紫陽花の咲く頃に


1 :小豆 :2010/04/21(水) 21:25:51 ID:QcknmnzL


 そのお屋敷のお庭には

 立派な、紫陽花が咲いておりました

 根からは、女の血を吸い上げて

 赤紫に――

 赤紫に、咲いておりました





 旦那様……。旦那様、お呼びでしょうか。
 ……はぁ、何か面白い話、ですか? ……ええ、そうですね。ひとつだけ、ございます。旦那様の退屈しのぎになるかどうかは、分かりませんが……。
 ええ、はい。旦那様がそう仰るのなら、お話しさせて頂きます。
 これは、私が実際に体験したお話なのです。

 あれはもう、三十年以上も前のことでございます。当時、高等学校を卒業したばかりの私は、知人の紹介でとあるお屋敷にお仕えすることとなりました。
 そのお屋敷は、確かに立派な造りをしておりましたが、それ程壮大という訳でもなく、むしろこぢんまりとした上品な佇まいで、小高い丘の上……まるで人々の目から逃れるように、沢山の木々に囲まれ、ひっそりと息を殺して建っておりました。丘の麓の者達で、そのお屋敷に人が住んでいることを知っていた者は、誰もいなかったように思います。
 私はそこの離れをお借りして、住み込みで働くこととなりました。
 お屋敷の主である奥様は、とても美しい、髪の長いお方でした。奥様は唯お一人で、そのお屋敷に住まわれていました。これほどまでに美しい方が、何故どなたとも契りを結ばれていらっしゃらないのか、私は随分と不思議に思ったものです。
 私がそのお屋敷を初めて訪れた日、奥様は私を、温かく迎え入れてくださいました。すぐに奥の間に通され、対座した後、奥様は穏やかな口調で私に仰いました。
「あなたが来てくれて助かったわ。前の使用人が辞めてしまってから、二月も経ってしまって……。屋敷もだいぶ荒れてしまいました。とりあえずは、屋敷まわりの掃除から初めて頂戴。……それから」
 奥様はそこで一度言葉を切り、笑顔を浮かべられました。そのご様子がとても麗しく、私が見とれておりますと、奥様はとんでもないことを口にされたのです。
「大体のことが片付いたら……、私を殺してくださいな」

 旦那様、旦那様……。どうされたのです? お顔色が優れませんが……。そうですか? ご無理はなさらないでくださいね。
 よろしければ、お茶でもお淹れしましょうか。はい、少しお待ち下さい……。
 旦那様、お茶が入りました。熱いのでお気をつけて。
 ええ……、はい。お話の続き、ですか? しかし、旦那様…………はい、わかりました。旦那様のお言いつけでしたら。
 奥様は、私に殺して欲しいと、庭の水やりでも言いつけるかのように仰いました。ええ、本当に、何でもないことのように、仰ったのです。

「それは、どういう……」
 私が怪訝に思い聞き返しますと、奥様は変わらず穏やかな口調で言葉を返されました。
「言葉のままの意味よ。本当は、自分で手首を切るなり首をくくるなりしてもいいのですけれど……それだと、少し不都合があるの」
「不都合とは、どういう……」
 困惑して問う私に、心優しい奥様は丁寧に説明してくださいました。
「私が死んだあとに、もうひとつやってもらいたいことがあるのよ。……独りでひっそりと自害してしまったら、それを頼める人がいなくなってしまうでしょう?」
 奥様は言いながら、肩からずれてしまった羽織をすっと直されました。そんなちょっとした動作にまで思わず見惚れてしまうほど、奥様は美しいお方でした。
「その、頼みたいこととは何でしょう? それも私の仕事になるのですか」
 質問ばかり重ねては失礼かとも思いましたが、私はそう訊ねずにはいられませんでした。そんな不躾な私にも気を悪くされることなく、奥様は綺麗に微笑んで応えてくださいました。
「ええ、もちろんそうよ。……私には二月前まで、夫がいました。一体いつからだったのかしら……夫の気持ちが、私から離れてしまったのは」
 少しだけ淋しそうに呟く奥様でしたが、その表情は何かを諦めているかのようでもありました。文脈に合わないその発言に、私は首を傾げそうにもなりましたが、奥様は構わず話を続けられました。
「私は、捨てられてしまったのです。私の愛した……いえ、私の愛する夫に」
「え……」
 私は思わず、唖然として声を漏らしてしまいました。こんなにも美しく、優しげなお方を捨てる男が、果たしてこの世に存在するものなのだろうか、と。
 驚きに目を見開く私に、奥様はまたひとつふわりと微笑むと、相変わらずの穏やかな口ぶりで仰いました。
「二月前に使用人が辞めてしまったと言ったでしょう。夫は、彼女とどこかへ消えてしまったの。……私はきっと馬鹿なのね。いつからそんな関係になっていたのか、いつから愛されなくなってしまったのか、まったく気づけなかったのですから」
 ふう、と軽く息を吐き出し、奥様は窓の外へ視線を移されました。その目線の先を追えば、庭の片隅に静かに咲く、紫陽花が視界に飛び込んできました。ぞっとするほどに毒々しく、それでいて深く澄んで美しく、その紫陽花は真っ青な色をしておりました。
「綺麗な紫陽花ですね」
 私がそう呟くと、奥様は少しだけ息を呑まれたようでした。その真意は、私にはわかりませんでしたけれど。
「……紫陽花は嫌いなの。私が見ていたのは、もっと下です……。紫陽花の根元に咲く、黄色い花」
 言われて目を凝らせば、そこには確かに、少し色の褪せた福寿草(ふくじゅそう)が咲いておりました。名前に「福」や「寿」という字を冠していながら、その花言葉は「悲哀」。美しくも悲しい、奥様のような花でした。
「――あなたには、夫を探し出して、殺して欲しいの」
 その言葉にはっとして奥様へ視線を戻せば、奥様もこちらをじっと見つめていらっしゃいました。その、どこまでも優しげな微笑みと、奈落の底を思わせるような冷たい眼差しに、私は魅了されてしまったのです。
 だから私は何も考えられず、ただ、操られたかのように頷いてしまいました。

 ……おや、旦那様。お茶を少しも飲まれていらっしゃらないですね。すっかり冷めてしまったでしょう? せっかくですから、私が淹れ直して……。
 ああ、そんな、無理して飲まれなくても……。え? 変な味がする? ……きっと、冷め切ってしまったからでしょう。だからご無理に飲まれないほうがよいのではと申し上げましたのに……。
 そう言えば、このお屋敷のお庭にも福寿草が咲いておりましたね。……ご存知ありませんか? ええ、庭の隅のほうに、少しだけ。今が見ごろでございますよ。
 では、お話を続けますね。あれは、私が奥様にお仕えして一週間ほど経ったときのことでした。私はいつものように食事の支度をして、奥様のお部屋にお運びしたのです。

「奥様、昼食のご用意ができました」
 私は襖越しに声をおかけしたのですが、普段ならすぐに返ってくる返事が、その日だけはなかなか返ってこなかったのです。失礼かとは思いましたが、何故だか嫌な予感のした私は、そっと襖を開けてみました。
 その時私の見た光景は、今でも忘れることができません。奥様はその艶やかな黒髪を乱し、畳の上に倒れていらっしゃったのです。
「奥様っ!」
 食事の載ったお盆がひっくり返るのも厭わず、私は無我夢中で奥様に駆け寄りました。必死の思いで抱き起こした奥様は、既に虫の息でございました。
「……ご存知、かしら。福寿草には、毒があるのですよ」
 苦しそうに短い呼吸を繰り返しながら、奥様はそう仰いました。慌てて辺りを見渡せば、すぐそばに、奥様の湯飲みがお茶をこぼして倒れておりました。奥様は、猛毒の福寿草を煎じたお湯で作ったお茶を、お飲みになっていたのです。
「奥様……どうして、この様な……」
 悲痛な思いで、押し殺すように申し上げた私に、奥様はやはり優しげに微笑みかけてくださいました。
「二人も殺させては、申し訳ないでしょう。せめて自分の始末くらいは、自分でやるわ。……その代わり、きっと夫を探し出して、私の元に連れてきて頂戴ね」
 私はもう何も申し上げることができず、ただ、何度も首を縦に振りました。それを見て安心したのか、奥様は一度ゆっくりと息を吐き出し、それから庭へと目を移されました。その視線の先には、紫陽花の根元に咲く、小さな福寿草。それは悲哀に満ちた、美しい花。
「……きっと、仕方がないのですね。所詮私は冬に降る雪……。夏とは、相容れないものなのですから」
 呟き、奥様は今までで一番麗しい笑みを浮かべられました。
 ふと気づけば、奥様の頬を一筋の悲しみが伝っておりました。しかし、例えどんなに願っても、私にはそれを枯らすことなどできるはずもなかったのです。それができるのは奥様の旦那様、ただお一人だけだったのですから。
「ご安心ください、奥様。私が責任を持って、旦那様をお連れ致します」
 しっかりと、私が力強い口調で申しますと、奥様は私に視線を戻して緩やかに笑ってくださいました。
「ええ……。ありがとう」
 それが、奥様の最後の言葉でした。

 旦那様……、旦那様。もうお気づきでしょう? ……ええ、その通りです。奥様の名前は、紗雪(さゆき)様です。夏には降ることのできない、悲しい雪です。
 ……随分と探しましたよ、旦那様……いえ、夏史(なつふみ)様。
 どうされたのですか、旦那様。そんな恐ろしいものを見るような、人を疑うような目で見ないでください。貴方もご存知でしょう? 私はいつでも、主人には忠実な使用人なのです。……そして私の主人は、今も昔も……紗雪様ただおひとりです。

 ……おや、旦那様。お休みですか? では、お布団をお引きしますね。……ええ、ご安心ください。私が責任を持って、奥様のおそばにお連れしますよ。





 そのお屋敷のお庭には

 立派な、紫陽花が咲いておりました

 根からは男と女の血を吸い上げて

 真っ赤に――

 真っ赤に、咲いておりました


                                                                〈終〉


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