしてくれたからー、治っちゃったよー」
 そんなはずはない。それは単に吉宗の体質。人間ではないことの証明。しかし今となってはそれも素直に喜べる。
「そうですか」
 少しずつそちら側に近付いているのだ。
 笑みを携えていると吉宗は思い出したように懐から懐中時計を取り出す。
「あー、そろそろ時間だーねー」
 昼休みも、もう終わる。立ち上がる白いコートの男。
「それじゃーあ、頼島さん、ありがとー。次に時間が取れるのはいつかわかんないけーど、また三人でご飯食べましょーお」
 そうして屋上を去る。

 取り残される。しかし横には従者が一人。
「あの、燕ちゃん?いかなくていいの?」
 何も言わない。
「あ、あの。私、その人がどういう人なのか知らないけれど、燕ちゃんがその人たちをどれだけ嫌ってるのかも知らないけれど」 
「別に怨んではいません。もしそういう組織がなければ私は人を喰っていました。少なくとも彼らは私を守るために、隔離してくれたのだと思っています」
 意外な言葉。
「なら、どうして」
「お姉様。会長は五歳で変身したって言いましたよね」
 切り出された。思わず顔を見やる。彼女のそれほど沈んだ顔も見たことがなかった。
「うん、それが、何か問題なの?」
 確かに、早すぎるとは思った。父や母の言や燕の証言から、少なくとも一桁の年齢で変身するモノではないらしいのだ。現に十八になってもまだ兆しも見えない女が一人。
「会長は五歳のとき、お母さんを処分されてるんです。会長のお母さんが、人を傷つけたから。会長はそのショックで変身が始まりました」
 えいねるは、何も言えなかった。
「でも、会長は憎もうとはしないんです。私は、それが辛いんです」
 えいねるは、何も言えなかった。


 放課後。
 なんだかこのごろ授業に集中できない。
 気がついたら放課後になる。せっかくの学園物なのだからもうちょっとパターンを増やすなりすべきだが、えいねるは子どもだからよくわからない。とにかく、突っ伏して何も考えたくなかった。
「随分と、青春的状況にありますね」
顔を上げると、あの色黒の大男が自分を見ていた。
「あれ? 国定くんは今日は部活はいかないんだね」
「ええ、たまにはいつもと違うことしてみようと思いまして、さぼっちゃいました」
「いいなあ。そんな気分になれて。私はこの頃違うことばっかで疲れてるよ」
「善通寺さんと島田さんのことですか?」
 飛び起きた。
「知ってるの?」
「頼島さんの新しいお友達ということくらいしか存じ上げません」
「……そっか」
「だから、何を悩んでるのか知りませんし、アドバイスもできません。ただ一言。先延ばしもたまにはいいと思いますよ」
 そう言って友人は教室から出て行った。
 正直、それもいいかもと思った。

帰り道。あの後燕に言われたことを思い出していた。
「あの、お姉様。私、この前お姉様を襲いましたよね」
 なかなかになかなかな質問であるが、もう、それさえもえいねるは普通であるかのように答えてしまう。
「うん、そうだったね。でも私もう怒ってないよ」
「そうじゃないんです。いえそれもあるんですけど」
 それほど深刻な顔というのも、初めて見たような気がする。そして、次に継げた言葉。
「私、お姉さまの背中を、裂きましたよね?」
 裂く。それは切るでもなければ、斬るでもなく、裂く。己の爪を、力のままにえいねるの背中に叩きつける。
「あ」
 そういえば、そうだった。チーターは人を襲わないという話は聞いたことがあったが、チーター女は思いっきり襲い掛かってきてくれたのだった。
「うん、そうだったね」
 けれども、今日、自分に話しかける内容にしては……あまり意味がないような気がする。燕が、何を言いあぐねているのかがわからない。
 燕は言う。
「お姉様、何で死んでないのですか?」
 え? なんですって?
「だって考えてください。あの時私は間違いなくお姉さまの背中を裂きました。その後善通寺会長が庇ってくださってそちらの怪我の快方やお姉さまが私を友として扱ってくださったりとかをしていたから忘れそうでしたけど、何でですか? 善通寺会長だって、咬まれたら痛いのですよ? なのにお姉さまは何故痛むそぶりも見せなかったのですか?」
 
 言われて、気付いた。
 背中に手をやる。
 何も、違和感の無い背中。
 そういえばこの二日。何度も服を脱いだ。普通に動いていた。
 私は、あの時、怪我をしていたはずなのに。
 燕はえいねるのとまどいに気付けず、うつむき己の不安を吐露するので精一杯であった
「もしかして、私に気を使って痛くない振りをしているのではないかと、不安なのです。お姉様、お体は大丈夫なのですか? もし、お姉さまがよければですが。この先に妖怪専門の診療所があるのですが……。あの、お姉様、お姉様?」
 言われて気付いた。
 えいねるはわかる。今、自分の背中には傷は無い。しかし、二日前はあった。襲われた直後には、確かにあった流血が。どこへ?
「あの、お姉様?」
「え、ああ、ごめん。何の話だっけ。おいしい豚の角煮の作り方? 違う? あ、そっか。私の背中の傷だよね」
 え、と。こういうときはどういう反応をすればいいのだろう。
「なんだか治っちゃった」
 燕は反応しない。いや、驚いているのだ。驚きすぎて、反応が出来ない。
 あれ? そこは疑問文を返すところでは?『治るわけないですよ』とか。
 しかし、燕の答えは、もっと確信をついていた。
「お姉様、もしかして一晩寝たら治ってた、とか」
「うん、まあそんなところ」
 本当は、傷を受けた瞬間に、治っていたのだろうけれど。そして、その質問に答えたとき、燕の額から汗が流れ落ちた。
 あきらかに自分を見る眼が代わっている。それは、恭しい、目線。
「お姉様、本当に変身したことはないのですか?」
 なんだか嫌な予感がしてきた。
「うん」
「変身しないで、それだけの生命力をお持ちなのですか。一体、お姉様は何の化身なのですか」
それだけは言えない。そして、燕は一番言って欲しくないことを言った。
「お姉様は、普通のケモノ人間ではないのですか?」


 母の言を思い出す。
 どのような変異を起こすかわからないの
 変異。
 怪我は、消えた。そして、思い出す。
「頼島さんにー、手当てしてもらったらー、治っちゃったー」
 あれは、世辞では、なかったのだろうか。
 何か、自分は、何かが違うのだろうか。
 それ以上は、燕も言わない。何も、言わない。
 そして、分かれ道。見送り、主人公は帰途に着く。
 何かが、変わっている。
 自分の中で、確かに。
 自分の外も、微かに。
 あの日、母と父に秘密を聞かされた夜にどうかなってしまうはずだったものが、今現れた。そんな感じだ。
 夕暮れ、ふと空を見上げるとうっすらと月がこちらを見つめていた。
「ふぐう」
 ため息。
 どこまでも遠く、どこまでも白い月の下。
 まだ、日も落ちぬ赤く染まった帰り道。
 えいねるは思う。自分は、何者なのだろう、と。


「ぐぐ」
 と、変な声がして現実に緊急回帰。辺りを見回す。
 道端に、誰かがうずくまっている。
「あの、どうしたんですか?」
 言った後に驚く。自分に、そんなことができたなんて。困っている人に声をかける度胸なんて、自分には無かったはずなのに……しかし体が勝手に動く。意識する前にかけより、もう一度声をかけていた。
 そして顔を覗き込み、後悔する。
 皮膚を露出させないための服装。頭蓋もだぼだぼのフードで覆っている。
 その内側にあるものを、えいねるは覗き込む。
 彼は緑色の皮膚をしていた。爬虫類の質感のトカゲの肌。
 そして、金色の、ケモノの眼がえいねるを映す。

 もう、ウマシカ女はトカゲ人間を見た程度では驚かない。
「あ、大丈夫です。私も『そっち』系の人間ですから怪しい人じゃないですよ」
「よこせ」
 へ? 何を?
「よこせ、って何を?」
 間抜けな質問。もちろん答えてくれない。代わりに男は立ち上がる。えいねるより、少し高い身長の彼は、何か虚ろな眼でえいねるをねめつける。
「あの、大丈夫ですか?」
 だが、大丈夫には到底見えない。
 その眼を、どこかで見たような気がした。
「あの」
「よこせ」
 しかし何を言っているのかわからない。
「 をよこせ」
 何かを言った。
 聞き取ろうと顔を近づける。
 そして、その眼を間近で見たとき、思い出した。
 それは、自分を殺そうとしたときの燕の、人喰いの獣人の目だった。
「血を、よこせ」
 え、と。こういうときはどういう反応をしたらいいのかな。……うん。

「う、うわあああ、むぐっ!」
 しかし泣き叫ぶ暇も逃げ出す余裕もなく、トカゲはすでに距離を縮めている。
 すでに、彼女は彼に捕まっている。恐怖よりも前にえいねるはなんとなく理解した。
 この瞬間だと。
 この瞬間。自分の人生から普通も、平和も、安心も、何もかもを奪う奇妙。自分の人生を変えてしまう奇妙。それが来たのだと。
 トカゲのあぎとが開く。えいねるはそれを見やり、これから自分が何をされるのか知った。今度は、助けを期待できそうに無い。
 どこまでも遠く、どこまでも白い月の下。誰も踊らぬ円舞曲(ロンド)
 えいねるの姿は、消えた


8 :akiyuki :2007/11/08(木) 19:58:58 ID:VJsFrmQG

ケモノカノン




 真夜中、日付が変わってしまった時刻。
 普段なら日が暮れる前に帰宅するえいねるが月が昇っても帰ってくることは無かった。それだけなら、まだこれほどの問題にはならなかった。まかりなりにも人ではないえいねるに、夜が危険なはずが無いから。妖怪なら、それくらい通過儀礼で済む程度の、問題だった。
 問題は、ちょうどその時この町の病院から一人の人外が逃げ出したという不運。
 それは人喰いの症状を抱えるケモノ。それだけでなく、同属、つまりはケモノ人間さえその歯牙にかけるという状況に陥った患者が一人、逃げ出してしまったということ。事件発生から八時間。ようやくこの町には獣人の外出禁止令がでる。
 そして、逃亡したトカゲ人間、朝倉孝太郎には保護もしくは緊急時処断許可が降りた。


「ふみくん放して。私が行く!」
「落ち着くんだなっちゃん」
 その状況を言葉にするなら、そこは小さな家。その玄関に立つ二人の男女。病人が着る様な薄手の浴衣に半纏を羽織る、金色の眼をした女性。彼女が外に飛び出そうというのをまだ職場から帰って着替えてもいないのだろう、スーツのままの男が引き止める、そういう形だった。
「お願い、私が、えいねを迎えに行くから!」
「駄目だ。なっちゃんはもう変身できる体じゃないだろう」
 頼島(よりしま)二三彦(ふみひこ)頼島(よりしま)那津(なつ)は獣人である。それぞれが妖怪馬男と鹿女。本来なら結ばれることの許されない二人。多くの犠牲と一族からの迫害に耐え、逃げ延び、そしてこの町でやっと、二人の娘を持つことができ、身の安全を保障された。いまだ変身の兆しは見えないが自分たちの血を引く娘たちを見守り、やっと幸せをかみ締めていた。そんな彼らの娘、頼島えいねるがケモノ喰いの隠れた町で行方不明に。
 母親がパニックに陥っても、それは誰にも文句の言いようが無い。彼女を止める資格があるのはただ一人。
「なっちゃん。落ち着きなさい」
 夫である二三彦は必死に、できるだけ力を加えないようにして妻の体を掴む。
 かつて、えいねるが生まれたばかりだったころ、多くの獣人が掟のために二人の娘を殺そうとした。違う種の血が混じることを恐れたケモノたちから子どもを守るため那津は戦い続け、血を流し続けた。その時の傷が原因で彼女はいつも床に臥せっている。普段はえいねるが家事の一切を引き受けているように、もう変身どころか動くことさえ満足にいかない体なのである。
 それでもよろめきながら、必死に動こうとする妻を二三彦は放さない。
「でも、だって、えいねが。あの子にもしも何かあったら」
 普段からは考えられないほどにうろたえている彼女に、男はやさしく声をかける。
「大丈夫だよ、俺たちだって、昔はよく夜に飛び出していただろう。今日は奇麗な月だから、変身しただけかもしれないよ、さあ、体に障るから、早く家に入ろう」
 イヤイヤというように首を振る那津。
「今のこの町に治安なんて考えられないよ。誰か、誰かが助けに行ってあげなくちゃ……ごほっ!」
 突然彼女は口元を押さえてうずくまる。本当は、この時間まで起きていることさえ無理なほど彼女は衰弱しているのだ。那津の眼は妖光を失い、膝の力が抜け体が引力に崩れ落ちる。男はすべてわかっているように彼女の脇に手を通す。
「なっちゃん、無理をしてはいけない。君はもう何かをできる体じゃないんだ」
 果たして、それを正面からいうことは、優しいといえることなのだろうか。それはわからない。わかることは、この二人が真摯に、本当のことを言うことができる関係なのだということ。
「ふみくん」
「なんだい」
 咳き込みが止まり落ち着いた彼女の、最後の声。
「悔しいよ、私、どうしてこんな体なんだろう。どうして、えいねをケモノにしか産めなかったんだろう」
 二三彦の掴む力が、増した。
「ごめんなさい」
 頼島那津は、自分を後ろから抱きしめてくれている夫のぬくもりの中で肺の痛みが引いていくのを待っていた。
「そこでいちゃついている父者、母者」
 ふと振り返ると、玄関。開いた戸からこちらを覗いている人物が一人。えいねるをそのまま小さくしたような顔立ちの、やはり金色の眼をした、少女。
 次女、頼島つむぎである。
「つむぎ、もう遅いから寝なさい」
 母を抱きしめながら言われても困る台詞。
「えい姉はまだ帰らないのですか」
 沈黙してしまう両親の反応から、現在の状況を読み取るつむぎ。そしてまたため息。
「困りましたね、せっかくえい姉の彼氏さんらしき人から電話が来ているというのに」


 頼島えいねるは、それなりに強い。目の前に危機が迫った時、心がひるむような女ではなかった。叫ぶくらいの、度胸はあった。
 えいねるは叫ぼうと思えば叫べたはずで、けどそれをしなかった。
 無論叫んだところで何かが変わるというような状況でもなかったかもしれない。
 けれど、その意思表示をえいねるは否定した。その意味合いを拒絶した。
 助けを呼ぶという行為は、善通寺吉宗に頼るのはイヤだった。
 彼のことを嫌っているのではない。むしろ、彼に出会ってまだそれなりの時間も経っていないのに、彼のあのぼさぼさの髪、死んだ魚のような眼、とろくさい声を思い出すたびになにか心の中にむず痒いものが生まれる。あの、この季節に白いコートを愛用するような変人を、好きになっていた。
 だからこそ、ただ、頼りっぱなしなのは、嫌だった。並んで、歩きたかった。どこをどうしてその結論に至ったのか理由はわからない。自分のような弱さと凡才しかない女がどうして吉宗とつりあうのか、一体自分が何をしたいのか、自分でもわからない。けれど、ただ一つはっきりしているのは、もう、奇妙は隠れたりしていないということ。目覚めた奇妙は、えいねると共にある。
 気がつくと、えいねるはどこかに横たわっていた。夜なのであろう、眼を開けても閉じてもそう大差はなく、その気温からどうも屋外にいることはわかる。灯りもかなり遠くのほうにしか見えずまったくの無明。
 起床。
 上体だけを起こすと、おなかの辺りにジャンパーをかけている。うん、今の季節まだまだ寒いからね。そして問題なのはそれは彼女の服ではないということと、そのジャンパーの持ち主らしい、不審男性がこちらを見ていて目が合ってしまったということ。そしてその不審男性というのが気を失う前(外の暗さからおそらく二時間以上気を失っているとえいねるは推測したが、実際は八時間が経っている。そういう勘が鈍い)に自分を襲っていた、トカゲ人間だということ。うん。

 ぴーんち

「うわあああああああああああん」
「あ、眼が覚めたでやんすね」
 ……あれ?
 なんだか予想と異なった反応に戸惑い咆哮を中止する。その停滞のままあたりを見回してみると、そこはどこか町内にあるような倉庫の中だった。穴の開いた天上からは星と月が見え隠れし、壁のはがれた側面からは夜の冷気が流れ込む古倉庫。頭がぼうっとしてよく事態が飲めこめないでいるが、どうやら自分は生きている。そしてどうも、なんだか気のせいかもしれないが、目の前の『彼』は
「気を失ったまま倒れちゃったから心配したでやんすよ」
 気を失った自分を介抱していたのだろうか?
 闇の中の『彼』を凝視する。次第に慣れてきた眼は『彼』をしっかりと捉える。皮膚を他人に見せないように露出度の限りなく低いパーカー。フードと野球帽が顔を隠す。しかしその姿をえいねるは一度確認していた。その頬、額、いたるところに生えた鱗。緑色一色の皮膚。それは、さっきの、間違いなく自分に命を要求した、
「突然気を失われたから驚いたでやんすよ。あ、あっしの名前は朝倉(あさくら)孝太郎(こうたろう)と申しやす」
 金色の眼をした男。
「見た目どおりのトカゲ人間でやんす」
 フードをあげて正体を見せる。っていうかキャラ変わってる。まだ理解が追いついていないえいねるのことなどスルーして
「あ、どうぞ、粗茶でやんすが」
 缶のお茶が渡された。
「あ、どうも」
 つい受け取る。飲む。

 間。

「って、あの。聞きたいことがあるのですが」
「あっしも聞きたいことあるでやんす」

 そして、間。

「あ、先にどうぞ」
「いえいえ、お嬢さんこそお先にどうぞ」
 先手を相手に譲り合う。どこか似たような性格の二人、根負けしたえいねるが先に質問を開始する。
「では。あの、すいません。これどういう状況なんですか?」
「それですか、実は。あっしがお嬢さんを襲ったんですでやんす」
 簡潔な内容。いや、そーなんだろうけどさ。
「あの、どうして私を?」
「はい。実はあっしは……あっしは」
 どうも言われたら困るところをピンポイント。言いあぐねているらしい。思ったよりも冷静でいられたえいねるは少し聞いてみた。
「もしかして、人喰いですか?」
 きょとんとしてえいねるを見つめる朝倉。
「あの、お嬢さん、どうしてそれを……」
 お茶を一口。
「私のお友達にも一人そういう人がいるんです」
 ぶっちゃけるとつい先日も襲われたところである。
「お嬢さん、もしやお嬢さんもケモノ人間なんでやんすか?」
 頷く。すると「どっひゃあ」と有り得ないリアクションを返してくれた後孝太郎はえいねるを見やり、何かを確信したように頷く。どうやらこの男には、自分にはわからない人間で無いものの何かがわかるのだろう。
「しかしケモノでありながら人喰いを前にしてその態度。そこまで肝が据わっているとは、きっと名のあるケモノのお方なのでしょうねえ」
 感服している。そういえば母が言っていた。荒獅子の那津といえばいまでも震える獣人も多いとのこと。
 しかしそんな物騒な家族紹介はしたくない。
「一体何のケモノなのでやんすか?」
 そうこうしていると一番聞かれたくない質問にシフト。
 今度こそぴーんち。
 この状況でも恥も臆面も気にする花の十七歳。
 がんばれ、がんばれえいねる。どうにかしてこの話題を切り替えるのよ。
「その、朝倉、さん?」
「はい、何でやんすか?」
「どうして、私が襲われたのはわかりました。でもどうして私無事なんですか?」
 自分を抑えることができないケモノ人間 人喰い
 意思の問題ではなく、恣意の本能に突き動かされて誰でも裂き刻もうとする、病。さっきは助けてくれる人もいなかったのに、どうして自分は無事なのか。
「それが、あっしもわからないでやんすよ。確か、あっしはこのごろ人喰い特有の禁断症状に悩まされて、病院で精密検査のために入院していたでやんす。いつものように睡眠薬を飲みまして、でも、その日の薬はなんか変で、体に力が入らなくなって、そうしたら別の誰かがあっしの体に乗り移ってきたみたいに思惟とは関係なく暴れだして、それが、気がついたら外に飛び出していて、変な黒い半纏着た人たちに追われたり、そうしたら、、また暴れて、意識を失ってそしたら気がついたら蹲ってて、声をかけてくれたお嬢さんに、襲い掛かってしまって。でも、でもかじろうとする前に体に力が戻ってきて、なんとか自制できたでやんす。無事だったからいいものの、お嬢さんには本当に申し訳ないことをしたでやんす」
 どうにもつじつまのわからない説明をうけたが、大体のことは経験上わかった。
 えいねるのわかる範囲と想像だが、この朝倉孝太郎というのは、あのチーター女島田燕よりも、重症なのではないかということ。
 あと、そんなに悪い人ではなさそうだということ。
「お嬢さん、申し訳ないでやんす」
「そ、そんな誤らないでください、別に私怒ってないですよ……ってそんなにおでこ地面にこすりつけなくていいですから。だからそんなぐりぐりしたら汚れますよ、ってコンクリートから煙でてますから、ちょっと、待って、待ってってばー」
「すんませんっしたあ!」
 今までにないキャラクターにちょっと戸惑う。
 けれど、えいねるは気付いていない。それを受け入れてしまっていることも、そして、人喰いという存在に対して、恐怖を感じなくなっていることに。
「あの、お嬢さん、聞いてよろしいでやんすか?」
 突然顔をあげる孝太郎。少しびくつきながら顔を見る。
「はい、なんですか?」
「どうして平気なんでやんすか? 一応、お嬢さんの命を狙ったやつでやんすよ?」
 えいねるは笑顔で言った。
「危機には慣れてますから」
 孝太郎はあっけにとられているだけだった。そんな孝太郎の姿を見つめて、さっきから孝太郎が左の二の腕を握り抑えているのに気付く。本人は無意識だったのか、えいねるの視線でそれに気付く。
「あの、朝倉さん、もしかして腕、怪我してるんですか? そういえば、さっき追われているって言ってましたもんね。痛みますか? あの、よかったら見せてください。あ、平気です血には慣れてますし、大丈夫です。実は私、怪我を治すの上手みたいですから。あ、心配しないでください。仕返しに傷口に塩塗りこむようなマネはしませんから」
 こんなにわたしは愛想がよかったのだろうか、との疑問を持ちながら、えいねるは治療の準備を始めていた。

「私のせいです」
「そんなことないと思うーよー」
 夜。月の出る夜。
 夜の冷気と闇の霊気が交錯する、坤高校屋上。
 まだ日が落ちた後は冷える季節。人がいるには問題のある時刻。
 二つの影が浮かんでいた。
 一つは白地に襟や袖が黒く修飾されたセーラー服、プリーツスカートの下にスパッツ、そしてスニーカーと走り回れる程度の服装の少女。年はいまだ十五を回っているのかと思うほどに、幼い。しかしその眼鏡の下の視線はあきらかに、人間が持つべきでない光を放っている。胸元の白いスカーフが風にたなびく。
 もう一つは標準的な学生服、その上から特徴的な白いコート。身長の割に肩幅は広く鍛えている体格なのは見て取れる。代わりにぼさぼさの髪の下には不健康そうな顔が覗く。穏やかな、この夜にはどこか似つかわしくない表情で、少女と並んで立つ青年。
「私が内密にしていたばかりに逆に注意がいかず、お姉様は死にました」
「死んだとは限らないーよー、僕はまだ無事だと思うーけーどねー」
 彼女たちは島田燕と善通寺吉宗という。
 燕の話を聞き何か不安になった吉宗は頼島宅に電話をしてみた。すると『私は頼島えいねるの妹の頼島つむぎですが、えい姉の帰りはまだ確認できていません』との返答。それが頼島えいねるが人喰いのいる町に一人っきりになってから八時間以上経っての言葉。
「会長、私はそこまで楽観的になることはできません私は人喰いというものを知っています。『私たち』には情けは通用しません。力の限り暴れることしか考えず、自分の感覚を満たすことしか考えられない、醜い化け物です」
「燕ちゃーんー、自分のことを、そんなに悪く言わないで欲しいーよー」
「会長、私は仇を討ちに行きます」
「落ち着いてー、もうお薬の時間だーよ」
 吉宗は足元のかばんを広げる。中には錠剤やら粉薬やら怪しい色をした緑色の液体やらがたくさん入っている。
 これは今日の分の薬である。『末期症状』である燕に理性を保たせる最後の防衛線。
「まずはこれ飲んで落ち着こー」
 次に暴走を始めれば命が無いチーター女。なんとかして彼女を静めなければならない。理知的なようでいて心底純粋な彼女を引き止める義務が彼にはある。
「落ち着けるわけないじゃないですか。やっとお友達になれたと思ったのに、その人を自分のせいで死なせたかも知れないんですよ? そんなこと」
 はっきりと、首を横に振る。
「どーしてー死んでるってわかるのー? 頼島さんに死んでいて欲しいのー?」
「そんなわけ無いですよ。私はただ現実的な話をしているだけです。例えば刃物をもった暴漢がいるのがわかってる町で女の子が帰ってこない。なんで多分無事だなんて思えるんですか? 私は、思えません」
 吉宗にそれが少し飛躍しすぎているようにも思えた。だが、何故そこまで恐れるのかよくわかる。燕はその女の子が、えいねるが好きだから怖くて怖くて、パニックに陥っている。
 もう、今は殺意につながる思考しかできない。
「善通寺会長」
 少女は吉宗のほうを向く。
「私にとって、お姉さまは本当に大事な方です」
 金色の眼を光らせて。
「会長と同じくらい大事な人です。だから、お姉様がいなくなってしまったなら、私は、私は」
 少女は青年に微笑みかけ、

「私からお姉様を奪おうとする奴を、殺してやるんです」

 屋上から飛び降りた。
「駄目だよー燕ちゃんー!」
 しかし、もう遅い。すでに夜の街に向かって消えてゆく一匹の動物の姿がちらりと見えただけだった。
 吉宗は手に握る薬ビンを見る。
 暴走を抑える抑制剤も、変身を抑える鎮静剤も、滋養剤も、抗生物質も何もかもを摂取しないまま自分から逃げるように消えてしまった。
「まずいーねー」
 吉宗は、誰もいない屋上で、とてもとても悲しそうな顔をしてこれから先のことを考えていた。今から自分がとるべき行動。それを考えながら、涙があふれていた。
 それが何を想っての涙なのかは、今はわからなかったが。


「でも不思議でやんすねー、お嬢さんが手当てしてくださったら痛みが引いたでやんす。もしかしてお嬢さんって人間の看護学校とかに通ってるでやんすか?」
「いいえ、普通の、まあ、あんまり生徒が普通じゃないんですけど、普通科に通ってます」
「へえ、でも学生なんて憧れるでやんす」
「あの、学校には行ってないのですか?」
 あれからまじまじと顔を見るが、どうもこの孝太郎、自分と同い年くらいだ。しかし妖怪の見た目と中身は比例関係というわけでもないらしい(何しろ自分より明らかに年下な顔で二十一歳の猛者がいる)
「だって、こんな顔でやんすよ」
 爬虫類の顔を笑って指差す。
「変身を解けないのですか?」
「変身? またまた御冗談を。あっしらトカゲ男は大抵そんな姿をいくつも持ってないでやんすよ」
 そこでやっとそのことに思い至る。
 これまで出会った獣人。吉宗や燕、それに父に母ついでに自分は皆人間の姿とケモノの姿を併せ持っていた。
 彼女の常識にとって、ケモノ人間は獣と元の姿の両方を持っているはずだった。しかし、ここにその常識の範疇を超えているのが一人。そう、朝倉孝太郎は人の形をしていながらその性質はトカゲ、両種の中間のような存在なのだ。
「変身人間にもピンからキリまでいるでやんすからねえ。あっしらはケモノですらない、トカゲ人間。ずっとこんな顔でやんす」
「いつも?」
「ええ、いつもこんな格好でやんすよー。だからホント、人前とかでれなくて困っているでやんす」
 今度はえいねるが謝る番。
「ごめんなさい。私何も知らなくて、そんな失礼なこと聞いてしまって」
「はっはっは。そんなこと気にしないでやんす」
 孝太郎は、優しい。そう彼女の知っている中で、一番優しい人間と同じくらい。 
「それよりも、本当にいいんでやんすか? お嬢さんにはあっしを嫌う権利もあるんでやんすよ」
「わざわざ嫌う必要の無い人を嫌うつもりはありません」
 それは、孝太郎がえいねるに対して行ったことを不問にするという話だった。孝太郎はただ逃げただけで、何もせず、自力で病院に行き保護される。そういうことにしようという話。えいねるは襲われたことは襲われたし無傷だから、別にいいと思った。もしかしたら家族が泣きながら警察に電話してるかもしれないが、逆に夜遊びの一つくらいできて一人前とか言ってくれるんじゃないかと希望的観測も持っていたりするぐらいである。まさか、自分を中心に恐ろしいことになるなんて思ってもいない。

 そうして現在、倉庫前で旅支度を整えた(と言ってもジャンパー着ただけだが)孝太郎とえいねるが立つ。
「お嬢さん、色々とご迷惑をおかけしました。場所わかりますか?」
「ええ、まあ無理だったら電話して組織の人にでも迎えに来てもらいやす。あ、そういえば追われてたんでやんした」
「警察みたいなものなんでしょう? 話せばわかってくれますよ」
「ま、それもそうでやんすね」
 随分とあっさりふっきった。そしていよいよ旅立つ孝太郎は、もう一度えいねるに頭を下げる。
「お嬢さん、色々と親身になってくださって、本当に……」
 えいねるは笑顔で答える。
「困ったときにはお互い様ですよ」
 しかし孝太郎はこっちを見ていない。あれ? 無視?
「朝倉さん?」
 ……。

 孝太郎は、どこか違う方向を睨んでいた。
「誰でやんすか……?」
 勝手に独り言をつぶやく孝太郎に付き合う形で、えいねるも首を回し孝太郎と視線を平行させる。彼が見つめる物を、一緒に凝視してみる。
 いた。
 そう、そこには何かが立っていた。
 正確にはえいねるは、その姿を知っていた。
 けれど、えいねるはそんなものは知らない。
 けれど、えいねるはあんな禍々しいものは知らなかった。
 いた。
 振り乱した髪は黄色地に黒縁。裂き易く伸びた爪。人間のそれと骨格から作りが変わってしまっている牙。
 そして、生物のものとは思えぬ、金色に発光する両眼。
「……燕ちゃん」
 妖怪チーター女は、朝倉孝太郎の姿だけを視界に入れていた。えいねるの姿は、もう入らない。
「ミツケタ」
 そんなおぞましい声が
「コロス」
 燕の口から放たれるなんて信じたくなかった。
「お嬢さん、逃げろ!」
 男はそれだけを叫ぶとジャンパーを脱ぎなげる。露出する腕や頭が見える。一面びっしりと生えた鱗が威嚇するよう立つ。鋭い爪、そして、しゃー、という威嚇声。
「あ、あの、朝倉さん、燕ちゃん?」
 二人めがけて、ケモノが疾走する。
「コロス」
 いつしかその生物は前傾姿勢で走り出す。
 いつしかその生物は腕を目の前で構え、突撃を開始する。
 一匹の肉食動物が一匹の肉食動物に飛び掛る。
「危ない!」
 えいねるは叫ぶ。しかしそれくらい彼もわかっており、トカゲ人間は、その膂力を発揮して飛び掛る少女を地面に叩きつけた。
「燕ちゃん!」
「お嬢さん、逃げろ!! この子は正気を失っている」
 飛び起き暴れようとする燕を必死で押さえつけながら、こっちに訴えかける孝太郎は、続ける。
「早くこっから逃げるんでやんす。あっしも、いつまで自分を保っていられるかわからない。お嬢さんだけでも、こっから逃げるんで……」
 最後まで言う前に、孝太郎の腕を取り払った燕の牙が、首を捉えていた。

 ざくり

 前にも聞いたことのある音。
「が――」
「朝倉さん!」
「逃げ、ろ」
 それでも、彼がしたのは、彼女の心配。
「コロス」
 それでも、彼女が発したのは殺意の具現。
「ああっ!」
 最悪がどこまでも追いかける追走曲(カノン)

 朝倉孝太郎の血飛沫は、赤かった。


9 :akiyuki :2007/11/11(日) 16:08:48 ID:VJsFrmQG

ケモノコラール



 半獣半人。
 孝太郎も燕も、そう表現するしかなかった。
 鱗の生えた緑の皮膚の男。あれほど笑顔の似合っていた孝太郎が、血飛沫をあげて、鳴いている。
 爪と牙の鋭い、豹斑の髪の少女。あの理性の塊のような燕が、他人の身体に牙を刺す。
 獣が争うように、取っ組み合い、殴り合い、切り裂き合い、血を流し合う。違う、これは獣ではない。獣の戦い方でもない。
 これは、殺し合いだ。

 しりもちをついてえいねるはその光景を見ていた。動きたくても下半身に力が入らない。どうやら腰を抜かしたらしい。神経や筋線がそこで途切れてしまったように彼女の両足は大脳の命令を受け付けなかった。
 それでも首から上はしっかりと機能して、二人のケモノの争いを、記憶していった。
「コロス」
 燕はもうそれしか言わない。そしてその言葉を実行するために腕を振りまわす。彼女の身長は百六十をやっと越えるか越えないか。けれど見た目などまったく関係ない妖怪の怪力が孝太郎を襲う。しかし孝太郎とて人外である。なおかつ、雄のケモノであり、燕の放つ腕力をことごとく防いでいく。腕を叩きつけてくるなら受け止め、爪の引き裂きを避わし、その牙で噛み付いてくるなら鱗を気合を込めて鱗を固める。先ほどの段階では燕の牙は孝太郎を刺すことができた。しかし今の、戦闘に意識を切り替えたトカゲ人間の皮膚は先刻までのそれと防御力が違う。チーター女の噛みつきといえどその鱗には、刃が立たない。
 咆える燕。孝太郎は自分に飛び掛る彼女を必死に押さえつける。まだ、彼は自制心を持ち燕に対処している。ここは冷静にならなければならなかった。そして、彼は責任を感じていた。
 この突然自分に襲い掛かってきたケモノが誰かは知らない。何故自分を襲うのか、どうしてこうも理性を失っているのか。しかし予想はできる。
 さっきから腰を抜かしている女性。彼女は人食いの友人がいると言っていた。
 ならば、それが一番しっくり来る。
 孝太郎は燕の両手首を掴み身動きをとれないようにして、後ろを向く。
 自分の背後二メートルのところで座り込んでしまい、怯えた表情の女が一人。
「お嬢さん!」
 孝太郎はえいねるにもう一度声をかけた。
 自分に再び注目が来ると思っていなかったえいねるは戸惑いながらも返事を返す。
「は、はい」
「逃げるんでやんす!」
「で、でも」
 今にも泣きそうなえいねるの表情を見て取って、孝太郎は焦る。
「早く逃げるんでやんす。あっしもいつまでこのお嬢さんを食い止めていられるかわからない。この子はもう見境がない!」
 足が動かない。えいねるは心に衝撃を受けていた。何か行動を起こせるほどの気力が、削ぎ取られている。
「お友達を置いて逃げられないのかもしれないが、今は、ここから離れろっ!」
 そんな命令口調が、ぜんぜん似合わない。それでも、孝太郎は彼女を逃がしたかった。きっと、自分が血を流していること、この『つばめちゃん』というケモノが暴れることに悲しんで動けないでいるだろうえいねるに、安全な位置まで逃げて欲しかった。
 だから、いつ暴れだすかわかれない身体に鞭打ち戦う。
 孝太郎は自分に害意を持ったその小さな怪物のほうに向きなおした。
 勝算はある。自身が同じ症状を持つゆえにこの少女の暴走が発作的なものということを孝太郎は知っている。おそらく、どんなにがんばられても一、二時間。その時間経過で落ち着きを取り戻すだろう。それまでの間彼女を取り押さえておけば全てが上手くいく。孝太郎は今燕に噛み付かれながらもダメージは最初の一撃以来負っていないし、単純な腕力なら自分のほうが上と踏んでいた。
 だから、撃たせるだけ撃たせて体力の消耗を待つという戦法を取る。
 孝太郎は自分から離れないように燕の身体両手でしっかりと掴んでいた。しかしどこかにある遠慮のせいか、羽交い絞めにはできず、そう、その考え方から、燕が動きを制限されないためにその悲劇は起こる。
 噛み付く、爪を振るうということが効果を持たないことを知るや燕は孝太郎から飛び退く。
 怪訝に思うが孝太郎は燕から視線を離さない。彼女の錯乱振りからもう自分に危害を加えることしか考えていないのはわかる、いまさら逃げることや、自分の背後にいるだろうえいねるに向かうということはしないはずだ。ならば考えられるのは、攻撃のみ。しかし本能状態にある少女には結局己の体躯でぶつかることしか考えられないはず。孝太郎の出した結論は気合を固めていかなる突進にも耐える、ということ。
 燕が腰だめに構える。

 来る。

 孝太郎は少し膝を落とし防御の姿勢をとるが、そこで何かがおかしいことに気付く。
 あれ? なんだこの構え。
 目の前の燕の姿勢は、何かがおかしかった。身体の沈み方が、飛び掛るためのそれとぜんぜん違う。もっと、真っ直ぐな、それは二足歩行を可能とする生物の、それは武術をおこなう者の構えだった。
 そして、見た。燕の手は、その鋭利な爪を隠し、拳を握っている。
 朝倉孝太郎はその技を知っていた。
『空手?』
 燕の身体が孝太郎の懐に潜り込む。その位置から狙うは中段、彼の腹。
 孝太郎は力の限りを腹筋に込める。が、それよりも速く正拳は肉をえぐる。
「朝倉さん!!」
 再び呻く声。
 そしてえいねるの悲痛な叫び。
 こんな、こんなことがあっていいのだろうか。
 拳が、突き刺さっていた。燕の左手首から先が、朝倉孝太郎の身体の中に、消えている。
 何が起きたのかわからないように、自分の腹部を見つめる。
「な、なんでやんすか?」
 笑うしかなかった。ケモノの牙でさえ通さなかった皮膚が、そしてその下にある筋肉が、拳で貫かれている。拳でだ。槍じゃあるまいし。
「……『槍手』」
 えいねるはその時初めて異名の意味を知った。
 燕は拳を引き抜きにかかる。
 孝太郎はその手を両手で掴む。次に攻撃されたら自分は死ぬ。
 それを予感させるだけの傷口に思え、そしてそれを待っていたかのように燕の右手が持ち上がる。拳ではなかった。指は全部広がり親指までが奇麗に一方向に揃えてある。えいねるの脳裏に二文字の言葉がよぎる。
 手刀。
 違う。
 貫手。
 指で突く、いや、刺す技。
 孝太郎の左ももに、また燕の指が入り込んだ。

「うわああああああああああああああああん」
 その声が夜の倉庫に響いた。
 しかし、それは痛みを与えられた朝倉孝太郎の叫びではなかった。それは別の人物の声だった。そして、今そんな声をあげることが許されるのはただ一人。ここでやっと初めて動きを見せた人影。
 突然の動き。座り込んでいたその影、頼島えいねるは、その時やっと走り出した。
 夜の闇に消えていくその速度は速いなどというものではない。生物の中でも走ることに特化した生物だけが出せる速度。まるで電流が走るのを見ているような、すさまじい初速。

 逃げ出した。えいねるは、何もかもを見捨てて走り出す。決して振り返ることなく。気を緩めてしまったのだろうか、身体から力が一呼吸分抜ける。そしてそのタイミングを見逃さず燕の牙が再び首筋を狙う。
 そうして、再び傷が作られた。
 その時にはもう、えいねるの姿は無い。もうここには、金色の眼をした男女一組だけである。首筋に噛み付かれ、血管を食いちぎられながらも孝太郎は笑った。
「お嬢さん。それでいいんでやんすよ」
 同じ獣人でも、彼女と自分たちは違う。こんな醜い世界に、足を踏み入れる必要はないのだ。ここから先はこちら側のケモノの話。
 でも安心してください。このお嬢ちゃんに危害を加えたりはしないでやんすからね。頼島えいねるは優しくしてくれた。えいねるといると、心が静まった。たった八時間程度の出会いだったが、孝太郎にはとても新鮮だった。もしかすれば、自分の寿命がそれほど長くないことを直感で理解しているのかもしれない。
 だから、がんばれるような気がした。
 噛み付きをやめ、再び距離をとる燕。しかしその姿勢は次の突撃に備えている。
「お嬢ちゃん。もうやめる気はないでやんすか?」
「コロス」
 言葉は通じない。わかっていたことだが。
「やれやれ」
 さて、これから先どうしようか。好きなだけ暴れさせればいいかと考えていたが、今のことを顧みれば、とても危険である。すでに首と肩をえぐられ腹に穴が開き、右足が痛む。
 手向かわなければ、殺されてしまう。
 かと言って、攻撃を加えればいいという問題でもない。
 誰か第三者が助けてくれるような状況でもない
 出血と痛みのせいか、思考の停滞が止まらない。抵抗さえ忘れてしまった孝太郎に、容赦なく燕の牙が刺さる。
 なんとかしてこの場を乗り切らなければ。
「コロス」
 燕は躊躇うことなく仕掛ける。
「ぐう」
 なんとかしなければ、意識を保っていられるうちになんとかしなければ
 このままでは……自分まで……。
 孝太郎の血飛沫は赤かった。









 もうすぐ日が昇る。もう十分ほど走ったのではないだろうか。家はまだ遠い。
 寒気がする。まだまだ夜の冷たい季節。
 恐怖に逃げ出したのは、初めてだった。
 怖くて怖くて、現実から逃げ出したのは初めてだった。
 結局なんだかんだ言いながら、たとえどんな現実が待ち受けていても立ち向かい続けてきたえいねる。普通の人間であることを守りたかった、それだけには誇りを持っていたかったえいねる。
 しかし、一度走ってみれば、気付く。これほど普通なことはない。勇気も力も知恵もない頼島えいねるにこれほどぴったりな行動はなかった。
 燕も、おそらく自分を庇ったのであろう朝倉孝太郎も、みんな置いて逃げてきた。そのはるか昔直流電流と呼ばれた脚力を以ってしての逃走。
 本当は否定したかった。でも、無理だ。

 みんな知らない。自分がどれほど卑怯な人間か。自分は、屈服してしまった。

 あれだけ普通を望んでいたのに

 納得している。それは、弱い人間の手段だ。けれど、けれど
 そうじゃないのだ。えいねるが欲しかった普通はこんなのじゃなかったのだ。
 自分は今何のために走っている。こっちは、自宅の方向だ。父と母と、妹の待つ家ではないか。
 自分が行くのは、ちがう方向ではないのか? 今頼島えいねるが向かわなければならないのは……。
「えっぐ。えっぐ」
 泣いていた。こんなに辛いのは、生まれて初めてだった。
 そして、滑稽だった。えいねるは、人間ではなかった。なのに、今自分が泣いているのはそのせいではない。
 逃げた。どうしようもなく、逃げた。
 誰か、助けて欲しかった。だから、口に出す。
『何か用事があったら僕のこと呼んでーね』
 前方に見える人影。
 誰かを探しているように首をせわしなく動かす一人の男性に。
「善通寺さん。善通寺さん」
 こんなところにいるはずないのに。
「善通寺さん、善通寺さん……」
 これ以上、恥を重ねるべきではない。
「善通寺さん、助けて、善通寺さん」
 そして、その声は真正面から聞こえた。
「見つけたー」
 彼は、そこにいた。
 自分の目の前、そこに立っていた。
「頼島さん、探したーよー」
 きっと何も知らないで、自分のことを探してくれていたのか、彼は笑った。昨日の様に、今日の様に。
「善通寺さん!」
 抱きついていた。事態を察したのか、動じずに
「怪我はなーいー?」
 頷く。
「どこか痛まないー?」
 そして、無事を確認した後、吉宗は一番聞きたかったことを訊いた。
「燕ちゃんと会わなかったー?」
 泣きじゃくるえいねるの反応が止まるのを見て、理解する。
「暴走、したんだーね?」
「ごめんなさい」
「頼島さんのせいじゃーないよー、どちらかというとー、ぼくのせ……」
「違うんです。私、逃げてきたんです、朝倉さんも、燕ちゃんも置いて、逃げてきたんです」
 きょとんとする吉宗。そして再び表情をできるだけ穏やかにさせ
「仕方なーいよー。怖かったんだーよねー」
 理解を示す。普通の生活を営んできた者なら、それも当然と吉宗は思う。
 えいねるには、その優しさが辛かった。
「じゃー、行こうかー」
 びくりと震えるえいねる。それに気付き訂正する
「心配しないーでー、頼島さんの家ーだよー、向こうにはー僕が行くーよー」
「ごめんなさい」
「誰だってー、怖いものねー」
「違うんです。善通寺さんは、私のことわかってない」
「だってー、まだ会って三日だーものー」
 首を横に振る。そういう意味ではない。本当はわかっているのではないのか? だって、つい一昨日のこと、完全なケモノに変身した燕に襲われても、恐怖はなかったではないか、こんな錯乱は見せなかったではないか。
「私、怖くて逃げたんじゃないんです。燕ちゃんが、血が怖くて逃げ出したんじゃないんです」
 吉宗には、本当のことを言わなければならない。
「私、これが、自分のせいで起きているってことが怖かったんです」

 何かが止まる。

「だって、私のせいじゃないですか。これ! 燕ちゃんは私のためにやってきてくれたし、朝倉さんだって私がいなかったらもっと安全な道もあったかもしれないんです。私は何にもしてないのに、私がいたっていう、それだけのせいで、こんなことになって……それでも私は何もできないから、悪い方にいくのも止められないんです。えぐっ。それが、それが怖くて、それを知ってしまった人に責められるんじゃないか、って、そんな、自分勝手なこと考えて逃げてきたんです。朝倉さんが逃げろって言ったとき、本当は嬉しかったんです。私以外の人が責任を取ってくれる。……えぐっ。燕ちゃんが変だったのも、私にはどうしようもできないから仕方ない。よかったって、そう思ったんです。……うぐっ。私が逃げたことも覚えてないだろうなって……それに、それに」
 これを言えば、どうなってしまうのだろう
「善通寺さんに見つかったとき、ほんの少し、ほんの少しだけだけど……どうしよう、って思ったんです。何て言い訳しよう。って、そう思ったんです。きっと戻ろう、って言われると思って、怖かったんです」
 嗚咽を止められない。
「ごめんなさい。私最低なんです」
「……」
 吉宗は何も言わない。けれど

 ぽん

 頭に手を置かれた。顔を上げるえいねる。笑顔を崩さぬ吉宗がこちらを見ていた。拒絶に等しい言葉をぶつけられても、その男は愛しそうな目で、えいねるに微笑んだ。
「あなたを責められる人は、いないーよー」
 ああ、思う。
 この人は違う。
 自分があれだけ恥ずかしく思い、やっとの思いで吐露できた言葉を、一行にも満たない台詞で終わらせてしまった。
 彼の双眸が金色に輝く。それがどのような遺伝情報を持つのかは知らない。けれど、変身するとき眼の色が変化するケモノ人間。その眼の光を、えいねるは初めて美しいと思った。
 しかし何故、今吉宗の眼がその色を発しているか? 決まっている。
 善通寺吉宗は
「僕に任せーてー」
 今ここで、変身する気だ。吉宗は一歩退がり後ろに回り込むとコートを脱ぎ、それをえいねるに着せた。
「まだ明けがたは寒いからーねー」
 暖かかった。
 そして、彼はえいねるの横を通り抜けるようにして足をすすめる。
「あの、善通寺さん?」
「燕ちゃんはー、この先にいるんだーねー」
「は、はい」
 この男の学ラン姿は、初めてみたような気もする
 その背中は、何か寂しさを感じさせ、そして力強かった。
「じゃー、燕ちゃんは僕がー迎えに行くよー。頼島さんのお父さんとーお母さんがー、心配してたからー、早く帰ってあげてー」
「あの、善通寺さん」
「さっきの話だけーどー」
 近付こうとするが、どうしても、この距離から近づけない。
 六歩半。
 そこにあるたったそれだけで、永久に縮まらないような気がする空間。
 吉宗は、振り返らなかった。
「燕ちゃんーもー、僕もー気にしないーよー。こんな化け物と一緒にご飯食べてくれてー、それだけで僕もとっても嬉しかったんだー。明日も、一緒にお昼食べようねー」
 涙が、あふれた。
 吉宗は素早く息を吸い、そして叫ぶ。

「ガオオオオオオオオオオオ」

 咆哮と共にその筋肉が盛り上がり、体毛は一気に濃く、牙は延びる。腕は肥大し、胴体の膨張は激しく、身体のパーツの構成比が人間のそれと決定的に変わる。
 もう、そこには善通寺吉宗はいなかった。
 どれだけの間、叫びは続いたのだろう。
 もうすぐ明けるであろう薄闇の中に、一匹のケモノが浮き出た。
「善通寺さん」
 力なく名をよぶことしかできないえいねるに、ケモノは振り返ることなく戦場へ向かった。
 夜はまだ寒い。
 えいねるはそのまま進行方向を反転し、家路へと向かった。家族の待つ方角へ。
 吉宗のコートは、えいねるには大きすぎた。まるでマントだ。吉宗が着用していたときには膝元までくらいだったのに、彼女が着ると裾が地面にすれてしまいそうで気になる。そして、百歩進んだところで、やっと足が止まった。

 なんて、恥知らずな女だ、頼島えいねる。

 こんな無様な姿を晒しておいて、よくのうのうと家に帰れるな。なんだこの姿は。
 もう、何もできない。えいねるにできることは何も無い。今からあの倉庫に向かったところで爪も牙も技も持たない彼女にできることなどたかが知れている。はっきり言って、入ったら逆に足手まといになるだけだ。さっさと帰ること意外に、自分に役割などない。
 でも、それでいいのか頼島えいねる。
 これでは、普通どころの騒ぎではない。
 というより、普通、って何だ?
 今更だけど、目立つことなく誰にも迷惑をかけられず。
 それって、そんなに大事なのだろうか?
 いや、違う。きっとそれは大事なことだ。人間として、もしくは妖怪として、ケモノとしての生き方をまっとうすること。はみでないこと。それは、きっとだいじなことだ。
 けれど、えいねるは今、自分が行かなければならないことがわかっていた。
 自分のことより大事な者が、できてしまった。
  肩にかけられた白いコート。右袖に、血がこびりついたままの、それを強く、握り、彼女は、頼島えいねるは、何かが間違っているような気がしてならなかった。

「私は、私は」
「このまま御帰宅されることをお勧めしますよ」

 ……振り返る。

 背後にいた。えいねるの足で六歩半先に立つ『彼』がいた。
 学校で会うときと同じ柔和な表情をした、色黒の大男。
 白いシャツに黒いスラックス。学生服の夏服の上、学ランの代わりに黒い半纏を羽織っていた。怪しい風貌で、けれど、いつもの笑顔で。
 えいねるの幼馴染は、そこに立っていた。
「……国定くん。今、ここにいるってことは、今更何も訊かないよ。あなたもこっち側の人なんだね」
「頼島さん。今まで隠してきましたが、実は僕もただの人間ではないのです」
 えいねるは『彼』を知っていた。中学時代からの親友。どこか掴みどころがなくて、怪しくて、けれど信頼できる男だった。
「何人間なの?」
「『怪人』です」
「変なの」
「そりゃ馬鹿女には負けますよ」
「人が気にしていることを」
「でも、自分が一番そう思ってるんでしょ?」
「……知ってたんだね」
「ええ、今まで正体を隠していたことお詫びします」

……。


「怪人がこんなところで何してるの?」
「日本国冥府って秘密組織はご存知ですよね。俺はアルバイトでそこのエージェントをしているのです。逃げたトカゲ人間を追ってて、あとあなたを保護するという命令も受けてます」
「の割には全然仕事できてないよね」
「まあ、バイトですから」
「治安維持も随分適当なんだね」
「あの、もしかして人間を襲う妖怪を片っ端から切り殺しているなんて噂信じてませんよね」
「私のこと探してたんだ。じゃあ、さっきのも見てたの?」
「申し訳ありません。ただ、わかったでしょう? 善通寺吉宗氏も、島田燕さんも、ケモノ人間です。けれど、それ以上に、違う世界の人間なんですよ」
 えいねるは何かを迷っていた。
「さ、帰りましょう。あなたは、平和に生きるべきだ」
 『彼』は右腕を差し出した。それを掴めば、自分は無事に家に帰り着き、きっと万事は上手くいくのだろう。けれど、えいねるにはこの時、まだ選択肢が残っていた。
「皆さんあなたのこと心配しているんですよ」
「嫌です」
 突然の拒否。
「どうしてです? 痛いほど、自分の無力わかってるでしょう」
 えいねるは、決める。今、決める。決断は怖いが、白いコートが身を包み、力をくれた。
 しっかりと前を向き、黒い半纏の彼に宣告した。
「ねえ、友達としてお願い。あの言葉、もう一度言って!」
「駄目です」
「そこをなんとか」
「友達として駄目です。みんなあなたが普通な世の中に戻ることを……」

 そして『彼』は見た。

 彼女の、頼島えいねるの両眼が、金色に光り輝いていることに。



「理屈とか通じないよ。だって。私は、馬鹿(ばか)なんだから」



 『彼』はあっけにとられて、ため息をついて、覚悟を決めた。彼女が言って欲しい言葉を告げた。 
「まあ、たまには普通じゃないことをしてみるのもいいかもしれませんね。僕らは、普通じゃないんですから」


 まるで、風、いや、電流のように、彼女は背後に向かって走り出した。















 『槍手』
 老朽化していたとはいえ鉄筋コンクリートに穴を開けたという伝説を持つ島田燕の中段正拳突き。
 ケモノと人間の中間体となった今の燕なら人間の身体さえ貫く。
 その武力を前に、善通寺吉宗と朝倉孝太郎は死に掛けていた。
 夜も終わりに近付く廃倉庫。その前で立ち振る舞う半獣半人の少女と男、そして巨漢のケモノ。吉宗が辿り着いたとき、そこには二つの影があった。すでに致命傷ともとれる傷をあちこちに抱えた緑色の皮膚をした男と、眼が正気ではない知人の少女。
二人の人外が争うその図を見て吉宗は二人の間に飛び込むことを選んだ。
 しかしもう手遅れだった。
 燕は痙攣しながら拳を作り、涎を垂らしたまま咆哮する。
 孝太郎は傷口を押さえながらも自制心を失った様子で敵を睨みつける。
「コロス」
「血をよこせ」
 人喰い達の戦いを止めようと、間に割って入った吉宗。二人にお互いを攻撃させないように受け止め、説得を続ける。
 中途中途でトカゲの爪やチーターの牙、それに『槍手』を浴び巨大なパンダの胴体には数え切れないほどの傷が走る。
「旦那 逃ゲ  」
 時々、苦しげに孝太郎がそう呻くがその暴力は止まらない。だから、吉宗は逃げられない。先刻まで孝太郎がしていたように、二人が体力を使い果たし暴れるのをやめるまで二人の暴力を享受しようとするが。
「うーんー、ちょっとピンチー」
 傷が多すぎた。
 単純なケンカなら、吉宗が圧倒的に強い。けれど、こちら側が手を出せないで入るから、分が悪すぎた。燕が飛び掛る。振り下ろされる爪を腕で止める。しかしその時には背後に来た孝太郎の爪が背中を裂く。慌ててそちらに残った腕を叩きつけるが避けられ、そして視線を外したうちに燕の蹴りが来る。
「ううー」
 呻いた。二人で協力して攻撃しているわけでもない。どちらも今眼に入っているものしか見えてないのだ。かと言って自分から攻撃をするわけにもいかない。自分がいないうちに行われたであろう戦闘で、燕もこのトカゲの彼の息も絶え絶えである。どちらも、後もう一度ダメージを負えば命に関わる。だから吉宗が二人の傷を引きうける。
「がああっ!!」
 その内燕が倒れた。これで三度目の発作だ。暴れながら途中途中でひきつけを起こし気絶する。そして眼を覚ますと再び暴力に走る。安定剤も抑制剤も飲んでいない燕は、今にもはちきれてしまいそうである。
 それは孝太郎のほうも同じで精神は暴走しても肉体が限界なのであろう、たまに身体の動きが止まる。もしかしたら、自分より先に二人が力尽きる場合も考えられる。けれど、どうすればいい?こうやって身体を張ることしか、自分にはできない。
 その繰り返しに耐え、なんとか命をつないでいる二人。
 しかし、いよいよ局面は変わる。
「血をヨこぜ」
 燕が動けないことをいいことに飛び掛る孝太郎。
 それを食い止めるために組み合う。
 気がつけば、背後の燕が飛び起きる。

 しまった

 しかし遅い。
「シネ」
 トドメが来る。
 組合を解こうにも孝太郎の力もそれなりに強いし、なによりここで自分がよければ、孝太郎が『槍手』を喰らう。
 受けるしかない。
 自分が……死ぬしかないのだろうか。
「コロス」
「血をよこせ」
 身体から力が抜けてきた。悲しくて、涙が出てくる。けれど、戦いは終わらない。
「シネ」
 燕が飛び上がる。
 そしてその拳が吉宗の心臓を貫こうとした時、その声は聞こえた。


「ぅうおおおおおおりゃあああああああああああ!」

 何かが閃いた。
 なんだったのかはわからない。とにかく、肉眼では見えない速度で何かが現れ中空の燕を弾いた。
 なんだったのかは、わからなかった。そんな、動きが雷かなにかのように線にしかみえなかったのだ。一筋の線が現れいや、それは、まるで雷のような……。
 着地した彼女は、背を向けたまま立ち上がる。
 彼女はそうして現れた。風を纏い、雷の如き速さで駆け抜けた。
 金色の眼、黒い髪、体格に似合わない白いコートがふわりと浮き上がる。
 決意を秘めた、彼女はそうして現れた。
 地面に叩きつけられた燕。
 意識はなくとも、その姿を確認し身体を震わす孝太郎。
 そして、吉宗だけがその名を呼んだ。
「頼島さーんー」

 頼島えいねるは立つ。
「頼島さんー、なんで来たのー、逃げてーよー」
 振り絞る声。それに呼応し振り返る。
「だって、逃げちゃ駄目ですよ」
 理屈になっていない。
 なっていないのに、安心してしまう。
「また怪我してる、すぐに手当てしますね」
 そう言って、いきなり取っ組み合う二人につかつかと歩み寄るや……
「うおりゃあ!」
 孝太郎を蹴り飛ばした。
「えー!」
 吹き飛ぶ孝太郎。
「まあ、朝倉さんは強いですから、あれくらいやっても平気です」
「さっきまでー死にかけてたんだーよー」
「死にません。私の攻撃ですから」
 理屈になっていない。
 今度は吉宗の身体に手を当てる。なでるように全身をふれていく。
 すると、触れられた部分が白く光りだす。その光の膜はどんどんと広がり、吉宗の全身を覆った。
「ごめんなさい。私の代わりに傷だらけになってくれて」
 不思議なことに、痛みが引いていく気がした。いや、よく見ると、血が止まり、傷が、ふさがってゆく。
「こーれーはー、どうしたのー?」
 すると本人も困ったように、かいつまんでこう答えた。
「私、傷を治せるみたいなんです」
 それは先日の背中の傷、そして、不自然に治りの早い吉宗や孝太郎の傷からも見て取れた。生命力が強すぎて、傷つくことができない。他人でさえも傷つくことを許さない。
 これが、頼島えいねるに起きた変異。
 吉宗の体が持ちこたえたその時、獣の叫ぶ声が倉庫に響いた。
 燕が、目を覚ましたのだ。もう、えいねるのこともわからないのだろう。その顔は青く、眼も焦点が合っていない。生命の限界が来ていることが見えた。
 それでも
「ねえ、燕ちゃん、私は無事だよ」
 動じない。
「ヴヴ……」
 もう、力が残っていないのか、膝立ちで精一杯の燕。えいねるは微笑み、歩き出した。
「危なーいよー」
 しかしそんな二人の注意も無視して、ゆっくりと燕に近付く。
「ごめんね、燕ちゃんを置いて逃げたりして。お姉様失格だね」
 息も絶え絶えの燕の前まで来ると、えいねるはしゃがみ、しっかりと抱きしめた。
「大丈夫だよ、燕ちゃん。私はここにいるからね」
 燕の全身が、白く光りだす。
 その髪は黒い艶を取り戻し、骨格は人間のそれに修復され、体中にできた斬り傷は塞がってゆく。なにより
「お姉様……」
 言葉を取り戻す。
 えいねるは、自分でも信じられないくらいに笑顔になる。
 そして燕を抱き締めたまま立ち上がり、孝太郎の下に行く。
大の字になり、空を見つめていたトカゲ男は、自分を蹴り飛ばした女に理性の戻った目で誰何した。
「お嬢さん。あなたは一体何者でやんすか」
「朝倉さん、自己紹介がまだでしたよね。私、頼島えいねるって言うんです。馬男と鹿女の合いの子で、本当に馬鹿な、頼島えいねるです」
 その返答に、にこりと笑う孝太郎。
 えいねるの腕の中で眠る燕。
 そして、人間の姿に戻り本当に疲れたように座り込む吉宗。
 
 もうすぐ陽も昇る。

 本当はわかっていたことだ。
 賛美歌(コラール)が聞こえてきそうなほど神聖な情景。
 頼島えいねるは、もう普通じゃないのだと。


10 :akiyuki :2007/11/11(日) 16:25:25 ID:VJsFrmQG

ケモノファンタジア


「治癒の力ですか……。もはや人間じゃないですね」
「でも、なんでこんな力になったんだろう」
「古来から聖獣には治癒の力があるものですよ」
「せ、せいじゅう?」
「まあ、いいじゃないですか。奇跡なんてそんなものですよ」



 すべてが終わった後、『怪人』である友人に連れられてえいねるは家路へと着いた。
 生まれて初めての朝帰り。玄関の前で自分の帰りを待っていた父と母。怒られても仕方がないと思いながら二人の目の前に立つといきなり抱きしめられた。涙を流しながら自分の胸に顔をうずめる母と、自分と母を腕に抱く父。そして物陰から久しぶりの親子のスキンシップを盗撮する妹のつむぎ。朝から騒々しいとまたお隣さんに細い目でみられるのでいつもならツッコミを入れるところだが、今朝はそうもいかなかった。何故ならその日の朝御飯当番はえいねるだったのだ。(もちろん家族に『鬼っ』と叫びながらもしっかりと作りました)
 えいねるから力を注がれた朝倉孝太郎はあの後『彼』に連れられて病院に搬送された。突然暴れ始めた看護士が鎮痛剤と興奮剤を間違えて打ったという医療ミスだと発覚したが本人はいつものように笑って済ませたという。精密検査の後、今回の事件においても誰にも危害を加えなかった(ということに口裏をあわせた。燕も納得してくれた)のでお咎めはなしということになり、今は山岳にある実家で家族と暮らしているという。
 燕は肉体的には回復してはいたが精神的なショックが大きかったらしく町から少し先にある小さな村の診療所にお世話になることになった。しかし生徒総会も近い今の時期に何日も休むわけにはいかない、と脱走を繰り返すので先にキレた先生に追い返されたそうだ。結局燕も薬は手放せない。けれど服用量は減っていた。それはあの日えいねるの『力』を受けて静まった影響もあるのかもしれないが、詳しいことはわかっていない。今ではいつものように何人も手下を引き連れて会長善通寺と議論を交わしている。空いた時間を見つけてはえいねるのところにやってきて色々と雑談に耽ったりもした。
 『怪人』こと国定はと言えば、特に変わった様子もなかった。おそらくは、自分を監視する任務もあるのだろうとえいねるは想像したが、二人が親友であることは、変わりそうにない。あの夜のことを話題にすることはついぞなかった。
 そして善通寺吉宗は今日ものんびりと、白いコートを着て登校している。

 えいねるは未だ変身の兆候を見せない。確かに目が金色に光り輝いた。それでも、ケモノへの変身は一向に始まらない。一週間も経つと緊張もなくなり二週間も経つと疑いだし三週間も経つと忘れてしまった。
 いろいろ、あったのかなかったのかわからないが、頼島えいねるは幸運にも以前と変わらない生活を送っている。これまでと変わらず学校に通い、これまで通りの規則正しい生活習慣で、食べ物の嗜好が変わるというわけでもなく、あれほど危惧していた変化もなく、逆に普通じゃないところを見つけるのが無理なほど、完全な日常を歩んでいた。
 それはあまりにも今までどおりで、あの三日間が嘘だったのではないかと思うほどに奇妙はどこかへと消えていた。
 けれど嘘ではない。確かに、えいねるは変わっていた。

 日本国冥府  獣人種001537 頼島えいねる 馬鹿(h)

 わかってはいたけれど、実際にこうして公文書に書かれると辛い。やっぱり国家レベルでえいねるは馬鹿認定らしい。もうちょっと手心を加えてくれてもよかったようにも思うが、もう何も言うまい。やっぱり自分は馬鹿だし。
「あ、お姉様の登録証ですか、わあ、見せてください」
 嬉しそうにえいねるの顔写真を見つめる燕。
 放課後、生徒会室。近くに行事があり修羅場と化している室内に入った異分子にものすごい目線が集まったが、副会長の燕が駆け寄るのを見て皆敵意を消した。
 あれから燕は髪を切った。別に何かの意思表示という意味ではなく長いから切ったらしい。なんとなくもったいないな、とも思ったが「お姉様は長いほうが好みですか」とか聞かれても困るので何も言わなかった。それでも左手にグローブを嵌めるのは忘れておらず、えいねるもその左手を見るたびにあの『槍手』を思い出すが、思い出すだけである。別に怖いとは思わなくなった。
 感触だけだが、あの日ケモノに目覚めてから自分が恐ろしく強くなっていることに気付いた。これは誰にも言わないが、多分、自分はケモノですらないような、とんでもないものなんだと思うようになった。
 けれど、今更そんなことはどうでもよくなってしまった。
 今えいねるには、慕ってくれる女の子や、大事な友達がいる。
 それに比べれば、他のことなんて別にどうでもいいのではないかとさえ、思えてきた。ケモノになることをあんなに恐れていた自分が、滑稽だった。
「ねえ、燕ちゃん、わからないことがあるんだけど」
 名前欄を指し示す。
「この名前の次の(h)って何なの?」
「ああ、これですか、ハーフって意味です」
 わかり易かった。なるほど、燕は両親ともチーターなので無印だったのか。そういえば吉宗も(h)が付いていた。人間とケモノ人間のハーフは、問題ないのか。では、例えばハーフ同士はどうなのだろう。例えば、吉宗とえいねるは……。まあ、それは置いておいて。
 そしてもう一つの疑問。
「じゃあ、燕ちゃんの方にだけ書いていた+って?」
 えいねるは血液型がRh+A型だが、何も書かれていない。
「それは」
 すると、それに関しては何か言いづらそうだった。
「あの、それは、反応陽性を意味するんです。月を見たときに、過剰な反応を示すつまり、人喰いの反応を……」
「ふうん、そうなんだ」
 でも、もう怖くない。すると何か申し訳なさそうな顔をする燕。
「お姉様すみません、これから会議があるので」
「あ、ごめんね長居しちゃって」
 首をすごい勢いで横に振る燕。
「いえ、本当ならお姉様のほうが大事なのですが」
 苦笑。
「うん、じゃあお仕事頑張ってね。また一緒にお昼食べよ」
「はいっっ! あ、それでよろしければ、会長を呼んで来ていただけませんか」
「あれ? 善通寺さんいないの?」
「はい、会長は今屋上にいらっしゃると思いますから」
 えいねるは頷く。ちょうど吉宗にも見せたかったのだ。
「うん、わかった、いーよ。行ってくるね」
 何かを忘れているような気がしたが、忘れるくらいならたいした用でもないのだろうと、その場を後にした。

 そういえば、いつかもこうして階段を駆け上っていた。あの時はまだ自分がこんな風になるなんて思わなかった。そう、階段を五段飛ばしで駆け抜けるなんて。こんなに誰かに会うのがどきどきするなんて。
 屋上へと続く扉。えいねるはかつてのように心臓を昂ぶらせ力を込めた。
 ドアの向こうに現れた夕焼けの空。
 コートが赤い光を反射して、その立ち姿はとても奇麗に、彼は空を眺めていた。
「善通寺さん」
 その声に反応し彼はこちらを向く。
 吉宗は一人そこに立っていた。
「あー、頼島さんー。もしかして燕ちゃんー呼んでたー?」
 彼の間延びした声がイメージを狂わせるが、それでもなんだか彼とこうして向かい合うのは嬉しかった。

「そういえば、ゆっくりお話するのって久しぶりですね」
 フェンスに体重をあずけ二人は落日を観察していた。本来の目的ではさっさと吉宗を生徒会室に送還しなければいけないのだがこんなチャンスは滅多にないので、えいねるは少しだけわがままを敢行した。
「そーだねー、僕もこのごろ忙しかったしー、こーして二人で話すのってー、何日ぶりだろーねー」
 こんな会話が、楽しくて仕方ない。
「あ、そうだ、私登録証ができたんですよ、ほら」
「あー、うんー、ウマシカだねー」
「はい、馬鹿です」
 笑う。
 笑う。

 十分もすれば、赤く染まった空に、青が浸り始める。
 夜の始まりを、どこか遠くの蛙が告げる。
「もうすぐ夏ですね」
「まだ二ヶ月も先だよー」
「お祭り、どうしますか?」
「えーと、今年はー、燕ちゃんを連れて行ってあげたいなー、あの子そういうのに行ったことないからー」
「そうですか……」
「そーだ、頼島さんも一緒に行こーよー。迷惑じゃなかったらー」
 首を凄い勢いで横に振るえいねる。
「そんな、迷惑なんて。私も行きたいです」
「そっかー、よかったー。燕ちゃんも喜ぶよー」
 その言葉に、ほんの少し翳るえいねるの表情。
「どーしたのー?」
 こんどはゆっくりと首を振る。
「いえ、なんでもありません」
「気になるーよー」
 少し意地悪く思える。
「善通寺さんは、燕ちゃんの話ばっかりしますね」
「うんー?」
「私といるのに、いつも違う人の話ばっかり」
 すると押し黙る吉宗。言わなきゃよかったと後悔しながらも、もう踏みとどまれるかとばかりに、吉宗の返事を待つ。
 そして、
「頼島さんー」
 来た。
「は、はい」
 吉宗は、しっかりとえいねるの眼を見つめる、それは以前のケモノの眼でなく、とても深い黒色の眼。人間の男の眼。
「頼島さん、ありがとうー、僕はあなたに本当に感謝しているよー。あなたがいてくれてどれだけ助かったことかー。頼島さんがいなかったらー、僕は死んでいたし、大切な人を亡くしてたよー」
「いえ、そんなってやっぱり燕ちゃんの話じゃないですか」
 思わず乗りツッコミ。
 いや、焦点はそこではない。

 聞き返す。
「大切な人?」
「うーんー」
 そこで少し恥ずかしそうに、何故かむず痒そうな顔でえいねるから視線をそらす。
「え、じゃあ、まさか……」
 青ざめるえいねるの顔なんて見ていない。
「やっとわかったんだー。僕は燕ちゃんがー





 ………………………………





 誰にも言わないでねー」
「は、はい、いいですよ」
 声が震えていた。
「それじゃー、そろそろ僕行くねー、頼島さんー、また明日お昼御一緒しましょー」
 そしてえいねるを一人残し階段へと向かっていく吉宗。
 呼び止めることもせず、返事も返さず、震える拳をさらに握り締め、真っ白になる頭で考える。

 え、と、こんなときはどういう反応すればいいのかな……うん。

「ふぐう」

 いまさら泣き喚いたりするまい。えいねるは、ため息を一つつく。

「ふぐう」

 二つ。

「ふぐう」

 三つ。


 すると、誰かが会談を登る足音。しばらくして、一人の男がやってきた。
「国定くん、どうしてここに?」
「頼島さん、忘れ物をしてたから渡そうと思って追いかけたんです。そうしたら、生徒会室で屋上に向かったと聞いて……会長が降りてきましたけれど、君はいかなくていいのですか?」
「ねえ……」
「うん?」
「人生って、上手くいかないよね。それでも地球は回ってるのにさ」
 彼には事態をよく飲み込めなかったが、すこし考えてから返答した。
「本当に駄目な時は、泣き喚いてもいいと思いますよ。普通、そうです」
 そう言って、彼は屋上を後にする。
 

 えいねるは一人になってから

「うわああああああああああああああああああああん」
 

 泣いた。

 これが、頼島えいねるの失恋の物語。

 誰もが経験する、幻想曲(ファンタジア)

 ケモノも人も変わりなく。
 少女は恋し、夢破れる。


 


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甘辛流小説家ギルドGAIA
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