セックス時反発性キス症候群


1 :コンピュータソーダメロン :2008/11/13(木) 01:45:43 ID:o3teQ7nG

ひどい人生を生きてきた。
あえて、ここで語ろうとしていることのすべてが虚しい。
自分は完全に人生の負け犬だろう。
チープな物言いだが、そのチープささえも自分を表現するにはちょうどいい気がする。
そんなチープな物語。
この物語は、きわめて現実に即しているつもりだ。
だから、これを物語というよりもまずシミュレーションの結果報告といったほうがいいのかもしれない。
笹原ナオヤはそう考えている。
だが、現実をシミュレーションとはいっても……。



こんな現実を望んだわけではない。
望まない現実。それこそ、人生。


2 :コンピュータソーダメロン :2008/11/13(木) 02:35:10 ID:o3teQ7nG

だからセックスの時にはキスをしないでと少年は言い……。

「……だから……だからキスは……キスは嫌いなんだってば」
1999年。
時代がネットの氾濫によって、個人と個人の意思を繋ぐ関係性をより曖昧にしていくよりも少し前の頃、笹原ナオヤは16歳だった。
今年の春に高校へと進学を果たし、彼の両親、親戚は、ほっと安堵して間もない時期でもある。
彼はこの時期、ある意味においてはもっとも自由な日々を過ごしていた。
彼の暮らす町は、都市部から少しばかり離れた山あいにある田舎町だが、さしたる特産品や歴史的背景などのある町でもなく、観光名所も特にない。
多少、ノスタルジーを感じさせてくれそうな田園風景が見えなくもないが、視界を広げていけば、広域を買い取って出来上がった郊外型のスーパーやホームセンターなどが立ち並び、中途半端な発展を思わせる。
町と呼ぶべきか、それとも村と呼ぶべきか。
少なくとも、外部の人間にとっては、そのどちらにしても興味のある話ではない。
それを露骨に表現しているかのように、町の真ん中を大きな高速道路が横切るが、町に降りるインターチェンジは、町の中には造られていなかった。
よって、高速道路から降りて町に入るには20キロ先の都市部の出口から降り、また戻ってこなければいけない。
 かといって、鉄道交通網が充実しているとはお世辞にもいえない。
それどころか明治時代、町の唯一の特徴ともいうべき、折橋山の炭鉱作業場近くを通っていた鉄道は、現在においては廃線となっており、周囲は森に囲まれ、錆びきった鉄道は、もはや半分以上が土に埋もれようとしている。
あばら家となりつつある木造の駅は、もはや観る影もないが、一部の廃墟マニアからは、聖地と崇められているらしく、ネット上には趣味の悪いおどろおどろしい雰囲気で掲載されているらしい。
 そして、今その廃墟となった駅のホームには、もはや当然のことながら人の姿はない。
それどころか、こんな森の奥で廃線となった駅のホームなど、たいてい不気味がって時持地元の住民でも近づこうとはいないものである。
そのはずだった。
「ふーん……キスは嫌いだっけ」
大人びた女性の声が、囁くように、そして何処か意地悪く抵抗する少年に向けて呟く。
「そう、嫌いだっていってるでしょ」
女性とは正反対に少年の声は必死だ。
今、この二人は誰もいない深夜の駅のホームで、かろうじて残っているベンチの上で重なり合うようにして横たわっている。
 制服のシャツをはだけさせ、繊細な肌を露わにしている少年とその上に覆いかぶさっているのは、長い艶のある黒髪を肩まで伸ばしているのが印象的な女性である。
よく見ると長い髪を女性は後ろで結いあげ、さらさらと流れるように風に靡かせている。
理知的なメガネの奥には切れ長の瞳が、わずかに笑みを浮かべて少年を見降ろしている。
 血のように赤く薄い唇だけが、月の光を浴びて鮮やかに煌めいている。
女性は、一瞬、起き上がり、黒いスーツ姿の胸元を、ほんのわずかに広げるが、それも面倒になったのか、結局上着を脱ぎ棄て白いブラウスの胸元のボタンをはじいた。
女性の黒い下着が目に映る。
「なんていうか、キミをこうやって抵抗できなくしてからヤるのも悪くないね。嫌がってる様が、むしょうにソソるんですけど」
「教師がそういうこといって!」
両腕を羽交い締めにされている。
女性の年齢は20代前半だが、16歳の高校生とはいえ、男の自分がこうも無抵抗なのが屈辱的だった。
少年は、なんとか切り抜けようともがくが、結局、少しも自分の自由は回復しない。
その間に女性はさっさと服のボタンを外していく。
慣れている。
大人だから?
 それもあるが、それだけではない。
女性の妖艶な笑みを見ているうち、少年の頭に血が上っていく。
このままではヤられてしまう!
「教師も人間ですから」
そういいながら、女性は嫌がる少年の耳元に、その形のよく品のいい唇を近づけた。甘い香水の匂いが、少年の思考を麻痺させる。自分が今、どういう状況にあって、何をされそうになっているのか、そのすべてがどうでもよくなりそうな不思議な甘い香り。そして女性は、彼がその香りにあてられている間に、そっと耳を優しく噛んだ。そのとたんに、少年の抵抗が一瞬緩む。
 それを見やり、女性はさらに妖しく微笑んだ。
「人間……じゃないでしょ」
「それについては、正しく説明しなければいけない。でも、それはともかく、今はあなたとセックスがしたい」 
 すらりと悩ましいほどに美しく伸びた肢体。
美しいというには、あまりに言葉として足りない。
容色麗しく、すらりとした肢体でありながら悩ましいまでに妖艶なスタイルの持ち主だった。ほっそりとした身体を包むスーツ姿のこの女性は、本来であれば、理知的な大人の女性に見える。
整った顔立ち、細見のメガネの奥に見える人の核心を見透かすような切れ長の瞳が印象的
であり、高貴さを称えるかのような紅く繊細な唇は、本来、『セックス』などという言葉が、そうそう出てくるようには思えないが、今、彼女はそのイメージをあっけなく切り崩し、ごく自然に挑発的に少年に向けて言い放つ。 


3 :コンピュータソーダメロン :2008/11/14(金) 20:22:56 ID:o3teQ7nG

紅い血の味は一生忘れられぬ。そなたの紅い血だけは……

さて、こうして少年と女性についての物語が始まったわけだが、少年と女性の関係がこのようになった経緯について、女性がいうように説明しなければならない。
 少年の名は、笹原ナオヤ。
16歳で町内にある銀蘭聖香(ぎんらんせいきょう)高校に通う一年生である。
身長はやや低め、ほっそりとしていて見た目は、どうにも頼りなく、ぱっとしない。
成績も中の下で、特に得意科目があるわけでもなく、かといって運動方面に突出している才能があるわけでもない。
 つまり、集団の中にいれば見事に埋もれてしまう無個性な存在である。
お嬢様育ちの母親に似て、少し性格がおっとりしている。
自己主張の弱いところがあり、しばしばよくいじめられたりもしたものだが、昔から母親譲りのおっとりした性格が災いし、いじめられていても、それをいじめと実感することなくやられっぱなしとういう状況が続いた。そのため、父親が友人の剣道場に鍛えてもらおうとしたものの、結局、幼いころの笹原ナオヤは、剣道以上にのめり込むものを見つけてしまい、あっさり剣道をやめてしまった。
 それがそのまま現在にいたっているのだが、彼とこの女性との関係は、どういうわけか、彼が幼いころ、そう、まさに父親に無理やり剣道場に放り込まれるその瞬間から始まる。
 それは6年前。1993年の秋のことである。



 女性の名は絢咲零(アヤサキ=レイ)。
しかし、それは彼女の本名ではない。あくまで偽名である。
彼女をよく知る一部の者たちは、彼女をキスキル=リラ、あるいはリートゥーと呼んでいる。もっとも、その本名自体、呼ぶものがいなくなって久しい。
今では、この偽名こそ彼女の本名とってもいいのかもしれない。
黒いスーツに身を包み、絹のような長い漆黒の髪を結い上げた理知的で麗しいその顔には似合わない咥えタバコをしながら、町を縦断する高速道路の上を車で北上していた。
純白のスカイライン。
彼女には似合いのその車は、お世辞にも交通ルールを守っているとはいえないスピードで疾走していた。


4 :コンピュータソーダメロン :2008/11/15(土) 00:23:55 ID:o3teQ7nG

時間は夜の10時。
どこかに向けて急いでいるというわけではない。
田舎町を通りぬけるこの高速道路には、満足に照明も整備されていない。
前方を照らす明かりは、彼女が運転する車のライトくらいしかない。
それすら、ほんの数十メートル先しか照らすことができないのだ。
このスピードでは、その程度の明るさでは心元ない。
いくら田舎町の高速道路で、ほとんど車の姿がないとはいえ、かなり危険な運転だった。
しかし、卓越した運転技術によるのか、彼女は軽快に他の車を避けて巧みに走行する。
 やがて、巨大なトラックを追いぬいた先に一台のパトカーが見えた。
白黒に塗装された馴染み深いそのパトカーは、夜間活動用に警光灯が点灯している。
間違いなく、このままのスピードで運転を続ければ、前方のパトカーに発見され、警ら中の点灯が、ただちに追跡のサイレンへと変わるだろう。
「見つけた」
美しい彼女の口元が、妖しく釣り上った。
次の瞬間、彼女は一気にギアを変え、タイヤを軋ませてさらに速度を上げる。
そして、ぴったりとパトカーの後方についた。
驚いたことに、パトカーはそれに気づくや否や、突然、加速した。
本来、交通法規を順守すべく警ら中であったはずのパトカーは、自身が法定速度を著しく無視した形で、それまで違法速度を続けていた彼女を追うでもなく、一気に逃げだした。
「逃がしはしない」
絢咲零を乗せたスカイラインは、すぐさまパトカーを追跡した。
もともと、加速力の違いが歴然の性能を誇る彼女の車は、彼女自身の運転技術もあって、難なくパトカーの右隣につく。
その途端、パトカーの黒いウィンドウ越しに見える人影が、こちらに顔を向けるのが見えた。
それを確認した絢咲零は、右手でハンドルを握り、前方を捉えたまま、一切、左を見ることなく、左腕をパトカーに向けて突き出した。
 いったいどこから取り出したのか、その左手にはいつの間にか小銃が握られていた。
同時に助手席側の窓が開かれる。
およそ見る限りは現代のオートマティックハンドガンの部類に入るその小銃は、それでも彼女の細く繊細な指で握るには大きすぎるように見える。
そして異様なのは、その銃が映画やドラマで見るような黒光りするシンプルな形状をしているのではなく、銀色に輝く金属で組み上げられ、表面には金の精巧な細工が随所に施されていることだ。何かの紋章を示すような細工とともに、白金でできた薔薇の蔦が銃の側面を絡みついている。
 武器というよりは芸術作品のようだったが、それはまぎれもなく、“何か”を破壊するための道具だった。
「くたばれ、【預言者】」
冷徹にそう呟いたとき、彼女は迷いもなく引き金を引いた。
それまで沈黙を保っていた暗い銃口の奥から激しい爆炎が轟き、一瞬にしてパトカー運転席の窓が割れ、弾丸が貫通した。
 この位置でこの至近距離である。
運転席に座っているはずのドライバー、警官の頭部を直撃したことだろう。
弾丸が弾丸なら、頭部に銃創ができるどころではなく、もはや粉砕されていてもおかしくはない。
だが、奇妙な状況が発生している。
「ちっ」
 それに気づいた絢咲零が小さく舌打ちした。
運転者を失くしたはずのパトカーは依然走行し続けている。
死亡した運転者の足が、偶然、アクセルを踏み続けているわけではないのを彼女ははっきり理解していた。
運転席側の砕けようとしている窓には、本来、血しぶきが飛んでいてもおかしくない。
だが、一滴たりとも窓側にこびりついている血はない。
硝煙が立ち上る銃口を再び運転席に向けて、彼女は再度、銃撃しようとした。
しかし、次の瞬間。
突然、パトカーが大きく方向を変え、彼女が運転するスカイラインに向けて猛突進してきた。ばきっという金属がへしゃげる音ともに凄まじい衝撃が彼女を襲う。
「くっ」
その衝撃のあまりハンドルを取られた彼女のスカイラインは、高速道路の中央分離帯を突っ切るかのように乗り上げた。
「しまった」
そう呟いたときにはすでに遅かった。
パトカーは、なおも彼女のスカイラインと並走する形を取っているものの、いったん、彼女の車から離れ、今度はさらに勢いよく突っ込んできた。
 がりがりという突起した荒削りのコンクリートでできた分離帯が、スカイラインの底を引き裂いていくのが分かった。
そして、そのまま反対車線へと押し出された彼女の車は、そのまま前方から来る車のヘッドライトにさらされる。
「くっ、まずい」
ブレーキを踏みしめながらハンドルを大きく切るものの、分離帯に乗り上げたときに車軸とブレーキを破壊されたらしい。
慣性の法則にしたがって車は、勢いを殺すことなく、突き進む。
前方の車輪だけが彼女のハンドル操作にならって、動くものの、制動には及ばなかった。
車体は半スピンしながら、前方から来る車に側面を向ける形で、突っ込んでいく。
まさにその瞬間前。
当時10歳だった笹原ナオヤを乗せた彼の父親のRVが、この時、絢咲零を乗せたスカイラインの前方から迫っていた。




――数秒後、片田舎の暗い高速道路の真ん中で、ぽっと大きな火柱が上がった。


5 :コンピュータソーダメロン :2008/11/16(日) 01:05:29 ID:o3teQ7nG

運命の烽火が上がるよりも僅か十数分前。
笹原ナオヤ、当時10歳になって間もない彼を乗せたRVが彼の町の直情を走る高速道路を走っていた。
 夜の10時。
父親と釣りに出かけた少年は、助手席でうとうとしている。
そんな様子を横目で見ながら、父、笹原トウジは少し考え込むようにして眉を寄せながら、再び前方へと視線を向ける。
彼がいま、主に考えていることは、今日の父親としての自分の成果だった。
 思えば、貴重な日曜日、半ば無理やり我が息子を釣りへと誘ってしまったわけだが、結果として今、彼の運転するRVが積んだバケツにはたっぷりと水が張ってあり、そこを泳ぐ魚の姿が数匹目につく。
あまりたくさん釣って、それを持って帰っても母親が今度は眉を寄せるだろう。
遠慮して、三匹程度に減らし、あとは川に逃がした。
ここまではいいだろう。
 問題は、成果そのものの方だ。
彼の息子は現在、すやすやと穏やかな寝息を立てている。
その姿を見るに、足の先から頭のてっぺんまで、母親によって過剰なまでに気ぐるまれている。山の中の川で釣りをするのに、黒いボトムズなのはいいし、自分が息子に買ってやったナイキのバスケットシューズなのもいい。
問題は上半分だ。
これでもかという具合に、シャツやフード付きトレーナー、ダッフルコートに極め付けは母親お気に入りのキッズファッションメーカーのマフラーまでつけてぐるぐる巻きにしている。
この井出達を完成させるまで、母親は二時間かけて息子を着せ替え人形にした。
 自分はリーバイスのジーンズにチェックのシャツ、エアフォースジャンパーを着ているだけの簡単なものにも関わらず、特に意見の一つもでなかったにも関わらずだ。
「まぁ……お嬢様育ちの母親ってのはそんなもんなんだろうけどな……」
しかし、それが問題でもある。
自分が今のナオヤと同じ歳くらいの頃は、元気に山や川を駆けまわっていた野生児だった。少々のケガをしたところで、両親は心配もしていなかったし、逆に少々のことで泣くなとよくどやされたものだった。
「うーん……」
それが今、我が息子といえばだ。
 いくら秋も深まってきたとはいえ、過保護なくらいに寒さ対策をされて、助手席で眠っているが、その寝顔は、ワンパク小僧だった自分とは似ても似つかない繊細そうな顔立ちをしている。
母親似なのだろう。

――お前に似なくてよかったじゃないか。

笹原トウジの父、笹原ジンは、豪快に酒を浴びながら笑い声とともにそう言っていた。
その笹原トウジの父、笹原ナオヤからしてみれば祖父にあたるこの男を見るにしても、ナオヤは明らかに笹原家の血ではなく、母親方の血を色濃く受け継いでいるのは明白だった。
 だが、ナオヤの父、トウジからしてみれば、それがあまりに露骨すぎることが問題であるように感じていた。
男にしては、あまりにおっとりした性格が災いして、どうやら学校ではイジメられることもしばしばのようだ。
ここは、男親として、しっかりイジメっこに向き合う強さを教え込まねばなるまい。
そう意気込んで、笹原トウジは、一か月以上前からこの親子二人だけの釣りを計画していたのだ。
 妻は反対した。
シーズンオフの山は危険だ、とか、秋も深まってきて寒くなっているのに風邪でもひいて学校を休むようになったらどうするのだとか、ドジなあなただと息子と一緒に遭難でもしないか、とか……。
 最後の一言は無視するとして、ここは男として毅然とした態度で強硬実施した。
結局、こういった思い付きで行動し、思い立ったが即実行、他は一切目に入らないといった様子は、この笹原トウジ、とりわけ、笹原家の男たちとしてはよくある現象だったため、はじめから議論しても無駄だと諦めた妻が折れ、こうして父は息子を連れて釣りにでかけたわけである。
 だが、今日一日を振り返ってみて、あまり成果があったようには思えなかった。
結局、息子であるナオヤ本人は、釣りにはほとんど興味がなく、川のほとりで町中ではあまり見ることのない虫や植物をじっと見ているだけだった。
時々、父親が巨大なマスを釣り上げても、ナオヤは特に感動する様子もなく、ほうっと観ているだけだった。
 父の計算では、釣り上げた魚が勢いよく跳ねあがりながら釣りあげられる様子を見るにつけ、少年であるナオヤの冒険心をくすぐるつもりだったのだが……。
あっけない反応しか得られなかったのは、痛恨の極みである。
「やっぱり神崎の道場で鍛えてもらうしかねーのか……」
父としては、自分で自分の息子を鍛えることのできないことが悔しい。
しかし、思っていた以上に息子は母親似だった。
「しかし、あいつのところで鍛えられたら、今度はクソつまんねー真面目なヤローになっちまいそうだしなぁ。そらちっと困るしなぁ」
母親が、やる気に任せて息子を鍛えてくるといった父親の様子を見て、逆に心配する気持ちになるのも分からなくもない男、それが笹原ナオヤの父、笹原トウジだった。
今年33歳のこの男は、いつまで経っても子供のような部分を持つ男だった。


6 :コンピュータソーダメロン :2008/11/17(月) 02:24:37 ID:o3teQ7nG

一方で神崎という男は、笹原トウジの高校時代からの新友だが、この男の親友にしては意外のほどに生真面目な男であり、物腰も落ち付いていて達観している。
 トウジの妻は、彼が息子を鍛えるのであれば、特に異論はなかった。
そもそも、息子を鍛えることについて、妻は特に反対しているわけではない。
問題はこの男のやり方について、異論を唱えているのである。
そのあたりについて、笹原トウジはまったく無自覚であった。
「それにしても参ったな。さっきの街で高速降りればよかったんだが……」
あれこれ考えているうちに通り越してしまっていた。
この時間、彼の車以外に前方にも後方にも走っている車はなかった。
それが彼の油断を誘ったわけではないが、ついつい、息子の寝顔を横目で見ながら、笹原トウジは、再び考え込んでしまった。
 ちょうどその瞬間、200メートルほど前方で、何かが闇の中で光ったのをトウジは目にすることができなかった。
それは絢咲零を乗せたスカイラインが、中央分離帯に乗り上げた際、車の底がコンクリート部分と激しく摩擦した際に発生した火花だった。
そして、笹原トウジが再び前方を向き直ったとき、それはもう避けようがないところにまで迫っていた。
「ん?」
フロントガラスの先を照らすヘッドライトが、突如、あるはずのないものを映し出す。
それは一瞬にして、視界いっぱいにまで拡大したかのように迫った。
なぜかは分からないが、白い車が反対車線から押し出されるように飛び出してきて、ちょうど自分たちの進行方向の真ん中に現れたのである。
どがっという何か巨大で質量の大きい物体が、アスファルトを押しつぶすかのような鈍い音が響き渡る。
「な、なんだ!?」
叫びつつも、笹原ナオヤは反射的にブレーキを踏み、ハンドルを一気に回す。
一方で横目で助手席で眠る息子に目を向けた。
慣性の法則に急激に逆らったがために発生する巨大な重力が、自分とそして息子に襲いかかる。
半ば眠っていた息子が、驚いた様子で飛び上がるが、それは明らかに衝撃によるものだった。
「ナオヤ! 伏せてろ!」
咄嗟に息子がきちんとシートベルトをかけているのを確認して叫ぶ。
タイヤが、ききぃという耳を裂く悲鳴を上げた。
しかし、車は即座には停車できない。
ブレーキを強く踏みつけながらも、勢いよくRVは前方の車と衝突するのは目に見えていた。
「!?」
だがその瞬間、奇妙なことが起こった。
ぐわん、という聞きなれない音が、笹原トウジの耳の奥で聞こえたような気がした。
一瞬の出来事であったことは間違いない。だが、まるで時間がゆっくりと凍りついていくかのように、スローモーションですべての事象が流れていくのを笹原トウジは目撃した。
耳の奥で聞こえる耳鳴りのような音が、金属をこするかのような不快さを伴って彼の脳を襲う。
次の瞬間、視界全体が紅く染め上がった。
血だろうか、それは自分の血か。
そうであればいいと笹原トウジは願った。
息子の血でなければいい、と。
だが、それは自分の血でもなければ、息子の血でもなかった。
巨大な火柱が、車のフロントガラスの向こうで舞い上がっていたのである。
 笹原トウジには何が起こったのか理解できなかった。
すべてが一瞬の出来事であり、不可思議な現象なのは間違いないが、それを不可思議にとらえることさえもできないくらいに彼の脳は、今何が起こっているのかを理解できていない。
彼の乗っているRVはいつの間にか完全に停止しており、衝突するはずだった車との間には、わずか十数センチもの間をあけて止まっている。
結局、衝突しなかったのである。
 にもかかわらず、目の前の車は一気に燃え上がり、その炎はやがて爆発を呼び覚まし、完全に車を爆砕した。
通常であれば、その衝撃は彼の車にも襲いかかってきてもおかしかなかったが、まったくといっていいほど、衝撃がこない。
これほど巨大な炎であるにもかかわらず、熱さえも感じない。
ただ、その衝撃の残りカスか何かのような風が、信じられない顔で見入っている彼の頬をなでていく。
冷や汗のせいか、その風が冷たく感じられた。
「な、なんなんだ!? いったい……」
そう呟いたとき、炎の向こうで陽炎のように揺らぐ人影が動くのが見えた。
車のドライバーなのか。

――やってくれるわね……。【預言者】。

燃え盛る炎、爆炎の轟きの中では、聞こえるはずのない声が、はっきりと、まるで彼の耳元で囁かれるかのように聞こえた。


7 :コンピュータソーダメロン :2008/11/17(月) 23:06:44 ID:o3teQ7nG

「ナオヤ、ナオヤ、だいじょうぶか?」
激しい衝撃に、トウジは首筋を痛めた感があったが、それ以上に息子のことが気になった。息子のナオヤは、前方の炎を驚いた様子で見上げたまま、声を出せずにいた。
そんなナオヤの頭を鷲づかみにするようにして、笹原トウジは、息子にケガがないか確認する。
「父さん、いたい、いたいって」
「あ、ああ、そうか。すまない。ケガはないみたいだな」
突然のこの状況に、自分も落ちついた対応が必要とはいえ、力加減が思うようにいかないらしい。
しかし、この状況というのはいったい、どういう状況だというのか。
ごく普通の事故ととらえればいいのか。

――いや、違う。これは普通の状況じゃない。

そうだ。
何かがおかしい。
普通の事故として捉えるなら、目の前で吹きあがっている炎にあてられはしない。
笹原トウジは、職業上、こういった状況に対して正しい判断と行動を起こせるよう訓練されている。
 だが違うのだ。
これは理屈ではない。
今、自分と息子が向き合っている現象は決して、『普通の事故』などと呼べるようなものではない。
もっと危険な状況だ。
そして早くこの場から立ち去らなければならない。
 彼の中で、生物が根源的に持ち合わせている危機に対しての直感めいたものが、ずっと何かを警告し続けている。
「……」
息子が無事なのを確認してから、トウジは再びフロントガラスの向こうに目をやった。
まるで炎のカーテンともいうべきだろうか。
燃え盛る劫火が竜巻のようにうねり、天上へと噴き上がっている。
笹原トウジは、車が事故か何かで爆発する映像をテレビか何かで見たことがあるが、映画であれ、実際の映像であれ、爆発と呼ばれるような現象は、ほんのわずか一瞬でしかない。
 車体内部に蓄積されたガソリンに引火しても、ここまで天高く炎が燃え上がるというのは、少し異常だ。くわえてこれだけ大きな炎と接近しているにもかかわらず、どうしてこれほど熱を感じずにいられるのだろうか。
 いや、このおかしな現象はともかくとして、息子の安全を確認しなければならない。
まったく熱を感じない炎とはいえ、これだけ接近しているのだ。いつ、自分のRVにも炎が襲ってこないとも限らない
幸い、何が起こったかわからないが、RVは直接、前方の車体と衝突してはいない。
ぎりぎりで停止した。
 爆発は、衝突が直接の原因ではないだろう。
相手ドライバーの安否も気になるが、今はとにかく、RVを炎をから遠ざけるべきだろう。
笹原トウジは、RVのキーを入れる。
ところが、
「どうした?」
ブルルル、というエンジンをかけようとするプラグの音が響くものの、いっこうにエンジンがかからない。
さっきの衝撃のせいなのか。
しかし、どこをどう見ても外部の損傷はみられない。
エンジントラブルか。
何度かエンジンをかけようと試みたが、どうにも車は動きそうになかった。
「くそっ」
舌打ちしながら笹原トウジは、息子に目をやる。
息子が少し不安そうな表情で父の目を見返した。
それから、父、トウジの判断は早かった。
「ナオヤ、車から出るぞ」
「え? でも……」
「いいから降りるんだ。何も持つな。とにかく降りろ」
そう言いながら、トウジはシートベルトを素早く外し、ドアを開けた。
その瞬間、車外からゴォォ、という何か獰猛な生き物の雄叫びのような音が響き渡った。
まったく熱を感じないこの炎は、まるで幻想のようにも思われたが、今まさに自分たちの前に確かに存在しているのだということを実感させる音だ。
 笹原トウジは、すぐに車を後ろから回り込んで、助手席のドアを開けた。
のっそりとシートベルトを外している息子を素早く車外に連れ出し、再び炎を見上げる。
「……」
一瞬、何かを考えるトウジだったが、すぐに息子を連れてRVからいったん離れる。
そして、周囲に車が通りがかる気配がないか探った。
しかし、この時間、ここを通りがかる車は少ない。
そして運の悪いことに、はるか彼方の闇に眼を凝らしても、車が近づく様子は見られなかった。
だがここは、自分のたちの住む町の直上を走る高速道路だ。
今頃は、直下では噴き上がった炎が遠くからでも見えているだろう。
それにこの炎が天高く舞い上がっているおかげで、空の闇も少し血を混ぜるかのように赤黒く見える。
誰かが通報しているはずだ。
トウジは、息子を連れて安全と思われる距離まで引き放し、さらに車が通りがかっても、この闇の中、間違って引かれることのないよう路肩まで引っ張った。
幸い、明かりも近くにある。
「いいか、ナオヤ。父さんはあの車の運転していた人が近くにいないか探してくる」
今起こっていることを理解できないでいるのか、ナオヤはぼうっと炎を見上げている。
そんなナオヤと目線を同じくして、肩を叩いた。
「聞くんだ! ナオヤ」
少し語調を強めて、ようやくナオヤが父の顔を見据えた。
「おまえはここでじっとしているんだ。いいな。絶対に父さんが戻ってくるまで動くなよ。いいな?」
「……」
ショックで言葉をうまく発せずにいるのか、ナオヤは、こくこくと頷いた。
「よし」
父は、息子の頭をくしゃくしゃと撫で、そして再び現場へと走って戻っていった。






『【預言者】は?』

「逃げた。思っていた以上に【神聖化】が進んでる。通常弾程度ではどうにもならない」

『ルーマニア人のグループが近づいてきている。やつらが絡むと面倒だ』

「この間は、ロシア人。今度はルーマニア人? 全部、ぶち殺してやればいい」

『何人、血を流せば気がすむ』

「その前にこちらの血を取り戻さなければ。とりあえず、おあつらえ向きの男がいる」

『この色情魔が。さっさと済ませてその場を離れろ』


8 :コンピュータソーダメロン :2008/11/19(水) 23:36:05 ID:o3teQ7nG

笹原トウジは、まず自分のRVまで走り戻った。
前方には紅蓮に燃え盛る炎が、地獄のように当たり一面を照らしだしている。
やはり熱を感じない。
一瞬、彼は遥か後ろでこちらを見ているはずの息子を見返した。
動くなといった通り、息子はじっとしているようだ。
彼はそのことに少しほっとしながら、再び前方を見返した。
炎があたり一面を照らしているが、自分のRVと前方のスカイラインの付近に、ドライバーの姿は見えない。
ひょっとしたら、自力で脱出して、この場を離れたのかもしれない。
だが、ここにいるだけでははっきりとは分からない。
 炎はスカイラインを飲みこむ形で燃え盛っている。
突然の爆発が起こらないとも限らないが、トウジはできる限り安全な距離を保ったまま、スカイラインの周囲をゆっくり歩いていく。
「ったく、なんて状況だ。逃げだしてなかったらまずいぞ」
運転席の見える位置までゆっくりと近づいていく。
濃い炎の揺らぎではっきりとは分からないが、どうやら人影は見えない。
後部座席は、ガラスが黒いために分かりにくいが、ところどころ割れており、なんとか中を窺い知ることはできそうだ。
「よし、車内には誰も乗ってねぇ」
そうなるとこの周囲のどこかに逃げだしたのか。
それとも中央分離帯に乗り出した際の衝撃で、車外に放り出されたか。
 もしそうだとしたら、地面に叩きつけられたときの衝撃はかなりのものだ。
そう簡単に動けるようには思えない。
トウジは周囲を見渡した。
車が突っ込んだせいで分離帯が砕け散り、あたりに破片が飛んでいるのが見える。
 コンクリートの塊や、分離帯を形作るための鋭く尖った鉄筋までもが見える。
おそらく、あの向こうから何かの理由でこの車はこちら側の車線に飛び出してきたのだ。
考えられるのは、そのあたりでドライバーが一気にフロントガラスを突き破って車外に放り出されたか。
実際、スカイラインのフロントガラスは、無残に砕けている。
それも、破片を外に飛び散らす形でだ。
だが、そうなると余計にドライバーの安否が気になる。
無傷ではないはずだ。
「くそ、まだサイレンの音が聞こえてきやがらねぇ。まさか誰も通報してねぇなんてことはないはずだが」
そう呟いたときだ。
背後で、ぱきっという音が聞こえた。
最初それは何かが燃える音だと思っていた。
 だが、それとともに何者かが動くような気配を感じる。
笹原トウジはすぐに振りむこうとした。
しかし、そこで説明のつかない現象が彼の身体を襲ったのだ。
「……」
身体が動かない。
さっきまで自分は冷静に状況を見据えながら行動し、危険を十分認識した上で最善の行動をとっていると思っていた。
普通の人間ならパニックを起こし、まともに思うような行動がとれないこともあるだろう。
だが、彼は違う。
このような状況、事故や災害、そして有事の発生した現場、それが国内であれ、海外であれ、特殊な訓練を受けた彼ならば、今のこの状況を正しく打開する能力がある。
動けない理由などひとつもないのだ。
「……!?」
それが今、自分の身体はぴくりとも動かないでいる。
 手が震えているのを感じる。気のせいではない。
自分は今、震えているのだ。
そして、その震えのあまり動けないでいる。
 それは彼の全身が、細胞が精神が、そのすべてが、今、自分の背後でこの世に存在する最も危険な存在を感じ警鐘を鳴らしているのだ。

――決して振り返ってはならない! 見てはないらない!

何かは分からない。
理屈ではない。
今、イラクでも体験することのなかった最も危険な状況に自分はいる。
笹原トウジは直観した。
どう説明すればいいのか分からない。
強いて言えば、この世に存在する最も禍々しく邪悪な存在、【絶対悪】とでも表現すればいいのか。
ふいに、自分の背後に存在するその【絶対悪】が、口元を歪ませて笑ったような気がした。
そしてその時、不思議なことに、自分の耳元にさっきから轟いていた炎の雄たけびが、いっきに掻き消えた。
さながらこの世を凍りつかせたかのような静寂が、あたりを包む。

――震えているのか? おまえ

ソレは突然、何の前触れもなく口を開いた。
「……」
笹原トウジは動けず、また声を出すこともできない。
かまわず、ソレは続けた。

――男はいつもわたしを前にするとき、震えるか、欲を覚えて舌舐めずりするか、どちらかだな。だが……。

「……な、な……」
やっと思いで言葉にならない言葉が、声に出る。
自分はまだ生きていると実感する。
しかし、そんな儚い感覚も、次の瞬間、一瞬にして消滅した。
 まるでナイフのように冷たく鋭い感触が、自分の首筋にそっと触れた。
凍るほどぞっとするような恐怖が、自分の背筋を駆け抜けていくのが分かった。
そして今度は、少し離れた位置から聞こえたその声が、突如、すぐ耳元で響き渡った。

――おまえのその恐怖は正しい……。


9 :コンピュータソーダメロン :2008/11/21(金) 00:29:40 ID:o3teQ7nG

絢咲零にとって、その男はたまたまその場にいただけに過ぎない。
男は背が高く、年齢は30代中頃だろうか。
それなりに鍛えられているかのようにしっかりと地に足をつき、不精ひげを生やして、ジーパンにエアフォースジャンパーを着ている。まるで80年代のアクション映画に出てくる刑事役のような格好をしているが、それなりに顔も悪くない。
 普段は軽そうだが、今この状況に際しては精悍な表情をしている。
身のこなしから見ても、おそらく、実際に刑事か消防士か、それともこの国でいえば自衛隊員か、いずれにしても危険な状況下において常に冷静な行動を求められる職業についているのは確かだろう。
自分という『未知』の存在に対して、理解はできなくても直観で危機を察知しているところを見ても、かなり『有望』といえるだろう。
【魅了】して手駒に加えたいところだが……。

――時間もなく、状況もあまり芳しくない。

背後から男の頬に手を当てたとたん、男は言葉もなく、先ほどまでしっかりと立っていたのが嘘のように、力なくその場に膝をつけた。
やがて、絢咲零の美しい顔が、わずかに笑みを浮かべたかと思うと、そのまま男の首筋に口元を近づけていく。
炎のせいだろうか。
 彼女の瞳が紅く染まっているかのように見えた。
彼女は黒いスーツの上着のボタンを外し、真白いブラウスのボタンを外していく。
やがて、外されたボタンからシャツの前がはだけ、彼女の豊満な胸を包みこむ下着が見え始めると、その手を止めてゆっくりと後ろから男首筋に向けて、形のいい唇を添えた。
 男がびくりと硬直した。
しかし、それ以上、男は動けない。
やがて、彼女が口をわずかに開けたとき、その奥に鋭く尖った牙のような歯が見えた。
次の瞬間。
 まさにずぶりという肉を貫き抉るような不快な音がその場に響き渡った。
ただし、笹原トウジの首筋が貫かれたのではない。
「がはっ!」
口元から血をはいたのは、絢咲零のほうだった。
次いで、信じられないといった様子で目を見開いている笹原トウジは、自分の胸元からありえないものが突き出ているのを目にする。
槍である。
それも、何十年も前にそこらにある棒きれに荒削りされた刃を適当に棒の先に突き付けて縄で縛ったかのような古めかしいものだ。
刃自体が金属のようではあるが、磨かれた石材のようにも見える。
どちらにしても何かの鉱物を含んでいるようだが、半ば錆びており、先が赤黒く染まっている。そして何より、今は自分の血に染まっている。この現代において、こんな古風な武器を目にするのは珍しい刃物が、自分の背中から胸へと貫通しているのだ。
 この位置だと心臓は貫通していないだろう。
しかし、致命傷であることは間違いない。
「が、がはぁ」
笹原トウジは、何が起こったのかすぐには理解できなかったが、喉の奥からこみあげてくる血液をいっきに吐き出した瞬間に理解した。
自分は今、殺されようとしているのだ、と。
すぐには痛みを感じることはなかったが、じわじわと確実に痛みが増幅されていき、彼の脳を攻撃していこうかというとき、無造作に胸を貫いていた槍がいっきに引き抜かれた。
その瞬間、それまでゆっくり広がっていた痛みは、信じられない激痛が彼を襲う。
「ぐああああああああああああああああ!」
支えを失った身体は力なくその場に前のめりになって倒れ、それとともに、胸に大きな穴が開き、そこから止め処なく血液があふれだした。
槍が刺さっていたことで閉じていた傷口が、それを失ったことにより蛇口のごとく血を流していく。
その間にも、自分の喉の奥に血が溢れて、呼吸さえも危うい。
 急激に体温が下がり、全身が麻痺し、指の先が冷たくなっていくのが分かる。
このままでは失血死か、あるいは呼吸できずに窒息死するだろう。
やがて、血液を失っていく過程で、視界も暗くなっていった。
(……な、なんだ……。ここで……死ぬのか? オレは……)
笹原トウジは、だんだんと痛みさえも消えていくのを感じながら消えゆく意識の果てで、遠くに離した息子のことを思った。
何かは分からないが、危険な何かがここにいる。
息子は……。
息子だけは……息子だけは何とか逃がさなければ……。



 それが、笹原トウジが最後に心の奥で考えたことだった。



(動けない)
肉体の損傷が激しく、かなりの量の血液を失ったからだ。
絢咲零の美しい肢体は今、人間の男の上に覆いかぶさるようにして倒れている。
 まだ温かい血が自分の身体を濡らしていくのが分かる。
それは自分の血であり、そして男の血だろう。
だが、男の身体からは急速に体温が失われていくのもはっきりと感じた。
 男は助からないだろう。
絢咲零は冷たくそう考える。
それならそれで、さっさとこの男から血をもらっておけばよかった。
そう考えてももはや遅いにも関わらず、倒れたままの絢咲零は冷静に考えていた。
彼女の表情は今、まるで人形のように瞳を開いたまま、ぴくりとも動かない。
もともと病的なまでに色白な彼女の肌は、血液を失っていく過程でも、それほど変化があるようには思えない。
 しかし、彼女の身体もまた笹原トウジと同じく胸を貫かれて今もなお、大量の血液を失っている。
このままでは、男と同じくまもなく死ぬのは目に見えていた。
にもかかわらず彼女の思考は至って冷静だった。
(本当に動けない。これは普通の槍ではない)
彼女の背後には、今も何者かの気配を感じる。
もちろん、彼女と男を刺した張本人だろう。
ソレは依然、この場にいて、獣のような荒い息をつきながら、じっと自分の様子を窺っているようだ。
 自分が死んだかどうかを見極めようとしているのだろう。
このままでは、近い将来、とどめの一刺しを受けるのは目に見えている。
(このままでは死ぬ)
そう心の中で呟いてなお、彼女は冷静だった。
 だが、彼女は何かを待っていた。
瞬きすらできなくなった見開いたままの瞳は何も映していないかのようだったが、実はその目は、ある一点に向けられていたのである。
今、自分の下で死を迎えようとしている男の背に自分は倒れ込んでいる形になっているが男の傷口のすぐ近くに顔を寄せる形になっている。
傷口からは今も血が溢れていて、その流れのひとつが、間もなく自分の唇を濡らそうとしている。
 彼女はそれを待っていたのである。
(……)
そして、最初小さな一滴だった血液が、じょじょに大きく膨らみ、やがてつらつらと一つの流れとなったとき、わずかに彼女の唇に触れた。
次の瞬間、光を失っていた彼女の瞳が、まるで血液によって染まったかのように紅く輝いた。
 それを察知した背後のソレが、びくっと反応し、素早く動いた。
握りしめていた槍を大きく振りかざし、彼女にそれを振りおろそうとする。 
「う、うごがあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
人間のそれとは思えない潰れた声帯から奇妙な雄たけびを上げ、ソレが持つ凶刃が彼女を襲う。
しかし、彼女の動きもまた速かったとはいえ、計算外のことが起こった。
「なっ」
ソレは最初から彼女の動きをすべて見透かしていたのである。
“力”を取り戻してすぐ振り向きざま、そのまま倒れた拍子に落とした【銃】を拾ってソレに向けて発砲する。それが彼女の計算だった。しかし、【銃】を拾ったとたん、その手首をすぐにソレの足に踏みつけられてしまった。
「しまった」
しかし、そのまま、振りかざした刃が自分に向けて振り下ろされようというとき、その刃は突如、自分の胸元で止まった。
「ぐ、ぐるるらぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
自分ではないソレの雄たけびが、それまでとは違って、激しく苦しむかのような苦悶に満ちた断末魔の叫びをあげる。
一度自分に振り下ろされようとしていた刃を天高く振りかざし、ソレはよろめいた。
いったい何が起こったのか、彼女はすぐには理解できなかったが、ソレの背後に立つ小さな影を見つける。
 子供だ。
年端もいかない子供が、涙を流し、顔を赤く染めて脅えたように震えたまま、両手で何かを持っている。
ナイフだ。
 それも果物などの皮をむくような頼りなく小さなナイフである。
大方、今死んだ男の息子か何かだろう。
山で一緒に釣りでもした帰りだったのか。
そんなことはともかく、これは大きなチャンスだ。
彼女はようやくどかされた腕を起こし、適度な距離のできた標的に向けて【銃】を向けようとする。
それを察知したソレは、次の瞬間、信じられない行動を起こした。
「がらぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
自分を刺した子供を片手で掴み上げ、絢咲零に向けて投げたのである。
「な!?」
絢咲零は一瞬、戸惑い、反射的に子供を受けとめる形となり、【銃】を落とす。
信じられない怪力で投げられた子供にかかる衝撃をできる限り弱めようと、傷口が露出した自分の身体を引きずり、なんとか胸元で受け止める。その際に受ける痛みは、計り知れない激痛となって彼女を襲った。
 子供は泣き叫び、絢咲零は子供を受けとめた状態のままのため、【銃】を再び拾って標的に向けることのに僅かな時間を要した。
その隙に距離を詰めたソレは、今度こそ躊躇なく槍を掲げ、そして貫いたのである。
 子供もろとも……。
「【預言者】ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
ぐさり、という音が響き渡り、同時に彼女のソレに向けて突き出した腕には【銃】が握られていた。その銃口は紫煙を立ち昇らせている。
両者は向きあった形で硬直し、互いを滅さんと睨みつけている。
 この人間離れした狂気の戦闘は、この瞬間にあっけなく終了した。
最初に倒れたのはソレのほうで、それまでのことを思えば拍子ぬけするほど弱弱しく力の抜けた人形のように倒れ込む。
 そして、自分と自分が受けとめた子供の上に覆いかぶさった。
「汚らわしい……」
絢咲零は、子供の上の追いかぶさったソレを片手でどかせた。
そして、自分が受けとめた子供を抱えたまま、ゆっくりと上体を起こす。
子供のほうは、ひくひくと呼吸を繰り返し、口元から血を流して泣いている。
 母親に買い与えられたのだろう。
今、倒れている男の趣味とは思えないほど繊細なデザインのマフラーは口から垂れる血で染まっていく。
「……」
絢咲零は、自分が着ている自分の血で染まった上着を脱ぎ、固いアスファルトの上に敷いて子供を寝かせた。
 そして、冷たい汗と涙で濡れたその頭を膝の上において子供を見降ろした。
言葉をうまく発せられない子供が、そんな自分をまっすぐに見つめる。
時々、痛みに苦しみながら、咳を繰り返している。そのたびに口から大量の血を吐きだした。
「何もしゃべらずにじっとしていろ」
そういって、彼女は、できるかぎりそっと子供の胸元に手をやった。
母親に着せられた服は、何枚も気重ねられているが、そのどれも貫通して破かれている。
その先には、子供の肌ではなく、ぽっかりと赤く、そして止め処なく溢れる血が見えた。
傷口は貫通こそしていないものの、深く、大きい。
「……」
絢咲零は、不意に男の方を目にした。
はっきりと分かる。男はすでに死んでいる。
この子供もまもなく死ぬだろう。
 自分と【預言者】の戦闘にたまたま巻き込まれて親子ともども死ぬ。
そんなことは今まで何度となく繰り返されてきた。
いまさら感傷耽るものでもない。
ただ……。
 ただ、なんだ、この気持ちは……。
「何か欲しいものはあるか」
こんな田舎町の高速道路の上で、子供に何を与えられるというのか。
我ながら意味のない質問をしたような気がした。
それよりも、もはや子供に自分の声が届いているかどうかも怪しいのだ。
だが、子供はその時、かすれるような声で呟いた。
「歌って……」



雪が降った。
この季節には珍しい秋の雪が……。





――数時間後。

あたりを救急自動車が数台止まり、警察のパトカーが取り囲んでいた。
爆発によって炎上した炎はすでに鎮火され、その余韻を残すかのように煙が立ち上っている。何人もの捜査員が現場確保に躍起になり、救急隊員が長細く大きな袋を二つを担架に乗せて車内に収容していくのが見えた。
 その間にもサイレンが鳴り響いて、数台の車がやってくる。
それらは現場確保のために駆り出された交通課の職員だろうか。
この時間、ほとんど車の往来はないが、それでも現場から一般車両を遠ざけるためにポールを立てて、進路を作っている。
有害ガスから身を守るための防護マスクを口元に充てて、スーツ姿の男が独り立っている。
四十を超えた彫りの深い顔立ちの男は、まっすぐ“現場”となっている白い枠線の引かれた場所を思慮深い目で見ていた。
「恩田さん、どうやら『子供』の方は助かったそうです。刺されていたようですが、傷は浅く、命に別条はないと……。残念ながら父親のほうはすでに死亡しています」
「そうか……。頭を吹き飛ばされた『警官』のほうは?」
「それが妙なんです。『警官』のほうは、大口径と思われる銃の直撃を受けています。文字通り頭蓋が粉砕されていて、見れたものじゃありません。なのに、撃たれたのはそこで倒れるよりもずっと前になるらしくて……。鑑識の間違いじゃないかと……」
「……他に死体か、そうでなければ生存者は?」
「いません」



....to be continued.


10 :コンピュータソーダメロン :2008/11/21(金) 03:45:24 ID:o3teQ7nG

笹原ナオヤと絢咲零の最初の出会いから二日後。
彼が住む町から20キロ東に離れた郊外には、山々が連なる樹海が深まっており、車道はおろか、まともに歩く道すらない場所となっている。
 だが、それを貫通する形で長距離のトンネルが掘られていた。
そのトンネルの中を時々、鉄道が走っている。地元の人間でもあまり近づかない場所となっていた。
それもそのはずこの場所は、鉄道が通っているとはいえ、それ以外の場所はすべて私有地となっているのだ。
 十数年前にこの山の林業そのものを引き継いで買い取った人間がいるが、特に山を手入れする様子もなく、野山は荒れ果てて、誰も近づかない。
今ではあったはずの道も野に消え、うかつに入ることすらできなくなっている。
 そしてその屋敷は、その山の頂上に、まるで木々に隠されるかのようにそびえ立っていた。
山の頂上とはいえ、麓からは想像もつかないほどに整然と整地され、四方を壁に囲まれながら、中世ヨーロッパを思わせるゴシック調の巨大な門がたたずむ。
やや古びた感のある壁ではあるが、ずいぶん背が高く、上を鉄格子がそびえ、時折、近代的な監視カメラが設置されている。
近代と中世が入り混じる奇妙な風景が見えた。
そして、その壁の内側には、美しく手入れされた庭園が広がっているが、何かを警戒するかのような黒服の人間がそこかしこに立ち、周囲を見つめている。
まるで迷路のような生垣が続き、中央には大理石でできた噴水が、静謐な空気を称えて水しぶきをあげている。
 そのさらにずっと奥にその巨大な屋敷は立っていた。
アーチ形の大きな屋敷の扉の両側に、やはり黒服を着た長身の男が立ち、黒い革袋をはめて立っている。
そんな彼らの前に、今、絢咲零は立っている。
 黒いスーツ姿ではなく、彼女のほっそりとしながらも悩ましい肉体のラインを浮き彫りにするかのようなぴっちり肌に吸いつく黒いラテックスのスーツを着ており、下半身から胸元までの中央のラインを鍵付きのジッパーが通っている。
何かのボディースーツのようだが、彼女の美しさをより妖艶に見せるかのようだった。
そして彼女はその上に黒いブルーフォックスファーのついたダッフルコートを着込んでいた。長かった絹のような黒い髪は肩までのラインで切り、血のように紅い唇をしている。
男たち2人は絢咲零の存在を見るに、特に何をいうでもなく頷くだけで、あっさりと扉を開けた。
 夜も深まり、暗雲が立ち込める中、ぎぎぎという扉の軋む音だけが静寂を切り裂く。
「……」
扉の向こうのホールには、美しいシャンデリアには明かりがついておらず、かわりに部屋のいたるところに添えられた蝋燭が、独特の雰囲気を伴ってあたりを照らしている。
それらは、やわらかく、控え目にそこで蠢く者たちを浮かび上がらせていた。
欲望のままに互いを貪る者たちである。
 19世紀ごろの高級感漂うソファやテーブルの上に、その肢体を広げ、あられもない姿で抱き合う男女の姿が、幾重にも重なる。
奇妙なのは、そのどちらの首筋にも、生々しい血のあとが見えるということだ。
そして、どちらの口元にも鋭い犬歯が見え隠れする。
彼ら彼女らは、互いに互いの血を浴び合っているのだ。
混沌と背徳、それらをそのまま表現するかのような光景が、絢咲零の前には広がっている。
その真ん中のソファを陣取り、何人もの美しい女を侍らした男が、こちらをじっと見ているのを見つけた。
「遅かったな。何をしていた」
黒いレザーパンツをはいているだけで、上半身裸の男は、観たところ20代後半から30代前半ころだろうか。鍛えられている様子ではないが、決して優男ではない。
腹筋もきれいに割れており、右肩にはラテン語か何かのタトゥーが彫られている。
左目の瞼に二つピアスをはめ、白金色に染められた髪は短めで、顔つきはヨーロッパ系だ。
 日本人ではない。
だが、言葉は流暢で完璧な日本語の発音だった。
男はタバコを口に咥え、髑髏をあしらった指輪を数限りなく指にはめた両腕で女を抱いて、絢咲零を見つめている。
このゴシック調の屋敷の中には似合わないマフィアのチンピラのような男だった。
つまり、姿形は『人間』に見える。
だが、彼女は知っていた。
この屋敷のどこを探しても、『人間』などいない。
「俺が来いといったら、すぐに来るんだ」
男は怒気を孕んだ声で、静かにそういう。
その瞬間、男の目は、不気味な金色に輝く。
まるで月夜に照らし出された狼の目のようだ。
そんな彼の様子に、彼に抱かれている数人の『女たち』は、わずかに脅えた様子を見せるが、当の絢咲零は、相変わらず涼やかな表情を浮かべている。
「わたしは忙しい。レン=フレイザー」
絢咲零は冷たくそういった。
その瞬間、彼女の周囲にいる者たち全員が、びくりとした様子で見返す。
不穏な空気があたりに、ぴんと張り詰めた緊張感を感じさせた。
レン=フレイザーと呼ばれた男は、やがてにやりと笑った。
「俺にそんな口を利くのはおまえくらいだ。キスキル=リラ。いや、セリーンと呼ぶべきか?」
「名前などどうでもいい。なぜイギリスから戻ってきた」
「ルーマニア人どもが、最近、集まりだしていると聞いた。あのクソったれどもが俺の庭先をうろつくのは我慢ならん。それに……」
「……」
そこまで口を開いたフレイザーが、何か興味深そうに絢咲零の顔を覗き見る。
絢咲零は、そこで不快でもあるかのように眉をわずかに寄せた。
その反応を確認してから、フレイザーは、隣の女に一瞥する。
それを受けて女は、ソファテーブルにあったリモコンを操作した。
絢咲零とフレイザーの間にある真白な壁に、いつ間にか備え付けられていたプロジェクター用のスクリーンに、映像が浮かぶ。
それは先日起こった“自動車事故”とそこで死んだ『警官』と親子の事件に関するニュースの録画だった。
『警官』は、事故発生時の衝撃で頭部激しく『強打』し、死亡ということで報道されている。親子のうち父親はもまた事故で死亡したというものだ。
 やがて、親子のうち息子のほうは助かったいう情報が流れたところで、停止された。
「【預言者】は問題なく消したようだな。さすがだ」
「それがわたしの仕事だ」
「この親子は何だ」
「近くを通りがかった。父親に状況を見られたので消した」
「おまえにしては失敗だな。なぜ子供のほうは生かした」
「父親が子供を現場から遠ざけてから近付いてきた。子供のほうは何も見ていない。だから生かしておいた。何も“見ていない”ことを人間どもに証言させるためだ」
絢咲零の言葉は、適切であり、淡々とした面持ちでそれらを説明していく。
まさしく状況に慣れたプロの判断だった。
フレイザーもそのことに対しては、十分納得している。
だが、ひとつだけ気に入らない点があった。
「本当に子供は何も見ていないのか」
「そうだ」
「では、子供が傷を負っているのはなぜだ」
「傷はあくまで、戦闘に巻き込まれたものではなく、“事故”そのものの衝撃によるものだ」
「なるほど……」
彼はしばらく絢咲零をじっと見つめて何かを思案していた。
だが、その表情とは裏腹に、実際はすでに結論を出している。
あえて思案しているように見せているのは、あくまで冷静な表情を見せている絢咲零を観察するためだった。
やがて、彼女の表情からは何も見いだせないと判断したのか。彼は口を開いた。
「念のために、しばらくこの子供を監視しろ」
「……」
その瞬間、今度こそ、絢咲零の眉ははっきりと不快を表明するそれを表した。


11 :コンピュータソーダメロン :2008/11/22(土) 03:13:51 ID:o3teQ7nG




1993年、それは奇しくも10月31日のハロウィンに起きた事件である。
 某市内にある銀蘭町は、さしたる特徴のない田舎町であり、ほとんど事件らしい事件も起こったことのない平和で退屈な町だった。
だが、その日、その場所で起こった事件は、その平和な町にしてみれば十分センセーショナルであり、しばらくテレビ関係者や雑誌の取材などで皮肉にも賑わうようになる。
高速道路上で起こった謎の爆発などという触れ込みは、あっけなく警察関係者によって無謀運転による反対車線側への脱線と、その時、『運悪く』対向車線側を走っていた笹原親子のRVとの衝突事故という形で幕をおろそうとしている。
 笹原ナオヤの父、笹原トウジの胸を貫通する傷などについては、近くに転がっていた鉄パイプ、おそらく、中央分離帯の鉄骨が運悪く彼の胸を事故の衝撃時に貫いたものとして片付けられている。
それらしい笹原トウジの血がべったりとついた鉄骨もまた、現場付近で発見されている。ただし、それは警察関係者ではない何者かによる計らいによって捻じ曲げられた真実だった。
 ただひとつ奇妙な点は、あの事件発生時に収容された『警官』の遺体の行方だった。
公式発表では、発見された遺体は二体と報告されている。
その中で、『警官』の格好をした何者かの遺体に関しては、一切触れられていない。
それは、笹原トウジの遺体と、もうひとつ。
頭部が激しく損傷し、原型を留めていない遺体がひとつ、ということになっている。
 むろん、頭部損傷が激しいために身元の特定にも時間がかかっているらしい。
今回の事件に関して、現段階ではその遺体から多量のアルコールが検出されており、飲酒による無謀運転が引き起こした不幸な事故として片付けられようとしていた。
ただ一つ。
身元不明の遺体に関してのみ、今だ不明のままとして……。
この事件に関して、生存者は笹原ナオヤという10歳の少年のみである。
警察は、この少年から事件の詳細を聞きだすことが、最大の手がかりと考えているが、少年は、病院のベッドで検査と治療の毎日を過ごしている。
 医者は警察が病室に入ることを快く承諾してはいなかった。
少年の外傷はほぼ全くない。
胸の傷にしても、それほど深くはなく、実際、縫うまでもない程度のものだった。
にも関わらず破れた少年の服にしみ込んだ血の量は、尋常ではなかった。その点において警察もまた医者も首をかしげているが、現段階では何の答えも出せないでいる。
それは、少年が一切、心を閉ざして何も話そうとしないからだ。
 肉体の傷は浅いが、心が受けた衝撃は10歳の少年には計り知れない。
恐ろしい事故に見舞われ、父親が胸を貫かれて死んでいく様を見たのかどうかは分からないが……。
少年にとって想像を絶する体験だったのは間違いない。
一切、口を開かない少年を母親が、一日中そばについて優しい微笑みを浮かべて話しかけ、世話をしている。
その横顔は、少し疲れて見えた。
 黒いスレンダーなワンピースに細く長いブーツをはいている。白いコートを片腕に織り、今は少年に何かを着せようとしている。
年齢は30代前半だろうか。ずいぶん若く見えた。
20後半といっても十分通じるだろう。
 さらっと伸びた髪は、さりげない程度にこげ茶色に染められており、彼女の気品ある顔立ちには野暮ったいイメージはなく、よく似合う。
 清楚可憐という言葉は彼女にこそ当てはまるだろう。
およそ、生前の笹原トウジの妻には見えない。
その彼女は、今は疲れた表情を無理に笑顔にして息子の髪を撫でている。
その様子は、とても痛々しく見えた。
 そんな二人の親子を遠目に見つめている存在があった。
2人の女性の姿が、笹原ナオヤのいる病室の窓の向こうにある別病棟の窓に立って、こちらをじっと見ている。
ざっと数十メートル離れた距離である。
笹原親子は、この二人の女性の存在にはまるで気づいていない。
 一人は、絢咲零。
相変わらず挑発的な胸元の大きく開いた黒いレディーススーツを着ていて、胸元には白いレースのリボンが印象的となっている。
彼女のほっそりとした肢体が、強調されたようなこの服だが、逆に動きやすいので彼女は好んで着ているともいう。
いつもならパンツスーツの彼女だが、今日はあえてタイトなスカートをはき、黒いストッキング姿だった。
 絹のような黒髪は後ろに結い上げてアップにし、細身のメガネをかけている。
一方、彼女の隣に立つ女性は、彼女とは対照的に白いパンツスーツで、派手すぎずフォーマルな井出達となっている。
絢咲零と負けず劣らず豊満な肉体の彼女は、髪をそれほど目立たない形で亜麻色に染めて、肩までの長さの髪を毛先だけウェーブをかけてカジュアルな印象を与えていた。
この二人の20代の女性が放つ人間離れしたともいうべき妖艶さは、まさに人外のそれであったが、この病院内を歩く誰にもそれを知ることはできなかった。
 むしろ、この二人に惹きつけられて、誰もが視線を向けずにはいられずにいる。
「父親の調べはついたの?」
少年に視線を向けたまま、絢咲零は、傍らの女性に声をかけた。
「笹原トウジ。38歳。12歳までこの銀蘭町で暮らしていたが、中学にあがる直前に父親に連れられて渡米。父親は考古学者でアメリカのシカゴ大学で教鞭をとったあとエジプトに向かったが、その際に友人であるジョン=デイビットに預けられ5年間彼の元で暮らしてる。ジョン=デイビットは、元米兵レンジャー部隊にいた兵士で退役後に警官として地元の警察署長をしていた。軍役時代の経験からSWATの教官もしていたような男らしい。その男に、笹原トウジは五年間、父親の頼みで鍛えられた。17になる頃には、十分、銃器の扱い、基本的な市街地内における接近戦、各種格闘技術を備えていたというわ」
淡々と情報を口にする彼女は、笹原トウジという人間のすべてを記憶しているかのように正確に伝える。
 彼女の言葉を聞きながら、絢咲零は、そんな笹原トウジの息子とは思えないほどに繊細でひ弱に見える息子を見つめていた。
「そして、彼が18になった時、地元の大学を受けようとしていた彼を父親が連れて再び日本に帰国したらしいわ。彼を自分の母校で学ばせたかったそうだけど。ただ、当時の笹原トウジは考古学者になるより警官になりたかったそうよ。SWATに入るのが夢だったらしくて、彼はジョン=デイビットの薦めでロサンゼルスに向かった。笹原トウジは、見事にSWAT試験に合格し、入隊を果たしたわ。父親はその時、笹原トウジとの関係を断絶し、日本に戻ってくるまでは連絡も取らなかった」
「息子を考古学者にしたかったのならどうして軍人に息子を預けたりしたの」
「さあ、そこまでは分からないわ。彼の父、笹原ジンはもうこの世にはいないし」
絢咲零の問いかけに対して、つまらなそうに女性は答えた。
「……」
「とにかく、史上最年少で入隊を果たした笹原トウジは、それから10年近くLAで血生臭い事件に関わってきた。27の時に妻、旧姓、宮沢ユキノにルイジアナ州ニューオーリンズでフットボールの試合を観にいったときに出会い、結婚してからは、日本に戻って警官になったようね。そのまま今に至るらしいわ。二人の間に生まれたのが、あの子、笹原ナオヤというわけ」
「ただの日本の警官ならともかく、そういう経歴ならあの時の感の良さも納得がいく」
「しょせん、人間よ。結局は死んだわ」
女性は冷たく切り捨てた。
「とにかく笹原トウジの経歴を洗った限りでは危険な因子は何もない。笹原ナオヤをしばらく監視して問題がなければ、さっさと次の仕事に向かうわよ」
そういって女性が絢咲零に背を向けて歩きだした。
女性のこの場における仕事はここまでだったからだ。
だが、そんな彼女の背に向けて、絢咲零は口を開いた。
「エレノイア」
「ここでは香川翠よ」
背中でそう答えながら、エレノイアと呼ばれた香川翠は歩みを止めることなくそう答える。しかし、次の瞬間、彼女の足は完全に止まった。
「ミドリ、あの時、【ロンギヌスの槍】はわたしを貫いただけでなく、あの子供の心臓を貫きもした」
「……?」
それは絢咲零にとっても、そして香川翠にとっても衝撃的な事実だった。


12 :コンピュータソーダメロン :2008/11/23(日) 01:25:13 ID:o3teQ7nG

【ロンギヌスの槍】。
かつて、古代ローマ人がゴルゴタの丘で神を殺す際に、その脇腹を刺したとされる槍だ。
聖槍とも呼ばれる。
 史実において、ガイウス=カッシス=ロンギヌスと呼ばれたその男は盲目で、槍を伝って垂れ落ちた神の血が、彼の目に降りかかったとき、その目は再び光を得たとされる。
ロンギヌスの槍と呼ばれるその槍は、しばしば聖槍とも呼ばれ、その後の波乱に満ちた歴史の中で幻の宝物として消え去っていった。
一説によれば、第一回十字軍が聖人の導きによって槍を発見したというが、真偽を確かめるために槍を持って火に飛び込んだ男は消え、近代においては、あのアドルフ=ヒトラーが槍を手に入れ、その強大な霊性によって野望をあと少しで叶えるところまで高みに昇らせたともいわれる。
 『手にした者が世界の覇者となる』
それが聖槍と呼ばれた【ロンギヌスの槍】の伝承である。
もっとも、真実は少し違う。
 この槍がかつて神と呼ばれたある人物の腹を突き、その血を浴びたのは間違いない。
ただし、その血を浴びて洗礼を受けた槍は、その後、それを持つ者を【覇者】として目覚めさせるのではなく、【聖者】として正しき者を守るための武器を持つ者として相応しいかを試されるのである。
つまり……。
「【聖なる血】を引く者……だとでも?」
香川翠は、露骨に眉を寄せ、不快だといわんばかりに口を開く。
それもそのはずである。
【聖者】など、【預言者】よりもタチが悪い。
彼女たちにとって最大の敵なのだ。
だが、絢咲零は慎重だった。
「伝承はあくまで伝承よ。【聖者】というなら、あのアドルフ=ヒトラーを【聖者】と呼べると思う?」
香川翠はそういった。
「それは見解の相違ね。人間どもの中には、彼を実際に【聖者】と呼んでいるグループは存在するし、今もなお、そういったグループの政治活動はヨーロッパでは日常茶飯事になっている。彼がオカルトに傾倒していたというのも一部では有名な話」
「では、なぜ、神の武器をもって虐殺者が生まれたというの?」
その先の答えをあえて、絢咲零は言わなかった。
可能性として語るのなら、もはや語る必要もない答えを香川翠が分かっていないはずがないからだ。
【預言者】。
何千年もの太古から、自分たちの種族を戦い続けてきた組織だ。
“彼ら”なら、神の力を自分たちの力だといわんばかりに利用するだろう。
だが、問題は【預言者】の存在ではない。
神の洗礼を受けた武器、【ロンギヌス】が自らの使い手として【聖者】を選んだことにある。
つまり、笹原ナオヤである。
これは忌々しき事態だった。
「レン=フレイザーに報告を」
香川翠が、素早く判断した。
絢咲零にしても、それは当然導き出される結論である。
おそらく、レン=フレイザーは【聖者】の抹殺を自分たちに命令するだろう。
幼いとき、自らの特質に気づく前に、抹殺しなければならない。
今なら、【預言者】たちも笹原ナオヤの存在に気づいていないはずだ。
 絢咲零は、窓の向こうの笹原ナオヤを見据える。
母親に髪をなでられながら、まったく反応することなく、陰鬱な表情でじっとしているその少年の横顔を見つめた。
そして、おもむろに口を開いた。
「まだ、はっきりしていない。幸い槍はまだこちらの手にある。あれを調べ、本当に【ロンギヌスの槍】なのかを調べ、その上であの少年についても深く調べて確かめる必要がある。報告はそのあとよ」 
最後の一言は、香川翠の瞳をまっすぐに見つめて伝えられた。
それまでにはなかった刃物のように鋭い眼光が、香川を捉える。
香川翠は少し考え込む様子だったが、それでも答えは変わらない。
「疑いの段階で報告すべきよ。【聖者】の危険性はあなたもよく知っているはず」
「だからこそ、慎重に確かめるのよ」
「……」
「……」
「……分かった。あなたに任せる。セリーン」
「ここでは絢咲零よ」


13 :コンピュータソーダメロン :2008/11/24(月) 00:58:53 ID:o3teQ7nG







――1週間後。

笹原ナオヤの通う銀蘭聖香学園の初等部。
 彼の教室では今、一人の少女がそわそわとした落ちつきのない表情を浮かべている。そして教師が、ホームルームのために戻ってくるのを今か今かと待ちわびていた。
ここ数日、彼女はずっとそうだった。
彼女の名は、保坂結衣(ホサカ=ユイ)。
赤茶色に髪を染め、左右両側にお団子を作って長い髪を伸ばしている。
見た目には活発そうな少女だが、肌の色は不健康なまでに白い。
コルセット風の黒いレースのキャミソールに、赤と黒の短めのチェック柄プリーツスカート。
ほっそりとした彼女によく似合っている。
ただ、黒いストッキングを留めるために、あからさまに見える太ももの黒いガーターベルトが、教師にしてみれば注意すべきか、そのまま無視すべきかと悩ましい問題だった。
一見、少し前にはやったゴスロリ系の服だが、それほど過剰な印象は受けない。
その上に着ている何処かのガールズバンドのログが入った黒いパーカーのおかげで、どちらかといえばパンクファッションといえそうだ。
 10歳の笹原ナオヤと同い年の彼女のはずだが、薄めのメイクのせいもあってか、ずいぶん大人びて見える。可愛いというよりは、将来綺麗になるだろうといった印象の少女だ。
日本人離れした眼鼻のくっきりした整った顔立ちをしている。
そんな彼女が、今は細く長い眉を寄せて、苛立たしい面持ちをしていた。
 がらっという戸をあける音ともに、教師がクラスに入ってきたのは、15時半を少し回った頃だ。
保坂結衣の苛立ちが最高潮に達する直前で、このクラスの担任である南遥(ミナミ=ハルカ)はようやく到着した。
 いつもの少し慌てた様子を押し隠すように苦笑を浮かべて、この新米教師は、教室に入る。この若い新米教師のいつものこの様子のおかげで、クラスのやんちゃな少年などからは完全に軽んじられていた。
「ごめんごめん、みんなお待たせ」
「ハル、遅すぎだって」
教室の黒板の前で遊んでいた少年の3人のうち、一人が、さっさと席に戻るでもなく、教師をあだ名で呼ぶ。
その時点で、もし、ここに学年主任などがいた場合、南遥はすかさず職員室で小言を言われることになるだろう。
「はいはい、さっさと席に戻ってね」
南遥は出席簿で少年三人の背中を軽く押して、教卓に立つ。
他にもあっちこっちで、しゃべり合っていた生徒たちを席に着かせるが、遅々として生徒の動きは鈍い。
「……」
その間、保坂結衣の苛立ちは、ますます危険域にまで達しようとしているのをこのクラスの生徒、教師も誰も気づかない。
 そうとも知らず、一人の生徒が、
「ハルちゃん、もう帰りたいよ〜」
どこかで女生徒が、困ったようにそういう声が聞こえる。
しかし、今日はこのまま生徒たちを帰らせるわけにはいかない理由がある。
そのせいで、職員会議で遅くなったというのもある。
「だめよ。今日はみんなで大事なことを話しあうんだから。みんなよく聞いて」
「……!」
そうだ。
この話題を保坂結衣は数週間待ち望んでいたのだ。
いったいいつになるのだ、とずっと考え続けていた。
「明日、笹原ナオヤくんが約10日ぶりに登校してきます」
そういった瞬間、クラス中の雰囲気がいっきに変わった。
しん、と静まり帰り、やがて今度はそれをいっきに覆すかのように、全員が周囲の顔を見渡しながらささやきあった。
「笹原って、あの事件の?」
「お父さん、串刺しってニュースでいってた」
「笹原も心臓に穴があいたとかって聞いたよ?」
「血まみれだったってゆーじゃん! あいつ自分のお父さんが血反吐はいて内臓飛び出してるの目の前で見てたんだって!」
「こ、こわー!」
好き勝手に噂を流しまわるその内容は、だんだんと過激になっていき、それはあまりに無神経かつ露骨な好奇に変わっていった。
 これでは、当初の話し合おうとしていたことの問題以前の問題である。
「ちょっと、みんな……!」
見かねた南遥が口を出そうとした瞬間。
ばんっという机を思い切り叩く音が教室中に響いた。
その音は、あまりに感情的で遠慮がなく、かつ暴力的だった。
 保坂結衣が、その細い手で机を思い切り叩いたのである。
驚いたクラスの生徒の面々が、いっせいに保坂結衣へと向けられる。
南遥さえも少しびくりとした表情で彼女を見た。
むすっとした表情の少女が、頬づえをつきながら片手を机の上にぶつけていたのである。
「保坂さん?」
少し声が震えている自分に情けなさを感じつつも、南遥は少女に声をかける。
その時、保坂結衣は立ち上がり、机の横にかけていたトートバッグを拾いあげた。
「くだらないし、塾あるし、もう帰るから」
その一言だけを残し、彼女はさっさと教室を出ていった。
クラス中のあっけにとられた視線を背中に感じつつ、少女はうんざりした表情を浮かべている。
南遥は、そんな彼女にかける言葉を失っていた。




 保坂結衣は、自分でも何に苛立っているのか、自分の感情を整理しかねていた。
だいたい、自分はこの数日、笹原ナオヤがいつ戻ってくるのか。
彼は今どうしているのか、それについて教師がいっこうに説明しようとしないことに煮えたぎるような苛立たしさを感じていた。
 教師自身、どう説明するべきかに困惑し、あえて説明することを避けていること自体が露骨であり、彼女によりじれったさを感じさせていたのだ。
だが彼女は、自分がどうして笹原ナオヤのことが気になっているのかについて、その肝心の部分については自分でもよくはっきりしない。
もし、クラスの程度の低い馬鹿ども同様、単なるワイドショーに食い入る主婦のような野次馬根性で気になっているだけだとするなら、そんな自分に嫌悪感を感じずにはいられない。
「……」
そんなことを思いながら、彼女は帰り道である河川敷の堤防の上を歩いていた。
夕暮れ時、この道を歩く老人や、学校の部活動でランニングする野球部員が、何人か彼女の横を通り過ぎていく。
 中には、彼女に嫌らしい表情を向けていく部員の姿が何人か目についたが、今日はそんな連中をシメる気にもなれない。
なんと説明したらいいのか。
 奇妙に気だるく、苛立ちを感じながら、心のどこかで虚しさが込み上げてくる。
寂しいような、悲しいような不可思議なこの感情は、彼女にとってとても切なさを思わせるものだった。理解不能のこの感情を払拭させる術を見出せずじれったくて腹が立つ。
 そんなことを思っていたとき、不意に前方から夕日の逆光に隠れてよく顔が見えない2人の姿がこちらに歩いてくるのが見えた。
 一人は背の高い女性だ。
20代前半頃。
恐らく大学生くらいだろうか。
 さらさらと伸びた黒い髪。
彼女の悩ましい身体のラインがよく出た黒いニットワンピース。スカート部分はタイトになっており、太ももから下を黒いレザーのブーツが覆っている。
胸元や裾にはさりげなく黒いレースが見える。
 その上に来ている黒いラインコートは腰のところでベルトをかまし、彼女の緩やかな腰のくびれをより魅力的に見せていた。
理知的で鮮やかな形のいい紅い唇が印象的な女性だ。一言でいって、絶世の美女といっても過言ではないだろう。
 それまでゆっくり歩く自分をニコニコして見ていた野球部員たちの目が、まったく違った目で今は、その女性を見ていることに保坂結衣は気付いた。
 そのことに彼女はさして気にすることはない。
ただ、問題なのは、その横に笹原ナオヤがいることだった。
「笹原……」
保坂結衣は、思わずその名を呟いて立ち止まってしまった。
笹原ナオヤは、今だ目の前、数メートルに立つ自分の存在に気づいていない。
彼は今、女性のほうに顔を向けているからだ。
 女性は、和やかな笑みを浮かべて、笹原ナオヤの手を握り、二人で堤防を歩いている。
一見して、美人の姉を持つ弟が、二人で夕食の材料を買いに買い物に出かけて、その帰りを一緒に手をつないで歩いている、というように見えなくもない。
 だが、不幸にして保坂結衣は知っていた。
笹原ナオヤに姉はいない。
では、この女は何者なのか。
「……」
やがて笹原ナオヤが保坂結衣の存在に気づいた。
 笹原ナオヤと保坂結衣の視線が向き合う。
しかし、そこで笹原ナオヤは彼女に向けて何かいうでもなく、視線をそらすでもなく、一瞬何かを考えたように下を向いたかと思うと、そのまま女性に顔を向けなおし、また何かを話しだす。
 女性は、またにこりと笑い、二人はやがて、保坂結衣の横を通り過ぎていった。
「……」
残された保坂結衣は、そのまま立ち止まった状態で、じっとしていた。
 やがて、また意味不明な苛立ちが込み上げてきた。
この感情を思わせる恐らく根本原因が、あの笹原ナオヤなのだろう。
この時、保坂結衣はその事実を改めて確認した。
そして、この感情の真の意味を理解し始めていた。
ここでの出来事が、保坂結衣と笹原ナオヤの運命を大きく揺り動かしていく。


14 :コンピュータソーダメロン :2008/11/25(火) 00:02:36 ID:o3teQ7nG







 少年にとって、幼い頃から父の存在は希薄だった。
ほとんど思い出らしい思い出もない。 
そのことを特に寂しいと思ったことがあるわけではないが、父はそのことに負い目を感じていたのではないか。
笹原ナオヤは、成長するにつれ、父親たちが残した【遺産】を見つけるたびに、そう想いをはせる。
 そういえば母はよく、そのことで父を責めていたような記憶がある。
そう強く父を責めていたわけではない。
母なりに不出来の父をよく理解していた。、父がしなければならなかった使命について、そのすべてを理解していたわけでも知っていたわけでもなかったが、それでも母は、父という人間そのものをよく理解していたのだ。
 それでも、母は母として、子供に父親の背中を希薄にしすぎることには気が咎めたのか、時折、こぼすようにもう少し家にいる時間を多くしてほしいと言っていた。
父はその一言を聞くたびに、申し訳なさそうな顔をして寂しく少年に笑顔を見せた。
 与えられた短い時間の中で、父ともっと多くのことを話せばよかった。
笹原ナオヤは、時々そう考える。
 あの時は何を話せばいいのか分からなかった。
でも、あの掛け替えのない時間の中で、もっと父と分かり合えることができたのではないか。
 とはいえ、多くの父と息子の関係というのが、いつの時代でもこういったものなのかもしれない。
 そして自分が父親になったとき、父に伝えたかったことを息子に伝えようとするのだ。
だが、やはり男親というのは元来、不器用なもので、笹原トウジという男もまたそういう男だった。
彼の息子も、その血を引いている。
 母は、そんな息子の一面を見て、自分の愛した男を思い返すのだろうか。
笹原トウジが死んでから、息子がより父親に似てくるのが早いような気がした。
そのことが、母、笹原ユキノには辛いことだった。
「ただいま、母さん」
穏やかな笹原ナオヤの声とともに、玄関のドアが開いた。
 少年はあの“事故”以来、特に精神的なショックが強いようには見えなかった。
もちろん、事故当時には、じばらく言葉を発することなく、どこか夢遊病のようにじっと前を見たまま、外界のすべてに反応しないような状況が続いたが、悲しみに暮れるような様子もなければ、泣くようなこともなかった。
事故の記憶にさいなまれ、しばらく眠れないようなことがあったようだが、それでも少年は、少しずつ立ち直ってきている。
 だが、医者はそんな彼の様子をよくは思っていない。
それは笹原ユキノにしても同じだった。
普通、10歳の少年が、目の前で父親が死んでいく様を見て、これほど早く立ち直れるはずがないのだ。
 母親を心配させないようにしているのか、それとも自分で自分の感情をどう表現していいのか分からずにいるのか。こうした表層上の立ち直りというのは、少年の心に大きな負担をかけているはずだった。
いつか感情面での破たんがきたとき、少年の精神は、再び大変なショックに見舞われるだろう。
 それが母親にとって心配でならなかった。
「おかえり、ナオヤ」
ユキノは穏やかな微笑みを浮かべて、息子の帰宅を迎えた。
そして、もう一人の“家族”にも同様の温かいまなざしを向ける。
「姉さん、ナオヤが今夜はシチューがいいっていってるから、たくさんブロッコリーも買ってきたわ」
ユキノに『似て』、綺麗な顔立ちをした女性が、買い物袋を持ってキッチンに立つユキノの前にやってきた。
 黒い絹のような髪を肩まで伸ばし、ほんの少し毛先にウェーブをかけている。理知的な細眼鏡に、紅い唇、少し胸元が開いた挑発的な感のするスーツ姿の女性、絢咲零である。
「ブロッコリーはそんなにいれなくていいんだからね」
ぼそっと呟いて、ナオヤは彼女の前を通り過ぎていく。
「だめよ。背伸ばさないと女のコにもてないわよ」
からかうように瞳を細めてにやりと笑う絢咲零を無視して、ナオヤは冷蔵庫からペプシのボトルを取って部屋へと戻っていく。
そんなナオヤの後姿をにこにこしながらユキノは見つめていた。
 絢咲零は、買い物袋をキッチンのテーブルにおいて、中から肉や野菜を取り出して、早くも作業を始める。
ユキノも、そんな零に合わせてキッチンに立ち始めた。
こうして二人が立つと、一見して20代前半に見える絢咲零と、それほど歳の差を感じさせないユキノだった。実際、10歳の息子を持つ母親にしては笹原ユキノの年齢は若いといえる。
 ユキノは、まな板を取り出し、あらかじめ用意していた鍋をコンロに乗せる。
その間、零がユキノの横に立ち、野菜を洗い始めた。
二人がお互いの役割をうまい具合にかませながら、作業はスムーズに進んでいき、シチューの具をぐつぐつと鍋で煮込み始めるのに、それほど時間はかからなかった。
 温かい料理を今、作っている。
家族のために作っている。
そのことが、ユキノにとって何ものにも代えがたい心を温めるものでもあり、落ちつける時間だった。
 こうしていれば、心を締め付ける孤独に苦しむこともない。
夫を失った悲しみを少しでも和らげることができる。
 悲しみを背負ったまま、母親として、まだ幼い息子の孤独や悲しみを支えるために気を引き締めないといけないという重責も少しだけ軽く感じることができる。
 それというのも、今、こうして自分の横に一緒に立ってくれているというだけで、どれほど心が楽になるか……。
ユキノは、零に感謝してもし尽くせない気持ちだった。
「零が来てくれて、本当に助かってるわ。ありがとう」
おもむろにユキノが口を開いた。
 その言葉は、さまざまな思いが込められている。
「姉さん、従妹なんだから……気にしないで。それに、久々にこっちに来たのは、こっちで働くためだし、ここに住まわせてもらえるのは、こっちだって助かるもの」
「従妹なんだから、気にしないで。教師になるのはあなたの夢だったんだから。でも、ナオヤの前で、あんまりダラしない格好はしないでね。」
そう言って、零に対して、同じ言葉を返して、ユキノは笑った。
零もまた、そんな彼女に柔和な微笑みを返す。
 幼いころから仲のよかった従妹同士の二人の姿が、そこにあった。



 いや、そういう記憶に合わせた二人の姿、というべきである。



二時間ほどぐつぐつと煮込ませている間に、テーブルの上は整い、もうほとんどすることがなくなった頃、絢咲零は笹原ナオヤの部屋へと向かった。
 一応、こんこん、とドアをノックするものの、中からの返事を待つことなくドアを開けた。
少年は机に向かい、じっと何かを読んでいる。
 勉強でもしているのかと思えば、そうではなかった。
手書きの日誌か何かのようだ。
少年の手には大きいが、普通の大人の手には、ほぼ収まる程度の大きさをしているが、とにかくその日誌は分厚い。
 古過ぎてページもだいぶ抜け落ちようとしているが、それを直前で修繕してなんとか書物としての体をなしているように見える。
また後からどんどん書き足したり、何かの資料を張り付けてもいるようで、あまり小綺麗な形ではなく、ずいぶん手垢などで黒く染まり、どちらかといえば歪になっている。はみ出したメモのカケラが目につくような代物だった。
 その日誌は表紙と裏表紙を何かの動物の皮で構成されているらしく、表面上はしっかりと重厚そうに見えた。
「不健康な子供ね」
そんなナオヤに対して、絢咲零は腕を組んだ姿勢のまま、ドアにもたれかかって呆れた面持ちを見せる。
「母さんの前で、コレを読んだりできないんだから、仕方ないでしょう、『先生』」
「そうね、今は父親の遺したソレをあなたが読んでいる姿は見せないほうがいいでしょうね」
先生と呼ばれた絢咲零が、それに反応するように自分の眼鏡を整えて答える。
そして、そういった言い回しをさらっと言いながら、彼女は少年の背中を注意深く見つめていた。
「……」
少年は無言で、日誌を読んでいる。
やがて、絢咲零は、少し後悔したかのような表情を浮かべて溜息をつき、
「でも、ナオヤ。食事には出てきなさい。あなたの母親が心配するわ。怪しまれるとわたしも困ることになる」
あくまで、自分にとって困る状況になるということを前提にして、彼女は少年に食事を取ること勧めた。
 少年はしばらく、それでも無言のままでいたが、やがて、静かに日誌を閉じ、立ち上がった。そしてそのまま豊満な胸の前で腕を組んだ姿勢の絢咲零の前を通り過ぎ、部屋を出ていく。
そんな少年の背中を見据え、絢咲零は再び溜息をこぼすのだった。


15 :コンピュータソーダメロン :2008/11/26(水) 23:19:01 ID:o3teQ7nG







笹原ナオヤと絢咲零の関係は、以降、現在に至るまで続いている。
 この先、気の遠くなるような時間を共に過ごす長い付き合いになることをこの時点ではまだ、当人たちも知る由もない。
だが、比較的早い段階で、笹原ナオヤはある種の覚悟を決めていたのではないか。
この頃の彼の様子を思い出すとき、絢咲零はそう考えていた。
 静謐な朝、きんと冷たい空気が冬の到来を感じさせる。
銀蘭聖香学園初等部の校門の前に、一台の白のスカイラインが停車した。
独特のエンジン音とすらりと伸びた艶めかしいボディラインが、滑るように路面を走り行き、路肩に停まるのを何人かの登校途中の生徒が、ほぅっと眺めている。
中でも注目だったのは、ドライバーだ。
 彼女の神秘的な雰囲気と妖艶な魅力は、10代の生徒には刺激が強い。
とはいえ、校門前に立つ風紀を取り締まる教師にしたところで、それは同じことだったのかもしれない。
とてもではないが、彼女が【ヴァンパイア】と呼ばれる魔性の存在であるなどとは、誰も想像もしないだろう。
 いや、ある意味では、魔性を感じている者は、この場に数多くいた。
 運転席から降りたったそのすらりと伸びた悩ましくも姿に溜息が出る。
黒いスーツ姿にタイトミニのスカート姿の彼女は、相変わらずが胸元が少し開け過ぎているかのように見え、そこから見える谷間に男どもは、言葉を失っていた。
アップにしか後ろ髪からは、白く寒々とした綺麗なうなじが見えている。
いつもとは違う髪型だった。
「しっかり勉強してきなさい」
皮肉としていうでもなく、彼女はナオヤにそう告げた。
「たぶん、『先生』のおかげでそれどころじゃなくなったよ」
そういったナオヤに対して、絢咲零は両手を広げて微笑んだ。
「その服なんとかならないの?」
「【ヴァンパイア】は誘惑して人を襲うものなのよ。知ってた?」
今度の一言は、間違いなく嫌味として言われたことだった。
 絢咲零は、彼女にしては珍しく無邪気で悪戯っぽい笑みを浮かべる。
そんな彼女に、少し心配になったのか、ナオヤは溜息をつきながらもいう。
「まさか、僕の学校を狙ったりしない?」
「心配しなくていいわ。目的はあくまであなたの監視よ。もっとも……【魅了】の効かないあなたに【ヴァンパイア】として知られた上では、なんとなく意味もない気がしているけれど」
少しほっとするナオヤと、それを見てまた微笑む絢咲零である。
だが、絢咲零は、そんな自分に違和感を覚えていた。
今、この周囲では、突如現れたこの絶世の美女に対して、好奇の目が集中している。
中には、彼女の言うとおり誘惑されて、欲望のまなざしを向けているものも少なくない。
特に教師に多いだろう。
そんな彼女が心配しなくていい、という一言に、どこまでの信頼が持てるのか。
 相手は、悪魔なのだということをこの少年はどこまで自覚しているのだろうか。
「約束してね」
悪魔との約束。
 少年は無邪気にそう言った。
そんな彼女の無防備な眼差しは、絢咲零の心のどこかで何かを締め付けた。






「ほら、遅刻するわよ。早く行きなさい」
彼女はゆっくりと少年の前に歩み寄り、そして、彼の背中をそっと押した。


16 :コンピュータソーダメロン :2008/11/27(木) 01:36:43 ID:o3teQ7nG







その頃、銀蘭町から西へ遠く40キロ離れた県境では、港へ通じる山間道路を大きなトラックが走っていた。
 モスグリーンの幌が覆いかぶさった無骨というまでに飾り気のない巨大なトラックである。ナンバーも濃いグリーンで色づけされており、かなり重量を運べるように前後輪ともに太いタイヤが二つ連なっている。
恐らく軍用トラックで、自衛隊の装備なのだろうというところまでは想像できる。
 だが、問題はなぜ一台だけの自衛隊トラックがこの山道を走っていて、中に何が積まれているかということである。
朝早くのこの時間では、この山道を走る車は少ない。
せいぜい、山頂部の開発を行っている土木業者のトラックくらいだが、それもほとんど見られなかった。
やがて、そのトラックが着いた先は、巨大な発電施設である。
何十と連なる電波塔と広大な敷地を余すことなく分厚く真白なコンクリート壁によって塗り込められ建ち並んでいる。
それは、原子力発電所であった。
 人影はまったく見られない。中央ゲートのすぐ傍らに警備員駐在施設が見えるが、窓から見える限り、やはり人の姿はない。
だが、トラックが中央ゲートの前に停車したとき、誰かの手によって、自動で開かれていった。
奇妙な状況が続くが、トラックは気にする様子もなく、再び発車した。
そのまま中央の巨大な車道を入り、奥の発電施設へと走って行く。
どこまでも広い敷地内。
やがて、トラックが発電施設の入口に停車したとき、ようやく運転席から何者かが姿を現した。
 日本人ではない。
原子力発電所といえば、かなり高レベルの国家機密を扱う場所でもあり、現代社会においてもっとも危険な存在でもある。
海外の人間が出入りすることは特別の許可を持っても基本的には少ないはずである。
 男は黒いカーゴパンツにトップスを着込み、その上にミリタリーベストを着ている。様々なキットを収めるバックパックやポーチを付けている。
その中には銃弾が入ったマガジンを収めるマグポーチも見られ、間違いなくオートマティックのハンドガンやナイフもそこかしこに見られた。
 さらにその上にAKと呼ばれる折りたたみストックタイプのアサルトマシンガンを手にしていた。
そして、右肩背後の背中に無線機を装着し、それがそのまま喉にスロートマイクに直結されている。いわゆる声に出さなくとも喉の振動で話すことができる市街戦やジャングルにおいて、極めて近距離での戦闘を考慮した特殊部隊装備である。
 男が降りて間もなく、車両後部の幌の中から幾人もの“兵士”たちが、一斉に下車し、車両の周囲を囲んでいく。
「……」
男は、一人の兵士に向けて首をあげて合図をした。
するとそれを受けた兵士が他の兵士にフィンガーサインを送って動き出す。
車両に積んでいた『積荷』を下せ、という意味だ。
 車両の後部には、簡易昇降機が取り付けらており、かなりの重量の物体も、その昇降機を使ってゆっくりと下ろすことができるようになっている。
やがて荷台の奥から床面に備え付けられていたローラーの上を滑るようにして、巨大な木箱のコンテナが姿を表す。
そこには、『ahnen erbe no.015』という焼印が押されていた。
「これで最後か?」
運転席に乗っていた男が、何か安堵するかのような深いため息をつきながら、木箱を見据える。
「最後です。この施設で『充電』した後、記録をすべて消去に使えと言われています」
部下と思われる兵士が、資料の入ったクリップボードを男に渡す。
そこには、先日の笹原ナオヤ親子が遭遇した不幸な『事故』に関しての記事が掲載された新聞と、笹原親子に関しての精細な情報が記述されたレポートがあった。
 笹原ナオヤの写真と笹原ユキノの写真も用意されていた。
男はそれを見て鼻を鳴らす。
「問題があったそうだな」
そういって、即座にクリップボードを乱暴に兵士に突き返した。
そして再びトラックから慎重に下ろされたコンテナを今度はフォークリフトに乗せ替えられている様子を眺める。
 男にとって、この物体の扱いはかなり慎重を要すものだった。
だが、兵士はそれには無関心で、再び無機質な報告を続ける。
「はい、レン=フレイザーの飼い犬が『失敗作』と接触し戦闘になりました」
「【アーネンエルベ機関】は?」
「事態の隠匿と状況の確認次第、すぐに我々だけでもルーマニア本国に帰還せよ、と」
「……」
「ふん、【預言者】か……」
やがて木箱を乗せたフォークリフトは、発電施設の奥へと運びこまれていった。


17 :コンピュータソーダメロン :2008/11/28(金) 01:24:05 ID:o3teQ7nG







その頃、笹原ナオヤは教室の自分の席に座り、周りの好奇に晒されながら、本を読んでいた。彼の父が遺した日誌だ。
 このところ、彼はずっとその日誌を母親に隠れて読み耽っている。
あの事故の直後、彼に何があったのかは分からない。
ただ、彼の中で何が精神的な変化のきっかけになったのは間違いないだろう。
絢咲零は、それが自分の存在によるのではないか、と思っていたが、冷静に分析してもそれはおかしい。
 当初、絢咲零は、笹原ナオヤを監視するために笹原ナオヤの周囲に入り込むことを考えていた。そのために彼女は、彼女が魔性の存在として持つ能力を活用した。
【魅了】と呼ばれるその能力は、ヴァンパイアの中でも使える者は、ごく少数に限られる。ヴァンパイアとは夢魔と呼ばれる部類の悪魔であり、女性型のそれは、特にサキュバスと呼ばれている。
 彼女自身も語っているが、ヴァンパイアに限らず悪魔は、様々な形で人間を誘惑する。
特にヴァンパイアは人間の欲望を刺激することに長けており、性的欲求を刺激してその血を得る。そのための能力として【魅了】がある。
 普段、漆黒の瞳である彼女は、ある時、その瞳を血の色のように染めることがある。その瞳に見据えられた者は、彼女の思うがまま命令に従うようになり、使い方を工夫すれば、彼女に与えられた記憶をそのまま現実の記憶と思いこむようになる。
 つまり、今、笹原ユキノが絢咲零を幼いころからよく遊んでいた親戚であると思い込んでいるのと同じような状態になる。
 ただし、これはすべての人間に通用するものではない。
例外が存在する。
 幼少時から限りなく煩悩を切り離す修行を続けてきた、特に悪霊退治、悪魔払いを専門とする僧侶などである。
彼らは、悪魔の誘惑に対する知識とそれに対抗する精神力、知識に長けている。
そしてもう一つ、笹原ナオヤのような特殊な存在である。
 それらは特に【聖者】と呼ばれている。
【聖者】である笹原ナオヤには、絢咲零の【魅了】は通用しない。
そのことに気づいたのは、自分が病院のベッドで横たわる彼の瞳を覗きこんだすぐ後だった。少年を心配して、ずっとそばにいた母親は、今は疲れて彼が横になっているベッド身体を預けて眠っている。



――あなた無事だったんだ。さすが、悪魔だね。

わたしが怖くないの?

――怖いよ。

では泣き叫んでみなさい。

――父さんならきっと、泣かずに戦え、というよ。

不器用な少年と父親は、あまり口を聞かない。
 何を話せばいいのか、お互いに分からなくて、いつも言葉が少なかった。
しかし、父の記憶は、少年の中にあった。
(いじめっこに負けるな。戦え)
そして、それ以後、絢咲零は、少年をいいなりにすることはおろか、偽の記憶をすりこむこともできなかった。
幸い、少年は不思議なくらいに冷静であり、状況をよく理解していた。
 自分の周囲の安全のために、絢咲零の存在を周囲に話すようなことはしなかった。
もっとも、彼以外の人間については完全にコントロールしている絢咲零である。
すでに、彼女の身元は笹原親子の親戚であるという偽の情報を彼の家族はおろか、その周囲の地方組織にまで改ざんを徹底している。
偽の事実が真実となっているこの状況で、少年が絢咲零を親戚ではなく、悪魔だ、などと叫んでも、事故のショックによる記憶の混乱などといわれるのが関の山だった。

――不思議な子供ね。普通、あなたくらいの歳で父親の死を目の当たりにしたら、もっと悲しんでいそうなものだけど。

絢咲零は遠慮のない一言を笹原ナオヤに浴びせた。
ナオヤは何も答えなかった。
 悲しむ様子もなく、怒りに震えるでもなく、眠っている母親の髪を無言でなでた。

あの時……。

【預言者】の持つ槍が、彼の胸を刺したとき、絢咲零に抱かれながら意識を失い、そして自分は永遠に眠りにつくはずだった。
その最果てで、自分は何かを見た。そしてすべてを理解した。
父の記憶。
祖父の記憶。
代々、受け継がれてきた魂の記憶だ。それが何かを自分に訴えているような気がした。
 気づいたときには、病院のこのベッドの上で、父の死を知ったが、不思議と悲しみはわかなかった。
何かをしなければいけない。
 何を?
父だ。
そう、父に繋がる何かが自分を呼んでいるような気がしたのだ。
そんなことを直感的に考え、そして、生前の父と自分の思い出が甦ってきた。
 不思議と遠い昔のことのように思える記憶の果てで、少年は、父ともっと何かを話しておけばよかったと思ったのだ。
退院して自宅療養になったとき、父の書斎で、まるで何かに導かれるかのように日誌を見つけた。
それ以後、少年は、その日誌を延々読み耽っている。
 自分とは対照的に、いまだ父を失って間もない母は、悲しみに暮れている。
こんなものを母に見せるのは、今は酷だろう。
父の記憶が詰まった日誌。
それは、祖父の代から続く“旅の記録”である。


18 :コンピュータソーダメロン :2008/11/28(金) 12:51:19 ID:o3teQ7nG

1899年頃、祖父のそのまた父の代から続く様々な考古学的発見、見解の記録が、そこにはところ狭しと記されている。
 本来ならこのような文献は、祖父が教鞭をとっていた大学の保管庫で管理されているべきものである。
なぜ、大学に保管されずに笹原家の書斎に埋もれていたのか。
それは内容を見ればすぐに分かることだった。
 イデア=ジョーンズと呼ばれる中世文学研究者が、1899年頃、アメリカ、ニュージャージのプリンストンにいた。
まだ第一次世界大戦も始まる前のことである。
当時、笹原ナオヤの祖父、笹原ジンの父が、イデア=ジョーンズ教授を師事し、世界中の考古学的発掘調査に乗り出していた。
 彼ら二人は、ほとんど教鞭をとっていたプリンストン大学に戻ることなく、さまざまな土地での現地調査を主体とした研究を続けており、そこで多くの発見や歴史の謎を説いていた。
 ある時、二人はバーレーン王国首都マナーマを移動中に、あるドイツ人将校と出会っている。どういった経緯で出会い、この将校がいったい何者であったのか、名前も含めて詳細が書かれていたと思われるページは、なぜか破られている。
だが、それ以降のページからは、およそ現代の一般的歴史観からは、かけ離れた様々なオカルトじみた記述が続いている。二人に何があったのかは分からない。
 だが、これ以降、イデア教授と笹原ジンの父は、世界中のあらゆる場所を飛びまわり、学術的研究というよりは、何か別の目的で、超自然的な現象、あるいは対象に関する研究を始めており、それらに対しての様々な考察が記載されていた。
いってみれば、これは……。
(まるでX−ファイルだね……)

――あなたがモルダー?

その時、絢咲零は、少年の暢気な感想に少し呆れた様子で言った。
今、笹原ナオヤはその元祖ともいうべき『X−ファイル』を食い入るように読み漁っていた。


19 :コンピュータソーダメロン :2008/11/29(土) 03:47:49 ID:o3teQ7nG

 笹原ナオヤがこの日、学校に登校してから、教室はおろか、至るところであからさまに雑然として雰囲気が続いていた。
そうならないように教師、とりわけ担任と校長、そして学年主任も含めて、彼の保護者である笹原ユキノを交えて何度も相談を繰り返してきたわけだが、結果としてそれらは意味をなさなかった。
 とはいえ、少なくとも、今も校門前に立つ何人かのマスコミの好奇からは彼を守らなくてはならないだろう。表向き、それほどマスコミが注目するような事件でもないはずなのだが、それでも何処かには必ず鼻の利くものがいるものだ。
彼らの存在は、絢咲零を含む、レン=フレイザーの“組織”にとってもあまり好ましいものではない。ある程度、真実に近づくようであれば、始末されるのは目に見えていた。
それを知ってから知らずか、笹原ナオヤ本人はいたって、暢気というか、無関心な様子だった。
 彼の周りでは今も、彼を好奇の目で見る人間が、クラス中にいた。
その中には、彼が事件前まで仲よくしていた少年たちの姿も見られる。
 教師たちも授業中、あえて笹原ナオヤを問題に答えさせようとはしなかったし、声をかけようともしなかった。まるで腫れもののような扱いだが、彼自身は、授業中、教科書やノートを出して勉強し、休み時間には相変わらず日誌を読み耽っている。
 不思議なのは、この状況に対して一番苛立ちを感じていてもおかしくない笹原ナオヤ以上に苛立ちを隠せないで、彼を見つめている保坂結衣だった。
「……」
教室の右奥の席。
 窓際から校庭を見降ろせる席で、中央よりに座っている笹原ナオヤを頬づえをつきながら見つめている。
そんな彼女の瞳は、不機嫌そのものだ。
黒い短めのプリーツスカートに、紅いカジュアルキャミソールを着ている。
 10代の少女には少し刺激が強い胸を強調したような服に、相変わらず好きなガールズパンクのロゴの入ったジャケットを着ていさかる。
 少しストレートボブの髪を逆毛にして、目立たない程度に赤茶色に染めている。
本来なら綺麗な顔立ちをした彼女にはナチュラルな健康美を醸し出すよく似合った髪型のはずだったが、今の彼女は苛立ちを露骨に顔に浮かばせており、その怒りの感情をそのまま表現しているかのようだった。
 「……笹原」
昼休み、声をかけたのは彼女だった。
 教室中がびくりと静まり返った。
これから、彼女は怒りにまかせて笹原ナオヤを殴りつけるのではないか。
そんな怒気をはらんだ雰囲気が彼女にはあった。
もっとも、それでも笹原ナオヤは、どこまでも他人事のように落ちついている。
「なに……?」
「ちょっと顔貸して」
「いいけど、何か用なの?」
笹原ナオヤはやはり日誌を読んでいて、今もそれを開けたままページに視線を向けている。一向に日誌を閉じる様子のない彼を最終的には、保坂結衣は無理やり肩をつかんで立ち上がらせた。
 本来、彼女の細い腕にはそれほどの力があるわけではなかったが、今は感情が彼女を後押ししている。そして何より笹原ナオヤ自信が、事件前よりも体重を落としていた。
あっさり少年を引き上げる自分に驚きながら、それ以上に彼女は少年の身の軽さにも驚いていた。
「……いいから、とにかく来て!」
半ば強引にナオヤの手をとって引っ張りだす彼女に、ナオヤは、少しだけ眉を寄せながらも日誌を手にしてついていくことにした。
乱暴に戸をあけて出ていく二人を見ながら、教室ではさらに噂話のネタに火をつけていた。
「引っ張らなくても歩けるよ。手を離して」
ナオヤは、強引に引っ張っていく彼女に、声をかけて抗議するが、彼女は聞いていなかった。廊下ですれ違う生徒たちが、みんな自分と彼女の様子に不思議そうな視線を向けるかと思えば、また囁き合う様子が見られた。
「……」
ナオヤには慣れたこの光景だったが、そんな彼ら彼女らに牙をむいたのは、彼ではなく保坂結衣のほうだった。
「何? 何か用?」
綺麗な顔立ちをした少女の鋭い睨みは、彼女たちには、それは恐ろしく見えたのだろう。
「な、なんでもないけど……」
「そう、じゃあ、行って」
「う、うん……」
そういって逃げるようにして彼女たちは立ち去った。
「……」
そんな様子を眺めていた笹原ナオヤだったが、やがてまた勢いよく彼女に引っ張られていった。
 正直いって、これまで特に困惑する様子のなかった笹原ナオヤだったが、ここにいたっては、どう対応したものか悩んでいた。
この少女は、何をこんなに怒っていて、どうして、自分に用などあるのだろうか。
 何よりこの少女の名前さえ思い出せない。
そんな自分に少々の危機感を感じさえする。
そうこうしているうちに、ナオヤは少女に、屋上まで引っ張られた。
入口を出てすぐ秋風が頬に触れた。
 少し寒い。
自分はリーバイスのジーンズにNYシャツを着て、その上にフード付きのパーカーを着ているからまだいいが、いくらジャケットを羽織っているとはいえ、白く細い脚がむき出しのプリーツスカートの少女には寒すぎはしないだろうか。
 だが、少女は元気よく階段室のそのまた上に昇る梯子に登っていく。
置いてけぼりになったナオヤは、ぽかんとした顔をして少女を見上げようとしたが、その前に彼女の蹴りが、襲った。
「見たら、ぶっ殺すから」
冗談ではなく、本気のようだ。
上をむくわけにはいかないので、屋上から見える街並の風景を見つめることにした。
 銀蘭町を望む広大な景色と、まだ少し夏を感じさせる青空が広がっている。
とはいえ、もう夏も終わりなのだろう。
白い雲は見えるが、入道雲ではなく、横に伸びる平坦な雲が続いている。
「ほら、早く登っておいでよ」
ぼうっと突っ立っているナオヤに上から声が降り注いだ。
いつ間にか登りきった少女が、上から手を振っていた。
その時の彼女は、別に先ほどのように怒っているでもなく、静かな表情で少年を誘っている。
「……」
ナオヤはしばらくそんな彼女を見上げながら、どうしようかと考えていた。
だが、もたもたしているうちに、どんどん彼女の顔が険しくなっていくのを見るにつれ、登ることにしたのだった。
日誌を落とさないように気をつけながら登る。
「ほら、その本貸してみなさいよ。危ないでしょ」
「だいじょうぶだよ」
今、二人は学校で一番高いところにいる。
 階段室の直情のため、そんなに広いスペースがあるわけでもなく、少年と少女が二人背中を合わせて座ると、もうほとんど場所がない程度のものだった。
 あえてここに登ったのは、教師が来てもすぐに見つからないようにするためなのだろうが、もともと、少女のほうがここの景色を気に入っているのもある。
「……」
「……」
二人はしばらく、黙ったまま景色を眺めていた。
やがて、口を開いたのはナオヤの方だった。
「さっきの二人、ちょっと脅えていたよ」
「さっきの二人って?」
少女はすでに先ほどすれ違った少女たちのことは忘れているようだった。
「君が牙を向けた二人」
「失礼ね。牙なんてないわよ」
そこでまた二人の会話は止まる。
 少女と少年は、そのまま何も会話せず、やはり景色を眺めていた。
不思議とこうしている間、風が吹くことはなく、少し肌寒い程度でそれほど苦痛ではない気温だった。
ナオヤはその間、少女がいったい何の用で自分を呼んだのか考えていた。
さっきまでの少女はすごい剣幕だった。
少なくとも、何かに対して怒っている様子だった。
 なのに今は、とても静かな表情を浮かべ、眉間のしわもなくし、少しだけそよいだ風に前髪を靡かせて、遠い景色を見つめている。
こうしてみると、とても綺麗な少女だ。
 あんまり少女の横顔を見てばかりいるといけないような気がして、ナオヤは再び彼女と同じように家々に視線を向けた。
遠くの路地で、子供が母親に手を引かれて歩いているのが見える。
 兄弟だろうか、姉と弟らしき子供の姿も見える。
二人で手をつないで歩いている様子を見ながら、ナオヤは心の中で呟いた。
(先生、女の子ってよく分からないよ)
「ねえ、笹原」
そんなことを思った瞬間、彼女にしては掠れるような声で、ふと思い出したように自分を呼んだ。
まるで心の中を読まれたような気がして、ナオヤはびくりとする。
「なに?」
「昨日、河の堤防で一緒に誰かと歩いてたよね」
ナオヤは記憶を探る。
 絢咲零とスーパーに行った帰りのことだろうか。
そういえば確かあのとき、眼の前にいた少女とすれ違ったような覚えがある。
「先生のこと?」
「先生? あれって、あんたのお姉さんじゃないの?」
「ん……」
姉ではない。
それどころか、人間ですらないことをこの少女に説明するわけにはいかないのだが、かといって、なんとも答えづらい質問だった。
「……親戚のお姉さん、教師を目指していて、なんていうか……気づいたら先生って呼んでた」
「ふーん……」
少女は気のない返事を返す。
この少女は、なぜそんなことを聞くのだろう。
そんなことを聞くために自分を呼んだのだろうか。
 そこまで考えて、ナオヤは嫌な予感がした。
まさか、少女は絢咲零の正体に気づいたのではないか。
だが、自分はともかく、普通の人間に絢咲零の正体が、そうそうバレるはずはない。
「……」
もし、少女が絢咲零の正体に気づいたとしたら……。
絢咲零は彼女を殺すだろうか。
「あ、あの……」
笹原ナオヤが声をかけようとしたとき、
「すごい綺麗な人だね」
「え? あ、う、うん……」
「もしかして、好きだとか?」
「は?」
まったく想定外の問いかけに、思わずナオヤの目が点になる。
もしかしたら、少女は根本的な誤解をしているのかもしれない。
もし、少女が昨日、河川敷で見た女性がナオヤの親戚ではなく、ましてや人間でもない【ヴァンパイア】だと知ったらどうするだろうか。
ナオヤは頭の後ろをかきながら、困ったように言葉を濁していた。 
「ていうかでも、あんな綺麗な人、大学生くらいだったし、あんたと釣り合うわけないか」
「う、うん、そうだね」
よく分からないが、彼女が納得する方向に話が進むのなら、それに任せることにしたナオヤだった。正直いって、彼女の思考がまったく読めないナオヤには、積極的な答えが見つからない。
 とにかく避けたいのは、彼女が絢咲零の正体に気づくことで、少なくとも今現在、それは防げていると思っていいはずだった。
「話はそれだけ? そろそろ戻るよ、昼休み終わっちゃうし」
これ以上、絢咲零の話を続けるのは好ましくないと判断したナオヤは、立ち上がろうと打ちっぱなしのコンクリートの地面に手をついた
その時。
「あ、ちょっと待って!」
そう言って、保坂結衣はナオヤの手に触れた。
「わ!」
それにびくりと反応したナオヤのほうがバランスを崩し、その場に倒れ込んだ。
「い、いたたた……」
ナオヤは不幸にも少女の上に覆いかぶさるようにして倒れた。
お互いの吐息がかかるくらいにまで接近した二人は、思わず顔を紅く染めたが、現実にはそれどころではなかった。
なるべく少女に体重をかけないように、一瞬の判断で手をついたが、その左手は今……。
 保坂結衣の胸の上にあった。
「ちょ、ちょっと! どこ触って! こ、このぉぉ!」
「あ、ご、ごめん! ……ぐはっ」
そういって、すぐ手をどけたナオヤだったが、すでに遅かった。
げしっという鈍い音を響かせ、彼女の左のストレートが見事にナオヤの右頬を撃ち抜いた。そして状況はさらに悪化する。
 綺麗に決まったストレートのせいで、一瞬、脳が揺れたナオヤは、そのまま力を失い、今度こそ倒れ込んだ。
彼女の胸の中に……。
「あ、こら! な、なにを、どけ、どけー!」
想定外の事態に少女はさらに顔を紅くしてあがく。少女の胸の上に殴られた顔を落とした少年は、しばらく動けるものではなかったが、それでも、なんとか起き上がろうとした。
 温かくやわらかい感触と甘い石鹸の香りが鼻腔をくすぐり、気のせいか、再び意識が飛びそうになったが、それでも起きなければ今度こそ永久に目を覚ますことのない衝撃が襲うだろう。
そうして、急いで起き上がろうとした少し頬が腫れあがった様子のナオヤの顔が、再び保坂結衣と向き合ったとき、時間が止まったかのように二人の視線が重なりあった。
「……」
「……」
いったい、どれくらいの時間、二人はそうしていただろうか。
それまで見たことのなかった切なそうな表情をした少女の瞳が笹原ナオヤを映す。
今、それしか見えていないかのように。
そして、それは一瞬のことだった。
 少女が細い手が、そっと少年の頭の後ろに添えられると、ぐいっと引き寄せる。
「え? うわ!?」
再びバランスを崩したナオヤの上体が少女の上に覆いかぶさり、先ほどよりもさらに少女との間が縮まった。
今や、唇と唇が、あとわずかで触れあうほどの距離にまで達している。
ナオヤの両手は、どうすればいいのか迷うかのように宙をじたばたとあがく。
少女の両手は、今、ナオヤの包みこみ、そして……。
「……」
「……」
震える互いの唇が重なり合ったとき、緊張していたナオヤの意識が、徐々に溶けていくような感覚を覚えた。
少女の甘い香り。
柔らかい感触。
温かさ。
それらすべてが、今、ナオヤの思考を麻痺させ、そして、すべての現実を忘れさせた。


20 :コンピュータソーダメロン :2008/11/30(日) 02:09:26 ID:o3teQ7nG







笹原ナオヤを送りだしたあと、絢咲零は学校近くのカフェでコーヒーを飲んでいた。
 その昔、廃線となった列車近くで一時栄えた銀蘭町でも唯一、文明的な雰囲気を味わえるのが、この場所、【クィーンズカフェ】とその周囲の商店区画だ。
一時、本当に列車が走っていたために、その名残となる古い商店街があったものの、廃れきって、逆に治安の悪化を招いていたこの場所だった。ほとんどそれらを営む者もいなくなり、荒れ放題になったこの土地を買い取った都心近くに本拠をもつある企業が、銀蘭町のこの区画に巨大なショッピングモールを立ち上げようとしたものの、見事に失敗したなれの果てである。
 とはいえ、イギリスのカフェ通りをモチーフにした都市開発は、それなりに住民に受けはよく、明るくなった町並みのおかげで、数年前までの治安の悪化も改善されている。
 週末には若者や家族連れで溢れ、買い物などで賑わう。
とはいえ、平日の昼下がりは、さすがに人どおりも寂しいものだった。
風も少し冷たく、オープンカフェで過ごすよりも、店の中で温かいコーヒーを飲みたくなる。【ヴァンパイア】もそうなのだろうか。
「ちゃんと監視しているんでしょうね」
白いパンツスーツに身を包んだ香川翠が、頬づえをついてカップを手にする絢咲零にいった。
「当然。ここからでも彼が女の子を押し倒しているのがよく見える」
ガラス越しに見える遥か遠くに見える銀蘭聖香学園初等部の時計台。
町の名物のそれだが、その横に見える校舎の屋上に、小さく何かが見える。
 普通の人間には、ほとんど見えないそれを、絢咲零は、どういうわけか確実に見ているようである。
「あのコがそんなタイプには見えないけど? どちらかといえばナイーブな感じ。わたしの趣味ではないわね」
「まさか、わたしの趣味だなんて言わないでしょう?」
絢咲零は、コーヒーを一口飲みながらいう。
 相変わらず視線はカップに向けられているものの、少年の一挙一動を鋭く監視しているのには違いないらしい。
「どうかしらね。最近のあなたは、どういうわけかあのコの保護者のように見えなくもない」
香川翠は、絢咲零の反応を確かめるように、じっと見据えながらいった。
冗談のようでもあり、何かを探っているかのような目である。
 だが絢咲零は、いたって冷静だった。
「監視者の間違いでしょう」
「まあいいわ。それより本題よ。ルーマニア人が何者か分かったわ」
そういって、香川翠は、テーブルの上にラップトップを開きモニターを絢咲零に見せた。
 そこには、車から降り立つ一人の外国人の男をかなりの遠い距離から写したと思われる写真が一枚と日付、それに男の名前から生い立ち、そして男がこれまでかかわったとされる犯罪の数々が記録されていた。
 そして、さらに男が軍服を着た姿や、スーツ姿でどこかの街を複数の男たちに囲まれながら歩いている写真が、重なるようにして表示されている。
男の名前は、イオン=スプートニク。
本名ではない。
 少なくとも、スプートニクとは冷戦時代に旧ソ連がアメリカに対抗して打ち立てた宇宙開発計画の中心であった弾道ミサイルを基にしたロケットの名である。
男は、身長が高く、痩せているように見えるが、実際には無駄な筋肉を一切そぎ落とし、限りなく戦闘に特化した肉体を開発したプロの兵士だった。髪をそり上げ、完全に坊主頭になっているが、口髭だけは、わずかに生やしている。
 顔の彫りの深さを見るに、年齢は、40代頃だが、男の鍛え上げられた肉体を見るに、それが確かかどうか自信をなくしそうだ。
「ルーマニア人でしょう? わたしたちと同じ【ヴァンパイア】?」
絢咲零が、香川翠に問いかける。
「ええ、そうでしょうね。やっかいよ。ルーマニア人は、わたしたちとは違って生粋の【ヴァンパイア】じゃない。【アーネンエルベ機関】が絡んでいるわ」
「【預言者】も彼らが?」
「そうだと考えたくないけど、タイミングが悪すぎる。次があると思ったほうがいい」
「……」
絢咲零は、少し眉を寄せながら再びコーヒーに口をつける。
 何かを考え込むように少し黙っていた彼女だった。
そんな彼女を見つめながら、香川翠は、彼女の言葉を待つ。
絢咲零の情報担当兼サポート役である香川翠は、このあとの絢咲零の決断を待っていた。
場合によっては、これは戦争になる。
 必要な武器弾薬、装備などの調達は彼女の仕事でもあった。
やがて、絢咲零の美しい瞳が細まる。
そして、掠れるような聞こえるか聞こえないかというほどに小さな声で、「あ」と呟く。
 香川翠は、それを聞き逃さなかった。
「どうかした?」
「今、殴られたわ」
「は?」
きょとんとした顔で、香川翠は、再度絢咲零の言葉を聞き返した。
そんな彼女を尻目に、絢咲零は、くすりと笑った。
彼女にしては柔らかい優しい笑みだった。
「だめね。今度、キスの仕方を教えてあげなきゃ」


21 :コンピュータソーダメロン :2008/12/03(水) 01:41:16 ID:o3teQ7nG

わずかな笑みを浮かべて絢咲零は、ティーカップにスプーンを添えている。
 そんな彼女の様子を香川翠は、訝しげに見つめていた。
はっきりいって、香川翠は不安だった。
絢咲零はもともと優秀な暗殺者である。
人間とは比べものにならない長寿の【ヴァンパイア】の中で、彼女はまだまだ若い年齢だが、歴戦の【ヴァンパイア】たちの中でも決して引けを取らない優秀さがある。
 それは卓越した戦闘センスともいうべきものだ。
経験こそ浅く、その能力もまだまだ荒削りだが、もともと持ち合わせている冷静さと直感の鋭さ、それに合わせて適切であり大胆な行動力が、彼女の経験不足を補っている。
 香川翠は、自分がサポートする対象として選んだこの女性の能力を信じていた。
先ごろの【預言者】の失態は、いわば彼女の“若さ”によって生じたミスだったが、それでも結局、彼女は生き延びた。
 運も彼女に味方している。
だが、それは果てしなく危ういものでもあるはずなのだ。
 特に例の【聖者】である笹原ナオヤに出会ってから、わずかに垣間見えるようになった彼女の変化を、香川翠は、とても危険であるように思えてならなかった。
香川翠は、実のところ、絢咲零をサポートすることを主な仕事としているが、その裏で、レン=フレイザーからは彼女の行動を監視せよとも命令されている。
 あの抜け目のないレン=フレイザーが何を企んでいるにせよ、彼女はそれに従うしかない。香川翠は、今のところ、絢咲零の適切な行動と判断については異常なしと報告している。特におかしな点は見当たらない。
今にしても、絢咲零は、非常に正確に笹原ナオヤの行動を見張っている。
だが……。
何かが変わったはずなのだ。
それが何かが分からない。
「……」
香川翠は、じっと絢咲零の横顔を見つめる。
そうだ。
彼女は、笹原ナオヤを監視しているのではない。
見守っているのだ。
そのことに香川翠が気づいたのはずっと後のことである。
 そして、絢咲零本人さえも、そのことに気づいたのは、さらに後のことであった。


22 :コンピュータソーダメロン :2008/12/03(水) 02:38:58 ID:o3teQ7nG







空はどこまでも高く、蒼い。
父の遺した日誌の中に『蒼穹』という言葉があった。
何の記事でそういう言葉を目にしたか分からなかったが、どこまでも蒼い空のことを指す言葉だということを、あとで辞書で調べて知った。
「……」
きっと、こんな空のことを言うのだろう。
そう思いながら、ナオヤは空を仰いだ。
実際のところ、そうやってたそがれている余裕など彼にはなかったのだが、変なところで、冷静というか、気持ちが呆けているとでもいうべきか、そんなところは母親譲りで、父親をよく悩ませた。
父ならこういうだろう。
こんな時、男はびしっと……。
「今したこと、他の人にいったら、あんたぶっ殺す」
「はい」
蒼穹のもと、笹原ナオヤは弱々しく答えた。
小鳥が挨拶するように、こちんと音が鳴りそうな、そんな不器用なキスだった。
昼休みが終了するチャイムが鳴り、少女は少年を押しのけて降りて行った。
少年は少しまだ頭がぼんやりとして、いまいち動けないでいる。
 なぜ、少女は、ああも機敏に動けるのだろうか。
それとも、男と女とでは脳の造りが違うのだろうか。
いや、きっとそうなのだろう。
ナオヤには不思議だったが、彼なりに試行錯誤は続いていた。
(父さん、どうして“女の子”は日誌に載せなかったの)
十分、オカルトの部類に入ると、その時のナオヤには思えた。
そう思いながら、日誌の表紙に目を落とす彼だった。






放課後、殴られた頬を隠すように頬杖をつきながら、笹原ナオヤは車の助手席から外を見つめている。
 運転しているのは絢咲零だ。
これから、ある場所へと向かう。
ある人物と会うためだ。
彼の母親には、適当な言い訳をして帰るのが遅れると伝えている。
車内には重苦しい雰囲気が立ち込めていた。
その原因は、絢咲零はよく理解している。
「痛むの?」
運転しながら、彼女はナオヤに声をかける。
「別に……」
すねたように答えるナオヤは、絢咲零に原因を話したくなかった。
極力、この自分を監視している【ヴァンパイア】に自分の周りの人間のことを知られたくないのだ。頬が腫れている原因を話せばが、絢咲零は保坂結衣の存在を知る。
今のところ、この【ヴァンパイア】は自分も含め、自分の周囲に危害を加える意思はないようだが、この先は分からない。
 自分の手のうちは、可能なかぎり隠すことが、唯一の自分の抵抗の集団だろう。
笹原ナオヤはそう考えていた。
しかし、実際には、絢咲零は笹原ナオヤのことは香川翠を通じてあらゆる情報を手にしている。彼の家族、親戚関係、交友関係、学校での席に位置から身体にあるホクロの位置まであらゆる情報をその恐るべき組織力を持って手にしているのである。
また、彼女の自信もある能力をもって、彼の一挙一動を監視している。
 絢咲零に何か隠すことは、ほぼ無駄といっていい状況だった。
当然のことだが、笹原ナオヤの頬が、保坂結衣に殴られたこともすべて知っている。
というよりも、見ていた。
そして、彼女は純粋に少女のことを自分に隠したいことと、もうひとつ、この少年が女の子に殴られたことを『かっこわるい』から隠しておきたいということも見抜いていた。
そんな少年の少し幼い虚勢が、彼女にはなんだか微笑ましく、ついからかいたくなるのだ。そんな自分の胸のうちをじんわりと包みこんでいく、暖かさというか、心地よい感覚、少年に対する不思議な感情を彼女自身はよく理解できなかった。
 自分は、ただ、この少年をからかって困らせたいだけだが、なぜ、そう思うのか分からない。
 高速を走りながら、東へと向かう。
笹原ナオヤは少し疲れていて、いつの間にか眠ってしまっていた。
ここのところ、夜も眠らず父の日誌を読みふけっていたせいで、久し振りの学校は、平気なようでいて、実はけっこう緊張していたのかもしれない。
「……」
横目で少年が眠っていることに気づいた絢咲零は、やがてほとんど走る車のない高速道路のパーキングへと停車した。
街燈があたりを照らしているが、ほとんど寂れたこのパーキングには、自分の車以外に一台停まっているくらいしか目に入らない。
 その車は今、奇妙に揺れていて、中では若い男女が、互いをむさぼっているのが見えた。
ほんの少し、自分のうちにある牙が、にゅっとそびえようとするのを感じたが、理性でそれを抑えた。
そうして、横で眠っている少年を見つめる。
少年は静かに寝息をたてていた。
「……ナオヤ」
絢咲零は、静かに、少年が眠りから覚めないように少年の名を囁く。
起きる様子のない少年の柔らかな髪に、ゆっくりと手を添えようとしたとき、ナオヤが寝返りをうった。
絢咲零は、静かにナオヤを見つめる。
 昼間、保坂結衣に殴られたあとが、頬を紅く染めていた。
「……」
絢咲零は、そんな彼の頬にそっと顔を寄せた。
運転席から身を乗り出し、助手席の笹原ナオヤの顔に彼女の美しく形のいい濡れた唇が近づく。
そして、彼女はナオヤの髪に触れ、優しく撫でた。
「……起きなさい、ナオヤ」
先ほどよりも小さく、穏やかに彼女は囁いた。
それは消えそうなほど小さく、眠りについている少年の耳には届かない。
やがて彼女は、少年の頬に唇を近づけ、そっとキスをした。






高速道路を走る車の中で、ナオヤは目を覚ます。
 隣には相変わらず先ほどと同じように絢咲零は運転している。
どうやらまだ目的地には着いていないようだった。
「……なんか夢をみた」
おもむろにナオヤは呟いた。
「どんな夢?」
絢咲零は、事務的に聞き返す。
「……なんか、変な夢……」
寝ぼけたナオヤは、意味不明なことを口ずさむ。
「変なコね。眠ってなさい」
「……」
恐らく、歴史上を振り返っても、こんな間の抜けた【聖者】と【悪魔】の会話は、そうそうなかったことだろう。
そんなことを思いながら、絢咲零は、思わず笑ってしまっていた。


23 :コンピュータソーダメロン :2008/12/03(水) 22:50:09 ID:o3teQ7nG







 レン=フレイザーの館についたのは、月が高く空に昇った夜だった。
城門のように巨大な扉の前に、笹原ナオヤと絢咲零は共に立つ。
気のせいか、ここに近づくにつれ、夜空に暗雲が立ち込めてくる。
空の月も雲に隠れようとしていた。
レンの部下二人が、黒いサングラスをかけてこちらを見つめている。
 絢咲零のことは知っている。彼ら二人が注目したのは、その隣に立つ子供だった。
10歳程度の少年が、絢咲零に連れられて立っている。
ということは、この少年が【聖者】なのだ。
そのことに驚愕を覚えるかのように、彼ら二人は互いに見合した。
そんな二人に、少し語気の強い声で絢咲零は口を開く。
「何をしている。さっさと扉を開けろ。『客人』に失礼だろう」
笹原ナオヤと話す普段の口調とも違い、彼女の中の『暗殺者』としての鋭利な刃のような眼光が二人の屈強なボディガードを怯ませた。
「……分かった」
両扉となっている入口を、二人の男が互いに両側から開く。
その瞬間、先ほどから空を渦巻く暗雲が、とうとう雷光を発し始めた。
軋むような音が響き渡り、闇に閉ざされた館内にわずかな雷鳴とともに光が差し込む。
 そこには、いつもと変わらず見た目は若い男女が、互いを求めながら蠢き合っているのが見え隠れした。
【ヴァンパイア】たちの夜の宴だ。
絢咲零は、ほんのわずかに笹原ナオヤをここに連れてきたことを改めて後悔し始めていた。
(教育上、ちょっとまずかったわね……)
そんなことを思いつつ、すぐにそんな自分に苦笑する彼女だった。
しかし、それでも少し心配になって、隣に立つ少年に目を向けた。
笹原ナオヤは、彼女が思っていた以上に平静な面持ちである。
眼の前で起こっていることを理解できないのか、それとも単に興味がないのか。
少年は静かな様子である。
 やがて、笹原ナオヤは自分に向けられている絢咲零の視線に気づき、彼女を見上げた。
「こっちよ」
そういって、彼女はナオヤの手をとって歩き始めた。
すると、二人に気づいた【ヴァンパイア】たちが、互いに行っていた行為をやめて、にやりと薄笑いを浮かべた。
 その瞳が、不気味に紅く反射し、まるで獲物を見つけた獣のように笑いながら、瞳は何も映さぬ機械のように、絶えず二人を追っている。
普通の人間なら、この異様な光景に脅えずにはいられない。
しかし、絢咲零はともかく、笹原ナオヤは全く気にも留めない。
「ナオヤ」
その様子が少し気になった絢咲零が、思わずナオヤに声をかける。
「なに」
「ここを出るまでわたしの手を決して離さないで」
「はい、『先生』」
「……」
声の調子から見ても、少年は極めて冷静である。
そのことに、絢咲零のほうがむしろ驚愕を覚えていた。
やがて、二人の歩いていく先に、その場所はあった。
この館の主と謁見する場所である。
 18世紀初頭に作られた翡翠の玉座。
その人物は、もしかしたらその時代から生きているのだろうか。
レン=フレイザー。


24 :コンピュータソーダメロン :2008/12/07(日) 02:19:00 ID:o3teQ7nG

 黒いレザーパンツに、銀色の髪。
上半身裸の青年は、20代後半頃の青年に見える。とてもではないが、数百年生きてきたようには見えない。その異様に白い肌と染めているわけではなく、内側から光を放つような光沢をもった髪、そして何より血よりも紅い紅玉の瞳は、彼がごく普通の人間ではないことを象徴している。
痩せているが、無駄な筋肉が一切ない。
そして、それはジムで鍛えたような見せかけだけの筋肉ではなく、戦場で何度も視線をくぐりながら、荒々しく梳られ鍛えられた一振りの刃のようだった。
 なんの飾り気もなく、繊細さも感じられない。
そこにはただ、剥き出しの殺気だけを刀身に込めた殺意そのものである。
青年を表現するのに、これ以上の言い回しは存在しないだろう。
強いていえば、最も絢咲零とは対極の位置に存在するような男である。
「お前が【聖者】か」
獰猛な獣のような鋭い眼光が笹原ナオヤを射抜き、静寂の中、地の底から響き渡るような声が、静かに、しかし重苦しく響く。
 孤高のアーティストが、ライブを終えて黄昏れているかのように、その姿には、わずかな昂揚感が見える。
「ぼくは……」
笹原ナオヤが、自分より高い位置の玉座に座る青年に向けて口を開こうとしたとき、そんな彼を制し、自分の後ろにつかせたのは絢咲零だった。
 ナオヤは気付いていないが、レン=フレイザーから溢れ出る異様な昂揚感に満ちた様子は、絢咲零がよく知るものである。いや、それ以前に、絢咲零は、この館に入った瞬間から気付いていた。
レンの声は気のせいか震えている。
 それはある種の感情によって、彼の理性が今、吹き飛ぼうとしていることを意味している。【ヴァンパイア】独特の感情だ。

――欲だ。それは食欲であり、性欲であり、そして生存欲。

今、目の前にいる【ヴァンパイア】たちの長、レン=フレイザーは欲望に駆られている。
欲しいのだ。
 今の目の前にいる【聖者】の血が。
皮をはぎ、肉を切り裂き、骨を砕く。
そして溢れ出ながら迸る鮮血の雨に身を浸し、精気が尽きるまで犯し続ける。
 だが、彼がその妄想を現実にすることは、恐らくできないだろう。
なぜなら、その【聖者】の前に立つ美しき【ヴァンパイア】は、彼の眼下に埋もれるどの部下たちよりも残酷で強く、そして恐れを知らない。
 絢咲零は今、笹原ナオヤを守るように前に立ち、青年をその氷のように冷たく鋭利な瞳で切り裂こうとしている。
「どうした、レン=フレイザー。喉を潤したいのなら、おまえに似合いの豚どもがいるだろう。これはわたしの獲物だ」
侮蔑と嫌悪に満ちた視線を彼の部下である【ヴァンパイア】たちに向けながら、彼女は穏やかに囁いた。ただし、その穏やかさの裏には確かな殺意が存在する。
彼女の薄い紅い唇から、鋭い牙が一瞬、闇の中で煌めいた。
「仲間に対してずいぶんな言い方じゃねぇか」
「わたしをお前の豚どもと一緒にするな。不愉快だ」
レン=フレイザーの瞳が狂気に染まっていくかのように血走り、大きく見開かれる。
顔中に血管が浮き出行く様子は、まさに化け物そのものである。
やがて、彼の薄いが鍛え抜かれた筋肉が、異様な盛り上がりを見せた。
口からは牙が伸び、まるで狼のように唸り声を上げ始める。
その様子に、絢咲零はタイトスカートをまくりあげ、両足の太ももの間に巻きつけていたホルスターからP99と呼ばれる小型のハンドガンを取り出した。
「ちょ、ちょっと、そういうところに隠してるの?」
躊躇する様子もなく、彼女はむき出しの白い太ももの奥が見え隠れする位置にホルスターがあり、そこに収められていた銃を抜きだす様は、笹原ナオヤには刺激が強すぎた。
 先ほどまでの不可思議なまでの冷静さを保っていた少年が、こういうありきたりな刺激で動揺する様が、なんとなくおかしくもあり、微笑ましくもあった絢咲零だが、内心のそんな思いはともかく、今はそんな場合ではない。
「あんまり見ないの」
そう言いながらも、絢咲零の瞳は、レン=フレイザーに向けられている。
「ふん、館に入る前のボディーチェックを抜けてまだそんな武器を隠し持っているとはな」
「お望みならマガジンの弾丸尽きるまで、おまえにぶち込んでやるぞ、レン」
小型だが9ミリパラベラム弾を16発装填できるマガジンを保有したダブルアクションのオートマティックハンドガンで、ポリマーフレームを多用することによって軽量化と小型化に成功した銃だ。隠し持つには最適だが、眼の前の【ヴァンパイア】を相手に9ミリパラベラム弾では、あまりにも心許ない。
 しかし、この【ヴァンパイア】の暗殺者の持つそれは、特別仕様の弾丸を装填していた。
そのことを、レン=フレイザーも知らないわけではない。
「銀の銃弾か」
「聖職者によって洗礼を受けた十字架を溶かして造った弾丸だ」
銃をまっすぐレン=フレイザーの眉間に照準を合わせながら、彼女は告げる。
「同族嫌悪か。そんな武器を仲間に向けるとはな」
「もう一度いう。わたしを仲間と呼ぶな、レン=フレイザー」
「……」
忌々しげに絢咲零を睨みつけるレン=フレイザーだったが、やがて唸り声を沈めていく。
そしてそれに合わせて、彼の『変異』も治まっていった。
普通の人間の銃撃ならば、確実にかわしながら相手に接近する自信が彼にはある。
 それこそハンドガン程度ならば、一発撃っている間に一瞬にして相手の喉笛を噛み切るくらいの間合いにまで入り込んでいける。
だが、相手は絢咲零だ。
普通の人間とは比べものにならない反射神経と動体視力加えて、専門の暗殺訓練を受けている。銃の扱いにしても、そこらの特殊部隊の兵士よりも長けているだろう。
そして何より、彼女は【ヴァンパイア】の殺し方をよく熟知している。
その銃に込められた弾丸も、通常弾であれば十数発直撃を受けても大したダメージではない【ヴァンパイア】が、たった一発受けただけで致命傷になりかねない威力を持っている。
「いいだろう、セリーン。お互い、殺しが目的ではない。話をしよう」
獣の瞳を向けたまま、レンはにやりと笑った。


25 :コンピュータソーダメロン :2008/12/08(月) 02:00:07 ID:o3teQ7nG

「オレはお前に聞きたいことが二つある」
先に話を進めたのはレンのほうだった。
すでに彼は変異をとめて、少なくとも人間に見えなくもない姿に戻っている。
彼が“何に”変わろうとしたにしても確実にいえるのは、かなりの危険がそこにあったのは間違いない。
 そしてそれは今、かろうじて回避している。
もっとも、絢咲零にとってどの程度の危険かにもよるだろう。
彼女の自信は、単純に戦闘能力の高さだけではない。
レン=フレイザーが何者であるかの知識と彼と戦うための知恵が彼女にはある。
そんな彼女は今、銃を手にしているが、一応は、銃口を下してはいる。
しかし、笹原ナオヤの手を強く握り、今も彼を自分の背後に隠していた。
「お前に与えた命令は、そのガキが本当に【聖者】かどうかを確認するために監視することだった。比較的早い段階で、お前は間違いなくガキが【聖者】だということに気づいたはずだ。なぜ、すぐに殺さなかった。ガキを生かしてどうするつもりだ」
すると絢咲零は、いつの間にか片手に持っていた鉄の塊をレンの前にかざす。
それは錆びきっていて黒く変色した荒削りの石の塊に見えたが、かろうじてそれが元は何かの金属であったことが伺える。
錆びきったそれは、錆びとともに赤黒い何かがびっしりとこびりついているのが見えた。
血である。何世紀も前、ある人物の脇腹を貫いた際の返り血だ。
「【ロンギヌスの槍】だ。このコを選んだ。これがどういうことか分かるか」
絢咲零はさらに続ける。
「この槍に選ばれたものは、やがて覇者の道を歩むというのは、ただの弱い人間が創りだした迷信だ。実際には正しきものを守るための武器となる。つまり、逆にいえば神の寵愛を受けないあらゆる“裏切り者”を滅するための最強の兵器」
そういって彼女は、後ろに立つ少年に目を向けた。
「何がいいたい?」
「使いようによっては、これ以上ない武器になる。ルーマニア人どものグループをこの国から一掃することもできる」
「……」
レンは少し考え込むような表情を見せたが、それは一瞬のことだった。
考えるまでもないことだからだ。
「そのガキを飼いならせるとでも思っているのか? 現にお前の【魅了】はそのガキに通用していない。【聖者】としての本能は、闇に生きるオレたちを殺せといっている。そのガキがいつ目覚めてオレたちに牙を向けるともしれん。今のうちに殺したほうが安全だ」
 そしてさらに、レンは笹原ナオヤ以上に絢咲零を危険視していた。
「オレには何よりそんなガキをおまえの元で飼わせることのほうが不安だ。お前はルーマニア人を一人残らずそのガキを使って殺したあと、どうするつもりだ? オレを殺させようと考えているんじゃないのか?」
そこまでいったレンに対して、絢咲零は思わず吹き出した。
おかしくて仕方ないといったように笑う様は、遠慮がない。
対するレンは、反比例するかのようにその顔から笑みが消えていく。
「何がおかしい」
そう問いかけられてなお、絢咲零は笑い続けていた。
やがて、ひとしきり笑ったあとに、彼女の鋭い眼光がレンを射抜く。
「お前を殺すのに、このコの力など求める必要がない」
彼女のその一言は、レンよりもその周りの【ヴァンパイア】たちを黙らせ、怯えさせた。
一斉に、レンのほうに視線を向けていく。
レンは言葉を失くしたかのように黙り、やがて拳を振るわせていった。
空気が振動しているかのように静寂の中にありながら激しく張りつめた緊迫感の中に、言いようのない感情の激流が伝播していく。
【ヴァンパイア】たちは、ゆっくりとしかし、我先にとこの場から少しでも距離を取ろうとする。
「……なるほど、このオレにそこまでいったやつはお前が初めてだ。セリーン」


26 :コンピュータソーダメロン :2008/12/11(木) 01:31:40 ID:o3teQ7nG

 



※作者より

お世話になりました。今後、この物語は別の投稿サイトにて連載する予定、というか、今のところその方針で考えています。理由については感想の方で。
もし、ありがたいことですが、「続き読みたい」と思ってくださった方がいましたら、またおいおいここでも連絡していきます。
もしかしたら移転するかもしれませんので、ここでごあいさつを。
今までありがとうございました。


27 :コンピュータソーダメロン :2008/12/14(日) 01:38:17 ID:o3teQ7nG







笹原ナオヤは、絢咲零とレンのやり取りをじっと見つめていた。
 正直いって、少年には、この二人がかなり険悪な関係にあるということ以外に理解できることは少なかった。
そもそも、レンと絢咲零の確執は、今に始まったことではない。
ずっと長い年月、二人はこうして憎み合ってきた。
そう思わせる二人の空気がそこにはあった。
だが、少年は同時にそこにある憎しみだけでない感情を少年ながら、いや、あるいは、少年だからこそ、敏感に感じ取ったのかもしれない。
絢咲零は、純粋にレンを憎んでいる。いや、憎むというよりは見下し、蔑んでいるというべきだろう。
ナオヤやナオヤの母親には決して見せたことのなかった憎しみと侮蔑の表情が、冷徹なまでにレンに向けられている。
 だが、対するレン=フレイザーにはそれだけではない別の感情が合わさっている。
絢咲零のまっすぐに相手を射抜く直情的な鋭い瞳が、スナイパーのごとく冷やかな殺意でレンを捕えている。
それはまさに、彼女の本質的な内面を表しているかのようでさえあった。
事実、彼女が主体的に使う武器は、【銃】に限られる。
【槍】ではない。
そして、この目の前の【獣】のように、牙がそうというわけでもないだろう。
【獣】は相変わらず、魔物のように赤く腫らし、爬虫類のように細く縦に伸びた瞳で、女性を捉えているが、そこには憎しみよりも、もっと熱い感情が渦巻いている。
怒りか? いや、そうではない。憎しみでもなく、強い情動が付きまとい、相手に対しての気持ちが揺さぶられる。ずっとずっと、永遠にその相手を捉えていなければ、狂いだしてしまいそうなほどに相手のことから頭が離れない。
 いっそ喰ってしまおうか。
相手を喰らい、自らのうちに閉じ込めてしまえば、この気も晴れるのか。
 この感情をなんと表現すればいいのか。
他のどんな女も自分に媚び、永遠に得ることのない愛を求めて、苦痛に耐えるが、この女は違う。
 自分に完全な忠誠を誓うくらいなら、絶対に自分を殺すか、自らを殺すことを選ぶだろう。それほどまでに自分を嫌い、見下している。
 だからこそ欲しい。
レン=フレイザーの欲望だ。
 その一端を笹原ナオヤは、彼の眼光の中に感じ取っていた。
彼は、自分の手をずっと握り締めたままの絢咲零を見上げた。
「……」
彼女は気付いているのだろうか。
だが、そんなことを長く考えていられる状況でもないことを、彼はすぐに悟る。
「……そう熱くなるなよ。セリーン。【聖者】はここ数百年、公式には存在を確認していない。オレでなくても、舌舐めずりしたくなるだろうぜ」
にやりと笑うレン=フレイザー。
その笑みは、半分、【獣】となった顔では、この世の禍々しさを凝縮したようなものにしか思えない。
 まさに、悪魔。
そして、その悪魔は、他にも大勢いる。
いつの間にか周囲を取り囲んでいる【ヴァンパイア】たちは、皆、まっすぐに笹原ナオヤを見つめ、実際、舌舐めずりし、ある者は不気味に笑い声を上げている。
ドラッグ中毒者のような精神錯乱が見られるが、そうではない。
それが、彼らの“精神”なのだ。
絢咲零は、周りのこの様子も十分把握した上で、笹原ナオヤの手を強く握りしめているのだ。
「……」
「ふん、なぁ、セリーン。おまえもそのガキに欲望を感じることがあるだろう?」
「……黙れ」
「欲しくて欲しくて仕方ないはずだ。喉の奥で泣いているはずだ。お前の欲望が」
その時、絢咲零の様子が、少しおかしかったのをレン=フレイザーは見逃さなかった。
彼女はその時、確かに何かに想いを馳せ、そして、喉を鳴らした。
【ヴァンパイア】である者たちには、馴染み深い喉の泣き声だ。
乾きに苦しみ、喉を潤さんと欲する欲望が、ついに熟成されたワインのように濃厚で甘く、迸るような感情と思考によって彩られた酸味に溺れるとき、たとえようもないほどの恍惚感が全身を襲う。
あのえも言われぬ悦びを人間の血で味わう。だが、それが【聖者】のものとなったとき、どれほどの快楽を得るだろうか。
 考えただけでも、意識の奥が麻痺していく。
代わりに自分の奥の秘められた欲望と狂喜が目覚める。
「……せんせい?」
笹原ナオヤが、絢咲零の様子がおかしいことに気づき、声をかけた。
その時の絢咲零の瞳を、少年は生涯忘れることはないだろう。
血の色のように紅く染まった瞳、豊満な胸の奥で、彼女の呼吸は少し乱れている。
顔が上気しわずかに赤く染まっている。
 瞳が濡れたように揺れている。
切なそうなその瞳が、ナオヤを捉えた。
その時、ナオヤは初めて、目の前の女性に恐怖を覚えた。
瞬間、少年は絢咲零の手を話した。
「いいんだ、セリーン。そのガキはおまえが見つけた。その極上の美酒はおまえのものだ。おまえが言うとおり、おまえの獲物なのだ、セリーン」
その様子を面白そうに眺めていたレンは、やがて囁くように言った。
「味わうがいい」
その時、暗い闇の中で何かが弾けた。
 どがんっという固い金属の中で、何かの薬物が火花を吹いて爆発し、その先端から凶弾を発射したのだ。
それはまっすぐに絢咲零の視線を統べるように飛行し、やがてレン=フレイザーの喉を貫いた。
そして、
「言ったでしょう。手を離さないで、と」
そう言って、絢咲零は、ナオヤの手を掴み、少し乱暴なくらいの力で強く自分のもとに引き寄せた。
「ご、ごめんなさい」
ナオヤはあっけに取られながらも乱暴に引き寄せられ呟く。
その様子を眺め、一瞬、呆然とするレン=フレイザーだったが、紅い点が浮き出た喉からは、次の瞬間、噴水のように血しぶきをあげて、彼の周囲を紅く染め上げていく。
その事態に、他の【ヴァンパイア】たちは一斉に悲鳴を上げ逃げ去っていく。
中には、怒りをあらわにして、武器を手にする者たちもいた。レン=フレイザーの部下たちだ。
彼らのうち、数人がレンに駆け寄り、数人がショットガンのような武器を構えて、一斉に絢咲零に向ける。
 彼女は、笹原ナオヤを自分の背後に隠し、さらにいつの間にか、もう一丁、【銃】を取り出していた。両手にハンドガンを構えた彼女は、自分たちを囲む幾人もの【ヴァンパイア】に向ける。
 もはやこの状況では戦闘は避けれないだろう。
どちらかがトリガーを引き、その瞬間に血まみれの激戦が繰り広げられるはずだった。
だが、その時。
「ヤメないがぁ、グズどもがぁぁぁぐルがぁぁ」
銃弾で喉を貫通され、声帯も破損しているのだろう。
ひゅうひゅうと空気の抜ける音を響かせ、今なお、血しぶきを上げ続けながら、血まみれの獣は、奇妙に潰れた声で叫んだ。
そのとき、時間が凍りついたかのように、彼の部下たちは、動きを止めて、自分たちのボスのほうに視線を向けた。
その目は、何より恐ろしい怪物を見ている眼だ。
「黙れといったはずだ」
絢咲零だけが、涼やかな目で見返す。
「やるじゃねぇがぁぁ。さすがのオレも焦っダゼ」
「これでおまえは、一度死んだ。レン=フレイザー。このマガジンの中が本当に銀の弾丸だったらおまえはすでに死んでいる」
絢咲零は言った。
そんな彼女に、レンは邪悪な笑みを向ける。
「はは、は、ははは、ハハハハ、オレに貸しでも作った気か? そのマガジンに銀は入ってねぇと自分で言った上で。この後どうする? 言ってみろ。銃には何発弾丸が入っている? 何発か知らねぇが、とても足りるとは思えねぇな」
「二発目も銀の弾丸じゃないとは限らない。試しに受けてみるか?」
そういって、絢咲零はハンドガンの撃鉄を起こした。
がちゃりという冷たい金属音が、その場の張りつめた空気を切り裂く。
そんな彼女をますます面白そうに笑いながら、レンは見つめた。
「食えねぇ女だぜ、おめぇは」
そう言いながらも、どこかレンはこの状況を楽しんでいるようだった。


28 :コンピュータソーダメロン :2008/12/15(月) 04:07:23 ID:o3teQ7nG

ダブルカアラムのマガジンには、銃弾が16発。
 そのうち一発は通常弾のパラベラム弾が装填している。
これは、いわば保険のつもりだった。
どちらかの役者勝負といえる。
しかし、悪魔が悪魔相手に使う駆け引きとしては、若干不安が残った。
もっとも、絢咲零にとって駆け引きに使うカードは他にもある。
使いたくはないが、彼女には【ロンギヌスの槍】があった。
そのカードを有効にするために、彼女はあえて笹原ナオヤをここに連れてきたが、そのことを彼女は早くも後悔し始めていた。

――やはり連れてくるべきではなかった……。

怖がってはいないだろうか。
いや、怖がっていて当然だ。
普通の大人の人間でさえ、この異様な情景には理解する以前に恐怖で泣き叫ぶだろう。
紅眼を腫らした化け物たちは、まるで死んだ魚のように黒眼を持たない。とろんと濁った白眼を真赤にはらして、獣のような息をはき、獲物を見つめ、人間のそれとは思えぬ牙を見せている。
そんな連中が、餓えた獣のように周りを囲んでいるのだ。
 だが、この場にいる者たちの中で、もっとも役者が上だった人物は、最も意外な存在だった。
「そこまで」
それは絢咲零でもなく、レンでもなく、まして、【ヴァンパイア】たちの中の一人ですらなかった。
 笹原ナオヤである。
「ここに来たのには目的がある」
その落ちつきはらった声は、絢咲零の足元から聞こえた。
 あまりに冷静で、沈みきったその声は、絢咲零には聞きなれた声でもあったが、同時に、最も聞いたことのない声色だったため、最初彼女は、それがナオヤのものだとは思えなかった。
両手で銃を握り、ナオヤの手を握れないかわりに、自分の服をつかませている絢咲零は、レンから視線を外す事が、今もっとも取り返しのつかない隙を生むと分かっていながらも、つい、自分のスカートの裾をつかむ小さな手の主に視線を落とした。
先ほどのように自分を脅えた目で見返してきた少年は、どこにもいない。
代わりに、いつものぼんやりとした頼りなげな少年ではなく、澄み切った瞳を向け、どこか達観した物腰でそこに立っている。
 彼は絢咲零のスカートから手を離し、銃を構える彼女の前に立った。
「ナオヤ!」
思わず彼女は、少年の名を叫ぶ。
「いいんだ、先生。だいじょうぶだから」
それは、とても10歳の少年とは思えないしっかりとした口ぶりで、確かな自信を伴っている。
絢咲零は、自分の前に彼が立ってしまうことで、結果的に銃を収めることになる。
先ほどまでとは、表情も雰囲気が一切変わった少年の様子に、レン=フレイザーも気づく。
そして、押し黙った表情で、少年の一挙一動を見つめていた。
「何か言いたいことでもあるのか? ガキよ」
「僕の名前は、笹原ナオヤ。“君たち”の社会のことは少し学んだ。“君たち”がどれほど僕という存在を危険視しているかも、多少理解しているつもりだよ」
「ほぅ」
わざとらしく感嘆の呟きを漏らすレンだった。
 レンは、少しだけこの状況に動じる様子もなく、自分という魔人に真正面から話しかけてくる少年に興味を持ったのか、先ほどまでの殺気がわずかに消えた。
だが、警戒を怠りはしない。
この雰囲気の変化は、もしかしたら【聖者】の特性という可能性がなくもないからだ。
あくまで【聖者】は敵なのである。
「だからあえて言っておく。僕は“君たち”の味方になりはしないが、敵にもならない」
「それはどういう意味だ」
「僕の目的は、“君たち”じゃない」
そこまで言ったあと、笹原ナオヤは言葉を切った。
レンの反応を見るためだ。
当のレンは、どう反応するべきかを考えあぐねている様子である。
それを笹原ナオヤは、静かに見つめている。
まるで、自分の目的を達成するために、今、この交渉をコントロールしているかのように。
そんな彼の様子に、今度は絢咲零が、内心でぞっとしていた。
 笹原ナオヤは、完全に、この場の状況を支配している。
自分が何者であるかを、このコは理解しないまでも、本能的に察知している。
その上で交渉を有利に進めようとしているのだ。
あのあどけない子供としか見えなかったこの少年がである。
 まるで人が変わったかのようだった。 
「言ってみろ。おまえの目的は何だ」
レンは、深く考えたあげく、最後にそう言った。
その言葉を待っていたかのように、笹原ナオヤは答えた。
「父さんを殺した【預言者】への復讐。そのための武器と情報がほしい」
その一言が出たとたん、この場で最も動揺を隠せなかったのは、絢咲零だった。
彼女の当初の目的とは大きく違う筋書きなのである。
「ほぅ? このオレと取引するためにここに来たのか?」
そう言いながら、レンは、今度は絢咲零のほうにも視線を向けた。
絢咲零は、いたって平静を保ち、この場の状況を見つめている。
その様子を見ながら、彼は今、ここにきた当初の絢咲零の言葉を思い返していた。

――ルーマニア人を一掃するための兵器……。

この子供の笹原ナオヤを利用しようというのだろうか。
確かに、この子供は【聖者】である。
見た目はただの子供でも、神に仇なすすべての存在を滅却する力を持っている。
あるいは、将来的に持ちえることだろう。
神が遺した遺産は数多くこの世界には存在しているが、その中でも【ロンギヌスの槍】は特A級の超兵器だ。
 ルーマニア人を一掃できれば良し、仮にできなくても、もしかしたらルーマニア人のグループを壊滅寸前くらいまでには追い込めるかもしれない。
もし、それもできなかったとして何が困るというのだろう。
【聖者】が一人、この世から消えるのである。
その上、今のところ笹原ナオヤの存在を知るものはいない。
自分たちのグループではない余所者でもある。
「……」
深く考え込むレン=フレイザーは、やがて、口から血を吐き捨てた。
すでに流血していた血は止まり、傷口もみるみる閉じていく。
この程度では死なない化け物なのである。
だが、それでも血を失い過ぎたのだろうか。
彼は右手を優雅に差し出した。
すると、その手に他の【ヴァンパイア】からグラスが差しだされた。
紅い液体の満たされたグラスである。彼はそれを一口、飲んでから、やがて答えた。
「見返りは?」
「“君たち”は見逃すことにする」
それはあまりにも突拍子もなく、また恐れを知らない一言だった。
無邪気だとさえ言える。
この状況の中では、もはやコメディのようでさえあった。
それだけ荒唐無稽であり、途方もなく無謀な言葉だったのである。
レンは、思わず噴き出した。
まだ喉の奥で傷が閉じきっていない。あまり大きく笑おうとしようものなら咳きこみ、また余計な血を吐きだす結果になるにも拘わらず、それでも笑いを抑えることができなかった。
「ふふふ、ふはははは! なんてガキだ。信じられん。おまえのような人間は見たことがない」
レンに合わせて、周囲の化け物たちも笑う。
その一方で、絢咲麗は頭痛を覚え始めていた。
もはや間違いない。笹原ナオヤをここに連れてきたのは完全に間違いだったと彼女は認めていた。
だが、そこで奇跡が起こった。
思いもよらない言葉が、笑い苦しむレンの口から漏れたのである。
「いいだろう、『笹原ナオヤ』。オレはおまえに興味が出てきた。武器と情報はくれてやる。あとは自分でやってみろ。ちょうど退屈していたところだ。オレはおまえがその後、どうなるのか興味がある」
ひとしきり笑ったあと、レンはそう答え、部下たちに一瞥する。
彼らは、その合図に合わせて、笹原ナオヤと絢咲零を取り囲むのをやめ、ゆっくりと離れていった。
そして、最後に絢咲零に複雑な視線を送ったレンだったが、それでもそれ以上のことは言わず、彼女に背を向けた。
そのまま去っていく彼だったが、ある時、思い出したように立ち止り、背を向けたまま言った。
「セリーン、退屈しのぎの余興ができて、シラけちまったが、いずれケリはつけるぞ」
その一言だけを言い残し、レン=フレイザーはその場を去った。
玉座の前を通り、奥の扉の向こうへと消えていく。
それについていくのは一部の【ヴァンパイア】の女たちのみだ。
彼女たちは、絢咲零に恨めしげな視線を向けるが、すぐにレンを追って出ていく。
あとに残されたのは、絢咲零と笹原ナオヤ、そして屈強な体躯を誇る大男たち数人である。彼らは、レンの部下でボディガードだ。
絢咲零と銃を向け会った者たちである。
「……」
彼らは無言で、絢咲零とナオヤに出口へと促す。
用は済んだ。帰れ、と言いたいのだろう。
そんな男たちを見やり、絢咲零は溜息をついた。
途中で口をはさむべきかどうか迷っていた彼女だったが、結果的に完全に彼女の思惑を超えた交渉となってしまったのである。
はっきりいって、これではここに来なければよかったとさえ思っている。
そう思いながら、彼女はナオヤを見据えた。
銃をホルスターに戻し、ナオヤの前に歩み寄る。
「……」
両手を腰に当てて彼女は何を言うべきかを考えた。
そんな彼女を見上げる笹原ナオヤは、すでに彼女の知っている少年に戻っていた。
彼女のぴりぴりとした雰囲気から、これから怒られるのだろうと思ってびくびくしている子供の顔だ。
そんな彼を見ながら、言いたいことはたくさんあったが、結局、彼女が言ったのは、一言だけである。
「帰るわよ。手を出しなさい」
自分でも予想以上に怒気を孕んだ声となってしまった。そのことに一瞬、失敗したと思ってしまう絢咲零だった。
そんな彼女に対して、あれだけあのレン=フレイザーという【ヴァンパイア】の長とまっすぐ向き合って交渉していた少年と同一人物とは思えないくらい弱々しい調子で、笹原ナオヤは答える。
「えっと、あの……はい、先生……」
まるで叱られた子犬のようにしゅんとしている少年の手を、彼女は再び、少し乱暴に掴み、そのまま引っ張っていった。
 ただただ、下を見ながら歩く少年に、彼女は少し視線を向ける。
複雑な気持ちが自分の胸の中で沸き起こってくるのを彼女は感じていた。
少年に対して、頼もしいと思うのと反面、なんて危険なことをしてくれたのだろうという少年に対しての怒り、そしてこれからのことを思うと心配でならない自分がいる。
 先ほどのあの危険な状況の中で、自分は少年を守ることを第一に考えていた。
理由について、そこまで考えがいってはいなかった。
それよりも感じていたのは言いようもない後悔と恐怖である。
もし、レンが少年を襲っていたら。
他の【ヴァンパイア】たちが少年を傷つけたら。
ボディガードたちの構えていたショットガンの弾丸が、少年に当たったら。
他の【ヴァンパイア】と違い、戦闘のプロである自分は多少の傷などでは死なない。
しかし、この少年は違う。
人間は脆いのだ。
まして、こんな子供など、自分にとってほんのわずかな傷でも死んでしまいかねない。
 そんな危険な渦の中心に自分は、この少年を連れてきてしまったのだ。
他の目的があったとはいえ、なんて危険で無謀で恐ろしい行為だったのだろう。
「……」
そこまで考えた彼女は、やがてひとつの疑問に辿り着く。
自分はどうして、この子供をこれほど心配しているのか。
それは本来、悪魔である【ヴァンパイア】の自分にはない感情である。
「……」
ボディガードたちが後ろからついてくる中、レンの館を出たあと、絢咲零は笹原ナオヤの手を握ったまま、少し迷ったあげく、片方の手で彼の髪に触れた。
さらさらとした母親譲りの気持ちのいい髪質だ。
「なに?」
ナオヤが不思議そうに絢咲零を見上げた。
「髪に枯れ葉がついてる」
「とれた?」
「待って」
そういいながら、彼女はナオヤの髪をさらさらと撫で上げた。
優しく、風が過ぎていくような穏やかさで彼女は少年の髪に触れる。
本当に彼女は悪魔なのだろうか。
彼女を知る者が、その時の彼女の表情を見ていたら、そう疑問に思ったことだろう。
そのうち、彼女はナオヤの柔らかいモチモチとした頬をつまんだ。
「ちょっと、痛い、先生」
頬を引っ張られて抗議するナオヤに対して、絢咲零はそれまで見せたことのない穏やかだが、静かな表情で少年の頬を引っ張っていた。
少年は無事だ。
そのことを確認するかのように。
「罰よ」
「怒ってるの?」
「ええ、怒ってるわ」
そう言いながらも彼女は表情は怒っているようには見えない。
ただ静かな瞳で少年を見降ろしているだけだ。
だが、少年にはそれがなおさら彼女の怒りの深さのように思えたようだ。
「……ごめんなさい。先生」
「話は後よ。乗りなさい。それとちゃんとシートベルトするように」
「母さんでもそこまで口うるさくないよ」
「何かいったかしら?」
「……何でもないです」
そしてこの奇妙な【聖者】と【悪魔】を乗せて、車はひとまず走りだした。
街の灯に向けて。
家族の待つ家に向けて。


29 :コンピュータソーダメロン :2008/12/19(金) 00:01:10 ID:o3teQ7nG







 絢咲零はいつものカフェにいた。
それが彼女の日課のように思えるほど、毎日、いつも決まった時間に決まった席でコーヒーを飲み、新聞を読み、ノートパソコンで何か仕事をし、香川翠と出会ったあと店を出る。
 スカイラインを走らせて海岸通りを走りながらも、彼女の視線の先には笹原ナオヤがいた。少年を監視することが彼女の仕事だからだ。
助手席には、彼女に負けず劣らずの艶麗なる女性、香川翠がいる。
香川翠は、絢咲零の監視役でもある。
同時に彼女のマネージメントの役割もこなしている。長い年月、二人はそういう関係であり、ほぼ完璧ともいえる仕事を互いにこなしてきた。
【ヴァンパイア】に限らず悪魔同士に信頼という言葉は存在しない。
あるのは欲望の上に立つ利害関係のみだ。
それでも長い年月を共に過ごしてきて、相手をある程度理解しているつもりだった。
しかし、その矢先、香川翠でも把握しきれていない事態が、先日のレン=フレイザーの館での出来事である。
驚くのを通り越して、もはや信じられなかった。
確かに絢咲零は、レン=フレイザーを嫌悪している態度を露骨なまでに見せているのは知っている。
 何度か香川翠の立場としては、絢咲零の態度を改めさせようと努力してきたが、ここにきて、いかにそれが虚しい努力か悟り始めていた。
とはいえ、まさかレンを相手に銃を向けるどころか、発砲するなどと誰が予想できただろうか。
「……頭痛がね。するのよね……」
助手席に座り、彼女はラップトップのキーボードに指を滑らせながら、不意に口を開いた。
絢咲零は気にすることなくハンドルを握っている。
「アスピリンならダッシュボードに入っているわ」
そういうことが言いたいわけではない、と香川翠は言おうとしたが、それ以上に用意の良さに素直に感心してしまった。
「用意がいいのね」
「風邪をひいたのよ」
「あなたが?」
風邪をひいてアスピリンを持ち歩く悪魔など滑稽だと言わんばかりに香川翠が聞き返した。
「ナオヤよ。少し前から風邪をひいてるの」
その返答を受けて、香川翠は複雑な表情で絢咲零の横顔を見つめた。
絢咲零は、先ほどと変わらぬ落ち着いた表情で前方を遠く見据えている。
恐らく、その視線の先には笹原ナオヤのことも監視しているのだろう。
絢咲零による笹原ナオヤの監視は徹底している。
 そのこと事態に疑いの余地はなかった。だが、どうもそれが監視というには少し干渉が過ぎるのではないかと香川翠は考えている。問題は、絢咲零がどこまでそのことに自覚的であるかである。
 彼に関して、最終的にはレンに銃を向けるに至ったことは、明らかに一線を超えてしまっている。完全に反逆行為なのだ。
レンが気まぐれを起こさなければ今頃、絢咲零は死んでいる。
それは間違いない。
そのことを分かっているのか。
「……」
香川翠は再び絢咲零を見つめる。
彼女は何の迷いもなく、恐れることなく、レンに銃を向けたときと同じく真っ直ぐ前方を見ている。
「ねえ、聞いてもいい?」
香川翠は、迷ったあげく、やはりどうしても聞いてみたくなった。
「なに?」
「なぜレンに銃を向けたの?」
その問いかけがいずれ香川翠から向けられるのを予感していたかのように、絢咲零は少しの表情の変化も見せず、代わりに小さく溜息をついた。
「撃つつもりはなかった。本当はただの威嚇のつもりだった。でも、あのコにあんな自分を見せたくなかったのよ」
そう言いながら、絢咲零は、あのときの自分を思い返した。
レンの言葉に一瞬惑わされ、本能を抑えきれなくなった自分の姿を思い返す。
 甘く愛おしい血への乾きにあてられ、上気していく自分の体温と、身体の奥底で沸き起こってくる抑えようのない欲望に震える自分の姿をあの少年に見られたくはなかった。
なぜ、そう思ったのか自分でも理解できない。
自分は悪魔である。
その中でも、人間を誘惑し淫らな欲望に溺れさせて堕落させるサキュバスなのだ。
その自分が、そんな自分をあの少年にだけは見られたくないと寸前のところで、心を縛り付けた。
 そのために、レンを撃ったのだ。
たとえ、反逆者としてその場で殺されることになったとしても、それでもいいと思ってしまったのである。
冷静沈着で、いかなるときにも感情に流されることのない自分が、あの一瞬下した判断は、どう考えても間違っている。しかし、それでも自分はその判断を下した。
そして、それを今も悔やんではいない。
いや、むしろ、あんな淫らな自分をあの少年に見せるよう仕向けたレンを何度でも銃で撃ち殺してやりたいと思ってしまう。
「それはどういう意味なの」
まさに核心的な問いかけが、絢咲零の心を見透かすようにして香川翠に向けられる。
その答えを絢咲零は持っていなかった。
「……」
彼女が自分の中の答えに気づくのは、ずっと先のことである。
 そして、この時はまだ、それほど大きな気持ちではなかった。
いや、悪魔である彼女にとって現時点のこの感情は、非常に大きな意味があったものの、それはまだ、その程度のものでしかなく、その答えを紐解いていく過程で、やがて絢咲零は、非常に大きな決断を迫られていくことになる。
「……」
聡明な香川翠は、そのことを漠然とではあるものの、この時点ですでに悟っていた。
しかし、彼女は今は絢咲零に何も言わなかった。






 香川翠に今後のことを考え、二、三の打ち合わせをした絢咲零は、そのまま銀蘭町の外れにある廃工場街に向かった。そこである目的を果たしたあと、再び笹原家に戻る。
時刻は夕方で、すでに笹原ナオヤは帰宅してリビングでテレビを見ている。
母親の笹原ユキノはその傍らでいつも通り、夕食の支度をしていた。
ありふれた家庭の夕暮れの光景が、なんとなく絢咲零に懐かしいような切ないような奇妙な感情を覚えさせる。まるで、昔、自分もこんな光景の中で家族の元に帰る日々を過ごしていたのではないかと錯覚させるような気持ちだった。
玄関のドアのベルを鳴らして入ると、冬の近づいた冷たい空気とは裏腹に、ほっとするような温かい空気が彼女の胸をいっぱいにする。
「おかえりなさい、零」
キッチンではいつものようにユキノが包丁を手にして立っていた。
「ただいま、姉さん。着替えたらわたしも手伝うから」
そういって零は、スーツの上着を脱ぐ。
「いいけど、脱ぐなら部屋で脱いでね」
「はいはい」
「『はい』は一回でいいのよ。ほら、テレビばかり見ていないでナオヤも夕食できるまで部屋で宿題しなさい」
「はいはい」
テレビを消しながらナオヤは、放り出していたカバンを手にした。
「『はい』は一回でいいのよ」
ユキノは苦笑を受かべ、腰に手を当てて仕方のない『家族』を優しい目で見つめていた。
仕方のない家族だといって、自分が世話を焼いていた日々がそこにある。
まるで、今までと何も変わっていないかのように。
だが、忙しい毎日、仕事に没頭しながらも不器用に家族を想い、少し抜けた様子でありながら、子供である笹原ナオヤと同じくらい子供っぽかった夫はもういない。
 あの日、『ナオヤを男にするぞ』といって、この寒い時期にいくのはどうかといった自分を振りきって出ていったまま、二度と帰ることはなくなった。
 夫がいつも座っていた食卓の席は、もう永遠に空いたままだろう。
品性といった言葉とは程遠い豪快なしぐさで食事する姿を見ることはもうないのだ。
「……」
もういない。
いないのだ。
ぽっかりとあいた穴は塞がらない。
二度と戻らない。
なのに、いつかあった家族のやりとりが、少しずつ戻り始めている。
 零が加わることで、それが戻りつつある。
そのことが嬉しいのか、それとも悲しいのか。
ナオヤと零が、それぞれ自分の部屋に戻っていくのを見つめながら、ユキノは自分でもよく分からないまま、気づいたときには頬に熱い滴が一滴流れ落ちた。
 そのまま溢れだした滴は、降りだした雨のように止まらない。
ユキノは両手で顔を覆った。
あと少ししたら、零が戻ってくるだろう。
その時に自分が泣いたままではよくない。
しっかりしなくては。
だが、どうすることもできなかった。
自分を氷のように凍らせて、今までキッチンに立っていた。
でも、その氷は今溶け出している。
止められない。
 そのうち立っていられなくなったユキノは、ついにその場にうずくまってしまった。
子供のようにうずくまって泣く自分を心のどこかで叱咤する。
自分の心を打ち、なんとか引き締めようとする。
 だが、その時。
そんな彼女の肩に、そっと誰かの手が触れた。
とても温かい手が彼女の肩に触れ、優しく包み込んだ。
「だいじょうぶよ、姉さん。だいじょうぶだから」
零だ。
いつの間にか零が戻ってきていて、うずくまって泣いている自分の前で膝をつき、をそっと抱きしめている。その温かさ、優しさが、彼女の心をよりいっそう溶かしこんでいく。
もう自分でも感情を止めることができなかった。
降りだした雨は、いつの間にか雷雨となり、自分の心の中で荒れ狂う。
だが、その雨は冷たいものではなく、温かい。
その温かさに打たれながら、彼女は今まで抑えていた嵐のような感情を解き放った。
「母さん?」
ユキノが泣き叫ぶ声に気づき、ナオヤが部屋から姿を見せた。
しかし、母親は気付く様子がない。
あの穏やかで優しい母が、こんなにも感情を露わにして泣いているのをナオヤは見たことがなかった。
心配になり、部屋から出ようとしたナオヤを零が制した。
ゆっくりと首を横に振り、部屋に戻るよう促す。
「……」
ナオヤはどうするべきか迷ったが、結局、零に従うことにした。
彼は部屋に戻り、ユキノの言うとおり、宿題をしようと机に向かう。
しかし、ユキノの声が耳に残り、結局、ベッドに横になり、布団をかぶって耳を塞いだ。
それが少年にできる精一杯のことだった。



――父さんが悪いんだ。



その時、ナオヤは小さくそう呟いた。


30 :コンピュータソーダメロン :2008/12/21(日) 02:51:02 ID:o3teQ7nG







 翌朝、ナオヤが目を覚ましたのは朝の7時だった。
あの後、いつのまにか眠ってしまっていたらしい。ベッドに横たわり、着替えることなく丸くなって眠っていた。
 いつもなら目覚まし時計が鳴って、不快な気分で起きるものの、すぐに眠ってしまって零に無理やり起こされて起きるのに、なぜか、今日は目ざまし時計が鳴ることはなかった。
いつものように不快な気分で目覚めることもなかった。
なんとなく、意識が唐突に蘇り、眠気に苛まれることなくはっきりと現実の世界に覚醒した。
 あの事件以来、眠りから覚めるごとに、胸の奥でちくちくと痛んでいたものが消えている。
こんなにすっきりした目覚めは、久し振りじゃないだろうか。
とても不思議な気持ちだった。
「……」
部屋を出ると、毎日、眠気でぼんやりしている頭には聞こえてこなかった音が聞こえた。
とんとん、という小気味いい音が、キッチンの方から聞こえる。
そして、じゅわっというフライパンの音だ。
 何げないテレビの天気予報が流れている。
音だけじゃない。
匂いまではっきり感じることができる。
朝の静謐な空気の匂いと冷たさの中に時折、折り重なるようにして感じる温かい空気が、自分の胸を優しく撫でていく。
 眩しいだけで不快だった太陽の光が、まるで金の粉を振りまいたかのように、神々しく感じる。
その光の先に、母、ユキノがいた。
いつも見慣れたありふれた日常の中に、当然のようにして立っている母の姿が、今日はなぜか遠く、そして懐かしいように感じられた。
まるで何年も会っていなかったかのように。
いや、そうではない。
もう二度と会うことのなかった家族に、奇跡的にも再会することができたかのように。
なぜだろう。
 涙が溢れてくる。
「母さん」
ナオヤが声をかけた。
しかし、その声は料理する音とテレビの音で掻き消えてしまって、ユキノには届かなかった。
「母さん」
もう一度声をかけたとき、ユキノは振り向いた。
 少し意外そうな顔をしていたが、すぐにいつもの優しい微笑みを浮かべる。
「珍しいわね。日曜の朝なのに、こんなに早く起きるなんて」
「……そうだね」
ナオヤは何気なく答えて、まだ皿も乗っていないテーブルの席にゆっくりと腰かけた。
その間、ナオヤはとても遠い瞳でユキノの姿を見ていた。
 今日の自分は、少しおかしい。
そんな気が一方でしているが、それ以上に、言い知れぬ懐かしさのほうが先立った。
「今日はどうしたの? 零より先に起きるなんて」
そう言いながら、ユキノは、焼けばかりのトーストとハムエッグにサラダを添えてナオヤのテーブルに手際よく用意していく。
 父、トウジが死んでから、母、ユキノは毎朝、古めかしいコーヒーメーカーでコーヒーを作っていた。ユキノは紅茶派だし、ナオヤもそうだった。
だから、この家ではコーヒーを飲むのはトウジしかいなかった。そのトウジが死んで以降、あのコーヒーメーカーを使うものはいない。にも拘わらず、母、ユキノは事件後もずっと朝にはコーヒーを煎れていた。誰も飲むことがないポットにコーヒーが煎れられていくが、それをそのままにして、何もなかったかのように毎朝、零とナオヤとユキノの三人の朝食が続いていたが、今朝はもう、そのコーヒーメーカーは沈黙したままになっている。
「……」
ナオヤは、そんなコーヒーメーカーを静かに見据えていた。
その視線に気づいたユキノが、少し寂しい微笑みを浮かべて、ナオヤの正面のイスに座った。
「お父さん、コーヒーが好きだったわね」
「うん」
トーストを一口だけかじり、ナオヤが頷いた。
「男はブラックコーヒーだっていって、絶対、砂糖もミルクも入れなかったね」
そういったとき、ユキノがくすくすと笑った。
「お父さんね。本当はすごい甘党だったのよ」
少し意外そうな表情で、ナオヤはユキノを見返した。
「でもブラックコーヒーしか飲まないっていってたよ」
「あなたの前ではね。男らしい自分を見せたくていってたのよ。ブラックコーヒー飲むのが男らしいって思いこんでて、あなたが学校いったあと、一気に渋い顔して砂糖探してたわ。そういう変に意固地なところがお父さんらしかった」
ユキノは懐かしそうにコーヒーメーカーを見つめる。
ナオヤにとっては古めかしいコーヒーメーカーでも、母、ユキノにはトウジの思い出がしみこんだ大事なものなのだろう。
母は続けた。
「ニューオーリンズで初めてお父さんに出会ったときも、クリームたっぷりのドーナツを頬いっぱいに頬張っていて、手にしてたのはコーヒーなんかじゃなくて、スターバックスで買ってきたココアだった。それを一気に食べて飲んで、フットボール見ながら叫んでるような人。試合を観に行って知り合った帰りに、LLサイズのターキーサンドを頬張りながら、ストリートでバスケットして、警官のパトカーのフロントガラスをボールで割っちゃったりして……」
ナオヤは、だんだんと気が抜けてくる気がした。
自分の知っている父は、少年らしいといえば聞こえはいいが、呆れるほど子供っぽいところがあった。ユキノの話を聞けば聴くほど溜息が出てくるが、違和感なくそれをイメージできることが情けなくもあり、半分、おかしくもあった。
「……そ、それで……どうなったの?」
「一緒にバスケットしていたスラムの子供たちと一緒に逃げたのよ。わたしの手を引っ張って。あんなに走ったのはあのときが初めてだった」
「……」
ユキノを巻き込んだのか。
 ナオヤは頭痛がしてくる想いだったが、こんな一連の出来事でもなければ、母、ユキノと父であるトウジは出会うきっかけがなかった。
そうなると自分も生まれてくることもなかったと思えば、複雑な気持ちがしてくる。
その一方で、父、トウジはユキノに言えない秘密を抱えて生きていた。
ユキノもそれを知らないにしても、心のどこかで父には何か秘密があることに気付いてはいただろう。
 しかし、気づかないふりをしながら、10年以上も二人は恋人を経て夫婦としての関係を作り、互いに愛し合い、信頼しあってきたのである。
母はどこまでのことを知っているのだろうか。
不意に、ナオヤはそのことが気になった。
母は、あの日誌の存在を知っているのだろうか。
知っているとして、中を読んだだろうか。
「もうこのコーヒーメーカーを使うことも当分ないわね」
そういって、少し寂しそうにコーヒーメーカーに視線を向けたユキノにナオヤは呟いた。
「母さん……」
「なに?」
ナオヤは迷った。
それは聞くべきだろうか。
それとも、もはや、そのことは触れないまま、父の思い出だけを大切にして生きていけるようにするべきだろうか。
そもそも、今更そのことを知ってどうだというのだろうか。
むしろ、父と母の関係にそのことは、それほど重要だといえるものではない。
母は、知らなくても、ある程度の理解を父に向けていたし、そのことを父も分かっていた。その上での十年間を今更、真実で汚すべきだろうか。
「父さんは……」
そこまで言いかけたとき、リビングのドアが開いた。
「も、もう朝なの……?」
珍しく、零が寝むたそうに起きてきた。
いつも丁寧に手入れされたシルクのような髪は、ところどころ寝ぐせがあり、顔はぼんやりとしている。
「先生、起きるの遅いよ」
ナオヤがパンをかじりながら言った。
「まさか、あなたにそんなセリフを吐かれる日が来るとは思わなかったわ」
そういって、眠た気に目をこすり、二人の間の席に座った。
そして両肘をついて頭を抱える。
少し酒精の匂いがした。
「太陽の光が眩しい」
うわ言のように言う零に、ユキノが少し溜息をつきながら、やがて微笑みを向けた。
「今日は休みなの?」
「ん〜、そう……。だからナオヤを送ったら帰って眠るわ」
「いいよ、先生。今日は歩いて学校に行くし、そんな眠たそうに運転されると怖いから」
「そうよ、無理しないで休みなさい」
ユキノはキッチンに立ち、再びフライパンを手にして言う。
そんなユキノの背に視線をわずかに向けてから、ナオヤは今だ頭を抱えて何やら呻いている零にこっそり声をかけた。
「ねえ、先生、【ヴァンパイア】が日光に弱いのは迷信だって書いてたけど」
「それは勉強不足よ。二日酔いの【ヴァンパイア】は日光に弱いの。日誌に書き足しておきなさい」
半ば、投げやりに零は答えた。
「うん」
それを分かっていて言っているのか、ナオヤは素直に頷いた。
そんな時、不意にユキノが振り返って零に問いかける。
「零、紅茶とミルクとどっちがいい?」
その問いかけに、二日酔いで苦しむ【ヴァンパイア】の零は、迷うことなくそのどちらでもない選択をした。






「濃いコーヒーにして。ブラックで」
そういって、キッチンの片隅で沈黙しているコーヒーメーカーを指差した。


31 :コンピュータソーダメロン :2008/12/21(日) 03:29:04 ID:o3teQ7nG







絢咲零と【預言者】の戦闘に遭遇した笹原親子は、そこで壮絶な体験をした。
 笹原トウジが死亡し、彼の息子は同じ日に死んだはずだった。
そう。伝承にある【ロンギヌスの槍】に心臓を貫かれ、死亡したはずだった。
しかし、警察が『事件』の現場に辿り着いたとき、少年は死んではいなかった。
それどころか外傷はほぼ皆無で、貫かれた胸は擦り傷程度のものしか残っていなかった。
その後、生還した笹原ナオヤは、父、笹原トウジの日誌を手にする。
 時を同じく、レン=フレイザーの一派である絢咲零は、生還した笹原ナオヤの監視任務に充てられた。
 父を失った笹原ナオヤは、事故のショックそのものはかなり軽微なもので、精神的な影響も少なかった。しかし、そのこと自体が母ユキノには心配でならなかった。
そんな中、絢咲零は【魅了】を使って、笹原ナオヤとその周囲の関係に潜り込んでいく。
【ロンギヌスの槍】によって選ばれた【聖者】であるナオヤにはそれが効かない。
かくして、【悪魔】と【聖者】の奇妙な日々が始まった。
日々を過ごし、少しずつ、事故のショックから立ち直ろうとしていく笹原ナオヤと母、笹原ユキノの親子だったが、母、ユキノはこの時点では気づいていなかった。
【ロンギヌスの槍】で貫かれて以降、精神が少しずつ変化し始めている息子の様子に。
父、トウジの日誌を読みふけりながら、時折、奇妙なほどの唐突さで見せる達観した面持ちは、10歳の少年の見せるものではなかった。
 やがて、レン=フレイザーの館で、【悪魔】たちに取り囲まれる絶体絶命の最中、彼は絢咲零の思惑とは裏腹に【預言者】に対する復讐と、そのための武器、情報を要求する取引を持ちかけた。
あまりに唐突な『復讐』とレンを相手に取引をする駆け引き劇に、絢咲零は混乱を隠せなかった。
 同時に、危険を顧みないこの少年に向ける自分の気持ちに、彼女は内心でひどく困惑する。
そして、様々な出来事を迎えつつ、それでも笹原ナオヤの日常は、いまだ何事もなかったかのように続いていった。
しかし、それはゆっくりと、そして確実に終わりへと向かい、新たな始まりへを呼び覚まそうとしていた。
そう、絢咲零と笹原ナオヤの旅が、始まろうとしていたのである。
 そしてそれは、唐突にやってくる。
コーヒーを飲んで目が覚めるのを待っていたかのように、それは訪れようとしていたのである。


32 :コンピュータソーダメロン :2008/12/23(火) 01:48:08 ID:o3teQ7nG

 絢咲零は、いつもの黒いスーツ姿にコートを簡単に羽織って外に出た。
一目見れば、どこかのオフィスで働いているやり手に見えなくもない。
はたまた弁護士か。
彼女がかけている細見の眼鏡が一層理知的な印象を与えていた。
とても【ヴァンパイア】という魔性の本能で生きている悪魔には見えない。
 いつか零が言っていたが、【ヴァンパイア】は人を誘惑して襲うらしい。
この艶麗なる美貌が、人の理性を暴力的なほどに奪い、本能をむき出しにさせてしまうのならば、むしろ彼女自身の外見は理性的に見えるべきなのかもしれない。

――その方が背徳的で、より効果があるのよ

『ハイトクテキ』という言葉は、その時のナオヤには難しい言葉だった。
零自身、ナオヤには理解できないだろうと思ってわざといったような感があった。
結局、ナオヤには、男を性欲で惑わして獣のような本能をむき出しにさせるために、あえて擬態しているという理解に収まった。もっとも、結局、やっぱり男を惑わすということが具体的には理解できていない。
 擬態という言い方が、彼にはポイントだった。
(ようするに先生は、カマキリみたいな昆虫と同じなんだね)
(……)
彼に悪気はない。しかしその後、ナオヤは零にお仕置きされることになるが、そのあたりのことはさておき、病的なまでに白い肌をコートの内側に隠し、彼女はナオヤが出てくるのを待っていた。
少年は、まだ玄関で靴をはくのにもたもたしていた。
「遅い……。遅すぎるわ」
やっと出てきたナオヤの額を指先で、ツンとはじく。
「この靴、新しくてまだ慣れてないんだよ」
特に痛いわけでもないが、額をさすりながらナオヤは言い訳じみたことを言った。
相変わらず母親にぐるぐる巻きに服を着せられている。
少し過保護だったユキノが、一層、ナオヤに世話を焼くようになったのは、家族を失ったばかりだからだろう。
「悪魔が相手だったら、あなたが靴をはいている隙に殺されるわよ」
「先生、悪魔だけどまだ生きてるよ」
その一言でまた額を弾かれるナオヤだった。
「屁理屈いわない」
「ごめんなさい」
今度は素直に謝ることにした。
「手袋はしないの? 寒いわよ」
ぐるぐる巻きにされたナオヤだったが、手だけはどういうわけか手袋も何もはめていなかった。別にそれはそれでい構わないのだが、なんとなく零はいった。
「去年のがあったけど、なんかもう合わなくなってた」
すると零は黒いレザーの手袋をはめた細い手を差し出した。
「手を出しなさい」
「なに?」
聞き返しながら、右手を差し出す。
すると零は、ナオヤの右手を掴んで自分のコートのポケットに突っ込んだ。
「どうせ、手を繋ぐんだから。このほうがいいでしょ」
「なんか恥ずかしいよ」
「黙りなさい。さっさと行くわよ」
そう言って、零は有無を言わさずに歩き始めるのだった。
結果的にナオヤはそれに従いついて行くしかない。

――過保護なのは、むしろわたしの方なのかもしれない。

そんなことを思う零だったが、結局、彼女はそのままナオヤを学校まで送ることにした。
「それにしても、日曜日にまで学校いってお勉強とは……」
吐息が白く染まるほど、朝の空気は冷たい。
そして、陽光が眩しく瞳を照らしている。
通勤に向かうどこかの会社員の男性と何度かすれ違ったが、ほとんどそれ以外に誰かとこんなに早い時間に出会わない。
いつものことだが、すれ違う世の男性は、みんな零に視線を奪われていく。
ナオヤはそれを不思議そうに見ていた。
「勉強がだいぶ遅れているから、ハル先生が見てくれるって」
すれ違った男性が、その後も振り返って零を見ている。
その様子を同じように振り返ってナオヤを見ながら答える。
「ちょっと、歩き難いわ。普通に歩きなさい」
零のコートのポケットの中で手を繋いだままなので、奇妙にねじれて零は歩きにくい。
「みんな先生に振り返っていくね」
「いいから放っておいて。前向いて歩いて」
「うん」
ナオヤは、言われて素直に従う。
「まぁ、わたしとしてはその方がいい。大人しくお勉強して、じっとしておいてもらった方が助かるわ」
「どうして?」
ナオヤは、零を見上げながら聞き返した。
その問いかけが、零の中では、ある仮説を思い浮かべさせていく。
以前から気になっていることだが、やはりナオヤ自身は無自覚なのかもしれない。
「憶えてないの? レンの館であなたが言ったこと」
零が今度はナオヤを見降ろして言った。
ナオヤの反応を正確に観察するためだ。
今、彼女の横で手を繋いでいる少年は、あの時のような達観した面持ちを微塵にも見せていない。まるで別人のように感じていたが、結局、それが答えなのかもしれない。
あの日、槍に刺されてからの少年の変化だ。
「憶えているよ。【預言者】に復讐する。ううん、【預言者】を殺す」
自分の言っていることの意味をどこまで自覚しているのか分からないほど、少年はいつも通り少しぼんやりと答える。
「……いったい、どうしてそんなことを」
「父さんを殺されたから……じゃない気がする」
その瞬間、零はナオヤと手を繋いだまま、思わず立ち止まった。零の心の中で、背筋がぞくりとするような感覚が、背中を走り抜け、彼女の足を止めたのだ。
ナオヤは前を向いていて、その表情は見えないが、今、この瞬間、手をつないでいる少年が、突然、まったく知らない誰かにすり替わったかのような気がしたのだ。
何かが憑依した……そんな表現でしか言い表わされない。
「ナオヤ……」
そういって、彼女は笹原ナオヤであるはずの少年に呼び掛けた。
少年は、すぐにはこちらに顔を向けることなく、ずっと前を向いている。
まるでそこに何かいるかのように。
零は少年の視線の先を一瞬だけちらりと見たが、やはりそこには何もなかった。
アスファルトの坂道が上へと続いているだけだ。
「ナオヤ!」
少し強い声でもう一度、零がナオヤを呼び掛けた。
その時。
絢咲零は、自分の目を疑った。
一瞬、笹原ナオヤであるはずの少年の姿、その輪郭がまるで消しゴムでこすられるかのように、ぼやけたのだ。そして写真のレンズのピントが狂ったかのような現象が起こる。輪郭がぼやけ、ナオヤの姿が二つに分裂したように見えたかと思うと、すぐにそれはピントが修正され、元の少年の姿がそこにあった。
「……」
零は自分の観たものが理解できず、また信じられなかった。
いっそ、アルコールで酔って幻覚を見たと思ったほうがまだ納得がいく。
「先生?」
そこには、いつものナオヤがいた。
少し心配そうな面持ちで、零を見上げている。
「だいじょうぶ?」
「……」
「やっぱり家で休んでたほうがよかったんじゃない?」
そこまでナオヤが言ったとき、零はようやく現実に引き戻された。
「……そうかもしれないわね」
「お酒飲みすぎるから。【ヴァンパイア】でも酔うんだね」
見間違いだろうか。
 零の中で様々な思考が巡らされては、今のナオヤの様子と、あの時、レンと交渉したナオヤの姿が重なっていく。
やはり何かがおかしい。
父、笹原トウジの死に対するナオヤの意識や感情、そして今の別人のようなナオヤの様子、すべてがあの日、【ロンギヌスの槍】に貫かれたことと関係しているような気がしてならない。
 零は、ナオヤを送ったあと、香川翠に連絡を取る必要性を感じていた。
しかし、状況はこうしている間にも加速し始めていた。
後に、絢咲零は【聖者】としての本能が、迫りくる危険を予知し、ナオヤの精神を加速度的に変化させようとしていたのではないかと分析している。
事件は、間もなく現実のものになろうとしていた。


33 :コンピュータソーダメロン :2008/12/25(木) 23:03:41 ID:o3teQ7nG






イオン=スプートニクは、眼の前の光景を静かに見つめていた。
照明が落とされた室内で、最低限の機器の光が灯されている以外は、一切が闇に閉ざされている。理由は彼の目の前にある水槽による。
現在、彼の前で巨大な筒状の水槽の中、ブルーの液体に浸されたまま、ある『生物』が眠っている。母親の羊水の中で眠る赤ん坊のように、両足を抱えて眠っているそれは、人間に見えなくもないが、近づいてよく見ると、それがどれほど不気味で醜い生き物であるかを思い知るだろう。
 肌の組織が崩壊しているのか、灰色にくすみ、時折、赤みがかって充血している。
血管が全身に浮かび上がり、脈動しているのが見て取れた。
人間と同じように四肢があるが、異常に手が伸びていて、その手もまた指が細く長い。
筋肉がそぎ落ちたかのように、やせ細っていて、ろっ骨や鎖骨が浮かび上がっている。
恐ろしいのは、その頭部だ。
頭蓋の形状が完全に人間のそれとは違っていた。脳が肥大しているのだろうか。異常に大きい。髪が抜けおち、腐敗した組織がむき出しになり、瞼がない。
ただ、ぽっかりと穴が空いていて、そこに、どろんと紅く濁ったゼラチン状の球体が浮かんでおり、顔の中央に二つ、そしてその両隣に二つずつ、合計6つの瞳が存在している。
また口が大きく裂かれ、筋肉組織と血管がむき出しになりながら鋭い牙が無造作に生えていた。さらにその奥に、今度は横に裂ける形で膜が形成されている。
その奥にもまた牙が見えた。
この生物をもはや“ヒト”と呼ぶことはできないだろう。
別の何かである。
この不気味な“物体”を見て、平静を保てる人間は少ないだろう。
明らかに自然界には通常存在しない生物だ。
 しかし、この室内の人間にとって、それはさほど珍しいものではない。
その物体を中心に、何人もの研究者のような井出達をした人間が、忙しなく歩き回り、ある者は、薬品調合をしながら電子顕微鏡を覗いたり、コンピュータを操作して、帯状のグラフが並ぶ何かの遺伝子シーケンスを調べている。
 彼らの行動、ここの機材を見るに、生化学、分子生物学、あるいは生物情報学に関するかなり高度な専門家が作業していることが伺える。
「安定しているか?」
イオンは、近くに立つ研究者に問いかけた。
軍服を着たイオンと、白衣の研究者。
この二つの要素はそろって立つとき、歴史はいつも大きな災害に見舞われてきた。
「15体目で、出所は1939年、薬品反応から比較的近代に精製されたものを使用していたはずだ。少なくとも前回、【ヴァンパイア】に処分されたものよりはよく出来ている」
クリップボードの書類に目を通しながら、事務的に男は答えた。
もっとも、この物体が彼らの望むものではないのは確かだった。
「だが、所詮、これも出来そこないなんだろう」
「贅沢はいえんよ。これでも我々が独自に精製したものよりは、千年先をいったテクノロジーで創られている」
「“彼ら”か」
「あんたら情報部では、もう“彼ら”の正体は分かっているのか?」
「知ってどうする?」
含み笑いを浮かべ、イオンは腕を組んだ。
「それが分かれば、我々の苦労がだいぶ軽減する」
やれやれ、と首を横に振りながら白衣の男は溜息をついた。
「残念だが、“彼ら”の存在は、数千年前を境に足取りが消えている。もう滅んだのかもしれん」
そんな時だった。
筒状の水槽を包んでいた蒼い光が、突然、赤く染まった。
その瞬間、液体の中に浮かんでいた“物体”の口元からいくつもの泡が浮かび上がった。
すると、“物体”は突然苦しそうに液体の中で悶えはじめ、長く伸びた指先から生えた爪で自らの腕を引き裂いた。
「拒絶反応だ! すぐにベンゾジアゼピンを!」
男の声にその場にいた全員が、即座に動きを変えた。
“物体”が繋がれているチューブに一斉に何かの薬品が注入され、それが“物体”の体内に送り込まれていく。
しばらくは痙攣していた“物体”が、やがて動きを緩慢にしていき停止した。
バイタル機器が、定期的な電子音を響かせ、それが“物体”の生存を示していた。
「だめだな」
男は溜息とともに、手にしていたクリップボードの書類は乱暴に引き裂く形で取り出すと、シュレッダーに放り込んだ。
「失敗か」
イオンが口にした言葉は、何度目かの呟きで、白衣を着た男はうんざりしていた。
「これももう余命いくらかだろう」
そういって、眼の前の“物体”を指差し、うなだれるかのように近くのイスに腰掛けた。
男は途方に暮れていた。
恐らく、このような現象はこれまで何度でもあったのだろう。
そのたびに、男は自信を喪失していた。
「やはりオリジナルがなければ無理か」
イオンがそう呟いたとき、男は、呆れた様子で言った。
「お前たちのいっているのは【聖者】のことだろうが、【聖者】はここ数百年存在が確認されていない上に、【聖者】とは本来、【預言者】の変異体だ。この変異体が生み出されたのは、そもそも【預言者】の機能とは全く別の目的で創られたものだ。純粋株によって生まれた種でなければ意味がないんだよ」
「だが、DNAをシーケンスしてオリジナルが何処の世界から来たか探る手がかりにはなるはずだ」
「気の遠くなる作業だがな……」
イオンは男の横を通り過ぎ、ゆっくりと今は落ち着きを取り戻した“物体”の水槽に近づく。醜く巨大な頭蓋が、ゆっくりと上下に揺れている。
呼吸している様子が見て取れた。
 そして、水槽に近づいたイオンの頭部と比べると二倍ほども大きいそれであることがよく分かる。
「とにかく、この素体は、比較的近代の“薬品”を使用している。元の『生活環境』に戻し、刺激を与えることで知能程度の回復をある程度戻せるか試せ、というのが本部の指示だ」
「何が起こるか目に見えている」
つまらなそうに白衣の男は答えた。
イオンも分かりきっているかのように答える。
「分かっている。それならそれで構わん。いつものようにテロに見せかけてあたり数キロを焼却し、感染を外部に漏らさないようにしろ。失敗したらこの国ごと燃やさなければならなくなる」
驚異的な発言を、イオンは何事もなかったかのように言い、そのまま室外に通じるドアへと向かった。
イオンは簡単に言うが、それが決して冗談でも、大仰な表現としていったわけでもなく、本当に感染が外に漏れた場合に講ずる手段であると、白衣を着た男には分かっていた。
これまでも同じことを繰り返してきたのだから。


34 :コンピュータソーダメロン :2008/12/26(金) 03:47:31 ID:o3teQ7nG

 事態は目まぐるしく動き始めていた。
まるで、すべての事象が時間の流れとともに巨大な渦の向こうへと引き寄せられていくかのように。
 中心に近づけば近づくほど、その速度は増していく。
人々はただ、その流れの中で戸惑うことしかでない。
それが過去数千年に渡る歴史が証明するところである。
しかし、その中にあって、絶えず抵抗を試みる者は必ず存在している。
 彼らは今、何が起ころうとしているか知っている。
それによってどんな災厄がこの世にまき散らされるかを理解した上で、喩えようもない絶望を乗り越えてきた者たちだ。
そう、人類が原始の海を出てより、幾多の絶望を垣間見ながらも決してあきらめずに前進してきたことと同じようにだ。
 ただし、より大きな意思をもった何かによって、すべては調整され、計画的に導かれて
きたことを知る者は、その中にあってほんの僅かである。



『零、よく聞いて』
笹原ナオヤを校門の前まで送り、彼と別れてからしばらくした時、香川翠から連絡が入った。この時代には珍しい携帯電話である。
零は、周辺にいたマスコミ関係者たちが、皆、夢遊病のように立ち去っていく様子を見つめながら電話を手にした。
「なに? 二日酔いで頭が痛いんだから、少しトーンを落として」
『あなたから預かっていた【ロンギヌスの槍】に、植物の葉の破片が付着していたの。顕微鏡で見ないと見れないくらいに』
そこで言葉を切る翠に対して、まだ少し話が見えてこない零は、押し黙って翠の言葉を待った。
『バジルよ。ハーブの一種で肉料理に用いられるもの』
「それが何?」
『バジル自体は何処にでもあるものだけど、問題はこの植物の品種よ。バジリスク=ヴォルフガング=アベル。ドイツの名門レストランが独自に開発した品種で、日本には神戸にある支店にしか卸されてない。バジルは、直近ではアドルガッサー号というドイツの輸送船で神戸の港に三週間前、荷揚げされているわ。あなたとわたしが例の【預言者】の情報を入手して抹殺しに動いた時期とも符合する』
「つまり、アドルガッサー号のコンテナに隠してルーマニア人たちが【預言者】と共に【ロンギヌスの槍】を秘密裏に国内に運び入れたということ」
『そうよ、その後、コンテナの一部はトラックに積み込んで直接、レストランの倉庫に納品されているわ。あとのコンテナは輸送列車に積み込んでこの町に運び込まれてる。問題はコンテナの数よ。二つ運ばれている』
 ひとつが先日零が抹殺した【預言者】だろう。
では、あとの一つは……。
零は嫌な予感がし始めていた。
 そして、それは香川翠も同じなのだろう。
「残りの一つの行先は?」
『銀蘭町から西へ40キロにある原子力発電所よ』
「レストランの食材が行く先とは思えないわね」
『さっき近隣を調べている者から連絡があったわ。大型のトラックが一台、施設から出てきた。コンテナ一台分収まるくらいの大きさよ。まっすぐそっちに向かってる……気を……ザザザザザー』
香川翠がそこまで言った時、突如、携帯電話の声がノイズに阻まれた。
さらに電話の向こうから変則的な電子音がノイズに交じって聞こえている。
 恐らく妨害電波だ。
「……」
絢咲零の嫌な予感が現実になり始めている。
これまで、市街地において妨害電波を用いるような大規模な行動が取られることは前例にない。これはつまり、かなり特殊で比較的広範囲における“作戦行動”が予定されていることを意味する。また、連絡手段を絶つことによって“実行”における効果を最大限のものとすることを目的にもしている。
つまり、この町で何かが起ころうとしていて、その何かを起こすにあたり、作戦区域内における人的効果を最大限高めようとしているのだ。
 考えられることは一つ。
そして、そこで取るべき行動は二つに分かれた。
 一度、笹原ナオヤの家に戻り、ユキノの安全を確保してから学校に戻るか、それともこのまま学校に向かってナオヤの安全をあくまで最優先に確保するか。
「……」
やがて、彼女は走った。
朝の陽ざしが、舞落ちる午前。
銀蘭町は、まだ平和だった。


35 :コンピュータソーダメロン :2008/12/27(土) 02:10:39 ID:o3teQ7nG

 大手の輸送会社のロゴが入ったどこにでも見かけるトラックが一台、昼間の高速道路を走り抜けていく。およそ6500キロの積載を可能としたこのトラックには、現在、運転席に二名の日本人を乗せている。
 会社のロゴの入ったシャツを着て、厳めしい顔つきをした中年の男がハンドルを握り、その隣には、同じような男が車内電話を手にして何かを話していた。
一見して怪しいところは特に見られないが、問題はそのトラックの積み荷だった。
 能天気なキャラクターが荷物を運んでいる様子がペイントされたその中には、積み荷と呼べるものは積まれておらず、代わりに十数人もの人間が、両端に腰掛けていた。
 これだけ狭い空間にこれだけの人間が物々しい装備で沈黙し、座りこんでいる様は異様という他ない。
皆、東欧系外国人と思われる顔つきをした屈強な体躯の男たちが、それぞれ黒い市街戦向けの迷彩服に身を包み、弾薬、ナイフ、無線機などを装着したベストを着込んでいる。
さらに、様々なキットを収納できるポーチを装着し、かなり重量となる装備を着込んでいた。それぞれにライフルを手にし、ハンドガンをホルスターに収めている。
 ここまでの装備は、警察やそれに属する部隊のものではない。何処かの国の諜報機関かそれに属する特殊部隊のものだ。それも装備に一切のエンブレムやロゴがないところを見るに高度に機密性の高い組織なのだろう。
 だが一つだけ特徴的となるものを彼らは手にしていた。
それは彼らが持つアサルトライフルだ。
中東で特に多く出回っている武器で、俗にAKの略号で呼ばれることのあるライフルだ。
様々な中東諸国に主に流れており、その剛性、手入れのしやすさ、信頼性の高さから様々な亜種が生まれている。アブトマットカラシニコフだ。
 男たちが手にしているのは、その数多くライセンス生産された亜種のひとつで、ペンシルベニアメリーランド86と呼ばれているライフルである。
ストックを折りたたみ式にして、バレルを長く調整し、精度を高めている。
また、そのためかハンドガードは木製で標準でフォアグリップが装着されている。
サブウェポンにあるグロッグ17はともかく、このライフルに関して、非常に特徴的であり、本来、特殊部隊としては異質であった。
あるいは、国家に属する組織ではなく、マフィアか、テロリストの集団なのかもしれない。
その中にイオン=スプートニクはいた。
「まもなく、作戦区域中心部に到着する。到着後は各自速やかに行動し、予定通りに事を進めろ。また、作戦終了とともに、我々の痕跡を一切消滅させるため“処理”を行う。遅れた者は待たない。いいな」
そう冷たく言い放つと、その場にいた全員が怒号ともいうべき反応を返した。
それを受けとめ、イオンは無線機を手にする。
「コルベット。我々が到着次第、目標上空に“小包”を投下しろ。以降は本部の指示に従え」
『了解』
簡潔に無線での交信を終える。
以降は、予定時刻まで一切無線は使えなくなる。
そのため、彼らは秒刻みの正確な行動が求められた。
 だが、彼らに緊張はない。
肉体、精神ともに高度に訓練されている。それどころか、彼らは人間ですらなかった。






笹原ナオヤは、昇降口の前でぼうっと絢咲零の立つ校門を見つめていた。
 正確には、彼女の背後でまるで夢遊病患者のように歩き去っていく集団を見つめている。新聞、雑誌の記者、どこかのワイドショーのレポーターにカメラマン、様々なマスコミ関係者たちが、皆、一様に虚空を見つめたまま、ぼんやりとした面持ちで歩き去っていくのだ。
 言うまでもなく、絶世の魔性を帯びた美女であり、【ヴァンパイア】である絢咲零の能力、【魅了】によって一時的にコントロールされているのだ。
この光景を毎朝を見ているナオヤは、日に日にある心配が頭をついていた。
 そんなことはお構いなしに、絢咲零は現在、校門前で両手を腰に当てて、さっさと行けと言わんばかりにナオヤを睨んでいる。その後ろで、ぞろぞろと歩いていくゾンビのような一群の様子は、なんだか滑稽に見えた。
「……」
だが、ナオヤはやはり心配だった。
 この夢遊病患者たちは、やがて二時間もすれば、どこかのカフェや、どこかのスーパーの屋上にある幼児向け遊具にまたがった形で正気を取り戻す。
それはそれでいいのだが、この中にはもう何度目かの【魅了】による支配を受けている者もいる。
(これって……脳をいじっているよね……)
10歳の少年であるナオヤには、当然のことながら脳神経科学に関する専門知識などはない。だが、なんとなく漠然と心配になるのだ。
(そのうち、何度も受けているうちに脳にヘンな腫瘍とか……できたりしない……? それか、なんかもうワケわからなく錯乱するとか……?)
そもそも【悪魔】の能力を科学的に解明すること自体に、ナオヤの持つ算数や理科などの知識ではどうにもならない。
 ただ、それでもよくないことのような気だけはするのだ。
漠然ととにかく不安になる。
 学校から帰ったら、零に思い切って尋ねてみようか、少年はそう考えたが、すぐにあの【悪魔】がさらりと恐ろしい答えを返してくるような気がして、身震いした。
ではいっそ、あまり能力を多用しないようにお願いしてみよう。
相手は【悪魔】だが、お酒を取引として出せば、聞き入れてくれるかもしれない。
 やがて、零に睨まれているのがいたたまれなくなって、ナオヤは軽く零に手を振って昇降口に向かった。
冷たく張りつめた空気が、昇降口のロッカーの前に立った時には、少し柔らかく感じられた。だが、零と手を離してここまでくる間に、いっきに冷え切った手がかじかんでいて、うまくロッカーの蓋を開けられない。
 ナオヤは両手を口元に当てて、はぁっと息を当てた。
あまり冷え切ってしまった手は、自分の息を少し当てた程度では、大した温もりも感じられなかったが、なんとなく甘い柔らかな香りが鼻先をなでていった。
「……先生の香水……」
零のコートに手を突っ込んで、繋いでいる間に香りが手に移ったのだろう。
 寒さで身体が張りつめていたが、なんとなくそれが解れていくかのような温かく甘く、そして優しい香りだった。
そんな時、突然、ナオヤの肩を誰かが叩いた。
 相変わらずというべきか、白と黒のチェックに黒いレースが組合わされたスカートに黒いコットンの生地をリボンとレースで編みあげられたワンピースを着ている。
さらに彼女の細い腕を同じようにリボンで編みあげられた袖が覆っていた。
幾重にも黒いリボンとレースが編みあげられたその様は、彼女らしいゴシックなデザインでまとめられていた。
 ストレートボブだった赤茶色の髪は、少しだけ伸びて、ゆったりと彼女の肩に流れ落ちている。
 保坂結衣である。
「保坂さん?」
「呼び捨てでいいわ。あたしだってあんたを笹原って呼んでるし。日曜日に何してるの?」
 彼女は自信に満ちた内面をそのまま表現するかのように腕を組んで立っている。
こうしてみると、彼女の方がわずかにナオヤより身長が高かった。
「勉強……」
その一言に、保坂結衣は馬鹿にしたような笑みを見せた。
「はっ、あんた、補習か何か受けにきてるわけ? 意外に頭悪いんだ」
「うん……」
頭が悪いとストレートに言われてしまったが、実際には入院期間の勉強の遅れを取り戻すためだ、と言おうとして、結局ナオヤはやめた。
 どのみち、彼女の普段の成績と比べたら、あの事件以前から確実に自分は『頭が悪い』と言われても仕方ないだろう。
返す言葉もなく、ナオヤは素直に認める。
そんな彼の反応が、なんとなく気に障ったのだろうか。
 保坂結衣は舌打ちした。
「なによ、相変わらず辛気臭いわね。バカなのを悲観してもバカは治らないのよ」
「そうだね」
やはりナオヤは、意味なく頷く。
 正直、ナオヤはこの少女が苦手だった。
先ほどから、『頭が悪い』とか『バカ』とか散々言われているが、それを素直に認めると、彼女はそのたびに不機嫌になっていくような気がする。
 どう反応していいのか分からない。
相手が零だったらどうだろうか……。
 そこまで考えて、すぐに比較するのが無駄だと気がついた。
零は自分と比べて大人すぎて、こんなふうなワケの分からない会話にはならない。
というより、自分が子供だったり、不甲斐なかったり、悪いことをしたりで怒られることはある。ただ、間違いを認めたり、謝ったりすると、零はいつもすぐに溜息をつきながら許してくれた。
そこまで考えていたとき、まるで彼の考えを読んでいたかのように、保坂結衣が溜息をついた。
「ねえ、笹原。この間のこと、誰にも言ってない?」
腕を組んだまま、少し身長の高い保坂結衣が、ナオヤの目を覗きこむように近づいてきた。
「この間のことって?」
そう聞き返してすぐに、それが何のことかを思い出した。
しかし、それは少し少女にとっては遅すぎたらしく、加えて、その反応が極度に気に障ったようだ。
「あんたってほんとにバカね! 普通、忘れたりする!?」
「……ごめん」
少女の剣幕に押されて、ナオヤは反射的に謝ることしかできなかった。
自分がいかに無神経な発言をしたか、なんとなくナオヤは理解する。
しかし、少女の機嫌はもう治まりようのないほど悪化していた。
「あの……ほんとにごめん。あのときのことなら誰にも言ってないから」
「……」
少女はそっぽを向いたまま、無視している。
ナオヤは困惑し、そっぽを向いた少女の方に移動するが、すぐに少女がまたらぬ方向に顔を向ける。
「……」
ナオヤはどうしたら、この少女の機嫌を治せるのかとあれこれ試行錯誤するが、そもそも『少女』という生物に対しての知識や理解が、この少年にはなさすぎた。
10歳の子供にそれを求めるのが、そもそも酷といえるのかもしれないが、往々にして少女のほうが少年よりも精神的成長は早いのが現実である。
「……補習、何時に終わるの?」
やがて、どうにも対応に困ったナオヤに向けて、むすっとした表情のまま、結衣は問いかけた。
「えっと……午後には終わると思う」
「思うって何よ!?」
じれったい答えに苛々した結衣が、ついにナオヤの方に顔を向けて言い放った。
「課題をやって……最後にハル先生がテストして、80点以上出せなかったら、午後からまた補習が続くって」
「なにそれ!? お昼抜きなわけ?」
「先生が家庭科室でゴハン作ってくれる。ししゃもの天ぷら」
それが少し嬉しいのか、ナオヤはなんとなく明る語調で最後の一言を言った。
そんなナオヤに少し意外そうな表情を向ける保坂結衣だった。
「ししゃもが嬉しいの?」
「好きだよ」
「あんた、顔に似合わずおやじっぽいわね」
呆れた様子で言う保坂結衣だったが、やがて、不敵な笑みを浮かべ、少し得意気に髪をかきあげて風に晒すと、まるで芝居じみた仕草でナオヤに向けて指を指した。
「いいわ! サクっと補習終わらせなさい! そのあと、ヒマだからあたしに付き合うの」
「いや……あの……」
よく分からないが、完全に少女のペースが出来上がっており、どういう理由でかは分からないが、少女は今、自分に命令を下した。
「あんまりテスト自信ないし」
「男のくせにやる前から情けないこといってんじゃないわよ!」
「……」
かなり強引なところは零に似ていなくもない。しかし、この少女と零を比べて、やっぱり意味がないことを痛感するナオヤだった。
 やはり、自分はこの少女が苦手だと悟る。
とにかく、あまり長い時間話すとロクなことにはならないことが分かった。
それだけでも意味ある会話だったとナオヤは思うことにする。
問題は、どうやってこの場を切り抜けるか、だ。
しかし、それはそう簡単なことではない。
「仕方ないわね。このあたしが、このあたしが特別にあんたに勉強を教えてあげる」
「うん……」
状況は、確実に悪化に向かい始めている。
 少年にとっては、また違った状況の悪化を実感していたわけだが、それを回避する能力はまだ、少年には備わっていなかった。
嵐のような勢いで迫る少女に対して、少年はただ、呆然と眺めることしかできない。
 だが、少年は不思議とこの少女が嫌いにはなれなかった。


36 :コンピュータソーダメロン :2008/12/28(日) 00:55:09 ID:o3teQ7nG

 南遥。
大学を卒業して間もないこの新任教師は、年齢24歳である。
高校の頃、バレー部に所属していた彼女の身長は180近くあり、そのへんの男どもと比べても、飛びぬけて長身であるのは否めない。
その長身が子供の頃からのコンプレックスであり、無邪気な少年たちには『デカ女』と心ない言葉を投げられて育ってきたせいか、引っ込み思案な性格だった。
 くわえて、彼女の父親はお世辞にも父親としての責任を全うしていたとはいえなかった。社会的には一定の地位にあり、信頼と尊敬の念を集める人格者として讃えられていたが、彼女と母親の住む家にはほとんど帰ることなく、帰ってきても母親とは常に喧嘩してばかりで、最後には離婚し、以降、彼女とは連絡を取ろうとさえしなかった。
 最後に父が彼女に言った言葉は、『お前、いつの間にそんなに大きくなった。子供はみんな成長が早いというが、母さんに似て、お前はどんどん背が伸びていく。いつか男より大きくなって男を食い尽くすつもりなのか?』。
この言葉の意味をまだ幼かった南遥は、よく理解できなかった。
ただ、その言葉を吐き捨てるようにして言った父の姿は、それまでの称賛された彼の自信に満ちた顔からは想像できないほど、弱々しく、惨めで無様だった。
 しかし、父のその言葉は、生涯、彼女の心に焼きついて消えることはなかった。
幼かった彼女が、やがて少女に成長した頃、父の何気ないこの言葉で、深く傷つく彼女だったが、大人になった彼女は、その頃の父の葛藤をその言葉の中に窺い知ることとなる。 それまで信頼し、自分の唯一無二の理解者だと思っていた母が、実は父が忙しさにかまけているのを言い訳にして浮気をしていたことを知ったのだ。
 それを知ったとき、それまで自分だけが母の支えだと言っていた母の言葉のすべてが信じられくなったのだ。都合のいい部分だけを見せ、遥のすべてを支配し、父を憎むように仕向けた母を憎んだ。だが、同時にそうなった原因でもある父を許すこともできない。
 とはいえ、父を少なからず理解できるようになったが、ここに至るまでは長く険しく苦しい日々だったと彼女は語る。
 そんな彼女も、中学、高校とバレー部に所属することになり、その長身がいかんなく発揮されると、性格も大きく変わり、元気で活気ある少女へと変わっていった。
 それに比例して、彼女自身もまた、家に帰ることが少なくなっていった。
自分もまた父と同じように、家に帰らなくなり、時々戻っても母と喧嘩ばかりする様を、他人事のように客観的に見ていた。
 そして、それ以上に引っ込み思案だった性格も前向きで、自信を持ったものに変わり、仲間もできた。彼女は孤独ではなくなったのだ。バレーを始めたおかげだった。
 しかし、結局のところ、彼女は一生バレーを続けたいかといえば、そうでもなく、卒業して大学生になってからは、大学のバレー部に入ってまで真剣に続けようという気にもなれなかった。
 友達はみんな部活やサークル活動などよりも彼氏を作り、互いに自慢するようになっていく。だが、彼女はどうしても他の友達のように自分も恋人を作って、友達に自慢したいとは思えなかった。
なぜかは分からないが、どんなに気の合う男友達で、いつも一緒にバカ話して笑い合えるような仲でも、一定の距離まで関係が縮まろうとすると、いつも幼い日の父の姿が思い浮かぶ。すると、すぐに気持ちが冷めてしまうのだ。
急に目の前にいる男がとても鬱陶しくて邪魔な存在に思えてくる。
 そんなことを繰り返しながら、彼女はやがて幼い頃と同じ自分に戻っていくのだった。
 何をしたいのか。
どういう自分でありたいのかを見失っていく。
父や母のような大人にはなりたくない。
 だが、どんな人間になりたいのかも分からない。
男友達と一緒にいても、すぐに冷めてしまう自分が嫌で仕方ない。
どうしていつまでも父の残像に苛まれなければならないのか。
それはそのまま、彼女の中から自信や前向きさを失わせ、本当の自分が分からなくなっていく。周囲の人間の言葉にも疑心暗鬼になっていく。
いつの頃からか塞ぎ込みな日々が続き、大学の講義に出るのも億劫になっていた。
 だが、そんな彼女にも、彼女を理解し、彼女の良さを知ってくれる人間が現れることになる。
大学の応用生物学を専攻していた一人の学生との出会いが、彼女の人生を大きく変えたといえるだろう。
 その学生は、それまで遥が出会ってきたどのような男とも違っていた。
バレー部に所属していた頃にも男子バレー部の男を見ることはあったが、みんな、筋肉質で、快濶で明るい。多少下品なところはあるし、頭も悪いと思うような言動が見られるが、バカなところがとにかく面白い男たちだった。
 だが、その青年は、およそ身体を鍛えるということを人生のあらゆる局面で避けてきたかのようにほっそりとしていて、筋肉という筋肉がまるで付いていない。
辛気臭くて朴念仁という言葉がよく似合うし、自信のかけらもなく、それどころか終始、おどおどとしている。
 常にきょろきょろと周囲を見渡しては落ちつきなくそわそわしていて、椅子に座ったり、立ち上がったりを繰り返している。
何かをぶつぶつと呟いているかと思えば、突然、地面に座り込んで木の枝で何かを書いて
いる。
 話しかけても、要領をを得ない言動が目立つ。
そうかと思えば、突然、何かあるテーマに向けて論文を勢いよく明瞭に朗読していくかのようにベラベラと話し出す。
 とても、普通の人間のようには見えなかった。
退屈とは言わない。不思議だとは言える。
ただし、およそコミュニケーションをまともに取ることが非常に困難なのは確かだ。
あとで知ったことだが、彼はある種の発達障害を持った青年で、通常の人間同士ならばある程度の年齢に達したとき経験から可能とする相手の仕草や表情、雰囲気から相手の気持ちを汲み取るということを非常に困難としている人間だった。
 言葉そのものをそのまま理解することはできても、微妙な相手の感情や言葉のニュアンスを推測し、理解することができない。
一方で特定のある分野において、強い興味を示し、その分野において、驚愕に値するほどの才能を発揮することもある。
 南遥が出会ったのは、そんなある種の発達障害を持った青年だったのだ。
とりわけ、この青年の語った言葉で、彼女の心を掴んだのは、『君は人間、僕も人間。僕たちは理解し合えるはずなのに、僕は君を理解することができない。君の気持ちを理解できなくて、僕は君に嫌な思いをさせてしまう。僕と君はお互い本当は別の生き物なのかもしれない。だから僕は生物学を学ぶ。君を傷つけないようにするために』
まるで宇宙人と話しているような感覚に苛まれる遥だったが、なぜかこの時、直感的にある欲求が彼女の心の奥をよぎった。
 脅えるように一定の距離を保ったまま、何かの遺伝子コードを地面に書き連ねていた木の枝を持ったまま、近づこうとせず、離れようとせず、遥が近づけば離れていくこの青年に、触れてみたいと思ったのだ。
 以降、この青年と出会い、付き合うことになってから、やがて紆余曲折を経て、彼女に教師になることを決断させる。
 もっとも、それはまだ先のことだったが、当時の彼女の女友達はみんな、唖然としたものだった。
学内で最も不可思議で理解者もなく孤独な存在であるこの青年と、同じようにある意味において孤独だった南遥が付き合うことになったその事実は、周囲には理解できようもないことだった。
 しかし、この二人だったからこそ、この二人の関係がある。
そのことを周囲が理解するのは、さらに先のことだった。
とはいえ、南遥に関するこれらの話は、また別の物語で語ることにしよう。
 今、彼女は様々な人生の局面を経て、教師になった。
そして、彼女が受け持つことになったクラスに、笹原ナオヤという少年がいる。
この少年との出会いもまた、彼女の人生に二番目に大きな変化をもたらすことになる。



「さて、そろそろかしら」
職員室で課題をまとめていた南遥は、とんとんとプリントを整えて壁の時計を見る。
 時刻は午前9時25分。
職員室内には彼女以外にも、5,6人ほどの教師が日曜ではあるが、出勤していて、何か作業をしていた。
その中には教頭の姿もある。
10人弱の教師と、笹原ナオヤ、保坂結衣、そして他にも何人かの生徒が校舎内にいる。
あと何人の生徒が日曜にも拘わらず登校してくるかは不明だが、事態が動きだすまで、この時点で残り数十分だった。


37 :コンピュータソーダメロン :2008/12/30(火) 03:45:51 ID:o3teQ7nG

その頃、笹原ナオヤと保坂結衣は教室のドアを開けていた。
いつも騒然とした教室内、廊下には誰かの声が絶えず聞こえていて、時折先生が静かにしろ、だとか、廊下は走るなという注意が聞こえていたにも拘わらず、日曜日の今日は不気味なほど静かだった。窓から見える空はどんよりとした厚みのある雲で覆われている。
 雪でも振りそうな雰囲気だった。
そんな教室内には、四人ほどの生徒が、それぞれの席に着いていて、ドアを開けて入ってきた笹原ナオヤと保坂結衣に一斉に視線を向けた。
 まず窓際後方にある隅の席に座っている少年は、頬づえをつきながらずっと窓から校庭を覗いている。
冬の空と同じくらいにどんよりとした雰囲気の少年は、不健康なほどに白い肌をしていて、擦り切れたジーンズに黒いシャツを着て、その上ブルーのパーカーを着ている。
どうも見ていてバランスの悪いセンスだといえるが、彼についてそのファッションセンスを含めて何かいう人間は、もはやほとんどいない。
髪は寝ぐせを整える程度で、水をかけてブラシを当てた程度なのだろう。
 ほとんど髪を切ることも稀なようで、少し長すぎるくらいの髪は、べったりと垂れ落ちていて、顔の半分を隠していた。
少年の名は、霧原 勇(キリハラ=ユウ)という。
彼は校庭を見ながら、時々、一番先頭の席に座っている黒澤侍錬(クロサワ=ジレン)と矢口健雄(ヤグチ=タケオ)の二人を睨みつけている。
黒澤という少し身長の高い少年は、席で何かの雑誌を読んでいて、矢口健雄は彼の前に立ったまま、時折、霧原を見ながらにやにやと笑っている。
どうも、この二人と霧原はあまりいい関係ではないらしい。
そして、そんな黒澤と矢口の方を今度は彼ら二人とは反対側の席に座っている安藤清美(アンドウ=キヨミ)がファッション雑誌を眺めながら、時折、ちらりと見据えていた。
 黒澤侍錬という少年は、黒い少し大きめの迷彩柄のボトムスに、白いギタリストの名前のロゴの入ったシャツに黒いシンプルなパーカーを着ている。
スポーツでもしているのだろうか。髪は短めで、少し立ってくるくらいの長さだ。
笹原ナオヤと同い年ということであれば同じように10歳なのだろうが、それにしてはやや身長は高めで、顔つきも落ちついた面持ちをしているように見える。
その歳にして精悍という言葉が似合いそうな少年である。
 何かの雑誌を見ているようだが、ナオヤのいる位置からは特にそれがどんな内容のものかは見えなかった。
そんな黒澤侍錬とつるむような感じで、彼の席の隣の机にもたれかかる感じで立っているのが、矢口健雄である。
 髪を金髪に染めて、後ろ髪だけを伸ばしたこの少年は、黒澤ほどではないにしても身長が高い。体格の大きさでいえば、黒澤よりも大きいだろう。
 目は細く、ぼんやりしているが、その眼の奥ではいつも霧原を見て蔑むように笑っているのが見えた。その笑みから見える歯は、所々欠けていたり折れていたりしている。
ケンカでもしてそうなったのかは分からないが、ずいぶん間の抜けた顔つきだった。
恐らく力で物事を動かしてきたような少年なのだろう。
黒澤と同じように黒いボトムスをはいているが、少し大きめでだぶついている感が否めない。上は白地に趣味の悪い金龍が描かれたシャツを着て、その上にさらに趣味の悪い昇り竜のペイントが施された黒いジャケットを着ている。
 絵に描いたような不良少年に見える。
まるで、自分が理想とするものをそのままマネをした結果、どちらつかずでアンバランスになってしまったかのような姿だ。
そういう意味では、この少年は、方向性は違えど、霧原勇と似ていなくもない。
だが、当人たちは、互いに憎んでいるらしい。
不愉快そうに視線を逸らす霧原勇と、その様子を面白そうに見ている矢口健雄の姿があった。
 そして、矢口は同時に安藤の方にも視線を向けていた。
それは、彼女がずっとこちらを何度か見ていることに気づいたからだ。
 安藤清美。
クラスで一番の美少女と謳われる彼女は、少しだけプライドが高い。
ゆったりとしたグレイのラメでできたタートルニットのふっくらとしたワンピースを着ている。
 どこかのデザイナーの作品か何かのように、亜シンメトリーのデザインのその服は、左側のスカート部分の裾が少し上がった形で仕上げられており、そこから柔らかなブラウンのレースが流れている。
袖口は長めで、余裕をもたせるように幅を広げる形でできている。
 少し大人びたこの服に合わせて、彼女の髪も肩口に少しかかるくらいの長さのミディアムに切りそろえられ、上品な感じの艶感のあるブラウンに染められている。ウェーブをかけてさらさらと流れていた。
 白いきめ細やかな肌に眼鼻のすっきりとした綺麗な顔立ちをしている。
 勝ち気な性格で少しゴシックパンクの世界を地でいくような井出達でありながら、成績優秀、運動神経も鋭く、パーフェクトな美人の保坂結衣に対して、安藤清美は柔らかく明るい清純さを思わせる爽やかなタイプの美少女肌なタイプだった。しかし、一見、繊細そうでありながら、その瞳の奥には、激情を押し殺したかのように鋭く尖った何かがあった。
 恐らく矢口健雄は、彼女のそんな内面には気づいていないだろう。
ただ、こちらを見ている彼女が気になって仕方がない。
時折、矢口と安藤の視線がぶつかることがあった。
しかし、安藤はさしたる反応も見せずに、また机の上のファッション雑誌に視線を落とした。
 そんな奇妙な雰囲気の教室内である。
笹原ナオヤは、あまりこの教室内の不自然な空気を気にしている様子もなく、気付いている様子もなく、入った直後にぶつかった視線を受けて、「おはよう」とだけ言った。
安藤はつまらなそうに、しかし、一瞬だけ笑顔を浮かべて「おはよう、笹原くんに保坂」と答えた。矢口は「けっ」と吐き捨てるような反応を返し、黒澤と霧原は無言だった。
 そんな彼らの様子に、特に何を思うでもなく、ナオヤは比較的、安藤と近い位置の真ん中から右よりの席についた。
すると、彼のすぐ隣の席に保坂結衣が座ってカバンを下した。
「……」
ナオヤは、そんな彼女の行動の一部始終を眺めていた。
「なに?」
カバンを下し、中から筆記用具だけを取り出した彼女がナオヤの視線に気づいて一言声をかける。
「席、あっち」
そういって、ナオヤはどちらかといえば、霧原と近い席を指差した。
保坂結衣の普段の席はそこだった。
「別に日曜日なんだから、どこに座ったっていいでしょう。それにアンタに勉強教えてあげるんだから、席遠いと教えにくいでしょう」
「そうだね」
「ほんと、バカね」
彼女は何気なく言う。今日、自分は彼女に何度『バカ』という言葉を浴びせられただろうか。そんなことを思いながら、ナオヤは筆記用具を取り出す。
それにしても、成績優秀な保坂結衣がどうして、日曜日に学校に来ているんだろうか。
ナオヤは不思議だった。
 安藤と黒澤も、本来、保坂結衣ほどではないにしても成績はいい方だ。
黒澤がそれでも今ここにいるのは、前のテストの時に病院にいっていたせいだ。
何処が悪いのか知らないが、この見るからにスポーツ万能、冷静沈着な少年は、定期的に病院に行って診察を受けているらしい。
そのせいで、テストが受けられないこともあり、こうして、補習を受けるようなことがある。安藤も同じようにたまたま、黒澤が病院にいって休みの日に、風邪で休んだせいで、今ここにいる。矢口は、正しく、ここにいるべくしているのだろう。
 補習の常連だ。
霧原は……、彼は成績がいいのか悪いのかすら分からない。
ここにいるからには、前のテストが悪かったからなのだろうが、ナオヤもまた他のクラスの生徒と同じく、霧原との関係は希薄で、彼のことはよく知らなかった。
周りを見渡して、それから安藤と目が合った。安藤が美少女らしい清らかな笑みを浮かべて軽く手を振っているのを反射的に振り返そうとした時、
「ほら、何処みてんのよ。きょろきょろしてないで、さっさと終わらせて帰るわよ」
突然、保坂結衣がナオヤの頬を引っ張り、テキストに視線を強制的に向けさせた。
「ひたい……」
「余所見してるのが悪い」
「……」
どうしてこの少女はここにいるんだろうか。
 ナオヤは何度目かのその疑問を頭に浮かべながら、シャーペンを手に取り、そんな様子をくすくすと笑いながら見ている安藤清美だった。
「保坂、笹原くん痛がってるよ」
清美がおかしそうに言う。
「だって、こいつ、話聞かないんだもん」
「保坂がいじめるからだよ」
ナオヤは、心の中で大きく頷きながら、テキストの練習問題を解いていた。
「ねえ、どうして、保坂が笹原くんに勉強教えてるの?」
少し興味を持ったのだろうか。
安藤は見ていた雑誌を閉じて、姿勢をナオヤと結衣のほうに向けて問いかける。
「それは……さっきハルにこいつに勉強教えてって言われたから」
一瞬、答えに困った彼女だったが、それでも極力平静を保ちつつ、なんでもないことのよう答える。
 しかし、そのことに疑問を覚えたナオヤが何かを言いかけたが、すぐに結衣によって回答の間違いを指摘されて、何かいうタイミングを失う。
「ほら、ここ間違ってる」
「うん……」
「ほんと辛気臭い返事ね。さくっと返事しなさいよ、さくっと……ああ、またそこ違う」
「わ、わかったよ……。ちょっと待って……」
次々に間違いを指摘されて、ナオヤはなんとなく落ち着けない。
 消しゴムで消して、またやり直していく彼は、とうとう、保坂結衣と安藤清美の会話に割り込むことはできなかった。
そんな彼と彼女の様子を安藤は少し羨ましそうな表情で見ていたが、すぐにいつもの健やかな笑みに変わる。
 そして、なんとなく無邪気な悪意が安藤の心の中をよぎった。
「本当は、笹原くんのこと好きだったりして」
「なっ! 何いってんのよ、アンタ!」
それまで冷静だった彼女が、そこでついに声を荒だたせて反応してしまう。
 しまったとばかりに、保坂結衣は、横眼でナオヤを見た。
幸い、ナオヤは結衣によって片っ端から指摘された間違いを必死に考えていて聞こえている様子はない。
それを確認して、彼女はすぐに安藤を見つめ返した。
 そして、厭な予感が彼女の脳裡をよぎる。
まさか、あの時のことを見られたのではないか、彼女は戦慄した。
「だって、保坂が他人にそこまで世話焼くのって滅多に見ないし」
安藤の言葉を聞いて、どうやらあの時のキスを見られていたわけではないことを悟り、結衣は内心でほっと胸を撫で下ろした。
「だから、ハルに頼まれたんだって。それにあたしは、年上好みって言ったでしょ」
先ほどの内心の焦りを押し隠すように、彼女は安藤から視線を外し、可能な限り落ちついて言った。
気のせいか、頬が熱い。
紅潮してないことを彼女は祈る。
「まぁ、そうよね。保坂の年上好みは有名だし」
「そ、そうよ」
そんな会話が二人の少女の間で続き、やや爆弾発言のようなものが出ながらもなんとか、事態は収束の方向へと向かい始めたとき、そんな保坂と安藤の間に矢口が入ってきた。
「よぉ、保坂、笹原が好きなのかよ? 趣味悪くね?」
にたにたと笑いながら、安藤の方を交互に見て言う。
そんな矢口に安藤は美少女らしからぬ露骨に不快な表情を見せた。
結衣は、かえって冷静な表情でいる。
 恐らく、保坂結衣は安藤の内面を知っている。
だからこそ、逆に警戒のあまり、核心をついた発言を向けられると、先ほどのように不覚にも動揺してしまったわけだが、矢口という少年に対して、結衣は安藤ほどの『危険』さを感じてはいなかったのだ。
「別に笹原が好きなわけじゃないし、そもそもあんたには関係ないけどさ」
結衣はつまらなそうに言う。
「冷てぇなぁ。なあ、安藤?」
そういって、矢口は安藤に声をかけるが、安藤はすでに矢口を見てさえもいなかった。
先ほどと同じ姿勢で雑誌を読みふける彼女の涼やかな表情は、本当に美しい。
しかし、その美しさは、まるで氷のように寒々としており、矢口との間に別世界のような空気の落差を作り上げていた。鉄壁の拒絶である。
「……ちっ」
矢口は小さく舌打ちをした。
 そして、その苛立ちを彼は抑える術を知らないし、もともと抑えることを考えもしない。
「あーあ、シラけちまったじゃねぇか。オヤジ串刺しなんて事故、ナマで見てるそいつの辛気臭ぇのが移っちまったんじゃねぇの?」
「ちょっと、やめなさいよ」
そう言ったのは、安藤だった。
ナオヤは、一瞬、顔をあげて矢口を見つめたが、無表情のまま、何をいうでもなく、再び、テキストに視線を落とした。
結衣は、そんなナオヤを横目で見てから、矢口に鋭い視線を向ける。
「無神経すぎるんじゃない」
安藤が非難するように眉を寄せながら、矢口に言った。
それが少しショックだったのか。
矢口は一瞬、困ったように唇をかみしめたが、結局、彼の性格ではそこから引くことを知らない。
「おいおい、だって本当のことだろ? オヤジの内臓垂れ落ちるの眺めながら助けが来るまで、ぼうっとしてたんだって」
 そう言ったとき、保坂結衣が無言で立ちあがった。
そして、彼女はゆっくりと矢口の前まで歩いていくと、矢口自身も予想外の行動に出る。
ワンピースの黒いレースのスカートから覗く綺麗な細い太ももが、突然、鋭利な刃物のように鋭く、素早く突き上げられたかと思うと、彼女の膝が矢口の股間を直撃し叩き上げられた。
「っ!?」
矢口の声にならない悲鳴が、教室中に響き渡り、一瞬、ずっと静かに雑誌を読んでいた黒澤の視線がこちらに向いた。
 霧原がにやりと笑い、保坂結衣の不敵な笑みがそれに重なる。
「いってぇあああああああああ!」
一瞬遅れて股間の激痛に叫び声をあげながら前のめりに上体が折れるのを、待っていたかのように続けざまの回し蹴りが、今度は矢口の右頬にめり込んだ。
綺麗に連携がはまっていく彼女の身のこなしは、単純に運動神経の良さだけで説明できるものではなく、恐らく、ちょっとした格闘術をたしなんでいるのだろう。
容赦のない一撃に身悶えしつつ、倒れ込んだ矢口を憐れむ人間は、その場にはいなかった。
 安藤が、「グッジョブ!」と親指を立てて、結衣を称賛した。
泡を吹いて、その場に倒れている矢口を蔑むような視線で見降ろし、結衣はパンパンと両手をはらい、背を向ける。
 その時である。
「てめぇぇぇぇ!」
すぐには起き上がれる様子ではなかったはずの矢口が立ち上がり、怒りに我を忘れた彼は半狂乱になって手近にあった椅子を持ち上げた。
安藤が「危ない」と叫んだときには遅かった。
持ちあげられた椅子が、力任せに振り下ろされ、背もたれ部分が結衣の後頭部に迫る。
 結衣が振り返った次の瞬間。
ばきっという鈍い打撃音がその場に響いた。
矢口の凶器となった椅子の背もたれ部分は、確実に相手を捉え、直撃した。
ただし、それは結衣ではなかった。
「ちょっと……笹原!」
 結衣が驚いて振り返った先で倒れていたのは笹原ナオヤだった。
彼女をかばう形で、椅子の背もたれの直撃を受けたのだ。
結衣はすぐさまナオヤに駆け寄る。
安藤も心配そうに笹原ナオヤのそばに向かってしゃがみ込んだ。
ナオヤは左肩を手でかばうように抑えている。
「だいじょうぶなの? 黙ってないで何か言ってみなさいよ!」
彼女はそう言いながら、ナオヤが必死に痛みに耐えながら抑えている左肩部分の服の袖をまくりあげて見る。
「……痛い……」
とりあえず痛いと言おうとしたのだろうが、うまく言葉にできずに、先ほど同じようなセリフをいうナオヤだった。
「手をゆっくり離して、見せてみなさい」
彼女は本気でナオヤを心配していた。
 硬い木のイスの背もたれを力任せに振り下ろされたナオヤの左肩は、紫色に染まり、腫れあがったまま充血し始めていた。
ところどころ、皮膚が裂けて血が滲み出している。
結衣はそっと自分のハンカチで、その血に軽く当てようとしたが、その時、走り抜けた激しい痛みにナオヤの顔が歪んだ。
「だいじょうぶ? 笹原くん」
安藤が心配そうにナオヤの顔を覗きこむ。
「安藤、このハンカチ、濡らしてきて。あと、ハルを呼んできて」
そう言って、自分のハンカチを安藤に手渡すと結衣に、安藤は頷いてそれを受け取り立ち上がる。
怒りで感情の抑制を忘れた矢口が、悪びれるでもなく、その場でじっと状況を見ていた。
「で、ちょっとそこの大バカ……」
結衣が安藤にハンカチを渡すのと同時に立ち上がり、そのままの勢いでぼうっと立っている矢口の右頬に再び今度は彼女の左手の拳がめり込んだ。
ぐきっという鈍い音を響かせ、矢口は何が起こったのか理解する間もなく、身体をくるりと反回転させて、その場に倒れ込んだ。
そして、そんな矢口の股間に再度、結衣の蹴りが襲い、今度こそ、矢口は立ち上がることができなかった。
「次、またふざけたこと言ったら、この程度で済まさないわよ」
聞こえているかどうかも不明だが、それでも彼女は吐き捨てるようにいってそう言うと、またナオヤの方に向き直った。
「安藤がハルを連れてくるから、そしたら保健室に行くわよ」
「う、うん」
「……ひどいわね」
結衣が、ナオヤの腫れた左肩を見ながらいう。
見る間に紫色に変色していく様子を彼女は心配そうに見ていた。
ひょっとしたら、ここまで腫れて皮膚が変色しているのを見るに骨が折れているかもしれない。だとしたら不用意に触ったり動かしたりしない方がいいだろう。
一方で、ナオヤは痛みに耐えながら、彼女の「ひどいわね」の一言の後ろに転がる骸を見つめていた。
矢口が無残に散っている。
「……うーん」
「痛むの?」
「……いや、痛そうだ」
ナオヤの言葉の先が、自分の後ろに転がっている矢口に向けられているのに気づき、結衣は頭痛を覚えた。
「あんた、バカ?」
「……」
これで何回目だろう。
ナオヤはそう考えていた。
そんな時だった。
雑誌を読み耽っているだけだったはずの黒澤が、いつの間にかこちらにやってきて、結衣の隣についた。
「だいじょうぶか?」
黒澤が冷静な面持ちで、ナオヤの患部とナオヤの顔を交互に見つめてから言った。
「これがだいじょうぶな状況に見えるの?」
結衣が苛々した面持ちで、ナオヤの代わりに答える。
「悪い。本当はもっと早くにこいつ止めるつもりだった」
結衣の怒りを真正面から受け止めながら、黒澤は淡々と答えた。
「あたしが沈めた」
「いい蹴りだった。だいじょうぶだ。たぶん、折れてない」
黒澤が、そっとナオヤの患部の周囲に触れ、できるだけ痛みを増長させないように見ながら、ナオヤの左手と腕に触れて言う。
「でも、ひびくらいは入っているかもしれない。病院に連れていったほうがいい」
「んなの分かってるわよ」
そんな二人のやりとりを見ながら、ナオヤは、母ユキノもそうだが、絢咲零にもどう説明したものかと思い悩む。
 そもそも、本当なら結衣をかばうのではなく、結衣と一緒に自分も避けるつもりだったのだ。しかし、避けきれずに打撃を受けた。
さすがに頭の直撃だけはなんとか避けねばならないと思っていたが、はたして左肩の直撃が正しい判断だったといえるだろうか。
 答えはNOだ。とても痛い。
ナオヤは、苦痛にじっと耐えながら何度も心の中でそう叫んだ。
やがて、教室のドアが勢いよく開いたかと思うと、安藤に呼ばれて走ってきた南遥が教室に飛び込んできた。
「笹原くん、だいじょうぶ!?」
このセリフは、いいかげん気が滅入る。
ナオヤは彼にしては珍しく、心の中でそう毒づいた。



――そして。



ちょうどそれが、イオン=スプートニクを乗せたトラックが、校門を突き破るわずか2分前の出来事である。


38 :コンピュータソーダメロン :2008/12/31(水) 03:42:29 ID:o3teQ7nG

 南遥は当初、男子生徒同士のケンカがあったと聞いて駆け付けた。
しかし、ドアを開けてすぐに飛び込んできた光景は、ずっと深刻なものだと彼女に思い知らせる。ナオヤが床に倒れ、左肩を抑えている。結衣によって肩まで袖口をまくりあげられていて、肌が露出しているのが見える。
そこに映る怪我はずいぶんひどい。
裂傷なども見られるが、何より異様に腫れあがり紫色に変色している。
ナオヤ自身の顔色も真っ青で脂汗が吹き出ていた。
 そして、そんな彼を心配そうに看ている結衣の後ろで、矢口健雄が倒れて呻いている。その傍らで、不自然に椅子がこけていた。
恐らく、それでナオヤを殴りつけたあとに、誰かに倒されたのだろう。
 そこまでをこの状況から察することはできたが、それが誰かについて、今考えている場合ではなかった。
「笹原くん、肩の感覚ある?」
遥は、結衣の傍らにつきナオヤに話しかける。
ナオヤは、ひとまず頷いた。
しゃべると痛いのだろう。
「先生、これ」
安藤が遥の後ろから濡らしてきたハンカチを手渡した。
「そうね。笹原くん、そっと当てるから手を離して」
左手を抑えているナオヤの手を遥がそっと話すよう促す。
ナオヤは頷くものの、冷え切ったハンカチが患部に触れることで、敏感な感覚が激痛を伴って暴れ狂わないかと不安だった。
そんな彼の内心を読み取るかのように、結衣が声をかける。
「ほら、痛くないから」
いや、きっと痛いはずである。
そのことはこの中にいる誰よりも自分が一番分かっている。
そう言いたいナオヤだったが、口を開けるのもつらい。
「患部を冷やしておいたほうがいい。ひびが入ってるなら、このあと高熱が出てくるかもしれない」
黒澤が相変わらず落ちついた面持ちで言う。
そんな一言を聞きながら、遥がゆっくりと冷やしたハンカチをナオヤの患部に当てた。
「うっ……くぅ……」
およそ分かっていたことだが、結局、どれだけそっと当てようとしたところで、待ち構えていたかのような激痛がナオヤを襲った。
しかし、それを必死で堪えようとする。
「笹原くん、立てる?」
自分でハンカチを肩に当てたまま、いまだに轟き続けている痛みに耐えながら、ナオヤはなんとか頷いた。
 肩に響くことのないようにゆっくりと起き上がろうとするが、左半身が重く、うまく立ち上がれない。その上、少し動けば肩がぎしぎしという音を響かせて、痛みを発する。
そんなナオヤの右側に周り、腕を自分の首に巻きつけて手を貸したのは、黒澤だった。
「……」
ありがとう、と言おうとしたものの、やはり普通に声を出すのがつらい。
「無理するな」
黒澤が端的に言うのを頷くくらいしかできなかった。
それを見やりながら、遥も一緒に立ち上がる。
一瞬、倒れている矢口をどうしようかと考えたが、特に外傷もなく、ただ腫れた顔を抑えて呻いている。
とにかく、補習どころではなかった。
「霧原くん、矢口くんに手を貸してあげて」
一番この状況に対して他人事のように見ているだけだった霧原に、遥は声をかけた。
しかし、霧原は何も答えなかった。
聞こえていないのではない。
無視しているのだ。
「霧原くん、聞こえているの!?」
そんな彼女の後ろで黒澤の肩を借りながら立ち上がるナオヤに、結衣も続いた。
なるべく、左肩を刺激しないように、ナオヤの左側に立って支えた。
安藤は心配そうな顔で、その後ろからついていく。
「霧原くん!」
遥は、少し強い語調で霧原を呼んだ。
その時である。
くだらないとばかりに校庭に視線を向けたまま、頬づえをついていた霧原の平静な横顔が、その時、凍りついたのを遥は見逃さなかった。
彼は、明らかに何もない何かを見ているのではなく、校庭の向こうで何かを見ていた。
遥が、霧原の元に歩み寄ろうと一歩を踏み出した瞬間。
校庭のずっと遠くの方から、タイヤがアスファルトを擦り上げる人間の悲鳴のような音が響き渡ったかと思うと、がすん、と何か巨大な力がコンクリートを破砕するような巨大で鈍い音が、あけっぴろげの校庭にこだました。
「どうしたの?」
ナオヤを連れていこうとしている中で、安藤がその巨大な音に驚き、振り返った。
 黒澤と結衣、そしてナオヤの三人もまた立ち止まる。
何かが破壊される轟音。
 それが何なのか、今、一番見える位置にいるのが霧原だ。
その彼の隣に遥がゆっくりと、しかし少し早い歩調で歩み寄った。
遥は目を疑った。
巨大な二トントラックが、校門を突き破って校庭内に侵入していた。
校門の柱は、砕け散り、観る影もない。
 ここからの景色で見るに、トラックは、校庭に入り込むまでに、その巨体では入り込めようもない道幅を強引に突き抜けてきたらしく、いくつかの民家の生垣や道路の壁、果ては横切ろうとした車さえも衝突しながら、一瞬でも停車することなく周りを破壊しながらここまで突き進んできていた。
歩行者や民家の住人たちが、驚きながら、トラックの通り過ぎた破壊の跡に立ちすくんでいるのが見える。
「な、なんなの、これ」
そう遥が呟いたときである。
突然、殴りつけるような突風が彼女の顔を襲った。
そして、耳を切り裂くようなバリバリという煩い轟音が、すぐ上空で響き渡った。
見ると、直径三メートルはありそうな巨大な黒い金属でできた重厚感ある円筒状の物体が、何かに吊るされてふらふらと浮いているのが見えた。
 なにか様々な言語が円筒の物体に記されているのが見えるが、太陽の逆光でよく見えない。
それ以上に強い風が上から下へと噴きつけてきて、とてもではないがそう長く目を開けてはいられない状態だった。
恐らく、ヘリか何かで吊るされているのだろう。
それも恐ろしく低空飛行で飛んでいるようだ。
それは、そのままゆっくりと遥たちの上空を通り過ぎて、北側の体育館の方へと飛んでいく。
「先生、あれ」
霧原がこの時、初めて声を発して指差した。
その先には、校庭内に侵入したトラックがこの時初めて停車し、運転していたと思われる人間が、後部のコンテナに向かっていくのが見えた。
遠目に両扉になっているドアが開かれたかと思うと、一斉に黒い迷彩服を着て、何か金属の筒のような長いものを手にした人間たちが、まるでアリの大軍のように出てくるのが見えた。顔をマスクか何かで覆っているが、明らかにどこかの軍隊に見える。
「ちょ、ちょっと何が起こってるのよ……」
そう言った時、さらに信じられないことが起こった。
体育館側に飛び去って行ったヘリが、体育館の上空で停止したかと思うと、釣るしていた巨大な金属物体を切り離したのである。
 地球の引力に引き寄せられるままその巨大な物体は、体育館の屋根を突き破り、ごすん、という破壊音とともに落ちた。
ぽっかりと空いた穴が、ここからでもよく見える。
今、あの体育館では地元の奥様方で結成されたバレーボールクラブが練習しているはずである。
あんな巨大な金属の物体が屋根を突き破って落ちてきたらどうなるか。
今頃、悲惨な状況が発生しているはずだ。
 怪我人どころの話ではない。
「……」
遥は言葉もなく、その場に立ちすくむ。






 その頃、絢咲零はスカイラインを走らせていた。
アスファルトを軋ませながら、トラックが走り抜けたと思われる惨状のルートを車で走らせていく。
その間にも携帯を手にしながら香川翠と連絡を取り合っていた。
『遅かっ……タみたいね。ガガガガガガガァァァーートラックはどっちに……向かってるの?』
ノイズが入り混じり、音声が途切れながらもなんとか通信は繋げられていた。
 非常時に備えて、香川翠と絢咲零の間には、緊急時の通信プロトコルを用意していた。
衛星を使って、最適な通信状態を維持するための機構だが、それでもこれだけのノイズが発生しているということは、長くは話せないだろう。
「まっすぐナオヤの学校に向かっている。彼らはナオヤのことを知らないはず」
時折、細い路地があったが、トラックが通り抜けた後では、スカイラインでなら楽に走りぬけられる。
時折、呆然とした顔で突っ立ったままの住民が、新たに暴走するかのようなスピードで走りぬけていく零の車を他人事のように眺めていた。
『現時点ではまだ……知らないハズ。たぶん……別の目……的があ……るのよ』
「それを探って」
『今……やってる。何が……出てクルか……分からないわ。万一の場合は……』
そこでついに、通信は完全に途絶えた。
なぜなら、トラックが走り抜けた最終目的地が見える距離にまで入ったからである。
『彼ら』は、ここを中心にして作戦行動を起こすつもりなのである。
絢咲零はナオヤを監視するためによく利用していたカフェの前でスカイラインを停車した。どっちみち、ここから先はもはやトラックのおかげで突き倒した車が、玉突き事故を起こしていて、スカイラインが入り込める道路幅はなくなっていた。
 いったい、何が起こったのかと人々が集まりだし、遠くからサイレンの音が響いてきた。
まもなく、ここに警察と消防が駆け付けるだろう。
零は車から出て、トランクを開けた。
黒い大きめのボストンバッグが一つ収められている。
「万一の場合がわたしの仕事よ」
カバンを抱え、彼女は野次馬の群がり始めた通りを歩いていく。


39 :コンピュータソーダメロン :2009/01/01(木) 01:56:38 ID:o3teQ7nG







事態は加速し、もはや誰にも現状を把握することはできない。
一瞬、何が起こっているのかを掴んだとしても、すべてを把握しきることはできない。
状況は過ぎ去っていく嵐の中の風のように流れて行って、決して戻ってはこない。
 この状況を支配しているのは、この状況を作りだしたイオン=スプートニクだった。
現在、学校は閉鎖されている。
 そうだ。
何者かの意思によって閉鎖されたのである。
 南側にある二棟の校舎は互いに渡り廊下と一階部分の廊下で連結されている。
そして、北側にある体育館は二階部分で一本道の渡り廊下が繋がっている構造だ。
もちろん、一階部分に出入り口はあったが、それをなんと突如トラックで強引に侵入してきた兵士たち思われる集団が、溶接機を使って封鎖したのである。
 体育館の一階部分の出入口は完全に閉鎖されており、体育館に入るには、校舎二階部分の渡り廊下から入るしかない。
 むろん、校舎の一階出入り口もすべて溶接機で完全に閉鎖されてしまっている。
残る侵入ルートは一階の教室窓だが、そのすべてをカーテンで閉じ、カーテンと窓をすべて一本の電線と振り子を内蔵した機器に繋ぎ合わせていた。
 要するに振動探知装置を備えた爆弾を設置しているのだ。
こうすることによって、中を窺い知ることができない以上、爆薬をしかけているといってしまえば、そう簡単には行動を移すことはできない。
そして、彼らは何を目的にしているのか、奇妙な半透明のビニールシートのようなものを屋上から下ろしたのである。
さながら、校舎全体をこの薄いビニール膜で覆ってしまおうとしている様子だ。
中の様子を見せないのが目的なら、カーテンで十分事足りている。
何より、それだと半透明であるのは意味がない。
これはまったく別の目的に使用されているのは確かだった。
 これらの行動を、イオン=スプートニクと彼らの部下たちは、侵入からわずか十五分程度で実行した。
 そして、体育館に円筒状の物体を投下したヘリは、いつの間にか虚空に消え、イオンの部下たちが現在、校舎内で行動している。
 やがて、イオンと彼らの部下たちは、屋上の四方に数人の部下を残し、北側の体育館との連結渡り廊下付近の教室を陣取り、そこに校舎内いた学校関係者たち、とりあわけ職員室内にいた教師数名を集めた。
ここまででわずか数十分である。
 彼らはその教室に、トラックから持ち出した様々な機材、物資を広げた。
教室にある机を適当に集め、その上にいくつもの液晶モニターを設置し、数台のコンピュータやコンソール機器を起動させる。
さらに屋上に監視任務に当てた人間が、軍用パラボラアンテナの設置を報告する無線が入ると、イオンが指先で合図し、部下たちが、それぞれの機器をアンテナと連結させていった。やがて、ほどなくして、校舎内、体育館内の様々なポイントにしかけた監視カメラからの映像が飛び込んでくる。
 奇妙なことだが、これらのカメラは決してこの学校に立てこもることを前提に考えた場合、適切な設置だとはいえない配置だった。
通常、外部の敵が侵入してきそうなポイントに設置し、もし、敵に侵入されるようであれば、それがすぐに分かるような配置であるべきだが、モニターに映し出された映像は、外敵が侵入しそうなポイントというよりは、校舎内の様々な場所を広範囲にモニターできるような配置になっていた。
 明らかに彼らは、この校舎内でこれから起こるすべてを記録しようとしているかのような態勢を取っている。
まったく、外部のことなど意識していないかのようだった。
 だが、そんな彼らに、厭がおうにも外部を意識しないではいられない状況が迫ってきた。

――プルルルー、プルルルー、プルルルー。

職員室に設置されていた電話線をそのままこの教室まで引っ張ってきていた。
そして今、それに繋がれた電話が鳴り響いている。
「……」
その場にいたすべての武装グループが一斉にイオンに視線を向ける。
イオンは、その視線を背中に受けながら、教室の後方に集められていた人質を見据えながら、ゆっくりと歩み寄る。  
 職員室にいたすべての職員が、全員ロープで縛られ、テープで口を覆われている。
そして 何かの布で目を覆われており、周囲を見えなくさせられていた。
ただ、彼らは自分たちに近づいてくる何者かの足音だけが聞こえており、脅えた様子でイオンとその部下たちの方に見えないはずの視線を向けていた。
イオンは、彼らを見張ってライフルを構えている部下の横に立った。
そして、ゆっくりと手を広げる。
すると、隣に立っている部下が、彼の手に電話を手渡した。
しかし、それは携帯電話であって、この学校に設置された電話線につなげられた電話のそれではなかった。
彼は手慣れた手つきで、ある番号を操作し、コールした。
プルルルーという電子音が聞こえた次の瞬間。

――ドゴォォォ!

カーテンを閉ざした薄暗い教室内であっても、その向こうから一瞬射し込んできた閃光の眩しさに、思わず人質となった職員たちは、驚き、そして、その爆音と衝撃に悲鳴をあげた。びりびりと窓ガラスが震えて、建物が少し揺れた。
何かがすぐ近くで爆発したのだ。それだけは分かる。
いや、それだけしか分からない。
「ひ、ひぃぃぃぃ!」
「はぁ、はぁ、はぁ……」
言葉を発することはできなくても、叫ばずにはいられない。
見えない恐怖と近くで確実に起こっている爆発とその振動に彼らは、口の中で発せられることのない悲鳴を上げていた。
 視界を閉ざされる前、少なくとも『彼ら』が武装していることを人質となった職員たちも見ており、そして、それによって脅されて拘束されていた。
そんな彼らを見下すように見ていたイオンは、もう必要のなくなった携帯電話を部下に放り投げて返し、代わりにモニターの設置された机のすぐそばのイスに腰掛けて、手近にある電話を取った。
『貴様らは何者だ』
イオンが出た瞬間、電話先の男は呶鳴るようにして叫んだ。
「我々は、【地球解放機動隊】。【ELR】だ。ここでこれから行われることのすべてに対して、わたしに責任がある」
 イオンは事務的に冷徹な声でそう答える。
『何が目的だ!』
「我々の目的は、国内で先日、言われのない罪によって逮捕された同士の解放だ。そのための覚悟を今、君らに見せた。ここには人質数名、そしてこの街の何処かに4トン分のTNT火薬を使った爆弾を仕掛けている。もちろん、この校舎内の窓ガラスやその他の位置にも仕掛けている。迂闊に侵入を試みると君らはともかく、人質や周辺住民まで死ぬぞ」
『そんな量のTNT火薬をどうやって?』
「嘘だと思うなら、今、爆破したトラックを調べてみることだ。一時間後にまた連絡する」
『待て! まだ話は……』
電話口で警官と思われる男の声はまだ続いていたが、そんなのはお構いなしにイオンは電話を切った。
そして、部下たちの方に視線を向ける。
「これで警察はしばらく動けん。北側の建物に“小包”が落ちてしばらく経つ。中の状況を見せろ」
その言葉に、部下の一人がモニターと接続したコンピュータを操作する。
ほどなくして、体育館全体を見渡せる映像が映し出された。
そこには、巨大な円筒状の金属物体が投下されたあとの無残な情景が広がっている。
 直径三メートルほどのこの巨大な物体は、体育館内のバレーコートのちょうど中央にめり込むように落ちており、やや傾きかけながらも立っていた。
そして、その物体の落ちた床付近には赤い液体が飛び散り、物体側面にもそれが乱暴に吹きかけられるようにして付着している。
人間の下半身、あるいは上半身が、まるで切断されたようにして転がり、その切断された先は現在、物体に押しつぶされたか、どこかに放り出されたか。
とにかく、人間のパーツが無造作に転がっているという凄惨な情景が広がっていた。
 まさに血の海である。
それらを半狂乱になって叫びながら見つめている生存者が何人か見えた。
 そうかと思えば、何かをぶつぶつと呟きながらその場にへたり込んでいる人間も見える。いずれもそこで練習をしていた近所の主婦たちによるクラブのメンバー、あるいはその『残骸』だろう。
 数人が体育館から出ようとドアを叩いているのが見える。
だが出られない。
侵入初期に部下たちが溶接して、一階からの出入り口はすべて閉鎖されているのだ。
『ちょっと! 誰! 誰なの!? 早く出して!』
カメラ越しに主婦の一人の声が聞こえてくる。
『関口さん! 関口さん! だめよ! すぐに救急車がくるから! ね! ねえ!』
遠くで倒れている女性に駆け寄って、必死に声をかけている者の声が聞こえる。
カメラの画面の脇にその姿を捉えることができる。
比較的遠い位置なので正確には確認できないが、その倒れている女性の下半身はなく、『切断面』から腸が垂れ落ち、臓器の一部がはみ出している。
口からは血が溢れだしており、言葉を発することができないのだろう。
『は、はぁぶ……ブガガガ、がはぁっ』
何度も咳きこみ、血を吐きだしながら、少しずつ瞳を閉ざしていく。
それを必死で止めようとしている比較的若い世代の主婦が叫んでいるが、もはや聞こえてもいないのだろう。
『いやあああああああぁぁぁぁぁ! 誰かぁぁ! 誰かぁぁぁぁぁ!!』
ほんの数十分前まで、いつもの日曜の昼下がりの光景が、今では阿鼻叫喚の地獄ともいえる世界へと変貌している。
 目の前の世界すべてが紅く染まり、人間の残骸が無造作に転がっているこの様は、とても正気を保って見つめられる光景ではなかった。
発狂したかのように叫び声をあげる者、必死で開かないドアを開けようとする者、呆然と立ち尽くす者、彼女たちは皆、これから等しく地獄を見ることになる。
突然、惨状の中央にある円筒状の金属物体が、プシュっという空気が漏れる音を響かせた。そうかと思うと、何かのガスを吹き出しながらチューブが外れる。
『何? なんなの?』
一人が何か不気味な音がしていることに気づき、金属物体に視線を向ける。
すると、吹き出したチューブに合わせて、ごりごりという重い金属音を響かせて、円筒状の物体の何かが動きだした。
よくは分からないが、何かモーターのようなものが動きだし、それに合わせて物体の表面を覆っている金属パーツが開いていく。
物体の天盤部分に何かの電子部品が装着されており、それが三つの発光ダイオードのランプと接続されており、その一つが赤く点滅を繰り返していた。
やがて点滅が止まり、それとともに、物体の駆動音が止んだ。
『今、これ動いていなかった?』
カメラ越しに一人が、物体に近づこうとするのが見て取れる。
それをイオン=スプートニクは氷のような目で、静かに見つめていた。
次の瞬間。
赤いランプが消え、その下にあるグリーンのランプが点灯した。
その時である。
突如、物体を中心に白い煙が立ちこめ、ガシャンという金属音が響き渡った。
煙は凄まじい早さであたり一帯を覆い尽くし、視界を覆い尽くしていく。
カメラの方でも、ほとんどそこで起こっていることが確認できなくなり始めた時である。

――フオオオオォォォ

白くぼやけた世界の何処かから、何か獣のような声が遠くに響いた。
そして。

『な、何これ。何なの? い、いや、いや、いやああああああああああああああ』
『あ、あゲゲぐぇぇぇ』
『助けて! 誰か助けて! 出して! 出して! お願い出してぇぇぇ! あがぁ!?』
『ぐ、ぐげぇぁぁぁぁ』

ぼたっという何か肉の塊のようなものが、無造作に投げ捨てられるような音とともに、叫び声はやがて、潰れた声帯を介して人間とは思えない声へと変わっていく。
それらによる悲鳴は、それからわずか1分半ほど続いた。
 最初の投下で運悪く『潰れた』数名と違って生き残った人間が何人かいたが、それらの生存を思わせる声は、それからたった1分ほどで消えたのである。
「バレーボールというのは、何人でやるスポーツだ?」
おもむろにイオンが誰かに問いかけた。
その問いかけの意味が分からない部下たちは、それぞれ顔を見合わせるが、やがて一人が答えた。
「6人から9人で一チームになります」
「つまり相手側を合わせると少なくとも12人はいる編成ということだ。最初に潰れた数人が仮に4〜5人だったとして、7人を処理するのに1分か」
「恐らく捕食が目的ではなく、【感染】させるために【胚】を寄生させています。対象はおよそ50年近く冷凍されていましたから」
「そうだろうな……」
イオンはまるで機械のように不気味に頷いた。
やがて、一人に腕をあげて合図する。
頷いた一人が、無線機を手にした。
「二階渡り廊下の封鎖を解け」


40 :コンピュータソーダメロン :2009/01/03(土) 01:35:20 ID:o3teQ7nG







 その頃、外の世界では、警官数百名が動員されて現場を封鎖していた。
すでに先ごろの暴走トラックの強行侵入で死傷者がかなり出ている状況である。
早い段階から交通課のパトカーがトラックをけん制しつつ、停車を求めていたが、結局、強引に路地に侵入したあたりから、パトカーでの

追跡は困難になっていた。
とはいえ、結局、トラックの過ぎ去ったあとは凄まじい破壊の痕跡があり、時間も比較的昼ごろに近い時間帯だったため、目撃者は多数だ

った。
それが最終、町のちょうど中央に位置する銀蘭聖香学園付属の学校に侵入したところから事態は混迷を極めていった。
 もはや交通課で対応しきれる事態ではない。
トラックから見たこともない軍隊が飛び降り、瞬く間に校舎に潜り込んだかと思うと、どこかのヘリが学校敷地内の上空に入り込み、巨大

な円筒状の物体を体育館に投下した。
 前代未聞の大規模な犯罪が実行されていることを正確に認識できている者は少なかったが、それでも警察は、それが全署員を導入して行

動しなければいけない事態であると判断する。
武装した組織によるテロ行為なのか、それとも単に金銭を要求する強盗なのか。
少なくとも犯人グループは武装しているのだ。
学校内には、日曜とはいえ、複数の生徒と職員がいるために迂闊な行動ではできない。
とにかく、現場に一般人がこれ以上入り込まないよう徹底的に封鎖することが彼らにできるすべてだった。
 やがて、銀蘭警察署署長の命令により設置された対策本部から、全責任を受けて臨時で指揮を任されたのは広川警視だ。
40代前半のノンキャリアからの叩き上げで、一時期、対テロ特殊部隊の第二機動部隊にも所属していた過去を持つという。
現時点において、この件に関して、この男が適任だと判断されたらしい。
黒いスーツ姿で白い手袋をはめて広川は、40代前半の割には、中肉中背で、歳の割に鍛えられた長身の身体をしているのがスーツ越しに

も分かる。
 だが、特殊部隊時代の名残りか、勢いはあっても冷静さに欠ける感があった。
電話をかけた直後、突如、包囲していた校庭内のトラックが爆破されたのを目の当たりにして、完全に頭に血が上っていた。
半ば叩き落とすような手つきで電話を切る様子を遠目に見ていたのは、恩田刑事である。
 先ごろの笹原親子の事件で最初に現場に駆け付けたこの老兵とも呼ぶべき古参の刑事は、タバコをふかしながら、広川の様子を静かに見

つめていた。
忙しなく現場付近を走りまわる警官たちの中で、この男に、若い刑事が走り寄ってきた。
「恩田さん、マスコミが集まり出しています」
「そうか、じゃ、報道規制しっかりやっとけ」
「いえ、分かっていますけど、このままじゃ、テレビを通じてマスコミに先に内部の人質の情報が流されるのも時間の問題ですよ」
「それが連中の狙いだからな。さっきの爆破で今度はマスコミが爆薬の専門家を手当たりしだいに電話してるらしいし、そうなるとオレた

ちの動きはさらに封じられていくな」
恩田はタバコをふかしながら何かを思案していた。
 これまでこの銀蘭聖香の町で、これほど大規模なテロリストによる占拠事件があったのはこれが初めてといえるだろう。
それまでは、万引きか交通事故くらいがせいぜいのこの町で、突発的にこんな事件が発生するのはおかしい。彼らがこの場所を選んだこと

にも何か理由があるはずである。
そこまで考えて、恩田は奇妙といえる事件がこれが初めてでないことに思い至る。
しかし……。
「……いや、ただの想い過ごしか」
「なんですか? 想い過ごしって」
「いいから、爆破されたトラックの鑑識を急がせろ。本当にTNTの残留物質が出てきたら、今後の対策も考えねばならん」
ほどなくして、警視庁より爆発物の専門家グループが到着し、トラック内に残された残留物からほぼトリニトロトルエンと思われる物質が

検出された。
それと同時に市内全域に警戒態勢が発令され、付近の住民の避難命令が下されることとなる。



そんな恩田刑事のすぐ後ろで、警官と思しき女性がクリップボードを片手に通り過ぎて行った。
黒いスーツ姿に合わせたタイトなミニスカートの女性は、細身のメガネをかけ、トップを短めに襟足を長く調整した亜シンメトリーのウル

フカットの髪型をしている。長く伸びた方に軽く内巻きのカールがかかった少しフォーマルではあるものの、ナチュラルな女性の美しさを

そのまま表現している。
 普段の彼女を思えば、魔性という毒気は抜けたものの、妖艶さを隠し持つという表現に落ち着いていた。
本来の【ヴァンパイア】の本能からすれば、それはかなり無謀ともいえる行為だが、彼女はプロだった。
 絢咲零である。
トラック爆破直後より、事件はトラックの暴走事件ではなく、人質をとって立てこもるテロ事件へと様相を呈していった現在、絢咲零もま

た身動きを取るのが微妙な状況となってきていた。
あるいは、これもまたイオン=スプートニクの三段だったのかもしれない。
彼らとて、敵は人間の警察ではないことを認識はしているだろう。
もっとも、絢咲零にとってもっとも懸案事項は、笹原ナオヤという少年にあるのだが、そのことについてはイオンは今だ気付いてはいない

はずだった。
だからこそ急がなければならないのである。
(人間もまだ状況を深くは把握していない……)
そのことだけはこの状況の中では、唯一楽観できることだろう。
もっとも、人間の中にもカンの鋭い者がいる。先日の笹原親子の事件の時でもそうだが、基本的に弱く、頼りないのが人間だが、様々な状

況、感情、そしてその意思によって、人間は大きくその能力を変える。
 幼い時から訓練を重ね、身体能力と感覚を鍛え上げれば、たとえ未知の危険であって論理的に説明がつかないものであっても本能がそれ

を危険と認識する。
現状、絢咲零の周辺にいる警官たちの中に、そこまでの能力を持つ者はいない。
しかし、恩田という刑事は、危険を察知する能力よりも、一見無関係に思われる事象の断片をつなぎ合わせて、関連性を見出し、全体の真

実を見抜く能力に長けていた。それが彼が刑事たる所以なのだろうが、そのことを今の時点の絢咲零は知らなかった。
 そして恩田もまた、まだ点と点、二つの点に気付きかけているという程度である。
この時点では、恩田と絢咲零は非常に近い位置に存在していたわけだが、そのまま擦れ違っていた。
(……イオン=スプートニク自身まで動きだしている。北側の建物に投下したのは間違いなく【預言者】の【アーク】だ。ということはた

だの【預言者】じゃない。まさか純粋種か? とにかくナオヤの安全を確保しなければ……動くなら早い方がいい)
零は、そこまで考えた末、最悪の事態を想定した行動を選んだ。
恩田たち警官の列から少しずつ離れることにした彼女は、大きめのボストンバッグを抱える代わりにクリップボードを放り投げ、カールに

していた髪をほどき、きちんと閉じていた胸元のボタンを外した。
「ふぅ……」
髪をかきあげ、何かから解放されたかのように彼女が一息つく。
すると、ちょうどその時、彼女のスカートのポケットで何かの電子音が響いた。
この時代には珍しい携帯電話だ。
かかってきた番号は、香川翠ではない。
「ナオヤ? ナオヤなの?」
零はすぐさま電話に出ながら、管内署員であることを示すIDを捨てた。
立ち入れ禁止の柵を超えて野次馬で溢れかえった喧噪の中に身を紛れ込ましていく。
『……せい? 先生?』
雑音が多くて聞きとるのが難しいが、明らかにナオヤの声だった。
「ナオヤ、あなただいじょうぶなの?」
『だいじょうぶといえば……だいじょうぶだけど、あんまりだいじょうぶでもない』
いつもののんびりした口調でナオヤは曖昧に答える。
零は呆れて溜息をついた。
「どっちなの? まさか怪我をしているの?」
そこまでいったとき、一瞬、立ち止まり零は電話の奥の声を確かめるように耳を澄ます。
『怪我といえば、怪我だけど、それほど深刻な怪我でもなくて……』
どういう状況なのかをうまくまとめて話すことが難しく、ナオヤはしどろもどろで答える。
電話の向こうで零の機嫌が悪くなっていくのをなんとなく感じてしまったからだ。
「いい? ナオヤ。すぐにそっちに行くから。わたしが行くまで大人しくしているのよ? どこかに隠れてなさい。間違っても戦おうとか

考えちゃだめよ。考えたら殺すわ」
あまりカンが鋭いとはいえない。むしろニブいと言うべきナオヤだったが、この時ばかりはカンが当たったようだ。明らかに機嫌が悪くな

ってしまっている零は、物騒ないい方で一気にまくし立てた。
『助けにきてくれるの?』
意外そうな声でナオヤは問い返した。
「あなたって子は……。なんのために電話してきたのよ」
いいかげん頭痛を覚え始める零だった。
ここまで自分を困らせてくれたのは、魔族でもそうそういない。
【聖者】だからこそかもしれないが、まさかこんな子供にこんなに苦労させられるとは夢にも思わなかった彼女だった。
彼女は細身のメガネの奥で、瞳を細めながら電話で話をし、人込みからもなるべく離れようと、どんどん裏路地へと入っていく。
陰気なスナックが昼間は日陰に隠れて立ち並ぶ裏路地で、人影がないのを確認してから、零はボストンバッグのチャックを開けた。
中から取り出したのは、紋章入りのベレッタと思われるハンドガンに、M3ベネリと呼ばれるショットガンのストックを切り詰めたソード

オフタイプだ。取りまわしがよく狭い空間内での接近性において絶大なストッピングパワーを持つ。
彼女は携帯電話を肩で支えつつ、ハンドガンのマガジンを確認した。
『母さんのことで電話したんだよ』
その声は、のんびりしたナオヤのものではなく、少し何かを覚悟した少年の声だった。
「ユキノがどうしたの?」
『母さんは食べないでねってお願いしておこうと思って』
それは何かを予感した上での真摯な少年の願いである。
「……」
ジャキっという乾いた金属を響かせ、マガジンをグリップ内に一気に押し戻した零は、
「約束はできないわ。ユキノはおいしそうだもの。わたしにユキノを食べられたくなかったら、大人しくそこでいい子にして待っていなさ

い。いいわね?」
『……うん』
「すぐ行くから」
『うん、待ってる』
そこで電話は切れた。
どうやら位置的な問題か、警察無線の影響によるものか、とうとう妨害電波の荒波の中に携帯の電波もかき消されてしまったらしい。

――まったく、世話の焼ける【聖者】様……。

そう心の中で呟き、悪魔は再び人々の喧噪の中に消えていった。


41 :コンピュータソーダメロン :2009/01/05(月) 01:41:54 ID:o3teQ7nG







その頃、笹原ナオヤと保坂結衣を含めた6人の生徒、そして南遥という教師一人を含めた7人は、教室を出て一階の美術準備室に隠れていた。準備室とは名ばかりで、実際には美術室の奥にある小部屋、用具保管室で十分、必要な用材は納まっていた。
そのため、準備室には、歴代の生徒の作品や美術部員達が残していった行き場のない作品が収められている。
 しかし、そのスペースも昨今ではかなり限られてきたため、極力はここに作品を保管することは避ける方針になっている。
現在では、連絡のついた生徒やその家族が作品を引きとるまでは鍵をかけられたまま放置されていた。
 霧原は、どういうわけかそのカギを持っていたのである。
そのことについて、南遥は、霧原に何かいうことはなかった。
彼女は若いが愚かではなかったのである。
現在起きていることすべてを理解することは困難だったが、それでも危険が迫っていることを彼女は十分把握していた。
すぐさま霧原が持っていた準備室を自ら受け取り、笹原ナオヤら生徒たちをそこに匿わせた。
結果的にその判断は正しかった。
 イオン=スプートニクの部下たちは、どういうわけか、それほど深く校舎内にいる生徒や教師などを捜索しようとはしなかったため、鍵のかかっている準備室の中まで調べようとはしなかったのである。
しかし、それでも校舎内にいる大半の右往左往していた生徒、教師は、そのまま人質として集められた。
「どうする? さっきなんかすごい爆発音みたいなのしたけど……やっぱりこれって何かすごい事件なの?」
 安藤が準備室にあった丸椅子に腰かけ、心配そうな面持ちで周りを見渡す。
だが、誰も事態を正確には把握していない。
誰もがお互いの顔を見渡しながら、やはり大した答えを言えなかった。
互いに身を寄せ合うような形で、不安を共有している。
ここは、準備室であって、教室ではない以上、それほど余裕のある広さの空間ではない。
およそ、10畳くらいの正方形のスペースがあるかないかの広さでは、この人数ではずいぶん窮屈である。
しかも、そのスペースの3分の1はかなり減ったとはいえ作品を収める棚で占められている。
余計に狭くなっていた。
「とにかく、あれだけ大きな音がしたんだもの。誰かが警察を呼んでいるはずだわ。警察が入り込んでくるまでじっとしていましょう」
南遥だけが、唯一、彼ら彼女らを安心させようと口を開いた。
 幸い、イオンの部下たちは武装しているものの、こちらの存在にはまだ気付いていない。
本当に武装しているのかどうかについては、ナオヤはおろか、大人の南遥でさえ、本物の銃器など見たこともないのだから、知る由もない。ただ、この状況下で校内を武装しているかのような集団が闊歩し、外部で爆発音のようなものが聞こえるというのは、やはりどう考えても尋常ではない。
どの程度の危険があるかも分からない中、闇雲に動き回るのは確かに危険である。
 ただし、今、ここで起こっている状況というのが、通常の危険レベルを遥かに凌駕した超自然的な事態が起こっているということを、もし、この中の誰かが理解していれば、じっとしてたところで、警察に対処できる事態ではないということが理解できたはずだ。
そして、これが彼らにとって非常に幸運なことに、ここにはその希少な存在がいたのである。
 笹原ナオヤだ。
彼は、準備室のドアにずっと張り付いてドアに備え付けられた小さな窓から外部の様子を窺い続けていた。
痛む左肩を抑え、脂汗をかきながらも、可能な限り情報を集めている。
(金色の目だ。あれは純粋種じゃない。父さんの日誌にもあった造られた【ヴァンパイア】特有の瞳の色……。先生の言っていたルーマニア人だ。でもどうしてここに……?)
遠目に校舎の廊下を見張りながら歩いている武装した兵士と思われる男の眼を見つける。
 確かに金色に光って見えた。
加えて、彼らは決して窓際のカーテンの隙間から差し込む陽光に足を踏み込もうとしない。意識的に避けているようだ。
これもルーマニア人の【ヴァンパイア】特有の行動だ。
 彼らは製造の過程で、遺伝的欠陥を生まれもって持っている。それは血液の中に含まれるヘモグロビンの合成過程でできるボルフィリン体をうまく排出できず、紫外線に触れることで非常に強い毒性を持ってしまうというものだ。
日光に皮膚が長時間さらされると、見る間に皮膚が爛れ落ちてしまう。
やがては死に至らしめしまうのだ。
今現在、ナオヤが観察している兵士も、先ほどうっかり軽く顔が陽光にさらされてしまったがために、頬をかきむしっている。
よく見ると、軽くケロイド状となってしまっているのが見て取れた。
 彼らが校舎中の窓にカーテンをかけたのは、外部から中を見れなくすることと、それに爆弾の信管を絡ませることで罠とすること、そしてそれ以上に自らの身を守るためだったのだ。
(この状態で長くはいられない……。父さんの日誌が正しければ、彼らの嗅覚や聴覚は普通の人間の数倍ある。今の時点で本当なら見つかっていてもおかしくない……。数時間経って陽が落ちたらますます彼らが有利になる上に、僕たちは周りがよく見えなくなる)
 日光は弱点というのは大きいが、問題はこの建物自体が彼らの要塞になってしまっているということだ。
先ほど遠目に兵士たちが、すべての窓にカーテンをかけていくのを見ていたが、それと一緒に何かの機械とコードをカーテンに絡ませているのをナオヤは見ていた。それが何か正確に理解する知識はもちろんナオヤにはなかったが、恐らく兵士のような井出達をした彼らである。爆弾か何かだと思っておいた方がいいだろう。
何より先ほどの爆音の原因はそれかもしれないということは十分に考えられることだった。
つまり、彼にカーテンに仕掛けられているものが爆弾だったとして、当然、自分たちの手に負えるものではなく、下手なことをするよりは触らず、近づかずにいたほうがいい。そうなってくるとカーテンを開けて日光を建物内に入れる案は非常に難しい。
 ここにきて、父の日誌を教室に残したままここに逃げてきたことが悔やまれた。
もっとも、持ち出そうとしたのを途中で保坂結衣によって阻まれたせいでもある。
 肩を痛めた状態で、大きな父の日誌を持ち歩くのは危険だといって、彼女が止めたのだ。
あれには、純粋種ではない【ヴァンパイア】の様々な考察についても書き記されていた。
いろいろ日光以外の弱点についても書かれていたはずである。
「……」
深々と考え込んでいる様子のナオヤに、保坂結衣が声をかけた。
「そんなところにいて見つからない?」
「だいじょうぶ。小さい窓だから、外からこっちは見えない」
それが【ヴァンパイア】でも……とナオヤは言いかけて抑える。
彼女は、壁際に持たれかかるようにして立ちながら、窓の隙間から外を窺っているナオヤの横に立ち、やがて同じに壁に背中を預けたが、そのままゆっくりと身体を滑らしていき、ナオヤの足元で膝を抱えて座った。
「あいつら、何だと思う。兵隊みたいな格好しているけど。どこかの国の軍隊……とか」
普段、強気の彼女だが、それでもやはり不安なのだろうか。
顔はよく見えないが、不安そうに声が震えているような気がした。
無理もない。現状、直接的な危機、実害はないが、彼女も体育館に何か奇妙なものが投下されるのを見ている。
どのくらいの重量かは想像もできないが、あんなものがあの高さから体育館の屋根を突き破って落ちたら、その下にいる人間がどうなるか想像するのは、そう難しくない。彼女はそれを極力考えないようにしていたのである。
そこへきて、あの大爆発の音だ。怯えていて普通の精神だといえる。
 そんな中にあって、むしろおかしいのは笹原ナオヤの方である。
「たぶん違う」
ナオヤが外の様子を窺いながら、あっさり否定した。
「どうしてそう思うの?」
結衣は顔をあげて、下から彼の顔を覗きこむようにして聞いた。
「最初、マスクをかぶって顔を隠していた。どこかの国の特殊部隊に見えるけど、彼らの持っている武器がとても特徴的すぎるんだよ。あれは、東欧で使われてるカラシニコフの亜種だ。あんな特徴的な銃を持っていればすぐにどこの国の組織か分かってしまう。たぶん、特定の国に属す公的な機関の組織じゃなくテロリストで、すごく大きな組織にいる」
「どうして?」
「すごく専門的な装備を揃えて、その上、身のこなしがとても洗練されてる。たぶん、とても高度な訓練を受けているんだよ。それにはたくさんの資金がいる。それを集められる大きな組織なんだと思う」
「ふーん……」
保坂結衣が、呆れたような感心したような複雑な表情でナオヤを見上げた。
「あんた意外にこの状況下で落ちついているし、鋭いわね……」
「……」
 笹原ナオヤは、この危険な状況をかなり正確に把握しているし、他の生徒や教師である南遥には話せないが、尋常ではないとても大きな危険が迫っていることも理解している。その上で彼は、何も知らないで不安にいる彼ら彼女らよりも落ち付いているのだ。
 逆にいえば、知っているからなのかもしれないが、だからといって明確に希望が持てるほどの打つ手があるわけでもない。
何より、彼はまだ10歳の少年なのである。
明らかに、彼の落ちつきは普通ではなかった。
 そう、父親の死を眼前に映したときと同じように……。
軍事的知識に関してならば、それは元SWATの父譲りの知識といえる。
【ヴァンパイア】などの超常現象、それもかなり核心部分に通じる知識については、第一次世界大戦以前の笹原ジン教授の父の代から続く日誌から得たものだ。
 では、この状況下に対する彼の適応能力は何処から受け継がれてきたのか。
あるいは、それもまたナオヤの父、笹原トウジから受け継いだ危険に対する適応力といえるのかもしれないが、トウジが有していたのはあくまで人間を相手にした犯罪に対するもの、あるいは自然災害に対する適応能力にすぎない。
ここで起こっている超自然的事実に対する対処能力は、明らかに、まったく別次元から受け継いだものだった。
絢咲零を含め、現在、ナオヤの真実を知る者は、それこそが【ロンギヌスの槍】によって選ばれた者が受け継いだもの、【聖者】の能力の一つだという。
「……」
ナオヤは、おもむろに準備室の戸棚に歩み寄った。
その様子を結衣は黙って見つめている。
彼は、ある引き出しを一つ開けた。
引き出しを開けた瞬間、咽返るような油絵具の匂いが、つんと鼻を突いた。
しかし、そこにあったのは絵の具などではなかった。
鈍い光沢を光らせる金属の塊である。不気味なまでに静かで冷酷な破壊者の象徴といえるだろう。
その一方で、繊細な曲線美を描く細く長い刃先は、官能的とさえ表現できる。
その上で、グリップに近い一部の刃の部分は、ギザギザとした鋸型の刃に加工されている。
刃渡り40センチほどの両刃のナイフだ。ナイフの鍔は禍々しいまでに反り返り尖っていた。
グリップ部分は、ガラス繊維強化ナイロンで構築されている。
全体的に刃の部分からグリップまでをほぼ同系色の暗いグレーで染め上げられ、冷たい金属の刃からグリップに至るまでを金属繊維で覆われている。まるで持つ者の心までも硬質な冷たい金属のような心に変えようとしているかのようだ。
間違っても果物の皮をむくために創られた道具ではない。
 これは生物の命を破壊するために創られた呪われた兵器である。
いわゆるタクティカルナイフと呼ばれるものだった。恐らくデッサンか何かのモデルに用いられたのだろう。
「危ないから、そんなの触るやめたら」
結衣が引き出しからみつけたナイフを見やり、言った。
だが、ナオヤはそのナイフをじっと見つめていた。その様子は幾分、危なげに見える。
「ねぇ、危ないってば」
見かねて、結衣はナオヤの後ろに歩み寄り、肩に触れた。
「これ、鉄じゃない。光沢はなくなってるけど銀で出来てる」
「へえ、すごい」
真剣にナイフを見つめているナオヤをからかうように、結衣はわざとらしく驚いて見せた。
しかし、ナオヤはそんな彼女を無視してナイフを様々な角度から観察している。
だんだん結衣はうんざりしてきた。
「まさかあんたナイフフェチとか言わないわよね」
「そうじゃないよ。これがあれば“彼ら”から身を守れる。父さんの日誌に書いてあったんだ」
「ちょっと相手は銃持ってるんだから。そんなのもってどうするのよ」
「“彼ら”は銀に弱いんだ。使えるかもしれない」
保坂結衣は、まるで訳が分からないという顔でナオヤを見つめている。
それどころから、ナオヤが冷静に見えたのは自分の勘違いで、実は、ナオヤはすでにこの状況に耐えきれなくなって精神的な破たんをきたしたのではないかとさえ思いなおし始めていた。
だが、ナオヤ自身はそんなことはお構いなしだった。
(表面の酸化がかなり進んでる。何かの媒体を使って純銀に還元しないと……)
「ハル先生」
ナオヤはふいに南遥の名を呼んだ。
「どうしたの? 笹原くん、肩が痛むの?」
先ほどから、南遥は結衣に蹴り上げられたタケオの様子を見ていたが、ナオヤに呼びかけられて振り返る。
「このすぐ近くに保健室があったと思うけど、備品に医療用の消毒薬として使われてる硝酸ってありますか」
「さあ、あるとは思うけど……。まさか他にもどこか怪我をしているの?」
「そういうわけじゃないけど……」
「笹原くん、まさかここから出るなんてこと考えてないわよね」
「……」
事態が発生してから、およそ二時間ほどが経過していた。
 今、太陽はちょうど真上に来ている。
陽光が沈むまであと6時間以上はある。
だが、その時間に近づくにつれ、彼らの能力は増していくだろう。
 そこまで考えたとき、ナオヤの頭の中で、絢咲零の声がこだました。
零が助けに来るのを待つべきか。
自分と周り、そしてこの状況。そのすべてを思い浮かべ、ナオヤはじっと考え続けた。
失敗すれば、死ぬのは自分だけではないのだ。


42 :コンピュータソーダメロン :2009/01/08(木) 02:26:24 ID:o3teQ7nG







 警察と内部の組織との睨み合いは、TNT火薬が発見されてから続いている。
それもそのはずである。TNT火薬4トン分の爆弾が、この町に設置されているというのだ。
爆薬専門チームの説明によれば、それは約160億ジュールもの破壊力を持つという。
彼らは、それを直径30センチの隕石を時速15万キロの速度で地表に激突させた時と同じ破壊力を持つと説明した。
実際には、着弾地点から直径15メートル圏内はすべての物体が蒸発し、深さ3メートルほどのクレーターが出来るほどだという。
ただし、それが一カ所とは限らない。
テロリスト側の話によると、彼らが実際所持しているTNT火薬の総量は明らかにされていない。
4トン分が一カ所とは限らないし、他ではもっと大量のTNT爆弾が設置されている可能性もある。そして、警察らをさらに戦慄させる情報があった。それは警視庁と一部の銀蘭署高官のみ伝えられている事実であり、マスコミには一切伏せられている事実だが、今から三日前、広島のある工業地域でTNTを精製している研究施設から約1万トンのTNTを航路を使って輸送中だったが、現在、その輸送船が消息不明になっている。
なお、現在、トラックから検出されたTNT火薬を高度分析にかけ、消息不明になった輸送船に積まれていたTNTと精製元が同じであるかを確認している。
 仮にこれが一致を見た場合、事態はさらに混迷を深めていくこととなるだろう。
TNT火薬1万トンとは、広島型原爆に匹敵する量の破壊力ということになり、それがテロリストによって強奪され、この町一カ所に集められているとしたら、恐るべき事態といえる。現場の指揮を執る広川警視は、警視庁側からの連絡を受け戦慄した。
現在、警視庁には各方面から高官が集まり、極秘の対策本部が打ちたてられていた。
また万一の事態に備え、大規模、あるいは広範囲におけるテロ行為が実行されることを予見して、知事の要請を受けて国民保護等派遣による自衛隊の派遣も検討されている。すでに伊丹駐屯地より第三、第十師団の派遣準備が進められており、東部より練馬駐屯地での派遣も順次進められる予定となっているが、TNT検査の結果が出るまでは、正式な動きには至っていない。
マスコミを刺激することを懸念し、現段階では極秘裏の準備段階となっていた。
 だが、事件が発生してから数時間たった現在、すでにトラックの爆破によって、町には大量のマスコミ関係者が押し寄せていた。
学校の校庭の外側には、警官によって報道規制が敷かれ、そこに群がる報道関係者が群がっている。
さらに、絢咲零を含む【ヴァンパイア】組織たちにとって懸念すべきことは、その学校が笹原ナオヤの登校している学校であるということだった。そのことにマスコミ連中は、すでに気づき始めている。
「憂慮すべき事態です」
香川翠は簡潔に状況を報告した。
 現在、室内には彼女一人しかいない。
市内のホテルの最上階にて、彼女はノートパソコンに備え付けられたカメラ越しに話しかけていた。
モニターには、一人の男の姿が映っている。
レン=フレイザーだ。
『地球解放機動隊とはな。エコテロリストに対応のマニュアルなんてない。その上、連中の組織に縦の繋がりが基本的にはない。警察も参ってるだろ』
香川翠とは正反対に、レンはこの状況を楽しんでいるようだった。警察や情報組織からの追跡を免れるために、【地球防衛機動隊】なるテロ組織には、縦に連なる組織の繋がりがない。基本的に少数の実行部隊がそれぞれに共通の意思、目的だけを持ち、行動しているにすぎない。だから、一つの実行犯の行動が全体との繋がりを必ずしも持たないために、実行犯一人を捕えてもそこから先に組織の内部を窺い知っていくことができない仕組みがある。
 ということは、警察はおろか、【地球防衛機動隊】そのものでさえも、イオン=スプートニクを始め、彼の部下たちの現在の行動が、本当に【地球防衛機動隊】の末端部隊なのかどうかをすぐには把握しきれないということになる。
これをそのままイオンたちは時間稼ぎに使っているのだ。
 レンにとっては、そのことが滑稽でならないらしい。
だが、そのことは自分たちレン=フレイザーの一味には、この混沌とした状況は逆に利用できるものだった。
ただひとつ、笹原ナオヤの存在だけは憂慮すべき点といえる。
あえてこの際、笹原ナオヤの存在を考慮に加えないという考え方もできる。
 さらに一歩踏み込んだ考えをするならば、この際、この機会に乗じてナオヤを殺害できないか。
香川翠はそう考えている。
むしろ、そうするべきだろう。マスコミがナオヤに注目することは、今後、この少年の扱い方を複雑にしてしまう。
そうなる前に、この事件の混乱を逆に利用して殺害してしまうべきだ。
 もともと、【聖者】という存在は、自分たちにとって最大の敵なのだ。
絢咲零が、ナオヤを監視するどころか、保護にまわっているのこと自体、異常といえる。
そもそも、どうして絢咲零は、これほどこの少年に固執するのだろうか。
香川翠には理解できなかった。
もっとも、今、パソコンのモニターに映っている人物、このレン=フレイザーが笹原ナオヤを殺すべきかどうかを迷っている理由についても、それなりに困りものだった。
レンは、このあまりにも稀有なる存在、【聖者】を簡単にこの世から消し去ることに躊躇いがある。
およそ数百年ぶりの出現である。
 それを簡単に殺してしまうことを迷っているのだ。
いったい、殺さずにどう利用のしようがあるというのか。
香川翠には理解できない。もともと、このレン=フレイザーなる人物の考えることは、そうそう理解の範疇とはいえないが、それでも彼がここで迷う理由が分からなかった。
『セリーンは、例のものを持っていったのか?』
「はい。あれを使うつもりです」
『だったら、それを使わせてみろ。【預言者】どもをブチ殺せるならいい。今後飼いならして、利用できる限り利用するのもいいだろう』
「しかしっ……」
『セリーンはあのガキを飼いならしているんだろう?』
その問いかけに、香川翠は即答しかねた。
 確かに笹原ナオヤは、あの絢咲零にずいぶんと懐いているように見える。
まるで犬のようにしっぽを振りながら、彼女が帰宅したとき、笹原宅で迎えているのを遠目に彼女は監視してきた。
 しかし、それは笹原ナオヤの一方的な関係だったとはいえない。
数時間前、イオン=スプートニクを乗せたトラックが発電所を出たことを連絡した際の絢咲零の反応は、それまで香川翠が知らなかった彼女の感情が滲み出ていたような気がするし、これまで何度か監視報告を彼女から聞いてきた際、彼女の見せる表情は、単なる監視対象についての報告をするというよりは、ダメな弟と持った姉のように、どこかその瞳は温かかった。
くわえて、レンの館で、笹原ナオヤを守るために自らの身を盾にして少年をかばい、さらにはレンに向けて発砲するという行動にまで出た。
このことをレンは危険だとは思わないのだろうか。
 それともすべて分かった上で、この状況を楽しんでいるというのか。
「……はい」
『いいだろう。じき夕暮れだ。ルーマニア人どもも本領発揮というところだろう。セリーンを潜入させろ。第一の目的は【預言者】の殲滅だ。ガキを利用できるならしてみろ。オレと駆け引きできる器かどうか見させてもらおう。ただし、人間どもには一切気取られるな。目撃者は全員抹殺する』
「分かりました」
香川翠にとって、憂鬱で長い時間がたった今より始まった。


43 :コンピュータソーダメロン :2009/01/09(金) 00:34:06 ID:o3teQ7nG




 午後5時13分。月が出始める黄昏の時間。気のせいか蒼みがかった月が、何かの気配を引き連れて夜を呼ぶ。
黒いスーツ姿でタイトなミニスカートに身を包んだ一人の女性が、北側体育館の屋根の上に立っていた。
右太ももの付け根にまきつけたホルスターにはベレッタを装備し、両脇にクロスさせる形でショルダーホルスターを下げている。
ワルサーP99と呼ばれるショートバレルのハンドガンだ。彼女独自のカスタムを施されており、その2丁の銃にはバースト機能が搭載されていた。さらにストックを切り詰めたソウドオフタイプのM12ショットガンを肩手で持ち、銃身を肩に預けて立っている。
 彼女の瞳は、夜を迎えて本来の力を呼び起こしつつあった。
その瞳がわずかに血の色のように紅く染まっていく。
月を背に立つその姿は、幻想的であり、妖艶であり、そして危険な香りがした。
冷たい空気が、その氷のように白い肌を撫で、髪をそよいでいく。
【ヴァンパイア】の夜が目覚めていく。
直下では、警察が回りを囲んで事態を見守っている中、彼女の姿はあまりにも目立ち過ぎていた。
しかし、不思議にも誰にも彼女の姿は見えていないかのように、気づく者はいない。
そして次の瞬間。
彼女の姿は消えた。



体育館内中央部。
【アーク】と呼ばれる【預言者】を格納するタンクが体育館の屋根を突き破って落下したすぐ近くに、絢咲零は着地した。
まるで羽が舞い降りるかのように軽やかに、十数メートルはあろうかという高さを難なく彼女は降りたったのである。
冬を迎えようというこの時期の夕暮れ時、体育館内はライトをつけられているわけでもなく、かなり周囲は暗い。
かろうじて突き破られた天井から、わずかに零れおちる夕陽のおかげで、現在、絢咲零が降りたった周囲のみ、ほんの僅かに明るい程度である。
 だが、そのわずかな明かりでさえも、そこが凄惨なる人間の残骸で溢れかえった地獄であることが見て取れた。
不運にもタンクが落ちたその周辺にいた人間は、もはや潰れて肉塊と化している。
潰れるのを免れた人間も、上半身が切断されたか、下半身か、あるいは足だけを引きちぎられたか、どちらにせよ、圧死、あるいは失血によるショック死などですでに死んでいる。
血と臓物と人間の欠片で、床一面、ぐちゃぐちゃに濡れており、ひどい死臭がそこかしこにあふれている。
「……」
絢咲零は、手にしたショットガンを左手一本で持ち、右手に太ももから抜いたベレッタを持って構える。注意深く周囲を見渡しながら、状況を確認していた。
どうやら、ここで何かスポーツをしていた人間が数名いるのは確かだ。
転がっている残骸を見ても、何かのユニフォームを着た状態なのが分かった。
だが、残骸はせいぜい、4,5人程度だ。
これが何かの団体競技か何かのスポーツで、ユニフォームまで用意するような集まりなら、この程度の人数なのはやや少なすぎる。
他の“人間”の姿が見えないのがおかしい。
 零はゆっくりと一歩だけ前に進んだ。
その時である。
べたっという何か水気を含んだ塊、そう、強いて言えば肉質のある何かの塊が、床に落ちるような音が響いた。
「……」
瞬時に零は音のした方向にベレッタを構える。
反対側にショットガンを向け、両腕を180度に広げて注意深く周囲の気配を探りつつ、音のした方向に意識を向けた。
やがて、再び、何かべたっという音がした。
それは天井から差し込む夕陽が届かない暗闇の向こうから聞こえた。
 そして、今度は生きた人間の息づかいのようなものが聞こえてきた。
それはひどく苦しそうな息づかいで、闇の向こうで何かを待っている。
零の瞳が、すぅっと細まった。
その時、耳のピアスに装着した無線機から緊張した香川翠の声が響いた。
『気をつけて。生存者よ』
それは奇妙な物言いといえる。
この惨状の中で、唯一生き残った人間である。
気をつけなければいけない理由とは何か。
しかし、その意味を絢咲零はよく理解していた。
「数は?」
『少なくとも5体。こちらのサーモグラフィでは体温50強。少なくともルーマニア人ではない』
「【感染者】?」
『まずいわ』
香川翠がそう言った次の瞬間。

――ギギギギギギェェェェェ

昆虫のようなそれでいて何か爬虫類の鳴き声のような声が、闇が支配しようとしている空間に響き渡った。
先ほど緩慢な動作で何かが動いているような気配があったが、今ははっきりと感じる。
ここには何かがいる。
 そして、それはもはやゆっくりとした動作ではなく、素早い動きで絢咲零の周りを動きまわっていた。
ざざざっという空気を震わす気配がそこかしこで響き渡ってくる。それらはまるで、ハエか何かの羽虫のように、左右にジグザグと動きまわりながら獲物との距離を近づけてくる。
そして、
「ギィァァァァァァァァ」
人の声帯から発する声とは到底思えないような潰れた醜い鳴き声を発しながら、その『生物』は、突如、闇の中から絢咲零の右側面を狙って飛びかかってきた。
常人離れした零の反応速度は、それをすぐさま察知しその身を反転させてショットガンの銃口を向けた。迷うことなくトリガーを引く。

――ドガァ!

一発の銃声が怒号を鳴り響かせ、鉛の散弾が一瞬にして生物を肉塊に変えた。べちゃっという水しぶきを放出して、顔半分が吹き飛んだ生物は、そのまま床に落ちる。赤い液体が、その他と混ざり合いながら、ピンク色の肉片をまき散らしている。
顔半分がないとはいえ、それが元人間であることを窺い知るのに、そう難しくはなかった。
ただし、目が異常に膨張し赤く濁っていることと、口が耳元まで裂けたかと思うと、その中に縦に割れた昆虫のような口がもう一つできているという奇妙な形態を無視すればの話である。
 他にも足の関節が不自然に逆向きに折れ曲がり、異常な発達を見せているのも奇怪といえる。
まるで犬の足の関節のように変形しているのだ。
「……一体倒した」
絢咲零は、そんな奇妙な生物の遺体など気にも留めず、さらに他の標的を探索するべく、瞳を鋭くとがらせて周囲を窺う。
『残り四体』
香川翠がそう告げている間にも、今度は二体が同時に零に押しかかってきた。
一体は人間の姿をしている。
ただし、右腕が異常に発達していて、胴体部分とのバランスが露骨に合っていない。肩から盛り上がった肉の塊に押しつぶされて顔は完全に潰れている。恐らく。生きながら頭が潰されていったのだろう泣き叫んだ表情の残滓が見えた。そして、その盛り上がった肉の塊の上に大きな瘤のようなものが出来上がっており、人間の目のような器官が二つ出来上がっている。
ただし、それも赤くはれ上がっており、左右を小刻みに見まわしているあたり、『眼』としての機能は果たしていないように思われる。
恐らく、『失敗』したのだ。
その一体が、雄叫びを上げ、巨大な右腕を力任せに振りかざしながら、零に突進してくる。
その一方で反対側から、背の低い『敵』が迫っていた。
下半身がないのである。おそらく【アーク】によって押しつぶされて、下半身を失った直後、まだ生きている段階で『感染』させられたのだろう。腰の部分から下を切断されているが、その切断面から人間の手のひらのようなものが複数『生えている』。
さながら蜘蛛のように見えなくもないが、それは明らかに手であり、何枚もの手が折り重なるようにして生えて、その身を支えているのだった。
その生物には、もはや人間の意識はないのだろう。
眼を充血させているのは、死亡直前の様子がそのまま残っているに過ぎない。にも拘わらず『感染』させられたために死ぬこともできず、今も、ひくひくと口から血を流しながら虚ろな目で虚空を見ている。
しかし、もはやそれは人間ではなく、おそらく本人の意識とは無関係に動いているのだ。
別の生物に寄生され支配された生物でしかない。
「……」
絢咲零は、右腕を薙ぎ払うように振りまわしてきた生物の腕を後ろに反りかえるようにして避け、さらにそのまま上体を反転させて、一気に後ろからくる化け物の頭の上に着地し、それを台にしてさらに高く跳び上がった。後方に高く跳びつつ、二体の化け物に向けてショットガンとベレッタを向けて容赦なく撃った。
ショットガンの散弾が右腕の発達した化け者の右腕を破壊し、続けざまに撃ちまくるベレッタの銀の弾丸が、化け物の眉間と頭部に二発ずつ貫通した。
すたっと、彼女が着地する頃、もはや二体の化け物は動くことはなかった。
『最後の二体は、出口の扉付近にいるわ。動きがとても遅い』
その言葉を受けて、零はショットガンとベレッタを出口に向ける。
確かに出口付近に何か黒い影が、ゆっくりとした動作で揺れ動いているのが見て取れる。
それは、こちらに近づいてくるでもなく、ひたすら出口のドアにひっついたまま、ただそこにいる。
零はゆっくりとその出口付近の化け物の方に歩み寄る。
すると、逆光となってよく見えなかった化け物の姿が、やがて出口の窓から差し込む夕暮れの光に照らされて映し出されていく。
「あ…あガががががげグぎィィぃぃァァァァ」
口からよだれを垂らし、恐怖におびえた表情のまま、その二体は互いを見つめあった形で融合していた。
どういう事態でそうなったかは不明だが、二つの人間の肉体が感染し、肉体が融合したようだ。
恐らく、どちらもその融合の過程で、恐怖におびえながらなんとか逃れようとしたのだろう。
だができなかった。
 恐れ慄き、震えた表情のまま、その肉体は溶け合い、ひとつの怪物になった。
だが、とても不安定な状態なのだろう。
もとより人間の意識など欠片ほども残っていないのだろうが、化け物同士の意識が二つの肉体を一つにしたことで、反発しあっているらしい。
絢咲零が近づいたことにも気付くことなく、ひたすら出口付近で何かを呟いている。
「……」
零は二つの頭部もろとも破壊できる位置から銃口を向け、そしてトリガーを引いた。
『片付いたわね』
香川翠の冷酷な一言がその場に響いた。
絢咲零は沈黙したまま、その場に立ち、何を思うでもなく化け物の死体を見降ろしている。
 恐らく、こういった行為はこれまでこの二人によって何度となく繰り返されてきたことなのだろう。
元は人間で、たまたま、その場にいた不幸な人間でしかなかったとしても容赦はしない。
それが危険であれば、なおさら迷うことなく引き金を引き、相手を殺す。
眉ひとつ動かさず、なんの感情的ブレも発することなく実行する。
それが彼女だ。
そしてそれは、あの時、笹原ナオヤの事件の時でも同じはずだったのだ。
香川翠は、絢咲零の様子をモニター越しで見つめながら、複雑な表情をしていた。
そんな矢先である。
 絢咲零の携帯電話が鳴った。
「ナオヤ!」
それまでの冷酷な暗殺者の顔が一瞬にして消える。
『せ、せんせい?』
「はぁ……無事だったのね。すぐに行くから、見つからないように隠れていなさい」
そういいながら、彼女は周囲を見渡した。
二階の渡り廊下の両扉が開かれているのが見える。
誰かがあそこから外部に出たのだ。
『それが、えっと……その……』
電話の向こうの声が、言葉を濁している。何か言いにくいことをしてしまった時のナオヤのいつものパターンだった。
零の顔がみるみる険しくなっていき、その間にも二階部分の渡り廊下に向けて、人間とは思えない跳躍力で飛び上がった。
「何? わたしに言えないことをしたの?」
『えっと……その……すごく今危ない状況みたい……』
そこまで言った時、突然電話が切れた。
「ちょっと、なに? ナオヤ! ナオヤ! ……くっ!」
携帯を握りしめる彼女の表情が、露骨に感情を浮かばせている。
それを心配した香川翠が、声を発した。
『落ちついて、零! あなたらしくない』
「落ち着いているわ!」
半ば反射的に香川翠の声に対して、零は叫んでいた。
 無線の向こうで、香川翠が押し黙っているのを感じる。それを感じて、零はさらに苛立たしい気持ちに苛まれた。
自分でも何に向けての怒りと苛立ちなのか理解できない。
とにかく、ナオヤが今、危険な状況にあるということに対して、胸の奥が張り裂けそうな気持ちでいっぱいになっている自分に驚愕している。冷静沈着、冷酷無比だった自分は、もはやこの世に存在しないかのような激情が、心の中を荒れ狂っていた。
こうしている間にも、ナオヤがこの化け物たちに殺されようとしているのかもしれない。
あるいは、【感染】させられようとしているのではないか。
そう思うと、じっとしていられなかった。
絶対に守らなければいけない。

――あのコは、わたしが守らなければいけない……。


次の瞬間、零は駈け出していた。


44 :コンピュータソーダメロン :2009/01/10(土) 01:53:52 ID:o3teQ7nG





美術準備室に逃げ込んだのは正しかったといえる。
 彼らが現在もなお生存できているのは、準備室内に立ちこめる油絵具などの刺激の強い匂いのせいだ。
それがルーマニア人グループの兵士たちの感覚をごまかしていた。そうでなければ、今頃、あっけなく見つけられていただろう。
だが、それも長く続かないことは分かっていた。だからこそ、この場で銀のコンバットナイフを見つけたことは価値のあることだった。
あとは、これをより攻撃力ある状態にするために酸化したナイフを還元して、より純粋な銀に変える。さらに硝酸と反応させて硝酸銀を作ることが最大の目的だった。しかし、結局のところ、ナオヤは保健室まで飛び出していくことができなかった。
 もちろん、怖かったというのもある。
外にいるルーマニア人に発見されたら無事では済まないだろう。そして、それ以上に、他の人間が自分の失敗に巻き込まれて危険な目に会うかもしれないということも、ナオヤを躊躇わせていた。
だが、だんだんと夕暮れ時が深まっていくにつれ、危険は増していた。
矢口健雄は黙ったまま、その場にあぐらをかいて座り込んでいる。
保坂結衣に倒されたことが、彼のプライドを相当くじかせたらしい。
いらいらした面持ちで落ちつかなく周囲を見渡しながら壁にかけられた時計を見ていた。しかし、その時計はもはや、ちょうど8時を指したまま、止まっていた。
 霧原勇は、壁に背をついて足を抱えて座っている。そのまま膝に額を押しつけて何かをぶつぶつ呟いていた。
彼にとって、この現実は相当過酷なものなのだろう。しきりに震えながら必死で何かを唱えていた。
精神的限界が近いのが伺える。
無理もない。
 いきなり武装した人間が校舎内に入り込み、生徒や教師を無理やり連れ去っていき、突然ヘリが真上を飛んできたかと思えば、体育館の屋根をぶち破って巨大な鉄の棺桶のようなものを落とし、あげく、何か爆発するような激しい轟音が響き渡ったあとは、警察が集まってきて、この場を包囲した。
そこまでのことをこの目で見ていたわけだが、現在は、ろくに窓のない部屋で暗くなっていく教室内でいつ終わるともしれない非日常的な事態に耐えなければならないのだ。
 10歳の少年には過酷な状況下といえる。
安藤清美という少女もまた怖くてしかたないのだろう。
脅えて、声を震わせて泣いている。
そんな彼女を教師の南遥が慰めているが、彼女もまた少し疲れた表情をしていた。
しかし、そんな中にあって、黒澤侍錬という少年だけは、落ちついているというよりは無表情のまま、他の人間と同じようにその場に足を伸ばして座り、虚空を眺めていた。
 いや、虚空を眺めていたのではない。
たまたま自分たちが、この準備室に入り込んだときに、一緒に入った羽虫が空中を漂っているのがよく見ると見える。
彼はそれをじっと眺めているのである。
まるで、何かを待っているかのように。
ある時、出口前で壁に背をついて立っている笹原ナオヤと目があった。
やがて、そのことに気づいたナオヤも侍錬に視線を返す。お互い、眼が合ったことに気づきながら、特に眼を逸らすようなこともせず、じっと互いを見つめ合った。
 ナオヤはこの時、何を感じていたかは分からないが、この時、黒澤侍錬は不思議な感覚に襲われていた。
眼の前にいるのが間違いなく笹原ナオヤであることが分かりきっていることのはずなのに、なぜかその時、まるでナオヤの瞳を通じて自分を見ているような気がしたのである。
そして、その瞳に映る自分は、今まで見たこともないほど、ぞっとするほど冷酷な瞳で自分を見降ろしているような気がした。
そのまま侍錬はナオヤの瞳を見つめ続けた。
そこに映る自分が、何者なのかを探るかのように。
「ちょっと……」
突然、見つめ合うナオヤと侍錬の間に、一人の少女が割って入った。
保坂結衣だ。
「気持ち悪いから男同士で見つめ合うのやめて」
「……」
ナオヤは黙ったまま、それでも侍錬の瞳を見つめていた。
侍錬もまた、押し黙った表情のままナオヤを見つめている。
保坂結衣は溜息をついて、露骨に呆れた様子を見せる。
その時だった。
突然、その場にいた矢口健雄が立ち上がった。
ここに連れてこられてからずっと押し黙ってその場にあぐらをかいていた彼が、突如、険しい表情で立ちあがったのだ。
その様子に、何事かと南遥と安藤が同時に視線を向ける。
霧原は、気にする様子もなく、相変わらず何かを呟いていた。
「もう我慢できねーよ」
押し殺すような声で、健雄は呟いた。
「いつまでこんなところにいなきゃいけねぇんだ」
健雄の様子がおかしいことに、侍錬が誰より早く気づき、立ち上がる。
「落ち着け、健雄」
「侍錬、オレもう我慢できねーよ。なんだってオレをぶん殴った女がいるところにいつまでも一緒にいなきゃなんねーんだ」
まっすぐ突進するような足取りで出口に向かおうとした健雄を侍錬が前に立ちはだかり、制止した。
「そんなことを文句いってる場合か。外には危険な人間が大勢いるんだ」
侍錬は健雄を抑えていう。
そんな侍錬を手伝って、南遥も健雄を止めた。
「オレには関係ねぇよ! そんなヤツら、オレがぶちのめしてやる! オレはとにかくもう帰りてぇんだよ!」
どう考えても矢口健雄の精神状態はまともとは言えない。
もしかしたら、この場にいる誰よりも本当は怖いと感じているのは健雄なのかもしれない。
彼は凄まじい力で、南遥を押しのけようとする。
 20代前半の大人である南遥だが、それでもこの少年の巨体から放つ感情に荒れ狂った力は、抑えきれない。
侍錬の力でなんとかこの少年の馬鹿力を抑えているといっても過言ではない。
「あんたバカじゃないの!? 今そんなこといってる場合!?」
保坂結衣が、笹原ナオヤの隣で、矢口健雄の凶行を罵る。
「ざけんなぁ!」
「きゃぁっ!」
その言葉にさらに激昂した矢口健雄が、力任せに南遥の腕を振り払った。
その腕がそのまま、南遥の頬にあたり、彼女は倒れ込む。
一瞬、南遥が殴られ、その場に倒れ込む姿に、黒澤侍錬の手が緩んだ。
矢口健雄はその隙を逃さなかった。
「くそ女がぁ!」
一気に侍錬の腕を振りほどき、矢口健雄は、保坂結衣を殴りかかろうと飛びかかった。
 一瞬、笹原ナオヤが保坂結衣をかばおうと一歩前に出る。
その時である。

――ドォォン!

突如、準備室の出入り口の扉が、外から何か強い力で叩きつけられるような音と振動が鳴り響いた。
「……!」
保坂結衣が驚いて後ろを振り返ろうとした。
その一瞬、ナオヤは反射的に結衣を押し出す形で、自分の身ごと彼女を扉の傍らに突き飛ばした。
その時。
再び激しい打撃が扉に打ちつけられ、扉の中央部分が弾け飛んだ。
木材でできた扉の破片が、中央を舞い、鋭く尖った破片の一部が、その時、保坂結衣に殴りかかろうとした矢口健雄の喉に当たった。
すこん、という小気味いい音がその場に響いたかと思うと、驚いた表情を浮かべた矢口健雄は、硬直したまま時が止まったかのように停止した。数秒後、まるで噴水のように彼の首筋から赤い液体が飛び散った。
最初、それが何であるか、その場にいた全員が分からなかった。
何か液体が勢いよく矢口健雄の首筋から飛んでいるのが見える。まるで学校の花壇に水をやる時のホースのような勢いで液体が飛んでいる。それが何であるかを理解するのに、矢口健雄本人ですら、しばらくかかった。
「……あ、ああ……ごぼっはぁ!」
やがて、自らの喉から溢れてくる生暖かい液体を吐きだしながら、力なく倒れていく過程で、彼は今、重大な致命的損傷を負ったことを理解する。
「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
安藤が狂ったような叫びを上げ、霧原はとにかく自分とは関係ないと言い聞かすかのように、努めて、耳を塞ぎ、何かを呟いていたが、安藤の叫び声を打ち消そうと声を大きくしながら呟き続けている。
「そ、そんな……だめよ、こんなの……いったい……」
南遥は、目の前で起こっていることを理解できず、動けず、うわ言のように言葉を繰り返しながら、瞳を見開き、倒れた矢口健雄を見つめている。そこには、矢口健雄だったものが、ぴくぴくと振動を繰り返しながら、もはや絶命しようとしているのが伺える。
首からは勢いこそなくなったものの、今も赤い血がその場に溢れていく。
全員が、その場に起こっていることを受け入れきれず、一瞬、現実逃避しそうになるが、事態はそんな猶予など与えてくれない。
再度、何かが扉を殴った。
矢口の喉を貫いた破片部分に大きな穴を開けた扉の向こうで、何か、人ではない巨大な何かが蠢いているのが見える。
肌の組織が壊死しているのか、灰色にくすみ、時折腫れあがっているかのように赤く充血し血管を浮かばせている。
激しく興奮しているのだろうか。その血管が気のせいか、ぶち破られようとしているドア越しからも脈動しているのが見えるような気がした。人間のように見えなくもないが、異常に腕が長く、そして筋肉をそぎ落としたかのようにやせ細り、ろっ骨や鎖骨が浮かび上がっているのが見える。
 頭蓋の形状が、脳が肥大しているかのように異常に大きい。髪が抜けおち、腐敗した組織がむき出しになっていて瞼がない。
ぽっかりと穴が空いていて、そこに、どろんと紅く濁ったゼラチン状の球体が浮かんでいた。
 何かの発光剤のようなものが眼球にあるのだろうか。この暗い室内において、それははっきりとよく見えた。
顔の中央に二つ、そしてその両隣に二つずつ、合計6つの瞳が不気味に紅く光っている。
口が大きく裂かれ、筋肉組織と血管がむき出しになりながら鋭い牙が無造作に生えていた。さらにその奥に、今度は横に裂ける形で膜が形成されている。
その奥にもまた牙が見えた。今、その口は、荒い呼吸と粘膜に濡れている。
ほっそりとした腕だが、その力は尋常ではないのだろう。
一撃で、ドアを突き破り、それを何度か繰り返しているうちに、ドアはぼろぼろとなり、最後には完全に破壊された。
そのドアの向こうの闇から人外の醜い肢体をさらして、化け物は現れた。
人間のそれとは掛離れた形態の口をしているのだ。その声も当然、人間とは似ても似つかない。
 荒い息をつきながら、まるで昆虫のような雄叫びをあげて、ソレは室内にゆっくりと入り込んだ。
「ん……んん……」
ナオヤに突き飛ばされた保坂結衣は、一瞬、意識を混濁させていたが、やがて起き上がりざま、そこに立つ不気味な化け物の姿を見つける。
「な……なんなの、これ……」
安藤も南遥も、もはや恐怖のあまり声も出ない。
自分がこれまで知っていたあらゆる常識を覆す物体が、今の目の前に立ち、それらを前にどう反応していいか分からないのだ。
そして、それ以上に、彼女たちの中の生物的本能が、全身で目覚め、今、ここにいる生物がどれだけ危険であるかを警告し、警鐘を鳴らし続けている。

――今スグ全力で逃ゲロ!

そう告げている。
だが、動けない。
その六つの瞳が今、何を映しているのか。瞳孔も何もない紅く濁った昆虫のような瞳ではまったく分からない。
そのことがまた恐怖をかきたてる。
その時である。
「あ……あぁ、助ケ……テ」
その場に倒れていた絶命寸前の矢口が意識を取り戻した。
首から血を止め処なく流し続けた顔は蒼白となり、もはやその瞳は何も映していない。
恐らく、彼の脳に何かの拍子に血液が流れ込み、一瞬、覚醒したのだろう。
もって数十秒の命だ。
だが、そのことが彼の不幸だった。
一瞬、目の前の化け物がぴくりと反応した。
その時である。

――ギガァァァァァァァァ

 その声をなんと形容すればいいだろう。
強いていえば、夏に鳴く蝉の声に似ていなくもない。それでいて人間の断末魔の叫びを合わせたかのようだとも言える。
とにかくその雄叫びをあげた化け物は、信じられない速さで矢口の身体にとりつくと、その凶悪な口を彼の首筋にあてがい、迷うことなくかぶり付いた。極度に発達した顎を持っているのだろう。
ぶちぶちという生々しい音を響かせて、矢口の首の後ろ側の肉を頬張り、引きちぎって食らった。
「……う、うわああああああああ!!」
その凄惨な情景を前に、ついに正気を失った霧原が立ち上がり、駈け出した。
一気に後ろも振り返らずに彼は、破壊されたドアをくぐって外に飛び出していく。
「キ、キヤァァァァ! 待って! 待って!」
安藤もついに耐えきれなくなり、矢口だった物体を貪り食う化け物の傍らを走り抜けていく。
南遥もその声にやっと正気を取り戻し、呆然と立ち尽くす黒澤の背を押した。
「早く! 黒澤くん! あなたも逃げるのよ!」
「で、でも、健雄が……」
「もう助けられない! 早く逃げるのよ!」
黒澤もまた眼の前の現実を捉えきれず、もはや首筋の筋肉が剥ぎ取られ、首の骨が見え始めている矢口だった物体を見つめ続けているが、やがて南遥に引っ張られてその場を出ていく。
「さあ! あなたたちも!」
黒澤をひっぱりながら、半ば正常な意識をぎりぎりのところで保ちつつ、南遥が残された保坂結衣と笹原ナオヤを呼び掛ける。
二人は今だ、ナオヤに突き飛ばされ倒れ込んだ形で、その場にいた。
「う、うん!」
南遥が保坂結衣の腕を引っ張ろうと伸ばし、その手を保坂結衣が取ろうとした時である。
突然、矢口健雄の肉を貪っていた化け物が、それに興味をなくし、起き上がろうとしていた保坂結衣の姿に気がついた。
口を大きくだらしなく開けたその姿は、醜悪そのものである。
だらんと伸びた口には、矢口健雄のものと思われる肉や臓物の欠片がこびり付き、ぼたぼたと赤い液体が化け物の粘液と混ざり合って垂れ落ちている。
ふしゅうっという生臭い息を吐きだしながら、化け物は保坂結衣の姿を捉えて、そいて次の瞬間。
再び昆虫のような奇声をあげ、保坂結衣に向かって襲いかかった。
「いや、いやぁぁぁぁ!」
保坂結衣のその瞳に、化け物の姿が大きく浮かび上がり近づいてくる。
次の瞬間。
「キヒャァァァァァッ」
結衣を掴みかかろうとした化け物は、その6個の眼が並んだ顔を抑えながら、床をだんだんと足で叩きつけながらその場に倒れ込み、何度も苦しそうに転がり続けた。抑え込んだ手の隙間から何か白い煙のようなものが立ち上っているのが見える。まるで何か強い酸でも振りかけられたかのようだ。
そして、時折、矢口健雄の遺体とぶつかりながら、化け物は苦しそうに呻き、暴れまわる。
ナオヤのコンバットナイフが、保坂結衣を掴みかかる直前、化け物の目を切り裂いたのである。
ナオヤはその隙を見逃すことなく、結衣を先に起き上がらせ、南遥の手を取らせる。
そして、自分もまた起き上がろうとした時である。
6個あるうち、5個までを潰された化け物が肩手で目を抑えながらナオヤの左腕を掴んだのである。
「くっ!」
左肩を痛めたその腕をかばおうと一瞬、右手で抑えようとした時、一気に化け物がナオヤの身体を引っ張り上げ、出入口の扉の反対側の壁に向けて、投げつけた。
その時、何かぽきりという音が左肩で響き渡るのを、投げつけられる寸前、ナオヤははっきりと聞いた。
激しく壁に叩きつけられたとき、信じられない激痛がナオヤの全身を駆け廻る。
頭も強く打ちつけたのか、額から血が流れ落ちてくるのを感じた。
眼の前の視界が、ぐにゃりと揺らぎ、どこか遠くで誰かが自分の名を呼んでいるのような気がした。
そんな中、目の前のぼんやりとした視界の向こうで、化け物がゆっくりとこちらに向かってくるのが見える。
ナオヤは壁に背をつけたまま、足を放り出したまま、そこに座り込む形で倒れている。
意識はまだ残っているが、左肩から先の感覚は完全に失われていた。
もしかしたら、左腕をつかまれて、投げられたとき、一緒に腕ごと引きちぎられたのかもしれない。
そんなことをナオヤは思いながらも、右腕の感覚だけまだ残っていることに気づく。
 ナイフはまだかろうじて、手の中にあった。
その時、叩きつけられた衝撃で服から落ちたのだろうか。
携帯電話が床に落ちた。
『ナオヤ! ナオヤなの!?』
途切れようとする意識の最果てで、それがどこか懐かしい誰かの声であることに気づく。
誰だったのか。
思い出すのに少し時間がかかった。
といっても、それがいったいどれくらいの時間だったのか、ナオヤには分からない。
眼の前で近づいてくる化け物の姿が、やがて視界いっぱいになろうとしている。
『はぁ……無事だったのね。すぐに行くから、見つからないように隠れていなさい』
無事?
隠れていなさい?
すべてにおいて、もはやどうにもならない状況だといえる。
一瞬先か、あるいは数分先か。
自分の運命は、限りなく、あの倒れている矢口健雄と同じような未来を迎えるだろう。
 それはもはや避けようがない。
「えっと……その……すごく今危ない状況みたい」
自分でも間の抜けた一言だと思った。
頭の中が朦朧としていて、何を言えばいいのかよく分からなかった。
最後に何を言えばいい。
こんな時、最後の時、自分は誰に何を言えばいいのだろう。

――せんせい、僕もう死ぬっぽいけど……。

死ぬ。
ナオヤは、自分が死ぬということを一度だけ深く考えたことがある。
それは笹原トウジの父、ジンが死んだ日のことだ。
人はいつか死ぬ。それは避けようがなく、いずれまた自分も同じように誰かにこうして葬式を開いてもらい、棺の中に入れられるのだ、と思った。
あの狭く暗い棺の中に入れられる。
そして、もっと深い地の底に入れられるのだ。
ずっと永遠に。孤独に。
そう考えると怖くて仕方なかった。それが避けようがないと知って、余計に怖かった。
死にたくないと心の中で叫び、眠ることさえも怖くて、電気を消された室内で布団の中で震えていた。
ずっと眠れなくて、布団の中にいると、家の玄関が開く音がして、父が一度だけ家に帰ってきたと気付いた。
本当なら通夜の間、ずっと式場にいるはずだった父が、なぜか一度だけ帰ってきたのだ。
ナオヤはベッドから起き上がり、玄関で靴を脱いでいる途中だった父にしがみついた。

――しょうがないヤツだなぁ。葬式饅頭とか、まだねぇぞ? じいちゃん、ちゃんと送ってやってからじゃねぇとなぁ。

そういって、父はしがみつくナオヤの頭をぽんぽんと撫でた。
 父の声はいつもと変わらないあけっぴろげで、ざっくばらんな声だった。祖父が死んだことを悲しんでいる様子ではなかった。
いや、本当は悲しかったのだ。それでも父は、いつもと変わらない様子でいる。
 何かを堪え、必死に戦い、守るべき何かのために涙を流さず前を見続けている。
どんな時でも、父は明るかった。
 こんな死にそうにない、いつも暢気でバカな父だったが、それでもやはり死んだのだ。
人はいつか死ぬ。その真実だけはどうしようもなくそこにある。
 自分も例外ではない。
だが……。



わたしが怖くないの?

――怖いよ。

では泣き叫んでみなさい。

――父さんならきっと、泣かずに戦え、というよ。



 次にナオヤが目を開けたとき、化け物の猛り狂った雄たけびとともに、その凶悪な口がまさに眼の前に迫っていた。
鋭い牙が彼の顔を食らおうとする直前、かろうじて感覚のあった右腕をなんとか動かし、それを残された頼りない力の限り、一気に突き上げた。
 もはや腕を起こすだけで精いっぱいの力で、どれだけの化け物に害を与えられるか分からなかった。
しかし、それでもナオヤはナイフを持っているはずの腕を突き上げたのだ。
そして、それは見事に化け物の下顎に突き刺さり、深々と刃を侵入させた。
「キシャァァァァァァァッ」
化け物がこの世のものとは思えない叫びを上げ、ナオヤの手を振り払った。
もはや残された力などないナオヤの腕は簡単に振りほどけ、ナイフから手を離す。
化け物はその場にうずくまりながら、刺さったナイフをなんとか抜き取ろうとするが、銀のナイフに触れようとすると、じゅわっという何か焼けつくような音とともに白い煙が昇る。
先ほど、ナオヤが化け物の目をナイフで切り裂いたときも同じ現象が起こった。
今は、ナイフが刺さった状態のままで、その刺さった傷口から現在も煙が出続けていた。
(不浄のものを遠ざける効果……【預言者】にも効く?……)
抜こうにも銀が化け物の手を焼き、そして刺さった今も化け物の身を焼き続けている。
化け物は苦しみもがき、その場で暴れ狂った。
やがて、暴れる化け物の腕が今度こそナオヤを掴もうとしたその時である。


45 :コンピュータソーダメロン :2009/01/10(土) 23:56:52 ID:o3teQ7nG




「伏せて」
誰かの声が遠くに聞こえたかと思うと、激しい銃声が響き渡り、眼の前にいた化け物の肘から先の腕が、まるで蒸発するかのように吹き飛んだ。赤い血が飛び散り、化け物が咆哮を上げながらのたうち回る。
爆散した腕を抱えて、暴れまわった。
かなりのダメージのはずだが、銃を撃った人間は、その一撃だけでは止めなかった。
 準備室から逃げ出そうとしている保坂結衣と南遥の脇をすりぬけ、彼女はショットガンを構えていた。
次の瞬間、手にしていたショットガンを放り投げ、両脇に吊るしたホルスターからハンドガンを両手で一丁ずつ抜きとると、躊躇なく化け物に向けて発砲した。絢咲零である。

――ドガガガガガガガ!

 ただのハンドガンではない。
オートマティックのセミオートではない。独自のカスタマイズを施し、マガジンは銃のグリップから幾分はみ出る大容量マガジンを備えており、フルオート射撃を可能としている。数十発もの9ミリパラベラムが化け物の肉体に雨のごとく降り注ぎ、その身を粉々に粉砕していく。化け物は悲鳴をあげて逃げようとするが、腕を失い、目の大半を失った上、下顎から脳に直結する刺し傷のせいで、思うように動けず、そのまま『彼女』の銃の餌食になっていった。
やがて、化け物は痙攣を繰り返すものの動かなくなっていったが、それでも女性は銃撃を止めようとはしなかった。
 マガジンの弾丸がなくなり、スライドが後ろに下がったまま停止するとすぐさま、素早く弾倉を引き抜き、後ろのポシェットから新たなマガジンを取り出し、素早く装着、そして、さらに銃撃を続ける。
完全な肉の塊となってなお撃ち続けたが、最後には弾丸が尽きた。しかし彼女は銃口を化け物に向けたまま、慎重に観察する。
 いったいどれくらいの時間が流れただろうか。
彼女は銃を向け、化け物は完全に動きを停止した。
その様子を後ろから脅えながら見守っていた。保坂結衣と南遥、そして呆然と立ちつくす黒澤侍錬の姿があった。
『OKよ。完全に死んでいる』
どこからともなく電子音声と思われる声がその場に響き渡った。
すると、その声に合わせて零は銃をホルスターに収める。
そして、バックポシェットから黒い錆びついた金属の塊を取り出した。
それはずいぶん古びていて、ほとんど錆の塊といってもいいようなものだった。先が尖っており、もしかしたら何か刃物か何かの道具だったのではないかと推測することはできる。
零はそれを片手の手のひらの中でくるりと、慣れた手付きで反転させて逆手に持ちかえた。
尖った部分が化け物の身に向けられる。
「翠、本当にわたしがこの“槍”を使えるの?」
『理論的にはまだ少しだけ他人でも使える。でもたぶん、この一回が限界。だから笹原ナオヤにやらせてもいい。彼、まだ生きてるの?』
そう言われて、零は一瞬、ちらりとナオヤの方に視線を向けた。
壁に背をついて、頭から血を流しているナオヤは、少しだけ意識があることが見て取れる。
だが、かなり傷を負っているらしい。右手にナイフを持っているのが見える。
恐らく、それで最後の抵抗をしたのだろう。
零はすぐに化け物に視線を戻した。
「わたしが」
『いいわ。すぐに終わらせて状況が動きだす前に』
その一言を受けて、絢咲零は手にしていた金属の塊を振りかざし、迷うことなく化け物の脳天に金属の棒を突き刺した。
その時、後ろで叫びかけた声を殺す気配がしたが、絢咲零は一切部外者の存在を気にする様子はなかった。
 異変は次の瞬間起こる。
刺さった化け物の脳天から炎が沸き起こるかのように赤い閃光が迸り、化け物の目や口からもれ出してくる。
そしてまるで誰かが悲鳴をあげているかのような空気を裂く音が響き渡り、やがて火の粉が舞い散った。
化け物の身体は見る間に火の粉に包まれ、灰となり、その場から消え去っていったのである。
後には、黒い染みだけが床に残されただけだった。
 絢咲零は、完全に化け物の身が幻のごとく消え去ったのを確認すると、“槍”をポシェットになおし、笹原ナオヤに視線を向けた。
「……」
無言で彼の元に駆け寄り、膝をつけてナオヤの顔を窺った。
ナオヤはぐったりとしており、上体を壁に預けて、顔を下に向けていた。
左腕をかばうようにナイフを持った右手を肘に当てている。
左腕は力をなくし、伸びきっているかのような印象があった。
 零はそっとナオヤの頬にその白い手を当てる。
額から血を流したナオヤの顔に零の手が触れたとき、一瞬、ナオヤが意識を取り戻しかけたが、すぐには目を覚まさなかった。
やがて、ゆっくりと目を開けて顔を上げたとき、そこにいた人物の姿に一瞬、驚くような表情を浮かべる。
「……せ、せん……せい……?」
「……」
その声を聞いた途端、零はナオヤの身を引き寄せ、強く抱きしめた。
ナオヤは零の胸元に顔をうずもらせ、少し動揺していた。そして零は自分の頬に少年の頬が同じように触れていて、それがまだ温かいことに言いようのない感情が胸の奥に溢れてくるのを感じていた。この幼く、小さく、弱い存在が、もしかしたら、と思うとき、自分の心の中で胸が張り裂けそうな痛みに何度狂いそうになったことだろう。
 数百年と生きてきて、これほど掛け替えのない存在を見つけたのは、初めてだった。
気がつくと瞳の奥が熱く震えていた。
「よく頑張ったわ……」
そういう彼女の声は少し震えていた。
そして何より、先ほどまで冷酷な表情で化け物に銃を撃ち続けていた女性と同一人物とは思えないほど、穏やかで優しく、少年を限りなく慈しむかのような表情をしていた。
やがて、ゆっくりと少年の身を離し、その顔を覗き込む。
ナオヤは少し照れたように赤い顔をしていて、零と目を合わそうとせず、どこかを見ながら呟いた。
「先生、すごく胸大きい……ちょっと窒息しかけた」
「バカ。そんなとこばかり見ないの」
零はその美しい顔で苦笑した。
「……」
今日はいったい何回、バカと呼ばれたことだろう。そんなことを暢気にナオヤは考える。
そんなやり取りをしながら、零はナオヤがしきりに左肩をかばうようにしているのを見た。
「怪我をしているの?」
「……その、これは……」
これは直接的には化け物にやられたわけではない。
そう言おうとしたが、結局、壁に叩きつけられる時、左腕をつかまれ、放り投げられたときに、ねじっている。その時に完全に折ってしまっているようだった。
腫れあがった左肩が、もはや紫色に染まっていた。
「骨折している。それに熱まで」
ナオヤの額に手を当てて、零はナオヤの傷の具合を確かめていく。
心配そうにしている彼女とは裏腹にナオヤは気持ちよさそうに瞳を閉じた。
「先生の手、ひんやりしてて気持ちいい」
そんなナオヤをしばらく見つめていた零だったが、やがて意を決して、自分の左手首を自分の口に当てる。
そして、ゴリっという音を響かせて強く歯で噛み切った。
赤い血が滲み出てくる。
彼女は左手首から流れ落ちる自分の血を口に含むと、そのまま気持ちよさそうに目を瞑っているナオヤの唇に、自らの唇を重ね合わせた。
驚いたナオヤが瞳を見開かせ、身を引きそうになるのを、零の腕がナオヤの頭を抑えて逃れることができない。
ナオヤと零は座り込んだ状態で、半ば、零に強引に抑えつけられる形でキスしていた。
 互いの唇が繋がり合う中、紅い血の滴りが、二人の唇の間から流れ落ちた。
「……」
「……」
いったい、どれくらいの時間が流れたのか。
 ナオヤはこれまで感じたことのない柔らかい感触と、零の甘い香り、そして彼女のぬくもりに頭の中が麻痺していくのを感じた。
この感覚をどう表現したらいいのだろう。
 力が抜けて、溶けあっていくような感覚。
深い眠りの淵に落とされていくかのような虚脱感。
それでいて、心の奥で激しい感情が溢れてくる。
体温が高まり、心の奥が火照っていく。
「ちょ、ちょっとあれってキスしてるの!?」
後ろで保坂結衣が、南遥に問いかけるが、南遥もどう反応していいのか迷い、視線をあちこちに向けている。
やがて、零がナオヤから唇を離した。
「……これでキスの仕方は教えたわ。次からちゃんとできるわね」
しばらく呆けていたナオヤだったが、次の瞬間、かあっと顔を紅くする。
「そ、それどういう意味?」
「そういう意味よ」
動揺するナオヤに対して、零は穏やかなともいえる明るい微笑みを浮かべる。
その微笑みは、まるで悪意がないようでありながら、その奥に悪いを抱える禍々しい悪魔の微笑のようでもあった。
少なくともナオヤにはそう見えた。
「立ちなさい。動けるくらいには回復しているはず」
そう言って、絢咲零が先に立ちあがった。
そして、ナオヤに向けて手を広げる。
言われて、反射的に彼女の手を右手で取った。
その時、思っていた以上に身軽に自分が立ち上がることができたことに驚いた。
左肩は相変わらず折れたままで痛みも激しいが、少なくとも熱は下がっており、意識もはっきりとしている。
 だが、次の瞬間、少しだけ立ちくらみがした。
思わず身体がバランスを失いそうになったが、零の手がナオヤの身を支えた。
「あと少しだから、がんばりなさい」
「うん……」
零に手を貸されながら、ナオヤはなんとか立つ。
その様子を見ていた、保坂結衣と南遥がようやく準備室内に入った。
「ナオヤ、だいじょうぶ?」
「助けていただいて……でも、あなたいったい……」
「今はそんなことはどうでもいい。成り行きだから仕方がない。あなたたちを助けます。ついてきなさい」
零は、南遥と保坂結衣にナオヤの身を預け、自分はホルスターから銃を抜きだしたかと思うと、非常に消極的な物言いで救助を言いだした。それは先ほどまでナオヤを抱きしめていた女性と同一人物とは思えないほどに、冷淡で事務的な言い方だった。
警察でこんな言い方をする人間がいるとは思えない。
 いや、それどころか化け物が相手にも拘わらず、躊躇することなく、また通じるとは思えないが警告することなくいきなり発砲したところから見ても、警察関係者とは到底思えない。
南遥は一瞬、このまま彼女についていくことが正しいのかどうかで悩んだ。
しかし、そんな自分の思惑などお構いなしに、女性はベレッタを構えて準備室から出ていく。
 その動きは、とても洗練されていて隙がない。
まるでどこかの諜報組織か軍隊にでもいたかのように、銃の扱い、そして、それを手にして戦う術に長けているようだった。
現状、銃など握ったことのない自分などよりよほど、この非常事態の中で生存術に長けているといえるだろう。
そして、どうやら笹原ナオヤの知り合いということは、少なくとも、この状況を作りだした存在の仲間ではないと信じられる可能性はあるだろう。
結局、南遥に選べる選択肢など、そう多くはなかったのだ。
南遥は、保坂結衣と一緒にナオヤの身を支え、零のあとに続いた。
そんな中、黒澤侍錬だけが、じっと事の成り行きを見つめ続けていた。


46 :コンピュータソーダメロン :2009/01/16(金) 01:25:08 ID:o3teQ7nG




 今や校内は別世界と成り果てた。
ほんの数時間前まで当たり前にあった学校の風景は消え去り、すべては闇が支配している。
生徒の声で溢れていた廊下は、しんと静まり帰り、聞こえてくるのは人間ではなく別の生物の息使いだ。
それは、闇の中で動くものを探し求め、捕食する機会を窺っている。
地球上のあらゆる地域よりも危険な場所であり、いかなる生態系にも属さない。
 故に、この空間は隔離されている。
そして、万一、ここで発生している生物的事象が外界に影響を及ぼす危険が発生した場合、イオン=スプートニクは一切を除去する準備を整えていた。そのためにこの学校を選んだといえる。
町のほぼ中心地点に位置するこの学校、銀蘭聖香学園である。
「汚染レベル55パーセントにまで上昇しました。我々のワクチンで耐えられる限界まで残り2時間ほどです」
イオン=スプートニクの部下の一人が、モニターのグラフを見つめながら報告する。
そのモニターは校舎内の至るところに、監視カメラと一緒に設置したある試薬を使った検査装置の反応値を示している。
その反応値の上昇レベルに応じて、モニターのインジケーターの色が微妙な色彩を放って変化していく。
3時間前までは、そのインジケーターはブルーだった。現在に至るまでに、やや緑がかった色に変化していき、今となっては黄色に変わろうとしている。その変化速度は時間が経つにつれて早くなっていた。
現在、この教室内にはイオンとその部下しか存在していない。
イオンは、監視カメラをじっと見つめながら、部下の報告に耳を澄ましている。
彼の立っている場所の後ろの壁に、先ほどまで教師や生徒を含めた人質が存在していたはずだが、今はすべて消えていた。
「コルベットに連絡をとれ。一時間半後に屋上にヘリを近づけろ」
事態が発生してから数時間。
 残された時間はわずかとなった。
すでに、イオンとその部下たちは、ここに至るまでの壮大な実験の結果をほぼ集めきっており、あとは撤収準備を整えるのみだ。
だがこれほど大規模な占拠事件を起こしてなお、今回の実験にしたところで、イオンはさほど興味を持っている様子ではない。
もともと、今回使用した【預言者】も“彼ら”が求めているものとは、到底違うものだということは分かりきっている。
 【アーネンエルベ機関】が、それでも【ナンバー15】をこの日本に送り込んだのは、単純な小規模実験として、ナンバリング素体の知能程度向上が可能かどうかの実験を行うということ以上に、日本における最大組織レン=フレイザーの組織、とりわけその上位組織に対する威嚇が最大の目的だろう。そのために、これほどの派手な演出を行った。
今回、レンの居城付近を場所として選んだのも、そのあたりが大きな目的となっているはずだ。
 だが、イオンは不満だった。
どうせ、レンとその上位組織に対しての威嚇が目的だというのなら、こんな回りくどいやり方などせずに、いっそレンを殺害してしまいたい。
だがそれは、作戦のブリーフィング初期で、厳重に禁止されたことだった。
 【アーネンエルベ機関】の命令系統を担う存在は、イオンの提案を完全却下したのだ。いったい、何の理由があってレン殺害を禁止するのかは分からない。
だが、どういうわけか組織はレンの存在を非常に疎ましく思う一方で、生かしておきたいようなのだ。
イオンは腸が煮えくりかえりそうな思いではあったものの、上部構造からの命令を無視することはできない。その命令を受諾する他ないのだ。
 現在、そんな彼の目の前のモニターでは、レンの手の者と思われるスーツ姿の若い女が【ナンバー15】に向けて銃撃している姿が見える。銃撃はしばらく続いた。過剰とも思われる銃撃を繰り返している様子が見える。
おぞましい現象を前に精神的高揚による過剰攻撃ではない。
女の行動は非常に適切かつ、冷静なものだった。やがてカメラの枠外にて女が何を振りかざしている様子が見て取れたが、それ以上のことは、カメラの位置の都合上はっきり確認することはできなかった。だが、事実だけはこちらで認識することが可能だ。
オペレーターの一人が報告する。
「【素体ナンバー15】、機能停止しました。汚染レベル60を超える前の段階で破壊されたため、これ以上の生態系への影響はなくなるものと思われます」
部下の一人がモニター上の検査装置の結果を確認しながら報告する。
そうしている間にも、登り調子だった折れ線グラフの先は、緩やかに下降しようとしている。
また、その隣ではインジケーターの色彩反応を確認している者もまた同様の報告をした。
 イオンはしばらく考え込む。
現状では、十分すぎるほど実験結果をスムーズに収集することができた。
 素体が破壊された以上、これ以上、長居する理由はない。
素体の破壊は、そのまま作戦の終了を意味する。また、“外部勢力”の介入による直接行使が行われた以上、戦闘の銃声などで外部の警察も動き始めるだろう。
 ここまでは予定通りといえる。
だが、イオンの中で、やはり日本に来たにも関わらずレン=フレイザーを殺害できなかったことが一番悔やまれるものだった。
「……」
彼は再び、静かにモニターを見つめる。
先ほど、素体が攻撃されている様子を映していたカメラは、いつの間にか破壊されており、ノイズを映し出していた。
別のモニターでは、先ほどの女が先頭を切って歩き、それをついて回る生徒と教師と思われるグループの様子が見て取れた。
イオンは、再び考え込みながら、やがて、部下たちに目くばせした。
その瞬間、部下たちの行動は忙しなく動き始める。
コンピュータを置いていた机にセムテックスと呼ばれるプラスチック爆弾を設置する者、すべての資料をバックアップする者、そして、戦闘に備えて、いくつものアタッシュケースを取り出し、中からサブマシンガンを取り出す。
何人かは、潜入当初に装備していたペンシルベニアメリーランドではなく、P90と呼ばれる小型のサブマシンガンを抜きだした。
 機関部がグリップよりも後ろ側にあるブルパップ型で取り回しがよく、まるで絵画に用いるパレットのような形状をした奇抜なデザインは、人間工学の視点から設計されており、非常に扱いやすいものだ。
機械化特殊部隊や支援部隊などで使用されている。小型でありながら50発もの装弾が可能で、恐らく、建物内における接近戦を考慮してこの武器を用意したのだろう。またライフル弾のような形状の特殊な弾丸を使用するのが特徴でもあるが、生物の肉体に着弾した場合、弾体が乱回転して運動エネルギーを体内で放出することで、肉体組織を破壊する。
 そのため、より大きな破壊力と殺傷力を持つことになる。この場合、単なる人間が相手ではなく、人間以上の何かに対して用いられる予定だったということだろう。
そして、弾丸も通常のものではない。
 銀が込められている。
イオンは、用意されたP90のうち一つを手に取った。
「警察が介入してくる前に撤収する。監視カメラ付近に設置した起爆装置を起動しろ」
「コルベットと連絡が取れました。残り3分で到着予定」
「全員撤収」
イオンのその言葉が最終命令となった。


47 :コンピュータソーダメロン :2009/01/18(日) 01:05:24 ID:o3teQ7nG




イオンとその部下が占拠した教室には、もっとも爆薬が多く設置されている。
それは彼らがその場所を占拠した直後に即座に行われた作業である。大量のTNT爆薬が用意された上で、起爆用にコンポジションC4が設置された。
 あらかじめ決定しその場所に設置が完了すると、部下数人が順番に親指を立てて合図していく。
最後の一人がそれをこちらに向けてするのを確認した後、イオンは引き払う命令を下した。
P90を装備した数名が先行し、そのあとをすべての記録を運ぶ部下が、ファイブセブンと呼ばれるハンドガンを持って追跡していく。
イオンは一番最後にその教室を出た。
そして彼は聞いた。
校舎内の何処かで響き渡る化け物たちの雄たけびと、それを迎え撃つかのような銃撃の爆音だ。
「……」
一瞬、振り返るイオンだったが、すぐに前方へと意識を向けた。
【預言者】は、イオンたちに服従するように教化されていたが、その【預言者】が感染させた生物は、すべてその精神はデフォルトの状態で設定されているはずだ。より【純粋種】から受け継いだ非常に単純で原始的な本能に沿って行動しているはずなのだ。
すなわち、目につくあらゆる生物すべてを殺害するか、あるいは“レイプ”せよ、という本能が下す命令に忠実に行動している。
 己の胚を感染させ、複製を作らせ、そして、新たな種を作り上げていく本能に沿って行動しており、もはや暴走状態である。
ということは、イオンたちにとってもそれらは脅威となっているということなのだ。
この生物学的災害を抑える限界直前で、この作戦は終了となる。
 つまり、すべてを焼き尽くすのだ。
そしてその頃、屋上へと向かうイオンたちよりも一階下では、絢咲零と笹原ナオヤ、南遥、保坂結衣、そして黒澤侍錬の5人が、休む間もなく襲いかかってくる化け物たちと熾烈な戦闘を繰り広げていた。
もっとも、戦っているのは一人だ。
 すでに窓の外からわずかながらでも差し込む光はなく、代わりに警察車両から向けられる人工的なライトと思われる閃光を時折受けながらカーテンに閉ざされた廊下を進んでいく。
 その間、人質となっていた不運にも学校に来ていた関係者たちの変わり果てた姿が、まだ人間であり、自分たちとは違って感染していない者たちに向けて、容赦ない攻撃を繰り返す。
もはや、これを人と呼ぶことはできないだろう。
 【預言者】によって感染させられ、周囲の感染前の生物を貪り喰らい、融合を繰り返していった結果できあがったのは、巨大な黒光りする外骨格を持った昆虫のようでありながら、その頭部にかろうじて人間の顔らしいものが残っている出来そこないの化け物や、蜘蛛と融合したと思われる化け物が、廊下いっぱいに足を広げて、絢咲零たちを見降ろしている化け物もいた。
 蜘蛛の足部分から、人間の上半身が起き上がり、その両腕は、わずかに人間の皮膚が残っているようだったが、完全に色が黒くくすんだものに変色し、骨格も異常な形へと変形している。
 まるで人間の腕の関節を組みなおして、カマキリの腕のように折り曲げたかのような形になっている。
そして、カマキリでいう両腕の刃となる部分には、皮膚が裂け、筋肉がむき出しになり、そこから鋭い鋸状の刃が見えだしている。
恐らく、その刃は肉を切り裂いて飛び出してきたのだろう。まだ人間の意識がわずかにでも残っているのか、虚ろな瞳で空を見つめる女生徒は、痛みに苦しむかのように涙を流し続けている。
しかし、完全に意識は乗っ取られており、上半身から下の蜘蛛の部分は、ゆっくりと絢咲零たちに近づき、その両腕も獲物を狙い澄ますかのように揺れている。
 それだけではない。
いったい、何人の人間が日曜日の今日に登校してきているのだろうかと思うほどに、数多くの感染者たちが、それぞれに醜悪な肉体を引きづり、ナオヤたちに迫ろうとしている。
「絶対に離れないないで」
そう冷静に言いながら、零は両手に持っているフルオート機能を有するハンドガンを躊躇なく撃ち続けている。
まるで、自分を中心に周囲いったいをハチの巣にでもしようとしているかのように、弾丸の雨をバラ巻き続ける。
とてもではないが、この銃撃音の中で、まともに会話することさえ困難だ。
「なに? よく聞こえない」
零のあとから、保坂結衣と南遥に肩を借りて歩くナオヤは、大きめの声を張り上げて問い返す。
「離れないで!」
「!?」
零がそう叫んだ次の瞬間、振り返りざま、ナオヤたちのすぐ後ろまで迫っていた化け物の額に弾丸を貫通させた。
それはまさに、一番後ろにいた黒澤侍錬の首筋に化け物の手が触れるか触れないかの直前だった。
零はさらに前方から飛びかかってくる化け物に、数十発もの銃弾を連射して浴びせていく。
美術準備室から抜けだして、数分と経たぬうちに、自分たちが歩いてきたこの道は、もはや血の海となり、そこら中に鉛の弾丸によって吹き飛ばされていく肉片が、床や壁、天井にこびりついていく。
 鼻を刺す死臭と休む間もなく、撃ちだされる弾丸の硝煙の匂いで、南遥や保坂結衣は、頭がくらくらとしてきていた。
とっくに激しい銃撃音のせいで、耳はおかしくなっており、眼の前の不気味な化け物や残酷極まりない惨状によって精神までおかしくなりそうだった。
 そんな中、ぼんやりと絢咲零についていく南遥は、ふいにすぐ横で絢咲零によって射殺された化け物の一体を目にした。
異常に筋肉が発達し、盛り上がったその肉体は、感染当初の環境では、他に融合するような肉体がなかったのか。自身の肉体のみの変化となっているが、十分すぎるほどおぞましい姿となっている。
 恐らく脳そのものを含める感覚器官の発達が急激に行われたのだろう。
 脳が肥大化し、頭蓋からはみ出している。眼球が飛び出るほど大きくなり、紅く充血し、皮膚にはまるでタコのような吸盤がいたるところに発生している。
それは、もはや数えきれないほどの弾丸を肉体に浴びており、傷からは血が溢れるというよりは、穴が空き過ぎて、ぶちぶちと引き裂かれた肉の隙間から内臓が垂れ落ちているのが見える。
 それは元々教師の一人だったらしく、人間として残っている部分には、スーツの残骸が見え隠れする。
 そして、顔もまだわずかに人間としての形を残しており、南遥はそれが誰であるかを知る。 
「き、教頭……せ、せんせい……?」
呼びかけるように呟く南遥だったが、当然、もはや返事など返ってこない。
 彼女の中で、言い知れぬ感情の激流が、彼女の思考そのものを呑み込み、溢れ出ようとしている。
これまで感じたことのない絶望が彼女を襲った。正気を保つことなどこれ以上は無理だ。
気が狂いそうだ。
いったい、ここで何が起こっているのか。どうして、自分はこんなことに巻き込まれているのか。
彼女の中で、その疑問だけが何度も脳裏を駆け廻っていく。
当然、答えなど出てこない。
叫び声をあげたいのを必死で彼女は抑えた。今、叫んでしまったら、あとには引けなくなる。
 本当に気が触れてしまう。
彼女はそう思ったのだ。
「それはもうあなたの知っている人間ではない」
今の南遥の精神状態を知ってか知らずか、前方を向いたまま攻撃の手を緩めることなく、絢咲零が言った。
「ここでいったい何が起こっているの!? これはいったい何なの!」
南遥はそんな彼女に向けて問い返す。その声は悲鳴に近い。
 そんな彼女は、その瞬間、はっとなったかのように我に返った。そこには、いつもは気の強い少女であるはずの保坂結衣が、不安に瞳を震わせて自分を見つめていた。
「ごめんなさい。保坂さん」
教師として、生徒を守る立場でありながら自分が一番この状況に動揺している。
そのことを彼女は恥じた。
「ううん、先生は何も悪くないよ」
そんな彼女に、保坂結衣は怯えた表情を少しでも笑って見せようとするかのような不自然な表情を浮かべて答える。
そんな二人の様子を見つめながら、笹原ナオヤは肩の痛みに耐えながら、心の奥で何か釈然としない感覚が自分の中にあるのを感じていた。違和感とでもいえばいいのだろう。
痛みが苦しくて仕方がないのは変わらない。
全身がだるく歩きにくかったり、熱で意識が朦朧としている。
逆に朦朧としている意識だからだろうか。
 彼はこの状況下で、まったく恐怖を感じていなかった。
それどころか痛みが苦しいということ意外であれば、かなり意識は冷静を保っているといえる。
そのおかげかどうかは分からないが、ずっと先ほどから自分たちを追う視線のようなものを感じていた。
化け物ではない。
何かもっと別のものだ。
「……」
隣では保坂結衣が観たこともないような恐怖に顔をひきつらせているのが見える。
南遥もそうだ
 彼女たちの精神の破綻は限りなく近いだろう。
仮にこの状況をなんとか意識を取り持たせたままで乗り切ったとしても、かなり深刻な精神的外傷を負うかもしれない。
後ろを歩く黒澤侍錬はずっと無口でいるが、冷静な彼でも、この状況は恐ろしいはずだ。
だが、ナオヤは不思議と恐怖を感じない。
 零がいるからか?
いや、違う。
「……」
顔を上げると、絢咲零の細い背中が見える。
自分たちを守るために、両手にかまえた銃で化け物たちを一掃し続けている。
その行動は冷静そのもので、数限りなく襲いかかってくる化け物たちにも怯むことなく戦い続けている。
まるで、何度でもこんな状況の中で戦ってきたことがあるかのように、彼女の行動は事務的なほどに感情がない。

――……せ、せんせい……

激しい銃撃音と化け物の断末魔の叫びが轟く中で、ナオヤのその声は、完全に消された。
口をぱくぱくと動かし、彼はもてる力を振り絞って、零の名を呼ぼうとしたが、それは叶わなかった。
「……!」
不意にざわざわとした感覚が、まるで背骨を駆け廻っていくかのように彼の全身を襲った。
何か得体の知れない意識のようなものを感じる。
視線の主か。
そう考えたとき、ナオヤは気付いた。
視線ではない。

――自分だ。自分が見ている……。

彼はそう心の中で呟いたが、実際、それがどういう意味なのかは自分でもよく分からなかった。
自分が見ているものを他の何かも見ていて、それについて何かの感情のようなものが自分にも伝わってきているのだ。
それは怒り?
憎しみ?
悲しみ?
よく分からない。
だが一方で喜んでもいるようだ。
身体の奥から震えるように溢れ上がってくる高揚感は、まるで様々な感情を巻き込んだ巨大な渦が、そのはけ口を見つけて一気に昇りつめてくるような感じに似ている。
 それを解放する瞬間が待ち遠しくて仕方がない。

――自分の中に、自分が……いる……。

どくん、という鼓動が聞こえた。
それは自分の鼓動のはずなのに、まるで他人の肉体の鼓動を聞いたかのような違和感があった。
 身体の中で、別の心臓の音が聞こえる。
さながら、少しずつ自分の身体がズレながら分裂していくような感覚だ。
ズレていく感覚の向こうに、誰かの気配がする。
その時だった。
「!?」
突然、誰かが自分の右肩に触れた。
負傷している左肩を気遣って右肩に手をおいたのだろう。
 ナオヤはしばらく、それが誰か分からなかった。
「ナオヤ、聞こえているの?」
それは先を歩いていたはずの絢咲零である。彼女は振り返り、右手に銃を構えたまま、左手をナオヤの右肩に手を置いていたのである。
ナオヤは瞬きを繰り返し、ぼんやりしていた意識を取り戻すことに専念する。
わずかな空白の後、再び、絢咲零に向き直った。
 そして、いつの間にか激しい銃撃戦が終了し、あたり一面、血の海になっていることに気がついた。
南遥と保坂結衣の二人は完全に気分が悪くなり、目眩を起こしているようだ。
本来であれば、こうして、ナオヤに手を貸して歩く余裕などないだろう。
 南遥は、口元にハンカチを当て、必死に吐き気と闘っている。
黒澤侍錬は、無言のままに周囲を見渡していた。
そこは、すでに廊下ではなく教室内である。
階段を登り、二階の体育館渡り廊下に出る直前にある教室だ。
イオンとその部下たちが占拠し、校舎内で起こった事態をモニタリングしていた教室だった。
教室内には、机が固められ、その上にモニター機器やコンピュータ、そしてどこかに通信しようとしていたのか、大きなアンテナを装備した機器がいくつか放り出されている。
レトロなパラボラアンテナなどではなく、軍で使用されている最先端の衛星中継無線のようだ。
 いわゆる戦術インターネットと呼ばれるものに似たものではないだろうか。
それはコンピュータとも繋がれており、誰かがこの通信装置を使って、何かのデータの送受信を行っていた様子が伺える。
「先生……」
ナオヤは、意識を集中させようとするものの、意識がぼんやりとして視界の焦点が合わない。
いつの間にか、ナオヤは手近な椅子に座らされ、少し休まされていた。
いったい、いつ、ここにきて、いつこの椅子に座ったのか、ナオヤには記憶がない。
少しの間、意識を失っていたのか、それとも熱に浮かされて、意識が飛んでいたのか。
ナオヤは何度も顔を振って意識を奮い立たせようとする。
そんな彼の顔に零の手がそっと触れた。
「やめなさい。頭痛がしてくるだけよ」
椅子に座るナオヤの背に合わせて、零は膝をつき、ナオヤの顔色を観察し、彼の頬に触れて熱を見ている。
「……先生、僕の中に誰かがいる」
「何を言っているの?」
うなされるようにナオヤは意味不明のことを口走った。
零は少し心配するように眉を寄せて、下を向くナオヤの顔を覗きこむ。
「聞こえるんだ。【預言者】を殺せ、と言っている」
「誰が言っているの?」
「わからない……分からない。何も……」
ナオヤは、両手で顔を覆いながら苦しそうに息をつく。
そして、不意に不安そうに口に出した。
「僕、おかしくなった?」
「あなたはおかしくなんかない。熱のせいよ。しばらくそうしていなさい」
そういって、零はナオヤの髪にそっと触れた。
熱のせいか汗をかいていて、少ししっとりと濡れている。
彼女はそんな彼の髪を撫でた。
気のせいか、少しだけナオヤの呼吸が落ち着いていく。
その様子を見つめながら、零は立ち上がった。
それを待っていたかのように、次の瞬間、香川翠からの連絡が入る。
『ナオヤの様子はどうなの』
「熱が高い。左肩の内出血や骨折もひどいし、何かうわごとを。早くここから出して医者に診せないと」
その問いかけに対して、零は少しだけナオヤから離れて小声で返事をする。
そうしながらも、彼女の右手には銃が握られており、周囲への警戒を怠らない。
黒澤侍錬も保坂結衣も、そして南遥もまた、疲れきったようにぐったりとして、机や椅子に座っている。
もはや、そこにある奇妙な機械の群れに対して、疑問を持つような精神的余裕はないようだった。
『確かに急いだ方がいい。あなたたちが、その教室に入る直前、体温10度を下回る存在が群れで動くのが見えた』
「イオン=スプートニク」
『彼らは屋上に向かってる』
「今回の目的は、この建物内で【預言者】を放ち、何かの結果を観察すること」
零は翠と通信しながら、ここにある機材を見つめ、推測をそのまま口にしていく。
どのモニターも外部から警察が入り込んでくることを警戒して、設置されているわけではない。
校舎内に起こるすべての事態を“観察”するために設置されている。
体育館内の惨劇もまた、モニターの一つが捉えているのが見て取れる。
恐らく、零が侵入してからつい先ほどまで、すべてが監視されていたのだろう。
『となると、あとは事後処理だけということになるわね』
その先は、言わなくても分かりきっていることだった。
目的を完遂した以上、あとは人間側に余計な証拠を残さず、すべてを綺麗に消し去らねばならない。
屋上に向かったのは脱出のためだ。
恐らく、先ほど【アーク】を投下したヘリがどこかで待機でしていて、イオンからの連絡を待っている。
脱出でき次第、イオンはこの建物に設置したであろうTNT爆薬ですべてを吹き飛ばす。
そうこうしている間に、香川翠と連絡をとっていた零は、機材が据え置かれた机の裏側に、白く四角い粘土のような物の塊が、奇妙な導線やら電子部品と絡まり合って、何かの装置を形成している物体が貼り付けられているのを発見した。
イオンたちが設置した強力な爆弾、コンポジションC4である。
 恐らく、校内に大量に設置されたTNT爆薬にこれを使って誘爆を引き起こさせるつもりなのだろう。
「ゆっくりしていられない。予定通り、体育館側に今から向かう」
『準備は出来てるわ。急いで』


48 :コンピュータソーダメロン :2009/01/20(火) 22:46:37 ID:o3teQ7nG




霧原勇は、今よりずっと幼い頃、何より暗いところが怖かった。
元々、映画の好きだった彼は、家族でよく映画を観に行ったり、レンタルビデオで映画を借りて観たりして過ごすことの多い子供だった。
 そんな彼にとって映像の世界で特に映し出される闇は、いつもそこに得体の知れない化け物が隠れているか、あるいは残酷極まりない殺人者が隠れる場所だった。闇の奥で何かが蠢き、人はたいてい、そこに吸い込まれるようにして何も気づくことなくそこに行きつき、そして闇に住まう“何か”に喰われる。
人の運命や性は決して変えられないものだということを示すかのように、人はどうしようもなく闇に誘われ、そして闇に呑まれるのだ。
多くの闇をその映像の世界を通して彼は観てきた。
 彼は時々考えることがある。
自分が今、目にしている視界そのものが、何かのカメラ越しに映る映像の世界のように見える。
そして、限りなく傍観者としての視点から自分は世界を観ることができる。
それは、つまり、そこで何が起こっているかを冷静に知る唯一絶対の存在といえるのではないか。
 愚か者たちは気付いていない。
すぐそこに闇があっても、彼らは気付くことなくそこに足を踏みいれ、そして、あっけなく映画のワンシーンのように闇に喰われている。
矢口健雄がそうだったように……。
「……」
彼は今、暗い地下通路の底で足を組み、座り込んでいる。
そして、考えていた。
自分はなぜ、今、ここにいて、何のために生き延びているのか。
彼の思考の中では、何度も矢口健雄が、得体の知れない化け物に喰われる様が浮かんでは消えていた。
 あの腕力だけが取り柄で、いつも自分を見下し、いじめていた矢口健雄が、惨めに助けてくれ、といいながら成す術なく、殺されていく様子だ。
まさに映画のワンシーンのようだった。
残酷だとか気持ち悪いとかそんな感覚以上に、妙に現実感を喪失させる眼の前の現象に、彼は一瞬、我を忘れて見入ってしまっていた。
本当に矢口健雄は死んだのか。
そんな思考さえ彼の脳裏をよぎっていく。
本当はすべて矢口健雄を含めた全員が、自分をからかっているだけではないのか。
常識的に考えて、あんな不気味な生き物が、突然学校に現れるなんてことは考えにくい。
しかし……。
 もし、そうだとするなら、ここに来るまで必死に隠れながら走ってくる過程で見たあの不気味でおぞましい怪物たちは、何だというのだろうか。中には教頭の姿をした……いや、正確には一部教頭の姿を残した化け物までいた。
化け物が死体を喰らい、それでは飽き足らず、化け物が他の化け物を食らっている様子まであった。
あの赤い液体、あの剥き出しに引き裂かれた肉の質感、あれがすべて偽物だとは到底思えない。
そして、体育館で見たあの死体の山は、あきらかに人間のものだった。
その体育館の直下にあたるこの地下通路には、今も、ぽたぽたと水滴が垂れ落ちる音が、闇の中で響いている。
水ではない。
上の惨状から流れ落ちてきた血だ。
 そうだ。
このぬるっとした生暖かい感覚が何よりの証拠だ。
これはよく出来た芝居などではない。
本物だ。本物の人間の血であり、肉であり、死体の残骸なのだ。
そして、矢口健雄は確かにあの時、闇から現れた化け物に喰われて死んだ。
 映画は虚構などではない。
現実だ。
あるいは、自分が虚構の世界に迷い込んでしまったのかもしれない。
どちらにせよ。
もっとも頼りにできるのは、自分のこの傍観者としての視点だけだ。
自分には分かる。
 もっとも危険なタイミング、もっとも危険な場所、そして危険な存在。
虚構が映し出す映像を傍観者としての視点で見つめ続けてきた自分には、そこに映し出される映像の意図を見出すことができる。
現に、自分は今、ここまで生き延びることができたではないか。
「闇が危険なんじゃない。闇の外にいるから危険なんだ。闇の外にいれば闇に喰われる。でも、闇の中にいれば……」

――自分が喰う側になれる。

霧原勇の中で、確実に何かがゆっくりと歪み、そして変質していった。
そう。
【感染】していったのだ。
そんな彼に、一人の少女が歩み寄る。
「ねえ、霧原くん、霧原くん……。どうしたの? どうして動かないの? 早くここから逃げないと。先生たちからもはぐれてあたしたちだけだし……」
安藤が足を抱え込んで座り込んだままの霧原に話しかける。
しかし、彼はぶつぶつと何かを呟いたまま動かない。
そして……。






体育館に辿り着いた絢咲零が先導する笹原ナオヤ、南遥、そして保坂結衣に黒澤侍錬の5人は、二階の渡り廊下を駆け抜けて、体育館内に入り込んだ直後から、再び血みどろの戦いが待ち受けていた。
 どこから入りこんだのか。
先ほど絢咲零が殺したバレーボールクラブのメンバーではない別の感染者たちが、すでにその場に入り込み、感染する前に死んでいるクラブメンバーの潰れた死体を貪っていた。化け物たちは最初、【預言者】が保管されていた【アーク】という円筒状の物体、今となってはその中身は開け放たれており、空になったそれを、何かの儀式の祭壇でもあるかのように、囲み、頭を垂れていた。
 まるで【預言者】を崇める信者たちの集まりのようだ。その周りに千切られ放り出された血や肉や臓物の欠片は、何かの供物のようにさえ見えた。
 体育館の床という床が血で溢れ、臓物や身体の部品があちこちに飛び散っている。
あたり一面に立ち込める鼻をつく死臭と腐敗臭、嗅いだこともない死肉の匂いが、混ざり、吐き気が込み上げてくる。
そこを這いまわるおぞましい姿をした化け物たちは、不意に二階渡り廊下に繋がる通路から差し込んできた光に、びくっと震え、光から遠ざかろうとするものの、ドアが閉まって、再び闇が支配するようになると、荒い息をつかせてまだ生きている人間の肉の匂いをかぎ取った。
「な、なんなの、ここ。アレは何?」
保坂結衣が、息を飲んで呟いた。
吹き抜けとなった体育館の二階部分は、一階をほぼ見通す形のスペースが設けられており、ここに体育館内で使用する備品や用具が保管されている。
 彼らには、一階部分の惨状がよく見てとれるのだ。
「【感染者】たちよ」
この場において、最も何かを知っていて、落ちつきはらった様子の絢咲零が、いつの間にか、肩にライフルのようなものを掛けているのが見えた。彼女はそのライフルを手にして、ポシェットから何か筒状の器具と小さめのペンのようなものを一緒に取りだした。
「これは何かの病気なの? あの人たちは、助かるの?」
南遥がライフルに器具を取り付けていく作業をしている絢咲零に問いかける。
しかし、絢咲零は無言で作業を続けている。
その間にも、尋常ではないこの光景を前に落ち着きを失って、さらに喋る。
「わたしたちもこの病気に感染する恐れがあるの?」
その質問をした時、後ろにいる保坂結衣が、びくっと肩を震わせ、一階をぼんやりとうろつく化け物たちに視線を向ける。
すると、絢咲零が口を開いた。
「これは病気ではない。強いていえば“進化”。【感染】したら助からない。そして、あなたたちは今のところ、【感染】はしていない。もし、していたら……」
「していたら?」
「とっくにわたしが撃ち殺している」
そういって、絢咲零は立ち上がり、ライフルを持ち上げて、殺伐とした視線を南遥に向けた。
一瞬、外からの光が迷い込み、絢咲零の瞳を照らした。
その瞳は、人間のそれとは違い、まるで血の色のように紅く光っていた。
それを見た南遥は、びくりと後ずさりした。
そんな彼女の様子などお構いなしに、狙撃スコープと赤いレーザーサイトを装着したライフルを構える。
 M4と呼ばれる中長距離射程向きのライフルで、狙撃用にカスタマイズされ、セミオートで発射するよう調整されている。
零は、手すりにライフルを構えた状態で身を預け、スコープからターゲットを索敵する。
やがて、一体目を見つけた。
 まだ大半が人間の部分を残しているが、すでに意識は乗っ取られており、他の生きたまともな生物を求めてふらふらと歩いていた。
零はその化け物の頭部に照準を合わせる。
「……」
引き金を引いた瞬間、ドゴッ、という爆発音が響き渡り、後ろにいた南遥と保坂結衣を怯えさせた。
標的となった化け物は、頭部が吹き飛び、糸の切れた人形のようにその場に倒れる。
 そして、その間にも絢咲零は新たな標的を見つけ、射撃を繰り返した。
十数発もの射撃が、淡々と行われる間、保坂結衣も絢咲零も、その音に慣れることはできなかった。
二人とも固く瞳を閉ざし、両手で耳を覆っても、トリガーが引かれるたびに、身を強張らせていた。
 やがて、数分後、絢咲零は、ゆっくりとライフルのトリガーから指を放し、セーフティを駆けた。
ほっとしたかのように、保坂と南は互いの顔を見合わせる。
そんな中、保坂結衣の肩にそっと手をおいた人物がいた。
笹原ナオヤだ。
「ごめん。怖がらせてばかりで」
まるで、絢咲零の代わりに謝るかのようにいう笹原ナオヤは、ずいぶん落ちついて見えた。
後ろに立つ黒澤でさえ、目の前で起こっていることを信じられない瞳で見つめているにも関わらず、どこか別の世界に立ってでもいるかのように、笹原ナオヤの表情は穏やかだ。
それは、肩の痛みさえ消えているのかと思わせるほどだった。
「どうしてあんたが謝るのよ」
「どうしてかな。先生は、こういう状況の時に一番厳しいんだ。だからそれがすごく冷たく感じられることがあって、ワケわからない時は余計に不安になるかと思って……」
「……こういうことって……前にもこんな経験、あんたもしているの?」
「何度もじゃない」
【預言者】と遭遇したのはこれが初めてではない。しかし、一度目は、ごく最近で、その時には、これほどの状況ではなかった。
【感染者】も存在せず、【預言者】一体のみと対峙し生き延びた。
これはまだ二度目でしかない。
ナオヤもまだ慣れている状況というわけではないのだ。
にも拘わらず、こういった事態に遭遇し、その中で生き延びる道を探るのは、これが初めてではない気がする。
そして、こういった血みどろの光景や、この場所に満ちている死臭もまた、これが初めてではないかのような感覚がある。
デジャヴとでもいえばいいのだろうか。
「いいわ。一人ずつ、そこの梯子をつたって下に降りて」
零がライフルを手にしたまま、ナオヤたちに指示した。
しかし、すぐには誰も動けない。
当然だ。下には死体が溢れている。零がすべて射殺したとはいえ、化け物の生々しい死体まで転がっている。
地獄のような状況が広がっているのである。だが、そんな中に勇んで降りていける人間は、その場には笹原ナオヤ、そして黒澤侍錬だった。
「く、黒澤くん、あなた、だいじょうぶなの?」
「さっき、その人が全部化け物を撃ってたでしょう」
「そうだけど……」
南遥が、怯えた目で零に視線を向ける。
零は黙って、降りていく黒澤と笹原ナオヤを見つめていた。
「……でも」
「急いで」
南遥が、それ以上の何かを言おうとした時、零が鋭い口調で口を開いた。
黒澤がゆっくりと梯子の手すりを手にして、後ろ向きに身を降ろしていく。
下は20メートルはある高さだ。うっかり落ちれば骨折するかもしれない。
黒澤が降りた直後、ナオヤもまたその身を梯子に掛ける。
左肩を怪我しているナオヤは、その痛みに耐えながら肩を気遣い、ゆっくりと足や手を梯子にかける。
そんな彼を絢咲零が無言で手伝った。
そして、ナオヤは零にだけ聞こえる声で口を開いた。
「先生、もう少しみんなに優しくしないと、怖がってるんだから」
「あなたは怖がっていないの?」
意外そうな表情で零はいった。
「僕だって怖いよ」
「危険な状況なのよ。甘いことは言っていられないわ」
ナオヤは何かを考えるような顔をして、それ以上の何かを言おうとしたが、そのあと苦笑を浮かべて、「それもそうだね」と呟いた。
そんなナオヤの苦笑が、あまりにこの状況とそぐわないのん気なもので、絢咲零は呆れて溜息をつく。
「ほら、間抜けな顔で笑ってないで、落ちないようにしっかりと梯子を持って降りるのよ」
「間抜けってひどい」
ぶつぶつと文句を言いながら、ナオヤはゆっくり降りて行った。
そんな彼を見ていて、なんとなく零の口元がわずかに緩む。
しかし、それは一瞬のことで、黒澤とナオヤが降りていく中、他で動く何者かが存在しないか、零はライフルを構えて監視する。
やがて、ナオヤのあとに、保坂結衣が続き、最後に南遥が梯子を下った。
全員が無事、下に辿り着いたのを確認した零は、ライフルを背中に担ぎ、梯子を手にするのではなく、手すりを手にする。
そして、そのまま何を思ったかその細い身体を虚空に泳がせたのである。
「ちょっと! まさかあの人、飛び降りる気!?」
上を見ていた保坂結衣が口ずさんだのも束の間、次の瞬間には、絢咲零の身は、羽のような身軽さで床に綺麗に着地していた。
普通の人間なら、膝や足が骨折し、筋肉の筋が千切れるような衝撃が身を襲ったはずである。
しかし、絢咲零は至って、涼やかな表情で立ちあがり、保坂結衣や南遥の前に歩み寄ったかと思うと、何事もなかったかのように口を開いた。
「奥の舞台裏に通じる部屋にマンホールがあるわ。そこから地下に逃げ込める。さあ、急いで」
そういって、零は体育館の舞台が設置された場所の右脇にあるドアを指差した。
そのドアの向こうには、舞台裏にある機械装置や電圧装置などを制御する部屋がある。
普段、生徒である保坂結衣や笹原ナオヤ、黒澤侍錬などは立ち入ることの少ない部屋だ。
 南遥は、一度だけ新任の際、体育館で全校生徒に挨拶するときに通ったことがある。確かにマンホールのようなものがあるのを見た覚えはあるが、それが何処に通じているかまでは当然知らない。
しかし、ここまで来たらもう行くしかないと覚悟を決める。
「さあ、行きましょう」
南遥が率先して、生徒たちを先導して走った。
その後ろを再びライフルを構えなおした絢咲零が歩いていく。
人間の死体、化け物の死体、臓物に血だまり、それらをなんとか避けながら先にドアまで辿り着いた南遥が、ナオヤたちに手を振って、早く来るように合図をしている。
まもなく全員がたどり着こうというその時である。
突如、上空でバリバリという空を切るローター音が響き渡った。
「!?」
絢咲零が上空を見あげると、ぽっかりと空いた突き破られた天井の向こうに、夜の闇に紛れるような黒い大きなヘリが浮かんでいるのが見えた。そのヘリに向けてだろうか。
外からライトが向けられ、拡声器を使って警察と思われる何者かの声が聞こえてくるが、それらはすべてヘリのローター音でかき消されている。
そのヘリには数人の黒い装備を着込んだ兵士の姿が遠眼に見てとれた。
そのうちの一人を絢咲零はよく知っていた。
「イオン=スプートニク!」
そう叫んだとき、その声が聞こえたかのように兵士がこちらに視線を向ける。
間違いなくその時、兵士は笑っていた。
「くっ!」
吐き捨てるようにして絢咲零はライフルを構えた。
肩にストックを当て、高い位置にライフルを持つと、セーフティレバーを一気にフルオートに合わせたかと思うと、迷うことなくトリガーを引いた。
唸るような爆音を響かせて、ライフルの先端が火を噴く。
数十発の銀の弾丸が、イオンの乗るヘリ目がけて撃ち出された。
「先生!」
ナオヤが叫ぶ。
「かまわず先に行きなさい!」
激しい銃撃の最中、零が叫んだ。
「でも!」
零の元に駆けようろうとするナオヤだったが、それを南遥が止めた。
黒澤侍錬がドアを開けて先導し、暗い中に飛び込んだ。幸い、中に化け物は潜んでおらず、零の言っていたマンホールはすぐに見つかった。というよりも、すでにマンホールは開けられていて、誰かが先に降りた様子が見て取れた。
一瞬、迷う侍錬だったが、躊躇している場合ではなかった。
「保坂! オレが先に降りるから、そのあとをついてこい! 先生、笹原を頼みます!」
「いいから早く行きなさい!」
南遥が絢咲零に向けて声を張り上げている笹原ナオヤを止めながら、なんとか口を開いた。
「笹原……」
普段、淡々とした朴念仁のような笹原ナオヤが、感情を滲ませてうろたえている様子は、少女にとってはショッキングな出来事だった。
しかし、そんなことで動けないでいるわけにはいかない状況なのだ。
「保坂! いいからオレのあとについてこい!」
ぼんやりとしてナオヤを見つめている保坂の肩を揺らし、黒澤が声を張り上げる。
「う、うん」
保坂結衣は、強張った表情で頷く。
それを見てとり、黒澤は躊躇することを捨てて、その身をマンホールの奥に滑り込ませていった。
保坂結衣は、一瞬、ナオヤに視線を向けるものの、すぐにそのあとについていった。
「先生! 先生ってば!」
「笹原くん! とにかく今すぐに逃げなきゃ!」
南遥に引っ張られ、笹原ナオヤはついにマンホールの奥へと引きづられえていった。
その様子を見届けた絢咲零は、今度こそ、迷うことなくライフルを構え直し、空になったマガジンを捨てて、新たなマガジンを射し込む。
チュイン、チュイン、という金属を削る音とともに、ヘリの機体のあちこちで火花が散っていくものの、イオン自身の身には、なかなか弾丸が届かなかった。
『零、イオンが逃げるわ』
「逃がしはしない!」
そんな中、イオン=スプートニクが、不意に何か黒い金属の塊を手にするのが見えた。
それは携帯電話のようなものにも見えたが、何かのリモコンのようでもあった。
彼はその中にあるボタンの一つを何気なく押した。
次の瞬間。
かっという眩い閃光が迸り、あたり一面を真っ白な光の洪水で溢れかえらせた。
それは体育館内すべてを呑み込み、同時に校舎内の至る所で同じ閃光が一斉に解放されたのである。


49 :コンピュータソーダメロン :2009/01/25(日) 01:00:00 ID:o3teQ7nG




わずか数分前。
校舎を取り巻く包囲網の中で、警官らはますます集まりだしたマスコミを一定距離内に近づけないようにするための非常線を張り巡らすのに必死になっていた。
 徹底した報道規制を行い、マスコミのヘリさえも近づけないようにする措置が捉られている。
そんな中で、マスコミがより騒ぎたてるようになったのは、かれこれ数十分前から続く発砲音だ。
明らかに銃火器を用いた戦闘が校舎内で行われている。
カーテン越しにもその火花が映って見えた。
 警察の機動隊はもちろん現場を封鎖しているが、校舎内で何が起こっているかも分からない以上、彼らによる突入はまだ行われていない。
そして、そうなると犯人同士で内乱でも起こっているのか。
数時間前を境に犯人側からの連絡が途絶えて以降、状況は全く見えてこなかった。
 そんな中での銃撃である。
事態は一刻を争うと判断したのは、古参の刑事、恩田だった。
「人質の体力も限界です! すぐに機動隊を突入させるべきだ!」
今年50を超える恩田は、すすけたグレイのスーツにくたびれた黒いコートを着ている。
屈強な体躯の機動隊員たちに比べて、ずいぶん老いていて痩せているように見える。
髪は、後退してはいないものの、ほとんどが白髪となっていた。
 まるで年輪のように時を刻んできたかのように彫りの深い顔で、口元や眼尻にもしわが見える。
誰が見ても老いさらばえた老刑事に見えるだろう。かつては、犯罪と勇猛果敢に戦ってきた男も時の流れには勝てない。
だが、その瞳は誰よりも鋭い眼光を光らせている。
 刑事になって30年以上、この男はこの鋭い瞳を弱らせることなく、真実に向き合い、戦ってきたのである。
その男が今、自分よりも若干若く、まだ油の乗った40代前後の警視正と向き合っている。
「中の状況もわからんのにか? TNTがあとどれくらい使用されていて、どこに配置されているのかも分からないんだぞ! みすみす隊員を危険に晒すだけだ!」
広川が怒号を響かせた。
「今の銃撃聞いたでしょう!? 危険というなら今がまさにそうだ! これ以上、事態を放置していたら取り返しがつかなくなる!」
「最も危険なのはな、恩田刑事! 原爆級の破壊力を持つ量のTNTがテロリストの手にあるということだ! それが今、どこに配置されているのかも分からんということだ! あとから我々が介入して、より危険が増しては意味がない! マスコミの餌食だ!」
恩田刑事と広川警視正の口論は、まったく平行線をたどっていた。
現場に停車している機動隊トラック内に臨時で設置された対策本部では、警視庁の高官のと随時連絡を取りつつ、現場の責任者たちが集まっている。
 その中に、一刑事でしかない恩田が、入りこみ、広川の胸ぐらを掴んで抗議してきたのは、まさに銃撃戦と思われる銃声が響き渡って五分後のことである。
周りにいる警官たちが、一斉に恩田を止めにはいるが、恩田自身は、構うことなく広川につめいる。
「今は批判を恐れてじっとしている場合ではない!」
一際大きな恩田の声がその場に響き渡ったが、やがて、手に負えないとばかりに広川が周囲の隊員たちに目くばせをした。
すると、隊員たちが頷き、恩田を両側から羽交い締めしていた数人が、老刑事を無理やりその場から引き離し、本部トラックから追い出した。
外には、銀蘭聖香署の署長をはじめとした、所轄の管理職たちが待ち構えており、追い出された恩田に詰め寄った。
「信じられん。相手は警視庁の高官だぞ? 何を考えている」
「あいつらは何も分かっていません」
「恩田刑事、分かっていないのはあんたの方だ。現場を混乱させてどうする!? あんたの勝手な行動の責任はな。わたしだって負わされることになりかねないんだぞ?」
恩田は頭痛を覚えた。
この状況の中にあって、あの広川にしても眼の前の署長にしても、自分たちの立場のことしか考えていないのだ。
彼らは自分たちの行動の結果として被害が大きくなることを何より恐れている。
何もしないで、人質が死ぬことよりも、何かして人質が死ぬことによって責任を追及されることの方が恐ろしいのだ。
 だが、その行動の代償は高くつくことになる。
恩田が、署長を無視して背を向けたときである。
その背は、ちょうど校舎側に背中を向ける位置にあった。後ろで署長がなおも何か言いたそうとしている中、ばりばりというローター音が響き渡るのを確かに聞いた。
「……?」
恩田は振り返り、空を見上げる。
この時点では、まだ他に気づいている者はいなかった。
「恩田刑事、聞こえているのか?」
署長が、呆然と夜の空を眺める恩田に、苛立ちを覚える様子で声をかけた。
その時。

――バリバリバリ……。

まさに低空をヘリが飛行する音が、今度こそ誰の耳にも聞こえた。
それは報道規制を行っている空域にも拘わらず、周りの警察ヘリの警告を無視して、侵入してきたのである。
その黒いヘリは、最初、報道規制を破って侵入してきた、どこかの無鉄砲なマスコミの取材ヘリのものだと思われた。
しかし、それが近づいてくるにつれ、その場にいた警官たちのうちの数人が、昼間この学校に巨大な円筒状の物体を投下したものだと気付き始める。
恩田と署長も周囲のざわめきに様子がおかしいことを悟った。
 ヘリは侵入してきたコースからまっすぐ校舎の屋上に近づくにつれ速度を落としていく。
苛立たしい感情を露わにした広川がトレーラーから姿を現した。
「なんなんだ! あれは! テロリストを挑発しているのか! すぐに退去させろ!」
そうこうしている間に、ヘリから縄梯子を放り投げられた。
その縄梯子の下には、黒い装備を着込んだ兵士数人が集まっている。
ライフルを構えて、屋上からこちらに向けて銃口を突き付け、警戒している。
広川はその状況の変化に素早く反応した。
「テロリストだ! 全員、車の影に隠れろ! マスコミと関係者以外をすぐに避難させるんだ!」
相手が銃の扱いに長けているのは、これまでの動きと物腰で容易に想像がつく。この距離内では中距離射程のライフルでも十分、狙撃される恐れがあると判断したのだ。
恩田もまた素早く車の影に隠れる一方で、上着の内側のホルスターに手をかけた。
 その一瞬、自分の後輩だった男の言葉が脳裏をよぎる。

――銃を撃てる人間と撃てない人間がいる。いくら訓練を積んでもそれは変わらない。
  恩田さん、あなたは撃てない人間だ。
  それを恥じることはない。

そういった男は死んだ。自分よりずっと若く、後輩のくせにずいぶんな物言いだと、最初は鼻もちならない印象があった男だ。
アメリカで10代中頃にSWAT試験に合格して帰ってきた男だと知った時は、少しは見直したものだったが、妙に子供っぽい性格というか、アメリカ育ちらしいよくいえば無邪気さ、悪くいえば低俗な性格の男だった。
まるで西部劇に出てくる主人公のようなフランクな物言いで、物腰は軽く、しかし瞳の奥は深い。アンバランスな性格で、どちらかといえば、そのアンバランスさは、少年のような純粋さに思えた。
 実力を踏まえた上で不真面目なようであり、それでいて、事件に対しては誰よりも真剣に取り組む。恐らく、事件を追うハードボイルドな戦いの中で死んだほうが似合いの男だったが、現実には交通事故死として死んだ。
 この事実を現実だからと受け止めるのが普通の人間だが、恩田は違った。
そして、恩田は、この一瞬、なぜこの男を思い出したのか、その意味について深く考えようとする男でもあった。
(笹原……お前が死んだのは偶然か? ここで起こっていることは偶然なのか?)
そう恩田が心に思い浮かべたときだった。
誰かが何かを叫んでいるのを耳にした。
最初、それが何を言っているのか分からなかった。
そして、何人かの人間が一斉に指を刺していくのが見えた。
自然に恩田もその指さす先に目を向けていく。
ヘリがいつの間にか移動していた。
テロリストたち全員を収容したヘリが、一定の高度を保って体育館上空を旋回している様子が恩田の目に映った。
次の瞬間。
「……なっ!?」
巨大な閃光の渦があたりいったいを瞬時に飲み込んだ。
その時、光の中心にあった爆薬、その秘めたる破壊の力を一気に解放され、巨大な爆発が巻き起こる。
まず真っ先に発生した熱風が、その場にあったすべてを焼き尽くし、蒸発させ、続く爆風が校舎の壁という壁を容赦なく粉砕し、ガラスを粉々にして吹き飛ばした。その勢いは体育館の天井すべてを突きぬけ、壁に備え付けられた巨大な鋼鉄製のバスケットリングが、ぐにゃりと歪な形に曲がり、数トンはあるかと思われる巨体が捩じり飛ばされていった。それらすべてが瞬間の刹那に引き起こされた現象であり、その直後、耳を引き裂く轟音とともに数百メートル離れた位置に立つ恩田やその他の警官たちにも一瞬の閃光とともに爆風と炎が襲った。
夜も深まったこの時間にも拘わらず、その一瞬、彼らが目にしたのは、すべてが真っ白な光の渦の中に飲み込まれ、光によって溶かされていく様子だった。すべてが消え去り、そして音という音までもが掻き消された。
 自分の身体が自分のものではなくなり、まるでこの世界にとって取るに足らない埃のように吹き飛ばされ、散り散りとなったのである。
その過程で、まるでテレビが突然電源を落とされるかのように、彼らの意思も消失した。


50 :コンピュータソーダメロン :2009/01/28(水) 01:27:22 ID:o3teQ7nG







1993年11月24日、午後9時34分。
生存者保護。
笹原ナオヤ、黒澤侍錬、保坂結衣、安藤清美、霧原勇、南遥、以上6名を救出。
“爆発中心部”より40メートル東側の下水地下通路より発見された。
事態の収拾後、48時間が経過する現在も、生存者の捜索活動が行われているが、目下のところ、この6名以外での生存者は確認されていない。救出直後における6人は、ほとんど目立った外傷そのものはないにしろ、疲労と混乱を極めるもので、適切な診察と処置が必要とされた。また笹原ナオヤに至っては重度の骨折とそれに伴う発熱により意識が混濁しており、現在、病院に搬送され治療が行われているし、霧原勇は、PTASD(心的外傷後ストレス障害)と思われる症状が顕著に表れており、非常に精神的に不安定な状態となっている。
現状、彼らに事情聴取を求めるのは、道義的、肉体的、精神的制限から非常に困難であるものの、可及的速やかに事態の究明が求められる。
なお、以下に記述されるこの件に関するあらゆる情報は、国家公安当局によって厳重に機密管理され、現場に立ち会った職員、事態の核心部に関係した者には全員、機密事項宣誓承諾書にサインを求めるものである。また、あらゆる報道機関、マスコミに関しては、事態の特殊性、及び高度な危機管理の原則の元、一切の公表を禁ずるものである。



『事件発生より2週間後、銀蘭聖香学園初等部、保坂結衣による供述』

逃げなさいって。
ハルが大声で叫んで、黒澤がわたしの肩を掴んで怒鳴ってた。
 自分のあとに着いてこいって。
わたしは、笹原の方をずっと見てた。
 笹原が誰かの名前を叫んで必死にその人の元に駆け寄ろうとしていた。
だけど、そんな笹原をハルが必至に後ろから捕まえて止めていたのよ。
 早く逃げなきゃって。でも、そんなハルの力を振り払ってでも、その人の元へ向おうとしていた。
おかしいんだけど、みんな逃げようと必死になっている時に、あたし、何もかも忘れてアイツのことをじっと見てた。
 アイツのことが気になって逃げることさえ忘れていたのよ。
あんなに怖い思いをしたのに。あんなに早く逃げ出したいって思っていたのに。
なのに、よく分からないんだけど、笹原が誰を必至に呼んでいたのか、よく思い出せない。
 思い出そうとすると、すごくその……。
……頭が痛くて。
まるで思い出そうとするたびに、誰かが後ろから頭を殴ってるみたいにガンガンと痛む。
あのときのアイツの声と重なって、頭に響くの。
いったい、あのとき、アイツが呼んでいたのって誰だったんだろう。
 あたしは、ずっとそのことで頭がいっぱいになってる。
あたし、本当におかしくなったのかな。
 あの事件、本当にひどい事件だったのに、思い出すときは、いつもあの瞬間で、マンホールの下に黒澤に引きづり降ろされる瞬間までずっとアイツを見ていて、とうとう笹原もハルに引っ張られてマンホールの下に落とされるみたいに降りてきた。
あのときのアイツの顔、忘れられない。
 いつも朴念仁みたいな顔して、ぼうっとしているアイツが、感情をさらけ出して、必死になっている顔だった。
とても悔しそうで、悲しそうで、つらい顔をしていた。
 なんでか分からないけど、わたしはアイツのあんな顔、とても見ていられなかった。
だから、アイツから眼を逸らして、先を歩いて行った黒澤のあとを追ったのよ。
地下の通路で、とても明かりらしい明かりもなくて、とても怖かった。
バカみたいな話だけど、暗闇の中から気持ち悪い化け物でも出てきそうな気がして……。
だからってわけじゃないけど、わたしは先を歩いて行った黒澤を早足で追いかけた。
その瞬間だったわ。
あの爆発があったのは……。
最初は地震かと思った。
 信じられない光景をたくさん見て、自分がとことん今日は不幸なんだって思ってたせいか、運が悪く地震が起きて、天井が崩れ落ちてきたんだと思っても、すんなり受け入れられた。でも、死にたくはなかったし、すごく怖くて逃げだしたくて仕方なかった。
わたしは走った。
後ろからハルに支えられて笹原も一緒に走ってくるのを後ろ目に見て、わたしは必死に走った。
上からは、石の塊がたくさん落ちてきて、もう少しで頭を打ちそうにもなったけど、とにかく走り続けた。
途中、後ろにいる笹原が、何度も上を見上げているのを見て、なんだかあたしは腹が立ってくるような気がした。
だから、あたしは立ち止まって、アイツにいってやったのよ。
そんなに余所見ばかりしていて、アンタ、頭に石の欠片が落ちてきてもいいの?って。
アイツは少しびっくりした顔をしてた。それからあたしは構わずアイツの手をとって走り出したの。
へばりかけていたハルもその後ろから一緒に走ってくる。
あたしは走り続けた。
どこまでも……どこまでも。たくさんの石材が落ちてきて、時々、上の方から爆発で起こった火事か何かだと思うけど、火の球まで落ちてきた。走ろうにも、足元にまでたくさんの邪魔な岩が転がってたりして、闇の中、あたしもアイツも何度も転んだわ。
そのうち擦り傷や切り傷がたくさん足や腕、顔にもできたけど、構わなかった。
あたしは、何度転んでも、アイツが何度転んでも、絶対、お互い手を離さなかった。
そして、闇の中を当所もなく走り続けた。
不思議だけど、あの一瞬、あたしは何も怖くなかった。
むしろ、こう思っていたのよ。あたしたちを傷つけたいなら、たくさん傷つければいい、でもあんたたちなんか少しも怖くないわって。
何に対して、そう思っていたのか分からないけど、でも、戦わなきゃいけないって思ったのよ。
わたしが怖いと思ったすべてと戦わないといけないって。
だから走り続けたわ。
いったい、どれだけ走り続けたのか、自分でももうよく分からなくて、数分、数十分、もしかしたら数十分走り続けているような気さえしてた。
 やがて光を見つけたのよ。
気付いた時には、天井から落ちてくる石も少なくて、足元に転がっている邪魔な岩や剥き出しの金属の建築資材なんかも少なくなっていて、どんどん光が近づいてくるのが見えた。
あたしは叫んだわ。
ねえ、笹原、ハル! 見える? 外よ! 外が見えるって。
ハルは疲れきっていたけど、後ろで同じ光を見て、ほっとしているのを感じた。
ナオヤも、さっきより強くわたしの手を握り返してきた。
そのうち、光の中央に黒澤が立っているのが見えた。
わたしたちに手を振って、呼んでいた。
出口に出たとき、あたしはそのまま倒れ込んだわ。
そこは学校の東側にある河の河川敷近くの水路だった。
点検用の通路に繋がる出入り口で、普段はフェンスで閉じられているんだけど、ほとんど錆びついてて、たぶん、黒澤が力任せに蹴ったか近くの石か何かで叩いたのか、フェンスの出入り口の鍵が叩き壊されて、通れるようになってた。
あたしは、息が苦しくて、胸が張り裂けそうになりながら、その出口をやっとの思いで出たの。
喉の奥が乾ききってて、呼吸するのも辛かった。
そのあとを笹原が続いて、最後にハルが出てきた。
わたしたち全員、その場に倒れ込んで、全員荒い息のまま寝転がった。
そんな中、安藤と霧原も一緒にいるのが分かった。この二人、生きていたんだってその時は思ったくらいで、それ以上のことを考えるゆとりがなかったのよ。
だけどそのうち、笹原だけが近くにいないことに気づいた。
どこを見渡しても、安藤と霧原、黒澤にハルの姿しか見えなかった。
笹原がいない。
いなかったのよ。
あの時、一瞬、感じた胸を刺す感覚は……痛いなんてものじゃなかった。
わたしは、いまだ動けない身体のまま、必死で周囲を見渡した。
そして、見つけたのよ。
……あの時の気持ち、どう説明したらいいのか分からない。
ついさっきまで、闇の中を一緒に手を繋いでいて、絶対離さないと決めたその手が、いつのまにか離されていて、すぐ後ろに感じたアイツの手の温かさが、次の瞬間には手に残っているのに、感覚だけ消えている。
そして……。
そして、アイツはその時、他の誰かの元に膝をついて、泣きそうな顔になってその人の名前を呼んでいたのよ。
……名前?
だめよ、思い出せない。思い出そうとすると頭痛がするの。
顔も名前も、どんな人だったのかも。
何もかも思い出せないのに、わたしはその人のことを……。
あの光景、まるで、もともと一つだったものが別れて、そしてもう一つの肩割れにようやく出会えたみたいな様子だった。
お互い、血を分かち合う姉弟、それとも恋人……ううん、もっと別ちがたいこの世に、ただお互いしか存在しないかのような強い絆を持っているような……。
そんな二人に見えたのよ。
その人? さあ、その人のことは、そのあと、どうなったかは知らないわ。
気付いたら、わたしたちは病院のベッドに寝かされていて、もう何週間も眠っていたみたいに頭が痛かった。
なのに、警察からはいろいろ聞かれて……。
事件のことは、その後聞かされたのよ。
あれがどれだけ大きくて危険な事件だったのか。
でも、わたしにとっては……。
わたしにとっては、あの瞬間、あの二人の姿が……。


51 :コンピュータソーダメロン :2009/01/28(水) 02:39:51 ID:o3teQ7nG

光の向こうへ







 光の向こうへ。
笹原ナオヤと保坂結衣は走り続けた。
行く手は闇に包まれ、いつどこから、何が襲ってくるか分からない。
遥か天の彼方からは、得体の知れない大きな岩石やコンクリートの塊が容赦なく降り注ぎ、爆発によって生じた火災が、恐らく地上では猛威を振るっているのだろう。時折、炎に包まれた物体が雨のように降り注いでくる。
足元はむき出しの建築資材と思われる金属片や岩の塊が転がり、何度も躓いては腕や足を擦り向いて怪我を負った。
しかし、二人は走り続けた。
 この闇に包まれた地の底の地獄では、互いしか互いを想いやれる存在がないかのように、二人は固くを手を結んで走り続けた。
後ろからは、何かが追ってくるような気がする。
上からはいつ何どき、頭をたたき割ろうと岩が落ち来るか知れない。
向かう先に、救われる出口があるかどうかも分からない。
胸が張り裂けそうなほどに苦しい。
 でも止まらなかった。
走り続けたのだ。
 気のせいかナオヤの手を取って走っている保坂結衣が、荒い呼吸をつきながら泣き声を出しているような気がした。
怖いのだ。
怖くて怖くて仕方ないのだ。どこまでも続く終わりの見えない闇の中で、果たして自分たちが向う先が正しいのかどうか、誰にも分からない。ただ、傷ついた足、血を流す腕、不安に脅える心を振り絞り、自分は生きている限り走り続けるのだ、と心の奥で何度も叫んだ。
やがて光が見えたとき、結衣は思わず叫んでいた。
ナオヤも走り続ける足に力強さが戻ってくる。
出口だ。
闇のトンネルの向こうに光が差し込んできているのが見える。
 黒澤の姿が見え、叩き壊されたフェンスの向こうに出たとき、満点の星空とそれを鏡のように映し出しながら流れる河が見えた。
そしてその向こうに見える光輝く街の様子だ。
河川敷の堤防の下に、水路が流れていて、笹原たちはその水路の点検用通路を通りぬけてきたのだ。
堤防の坂は、生い茂る草に覆われていて、思わず結衣も黒澤もその場にへたり込む。
最後に出てきた南遥も、もはや言葉さえも出ない様子で、倒れ込んだ。
ナオヤは……。
 その時、ナオヤは、生い茂る草むらの中に、一人の女性が倒れているのを見つけた。
焼け焦げて、所々、破れたスーツ姿の女性である。
美しく魅惑的な20代前半ごろの女性は、その豊満な肉体にも拘わらず、あちこち怪我や火傷を負って意識を失っていた。
 絢咲零だ。
「先生……先生?」
ナオヤが駆け寄り、零の上体をゆっくりと起こして支える。
細く柔らかで華奢な肩だ。とてもライフルやハンドガンなど持って立ち回れるような女性には見えない。
そんな零の肩に手を触れた瞬間、ナオヤの手にべったりと生暖かい液体がつくのを感じた。
血だ。
 零の腹部から赤い液体が溢れだしているのが見える。その赤い液体がとどまることなく、流れ続け、彼女が倒れている周囲の草にも垂れ落ちているのが見えた。かなりの出血量である。
そして、その血の先にあったのが、太く尖った鉄パイプだ。
 強力な力で捻じ曲げられ、引きちぎられたかのように尖った先に、まだ新しい赤い血が、夜の闇に光る月に明かりに照らされて、艶々と煌めいているのが見えた。恐らく爆発の衝撃で吹き飛んだパイプが、零の身を貫いたのだろう。
それを彼女は、最後の力を振り絞って引き抜いたのだ。
「……ナ、ナオヤなの?」
意識を取り戻した零が、ゆっくりと瞳を開けた。
「先生、血がたくさん出てる!」
「だいじょうぶ……。それよりあなた、ケガはないの……?」
青ざめた顔で、よほど重傷であるはずの零が問いかけた。
「何いってんの。先生のほうがよっぽど……その……なんていうか、スゴいよ……」
ナオヤとしては、はっきりそれが重傷だといってしまいたくなかった。そんな彼に、思わず零は苦笑する。
「……いい? わたしのことはいいから、すぐに警察に連絡するように他の人間に伝えなさい。あなたは熱があるんだから、来るまでは動かずにじっとして、身体を温かくしているの。それから、ユキノにも連絡して……ちゃんと無事だと伝えるのよ。あなたのことを……とても心配……しているはず……」
傷口が痛むのか、時折苦しそうに顔を歪ませて、なんとか言葉を発する。
しかし、そのたびに、零は口から血を吐きだしていた。
恐らく、腸などの内臓まで深刻な傷を受けているのだろう。
「先生は!? 先生のことどうしたらいいの!? 何か先生にできることはないの!?」
ナオヤは瞳に大粒の涙を貯めながら、どんどん冷たくなっていく零の身体を支え、叫ぶ。
彼女の唇はすでに真っ青に染まり、【ヴァンパイア】であるにも拘わらず、血の気が失せている。
 ナオヤは泣きだしそうになりながら、周囲を見渡した。
保坂たちがいるが、もはや動けそうにない状態で倒れている。
他に助けを求められそうな人間は、この時間には見えない。
 そんなナオヤの頬に、ゆっくりと手が差し伸べられた。
細く繊細ですべらかな指が、優しくナオヤに触れる。
「あの時……あなたを殺さなくてよかった……。ナオヤ……しっかり、いい男になって……そして……ちゃんとキスできるようになりなさい。そしたら……わたしが……あなたを……」
わずかに微笑みながらそう告げたその瞬間、零の手が力なく地に落ちた。
「先生……? ねえ、先生! 先生ってば! 先生!」
瞳を見開いたまま、零は言葉を発することなく、そして、起き上がることもなかった。
やがて、遠くからサイレンの音が聞こえてくる。
誰かが自分たちを発見して通報したか、あるいは南遥か、他の誰かが警察に電話したのかもしれない。
もうじき助けがやってくるだろう。
だが、笹原ナオヤにとっては、そんなことはどうでもよかった。
 自分たちは助かった。今、ここで死んだ女性が、いくら人外の戦闘能力を持っていたとしても、命の危険を顧みずに戦ってくれたおかげで助かったのだ。だが、ナオヤにとって、それは幸運なことでもなんでもなかった。
その時、その身を貫かれた零の姿と、あの時、死んだトウジの姿が重なって見えた。
自分はあの時、悲しいとか悔しいとか怒りといった感情の一切が湧き出てこなかった。
ただ、唖然とすべてが流れていくのを見ているだけだったような気がする。
なのに、今、心の中でざわめいているこの感情はなんだろう。
 なぜ、父の死とも重ねてしまうのか。
同じように“槍”に貫かれた様だからか。
いや、そうではない。
あの時、自分は感じてないフリをしていただけにすぎない。
 実際には、あの時、父が殺されたとき、自分は叫んでいたのだ。
叫び散らしていた。
 感情を動かしていないフリをして、自分は感情の一切を押しとどめたのだ。
それはなぜか……。
 
――ナオヤ、いつかは戦わないといけないときがあるもんだ。

いじめられてないよ。

――そうか、でもいつかは戦えるようになるんだぞ。そうだ、父さんと今度釣りにいかないか?

なんで?

――お前は、オレの息子だからだ。

ねえ、戦うってどういうこと? 僕一人で戦うの?

――そだな。釣りでもしながら、そのへん、考えてみっか。

父さんって、適当にモノを言いすぎなんだよ。

――そりゃ、お前、父さんだからな。

……。

 父の死を知り、自分の悲しみを知ったとき、戦わないといけない瞬間が来ることを彼は実感していたからだ。
でも、戦うのが怖かった。
どう戦えばいいのかも分からなかった。
自分に何ができるのかも分からない。
 結局のところ、自分にできたことといえば、暗い闇の中を必死に結衣に手を引かれながら走って逃げたことくらいだ。
どこに向かっているのかも分からずに走り続けただけだ。
父のように、そして、目の前で死んだ零のように戦うことなど、到底できなかった。
自分はいつも守られてばかりだった。
 逃げてばかりだった。
「う、うぅ……うぅぅぅ……」
いつの間にか、ナオヤの額に冷たい水滴がぽたりと落ちた。
暗い闇の向こうに見える銀の星々の彼方から、たった一滴の涙が落ちたのだ。
ナオヤは天を見上げる。
また、一滴、水滴が落ちた。またひとしずく、そしてまたひとしずく……。
「あぁ……あああ……」
天を仰ぎ、そして、ナオヤの目から溢れだしたのは、本物の涙だった。
それはやがて、留まることなく溢れだし、零の頬に落ちた。
「ああああ……」
ナオヤの脳裏に、昨日の母、ユキノの涙が思い返される。
優しく微笑む母と、そして、泣き叫ぶ母の姿が瞬間、瞬間、入れ交代に思いだされる。
続いて炎の中に立つ零の姿がフラッシュバックした。
そしてそれは、ナオヤの感情を爆発させる引き金となった。
「うぅぅ……うぅぅぅ……ああ、あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
星々の向こうの宇宙の果てにまで轟こうかという少年の叫びが、夜にこだました。
そしてその時にはもう、ひとしずくの涙は激しい雨となって、天仰ぎ叫ぶ少年に降り注いだ。


52 :コンピュータソーダメロン :2009/01/30(金) 00:40:18 ID:o3teQ7nG

終章:ただ、もう一度逢いたくて 




 1993年も残すところ、数日となり始めていた。
あの銀銀蘭聖香学園初等部をテロリストが占拠し、大量のTNT爆薬を用いた爆弾テロが決行されてから一か月が過ぎている。
警察当局は、【地球解放機動隊】と呼ばれるテロリスト集団による犯行であることをマスコミ各社に発表し、爆破中心部に残された手がかりから、それが広島の某研究施設から航路を用いて移送中だったものが奪われたものであることまでが突き止められた。
 また残り数千トンものTNTも神戸の港に隣接する倉庫の一角より匿名者によって通報、駆け付けた機動隊によって回収されている。
現在は、あの事件当時に校舎内にいた人間で、死亡、または行方不明となっている者の調査が行われている。
ただし、TNT爆薬による爆発力だけでなく、コンポジションC4などの軍事利用されている爆薬なども併用されており、その破壊力は特筆に値するものとなっていた。現在までのところ、身元の確認がとれるような状況で発見された遺体は、ほとんどない。
よってDNA鑑定による科研の捜査が行われているが、目下のところ、正常に検査できる状態の遺体もまたほとんどなかった。
予想以上に難航している今回の被害者捜索だが、ほとんどの場合、日曜日の学校に登校、あるいは勤務している人間というのは、ごく少数であり、事件当時、体育館で活動していた地元主婦のバレーボールクラブなどは、当然、名簿も残されている。
現状、行方不明者の数だけはしっかりと把握されていた。
あとは、身元の確認によって、どこまで行方不明者の数字を死亡者数として身元を確認できている状態まで捜査を進められるかだった。
ここにきて、事件の謎を紐解く重要な存在がある。
それは、この事件においてかなり特殊な位置づけとなっている“生存者”だ。
あれだけの爆発と、あれだけの被害者数を出している事件において、幸運にも生き残った5人の生徒と1人の教師がいる。
彼ら彼女らは、事件直後、大変ショックが激しく、ほとんどの場合、深刻な外傷は負っていないものの、しばらくは警察の取り調べを受けれるような状況ではなかった。
 中でも霧原勇に関しては完全に精神のバランスを崩し、一日中、心を閉ざして何かをぶつぶつと呟いている。
意味不明な言動を繰り返し、近づこうとすれば激しい攻撃性を露わにしており、警察どころか医者ですら対応に困っているという。
下手をすればその攻撃性が自己に向かうこともしばしばで、他人を傷つける恐れもあり、近く、閉鎖病棟に移される見込みとなっている。
また、生存者の一人、笹原ナオヤに関しては、彼ら6人の中では一番深刻な傷を負っており、肩の骨折はもとより、他にも細かく切り傷や打撲傷を受けている。
 意識は正常を保っているが、よほどひどい光景を見てきたのだろう。そのショックと疲労から、周囲と話をしようとはせず、ただ黙って一日中ベッドの上で窓の外を眺めている日々が続いた。
 そうなってくると、保坂結衣と黒澤侍錬、そして彼ら彼女ら5人の生徒を決死の覚悟で救い、身を呈して守り抜いた教師の南遥らの供述を求めるようになってくるのだが、奇妙なことに、彼ら彼女らは皆、一様に南遥によって引っ張られてなんとか逃げ延びてきたのだ、と語るものの、細かい内容を聴いていくと、皆、記憶がないと答える。
 それは助け出してきた南遥も同じで、自分がどうやって生徒を導き助け出したのか記憶にないという。
専門家は、極度な緊張状態が長期間続くような状況の中で、一時的に興奮状態となり、肉体的限界を超えた活動を長期にわたって強いられるような状況の中では、記憶の混乱、一時的損失などは、往々にしてありえることだ、と結論付けている。
恐らく、多くの知人の死を前にした精神的ショックとストレスが引き金となり、感情処理できない事実を削除したのだろう。
 これらは時間の経過とともに、甦ることもあれば、数日、数か月、あるいは数年経ってもようやく蘇ることもあるし、あるいは永遠に甦らないこともある。 
何にしても、結局のところ、あれほど大がかりで大胆かつ、大っぴらであり、様々な物証を残した事件であったにも拘わらず、事件の真相は様として明かされなかった。
 やがて、マスコミがいつものように専門家を交えて警察の初動対応、その後の捜査などについて一定の批判をし終える頃には、一か月ほどが過ぎ去ろうとしており、もはやそんな事件などは、昼時のワイドショーくらいにしか取り上げられることは少なくなっていた。
 その頃には、景気悪化を伝える報道と政治家の対応を批判する内容に変わりつつあり、もうじきやってくるクリスマスなどの話題にとって変わろうとしていた。
 もっとも、当の銀蘭町には、まだまだ当時の傷痕は残されており、完全に破壊、爆発した校舎は今も捜査のためにそのままとなっている。
 よって、銀蘭聖香学園初等部は、近隣の中等部の今は使われていない校舎を緊急で増設したものを臨時で使用し、二学期が終わるまではそれで凌ぐという形になっている。とはいっても、今回の事件の捜査は、しばらく続く。
爆破された校舎の跡地にすぐ新しい校舎を建設することはできない。
 また、事件に関係した生徒たちは元より、他の生徒の精神的影響を考えても、しばらくは可能な限りこの光景を目に触れない措置が必要と考えられた。
 よって冬休み中に国や地方の支援を受けて、臨時に銀蘭町の隣にある都市部のビルを借りきって、臨時校舎とする計画が進んでいた。






――1993年12月24日。

 事件からちょうど一か月が経過した。
この時期の町は、雪が深く降り積もり、通りや家並みなどはみんな一様に白銀に染まるようになっている。
車が走ることも少なく、人通りもそんなに多くはない。
もっとも、都市部に近づくに連れ、賑わう様子が見て取れるが、少なくとも笹原ナオヤや保坂結衣が住む住宅街が広がるベットタウンは静かなものだった。
だがそれでも、事件の暗さをなくそうとするかのように、町はクリスマス一色に彩られている。
普段は家にクリスマスのイルミネーションを飾らなかったような家まで、どこかのホームセンターで買ってきたような電飾が飾られていた。
 雪だるまが飾られたり、クリスマスリースを玄関のドアに飾るような家が続いて行く一方で、何の飾り気もなく、しんと静まりかえった家も時には見える。
 そんな銀蘭町のクリスマスイブだった。
午前7時34分。
 笹原ナオヤの住む家のドアが開いた。
額を包帯でぐるぐると巻き、左肩から腕にかけてを三角布で固定した状態だ。
 黒いジーンズにブラウンのフード付きニットを着て、その上に大きめのブルーのチェックのシャツを着ている。シャツの奥からフードを出していた。
 その状態で腕を吊り下げているのだが、そのままでは、まだまだ寒いらしく、黒いジャケットを上から羽織っている。
彼はクリスマスイブの今日、それでも暗い面持ちのままドアから出てきた。
 右肩に斜めがけの小さなショルダーバックを背負っていた。
彼に続いて、母、ユキノがスーツ姿のフォーマルな井出達で出てくる。
そして、ドアの鍵をかけてからナオヤの前に膝を負って同じ視線で顔を合わせた。
ナオヤは、そんなユキノの姿を直視しようとはせず、どこかを遠く見ている。
「ナオヤ、鍵はちゃんと持った? 久しぶりの学校なんだから、しっかり出てくるのよ」
「……」
無言で頷くナオヤに、ユキノがそっとナオヤの右肩に触れる。
「今日、終業式が終わったら空港に行かなきゃいけないの分かってるわね?」
「母さんの親戚の人を迎えに行くんでしょう。どうしても僕も行かないといけないの?」
「あなたの親戚でもあるのよ。それに、ずっと家に閉じこもってばかりじゃ駄目でしょう」
「怪我してるし」
そういって、自らの左腕に視線を落とす。
だが、母親は容赦しない。
「学校には行けるんだから空港にも行けるわ」
「……」
ナオヤは観念して俯いた。
そんなナオヤをユキノがそっと顎に触れ、顔を上げさせた。
「男の子が下を向いてばかりじゃダメよ。父さんだったらそういうわね」
そう言われて、ナオヤは憂鬱な顔でユキノを見返した。
ユキノは微笑む。
ナオヤは彼女に何かを言おうとしたが、結局やめて背を見せてとぼとぼと歩き始めた。
そんなナオヤの後姿をずっと見つめていたユキノは、最後に一言だけ付け加えた。
「学校が終わったらすぐに帰ってくるのよ」
そう言ったユキノだったが、ナオヤは振り返って見返すだけで特に返事することなく、また再び歩き始めた。
 道の端をゆっくり歩く少年の姿はどこまでも小さく、そして頼りない。
父親の事件の直後は、ここまで精神的に落ち込む様子はなかった。
いや、父親の事件の後だからこそ、これほど落ち込んでいるのだろう。
立て続けに続いた彼の不幸に、ユキノは母親ながら我が子が可哀想でならなかった。
 とはいえ、ここでナオヤを甘やかして、状況がよくなるとは到底思えない。むしろ、どこか甘えたところのあるナオヤは、そこで際限なく落ち込んでいくだろう。
普段なら、ナオヤを律する役割は、同じく頼りないながらも父親であるトウジのものだった。
 だが、父、トウジはもはやこの世にはいない。
ナオヤをしっかりと育てていくためにも、今までのように優しく接する自分であるだけではいけないのだ。
 遠くなり、やがて道の地平に消えていくナオヤを見つめながら、ユキノは唇を噛み、そして出かけて行った。






 町の北側にある銀蘭聖香中等部の校門付近には、毎朝、教師が立って登校する生徒に朝の挨拶をしている。
事件直後から学校側が実施していることで、通学路の要所にも、PTAを中心とした父兄と教師が立ち、生徒たちを誘導していた。
不審者から生徒を守るためと同時に、初等部のあった場所から程遠い位置にあるため、生徒が迷わないようにするためでもある。
もっとも、事件から一か月経つころには、誰も迷うようなことはほぼなく、それどころか、都市部に近い北には、初等部のあった銀蘭町の中心地区とは比べものにならないほど活気があり、商店街がたくさん続いているため、寄り道する生徒が多く、現在に至っては、そういった生徒を指導する目的も兼ねていた。
 そして、あの事件以降、生徒たちの話題の中心は、生存者として大きくマスコミに取り上げられた5人の生徒たちだった。
特に笹原ナオヤに関していえば、父親の事故からまもない中、事件に巻き込まれており、彼を災いのもとのように見る生徒は少なくない。
 この日、終業式となった今日、病院を退院し、事件から始めて登校することになったナオヤだったが、登校中の道すがら、同じ初等部の生徒たちとすれ違って行く中、何度も好奇の視線を浴びていた。
 それだけでなく、時折、誰とも知れない人間が、ナオヤに親しげに話しかけてくることがあった。
マスコミ関係者である。
しかし、すぐにそれに目をつけた教師が、マスコミを追い払う。
その行動は余計に周囲に目立ち、ますますナオヤを孤立させていった。
 それは、学校についてからも続いた。
教師たちは、何事もなかったかのように体育館に集めた生徒の前で終業式の行程を進め、その間もナオヤに視線を向ける生徒たちが、それぞれに噂話を続けていた。
 生き残った保坂結衣や黒澤侍錬もこの日、当然のことながら終業式に出ていたが、ナオヤよりもずっと軽傷だった彼女と彼は二週間早く学校に登校していて、すでに溶け込んでいたのもあるが、もともと、クラス内でも中心的存在だった彼らをいつまでも面白半分で噂する者はいなかった。
 霧原勇に関しては、この時点で、すでに閉鎖病棟に入院している。
白々しい終業式は、その後30分は続き、生徒たちが飽きの極値に向かい始めるころ、ようやく校長の長い話が終わった。
「笹原!」
だらだらと教室に向かって歩く生徒たちの中を、俯いて歩くナオヤに後ろから声をかけたのは保坂結衣だ。
振り返ったナオヤを彼女の元気すぎるほど元気な声が再び呼びかけた。
どうやら事件のショックからは、表面上すでに立ち直っているように見える。
「笹原ナオヤ!」
「フルネームで呼ばなくても聞こえているよ。笹原って苗字も僕しかいないし」
「なによ。あんた、ちょっと会わない間に皮肉なんて覚えたの?」
走ってきたのか。
彼女の息は少し荒く、それ以降は、少し時間がいるようだった。
ナオヤは、廊下いっぱいに溢れるように流れていく人ごみの中、立ち止まって沈黙しながら、保坂の言葉を待った。
「今日、学校終わったらあたしたち帰りに遊びに行くんだけど、あんたも来なさい」
誘っているんだろうが、それが命令口調なのが相変わらず彼女らしかった。
「無理」
「あのね、あたしの誘いを断る気?」
「今日は早く帰って、出かけないといけないんだ」
「あたしと遊ぶより大切な用事なんてあるわけないでしょう」
彼女の押しの強さは健在で、それがそのまま彼女の回復ぶりと見るべきだろうか。
事件以降、それぞれが病院での生活を強いられていたが、その間、お互いにいい影響をもたらさないだろうということで、話す機会がなかった。ナオヤなりに彼女のことを心配していたが、どうもその心配はないらしい。
 それだけを確認すると、無言でナオヤは保坂に背を向けて歩きだした。
後ろで保坂が呼んでいたが、今度こそ彼は振り返ることもなく、そのまま教室に戻り、やがて下校した。
 これから始まる冬休みに、生徒たちは解放されたように笑顔で教室を抜け出ていく。
だが、この頃のナオヤは、まるで自分だけが別世界にいるかのように、時々、遠い視線を空に向けたり、窓の向こうを見たりしていて、他の誰かと積極的に接しようとはしなかった。独り静かにカバンを持ち立ちあがって出ていく。
時々、走り出ていく生徒がナオヤの肩にぶつかった。
骨折している肩が痛みを発し、ナオヤが少し苦しそうな表情をして初めてその生徒はナオヤに、ごめん、と謝った。
ナオヤは、だいじょうぶだというだけで、それ以上何もいわずにその生徒の前を立ち去っていく。
生徒はぽかんとした顔で、そんなナオヤを見つめ、保坂結衣がその生徒の頭を無言ではたいた。
 ナオヤは他の誰かが話しかけてくれば応えるし、必要最低限、会話もする。
心を閉ざしているというとのは少し違う。
保坂結衣が何度もナオヤと接触するが、ナオヤもそれに応えはするものの、それはいつもおざなりなものだった。
 ガラス一枚向こうの世界で、ナオヤは独りになって生きている。
それが、保坂結衣の感じたことだった。
結局のところ、あの事件で、体育館のマンホールから脱出しようとした時、笹原ナオヤの心はあの場所に残ったままで、今、ここにいる笹原ナオヤはただの抜け殻でしかないのかもしれない。
 彼は今も、あの場所で、誰かを待ち続けている。
それが誰だったのか、保坂結衣は、ついに思いだすことができなかった。
気になって何度も何度も思い出そうとしたが、その都度、必ず頭痛に苛まれて苦しむだけだ。





ユキノに言われるまま、ナオヤは早めに家に帰り部屋にカバンを置いた後は、ダイニングのイスに座ってひたすらユキノが帰るのを待った。時間は12時45分を越える。
母親が帰るといった時間よりも15分以上が経過していた。
やがて、外から車が近づいてきて、ちょうど家の前で停車する音が聞こえた。
「!?」
それは彼がよく聞きなれた、父、トウジが運転する車が帰ってくる時の音だ。
一瞬、ナオヤの中で父が帰ってきたのではないかというありえない妄想に駆り立てられる。
 それはありえないと分かっていながらも、ナオヤはその場にいても立ってもいられなくなった。
思わず立ち上がり、玄関まで小走りに向かい、ドアに手をかけようとした時。
わずか数秒早くドアが開けられ、外からユキノが姿を現した。
朝見たときと同じようにスーツ姿で、手にはコートを駆けている。
「よかった。ちゃんと先に帰ってたのね」
「母さんが早く帰ってくるようにいったんだよ」
少し責めるような声でナオヤは言った。
ユキノは苦笑を浮かべて顔の前に両手を合わせて謝る。
「ごめんなさい。少し道が混んでたから」
「車で帰ってきたの?」
ナオヤは、父が亡くなって以降、空いたままになっている玄関の前のガレージにドアの隙間から視線を向ける。
 大きな赤いRVが、新車さながらの光沢を放って納まっていた。
父、トウジは黒い大きなRVに乗っていたが、購入当時、母は赤いもっとスマートな車がいいと言っていたような気がする。
結局、ユキノが折れて黒を選んだ経緯があったが、今回はユキノの好きな赤いRVになったらしい。反対するはずの者は、もうこの世にはいないからだ。しかし、それでも結局、色は赤にしても、スマートな別の車ではなく、大きなRVにしたのは、ユキノの最大の譲歩なのだろう。ナオヤはそう思った。
「ええ、今日、納車される予定だったから」
「車買ったなんて初めて聞いたけど」
「あなたを驚かそうと思ってたのよ」
「……そう」
さして驚く様子も見せず、ナオヤは頷いた。
「さあ、出かけるわよ」
そういって、ドアを大きく開けて、ユキノはナオヤを促した。
ナオヤは気乗りしない面持ちで外に出る。
ほっそりとしたスレンダーな母の身には余るような大きな車だ。
元々、三人家族でこれほどの大きな車など必要ないといえば必要なかったのだ。
 二人だけの家族になってしまった今、この車は余計に大きすぎる。
そして、大きすぎた余地を父の思い出で詰め込むのは、ナオヤには少し辛いことだった。
 母は辛くないのだろうか。
助手席に座ってシートベルトを締める。
かつて、自分を学校まで送ってくれていた女性は、事あるごとにシートベルトを締めることを面倒臭がっていたナオヤに締めるよう促していたおかげで、条件反射的にシートベルトを締める癖がついていた。
「……」
憂鬱な表情で窓の外を見るナオヤに、運転席に座ったユキノが声をかける。
「そんな顔をこれから会う人に向けてはダメよ。笑顔で迎えてあげないと」
「わかってる」
「じゃあ、行くわよ」
「……」


53 :コンピュータソーダメロン :2009/01/30(金) 04:16:28 ID:o3teQ7nG







 空港のターミナルビルに到着したのは、それから一時間半後のことだった。
恐らく、これから年末までを海外で過ごそうという家族連れなどが、それぞれエントランスホールに向かっていくのを何度も見送りながら、ナオヤはホール内にあるカフェでオレンジジュースを飲んでいた。
白く丸いテーブルで、席は四つある。向いの席には、ユキノがコーヒーを飲みながら、じっとナオヤを見つめている。
 ナオヤは、ただ静かに時間が流れるのに身を任せているようだった。
乗り気のしない外出で、特に会いたいとも思わない親戚を迎える。
 かつて絢咲零は、【魅了】を使って笹原家の親戚という立場を作り上げていたが、その絢咲零はもはやこの世に存在しない。
絢咲零の所属していた組織、レン=フレイザーの一味からの接触は、あの事件以降、途絶えている。
これから会う人間は、ナオヤの特に覚えていない親戚の誰かだろう。
今は、そんな人間に会う気分ではなかった。
「何か食べる?」
ユキノがナオヤに問いかけた。
それは、先ほどウェイトレスに注文をするときにもした問いかけだった。
ナオヤは特に何もいらないと答えたが、会話のないこの空気に、ユキノは再び問いかけたのだった。
 ナオヤは、そんな彼女の気遣いに、結局、チョコレートケーキを一つ注文することにした。
「……それじゃ、わたしは電話してくるから、しばらくここにいて」
「いいけど、親戚の人、もうすぐ来るんでしょう?」
「だいじょうぶよ。待ち合わせ場所はちゃんと言ってある」
「でも、僕はその人の顔を知らない」
「向こうは知ってるわ」
「ふぅん」
興味なさそうにナオヤは答えた。
 その人物は、ユキノの親戚で昔よく遊んだ関係だといっていた。
ナオヤにとってはどうでもよく、それ以上のことは特に聞かなかった。仕事の関係でこっちに来るらしい。
おざなりなナオヤの反応に、ユキノは小さくため息をついてから席を立った。
その後、独りになった彼は、しばらくぼうっと虚空を眺めながら、やがてテーブルに置かれたケーキを無視して、オレンジジュースをすすっていたが、そのうち飲み干してしまい、ヒマになった彼は、ストローで氷を突きながら時間を潰した。
 横を見ると、そんな彼とはまるで時間の流れの違うスーツ姿の男女が、忙しなく出国ゲートに向かおうとしている様子が見える。
ユキノはなかなか戻ってこなかった。
 やがて、ナオヤはこの調子でいくと、一人でその人物と遭遇する可能性が高いことを自覚し始めていた。
自分は名前も顔も知らない。
 ユキノが何か車の中で話していたような気がする。とりあえず、ぼうっとしながらもなんとなく聞きとれたのは仕事でこっちに来るということだけだ。
それ以外の何も知らない相手と、どうやって顔を合わせて、何を話すればいいだろうか。
そんなことを考えているうちに、だんだん面倒くさくなってくるナオヤだった。
とりあえず、チョコレートケーキに手をつけた。
 ケーキの中央に乗ったホワイトチョコを頬張ったとき、口の端にチョコレートクリームが少しついてしまったが、放っておくことにした。そしてそれも食べてしまったあとは、溶け始めた氷にストローを近づけて、ぶくぶくと泡を立ててみる。
 その時である。
不意に背後から声がかけられた。
「あまり行儀がいいとはいえないわね」
ナオヤは最初、それが自分にかけられた声だとは気付かなかった。
しかし、その声が聞き覚えのある誰かの声だと気づいた瞬間、即座に振り返る。
「……!」
その振り返った先に立っている人物が、自分のよく知る誰かだと気づいたとき、少年は目を点にしたまま、言葉を失っていた。
 それは相変わらず美しいと形容するしかない女性だった。
あるいは妖艶という言葉が似合っている。挑発的なまでに胸元の開いた黒いレディーススーツにタイトなミニスカート、黒いストッキング姿の女性だ。絹のようにしっとりと流れる漆黒の髪を後ろに結い上げてアップにし、細身のメガネをかけている。
 血の色のように紅い唇が印象的な容色麗しい顔立ちをしている。
理知的であり、官能的かつ、ほっそりとしたその身にスレンダーでありながら豊満な肉体を持つ挑発的な美しさを持った女性である。
空港のような人ゴミが激しく、忙しない人の流れの中において、ほとんどすべての人間が、彼女に視線を向けている。
こんな現象は、以前にもよくあったことだ。
 彼女は海外旅行用の大きなカバンを引いて、ナオヤの前に立っていた。
ナオヤはしばらく、驚いた顔で目を見開き、唇を開いたまま唖然としている。
対する女性は、腰のくびれに肩手をおいて、そんなナオヤを無表情に見降ろしていた。
やがて、その沈黙を破ったのは女性のほうだった。
 絢咲零である。
「いつまでそんな間抜けな顔でいるの? みっともないわよ」
「……せ、せんせい?」
「他の誰に見えるの?」
呆れた顔で女性は答え、カバンをそのままにナオヤの前で姿勢を低くし、彼の口元についたクリームをその細く白い指先で拭ったあと、ぺろりと一舐めして、彼の隣の席についた。
その様子をずっと目で追いながら、ナオヤは今だに信じられないといった表情で零を見つめる。
「だってあの時、せんせい、串刺しになって……」
「ひどい目にあったわね」
ナオヤの言葉に続いて、思い出すのもうんざりだと言わんばかりに零は言った。
ウェイトレスに適当にコーヒーを注文する。
「死んだんじゃなかったの!?」
少し大きな声でナオヤは問いかけた。その目には大粒の涙が浮かび始めている。零は、そんなナオヤを運ばれてきたコーヒーをすすりながら、静かに制止する。
「大きな声でいわないで。それと泣くのも禁止よ」
「……泣いてない」
そう言って、ナオヤは右手の裾でごしごしと顔を拭きながら、少し紅くなった顔と目でもう一度零を見つめ返した。
零もまたナオヤを見つめている。
やがて、零の方がため息をついた。
「やっぱり怪我の方はだいぶひどかったみたいね」
三角布で吊るされたナオヤの左肩を見つめながら、零はいった。
だが、そんな言葉などナオヤは無視して、零の生存にほっとするのも束の間、これまで空虚だった心を満たしていくのは怒りだった。
「生きてたんなら連絡してよ!」
「仕方ないでしょう。あの程度で【ヴァンパイア】のわたしが死ぬわけがないとはいえ、それなりに重傷だったし、気がついたときにはロンドンで治療を受けていたのよ」
あの状況の中で、警察当局を騙して絢咲零を国外のイギリスまで治療のために連れだせる人間といえば、高度な組織力と警察に対する影からの影響力が必要だ。
誰がと聞くまでもないだろう。
「レン=フレイザー?」
「あの男に借りを作ってしまったのが、最大の失敗ね」
忌々しそうに零は呟き、コーヒーカップに口をつけた。
だが、途中で少し口元を緩ませたのをナオヤは見逃さなかった。
「しばらく、あなたのような子供のお守りをしてたから、久し振りにロンドンでハメを外せたのはいい休暇になったわね」
「なにそれ」
ナオヤの顔が引きつる。
「向こうにはいい男がたくさんいたわ」
零は、めくるめく【ヴァンパイア】の本能を満たすイギリスでの日々を思い返し、うっとりした表情を浮かべていた。
 しかしそれは、ナオヤをからかうための芝居だ。
その芝居に気づかないナオヤは、どんどん怒りを露わにしていく。
その様子を見ながら、零は心の中で微笑んだ。 
 どうしてかは分からないが、零はこの子供が自分を心配し、そして、その心配のあまり今度は怒りさえ感じ始めていることが面白く、嬉しく、そして愛おしいと感じてしまっている。
レン=フレイザーの館で決死の覚悟で戦うことを決意したときにも感じたあの想いは、今はもっと別の形に変化し、さらに強くなろうとしていることを絢咲零は、もはや認めるしかなかった。

――わたしは、ナオヤを愛している。

それはどのような愛情と呼ぶべきなのか、零にはまだ分からなかった。
 自分が誰かに愛情を持つなど、これが初めてだ。まして、自分は悪魔である。
悪魔が人間に、それも【聖者】に対してこんな感情を抱くなど、本来、あってはならなことだった。
 しかし、もはや彼女の中でそれを否定することはできないくらいにまで、その想いは大きくなっていた。
その想いから、彼女はついナオヤに悪戯をしたくなる。
 悪魔だからか?
あるいはすべての女性は悪魔だというべきなのかもしれない。
ナオヤの顔がどんどん紅くなり、そして、最後には不機嫌そのものになっていた。
「せんせい、最低! 超最低! 悪魔!」
「何を今更なことを……」
悪魔と呼ばれた彼女は少し呆れた表情で言った。
やがて、彼女はナオヤの座っている椅子に手をかけて身を乗り出し、ナオヤと鼻先がぶつかりそうなくらいにまで近づいた。
彼女の美しい顔が、すぐ近くにまで接近し、一瞬、ナオヤは息を飲む。
 そんなナオヤに、この時、今まで決して彼に見せることのなかった絢咲零の妖艶な微笑みが浮かび上がる。
それはまさに、悪魔が人間を魅了する際に浮かべる危険な微笑みだったといえる。
本来、彼女の【魅了】は彼には効果がないはずだったが、その時のナオヤは一切、動くことができなかった。
そして、甘い香りがナオヤの鼻をくすぐる中、彼女はそっと囁いた。
「キスしてあげるから、少し機嫌を治しなさい」
「……」






同時刻、同空港内。
入国審査のため、一人の初老の男が監理官の前に立つ。
暗黒のスーツを身にまとった男は、アメリカ出身の白人で、年齢は50を超えているように見えるが、その割にはずいぶん鍛えられた体躯をしている。180はある身長はしっかりと伸びていて衰えを感じさせなかった。
白髪混じりの髪だが、後退しているわけでもなく、彫りの深い顔をしていて、表情を隠すように黒いサングラスをかけていた。
この男の立ち姿、歩く様子を見て、一部のプロは彼が元軍人であることに気づいただろう。
もっとも、現役を退いて久しい。かつてはSWATの一員として、さまざまな危険な事件に取り組んでいたが、今となっては、田舎警察署の署長を務めているだけで、もっぱらデスクワークに引きこんでいる。
 SWATの教官を務めてもいるが、現場に立つことは少なくなった。
そんな人生の表舞台から退いたかつての古参の老兵である。
「名前を言ってください」
入国ビザとパスポートを確認した監理官が、男に問いかけた。
「ジョン=デイビットだ」
「日本にはどのような目的で入国されましたか? 観光? それともお仕事ですか?」
決まりきった質問を監理官は機械のようにジョン=デイビットと名乗った男に問いかける。
やがて、男はそのどちらでもない答えを口にした。
「友人の死を悼むためにきた」
男と監理官のやりとりは、その後、数分続いたが、特に問題もなく男は入国を許された。
ゲートをくぐり、ターミナルビルへの通路を歩いて行く。
ホールには、入国してきた外国人を迎える家族や友人などが手を振ったり笑ったり、声をかけたりしている様子が見て取れるが、男を迎える人間は、どうやらいない。
男はただ一人、ホールに向かって歩いて行く。
だが、ある時、男は立ち止まった。
その黒いサングラスの向こうにある鋭い眼光が、ある人物の姿を捉えていた。
「よぉ、ジョン=ドゥ」
男の前、およそ5メートルほど先に立っていたのは、擦り切れた黒いジーンズに皮製のブーツをはき、80年代のヘビメタロックバンドのロゴの入ったシャツに黒いドレープカットソーを着込んだ背の高い20代後半ごろの白人男性である。
 短く切りそろえた金髪に右耳にはピアスがいくつもかけられている。
ジョン=デイビットと同じように黒いサングラスをかけているが、この青年のサングラスはどちらかといえば今どきのカーブのかかった細見のスクエアレンズだ。
ジョンと比べて青年は、少し痩せているように見えるが頼りなさそうには見えない。
無駄を一切なくし、最低限の筋肉を最高に鍛えている。
「レン=フレイザー」
親しげに名を呼んだレンに対して、ジョン=デイビットは、青年を見て小さく低い声で、そして忌々しそうに呟いた。
そして、右手を握りしめ拳を作る。
その様子を見ていたレン=フレイザーは両手を広げて男を制した。
「待て、お前とやりあうためにきたわけじゃない」
「なんの用だ」
「お前に頼みがある」
レンはにやりと笑いながら答えた。






 さらに同日、数時間後、レン=フレイザーの館では、香川翠がある分析結果に目を通していた。
それは、あの日、笹原トウジの事件の時から続く笹原ナオヤに関して、極秘裏に勧められていた【聖者】としての笹原ナオヤに関する研究レポートだった。
 そこには、事件後、正確には【ロンギヌスの槍】によって貫かれ、死亡し、さらに『復活』してからの笹原ナオヤの肉体的、あるいは精神的な変化をすべて克明に記されていた。
さらに遺伝子レベルでの肉体的変調が事細かに書き記されている。
それらすべてが、今後起こるであろうナオヤの身の変化に対する推測と最終的帰結までも結論付けていた。
「……」
香川翠は、誰もいない広々としたゴシック調の室内で、古い家具に囲まれる中、レポートを手にソファに座り込み、そして、呟いた。
「……笹原ナオヤは6年後、死亡する……」






―FIN


54 :コンピュータソーダメロン :2009/01/30(金) 04:35:16 ID:o3teQ7nG

あとがき

 さて、いつものごとく、書いていると時間をついつい忘れてしまいます。
そんな夜を何度繰り返してきたか分かりませんが、ついに『セックス時反発性キス症候群』は、その第一部である『1993年編』を完結いたしました。
長かった。
本当に長かった。
正直、久し振りに小説を書きましたが、書ききる自信はあまりありませんでした。
それでも書こうと思った理由は自分でもよく分かりませんが、自分にとって何かを書くというのは、とても掛け替えのないの行為であり、ずっとそれをできない忙しない毎日を送る中で、なんとなく感じていた何かを忘れている感覚呼び覚ましてくれるものでした。
まあ、そんなモノカキっぽい言い方をしてしまうと、なんだか照れ臭いのでやめてしまって、本当に書いていて自分が一番楽しかった作品でした。
読んでいる皆さんも楽しんでいただければと思って書いていましたが、さて、どうでしょう。内容はいろいろ失敗したり、間違ったなぁとか、こうしていれば、とかいろいろありますが、今はとにかく書き終えた感覚でいっぱいです。
といっても、まだまだ謎はたくさん残していますし、書ききれていない部分はたくさんあります。レン=フレイザーはいったい何者なのか。アーネンエルベ機関とは? 【預言者】とは? 【聖者】って何か? もっと掘り下げていけば、そもそもレンのおじいちゃんのお父さん、笹原ジンの父とその師、イデア=ジョーンズは第一次世界大戦前、バーレーンで一体何を見たのか。
イオン=スプートニクの言っていた【預言者】と関係が深そうな数千年前に滅びたかもしれない『彼ら』とは何者だったのか。
 それより何より、主人公、笹原ナオヤは6年後、物語冒頭直後で死んでしまう運命なのか。
まだまだ書くべきことはたくさんありますが、とりあえず『1993年編』、ここに完結ということで。
 次回作をどうぞご期待ください。
次回作では、もう少しだけ立派に成長した少年、笹原ナオヤが出てくる予定です。
では、許されるかどうか分かりませんが、仮にこの物語にエンディングテーマをつけるとしたら、もうこの曲しかないということでご紹介したい曲。


Seal "Kiss from a Rose"


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